奉太郎「軽音楽少女と少年のドミノ」 前編


 
222: ◆2cupU1gSNo 2013/11/22(金) 19:54:15.10 ID:yRRc3bFN0


「それで千反田がどうしたんだ。 
なにか急用でもあるのか?」 


「いえ、用は……ないんですけど……」 


歯切れが悪い。 
マラソン大会前後で大日向と千反田に起こったことを考えれば無理もない。 
あの件はまだ大日向の胸の中に大きな翳を落としているのだろう。 
それに関して俺にできそうなことは今のところない。 
俺にできそうなのは、もしも、万が一、ほとんど存在しない可能性だろうが、 
またいずれ大日向が古典部に関わろうと思えた時、その背中を軽く押してやることくらいだろう。 
大日向にまだその意志がない以上、俺にはなにもできないのだ、まだ。 


「用がないのに部室の前にいるってことは偵察でもしてるのか?」 


「……はい」 


冗談のつもりだったが、大日向は真面目な表情で頷いていた。 
本当に偵察だったのか。 
だがなんのために? 
俺がそれを問うとまた大日向の表情が曇った。 
そういえば大日向は表情がよく変わる、そういう喜怒哀楽の激しい後輩だった。 


「偵察しているのは、千反田先輩です」 


「千反田のなにを?」 


「千反田先輩なんですけどね、一年生の間でも有名なんですよ? 
ファンも結構いるみたいなんです、男子にも、女子にも。 
だから自然と千反田先輩の噂は耳に入ってくるんです。 
それに、ほら……」 


「そうか、お前のクラスには里志の妹がいるんだったな」 


「はい」 


里志の妹。 
下級生の女子でありながら、里志を遥かに超えた変人。 
俺も何度かひどい目に遭わされたが、それは今は重要じゃない。 
重要なのは里志の妹と大日向の仲がかなり良いということだ。 
おそらくはまだ大日向の中では「友達」ではないのだろうが。 
とにかく大日向が千反田の噂を耳にする機会は、 
単なる一年生という立場の者よりも遥かに多いだろうことは想像に難くない。 


「聞いたんです、あたし」 


「なにを?」 


「千反田先輩が軽音部でドラムを叩いたって。 
それも一朝一夕でできるような叩き方じゃなかったって」 


人の口に戸は立てられない。 
とりあえず伊原が口止めしていたのだが、やはり誰かから漏れてしまったらしい。 
まあ、当然か。 
全く情報を与えていなかったはずの里志ですら、その当日に軽音部に顔を出したのだ。 
当日から既にあちこちに知れ渡っていたということだ。 
千反田がドラムを叩くというある意味センセーショナルな話題を、暇な生徒たちが放っておくわけがない。 


「千反田先輩、ドラムなんて叩けたんですか?」

                                                                                                            引用元: 奉太郎「軽音楽少女と少年のドミノ」
 
  
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223: ◆2cupU1gSNo 2013/11/22(金) 19:55:18.55 ID:yRRc3bFN0


大日向が上目遣いに俺ににじり寄る。
叩けるはずがない。
習い事は多いようだが、さすがにドラムにまで手を出していたとは俺も聞いていない。
試してもらったことはないが、おそらくは叩けないだろう、千反田の方は。
しかしそれを大日向に一から説明するわけにもいかないだろう。
言葉は悪いが大日向は部外者なのだし、今の彼女にはそれより優先するべき問題がある。
だから俺が大日向に伝えるのはこの言葉しかないのだ。


「叩けたらしい、俺たちも最近知った。
意外かもしれないが人の趣味や特技は千差万別だってことだ」


「そう……なんですか?
千反田先輩も水臭いなあ……。
ドラムが叩けるんだったらアーティストの話とかしたかったのに」


アーティスト?
ああ、そういえば全国ツアーに参加するくらい贔屓にしているアーティストがいるんだったか。
アーティストの名前は教えてもらっていないが、大日向の雰囲気から考えてもロックバンドだろう。
バンドに興味があるのであれば、ドラムを叩く千反田にも興味を持っても不思議ではない。
性格的にも二人ならバンド談義に華を咲かせられそうだ。
大日向と、田井中ならば。


「ドラム」


また呟くように大日向が言った。


「ドラムがどうした」


「千反田先輩のドラムの演奏、どうでした?」


「見事だったと思う。
俺はドラムに関しては素人以下だが、それでも正直聴き惚れた。
軽音部の連中も絶賛してたよ、部員に欲しいくらいだって。
千反田は古典部の活動があるからって断っていたけどな」


「そうなんですか。
……聴きたかったな」


「聴かせてもらえばいい、お前にその意思があるのなら」


意地の悪い言い方だったと自分でも思う。
今の大日向にはそれができないことを分かっていて、俺はそう言った。
しかし大日向は気を悪くしたようでもなく寂しげに微笑んだ。
若干遠い目をしているようでもあった。


「千反田先輩、元気なんですよね?」


「ああ。
お前の基準は分からないが、普段通りという意味では元気だよ。
突然ドラム演奏の趣味を告白するくらいの心境の変化はあったようだが」


「それなら……、よかったんですけど……」


大日向が言い澱む。
大日向がなにを言おうとしているのか、俺にはなんとなく分かっていた。
大日向は突然の千反田の心境の変化を気にしているのだ。
千反田がドラムを叩き始めたのは、時期としては大日向が退部すると言い出した頃の直後になる。
それまでドラムになど興味が無さそうに見えた千反田が、急にドラムを叩き始める。
大日向でなくても関連性を疑いたくもなってしまうというものだろう。

224: ◆2cupU1gSNo 2013/11/22(金) 19:55:56.73 ID:yRRc3bFN0

だがそれは単なる偶然だと俺は考えている。
たまたま時期的に重なってしまっただけだ。
大日向の件では千反田もかなり心を痛めてしまっていたらしい。
会話中、不意に塞ぎ込むことも何度もあった。
それでも千反田はそれほど柔い精神の持ち主ではない。
辛い思いをした過去を受け止めて、前に進むだけの芯の強さを持っている。
少なくとも俺の中での千反田えるはそういう奴だった。
だから俺は大日向に言ってやるのだ。


「単なる心境の変化だよ」


「そうなんでしょうか……」


「お前にもあるだろう。
好きな音楽の傾向が急に変わったり、好きだったなにかを意味もなく好まなくなったり」


「それは、はい、あたしにも覚えがありますけど……」


「そういうことだ。
お前が特に気にするようなことでもない」


大日向は俺の言葉になにかを返そうと口を開いて、しかしすぐにその口を閉じた。
俺がそう主張する以上、大日向はそう納得するしかない。
大日向も分かっているのだ、自分の立ち位置を。

前に大日向が「友達は祝われなきゃいけない」と言ったことがある。
大日向にとって友達は特別な存在だ。
ただ仲が良いというだけじゃない。
心から信頼し合える仲でなければ、大日向は相手を友達とは捉えない。
そして一度友達になってしまった以上、簡単に見捨てるようなこはできなくなる。
大日向友子は、俺の中学の後輩は、俺の古典部の後輩は、そういう後輩だった。

だから大日向は千反田への距離を掴みかねている。
自分に千反田の心配をする権利があるのか悩んでしまっている。
千反田と大日向はまだ「友達」ではないから。
親しい仲ではあったが、「友達」にはなり切れなかったから。
それで大日向は千反田の偵察に来たのだ。
千反田の異変の原因が自分であるのなら、おそらくはなんとかしたくて。
その程度には千反田との件が大日向の胸に残っている。
しかし幸か不幸かそれは大日向の勘違いだ。
千反田の心境の変化と大日向は関係がない。
関係がない以上、大日向はそれまで背負い込むことはないのだ。
人は許容量以上の荷物を背負うことはできないのだから。


「安心しました」


そう言って大日向が微笑みを浮かべる。
本当に安心したのかは分からない。
だが俺はその大日向の言葉を信じるしかなかった。


「部室、顔を出して行くか?」


俺が軽く訊ねてみると大日向は首を横に振った。

225: ◆2cupU1gSNo 2013/11/22(金) 19:56:56.08 ID:yRRc3bFN0


「言いましたよね、偵察だって」


「言ったな」


「そういうことですから、今日は帰ります。
でもいつか……、いつかは必ず千反田先輩に謝りに行きます。
本当のことが言えるかどうかは分かりませんけど……」


「そうか。
それでも千反田は喜ぶと思う。
その気になったらいつでもまた遊びに来てくれ。
里志も伊原も歓迎するだろう、例えお前が入部しなくても」


「折木先輩は歓迎してくれないんですか?」


「歓迎はしない」


「あははっ、冷たいなあ」


「なぜなら面倒臭いからだ。
出戻りの相手を歓迎してやるほど俺は面倒に寛容じゃないからな。
だが前までの応対と同じでよければ、そうするのはやぶさかじゃない」


「先輩らしいですね」


「そうだろうともさ」


俺が軽く笑ってやると大日向も釣られるように笑った。
いつかそうなればいい、とその顔は言っているように見えた。
俺としてはどちらでもいい。
だがせっかくそれなりに活動してきた古典部だ。
また廃部寸前に追い込むよりは、一人でも後輩がいてくれた方が気分的にも悪くはない。

幾分かすっきりした表情で、大日向が廊下に置いていた鞄を手に取った。


「それじゃあ今日は帰りますね」


「ああ」


「あ、忘れてました」


言い様、大日向が鞄の中に手を突っ込んだ。
なにをしているのだろうと一瞬思ったが、
鞄の中から取り出した大日向の手には小さな箱が掴まれていた。
俺に手渡してから大日向が笑う。


「差し入れです、チョコレート」


「差し入れはありがたいが、裏はないんだろうな」


「あ、ひどいなあ、折木先輩」


「前にそれで妙なことに付き合わされたからな」


「そんなこともありましたっけ。
でも大丈夫ですよ、これは純粋な差し入れですから。
前におだんごを奢ってもらったお礼です」

226: ◆2cupU1gSNo 2013/11/22(金) 19:57:29.00 ID:yRRc3bFN0


一本八十円の安い恩だったが、こんなところで返って来るとは思わなかった。
やはり大日向は律儀で貸し借りにはきっちりした奴なのだ。
ならば受け取らない理由はない。
俺は軽く頭を下げてから、そのチョコレートを遠慮なく頂く。
踵を返して去っていく前、大日向がまた律儀に主張した。


「親戚から貰ったお菓子なんで心配しなくていいですよ」


自腹を切ったわけではないから遠慮するな。
という意味ではなく、あの件にちゃんと向き合っていると言いたかったのだろう。
無理に贔屓のアーティストのツアーに付き合ったりはしていない。
誰かの財力に頼ってなどはいないのだと。
もちろん俺はそれを指摘したりはしなかった。
大日向があの件に対して向き合っているのなら、後の全ては大日向次第なのだから。


「それじゃあまた、折木先輩」


「ああ、またな」


軽く手を振って大日向を見送る。
そして手に持ったチョコレートを見ながら思う。
部室の中に誰がいるのかは分からない。
だが大日向が覗き込んでいた以上、千反田……、いや、田井中くらいはいるだろう。
そういえば田井中は毎日部活前にティータイムを取っていたとか言っていたな。
軽音部とティータイムとは妙な組み合わせだが、田井中を見ているとなぜだかそれも信じられる。
ならば田井中もこの差し入れには喜ぶだろう。
俺としても毎日千反田家からお菓子を差し入れされるのには心苦しいものがある。
大日向の様に律儀に恩を返してみるのも悪くない。
そう考えながら俺は古典部の扉を開いた。
後で心底後悔することになる未来も知らずに。

227: ◆2cupU1gSNo 2013/11/22(金) 19:58:11.83 ID:yRRc3bFN0



2.七月六日


伊原に気を遣ったのがこれほど裏目に出るとは思わなかった。
昨日大日向から渡された差し入れを、俺は古典部の連中に見せなかった。
夏に向けてダイエットしていると言っていた伊原が先客にいたからだ。
里志との関係が進んで初めての夏なのだ。
伊原としても夏の海で新しい水着を着て素敵な思い出とやらを作りたいに違いない。
それで俺は差し入れを鞄の中に隠し、大日向とのやりとりなどなにもなかったかのように振る舞った。
これでも伊原とは長い付き合いなのだ。
今後のあいつの幸せを願わないわけではない。
無遠慮にお菓子を見せた時のあいつの罵倒を聞きたくなかっただけでもあるけれど。


「あっははっ! 楽しんでるかあっ、ホータローっ?」


どうしてこうなったんだ……。
田井中に無理矢理肩を組まれながら、俺は大きく溜息をつく。
陽気な田井中の見せる普段以上に陽気な姿。
パーソナルスペースなど存在していないかのように俺に接近し、身体を密着させて大声で絡む。


「ホータローも若いんだからな!
もっとやる気と元気を持って青春しなくっちゃな!」


「はあ……、すみません……。
善処します……」


「声が小さい!」


「善処しますっ!」


「よーしっ!」


満足そうに微笑んで、俺の肩を強く叩く田井中。
こんな横柄な態度の人間を見るのは初めてじゃない。
親父が仕事の関係で無理矢理酒を飲まされて帰ってきた時が確かこんな感じだった。
アルコールは人間から理性や知性や色んな物を奪い去る。
こんなにも簡単に。
俺は成人してもアルコールに手を出さないことにしよう。

とどのつまり酔っ払っているのだ、田井中は。
いや、放課後の部室で堂々と酒盛りをしているわけではない。
色々と複雑な事情があるのだ。
本日の授業が終わって古典部に向かうと、部室では田井中が漫画を読んでいた。
どうやら田井中が子供の頃に読んでいた漫画を伊原が所有していたらしい。
それで全巻借りたとのことだが、漫画のことは今はどうでもいい。
重要なのはその時の部室では俺と田井中が二人きりだったということだ。
ダイエット中の伊原は不在で、伊原に告げ口しそうな里志も他の部活に行っている。
大日向からの差し入れを食べるにはちょうどいいタイミングだったのだ。

だが大日向からの差し入れを開いてみた時、俺は少し迷うことになった。
大日向からの差し入れは確かにチョコレートだった。
チョコレートには違いない。
しかし正確にはウイスキーボンボンだった。
一つの過去が俺の脳内に蘇った。
あれは確か前に沢木口の推理を拝聴させて頂いた時のことだ。
「一二三」での話ではなく、俺たちが沢木口と初対面の時のこと。
つまり入須のクラスのビデオ映画の真相について探っている時のことだった。

あの日の千反田の様子は今でも鮮明に思い出せる。
あの日、千反田の食べたウイスキーボンボンの数は七個。
きつい方とは言え、たったの七個ウイスキーボンボンを食べただけであいつは強く酔っ払った。
妙なテンションで沢木口と意気投合し、最終的には酔い潰れて眠ってしまった。
白い肌が更に真っ白になるのはかなり気持ち悪かった。
そうなる程度にはアルコールに弱いのだ、千反田は。

228: ◆2cupU1gSNo 2013/11/22(金) 19:58:55.05 ID:yRRc3bFN0

そうして俺が躊躇っているのを見て、
田井中もそれを思い出したのか俺を安心させるように笑った。


「私はアルコールに強い方だから平気だって。
みりんや料理酒を使った料理だって普通に作れるんだぜ?」


みりんや料理酒とは話が別だろうが、見たところ田井中が酒に弱そうには見えないのも確かだった。
むしろ勝手なイメージではあるが酒豪そうだ。
仮にも未成年の田井中にそんなイメージを持つのも変かもしれないが。
そもそもウイスキーボンボン程度で酔っ払う千反田が異常なのだ。
もし田井中が酒豪でなかったにしても、前の様な騒動にはならないだろう。
そう高を括ったのが間違いだった。
結論は言うに及ばず。
ウイスキーボンボン七個どころか、たったの五個で田井中は見事に酔っぱらってしまった。

田井中はお菓子食べたさに酒に強いと嘘をついたのだろうか。
いや、違う。
常にお菓子に飢えているように見える田井中でもそこまではしないだろう。
現実にも酒に強い方には違いない。
だが俺は失念してしまっていたのだ。
アルコールを摂取するのは田井中ではなく、千反田の肉体の方だったのだということを。

アセトアルデヒド。
確かそんな名前の成分だったと思うが、
人間が酔いやすいかどうかはその成分を分解しやすいかどうかで決まると聞いたことがある。
それは遺伝的に決まっていることであり、訓練などで改善されるものではないらしい。
つまり千反田の肉体は遺伝的にアルコールに弱いようにできているのだ。
田井中が酒に強いのが事実だとしても、それは田井中の精神が田井中の肉体にあった時の話だ。
身体能力が千反田に準拠する以上、田井中のアルコールへの耐性も千反田並みに落ちて然るべきだ。
現在の田井中の肉体は千反田の物なのだから。


「ほれほれ、ホータローも食え食え!」


などと冷静に分析している場合ではなかった。
顔を赤くした田井中が頻りに俺の肩を叩き、ウイスキーボンボンを俺の口元に運んでいた。
とんでもない酔っ払いだ……。
おそらく田井中自身、ここまで酔っ払ってしまったのは初めてなのだろう。
酒には本当に強かったのだろうし、一応は未成年なのだから、酔い潰れたこともないに違いない。
それで田井中も自分に起こっている初めての現象に対処し切れていないのだ。
嘆息したくなるのを堪えて、俺は箱の中に残されたウイスキーボンボンに視線を下ろしてみる。
正確に数えてみる気にもなれない。
箱の中にはまだ三十個以上のウイスキーボンボンが残されていた。
それを食べ尽くすまでは、この田井中からはどうも解放されそうもない。

三十個。
田井中と半分ずつ分けるにしても残数十五。
それだけの量を食べて酔わずにいられる自信は俺にはない。
そして酔い潰れて伊原あたりに発見される酒臭い俺たち。
伊原はここぞとばかりに今まで聞いたことのない語彙で俺を罵倒してくれることだろう。
これは大問題だ……。


「なあなあ、ホータロー?」


目を据わらせて田井中が囁く。
酔っ払いに逆らうのは自殺行為だ。
俺は背筋を伸ばして素直に反応する。
背中に感じる田井中の、正確には千反田の胸の感触は気にしない。
気にしてはいけない。


「どうしたんだ、田井中?」


「ホータローにはさあ、世話になってるよなあ……?」


「そ、そうか?」


「そうだって……、少しずつだけど謎も解いてくれてるじゃんか……。
私さあ、それには結構感謝してるんだよなあ……」

229: ◆2cupU1gSNo 2013/11/22(金) 19:59:24.48 ID:yRRc3bFN0


声が消え入りそうになっている。
軽く視線を向けてみると少し涙ぐんでいるようだった。
笑い上戸の絡み酒かと思っていたが、泣き上戸の性質も兼ね備えていたらしい。
いや、単にアルコールで感情が昂ぶっているだけか?


「別に感謝は必要ない」


謙遜ではなく、本音で俺はそう応じた。


「やらなければいけないことだからやっているだけだ。
手短にやれないのは俺の本意じゃないが、
やらなければいけないことくらいは分かってるつもりだからな。
この問題はどうにかして解決しなければならない。
千反田のためにも、お前のためにも、俺のためにもだ。
だから別に感謝されるようなことをしてるわけじゃない」


「分かってるってぇ……」


気が付けば田井中はもう笑っていた。
やはり普段以上に喜怒哀楽の変化が激しい。
これもアルコールの効能と言えば効能になるのだろうか。
まあ、泣きそうな表情のままでいられるよりはいいだろう。


「でも助かってるし嬉しいんだよ、ホータロー。
もちろん里志や摩耶花にも感謝してる。
私一人だったら、本当にどうしていいか分からなかったもんなぁ……。
正直な話、ホータローたちがいなかったら、私さ……。
一生えるのふりをして生きてたかもしれない……」


一瞬、背筋が凍る気分になった。
千反田に見えて、中身は千反田とは全く違う。
全くの別人が千反田を演じている。
俺たちにそれをそうと気付かせずに。
それは田井中の精神が千反田の中にあるということを知っているより、余程恐ろしいことに思えた。
そうでなくてよかった、と心の底から感じる。
ある意味では俺たちも田井中の気遣いに救われていたのだ。
俺たちはこの得体の知れない現象からお互いを救い合っているのだろう、それがどんな形であれ。

234: ◆2cupU1gSNo 2013/12/01(日) 18:55:54.65 ID:iJQQdZJ00


「それでさっ!」


田井中の声が明るい音色に戻った。
眩しい笑顔に明るい声色。
俺としてはらしくない考えだと自分でも思うが、これでこそ田井中だと感じた。
よく勘違いされがちだが、俺は別に喜怒哀楽が激しい人間を馬鹿にしているわけではない。
俺には向いていないと単に感じるだけだ。
だからこそ俺は騒がしいこの田井中がそう嫌いではない。
ドラムで鍛えたのであろう手首のしなりで肩を叩くのを除いてだが。


「スナップを効かせるな」


「まあまあ、細かいことは置いといてさ。
私ってつまりホータローたちにかなりお世話になってるわけじゃん?」


「お前がそう思うんならこれ以上否定はしないが」


「そこで私も考えてみたわけだ。
えるも含めて私たちを助けてくれるホータローたちに、私はなにを返せるんだろうって。
一番いいのはえるとホータローたちを会わせてあげること。
それは分かってるんだけどまだできそうにないからさ、私は考えてみたわけだ。
まずはささやかでもこの感謝の気持ちを示そうってな。
それで私は……」


そこで田井中の言葉が止まった。
俺の肩を叩いていたスナップの効いた手首も止まっている。
なにが起こったのかと思って振り返ってみると、田井中は天井を見つめて立ちすくんでいた。
悲しそうにしているわけではなく、遠い目をしているわけでもない。
ただただその場に立ちすくんでいる、そんな感じで。
ん? 一度こういうことがあったような……。
俺の既視感をよそに田井中は呻くような言葉を続ける。


「私は……、ホータローに渡したい物を……、挟んで……」


「挟む?」


「万華鏡」


「まさか」


「万華鏡みたいだ」


その言葉を言うが早いか、田井中はその場に腰から崩れ落ちた。
どうにか頭を床にぶつけるのを俺の手のひらで防げたのは、
前に千反田がそう言い残して酔い潰れたのを憶えていたからだ。
危なかった。
あの崩れ落ちる速度で頭をぶつけていたら、かなりのたんこぶができていたに違いない。
田井中としても千反田の身体にこれ以上傷を残すのを望みはしないだろう。


「しかしどうしたものか」


寝息を立てる田井中の頭を抱えながら俺は途方に暮れる。
俺は酔っ払いの介抱などしたことがない。
かと言って学校の保健室に運ぶわけにもいかないだろう。
そもそも女子にしては背の高いこいつを保健室まで運べるか自信がない。
人を呼ぶべきだろうか。
当てとしては今日も天文部で遊んでいるであろう沢木口だが……。
やめておこう。
彼女に見つかった時点で『千反田える飲酒事件』が学内に広まったも同然だ。

となると里志か伊原、なんなら十文字でもいい。
田井中の事情を知っている誰かが部室に顔を出してくれるのを期待するしかない。
できれば実家が病院である入須が来てくれるのが一番望ましい。
しかし入須は忙しい立場なのだし、そこまで望むのは期待し過ぎだろう。

235: ◆2cupU1gSNo 2013/12/01(日) 18:56:25.48 ID:iJQQdZJ00


「よっ……と」


なけなしの腕力を振り絞って、田井中をどうにか椅子に座らせる。
机に俺の鞄を枕代わりに置いて、その上に田井中の頭を乗せた。
簡易的な寝床ではあるが、とりあえず今の田井中には十分だろう。
不意に思いついて田井中の寝顔を覗き込んでみる。
普段騒がしい田井中からは想像しにくい安らかな寝顔。
その寝顔は前に見たことがある千反田の寝顔とは全く異なっていた。
最も顕著なのは寝息の大きさだ。
田井中の寝息も決して大きい方ではないが、千反田のそれよりはかなり大きかった。
育ちの違いが出たというところだろう。
寝ている時にまでこれほどまでに違いがあるのだ。
改めて俺は田井中の人格が千反田の演技ではないと確信できた。
やはり田井中は俺などでは窺い知れない超常的な現象によって千反田の肉体に宿っているのだ。
と、これ以上寝顔を見ているのも趣味が悪いか。
俺は千反田の向かいの席に座って、小さく肩をすくめた。

さて、これからどうするべきか。
里志も里志で他の部活で忙しいし、伊原もすぐには部室に訪れないだろう。
伊原が不在なのを見計らって田井中にウイスキーボンボンを渡したのだから当然だが。
誰かに連絡を取りたいところだが、生憎俺も千反田も携帯電話を所有していない。
やはり天文部に駆け込んで、沢木口に携帯電話だけでも借りるべきだろうか。
彼女は意外に入須とはそれなりの仲らしいし、入須の携帯電話の番号くらいは知っているだろう。
いや、やはり駄目だ。
沢木口なら携帯電話を借りるという行為だけで、なにかが起こっていることを察するに違いない。
後々のことを考えても、『千反田える飲酒事件』を噂にされるのは色々とまずい。

そうなると俺に取れる選択肢は一つ。
田井中がその眠りから覚めるのを待つことだけだろう。
田井中のアルコール耐性が千反田に準じているのだとすれば、さすがに一晩中眠りこけはしないだろう。
遅くとも夕暮れまでには目覚めるはずだ、俺の希望的な推測ではあるが。
幸い、本なら無駄にある。
俺が持参した本もあるし、田井中が読んでいた漫画も大量に積まれている。
これら全てを読み終える頃には目を覚ましていてほしい。


「待てよ」


まずは俺の持参した本に伸ばそうとした手を止めて、俺は小さく呟く。
酔い潰れる前に田井中が口にしていた言葉を思い出す。
「ホータローに渡したい物を……、挟んで……」と田井中は確かにそう言っていた。
俺に渡したい物とはなんなのだろう。
挟める物と言うのなら、紙か栞の様なものなのだろうか。
もっとも雑誌の付録の様に、立体を無理矢理なにかに挟んでいる例もなくはない。
千反田の言ではないが、気になり始めるとすっきりしなくなった。
少なくとも集中して本を読んでいられる気分ではなかった。

探してみるか。
『挟む』というキーワードもある。
それらしい場所を探していれば難なく見つめられるはずだ。
この部屋にあるという確信はないが、どうせ暇潰しだ。
なにもなくても構わないし、それで時間が潰せるのなら一石二鳥というやつでもある。
タイムリミットは田井中が目覚めるまで。
それで見つからなければ、田井中に素直に訊ねてみればいい。
田井中が酔い潰れる前の記憶を忘れていなければだが。

まず思い立ったのが田井中の持ち込んだ大量の漫画本だ。
正確には伊原に借りたらしい少女漫画だが。
とにかくなにかを挟むとしたならこれほど都合のいい場所もない。
ページ、表紙カバーの間、帯の間まで丹念に調べていく。
しかしアンケートはがきと新刊告知のチラシ以外に挟まれている物は存在しなかった。
多少残念ではあるが、それよりも伊原の奴、丁寧にチラシまで保管しているのか。
元漫研の面目躍如といったところだろうか。
そんな機会はないだろうが、万一あいつに漫画を借りる時は気を付けよう。
折り目でも付けようものなら、万の言葉を駆使して罵倒され尽くされることだろう。

漫画本の中に挟まれていないとしたなら、他の本の中だろうか。
古典部の部室の中に本は多くない。
『氷菓』のバックナンバーが少しに地学の本が数冊といったところだ。
何冊か適当に選んでページの間を調べてみるが、特にこれといった物は見つからなかった。
考え方が間違っていただろうかと考えてみた瞬間、俺は不意にこれまでの田井中の行動を思い出していた。

236: ◆2cupU1gSNo 2013/12/01(日) 19:09:42.26 ID:iJQQdZJ00

初めて会った日から田井中は俺のことを探偵のように扱っていた。
千反田が俺のことをそう捉えていたからなのだろうか。
とにかく田井中が俺を学生探偵だと思っている節がなかったとは言い切れない。
だからこそ田井中は俺にゲームを仕掛けたし、その後も様々な相談を俺に持ち掛けた。
俺を探偵だと考えていたからこそ、だ。
その田井中が俺に単純な方法でなにかを渡すだろうか。
探偵に渡すにふさわしい、捻った方法で渡すと考えた方が自然ではないだろうか。

大体にして『挟んで』という言い方自体がおかしい。
渡したいなにかを挟んで渡す必要などあるはずがない。
『挟む』という行為自体が問題の一つであると考えるべきだ。
もちろん田井中に悪意はないだろう。
俺が謎解きを好んでいると勘違いしてやったことに違いない。
俺は別になにかを解決することに快感を得る人間ではないのだが。
しかしそう思われている以上、解決しないままでいるわけにもいくまい。
こんな形であれ、この問題も含めて田井中の『送りたい物』なのだろうから。

そうなると『挟む』という行為自体を広く考えるべきだ。
例えば布に包んだとしても、間の物は挟まれていることには違いない。
なにかとなにかの間に置かれているだけでも、そのなにかに挟まれているとも言える。
『挟む』という行為は予想以上に幅が広いのだ。
クリップで挟む、ホッチキスで挟む、本で挟む、カーテンの間に挟む……。
さて、これらの『挟む』行為の中で田井中がやりそうなことと言えばなんだ?
難しく考える必要はない。
今まで付き合ってきての結論だが、田井中はまっすぐな性格だと俺は思う。
基本的には自分の感情に素直に生きている。
それゆえに田井中はまっすぐな答えを用意しているはずだ。
まっすぐに捻った答えを。

単になにかに『挟んだ』物が答えであるのなら、それは問題にはならない。
裏の裏を読んで単になにかに『挟む』だけという選択肢もあるが、それは捻り過ぎだ。
まっすぐな性格の田井中ならば、なおのこと普通に捻っただけの答えを用意しているだろう。
例えば『挟んで』いるようで『挟んで』いない。
そんな子供が好むなぞなぞで出せるような答えを。
一息ついてから俺は周辺を見渡してみる。
『挟んで』いるが『挟んで』いない。
もしくは元々『挟む』ような物ではない。
その答えに適当ななにかを探すために。


「なるほどな」


適当ななにかを見つけた俺は、それを手に取って呟いた。
本来『挟む』用途で使われない物が答えだったわけか。
田井中にしてはかなり捻ったと考えるべきか、
それともこれも千反田が前々から用意していたなぞなぞなのか。
どちらでもいい。
俺は指穴に指を入れると、机の上に思わせぶりに置かれていたはさみを開いた。

237: ◆2cupU1gSNo 2013/12/01(日) 19:10:10.91 ID:iJQQdZJ00


『正解おめでとう!』


はさみの刃の両端の間には、
そう書かれた細長い紙がセロハンテープで接着されていた。
どうやら紙は刃の間に器用に畳まれていたようだ。
はさみを使おうと刃先を開いてみて紙の存在に気付く、ちょっとしたトリック。
例えるなら簡易的な扇子の様な物だ。
小学生の頃、伊原が同級生にやられていたのを見たことがある。
子供がやるような他愛のない悪戯でよく使われる手だろう。

ネタが割れてしまうと単純だが、意外とよく考えられている。
はさみは『挟む』物ではない。
なにかを『挟んで切る』物なのだから。
『挟む』物と言われて、即座にはさみを連想する人間はそう多くはないはずだ。
俺がそうであったように。
これが仮に千反田が用意していたトリックだとしても、
このまっすぐに捻ったトリックを選んだのは実に田井中らしい。

それにしてもこれが田井中が俺に渡したかった物なのだろうか。
ちょっとした暇潰しを俺にプレゼントするつもりだったのか?
そう考えながらはさみを裏返してみて気付く。
細長い紙の裏に表とは別の言葉が記されていることに。


『いつもありがとな!』


細長い紙の裏にはそれだけ記されていた。
口で言えばいいことだろうに。
いや、照れ臭いか。
俺自身、その言葉を誰かに素直に伝えられる気はしない。
そうか、だからなのだ。
だから田井中はこんな他愛もない仕掛けを施したのだ。

田井中はおそらく、酔ってさえいなければこの問題を出して帰るつもりだったのだろう。
「ホータローへのプレゼントをなにかに挟んでるから」という問題にでもして。
簡単な問題ではあるが即座に答えに辿り着ける難易度でもない。
普通に考えて、誰でも二分くらいは悩んでしまうはずだ。
田井中はその間に俺の前から逃げ出すつもりだったに違いない。
俺に普段のお礼を伝えたという気恥ずかしさから。

趣味が悪いと思いつつも俺は田井中の顔を覗き込んでしまう。
田井中律。
俺より年上の割に騒がしくてまっすぐなドラマー。
こいつが俺の前に現れてから、余計に穏やかではない日常を過ごさなければならなくなった。
それこそ千反田本人以上に、こいつは俺を振り回している。
正直迷惑ではあるし面倒だが、俺はおそらくは嫌な気分ではない。
楽しくないわけではない。

瞬間、俺の頭の中にはありえない光景が広がった。
田井中と千反田が仲良く会話をしていて、俺が横目にそれを見ている光景。
いつか実際に見てみたい気もする光景。
しかしおそらくは実現し得ない夢のような光景だ。


「キャベツうめえ!」


田井中が意味不明な奇声を出して眠りから覚めるまで、
俺は田井中の寝顔を見ながらそういうことを考えてしまっていた。

242: ◆2cupU1gSNo 2013/12/10(火) 19:15:07.18 ID:BNLTa/FH0




五章 カストルとポルックス


1.七月二十七日


「ですからね、ここはこんな風にすると」


「あ、本当だ! 分かった分かった!」


「やればできるじゃないですか、嘉代さん」


「へへー、よく言われるー」


梨絵が頭を掻きながら笑い、釣られたように千反田が微笑んだ。
いや、今はまだ田井中だったな。
分かってはいるのに見違えてしまう。
まったく見事なものだ。
千反田ならばこうするだろうと俺が考える行動が日増しに上手くなっている。
そういえば学園祭のクラスの出し物の演劇でジュリエット役を演じたとか言っていたか。
よりにもよって『ロミオとジュリエット』の。
「罰ゲームみたいなもんだよ」と田井中は語っていたが、
単に罰ゲームというだけでは学園祭の演劇などは演じ切れまい。
田井中が望もうと望むまいと、それなりに演劇の才を備えているということなのだろう。

一度田井中が部長を務めるという軽音部の部員を演じてもらったことがある。
いや、俺が頼んだわけではない。
演技が上手い田井中に伊原が頼み込んだのだ。
田井中も単に説明するより手っ取り早いと考えたのか、
大袈裟な身振り手振りを交えて、顧問であるという山中という先生の演技までしてくれた。
元々アテレコが特技と聞いてはいたが、どれも見事な演技だった。
もちろん田井中の軽音部の部員の人柄を知っているわけではない。
それでも似ていると感じさせられるのは、ひとえに田井中の人間観察の賜物であろう。
特に田井中の幼馴染みであるらしい秋山澪というベーシストの演技が際立っていた。
部室から出るまで秋山の演技を続ける。
そんな里志の馬鹿馬鹿しい思いつきを、田井中は平然とこなしていたのだ。
口調と身振り手振りが普段の田井中と異なっているというだけではない。
表情や声色まで普段の田井中とも普段の千反田とも完全に異なっていた。
まるで秋山という別の人格が千反田に宿ったかのようだった。
もちろんそんなことはなく、田井中の演技が完璧だっただけなのだが。

とは言え、誰の前でも完璧に演じられるわけでもない。
例えば、


「半分くらい終わったみたいだし、そろそろちょっと休憩しない?」


「そ、そうですね、休憩しましょうか」


ほんの少し眉をひそめて田井中が応じる。
やはり苦手な相手の前ではその演技も鈍るらしい。
休憩を申し出たのは十文字だった。
どうやら十文字と嘉代の方も一段落ついていたようだ。

243: ◆2cupU1gSNo 2013/12/10(火) 19:17:23.55 ID:BNLTa/FH0


「じゃあおやつを用意しましょうか」


「やった、おやつ!」


「お茶淹れるの手伝うね」


「嘉代も行くの? ならあたしも手伝う!」


暇そうに漫画本を読んでいた伊原が立ち上がると、梨絵と嘉代がそれに続いた。
嘉代は純粋に伊原を手伝うために、梨絵はおそらく気分転換のためだろう。
別に手伝う理由に貴賤があるわけでもない。
俺に手間がなければそれで構わない。
田井中も立ち上がろうとしていたようだったが、梨絵たちの行動を見て考えを改めたようだった。


「いってらっしゃい、おやつを楽しみにお待ちしていますね」


ゆっくりと座り直して柔らかく微笑む。
確かにたかがおやつの準備に四人では多過ぎるだろう。


「いってきまーす!」


フレームなしの大きな眼鏡を掛け直してから、梨絵が部屋から駆け出して行く。
会釈だけして嘉代が、それに続いて伊原も部屋を後にした。
三人が去り、俺と田井中と十文字の三人が部屋に残される。
特に話題があるわけではなかったが、俺は田井中に話し掛けてみることにした。
田井中と十文字のぎこちない会話を聞かされるよりも、その方が結果的には省エネだろう。
別に二人の仲がそれほど悪いわけではないとしても。


「梨絵に気に入られてるみたいじゃないか」


「そう見えるんだったら嬉しいけどな」


「少し意外だったがな。
去年の千反田は梨絵より嘉代に懐かれてるように俺には見えた」


「だろうなー、私の中のえるの記憶にもそういう光景があるし。
去年との違いって言ったら、梨絵ちゃんより私の方に原因があると思う。
なんつーかさ、嘉代ちゃんより梨絵ちゃんに構っちゃいたくなるんだよな。
なんかほっとけない感じっつーか」


「確かに嘉代より梨絵の方がお前の波長には合っていそうだが」


「いやいや、波長とかそういう話じゃないんだよ。
雰囲気がさ、なんとなく似てるんだ」


「誰にだ?」


「唯だよ、唯。
小学生の頃のえるの幼馴染みの唯じゃなくて、私の部の部員の方の唯」


言い終わるが早いか、田井中が感傷的な表情を浮かべる。
なるほど、ギターの平沢唯か。
言われてみれば、田井中の演じた平沢と梨絵は似通ったところがあるかもしれない。
天真爛漫で悪気がなくちまちましていて、なにが嬉しいのかよく幸せそうな笑顔を浮かべる。
確か平沢には妹もいるはずだったから、そういった意味でも平沢と梨絵は似ているのだろう。
俺がそれを指摘すると、田井中が今日はポニーテールにした髪を軽くいじった。

244: ◆2cupU1gSNo 2013/12/10(火) 19:18:12.93 ID:BNLTa/FH0


「それもそうなんだけどさ、梨絵ちゃんはちょっと唯と声が似てるんだよな」


「声?」


「ああ、高いんだけど甲高いまでいかないって言うかさ、そんな感じの」


さすがに見知らぬ平沢の声のことまで俺には分からない。
声帯模写に優れているとは言え、田井中とて平沢の声を完全に真似できるわけではないだろう。
しかし田井中がそう言うのなら、二人の声は似ているに違いない。
そうか、平沢は梨絵に似た声だったのか。
そう思うと同時に、らしくなく俺は田井中を不憫に思った。
慣れてきてはいるのだろうが、異邦人である田井中が元の自分の友人の面影を探してしまうのも無理はない。
俺は神山市を長期間離れたことがない。
だから田井中の気持ちを正確に推察することはできない。
それでも思うのだ、体感で二ヶ月弱見知った顔のない土地で生きるのは寂しいはずだと。
いるはずがないと分かっていながら見知った顔を探してしまうのではないかと。

もちろんそんなことを話題にできるはずもなかった。
それ以上声のことに触れないように、俺は話題を変える。


「意外と言えば意外と面倒見がよかったんだな、田井中。
梨絵の勉強を見てやれるとは思わなかったよ、学力的な意味でもな」


「なんだとー!」


頬を膨らませて田井中が反論する。
しかしその目元は笑っていた。


「これでもちゃんと大学受かってるんだからな!
ほら、今回の期末試験も結構いい点数だっただろー?」


田井中が腰に両手を置いてふんぞり返る。
俗に言う「えっへん!」のポーズだ。
多少呆れさせられるが、その田井中の言葉は本当だった。
いや、結構いい点数というレベルではない。
今回の期末試験、田井中は学年で三位の点数を取っていた。
千反田と田井中の二人分の記憶があるとしても、これは驚異的な成績と言えるだろう。
やはり田井中は田井中の世界で名門と言われるだけの大学に受かる程度の学力を有しているのだ。
別に田井中がこの世界で好成績を収める必要性はないのだが。

それでも田井中が好成績を残したのは、おそらくは千反田のためだろう。
いつか千反田の人格が千反田の肉体に戻った時、一年期末の成績の暴落で後々に困らないために。
そのために田井中はわざわざ学年三位の点数を取ってくれたのだ。
どこまでも律儀な奴だと思う。
名前に律が入っているだけある。
いや、これは単なる駄洒落だが。

245: ◆2cupU1gSNo 2013/12/10(火) 19:18:48.18 ID:BNLTa/FH0


「今回の試験はあたしも負けちゃったしね」


十文字がどこか嬉しそうに微笑む。
ちょうど逆光になっていて、眼鏡の奥の目元の様子まではは分からなかったが。


「ふふふ、もっと褒めるといい」


田井中も微笑んだが、俺はなぜか変なことを思い浮かべてしまっていた。
もしかしたら。
田井中は十文字にプレッシャーを与えられてもいたのではないか。
一学期だけでも成績を落とすようなことを、認められなかったのではないか。
もちろん十文字のことだから、それとなく間接的にプレッシャーを与えたのではないだろうか。
つくづく底の読めない巫女だと思わされる。

だがそれは十文字の千反田への想いの重さを物語ってもいる。
十文字は田井中に冷たいわけではない。
深い付き合いではないが、十文字がそういう人間でないことくらいは分かる。
しかし結果的に田井中に冷淡にならざるを得ないのだ。
十文字には田井中より千反田の方が大切なのだから。
二者択一でしかない以上、どちらかを選ぶしかないのだから。
やはり俺も選ばなければならないのだろう、おそらくは夏の終わりまでには。


「成績と言えばさ」


俺が言葉を止めたことが気になったのだろう。
田井中が俺の表情を覗き込みながら続けた。


「ホータローはもっと頑張らなくちゃな。
成績結構落ちてたんだろ?
なんだったら私が勉強見てやろうか?」


「結構だ」


軽く吐き捨ててから田井中から目を逸らす。
田井中の言う通り、俺の成績はかなり落ちてしまっていた。
試験勉強をほとんどしてなかったのはいつものことだが、それでも想像以上に試験の結果が芳しくなかったのだ。
自分で考えている以上に田井中と千反田の問題を気に掛けていたからかもしれない。
単に俺が二年の勉強に付いていけないだけかもしれないが。

だが成績が落ちたのは俺だけではなかった。
伊原も十文字もかなり前年より悪い結果を残してしまっていた。
特に伊原のあんなに悪い成績は初めて見た気がする。
里志の成績もとんでもなく悪かったが、奴はいつものことだから気にするだけ無駄だろう。

それでというわけではないが、俺たちは現在民宿「青山荘」にお邪魔している。
今後のことを見越して「青山荘」で勉強合宿しておきたい、という伊原の申し出があったからだ。
しかも今年も宿泊費は無料で。
今後のことを考えたいのは俺も同様だった。
しかし改装中であったという去年ならいざ知らず、
二年連続で訪問するのはさすがに迷惑なのではないか。
俺ではなく田井中がそう訊ねていたが、伊原は苦笑しながらかぶりを振った。
「二人も改めて勉強を誰かに教えてもらいたいみたいだから」と苦笑して。
二人はもちろん梨絵と嘉代だ。
なるほど、嘉代はともかく梨絵が勉学に優れているようには思えない。
特に中学生の梨絵はそろそろ勉強に身を入れねばならない頃でもあるのだろう。

一年振りに再会した梨絵と嘉代の様子はかなり変わっていた。
主に身長と体格の方面で。
発育がいい方だと思っていたが、嘉代の成長が特に著しかった。
女性的な曲線をかなり帯び、下手をすると伊原を追い抜きかねない体格に成長していたのだ。
伊原もそれは感じていたようで、再会した瞬間に軽く溜息をついていたのを俺は見逃さなかった。
さすがの里志もそのことを伊原に指摘したりはしなかった。
ちなみに奴は「青山荘」を訪れてから温泉につきっきりだ。
仮にも勉強合宿という自覚は奴にはないらしい。
もっとも今更里志に成績を期待する愚を犯す奴は俺達の中にはいないが。

246: ◆2cupU1gSNo 2013/12/10(火) 19:19:17.71 ID:BNLTa/FH0

しかし、と思う。
まさか十文字が同行するとは思わなかった。
軽く伊原に探りを入れてみると、「わたしもよ」と苦そうに言っていた。
荒楠神社でバイトをするくらいなのだから、二人にはそれなりの面識があるのだろう。
だがそれほど親しそうにも思えなかったし、実際にもそうなのだと思われる。
性格的にもあまり相性がいいようには思えない。
それでも十文字がこの場にいるということは、それとなく自らの参加を提言したに違いない。
幼馴染みの千反田のためにはそれくらいのことはやってのける。
とどのつまり十文字かほとはそういう女なのだった。
幸い十文字は嘉代に懐かれたようで、嘉代の勉強を熱心に見てくれているのは幸いだったが。


「嘉代ちゃんのお茶、楽しみだな」


誰に聞かせるわけでもないように田井中が呟いた。
返事は期待していなかったのかもしれないが、聞こえた以上は反応してみることにする。


「日本茶にも興味があるのか?」


「コーヒーよりはなー。
なんかえるの記憶の中ではすっげー美味いお茶だったみたいなんだよ。
それで嘉代ちゃんのお茶が飲めるのが楽しみだったんだよな」


そんなに美味い茶だっただろうか。
熱い茶だった気はするが、俺も味までは覚えていない。
しかし千反田がそう記憶しているということはそうだったのだろう。
例えそれが千反田の嘉代への贔屓目が入った上での判断であったとしても。


「そんなに美味しいお茶なら楽しみね」


十文字が心底楽しみな様に微笑む。
こちらは本気で茶を楽しみにしているのだろう。
和風な雰囲気をまとっていると思っていたが、好みも和風よりらしい。


「ああ、楽しみだよな。
お茶だけじゃなくて、これからの夜のこととかもな。
ふっふっふっふ……」


田井中が奇妙に笑い出す。
こいつがこんな笑い方をするのは、なにかを企んでいる時だ。
なんらかのイベントを。
この前、七月七日も二日酔いを乗り越えて七夕イベントを自ら開催した田井中なのだ。
おそらくは合宿というこの非日常でまたなんらかのイベントを計画しているに違いない。
開催はともかく可能な限り面倒でないイベントであるのならいいのだが。


「お楽しみはこれからだ」


俺の心配をよそに、田井中はまるで古い悪役みたいな台詞を意味深に残した。

253: ◆2cupU1gSNo 2013/12/20(金) 18:53:35.72 ID:uEzbOLxz0


2.七月二十七日


夏虫の声が耳に痛い。
それに蛙や蜩の泣き声まで混じると、大音量のオーケストラを聞かされているみたいだ。
疎らにしか街灯が存在しない薄暗さも相俟って、らしくなく別世界に迷い込んだ錯覚にまで陥る。
神山市も都会というほどではないのだが、やはりそれなりに拓けた都市であったのだろう。
しかし慣れてしまえばこの別世界もそう悪くはない。
永住しろと言われれば悩んでしまうが、たまに訪れる程度なら気分転換に最適だ。
許されるのであれば、一週間ほど逗留していたい気持ちもないではない。


「どうしてわたしがあんたと二人で夜道を歩かなきゃなんないのよ……」


先刻からしつこいほど愚痴をこぼし続けるこいつが隣にいなければだが。
俺の十年来になる幼馴染みだというのに、こいつの毒舌は容赦なく七色だ。
まあ、俺の方としても十年来の幼馴染みに手心を加えようという思いは存在しないけれども。


「いい加減口じゃなくて足を動かしたらどうだ、伊原」


「うるさいわね、分かってるわよ」


さいですか。
分かっているのなら、もう十度を数えそうなくらい同じ愚痴をこぼさないでほしい。
俺だって毒舌だけを聞かされるこいつと二人で夜道を歩きたくはないし、
まさかこんな機会が訪れることになるとは、それこそ夢にも思っていなかった。
修学旅行の夜道で偶然顔を合わせた時ですら、ろくに会釈しなかった俺と伊原だ。
こんな関係性の二人が夜道を二十分以上共にするなど前代未聞だろう。

俺たちが嫌々ながらも肩を並べて歩くことになった元凶は、当然というか田井中だった。
梨絵たちの勉強の面倒で潰して迎えた滞在二日目の夜、怪しげな微笑みを浮かべて田井中が言ったのだ。
「肝試しをしよう!」と。
そろそろ夏休みの宿題にも飽きてきたところだし、その申し出自体は悪いものではなかった。
手間のようだが、いい気分転換はいい省エネに繋がる。
……組む相手が最適な相手であるのならばだが。

伊原と嘉代を除いた各員は概ね肝試しに賛成していた。
俺と同じく勉強と温泉に飽き始めていたのだろう。
十文字が乗り気だったのは意外だったが、霊的な知識に明るい彼女のことだ。
ひょっとしたら組んだパートナーをその知識で怖がらせるつもりなのかもしれなかった。

よくあるお約束ではあるが、肝試しは二人一組で行われることになった。
パートナーの選別方法は田井中の作ったあみだくじ。
もしも梨絵と嘉代のペアになった場合はやり直した方がいいんじゃないか。
と里志が珍しく夜道の安全性を危惧していたが、梨絵はそれを笑い飛ばした。
梨絵曰く、「この辺は庭みたいなものだから、心配なんて全然いらないって!」とのことだ。
それはそうかもしれない。
梨絵たちにとってこの周辺は確かに庭のようなものなのだろうし、
一年振りに再会した二人は想像以上に身長を伸ばして雰囲気も大人びさせていた。
少なくとも親戚である伊原よりも落ち着いた雰囲気に見える。
ならば二人がペアになっても心配はないだろう。
あまり仲の良い姉妹ではないにしても、なにも肝試し一つで仲違いしたりもしないはずだ。

そして幸いながらと言うべきか、里志の危惧は現実にはならなかった。
あみだくじを行ってみた結果、振り分けられたペアは以下の通り。

254: ◆2cupU1gSNo 2013/12/20(金) 18:54:12.45 ID:uEzbOLxz0

里志・梨絵ペア。
十文字・嘉代ペア。
俺・伊原ペア。


「げっ……」


と残酷な結果に俺と伊原が二人して呟いた瞬間、残りの四人に笑われたのは言うまでもない。
ちなみに田井中はあみだくじには参加していない。
もちろん言い出しっぺの田井中が肝試しに怯えているわけではない。
田井中は先の道に潜んで驚かせ役をするとのことだ。
梨絵と嘉代は田井中(二人にとっては千反田)の意外な一面に驚いたようではあったが、逆にそれを楽しんでいるようにも見えた。
それなりに親しくなっているとは言え、千反田と善名姉妹の関係は未だ数日程度でしかない。
意外な一面に違和感を持つほど、千反田のことを知ってはいないということだろう。

肝試しの目的地は山道の裏手にある鳥居。
俺は知らなかったのだが、この近所にある神社から離れた場所に謎の鳥居があるらしい。
いや、謎の鳥居と称するのも大袈裟か。
おそらくはなにかのきっかけで鳥居だけ残った神社の跡地なのだろう。
田舎ではよく見かける風景ではあるが、確かにある意味で謎に包まれていると言えなくもない。
ちゃんと肝試しをした証拠として、田井中お手製の落書きをその謎の鳥居の下に置いて戻ってくる。
重しの石も準備してるから、落書きが風で飛ばされる心配もないそうだ。
こんな時だけ用意周到な田井中である。

伊原から携帯電話を借りた田井中は先に向かい、準備が整った後で里志の携帯電話に連絡してきた。
俺たちの肝試しの順番は最後だった。
肝試しから戻って来た里志と十文字は苦笑していたが、梨絵と嘉代はそれなりに驚いた様子に見えた。
どうやら子供騙し程度には驚かされるなにかを用意しているようだ。
子供騙し程度なら、この世の幽霊が枯れ尾花だと知っている俺には問題ない。
軽く鳥居まで向かって、軽く田井中に驚かされて、それで今夜の気分転換は終了だ。
終了にしたかったのだが。


「それで?」


若干諦め混じりで伊原に訊ねてみる。
不機嫌そうではあったものの、伊原はとりあえず俺に応じてくれた。


「……分かんない」


さいで。
分かんないというのは謎の神社のことだった。
詳しく言うと謎の神社の場所が分からなかったのだ。
もっと詳細に言うと道に迷っているのだ、俺たちは。
それでさっきから伊原は普段以上に愚痴をこぼしていたのだ。
俺は溜息をついてからもう一度訊ねる。


「今まで何度も来てるんだろう」


「来てるわよ、何度も来てるわよ。
何度も来てるけど……」


「何度も来てるけど、なんだ」


「お昼と夜とじゃ道の雰囲気が全然違ってるのよ……。
お昼に一度行ったことがある場所なのに、
夜に行こうとすると道が分からなかったこととかあんたにもあるでしょ!」


確かにあるが。
それにしたって「青山荘」から謎の鳥居まで道程は片道十分といったところだ。
その程度の距離を迷うなんて思うはずがないじゃないか。
いや、この近辺に慣れている伊原に任せておけば大丈夫だろうと考えて、
田井中が見せてくれた地図にろくに目を通さなかった俺にも責任はあるかもしれないが。


「こんなことならたいちゃんに携帯を貸さなきゃよかった……」

255: ◆2cupU1gSNo 2013/12/20(金) 18:54:45.30 ID:uEzbOLxz0


伊原が大きな溜息と一緒に後悔の念を呟く。
そう、それも俺たちにとって大きな問題の一つだった。
怖がらせ役の田井中(千反田)は携帯電話を持っていない。
ゆえに肝試しの準備が完了したことを誰かに伝える術がない。
それで伊原は田井中に携帯電話を貸したのだ、手っ取り早く肝試しを終わらせるために。
手っ取り早く肝試しを終わらせたかったのだ、伊原は。
結果、俺たちに連絡手段がなくなってしまったわけだが。


「やっぱりなにかあるのよ、この村は……」


小声で伊原がそう呟いたのを、俺は聞き逃さなかった。
思い出してみれば、伊原は田井中が肝試しを提案した時から青い顔をしていた。
そんなに臆病な奴だったか、と首を捻ってみようとして思い出す。
そういえば伊原には去年の幽霊事件の真相を伝えていなかった。
こいつは頻りに知りたがっていたが、梨絵と嘉代の不仲を親戚のこいつに伝えるわけにもいかない。
それほど不仲ではないのかもしれないが、その可能性を考えるだけでも身内のこいつには不快だろう。
一応伊原を思ってのことだったのだが、今はそれが完全に裏目に出てしまっているようだ。
それで迷うはずがない距離で迷子になってしまったのかもしれない。


「もしかしたら下手に動かない方がいいのかもしれないな」


不意に思いついたことを俺は呟いた。
本当に単なる思いつきだったのだが、口にしてみるとそれも悪くない気がした。
手頃な大きさの石を見つけると、それに腰を下ろして一息ついた。


「どうしてよ」


頬を膨らませて、伊原が俺に懐中電灯を向ける。
人に懐中電灯を向けるな。


「徒歩十分の距離を二十分以上迷ってるんだ。
そろそろ田井中も俺たちが遅いことに気付く頃だろう。
あいつもああ見えて馬鹿じゃない。
異変に気付けば里志に連絡一つくらい寄越すはずだ。
それで俺たちが迷っていることにも気付いて捜索隊を出してくれるだろうよ」


「そんなの情けないわよ……」


「他に方法があるなら聞くが」


「ないけど……」


「だったらお前も座ったらどうだ?
歩いたのは二十分程度だが、単に歩くのと迷いながら歩くのでは疲労度が全然違う。
かなり疲れてるんじゃないか?」


「……あんたにしては気が効いてるじゃないのよ」


「伊達に省エネを心掛けていない」


「はいはい」


溜息交じりではあったが伊原は苦笑した。
無理に歩く必要がないことに気付いて気が楽になったのかもしれない。
俺から三メートルほど離れた山中の石の上に伊原も腰を下ろした。
三メートル。
伊原にしてはかなり近くに座ってくれたものだ。
普段なら間違いなく五メートルは離れた場所に腰を下ろす。
それが俺と伊原のいつもの距離感だ。
それを前提として考えるのならば、俺たちの関係は飛躍的に改善されたと言ってもいいだろう。

256: ◆2cupU1gSNo 2013/12/20(金) 18:55:13.49 ID:uEzbOLxz0

改善か、とらしくない考えに、今度は俺が苦笑してしまう。
伊原は幼馴染みだがそれほど親しいわけではない。
中学での一件以来、嫌われていると称してもいいほど関係が悪化したこともあった。
それはそれで構わなかったし、俺を嫌うのだって伊原の自由だった。
しかしせっかくの腐れ縁なのだし、多少は普通に接してもいいのではないか。
最近そう思うようになったのは、田井中が秋山という幼馴染みの話を嬉しそうにするのと無関係ではないだろう。
田井中は軽音部の部員の中でも、殊更秋山の話を楽しそうに語る。
秋山と仲良くなったきっかけ、秋山とのエピソード、それらを本当に楽しそうに。
俺はそんな田井中と秋山の関係に憧れているのだろうか?
分からないが、少なくとも険悪よりは安穏とした雰囲気の方が省エネになるはずだ。
一緒にいて険悪さを感じないですむなど、それこそお互いに優しいエコってやつだろう。


「ねえ折木」


伊原がまた俺に懐中電灯を向けながら呟いた。
だから人に懐中電灯を向けるな。


「どうした伊原。
それと人に懐中電灯を向けるな、眩しい」


「あ、ごめん。
それより一つ訊きたいことがあるんだけど」


「駄目だ、今忙しい」


「座ってるだけじゃないの」


「冗談だよ、それでどうした」


「あんた、最近たいちゃんと仲がいいみたいじゃない?」


「そうか?」


俺は首を傾げる。
誤魔化したわけじゃなく、本当に分からなかったからだ。
確かに田井中と行動する機会はかなり増えている。
それこそ自由時間に割いた時間は千反田よりも田井中の方が長いかもしれない。
しかしそれと仲がいいかどうかは別問題だ。
俺たちは田井中と千反田に起こっている現象を調べているだけであって、それと親しさはあまり関係ない。
もちろん田井中と話していて悪い気分にならないのも確かではあるが。

269: ◆2cupU1gSNo 2013/12/28(土) 20:48:08.53 ID:QFvy2CWP0


「お前こそどうなんだ」


俺は伊原に切り返す。
卑怯かもしれなかったが、分からないことをいつまでも考えていてもしょうがない。


「わたし?」


「ああ、俺にはお前の方が田井中と親しくしているように見えるぞ。
この前もプレゼントを渡していたし、かなり初期からあだ名なんぞも付けていたじゃないか」


まあ、伊原は短い付き合いの相手もあだ名で呼びがちなのだが。
俺以外。


「そう、ね。そうかもしれない。
たいちゃんのことは好きよ。
明るくて楽しいし、元気で前向きな子だしね。
ひょっとしたら性格だけならちーちゃんよりも合ってるかもしれないわ。
こんな形じゃなければ、親友になりたかったわよ」


田井中とは友達ではあっても親友ではない。
今後も親友にはなれない。
そういう意味なのだろうと俺は捉えた。
特に伊原は義理堅い奴なのだ。
どれほど田井中と性格が合おうと、千反田を切り捨てることなどできまい。
その点では伊原も十文字と同じと言える。


「あんたは……、ううん、なんでもないわ」


伊原は俺にもう一度問おうとしたが、すぐに口を噤んだ。
だから俺は伊原の言葉には反応せず、軽く夜空を見上げた。
捜索隊はまだ現れそうにない。
田井中はきっと俺たちを怖がらせてやろうとほくそ笑んでいることだろう。
千反田と同じ顔で、千反田とは全く違う表情で。

270: ◆2cupU1gSNo 2013/12/28(土) 20:48:59.42 ID:QFvy2CWP0


「そういえば折木、あんた知ってる?」


「なにをだよ」


「わたし、訊いてみたのよ、たいちゃんに。
わたしの知ってる漫画はたいちゃんの世界にもあるのって。
そうしたらたいちゃんは教えてくれたわ、わたしの知ってる色んな漫画の最終回を。
意外な展開も多かったけど腑に落ちる最終回ももちろんあったわよ。
ちゃんと読み込んでいる人の、その漫画の最終回の感想を聞かせてもらえたの。
つまりたいちゃんの世界にも、この世界と同じ漫画が連載されてるってことよね。
わたしたちの世界から十年先の漫画だけれど」


俺はなにも答えなかった。
田井中と話していれば、その内分かることだ。
俺は田井中から教えてもらったが、伊原は自力でその答えに辿り着いたらしい。
田井中の記憶の中の世界は、この世界より十年先の世界なのだと。
伊原は責めるような視線を俺に向けはしなかった。
ただひとり言のように静かに続けていた。


「ネタバレになっちゃったのは残念だけど、
まだ誰も知らないはずの漫画の最終回を知れたのは嬉しかったわ。
だけどどういうことなのかしら?
こんなの単なる人格の入れ替わりどころじゃないわ、もっと複雑ななにかよ。
全然分かんないわよ……」


俺にだって分からなかった。
田井中から打ち明けられて以来、誰にもその話をすることができなかった。
分からないことだらけで八方塞がりだ。
ほとんどの議論を終えてしまっているというのに、光明の一つも見出せていない。
やはりこんな超現実など、俺たちの手に負えるものではなかった。
しかし手に負えないからと言って、無関係でいられるほど無神経ではないのだ、特に伊原は。
とりあえずは幼馴染みである伊原の悩む姿を見せられ続けるのは、俺の精神衛生的に好ましくない。
慰めるつもりではなかったのだが、気付けば俺は伊原に声を掛けてしまっていた。


「単なる人格の入れ替わりでないことは分かり切っている。
しかしだ、伊原。
田井中の世界が単なる俺たちの世界の十年後でないことも確かなんだよ。
桜が丘女子だったか、そんな名前の学校は俺たちの世界には存在していない。
奴の母校であるという中学も、小学校も存在していなかった。
この調子だと俺たちの世界に、まだ幼い田井中が存在していない可能性もある。
十年先の世界かどうかは関係なく、微妙に違っているんだ、田井中の世界と俺たちの世界は」


「そうなのよね……。
そういえば、たいちゃん言ってたわ。
わたしの好きな有名な漫画のタイトルを知らないって。
それも一作だけならともかく十作くらい。
読んでいるジャンルの違いかなってその時は思ったんだけど、
いくらなんでも国民的な漫画のタイトルを十作も知らないなんてありえないわよね……」


「となると、田井中の世界ではその漫画が存在していない可能性がある。
伝統のある学校が存在していないんだ。
この世界で有名な漫画の十作くらい存在していなくても不思議じゃない。
田井中の世界の時代は十年後ではあるが、俺たちの世界のそのまま十年後というわけでもないってことだ。
前に話したと思うが、それこそパラレルワールドってやつなんだろう」


「やっぱりそうなのよね……」

271: ◆2cupU1gSNo 2013/12/28(土) 20:49:26.21 ID:QFvy2CWP0


伊原が溜息をついて、俺も釣られて溜息をついてしまった。
田井中の住んでいる世界は、俺たちの世界のパラレルワールドの十年後だ。
そこまではいい。
分かって、どうなる?
分かって、どうする?
パラレルワールドが存在するのは構わないが、それで田井中の人格が説明できるわけじゃない。
千反田の人格を取り戻せるわけでもないのだ。


「わたしね」


伊原が不意に続けた。
珍しく視線を俺にまっすぐぶつけて。


「不謹慎な気もするけど思ったことがあるのよ」


「別に俺は不謹慎でも気にしない」


「あんたらしいわね。
それなら言うけど、たいちゃんはちーちゃんの前世の記憶なんじゃないかって思ったの。
よく見るでしょ、前世の記憶が甦って前とは全く別の人格になるって漫画とか。
それならとりあえずの説明は付く気がしてたのよ」


前世の記憶か。
俺も考えなかったわけじゃない。
前世があるのかどうかは知らないが、一番説明しやすい答えではある。
しかし。


「でもね」


伊原も持論の問題点には分かっていたようで、俺の答えを聞くより先に続けた。


「たいちゃんの世界ってわたしたちの世界の十年後なのよね……」


そうだ、そこに問題が生じてくる。
田井中が千反田の前世の記憶としても、田井中が千反田より未来に生きていては本末転倒だ。
やはり前世説はその点で否定されてしまうのだ。

いや、待てよ。
本当にそうだろうか。
この前、荒楠神社で十文字(正確には田井中)は言わなかっただろうか。
「生まれ変わりは時間を超える」と。
「五年前に死んだ人間が十五年前に生まれ変わっていても不思議はない」と。
それらを発展させて考えれば、
未来のパラレルワールドで死んだ人間が、この世界に生まれ変わっていてもよくはならないだろうか。

まったく、我ながら適当な解釈だった。
そうであれば説明しやすいってだけの都合のいい屁理屈だ。
第一、田井中の人格が突然発現した説明が全くできていないじゃないか。
だが俺の中の歯車が一つだけ動いた気はしていた。


「本当は前世の記憶でもなんでもいいんだけどね」


伊原が寂しそうに苦笑した。
そうだった。
伊原は白黒はっきりさせたがる性格ではあるが、それより大切なものを知っている奴なのだ。

272: ◆2cupU1gSNo 2013/12/28(土) 20:50:00.92 ID:QFvy2CWP0


「もう一度、ちーちゃんと話してみたいわよ……」


苦笑を浮かべながらではあったが、それは伊原の悲痛な本音だった。
千反田の人格が現れなくなってかなり久しい。
あいつの微笑み、あいつの表情、あいつの口癖、様々なあいつが遠い記憶の彼方だ。
俺たちはこうして千反田えるを失ってしまうのだろうか。
田井中律という異邦人を得たのと引き換えに。


「……あれっ?」


不意に伊原が素っ頓狂な声を出した。
なにか思い出したことでもあったのだろうか。
それを訊ねてみると、伊原は少し青い表情になって続けた。


「違うわよ。
そうじゃなくて、ほら見て!
あの山の麓、変なものが見えない?」


促されるまま、伊原が懐中電灯で照らす方向に視線を向ける。
特に変なものなど見えな……、いや、確かになにかが見える。
ふわふわと雲のような形の物体が浮いている?
夜目にも視認できるのは、その物体が青白い光を放っているからだ。


「鬼火……か?」


「ちょ、ちょっと折木!
へへ、変なことを言い出さないでよ!」


お前が見てと言ったんだろう。
鬼火という呼称が不満ならしょうがない。
俺は溜息をついた後で、伊原の不満を買わないように言い換えてやった。


「人魂みたいに見えるな」


「あんたって本当に……!」


更に目を釣り上げる伊原。
どうやら呼び方の問題ではなかったようだ。
いや、そもそもの問題はそういうことではないらしい。

鬼火……、いや人魂……、
とにかく青い光は俺たちの位置から約五百メートル先、山の麓辺りにふわふわと浮かんでいた。
炎ではないし、ライトとも違う。
雲のような不定形の形をした青い光を放つ物体。
数は四つ。
ゆっくりとだが移動していることから電灯ではありえない。
そもそもその周辺に光源など存在していなかったはずだ。


「なによ、あれ……」


伊原が怯えたような呻き声を漏らす。
俺にとってはただの光なのだが、伊原には得体の知れない心霊現象に見えているらしい。
去年の梨絵の言ではないが、伊原がこういう現象をここまで苦手だと思わなかった。
もしかしたらホラー漫画なども読めないタイプなのかもしれない。
伊原の珍しい表情を見ていたくもあったが、後でなにをされるか分かったものじゃない。
下手をしたら里志にあることないことを伝えられてしまう可能性もある。
俺は仕方なく伊原を安心させるために言ってやった。

273: ◆2cupU1gSNo 2013/12/28(土) 20:50:30.06 ID:QFvy2CWP0


「田井中だろう。
俺たちを捜しに来たのかもしれない」


「あの青い光でっ?」


「俺たちを怖がらせるために使っていた道具の再利用かもしれないだろう。
サイリウムかなにか青い光を放つ感じの……」


「もしそうだとしてもたいちゃんだけであの数を持つのは無理よ!
四つよ、四つ!」


そうだった。
青い光の数は四つ。
それぞれが不規則に動いて、五メートル間隔は距離を取っている。
両手で二つ持っていたしとても、残り二つの青い光は誰が動かしている?
しかもよく見れば地表二メートルほどの高さを浮かんでいるようだ。
夜の闇で光しか確認出来ないが、誰かが掲げるように青い光を持っているのだろうか。
棒かなにかに括り付ければそれも不可能ではないだろう。
だがその必要性はなんだ?
まさか迷子の俺たちを光で呼んでいるというわけでもないはずだ。
それならばせめて俺たちを呼ぶ声くらいあってしかるべきだ。


「やっぱりなにかいるのよ、この村ー……!」


嫌っているはずの俺の背後に回って怯える伊原。
それほど切羽詰まっているということなのだろう。
結局それから十分後。
俺たちを捜しに来た田井中に見つけられるまで、伊原は怯え続けていた。
伊原の言った通り田井中は青い光を持っていなかったし、
四つの青い光はいつの間にかどこかへ消えてしまっていた。
どこかへ。

別に怖くはない。
だがすっきりしないものが俺の胸に残ったのは確かだった。

282: ◆2cupU1gSNo 2014/01/02(木) 19:30:46.26 ID:acCl/zU/0


3.七月二十八日


「気になるのよ」


無言の朝食を二人で食べ終わった後、
珍しく伊原に呼び止められて言われた一言目がそれだった。
既に懐かしくなり始めた言葉だが、まさか伊原の口から聞くことになるとは思っていなかった。


「なにが気になるんだ」


「折木、あんた分かってて言ってるでしょ。
青い光よ、青い光」


「昨日の鬼火か」


「青い光!」


伊原が唇を尖らせる。
一晩明けても、あの青い光を超自然的な現象だと思いたくはないらしい。
それでいて気になってしょうがないのか。
喉元過ぎれば熱さを忘れるということだろうか。
いや、違うか。
人は未知を恐れる生き物だとよく聞くし、実際にもそうなのだろう。
だから伊原はあの青い光の正体が知りたいのだ。
分からないまま放置しておくよりも、正体を掴んで少しでも安心できるために。

よく見ると伊原のその表情は随分と眠たそうだ。
そういえば朝食の時に何度もあくびを噛み殺していた気もする。
肝試しの後、あの青い光のことが気になってろくに眠れなかったに違いない。
寝不足の不機嫌を俺にぶつけられても困る。
俺は最大限伊原に歩み寄った意見を出してやることにした。


「気になるなら調べればいいじゃないか」


「調べるわよ。
調べるけどあんたも付き合いなさい」


「どうして俺が」


「あの青い光を見たのはわたしとあんたじゃない」


「他に目撃者がいるかもしれないだろう。
遠目にもあれだけはっきり見えていたんだ。
昨日、俺たちを見つけてくれた田井中なら目撃していてもおかしくない」


「他の目撃者のことももちろん調べるわ。
たいちゃんにも今から聞き込みに行くつもりよ。
だけど今のところ他の目撃者を知らない以上、あんたも付き合うのが合理的でしょ?」


非合理だ。
こんなことなら昨日田井中と再会した時に青い光のことを訊ねておくべきだった。
俺の背中で怯えている伊原のことを気遣って仏心を出したのが仇になったらしい。
慣れないことはするものじゃないな。

283: ◆2cupU1gSNo 2014/01/02(木) 19:31:47.01 ID:acCl/zU/0


「俺はお前と一緒に目撃したってだけなんだ。
俺よりも里志に頼むべきだと思うぞ。
結論は出さないかもしれないが、あいつなら最低限必要な情報を集めてくれるはずだ。
後はお前がその情報から納得できる答えを導き出せばいい」


「頼めるもんならもう頼んでるわよ」


「頼めなかったのか?」


「頼めなかったわよ。
どうもわたしたちより一足先に朝食食べた後に、温泉に入りに行っちゃったみたいね」


それは確かに頼めないな。
さすがの伊原でも男湯までは追い掛けられまい。
それにしても里志の奴、どれだけ温泉浸りになってるんだ。
温泉は気が向いた時に浸かりに行くのが作法だと言っていた気がするが、いくらなんでも浸かり過ぎだ。
なにか別の目的でもあるんじゃないかと邪推したくなる。
例えば伊原を怖がらせるためにあの青い光を用意していたとか。
いや、それはさすがに疑い過ぎか。
大方、善名姉妹の勉強を見てやれるほどの学力がない現実から逃げているだけだろう。


「とにかくそういうわけなの。
青い光の調査、あんたにも付き合ってもらうわよ」


有無を言わさぬ口調で伊原が俺を睨み付ける。
こいつには千反田とは違った強引さがあるし、どうやら逃げられそうにない。
もしも逃げ出せたとしても、七色の舌鋒で俺を罵倒してくれることだろう。
仕方がない。
やらなければいけないことなら手短に、だ。
どうせ今日は合宿の最終日でやるべきことはほとんどない。
伊原の伝手でいい景色の見られる旅館に泊まれた。
その恩返しに多少付き合ってやっても、あの鬼火の祟りはあるまい。
青い光の正体に心当たりがないわけでもないしな。
分からないのは犯人と動機だけだ。


「分かった分かった。
そんなに言うなら調査に付き合ってやる。
ただし梨絵と嘉代への聞き込みはお前がやってくれよ。
二人とも俺から聞き込みされるなんてよく思わないだろう。
俺だって子供は苦手だ」


特にナイーブな子供は。
嘉代にはあまり好かれてない気がするし、梨絵ともそう親しいわけではない。
あの二人にしても、伊原と同じ部活の部員としか思っていないだろう。
だが伊原は首を傾げて意外な言葉を口にした。


「そう?
わたしが言うのもなんだけど、あんた意外と二人には気に入られてるみたいよ?」


「まさか」


「本当よ。
あんた相手にお世辞を言ってもしょうがないでしょ。
二人ともあんたがいない時によく訊ねてくるもの。
どんな人なのか、今までどんな事件を解決してきたのか、ってね」


「単なる素人探偵扱いじゃないか。
お前、二人にどんな話をしてるんだ」


「ありのままよ」

284: ◆2cupU1gSNo 2014/01/02(木) 19:32:19.09 ID:acCl/zU/0


まったく、悪びれもしやしない。
しかし伊原のことだから、本当に俺のありのままの姿を二人に話しているのだろう。
嫌われていないらしいのはなによりだが、
俺の知らぬところで気に入られているというのも存外と妙な気分だ。
だが苦手な物は苦手なのだ。
ともあれ俺は聞き込みは伊原がするという約束を取り付けると、
まずは田井中に聞き込みをするために伊原たちが宿泊している部屋に向かった。
善名姉妹の姿は朝になってからまだ見かけていなかったからだ。
二人とも合宿最終日のためになにか準備をしているのかもしれない。


「あら、おはよう」


「よっ、ホータロー」


扉を開けると田井中と十文字が俺たちに視線を向けた。
朝食の時に姿を見ないと思っていたら、どうやら伊原より先に食べ終わっていたらしい。
やはり伊原が眠れたのは夜更けになってからだったようだ。
それで妙に朝食の時間が遅かったのだろう。
俺の朝食の時間が遅かったのは単なる寝坊だが。

それより気になったのは、田井中たちが二人羽織の様な体勢で座っていたことだ。
十文字が前で田井中が後方。
その体勢で密着して、田井中が十文字の手首を握っている。
なにをしているのかは、十文字が握っている物からすぐに推察できた。


「ドラムの練習か?」


「おう。
私が手持ち無沙汰に雑誌を叩いてたら、十文字がやってみたいって言い出してさ」


「そうなのよ。
周りにドラムを叩く人なんていなかったから、ちょっと気になっちゃって。
朝から悪いわね、律」


「いいっていいって。
こうやって少しでもドラムに興味がある奴が増えてくれたら本望ってやつだよ。
目立たないからなー、ドラム……」


田井中が苦笑すると、釣られる様に十文字も苦笑した。
仲が良いのか悪いのかよく分からない二人だったが、
千反田の件を抜きにすれば、それなりに気が合っているらしい。
それには少しだけ安心できた。


「でも目立たないのが嘘みたいに激しい運動よね、律。
叩き方のコツを教えてもらってるだけなのに、もう手首が疲れてきちゃった。
やっぱりドラマーって凄いのね」


「私も最初はそうだったよ。
夏なんて特にドラム死ねるんだよな。
三年で部室にクーラー付けてもらうまで死にそうだったよ、マジで」


「そうなんだ。
でも面白そうよね。
わたしも後でたいちゃんに教えてもらおうかな」


「おう、いくらでも教えてやるぞ、摩耶花。
ドラマー女子が増えるのは万々歳だ!」


疲れ切っていたはずの顔色はどこへやら、伊原が田井中たちの会話に嬉しそうに乱入する。
女三人寄れば姦しいと言うが、放っておいたらこのままガールズトークに華を咲かせそうだ。
それはそれで構わないのだが、ガールズトークの中に男一人と言うのはあまりにもいたたまれない。
それに俺たちには他に目的がある。
俺はわざとらしく咳払いしてから、短い言葉を口にしてやった。

285: ◆2cupU1gSNo 2014/01/02(木) 19:35:24.96 ID:acCl/zU/0


「伊原」


「なによ、折木」


「ドラムを教えてもらうんなら、俺は帰るぞ」


「あ、そうだった、そうだった。
ごめんね、二人とも。
ドラムもいいけど先に二人に訊ねておきたいことがあったのよ」


「なんだ?」


なんとか話を本筋に戻せたようだ。
俺と伊原が部屋に入って昨日の青い光の話を始めると、田井中からあっさりとした答えが返ってきた。


「それなら見たぞ」


「見たの?」


「ああ、昨日はあんまりホータローたちが来ないから里志に連絡してみたんだけどな。
迷子になったのかもって里志が言い出して心配になってさ、ちょっと捜してみることにしたんだよ。
入れ違いになったら二度手間ってことで、里志にはスタート地点に待機してもらうことにしてな。
それで捜し始めて五分経ったくらいだったかな。
あの鳥居がある麓辺りに青い光を見たんだよ、四つ。
なんかふわふわ漂ってるから、街灯じゃなさそうだなとは思ってたんだけど」


「怖くなかったの?」


その時のことを思い出したのか、伊原が戦々恐々といった様子で訊ねる。
田井中は肩をすくめてから首を横に振った。


「いや、別に怖くはなかったなー。
得体は知れなかったけど、変わった街灯かラジコンかなって思ってたし。
まあ、今思い出すとラジコンとかのはずがないんだけどな、夜だし。
でも怖くなかったのは本当だぞ。
あの青い光が怪奇現象なら怪奇現象でよかったし、逆にそっちの方が嬉しいもんな」


「ど、どうして?」


「ほら、私自体がもう怪奇現象みたいなもんじゃん?」


沢木口にでも習ったのか、今日はシニョンにした髪を田井中が苦笑交じりに弄る。
なんとも皮肉な冗談だが、単なる冗談というわけでもないのは俺にも分かった。
あの青い光の正体がもしも本当に人魂であったとする。
それは同時に俺たちのこの世界に人の魂が漂うという現象が存在することになる。
魂という概念が生じるのだ。
ならば田井中が漂う何者かの魂という仮定が立てやすくなるということでもある。
それくらい田井中は自らの正体について飢えているのだ。
自分の人格が怪奇現象から生じたものであっても構わないくらいに。

それきり田井中は笑顔で黙り込んだが、伊原は言葉を続けられないようだった。
伊原も分かっているのだ。
自らの存在に一番悩みを抱えているのは田井中だということに。
もちろん俺に口出しできることでもなかった。

少し気まずい沈黙が部屋の中を包み始めた頃、不意に小気味のいい音が響いた。
軽く驚いて音の方向に視線を向けてみると、十文字がドラムスティックを十文字の形にしていた。
どうやらスティック同士を叩いて音を鳴り響かせたらしい。

286: ◆2cupU1gSNo 2014/01/02(木) 19:36:05.91 ID:acCl/zU/0


「あたしも見たわよ、その青い光」


「お、十文字もか?」


自分が沈黙を作り出してしまったことを後悔していたのだろう。
田井中が十文字の肩を叩きながら明るい声で訊ねた。


「ええ、律は二度手間って言ってたけど、
折木くんたちのことが気になって、少しだけ様子を見に行ってみたの。
生憎あたしは携帯を部屋に置いていたから、ちょっと足を延ばしてみただけなんだけどね。
それで二十分くらい捜したんだけど、折木くんたちの姿はなかったし、
あたしまで迷ったら二重遭難だと思って帰ろうとした時、その青い光を見たのよ」


「どんな感じだったんだ?」


「律たちの言う通りよ。
ふわふわした四つの青い光だった。
もしかしたら長い棒の先に付けられたなにかかもしれないけど、暗くてよく見えなかったわ。
肝試しの小道具かとも思ったんだけど、律も知らないってことはそうじゃなかったのね」


「ああ、あの青い光は私の小道具じゃない。
十文字も見ただろ?
私の用意したのはこんにゃくとホッケーマスクだけだよ」


どういう組み合わせなんだ……。
しかし田井中が俺たちを見つけた時には、田井中はその二つとも持っていなかった。
おそらく神社の周辺にでも置いてきているのだろう。
普通に考えて、誰かを捜そうという時にこんにゃくはさぞ邪魔に違いない。
かさばらないホッケーマスクも置いたのは、伊原を怖がらせないようにするためだろう。


「一つだけ追加情報があるわ」


眼鏡の位置を直してから十文字が続ける。


「あたしが折木くんたちを捜し始めた頃、あの山の麓に青い光はなかったわ。
あたしがあの青い光に気付いたのは、帰り道のことなの。
つまりあの青い光が現れたのは、あたしが折木くんたちを捜し始めてしばらく経った頃ってことよ」


なるほど、それはそうだろう。
俺たちも肝試しを始めた当初はあの青い光を見ていなかった。
気付いていなかったわけではなく、その頃にはその青い光は現れていなかったのだ。
しかし俺たちが鳥居に迷い込んだ後に、突如としてあの青い光は山の麓に現れた。
これはどういうことになるのだろうか。

横目に伊原の表情を窺ってみる。
伊原の目の下には隈ができていて、普段よりその癖っ毛は乱れているように思えた。
まだ本気で怯えているのだろう。
ならばもう少しだけ尽力してやってもいいかもしれない。
これでも幼馴染みなのだし、八つ当たりで被害を被っても困る。

291: ◆2cupU1gSNo 2014/01/07(火) 18:55:45.90 ID:KOZ84PWt0




「お」


思わず声を漏らすと伊原に意外そうな表情を向けられた。


「どうしたのよ、急に」


「いや、梨絵と嘉代が二人でいると思ってな」


「姉妹なんだもの、それくらい普通でしょ」


なにを言ってるの、と肩をすくめられる。
確かに姉妹なら二人でいてもなんら不思議ではない。
しかし俺が多少不思議に思えたのは、二人の距離が普段より近く見えたからだろう。
梨絵と嘉代はそれほど仲の良い姉妹ではない。
少なくとも姉妹間で浴衣の貸し借りができないほどには親密な仲ではない。
そのはずなのだが、今の梨絵と嘉代の様子は俺のその認識を覆すものだった。
梨絵と嘉代がなにごとかを耳打ちし合って微笑んでいる。
自分たちの夏休みの宿題に取り掛かるという、
田井中と十文字を置いて――田井中は俺たちに同行したがっていたのだが十文字に止められた――、
梨絵たちを探していた俺たちを待ち受けていたのがその光景だったのだ。
さすがに面食らった。


「そんなに不思議なの?」


俺はまだ不思議そうな表情を浮かべていたらしい。
伊原が怪訝な表情で諭すように続けた。


「姉妹ってあんなものでしょ?
そりゃあんたのところは姉と弟だから色々違うのかもしれないけどね」


「それはそうかもしれんが……」


姉妹と姉弟では違うことがもちろん多いだろう。
同性間、異性間の肉親関係。
考えてみるまでもなく、多くの差異に溢れているに違いない。
しかしそれを前提に考えてみても、この梨絵と嘉代の仲の良さには違和感があった。

梨絵の方はいい。
梨絵は嘉代に多少高圧的ではあるが、嘉代を嫌っているわけではないはずだった。
姉ゆえに妹より強く振る舞っている、それだけのことだ。
俺の姉貴もそうだからよく分かる。多分。
梨絵を嫌っている、と言うより怖がっているのは嘉代の方だ。
持ち前の内気な性格のせいだろう、嘉代は高圧的な梨絵を恐れている節があった。
それゆえに去年は梨絵の浴衣を借りることができなかったのだろう。

だがこの光景はなんだ?
梨絵と嘉代が微笑み合っている。
梨絵だけならともかく、嘉代の方まで楽しそうに。
この一年で姉妹の間になにか劇的な変化が生じたとでも言うのだろうか。
いや、青山荘を訪れてから、この二人がこれほど仲良く振る舞ったことはなかったはずだ。
となると、もっと短期間で劇的ななにかが起こったのだろうか。

292: ◆2cupU1gSNo 2014/01/07(火) 18:56:11.53 ID:KOZ84PWt0


「二人ともなにしてるの?」


伊原が梨絵と嘉代に声を掛ける。
それでやっと二人は俺たちの姿に気付いたらしかった。
嘉代だけでなく梨絵も少し動揺した表情を見せた。
逆に言えば、二人ともそれほど密談に集中していたということなのだろう。


「まや姉ちゃん、おはよう」


「おはよう、まや姉さん」


わざとらしく挨拶から入る二人。
なにかを隠しているのは一目瞭然だった。
さて、それがあの青い光のことなら事件は即解決なのだが。


「二人で内緒話?」


「内緒話ってわけじゃ……、ねえ、嘉代?」


「う、うん、お姉ちゃん……」


「だったらわたしにも教えられるわよね?」


「えっ、えっと……、うーんと……、あ、そうだ!
それよりまや姉ちゃんたちこそなにしてんの?
朝から二人でデート?」


「こんなのとデートなわけないでしよ……」


伊原がげんなりした様子で呟く。
こんなのとはなんだ。
俺だってお前とデートするくらいなら十文字を選ぶぞ。
……いや、やはり十文字とのデートは想像できんな。
前言撤回。
お前とデートするくらいなら部屋で寝ているぞ、俺は。
別に声に出して言うつもりもない主張だが。


「分かってるよお。
まや姉ちゃん、彼氏ができたんだもんね。
二人でいるところはあんまり見ないけど」


「ふくちゃん温泉に入り浸ってるからね……」


梨絵に痛いところを突かれ、伊原がわざとらしく肩を落とす。
どうやら里志と伊原が交際を始めたことは梨絵たちも知っていたらしい。
親戚で、しかも恋に興味を持ち始める年頃の女の子なのだ。
伊原にその気がなかったとしても、それは根掘り葉掘り詮索されたに違いない。


「まや姉さん、彼氏ができて幸せ?」


遠慮がちに、だが強い視線で嘉代が訊ねた。
俺が初めて見る嘉代の強い視線。
内気な性格ではあるが、いや、内気だからこそ恋の話には真剣なのだろうか。


「なに言ってるのよ、おしゃまさん」


伊原は誤魔化すように呟いたが、その頬は軽く紅潮していた。
交際こそ始まったものの相手はあの里志なのだ。
詮索したことがあるわけではないが、二人の仲はそれほど進展していないらしい。
休日に買い物をする二人の姿を見掛けることが少し多くなった。
俺にとっても、二人の交際で生じた変化はその程度のものだった。

293: ◆2cupU1gSNo 2014/01/07(火) 18:56:37.21 ID:KOZ84PWt0


「ねえねえ、折木の兄ちゃん」


嘉代の伊原への詮索が続くのかと思っていたところに、梨絵のその言葉は予想外だった。
俺は軽く驚いたが、それを表情に出さないように梨絵に応じてみせる。


「どうしたんだ?」


「折木の兄ちゃんから見て、まや姉ちゃんたちってどう見える?」


「伊原と里志のことか?」


「うん」


突然訊ねられても困る。
それほど意識して二人の交際を見守っていたわけでもない。
梨絵の質問の意図は掴めないが、ここは正直に答えておくことにしよう。


「いいんじゃないか?
伊原も中学生の頃から里志にアタックしていたわけだしな。
その念願が叶ったんだから伊原は幸せだろう。
まあ……」


「まあ……?」


「相手があの里志だからな、それが本当に幸せなのかまでは保証できないが」


それは偽らざる俺の本音だった。
そもそも伊原が里志のどこに惹かれているのかも分からない。
里志も悪い奴ではないのだが、かなり浮世離れしたところがあるからな。
常識人代表のような伊原と末永く交際していけるのか、正直保証しかねる。
文句を言われるかと思って伊原に視線を向けてみたが、予想外に伊原は苦笑するだけだった。
里志と交際するようになったはいいものの、想像していなかった苦労に見舞われてもいるのだろう。
理想の交際と現実の交際では天と地ほどの差がある。
そのギャップを埋める作業に苦労しているのかもしれない。
まあ、その作業こそ伊原の望んでいたものなのだろうが。


「そうなんだ……」


小さく呟いて嘉代と顔を見合わせる梨絵。
恋人関係の現実に幻滅したのかと思ったが、そうではないようだった。
なぜなのかは分からない。
だがその一瞬後には、二人ともなにかに安心したように微笑んでいた。
微笑みを崩さず、梨絵が伊原の肩を叩く。


「頑張らないとね、まや姉ちゃん」


「えっ?
うん、まあね……」


「折木の兄ちゃんもね」


俺も?
伊原たちの交際に関して、俺になにを頑張れと言うのだろう。
デートの手伝いとかだろうか。
首を傾げる俺を、梨絵と嘉代は微笑んで見つめるだけだった。
伊原の言う通り、俺は二人には嫌われていないどころか気に入られているらしい。
しかし俺が二人の前でなにかしただろうか。
去年、伊原に頼まれて幽霊騒ぎを探っていたことくらいしか思い浮かばないが。

いや、今はそんなことより、だ。
俺は同じく首を傾げている伊原に視線を向ける。
俺たちの目的をやっと思い出したらしく、伊原は軽く咳払いをしてから続けてくれた。

294: ◆2cupU1gSNo 2014/01/07(火) 19:00:09.21 ID:KOZ84PWt0


「そうそう、そんなことより二人に訊きたいことがあるのよ。
昨日のことなんだけどね……」


昨夜迷子になった時に見た青い光のこと。
その青い光を梨絵と嘉代も見たのか。
その時間に二人はなにをしていたのか。
十文字が様子を見に行ったというのは本当か。
里志はなにをしていたのか。
青い光を見たとして、なにか心当たりはないか。
伊原が大体それらのことを質問すると、まずは梨絵の笑顔が返ってきた。


「まや姉ちゃん、また幽霊見たんだ」


「ゆ、幽霊じゃないわよ!
わたしが見たのは青い光よ、青い光!
幽霊とは決まったわけじゃないんだからね!」


自分に言い聞かせるような伊原の姿が痛々しい。
やはり去年の事件が伊原の中では未解決のままなのが尾を引いているに違いない。
いっそ教えてやれたら伊原も落ち着くかもしれないが、千反田に相談なくそうするのも気が引ける。
結局あの青い光がなんなのかを証明してやるしかなさそうだ。


「そんな青い光なんて見てないよ、ねえ、嘉代」


「うん」


笑顔のままで梨絵が続け、嘉代が頷いた。

295: ◆2cupU1gSNo 2014/01/07(火) 19:00:47.57 ID:KOZ84PWt0


「かほ姉ちゃんが様子を見に行ったのは本当だよ。
十分ちょっとくらいだったかなあ、それくらいですぐ帰ってきたけどね。
福部の兄ちゃんは家の中に入って、明るい所で地図を見ながら携帯でえる姉ちゃんと話してた。
お父さんとお母さんに迷子になりやすい場所を教えてもらってたみたいだよ」


「二人は?」


「留守番してたよ。
下手に動いちゃ駄目って言われてたもん。
かほ姉ちゃんっていつもは優しいけど、あの時は真剣な顔だったもんね。
あんな顔されたら我儘言えないよね」


なるほどな。
田井中は里志と電話中。
十文字は周囲の様子を見に行っていて、里志は善名夫妻と地図を見ていた。
そして梨絵と嘉代は肝試しのスタート地点で留守番していたわけか。

どうやら事態が見え始めてきたようだ。
里志に二、三確認した後で周囲を探れば、いくつか証拠も見つかるだろう。
しかし動機が分からない。
あの青い光を用意する動機だ。
あれは間違いなく懐中電灯の光ではない。
懐中電灯の光は青ではないし、大体あんな高い所に懐中電灯を持たない。
そしてあれが青い光であった理由。
それはもちろん非現実的であったからだろう。
あんな青白い光、現実にはそう存在しない。
それゆえに違和感があるし、伊原のように怯える人間も出てくる。

待てよ。
そういえば肝試しで怖がる理由はなんだ?
納涼のためでもあるだろうが、その一番の理由はペアの親睦を深めるためだろう。
そのために肝試しはよくペアで行われるのだ。
つまりはそういうことだったのか?

なんてことだ。
もしあの青い光の正体が俺の予想通りだとしたなら、非常に困ったことになる。
普段のように千反田に答えを伝えるだけなら問題ない。
だが今回あの青い光の正体を探らせているのは、他ならぬ伊原なのだ。
伊原相手にこの事実を俺の口から伝えなければならないなど、苦行以外の何物でもない。

どうやら俺は珍しく自分の考えが間違っていることを祈らなければならなくなったようだ。
どうか間違っていてほしい。
しかしおそらくは間違っていないだろう。
だから俺はせめてもの抵抗として、誰にも気付かれないよう大きな溜息をついたのだった。

298: ◆2cupU1gSNo 2014/01/09(木) 19:20:37.76 ID:TW7f2OoM0




昨日、迷子になった鳥居の下。
温泉で里志に確認した事を確認した後、俺は別行動させた伊原を待っていた。


「どうしたもんかね……」


らしくなく独り言を呟いてしまう。
途轍もなく気が重い。
まさかこんな真相が待っているとは思ってもみなかった。
どうにかお茶を濁せないかと考えるが、それで伊原を納得させられるとは思えない。
やはり真相を俺の口から語らねばならないのだろう。

不意に足音と話し声が聞こえた。
足音なら分かるが、話し声はおかしい。
伊原は一人のはずだが。
そう思って周囲を見渡してみると、伊原が田井中と話しながら鳥居に近付いて来ているのが見えた。
視線が合うと、伊原は少しだけ頭を下げた。
探索中に田井中に捕まってしまった、という意味だろう。
まあいい。
田井中にも確かめたいことがなかったわけじゃない。


「おいっす、ホータロー」


シニョンを可愛らしく揺らして田井中が楽しそうに微笑む。
田井中もあの青い光の正体を知りたかったのだろう。
千反田と異なってはいるが、その微笑みには好奇の色が強く表れていた。


「まあ、二人とも座れよ」


座るに手頃な大きさの石に促すと、田井中と伊原はその石に腰を下ろした。
俺の考えを口にする前に、とりあえず確認しておく。


「梨絵と嘉代の勉強は見なくていいのか?」


「十文字一人で大丈夫だって。
逆に私がいた方が足手まといっつーか邪魔者みたいな感じなんだよな。
なんか嘉代ちゃんがとんでもなく十文字に懐いちゃってるみたいでさ。
そんな感じで微妙な空気の中で窓の外を見てたら、外でなにかしてる摩耶花の姿が目に入ったんだよ。
これは私もピンと来ちゃったね、そろそろ青い光の正体が分かったんだなって。
それで摩耶花に付いて来たわけだ」


「そうか」


それならそれで構わない。
むしろ田井中がいてくれた方が、どちらかと言えば俺も気が楽だ。
田井中はこれで意外と誰かのフォローに長けている。
青い光の真相を知ったならば、多少のフォローはしてくれるだろう、おそらく。


「それで伊原、どうだった」


「あ、うん、折木の言う通りだったわ」


釈然としない感じで伊原が応じる。
こいつは俺の考えをとりあえず否定から入る。
頭から否定するのなら、俺に助力を求めなければいいと思うのだが。
しかし否定意見を出す伊原の存在も、考えをまとめる時には存外と役立つのも確かだった。
肯定意見だけでは、重大ななにかを見落としてしまうことがあるのは身に沁みて知っている。
一度それで入須に上手く扱われて、大きな失敗をしたからな。
そういった意味では俺は伊原の存在に感謝してしていなくもない。

299: ◆2cupU1gSNo 2014/01/09(木) 19:21:54.44 ID:TW7f2OoM0


「でも、どうして分かったのよ?」


もっとも、伊原はそのことに気付いてはいないだろうが。
照り付ける夏の陽射しに汗を拭いながら応じてやる。


「単純な答えだ。
あれはかなり場所を取るからな、保管場所を選ぶだろうと思っていたんだ。
部屋の中に運べないこともないが、四本はかなり邪魔だし目立つ」


「なるほど、確かにね。
それで青山荘の倉庫に片付けられてたってわけね……」


「なにが片付けられてたんだ?」


田井中が首を傾げながら会話に割り込む。
どうやら田井中は伊原になにも訊ねずにここまで付いて来たらしい。
事前情報なしで俺の語る真相を楽しみたかったということなのだろう。
まったく呑気なものだ。
しかし、なにも考えてない奴に真相を教えてやるのも癪だ。
意地悪をしてやりたいわけではないが、俺は溜息交じりに訊き返してやった。


「お前はなにが片付けられてたと思うんだ?」


「質問を質問で返すな!
って言いたいところだけど、まあ、私も少しは考えなくちゃな。
ホータローたちが今話してるってことは、あの青い光に関係するなにかだろ?
四本……ってことは棒とか長い物か?」


「そう、難しい問題じゃなかったな。
片付けられていたのは、お前の言う通り棒だよ。
ただし単なる棒じゃなく、一メートル以上ある長い棒だ。
それも簡単に振り回せる重さの棒が四本だ。
その棒とは正確にはなんだと思う?」


「普通に四本あってもおかしくない長い棒だろ?
長い棒なんて、意外と四本もないよな……。
おっ、思い付いたぞ、ほうきか?
ほうきなら旅館だし四本くらいあってもおかしくないもんな」


「いい線だが、ほうきだとちょっと重いな。
お前ならほうきでのチャンバラごっこくらい経験あるだろう。
意外に外見以上の重さがあったはずだ」


「勝手な偏見で話すなよ、ホータロー……。
いや、確かにやったことあるけどさ。
ホータローの言う通り、ほうきは結構重いよな。
ってことは、それ以外で四本くらいある長い棒か……」


「ヒントとしては青山荘は旅館で、今は夏だってことだ。
忘れ物として、この時期に保管されていてもおかしくない長い棒……」


「……分かったぞ、虫取り網だな。
そうだろ、ホータロー?」


「ご名答」


頷いた後で伊原に視線を向ける。
俺のその続きの言葉は、倉庫を調べに行っていた伊原が継いだ。

300: ◆2cupU1gSNo 2014/01/09(木) 19:23:03.51 ID:TW7f2OoM0


「折木の言う通りだったわ。
青山荘の倉庫の中には四本、ううん、それ以上の虫取り網が片付けられていたわ。
子供たちって大切にしてる虫取り網をあんなに忘れちゃうものなのね……。

まあ、それは置いておくとして、久し振りに持ったけど虫取り網って軽いのね。
一度に八本くらい持ってみたけど、全然軽かったわ。
子供が使うものだから当たり前なのかもしれないけど」


「それで、虫取り網が青い光とどう関係してるんだ?」


いよいよ好奇の色を隠せなくなってきた様子の田井中が訊ねる。
もったいぶる必要はないし、さっさと教えてしまおう。
青い光の正体は別にそれほど重要ではないのだから。


「その前にもう一度訊かせてくれ、田井中。
お前の見た青い光はどんな感じだったんだ?」


「ふわふわ漂ってた四つの青い光だったな。
街灯かラジコンかなって思ったんだけど、それがどうしたんだよ?」


「どうしてお前は街灯かラジコンだと思ったんだ?」


「高い所にあったからだよ。
地面から二メートル以上の場所にあるなんて、懐中電灯とかじゃありえないだろ?
だから街灯かラジコンか、そうじゃなきゃ怪奇現象に思えたわけで……、あっ」


「そういうことだ」


俺が頷くと、田井中が興奮したように身振り手振りを激しくさせ始めた。
クイズが解けていくような感覚なのだろう。
俺が言うのも変かもしれないが、謎が解けた時の満足感はそれなりのものだ。
ただ今の俺には満足感など存在してはいないが。


「俺もこの目で見たから分かる。
あの青い光は地面からかなり高い所を漂っていた。
そんな高い所を漂えるなんて怪奇現象か、棒かなにかに括り付けたもの意外には存在しない。
しかし怪奇現象で考えるのは安直に過ぎるからな。
それ以外の可能性を辿っていたら、虫取り網の可能性に辿り着いたんだ」


「じゃあなにを括りつけてたんだ?
あんなふわふわした発光する道具なんてあったっけか……?」


「物体自体が光っている必要はないんだよ、田井中。
ランタンや提灯を思い出してみろ、あれらも直接光ってるわけじゃないだろう。
ランタンや提灯の中にある光源が光っているだけだ」


「その証拠の一つがこれよ、たいちゃん」


そう言って、伊原がポケットの中からなにかを取り出した。
確認するまでもないが、俺も田井中と一緒に視線を向けてみる。
伊原の手のひらの上には、真新しいセロテープと青いセロファンの欠片が置かれていた。

301: ◆2cupU1gSNo 2014/01/09(木) 19:24:12.27 ID:TW7f2OoM0


「セロファン……?」


「そう、セロファンだ。
残念ながらと言うべきか、青い光を放つ光源は少ない。
ならばどうすればいいか。
答えは簡単、光源を青いセロファンで覆ってしまえばいい。
ふわふわ漂っている感じに見えたのは、おそらくその上からビニール袋でも被せたからだろう。
光源の正体は大きさから言っても懐中電灯で十分だろうな。
ビニール袋を被せたのは懐中電灯の姿を隠すためか、
それとも独特の浮遊感を持たせて鬼火か人魂にでも見せかけるためか……、
まあ、それは別にどちらでもいいことだ」


「その証拠がこの真新しいセロテープってことね」


青い光の正体を掴んで安心したのか、伊原は苦笑しながらセロテープを手の中で弄んでいた。
その様子からも、セロテープに粘着力が残っているのは一目瞭然だった。


「虫取り網にセロテープなんか貼らないわよね、普通。
しかも倉庫の中にある虫取り網に、昨日今日貼ったみたいなセロテープなんか……」


「おそらくそれはビニール袋を固定するために使ったセロテープだろう。
昨日は暗かったから完全には回収し切れなかったんだろうな。
青いセロファンも取り外す時に端が破れたんだろう。

つまりこうだ。
まず虫取り網の、網がない方に青いセロファンを被せた懐中電灯を固定する。
固定するために使ったのは紐かガムテープか……、
伊原が見つけてないということはビニール紐あたりだったんだろうが。
その後でビニール袋を被せて、袋の口をセロテープで閉じる。
これで青い光を放ちながら高所を漂う奇妙な物体の完成ってわけだ。
それに伊原は怯えていたわけだよ」

302: ◆2cupU1gSNo 2014/01/09(木) 19:24:46.19 ID:TW7f2OoM0


それきり俺が口を閉じると、伊原と田井中も口を閉じた。
青い光の正体は明らかになった。
昨日目にした時から、その正体についてある程度の予想はできていたが。
鬼火や人魂がこの世界に存在しているかどうかは俺も知らない。
だが俺が昨日目にしたのは、いかにもそれっぽい青い光だった。
本当にこの世界に鬼火が存在するとして、俺たちがそうだろうと想像するような。
誰かがそう見せるために模造した人工物のような。
だから俺はあの光が人工物であると仮定して推理を進め、実際にも人工物である証拠を掴んだのだ。

しかしあの青い光の正体がなんであろうと、そんなのはどうでもいいことだった。
重要なのはあの青い光の正体よりも。


「誰なの?
あの青い光を用意した誰かの正体……、折木はもう分かっているの?」


さっきまで浮かべていた苦笑を消し、伊原が真剣な表情で呟き始めた。
幸いながら怒ってはいないようだ。
それでも知りたいのだろう。
これほどまでの手間を掛けてまで、あの青い光を用意した者の正体を。

俺は二人に気付かれないよう小さく溜息を吐いた。
いよいよ触れたくなかった真相を語る時が来てしまった。
語りたくない。
語ってしまえば、これからの伊原の態度が大きく変わってしまうだろうから。
しかしここまで話した以上、誤魔化し続けられるわけでもない。
意を決し、最後で一番重大な真相を俺は語り始める。


「まずはあの光が青かった理由から考えよう。
今更言うまでもないことだが、自然に青い光はあまり存在しない。
だからこそ目立ったんだ、馬鹿馬鹿しいがそのためにあの光は青かったんだよ。
目立たせるために青く光らせて、浮遊物のような形にさせていたんだ。
田井中が一瞬思ったみたいに、街灯やラジコンに誤認されても困るからな。
あの光は目立たなければいけなかったんだ、伊原を驚かせるために」


「やっぱりそうなの?
あの青い光は、わたし一人を狙い打って作られた光だったの?」


神妙な口振りの伊原の言葉に頷く。
なにを考えているのか、田井中は黙り込んだままだ。

307: ◆2cupU1gSNo 2014/01/12(日) 18:09:15.15 ID:KFNAy7Qg0


「更に言えば」


俺は二人の顔を見回してから続ける。


「伊原を驚かせるためにこんにゃくでもなくぬいぐるみでもなく、
若干地味とも言える青い光が選ばれたのは、もちろん遠くからでも視認できるからだろう。
特にあの時の俺たちは迷子だったからな。
どこにいるか分からない人間を確実に驚かせるには、そのための道具を目立たさせるしかない。
難点としては目立ち過ぎてそれほど恐怖感を煽らないということだが、それはあまり重要じゃないんだ。
ほんの僅かでも伊原の心に恐怖が芽生えてくれれば、それで十分だったんだ」


「もったいぶらないでよ、折木。
あの青い光が人工物だってことはよく分かったわ。
人魂でも鬼火でも未確認飛行物体でも不知火でもセントエルモの火でもないことは分かったわよ。
誰なの?
誰がわたしを驚かそうとしていたのよ?」


そこまでありとあらゆる可能性を考慮していたのか、伊原。
謎の発光物について考えられる可能性を、本当に一晩中考え続けていたんだな。
もったいぶっているわけじゃない。
しかし伊原からしてみれば、俺がわざともったいぶっているようにしか見えないだろう。

南中に近い太陽を見上げて目を細める。
わざと太陽の眩しさに目眩を感じてから、その勢いで言葉を続ける。


「さっき温泉にいた里志に確認してきた。
昨夜、里志は田井中に連絡を受けてから、一人で青山荘に戻ったらしい。
もちろんこの周辺で迷いそうな場所を善名夫妻に確認するためだ。
この旅館を経営している二人ならば、観光客が迷いそうな場所くらい分かるだろう。
嘘をついている可能性もあるが、まさか里志もあの二人を抱き込んだりはしないはずだ。
そうでなくても『ジョークは即興に限る』をモットーにしているあいつだからな。
こんな尾を引く悪戯はしないだろう」


「里志が善名のおじさんたちと話していたのは私も保証するぞ、ホータロー。
携帯で迷いそうな場所を教えてもらったのは他ならぬ私だからな。
善名のおじさんたちの声も後ろの方で聞こえてた。
カセットテープに録音したやつを再生してたって可能性もあるけどさ、
それを言ったらホータローたちが迷子になったこと自体が不測の事態だったんだ。
そんなのを用意できるはずないし、用意する意味もないもんな。
里志は間違いなく善名のおじさんたちと一緒にいたはずだよ」


田井中のお墨付き。
これで容疑者から一人除外だ。
残る容疑者は四名。
なんの因果か揃いも揃って女ばかり。


「残る容疑者の中では田井中でもありえない。
あの四つの青い光は、かなり間隔を取って移動していた。
いくら軽いとは言え、右手と左手に二本ずつ持った状態であの動きはきつい。
最低でも二人はいなければ、あの動きは無理だろう」


「じゃあ私が十文字と共犯だったとか?」

308: ◆2cupU1gSNo 2014/01/12(日) 18:09:49.98 ID:KFNAy7Qg0


容疑者の一人のくせに、平然と田井中が訊ねる。
確かにその可能性もあった。
昨夜一人で様子を見に行った十文字。
田井中と落ち合って青い光を漂わせる時間的余裕はたっぷりある。
しかし、だ。
それでは腑に落ちないことが多数残っているのだ。


「確証があるわけじゃないが、犯人は田井中じゃないと俺は考えてる」


「なんでだ?」


「そもそもが肝試しの驚かせ役の田井中だからな、
単に伊原を驚かせいのなら、用意したこんにゃくとかで普通に驚かせればいい。
わざわざ青い光なんて地味な物を用意してまで伊原を怖がらせる必然性がないんだよ。
秘密のサプライズネタにしても、お前なら間違いなくもっと派手な仕掛けを用意するはずだ」


「お、さすがだな、ホータロー。
そうだよ、実はもう一つサプライズネタがあったんだよな。
今だから言うけど、後ろ髪を前に垂らして貞子やろうと思ってたんだよ。
えるくらいまで髪を伸ばしたことがないからさ、一度やってみたかったんだよなー」


さいですか。
それも結構地味なネタではあるが、とりあえず青い光よりはインパクトがある。
俺は若干呆れた表情を浮かべたが、それと対照的に伊原の顔色はみるみると今までより青くなっていた。


「じゃあ……、まさか犯人は……」


それきり伊原が口を閉じる。
残された容疑者は三名。
その内の二名が共犯だと確定しているのだ。
それは伊原にとっては最も疑っていなかった容疑者が犯人だったことを意味していた。
俺はもう一度太陽の眩しさに目を細めて、まずは補足説明から先に始める。


「お前はおかしいとは思わなかったか、伊原?」


「なにをよ……?」


「田井中から連絡を受けた里志が青山荘に戻り、十文字が俺たちの様子を見に行った。
おかしくはないか?」


「……」


「十文字は年下の女の子を置いて、一人で様子を見に行くような人間だったか?
俺でも分かるぞ、夜の闇に女の子二人残すことの危険性くらいは。
もし十文字が血も涙もない冷血女だったとしたら別だが、十文字はそういう女だったか?」


「だったら……、まさか……」


「俺も十文字のことをよく知っているわけじゃない。
だが俺の知っている十文字は嘉代に特に懐かれている落ち着いたお姉さんだった。
少なくとも俺の姉貴よりは、よっぽど姉に相応しい性格だ。
そんな十文字が二人を夜道に置いて、俺たちの様子を見に行ったりはしない。
ここは三人が一緒にいたと考えるべきだろうな。
ならば十文字と善名姉妹はどうしてそんな嘘をついたのか」


「お互いの……アリバイのため……?」

309: ◆2cupU1gSNo 2014/01/12(日) 18:10:24.65 ID:KFNAy7Qg0


「その通りだ。
三人一緒に行動していたと語るよりは、別行動を取っていたと語る方が共犯関係を疑われにくい。
おそらくはそういった発想で嘘をついたんだろうが、
残念ながら俺は十文字をそこまで冷たく見積もってはいない。
確かに十文字は得体が知れない上に取り捨て選択に躊躇がない奴だよ。
だがそれは自分の大切なものを守るためなんだろうし、基本的には義理堅い女だよ、十文字は。
例えば知り合って数日も経っていない女の子の頼みを聞いてやるくらいには」


「言い出したのは、二人の方なの?」


「おそらくな。
共犯関係を申し出たのは、懐き方から考えると嘉代だろう。
この計画自体を思いついたのはどっちとも言えないがな」


「どうしてよ?
どうして二人がわたしを驚かそうとしたの?
わたしって二人にそんなに嫌われていたの?」


辛そうな表情を浮かべる伊原。
この事件の主犯は梨絵と嘉代。
仲の良い親戚の子が自分を驚かした犯人だったのだ。
伊原のその衝撃は計り知れない。
なにもかも裏切られたような気分になっているのだろう。
だが隠された真実はもっと残酷なのだ。
伊原ではなく俺にとって、なのだが。


「安心しろ、伊原。
お前は二人に嫌われているわけじゃない。
むしろ好かれているからこそ、梨絵たちにこんな計画を立てられたんだよ」


「どういうこと?」


「さっき里志にもう一つ確認してきた。
あいつがこの合宿中、温泉浸りになっている理由だ。
里志が温泉好きの温泉マニアってのは確かにある。
だがあいつにはもう一つ温泉浸りにならなければいけない理由があったんだ。
あいつは言っていたよ、『どうもあの二人に嫌われてるみたいでさ』ってな。
飄々しているあいつだが、自分を嫌っているらしい年下の女の子とずっと一緒にいられるほど図太くもないんだよ。
それで温泉に逃げ込んでいたんだ」


「嫌ってる……?
あの二人がふくちゃんを?」


「嫌ってるって言うのは語弊があるかもしれない。
どちらかと言えば好印象を持たれていないと言う方が正しいか。
なあ、伊原。
お前は二人に里志のことをどう説明していたんだ?」


「別に……、ありのままだっはずよ。
バレンタインチョコは受け取ってもらえなかったけど、最近付き合えるようになったって。
ふくちゃんのこと、悪く言ったりなんかしてないわ」


「お前にとってはありのままだったつもりなんだろう。
だがさっき嘉代たちと話した時のことを思い出してみろ。
嘉代はお前になんて言っていた?」


「『まや姉さん、彼氏ができて幸せ?』……」

310: ◆2cupU1gSNo 2014/01/12(日) 18:11:05.06 ID:KFNAy7Qg0


「そういうことだ、二人にはお前が幸せなようには見えなかったんだよ。
その包み隠さない性格が災いしたのかもしれない。
特に今年のバレンタインのことを話したのがまずかったんだろう。
いつまでもお前への答えを保留していた里志。
バレンタインチョコを受け取らなかったくせに、なにを思ったのかお前と付き合い始めた。
過程だけ羅列してみると最低だな、里志の奴……。
だが近くで見ていた俺は、それが笑い話になるような過去だってことは分かっている。
紆余曲折あったが、お前たちにとっていい形に落ち着いたことも知っている。

だがな、たまにお前から話を聞くだけの梨絵たちにはそれが分からなかったんだよ。
特に恋に夢を抱きがちな年頃だから、余計にそうなんだろう。
お前たちには悪いが、お前たちの恋愛模様はあまりロマンチックとは言えないからな。
それで梨絵たちは里志をよく思っていなかったんだ。
しかもこんな時にだけ鋭い里志は梨絵たちから逃げ回って温泉に入り、
誤解を解く機会のないままに里志の悪印象は梨絵たちの胸の中に募っていった。
梨絵と嘉代の中では、お前ではなく温泉が好きなだけの最低な温泉男として写っていたはずだ。
それで二人は今回の計画を思いついたんだ」


「ちょっと待ってよ、折木」


「どうした」


「ふくちゃんのことが誤解されてるのは分かったわ。
思い返してみれば、二人がふくちゃんをよく思ってない節があった気もするしね。
だけどそれとあの青い光にどんな関係があるって言うのよ?」


伊原が強い視線で俺を見つめる。
田井中も俺の続きの言葉を待っている。
俺は大きな溜息をついて、息をしばらく止めた。
今までいくつかの事件の真相に触れてきた。
だが今回ほど語りたくない真実は存在しなかった。
語らずにすませてしまいたったが、この二人の視線から逃げることはもうできないだろう。
腹を括るしかあるまい。
俺は最後に大きく息を吸ってから、一番語りにくかったことを口にした。


「俺と……」


「あんたと?」


「俺とお前を付き合わせるためだろうな」


「なによそれっ!」


その声と同時に近くの樹に止まっていた蝉が一斉に飛び立った。
野鳥も何羽か飛び立って行ったようだ。
伊原の声が山彦のように反響する。
それほどまでの大声だった。
伊原は顔面を真っ赤にさせて涙目になっている。
もちろん照れているわけではなく、怒っているだけだ。
いや、照れられても困るのだが。
とにかく伊原はそんな今にも俺に殴り掛からん表情で肩まで震わせていた。
だから言いたくなかったんだ……。
俺は全く悪くないのだが、自分を弁護するために説明を続ける。

311: ◆2cupU1gSNo 2014/01/12(日) 18:11:38.69 ID:KFNAy7Qg0


「落ち着けよ、とにかく落ち着け。
落ち着いててくれよ……、な?
お前は、ほら、そうだ、吊り橋効果って知ってるか?
吊り橋効果だ、聞いたことくらいあるだろう」


「あるわよっ!
あるけどそれがなにっ?」


「梨絵たちはそれを狙ったんだよ。
去年の事件から、梨絵たちはお前が心霊現象に弱いのを知っていた。
だから肝試し中に得体の知れない光でお前を怖がらせて、ペアの俺に恋心を抱かせようとしたんだ。
昨日肝試しをしようと言い出したのは田井中だったが、
おそらく田井中が言い出さなければ十文字が提案するつもりだったんだろう。
吊り橋効果を提案したのは十文字だと思うが、確証は今のところない」


「くじはっ?
くじも仕組まれてたって言うのっ?」


「おそらくな。
やり方は分からないが、くじを引いた六人中三人が共犯だったんだ。
隠れてくじを交換するとか、いくらでもやりようはあるだろう」


伊原が口を閉じる。
予期せぬ真相に興奮していた伊原だが、俺の説明にも一理あると思い始めてくれたのだろう。
数回呼吸音が聞こえた後、少し落ち着いた口振りで伊原が俺に訊いた。


「なんで相手があんたなのよ……。
そりゃ今は他に相手がいないのは分かるけど、よりにもよって……」


「お前が俺のことを悪く言っていたからだろうな」


「……どういうこと?」


「俺のことをどう語っていたのかはこの際問わない。
どうせいつもぼーっとしてるくせに耳聡いとか、やる気がないくせに説明好きとでも語ってるんだろう。
別にどんな罵詈雑言で俺を貶していても構わない。
だがな、それをずっと聞かされていた梨絵たちが俺の姿を見てどう思うか分かるか?」


「だからどういうことなのよ?」


「いいか、よく考えてみろ。
お前はいつも梨絵たちの前で俺のことを罵詈雑言で貶している。
なのに同じ部の部員とは言え、合宿と言う名の慰安旅行に俺を連れて来るんだぞ?
普段文句ばかり言っているくせに、ちゃんと連れて来てるんだぞ?
まるで小学生が好きな子にちょっかい出してるみたいじゃないか。
『本当に折木の兄ちゃんことが嫌いなのかな?』と梨絵たちが思ったとしてもおかしくないだろう」


「勘違いしないでよ!
除け者にされる折木が可哀想だから連れて来てあげてるだけよ!」


「分かってる……!
勘違いしてるのは梨絵と嘉代だ……!」

312: ◆2cupU1gSNo 2014/01/12(日) 18:12:05.52 ID:KFNAy7Qg0


俺が肩を落とすと、言い過ぎたと思ったのか伊原も肩を落として溜息をついた。
なにをしているんだ、俺たちは……。
恋愛方面で他人に勘違いされることほどやるせないことはない。
中学時代、腐れ縁の伊原との関係を邪推された時から分かっていたことだ。
まさか高二になってまで同じ経験をするとは思わなかった……。


「なるほどな、梨絵ちゃんたちは摩耶花をツンデレだと思ったわけだな」


腕を組んで田井中がうんうんと頷く。
ツンデレ?
聞き覚えのない言葉に俺と伊原が首を傾げると、田井中がなにかに気付いたように手を叩いた。


「あっ、ホータローたちはツンデレって言葉知らないのか。
そうだよな、二〇〇一年だもんな、確かまだそんな言葉無かったよな」


「今更思い出したように未来人みたいなことを言うな。
まあいい、とにかくそのツンデレってのはなんなんだ?」


「人前ではツンツンしてるけど、二人きりの時はデレデレしてるからツンデレだ。
本当は色んな意味合いがあるみたいなんだけど、そういう意味で使われることが一番多いみたいだな」


さいですか。
しかし伊原がそのツンデレか……。
想像してみようとしたが、やめた。
あまりにも気持ち悪かったからだ。
しかし梨絵たちが伊原を同じ様に考えているというのは、俺も同意見だ。

321: ◆2cupU1gSNo 2014/01/19(日) 17:35:45.89 ID:7ucZ1Los0


「どうしてわたしのこと、そんな風に誤解しているのかしら、あの二人……」


分かっていないのは本人ばかりなり。
だがいちいちそれを指摘していても話が拗れるだけだろう。
ツンデレの件にはできるかぎり触れずに、
伊原が知りたがっているであろう残った疑問点について述べることにする。


「俺たちが迷子になったのは、梨絵たちにも予想外だったはずだ。
いくらなんでも俺たちの迷子まで計画に組み込めるはずがない。
俺の勝手な想像だが、青い光のお披露目は肝試しの帰り道にでもするつもりだったんだと思う。
おそらくは嘉代が忘れ物をしたとでも言い出して、嘉代と親しい十文字がそれに付き添う。
里志と田井中は梨絵が誘い出し、俺と伊原が二人残されたのを見届けてから、青い光を照らす。
肝試しが終わっている時間、肝試しの立案者の田井中が帰って来ているというのに突如現れる怪しい光。
恐怖を感じさせるとまではいかないまでも、正体不明な光を目にするという気持ち悪さは俺たちに残せる。
それで伊原と俺の間に吊り橋効果が起これば万々歳だ。

だが今言った通り俺たちが迷子になるというハプニングが発生した。
それで三人は急遽それを利用することを思いついたんだ。
帰り道を歩いている人間よりは、迷子である人間の方が遥かに怖がらせやすいからな。
俺たちがどこを迷っているのかは当然分かっていなかっただろうが、三人には問題なかった。
閑散としていて目立つものがほとんどないこの村だ。
正体不明の青い光なんて目立つ代物、半径一キロ圏内にいる人間なら誰でも気付く。
現実に伊原もすぐに見つけて怯えていたわけだしな」


俺の考えていたことのほとんどを一気に口にすると、急激に喉の渇きを感じた。
どうやら照り付ける陽射しの中で喋り過ぎてしまったらしい。
青山荘に戻ったら、冷たい麦茶でも頂くとしよう。
全てを語ったわけではないが、それらは別に伊原が知らなくてもいいことだ。

不意に田井中が俺に視線を向けていたことに気付く。
どうやら田井中はそれを知りたがっているらしい。
面倒ではあるが、田井中には教えてやっても問題あるまい。
俺が頷いて目配せをすると、田井中はそれだけで俺の意図を汲んでくれたらしい。
唸っている様子の伊原の肩を叩いて優しく微笑んだ。


「なあ、摩耶花」


「どうしたの、たいちゃん……?」


「ショックだったか?
あの青い光を用意したのが梨絵ちゃんたちでさ」


「そりゃショックよ……。
理由があったとは言え、私のことを怖がらせてたのがあの二人だったなんて。
もちろん計画のほとんどは十文字さんが立てたものなんだろうけど、それでも……」


「確かに手段はアレだったよなー……。
摩耶花を怖がらせてホータローとくっつけるなんてとんでもない発想だよ。
でもさ、それはそんなことをしたくなるくらい摩耶花が心配だったってことでもあるよな?
摩耶花のことだから私が言わなくても分かってると思うけど」


「……うん」

322: ◆2cupU1gSNo 2014/01/19(日) 17:36:11.79 ID:7ucZ1Los0


複雑な表情で伊原が頷く。
伊原も分かっているのだ、梨絵たちに悪意がなかったことくらい。
十文字も二人に頼られただけで悪意はなかったはずだ、おそらく。
それでも釈然としないのは、伊原が白黒はっきりさせたがる性格であるからだろう。
この青い光の事件、どう決着させるか答えを出せていないのだ。

だが伊達に女子大生(入学寸前だが)と言うべきなのだろうか。
若干の大人の余裕を見せた笑みで、田井中が伊原の肩を柔らかく抱いた。
その仕種には慣れまで感じさせる。
もしかしたら田井中が部の後輩だと話していた中野とかいうギタリストが、
伊原のような真面目で融通が効かない面倒臭い性格をしているのかもしれない。


「二人は摩耶花に幸せになってもらいたかったんだよ」


「分かってるわ……。
でもね、たいちゃん、わたし幸せなのよ?
二人が考えるような幸せじゃないかもしれないけど、ふくちゃんと付き合えて幸せなの。
たまに寝る前に布団の中で笑顔になっちゃうくらい……」


「だったら、どうしたらいいか分かるよな?」


「二人に分かってもらえるかしら……」


「分かってもらえるまで話せばいいんだよ、摩耶花。
なんなら里志を温泉から引きずり出して、二人で話してやればいい。
『紆余曲折ありましたが、わたしたちは今幸せです』ってさ。
何度も話し合えば、二人もきっと分かってくれるって。
元々空気を読み過ぎた里志が温泉に逃げ込んでたのが、誤解の始まりだったわけだしな」


「そうね……。そうよね……」


伊原が呟きながら何度も頷く。
自分に言い聞かせる様に、自分の幸せをもう一度再確認する様に。
その後で田井中に向けた伊原の眼光は、もういつもの鋭さだった。


「よしっ、じゃあ今から二人と話してくるわ。
ふくちゃんを温泉から引きずり出して、二人と話し合ってくる。
二人は十文字さんと勉強してるのよね、たいちゃん?」


「ああ、勉強しながらお昼のことを話し合ってた。
今日は私たちが帰る前に、二人が小さなパーティーを開いてくれるらしい。
せっかくのパーティーなんだ、最後くらいなにも考えずに騒ごうぜ?」


「そうね、わたしだってパーティーは楽しく参加したいもの」


「あんまり二人を責めないでやってくれよ?」


「分かってるわ、じゃあちょっと行ってくるわね」


温泉の方向に走り出そうとする伊原。
だがその前に俺の方に珍しい表情を向けた。
柔らかい微笑みだった。

323: ◆2cupU1gSNo 2014/01/19(日) 17:36:56.47 ID:7ucZ1Los0


「今回はありがとね、折木」


「あ、ああ……」


急なことに驚きながら応じたが、伊原は俺の返事を聞くより早く走り去ったようだった。
どうやら俺の反応などどうでもよかったらしい。
だが俺に一言でも礼を言う分、伊原にしては格段に柔らかい行動だった。
今から台風でも来なければいいが。
台風で田舎に足止めなど、いかにも安っぽいミステリーだ。


「ありがと、だってさ」


田井中が意地の悪い表情を俺に向ける。
田井中にとっても、田井中の中にある千反田の記憶にとっても、
伊原が俺に礼を言うのは非常に珍しい光景であるようだった。
俺がなにも言わずに肩を竦めると、田井中は僅かだが真剣な表情になった。
伊原がいなくなった以上、あいつの前で話しにくかったことが存分に話せるようになったわけだ。


「それでさ、ホータロー」


「どうした」


「いつから気付いてたんだ、梨絵ちゃんたちが犯人だって?」


「喉が渇いてるんだが」


「後で田井中家特製の麦茶を淹れてやるから我慢してくれ」


「ちゃんと淹れられるのか?」


「失敬な。
私の麦茶は紅茶名人のムギのお墨付きだぞー?」


ムギ……、琴吹紬か。
良家の子女であり、紅茶を淹れるのが得意らしい彼女のお墨付きなら問題ないだろう。
しかしムギお墨付きの麦茶とは、言い得てなんとも妙だ。
別にどうでもいいことではあるが。


「分かったよ、別に時間が掛かる話でもないから教えてやる。
美味い麦茶を振る舞ってくれよ」


「サンキュー、麦茶は任せとけ」


その麦茶の味を想像し、俺は唾を飲み込む。
さっさと田井中の疑問を解消して、涼しい風に吹かれながら麦茶を飲もう。


「梨絵たちが怪しいと思ったのは、あの青い光とは関係ないところだった。
お前の中にも千反田の記憶があるわけだし、多少の違和感はあったはずだ。
お前も思わなかったか?
梨絵と嘉代が想像以上に親しいとな」


「ああ、それは私もびっくりしたよ、ホータロー。
えるの記憶の中では、梨絵ちゃんと嘉代ちゃんに関してはかなり苦い思い出だったからな。
二人は憎み合ってるってほどではないにしても、えるの理想通りの仲良し姉妹じゃなかった。
浴衣の貸し借りもできないくらいの、そこそこの仲の良さの姉妹でしかなかった。
だから私もこの合宿にはちょっと緊張してたんだけどな」

324: ◆2cupU1gSNo 2014/01/19(日) 17:37:27.62 ID:7ucZ1Los0


「だが二人の関係は飛躍的に改善されていた。
それも俺たちが合宿に訪れてから、その傾向は更に顕著になったようだった。
少なくとも俺の記憶の中では、嘉代はあんな笑顔を梨絵に向けたりはしない。
だから思ったんだよ、二人は俺たちが関係しているなにかをきっかけに親しくなったんだろうってな。
それで不意に思い出したんだ、人間が仲良くなる一番の方法がなんなのかって話を」


「あ、聞いたことがある気がするな、それ」


「まあ、聞いたことがなかろうと、誰もが実感してることだろうがな。
人間が仲良くなる一番の方法、それはもちろん共通の敵を持つことだ。
世界中どの国であろうと自然の摂理だよな、それは。
ならば梨絵たちは誰を共通の敵だと考えているのか?
これもよく考えなくても分かることだな。
二人は伊原の親戚で懐いている。
伊原が二人の共通の敵になることはありえない。
千反田にも伊原の友人として懐いているようだから、お前は除外される。
十文字と二人は初対面だからそもそも嫌われるほどの関係じゃない。

残ったのは俺と里志だが、思い出してみればすぐ思い当たった。
今年の梨絵たちは妙に俺に親しげだと思ったが、逆だったんだということに。
里志が嫌われていたから、なにもしていない俺の株が相対的に上がっただけだったんだ。
そこから考えを組み立てていったら、いつの間にか青い光の正体に気付けたってだけの話だ」


「なるほどなー……」


田井中が感心したように頷いていたが、
俺自身はそれほど自分の推理に自信があるわけではなかった。
あの青い光を用意した犯人は梨絵と嘉代と十文字で間違いない。
ただその動機が本当に里志という共通の敵を排除するためであったかは分からない。
人の心の中を完全に覗き込めると思えるほど、俺は傲慢じゃない。

去年、俺は仲の良い姉妹など枯れ尾花だと思った。
だが仲の良い姉妹が枯れ尾花であるのなら、仲の悪い姉妹もまた枯れ尾花に過ぎないのではないだろうか。
それが今年の梨絵と嘉代を見ていて実感したことだ。
違う家庭の姉妹の関係など、他人が見ていて推察できるものではない。
愛情、近親憎悪、親しみ、鬱陶しさ。
家族にはそういう様々な感情を同時に抱いてしまうものなのだから。
あの二人の一面だけ見て、なにもかも分かったつもりになるなど傲慢にも程がある。
しかしあの青い光が二人を強く結び付けたのも、また確かなはずだった。

セントエルモの火。
さっき伊原はあの光をそう呼んだことを思い出す。
悪天候時、船のマストが発光する現象の名称。
前にたまたま下校途中に沢木口につきまとわれたことがあった。
どうやら補習終わりで、普段下校している仲間が全員帰ってしまっていたらしい。
俺ともそう親しいわけではないのだが、沢木口はそういうことを気にする繊細さを有してはいなかった。
その際に天文部らしく沢木口が語ったのだ、セントエルモの火の伝承を。

セントエルモの火は一つ現れることと、二つ同時に現れることがあるそうだ。
一つの場合は「ヘレナ」。
二つの場合は「カストルとポルックス」と称するらしい。
カストルとポルックスは双子座を構成する星の名前であり、それで沢木口も知っていたわけだ。
沢木口が言うには、セントエルモの火は二つ出た場合、嵐が収まるという希望の意味を持つらしかった。
狙ってやったわけではないだろうし、実際には四つの光があったわけだが、
それでも俺はあの二つの光が梨絵たちにとってのセントエルモの火、カストルとポルックスになったのではないかと思えた。
誤解からの行動であれ、なんであれ、あの光をきっかけに二人の仲が改善されたのは間違いないのだから。

332: ◆2cupU1gSNo 2014/01/24(金) 18:58:47.12 ID:LlP4ohDu0


「摩耶花、上手く二人に説明できると思うか?」


田井中が少し心配そうな表情を浮かべる。
誤解から共通の敵を得た梨絵と嘉代の仲は飛躍的に改善された。
その始まりが誤解だっただけに、その誤解が解けてしまえば夢のように二人の仲は崩れ去る。
田井中はそれを危惧しているのだろう。
確かにその可能性はあった。
伊原が余程上手く誤解を解かねば、二人の間にはまず間違いなく遺恨が残るだろう。
だが俺は苦笑を浮かべて返してやった。


「大丈夫なんじゃないか?」


「大丈夫なのか?」


「多分な。
伊原もあれで短慮でなければ馬鹿でもない。
梨絵たちが傷付かないように、気を遣って説明をするだろうさ。
お前にも千反田の記憶があるんだから分かるだろう。
伊原の親しい人間に対する気遣いは大したもんだ。
千反田のずれた発想でさえ頭から否定することはしない。
増してあいつは一応二人の親戚のお姉さんなんだ。
それに誇りを持ってるようでもあるし、お前が心配しなくても伊原は上手くやるさ」


「そっか……、そうならいいよな……」


「ああ」


俺はその田井中の呟きには本気で頷いた。
梨絵と嘉代にはもう会うこともないかもしれない。
里志の誤解を解くことで、相対的に俺の評価が下がってしまうかもしれない。
善名家の家庭の事情に首を突っ込んでやれるほど、俺は情熱的じゃない。
もしまた二人が仲違いを起こしたとしても、その改善に尽力はしないだろう。
だが俺は思う。
せっかくの姉妹なのだ。
仲の悪い姉妹であるより、誤解からとは言え改善された仲の姉妹である方がずっといい。
他人の家庭の不幸を望むほど、さすがにそこまで俺は薄情じゃない。


「にしても、さ」


天を仰いだ田井中が、熱気に汗を拭いながら微笑んだ。
田井中も伊原と善名姉妹を信じたのだろう。
その表情からは既に暗さが消え去っていた。


「なんだ」


「やっぱホータローは凄いよなー、結局あっと言う間に解決しちゃったじゃん」


「あっと言う間じゃない。
朝から付き合わされて結構疲れてるぞ、俺は」


「それでも私にとっちゃあっと言う間だよ。
私も梨絵ちゃんたちの勉強見ながら青い光の正体を考えてはみたけど、全然分からなかったんだもんな。
なのにホータローには光の正体どころか犯人と動機まで分かっちゃうなんてさ。
それだけじゃない。
この前、私が用意したゲームにしたってそうだよ」


「はさみのやつか?」

333: ◆2cupU1gSNo 2014/01/24(金) 18:59:36.14 ID:LlP4ohDu0


「そうそう。
あのゲームさ、それなりに自信があったんだぜ?
頭を捻って、えるの記憶の中から使えそうな知識まで探して、やっと思いついたゲームだったんだ。
それなのにホータローは私が寝てる間にクリアしちゃってたんだもんな。
落ち込むぞ、あれは……。
だからさ、やっぱホータローは凄い探偵力を持ってると思うんだよ。
本気で探偵を目指してみてもいいんじゃないか?」


「たまたま運が良かっただけだ。
それに探偵なんて俺の柄じゃないだろう。
探偵なんて疲れるばかりで面倒な仕事じゃないか」


「言うと思った」


落胆した素振りも見せず、田井中が楽しそうに笑った。
こいつもこいつで俺の行動パターンを読み始めたのかもしれない。
まあ、単純な行動指針を持っている俺だ。
それなりの時間を一緒に過ごしてきた人間なら、俺の行動パターンなど簡単に読めるだろうが。


「だけど本気でびっくりしてるのも本当だぞ?
ホータローってば、数少ない情報から見事な推理を組み立てるじゃんか。
少なくとも私にはできないし、他の大多数の奴等にも無理な芸当だよ、それは。
特にびっくりしたのが怪盗十文字の事件の時だな。
よくあれだけ少ない情報で解決できたもんだよ。

いやー、まさか犯人が眼鏡の会長さんだったなんてな。
確か真鍋だったっけか?」


「田名辺だよ、田名辺。
田名辺治朗。
いや、俺もあれからそんなに会ってるわけじゃないから多分だが」


「そうだっけ?
って眼鏡の会長で真鍋なのは私の友達だったわ、ごめんごめん。
ちなみに私の友達の方の真鍋会長は凄いぞー。
何たって生徒会長なんだからな。
唯の幼馴染みで和って名前なんだけど……」


「別にお前の学校の生徒会長はどうでもいいし、
平沢とその真鍋が幼馴染みだろうとなんだろうと知ったことじゃない。
それよりそろそろ戻らないか?
ムギお墨付きの麦茶とやらを振る舞ってくれるんだろう?
さっきも言ったが喉が渇いてるんだ、俺は」


「おっと、そりゃ悪かった。
んじゃ、そろそろ青山荘に戻るとするか」


言いながら軽く屈伸運動をする田井中。
俺もそれに倣って関節を伸ばそうとして、不意にその動きが止まった。
田井中の奴、今おかしなことを言わなかったか?


「おい田井中」


「なんだよ、ホータロー。
喉が渇いてるんじゃないのかよ?」


「当然喉は乾いてる。
だがそれより先に訊かせてほしいことができたんだ」


「和のことか?
ホータローってえるより真面目な生徒会長の方が好みな奴だったのか?」

334: ◆2cupU1gSNo 2014/01/24(金) 19:00:04.38 ID:LlP4ohDu0


「違う、そうじゃない。
さっきお前は十文字の正体が眼鏡の会長だって言ったよな?」


「だってそうだろ?」


「そうだよ、怪盗の十文字の正体は眼鏡の会長の田名辺治朗だ。
じゃあその動機をお前の中の千反田は憶えているか?」


「うーんと……、
なんたらの順番って同人誌のためだったはずだろ?」


「『クドリャフカの順番』だ」


「あー、それだそれ。
その同人誌のことをちゃんと憶えてるかって、
それを同人仲間に確かめるための事件だったはずだが?」


「ああ、その通りだよ。
やっぱり物覚えがいいみたいだな、千反田は」


「えるの物覚えの良さには、期末試験の時もお世話になりました」


「それはなによりだが、期末試験のことは今はどうでもいい。
千反田が十文字の正体を知っているということが重要なんだ。
なあ、田井中、どうしてお前が十文字の正体が田名辺だと知っている?」


「なに言ってんだよ、ホータロー。
えるの記憶の中にあったからに決まってるじゃんか」


「もちろんそうだろう。
だがそれだと辻褄が合わなくなるんだよ」


「……どういうことだ?」


田井中が神妙に首を捻りながら俺に訊ねる。
どういうことなのかは俺にも分からない。
分からないからこそ、田井中に言ってやらねばならなかった。


「十文字の正体だがな、千反田は知らないんだ。
なんせ俺と田名辺が一対一で話しただけなんだからな。
確かに十文字の正体はお前の中の千反田の記憶にある通り田名辺だが、
盗み聞きした奴でもいない限り、それを知っているのは俺と田名辺本人だけなんだよ。
だから訊かせてくれ、田井中。
お前の中の記憶では、千反田は俺たちの会話を盗み聞きしていたのか?」


「いや、してない。
してない……はずだ。
少なくとも私の中のえるは盗み聞きなんてしてない」


「そうだろうな。
千反田は盗み聞きなんてする様な奴じゃないし、
もしなにかの弾みでしたとして嘘を貫き通せるほど器用でもない。
じゃあお前の中の千反田はどうして田名辺が犯人だって知っているんだ?
それも犯行の動機まで」


「どうして……って、普通にホータローの横で聞いてたんだよ。
えるのその時の驚きも、お気に入りの映画みたいに鮮明に思い出せる。
だけどホータローの中じゃそうじゃなかったんだよな……?」

335: ◆2cupU1gSNo 2014/01/24(金) 19:00:38.79 ID:LlP4ohDu0


「違う、そうじゃない。
さっきお前は十文字の正体が眼鏡の会長だって言ったよな?」


「だってそうだろ?」


「そうだよ、怪盗の十文字の正体は眼鏡の会長の田名辺治朗だ。
じゃあその動機をお前の中の千反田は憶えているか?」


「うーんと……、
なんたらの順番って同人誌のためだったはずだろ?」


「『クドリャフカの順番』だ」


「あー、それだそれ。
その同人誌のことをちゃんと憶えてるかって、
それを同人仲間に確かめるための事件だったはずだが?」


「ああ、その通りだよ。
やっぱり物覚えがいいみたいだな、千反田は」


「えるの物覚えの良さには、期末試験の時もお世話になりました」


「それはなによりだが、期末試験のことは今はどうでもいい。
千反田が十文字の正体を知っているということが重要なんだ。
なあ、田井中、どうしてお前が十文字の正体が田名辺だと知っている?」


「なに言ってんだよ、ホータロー。
えるの記憶の中にあったからに決まってるじゃんか」


「もちろんそうだろう。
だがそれだと辻褄が合わなくなるんだよ」


「……どういうことだ?」


田井中が神妙に首を捻りながら俺に訊ねる。
どういうことなのかは俺にも分からない。
分からないからこそ、田井中に言ってやらねばならなかった。


「十文字の正体だがな、千反田は知らないんだ。
なんせ俺と田名辺が一対一で話しただけなんだからな。
確かに十文字の正体はお前の中の千反田の記憶にある通り田名辺だが、
盗み聞きした奴でもいない限り、それを知っているのは俺と田名辺本人だけなんだよ。
だから訊かせてくれ、田井中。
お前の中の記憶では、千反田は俺たちの会話を盗み聞きしていたのか?」


「いや、してない。
してない……はずだ。
少なくとも私の中のえるは盗み聞きなんてしてない」


「そうだろうな。
千反田は盗み聞きなんてする様な奴じゃないし、
もしなにかの弾みでしたとして嘘を貫き通せるほど器用でもない。
じゃあお前の中の千反田はどうして田名辺が犯人だって知っているんだ?
それも犯行の動機まで」


「どうして……って、普通にホータローの横で聞いてたんだよ。
えるのその時の驚きも、お気に入りの映画みたいに鮮明に思い出せる。
だけどホータローの中じゃそうじゃなかったんだよな……?」

336: ◆2cupU1gSNo 2014/01/24(金) 19:01:30.95 ID:LlP4ohDu0


田井中の言葉に頷いた俺はシャツの背中が汗で湿るのを感じていた。
夏の熱気からの汗ではなく、若干の冷たい汗で。
この俺と田井中の記憶の齟齬にはなんの意味があるんだ?

俺はこれまで田井中と怪盗の十文字について話したことがなかった。
当然だ。
あの事件は千反田の中では古典部の手痛い敗北の記憶しか残らないものだったからだ。
事件自体に千反田がそれほど関係したわけでもない。
千反田が十文字事件でやったことと言えば、てんやわんやの右往左往くらいのものだ。
その結果訪れた敗北など、相手が田井中とは言え思い出させることではない。
だからこそ俺は十文字事件について全く触れなかったのだ。

しかし田井中は知っていたのだ。
十文字事件の犯人が田名辺であるということを。
しかも千反田の記憶の中では、よりにもよって俺の隣でそれを聞いていたのだと言う。
もちろん田井中のことだ。
こんな意味のないことで嘘などつきはしないだろう。
つまり田井中の中では本当にそうして十文字事件が解決したのだ。

記憶の改竄だろうか。
過去の受け入れがたい記憶を千反田が自分で書き換えたとする。
千反田の記憶をそのまま思い出すことしかできない田井中が、その改竄を真実と誤認したのか?

馬鹿な、支離滅裂だ。
記憶を改竄するにせよ、それにはまず千反田が事件の真相を知っていなくてはならない。
知っているために最も考えられる可能性はやはり盗み聞きだが、千反田が盗み聞きなどするだろうか?
いや、もしかして田名辺の口から漏れた?

違う。
田名辺が自分で事件のことを口にするメリットがない。
そもそも仮に田名辺が事件の真相を千反田に語ったとして、わざわざ千反田が記憶を改竄するか?
十文字事件は千反田の中で苦い記憶であったことは間違いない。
しかしだからと言って、千反田はその苦さから逃げ出すような奴じゃない。


「どういうことなんだよ……?」


田井中が自らに、千反田に問い掛けるように呟く。
当然のことだが返事はなかった。
俺もその疑問に答えてやることはできなかった。

俺と田井中の中にある千反田の記憶との間にある齟齬。
これがなにを意味しているのかは分からない。
だが分からないからこそ、分からないという余地があるからこそ、これにはなんらかの意味がある。
この現象に対するなんらかの突破口になる。
そのはずだ。
それが良き方向にしろ、悪しき方向にしろ、だが。

背伸びをして、真夏の太陽を仰いでみる。
目眩がしそうなほどの熱気だというのに、俺の背中には冷たい汗が流れ続けていた。

337: ◆2cupU1gSNo 2014/01/24(金) 19:02:24.22 ID:LlP4ohDu0




六章 さよなら妖精


1.八月二十八日


残暑厳しい夕陽に照らされている。
夕陽を背中に田井中が立っている。
長髪を一本のできの悪い三つ編みに結んだ田井中が。
その三つ編みが唐突な強風に揺れる。
未だ生温い夏の風。
しかしどこか涼しさも含んだ夏の終わりの風だ。


「やっぱり……、上手くはいきませんでしたね……」


その声は震えている。
夕焼けのせいで若干分かりにくいが、その全身も震えているように見えた。
実際にも震えているのだろう、身体と、心が。


「無理はするもんじゃない。
いつも俺が言っているだろう。
やらなければいけないことなら手短に、やらなくていいことなら……」


「やらない」


「そうだ、いつもと言う順番が邪魔ではあるけどな。
お前は別にやらなくてもいいことをやっていたんだ。
それがお前のモットーだと言うのならそれでいい。
だが今までお前がやっていたことは、やるべきではないことだった。
言ってみれば、これは裏切りだ」


「そう……ですね……、そうですよね……。
分かってはいたんです、いつかは言い出さなければならないことだって。
だけどできませんでした。
できなかったんです、わたし。
だってわたしの中には……」


「それでも、だ。
俺の出した推測が正しいとは限らない。
とんでもなく間違っているのかもしれない。
だが一つだけ確信してることがある。
あいつはおそらくは自ら望んでこの世界に顕れたんだ。
たった一つの目的のために、長い長い遠回りをして、この時のために積み上げたんだ。
あいつはやっと気が遠くなるほどのドミノ倒しを終えたんだよ。
少なくとも俺はそう思っている。

だからこそお前もあいつの想いを汲んでやってほしい。
突然のことに戸惑っているお前の気持ちも分からないわけじゃない。
だがこれ以上は本当の意味であいつへの裏切りになってしまうじゃないか」


俺の声も震えていた。
出そうとする声は想像以上に掠れていて、それでも必死の思いで喉の奥から絞り出した。
裏切りを続けさせたくなかった。
裏切りを続けたくなかった。
続けてはいけないのだ、俺も、こいつも。


「そう……なんですよね……。
あの人もそれを望んでいるんですよね……」


田井中の喉から嗚咽のような音が漏れる。
夕焼けの眩しさで確かめられないが、おそらくは泣いているのだろう。
喪失感からの涙なのは間違いない。
だがそれだけの涙ではないと信じたかった。
こいつは伯父の過去も、大日向とのことも、受け止めて前に進んできた奴だから。
この喪失感をも受け止められる奴であるはずだから。

338: ◆2cupU1gSNo 2014/01/24(金) 19:02:49.29 ID:LlP4ohDu0

俺も受け止めなければならない。
俺たちは受け入れなくてはならないのだ、あいつを失ってしまったことを。
それこそあいつが一番望んでいることだろう。


「本当はあいつの気持ちを一番分かっていたのはお前のはずだ。
あいつから一番遠くにいて、一番近くにいたお前だからな。
なあ、そうだろう、千反田?」


「は……い……!」


力強い返事だったが、今はそれが限界のようだった。
感情が昂ぶって、これ以上立っていられないらしい。
田井中は、いや、千反田はその場に倒れ込みそうになって、俺は慌ててそれを両腕で支えた。
俺の両腕が熱い液体で濡れる。
やはり千反田は泣いていたようだった。

仕方がないことだろう。
俺だってお前を失ったことをどう受け止めればいいのか見当も付かない。
当事者である千反田自身は余計にそうだと思う。
だから、なあ、田井中。
もう少しだけ千反田が泣くのを許してやってくれ。
涸らし尽くすほど泣かせてやってくれ。
その後にはこいつはきっと前を向いて歩き出せるようになる。
お前が与えてくれたドミノの先を、精一杯に生きていく。
だからそれまでは、あともう少しだけ。


――分かってるよ、ホータロー。


不意に田井中の声が響いたような気がした。
もちろん気がしただけだった。
俺がそう思いたいだけだった。
だがもしも田井中がそこにいたのならば、きっとそう苦笑していたことだろう。

349: ◆2cupU1gSNo 2014/02/05(水) 20:17:04.37 ID:ummseLBA0



2.八月十三日


窓の外で風と雨の音が激しく響いている。
昨日から上陸している台風はまだ神山市に居座っているようだった。
別にうるさいこと以外は俺には特に問題ない。
予定があるわけでもないし、溜まっている小説を読むにはむしろ都合がいい。


「あーもう、台風の奴、どうしてまだ居座ってんのよー」


俺とは対照的に、床に座り込んだ姉貴が不機嫌な声を漏らした。
朝からもう何度目になるだろうか。
どうも大学の同級生と旅行に行く予定が、この台風でお流れになってしまったらしい。
しかし相変わらずあちこち旅行しているようだが、一体どこからその資金を調達しているのだろう。
親父に用意させているわけでもないようだし、折木家の七不思議とも言えるかもしれない。
他の六不思議は思いつかないが。


「日頃の行いが悪いんだろう」


小説の文字から視線を逸らさずに呟いてみる。
姉貴には生意気に聞こえたかもしれないが、残念ながら台風に関して俺にできそうなことはなにもない。
そもそも俺になんとかできることなら、姉貴が先になんとかしているだろう。


「随分な口を利くじゃない」


姉貴の低い声が俺の部屋に響く。
機嫌を損ねたかと思って視線を向けてみたが、意外に姉貴は口の端に微笑みを浮かべていた。
どうやら語調だけで怒りを演じていたらしい。
むしろ俺の生意気な発言を喜んでいるようにも見える。
俺の反応がいちいち嬉しいらしい。
とどのつまり暇なのだ、姉貴は。
そうでなければわざわざ朝っぱらから俺の部屋に入り浸ったりはしないだろう。
読書の邪魔なので出て行ってほしいのだが、それを口にしたが最後、嬉々として滞在し続けるに違いない。
俺の姉貴はそういう姉貴だった。


「そういえば奉太郎」


髪を掻き上げてから姉貴が唐突に話を変える。
いや、話を変えたというより、最初から俺と雑談を始めようと思っていたのだろう。
それでわざとらしく台風に対する愚痴を呟いたに違いない。
俺が姉貴に軽口を叩くことを計算済みで。
姉貴の計算通りに動いてしまったことは口惜しいが、まあ、構わないか。
俺としても姉貴と話したいことがなかったわけじゃない。
俺は小説を机の上に置いて、本格的に姉貴に視線を向けた。


「なんだよ」


「あんた、最近元気にしてるみたいじゃない」


「元気にしてると言われてもな」


「ほら、古典部の子たちと旅行にも行ってたじゃないの」


青山荘でのことを言っているらしい。
正確には旅行ではなく合宿なのだが、姉貴にとって大きな違いはあるまい。
確かに強化合宿の様なことは特にしていないのだが。

350: ◆2cupU1gSNo 2014/02/05(水) 20:18:17.51 ID:ummseLBA0


「旅行に行けば元気なのか?」


「そりゃそうでしょ、元気もなく旅行なんて行けないじゃない」


旅行に行くことと元気が同義か。
あちこち回っている姉貴を見ると、あながち間違っていない気もするな。
姉貴の場合は元気が余り過ぎてる感もあるが。


「まあ、生活に支障があるほど疲れてるわけじゃない。
そういう意味では元気と言えるのかもな」


「それだけじゃないわ。
あんた、千反田さんと荒楠神社に入り浸っているらしいじゃない。
よく通えるわね、あんな長い階段がある神社に」


「……ちょっと待て」


「なに?」


「どうして俺が神社に通っていることを知っているんだ」


俺は古典部の部員と入須以外、荒楠神社に通っていることを話していない。
相変わらずのことだが、姉貴は一体どこからそんな情報を仕入れてくるんだ。
もちろん神社に通う日は帰宅が遅くなることだけは伝えてはいるが。


「蛇の道は蛇よ」


姉貴が実に悪い笑顔を見せる。
全く説明になっていないが、姉貴がそう言うのならばそうなのだろう。
きっと俺などでは想像もできない情報網を持っているに違いない。


「それより奉太郎、あんた荒楠神社でなにをしてるのよ?」


悪い笑顔のままで姉貴が続ける。
なにもかも分かっていて俺に訊いているんじゃないか?
そんな気までしてくるが、俺は無表情に首を振ることで応じてやった。


「特になにも」


嘘は言っていない。
田井中と荒楠神社を訪れて以来、部活のない日にたまに通っているだけだ。
千反田を心配する十文字は頻りに田井中と会いたがっていたし、
俺としても十文字のオカルト系の知識を教えてもらえるのはありがたかったのだ。
古典部の連中と話していて千反田と田井中に起こっている現象について分かったこと。
それは結局、俺たちの知識だけではどうしようもないということ。
眉唾であろうと、オカルトの知識にまで手を伸ばしてみるしかないということだけだった。
そして俺たちの知る限り、最もオカルトに詳しいのが十文字だった。

だが当然と言えるかもしれないが、十文字の知識が加わったところでどうなったわけでもない。
俺と田井中がそれなりにオカルトに詳しくなれたが、それだけのことだった。
既に今となっては形骸的に通っているだけになってしまっている。
そういった意味でも、俺たちは荒楠神社で特になにもできていないのだ。


「ふーん……」


姉貴が意味深に頷く。
姉貴はどこまで掴んでいるのだろう。
千反田の様子が多少おかしいということくらいは知っているのだろうか。
それを確かめるために俺に鎌をかけているのだろうか。

351: ◆2cupU1gSNo 2014/02/05(水) 20:18:48.22 ID:ummseLBA0

俺は姉貴に気付かれないよう、唾を何度かに分けて飲み込んだ。
姉貴に千反田の異変を知られたところで、特に問題があるわけじゃない。
色々と非常識な姉貴ではあるが、田井中のことを知っても周囲に黙っていてくれはするはずだ。
ならば相談してみるか?
千反田の中に田井中という人格が存在していて、その正体の調査が手詰まっているということを。
解決とまでは至らないまでも、姉貴ならばその正体の片鱗にまでは辿り着けるのではないだろうか。


「姉……」


姉貴。
そう呼び掛けようとして、その言葉を押し留めた。
思い浮かべたのは田井中の表情と言葉。
『ホータローたちは本当に困った時に頼れる人だって、えるって子が考えてたんだろうな』。
随分と前の話になるが、田井中は確かにそう言っていた。
それは同時に千反田の言葉でもある。
千反田は俺のことを頼りにしていた。
田井中はその千反田の記憶を信じた。
俺は二人に頼りにされてしまっている。

姉貴に相談すれば、なんらかの答えは出せるだろう。
もしかしたら解決にまで至れるかもしれない。
だがなんとなく思うのだ。
それは田井中と千反田の望む解決ではないのではないか、と。
二人は俺にこの現象の答えを出してほしいと考えている気がするのだ。
まったく、俺らしくない自意識過剰だ。
しかしその考えは間違っていないはずだった。


「なによ、奉太郎?」


「いや、なんでもない。
神社では単に千反田の友達に勉強を教えてもらってるだけだよ」


「そう?」


姉貴が微笑んだまま首を傾げる。
だがその笑顔はさっきまでの悪い笑顔ではなく、珍しい優しい様子の笑顔だった。


「まあ、なんでもいいんだけどね」


姉貴はわざわざ立ち上がって俺に近寄ると、俺の頭の上にその手のひらを乗せた。
わざとなのだろうか。
妙に力を入れて、痛いくらい強く手を動かされた。


「元気なのはいいことよ。
やることがあるんだったら、しっかりやりなさい。
休んでられない気持ちになったんなら、元気にしっかりとね」


そうして俺は小学生の頃振りに、姉貴に頭をぐしゃぐしゃにされたのだった。

352: ◆2cupU1gSNo 2014/02/05(水) 20:21:24.69 ID:ummseLBA0



3.八月十六日


台風一過。
相次いだ台風で神山市を荒らされた夏の日の午後、
久し振りに部室に顔を出そうとした俺を、久し振りの顔が校門で待っていた。


「折木君、ちょっといいだろうか」


相変わらずの苦虫を潰したような不機嫌な表情。
女帝、入須冬実。
受験の天王山の時期だというのに、わざわざ校門で俺を待つとは余裕なものだ。
一応、昨日田井中に部室に顔を出すとは電話で伝えてはいたが。
不機嫌に見えてそうでないことが多々ある入須だ。
しかし今回ばかりは本当に不機嫌なのかもしれなかった。
入須の視線の先には、俺ではなく小さく縮こまっている田井中の姿があった。


「よっ、ホータロー……」


「よお、田井中。
……どうしたんだ、小さくなって」


「いや、それがさ……」


「田井中さん」


女帝の名に恥じぬ鋭い眼光が田井中を射竦める。
それきり田井中は黙り込んでしまった。
今日の田井中の髪型は普段の千反田と全く同じのストレート。
この夏真っ盛りの時期に田井中が髪を結ばないとは、よっぽどの事情があるのだろう。
まあ、田井中たちの反応から大体の予想はできるが。
入須になにをしたんだ、田井中。
というか、精神年齢的には入須の方がお前より年下だぞ……。


「こんなところで立ち話もなんだ。
折木君、三人で茶でも飲まないか?」


「『一二三』ですか?」


「いや、私の教室だよ。
水筒に冷たい茶を用意しているんだ」


「そうなんですか?」

353: ◆2cupU1gSNo 2014/02/05(水) 20:21:59.64 ID:ummseLBA0


意外だった。
入須が茶と言えば「一二三」だと思っていたのだが。
俺が首を傾げているのに気付いたらしい。
入須がまた不機嫌な様子で答えた。


「最近は懐が寂しくてね。
私の用意した水筒の茶では不満かな?」


「いえ、そんなことは……」


「それならよかった。
早速教室まで行こうか、色々と話しておきたいことがある」


入須にも懐が寂しいことがあったのか。
おそらくはよほどの理由があるのだろう。
小遣いに苦心しているタイプには見えないし、もしかするとそれが不機嫌な理由の一つなのかもしれない。
俺は田井中にちらとだけ視線を向けてみたが、なにも口にはしなかったし田井中も黙ったままだった。
触らぬ神に祟りなし。
ただでさえ冷徹な入須が不機嫌なのだ。
これ以上無駄口を叩く必要性などあるはずもない。
俺は口をしっかり真一文字に噤んで、背中を向けた入須の後ろを追った。

354: ◆2cupU1gSNo 2014/02/05(水) 20:22:58.53 ID:ummseLBA0



入須のクラスの誰かの席に座った田井中が頻りに汗を拭っている。
それが暑さのせいなのか、入須に射竦められての冷汗なのかは微妙なところだろう。
入須は座らずに、誰かの席で水筒に茶を用意している。
鞄が掛かっているということは、おそらくはあそこが入須自身の席なのだろうが確証はない。
俺もどこかの誰かさんの席に座って、入須が話題を切り出すのをじっと待つ。
三人分のビニールコップに茶を注いで配膳した後、入須がまずは俺に視線を向けた。
田井中に向けている視線よりは幾分かだけ柔らかい視線だった。
ほんの幾分かだけだが。


「単刀直入に言おう。
田井中さんから聞いたよ、折木君。
怪盗十文字の事件の真相をね。
まさか田名辺が怪盗十文字だったとは思わなかったよ」


俺は田井中に視線を向ける。
田井中は胸の前で両の手のひらを合わせて何度か頭を下げていた。
どういった経緯かは分からないが、どうやら入須に十文字の正体を話してしまったらしい。
別に入須に知られたところで問題はない。
それでも田名辺と取り引きしている以上、必要以上に真相を漏らすのは遠慮してほしいところではある。


「その後の顛末も聞いたよ。
田名辺に『氷菓』を引き取ってもらう取り引きをしたらしいじゃないか。
君も結構人が悪いな、折木君」


「特に違法行為はしていないはずですが」


「そうね。
いや、強いて言えば火事騒ぎがあるけれど」


「その点には特に細心の注意を払いました。
火事というほどのものでもないと思いますし、実際大きな問題にはなりませんでした。
入須先輩、今日はその糾弾のために来たんですか?」


「もちろん違う。
君たちがどんな手段で『氷菓』を売ろうと構わないわ。
それにそれくらいの仕込みであれば、大なり小なりどの部でもしているものよ」


「それなら今日の入須先輩の用件はなんなんです?」


「折木君と田井中さんの記憶の差異についてだよ」


ある程度予想できていた答えではあった。
田名辺との取り引き程度で入須が目くじらを立てるとは考えにくい。
ならば俺と田井中と十文字事件が関連していることで入須が触れることとなると、俺と田井中の記憶の差異くらいしかない。


「先日、家の都合で千反田家に寄ることがあってね」


入須が続ける。
若干だが興奮しているのだろう。
頻りに汗を拭いながら、ビニールコップの中の茶の一杯目を飲み干した。

355: ◆2cupU1gSNo 2014/02/05(水) 20:23:37.74 ID:ummseLBA0


「家の付き合いだ。
特に役目もなかった私たちは、千反田の部屋で軽い雑談をしていたよ。
それでふと部屋で件の『氷菓』を見つけたんだ。
私も『氷菓』の在庫の顛末については千反田から聞いていたから、総務委員会に買い上げられたことを知っていた。
だが軽く疑問にも思っていたんだ。
折木君と総務委員会にパイプがあるとは思えない。
それなのにどうして折木君は総務委員会に『氷菓』を引き取ってもらえたのか。
その理由について、田井中さんは口を滑らせてくれたわ」


田井中のことだ。
特に悪気も無く、軽い感じで口を滑らせてしまったんだろう。
特に田井中の記憶の中の千反田は、俺と一緒に田名辺と交渉したらしいからな。


「さっきも言ったけれど、その是非について語るつもりはないわ。
問題なのは、語りたいことは、たった一つ。
どうして折木君と田井中さんの記憶が違っているのか。
君たちの記憶は全く異なっているのよね、折木君?」


「はい」


俺は素直に頷いた。
誤魔化しても意味のないことだし、それについて入須がどう考えているのかも知っておきたい。


「田井中さん」


入須が今までよりほんの少しだけ柔らかい視線を田井中に向ける。
田井中は一口茶を飲んでから、入須と視線を交錯させた。


「なんだ、冬実?」


「田井中さんの中の千反田の記憶では、千反田は折木君と一緒に田名辺に取り引きを持ち掛けた。
それでよかっただろうか」


「ああ、そうだよ、冬実。
あの時のえるはホータローと一緒だった」


「一方、折木君は一人で田名辺に取り引きを持ち掛けた。
その記憶に間違いはない?」


「記憶力に自信があるわけではありませんが、いくらなんでもそんな重大なことを忘れたりしませんよ」


「そうね」


入須が田井中と俺を交互に見やる。
その視線から入須の考えは読み取れない。
相変わらず不機嫌そうに見えるだけだ。
だが入須の胸にはなんらかの答えが秘められているのはずだった。
そうでなければ、わざわざ俺たちを教室に連れ込んだりはしないだろう。
二杯目の茶をビニールコップに注いでから、入須が俺の予想もしなかった単語を口にした。

361: ◆2cupU1gSNo 2014/02/08(土) 19:00:35.58 ID:ReHTyYWT0


「私はやはりリインカーネーションではないかと思うんだ」


リインカーネーション。
女帝と呼ばれてはいるが、どちらかと言えば和風である雰囲気を有している入須に似つかわしくない横文字だった。
いや、俺が入須のなにを知っているというのだろう。
慎むべし慎むべし。


「レインカーネーション?
雨の日だけに咲くカーネーションとか?」


俺の考えをよそに、田井中が間の抜けた一言を口にする。
こいつもこいつで、俺の考えている以上にロマンティックなことを考えているようだ。
呆れた様子で田井中に視線を向けてから、入須が溜息交じりに続けた。


「レインカーネーションではなく、リインカーネーション。
簡単に言えば、私たちが今までも何度か議論したように生まれ変わりのことよ。
これまでは確証がなくて保留しておいたのだけれど、
田井中さんの中の千反田の記憶が折木君の記憶と異なっているというのなら、今こそ考慮に値すると思う」


「どういうことですか?」


「私たち……、いや、少なくとも私はずっと、
田井中さんは千反田の記憶を千反田の脳から読み取っているのだと考えていた。
いずこかから千反田の肉体に融着した田井中さんの意識が、
まるでインターネットで単語を検索してるみたいに千反田の記憶を読み取っているのだと。
事実、今までその仮定に問題点はなかった。

けれど先日、田井中さんの呟きから、
田井中さんの知る千反田の記憶と折木君の記憶が食い違っていることが明らかになったわ。
これはおかしい。
田井中さんが私たちの知る千反田の記憶を有しているのなら、記憶の食い違いなど存在するはずがない。
もちろん人間の記憶など主観の違いでいくらでも変わるものだけれど、
それにしたって折木君と田井中さんの知る千反田さんの記憶が食い違い過ぎている。
二人の間には全く別の出来事が起こったとしか考えられない。
それで私は思ったんだよ、二人は全く別の出来事を経験していたのではないかとね」


一息ついて、入須が茶で唇を濡らす。
なんとなく田井中に視線を向けてみると、田井中は首を大きく捻っていた。
どうやら入須の話を聞いているようではあるが、なにを話しているかまでは理解できていないらしい。
仕方ない。
おそらく千反田でも今の入須の話を理解できるか難しいところだろう。
田井中の助け舟を出すつもりではないが、俺自身の考えをまとめるためにも入須に訊ねてみる。

362: ◆2cupU1gSNo 2014/02/08(土) 19:01:14.78 ID:ReHTyYWT0


「それで生まれ変わりですか。
田井中は俺たちの知る千反田の記憶ではなく、
俺たちの知らない別の千反田の記憶を自分で思い出しているとでも?」


「話が早くて助かる。
そうだ、田井中さんと折木君の記憶が食い違っている以上、そう考えるのが一番妥当だろうね。
前に私たちも平行世界の可能性について議論しただろう?
田井中さんが有しているのは、平行世界の千反田の記憶だと考えるのはどうだろうか。
その平行世界で千反田に起こった出来事は、この世界とほとんど同じだが微妙に異なっていた。
例えばこの世界での千反田は怪盗十文字の正体を知らないが、平行世界では知っているという具合に。

しかしそれではどうして田井中さんは平行世界の千反田の記憶を持っているのか。
それこそ生まれ変わり、前世の記憶そのものだとは考えられないかしら。
前世や生まれ変わりが存在するかどうかは、今更議論に値しない。
存在するかどうかわからない以上、存在すると仮定して話を進めるしかないわ。
水素と酸素が化合すると二酸化炭素になる。
それ以上説明できないけれど、現実にそうなっている法則のようなものだと考えるしかないのよ」


入須の意見には俺も同感だった。
前例など存在しない以上、どんなに非科学的でも考慮してみるしかない。
それに非科学的という言葉は、まだ科学的に解明されていないだけ、という誰かの言葉を聞いたこともある。
とりあえず前世は存在すると仮定した方が妥当だろう。
だが。


「少し、苦しいですね」


ここまで考えてくれた入須には申し訳ない気持ちもあるが、指摘しておかねばならなかった。
入須が言っていたように、これは議論なのだから。
納得のできないことには徹底的に食い下がる方が、入須の願うことでもあるだろう。
そう俺が考えた通り、入須は若干嬉しそうに俺の言葉に応じた。


「なら君の意見を聞かせてもらえるだろうか」


「まずは訊かせてください。
入須先輩は田井中自身の最後の記憶が西暦何年か知っていますか?」


「先日、二〇一〇年だと聞いたばかりだよ」


「二〇一〇年にして一八歳である田井中が、二〇〇一年時点の千反田を前世にしているとでも?
田井中が持っているのが田井中の世界の千反田の記憶だとしても、その世界でも千反田は二〇〇一年には生きていたはずです。
計算がおかしくはないでしょうか」


「計算がおかしいことは考慮しているよ。
だが前世についてはなにも分かっていないんだ。
生まれ変わる前の誰かと同じ時代にその人の生まれ変わりがいたとしても、そういうものと受け入れるしかない。
否定できるだけの材料が揃っているとは思わない」


生まれ変わりは時を超える、と確か十文字も言っていた。
もしかしたらそういうことも起こり得るのかもしれない。
その可能性も十分にある。
だがやはり入須の仮定には筋が通っていないのだ。


「いいでしょう、入須先輩。
仮に田井中が平行世界の千反田の生まれ変わりとします。
平行世界の千反田の記憶だから、俺たちの知る千反田の記憶と食い違っていても不思議じゃない。
それでもやはり説明し切れていないんですよ。
田井中が平行世界の千反田の生まれ変わりだとして、その田井中の意識はどこからやってきたんでしょうか?
平行世界の千反田の生まれ変わりである田井中の意識が、俺たちの世界の千反田の肉体に宿った。
どうしてこの世界の千反田にそんな現象が?」


「そこが分からないのよ」

363: ◆2cupU1gSNo 2014/02/08(土) 19:02:01.64 ID:ReHTyYWT0


俺の反証に納得いったらしく、入須が軽く俯いた。
いや、おそらく俺に反証されたくて、持論を展開させていたように思えた。
入須も同じところで躓いていたに違いない。
もちろん俺にも分からなかった。
一つ仮定が完成したと思えば、すぐに大きな壁が立ち塞がる。
無限に堂々巡りするような気分だった。
やらなくてはいけないことにしても、この問題はどうにも骨が折れ過ぎる。

だが。
俺たちの疑問は、予想外の方向から打ち砕かれた。


「じゃあさ、えるが私の生まれ変わりだとしたらどうだ?」


言ったのは田井中だった。
千反田と同じ顔で、気楽な様子で言ってくれた。
正直な話、息を呑んだ。
田井中は自分のその言葉の重さを分かっているのだろうか。
分かっているのか、田井中?
それは自分が既に死んでいるって言っているのと同然なんだぞ?


「生まれ変わりがどう起こるのは分からないんだけどさ、
誰が誰の前世でもおかしくないってんなら、こう考えられないか?
私は前世が平行世界のえるで、この世界のえるはその私の生まれ変わりだって。
簡単に言い換えるなら、平行世界のえる→私→この世界のえるの順番で生まれ変わった。
それなら理屈が合う気がしないか?」


「一応の理屈は合うが、田井中……」


「どした、ホータロー?」


「それはお前が……」


なんとも言いにくい。
多少なりとも知った仲に死亡宣告など、滅多なことでやれることじゃない。
躊躇っている俺を見てなにを言おうとしているのか気付いたのか、田井中が笑った。
予想外にとても無邪気な笑顔だった。


「えるが私の生まれ変わりなら、私自身がもう死んでるんじゃないかってことか?
それはどうなんだろうな?
さっき冬実も言ってたじゃん?
同じ時代に同じ人間の生まれ変わりがいてもおかしくないかもって。
だったら私が早死にしてるってわけでもないんじゃないか?
そりゃいつかは死ぬんだろうけどさ、それはずっと未来のことかもしれないだろ?
だから今そんなことを考えてても意味ないって」


さいですか。
深刻に考えていた俺がなんだか馬鹿みたいだ。
だが田井中の考え方も間違ってはいないように思えた。
田井中も精一杯に考えてくれているのだ、俺たちとは方向性が違うだけで。


「そうかもしれないな」


また呆れた様子で入須が呟いた。
もう彼女はあまり不機嫌そうではなかった。


「眉唾な本にも書いてあったよ。
前世の記憶はどんな形で顕現するか分からないと。
もしかすると田井中さんは本当にえるの前世なのかもしれない。
どんな形での、どんな意味での前世なのかは分からないけれど」


田井中の方が千反田の前世かもしれない。
その可能性を考えるより、まず俺には確かめねばならないことがあった。

364: ◆2cupU1gSNo 2014/02/08(土) 19:02:34.48 ID:ReHTyYWT0


「入須先輩」


「なんだい?」


「読んだんですか、眉唾な本」


「読んださ、この現象を解明するためだからね」


「どこで読んだんです?」


「購入したよ。
仕方ないだろう、そんな眉唾な本なんて図書館には滅多に置いていないんだ。
おかげで懐も随分と寂しくなってしまった。
オカルト、幽霊本、多重世界説、量子力学、哲学本まで幅広く読んだよ。
せめて怪盗十文字の記憶についてもっと早く話してもらえれば、もっと対象を絞って本を購入できたんだけどね」


なるほど。
それで田井中相手に少し不機嫌だったのか。
冷徹で人心を掌握することに長けた女帝ではあるが、
幼馴染みの異変を放置できるほどには薄情でもないということだ。
俺は入須たちに気付かれないよう、軽くとだけ微笑んだ。

369: ◆2cupU1gSNo 2014/02/11(火) 18:45:49.97 ID:nloe1tWp0


「私もさ、ちょっとだけ考えてみたんだよ」


不意に田井中が妙に真剣な表情で呟いた。
髪を頻りに掻き上げているのは、自らの想像に悪い予感を感じているからなのだろうか。


「ホータローと私の中のえるの記憶が違ってる理由は分からない。
もしかしたら冬実の言う通り、パラレルワールドのえるの記憶だからかもしれない。
考えてみたらさ、まだホータローに確認してない私の中のえるの記憶もいっぱいある。
いちいち確認するほどでもないことだと思ってたから、確認しなかった。
だけど私の中のえるの記憶とホータローたちの記憶が、かなり違ってる可能性も出てきたよな?

だから変なことを訊くみたいだけど答えてくれ。
なあ、ホータロー……。
お前、えるの前で泣いたことはないか?
大泣きじゃないけどさ、それでも目蓋からこぼれるくらいの涙で」


俺が泣いた?
少なくとも俺の中に最近泣いた記憶は残ってない。
なにかの小説で涙腺が緩んだということもなかったはずだ。
増して千反田の前で涙など見せるはずもない。
俺がかぶりを振ると、田井中が首を捻りながら続けた。


「だよなー?
ホータローが涙を見せるなんて悪いけどイメージじゃないし。
でも私の中のえるの記憶に、ホータローの涙がはっきりとじゃないけど残ってるんだよ。
いつ、どうして、そんなことになったのかは分かんないんだけどさ」


田井中に分からないことが俺に分かるはずもない。
だがおそらく田井中の中の千反田には本当に起こったことなのだろう。
そうでなければ、田井中も今頃話題にする必要がない。
しかし、俺が泣いた、か。
子供の頃はよく泣いていた気もするが、中学生に上がってからはそういうこともなくなった。
そんな俺が泣いたのだと言うのだから、余程のことが起こったに違いない。
自分のことをそう推察するのも変な話だが。

この記憶をこれ以上推察することは不可能だ。
田井中もそう思ったのか、またかなり重い語調で話題を変えた。


「それともう一つ、一番大切なことが分からないんだよな」


「どれのことだ?」


「私の心がえるの身体に宿ってる理由だよ。
それも今、この時期にさ。
前世の記憶にしても、パラレルワールドから心だけ宿ったにしても、そうなった原因が全然不明なんだ。
私の正体はこの際なんだっていいとして、原因を取り除かないことにはえるも元には戻れないよな?
例え私の正体が完全に明らかになったとしても」


もっともな言葉だった。
田井中の正体がなんであれ、どうであれ、
千反田の身体に宿っている理由が分からなければ、千反田は元に戻りようがない。
やはり最終的には、俺たちは千反田を取り戻さなければならないだろう。
千反田を元に戻すことによって、田井中がどうなるのかはできる限り考えたくはないが。

370: ◆2cupU1gSNo 2014/02/11(火) 18:46:17.81 ID:nloe1tWp0


「例えば……、例えばなんだけどな?
悪い意味で捉えてほしくないんだけど、実は私がえる本人だって可能性はどう思う?」


唐突にまた予想外の仮定を言ってくれる。
俺は目を剥きかけたが、田井中の続きの言葉をじっと待った。


「もちろんえるが私の、田井中律の演技をしてるって意味じゃないぞ。
ここでは冬実の前世の記憶説を採用させてもらうんだけど、それってある意味記憶喪失が回復したとも言えるよな?
元々自分の中に眠っていた記憶が甦ったわけだしさ。
それでさ、ゲームとかドラマでよくある設定があるだろ?
記憶喪失が回復した途端、その人が全く違った性格になってしまったってやつ。
私がそういうのだとしたら、お前たちはどうする?」


あまり考えたくはない仮定だった。
それだと元の千反田の人格を取り戻すのがほぼ不可能になってしまう。
千反田自身が言葉通りの意味で田井中の人格に変貌してしまったのであれば、俺たちには手の打ちようがない。


「そういえばこれも眉唾な話だが、聞いたことがあるな」


なにを考えているのか、入須が普段通りの表情で淡々と呟き始めた。


「臓器移植の話だ。
眉唾だが、臓器を移植されたレシピエントの性格が変貌してしまう事例があるらしい。
『ドナーの記憶』というらしいな。
私たちは脳で物事を考えていると思っているが、臓器にも記憶が宿っているのではないかという仮説だよ。
ドナーの臓器を移植することでドナーの記憶も移植され、
その結果レシピエントの性格がレシピエントでもドナーでもない第三の人格に変貌する。
前世の記憶が存在すると仮定して考えると、田井中さんがドナー、千反田がレシピエントになるか。
確かに理には適っている」


「『ドナーの記憶』の話なら私も知ってるぞ。
昔読んだ刑事漫画にそういう話が載ってたし」


田井中が得意気に微笑む。
どうして刑事漫画で『ドナーの記憶』の話が取り扱われてるんだ。
いや、そんなことはどうでもいい。
そうだと仮定すると、やはり千反田の人格は二度と取り戻せないことになってしまう。
厄介ではあるが、俺はあの千反田の性格が嫌いではなかった。
生真面目で、好奇心の獣で、よく気が回って、いつも楽しそうにしているあいつの性格が。
可能ならば、もう一度あの頃の千反田と会話をしたい、そんな気持ちは多大にある。
もちろん今の田井中の性格が嫌いなわけでもないのだが。

どちらにしろ二者択一なのだ。
いつまでも誤魔化し続けられるものでもない。
現在の田井中の人格を全て受け容れて周囲に打ち明けるか、
あらゆる手段を講じてなんとしてでも千反田の人格を取り戻すか、
俺たちはそろそろ本気で考えなくてはならない。

不意に強い渇きを覚えて、ビニールコップに入った茶で喉を潤してみる。
やけに冷たい茶は俺の胃まで妙な存在感を放っていた。

371: ◆2cupU1gSNo 2014/02/11(火) 18:46:45.75 ID:nloe1tWp0



4.八月十八日


残暑厳しい夕方、俺は徒歩で本屋に向かった。
姉貴に愛読している小説の続編が発売していたことを教えられたのだ。
元々姉貴が購読していた小説だから姉貴が貸してくれればよかったのだが、
「七巻まで読ませてあげたんだから、新刊からはあんたが買って私に貸しなさい」と言われてしまった。
筋が通っているのかいないのか分からないが、姉貴がそう言い出したが最後、その主張は絶対に崩さないだろう。
まあ、別に構わない。
俺が自腹を切るのもやぶさかではないくらいには、存外によくできた小説なのだ。
たまには自分の意思で小説を購入してみるのも悪くない。
悪くないと思っていたのだが。


「あら、折木じゃない、ちゃお!」


その甲高い楽しそうな声を聞いた瞬間、俺は今日の自分の行動を後悔した。
まさか本屋でその顔を目にすることになるとは思っていなかった。
いや、こいつも本くらい読むのだろうが、それにしたってイメージに合わな過ぎた。
少年漫画が並んでいるスペースに陣取っていたのは、ある意味イメージに合ってはいたが。


「こんばんは、沢木口先輩。
……ちゃお」


会釈だけして新刊小説のスペースに向かおうとすると、強く腕を掴まれた。
突然のことだったせいもあるが、かなり痛かった。
ひょっとして天体望遠鏡を自力で運んだりもしているのだろうか、このお団子の先輩は存外に力も強いらしい。


「まあまあ、待ちなさいよ、後輩君」


「……なんでしょうか?」


「そんな嫌そうな顔をしなさんなって。
せっかくの奇遇なんだし、か弱い先輩を家まで送ってってくんない?
暗くなってきたし、そろそろ帰ろうと思ってたところなのよねー」


俺の腕を強く掴みながら、か弱い先輩もなにもないだろう。
もちろん口には出さなかった。
この先輩にはなにを主張しようと無駄だと経験で分かっている。
やらなければいけないことなら手短に、だ。
俺は沢木口に気付かれないよう溜息をついてから、最低限の主張だけはさせてもらうことにした。


「分かりました、家までお送りします」


「いいわねー、素直な後輩は好きよ」


「ですが本を買うまでは待っていてもらえますか?
そうでないと俺が本屋に来た意味がなくなってしまいますし」


「はいはい、分かってるわよ。
心の広い先輩の私なんだから、それくらい待っててあげるに決まってるじゃない」


妙に恩を着せられてしまった。
しかしその軽い口振りのせいかどうにも憎めない。
おそらくは沢木口の取り巻きも彼女のこういうところを気に入っているのだろう。
なんともお得な性格なことだ。

372: ◆2cupU1gSNo 2014/02/11(火) 18:47:12.70 ID:nloe1tWp0


「ありがとうございます」


俺は頭を軽く下げてから、新刊を持ってレジに並ぶ。
会計を終えて戻ると、沢木口は既に本屋の入口の外で待っていた。
お団子が楽しそうにふらふら上下に揺れている。
なにがそんなに楽しいのだろうか。


「それじゃ帰るからちゃんとエスコートしてよ、折木。
あ、あたしんちはこっちね」


沢木口の指し示した方向は俺の家とは全くの逆方向だった。
二度手間になるじゃないか。
まあ、徒歩で来ているわけだし、沢木口の家もそう遠くはないはずだ。
少し長い帰り道では、多少考えごとをしながら帰ることにしよう。


「最近どう?」


一分ほど肩を並べて歩いた頃、沢木口がざっくりした質問を口にした。
一分程度で気が早いが、やはり沢木口は沈黙に耐えられないタイプの人間なのだろう。
答えてやるのもやぶさかではないのだが、口を開きかけて躊躇った。
田井中が千反田の中に顕れてから多くのことがあったが、それは沢木口に話せることでもない。
他になにかないかと振り返ってみて、少し驚いてしまう。
呆れてしまうくらい、最近の俺の生活は田井中一色だ。
いつの間にかあいつは俺の日常と化してしまっていたらしい。

しかし困った。
田井中のことを深く話せないとなると、沢木口と話せる話題がほとんど存在しない。
そうして軽く唸っていると、沢木口が呆れた表情を浮かべた。


「なによー、なんにもないの?
こうして女の子をエスコートする時のために、小粋なトークくらい用意しときなさいよ。
そんなんじゃ女の子にモテないわよー?」


無茶を言わないでくれ。
仮に俺に小粋なトークがあったとして、どうして沢木口としなくてはならないんだ。
俺だって小粋なトークの相手は選びたい。
あからさまに嫌な顔をしたつもりだったが、沢木口は全く気にしていない様子で続けた。


「女の子と言えば、あいつとはどうなってんのよ?」


「どいつですか?」


「入須」


思わず足を止めた。
てっきり千反田の話題を出されると思っていたのだが、当てが外れたようだ。
いや、千反田の話題ならばよかったというわけではないのだが。


「どうして入須先輩なんですか」


「いや、最近仲がいいみたいだから。
ほら、お茶の店にも行ってたし、最近だって教室でなにか話してたみたいじゃない。
色々知ってるんだからね、あたしの情報網を甘く見ちゃ駄目よ」


「おみそれしました。
ですが入須先輩には相談に乗ってもらっていただけですよ。
医療的知識について知っておきたいことがあったんです」


嘘は言っていない。
沢木口がじっと俺の瞳を覗き込むが、嘘ではないと思ったらしく苦笑した。

373: ◆2cupU1gSNo 2014/02/11(火) 18:47:38.73 ID:nloe1tWp0


「あら、それは残念ね。
入須が男子と親しくしてるのなんて今まで見たことなかったから、遂に入須にも春が来たのかと思ってたんだけど」


あれは親しくしてると言えるのだろうか?
いや、確かにあの女帝入須相手に近付ける男などそうはいまい。
それを前提として考えるのならば、俺は入須と親しい方だと言えるだろう。
あくまで比較的に、だが。


「そこで提案なんだけど、どう折木?
あんたくらい入須と親しくなった男子なんていないし、入須と付き合ってみない?」


「お断りします」


即答すると、沢木口がつまらなそうに口を尖らせた。


「なんでよー、そんなに入須が嫌なの?
あたしには及ばないけど可愛い方だと思うわよ?」


入須と沢木口。
そのどちらが可愛いのか言及するのは避けよう。
だがどちらにしろ入須が俺に興味を持つとは考えられなかった。
俺にしてもあの女帝と交際するのは精神衛生的に無理そうだ。

不意に沢木口が口元を緩めた。
口元に手を当ててニヤニヤしながら、滅多なことを言い始める。


「分かった!
あんた入須じゃなくて他に好きな子がいるんでしょ!
そうねー、例えばこの沢木口美崎ちゃんとか!」


「はっ?」


「あんたも目が高いわねー。
だけどいいわよ、そういうのもいいわよ。
あたしちょうど今フリーだし、後輩の思慕の念に応えてあげるのも悪くないと思うしね」


言葉を失う。
なんと返答すればいいのか全く思いつかない。
ただ一つ言えるのは、この沢木口と付き合ったが最後、間違いなくとんでもないことになるということだけだ。
入須と交際する想像よりも数十倍心臓に悪い。
だらだらと背中に冷たい汗が流れるのを感じる。
俺だって多少なりとも健全な男子高校生だ。
できるなら女子と付き合いたいと思わないでもない。
だがこの沢木口だけは絶対に駄目だと俺の中の本能が叫んでいる。
沢木口美崎だけは、駄目だ。

377: ◆2cupU1gSNo 2014/03/03(月) 19:01:19.34 ID:KPR4U2X50


「あのですね……」


上手く口が回らない。
くそっ、口の中が渇き切ってる。
まさかこんなに思考まで回らなくなることがあるとは。
俺は自分自身で考えているほど落ち着いた性格ではないのかもしれない。

それから数分は硬直していただろうか。
俺の返答を待ち切れなくなったらしい沢木口が呟いた。


「んもう、突っ込みなさいよねー」


突っ込み……?
その言葉の意味するところが、すぐには分からなかった。
心底呆れた表情で沢木口が続ける。


「冗談だってば冗談。
なによ折木、あんた本気であたしと付き合いたいって思ってたの?
どうしてもって言うんなら考えてあげないでもないけど……」


「い、いいえ、結構です」


待てよ、結構には上等って意味もあったはずだ。
それで詐欺にあったという話も聞かないでもない。
動揺した心を落ち着かせるために、俺は大きく深呼吸して言い直す。


「遠慮です、遠慮します。
俺では沢木口先輩に釣り合いませんから」


「そう?」


怪訝そうに呟きながらも、その沢木口の表情は満更でもなさそうだった。
別に沢木口のことを持ち上げたわけではない。
俺と沢木口とでは間違いなく釣り合っていない。
色んな意味でだ。
性格だけでなく外見や価値観、多くの要素が俺と沢木口の差異を激しくしている。
特に高校生活の過ごし方が大きく異なっているはずだった。
灰色の青春を過ごしていると称される俺だが、
沢木口こそそれとは対照的な薔薇色の青春を謳歌している。
意識的なのか無意識的なのかは分からないが、沢木口美崎こそが俺の知る最も薔薇色の青春を体現せし人間なのだ。
もちろん薔薇色の青春に対する憧憬を失ったわけではない。
だが交際相手のそれに便乗するのだけは、してはいけないことであるような気がした。


「それにしてもあんたがそんなに入須が好きだったなんてねー」


腕を組んでうんうんと頷きながらまた滅多なことを言い始める。
俺が訂正しようとするより先に、沢木口は可愛らしく人差し指を立てた。
どことなく優しい表情を浮かべているようにも見えた。


「あんたと入須、やっぱりお似合いだと思うわよ?
あんたと同じ部活の千反田だっけ?
あんた、あの子とはよく一緒にいるみたいだけど、あたしは千反田より入須を推すわ。
これはあたしの勝手な贔屓だけどね。
クラスメイトなんだもの、贔屓しちゃうのは許してほしいところね」

378: ◆2cupU1gSNo 2014/03/03(月) 19:01:49.99 ID:KPR4U2X50


沢木口が入須をここまで贔屓しているとは思わなかった。
天文部の中心人物でもあるようだし、もしかすると沢木口は身内には甘い人間なのかもしれない。
しかし入須と沢木口は普段どんな会話をしているのだろう。
完全に正反対の二人に見えるが、正反対だからこそ通じるものでもあるのだろうか。
そればかりは俺にはどうしても分からないことだった。
古典部の連中はあれでも俺と近い方の人間だと俺は考えている。
だからこそ正反対の性格の人間との付き合い方が俺にはよく分からなかった。
正反対の性格と言えば姉貴がいるが、あいつとは正反対でなくても上手く付き合える気がしないから例外だ。


「善処します」


そうとだけ言ってから、俺はようやく再び足を動かし始めた。
善処はするが、おそらく俺と入須は沢木口が期待するような仲にはならないだろう。
会えば会話はするが、進んで会おうとは思わない。
それが俺と入須の最大限に進んだ仲だろう。
しかしいつか仮に入須になにか大きな問題が起こったのなら、その一助程度にはなろうと思う。
それが俺にできる最大限の善処となるはずだ。


「あっ、そうそう。
入須といえば話は変わるんだけど」


歩き始めた俺に沢木口が駆け寄って来る。
その表情は既に普段の楽しそうな笑顔だった。


「なんですか?」


「入須って最近前世に興味があるみたいなのよね。
あんた、なにか知ってる?」


「どうしてそれを?」


「あ、やっぱりそうなのね。
そりゃ気付くわよ、入須ったら休憩時間は前世関係の本ばかり読んでるもの。
まあ、あいつらしいっちゃあいつらしいんだけどね」


入須……。
熱心なのは分かるが、沢木口にすら気付かれるとは不用心過ぎるだろう……。
いや、それより。


「入須先輩らしい、ですか?」


「そうなのよ。
女帝だとか呼ばれてるみたいだけどね、入須ってああ見えて困ったロマンチストなのよ。
江波って憶えてる?」


江波倉子。
辛うじて憶えている。
今時珍しい古風な髪型をした、腰が低く折り目正しい先輩。
本郷の脚本の続きを探る際、入須の使いで案内役をしてくれていた。
入須のクラスメイトにしては印象の薄い先輩だったが、印象が薄いからこそ逆に印象に残っていた。
俺が頷くと、沢木口は満足そうに微笑んだ。

379: ◆2cupU1gSNo 2014/03/03(月) 19:02:51.41 ID:KPR4U2X50


「入須は隠してるつもりみたいだけど、その江波と一緒にいる時は特によくそういう話をしてるのよ。
星座とか神話とかぬいぐるみの話とかね。
患者と会話する時の知識として知りたかったのよ、なんて言い訳してたけどね、あいつ」


なるほど、と思った。
遠くから見ているだけでは分からないが、クラスメイトから見ると別の姿が見えてくるものらしい。
確かに冷徹で誰かを利用することに躊躇いのない入須ではある。
だが単に冷徹なだけの人間であれば、クラスメイトも映画の件で入須を頼りはしないだろう。
それなりに信用されているのだ、入須冬実という人間は。


「で、入須ってやっぱり前世に夢中なわけ?
この前は多重人格にお熱だったみたいだし、相変わらずロマンチストよねー」


「そうかもしれませんね」


「なにを言ってるの、あんたもよ、折木。
入須が前世にお熱って知ってるってことは、あんたも前世に興味があるんでしょ?
あんたこそ見かけによらずファンタジスタな人間よね」


ファンタジスタ?
まあ、ファンタジーが好きな人間という意味なのだろう、多分。
別に好きなわけではないが、今現在の俺が前世に興味があるという点は間違っていない。
俺は軽く頷いてから、沢木口に真剣な視線を向けた。


「色々と興味深いですよ、前世と生まれ変わりは。
入須先輩が熱中するのも分からないでもありません。
そこで沢木口先輩に訊いてみたいんですけど、先輩は前世についてはどう思います?
興味はありますか?」


別に明確な回答を期待して訊ねてみたわけじゃない。
沢木口が前世に興味があるとは到底思えない。
だが、前世に興味がない人間の回答も、それはそれで貴重な情報だ。
田井中の件は既に、一方向から見ているだけでは解決不可能な状態にまで陥っている。
沢木口の様なエキセントリックな発想が突破口にならないとも言い切れない。


「前世ねー……、あたしはあんまり興味ないんだけど」


「そうなんですか?」


少し意外だった。
沢木口なら前世占いなどで盛り上がっている印象が勝手にあったのだが。


「そこはほら、あたしってば天文部のエースだし!
結構科学の目で物事を考えちゃう人間なのよね、あたし」


妙に納得した。
頭蓋骨の中に脳味噌が二つ入っているのが多重人格の原因と主張するだけはある。
荒唐無稽ではあるが、視点を変えればある意味これほど分かりやすく科学的な多重人格の原因もあるまい。
「別にいいじゃない、鍵ぐらい」と前に沢木口が口にした至言を思い出す。
今考えると、あれもあれで科学的というか論理的ではあった。
彼女だって筋道立てて考えてはいるのだ、発想がエキセントリックなだけで。

380: ◆2cupU1gSNo 2014/03/03(月) 19:03:20.36 ID:KPR4U2X50


「それでは沢木口先輩は前世には否定的なんですか?」


「うーん、そうねえ……。
前世とはちょっと違った話になっちゃうかもしれないけど……」


「?」


「あんたはこの地球に自分が生きてることについてどう思う?」


「質問の意図が掴めませんが」


「いいからどう思うか言ってみなさいよ」


「特に不満があるわけでもない、というくらいですか」


「それよ!」


我が意を得たりといった様相で沢木口が俺を指し示す。
俺はと言えば、沢木口がなにを話そうとしているのか見当も付かない。


「この地球はあんたやあたしたちが特に不満がないくらいにはいい環境なのよ。
他の惑星を考えてみれば分かるわよね?
地球以外で生き物が生きられるような環境の惑星は、少なくともまだ発見されていないのよ」


「それは俺も知っていますが……」


「あたしも知ってるし、ちょっと勉強した人間なら誰でも知ってること。
でもこれって凄いことよね?
宇宙はこんなに広いのに、未だに地球以外に生命がある惑星が見つかってないなんて。
言葉通り天文学的な確率でしか、こんなことは起こらないわけなのよ。
人間が生きていること自体が奇蹟だからもっと命を大切にしなきゃ、なんてキャッチフレーズを言うつもりはないわ。
こんな天文学的な確率の現象が起こるなんて不自然だって言いたいの。
それこそどこかの誰かが仕組まなきゃ、こんなこと起こるはずないと思わない?」


どうだろうか。
確かにこの宇宙が偶然生まれたとは思えない。
俺でなくとも、誰もが一度は考えたことがあるはずだ。
この世界は誰かの意思によって生み出されたものなのではないかと。
俺たちが生きていること自体が奇蹟だと言われ続ければ、そう思いたくもなるというものだ。
その意思の持ち主を神と呼ぶべきか否かは個人の見解で異なるだろうが。

例えばこの宇宙を創造したとか言われているビッグバンにしてもそうだ。
宇宙はビッグバンによって生まれ、爆発的に膨張していったと科学者は言う。
しかしこれも誰もが考えることだと思うが、本当になにも存在しない空間でビッグバンなど起こるものなのだろうか。
ビッグバンが起こるための要素があらかじめ用意されていなければ、ビッグバンどころかなにも起こるはずがない。
無から有など生まれるはずがないのだから。

俺の考えを読み取ったのか、それとも最初から話そうとしていたのか。
次に沢木口が口にした話題は、奇しくも俺が考えていたのと同じ現象についてだった。


「ビッグバンくらい折木も知ってるでしょ?
宇宙創造のきっかけになった爆発ってアレ。
あれも変な話だと思わない?
なにもないところでいきなり爆発が起こって宇宙ができあがるなんてね。
こんなのビッグバンが起こるためのなにかが元からそこにあったとしか思えないわ。
それであたしはこの前天文部の皆で会議してみたわけよ。
ビッグバンが起こる前に、なにもないはずの空間になにがあったのかってね。
意外と全会一致で一つの答えが出たわ。
ねえ、あんたはどんな答えだったと思う?」


「前の宇宙を構成していた物質でしょうか?」

381: ◆2cupU1gSNo 2014/03/03(月) 19:03:48.27 ID:KPR4U2X50


俺は自然とそう口にしていた。
突飛な考えを言ってしまったとも思っていない。
少なからず宇宙のことを考えてしまった時分がある人間なら、誰でも思いを馳せたことがあるだろう。
宇宙の始まりと終わりについて。
俺の考えはやはり突飛でもなんでもなかったらしく、沢木口が満足そうに頷いた。


「やっぱり天文部じゃなくてもそう考えるわよねー。
そうなのよ、ビッグバンの前には、前の宇宙を構成していた物質が圧縮されてどこかにあったのよ。
ブラックホールってあるでしょ?
高重力でなにもかも飲み込む空間の狭間。
宇宙はそのブラックホールがなにもかも飲み込んで終わるって説を唱える学者も多いらしいのよね。
確かに宇宙の膨張する速度をブラックホールが成長する速度が追い越せばそれもありそうよね。

だったら最後には宇宙の全てがブラックホールに呑み込まれて終わり?
あたしの天文部の部員はそうは考えなかったわ。
ブラックホールだっていつまでも圧縮し続けられるはずがない。
長い長い年月が過ぎれば、いつかはきっとその圧縮していた物質を、前の宇宙を構成していた物質を解き放って膨張させるはず。
その現象がビッグバンって呼ばれてるんじゃないかって意見になったのよ」


真新しい意見ではない。
宇宙の死と新生。
ほんの少しでもSFを読んだことがある人間であれば、一度は目にしたことがあるはずだ。
だが沢木口の考えは、その意見の一歩先を進んでいるようだった。


「そういう意味でなら、前世ってあると思うのよね。
前の宇宙を構成していた物質が、長い年月を越えて新しい宇宙を構成する。
それこそ前世の宇宙の生まれ変わりじゃない。
どう?
ロマンに溢れたファンタジスタな夢物語でしょ?」


「ええ、確かに」


答えながらも、俺は思考を進めていた。
沢木口の言う通り、実にファンタジスタな夢物語だ。
だが夢物語を前提とし、遥か長いスパンで千反田に起こっている現象を捉えたのなら。
それなら一つの仮定が組み立てられる。
やはりエキセントリックな沢木口に相談して正解だった。
遠回りに見えたとしても、あらゆる視点を取り入れることこそが問題解決の糸口に繋がるのだ。

前世。
平行世界。
前の宇宙。
多重人格。
未来からの来訪者。
ドナーの記憶。
千反田と田井中。

確証があるわけでも、証明できるわけでもない。
それでも俺はようやく一つの答えをまとめることができたのだった。
お礼というわけではないが、沢木口には一本くらい缶ジュースを贈呈することにしよう。

387: ◆2cupU1gSNo 2014/03/13(木) 19:13:25.54 ID:PYvSXBlq0



5.八月二十日


午前十一時過ぎ。
徹夜の疲れを感じながら遅い朝食を取りに行くと、意外な人間の姿があった。


「おいーっす」


俺を明るい声で居間で出迎えたのは田井中だった。
今日は前髪を頭の上で結び、まるでパイナップルの様な形にしている。
年頃の娘がする髪型じゃないと一瞬思ったが、思い出してみれば姉貴もよく同じ様な髪型をしていた。
女にとっては、前髪が邪魔な時に手頃な髪型なのだろう、おそらく。


「おいっす……」


今更気を遣うような間柄ではないが、一応寝癖を手櫛で治しながら挨拶してやる。
なにがおかしいのか、田井中は晴れやかな笑顔を見せた。


「予想はしてたけど起きるの遅いよな、ホータローは」


「徹夜してたんだよ」


「おっ、徹夜でゲームか?
いやいや、ホータローは古典部なんだし読書かな?」


「……読書だ」


おまえ達の事を徹夜で考えてたんだよ、とは言えなかった。
それに嘘は言っていない。
昨日沢木口と別れた後、親父の蔵書の中で参考になりそうな本を片っ端から読んだのは事実だからだ。
おかげで考えもかなりまとめられたのだが、俺にはそれより先に訊いておかなければならないことがあった。


「どうしてお前が俺の家で料理をしてるんだ」


「ホータローの姉さんに頼まれたからだよ」


「姉貴に?」


「ああ、今日十時過ぎにここに来たんだけど、その時はホータローの姉さんが出迎えてくれたんだよ。
『奉太郎、まだ寝てるけど上がっちゃって』ってな。
私もホータローの家を見ておきたかったからお言葉に甘えたんだけど、
なんかお姉さんにいきなり連絡が入って急用ができちゃったみたいでさ、
それで私がお姉さんにホータローの朝ごはんの準備を任されたってわけだ」


「お前も任されるなよ、田井中……」


「別に朝ごはんの準備くらい手間にならないって。
それにホータローはえるに手料理を振る舞われるくらいの仲なんだろ?」


「それにはかなりの語弊があるぞ」

388: ◆2cupU1gSNo 2014/03/13(木) 19:14:06.85 ID:PYvSXBlq0


千反田の手料理なら確かに何度か御相伴に預かったことがある。
千反田家で振る舞われたこともあるし、弁当の具を何度か頂いたことだってある。
だがそれだけだ。
自宅で手料理を振る舞われるような仲では決してない。
姉貴がそれを知っているのか否かは定かではないが、おそらくは後者で俺をからかうつもりだったのだろう。
いつものことだがろくでもない姉貴である。
今晩の夕飯では、姉貴の嫌いな物のフルコースを用意してやろう。


「いいじゃんかいいじゃんか。
ちょうどごはんもできあがったところだし、遠慮なく食べちゃってくれよ」


「俺はまだパジャマなんだが」


「朝食は大体パジャマで食べるもんだろ?
それぞれの家庭で違うかもしれないけどさ」


田井中の言う通り、俺は普段パジャマのままで朝食を食べている。
この口振りだと田井中家も朝食はパジャマで食べる文化圏の家庭なのだろう。
俺としては田井中――正確には千反田の姿をしている田井中――の前でパジャマのままでいるのは抵抗がある。
しかし田井中はと言えば、パジャマのままの俺の姿になにも感じ入るものはないらしかった。
聡という名の弟がいると言っていたし、大方俺のことなど弟程度にしか考えていないに違いない。
なんとなく悔しい。
が、俺はそれを田井中に悟られないよう、用意された朝食の前に陣取る。
テーブルにバランスよく並べられていたのは、ごはんに味噌汁、焼き魚とキャベツの千切りだった。


「田井中家は和食中心なのか?」


「日本人ですからね!」


なぜだか誇らしげに宣言されてしまった。
別に問題無い。
俺もどちらかと言えば朝食は和食が好きな方だ。


「いただきます」


「召し上がれ」


田井中の許しを得た後、俺は遅い朝食に箸を付けていった。
単純な料理だから不味く作りようがないと言うのもあるだろう。
それを前提としても、田井中の用意してくれた朝食はかなり美味かった。
徹夜で疲れていたのもあって、俺はあっと言う間にその朝食を食べ終えてしまっていた。
特に美味かったのは味噌汁だ。
俺の家にある味噌汁を使っているはずなのに、俺が作る味噌汁とは味が全く異なっていた。
調理者によってこうも変わるものかと思わされる。

そして当然ではあるが、田井中の味噌汁は千反田の調理したそれの味とも大きく異なっていた。
千反田の味噌汁は薄味で上品な風味を感じさせる。
田井中の味噌汁は大味ながら空いた腹に満足感を与える庶民派の味だった。
優劣の話ではないが、庶民である俺は田井中の味噌汁の方が好みかもしれないくらいだ。
同時に今更ながらまた実感させられた。
やはり千反田と田井中は全く違う別個の人間なのだと。


「お粗末様」


「謙遜するな、美味かったぞ」


「へへっ、そりゃどうも」


照れ笑いを浮かべる田井中を横目に、俺は食器を洗い場に運んで行く。

389: ◆2cupU1gSNo 2014/03/13(木) 19:14:50.14 ID:PYvSXBlq0


「私が洗うけど?」


「いくら省エネ主義でも洗い物くらい自分でやるさ。
客にもてなされたままだと逆に疲れるからな。
お前は座ってテレビでも見ててくれ」


「そっか」


田井中は素直に引き下がり、深く座って点けていたテレビに視線を向けた。
俺は蛇口から流した水でスポンジを濡らせてから、台所洗剤を含ませる。
洗い物などどうせ五分も掛からないのだが、せっかくなので田井中に他愛も無いことを問い掛けてみた。


「観たことがある番組か?」


「いや、観たことない番組だな」


「お前の世界には無かった番組なのか、それともお前が知らないだけなのか。
まあ、それを確かめる術は無いけどな」


「いや、私が知らない番組ってだけだと思うぞ?」


「どうして分かるんだ?」


「だってこれローカル番組じゃんか」


田井中に指摘された通り、俺はテレビの音に耳を傾けてみる。
確かにたまに耳にするローカル番組のナレーターの声が響いているようだ。
十一時過ぎという時間帯もあって、ちょうど合わせていたチャンネルはローカル番組を放映していたらしい。
これでは田井中が知っているはずもない。


「ローカル番組、面白いか?」


「まあまあかな。
私の知らない番組だからちょっとは新鮮味もあるし」


「そういえば普段お前は家でなにをやっているんだ?」


「別に普通だぞ?
ゲームやったり、雑誌読んだり、軽くドラムの練習したり、そんな感じだ」


「いや、これは俺の質問が悪かった。
お前は千反田家でなにをして過ごしているんだ?
こうなるまでと同じ様な生活をしているのか?」


「そういう意味か……」


田井中が深刻そうに首を捻る。
悪いことを訊いてしまっただろうか。
そう思わなくもなかったが、次の瞬間には田井中は軽く微笑んでいた。

390: ◆2cupU1gSNo 2014/03/13(木) 19:15:17.58 ID:PYvSXBlq0


「えるの家では音楽を聴いてるよ。
だってえるの部屋、すっげーコンポがあるんだぜ?
すっげー高いやつ。
おじさんからの貰い物みたいだけど、あの音質知っちゃったら悪い音質には戻れないな、ありゃ」


高いコンポがとんでもなく高いのは俺も知っている。
軽音部である田井中が言うのだから、余程見事な音質なのだろう。


「音楽を聴いて過ごしてるってことか?」


「まあなー。
えるのイメージを崩さないために、あんまり激しいロックを聴けないのは難点だけどさ」


「ゲームとかはしないのか?
伊原との会話を聞く限りじゃ、お前もかなりのゲーム好きらしいが」


「私もゲームは好きだよ。
でもえるはゲーム機持ってないし、摩耶花に借りるにしてもPS2じゃなあ……。
レトロゲームってのも悪くないけど、あの快適さに慣れたら戻るのはきついもんだよ。
実はさ、私の世界ではもうPS3ってのが出てるんだぜ?」


「PS3か、そりゃ凄いんだろうな」


「凄いよ、ブルーレイだって読み込めるし」


「ブルーレイ……?」


「あー、えっと……、あるんだよ、そういうディスクが。
DVDの何倍も容量がある、DVDを発展させたディスクなんだけどな」


「DVDが発展するとどうしてブルーレイって名前になるんだ?」


「私もよく知らないんだけど青い光線を使ってるらしい」


「そのまんまだな」


よくは分からないが、田井中がそう言うのならそういう技術に発展しているのだろう。
里志なら深く知りたがったかもしれないが、生憎俺は技術の発展にはそう興味が無い。
俺が知りたかったのは、俺の世界と田井中の世界がどれくらい異なっているかということだ。
俺は茶碗と皿を拭いて水切り籠に置くと、手を拭いて居間のテーブルに戻った。
田井中はローカル番組に熱心に視線を向けていた。
自分の知らないローカル番組、しかも過去の。
まあまあと言ってはいたが、その実かなり興味をそそられる内容だったらしい。
その田井中の好奇心を邪魔するのもなんとなく憚られる。

俺はもう一度立ち上がり、冷蔵庫の中からよく冷えた麦茶を取り出した。
二つのコップに注ぐと、テーブルの上に置いてまた座る。
テレビの音こそ響いているが、田井中と過ごす珍しく静かな時間。
テレビを興味深そうに見ている田井中の横顔が、時たま寂しそうに見えるのは俺の気のせいだろうか。
いや、気のせいではないだろう。
自分の知らない過去のローカル番組を観ているからというだけではない。
千反田の中に顕現して以来、田井中はずっと強い疎外感に苛まれていたに違いない。
田井中を知る者が誰一人いない過去の世界、田井中の目に見えるもの全てが異物なのだ。
楽しい大学生活を目の前にして、そんな状態に陥ってしまった田井中の心情は窺い知れない。

十一時三十分。
ローカル番組のスタッフロールが流れ終わったのを見届けてから、俺はゆっくり口を開いた。

391: ◆2cupU1gSNo 2014/03/13(木) 19:15:45.92 ID:PYvSXBlq0


「田井中」


「ん」


「今日はなにをしに来たんだ?」


「友達の家に遊びに来ちゃいけないのか?」


「悪くはない。
だが事前に連絡くらいできただろう」


「ホータロー、携帯持ってないだろ?
私……ってか、えるもだけどさ」


「自宅の電話という手段もあるじゃないか」


「分かってるよ、いじめんなって。
今日さ、起きてからふと思い立ったんだよ、ホータローに会いに行こうって。
思った時には自転車を飛ばしちゃってたんだよ。
あ、頭はぶつけてないから心配すんなよ」


「そこは心配していない」


「そっか」


沈黙。
一瞬後、田井中はパイナップルのようにした前髪に手を伸ばした。
なにをするのかと思えば、髪を留めていたゴムを外して前髪を下ろした。
あの髪型はやはりあくまで調理の時だけの臨時の髪型だったらしい。
それから田井中は器用に前髪と後ろ髪を纏めていった。
次の髪型はポニーテールだ。
過去に千反田もたまにしていた髪型。
小さく息を吐いてから田井中が続ける。


「なあ、ホータロー」


「どうした」


「学校、行かないか?」


「……宿題なら合宿のおかげでほとんど終わっているぞ」


「そうじゃないって。
学校でさ、ホータローとやりたいことがあるんだ。
……駄目か?」


真剣な田井中の視線。
俺に縋ってるようにも見える悲壮な表情。
なにかが近付いている。
なにかの決定的な転機が。
俺もできる限りの真剣な視線を田井中にぶつけ、強く頷いた。


「いや、いいさ。
ちょうど俺にもお前と話したいことがあったんだ」


そう口にした後、窓の外に視線を向けてみた。
見えたのは青い空と燃え盛るような太陽。
今日も暑くなりそうだった。
暑さを感じている暇があるかどうかは分からないが。

394: ◆2cupU1gSNo 2014/03/15(土) 18:32:07.54 ID:27fzxp940




前にも考えた気がするが。
俺は比較的日本語が堪能な方だと考えている。
あくまで比較的に、だ。
活字離れが叫ばれて久しい近年において、俺が比較的読書をしている方だというだけだ。
しかしそれなりに堪能な方だと自負してはいる。

けれどやはり、今の自分の感情を上手く言語化することが俺にはできなかった。
良くない。
この状態を継続することだけは良くないぞ。
それだけはよく分かるのだが……。


「身体に力が入り過ぎなんだって、ホータロー」


耳元で田井中に囁かれる。
田井中がわざわざ俺の耳元に口を寄せているわけではない。
体勢的に田井中の唇が俺の耳に近いのだ。
俺はといえば田井中の言葉に何度も頷くことしかできない。


「手首だけじゃなく肩の力ももっと抜いてくれよ?」


耳元に田井中の吐息を感じながら、どうしてこうなったのか俺は十数分前に思いを馳せる。
学校に到着して、田井中に連れられたのは軽音部の部室だった。
軽音部の誰かに用事があるのかと思っていたら、田井中がスカートのポケットの中から部室の鍵を取り出した。
どうやら仲良くなった軽音部員から鍵を預かっているらしい。
部室の鍵は職員室に返却しなければいけないはずだが。
それを訊ねると、田井中は「合鍵が無いと色々不便らしいんだよ」と苦笑していた。
なるほど、古典部の様に真面目に鍵を返却している部活は逆に少数派なのかもしれない。

軽音部の部室の中には誰もいなかった。
当然だ、鍵が掛かっていたのだから。
こもった夏の熱気を逃がすために窓を開けると、田井中は荷物を置いてドラムの椅子に座った。
普段ドラムは準備室に片付けられているはずだが、今日は珍しく定位置に準備されているようだった。
夏休みだからかもしれない。
音楽室が授業で使われるわけでもないのだし、ドラム担当の部員が片付けの労力を省きたかったのだろう。
誰だってそう考えるだろうし、省エネ主義の俺はその考えに強く感情移入できた。

それにしても田井中はドラムを叩きに来たのだろうか。
他にドラムを叩ける場所もないし、たまには存分にドラムを叩きたいのかもしれない。
しかし一人で叩くのは寂しいから暇そうな俺を誘ってみた。
大方そんな事情だろうと高を括っていたら、田井中は予想外の言葉を口にしたのだった。


「じゃあホータロー、この椅子に座ってみてくれ」


どういうことだ?
俺がそう訊ねるより先に田井中は楽しそうに微笑んでいた。


「今日はホータローにドラムを教えてやろうと思ってさ」

395: ◆2cupU1gSNo 2014/03/15(土) 18:32:59.23 ID:27fzxp940


どうやら俺より先にドラムの椅子に座ったのは、
ドラムのセッティングのチェックをしていただけだったらしい。
結構だ。
こんな夏の熱気の中、そんな疲れそうなことができるか。
頭では何度もそう思うのだが、言葉にはできなかった。
言葉にできなかった理由は自分でも分からない。
朝食を御馳走になったという借りがあったからかもしれないし、
田井中の楽しそうな微笑みの裏に、なにかそれとは異なった寂しそうな感情に気付いてしまったからかもしれない。
どちらでもよかった。
どちらにしろ、わざわざ夏休みに学校に顔を出したのだ。
こんなところでやるやらないの押し問答になっても意味が無い。
「了解」と苦笑してドラムの椅子に座ると、田井中は「ありがとな」と笑った。

俺もドラムに興味が無かったわけじゃない。
部室で田井中がドラムを叩くのを見て以来、多少なりとも興味が湧いていた。
百聞は一見に如かず。
ドラムの音自体は当然ながら聴いたことがあるのだが、
ドラマーがドラムを叩いているところを直接目にする機会は多くない。
田井中が千反田の中に顕れなければ、それこそ俺には一生そんな機会は無かったに違いない。
だから興味をそそられてはいたのだ、ドラムという楽器に。
もちろん田井中の様に叩けるとは思っていない。
ドラムを演奏する難しさ。
それを知りたかったのだと思う。

だが今の俺はその時の俺の決心を後悔し始めていた。
田井中の指導がスパルタ方式だったからではない。
普段の大雑把な振る舞いに似合わず、田井中は実に丁寧に俺にドラムを指導してくれた。
上手くできないところも親身になって熱心に。
いや、熱心過ぎたのだ。
だから俺は後悔しているのだ。


「聞いてるか、ホータロー?」


田井中の吐息が俺の耳元をまた擽る。
背中に妙な刺激が奔り、考えないようにしていた背中の感触をまた意識してしまう。
たまに部室で気にしていたいい香りも。
そう、熱心過ぎるのだ、田井中は。
十数分前、俺がドラムの椅子に座った後、田井中は予備らしい椅子を準備室から取り出した。
隣に座って近くで指導してくれるのだろうか。
そう考えた俺が甘かった。
確かに田井中は俺の近くで指導を始めてくれた。
俺の隣ではなく後ろに座って、俺の背中に身体を密着させて。
身体を密着させたのは、田井中自身が叩くのと同じ体勢になるためだろう。
田井中がやろうとしていたのは、俺の考えていた以上に実践的な指導だったということだ。
田井中が熱心になってくれるのは、俺としても悪い気分ではない。
だが、その、なんと言うか、これはちょっと……。

背中に田井中の柔らかさを感じる。
柔らかさだけでなく、多少の硬さも感じるが、これはブラジャーの硬さだろうか。
千反田自身パーソナルスペースの狭いお嬢さんだったが、田井中はそれよりもパーソナルスペースが狭かった。
弟がいるからというのもあるだろう。
おそらくは弟相手にこうしてドラムを教えたこともあったに違いない。
だがそれ以上に、田井中は自分が誰の身体の中にいるのか忘れているのではないだろうかとも思う。
失礼かもしれないが、田井中と伊原との会話が耳に入ったことがある。
二人が話していたのは、思春期の女子高生らしく体型についてだった。
小学生がそのまま大人になった様な伊原だ。
自分と近い身長だと話す田井中の体型のことが気になったのだろう。


「私も澪っていうボインな幼馴染みがいるから分かるよ、摩耶花。
実は私もそんなに胸が大きくならなくってさー……」

396: ◆2cupU1gSNo 2014/03/15(土) 18:33:39.87 ID:27fzxp940


苦笑がちに答えていたことから、伊原への気遣いではなく事実だったのだろう。
元の世界の田井中の胸は小さ……、スレンダー体型なんだな。
その時の俺はそう思っただけだった。
まさか元の世界の田井中のスレンダー体型が、今の俺をこんなに苦しめるとは思っていなかった。

元の世界の田井中はスレンダー体型だ。
それゆえに他人に対してパーソナルスペースを狭く持てる。
グラマー体系の人間よりも他人の近くに寄れるのだ。
小さな胸の分だけ、大きな胸を持つ人間よりも他人に近付ける。
当然の話だ。

だが今の田井中はスレンダー体型の思考を有したグラマー体系なのだった。
前に田井中が樹に頭をぶつけた事からも分かる。
十八年以上慣れ親しんだ田井中自身の肉体の感覚に引っ張られて、
使い始めて数ヶ月の千反田の肉体の感覚を完全には掴んでいないのだ。
元の田井中の肉体の感覚で他人に近付いて、それよりも一回り大きな千反田の肉体を他人に触れさせてしまうのだ。
だからこそ、千反田より更にパーソナルスペースが狭いように俺に感じさせられるのだろう。


「聞いてる……。
聞いてるから、次はどうしたらいいのか教えてくれ」


どうにかそれだけ口にする。
背中の感触を可能な限り気にしないようにするには、そうするしかなかった。
しかしそれだけでは解決できない問題もあった。
田井中から漂う香りだ。
香水の香りではない。
夏休みとは言え、千反田も田井中も香水の香りを漂わせる人間ではない。
つまりシャンプーかリンスの香りだろう。
田井中が顕れるより前から鼻に覚えがある香りだということは、元から千反田が使っていたシャンプーの香りに違いない。
密着してしまっているだけに、余計に鼻孔を擽ってしょうがない。
姉貴もだが、どうして女というものはこんな濃厚な香りを漂わせているのだろう。


「うーん、やっぱ身体が固いなー」


苦笑した田井中の吐息が俺の耳をまた擽る。
固くなってしまっているのはお前にも原因がある。
とは言えなかった。
熱心に指導してくれている田井中の厚意を邪魔できるほど、流石の俺もそこまで朴念仁ではない。
高鳴る鼓動を抑えて、気分を落ち着けるために小さく口にしてみる。


「なあ、田井中」


「どうした?
疲れたんなら休憩するか?」


「いや、休憩はまだいい。
ちょっと気になったことがあるんだが、訊いていいか?」


「いいぞ?」


「どうして急に俺にドラムを教える気になったんだ?
変なドラマでも観たか?
それとも伊原から借りた漫画でも読んだか?」


「ホータローにドラムのことを知ってもらいたくなったからだ!」


「そのままだな……」


「ははっ、そうだな。
でも嘘じゃないぞ?
この世界で私に親身になってくれたホータローにドラムを……、
私の好きなドラムのことを少しでも知っておいてほしくなったんだ。
本当にそれだけなんだよ」


「そうか……」

397: ◆2cupU1gSNo 2014/03/15(土) 18:34:09.23 ID:27fzxp940


「ああ、そうなんだ」


明るい田井中の言葉を聞いて思う。
田井中は本当に俺にドラムのことを知ってもらいたいと思っていると。
多少それ以外の理由があるとしても、その言葉に嘘は無いのだと。
それが田井中の選んだことなのだろうと。

それならば田井中の厚意に応じないのは、そう、失礼というものだ。
田井中の感触や香りが気にならないと言えば嘘になる。
しかし俺は田井中の手のひらに指導されるのままに手首を動かし、
フットペダルを使えるまでにはならなかったものの、そこそこのリズムを刻めるようには努めた。
田井中と比較すると遜色のあり過ぎるドラミング。
それでも田井中は嬉しそうに笑ってくれた。


「おおっ、やるじゃん、ホータロー。
結構筋がいいかもだぞ?」


「そうとは思えないがな」


「いやいや、初めてでこれは中々のもんだって」


「そうか?」


お世辞なのか田井中の指導スタイルなのかは分からなかったが、不思議と悪い気分ではない。
田井中は俺から身体を離すと、ドラムの正面に回り込んで俺の瞳を覗き込んだ。
流石に暑かったのか、田井中の額には幾つかの汗が浮かんでいた。


「ドラム、どうだった?」


「暑いし、疲れた」


「ホータローらしい返答をありがとさん」


「だが……」


「なんじゃらほい?」


「悪くはない気分だった。
田井中の好きなドラムのことが少しだけ分かった気はする。
田井中が夢中になって演奏するのも。
少しだけ、だけどな」


「それで十分だよ、ホータロー」


田井中が笑うと、俺も釣られて笑った。
おそらく俺が自分からドラムを叩こうと思うことは、これから先も訪れないだろう。
だがドラムの楽しさ、ドラムの魅力は少しだけ分かった。
それだけでも俺にとってはかなりの前進だと言えるかもしれない。


「じゃあ次は俺の番だな」


「ああ、次はホータローの番だ」


田井中が頷くと、俺は予備の椅子を田井中の足下に運んだ。
田井中がその椅子に腰を下ろし、俺と田井中はドラムを挟んで視線を交錯させる。
次は俺の番。
田井中とこの現象についての答えを出す番だった。

400: ◆2cupU1gSNo 2014/03/20(木) 18:47:43.57 ID:5cH4cbll0


「まずは現在時点で分かっている情報からまとめよう。
なにが分かっていて、なにが分かっていないのかを把握しておくんだ。
学校のテストでも同じことだが、自分の理解がどれほどなのか分かっておくのは存外に大切だからな」


「ああ、それでいいぞ。
なにが分かってないのか知っておくのは大事だよな。
ま、私は一夜漬けするタイプだけどさ」


一夜漬けか、とは言わなかった。
俺も勉強に関しては田井中と似たり寄ったりだろう。
軽く深呼吸してから続ける。


「そこでまず田井中の世界がこの世界とどう違うのかまとめてみる。
第一に時間だ。
この世界は二〇〇一年、もっと言えば八月二十日だ。
対する田井中の記憶に残っている田井中の世界は二〇一〇年の三月中旬頃。
そこで俺も含めて誰もが考える可能性としては時間移動だろう。
未来から田井中の意識だけが時間を遡って千反田の肉体に宿った。
そう考えることはできる。

だがそうじゃないことはすぐ分かった。
桜が丘女子高等学校、田井中の母校がこの世界に存在していなかったからだ。
それ以外にもこの世界に存在していてもおかしくないものが存在していなかった。
細かいところでの差異がかなりあったんだ。
確かめようもないことだが、おそらくこの世界に田井中も田井中の同級生も存在してはいないだろう」


「だろうな、なんか残念だよ。
もし本当にここが過去の世界だったら、小さな頃の私や澪に会ってみたかったんだけどな」


「やめておけ。
現実にそうなのかは知らないが、同一人物同士の出会いは時空を歪めるらしいぞ。
なぜかSFのお約束になっているよな、誰も確かめたことがないだろうに」


「そうだよな、そういうお約束あるよな。
だけどそれ最初に言い出したのって誰なんだ?
少なくとも私は知らないけど」


そんなことは俺だって知らなかった。
どうでもいい田井中の疑問は放置して、更に情報をまとめる。

401: ◆2cupU1gSNo 2014/03/20(木) 18:48:14.37 ID:5cH4cbll0


「次に時間以外の差異について考えてみる。
約十年という時間の差を念頭に置いて考えたとしても、俺と田井中の世界はそれなりに異なっている。
大まかな歴史の流れは同じ様だが、細かい点では色々違っているようだからな。
その最たるものは田井中の母校の存在の有無だが、他にも俺たちが気付いていないだけで数多くの差異がありそうだ。
そこで考えられるの可能性としてはパラレルワールドの存在だった。
田井中の世界と俺の世界は似ているが異なっている平行世界。
なんらかの理由で田井中の意識が世界を越えて千反田に宿った。
方法は全く分からないが、それならば田井中の存在をとりあえず説明できる。
かく言う俺もかなり長い間そうだろうと思っていた。
平行世界を越える方法さえ分かれば、全てが解決だと考えていた。
しかしそう簡単な話でもなかったんだよ」


「私の中のえるの記憶と、ホータローの記憶の違い……だよな?」


「ああ、そうだ。
俺の記憶と田井中の中の千反田の記憶、両者は似てはいるが異なっていた。
その代表が田名辺との密談だったわけだが、それ以外も違う点があるみたいだな。
例えば、そう、お前の中の千反田の記憶では、
千反田が入須のクラスの映画の件で俺の家に迎えに来たことがあったんだよな?」


「そうだな。
えるがホータローをどうにか映画の件に関わらせようと必死だった感情まで思い出せるよ」


「お前の中の千反田の記憶ではそうだったんだろう。
だがな、俺はその日、千反田に迎えに来られてないんだよ。
千反田が俺の家に来たのは、俺が憶えている限りでは俺が風邪で寝込んだ時だけだった。
今日、お前が急に来たのを除いてな。
そうだ、今更改めて確かめることでもないと思って、放置しておいたのが間違いだったんだ。
俺たちは確かめるべきだったんだよ、田井中の中の千反田の記憶が本当に千反田の記憶だったのかをな」


「じゃあ……」


田井中はそれ以上口にはしなかったが、なにを言おうとしているのかはよく分かった。
じゃあ、私の中のえるの記憶は結局なんなんだよ?
そう言おうとしていたのだろう。
それは俺にも長い間分からなかった。
分からなかったが、入須や田井中、沢木口との会話からその答えは掴め始めていた。
もちろんそれは俺の勝手な想像ではあるし、確かめようもないのだが。


「田井中、お前は前にこう言っていたな。
平行世界の千反田→田井中→この世界の千反田の順番で生まれ変わったんじゃないかと。
それならば確かに理屈が合っている。
お前の中の千反田の記憶が、違う世界の千反田の記憶だと考えれば、
俺とお前の中の千反田の記憶が異なっている理由について辻褄が合わないこともない。
だけどな、俺はもっと単純なことに気付いたんだよ」


「単純なこと?」


「入須が話していたな、『ドナーの記憶』の話を。
俺も少し調べてみたが、要は脳だけが記憶する器官ではないって話なんだろう?
心が人体のどこに宿っているのか。
脳なのか、心臓なのか、それとも細胞の全てがなんらかの記憶をしているのか。
細胞の全てが記憶しているのだとすれば、内臓を移植することで記憶さえも共有できるのではないか。
眉唾な話ではあるが、現実にそういう『ドナーの記憶』が存在しているとしよう。
突拍子も無いことを話しているのは俺自身も分かっている。
だけどな、それが生まれ変わりの正体だと考えることはできないか?」


「『ドナーの記憶』が生まれ変わりの正体?
話がよく分かんないんだけど……」

402: ◆2cupU1gSNo 2014/03/20(木) 18:54:51.90 ID:5cH4cbll0


「『ドナーの記憶』って呼び方が悪かった。
つまり人間の記憶は脳以外にも記録されるかもしれないって話だ。
人間の内臓どころか細胞、いや、細胞どころかそれを構成している原子までなにかを記憶している。
そう仮定してみよう。

一方地球上の全ては流転している。
食物連鎖、雨と海の関係に限らず、多くのものが流転しているよな。
人間だって死ねば土に還り、その土から植物が生え、その植物を虫や動物が食す。
誰かが死んだとしても、肉体を構成していた原子は違う形で残り続けるんだ。
その原子がもし記憶を持ち続けられるとしたらどうなる?」


「ふとした拍子で、自分として生まれる前の誰かの記憶が甦るかもしれない……ってことか?
それが生まれ変わりと前世の記憶の正体だって、ホータローはそう言いたいのか?」


「そうも考えられるってだけだ。
俺は理系じゃないし、原子がなにかを記憶できるって話を聞いたこともない。
これは単なる仮定で、とんでもなく間違っている結論かもしれない。
だが俺たちは荒唐無稽な仮定でも組み立ててみるしかないんだよ。
目の前にしているのが前例の無い荒唐無稽な現象なんだからな」


「まあ、そうだな……。
荒唐無稽だけど、私もホータローの仮定は筋が通ってると思うよ。
じゃあ、なにか?
原子だけならパラレルワールドも越えられるかもしれないって話になるのか?」


「違う、そうじゃない。
結論から言おう、パラレルワールドはこの現象とはなんの関係も無いんだよ」


「パラレルワールドは関係無い……?」


怪訝そうに田井中が首を捻る。
これまで延々とパラレルワールドのことばかり考えていたのだ。
今更なんの関係も無いと言われてしまえば、そう反応してしまいたくもなるだろう。


「厳密に言えばパラレルワールドかもしれないが、その話は後に回そう。
さっき原子と俺は言ったが、別に原子でなくても構わない。
よくは知らないが原子より小さな素粒子って物質もあるらしいからな。
とにかく情報を記憶できる物質が存在していると仮定する。
話は飛ぶが田井中はビッグバンを知っているか?」


「ビッグなものがバーンとする感じの……」


「俺は突っ込まないぞ」


「分かってるよ、言ってみただけだって。
ビッグバン、宇宙の始まりになった大爆発だろ?」


「知ってるんなら最初からそう言ってくれ。
詳しい説明は省くが、ビッグバンが起こる前には、
この宇宙を構成する物質が一塊になってなんらかの形で存在していたそうだ。
当然だな、爆発から宇宙が始まるにしても、爆発するためのなにかが無ければ爆発は起こらない。
それが原子なのか素粒子なのかは知らないが、とにかく情報を記憶できる物質だとしよう。
その物質が前の宇宙の情報を記憶できるとしたら、どうなる?」


「前の宇宙ってなんだよ?
宇宙って前の宇宙や後の宇宙があるのかよ?」

403: ◆2cupU1gSNo 2014/03/20(木) 18:55:17.96 ID:5cH4cbll0


「俺も詳しいことは知らないが、そういう議論は既にされているらしい。
ブラックホールならお前も知っているだろう?
光さえも吸い込む暗黒天体、ブラックホール。
対としてなんでも吐き出すホワイトホールが存在するかもと言われてはいるが、それは単純な仮定でしかないだろう。
ブラックホール自体、単なる高重力の塊に過ぎないからな。
とにかく宇宙が膨張し続けているのと同様に、ブラックホールも膨張しているらしい。
この宇宙全体を飲み込むかもしれないほど、膨張することもあるかもしれないくらいに。

膨張するブラックホールが宇宙全てを本当に飲み込むのかどうかは知らない。
もっと強大な天体が発見されることもあるかもしれない。
俺が言いたいのは宇宙は広大で、宇宙を終わらせる原因になりそうななにかが無数にあるってことだ。
いつかは宇宙も終わるんだよ、動物や人間や地球がいつかは死ぬのと同じ様に。
宇宙も、死ぬんだ」


「……そして、また始まる?」


「俺の言いたいことが分かり始めたみたいだな、田井中。
ああ、そうだ。
原子や素粒子が流転する様に、宇宙全体も流転する……と思う、俺は。
ビッグバンで始まった宇宙はいつか死に、長い時間を経てまたビッグバンで膨張するんだ。
宇宙全体も死んでは生まれ変わることを繰り返しているんだろう。
繰り返して言うがこれは俺の勝手な仮定だ、証明のしようも無い。
あくまで一つの俺の考えだと思って聞いてくれ」


「私はお前の考えが当たってると信じてるよ、ホータロー」


軽く微笑んだ田井中が俺の肩を強く叩く。
ドラムで鍛えているだけあって、その勢いは相当なものだった。
痛い。
が、不思議と嫌な気分にはならなかった。
俺の肩を何度か叩いた田井中が、また不意に真剣な表情になった。


「と、いうことは、だ」


「ああ、何十、何百、いや、何億か何兆か何亥か……。
とにかく途方も無い回数繰り返して来た宇宙の中には、
田井中が生きた地球や、その前の千反田の生きた地球があったんだろう。

運命論というものがあるよな。
人間の運命は生まれた時から全て定められている、という理論が。
運命というものが存在するかどうかは知らないが、
そうなりやすい因子というものは存在しているんじゃないかとは俺も思う。
例えば人類がこの宇宙に生まれる理由は途方も無く低いらしい。
偶然たまたまそうなったとはとても思えないと。
人類が発展した事自体、奇蹟の様なものだ、なんて言葉もよく聞くな。

これも仮定だが、情報を記憶できる物質が存在するとしたら、
その物質が前の宇宙と同じ様な状態を再構成しようとしても不思議じゃないんじゃないだろうか。
もちろんそれに失敗してしまった宇宙も何兆回かはあったはずだ。
しかし、それと同じくらい人類を再構成できた宇宙も何京回かあっただろう。
その人類が似た様な歴史を辿って来たとしても不思議じゃない、細かい差異はもちろんあるにしても」


「分かったぞ、そういう意味でのパラレルワールドなんだな」


「そういうことだ。
俺の世界、いや、宇宙と田井中の宇宙は正確にはパラレルワールドじゃない。
俺の宇宙は田井中の宇宙のずっと未来に生まれた宇宙なんだ。
そういう意味で俺たちの宇宙は平行ではなく、直線状に繋がっていた宇宙だったんだ。
よく似通っているという意味ではパラレルワールドではあるが」

404: ◆2cupU1gSNo 2014/03/20(木) 18:56:11.66 ID:5cH4cbll0


全く荒唐無稽だった。
荒唐無稽で無茶苦茶にも程がある。
里志なら嬉々として話を膨らませそうなくらいの。
田井中と出会う前の俺なら一笑してしまっていただろう。
しかし今の俺は田井中と出会ってしまっているし、これ以上の答えは出せそうになかった。


「生まれ変わりは時間を超える……か」


苦笑しながら田井中が呟く。
十文字の言葉だった。
確かに時間は遥かに超えている。
過去へではなく、未来に、だが。
田井中は未来の二〇一〇年から過去の二〇〇一年にタイムスリップしたわけではない。
遥か何兆巡か未来の二〇〇一年に辿り着いていたのだ。

409: ◆2cupU1gSNo 2014/04/02(水) 21:31:20.53 ID:prWitZ5Z0


「一、十、百、千、万、億、京、垓……」


節を付けて歌うように田井中が呟き始める。


「次はなんだっけ?」


「どうだったかな、最後の方はなんとなく覚えているんだが」


「ちなみに聞くけど最後の方は?」


「恒河沙、阿僧祇、那由他、不可思議、無量大数だな」


「懐かしいな、無量大数。
無量大数なんて単位、逆に小学生の時にしか使わないよな」


確かに、と俺は頷く。
小学生の頃、無量大数という単位を覚えた同級生が、
意味もなく無量大数無量大数と口にしていた記憶が俺にもある。
小学生というものは無駄に規模の大きい話が好きなのだ。
かく言う俺も無量大数という単位を知った時は胸が高鳴ったものだ。
そんなにも大きな単位の世界があるなんて、と世界の大きさに胸を躍らせた。

しかし成長するにつれて、無量多数なんて単位を使う機会など滅多に無いことを知る。
数学の問題ですら使用した記憶が無い。
当たり前の話ではあるが、膨大過ぎて日常生活どころか人生そのものにも関係無いのだ、無量大数なんて単位は。
記憶の片隅にはあるが、進んで思い出そうとも思わない単位。
まさか現実に思いを馳せることになるとは、思ってもみなかった。
しかも現実に自分自身と関係のある単位として。


「宇宙ってどれくらい生きるんだろうな」


「さあな」


遠い目で呟く田井中に、俺はそう返すことしかできない。
それ以外にどう返せと言うんだ?
俺の適当な返答に苦笑して、それでも田井中は続けた。


「死んで、生まれ変わって、また死んで、また生まれ変わって……。
それこそ一無量大数年じゃ済まないくらい時間が流れてるのかもな。
それだけ長い時間が経ってるんだ。
えるの中で私の記憶がなぜか甦ることくらいあるよな」


「そうかもしれない。
そうかもしれないが……」


「なんだよ?」


「単にそれで終わらせていいものなのか?
なあ田井中、お前も分かっているんだろう?
宇宙は繰り返しているのかもしれない。
俺たちを構成する物質の一つ一つが過去を記憶しているのかもしれない。
眉唾だが前世の記憶が甦ったという人間の話を聞かないわけじゃない。
果てしなく長い宇宙の歴史の中では、前世の記憶を有した人間など珍しくないのかもしれない。

だがな、俺は思うんだよ。
なぜこの宇宙での千反田の肉体に、お前の記憶と人格が甦ったのだろうかと。
それにはなんらかの意味があるような気がするんだ。
俺は運命論者じゃないし、全ての事象に意味があると考えてるわけでもない。
それでも、俺にはお前たちの中で起こっている現象には、意味があるはずだと思えるんだ」


「かもなー……」

410: ◆2cupU1gSNo 2014/04/02(水) 21:31:48.98 ID:prWitZ5Z0


「こればかりは俺にはどう推論しても辿り着けない結論だ。
だから訊かせてくれ、田井中。
お前にはなにか心当たりがないか?
この宇宙、この時代、この時間に、田井中律の人格が千反田の中に蘇らなければならなかった理由に」


田井中は押し黙る。
俺も口を閉じる。
俺の推論は終わった。
なんの根拠も無ければ、途方も無く荒唐無稽な話だが、俺に出せる最善の答えだった。
後はこの現象の中心である田井中に訊ねてみるしかない。

どれくらい経っただろう。
不意に穏やかな笑みを浮かべた田井中が俺を顎でしゃくった。
場所を換わってくれということなのだろう。
俺は素直に立ち上がって、ドラムの椅子を田井中に譲った。
サンキュ、と呟くと、田井中は軽くドラムを叩き始める。
田井中らしくなく実に静かなドラミングだった。


「私はさ、悔しかったんだと思うよ」


「悔しかった?」


「いつの私なのかどれくらい前の私なのか分かんないけどさ、私は多分悔しかったんだ。
それと同じくらいえるも悔しかったんだと思う。
どうにもならないことがあって悔しくて、それをどうにかしたくて、私たちは頑張ったんだ。
ずっとずっと頑張ってたんだよ。
何度も何度も失敗して挫けそうになったけど、諦めたくなかったんだ。
今の私とえるに起こってるこれは、ずっと前の私たちが諦めなかった結果なんじゃないかな……」


「なにが悔しかったって言うんだ?」


田井中はそれには答えなかった。
代わりに悪戯っぽい微笑みを浮かべて軽くシンバルを叩いた。


「まあ、悔しかったってだけじゃないんだけどな。
ちょっとだけ不純な動機もあったんだよ。
悔しさと不純な動機があって、私とえるはずっと頑張って来た気がする。
いや、えると私と、それ以外の私たちだった皆も。
もちろん気がするだけだからそれ以上訊かれても困るんだけどな」


「そうか……」


俺にはそれ以上なにも訊ねられなかった。
田井中の口からそれ以上の言葉が聞けない以上、俺には沈黙することしかできない。
それでも思う。
田井中の語る悔しさの正体を。
誰だって悔しさくらい感じたことはあるだろう。
俺だってそれなりに感じるし、負けず嫌いな田井中なら余計にそうだろう。
しかし千反田が悔しさを感じるというのは余程の事態だと思える。
千反田と田井中はなにを悔しく思っていたのだろう。
いや、心当たりが無いでもない。
田井中も千反田も、単に悔しいだけでここまでの事態は引き起こすまい。
つまりそれほどの問題と相対したがゆえに、田井中は千反田の中に顕現したのだ。
それほどの問題とはつまり……。


「なあホータロー、憶えてるか?」


不意に田井中が口元を楽しそうに歪めた。

411: ◆2cupU1gSNo 2014/04/02(水) 21:32:28.05 ID:prWitZ5Z0


「憶えてるか、ってなにをだ」


「明日だよ、明日。
明日は何の日か憶えてるか?」


「そう言われてもな……。
確か明日は八月二十一日だったな。
八月二十一日になにかあったか?」


「まったく……、しっかりしろよ、ホータロー。
明日は誕生日だろ?」


「誰の?」


「私のだよ、私の!
お前たちのインタビューを受けた時、ちゃんと伝えてただろー!」


ドラムを叩くのをやめた田井中が、腕を組んでわざとらしく頬を膨らませる。
いや、知らんがな。
自慢じゃないが俺は腐れ縁の伊原の誕生日も知らんぞ。
インタビューの時に聞いた記憶は微かに残ってはいるが……。
首を傾げている俺の様子が面白かったのだろう。
頬を膨らませるのをやめた田井中が嬉しそうに続けた。


「だからさ、ホータロー」


「なんだよ」


「明日誕生日プレゼントくれよ。
私の体感時間じゃ誕生日って感覚は無いけど、誕生日には違いないもんな。
私の十九歳の誕生日、祝ってくれよな」


「伊原か十文字に頼めばいいだろう。
あの二人なら頼まないでも盛大に祝ってくれるだろうよ」


「いや……」


田井中が真剣な表情を向ける。
俺はその表情に息を呑んだ。
これまでも田井中が真剣な表情を見せたことは何度かあった。
だが今の田井中の表情はそのどれとも異なっていて、鬼気迫るものまで感じさせられた。


「ホータローがいいんだよ」

412: ◆2cupU1gSNo 2014/04/02(水) 21:33:19.63 ID:prWitZ5Z0


見方を変えれば愛の告白の様にも思える田井中の言葉。
しかしそうでないことは分かっている。
俺と田井中はそういう関係ではない。
単なる友人関係でないことは確かだが、恋愛が絡んだ関係では断じてない。
友人以上の関係で同じ目的に向かって進む俺たち。
そう、あえて俺たちの関係に名前を付けるのならば……。


「分かったよ」


上手くできたかは分からないが、俺にできる最大の笑顔を田井中に向けてやる。
予感がある。
俺がこの笑顔を田井中に向ける時は、今後一切訪れないだろうという予感が。


「明日お前に誕生日プレゼントを贈ってやる。
ただしプレゼントの中身は俺に任せてもらうからな。
目当ての物と違ってても文句は言うなよ」


それだけ伝えてやると、「わーってるよ」と田井中が楽しそうに俺の肩を叩いた。

413: ◆2cupU1gSNo 2014/04/02(水) 21:33:50.55 ID:prWitZ5Z0



6.八月二十一日


田井中の誕生日プレゼントを選ぶのに時間は掛からなかった。
目当ての店に入ると簡単に見つかったし、
恥ずかしいと感じるより先に俺はそれを自然に手に取っていた。
まるでずっと前から田井中にこれをプレゼントしたいと考えていたかのように。
不可思議な既視感。
もしかすると俺も遥か何巡か前の宇宙で、似た様な経験をしていたのだろうか。
俺を構成している物質がそれを記憶しているのだろうか。
いや、違うか。
姉貴に何度も連れ込まれた店だから慣れてしまっているだけだろう。

だが既視感と宇宙の死と新生を絡めて考えてみることはできる。
俺たちを構成する物質が過去を記憶しているとすれば、
その人生で見たことがないはずの物に既視感があっても不思議ではない。
何巡か前の人生で目にしてさえいれば、全ての現象が見覚えのある物になり得る。
千反田の中の田井中ほどにないにしろ、不意に人間の中でその記憶が少しでも甦ったとしたなら。
それが既視感の正体であったとしても不思議ではない。


「まったく……」


そこまで考えてから俺は吐き捨てるように呟いた。
既視感の正体などどうでもいいだろうに俺はなにを考えてるんだ。
やらなくていいことならやらない俺のスタンスが崩れ掛けているのを感じる。
もちろんこれは田井中のせいだ。
田井中というある意味超自然的な存在が、俺の世界を無駄に広げてしまっているのだ。
俺はこれまで幽霊や宇宙、魂や前世などを自分と関係の無い物だと切り捨ててきた。
実際それで俺の日常にはなんの問題も無かったのだ。
千反田の中に顕現した田井中と出会ってしまうまでは。

田井中と出会うことで俺は今まで切り捨ててきた物と向き合わざるを得なくなった。
荒唐無稽だと思っていた現象にまで目を向けざるを得なくなった。
ありとあらゆる可能性を捨て切れなくなってしまったのだ。
そのせいで考えなくてもいいはずのことまで考えるようになってきてしまった。
これは俺の求める省エネ生活に多大な影響を与えてしまっていると考えて間違いない。
なにもかも田井中の責任だ。
俺が誕生日プレゼントを贈るのは百歩譲っていいとしても、お返しは確実に貰わねばなるまい。
例えば消費してしまったエネルギーを補給する菓子とか。


「やれやれだな」


つい菓子のことを考えてしまうのも、田井中の影響な気がする。
田井中が古典部員になって以来、今まで以上に古典部から菓子が絶えることはなくなった。
なんでも溢れるほどの頂き物の菓子が千反田家にあるんだそうだ。
「貰ってばかりじゃ悪いと思ってたんだよな」と言っていたが、
田井中が菓子を貰っていた相手は田井中の友人の琴吹であって、俺たちは関係無いと思うのだが。
まあ、菓子を貰っている身としては、特に問題があるわけでもない。

しかしとにかく想像以上に、俺は田井中に影響を受けてしまっているらしい。
千反田も強引な方ではあったが、田井中のそれは千反田とは比較にならなかった。
持ち前の前向きさ、強引さ、積極性。
田井中は千反田と違った形ではあったが俺たちを、いや、俺を引っ張った。
おかげで俺の高校生活は平穏とは呼び難い物に変貌してしまった。
省エネ生活がどこへやら、だ。

だが悪い気はない。
田井中が俺を引っ張っていたからではない。
田井中が千反田を引っ張ってくれていたからだ。
今ならなんとなくそれが分かる気がする。

夏の強い陽射しを浴び、汗を掻きながら俺は土手に視線を向けた。
土手には向日葵。
もう秋も近いと言うのに、向日葵は元気に力強く咲き誇っている。
なぜか苦笑したい気分になりながら、俺は向日葵の咲く土手を進む。
向日葵の咲く土手の先の公園。
田井中が俺に指定した待ち合わせの場所はなぜかそこだった。
なぜその公園を指定したのかは謎だったが、俺の家や千反田の家で誕生日プレゼントを渡すのはなにか違う気もする。
それじゃまるで浮かれた恋人たちみたいじゃないか。
かと言って例えば荒楠神社を指定されても困る。
この暑さの中であの階段を上るのは勘弁してほしい。
そういう意味ではあの公園での待ち合わせは十分に妥当と言えるだろう。
もうすぐ待ち合わせの時間だし、少し足早に向かってやるとしよう。
向日葵の土手を越えて、向日葵みたいな田井中の下へ。

414: ◆2cupU1gSNo 2014/04/02(水) 21:40:04.59 ID:prWitZ5Z0


「おーっ、ホータロー!」


公園に辿り着いた俺を出迎えた元気な声が上がる。
夏休みの公園だと言うのに、子供の姿は全く見当たらなかった。
この暑さでは子供たちも外で遊ぶ気にはなれないのだろう。
少なくとも俺は遊びたくはない。
代わりに俺を出迎えてくれたのは、俺よりも年上なくせに子供の様な田井中だった。
あまりの暑さに返事する気も起きない。
軽く手だけ上げてから田井中の座っている藤棚に向かう。
避暑地と呼べるほどではないが、藤棚の下は影ができていて妙に涼しかった。


「お疲れさん」


少し離れた石のベンチに座った俺に田井中がなにかを投げて寄越す。
慌てて受け取ってみると、自動販売機で売られている缶の炭酸飲料だった。
まだ冷たいことから考えるに、俺が来るタイミングを見計らって買いに行っておいたのだろう。
炭酸はそれほど好みではないが、この暑さの中ではありがたかった。
軽く喉を潤してから軽く一礼する。


「気が効くじゃないか」


「ま、これくらいはな」


笑顔を見せる今日の田井中の姿をなんとなく観察してみる。
今日の田井中の服装は普段とは少しだけ違った。
スカートの長さがいつもより長い。
この暑さの中で腕捲りすることもなく半袖だ。
髪型だけは前髪をオールバックにしたポニーテールではあったけれど。
今日の俺の誕生日プレゼントに備えて、服装を少し変えてきたのだろうか。
気合を入れてお洒落して来たとでも言うのだろうか。
俺の誕生日プレゼントを楽しみにして?
それとも?


「それでさ、ホータロー?」


「ん」


「誕生日プレゼント買って来てくれたか?」


「買ったぞ。
買いはしたんだが……」


「なんだよ?」


「そういうのは自分から切り出す話題でもないだろう、田井中よ」


「へへっ、そりゃそうかもな。
ま、それだけ楽しみにしてるってことだよ。
ホータローの選ぶ誕生日プレゼント……、なにを選んでくれたのか超楽しみだ」


「期待に添えればいいんだが……」


言いながらプレゼントの入った紙袋を田井中に渡そうとする。
だがその俺の動きは田井中の手に遮られた。
楽しみにしていたんじゃなかったのか?
俺がそう訊ねるより先に、田井中は口を開いていた。

415: ◆2cupU1gSNo 2014/04/02(水) 21:40:38.21 ID:prWitZ5Z0


「プレゼントを貰うより先に話しておきたいことがあるんだよ。
時間を取らせるが構わないか、ホータロー?」


「お前に時間を取らされるのはいつものことだ、気にするな」


「ははっ、ありがとさん。
それじゃお言葉に甘えて……。
なあ、ホータロー……、私たちって知り合ってまあまあ長いよな?」


「マラソン大会の後からだから……、二ヶ月とちょっとか。
そうだな、それなりに長い方かもしれない。
だが俺としてはちょっと意外ではある」


「なにが意外なんだ?」


「お前と知り合ってまだ二ヶ月ちょっとってことがだよ。
もっと前からの知り合いの気がする。
いや、何巡も前の宇宙からの知り合いって意味じゃない。
本当にそうなのかもしれないが、今はそれは関係無い。
そうじゃなくて密度の問題だ」


「毎日ってほどじゃないけど、私たち結構一緒にいたもんな」


「ああ、期間こそ短いが密度は濃厚だった。
下手をすると千反田と過ごした密度に匹敵するほどに。
この二ヶ月ちょっと、俺はそれくらいお前のことを考えて生活していた」


「愛の告白みたいだぞ、ホータロー?」


「そういうんじゃない」


「分かってるよ。
だけどそうだよな、ホータローは私たちのことをずっと考えてくれてたよな。
省エネ主義なのに、面倒だっただろうに、私に付き合ってくれてたよな」


田井中が空を静かに見上げる。
俺もその視線を辿る様に空を見上げた。
流れているのは雲と風、そして時間。
この二ヶ月とちょっと、ずっと俺の頭の中を占めていた田井中が隣にいる。
石のベンチの両端に座っている俺たち。
けれど心の距離は、俺たちが考えている以上にきっと近い。


「ありがとな」


空を見上げていたはずの田井中の視線はいつの間にか俺に向いていた。
視線と視線が交錯する。
頬を染めて照れ笑いする田井中のその表情は、俺の胸に深く刻まれた。


「ありがとう、ホータロー。
嬉しかったぞ、私たちのことをずっと考えててくれて。
もちろん私じゃなくて、えるのことを第一に考えてたのは知ってるけどさ。
でも、嬉しかったよ、親身になって考えてくれて」


「いや……」

416: ◆2cupU1gSNo 2014/04/02(水) 21:41:04.41 ID:prWitZ5Z0


それ以上言葉が出せない。
視線も離せない。
普段の俺であれば、なにか言葉を捻り出せたはずだった。
俺はそれなりに理屈立てて話を組み立てるのが得意な方なはずだった。
頭で考えるだけではなく、声に出して話すことも苦手ではないはずだった。
だのに田井中の言葉に返す適切な返答が思い付かない。

俺は千反田のことが心配だった。
唐突に田井中という謎の人格に肉体を乗っ取られた千反田を救いたかった。
あんな奴でも古典部の部長で、俺の日常に欠かせない人間になってしまっていたから。
今でももう一度千反田と会って会話したいと考えている。

けれど同じくらい田井中と離れたくもないのだ。
田井中のことは嫌いではない。
俺とは性格が全く合ってはいないが、それでも嫌いではない。
田井中と引き換えに千反田を取り戻したいと思えるほど、俺は田井中を嫌いに思えない。
俺は千反田を取り戻すためにこの二ヶ月頭を働かせた。
だが完全に千反田のためだけに、千反田のことだけを考えていたわけではないのだ。


「俺は、別に千反田のことだけ考えてたわけじゃない」


結局、視線を合わせたままの田井中に返せた言葉はそれだけだった。
それでも、田井中は嬉しそうに微笑んでいた。
やめろよ、田井中。
そんな表情で俺を見ないでくれ。
それじゃまるで……。


「ところでさ、ホータロー」


俺の考えを悟ったのだろうか。
笑顔を少しだけ悪戯っぽいものに変えて、田井中が俺の手元を指し示した。


「誕生日プレゼント、見てもいいか?」


「あ、ああ……」


田井中に言われるがまま、俺は誕生日プレゼントの入った紙袋を差し出す。
田井中と俺の指先が軽く触れ合ったと思った次の瞬間、俺は目を剥いた。
俺の手が田井中の両手に強く握られていたからだ。
時間にして約十秒。
どう反応していいか迷っている内に、田井中の両手は俺の手から離れていた。


「さてさて、ホータローのプレゼントはなんだろな……っと」


田井中が楽しそうに紙袋の中を覗き込む。
田井中が俺の手を握り締めた理由は分からない。
とにかく誕生日プレゼントを少しでも喜んでくれれば、俺としても嬉しい。

417: ◆2cupU1gSNo 2014/04/02(水) 21:41:34.51 ID:prWitZ5Z0


「おーっ……!」


田井中の感嘆の声。
その声を聞く限り、それなりに喜んではもらえたようだ。
とりあえず胸を撫で下ろすような気分だった。
せっかくの誕生日プレゼントなのだ。
喜んでもらえなければ俺としても居心地が悪い。
これから田井中が身に着けるとなると多少気恥ずかしくもあるが。


「……田井中?」


異変に気付いたのはその時だった。
田井中が紙袋の中身を覗き込んだまま動かなくなってしまっていたからだ。
なにか硬直してしまうような事情でもあったのだろうか?


「おい、田井中!」


もう一度呼び掛けてみる。
田井中の肩が震えたのを見ると、俺の声は聞こえているらしい。


「どうしたんだ、田井中?」


俺がその肩に手を置こうとした瞬間、田井中は顔を上げて俺に視線を向けた。
さっきまで見せていたはずの笑顔が消えていた。
これほどの熱気だと言うのに、顔色が青ざめている様にも見えた。


「な……、なんでもないよ、ホータロー……」


なんでもなくないように田井中が呟く。


「そんな顔してなんでもないわけないだろう。
大丈夫なのか、田井中?
気分でも悪くなったのか?」


「い……、う、うん……。
汗を掻き過ぎちゃったせいかもな……。
わたし、ちょっと気分が悪くなっちゃったみたいで……。
ご、ごめんな……、わたしから呼び出しておいて……」


「そんなことはいい。
気分が悪くなったんなら、家まで付き添ってやる。
どうしても帰れそうにないなら千反田の家に連絡してやる。
気分が悪いんなら無理をするな」


「ご、ごめん……」


「いいさ」


それから俺は田井中を千反田の家まで送ってやることになった。
家の人間を呼ぶほどではないと言うから、二人でゆっくりと歩いた。
田井中は顔を青くしたまま、家に着くまで「ごめん」とばかり繰り返していた。
調子が戻ったら連絡しろよ、とだけ伝えて、俺は家路に着く。
夏の熱気に当たりながら俺は考えていた。
もしかしたら……。
俺の誕生日プレゼントは無駄になってしまったもしれないと。

421: ◆2cupU1gSNo 2014/04/05(土) 20:15:25.79 ID:i0X8hzhk0



7.八月二十七日


夏休みだというのに、俺たち古典部員は部室に集合していた。
今年度の『氷菓』の編集作業について、本格的に考慮しなければならない時期になったからだ。
田井中の件で棚上げになっていたが、俺たちは一応は古典部に所属しているのだ。
熱心に活動しているわけではないが、冊子を出さずに部室を取り上げられてしまうのは具合が悪い。


「ちーちゃんの分の原稿をどうするかが問題よね……」


伊原が首を捻りながら、机の上に広げられたノートにちーちゃん→△と書き込んだ。
ちなみにその横にはふくちゃん→△、わたし→○、折木→×と記されている。
原稿の進捗状況を記しているのだろうが、俺が×とはどういうことなんだ。
後で面倒になるのが嫌だから、今年は早めに原稿を仕上げてやっているというのに。
……その仕上がりは保証しないが。


「去年よりページ数を減らすかい?」


飄々とした様子で里志。
前に見た時よりかなり日焼けしている。
付き合っているはずの伊原があまり焼けていないのを見るに、一人でサイクリングにでも勤しんでいたのだろう。


「それは最終手段にしておきたいわね。
去年はあれでも結構売れたんだし、内容に期待している人も少しは増えたと思うもの。
あれの翌年にボリュームダウンするだなんて、ちーちゃんにも悪いわ」


予想と寸分違わない返答を伊原が里志に返す。
今更指摘するまでもないことだが真面目な奴だ。
自分にも他人にも厳しいその姿勢は年々鋭くなっているような気もする。


「じゃあどうするんだ?
ゲスト原稿でも頼んでみるか?」


「あら、折木にしてはいい着眼点じゃない。
折木にそんな発想ができるとは思ってなかったわ」


せっかくの俺の意見が伊原の舌鋒に茶化される。
俺に対する態度が年々ひどくなっている気もするが、これも今更だからあえて指摘はしない。

422: ◆2cupU1gSNo 2014/04/05(土) 20:15:54.08 ID:i0X8hzhk0


「ゲスト原稿も考慮に入れてるわ。
気は進まないけど、ボリュームダウンよりはずっといいものね。
幸いゲスト原稿の当てはそれなりにあることだし」


「して摩耶花、それは誰なんだい?」


「入須先輩、十文字さん、それと江波先輩よ。
受験生に迷惑を掛けたくはないんだけどね」


少し舌を巻かされた。
十文字はともかく、江波とまだ交流があったとは。
伊原の顔の広さというか、交流の深さには正直感心させられる。


「それで足りないなら、これも気が進まないんだけど羽場先輩にも頼んでみるわ。
人格面に目を瞑ればそれなりの原稿は仕上げてくれそうだしね、あの人」


羽場も考慮しているとは本当に感心させられる。
確かに羽場ならそれなりの原稿を仕上げてくれることだろう。
あれでクラス映画の真相に最も近い位置にいたのは羽場だったわけだしな。
言い方は悪いが、利用できるものはなんでも利用するつもりなのだ、伊原は。
それだけ責任感が強いとも言えるか。
なんとなく俺も伊原に体良く利用されている気もしたが、それには気付かなかったことにした。


「もちろんこれは最終手段の一歩手前の話よ。
わたしの方でもできるだけのことはやってみるわ。
ちーちゃんの分の原稿もやれるだけ担当してみる。
わたしも去年よりは手が空いてるわけだしね」


漫研のことを言っているのだろう。
漫研を退部した伊原には確かに時間の余裕ができている。
その分を里志との時間に回せばいい、と思うのは老婆心の出し過ぎか。
里志の日焼けを見る限り、交際を始めたと言っても二人は相変わらずなようだしな。
一般的な高校生カップルとは思えないが、当人同士の問題である以上、俺に言えることはなにもない。
伊原が足りない原稿を担ってくれるのなら俺としても楽だ。
もう一本くらいなら原稿を担当してやってもいい気持ちもあるが。


「えっと……さ」


珍しく遠慮がちな声が部室に響いた。
声の方向に俺たちの視線が一斉に集う。
確かめるまでもないことだが、遠慮がちに呟いたのは田井中だった。
今日の田井中の髪型は、横の髪を両側で縛ったツインテールだった。


「ごめんな、わたしのことで迷惑掛けちゃってるみたいで。
だけど安心してくれ、摩耶花。
絶対ってわけじゃないんだけどさ、原稿ならなんとかできるかもしれないんだよな」


「えっ、そうなの、たいちゃん?」


「うん、実はわたしの中にえるが書こうと思ってた原稿の記憶があるんだよ。
完全に思い出せるわけじゃないから、上手く書けるかは分かんないんだけどな。
でもどうにかえるの記憶を参考にして原稿を書き上げてみるよ。
その原稿が使えるかどうかは摩耶花が判断してくれ」


「それは助かるわ。
原稿の仕上がりについては安心して。
折木にだってできてることなんだから」

423: ◆2cupU1gSNo 2014/04/05(土) 20:16:20.16 ID:i0X8hzhk0


どういう意味だ。
少なくとも里志よりは上等な原稿を仕上げたつもりだぞ、俺は。
確かに専門性は里志の方が上ではあるが、逆にあいつの原稿は専門的過ぎて一般人には分からないからな。
伊原は俺のその非難の視線を無視して、田井中に微笑み掛ける。


「それじゃあたいちゃんにもお願いしちゃっていいかしら?
原稿はわたしと折木で添削するから、気楽に書いてくれて問題無いわ。
折木ったら、これで人の作品にケチ付けることだけは得意な奴だもの」


さっきから散々な言われようだな、俺……。
救いとしては伊原の表情が楽しそうだったことくらいだろうか。
嫌そうな表情を浮かべられないだけ、それなりに信頼されているという意味なのだろう、おそらく。

田井中は軽く安心した様に見える表情を浮かべたが、またすぐに視線を伏せた。
胸の前で指を絡ませて続ける。


「ごめんな、摩耶花。
それと里志、ホータローも。
わたしのせいでこんなに迷惑掛けちゃって……」


本心でそう思っているのだろう。
その表情は、辛く、悲しそうだ。
瞳を前髪で隠してしまってはいるが、その痛ましい感情だけはよく伝わってきた。


「謝らないで、たいちゃん」


このままではよくないと思ったのか、伊原が田井中の手を取って優しく握った。
目と目を合わせて、柔らかく続ける。


「たいちゃんのせいじゃないんだから、謝る必要なんてないわ。
それにたいちゃんはちーちゃんのために頑張ってるじゃない。
この二ヶ月、ずっとずっと頑張ってたじゃない。
ちーちゃんだって、たいちゃんのことは悪く思ってないはずよ。
ちーちゃんってそういう子だもの。
だからたいちゃんも顔を上げて、謝ったりしないで」


「でも……」


「そうだよ、田井中さん」


伊原の同調する様に里志が言葉を継いだ。
あくまで微笑みを崩さなかったが、それはそれで里志らしかった。


「僕は田井中さんに出会えてよかったと思ってるよ。
そう思うのは千反田さんに少しだけ悪いかもしれないんだけどね。
だけど本当に田井中さんと知り合えてよかったよ。
田井中さんのおかげで、僕は世界にはまだまだ色んな謎があるんだって分かったからね。
世界は広い、謎も多い、それだけで僕の未来はバラ色さ。

もちろん田井中さんのことも好きだよ。
田井中さんは僕の周りにはあんまりいないタイプだから新鮮だった。
ドラムの良さも改めて教えてもらえた気がするよ。
田井中さんにはそんな風に色んなことを教えてもらえたんだ。
だから、そんなに気に病む必要なんてないんだよ」

424: ◆2cupU1gSNo 2014/04/05(土) 20:16:52.58 ID:i0X8hzhk0

飄々とした様子だったが、その言葉に嘘は無かったはずだ。
こんな時に嘘を塗り固めるほど、里志は嘘つきな人間じゃないし、悪い人間でもない。
二人の言葉に顔を上げる田井中。
だがその表情はまだ完全には晴れない。
それを確認した里志が、わざといつもより冗談めかして続けた。


「そうそう、田井中さんは僕たちの命の恩人でもあるんだよ?」


「命の恩人……?」


呟いたのは俺だった。
突然の話題の転換に、さすがの俺も付いていけない。
里志は一瞬だけ首を捻ったが、すぐに「あ、そっか」と軽く手を叩いた。


「ホータローには伝えてなかったっけね。
実はこの古典部の部室なんだけど、夏休みに入り立ての時に工事の人が来たらしいんだよ。
部室に入った時にホータローは気付かなかったかい?
入口の横辺りの床、ちょっと新しくなってるだろう?」


里志に示された場所に視線を向けてみる。
言われてみれば、少しだけ他と色が違っているかもしれない。


「僕は手芸部にちょくちょく顔を出してたから手芸部の部員から聞けたんだけど、かなり老朽化していたらしいよ。
少し重い物が載ったら、大きな穴が空いてしまうかもしれないくらいにね。
幸いそうなる前に工事の人が直してくれたわけなんだけど、
実はその工事の人が来たのって僕たちが『青山荘』に合宿に行ってた時のことらしいんだ。
ねえ、摩耶花、これを訊ねるのはルール違反かもしれないけど……」


「なに、ふくちゃん?」


「あの合宿、摩耶花は『青山荘』の厚意だって言ってたけど、本当は違うんじゃないかい?
例えば、田井中さんの気分転換に摩耶花が計画したものだったとか」


「それは……」


沈黙する伊原。
それこそ里志の言葉が真実であることを語っていた。
伊原は田井中のためにあの合宿を計画したのだ。
不思議なことではない。
伊原は友人のためであればそれくらいする奴だ。
里志もそれを分かっているからこそ、嬉しそうな笑顔を浮かべているのだろう。


「話を戻すよ。
あの日、僕たちは『青山荘』の合宿に行った。
もし合宿に行っていなかったら、僕たちは部室に顔を出していたかもしれないよね?
そろそろ『氷菓』の話をしなければいけない時期だったわけだし。
その場合、バックナンバーとか重い物を持って部室に集まってたかもしれない。
そうなったらあの老朽化した場所に穴が空いて怪我をしていた可能性は大いにあるよ。
そういう意味で田井中さんは僕たちの命の恩人なんだ」


ちょっと大袈裟じゃない?
伊原がそう指摘するかと一瞬思ったが、現実にはそうはしなかった。
伊原もここで里志の話を台無しにするほど突っ込み体質なわけじゃない。
大袈裟な言い方ではあるが、里志の言葉はあながち間違ってもいない。
床の老朽化のことはともかくとしても、田井中が顕現したことで起こらないはずのことが起こっている。
人格が千反田のままであれば起こっていたはずのことが起こっていないのだ。
人間の人格が変わるということは、そういうことでもあるのだ。


「ありがとう、里志、摩耶花……」


ツインテールを震えさせて、田井中が静かに頭を下げる。
その前髪で隠れた瞳の端では、涙が輝いているかもしれなかった。
誰にも気付かれないよう、俺は小さく溜息をこぼした。
どうやら嫌な役を請け負わなければいけなくなりそうだったからだ。
嫌な役ではあるが、それが俺のやらなければならないことになるだろう。
……手短に終われそうにはないが。

428: ◆2cupU1gSNo 2014/04/08(火) 22:35:22.44 ID:E9Jv8pDx0



8.八月二十八日


夏休みも終わろうとしている。
若干覚悟していたことだったが、今年も去年と同じくらい忙しない夏休みになるとはな。
原因はもちろん田井中だが、その肉体は千反田のものなのだから、
結局は今年も去年と同じように千反田に振り回されたってことになるのだろうか。
少なくとも高校を卒業するまで、俺は千反田に振り回され続けるのだろう。
夕焼けに照らされる田井中の姿を見ながら、なんとなく俺は思う。

夏の夕焼けの下校途中、いかにもなにかが起こりそうな意味深な空気が漂っている。
実際にはなにかが起こりそうなのではなく、これから俺が起こすのだが。
ついさっきまで部室で一緒に会議をしていた里志と伊原は、用事があるとかで連れ立って帰宅してしまった。
交際しているようには思えない里志たちだが、あれでも高校生の恋人たちということなのだろう。
それはそれで俺にとって好都合でもある。
あいつらを交えてこれから行動を起こせるほど、俺は図太くない。


「すっかり遅くなっちゃったなー」


俺の数メートル前方にいた田井中が夕焼けに背を向けて俺の方に振り向く。
それと同時に、今日は長い三つ編みにした田井中の長髪が夏の生温い風に吹かれた。
目に掛かりそうなその前髪が瞳を擽ったのだろう。
人差し指で目元を拭いながら田井中は軽し微笑んだ。


「まさかホータローが二日連続で会議に出てくれるとは思わなかったよ」


皮肉なのか称賛なのか、俺は田井中のその言葉には苦笑することで応じた。
『氷菓』の原稿についての部活会議。
千反田の分の原稿が間に合わないかもしれないという問題はあったものの、そこまで差し迫っているわけでもない。
伊原には悪い気もするが、間に合わないのであれば別に冊子を薄くしてしまっても構わないと俺は考えている。
言ってみれば、『氷菓』は部活の活動記録のようなものなのだ。
手を抜きたいと考えているわけではないが、無理をして仕上げるほどのものでもないだろう。
安い言い方になってしまうが、等身大の俺たちに仕上げられる冊子で構わないと思っている。
この貴重な夏休みに二日連続で会議を行うほどのことでもないのだ。

それでも俺が二日連続で会議に参加したのは、確かめたいことがあったからだ。
薄々そうではないかと思ってはいたことに、最後の確信を得るために参加したのだ。
そして確信は得られた。
俺の出した答えは恐らく間違ってはいない。
俺にとってその答えが正解であってほしかったのか、間違いであった方がよかったのか。
その答えはこれからも出せそうもないが。


「お前こそ積極的じゃないか、田井中。
学園祭の冊子の編集作業に興味があるタイプには見えなかったが」


「失礼なホータローだな。
わたしは毎年ちゃんと学祭ライブをやってたし、
三年のクラスの出し物では劇の主役までやったんだからな。
面倒臭いことは嫌いだけど、お祭り騒ぎに乗じないほど省エネ主義でもないんだぞ?」


さいですか。
だが確かにそうかもしれない。
俺が知っている田井中律とはそういう女だった。
大雑把で適当に見えて視野が広く、それなりに思いやりも持っている。
少なくとも会話したこともない千反田の身を案じるくらいには、優しい奴なのだ。
風に前髪を靡かせながら田井中が続ける。


「それにわたしのせいで今年の『氷菓』が完成しなかったりしたら悪いじゃん?
えるが一身上の都合から古典部に入部したのは知ってるけど、
それでもえるが古典部に愛着を持ってるってことは、わたしにだって分かるよ。
えるは古典部が好きなんだ。
身体を借りちゃってる身としては、その手助けくらいはしてやりたいだろ?
そりゃちゃんとした原稿が仕上げられるかって訊かれたら自信はないけどさ」


「俺は別に原稿については心配していない。
お前なら俺以上の原稿を仕上げられるだろう。
仮定を飛ばして結論から語る癖さえ自覚してくれればな」

429: ◆2cupU1gSNo 2014/04/08(火) 22:35:59.64 ID:E9Jv8pDx0


俺の言葉に田井中の表情が静かに変わった。
様な気がした。
夕焼けを背にした逆光のせいで、田井中の顔色は掴み切れない。
その代わり田井中の肩が震えていることには気付けた。
田井中は全身を震わせているのだ、夕方とは言え熱気の残ったこの温度の中で。


「どういう意味だよ、ホータロー……」


「言葉通りの意味だ。
去年の店番中に暇でお前の原稿を読み返したが、その悪癖が見て取れた。
かなりできのいい文章ではあったのに、いくつか要点を飛ばして語っている箇所もあったよ。
だがそれも個性だからな。
自覚さえできれば、もっといい原稿を仕上げられるだろう」


「分かったよ、ホータロー、気を付ける。
でもそれはわたしじゃなくてえるが書いた原稿……」


「お前の原稿だろう、なあ、千反田」


田井中は押し黙っている。
それだけで俺の言葉が正しかったことを示しているようなものだが、俺はそれを指摘しなかった。
彼女がそうするのなら、俺もそれに倣うことにしよう。
これからもう少しだけ、千反田ではなく田井中に向けて語るように話してやる。
それこそ俺から田井中へ贈る別れの言葉となるだろう。


「もちろん千反田がずっと田井中の演技をしていたと言いたいわけじゃない。
どんな原因なのか、どんな理屈なのか完全には分かっていないが、田井中は確かに存在していた。
あいつは決して千反田の別人格でも演技でもない。
それだけは確かだと言える。

だがいつの間にか田井中は去っていたんだ、俺たちの前から。
いや、いつの間にか、じゃないな。
八月二十一日、正確には俺が誕生日プレゼントを渡した直後にあいつは去ったんだろう。
すぐに気付けたわけじゃない。
あの時は単なる疑惑に過ぎなかった。
田井中が去ったことに確信を持てたのは昨日の会議でだ。
とりあえずこう呼ばせてもらうが千反田、お前は昨日、田井中ならば決してしないことをしてしまっていたんだ」


田井中は応じない。
顔を伏せて、前髪で目元を隠すようにしていた。
それこそ田井中律が取るはずのない行動だと気付きもしていないのだろう。
軽く溜息。
俺は制服のズボンのポケットの中で折り畳まれていた紙を二枚取り出した。
田井中の前で二枚とも広げてみせる。


「わたしの……、自画像?」


「そう、一枚目は田井中がデフォルメして描いた自画像だ。
二枚目は伊原がそれを見て写実的に書き直した田井中の、本来の田井中律自身の絵だよ」


特徴的な外見を持った少女の絵だ。
軽く外にはねた後ろ髪、よく目立つカチューシャ、元気に出された広い額。
一度でも見たらよく記憶に残りそうだった。
俺は髪を二枚とも田井中に手渡してから、俺は田井中の長い三つ編みに触れる。
セクハラと言われるかもしれなかったが、この際そんなことには構っていられない。

430: ◆2cupU1gSNo 2014/04/08(火) 22:36:28.88 ID:E9Jv8pDx0


「田井中の人格が顕れて以来、田井中はよく髪を結んでいたな。
本来の自分が短い髪に慣れていたこともあって、長い髪の暑苦しさには耐えられないようだった。
髪を切りたいとも言っていたくらいだ。
俺が止めたのもあって、さすがにそれは思いとどまってくれたけどな。
とにかく田井中は単なるお洒落と言うより、長髪の蒸し暑さから少しでも逃れるために髪を結んでいたんだ。
カチューシャを併用してのポニーテール、シニョン、オールバックのポニーテール……。
他にも色んな髪型をしていたが、なにかに気付かないか?」


「なにか……って?」


「全部額を出した髪型なんだよ」


今度こそ目に見えて田井中の表情が変わった。
あっ……、と小さく呻き声まで上げていた。
それを喜んでいいのか悲しんでいいのか分からないまま、俺は田井中の三つ編みから手を離した。


「色んな髪型を試していたのはお洒落ではなく、どの髪型が涼しいかを試していたんだろうな。
涼しさを求めていたからこそ、どんな髪型の時でも額だけは出していた。
だが昨日と今日、お前がしている髪型はと言えば……」


「二つ結びと、三つ編み……」


「両方とも額を出すどころか前髪が目に掛かりそうな髪型だ。
頭を樹の枝にぶつけたという事故でもない限り、決して田井中がしない……な。
じゃあ田井中はどうして突然額を出さない髪型に変わったのか?
単なる心変わりか?
いや、違う、千反田えるの肉体の中にある人格が田井中ではなくなったからだ」


田井中は震えている。
その人格が田井中でないことは既に分かり切っていた。
だが俺はあくまで田井中に向けて語り掛ける。


「対して千反田の人格はなんらかの因果で自らの肉体に戻って来た。
その時の千反田がなにを考えたのかについては、今は追及しない。
とにかく自分の肉体に戻った千反田は考えたんだ、田井中である演技を続けなければならないと。
それで田井中を真似て髪を結んでみたが、田井中が髪を結んでいる肝心の動機については思い至らなかった。
だから額を出さない髪型にしてしまったんだろうな」


「どうしてそんな簡単なことに気付かなかった……のかな?」


その呟きは自分に問い掛けているようにも見えた。
俺は夕焼けに少しだけ視線を向けてから続けた。


「田井中自身も無意識にやっていたからだろうな。
田井中は額を出そうと思って髪型を決めていたわけじゃない。
額を出した千反田に似合う髪型を探していたんだ。
田井中にとって額を出すのは呼吸をするのと同じくらい自然なことで、全く意識してなかったんだ。
だから千反田も気付けなかったんだよ、田井中がなにを基準に髪型を決めているかということに。
記憶を共有できていたとしても、脊髄反射の様に行っていることの意味までは分かるはずがないからな」


「そんな……、わたし……、わたしは……」


「それもだ、田井中」


「えっ……?」


不意を衝かれて田井中が目を剥く。
その表情ももう完全に千反田えるがよく浮かべる驚きの表情だった。

431: ◆2cupU1gSNo 2014/04/08(火) 22:37:16.93 ID:E9Jv8pDx0


「どうにか上手く演技をしたつもりだったんだろうが、お前はもう一つミスを犯している。
お前の演技は悪くはなかった。
千反田の中にも田井中の記憶が残っているんだろうな。
完璧とは言えないまでも、髪型以外はそれなりの演技だったよ。
それでもどうしても再現できていないところがあったんだ」


「どこ……ですか?」


もう観念してしまったのだろう。
彼女は完全に千反田の口調に戻っていた。
俺はなぜか胸に痛みを感じながら、それでも言葉を続けた。


「口調は悪くなったし、素振りもそれなりだった。
知らない人間が見れば、騙され続けていたかもしれない。
しかし細かいところが違ってしまっていたんだよ。
こればかりはよっぽど訓練しない限り難しいことだけどな。

千反田と田井中の細かい相違点……。
それはイントネーションだ。
育った地方が違っているから当然だが、特に違っていたのは一人称だったよ。
田井中は『私』。
千反田は『わたし』。
細かいようだが聴き比べてみると、はっきりと違いが分かる。
日常会話でよく使う言葉だからな、イントネーションの違いは完全に染み付いてしまってるものだ」


俺がそのイントネーションの違いに気付いたのは、あの八月二十一日だった。
あの『わたし』を耳にしてから、田井中は去ってしまったのではないかとずっと考えていたのだ。
あの時の『わたし』こそ、俺が長く耳にしていた千反田の『わたし』だったのだから。

437: ◆2cupU1gSNo 2014/04/14(月) 20:59:48.17 ID:eNruuDtn0


「『わたし』……」


彼女の唇から千反田の言葉がまた漏れる。
なぜだろう。
俺たちはそれを望んでいたはずなのに、ひどく寂しさを感じている。
これを知れば伊原と里志も寂しがるだろう。
十文字と入須も複雑な表情を浮かべながらも寂寥を感じるに違いない。
恥ずかしながら俺も寂しかったし、千反田も寂しがっているはずだ。
おそらくは田井中本人も。
あいつはそれほどまでに俺たちの胸を侵食してしまっていたのだ。


「話を続ける」


目を伏せる彼女から視線を逸らして、俺は夕焼けに目を細める。
話を続けよう。
話を続けなければならない。
そうでなければ、なんらかの思いを吐露してしまいそうだったから。


「田井中は千反田えるの肉体から去った。
ならばどうして去ってしまったのか。
そんなことは田井中本人にしか分からないことだろうが、推測はできる。
田井中の正体と同じく推測でしかないが、とにかく俺はあいつが去ってしまった理由を考えた。

実を言うとずっとそんな気はしていたんだがな。
だって不思議に思わないか?
田井中が千反田の遥か過去の何巡も前の宇宙の前世であったとして、
なぜ田井中は今、この時、この時代に、千反田えるの肉体に宿ったのか。
前世の記憶として甦るのなら、それこそこの世に生まれた瞬間から記憶を甦らせていても不思議ではないのに。
むしろそちらの方が自然だと言うのに、なぜ田井中は高校二年生の千反田の肉体に顕れたのか。
安直かもしれないが、それにはなにか理由があるはずなんだよ」


彼女は反応しない。
時折掠れた呻き声が響いてくるだけだ。
その呻き声も俺の推測が正しいことを証明しているように思える。
千反田がそういうことに悲しめる人間だからこそ、俺はこの推測が正しいのだと確信できる。


「それで俺は田井中がこの時代に顕れた理由を考えた。
いや、ずっと考えていた。
心のどこかでそうじゃないかと思っていたんだ。
田井中の口振りからすると、千反田の肉体に宿るのは本意ではないように俺には見えた。
千反田の肉体を千反田自身に返したいと考えているように見えたよ。
巷の多重人格を扱った小説だと、肉体を乗っ取ろうとするのがお約束だって言うのにな。
田井中はそういう奴だったんだよ。
不慮の事態であったとしても、誰かの肉体を利用して好き勝手振る舞う様な人間じゃないんだ。
あんな奔放な性格に見せてるくせにな。
田井中はあれで必要最低限にしか自分の本心を見せない奴だった。

それでも田井中は千反田の中に顕れたよな。
この二ヶ月以上も。
そうだ、二ヶ月以上千反田の中に留まる必要があったんだよ」


悔しかった、と前に田井中は言った。
田井中だけでなく、いつかの宇宙の千反田も悔しさを感じていたらしい。
おそらくは今の俺じゃない、ずっと前の宇宙の俺も。
この三人が悔しがる事態なんて、滅多にあるものじゃない。
その理由はおそらく。


「この二ヶ月の間に千反田の身によくない事態が起こるはずだったんだろうな。
昨日単なる思いつきだろうが里志が言っていたな。
田井中は僕たちの命の恩人なんだと。
老朽化した部室の入口、あそこで床を踏み抜いて大怪我をするはずだったのかもしれない。
千反田の肉体の中にいるのが、本来の千反田の人格であれば。
仮定にしか過ぎないが、その可能性は十分にある。

それだけじゃない。
よく考えてみてくれ。
この二ヶ月、田井中が千反田の肉体に宿ったことで、本来千反田の身に起こらなかったはずのことが起こった。
逆を返せば起こるはずだったことが起こらなくなった。
それで千反田の身に降りかかるはずだったよくない事態も避けられたとは考えられないか?」

438: ◆2cupU1gSNo 2014/04/14(月) 21:00:24.81 ID:eNruuDtn0


よくない事態と俺は言葉を濁したが、それは千反田の死だろうと俺は確信している。
まさか小さな怪我で田井中も千反田も悔しがらないだろうし、
増してや俺が悔しさの涙を流すような事態に発展するとは思えない。
もしかしたら大怪我かもしれないが、そうだとしても完治不能なレベルの重篤に違いない。
田井中だけでなく俺としてもそれは避けたい事態だった。


「世界はよくない事態に溢れている、当然のことだけどな。
例えば夏バテで立ち眩みを感じて道路に倒れ込んでしまったが最後、酷い顛末は約束されたようなものだ。
豪邸とは言え、千反田の家だってそれなりに古いからな。
天井の梁が老朽化で落下してこないとは限らない。
意味もなく人を殺したい異常者が神山市に在住していないとも限らない。
なんとなく夜の散歩に出た千反田がその異常者に遭遇しないと誰に言い切れる?
世界にはそうした不慮の事態に満ち溢れているんだよ。
この二ヶ月、おそらくは千反田にそんななんらかの不幸が訪れるはずだったんだ」


そう仮定すれば理解できる。
田井中がどうして千反田の肉体に宿ったのか。
千反田の二ヶ月を奪ってまで、この世界に留まらなければならなかったのか。
田井中自身それを完全に理解していたのかは分からないが、
少なくとも心の片隅で自分が役目を終えたら去るべきだと思っていたことは確かだ。

田井中は俺をホータローと呼び続けた。
折木とは遂に呼ばなかった。
他の連中に関しても、千反田が使う呼称は滅多に使わなかった。
里志、冬実、十文字。
伊原を除いて千反田の使う呼称を拒否し、不自然な呼称を徹底していた。
伊原のみ例外だった理由は分からないが、あいつの中でなんらかの線引きがあったのだろう。
いや、呼称については俺のこじつけかもしれない。
こじつけであっても構わない。

だがこちらは間違いなかった。
田井中が千反田の肉体に宿ってから、決して使わなかった言葉がある。
「わたし、気になります!」という千反田の代名詞だ。
幼い千反田を演じている時以外、あいつ自身の口からその言葉が出ることは遂になかった。
意図的にそうしていたとしか思えない。
あいつは自分と千反田が同一視されることを嫌がっていたのだ。
いつか全てを終えたら、この世界から自分が去ることだけはなんとなく分かっていたから。


「運命論を語っているわけじゃない」


小さく息を吐いてから、俺は続ける。
そうだ、これは運命論じゃない。
俺たちが体験しているこれは、決して運命などではない。


「この二ヶ月に千反田がそうなる運命だったって言いたいわけじゃないんだよ。
だがな、そうなる可能性は遥かに高かったんだと思う。
人生は偶然の積み重ねだ。
数々の偶然が積み重なって、今の俺たちの関係がここにある。
例えば俺の姉貴が古典部でなかった可能性は物凄く高いんだよ。
気まぐれな姉貴だからな、逆に古典部に入部したことの方が不思議なくらいだ。
そんな風に姉貴が古典部に入部していなかったとする。
そうすると俺は姉貴に言われて古典部に入部することはなく、千反田と知り合うこともなかった。
俺と千反田の人生はそれだけで大きく異なることになるし、そうだった世界も何億回もあったんだろう。
それが田井中の過ごしていた女子高が存在している世界だったりするのかもしれない。

それでも今の俺は古典部に入部しているし、千反田とも知り合っている。
俺と千反田が知り合っている世界、どんな因果関係かは知らないが、
この世界では千反田によくない事態が生じる可能性が遥かに高まるんだろうな。
バタフライ効果って知ってるよな?
ほんの小さな蝶の行動が、遠く離れたどこかの嵐になっているかもしれないって話だよ。
俺と千反田の出会いにどんな意味や因果があるのかは分からない。
だが俺たちが出会うことによって、この二ヶ月の間に千反田によくない事態が起こる可能性が遥かに高まったんだ。
数千、数万、もしかしたらそれ以上、前の宇宙の俺と千反田はその事態を繰り返していたのかもしれない。
それならば出会わない方がお互いのためだ……、とは考えなかったんだろうな、田井中は」

439: ◆2cupU1gSNo 2014/04/14(月) 21:00:57.80 ID:eNruuDtn0


不意に俺は田井中の笑顔を思い出した。
全く知らない異世界に紛れ込んだにも関わらず、あいつは出会いを楽しんでいるように思えた。
こんな事態であってさえ、出会いそのものを大切にしているようだった。
だから何巡前のあいつなのかは分からないが、数億回繰り返したあいつは思ったんだろう。
俺と千反田が知り合った世界でさえ、二人が健在で古典部生活を続けられる世界があってもいいだろうと。
そのために田井中はこの二ヶ月間、千反田の肉体に宿って千反田を守っていたのだ。
もっとも、かなりの無茶をしたせいか、自分のするべきことのほとんどを忘れてしまっていたようだが。


「未来を変えてしまって……、よかったんでしょうか……。
わたしは……、生きていていいんでしょうか……?」


彼女の唇から迷いの言葉が漏れる。
彼女は気付いていないらしいが、やはり過去の記憶が多少残っているのだろう。
遥か過去、数億回も今の時期に死に続けた自分の記憶が。
それで今の自分の存在を夢の様に感じてしまっているに違いない。
俺は夕焼けから目を逸らし、再び彼女の顔に視線を向けて苦笑してみせた。
こいつが自分の生に戸惑ってしまう理由も分かる。
だからこそ苦笑してみせるのだ、なんの気負いも必要ないのだと教えてやるために。


「言っただろう、俺は運命論を語っているわけじゃないって。
そうなる可能性が遥かに高かったというだけで、そうならなくても別に問題はないんだよ。
未来を変えてしまったって話でもない。
新しい可能性が拓けたってだけのことなんだ。
それにこれはひょっとしたら珍しいことじゃないのかもしれない。
人類がここまで発展できた理由が分からないって説をよく聞くよな?
それこそ天文学的な数値でしか、この地球に人類が発生する可能性はなかったはずだと。

実際にそうなんだろう。
この地球に人類が繁栄する可能性はそれくらい低い可能性だったんだろう。
だが昔の人間、ひょっとしたら人間になる前の哺乳類、
それより前の微生物の中にも田井中みたいな奴がいたんだろうな。
どうにもならないことをどうしても諦めたくなくて、それをずっと憶えていて、憶え続けて。
何度も絶滅しながらも繁栄を夢見続け、田井中と同様に不幸な可能性を拒絶して、少しずつ前進して。
それを無量大数を超えるくらいに続けて、今の世界に辿り着いたのかもしれない。
まるで長い長いドミノを、何度も途中で崩してしまいながらも、積み続けるみたいに。
決して諦めず、積み続けるみたいに。
荒唐無稽な夢想主義と笑うか?
俺自身もかなりそう思うが、実際に起こったことを受け入れないほど愚かなつもりもない。

だから千反田……」


残暑厳しい夕陽に照らされている。
夕陽を背中に田井中が立っている。
田井中がその場所に立たせたいと思っていた千反田が立っている。


「お前がなにを気負う必要も無いんだ。
無理をして、田井中を演じる必要だって無い。
田井中を失って戸惑ってしまっている気持ちは分かる。
確かに田井中は俺たちにとって目的を一緒にした仲間だった。
俺だって戸惑っていないと言えば嘘になる。

だが今のお前の姿こそが田井中と俺たちの望んだ姿なんだよ。
自信を持って立っていてやってくれ。
田井中の積み上げた長いドミノを無駄にしないためにも」


夕焼けに照らされながら、俺はそう言った。
この時間こそ田井中が俺たちにくれた今なのだと実感しながら。

446: ◆2cupU1gSNo 2014/04/19(土) 17:54:49.33 ID:WdWF52tS0




終章 いつか、辿り着けるのだろうか?






宵の口に入った頃、俺は千反田に連れられて彼女の部屋に入り、用意された座布団の上に座っていた。
初めての千反田の部屋は想像していたよりも多少散らかっているようだった。
俺が考えていたよりも、千反田自身が部屋を整頓しない人間だったという可能性はもちろんある。
だが俺はその多少散らかった部屋が、田井中の残滓に思えてならなかった。
田井中律という人格が存在したという証。
それを消したくなくて、千反田も部屋を片付けられずにいたのかもしれない。


「折木さん、これです。
これを、聞いていただけませんか?」


そう言って千反田が指し示したのは学習机の上に置かれたラジカセだった。
見るからに年代物のラジカセだ。
なにしろCDを再生する箇所すら存在していない。
それを指摘すると、「伯父が残したものなんです」と千反田は軽く呟いた。
なるほど、千反田の伯父の物であれば年代を帯びていても不思議ではない。

電力の省エネを心掛けているのだろうか。
抜かれていたラジカセのコンセントを差し込んだ後、千反田はラジカセの再生ボタンを押した。
俺に聞かせたいというカセットテープは既にセッティングされていたらしい。


「あー、テステス、マイクテス。
本日は晴天なり、暑苦しいほど蒸し暑い晴天なり」


ラジカセのスピーカーからはすぐに聞き覚えのある声が響き始めた。
年代を帯びたラジカセのせいか若干声がひび割れている。
だがその声を聞くだけであれば、なんの問題もないひび割れだったし、その声は俺の耳によく届いた。
千反田と同じ声でありながら、イントネーションもアクセントも声色も声質も違っているその声。
カセットテープに録音されていたのは、間違いなく田井中の声だった。
いつの間にか俺は耳を澄ませていた。
今はもういないあいつの声を聞き逃さないように。


「よっ、ホータロー、久し振り……になるのかな?
ま、いいや、それはともかくとして。
お前がこれを聞いてるってことは、私はもうこの世界にはいないんだろう。
なーんて、なんだか漫画とかによくある遺言みたいだけどな。
本当は手紙で残そうかとも思ってたんだけど、長くなりそうだし、
上手くまとめられる自信も無かったからカセットテープに録音することにしたんだ。
これならお手軽だしな。
それに私って結構カセットテープって好きなんだよな。
ホータローには言ってなかったと思うけど、実は卒業式前に私たちの曲をカセットに録音したこともあるしな」


カセットかよ。
まあ、CDに録音する方法は俺もよくは知らないが。


「あ、ホータロー、カセットかよ、って思っただろ?
それなりに長い付き合いだからそれくらい分かるぞ?」


さいですか。
いや、確かにそう思っていたのだが。
とにかくそれなりに長い付き合いだったということだ、俺と田井中は。
スピーカーから軽い笑い声が聞こえた後、少し真剣に感じられる田井中の声が続いた。

447: ◆2cupU1gSNo 2014/04/19(土) 17:55:15.55 ID:WdWF52tS0


「カセットの話は置いとくとして、だ。
これから本題に入るよ、カセットに録音できる時間も限られてるしな。
ホータロー、私に聞きたいこと、いっぱいあるだろ?
全部答えられるかは分かんないけど、ホータローが気になってそうなことはカセットに吹き込んどくよ。
省エネ主義のホータローの睡眠時間を削っちゃっても悪いもんな。

で、まずはなにから話そうかな……。
そうだな、まず私がどうしてこの世界のえるの身体に宿ったのかから話しとこうかな。
つってもホータローもほとんど気付いてるんじゃないか?
そうだよ、私はえるが死ぬのを防ぎにこの世界にやって来たんだ。
あれ? えるの細胞の中に残されてた私の記憶が甦ったんだっけ?
ま、それはどっちでもいいんだけどさ。
とにかく私はこの世界でえるが死ぬのを防ぎたかったんだ。
今までの宇宙、ホータローとえるが出会った宇宙は何万回以上もあったみたいだけど、
お前たち二人が知り合った宇宙では、えるは絶対高校二年生のこの時期に死ぬようになってたんだ。
どんな因果関係なのかは分かんないけど、それはもうそういうものだって考えるしかないんだろうな。
私は、私たちは、それを何度も繰り返したんだよ。
ホータローもさ、えるのお葬式で泣いてたよ、号泣してた。
お前は信じられないかもしれないけど、この世の終わりってくらいに泣いてたよ、何万回も。

私たちはそれをどうにかしたかった。
私たちってのは今の私と、今までの私と今までのえる、それ以外にも昔私たちだった皆がさ。
当たり前だと思うけど、繰り返す宇宙の中では私やえるだった以外の前世もいっぱいあったたよ。
例えば、お婆ちゃんっぽい性格の大人しい眼鏡の子や、スタイル抜群の生徒会のお嬢様なんかも昔の私たちだった。
バスケやってる女の子や、水泳やってる無邪気な男子もいたな。
そんな大勢いる前世の皆も思ったんだよ。
えるとホータローが出会っても、えるが死なない世界があってもいいんじゃないかって。
それで私が今のこの世界のえるの中に宿ったわけだ。
それだけ前世がいっぱいいる中で私が選ばれた理由は……、まあ、おいおい、な」


ある程度俺の考えていた通りの内容だった。
その口振りからすると、田井中も俺がその答えに辿り着くことは予期していたようだが。
それにしても田井中と千反田以外にも様々な前世があったとはな。
田井中の言う通り当たり前のことではあるが、本人の口から聞かされるとなんとも言えない気持ちになった。
生徒会のお嬢様やバスケやってる女の子はともかくとして、水泳やってる無邪気な男子という前世は想像もできない。
いや、前世と現世は隔絶して捉えるべきことなのであろうが。

448: ◆2cupU1gSNo 2014/04/19(土) 17:55:43.01 ID:WdWF52tS0


「じゃあ、話を変えるな。
次は、そうだな……。
ホータローは私が自分の役目にいつ気付いたのかも気になってるんじゃないか?
ひょっとして私がずっと自分の正体に気付いてない演技をしてたって思ってたりもするか?
いやいや、私はそこまで性格悪くないぞ。
実はさ、恥ずかしい話だけど、この世界に来た時、私は本当に自分の役目が分かってなかったんだ。
ホータローと一緒に自分の正体を探ってたのは、本当に私の素の姿だったんだ。
自分がやるべきことに薄々気付き始めたのはさ、
ホータローの記憶と私の中のえるの記憶がちょっとずつ違ってるってことを知ったくらいからだったな。
あれでなんとなく分かったんだと思うんだよ、私は単にえるの身体に宿ってるわけじゃないんだって。

まあ、単に私がこの世界からいなくなるタイムリミットが迫ってたからかもしれないけどな。
この二ヶ月とちょっとの間、えるを守れたらこの世界から消えるってのは最初から決めてたことだし。
本当を言うと、二ヶ月も今のえるの身体を借りる必要は無かったかもしれないんだけどな。
だって高校二年生の夏の二ヵ月間って大切な時期だぜ?
大人になってからも何度も思い出すはずだよ。
いや、これは私じゃなくて、他の前世の奴の意見だけどな。
できることなら最小限の介入でえるを助けるべきだった。
風が吹けば桶屋が儲かるって言葉もあるくらいだし、
一週間くらい私がえるの身体を借りるだけでも、えるの身の安全は保障されてたのかもしれない。

でもさ、それを反対した奴がいるんだ。
念の為、この夏だけでもえるの肉体に宿っておいた方がいい。
少しでも長く今のえるの人生に介入して、起こるはずの危機とかけ離れた未来を作っておいた方がいいってさ。
それで私は二ヶ月とちょっともえるの身体を借りることになったんだ。
なあ、ホータロー?
そうやって反対してた奴は一体誰だと思う?
二ヵ月間もえるの身体を借りておいた方がいいって言ってた奴はさ。
はい、ここでシンキングタイムな。
『私の恋はホッチキス』を叩いておくから、その間に考えてみてくれ」


その言葉が終わると同時に、ラジカセからドラムの音が響き始めた。
ドラムの音が響いているということは、このテープは軽音部の部室で録音されたものなのか。
なるほどな、軽音部の部室ほど録音に適した環境もあるまい。
それにしても妙なサービスをしてくれる奴だ。
なんなら『答えが見つかるまでカセットを停止しててくれ』とでも吹き込めばいいだろうに。
だが悪い気分じゃない。
ひび割れた音のテープとは言え、二度と聴けないと思っていた田井中のドラムを聴けるのは決して悪くない。

千反田の身体を二ヶ月借りておけ、と言った奴か。
俺は考えてみた。
長く考える必要も無く、その答えはすぐに見つかった。
田井中の前世が何兆人いるのか知らないが、そんなことを発案する奴は一人しかいない。
苦笑してから、俺は隣に座っている千反田に視線を向けてみた。
千反田はなにも言わず、静かに俺を見つめていた。
それだけで答えは分かったも同然だ。
シンキングタイムなどもう必要無い。
俺は考えるのをやめ、田井中の叩くドラムの音に無心に耳を傾けた。

『私の恋はホッチキス』という妙な曲名のドラミングが終わるのは予想以上に早かった。
奇妙な名残惜しさを感じていると、ラジカセから再び田井中の声が響き始めた。
とても名残惜しそうな。

455: ◆2cupU1gSNo 2014/04/24(木) 19:16:46.43 ID:ffmefjFJ0


「おっし、シンキングタイム終了な。
私に反対してくれてた奴……、ホータローには簡単だったかな?
うん、そうだ、えるだよ。
もちろん今のえるじゃなくて、高二で死んじゃったえるの内の一人だけどな。
さっきも言ったけどえるは忠告してくれたんだ、二ヶ月は今のえるの身体に宿っておいた方がいいです、って。
何度も高二で死ぬことになっちゃった本人だもんな、そりゃ誰よりも注意深くなるよ。

でもさ、こう言うのもなんだけど、理由はそれだけじゃなかったとも思うんだ。
そう思うのは私が選ばれた理由と、今の私の精神年齢のことがあるからだよ。
ホータローは不思議に思わなかったか?
今のえるの身体に宿ったのが私だったのはまだいいとして、
どうしてそれが高校を卒業したばかりの年頃の私だったのかってさ。
だって、そうじゃん?
えるを助けるためだけなら、もっと歳を取った私の方がよかったはずだろ?
高校二年生の夏にえるの命が危ないってことも、ちゃんと憶えておいた方がよかったはずだ。
その方が確実にえるを救える。
なのにえるは、前の宇宙のえるは、今の年頃の私が今のえるに宿ることを望んだんだよ。
こんなの、今のえるを助けること以外に目的があったとしか思えないよな?

今の内に言っておくけど、これは答えの分からない疑問だ。
私は前のえるたちの記憶を持ってはいるけど、その真意まで分かってるわけじゃないんだよ。
私がそうなんじゃないかって勝手に思ってるだけの話だ。
なあ、ホータロー?
前のえるは今のえるの高二の夏の二ヶ月を私に託してくれた。
他にも色々手段はあったのに、他にも前世はたくさんあったのに、前のえるは今の私を選んだ。
その理由……、お前なら分かるよな?」


田井中の言葉が止まる。
俺の推理力を完全に信頼し切ったような口振りで。
どうやら田井中は千反田と同じく俺を過大評価しているらしい。
俺はなんでも知っているわけではないし、なんでも分かっているわけでもない。
ただ多くの偶然が重なって、運良く答えが見つけられているだけだ。
俺は、大した人間じゃない。

だがこればかりは田井中の信頼通りだったと言えた。
俺には前の千反田が今の田井中を選んだ理由が分かっている。
いや、分かっているわけではないか。
そうじゃないかと推察できるだけで、それを証明する手段は何一つ存在しない。
それでもなぜか俺にはそれだけは確信できている。
俺の知らない前の千反田が、今の千反田と同様の性格であったとしたなら、俺の推察は間違っていないはずだ。
俺はそれくらいには田井中と過ごして来れたはずなのだ。


「ま、こんなところかな」


妙に軽い田井中の声がラジカセから再生される。
本当は軽い気持ちではないだろうに、田井中って奴は辛い時ほど強がるのだ。
俺は知っている。
この宇宙に目覚めた当初、不安でしょうがなかったであろう田井中の姿を知っている。
慣れないゲームを俺たちに仕掛けて、古典部の俺たちにどうにか馴染もうとしてた姿を憶えている。
千反田の額に傷を負わせてしまって、それをどうにか隠そうとしていた田井中の姿を思い出せる。
背が低い仲間として伊原に受け入れられた時の、嬉しそうな田井中の顔も。
合宿で笑っていた表情も、楽しそうに俺にドラムを教えてくれた姿も。


「私からの報告はこれで終わりだよ、ホータロー、える。
さっきの疑問は本当に私には分からないことだから、あんまり気にしないでくれ。
そうじゃないかって推察だけ残しちゃうのも前のえるに失礼だしな。
だけどさ、もしホータローの頭に浮かぶ答えがあるんだったら、それがきっと正しい答えだと思うよ。
ホータローは謙遜するけどさ、私はお前には本当に探偵の才能があるって思うんだよな。
探偵の才能があって得するのかどうか分かんないけど、それは損得抜きに誇っていい才能だよ。

そうそう、えるの命の危険はとりあえず去ったと思う。
これまでのホータローと出会ったえるの人生で、八月二十一日を越えられたことは一度も無かったもんな。
それを越えられただけでかなりの前進だ。
生きている以上、もちろんこれからも色んな危険がえるに迫ることがあるだろう。
でも、ま、それを言い出したら切りが無いから、お前が気付いた危険からくらいはえるを守ってやってくれ。
ははっ、そんなの誰にでも当たり前のことなんだけどさ。

それとえる」


「は、はいっ!」

456: ◆2cupU1gSNo 2014/04/24(木) 19:17:35.68 ID:ffmefjFJ0


突然自分に話を振られた千反田がカセットテープの声に返答する。
その様子がどうにも千反田らしく、こんな時だというのに俺は苦笑してしまっていた。
続くカセットテープの田井中の声もどこか苦笑しているように聞こえた。


「改めて話すとなんだか照れちゃうな、今のえるに話し掛けるのはこれが初めてなわけだし。
いや、前のえるとは話してた記憶はあるんだけど、実はあれって自分会議みたいなもんなんだよな。
頭の中で自分じゃない誰かと語り合ってるって感じか?
そんなわけで、前のえるとも直接声に出して話し合ったことはないんだよ。
ま、それはどうでもいいことか。

とにかくえる、この二ヶ月、迷惑掛けちゃったな。
私なりに頑張ったつもりだけど、色々失敗もあったかもしれないな。
特におでこの傷は悪かったな。
痕は残ってないから大丈夫だと思うけど、その傷のせいでなにかあったらホータローに責任取ってもらってくれ。
責任取るってどういうことかって?
それはホータロー次第だな。

摩耶花と冬実、十文字にもよろしく頼む。
三人ともえるのことが気になってたみたいだけど、十文字は特に心配してたよ。
元々線が細い奴だったけど、私がえるの中にいるって知ってから余計に細くなってるみたいだった。
できるだけ早めに会いに行って安心させてやってくれ。
冬実にも世話になった。
お返しのぬいぐるみを作っておいたから、それとなく渡してくれると助かる。
摩耶花にも漫画貸してくれてありがとうって言っておいてくれ。
摩耶花と行った買い物、楽しかった。
今度は私から摩耶花に奢るよ。

里志には……、ま、あいつはこのテープを聞けば満足しそうだけどな。
学術的にとても興味深いよ! とか言い出しそうだ。
いやいや、里志にも感謝してるよ。
でも、摩耶花を大切にしてやれよ?
摩耶花は私の友達なんだから、悲しませたらただじゃおかないからな?」


終わりが近付いている。
テープの録音時間の終わりが近付いている。
ラジカセの中を覗き込んでみると、テープの残量が極僅かだと確認できた。
時間と、テープの残量は止められず、流れ続ける。


「それじゃ、これでお別れだ、ホータロー、える。
この二ヵ月間、世話になったな!
ホータロー、誕生日プレゼント嬉しかったよ、ありがとな!
える、これからのえるの人生は私たち皆が欲しかった時間なんだ。
面白おかしく、元気に暮らしてくれると私たちとしても本望だよ!
そろそろこのカセットの表は終わるけど、裏面は私のドラムの演奏を残しとく!
たまに聴いてやるかって気になったら聴いてくれると嬉しいよ。
本当にたまに、昔話をする時にでも思い出して聴いてくれ。
田井中律って臨時の古典部員がいたことを、たまにでいいからさ!
んじゃ、またな!」


その言葉が終わるが早いか、ラジカセの再生ボタンが元に戻った。
カセットテープの表面の再生がちょうど終わったらしい。
あっさりした終わりだし、最後まで慌しい奴だったな……。
だが、それも田井中らしいか。
涙の別れなんて似合っていないだろう、俺も、田井中も。
いや、もしかしたら田井中は……。

不意に思い立って、再生が終わったカセットテープを取り出す。
裏返して入れ直し、再生ボタンを押そうとすると俺の腕が誰かに掴まれた。
他の誰かがいるはずもない。
俺の腕を泣き出しそうな表情で掴んでいたのは千反田だった。
俺は再生ボタンを押すのを中断して、座布団の上に座り直す。


「どうしたんだ、千反田?」


「あの……、折木さん。
一つお訊ねしてもよろしいでしょうか?」

457: ◆2cupU1gSNo 2014/04/24(木) 19:18:21.09 ID:ffmefjFJ0


「なんだ?」


「折木さんには、分かってらっしゃるんですか?
あの人……、田井中さんがどうして私の身体に二ヶ月滞在していたのか。
どうして他の誰でもなく、高校卒業したばかりの田井中さんが選ばれたのか。
わたし、それが気になるんです、とても」


「それを答えるより先に一つ訊かせてくれ、千反田。
お前にはその答えが分かっていないのか?
と言うより、お前の中には田井中の記憶がどれくらい残っているんだ?
しばらく田井中を演じていたわけだし、大なり小なり記憶が残っているのは分かっている。
その記憶の中に、田井中の出した答えに関する記憶が残ってはいないのか?」


千反田が目を伏せる。
その伏せた瞳からは今にも大粒の涙が溢れ出してしまいそうだ。
けれど千反田は涙を流さなかったし、静かとだが俺の質問に答え始めてくれていた。


「折木さんの仰る通り、田井中さんの記憶はまだわたしの中に残っています。
それでしばらく田井中さんの演技をすることもできました。
上手くはできませんでしたが、確かに田井中さんの記憶は思い出せていたんです。
ですが……」


「どうした?」


「わたし、感じるんです。
朝、目を覚ます度に、田井中さんの記憶が薄れていくのを。
田井中さんがわたしを救って下さったことははっきりと憶えています。
けれど田井中さんが考えていたことや、わたしの前世の皆さんの記憶がどんどん薄れていくんです。
田井中さんが私の中から去られたばかりの頃は、田井中さんの感情まで思い出せていたはずなのに……。
今では、もう、田井中さんの口調すら思い出すのがやっとなんです……」


千反田は辛そうではあったが、それも田井中の気配りなのだろうと俺は思った。
人間に前世の記憶が必要なのかと問われれば、冷たいかもしれないが俺は否と答える。
人間は今の人生を生きるだけで手一杯だ。
千反田の様な例外を除いて、人間は生まれる前の因縁までそうは持ち込めない。
新しい未来を手に入れた千反田の前途には、田井中たちの記憶はもう不要なものなのだ。
おそらく千反田は直に田井中の口調すら思い出せなくなってしまうのだろう。
千反田自身もそれを分かっているに違いない。
だからこそ、千反田は言うのだろう、俺の手を強く握って。


「ですから、教えて下さい、折木さん。
わたし、知っておきたいんです、田井中さんがどんな答えを出してらっしゃったのか。
前のわたしがどんな気持ちで、田井中さんにわたしの二ヶ月を託されたのか。
その答えがどうしても……、わたし、気になります!」


千反田が目を見開く。
瞳孔まで開かんばかりに。
不謹慎かもしれないが、俺はその千反田の行動に感慨深くなっていた。
千反田えるが戻って来たのだ。
それを深く実感させられたから。

俺は千反田に握られていた手を脱出させ、軽く頭を掻いた。
「これも俺の推測に過ぎないんだが」と前置きしてから始める。

458: ◆2cupU1gSNo 2014/04/24(木) 19:19:07.96 ID:ffmefjFJ0


「なあ、千反田、お前は前の自分が今と同じ性格をしていると思うか?」


「それは……、分かりません……。
ですが、まだ微かに残っている田井中さんの記憶の前のわたしは、わたしに似た性格だった気がします。
自分自身のことですから、はっきりとは言えませんけれど……」


「それで十分だ、千反田。
お前の中に残っている微かな記憶が正しいとしよう。
それで今のお前と前のお前が同じ様な性格をしていたとする。
そう仮定してお前自身が考えてみろ。
高二で死んでしまうお前を救おうと奮闘している田井中の姿を見て、お前はどう感じる?」


「えっと……、申し訳ないと思います……。
前世の縁があるとは言え、わたしのためにそこまでして下さるなんて」


「お前らしい答えだが、そこは申し訳ないより他の言い方があるだろう」


「そう……ですね。
申し訳ないは田井中さんにも失礼ですよね、言い直します。
嬉しいです。
わたしのために一生懸命になって下さるなんて、とても嬉しいです。
その御恩をどうにかお返ししたいと思います」


「前の千反田えるもそうだったとは考えられないか?」


「えっ……?」


「田井中が前に言っていたよ、自分にはちょっと不純な気持ちもあったってな。
今から自意識過剰なことを言うが、どうか素直に受け止めてくれ。
なあ、千反田。
田井中の残したカセットテープについてどう思う?」


「突然そう言われましても……」


「楽しそうだな、とは思わなかったか」


「あっ」


千反田が驚きに似た声を上げる。
そうだ、田井中は楽しそうだったのだ。
カセットテープに限らず、俺たちと一緒にいた時は楽しそうにしていたのだ。
田井中は、楽しかったのだ。


「田井中の言った不純な動機……、それは俺たちと遊びたいってことだったんじゃないか?
高二で死ぬ千反田の顛末を数知れないほど見る内に田井中は思ったのかもしれない。
俺たちの仲間になりたいと。
俺たちと一度でも遊べたら楽しいだろうなと。
もちろんそれは少し不純な動機だ。
千反田を救うための手段を考えながら、そんな風に考えてしまうなんてことは。
当然だが田井中が悪いわけじゃない。
それくらい俺たちの古典部の活動が楽しそうに見えたってだけだ。
そんな本来なら叶えてやるまでもない願い。
だが前の千反田はそれを知って叶えてやろうと思ったんだろう。
さっきお前が言った通り、お前のために一生懸命になってくれた恩返しとして」


それが千反田えるという女だった。
前の千反田が今の千反田と似た性格をしていたとしたなら、彼女もそう考えたはずだ。
俺はとっくの昔に死んでしまっている千反田に思いを馳せながら続ける。

459: ◆2cupU1gSNo 2014/04/24(木) 19:20:01.68 ID:ffmefjFJ0


「それであの年頃の田井中の記憶を今のお前の身体に蘇らせたんだ。
今のお前を救うって役目の記憶をある程度封印してな。
本末転倒に思えるが、それがお前だよ、千反田。
ひょっとしたら今のお前を救えるかどうかは副産物的な目的だったのかもしれない。
この二ヶ月、お前を救うために一番熱心だった田井中を俺たちの仲間に加えてやること。
それが前の千反田の真の目的だった。
それで田井中は最初は自分の役目を憶えていなかった。
もしかしたら田井中への誕生日プレゼントのつもりも、あったのかもしれない。
なんとなくだが、俺にはそんな気がするんだよ」


「本当に本末転倒ですね……」


「全くだ」


「ですが、分かります。
わたしも、千反田えるですから」


そうだろうな。
千反田えるって古典部の部長は本末転倒なことを平然とやってのける女だ。
自分よりも、自分の身を案じてくれた誰かのことを考えてしまう奴なのだ。
結果的に今の自分が死んでしまうことになったとしても。
だからこそ、田井中を代表とする千反田の前世たちも、どうにか千反田を救いたかったのだろう。
気が付けば千反田は溢れそうだった涙を零していた。
しかしその表情は笑顔で、とても満足そうな表情に思えた。
俺はその千反田の涙から軽く目を逸らして、一つだけ気になっていたことを訊ねることにした。


「そういえば千反田」


「はい?」


「結局お前はどうして田井中の演技なんかしていたんだ。
唐突に田井中が去ってどうしていいか分からなくなったんだろうが、なにも演技をしなくてもいいだろう。
田井中のことを忘れたくなかったのかもしれないが、今のお前の時間は田井中たちが望んだ未来なんだ。
お前らしく生きることを、あいつらも望んでるだろうよ」


「はい、分かってはいたんです……。
わたしの今は皆さんのお力添えで存在しているんだってことは。
田井中さんのことを忘れたくなくて、田井中さんの演技をしていたのも確かです。
薄れていく田井中さんの記憶を失いたくありませんでした。
ですが……、あの……、もう一つ理由が……」


途端、千反田の涙が止まり、頬が赤く染まる。
さっきまで涙を流していたくせに、忙しなく表情を替える奴だ。


「折木さんの気持ちを考えると……、わたし……」


「俺の気持ち?」


「失礼を承知で言います。
折木さんは田井中さんのこと、お好きだったんですよね?
だからわたしは……」


「……はっ?」


今の俺の表情をどう形容したらいいのだろう。
とにかく非常に間抜けな表情であったことは間違いない。
それくらい千反田の発言は予想外なものだった。

460: ◆2cupU1gSNo 2014/04/24(木) 19:20:37.84 ID:ffmefjFJ0


「かなり薄れてはいますが、田井中さんと一緒にいた折木さんの姿はまだ憶えています。
折木さん、すごく楽しそうに見えました。
田井中さんも折木さんと一緒にいられて幸せそうでした。
とてもお似合いのお二人だと思いました。
それでわたし、秘密にしないといけないと思ったんです。
田井中さんがいなくなってしまったと知ったら、折木さんはとても悲しまれると思って……」


俺が田井中のことを好き?
いや、別に嫌いというわけではないが、それは見当違いだ。
俺と田井中は目的が同じだった。
それで多少気が合って、一緒にいて楽しいことも多かった。
そういうことなのだ。
まったく、大日向の時と言い、千反田の気遣いは見当違いなことばかりだ。
それでも悪い気がしないのは、千反田の人徳というものなのだろうか?
とりあえず千反田の勘違いは正しておかねばなるまい。


「あの、だな、千反田」


「はい……」


「俺は別に田井中のことが好きだったわけじゃない。
嫌いなわけでもないが、とにかくお前が考えている様な関係じゃなかったんだよ。
俺のことを気遣ってくれたことに関しては悪い気はしないが、それは見当違いってやつだ」


「そう……なんですか……?」


「田井中が去ったことに関してなにも感じていないと言ったら嘘になる。
だが俺は満足しているし、あいつも満足して去ったはずだ。
お前を救うって目的を果たせたんだからな。
俺と田井中の関係は、そう、確かさっきも言ったな?
俺と田井中は仲間だったんだ。
持っていた情報こそ違ったが、お前をどうにか救おうと苦心した仲間だったんだよ。
俺とあいつが特別な関係に見えたのなら、そういうことだ」


「仲間……ですか。
それじゃわたし、勝手な勘違いで……。
田井中さんにも失礼なことを……」


千反田が更に顔を赤く染めていく。
このままだと頭に血が上がって失神してしまいかねない。
千反田の部屋の中で失神されてしまった日には、どんな誤解をされるか分かったもんじゃない。
どうにかしなければと部屋の中を見回して、俺はちょうどいい物を見つけた。
ドラムスティック。
伊原が田井中にプレゼントした物だ。
俺はそれを手に取ると、顔中を真っ赤にしている千反田に握らせた。


「ときに千反田」


「はっ、はいっ?」


「お前はまだドラムを叩けるのか?
それくらいの田井中の記憶は残っているか?」


「い、いえ、無理です。
ドラムに関する記憶は真っ先に消えてしまったみたいで、試してみても全然叩けませんでした。
実はどなたかにまたドラムを叩いてほしいとお願いされたらと思うと、不安でしょうがなかったんです……」

461: ◆2cupU1gSNo 2014/04/24(木) 19:21:09.30 ID:ffmefjFJ0


それは記憶の有無には関係の無いことだったのかもしれない。
ドラムの演奏など、記憶があったところでどうなるものでもないだろう。
しかしちょうどよかった。
俺は軽く微笑むと、田井中がドラムの練習に使っていたと思しき雑誌を千反田の前に積み上げた。


「どうだ、ドラムの練習をしてみないか、千反田?」


「ドラムの練習を?」


「ああ、田井中はドラム人口の少なさに嘆いていたからな。
一人でもドラムに興味がある奴が増えれば、あいつだって喜ぶだろうよ。
それが田井中のことを憶えておくことにも繋がるだろうしな」


「そう……ですね。
わたし、田井中さんのこと、ずっと憶えていたいです」


「よし、それなら練習を始めようじゃないか、千反田。
俺も詳しいわけじゃないが、田井中に多少は教えられたからな。
少なくともお前よりはドラムに詳しい。
だがその前に……」


俺は立ち上がって、千反田の学習机に置かれていた物を手に取った。
田井中への誕生日プレゼントが入った袋だ。
それを千反田に手渡してから、もう一度腰掛ける。


「ドラムを叩くにはその前髪が邪魔だろう。
これを使えよ、千反田」


「よろしいんですか……?」


「ああ、俺は気にしないし、その方が田井中も喜ぶだろうよ。
今日がドラマー女子高生、千反田えるの誕生の記念日になるってわけだ」


「上手く叩けないかもしれませんよ?」


「いいさ、田井中もそこまでお前に求めないだろう。
お前が田井中を忘れたくないのなら、忘れないための努力をすればいい。
それだけのことだ」


「はいっ!」


千反田が袋の中からプレゼントを取り出す。
八月二十一日、俺が誕生日プレゼントに選んだ向日葵のバレッタ。
カチューシャで前髪を纏めるばかりが能ではないと思い、贈ってみたものだ。
田井中向けに選んでみたバレッタだが、前髪の長い千反田にも不思議と似合っていた。
そうして千反田はおそるおそるとだが雑誌を叩き始める。
田井中のそれとは似ても似つかない不器用なスティック捌き。
それでも俺たちは目的を同一にした仲間に思いを馳せながら、そのスティック捌きに目を奪われ続けた。

これから千反田の新しい未来が始まるのだ。

462: ◆2cupU1gSNo 2014/04/24(木) 19:21:45.13 ID:ffmefjFJ0





一旦ドラム練習を終了し、俺たちは田井中の残したカセットテープの裏面を聴くことに決めた。
当然ながらドラムしか録音されていなかったが、不思議と原曲を想像できた。
数曲聴いて裏面のテープの残りが少なくなり始めた時、静かな息遣いが聞こえ始めた。
当然ながらそれは田井中の息遣いに違いなかった。
予感はあった気がする。
これが最後なのだと感じながら、俺と千反田は息を呑んでそれを待った。
十数秒後、ラジカセのスピーカーから田井中の最後の言葉が流れ出した。


「よっ、ホータロー、それにえる。
参ったよ、お見通しなんだもんな。
言い残したことがあってさ、裏面の最後に吹き込んでおこうと思ったんだよ。
つっても、もう謎解きでもなんでもないメッセージなんだけどな。
ま、最後まで聞いてくれると嬉しいよ。

今更になるけど、この二ヶ月ありがとうな、ホータロー。
お前がいたからこの二ヶ月楽しかったよ。
これは私の勝手な思い込みなんだけど、お前がいたおかげでえるも救えたんだと思うぞ?
今のえるが元気なのは私とホータローの共同作業の結果だよ。
なんの根拠も無いけどな、ははっ。

だけど楽しかったのだけは本当だ。
古典部の皆で活動するのはすっげー楽しかった。
巫女のコスプレも楽しかったし、冬実をちょっとからかってやれたのも楽しかった。
摩耶花には悪いけど、合宿で摩耶花が変な勘違いされたりしたのも面白かったよな。
『氷菓』の完成が見届けられないのは心残りだけど、お前たちならいい『氷菓』が作れると信じてるよ。
『氷菓』製作頑張れよ!

私はこれでこの世界から居なくなるわけだけど、元気に生きろよ、二人とも。
省エネ主義も悪くないけど、もし一生懸命になれることを見つけたら、それに頑張ってくれ、ホータロー。
一生懸命になれた時は、お前ならきっといいなにかを残せるよ。
私だってそれにずっと助けられてたわけなんだしな。

それでさ、こう言うのも変なんだけど、いつかきっとえると私とお前で遊ぼうぜ?
いや、今の世界で無理なのは分かってるぞ?
私はえるの身体にしか宿れないし、これから先宿るつもりもないもんな。
だからさ、私たちが遊ぶのはずっとずっと未来の話だ。
何兆、何京回か先の宇宙の話だよ。
そればっかりは無理だって言うなよな?

そりゃすっげー低い可能性だってことは分かってるよ。
宇宙が何京回繰り返してるのか分かんないけど、私がえるの身体に宿れたこと自体が奇蹟レベルなんだ。
その奇蹟レベルを更に奇蹟で何乗もしたくらいの可能性でしか、私たちが一緒にいる宇宙なんてできないはずだ。
今までの宇宙で私とホータローたちが一緒にいた世界なんて一つも無かったしな。

でも、できるよ、できるって私は信じる。
ホータローと出会った世界でえるが生きられるって奇蹟だって起こせたんだ。
ずっとずっと諦めなかったから起こせた奇跡なんだ。
だから私は諦めないよ、ホータロー。
細胞も消えて原子以下の素粒子になったって忘れない。
忘れずにホータローたちとまた遊べる未来を夢見続けるよ。
ホータローも、私も、えるも、里志も、摩耶花も、冬実も、澪も、唯も、ムギも、梓も、和も……、
せっかくだから私の前世も勢揃いしているような世界だって、いつかは作れるはずなんだ。
その世界で遊んでやるんだよ、私たちは。
その暁にはお前を思い切りからかってやるから覚悟しとけよ、ホータロー?
それまでえると仲良くやるんだぞ?

さてと、そろそろテープの残りも少なくなってきたな。
それじゃあ最後になるけど今までありがとな、ホータロー、それにえる!
この二ヶ月、楽しかったのはお前たちのおかげだ!
遠い未来の話になるけど、その時を楽しみにしてる!

以上、録音終わり!
放課後ティータイムのドラマー兼古典部臨時部員田井中律!
またな!」

463: ◆2cupU1gSNo 2014/04/24(木) 19:23:53.24 ID:ffmefjFJ0


これにて完結です。
長くなりましたが、約一年弱、どうもありがとうございました。
日常の謎からSFの様な感じになりましたが、今までお付き合い頂け感謝の一言です。
あ、眼鏡女子は俺妹のつもりです。
ありがとうございました!