1: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/29(月) 22:18:29.19 ID:oC9se1j80
 私がテルを好きになったのは、何時の事だかよく覚えてない。
 けどそれは激情的なものではなく、静かに芽生えた恋だったのは確か。
 最初に麻雀部へ入って、テルに見蕩れて。
 それからは、手段と目的が逆転していたんだと思う。

 麻雀をやるために麻雀部に入ったのに、今はテルと会うために、会うためだけに麻雀をしてる。
 私がもっと強くなれば、テルは私をもっと認めてくれると思ったし、それは事実らしかった。

 いつしかそれは行きすぎて。
 たったの数ヶ月で、私はテルの二番手、つまり、誰よりも強くなっていた。
 それはとても嬉しかったけど、麻雀が強くなれた嬉しさなんか、欠片ほども持ち合わせていなかった。
 私はただ、テルに認めてもらえたことが嬉しい。
 それだけ。

 テルに認めてもらうためなら、なんでもする。
 麻雀の強さなんて、その道具でしかない。
 本当に行き過ぎていると思うけど、そうやって考えが逆転した頃には、もう遅かった。

 そして行き過ぎていたのは、どうやら私だけじゃなくて、テルもそうだったみたい。
 それを知るのは、もっともっと、後のことだけどね。
 別に、私達は付き合ってるわけじゃないし、まだ告白する勇気もない。
 それでもお互いがお互いに対して行き過ぎてて――狂うだけの材料としては、十分だったらしい。

 一番最初に狂うのは、自分でも私の方からかと思ったんだけど、実はテルの方からだった。




2: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/29(月) 22:23:08.23 ID:oC9se1j80
 発端は、なんてことない。

 私は階段を歩いている時に、ちょっと調子に乗って揺れていたものだから、てっぺんの方から踊り場のところへ崩れ落ちてしまった。
 あんまり高さはない癖に、体制が変だと、身体には予想よりもずっと重い負担がかかってくる。

  菫「なっ……大丈夫か!?」

 大丈夫――そう言おうとしたのに、その言葉が出てこなかった。
 口から出す前に、私の身体が、脚に走る鈍痛を迎え入れてしまったからだ。

  淡「あっ、だっ……がっ……」

 そんな呻き声を上げたと思うけど、正直あんまり記憶にない。
 落ちたこと、脚に走る痛み、揺れる意識。
 痛みに奪われつつある思考で、これらの要素を繋ぎ合わせて骨折したという一つの現象を確認するのには、結構な時間がかかった。

 昔から、骨折すると痛みが身体を支配するものと思ったのに、それに吐き気も混ざってきていた。
 こいつらに集中するので精一杯で、スミレの心配には、あんまり返答できてなかったはず。

3: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/29(月) 22:27:12.45 ID:oC9se1j80
 でも、スミレは状況を大方察してくれた。
 そうして、すぐに行動に移してもくれた。

  菫「っ、救急車を呼んでくる! 照、お前は淡のことを……」

  照「……ぃ」

  菫「……照?」

 スミレの言葉に、テルは反応しなかった。
 それが一瞬だけ、見捨てられたように思えて。
 それはこの骨折の痛みよりも、ずっと重い精神の痛みとなって具現化した。
 指先が、急に寒くなった。

 でも、それも一瞬のこと。
 私は朧気な意識の中で、私よりも危ないテルの様子を見てしまったから。
 目には涙が溜まって潤っていた、そうして、少し遠くの方を見ている。
 手は震えて、歯も震えて、そのせいかカチカチと軽い音も聞こえていた。
 やがて本当に寒くなったように、自分の両腕で自分の身体を抱きしめて――

  照「あっ、ああぁあ!! い、ぃ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!!」

  菫「おい、照!」

  照「いやあぁああああぁ!! ××××、××××!!」

 ――私の知らない、誰かの名前を口にした。

4: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/29(月) 22:32:43.99 ID:oC9se1j80
 スミレがいくら揺さぶっても、テルは変わらなかった。

  菫「照!」

  照「××××××××××××××××××××××××」

 もう言葉が交じり合って、なんて言っているのかよく聞き取れない。
 それが私の名前でないことだけはわかっている。

 テルの大声を聞いて、側の教室から生徒が数名かけつけてくるのが見えた。
 野次馬根性からくるそれだと思うけど、私とテルの様子を目にして、心を変えたみたい。
 焦燥が見て取れる表情でスミレにしきりに何かを聞いていて、スミレも生徒たちと同じ顔で、何かを返答している。

 それから、スミレはテルを抱えたまま動かないで、生徒達の方が辺りに散らばっていった。
 スミレに揺さぶられるテルは、もうどこを見ているのかよくわからない。
 喘息のような音を最後に、テルの声は全く聞こえなくなっていた。

 私もちょうど同じ頃、意識が激痛に覆い隠される。
 テルが静かになったのか、私が気絶したのか、どっちだろ――。

5: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/29(月) 22:37:40.14 ID:oC9se1j80
 ――消毒薬の匂いに包まれて、ふと目が覚めた。
 そうだ、私は階段から崩れ落ちて、脚を打って、骨折して。
 それから、どうなったんだろう。

  尭深「起きた……!」

  誠子「具合悪くない!?」

 セーコとタカミが、目の前に立っていた。
 二人の言葉で頭が冴えて、すぐにこの場所が病院だと理解できた。

 理解したら、また脚に激痛が走る。
 脚に意識を置くと、ぐるぐる巻きにして固定されているのが伝わってきた。
 激痛で気絶して、病院に運ばれて、一通りの処置はされたみたい。

 ただ一つだけ、気になるところがある。
 激痛を強引に沈めて、私は二人に質問をした。

  淡「……テルとスミレは?」

 この場には、名前を挙げた二人がいない。
 特にテルがいないのは、何よりも不安だった。

7: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/29(月) 22:42:21.63 ID:oC9se1j80
 二人は、何も答えてくれない。
 そんな様が、私の不安を更に加速させていった。
 しばらくそんな停滞が流れた後、口を開いたのはセーコの方。

  誠子「……ちょっと、色々あって」

 色々。
 踊り場で見えた、青ざめたテルを想起した。
 身体の損傷で言えば、テルは無傷で、私は重傷なのにね。
 それでも自分のことよりも、テルの方がどうなっているか心配になってるよ。
 でも、特別変だとは思わなかった。
 それが、私の自然だから。

 だから私は、自分のことを二人の視界から遠ざけるように、テルの状態を深く聞くこととした。

  淡「色々って、何」

  誠子「…………」

  尭深「…………」

 二人とも、何も答えてくれない。

9: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/29(月) 22:47:53.91 ID:oC9se1j80
 そんな沈黙がしばらく続いてから、病室の扉が開いた。
 私は静かに、二人はやや大げさに、室内に入ってきたスミレを凝視する。
 スミレは右手の手の平で顔を覆いながら、俯いて歩いてきた。

  誠子「先輩は、どうしました?」

  菫「ああ、大丈夫……それよりも、淡は……」

  淡「それよりも、じゃないよ!」

 スミレの言葉に、反射的に口が動いてしまった。
 身体がそれについてこれずに、脚の痛みはまた強くなった。
 でも今は、感情の方が、その痛みよりももっと強い。

  淡「テルは大丈夫なの!?」

  菫「……まずはお前の身体のことからだ」

 ふと見えた菫の眼は、なんだか生気を失っているように感じ取れた。
 私も釣られて、それ以上突っ込んで聞く勇気を喪失してしまった。

10: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/29(月) 22:52:09.78 ID:oC9se1j80
 スミレの後には、医者らしい人が続いていた。
 どうやら、私の担当医みたい。
 その医者は色々と難しい言葉を並べていたけれど、よくわからなかったし、理解する気もなかった。
 そんな言葉は、テルの様態がどうなっているのか気になる私にとって、ただの焦らしにしかならない。
 だから医者に対する受け答えも、ほとんどスミレが行なっていた。
 私はただ、最短で全治三ヶ月ほどになる、ということしか記録していない。

 医者がこの場所を出てから、一目散にスミレに話を聞いた。
 スミレならきっと、テルがどうなってるかわかるはずだから。

  淡「テルは?」

 スミレは、何も答えてくれない。
 セーコもタカミも、おんなじ。

  淡「……ねえ」

  誠子「……大丈夫、でしょうか?」

  菫「多分……な。 とにかく呼んでくる」

 ――何が、大丈夫なの?
 ねえ。

11: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/29(月) 23:00:51.10 ID:oC9se1j80
 そんな言葉を残して、スミレは病室から出ていってしまった。
 後には、気不味い雰囲気の私達三人だけ。

  淡「テルに、何かあったの?」

  誠子「いや……」

 セーコは私から目を逸らす。
 反対に、タカミの方が、私に答えを教えてくれた。

  尭深「先輩は、過去に……」

  淡「……テル!」

  照「……淡?」

 その答えを聞き終わる前に、スミレがテルを連れて戻ってきた。
 自然と、意識の全てがそちらに向いてしまう。

  照「脚はともかく、元気そうで安心した」

 すごい、テルがいるだけで、こうも安心できるなんて。
 私はその言葉だけで、脚の痛みがいくらか和らいでしまったもの。

 この安堵感に、タカミが言いかけていたテルの過去が、私の意識と一緒に呑み込まれてしまった。
 この時に聞いていれば、まだ良かったのかも。

18: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/29(月) 23:07:40.68 ID:oC9se1j80
 私はしばらくの間、入院生活が続いた。
 これが片足だけなら、引き摺ってでもテルのいる部活に、顔を出せたんだけどね。
 両足だから、仕方ないかな。

 でも、別に不満はない。
 テルは麻雀部を早番してまで、毎日毎日、お見舞いに来てくれるから。
 今この時だけは、テルの意識が私だけに向いている。
 すごい、幸せ――だった。

 ちょっと忘れるだけのつもりだった、テルの発狂。
 私はそのことを、テルが毎日お見舞いに来てくれることの心地よさに、思わず長いこと忘れてしまっていた。

 入院してから、幾分か経った頃。
 医者に聞いた話では三ヶ月が治療期間の目安だったけれど、私はそれより一ヶ月ほども早く丈夫になった。
 こればかりは、今でもテルのおかげだと信じている。

 でもその先に待ち受けていた未来は、とても受け入れがたいものだった。

22: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/29(月) 23:13:51.48 ID:oC9se1j80
 私は午前の診察を終えた後には、医者に「もう明日になれば退院できますよ」と告げられていた。
 当時の私は、ひどく喜んでいた。
 その喜びもやはり、退院できるその事実からではなく、テルに退院報告をできることから来ているものだと思う。
 やっぱり私は、テルと打つ麻雀が好きで、テルと色々なところ――ってほど行ってないけど、一緒に行動するのが好きだもの。
 それに退院後も、テルは入院時と等しい優しさを与えてくれると、無根拠に思っていたのもある。

 さっきも言ったけど。
 私を待ち受ける未来は、それらを全て拒絶するどころか、また新たな傷口を創りだしてしまった。

 例の喜びを引き下げたまま、私はテルを病室に迎え入れた。
 もちろん、いの一番に退院できることを伝えたよ。
 そうして、もう動けるようになった脚を子供らしく、そしてわざとらしくぷらぷらさせても見た。
 この様子を見たテルは、今まで目にしたことのない、眩しい笑顔を贈ってくれた。
 クールな顔も素敵だけど、この笑顔もよく似合っている。

 でもその笑顔は、どこか遠くの方を、あるいは別領域の方を見ている。
 そのまま、テルはその笑顔を言葉に包んで、プレゼントしたんだ――

  照「治ってよかったね、××××」

 ――私の知らない、誰かに対して。

27: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/29(月) 23:20:27.99 ID:oC9se1j80
 私が怪我した時に、テルが叫んでいた名前。
 私の怪我に見向きもせず、別の方を向くための名前。
 私の激痛を想起させる名前。
 私の知らない名前、私のじゃない名前。

 自分の思考が、よくわからなくなった。
 わかりたくもないのかもしれない。
 血液の色が青色に染まっていく様だけは、皮肉にも鮮明に理解できた。

  照「また、あの海に行けるといいね」

 テル、海って、何?
 私、そんなの知らない。
 テルは一体、誰に話しかけてるの?

 ここに、××××はいないよ?
 ここにいるのは、私、大星淡でしょ?

33: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/29(月) 23:27:31.06 ID:oC9se1j80
 テルは当初の優しい表情を未だに変えず、私の顔を覗き見た。
 輝かしいその笑顔から、一筋の曇を感じたのはどうしてだろう。

  照「ねえ、××××?」

 テルは確かに、私の目を見て話している。
 確かに、私の口から、何かの返答を待っている。
 外面、だけは。

  照「……大丈夫?」

 ねえ、テル。
 なんでテルが、そんなに弱々しい顔をするの?
 弱々しいのは私なのに、今ここで泣きだしたい、錯乱したいのは私の方なのに。

 治ったらしい脚の骨が、触られた炭のようにボロボロと崩れていく錯覚にも陥っていた。
 こんな状態でも、私は――テルの都合を、テルの精神を優先してしまったんだ。

  淡「……うん、大丈夫だよ」

 作った笑顔のしわ寄せかな。
 身体のどこかから、崩れた瓦礫の声が聞こえてきた。

37: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/29(月) 23:35:25.09 ID:oC9se1j80
 私はさっき、崩れちゃった。
 今こうしてテルに対応しているのは、必死になって拾い集めた破片を、無理矢理くっつけた、私の模型。

 そんな私じゃない私は、テルの都合を案じる一心で、知らない誰かに演じた。
 その誰かが、気を緩めればすぐにでも私の身体に貼り付いてきそうで。
 気持ち悪くて、吐きそうになって、頭痛も目眩もした。

 耐え切った私のことを、テルは褒めてくれなかった。
 褒めてくれたとしても、それは多分、私に向けられたものじゃないだろうね。

  淡「ありがとね、照さん」

  照「昔みたいに、照お姉ちゃんって言ってもいいよ?」

  淡「……そうだね、照お姉ちゃん」

 別れ際の会話。
 その時になって、知らない誰かが、テルのことをそう呼んでいるのがわかった。

 テルが帰ってから、すぐに過呼吸を起こしてしまった。
 実際私の肺は、物理的に四分の一くらいに縮まってたんじゃないかと思う。
 それは身体だけでなく、精神も同じこと。
 元来の図太い性格は、今や糸よりも細いものになっていたことを、過呼吸を通じてよく理解できた。

41: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/29(月) 23:42:04.82 ID:oC9se1j80
 私は一度、テルが呼んでいた知らない誰かを演じてしまった。
 テルは終始、不思議がることはなかった。
 それはきっと、ううん、確実に、テルは私のことなんて、認識していなかったことを意味している。

 一度演じた、演じてしまった、でも、誰かは知らない。
 その事実は、肥大しつつ私に重くのしかかってきていた。
 テルに対して、これからずっと、知らない誰かとして、かき集めた破片の集合体として、接していかなければならないのかな?
 テルの中から、私は消えちゃうのかな?
 一度だけ譲ってあげた私の席は、知らない誰かに乗っ取られちゃうのかな?

 私はテルに認めてもらうために麻雀部に入って、一軍になって。
 骨折によって麻雀ができなくなって、それでも全く暗くならずに、最後まで笑顔のまま完治を迎えたのに。
 テルの瞳は確かに私を捉えていたはずなのに。
 本当は、どこを見ていたの?
 私を見る振りをして、その実、反対の方向でも見ていたの?
 テル、テル、テル――

  菫「……ぃ、淡!」

 ――気が付いた頃には、スミレに肩を揺さぶられていた。
 顔の真下に位置する毛布には、ひどい色の染みがついていた。

45: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/29(月) 23:50:49.00 ID:oC9se1j80
 スミレが入れ替わりでお見舞いに来たんだと理解するだけなのに、随分と時間がかかってしまったみたい。
 そんなこと、すぐにわかるはずなのにね。

  淡「……スミレ」

  菫「よかった、意識が戻ったか! 悪い、そっちに夢中になって、まだ医者を呼んでいない」

 ただ一言、返事をしただけなのに、スミレは何もかもを世話してくれようとしていた。
 それがなんだか、さっきまでテルに受けていた仕打ちとの対比に思えて。

  菫「気分が悪いんだろう、すぐ呼んでやる。 脚の痛みが再発したのか? それか、別の部分……」

  淡「……テルは?」

 その思考を拭い去るように、スミレの手を止めようとした私は、きっとバカなんだろうね。

 自分を解体してまで、スミレから目を逸らしてまで、テルを優位にしようとしている。
 こればかりは、錯乱なんて言い訳はできそうにない。

 私のテルに対する愛は、間違いなく病的なもの。

48: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/29(月) 23:57:10.57 ID:oC9se1j80
 スミレは驚いた表情を浮かべていたけれど。
 その所々には、何かを察した跡が見て取れた。
 テルに関することに違いないと思った私は、さっきの行動を、無意識の内により強いものにしていた。

  淡「私は大丈夫」

  菫「いや、お前……」

  淡「ねえ、テルには何かなかったの? すれ違ったと思うけど」

  菫「……テルに、また何か言われたのか」

  淡「……ぃ、……」

  菫「……多分、脚のことだろうな」

 やっぱり、察してた。

 スミレの言う"何か"が、決していい意味を内包していないことはよくわかる。
 だから思わず否定しようとしたけど、そのための言葉は、喉の辺りで自我らしいものに押し返されてしまった。

51: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/30(火) 00:04:20.62 ID:d8+Pd/ww0
 それに、”また”って――うん、忘れてない、むしろよく覚えている。
 テルは一度、階段で私以外の誰かを心配していたこと。
 今日もまた、私に向かって、でもやっぱり、知らない誰かと話していた。

  淡「……教えてよ、テルのこと」

 自然と、口に出ていた言葉。
 好奇心から出たものでないことを、少し安静になった私の心中は、しっかりとわかっている。
 私はとことん、テルのことばかりに夢中らしい。

  菫「わかった、が……一つだけ、言っておく」

  淡「何?」

  菫「これを聞いたら、お前は絶対にショックを受ける、だから私としては言いたくない。 それでも……」

  淡「それでも、いいよ」

 私の口に、淀みはなかった。
 ショックなら、一度受けている。
 それに、テルに受け入れられてもらうためには、まず自分が、一つの傷を受け入れなきゃね。

55: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/30(火) 00:14:11.40 ID:d8+Pd/ww0
 スミレは汚れた毛布を折りたたんだ後、椅子に座った。
 それからは、斜め上の遠くの方を見つめている。
 私はただ、スミレの方から何か言い出してくれるのを待っていた。

  菫「……××××」

 始めに出てきた言葉は、心中に根強く残っている、誰かの名前。
 スミレまでその名前を言うものだから、心臓が動揺してしまったのも、無理はないと思う。

  菫「照の、従姉妹に当たる人間でな」

  淡「……そうだったんだ」

  菫「やっぱり、何回か聞いたのか」

  淡「うん」

 不思議と、知らない誰かの正体がわかっても、何ともなかった。
 むしろ、重力が少し和らいだような気もしていた。
 さっきの心臓の重さが、正体を知ったことで、少しずつ解放されつつある。

 私とその誰かは、あくまで別々の人間。
 そのことを、第三者からの言葉で理解できたから、なのかな。

59: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/30(火) 00:23:20.45 ID:d8+Pd/ww0
 でもその思考も、すぐに練り直すこととなった。

  菫「私も、写真でなら見たことがある、綺麗な金髪の、長髪の子……その子」

 その誰かは、私とあまりにも境遇が似ていたのだから。

  菫「照の目の前で、転落事故を起こして、下半身付随になって……」

  淡「…………」

 何も言うことができなかった。
 けど、思うことだけはあった。

 私と同じ容姿で、私と同じ事故を起こして、やはり下半身を怪我して。
 唯一違うのは、私だけが、こうして平常に戻ることができた点。
 運命のいたずら? 気遣い?
 あるいは――手助け、なんて考えちゃう私は、きっと相当に悪い人間なのかな。

63: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/30(火) 00:34:14.44 ID:d8+Pd/ww0
 だから、天罰が下ったのかもしれない。
 とにかく、これが故意的な何かであると、疑わずにはいられなかった。

  菫「それから……照が時折狂い始めたのは、それからだ」

  淡「そんなとこ、今まで見たことなかったよ?」

  菫「ああ、最近は治まってた。 淡が骨折するまでは……」

  淡「フラッシュバック、しちゃったんだね」

  菫「……そうなるんだろう」

 知らない誰かのことを、少しだけ知った。
 その誰かが、私と被っていることを知った。
 知ったからこそ、スミレが教えてくれたテルの過去に対して、あんまり大げさな反応はしなかった。
 運命の眺めたような、そんな、俯瞰的な心持ち。
 不思議。

67: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/30(火) 00:43:59.25 ID:d8+Pd/ww0
 ――ううん、違う。
 自分の心を綺麗に取り繕っても、その中身が何であるかなんて、本人の私が一番よく気が付いている。

 私はきっと、その誰かのことなんて、大して気にもしていなかったのかもしれない。
 だからこそ、大げさな反応をしなかったのかもしれない。
 私が知りたいのは、私がテルに認められているかどうか。
 テルの中での、私の立ち位置。

 自分のどこから生まれたか知らない、ちょっとだけの異常性。
 やっと、本当に自覚できた。

 私は少しずつ、誰かのことを聞くことにした。
 糸を手繰り寄せて、先のものを引っ張るように。

  淡「その子は、今どうしてるの?」

  菫「その後のことは、詳しく知らないが、まだ、入院中らしい」

 彼女は、今の境遇すら私と同じ。
 同じ枠の中から、私だけが先に脱出しようとしているらしい。

69: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/30(火) 00:50:53.49 ID:d8+Pd/ww0
 でも、テルはそんな私のことを許してくれなかった。
 だから、私のことを「××××」なんて呼んだんだろう。

  淡「テルがね、私のことを、××××って呼んだんだ」

  菫「…………」

  淡「ねえ、なんでだと思う?」

 その答えは、わかりきっている。
 それは私だけでなく、スミレも同様らしかった。
 沈黙するスミレの表情から、疑惑の念は感じ取れない。

 感じ取れるとするなら、それは私に対する哀れみ、気遣いといった負の感情だけ。
 もっと言えば――そうだね、禁忌、かな。
 テルの本心には、私に触れさせてはならない禁忌がある。

  淡「テルはさ、私じゃなくて、ずっと、××××を見ていたんだね」
  
 それをスミレは知っていて。

  淡「私は、××××の代用品なんだ」

 そして私も今、気が付いてしまった。

71: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/30(火) 00:56:50.55 ID:d8+Pd/ww0
 スミレが、何も喋らないこと、喋れないこと。
 私の喋った内容が、禁忌そのものであることを証明するのに、十分すぎる材料だ。

  淡「でもね、私はテルに大して、そんなに悪い感情を抱いてないんだ」

  菫「…………」

 やっぱり、スミレは黙ってる。
 別に、何か喋ったらいいのに。
 それが正解だと教えたくないから黙ってるんだろうけど、私はもう、気が付いてるんだよ?

  淡「人をどう思うかなんて、その人の勝手だもん。 それでも私は、テルに認めてもらいたい」

 そしてもう一つ、気が付いたこともある。
 一度開けた禁忌は、また別の扉を開けてしまった。

  淡「ねえ、スミレ、私はどうすればいいのかな? もう、一生認めてもらえないのに」

  菫「……淡、もうやめろ」

  淡「テルが私と××××を混ぜちゃったのは、骨折しているのが私で……」

  菫「言うな!」

  淡「……治ってるのが××××であってほしかったから」

74: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/30(火) 01:03:46.71 ID:d8+Pd/ww0
 スミレの目から、ひどい量の涙が溢れていた。
 釣られて自分の顔に手で触れてみると、爪を伝って、手の甲に涙が流れてきた。
 さっきまで、あんなに平静だったはずなのに。
 泣いている感覚なんか、全然なかったのに。

  淡「……そうでしょ?」

 できるだけ平静に加工しようとしたけれど、絞り出した声は、ひどい濁り具合。
 濁ってるし、雑音も入っているし、ちゃんと届いたかすら怪しい。

 ねえ、スミレ、何か喋ってよ。
 嘘でもいいから、否定してよ。

  菫「…………」

 あの時みたいに、私の怪我に対して、迅速に対応してよ。
 でないと本当に、答えが固まっちゃうじゃん。
 ねえ、スミレ。

  菫「……ごめん」

 あ――固まっちゃった。

75: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/30(火) 01:07:51.70 ID:d8+Pd/ww0
 私は骨折をした時点で、いくら脚を治そうと、もうテルに認めてもらえない、その視界に入れない。
 脚が治ったのは××××、下半身が動かないのが大星淡。
 本当は逆なのに。

 一度、テルのトラウマを起こしちゃった責任なのかな。
 この骨折は運命の気遣いでも、手助けでもなんでもなく、生意気でテルに擦り寄った私に対する、お仕置きなのかな。
 だとしたら、重すぎるよ。
 どうして、私が一番テルのことを好きな時期に、こんな仕打ちを受けなきゃいけないの?

 重い、寒い、怖い――スミレ、早く私を助けてよ。
 その手際の良さで、私を誘導してよ。
 でないと私、自分でこの怪我を治しちゃうよ?

 下手な応急処置は、より傷を深くするだけ。
 そんなこと、怪我の当事者はきっと、わかってるんだよ。
 でも当事者にとっては、何かしないと落ち着かないんだよね。

  菫「どうしたんだ?」

  淡「気持ち悪いから、ちょっと、歩きまわりたいな……」

  菫「……なら、付いてく」

  淡「……ありがと」

 それはきっと、今の私のこと。

78: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/30(火) 01:12:25.03 ID:d8+Pd/ww0
 私は動きまわる権利だけは持っていたけれど、念のため車椅子を利用する決まりになっていた。
 明日には退院できる人間が、そんなことする意味ないと思うんだけど。

 スミレも、そのことは知っている。
 だから余計な心配はさせないように、利口に車椅子で移動することにした。
 以前の私ならきっと、大丈夫大丈夫と言いながら、軽い気分でスキップでもしていたはず。

  淡「ありがとね、スミレがいて助かったよ」

  菫「……いいや、私ができることなんて、これくらいしかない」

 嘘つき。
 私の思考を、否定してくれなかったくせに。
 私を騙し続けてくれなかったくせに。

79: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/30(火) 01:17:48.70 ID:d8+Pd/ww0
 私達は屋上に来ていた。
 病院内だと、確かに窓のある箇所なんていくらでもあるけど、やはり天然の空気を吸える場所はここだけ。

 部長で特に忙しいスミレは、テルみたいに早番するわけにはいかない。
 必然、お見舞いの回数も少ないのに、それでも病院の環境に気付いて、私を気遣ってもくれてる。

 屋上の空気は、季節柄ずいぶんと冷え込んでて。
 ふと横を見ると、空気がスミレの長い髪を持ち上げて、目立つように靡かせているのが目に入った。
 私の髪は、車椅子に預けているせいで、前髪くらいしか靡いてくれない。

  淡「もうちょっと、街の方がみたいな」

  菫「わかった」

 途端に強くなった風に抗いながら、私達は屋上の隅に向かった。
 柵の向こう側は、不思議と吸い込まれそうなほどのいい景色に見えた。
 少し目を強めると、私達が普段通っている、白糸台も見える。
 もう二ヶ月も行っていない。
 またあそこに通って、皆と勉強をして、皆と麻雀をしたいな。

81: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/30(火) 01:24:08.07 ID:d8+Pd/ww0
 私が勝って、わざと調子に載っていると、皆がテルを呼んできて、そしたら私はやっぱり負けてしまう。
 やっぱり勝てないなんて呟いて、セーコが私を態度を弄って、タカミが休憩のお茶を入れてくれて、スミレがうるさいと注意して。
 でもこっちに呼んだら、やっぱりスミレも仲間に入ってきて。
 そんな形式美的ないつもの光景も、もう懐かしい。
 あんなじゃれ合いを、またしたい気持ちは、確かにある。

  菫「なんだ、やけに風が強くなったな……身体、大丈夫か?」

  淡「ちょっと、寒いかも。 タカミのお茶が飲みたいな」

  菫「……それは、今日は無理だな。 また明日、部活に来たら言っておこう。 退院祝いに、ケーキでも買ってやる」

  淡「いつもは注意するのに」

  菫「退院祝いをしないほど、頑固な人間じゃないつもりだ」

  淡「……そっか」

86: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/30(火) 01:32:18.36 ID:d8+Pd/ww0
  菫「まあ、何か暖かいものでも買ってくる。 ココアとか、甘いものの方がいいか」

  淡「そうだね、お願い」

 振り向いて見えたスミレの背中は、なんだか暖かく感じた。
 逆に、私の身体はひどく冷たい。

 でもねスミレ、私が寒がったのは、風が熱を奪ったからじゃないんだよ。
 私が車椅子を使ったのは、医者にそう言われたからじゃないんだよ。
 外に出たのは、新鮮な空気が吸いたかったからじゃないんだよ。

 寒がったのは、テルに認めてもらえない恐怖と、もう一つの別の恐怖が混ざったから。
 車椅子を使ったのは、私が少しでも脚が悪いままでありたいと願ったから。
 外に出たのは、応急処置をするため。

 スミレ、騙してごめんなさい。

89: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/30(火) 01:37:42.11 ID:d8+Pd/ww0
 テルの隣にいる健常な人間は××××で、動けない方こそが大星淡と決められている。
 私は確かにそう理解したし、それはスミレもわかってるでしょ?
 でもねスミレ、私が気付いたのは、これだけじゃないんだよ。

 それと、スミレはちゃんと私の応急処置を手伝ってくれた。
 だから、言いがかりをしちゃったことも謝るよ。
 スミレがいないと、ちょっと、調整が効かなかったからさ。

 健常な人間の席は、確かに××××のだよね。
 でも、その隣の席は、××××が座っていた席は、一体誰のかな?

 そこってさ――今、空席だよね。

 私は本来、元気な人間だったから。
 柵を乗り越えるのは、そこまで難しいことじゃなかった。

 スミレがこっちに気付いて、少しの目配せをして。
 そんな、焦った顔しなくてもいいよ?
 私は死ぬ気なんてないもん、テルに認めてもらいたいのに、それじゃあ本末転倒ってやつ。
 私は戻ってくるよ――脚を失って、ね。

 最低限の準備を整えて、治った足で最初の一歩を踏み出すのは、とても楽なことだった。

95: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/30(火) 01:44:56.60 ID:d8+Pd/ww0
 目が覚めた時に、既視感を覚えた。
 一つだけ違うのは、顔がやけにべたべたするところ。

  菫「……淡、淡!」

 スミレの顔を見て、気が付いた。
 この顔に貼り付いたものは、スミレの涙だったんだね。

 スミレの言葉は、掛け声になって、側にいたセーコとタカミを反応させた。
 セーコなんて目が真っ赤になってたし、タカミも袖を目から離さなかった。
 スミレに至っては、私のお腹のあたりに抱きついて、全く聞き取れない呻き声をあげている。

 私の目だけが、濁っていた。
 寝ぼけたような、光に慣れない真っ黒い目で室内を見渡しても、テルの姿だけがどこにも見えなかった。

98: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/30(火) 01:56:29.95 ID:d8+Pd/ww0
 全然関係ない、医者の姿だけが目に映る。
 一通り皆が泣き終えた後、その医者に、物凄い勢いで怒られてしまった。

 飛び降りた後に、予定通りスミレが医者に連絡を取ってくれて。
 そうしてすぐに、私の治療が始まったらしい。
 治ったばかりの脚に与えた衝撃は、生半可なものではない。
 私は三ヶ月の治療期間が、今回、五ヶ月に伸びてしまった。

 でも、それでいい。
 だって私の脚が使えない間は、テルが私を私と認識してくれるんだもの。
 五ヶ月というと、ちょうど、テルが卒業して、少しした辺りかな?
 なら、タイミング的にもいいよね。

 皆の声は、もう、頭に入っていなかった。
 私はただただ、テルが認めてくれるのを待っているだけ。

 でもさ。
 一度崩れた運命は、人の手では修復できないんだね。

100: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/30(火) 02:07:32.73 ID:d8+Pd/ww0
 私は、一つだけ間違っていた。

 テルはてっきり、脚を失ったのが私で、脚が治ったのが××××であればいい、と。
 そう、考えていると思ってた。
 それだけの、単純な話だと思ってた。

 一度席を立って、それを××××に譲ってあげた。
 そうして、空いた席に私が座る。

 でもね、彼女は生きていて、そして脚を失う席が、生涯の定位置と決まってる。
 それはテルがどう思っているか、なんて関係ない。
 私も今は、脚を失う席。

 治ったはずの××××は、再び脚を失ってしまった。
 そうして、同じ席、××××の席に、二人が座ってしまった。

 テルが後から入室してきて。
 私を、怨霊だか妖怪だかを見るような、怯えたような目で見つめて。
 それだけで、私はすぐに自分の過ちに気が付いた。

  照「……どうして、なんで、脚……二人、なんで……?」

 聞き取れたのは、ここまで。
 それからテルは、また階段の時みたいに、狂いだしてしまった。

103: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/30(火) 02:23:18.01 ID:uqgj3SWV0
 地獄絵図っていうのは、こういうことを言うのだと思う。

  菫「おい、照!」

 テルはひどく錯乱して、あの時と同じように、震える身体を自ら抱きしめていて。
 私も自分の失敗に気が付いてから、視界が朧になる。
 身体の芯がどこにあるのかわからなくなって、平衡感覚が崩れて、横に倒れそうになってしまった。
 スミレの次に私と近かったセーコが支えてくれたおかげで、なんとか助かった。

 今なら、テルがどうして寒がったのか、よくわかる。
 私も、一度体験していたから。
 最愛の人が離れていくのは、身体の体温を全て奪われるに等しいことなんだよね。

 私はテルの側にいれないと気が付いてから、急激に体温を奪われた。
 じゃあ、テルは?
 テルは今どうして、寒がってるの?

 なんて、もっと前からわかってるでしょ。
 テルの隣に立てないのは、テルが発狂しちゃうからじゃない、認められないからじゃない。
 そんなものは二次的なものに過ぎない。

 テルの最愛の人が××××で、私は彼女ではない。
 テルはずっと、××××の脚が治ることを夢見ていたから。
 夢の具現化で、代用品の私が壊れる様に、気が狂っているだけ。

 ただ、それだけの話。

106: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/30(火) 02:38:44.61 ID:uqgj3SWV0
 また、気を失いそうになった。
 でも、ここで気を失ったらダメ。
 ここで何もできなくなったら、私は今度こそ、××××に席を奪われてしまう。

 空になった席を見つけたテルが正気に戻った時。
 動けない人間が二人いる、××××の役が二人いることに気が付いてしまうだろう。
 そしてすぐに、どっちが本物かわかっちゃうはずだ。

 テルが現実を理解してしまったら、××××の脚が治らないことにも、気が付いちゃうんだもん。
 夢の代用品は、必要なくなってしまう。

 そうなると、私はどうなるんだろう。
 テルの視界の外に、ポツンと一つだけ席を作って、そこに一生座らなくてはならないのかな。
 ――絶対に、嫌だ。

 テルが落ち着いて、少しずつ、声が聞き取れるようになってきた。

  照「なんで、脚……わかんないよ……ねえ、誰、誰……?」

  淡「忘れちゃったの? 照お姉ちゃん」

 ねえ、私の知らない誰か。
 一度、譲ってあげたんだからさ。

  淡「××××」

 今度は、私にその席を譲ってね。

108: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/30(火) 02:55:22.47 ID:uqgj3SWV0
 その一言で、室内の騒動は全て静まってしまった。
 ずっと狂っていたテルも、呼びかけていたスミレも、何も喋らない。
 静観していたセーコとタカミ、テルに静かに対応していた医者の方なんて、心臓の音一つ聞こえない。

 そんな静かな室内で。
 私は、私の体内の音だけをよく聞き取れていた。
 また、心が崩れる音がしている。
 二回目なのに既に慣れちゃったのは、おかしい話だよね。

 でも、心が崩れてくれたおかげなのかな。
 身体は自然と軽くなって、セーコの腕から離れた後、自分で姿勢を直すことができていた。

 私は、テルの隣にいられればいい。
 大星淡じゃなくて、私がいられれば、それでいい。

  照「××××?」

 テルも同じく姿勢を持ち直して、私の方へと歩み寄ってきた。
 スミレが唖然として、こっちを見ているけど、それももう関係ない。
 そうやって、もっと近づいてよ。
 私を見てよ、テル――

  尭深「……やめて、ください」

 ――なんで、止めるの?

111: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/30(火) 03:14:46.20 ID:uqgj3SWV0
 よく見ると、タカミだけじゃない。
 実際テルの腕を掴んで止めたのは、医者の方だった。
 スミレだって、衰弱した表情で、テルの手を握っている。
 セーコもまた、私の前に腕を伸ばして、手の平をこちらに向けていた。

  尭深「いい加減、目を覚ましてよ……!」

 タカミが、地面の方を見つめながら、そんな大声をあげた。
 大人しいタカミがこれほどの声を出すのなんて、初めて聞いたと思う。

  淡「……嫌だよ」

 私も同じように、声を張り上げてしまった。
 意地ばっかりが先行していたんだろうね。

  淡「邪魔しないでよ! ねえ、私を見てよ……」

  誠子「淡!」

 そんな声を一緒に、セーコの方へと引っ張られてしまう。

  誠子「もう、やめようよ……」

 それぞれが、それぞれに抑えられて。

   「二人とも錯乱していますし、皆さんも落ち着いていない。 今日は一旦、帰ったほうがいい」

 最終的に、医者の一言で、この場は強制的にお開きになってしまった。

115: どえらい眠いんでペース落ちます。すいません。 2012/10/30(火) 03:37:01.04 ID:uqgj3SWV0
 私の奪った席は、それからも変わることはなかった。
 私はずっと、知らない誰かを演じている。
 全然知らない癖に、もうこうしていることも、板についてきてしまった。

 こう言うとわかると思うけど、テルはあれからずっと、私が××××であることを疑ってはいない。
 テルはもう、誰かの病室に行く事がなくなったらしい。
 これは看護師経由で聞いたことだけどね。

 突っ込んで聞いてみると、テルのことを考えて、××××が同じ病院にいるのだとわかった。
 聞いた後で、テルの来る時間が一時間程度早まっていることに気が付いてしまう。
 私の推測は、やはり間違っていなかったみたい。
 動けない席と同様に、テルの隣の席は、生涯彼女の定位置に決められているものだった。

 私が座っているのは、××××だけの席。
 座っている私も、今は、大星淡じゃない。

 でも、時々、わからなくなることがある。
 私はどうして、心のなかではテル、テル、なんてしつこく呼んでいて。
 心の中のテルは、どうして私のことを淡、淡、なんて呼ぶんだろう、と。

117:   2012/10/30(火) 04:03:16.77 ID:uqgj3SWV0
 テルが私のお見舞いに来る時は、大体誰かが一緒についていることが多くなった。
 最初の方はスミレがよくついてきたけれど、その回数は次第に減っていった。
 今では、セーコとタカミが、大体同じくらいの回数。

 テルがいつ狂っても止められるように。
 それが、付き添いがついた原点らしい。
 でも私からみたら、それは本末転倒にしか見えなかった。
 セーコもタカミも、共通して、私とテルの会話から、表情から目を逸らしているのだから。
 スミレが来なくなってしまった理由も、きっとそれに関連しているはず。

 そっか、私は、スミレの目の前で飛び降りちゃったから。
 下手したら、スミレもテルか、私のようになっちゃったかもしれないんだ――。

  淡「入っていいよ」

 ノックの音に反応して、そんな返事をした。
 気付けば、テルの来る時間帯。

 誰かは、私と似たような調子の人間らしい。
 こうやって不自然なく応答できるのだけは、唯一、幸いなことだった。

118: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/30(火) 04:14:43.33 ID:uqgj3SWV0
 扉を開けて、最初に入ってきたのはテル。
 付き添いは、今日はタカミみたい。

 テルはいっつも、やや駆け足で私の方へ向かってきてくれる。
 淡の方には、そこまで急いでくれなかったのにね。
 そうして、学校のことを中心に、とにかく色々なことを話すのがいつものこと。
 たまにテルが知らない本のことを話して、あんまり読書家じゃなかった私は、これに結構苦労する。

 とはいえやっぱり、テルの話を聞いているのは楽しい。
 見ることができる表情だって、格段に増えている。

 私の状態の話なんて、一度もしたことがない。
 だってそうでしょ?
 私はもう、一生脚が動かない席なんだから。

 でも、それはあくまで仮初で、いつかは元通りになってしまう。
 その一瞬の間、私はテルの隣にいられなくなるのだろうと考えてしまうのが、最近は苦しくて仕方がないよ。
 大星淡の席では、テルの柔らかい表情も、優しい声も、全て見ることも聞くこともできない。
 
 そんなことを、考えていたせいだろうか。
 あの時聞いた、タカミの言葉が、奥底から聞こえる気がしていた。

  尭深「……やめようよ、こんなこと!」

 ――また今日も、聞こえてしまった。
 聞き取ったのは、私の耳じゃなくて、奥の方の何か。

120: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/30(火) 04:29:09.14 ID:uqgj3SWV0
 うるさいうるさい、うるさい――。

 まだ、タカミは一言しか喋ってないのに、それが騒音のように身体に響く。
 そのせいか、少しずつ、身体が震えているのを自覚した。

 違う、そうじゃない。
 私はきっと、こんなことをしていてはいけないと、もうとっくに気が付いてる。
 気が付いていない振りをしていただけ。

 でも、今身体を制御しているのは私だから。
 強引に抑えることは、そこまで難しいことでもなかった。
 内側、だけは。

  尭深「弘世先輩だって、不眠症になっちゃったんだよ……! ねえ」

 知らない、知らない――その先まで、言わないで。

  尭深「淡ちゃん!」

  照「……え」
 
 私の名前を、呼び起こさないで。

124: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/30(火) 04:42:57.17 ID:uqgj3SWV0
 もう、全てが遅かった。
 ずっと突き通し続けた嘘は、内側の、簡単なイレギュラーで崩れ去ってしまった。
 私がちょうど、最初に崩れ落ちたのと同じように。

 テルの意識が、私に集中する。
 遠くを見ていて、今やっと、近くを見つめてくれたテルの瞳。
 一回遠くを見つめてから、また、近くに戻っていった。

 その瞳は、紛れもなく"大星淡"を見つめていた。
 なのに私の中では、嬉しさよりも、喪失感の方が優っているのだから。
 私はどれだけ、この席に慣れてしまっていたのかな。

  照「淡……?」

 違う、淡じゃない。
 違う、淡じゃなくていい。
 だからこそテルは、私を見てくれていたんでしょ?

  誠子「お待たせ。 納得してもらうのに、ちょっと時間がかかった」

  尭深「……ありがとう」

 扉の奥から、セーコともう一人――すぐに、理解した。
 鏡写しのような、ドッペルゲンガーのような人間が、車椅子に乗っている。
 私の体温は、めまぐるしく変化していた。

 そっか。
 最初は、狂ってしまったテルのことを意識していただけなのに。
 いつの間にか、私の方が狂うようになってしまっていたんだ。

127: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/30(火) 04:55:37.18 ID:uqgj3SWV0
 そのことは、テルの様子からも見て取れた。
 てっきり、テルはまた錯乱してしまうと思っていたのに。
 私の予想よりも遥かに平静で、狂う兆しなんか、最初にちょこっと見えた切り。

 タカミはこうして、私達を元に戻そうとしてくれている。
 セーコもまた、タカミに協力してくれて、私の身を案じてもくれた。
 スミレは自分が精神病になってしまったことを、どうあれ自覚している。

 残りの、三人。
 隣の席を私に奪われた彼女は、それでも平常心を保っている様子だった。

   「あの……はじめまして」

  照「……××××、なんだね」

 テルはやっと、現状を受け入れ始めていた。
 この明確な現実を突きつけられて。

 それもそっか。
 テルは本来、冷静な人間だったのだから。

   「うん、照おねえちゃん」

 ――ああ、ダメだよ。
 その呼び方が、破片の集まりだった私よりも、ずっと似合っているんだもの。

 現実を受け入れていないのは、もう、私だけ。
 狂った人間としてのテルも、私の奪った席の隣にいたテルも、私の側にはいなくなっていた。
 最善だと思って取った行動、その全ては、いたずらに傷を生むだけに終わってしまったみたい。

130: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/30(火) 05:18:02.82 ID:uqgj3SWV0
 テルが、どんどん彼女の方へ向かっていく気がしてしまった。
 それは奪われるといったような人為的なものじゃない。
 もっと自然現象的な、予めそうなっていることが、決まっているような。

 彼女の事故も、私の事故も、全部決まっていたことだと、思ったことがある。
 だから今回も、きっとそう。
 関係を修復することも、介入もできない。
 テル、離れないでよ――

  照「……淡、ごめんなさい」

  淡「……え?」

  照「ごめんなさい……ごめん、ごめんね……」

 ――なんでテルは、私に抱きついてるんだろう。

131: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/30(火) 05:28:20.58 ID:uqgj3SWV0
 その涙は、あの子に気付けたことに消費してあげるべきだよね。
 なんで、私を優先するの?
 あの子をほっといていいの?

 最愛の彼女と、偽物の玩具でしかない私との区別がついたんだよ?
 だったら、彼女の方に行けばいいのに。
 今日私に話してくれたこと、表情、全部あの子にあげればいいのに。

  「……良かった」

 唯一自由な顔が観測した、彼女の言葉と表情。
 それを見て、私は彼女にはなれないんだと悟ってしまった。
 そりゃ、バレちゃうよね。
 私はテルが離れていく様を見た上で、あんな笑顔を作ることなんてできないから。

 そしてその笑顔は、私の隣に、確かにテルがいるのだと教えてくれた。

 予め用意されていた、ただ一つの席。
 テルがその隣にもう一個席を用意して、私を座らせてくれた理由。
 どうしても、わからない。
 昔の私なら、きっとわかっていたのかな?
 それとも、無根拠な調子にでも乗ったりしていたかも。

 運動していない私が抱きしめられるには、少し強すぎる力。
 でも、その痛さが、今はとても心地良かった。

133: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/30(火) 05:40:53.81 ID:uqgj3SWV0
 私と彼女は、あまり多くの言葉を交わさなかった。
 それもそのはず。
 彼女はただ、普通に過ごして、唐突にこのことを知っただけだもの。
 狂っていたのは、テルと私だけ。
 お互いが、訳の分からない幻影を追っていただけ。

  淡「テルのことは、どう思ってるの?」

   「……わかんないや。 優しいお姉ちゃん、かな」

  淡「そっか、私は、テルのことが好きだよ」

   「……そっか」

 二人きりになって、こんな簡単な会話をした。
 答え方まで同じなのは、なんだかくすぐったかったけど、声には出さなかった。

 この会話は、自らに釘を刺すためのものでもあった。
 もし彼女がテルのことを好きだと答えたら、私はきっと、それで諦めていたと思う。
 私には、その権利がないから。

   「頑張ってね」

 それでも彼女は、またあの時の笑顔で、私に権利を与えてくれた。
 テルは席を作ってくれて、彼女はそこへのチケットを譲渡してくれている。
 今まで溺れていた私は、この時ようやく助かることができたんだと思う。

 でもさ。
 震災は何かを巻き込まずして解決しない、それと一緒だよね。
 私とテルは今でこそ元に戻れたけど、代わりに他のものを喪失しなくてはならなくなった。

138: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/30(火) 05:57:49.68 ID:uqgj3SWV0
 騒動に深く関わっていた三人。

 スミレは睡眠欲を失ってしまったし、後に聞いた話では、しばらく重度の鬱病に陥っていたらしい。
 これは100%、私が原因のことだった。
 一時的な睡眠障害は慢性的になって、今でもやはり、睡眠薬は必要らしい。
 正気に戻った後、馴れ馴れしい口調じゃなくて、ちゃんとした敬語でスミレに謝罪した。
 土下座をしようとした時に、肩を掴まれて止められてしまったのは鮮明に記憶している。
 居た堪れなくなって、罪悪感と嫌悪感が混じり合って、スミレもやっぱり何か思ったんだろうね。
 それから三十分くらい、ずっと二人でわーわー泣いていたんだもん。

 テルもやっぱり、精神的な問題。
 テルの場合は、昔から長く根付いていて、一体化しかけていた傷を今更修復しようという話になる。
 それに、杭が刺さりっぱなしの傷があれば、それを引っこ抜く必要もあった。
 数年単位の長期的な精神治療になるし、大きな杭が抜けた影響で、ちょっとしたパニック障害も発症していた。
 もちろんそれだけじゃないけど、でもテルの名誉のために、一つ挙げるだけに留めておく。
 今は、私が常に隣にいて、テルの状態を整えるようにしている。
 それが私に科せられた責任だし、もしそうでなくとも、きっと同じ行動をとっているんじゃないかな。

 最後に、私。
 私のは、身体的な喪失。

 端的に言うとさ。
 長期の歩行と、走ることが、できなくなった。

140: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/30(火) 06:07:46.67 ID:uqgj3SWV0
 自分では、そんなに実感はしてないんだけどね。
 といっても、時折車椅子も使うからかな。

 医者が言うには、20分も通して歩いちゃいけないらしい。
 今はもう、一日3時間も歩けば良い方だった。
 
 一生治らない傷。
 後一回似たような事故を起こしたら、間違いなく下半身不随になってしまうもの。
 少しタイミングがズレていたら、私はきっと、喜んでそうしただろうと思う。
 今では、その思考が恐ろしいものだとわかるだけ、正常になったんだろうね。

 こうして歩ける許可を出された頃には、スミレもテルも、卒業する間近だった。
 だからテルと付きっきりといっても、その期間は大して長くない。
 後数週間、なんて、数えられるくらいの日数すら残っていない。

 そういう意味ではさ。
 貴重なテルとの時間も、全て病室で、狂いながら過ごしていたわけだから。
 半年間、まるごと喪失していたと言ってもいいのかな。

143: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/30(火) 06:27:49.50 ID:uqgj3SWV0
 今の目標は、テルの隣に座ること。
 彼女からもらったチケットは、まだ行使していない。
 このチケットは、いずれ返すつもりでいる。
 もちろん嬉しいことは嬉しいんだけど、私は何度も卑怯なことをした分、今度は自力で隣に居座りたい。

 でも、その種類がいくらでもあることに、最近になって気が付いた。
 例えばスミレとか、友人として、テルの隣に座っているよね。

 私も、そうだな、テルの隣に座れるくらい、強くなりたい。
 肩がくっつくくらいの席に座るのは、それからでも遅くないと思う。

 いくらか、経過した頃の話。
 ちょうどキリもいいから、退院祝いと卒業祝いを一度にやることになってしまった。
 日時が退院祝いとも卒業祝いともつかない半端な日だから、なってしまった、だ。

 また厄介なことに、脚が妙に軋んで仕方ない日でもあった。
 こんな日は、ベットの上で寝っ転がっていろ、なんて医者に言われてるけど、そんなわけにもいかない。

145: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/30(火) 06:31:37.35 ID:uqgj3SWV0
 それで結局、皆私の家に集まることになった。
 もちろん、あの子も呼んでるよ。

 準備も整って、さあ席に座ろうとなった時。
 テルの隣にスミレが座ろうとして、なんだか面白くなった。
 やっぱり二人は友人なんだと、さっきの考えがまた頭に浮かんできた。

 でも、そこはダメかな。
 だから私は生意気にも、先輩であるスミレに注意してやる。

  淡「そこ、だめ!」

  菫「なんでだ?」

  淡「今は、この子の席!」

 そうして、私は車椅子の、私にとても似た子を指差した。
 テルの隣に座るべき、私じゃない、その子に。

 チケットは、もう返したよ。
 "今は"なんて、自力で座る予約も付け加えながら、ね。


おわれ

引用元: 淡「××××」