前回 八幡「青春ラブコメの主人公」 前編

 
320: ◆OFPPQdZV86 2013/01/04(金) 02:16:10.25 ID:U4R2JSV10

「それで雪ノ下、負け越してるけど次はどうするんだ?」 

「……そうね、これ以上負けが続くと士気にかかわるから、次は確実に勝てる種目にしたいわね」 

「となると千葉県横断ウルトラクイズか」 

「ヒッキー、千葉県の学校でもそんなの文化祭でやってないと思うよ……」 

「大体それは由比ヶ浜さんの誕生日パーティーの後にやったじゃない」 

「あぁ、確かにやったな。伊勢海老(キリッ)とか言ってたもんな。けどあんなんじゃまだまだ千葉の事は語り尽くせて無い!」 

「ふうん。あなた、また負けたいのかしら?」 

「はっ、平塚先生の年齢に合わせたあんな前時代的で古いバラエティ番組みたいなルールで勝った気になられてもな」 

「それ平塚先生が聞いてたら危ないよ?」 

「まぁ、どんなルールでも千葉の事で私が比企谷君に負けるなんてありえないけれど」 

「おいおい、言ってくれるじゃねえか。なんなら今から再戦してもいいんだぜ?」 

「望むところよ。では、交互に一問ずつ出していくというルールでいいかしら」 

「二人とも千葉への愛が深すぎるよ!? ウルトラクイズの前にこっちの戦いを終わらせようよっ!」 

由比ヶ浜に諫められてようやく冷静になる俺と雪ノ下。 

いかんいかん、どうも千葉の事になるとつい熱が入ってしまうな。 

それは雪ノ下も同じなようで、コホン、とごまかすように咳払いしている。

321: ◆OFPPQdZV86 2013/01/04(金) 02:20:48.27 ID:U4R2JSV10
「では、気を取り直して考えましょう」

雪ノ下が言うのもおかしな気がするが、ここは黙っておこう。

「何かこれだけは負けない、ということはあるかしら

「千葉愛

「それはもういいってば!」

食い気味に即座に答えた俺に更にかぶせてツッコミをいれる由比ヶ浜。

こいつ、腕を上げたな……。

「なんだよ……。……じゃあ、学生生活における独りでの過ごし方、とか」

「独りになってる時点でなんか負けてるよ!」

「由比ヶ浜さん、それは少し違うわ。独りにならされているのなら負けているけれど、自ら進んでそうなっているのならその限りではないわ」

なんとも意外な事に、雪ノ下がフォローしてくれた。

さすがぼっちマイスターだぜ雪ノ下さん! 言ってやれ!

「比企谷君の場合は社会そのものに負けているのよ」

さすが罵倒マイスターだぜ雪ノ下さん! やめてくれ!

やっぱりフォローなんてされてなかった。

322: ◆OFPPQdZV86 2013/01/04(金) 02:24:56.48 ID:U4R2JSV10
「おい雪ノ下、人を社会不適合者みたいに言うな」

「え? 違うの?」

「違えよ。社会の方が俺に適合していないんだよ」

「比企谷君、そのネタはもう使い古されているわ。やり直し」

「えっ!? やり直し!? なんかポイントずれてないですか!?」

ふむ、と呟き小首を傾げる雪ノ下。

その姿勢のまま目を閉じつつ頬に人差し指を当てて、何かを考えるそぶりを見せる。

「……」

珍しく子供っぽい仕草をしている雪ノ下はとても可愛らしく、思わず目を奪われていると、やがて目を開きまっすぐこちらを見つめてきた。

「比企谷君の場合は社会そのものに負けているのよ」

「本当にやり直す気なのかよ! さっきの間はなんだったんだよ!」

思わずつっこんだ俺の隣では由比ヶ浜が、ぷっと吹き出すと声を上げて笑い始めた。

「あははっ! ……もう、二人ともちゃんとやろうよ。……ぷふっ」

「……そうね。比企谷君、ちゃんとしなさい」

「そうだよヒッキー、ちゃんとしようよ」

「二人ともって言ってただろ……。てか今のは主に雪ノ下が悪いだろ」

何この理不尽に叱られる感じ。ハチマン、しっかりしなさい。

323: ◆OFPPQdZV86 2013/01/04(金) 02:28:13.29 ID:U4R2JSV10
まぁ実際いい加減にしないと隣人部もそろそろしびれを切らしているところだろう。

ちらりと彼らの方を窺うと、しかしどうしてあちらはあちらで楽しそうに談笑中だった。

金髪ビ  が何か言い、黒髪鬱美人が混ぜっ返し、羽瀬川がつっこむ。

一見、金髪ビ  と黒髪鬱美人はいがみ合っているように見えるが、その実楽しんでいるのが透けて見える。

……仲がよろしいこって。

「で、雪ノ下、何やるかは決まったか?」

「……三人が三人とも得意なものがあればよかったのだけれど、そう甘くはないものね。だから、誰かに何か特化したものがあればそこに賭けるのが現実的ね」

なるほど、さっきの質問はそういう意図だったのか。

「なら、射撃はさっきやったから、あとはあやとりだな」

「使いどころの難しい特技ね……」

役立たずと素直に言わないのは優しさだろうか。たぶんきっと遠回しな当てこすりだろうが。

「特技かぁ……メールの返信には結構自信あるけど……」

「それは勝負には使えなさそうね」

「だ、だよねー……」

こんどはあっさり斬り捨てる雪ノ下。

判断基準がわからねえ……。

「そう言う雪ノ下はどうなんだ?」

「私は大体の事なら平均以上の事は出来るわ」

……確かに雪ノ下ならその言葉通り、大抵の事はやってのけるだろう。

ただそれを自分で言うのはどうかと思うが。

「……なら一人ずつ勝負していくものじゃなくて、全体で最も成績が良い者がいるチームが勝ちってルールにすればいいんじゃね?」

「さっきのお化け屋敷みたいな感じだよね?」

由比ヶ浜が確認してくる。

「そうなるな」

「では、そのルールを念頭に置いて考えてみましょうか」

そう言って二人は再びパンフを見始めた。

324: ◆OFPPQdZV86 2013/01/04(金) 02:29:55.35 ID:U4R2JSV10

「比企谷君、これでどうかしら?」

数分後、雪ノ下がパンフを指差しながら聞いてくる。

「いいんじゃね?」

それをろくすっぽ見もせずに答えた。

さっきの形式であれば大概の事は雪ノ下がどうにかしてくれるだろう。

つまり、俺はおざなりになあなあでやっても良い事になる。

楽が出来そうで何よりだ。

「そう。では伝えてくるわ」

意気揚々と雪ノ下が隣人部の方に向かう。

その背中を見送っていると、つんつんと肩をつつかれ、そちらを見てみると由比ヶ浜が何やら微妙な表情をしていた。

由比ヶ浜は俺の左耳のあたりに手を当てると、顔を近づけ耳元で囁く。

「ねえヒッキー、ほんとにあの種目でよかったの?」

射的の時の反省を活かし、雪ノ下に聞こえないように最大限配慮しての事だろうが、どうにもこうにも近い。

てか耳がくすぐったい。

てかなんかいい匂いがする。

てかこいつの手柔らかいな。

てかいつまでそのポジションにいるの?

「な、なにがだね?」

思わず動揺して気持ち悪い答えをしてしまった。

ぼっちに不用意に近づくとこうなる。そこのところをこいつは理解すべきだ。

325: ◆OFPPQdZV86 2013/01/04(金) 02:31:21.94 ID:U4R2JSV10
「ヒッキー、ゆきのんが選んだのって迷路だよ?」

……は?

「なんでお前止めないの? バカなの?」

「だってヒッキーも止めなかったし!」

それを言われたら何も言い返せない。

ちゃんと確認しなきゃ。

某消費者金融のCMが脳内で勝手に再生された。

最近あの人あんま見ないよね。あ、妊娠したんだっけどうでもいいな。

「とにかく、どうする?」

「そうだな……今日もこの学園に来るのですら迷ったのになんであいつがあんな自信満々なのかは知らないが、俺たちでどうにかするしかないだろうな……」

「うん、そだね。……あたしたちでなんとかしよう」

「ああ」

そうは言ったものの一体どうしたものかと考えていると、隣ではなぜか由比ヶ浜が嬉しそうにニコニコしている。

何がそんなに楽しいのか……。迷路で勝つための戦術なんて何も思いつかねえぞ……。

326: ◆OFPPQdZV86 2013/01/04(金) 02:32:51.19 ID:U4R2JSV10
俺が頭を抱えているうちに雪ノ下が戻ってくる。

「どうしたの比企谷君。リストラでもされた?」

「馬鹿を言うな。俺がリストラされるわけないだろ。専業主夫になるんだからな」

「あら、専業主夫にだってリストラはあるわよ。離婚という名のね」

「ふっ、離婚されるような主夫にはならないぜ。養ってもらうために愛想尽かされない程度には家事をこなすからな!」

「相変わらず頭の痛い事を言う人ね……」

雪ノ下はやれやれと溜息をつくと、由比ヶ浜の方を向く。

「では由比ヶ浜さん、次の場所に向かいましょう。校庭にあるみたいよ」

「うん! ほら、ヒッキーも行くよ!」

雪ノ下は意図的に俺を除外したようだが、気にせず楽しそうに俺の手を引く由比ヶ浜。

「やけにやる気のようね。頼もしいわ」

……一番頼りにならない奴に頼もしいとか言われてもな。

327: ◆OFPPQdZV86 2013/01/04(金) 02:38:18.73 ID:U4R2JSV10

現地に着いてみると、その迷路の巨大さに驚く。

学園の広大な敷地を活かしているようで、入口側から見える面の長さは約50メートルといったところだろうか。

こちら側からは奥行きはわからないが高さは目測でおよそ2.5メートル。

タイトルは『Minotauros』で結構まんまな命名である。

外観は薄汚れたコンクリート風に描かれているが、若干塗装が甘く下地の木が見えていることから察するに、恐らくベニヤ板だろう。

しかしその稚拙な感じが急に曇り始めた空と相まって逆に不気味な雰囲気を演出している。

完成度はなかなかだが、気になる事がある。

時折、中から獣のような雄叫びと人の悲鳴が聞こえる事だ。

迷路でそれはおかしいだろ……。まあタイトルを見れば大体想像はつくが。

ついでに言うと見た限り屋根がない。

屋外だし雨降ってきたらどうすんだこれ……。

328: ◆OFPPQdZV86 2013/01/04(金) 02:42:36.83 ID:U4R2JSV10
疑問はさておき、受付に近づいてみると見知った顔がいる事に気がついた。

「やあ、お兄ちゃんたち。迷路をやりに来てくれたのかな?」

受付にいたのはシスコンシスター、銀髪美少女こと高山ケイトだった。

「ケイトか。じゃあここは教会の出し物なのか?」

羽瀬川が質問している。

「違うよー。有志の子たちがいてね、監督を頼まれたんだよ。規則はザルだけど、大規模のものだと一応形だけでも監督者がいないといけないらしいからね」

「そんなことより、ちょっと頼みがあんだけど」

会話に割り込んだ金髪ビ  は例のごとく、勝負中だという事を説明し便宜を取りはからうよう要請する。

この間、奉仕部の面々は少し離れたところで待つのが既に慣例化していた。

ところで、お兄ちゃんと呼ばれた羽瀬川と高山ケイトはまるで顔が似ていないが、そう呼ぶからには妹なのだろう。

もし義妹とかそんな感じだったら税を取るべきだ。義妹は嗜好品だとどっかのヤバめの文豪が言っていたし。

ていうか名字違くね?

……課税決定!

329: ◆OFPPQdZV86 2013/01/04(金) 02:46:47.50 ID:U4R2JSV10
説明が奉仕部のあたりまで及んだのか、高山ケイトはこちらを見ている。

彼女は俺に気付くと、軽く手を振ってくる。

「おや、八幡君。また会ったね」

「……ああ、意外と早い再会だったな」

本音を言えば意外と早いどころか二度と会わないと思っていたのだが。

「知り合いだったのか?」

羽瀬川が意外そうな顔をして聞いてきた。

「まあな。と言っても、知り合ったのはついさっきだけどな」

「そうそう、熱い戦いだったよ。わたしは負けちゃったけどね。でも、次は負けないからね」

へへっ、と不適な笑みを向けてきたので俺も負けじと不遜な笑みを返す。

「ふっ、それはどうかな」

バチバチと視線が火花を散らす、と言う事もなく高山ケイトはその視線を逸らして微笑む。

「まぁ、今はそんな場合じゃないね。お兄ちゃんたちと勝負しているんだって?」

「成り行きでな。俺たちの勝ちって事にしてくれないか?」

俺の直截的な発言に苦笑する高山ケイト。

「それは駄目だよ、八幡君。どちらかと言えばわたしはお兄ちゃんの味方だからね」

それはそうだろうな。

ついさっき知り合ったばかりの人間よりかは、元々知っている方を応援したくなるのは当然の心理だろう。

程度の差こそあれ、人は知っているものに親近感を覚え、知らないものには嫌悪感ないしは恐怖感を覚えるものだ。

だから中学生のときに好きだったクラスの女子にメールアドレスを聞いて、

「まだ比企谷君のこと良く知らないし、もうちょっとよく知ってからでいいかな」

とやんわり明確に断られたのも当然と言えよう。

それ以来一向に会話もしなかったが彼女はどうやって俺の事を知るつもりだったのだろうか。

330: ◆OFPPQdZV86 2013/01/04(金) 02:50:01.46 ID:U4R2JSV10
俺が過去の甘酸っぱいというか超酸っぱい思い出に捕らわれていると、横から呟きが聞こえた。

「なんかだいぶ仲良さげだし」

さっきまでの上機嫌はどこにいったのやら、由比ヶ浜は口を尖らせている。

それに気付いていない様子の高山ケイトは話を進める。

「とは言っても審判を頼まれた以上、公平にやらせてもらうからお兄ちゃんたちもそのつもりで」

その言葉に頷く隣人部。

「じゃルールの説明に入らせてもらうよ」

高山ケイトは抑揚たっぷりにモチーフから設定されているストーリーまで事細かに説明し始めた。

が、大部分は勝負に関係ない事なので省略。

要約すると、ルールは以下のようになる。

基本的な勝利条件はこちらが指定した通り、先程のお化け屋敷と同様に最も早く抜け出した者の所属するチームが勝利となる。

しかし他の客もいるため、それぞれのチームから5分おきに一人ずつ入るという形になった。

通常は同じ間隔で一つのグループを入れているようなので、これでもだいぶ配慮してくれている方だろう。

その他の点で特に留意する必要があるのは、ただ大きいだけの迷路では無いという事だ。

どういう事かというと、Minotaurosと銘打たれているようにこの迷路にはミノタウロスがいる。ギリシャ神話の半牛半人のアレである。

予想通り、そのミノタウロスがギリシャ神話よろしく迷路内を徘徊していて侵入者を発見し次第追いかけてくるようだ。

もし捕まった場合はゲームオーバー。強制的に外に連行される。

もう一つ何か仕掛けがあるらしいが、それは入ってからのお楽しみ、とのことだ。

ちなみに無事にクリアできたグループは今日でわずか4グループというかなりの高難易度に設定されていらしい。

以上のことを踏まえて作戦を立てなければならない。

331: ◆OFPPQdZV86 2013/01/04(金) 02:57:33.22 ID:U4R2JSV10
それぞれ受付から少し離れたところで作戦会議に入っている。

とは言っても、全員がほぼ同時に入ってしまう以上、作戦も何もない。

最初に入る人と最後に入る人では10分の開きがあるが、難易度の高さを考えるとそもそもクリアできるのかが怪しいので大した意味は無い。

「順番どうするか? 正直あんまり関係なさそうだけどな」

雪ノ下も同じ事を思っていたのか、大きく頷く。

「出来る事と言えば、最初の分岐でそれぞれ別の方向に行くと言う事ぐらいかしら」

「だな。立体構造じゃなさそうだし、一応迷路の法則は使えそうだからな」

「何その法則って。そんなのあんの?」

まだ機嫌が直っていなさそうな由比ヶ浜が首を傾げる。

「ええ、いくつかあるけれど道具無しで最も簡単に実行可能なのは、左右どちらかの壁に手をずっと触れさせたまま進むという方法よ」

「効率は決して良くないが確実にゴールできる。ただ、ゴールが外周沿いに無い場合と立体構造になっている場合は逆に絶対にゴールできないが。
とは言っても、施設の運用を考えると内部にゴールがあるのはどうしたって不便だから考えにくい。そして高さ的に立体構造は不可能だ」

「地下が造られている可能性は否定しきれないけれど、見たところ元はただの広場のようだし文化祭程度ではこれも現実的ではないわ」

「えっと、じゃあその方法は使えるんだね」

「そう考えていいと思う。明かされていない仕掛けが気になるけれど、それは臨機応変に対応していくしかないわね」

「順番は雪ノ下、俺、由比ヶ浜でいいか?」

方針がまとまったところで、一瞬由比ヶ浜に目配せをしてから確認する。

「あたしはそれでいいよ」

どうやら意図は伝わったようで、間髪入れず由比ヶ浜が応えてくれた。

「私も異論はないわ」

「分担は雪ノ下が左壁沿い、由比ヶ浜が右壁沿い、俺は真っ直ぐがあれば直進してから左壁沿いで、無ければ左壁沿いに行って最初の分岐で右に移る」

「それもそれでいいわ」

もちろん意図があっての順番と采配だがそれに気付くことなく雪ノ下は頷き、由比ヶ浜がそれに続く。

「んじゃ、作戦も決まった事だし、さっさと行くか」

332: ◆OFPPQdZV86 2013/01/04(金) 03:16:08.83 ID:U4R2JSV10
受付の前に行ったが、隣人部は先程の俺たちと同様に少し離れたところで作戦会議をしていた。

「八幡君、順番は決まったかい?」

「ああ。こいつが一番最初だ」

投げかけられた質問に答えつつ雪ノ下を見る。

「そっか。さっきも説明した通りリタイアする場合はいたるところに非常口があるから、そこから出てね。ミノタウロスを捜してわざと捕まってももいいけど、こっちはあまりオススメできないかな」

「了解したわ」

口ではそう言いつつも、リタイアするつもりなど毛頭無いのは明らかだ。

相変わらずの負けず嫌いさんである。

「ああ、それと、いろいろと作り込み過ぎちゃって結構精神に来るものがあるから、不安を感じたら早めにリタイアしてねー」

なにやら恐ろしい事を超カルい感じで言う。

精神に来るものってなんだよ。

その時、すぐ近くでミノタウロスとおぼしき唸り声と悲鳴が聞こえた。

「うおっ!?」

「うわっ!?」

由比ヶ浜と同時に声を上げる。

近くで聞くと結構迫力あるな……。

視界の端では雪ノ下も肩が跳ねていが、平然を取り繕っているのが見なくてもわかる。

「やー、また誰か殺られたみたいだね」

そんなことをニッコリ笑って言う高山ケイトも十分恐ろしかった。

346: ◆OFPPQdZV86 2013/01/08(火) 03:03:18.69 ID:pk6sLNAH0
ほどなくして隣人部も受付前にやってきた。

「よし、早速始めようか。最初の一人は前に出て」

こちらからはもちろん雪ノ下、向こうからは黒髪鬱美人が出てきた。

二人して入口前に並ばされる。

「わたしとしてはあんまり勝負に拘らないで純粋に楽しんでくれた方が良いんだけど。……そういうわけにもいかなそうだね」

雪ノ下のあまりにも真剣な表情を見て苦笑している高山ケイト。

「ゆきのん、無理しないでね」

「ええ、無理をするつもりはないわ。その必要が無いもの。私に任せて頂戴」

無根拠に自信満々な様子の雪ノ下だが、未だかつてこれほど頼りにならない場面があっただろうか……。

「それじゃあ、ごゆっくり」

高山ケイトはニヤリと笑うと、扉を開け放ち二人を押し込むとすぐにその扉を閉めた。

「さて、次までは5分あるからそれまでに準備しといてねー」

そう言って受付カウンターから這い出ると、交代の生徒を呼びどこかに行こうとする。

「わたしはこれから●●●しに行くからちょっと席を外すよ。頑張ってね、お兄ちゃんに八幡君」

「ケイト……人前で●●●言うのはやめろよ……」

羽瀬川の言葉に尻を掻きながら適当に返事をしてそのまま去っていく。

……あんな美少女が●●●しに行くとか言うのはマジでやめてもらいたい。

347: ◆OFPPQdZV86 2013/01/08(火) 03:04:51.76 ID:pk6sLNAH0
「ゆきのんだいじょぶかな……?」

固く閉ざされた扉を見つめながら由比ヶ浜が言う。

「どうだろうな……」

正直、未知数としか言いようがない。

あいつは大抵のことに関しては突出した能力を発揮するが、迷子になることにかけては完全に他の追随を許さない領域にいる。

さらに彼女の性格上自主的なリタイアはまずしないだろうから、最悪の場合いつまでたっても出てこない事態も想定される。

携帯電話もバッテリー切れで連絡は取れないから打つ手が無い。

ミノタウロスさんに捕まってくれれば御の字、と言ったところだろうか。

しかし、もしかしたら迷うことが前提である迷路であれば逆になんか正解の道を選ぶ可能性が考えられない事もないというかむしろそうであって欲しい。

勝つためには最低でも一人はゴールしなければならないのだから、雪ノ下も無事に到達してくれればそれにこしたことはないからな。

まぁ、なんにせよ俺がゴールすることが出来れば勝つ確率は上がる。

「ちょっと俺行くとこあるから、順番待ちしといてくれ」

「うん、わかった」

やれることはやっておいた方が良いだろう。

348: ◆OFPPQdZV86 2013/01/08(火) 03:07:45.74 ID:pk6sLNAH0

5分というのは意外と短いもので、すぐに俺の出発時間が来た。

もちろん高山ケイトは戻ってきていない。●●●しているのだから仕方がない。

交代で入った受付の人は先程俺たちが受けたものと同じ無駄に長い説明を後続の待っている人たちにしている。

待ち時間の退屈しのぎという配慮かもしれない。

彼らはまだしばらく待つことになるが、出発を控えた俺には時間がない。

行く前にやっといた方が良い事がいくつかある。

「由比ヶ浜、行く前に一つ確認したいんだが」

「何?」

「お前自分がどっちに行くか覚えてる?」

「へ? ひたすら右沿いにいってればいいんでしょ?」

よし、ちゃんと覚えてたか。

由比ヶ浜は俺の表情から考えている事を読み取ったのか、軽く睨むような目付きをしてびしっと指差してくる。

「いくらなんでもそんくらい覚えてるよ!」

憤慨する由比ヶ浜を宥めつつ、追加の作戦を伝える。

「じゃ、その覚えているついでに入口の方向も覚えていた方が良いな」

空き時間を利用して軽く迷路の周囲を調べてみたところ、入口を正面として両側の側面には非常口がいくつかあるのみだった。

さすがに裏側には回れなかったが、必然的に出口は背面にあると言う事になる、ということを手短に説明する。

349: ◆OFPPQdZV86 2013/01/08(火) 03:17:59.22 ID:pk6sLNAH0
「とにかく入口との距離感を頭に入れておけば自分の居場所がざっくりでもわかるからな。気休め程度でしかないが」

「どっかいっちゃったと思ってたら一人でそんなことしてたんだ……」

意外そうな顔をした由比ヶ浜は、しかし次いでなぜかバツの悪そうな表情をする。

「てっきり受付の可愛い子を追いかけてヒッキーもトイレ行ってたのかと思ってた。なんかやたら仲良さそうだったし……」

「別に仲が良いって訳じゃねえよ」

てかたとえ仲が良かったとしても、連れションならぬ連れうんはないだろうに。

そもそも男女で連れうんは色々と問題だらけだ。

「でも、ヒッキーのこと名前で呼んでたし……」

「名前で呼んでたからって仲が良いってことにはならないだろ。例えばほら、たいていの人は織田信長のことを信長って呼ぶけど仲が良い奴なんて一人もいないし」

「でた屁理屈……」

「うるせ。俺は名前呼び=仲良しじゃないと言っているだけなのに、お前はそれは屁理屈だと言う。由比ヶ浜は、自分の意見は理論で他人の意見は屁理屈って言うような奴なのか? 酷い奴だな」

「ち、違うし! そんな酷いことしないし!」

「ほら、違うだろ。今お前が認めたように、名前で呼ぶのは仲良しこよしって訳じゃない」

「う、うん、そだね。 ……え? ……なんか違くない?」

ちっ、バレたか。完全に詭弁というか論点のすりかえだからな。

「まぁそんなことは置いといて、とにかくさっきの点に注意しといてくれ」

「……わかった」

まだ納得いっていなさそうな様子だが、強引に話を進める。

「それと、途中で雪ノ下を見つけたら合流しといてくれ。ほっとくと色々大変な事になりそうだからな」

「それは任せて。ゆきのんは別行動の方が効率いいとか言いそうだけど」

確かに超言いそうだ。まず間違いなく言うだろう。

「でもなんとか説得してみるよ。一人にしとけないもん」

……たぶん、お前のその気持ちをそのまま言えば大丈夫だ。

とは言わない。俺が言う事ではない。その必要もない。

由比ヶ浜は一人で楽しそうにというか嬉しそうに頷くとこちらを向く。

「ヒッキーもゆきのんが心配だったんだね」

……微笑みつつそんなふうに言われたんじゃどうしていいかわからない。

「……んじゃ、行ってくるわ」

微笑みが苦笑に変わったような気がしたが、背を向けてしまえばわからないので問題ない。

「うん、頑張ろうね」

後ろから聞こえる由比ヶ浜の声。

「……ああ、それなりにな」

……頑張ろう。

350: ◆OFPPQdZV86 2013/01/08(火) 03:19:34.57 ID:pk6sLNAH0
入口の前に立つと、金髪ビ  が横に立つ。

間髪入れず、受付の人が扉を押すと、ギギギギッっと軋みながら開いた。

「どうぞ、ごゆっくり」

先程の雪ノ下たちと同様に押し込まれるとすぐに扉が閉り始める。

完全に閉まるその一瞬前、扉の奥では並んだ由比ヶ浜と羽瀬川が何か会話をしていたのが目に入った。

だからどう、というわけではないが。

横では金髪ビ  が閉まったばかりの扉を憎々しい目付きで見ている。

だがそれも数瞬のことで、すぐに右奥の方へと突き進んで行った。

351: ◆OFPPQdZV86 2013/01/08(火) 03:20:48.24 ID:pk6sLNAH0
さて、俺も進むとしよう。

入口扉前は既に前方と左右に道が分岐していた。

俺が進むべきは前方の道だ。

壁は外壁と同様のペイントがなされていて、ところどころに継ぎ目があるにはあるが、模様から場所を特定するのは難しいだろう。

グループ客を考慮してか、幅は1.2メートル程度で二人くらいなら並んで歩くことは可能だ。

人生ソロプレイヤーの俺やもこっちにはなんの関係もないが。

とりあえず直進し、左の壁に触れる。

後はこの手を離さずひたすら歩き続けるだけだ。

ぜ、絶対離さないんだからねっ!

……よく考えたらこれって結構ヤンデレっぽい台詞だよな。

いやまあ、比喩なんだろうけどさ。

352: ◆OFPPQdZV86 2013/01/08(火) 03:22:29.68 ID:pk6sLNAH0

とりとめもない事を考えつつただただ進み続ける。

高山ケイトが言っていたように、作り込みは相当なものだ。

進んでも進んでも見えるのは全く同じグレーの塗装の壁のみ。

天井がないために空が見えるが、うまく高さ設定がされていて広場周辺に生えていた木々は見えない。

なおかつ曇っているために空でさえグレーだ。外観から推測した規模を考えても、しばらくはずっとこの光景を見せられ続けるのだろう。

いたるところに非常口があるとのことだったが、もう10分くらいは歩いていて相当数の分岐を潰しているはずなのにまだ一つも見ていない。

俺には壁に触れつつ歩き続けるという明確な指針があるからまだ良いが、これで何の目的も無くただ歩くだけになったり、本気で迷ったりしたら精神的な負担はかなり大きいだろう。

加えて、時折聞こえる雄叫びと悲鳴。

この状況で追いかけられたりしたらパニックを起こしてしまいかねない。

是非とも遭遇したくは無いものだ。

353: ◆OFPPQdZV86 2013/01/08(火) 03:34:22.36 ID:pk6sLNAH0

効率が悪い方法をとっているのはわかっている。

だが歩いても歩いても完全に同じ景色にいい加減にうんざりする。

きっともし俺が専業主夫になれなくて働くはめになったらこれと同じ光景を見るのだろう。

歩いても歩いても変わらない景色。

働いても働いても変わらない仕事量。

毎日毎日同じ職場に通い続け、同じ景色を見続け、やがては俺もその景色の一部になってしまうのだろう。

……絶対働かない。

ああ、情報量が少ない空間は駄目だ。

こうやって何も考えなくて良い空間に放り出されたら思わず自分を見つめ直しちゃうだろ。

目に映る光景はグレー一色だが、俺の歴史は真っ黒だからな。

白ヒゲガンダムが3、4体は発掘される勢い。

354: ◆OFPPQdZV86 2013/01/08(火) 03:35:20.94 ID:pk6sLNAH0

思考能力の一部が麻痺してきたところでようやく変化が訪れた。

件の非常口だ。

枠は黒と黄色の縞々にペイントされ、扉部分には赤い下地に黒い文字で『非常脱出口』とでかでかと書かれている。

見つけて思わずほっとしてしまい、実は俺もやや参っていた事に気付く。

ここでリタイアするつもりはないが、外の景色を見たい気持ちも相当にあったので、確認の意もこめて扉を開いてみる。

景色で大体の場所をつかめもするだろう。

だが、ノブを捻り手前に引いた俺が見たものは外の景色ではなかった。

見えたのはまたしても同じグレーの壁。顔だけ出して扉の外を見てみるが『→出口』との表示はあるが、一本道である事以外は全て迷路内と同じだった。

そういうことか……。

どうやら迷路全体をこのリタイア専用通路とも言えるもので囲んでいるようだ。

俺みたいにセコい真似をする奴への対策だろう。

さらに非常口はオートロックで迷路側からしか開かないと言う念の入れようだ。

本当に作り込んでるなぁ……。

355: ◆OFPPQdZV86 2013/01/08(火) 03:36:49.51 ID:pk6sLNAH0
とにかくチェックポイントともいえる目印を見つけたので一度頭の中を整理してみる。

ここは外周部であることと、かろうじて覚えている入口の方向とを照らし合わせると、恐らく入口から見て左側面の半分よりやや奥側といったところだろうか。

左側はおよそ半分程度制覇したと言って良いだろう。

そして俺が左の端部に到達したということは、歩くペースにもよるが、先に左側を攻めていた雪ノ下とそろそろ会うはずだ。

情報を交換し合う為にも、一度会っておくべきだろう。

壁に触れる手を右に切り替え、分岐を少し遡る。

いくらか前に通過した十字路まで戻り、まだ俺が通っていない分岐の前で立ち止まった。

壁沿いに歩き続けていれば合流できる箇所は必然的に限られてくる。まだ踏破していないところがある分岐がそれにあたる。

運が良かったのか悪かったのか、俺が通った道はほとんど全て分岐を潰せている。

おそらくはこの辺りで合流できるはずだ。

356: ◆OFPPQdZV86 2013/01/08(火) 03:38:24.61 ID:pk6sLNAH0

ほどなくして、雪ノ下がひょっこりと顔を出す。

「……比企谷君」

雪ノ下は俺を見ると、足早に近寄って来る。

「雪ノ下、遅かったな。待ちくたびれたぞ」

「待ってたの?」

実際はそれほど待ってもいないし、そもそも待ち合わせもしていないのだから待ちくたびれたはおかしいが、ただ単にアロハのおっさんの真似をしてみたかっただけである。

「いや、気にするな。……雪ノ下から見て左が俺が来た道だ」

「そう、了解したわ。では、次の分岐まで案内して頂戴」

「おう」

最低限の説明で言わんとしている事が伝わった。話が早くて助かるな。

歩き始めると雪ノ下がスッと隣まで来て並ぶ形になる。

「ああ、それと、非常口を見つけたから一応そっちも案内しとく。目印になりそうだからな」

雪ノ下は返事をせず、こくりと頷く。

ずっと歩いていたのだから疲れているのかもしれない。

少し歩くペースを遅くしてやるか。

こういう時間がとれるように雪ノ下を一番早く行かせたんだからな。

無論、迷子になって一番時間がかかりそうだから、というのもあるが。

357: ◆OFPPQdZV86 2013/01/08(火) 03:40:09.68 ID:pk6sLNAH0
非常口からはあまりはなれていなかったのですぐに着く。

「あれが非常口ね。確かに目印として使えそうね。入口と非常口それぞれとの距離関係を覚えていればおよその現在地がわかるもの」

「そうだな。で、入口はどっちだと思う?」

「あっちよ」

雪ノ下は非常口に背を向けて自信満々に真っ正面を指差す。

うん、まあ、そっちでいいや。

「じゃ、次の分岐に行くか。そこでまた別の道に分かれよう」

「……ええ」

358: ◆OFPPQdZV86 2013/01/08(火) 03:49:49.22 ID:pk6sLNAH0
目的の分岐に向かう道中、雪ノ下が口を開く。

「比企谷君、ミノタウロスは見た?」

「いや、まだ見てないな。何回か壁越しにすぐ近くにまできたっぽいが。雪ノ下はどうだ?」

「私もまだ出会っていないわ」

「なんか悲鳴を聞いてるとガチで怖いみたいだな。必死に走りまわる音がよく聞こえるし」

「そうね。出来ればこのまま出会わずにゴールしたいわね」

お前は走ると体力尽きそうだからな。

もし体力が尽きた雪ノ下を支えることにでもなったらそれこそ大変だ。

その状態で男子グループにでも出くわしたら全員ミノタウロス化して襲いかかってきそうで命がいくつあっても足らない。

むしろ須川君を筆頭としたFFFがやって来るまである。

「……本当に遭遇したくないな」

「対処方法が無い訳じゃないけれどね。逃げる以外の選択肢もあるわ」

「へぇ、そりゃ心強いな。じゃあもし出くわしたら何とかしてくれ」

「ええ、私も心強いわ。今は比企谷君がいるもの」

横目でちらりと見てくる。

「人を便利な盾扱いするのはやめろ」

「心外だわ。そんなことは思っていないのに」

「じゃあそのニンマリした腹の立つ笑顔は何だ」

俺が指摘すると、雪ノ下はわざとらしく表情を引き締める。

「比企谷君、決してあなたは便利な盾なんかではないわ」

じっ、と見つめてくる。

「な、なんだよ……」

「あなたは、使い捨ての盾よ」

そうかよ。

例によって雪ノ下は小さく拳を握ってドヤ顔をしている。

……まぁ、雪ノ下が楽しいんならそれでいいんですけどね。

いくらぼっちマイスターの俺でも精神と時の部屋並に何もない迷路で独りで黙って歩いているのはさすがに気が滅入るからな。

こうして歩くのも悪くはない、と思っている自分がやや意外だった。

379: ◆OFPPQdZV86 2013/01/15(火) 04:15:28.60 ID:ALRU/M3B0
やがて分かれるべき十字路に着く。

「俺は左に行くから、雪ノ下は右を頼む。これからは右側沿いに進んでくれ」

「……了解。次に会うときは、塀の外ね」

心なしかキメ顔で頷いた雪ノ下を確認して、背を向けて歩き出す。

なにやら囚人(俺)と面会者(雪ノ下)のような構図が一瞬脳裏にちらついたが気にしないでおこう。

より正確を期するなら囚人(俺)と刑事(雪ノ下)かもしれない。

それはさておき、このまま俺がこちらを攻略すればもしゴールが入口から見て左寄りにあればそう遠くない先に発見できるだろう。

逆に右側にあれば雪ノ下や由比ヶ浜が近くなる。

そして何より、あいつらが合流できる可能性が増える。

雪ノ下だけでなく由比ヶ浜まで勝負に拘っているが、本来の目的は別のところにある。

よくわからない勝負に巻き込まれてすっかり忘れていたが今日は文化祭に遊びに来ていただけのはずだ。

であれば、あの二人は別行動をするべきではない。

まあ、右に行かせたところで合流できるかはわからないが。

何となく後ろを見てみると、雪ノ下はちょうどくるりと背を向けて歩いて行くところだった。

380: ◆OFPPQdZV86 2013/01/15(火) 04:17:11.28 ID:ALRU/M3B0
さて、再び気の滅入る作業の開始である。

ここからは時間の問題ではあるが進んでやりたい作業ではない。

やりたい作業ではないが、やらなければいけないのであればちゃんとやろうとしてしまう自分の社畜根性が恨めしい。

このままでは将来養ってもらうつもりがなんだかんだで働いてしまいそうで怖いな……。

今から気を引き締めて、働かない道を歩み続ける決意を新たにする必要がありそうだ。

絶対働かない!

さあもう一度!

絶対働かない!

381: ◆OFPPQdZV86 2013/01/15(火) 04:17:56.00 ID:ALRU/M3B0
最初の角を折れると、俺の選んだ道は行き止まりだった。

……これは何かの暗示かと思ってしまうのは考え過ぎなんだろうな。

馬鹿な考えを振り払い、後ろへと引き返した。

先程雪ノ下と分かれた十字路を左に曲がる。

この道はやや長い真っ直ぐの道のようだ。

「比企谷くん」

振り返ると雪ノ下がいた。

「そっちも行き止まりだったのか?」

「ええ」

雪ノ下は答えると先に進む。

「そうか」

後ろからではその表情は伺い知れないが、やはり疲れているのだろうその足取りはやや重い。

俺はその背を追うように続いた。

382: ◆OFPPQdZV86 2013/01/15(火) 04:22:00.02 ID:ALRU/M3B0
「由比ヶ浜さんは大丈夫かしら……」

雪ノ下がポツリと呟いた。

単なる独り言のような気もするが、一応答えておく。

「由比ヶ浜っぽい悲鳴は聞いてないから、たぶんまだ無事じゃないか?」

「それはそうだろうけれど、何もミノタウロスに追われることだけの心配をしているわけではないのよ」

「……ああ、お化け屋敷の時の話か」

「由比ヶ浜さんは『走って逃げれるから大丈夫』と言っていたけれど……」

元々遅かった雪ノ下の歩調がさらに鈍くなる。

まぁ雪ノ下の言うことはわからないでもない。

まさかこんな場所でそんな愚行を犯す輩がいるとは考えにくいが、しかしあの話を聞いた後では心配にもなるだろう。

雪ノ下のことだろうから迷路で勝負することを決める際に考慮しなかったはずはない。しかし今更それを口に出すというのはやはり弱気になっているのかもしれない。

「……そんなに心配なら、会ったら一緒に行動すればいいだろ」

いくらかの間をおいて、雪ノ下が小さく呟く。

「……そうね。……そうよね」

前を進む雪ノ下。その後ろを歩く俺。お互い前を向いたまま言葉を交わす。

「比企谷くん、あなたは、一人でも大丈夫かしら」

「はぁ? 誰にものを言ってるんだ? 俺はぼっちで過ごすことにかけては一家言あるぞ。自伝をラノベにしたらこのラノで上位に食い込むのは間違いないな」

「……そう。……でも、もし比企谷くんも心配なのだとしたら、一緒に……」

さらに小さい声で言う雪ノ下。前を向いているのでさらに聞き取りづらい。

……聞こえないふり、というのも相等に魅力的な案だがそれはできない。

やってはいけない事だと今日気付かされた。

俺はこいつとの距離感を、奉仕部との距離感を正確に把握している。

であれば、俺は明確にその立場を示すべきだろう。

「必要ない。お前がついてりゃ大丈夫だろ」

「……わかったわ」

今雪ノ下がどんな表情をしているのかはわからない。それは考えても仕方のないことだ。

だから、俺はそのことについて何も考えはしない。

383: ◆OFPPQdZV86 2013/01/15(火) 04:22:52.79 ID:ALRU/M3B0
一人で歩くより時間は多少かかったが、やがて次の分岐に着く。

「では私は右に行くわ、比企谷く

振り返りつつそう言った雪ノ下の表情が固まる。

「どうした?」

「う、うしろ」

震える声で言い、震える手で俺の後ろを指さす雪ノ下。

……もう大体察しは付いている。

このままダッシュで逃げようとも思ったが、あの雪ノ下があれだけびびっているのだ。これが振り返えらずにいられようか。

384: ◆OFPPQdZV86 2013/01/15(火) 04:24:47.64 ID:ALRU/M3B0
意を決して後ろを向くと、3メートルくらい離れたところに化物がいた。

もう、本当に化物。

足下の蹄まで赤銅色の短い毛で覆われた体は恐らく2メートルを超える巨躯で、頭はもちろん牛のそれだ。

牛とは言っても、ゆめ牧場あたりでモーモー言いながらのんきに草を食っている可愛いアイツらではない。

顔周りだけ毛が無く、いわゆるファンタジー風の骨々しく荒々しい造形をしていた。

両側に伸びた角は中程でねじれ、前に立つ者を狙うように突き出している。

首回りは体毛と同色のやや長い毛をしていて、胸と腰には金属製の防具。

極太の血管が浮きでた両腕は鎧のような筋肉を纏い、その手には全長1.5メートルはあるであろう両刃斧が握られていた。

刃の側面に幾何学模様が刻まれ、鈍い光を放つそれは重厚な存在感を放っている。

日曜朝のヒーローたちや、夏と冬の祭典に集うコスプレヤーたちが持っているような、いかにもプラスチックじみたものではなく、本物の鉄のような質感が見て取れる。

そして、その斧や体のあちこちにべっとりとこびりついた赤黒い何か……。

385: ◆OFPPQdZV86 2013/01/15(火) 04:26:31.71 ID:ALRU/M3B0
「ひ、ひきがやくん……!」

あまりの威圧感、存在感に呆然としていた俺の袖を雪ノ下が引く。

それが引き金になったのか、こちらの様子を窺っていたミノタウロスはゆっくりと斧を構える。

数瞬後、大きく息を吸い込むように胸を反らした。

「ヴォロロルルヴァラアアアーーーーッ!」

「う、うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」

「きゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」

到底人間が出せるような声ではなく、まさに獣のような恐ろしい雄叫びを上げたミノタウロスはいつでも俺たちを叩き殺せるように斧を振り上げると、その姿勢のまま突進してくる。

俺と雪ノ下は同時に駆け出し、必死に逃げる。

雪ノ下は俺の袖どころか手首をつかんだままで、雪ノ下が本来の進むべき道とは別の方向に逃げてしまっているが、今はそんなことを言っている場合ではない。

今は方針も何も全て頭から吹き飛びひたすら逃げる事しか考えられない。

走りつつ後ろを確認してみると、ミノタウロスは斧が邪魔になったのか、通路に投げ捨てると速度を上げてガチャガチャと腰当てを鳴らしながら猛然と襲いかかって来る。

「捨てんのかよ!」

無意味とは知りつつもつっこんでしまう。

「な、なに!?」

息を荒げ、若干涙目になっている雪ノ下がびくっとする。

「なんでもないっ!」

386: ◆OFPPQdZV86 2013/01/15(火) 04:27:25.00 ID:ALRU/M3B0
無我夢中で逃げ回り、何度も適当に角を曲がる。

雪ノ下はもう体力が尽きかけているのか、俺の腕を引く力が強くなっている。

再び後ろを確認してみると、直線では速かったが曲がるのはそれほど得意ではないのかミノタウロスの姿は見えず、また音もしない。

まだ安心は出来ないが、どうにか撒いたようだな……。

「なんとか撒いたみたいだが、大丈夫か?」

立ち止まり、雪ノ下に問いかける。

だが彼女はそれに答えることなく、床にへたり込んだ。

俯いたまま左手を胸に当て、どうにか荒い息を整えようとしている。

……まぁ、今は安全そうだし落ち着くまで待つか。

387: ◆OFPPQdZV86 2013/01/15(火) 04:29:17.12 ID:ALRU/M3B0
しばらくしてようやく雪ノ下が顔を上げる。

「ごめんなさい、もう、大丈夫よ」

そう言ってヨロヨロと立ち上がる。

全く大丈夫そうじゃないんだが……。

……まあ、そっとしといてやろう。

「にしても、あれは作り込んでるってレベルじゃないだろ……」

「……ええ、あれ程とは思わなかったわ。もし捕まったらと考えるのも恐ろしいわ」

確かに恐ろしい。たとえいくら迷路で迷ったとしても、あれに捕まるくらいなら野垂れ死んだ方がマシだ。

「正直、出くわすまではたいしたことないだろうと舐めてたけど、もう無理だな。次にちらりとでも視界に入ったら俺は迷わず逃げるぞ」

「……同感。もう、ほんとにいや……」

心底怯えた声で言いながら、雪ノ下はしきりに逃げてきた方向を確認している。

「それで、どうしましょうか」

「……今どこにいるか完全にわからなくなったからなぁ、取りあえずあっちに進んで適当なところで別れるか」

俺も逃げてきた方向を確認しつつ、来た道から見て左の方向を右手で示す。

雪ノ下はこくりと頷く。

388: ◆OFPPQdZV86 2013/01/15(火) 04:33:15.75 ID:ALRU/M3B0
「んじゃ行くか……雪ノ下、逃げるぞ!」

ミノタウロスが角から姿を現わすのを見て即座に走り出す。

追いつかれたようだがミノタウロスは投げ捨てた斧の状態を気にしていたようで、こちらを見ていなかった。

もしかしたら気付かれていないのかもしれないが、離れているに越したことはないだろう。

またしても何度か無作為に角を曲がる。

先程とは違い全力で走っているわけではないから、雪ノ下の状態もそこまで悪くはなさそうだ。

「ここらへんで別々に行くか。二人とも同時に捕まるのだけは避けなきゃだしな」

「えっ? ……ええ、その通りね」

立ち止まってそれぞれが行く道を指さす。

一度現在地を見失った以上、やれることはもうほとんど無い。

あとは適当にうろついて偶然のゴールにかけるか、非常口を見つけてだいたいのあたりをつけるかぐらいしか選択肢はない。

「じゃ、行くか」

「わかったわ」

……。

いや、あの、このままじゃ進めないんですが……。

「……雪ノ下、俺は左の道を左手で壁に触れ続けて進む。お前は右の道を右手で壁に触れ続けて進むんだぞ」

「わかっているわ。……あっ」

雪ノ下は目にも止まらぬ早さで背を向けると、右の道に入っていく。

「では比企谷くんまたあとで」

早口でそう言い残し足早に去って行った。

389: ◆OFPPQdZV86 2013/01/15(火) 04:34:03.78 ID:ALRU/M3B0
心なしか取り残される様な形になった俺も、探索を再開する。

ミノタウロスが近くにいる以上、これからは注意深く進まなければならない

また遭遇してしまったらあまりに恐ろしすぎる故に冷静ではいられないだろう。

まぁ自分で投げ捨てた斧を気遣っている姿は若干コミカルではあったが。

てか結局斧拾うんなら捨てんなよ、とも思ってしまう。

だが、その無駄な行為のおかげで逃げられているのだからこちらとしては都合が良いことは確かだ。

もしかしたら発見された際の救済措置としてそういう演出がなされているのかもしれない。

とにかく、もう俺に出来ることはミノタウロスに出会わないように祈りつつひたすら歩く事しかなかった。

407: ◆OFPPQdZV86 2013/01/28(月) 02:22:18.94 ID:YWa2pJpr0
ビクビクしながら迷路をひた歩く。

見通しが悪い故に常に耳を澄まして歩き、角を曲がる際には念のため様子を窺ってから進むようにしていた。

既に方向感覚が失われてから久しい。

ただでさえミノタウロスに追われて気が滅入っている上に、まるで代わり映えのない風景がさらに精神を圧迫してくる。

呼吸は浅く、鼓動がやけにうるさい。

俺は本当に進んでいるのだろうか。いや、そもそも迷路において進むとは一体何を指すのか。

俺は今、前進している。しかし、文字通り前に進んでいるだけに過ぎない。

隣人部の連中がミノタウロスに襲われたかは確認のしようもないが、俺と雪ノ下は遭遇してしまった。

その分時間を浪費している。

もしあれがなければ例の法則で今頃ゴールできていたかもしれない。

考えても仕方のないことではあるが、そうせざるにはいられない。

作戦上、こちらで機能しているのは既に由比ヶ浜だけだ。

俺はこんな状態だし、雪ノ下は体力が尽きるのは目に見えている。

このままでは負けてしまうかもしれない。

せめて、由比ヶ浜だけでも無事でさえいてくれれば。

408: ◆OFPPQdZV86 2013/01/28(月) 02:26:29.35 ID:YWa2pJpr0
しかしよくもまあ作り込んだものである。

その完成度は、一度でも現在地を見失ってしまったらのならもう二度と外には出られないのではないかと思ってしまう程だ。

正常な思考能力を奪う灰色空間、見る者に根源的な恐怖を抱かせるミノタウロス。

聞こえるのは、風に揺られた壁が鳴らすガタガタという音と、時折遠くから聞こえる悲鳴だけ。

こんな状況で非常口を見つけたら、出てしまうのも頷ける。

俺たちがとったのと同じ、割とポピュラーな法則を実践していればほぼ確実にゴールだけは出来るはずだが、到達できた数が少ないのはそういう理由もあるだろう。

かく言う俺も、目の前に非常口があったら危ない。

一瞬も躊躇わずに出る自信しかないからな。

とにかく、非常口を見つけるまでは出来る範囲で出来るだけのことをやろう。

……もう既にリタイア前提で動いている俺、嫌いじゃないぜ!

409: ◆OFPPQdZV86 2013/01/28(月) 02:27:21.65 ID:YWa2pJpr0
何度かミノタウロスをやり過ごし、迷路内を徘徊し続ける。

覚悟を決めてからは不思議と少し気が楽になっていた。

人間、目標を決めてしまえばある程度の苦痛には耐えられるらしい。

まあこの場合の覚悟とは後で雪ノ下になじられる覚悟だが。

それさえ腹をくくってしまえば後は問題ない。

ない、はずだ。

410: ◆OFPPQdZV86 2013/01/28(月) 02:31:42.63 ID:YWa2pJpr0
気が楽になったと言っても、警戒を怠ってはいけない。

この様な状況で調子に乗るのは死亡フラグでしかないからだ。

それを示すかのように、角を曲がった先の袋小路に惨殺現場があった。

そこは通路より広く、小部屋のようになっている。

まあ惨殺現場と言っても学祭だからだろうが、そのまま死体があるわけではない。

しかし、食い散らかされたのか壁や地面の至る所に赤黒い血や肉片のようなモノが飛び散り、ズタズタに引き裂かれ血に染まった服と折れた剣、何か骨っぽいものまで落ちている。

グロいよ……。

ここまでの演出はいらねえだろ……。

長居したい空間ではない。

早々に立ち去ろうとしたが、奥の方の壁に何か文字らしきものが書いてあるのを目の端で捉えた。

好奇心も高精度な死亡フラグではあるが、さすがに見過ごすことはできない。

近くまで行き目を凝らす。

凝、である。

いや念能力使えねえけど。

まあ、気分だ気分。

411: ◆OFPPQdZV86 2013/01/28(月) 02:32:11.27 ID:YWa2pJpr0
壁には血文字でこう書かれていた。

『テセウスは敗れた』

負けちゃったのかよ!

414: ◆OFPPQdZV86 2013/01/28(月) 02:33:41.12 ID:YWa2pJpr0
テセウスとは何か。

かなり有名な話なので知っている人も多いかと思うが、テセウスはギリシャ神話の登場人物でミノタウロスを倒した英雄だ。

そのミノタウロス討伐の際にアリアドネちゃんから渡されたアイテム、『アリアドネの糸』が迷宮の脱出に必須のものとされている。

ついでに言えばテセウスはイケメン王子様であり、美少女のアリアドネちゃんに一目惚れされていたにもかかわらず離島に置き去りにしてその妹と結婚する鬼畜系リア充。

……負けても仕方ないよね! よくやってくれたぜミノさん!

415: ◆OFPPQdZV86 2013/01/28(月) 02:35:23.48 ID:YWa2pJpr0
とにもかくにも、情報は得られた。

まぁまさか負けていたとは思わなかったが、ミノタウロスに関する逸話はこの迷路に入る前に高山ケイトから聞いていた。

割と短い間隔で繰り返し説明していたし、恐らく全員に聞かせてから入れているのだろう。

あの説明は設定厨のようにただ言いたいだけではなく、参加者の条件を平等にする為のものだったのだろうと今更気付く。

テセウスがミノタウロスの討伐に向かったところまでは神話と同じ。

しかし、彼は敗れている。

ミノタウロスを倒せる者はもはや存在しない。

つまりどういう事か。

……ええっと、詰み?

なにこの無理ゲー。

416: ◆OFPPQdZV86 2013/01/28(月) 02:37:35.61 ID:YWa2pJpr0
そんなわけあるか。

……ないよね?

だ、だって高山ケイトはゴールできた4グループがいるとか言ってたし!

その言葉を信じるのであれば、何か必ず脱出の糸口があるはずだ。

まあ何かというか、一つしか考えられないが。

テセウスはミノタウロスの討伐に向かい、敗れた。

その敗北した現場には血と肉片と装備以外何も残っていなかった。

肉体はミノタウロスが美味しく頂いたとして、足りない物がある。

アリアドネの糸だ。

恐らくそれは奴が何らかの形で所持しているのだろう。

そしてそれをどうにかして奪うのが脱出への一歩ということが推測される。

……やっぱこれ無理ゲーじゃね?

417: ◆OFPPQdZV86 2013/01/28(月) 02:39:01.33 ID:YWa2pJpr0
奪う方法は後回しにして、とりあえずミノタウロスを捜そう。

強奪するにしても、まずは何がアリアドネの糸とされているのかを確認しなければならない。

考え得るのは、最も直截的な物で言えば地図だろう。

次点でヒントが書かれた紙やそれに類する物といったところか。

あるいは更なるヒントへのヒントという可能性もあるがそれはやめて欲しい。

いずれにせよ、まずは確認、である。

にしても、あれだけ逃げ回っていたのにまさかこっちから捜すことになるなんてな……。

できれば由比ヶ浜や雪ノ下にこの情報を伝えたいところだが、まあ出会える望みは薄いだろう。

とにかくミノタウロスを見つけ出ださなきゃな。

418: ◆OFPPQdZV86 2013/01/28(月) 02:39:52.70 ID:YWa2pJpr0
捜し出す事自体は悲鳴を追いかければいいだけなのでそこまで難しい話ではない。

現に今も誰かが追いかけられている。

恐ろしい雄叫びが轟き、甲高い悲鳴が響く。

相変わらずミノさんは絶好調である。

いやミノさんとか言ってるけどマジで怖いからねこれ。

先に非常口見つかんないかな……。

419: ◆OFPPQdZV86 2013/01/28(月) 02:41:15.72 ID:YWa2pJpr0
悲鳴が上がった方へと進む。

襲われた人はどうやら撒いたようで捕まった気配は無い。

鬼畜リア充が食い散らかされたあの現場を見てしまった後では、捕まるとどうなるかは想像したくもない。

強制的に退場させられるとのことだったが、ひょっとしてこの世からの強制退場なんじゃ……。

あり得ないと思いつつも、奴はそれを完全に否定しきれないほどの迫力を持っているのは確かだ。

距離が近いようだし、念のため角でR1ボタンの覗き込み確認をする。

ダンボールさえあれば!

420: ◆OFPPQdZV86 2013/01/28(月) 02:43:08.35 ID:YWa2pJpr0
……大丈夫、いないようだ。

確認を終え、若干ホッとして角から身を出そうとしたその刹那、見覚えのある逞しい腕がチラリと見えた。

瞬間、全身が粟立つ。

無理矢理行動をキャンセルして咄嗟に壁に張り付いた。

まだ気付かれてないようで、ミノタウロスはカチャリカチャリと恐らく腰当てであろう金属音を鳴らしつつ近づいてくる。

その音が、気配が近づくにつれ全身から冷や汗が吹き出てくる。自然、心拍数は上がり聴覚に意識が集まる。

幸か不幸か、奴と俺との間を隔てているのは、壁一枚。すぐ近くにまで来ることが出来たようだ。

だが、ここからどうする?

このまま姿を晒して奴がアリアドネの糸らしきものを持っているか確認するか?

いや駄目だ! 正気の沙汰ではない!

そんなのは自ら死にに行くようなものだ。俺はまだ死にたくない!

落ち着け、あれは所詮中に人が入っている着ぐるみだ、と頭の中の冷静な部分が諭してくるが、もはやそんなレベルではない。

最初に遭遇した際に、既に恐怖は魂にまで打ち込まれている。

駄目だ。

無理だ。

あいつから何かを奪うだなんて不可能だ。

大人しく非常口を探そうか……。

421: ◆OFPPQdZV86 2013/01/28(月) 02:44:22.21 ID:YWa2pJpr0
息を殺し、どこかへ行くのを待つ。

しかし奴はこちらへと近づいているようだ。

このままでは見つかってしまう。

一旦離れようかと考えたところで、状況が変わる。

「ひっ!?」

誰かが小さく悲鳴を上げた。

位置関係で言えば、恐らくミノタウロスの後ろ。

もしその誰かを標的に定めたのなら、俺はミノタウロスの後ろを取れるかもしれない。

これは……チャンスだ。

タイミング的にも、精神的にも今しかない。

これを逃せば恐らく俺はもう二度と立ち向かわないだろう。

奪うとまではいかなくても、何か有益な情報を得るくらいのことはできるかもしれない。

ミノタウロスは毎度お馴染み獣の雄叫びを上げ、追跡を開始する。

今だ、覚悟を決めろ!

俺なら出来る!

諦めちゃ駄目なんだ、その日が絶対来る!

START:DASH!!

422: ◆OFPPQdZV86 2013/01/28(月) 02:45:44.19 ID:YWa2pJpr0
「や、やめろ! 来るな!」

追いかけられている人が叫んでいる。

来るなと言われて逆に興奮した訳でもないだろうが、ミノタウロスが短く唸る。

俺はその毛深い背中を見失わないようにギリギリの距離で追いかけていた。

この距離から目視する限りでは何かを持っている様子はなさそうだ。

もう少し近づくしかないか……。

423: ◆OFPPQdZV86 2013/01/28(月) 02:49:00.98 ID:YWa2pJpr0
例によって邪魔になった斧が投げ捨てられた直後、不意に追いかけっこ×2は終わる。

逃走者は行き止まりにあたってしまったらしい。

その人は振り返ると、へなへなと腰を抜かした。

ミノタウロスはゆっくりと近づいていく。

俺は直前の角から顔だけ出して覗いている。家政婦とかそんな感じ。

「待て、来るな……」

追いかけられていた人は腰を抜かしたままずりずりと後ずさる。

てかあれ、黒髪鬱美人だね。

彼女は目に涙を溜めながら必死に距離をとろうとしている。

「待って、待って……やだ……」

しかしミノタウロスとの距離どんどん近くなり、ついに壁際まで追い詰められパニックを起こす黒髪鬱美人。

「や、やだ! 助けて! 助けてよぉ! こだかぁ!」

髪を振り乱しながら壁を叩き、ここにはいない羽瀬川に助けを求めている。

……赤の他人とは言え、正直かなり心が痛む。

だが俺に出来ることはなにもない。状況は既に詰んでいるのだ。

せめて、せめて由比ヶ浜たちがここから抜け出す為の、あるいは奴を打ち倒すための情報を得なければ。

かなり近くにいるが、やはり奴が何かを隠し持っている様子はない。

424: ◆OFPPQdZV86 2013/01/28(月) 02:50:02.19 ID:YWa2pJpr0
あえなく黒髪鬱美人は捕まり、斧を回収した化物に連行されていく。

さすがに食われるとか裸に剥かれるとかそういったことはなく、縛られたりもせず普通に前を歩かされ、時折後ろから化物がどちらに行けと指示を出す。

その間ずっと黒髪鬱美人はえぐえぐとマジ泣きしていた。

……悪いな。

敵チームとはいえ、あまりの痛ましさになぜか心の中で謝っている俺がいた。

425: ◆OFPPQdZV86 2013/01/28(月) 02:50:47.05 ID:YWa2pJpr0

やがて、非常口に着く。

黒髪鬱美人はぺいっと放り出され、すぐに扉の向こうに消えた。

……彼女は犠牲になったが、そのおかげで重要なことがわかった。

恐らくこの迷路を脱出するにあたって、最も重要なことが。

426: ◆OFPPQdZV86 2013/01/28(月) 02:52:37.68 ID:YWa2pJpr0

得た情報を整理しよう。

一つ、この迷路は神話をモチーフにしている。

一つ、英雄テセウスがミノタウロスの討伐に向かうところまでは神話と同じ。

よって、テセウスはアリアドネの糸を所持していたことは確定的である。

ここまでは全員が事前に説明を受けている。

ちゃんと聞いてさえいれば、誰でもわかることだ。

これに俺が迷路内で得た情報を合わせて検証を進めよう。

例の小部屋の文字によると、テセウスは敗れた。

死体すら無く、残されたのは血まみれの服と折れた剣のみ。

だが化物は何かを隠し持っている様子はない。

にもかかわらず、ゴール出来たグループが存在する。

以上のことから、一つの結論と一つの脱出方法が導き出される。

427: ◆OFPPQdZV86 2013/01/28(月) 02:54:10.85 ID:YWa2pJpr0
今更ながらに、高山ケイトが雪ノ下と黒髪鬱美人、ひいては俺たちに言った「ごゆっくり」の意味を悟る。

……全く、これを考えた奴はなんて性格の悪さだ。

まあいい。

検証は終わりだ。次は行動に移そう。

もはや当初の作戦になんの意味もない。

まずは由比ヶ浜や雪ノ下――可能であれば両方――と合流しなければ話にもならない。

逆に言えば、合流さえすればなんとかなる。

あいつらには、この迷路をクリアした5グループ目になってもらおう。





つづく

445: ◆OFPPQdZV86 2013/02/12(火) 04:13:42.76 ID:Jpz10S1h0

さて、どう合流したものか。

方法はいくつか思いつくがどれも実行したいものではない。

やはり場当たり的に走り回るしかないだろう。

あいつらが捕まってしまったらその時点で詰みだ。

出来るだけ急いだ方が良い。

446: ◆OFPPQdZV86 2013/02/12(火) 04:14:13.24 ID:Jpz10S1h0
得も言われぬ焦燥感に迫られつつ迷路を走る。

化物から離れる方向には進んでいるつもりだが、どこでどう繋がっているかわからないのが迷路だ。

安心は出来るはずもない。

直線は走り、角では立ち止まり耳を澄ますという行動を繰り返す。

奴の防具が鳴る音で彼我の距離は確認できるはずだ。

この点ひとつをとってもこの迷路はゴールできるように配慮されていることがわかる。

あの音は回避する際にも見つけ出す際にも有益な要素だろう。

447: ◆OFPPQdZV86 2013/02/12(火) 04:15:08.40 ID:Jpz10S1h0
精神的な疲労に加え普段の引きこもり系運動不足がたたり、すぐに息が上がってしまう。

広くもない通路で男が独りはぁはぁしているのは非常に気味が悪い。

海老名さん的な理由でのはご勘弁願いたいが、はぁはぁして許されるのは女の子だけ。

しかし全力坂は制作者の煩悩と下心が透けて見えてるから気持ち悪い。

「お前らこういうの好きだろ?」的な感じがとても腹立たしくちくしょう大好きだぜ。

高校生の頭の中の8割は  い事でいっぱいなのです。

ちなみに中学生だとほぼ10割。

胸に手を当てて自分の過去を思い返して欲しい。

ちなみに『胸に手を当て』の部分に反応したあなたはまだまだ中学生でも通用します。通報します。

448: ◆OFPPQdZV86 2013/02/12(火) 04:18:26.96 ID:Jpz10S1h0
警戒しつつもなんとか息を整えようとしていると、ふと一つの疑問が頭をよぎる。

なぜこうも負けないように頑張っているのか?

俺はそこまで負けず嫌いではなかったはずだ。

というか千葉愛と妹愛についてを除いて言えば勝敗自体にあまり興味がない、はずだ。

無性にもやもやする疑問だったが、結論が出る前に突如思考を中断させる声が響く。

「あっ、無事だったんだ!? 良かったぁ」

声のした方を見れば、壁に右手をついている由比ヶ浜がいた。

「なんとかな。お前こそ……」

無事で良かった。

なんて言えるかコノヤロウ。

思わず口を衝きそうなった言葉をギリギリで飲み込む。

由比ヶ浜は「ん?」と首を傾げていたが、やがてにへらと相好を崩す。

……由比ヶ浜といい雪ノ下といい、なんか俺の内心筒抜け過ぎないですかね。

もうちょっと筒隠した方が良いかもな。半分くらいなら月子ちゃんに本音をあげたいくらいだぜ。

月子ちゃん月子ちゃん、俺の後輩になってくれない?ハァハァ

え? そういう本音じゃないって?

知るかよ!

……まぁ、あれだ。作戦の面から見ても無事で良かったのは本当なのでそういう事で。

449: ◆OFPPQdZV86 2013/02/12(火) 04:19:43.42 ID:Jpz10S1h0
「ねえ、ミノタウロスは見た?」

「見たと言えば見たな」

「あたしも見たけど、アレ超怖いよね……」

由比ヶ浜の台詞に反応したわけでもないだろうが、そこでタイミング良く化物の雄叫びが聞こえた。

俺も由比ヶ浜もびくっとしてそちらの方向を見る。

「誰か追われてるみたいだな」

「そうだね……ゆきのん無事かなぁ」

「わからん。まだ捕まってなかったとしてもそろそろまずいだろうな。一度会ったんだがそんとき追いかけられて体力尽きかけてたっぽいし」

「そっか、心配だなぁ……。でも、別々に行動した方が勝つ確率高いんだよね……?」

「まあ確かにそんな話をしたな。けどそれはあくまで入る前の話であって、今は状況が違う」

「じゃ、じゃあ一緒にいてもいいの?」

「当然だ。むしろその方が都合が良い」

まさに当然だ。作戦云々は置いておくにしてもこんな無意味な勝負さえなければ由比ヶ浜と雪ノ下が離れることはなかった。

そもそも別行動している事自体がおかしいのだ。

ここの迷路も由比ヶ浜あたりが入りたいと言い、なぜか自信満々の雪ノ下が先導してひたすら迷い、化物に出くわしては逃げ惑うという流れになるのが想像できる。

こんな灰色一色の精神空間でもきっとあの二人は楽しめていただろう。

それなのに今こいつらは別々に迷っている。

本来そうなるはずだった形と異なり、今が間違っているのなら、そんな意味のない事はさっさと終わらせるべきだ。

少なくとも俺は、俺はそう思う。

450: ◆OFPPQdZV86 2013/02/12(火) 04:20:54.06 ID:Jpz10S1h0
「と、当然なんだ……。そか、そっか」

何かを勘違いしているのかしていないのか、由比ヶ浜は照れた様子でしきりに手をもじもじさせている。

「そりゃ、お前と雪ノ下は友達なんだから一緒に遊んでても別におかしくはないだろ」

「へっ? あ……そ、そーだよ! あたしはゆきのんの友達だもん!」

慌ててわたわたし始め、大声で誤魔化す由比ヶ浜。

……うん、こいつ本当にわかりやすいなぁ。

まず表情に出過ぎ。次いで態度が感情を子細に説明する。

驚異のエアリードスキルを持っている割に感情だだ漏れ過ぎだろ。

爽やか王子に建前分けてもらえよ。

いや奉仕部に入る前のあのうすっぺらな笑みを浮かべていた当時に比べれば、こっちの方が断然魅力的なんだけどな。

やだ私ったら何考えてるのかしら! 破廉恥な!

……本当に何考えてんだ、俺。

451: ◆OFPPQdZV86 2013/02/12(火) 04:22:11.25 ID:Jpz10S1h0

「ヒッキーすごい!」

とりあえず得た情報と、一部は省略してあるがそれに基づく脱出案を伝えた後の、由比ヶ浜の第一声である。

そうだろうそうだろうすごいだろう。もっと褒めてもいいんだぜ!

なんてのは嘘です気恥ずかしくてドギマギしてマドマギしちゃうのでやめて下さい。なにそれ絶望しちゃう。

無視されたり罵倒されたりは慣れてるけど褒められるのは年に数えるほどしかない。

もっとあるかもしれないが、褒めそやす由比ヶ浜とセットでいる奴がその数十倍、いや数百倍の勢いで馬鹿にしてくるので俺の記憶領域を圧迫している。

だから俺が解き明かした攻略方法を説明する瞬間が待ち遠しくて仕方ない。

奴のぐぬぬ顔が楽しみだぜ!

452: ◆OFPPQdZV86 2013/02/12(火) 04:24:18.36 ID:Jpz10S1h0
「国語は学年3位って言ってたけど、ホントに頭良かったんだね!」

「お前まだそれ疑ってたのかよ……」

由比ヶ浜にジト目を向けていると、ポツリ、ポツリと雨が降ってきた。

ほとんど気にならない程度ではあるが、大降りになったら大変なことになる。

なにせこの迷路には屋根がない。

いくら今日は暖かいと言っても冬を目前に控えた時分だ。最悪風邪を引きかねない。

そう思ったところで、スピーカーが出すノイズが聞こえた。

『本日はMinotaurosにお越し頂きありがとうございます。雨が降ってきましたが、強くなるようなら当施設は一時閉鎖となります。その場合、係の者が即座に迎えに行きますので、その場を動かずにお待ち下さい』

どこからともなく聞こえてきた放送は同じ内容を繰り返してプツリと途絶える。

まずいな……時間制限が出来てしまったか……。

「とにかく雪ノ下を捜すぞ」

「でも、捜すって言ってもどうするの? ゆきのんのケータイはバッテリー切れだから繋がんないし」

「いや繋がってもどうにもならないだろ……。まあ、方法が無いわけでもないが……」

「じゃあそれやろうよ! きっとゆきのん一人で不安だろうし!」

「よし。じゃあ由比ヶ浜、叫べ」

「えぇっ!? なんで急に!?」

「目印が無く連絡手段もない以上、声で位置を確認し合うのが一番簡単で確実だ」

コマメちゃん的に言えば『イルカの気持ちになってお互いの距離と気持ちを確かめ合うの!』だ。

「や、なんか恥ずかしいし他の方法はないの?」

「恥ずかしくなんて無いぞ。他の方法はあるかもしれないが、俺はこれ以外思い付かない」

「で、でもなんて叫べばいいの?」

「なんでもいい。『うわーん助けてゆきえもーん!』でもいいし、『教えてユキペディアさん!』でもアリだ」

「どっちもナシだよ! ってかヒッキーがやっても変わんないじゃん? 思い付いてたんならヒッキーやってよ」

「馬鹿を言うな。仮に俺が雪ノ下を呼んでもあいつはむしろ遠ざかるだろ」

「確かにそれはそうだけど……」

叫ぶのは余程恥ずかしいのか、必死に食い下がる由比ヶ浜。

確かに、他人に叫べって言われる事なんてほとんど無いだろうからな。

気持ちはわからんでもないが、こいつにはやってもらわなければならない。

だって俺だって恥ずかしいし。

453: ◆OFPPQdZV86 2013/02/12(火) 04:28:30.51 ID:Jpz10S1h0
「うぅー、わかった……。あたし、やるよ」

無言で見つめ続けていると、ようやく由比ヶ浜が折れた。

「普通に『ゆきのん』でいいよね?」

「ああ、いいんじゃね?」

「じゃ、じゃあ……」

由比ヶ浜はくるりと背を向けると、大きく深呼吸する。

そして胸を反らして一際大きく息を吸い込み、今まさに叫ばんとする。

「ゆk

「恥ずかしいからやめなさい」

突然現れた雪ノ下に出鼻をくじかれた由比ヶ浜がむせ込む。

その背中をさすりながら詰問の視線を向けてくる雪ノ下。

「全く……あなたは由比ヶ浜さんに何をさせているのかしら」

「とりあえずお前と合流しようと思ってな。正直、聞いてるこっちも恥ずかしそうだから今来てくれて助かったぞ」

「やっぱ恥ずかしいって思ってたんじゃん!」

おっと、バレてしまったか。てへぺろすれば許してもらえるかな?

「由比ヶ浜さんも、あの男の口車に乗せられては駄目よ。一度目でも十分恥ずかしかったのだから」

そう言う雪ノ下の方こそ恥ずかしそう、というか照れた様子をしている。

「え? 一度目って?」

突然の雪ノ下の台詞に由比ヶ浜は目をぱちくりさせていた。

……あぁ、由比ヶ浜が誤魔化しついでに言ったあの台詞か。その声を頼りにここまで来たってことか。

454: ◆OFPPQdZV86 2013/02/12(火) 04:33:14.29 ID:Jpz10S1h0

雪ノ下にも先程由比ヶ浜にしたのと同じ説明をする。

彼女は時折口を挟みたそうにしていたものの最後まで黙って聞いていた。ちなみにぐぬぬ顔はしていない。

「ってな感じで、これが成功すればこの灰色空間ともおさらば出来る訳だ」

「確かに、成功すれば脱出は可能でしょうね。もっとも、比企谷くんが灰色の人生から脱出するのは不可能でしょうけれど」

「おい雪ノ下、一体いつから俺の人生の話になったんだ?」

「いえ、ふと思っただけだから気にしなくていいわ」

「ならそういうことは心の中だけにしておけよ……。大体、灰色の人生がつまらないものだなんてのは間違いなんだよ」

「でもその表現は雑誌とかであたしもよく見かけるけど? 『灰色からバラ色に変身しちゃおう!』とか」

「だからその、灰色=悪でバラ色=善っていう認識が間違ってるんだよ。いいか? そもそも灰色ってのは良い色なんだ。ハイイロオオカミやハイイログマは生態系の頂点だし、灰色の脳細胞はどんな難事件でも立ち所に解決しちゃうし、シンデレラに至っては説明不要だ。つまり灰色の人生を歩む俺は力強く聡明で健気であり、しかも大きな幸福を得られる道を歩んでいる事になる!」

「ねえねえゆきのん、灰色とシンデレラって何の関係があるの?」

「日本では灰かぶり姫と呼ばれる事もあるのよ」

「へー、さすがゆきのんもの知りだね。じゃあアリエルは日本だとなんて言うの?」

「デスティニー作品の事を言っているのなら、人魚姫でしょう?」

「あ、そっかぁ! うっかりしてたよ!」

「もう……ちゃんと考えてから発言しなさい。……私がいるところならいいけれど」

「ゆきのん……」

……。

なにこの放置プレイ。一分の隙もない完璧な灰色な俺カッコイイ理論の話題はどこに行ったんだよ。

ただの屁理屈だけど。

まあ経緯はともかくこれで全員揃う事ができ、ついに脱出の為の条件がそろった。

雨も降りそうだし、さっさと化物の追跡を始めよう。

479: ◆OFPPQdZV86 2013/03/18(月) 03:41:56.87 ID:Qkx+RycQ0

「そろそろいいか? 雨が降ってきたらまずいだろ」

未だにイチャコラしている二人に言う。

由比ヶ浜はハッとしてから恥ずかしそうに顔を俯かせ、雪ノ下は邪魔すんなというかのような視線を向けてくる。

なんかごめんなさい俺みたいな端役が話しかけてごめんなさい。なんなら生まれてきてごめんなさい。

「比企谷くん、私も例の小部屋を見たからあなたが導き出した推論は正解で良いと思う」

罵倒される心の準備をしていた俺にかけられたのはそんな言葉だった。

「じゃあさっさと実行に移ろうぜ」

返事を待たずに歩き始めると、由比ヶ浜も付いてくる。

せっかくここまで来たのに雨で無効試合ってのはやるせないからな。

だが、雪ノ下は会話を終わらせるつもりは無いようで、歩き出した俺たちを引き留める。

「待ちなさい。脱出案の方にはひとつ問題が、と言うか未解決の事項があるわ」

……やはりこいつは気付いたか。

「えっ? そーなの? あ、でも確かにどうやって何とかの糸を奪うかは聞いてないかも」

「そりゃ言ってなかったからな。けどまぁ、それはもう解決済みだ。対策は取れる」

「……そう。参考までにその対策とやらを聞いても良いかしら」

「奴を見つけ出してから話す。別に今じゃなくてもいい事だし、そう難しい話しでもないし」

「……わかったわ」

雪ノ下が頷いたのを確認して、俺も由比ヶ浜も再び進む。

後ろから付いてくる雪ノ下の足取りは重く、俺たちから一歩遅れた形となっている。

「比企谷くん」

「なんだ」

振り向かず返事をする。

「あなたの言いたい事は、わかったわ」

「そうか」

後ろから聞こえてきた声だけでは、彼女が何を思っているか読み取る事はできない。

……悪いな。

480: ◆OFPPQdZV86 2013/03/18(月) 03:42:51.13 ID:Qkx+RycQ0
雪ノ下が俺の考えに賛同してくれたかどうかは知りようもないが、とりあえず反対はされていないようだ。

あとは由比ヶ浜を丸め込めば下準備は完了だ。

こいつは間違いなく反対するだろうから、先に言質をとってしまおう。

「由比ヶ浜、ちょっといいか?」

「ん?」

隣を歩いていた由比ヶ浜は体を傾け、ぐいっと顔を寄せる。

髪が揺れた拍子にふわりと由比ヶ浜の匂いが舞う。

……あの、近寄れなんて言ってないんですけど。

てか今日散々嗅いだせいでもうお前の匂い覚えちゃったじゃねーか。

街を歩いてるときに似た匂いを嗅いで思わず振り返っちゃったらどうしてくれる。

と思ったがそもそも街を歩く事自体が稀だから別にいいか。

「なに?」

由比ヶ浜は俺の男子高校生的逡巡に気付く由も無く、そのままの位置で先を促す。

「さっき雪ノ下が言っていた事なんだが……」

「どうやって奪うかの話でしょ?」

「そうだ。その件でちょっとやってもらいたい事がある」

「……そ、それって、あたしに頼んでるの?」

「この状況で他に誰がいるんだよ……」

1対1で話している上にこの距離だ。これで他の誰かに言っているように受け取られていたらもうどうしていいかわからない。

見えない誰かでもいるんじゃないかと思うほどだ。怖えよ。

あ、雪ノ下が後ろにいるけどあいつは論外だから。奴は俺が靴を舐めながら土下座して何かを頼み込んでも鼻で笑うだけだろう。

「ヒッキーがあたしに何か頼み事してくれるなんて……、頼ってくれてるなんて、なんか、嬉しいな……」

「……由比ヶ浜がどう思おうが勝手だが、別に頼るとかそんなんじゃねえよ。……ただ、俺たちでどうにかするって約束したからな」

言ってから、はたと気付く。

そうか……これか。これだったのか。

俺が、途中で投げ出さなかった理由、負けたくないと思った理由は。

……自覚してしまったのなら、誤魔化しちゃいけないよな。

そしてそうであるのならば、まだ説明していない例の作戦はなおさら俺がやるべきだ。

「ま、まぁとにかく、化物を見つけたらお前と雪ノ下はやりすごしてから逃げてくれ。恐らく雪ノ下はもう一人じゃそう長く走れないだろうから、支えてやって欲しい」

「うん、わかった! 任せてよ!」

由比ヶ浜は力強く頷く。

「ああ、頼む」

……きっとこいつなら、ちゃんとやり遂げてくれるだろう。

これで下準備は完璧だ。

481: ◆OFPPQdZV86 2013/03/18(月) 03:44:17.20 ID:Qkx+RycQ0
「じゃあさっさと見つけて、さっさと終わらせるか」

少し考えれば、いくら由比ヶ浜がアホの子でも未説明の部分がある事に気付かれてしまう。

何か突っ込まれる前に行動に移してしまおう。

しかし、俺の思い通りには決してさせない奴がいる。そう、雪ノ下だ。

案の定、話しを切り上げた俺と由比ヶ浜の手が引かれる。

「比企谷くん、説明が足りていないのではなくて?」

雪ノ下は俺の袖を掴み、由比ヶ浜の手を握っている。

「あなたの案を、今ここで説明しなさい。でなければ、私は反対するわ」

くそう、雪ノ下め……。予想通りとは言え、こんなタイミングで邪魔してくるなんて……。

こいつはもう納得というか見逃してくれている可能性もあると思っていたがやはりそうでもなかったようだ。

……まあそれも当然か。俺の作戦はどうやったってこいつらに不快な思いをさせることになるからな。

確かに説明しないのも不誠実だろう。

だが、出来ればこのまま悪徳金融のごとく未説明で押し通したかった。

完全に俺の我儘でしかないのだから。

「本当にお前は律儀と言うか、生真面目だよな」

「あなたも、大概でしょう?」

不機嫌そうに言い捨てた雪ノ下は少し悔しげな顔をしている。

その理由は想像するしかないが、きっと俺が思っている事で間違いはないだろう。

そう言い切れる程には、俺は雪ノ下の事を知っているつもりだ。

だからこそ、この作戦が成り立つ。

482: ◆OFPPQdZV86 2013/03/18(月) 03:44:58.22 ID:Qkx+RycQ0
「由比ヶ浜、これからどうやって化物からアリアドネの糸を奪うか説明する。だがその前に、さっきの約束を忘れるなよ」

「う、うん」

その返事さえあればいい。

ひとまずは安心と言ったところだろうか。

「作戦内容自体はそれほど難しくはない。まず、奴を見つけたらどこか適当な分かれ道にお前達が隠れる。次に俺が囮になって追いかけられるから、お前達が化物をさらに追いかける。このとき見つからないように注意してくれ。しばらく走ると奴は斧を投げ捨てるはずだ。それを回収したら直ぐさま反転して離れてくれ」

「なんで斧を拾うの? ってかそれだとヒッキー危ないじゃん! その後ヒッキーはどうするの!?」

「一度にいくつも質問するな。斧を拾うのは、それがアリアドネの糸だからだ」

有無を言わせない口調で説明を続けると、由比ヶ浜も取りあえずは口をつぐむ。

「俺が奴を追いかけているとき、何かを隠し持ってはいなそうだった。黒髪鬱美人が捕縛された後も何かを取り出している様子はなかったのに、迷うこともないどころか一度も立ち止まることなく非常口へと連行していた。しかし、どうやって? 完全に全ての道を記憶しているという事も考えられるが、自身も常に迷路内を徘徊していることも考えると、それは現実的じゃない。であれば、地図的な物を持っているか、あるいはどこかに目印があるかの二択になる。ここまではいいか?」

「……うん」

説明中、ずっと口を尖らせたままの由比ヶ浜だったが、話はちゃんと聞いていたようだ。

「二択にはなったが、後者である確率は相当低い。なぜなら、簡単に判断できるような目印だったらもっと多くのグループがゴールしているだろうし、逆に判断しにくい目印だったら立ち止まらずに連行するのは難しいだろう。実際、俺は結構注意して壁をや床を見ていたがそれらしきものは見つからなかった。なら、化物は地図あるいはそれに類する物を持っている事になる。そして隠し持っている様子はない。以上の事から、アリアドネの糸は隠すまでもなく持っている物、つまり、斧であると導き出される」

483: ◆OFPPQdZV86 2013/03/18(月) 03:47:12.43 ID:Qkx+RycQ0
「だから、ヒッキーが囮になってそれを奪うんだね」

由比ヶ浜が呟く。そしてまたしても口をつぐみ、何かを言いかけてはやめるということを幾度か繰り替えす。

「……ダメだよ、やっぱりそんなのダメだよ! あたしたちでなんとかするって言ったじゃん!」

やはり、こいつは反対するか。

「そう言ったな。だからこれが最適の方法だ」

「じゃあ、あたしが囮になる! あたしがやってもおんなじでしょ!」

「いや、駄目だ」

「なんでよ!?」

「囮って言ってもただ逃げるだけじゃない。恐らく奴は一定距離を追いかけないと斧を捨てないだろう。お前は今歩いてきた道を覚えているか? 途中で行き止まりに当たらない自信はあるのか? 囮が途中で捕まったらそれで終わりだ。後は全滅する道しか残されない」

「っ……それは、覚えてないけど……言ってくれればあたしだってちゃんと覚えるし!」

「そうかもな。だが、今は時間が無いんだ。雨が本格的に降ってきたらこの勝負は流れる。みすみす勝ちを逃す事になるのは避けたいだろ?」

「でもっ、それでもっ、あたしはヒッキーを犠牲にしてまで勝ちたくなんてないよっ!」

由比ヶ浜のその言葉に雪ノ下の顔が強張り、俯いてしまう。

……違うぞ雪ノ下。お前の判断は正確だ。

体力が尽きかけている雪ノ下は囮に適さない。しかし斧を奪った後ではかなりの戦力になる。仮に新たな謎があったとしても、雪ノ下なら何とかするだろう。

由比ヶ浜では囮役を完璧にこなせない可能性がある以上、俺がやるのは勝つためにこの上なく正しい選択だ。

だから、お前は悪くなんて無いんだ。いつも通り、真っ直ぐ前を向いていればいいんだ。

そんな表情は、お前には似合わない。

484: ◆OFPPQdZV86 2013/03/18(月) 03:47:38.13 ID:Qkx+RycQ0
「由比ヶ浜、約束は守るって言っただろ」

「言ったけど……言ったけど!」

ぐっと拳を握り、潤んだ目で睨み付けてくる由比ヶ浜。

まだ反対するのか……。なら最後の手段を使うしかない。

あの、伝説の言葉を言うしかない。

「ところで由比ヶ浜、一ついいか? さっきから俺がやられる前提で話しているが……別に、アレを倒してしまっても構わんのだろう?」

「………………なにそれ」

485: ◆OFPPQdZV86 2013/03/18(月) 03:48:32.72 ID:Qkx+RycQ0
超ドヤ顔の俺に対して、由比ヶ浜は気の抜けた顔をしている。

この隙に話をまとめてしまおう。

「まあ、そう言う事だ。よろしく頼む」

言い切った矢先に近くで悲鳴が上がった。

「……近いようだな。行くぞ」

返事を待たずに進む。

「あっ、待ってよヒッキー!」

由比ヶ浜が後ろで何か騒いでいるようだが、俺は歩みを止めない。

ほどなくして、標的が見つかる。

「よし、じゃあ予定通り俺が化物を引きつけて逃げるから、あとはさっき言った通りにしてくれ」

「……ヒッキー、あたしはまだ納得してないから」

「納得してくれなくても、やってもらわなきゃ困る」

由比ヶ浜の方は決して向かない。傲慢かもしれないが、俺がさせてしまっている表情は見たくない。

「……」

答えが無く、しばらく沈黙が流れる。

「……ねぇ、ヒッキー。……そんなことして、あたしたちのためだなんて、あたしたちが喜ぶだなんて思ったら、……大間違いだよ」

「わかってる」

俺だって、こんなことが、自己犠牲が他人のためだなんて、ましてや格好良い事だなんて思わない。

その行為はただ相手に自分自身を押し付けているだけに過ぎないのだから。

そして質の悪い事に、される側はほぼ不可避なのだ。

勝手に行動を起こされ、勝手にその結果を押し付けられる。受け手にとってみれば、自分の意志、意見が介入する隙間もない一方的な結果でしかない。

あなたの為にやりましたよと言われても、言われなかったとしても、不愉快極まりないだけだ。

今だって由比ヶ浜を怒らせて、雪ノ下に惨めな思いをさせている。

だが、それがわかっていても、俺は俺を押し付ける。

こいつらを負けさせたくない。

ただ、それだけの為に。

どうしようもないほど、俺だけの、為に。

486: ◆OFPPQdZV86 2013/03/18(月) 03:49:57.17 ID:Qkx+RycQ0
由比ヶ浜達から離れ、一人こっそり化物の後を追う。

後ろ姿を見ただけでも足が震える。

正直今すぐ逃げ出したい気持ちでいっぱいだが、あの世界一カッコイイ死亡フrげふんげふんを立ててしまった以上、それは許されない。

それがなくても、いまさらその選択肢はあり得ないけどな。

ほど良く彼女たちから離れたところで、壁をコツコツと叩く。

奴は立ち止まると、ゆっくりと振り返る。

ディン!

頭上にエクスクラメーションマークが現れるのを幻視した。

ゲームのやり過ぎですかねあれ撃ち抜くと気絶するんですよねてか超怖いですふざけてないと恐怖で正気を失いそうでうわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!

奴の咆吼と共に実際に叫びながら何とか今まで歩いてきた道を辿り、なるべく長い距離を逃げようとする。

離れ過ぎても、撒いてもいけない。

でもやっぱり怖いので全力で逃げたいです。

ギリギリで理性を保ちつつ走りながらチラリと後ろを確認すると、ちょうど由比ヶ浜たちが斧を回収しているのが見えた。

よし、囮は終わりだ! もう道も覚えてないし!

俺は逃げ切る! 俺には希望に満ちたこれからのSomedayがあるんだ! いつの日か叶うよ願いは!

487: ◆OFPPQdZV86 2013/03/18(月) 03:50:36.43 ID:Qkx+RycQ0

囮役は終わった。

ついでに俺の人生も終わった。

要するに行き止まり。

……まあ、あれだ。より確実にあいつらを逃がすなら、俺がここで捕まって時間をかけた方がより良い。

なんかもうここまで追い込まれると逆に冷静になる。

せっかくなので、気になっていた事を聞いてみよう。

演出なのかどうなのか奴もゆっくり近づいてきているし。

「……なあ、お前はミノタウロスじゃなくて、テセウスなんじゃないか?」

その言葉に化物は歩みを止め、短く唸る。

488: ◆OFPPQdZV86 2013/03/18(月) 03:51:47.22 ID:Qkx+RycQ0
俺がそう思ったのにはいくつか理由がある。

まず、なぜミノタウロスはアリアドネの糸を持ち去ったのか。

アリアドネの糸の意味を知っていて、それを手にしたのならここから脱出しようと考えるのが普通だ。

しかし奴はまだここにいる。

なら、アリアドネの糸の効果を知らなかったと考えるのが妥当だろう。

なのに持ち去った。ここで矛盾が生じている。

次いで、『テセウスは敗れた』という文字が書かれていたこと自体がおかしい。

ミノタウロスは自分が闘った相手の名前など知らない。

テセウスがテセウスだと知っているのはこの迷路内では彼自身のみだったはずだ。

何に敗れたのかは知りようもない。己の心にか、殺戮への欲望にか。

それが何にせよ、あの文字を書くことはテセウス自身にしか不可能だったのだ。

メタ的な視点で言えばスタッフが書いたということもあり得るが、ここまで作り込んでおいてそれはないだろう。

血文字以外で書かれていたのならその可能性は決して低くはなかったが。

このいくつかの矛盾に気が付けば、連行現場を見なくてもあの化物が脱出の糸口になることは十分推測できたことだと今更思う。

489: ◆OFPPQdZV86 2013/03/18(月) 03:52:23.09 ID:Qkx+RycQ0
さて、奴の回答はどうだろう。

しばらく動きを止めていた化物だったが、ゆっくりと右腕を上げ、親指を立てる。

おお、これは正解という事か!?

無意味な歓喜もつかの間、化物は立てた親指を下へ向けた。

うん、死ねってことね。

俺は死んだ。

490: ◆OFPPQdZV86 2013/03/18(月) 03:52:52.91 ID:Qkx+RycQ0

非常口からぺいっと放り出され、真っ直ぐな道を歩く。再び非常口がありそこは外へ繋がっていた。

ちなみに化物がどうやって俺を非常口まで連行したのかというと地図も斧もないのに普通に辿り着きました。

どういう事でしょうか。

まあ今更考えても仕方ないので、受付近くまで戻り、近くにあったベンチに座る。上に木の枝がかかっているから雨宿りにもなるだろう。

ここであいつらの帰りを待とう。

近くには先に捕まっていた黒髪鬱美人の他に、同様に捕まったのであろう羽瀬川もいた。

黒髪鬱美人は泣き腫らした顔が恥ずかしいのか、ずっと顔を伏せている。

それでも、ぽつりぽつりと会話は交わしているようだった。

491: ◆OFPPQdZV86 2013/03/18(月) 03:53:18.45 ID:Qkx+RycQ0

しばらく待っていると雲が厚みを増し、いよいよ雨が本降りになってきた。

受付の中の生徒達が慌ただしく動き始める。

まずい、時間切れか……?

あそこまでやって駄目だったのか? 由比ヶ浜や雪ノ下に嫌な思いまでさせて勝ちに拘ったのに、結局無効試合になってしまうのか?

ここまできてそれはないだろう。

頼む、もう少し待ってくれ。

……無意味かもしれないが直談判してみよう。

あいつらもきっと、中で頑張っているのだから。俺も出来るだけの事はしよう。

俺は雨の中へと進む。

492: ◆OFPPQdZV86 2013/03/18(月) 03:54:24.01 ID:Qkx+RycQ0
「高山ケイト、雨が強くなってきたが、もう中止にするのか?」

「ああ、八幡君。そうだね、皆をずぶ濡れにするわけにはいかないからね」

「……少し待ってもらえないか? あいつらは既に糸を手にしている。もうすぐゴールするはずなんだ」

「……なるほど。八幡君はこの迷路のクリア条件を看破したんだね」

「ああ。考えた奴を一発殴りたい気分だ。ぼっちに厳しすぎだろ」

俺の言葉を聞いて高山ケイトはからからと笑う。

この迷路の脱出に必須である斧は、グループの誰かが囮になるか、あるいは他人をストーキングしてそいつが追いかけられている隙にこっそり拾うかしかない。

迷路内で他人と歩きたい奴なんているはずもないから、後者の実現はかなり難しいだろう。

いづれにせよ、絶対に一人ではクリアできないのだ。

493: ◆OFPPQdZV86 2013/03/18(月) 03:55:06.13 ID:Qkx+RycQ0
高山ケイトはひとしきり笑うと、少しだけ表情を引き締め正面から俺を見据えた。

「でも、君は一人じゃなかった。だからこそ、今ここに君だけが、一人で待っている」

「……確かに一人じゃなかったな」

「本当は、お兄ちゃんたちにも気付いて欲しかったんだけどね……」

そう言って、チラリと羽瀬川たちのいる方を見る。

「まあ、そう言うことなら少し待ってあげようかね。でも、一応規則だからね。あと10分だけだよ」

「それでいい。ありがとな」

肩をすくめると、腕を組んでニヤリと笑う高山ケイト。

極度のシスコンであることを除けば結構いい奴かもな……。

はいそこ、お前もシスコンだろとか言わない。別にシスコンって言われてもむしろ誇らしいだけだけど。

494: ◆OFPPQdZV86 2013/03/18(月) 03:56:26.50 ID:Qkx+RycQ0

刻一刻と時間は過ぎていく。

今ここに至って俺に出来る事は何もなく、ただ待つしかない。

待つだけというのが、こんなにも重苦しい気分になるとは思わなかった。

黒々と蠢いていた雲はいっそう厚みを増し、心なしか雨脚も強くなっている。

水気を含んだ空気が地面から立ちこめ、鬱陶しく纏わり付いてくる。

さらに悪い事に、雷まで鳴り始めた。

「八幡君、時間前で悪いけど、さすがに雷は危ないから終わりにさせてもらうよ」

俺にそう言いつつ、係の者にてきぱきと指示を出す高山ケイト。

「……いや、こっちこそ悪かったな、我儘聞いてもらって」

「あと少しだったろうに、残念だったね」

「仕方ないだろ。天気は

どうしようもない、と言おうとした矢先に受付のすぐ後ろの壁が内側から開く。

中からは出てきたのは、見間違えるはずもない、由比ヶ浜と雪ノ下だった。

「やっと出られたのね……」

「長かった……あ! ヒッキー!」

びしょびしょでくたくたの二人が近寄ってくる。

やっと外に出られた安心感と達成感からか、二人とも疲れた様子ではあるが明るい顔をしている。

しかし、慌ただしく撤収作業を進めているスタッフを見て次第に暗くなる。

「……もしかして、もう終わってた?」

「……ああ。もう少し引き延ばせれば良かったんだが……悪い」

「そんなぁ……隠し扉を見つけたり走ったりくぐったり乗り越えたり頑張ったのに……」

由比ヶ浜は心底残念がり、雪ノ下も言葉にはしないまでも徒労感たっぷりに溜息をついている。

……本当に、悪いな。

495: ◆OFPPQdZV86 2013/03/18(月) 03:57:05.61 ID:Qkx+RycQ0
「おめでとう三人とも、ギリギリセーフだよ」

俺たちの様子を見ていた高山ケイトが言う。

「……いいのか?」

「いいも悪いも、わたしたちはまだ迎えに行ってないからね。君たちは自力で出てきた。だから、おめでとう」

高山ケイトが拍手し始めると、周囲にいたスタッフたちも拍手をしながら口々におめでとう、おめでとうと言い始め、某アニメの最終回の様相を呈している。

うわぁ、居心地悪い。

そもそも無事に脱出に成功したのは由比ヶ浜たちであって、俺じゃない。ここに俺がいるのは相応しくないだろ?

と言うわけで、この衆人環視から抜け出させて頂きます。

二人に気付かれないようにそっと背を向け、逃げだそうとする。

が、瞬時に襟首を掴まれる。

恐るおそる振り返ってみると、超冷たい目が4つこちらを見ていた。

ごごごごめんなさい!

496: ◆OFPPQdZV86 2013/03/18(月) 03:58:09.93 ID:Qkx+RycQ0

「もう、こういうことは無しだからね」

自己啓発の輪から解放されてからの、由比ヶ浜の第一声である。

さっきからむすっとした表情を崩さない。相当トサカにきているようだ。

あ、でもトサカに来ていると言ってもこいつの場合雌鳥だからトサカ小さいしあんまり怒ってない感じになるのかな。

「ねえ、聞いてんの?」

「は、はいっ! 拝聴しているであります!」

未だかつて無いほどの怒気を発している由比ヶ浜の雰囲気に飲まれまくっている俺がいる。

「……はぁ、もう、ほんとにヒッキーは……」

気分を落ち着けるためにか、由比ヶ浜はふーっ、っと大きく息を吐く。

「約束」

「な、なんでしょう?」

「もう、絶対にあんなことしないって約束して。自分が犠牲になればだなんて、絶対に思わないで」

「……すまん、悪かった」

本当に悪いと思っていたので素直に謝る。

だが、由比ヶ浜は謝った俺を見てさらに語気を強めた。

「違う。謝るんじゃなくて、約束」

常にはない威圧感に圧倒され、思わず唯々諾々と従ってしまう。

「わ、わかった、約束する」

「なら、よし」

ここでようやく、ふっと表情を緩める由比ヶ浜。

ああ、よかった……マジで怖かった……。こいつは雪ノ下とはまた違った恐ろしさを秘めているな……。

497: ◆OFPPQdZV86 2013/03/18(月) 03:59:54.44 ID:Qkx+RycQ0

やがて今後の戦いについて隣人部と協議していた雪ノ下が戻ってくる。

「次の種目からは、屋内の種目に限定する事になったわ」

「そりゃ雷雨の中やるわけにもいかないからな」

「ええ。それで、次に移る前に彼女の厚意で着替えを貸してもらえる事になったわ」

雪ノ下は少し離れたところにいる高山ケイトを視線で示す。見られている事に気がついたのか、高山ケイトはこちらを見やりひらひらと手を振る。

ありがたい申し出だ。俺も由比ヶ浜も雪ノ下も全員ずぶ濡れだ。隣人部も同様で、特に迷路のスタッフに回収された金髪ビ  が酷い。

風邪を引く前に着替えた方が良いだろう。

軽く手を挙げて高山ケイトに礼を述べる。

「助かる。ありがとな」

「いいってことよ。迷える子羊ちゃんの世話はシスターの本懐だからね」

なんとも鷹揚な台詞の後、付いてこいと身振りで示す。

高山ケイトが歩き始めたのを見て、奉仕部と隣人部はぞろぞろと後を追う。

ちなみに由比ヶ浜たちは斧を回収した後どうしたのかというと、斧の刃の部分にあった幾何学模様の暗号を解き、柄の部分から偏光フィルターを取り出したらしい。

それを使って、壁にあった肉眼では見えない目印を辿って隠し扉を見つけたようだ。俺の推測外れまくりですね。お恥ずかしい。

なにはともあれ長い長い迷路戦は終わり、現時点で2対2。勝負は振り出しに戻る。

何故か途轍もなく長い間迷路にいた気がするのは気のせいだろうか。

498: ◆OFPPQdZV86 2013/03/18(月) 04:00:56.05 ID:Qkx+RycQ0
「さあ、ここだよ。好きなのを選ぶといいさね」

高山ケイトが示したのは本日大盛況の貸しコスプレ屋である。

「とは言っても、人気のあるものは大体捌けちゃってるから残り物になるけどね。まぁわたしはまだ仕事があるからなんかあったらスタッフにでも聞きんさい」

なにやら不安な言葉を残し、飄々と去っていく高山ケイト。

何となく見送っている、廊下の角の曲がり際にこちらに向けて大きく手を振る。

「お兄ちゃんに八幡君、また会ったらよろしくね~。ばーい、はどそん! ぶははっ!」

……ああ、なんて残念な去り際なのだろうか。

499: ◆OFPPQdZV86 2013/03/18(月) 04:02:18.31 ID:Qkx+RycQ0
高山ケイトが去った後も、俺たちはなかなか店に入れずにいた。

「ねえ、ゆきのん、ここって……どう見てもコスプレの衣装しかなさそうだよね?」

「……貸してもらう身だもの。贅沢は言えないわ」

「だ、だよねー。……はぁ、せっかく今日は気合い入れてきたのに……」

ちろり、と俺の方を見る由比ヶ浜。

「なんだよ」

「……別に?」

言いたい事があるなら言えよ。……言いたい放題言われるのは色々と困るが。

500: ◆OFPPQdZV86 2013/03/18(月) 04:05:42.93 ID:Qkx+RycQ0
「……八幡君、かぁ」

由比ヶ浜がポツリと呟く。

「……あっちはみんな名字じゃなくて名前で呼び合ってるよね。シスターちゃんだってなんかヒッキーの事名前で呼んでるし」

「そうだな」

だからと言って俺たちまでそうしなきゃいけないってことはないだろ。

……言おうとしたはずの言葉はなぜか出てこない。

「前にさ、誕生日パーティーしてくれたときにあたしのことは名前で呼んでくれるって言ってたのに……誰も呼んでくれてないよね……」

後半になるにつれてどんどん声が小さくなっていき俯く由比ヶ浜。

そのとても小さな声は、その哀しそうな仕草は、俺の胸を強く打つ。

雪ノ下も同様だったのだろう、僅かに顔を歪めると、取り繕うように言った。

「ゆ、由比ヶ浜さん、それは私も気にしていたのだけれど、どうしても踏ん切りがつかないというか……今までは例外なく全員名字で呼んでいたから……。
もう少し、待ってくれると、その……ありがたいのだけれど」

「ゆきのん……。……うん。待つよ。あたし待ってる」

見つめ合って頷き合う二人。ああ駄目だまた二人の世界には入り始めちまった。

最近もうガチ百合化が激しすぎてぼくもうついて行けないです。

というか初めからついて行く気は毛頭無いです。ぼく男の子ですし。

とにかく居場所も無く居る必要も無いのでさっさと着替えに行こう。

男子用のブースに入ろうとすると、後ろからがしっと襟首を掴まれる。

なにこれ最近由比ヶ浜たちの中で流行っているんですかね。結構苦しいのでやめて下さい。

「……ヒッキーも、あたしのこと、名前で呼んでね?」

……まぁ、今の場合は顔を突き合わせなくて済むから、流行ってて良かったかもしれない。

「……そうだな。そのうち、適当にな」

そう遠くないうちに、きっとな。





つづく

518: ◆OFPPQdZV86 2013/04/07(日) 23:00:04.05 ID:9NKLHGTY0

由比ヶ浜たちと分かれ貸しコスプレ屋に入る。

教室に入ると中は二つに分割されており、黒板側のドアは男子ブース、逆側のドアから入ると内部廊下を隔ててから女子用ブースに繋がっている、らしい。

覗き対策とのことだが、まあ別にどうでもいい。俺は決して覗きなどという下衆で下品で下劣な行為はしない。

「小鷹」

俺と羽瀬川が男子用ブースに向かうと、羽瀬川が後ろから呼び止められる。

「覗くんじゃないわよ」

金髪ビ  が羽瀬川を軽く睨んでいる。

「覗かねぇよ……」

「絶対覗くんじゃないわよ?」

呆れた様子で言い返す羽瀬川に念押しする金髪ビ  。

……あれってフリなの? 押すな押すな的な? なにその羨ましいフリ。絶対許さない。

もしくはラッキー   的な前科があるとか? 念押ししたくなるほど何度も? どっちにしろ絶対許さない。

519: ◆OFPPQdZV86 2013/04/07(日) 23:02:52.53 ID:9NKLHGTY0
そのやり取りを見ていた由比ヶ浜が俺に向けて言う。

「ヒッキーも、覗くとかあり得ないかr

「当たり前だ由比ヶ浜。そういうのはチャラ系高位カーストの連中が気心痴れた女子にやるからギリギリ笑い話で済む話であって俺のようなぼっちがやるとマジで洒落にならないからな」

「リアクションが早過ぎる上に何やら余計な憎悪が滲んでいるわね……。まぁ、あなたの場合近くに居ただけで疑われてしまうのだから実行するのはそもそも難しいでしょう?」

「ねえなんで雪ノ下は俺の中学生時代のエピソードを知ってんの? お前うちの中学いたの?」

「比企谷くん、表現は的確にしなさい。うちの中学、ではなくて、通っていた中学、でしょう?」

「いや確かにそんなにというかまるで帰属意識無かったけどよ……」

なんなら本当に通っていたのかも疑わしいレベル。主にクラスメイトの視点から見て。

まあ、雪ノ下が言ったように女子更衣室の前を歩いただけで疑われた過去を持つ俺にしてみれば、覗きなんてしてしまったら良くてDEADENDである事はもはや自明の理である。決して出来る事ではない。そもそもやろうとも思わないが。

だからたまたま通りがかっただけで「ねえ……あいつ覗こうとしてたんじゃない?」「やだ、マジきもいんですけど……」とか言うのは本当にやめて欲しい。

ていうか男子更衣室隣にあるんだから前を歩くのは仕方ねえだろ。

あとあれだな、女子更衣室から何か物がなくなると真っ先に俺が疑われるとかあったな。んで結局教室に忘れてたとか言うオチなんだぜ、あれ。しかも誰も謝らねえし。

俺の心が広くなかったら大変な事になってたからな? 校長の首が飛ぶところだったよ? でもいじめは存在しなかったよ!

……まあ、なんだかんだで笑って許せちゃう正確には笑うしかない海のように俺の心が恐ろしい。海のひろさは未だおわりがみえない。

つまり海未ちゃんは不朽。

……無理があるな。

520: ◆OFPPQdZV86 2013/04/07(日) 23:03:57.42 ID:9NKLHGTY0
「真面目な話、比企谷くんはその辺りは弁えているだろうから心配は無いのではないかしら」

「そうだね、テニスのときだってわざとじゃなかったんだろうし」

……あぁー、ありましたねそんなこと。ばっちり覚えてます。

「忘れなさい?」

俺が懐かしくも鮮明な記憶を振り返っていると、雲間から差す光芒のように輝く笑顔をしながら雪ノ下が言う。

「ててて、てにすってなんのことですか? ぼくぜんぜんしらないです」

「そう、ならいいわ」

口ではそう言いつつも去り際に笑顔のまま一睨み効かせていく雪ノ下。

危なかった……。俺の危機回避能力がフルで発揮されなかったら今まさにDEADENDするところだったぜ……。

覗きの疑いから避けるために絶対に女子更衣室の前を通り過ぎないように回り込んで男子更衣室に入っていたのは伊達じゃないぜ!

しかしこの対応は時間かかるし間に合わないからって体育の度に一番に教室を出ていたら「誰もペア組む相手いないのになんでアイツあんなやる気なのwww」「きもwww」とか言われるようになるから注意が必要。もうどうしろってのさ。

521: ◆OFPPQdZV86 2013/04/07(日) 23:05:15.05 ID:9NKLHGTY0

いざ、男子用ブース。

掛けられている衣装をざっと見渡してみると高山ケイトが言っていた通り、残っているのはなるほどマイナーなものばかりである。

人気作品の地味キャラちょいキャラであったり、世代的に今の高校生は知らないであろうキャラの衣装もある。

チバテレビの懐かしのアニメを見続けていたおかげで割と知識はあるはずの俺ですら何のキャラかわからないものがほとんどだ。

しかし、それは逆に言えばコアな層に受ける品揃えであるとも言える。

由比ヶ浜を捜しているときに見かけた紫ナコルルを出していたのはきっとこの店だろう。

作ったのかなんなのか、ぼのぼのやポクテなどの往年の作品の着ぐるみ?系まで取りそろえている。

その他にもオカリンかと思ったら則巻千兵衛だったりキュゥべえかと思ったらポン太だったりと、なんでそっち?と思わせてくるものも多い。

ところで浅野先生、俺のところにシアンちゃんはいつ来ますか?

522: ◆OFPPQdZV86 2013/04/07(日) 23:06:39.37 ID:9NKLHGTY0
それはさておき、一体何にするかが悩みどころだ。

そもそも男のコスプレ自体が誰得である。

京介お兄ちゃんみたいに楽しむ事が出来れば話は別だが、俺自身さして興味があるわけでもない。だって黒猫と知り合いじゃないしマスケラ無いし。

まあ考えるのも面倒だし当たり障りのない適当なものに決めてしまおう。

523: ◆OFPPQdZV86 2013/04/07(日) 23:09:28.84 ID:9NKLHGTY0
「何を選んだらいいか悩むな……」

暖かそうなものを探していると、ボソリと羽瀬川が呟いた。

構わず探し続けていると何やら視線を感じる。……あ、俺に向けて言っていたのね。

てっきりぼっち特有の独り言かと思ってたぜ。なんせ俺もさっきから独り言言いっぱなしだからな。

しかしまあどう返したものか。

授業や課題やその他やらなければならないものについては、目的がはっきりしているから仮に話しかけられたとしても対応は出来る。

だがどうでもいい話、いわゆる雑談というものは存外難しい。

スクールカースト最底辺の人間においては、思わずこぼれてしまった、たった一言が最終的に学級裁判という名の公開処刑にまで発展する事がままある。

裁判中は被告人である俺に発言は許されず、蔑視の台風にさらされつつも必死に耐える田んぼのカカシさながらの忍耐力で凌ぎきり家に帰ってから布団の中で泣くしかない。

だから盗んだの俺じゃないからね? ちゃんと鞄の中とか体育館とかグラウンドとかは確認した? ほら、やっぱりあったでしょ?

という感じで事の顛末までわかりきっており、もはや未来予知と言っても良いくらいだった。

むしろあのまま裁判が続いてたら未来予知できるカカシとしてとある島に運ばれて鳩を守っちゃうまである。

524: ◆OFPPQdZV86 2013/04/07(日) 23:10:30.78 ID:9NKLHGTY0
閑話休題。

今回の場合は相手が他校の生徒でありかつ似非ぼっちであることを考慮すると別に発言に気を遣う必要はないな。

ここまでおよそ2秒の思考。

話す相手がいないと自然、思考速度が早くなる。ソースは俺。あと雪ノ下。

人間の基本となるスペックに差なんて実際はそんなに無いと思う。全ては環境の差だろう。

なんてちょっと真面目な事を考えてみたり。

525: ◆OFPPQdZV86 2013/04/07(日) 23:13:11.70 ID:9NKLHGTY0
いやいや、いい加減反応しないとさすがに悪い気がしてきた。

さあ対応を考えよう。

今日会ったばかりの他人には禍根も印象も残さないのがベストである。

その対応の代表的な例として以下の方法が挙げられる。

その一、オウム返し。

相手の言った事をそのまま繰り返す事で考える事を放棄し、相手に決断もとい責任を押し付けられる最もお手軽かつポピュラーな方法である。

さらに連続で使うと相手はめんどくさくなりもう話しかけられなくなるという追加効果付きだ。

その二、「……うーん」と悩んだ振り。

この方法で重要なのは少し間を空ける事である。その少しの間で、ちゃんと考えてますよー話聞いてましたよーという空気を醸し出す事が出来る。

これは別の事を考えていて話を聞いてなかったときにも重宝する対応である。

その三、「えーと、じゃあアレはどうっすか? アレアレ。えーっと、アレ。……あれ?」と何かを言おうとはしているが結局何かわからないままうやむやにする方法。

これを言われた相手は非常に疲れるので以後意見を求めてこなくなる。

バイトとかで使うと居場所と仕事が同時に無くなってとても便利。そのまま二度と行かなくなるまである。

526: ◆OFPPQdZV86 2013/04/07(日) 23:13:45.67 ID:9NKLHGTY0
さて、今回はオウム返しでいこう。

「確かに、何を選んだらいいか悩むな……」

「そうだな……」

……。

……。

……。

予想通り会話終了。

よし、さっさと着る物を選んでしまおう。

と、そこで俺は信じられない物を目にした。

まさか、まさかこんなものがあるなんて……!

527: ◆OFPPQdZV86 2013/04/07(日) 23:17:22.03 ID:9NKLHGTY0
それは、一つの伝説。

それは、ラノベの新人賞史上最も知名度が低く最も売れなかった作品。

かの存在はもはや幻(どこの店舗にも置いていない的な意味で)である。

そのあまりの売れなさっぷりは著者の精神と出版社の経営に大ダメージを与えたとされている。

今でこそコアでディープでマッドな一握りの僅かな層にはネタとして語り継がれているが、当時は担当の顔が背表紙よりも青くなったと言われていたとかなんとか。

その名は、あやかしがたり。

全く、びっくりするほど全く売れなかったこの作品ではあるが、内容は中々どうしてとても面白いのである。

売れなかった理由は販売戦略のミスと、いわゆる売れ線のストーリーと絵ではなかったことであろう。

という訳で、『俺だけが知っている面白い作品』が欲しい斜に構えた高二病の諸君は今すぐ秋葉原の有隣堂に走るかアマゾンでポチって下さい。2、3点在庫あり。ご注文はお早めに。

とにもかくにもこれを見つけてしまった以上選ばざるを得ない。理屈ではなく何か見えない力が働いているようだ。

濡れた服を脱ぎ、試行錯誤しながら着替えた後共有スペースに出る。

袈裟と篠懸に身を包み、頭にはバンダナ風の頭巾を巻いている。腰布に懐刀をこっそり忍ばせて錫杖や念珠をじゃらじゃらと鳴らすと気分はもう拝み屋って奴でさぁ。

京介お兄ちゃん、コスプレ楽しいよ! でもネタスレで晒されたらぼくもちょっと泣いちゃうよ!

由比ヶ浜たちを待っている間、ひとしきりコスプレを堪能する俺だった。

528: ◆OFPPQdZV86 2013/04/07(日) 23:19:12.58 ID:9NKLHGTY0

飽きた。

錫杖重い。頭巾蒸れるし、念珠とか超邪魔。天狗下駄とか歩けねえよ。

もういいや、置いて行こう。

基本的な服だけ残し装身具の類を外していると、ようやく女子用ブースの扉が開いた。

まず出てきたのは金髪ビ  、続いて黒髪鬱美人だ。

二人とも同じ格好をしていていわゆる 袋系メイド服を着ている。

同じ格好をしているはずだが、何とは言わないが格差社会が現れていた。なんかもう金髪ビ  の方は破れそうというか溢れそうなくらいパツンパツンだし。

しかしまあ二人とも似合っているのは確かだ。あれでメイド喫茶で接客したらそれはもう売り上げ倍増間違い無しだろう。関係ないけどね。

その二人と言えば羽瀬川の方に行くと、金髪ビ  は自信満々に、黒髪鬱美人は照れまくりながら感想を聞いている。

……なんだろう、あの光景は。端的に言うと、爆発しろ。

529: ◆OFPPQdZV86 2013/04/07(日) 23:23:33.86 ID:9NKLHGTY0
「ひ、ヒッキー……」

「あん?」

不愉快なものを見て若干苛ついたそのままに振り返る。

そこに居たのは由比ヶ浜だった。

「な、なんか機嫌悪い? 待たせちゃった?」

「い、いや……」

思わず目を逸らしてしまう。

由比ヶ浜の申し訳なさそうな表情とコスプレを見られた恥ずかしそうな仕草が相まって色々とヤバイ。

しかし何よりヤバイのはその格好である。

彼女はましろだった。パンツ履けない方でもなく、狐の方でもなく、猫のましろ。

これでピンと来る人はほぼいないだろう。むしろ真っ先にこのキャラを思い浮かべる人を捜し当てるよりツチノコを見つける方が簡単なレベル。

白い小袖に黄色い帯、首には鈴がくくりつけられた赤い布を巻いていて、アップにした髪の上にはネコミミ。

さすがに原作通りでは露出度的に問題があるので襦袢と麻布っぽいスパッツが追加されている。

まあ原作通りではないのがもう一箇所ある。これもどことは言わないけどね。

「しかしよくあったな……そんなもの」

「え、これって何のキャラか知ってるの? なんか中で着替え手伝ってくれたスタッフの人も知らなかったけど」

……準備した側も把握していないなんてさすがあやかしがたり! もはや存在があやかし。

「まぁ、なんでもいいだろ。……似合ってるし」

「えっ!?」

……い、いや、今のはあれだから。キャラ的にアホっぽい感じが原作のましろっぽくて似合ってるって意味だから。なにこれ誰に言ってんの?

「そっ、そっか……ありがと」

照れているのかなんなのか、俯きがちに上目遣いでお礼を言う由比ヶ浜。うわぁあざとい! というか計算でやってなさそうなところがあくどい!

きっと今誰かに見られていたら俺も爆発している。

530: ◆OFPPQdZV86 2013/04/07(日) 23:25:43.08 ID:9NKLHGTY0
「ええ、とても似合っているわよ。質感もいい出来だわ」

唐突に雪ノ下の声が聞こえた。と言っても実はさっきから居ることには気付いていたが。

あまりに真剣な様子で由比ヶ浜の頭に付いているネコミミをふにふにしていたのでとりあえず放っておいた。

「あ、ありがとゆきのん」

由比ヶ浜を褒めているのかネコミミを褒めているのかはよくわからないが、由比ヶ浜は戸惑いつつもお礼を述べると、雪ノ下は穏やかに微笑む。

「ゆきのんも似合ってるよ。 普段大人っぽいから、そういうちょっと小さい子っぽいのが新鮮だし!」

褒められたら褒め返す女子社会の恒例行事かとも思ったが、その雪ノ下と言えばアイヌっぽい柄の和服にケープのようなものとでも言うしかないものを羽織っており、

正直とても表現しにくい衣装に身を包んでいるのだが、雪女の時といいなんだかんだでやっぱり和装が無駄に超似合う雪ノ下である。やはり黒髪ロングは正義なのか……。

「……そう。……ありがとう」

まあ俺が言いたい事は別にある。

真っ先に思ったのは、そっちかよということだ。この流れならお前はくろえだろ……と思ったが、大は小を兼ねるけどその逆は無いし無理だな、うん。

すくねで正解。

「……なにか?」

俺がこっそり憐憫の目を向けると、とても冷たい声と視線が返ってきた。

「いいいやぁなんでもないですよ」

世の中には色んな人がいるし、きっと小さい方が好きって人もいるし別に俺は大きくなくてもむしろ小さめの方がおっとこれ以上はやめておこう。

南無南無。

あぁそうだ、羽瀬川がしているのは手乗りタイガーの相方(クリスマスパーティー仕様)っぽい。たぶん。どうでもいい。

ちなみに今まで着ていた服はシスターたちが洗濯して乾かしてくれるらしい。まさに天使。

531: ◆OFPPQdZV86 2013/04/07(日) 23:28:33.06 ID:9NKLHGTY0
「それじゃ、全員揃ったことだし次の種目を発表するわよ!」

メイド服の 袋を揺らしながら金髪ビ  が高らかに宣言する。

「待て肉、何故貴様が仕切るのだ。そもそも何の相談もされていないが?」

「なぁに? 泣き虫夜空ちゃんは相談されなくて寂しかったの? ごめんねぇ」

先程の迷路で泣き腫らした顔をしている黒髪鬱美人を嬉々として揶揄する金髪ビ  。

「くっ……貴様だっていつも泣きながら部室を飛び出しているだろう? 今時小学生でもあんなに無様に泣き逃げることなんてしないだろうに」

「べ、別にそれは今関係ないでしょ!」

「まぁまぁ、夜空も星奈も抑えろよ。向こう待たせちゃってるだろ」

「む……」

「……わかったわよ」

羽瀬川は盛り上がり始めた二人の間に割って入ると、話をまとめる。

「と言うわけで、ちょっと相談するから少し待っててくれ」

とだけ言うと、隣人部は何やら相談を始めた。

……さすがに手慣れているなぁ。きっと今の流れは一度や二度じゃなかったのだろう。激高する美少女たちの間に入るなんて芸当、そんじょそこらの奴にはできる芸当ではない。

事実、奉仕部でもたまに由比ヶ浜と雪ノ下がなんとなく険悪な雰囲気になることもあるが、その度に俺はいつも以上に気配を消す事ぐらいしかできない。だって怖いし。

まぁ俺が何をしなくても勝手に仲直りするんだけどな。雨降って地固まるというやつだ。むしろ今は雨降って地鉄筋コンクリート、と言えるくらいまで硬くなっている気がする。

532: ◆OFPPQdZV86 2013/04/07(日) 23:30:20.77 ID:9NKLHGTY0
「なんでも言い合える関係ってなんか良いよね」

「そうだな。それは必ずしも仲が良いとは限らないが」

「ヒッキー、後半の部分はわざわざ言わなくて良いと思うよ……」

「でも比企谷くんの言う事も一理あるわ。だって私は言いたい事言っているけれど、比企谷くんと特別仲が良いつもりはないわ」

「そりゃ大抵の場合お前が一方的に俺をなじってるだけだからだろ……」

「そうかしら。でもそれはあなたがなじられるような要素を余りに多く持っているからでしょう?」

雪ノ下は優しく諭すように微笑みつつ淡々と述べる。

くそう……、言われっぱなしじゃ癪だ。反撃してやろう。

「ふっ、意外だな。お前ともあろう奴が何もわかっていないとはな」

腕を組み、鼻で笑った後超意味ありげに顔ごと目を逸らし口角を上げる。実際には何も考えてなどなく、ただひたすら鬱陶しい態度を取っているだけである。

しかしこれだけで雪ノ下は釣れる。

案の定、むっとした声が返ってくる。

「……なにかしら?」

フィーーーーッシュ! 相変わらず驚くほど簡単に釣れるなぁ。

533: ◆OFPPQdZV86 2013/04/07(日) 23:31:33.79 ID:9NKLHGTY0
……さて、これからどうしよう。ついつい衝動的に釣ってしまったものの、この後の処理を間違えると大変な事になる。

こんなときはあれだ、丸投げだ。

「ほら、言ってやれ、由比ヶ浜」

「うぇ!? あたしに振るの!?」

突如強制的に参加させられた由比ヶ浜はわたわたと焦り始める。雪ノ下を怒らせると怖いという事は俺よりも彼女の方がよく知っていることだろう。

「……由比ヶ浜さん」

「え、えっと……あー……その……ぅぅー」

じりじりと雪ノ下に詰め寄られている由比ヶ浜はおろおろして話を振った俺を睨みながら小さく唸る。

「由比ヶ浜さん」

「あ、や、ゆ、ゆきのん待って……」

「……」

無言でさらに距離を詰める雪ノ下。

その圧力に耐えきれずついに由比ヶ浜が涙目になると同時に、雪ノ下の動きがピタリと止まりその表情が和らぐ。

「ふふっ……なんてね」

「へ……?」

「冗談よ、由比ヶ浜さん」

悪戯っぽい笑みを浮かべながらよしよしと由比ヶ浜の頭を撫でる。

「え……? あ……も、もうっ! ゆきのん!」

なすがままにされつつも頬を膨らませて怒る由比ヶ浜。しかしその実なんか嬉しそうでもある。

「ふふっ……ごめんなさい」

雪ノ下は楽しそうに笑うとこちらを向く。

「比企谷くん、いつまでもそうやすやすと挑発に乗る私ではないわよ」

「……お、おう」

いや驚いた。驚いて間抜けな返事しかできなかった。

何が驚いたってまさかこんな百合展開になるとは思いもよらなかったからな……。

534: ◆OFPPQdZV86 2013/04/07(日) 23:32:36.35 ID:9NKLHGTY0

「決まったわ。次の種目は『退出ゲーム』よ」

「退出ゲーム? 柏崎さん、それは何かしら?」

雪ノ下に問われ、猫なで声で答える金髪ビ  。

「えっとね、雪乃ちゃん。ある状況を設定して、それぞれのチームの誰か一人でもその設定上の空間から退出できれば勝ちってルールなの。即興劇の一つね」

「なるほど。了解したわ」

え? 今の説明でわかったの? 俺全然わかんなかったんだけど……。

由比ヶ浜も同じなようで首を傾げている。

「えっと……どゆこと?」

「はぁ? あんた何聞いてたの? もしかしてあんた頭悪い? そんなんじゃ雪乃ちゃんとまともにお話も出来ないんじゃないの? プークスクス」

そんな由比ヶ浜に対しては超攻撃的。いやぁブレないねこのアマ!

「貴様はお勉強が出来るだけの低脳だろうが」

かなりむかつく感じに嘲笑している金髪ビ  に黒髪鬱美人が言う。

「なに? あんたあたしに成績で勝てないからって嫉妬してんの?」

「成績……か。いや、嫉妬も何も憐れんでいるだけだ。可哀想な奴だな」

「なんであたしが憐れまれなきゃなんないのよ!」

「それに気づけないとは……。可哀想な奴だな」

ちらり、と一瞬こちらに視線を向ける黒髪鬱美人。

……なるほど。

535: ◆OFPPQdZV86 2013/04/07(日) 23:33:36.70 ID:9NKLHGTY0
「そうだ! なんて可哀想な奴なんだ……!」

舞台に出る役者のように大仰な手振りを加えつつ俺も参加する。

「ああ……肉ほど可哀想な奴はいない!」

それに呼応するかのように黒髪鬱美人の口調に熱がこもる。

「ちょっと、別にあたしは可哀想なんかじゃ……」

「自分を偽るのはよせ! 貴様は誰よりも可哀想だ!」

右手を胸に当て、左手を大きく広げて訴えかける黒髪鬱美人。

「ち、ちが……あたしは違う!」

既に若干涙目になっている金髪ビ  だが、俺も止まらない。

「そんなに強がらなくても、いいんじゃないかな?」

いつかの葉山必殺の言葉をたたみ掛ける。あの場合倒されたのは葉山だが。

「「可哀想だな、ああ、カワイソウダナー」」

536: ◆OFPPQdZV86 2013/04/07(日) 23:34:30.16 ID:9NKLHGTY0
よくわからない高揚感に浸りつつ黒髪鬱美人と交互にひたすら憐れみ続けると、金髪ビ  はいまにも溢れ出さんばかりに涙を溜めている。

「やめて……やめてよぉ……」

……あー、ちょっとやりすぎたな。

同じ事を思ったのか黒髪鬱美人も動きを止める。

そして彼女は金髪ビ  に近づくと優しげな声で囁く。

「肉、大丈夫だ。貴様はきっと……」

「よ、夜空……?」

金髪ビ  は救いを求める子犬のような表情で黒髪鬱美人を見詰め、黒髪鬱美人はそれに応えるように慈愛顔で頷く。

「安心しろ。貴様はきっと、世界中の誰からも憐れまれるからな!」

「うぅ……よ、夜空のバーカ!! アホーーーー!!」

うわーん、と叫びつつどこかに走り去ってしまった。

537: ◆OFPPQdZV86 2013/04/07(日) 23:35:12.71 ID:9NKLHGTY0
「ふぅ……なかなかの仕事だったぞ」

「……なんか後味悪いけど、あれ大丈夫なのか?」

「気にするな、いつもの事だ。どうせすぐ戻ってくる。今のうちにルールを確認しておくといい」

そう言って黒髪鬱美人は満足げに羽瀬川の下へと行った。

俺も戻るか……。

538: ◆OFPPQdZV86 2013/04/07(日) 23:37:27.08 ID:9NKLHGTY0
「比企谷くん、やりすぎよ」

やはり雪ノ下が糾弾してくる。確かに罪悪感を感じるような結果になってしまったのだから甘んじてそれを受け入れよう。

「ああ、さすがにちょっと反省してる……」

「気持ちはわかるけれど、やるのなら一言で斬り捨てなさい」

あ、それならいいのね。ってそれもどうだろうか。

苦笑していると、くいくいっと袈裟の裾が引かれる。

「……ごめん」

振り返ると、小さな声が聞こえた。

……こりゃ完全に失敗だったな。俺がこいつから謝られてどうする。

「別にあなたが謝る必要はないのよ」

……代弁ありがとう、雪ノ下。

「私たちが勝手にやるだけだもの。……これからもね」

その言葉を聞いて、どう反応していいかわからないようで困った様子でもじもじする由比ヶ浜。

まぁ、空気を変えるか。

「で、雪ノ下。『退出ゲーム』ってどんなルールなんだ?」

「そうね……場所と立場を設定して、それに矛盾しない、無理のない範囲の発言でその場所から外に出られれば勝ち、というものよ」

「えーっと、わかるようなわからないような……」

雪ノ下から説明を受けても相変わらず首を傾げる由比ヶ浜。まぁ俺も理解できていないが。

「どう説明したらいいのかしら……。例えば、銀行強盗と行員の二手に分かれて、一人でも先に逃げた方が勝ち、と言えばわかるかしら」

「……ああ、そういうことか。強盗側なら警察が来ないだとか抜け道を知っているだとか言えば良いってことだな」

「その通りよ。逆に行員側である場合は人質の解放だとかで外に出られるようにすればいい。もちろん相手側からの反駁はあるでしょうけれど。由比ヶ浜さんはわかったかしら?」

「うん、オッケーだよ」

「そう、よかったわ。あとは詳細なルールの設定があると思うけれど……」

「それは後だな」

「ええ、そうね」

とりあえず話はまとまった。後は金髪ビ  が戻ってくるのを待つばかりである。

539: ◆OFPPQdZV86 2013/04/07(日) 23:38:55.16 ID:9NKLHGTY0

会議が終わった瞬間、いきなり羽瀬川の声がした。

「由比ヶ浜さん、さっきは星奈が悪かった。でも、あいつはあれで悪い奴じゃないんだ」

「えっ!? や、全然へーきだよ! あれくらい全然気にならないし、羽瀬川くんも気にしないで!」

突然後ろから声を掛けられて驚きつつもしっかり反応出来ている由比ヶ浜。すげえな……。

「そ、そっか。ま、まあ、悪く思わないでくれ」

「う、うん」

……なんと言うか、律儀な奴だな。金髪ビ  に悪印象を持って欲しくなかったのだろう。

しかし誰かをフォローすることは必ずしも全員にとって良い結果に終わるとは限らない。

なぜなら、黒髪鬱美人が由比ヶ浜を超睨んでるから。いや怖えよ。

羽瀬川はタイミングを窺っていたようだし、もしかしたら由比ヶ浜に謝りに行くために会話を切り上げられたのかもな……。

彼女は間違いなく羽瀬川を意識しているだろう。金髪ビ  を追い払ったのも二人きりになるためだったとしてもおかしくはない。

金髪ビ  も同様だろうし、これってもしかして三角関係? わあ大変。ご愁傷様。

540: ◆OFPPQdZV86 2013/04/07(日) 23:41:38.40 ID:9NKLHGTY0

ほどなくして本当に金髪ビ  が戻ってきた。何事もなかったようにけろっとしている。メンタル強いな……。

また面倒が起こると話が進まないので雪ノ下を送り出し協議してもらう。

数分後、雪ノ下が戻ってくる。

「詳細が決まったわ。まず、誰かの発言は必ず肯定から入る事。こうしないと破綻してしまうわ」

「うん、わかった」

「次に、今いる場所そのものを破壊ないしは消滅させることは禁止ね。収拾がつかなくなるもの」

「了解」

「あとは殆どなんでもありよ。宇宙人が攻めてきても良いし、未来の謎の技術で比企谷くんが生き返っても良い」

「なんで俺既に一度死んでる設定なの?」

「いえ……。あ、じゃあ、目の話で」

「あははっ! いくらなんでもそれは無理だよゆきのん!」

「そんな謎技術でも諦められちゃってるのかよ……てか、じゃあってなんだよ」

「とにかく、ルールは把握できたかしら」

流されちゃいました。

俺の事など全く気にせず頷く由比ヶ浜。

いや別にいいけどさ……。

541: ◆OFPPQdZV86 2013/04/07(日) 23:44:08.69 ID:9NKLHGTY0
「あと、言い忘れていたけれど、小体育館の仮設ステージでやるみたいよ」

「ええっ!? ってことはやっぱり観客がいたり!?」

「いるでしょうね。でも大丈夫よ。もともと演劇部が用意した出し物で、今までにも何度か行われていたみたいだから特別注目されることは無いと思うわ」

「そ、それなら、安心……かな?」

いや全く安心できないと思うけどな。間違いなく注目されるだろうし。

もともと美少女揃いな上にコスプレまでしているし。総武高校で行われたのなら俺は100%見に行く。そもそも文化祭自体に行っていない可能性の方が高いが。

まあ今更言ってもどうにもならないだろう。

「ところで雪ノ下、お題はどうするんだ?」

「それは現地で指名した観客に出して貰うそうよ」

「そうか……無茶振りが怖いな」

「そうね、でもいくらでもやり様はあると思うわ。……公序良俗に反しない限りね」

そう言って薄く微笑む雪ノ下を見ていると何やら背筋に冷たいものが走る。くれぐれも良識に乗っ取ったお題を出して欲しいものだ……。

「もう質問はないかしら? ……では、行きましょう」

542: ◆OFPPQdZV86 2013/04/07(日) 23:49:20.04 ID:9NKLHGTY0

ぞろぞろと連れだって歩くこと5分、目的の小体育館に着く。

幸い出演予定っぽいグループはおらず、今回も金髪ビ  が話を通しすぐに順番が来る。

ステージの上に立ち、辺りを見渡すと館内に設けられたパイプ椅子は既に半分以上が埋まっていた。

奉仕部、隣人部の全員がステージに上がると、演劇部員と思わしき女子生徒がやけにノリノリな調子で改めてルールを説明し、各員を勝手に紹介し始める。

もちろん俺はさらっと流され、その分雪ノ下と由比ヶ浜の時間が長めに取られる。

まあ流されたと言っても羽瀬川よりはマシだろう。彼の紹介は「は、羽瀬川小鷹く……羽瀬川小鷹さんです」だけで終わった。どんだけ怖がられてるんだよ……。

それを除けば司会の流れるような話術により事は面白おかしく進み会場が適度に温まった頃、お題を出す人を指名するために雪ノ下にマイクが渡される。

人前に出ても全く動じず超然とした佇まいにその容姿も相まって、観客たちの視線は自然に雪ノ下に引き込まれる。

男女問わず、誰しもが今か今かと期待と緊張の入り交じった表情で雪ノ下の指名を待っている。

僅かな間をもって、雪ノ下の唇が音を紡いだ。

「では、そこのあなた。お題を出して頂けないかしら」





つづく
 
560: ◆OFPPQdZV86 2013/05/17(金) 18:26:40.33 ID:Xsh9wuzc0
演劇部の司会がするすると流麗な字でスタンドに付けられた紙にお題を書いていく。

書き終えた彼女は、再びマイクを手に取ったその流れでこちらに向き直るとアドバイスをしてきた。

曰く、退出ゲームはあくまで劇であり、観客を味方に付けることこそ肝要である、とのことだ。

展開に無理があろうが無かろうが、全てを判断するのは観客である。つまりはそういうことらしい。

それだけ言うと、打ち合わせの時間も与えられずに開始の合図が下された。

561: ◆OFPPQdZV86 2013/05/17(金) 18:27:39.84 ID:Xsh9wuzc0
雪ノ下に指名された人が出したお題は『別々に拉致されて密室に閉じ込められた2つのグループ』

これから俺たちはこの設定に基づき、どうにかして密室から退出もとい脱出しなければならない。

なんか迷路といい密室といい、脱出してばっかだな。

ちなみに制限時間は10分らしい。なにそれ初耳。

562: ◆OFPPQdZV86 2013/05/17(金) 18:28:57.12 ID:Xsh9wuzc0
ステージの上には6人。中2階に設置されたスポットライトが俺たち一人ひとりを照らす。

既に劇は始まっているのだ。

しかし決められている状況は断片的であり、何故拉致されたのか、その方法は何か、そもそもここはどういう状況の密室なのかも不明である。

全てはこの後の展開次第、ということになる。

故に、最初に発言するものは大きなイニシアチブを得る事が出来る。

どちらかに不都合な発言があった場合、それを覆す為にはその発言に依って限定された状況の中でしか動くことができなくなってしまうからだ。

ここは先制するべきところだ。

とは言っても、自分たちのみが有利になるような状況にすることなど俺には考え付かない。

先程由比ヶ浜にしたように、今回も丸投げしよう。

563: ◆OFPPQdZV86 2013/05/17(金) 18:30:28.13 ID:Xsh9wuzc0
「なあ雪ノ下、今は一体どういう状況なんだ?」

俺が問いかけると、少しは自分で考えろとでも言いたげな視線を送ってきた。

しかしこちらも負けじと、俺が勝手に決めてもお前怒るだろ?と濁ったジト目で反論する。

仕方ないわね……という声が聞こえそうな表情で髪を払うと、僅かに考える素振りを見せてから、俺と由比ヶ浜から離れ観客の方を向く。

「今の状況は、全員同じ部屋にいて、窓のない完全な密室であり唯一の出口である扉には鍵が掛けられていて開かない。他にあるものと言えば、壁にある時計くらいね」

雪ノ下が喋り終えると、司会がお題を書いた紙に設定を追加していく。観客及び俺達が設定を忘れないようにとの配慮だろう。

ほとんどお題をなぞる形であり、こちらだけが有利な設定ではないがそうそう都合良くいきなり思いつくものでもない。

恐らく雪ノ下の意図はとりあえず全員を全くの同じ状況にするということだろう。

であれば、今後は臨機応変に動いていくしかない。

564: ◆OFPPQdZV86 2013/05/17(金) 18:32:20.12 ID:Xsh9wuzc0
「確かに鍵が掛かっているな。だが、実は私はさっきここで鍵を拾っていたのだ」

黒髪鬱美人がしかけてくる。やはり隣人部で最初に動くのはあいつか。

俺と同じでいちゃもんつけたり屁理屈をこねたりするの得意そうだもんな。

これまでの勝負で俺と似たような匂いを感じている。

「そうね、鍵を落すなんて間抜けな人ね」

はい、間抜けなの部分でわかりました。……わかったからそんなにこっち見なくていいから。

「それ俺の鍵だわ」

雪ノ下が視界の端で頷くのを確認しつつ、黒髪鬱美人の方に手を差し出す。

ちっ、と小さく舌打ちして彼女は鍵を俺に渡した。無論、実物があるわけではないので演技である。

彼女の舌打ちも演技であると願いたい。

「そもそもここの扉は電子ロックだから、例え落ちていた鍵がそこの間抜けさんのでなくても通常の鍵では開かないわ。加えて言えば、既に試したのだけれど拉致された私たちには正しいパスコードの入力は不可能みたいね」

駄目押しとばかりに雪ノ下が言う。というかその設定にするならなんで俺に受け取らせたんだよ……。

結果として無意味に罵倒されただけである。

うん、司会の人もそこは『扉は電子ロックである』だけでいいよね?

『比企谷八幡は間抜けさんである』とか書かなくていいから。さん付けが逆に余計に腹立つから。観客もくすくす笑うな。

あ、でも月子ちゃんが言う変 さんはアリだと思います。先輩は変 さんですねとか超言われてみたい。

565: ◆OFPPQdZV86 2013/05/17(金) 18:33:28.10 ID:Xsh9wuzc0
俺が現実から目を背けていると、金髪ビ  が一歩前に出る。

「あたしは見ての通り美少女でしかもお金持ちだし、身代金目当てとかでいつ誘拐されても良いように色々と準備していたわ。だから壁を壊す道具も常に持っているの」

「ああ、いつも持っていたあれか。あれなら壁を壊せそうだな。だが忘れたのか? 拉致された際に身体検査を受けて凶器や私物は没収されていただろう」

「ちょ、夜空!? なんであんたが反論してくんのよ!」

金髪ビ  の言うとおりである。おかげで手間が省けて楽ではあるが。

「自分で美少女だなんて恥ずかしくないのか。見ろ、観客も失笑しているぞ」

「はぁ? 別に事実なんだからいいじゃない。不細工どもの嫉妬なんてどうでもいいわよ」

うわぁすげえ発言。完全に司会のアドバイス無視してんな。

観客を敵に回してどうする。まあ、勝つ気がないならそれでもいいかもしれないが。

566: ◆OFPPQdZV86 2013/05/17(金) 18:34:56.67 ID:Xsh9wuzc0
「ねぇ、ヒッキー……あたしはどうすればいいの?」

未だ口論している二人をよそに、由比ヶ浜が小声で話しかけてくる。

そういえば羽瀬川もそうだが、こいつは始まってから一度も発言していない。

隣人部の攻撃への対応は雪ノ下に任せるとして、俺と由比ヶ浜は相談して攻めた方がいいかもしれない。

「正直、俺もどうすればいいかわからないが、大抵のことは雪ノ下が反論してくれるだろうから俺たちは脱出の方法を考えるぞ」

「……でもあんまり下手に動くとダメだよね」

「確かにな。基本的に向こうの反論を見越しておかなきゃならないし」

二人してうむむと首を捻って何か良い手はないかと考える。

しかしあまり時間はかけられない。由比ヶ浜も同じことを思ったのか、お題・設定の紙を指し示した。

「なんかどんどん設定追加されてるし早くしなきゃ……!」

俺もそちらに目をやると、紙にはいくつか文が追加されていた。

曰く、全員普通の人間であり、目からビームは出ない。

曰く、見た目は普通だが壁や床、天井その他部屋の物は全て宇宙超合金(?)で出来ており物理的な破壊は不可能。

曰く、隠し通路等は存在しない。あくまでも出入口は扉のみである。

曰く、比企谷八幡の職業は引きこもりである。

なんだよ目からビームとか宇宙超合金って……てか最後のは確実に雪ノ下の発言だな。引きこもりは職業じゃねえだろ……。

567: ◆OFPPQdZV86 2013/05/17(金) 18:37:57.83 ID:Xsh9wuzc0
ちょっと目を離した隙にこれである。

多少粗があっても、ここは完全に動けなくなる前に何かしら行動は起こしておくべきだろう。

ぱっと思いついた作戦を由比ヶ浜に簡単に説明しようと思ったが、既に雪ノ下に何事かを吹きこまれている最中だった。

「……う、うん。わかった。やってみる」

話は終わったようで、こちらに近づいてくる。

「ヒッキー、ゆきのんが死になさいだって」

「いきなりであんまりじゃないですかね……」

なにこのカミングアウト。人づてってあたりが余計傷つくんですけど……。

「由比ヶ浜さん、私はそんなこと一言も言っていないのだけれど」

「はっ、そうだった! 死んだフリだったね」

「正確には病気のフリよ。……私が相手の退出を防ぐから、よろしく頼むわよ」

「うん、任せてっ!」

「……本当に、よろしくね」

若干どころかかなり不安そうな素振りをしつつも隣人部を待ち構える為に舞台の中央に向かう雪ノ下。

まあよく考えたら死ねだなんて言うはずがないよな。

雪ノ下は罵倒や暴言に関しては数限りなく吐くが、あいつに直截的に死ねといわれた事は一度も無い気がする。

もっと上品な言葉で的確に僕の心のやらかい場所をいつでも刺し続けてくるのが雪ノ下雪乃という人間だ。

568: ◆OFPPQdZV86 2013/05/17(金) 18:39:38.30 ID:Xsh9wuzc0
「で、由比ヶ浜。俺はどうすればいいんだ?」

「とりあえず、ヒッキーは倒れるだけでイイって」

「わかった。後は任すわ」

「うんっ」

雪ノ下に頼まれごとをされたのが余程嬉しいのか、やる気に満ち満ちた様子だ。

由比ヶ浜はアホだが空気を読む事にかけては他の追随を許さない領域にいる。

雪ノ下のプランに沿って動けばそうそう間違えることはないだろう。

先の発言通り、後は任せる事にしよう。

「じゃあ、ヒッキー、倒れて」

「あいよ」

せいぜい病人に見えるように演技してやるか。

つまりこのまま横になるだけでオッケー。俺の腐った目は負の方向においては万能である。

ごろり。

ライトで照らされていたせいか、ステージの床が冷たくて気持ちいい。

椅子に座った観客と視線の高さがほぼ一緒で思いっきり目が合うが、瞼を閉じて仰向けになってしまえばなかなか快適な場所である。

その観客の方から「あの人急にどうしたの?」とか聞こえるが、そんなこと言われても俺自身どうしたのかわからない。

このまま寝てもいいですかね。

569: ◆OFPPQdZV86 2013/05/17(金) 18:40:53.59 ID:Xsh9wuzc0
不意に頭の上から「よし」と何やら意を決したような声が聞こえる。

ふわふわりと本日4度目の由比ヶ浜の匂いを感じた直後、ふわふわると頭を柔らかい感触が包んだ。

「た、たいへん! ヒッキーがしんじゃうよ!」(棒)

スピリチュアルな副会長もびっくりの棒読みに観客席から笑い声が聞こえたが、そんなことはどうでもいい。

重要なのは今俺が置かれている状況だ。

冷たい床に付けていたはずの俺の後頭部は今や温かくて柔らかい何かに乗せられている。

右肩と額に手が乗せられている事を鑑みるに、これは俗に言うアレである。

状況を理解してしまった以上、絶対に目を開ける事は出来ない。

ただでさえ後頭部から伝わる感触だけで顔が熱くなっているのに、今目を開けてしまったらひとつのモノしか目に入らず、理性など木端微塵に爆散するのは明白。

そのまま社会的に死ぬまである。

マジでこういう行動はやめて欲しい。真意の程は考え始めるとドツボに嵌るから後回しにするとして、今は自分を抑えないと色々ヤバい。

「はやくちりょうしないと!」(棒)

由比ヶ浜は由比ヶ浜で棒化が酷いが、それでも演技を続けるようである。とにかくなるべく意識を後頭部から離そう。

570: ◆OFPPQdZV86 2013/05/17(金) 18:42:37.65 ID:Xsh9wuzc0
「由比ヶ浜さんの言う通りね。目的がわからないとはいえ、拉致した側の人間としてはみすみす死んでしまうのを見過ごすはずは無いわ。きっと扉を開けてくれるはずよ」

雪ノ下が由比ヶ浜に合わせる。さっきの打ち合わせ通りなのだろう。しかし、これでは……。

「それはどうかな。一人くらい減ったところで犯人は気にしないだろう」

予想通り、黒髪鬱美人から反駁される。

適性があるのか、はたまたこういう演劇が好きなのかは知らないが、隣人部からの反論は彼女からされる事が多い。

「それに、医者ならここにいる」

「そ、そうだ。俺は医者だ。診せてくれ」

急に振られたようだが、なんとか流れに乗る羽瀬川。

……俺もあいつも流されるままである。若干シンパシーを感じないでもない。

「でも待って、医者は医者でも精神科医でしょう? あなたでは比企谷くんの治療はままならないわ」

雪ノ下の発言に困った顔で動きを止める羽瀬川だが、今度は金髪ビ  からの援護が飛んでくる。

「大丈夫! 小鷹ならやれるわ! だってそいつ引きこもりからくる精神病だし!」

ひでえ。

観客も「ならしかたないな」とか「確かに病んでそう」とか賛同しちゃってるし。

「……そう、ならお願いするわ。彼の病気を治してあげて」

雪ノ下もこの攻め方ではここまでと見たのか、話題を打ち切ってしまった。

間抜けと罵倒され、いつのまにか引きこもり扱いされ、そして精神病患者にされる。

そろそろ泣いてもいいですか。

571: ◆OFPPQdZV86 2013/05/17(金) 18:44:09.41 ID:Xsh9wuzc0
「ゆきのん、ダメだったね……」

どうやら治療されたらしい俺が半身を起こすと、えらくしょんぼりした様子の由比ヶ浜が立ち上がりつつ言う。

ちょっと名残惜しかったりするのは秘密だ。

「そうね」

「そうそう簡単にはいかないだろ。俺でも反論を思いつくぐらいだったし」

「あら、そうかしら。まあ、今回は比企谷くんの出番はほとんど無いから、あなたはそこでそうしてるといいわ。むしろいいと言うまでそのまま寝てなさい」

「なにもしなくていいのならそうするが……やけに自信満々だな。何か策があるのか?」

俺の質問には答えず、雪ノ下は微笑むと隣人部の方を向く。

どうやら任せろという事らしい。まあ、あいつがそう言うならいい。

無責任な信頼などしていないが、過去の例を鑑みるに雪ノ下があの表情をしたときは実際なんとかなっている。

だからここは全力でサボらせてもらおう。由比ヶ浜の攻撃で変な汗かいて疲れたしな。

……まあ、例え失敗したとしても由比ヶ浜や俺が加わってフォローすればいいだけだ。

572: ◆OFPPQdZV86 2013/05/17(金) 18:45:58.67 ID:Xsh9wuzc0
「由比ヶ浜さん、拉致された際の状況は覚えているかしら?」

「えっと、ゆきのんと街を歩いていたら急に意識が遠くなって、きがついたらここにいたよ」(棒)

……由比ヶ浜の演技力はもうちょっとどうにかならないのか。普段学校生活で演技しまくって得意なはずだろ。

「そう、あなたたちはどうかしら?」

隣人部は雪ノ下の問いに即答をしようとはしない。

無理もない、由比ヶ浜の様子をみれば打ち合わせ済みなのは瞬時にわかる。罠を警戒するのは当然だろう。

「私は、小鷹と歩いていたら捕まったな。肉は知らん。その辺に捨てられていたのを拾われたんじゃないか?」

「あたしは捨て犬か! あたしも小鷹と一緒にいたわよ!」

「そうね、三日月さんは柏崎さんが身体検査を受けていた事を知っていたのだし、羽瀬川くんと一緒にいたと言うのであれば三人で同じタイミングに拉致されたということになるわね」

「む……まあ、そうだな」

「では三日月さん、捕まった時に犯人の顔は見た?」

質問を繰り返す雪ノ下をやはり不審に思っているのか黒髪鬱美人はまたしても即答を避ける。

「……いや、後ろから襲われた上に目隠しされていたからな。見ていない。だが、犯人は背の高い男だったのは覚えている」

恐らくその答えで正解だ。見たと答えてしまえば犯人にとっては大問題となる。雪ノ下なら犯人に黒髪鬱美人を撃ち殺させるくらいはするだろう。

加えて、数多くの設定が追加された今ここから出る事が出来るのは拉致された人間以外、つまり犯人しかいない。

隣人部全員が被害者だと決められてしまった以上、俺たちが犯人であるという道を潰しておかなければ不利になる。

「そう、私たちも先に述べたように気を失っていたからわからないけれど、確かに背の高い男だったわ。手口から見て同一犯と考えてよさそうね。では、犯人の目的はなにかしら?」

「お、お医者さんがいるし、みのしろきんもくてきなんじゃないかな?」(棒)

……由比ヶ浜が棒演技をしている? つまり雪ノ下が描いた流れ通りにきているということか。

だが何が目的かは俺にはわからない。下手に口出しはしない方がよさそうだな。

573: ◆OFPPQdZV86 2013/05/17(金) 18:49:00.36 ID:Xsh9wuzc0
「羽瀬川くんは医者、柏崎さんはお金持ちの美少女。確かに身代金目的というのは可能性としてはありそうね。では、三日月さんは何者かしら?」

「雪乃ちゃんそんな美少女だなんて……その通りだけど嬉しい……」

「肉、貴様は黙っていろ。私は……そうだな、小鷹の嫁だ」

「はぁ!? あんた何言ってんの!?」

「なんだ肉、これは所詮劇の設定でしかない。それでも何か不都合があるのか? あるなら言ってみろ。今、ここで」

「ぐっ……べ、別に、ないわよ! ……てか小鷹はどうなのよ!」

「い、いや星奈、夜空が言うとおり劇の設定なんだからなんだっていいだろ? それよりどうやってここから出るか考えようぜ」

……あのー、ラブコメ街道まっしぐらですけど、衆人環視の真っただ中というのを忘れてませんかね?

ほら、そこかしこから怨嗟の声が聞こえてますし。外で出くわしたセナサマ教信者の方々ですかね。

とは言っても雪ノ下はそんな空気など完全に無視するのだが。

「三日月さんは羽瀬川くんの配偶者ということでいいのかしら」

「ああ、いいぞ。……そう言う貴様たちは何者なのだ」

首肯し、誰何する黒髪鬱美人を見て一瞬ほくそ笑む雪ノ下。

「私たちは同じ学校の学生よ。そうよね? 由比ヶ浜さん」

「うん、そうだよ。どうきゅうせい」()

……雪ノ下、あいつ何か罠に嵌めたな。巧みな誘導尋問で俺のトラウマをほじくり返すときと同じ表情をしているし。

彼女があの表情をするときは何かを企んでいる時だ。ソースは俺の実体験。

たまに由比ヶ浜が部室に来ない日があるが、最近ではそういった日はほとんど一言も喋らないか、お互いの傷をえぐり合うかの二択になっている。

おかげで雪ノ下トラウマ検定2級くらいの実力になったが、俺はそれに倍する量を披露しているので結果としてのダメージは俺の方がでかい。

まあ実際は誘導尋問と言うよりはほぼ自爆なんですけどね。

代償は大きかったが、ある程度奴の表情を読む事は出来るようになったのは収穫と言っていいだろう。

雪ノ下はしばしば地雷をばら撒くのでいちいちそれを踏み抜いていたら身が持たないからな。

ただでさえ古傷ばかりの身なのだ。新しい傷を負わされてはたまらない。

574: ◆OFPPQdZV86 2013/05/17(金) 18:50:22.17 ID:Xsh9wuzc0
閑話休題

雪ノ下が発言を再開する。

「どうやら被害者である私たちでは外に出るのは難しそうね」

「そうだな、だが外からは開けれられるだろう。実は私は拉致されたときに手掛かりを残しておいたのだ。直に助けが来るだろう」

「どこに連れ去られるかわからないのに、どんな手掛かりを残しておいたのかしら?」

「そ、それは……いざという時のために発信器を……」

「でも、取り上げられているわよね。当然ここに来るまでの間に捨てられているわ」

「……」

ばっさりと切り捨てる雪ノ下。

その後も隣人部が発案したその全てにケチを付けていく。

どれもこれも一応筋が通っているのが非常に質が悪い。

……。

575: ◆OFPPQdZV86 2013/05/17(金) 18:53:04.87 ID:Xsh9wuzc0
もはや発言しようとする者は誰もいない。

あれだけ理詰めで否定されまくるのだ。自ら嫌な気分になろうという者はいないだろう。

スポットライトの光に照らされた5人。

その光の間はただただ埃が舞うばかりである。

ちなみに俺を照らしていた光はいつの間にかなくなっていた。

暗くて快適。

576: ◆OFPPQdZV86 2013/05/17(金) 18:54:21.10 ID:Xsh9wuzc0
完全に空気が悪くなってしまっている。

ただでさえ、奉仕部、隣人部共に手も足も出ない状況なのだ。

そのうえ冷え切ったこの空気で発言するのは冷遇に慣れているはずの俺でさえ躊躇ってしまう。

だが躊躇しているこの間にも刻一刻と残り時間は減っていく。

観客もしらけ始め、見かねた司会が何か言おうとした矢先、唐突に雪ノ下が口を開いた。

「この通り、拉致された私たちでは外に出る事はできないわ」

静まり返った館内に響く、透きとおるような声。

開始前と同様に、観客の視線が雪ノ下一人に集まる。

「でも、一人だけ、たった一人だけそれが可能なの」

そう言って未だに暗がりに寝転がったままの俺を指差す。

えっ? 俺ですか!?

雪ノ下が一身に集めた視線が彼女の人差し指を伝ってそのまま俺に集中する。

照明係も俺の存在を思い出したのか、視界が一瞬にして白くなり、やがて橙色に落ち着く。

「彼ならあの扉を開ける事が出来るわ」

スポットライトの光がじりじりと肌を炙り、集った熱視線が身を焦がす。

やめろよお前と違って俺は侮蔑とか軽蔑の視線にしか慣れてないんだよ。

577: ◆OFPPQdZV86 2013/05/17(金) 18:55:10.92 ID:Xsh9wuzc0
「いや、それはおかしい。不可能だ!」

蛇に睨まれたヒキガエルの如く身を硬直させていると、黒髪鬱美人が反駁してくる。

「先程貴様が言ったように、私たちが扉を開くのは状況的に既に不可能だ。詰んでいると言ってもいい」

「確かに、私たちには不可能よ。でも、お題をもう一度よく見て頂戴」

そう言われて見ない奴はいないだろう。

司会も空気を呼んで声に出して読む。

「お題は『別々に拉致されて密室に閉じ込められた2つのグループ』です」

「どうも。ご覧の通り、私たちは別々に拉致されて、密室に閉じ込められているわね」

雪ノ下は司会に会釈をし、内容の確認をする。

無論、再び言われるまでもなく全員が理解している事だ。

だが彼女はお題に注目させた。そこに意味が無いはずは無い。

恐らく答えは出せるはずだ。

578: ◆OFPPQdZV86 2013/05/17(金) 18:55:55.15 ID:Xsh9wuzc0
俺が脱出の鍵というのであれば、隣人部よりも早く理解しなければならない。

雪ノ下が組み立てたこのチャンスを無駄にしないためにも。

俺は半分以上寝ていた脳味噌を叩き起こす。

迷路の時と同様、条件は全て示されており、あまつさえヒントまで貰っている。

これで正答できなければ頭脳派ぼっち失格だ。

いやそんなこと一度も言ってないし思ってもいないけど。

579: ◆OFPPQdZV86 2013/05/17(金) 18:58:26.53 ID:Xsh9wuzc0
設定や状況を脳内に羅列し、必要な情報のみを取り出す為に吟味していく。

最も重要なのはお題であるが、その後追加された全ての設定とも矛盾してはいけない。

多少の穴はこの後の対応でなんとかなる。

まずは雪ノ下の意図する事を理解するのが先決だ。

……。

……なるほど、そういうことか。

気付いてしまえば至極単純なことだ。

論理の強度に不安が残るが、場の空気をうまく使えばゴリ押しできるだろう。

というか、時間も無いしそうするしかない。

まあピエロになるのは得意分野だ。

上手くやってくれよ、雪ノ下、由比ヶ浜。

さあ、雪ノ下雪乃プレゼンツ比企谷八幡再生プロジェクトを始めようか。

585: ◆OFPPQdZV86 2013/05/18(土) 03:10:29.74 ID:jGmi0DGy0

退出ゲームはもともとは即興劇であるらしい。

だが、これから俺と雪ノ下たちが行うのは即興劇ではない。もっと馬鹿馬鹿しい何かだ。

端的に言えば、茶番である。

「雪ノ下、俺は外に出られるのか?」

この質問で俺が回答を導き出したことを理解したのか、雪ノ下は満足げに微笑する。

「ええ、比企谷くん。あなたはもう外に出られるわ」

「そうか」

俺は立ち上がると、あたかもそこにあるのかのように見えない扉に向かって歩き始める。

「ちょ、ちょっと待て! だから扉を開けるのは不可能と言っているだろう!」

慌てた様子で黒髪鬱美人が止めに入る。

「確かに三日月さんや私では無理よ。でも彼には出来る」

「何故だ!」

「なぜなら、彼は拉致されたのではなくて、始めからここにいたからよ」

「……は?」

尚も食い下がる黒髪鬱美人が目を白黒させる。

586: ◆OFPPQdZV86 2013/05/18(土) 03:13:50.13 ID:jGmi0DGy0
彼女と同じ反応が観客席のところどころでも見受けられたが、幾人か「……そういうことか」と気付いた者もいるようだ。

「思い返して欲しいのだけれど、私たちは外を歩いているときに拉致されたわ。あなたたちは三人とも同時にだったわね」

「それがどうした。私の記憶が正しければ、今も使ったように貴様は何度も『私たち』という言葉を使っている。当然その言葉にはその男も含まれるはずだ」

「一般的にはその通りね。ただ、今回はその限りではないわ」

そこで一度、雪ノ下は言葉を切る。

そして充分間を取ってから再び口を開く。

「だって、彼は引きこもりじゃない。外にいるはずがないわ」

しん……と館内が静まり返った。

数瞬の間をおいて、誰かが言った「引きこもりなら、しょうがないな」という台詞を契機に、観客席は笑い声で包まれる。

ああ、笑われてる笑われてる。俺笑われてるよ。

この感覚はあれだ、あの時と同じだ。

中学校に入りたての頃に同じ小学校だった奴らに……いや、今はそれはいい。

587: ◆OFPPQdZV86 2013/05/18(土) 03:15:36.40 ID:jGmi0DGy0
場が納まらないうちに、雪ノ下は理屈をさらに畳みかける。

「彼がここにいたと示すものはまだあるわ。三日月さんは最初、ここで彼の鍵を拾ったでしょう? それっておかしい事だと思わない?」

「別に鍵ぐらい落ちていても……」

言いかけて、はっと気付く黒髪鬱美人。

「そう、落ちているはずは無いのよ。なぜなら、拉致された際に私物は全て取り上げられていたはずだもの」

ぐっ、と唸る黒髪鬱美人の横では金髪ビ  が何故かキラキラと目を輝かせている。

「雪乃ちゃん凄い! あったまいいー! ああん凄いわ! 可愛くて頭も良いなんてまさにあたしにピッタリね! 雪乃ちゃん、一緒になろ? ね? ハァハァ……」

いや怖ぇよ。由比ヶ浜が雪ノ下かばうように前に出るくらい怖ぇよ。てか息を荒げんな。

とにかく金髪ビ  も理解した様子である。

588: ◆OFPPQdZV86 2013/05/18(土) 03:17:26.54 ID:jGmi0DGy0
「か、彼の私物である鍵がここに落ちていたということも、拉致された人ではないという事を示しているわ」

怯えながらも気を雪ノ下は取り直して解説を続ける。

「そもそもお題には、別々に拉致されて密室に閉じ込められた『2つの』グループと書かれている。私と由比ヶ浜さん、それにあなたたち。もうこの時点で2つのグループは拉致されてしまっているわ」

「それに、ヒッキー一人じゃグループって言わないよね。引きこもりだし」

おい由比ヶ浜。今の台詞は演技じゃなくて本心で言っただろ。棒読みはどうした。

俺の脳内ツッコミはもちろん誰にも聞こえず、由比ヶ浜の発言で観客はさらに沸く。

図に乗った観客から好意的な、あくまで好意的な野次が飛び始める。「一人でも頑張れ引きこもりー!」とか言った奴誰だ。今まさに超頑張ってるっつーの。絶対許さない。

「じゃ、じゃあなぜ私たちはなぜ引きこもりの部屋に拉致されたのだ? 養育費とかに困ったあげくの身代金目的なら別の部屋でもいいはずだ。そもそも貴様らただの学生を拉致する理由が無い」

黒髪鬱美人が最後の最後で鋭い反論をする。

やるな……この部分が最も設定と論理に隙のある部分だ。

だが、観客という空気を味方に付けた以上、多少の道理には引っ込んでもらおう。

589: ◆OFPPQdZV86 2013/05/18(土) 03:18:44.54 ID:jGmi0DGy0
「それはもちろん身代金目的ではないからよ。柏崎さんが言ったように、彼は精神病だったの。その治療が目的」

「それはもう俺が治したって訳か……」

諦めたように羽瀬川が言う。

「その通りよ。私や由比ヶ浜さん、柏崎さんが拉致されたのは……まあ、犯人が、恐らく彼のご家族がただ面食いだったというだけよ」

おいおい、ほとんど勝ちは確定しているとはいえ投げ遣り過ぎませんかね雪ノ下さん。あと勝手に人の家族を犯罪者にするな。

特に親父は絶対に刑法に問われる犯罪なんてしないぞ。むしろ美人局とかに引っかかる方。……どっちでも駄目だ。

590: ◆OFPPQdZV86 2013/05/18(土) 05:03:43.50 ID:jGmi0DGy0
「とにかく、羽瀬川くんの言うとおり彼の病気は治った。そしてここには食べ物はおろか衛生設備も無く、およそ人間が生活出来る環境ではない。家の中は日常的に行き来していたはずよ」

「そうだな、俺はその電子ロックのパスコードを知っている」

「でも、それだけではいけないわ。比企谷くん、あなたを止めるものはもう何もないの。外の世界に出ましょう」

「そうだよ、ヒッキー! 一緒に行こうよ!」

雪ノ下が背中を押し、由比ヶ浜が手を引く。

もう既に腹はくくった。せいぜい道化を演じてやろう。

「ああ、行ってみるよ。外の世界に」

観客席からも「そうだ! こっちにこいよ!」「頑張ってー!」「応援してるよー!」などの声援がそこかしこから飛んでくる。

……皆ノリ良過ぎだろ。というか司会者、お前はそこに混じっちゃ駄目じゃね? しかも率先して煽ってるなあの人。

まあいいや。

この勝負は奉仕部の勝利で戦況は3-2。ようやく勝ちが見えてきた。

流れは完全にこちらに来ている。この調子で連勝してしまおう。

『かくして、一人の引きこもりは万雷の声援と拍手をその一身に浴び、まるで生まれ変わるような心境で、部屋からの、己の殻からの第一歩を踏み出したのであった』

いや別にナレーションいらないから。引きこもりじゃないから。





つづく