1: ◆2cupU1gSNo 2013/06/09(日) 18:24:36.09 ID:Zr8YYylw0
序章 カチューシャとポニーテール
1.六月二十五日
夕暮れ迫る放課後の校舎。
俺は決して軽やかとは言えない足取りで古典部の部室に向かう。
別に部室までの移動時間を無駄だと感じているわけではない。
高校一年の生活を無事……とは言えないかもしれないがとにかく終え、
二年に進級して二ヶ月を経過したせいもあってか、俺はこの移動時間を多少は有効に使えるようになっていた。
なんてことはない。
単に移動中、読んでいる文庫本のあらすじを思い出しているだけのことだ。
だが、それだけで億劫になりがちな移動も多少は悪くないと思える。
多少の差ではあるが、部室までの果てしなく長い道程に考える事が全く無いよりはずっといいだろう。
それに部室の椅子に腰を落ち着けてから、
さてこの本はどんな展開だったか、と頭を捻るのはとてもエネルギー効率が悪い。
ならば、省エネを心掛ける俺にとって、恐らくこれはベストな選択なのだろう。
それでも、俺の足取りが軽やかでないのには当然ながら理由がある。
我が古典部の部長、千反田えるのことだ。
過去一年、数限りなくとまでは言わないが、千反田にはかなりの面倒事を持ち込まれた。
本当に面倒なら無視してしまえばいいじゃないか、
とは里志によく言われるのだが、俺にはそれが最善の策だとは思えない。
一年にも渡る付き合いを経ても、あいつはまだ分かっていないのだ。
あのお嬢様は分からないことを気にし始めると、完全な前後不覚に陥る。
好奇心の獣と化した千反田を放置するなど、想像するだに後のことが恐ろしくなる。
一度火の点いた千反田の好奇心を放置したが最後、
数日後にはまず間違いなく二倍、いや三倍は面倒臭い事案になって、俺の下に舞い戻って来ることだろう。
問題の先送りは決して事態を好転させないのだ。
だとするならば、被害の少ない内にとにかく千反田を納得させる。
それがいつの間にか俺の高校生活の処世術になっていたし、別にそれが嫌だというわけでもない。
千反田も千反田でかなり特殊な例だとは思うが、
千反田以上に面倒な人間を嫌でも相手にすることもいつかはあるだろう。
例えば姉貴とか。
それを思えば、千反田の好奇心に付き合う程度なら特に問題はない……はずだ。
「とは言っても」
古典部の部室。
つまり地学講義室に辿り着いた俺は、横開きのドアに手を掛けてから小さく呟いた。
誰に聞かせるつもりでもない言葉だ。
強いて言えば自分に言い聞かせる言葉か。
千反田の好奇心旺盛な姿には慣れてきた。
たまに億劫になることもあるが、古典部の活動が嫌いなわけでもない。
里志の弁ではないが、学内にプライベートスペースを持てている利点も大きい。
だが、それでも、やはり俺は千反田の姿に戸惑っているのだろう。
今の千反田の姿と素振りと様子に。
だから俺の部室までの足取りは決して軽くなかったし、今現在も部室に入るのに躊躇してしまっているのだ。
いっそ今日は部室に顔を出すのをやめておこうか。
そんな考えが俺の中で頭をもたげてくる。
しかしそれはさっき俺自身が考えていた通り、問題の先送りでしかない。
問題の先送りは後々に巡り巡って俺の前に姿を現す。
それくらいは俺にも分かっているのだ。
一度だけ大きく溜息をつく。
情けない事だが自分で自分が緊張しているのがよく分かった。
だが、ここで考え込んでいても、それこそ問題の先送りにしかならない。
俺は半ば諦念混じりに、軽く手に力を込めてドアをスライドさせる。
西向きの窓から夕陽が見え、その眩しさに俺は目を細める事になった。
その目を細めるという行為に、俺は妙な懐かしさを感じていた。
つい二週間前まで、部室に誰かが来ている時には夕陽を目にする事がほとんどなかったからだ。
SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1370769875
引用元: ・奉太郎「軽音楽少女と少年のドミノ」
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2: ◆2cupU1gSNo 2013/06/09(日) 18:25:18.97 ID:Zr8YYylw0
なぜか?
それはこの地学講義室が古典部の部室だからに他ならない。
古典部と称されながら、古典らしい古典がこの部室で読まれた覚えはないが、とにもかくにも古典部だ。
里志は推理小説を嗜むし、伊原に至っては一年の頃まで漫画研究会だった。
千反田も幅広いジャンルの本を読んでいるようだし、俺も読書は決して嫌いじゃない。
部員全員がそれなりに読書を好んでいる。
古典部とはつまり本を読む部なのだ。
ならば本を読む際、重要な条件はなんだろう。
もちろん色々あるだろうが、一番重要なのは適切な光源があることだと俺は思う。
暗ければ文字が見えないし、明る過ぎても本など読んでいられない。
まあ、改めて考えるまでもなく常識にして当たり前なのだが。
だが今日の俺は夕陽に目を細めた。
今日、俺は地学講義室の鍵を誰からも預かっていない。
地学講義室のドアのカギは開いていた。
本を読む部にも関わらず、カーテンを閉めなかった部員が先に来ていたわけだ。
カーテンを閉めていないどころか、本すらも読まずに退屈そうにしている部員がそこに居たからだ。
「よっ、遅かったじゃん、ホータロー」
俺の姿を認めたそいつは夕陽に負けない俺に笑顔を向ける。
雰囲気こそ似ているが、そいつは仮入部でしばらく部室に入り浸っていた大日向ではなかった。
そんなことは俺にだって分かり切っている。
髪の長さも背格好も大日向とは声色も全く違っていた。
慇懃無礼なきらいはあったが、そもそも大日向の口調はここまで砕けていない。
「掃除が長引いたんだよ」
俺はわざと軽い感じで応じた。
嘘は言っていない。
教室の掃除当番だったのは本当だった。
しかし必要以上に念入りにやってなかったかと問われれば、そうだと頷かざるを得ない。
先送りは何の解決にもならないと分かっていながら、ちょっとした逃避に耽ってしまっていたのだ。
なんとか平静を装ってはいるものの、やはり俺はかなりこいつの様子に戸惑っているのだろう。
「へー、そうなのか、お疲れさん」
俺の言葉を気にした風もなく、そいつは自分の襟足周辺を頻りに触り始める。
俺の姿を認めたから髪型を気にしていると言うわけではなく、
さっきまでもそうしていたからそうしていると言わんばかりの自然な行動だった。
自らの髪の長さがまだ気になっているのだろう。
俺と伊原の説得で思い留まってはくれたが、先週までは髪を切りたがっていたからな。
「気になるのは分かるんだが」
「わーってるって。
こんなに綺麗に伸ばした髪を切るのももったいないもんな」
俺が皆まで言う前に悟ってくれたらしく、そいつはまた笑顔を見せた。
少し砕けた言葉遣いではあるが、相手を慮る事ができる奴なのがせめてもの救いか。
「つーかさ、こんな髪型、小っちゃい頃以来なんだよな」
ポニーテールに纏めた黒髪を掴んで苦笑する。
前髪を上げてカチューシャを着け、後ろ髪をポニーテールに纏めている。
傍から見るとどれだけその長髪が邪魔なのかと思いたくなる髪型だが、
これが俺たちの最低限の折衷案が採用された髪型なのでお笑い種にすることもできない。
辛うじて俺にできるのは、軽い疑問を口にすることだけだ。
それはこの地学講義室が古典部の部室だからに他ならない。
古典部と称されながら、古典らしい古典がこの部室で読まれた覚えはないが、とにもかくにも古典部だ。
里志は推理小説を嗜むし、伊原に至っては一年の頃まで漫画研究会だった。
千反田も幅広いジャンルの本を読んでいるようだし、俺も読書は決して嫌いじゃない。
部員全員がそれなりに読書を好んでいる。
古典部とはつまり本を読む部なのだ。
ならば本を読む際、重要な条件はなんだろう。
もちろん色々あるだろうが、一番重要なのは適切な光源があることだと俺は思う。
暗ければ文字が見えないし、明る過ぎても本など読んでいられない。
まあ、改めて考えるまでもなく常識にして当たり前なのだが。
だが今日の俺は夕陽に目を細めた。
今日、俺は地学講義室の鍵を誰からも預かっていない。
地学講義室のドアのカギは開いていた。
本を読む部にも関わらず、カーテンを閉めなかった部員が先に来ていたわけだ。
カーテンを閉めていないどころか、本すらも読まずに退屈そうにしている部員がそこに居たからだ。
「よっ、遅かったじゃん、ホータロー」
俺の姿を認めたそいつは夕陽に負けない俺に笑顔を向ける。
雰囲気こそ似ているが、そいつは仮入部でしばらく部室に入り浸っていた大日向ではなかった。
そんなことは俺にだって分かり切っている。
髪の長さも背格好も大日向とは声色も全く違っていた。
慇懃無礼なきらいはあったが、そもそも大日向の口調はここまで砕けていない。
「掃除が長引いたんだよ」
俺はわざと軽い感じで応じた。
嘘は言っていない。
教室の掃除当番だったのは本当だった。
しかし必要以上に念入りにやってなかったかと問われれば、そうだと頷かざるを得ない。
先送りは何の解決にもならないと分かっていながら、ちょっとした逃避に耽ってしまっていたのだ。
なんとか平静を装ってはいるものの、やはり俺はかなりこいつの様子に戸惑っているのだろう。
「へー、そうなのか、お疲れさん」
俺の言葉を気にした風もなく、そいつは自分の襟足周辺を頻りに触り始める。
俺の姿を認めたから髪型を気にしていると言うわけではなく、
さっきまでもそうしていたからそうしていると言わんばかりの自然な行動だった。
自らの髪の長さがまだ気になっているのだろう。
俺と伊原の説得で思い留まってはくれたが、先週までは髪を切りたがっていたからな。
「気になるのは分かるんだが」
「わーってるって。
こんなに綺麗に伸ばした髪を切るのももったいないもんな」
俺が皆まで言う前に悟ってくれたらしく、そいつはまた笑顔を見せた。
少し砕けた言葉遣いではあるが、相手を慮る事ができる奴なのがせめてもの救いか。
「つーかさ、こんな髪型、小っちゃい頃以来なんだよな」
ポニーテールに纏めた黒髪を掴んで苦笑する。
前髪を上げてカチューシャを着け、後ろ髪をポニーテールに纏めている。
傍から見るとどれだけその長髪が邪魔なのかと思いたくなる髪型だが、
これが俺たちの最低限の折衷案が採用された髪型なのでお笑い種にすることもできない。
辛うじて俺にできるのは、軽い疑問を口にすることだけだ。
3: ◆2cupU1gSNo 2013/06/09(日) 18:28:36.49 ID:Zr8YYylw0
「そんなに髪を短くしてたのか?」
「そうだな、やっぱ髪は短い方が楽じゃんか。
澪と梓もだけどロングヘアーにしてる子はすげーよな。
特に夏とか暑苦しいだろうし」
澪と梓。
何度か聞いた事がある名前だ。
こいつが部長を務めているという部の部員の名前。
こいつの交遊関係など俺には関係ない。
などといつものように思うわけにはいかない事情が今の俺にはあった。
だから部室に足を運ぶのが億劫だったのだ、俺は。
「ホータローはさ」
「どうした?」
「やっぱロングの方が好きなのか?
男子ってロングが好きだってよく聞くしさ」
「……考えた事もないな」
「ホントかー?
照れんな照れんな」
「別に照れてないが」
軽口めいたやりとりをしながらも、俺はどうしても違和感が拭えずに口の中が渇くのを感じた。
俺はこうなる前のこいつとこんなに軽口を叩きあったことがない。
それを喜ぶべきなのか、悲しむべきなのかも分からない。
ただ目の前の現実に圧倒されてしまうだけだ。
「どうしたんだ、ホータロー?」
俺が少し黙った事を気にしたのか、そいつは上目遣いで大きな瞳を開いて首を傾げた。
気が付けば俺の手が届くくらいの距離までにじり寄って来ていた。
こんなところだけこいつはこうなる前のあいつとよく似ている。
「わたし、気になります!」と言わないのが、あいつとの一番大きな違いだろうか。
「いや、別に何でもない」
応じながら、俺はこうなる前のこいつの事を思い出す。
楚々としたお嬢様といった外見と性格をしながら、
その内面には貪欲な好奇心の獣を飼っていた我が古典部部長、千反田える。
肩まで届く髪と大きな瞳が特徴で小さなことにもすぐに好奇心を働かせる。
別に俺はあいつが嫌いなわけではなかった。
相手をするのが面倒なことも多々あったが、多少の面倒なら請け負うのもやぶさかではなかった。
それくらいにはあいつを悪く思っていなかった。
しかしこれはあまりにも想定外だ。
今のこいつは今までの千反田とはあまりにも違い過ぎた。
同じなのはほとんど姿形だけ。
声は同じだが語調は微妙に違っていたし、口調は全く違っていた。
性格は楚々とはとても称せず、強いて言うならば男勝りだろうか。
長い髪が苦手で、ポニーテールとカチューシャでどうにか首筋と額を涼しくさせている。
そして、何よりも。
4: ◆2cupU1gSNo 2013/06/09(日) 18:29:14.37 ID:Zr8YYylw0
「それよりちょっと休ませてくれないか?
掃除が長引いたから肩が痛くてな。
伊原たちが来るまでゆっくりさせてくれ」
不躾な言い方だったかもしれない。
だがこれ以上一人きりで変わり果てたこいつ……、千反田と話す気力が無いのも確かだった。
いや、今のこいつは千反田じゃなかったんだったか。
「あいよ、お疲れさん、ホータロー。
何だったら私が肩でも揉んでやろうか?」
「結構だ、千反……、いや、田井中」
俺が手を振ると、そいつは気を悪くした風でもなく、
今まで千反田が使っていた椅子に座って軽く肩を竦めた。
そうしてから机の上に置かれていたシャーペンを手に取り、リズミカルに机を叩き始める。
もしも里志がやったのなら雑音にしかならなかっただろうが、
そいつ……、田井中の叩く机の音は全く不快なリズムではなかった。
田井中が前に語った通り、本当に軽音部でドラムを担当していたのかもしれない。
こうなる前の千反田はこれほどのリズム感を備えてはいなかったはずだ。
こうなる前、つまり二週間前の六月中旬。
何の前触れもなく唐突に、田井中は俺たちの前に千反田の身体を借りて顕れた。
千反田の身体を借りた、というのは便宜上の表現だが、少なくとも俺にはそうとしか思えなかった。
田井中律。
そう名乗るこいつのリズムに耳を傾けながら、俺はその日の事を思い出す。
あの日は、そう、マラソン大会こと「星ヶ谷杯」が終わり、本格的に夏の訪れを感じ始めた頃の事だった。
8: ◆2cupU1gSNo 2013/06/16(日) 17:53:23.60 ID:4CLfavx30
2.六月十三日
「うわっ!」
甲高い女の声だった。
それで喧騒というほどではない程度には話し声が聞こえていた古典部の部室が一気に静まった。
声質はよく聞き覚えがあるものだった。
人の声を記憶する特技があるわけじゃないが、
学校がある日はほぼ毎日聞いているその声質を聞き間違えるはずがない。
そもそも今日の古典部の部室に女は一人しかいなかった。
つまり考えてみるまでもなく、甲高い声を上げたのはその女ということになる。
だが、その女がその声を上げたとは、俺にはにわかには信じがたかった。
それくらい俺たちにとって常軌を逸した事態だったのだ。
その日、六月十三日。
部室には三人の部員が集っていた。
俺、里志、そしてもう一名
その声を上げたのが伊原であったのなら、俺たちも目を剥いて言葉を失う事はなかっただろう。
伊原の「うわっ!」という悲鳴に似た声を聞いた事はなかったが、あいつならばまだ頷けた。
しかし伊原は用事があるとかで部室に顔を出しておらず、声を上げたのは当然別の女だった。
別にもったいぶる必要もない。
ないのだが、もったいぶりたくなるくらい、その時の俺は動揺していたのだ。
甲高い声を上げたのは千反田だった。
千反田える。
楚々とした印象を周囲に与える古典部の部長。
楚々とした、だ。
知れば知るほどこいつの本質は楚々とは程遠いものと理解できるのだが、それでも。
謎や疑問に対する好奇心が絡まなければ、楚々としたお嬢様であることも確かだった。
故に俺は言葉を失ってしまったのだ。
千反田を一年以上それなりに見てきてはいたが、
「うわっ!」という素っ頓狂な調子の甲高い声を聞いたのは初めてだったからだ。
千反田の叫び声を聞いた事がそれほどあるわけではない。
興奮した様子は何度も見てきたが、悲鳴を聞いたことはこれまでなかったはずだ。
それでも言い切れる。
千反田の叫び声にしては、俺の中の印象とはあまりにも異なり過ぎていると。
「きゃっ!」だか「きゃあ!」だか「いやっ!」だか。
少なくとも俺の中では千反田はそういった類の悲鳴を上げる印象だった。
当然だが勝手な印象だ。
もしかすると俺の想像も寄らない悲鳴を上げる可能性も大いにある。
それでも「うわっ!」だけは完全に俺の中の千反田像とは異なっていた。
「うわっ!」だけはありえない。
9: ◆2cupU1gSNo 2013/06/16(日) 17:54:15.30 ID:4CLfavx30
「千反田さん、どうかしたのかい?」
おそらくは里志も俺と同じ印象を持っていたらしく、珍しく上擦った声で千反田に訊ねていた。
その表情には心配といった文字がうかがえる。
特に里志の場合、突然悲鳴を上げるまで千反田と会話していたのだ。
その動揺はまず間違いなく俺以上だろう。
確か「千反田さんは二〇〇一年宇宙の旅を読んだことがあるかい?」と、
里志は部室に入ってすぐ話を始めたはずだ。
「題名だけは耳にした事があります」と千反田が応じ、
それから里志のSF論やSFの歴史についての講釈が始まった。
ちなみに俺は読んだことがない。
確か宇宙人とのファーストコンタクトを題材にした小説だったろうか。
特に興味があるわけではなかったので、
俺はその講釈には軽く耳だけ傾けて、文庫本に目を落としていた。
姉貴が俺の部屋の前に放り出していた文庫本なのだが、存外に面白くページをめくる手が止まらなかったのだ。
それにしても一度も目にしたことがない著者だというのに、姉貴はどこからこういう本を仕入れてくるのだろう。
まあ、どこかから仕入れてくるのだろうし、仕入れ先がそれほど気になるわけでもない。
里志の講釈は盛り上がっているようだった。
千反田は興味深そうに感嘆の声を上げながら頷き、里志も満足気に弁舌をふるっていた。
確かに好奇の対象が合致した際の千反田ほど理想的な生徒はいないだろう。
少なくとも俺に雑学を披露するよりは遥かに有意義に違いない。
ともあれ、部員同士の仲がいいにこしたことはない。
それから十数分後。
文庫本の内容が盛り上がる展開に差し掛かった頃、部室に響いたのだ。
その千反田の「うわっ!」が。
「僕の話に何かおかしいところでもあったのかい?」
伊原に叱られている時以上に切羽詰まった表情で里志が続ける。
千反田はその大きな瞳を見開いて押し黙ったままだ。
何度か里志が俺に助けを求めるように視線を向けたが、事態が呑み込めない以上俺にもどうしようもない。
大体、千反田と話していたのは里志であって、俺は文庫本を読んでいただけなのだ。
俺に何ができると言うのだろう。
だが俺にも一つだけ言えることがある。
軽く耳を傾けていただけではあったが、里志の講釈におかしな点はなかったはずだということだ。
『氷菓』の話を聞かされた幼少期の千反田じゃあるまいし、
そもそも単なる古典小説の話題で悲鳴を上げることなどないだろう。
怪談が苦手な人間ならありうるのかもしれないが、
残念ながら千反田は怪談を物語として楽しめる感性の持ち主なのだ。
ならば他に千反田が悲鳴を上げる理由があるということになるが。
それこそ文庫本を読んでいただけの俺には知りようもない。
里志には悪いが心当たりを片っ端から当たってもらうしかあるまい。
もちろん、里志自身もそれを深く理解しているようで、必死に千反田に訪ね掛けていたが。
12: ◆2cupU1gSNo 2013/06/19(水) 19:47:02.54 ID:h4wqzmLN0
「あ、いや、えっと……」
どうにか千反田の口から出てきた言葉は意味を成していなかった。
その顔色は蒼白と形容して差し支えないものだった。
ただ何かが気になるのか、何度も前髪を横に流している。
千反田自身の髪の長さだろうか。
今更自身の髪の長さが気になるはずがない。
しかしその千反田の素振りは俺にはそう見えて仕方がなかった。
「もしかして気分が悪いのかい?
それなら保健室に行った方がいいかもしれないね。
放課後だけどまだこの時間なら先生もいるはずだから」
自分に原因があるのかと様々訊ねていた里志だったが、
その千反田の蒼白の表情を見ているうちに考えを改めたらしい。
いくら里志の言葉が無遠慮であることが多いとはいえ、誰かをここまで青ざめさせるほどではありえない。
里志はそこまで短慮ではない。
そもそも話していたのは単なる海外SFの話なのだ。
他に原因があると考えるのが自然だろう。
俺は文庫本を鞄の中に片付け、蒼白な表情の千反田の横にまで歩み寄る。
「千反田、体調が優れないなら俺も付いていってやる。
付き添いが男だけだと不安だと思うなら近くの部の女子に声を掛けてやる。
出払っている部も多いかもしれないが、おそらく天文部なら暇してるだろう。
少なくともまず間違いなく沢木口……先輩ならいるだろう。
勿論、おまえがそれを望むのならだが」
珍しくやる気じゃないか、ホータロー。
とは里志も言わなかった。
人を茶化していい時と悪い時の区別は付けられる奴なのだ。
その証拠にというわけではないだろうが、真剣で鋭い視線を俺に向けた。
力仕事に自信があるわけではないが、仮にもこちらは男二人なのだ。
もし千反田が歩く事すら辛いようでも、運ぶことくらいはどうとでもできるだろう。
千反田がそれに抵抗があるならば、天文部の沢木口に頼めばいい。
天文部の女子部員は多いようだし、沢木口ならその他の人脈も広そうだ。
「どうする千反田?」
確認のために千反田と視線を合わせようとしてみる。
しかし千反田の視線は虚ろで、傍に俺と里志がいることに気付いているかすら曖昧だった。
いや、何度か俺たちに視線を向けていたからそれはないだろうが、
そう思えるほどに今の千反田は意識をどこか遠くに手離しているように見えた。
これは本気で沢木口を呼びに行った方がいいかもしれない。
そう伝えようと俺が里志と視線を合わせた瞬間だった。
「ちょっ……、ちょっとトイレに行ってくるから!」
唐突に言い放った千反田が髪を振り乱して立ち上がった。
若干唖然としている俺たちには目もくれず、一目散に部室から飛び出していく。
普段の千反田からは考えられない勇ましい手の振りで、見事なランニングスタイルだった。
陸上でいい記録が出せそうだ。
十数秒ほど呆然としていたかもしれない。
これまで積み重ねた俺の中の千反田の印象が崩れかかるのを感じる。
何とも複雑そうな表情で沈黙を破ったのは里志だった。
13: ◆2cupU1gSNo 2013/06/19(水) 19:47:44.86 ID:h4wqzmLN0
「元気そうだったね、千反田さん」
「そうだな」
「そこまでトイレに行きたかったのかな?」
「そういうこともあるのかもしれんぞ」
「あんなに顔中真っ青にさせて?」
「きつい波が来てたのかもしれない。
お前にもあるだろう。
腹痛の波が過ぎ去るまで、話しかけられても返事が出来ない時が」
「それはあるけれどもさ」
里志が釈然としない表情を俺に向ける。
俺だって釈然としているわけじゃない。
確かに千反田の奇声と微妙に違う口調と行動は、突然の腹痛で説明できなくもない。
無理矢理でも構わない。
別に俺たちは普遍たる真実ってやつを信じたいわけじゃない。
ちょっとした疑問に納得できる妥当な答えがあれば、真実とは異なっていても構わない。
それが俺と里志のスタンスなのだ。
ただし俺は簡単に出せる答えを望み、里志は面白い答えを望むという差異はあるが。
だが俺たちは釈然としていなかった。
俺の導き出した答えが無理矢理だったからではない。
部室を飛び出していく直前、千反田が取った行動があまりにも不自然だったからだ。
それを里志がひとりごとのように指摘した。
「千反田さん、鞄を持って行ったね」
「そうだな」
「トイレに必要な物が入っているのかな?」
「入ってないこともない可能性もある」
「例えば?」
「女子には必要な物があるだろう」
「そう……だね」
俺には姉貴がいるし、里志にも妹がいる。
女子の鞄の中にトイレで女子に必要な物が入っていることは知っている。
トイレに女子が鞄を持ち込む理由は、それで一応の説明は付く。
だがそう考えるより自然な考え方もあった。
単純なことだ。
千反田がトイレに行くふりをしてそのまま帰宅した。
そう考えればトイレに向かうはずの千反田が鞄を持っていても問題はない。
取り残された俺たちとしては複雑な心境にさせられるが、
本来礼と義を重んじるはずの千反田だ、それなりの事情があるのだろう。
いや、本当にトイレである可能性もあるのだが。
14: ◆2cupU1gSNo 2013/06/19(水) 19:49:24.41 ID:h4wqzmLN0
俺と里志は顔を合わせて沈黙して、しかし何も口には出さなかった。
二人で定位置の椅子に座り、鞄の中に片付けた文庫本を手に取った。
帰宅にはまだ早い時間だ。
千反田が戻って来る可能性だってまだ残されている。
そうである以上、俺たちはまだ部室に残っているべきなのだ。
俺は小さく溜息をついてから文庫本のページを開いた。
さて、続きはどこからだったか。
十分後、千反田は部室に戻って来た。
若干顔の青さが消えているのは何よりだったが、
代わりに千反田は俺と里志に新たな疑問を与えてすぐに部室から去った。
「急に飛び出してごめんなさい。
でも、突然だけど急用ができたので、私、先に帰りますね。
あ、折木さん。
これ借りていた本です、ありがとうございました。
それでは、さようなら」
それが部室から去る前、文庫本を俺に返しながら言った千反田の言葉だ。
釈然としない。
ありとあらゆる意味で釈然としない。
そう言った千反田の表情、仕種、言葉遣い、全てに違和感があった。
一つ一つに文句を付けられるくらいに違和感だらけだった。
そして何より違和感があったのは、千反田に返された文庫本だった。
「何だこれは」
思わずそんな陳腐な言葉を吐いてしまうくらい、その文庫本には違和感しかなかったのだ。
中身自体は先週千反田に貸した文庫本そのものだった。
しかし外側が違った。
文庫本には紙製のブックカバーが掛けられていた。
俺が千反田に渡した時には掛けられていなかったものだ。
それは構わない。
律儀な性格の千反田のことだ。
俺から借りた文庫本を汚さないように自前のブックカバーを掛けたのだろう。
問題はそのブックカバーに書かれていた文字だった。
おそらくはサインペンで記されたのだろう、カバーの表側から裏側に渡る大きな文字。
書かれたばかりなのかシンナーの臭いが鼻に衝く。
カバーには『ゲーム開始!』と下手な字で記されていた。
二人で定位置の椅子に座り、鞄の中に片付けた文庫本を手に取った。
帰宅にはまだ早い時間だ。
千反田が戻って来る可能性だってまだ残されている。
そうである以上、俺たちはまだ部室に残っているべきなのだ。
俺は小さく溜息をついてから文庫本のページを開いた。
さて、続きはどこからだったか。
十分後、千反田は部室に戻って来た。
若干顔の青さが消えているのは何よりだったが、
代わりに千反田は俺と里志に新たな疑問を与えてすぐに部室から去った。
「急に飛び出してごめんなさい。
でも、突然だけど急用ができたので、私、先に帰りますね。
あ、折木さん。
これ借りていた本です、ありがとうございました。
それでは、さようなら」
それが部室から去る前、文庫本を俺に返しながら言った千反田の言葉だ。
釈然としない。
ありとあらゆる意味で釈然としない。
そう言った千反田の表情、仕種、言葉遣い、全てに違和感があった。
一つ一つに文句を付けられるくらいに違和感だらけだった。
そして何より違和感があったのは、千反田に返された文庫本だった。
「何だこれは」
思わずそんな陳腐な言葉を吐いてしまうくらい、その文庫本には違和感しかなかったのだ。
中身自体は先週千反田に貸した文庫本そのものだった。
しかし外側が違った。
文庫本には紙製のブックカバーが掛けられていた。
俺が千反田に渡した時には掛けられていなかったものだ。
それは構わない。
律儀な性格の千反田のことだ。
俺から借りた文庫本を汚さないように自前のブックカバーを掛けたのだろう。
問題はそのブックカバーに書かれていた文字だった。
おそらくはサインペンで記されたのだろう、カバーの表側から裏側に渡る大きな文字。
書かれたばかりなのかシンナーの臭いが鼻に衝く。
カバーには『ゲーム開始!』と下手な字で記されていた。
16: ◆2cupU1gSNo 2013/06/27(木) 20:05:29.74 ID:Z5CFCVew0
「何だろうね」
里志が俺の背中から千反田に渡された文庫本に視線をやる。
ついさっきまで千反田の妙な様子を間近で見ていた里志だ。
この文庫本への興味は俺以上だろう。
「『ゲーム開始!』って書いてあるね」
「見れば分かる」
「ホータローは千反田となにかゲームをする約束でもあったのかい?」
「まさか」
返しながら俺は自分の椅子に座る。
里志が部室の入口の方に視線を向けてなにかを言いたげだったが、
結局はなにも言わずに自分の席に戻って溜息に似た息をひとつ吐いた。
おそらく里志は「千反田さんを追わないのかい?」と俺に問いたかったのだろう。
それが最善の策に思えなくもないのは確かだ。
『ゲーム開始!』と突然宣言されても、意図が不明に過ぎる。
まずは急に去った千反田を捕まえて意図を問いただす方が先決に思える。
だが里志は俺にそう言わなかったし、俺も千反田を追おうとはしなかった。
あいつの健脚に本気で逃げ回られては捕まえようもない。
それ以上に千反田が『ゲーム開始!』と言うのなら、
俺がこのゲームをクリアしない限りあいつも口を割らないはずだ。
『ゲーム』に参加しない選択肢もあったが、俺はそうしないことに決めた。
このまま帰宅しても千反田のことが気になってよく眠れないのは確かだろうからだ。
「『ゲーム』って言葉に心当たりはあるのかい?」
いつもぶら下げている巾着袋の中を探りながら里志が俺に訊ねる。
今の状況、千反田のゲームについて考えることこそが事態の収束に最も近い。
それに気付けないほど里志も鈍くはない。
俺は少しだけ過去を思い出してみてから首を横に振った。
17: ◆2cupU1gSNo 2013/06/27(木) 20:06:11.81 ID:Z5CFCVew0
「ないな」
「だろうね。
大体、千反田さんがホータローとなにかゲームをするつもりなら、
堂々と真正面からゲームの開始を宣言しそうだしね。
わざわざ文庫本のカバーに『ゲーム開始!』と書く理由が見当たらないよ」
それは俺も同感だ。
よくも悪くも千反田は嘘がつける性格ではない。
隠し事を抱えて里志と古典SFの話ができるほど器用でもない。
つまりこの『ゲーム』は突発的に思いついた物だということになる。
「里志、ちょっとその文庫本を手に取ってくれるか?」
「こうかい?」
「鼻に近付けてみろ」
「シンナーの臭いがするね」
「それはどういう意味を示している?」
「ごく近い時間にこの『ゲーム開始!』って文字が書かれたってことになるんじゃないかな。
例えばさっき千反田さんが鞄を抱えてトイレに向かった時にとかね」
「十中八九そうだろうな。
これでひとつさっきまでの疑問が解けたな。
千反田はブックカバーにこの文字を書くために、鞄を持ってトイレに向かったんだ。
いや、トイレでなくてもいいか。
とにかく千反田は俺たちの目の届かないどこかでこの文字を書いたんだよ。
そのために鞄が必要だったわけだ」
「まさかその本とマジックペンだけを持って、部室から出ていくわけにはいかないだろうしね。
そんなのなにか『ゲーム』を始めるにしてもあからさま過ぎるよ」
俺は頷いて里志の方に手のひらを向けた。
意図を察した里志が俺の手のひらに文庫本を載せる。
最初のページからパラパラとめくって中身を確認してみる。
俺に速読の能力があるわけではないからはっきりとは言えないが、
暗号に類する落書きのようなものは一見しただけでは見当たらなかった。
俺の表情から読み取ったらしく、里志が軽く微笑んだ。
「『ゲーム』とは言っても、千反田さんは借りた本に落書きなんかしないんじゃないかな?
それ、ホータローが千反田さんに貸した本なんだろう?」
「分かってるさ、単なる確認だよ。
予想通り何の落書きもなかったみたいだがな」
「例えばホータロー。
『ゲーム』とその本には何の関係もないって可能性はあると思うかい?
ブックカバーの文字は本当に単なる『ゲーム開始!』の宣言だったって可能性は?」
「その可能性があるのは確かだが、除外しても構わないだろうな」
「どうしてだい?」
18: ◆2cupU1gSNo 2013/06/27(木) 20:06:54.52 ID:Z5CFCVew0
「『ゲーム』に公平性がないからだ」
俺が答えると里志が満足そうに頷いた。
こいつ、俺にこう言わせたくて質問を誘導したな。
まあ、いつものことだし悪い気はしない。
ひとつの問題に対して複数人で意見を出し合うのは、考えをまとめるのに最適だしな。
俺は一息ついてから話を続ける。
「『ゲーム』は対等な立場の人間同士が行わなければ成立しない。
今は千反田が『ゲーム』の主催者の立場であるわけだが、
主催者だけが『ゲーム』の概要を理解していたところでどうにもならない。
参加者の俺たちにも『ゲーム』の概要が分かっていなければ、それは単なる主催者の自己満足だ。
これが『ゲーム』だと言うのなら、俺たちには既に情報を完全に与えられていなければならない。
そもそも『ゲーム』の開始を宣言するだけなら、このブックカバーに書く必要はないわけだしな。
それこそ口で言えばいいことだし、その辺の紙に書いたって構わない」
「つまり『ゲーム』のヒントは全てその文庫本に隠されてるってことになるわけだね?」
「そういうわけだ。
もっとも千反田に『ゲーム』の主催者としての良識があるという前提ありきだがな。
だがあれでも昔は推理小説を読んでいた時期があったと言っていた。
ノックスの十戒も知っていたはずだ。
その程度の良識は持ち合わせていると仮定して考えよう」
「そうだね。
そういえばホータロー、大切なことを聞いてなかったのを思い出したんだけど」
「何だ?」
「その文庫本は何なんだい?
僕はまだ開いてもいないから、そのブックカバーの中身を知らないんだよね」
文庫本に掛けられているのは紙製のブックカバーだ。
本を開いてもいない里志が中身を知らなくても無理はない。
俺は文庫本の中央付近を開いてから里志に見せる。
「『車輪の下』だ」
「ヘルマン・ヘッセの?」
「他にあるのか?」
「ないと思うけど。
でも意外だね、ホータローが『車輪の下』を読んでるなんて」
意外とは何だ。
だが里志の言ったことはある意味で間違っていなかった。
「俺は読んでない。
それは姉貴の文庫本だよ。
千反田が読みたいと言っていたんで、この前貸したんだ」
「やっぱりそうなんだね。
ホータローに『車輪の下』は似合わないと思っていたんだよ。
かなりセンチメンタリズムに満ち溢れた自伝風小説だからね」
さいですか。
19: ◆2cupU1gSNo 2013/06/27(木) 20:07:51.12 ID:Z5CFCVew0
「別に俺に『車輪の下』が似合おうが似合うまいがどうでもいい。
だがそうだな。
もしかすると『車輪の下』の内容がこの『ゲーム』に関係してるかもしれない。
自伝風小説と言っていたがお前はこの本を読んだことがあるのか?
あるなら内容を掻い摘んで教えてくれないか、三十文字以内で」
「短いね。
うーん、『才能を持った主人公が挫折して、最終的に事故死する話』かな」
わざわざ文字に書き起こしはしないが、本当に三十文字以内にまとまっていそうだ。
口の上手い里志らしくて思わず舌を巻いてしまう。
しかしそれは。
「酷い内容だな」
つい率直な感想を口にしてしまう。
俺はハッピーエンドを好むわけではないが、いくらなんでも救いがなさ過ぎやしないか?
それを伝えると里志が苦笑に似た笑みを浮かべた。
「ホータローが掻い摘んで内容を知ろうとするからだよ。
ちゃんと読み進めればそういう結末になった理由が分かるものさ。
物語を読むことまで省エネ主義じゃ、正しい内容を掴みかねるものだよ」
さいで。
しかし里志の言うことももっともではある。
今度ちゃんと読んでみることにするとしよう。
この『ゲーム』をつつがなく終わらせることができればだが。
「そうだ、ホータロー。
千反田さんと『車輪の下』に関する話はしたのかい?」
「いや、してないはずだ」
「本を読んだかどうかは?」
「どうだったか。
確か読んでないと話したはずだが」
「なら『ゲーム』と『車輪の下』の内容は関係なさそうだね。
『ゲーム』の参加者のホータローが現在持っている情報で、
この『ゲーム』がクリアできないとその意味がないからね。
『主催者』と『参加者』は対等でなければならない。
うん、それでこそ『ゲーム』さ。
まあ、少し調べれば分かることくらいなら、許容範囲かもしれないけどね」
里志の言うことはもっともだ。
ただ、少し調べれば分かることがどの程度までなのかは千反田の匙加減だが。
つい最近までデータベースを自称していた里志ならば知ってそうなことくらいだろうか。
「ちょっと考えてみたんだけどね、ホータロー」
「言ってみてくれ」
「難しく考える必要はないのかもしれないよ。
千反田さんは単純な問題を僕らに投げかけただけなのかも。
その文庫本は『車輪の下』だよね。
だったら文字通り『車輪』の『下』になにか隠されているのかもしれない」
20: ◆2cupU1gSNo 2013/06/27(木) 20:08:54.84 ID:Z5CFCVew0
「悪くない考えだな。
だが車輪と言ってもたくさんあるぞ。
生徒の自転車、教員の自動車、その下を全て調べるわけにもいかない。
となると部室という考え方もあるかもな。
鉄道研究会、サイクリング部、あったかどうかは知らないが、
その部室の床、もしくは階下の教室になにか隠されている可能性はあるかもしれない」
「うん、いい着眼点だね。
何なら今から行ってみるかい?
安楽椅子探偵には憧れるけど、現実の探偵は足で情報を稼ぐものだからね。
ホータローの主義には合わないだろうけどね」
それはもっともだ。
だが千反田の『ゲーム』に頭を悩ませているよりは、足を使った方がまだ健康的だった。
精神的疲労が肉体的疲労を勝ることは決して少なくない。
ならば足で千反田の『ゲーム』に付き合ってやることこそが、俺にとって一番いい選択なのだろう。
俺は椅子から腰を上げようとして、瞬間で躊躇した。
何かを見落としているような気がしたからだ。
千反田は俺たちに『ゲーム』を仕掛けた。
それもおそらくは今得ている情報だけで解決できる『ゲーム』を。
だとするならば、俺はこの場で『ゲーム』をクリアしてみせるべきではないのか?
23: ◆2cupU1gSNo 2013/07/01(月) 21:10:23.34 ID:wMCLhwQ+0
「行かないのかい、ホータロー?」
腰を上げかけた俺を見て里志が首を捻る。
しかしその目は疑問の色に染まっているわけではなかった。
里志も気付いているのだ。
これでは『ゲーム』の答えには弱いのだと。
車輪=鉄道研究会、もしくはサイクリング部という答えではあまりに単純なのだと。
俺はもう一度深く椅子に座り直し、気になっていたことを里志に訊ねた。
「里志、どうして『車輪の下』なんだ?」
「ホータローが千反田さんに貸したんだろう?」
「そうじゃない。
どうしてこの自伝風小説の題名が『車輪の下』なのかってことだ。
さっき聞いた三十文字以内のあらすじでは、内容と車輪に関連性が見受けられない。
最終的に事故死すると言っていたな?
それともこの『車輪の下』の主人公は轢死でもするのか?」
「それだとあまりにシニカルなタイトルだけれど、そうじゃないよ、ホータロー。
僕も最初は分からなくて調べてみたんだけどね、
この小説の『車輪』にはヘッセの暗喩が含まれてるみたいなんだよ」
「なるほどな、暗喩か。
思い付きだが『簡単に取り換えられる部品の様な自分』でも表しているのか?
いや、これは車輪というより歯車の方が適切だが」
「いい線だけど惜しいね。
もったいぶる必要もないから教えてあげるよ、ホータロー。
この小説の『車輪』はね、主人公を押し潰す社会の仕組みを暗喩しているんだ。
天才的な能力を持った主人公が周囲の期待に押し潰され、
自暴自棄になって慣れない酒に酔い、最終的には事故死する。
これが正しい『車輪の下』のあらすじさ。
ちなみに死因は溺死だよ。
慣れない酒に酔った挙句に川に落ちて溺死してしまうんだ」
なぜかそこで里志が複雑な表情を浮かべる。
「ホータローは周囲の期待に押し潰されることはないのかな?」とでも言いだけだ。
しかし俺は自身を天才だと考えたことは一度もないから、気にはならなかった。
俺は省エネを愛する一般人だ。
それよりも『車輪』の暗喩だ。
『車輪』が社会の仕組みを暗喩している。
その仕組みは『社会』そのものと言い換えることもできるだろう。
『社会』が『車輪』のように誰かを押し潰すことがあるのか、
まだ人生経験の少ない一介の高校生でしかない俺にははっきりと言えない。
もしかするとそのようなこともあるのかもしれない。
しかしそれは今は関係のないことだった。
俺は静かに里志に視線を投げかける。
俺の質問に応じながら気付いたらしく、里志もゆっくりと頷いた。
24: ◆2cupU1gSNo 2013/07/01(月) 21:10:54.49 ID:wMCLhwQ+0
「『車輪』が『社会の仕組み』の暗喩だとしたら、
鉄道研究会よりもそっちの方を優先的に調べてみるべきかもね。
もちろん社会そのものの下を調べるとかそういう意味じゃなくて」
「『社会科教室』か」
理科ほどではないが、社会科も多くの備品が必要な教科だ。
地図、映像、資料。
それらの備品を教室まで運ぶ教師がいないわけではないが、
我が母校のほとんどの社会科教師は生徒の方に社会科教室まで足を運ばせさせていた。
正直面倒ではあるが、もし俺が彼らと同じ立場なら間違いなくそうするだろう。
『ゲーム』、いや、今の場合は『クイズ』に近いか。
普通の問題でもそうだが、『クイズ』には複数個の解答があってはならない。
それでは参加者と主催者の間に公平性が保てないからだ。
そう考えるとするならば、『車輪』というヒントだけでは実に解答が曖昧だ。
自動車や自転車、それらに関する部室などこじつければいくらでも見つけることができるじゃないか。
しかし『車輪』が『社会』というヒントになれば、その数もぐっと絞れる。
まさか校外の社会博物館まで探れという『ゲーム』でもないだろう。
あくまでこれは『ゲーム』なのだ。
それも千反田が十分以内に準備ができるような。
ならばこれで決まりだろう。
「里志、うちの学校に社会科教室はいくつある?」
俺はそれを知らない。
訪れたことがある社会科教室も一つだけだった。
里志は少し首を捻り、数秒後には笑顔で俺の質問に答えていた。
「三つかな。
主に日本史に使われてる教室、世界史に使われてる教室、
その他の授業に使われている教室の三つだったはずだよ。
例外的に社会の授業に使われている教室がなければ、それで間違いないと思う。
でもこの場合は例外まで考える必要はないよね?」
「『ゲーム』だからな。
例外をいくつも考え始めたら成立しなくなる。
あくまでよく考えれば分かる程度の問題を考えているはずだ。
目的は掴めないが、千反田だってそんな意地悪をしたくて俺たちに『ゲーム』を仕掛けたわけじゃないだろう。
これは解ける『ゲーム』でないと意味がないんだ。
例外は無視して構わないだろうな」
「『オッカムの剃刀』だね」
前に読んだ小説で聞いた覚えがある。
はて、どんな意味だったか。
「仮定が多過ぎても意味がないってことだよ、ホータロー」
さいですか。
里志にはわざわざ難解な言葉を使いたがる傾向がある。
しかしそれだけ言えれば満足だったのか、わざとらしく咳払いをしてから里志が続けた。
25: ◆2cupU1gSNo 2013/07/01(月) 21:11:23.97 ID:wMCLhwQ+0
「それでどうするかい?
社会科教室はとりあえず三つあるからね。
一番近い教室から当たってみるかい?」
「もしかするとそのヒントもあるかもしれないな。
なあ里志、社会科教室は第一、第二という感じに数字が割り振られてたか?」
「そう……、いや、違うな。
第一、第二社会科教室はあるけど、第三社会科教室はないんだ。
確か第三社会科教室の正式名称は社会科資料室だったはずだよ」
それがどうかしたのかい、ホータロー?」
「いや、もしかしたらこの文庫本が何刷かにヒントがあるかと思ってな。
だが社会科教室が数字で区分されていないのなら意味がなさそうだ」
「そうかもね」
一応確認してみるがこの『車輪の下』は第七刷だった。
確証はないが刷数は関係ないだろう。
これ以上文庫本を探ってもヒントは残されていなさそうだ。
ならば後は足で稼ぐ時間か?
足で稼げばこの『ゲーム』の攻略は終わるのだろうか?
「ここからだと社会科資料室が近いよ、ホータロー。
一階にある教室だから、下の教室に何かがあるってこともなさそうだね。
下の教室自体ないわけだし。
この教室は床だけ調べればよさそうだね」
それは里志がなにげなく呟いた言葉だったのだろう。
しかしその言葉が俺には引っかかった。
まだ考えていなかったことを思い出したからだ。
『下』の意味。
その意味が階下なのか床なのか、俺にはその意味が掴めていない。
やはりまだ俺は何かを見落としているのだろうか?
瞬間、俺はまだ文庫本の中に調べていない箇所があることに気が付いた。
本の中身もカバー裏も刷数も落書きも調べた。
だがもう一ヶ所だけ俺には調べ忘れた場所があったのだ。
俺は焦る気持ちを抑えて紙製のブックカバーに手をかけた。
さっきは下の本来の『車輪の下』の表紙ごと外したブックカバー。
今度は千反田が『ゲーム開始!』と記した紙製のブックカバーだけを外してみる。
「あっ」
盲点だったと言わんばかりに里志が声を上げた。
俺にもこれは盲点だった。
文庫本には『車輪の下』の本来のブックカバーが上下逆さまにかけられていた。
26: ◆2cupU1gSNo 2013/07/01(月) 21:12:04.37 ID:wMCLhwQ+0
これで決まりだろう。
俺は里志を連れてその教室に向かっていた。
こんな単純な仕掛けに気付かなかった自分が少し情けない。
「仕方ないよ、ホータロー」
俺を慰めるわけではないだろうが、里志が苦笑を浮かべながら言った。
「『ゲーム』のヒントとして本を渡されたら、誰だってその本の中身から調べる。
カバー裏に何か隠されてるかもってことには気付くだろうけど、
まさか紙製のブックカバーに隠された本来のブックカバーに仕掛けがあるなんてすぐには気付かない。
一見しただけでは全く同じなんだし、
カバー裏を調べるにしても紙製のブックカバーごと外すのは自然な行動だよ」
確かに自然な行動だ。
実際俺もそうしたし、カバー裏に何もなかったことに落胆した俺はそのまま文庫本に掛け直してしまった。
そのまま紙製のブックカバーを外してさえいれば、こんなにも遠まわりすることはなかったのだ。
千反田がこれを予期していたとは考えにくいが、してやられたという気持ちが大きい。
「それよりさ、ホータロー?
その教室で間違いないのかい?」
いつまでも起こったことを悔やんでいても仕方がないと言いたかったのだろう。
里志が俺の答えの続きを促し、俺も気を取り直して頷いて見せた。
「ああ、まず間違いない。
分かってみれば実に簡単な答えだ。
『車輪』はお前の言う通り『社会』の暗喩。
この学校で『社会』と関係のある教室は三つの社会科教室だ。
残った問題は『下』が何を意味しているかのだが、
上下逆に掛けられた本来のブックカバーを見れば一目瞭然だ」
「『下』じゃなくて『上』ってことかい?」
「馬鹿みたいに単純だと思うか?
しかしそれでいいんだ。
これは解かれるための『ゲーム』なんだからな。
無理に難解に考える必要は全くない。
それにそう考えれば、これで対象の教室が一つに絞り込める」
「どうしてだい?」
「第一、第二社会教室は何階にある?」
「四階……。
なるほど、そうか」
「四階の『上』は屋上だ。
そういう考え方もなくはないが、屋上ではあまりにも範囲が広過ぎる。
社会科教室でない教室の『上』でもあるしな。
これは『ゲーム』の解答としては面白い物じゃない」
「そうだね。
でもそれなら一階にある『社会科資料室』でもいいんじゃないのかい?
『上』の意味が完全に分かってるわけじゃない。
上の階の教室ではなく、『社会科資料室』の天井という可能性もあるじゃないか」
27: ◆2cupU1gSNo 2013/07/01(月) 21:12:49.52 ID:wMCLhwQ+0
「それはもちろんだ。
俺の考えが間違っていたらそっちに向かう予定だが、まず間違ってないはずだとも思ってる」
「それはなぜかな?」
「時間が足りないからだ」
「どういう意味だい?」
「憶えているのだろう?
千反田は十分でこの『ゲーム』の準備を終えたんだ。
十分の間に人目のない所に向かい、ブックカバーを掛け直し、
『ゲーム開始!』と記して、一階の教室に向かい、天井に何かの仕掛けをして部室まで戻る。
床ならともかく、天井への仕掛けは絶対に無理とは言わないが無茶だろう。
『社会科資料室』の鍵が開いている確証もないわけだしな。
しかも千反田はあの時、汗一つ掻いていなかった」
「誰か他に協力者が……、いや、それもなさそうだね」
「ああ、お前も知ってると思うが、千反田は携帯電話を持っていない。
とっさに思い付いたことを誰かに伝える手段がないんだ。
残るは千反田がこの『ゲーム』をずっと前から計画してたかどうかだが」
「そればかりは無駄な仮定の積み重ねにしかならないね」
俺は軽く笑ってさっきの言葉を里志に言い返してやった。
「オッカムの剃刀ってわけだ。
新しい仮定は一つの問題の答えを見届けてからでいい」
「そうだね、それが賢明だよ、ホータロー。
それに僕も千反田さんはこの『ゲーム』は急に思い付いたものだと考えているしね」
「なぜだ?」
「ブックカバーのシンナーの臭いだよ。
ずっと前から計画していたのなら、あの『ゲーム開始!』こそ早めに書いておけばいい。
それに千反田さんらしくないからね。
ホータローも気付いただろう?
『車輪の下』の本来のブックカバーにマジックペンが少し滲んでることに。
たぶん紙製のブックカバーを本に掛けたまま書いたんだろうね。
あんなの良家のお嬢様の千反田さんらしくないミスだよ。
人の本を汚してしまうなんて、普段の千反田さんなら絶対しない。
まず紙製のブックカバーを外して書いてから、本に掛け直せばいいだけのことなのに。
それくらい焦っていたんだね、きっと」
「そうかもしれないな。
それは同時に一階の教室の天井に細工などする余裕もなかったって事でもある。
つまり『ゲーム』の答えはここで間違いがない」
そうして俺たちは辿り着いた。
二階。
『社会科資料室』の真上に位置する教室。
『第二理科準備室』に。
31: ◆2cupU1gSNo 2013/07/09(火) 18:30:29.45 ID:eFUnsoWc0
『第二理科準備室』に鍵が掛けられているかどうか。
それが第一の関門だったが、その心配がないのは一目瞭然だった。
ドアが半開きになっている上に中から騒がしい声が聞こえていたからだ。
「失礼します」
無断で入るのも無作法だろう。
俺はひとまずの礼儀を示して『第二理科準備室』のドアを開いた。
「おっ、本当に来たよ」
「マジでっ?」
教室の中で騒いでいたのは六人。
その六人の瞳が一斉に俺たちの方に集まる。
『第二理科準備室』で活動しているのは生物部だと、ここに来るまでに里志が言っていた。
ならばおそらくこの騒がしい生徒たちは生物部なのだろう。
何人か見た覚えがある……気がする。
確か一年の頃に同じクラスに在籍していた顔もあるはずだ。
名前は憶えていないが。
それよりも「本当に来たよ」ということは、つまり俺の解答が正しかったということだ。
今はそれだけ分かれば十分だった。
「千反田えるからなにか預かっているか?」
事態を全て承知のようなので、細かい前置きを省いて率直に訊ねる。
率直過ぎたかもしれなかったが、眼鏡を掛けた短髪の女子が笑顔で応じてくれた。
「話は聞いてるよ、折木くん。
なんでも千反田さんと『ゲーム』をしてるんだって?」
『ゲーム』か。
その言葉に俺はまた違和感を覚える。
その女子の物言いにではなく、この『ゲーム』の存在自体に。
だがそれは今は考えても意味のないことだろう。
俺は湧き上がる違和感を押し留めて頷いた。
「ああ、そういうわけだ。
それを知ってるってことは、さっき千反田がこの教室に来たんだろう?
なにか預かっている物はないか?
もしくはこの教室でなにかをしていたとか」
「預かってるものは特にないよ」
彼女が笑顔で首を横に振った。
どうやら物ではなかったようだ。
ならば言伝という可能性も考えられる。
まさか新しい『ゲーム』を彼女に託しているということはないだろうな?
これからドミノ式に多くの『ゲーム』を仕掛けられても困るのだが。
それが第一の関門だったが、その心配がないのは一目瞭然だった。
ドアが半開きになっている上に中から騒がしい声が聞こえていたからだ。
「失礼します」
無断で入るのも無作法だろう。
俺はひとまずの礼儀を示して『第二理科準備室』のドアを開いた。
「おっ、本当に来たよ」
「マジでっ?」
教室の中で騒いでいたのは六人。
その六人の瞳が一斉に俺たちの方に集まる。
『第二理科準備室』で活動しているのは生物部だと、ここに来るまでに里志が言っていた。
ならばおそらくこの騒がしい生徒たちは生物部なのだろう。
何人か見た覚えがある……気がする。
確か一年の頃に同じクラスに在籍していた顔もあるはずだ。
名前は憶えていないが。
それよりも「本当に来たよ」ということは、つまり俺の解答が正しかったということだ。
今はそれだけ分かれば十分だった。
「千反田えるからなにか預かっているか?」
事態を全て承知のようなので、細かい前置きを省いて率直に訊ねる。
率直過ぎたかもしれなかったが、眼鏡を掛けた短髪の女子が笑顔で応じてくれた。
「話は聞いてるよ、折木くん。
なんでも千反田さんと『ゲーム』をしてるんだって?」
『ゲーム』か。
その言葉に俺はまた違和感を覚える。
その女子の物言いにではなく、この『ゲーム』の存在自体に。
だがそれは今は考えても意味のないことだろう。
俺は湧き上がる違和感を押し留めて頷いた。
「ああ、そういうわけだ。
それを知ってるってことは、さっき千反田がこの教室に来たんだろう?
なにか預かっている物はないか?
もしくはこの教室でなにかをしていたとか」
「預かってるものは特にないよ」
彼女が笑顔で首を横に振った。
どうやら物ではなかったようだ。
ならば言伝という可能性も考えられる。
まさか新しい『ゲーム』を彼女に託しているということはないだろうな?
これからドミノ式に多くの『ゲーム』を仕掛けられても困るのだが。
32: ◆2cupU1gSNo 2013/07/09(火) 18:33:37.47 ID:eFUnsoWc0
「それなら他に千反田が何か」
「ねえ、ホータロー」
里志が横から俺たちの会話に入ってくる。
口八丁と言ってもいい里志だが、こんな時に茶々を入れるようなやつでもない。
俺は言葉を止めて里志に視線を向けてやる。
「どうした里志」
「どうしたも何もほら」
呆然と称するほどではないが、若干驚いた表情で里志が教室の中をその指で指し示す。
指先を辿ってみると指し示していたのはひとりの女子生徒だった。
短髪の眼鏡の女子より背はかなり高い。
前髪をカチューシャでまとめて額を出し、後ろ髪を丸ごとポニーテールにして纏めている。
髪型はともかくとしてどこかで見た覚えがある様な気がする女子だった。
いや、見た覚えどころかこいつは。
「千反田?」
思わず疑問符付きで呟いてしまう。
ドアを開いた時にとりあえず一通り見回していたはずなのだが、全く気がつかなかった。
髪型が違っているのもあるが、制服の着こなしまで普段と千反田とは似ても似つかない。
何しろセーラー服の下の肌着をスカートの中に入れていないのだ。
今更考えるまでもなく神山高校の制服は古めかしいセーラー服であり、その下には肌着を着るのが一般的だ。
そしてその肌着はスカートの中に入れる。
何人かそうではない女子を見かけた事はあるが、あんなものは例外中の例外だ。
活発な性格の伊原ですら肌着はスカートの中に入れている。
常識以前の問題だろう。
特に良家の子女であり、好奇心の強さ以外は楚々とした性格の千反田だというのに。
千反田は肌着をスカートの中にしまっていないのだ。
それどころかその臍まで見えんばかりにセーラー服をずり上げている。
「変装成功だね、千反田さん!」
眼鏡の女子が振り向き様に千反田に親指を立てる。
外見とは裏腹にノリのいい性格らしい。
しかしこれは変装とかそういう次元の話なのか?
確かに俺と里志はこの教室のドアを開いた当初に千反田の存在に気付かなかった。
眼鏡の女子はこれも『ゲーム』の一環として捉えてるらしいが、俺にはどうもそう思えない。
大体にして『ゲーム』の答えが『第二理科準備室』である以上、千反田が変装する理由などどこにもないはずだ。
「『ゲーム』クリアおめでとう!」
そう言いながら千反田が俺たちの方に歩み寄って来る。
どうしたことだろう。
俺にはその千反田の歩き方にすら違和感を覚えてしまう。
普段の千反田の歩き方が取り立てて清楚というわけではない。
今の千反田の歩き方が取り立てて下品というわけでもない。
だが今の千反田の歩みは俺が知っている千反田のそのどれとも異なっていた。
やはりそうなのか?
俺の違和感に間違いはなかったということになるのか?
「思ってたより来るのがずっと早くてびっくりしたよ。
うん、これなら大丈夫そうだな、折……ホータロー」
ホータロー。
まるで里志がそう呼ぶように、間の抜けた語尾の伸ばし方で千反田が俺を呼ぶ。
これまで千反田が俺をそう読んだことは一度もなかった。
しかし不思議なことに俺はその現実を簡単に受け容れ始めていた。
いや、むしろしっくりくる。
今の千反田ならそう呼んで然るべきという気すらする。
33: ◆2cupU1gSNo 2013/07/09(火) 18:36:56.49 ID:eFUnsoWc0
「里志もお疲れさん。
流石はホータローのデータベースだよな。
『車輪の下』の意味、教えてあげたんだろ?」
「あ、うん……」
今度こそ呆然と称するべきだろう。
里志が目に見えて呆気に取られた表情を浮かべていた。
珍しい表情だがそれに見入っているわけにもいかないだろう。
おそらくは俺も似た表情を浮かべているに違いない。
「驚くのも分かるんだけどさ」
俺の耳元に千反田の顔が近付く。
千反田は元来パーソナルスペースの狭いきらいがあるお嬢さんだ。
だがこれほどまでの距離まで接近された経験は数えるほどしかないはずだった。
「おまえたちに頼みたいことがあるんだよ」
今まで見たことのない表情で、千反田が俺にそう耳打ちした。
34: ◆2cupU1gSNo 2013/07/09(火) 18:37:42.18 ID:eFUnsoWc0
一章 きつねにはあぶらあげ
1.六月二十五日
「あれ、ふくちゃんはまだなんだ?」
田井中と気まずいわけではない沈黙を過ごしていると部室のドアが開いた。
横開きのドアを開いたのは最近髪留めを使うようになった伊原だった。
髪留めを使うようになったからと言って特別大人びた様子はなかったのだが、
精神は俺よりもかなり強靭だったらしいことを実感させられているのも確かだった。
「おいーっす、摩耶花」
田井中がシャーペンでリズムを刻むのを中断し、伊原に笑いかける。
まったく見事なものだ。
なんの屈託もなく見える笑顔。
俺が田井中の立場であれば、これほど気楽に立ち振る舞えはしないだろう。
「やっほー、たいちゃん」
伊原が俺には視線も向けずに田井中に笑いかける。
こちらも見事なものだった。
不可思議を遥かに超える現象を目の前にして、なお明るく振る舞えるのは女の特性なのだろうか。
しかしたいちゃんとはまた珍妙な呼び方を考えたものだ。
千反田はちーちゃんと呼び、大日向はひなちゃんと呼んでいた伊原。
伊原の中では、あだ名は苗字由来でなければならないという戒律でもあるのかもしれない。
鞄を置いて定位置の席に座ると、伊原はやっと俺の方に視線を向けた。
「あ、折木もいたのね」
いたら悪いのか。
二年に進級すればその舌鋒も治まるかと淡い期待をしていたのだが、やはり淡い期待は水泡に帰すものらしい。
今更伊原に丁寧な態度を取られても気持ちが悪いだけだが。
「そうそう、たいちゃん。
今日はこんなのを持ってきたんだけど」
俺の返事を聞くこともなく伊原の視線は田井中に戻る。
いつものことなので俺も構わずに田井中に視線を向けた。
伊原が自分の鞄の中を漁り始める。
無理矢理入れていたらしく苦戦していたが、数秒後に取り出したのは長い二本の棒だった。
いや、二本の棒などと婉曲した表現をする必要もない。
伊原が取り出したのはドラムスティックだ。
よくぞあの鞄の中にしまいこめたものだと思う。
真新しい輝きから察するにどうやら新品らしいが。
「おっ、いいスティックじゃんか、摩耶花!
これどうしたんだ?」
田井中が興奮気味の声を上げる。
俺にはドラムスティックのよしあしは分からないが、
軽音部でドラマーをやっていたらしい田井中が言うのならいいスティックなのだろう。
「たいちゃんへのプレゼント。
ドラムを叩けなくてストレスが溜まってるんじゃないかと思って。
実はね、軽音部の友達に頼んだらドラムを貸してもらえる事になったのよ。
どう、たいちゃん?
今からでも連絡すれば貸してもらえると思うけど、叩いてみる?」
「マジかよ!」
35: ◆2cupU1gSNo 2013/07/09(火) 18:38:46.07 ID:eFUnsoWc0
田井中から満面の笑みがこぼれる。
やはりドラムを叩きたい気持ちは募っていたのだろう。
それくらいなら俺にも分かってはいた。
でなければ田井中もわざわざシャーペンでリズムを刻んだりはしない。
田井中の笑顔に満足したのか、伊原も滅多に見せない清々しい笑顔を浮かべた。
「マジよ、たいちゃん。
どうする? 今から叩いちゃう?」
「じゃあ頼んじゃっていいか?
いやー、最近全然叩けてなくてウズウズしてたんだよなー。
悪いな、ありがとう摩耶花」
「いいのいいの、それくらいお安い御用よ」
どうやら今から軽音部を訪ねる方向で話が決まりそうだ。
音楽室は少し遠いが田井中のドラムを聴きたい気持ちもある。
俺が椅子から腰を上げると、伊原が肩を竦めながら言った。
「あら、あんたも来るの?」
「行ったら悪いのか?」
「別にいいわよ。
静かにしてられるんならね」
別に俺は騒がしい男じゃないだろう。
しかしてっきり「来るな」と言われるかと思っていたのだが、意外に嫌がらなかったな。
心当たりがないわけじゃないが、今はそれについて伊原に訊くのはやめておこう。
軽音部の部室で一度くらいは話す機会もあるはずだ。
それにしても伊原も田井中と親しくなったものだ。
当然ではあるが、初顔合わせの時は険悪なんて雰囲気ではなかった。
自分にも他人にも厳しい伊原だ。
納得のいかない現象には真っ向勝負のスタンスをあの時も崩さなかった。
その伊原が田井中とこんなに親しくなった原因はおそらくはあれだろう。
「おーい、早く行こうぜ、ホータロー!
置いてくぞー!」
いつの間にか荷物をまとめた田井中がドアの先で俺を呼んだ。
よっぽどドラムが叩きたかったらしい。
俺は文庫本を鞄の中に片付けると、肩を竦めてから田井中と伊原の後を追った。
里志を置いてきぼりにすることになるが、まあ、あいつのことだ。
独自の情報網で軽音部にまで辿り着くことだろう。
39: ◆2cupU1gSNo 2013/07/16(火) 19:22:23.89 ID:aapC8NGG0
2.六月十三日
「なにをしたの、折木」
第二理科準備室で話を続けるわけにもいかない。
千反田の知人という眼鏡の女子に別れを告げ、
古典部の部室に戻った途端に伊原に浴びせられた第一声がそれだった。
里志もいるというのにこいつにとって、なにか問題を起こすのはいつも俺で確定らしい。
「なにかしてるのは俺じゃない」
そもそも用事があるんじゃなかったのか。
それを俺に訊かれるのを承知だったように、伊原はわざとらしく携帯電話を取り出した。
液晶画面にはメールの一文が表示されている。
メールの内容を確認するまでもない。
俺がじろりと視線を向けてやると、苦笑交じりに里志が頷いた。
「後を引く問題になるかもしれないからね、
これは摩耶花にも立ち会ってもらった方がいいと思ってメールしておいたんだよ」
なるほど、里志も里志で古典部の未来を考えてはいるのだ。
俺に千反田の対応を任せてなにをしているのかと思っていたが、そういうことだったらしい。
できることならこの伊原の反応も先読みして、俺の弁護をメールの中で一言はしてほしかったものだが。
いや、里志のことだ。
分かっていて伊原に最低限のことしかメールしていない可能性もあるか。
それは俺への嫌がらせというわけではおそらくない。
伊原に余計な先入観を持たせずに今の千反田を見せたかったのだろう。
「大丈夫、ちーちゃん?
また折木が変なことを言い出したんでしょ?
きっと『千反田の髪型を見てると暑苦しいからポニーテールにしろ』とかなんとか。
無理してそんな恰好をしてなくてもいいんだからね?
折木にはわたしの方からきつく言っとくし」
俺のことをどれだけ傍若無人な人間だと考えているのか。
ただ伊原も今の千反田の様子がおかしいということは分かっているらしい。
携帯電話を鞄の中に片付けた伊原は甲斐甲斐しく千反田の心配をしていた。
伊原と千反田がどの程度親しいのか俺は知らない。
だが伊原の前で千反田が今の様なカチューシャの使い方をしたことはなかったはずだった。
オールバック風に前髪を流してカチューシャでまとめる。
それがカチューシャの本来の使い方のはずだが、
そういう使い方をしている女子を俺はあまり見たことがない。
例えばかの入須先輩もカチューシャを着用しているが、今の千反田の様には着用していなかった。
40: ◆2cupU1gSNo 2013/07/16(火) 19:23:13.56 ID:aapC8NGG0
「大丈夫だって、摩耶花。
この髪形もこの着崩しも私が好きでやってるんだ。
蒸し暑いのにこんな髪型じゃ蒸してしょうがないじゃん?
だからさ、あんまりホータローを責めてやるなって」
「えっ……。
うっ、うん……」
伊原が目を丸くして言葉を失う。
無理もない。
伊原よりずっと前から千反田の異変と向き合っていた俺たちでさえまだ戸惑っているのだ。
特に我が古典部の中で千反田と最も親しいのは同じ女子部員の伊原だろう。
突然の親友の異変に言葉を失うのは当たり前のことだった。
だがさすがは伊原と評するべきなのか。
すぐに丸くしていた目の端を鋭く釣り上げると、俺と里志の腕を掴んで部室の奥まで引きずった。
納得がいかない事にはとことんまで追いすがる。
まったく伊原らしい行動だった。
伊原は俺の耳元で怒気を孕んだ声を唸らせる。
「ちょっと折木……!
ちーちゃんになにをさせてるのよ……!」
まったく本当に伊原らしい。
だから俺がなにかをしたわけではないと言っているのだが。
しかし俺の口から伊原になにを言っても無駄だろう。
それが分かるくらいには俺と伊原は長い付き合いなのだ。
俺は里志にとりあえずの状況を説明させるために、軽くその肩を叩いた。
里志もそのつもりだったらしく、嫌な顔一つ見せずに伊原に説明を始めた。
「ホータローのせいじゃないよ、摩耶花。
この件に関してはホータローともちろん僕も関与していないんだ。
『ゲーム』にしたってそうさ。
なんの伏線もなく、急に千反田さんが僕たちに切り出してきたんだよ」
「そうは言ってもふくちゃん……。
ちーちゃんが自分から『ゲーム』を仕掛けるなんて……」
『ゲーム』のことは里志がメールで伝えていたらしい。
そして伊原が引っ掛かっているのもやはりその一点だったようだ。
千反田が自分から『ゲーム』の開始を切り出す。
これまでの古典部の活動を見る限り、そんな前例はなかったはずだった。
もちろん千反田の方から俺に様々な難題を吹っかけるのは日常茶飯事だが、
あれは『ゲーム』ではなく、千反田の純粋な好奇心からの『疑問』であり『お願い』だった。
つまりありえないのだ、千反田が自分から『ゲーム』を仕掛けるなんてことは。
今の恰好をするのと同じくらいに。
しかしありえないと目を逸らしているわけにもいかない。
現実にありえなかったはずのことが既に起こってしまっているのだから。
これが意味することはつまり。
「ちょっといいかー?」
いつの間にか俺たちの後ろに回っていた千反田が囁いていた。
振り返って見てみた千反田の表情は笑顔だった。
しかし普段の柔和な笑顔とは異なり、俺が初めて見る悪戯っぽい笑顔だった。
俺はこの違和感の正体を分かりかけてきている。
おそらくは里志も伊原も分かりかけてきている。
それをすぐには受け容れられないだけだった。
41: ◆2cupU1gSNo 2013/07/16(火) 19:24:06.17 ID:aapC8NGG0
もしかしたら千反田はその俺たちの考えを予測していたのかもしれない。
いや、むしろこの違和感を与えるために、
千反田は俺たちに『ゲーム』を仕掛けてきたのではないか?
今の自分が俺たちのよく知る千反田とは違うことを俺たちに強く実感させるために。
その思考を俺の表情から読み取ったのだろうか。
千反田はまた悪戯っぽく笑うと俺たちの席を指し示した。
「部屋の端で集まっててもしょうがないしさ、とりあえず座らないか?
この部屋、下手にクーラー使うと怒られるんだろ?
一ヶ所に固まってると暑苦しくてしょうがないじゃん?」
それは千反田の言う通りだった。
俺も里志も伊原もかなり汗を掻いてしまっている。
その汗の原因が暑苦しさだけにあるのかどうか定かではないが。
それぞれの定位置に座り、俺たちは一斉に千反田に不審の視線を投げかけた。
「そんな怖い目で見んなよー」
千反田が苦笑を浮かべる。
承知の上の行動だったのだろうが、さすがに一度に不審の視線を向けられては戸惑うらしい。
その事実に俺は少しだけ安心する気分だった。
これで少なくとも今の千反田にも人並みの感情があることになる。
「あっ、そうだ、ホータロー」
なにかを思い出したのか、それともこれも予定調和の内なのか。
とにかく千反田がわざとらしく指を立てて切り出した。
今は千反田、いや、こいつの方針に従っておく方が得策だろう。
俺はこいつの身振りから不審な点を見逃さないよう、油断せずに頷いてみせる。
「どうした?」
「さっきも言ったけど、ゲームクリアおめでとうな。
もうちょっと時間が掛かると思ってたんだけど、予想以上に早かったよなー。
これなら私のお願いも聞いてもらえそうで助かるよ」
「お願い?」
伊原が横から首を傾げる。
第二理科準備室でのこいつの言葉を聞いていないのだから、当然と言えば当然だった。
「おまえたちに頼みたいことがあるんだよ」とあの時のこいつはそう俺たちに耳打ちしていた。
この『ゲーム』の開催理由はつまりはそういうことだったのだ。
「試験は合格ってわけか?」
「合格も合格だよ、ホータロー。
まさかこんなに鋭い奴だとは思ってなかったよ。
仕方ないことだったんだけど試しちゃってごめんな、ホータロー。
それに里志も」
「試験ってどういうことなのよ、折木?」
また伊原が俺に突っ掛かってくる。
だが今はそれが助かった。
誰かに今の事態を説明することは、想像以上に自分の中の考えをまとめさせてくれるものだからだ。
俺だってまだ完全に事態を把握し切れてるわけじゃない。
小さく深呼吸してから、俺は伊原に説明を始める。
いや、むしろこの違和感を与えるために、
千反田は俺たちに『ゲーム』を仕掛けてきたのではないか?
今の自分が俺たちのよく知る千反田とは違うことを俺たちに強く実感させるために。
その思考を俺の表情から読み取ったのだろうか。
千反田はまた悪戯っぽく笑うと俺たちの席を指し示した。
「部屋の端で集まっててもしょうがないしさ、とりあえず座らないか?
この部屋、下手にクーラー使うと怒られるんだろ?
一ヶ所に固まってると暑苦しくてしょうがないじゃん?」
それは千反田の言う通りだった。
俺も里志も伊原もかなり汗を掻いてしまっている。
その汗の原因が暑苦しさだけにあるのかどうか定かではないが。
それぞれの定位置に座り、俺たちは一斉に千反田に不審の視線を投げかけた。
「そんな怖い目で見んなよー」
千反田が苦笑を浮かべる。
承知の上の行動だったのだろうが、さすがに一度に不審の視線を向けられては戸惑うらしい。
その事実に俺は少しだけ安心する気分だった。
これで少なくとも今の千反田にも人並みの感情があることになる。
「あっ、そうだ、ホータロー」
なにかを思い出したのか、それともこれも予定調和の内なのか。
とにかく千反田がわざとらしく指を立てて切り出した。
今は千反田、いや、こいつの方針に従っておく方が得策だろう。
俺はこいつの身振りから不審な点を見逃さないよう、油断せずに頷いてみせる。
「どうした?」
「さっきも言ったけど、ゲームクリアおめでとうな。
もうちょっと時間が掛かると思ってたんだけど、予想以上に早かったよなー。
これなら私のお願いも聞いてもらえそうで助かるよ」
「お願い?」
伊原が横から首を傾げる。
第二理科準備室でのこいつの言葉を聞いていないのだから、当然と言えば当然だった。
「おまえたちに頼みたいことがあるんだよ」とあの時のこいつはそう俺たちに耳打ちしていた。
この『ゲーム』の開催理由はつまりはそういうことだったのだ。
「試験は合格ってわけか?」
「合格も合格だよ、ホータロー。
まさかこんなに鋭い奴だとは思ってなかったよ。
仕方ないことだったんだけど試しちゃってごめんな、ホータロー。
それに里志も」
「試験ってどういうことなのよ、折木?」
また伊原が俺に突っ掛かってくる。
だが今はそれが助かった。
誰かに今の事態を説明することは、想像以上に自分の中の考えをまとめさせてくれるものだからだ。
俺だってまだ完全に事態を把握し切れてるわけじゃない。
小さく深呼吸してから、俺は伊原に説明を始める。
42: ◆2cupU1gSNo 2013/07/16(火) 19:24:57.60 ID:aapC8NGG0
「言葉通りの意味だ、伊原。
こいつが俺たちに仕掛けた『ゲーム』は試験だったんだよ。
俺たちがこいつのお眼鏡に適うかどうかの試験のな。
さっきこいつ自身が言ってただろう?
『私のお願いを聞いてもらえそう』だって。
つまりこいつはその『お願い』を切り出していいものか、俺たちを計りかねていたんだよ。
そのために俺たちに『ゲーム』を仕掛けたんだ」
「言おうとしてることは分かるけど……」
伊原が言いよどむ。
だが俺には伊原がなにを言おうとしているのかは分かっていた。
視線を向けてみると里志も真剣な表情で頷いていた。
里志にも伊原の言いたいことは分かっているのだろう。
そう、伊原はこう言いたいのだ、千反田が俺たちを試す『必要性』があるのかと。
そしてそれは皆無なのだ。
伊原は俺をそうよく思っていないようだが、
それでも千反田が俺の推理力を信頼していることは信じている節があった。
俺ではなく俺を信じる千反田を信じているように見えた。
だからこそ伊原は疑問に思ってしまうのだろう。
千反田が俺の推理力を試したという現実を。
千反田は俺の推理力を試したりはしないのだから。
しかしその千反田が俺を試したということは、つまり信じがたいがそういうことになる。
これがたちの悪い冗談でなければ、だが。
「訊いておきたいことがある」
俺は視線を伊原からそいつに向け直し、わざと低い声で威圧的に言ってみせる。
半分笑っている様な表情をしていたそいつは、真剣な表情になって俺に訊ね返した。
「何だ、ホータロー?」
「これはたちの悪い冗談ではないんだな?」
「冗談の方がいいのか?」
どうだろう。
それは俺自身にもよく分からなかった。
たちの悪い冗談であってくれた方が今後の展開は楽そうだ。
妙な冗談に目覚めた今の千反田の様子を、たまに思い出したようにからかってやる。
そういう薔薇色なのか灰色なのかよく分からない未来が待っていることだろう。
だが話はもうそう単純ではないし、
俺の知っている千反田はこんなたちの悪い冗談を弄するタイプでもなかった。
だから俺は溜息をつきたくなってしまっているのだ。
「冗談じゃないんだよな、残念だけどさ」
そいつは寂しそうに微笑みながら続ける。
そう言うのならおそらくはそうなのだろう。
ならば俺も今の事態に真剣に向き合うしかない。
俺は溜息をつくのを断念し、そいつの続きの言葉を首肯で促した。
そいつはまた真剣な表情になって続ける。
43: ◆2cupU1gSNo 2013/07/16(火) 19:25:44.17 ID:aapC8NGG0
「私のホータローたちへのお願いはさ、
私の今の状態をどうにかしてほしいってことなんだ」
「今の状態……?」
そう呟いたのは里志だった。
里志も薄々感付いてはいるのだろうが、これまで前例のない事態に戸惑っているようだ。
俺だってそうだ。
頭の中で答えを出しているというのに、その答えを自分自身で信じられていない。
まったく滑稽なものだった。
「ホータロー達がそれをお願いできる相手なのか、
信用してもいい相手なのか私には分からなかったんだよな。
でも私の中のこの子が言ってたんだよ、ホータロー達は信用できる相手だって。
そういう思い出が私の中にあったんだ。
だから試させてもらったんだよ、本当に信用できる相手なのか。
何となく思いついたこの『ゲーム』を解決してもらうことでさ」
「咄嗟に思いついたわりには手の込んだ『ゲーム』じゃないか」
「ははっ、そりゃそうだ。
だってあれ、正確には私が考えた『ゲーム』じゃないもんな。
この『ゲーム』はさ、この子……、えるって子が読書してて何となく思いついた『ゲーム』なんだ。
『車輪の下』の車輪は『社会』の暗喩なんですね。
それなら、この本を使えばちょっとした『ゲーム』ができるかもしれません。
この本が示す場所はどこでしょう? そんな感じの『ゲーム』を。
うふふ、折木さんならわたしの思いついた『ゲーム』なんて、すぐに解決してしまうんでしようけど。
って、そんな感じにさ。
私はそのえるって子が思いついたゲームをちょっとアレンジしただけなんだ。
まあ、えるって子はその問題を思いついただけで、
それをホータローに出題するつもりは全然なかったみたいなんだけどさ」
「ちょ……、ちょっと待ってよ!
えるって子ってどういうことっ?」
伊原が椅子から立ち上がって叫ぶ。
だが伊原も分かっていて叫ばずにはいられなかっただけだろう。
その表情には戸惑いだけでなく納得の色も強く見えた。
そうだ。
『えるって子』。
そいつのこの言葉こそ、今までの全ての違和感の正体を物語っている。
そうしてそいつは一度深呼吸してから俺たちを見回し、全ての違和感の答えを口にした。
「言葉通りの意味だぞ、摩耶花。
私の名前は田井中律。
お前たちがよく知ってる千反田えるって子じゃないんだ。
いや、身体はえるって子の物なんだけどな。
ついさっき、気付いたらいつの間にかこのえるって子の身体になってたんだ。
いや、このえるって子の中に私の心が入り込んだってことになるのか?
まあ、今はどっちでもいいか。
とにかくさ、私はお前たちが知ってるえるって子じゃないんだ。
それでお願いしたいんだよ。
どうしてこんなことになっちゃったのか。
どうして私がこのえるって子の中にいるのか。
その原因を突き止めてほしいんだ。
……頼めるか?」
48: ◆2cupU1gSNo 2013/07/21(日) 21:38:52.89 ID:o00vW39W0
3.六月十四日
「粗茶ですがどうぞ」
水筒から湯のみに注いだお茶を里志が客人の前に振る舞った。
是非はともかくとして、こういう細かい気配りを忘れないのが里志らしい。
粗茶という言葉は久しぶりに聞いた気がする。
「ああ、ありがとう」
おそらくは社交辞令なのだろう。
今日の古典部の客人の唇が軽く微笑みのように歪んだ。
しかしその眼光の鋭さは決して衰えておらず、若干不機嫌な様子に見えた。
いや、この人の表情は大体において不機嫌そうか。
女帝と呼ばれ続けるのも大変だということなのだろう。
前髪を横に流してから、女帝こと入須が湯のみに口を付ける。
振る舞われた物はきちんと頂く。
当たり前のことなのだが、この人がやると逆に不自然に思えるのが自分でも滑稽だった。
前にこの入須に渋いお茶の店に連れられたことがあるからかもしれない。
あの店のお茶の値段に受けた衝撃はまだ忘れていない。
普段あの下手なディナーよりいい値段のお茶を飲んでいる入須に、
里志が水筒から注いで粗茶として振る舞ったお茶がどれだけ通用するのか甚だ不安でもある。
だがその粗茶に喉を潤した入須の反応は意外なものだった。
「おや」
「入須さんの口には合いませんでしたか?」
「いや、いい茶だと思うよ、福部君。
水筒から注がれた茶がこれほどの味だとは思っていなかった。
君はいい茶葉を持っているようだな」
「お褒めに預かり光栄です、入須さん。
実を言うと自宅からいい茶葉を見繕って拝借した物なんですよ」
嬉しそうに里志が頭を掻く。
その口振りから察するに入須がいい茶の店を贔屓にしていることは承知の上だったらしい。
そういえば昨日入須に連絡を取ろうと俺が発案した際、
巾着袋からメモ帳を取り出して入須の電話番号を俺に伝えたのも里志だった。
俺と伊原は入須の連絡先を知らなかった。
数度関わっただけの赤の他人に近い単なる後輩なのだから、その方が当たり前だろう。
しかし里志は普段から持ち運んでいる巾着袋の中に、赤の他人に近い先輩の電話番号を忍ばせていたのだ。
しかも俺が「連絡先の交換をいつの間にしていたんだ」と訊ねると、こともなげに里志は「してないけどね」と答えた。
つまり里志が一方的に入須の電話番号を知っていたというわけだ。
さすがはデータベースを自称するだけあるが、ちょっと怖いぞ、里志。
49: ◆2cupU1gSNo 2013/07/21(日) 21:39:32.42 ID:o00vW39W0
「ところで折木君、もう一度詳しく説明してくれないか?」
里志の振る舞ったお茶を飲み終わった頃、入須が人を射抜くようなその視線を俺に向けた。
不機嫌ではないのだろうが、俺のことを不審に思っているのは間違いない。
それはそうだろう。
電話番号を教えたつもりもない後輩から急に連絡を受けて、
更にその後輩がわけの分からないことを言い出せば、入須でなくても不審に思うに決まっている。
もちろんその可能性を考慮してなかったわけじゃない。
入須が俺の話を不審に思うのは百も承知だった。
それでも俺は入須に連絡を入れておくべきだと思ったのだ。
おそらくは俺の知っている中で、今の状況に冷静な考察ができる人間は入須だけだ。
いや、姉貴ならば更に冷静な考察ができるかもしれないが、あの人にはあまり関わってほしくなかった。
更に面倒な事態になりそうな気もするし、この問題はできる限り身内だけで解決すべきだと思うからだ。
入須が俺の身内というわけではない。
入須が千反田の身内という意味でだ。
「もう少し待ってください、入須先輩。
千反田の今の姿を見てもらった方が早いと思います。
その方が俺が万の言葉で説明するよりも効果的でしょう」
「そうなのか?
折木君がそう言うのならばそうなのだろうな。
分かった、もう少し待とう」
「お忙しい中にすみません、入須先輩」
「いいさ。
千反田の様子がおかしいというのなら、私としても傍観しているわけにはいかないからな」
千反田と家ぐるみで付き合いがあるという入須。
俺が彼女を呼んだのはなにもその冷静な判断だけを期待してのことじゃない。
もしも今の状態が続くようなら、家ぐるみで親しい入須に千反田のフォローをしてもらうしかないと思ったからだ。
俺も何度か千反田宅を訪れたことこそあるが、単なる同じ部の部員でしかなく、
しかも異性の俺にどれだけ千反田のフォローができるか分かったものじゃない。
いや、今は千反田ではなく、田井中と呼ぶべきなのだろうか。
昨日そいつは自分のことを千反田えるではなく田井中律なのだと言った。
そいつが教えてくれたのは、その『田井中律』という名前と漢字だけだった。
訊きたいことはいくらでもあったのだが、
「今日ももう遅いから続きは明日な」という理由で唐突に田井中が切り上げたのだ。
もちろん不安や不審は溢れ出さんばかりにあった。
しかし田井中がそう言う以上、俺たちとしても引き止めるわけにはいかなかった。
そうして「道は分かってるから大丈夫!」と微笑み、
田井中は千反田の自転車に乗って立ち漕ぎで颯爽に去っていった。
立ち漕ぎで、だ。
自転車に乗っている千反田を見かけるのは日常茶飯事だが、
立ち漕ぎで自転車に乗っている千反田の姿を見るのは初めてだった。
しかも下手をするとそのスカートの中身まで見えてしまいそうな立ち漕ぎだった。
いや、俺は千反田のスカートの中身を目にしたわけじゃない。
誰に弁護しているわけでもないが。
あの千反田の姿を見ると千反田家一同がいたく驚くのではないかと思ったが、その考えはすぐに振り払った。
飄々として見えるが、あの田井中と名乗るあいつがそこまで短慮ではないと思えたからだ。
田井中は俺たちを信用するために『ゲーム』を仕掛けたと言った。
俺たちが信頼に値するかどうかを見極めるために。
ならばあえて千反田家を騒がせるようなことはしないのではないのだろうか。
もちろんあいつの言葉通り、あいつが千反田の気まぐれの演技ではなく田井中であると仮定するのならだが。
ひとまずあいつがなんであれ、短慮でないことだけは確かだった。
あいつは俺たちの前で、普段の千反田と全く違う振る舞いをしてみせた。
その気になれば千反田の言葉遣いを真似できるくせに、
わざと男言葉に近いさっぱりとした言葉遣いをしてみせていた。
おそらくは自分が普段の千反田ではないことを俺たちに印象付けるために。
50: ◆2cupU1gSNo 2013/07/21(日) 21:40:15.35 ID:o00vW39W0
「お待たせしました」
入須がお茶の二杯目を飲み終わるくらいの時間が経った頃、
古典部のドアが開けられて、珍しく大人しい様子の声が響いた。
ドアを開いたのは伊原だった。
妙に大人しい声色だったのは、中に入須がいることが分かっていたからだろう。
「遅かったね、摩耶花。
どうしたんだい?」
「ごめんね、ふくちゃん。
準備は結構前にできてたんだけどちーちゃんが……」
里志の疑問の言葉に伊原が口ごもる。
それからすぐ、その伊原の様子を吹き飛ばす明るい声が部室に響いた。
「いやー、ごめんなー。
この学校のことが気になって、ちょっとだけ摩耶花に案内してもらってたんだよ。
つっても知ってる所ばっかだったんだけどな」
同じ声色だというのに語調も口調も全く違うその声。
その事実は昨日から千反田の状態が何も変わっていないことを示していた。
脱力する思いで視線を向けてみると、髪型だけは普段通りの千反田がそこで笑っていた。
ポニーテールにしていなければ、カチューシャで額を出してもいない。
あの眼鏡の某という女子に借りたというカチューシャは返却したのだろうか。
「おーっす、冬実。
今日は冬実も部室に来てくれてるんだな」
「冬実……?」
右手を挙げて千反田、いや、田井中が入須に微笑み掛ける。
さすがの入須も田井中のその様子には面食らったようだった。
これまで見たこともない怪訝な表情で首を傾げている。
俺から話として聞いていたとは言え、ここまで千反田が変貌してるとは思っていなかったのだろう。
「これはどういうことだ、千反田?
ふざけているわけではないんだろうな?」
入須が立ち上がって田井中に詰め寄っていく。
まさか入須がここまで積極的に田井中の様子を不審に思うとは俺も予想していなかった。
いや、入須だからこそかもしれない。
入須は俺たちとは比較にならないほどの昔から千反田のことを知っている。
俺たちの知らない千反田の姿もたくさん知っているのだろう。
だからこそ俄かには信じがたいのだ、田井中という存在を。
これでも二人は幼馴染みなのだから。
「ごめんな、冬実。
これでもさ、私はふざけてるつもりじゃないんだよ。
そりゃまだ私自身だって半信半疑だし、こんな状況に戸惑ってるんだけどさ。
でも冬実もホータローから聞いてるんだろ?
私がえるって子じゃないんだって」
「だがそれは……」
「そうだ冬実、一つだけ話をしていいか?
これを話すときっと冬実も信じてくれると思うんだけど」
「何だ?」
51: ◆2cupU1gSNo 2013/07/21(日) 21:41:08.62 ID:o00vW39W0
「こっちこっち」
入須の手を引いて、田井中が部室の奥に軽やかに走り出した。
なにを始めるつもりなのだろう。
俺がそう思った瞬間には田井中が入須の耳元で何かを囁き始めた。
見る見るうちに入須の表情が変わっていく。
「千反田、その話は……」
「べつに皆に話すつもりはないよ、冬実。
でもさ、どうしても信じてもらえないんだったら、悪いけど皆に話させてもらう。
心苦しいけど背に腹は代えられないしな。
えるって子は冗談でもそういうことをする子じゃないだろ?
つまり私はえるって子じゃないってことになるわけだよ。
これで証明にはなってると思うんだけど、どうだ?」
それから入須は熟考を始めた。
ありうるはずがない現実。
しかしありえている現実。
その矛盾からひとつの答えを導き出そうとしているのだと思う。
長い長い熟考の後、入須は半ば諦念混じりに頷いた。
「ひとまずお前がいつもの千反田ではないことの証明はできている」
「うん、オッケーだよ、冬実。
今はそれでいいと思うぞ?
脅すみたいなことをしてごめんな」
「いや、構わない。
私も同じ立場なら同じことをしていたかもしれないからな」
そうして入須と田井中は二人で軽く微笑み合った。
とにもかくにもこれで田井中のことについて話し合えるようになったわけだ。
それにしても田井中が入須に耳打ちしていたことはなんだったのだろう。
『お気に入りのうさちゃん』とだけはかすかに聞こえた。
入須が家でウサギでも飼っているということなのだろうか。
いや、それなら普通は『うさちゃん』ではなく『ウサギ』と言うだろう。
『うさちゃん』と呼ぶ場合、大抵その呼称が示すのは『ウサギのぬいぐるみ』の方が一般的だ。
となると、入須が家でウサギのぬいぐるみを可愛がっているということか?
女帝の印象に合わないが、だからこそ入須と千反田だけの秘密になりうる気もする。
いや、深く詮索するのはやめよう。
54: ◆2cupU1gSNo 2013/08/03(土) 18:25:07.43 ID:bLvktZR40
「んじゃ、始めようぜー」
田井中がどこにしまっていたのかヘアゴムで襟足を両側に結びながら席に座る。
ポニーテールにしていないとは思っていたのだが、
やはり長髪をそのまま垂らしているのは蒸し暑いらしい。
両側で結んでいるとは言え、その髪型はツインテールではなかった。
俺は女の髪型に詳しいわけではないから何とも言えないのだが、おさげと呼んで相違ないだろう。
ポニーテールならばともかくとして、そんな髪型をしている彼女を見るのは初めてだった。
おそらくは入須もそうだったのだろう。
奇異に満ちた視線を田井中に向けてはいたが、何も言わずに里志が用意していた椅子に腰を落ち着けた。
場所としては田井中の隣だ。
千反田を最も過去から知っている入須には、田井中の一番近くで彼女を観察してもらいたかった。
「それじゃあ僕から質問させてもらってもいいかい?」
飄々とした声を最初に上げたのは里志だった。
その表情からはこの状況をどう捉えているのかは掴みがたい。
メモ帳とペンを取り出しているわけだから、少なくとも情報をまとめようとしているのは確かだろうが。
しかしその里志のメモ帳を横取りする奴がいた。
「メモはわたしが取るわ、ふくちゃん」
伊原だった。
その声色からしていかにも不機嫌そうだ。
いや、声色だけではなく、漂わせる雰囲気も表情も全て不機嫌そうではあったのだが。
まず間違いなく部室で俺と二人きりになった時の五倍は不機嫌に見える。
だがその不機嫌の塊のような伊原に動じることもなく、里志は笑顔で頷いた。
「分かったよ、摩耶花。
メモは摩耶花にお願いするから、どんな些細なことでもメモに残しておいてくれるかい?」
「うん、任しといて」
伊原はそうしてほんの少しだけ笑顔を見せたが、すぐにその口を真一文字に結んだ。
俺にはそれが少しだけ意外に思えた。
伊原ならば田井中を質問責めにするものだとばかり思っていたからだ。
なにしろ親友の千反田の異変なのだ。
俺よりは遥かに友情に厚い伊原ならば、もっと熱心にこの問題に相対しそうなものだ。
いや、だからこそか、と俺は思い直す。
熱心にこの問題に相対するために、伊原は口を真一文字に結んでいるのだ。
まずは伊原自身の中にある疑問と相対するために。
まだなんとも理解しがたいこの状況に関する情報をまとめるために。
伊原はそれくらいこの問題と真摯に向き合おうとしているのだろう。
里志もその伊原の気持ちを察したようで、軽く笑顔を浮かべながら続けた。
55: ◆2cupU1gSNo 2013/08/03(土) 18:25:40.20 ID:bLvktZR40
「それじゃあ改めるけど、僕から質問させてもらっても?」
伊原、俺、入須が順々に首肯する。
その様子を見届けた後、田井中がおさげを横に流しながら頷いた。
「よっしゃ、じゃあ里志から質問してくれていいぞ。
答えられることならなんでも答えてやるぞー」
「それでは遠慮なく。
確か君は田井中さんって言ってたよね?
改めて詳しい自己紹介をしてもらってもいいかい?」
「おっ、そうだったな。
私の名前は田井中律。
昨日も言ったんだけどさ、気が付いたらこのえるって子の中にいたんだよ」
「田井中律、か」
怪訝そうに入須が呟いた。
その名前は前もって入須に伝えてはいたのだが、ひょっとすると心当たりがある名前なのだろうか。
俺がそれを口にするより先に、耳聡く里志が入須に訊ねていた。
「入須先輩、ひょっとしてその名前に心当たりでも?」
「いや、ないな。
すまない、珍しい苗字だと思っただけなんだ」
「いえいえ、入須先輩が謝る必要なんてないですよ。
でも確かにそうですね、田井中とは珍しい苗字ですもんね」
田井中。
少なくとも俺の知人にその苗字を持つ人間はいなかった。
かなり珍しい苗字だと言えるだろう。
とは言え、苗字の珍しさ程度で事態が変わるわけでもないのだが。
それより残念なのは、入須に田井中律という名前に心当たりがなかったことだった。
俺たちよりも千反田と遥かに長い付き合いの入須ならば、
田井中の存在の片鱗でも知っているかと期待していたのだが、どうやら当てが外れてしまったようだ。
物事はそう単純でもないということらしい。
「確かに田井中ってちょっと珍しい苗字かもなー」
頭を掻きながら田井中が軽く微笑む。
田井中自身も自らの苗字が珍しいことは自覚していたらしい。
しかし微笑んでいるのはそれだけが原因ではないようだった。
里志の顔を観察するみたいにして眺め、「でもさ、里志」と楽しそうに続けた。
56: ◆2cupU1gSNo 2013/08/03(土) 18:26:08.45 ID:bLvktZR40
「実は私、弟がいるんだよ」
「田井中さん、弟がいるんだ?」
「うん、それでさ、どんな縁の巡り会わせなのかな。
実は弟の名前も『さとし』って言うんだよな。
漢字は違うんだけどさ」
「へえ、それは確かに不思議な巡り合わせだね」
里志も微笑むと田井中は宙に漢字を書き始めた。
俺の位置から見ると鏡文字だから分かりづらかったが、耳と公という文字だけは判別できた。
おそらくは聡と書くのだろう。
別に田井中の弟の名前が『さとし』だとして、なにが変わるわけでもない。
だが一つ情報が増えたことだけは確かだった。
田井中律。弟を持つ姉。
いや、ちょっと待てよ?
「ちょっと質問させてもらってもいいか?」
不躾かと思ったが、里志と田井中の会話の中に入らせてもらう。
わざわざ挙手してみせたのは、これからする質問が失礼なのを承知だったからだ。
他人の様子を気にしていないと思われがちな俺だが、失礼だと分かっている質問はさすがにしづらい。
「お、何だよ、ホータロー?」
「田井中律って言うんだよな、お前の名前は」
「そうだけどどうした?」
「お前は女なのか、それとも男なのか?」
「あっ……!」
小さく声を上げたのは伊原だった。
里志と入須も俺の言葉が盲点だったらしく、頻りに頷き始めた。
そうなのだ。
一人称こそ『私』ではあるが、『律』と言う名前はどちらかと言えば男名前だ。
言葉遣いもほとんど男言葉なのだし、この『田井中』が男であっても全くおかしくない。
長髪を嫌うのも、臍まで出しそうな服装に抵抗がないのも、それが原因だと考えられないだろうか。
数秒の沈黙。
なんとも形容しがたい表情の田井中がまた頭を掻いて続けた。
その表情は少し悲しそうにも見えた。
「あー……、確かにそこから説明しないといけなかったよなー……。
私って男名前だし、言葉遣いも男っぽいって言われるしさー……。
でも違うぞ、これでも私は女なんだよな。
こう見えてもれっきとした女子高生なんだよ。
いや、それを証明しろって言われたら、確かに証明しようがないんだけどさ……」
これは失礼なことを聞いてしまったようだ。
失礼を承知で聞いたことなのだが、申し訳なさを感じるのも確かだった。
田井中の言う通りその証明はしようがない。
しかし田井中が俺たちに嘘をつく必要がないことくらいは分かる。
田井中律は弟を持つ姉。それも女子高生。
それが分かっただけでも収穫と考えよう。
そう考えなければ、俺の質問はただお互いにとって恥ずかしいだけのものになってしまう。
だがとりあえずこれだけは伝えておかなければなるまい。
俺は頭を下げて「悪かったな、田井中」と謝った。
57: ◆2cupU1gSNo 2013/08/03(土) 18:26:58.27 ID:bLvktZR40
「いいってホータロー。
なにも知らないホータローがそう思うのも無理ないもんな。
それに逆に安心したよ。
それくらい疑り深く私のことを考えてくれた方が、私としても助かる。
なにしろ私自身が私のことをよく分かってないんだもんなー」
それは俺に対する慰めの意味もあったのだろう。
だが半分は本音でもあったのだと思う。
田井中自身が田井中のことをよく分かっていない。
無理もない。
この状況、一番戸惑っているのは他ならぬ田井中だろう。
田井中の言葉を全て信じるのならば、だが。
いや、もう俺は田井中の言葉を信じることに決めていた。
入須も言っていたじゃないか。
『いつもの千反田ではないことの証明はできている』と。
そうだ、田井中が何者であるにしろ、彼女は『いつもの千反田ではない』のだ。
ならばそれを前提として田井中と言う存在を認めるべきなのだろう。
それが千反田の理由があっての演技にしろ、それ以外の超常的な理由から発生した存在にしろ。
田井中律は確かにここにいるのだから。
「そういえばちょっと思ったんだけどさ、田井中さん」
不意に首を傾げながら里志が呟いた。
もう気を取り直したのか、田井中はすぐに笑顔でそれに応じる。
「ん、どうしたんだよ、里志?」
「田井中さんは僕と同じ名前の弟を持った女子高生なんだよね?」
「そうだけど?」
「今、千反田さんがどこにいるのか、田井中さんは分かるのかい?」
「えるって子の心が、ってことか?」
「そうだね、千反田さんの心さ。
今、千反田さんの身体の中に田井中さんの心がある。
だったらありきたりな答えではあるけど、
田井中さんの身体の中に千反田さんの心があるって仮定はできないかい?」
「実はさ、私もそう考えてはいたんだよ、里志。
よくあるじゃん、心と心が入れ替わっちゃう漫画とかドラマ。
ほら、何だっけ?
俺がおまえでなんちゃらとかって感じのやつだよ。
そう考えると、私の身体の中にえるって子の心があるのかもしれないけど……。
でもごめんな。
今、私の身体がどうなってるのか私にも分からないし、
増してその私の身体の中にえるって子の心があるのかどうかも分からないんだよな」
心と心の入れ替わり。
現状についてまず誰もが辿り着く答えがそれだろうとは思う。
あの映画の話ではないが、精神の入れ替わりが起これば当面の事態の説明はできる。
だがそれには入須が毅然とした態度で異を唱えた。
「却下だよ、福部君。
単なる精神の入れ替わりというのはまずありえない」
俺も入須のその言葉には同感だった。
里志も自分の答えの誤りには気付いていたようで、気を悪くした風でもなく頷いていた。
「はい、僕もそう思います、入須先輩」
61: ◆2cupU1gSNo 2013/08/07(水) 19:58:16.88 ID:p1PCJ82U0
「えっ、どうしてよ、ふくちゃん?」
伊原が意外そうな声を上げる。
千反田の身体の中に田井中が存在するという現象の真偽はともかく、
仮に現実にその現象が起こるとしたならば精神の入れ替わりだと何となく想像していたのだろう。
しかしそう単純な問題でもない。
里志は伊原の反応を予想していたらしい。
静かな微笑みを浮かべて説明を始めた。
「千反田さんと田井中さんの心が入れ替わった。
僕たちと田井中さんの『ゲーム』に参加してなかった摩耶花がそう思うのは無理ないかもね。
でもね、やっぱり単なる心の入れ替わりじゃないと僕は思うんだ。
『ゲーム』の答えが『第二理科準備室』だったのは摩耶花にも伝えたよね?
いや、『ゲーム』の答えが問題なんじゃないよ。
どうして田井中さんが『第二理科準備室』の場所を知ってたのかが問題なんだ。
ところで聞いてみるけど、摩耶花は『第二理科準備室』の場所を知ってるかい?」
「……大体の場所なら」
自信がなさそうに伊原が呟いた。
俺は聡に聞くまでその場所を知らなかった。
自分と関係のない教室の場所など、誰にとってもその程度の存在だろう。
「あ、そっか」
伊原がなにかに気付いたように頷く。
こいつも決して鈍いタイプの人間じゃない。
里志に視線を向け、確認するように頷いてから続けた。
「わたしたちでも大体の場所しか知らない教室を、
どうして『この子』が知ってたのかって話になるのよね」
まだ『田井中』と呼ぶことに抵抗があるのか、
伊原は田井中を『この子』という曖昧な呼称で呼んだ。
どうにも伊原らしいが今はそれは置いておこう。
伊原の言う通り単なる精神の入れ替わりであるのならば、
田井中が『第二理科準備室』の場所を知っているはずがない。
「それだけではないよ」
入須が小さな苦笑を浮かべて会話に参加する。
この人が滅多に見せない表情だった。
「田井中さんと言ったかな。
彼女は私と千反田しか知らないはずのことを知っていた。
しかも普段の千反田であれば話題にするはずもない個人的な事実を。
それがなんなのかは一身上の都合で省かせてもらうけれど、
彼女がそれを知っていたという事実は私がこの身で保証するわ。
つまり現在田井中さんと千反田の身に起こっている現象は、
あの映画のような単なる精神の入れ替わりではないということになる。
単なる精神の入れ替わりでは、そんな知識を得ることなど不可能だから。
しかしこの現象が精神の入れ替わりではないとも言い切れない。
もしかするとこの田井中さんの身体に千反田の精神が宿っている可能性もある。
もっとも何度も言うようにそれは単なる精神の入れ替わりではなく」
62: ◆2cupU1gSNo 2013/08/07(水) 19:59:25.81 ID:p1PCJ82U0
「『記憶を共有した入れ替わり』……ですか」
俺が言うと入須が薄く笑った。
私の台詞を取らないでほしい、という意味の笑みだろうか。
だが俺としてもそろそろこの不可思議な現象に一枚噛みたかった。
誰かの論を聞いているだけという状態は、存外にも省エネとは程遠いからだ。
「その通りだよ、折木君。
精神の入れ替わりが生じているかどうかは私にも分からない。
もっと他の現象が生じているのかもしれない。
けれど『田井中さんが千反田の記憶を所有している』ことは間違いない。
私たちの過去を知っていたことからそれは明らかだし、
そういえば昨日田井中さんは千反田の自転車で帰宅したのだろう?」
俺は頷く。
考えてみるまでもないことだった。
『第二理科準備室』や入須の過去の件に言及する必要もない。
一番最初、千反田が奇声を上げたあの瞬間、
おそらくは初めて田井中が現れたあの瞬間には、
彼女は既に俺と里志の名前を知っていたじゃないか。
それだけでもう田井中の中に千反田の記憶があると決まったも同然だ。
残された問題はどうして千反田が、
自らと関係の薄いはずの『第二理科準備室』の場所を知っていたのかだが。
まあ、それは千反田のことだ。
入学当時に学校の案内図を見て暗記でもしたのだろう。
高校一年生の初め、たった一度の合同授業で俺のフルネームを暗記していた千反田なのだ。
それくらいは造作もないはずだ。
「そうなんだよなー、大当たり。
私の中にはえるって子の思い出があるんだよ。
それでホータローや冬実たちのことが分かったってわけだ。
へへーん、驚いたか?」
おさげにした髪を流しながら、田井中が悪戯っぽく笑う。
簡単に予想できることだから驚きはしなかったが、
その田井中の悪戯っぽい表情を何度見ても慣れない自分には驚いてしまった。
自分の適応力の無さに呆れてしまいそうになるが、これは仕方ないと自己弁護する。
なにしろ昨日までの千反田の表情とは明らかに違い過ぎるのだから。
見知った顔の想像していなかった表情は、存外に心臓に悪いものらしい。
俺は一つ咳払いをしてから、直視しがたい田井中の顔にどうにか視線を向けた。
「ああ、驚いたよ、田井中。
驚きついでに一つ訊きたいんだが構わないか?」
「あんま驚いてなさそうだぞ、ホータロー……。
ま、いいや、それでなんだ?
答えられそうなことならなんでも答えるけどさ」
「千反田の思い出が自分の中にあるってのはどんな感じなんだ?
千反田の身体の中に自分の心があるって自覚した時には、もうその思い出はあったのか?」
「うーん、そうきたか。
ちょっと説明が難しいんだけどさ、思い出そうと思えば思い出せるって感じか?
例えば私がホータローの顔を見るだろ?
それで私が『誰だっけ?』って思うと、『折木奉太郎』って頭に浮かんで来るんだよな。
思い出せるんだよ、えるって子とホータローの思い出が。
不思議だろ?
私はホータローのことを初めて見るってのに」
「それは確かに不思議な現象だな」
63: ◆2cupU1gSNo 2013/08/07(水) 20:00:45.90 ID:p1PCJ82U0
「だろー?
でもさ、不思議だけど助かったんだよな。
なにも分からない状態でこんなことになったら私だって戸惑うよ、そりゃ。
それでも私の中にはなぜかえるって子の思い出があった。
そのおかげで取り乱さずにホータローたちを頼ろうって思えたんだ」
「俺たちを頼る?」
「入れ替わったのかどうなのか、
とにかく急に私の心がえるって子の身体に入ってさ、
初めてホータローと里志の顔を見た時にえるって子の思い出が見えたんだよ。
この古典部でホータローが解決した事件のこととかもさ。
それと一緒にこのえるって子のホータローたちへの信頼感も分かったんだ。
ホータローたちは本当に困った時に頼れる人だって、えるって子が考えてたんだろうな。
それで私は考えたんだよ。
このホータローたちが本当に頼れる人なのか試させてもらおう、ってさ」
「それがあの『ゲーム』だったってわけなんだな」
「ああ、急に作った割にはまあまあな『ゲーム』だっただろ?
つっても私はえるって子が考えてた問題を軽くいじっただけなんだけどさ。
それでも『ゲーム』の結果は想像以上。
私が考えてたのよりずっと早くホータローたちは『ゲーム』をクリアした。
それで私も思ったんだよ。
えるって子の考えてる通りホータローたちは頼れる相手なんだってさ」
照れているのかもしれない。
田井中は頬を染めて頭を軽く掻いていた。
俺は里志と視線を合わせて小さく溜息をつく。
呆れたわけではなく、困っているわけでもない。
ただなんとなく出ただけの溜息だった。
そこまで頼られているのなら、もう投げ出すわけにはいかないじゃないか。
そもそも投げ出すつもりもなかったわけだが。
「そういえば、話を聞いててちょっと考えてみたんだけど」
話の輪から少し外れていたことが悔しかったのだろうか。
伊原が人差し指を立てて突然そんなことを言い出した。
いや、伊原も伊原なりに考えての発言なのだろう。
俺は肩をすくめてから伊原に視線を向け直した。
「言ってみろよ、伊原」
「別にアンタに伝えたいわけじゃないわよ」
さいですか。
「まあ、それはともかくとしてね。
単なる入れ替わりじゃないなら、憑依って考え方はどうかなって思ったの」
「なるほど、憑依とはいい考えだね、摩耶花」
「そう?」
里志に褒められた伊原が上擦った声を上げる。
もう慣れたがこのダブルスタンダードはどうにかならないものか。
しかし憑依か。
田井中が千反田の記憶を持っているのならば、そちらの方が可能性は高いかもしれない。
少なくとも頭をぶつけてお互いの精神が入れ替わったと考えるよりはずっといい仮説だろう。
伊原もやはりちゃんと考えているのだ。
64: ◆2cupU1gSNo 2013/08/07(水) 20:01:30.06 ID:p1PCJ82U0
「ひょーい?」
間の抜けた発音で田井中が呟く。
考えてないのは田井中だけか。
いや、こいつも考えてはいるはずだ、おそらくは。
説明好きなのは間違いない里志が目を輝かせて、嬉しそうに熱弁を始めた。
「憑依だよ、憑依。
幽霊とかが人間の身体に取り憑くって映画、観たことないかな?」
「あ、その憑依だったのか。
見たことあるぞ、確かに。
スパイダーウォークとかそんなんだろ?
ってそれじゃ私ってもう死んでるってことかよ?」
「いやいや、憑依はそれだけじゃないよ、田井中さん。
憑依にも色々あるからね。
田井中さんが言うように幽霊に始まり、
生霊、きつねとかの動物霊、神様、悪魔、大自然、果てや宇宙人まで。
それこそ数限りない例の憑依があるんだよ」
「……その中だと幽霊か生霊でいいわ、私」
田井中が脱力して呟く。
それは俺も同感だった。
いくらなんでもそれ以外の相手の憑依現象は相手にしたくない。
きつねでも勘弁だな。
言葉が通じそうにないし、俺は動物が苦手な方だ。
そもそも宇宙人の憑依現象ってなんなんだ、里志よ。
68: ◆2cupU1gSNo 2013/08/10(土) 20:05:24.78 ID:j1J2QAVV0
「正確にはスパイダーウォークは幽霊じゃなくて悪魔ね」
耳聡く伊原が田井中の発言に訂正を入れる。
律儀と言うかその自らの立ち位置を忘れない姿勢に敬礼。
あの映画のタイトルはエクソシストだから、対する存在は確かに悪魔なわけだな。
もし仮に田井中が悪魔であれば、もっと簡単にこの問題は解決するのだろうか?
いや、そう簡単にはいかないだろう。
俺には悪魔祓いの知人などいないし、田井中の様子からはとても悪魔の眷属には見えない。
ならば幽霊の類だろうか。
幽霊であれば神社にでも相談してみるか?
例えば十文字になど相談してみるのはどうだろう。
十文字自身が神社の仕事に精通しているわけではないだろうが、
それでもなんの変哲もない灰色の高校生活を送っている俺よりは霊に関する知識もあるはずだ。
もちろんそれを抜きにしても、この状態が続くようなら十文字と一度話をせねばなるまい。
一度神社を邪魔した際、千反田と十文字はとても親しげだった。
少なくとも俺にはそう見えた。
ならば彼女を蚊帳の外に置いて、この問題と相対するべきではないだろう。
「ふむ、憑依現象という考え方は面白いかもしれない」
口元に手を当てて呟いたのは入須だった。
よく通る重い声に一斉に入須に視線が集う。
「憑依した存在が何物であるかという問題はあるが、理に適っているよ。
例えば福部君、君は憑依現象に詳しいらしいけれど、狐憑きを知っているかな?」
「狐憑きですか?
一応知識としては知っていますけど」
「狐憑きは古来から日本にある民間信仰だ。
ある人物がその人物とは思えない支離滅裂な行動を取る。
当時にはその現象に対して、狐が憑いたと理由付けることしか出来なかった。
けれど近年になって狐憑きの本当の理由が仮定され始めてきた。
その仮定がなんなのか、福部君はそれも知っている?」
「……ええ」
珍しく里志が躊躇いがちに頷いた。
訊ねた側の入須も複雑な表情を浮かべていて、
伊原も若干嫌悪感を露わにした顔になっていた。
俺も気分が悪くないと言ったら嘘になる。
そうせざるを得ないとは言え、入須はそういう話題に踏み込もうとしているのだ。
俺たちがあえて遠まわりして避けようとしていた話題に。
「ん、なんだよ、どうしたんだ?」
分かっていないのは当事者の田井中だけだ。
無邪気に見えるその表情の田井中にこの仮定をぶつけるのは気が引ける。
しかし入須は苦味を帯びた表情を浮かべながらも続けた。
この話題に踏み込むきっかけを作った張本人の責任を取ろうとしているかのように。
69: ◆2cupU1gSNo 2013/08/10(土) 20:06:34.20 ID:j1J2QAVV0
「田井中さん」
「なんだ冬実?」
「狐憑き、憑依、そんな大仰な言葉を使わなくても、
現代社会ではそれを説明するにふさわしい言葉があるわ。
その方面の知識に精通している必要もない。
田井中さんだって一度どころか十度以上は耳にしているはずのその言葉。
その人物が突然全く異なる他人になったかのような現象……、
ここまで言えばもう分かるだろうけれど」
「ああ、それならもう私にも分かったぞ。
『多重人格』……だよな?」
『多重人格』。
これまた頻繁に扱われ過ぎて陳腐になり始めた言葉だ。
これを題材に一体どれほどの物語が創作された事だろう。
あまり専門的な知識に詳しくなく見える田井中ですら知っているほどに。
正直言って俺たちは最初からその可能性を考慮していた。
精神の入れ替わり、憑依現象、それらよりも先に話題に上げるべきだった。
しかし俺たちは『多重人格』の話題を意図的に避けていた。
「その通り、田井中さん。
狐憑きの原因は多重人格ではなかったのかと現代では疑われているわ。
もちろんその仮定が正しかったのか今更確かめようもないけれどね。
ねえ、田井中さん。
田井中さんが千反田の別人格であるという可能性はないかしら?」
まったく……。
本当に言いにくいことを口にできる人だ。
田井中が千反田の別人格だと仮定するということは、
田井中の中にある記憶全ての否定に繋がることだというのに。
『お前は千反田の想像力が作り上げた空想なんだ』と言っているも同然だというのに。
それに気付いているのかいないのか、田井中の口から次に出たのは意外な言葉だった。
「やっぱ冬実もそう思うか?
いや、実は私もそうじゃないかって思ってたんだよなー。
ほら、色々話し合ってもらって悪いんだけど、
心の入れ替わりや憑依とかってあんまりリアルじゃないじゃんか。
そういう超常現象っぽいのよりは多重人格の方が全然それっぽいもんな」
あっけらかんと言う田井中の様子に俺は少し圧倒された。
田井中は俺が想像していたよりもずっと落ち着いた人間なのかもしれない。
少なくとも俺は自分が誰かの別人格ではないかと指摘されて、動揺しない自信はあまりない。
「ま、私がえるって子の別人格ってんならそれはそれでいいよ。
そう考えるのが一番妥当だし、今の状況で一番可能性が高いのもそれだしさ。
でも一つ疑問もあるんだよな。
私の中のえるって子と関係ない思い出のことだ。
この思い出はなんなんだろうな?
私の中には私が私として生きた十八年間の思い出があるんだよ。
幼馴染みと同じ高校でバンド組んだり、卒業旅行でロンドンに行ったり、
今でもはっきり思い出せるってほどじゃないけど、私にとっては大事な思い出があるんだ。
これはなんなんだろう?」
それは俺にとっても疑問だった。
田井中が単なる多重人格であるとして、それほど詳細な偽りの記憶が必要になるだろうか?
通常の多重人格であれば、千反田と同じ記憶を持っていて然るべきではないだろうか。
70: ◆2cupU1gSNo 2013/08/10(土) 20:07:10.95 ID:j1J2QAVV0
「だったらさ」
不意に明るい声が部室の中に上がった。
声を上げたのは伊原だった。
「その思い出をちょっと詳しくまとめてみない?
わたし、まだあなた……田井中さんのことをよく知らないし。
思い出だけじゃなくて、生年月日とか趣味とか特技とかも。
そうして情報をまとめていたら、なにかが見えてくるかもしれないでしょ?」
「おっ、それいいな摩耶花!
よし、そんじゃこれからちょっと履歴書でも書いてみるか!
あっ、質問には答えるけど、書記は摩耶花で頼むな!
書くのめんどいし!」
「なによそれー……」
伊原が苦笑すると、田井中が人懐こい笑顔で伊原の肩を叩いた。
やりとりこそ無茶苦茶だが、伊原の発案は悪くなかった。
考えてみれば俺はまだ田井中のことをほとんど知らない。
知らなくても解決できるのならばなによりだったのが、そういうわけにもいかなそうだ。
しかし助かったのは、田井中が多重人格に対して深く言及しなかったことだ。
知識としては知っていても、多重人格が発症する原因までは深く知らなかったらしい。
それを俺は知っているし、おそらくは里志も伊原も知っている。
仮にも文学に関係する部に所属しているのだ。
それくらいの知識はある。
様子を見る限り入須も知ってるように見える。
多重人格の発症原因。
そのほとんどは幼少期の心的外傷。
しかも極近い身内からの。
俺は千反田の家のことを深くまで知っているわけではない。
数度訪れたことがあるだけだ。
けれどその数度訪れたことがあるあの家で、
少なくとも一人娘を大切に育てているように見えるあの家で、
千反田が多重人格を発症するほどの心的外傷を負ったと考えたくはなかった。
71: ◆2cupU1gSNo 2013/08/10(土) 20:07:48.55 ID:j1J2QAVV0
名前 田井中 律
年齢 十八歳
誕生日 八月二十一日
家族構成 父・母・弟
学校 桜が丘女子高等学校
所属 軽音部
特技 ドラム
趣味 アテレコ
好きな色 黄色
好きな食べ物 キャベツ
バンドの名前 放課後ティータイム
以下、伊原の思いついた質疑応答が並ぶ。
76: ◆2cupU1gSNo 2013/08/15(木) 18:34:29.98 ID:bubXOpmF0
年上だったのか。
伊原が質疑応答を終えて最初に思ったのがそれだった。
落ち着かず騒がしいイメージの田井中からは想像していかなったからだ。
なんとなく視線を向けてみるが、意外に入須は平然とした表情をしていた。
田井中が自分より年上だと知って驚いているかと思ったのだが。
いや、よく考えてみるまでもなく、田井中より騒がしい年上は俺の周囲にも大勢いる。
姉貴にしたってそうだし、沢木口もそうだろう。
特に沢木口と比較すれば、田井中など大人しい部類に区別できる気もする。
「軽音部なんですか、田井中さん」
年上だと知ったからか、里志があからさまに丁寧な態度を取った。
しかしその口元は軽く歪んでいた。
おそらくは田井中の次の反応を予想しての言葉だったのだろう。
「急に丁寧にならなくてもいいぞ、里志。
さっきまで普通の話し方だったのに、急に変えられると気持ち悪いって」
「それじゃあ、お言葉に甘えて言い直すよ。
田井中さんって軽音部だったのかい?」
「よーし、それでいいぞー、里志。
それで質問の答えなんだけど、実はそうだったんだよな。
これでも部長でドラムやってるんだぜ?」
田井中が部長の軽音部か。
あまり人の上に立つタイプには見えないが、
部長とは人の上に立てるかどうかで決められるものでもあるまい。
人を使うのが全く得意ではない千反田でも我が古典部の部長を務めているのだ。
少なくとも千反田よりは田井中の方が部長に相応しい人材ではあるだろう。
「ちーちゃんがドラム……」
複雑な表情で伊原が呟く。
こいつの中ではまだ田井中は千反田でしかないのだろう。
田井中という存在は千反田の冗談の一環だと信じているのかもしれない。
もっともかく言う俺も田井中の言っていることを全面的に信用しているわけではない。
信用していいか計りかねている。
そのための質疑応答だ。
しかし伊原の呟きにも一理あった。
今の田井中の身体の持ち主、
つまり楚々としたお嬢様に見える千反田がドラムを叩いている姿を想像してみる。
髪や頭を縦横無尽に振り乱してタイトなリズムを刻む千反田。
……想像できん。
一種のホラーのようにも思えるな。
そこで俺は一つのことを思いついた。
単純な発想からの思いつきだったが、口に出してみるとそう悪くなくも思えた。
77: ◆2cupU1gSNo 2013/08/15(木) 18:35:28.15 ID:bubXOpmF0
「なあ、田井中」
「お、どうしたんだ、ホータロー?」
「おまえの自画像を描いてみてくれないか?」
「自画像って私自身のか?」
「当然だろう、千反田の顔を描いてどうする。
なにかの役に立つかもしれないし、
その自画像を見た方がおまえがどんな人間なのか掴みやすい。
もっとも本人に自画像を描かせるのも酷かもしれないがな。
絵心に自信がなければ作画は伊原に担当させよう。
この場合、自画像ではなくモンタージュということになるか。
おまえはそれを見て監修してくれればいい」
「ちょっと折木、なにを勝手に決めてるのよ」
伊原が頬を膨らませて俺を睨みつける。
だがその視線には普段の鋭さはなかった。
伊原自身も田井中の外見を知りたいと考えてはいたのだろう。
つまり伊原が不満に思っているのは、田井中のモンタージュを担当することではなく。
「似顔絵なんてあんまり描いたことないわよ、わたし」
若干不安そうに伊原が付け加える。
つまりはそういうことなのだ。
伊原は元漫研だが、似顔絵と漫画向きの絵を描くことが全く違うのだろうとは俺にも分かる。
だがこの場で絵を担当できそうなのは残念ながら伊原しかいないのだ。
田井中のイメージを掴むためにも、できれば伊原には田井中のモンタージュを担当してほしい。
どうにか頼む方法がないかと首を捻っていると、田井中が意外な言葉を口にした。
「うーん、似顔絵はちょっと照れ臭いな。
私が描くのでよければちゃっちゃと描いちゃうけど、それでもいいか?
まあ、普段描いてるデフォルメでよければ、だけどさ」
願ってもないことだった。
俺が頷くと田井中は机の上に適当に置かれていた紙に筆を走らせ始める。
普段描いてると言っているだけあって、デフォルメとは言え田井中の画力は中々のものだった。
それに別に今はデフォルメでも全く構わないのだ。
まずは田井中の外見のイメージを掴むことが重要なのだから。
完全なモンタージュは近い内に伊原に趣向を凝らして描いてもらうことにすればいい。
78: ◆2cupU1gSNo 2013/08/15(木) 18:36:08.19 ID:bubXOpmF0
「よっし、これにて完成!」
デフォルメの完成までは二分とかからなかった。
頼んでいないのに色まで使っていて、手早く仕上げたわりにはとても分かりやすい絵だと言えた。
外側に軽く跳ねている短めの髪。
カチューシャで前髪をまとめ、額を出した姿からは少年の様なイメージを受ける。
舌を出して右目でウインクした表情はいかにも悪戯好きに見えた。
わざわざ両手にドラムスティックを持たせているのは、ドラマーとしての主張だろうか。
なるほど、これなら田井中との会話から感じる彼女のイメージと遜色ない。
この田井中ならドラムで激しいビートのリズムを刻めそうだ。
「まさに田井中さんって感じだね」
素直な感想を里志がひとりごとのように呟く。
誰も反応しなくても気にしていないようだったから、本当にひとりごとだったのだろう。
「こんなもんでいいか?」
全員がデフォルメ自画像を確認した後、田井中が軽く笑った。
自分にやれることがあればまだまだ協力する。
そう言わんばかりの笑顔だった。
それはとても助かるのだが、俺はちょっとした違和感を持たずにはいられなかった。
いや、大した話ではない。
多重人格を取り扱った作品で、別人格がこんなにも問題解決に協力的な話を俺があまり見たことがなかっただけだ。
通常の展開であれば別人格が『この身体は俺が頂く』とか言いそうなものだが、田井中にはそんな様子が見受けられない。
やはり単なる多重人格とは大きく異なっているのだろうか?
まあ、俺の多重人格に対するイメージが陳腐なだけかもしれないが。
「それなら田井中さん、一つ質問をいいかしら?」
わざわざ挙手をして訊ねたのは入須だった。
眉をひそめて不機嫌そうにも思えたが、おそらくはなにかを考えているだけだろう。
「いいぞ、冬実」
「ありがとう、それでは訊かせてもらうわ。
私の聞き間違いでなければ、さっき田井中さんはこう言ったと思う。
『卒業旅行でロンドンに行ったり』と。
もちろん、高校の卒業旅行だとは思うけれど、その卒業旅行にはいつ行ったの?」
あっ、と伊原が呻くような声を出した。
それは俺も気になっていることだった。
79: ◆2cupU1gSNo 2013/08/15(木) 18:37:06.34 ID:bubXOpmF0
田井中律、十八歳。
誕生日は八月二十一日。
そして桜が丘女子高等学校に在籍。
これでは計算が合わないのだ。
今日は六月十四日なのだから。
八月二十一日生まれで六月十四日に十八歳の高校生。
中学か高校浪人ならばありえない話ではないが、入須の指摘通り田井中は確かに言ったのだ。
『卒業旅行でロンドンに行ったり』と。
つまり田井中は卒業旅行を経験していることになる。
この言葉が意味することはなんなのだろうか。
「卒業旅行に行った時期か?
そりゃ卒業式の直前だよ。あ、もちろん高校の卒業旅行だぞ?
梓って後輩がいてさ、梓の三学期の試験休みに合わせて行ったんだよ、三泊五日でさ。
いやー、いいところだったぞ、ロンドン」
こともなげに田井中が平然と応じる。
田井中は自分が言っている言葉の矛盾に気付いていないのだろうか。
いや、それとも気付いて言っているのか?
俺は小さく溜息をついてから、田井中にそれを指摘してやることにした。
「ちょっと待て、田井中。
おまえの言っていることは論理的に合わない」
「なにが?」
「田井中、おまえ、今日は何月何日か知っているか?」
「六月十四日だろ?」
「それだと計算が合わないんだよ。
卒業旅行を経験してどうしてまだ高校に在籍しているんだよ。
卒業できずに留年でもしたのか?」
「失敬な!
そりゃ成績はそこそこだったけど、
大学には合格してるしちゃんと卒業式にも出てるんだぞ」
「だったら今のおまえは高校生じゃなくて大学生のはずだろう。
どうしてわざわざ学校を桜が丘女子高校と書いたんだ。
矛盾しているだろう」
「うん、ホータローの言うことはもっともだよ。
でもさ、私の中では矛盾してないんだよな。
知ってるか、ホータロー?
担任の先生が言ってたんだけど、学生は卒業式の後も三月三十一日までは在籍してるんだってさ」
「三月三十一日まで……?
そうか……。
なるほどな、確かにそうだ、田井中。
そう考えれば、計算が合わなくてもおまえの中では矛盾してないわけだ」
誕生日は八月二十一日。
そして桜が丘女子高等学校に在籍。
これでは計算が合わないのだ。
今日は六月十四日なのだから。
八月二十一日生まれで六月十四日に十八歳の高校生。
中学か高校浪人ならばありえない話ではないが、入須の指摘通り田井中は確かに言ったのだ。
『卒業旅行でロンドンに行ったり』と。
つまり田井中は卒業旅行を経験していることになる。
この言葉が意味することはなんなのだろうか。
「卒業旅行に行った時期か?
そりゃ卒業式の直前だよ。あ、もちろん高校の卒業旅行だぞ?
梓って後輩がいてさ、梓の三学期の試験休みに合わせて行ったんだよ、三泊五日でさ。
いやー、いいところだったぞ、ロンドン」
こともなげに田井中が平然と応じる。
田井中は自分が言っている言葉の矛盾に気付いていないのだろうか。
いや、それとも気付いて言っているのか?
俺は小さく溜息をついてから、田井中にそれを指摘してやることにした。
「ちょっと待て、田井中。
おまえの言っていることは論理的に合わない」
「なにが?」
「田井中、おまえ、今日は何月何日か知っているか?」
「六月十四日だろ?」
「それだと計算が合わないんだよ。
卒業旅行を経験してどうしてまだ高校に在籍しているんだよ。
卒業できずに留年でもしたのか?」
「失敬な!
そりゃ成績はそこそこだったけど、
大学には合格してるしちゃんと卒業式にも出てるんだぞ」
「だったら今のおまえは高校生じゃなくて大学生のはずだろう。
どうしてわざわざ学校を桜が丘女子高校と書いたんだ。
矛盾しているだろう」
「うん、ホータローの言うことはもっともだよ。
でもさ、私の中では矛盾してないんだよな。
知ってるか、ホータロー?
担任の先生が言ってたんだけど、学生は卒業式の後も三月三十一日までは在籍してるんだってさ」
「三月三十一日まで……?
そうか……。
なるほどな、確かにそうだ、田井中。
そう考えれば、計算が合わなくてもおまえの中では矛盾してないわけだ」
85: ◆2cupU1gSNo 2013/08/30(金) 19:13:12.73 ID:gVdIOtdQ0
「そういうことだよ」
田井中が薄く微笑む。
伊原と里志はまだ首を捻っていたが、入須は納得したらしく頻りに頷いていた。
長髪を横に流してから、入須は言葉を続けた。
「なるほどね、この場合、意識の連続性は不要という事ね」
「意識の連続性……ですか?」
「ああ、そうだよ、福部君。
けれどその辺りは折木君の方が事情に詳しいと思う。
なにせまさにその瞬間に居合わせたのだから」
入須の視線が俺に向けられる。
後の説明は君に任せた、ということなのだろう。
省エネを信条としている俺ではあるが、ここで説明するのはやぶさかじゃない。
むしろ自分の考えをまとめるためには、一度自らの言葉として発声させてもらえる方がありがたかった。
俺は軽く咳払いをしてから、一同の顔を軽く見回して始める。
「里志、昨日田井中と話していたのはおまえだったわけだし、まだ忘れてはいないだろう。
唐突に千反田の精神が田井中に入れ替わった瞬間を。
この表現が現実に正しいかどうかは別の問題として、だ」
「うん、それはもちろん憶えているよ、ホータロー。
昨日は本当に驚いた。僕の話に何か不手際があったのかと思ったくらいさ。
あの千反田さんがあんな素っ頓狂な声を出すなんて、今まで一度もなかったことだからね。
千反田さん……、いや、あの時はもう田井中さんか。
よっぽどびっくりしたんだろうってことは傍から見ててよく分かったよ」
「びっくりするのは当然だ。
気が付けば見知らぬ場所で見知らぬ人間と自分が話しているんだからな。
しかもなんの前触れもなく唐突に。
これで驚かない人間と言ったら、そこの入須先輩くらいだろうさ」
ふっ、と小さな声が聞こえる。
どうやら入須が軽く微笑んだようだった。
冗談のつもりだったからそれでよかった。
しかしこの入須が驚くことは現実にあるのだろうか?
田井中の存在を知った時にはそれなりに驚いてはいたようだが、そこまで激しい反応は見せなかった。
「あの時の甲高い声は俺の耳にも残っている。
『うわっ!』だったな。
あそこで田井中が驚くのは自然な反応だし、俺も同じ状況なら同じように驚くだろう。
しかもそれが真の意味で突然だったとしたら、しばらく冷静になれる自信がない」
「真の意味で突然だったら……?」
伊原がなにかを考え込むように呟いた。
全てを説明してもよかったが、俺は伊原の気付きを待つことにする。
伊原は鈍い人間というわけでもないし、なにかに気付ける思考力を有した人間だ。
なにより後で「今考えてたところだったのに」と責められても理不尽だ。
幸い伊原は俺の言いたいことには三十秒ほどで気付いたらしかった。
まるで推理小説の主人公のように神妙な表情になると、その気付きを言葉にし始めた。
86: ◆2cupU1gSNo 2013/08/30(金) 19:14:01.01 ID:gVdIOtdQ0
「分かったわ、折木。
わたしはそのちーちゃんの悲鳴を聞いたわけじゃないけど、気持ちは分かる。
わたしだって自分の心が自分じゃない誰かの身体の中にあったら悲鳴を上げると思う。
しかも……」
「しかも、なんだ?」
「周りの季節まで全然違うなんて、わたしだったら叫んだ後でしばらく言葉を失うと思うわ」
「そうなんだよなー」
満足そうに言ったのは田井中だった。
それは俺たちの考えが正しかったことを示していた。
「私の体感時間だと昨日の話なんだし、はっきり憶えてるよ。
卒業式が終わってしばらく経った三月十日。
私は澪と二人で買い物に行ってたんだよ。
あ、澪ってのは私の幼馴染みな。
大学では寮に入るつもりだったから、その準備のために二人で買い物してたんだ。
私の買い物はすぐ終わったんだけど、
澪は凝り性でさ、呆れるくらい夢中になって日用品を選んでたよ。
ま、それはいつものことだし、それを覚悟して買い物に付き合ってたんだから文句はないんだけどな。
でもさすがに二時間同じ店にいるのも飽きちゃって、私はジュースを買いに行ったんだ。
いや、ジュースじゃなくて、午後ティーだったな、確か。
とにかく私はベンチで午後ティーを飲んでたんだ。
それで半分くらい飲み終わった頃かな。
澪をあんまり一人にさせるのもあれだし一気に午後ティーを飲んじゃおうか。
って思った瞬間だったな、私の心がこのえるって子の身体の中に入ったのは。
本気でなんの前触れもなんったし、あっと言う間もなく私はこんな状態になってたんだ。
『入った』ってのが正しい表現かどうかは置いとくけどさ」
「いや、一瞬っていう言葉には語弊があるかもしれない」
「あ、やっぱ冬実もそう思うか?」
「ええ、そうね。
確かに田井中さんには一瞬に感じられたかもしれない。
けれどそれが一瞬である必要はないし、一瞬でない確率の方がずっと高いわ。
今の季節は田井中さんの体感していた季節、つまり時間の流れと全く異なっているのだから」
「うん、たぶんそうだろうな」
田井中が頷くと入須も静かに頷いた。
そうだ。田井中の体感していた時間の流れが異なっているのだ。
田井中の言葉を信じるなら今の田井中の体感時間は三月十一日になるのだろう。
対して現実に流れている俺たちの体感時間は、当然ながら六月十四日だ。
これならば『六月十四日時点で高校を卒業したての十八歳の女子高生』の存在が説明できる。
87: ◆2cupU1gSNo 2013/08/30(金) 19:14:34.51 ID:gVdIOtdQ0
「意識の連続性の有無ってそういうことだったんですね」
伊原が聞き慣れない敬語で誰かに訊ねる。
この面子の中で伊原が敬語を使う相手は入須しかいない。
当然それを分かっている入須は、伊原の目を見ながら小さく頷いた。
「そうね、伊原さん。
そもそも千反田の身体に違う誰かの人格があるという特異な状況に、
田井中さんの体感時間を当てはめて考えてみること自体が誤りだったわ。
特異な状況に対しては、常識に囚われない思考で対応するしかない。
私たちと田井中さんの体感時間が全く異なっているのは、ある意味当然でもあるわ。
例えば三ヶ月以上田井中さんの精神が眠っていたとか、そういうことがあっても全く不自然じゃない」
「でもどうしてそんなことが起こったんでしょうか?
ひょっとして田井中……さんの心が田井中さんも気付かない内に、その辺を彷徨っていたとか?
それでちーちゃんの身体って容れ物を得た瞬間に、前の記憶を取り戻した……。
とか、そういうのは変な考えですかね?
あ、いえ、ちーちゃんの身体に違う心があること自体が変な話ではあるんですけど」
瞬間、田井中が少し嫌そうな表情を浮かべた。
それはそうだろう。
伊原は言いながら気付いていないようだが、それではまさに浮遊霊の憑依現象だ。
ある程度の非常事態は受け容れているように見える田井中でも、
自分が死んで魂だけの存在になっているという想像は気持ち悪いらしかった。
ただ確かに考慮しなければならない可能性の一つではある。
しかし。
「たぶんそうじゃないと思うんだよな……」
その言葉を俺が聞き逃さなかったのは、ちょうど田井中の様子を気に掛けていたからだろう。
それくらい小さな声だった。
田井中に似つかわしくなく、迷いのある小さな声。
自分が死んでいるかもしれないという可能性を認めたくない。
それだけではないように思える、迷いながらも確信が込められた呟きだった。
「なあ田井中、なにか隠していることがあるんじゃないか?」
見逃していいことだったのかもしれない。
だが俺は自分でも意外に思うくらい毅然と田井中に問い掛けていた。
恐らくだが俺は知りたかったのだろう。
田井中がなにに迷い、なにを確信しているのかを。
そして千反田が今どうなっているのかを。
「いや、隠してることって言われてもな……。
私は全面的にホータローたちに協力してるつもりだぞ?
私だってこんな状態はなんとかしたいもんな」
田井中が後頭部を掻きながら苦笑する。
その言葉には嘘がないように思えるし、田井中が嘘をつく必要もない。
しかし俺は田井中が頻りになにかを気にしているのを見逃さなかった。
田井中に悟られないよう視線を辿ってみて気付く。
田井中が気にしていたのは、伊原が記した田井中のインタビュー結果のメモだということに。
「あっ……」
田井中がなにか言いたげにしていたのを無視し、俺はもう一度そのメモに視線を落とす。
最初に目を通した時には違和感を覚えなかったのだが、もしかするとここに嘘があるのかもしれない。
「ちょっと折木、勝手に人のメモ帳を取らないでよ」
非難混じりに伊原が頬を膨らませたがそれも無視だ。
そもそもそのメモ帳は里志の物だろう、という指摘も後にしておく。
91: ◆2cupU1gSNo 2013/09/04(水) 18:26:21.25 ID:lgtEvohh0
さて、と一呼吸置いてメモに目を通し始める。
伊原からの質問はもちろん、俺たちの思いつく限りの質問と答えが記されたメモ帳。
この中に田井中が隠しているなにかがあるはずだ。
田井中に気づかれないように軽く視線を向けてみる。
予想通りというか、田井中は俺たちから目を逸らしてだんまりを決め込んでいた。
常に仏頂面の入須、うさんくさい微笑みばかり浮かべる里志、
感情を顔に出しやすいながらも言葉では素直な発言が少ない伊原。
この三人に比べれば田井中は笑ってしまいたくなるほど分かりやすい奴だった。
しかしそれだけで田井中の隠しているなにかが分かれば苦労はない。
俺たちがした質問は誰もが考えつくような単純なものばかりだ。
名前と誕生日、趣味や特技、好きな本や好きな音楽。
特技、得意教科、好きな色、よく着る服の傾向、その程度の質問だ。
通常であれば隠す必要のないプロフィールでしかない。
だが田井中は間違いなくなにかを隠している。
そのなにかとはなんなのだろうか。
俺は考えてみた。
いや、考えるまでもなかった。
そのメモの中には、プロフィールとしてあるべき項目がないことは一目瞭然だった。
そういえば伊原が田井中に質問していた時も、
その項目を訊ねていないな、と軽く疑問に思っていたのを俺は思い出した。
俺はそれを田井中に訊ねてみる。
「なあ、田井中」
「ん? どうしたんだ、ホータロー?」
「おまえの体重は?」
「折木!」
目を吊り上げたのは伊原だった。
こいつが俺に鋭い視線を向けるのは常日頃のことだが、
これほどまでに刺々しい視線を全身に浴びるのは実に久しぶりだった。
俺はつい身構えながら伊原に訊ねてみる。
「急に叫んでどうしたんだ、伊原」
「どうしたんだじゃないわよ。
前から朴念仁で無気力でデリカシーのない人間だと思っていたけど、ここまでとは思わなかったわ。
あんたって奴は本当に人の感情を察する能力がないのよね」
散々な言われようだった。
そりゃ俺は贔屓目に見てもデリカシーのある人間とは自分でも思わない。
しかしこれでも最低限の礼節は心がけているつもりなのだが。
あまり期待はしていなかったが、里志に視線を向けてみる。
助け舟を出してくれるとまでは思っていなかったのだが、里志は軽いフォローすらもしてくれなかった。
伊原からの質問はもちろん、俺たちの思いつく限りの質問と答えが記されたメモ帳。
この中に田井中が隠しているなにかがあるはずだ。
田井中に気づかれないように軽く視線を向けてみる。
予想通りというか、田井中は俺たちから目を逸らしてだんまりを決め込んでいた。
常に仏頂面の入須、うさんくさい微笑みばかり浮かべる里志、
感情を顔に出しやすいながらも言葉では素直な発言が少ない伊原。
この三人に比べれば田井中は笑ってしまいたくなるほど分かりやすい奴だった。
しかしそれだけで田井中の隠しているなにかが分かれば苦労はない。
俺たちがした質問は誰もが考えつくような単純なものばかりだ。
名前と誕生日、趣味や特技、好きな本や好きな音楽。
特技、得意教科、好きな色、よく着る服の傾向、その程度の質問だ。
通常であれば隠す必要のないプロフィールでしかない。
だが田井中は間違いなくなにかを隠している。
そのなにかとはなんなのだろうか。
俺は考えてみた。
いや、考えるまでもなかった。
そのメモの中には、プロフィールとしてあるべき項目がないことは一目瞭然だった。
そういえば伊原が田井中に質問していた時も、
その項目を訊ねていないな、と軽く疑問に思っていたのを俺は思い出した。
俺はそれを田井中に訊ねてみる。
「なあ、田井中」
「ん? どうしたんだ、ホータロー?」
「おまえの体重は?」
「折木!」
目を吊り上げたのは伊原だった。
こいつが俺に鋭い視線を向けるのは常日頃のことだが、
これほどまでに刺々しい視線を全身に浴びるのは実に久しぶりだった。
俺はつい身構えながら伊原に訊ねてみる。
「急に叫んでどうしたんだ、伊原」
「どうしたんだじゃないわよ。
前から朴念仁で無気力でデリカシーのない人間だと思っていたけど、ここまでとは思わなかったわ。
あんたって奴は本当に人の感情を察する能力がないのよね」
散々な言われようだった。
そりゃ俺は贔屓目に見てもデリカシーのある人間とは自分でも思わない。
しかしこれでも最低限の礼節は心がけているつもりなのだが。
あまり期待はしていなかったが、里志に視線を向けてみる。
助け舟を出してくれるとまでは思っていなかったのだが、里志は軽いフォローすらもしてくれなかった。
92: ◆2cupU1gSNo 2013/09/04(水) 18:26:50.31 ID:lgtEvohh0
「今のはホータローが悪いよ。
女の子に体重を訊ねるなんて滅多なことじゃしちゃいけない」
さいで。
「これには君も反省するべきだ、折木君」
神妙に頷きながら入須が俺にとどめを刺す。
まさか入須にまで駄目出しされるとは思わなかった。
ここまでされてしまうと俺が間違っていたような気までしてくる。
しかし入須がデリカシーについて俺に注意するとは。
いや、これはデリカシー云々というよりは、
自身の体重を気にしての発言だと思えてしまうのは穿ち過ぎだろうか?
軽く見た感じ、入須の身体に余計な脂肪が付いているようには思えない。
それは伊原も同じだ。
二人とも体重を気にする必要もなさそうな体型をしているように見える。
だからこそ、かもしれない。
だからこそ、伊原たちは他人の体重も気にしているのかもしれない。
俺はダイエットというものを実践してみたことはない。
省エネを心がけている代わりに、過剰なエネルギーの接種もしないようにしている。
そのせいか無駄な脂肪が付いたことは今まで一度もなかった。
だがそれが俺以外の人間もそうだと考えるのは傲慢だろう。
思い出してみれば、姉貴も平均的な体型ながらダイエットをしていた時期があった。
もしかすると俺が平均的だと考えていた体型は、想像以上の節制の賜物だったのかもしれない。
特に伊原は甘い物が大好きだ。
料理の腕前もかなりのものであることを考慮すると、
自宅で様々なお菓子作りに挑戦してみたこともあるに違いない。
それでも伊原は甘い物を過剰摂取せず、平均的に見える体型を維持しているのだ。
そうだとするならば、俺は意図せずとも伊原の逆鱗に触れてしまったことになる。
いや、世間一般の平均的な体型に見える女子全般か。
今後、女子の体重について軽く触れることはやめよう。
そう強く決意した十七歳の梅雨。
だがそれはそれとして、だ。
俺だって単に軽い気持ちで田井中に体重を訊いてみたわけじゃない。
確かめておきたいことがあるのだ。
顰蹙を買うのは承知の上で、俺はもう一度田井中に訊ねてみる。
伊原と入須はやはりいい顔をしなかったが、田井中は苦笑しながら応じてくれた。
「ははっ、ホータローもへこたれないな。
その根性に免じて教えてやるよ、別に隠そうと思ってたわけじゃないしさ。
うん、私の体重はこのえるって子と同じくらいだよ」
「そうなのか、確かに千反田と同じ身長ならそれくらいだろう。
それで具体的には何キロなんだ?」
その質問にデリカシーが微塵も存在していないことは自覚していた。
伊原も入須も里志もそれは分かったはずだ。
分かったからこそ、俺のデリカシーのなさを指摘したりはしなかった。
なんらかの意図があって俺は田井中の体重を訊いている。
それを察せるくらいには、この場の三人の頭の回転は遅くはない。
一斉に田井中に俺たちの視線が集まる。
「ええっと、私の体重は……」
明らかに田井中が動揺しているのが見て取れた。
視線を散漫にさせて、暑いのもあるだろうが顔中に汗を掻き始めている。
田井中は自分の体重を隠そうと思ってたわけじゃないと答えた。
その言葉に嘘はないだろうし、単に伊原が質問しなかったから言わなかっただけだろう。
しかし現在の田井中は大汗を掻いて、自分の体重を答えるのを躊躇している。
他のことは平然と答えられながら、これはどうにも妙だ。
一体どういうことなのか、不意に俺は思いついた。
もしかしたら田井中は自分の体重を答えたくないのではなく、答えられないのではないか。
93: ◆2cupU1gSNo 2013/09/04(水) 18:29:36.79 ID:lgtEvohh0
連鎖的に俺の脳内に閃きが奔る。
妙と言えば田井中の髪型もそうだった。
田井中は昨日カチューシャを着けていた。
デフォルメの自画像の中でも身に着けていたくらいだ。
カチューシャを着けて額を出すのが田井中の通常のスタイルなのだろう。
しかし今日の田井中はカチューシャを着けずに、汗を掻いている。
蒸し暑そうに髪型をおさげにしながらも、一番蒸し暑いに違いない額を出していない。
この二つの事実が意味するものはもしかしたら……。
俺はその思いつきを実行しようとして、やめた。
それはいくらなんでもデリカシーがなさ過ぎたからだ。
どうしようかと一瞬迷ったが、俺は部室の隅に行って伊原を手招いた。
「わたし?」
嫌そうな顔で首を傾げながらも、伊原が俺の手招きに応じる。
なんだかんだと俺の手招きに応じる伊原はいい奴なのだ、たぶん。
俺はメモ帳に頼みごとを書いてから、伊原にそのメモを見せた。
本当は耳打ちでもよかったのだが、後で馴れ馴れしいと文句を言われても困る。
メモの内容を確認すると、伊原は予想通り口先を尖らせた。
「どうしてわたしがこんなことしなきゃいけないのよ」
「俺がするわけにはいかないだろう」
「確かにあんたがするわけにはいかないことだけど……。
ねえ折木、これって本当に意味があることなのよね?」
「俺が意味のないことでおまえを手招いたりすると思うか?」
「確かにそれはないわね……。
分かったわよ、あんたの言う通りにしてあげる。
ちゃんと後で詳しく説明しなさいよね」
「了解」
妙と言えば田井中の髪型もそうだった。
田井中は昨日カチューシャを着けていた。
デフォルメの自画像の中でも身に着けていたくらいだ。
カチューシャを着けて額を出すのが田井中の通常のスタイルなのだろう。
しかし今日の田井中はカチューシャを着けずに、汗を掻いている。
蒸し暑そうに髪型をおさげにしながらも、一番蒸し暑いに違いない額を出していない。
この二つの事実が意味するものはもしかしたら……。
俺はその思いつきを実行しようとして、やめた。
それはいくらなんでもデリカシーがなさ過ぎたからだ。
どうしようかと一瞬迷ったが、俺は部室の隅に行って伊原を手招いた。
「わたし?」
嫌そうな顔で首を傾げながらも、伊原が俺の手招きに応じる。
なんだかんだと俺の手招きに応じる伊原はいい奴なのだ、たぶん。
俺はメモ帳に頼みごとを書いてから、伊原にそのメモを見せた。
本当は耳打ちでもよかったのだが、後で馴れ馴れしいと文句を言われても困る。
メモの内容を確認すると、伊原は予想通り口先を尖らせた。
「どうしてわたしがこんなことしなきゃいけないのよ」
「俺がするわけにはいかないだろう」
「確かにあんたがするわけにはいかないことだけど……。
ねえ折木、これって本当に意味があることなのよね?」
「俺が意味のないことでおまえを手招いたりすると思うか?」
「確かにそれはないわね……。
分かったわよ、あんたの言う通りにしてあげる。
ちゃんと後で詳しく説明しなさいよね」
「了解」
94: ◆2cupU1gSNo 2013/09/04(水) 18:30:23.75 ID:lgtEvohh0
俺が小さく海軍式の敬礼を取ると、珍しく伊原が微笑んだ。
それは俺に向けた微笑みだったのか。
いや、単に俺との妙な関係が滑稽に思えただけだろう。
親密というわけでもないが、俺の頼みごとには嫌々ながらも応じる伊原。
確かに妙な関係性、妙な幼馴染みだ。
「ホータローとなにを話してたんだ、摩耶花?」
俺が苦笑していると、いつの間にか伊原が田井中の前に移動していた。
さっそく俺の頼みごとを実行してくれるつもりらしい。
まあ、伊原には別に難しいことではないし当たり前か。
俺が伊原に頼んだのはそういう男には難しく、女には簡単な行為だった。
「うん、実はね……」
「実は……?」
「ちょっとだけごめんね!」
小さく頭を下げた伊原が、田井中に唐突に腕を伸ばす。
狙いは田井中の(正確には千反田の身体の)綺麗に切り揃えられた前髪だ。
不意を衝かれた田井中は伊原の動きに反応し切れず、伊原の成すがままになっていた。
「あっ……!」
そう声を上げたのは伊原だったか田井中だったか。
その場にいた田井中以外の視線が一斉に集まる。
俺の考えていた通りだった。
伊原が掻き上げた前髪の下、田井中の額には大きな絆創膏が貼られていた。
95: 以下、新鯖からお送りいたします 2013/09/04(水) 18:30:51.48 ID:lgtEvohh0
「えーっと、その……だな……」
田井中が肩を落としてその場に縮こまって呟く。
額の傷をどう説明したものか考えあぐねているのだろう。
ちなみに田井中の前髪は、入須に頼んでパイナップルみたいに結んでもらった。
これからその傷のことを話す度に前髪を掻き上げさせるのも面倒だったからだ。
「約束通りどういうことか説明しなさいよね、折木」
田井中のごまかしの言葉を聞くよりそっちの方が早そうだ。
俺は小さく肩をすくめながら説明を始める。
「最初あった違和感は、今日の田井中が前髪を下ろしていることだった。
伊原も見ただろう、長髪がどれだけ蒸し暑いのかといった風情の田井中の髪型を。
ポニーテールでうなじを出した上に、カチューシャでこれでもかと額を出して」
「確かに滅多に見られる髪型じゃなかったわよね……。
少なくともちーちゃんがそんな髪型をしてるのなんて、わたし見たことないわ」
「ところが、だ。
今日の田井中は前髪を下ろしていた。
借りていたカチューシャを返したからかと思ったんだが、
そういえば千反田が前にカチューシャをしていたのを思い出した。
カチューシャを持ってるんだよ、千反田は。
だとするならば、長髪が蒸し暑い田井中がカチューシャをしない理由が見当たらなくなる」
「結果的に田井中さんは前髪でおでこの傷を隠してたことになるわけだよね?
ホータローはどうしてそれに気付いたんだい?」
と首を傾げながら里志。
ちょうど里志に話を振ろうと思っていたところだからタイミングがよかった。
「もちろんあの映画みたいに田井中と千反田がどこかで頭をぶつけてできた傷じゃない。
昨日出していた田井中の額にこんな傷はなかったわけだしな。
つまり田井中は昨日俺たちと別れた後にこの額の傷を作ったということになる。
大きな絆創膏を貼ってはいるが、見たところそれほど深い傷には見えない。
なにかに強く頭をぶつけたってところだろうな。
それで思い出したんだよ。
なあ里志、昨日田井中は自転車で家に帰ったよな?」
「うん、そりゃ昨日のことだからね。
びっくりしたよ、まさか千反田さんの立ち漕ぎ姿が見られるなんて」
俺も驚いた。
だが今の論点はそこじゃない。
田井中は昨日自転車に乗って帰宅した。
千反田が自転車通学なのだから、田井中が自転車で帰っても不思議ではない。
田井中の中には千反田の記憶があるのだから、千反田の自宅までの道も分かっただろう。
しかし知識としては分かっていても避けられないものがあることを、田井中はおそらく分かっていなかったのだ。
「憶えてるか、里志。
俺たちが自転車で千反田の家に行った日のことを」
「もちろん憶えてるよ。
あれはいいサイクリングコースだったから今もたまに走ってるくらいさ」
「だったら俺よりもはっきりと憶えてるだろう、あの樹のことを。
俺が危うく枝に頭をぶつけそうになった、あの道路のど真ん中にある大銀杏だよ。
俺はあれ以来見ていないが、何事もなければ今も切られずに残っているはずだ」
「そりゃ残ってるさ、あれだけ見事な大銀杏を切ったりなんかしたら祟られるよ。
って、ひょっとしてホータロー、
田井中さんがあの大銀杏の枝に頭をぶつけたって言いたいのかい?」
96: ◆2cupU1gSNo 2013/09/04(水) 18:31:54.22 ID:lgtEvohh0
「ああ、そのつもりだ。
あの大銀杏は学校から千反田家まで向かう最短距離にある。
まず間違いなく千反田も通学路に使っているはずだ。
頭をぶつけそうになった俺が言うことじゃないが、あの枝は危ない。
慣れた人間でなければ一度はひやりとした経験があるはずだ」
「確かにね」
俺の言葉に賛同してくれたのは入須だった。
心なしか軽く苦い表情になっている。
「私も自転車に乗っていて、何度か頭をぶつけそうになったことがあるよ。
年に数度千反田の家に通ってる私ですらそうなのだから、慣れていない人は余計にそうだと思うわ。
……どうかしたの、折木君?」
「……なんでもないですよ」
咄嗟に返したものの、実は自分でも妙な表情をしている自覚があった。
しかしこの妙な表情は自分でもどうすることもできなかった。
入須が自転車に乗っている姿を想像してみたが、あまりにも似合わなかったからだ。
自転車に乗って千反田の家に向かう女帝入須冬実。
こう見えても高校生なのだから当然なのだが、その姿は非常に滑稽だった。
「しかしながら折木君」
俺の想像を察しているわけではないだろうが、入須が反対意見を表明した。
「あの大銀杏が危ないことは事実だけれど、そう簡単に頭をぶつけるかしら?
私も実際に頭をぶつけたことは一度もないわ。
いくら慣れていない道とは言え、いくら立ち漕ぎだったとは言え、そう簡単に頭をぶつけてしまうものかしら?」
「ええ、そう簡単に頭をぶつけることはそうないでしょう。
そんなに頻繁に事故が起こるようなら、
切り倒すまではしないまでも多少の対策を施すでしょうしね。
しかし現実にあの大銀杏では事故は頻発しておらず、特に対策らしい対策も取られていない。
その程度の危険性の樹なんですよ、あの大銀杏は」
「だったらどうして折木君は田井中さんがあの樹に頭をぶつけたと考えるの?」
「そこで問題になるのが田井中のさっきの言葉です。
田井中は俺に訊ねられて自分の体重が何キロか答えられませんでした。
えるって子……、千反田と同じくらいの体重と答えておきながら、です。
そこでもう一度、田井中の身長の欄に目を通してみましょう」
俺が机の上にメモのそのページを開く。
女子にしては高い身長の千反田とほぼ同程度の数値がそこに記されている。
俺の話の意図が分かっていないらしく、入須が首を傾げる。
97: ◆2cupU1gSNo 2013/09/04(水) 18:32:36.17 ID:lgtEvohh0
「千反田とほぼ同じ身長だと思うけれど」
「ええ、聞いたことはありませんが、大体この程度の身長だと思います。
そして田井中は体重については即座に答えられなかった。
自分の体重を答えるのに抵抗があるのかとも思いましたが、
俺はそれよりももう一つの可能性を思いついたんです。
こうは考えられませんか?
田井中が自分の体重を答えられなかったのは、
千反田の身長の適正体重を咄嗟に思いつけなかったからだと」
「ちーちゃんの身長の適正体重?
それが田井中さんの体重とどんな関係があるってのよ?」
「じゃあ聞くが伊原、おまえは千反田の体重を知っているか?」
「知ってるはずないじゃない。
友達とは言っても最低限訊いちゃいけないこともあるでしょ」
「だが身長がどれくらいは分かるだろう?」
「そりゃパッと見で大体の身長なんて分かるじゃない」
「なるほどね」
伊原はまだ分かっていないようだったが、里志には察しが付いたようだった。
俺が視線を向けると、里志は頷いて俺の言葉を引き継いだ。
「田井中さんが隠したかったのは自分の体重じゃなかったんだよ、摩耶花」
「体重じゃなかったってどういうこと?」
「じゃあ聞いてみるけど、摩耶花の今の身長は何センチなんだい?」
「うっ、それは……」
伊原が口ごもる。
それ以上いじめる気もないらしく、里志が優しく微笑む。
「摩耶花の気持ちは分かるよ、僕も男子の中じゃ小さな方だからね。
平均以下の数値を口に出すのは、分かっていても意外と気恥ずかしいものさ。
それは田井中さんも同じだったんだと思うよ。
それで田井中さんは僕たちにインタビューをされて、ついごまかしちゃったんじゃないかな?
誕生日や趣味はともかく、田井中さん自身の身長なんてごまかしても特に問題ないはずだって」
里志の言葉を全て聞いても田井中は口を閉じていた。
その沈黙は里志の言葉が正しかったことを証明していた。
そう、田井中は自らの身長を偽っていたのだ。
100: ◆2cupU1gSNo 2013/09/14(土) 19:30:47.43 ID:VcFOYbv20
「あの大銀杏に頭をぶつけたというのは、俺の勝手な想像に過ぎない」
田井中の様子を確認しながら、俺は一言一言強調して続ける。
「さっきも言ったが、あの大銀杏に頭をぶつける可能性は限りなく低い。
身長が高くて頭をぶつけるくらいなら、まず俺がぶつけている。
もしかしたら田井中もあの大銀杏に頭をぶつけていないのかもしれない。
怪我の理由は違うものなのかもしれない。
頭に怪我をする理由なんてどこにでも転がっているからな。
だが田井中が身長を偽っていたと仮定すると、一つ滑稽な仮定が浮かび上がってくる。
田井中が高さの目測を誤ったという仮定だ。
よく聞くだろう?
バレーやバスケの選手が高さの目測を誤って頭を怪我したって話を」
「それは確かによく聞くわね」
と伊原。
「わたしには想像もできない話だけど」と付け加えていたが、それは聞き逃した事にしておく。
「もちろん千反田の身長が劇的に高いわけじゃない。
女子の中では高い方だが、多少低い庇に頭をぶつけるほどの身長でもない。
だが田井中の元の肉体の身長が千反田よりかなり低かったとしたら、どうなると思う?」
「視点の高さが全然違うわね。
まるでハイヒールを履いたみたいな感覚になるはずよ」
「伊原はハイヒールは履くのか?」
「そりゃ結婚式に出席する時くらいは履くわよ」
「それなら分かるだろう、ハイヒールを履いた時の違和感が。
普段見ている世界と全く違っているはずだ」
「そうね、あえて漫画でよく見る台詞で言うと、
『ヒールの高さ分だけ大人の視点になれた』って気分になれるわ」
「なるほどね」
合点がいったらしく里志が頷いた。
もっともこいつの場合はハイヒールではなく別のことを想像しているらしかった。
「格闘ゲームで使い慣れてないキャラクターを使ってるって感じかな」
里志のその言葉で思い出したのは、
バレンタイン前にこいつと二人で対戦したロボットゲームのことだった。
里志が選択するロボットは空中戦を得意とする機動性重視の機体。
対する俺が選択するのは大艦巨砲主義の機体だ。
同じゲームとは言え、二つの機体の使い心地は完全に別物だ。
操作方法も使うレバーもボタンも同じだというのに。
101: ◆2cupU1gSNo 2013/09/14(土) 19:31:37.44 ID:VcFOYbv20
「私はゲームに明るくないのだけれど、そんなに使い勝手が違うものなの?」
長髪を横に流しながら入須が里志に訊ねる。
仏頂面なのは合点がいっていないわけではなく、単に暑いからだろう。
かく言う俺もかなり暑く、背中に汗を掻いてしまっていた。
長い話になるのは分かっていたわけだし、冷たい麦茶でも用意しておくべきだった。
もっとも用意しておかなかったおかげで田井中の様子の違和感にも気付けたわけだが。
里志も入須の仏頂面は気にしていないようで、満面の笑みで続けた。
「はい、かなり違いますよ、入須先輩。
例えばキャラクターの大きさを見誤って壁にぶつかるなんて、
初めてそのキャラクター選んだ時には本当によくあることなんです。
それがどんなにそのゲームに慣れてる上級者であっても」
「よく分かったよ、ありがとう福部君。
確かにそれなら田井中さんが頭をどこかにぶつける可能性は非常に高かったと言わざるを得ない」
私もハイヒールを履いた時の違和感はよく知っているから分かる」
入須、里志、伊原の順で田井中に視線が向けられる。
まさに針のむしろとはこういう状態のことを言うのだろう。
田井中は額に粒のような汗を掻いているようだったが、それはもちろん暑いからではないはずだ。
その田井中への追及は誰が担当しても構わなかった。
里志ならば笑顔のままで執拗に、伊原ならばじっとりと的確に、入須ならば簡潔に心を抉るように。
三者三様に田井中へ身長を偽った理由を追及できるはずだった。
だがなぜだろうか。
田井中に向いていたはずの三者の視線は、いつの間にか俺に向けられていた。
いや、言わんとせんことは分かる。
要は最初に身長のことについて切り出した俺が話をまとめろということなのだろう。
俺がやる必要もないと思うのだが、乗りかかった船だ。
どうせ長い話にもならない。
俺は誰にも気付かれないように溜息をついた。
102: ◆2cupU1gSNo 2013/09/14(土) 19:33:32.14 ID:VcFOYbv20
「そういうわけで田井中、質問に答えてもらいたいんだが」
「な……、なんだよ?」
「そうだな、まずその頭の怪我はどこで負ったんだ?
大銀杏ではないとして、千反田家のトイレの入口か?
年季の入った日本建築のせいか、あのトイレの入口はかなり低いからな」
「あ、いや、トイレじゃないよ、ホータロー。
もう隠してもしょうがないみたいだから言うけど、
私が頭をぶつけたのは最初にホータローが言った通りあの大銀杏なんだ。
あちこち見ながら自転車を走らせてたら頭をぶつけちゃったんだよな」
少し驚いた。
話の取っ掛かりとして切り出した仮定が正解だったとは。
別に俺の勘が鋭かったわけじゃないのは分かっている。
田井中がどこかに頭をぶつける可能性は非常に高かったのだ。
それがたまたまあの大銀杏だったというだけの話だ。
「別に隠すようなことじゃないだろう」
「そうは言っても昨日の今日だから言い出しにくくてさ……」
「昨日の今日?」
はて、田井中が昨日の今日と言うようななにかがあっただろうか。
「ほら、私が昨日自転車に乗る時に言ったじゃんか。
『道は分かってるから大丈夫!』ってさ。
大丈夫って言ったのに、頭をぶつけたなんて恥ずかしいじゃん……」
確かにその言葉は俺も憶えている。
しかもその時の田井中は立ち漕ぎで自転車を漕いでいたな。
慣れてない上に立ち漕ぎで前方不注意となると、頭くらい大銀杏にぶつける。
逆にその程度でよかったと思うべきだろう。
「それにえるって子にも悪いし。
こんなお嬢様みたいな子の肌に傷を付けちゃったなんて……」
自分が失敗したという自覚はあるらしい。
肩を落として申し訳なさそうに田井中が俯いた。
だが見る限りではそれほど大きな傷でもなさそうだ。
飄々として見える田井中だが、意外と責任感が強いのだろうか。
しかし俺にはそんな田井中を慰める術は持っていない。
話を逸らして本題に踏み込むことしかできなかった。
「怪我のことはいつかその機会があれば自分から謝ればいいだろう。
それより田井中、結局お前が身長を偽ったのは元の肉体の身長が平均以下だったからなのか?」
「言うなよ、ホータロー……。
うー……。
そうだよ!
私の身長は平均以下だよ!
ドラムで部長なのに身長が低いなんて恥ずかしいじゃんかよ!
それくらい見栄張りたかったんだよ!」
「見栄を張りたかったんだったら、体重に関しても徹底しておくべきだったな。
千反田の身長の適正体重が分からなかったにしても、
それなら千反田の体重をそのまま答えるとかいくらでも方法はあっただろう。
千反田の記憶があるのなら、体重くらいすぐに思い浮かぶはずだが」
103: ◆2cupU1gSNo 2013/09/14(土) 19:34:00.23 ID:VcFOYbv20
「それだとえるって子に失礼じゃんかー……」
「やっぱりデリカシーがないのよね、あんたは」
伊原が俺を鋭く睨み付ける。
俺は例え話をしてみただけなのだが、伊原の中ではそれも好ましくないらしい。
まったく、女の体重に関する頓着は想像以上に恐ろしい。
しかし伊原の視線はそれほど気にならなかった。
嘘をついたりごまかしたりすることはあるが、
恥ずかしさを感じたり、誰かに気配りすることもできる。
田井中がそういう一個の人格を持った人間だと確信できたからだ。
田井中は決して動物霊や浮遊霊などではない。
例え多重人格にしても、かなり良識を持った人格なのだ。
それが分かっただけでも、今回の田井中との対談は無駄ではなかったと思える。
しかしとりあえずもう一つだけ確かめておかねばなるまい。
知ったところでどうなるわけでもないし、
知りたくて知りたくてたまらないわけではないが、
ここまで隠されたからにはそれを知る権利くらい俺にはあるだろう。
「それで田井中、お前の実際の身長は何センチなんだ?」
「ひゃ、百五十六センチ……」
「本当か?」
「ごめん、本当は百五十四センチ……」
なるほど。
それは確かに日本の女子の平均身長よりかなり低い。
前に読んだ本によると日本の女子の平均身長は百六十センチ弱だったはずだ。
もっともその田井中も、今この場にいる伊原ほど身長が低いわけではないが。
気が付くと、複雑そうな顔で伊原が田井中を見つめていた。
自分より身長が高いのに恥ずかしがっていた田井中を苦々しく思っているのだろうか。
甲高い声を出しながら、伊原が田井中の手を握った。
……握った?
「分かるわよ、たいちゃん!
平均より身長が低いと色々困るわよね!」
「お……おう、そうだよな……」
戸惑った表情の田井中とは対照的に、伊原の表情は苦々しげながら嬉しそうだ。
どうやら伊原は低身長同士として、田井中にいたくシンパシーを感じたらしかった。
いや、仲違いするよりはよっぽどよくはあるのだが。
これからの田井中と千反田のことを考えるに、その方が俺としても助かる。
それにしても。
『たいちゃん』というのは、田井中に付けたあだ名なのだろうか。
107: ◆2cupU1gSNo 2013/09/16(月) 17:49:21.96 ID:M1cuoe/m0
二章 アステリズム
1.六月二十五日
「ちゃお!」
音楽室の扉を開いて俺たちを出迎えたのは聞き覚えのある声だった。
無邪気なのか単なる変人なのか、未だに判断が付かないあの先輩の声だ。
軽く溜息をつきたい気分になりながら音楽室に入ると、
俺は俺の耳の判断が間違っていなかったことが確認できた。
音楽室の中になぜかいたのは沢木口美崎。
何の因果か何度か関わり合いになったことがある。
彼女の頭の横には普段通りの団子が作られていた。
「ちゃ……、ちゃお……です」
返事を返したのは田井中だ。
飄々としたイメージのある田井中だが、この時ばかりは歪んだ笑顔を浮かべていた。
申し訳程度に『です』をつけたのは、沢木口の前では千反田を演じた方が賢明だと分かっているからだろう。
田井中の人格が俺たちの前に現れるようになってから、沢木口とは一度関わったことがある。
田井中はその時のやりとりから判断したに違いない。
沢木口には今の状況を教えるのは好ましくない、いや、絶対に教えない方がいいのだと。
あの時は俺も強くそう思った。
そんな俺たちの考えなど気付いていないようで、沢木口は楽しそうに田井中に駆け寄った。
数ヶ月前のバレンタインの際に疑いを向けたこともあり、
俺たちにあまり好感を抱いてはいないはずだという俺の想像はそれで粉々に打ち砕かれた。
あまり深く考えない代わりに、遺恨も深く持ち越さない性格なのだろう。
「いやあ、意外だったし盲点だったわ、あんた」
「な、なにがですか?」
「あいつから聞いたのよ、あんたがドラム叩けるって。
清楚なお嬢様かと思ってたのに、そのギャップがたまらないわね。
なになに?
厳粛な家庭に反抗するロックスピリッツってやつ?」
沢木口があいつと親指で指したのは、音楽室の椅子に座っている入須だった。
いつもの二割増しくらい不機嫌そうな表情を浮かべている。
今日ばかりは本当に不機嫌なのかもしれない。
入須と沢木口がどれほど親しいのかはまだ掴みかねているが、
入須の様子からすると沢木口に無理矢理付いて来られた可能性が高そうだ。
ひょっとしたら伊原との電話かメールを盗み見だもされたのだろうか。
「今日はありがとね」
「いいっていいって。
わたしたちも千反田さんがドラム叩けるなんて興味あるもん」
なんとなく視線をその会話の方向に向けてみると、
軽音部らしい女生徒と伊原が話しているのが目に入った。
柔和な笑みを浮かべている伊原の様子からは、その生徒との仲の良さが窺い知れる。
大日向や千反田ともすぐに打ち解けた伊原だ。
やはりかなり顔が広いのだろう。
漫画研究会ではその顔の広さが災いしてしまったようだが、それだけが伊原の全てではない。
伊原には敵も多いが、味方も多い。
長い付き合いではあるが、それを改めて実感させられた。
108: ◆2cupU1gSNo 2013/09/16(月) 17:49:56.30 ID:M1cuoe/m0
俺は軽音部員に一礼だけすると、空いている席に座らせてもらった。
勝手に座るのも失礼かもしれないかったが、
田井中と伊原に駆け寄る軽音部員たちに声を掛けられるような雰囲気でもなかった。
入須とは視線が軽く合ったが、声は掛けなかったし、あちらからも声を掛けてはこなかった。
それを誰にも見咎められなかったのは、幸いだったということにしておこう。
「でもクラスの子たちには秘密にしておいてよね?」
「分かってるってば。
あの千反田さんにドラムを嗜んでるって知られたら、一大センセーションだもんね。
壁新聞部なんか絶対に取材に来るよ。
それは千反田さんも困るんだよね?」
「うん、そうなのよ。
これはちーちゃんの隠れた趣味でね。
家の人は気にしないかもしれないけど、周りの人たちはよく思わないかもしれないじゃない?
それでちーちゃんは行きつけの楽器店で隠れてドラムの練習をしてたのよね。
でもついこの前その楽器店が遠くに移転しちゃったらしくて」
「へえ、そんな楽器店があったんだ。
オッケーオッケー。
わたしも音楽ができない辛さは知ってるつもりだよ。
うちの部員にもちゃんと口止めしとくから安心しといて」
「ありがとね」
それで伊原と軽音部員の会話は終わったらしく、
伊原は俺とは少し離れた空いている席に腰を下ろした。
しかしよく設定を考えたものだ。
豪農・千反田家の楚々としたお嬢様の趣味がドラム。
隠れて練習していたが、行きつけの楽器店が移転してしまった。
それで軽音部のドラムを使わせてほしいのだが、周囲の目もあるから秘密にしておいてほしい。
なんだか古典クラスの青春小説の設定みたいだが、基本に忠実過ぎるからか逆に誰も疑っていないようだった。
秘密の共有という軽い背徳感もアクセントになっているらしい。
まったくお約束に過ぎるが、俺としては助かるし悪い気もしない。
一応古典部の俺としては、古典が周囲に受けられているのを喜ぶべきだろう。
勝手に座るのも失礼かもしれないかったが、
田井中と伊原に駆け寄る軽音部員たちに声を掛けられるような雰囲気でもなかった。
入須とは視線が軽く合ったが、声は掛けなかったし、あちらからも声を掛けてはこなかった。
それを誰にも見咎められなかったのは、幸いだったということにしておこう。
「でもクラスの子たちには秘密にしておいてよね?」
「分かってるってば。
あの千反田さんにドラムを嗜んでるって知られたら、一大センセーションだもんね。
壁新聞部なんか絶対に取材に来るよ。
それは千反田さんも困るんだよね?」
「うん、そうなのよ。
これはちーちゃんの隠れた趣味でね。
家の人は気にしないかもしれないけど、周りの人たちはよく思わないかもしれないじゃない?
それでちーちゃんは行きつけの楽器店で隠れてドラムの練習をしてたのよね。
でもついこの前その楽器店が遠くに移転しちゃったらしくて」
「へえ、そんな楽器店があったんだ。
オッケーオッケー。
わたしも音楽ができない辛さは知ってるつもりだよ。
うちの部員にもちゃんと口止めしとくから安心しといて」
「ありがとね」
それで伊原と軽音部員の会話は終わったらしく、
伊原は俺とは少し離れた空いている席に腰を下ろした。
しかしよく設定を考えたものだ。
豪農・千反田家の楚々としたお嬢様の趣味がドラム。
隠れて練習していたが、行きつけの楽器店が移転してしまった。
それで軽音部のドラムを使わせてほしいのだが、周囲の目もあるから秘密にしておいてほしい。
なんだか古典クラスの青春小説の設定みたいだが、基本に忠実過ぎるからか逆に誰も疑っていないようだった。
秘密の共有という軽い背徳感もアクセントになっているらしい。
まったくお約束に過ぎるが、俺としては助かるし悪い気もしない。
一応古典部の俺としては、古典が周囲に受けられているのを喜ぶべきだろう。
109: ◆2cupU1gSNo 2013/09/16(月) 17:55:04.92 ID:M1cuoe/m0
「できそうならあれ叩いてよね、コージー!」
「コージー・パウエル……ですか?」
「そうそう、そのコージーよ。
あのオクトパスなドラム見せてよね!」
「が、頑張りますね」
軽音部でもないのに一番盛り上がっている沢木口の声が音楽室に響く。
確か天文部だったはずだが、どうして沢木口がここに来ているんだろうか。
いや、それよりも気になるのは、沢木口に対する田井中の態度の方か。
田井中のその飄々とした様子から、
この二人は気が合いそうだと思っていたのだが、
意外と田井中の方が沢木口に苦手意識を持っているようだ。
今でも明らかに困惑した表情を浮かべ、慣れない敬語で応対している。
アテレコが得意と言っていただけあって、その声と口調色が千反田そのものなのは見事と言えば見事だが。
そういえば前に沢木口と関わり合いになってしまった時、
あの時も田井中は沢木口に困惑した表情を向けて、明らかに戸惑っていた。
エキセントリックな沢木口の性格は田井中すらも困惑わせてしまうのだろうか。
いや、たぶんだがそうではないのだろう。
おそらくは俺が思っているものと、田井中の本質が大きく異なっているということなのだ。
田井中の行動や態度は、千反田と同じくはっきりしている分読みやすい。
だが読みやすいというだけで、その本質まで分かっていると考えるのは『傲慢』というものだろう。
ずいぶん前にも考えたはずだ。
なにもかも分かっているつもりになったところで、いずれ自分の無知を自覚させられるだけなのだと。
そうだ、俺は思い出すべきなのだ。
あの日、沢木口と田井中が会話している時、意外に思われたことが何度あったかを。
113: ◆2cupU1gSNo 2013/09/21(土) 19:02:14.94 ID:1Kxbr3QP0
2.六月十六日
田井中は問題なく千反田として振る舞えているようだった。
田井中への質疑応答を終えて数日が経過したが、
各方面から千反田の様子がおかしいという噂を聞くことは一度もなかった。
田井中の演技力に素直に舌を巻かされる。
まったく正反対の正確に見える千反田を演じるなど、
田井中の中に千反田の記憶の残滓があるとは言え、相当に難しいだろう。
一度、田井中と妙に親密になった伊原がそれを訊いた。
すると田井中はなんとも言えない苦笑を浮かべて答えたのだ。
「前に学祭の劇でお嬢様の役をやったことがあるんだよ」と。
アテレコが得意と言っていたことだし、そういう演技の才能でもあるのかもしれない。
誰の役を演じたのかを伊原が頻りに訊ねていたが、
田井中は結局その役に関しては濁すだけで答えようとはしなかった。
まあ学園祭で演じる劇だ。
お約束で考えると『シンデレラ』か『白雪姫』、『ロミオとジュリエット』くらいだろう。
いや、シンデレラと白雪姫はお嬢様と言うよりは姫になるか。
ならば『ロミオとジュリエット』だろうか。
別にどれでも構わないのだが。
今日の昼休み、早弁を終えていた俺は千反田のクラスを覗きに行ってみた。
省エネを心がける俺としては、無駄なエネルギー消費を抑えたい気持ちも多分にある。
だが気になるものはしょうがない。
古人曰く、百聞は一見に如かず。
気になる事態を放置していて頭を捻っていても余計に疲れるだけだ。
「先日はカチューシャを貸していただきありがとうございました」
「いいっていいって、千反田さんの役に立ててわたしも嬉しかったし!」
そう教室の中で弁当を食べながら話をしていたのは、田井中と眼鏡の某とかいう女子生徒だった。
『車輪の上ゲーム』(例によって里志がそう呼び始めた)の件で親しくなったのだろうか。
しかしまったく見事なものだった。
傍から見ているだけでは、千反田がクラスメイトと仲睦まじくしているようにしか見えない。
仕種、口調に語調、はにかみ方まで千反田そのものに見える。
軽い違和感を見せることこそあるものの、それすら一瞬でフォローしている。
千反田の中に田井中の精神が存在していることを知っている俺ですらそうなのだ。
妄執的に千反田を毎日観察している人間でもなければ、田井中が見せる些細な違和感には気付かないだろう。
そういう人間が存在するとは考えたくないが。
「あー、だっりー……」
放課後、部室に姿を現した田井中の第一声がそれだった。
完璧な演技を見せていた田井中だったが、やはり相当に無理をしていたらしい。
スカートの中からヘアゴムを取り出すとポニーテールに髪を纏め、
鞄の中に常備しているらしいカチューシャで前髪を押さえて額を出した。
『千反田』モードから『田井中』モードへの切り替えといったところだろう。
額に視線を向けてみると、既に絆創膏は貼らなくなっているようだった。
若干の痕は残っているようだったが、この程度なら綺麗に治るはずだ。
114: ◆2cupU1gSNo 2013/09/21(土) 19:03:01.37 ID:1Kxbr3QP0
「よお」
と声を掛けてみたものの、俺にはそれ以上の言葉が出てこなかった。
千反田の中に千反田ではない誰か、田井中が存在していることはまず間違いない。
多重人格なのかそれ以外の超自然的存在なのか分からないが、とにかく存在している。
それは前回の質疑応答でよく分かっている。
しかしそれでなにが変わるというわけでもない。
これは外国からの留学生への対応と似ているかもしれない。
相手が自分と違った価値観と文化を持っていることは分かっている。
だがなにを話していいのか、なにを話してはいけないのか分からない。
そんなところだ。
「よ、ホータロー」
俺の考えを分かっていないのか、それとも分かってやっているのか。
田井中は横の髪を流しながら俺に笑いかけた。
千反田とは全く違った笑顔で、おそらくは田井中自身の笑顔で。
田井中が千反田の笑顔を浮かべられるのは、昼休みに俺も確認している。
それでも田井中は千反田の柔らかい上品な笑顔ではなく、
田井中が普段浮かべていたのだろう明るく輝く笑顔を俺に向けたのだ。
それは『車輪の上ゲーム』をクリアした俺にこそ向ける笑顔なのだろう。
俺だからこそ向けなくてはならない笑顔なのだ。
ならば俺にできることは一つしかない。
俺は田井中との挨拶をそこそこに切り上げ、早々と部室から出た。
急用を思い出したとうさんくさいいいわけをして、
田井中の相手は顔を出したばかりの伊原に任せて。
田井中から逃げ出したわけじゃない。
千反田の中にある田井中という存在。
まずその田井中が千反田の別人格と仮定するとして、俺には確かめなければならないことがある。
誰が言った言葉だったか。
『可能性を一つずつ潰していって、最後に残ったものがどんなに意外でも真実だ』と。
俺は一つずつ田井中が何者であるかの可能性を潰していかなければならない。
最後に一つ、意外であろうとそうとしか考えられない可能性を残さなければならない。
それこそが田井中と俺の望んでいることなのだ。
それは同時に俺の省エネ生活が戻ってくるということでもある。
予感はあった。
校門のほんの少し先、女子にしては背が高く、鋭い視線を有したあの人が立っていた。
この時間に俺が来なかったらどうするつもりだったのだろう。
いや、彼女のことだ。
その顔の広さと人を使う上手さを駆使して、誰かに依頼していたのだろう。
そうだな、考えられるのは古典部の部室から近い第五選択教室にある天文部の部員か。
俺が部室から出たのを確認したら直ちに連絡してほしい、そんな風にでも。
そういえばあの人と天文部のあいつはクラスメイトだったはずだ。
「やあ、折木君」
その人、女帝こと入須冬実が軽く手を上げて俺に近付いてくる。
おそらくは天文部の部員、沢木口を使っておきながら、
そんなことなどおくびにも見せない見事な演技だった。
まあいい。
それだけ入須も俺と話したかったということなのだろう。
だから俺は入須の次の言葉にも自然と頷いていた。
「少し、茶を飲むだけの時間を貰えないかな?」
そういえば、前にもこんな風に入須に誘われたことがあった。
115: ◆2cupU1gSNo 2013/09/21(土) 19:03:44.97 ID:1Kxbr3QP0
川沿いの細い道を通り、瀟洒な佇まいの店に入る。
控え目に小豆色の暖簾の掛けられたその名の通り『お茶』の店。
名を「一二三」。
一度、入須に連れられて訪れたことがある。
まさかまた訪れることになるとは思わなかった。
畳敷きのボックス席に入り、入須がスカートを折り畳んで正座する。
女と違って男は正座に適した骨格をしていない。
そんな言い訳を自分の中でだけしてから、俺は胡坐をかいて座った。
入須は俺の胡坐を気にしてはいないようだった。
「私は抹茶にするが君はどうする?」
なんでもないことのように入須が俺に訊ねる。
じゃあ水出し玉露を、とは言わなかった。
前に飲んだ水色玉露の値段はとんでもなかったし、味もよく覚えていない。
俺にはまだ早かったということなのだろう。
一礼して、「じゃあ先輩と同じ抹茶をお願いします」と入須に頼む。
味も覚えていない高級品を飲むよりは、入須の好む味を知っておきたかった。
まあ飲む前から大体の想像は付いている。
それはそれは渋くて苦い抹茶なのだろう。
入須が前掛け姿のウェイトレスに抹茶を二つ頼むと、予想通り沈黙が訪れた。
それは前回と同じだったが、今回の入須はわざと沈黙しているようにも見えた。
例えウェイトレスにでも聞かれたくない話があるのだろう。
考えてみればここは密会にうってつけの場所だし、実際に密会に使っている人間も大勢いそうだ。
前回は単に俺を利用するためにこの店に連れてきたのだろうが、
今回は真の意味での密会のために俺を呼んだのだと考える方が妥当だろう。
俺以上に今回の事態に心を悩ませているのは、間違いなく入須のはずなのだから。
「単刀直入に言わせてもらうよ」
ウェイトレスが抹茶とお茶請けを卓に並べた直後、
よっぽど急いていたのだろう、抹茶に一口付けるよりも先に入須が切り出した。
俺は抹茶に伸ばしかけた手を膝元に戻し、入須に視線を向ける。
「なんでしょうか?」
「千反田の……、いや、田井中さんか……。
とにかく『彼女』の様子はどう?
あれからなにも変わりはない?」
予想通り入須が切り出したのは田井中、いや、千反田の話だった。
当たり前だ、今のところ俺と入須にはそれくらいしか接点がないのだから。
116: ◆2cupU1gSNo 2013/09/21(土) 19:04:13.62 ID:1Kxbr3QP0
「変わりはありませんが、上手くやっているようです。
自分で言うのも変ですが、今日の昼休みにクラスの様子を覗きにも行きました。
まったく見事なものでした。
外から見ているだけでは普段の千反田とほとんど変わりがありません。
だと言うのに、部室ではあの田井中なんですよ。
先輩もこの前見た、陽気で大雑把な田井中律なんです。
よっぽど演技が上手いんでしょうね、あの田井中は。
もっともそちらの方が俺たちにも都合がいいんですけどね」
「そうか。
……そうだね」
「ええ、そうです」
「もう一つ訊きたい。
君は田井中さんを何だと思っているの?」
「浮遊霊とか、宇宙意思とかいう意味でですか?
どうとでも考えられますけど、一番可能性が高いのは多重人格でしょうね。
先輩もそう考えているんでしょう?」
「多重人格、解離性同一性障害、DID……。
確かにその可能性は私も考えてはいるよ、折木君。
霊魂や宇宙人の洗脳などと考えるよりは、もっとも理に適っているしね。
けれど私にはどうもそうは思えない」
「それはなぜ?」
「兆候が全くなかったからだよ。
私も千反田と短い付き合いというわけじゃない。
恥ずかしながら、君たちより深く付き合っているという自負もある。
だからこそ思うのよ、田井中さんは千反田の別人格ではないと」
珍しく客観を失った意見だと思った。
ここまで主観に満ちた入須の言葉を聞くのは初めてかもしれない。
だが同意見ではあった。
入須ほどではないが、千反田のことはそれなりに近くで見ている。
だからこそ俺も言える。
千反田が仮に多重人格であったとしても、
その発現があまりにも唐突過ぎたということを。
119: ◆2cupU1gSNo 2013/09/24(火) 22:29:39.13 ID:ULg9oSNb0
「兆候が全くなかったことだけを証拠に仮定しているわけではないわ。
他にも田井中さんを多重人格と考えるには無理がある理由がたくさんある。
例えば折木君は多重人格を発症する一般的な原因を知っているわよね?」
知っているわよね、とはまた買い被られたものだ。
俺が知らなければどうするつもりだったのだろう。
しかし入須の言う通り俺はそれを知っていた。
頷いて、入須の言葉を継ぐ形で続ける。
「幼少期のトラウマ……心的外傷ですね。
もちろん本で読んだ知識ですし、一般的な知識しかありませんけれども。
幼児期に精神的に耐えがたいなんらかの経験をして、
それが現実に自らに起こった事実だと認めないために、
自分の中に自分ではない誰かを作り上げ、その誰かに辛い現実を押し付けるようになる。
確か概ねそれが多重人格の発症原因だと考えられていたはずです」
「そうだね、その通りだよ、折木君。
私も詳しいわけではないけれど、家の関係上知識としては知っている」
そういえば入須の実家は総合病院だったな。
まさか多重人格の患者はいないはずだが、似た症状の患者はいるのかもしれない。
「質問ばかりで悪いが折木君、もう一つ訊かせてほしい。
私たちが知っている多重人格の発症原因と千反田える。
その二つの要素が君の中では繋がるかしら?」
「いいえ」
俺は即答していた。
千反田の過去など『氷菓』に関わった伯父のことくらいしか知らない。
千反田はあまり自分の過去を語る方ではなかったし、俺も進んで知ろうとしなかった。
それなのに千反田の過去を決めつけるような発言をしていいのか。
俺の中でそんな迷いがないと言えば嘘になる。
だが俺は即答したのだ。
それは俺の願いのようなものだったのかもしれない。
千反田が心的外傷を抱えるほど苛烈な幼少期を過ごしたわけではないのだと。
あの豪農の豪邸で家族の愛を人並みに受けて成長してきたのだと。
そう信じたかったのだと思う。
入須は俺の瞳をじっと見つめ始めた。
俺の心情を読み取ろうとしているのか、
他の理由があってからか、とにかくかなり長い間俺の瞳を見つめていた。
三度ほど唾を飲み込んだ頃、不意に入須の表情が柔らかくなった。
入須には珍しい穏やかな表情に思えた。
「私も千反田の家庭の事情を深く知っているわけじゃない。
家ぐるみで関わるのは先日の雛祭りの時くらいだからね。
内情が漏れないように子供を虐待する家庭があることも理解している。
それでも思うのよ、千反田には心的外傷を負うような幼少期を送っていないはずだと」
幼少期の心的外傷が家族からの虐待だけとは限らない。
入須が知らないだけで他の要因が千反田を襲ったのかもしれない。
例えば誘拐事件とか。
豪農の千反田家なのだ。
身代金目当てに幼い千反田が誘拐されていたとしてもおかしくはない。
しかしそれはなんと言うかこじつけに近い勝手な俺の妄想だ。
入須が千反田の幼少期に苛烈な過去がなかったはずだと言うのなら、それを信じてもいいだろう。
俺と入須が知っている千反田は、楚々としたお嬢様の皮を被った無邪気な好奇心の獣なのだから。
仮にあいつになんらかの辛い過去があるとしても、そんなものは伯父の『氷菓』の件だけでたくさんだ。
120: ◆2cupU1gSNo 2013/09/24(火) 22:30:10.10 ID:ULg9oSNb0
「俺もそう思います。
辛い過去を想起させるには、あいつは明る過ぎる。
いい意味でですよ、一応断っておきますが」
「ああ、分かっているよ、折木君。
もっとも多重人格の発症原因が幼少期のトラウマと断じられているわけではないけれどね。
私たちの知らない、もしかしたら精神科医ですら知らない発症原因があるのかもしれない。
人間の心の問題だからね、第三者が観察しているだけでは分からないことも多いはずよ」
入須が自嘲気味に苦笑する。
その通りだ、人間の心の問題などその本人以外誰にも分からない。
いや、本人ですら分かっているか危ういものだ。
俺だって省エネの信念を曲げて行動しつつある昨今なのだ。
それを論理的に説明しろと言われても、正確に答えられる気がしない。
「もっとも、今の千反田の状態を一番説明しやすいのが多重人格なのも事実よ」
苦笑を冷徹な表情に戻し、入須が続ける。
「精神の入れ替わり、狐憑き、憑依現象。
仮定としては成立させられるけれど、どれも現実味がないわ。
多重人格にしては違和感が多いのも確かだけれど、その方面から考えるしかないのかもしれない。
それが私の思考力の限界だけれど、折木君には他に考えられる可能性はないだろうか?」
「他の可能性ですか……」
俺もそれを考えていないわけではなかった。
現実味がある可能性から非科学的に過ぎる可能性まで、多くのことを考えた。
例えば前世の記憶だ。
前世の記憶を有している人間の都市伝説など掃いて捨てるほどある。
田井中は千反田の前世であり、ふとしたきっかけで田井中の記憶が千反田の中で蘇ったとか。
……自分で考えていて頭が痛くなってきた。
生まれ変わりがあるかどうかは置いておくとして、時系列的に既におかしい。
田井中の様子や言葉遣いを思い出してみるだけで分かる。
田井中は千反田の高校生活を何の違和感もなく受け入れていたではないか。
千反田は高校二年生だ。
田井中が死んで千反田に生まれ変わったとしても、約十七年の歳月が経過していることになる。
少なくとも十七年以上前の人間が、現代の生活を簡単に受け入れられるものなのだろうか。
例えば十七年前には携帯電話も流通していなかったはずだし、制服の着こなしもかなり異なっていたはずだ。
十七年、四捨五入して約二十年。
二十年という月日は短いようで、なにかが変わってしまうには長い時間のはずなのだ。
しかし田井中はほとんど違和感なく千反田の、俺たちの生活を受容しているように見えた。
田井中の感覚はまさに現代人のそれだったのだから。
それを前提として考えるならば、田井中が千反田の前世とは考えにくい。
そうなると残るのは田井中の存在は全て千反田の演技だという可能性になるが……。
その可能性もいくらなんでも不合理だろう。
俺たちを戸惑わせるための演技にしてはあまりにも大掛かり過ぎる。
数日かけて自分ではない誰かを何の得もなく演じるなど、俺にはごめんだ。
第一あいつはそんな性格ではない。
冗談を言うことはあるが、誰かを気まぐれで困らせるような性格でもないのだ。
そうして俺が黙り込んで頭を捻っていると、入須が軽く肩をすくめて言った。
入須も自分が無茶を言っていることは承知の上だったのだろう。
121: ◆2cupU1gSNo 2013/09/24(火) 22:30:41.45 ID:ULg9oSNb0
「すまない折木君。
自分になんの仮定も浮かばないからといって頼り過ぎだったわね。
とりあえず多重人格の方向から考えてみるのが一番だと思う。
幼少期の心的外傷もないと信じたいが、それとなく千反田家に探りを入れて……」
瞬間、入須が目を剥いた。
滅多に見られない入須の驚いた表情だった。
目を剥いて俺の後方の一点を注視している。
なにがあったのかとその視線を辿ってみて俺も驚いた。
軽く間抜けな声も出ていたかもしれない。
視線の先にはここにいないはずの人間の姿があったからだ。
「それは必要ないと思うぞ、冬実」
冬実。
入須のことをそう呼ぶ人間は俺はそいつ一人しか出会っていない。
そいつは結んでいたはずの髪を解き、前髪も下ろしてそこで微笑んでいた。
「田井中さん、どうしてここに?」
目を剥いたまま入須がそいつ、つまり田井中に訊ねていた。
下ろした前髪が邪魔なのだろうか、頻りに髪の先を触りながらも田井中は眩しく笑った。
「ホータローが早々に部室から出てったのが気になって尾行してみたんだよ。
あ、摩耶花は里志と一緒に帰ったはずだから心配しなくて大丈夫だぞ?
やるじゃんホータロー、まさか冬実とこんな所で逢引きしてるなんてさ。
摩耶花たちには秘密にしといてやるから、いつかなにか奢ってくれよな」
「逢引きじゃない」
「ははっ、分かってるってば、ホータロー。
冬実となにか話すことがあってこの店に来たんだよな?」
「そうだがよく俺たちに気付かれずに尾行できたな、田井中。
少なくとも俺はお前の存在なんて気付かなかった。
入須先輩は……」
皆まで言う前に入須が首を横に振った。
入須も田井中の尾行には気付いていなかったらしい。
そもそもこの店までの道程には隠れる場所など少なかったはずだ。
どうやって俺たちに気付かれずに尾行していたというのだろうか。
俺がそれを訊ねると田井中が胸を張った。
田井中の、正確には千反田の胸が大きく揺れる。
男の俺が目の前にいるというのに遠慮がない奴だ。
いや、ひょっとしたら田井中本人の胸は控え目なのかもしれない。
それで男を前にしても躊躇いなく胸を張れるのかもしれない。
いやいや、なに余計なことを考えてるんだ、俺は。
幸い俺の思考は読み取れなかったようで、胸を張ったまま田井中が続けた。
「私には探偵ごっこが好きな友達がいるのだよ、ホータローくん。
ムギって言うんだけどさ、お嬢様なのに尾行や探偵ごっこが好きな奴なんだよ。
私も一度後ろから驚かされて心臓が止まりそうになったんだよな……。
気配を消せるし神出鬼没だし、いつもびっくりさせられるんだよ、ムギには……」
それはまた変わった友人を持っているものだ。
しかしお嬢様の友人を持っているとは意外だった。
なにしろ活発な気質の田井中なのだ。
周囲に集まる人間も同様の性格だとばかり思っていたのだが。
いや、そうとは言い切れないか。
俺だって千反田というお嬢様とそれなりに深い関わりを持っている。
それを考えると田井中がお嬢様の友人を持っていても全く不思議ではない。
しかしムギとは変わった名前だった。
おそらくはあだ名だろう。
由来が苗字ならば麦田、名前なら小麦といったところだろうか。
122: ◆2cupU1gSNo 2013/09/24(火) 22:31:20.20 ID:ULg9oSNb0
「とにかくそれで私の尾行テクニックも上達したわけだ。
その証拠に二人とも全然私に気付かなかっただろ?」
確かに気が付かなかった。
田井中の意外な特技に舌を巻かされる。
こいつは決して大雑把で陽気なだけの女ではない。
今後田井中に隠れて行動する時は尾行にも気を付けなければなるまい。
だが田井中はそこで俺の予想していなかった言葉を続けた。
「まあ、冗談なんだけどな」
冗談かよ!
つい叫びそうになったが、周囲への迷惑も考えてどうにか堪える。
口元に悪戯っぽい笑みを浮かべながら、田井中が俺の隣に座って肩を叩いた。
「悪かったって、そんな顔すんなよホータロー。
実はホータローと冬実を見かけたのは本当なんだけど、すぐに見失っちゃったんだよな。
どこに行くんだろうって気になって首を捻ってたらさ、
急に頭の中に浮かんできたんだよ、この『一二三』って店のことが。
きっとえるって子の記憶にある心当たりなんだろうな」
「そうか……」と入須が呟くのを俺は聞き逃さなかった。
入須と千反田の仲だ。
二人でこの『一二三』を訪れたことも幾度かあるのだろう。
俺の想像が正しいのを証明するように田井中が続ける。
「それでこの店を覗き込んでみたんだ。
そしたらウェイトレスさんが私の……、
じゃなくてえるって子の顔を見てすぐに案内してくれたんだよ。
冬実とえるって子は常連って言えるくらいこの店に来てるわけだし、連れだと思ってくれたみたいなんだよな。
これが私がホータローたちを見つけられた理由だ。
どうだ? 納得いったか?」
123: ◆2cupU1gSNo 2013/09/24(火) 22:32:18.71 ID:ULg9oSNb0
納得はできる。
釈然とはしないが。
だが今俺がするべきことは、釈然としない気持ちを田井中にぶつけることじゃない。
俺は小さく深呼吸すると、田井中から少し距離を取ってから視線をぶつけた。
「お前がこの店に来れた理由は分かった。
だが千反田家への探りが必要ないってのはどういうことだ?」
「言葉通りだぞ、ホータロー。
えるって子の家を調べる必要なんてないんだよ。
だってえるって子は小さい頃にひどい目になんてあってないんだもんな。
そりゃ人並みに嫌なこともあったみたいだけど、人の何倍も嫌なことがあったってわけじゃない。
ちょっとお金持ちの家に生まれてるけどさ、それ以外は普通の子供だったんだよ、えるって子は」
どうしてそれがお前に分かるんだと問うのも野暮だった。
田井中の中には千反田の記憶がそのまま残っている。
その田井中が言うのだ、千反田に幼少期の心的外傷などなかったのだと。
ならば信じるしかなかった。
千反田が田井中に知覚できない領域にまで記憶を沈めている可能性はもちろんある。
しかしそれは可能性でしかなかったし、可能性ばかり膨らませていてもどうにもならない。
里志の言葉ではないが『オッカムの剃刀』ってやつだろう。
可能性はどんな形でもいくらでも浮かび上がる。
そうなると可能性を絞るしかない。
田井中の言葉と千反田のまっすぐな性格を信じるしかないのだ。
それにしても田井中はどこから俺たちの会話を聞いていたのだろうか。
口振りから察するに、ほとんど聞いてたみたいじゃないか。
そういった意味では多少は尾行の才能もあるのかもしれない。
いや、盗み聞きの才能か?
なんとなく入須と視線を合わせる。
入須も俺と同じことを考えていたようで、軽く肩をすくめていた。
だが入須のその仕種は長く続かなかった。
なぜなら田井中が現れた時以上に目を剥いて、俺と田井中の後方に視線を向けたからだ。
今度はなんなんだ、と振り返るより先に俺は大きな衝撃を肩に感じた。
「ちゃお!」
「ギャー!」
二つの甲高い声が続いて『一二三』に響く。
『ギャー!』は俺ではなく田井中が上げた悲鳴だ。
思ったより小心なのだろうか。
そういえばムギという友人によく驚かされるとも言っていたか。
まあ、俺も心臓の動悸がかなり激しくなってはいるのだが。
だがその心臓の動悸は驚いたからだけではない。
非常に嫌な予感がする。
たった一言、たった三文字で自分が誰かを周囲に示している挨拶。
俺の知っている人間の中で、『ちゃお!』を挨拶に使ったことがある人間は三人しかいない。
一人は姉貴、一人は酔った千反田、そして最後の一人は……。
示し合わせたわけではないが、俺と田井中はほぼ同時に俺たちの肩を叩いた誰かに顔を向けていた。
「ちゃお!」
視線が合うと、そいつはまた同じ挨拶を繰り返した。
俺たちがそう返すまで繰り返すつもりなのだろう。
一体なにが彼女をそこまで『ちゃお!』の応酬に駆り立てるのだろうか。
田井中ではないが、俺も『ギャー!』と叫びたい気分だった。
「……ちゃお」
「ちゃ、ちゃお……」
俺、田井中の順で挨拶を返すと、そいつはお団子を揺らして笑った。
にっこりという擬音語が聞こえそうなくらいの満面の笑顔だった。
沢木口美崎。
バナナをだし汁で煮る俺たちの先輩だった。
126: ◆2cupU1gSNo 2013/09/29(日) 18:45:21.31 ID:Ve5EtonX0
「どうしてここにいるの」
右手で頭を抱えた入須が苦々しげに沢木口に訊ねる。
俺たちの肩から手を離すと、沢木口はよく見せる妙なポーズを取って微笑んだ。
「ちゃお!」
「質問に答えてもらえるとありがたいのだけれど」
「いつも通りノリが悪いわねー。
ま、いいわ、それがあんただもんね。
ってわざわざ質問に答えるまでもないでしょ?
あんたに頼まれてこの折木って子の動きを見張ってたのはあたしじゃないの。
それでどこかに向かったその子と、その子を追跡してた千反田を追跡してたわけよ」
俺は唖然とした。
俺の予想通り、入須が沢木口に俺の見張りをさせていたことにではない。
おそらくは入須に口止めされていただろうに、
俺本人がいる前で入須本人に依頼された内容をあっけらかんと話す沢木口の豪胆な気概にだ。
ある意味、感動までする。
軽く視線を向けてみると、入須が大きく溜息をついていた。
やはり依頼する相手を間違っていた、とその入須の素振りは語っていた。
「口外無用と念を押したはずだけれど」
「そうだったっけ?」
「沢木口」
「分かってるわよ、分かってるってば。
でもね、口外無用なのは分かってるけど、
あんた達がなにしてるのかの方がずっと気になっちゃったのよね。
好奇心と沈黙。
そのどっちかを選べって言われたら、あたしは躊躇いなく好奇心を選ぶタイプよ?」
「そうね、それは知っていたわ。
私はそれを知っていて、それでも大丈夫だと踏んでお前に頼んだ。
計算違いだったのは、お前が想像以上に好奇心を優先するタイプだったということ。
それに尽きるわね」
「お褒めに預かり光栄の限り」
「口外無用の約束を破られた以上、お前への報酬は無効とさせてもらうが」
「いいわよ、全然。
さっき思い出したんだけど、あたし今ダイエットしてんのよね。
あの店のケーキなんか食べたら明らかにカロリーオーバーよ。
そんな危険を冒すくらいだったら、あたしは自分の好奇心を満たすことを選ぶわ」
127: ◆2cupU1gSNo 2013/09/29(日) 18:45:53.99 ID:Ve5EtonX0
「そうか」
「そうよ」
俺は舌を巻かざるを得なかった。
二人がクラスメイトであったことは知っていたが、
こうまで互角にやり合える仲だったとは知らなかった。
理屈で動く入須と本能で動く沢木口。
なるほど、いいライバル関係だ。
いや、ライバルか?
まあいい、今は二人の関係は重要ではない。
俺の見張りを沢木口に依頼していたことを入須に問いただそうかとも思ったがやめておいた。
誰かに見貼られていることは既に予想していたことだし、
入須も入須でその件に関しては俺に触れられたくもないだろう。
結果的に大失敗という形になったわけだしな。
俺には死人に鞭打つ趣味はない。
俺が沈黙することで入須が負い目に感じてくれれば、後々に様々な協力も得やすくなるはずだ。
性格が悪いとは自分でも思うが、今は縋れる物なら藁でもなんでも掴みたいのが現状だ。
不意に頬にくすぐったさを感じる。
なんだろうと視線を向けると、それは田井中(千反田)の長い髪の感触だと分かった。
どうやら沢木口の傍からそそくさと俺の隣に逃げてきたらしい。
苦々しい表情を浮かべているのは、単に俺の隣で正座をしているからではないだろう。
田井中が沢木口に苦手意識を持っているのは見るからに明らかだった。
田井中はやはり暑いのか、それとも冷や汗を掻いているのか、頻りに髪を横に流している。
にも関わらず田井中が髪を結ばない理由の一つは、この店に潜入するためで間違いない。
常連とは言え、普段の千反田がしない髪型で店を訪れた場合、気付かれない可能性が大いにある。
ウェイトレスに自分が入須の連れと判断されるためには、普段通りの髪型の方が都合がいい。
髪を結ばない理由の二つ目はもっと簡単。
田井中が周囲の視線を気にしてくれているからだ。
古典部の部室を訪れる時以外、田井中は普段の千反田の髪型を貫いている。
当然だが周囲から余計な詮索をされないためだろう。
女子が髪型を劇的に変える。
なんでもないことの様だが、女子にとっては特に大きな違和感になってしまうものらしい。
俺でさえ、前に髪を切った時に様々な詮索をされてしまった。
クラスでも目立つの方の千反田が髪型を変えたとなると、
特に面白い話題の無い我が高校では一大センセーションにもなりかねない。
その田井中の軽い気遣いが、今は功を奏しているようだった。
女子が髪型を変えようと気にもしない人間も大勢いる。
例えば俺がそうだし、おそらくは入須もそうだろう。
だが沢木口がそうでないのは火を見るよりも明らかだった。
千反田が見慣れない髪型をしているのを確認したが最後、
あることないことを詮索し、あることないことを周囲に広めることだろう。
もちろんなんの悪意もなく。
千反田の今の状況がこれ以上ややこしくなるのは、俺としても是非避けたいところだ。
だがそれを念頭に置いたとしても、田井中が沢木口を苦手にしているのは意外だった。
沢木口ほどではないにしても、田井中もそれなりにエキセントリックな性格に思えるのだが。
見知らぬ誰かの身体の中に自分の精神だけ存在しているという状況。
その非現実的な状況の中でさえ田井中はとても落ち着いている。
少なくとも俺にはそう見える。
それをエキセントリックと言わずして、なにをエキセントリックと言うのだろう。
それとも田井中の中の千反田の記憶が起因しているのだろうか。
俺が憶えている限り、千反田と沢木口が関わったのは三度だけだったはずだ。
入須のクラスの出し物の映画の際、
ワイルドファイアの際、そしてバレンタインの際、その三度。
その三度の間に千反田が沢木口に苦手意識を抱くなにかがあったのだろうか。
俺がそこに思考を至らせるより先に、その根本原因が入須の隣に座って身を乗り出した。
「それでなになに?
あんたらまた映画でも製作しようとしてるの?」
「映画……?」
俺が問うと、沢木口はオーバーアクション気味に肩を落とした。
128: ◆2cupU1gSNo 2013/09/29(日) 18:46:40.03 ID:Ve5EtonX0
「今更隠さなくてもいいっての。
さっきまで話してたでしょ?
多重人格がどうとかどこかの家に探りを入れる予定だとか。
まあ、ウェイトレスさんとそこの千反田から隠れながら聞いてたから、色々聞き逃しちゃったけんだけどね」
どうやらカウンターすら通さず入店したらしい。
肝心な点を聞き逃してくれたのはなによりだが、防犯的にどうなのだろうか。
事態を知られたら、警察を呼ばれても文句は言えないと思うのは俺だけか?
いや、今は沢木口の勘違いを幸いと考えておくべきだろう。
俺が視線を向けると、入須は沢木口に気付かれないように静かに頷いた。
察しがよくて助かる。
俺は一呼吸置いてから口から出任せを並べる。
「はい、実はそうなんですよ、沢木口先輩。
前にクラスの映画製作に関わらせて頂いて、脚本に興味が出始めたんです。
それで入須先輩に相談させてもらっていたところなんです。
俺の前の脚本の監修をしてくれたのも入須先輩ですし、
いざ映画を自主製作するとなると人手が必要じゃないですか。
その点、入須先輩なら多くの伝手があるでしょうし」
よくぞ即興でここまで作り話が作れるものだ。
自分で自分を褒めてやりたい。
田井中が不思議そうな視線を俺に投げ掛けていたが、それは無視する。
田井中とは対照的に沢木口は実に嬉しそうな表情で頷いていた。
「うんうん、やっぱりあたしの推測は正しかったわけね。
だけどそれなら人選を間違っているわよ、あんた。
入須には確かに伝手があるでしょうけど、脚本の相談なら適任がいるでしょう」
まさか。
「そう、あたしよ、あ・た・し!
前の映画の時もあたしの意見が役に立ったと思わない?
ほら、カメラマンが犯人だったなんて意外だったけど、
あんたはその意外性をあたしの意見から読み取ったんでしょ?」
そんなわけないだろう!
鍵を無視して事件を解決するという意外性には、確かにある意味感銘を受けたが。
しかしそれとこれとは全く違う。
どう返していいか分からず、俺は入須に縋る様な視線を向けた。
だが入須はなにも言わずに首を横に振るだけだった。
さいですか。
とにかく話を合わせろということですか。
溜息をつきたいのをどうにか耐え、俺はまた作り話を始める。
「はい、沢木口先輩の意見を聞いて、俺もあの脚本に考えが至れたんです。
ミステリーと聞いて推理小説を思い浮かべる己の狭量を実感させられました。
それでやっと広い視点で物事を考えられるようになったんです。
沢木口先輩のおかげです。
その節はどうもありがとうございました」
「うんうん、それはなによりだったわ。
それであたしから一つ申し出たいことがあるんだけどいいかしら?」
聞きたくない。
聞きたくないが聞かないわけにもいかないか。
俺は俺にできる精一杯の演技で首を傾げてみせた。
129: ◆2cupU1gSNo 2013/09/29(日) 18:47:06.24 ID:Ve5EtonX0
「はい、なんでしょうか?」
「その映画にあたしも関わらせてほしいのよ。
実を言うと、あたし前の映画製作で謎解きにはまっちゃったのよね。
少ない資料から答えを読み取る楽しさを知ったって感じ?
それで発案ってわけ。
あんたが脚本で悩んでるんなら、あたしが手伝ってあげてもいいって言ってるのよ。
かなり役に立てると思うけど、どう?」
それで盗み聞きをやめて急に姿を現したわけか。
実にありがた迷惑だ。
彼女ならかなり見当違いな答えを出してくれることだろう。
だがそれも悪くないかもしれないと思う俺もいた。
前回の沢木口の答えもある意味衝撃的だったし、どうせ八方ふさがりの状態なのだ。
沢木口の出した答えで広く物を見てみるのも悪くない。
134: ◆2cupU1gSNo 2013/10/04(金) 19:51:20.78 ID:4s/6BoRb0
「すみません、お願いできますか?」
俺が頭を軽く下げるとご満悦な様子で沢木口が微笑んだ。
しかし早速話を始めようと俺が口を開くと手だけで制された。
なにをするつもりなのかと思ったら熱心にメニューを見始めていた。
俺たちの話の盗み聞きをしていて喉でも乾いたのだろう。
沢木口が喉を潤したいのならば、止める理由は特にない。
だが沢木口は「げっ」と苦そうな表情になるとメニューを伏せた。
気持ちは分からないでもない。
下手なディナーより高い額をお茶に出す気にはなれなかったのだろう。
「えーと、それじゃあ……」
沢木口は表情を変えると、何度か入須に視線を向けた後で俺に視線を向けた。
その前に何度か入須に視線を向けていたのは、奢ってほしかったからだろう。
しかし入須は目を閉じてお茶を飲んでいたし、
一度たりとも沢木口に視線に関心を示すこともなかった。
女帝の面目躍如といったところだろうか。
先刻は送れを取ってしまったものの、やはり沢木口の扱いには一日の長があるらしい。
「ちっ」と沢木口の方から舌打ちが聞こえた気がしたが、
それは入須に倣って俺も全く興味を示していない素振りを取る事に決める。
「それじゃああんたの話を聞きましょうか」
話がやっと展開したので沢木口に視線を戻す。
見事なものだった。
浮かべていたはずの苦々しげな表情はどこへやら、ご満悦な笑顔に戻っている。
誰かに頼られること自体が嬉しいのかもしれない。
そういえば天文部の部員にも妙に慕われているようでもあった。
俺は一息ついてから、今度こそ沢木口への質問を始める。
「はい、ありがとうございます。
それでは早速一つ聞かせて頂きたいんですが、
沢木口先輩は多重人格についてはどういう認識を持ってらっしゃいますか?」
「やっぱり多重人格を次回作のテーマにしたいわけ?」
「ええ、自分の中に自分の知らない謎の人格がある。
そういったテーマを扱ってみたくなったんです。
もっとも正確には多重人格に限った話ではないんですが。
人間の中に本人ではない別人の人格があるとして、
それを論理的に説明する斬新な設定がないかと模索しているところなんです」
「へえ、相変わらず細かい設定まで考えているのねえ、あんた」
そう言われる気がしていたが、かく言う俺自身も同じ気持ちだった。
もしも俺が今の質問を自身に浴びせられていたら、
どうでもいい設定が細か過ぎると苦言を呈していたところだろう。
実を言うと、今でもそうしたい気分で満ち溢れている。
だがこれは映画の設定ではなく、まさに俺たちの目の前に立ち塞がっている現実なのだ。
現実に細か過ぎると文句を付けるなど、完全に思春期の中学生の言動ではないか。
だからこそ俺たちはどんなに理不尽でも考えるしかないのだ。
現在起こってしまっている現実のことを。
135: ◆2cupU1gSNo 2013/10/04(金) 19:53:55.43 ID:4s/6BoRb0
「多重人格ってのは小さな頃のトラウマが原因なんだっけ?」
沢木口が自前のお団子を触りながら訊ねてくる。
細かいと言いながらも彼女なりに考えてくれるらしい。
そういう誠意は持っている先輩なのだ、一応。
「そうですね、俺も本で読んだだけなんですがそういう説が多いみたいです。
幼少期に耐えがたいなんらかの経験をして、
その経験から自分の精神を守るために別の人格を生み出す。
耐えがたい現実が自分ではなく他人に起こっているのだと思い込むために。
一般にはそう言われています」
「ミステリーでよく見る展開よね」
いや、それはミステリーよりホラーよりだろう。
どうやら沢木口はまだミステリーとホラーを混同しているらしい。
だがそれを指摘するのも野暮だし、会話を止めるほどのことでもない。
俺が指摘しなかったおかげか、途切れることなく沢木口の言葉が続いた。
「別によく見る展開が悪いってわけじゃないんだけどね、
最近だと中学生にもその設定は飽きてるって言われると思うわよ?」
「俺もそう思います。
別人格の正体が単なる多重人格だなんて、今時の視聴者には求められていないでしょう。
一応、主人公が多重人格の謎を知るためにヒロインの実家を探る、
という冒険譚的な要素も考えましたが、それも先程入須先輩に止められたばかりです。
それではありきたり過ぎるし、そういう調査のシーンが視聴者にもっとも退屈だと」
「それで家を探る必要はないとか言ってたわけね。
確かにねえ、あたしもミステリーの調査シーンは眠くなるわ。
尺合わせのためなのかもしれないけど、どうにかならないかしらね、ああいうシーンは」
「そこで沢木口先輩の力を貸して頂きたいんです。
画期的で斬新だとはまでは言いませんが、少なくとも多少は意外性がある別人格の正体。
それについてなにか思いつきませんか?
とりあえず俺たちは幽霊の憑依や前世の人格などを考えてみたんですが」
仮に田井中の正体が千反田の生み出した精神学的な意味での別人格だとしても、それはそれで構わないのだが。
もちろんそれは俺の胸の中でだけ呟いておいた。
今は別の可能性について思いを至らせてみるべき時なのだ。
二秒ほど、沢木口は首を捻っていた。
二秒だけだ。
二秒経つと、沢木口は口元を楽しそうに歪めていた。
「あるわよ、それなりに斬新な別人格の正体」
「本当ですかっ?」
軽く叫んだのは俺ではなく田井中だった。
確かに田井中の正体について一番興味があるのは、他ならぬ田井中自身だろう。
「わたし、気になります!」とでも言わんばかりに目を見開いていた。
しかし田井中はその言葉を口にしなかったし、なぜだか俺はそれに安心していた。
沢木口が心底嬉しそうな表情で田井中に視線を向ける。
136: ◆2cupU1gSNo 2013/10/04(金) 19:59:38.10 ID:4s/6BoRb0
「本当も本当だってば。
しかも前世とか憑依とか洗脳とかよりずっと科学的で論理的なやつよ。
でもすぐに教えちゃうのも面白くないわね。
どう? 入須はそれについてなにか心当たりがある?」
「残念ながら私も折木君と頭を悩ませていた身だからね。
しかも科学的に論理的な説明がつく答えなんでしょう?
正直な話、見当も付かないわ」
「うふふ、そうでしょうそうでしょう。
頭の固い入須じゃねえ……。
絶対に思いも寄らない答えだと思うわよ?
千反田だったわよね?
あんたにはその答えが分かりそう?」
「えっ?
ちょっと待てよ……。
えーっと、科学的なんだろ……?」
敬語を使うのも忘れて田井中が自分の頭を掻き始める。
幸い沢木口はその田井中の様子は気にも留めていないようだった。
俺たちが思いも寄らない答えを自分が持っているのがよっぽど嬉しいらしい。
それほどの答えを持っているということなのだろう。
しかし沢木口から科学的という言葉が聞けるとは思わなかった。
前の映画の件もあって、沢木口は俺の中でもっとも科学から縁遠い存在だったのだが。
それでも自信満々に言っているからには、本当に論理的に説明できているのだろう。
さて、俺たちの思いも寄らない答えとはなんなのだろうか。
沢木口がそれを答えるより先に、まずは田井中がとりあえずの仮定を口にした。
「別人同士の脳味噌だけ入れ替えた……とか?」
嫌な想像だった。
だが確かに科学的と言えなくもない答えでもある。
別人同士の脳を入れ替えてしまえば、
他人からすれば知人が別人格に乗っ取られたようにしか見えまい。
残念ながらそれはありえないことは俺は知っているのだが。
現代の科学で可能なはずがないと指摘するわけではない。
突然発現した田井中は知らないことだろうが、
田井中は里志と千反田が会話している時に突然現れたのだ。
発現するほんの数秒前まで、田井中は千反田だったのだ。
田井中と千反田の脳を入れ替えただけでは、こんな現象が起こるはずもない。
それに記憶を共有している件もある。
残念ながら田井中の答えは間違っていると言わざるを得なかった。
沢木口の考えていた答えとも違っていたらしい。
何度か見かけたことがあるクイズ番組のように長く溜めて、沢木口が言った。
「残………念っ!」
「やっぱり間違ってたか……。
ではなくて、間違ってましたか……」
口調を千反田のそれに戻して田井中が肩を落とす。
まさか正解していると考えていたわけではないだろうが、
せっかく見つけることができた答えが間違っているのは残念らしかった。
やはり田井中も田井中なりに必死に考えているのだ。
沢木口は肩を落とす田井中の肩を慰めるように叩く。
「そんなに気を落とさなくたっていいわよ。
だってあんたの答え、結構惜しかったんだから。
あたしってばヒント出し過ぎちゃったかしらね?」
「惜しかった……ですか?」
137: ◆2cupU1gSNo 2013/10/04(金) 20:00:26.42 ID:4s/6BoRb0
「そうよ、かなり惜しかったわ。
まあ、これ以上もったいぶるのも悪いわね。
これから画期的な別人格の正体について教えてあげるから、耳をかっぽじってよーく聞きなさいよ?」
「わ、分かりました」
「じゃあ教えるわよ。
科学的で論理的に説明できる別人格の正体、それは……!」
「それは……?」
「そいつの中にもう一個脳味噌が入ってるのよ!」
「……………は?」
「鈍いわねー……。
つまりこういうこと!
その多重人格に見えた登場人物の頭蓋骨の中には、脳味噌が二つ入ってるのよ!
それなら人格が二つあってもおかしくないし、これなら科学的な説明にもなってるじゃない!
『俺に不可能はない!』って感じにね。
どうかしら?
このミッドナイトにシャッフルしそうな斬新な答えは!」
その場に倒れ込みそうになりながらも、俺は妙に冷静な頭で考えていた。
そうなのだ。
彼女は沢木口美崎なのだ。
鍵を無視して密室トリックを解決するような先輩なのだ。
だからこれはある意味予想できていた答えなのだ。
そうとでも思わなければやってられない。
確かに科学的で論理的な答えではある。
問、その登場人物の中に二つの人格がある理由を答えよ。
答、脳が二つあるから。
明快だ。
非常に限りなく明快だ。
これなら記憶を共有していても問題なくも思える。
科学的と言えなくもないだろう。
それにしてもどこかで聞いたような設定の気がするが、気のせいだろうか。
俺が沢木口に訊ねるより先に入須が溜息交じりに呟いていた。
「確かあったわね、そんなドラマ」
それで思い出した。
確かタイトルは『銀狼怪奇ファイル』。
ジャンルは怪奇ミステリーに分類されるのだろうか。
大人しい主人公が凶暴な人格に変貌する理由が、
沢木口が語ったように脳が二つあったからだったはずだ。
姉貴が録画してよく観返していたから、俺もなんとなく記憶に残っている。
子供心ながらにそれはないだろうというトリックが多かった気がするが、
姉貴が笑いながらそれを指摘していたので、そういう楽しみ方があるドラマだったのだろう。
姉貴が観ていたのだから、沢木口がそのドラマを見ていてもおかしくない。
そのドラマから着想を得て、別人格の正体を考えてくれるのも構わない。
問題は沢木口がそれを画期的だと思っていることだ。
画期的で斬新もなにも、既に全国ネットで放映されているではないか。
沢木口はこれを本当に画期的だと思っているのだろうか。
……本当に思っていそうで困る。
140: ◆2cupU1gSNo 2013/10/07(月) 19:04:32.84 ID:I84vIa6a0
「脳が二つ……ですか」
田井中が意味深に呟く。
まさか信じているわけではないだろうが、可能性を捨て切れないのも確かだった。
原因が分からないままであれば、病院で検査してもらうことも考慮すべきかもしれない。
幸い入須の家は病院だ。
入須に依頼すれば、うまく取り計らってくれないこともないだろう。
「斬新な答えだったでしょ」
沢木口が満足気に続ける。
ドラマからの流用だというのに、どうしてこんなに満足気な表情を見せられるのだろうか。
その俺の腑に落ちない感情を読み取ったのだろうか。
沢木口は俺のお茶請けの菓子を勝手に口に入れてから胸を張った。
「お、あんたもあのドラマは知ってたみたいね。
あんた、ひょっとして元ネタがあるのに斬新も画期的もないとか思ってない?
元ネタがあるのは否定しないけどね、でもちょっと考えてくれる?
あんたは一度でも多重人格について、こういう考え方をしたことがあるの?」
俺は素直に首を横に振った。
確かに考えたこともなかった。
俺に想像できる範疇を超えているからだ。
「でしょ?
つまりはそういうことなのよ、分かる?
元ネタがあったとしても、前例があったとしても、
視聴者がそれを考えつかなかった時点でそれは斬新で画期的なのよ。
それにね、あんたもあのドラマを知ってたのに、
脳が二つあるってネタを思いつかなかったじゃない」
「ですがそれは」
非科学的に過ぎないだろうか。
多重人格の作品の結末としては禁じ手なのではないだろうか。
俺はその言葉を口にはしなかった。
なにを言っても空々しく感じられる気がしたからだ。
言葉の途中で俺が口を閉じたのを見届けた後、沢木口は軽い感じに指を立てた。
「あんたたちさ、アステリズムって知ってる?」
俺は知らない。
視線を向けると入須も首を振った。
なにかの専門用語だろうか?
そう考えていると解答は意外なところからもたらされた。
「北斗七星や南斗六星などの星座ではない星群のことですよね?」
答えたのは田井中だった。
星群ということは天文学か。
確かに沢木口に天文部だが、その口から天文学の用語が出るとは意外だった。
意外と言えば、田井中の口からその用語の説明が出たこともそうだが。
千反田が記憶していたことだったのだろうか。
141: ◆2cupU1gSNo 2013/10/07(月) 19:05:04.64 ID:I84vIa6a0
「そうよ、よく知ってるじゃない。
あんたの言う通りアステリズムは北斗七星とかの、星座以外の星群のことよ。
まあ、別に星座でもいいんだけどね。
星座も昔はアステリズムだったみたいだし。
それにしても千反田、あんた誰か天文学に詳しい知り合いでもいるの?」
「あ、えっと、幼馴染みがちょっと星座が好きで……」
十文字のことだろうか。
いや、なんとなくだが違う気がする。
もしかしたら田井中自身の幼馴染みのことかもしれない。
確か澪とか言ったか。
詳しく話されたわけではなかったが、星座を好みそうな印象に思えた。
「へえ、その子とは一度語ってみたいところね。
けど今はそれよりアステリズムの話よ。
北斗七星や南斗六星はもちろん地球から見た星の並びよね?
星座もそうだけど、アステリズムは地球に住んでる昔の誰かさんが考えた星群なのよ。
そこであんたたちに問題よ。
その星座やアステリズムを構成する星は、現実にもお互いに関係がある星でしょうか?
『はい』か『いいえ』でお答えください」
「いいえ」
示し合わせたわけではないのに、俺と入須と田井中の声が重なった。
それくらい当然の答えだった。
小学生でも知っている。
星座は人間が空の星の配置に勝手に意味づけたものでしかない。
星座を構成する各々の星は近い場所にあるように見えるというだけで、
地球からの距離は各々遥かに異なっているし、空間的にまとまっているわけでもない。
「そういうことよ」
沢木口が今度は入須のお茶請けを口に入れる。
お茶請けくらいで目くじらを立てはしないが、喉が渇いてるんじゃなかったのだろうか。
「アステリズムも星座も昔の人間が勝手に決めたもの。
実際にはなんの関係もないのに、無理矢理こじつけただけの星の物語なのよね。
そうじゃないかって勝手に想像してね。
多重人格もそうだって思わない?」
少しだけ驚かされた。
沢木口は俺が考えている以上に物事をちゃんと捉えている。
俺とは思考の方向性が全く異なってはいるが。
「多重人格ってのはあれよね?
小さな頃のトラウマとかで発症するって言われてるんでしょ?
そう言われたら正しい気もするけど、冷静に考えたら変な話よね。
だって他人の心の話じゃない。
他人の心の問題を勝手にそうじゃないかってこじつけてるだけだと思わない?
それこそトラウマじゃなくて、幽霊や洗脳の可能性だってあるにはあるのに。
他人の心の中なんてどうやったって分かんないのにね」
その通りだ。
他人の心の中など覗けるはずもない。
そうではないかと仮定することこそ出来るが、それは単なるこじつけでしかない。
俺も前に千反田に言ったではないか。
『理屈と膏薬はどこにでもくっつく』。
物事はどのようにでも理屈でこじつけられる。
正しいか誤りなのかはともかく、どんな形にでもくっつけられる。
それが星座であり、アステリズムであり、ともすれば多重人格もそうかもしれないのだ。
それこそ沢木口が言うように、脳が二つあるから多重人格になった人間がいないとも限らない。
「だからあたしは面白い方を選ぶことにしてるのよ」
142: ◆2cupU1gSNo 2013/10/07(月) 19:05:33.43 ID:I84vIa6a0
急に話題が変わって面食らった。
しかし沢木口の中では話が繋がっているようだった。
素直に続きの言葉を待つことにする。
「星座もアステリズムも人間が勝手に考えたこじつけ。
関係がありそうな星の間には、ほとんどなんの関係もない。
踏まれた蟹を可哀想に思って、神様が星座にしてあげたなんてこともないわ。
でもなにか関係あるって考えて星空を見た方が面白いじゃない?
例えば蠍座には蠍型の宇宙人がいるって考えた方がすっごくワクワクする。
こじつけでもなんでも面白い方が面白いでしょ?
だからあたしは天文部で天文観測してるのよね、たまにだけど」
さいですか。
だが感じ入らないわけではない。
面白い方が面白い。
重なるのは里志の姿だ。
あいつは勝ち方にこだわって俺にゲームで負けて、それを面白いと考えている。
俺にはまだ理解できそうもないが、里志と沢木口はそういう生き方を選べる人間なのだ。
その生き方を否定するつもりはない。
ともかく今の俺に言えることは一つだけ。
今の田井中に関してなにを考えようとも、それはこじつけでしかないのだろうということだ。
いつかは理に適った答えを出すことができるのかもしれない。
だがそれを後から考えてみた時、それすらもこじつけであったと気付くことが、あるのかもしれない。
軽く視線を向けてみる。
闖入者であるにもかかわらず、沢木口は平然とウェイトレスにお冷やを頼んでいた。
143: ◆2cupU1gSNo 2013/10/07(月) 19:06:09.95 ID:I84vIa6a0
3.六月十七日
田井中のことばかりを考えて生きていられるわけではない。
部に顔を出さずに帰った放課後、
田井中から返却された『車輪の下』を読んでいると、姉貴に大きな声で呼ばれた。
俺に電話とのことだった。
誰かと問うと実に楽しそうな表情で受話器だけ渡された。
小さく溜息をついてから電話の先の相手に訊ねてみる。
「もしもし?」
「お、やっと出た。
よっ、ホータロー、私だよ私」
「名前を名乗ってくれ」
「いけずだなあ、ホータロー。
私とホータローの仲じゃんかよー」
「どういう仲だ。
まあいい、とにかくなんの用だ、田井中」
「うん、ちょっとホータローに伝えときたいことがあってさ。
今日伝えようと思ってたのに、ホータロー部室に顔出さないんだもんな」
「それは悪かったが、俺だって部室に顔を出さない日くらいある」
「分かってるよ。
それでホータロー、今ちょっといいか?」
「別に構わない」
「あんがとさん。
実は昨日ホータローたちと別れた後で調べてみたことがあるんだよ。
それをホータローに伝えておいた方がいいかと思ってさ」
「何を調べたんだ?」
「学校のことだよ、私の学校。
ほら、私の母校の桜が丘女子だよ。
千反田家のパソコンでネット使って調べてみた」
何度か千反田とチャットで話したことがある。
田井中がネットでなにかを調べてもおかしくはない。
「それで?」
「結論から言うと検索に引っ掛からなかったんだよ、うちの学校。
今のご時世、ネットに引っ掛からない学校なんてないだろう。
絶対とは言い切れないけど、うちの学校は存在しないんじゃないかと思うんだよ」
実は俺もそれは知っていた。
田井中に自己紹介された後、検索してみたのだ。
知っていて切り出せなかった。
どう判断していいか分からなかった。
田井中が語る母校が存在していない。
これは田井中の過去が全て妄想だということなのか、それとも。
俺はその考えを口に出さず、別の可能性を話してみることにした。
144: ◆2cupU1gSNo 2013/10/07(月) 19:06:36.18 ID:I84vIa6a0
「平行世界……パラレルワールドってやつなのかもしれない。
俺の住む世界と田井中の住む世界が似て非なる世界だという可能性だ。
それならばお前の母校がこの世界に存在していない説明はできる。
平行世界がありうるか論じるのは今更だな。
現に田井中は存在しているんだ。
お前が平行世界の人間の意識だとしても、別に不思議じゃない」
「おっ、頭が柔らかくなってきたじゃんか、ホータロー。
あの沢木口の影響か?
昨日のあの子の推理はすごかったもんな」
「確かにすごかったが、それより俺はお前の態度が気になった」
「私の? なにが?」
「お前と沢木口は似通ったタイプだと思っていた。
二人揃うとお前らだけの別世界に誘われるかと危惧していたんだが、そんなことはなくて幸いだった」
「お前は私をなんだと思ってるんだよ……。
うーん、でも確かにそうかもな。
別に嫌いってわけじゃないんだけど、沢木口はちょっと苦手なタイプなんだよ。
ぐいぐい誰かを引っ張るタイプじゃん、沢木口って。
私ってそういうタイプが苦手みたいなんだよな」
なるほど、言われてみればそういうものなのかもしれない。
『船頭多くして船山に登る』といったところか。
人を引っ張ることに慣れた人間が、引っ張られることに慣れていないのは自明の理だ。
特に引っ張る力は間違いなく田井中より沢木口が上だろうしな。
147: ◆2cupU1gSNo 2013/10/09(水) 19:08:26.00 ID:6IGOLSKo0
「それよりさ、ホータロー」
「どうした」
「なんちゃら怪奇ファイルだっけ?
よくそんなドラマのことを知ってたよな」
「銀狼怪奇ファイルだ。
俺とは少し世代がずれていたんだが、姉貴が好きでよく観せられていたからな。
それより田井中は観ていないのか?
確かお前は十八歳とか言っていたよな。
姉貴とほぼ同世代なら知っているドラマだと思っていたんだが。
もっとも地方によって差があるのが普通なのかもしれないけどな」
「うん、地方の差ってのもあるかもな。
私の住んでた街ってここよりずっと都会だったしさ」
住んでいる地方によって、同世代でも流行している物は全く違う。
そういう話を始めるのかと思ったが、どうやらそうではないらしかった。
数秒意味深な沈黙が続いた後、田井中は「ごめんな」と小さく言った。
俺は少し戸惑って軽く返してみる。
「謝られる理由が思い当たらないのだが」
「それはこれから話すってことで……。
実はさ、私、ホータローたちに一つ伝えてなかったことがあったんだ。
隠すつもりはなかった……のかな?
どっちにしろどう伝えていいのか悩んでたのは本当だ。
摩耶花のインタビューでも訊かれなかったから、黙ったままでもいいかと思ってた。
でもホータローたちは私の期待以上に私のことを考えてくれてるだろ?
いや、私じゃなくてえるって子の方のことを考えてるのかもな。
だけどどっちでも嬉しいんだよな、私。
ホータローたちが誰かのために頑張ってくれる奴だってことがさ。
だから黙ってたことを話したいと思うんだ」
千反田と田井中。
どちらのことを心配しているのかと問われたら、俺は迷わず千反田と答える。
当然だ。
俺は田井中と知り合ってからまだほんの数日しか経っていない。
優先して考えるのは千反田の方に決まっている。
すぐにでも元の千反田に戻ってもらって、平穏な日常を取り戻したい。
だが可能であれば、田井中にもいい形でこの問題を解決したいと俺は考え始めている。
例えば田井中が仮に千反田の別人格であったとして、
薬剤の治療などで無理に田井中を消失させるのでなく、
田井中にも千反田にも双方理がある解決策を探りたい。
そう考えるくらいには、俺は田井中のことが嫌いではない。
いや、今はそれよりも田井中の黙っていたことを知る方が第一か。
俺は深呼吸した後、額の汗を少しだけ拭った。
148: ◆2cupU1gSNo 2013/10/09(水) 19:08:52.94 ID:6IGOLSKo0
「話してみろ」
「ああ、サンキュな。
じゃあそれを話す前に訊いておきたいんだけどさ、ホータローは私の誕生日って憶えてるか?」
「確か八月の……二十一日だったか」
「お、よく憶えてるじゃんか」
「別に難しいプロフィールじゃなかったからな。
それでお前の誕生日がなんだって言うんだ?
もしかしてその誕生日が嘘だったとでも言うつもりか?」
「誕生日で嘘をつく奴なんてそうはいないだろ……。
んじゃもう一つ質問だ。
今日は西暦何年の何月何日だ?」
「……西暦二〇〇一年六月十七日だ」
「だよな。
そうなんだよな。
えるって子の記憶でもそうだったし、新聞とテレビでも確認した。
今日は西暦二〇〇一年の六月一七日だ。
それでさ、私が訊かれなかったから黙っていたのは、生年月日のことなんだよ。
誕生日じゃなくて生年月日な。
まあ、歳を訊ねた後にわざわざ生年月日を訊く奴は少ないよな。
逆算すりゃ分かることなんだし。
……もったいぶってても意味ないから言うな。
うん、もう分かってると思うけど、変なのは私の生年月日なんだよ。
私の生年月日はさ、西暦一九九一年の八月二十一日なんだ」
「……お前の本当の年齢が十歳というわけではなさそうだな」
「話してて私が十歳の女の子に思えるか?」
「いや」
大人びた十歳は確かにいる。
だがこうして会話している限りでは、田井中はそれとは違っているように思える。
田井中は幼い精神構造をしている。
少なくとも俺の周囲の同級生たちよりも、よっぽど大雑把で無邪気で元気だ。
しかし不意に見せる田井中の表情、考察力は完全に十歳のそれではなかった。
少なからずの経験を重ねた人間のそれだった。
俺の感覚でしかないが、田井中は十歳ではありえないはずだ。
ということは。
149: ◆2cupU1gSNo 2013/10/09(水) 19:09:25.10 ID:6IGOLSKo0
「お前に残っている最後の記憶は二〇一〇年のものだということか?」
「さすがはホータローだ、話が早くて助かるよ。
ああ、そうなんだよな。
私は二〇一〇年の未来からこの時代にやってきたんだ」
未来人みたいなことを言うな。
思わずそう言いそうになったがやめておいた。
悪い冗談にしか思えないが、実際にそうなのだ。
銀狼怪奇ファイルを知らないわけだ。
田井中の記憶にある世界がこの世界と同一であったとして、
田井中が一九九一年生まれだというのならば、年齢的にあのドラマを観賞してはいないだろう。
「そういえばお前は言っていたな、田井中」
「なにか言ったっけ?」
「『たぶんそうじゃないと思う』。
入須先輩たちがお前の意識の不連続性について語っていた時のお前の言葉だ。
今年の三月から三ヶ月以上眠っていたお前の精神が、
今更のように千反田の肉体に宿ったって仮説を語っていた時のだよ」
「よく憶えてる……、いや、よく聞いてたな、ホータロー」
「耳聡い方なんでね。
それよりだ。
お前の元の身体がある世界が西暦二〇一〇年だと言うのなら、前提条件から変わってくる。
道理でお前の意識とこの世界の時間に連続性がないわけだ。
そもそもが別世界だったんだよ、お前の憶えている世界とこの世界は。
それがなにを意味しているのか、俺にも分からないが」
「私もだよ。
どういうことなんだろうってずっと悩んでたんだよな、私も。
それでも訊かせてくれるか?
私は心だけタイムスリップして、えるって子の身体に入っちゃったのか?
それともこのホータローの世界とは全然違うパラレルワールドから心だけ来ちゃったのか?」
どちらでもありうるし、どちらもありえないと俺は感じた。
桜が丘女子という高校の存在が確認できてない以上、
パラレルワールドの可能性の方が高いはずだとは思う。
単なるタイムスリップであれば、田井中の母校は確実に存在している。
もっとも確認できてないというだけであり、存在している可能性も残っている。
田井中の真実を知りたいのであれば、もっと身を入れて調査を始めるべきだろう。
しかし。
しかし、だ。
こうありえないことが続くと、腰が引けてしまうのも確かだった。
迷信でしかないと思っていたことが、現実に起こりうるかもしれないと思ってしまうのだ。
考えるのも馬鹿馬鹿しいが、パラレルワールドを扱う作品のお約束のことだ。
パラレルワールドの中で同一の人間が出会ってしまった瞬間、
その人間がこの世界から消失してしまうというありがちなお約束。
パラレルワールドに限った話ではない。
作品によっては未来の自分と現代の自分が出会うと消失してしまうというものも多い。
同一の存在が接触するのは非常に危険なのだ。
誰が試したんだと文句を言いたくなる。
そんな証拠がどこにあるんだと笑い飛ばしてやりたくもある。
だが俺にはそれができない。
仮に、万が一にでも、それが事実だとしたら、田井中にそれを試させるわけにはいかない。
一億円貰える代わりに百分の一の確率で死亡するボタンを押してみろ、という思考実験のようなものだ。
確率的にまずありえないことは理解している。
だが可能性が僅かでも存在する以上、試すわけにはいかない。
つまり結局、今のところ俺に話せることはなにもないのだ。
それから五分以上、
俺は電話先の田井中になにも答えてやることができなかった。
散々悩んで口に出せたのは、「分からない」の一言だけだった。
153: ◆2cupU1gSNo 2013/10/12(土) 18:29:41.10 ID:yNk6o9pc0
三章 我思う、ゆえに
1.六月二十五日
田井中のドラム演奏が始まる。
まずは手始めに、他のパートを加えずドラムだけで。
ドラムの椅子にがに股で座った田井中……、
千反田の姿は新鮮だったが妙に似合っているように思えた。
田井中も部室や教室では自制していたのだろう、あれで。
久しぶりに素の自分を見せられる解放感があるのかもしれない。
無表情に見せかけてはいるが、滲み出る微笑みを隠し切れてはいなかった。
「それでは叩かせていただきますね」
口調だけは千反田のそれを崩さず、
まずは並べられたドラムを順番に叩いていく。
何度か締まらない気の抜ける音がしたが、それは最初の方だけだった。
初めて叩くドラムセットに少し戸惑っていただけなのだろう。
田井中は少しずつ確実に修正していく。
田井中自身が自らの奏でるリズムとシンクロしていく。
音を奏でているのは田井中のドラムだけだと言うのに、
軽音部に集った観客全員に強いリズムを感じさせているようだった。
俺自身も含めて、だ。
俺は音楽にはそれほど明るくない。
たまに気になった曲をレンタルするくらいだ。
本を読む際に音楽を流すこともほとんどない。
だがそんな音楽には完全に素人である俺にでさえ、
田井中のドラムはかなりの腕前であるように思えた。
少なくとも俺では何年かけても田井中のレベルにまで達せる気がしない。
田井中にはこんなことが出来たのか。
軽音部のドラマーだと言う田井中の話を疑っていたわけではない。
それでも正直な話、かなり圧倒されていた。
初めて間近でドラムの演奏を見たことも関係しているのかもしれない。
空気の振動、音が俺の心臓に響き、不思議な昂揚感を俺の全身に満ちさせていく。
これが、ドラムか。
田井中は長い髪を振り乱して、更に腕の速度を速めていく。
普段は過剰とも言えるほど千反田の長髪を気にしていたというのに、
冗談交じりだが髪を切りたいと愚痴ることが何度もあったというのに、
現在の田井中は慣れない長髪など気にしていない、いや、気にならないようだった。
多少の障害など気にもならない魅惑の楽器がそこにあるからだ。
おそらくは田井中の半身と呼んでも差し支えのないドラムがあるからだ。
154: ◆2cupU1gSNo 2013/10/12(土) 18:30:14.78 ID:yNk6o9pc0
不意に気になって、俺は軽音部の部室内を見回してみる。
沢木口は興奮した表情で田井中のドラムのリズムに身を任せていた。
面白半分、いや、完全に面白さだけで見物に来たのだろうが、
予想外の田井中(沢木口にとっては千反田)のドラムテクニックに素直に驚いているようだった。
この調子だと演奏の後に自分も混ざりたいと言い出しそうだ。
それは別に構わないが、願わくは料理と同程度の腕前ではありませんように。
伊原は嬉しそうに田井中を見つめている。
田井中の役に立てたことが嬉しいのか、
それとも千反田のことを考えているのか、そのどちらなのかは分からない。
思い返してみればマラソン大会の「星ヶ谷杯」の頃から伊原は千反田を気にかけていた。
大日向との一件についてまだ思うところがあるのだと思う。
だからこそ伊原は嬉しいのだろう。
こんな形でも千反田が楽しそうにしているのを見られることが。
例えその中身が田井中であったとしても。
入須は無表情ではあったが、その組んだ腕の指先がリズムを取っていた。
気付かれないように軽く動かしているだけのようだが、完全には隠し切れていない。
本当はもっと大胆にリズムに乗りたい。
しかし女帝としての威厳を損なうわけにもいかない。
そんな二律背反と争っているかのようだった。
もしかすると入須はドラムが混じるようなロック音楽を好むのかもしれない。
普段のイメージとは合わないが、イメージだけで人は語れない。
例えばそう伊原が軽音部員に語った千反田の設定、
『厳粛な家庭に育ったお嬢様が家族に隠れてロックに傾倒している』が、
そのまま入須の真実の姿でもなんらおかしくはないのだ。
おかしくはないのだが、確かめるのはやめておこう。
それほど入須に入れ込みたいわけではないし、
真実を知ってしまったが最後、今まで以上に厄介な日常になってしまいそうだ。
数人の軽音部員たちは驚いた顔で相談し合っている。
「ここまでとは思わなかったね」、「後で勧誘してみる?」、
「でも家に内緒にしてるんでしょ?」、
「あー、あのテクニックがもったいなーい!」、
「ちょっと走り気味だけどあの腕なら関係ないよね」、
「ドラムなら俺がいるだろ?」、「ご愁傷様」、「おいやめろよ、不安になるだろ!」。
大体そういうことを話しているようだった。
本気なのか冗談なのかは掴みにくかったが、
とにかく仮に冗談だとしても部に勧誘したい程度の実力はあるようだった。
それも当然かもしれない。
田井中の腕前がどの程度なのかは俺には分からないが、
それでもここにいる軽音部員よりは少なくとも年季がかなり違う。
伊原の友人と言うだけあって、ここに集まっている部員は二年生が主体だ。
俺ですら見かけたことがある同級生が何人もいる。
対する田井中は高校を卒業したての三年生なのだ。
つまり高校の部活のキャリアで言うと、二年近くは差があることにある。
勧誘したくなるのも無理はない。
風の流れが変わった。
一瞬そう感じて、俺は空気の流れに視線を流した。
なんてことはない、部室の扉が開かれただけだった。
誰かが部室の扉を開けただけだったのだ。
いや、誰かではない、里志だ。
どうやら持ち前の情報網で俺たちの居場所を調べ上げたらしい。
だが見慣れた里志が部室に顔を出しただけだと言うのに、数秒田井中のドラムのリズムが狂った。
部室の中に沢木口を見つけた時以上に、田井中が戸惑っているのが一目瞭然だった。
いや、一耳瞭然……か?
とにかく田井中は大層動揺したらしい。
里志が苦笑しながらその手を軽く上げる。
155: ◆2cupU1gSNo 2013/10/12(土) 18:30:54.08 ID:yNk6o9pc0
「気を散らしたみたいで悪かったわね、える」
その声は里志のものではなかった。
聞き覚えのある声色、数日前にもかなり聞かされた声だ。
そいつは里志が部室に入ったのを見届けると、飄々とその後に続いて笑顔を浮かべた。
小さな眼鏡を掛けて、長い髪を三つ編みにした大人びた女子生徒。
思わず溜息をつきたくなる。
下手をすると沢木口を見かけた時よりも重い溜息を。
彼女自身はそう悪い人間ではない。
落ち着いた雰囲気を持っているし、非常に思慮深い。
だが思慮深いだけに非常に理屈っぽく、本心を全く掴ませない。
ある意味で俺の天敵と言える姉貴によく似たタイプと言えるかもしれない。
里志と一緒に姿を現した理由は掴めないが、
おそらくは俺たちの居場所を探る里志を上手く言い包めて付いて来たのだろう。
そこにどれだけのドラマがあったのか、俺は想像したくない。
この前も彼女と話す機会があったが、それはそれは大変だった。
「いえ……、気にしないでください、かほさん」
ドラムを叩く手を緩めないまま、田井中が軽く敬語で応じた。
俺は田井中のこの敬語が千反田を演じているわけではなく、
素で敬語になってしまっているだけだということをよく知っていた。
入須に対してでさえ敬語を使わない田井中ではあるが、彼女にだけは敬語を使ってしまうのだ。
俺も実を言うと、彼女に敬語を使いたい気分があるのを否めない。
彼女にはそういう雰囲気と独特の飄々さがあった。
十文字かほ。
里志曰く「桁上がりの四名家」の一人。
一人で占い研究部をやっているという独特な女子生徒。
彼女の前では千反田はともかくとして、ほとんどの人間がペースを崩される。
苦笑している里志もそうなのだろうし、
まさしく現在膨れっ面になっている伊原もそうだし、
特に俺など彼女の前でペースを保てたことなど一度もない。
さてさて、わざわざ軽音部に顔を出して、十文字はなにをしたいのだろう。
まさかまた俺たちの知らない間に、なんらかの真相を突き止めたのだろうか。
油断はできない。
なんせ結果的にではあるが、俺たちより何倍も速く千反田の異変に気付いた十文字だ。
きっと俺たちに想像もできないなにかを目算しているに違いない。
考えていてもしかたないと悟ったのか、
田井中は十文字から視線を逸らしてドラムの演奏に集中し直した。
なんだかんだと肝が据わっている。
伊達に高校三年間、学園祭でライブをしてきたわけではないらしい。
田井中は普段はともかく、音楽に関しては真摯な奴なのだった。
しかし俺にも分かるほど、ドラムのリズムが狂い気味になっていたのも否めなかった。
161: ◆2cupU1gSNo 2013/10/17(木) 19:50:45.27 ID:/SQsbIpq0
2.六月二十二日
「ふうっ……」
おそらくは百段を超える長い階段を上り終え、俺は大きく息を吸い込んだ。
神山市最大の神社である荒楠神社。
まさかこんな短期間でまた訪れることになるとは思っていなかった。
この前はたまたま陽気に誘われて散歩で足を延ばしてみたのだが、
まさかこんな様々な問題を抱えた状態でまた訪れることになるとは。
気まぐれの散歩ならともかく、それ以外の理由でこの場所を訪れるのはいささか省エネに適っていない。
しかもその理由が誰かからの呼び出しでは、更に気が重くなりもしようというものだ。
階段を上ったことで少しだけ近くなった空を見上げてみる。
放課後だと言うのに空は青々とした姿を見せていた。
気持ちのいい晴天。
疎らに浮かんでいる雲も、アクセントとして空を上手く彩っている。
陽が長くなったものだ。
もうすぐ夏がやってくるわけだ。
夏が嫌いというわけではないが、夏の熱気はそう好きではない。
前に蒸し暑い部室で本を読んでいると、汗を垂らしてしまったことがある。
本を読むだけで汗を掻いてしまうなど、省エネには程遠いことこの上ない。
どうか今年は猛暑でありませんように。
もっとも、今年が猛暑だろうと冷夏だろうと、省エネには程遠い夏になりそうだが。
千反田えるの中に突然顕現した田井中律という人格。
顕現して以来、千反田自身の人格は一度たりとも顔を見せていない。
もしかしたら俺以外の前では違うのかもしれない。
それはそれである意味傷付くが、それでも千反田の残滓が感じられるのであれば悪くない。
そう思って里志たちに訊ねてみたのだが、やはり俺の儚い期待は泡と消えた。
予想通りではあったが、千反田の人格は里志たちの前でも一度も顕現していないらしい。
同性であり俺たちより長い時間を過ごしている伊原相手にもそうらしかった。
四六時中田井中を監視しているわけではないからはっきりとは言えないが、
集められる情報から普通に判断すれば、あの日以来千反田自身の人格は顕現していないはずだ。
分かり切っていたことだが、やはり田井中は単なる多重人格と一線を画しているのだろう。
162: ◆2cupU1gSNo 2013/10/17(木) 19:51:12.30 ID:/SQsbIpq0
「いいことではあるんだよな、きっと」
俺はまだ高い太陽の眩しさに目を細めながらひとりごちる。
田井中の正体が何であれ、それが多重人格でないというのはいいことだ。
多重人格は学術的には解離性同一性障害というらしい。
Dissociative Identity Disorder、略してDID、訳して解離性同一性障害。
なんでも多重人格という呼び方では、
一人の身体の中にいくつもの人格が重なっているという意味になるからだそうだ。
なるほど、確かにそうだ。
現在精神学の科学者は一人の中に多くの人格が重なって存在しているのではなく、
一つの人格がいくつもの人格に分裂して、それで人格がいくつもあるように見えているのだと提唱している。
激し過ぎる二面性といったところだろうか。
とにかく田井中はその解離性同一性障害とは一線を画している。
発現以来主人格の千反田が現れないなんて聞いたことないし、
そもそも田井中は千反田ではない全くの他人の人生を歩んだ記憶を有している。
それどころかその記憶は現在よりも未来の二〇一〇年の記憶だ。
田井中に二〇一〇年の記憶があると告白されて数日、
田井中の知る歴史と俺の知る歴史に違いがないか確認してみた。
俺と田井中の住んでいる世界自体が異なっているかの確認のためだ。
一応、大体のところは合致しているらしかった。
らしかった、というのは田井中の歴史の記憶が中途半端だったからだ。
歴史の授業で習った以上のことを田井中に訊いても分かるはずもない。
しかも田井中の成績は「なぜか大学に受かったんだよな」くらいのものらしい。
「一夜漬けのやり方教えてくれる幼馴染みがいてさ」とは田井中の弁だ。
まあ、しかたがあるまい。
俺だって資料無しに自分の国の歴史を語れと言われたら困る。
分かったことと言えば、田井中の世界でも阪神大震災が起こってるらしいということくらいか。
少なくともかなり近い歴史を歩んでいることは間違いない。
桜が丘女子という高校が俺の世界にはないことを除いて。
なにが起こっているのか、わけが全く分からない。
しかし田井中が解離性同一性障害から生じた人格でないらしいことだけは救いだった。
解離性同一性障害はその名の通り障害なのだ。
しかも幼少期に心的ストレスを抱えたがゆえの。
千反田の過去を知っているわけではないし、深く知りたいわけでもない。
それでも人並みに幸福な幼少期を過ごしていたと考えたかったし、
田井中が解離性同一性障害所以の人格でないのならそれに越したことはない。
だがそうなるといよいよ田井中の正体が分からないのも確かだった。
ここまで正体不明だともっと得体の知れないなにかでも今更驚かない。
例えば前に語り合ったように狐とか。
いや、これはちょうど視界に稲荷が入ったから連想しただけだが。
「お稲荷さんが気になる?」
俺が稲荷を見ていたのが面白かったのだろうか。
可笑しそうな感情がこもった音色の声が響いた。
視線を向けてみると、そこには巫女がいた。
社務所から移動中らしい、眼鏡を掛けている髪の長い巫女。
俺は彼女に見覚えがあった。
と言うか彼女に呼び出されて長い階段を上ったのだ。
163: ◆2cupU1gSNo 2013/10/17(木) 19:51:41.44 ID:/SQsbIpq0
「ちょっと視界に入っただけだ」
「そうなんだ。
それより折木くん、ようこそお参りくださいました」
身体の前に手のひらを重ね、丁寧に頭を下げる。
さすがにもう動揺しない。
これが十文字の芸風の一つなのだろう。
知的で落ち着いた雰囲気ではあるが意外と悪戯っぽい。
長い付き合いではないが、それが俺の十文字かほへの人物評だ。
おそらくそう間違ってはいないと思う。
「十文字……さんはなにか仕事中なのか?」
さすがに呼び捨てにはできなかった。
まだ俺と彼女はそれほど会話を交わしたわけではない。
「仕事って?」
「その巫女服」
「ああ、これ?」
俺が指差すと十文字はその場で一回転して微笑んだ。
かなり堂に入っている。
何度か参拝客に同じ動きをしてみせたのではないか。
そう思わせるくらい綺麗な回転だった。
「そういうわけじゃないんだけど、今日はちょっとね。
折木くんが来るからおめかししてみたのよ」
「おめかしで巫女服を着るとはいかにも神社の娘さんらしい」
「冗談よ」
さいで。
しかしお茶目と言うか悪戯好きと言うか、十文字の性格は本当に掴めない。
「かほさんは少し人嫌いなところがあるんです」とは前に聞いた千反田の弁だが、とてもそうは思えない。
十文字を見ていて思い出すのは姉貴だ。
姉貴は奔放に生きているように見せながらその知識は俺よりも膨大だ。
斜に構えたように振る舞うこともあるが、それでも人生を誰よりも楽しんでいる。
人よりも精神が成熟しているのだろう、おそらく。
164: ◆2cupU1gSNo 2013/10/17(木) 19:52:16.95 ID:/SQsbIpq0
「ところで十文字さん、今日は俺に何の用事があるんだ?」
「あ、それはちょっと待って、折木くん。
先にいいものを見せてあげるから」
「いいもの?」
俺が訊ねるが早いか十文字は社務所に引っ込んだ。
移動中じゃなかったのか?
「まあいいか」と呟いて、俺は稲荷の石畳に腰を下ろした。
罰当たりかもしれないが、ほんの少し休憩するくらいで目くじらを立てる神の加護ならいらない。
「里志も呼ぶべきだったか?」
思いつきをそのまま呟いてみる。
昼休み、十文字からの呼び出しを俺に伝えたのは里志だった。
十文字と里志は一年の頃に同じクラスだった。
二人になんらかの繋がりがあってもおかしくはない。
「一緒に行くか?」と俺は訊いてみたが、奴は苦笑してそれを断った。
なんでも調べものがあるそうだ。
田井中のことだろう。
里志も里志で田井中について調べてはいるのだった。
その経過は芳しくないようだが。
「お待たせ、折木くん」
十文字の声が聞こえる。
どうやら「いいもの」の準備が整ったらしい。
声の方向に視線を向けてみて驚いた。
ある意味で「いいもの」がそこにあった。
「よっ、ホータロー」
聞き慣れた声色、聞き慣れない語調、聞き慣れ始めた口調。
社務所から十文字と出てきたのは田井中だった。
その身に巫女服をまとった。
着慣れない服のはずだと言うのに、田井中は笑顔を見せていた。
それは髪型が関係しているのかもしれない。
巫女服をまとった田井中は前髪を全て上げて後ろ側で纏めていた。
オールバックのポニーテールといったところだろうか。
なるほど、巫女服にはよく似合った髪型だ。
いかにも前髪が額を覆っているのをいたく嫌う田井中らしい。
いや、それよりも。
田井中は今俺のことをこう呼ばなかったか?
「ホータロー」と。
これはまずいのではないだろうか。
十文字は千反田が俺を「折木さん」と呼ぶことを知っている。
その姿は何度も見せている。
しばらく会わない内に呼称が変わったと言い張るか?
それは無理だろう。
十文字とはついこの前、千反田がまだ千反田であった頃に会っているのだ。
呼称を変えるにしても期間が短過ぎる。
ではどういいわけするべきなのか。
そう俺が頭を悩ませていると、十文字がその悩みを全て打ち砕く言葉を口にした。
165: ◆2cupU1gSNo 2013/10/17(木) 19:52:46.79 ID:/SQsbIpq0
「どう、折木くん?
よく似合ってるでしょ、りつの巫女服」
りつ?
りつってなんだ?
えるとりつではそれなりに語感が似てはいるが……。
って、律か!
律。田井中の名前だ。
十文字がそれを知っているということは……。
俺が視線を向けると、巫女服の田井中が苦笑しながら頭を掻き始めた。
「ごめんな、ばれちまった」
一気に力が抜けるのを感じた俺は、また稲荷の石畳に腰を下ろした。
よく似合ってるでしょ、りつの巫女服」
りつ?
りつってなんだ?
えるとりつではそれなりに語感が似てはいるが……。
って、律か!
律。田井中の名前だ。
十文字がそれを知っているということは……。
俺が視線を向けると、巫女服の田井中が苦笑しながら頭を掻き始めた。
「ごめんな、ばれちまった」
一気に力が抜けるのを感じた俺は、また稲荷の石畳に腰を下ろした。
166: ◆2cupU1gSNo 2013/10/17(木) 19:53:16.41 ID:/SQsbIpq0
社務所の十文字の部屋に移動する間、田井中は頻りに俺に頭を下げていた。
さっきまでは苦笑してはいたものの、申し訳ないと思っていたらしい。
しかし冷静になって考えてみれば、
十文字に田井中のことが知れたところでなにか困るわけではない。
むしろ千反田と親しい十文字には、もっと早く伝えておくべきだったのかもしれない。
それを伝えても田井中はまだ申し訳なさそうに苦笑していた。
「つっても、私はホータローたち以外には秘密にしておくつもりだったしさ」
意外に律儀なのだ、田井中は。
名前に律が入っているだけに、と考えるのは単なるこじつけか。
いや、駄洒落だな、これは。
「ホータロー?」
「いや、なんでもない。
それよりもその服装の方が問題だ、田井中。
どうしてお前はそんな恰好をしている」
「なんか十文字が私に着てほしいって言うからさ」
おや、と思った。
千反田と同じ姿の田井中の口から、
「十文字」という呼称が出るのに違和感があったからだ。
千反田と同じ様に「かほさん」とでも呼べばいいだろうに。
いや、だからこそ、か。
田井中はきっと千反田と同じ呼称を使いたくないのだ。
前に俺を「折木」と呼びかけて「ホータロー」と呼び直したことからもそれは明らかだ。
しかし俺はそれを田井中に指摘したりはしなかった。
指摘してはいけないのだと、なんとなく感じていた。
その代わりに別のことを指摘してやる。
「着てほしいって言われたにしても、断ってもよかっただろう。
恥ずかしくないのか、そんな恰好」
「うんにゃ、別に。
ホータローには話してなかったっけ?
あ、話したのは摩耶花にだったっけか。
ま、いいや。
実は桜高の軽音部にさわちゃんって顧問がいるんだよ。
さわちゃんってなんか変わった先生でさ、
妙に私たちにコスプレさせたがるんだよな。
それでスク水や着物ドレスやメイド服、
サンタ服やチャイナドレスなんかも着させられたもんだ。
だから巫女服程度じゃ恥ずかしくもなんともないっつーか」
どういう顧問なんだ。
古典部にも顧問がいるが、そこまで変わった顧問ではない。
いや、そもそもほとんど顔を出さないから、名前もよく憶えていないのだが。
大田……、いや大出だったか?
ともかく田井中が相当に楽しい高校生活を送ってきたようなのはなによりだ。
「律が巫女服着てくれたの、あたしはすごく嬉しかったな。
えるにも何度も頼んでたのに、「恥ずかしいから駄目です」って断られてたもの」
俺たちの会話が耳に入ったらしく、同じく巫女服に身を包んだ十文字が微笑んだ。
千反田にも巫女服を勧めていたのか。
そういえば一度だけローブのような物を纏った十文字を見かけたことがある。
かなり大胆な恰好だが、全く恥ずかしそうな素振りもせずにテントで占いをしていた。
巫女服を仕事着として纏っていると、その程度では羞恥心も働かなくなっているのだろう。
167: ◆2cupU1gSNo 2013/10/17(木) 19:53:43.81 ID:/SQsbIpq0
「どうかしたのか、ホータロー?」
不思議そうに首を傾げる田井中の耳元に口を寄せる。
さすがにこれを十文字に聞かれるわけにはいかない。
考えていたことを耳打ちしてやると、田井中は軽く吹き出した。
そんなに面白かったのだろうか?
俺が首を捻っていると、今度は田井中が俺に耳打ちしてくれた。
「桜高にオカルト研ってのがあるんだけど、
十文字とそのオカルト研の子たちの恰好がほとんど同じで可笑しくてさ。
黒いローブだけならまだしも、眼鏡掛けてることまでその子たちと一緒なんだよな」
それは奇妙な合致点だ。
ローブはオカルト関係の衣装としても、眼鏡は関係ないだろう。
オカルト好きは眼鏡でなければならないという不文律でもあるというのだろうか。
そのオカルト研と十文字を会わせてみれば、気が合うか気になるところだ。
それが叶うかどうかは別問題ではあるが。
171: ◆2cupU1gSNo 2013/10/26(土) 18:10:31.81 ID:j42TkFSq0
「何? 内緒話?」
十文字が眼鏡の蔓を触りながら首を傾げる。
その素振りだけは歳相応に見えた。
俺は「なんでもない」と言ってから十文字の部屋に敷かれた座布団に座った。
田井中が座っていたものかもしれないが、
前来た時にも俺が使った座布団だから気にしないことにする。
幸い田井中と十文字に見咎められることはなかった。
十文字が一息つくのを見届けてから、俺は疑問に思っていたことを口にすることにした。
「十文字さん」
「どうかしたの?」
人を呼んでおいて「どうかしたの?」とはなんともマイペースだ。
少しだけ詰め寄るように前のめりになる。
「一つ訊いておきたい。
どうやって千反田が千反田じゃないってことに気づけたんだ?」
「そんなの簡単よ、折木くん」
簡単……なのだろうか?
俺が首を捻ると肯定するように田井中が苦笑した。
「いやー、私もびっくりしたんだよ、ホータロー。
冬実とあの高い店でお茶した次の日なんだけどさ、たまたま十文字と顔を合わせたんだ。
どうもえるって子が十文字に借りてた本を返す日だったらしいんだよな。
そりゃ焦ったなー。
えるって子の記憶にはちゃんと残ってたけど、言われてやっと気づけたんだから。
簡単に言うと完全に忘れちゃってたんだよな。
正確には私のせいじゃないんだけど、悪い汗がだらだら出ちゃったよ」
そう言いつつも苦笑しているのを見ると、どうも田井中は忘れ物の常習犯のように思えた。
あまり細かいことにこだわるタイプでもないのだろうし、俺の想像は当たっているだろう。
しかし今はもう一つ確認しておきたいことがあった。
「田井中、先に一つ質問に答えてくれるか?」
「おう、別にいいけどなんなんだ?」
「前から思っていたんだが、
その千反田の記憶に残ってたってのがよく分からない。
当然だがお前自身がお前の記憶を思い出してるのとは違うんだろう?
自分じゃない記憶を思い出すってのは、一体どういう状態なんだ?」
「改めて聞かれると難しいな……。
でもなんとなくイメージとして近いものはあるぞ。
例えるんなら、そう、一度観た映画を思い出す感じかもな。
ホータローも映画くらい観るよな?」
「嫌いで仕方がないという程ではないってくらいには観る」
「なんだよ、その微妙な答えは……。
ま、いいや、観ないわけじゃないってことだよな。
なんでもいいからその映画のことを思い出してくれ。
「すげー」でも「つまんねー」でも「ははっ、笑える」でも構わない。
思い出してくれたか?
それがえるって子の記憶を思い出してる時の感覚に近いんだ。
観たことは憶えてる。
起こったことも、その時になにを感じたかも憶えてる。
だけどそれは私自身の身に起こったことじゃないから、
誰かに言われてみないと思い出せないこともたくさんある……、って感じか」
172: ◆2cupU1gSNo 2013/10/26(土) 18:11:05.21 ID:j42TkFSq0
完全にではないがイメージできる。
俺だって今でも入須のクラスのビデオ映画の内容を思い出そうとすれば思い出せる。
なにが起こったのか、観ながらなにを感じたのかも憶えている。
しかしただなんとなく憶えているだけだ。
細部まで憶えているわけではないし、
誰かとあの映画の話にならない限りは思い出そうともしないだろう。
なるほどな、田井中は必要だから千反田の人生という名の映画を思い出しているのか。
だから必要でない時は、積極的には思い出さない。
例えば千反田と十文字が交わした約束などは完全に許容範囲外なのだ。
「あの時の律の様子は折木くんにも見せてあげたかったな」
微笑みながら十文字。
ある意味で超常現象に直面しているというのに、その様子は超然としている。
巫女を務めていると、ちょっとやそっとの超常現象では動揺もしなくなるのだろうか。
もっとも俺もそれを言えた義理ではないが。
「面白い顔だったのか?」
「うん、この前生き雛まつりの写真を見たでしょ?
あの写真に写ってたえるのひどい顔に匹敵にする顔が見られたわ」
「かほさん、それはだめです!」という動揺する千反田の声が響いた。
もちろんそんな気がしただけだった。
俺の脳が勝手にあの時の千反田を思い出しただけだ。
そうだ。ここには千反田はいない。
ここには千反田の姿をした田井中がいるだけなのだから。
「それは見たかった」と返してから、俺は本題に戻る。
「ところでもう一度同じ質問をさせてもらうが、
結局十文字さんはどうして千反田の精神が田井中だって気づいたんだ?
いや、俺たちも田井中の存在には気づけている。
だが最初は半信半疑だったし、それなりの時間もかかった。
十文字さんはなにをきっかけに田井中の存在に気づけたのか、それを訊きたい」
「それが不思議なんだよなー」
田井中が独り言のように呟く。
横目を向けてみると、田井中はあぐらをかいて首を傾げていた。
千反田の姿で、しかも巫女服でそんな姿勢をされると逆に新鮮だった。
「最初は十文字に借りた本の話をしてたんだよ。
私はえるって子の記憶を思い出しながらどうにか話を合わせてたんだけど、
急に十文字が私を廊下の隅に連れてって言ったんだ。
『君はえるじゃないわね』ってさ。
あの時は変な声が出ちゃってた気がする……」
おそらくは「ギャー!」とか「うおっ!」とかだったんだろう。
簡単に想像できてしまう。
いやいや、今はそれはどうでもいい。
今考えなければならないのは、何故十文字がそんなに簡単に田井中の存在に気づけたかだ。
田井中の話が本当であれば、いくらなんでも気づくのが早過ぎではないだろうか。
俺と田井中が視線を向けると、十文字は肩をすくめて微笑んだ。
だが眼鏡の奥の表情は読めなかった。
「えるがえるじゃないのはすぐに分かったわ」
「……何故?」
「だってオーラが違うもの」
「マジかよ!」
173: ◆2cupU1gSNo 2013/10/26(土) 18:11:34.16 ID:j42TkFSq0
叫んだのは田井中だった。
そして叫びたいのは俺も同じだ。
これは神通力か!
やはり巫女である十文字にはなにもかもお見通しだというのか!
人間の精神のオーラの違いまで見通すというのか!
俺たちが言葉を失っていると、十文字がテーブルの上に置いてあったコーヒーに口をつけた。
そういえばこの部屋に連れて来られる前から、そのコーヒーはテーブルの上にあった。
どうやら俺が来るまで田井中とコーヒーを飲んでいたらしい。
そのコーヒーを飲んで、一息ついて十文字が一言。
「あ、霊的な意味でのオーラって意味じゃないわ。
雰囲気って意味でのオーラよ」
一気に力が抜ける。
それはそうだ。
どうやら田井中のせいか最近の俺は超常現象を肯定しつつあるようだ。
これは良くないな、ああ、良くない。
俺の比較的得意分野は筋道を立てて物事を考えることのはずだ。
膏薬と理屈をくっつけるのことのはずなのだ。
いくら千反田と田井中に起こっている現象が理解できないとは言え、
単純に超常現象を肯定するようでは、それは単なる逃避ではないだろうか。
これでは真の意味で田井中の存在と向き合うことからも逃げているようなものだ。
これは、改めなければならない。
ただ少しくらい批難してやってもいいだろう。
俺が睨み付けるような視線を向けてやると、田井中はまた俺に耳打ちした。
「しゃーねーだろ、私だってびっくりしたんだから……!」
「それにしたってだな、田井中。
千反田の記憶を思い出せば、十文字の言葉が本気かどうかくらい分かるだろう」
「だーかーらー……!
えるって子の記憶の中でも十文字は謎なんだって……!」
妙に納得した。
なるほど、田井中の言葉が本当ならば、
十文字は俺たち相手だから捉え所のない言葉を口にしているわけではないらしい。
千反田相手にも、そうなのだ。
そう考えると千反田と十文字の仲の良さにも頷ける。
好奇心の獣である千反田のことだ。
謎の多い十文字にはそれこそ懐いていることだろう。
「仲が良いよね、二人とも。
内緒話は終わった?」
掴めない表情で十文字が微笑む。
俺と田井中は身体を離すと、十文字の方に向き直った。
コーヒーは全て飲み終わっているようだった。
気づいたように十文字が一言。
「折木くんもコーヒー飲む?」
「お構いなく。
それより『雰囲気って意味でのオーラ』の意味を教えてくれないか。
なんとなくは理解できるが掴みにくい」
「分かったわ。
と言っても額面通りの意味よ。
私は律と話していて気づいただけ。
『この子はえるの姿をしているけどえるじゃないな』って。
ただそれだけのことなんだけどね」
174: ◆2cupU1gSNo 2013/10/26(土) 18:12:01.14 ID:j42TkFSq0
ただそれだけのこと。
言葉にするのは簡単だ。
しかし現実にそう思えるのはほんの一握りだろう。
千反田と同じ部である俺たちですら信じるのに数日かかった。
それを十文字は数分でやってのけたのだ。
なんというか底知れないなにかを感じさせる。
「折木くん、今度はこっちが訊いてもいい?」
「ああ、答えられることなら」
「ありがとう。
律に聞いたんだけど、律は単なるえるの別人格じゃない。
君たちはそう考えてるんだよね?」
「そうだな。
確証はないし仮定の積み重ねでしかないが、俺たちはそう考えている。
多重人格と疑うのは簡単だ。
だが様々な状況が田井中はそうじゃないと告げている。
それこそ多重人格を疑うより、頭をぶつけて精神が入れ替わったと考える方が自然ですらある。
そう考えてしまうくらいには、田井中の正体について見当が付かない状態だ」
「多重人格じゃないってあたしも思う。
神社に務めているとね、たまに色んなものを見るの。
狐憑き、悪霊憑き、多重人格……。
その真偽は分からないけれど、とりあえずそうだと主張する人たちを見たことがあるわ」
不思議な話ではない。
前世の記憶を信じ込んで、宛名の無い手紙を投函する同級生の話も聞いたことがないわけではない。
とりあえず霊的な存在を信じられている神社ならば、救いを求める人間も数多いだろう。
十文字の言う通り真偽は別として、だが。
「深くではないにしてもそういう人たちを見てると分かるのよ。
律はそういう存在にしては健康的過ぎる」
「いやあ……」
照れたように田井中が自分の頭を掻く。
別に褒めたわけではないだろうが、それには俺も同感だった。
何故多重人格や狐憑きが問題視されるのかを考えてみれば分かる。
それは害があるからだ。
多くの場合、それらは周囲の人間にも、宿主本人にも害を成す。
だからこそ神社や精神科医が求められるのだ。
だが見た感じ、田井中は大雑把ではあるが実に健康的だった。
むしろ灰色の青春を送っている俺よりよほど健康的と言えるだろう。
俺の考えを読み取っているかのように十文字が頷いた。
「多重人格ではないのはすぐに分かったけれど、
律がえる本人の演技だったりしないことも確かだと思うわ。
根本的な問題として、えるは嘘をついたり演技したりできない子だもの」
同感だ。
千反田は嘘をつかないし演技もしない。
言えないことがある時は、「一身上の都合」として黙秘する。
その千反田がこんな長期間田井中の演技を続けるのは不合理だろう。
「百歩譲って普段のえるの姿も全て演技だと仮定してみる。
そうだとしても、やっぱり律はえるの演技じゃないと言い切れるわ。
律になる前のえると今のえるでは癖や素振りが違い過ぎるもの」
それで十文字は千反田の精神が千反田でないことに気づいたのか。
俺が知っている千反田の癖と言えば、
「わたし、気になります!」くらいのものだが、
長い付き合いの十文字であれば、他にも多くの癖に心当たりがあるのだろう。
俺ですら、千反田と田井中の素振りがかなり異なっていることくらいは分かる。
そうなると一つ気になることが出てもくるのだが。
175: ◆2cupU1gSNo 2013/10/26(土) 18:12:58.02 ID:j42TkFSq0
千反田の家族のことだ。
大切に育てた娘なのだ。
娘の異変に気づいていてもおかしくないと思うのだが。
だが俺が千反田の家族のことをよく知らない以上、なにを推論しても無意味か。
友人には気づけても、家族には気づけないこともある。
近過ぎて分からないこともある。
とりあえずはそういうことにしておこう。
「なあ、十文字」
コーヒーではなく紅茶に口を付けていた田井中が不意に呟いた。
珍しく多少は真剣な表情だった。
「結局さ、私ってなんなんだと思う?」
沈痛な響きに思えたのは俺の感傷だろうか。
「私ってなんなんだ?」とはまた嫌な言葉だ。
「誰なんだ?」の方がまだよかった。
「なんなんだ?」と問うということは、
田井中は自らが人間の人格ですらない可能性も考慮しているらしい。
自分の人格をなにかと問うということは、つまりはそういうことだった。
俺にはそれに答える術がない。
俺たちはこれでもかとありとあらゆる可能性を談じてきた。
それで答えを出せなかったのだ。
こうなると俺は十文字の知識と観察眼に頼るしかない。
俺たち以上の速度で千反田が千反田ではないと見抜いた十文字に。
「これはあくまでよもやま話として聞いてほしいんだけど」
一言断りを入れて十文字が続ける。
よもやま話でも構わない。
俺たちには偽物だとしても新たな光明が必要なのだ。
俺は頷いた。
176: ◆2cupU1gSNo 2013/10/26(土) 18:13:46.96 ID:j42TkFSq0
「構わないから続けてくれ」
「ええ、ありがとう。
律たちは生命体を構成している要素がなんなのか聞いたことある?」
「いや、分からないけどなんなんだ?」
「肉体と霊体と幽体。
生命体はその三要素で構成されているらしいの」
「それはどっちかと言えば仏教じゃないのか?」
俺が問うと十文字が微笑んだ。
「宗教差別はしない主義」
そういえばそうだったか。
しかし自分の専門分野以外にも詳しいとは勤勉なことだ。
いや、よく考えると十文字はタロットカードも嗜むんだったか。
となると彼女はオカルト全般に詳しいのかもしれない。
「肉体とそれ以外は分かるけど、霊体と幽体って同じものじゃないのか?」
「いい質問よ、律。
真偽と詳細はともかくとして、幽体は人間の意識と姿を維持している幽霊。
霊体は人間の意識も姿も持ち合わせていない幽霊のことらしいわ。
もちろん分かりやすく言えばだけど」
一般的な幽霊と人魂の違いのようなものだろうか。
十文字の口から幽霊の話が出るとは思わなかったが、
おそらく彼女はその額面通りの意味で幽霊の話をしているわけではないだろう。
180: ◆2cupU1gSNo 2013/10/28(月) 19:41:49.65 ID:m2YujdSL0
「自分とはなんなのか分かっている幽霊が幽体。
自分の姿すらも分からなくなっている幽霊が霊体。
それを念頭に置いて考えてほしいことがあるの。
人間は脳で思考して動いている生き物だと考えられているよね?
だけど本当にそうなのかな、って折木くんは考えたことない?」
オカルトから急に脳科学の話になってしまった。
どうだろうか。
別に俺は科学的な話に明るいというわけじゃない。
幼い頃は人間の魂の在処について考えてみたこともなかったわけじゃないが。
どう答えたものか悩んでいると、話の続きが聞きたくて我慢できないらしい田井中が口を開いた。
「脳以外に考えられる場所が人体にあるってことか?」
科学には明るくなさそうな田井中の割には熱心な様子だった。
当然か。自分の存在に関わることだからな。
十文字は俺の沈黙を無回答と判断したらしく、
まるで優しい教師のような口振りで田井中に説明を始める。
「これはよく使われている例え話なんだけど、例えばパソコンがあるわよね?
ノートパソコンじゃない、ディスプレイと本体が繋がっている普通のパソコンを思い浮かべてみて。
私たちはディスプレイが本体の処理している画像を写し出す機械だということを知っている。
ディスプレイが壊れても、本体が無事ならデータも無事に残っていることも知っている。
けれどパソコンの知識がない人はどう考えると思う?
律は小さな頃、ディスプレイこそがパソコンの本体だと思っていなかった?」
「あー……、うん、そうだな、その通りだよ。
確かに子供の頃は画面の方がパソコンだと思ってた。
画面に繋げた箱はなんなんだろうって弟と考えてたくらいだよ」
田井中が昔を懐かしむように頷いた。
今思い出すと滑稽だが、俺も幼い頃は同じ勘違いをしていた。
確証はないが、どんな人間でも幼い頃はそうなのではないだろうか。
それはともかく十文字がなにを言おうとしているのか、俺にも少し分かり始めていた。
軽く身を乗り出してから訊ねてみる。
「脳が思考を司る器官ではないかもしれないと言いたいわけか?」
「その可能性もあるってことね。
脳は人体に命令を出すわ。
損傷してしまえば、身体のあちこちに異常が出てしまうことになる。
けれどそれは例え脳がなにかの受信装置でも、同じことじゃないのか。
そういう話は昔からされているのよ」
「脳がなにかの受信装置……ってのは?」
「ここで霊体のことを思い出してみてくれる?
霊体は意識も姿形もない一種のエネルギーと言えるわ。
なんなら魂と呼び換えてみても言いかもしれない。
その霊体を脳という受信装置で受信してこそ、人間は生命活動を始められる……。
例えるなら霊体はリモコンの電波で、肉体はその電波の指令をこなす装置」
181: ◆2cupU1gSNo 2013/10/28(月) 19:42:16.77 ID:m2YujdSL0
なにを馬鹿な。
そう言いたくもあったが俺は口を噤んだ。
俺は脳に詳しくない。
いや、人類自体、脳のことを完全に理解できているとはとても言えない。
脳はまだまだ未知の分野なのだ。
例えば十文字の言うように脳がなんらかの受信装置でも、なにもおかしくはない。
「だったら十文字さん。
それだと今千反田に起こっているこれは、結局一種の憑依現象と仮定しているわけか?
なんらかのアクシデントで千反田の脳が千反田本人ではなく、
田井中律という霊体の指令で動くようになってしまった、とそういうことか?」
俺が訊ねると十文字は胸の前で軽く手を叩いた。
その瞳が若干輝いているように見えた。
「あ、そういう考え方もあったのね」
一瞬にして脱力してしまった。
視線を向けてみると田井中もその場に崩れているようだった。
だったらなんだって言うんだ……。
俺がそう問う前に、十文字が微笑んでから続けた。
「憑依現象……、面白い仮定だけどあたしが言いたかったのはそれじゃないの。
あたしがこの例え話で言いたかったのは、自分ってなんなのかってことなのよ。
一般的には脳で思考している『あたし』が『自分』だと思われているわよね?
だけどこの例え話を真面目に考えてみれば、
あたしの脳にどこかから指令を出しているなにかが『自分』とも言えるかもしれない。
ひょっとしたら人間には魂が存在していて、そっちの方こそが『自分』なのかもしれない。
仮定は色々できるけど、その実はなにも分かっていない。
『自分』って結局なんなのかしらね?」
かもしれない、かもしれない。
『自分』という存在に関しては、確かに分からないことだらけだ。
これもよくある例え話だが、この世界全体が誰かに見せられている幻覚の可能性だってある。
「それって『コギト・エルゴ・スム』だよな?」
嬉しそうに田井中が指摘した。
珍しく入っていけそうな話題だったから、嬉々として会話に入ってきたんだろう。
しかし田井中の口から『コギト・エルゴ・スム』が出てくるとは思わなかった。
182: ◆2cupU1gSNo 2013/10/28(月) 19:42:47.32 ID:m2YujdSL0
「よく知っていたな、田井中」
「おう!
この前やったゲームで出てたからな!」
さいで。
まあ、ゲームに限らず小説でもよく取り上げられているからな。
それだけ人類普遍のテーマだということでもあるのだろう。
どうやら十文字は田井中か俺かのどちらかからその言葉を出させたかったらしい。
満足そうに頷くと、小さな眼鏡を思わせぶりに掛け直した。
「『我思う、ゆえに我あり』、デカルトの第一原理ね。
この世界が幻覚だとしても、何物であったとしても、
その世界を見て思考できている『自分』という『意識』だけは確かに存在している。
それでデカルトは世界は『意識』と『物質』で構成されていると考えたらしいわ。
逆に言えば『自分』という意識が存在しない物は全て物質と考えたのよ。
人間だけが『自分』という『意識』を持っている。
それ以外の物……、例えば動物はその『意識』を持っているようには到底思えない。
その結果、デカルトはなにをしたと思う?」
「いい予感はしないが、教えてくれ」
「動物実験。
動物には『意識』がないから机や椅子や時計と同類だと判断し、
その動物が死んだところで、それは単に機械が壊れただけだと主張した。
それを繰り返して、『自分』という『意識』を持つ人間こそが魂を持っていると確信したの」
「うへえ……」
痛ましい表情で田井中が呻く。
俺も呻きこそしなかったが嫌な気分なのは確かだった。
俺は特別動物が好きというわけでもないが、
意味もなく動物が殺されて無表情でいられるほど諦観に満ちてもいない。
「嫌な話をしてごめんね」と前置きして、十文字が続ける。
「是か非かで考えればデカルトの行動は非だけれど、
あの時代の哲学者たちはそれだけ『自分』が何者なのか知りたがっていたのね。
どう? 律、折木くん、君たちは『自分』が何者なのか明確に答えられる?」
俺はなにも言葉にできない。
田井中に至っては俺以上になにも言えないだろう。
『自分』とは何者なのか。
千反田えるの中に唐突に田井中律という精神が現れたからではない。
もっと根本的な意味で、俺たちは『自分』のことを考えなければならないのかもしれない。
もしかしたら俺もそうと自覚できていないだけで、
折木奉太郎という人間の身体を操っている霊体かなにかでないとも言い切れないのだから。
もちろんそう考えてしまうのは、
神社の中で巫女が語るという雰囲気に呑まれてしまっていたからなのかもしれないが。
「そういやさ」
不意になにかを思い出すように田井中が呟いた。
俺が視線を向けると、田井中は遠い目で頭を掻いていた。
千反田の身体が頭を掻くという光景に、俺はまだ慣れていない。
いや、今はそれはどうでもいいか。
俺は自分の中の違和感を気にしないようにしながら田井中に訊ねる。
183: ◆2cupU1gSNo 2013/10/28(月) 19:44:48.60 ID:m2YujdSL0
「どうした?」
「『自分』ってなんなのかって話をしてたらさ、急に思い出したんだよ。
かなり前……、小学生の頃にあったことを。
いや、私の思い出じゃないぞ、えるって子の思い出だ。
えるって子はさ、その思い出の中で『自分』のことを考えてるんだ。
好奇心の塊みたいな子だもんな、そりゃとんでもなく長く考えてたよ」
あの千反田のことだけにありえそうだ。
なにか思い当たることがあるのか、十文字は静かに押し黙っている。
「それで思い出してて分かんないことがあったんだよ。
私の記憶の中ではえるって子が、私じゃあ考えられない行動を取るんだ。
どうしてそんなことをしちゃったのか、それが分からない。
残念ながらその時の気持ちは、えるって子自身も憶えてないみたいだしな。
ただその行動を取ったって記憶だけが残ってるんだ」
伯父の件で泣いたことを記憶しておきながら、
泣いた理由を完全に忘れてしまっていた千反田だ。
それもありえそうだから困る。
まったく、どうしてあいつはこんな状態になってすら俺を困らせるんだか。
「なあホータロー」
ほらきた。
「どうしてえるって子がその時にそういう行動を取ったのか、お前なら分かるか?」
実に面倒だ。
その答えが分かったところで田井中の正体に繋がるわけでもない。
これは単なる田井中の疑問だ。
答える義理はないし、見る限り十文字には見当が付いているようだ。
おそらく十文字もその千反田の謎の行動に関わっているのだろう。
十文字本人に聞けばいい。
俺が考えてやる必要なんてない。
そう思うのだが。
「……話してみろよ」
心情とは裏腹に俺がそう言ってしまったのは、
大きく目を見開いた田井中の表情が千反田のそれと重なってしまったからだろうか。
191: ◆2cupU1gSNo 2013/11/02(土) 18:49:07.23 ID:qiuQlxjo0
・
あれは……って自分のことみたいに話すのも変だけど、とにかく小学五年生の頃の話だ。
私から見ても小五の頃のえるって子は凄かった。
今でこそ多少の好奇心までは抑えられるようになったみたいだけど、
その頃のえるって子の好奇心は本気で尋常じゃなかった。
ちょっとでも気になったら、ありとあらゆる時間を潰してでも好奇心を満たそうとしてたよ。
もちろん訊ねるのは親しい友達とかだけに限るけどな。
今はこれでも治まってるんだよ、えるって子の好奇心は。
……って、『えるって子』って呼び続けるのもなんか変な感じだよな。
今だけえるって名前で呼ばせてもらうことにするよ。
それでえるが小五の頃の、確か秋くらいの季節の話だ。
その頃のえるは十文字の家によく遊びに行くようになってたんだ。
小五になって体力も付き始めた頃だし、
神社前のあの長い階段を軽く上れるようになったのが嬉しかったのかもしれないな。
私もそういう気持ちはよく分かるしさ。
特にえるは身体の成長も人より早かったし、余計そうだったんだと思う。
当然だけどえるは自分の成長を実感したくて神社に行ってたわけじゃない。
十文字に会いに、もっと詳しく言うと、
十文字と話して好奇心を満たすために神社に通ってたんだ。
神社の娘だからか、あの頃の十文字の知識小学生離れしてたからな。
小学生らしからぬ十文字の話を聞く度に、えるはすっごく満足してたよ。
いや、今は十文字の話は置いておこう。
その頃のえるにはさ、十文字以外にもう一人友達がいたんだ。
小学五年生ともなるとえるの家柄を気にしてか、
近寄ってくるクラスメイトも少なくなってきてたんだけど、
遠慮なく物怖じせずに話しかけてくる奴も少しは残ってたんだよな。
その子の名前は、そうだな……、えるはもちろん憶えてるんだけど、
今はプライバシー保護ってことで、仮に『唯』ってことにさせてもらおうかな。
えるとその子の親交はたまにだけど続いてるみたいだし、
もしかしたらいつか会うことになるかもしれないもんな。
どうして唯なのかっつーと、うちの軽音部に唯って奴がいるんだけど、
そいつとその子の雰囲気が結構似てるんだよ、雰囲気とか天然っぽいところがさ。
だから仮に唯って名前でよろしく頼む。
「えるちゃんえるちゃん」
その日も唯は物怖じせずにえるの席に駆け寄った。
放課後になった途端に駆け寄るくらいだから、
よっぽどえると十文字と遊ぶのを楽しみにしてたんだろうな。
その嬉しそうな顔と、私の知ってる唯の顔がぴったりよく被るよ。
192: ◆2cupU1gSNo 2013/11/02(土) 18:49:34.72 ID:qiuQlxjo0
「どうしたんですか、唯さん?」
「今日もかほちゃんのお家に遊びに行くんだよね?」
「はい、そのつもりですよ」
「私も一緒に行っていい?」
「もちろんです、ご一緒してください」
「わーい!
って、えるちゃん、ふふっ」
「急に笑い出すなんてどうしたんですか?」
「やっぱりえるちゃんの話し方ってなんか変なんだもん。
あははっ、変ー」
「そ、そうですか?」
「いいんだよー、えるちゃん。
私はえるちゃんのそういうところも大好きなんだしね!」
「うふふ、ありがとうございます、唯さん」
二人の放課後の漫才……じゃなくて会話は毎回そんな感じだった。
唯の言い方は色々とあれだけど、小学生なんだし分からなくもないよな。
小五って言ったら、習い事をしてない限りは敬語を覚えたてくらいの頃だ。
そんな中で敬語で喋るクラスメイトがいたら、私だって変だって思ってたと思うよ。
ただそれでえるに近付こうとは思ってなかった気もする。
小学生とは言っても、凄い家柄の子相手だとやっぱ緊張しちゃうもんな。
あ、その顔は信じてないな、ホータロー?
そりゃ私にもムギっていうお嬢様の友達はいるけど、
お嬢様と知ってから親しくなるまでには結構時間が掛かったんだぞ?
それを簡単にやっちゃうのが唯の性格で人柄なんだよな。
もちろん今話してる唯と、私の友達の唯は別人なんだけどさ。
えるの友達の唯は今のえるほどじゃないけど髪がかなり長かったし。
それで二人は普段通り十文字の家に遊びに行ったんだよな。
えるは階段を軽々上ってたんだけど、
唯が毎回息を切らしてたのが印象的だな。
当時の唯はえるより小柄だったし、体力も外見通りしか持ってなかったんだろう。
それでもいつもえるの後に続いて階段を上るってことは、
それだけえると十文字と遊ぶのを楽しみにしてたってことなんだろうな。
そんな唯の姿が嬉しくて、えるはいつもハンカチで唯の汗を拭いてあげてたよ。
193: ◆2cupU1gSNo 2013/11/02(土) 18:50:06.72 ID:qiuQlxjo0
「いらっしゃい、二人とも」
階段を上ると巫女服を着た十文字が待っていた。
その頃の十文字は家の事情があるのか、えるたちと遊ぶときにも巫女服をよく着てた。
今考えると巫女服の着付けの練習でもしてたのかもしれないな。
えっ、単なる趣味だったのか?
……冗談だよな?
冗談ですまない先生が私の知り合いでいるんだよ、冗談ってことにしといてくれ。
会うことはないと思うけど、こっちにもその人がいる可能性がないわけじゃないし……。
まあ、ともかく神社には巫女服の十文字がいたんだ。
唯はその十文字を見つけると駆け寄って行ってた。
さっきまで息を切らしてたくせに元気なもんだよな。
私の知ってる唯も、体力がないくせにいざとなるとタフな奴だった。
こっちの唯も同じタイプで、いざという時に非常電源が入る奴だったんだろうな。
「来たよー、かほちゃーん」
「いらっしゃい、唯、える。
お茶の準備をしてるから、まずはあたしの部屋まで上がっちゃって」
「ありがとー、かほちゃん、大好き!」
「どういたしまして、唯」
うーん、激しくデジャヴだな。
いや、唯と十文字の会話を思い出してたら、
私の知ってる唯とその幼馴染みの会話を思い出しちゃったんだよ。
きっとああいう関係だったんだろうな、こっちの唯と十文字も。
それで、だ。
えると唯がお茶を飲んで一息ついた頃、十文字が話を始めたんだ。
それこそえるたちの一番の目的だったんだよな。
えるほどではないにしても唯も好奇心が強い方で、
十文字の話にはいつも目を輝かせて熱心に耳を傾けてたよ。
基本聞き手に回りがちなえるとは違って、
唯は小さなことでも遠慮なく十文字に訊ねるタイプだった。
それが逆に上手くいく秘訣だったんだろうな。
えるは過程を無視して結論から話す癖があるみたいだったから、
たぶん十文字にとっても唯の質問に答えるのは得だったはずだ。
唯の細かい質問のおかげで、えるが先走って結論を出すことを防げる。
まあ、そんな感じかな。
「それじゃ前回のお話の続きからね」
十文字は大体そんな言い回しで話を始めてたな。
その頃、えるたちが夢中だったのは前世と輪廻転生の話だった。
小学生の女の子だもんな、そういう話は大好物だ。
私はそんなに好きってわけじゃなかったんだけど、
幼馴染みの澪がさ、大好きでそういう漫画をよく薦めてきてたんだよな。
おかげで私も前世の話とかにそれなりに詳しくなっちゃったよ。
とにかくその頃のえるたちは前世とかに夢中だった。
神社の娘が話してるって説得力もあったんだろうな。
えるの記憶を思い出してるだけなのに、なんか思い出してる私までワクワクしてくる。
それくらいえるたちが十文字の話にワクワクしてたんだと思うよ。
その時ワクワクさせられた十文字の話はこういう話だった。
194: ◆2cupU1gSNo 2013/11/02(土) 18:51:01.29 ID:qiuQlxjo0
「えるたちは輪廻転生についてどう考えてる?」
「死んじゃった後に生まれ変わること!」
「そうね、唯の言う通り輪廻転生は生まれ変わることよ。
何度も何度も一つの魂が他の形で生まれ変わる。
だけど唯たちはこう考えてみたことはない?
今の人間の数は昔よりずっと多いのに、その魂はどうやって持ってきてるんだろうって。
単純計算でも縄文時代の頃の何十倍以上の人間が今の世界にはいるわよね?
その魂の数はどうやって補っているのかな?」
「言われてみればそうだよね……。
虫とか他の動物の魂を人間の魂に回してる……とかだったりして?」
「悪くない意見ね、唯。
それなら魂の数の問題は解決できるかもしれないわ」
「あの、かほさん、逆にこういう考え方はどうでしょうか?」
「どういう考え方?」
「人間に生まれ変わる順番待ちの魂が、縄文時代の頃からたくさんあったとします。
それならば矛盾がなくなると思いませんか?
人間の数がこれからもどんどん増えたとします。
けれど増えた人間に宿る分の魂はどこかで待っていますから、
どんなに人間が増えても生まれ変わる魂が足りなくなることはない……」
「順番待ち、ね。
そうね、そういう考えた方もあるかもしれないわ」
妙な心霊会議だよな。
いや、心霊とはちょっと違うか?
とにかく三人はそんな感じで放課後を神社で過ごしてたんだ。
答えの出る会議じゃなかったけど、それをえるは楽しんでたみたいだな。
結論ばっかり求める印象があるえるだけど、
その結論に至るまでの過程も大切にしてるタイプなんだよ、えるは。
もっとも結論が出せるのに越したことはないみたいだけどさ。
ああでもないこうでもないと話していると、
いつの間にか十文字の部屋に一匹の侵入者があった。
犬だ。
当時十文字が親戚の事情で預かっていた一匹の犬。
名前は『アミーナ』、小さな豆芝だったよ。
老犬じゃなかったし、今でも生きてるんじゃないかな。
えるも中学三年の頃に一度見かけたことがあるみたいだ。
その見かけた犬が本当にアミーナだったのか確証はないみたいだけど。
「おー、アミちゃん、よしよしよし!」
会議を打ち切って唯がアミーナに駆け寄った。
私の知ってる唯もそうだったけど、えるの友達の唯も犬好きだったんだよな。
そういう点でこの二人はよく似てるよ。
十文字の話が目当てだったのは確かだけど、
この唯はそれと同じくらい犬のアミーナも目当てだったらしい。
アミーナをあやす唯が本当に幸せそうだった様子が、えるの胸の中に強く残ってる。
いい笑顔だったんだよ、本気で。
「アミちゃんにも前世ってあったのかな?」
アミーナの首筋を優しく撫でながら唯が十文字に訊ねた。
会議の続きなのか、それとも気になることがあるのか、その時のえるに唯の真意は掴みとれなかった。
だから首を傾げて十文字に視線を向ける事しかできなかったんだ。
195: ◆2cupU1gSNo 2013/11/02(土) 18:57:26.91 ID:qiuQlxjo0
「どうでしょうか、かほさん?
人間に前世があるのなら、犬にも前世はあるはずとわたしは思いますけど……」
「さっき唯が言った通り、人間の前世が人間だけじゃないとしたらおかしくないわ。
犬が前世の人間、逆に人間が前世の犬がいても不思議じゃない。
ありとあらゆる魂を、ありとあらゆる肉体が共有してるって考え方もあるわね。
そういえば前に読んだ本でこんな話を見たことがあるわ。
『生まれ変わりは時間を超える』って話」
「『時間を超える』……?」
訊ねたのは唯だった。
なんとなくすがるような表情に見えたのは、えるの気のせいだけじゃなかった。
もちろん、それに気づけたのはもっとずっと後のことなんだけどな。
唯はアミーナを抱きしめながら続けた。
「生まれ変わりって時間を超えるの?」
「超えるというか、時間とは関係ないかもって話だったのよ。
例えば五年前に亡くなった人が、十五年前に産まれた人に転生していてもおかしくない。
そういう話ね」
200: ◆2cupU1gSNo 2013/11/05(火) 18:38:15.09 ID:3mG2/NeL0
これも後でえるが知ったことなんだけど、
この時より一年前くらいに唯の可愛がってた犬が死んでたらしい。
だから唯はすがるような表情で十文字に訊ねたんだろう。
死んだ時期が関係ないんだったら、もうその犬の生まれ変わりが生まれててもおかしくないもんな。
それこそアミーナがその犬の生まれ変わりとも考えることだってできる。
唯もさすがにアミーナがその犬の生まれ変わりだって考えてたわけじゃないみたいだけどな。
ただそうだったらいいな、くらいには思ってたみたいだ。
私もそう思うし、それから後のえるもそういう結論を出してる。
「あの、かほさん、ちょっといいですか?」
だけどその時のえるはそこまで考えが回ってない。
その時のえるは十文字の言葉の矛盾している点が気になってしょうがなくなってた。
だから訊ねたんだよ、お約束のあの仕種で。
「いいよ、どうしたの、える?」
「かほさんは生まれ変わりに時間は関係ないかもっておっしゃられました」
「正確には読んだ本の受け売りだけどね」
「はい、それは分かっています。
でも気になるんです。
だってそうじゃありませんか?
五年前に亡くなった方が十五年前に生まれ変わる……。
そんなことをしてしまったら、同じ魂……、いえ、魂なのかは確定してませんけど、
とにかく同じ魂のようなものを持った方が、何人も同じ時代に生きていることになってしまいませんか?
それっておかしくありませんか?
それなのにどういう理屈で時間が関係なんて筆者さんは語られたのか……。
わたし、気になります!」
なるほど、えるの言い分は正しいよな。
輪廻転生に時間が関係ないとしたら、同じ時代に同じ前世を持つ奴がいてもおかしくなくなる。
これはさすがに矛盾になっちゃうよな?
だけどそのえるの質問を予測してたのか、十文字はこともなげに返したんだ。
「える、あたしさっき言ったよね、
輪廻転生の魂はどうやって補ってるんだろうって。
えるは順番待ちの魂がたくさんあるから、魂が足りなくなることはないのかもって言った。
うん、面白い考え方ね。
だけどあたしにももう一つ考えてることがあるのよ。
それがどんな考えか、分かる?」
「……いいえ」
「それはね、魂の共有よ。
この世界には同じ魂を持っている生き物がたくさんいるって考え。
魂が誰にとっても一つだけなんて決まってるわけじゃないでしょ?
それなら同じ魂が何人もの身体に宿っててもおかしくないとは思わない?
そう考えれば魂を補う必要なんてなくなるしね。
同じ魂を何千人、何万人、何億人で共有すればいいの」
「だけどかほさん、それだと……」
えるはそれ以上言えなかった。
単なる輪廻転生の仮定だけど、えるの想像もしてなかった仮定に頭が混乱してた。
ホータローたちも知ってることだと思うけど、えるは筋道立てて答えを出すのが苦手なんだ。
特に勉強で解決できるようなものじゃないことには。
だけどその時にえるがなにを言おうとしてたのかは思い出せる。
えるは本当はこう言おうとしてたんだ。
201: ◆2cupU1gSNo 2013/11/05(火) 18:38:45.37 ID:3mG2/NeL0
『それだと全ての生き物の魂は、一つで足りるということになってしまいませんか?』
もしえると十文字が同じ魂を持っているとしたなら、
えると唯が、唯とホータローが同じ魂を持っていてもおかしくなくなる。
里志も冬実も私もえると同じ魂を持っていてもおかしくなくなる。
突きつめて考えれば、最終的には全ての人間が一つの魂を共有していても不思議じゃなくなる。
もちろん単なる一つの例え話だけどな。
なんとなくその時のえるはそう考えたんだ。
自分と自分じゃない誰かの魂……、心が同じでも不思議じゃないって。
「だけどね、えるちゃん、かほちゃん」
唯がアミーナに頬擦りしながら急に話に入ってきた。
それは唯にしてはとても真剣な表情だった。
アミーナ、える、十文字を順番に物凄く真剣に見つめてた。
「私は生まれ変わりってすっごく素敵だと思うな」
「素敵……ですか?」
「うん、素敵だよ!
アミちゃんが誰かの生まれ変わりでも素敵だし、
私たちが死んじゃった後も生まれ変われるって思えるのは嬉しいな。
それでね、生まれ変わった後にね、
生まれ変わった私が生まれ変わったえるちゃんたちとまた会えたら素敵だよ!
それって運命って感じだよね?
ずっとずっと永遠に一緒の仲間だって感じだよね?」
唯がそう熱弁したのは、やっぱり可愛がってた犬が死んだことが影響してるのかもしれない。
これは私の想像なんだけど、その犬が死んだ時に唯の母さんあたりがこう慰めたんじゃないか?
「唯が良い子にしていれば、いつかはその子の生まれ変わりと会えるかもしれないわよ」って。
私も小さな頃に母さんから同じ様なことを言われたしな。
うん、小学生の娘を慰めるにはちょうどいい言葉だって私も思う。
生まれ変わりが本当に起こるのかは分からない。
それでも起こらないと悲観して悲しみ続けるよりは、もしかしたらに期待して前を向いた方がいい。
私が唯の母さんでも同じ慰め方をするかもしれない。
ないよりはあった方が気分的に悪くない。
「そうですね、唯さん。
そうだったら、素敵ですよね」
「そうね、来世でも会えればいいわね」
えるも十文字も唯のその言葉には笑顔で返した。
アミーナの頭を撫でながら、来世での再会を約束したんだ。
小学生らしい子供っぽい、でも微笑ましい約束。
それでその日の輪廻転生の話は終わって、
後は近く開催されるマラソン大会とかの話をするだけになった。
三人とも笑顔で、楽しい一日を過ごしたんだ。
える自身もその時は本気で楽しかった。
だけど。
202: ◆2cupU1gSNo 2013/11/05(火) 18:39:13.61 ID:3mG2/NeL0
「ばいばい、えるちゃん!」
「はい、唯さん、また明日」
夕焼けの中、元気を取り戻した唯に手を振って別れた後、えるは道の端に駆け出したんだ。
そうして誰にも見えない場所にしゃがみ込んで、涙を流し始めた。
さっきまであんなに笑顔だったのに、あんなに楽しかったのに、泣き始めたんだ。
長い涙だった。
夕焼けがかなり濃くなるまで、えるは声を上げて泣いてた。
その涙の理由が、私には分からないんだ。
あんなに楽しかったはずなのに、どうしてえるが急に泣き出しちゃったのか。
もしかしたらえる本人も分かってないのかもな。
私がどう頑張ってもその理由を思い出せないのは、そういうことなのかもしれない。
える本人にも自分が泣いている理由が分かってなかったのかもしれない。
ただ私が思い出せる感覚は、恐怖……な気がする。
えるは怖かったんだ。
怖くて泣いたんだ。
なにが怖かったのかはもちろん分からない。
私に言えるのは、別に十文字や唯や夕焼けが怖かったわけじゃないってことだけだ。
……どうだ、ホータロー?
これがホータローに訊ねたい私の疑問だよ。
小学生のえるがどうして急に泣き出しちゃったのか、
ついさっきまであんなに楽しかったのに、
なんで急に涙が止まらなくなったのか、ホータロにはその理由が分かるか?
203: ◆2cupU1gSNo 2013/11/05(火) 18:39:55.28 ID:3mG2/NeL0
・
田井中の話が終わった。
俺の知らない千反田と十文字と唯の話。
おっと、唯というのは田井中が勝手に付けた仮名だったか。
まあ、別に唯のままでいいだろう。
「千反田が急に泣き出した理由か」
呟きながら思い出しのは、千反田の伯父との一件のことだ。
まったく、千反田は落ち着いて見えるが、やはり感情の起伏が激しい性質らしい。
俺があまり感情を露わにしない方だからか、
千反田が俺の前で喜怒哀楽を激しく示すことは少ないのだが。
もしかすると伊原の前ではもっと感情を豊かに振る舞っているのだろうか。
いや、それは今は重要なことではない。
「やっぱりえる、あの後に泣いていたのね……」
昔を懐かしむように十文字も呟いた。
その表情に悲哀の色は見られない。
どことなく昔からの疑問に合点がいったという表情にも見える。
十文字も十文字なりに、当時の千反田の様子に疑問を持っていたのだろう。
一応訊ねてみる。
「なにか心当たりでも?」
「なんとなく、だけどね。
長い付き合いだもの、えるが泣くのを我慢してる時の表情くらい分かるわ。
あの日のことはあたしもよく憶えてる。
いいえ、正確にはあの日の翌日ね。
あの日の次の日、感動する映画を観たからって誤魔化していたけど、
それだけだと説明できないくらいにえるは目の周りを泣き腫らしていたのよ。
嗚咽もかなり漏らしたんでしょうね。
声まで嗄らしてるくらいだったわ。
それでいつもじゃないけどたまに思い出していたの、えるにあの日なにがあったんだろうって」
「泣いた理由について手がかりはあるか?」
「分からないわ。
えるは誤魔化すだけだったし、律の言葉通りならえる自身も分かってない可能性もある。
のり……じゃなくて、今は仮名で唯だったわね。
唯が帰り道でえるをいじめたとも思えないし、
やっぱり原因はあたしたちの輪廻転生の話だと思うけれど、どうかしら?」
十文字の意見は妥当だろう。
俺としてもそれ以外の理由は見当たりそうにない。
実を言うと俺の中では既に一つの答えが固まりつつあった。
もちろん千反田のその時の感情を全て理解できると思い上がっているわけではない。
千反田の感情など、千反田自身にすら完全には分かっていないだろう。
しかし田井中の話を聞いた以上、少なくとも田井中と俺には納得のいく答えを出すべきだった。
心当たりと言えば、まだ千反田の中に田井中が存在しなかった頃の俺との会話だ。
一つは、千反田が俺に伯父の件で相談してきた時の会話。
もう一つは、俺が「やらなくてもいいことなら、やらない」と言うようになったきっかけを話した時の会話。
いや、それ以外にもよく考えれば思い当たらなくもない。
とにかく千反田は、過去をおざなりにしないのだ、良くも悪くも。
それがおそらく答えに繋がるだろう。
212: ◆2cupU1gSNo 2013/11/13(水) 21:23:35.15 ID:1chHIkfI0
「田井中」
俺は小さく息を吐きながら言った。
田井中は静かに俺の方を向いて首を傾げる。
その表情は気になっていること回答を求めていると言うより……、いや、今はやめておこう。
とりあえず質問を続けてみる。
「千反田は怖かったんだな?」
「そうだと思う。
えるの思い出だから正確には言えないけどさ。
ほら、吊り橋効果ってあるだろ?
恐怖が原因のドキドキと恋心のドキドキを取り違えちゃうってやつ。
あの時のえるのそれがそうじゃなかったとは言い切れないしな」
「そういう考え方もあるが、残念ながら神山市に吊り橋は存在しない。
田井中が千反田の感情を恐怖と捉えた。
まずはそれを大前提にして俺の考えを話させてもらうが構わないか?」
「それはもちろん。
つーかホータローにはもうえるの泣いた理由が分かってるのか?」
「なんとなくだよ、確信を持ててるわけじゃない」
「こういう時だけ奥ゆかしいんだよなー、ホータローは」
奥ゆかしいってのはなんだ。
俺は単純に一番可能性が高い仮定を話そうとしているだけだ。
可能性が無限に存在する以上、自分が出した答えが正解だなどと簡単には確信できない。
俺がそれを伝えようと口を開くと、田井中は「それでどうなんだ?」と話の先を促した。
ならば別に俺の信条をわざわざ伝える必要もないだろう。
やらなくてもいいことなら、やらない。
俺は軽く肩をすくめてから話を続けた。
「千反田が泣いている理由で思い当たるのはもちろん前世の話だ。
千反田は前世についてなにか感じ入ることがあって泣き出してしまった。
そう考えるのが自然だろう。
と言うよりも田井中、お前もそう考えていたんだろう?
そう考えていたからこそ当時千反田たちが話したはずの話題から、
前世の話題だけを選りすぐって詳しく思い出して俺に伝えたんじゃないか?」
「バレバレかよ」
悪びれた様子もなく田井中が微笑んだ。
分かり切っていたことだし、俺はそれについて特に追求しなかった。
田井中がポニーテールを右手で軽く流しながら口を開く。
213: ◆2cupU1gSNo 2013/11/13(水) 21:24:01.54 ID:1chHIkfI0
「ホータローの言う通りだ。
私はえるが泣いた理由は前世の話をしたからだって思ったんだ。
えるは前世の話のなにかが怖くて泣いたんだと思う。
他に泣く理由もないもんな。
でもさ、だったらえるは前世の話なんかでどうして泣いたんだ?
前世なんて日常会話のついででも話すようなことだろ?
小学生の頃だったら、余計に日常会話の一部になってるくらいだよ。
えるはそんな日常会話のなにが怖かったんだ?
私にはそれが分からないんだよ」
嘘だな、と感じた。
いや、完全には本音じゃないと言った方が正しいか。
俺がそれを感じ取れるくらいには、田井中の様子は演技臭かった。
多分田井中は千反田が泣いた理由の大体の目安は付けているのだろう。
それでいて俺に答えを出させたいのだ。
田井中自身が納得するために。
ならば納得させてやろう。
それが田井中の望むことなのだし、俺にできる唯一のことなのだろうから。
「確かアミーナとか言ったな、豆芝の名前は」
「そうだけど?」
「そして当時の千反田は与り知らぬことだが、
唯はアミーナが自分の可愛がっていた犬の生まれ変わりであることを願っていた。
そうだったな?」
「それから後のえるがそうじゃないかって考えたってだけだけどな」
「十分だ、田井中。
俺たちにとって重要なのは、唯が本当に生まれ変わりを信じてたのかってことじゃない。
その時の千反田がなにを考えていたのかってことだ。
もう一度確認させてもらうが、確か唯はアミーナの生まれ変わりを『素敵』だと言っていたな?」
「ああ、えるの記憶では確かに言ってたよ」
「それに対して千反田は『素敵ですね』と返した。
そうだったな?」
「間違いないよ。それで?」
「当然ながらこれは俺の仮定でしかないが、千反田のその言葉は嘘だったんだろうな」
「『素敵ですね』って言葉がか?」
「ああ、そうだ。
あいつは予想外に素っ頓狂な反応を見せることも多々あるが、基本的には空気が読める奴だ。
『和を以て貴しとなす』。それが千反田の信条と言ってもいいだろう。
もちろん納得がいかないことを追及する心根がないわけじゃないけどな。
しかしあいつは必要以上に自分の感情を露わにしたりはしない。
あれで名家のお嬢様なんだ。あいつもそれくらいの処世術は弁えている」
「それで唯の『素敵』に頷いたわけか?」
「唯は生まれ変わりを『素敵』だと思っている。
それどころか生まれ変わりと言う現象に縋っているきらいもある。
ならば仮に反対意見を持っていたとしても、千反田は進んで口に出したりはしないだろう。
まず間違いなく胸にすっきりとしない感情を抱えたまま帰路に着く」
「えるならまずそうするわね」
214: ◆2cupU1gSNo 2013/11/13(水) 21:24:27.39 ID:1chHIkfI0
同意したのは十文字だった。
俺たちの中では千反田を一番よく知っている十文字がそう言うのだ。
やはり千反田が生まれ変わりのなにかを快く思っていなかったと考えるのが自然だろう。
ふと気が付くと田井中が真剣な表情で俺の顔を覗き込んでいた。
「えるが本当は生まれ変わりを『素敵』だと思ってなかった。
それは分かったし、私もそう思うよ。
だけどそれならえるが生まれ変わりのなにが怖かったんだ?
ホータローにはそれも分かってるのか?」
「『氷菓』だ」
「文集がどうしたんだ?」
「正確には『氷菓』に纏わる一連の事件だな。
千反田は『氷菓』のことを調べるために古典部に入部した。
その理由はお前にもなぜだか分かっているだろう?」
「伯父さんとの思い出を大切にしたいから……か?」
「持ち前の果てない好奇心、過去をすっきりと思い出せない不安。
様々な要因はあったんだろうが、要はそういうことだったんだろうな。
千反田は伯父との過去を思い出して大切にしたかったんだよ、単純に。
もうすぐ伯父が死んでしまうという焦りもあったんだろうけどな」
「そういえば小学五年生の頃って言えば……」
口元に手を当てて十文字が呟く。
独り言の様だったが、俺はそれを田井中に聞かせるためにもそれに応じた。
「今年で千反田の伯父が失踪してから八年になるはずだったな。
逆算すれば千反田が小学二年生か小学三年生の頃に伯父が失踪した計算になる。
小五と言えばその失踪から二年ほど経っているが、
その程度の期間であいつが伯父の失踪を割り切れたとは思えない。
特に単なる死亡じゃないだけに心のどこかに引っ掛かっていたはずだ。
死んだものと受け止めることもできず、
生きているかもしれないという淡い期待に何度も裏切られて……。
逆に二年経ったその頃の方が千反田の心には重い翳が掛かっていたのかもしれない」
「そんな時に唯が生まれ変わりの話をしたのが泣いた原因なのか?」
「いや、生まれ変わり自体は雑談としてなら問題ない。
お前も言っていただろう?
千反田は前世の話をすること自体には前向きだったって。
千反田にとって問題だったのはおそらく、
身近な存在を何者かの生まれ変わりだと考えてしまうことだったんだ」
「身近な存在……ってアミーナか?」
「アミーナと、それから伯父も連想したんだろう。
伯父がもし死んでいたとして仮に時間も影響しないとしたなら、
この世界に伯父の生まれ変わりが産まれていたとしても不思議じゃないと」
「それは……、えるにとって『素敵』なことじゃなかったんだよな?」
苦々しげに田井中が呟く。
いよいよ田井中が知りたくて知りたくなかった本題に入る。
心苦しくないと言ったら嘘になる。
だが俺は田井中に俺の考えを伝えなければならない。
それが千反田に起こった不可思議な現象に向き合うということなのだ。
俺は深呼吸して天井を仰いだ後、「ああ」と静かに頷いた。
215: ◆2cupU1gSNo 2013/11/13(水) 21:24:58.42 ID:1chHIkfI0
「そうだな、やはり千反田にとって生まれ変わりは『素敵』じゃなかったんだろう。
少なくとも俺はそう思う。
遠い未来で生まれ変わって再会できるだけなら、千反田も悪感情を抱かなかったはずだ。
だがその時の十文字さんは一つ千反田に仮説を話したな」
「『生まれ変わりに時間は影響しない』……」
「ああ、それだ。
その真偽は俺たちには確かめようもないが、現実にもそうだとしよう。
少なくとも千反田がその仮説を信じたと仮定して、
『五年前に死んだ人間が十五年前に生まれ変わる』事が可能だとする。
そうすると一生の間に同じ人間の生まれ変わりに会える可能性は高くなる。
それこそ下手をすると、万単位で何者かの生まれ変わりに会えることもありえる。
一生の内に誰かの生まれ変わりに触れられることが珍しくなくなる。
そうするとどうなる?」
「どうなるってホータロー……、それは……」
「一つ例を出そう。
例えば里志には悪いがあいつが明日くらいに突然死するとする。
そしてその直後に俺たちが里志の生まれ変わりと出会い、
なんらかの理由でそいつが里志の生まれ変わりだということを知ったとしよう。
そんなことが現実に起こったとしたなら、
少なくとも俺はそいつと里志を別の存在だと切り離して見ることができそうにない。
意識的にも無意識的にも里志の面影を捜そうとしてしまうだろうな」
「私だって……、そうだよ……」
「あたしもそうね、福部くんには申し訳ない仮定だけど」
俺の仮定に二人が頷く。
これはなにも俺たちだけに限った話ではないはずだ。
誰だって失った物の面影を追い求めてしまう。
生まれ変わりに限定せずとも、初恋の相手の面影を次の相手に求めてしまうなんてのはよく聞く話だ。
その是非について議論するつもりはない。
議論できるような性格でもない。
だが千反田はその是非について考えてしまうような奴なのだ。
「千反田はそういう想像をしてしまったんだろうな」
絞り出すように続ける。
「言うまでもないことだがアミーナは犬だ。
まだ存命らしいが、少なくとも俺たちよりは遥かに先に寿命が尽きる。
その分、他の何かに生まれ変わっている確率も人間より遥かに高くなるだろう。
千反田がアミーナの生まれ変わりに出会える確率もな。
唯はアミーナを他の犬の生まれ変わりだと『素敵』だと考えていた。
前の飼い犬の面影を投影していた。
前の犬にとっては幸福なことなのかもしれない。
いつまでも唯の心の中に存在しているということだ。
だがそれはアミーナにとっては幸福なことなんだろうか」
「……どうなんだろうな」
「そういえばこんな話を聞いたことがあるわ、折木くん」
「どんな話だ?」
「ペットのクローニング。
死んだペットの遺伝子からクローンを産み出す商売」
216: ◆2cupU1gSNo 2013/11/13(水) 21:25:30.96 ID:1chHIkfI0
十文字が少し苦そうに吐き出した。
様々な宗教を勉強している十文字なのだ。
こう見えて生命倫理には思うところがあるのだろう。
しかしクローンか。
これも現代の科学が実現させた一つの生まれ変わりと言えるのかもしれない。
「折木くんはどう思う?
折木くんなら死んだペットをクローンで蘇らせたい?」
「考えたことはないな。
俺はペットを飼っていないし、おそらく飼っていてもクローンは造らない。
クローンは遺伝子が同じだけだ。
飼っていたペットが生き返るわけじゃない」
「そうね、折木くんの言う通りよ。
クローンは死んだ誰かを生き返らせる技術じゃないわ。
だけどそれは現実に生まれ変わりがあったとしても同じことよね?」
「生まれ変わりは生まれ変わりでしかない……ってことか」
田井中が汗を掻きながら絞り出すように呟く。
暑いのだろうか?
いや、おそらくあの額に光る粒は冷や汗に違いない。
しかしその冷や汗が田井中の本望に思えるのは俺の考え過ぎだろうか。
眼鏡の位置を調整してから十文字が冷徹に続ける。
「前世の話をしていたあたしが言うことじゃないかもしれないけど、
生まれ変わりが現実にあったとしても、それは単なる生まれ変わりよ。
同じ人間が生まれてくるわけじゃないの。
魂が同じ?
魂に刻まれた記憶が同じ?
そんなの生まれてきた新しい命にはなんの関係もないことでしょ?
前世を知っている誰かに、その前世の面影を期待されても迷惑なだけだと思わない?」
そうだ。
それをこそ千反田は嫌がっていたのだと思う。
アミーナはこの世界に産まれ落ちている。
誰の、なんの生まれ変わりなのかは分からないが、とにかく新しい命として産まれている。
だと言うのに、アミーナ自身もよく知らない犬の生まれ変わりだと思われて、勝手に期待されてしまっている。
可愛がってはもらえるだろう。
大切にしてはもらえるだろう。
幸福かもしれないが、しかしそれは悲劇というものなのではないだろうか。
その悲劇について、俺には別にそれほど感傷はない。
世界がそういう仕組みだと言うのなら特に否定もしない。
だがあいつは、千反田えるはそういう悲劇を悲しく思う奴なのだ。
そしてなによりも。
「生まれ変わるのはアミーナだけじゃないからな」
俺が呟くと泣きそうな顔で田井中が顔を向けた。
失言だったかもしれない。
しかし俺たちが向き合わなければならない現実なのも確かだった。
生まれ変わるのは犬だけじゃない。
この世界に生まれ変わりが存在するのなら、俺たちもいつか生まれ変わるのだろう。
そして今の俺たちも誰かの生まれ変わりなのだろう。
もしもその俺たちの前世を知る誰かが現れたとしたら。
その誰かが俺たちの前世の役割を手前勝手に押し付けてきたとしたら。
そんな面倒臭いことは俺だってごめんだ。
大した人間ではないが、俺は俺なのだ。
別の誰かを演じて見せたりなどしたくない。
例え仮に前世の記憶が多少は残っていたとしても。
217: ◆2cupU1gSNo 2013/11/13(水) 21:25:57.95 ID:1chHIkfI0
それは怖いことだ、と俺ですら思う。
前世という概念に囚われるようになった途端、俺たちは俺たちじゃなくなる。
他の誰かの役割ばかりを期待されて、今生きている俺たちという存在が完全に無価値と化す。
今の自分がなんの意味もない存在になってしまうのだ。
感受性の高い千反田ならなおさらそれに恐怖し、泣き出してしまいたくもなってしまうだろう。
だから泣いたのだ、千反田は。
もっともこれは単に俺たちが辿り着いた一つの解答でしかないが。
田井中は黙って汗を拭っていた。
やはり田井中も心の隅ではそう思っていたのだろう。
認めるのが怖かっただけなのだ。
それで俺たちに答えを求めたのだ。
優しい言葉でも掛けて、違う答えを出してやるべきだったのかもしれない。
しかしそれはなんと言うか、田井中にも千反田にも真摯とは言えまい。
軽く田井中と視線が合う。
最後の確認よろしく田井中が呟いた。
「しっかし暑いよなあ……。
これからもっと暑くなるんだろうし髪切っちゃ駄目か?
……なんてな」
「駄目よ、律。
それはえるが子供の頃から伸ばしてる自慢の髪なんだから」
「そっか……、だよなあ……」
それ以上田井中はなにも言わなかったし、十文字も押し黙った。
俺も居心地の悪い気分を味わっていた。
見る限り十文字は田井中と仲が良いのだろう。
会話の節々からもその様子は見てとれた。
だが十文字は田井中に髪を切ってはいけないと言った。
もちろん単なる却下ではない。
これはいつか千反田が元に戻ることを信じての言葉だった。
千反田が元に戻った時、短くされた髪を見て困らないようための言葉だった。
それは同時に田井中の存在の否定でもあった。
田井中が顕現して以来、千反田の人格は表に出ていない。
眠っているのか、どこか別の場所にあるのか、それは分からない。
しかし一つだけ言えることがある。
どうも田井中の人格が消えない限り、千反田の人格が戻りそうにないということだ。
これだけの長い期間、千反田が現れる素振りもないのだ。
千反田と田井中の両者は共存できないと考えるのが自然だろう。
どちらかが消えない限り、どちらかも存在できない。
まるで前世と生まれ変わりの関係のように。
十文字は千反田を選択した。
当然だ、幼馴染みなのだから。
田井中のことは嫌いではなかろうが、二者択一であれば十文字は迷わず千反田を選ぶだろう。
生まれ変わりの田井中よりも、前世の千反田を。
俺は。
俺はどちらを選ぶのだろう。
俺だって田井中のことは嫌いではない。
苦手な方ではあるが、消えてしまえばいいとまで思っているわけではない。
田井中とはそれなりに過ごしてきたし、
同じ問題に向き合っているという少なからずの仲間意識もある。
それなりに田井中を面白いと思えるようにもなってきたのだ。
その田井中の人格が消えるなど、あまり考えたい未来ではない。
しかしやはり俺は選ばなければならないのだろう。
どちらに消えて、どちらに残ってもらうべきなのかを。
すぐの話ではない。
しかしそう遠い話でもない。
先延ばしでしかないことは分かっているが、その決断を下す日はできる限り先であってほしい。
「やらなければいけないことなら手短に」、
今回ばかりはその俺の信条も曲げなければなるまい。
221: ◆2cupU1gSNo 2013/11/22(金) 19:53:44.10 ID:yRRc3bFN0
四章 カレイドスコープ・ホワイトアウト
1.七月五日
授業を終えて放課後。
鞄を抱えて部室に向かうと、入口の前に先客がいることに気付いた。
先客は息を殺して部室を覗き込んでいる。
女子にしては背の高いその体躯。
この前目にした時よりも肌が浅黒く日焼けしている。
髪は幾分か伸びただろうか。
俺はその女子生徒に見覚えがあった。
「なにをしているんだ、大……」
掛けようとした声を彼女の右手で押し留められる。
まさか口元を手で覆われるとは思わなかった。
それほど切羽詰っていたということなのだろうか。
彼女は非常に不安そうな表情を浮かべ、左手の人差し指を自分の口元で立てる。
静かにしてくれということなのだろう。
俺は小さく溜息をついてから了承の意を示すために頷く。
そうしてやっと彼女……大日向は俺の口元から右手を離してくれた。
「お久しぶりです、折木先輩」
大日向が小声で囁いて頭を垂れる。
その程度の声量であれば声を出しても構わないということか。
俺は大日向に倣い、声量を落として訊ねる。
「ああ、久しぶりだな、大日向。
どうしたんだ、急に」
「ちょっと気になったことがありまして」
大日向は微笑んだが、その笑顔は少し寂しそうに見えた。
それでその気になったことがなんなのか、俺にも見当が付いた。
もっとも、大日向が寂しそうな表情を見せずとも分からなくもないことだったが。
「田井……千反田のことか?」
「たい……?」
「噛んだんだ、気にしないでくれ」
「先輩も噛むことがあるんですね」
今度は本当に面白かったのか、その微笑みからは寂しさが消えていた。
しかし危なかった。
最近はあいつを「千反田」より「田井中」と呼ぶ頻度の方が遥かに多い。
思わず田井中の件を知らない大日向の前で「田井中」と口に出してしまうところだった。
それくらい田井中の存在が俺の日常に溶け込み始めたということなのだろう。
是か非かで考えると、恐らくは非寄りの変化だろうが。
「ほっといてくれ」と咳払いしてから、俺は大日向に質問を続ける。
次回 奉太郎「軽音楽少女と少年のドミノ」 後編
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