ミュウツー『……これは、逆襲だ』前編
ダゲキ「あれは……いつも、いやだよ」
ジュプトル「おれも、いやだな」
ミュウツー『……ならば、なぜあんなことをする』
ジュプトル「……しんだ ポケモンは、ああするんだ」
ミュウツー『いつもか?』
ダゲキ「うん、だいたい むしポケモンは いつも」
ジュプトル「べつに、いつも おれたちが、はこんでる わけじゃないけど」
ダゲキ「ぼくたちに、その、ええと……」
ダゲキ「あわない、じゃなくて、はなれないで いること……なんていうんだ?」
ミュウツー『……ううむ』
ダゲキ「ええと……」
ダゲキ「いっ……しょ?」
ミュウツー『ああ……「一緒にいる」?』
ダゲキ「……かな?」
ミュウツー『……で、なんだって?』
ダゲキ「いっしょに、いてくれる もりのポケモンは……ぼくたちが かえす ことが、おおいよ」
ミュウツー『そうなのか』
ダゲキ「……なんでなのか、わからない けど」
ダゲキ「そういう やくそくに、してる」
ジュプトル「どうせ、おれたちが よそもの だからだよ」
ジュプトル「よそものと なかよくする、ポケモンは なかまじゃねーって」
ジュプトル「そんな ところだろ」
ミュウツー『……そうか』
パチン
ジュプトル「……あっちィ!」
ミュウツー『ジュプトル、貴様、何をしているんだ』
ジュプトル「なんだよ。たきびの あとしまつ だよ」
ジュプトル「まーったく、おまえ、ホントに なにもしらないんだな」
ミュウツー『い……いちいち突っ掛かるんじゃない』
ダゲキ「たきびの ことは、バシャーモが おしえてくれたんだ」
ダゲキ「ぼくも、おしえてもらった」
ミュウツー『ほう』
ミュウツー『なるほど、奴なら火の扱いは得意だろうな』
ジュプトル「ばッ、ばか! なんで いっちゃうんだよ!」
ダゲキ「なんで?」
ジュプトル「『なんで』って……おまえなあ」
ダゲキ「……ご、ごめん」
ジュプトル「ちぇっ」
ミュウツー『火の始末など、水でもかければいいだろう』
ダゲキ「それじゃあ、だめなんだ」
ジュプトル「そう、そう」
ミュウツー『なぜだ?』
ジュプトル「おー、でっかいの! ぜんぜん、わかってないね!」
ミュウツー『……あ、うん……』
あからさまに見下した表情を見せ、ジュプトルはおどけて言う。
ミュウツーには理由がわからないが、少し嬉しそうだった。
ダゲキ「みずをかけると、ひのことか はいが とんで……あぶないんだって」
ジュプトル「あっ……おいまた! いうなよ! おれ、いいたかったのに!」
ダゲキ「……あ、ご、ごめん」
ミュウツー『そういうものなのか』
ジュプトル「だ……だから、こうやって、えだが のこらないようにして、くずして けすんだ」
ミュウツー『ほう……』
ミュウツー『そうすれば、火の粉も飛ばないのか』
ミュウツー『……大したものだな』
ジュプトル「な……なんだよ、きもちわるい」
ジュプトルは不審そうな顔をしていたが、ミュウツーは半ば本気で感心していた。
感心したのは、火の後処理技術についてではない。
ミュウツー『貴様は草ポケモンだろう』
ジュプトル「うん、そうだけど」
ミュウツー『火を苦手とするはずの貴様が、教えられたとはいえよくそこまで身につけたな』
ミュウツー『それは、生まれながらの能力に頼らずに、生きているということではないか』
ジュプトル「……」
ジュプトル「な、なんか、ほめられてる?」
ミュウツー『そう、受け取ってくれて構わない』
ジュプトル「……わるかったな」
ミュウツー『うん?』
ジュプトル「おまえのこと、もっと いやなやつだと おもってたよ」
ミュウツー『……そうか』
ジュプトル「なんか、えらそうだったし」
ミュウツー『……そ、そうか?』
思わずダゲキの方を見ると、ダゲキは困ったように首を傾げた。
ミュウツー『……そこは否定しろ』
ダゲキ「『ヒテイ』……あ、なんでもない。ごめん」
何を言おうとしたのかは予想できた。
教えを乞うまでもなく、言葉の意味をなんとなく理解できたに違いなかった。
ジュプトル「なあ、おまえ さ」
ミュウツー『?』
ジュプトル「ダゲキにきいたけど、むりに でていかなくて いいんだぞ」
ミュウツー『……』
ジュプトル「おれたち みたいに、ここにいろよ」
ジュプトル「きのみも……うまいし」
ダゲキ「そう……だな」
ダゲキ「……ともだちが ふえたら、うれしい」
ジュプトル「だよな」
ミュウツー『なにを言ってるんだ、お前たちは』
ダゲキ「……」
ミュウツー『……?』
ジュプトル「へへへ」
ジュプトル「もりのやつらには、きらわれてるけど、チュリネたち いるし」
ジュプトル「ふつうに、やってくだけなら こまらないよ」
ミュウツー『……嫌われている? なぜだ』
ジュプトル「え?」
ジュプトルは不思議そうな顔をした。
ジュプトル「そりゃあ、よそものだからだよ」
ミュウツー『よそものか。確かに私やお前たちはそうだが、それだけで嫌われるとは、どういうわけだ』
ジュプトル「……さあね。おれは、ニンゲンのところで うまれたから、あっちのきもちは、わかんない」
ミュウツー『それは……私も同じだ』
ジュプトル「そういえば、そうだな」
ジュプトル「フシデとか、チュリネとかハハコモリとか、こいつみたいなのは、めずらしいんだ」
ダゲキ「……うん……そうだね」
ミュウツー『……え? ああ……なるほど』
ミュウツー(そうか……みんなには黙っているのだったな)
ちらりとダゲキに目を向けると、向こうもミュウツーを見ていた。
黙っていてほしいと言われたことは、むろん忘れてなどいない。
それでも流石に不安なのだろう。
いや……負い目なのか。
よほど、自身が人間と旅をしたことがあると知られたくないらしい。
『嫌われている』とジュプトルは言った。
人と在ったものとそうでないものの溝を、ダゲキも繰り返していた。
ミュウツーがどうやら彼の禁忌に触れないらしいとわかると、ダゲキはようやく目を伏せた。
ダゲキ「……じぶんのすみかが あらされるのは、いやなんだよ」
ミュウツー『だからといって、嫌われるほどの……』
ダゲキ「みんな……じぶんのばしょ だと、おもってる」
ダゲキ「そこに、しらないやつが きたら、こわい」
ジュプトル「おいおい、おまえまで、そんなこと いうかよ」
ダゲキ「もう、おもってないってば」
ミュウツー『お前も“昔”は、よそものを嫌っていたのか?』
ジュプトルにはどうということのない質問に聞こえるはずだ。
だが、ダゲキにとって『昔』という言葉が、正確にはどういう意味を持つのか。
彼の過去を知っているものから発せられる場合、どういう意図を持つのか。
はたして、その意図が伝わるのかどうか。
底意地の悪いやり方だと、我ながら思った。
ダゲキはミュウツーの顔をしげしげと眺め、一瞬悲愴な顔を見せた。
予想通り、ダゲキはミュウツーの言葉が持つ意図を理解できたらしい。
何かを思い出すような目つきを見せて、ダゲキは口を開いた。
ダゲキ「きらい……じゃないけど……」
ダゲキ「なかよく なんて、おもわなかった」
ダゲキ「ちかづきたく……ないし」
ダゲキ「どこからきたか、わからないし。どういうやつかも、わからない」
ミュウツー『しかし、話してわからん連中というわけでも……』
ダゲキ「……」
ジュプトル「それは、なあ……」
ダゲキ「たぶん……すごく むずかしい」
どこか諦めたような話し振りだった。
ミュウツー『……そうか』
自分の知らないところで、むしろ自分がここにやって来るまでに、共存の努力はそれなりに払われたのかもしれない。
生まれた森以外を知らない『普通の』ポケモンたちと、人間に関わった『異質な』ポケモンたちとの間で。
ミュウツーは、ハハコモリを貪るクルミルの目を思い出した。
こちらの顔を見るなり餌を放り出し、慌てて逃げていったフシデたちの姿を思い出した。
ミュウツー『……私から見ても、連中との溝は深そうだ』
ジュプトル「おれ あんなふうに……ほかのポケモン たべたくない」
ミュウツー『……ううむ』
ミュウツー『……なぜ、奴らは仲間の死骸を食うのだ』
ダゲキ「それは」
ジュプトル「そーゆーもん だからだよ」
やけに、撥ねつけるような物言いでジュプトルが言った。
吐き捨てていると言ってもよかったかもしれない。
ミュウツー『……それが普通、ということか』
ジュプトル「みんな、へいき なんだってさ」
ジュプトル「ま、どーせ、おれには わかんないけど」
ジュプトル「おれ、ニンゲンのポケモンフードと きのみ しか、たべたことないし」
ミュウツー(私など、研究所を出るまで、モノなど食べたことなかったが……)
ミュウツー(……言わない方がよさそうだ)
ダゲキ「ぜんぶの ポケモンが、たべるわけじゃ……ないよ」
ミュウツー『それを聞いて、少し安心した』
ダゲキ「……ぼくも、やっぱり きのみ がいい」
それぞれに溜息をつく。
そのままうっかり、誰もが口を噤んでしまった。
パチン、パチンと間隔を開けて、燻る焚き火が音をたてる。
そう遠くないところから、小川のせせらぎが聞こえる。
彼らはなんの変哲もない、ただの野生のポケモンである。
生まれた森で育ち、人間や外部の存在から教えられることもなく、生きる術を身につける。
特別なところは、特にない。
その上、この森は決して資源に乏しい土地ではない。
あのハハコモリを見ている限り、食べるものに困っている様子もなかった。
それなのに、彼らはごく普通のこととしてその遺骸を食べる。
同種の成体が死んだ時の、当然のルーチンワークの一つであるかのように食べていた。
つまり、クルミルたちがハハコモリの遺体を食べるのは――
ミュウツー『……どうしてなんだ』
ダゲキ「……え?」
ジュプトル「なにが?」
どう説明したものか。
少し悩んだが、結局は下手に考えをまとめることはせず、思考のままに伝えることにした。
何よりも、まず――
ミュウツー『……なぜ、私やお前たちは……「あれ」を、こうも受け入れられない』
ジュプトル「ん?」
ダゲキ「ぼくたち……は、『たべない』ポケモンだから じゃ……ないの?」
ダゲキ「しんだら みんな、たべる わけじゃないし」
ジュプトル「かんがえたこと ないや。いやな もんは いやだろ」
そうなのだろうか。
怪訝そうな顔をしていたジュプトルが、少し間をおいて目を開いた。
ジュプトル「……もりに ずっといるやつらは、へいきなんだよな?」
ダゲキ「……えっ……」
ジュプトルの疑問に、ダゲキが小さく反応する。
ジュプトル「おい、ダゲキ。どうしたんだよ」
ミュウツー『……』
ダゲキ「な……んでも ない」
ジュプトル「……」
不審に思っていることは明らかだった。
だが、ジュプトルはそのまま話を続ける。
ジュプトル「チュリネとか……ほら、なんだっけ……エルフーンとか、ヤナップとか」
ジュプトル「あいつらと、あれのこと……はなしたこと あるけど」
ジュプトル「みんな……なんとも おもってなかった」
ミュウツー『というか、チュリネも……平気なのか』
少し意外な気がした。
チュリネのことはすっかり『こちら側』だと、ミュウツーも認識していたからだ。
ミュウツー『“野生のポケモンにとっては”……普通のこと……ということなのか?』
では、『人間と共に生活したことのあるポケモン』にとってはどうだ?
自分があの光景に耐えられなかったのも、ジュプトルが目を背けたのも、『だから』なのだろうか。
ミュウツー(……いや、待て)
この論法では、まるで……。
ジュプトル「えっ……じゃあ さ、ダゲキ」
ジュプトル「おまえは、なんで 『だめ』なんだ?」
そう言ってダゲキを見る。
ダゲキ「え……あ……」
顔にこそ出ていなかったが、ダゲキが狼狽していることはふたりにも伝わった。
ジュプトルの問い掛けに、そこまで深い意味はなかったのかもしれない。
ただ単に疑問に思ったから口にした、というだけであった可能性もあった。
ダゲキ「……ぼく は……」
けれどもダゲキは、それを尋問、追求、あるいは遠回しの弾劾と受け取ったようだった。
いつになく落ち着きを失い、動揺している。
“まるで”、“嘘がばれた子供のように”。
それを、ミュウツーは不思議なものを見るような気分で眺めていた。
私はただ、知りたかった。
思い出したかっただけだ。
私がどこの誰なのか。
なぜ存在するのか。
どうして、今ここにいるのか。
誰か教えてくれと、私は声に出さず叫び続けていた。
嘘でもいい。
おためごかしでも、なんでもいい。
それが私にとっての救済となるから、教えてほしい。
それが私にとって絶望でしかなくても、教えてほしい。
なぜ、私はいるのだろう。
なぜ、こんなちからを持っているのだろう。
なぜ、あんなことがわかるのだろう。
なぜ、こんなことをしなくてはならないのだろう。
誰も答えてくれない。
誰も教えてくれない。
私は、私自身に投げかけ続けてきた問いの答えを知っていたはずだ。
そうだ、きっと知っていたはずだ。
それなのに、私はどうしても思い出せない。
ときどき、思い出せそうなこともある。
暗い洞窟の中で過ごした懐かしい記憶と共に、私は私の本来の姿を夢想する。
自分がどういう存在なのか、何をすべきなのか。
忘れてしまえば、根のない草のようになんと頼りないことか。
憶えていること、思い出せることを頼りに、私はどうにか過ごしてきた。
すべきこと、しなければならないことをした。
たとえ、誰かに憎まれても。
それでも、今の私は、大切な何かを思い出せずにいる。
思い出さなければならない。
思い出してしまえば、別の大切な何かを失ってしまうような気がする。
それでも、思い出さなければならない。
私の、本来の役目を。
私はほんの少しの骨を、両手に抱えて呻く。
思い出せない。
ここから、どうすればいいのか。
あそこから、どうすればよかったのか。
すべきことが出来なかったために、どうなってしまうのか。
……そりゃあ、憶えてるよ。
モンスターボールの中で過ごしていた頃のことは、今でも憶えている。
忘れられるわけないじゃないか。
いっそ忘れることが出来たら、どれほど楽だかわからない。
あの中が居心地よかったかどうか……正直なところ、よくわからない。
そんなに悪くはなかったと思うけど。
このままニンゲンのポケモンとして生きていくのも悪くないかな、と思ったくらいには。
……強い相手と戦えるなら、自分を鍛えられるならそれもいいかも、って。
だってほら、森のポケモンの間では、今さら話題にするまでもない話だったから。
ニンゲンについて行けば、強いポケモンと戦えて、強くなれる、って。
ぼくだって、強くなりたかった。
――行け!
あのニンゲンに連れて行かれて、少し経った頃。
ぼくは、こんなことを思うようになった。
ひょっとしたらこのニンゲンは、ぼくのことを……生き物とは思ってないんじゃないか、って。
命令した通りに戦う、道具か何かだと思ってるのかもしれない、って。
実際、ぼくがボールから呼び出される時というのは、本当に限られていた。
ニンゲンがポケモン同士を戦わせるために、ぼくを必要とした時だけだ。
だから外から声をかけられて、呼ばれて、ボールから飛び出す時、悪い気はしなかった。
ぼくは、必要とされたってことだから。
ぼくは戦わせれば強い、役に立つって言われたようなものだから。
それは、いい気分になることだった。
そういう気分のことは、なんていう言葉を使えばいいんだろう。
……『うれしい』、だったかな。
呼び出された戦いで勝てば、あのニンゲンは喜んでくれた。
――よーし行け! 負けたら承知しないぞ!
あのニンゲンに連れて行かれて、少し経った頃。
ぼくは、こんなことを思うようになった。
ひょっとしたらこのニンゲンは、ぼくのことを……生き物とは思ってないんじゃないか、って。
命令した通りに戦う、道具か何かだと思ってるのかもしれない、って。
実際、ぼくがボールから呼び出される時というのは、本当に限られていた。
ニンゲンがポケモン同士を戦わせるために、ぼくを必要とした時だけだ。
だから外から声をかけられて、呼ばれて、ボールから飛び出す時、悪い気はしなかった。
ぼくは、必要とされたってことだから。
ぼくは戦わせれば強い、役に立つって言われたようなものだから。
それは、いい気分になることだった。
そういう気分のことは、なんていう言葉を使えばいいんだろう。
……『うれしい』、だったかな。
呼び出された戦いで勝てば、あのニンゲンは喜んでくれた。
ぼくは、もっと必要とされる。
こうしてボールの中で静かに待っているのも耐えられる。
それは、とても『うれしい』気分になることだった。
自分が何のためにいるのか、唯一考えずにいられる時間だったから。
他のニンゲンとポケモンがどういう関係で生きているのか、ぼくにはわからない。
ぼくとあのニンゲンは、決して仲良しではなかった。
ポケモンとニンゲンだから友達ではなかったし、そういえば仲間でもなかった。
それだけは、間違いないと思う。
このニンゲンとなら一緒にいたい、と思ったことは一度もない。
勝てた時、頭を撫でて褒められたことなんてない。
負けた時、また頑張ればいいと慰められたことだってない。
いつ、役に立てず、必要とされなくなってしまうか、それが気がかりだった。
けど、これが普通なんだと思っていた。
それ以外、ぼくは知らなかったから。
どんなニンゲンだったかは、よく憶えてる。
あのニンゲンは、強いポケモンが好きだったみたいだ。
強いことが大事、勝てるポケモンであることが、大事。
あとは、ポケモンと関係ない、別のことが好きだった。
ぼくは……その『別のこと』は、あんまり好きじゃないんだけど。
そういうニンゲンだった。
名前は……憶えてない。
思い出せないだけなのかもしれない。
ああ、ひょっとしたら、そもそも知らなかったのかもしれない。
ある時、ぼくが倒したピンク色の丸っこいポケモンに、そのトレーナーが駆け寄った。
ぽやんぽやんした声の、丸々として、少し……なんでもない。
なんていうポケモンかなんて、ぼくは知らない。
トレーナーは、ぐったりしたそいつを抱き上げて、何か声をかけていた。
その言葉を聞いて、ぼくは不思議な気分になった。
命令じゃない言葉だから、ぼくには理解できなかったけど。
『よしよし』とか『お疲れさま』とか『ごめんね』とか……。
今になってみれば、そういう言葉だったんだと思う。
ぼくを連れていたトレーナーが、絶対に言わない言葉だ。
もう、本当のことはわからない。
意味を理解できなかったから、羨ましいとも、悲しいとも思わなかった。
今なら思うかもしれないけど、その時は自分でもわからなかった。
けど、なんだか、とても……胸が苦しかった。
ボールの中にいても、ニンゲンたちが交わしている話は聞こえる。
外にいる時よりは、少し聞き取りにくいけど。
ぼくには聞こえてないと思ってるんだろう。
ひょっとしたら、聞こえてもわからないと思ってたのかもしれない。
命令は、理解できるって知ってるのに。
ぼくに関係ないことも、ぼくのことも、普通に話していた。
ニンゲンたちの話をたくさん聞いているうちに、ぼくは少しずつ、命令以外の言葉もなんとなくわかるようになってきた。
たぶん、他のニンゲンと一緒にいるポケモンたちも、みんな似たようなものだと思う。
その頃は、自分がしゃべることなんて考えもしなかったけど。
自分のことを『ぼく』と呼ぶんだ、ということも知った。
『おれ』とか『わたし』という言い方もあると知ったのは、もっとあとのことだ。
でも、『ぼく』と思うようになってから、それまで自分のことをどう考えていたのか、思い出せなくなった。
『ぼく』という気持ちは、ずっと前からあったはずなのに。
その時から、自分のことは『ぼく』としか思えなくなったし、言えなくなった。
あの日も、ぼくはいつものように、ボール越しに聞こえてくる会話を感じていた。
半分眠ったような、半分起きているような不思議な気分で。
――……おい、**たか?
――なにを?
――カントーの、しゃ**ポケモンの***
――はぁ? ポケモンがしゃ*るかよ
――それがさ、***なんだけど……
――人間様と***ように、べらべらしゃべるニャースが**んだってよ
――マジかよ、それ。どうせ、う**だろ?
――****でしゃべる****してるところを見た、って
――まあ、都市****みたいなもんだけど
――……そんなスゲェのがいたら、もっとおお**ぎになってるんじゃねーの?
――でも考えてみたら、人間と似たような***のポケモンもいるんだし、*****もないと思わね?
――お前んとこのさ、そいつみたいなポケモンなら、しゃべれるかもって
しゃべる?
ぼくが?
……どうやって?
ニンゲンみたいに?
そうしたら……どうなるんだ?
ニンゲンに、言いたいことが言える?
伝えたいことが、伝えられる?
命令されるだけじゃなくて?
呼び出された時に戦わされる、だけじゃなくて?
用がなくなればすぐにボールに戻されるだけじゃ、なく?
何かを訊いたりできる?
『ぼくと、あなたは』……『仲良く、なれますか?』って。
――うちのダゲキ? だめだめ、コレなんて、バトルで**こと***、**がないから
――コレ**わりかよハハハ
――メスでもないから、他に使い**なんてないもじゃんアハハ
――ああでも、***込めば、**みたいに***られるかもな
――****したからって、しゃべれるもんなのかねぇ?
――口がないポケモンとかいるじゃん、それに**べたら……
口……。
どう、口を動かせばいい?
舌は?
歯は?
喉は?
どうすればいい?
どうすれば、ニンゲンの言葉を話せる?
ぼくは……知りたくなった。
――こんなんがしゃべって、どうするんだよ
だからぼくはボールの中で、今までよりも一生懸命、ニンゲンの言葉に耳を傾けた。
ボールから出て、戦わされている時も。
ニンゲン同士が話し始める時に、なんと言うか。
どんな声で、どんな抑揚をつけて、どんな言葉を言うか。
たくさん、たくさん聞いた。
だんだん、いろんなことがわかるようになった。
自分より上に見たり、下に見たりする言葉がある。
言葉ではそう言っていても、本当は違うことを言っていることもある。
ボールの中だと、口をどう動かしたらいいか、よくわからない。
ただ普通に声を出すだけだと、いつもの声になってしまう。
外に出ている時は、戦うばかりだから練習のしようがない。
だから、たくさん言葉を憶えることだけ考えた。
まだ知らない言葉は、たくさんあるけど。
それでもぼくを連れていたニンゲンが話すことは、だいたいわかるようになった。
そのおかげで……『そのせいで』、かもしれない。
なんにしても、ぼくは知った。思い知った。
あのニンゲンは、ぼくをどこかに置いて行ってしまおうとしていることを。
それから、ぼくのかわりにする奴を、もう捕まえてることを。
つまりもう、ぼくはあのニンゲンに、必要とされていないってことを。
本当は、言葉がどうのこうの、っていうより前にわかってたような気もするんだけど。
……あのニンゲンに必要とされなくなったら、ぼくはどうなるんだろう。
ずうっと、あのボールの中?
もう戦うこともなく?
ずっと……ずうっとあんな場所で?
それは……。
それは、なんという気持ちなのだろう。
ぼくは夜になっても眠らず、ボールの中でその気持ちのことを考えた。
頭の上の方だとか、ボールの外で聞こえていた言葉を思い出す。
――いやだなあ、やめてくださいよ先輩
――ポケモンのくせに、一人前にイヤそうな顔すんなよ
そうだ、『いや』だ。
いやだ。
――いけ、ローキックだ!
いやだ。
いやだ。いやだ。
そんなのは、いやだ。
ぼくはチョロネコを転ばせながら、そんなことを考えていた。
こんなにいやな気分なのに、戦うことをやめられない。
いやだ。
いやだいやだ。
ここはどこだろう。
ぼくは、どうしてこんなところにいるんだろう。
ぼくはなんなんだ。
ポケモンってなんなんだ。
帰りたい。
でも、どこへ?
空を見た。
戦いながら、何度も空を盗み見る。
――なにボーッとしてるんだ!
後ろから、ニンゲンの怖い声が聞こえる。
いつもなら、あの怖い声をぶつけられたくなくて、必死になった。
だけどもう、あまり声は気にならない。
それよりも……目に映る空のことをずっと考えていた。
空は青くて、白い雲が浮いている。
色だけでいうと、ぼくの方がずっと青いんだけど。
ぼくは、それ以外に青さを表す言葉を知らない。
あそこを飛んで行けば、ぼくのいた森に帰れるんだろうか。
見たことのある空だと思った。
でも、空はどこまでもずっと繋がってるらしいから、どこで見ても同じ空なのかな。
ぼくが住んでいた森にも、繋がっているはずだ。
ぼくには空の違いなんて、見分けもつかない。
それでもどういうわけか、この空はぼくが知っている空だと思った。
なんだか見覚えのある風景だ、って。
そういえば、ぼくがいた森のすぐそばにも、こんな街があった。
森の連中はどうしているだろう。
よく修行に付き合ってくれていたナゲキは、元気だろうか。
隙を見せると、すぐ投げ飛ばそうとしてくるところ以外は、いい奴だった。
もし森に戻ったら……。
チョロネコはミィと短かく鳴いて、蹲まった。
つまり、ぼくが勝った。
――チャコちゃん! やーん、ひどーい!
甲高い声を上げながら、チョロネコのトレーナーがチョロネコに駆け寄った。
――ごめんねチャコちゃん! ポケモンセンター行こ!
――ミャー……
トレーナーの女は、眉を寄せてチョロネコを抱きかかえた。
ぐったりしているチョロネコを撫でると、チョロネコはか細い鳴き声を出した。
……。
何をしてるんだろう、ぼくは。
なんで、こんなことしてるんだろう。
楽しくも、嬉しくもない。
全然、楽しくない。
いつもなら、すぐにボールに戻される。
いつもなら、それでおわりだ。
だと思ったけど……。
――ねぇ、これから食事でも行かない?
ほら、また始まった。
ぼくは、ぼくの頭の上で言葉を投げ掛け合うニンゲンたちを見上げる。
――ポケモンバトルでは俺が勝ったけど、キミのチョロネコ……チャコちゃん、かわいいね
――へえ、***ちゃんっていうんだ!
――そこに、雰囲気のいいカフェがあるじゃない?
ニンゲンが、ニンゲンの女と話し始めた。
ニンゲンはにやにや笑っている。
女の方は、少し困ったような顔をしている。
でも、ぼくは知っていた。
女は困ったような顔をしてるけど、本当は嬉しがってる。
二人が話していることは、ほとんど理解できた。
どういう『つもり』で話をしているのかも、なんとなくわかる。
ぼくのトレーナーは、相手のトレーナーを食事に連れて行こうとしていた。
あのニンゲンは、自分の気に入ったニンゲンの女と話をするのが好きだったんだ。
ときどき、そうやって話をした女と、その日はずっといることもある。
夜になってポケモンセンターに泊まるときも、ずっと二人の話し声が聞こえる。
相手がぼくじゃないからだと思うけど、ニンゲンはすごく……不気味なくらい優しい声で話していた。
女の方もだいたい、薄気味悪いくねくねした声で返事をする。
ぼくが眠くなってきた頃、二人で何かしている音も聞いたことがある。
ああ、そうだ。
修行ができないものだから、毎日、夜は眠くなってたんだ。
ボールの中にいるから、そんな音が聞こえる時、ニンゲンが何をしているのかはわからない。
変な音が聞こえたり、ニンゲンと女の気持ち悪い声が聞こえたりした。
何かが軋んでるような音と、ニンゲンたちの声。
何をしているかわからないのに、ものすごく下品で、悪いことをしているのだと思ってた。
さすがに、あまり知りたいと思わなかった。
けっこうよくあることだったから、ニンゲンにとっては楽しいことなのかもしれないけど。
それが、ぼくのあんまり好きじゃない……『別のこと』。
そういうニンゲンだったから、今日も同じだと思う。
女に向かって、一生懸命食い下がっていた。
『食い下がる』っていうのは、諦めないでしつこくすること、だったと思う。
ぼくは、このニンゲンといることに何の意味も持てなくなっていた。
――えー、いいじゃん、お茶だけでも
――じゃあさ、せめてCギアの……
帰ろう。
そう思った瞬間、もう身体は勝手に動いていた。
少し歩いて、それから無意識に走り出す。
振り返ってみてもよかったけど、やめておいた。
怖い声で怒鳴られたり、掴まれたりするかと思ったけど、そうはならなかった。
まだ、ぼくが走り始めたことに気づいてないのかな。
それとも、『そんなこと』は、どうでもいいのかな。
いくら頭の悪いぼくでも、今走っている場所が『森』のそばだということはわかる。
知っているにおい。懐かしい空気。
土のにおい。草のにおい。水のにおい。風のにおい。
これは、ぼくが育った森のにおいだ。
そうだ、この赤い四角い石で出来た建物にも見覚えがあるじゃないか。
赤っぽい石でできた、赤っぽい建物がたくさん並んでいる。
足元には、建物とは違う色の四角い石が並んでいる。
名前は知らないけど、ここはぼくがいた森のすぐそばにあった街だ。
そんなことを考えながらしばらく走ったら、森が見えてきた。
迷わず茂みに飛び込む。
においは確かに、ぼくのいた森だ。
でも、あまり来たことのない場所だ。
早く、見慣れた場所に帰りたい。
いつも鍛えていた場所はどこだろう。
きょろきょろ見回しながら走っていたら、突然頭……おでこにビリッと電気みたいなものが走った。
茂みを越えた時、枝で引っ掻いたらしい。
目のすぐ横に、つう、と何かが伝ってきた。
生温かい。
怪我をしたんだ。
痛いはずなのに、ぜんぜん痛くない。
頭も全身も、血が止まったみたいにじんじん、ぼんやりしてよくわからない。
ふと、見覚えのある木が見えた。
そうだ、あの木の場所から太陽が沈む方へ行けばいいんだ。
そうすれば、いつもひとりで修行していた場所に着く。
懐かしかった。
ここは、ぼくの居場所だったところだ。
何も考えないで、修行をしていた場所。
ぼくは走るのをやめて、少し開けているところに立ち止まった。
最後に山籠もりをした時のまま、誰も足を踏み入れていないみたいだ。
そういえば、いつも雨が降った時とか疲れた時に、休むことにしている場所がある。
枯れて倒れてしまった木の中だったはずだ。
心臓がすごい音を発てている。
ずっと走っていたからかな。
たくさん修行をしたあとの気分に少し似ている。
ちょっと、気持ちいいと思った。
体を思いきり動かして汗をかくのなんて、久しぶりだ。
……あのニンゲンといた時は、修行なんてできなかったから。
うろの中に入って、ぼくはバタッと倒れ込んだ。
そのとたん、おでこがきりきり痛くなった。
さっき、枝でついた傷が今になって痛くなってきたみたいだった。
……痛い。痛いなあ。
うろの入り口の隙間から、さっきの青い空が見えている。
「……ひゅ゛ー……ひゅ゛ー……」
口をあんぐりと開けて、ぜえぜえ息をする。
喉が、ごりごりとした変な音を出している。
口から、鳴り損ねた笛みたいな、自分のいつもの声ともちょっと違う音が漏れる。
喉を鳴らす。
首に力を入れて、喉を動かして、それで声を押し出す。
「……ぁ゛……ぅ゛ぅ……」
これ、誰の声だ。
ぼくの声だ。
「……あ゛あ゛……あ゛ぁ゛ぁぁ……」
「……い゛……ぁ゛ぃ゛……」
口を動かしたら、『あ』が『い』になった。
ニンゲンが話していたような、はっきりした音にはならないけど。
ああ、痛い。
苦しい、痛い、痛い、いたい、いたい。
――い は……いたい の い
頭の中で、誰かの濁声が聞こえたような気がした。
一度も、聞いたことのない声なのに。
「……い、だ……い……」
ぼくは、なんだか無性に眠たくなった。
遅れてきた頭の痛みは、またいつの間にかぼんやりして、よくわからない。
身体がどろどろと溶けて、地面に吸い込まれていくような気分だった。
ぼくは形を失い、自分と誰かの境目も、自分と地面の境目も薄れていった。
ジュプトルは、ダゲキの言動を注意深く見守っていた。
当のダゲキはおぼつかない目つきで、焚き火を見詰めている。
何かを思い出している。
ジュプトルにとっても、『ひょっとしたら』と思ったことがないわけではなかった。
そもそも捨てられたり逃げ出してきたポケモンは、森に居場所などない。
森や森に住むものにとって、よそものは所詮よそものだからだ。
森は、よそものが住むための寝床を用意しない。
森が、よそものに食べさせるためのきのみを実らせることもない。
ましてや『人間と旅をしたポケモン』などのために、存在意義を与えることもない。
あからさまに拒絶することもないが、本当の意味で受け入れることも滅多にない。
“闖入者”として、明確な境界を示される。
運がよければ“来訪者”として、存在が許されることもある。
それでも、“異邦者”であることに変わりはない。
いずれは“邪魔者”として、疎まれ小さくならねばならない。
そんな異物たちを疎まないどころか、あれこれと手を使ってまで交わろうとする。
考えたことがないわけではなかったのに。
なぜ、人間の言葉をよく知っているのか。
考えてみれば、理由は簡単だった。
ジュプトル「……やっぱり おまえも、そうだったのか」
ダゲキ「……うん」
観念したように、ダゲキは項垂れた。
それほどのことなのだろうか、という疑問がミュウツーとジュプトルの脳裏をかすめる。
ダゲキ「ぼくにも トレーナーがいた」
ダゲキ「このもりで うまれて、そとにでて……かえってきた」
ジュプトル「どんなトレーナーだった?」
ダゲキ「あんまり……いいニンゲンじゃなかった」
ジュプトル「そっか……」
まるで溜息のような声が出た。
どういう気持ちで今の言葉を受け止めているのか、ジュプトル自身よくわからない。
森のポケモンでありながら、他の森のポケモンの白い目を浴びてなお、よそものを助ける理由。
なあんだ。
こいつも、俺と同じだったのか。
何も、違わない。
……なあんだ。
ジュプトル「それ、しってるの だれ?」
ダゲキ「ふたりと……あと、ヨノワール」
ミュウツー『……』
ジュプトル「ふーん……」
ジュプトル「……あいつも、しってるのか」
少し悔しかった。
自分が毛嫌いするヨノワールでさえ、知っていたというのに。
この森に来たばかりのミュウツーでさえ、聞かされていたというのに。
ジュプトルたちの話を黙って聞いていたミュウツーが、不意に口を開いた。
ミュウツー『他の連中に、黙っているのは不思議ではない』
ミュウツー『なぜ、こいつにまで黙っていた?』
ダゲキ「……うん……」
ミュウツー『親しくなるために、秘密を明かすことで距離を縮めようとするのは、理解できる』
ダゲキ「……」
ミュウツー『ましてやお前たちふたりならば、同じような境遇を共有することになるのだ』
ミュウツー『利点こそあれど、それを上回るデメリットは、私には思いつかない』
ミュウツー『なぜ黙っていたのか、私には合点が行かない』
ミュウツーは無意識に堅苦しい言葉遣いになっていた。
責める意図があるわけではない。
ただ、思考しながらその考えを垂れ流しているだけだった。
そのために、その場にいる『ふたり』に合わせた語彙ではなくなりつつあったが。
それでもおおむね、ミュウツーの言いたいことは伝わっていた。
ダゲキ「い……いえなかった……」
ダゲキ「しられたく なかった」
いたずらを厳しく咎められている人間の子供のように、ダゲキは怯えた声を出した。
弱々しい声音で発せられた『言えなかった』という答えに嘘はないのだろう。
少なくとも、声を聞いたふたりはそう感じていた。
言葉に表れてない部分に、ふたりとも敢えて触れるようなことはしない。
そこに本当の意志が隠れていることを、それぞれに理解はしていたが。
ミュウツー『ならばなぜ、私には言った?』
ダゲキ「……」
ジュプトルはダゲキに、横目で視線を送る。
少なくともダゲキの方は、その一瞥に非難がこめられていると感じたようだった。
それを見ていたミュウツーが呆れたように溜息をつく。
ミュウツー(こんな程度のことで、ずいぶん落ち着きを失うのだな)
ジュプトルの視線にも言葉にも、実のところ非難の色はない。
しかし、受け取る方に含むところがあれば、話は別だった。
ジュプトル「……なーんだ、おれだけ なかまはずれかぁ」
ダゲキ「そ、そんなことない」
ダゲキ「ないよ……」
自分でも自信を失いつつあるのか、ダゲキの言葉尻がかすれた。
ダゲキは助けを求めるような眼差しをジュプトルに、そしてミュウツーに投げかける。
だが、ミュウツーは寄越された視線をはたき落とすように目を閉じ、これ見よがしに肩を竦めた。
ミュウツー『さあ、どうだかなァ』
ダゲキ「えっ……」
ミュウツーは少しおどけた身振りをしてみせ、ちらっとジュプトルに視線を送る。
するとジュプトルもその意図を受け取った。
いたずらっこのようにやはり目を細め、アイコンタクトを交わす。
ダゲキはふたりに挟まれて困っていた。
ミュウツー『そんな重要なことを黙っていたとは、油断も隙もない』
ジュプトル「そうだなー おしえてくれないなんて、ひどいや」
ダゲキ「……」
ミュウツー『なんとも、友達甲斐のない奴だ』
ジュプトル「ウン。ミソコナッタよ ダゲキ」
ダゲキ「……ご……ごめん……」
ミュウツー『……』
ジュプトル「……」
ジュプトル「……ぶっ」
ミュウツー『……やれやれ』
ダゲキ「……?」
堪えきれなくなったジュプトルが吹き出し、ミュウツーも肩を竦める。
ダゲキはそんなふたりを、呆気に取られた様子で見ていた。
ジュプトル「おいおい、ほんきに すんな」
ダゲキ「えっ……あ」
ミュウツー『……まったく、友達甲斐がない上に、からかい甲斐もないとはな』
何が起きているのかわからないとでも言いたげに、ダゲキは目を瞬かせた。
ジュプトルはすっかり呆れた顔で、さらさらと頭部の葉を揺らして笑う。
ジュプトル「あのなぁ……おれと こいつが、ほんきで あんなこというとおもうのか?」
ジュプトル「おれは、さあ」
ダゲキ「?」
ジュプトル「……おれ、おまえが どっちでも、べつに よかったよ」
ダゲキ「ごめん」
ミュウツー『私から見ればダゲキ、お前が秘密にしたがったことは、秘密にするほどではないもののように思うのだ』
ミュウツー『特に、似たような境遇のジュプトルにとっては』
ジュプトル「そんなに、きにしなくても いいのに」
ダゲキ「……わからない」
ダゲキは俯いて首を横に振った。
ダゲキ「……でも、はじめに いえなかった」
ダゲキ「だから、あとから いったら」
ジュプトル「なかよく できなくなるって、おもったのか?」
ダゲキ「……」
ミュウツー『……』
ジュプトル「おれ、さ」
ジュプトル「うまれた ときから、ニンゲンのところにいたし」
ジュプトル「あんまり……たたかったこと ないから」
ジュプトル「おまえが、なんで いいたくなかったか よくわかんない」
ジュプトル「……みーちゃんは どうよ」
ミュウツー『み……い、いや……私にも、よくわからない』
ミュウツー『ここに来る少し前まで……私も外の世界など知らなかった』
ジュプトル「だよなあ」
ジュプトル「なあ、ダゲキ」
ダゲキ「なに」
ジュプトル「おまえ いいなぁ」
ダゲキ「……?」
ジュプトル「だってさあ、おまえ うまれたときは……だれのポケモンでも なかったんだろ」
ああ、違う。
自分は友人に向かって、そんなことが言いたいんじゃない。
いや、全く違うわけでもないけど、そうじゃない。
どう言ったらいいのかわからない。
自分の中に言葉が足りない。
もやもやとして、はっきり形を持てないこの気持ちを、どう言葉にしたらいいのか。
誰かの所有物ではない時期があったことを言いたいわけではなかった。
何かに所属しない、自分が自分である、という……それだけの……。
ジュプトル「な、なんていうのかな……」
ジュプトル「うまく、いえないや」
ミュウツー『……お前が言いたいことは、わかるぞ』
ジュプトル「そう? でも、なんだか……もやもやするな、これ」
ダゲキ「その きもちは、ぼくにも わかる」
手に持っていた枝を、ジュプトルがぽいと放り投げた。
いらだちと、ぐるぐると定まらない思考も投げ捨てて口を開いた。
ジュプトル「……おれ ほんとは どんなポケモンなんだろ」
ぽつりとそう漏らした。
それが、今のジュプトルに出来る最大限の表現だった。
まさに言いたいことではないものの、一番本質に近い気持ちだとジュプトル自身も思う。
頭の葉は控えめに靡いている。
ミュウツー『ニンゲンといた間に、知ることはできなかったか』
ジュプトル「ぜーんぜん……うーん、どうだったかなぁ」
そう言いながら焚き火を放り出し、ジュプトルは腕を組んで考え始めた。
昔の記憶を呼び起こしているのだろう。
その脳裏には、どんな風景が広がっているのだろうか。
『私』が見たことのない、あの景色。
……見たことのない、まぶたの裏の、あの……世界……?
それは……『私』が、この世界に生まれる前の記憶だ。
ふと、頑丈な袋に開いた小さな穴から水が流れ出るように、記憶の中の人間の言葉が漏れ出した。
――『ミュウツー』?
――それが、私の名か
――そうだ、お前は『ミュウツー』
――我々が生み出した、最強にして最高のポケモンだ
――生み出した?
――命を生み出すことができるのは、神だ
――ならば、貴様は神なのか
――いいや
――生命を生み出すことができるのは、神だけではない
――生命を創り出す秘技、それを持つのは神と……
ジュプトル「おれの トレーナー、おれを バトルで、つかわねーんだ」
ジュプトル「うまれてから あのニンゲンのとこ いくまでは、たのしかったのになあ」
ジュプトル「あ、そうだ」
ジュプトル「なあ、ふたりは……いちばん さいしょの こと……おぼえてる?」
ミュウツー『……なんだ、突然』
ダゲキ「え? うまれたときの こと?」
ジュプトル「うん」
ジュプトルから突然振られた話題に、ミュウツーは少なからず焦った。
考えていることが漏れてしまったのだろうか。
それも考えたが、誰もその記憶に触れないところを見ると、どうやら単なる偶然だったようだ。
ジュプトル「うーんと……おれは、さ」
ジュプトル「さいしょに すっごく、まぶしいところに いてさ」
ジュプトル「それで、おおきな『かげ』が いっぱいみえた」
ダゲキ「かげ?」
ジュプトル「ニンゲンのかげ……だったと おもうよ」
ジュプトル「あとは……『かこい』がある はらっぱ みたいなところにいた」
ミュウツー『囲いのある原っぱ……牧場のような場所だな、おそらく』
ジュプトル「そうなのかな?」
ジュプトル「……で、はらっぱには、おれとおなじ キモリが いっぱいいた」
想像を巡らせる。
覗き込む影たち。
囲いのある原っぱ。
同じ種類のポケモンが集められている。
ミュウツー『それは……ニンゲンがポケモンを育てる施設……ということなのだろう』
ジュプトル「そうなの? いつのまにか ふえたり、いなくなったり、よくわからなかった」
ジュプトル「ああ、でもたぶん そうだな」
ジュプトル「わりと、たのしかったよ」
ジュプトル「それで、ボールにいれられて、ニンゲンにつれてかれた」
ジュプトル「……みんな、どうしてるんだろうな、って」
草の上にごろりと横になり、ジュプトルは呟いた。
ジュプトルにも、当然ミュウツーやダゲキにも疑問の答えは予想がついている。
生まれた時から人間に育てられたポケモンたちは十中八九、トレーナーたちに与えられるものだからだ。
自力でポケモンを捕まえる手段を持たないトレーナーたちに。
すなわち、生まれて初めてポケモンを手にするトレーナーたちに。
少しでも人間に関わる機会があれば、いつのまにか知ってしまうたぐいの知識である。
ミュウツー『そいつらの行く末は……あまり、考えない方がいいだろうな』
そうなってしまえば、与えられる道は限られる。
よいトレーナーに出会い、よい扱いを受けてトレーナーと共に生きるか。
悪質なトレーナーに出会い、あのコマタナのような扱いを受けるか。
どこかに押し込まれ、存在すら思い出されないままになるか。
ポケモンバトルという、ある種の晴れ舞台に上がることもなく。
あるいは、捨てられるか。
ジュプトル「うん……それも、そうだな」
どの未来を歩むことが、はたしてポケモンにとって幸せなのだろうか。
もっとも、人間と関わってしまった以上、大した違いはないのかもしれない。
ジュプトル「で ダゲキ、おまえは?」
ジュプトル「もう かくすような ヒミツなんて ないだろ」
ジュプトル「ついでに おしえろよ」
ダゲキは彼自身が考え込んでいるとき、よくそうしているように首をかしげた。
返事をまとめているようだった。
ダゲキ「え、ええと……」
ジュプトル「ダゲキは、このもりの ポケモンじゃん」
ダゲキ「うん……」
少し、引っ掛かりのある返答だった。
だがそれに気づいていないのか、ジュプトルは特に気にする様子もなく話を続けた。
ジュプトル「もりのなか なら、ほかの ダゲキとか、いただろ?」
ダゲキ「ううん……」
ダゲキ「おなじポケモンは……いなかった」
ダゲキ「……ほんとは いたかもしれないけど」
ミュウツー『どういう意味だ?』
ダゲキ「ぼくが……うまれたときは、きに ハトーボーがたくさん、とまってた」
ジュプトル「ハトーボーが?」
ミュウツー『それで?』
ダゲキ「すごく、じっと みられてて……こわかった」
ジュプトル「……そ、それで?」
ダゲキ「たべられそうになった」
ジュプトル「……えっ」
ミュウツー『……おいおい……』
ミュウツーもジュプトルも、思わずダゲキの顔をまじまじと見る。
ダゲキの方はいつもと同じで、涼しい顔をしていた。
表情というものが欠如している。
特徴的な、人間でいう眉にあたる部分もほとんど動かない。
ジュプトルもミュウツーも、彼の感情の動きを顔から読み取ることは諦めている。
もっとも、話し振りやしぐさで心の動きはわかるようになっていた。
ダゲキ「つつかれて……いたかったな」
ミュウツー『確かに、それは痛いのだろうが……』
ジュプトル「おっかねえこと いうなよ……」
ミュウツー『それで、どうした』
ダゲキ「いそいで、にげたよ」
ミュウツー『それだけか』
ダゲキ「うん」
ダゲキ「……たぶん、ぼくが さいしょにみたのは、たまごのから……だったとおもう」
ダゲキ「じめんに、たくさん われてて、でももう だれもいなかった」
ダゲキ「ひょっとしたら ぼく、きょうだいとか いたのかな」
ジュプトル「ふうん……」
ダゲキのその言葉を聞き、ジュプトルはパッと目を見開いた。
ジュプトル「あっ、じゃあ おれは、なんにんきょうだい だったんだろ」
ジュプトル「おれよりさきに うまれてたやつ、みーんな きょうだいだったりして」
ミュウツー『……貴様やダゲキが山ほどいても、私には見分けがつかんぞ』
思わず、ミュウツーはげんなりした口調で呟く。
ジュプトル「ひでえなあ……だいいち、おまえはどうなんだよ」
ダゲキ「そうだな」
ダゲキ「ぼくも ジュプトルも、いったもんな」
ダゲキ「きみだけ いわなかったら、『ヒキョウ』じゃないか」
ダゲキ「あ、『ヒキョウ』ってことばの、つかいかた、あってるかな」
ミュウツー『……そういう時は、どちらかといえば「不公平」の方を使うものだ』
ダゲキ「そう……なのか」
ミュウツー『第一、お前たちふたりが言ったからといって、私まで言わねばならん道理はないぞ』
ジュプトル「あっ いいたくなかったら、いわなくて いいんだぜ」
ジュプトル「おれだって、ちゃんと いったの、きょうだけ だし!」
ダゲキ「うん、ぼくも はじめてきいた」
ミュウツー『む……いや、別に言いたくない……わけではないのだが』
ジュプトル「おぼえてないのか?」
ミュウツー『ううむ……いや、そうでもない』
ダゲキ「むりは、しなくていいけど」
口ではそう言っていても、興味はあるのだろう。
ミュウツーはふたりから強い好奇心を感じた。
風変わりな、聴衆を惹きつけるような出自を語らなければならないのだろうか。
話を創作する気はない。
ただ、見たことも聞いたこともないだろう話を、正直に受け取ってもらえるのか。
自分の生まれ方は、どのくらい奇異なのだろうか。
それが少しだけ、心配だった。
しばらく考え、それからミュウツーは軽く首を振った。
ミュウツー『いや、無理をしているわけではない』
ミュウツー『……ある程度は憶えているし、思い出せる』
ミュウツー『話すことに抵抗があるわけでもない』
ミュウツー『私は、ガラスの筒の中にいた』
ジュプトル「ガラスって……ニンゲンのいえの、まど?」
ミュウツー『ああ……うむ、あれの、もっと分厚いやつだ。それで、そこの木くらいの太さだったか』
ミュウツー『中は液体で満たされていて、私はその中に浮いていた』
ふたりが、ミュウツーの指し示した立木を見た。
見たこともないはずのガラス筒が、ふたりの中ではどのように想像されているのだろうか。
ミュウツー『カントーという土地に、ある研究所があった』
ミュウツー『そこでは、私のような存在をいくつも生み出していたのだ』
ミュウツー『私のガラスの筒以外にも、似たようなものがいくつもあって……』
ミュウツー『その中にも、誰かが浮いていた』
ダゲキ「どんなものかなあ。よくわからない」
ミュウツー『……だろうな』
ジュプトル「オタマロの“す”、みたいな やつかな」
ダゲキ「あー」
ミュウツー『私は、むしろそっちの方がわからん……』
ジュプトル「あ、そう」
不思議な気分だった。
『普通』の、どうということのないごく普通の話をしているような心持ちだった。
積極的に語ろうと思ったことなどない、自らの生まれを話すことになってしまったというのに。
どう贔屓目に見ても、尋常な由来ではない。
それなのに……。
ミュウツー『私は、その筒の中で……ずっと眠っていた』
ミュウツー『私にとっての卵の殻は、その筒だった』
――私は、まだ……この世界に生まれてすらいない
ミュウツー『貴様が言っていた“はらっぱ”も』
ミュウツー『私にとっては、その筒がそうだった』
――ここに、ただ存在しているだけだ
――ずっとずっと、眠ったまま
――深い深い、眠りの中で
ダゲキ「……どうして、そんな ガラスのなかに いたんだ?」
『どうして』?
そういえば、どうしてだろう?
ふと、脳裏を誰かが通り過ぎた。
薄く短い体毛に、何かのまばゆい光が反射した。
あの光は、太陽の輝きだ。
『私』が見たことのない景色を、自由に飛んで行く、小さな、小さな姿。
――記憶にない、この世界を
――私は、あの誰かが飛び立っていった あの世界を
ミュウツー『どうして……か』
ミュウツー『私にもわからない』
ダゲキ「そうか……」
ミュウツー『その……いろいろあって、そこから飛び出した。あまり、いい思い出はない』
『いろいろ』という言葉に全てを集約させる。
思い出せない部分も、思い出したくない部分もまとめて。
ミュウツー『初めに逃げ込んだ場所には、いつの間にかニンゲンが来るようになってしまった』
ミュウツー『それが鬱陶しくて、な』
ミュウツー『……お前たちと比べて、特に面白いものでもなかっただろう?』
自嘲しながらふたりを見た。
面白いか否かで言えば、自分にとっては極めて面白くない話だ。
思い出せる部分、話してもいいと思える部分は特に。
ジュプトル「そんなこと、ないだろ」
ジュプトル「いままで きいたこともないぞ、おまえみたいの!」
ミュウツー『そ、そうか』
ジュプトル「それで、その……なんだっけ」
ジュプトル「カントーってトコから、ここまで とんできたんだろ?」
ダゲキ「あの、うみ とか……の、むこうからか」
ミュウツー『海……ああ、海は越えたな。夜だったから、よくは見えなかったが』
ダゲキ「……いいなあ」
ジュプトル「なんか、おまえ すごいな!」
ジュプトル「……あ、ごめん」
ミュウツー『いや、いい。別に気にしていない』
ダゲキ「はなしてくれて ありがとう」
ジュプトル「うん。やっぱり おまえ、いいやつだよ」
ミュウツー『……そう……だろうか』
ジュプトル「うん、いいやつ……ふぁー」
大きなあくびをしながら、ジュプトルは身体を伸ばした。
それを見て、ダゲキも眠たそうな目をする。
ミュウツーもつられてあくびを噛み殺した。
ダゲキ「やっぱり しゃべるの、つかれる」
ジュプトル「うん……もう ねむいや」
ミュウツー『ただでさえ、今日はいろいろあった。無理もない』
ジュプトル「もう、ねようかなー」
ミュウツー『私もそろそろ眠ろう』
ダゲキ「じゃあ ぼくは……」
ミュウツー『修行か』
ジュプトル「『シュギョー』だろ」
ダゲキ「……えっ……うん」
ダゲキ「なんで、わかったの」
ジュプトル「おまえだもんな」
ミュウツー『お前だからな』
ダゲキ「そ、そう……」
ミュウツー『やれやれ……まったく、本当にからかい甲斐のない奴だ』
ジュプトル「……あっ、たきび、おわりそう」
いつの間にか、ジュプトルのつついていた焚き火が終わりかけていた。
さきほどまでは顔に温かさを感じていたというのに、今ではそれがまったく存在しなかった。
森に来てからというもの、ミュウツーは焚き火の炎が気に入っていた。
近づけば温かく、離れれば温かくない。
当然といえば当然の物理現象が、やけに嬉しかった。
ちらちら揺れる炎の動きも実に興味深い。
ミュウツー『もう終わってしまうのか』
その焚き火が終わりつつあることが、少し残念だった。
ダゲキ「でも、つきがあるから、きょうは あかるい」
ミュウツー『月……?』
――あれ、は、なあに?
――あれはね、おつきさま
――お、つ、き、さ、ま……
――とっても、きれいでしょ
――うん、とっても、あかるい、きれい
――よるのあいだ、おひさまは、ねむってしまうでしょう?
――だから、まっくらに ならないように
――ひとりぼっちじゃ ないんだよって、おそらで、ピカピカしてくれるの
――ぴか、ぴか?
――そう、ピカ、ピカ
ミュウツー(……空で、月が、ピカピカ……)
ミュウツー『月は好きだ』
ダゲキ「……そう」
ジュプトル「おひさまのほうが、あったかいぜ」
ミュウツー『だが、月の光は優しい』
ミュウツーは、懐かしそうに空を見上げた。
つられて、ジュプトルやダゲキも空に目を向ける。
太陽のように、暖かく力強い光を放つわけではない。
だが月は、ひんやりとして穏やかな風のような光を、森に向けて静かに注いでいた。
それから間もなく、ミュウツーはふたりと別れた。
まるで月明かりそのもののような、涼しい風を受けて空を見上げる。
お互いの日々の時間を共有することは多いが、一緒に生活しているわけではない。
ダゲキは修行へ行くというし、ジュプトルも夜は眠らないと調子が出ないという。
なぜだか、妙に嬉しかった。
そうして共に過ごす時間と、そうでない時間を当たり前に認め合えることが。
ミュウツー(ああ、そういえば私たちは、結局きのみを食べそこねてしまった)
腹は当然減っていたが、今から何かを食べる気にはならなかった。
顔を洗った川で水を飲み、敢えて歩いて寝床にしている木のところまで戻る。
ミュウツーは、うろのある高い木のてっぺんに近いところまで浮かび上がった。
そう太くない枝に、体重はかけずに足を載せる。
木々に遮られることがないため、ここまで上がれば月明かりが眩しい。
地面からこれだけ離れても、月の大きさはあまり変わらなかった。
ミュウツーは、月がどこにあるどんなものなのか知らない。
ただ、空に浮かぶ丸いなにかであることしか知らない。
月のことを教えてくれた、どうやっても思い出せない誰かは、もうここにはいない。
それでも、なんとか心安らかに生きていけそうな気がする。
ミュウツーは、希望を抱いた。
それから間もなく、ジュプトルはふたりと別れた。
ぺたぺたと音をさせて、ジュプトルは森の中を進む。
木々の間から月明かりが注ぎ、茂る葉の薄いところが夜だけ浮かび上がる道しるべのように見えた。
いいことと、悪いことの重なった日だった、と回顧する。
ダゲキやミュウツーと、今までしたことのなかった話をたくさんできたことは、嬉しい。
だけど、それ以上にヨノワールが許せなかった。
神出鬼没で、ああして目の前で消えられてしまっては自分に打つ手はない。
自分では少なくとも、奴にはハハコモリや“アイツ”の死の責任があると思っている。
とはいえ冤罪である可能性があることに、意図的に目を瞑ってきたことも事実だった。
それでも、真実を突き詰めれば、拠り所を失ってしまいそうで、怖い。
ヨノワールを憎むことで自分の心を安定させているなんてことは、誰にも言えない。
仲良くしていても、自分の中のどろどろした部分を晒すつもりはなかった……けど。
思わず、背中に流れ落ちる月の光を振り返る。
あのふたりはどちらも、口裏を合わせたかのようにハハコモリやヨノワールの話をしなかった。
ジュプトル(ふたりになら、はなしても いいかもな)
話してもなお、友人でいてくれるかもしれない。
それっぽい笑い方じゃなくて、心から笑っていられるかもしれない。
ジュプトルは、希望に満ちていた。
それから間もなく、ダゲキはふたりと別れた。
肩を落として、月明かりの差す森の中を歩く。
道が行き着く先は、いつも修行に使っている場所だった。
あの日、ニンゲンから逃げて辿り着いた場所。
あの時は、ただ『帰りたい』とひたすら走っていただけで、他には何も考えていなかった。
同じ道を歩いているけれど、あの頃と今では色んなことが違う。
一歩一歩踏み出す足に覆い被さる、気持ちが違った。
なんだか、ほんの少しだけ心の中がすっきりしている。
あんなことがあったあとだけど、ふたりとたくさん話をして、楽しかった。
ひょっとしたら、今まで誰とも作れなかった関係を、作れるかもしれない。
ニンゲンを捨てたにせよ、ニンゲンに捨てられたにせよ、自分たちはそれぞれの境遇がある。
同じような心の傷を不用意に共有すれば、そこだけを“かなめ”に繋がる関係になってしまう。
それがどうしても嫌だった。
境遇を慰め合い、傷を舐め合うだけじゃなくて、『そうじゃない』、もっと真っ当な関係。
ダゲキ(……ぼくの きもちを、ふつうの ことのように わらってくれた)
ふたりとは、友達になれるかもしれない。
ここに至る前のことなんか、関係ないと言ってくれるかもしれない。
ダゲキは、希望にすがった。
あれから間もなく、ヨノワールは別の場所に姿を現した。
森のずっと、奥の奥の方、思索の原のほど近く。
森に住むポケモンさえ、あまり近づかない深い場所。
刺すような月明かりを浴びて、逃げるように深夜の木陰に潜り込む。
ずるずると腰を降ろし、大きな両手で頭を抱える。
頭の中で反響する誰かの声を、それでも自分の中に入らせまいとするように。
暗く寂しい洞窟でニンゲンに捕まり、そのままニンゲンのポケモンとして過ごした。
ニンゲンと過ごすうち、彼らの言葉を憶えた……だからなのだろうか。
忘れてしまった。
忘れてしまった……言葉を憶えて、忘れてしまった。
自分に課せられた本当の役割と、心を蝕むこの声との付き合い方を。
今は聞こえないけれど、いつまた聞こえてくるかもしれない。
誰かの命が終わる鐘、教えてやれとそやす声。
それが、お前の使命だと告げる……電波。
ヨノワール(それをつたえて……しあわせに、なれるのだろうか)
それでもいつか、思い出すことができるかもしれない。
誰かが近く死ぬことを、どうしてあの声が教えてくれるのか。
そうして自分が掬い上げた魂を、どうしてやればよかったのか。
ヨノワールは、希望を捨てられない。
私はその時、とても緊張していた。
なにせ、レンジャーになって初めての任務らしい任務だったからだ。
普段は事務所で書類の整理をしたり、定期的なパトロールをしたりするばかりだった。
要請がかかれば誰かしら出動はするものの、新人に任せてもらえるような都合のいい任務はなかなか来ない。
来たとしても、スピアーが人家の近くに巣を作って騒音が凄い、とか。
あるいは、ミミロルが畑の回りに穴を掘って年寄りが転んだ、とか。
そんな任務さえ、なかなか私のところへはやって来ない。
ドラマのように上手くはいかないものだ。
あの日だって、私は机の上のモンスターボールをぼーっと眺めては雑務をこなし、電話番までしていた。
そんな時、どこかの現場へ出ていたはずの上司から連絡が入った。
電話口で上司はこう言う。
――人手が足りない。動ける奴を何人か寄越してくれ
その言葉を聞いて、私の心は躍った。
これこそ、ようやく巡ってきた『レンジャーらしい仕事』だ。
多少うわずった声で返事をし、電話を切って居合せた先輩たちに話を伝えた。
結局、先輩と私を含む数名が出動することになった。
私は思わず、浮き足立った。
人手が足りないというのなら、ポケモンの大量発生で何か問題が起きているとか、そういう話に違いなかった。
詳細は向こうに到着してから説明する、と上司は言っていた。
まあ……夢に描いていたような、華々しい任務にはならないかもしれない。
それでも、同期が駆り出された『民家の軒下でサンドが掘った穴を埋めてまわる任務』に比べれば、栄えある初陣になりそうだった。
経験を積んでいるはずの先輩は、やや緊張した面持ちを見せている。
すっかり浮かれていた私は、それを些細なこととして気にも留めなかった。
先輩「お前さぁ、のぼせるんじゃないよ」
無意識に、顔が笑ってしまっていたのだろうか。
明るい声でそう先輩が釘を刺してきた。
淡々と身支度を進める先輩に指摘されて、私は慌てて真顔に戻る。
レンジャー「は、いや、そんな……」
先輩「……そういえば初任務か」
先輩「勢いづくのもいいけど、吐くなよ」
レンジャー「は……はい!」
大量発生の対応で、吐くほど大変な作業があるのだろうか。
そりゃあ、大量発生したポケモンを全部捕まえろ、なんて言われたら……。
それはそれで、吐いてもおかしくないかもしれないけど。
……でも私の認識は、正直言って甘かったのだと思う。
到着した『現場』は、何の変哲もない雑居ビルのように見えた。
あまり目つきのよくない男たち……たまに女も混ざっていたが、それが制服の警察官に引っ張られてビルを出て行く。
手錠をかけられているのだろう、彼らの手元は一様に覆い隠されていた。
一部の男女は、思いがけず上等そうな装いをしている。
キャバクラのように、派手なだけの服装ではない。
なんというか、地味なのだが実はえらく高価なスーツ……といった印象だった。
少し待つと、連行される人間はすっかりいなくなった。
上司が何も言わずに頷き、私たちレンジャーは入れ替わりにビルへと進入する。
階段に、満足な照明はない。
今となっては旧式の蛍光灯が、ひどい音をさせながら腐った色合いの光を瞬かせている。
あまりそこに意識を向けていると、気持ち悪くなってしまいそうだった。
私はごくりと喉を鳴らし、埃だらけの足元を見つめることにした。
かつんかつんと音を響かせて、手入れの行き届いていない階段を降りていく。
この期に及んでそこかしこに警察官が立っているのが目についた。
もう連れ出す人間はいないはずなのに。
第一、いまだに物々しい、この妙な雰囲気はなんなのだろう。
『物々しい』というのは、少し違うかもしれない。
警察官たちはみな一様に、沈痛な表情を見せている。
彼らは犯罪と犯罪者に対処するのが職務だ。
その彼らが、なぜこんな顔をするのだろう。
いい加減、大量発生の対応ではないことくらい、私にも理解できていた。
たしか、行き着いた先は地下二階くらいだっただろうか。
いずれにせよ、階段はそこで終わっていた。
重厚で、階段の古臭さとは不釣り合いな扉が眼前に鎮座している。
扉を潜る。
そこには少しばかり畏まったクラブのような空間が広がっていた。
クラブと違うのは、広々とした部屋の一辺に分厚いガラス板をはめこんだ吹き抜けがある点だ。
いや……ガラスで区切られている以上、吹き抜けとはいえないかもしれない。
もう一階分、あるいは二階分ほど下の階層があって、そこにある部屋をこの階から覗けるようになっている。
そういう作りだった。
分厚いガラスの周囲には、高級そうな椅子とテーブルが何組も並べられている。
簡易なボックス席になっているところもある。
……これは、何かを『観覧』するための設備だ。
上司「ひでえもんだな」
誰に言うともなく、上司が呟いた。
何がどう『ひどい』のか、私にもおおむね察しがついた。
ガラスの横を通り過ぎながら、中をちらっと覗く。
何も、誰もいない。
壁も床も無愛想なコンクリートが剥き出しで、ありていに言えば『何か』で汚れている。
金持ちが高見の見物を決め込む、ガラス製のコロシアムといった印象を受けた。
先頭に立つ上司に促されるまま、コの字型に奥へ進む。
『立入禁止』の文字が掲げられた扉が、バーカウンターの横にあった。
元々照明は雰囲気優先でよく見えないのだが、それにしても空気が暗く息苦しかった。
空調の調子が悪いのかもしれない。
扉の前に制服の警察官が立っていて、私の上司を認めると何も言わないうちに誰かを呼びに行った。
やって来た責任者と思しき人物とこちらの上司が、何か言葉を交わしている。
どちらも深刻そうな顔をしていた。
簡単に敬礼を交わし、警察の責任者は今降りてきた私たちと交代に、階段を上がって行った。
扉を背に、上司がこちらに向き直る。
上司「さて、仕事だ。初任務の奴もいるようだが……おい、話はどこまで聞いている?」
レンジャー「えっ……あ、あの……」
いきなり尋ねられて、私は思わずどもった。
レンジャー「ポ、ポケモンの保護、としか……」
上司「そうか。それはある意味でもっとも本質的だ。ではそのままの認識でいい」
レンジャー「???」
上司「まあ……ここに来るまでに説明できなくてすまない」
レンジャー「いえ、なんだか……なんとなく察しはついてます」
先輩「……あ、そうか。ちゃんと説明してなかったか」
上司「……」
上司「非合法団体がポケモンを『虐待』していたことがわかった」
上司「人間の方は既に大半を引っ捕えてあるが、ポケモンの保護は警察ではなく我々の管轄だ」
レンジャー「虐……待……」
ぞっとすると同時に、私は心のどこかで熱狂していた。
大量発生絡みの、地道で地味な任務ではなかったからだ。
これぞ、私が思い描いていた『華々しい初陣』に相応しい事案だ。
もちろんこれだけで箔がつくとも、兄を越えられるとも思わないが。
上司「この先に保護対象がいる」
上司「我々の任務は、虐待されたポケモンの保護及び施設への収容、その後の諸々だ」
上司「やっと『落ち着いた』ところらしいから、極力刺激しないように気をつけるんだ」
それでも、レンジャーとしての経歴に堂々と書き加えることは出来るだろう。
だが私の認識は、実に甘かったのだ。
そこで目にしたのは、夥しい数の傷ついたポケモンたちだった。
ただ『傷ついた』に留まらない。
目や手足をはじめとして、身体のどこかに著しい欠損を生じているもの。
目立つ欠損こそないものの、目を覆いたくなるほど傷だらけのもの。
どこを見ているのかわからない目をしながら、自分の腕を齧りつづけるもの。
身じろぎひとつせず、薄暗い檻の中からじっとこちらを見つめるもの。
凶暴な犯罪者だとでも言うように、非常識な量の鎖で繋がれ身動きが取れなくなっているもの。
まるで檻のような小部屋に、それぞれのポケモンが別個に押し込められている。
なんだ、これは……なんなんだ、ここは。
レンジャー「なん……なんですか、これ」
上司「保護対象、だよ」
上司はそれだけ言うと、それ以上は何を尋ねても返事をしなくなった。
私たちは刺激しないよう、そっと歩みを進めていたつもりだ。
それでも、大人数の私たちを見て一部のポケモンが狂ったように騒ぎ始めた。
私は呆然として、斜め前を進む上司の顔を盗み見る。
上司は今まで見たこともない苦々しい顔をしている。
発狂しているポケモンに影響されたのだろうか。
暴れるほどでないものの、どのポケモンもすっかり落ち着きを失っていた。
聞くに耐えない悲鳴じみた鳴き声を上げ、あるいは狭い独房のような個室の奥へ、少しでも私たち人間から離れようとして縮こまる。
濁りきった、汚泥のような目を光らせて、彼らは一様に不信と憎悪と恐怖を露わにしていた。
どれも小型から中型のポケモンばかりで、わざわざボールではなく個室に入れられているのが不思議だった。
……なぜ、ボールに入れておかないんだろう。
どういう目的でここに置いているにせよ、その方が管理も楽だろうに。
入り口に近い『独房』にいるポケモンほど外見上の損傷は少なく、暴れる元気が残っていた。
奥へ進むほど欠損や傷だらけのものが増え、反比例するかのようにおとなしくしている。
そして奥へ行くほど、何かを諦めた目をしていた。
……手を引っ掻かれた傷がひりひりする。
助けようとした相手に暴れられ敵意を向けられるというのは、やっぱり嫌なものだ。
私を引っ掻いたあのマリルは、耳と尻尾が欠けていた。
違う。
外に見える傷は、耳や尾の損傷だけかもしれない。
では、外部から見えない心の傷はどうだ。
触れることのできない心の『損傷』は、形ある尺度で測ることはできない。
別の形で、私たちの眼前に現れる。
簡単にボールに入れてしまえるポケモンもいたが、不用意に近づけば暴れて危険なポケモンもいた。
なんとなくその拒絶の強さこそ、傷だらけの心から滴る流血のように思えた。
正確には一致しないのだろうが。
先輩が自分のモルフォンを出して、暴れるガルーラを眠らせ、保護していた。
その場にいた連中みんなで、手分けして探したのに。
『コロシアム』中のどこを探しても、最後までガルーラの子供を見つけることはできなかった。
どうしてなのか、子供はどこにいったのか、考えたくもない、と先輩は笑いながら言っていた。
この先輩の心から零れる血の量もまた、私に推し量る手段はない。
レンジャー「……デスマッチ、ですか」
上司「文字通りのな。プロレスの方じゃないぞ」
私と上司、それから先輩は、すっかり生き物の気配がなくなった地下を歩きながら話をしていた。
ポケモンたちは、既に全て運び出されている。
あとはこまごまとした仕事を済ませ、引き上げるだけだ。
レンジャー「どうして、そんなこと……」
上司「普通の『戦闘不能』じゃ、満足できない連中がいる」
上司「だから、本当に『死ぬまで』戦わせる、というだけのことだ」
レンジャー「……」
それじゃ、死んじゃうじゃないですか。
あとなんでボールに入れないんですか。
ポケモンって強いじゃないですか……なんでみんな逃げないんですか。
こんなの、逆らえばいいじゃないですか。
嫌だって……やめてくれって。
頭の中を、ぐるぐると様々な疑問が渦巻いた。
そんな私を見て、上司はやれやれという顔をする。
先輩「色々思うところはあるだろうけど、まあ……あとで一緒にカウンセリングセンター行くか」
先輩「たぶん、環境の変化に耐えられなくてここ数日で何匹か脱落すると思うけど」
『脱落』という言葉の影に、もっといやらしい死の匂いが見え隠れしていた。
涼しい顔でそんな言葉を吐く先輩に、私は腹立たしさよりも踏んだ場数の違いを感じた。
慣れてしまえばいいというものではないんだろうけど。
上司「人間と同じだ。急激な変化ってもんが苦手な奴はどこにでもいる」
上司「心身に負った傷に、耐えられないことだってある」
上司「それって『弱い』ってことだと思うか?」
レンジャー「……思わないですよ」
上司が何を答えさせようとしているのか、よくわからなかった。
上司「あいつらは、ある意味取り返しのつかない虐待を受けた」
レンジャー「……?」
上司「わかるか?」
わかってしまいそうだった。
口にしたら、自分がわかっていることを、自分自身が自覚してしまう。
それでも、言葉に出さないといけないことではあった。
レンジャー「ここにいたポケモンは……」
レンジャー「みんな、勝ち残った方」
先輩「つまり、生き残った方、ってことだよね」
上司「自分の意志だったとしても、あるいは人間に命令されて仕方なく、だったとしても」
上司「あそこのポケモンたちは、『ポケモン殺し』をさせられたってことだ」
がつんと殴られたような気分になった。
上司「賢いポケモンほど、そういうことを理解してしまうもんだ」
上司「たとえ自分が生き存えるためには仕方なかったんだとしても」
上司「むしろ、そういう免罪符を与えられるほど、心は蝕まれる」
先輩が笑って私を見た。
笑っている。
先輩「まあ……こんな調子だけど、俺だってショック受けてないわけじゃないんだよ」
上司「最初の出動にしては重かったか」
先輩「いいんじゃないんですか。こいつ、早く現場に出たがってたし」
先輩「華々しい初陣、ってやつにはならなかったかもしれないけど」
見抜かれてたのか。
いや、それとも新人が必ず通る道、というやつなのだろうか。
私はなんだか無性に恥ずかしくなって、下を向く。
情けない思惑がバレていたから、ではない。
人間であることが恥ずかしくなったのだ。
無意識に、ポケットに忍ばせたモンスターボールに触れてしまう。
人間とポケモンの関係って、なんなのだろう。
私と、この小さなボールに押し込められた相棒の関係は、なんなのだろう。
その答えを見つけなければならない。
このボールに入った相棒が、進化してしまうまでに。
先輩「引き取り手、どんくらい見つかるかなあ」
あっけらかんとした声で、先輩が呟いた。
これが、私の初任務だった。
テレビから、アナウンサーの神経質な声が聞こえる。
日誌を書くための音楽がわりだとしても、本当はもう少しマシなものを流したかった。
しかし仕事との関わりを考えると、このニュースを見ないという選択肢は初めからない。
画面が切り替わり、ドキュメンタリー的なよく揺れる映像が流れ始めた。
レンジャーの若者はテーブルに向かい、何かを書きながら耳を傾ける。
ナレーション『この日、我々は……』
ほどなくして、小さなテレビの枠の中に不愉快なものが映った。
それほどショッキングなものではないが、見て楽しいものでもない。
散乱する、独特の模様に覆われた大量の卵の殼。
周囲には湿った草の積み重なる地面、画面の奥には湿度の高そうな樹木が広がっている。
地面との馴染み具合や殼の汚れから考えて、卵の殼はかなり新しいものだと一目でわかった。
テレビ画面を盗み見ながら、そんなことを考えた。
ありがたいことに、その『森』は若いレンジャーのよく知るヤグルマではなさそうだ。
生えている植物も、伺い知れる気候も、ヤグルマとは違う。
レンジャーの若者にとっては、どの風景も全く見覚えがなかった。
カメラが少し引き人物を映すと、ナレーションが淡々とした声で何か説明した。
ナレーション『我々は、彼の普段の業務に同行させてもらうことになった』
画面に映った誰かが、同行する撮影スタッフに向かって目配せした。
オレンジと黒っぽいツートンカラーで統一された、見慣れたユニフォームに身を包んでいる。
ニュースを初めから見ていたわけではないが、どこかの地方のレンジャーに間違いなかった。
レンジャー『……週に一度は、見つかりますね。こういうの』
カメラが撮影しているにも関わらず、テレビの中のレンジャーは険しい表情を取り繕おうともしない。
ぼうっと見ていたつもりだったが、いつの間にか自分まで顔が引き締まった気がした。
レンジャーの男はおもむろにしゃがこみ、そこに落ちている不愉快な何かを調べ始めた。
カメラもまたレンジャーの前方に回り、同じくゆっくりとその不愉快な何かに近づく。
何かが映り、ほんの一呼吸遅れて、テレビの映像に粗いモザイクがかけられた。
レンジャー『他にも、孵化直後に捕食されたらしい食べかすがありますね』
テレビクルー『孵化したのは、何ですか?』
レンジャー『これ全部、ケムッソで間違いないでしょう』
レンジャー『……厄介だなぁ』
テレビクルー『どう厄介なんです?』
レンジャー『いや、どっちに進化しても、この森には……』
映像はそこから数分で終わった。
明るい照明で白っぽく見えるスタジオに、映像が戻る。
見慣れないセットに驚いたのか、コマタナがテレビの前に陣取って画面にかじりついた。
アナウンサー『……この件に関して、ポケモンリーグ理事会イッシュ支部理事長は次のように述べています』
レンジャー「おぉいコマちゃん、テレビ見えないよ」
コマタナ「う゛ぁ……お゛……?」
コマタナは、レンジャーの言葉を難なく理解した。
テレビにくっつきそうなほど近づくのは止め、ちょこんと床に座って画面を見上げる。
ようやく、コマタナはレンジャーやこのログハウスに慣れてくれたようだった。
さっきまでは、何かしら大きな物音がするだけでおどおど怯えを見せていたのだが。
きのみを食べて満腹になったことで、なんとか落ち着いているのが現状である。
レンジャーの若者は、コマタナのこれまでの日々に思いを馳せた。
どういう経緯があったにせよ、今後このコマタナが人間と共に暮らすのは、相当に難しいだろう。
人間がいない世界でなら、この子も穏やかに毎日を重ねていけるのだろうか。
……そうすることでしか、この子や彼の傷は癒えないのだろうか。
人間とポケモンの関係そのものを否定されたような気になった。
レンジャー(……私は、こうやって気を引き締める機会があるだけ、運がいいか)
その後ろ姿を眺め、レンジャーは溜息をついた。
コマタナに気づかれないように、こっそりと。
レンジャー「うん、そう、そう。見えるようになった。ありがとう」
努めて明るい声で礼を言いながら、再びテレビに目を向けた。
いつの間にか、テレビには見たことのない男が映っている。
男にはマイクが向けられ、眩しいフラッシュを焚かれている。
レンジャーは、コーヒーカップに口をつけながらその映像を眺める。
レンジャー(へー……理事長って、こんな顔してたのか)
レンジャー「うん、やっぱりエスプレッソが一番だなぁ」
理事長『……このような行為は、ポケモンと共に生活する全ての人々にとって、許されざる蛮行です。
悪質なブリーダー、無認可の心ない育て屋が跋扈することにより、生命の尊厳はもとより……』
コマタナは、かじりついていたテレビから離れ、レンジャーの元に近づく。
目の前で何かを書きつける様子を見て、コマタナは嬉しそうに飛び跳ねた。
コマタナの両手には、周囲のものを傷つけないよう堅い革製の手袋がはめられている。
それがテーブルに当たり、がたがたと鈍い音をたてた。
見知ったものを意外なところで見てしまい、それで喜んでいるように見える。
コマタナ「イギッ! あ゛ー……ぢゃ!!」
レンジャー「な、なんだよ、そんなに珍しい? 日誌書いてるだけだってば」
コマタナ「ぉ……ぅ゛……?」
レンジャー「あはは、お前ホントかわいいなぁ」
理事長『……遺伝的に能力の高い個体を生み出すために行われる乱獲や無計画な交配と繁殖、
また意に添わない個体や卵の不法な遺棄は、今や社会問題と言っても過言ではありません』
レンジャー「お前のトレーナー……あ、いや」
レンジャー「お前が一緒にいた人間も、こうやって何か書いたりしてたの?」
コマタナ「……ぉぁ……?」
首をかしげるコマタナを見て、レンジャーは再び複雑な気分になった。
身体の表面に残る傷こそ薄れ、内部を蝕む痛みこそ消えているかもしれない。
それでも心ない誰かが、このコマタナを肉体的にも精神的にも痛めつけたことに変わりない。
ただの、人間の勝手な都合で。
コマタナ「お゛ー、あー……」
回復不能なほど、発声器官を傷つけられた痛々しいコマタナの声。
ポケモンセンターの治療が済んでもこの状態ということは、もうこれ以上の改善は見込めまい。
あの場では、ダゲキにああ言ったが。
キリキザンに進化してしまえばまた、身体の構造も変化するから話は別だ。
だがそれは、コマタナという種類の生態を考慮すれば……随分と先の話になるだろう。
このコマタナは、これから相当な期間をこの喉と付き合いながら生きていかなければならない。
たとえコマタナ本人が楽しそうに鳴いていても、どう贔屓目に考えてもひどい声だった。
似たような悲惨な鳴き声を、レンジャーになってすぐの頃に聞いたことがある。
薄暗い、あの雑居ビルの地下深くで。
狂ったように叫ばれ続けていた、耳を覆いたくなる鳴き声。
声もなく鎖に埋もれ、薄暗がりからこちらを見る濁った目。
あの目が今のように力を取り戻すまで、どれほどの時間を費やしたのだろう。
アナウンサー『……森や海岸、里山を始めとした「もともとポケモンが多種生息する場所」を狙って、
不法な遺棄する場合が多い、と理事長は語っています』
レンジャー「……ひどいことするよなぁ」
レンジャー「それ結局、人間の勝手でポケモンを捨ててるってことだもんな」
人間の勝手。
ポケモンたちが、理不尽なまでの苦しい状況に置かれるのは……常に人間のせいだ。
だったら……人間とポケモンは、一緒にいてはいけないのだろうか。
そんなのは寂しすぎる。
一緒にいることで生まれる不幸があるとしても。
同じように、別々の存在が時間を共有することで幸福だって生まれるはずだ。
そうでなければ……そうでなければ、自分の存在意義すら怪しくなる。
何のためにレンジャーという、人間とポケモンを繋ぐ仕事をしているのかわからない。
レンジャー「お前さあ、『もぐり』って意味、わかる?」
コマタナ「……?」
レンジャー「……うん、いいよ、わかんないよなぁ」
レンジャー「こんなこと続けてたら、人間はいつかポケモンに見捨てられちゃうよね」
若いレンジャーは、コマタナにこちらの言葉が通じることを素直に喜びたくなかった。
言葉が十分に通じるということは、『この子』がそれなりの期間を共に過ごしてきたという意味でもある。
『この子』をこんな目に遭わせた、トレーナーの風上にも置けない人間と。
保護施設に収容されたぼろぼろのポケモンたち。
彼らが治療を受け、新たな飼い主に引き取られていく光景を幾度も見てきた。
頃合いを見て、引き取り手のところへ抜き打ち調査を入れる。
全ての引き取り手を調べることは難しいが、それでもおおまかな傾向を調べ、対策を練ることはできる。
肉体的に疲弊したポケモンが多いせいもあって、トレーナーとしてバトルに使うため引き取る人間は少なかった。
子供や孫が巣立ってしまった年寄りの、心の拠り所。
あるいは、小さな子供がいる家庭に加わった、新たな家族。
あるいは、何らかの形で失ってしまった、パートナーの代理。
若いレンジャーが担当した範囲では、おおむね安らかな『余生』を送るものが多かったように思う。
ほら、心ない人間ばかりではないんだ。
だから、人間であることに罪悪感を覚える必要はない。
自分もまた罪深い人間である以上、その希望は捨てたくなかった。
捨てないようにしてきた。
幾度、同じ人間に圧し折られそうになっても。
『いつまでも懐かない』。
『可愛げがない』。
そういって突き返してくる人間も、決していないわけではなかった。
少ないながら、保護される前と大差ない、むしろ劣悪な環境に放り込まれるポケモンもいる。
たちの悪い保護団体の元へ行き着いてしまえば、たちの悪い引き取り手のところへ行く可能性は格段に上がる。
もっとレンジャーや警察の権限、人員、時間があれば精査は可能なのだろう。
だが、現実問題として何ひとつ実現できてない。
人間として悔しいが、何も間に合っていない。
だから、社会的に言えば『仕方がない』のだ。
あのダゲキが人間である自分の前に姿を見せてから、協力関係を結ぶまでずいぶんと時間がかかったこと。
助けを求めて彼が連れてきたポケモンたちが、二度とログハウスを訪れてくれないこと。
先日連れてきた『彼の友達』が、自分には姿すら見せてくれなかったこと。
彼らから一定の信用を得たとはいえ、決して信頼を獲得できているわけではないこと。
何か頼みがあって顔を出す時も必ず謝礼を寄越し、決して人間に借りを作らない姿勢を崩さないこと。
……いつか、一度尋ねたことがあった。
『謝礼を渡すことを考えたのは君か』と。
彼は黙って私を見上げるだけだった。
彼がひとりで決めたのかもしれないし、『よそもの』同士で話し合い決めたのかもしれない。
いずれにせよ、何も答えようとしなかった。
私には、それを拒絶と受け取る以外にない。
レンジャー(思い出してもらえないってのも、寂しいもんだね)
初心を忘れず、本分を失わず、常に持つべき意識を抱き続けるのは容易ではない。
人間だから、ともすればレンジャーとして忘れてはならないことさえ、忘れてしまうかもしれない。
この若いレンジャーが、この森からの異動を拒み続ける理由がそれであった。
彼や森に潜む『人間との繋がりを捨てさせられたポケモンたち』のありさまから、目を逸らさないこと。
アナウンサー『……では、豊富なフィールドワーク経験をお持ちで、ポケモンの生態にもたいへんお詳しい……』
レンジャー(……にしても、ニュースでまでやるなんて、明日は朝刊にでも載るんかな、この話題)
レンジャー(現場の私たちには今更でも、世間は知らないもんなのかも)
レンジャー「人手、もっと配置してくれりゃいいのに」
レンジャー(いや……頭の固い奴が派遣されてきたら、それはそれで困るけどさ)
不良レンジャーを気取るつもりはなかった。
同じレンジャー同士でも『どこまでがレンジャーの仕事なのか』という認識に幅がある、というだけのことである。
テレビからは、専門家と紹介された恰幅のいい男の声が聞こえていた。
柔らかそうな椅子に腰掛け、アナウンサーと話をしている。
アナウンサー『……なるほど、ではどういう意図が考えられますか』
博士『一見、多種多様なポケモンが生息する場所になら、
十数匹ほどの不法な遺棄でもさほど影響がないように思われるかもしれません』
博士『しかし、それは大いなる勘違いというものです』
アナウンサー『はあ……』
博士『考えてもみてください。それぞれが“これくらいなら”とゴミを捨てる。
それが一人や二人ならともかく、百万人が、一億人が同じことをすれば、
それは自然に対するテロリズムとも言える規模になるのですよ』
アナウンサー『な、なるほど』
博士『それに多種多様なポケモンが生息する場所にこそ、複雑で繊細な生態系、
まあいわば、ポケモン同士の住み分けや自治とでも言うのでしょうか。
そういうものがしっかりと形成されている場合が多いのです』
テーブルの片隅には、浅い籠にモンスターボールがいくつか並んでいる。
レンジャーはその中のひとつに手を伸ばした。
中には、長年の相棒であるココロモリが収まっている。
子供のころ、年の離れた兄に協力してもらって初めて手に入れたポケモンだった。
もちろん、捕まえた当時の姿はココロモリではなく、コロモリである。
『将来はココロモリになるから』と、不自然にならないよう家族総出で名前を考えた。
手に入れたその日から片時も離さず、どこへ行くにもポケットに連れていた。
用もないのにボールから出し、抱きかかえて寝ようとしたことさえある。
『羽を痛める』と兄にこっぴどく叱られて、すぐにボールに戻すよう言われてしまった。
その兄はレンジャーになった。
今ではそれなりの地位にいるとかで、末端の自分ではどこに行けば会えるのかもよく知らない。
……ココロモリに進化したのは、自分がレンジャーになってしばらく経った頃だ。
レンジャー試験にパスした時よりも、ずっと嬉しかった。
アナウンサー『……それでは博士、どのような場面を見かけたら、遺棄である可能性を疑えばいいのでしょうか』
博士『そうですね……ポケモンの多くはそれぞれのテリトリーを持ち、おおむねその奥、
何よりも人間や天敵の目には触れない場所で繁殖すると考えられています。また……』
どれも、レンジャーとしての基礎知識を学んでいた頃に聞いたことがある話だった。
懐かしささえ感じる。
だが懐かしさと同時に、優秀な兄と常に比べられていた苦い記憶も蘇る。
最近では、あまり思い出していなかったことばかりだ。
コマタナ「……?」
レンジャー「ココ、出ておいで」
ココロモリ「きゅーっ?」
コマタナ「う゛ぁっ!?」
ボールから飛び出したココロモリはそのまま舞い上がり、ログハウスの梁にぶら下がって毛づくろいを始めた。
ココロモリ「キュイーウ」
レンジャー「大丈夫、おとなしい子だから」
コマタナ「お゛ぁ……お??」
レンジャー「ココ、お前、私と一緒にいて、楽しい?」
ココロモリ「キュ? キュキュイーッ」
ココロモリは毛づくろいを止め、嬉しそうに羽ばたいて好意を伝えた。
ほら、私とこの子の気持ちは、確かに通じている。
はじめの頃は、ねんりきを自分にかけられて引っくり返ったこともあった。
バトルで出した指令を聞いてもらえず、ボイコットされたこともある。
それでも少しずつ、私とココは『仲良く』なって来た。
人間とポケモンの信頼関係とは……いや、誰かと誰かの関係は、そうやって薄い紙を積み重ねていくように培っていくものだ。
……と思う。
レンジャー「……ありがとう」
レンジャー「今まで、ココには本当に世話になってきたなあ」
そうやって築き上げる信頼は、森の野生のポケモンたちとの間でも変わらないはずだ。
だから、レンジャーになったといっても過言ではない。
博士『……つまりですね、先程の映像のように、天敵に狙われやすい場所にゴロゴロ転がってるとか、
そんな状態の卵があったとすれば、その時点で不法遺棄の可能性が極めて高いと、そう考えて差し支えないわけです。
いやむしろ、それ以外の可能性は限りなく低い。
一刻も早く、関係機関への通報をお願いしたい状況ですよ、それは』
博士『もっとも、天敵に食べられて、結局は半数以上が生き延びることもままならない場合も多いでしょうが……。
だからといって、人倫に悖る人間の行為が見過ごされていいわけではないのですよ!』
アナウンサー『な、なるほど、よくわかりました。地域のレンジャー、警察機関、リーグやジム関係者が連携を取り、
早急に対処していかなくてはいけませんね。オダマキ博士、本日はありがとうございました』
アナウンサー『えー、次は明日の大量発生予報です』
テレビの中の男の言葉が熱を帯びていた。
アナウンサーが焦って切り上げたところを見ると、本気で憤っているのかもしれない。
レンジャー「……コマちゃん、もう寝よっか。明日は早起きして、お前の検査だよ」
コマタナ「ぇ゛……ぅー……ぁ゛?」
レンジャー「そう、そう。け・ん・さ」
コマタナ「キヤァーッ!」
ココロモリ「きゅーい」
必死で言葉を真似ようとするコマタナを微笑ましく思いながら、若いレンジャーは書類を片付け始めた。
さすがに、前回のように切羽詰まった状況ではない。
とはいえ明日の朝一番に、シッポウシティに到着しておきたかった。
人員が慢性的に不足している現状、平日の午前中に話が終わっていて欲しかったのである。
レンジャー「よーし、みんなー! 寝るぞ!」
コマタナ「ィア゛ー!」
ココロモリ「キュー」
相棒のココロモリをボールに戻らせ、レンジャーはボールをテーブルの上に戻す。
その中が、相棒にとって快適な世界であることを願うばかりだった。
ありったけのクッションを積み上げてコマタナのベッドを作る。
手袋をさせているから、破かれてしまうということもないだろう。
レンジャー「ほら、お前のベッド」
コマタナ「! ア゛ァー!」
コマタナは奇声を発しながら、クッションの山に飛び込んだ。
手足をばたばたと動かし、ふわふわしたベッドの中で飛び跳ねている。
しばらくするとクッションに頬擦りし、丸まって寝息を立て始めた。
どうやら、即席の寝床は気に入ってもらえたようだ。
レンジャーはほっと息をつき、ベッドに倒れ込む。
ベッドがやけにすっきりしているのは、クッションや枕を全て明け渡してしまったからだった。
その夜、レンジャーの若者は夢を見た。
見覚えのない青年が、見覚えのない場所で、見覚えのない何かを手に持っている。
もちろん兄ではないし、知り合いの誰かでもない。
どちらかといえば、自分と同じくらいの年代に見える。
夢だから、知らない人間が出てきてもおかしくはないのかもしれない。
青年の周囲にも、また別の誰かが何人も立っているような気がした。
けれど夢の中で思うように身体が動かず、そちらを見ることもできない。
もごもごと、くぐもった話し声が聞こえる。
声は確実に聞こえているのに、何を言っているのかはわからない。
夢だからなのかもしれない。
ゼリーの中を泳いでいるような気分だった。
それなのに、突如として何かの鳴き声が響いた。
とても夢の中とは思えない、鮮明な声。
地獄の底から響いているような、心を押し潰す声。
あんな遠吠えを上げる生き物が、この世にいるのか。
その声に反応するかのように、青年がゆっくりとこちらを振り向いた。
青年は、ぞっとするほど冷たい目をしている。
真っ黒な何かが、タールよりもなお黒い雫を滴らせながら青年の足元に迫り――
そこで目が覚めた。
とんでもない『悪夢』だ。
日が出ていれば、おそらく真上に近い場所にあっただろう。
けれども彼らの周囲では音のない、絶え間ない雨が降っている。
雨の粒子は細かく、息を吹きかければ舞い上がりそうなほどに軽かった。
降り始めを知らずにこの光景を見れば、雲や霧の中に入ってしまったのと区別がつかないかもしれない。
青々とした樹木たちも白く霞み、ぼんやりしていた。
それでも空気そのものは乾燥しており、皮膚に触れる霧のような雨粒が心地いい。
水気と植物の甘い香気が綯い交ぜになった瑞々しい匂いも、憂鬱な森の中にあって爽やかさを醸し出していた。
その中をゆっくりと歩く、二つの影がある。
片方は小さい。
もう片方の影も比較で言えばやや大きいという程度で、せいぜいが人間の幼児ほどの背丈しかない。
やや大きい方が、ギィギィと軋むような鳴き声を発した。
ジュプトル『雨、いいなー』
小さな方も、ピィと高い声で返す。
チュリネ『うん、雨、大好き』
傍目には、ふたりの草ポケモンがそれぞれの鳴き声で、さえずり合っているようにしか見えない。
事実ふたりの間に、未熟な人間の言葉を除く共通の言語は存在しなかった。
相手と同じ鳴き声、同じ言語を発することもできない。
生物学的に構造が大きく異なる以上、相手と同じ鳴き声を出すことは極めて難しかった。
とはいえ流石に、相手の鳴き声が言わんとしていることは、なんとなくわかる。
それもこれも、比較的近い種類のポケモン同士だからだった。
あまりに種類の遠いもの同士では通じない。
そもそも発した鳴き声が、相手の聴覚器官に届かないことさえある。
隣り合う土地の、起源の近い外国語同士のようなものであった。
ジュプトル『バシャーモとか、濡れるの好きじゃないんだと』
チュリネ『にーちゃんも、あんまり好きじゃないって』
チュリネ『でも、水浴びは好き……なんだって』
ジュプトル「……」
ジュプトル『お前……ほんと、あいつの話ばっか』
ジュプトルがなかば呆れ顔でそう唸ると、チュリネは驚いたような顔をした。
チュリネ「そう……かなぁ?」
たどたどしい、甲高い声と人間の言葉でそう言った。
ジュプトルは少し面喰らって、それでも気をとりなおし相手に合わせることにする。
どちらの方が込み入った話ができるかと言えば、疑念の余地はなかった。
チュリネはジュプトルの皮肉に対して、人間の言葉を使ってでも言いたいことがある。
意識的ではないにせよ、このふたりの間で人間の言葉を選択するということには、そういう意味があった。
ただ、本来の声の出し方ではないから、人間の言葉での会話は少し疲れる。
ジュプトル「だって、おまえ」
ジュプトル「なんでもかんでも……すぐ、にーちゃん、にーちゃんって」
チュリネ「チュリネ、そんなに いわないもん」
チュリネ「みーちゃんも、イーブイちゃんも、フシデちゃんも、ジュプトルちゃんのことも、いっぱい おはなし してるもん」
ジュプトル「でもさあ、ほんとは ダゲキと、しゃべりたいんだろ?」
チュリネ「……」
自分が言う前に核心を突かれたのか、あるいは言われたくない本心を言われたのか。
何も言わずにぷいと向きを変えてしまう。
チュリネは新しく生え揃った頭頂部の葉を揺らし、歩く速度を少し上げた。
言葉で答えが返ってくることはなかったが、肯定したも同然であった。
ジュプトル(……わっかりやすいなぁ)
人間に連れられたポケモンは、もはや野生のポケモンとは異なった存在となる。
一度も人間と関わったことのない野生のポケモンは、近づこうとすらしない。
『元』人間の所有物であるポケモンを、あからさまに敵視してくるものもいる。
トレーナーが繰り出すポケモンに対して、野生のポケモンたちが『そう』するように。
幸い、この森で出会う連中の中に、後者はほとんどいなかったが。
ジュプトルはダゲキから何度も、そんなふうに扱われるだけの理由というものを説明されていた。
攻撃的に接してくるポケモンがほぼいない理由も含めて。
説明されれば理屈は理解できる気がしたが、いまいち腑に落ちない。
野生の連中に敬遠されるのも仕方ないらしい、という認識が持てた程度だった。
ならばなぜ、親しくしてくれるポケモンが一部とはいえいるのか、それも疑問だった。
彼がよそものに世話を焼いてきたわけは、ひょんなことから知ってしまったが。
だがチュリネは、それともまた異質だった。
ジュプトル「おまえも、へんなやつだよな」
チュリネは全くの野生のポケモンであるにもかかわらず、頻繁に彼らの元に顔を出す。
人間の言葉を憶え、草ポケモンなのに火を恐れなくなった。
ジュプトルが平然と焚き火にあたることができるのと、同じように。
そういう意味では、このチュリネも変わり者である。
だからこそ、他の同じチュリネたちから距離を置かれていた。
チュリネの方も、今は他のチュリネたちと積極的に関わろうとはしない。
なぜここまで『よそもの』といることを求めるのか、ジュプトルにもよくわからなかった。
いや、そんなことはない。
ジュプトルはすぐに自己欺瞞に気づく。
理由は、ある意味どうしようもなく単純で明快だからだ。
彼女は、『よそもの』に寄り添うことを望んでいるわけではない。
『よそもの』と『そうでないもの』の間に立とうとしていた誰かの、傍らにいたいだけだ。
無言で走っていたチュリネが立ち止まり、振り返った。
チュリネ「チュリネ、ね」
ジュプトル「ん?」
チュリネ「チュリネ、にーちゃんと、いっしょがいい」
ジュプトル「ふうん」
ほうら、やっぱり。
おれの思ったとおりだ。
ジュプトル「あんな おもしろくないやつの、どこが いいんだ?」
その言葉に、チュリネがわかりやすく、むっとした。
それもまた予想通りであり、いつもの応酬である。
チュリネ「にーちゃん、おもしろくない ちがう」
ジュプトル「はい、はい」
『あこがれ』を受け止めなければならないのは大変だ、とジュプトルはいつも思う。
子供は真似をしたがり、同じようにやりおおせてみたがる。
無茶をし、無理を通そうとし、足が攣りそうなほど背伸びをする。
そうすれば、一人前として認められるとでも思っている。
今日の『見回り』ひとつとっても、本来ならばジュプトルひとりで出るはずだった。
それなのに、『少しでも早く、ひとりで見回りができるようになりたい』とくっついて来たのがチュリネである。
チュリネの意図に気付いていたのかどうかわからないが、ダゲキも特に止めるそぶりはなかった。
おおげさに反対するほどではなかったから、ジュプトルも受け入れてしまった。
だが正直、めんどくさい。
ジュプトル(……ペンドラーも、めんどくさい って、おもってたのかな)
そうではなかったと思いたい。
そんなのは悲しい。
そんなのは、いやだ。
チュリネ「ねえ、ジュプトルちゃん」
ジュプトル「ん?」
チュリネ「『いっしょ』って、どういう こと?」
ジュプトル「……え?」
ジュプトル「いま じぶんで、いったろ」
チュリネ「……うん」
チュリネ「チュリネ、いっぱい いっぱい おぼえたの」
チュリネ「みんなが おはなし してるの」
チュリネ「いっぱい いっぱい かんがえたの」
チュリネ「でも わからない」
チュリネ「ぜんぜん、いっしょじゃない」
チュリネが少し寂しそうに吐露した。
ジュプトルには、チュリネが何を悩んでいるのかよくわからない。
彼女の目指すところがどこなのか、わからない。
自分の同族と生きることを捨ててなお、したいことなどあるのか。
種族にこれほど隔たりのあるポケモン同士で、彼女がなぜそこまで執着するのか。
こちらは『チュリネ』で、あちらは『ダゲキ』だ。
どうしても理解できなかった。
ジュプトル「しらないよ」
チュリネ「……」
お前はあいつの……あんな奴のどこがいいんだ。
そりゃあ、あいつは悪い奴じゃないけど。
でも気がきかないし、変な奴だし。
……嘘つきだし。
チュリネ「いっぱい がんばったの」
チュリネ「でもね」
チュリネ「にーちゃんと チュリネ、いっぱい ちがう」
チュリネ「みーちゃんも、ジュプトルちゃんも いっぱい ちがうけど……」
わからない。
お前はさ、あいつを仲間だと思ってるかもしれないけど。
あいつはとっくに、森のポケモンじゃないんだ。
お前やおれに、嘘ついてたんだぞ。
ヨノワールや、ミュウツーでさえ、本当のことを知ってたのに。
おれは、知らなかった。
お前も、知らない。
それでも……あんな奴がいいのか?
……なんだよ、おれ。
ただの“いやなやつ”じゃないか。
ジュプトル(……くそっ)
まだ、自分の中で落とし所が見つかっていない。
見つけた“つもり”、納得した“つもり”でしかなかった……のかもしれない。
自分の中のせめぎ合う感情を、コントロールできない。
『騙された』?
『隠さないで教えてくれてもよかったじゃないか』?
ともだち……じゃないか。
だから、なんなんだ。
おれたち、ともだち……なんだろ?
でも、ともだちだからって、なんでも言わなきゃいけないわけじゃない。
ともだちといえども、言いたくないことだってあるかもしれない。
――ねえ、お前が言う『ともだち』って、なーに?
そう、誰かが問いかけてくる。
腹の中に、もやもやとした何かが……別の生き物がいるような気がした。
その生き物は、はらわたのなかにどろどろ渦巻く膿を手に掬い、これみよがしに掲げてみせる。
そしてにやにや笑いながら、うっかり目を向けてしまったジュプトルの顔に押しつけてくる。
――お前は、本当に酷い奴だ
――これまで世話になっておきながら、腹の中ではそんなふうに思っている
――ほら、見てみろよ
――お前があんまり毒づくから、腹の中に……こんなに素敵な膿が溜まってる
つまりは、そういうことなんだ。
頭ではわかってる。
あいつは、別に悪くない。
言いたくなかった気持ちも、十分理解できる。
結局は教えてくれたじゃないか。
黙っていたことを、悪かったとも言ってくれたじゃないか。
だからチュリネに……あんな子供に苛立ちをぶつけても、意味はない。
そりゃ、ただの八つ当たりだ。
悪いのはたぶん、おれなんだ。
それが余計に腹立たしかった。
爽やかに感じていた霧雨も、不快に思える。
――あっちは、やっと秘密を教えてくれたっていうのに
――なのに、お前はどうだ
――こんな醜い秘密を、まだ誰にも言えないで身体の中に溜め込んでるなんて
――本当に、いやな奴
ああ、もう。
気分悪いや。
ジュプトルは自分の足元を見ながら歩き、顔を顰めた。
チュリネ「あー」
唐突に、チュリネが大きな声を出した。
ジュプトル「ん? どうし……」
ジュプトル「あ」
ミュウツー『……お……』
チュリネの声につられて前を見ると、見慣れた生っ白い巨体が佇んでいた。
どこか腰の引けた様子で立ち止まるミュウツー。
驚いた顔をしてこちらを見やり、細く頼りない両腕にきのみを抱えている。
腰が引けているように見えたのは、そのためだった。
チュリネ「みーちゃんだ! わーい!」
呑気な声でチュリネが大喜びしている。
ミュウツー『あ、ああ……』
先日、恐るべきちからの一端を見せつけられてからというもの、ジュプトルはミュウツーに複雑な思いを抱いていた。
友人である限り、頼もしいことは間違いないだろう。
万が一にも敵対するようなことがあれば、あの時以上の恐怖を覚えなければならないかもしれない。
あんな風に怒らせてしまうことさえなければ、敵になることもないはずだが。
けれどもそれ以上に――
ジュプトル(……いいよな、おまえは)
名前のない、汚泥のような気持ちがごぼごぼと湧き出ようとしていた。
その気持ちはチュリネにも、イーブイにも、むろんダゲキに対しても感じている。
人間であれば、この感情に名前をつけているのかもしれない。
でも、自分は人間ではない。
ジュプトル「……こんなとこで、なにしてるんだ?」
ミュウツー『……う、あ、いや……』
チュリネ「みーちゃん、どうして きのみ、もってるの?」
ミュウツー『特に……何というわけではないんだが』
ばつが悪そうに、ミュウツーは抱えたきのみを隠すしぐさをした。
といっても、実際にはほとんど隠せてはいなかったが。
ミュウツー『……な、なんでもない』
ジュプトル「?」
ミュウツーはあちらこちらと目を泳がせ、そわそわしている。
何かを言おうとして、言い出せずにいるようだった。
ミュウツー『……』
図体のでかい友人は、何かを恥ずかしがっていた。
自分よりずっと小柄なふたりに対して、何を引け目に感じるようなことがあるのだろうか。
その中身は知れなかったが、ジュプトルはなんとなく優位に立てている、という確信を持った。
ジュプトル「どうしたんだ?」
ミュウツー『……いや、その……聞きたいことが』
きのみを抱え、もじもじ言いにくそうにしている巨躯。
初めて出会ったころは、もう少し尊大で、傲慢で、自信に満ちた印象を受けていたように思う。
本当に同じ存在なのだろうか。
ジュプトル「なんだ? なんでも、きけよ」
その姿は、ジュプトルにもう一つの仮面を与える。
『自己嫌悪にふさぐ自分』ではなく、『気のいい先輩』の仮面。
そうすることで、腹の中のあの生き物は目を閉じ、口を噤んで眠りにつく。
噤んだはずの口元にはきっと、いやな笑いを浮かべているのだろう。
――また、そうやって騙すんだろ
ジュプトル「おれが しってることなら、おしえてやれるけど」
ミュウツー『……』
チュリネ「みーちゃん、どうしたの?」
ミュウツー『……ハ、ハハコモリの巣があった場所へ行きたい』
ミュウツー『かれこれ二時間ほど探している……』
ミュウツー『……の……だ、が……』
ミュウツー『どうにも辿り着けない上に、寝床へ戻る道もわからなくなった』
ジュプトル「まいごか」
言葉にして聞かされたことで、ミュウツーは衝撃を受けたようだった。
目に見えてしょんぼりと項垂れ、肩を落とした。
ミュウツー『ま……迷子……』
ミュウツー『そうとも……言うかもしれない』
チュリネ「……みーちゃん、『まいご』って、なーに?」
ミュウツー『え……えーとだな……』
ジュプトル「もりにきて、そんなに ながく ないんだし」
ジュプトル「そりゃー、しょーがない」
零れ落ちそうになった仮面を辛うじて拾い上げ、ジュプトルは応える。
森のことなら、こいつに出し抜かれることはない。
向こうも、きっとこちらに一定の敬意を払ってくれる。
なんたってここじゃあ、おれの方が先輩なんだから。
大丈夫。
化けの皮が剥がれることは、ない。
ミュウツーは開き直ったかのように大きく息を吐き、チュリネを見下ろした。
初めて見た頃ミュウツーを覆っていた刺々しい険は、今となっては影を潜めている。
気難しそうな雰囲気こそ残っているものの、それだけの奴ではないことくらいわかっていた。
ミュウツー『「迷子」……とはな』
チュリネ「うん」
ミュウツー『道がわからなくなって、行きたい場所へ行けなくなった奴のことだ』
チュリネ「みーちゃんが、そうなの?」
ミュウツー『……』
ミュウツー『そ……そうだ……』
チュリネ「そっか!」
不思議そうに首を傾げていたチュリネが、突然大きな声を出した。
何かに合点がいったらしく、やけに嬉しそうに飛び跳ね始めた。
チュリネ「みーちゃん、『まいご』なんだね!」
チュリネ「チュリネ、ちゃんと おぼえた! イーブイちゃんにも おしえてあげる!」
ミュウツー『お、おいそれはやめろ! やめてくれ!』
チュリネ「え? どうして?」
ジュプトル「あははは! しょーがねーな」
ミュウツーとチュリネのやりとりを見て、ジュプトルが吹き出した。
仮面は頑丈で、分厚い立派なものになっていく。
この場で演ずるべき役割を全うできるような、不透明で濁った仮面に。
ジュプトル「よし、わかった。つれてって やるよ」
ジュプトル「チュリネも、いいだろ?」
チュリネ「うん! チュリネもいく!」
ジュプトル「これから いく『みまわり』のみちと、そんなに ちがわないから、な」
ミュウツー『感謝する』
ジュプトル「あ? 『カンシャ』?」
ミュウツー『気にするな。礼を言っただけだ』
ジュプトル「あー……、ダゲキが ときどき、いうやつ」
ミュウツー『そうなのか』
ジュプトル「あいつ、ニンゲンのことば、よく しってるからな」
ミュウツー『そうか……?』
ジュプトルは返事をせず、進む先を顎でしゃくって歩き始めた。
チュリネは鼻歌を歌いながら、ミュウツーは黙って、ジュプトルに従った。
ジュプトルは、気分がいい。
チュリネ「チュリネ、みち しってる!」
大きな声を上げ、チュリネは二人を追い越して行く。
ジュプトルはにやにやと笑って、ミュウツーの足を叩いた。
人間同士であれば肩を叩いているところなのだろうが、ジュプトルにとってミュウツーの肩は思いのほか、遠かった。
ミュウツー『なんだ』
ジュプトル「いやー、べつに」
ふと、根本的な疑問が湧き出た。
ジュプトル「……そういえば、なんでハハコモリのところに いきたいんだ?」
ミュウツー『……』
ミュウツー『それは、私にもよくわからない』
ミュウツーが呟く。
心なしか、気弱そうな響きが見え隠れしているような気がした。
ジュプトル「?」
ジュプトル「なんだ、それ」
ミュウツー『さあな』
訳がわからないという顔でジュプトルが聞き返すと、ミュウツーはそっけない返事をよこした。
辛うじて返答はしているものの、ミュウツーの意識は別のところを向いている。
ミュウツー『ただ……最近、とみに思うようになったのだ』
ジュプトル「なにを」
ミュウツー『……』
ミュウツー『あのハハコモリは、なぜ死んだのか』
ジュプトル「……それは……」
ミュウツー『わかっている。お前が言いたいことは』
ジュプトルが見上げると、ミュウツーはかぶりを振った。
ミュウツー『だが、私が言いたいのは……そういうことではない』
ジュプトル「じゃあ、なんだ」
ミュウツー『死が、“なぜ”ハハコモリに訪れたかだ』
ジュプトル「なにが ちがうのか、よくわかんねえ」
ミュウツー『……』
ミュウツー『……お前は、本当にヨノワールが、ハハコモリの命を奪ったと思っているのか』
ジュプトル「ちがう って?」
ジュプトル「そんなはず……ない」
ミュウツー『確証は……いや、なぜそこまで疑う』
ジュプトル「……」
立ち止まる。
それに気づいてミュウツーも立ち止まった。
チュリネもまた、少し進んでから後ろのふたりが立ち止まったことに気づく。
こちらを振り返り、戻ってふたりの会話に交ざったものか決めかねていた。
ジュプトルは下を向き、再び眉間に皺を寄せた。
この心に渦巻いている疑い、憎しみ、そして自他への嫌悪をどう表せばいいのだろうか。
ジュプトル「おまえも……みたんじゃないのか」
ミュウツー『何を?』
ジュプトル「ヨノワールが……なにか……」
ミュウツー『ハハコモリから、何かを取り出したところを……か?』
ジュプトル「うん」
ミュウツー『それなら、私もダゲキも見た』
そうだった。
おれがあの場所に着いた時、向こう側にはもうふたりが来ていた。
ちょうど挟み撃ちにするような感じで、ヨノワールを見ていたはずだ。
ジュプトル「だったら……」
ミュウツー『それだけでは、証拠になるとは思えない』
食い下がるジュプトルを撥ねつけるように、ミュウツーはジュプトルを見た。
ジュプトルはごくりと喉を鳴らす。
ミュウツー『だが……それはあくまで私の視点で考えた、私の理屈だ』
ミュウツー『私は、新参者でしかない』
ミュウツー『私がこの森へ来る以前のことは、お前たちにしかわからない』
ミュウツー『……肝心なのはお前の視点であり、お前の理屈、お前の心情だ』
ジュプトル「……」
それからミュウツーは押し黙った。
視線を泳がせ、考え込むそぶりを見せている。
ジュプトルにも、相手が何かを言うべきか否か迷っていることが理解できた。
はたしてミュウツーは、ゆっくりと言葉を伝え始めた。
ミュウツー『私は、大切な誰かを失う悲しみを知らない』
ミュウツー『……私は、私にとって大切な誰かを失ったことがないからだ』
淡々とした調子で、ミュウツーはそう言った。
厳密に言えば、その発言は事実に反している。
だが、現在のミュウツーにとってはまぎれもない真実であった。
『思い出せないこと』と『存在しなかったこと』を、自分自身で見定めるすべはない。
ミュウツー『だから、お前の気持ちを理解できていないような気がする』
ジュプトルには、ミュウツーの声に『残念がる』響きがあるように思えた。
ミュウツーはジュプトルを残して、再び歩き始めた。
ジュプトル「……」
ジュプトル「そうかな」
ジュプトル「おれ、そう おもわない」
無意識に、その言葉が口を突いて出た。
ミュウツーの背中に声を投げかける。
ジュプトル「もし おまえが、そういう『きもち』……わからないやつなら」
ジュプトル「『あれ』をみて はいたり しない」
ジュプトル「あんなふうに……おこったり、しないと……おもう」
ミュウツー『……そうだと、いいがな』
ジュプトルの口不調法な擁護も、ミュウツーは控えめに否定するだけだった。
ミュウツー『まあ……私のことは、いい』
ミュウツー『問題は、お前の方だ』
ジュプトル「……おれ?」
思わず、ジュプトルは顔を上げた。
チュリネは相変わらず、ずっと先に佇みふたりを待っている。
ミュウツーはきのみを大事そうに抱えたまま振り返り、少し困ったように肩を竦める。
ミュウツー『お前は、あのヨノワールに関することとなると、あまりに感情的だ』
ミュウツー『確かに奴は何か隠している、と私も思う。だが証拠もなければ動機……』
ジュプトル「『ドウキ』?」
ミュウツー『……あ、いや……』
ミュウツー『そうだな……』
ミュウツー『ハハコモリや、お前が言っていた“ペンドラー”とやらは……ヨノワールに恨まれてでもいたのか』
ミュウツー『あるいは……ふたりが、ヨノワールの捕食対象だった』
ジュプトル「『ホショク』?」
ミュウツー『……ああ……餌だ』
ミュウツー『その可能性はあるか?』
ジュプトル「ううん……それは……ない とおもう」
ミュウツー『ならば動機もない、ごく薄い状況証拠しかない……』
ミュウツー『なぜ、そこまで理屈を度外視して疑う』
ミュウツー『お前が奴を嫌っているからだとして、なぜそこまで嫌う』
『なぜ』。
理由なんて、うまく言葉にならない。
ただ、とてつもなく嫌なんだ。
あいつの纏う――
ジュプトル「……におい……っていうのかな」
ミュウツー『匂い?』
ミュウツー『きのみの甘い匂いとか、風の匂いの……匂いのことか?』
ジュプトル「うん」
ミュウツー『……』
目の前のミュウツーは、本気で訝しんでいた。
ミュウツー『匂い、か……』
ミュウツーには、自分が特別、鼻が悪かった認識はない。
これまでヨノワールと対峙して、特段に嗅覚を刺激された覚えもなかった。
記憶の中に、ジュプトルがヨノワールを嫌うほどの『匂い』があったかどうか、必死に思い出す。
だが、それらしい刺激は思い当たらない。
ジュプトル(……そう だろうな)
自分の言葉を受けて首を捻るミュウツーを、ジュプトルは諦めの目で見ている。
誰かに、上手く伝えられるとは思っていなかった。
それでも伝えたい。
ジュプトルは人間の言葉を使って考え、そして少しずつ絞り出した。
ジュプトル「なんていうか……」
ジュプトル「いやな……においがするんだ」
ジュプトル「しんだやつとか、これから しぬ……やつの、におい」
ミュウツー『死の……匂い?』
きっといつも上手くいく。
おれたちの誰かが死ぬなんて、ありえない。
何ひとつ根拠はないのに、おれはそんなふうに信じていられた。
たぶん、何も知らなかったからだ。
……知らないってことは、シアワセだ。
あの頃は、湿気がかなり多い季節だった。
おれなんかニンゲンよりずっと背が低いから、あいつらよりずっと地面が近い。
薄汚れた硬い地面に、びたびたした嫌な雨が降ってて、跳ね返った水滴が気持ち悪かった。
それが嫌で仕方なかった。
空気が臭かった。
ニンゲンも家もたくさん。
綺麗なところが多いんだけど、汚いところは、もっと多い。
ニンゲンが『カイナシティ』と呼ぶここは、そういう街だった。
広くて、ニンゲンがたくさんいて、建物も隠れる場所もたくさんあるところ。
しかも剥き出しで食べ物を売っている、おれたち宿無しにとっては天国みたいな街。
この街に住んでいるニンゲンは、誰も彼も明るかった。
まるで汚いところなんか、最初から無いみたいにニコニコしていた。
でもそれは、ニンゲン同士だけの話。
おれは、いつもと同じようにニンゲンの街の、建物と建物の間を走っていた。
あいつと一緒に。
キモリは立ち並ぶ住居の壁、窓枠、雨樋を飛び移り、何かから逃げていた。
走る合間に何度もちらちら後ろを振り返り、誰も追ってきていないことを確かめる。
少しずつ速度を落とし、すっかり立ち止まった。
キモリ(……)
そこでようやく息をついて一声高く鳴いた。
キモリ「ギーッ」
やや間があって、ゴミ箱の中から返答がある。
ガコッ
サボネア「ガァーゴッ」
すると半開きだった巨大なゴミ箱の蓋が押し開けられ、中から薄汚れたサボネアが顔を見せた。
目をぱちぱちさせて、サボネアもまた周囲を伺っている。
真剣なのはお互い様なのだが、それでも真面目くさって辺りを探るその様子に、キモリは滑稽さといじらしさを感じた。
それでも相棒の元気そうな姿を見て、キモリはホッとしている。
サボネア「……ガガゴッ」
キモリ「ギー」
互いの安全を知ると、キモリはサボネアのいたゴミ箱の中に身を隠した。
ひんやりとしたゴミ箱の壁に背を預け、ふたりは息が落ち着くまでじっとすることにした。
ひょっとすると、追手がまだ諦めていないかもしれないからだ。
ゴミ箱の蓋には、ずいぶんと隙間がある。
蓋は彼らが何かするまでもなく、ぴったり閉まらないほど元から歪んでいた。
隙間から湿気と鈍い光が射し込んでいる。
少しずつ心臓の高鳴りが収まるにつれて、目に見える世界は徐々に広くなった。
色々なものが目に入るようになってくる。
ゴミ箱の内側は、正体のわからないベタベタした汚れで変色していた。
食べ物の包装紙、何かの容器、何だかわからない中身の詰まったビニール袋。
キモリ(……きたねえ)
キモリ(ま……あとで あらえばいいや)
必死で走っている間はきっと、必要のない情報が削ぎ落とされるようになっているのだろう。
ゴミ箱の中がひどい匂いだったことも、やっと気づいた。
とはいえ、かなり安全な場所でもある。
この匂いと汚さを考えれば、ニンゲンだって開けて鼻っ柱を突っ込みたくはないだろう。
どれほどの時間そうしていたのか、ふたりも正確にはわからない。
しばらく息を潜めていても、どうやら誰も追いかけてはこないようだ。
キモリ「ギー……」
キモリは目を細め、してやったりという顔をする。
図体ばかりでかくて馬鹿なニンゲンをまんまと出し抜くのは、いつも気分がよかった。
あいつらはぼーっとしてるから、おれたちが食べ物を盗むのなんて簡単なんだ。
その上、こうやって街中を逃げ回ってみせれば、あっという間に撒ける。
うっすらと照らし出されたゴミ箱の中で、ふたりは安堵の溜息をついて向かい合う。
それぞれに抱えた獲物を見て、互いの戦果をつたなく称え合った。
サボネア「ガガガァ……ギー」
戦利品に埋もれたピンク色のきのみを手に取って、サボネアが嬉しそうに鳴いた。
キモリ「ギュー」
キモリもそれに同意する。
種族こそ、言葉こそ違っていても、それなりに意志の疎通は出来ていた。
ピンク色でつやつやしたきのみは、甘くて美味い。
本心を言ってしまえば、ふたりともこのモモンのみを食べたかった。
これほど美味しそうなモモンのみを見るのも、久しぶりだった。
けれど、ゴミにまみれて笑うふたりの気持ちは一致している。
このきのみはここで食べず、ねぐらに持ち帰ることにした。
別のきのみを齧って取り敢えずの飢えを凌ぎ、ふたりはそう遠くない夕暮れを待った。
夕闇に紛れて、町の路地裏をこそこそと移動した。
時おり、短く鳴いて互いの安全と位置を確認するだけで、必要以上に声は交わさない。
ある場所へ到着すると、どちらともなく歩みを止めた。
サボネアがキョロキョロして、安全を確認している。
警戒しすぎるということはない生活だった。
サボネア「ガァー」
キモリ「キッ」
いつものように、緩んだ側溝の蓋を注意深く持ち上げた。
街を一回りして調べた結果、ここが一番開け閉めが容易なのだった。
しんがりを務めるキモリが最後に周囲を見回し、ガチャンと音をさせて側溝の蓋を閉めた。
地上よりも一段と色濃くなった臭気と湿気をくぐり、サボネアとキモリはすぐに下水の横道へ潜って行く。
サボネア「ガガガ」
楽しそうなサボネアの声が反響する。
モモンのみを、あいつに見せてやるのが楽しみだとサボネアは言っている。
キモリ「ギー」
キモリもまた、あいつは甘いものが好きだからと笑って応じた。
自分の声も同じように反響している。
汚い水の流れるざぶざぶという音と、かすかなふたりの足音だけが下水道に響いている。
ねぐらにしている場所が近づき、キモリは『あいつ』を呼ぶ声を上げる。
キモリ「ギッギー!」
湿り気の多い反響がおさまると、すぐそばの横道から小さな影が姿を見せた。
ハスボー「ガビー」
六本の足を器用に動かし、ハスボーがふたりに這い寄ってくる。
ハスボーは頭の上に大きな皿があるから、自分の背丈より上の世界を見るのは不得手だ。
可能な限り身体を反らせ、帰ってきたキモリとサボネアを見上げて鳴いた。
キモリ「ギッ」
サボネア「ガー」
サボネアが、いきなりモモンのみを取り出した。
ハスボーが見やすいように身を屈め、ニコニコしながら。
それはそれは嬉しそうに、掲げた手にきのみを持って振り回すのだった。
素晴らしい土産物を見せびらかすように。
ハスボー「ガガ、ガビガ!」
見せられたピンク色のきのみに、ハスボーは傍目にもわかりやすく目を輝かせた。
何と言っているかはよくわからなくても、喜んでいるのだけは確実だった。
キモリ「ギ……ギー……」
サボネア「……ガッガッ……」
ハスボー「……?」
キモリが責める口調で声を上げると、サボネアは丸い目を歪めて申し訳なさそうにした。
もう少しくらい、もったいぶってから見せてもよかっただろうに、とキモリは思っている。
ハスボーはそんなキモリの思惑など知らず、喜んできのみに食いついている。
その光景を見ていると、キモリもまあいいかと思ってしまう。
大事な“弟”が、こんなに喜んでくれるんだから。
当然、実際の兄弟関係にあるわけではない。
本当の兄や弟という存在がどういうものなのかも、よくわからない。
けれどもサボネアとキモリにとって、ハスボーは実の弟以上の存在だった。
何ひとつ実体のなかったキモリに、明確な存在意義を与えてくれたからだ。
守らなければならない相手であり、大切にしなければならない弟だ。
サボネアも大事な家族ではあったが、ハスボーとは少し違う。
どちらかといえば対等な立場にあり、守るべきハスボーのために共に奔走する仲間だった。
サボネアはメスだと言っていた。
ならば、少し間の抜けた姉か妹のようなものなのだろうか。
種類が違うから、メスだろうがオスだろうが、キモリにとってはどうでもよかったが。
せっかく驚かそうとしたのに、あっさりきのみを見せてしまったサボネアに腹は立たない。
ハスボーを喜ばせてやりたかった気持ちは、おれと同じだから。
サボネアと共にキモリは、無心にモモンを食べるハスボーの横で残飯を漁った。
キモリはナナシのみを手に取り、変色した部分を削ってから食べ始めた。
少し腐り始めているくらいの方が、むしろ硬い皮が柔らかくなるし、味が落ち着く。
同じナナシを食べるなら、キモリはこのくらいの傷みかけが好きだった。
一方サボネアは、半分くらい駄目になっているリリバのみをニコニコしながら食べていた。
キモリの目から見ても、サボネアは細かい作業ができるとは思えない手をしている。
だが先の方に生えているトゲを上手く使って、傷んでいる部分だけをポロポロと外していた。
……シアワセという言葉は、ニンゲンの口から聞いたことがある。
心が嬉しくて、恐いことがなくて、心配することもない気持ちのことだって言っていた。
確かにそう言われてみれば、『かつて』のおれはシアワセだったんだろう。
『今』のおれも、きっとそうなんだ。
初めて世界を見て、自分以外に同じようなポケモンがたくさんいると知った頃、おれは確かにシアワセだった。
食べることを心配したこともない。
誰かに安全を脅かされていたわけでもない。
周りには、同じポケモンがたくさんいた。
まさにシアワセ、ってやつだったんだろう。
それが『かつて』のおれ。
他のキモリと同じように、トレーナーの手に渡るまでのおれ。
トレーナーのところへ行った時だって、おれはこれからの生活を夢想して、シアワセだった。
でもおれの最初のシアワセは、そこで終わった。
知らないってことは、なんてシアワセなことなんだろう。
ポケモン同士を戦わせる、ということにどんな意味があるのか、おれは知らない。
せめて、もう何度かでも戦わせてもらえれば、わかったのかもしれないけど。
ほら、ニンゲンって、ボールの中でも音が聞こえるって、知らないから。
……つまりニンゲンは、シアワセだ。
あのニンゲンは、おれのことを時々喋っていた。
『使えない』
『役に立たない』
『戦わせても、すぐ落ちる』
そんなことを言っていた。
不思議なもので、最初はよくわからなかったニンゲンの言葉も、少しずつわかるようになった。
だから、どうして自分が使ってもらえないのかも理解できた。
だから……。
だから、おれはずっとボールの中にいた。
眠っているような、起きているような不思議な感じ。
たくさん考えごとができて、それでも外の音や声は、けっこう聞こえる。
ニンゲンが、ポケモン同士を戦わせ始めた。
たぶんキノガッサって言ってたと思う。
ポケモンセンターにまとめて預けられた時とかに、何度か顔を合わせたことがある。
進化する前のキノココだった頃にも、会ったことがあると思う。
キノガッサは間抜けそうな顔のわりに、やけに迫力があって、いかにも戦い慣れてる感じだった。
おれの方がずっと先に、あのニンゲンのところに来たんだけどな。
あのニンゲンはおれのことが気に入らなかったらしくて、全然戦わせてもらえない。
あっちはよく『使われ』てる。
外から、終わったらしい声が聞こえた。
キノガッサが褒められている。
あいつ、勝ったんだな。
……いいな。
使ってもらえて。
戦わせてもらえて。
戦えて、しかも強くて、勝てて。
それってさ、ポケモンがニンゲンに連れられて、一番意味があることだよね。
戦って勝つことで、ニンゲンといる意味がある。
たぶんそう。
他にあるの?
少なくとも、おれは知らない。
じゃあ、おれは?
おれは、なんなの?
戦いに呼ばれることもない。
そばを一緒に歩くこともない。
何もさせてもらえない。
ずっとボールの中。
たまに、餌をもらえるだけ。
でもその回数も、最近は減ってきたような気がする。
そりゃあ、そうだよな。
戦わせたって弱い奴だもの。
そんな奴にやる餌なんてない。
死なない程度にでも、食べさせてもらえるだけいい。
……じゃあ、おれはなんのためにいるの?
なんでここにいるの?
いる意味は、あるの?
いつまでここにいないといけないの?
誰か教えてくれよ。
帰りたい。
あの平和な場所に。
何の心配もない、苦しみも悩みもないあの頃の、あの柵のあるはらっぱ。
でもたぶん、それは無理なんだ。
もう帰れない。
帰る場所はない。
だから――
キモリ(だから……こいつらを まもるのが、おれの……“いみ”だ)
無邪気に喜んでいるふたりを見ながら、おれはそう思った。
あの頃のように、自分が何のためにいるのかわからなくて苦しむことはない。
ニンゲンなんかに、自分の存在の意味を求めるからいけないんだ。
せいぜいあの頃のマイナスを取り戻すために、食べ物でも掻っ攫ってやる。
できれば、もう関わりたくもないけど。
このふたりと、シアワセに、楽しく生きていられればそれでいい。
寝起きする場所が下水道の中だとしても。
食べ物を盗んで石を投げられ、舌を出しながら逃げ回ることになっても。
結局は居場所がバレて、同じ街には長いこと留まれないとしても。
このふたりがいれば、それだってちっとも苦ではない。
サボネア「ギィー?」
ハスボー「ガァ?」
不思議そうな顔で、ふたりがおれを見ている。
おれはふたりに、まるでニンゲンがするみたいに肩を竦めてみせる。
心配することなんか何もない。
恐いと思うものなんて何もいない。
食べ物だって、きっとなんとか手に入る。
だから、おれたちはシアワセだ。
……水が冷たい。
昼前の木漏れ日が眩しい。
ダゲキは仰向けに寝転がって身体を水に浸し、ぼうっとしようとしていた。
ただぼうっとしたいわけではない。
何も考えないようにする、という行為もまた身体を鍛えたあとの日課の一部だった。
必ずしも沐浴をしなければならない、というわけではないのだが。
汗を洗い流すついでに、そんな時間を過ごすのが常になっている。
木の葉が揺れれば、ああ風が吹いたと無意識に考えてしまう。
目に入った何かをきっかけに、昨日までの記憶を呼び起こしてしまう。
森から連れて行かれた時、周囲に満ちていた風の音。
もう思い出すこともない、ずっと前にどこかで嗅いだ不快な金属の匂い。
人間に、物で殴られた時の痛み。
ともだちとたくさん話ができて、嬉しい気持ち。
――ポケモン なのに……なんで たたかわない!
そう罵ってきた時の、ジュプトルの怒りに満ちた目。
何も考えないというのは思いのほか大切で、それでいて難しいものだとダゲキは思う。
『何も考えないように』と考えてしまえば、それもまた目的にそぐわない。
それでは意味がない。
ダゲキ(……きょうは、うまく いかない)
どうにも、風のそよぐ音が気になる。
木の葉の揺れる音が頭に響く。
水の撥ねる音が、誰かのはばたく音が、今日に限ってやけに耳障りだった。
ダゲキ(どうしてかな)
しばらく前の、ハハコモリの一件があったからだろうか。
今までに、ポケモンの死を目の当たりにしたことは何度もあった。
死んでしまったポケモンを同族の元へ送り届けたことも、一度や二度ではない。
生まれて、生きるということは、いずれ死ぬということだ。
たとえ森に在ろうが人と在ろうが、そこに違いはないはずだった。
今回だけ心に引っ掛かる、何かがあったのだろうか。
あの光景を初めて見て、嘔吐してしまったミュウツーがいたから?
今まで言うに言えなかった自分の来歴の一部を、ジュプトルにも明かしたから?
だから、あの夜そのものが印象に残ったのだろうか。
考えれば、どれもそれなりに理屈は通りそうだった。
けれども、どれもしっくりこない。
突如、森全体が息を呑んだように押し黙った。
風は変わらず吹いているのに、葉が身を強張らせている。
水は変わらず流れているのに、水面が息を潜めている。
森の中には無数のポケモンたちが生活しているのに、その誰もが固唾を飲んでいる。
そんな気がした。
誰かが近づいてくる。
はじめは気配だけ。
それから、少しずつ足音が聞こえ始める。
さく、さく、と軽やかな音で草を踏み締め、誰かが歩み寄ってきている。
音の数はやけに多く、テンポも自分と全く違った。
四本足の誰かなのだろう。
水から身体を持ち上げるのが億劫で、ダゲキはそのまま太陽を見上げていた。
来訪者が人間でないのならば、そう神経質になることもない。
ダゲキ(……だれ だろう)
がさっ
『誰か』が、明らかに自分のすぐ近くで立ち止まった。
ダゲキ「……」
?????『こんにちは』
ダゲキ「……?」
ダゲキ「……あ……」
?????『そのままでいいよ。私は話をしに来ただけだから』
耳ではなく、頭の中に響く声。
そういう話の伝え方をする知り合いは、そう多くない。
怒りっぽく、小難しい言い回しばかりするミュウツーか、あるいは――
ダゲキ「にんげんの ことばだと、『ひさしぶり』……って、いうのかな」
?????『さあ……そういう、細かいことはわからない』
?????『そんなに、ニンゲンの言葉を知りたい?』
ダゲキ「……」
頭の上の方、声の主が立っているあたりから言葉が流れているのは確かだった。
それなのに、本当に上から聞こえているかと考えてしまうと、自信がなくなる。
テレパシーを相手にした会話は、慣れるまで時間がかかる。
ミュウツーと話をする時も、多少は感じていたことだが。
頭の中に響くだけで、音が外から振動で伝わっているわけではないからだ。
自分が考えているだけの言葉なのか、誰かの意思が言葉となって頭の中で響いてるのかを判断するのは容易ではない。
慣れてしまいさえすれば、話を聞いて返事をするだけのコミュニケーションにさほど支障はないのだが。
ミュウツーと出会った時、あまり驚かずにすんだのも、彼にとってはこうした話し方が初めてではなかったからである。
人間が使う『離れた所にいる相手と話をする機械』に、少し似ているように思った。
?????『それにしても、君はずいぶん……ニンゲンの言葉を話すのが上手くなったね』
ダゲキ「……ぼく?」
ダゲキは思わず聞き返した。
誰かにそんなことを言われたのは、初めてだった。
ダゲキ「……ともだちに、たくさん おしえてもらった」
?????『……ああ』
?????『ミュウツー……だっけ』
?????『テレパシーに頼らずにこれだけ言葉を話せるポケモンは、そんなにいないと思う』
?????『私の知る限りは、だけど』
?????『それが、いいことか悪いことか……私にはなんとも言えないけどね』
声の主は、棘のある言い回しをしてきた。
かつて『話』をした時も、あの頃の理解力でも受け取ることができるほど、皮肉っぽい言い方を好んだ。
ただ単にこの相手がそういう性格なのか、自分が嫌われているだけなのかは知らない。
話をしに来た、と言っていた。
まさか皮肉を言うためだけに来たわけではないはずだった。
ひょっとすると、嫌味や皮肉ですらないのかもしれないが。
ダゲキ「なにか、あった? きみが でてくるのは……」
?????『気は進まないけど、仕方ないんだ』
?????『必要なら、私だって棲み家から出てくることもあるさ』
ダゲキは首だけを捻って、そこで初めて声の主を見る。
春先に茂る若葉のような色の体毛に、ちらちらと陽が当たっていた。
ほっそりと伸びた四肢と、頭から伸びる二本の角。
これだけ種族が異なっていても、その容姿が殊更に優れたものであることはダゲキにも理解出来た。
その『見目麗しい』四本足のポケモンが、これまた堂々とした出で立ちで森の中に佇んでいる。
『居るべき』まさにその場所に、居るべき存在が居る。
ダゲキの目に映るその風景には、そう思わせるだけの説得力があった。
ダゲキ「……もう、ビリジオンという ポケモンがいるって、しらないやつも いる」
ビリジオン『それならそれで、私は構わない』
ビリジオン『私は別に、この森のボスじゃない』
細い首を大きく反らし、ビリジオンは鼻先を空に向けた。
目を閉じて周囲の匂いを嗅いでいる。
ビリジオン『ずいぶん、よそものも増えたようだ』
ダゲキ「……」
ビリジオン『ああ……君が気に病むことじゃないよ』
ビリジオン『私が気にしていたような懸念は、君だってちゃんと考えていたんだから』
ビリジオン『森に悪影響がないよう、君たち……よそものはよくやっていると思う』
ビリジオン『実際、トラブルらしいことも特にない』
ビリジオン『その努力は評価したい』
しかし美しいポケモンは、自身の言葉に含意あることを隠そうともしていない。
ダゲキ「……でも、ほんとうは いや?」
ビリジオン『そりゃあ、もちろん』
そう応えながら、ビリジオンはダゲキが浸っている水辺に足を踏み入れた。
水しぶきはほとんど上がらず、滑るように数歩進む。
まるで幽霊が浅瀬を歩いているようだった。
ダゲキ「どうして、でてきたの?」
ビリジオンはダゲキを一瞥する。
ダゲキには、その優しげな視線の影に、別のものが潜んでいるように思えてならない。
ビリジオン『とてもよくないことが、起きそうだから』
ビリジオン『それを、起きてしまう前に伝えておこうと思って』
ダゲキ「よくないこと?」
ビリジオン『よくないこと』
念を押すように、ビリジオンは繰り返した。
ビリジオン『どうしてわかるのか、なんてのは聞かないでね』
ビリジオン『言ってしまえば、ただの予感だから』
ビリジオン『君に伝えるのが、一番早いと思って。君も無関係ではないし』
ダゲキ「……?」
ビリジオン『正確には、君ではないけど』
ダゲキ「……??」
ビリジオン『最近、君が助けた奴のことだよ』
ビリジオン『さっきも言った、きみのともだち、「ミュウツー」』
ダゲキ「……どうして?」
ダゲキには、ビリジオンがミュウツーの名を挙げる理由がわからない。
そもそもビリジオンとダゲキの間に、何らかの連絡手段はない。
森でどんな“よそもの”を受け入れようと、報告する義務もない。
ある種の約束を交わして折り合いをつけているだけで、協力関係にあるわけではないからだ。
『ミュウツー』という名前さえ、伝えていなかったはずだ。
ダゲキ「あいつは、なにも……わるいこと しない」
ダゲキ「すぐ おこるけど……」
ダゲキ「もりの じゃまにならないように、ちゃんと かんがえ ら、れ、る」
ビリジオン『君が言うように……ミュウツー本人は、問題ないかもしれない』
ダゲキ「……?」
ビリジオン『ああ、まぁ……場合によっては、本人も危ないと思うけど』
妙だった。
ダゲキたちがこれまで“助けて”きたポケモンは、それなりの数になっていた。
人間に見捨てられたもの、人間に見切りをつけたもの、よそから紛れ込んできただけの野生のもの。
話が通じやすく森にいち早く馴染めたポケモンもいれば、そうでないポケモンもいた。
おとなしい性質のものも、どうしようもなく凶暴だったものもいた。
だがどんなポケモンを受け入れるにしても、ビリジオンが口を出してきたことはなかった。
少なくとも、これまでは。
ダゲキ(……それは、そういう やくそく だから)
ダゲキ(めいわく、かけない……から)
ダゲキ(そのかわり、おいださないって……)
ダゲキからすれば、ミュウツーもまた『よそもの』であるポケモンとしては例外ではない。
むしろ、ミュウツーは外来のポケモンとしては優秀な方だった。
人間の言葉を解し、『話がわかる』。
森から排除されないために、何に気をつけなければならないか理解できる。
にも関わらず、ビリジオンはこうして明確な警告を発してきた。
それも、これほどまでに直接的な形で。
ダゲキが記憶している限り、初めてのことだった。
ダゲキ「……ほかの ポケモンと、ミュウツーは……なにが、ちがう?」
少ない語彙の中、必死で言葉を選びながら尋ねる。
ダゲキはどこか妙な感触を覚えていた。
自分にはわからない、回答を求めるための問いかけをしているはずだ。
そのはずなのに。
目に見えない、言葉にならない『自分たちとミュウツーの違い』を、既に感じ取っていたような気さえする。
『だから爪弾きする』とか、そう考えてしまうような“違い”ではなかったが。
ビリジオン『……君もわかってるでしょ』
そんな葛藤を見透かしているかのように、ビリジオンは言葉を繋いだ。
ビリジオン『とても、違うよ』
ビリジオン『……いや、それは語弊があるかな』
ダゲキ(……『ゴヘイ』……?)
ビリジオン『私から見れば、そのミュウツーも見慣れない“よそ”のポケモンでしかない』
ビリジオン『けれど、ニンゲンはそうは思わない』
ダゲキ「い……いみ わからない」
ビリジオンは口角を吊り上げた。
笑っているというよりは、笑われていると思った。
ビリジオン『君ならわかると思ったけど。まあいいや』
ビリジオン『私が守りたいのはこの森と、この森のポケモンたち』
ビリジオン『いずれ必ず、ミュウツーの存在は森に大いなる厄災を齎すだろう』
ビリジオン『私はそれを防ぎたいし、もし起きてしまったら……禍いは撥ねのけなければならない』
ビリジオン『残念だけど、ミュウツーの存在が原因で、ニンゲンによって森や仲間に危害が加えられることがあれば』
ビリジオン『私はミュウツーを敵と見做すし、君たちも敵として排除しなければならない』
相変わらず、優しい目をしてそう言い放った。
ダゲキ「ぼく……“も”……」
意図のよくわからない言葉を投げつけられ、ダゲキは訝しむ。
返答はない。
ビリジオンは慈愛に溢れたような、さもなくば侮蔑を込めたような不思議な笑顔を浮かべている。
歩み寄る気のない厳然たる溝か、あるいはぶ厚く堅固な壁があるように思えた。
どちらも、そこに敢えて踏み込もうとはしない。
ビリジオンは言いたいことを言うと、細い音をさせて森の奥へと消えていった。
あとに残されたダゲキは、身体を水に浸したまま、今度こそぼうっとしていた。
『ケネン』、『ゴヘイ』、『ヤクサイ』、『イブツ』、『ハイジョ』。
どれも耳に馴染みのない、難しい言葉ばかりだ。
前後の言葉があるから、いい言葉なのか、悪い言葉なのかの推測はできる。
けれど、ちゃんとした意味がわからないのは、なんだかもやもやする。
あとで、ミュウツーに意味を尋いてみよう。
『イブツ』という言葉は、ミュウツーが一度言っていたことがある気がする。
きっと、いつものように意味を教えてくれるはずだ。
それはともかく、いつまでも水浸しになっているわけにはいかない。
ざぶんと音をさせて水から立ち上がる。
すっかり身体が冷えてしまった。
こんなに長い時間、水浴びをするつもりではなかったのに。
風邪をひいては困るから、ひと走りした方がいいかもしれない。
水を吸って重くなった帯を絞る。
だいぶ傷んできたから、本当は新しいのを作りたいと思っている。
見回りもしなくては。
森の外れまで行けば、また人間のポケモンに挑みたがる連中もいるのだろう。
わざわざ出て行って、相手の怪我を治してやる奴もいる。
それが悪いことだとは思わない。
どういうつもりなのか、何がしたいのか、ぼくにとっては理解しがたいだけだ。
……それでも、やると約束したことは、しないと。
ダゲキ「……はぁ」
思わず溜息をつく。
ダゲキは、ビリジオンが去り際に残していった言葉を思い返した。
――ぼくも……“ハイジョ”する?
――そういうことになるね
――だって
――君も、この森のポケモンじゃないでしょ
今までどうして、なんの疑いもなく信じていられたんだろう。
きっと、いつも上手くいくって。
おれたちの誰かが死ぬなんて、そんなことはありえないって。
いつまでも、シアワセに暮らしました。
最後の締めは、そうなるはずだって。
何ひとつ根拠はないのに、そんなふうに信じていられた。
でも、そんなのは……それこそシアワセな思い込みだ。
もっとよく考えてみればよかったんだ。
ニンゲンが好きな『シアワセに くらしました』のそのあとが、どうなるのか。
生き物なんて、簡単に死ぬ。
びっくりするほど簡単に。
そして死に始めてしまったら、もうどうにもならない。
その時、おれはついにそう思った。
やっとのことで思い知った。
おれは、耳が遠くなるほど強く降り続ける雨の音を聞きながら、呆然としていた。
たぶん放心していたのは、ほんの短い時間だけだったと思う。
キモリ(……どうしよう)
キモリ(どうすればいい……)
キモリ(おれは、どう……しなきゃいけない)
キモリ(このままじゃ、しんじゃう)
おれは薄暗い下水道の中で、目の前に蹲まるサボネアを見ながら、そればかり考えていた。
あまり天気のよくない日だった。
たしか、それほど遅い時間じゃないのにべったりと暗くて、なんとなく肌寒く感じていたと思う。
いつもと同じように、おれたちはニンゲンの『イチバ』から食べ物を盗んだ。
いつもと同じように、路地に駆け込もうとした。
途中で二手に別れ、追いかけてくるニンゲンを撒く作戦も、いつも通りだ。
あとちょっとで逃げ切ることができそうだというところ。
おれは少し余裕さえ見せながら、道路を走っていた。
うしろから、怒り狂ったニンゲンの声が、途切れ途切れに聞こえてくる。
――野良ポケ の駆除 終わったんじゃ よ!?
―― まだ なに、うろちょろ る ねーか!
――駆除 にやってん くそが!
何を言ってるのか、さっぱりわからない。
でも、流石に『怒ってるんだろうなぁ』というのは、よくわかる。
それがかえって、誇らしいくらいだった。
ニンゲンを怒らせるってのが、おれにとっての楽しみだった。
曲がりくねった路地にさえ駆け込んでしまえば、隠れる場所に不自由することはない。
たしか路地に入ってすぐの曲がり角なら、上へも下へも逃げ込め――
キモリ(……!?)
おれは思わず呆然とした。
狭い路地には、段ボール箱が山積みになっている。
一瞬、進むのを躊躇するくらいの威圧感があった。
キモリ(……こんなの いつもは……)
いつもは置いてなかったはずの荷物。
その上、どうやら空ではなく中身も詰まっている。
慎重に登れば登れないこともないが、段ボール箱は木箱と違って体重をかけられないから、おれは苦手だった。
これじゃ……こんなところで手間取ってたら、ニンゲンを撒くどころか距離を縮められてしまう。
そうだ……だからだ。
だからおれは、ほんの何メートルかを逆走して、今来た大通りに戻ろうとしたんだ。
もう一つ先の路地に入れば、また隠れる場所はいくらでもあるから。
一瞬の間に、おれは次に隠れられそうな場所をいくつも思い浮かべる。
それだって、ニンゲンとおいかけっこをしながら生きていくのに必要な技術っていうやつだ。
そうしたら、大通りに出ようとした瞬間、いきなりそこに大柄なニンゲンが姿を現した。
デッキブラシとかいう、長い棒を持っている。
おれたちを引っ叩くために使うんだろう。
カァン
凄い音をさせて、ニンゲンはそいつの先端を堅い地面に叩きつけた。
あれで殴られたことがあるわけでもないのに、その音が物凄く神経に障る。
とても嫌な気分になる。
おれは、もう殴りつけられた後みたいにびくりと痙攣した。
男「くそっ、いつもいつも!」
男「よくもウチの商品、毎度毎度パクってくれたな……!」
キモリ「……」
男「ちょこまか逃げやがって……今日という今日は――」
ニンゲンが一歩ずつ足を踏み出しながら、デッキブラシを振り上げた。
……やばい。
逃げないと、このまま殴られる。
一刻も早く走り出さないと、殺される。
なのに、身体が言うことを聞かない。
足が動いてくれない。
真っ黒に聳え立つニンゲンのシルエットを見上げながら、おれは硬直していた。
怖い。
……怖い?
ニンゲンって、そんなに怖い相手だったっけ?
間抜けで、図体ばかり大きくて、簡単に出し抜ける馬鹿……っていうのがニンゲンじゃなかったのか?
じゃあ……どうして、こんなにおれは……。
ひょっとして、おれは今までとんでもないことを、してたんじゃないのか?
たくさんのことをぐるぐると考えた。
ニンゲンを怒らせるって、こういうことだったのか。
おれは、死を覚悟した。
サボネア「ガギーッ」
ドスン
おれが諦めて目を瞑ろうとしたその瞬間、大きなニンゲンの影に、別の小さな影が飛びついた。
聞き覚えのある鳴き声がした。
男「うおっ!?」
サボネア「ゴアー!」
男「痛っ……」
見上げると、サボネアがニンゲンの頭に飛びついていた。
不器用な手でニンゲンの視界を遮りながら、サボネアは逃げろと言っている。
ニンゲンは、自分に何が起きてるのか理解できず、腕を振り回している。
違う。
それは、おれの役割じゃないのか。
おれは、頼りになるリーダーなんだぞ。
だから、助けるのは、おれの……
サボネアが、また何か一声鳴いた。
なんて言ってるかは、流石にわかる。
急かされたんだ。
早く逃げろって。
おれが呆気に取られて、もたもたしていたからだ。
助けられるなんて、守られるなんて癪だけど。
キモリ「ギッ」
お前の意図は理解したと伝え、おれは壁を蹴ってニンゲンの足の間を駆け抜けた。
後ろを振り返らず、そのまま走って大通りを少し進む。
擦り抜けた先の道で、おれは自分がもう安全であることを伝えるべく、走りながら少しだけ首を回した。
男「こ、このやろ……!」
ベキッ
キャベツを叩き割るような、いやな音がした。
キモリ「……!」
おれが振り返ったときはもう、吹き飛ばされたサボネアが視界から消えるところだった。
ニンゲンがデッキブラシを振り回していた。
あれで殴ったんだ。
それから、ニンゲンはサボネアには見向きもせずに、おれ目掛けて走り出した。
何か、罵声を上げながら。
それを見て、おれは慌てて跳んだ。
ゴロゴロと腹の底に響くような、雷が聞こえていたと思う。
必死の思いで、とにかく走った。
やっと見慣れてきた街の中を、ひたすら無我夢中で走り回る。
どこをどう逃げたかなんて、まったく憶えてない。
いつの間にか、ニンゲンの罵声は聞こえなくなっていた。
それでもまだ緊張を解く気になれなくて、おれはいつもよりずっとずっと、ゆっくり速度を落とした。
心臓がばくばく鳴って、頭や目の周りまでガンガン痛む。
……どうやら今度こそ、本当に逃げきれたみたいだ。
キモリ(……サボネアは……?)
今、自分のいるここがどこなのか……は、問題なくわかる。
棲み家を決める時に、逃げるルートを把握する意味も込めて、その街の造りも必ず頭に叩き込むようにしているからだ。
さっき追い詰められ、サボネアが殴り飛ばされた場所までは、そう遠くない。
キモリ(……たすけに いかなきゃ……)
ニンゲンをすっかり撒いた今なら、救出しに行けるはすだった。
結論から言うと、サボネアはあの場所にいなかった。
積み重ねられた段ボール箱は、さっきより崩れている。
何かが叩きつけられたような、妙なへこみも見える。
殴り飛ばされた時に、サボネアがぶつかって崩れたのかもしれない。
おれは、サボネアがどこに行ったのか、手掛かりを探して辺りを見回した。
何かを引き摺ったような、むしろ『痛む身体を引き摺りながら這ったような』汚れが段ボール箱のあちこちについている。
なんとなく、あちら側へ行けばサボネアがいるような気がした。
どうしようか迷っていると、ぽつぽつと雨が降り始めた。
このまま放っておくと、ぐねぐねに濡れてしまった段ボール箱は登るのがとても面倒になる。
向こう側を確かめてみるのなら、もう今しかなかった。
段ボール箱にそっとよじのぼり、崩れないように慎重に、次の取っ掛かりに手をかける。
サボネアも自分と同じように、この段ボール箱を越えたのだろうか。
軽々と飛び降り少し進むと、さっき自分が逃げ込もうとしていた曲がり角が見えた。
いつもと同じようにここに来られれば、どれほどよかっただろう。
せめてこの道がいつもと違って、通れなくなってるとわかっていたら。
そうすれば、少なくともサボネアは殴られずにすんでいたはずだ。
胸が痛くて、頭がおかしくなりそうだった。
具合が悪いわけでもないのに。
頭の中と胸の真ん中へんが、捩じ切られそうなくらい締めつけられている。
なのに、同じくらいの強さで胸の中がちぎれ飛んでしまいそうだ。
おれとあいつと、どっちに落ち度があったわけでもない。
ふたりして力を合わせて餌を探してるんだから、失敗もふたりの失敗だ。
ただおれには、おれが仲間の中で担うべきだと自分自身に定めていた役割がある。
それを全うできなかった。
できなきゃいけなかったのに。
おれのせいだ。
そういう気持ちのことを、『悔しい』とか、『後悔する』というのだと、あとから知った。
地面にも、何かを引き摺ったような跡……に見えそうな汚れがある。
キモリ(……だれか とおった、か……?)
早くあいつを見つけて、無事を確認したかった。
『いや、今日は危なかったな』なんて笑って言いながら、それをハスボーに、武勇伝のように伝える。
獲物は少なかったけど、みんな無事で笑ってられてよかったじゃないか、って。
伝わってるかどうかわからなくても、ハスボーはその話を楽しそうに聞いてくれる。
サボネアも、ちょっと申し訳なさそうにしながら唸っている。
まったく頼りない妹だ。
そこでおれは、わざとらしく溜息をつきながら言うんだ。
明日からはもっと気をつけようぜ、とか、今度は街の反対の方を狙おうぜ、とか。
そういう話をして、また明日から――
ずりずり……カラン
キモリ(……!)
サボネア「……ぎ……ガァ」
さっきよりも少し強くなった雨音に紛れて、音と声が聞こえた。
キモリ「ギーッ!」
走って、角を曲がる。
引っくり返ったゴミ箱がある。
散乱したゴミは生ゴミで、匂いも見た目も酷かった。
その更に向こう……。
容赦ない雨に打たれて、サボネアが横たわっていた。
キモリ「ギギッ……ギィッ!」
サボネア「ゴァー……」
元々、そんなにふっくらしていたわけではない。
それにしても、今のサボネアは殴り飛ばされたおかげで全身がボコボコだった。
ひょっとしたら、おれが知らない間にもっと殴られたり、酷い目に遭わされていたのかもしれない。
おれの声に気づくと、サボネアは辛そうに目を開けておれを見た。
申し訳なさそうな顔をしている。
違う。
申し訳ないとか、悪かったなんていうのは、おれの方が思うべきなんだ。
おれが……。
おれに、なにが出来た?
何も出来なかったじゃないか……。
ニンゲンの役に立つことなんか、もう考えてもいない。
ずっとずっと前に忘れた。
なら、せめて大事な仲間くらいは守れなきゃいけないじゃないか。
なのに、妹を守ることもできない。
ニンゲンを翻弄して、餌を掠め取ることも満足にできない。
あいつとハスボーと揃って、シアワセに生きてくために頑張ろうって思ったんじゃないのか。
シアワセに?
これの、どこが?
サボネア「……ゴブッ……」
おれは、サボネアの妙な鳴き声に気がついた。
びゅうびゅうと、おかしな呼吸をしている。
顔色が……というか、ようすも少しおかしい。
ひょっとしたら、怪我が見た目より酷いのかもしれない。
キモリ(……かくれないと……!)
キモリ「ギーッ、ギギキッ! ギ!」
サボネア「ガゴ……ゴヴォア……ゴッ」
キモリ「ギギ……」
何か伝えようとしてくるのを抑え、おれはサボネアを背負った。
思っていたより、ずっと軽い。
おれが……満腹にしてやれないからだ。
サボネア「ゴゥ……ゴガァ……」
あいつが、か細い声で鳴いたのが聞こえた。
痛々しいくらいの声なのに、楽しそうに話している。
おんぶが嬉しいと言っている。
いつもだったら『重いから、おんぶなんてしたくない』と、おれが突っ撥ねていたからだ。
キモリ「ギィー、グギィ、ギッ!」
サボネア「おご……ア……」
おんぶくらい、いつでもしてやるよ。
なあ……おんぶくらいしてやるから、そんな声出すなって。
……心配になるだろ。
少しずつ、本当に少しずつだけど、あいつが重くなってきたような気がする。
背中から伝わってくる呼吸も、どこかぜえぜえした、ほんのちょっと不規則なものになってきた。
そのことについて、考えてはいけないような気がした。
考えれば考えるほど、意味は深刻なものになってしまうような気がする。
ねぐらまでの距離はそれほどなかったはずなのに、ずいぶんと時間がかかってしまった。
身体が重い。
身動きも自由にならないからと、いつもよりずっと慎重に進んだせいもある。
いつの間にか、背中におぶった妹の呼吸は、ひゅうひゅうと吹き抜ける乾っ風のように変わっていた。
雨は強くなっている。
下水の水嵩も増して、ざぶざぶ流れているから余計にやかましい。
歩ける場所は辛うじて残っている程度で、気をつけないと流れに足を取られてしまいそうだった。
サボネア「……ゴォ……ォ……」
キモリ「ギィ……」
いつも寝起きしているあたりに、サボネアを降ろした。
床は冷たい。
本当は温かいところで、寝かせてやりたい。
けど、おれにはその手段もないし、方法もわからなかった。
炎を操れるポケモンに知り合いもいない。
少し前までは、他にもこの街で野良として路地裏を飛び回るポケモンがいたはずだった。
前は街を走っているとロコンとウソハチのコンビをよく見掛けたけど。
……あれ?
そういえば……最近、見ない。
……まあ、いいや。
あいつらがいないとなると、おれに暖を取る手段はない。
身体をさすってやるくらいはできるだろうけど。
おれは、手近にあった段ボールを掻き集めてサボネアに被せた。
重くないかと聞いてみたけど、返事をするのも辛そうだった。
サボネア「……ゴァ……ゴボッ……」
キモリ「……ギィ……」
サボネアが、たぶんおれに呼びかけた。
おれは、ちゃんとそばにいるよ、と答える。
そうしてやる以外に、おれに何ができるんだろう。
夜中を過ぎた頃、雨は止んだ。
明け方頃には下水の濁流も落ち着いて、周りは静かになった。
自分の心臓の音と、サボネアの不自然な呼吸音だけが浮かび上がって聞こえる。
昼間になって、ゴミ捨て場から濡れていない段ボールと、半分が傷んだきのみを拾ってきた。
段ボールを新しいものに取り替えてサボネアに着せてやる。
きのみの、食べられないところを削って渡した。
あいつはちらっときのみを見て、身体を起こそうとする。
おれは、それを止める。
きのみを小さくちぎって、ちょっとずつ口の中に入れてやった。
指先がべたべたになってしまったが、そんなことはちっとも気にならない。
すっかりきのみを食べきると、サボネアは静かに眠り始めた。
サボネアの身体に触れると、びっくりするほど熱い。
キモリ(どうしよう……まだ こんなに あついなんて)
怪我だけでなくて、病気にもなっているかもしれない。
殴られたから、それがいけなかったのか。
キモリ(こんなとき……ニンゲンの ところなら)
ニンゲンのポケモンならば、ポケモンセンターへ行けばいい。
あそこなら、腕が落ちたとか首が飛んだでもない限り、なんとかなるはずだ。
でも、おれはニンゲンのポケモンじゃない。
こいつも違う。
おれなんかがサボネアを連れてったって、追い返されるだけだ。
野良の泥棒を受け入れてもらえる道理はない。
……あそこの調理場とゴミ捨て場からも、色々盗んだな。
『レストラン』のゴミほど美味しいものはなかなか手に入らないけど、変わったものが多かった。
盗んだ中にシーツの切れ端があって、それをハスボーが――
キモリ(そういえば……)
キモリ(……ハスボーは?)
昨夜戻ってから一度も見ていない。
サボネアのことで頭が一杯だった。
……水嵩が戻るまで、どこかに隠れているのだと思ったけど。
キモリ(……へんだ)
キモリ(あいつ、えさ……とれない、のに)
他の野良がここへやって来たのだろうか?
それなら、それらしい形跡が残っていそうなものだ。
なにごともないなら、とっくに腹をすかせてギィギィ鳴いてないとおかしい。
どうして、姿を見せないんだろう。
キモリ(……)
キモリ「ギィー……?」
呼んでみるが、返事はない。
キモリ(……でも、こいつ おいて、さがす……むり)
サボネア「……フゥ……ゴァ……」
キモリ「ギ?」
腹が減ったのかな。
具合、悪いのかな。
なあ、どうしてほしい?
おれ……どうしたらいい?
ふと、匂いが鼻に触れた。
嗅いだことのない匂い。
食べられなくなったきのみが腐って、もっともっと腐って、すっかり残り滓だけになってしまったあとのような。
ゴミ箱ともちょっと違う、ずっと開けていなかった古い倉庫の中の、隅っこのような。
甘ったるい何かのような。
あまりいい気分になれない匂いだ。
よくない匂いなんだろうか?
頭の中にいる誰かは、この匂いに凄まじい拒絶反応を示している。
けど、どこから匂ってくるのかわからない。
下水道を通って、誰か見慣れない奴がやってきたのだろうか?
でも、いくら待っても誰かが近づいてくる気配はない。
夕方になって、おれはサボネアを残してまた街へ出た。
もう『誰か』が来ることもないと、区切りをつけたのだ。
獲物は、また新しい段ボールを何枚かと、ニンゲンの食べ物。
きのみでもポケモンフードでもないけど、しょうがない。
茶色くてフワフワしてて、真ん丸じゃないけど、小さい雲みたいな形。
焼いたみたいな、嗅ぎ慣れない匂いがする。
すみっこに緑色のカビが生えていたから、そこだけちぎって捨ててみた。
中は茶色くなくて黄色っぽい。
なんていうんだっけ、これ。
ニンゲンがよく食べてるものだ。
パン……だったかな?
わからないけど、どうでもいい。
もう地面も濡れてない。
雨が降ったことなんて、みんなもう忘れてる。
おれやおれの仲間が、ここでニンゲンと追いかけっこしたことも。
おれがニンゲンに捨てられたことも。
おれがニンゲンのところへ来たことも。
おれが、どこかで生まれたことも。
誰も憶えてない。
みんな忘れてる。
誰も思い出さない。
別にそれでもいい。
ニンゲンに、おれのことを憶えててもらう必要なんてない。
他の誰かに憶えててもらう必要もない。
あいつとハスボーは、おぼえてて くれてる。
ふたりと、いっしょに いきていたい。
あいつと ハスボーしか、おれには もう いない から。
でも あのね おれ。
あのね――
獲物を持って帰ってきたおれは、思わず抱えたパンを落とした。
パンはほとんど音をさせずに地面に落ちて、一回だけ跳ねた。
キモリ「……ギ……ギィ?」
サボネアが、出掛けた時と違う場所に蹲っていたからだ。
最初に寝かせた場所より、ずっと出入口に近い場所だった。
前に寝ていた場所からここまで、段ボールが点々と落ちている。
……ここまで這って来たんだ。
さっきもしていた、変な匂いがする。
さっきよりも、ずっと強い。
甘ったるいような、饐えたような、カビ臭いような、嫌な匂い。
これは……やっぱり、不吉な匂いだ。
おれはなんとか落ち着いて、パンを拾い上げた。
這いずりまわるほど腹をすかせているのなら、早く食べさせてやりたかった。
頭の中で、誰かが叫んでいる。
サボネアは目を閉じて眠っている。
ほら、食べもの。
ニンゲンの食べものだけど、けっこうイケるよ。
段ボール、湿っちゃっただろ?
新しいの見つけてきたから、替えよう。
……眠ってるの?
そりゃ、そうだよね。
具合、悪いんだもんな。
怪我も、まだ痛いんだろ?
ゆっくり眠ったらいいよ。
疲れてるもんな。
おれ?
おれは大丈夫だよ。
なんたって、おまえとハスボーを守る、リーダーなんだ。
おまえが起きるまで、おれ、眠らないで見張り、してるからさ。
そのくらい、ぜんぜん平気。
三回太陽が登って、三回太陽が沈んで、全部で五回、夜が来た。
その間に雨が二回降った。
おれはずっと眠らないで、ほとんどを座って過ごした。
おれはリーダーだったから。
サボネアが起きるまで、おれが見張っててやるって、約束したんだもんな。
けど、サボネアは目を開けなかった。
ハスボーも帰って来なかった。
毎日、毎日、毎日、毎日、毎日。
おれは、ちょっとずつ変わっていくサボネアをただ見ていた。
サボネアは少しずつ、サボネアじゃなくなっていった。
変な匂いは、日を追うごとにどんどん強くなった。
そのうち、腐っていく匂いがし始めた。
それでもサボネアは起きないし、おれは眠らなかった。
ハスボーは帰って来ない。
足元に置いたパンは、とっくにカビて真っ黒になっていた。
ぐずぐずのしわくちゃになって、もう食べる気にもなれない。
それでもサボネアは目覚めない。
ハスボーは帰って来ない。
サボネアは、二度と目を覚まさなかった。
ハスボーが帰ってこないことも、おれにはもうわかっていた。
おれは意識が朦朧としていた。
ずっと、起きているのか眠っているのかわからない状態だったと思う。
眠っているのに、目は開けている。
目は開けているのに、頭は動いていない。
ただ座って、じっとしている。
時々、身体のどこかが痛くなるから、その時だけ姿勢を変える。
それに加えて、本当に最低限の運動をする。
それだけだった。
サボネアらしさの減ってしまったあいつを見ている。
おなかがすいた。
このぱんは、こいつのためのものだ。
おれは、たべない。
もう、とてもじゃないけどパンには見えないのに、おれはそう思っていた。
けど、とても、とても、おなかがすいたから――
サボネアが動かなくなってから、四度目に降った雨が、さっき上がった。
凄く爽やかな日射しに照らされて、雨上がりの気分のいい風が吹いている。
おれは、ずいぶん久しぶりに、外に出た。
少しだけ腹がふくれていて、それでも意識はぼんやりしている。
こんなに清々しい朝がやってきたのに。
ハスボーはいない。
サボネアもいない。
おれには、もうなにもない。
なんにもない。
少しだけ食べたもんだから、かえって腹が減った。
そんなことを考えていた。
イチバの賑やかな声が聞こえてきた。
とても久しぶりに思える。
無意識に足が向いていたんだろうか。
そうだ、食べ物を手に入れないと。
今日はひとりでやらないといけないけど、しょうがない。
ひとりでだってニンゲンに捕まることはない。
おれの足と素早い動きがあれば、ニンゲンなんて寝てるヤドンより余裕だ。
あいつらが腹をすかせてるからな。
おれも、腹が減ったよ。
……どうにも、調子が出ない。
きのみをひとつ手にとったところで、もうニンゲンに見つかってしまった。
物凄い怒鳴り声を浴びせられて、おれは目が覚めたように飛び跳ねた。
ああ……そうだ、走って逃げないといけないんだ。
ニンゲンはのろいから、捕まることなんてないけど。
とにかく、走らないと。
前みたいに。
サボネアはどっちに逃げたんだろう?
そうだなあ。
今日は、海が見える方に逃げてみよう。
きっと気分がいいはずだ。
もう少し、気分がよくなれるはずだ。
ハスボーに、いい土産話ができる。
ブゥンだか、ボォンだかよくわからない音がした。
聞き慣れた音だ。
港町から船が出て行く時に鳴らす、笛みたいな音。
船……船、って、海の上を走って、よそへ行くんだよな。
よそ?
違う場所?
ここじゃない場所?
おれのことを、誰も知らない場所?
じゃあ、ここと同じだな。
どこでも同じってことだ。
どこにいても同じ。
ここにいても、これ以上、何かが変わることはたぶんない。
短くなっていくタラップに飛び乗り、おれは船に潜り込んだ。
ニンゲンのために作られている船は隙間が多い。
特に、おれみたいに小さな奴にとっては十分な隙間が。
エンジンの音がゴウンゴウンと響くところに入り込むと、おれはやっと腰を下ろした。
たぶん、ここなら『船を動かす』ニンゲン以外、来ることはない。
次に止まったところで、船を降りよう。
きっと、そこはおれの見たことも、行ったこともない場所だ。
海を越えてどこかへ行くはずなんだから。
どんなところなんだろう。
『盗み』のやりやすいイチバがある街だと、いいな。
さっきだって、きのみひとつを盗むのにずいぶん苦労した。
そう考えながら、盗んだきのみをじっと見つめた。
これは……なんていうんだっけ。
ピンク色のこれは……たしか……そうだ。
モモンだ。
甘くて、うまいんだ。
おれは、これが好きだ。
そうだ。
ハスボーはこれが好きだった。
あの時、必死になって盗んだモモンを、ハスボーのためにふたりで我慢した。
サボネアもおれも、本当はこれが好きなのに。
……。
どれくらい、モモンを食べてなかったかな。
齧ってみると、やっぱり甘い。
最近食べた何かよりも、ずっと美味しい。
キモリ(ああ……)
キモリ(……そうだ……)
サボネアより、モモンのみのほうが、ずっとおいしいかった。
雨はいつのまにか、水滴の見えない霧からパタパタと音のする雨粒に変わっていた。
それでも、ここには誰ひとりとして雨を気にする者などいない。
ミュウツーでさえ、抱えたきのみや自身が濡れていくことを歯牙にもかけていないようだった。
ジュプトルの鼻筋を、ひときわ大きな水滴が滑り落ちていく。
それが、パタンと地面に当たる。
たったひとしずくの落ちる音が、反響する銅鑼の音のように耳に届いた気がした。
実際は降り注ぐ雨粒に紛れ、そんな音は聞こえるはずもなかったのだが。
ジュプトルにとっては、感じ取ることのできる世界がそれほどまでに狭まっていた。
唐突に、口の中に“あれ”の味が甦る。
舌を刺激しない、単純でぼんやりとした味。
仲間だと思っていた――少なくとも、あちらはそう思っていたはずの――あいつの味。
付随して思い出される、青臭さのある味わいのない香り。
“あれ”を頬張ると共に流れ込んできた、下水道の不快な臭い。
そして鼻をつく、忘れようのないあの匂い。
大事な仲間は、美味しくなかった。
ジュプトル「……うっ……」
ジュプトルのささやかな世界は更に狭まり、雨で色味を失いつつあった。
こみあげてくる何かを飲み下し、膝を突き、かろうじて耐える。
彩りに乏しい地面を睨み、暴れる内臓が落ち着くのを待つ。
ジュプトルは努めて平静を保とうとする。
けれども、頭の方は思うように働いてくれない。
おおざっぱに繋げられた鎖を手繰り寄せるように、記憶が繋がっていく。
いつもは思い返すこともない、嫌な思い出までひとつずつ拾い上げてしまう。
シアワセで、何も知らなかった日々。
カイナシティで走り回っていた日々。
そこで味わった、敗北感と後悔。
乗り込んだ船の片隅で蹲まっていた自分。
船が停泊した街。
あの街には、やけに大きくて赤い橋がかかっていた。
カイナシティで降り掛かったような経験をするのは、二度とごめんだった。
心に、埋めようのない大きな穴を開けられてしまった。
たとえ、この森で新たに仲間を得ることが出来ても、満たされることはないような気さえする。
たぶんそれは、失う可能性を知ってしまったからだ。
ほんの些細なきっかけで、誰かのせいで、あっという間に世界が変わってしまう。
だから……あれからずっと、ひとりでやってきた。
誰か仲間を見つけて組めば、食べ物を盗むのだって難しくはない。
苦しい時には、慰め合うこともできる。
楽しい時には、その喜びを分かち合うことだってできる。
でも、もう誰かを仲間にするのは嫌だった。
また、失ってしまうかもしれない。
人間や、人間以外の何かに奪われてしまうかもしれないから。
そうだ。
初めての仲間は、人間に奪われた。
今でも、あの時に響いた鈍い音と、匂いと思いを忘れることはない。
たぶん、死ぬまで忘れることはない。
人間なんかのせいで、あんな思いを……。
――本当に?
ジュプトル(……)
いつもそうだった。
人間のせいで仲間を失った時のことを、考える。
さもなくば、ヨノワールのせいでハハコモリやペンドラーを奪われた、と憎しみを募らせる。
ジュプトルはそんな時、内側から自分をつつく誰かの存在をまざまざと感じていた。
その声は自分を嘲笑い、蔑み、見下し、軽蔑の眼差しを向ける。
自分の中に巣喰う、醜い笑い声を上げる、自分ではない誰か。
あれは……誰だ。
地表に触れては、間髪を入れず消えていく雨水。
小さな水玉を抱え、重そうに堪えている草。
元より背の高い友人たちに、この景色は遠い。
その小さくて広い世界が、いつにも増してジュプトルの視界をいっぱいに占拠していく。
少しでも気を許すと、あの日の友人のように臓物の中身を吐き出してしまいそうだった。
ミュウツー『チュリネ』
ジュプトルをただ見守っていたミュウツーが、不意に彼方のチュリネを仰ぎ見た。
それまで様子を伺うばかりで距離を置いていたチュリネが、突然の声に飛び上がる。
声の主が誰なのか理解すると、小さなポケモンは慌ててふたりに駆け寄った。
チュリネ「みーちゃん、なあに? どうしたの?」
チュリネ「……ジュプトルちゃん、ぐあい わるい なの?」
チュリネ「チュリネ、どうしたら いい?」
チュリネ「にーちゃん、よぶ?」
チュリネ「きのみ、ほしい?」
いつの間にか生え揃った新しい葉は重く揺れ、雨粒を滴らせている。
よくわからない状況の中で、自分には何が出来るのか、チュリネは必死に見出そうとしていた。
初めから探さなくていい立場にあるはずの彼女は、そうやって今もなお居場所を探している。
ジュプトルには、そんな彼女の気持ちが、いまいち理解できない。
ミュウツー『いや、その必要はない』
ミュウツー『……チュリネ』
聳えるような高さから、ミュウツーはチュリネを見下ろした。
ミュウツーはもう一度、チュリネの名前を呼ぶ。
これから真面目な話をする。
名前を呼んだことで、ミュウツーはそれを知らせようとしていた。
荒い息をつきながら、ジュプトルはようやく顔を上げる。
ミュウツー『……私とこいつは、ここで少し休憩することにした』
ジュプトル「……」
チュリネ「きゅーけい?」
そう言いながら、チュリネは真偽を確かめるかのようにジュプトルを見る。
さきほどミュウツーに名前を呼ばれ、これがただの『休憩』ではないことをチュリネも理解していた。
自分が仲間外れにされるのではないか、という不安が彼女の中で首をもたげる。
子供だから、と聞かせてもらえない話なのではないか。
お前にはわからないから、と爪弾きにされてしまおうとしているのではないか。
チュリネは判断しかねたのか、少し困った顔をしている。
ミュウツー『だからお前には、しばらく待っていてほしい』
ミュウツー『これはおそらく、こいつにとって大事なことだ』
『大事』という言葉に反応し、チュリネは再びミュウツーを見上げた。
大事な話に入れてもらえない。
このままでは心から憧れる存在との間に、明確な線が引かれてしまう。
それは彼女にとって、何よりも耐えがたい。
チュリネ「だいじ おはなし?」
チュリネ「チュリネも、だいじ おはなし……だめ?」
ミュウツー『……それは』
ジュプトル「だめ」
強い語気で、ジュプトルがミュウツーの言葉を遮った。
ミュウツーがその言葉に疑問を持つより早く、チュリネが抗議する。
チュリネ「どうして?」
チュリネ「チュリネ、こどもだから たいじ おはなし、だめ?」
やっぱり、とジュプトルはうんざりする。
チュリネはどうしても、『子供』という世界が耐えられないらしい。
彼女の思い描く『おとな』の世界に行けば、望みが叶うと信じている。
いや、信じたいだけなのかもしれない。
彼女にとって、他に道しるべはない。
ジュプトル「『おれの』、だいじな はなし……だから」
チュリネ「……」
チュリネ「……うん、チュリネ わかった」
チュリネ「あっち いいこ してる」
そう言うと、チュリネはふたりに背を向けて歩き始めた。
ジュプトルとミュウツー、ふたりはその背中を目で追う。
ミュウツー『やけに聞き分けがいいな』
ジュプトル「あいつ、『こども』……いわれたく ない」
ジュプトル「だって……あ」
ジュプトルは、すんでのところでその続きを飲み込んだ。
どれほど傍目には明らかだったとしても、これはチュリネの個人的な話だ。
今ここで言っても意味がないばかりか、下手をすれば彼女の尊厳を傷つけることにもなる。
そこまでするほど、おちぶれてはいないつもりだった。
ジュプトル「……でも、ばかじゃ ない」
ミュウツー『そうか』
チュリネは、やはり雨など気にする様子もなく真っ直ぐ歩いていく。
元より彼女やジュプトルなどといった草ポケモン、そして植物にとって、雨は恵みをもたらす存在である。
度を越した豪雨でもない限り、避ける必要さえないはずだ。
にも関わらず、彼女はこうして『しなくていい雨宿り』をしてみせる。
理由は、極めて簡単だ。
彼女は大きな葉の茂る木の根元に辿り着くと、幹に背を預けてちょこんと座った。
やかましい雨音が、ジュプトルの耳を遮る。
その音の壁さえものともせずに、ジュプトルの頭にミュウツーの声が飛び込んできた。
ミュウツー『我々も、雨宿りしようか』
ジュプトル「う……うん」
その実、今となっては雨宿りも何もない。
ふたりとも、とうにずぶ濡れになっている。
さほど気温が低くないことが救いだった。
ミュウツー『そこの木のところでいいな』
返事を待つこともなく、ミュウツーは巨躯を軽々と動かして、目指す場所へさっさと歩き始める。
ジュプトルはその平然と歩く後ろ姿を見て、やけにしっかりした足取りを見て、少し驚く。
二度目にこのポケモンを見た時のことを、ジュプトルは思い出した。
初めてミュウツーを目にしたのは、言うまでもなくこの森に墜落してきた夜のことだ。
その次に目にしたのが、ミュウツーがチュリネに導かれてあの小川にやって来た時だった。
あの頃は、もっとよたよたと歩き慣れない風情ではなかったか?
大した距離を来たわけでもないのに肩で息をし、重い身体を引き摺ってはいなかったか?
身軽で敏捷な自分とは、見るも無惨なまでに大違いだったはずだ。
だが、今はどうだ。
自分のような俊敏さこそないものの、ずっと歩き慣れているといった所作で、危なげなく足を動かしている。
両足を繰り出し、尾でバランスを取り、歩くことがごく当たり前の動作として落ち着いている。
――誰かが、かつては出来なかったことを、ちょっとずつ出来るようになっていく
――その姿を見て、お前は何を思う?
――“あいつばっかり”か?
――前になんて、進む気はないもんな、お前
ジュプトル(……そんなこと……)
頭の中に響く罵倒を振り払い、ジュプトルはげっそりした顔で後を追った。
人間が嫉妬と名付けて疎む泥に足を浸し、劣等感と名付けて避ける雨を浴びている。
ぐるぐると苦しむことが無意味だと、誰よりもわかっている。
それでも、やめられない。
変わりたくても、今まで変われなかった。
バシャーモが羨ましい。
自分の居場所を見つけ、爪弾きのよそものとして自分たちと群れることもなく、生きているからだ。
力を借りたい時は喜んで貸してくれるが、普段は彼なりの交友を持って生きている。
チュリネが羨ましい。
自分の気持ちを衒いなく表に出し、憧れを口にでき、何よりハハコモリから役割を引き継いだからだ。
この森で生まれ、何不自由なく育ち、天真爛漫で、きちんと『森の一員』だ。
ダゲキが羨ましい。
森に住むことになった、よそのポケモンたちに居場所を与える『仕事』を全うしているからだ。
自分の修行も疎かにせず、たくさんものを考え、いつも何かの答えを探している。
ミュウツーが羨ましい。
誰よりも人間のことをよく知り、憎み、誰よりも強大なちからを持っているからだ。
気難しいが聡明で、人間に限らず色んなことを知っているのに、まだ貪欲に学び、知ろうとしている。
ああ……みんな、羨ましい。
自分には、ひとりで生きていく覚悟なんてない。
自分の心を曝け出す勇気もない。
自分や誰かのために、一生懸命になる心意気もない。
新たに学び、前に進むちからさえ、ない。
その『足りなさ』を、是正していく気も持てない。
そんな気力は、あの時に綻び、すっかりこぼれ落ちてしまったから。
だから、変わりたくても、変われなかっただけ。
あんな目に遭ったせいで。
――じぶんじゃない だれかの、せい?
――それ、いつまでやるの?
ミュウツー『大丈夫か』
ジュプトル「う、うん……」
ミュウツー『ちっとも、大丈夫そうに見えないがな』
ジュプトル「じゃあ、きくなよ」
ミュウツー『それもそうだ』
座り込んだミュウツーが神妙な顔で、手に持ったきのみを眺めている。
その中のひとつを手に持ち、ジュプトルに向け差し出しながらこう言うのだった。
ミュウツー『……これはお前にやろう』
ジュプトル「あ?」
ミュウツー『どうやら間違えて、フシデに甘いきのみまで要求してしまったようだ』
ジュプトル「フシデ?」
何を言っているんだと言わんばかりの顔で、ミュウツーがジュプトルを見る。
ミュウツー『お前か、あのチビに頼もうと思ったら、揃って出発したと聞いたからな』
ジュプトル「あ……そうか」
ミュウツー『私は、イアのように酸っぱい方が好きなんだ』
ミュウツー『このモモンは、お前が食べろ』
ジュプトル「……モ、モモン……」
気分が悪い。
けれども、さっきまでの不安定さに比べれば、随分と落ち着いている。
皮肉で返すことができる程度には。
ジュプトル「べつに……あまいの きらいじゃ、ないだろ」
ミュウツー『嫌いではない。だが、好みの優先順位というものがある』
ジュプトル「おまえ、めんどくさいよ」
ミュウツー『そうか?』
きのみを受け取り、こちらも躊躇なくかじりつきながら、ジュプトルは皮肉を続ける。
この期に及んで、仮面が剥がれないように。
そんな悪い癖を止めたくても、これまでどうしても止められなかった。
この森に来てからずっと被っている冷たい覆い。
笑う時は、仮面が笑う。
自分は、笑えない。
ジュプトル「ふつうに いえば いいだろ」
ミュウツー『さっきまでのお前は、それでは受け取れないだろう?』
ジュプトル「さっきの……おれ?」
ジュプトルは呆気に取られたような顔をした。
仮面を支える手が震える。
ミュウツー『さっき、会った時のお前だ』
ミュウツー『様子がおかしかった』
ジュプトル「……どんな ふうに?」
ミュウツー『説明しようがない。私の知るお前ではなかった』
ミュウツー『しばらくすると……正確には、少し話をした後、“いつもの”お前に戻っていた』
ミュウツー『だから、単なる思い違いか、とも思ったのだが』
ミュウツー『ハハコモリの話を振ってから、お前は……また様子が変だ』
ミュウツー『……ほう。私がものを齧ると、こんなが「あと」がつくのか』
自分で齧ったきのみの歯型をしげしげと見ながら、ミュウツーはそう言った。
わかってるくせに、とジュプトルは内心毒突く。
ジュプトル「おまえが……あいつのはなし、するから」
ミュウツー『ヨノワールのことか』
ジュプトル「おれ……あいつ、いや……だっ、たんだ」
無意識に、言葉尻が弱々しくなる。
ミュウツー『そんなにも憎いか』
ジュプトル「……うん」
――どうして?
ミュウツー『それは、何故だ?』
ジュプトル「だから……におい だよ」
ジュプトル「あいつ あう、と……においが した」
ミュウツー『死を連想させる匂い……だったか』
ジュプトル「すごく いやな におい」
ジュプトル「しんだとき、しぬとき、そういう におい する」
何かを想起して、ジュプトルが鼻先に皺を寄せる。
今となっては、その匂いの記憶だけがジュプトルにとっての真実だった。
ジュプトル「あいつ ハハコモリに あった」
ミュウツー『そういう、話だったな』
ジュプトル「だからだ」
ミュウツー『……?』
ジュプトル「ハハコモリも その におい、した」
ミュウツー『……私には、わからなかった』
ジュプトル「ぜったい あいつのせいだ」
ジュプトル「……あのひ より まえは、ぜったい……においは、なかった」
ジュプトル「あいつだ。そうに きまってる」
――お前はいつも“そう”言ってきた
――楽だよな
――そっから先、考えなくていいんだもんな
――わかるよ
――俺は、お前だから
ジュプトルの腹の中で、『あいつ』が言う。
――あいつのせい、こいつのせい
――“おれは わるくない”……だろ?
ジュプトル「ち……ちがう! ちがう!」
ミュウツー『……?』
何度自分に言い聞かせても、罪悪感は最後まで消えなかった。
どうしても、自分で自分を騙しきれなかった。
騙しきれないから、繰り返し吹聴するしかない。
騙しきれないから、塗り固めるしかない。
理由はわかっている。
ジュプトルは固く目を瞑った。
雨音が神経を逆撫でする。
ジュプトル「あいつが なにか した……んだ……」
自分の声がこんなにも醜く、虚しく聞こえたのは初めてだった。
決して、嘘をついているわけでも、虚偽を並べているわけでもない。
けれども、真実とはほど遠い。
違うことを誰よりもわかっている。
わかっているのに、わかっていないふりをして口にする。
ジュプトル(だめだ、おれ)
――そうだな
――サボネアが死んだのは、ニンゲンのせい
――ハスボーがいなくなったのも、ニンゲンのせい
――よかったな、どっちもお前のせいにならなくて
――最初は、ちゃんと、わかってたのにな
腹から響く声が、いつの間にか少しずつ変わっていた。
自分を責めているのとは、少し違う。
“最初は”わかっていたのに、と声は告げている。
わかっていたのに、わからなくなった。
わかっていたことを、自分でわからなくした。
だから、もうあの頃の自分には戻れないんだ。
本当の自分に戻るための道は、口を噤むように閉じられている。
それは、誰のせい?
――自分で、やったんじゃないか
悪意ある何者が、戻れないように邪魔をしていたわけではない。
他ならぬ自分自身が、自分の示した行動で、口にした言葉で、自分自身に呪いをかけた。
あるいは行動しなかったがために、口にしなかったがゆえに、かもしれない。
自分につき続ける嘘が、戻りたいあの頃を踏みつけている。
根を傷つけ、葉をちぎり、腐らせようとしている。
――ペンドラーが死んだのも、あいつのせい……だもんな
――ハハコモリだって……きっとそうに“決まってる”
――だよな?
ジュプトルの言葉を咀嚼するように、ミュウツーは眉間に皺を刻んでいた。
ミュウツー『お前は……そう思っているのか』
友人は、ジュプトルの脆弱な告発を肯定も否定もしなかった。
ミュウツーには、ジュプトルの話を肯定するだけの材料も、否定するだけの材料もない。
そのずっと向こうで、小さなチュリネが雨を眺めている。
そのチュリネに合わせる顔が、自分にはあるのだろうか。
ハハコモリや、ペンドラーには?
ジュプトル(……やっぱり……すごく、いやな やつだ……おれ)
ミュウツーの沈黙を、死刑宣告を待つような心境でジュプトルは耐える。
ぐるぐると体内に渦巻く罪ならぬ罪を、誰かに糾弾してほしい。
誰でもいい。
もちろん、他ならぬヨノワールにこそ、その権利はあるのだろうが。
むしろ、親しい誰かに責められる方が、逃げ場はないかもしれない。
『誰か』が責めてくれれば、楽になれる。
その時を、消極的に待ち望む。
ミュウツー『ヨノワールは……あの時、“本当は”何をしていたのだろうか』
ミュウツー『それを、お前は知っているか?』
ジュプトル「それは……しらない」
ミュウツー『そうか。ならば』
ミュウツー『私は、知りたい』
ミュウツー『お前は知りたいか?』
雨の音を潜り抜け、ミュウツーの言葉が脳裏を駆け巡る。
ジュプトル「……なにを?」
ミュウツー『本当のことを、だ』
ミュウツー『知りたいとは思わないのか?』
ジュプトルが、驚きとも怒りとも判じかねる顔をミュウツーに向けた。
ミュウツーもまた、気難しげな紫色の瞳をこちらに真っ直ぐ向けていた。
ジュプトルはその目を睨み、ミュウツーがこんな話をする意図を探り出そうとしている。
自分の罪が、ようやく暴かれるのだろうか。
ついに、白日の下に晒されて後ろ指を指されるのだろうか。
それは、なんとも、喜ばしいことだ。
ジュプトル「……」
ジュプトル「なんで……そんなこと」
――お前はそんなの、考えたくないよな
ミュウツー『まあ……何よりも、まず私自身が知りたいと思ったのだ』
ジュプトル「……なにを?」
ミュウツー『さあな』
そう尋ねると、ミュウツーは肩を竦めた。
ミュウツー『残念ながら、私には何がどうなっているのか、よくわからない』
ミュウツー『……』
ミュウツー『あのヨノワールという存在に、ほんの少しだけ興味が湧いたのかもしれない』
ミュウツー『お前の説明では、納得できなかった……というのも、あるにはある』
ミュウツー『お前は、何を尋ねても「ヨノワールが悪い」としか言わんしな』
食べ終えたきのみのへたを、ジュプトルはくさむらに投げ捨てた。
ミュウツーの言葉は、その通りである。
思考停止としか言いようのないところで、ジュプトルはもうずっと足踏みしている。
ミュウツー『この森に暮らすようになるまで、私は本当にごく狭い世界しか知らなかった』
ミュウツー『それは、以前お前たちに話した通りだ』
ミュウツー『何かを知り、何かを理解すると、周囲の見え方が変わった』
ミュウツー『森にいるものたちは、森にいるものたちなりのルールで生きていることを、多少だが知った』
ミュウツー『お前たちのようなポケモンが、色々と折り合いをつけて生きていることも知った』
ミュウツー『私がニンゲンではないと知ってなお、求める知識への道と示そうとするニンゲンの存在を知った』
ミュウツー『自分が何かを知っていて、何かを理解している気になっていたことを思い知った』
ミュウツー『……』
ミュウツー『知らないということは、愚かなことだ』
ミュウツー『……だがある意味、幸せなことなのかもしれないな』
ジュプトル「!」
ミュウツー『……? どうした?』
ジュプトル「えっ……あ、ああ……いや」
その言葉は知っている。
その考え方は知っている。
おれ自身が、一番よくわかっている。
降り注ぐ雨は、いつしか少しずつ弱くなっていく。
いずれ雨が止もうとする変化だった。
自分自身を騙し続けるための嘘が力を失いつつある。
ジュプトルの耳には、弱くなっていく雨音がそう聞こえていた。
ジュプトル「おまえの、いってること」
ジュプトル「……おれ しってる き……する」
ミュウツー『そうか』
知らなければ、このままでいられる。
シアワセでいられる。
安全が保障された『はらっぱ』の外が、どんな世界なのか、知らなければ。
生きる意味を持てた日々が、どんな毎日なのか、知ろうとしなければ。
欠けることなどないと信じていた仲間が失われる可能性に、考えが至りさえしなければ。
本当に憎むべき相手が何なのか、考えようとしなければ。
自分を囲む世界は、変わることなく続く。
向き合い方を変えない限り。
知らなければ、シアワセな姿のままだ。
知ろうとしなければ、今のシアワセは揺るがない。
“そこ”は楽園だ。
ミュウツー『だが、知ろうともしないのは、もっと愚かなことだ』
ミュウツー『……と、私は思う』
知ろうとしなければ、真実に行き着くことはない。
真実に行き着かないかわり、手放しに誰かを責め立てることができる。
誰かの本当の姿を知ることなく、自分自身の罪を知ることもない。
だがそんな日々に、未来が訪れることはない。
“そこ”は誰もいない、ひとりきりの楽園だ。
――寂しいかい?
――ひとりきりは……誰もいないのは、寂しいだろう?
――でも、その世界を望んだのは、お前だった
ミュウツー『お前は、どうしたい?』
――お前は、知りたいのか?
ジュプトル「おれ……」
ジュプトル「……しりたい」
……何言ってるんだ、おれ。
『答えなんていらない』って言えばよかったんだ。
『関係ないんだから黙ってろ』って、言ったってよかった。
こいつが、そうまで言うおれを追求してくることは、たぶんない。
それで話が終わるはずだ。
なのに、おれは……どうしてそんな返事をした?
――お前だって、本当はわかってるから
――真実を前に、偽りの楽園は……
頭の中に棲むあいつが、やけに穏やかな顔をしている。
どうしてだ?
“いい気味だ、もっと苦しめ”……だろ?
“ざまあみろ”……じゃないのか?
――違う
――おれは、お前だから
ジュプトル「……あ……」
ジュプトル「……そう、なんだ……」
喉を唸らせた程度の、ほんの小さな声でジュプトルが鳴いた。
小さなその声は、ともだちの耳まで届かないかもしれない。
――ともだちに なりたいのに、な
ジュプトル(あいつら、は……)
ジュプトル(ともだち……に、なんて なれないよ)
――こんな、自分だから?
――それとも……そんなに、辛かった?
――自分が無力だったこと
――大事な仲間を守れなかったこと
――それが、他の誰でもない自分のせいだってこと
パキン、と何かにひびの入る音が聞こえたような気がした。
ミュウツー『……ん?』
ジュプトル「……い、いや……その……」
ミュウツー『……』
ジュプトル(だれかの せい?)
ジュプトル(ちがう……おれの せいだ)
ジュプトル(そ……そうだ)
ジュプトル(おれが にくいのは……あいつじゃ ない)
ジュプトル「もう いやなんだ」
ジュプトルは頭を抱えた。
頭の中と外の区別がつかなくなる。
自分が声を出しているのか、頭で思い浮かべただけの言葉なのかも、よくわからない。
そもそもはじめから、そんな区別など存在しなかった気さえしてくる。
自分の中には、自分しかいない。
塞いだ耳に、自分の鼓動と共にもやもやと歪んだ音が届く。
雨が止み、声が止んだ。
頭の中で、腹の底から、自分を責め続けてきた、誰かの声。
違う……あの声は、『おれを責めてる誰か』なんかじゃない。
おれ自身だ。
おれ自身が、言い訳を並べるおれを忘れないように、声を発していただけだ。
誰かを憎み、誰かを羨み、誰かに嫉妬する醜い『おれ』を、忘れないように。
その浅ましい姿こそ、本当の自分なのに。
どうして、忘れていられたのだろう。
どうして、見て見ぬふりなんて、していられたんだろう。
どうして……。
ガラスよりも低い音で、何かが割れたような気がした。
ジュプトル「なあ、みー……あ、じゃなくて」
ジュプトル「ミュウ……ツー」
ミュウツー『なんだ』
ジュプトル「なんで……おまえ なんかが、ここに きたんだろうな」
318: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/04(水) 22:06:09.71 ID:pAC0e4gzo
ダゲキ「あれは……いつも、いやだよ」
ジュプトル「おれも、いやだな」
ミュウツー『……ならば、なぜあんなことをする』
ジュプトル「……しんだ ポケモンは、ああするんだ」
ミュウツー『いつもか?』
ダゲキ「うん、だいたい むしポケモンは いつも」
ジュプトル「べつに、いつも おれたちが、はこんでる わけじゃないけど」
ダゲキ「ぼくたちに、その、ええと……」
ダゲキ「あわない、じゃなくて、はなれないで いること……なんていうんだ?」
ミュウツー『……ううむ』
ダゲキ「ええと……」
ダゲキ「いっ……しょ?」
ミュウツー『ああ……「一緒にいる」?』
ダゲキ「……かな?」
ミュウツー『……で、なんだって?』
ダゲキ「いっしょに、いてくれる もりのポケモンは……ぼくたちが かえす ことが、おおいよ」
ミュウツー『そうなのか』
ダゲキ「……なんでなのか、わからない けど」
ダゲキ「そういう やくそくに、してる」
ジュプトル「どうせ、おれたちが よそもの だからだよ」
ジュプトル「よそものと なかよくする、ポケモンは なかまじゃねーって」
ジュプトル「そんな ところだろ」
ミュウツー『……そうか』
引用元: ・ミュウツー『……これは、逆襲だ』
劇場版ポケットモンスター ベストウイッシュ 神速のゲノセクト ミュウツー覚醒 ミュウツースペシャルパック [DVD]
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319: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/04(水) 22:08:13.17 ID:c05LUNw+o
パチン
ジュプトル「……あっちィ!」
ミュウツー『ジュプトル、貴様、何をしているんだ』
ジュプトル「なんだよ。たきびの あとしまつ だよ」
ジュプトル「まーったく、おまえ、ホントに なにもしらないんだな」
ミュウツー『い……いちいち突っ掛かるんじゃない』
ダゲキ「たきびの ことは、バシャーモが おしえてくれたんだ」
ダゲキ「ぼくも、おしえてもらった」
ミュウツー『ほう』
ミュウツー『なるほど、奴なら火の扱いは得意だろうな』
ジュプトル「ばッ、ばか! なんで いっちゃうんだよ!」
ダゲキ「なんで?」
ジュプトル「『なんで』って……おまえなあ」
ダゲキ「……ご、ごめん」
ジュプトル「ちぇっ」
ミュウツー『火の始末など、水でもかければいいだろう』
ダゲキ「それじゃあ、だめなんだ」
ジュプトル「そう、そう」
ミュウツー『なぜだ?』
ジュプトル「おー、でっかいの! ぜんぜん、わかってないね!」
ミュウツー『……あ、うん……』
320: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/04(水) 22:10:07.39 ID:cXKdhDwgo
あからさまに見下した表情を見せ、ジュプトルはおどけて言う。
ミュウツーには理由がわからないが、少し嬉しそうだった。
ダゲキ「みずをかけると、ひのことか はいが とんで……あぶないんだって」
ジュプトル「あっ……おいまた! いうなよ! おれ、いいたかったのに!」
ダゲキ「……あ、ご、ごめん」
ミュウツー『そういうものなのか』
ジュプトル「だ……だから、こうやって、えだが のこらないようにして、くずして けすんだ」
ミュウツー『ほう……』
ミュウツー『そうすれば、火の粉も飛ばないのか』
ミュウツー『……大したものだな』
ジュプトル「な……なんだよ、きもちわるい」
ジュプトルは不審そうな顔をしていたが、ミュウツーは半ば本気で感心していた。
感心したのは、火の後処理技術についてではない。
321: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/04(水) 22:12:09.21 ID:qTAW1K4Vo
ミュウツー『貴様は草ポケモンだろう』
ジュプトル「うん、そうだけど」
ミュウツー『火を苦手とするはずの貴様が、教えられたとはいえよくそこまで身につけたな』
ミュウツー『それは、生まれながらの能力に頼らずに、生きているということではないか』
ジュプトル「……」
ジュプトル「な、なんか、ほめられてる?」
ミュウツー『そう、受け取ってくれて構わない』
ジュプトル「……わるかったな」
ミュウツー『うん?』
ジュプトル「おまえのこと、もっと いやなやつだと おもってたよ」
ミュウツー『……そうか』
ジュプトル「なんか、えらそうだったし」
ミュウツー『……そ、そうか?』
思わずダゲキの方を見ると、ダゲキは困ったように首を傾げた。
ミュウツー『……そこは否定しろ』
ダゲキ「『ヒテイ』……あ、なんでもない。ごめん」
322: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/04(水) 22:15:10.33 ID:odT8bN+uo
何を言おうとしたのかは予想できた。
教えを乞うまでもなく、言葉の意味をなんとなく理解できたに違いなかった。
ジュプトル「なあ、おまえ さ」
ミュウツー『?』
ジュプトル「ダゲキにきいたけど、むりに でていかなくて いいんだぞ」
ミュウツー『……』
ジュプトル「おれたち みたいに、ここにいろよ」
ジュプトル「きのみも……うまいし」
ダゲキ「そう……だな」
ダゲキ「……ともだちが ふえたら、うれしい」
ジュプトル「だよな」
ミュウツー『なにを言ってるんだ、お前たちは』
ダゲキ「……」
ミュウツー『……?』
ジュプトル「へへへ」
ジュプトル「もりのやつらには、きらわれてるけど、チュリネたち いるし」
ジュプトル「ふつうに、やってくだけなら こまらないよ」
ミュウツー『……嫌われている? なぜだ』
ジュプトル「え?」
323: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/04(水) 22:18:09.54 ID:caIDwDyHo
ジュプトルは不思議そうな顔をした。
ジュプトル「そりゃあ、よそものだからだよ」
ミュウツー『よそものか。確かに私やお前たちはそうだが、それだけで嫌われるとは、どういうわけだ』
ジュプトル「……さあね。おれは、ニンゲンのところで うまれたから、あっちのきもちは、わかんない」
ミュウツー『それは……私も同じだ』
ジュプトル「そういえば、そうだな」
ジュプトル「フシデとか、チュリネとかハハコモリとか、こいつみたいなのは、めずらしいんだ」
ダゲキ「……うん……そうだね」
ミュウツー『……え? ああ……なるほど』
ミュウツー(そうか……みんなには黙っているのだったな)
ちらりとダゲキに目を向けると、向こうもミュウツーを見ていた。
黙っていてほしいと言われたことは、むろん忘れてなどいない。
それでも流石に不安なのだろう。
いや……負い目なのか。
よほど、自身が人間と旅をしたことがあると知られたくないらしい。
『嫌われている』とジュプトルは言った。
人と在ったものとそうでないものの溝を、ダゲキも繰り返していた。
ミュウツーがどうやら彼の禁忌に触れないらしいとわかると、ダゲキはようやく目を伏せた。
324: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/04(水) 22:19:41.27 ID:caIDwDyHo
ダゲキ「……じぶんのすみかが あらされるのは、いやなんだよ」
ミュウツー『だからといって、嫌われるほどの……』
ダゲキ「みんな……じぶんのばしょ だと、おもってる」
ダゲキ「そこに、しらないやつが きたら、こわい」
ジュプトル「おいおい、おまえまで、そんなこと いうかよ」
ダゲキ「もう、おもってないってば」
ミュウツー『お前も“昔”は、よそものを嫌っていたのか?』
ジュプトルにはどうということのない質問に聞こえるはずだ。
だが、ダゲキにとって『昔』という言葉が、正確にはどういう意味を持つのか。
彼の過去を知っているものから発せられる場合、どういう意図を持つのか。
はたして、その意図が伝わるのかどうか。
底意地の悪いやり方だと、我ながら思った。
ダゲキはミュウツーの顔をしげしげと眺め、一瞬悲愴な顔を見せた。
予想通り、ダゲキはミュウツーの言葉が持つ意図を理解できたらしい。
何かを思い出すような目つきを見せて、ダゲキは口を開いた。
325: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/04(水) 22:20:54.11 ID:caIDwDyHo
ダゲキ「きらい……じゃないけど……」
ダゲキ「なかよく なんて、おもわなかった」
ダゲキ「ちかづきたく……ないし」
ダゲキ「どこからきたか、わからないし。どういうやつかも、わからない」
ミュウツー『しかし、話してわからん連中というわけでも……』
ダゲキ「……」
ジュプトル「それは、なあ……」
ダゲキ「たぶん……すごく むずかしい」
どこか諦めたような話し振りだった。
ミュウツー『……そうか』
自分の知らないところで、むしろ自分がここにやって来るまでに、共存の努力はそれなりに払われたのかもしれない。
生まれた森以外を知らない『普通の』ポケモンたちと、人間に関わった『異質な』ポケモンたちとの間で。
ミュウツーは、ハハコモリを貪るクルミルの目を思い出した。
こちらの顔を見るなり餌を放り出し、慌てて逃げていったフシデたちの姿を思い出した。
326: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/04(水) 22:21:50.18 ID:caIDwDyHo
ミュウツー『……私から見ても、連中との溝は深そうだ』
ジュプトル「おれ あんなふうに……ほかのポケモン たべたくない」
ミュウツー『……ううむ』
ミュウツー『……なぜ、奴らは仲間の死骸を食うのだ』
ダゲキ「それは」
ジュプトル「そーゆーもん だからだよ」
やけに、撥ねつけるような物言いでジュプトルが言った。
吐き捨てていると言ってもよかったかもしれない。
ミュウツー『……それが普通、ということか』
ジュプトル「みんな、へいき なんだってさ」
ジュプトル「ま、どーせ、おれには わかんないけど」
ジュプトル「おれ、ニンゲンのポケモンフードと きのみ しか、たべたことないし」
ミュウツー(私など、研究所を出るまで、モノなど食べたことなかったが……)
ミュウツー(……言わない方がよさそうだ)
ダゲキ「ぜんぶの ポケモンが、たべるわけじゃ……ないよ」
ミュウツー『それを聞いて、少し安心した』
ダゲキ「……ぼくも、やっぱり きのみ がいい」
327: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/04(水) 22:24:54.71 ID:caIDwDyHo
それぞれに溜息をつく。
そのままうっかり、誰もが口を噤んでしまった。
パチン、パチンと間隔を開けて、燻る焚き火が音をたてる。
そう遠くないところから、小川のせせらぎが聞こえる。
彼らはなんの変哲もない、ただの野生のポケモンである。
生まれた森で育ち、人間や外部の存在から教えられることもなく、生きる術を身につける。
特別なところは、特にない。
その上、この森は決して資源に乏しい土地ではない。
あのハハコモリを見ている限り、食べるものに困っている様子もなかった。
それなのに、彼らはごく普通のこととしてその遺骸を食べる。
同種の成体が死んだ時の、当然のルーチンワークの一つであるかのように食べていた。
つまり、クルミルたちがハハコモリの遺体を食べるのは――
ミュウツー『……どうしてなんだ』
ダゲキ「……え?」
ジュプトル「なにが?」
どう説明したものか。
少し悩んだが、結局は下手に考えをまとめることはせず、思考のままに伝えることにした。
何よりも、まず――
328: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/04(水) 22:27:26.33 ID:tdCdtiglo
ミュウツー『……なぜ、私やお前たちは……「あれ」を、こうも受け入れられない』
ジュプトル「ん?」
ダゲキ「ぼくたち……は、『たべない』ポケモンだから じゃ……ないの?」
ダゲキ「しんだら みんな、たべる わけじゃないし」
ジュプトル「かんがえたこと ないや。いやな もんは いやだろ」
そうなのだろうか。
怪訝そうな顔をしていたジュプトルが、少し間をおいて目を開いた。
ジュプトル「……もりに ずっといるやつらは、へいきなんだよな?」
ダゲキ「……えっ……」
ジュプトルの疑問に、ダゲキが小さく反応する。
ジュプトル「おい、ダゲキ。どうしたんだよ」
ミュウツー『……』
ダゲキ「な……んでも ない」
ジュプトル「……」
不審に思っていることは明らかだった。
だが、ジュプトルはそのまま話を続ける。
329: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/04(水) 22:29:36.25 ID:fjHgyWYro
ジュプトル「チュリネとか……ほら、なんだっけ……エルフーンとか、ヤナップとか」
ジュプトル「あいつらと、あれのこと……はなしたこと あるけど」
ジュプトル「みんな……なんとも おもってなかった」
ミュウツー『というか、チュリネも……平気なのか』
少し意外な気がした。
チュリネのことはすっかり『こちら側』だと、ミュウツーも認識していたからだ。
ミュウツー『“野生のポケモンにとっては”……普通のこと……ということなのか?』
では、『人間と共に生活したことのあるポケモン』にとってはどうだ?
自分があの光景に耐えられなかったのも、ジュプトルが目を背けたのも、『だから』なのだろうか。
ミュウツー(……いや、待て)
この論法では、まるで……。
ジュプトル「えっ……じゃあ さ、ダゲキ」
ジュプトル「おまえは、なんで 『だめ』なんだ?」
330: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/04(水) 22:31:12.42 ID:hs3LK1Pwo
そう言ってダゲキを見る。
ダゲキ「え……あ……」
顔にこそ出ていなかったが、ダゲキが狼狽していることはふたりにも伝わった。
ジュプトルの問い掛けに、そこまで深い意味はなかったのかもしれない。
ただ単に疑問に思ったから口にした、というだけであった可能性もあった。
ダゲキ「……ぼく は……」
けれどもダゲキは、それを尋問、追求、あるいは遠回しの弾劾と受け取ったようだった。
いつになく落ち着きを失い、動揺している。
“まるで”、“嘘がばれた子供のように”。
それを、ミュウツーは不思議なものを見るような気分で眺めていた。
331: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/04(水) 22:31:58.86 ID:pldKGYlto
私はただ、知りたかった。
思い出したかっただけだ。
私がどこの誰なのか。
なぜ存在するのか。
どうして、今ここにいるのか。
誰か教えてくれと、私は声に出さず叫び続けていた。
嘘でもいい。
おためごかしでも、なんでもいい。
それが私にとっての救済となるから、教えてほしい。
それが私にとって絶望でしかなくても、教えてほしい。
なぜ、私はいるのだろう。
なぜ、こんなちからを持っているのだろう。
なぜ、あんなことがわかるのだろう。
なぜ、こんなことをしなくてはならないのだろう。
誰も答えてくれない。
誰も教えてくれない。
332: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/04(水) 22:34:56.77 ID:t1vZOJPwo
私は、私自身に投げかけ続けてきた問いの答えを知っていたはずだ。
そうだ、きっと知っていたはずだ。
それなのに、私はどうしても思い出せない。
ときどき、思い出せそうなこともある。
暗い洞窟の中で過ごした懐かしい記憶と共に、私は私の本来の姿を夢想する。
自分がどういう存在なのか、何をすべきなのか。
忘れてしまえば、根のない草のようになんと頼りないことか。
憶えていること、思い出せることを頼りに、私はどうにか過ごしてきた。
すべきこと、しなければならないことをした。
たとえ、誰かに憎まれても。
それでも、今の私は、大切な何かを思い出せずにいる。
思い出さなければならない。
思い出してしまえば、別の大切な何かを失ってしまうような気がする。
それでも、思い出さなければならない。
私の、本来の役目を。
私はほんの少しの骨を、両手に抱えて呻く。
思い出せない。
ここから、どうすればいいのか。
あそこから、どうすればよかったのか。
すべきことが出来なかったために、どうなってしまうのか。
343: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/09(月) 22:09:23.30 ID:DsLXEp/Fo
……そりゃあ、憶えてるよ。
モンスターボールの中で過ごしていた頃のことは、今でも憶えている。
忘れられるわけないじゃないか。
いっそ忘れることが出来たら、どれほど楽だかわからない。
あの中が居心地よかったかどうか……正直なところ、よくわからない。
そんなに悪くはなかったと思うけど。
このままニンゲンのポケモンとして生きていくのも悪くないかな、と思ったくらいには。
……強い相手と戦えるなら、自分を鍛えられるならそれもいいかも、って。
だってほら、森のポケモンの間では、今さら話題にするまでもない話だったから。
ニンゲンについて行けば、強いポケモンと戦えて、強くなれる、って。
ぼくだって、強くなりたかった。
344: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/09(月) 22:11:33.48 ID:DsLXEp/Fo
――行け!
あのニンゲンに連れて行かれて、少し経った頃。
ぼくは、こんなことを思うようになった。
ひょっとしたらこのニンゲンは、ぼくのことを……生き物とは思ってないんじゃないか、って。
命令した通りに戦う、道具か何かだと思ってるのかもしれない、って。
実際、ぼくがボールから呼び出される時というのは、本当に限られていた。
ニンゲンがポケモン同士を戦わせるために、ぼくを必要とした時だけだ。
だから外から声をかけられて、呼ばれて、ボールから飛び出す時、悪い気はしなかった。
ぼくは、必要とされたってことだから。
ぼくは戦わせれば強い、役に立つって言われたようなものだから。
それは、いい気分になることだった。
そういう気分のことは、なんていう言葉を使えばいいんだろう。
……『うれしい』、だったかな。
呼び出された戦いで勝てば、あのニンゲンは喜んでくれた。
345: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/09(月) 22:13:56.92 ID:DsLXEp/Fo
――よーし行け! 負けたら承知しないぞ!
あのニンゲンに連れて行かれて、少し経った頃。
ぼくは、こんなことを思うようになった。
ひょっとしたらこのニンゲンは、ぼくのことを……生き物とは思ってないんじゃないか、って。
命令した通りに戦う、道具か何かだと思ってるのかもしれない、って。
実際、ぼくがボールから呼び出される時というのは、本当に限られていた。
ニンゲンがポケモン同士を戦わせるために、ぼくを必要とした時だけだ。
だから外から声をかけられて、呼ばれて、ボールから飛び出す時、悪い気はしなかった。
ぼくは、必要とされたってことだから。
ぼくは戦わせれば強い、役に立つって言われたようなものだから。
それは、いい気分になることだった。
そういう気分のことは、なんていう言葉を使えばいいんだろう。
……『うれしい』、だったかな。
呼び出された戦いで勝てば、あのニンゲンは喜んでくれた。
346: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/09(月) 22:17:10.60 ID:DsLXEp/Fo
ぼくは、もっと必要とされる。
こうしてボールの中で静かに待っているのも耐えられる。
それは、とても『うれしい』気分になることだった。
自分が何のためにいるのか、唯一考えずにいられる時間だったから。
他のニンゲンとポケモンがどういう関係で生きているのか、ぼくにはわからない。
ぼくとあのニンゲンは、決して仲良しではなかった。
ポケモンとニンゲンだから友達ではなかったし、そういえば仲間でもなかった。
それだけは、間違いないと思う。
このニンゲンとなら一緒にいたい、と思ったことは一度もない。
勝てた時、頭を撫でて褒められたことなんてない。
負けた時、また頑張ればいいと慰められたことだってない。
いつ、役に立てず、必要とされなくなってしまうか、それが気がかりだった。
けど、これが普通なんだと思っていた。
それ以外、ぼくは知らなかったから。
347: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/09(月) 22:20:30.07 ID:DsLXEp/Fo
どんなニンゲンだったかは、よく憶えてる。
あのニンゲンは、強いポケモンが好きだったみたいだ。
強いことが大事、勝てるポケモンであることが、大事。
あとは、ポケモンと関係ない、別のことが好きだった。
ぼくは……その『別のこと』は、あんまり好きじゃないんだけど。
そういうニンゲンだった。
名前は……憶えてない。
思い出せないだけなのかもしれない。
ああ、ひょっとしたら、そもそも知らなかったのかもしれない。
ある時、ぼくが倒したピンク色の丸っこいポケモンに、そのトレーナーが駆け寄った。
ぽやんぽやんした声の、丸々として、少し……なんでもない。
なんていうポケモンかなんて、ぼくは知らない。
トレーナーは、ぐったりしたそいつを抱き上げて、何か声をかけていた。
その言葉を聞いて、ぼくは不思議な気分になった。
348: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/09(月) 22:27:09.17 ID:DsLXEp/Fo
命令じゃない言葉だから、ぼくには理解できなかったけど。
『よしよし』とか『お疲れさま』とか『ごめんね』とか……。
今になってみれば、そういう言葉だったんだと思う。
ぼくを連れていたトレーナーが、絶対に言わない言葉だ。
もう、本当のことはわからない。
意味を理解できなかったから、羨ましいとも、悲しいとも思わなかった。
今なら思うかもしれないけど、その時は自分でもわからなかった。
けど、なんだか、とても……胸が苦しかった。
ボールの中にいても、ニンゲンたちが交わしている話は聞こえる。
外にいる時よりは、少し聞き取りにくいけど。
ぼくには聞こえてないと思ってるんだろう。
ひょっとしたら、聞こえてもわからないと思ってたのかもしれない。
命令は、理解できるって知ってるのに。
ぼくに関係ないことも、ぼくのことも、普通に話していた。
ニンゲンたちの話をたくさん聞いているうちに、ぼくは少しずつ、命令以外の言葉もなんとなくわかるようになってきた。
たぶん、他のニンゲンと一緒にいるポケモンたちも、みんな似たようなものだと思う。
その頃は、自分がしゃべることなんて考えもしなかったけど。
349: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/09(月) 22:34:26.61 ID:DsLXEp/Fo
自分のことを『ぼく』と呼ぶんだ、ということも知った。
『おれ』とか『わたし』という言い方もあると知ったのは、もっとあとのことだ。
でも、『ぼく』と思うようになってから、それまで自分のことをどう考えていたのか、思い出せなくなった。
『ぼく』という気持ちは、ずっと前からあったはずなのに。
その時から、自分のことは『ぼく』としか思えなくなったし、言えなくなった。
あの日も、ぼくはいつものように、ボール越しに聞こえてくる会話を感じていた。
半分眠ったような、半分起きているような不思議な気分で。
――……おい、**たか?
――なにを?
――カントーの、しゃ**ポケモンの***
――はぁ? ポケモンがしゃ*るかよ
――それがさ、***なんだけど……
――人間様と***ように、べらべらしゃべるニャースが**んだってよ
350: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/09(月) 22:36:52.45 ID:DsLXEp/Fo
――マジかよ、それ。どうせ、う**だろ?
――****でしゃべる****してるところを見た、って
――まあ、都市****みたいなもんだけど
――……そんなスゲェのがいたら、もっとおお**ぎになってるんじゃねーの?
――でも考えてみたら、人間と似たような***のポケモンもいるんだし、*****もないと思わね?
――お前んとこのさ、そいつみたいなポケモンなら、しゃべれるかもって
しゃべる?
ぼくが?
……どうやって?
ニンゲンみたいに?
そうしたら……どうなるんだ?
351: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/09(月) 22:38:32.10 ID:DsLXEp/Fo
ニンゲンに、言いたいことが言える?
伝えたいことが、伝えられる?
命令されるだけじゃなくて?
呼び出された時に戦わされる、だけじゃなくて?
用がなくなればすぐにボールに戻されるだけじゃ、なく?
何かを訊いたりできる?
『ぼくと、あなたは』……『仲良く、なれますか?』って。
――うちのダゲキ? だめだめ、コレなんて、バトルで**こと***、**がないから
――コレ**わりかよハハハ
――メスでもないから、他に使い**なんてないもじゃんアハハ
――ああでも、***込めば、**みたいに***られるかもな
――****したからって、しゃべれるもんなのかねぇ?
――口がないポケモンとかいるじゃん、それに**べたら……
352: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/09(月) 22:41:37.96 ID:DsLXEp/Fo
口……。
どう、口を動かせばいい?
舌は?
歯は?
喉は?
どうすればいい?
どうすれば、ニンゲンの言葉を話せる?
ぼくは……知りたくなった。
――こんなんがしゃべって、どうするんだよ
だからぼくはボールの中で、今までよりも一生懸命、ニンゲンの言葉に耳を傾けた。
ボールから出て、戦わされている時も。
ニンゲン同士が話し始める時に、なんと言うか。
どんな声で、どんな抑揚をつけて、どんな言葉を言うか。
たくさん、たくさん聞いた。
353: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/09(月) 22:44:28.99 ID:DsLXEp/Fo
だんだん、いろんなことがわかるようになった。
自分より上に見たり、下に見たりする言葉がある。
言葉ではそう言っていても、本当は違うことを言っていることもある。
ボールの中だと、口をどう動かしたらいいか、よくわからない。
ただ普通に声を出すだけだと、いつもの声になってしまう。
外に出ている時は、戦うばかりだから練習のしようがない。
だから、たくさん言葉を憶えることだけ考えた。
まだ知らない言葉は、たくさんあるけど。
それでもぼくを連れていたニンゲンが話すことは、だいたいわかるようになった。
そのおかげで……『そのせいで』、かもしれない。
なんにしても、ぼくは知った。思い知った。
あのニンゲンは、ぼくをどこかに置いて行ってしまおうとしていることを。
それから、ぼくのかわりにする奴を、もう捕まえてることを。
つまりもう、ぼくはあのニンゲンに、必要とされていないってことを。
本当は、言葉がどうのこうの、っていうより前にわかってたような気もするんだけど。
354: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/09(月) 22:46:56.84 ID:DsLXEp/Fo
……あのニンゲンに必要とされなくなったら、ぼくはどうなるんだろう。
ずうっと、あのボールの中?
もう戦うこともなく?
ずっと……ずうっとあんな場所で?
それは……。
それは、なんという気持ちなのだろう。
ぼくは夜になっても眠らず、ボールの中でその気持ちのことを考えた。
頭の上の方だとか、ボールの外で聞こえていた言葉を思い出す。
――いやだなあ、やめてくださいよ先輩
――ポケモンのくせに、一人前にイヤそうな顔すんなよ
そうだ、『いや』だ。
いやだ。
――いけ、ローキックだ!
355: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/09(月) 22:48:05.53 ID:DsLXEp/Fo
いやだ。
いやだ。いやだ。
そんなのは、いやだ。
ぼくはチョロネコを転ばせながら、そんなことを考えていた。
こんなにいやな気分なのに、戦うことをやめられない。
いやだ。
いやだいやだ。
ここはどこだろう。
ぼくは、どうしてこんなところにいるんだろう。
ぼくはなんなんだ。
ポケモンってなんなんだ。
帰りたい。
でも、どこへ?
空を見た。
戦いながら、何度も空を盗み見る。
356: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/09(月) 22:51:04.34 ID:DsLXEp/Fo
――なにボーッとしてるんだ!
後ろから、ニンゲンの怖い声が聞こえる。
いつもなら、あの怖い声をぶつけられたくなくて、必死になった。
だけどもう、あまり声は気にならない。
それよりも……目に映る空のことをずっと考えていた。
空は青くて、白い雲が浮いている。
色だけでいうと、ぼくの方がずっと青いんだけど。
ぼくは、それ以外に青さを表す言葉を知らない。
あそこを飛んで行けば、ぼくのいた森に帰れるんだろうか。
見たことのある空だと思った。
でも、空はどこまでもずっと繋がってるらしいから、どこで見ても同じ空なのかな。
ぼくが住んでいた森にも、繋がっているはずだ。
ぼくには空の違いなんて、見分けもつかない。
それでもどういうわけか、この空はぼくが知っている空だと思った。
なんだか見覚えのある風景だ、って。
357: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/09(月) 22:52:47.89 ID:DsLXEp/Fo
そういえば、ぼくがいた森のすぐそばにも、こんな街があった。
森の連中はどうしているだろう。
よく修行に付き合ってくれていたナゲキは、元気だろうか。
隙を見せると、すぐ投げ飛ばそうとしてくるところ以外は、いい奴だった。
もし森に戻ったら……。
チョロネコはミィと短かく鳴いて、蹲まった。
つまり、ぼくが勝った。
――チャコちゃん! やーん、ひどーい!
甲高い声を上げながら、チョロネコのトレーナーがチョロネコに駆け寄った。
――ごめんねチャコちゃん! ポケモンセンター行こ!
――ミャー……
トレーナーの女は、眉を寄せてチョロネコを抱きかかえた。
ぐったりしているチョロネコを撫でると、チョロネコはか細い鳴き声を出した。
358: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/09(月) 22:55:02.63 ID:DsLXEp/Fo
……。
何をしてるんだろう、ぼくは。
なんで、こんなことしてるんだろう。
楽しくも、嬉しくもない。
全然、楽しくない。
いつもなら、すぐにボールに戻される。
いつもなら、それでおわりだ。
だと思ったけど……。
――ねぇ、これから食事でも行かない?
ほら、また始まった。
ぼくは、ぼくの頭の上で言葉を投げ掛け合うニンゲンたちを見上げる。
――ポケモンバトルでは俺が勝ったけど、キミのチョロネコ……チャコちゃん、かわいいね
――へえ、***ちゃんっていうんだ!
――そこに、雰囲気のいいカフェがあるじゃない?
359: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/09(月) 22:59:27.06 ID:DsLXEp/Fo
ニンゲンが、ニンゲンの女と話し始めた。
ニンゲンはにやにや笑っている。
女の方は、少し困ったような顔をしている。
でも、ぼくは知っていた。
女は困ったような顔をしてるけど、本当は嬉しがってる。
二人が話していることは、ほとんど理解できた。
どういう『つもり』で話をしているのかも、なんとなくわかる。
ぼくのトレーナーは、相手のトレーナーを食事に連れて行こうとしていた。
あのニンゲンは、自分の気に入ったニンゲンの女と話をするのが好きだったんだ。
ときどき、そうやって話をした女と、その日はずっといることもある。
夜になってポケモンセンターに泊まるときも、ずっと二人の話し声が聞こえる。
相手がぼくじゃないからだと思うけど、ニンゲンはすごく……不気味なくらい優しい声で話していた。
女の方もだいたい、薄気味悪いくねくねした声で返事をする。
ぼくが眠くなってきた頃、二人で何かしている音も聞いたことがある。
ああ、そうだ。
修行ができないものだから、毎日、夜は眠くなってたんだ。
360: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/09(月) 23:03:57.14 ID:DsLXEp/Fo
ボールの中にいるから、そんな音が聞こえる時、ニンゲンが何をしているのかはわからない。
変な音が聞こえたり、ニンゲンと女の気持ち悪い声が聞こえたりした。
何かが軋んでるような音と、ニンゲンたちの声。
何をしているかわからないのに、ものすごく下品で、悪いことをしているのだと思ってた。
さすがに、あまり知りたいと思わなかった。
けっこうよくあることだったから、ニンゲンにとっては楽しいことなのかもしれないけど。
それが、ぼくのあんまり好きじゃない……『別のこと』。
そういうニンゲンだったから、今日も同じだと思う。
女に向かって、一生懸命食い下がっていた。
『食い下がる』っていうのは、諦めないでしつこくすること、だったと思う。
ぼくは、このニンゲンといることに何の意味も持てなくなっていた。
――えー、いいじゃん、お茶だけでも
――じゃあさ、せめてCギアの……
361: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/09(月) 23:07:18.95 ID:DsLXEp/Fo
帰ろう。
そう思った瞬間、もう身体は勝手に動いていた。
少し歩いて、それから無意識に走り出す。
振り返ってみてもよかったけど、やめておいた。
怖い声で怒鳴られたり、掴まれたりするかと思ったけど、そうはならなかった。
まだ、ぼくが走り始めたことに気づいてないのかな。
それとも、『そんなこと』は、どうでもいいのかな。
いくら頭の悪いぼくでも、今走っている場所が『森』のそばだということはわかる。
知っているにおい。懐かしい空気。
土のにおい。草のにおい。水のにおい。風のにおい。
これは、ぼくが育った森のにおいだ。
そうだ、この赤い四角い石で出来た建物にも見覚えがあるじゃないか。
赤っぽい石でできた、赤っぽい建物がたくさん並んでいる。
足元には、建物とは違う色の四角い石が並んでいる。
名前は知らないけど、ここはぼくがいた森のすぐそばにあった街だ。
362: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/09(月) 23:10:23.44 ID:DsLXEp/Fo
そんなことを考えながらしばらく走ったら、森が見えてきた。
迷わず茂みに飛び込む。
においは確かに、ぼくのいた森だ。
でも、あまり来たことのない場所だ。
早く、見慣れた場所に帰りたい。
いつも鍛えていた場所はどこだろう。
きょろきょろ見回しながら走っていたら、突然頭……おでこにビリッと電気みたいなものが走った。
茂みを越えた時、枝で引っ掻いたらしい。
目のすぐ横に、つう、と何かが伝ってきた。
生温かい。
怪我をしたんだ。
痛いはずなのに、ぜんぜん痛くない。
頭も全身も、血が止まったみたいにじんじん、ぼんやりしてよくわからない。
ふと、見覚えのある木が見えた。
そうだ、あの木の場所から太陽が沈む方へ行けばいいんだ。
そうすれば、いつもひとりで修行していた場所に着く。
363: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/09(月) 23:12:54.71 ID:DsLXEp/Fo
懐かしかった。
ここは、ぼくの居場所だったところだ。
何も考えないで、修行をしていた場所。
ぼくは走るのをやめて、少し開けているところに立ち止まった。
最後に山籠もりをした時のまま、誰も足を踏み入れていないみたいだ。
そういえば、いつも雨が降った時とか疲れた時に、休むことにしている場所がある。
枯れて倒れてしまった木の中だったはずだ。
心臓がすごい音を発てている。
ずっと走っていたからかな。
たくさん修行をしたあとの気分に少し似ている。
ちょっと、気持ちいいと思った。
体を思いきり動かして汗をかくのなんて、久しぶりだ。
……あのニンゲンといた時は、修行なんてできなかったから。
364: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/09(月) 23:15:48.40 ID:DsLXEp/Fo
うろの中に入って、ぼくはバタッと倒れ込んだ。
そのとたん、おでこがきりきり痛くなった。
さっき、枝でついた傷が今になって痛くなってきたみたいだった。
……痛い。痛いなあ。
うろの入り口の隙間から、さっきの青い空が見えている。
「……ひゅ゛ー……ひゅ゛ー……」
口をあんぐりと開けて、ぜえぜえ息をする。
喉が、ごりごりとした変な音を出している。
口から、鳴り損ねた笛みたいな、自分のいつもの声ともちょっと違う音が漏れる。
喉を鳴らす。
首に力を入れて、喉を動かして、それで声を押し出す。
「……ぁ゛……ぅ゛ぅ……」
これ、誰の声だ。
ぼくの声だ。
365: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/09(月) 23:16:57.93 ID:DsLXEp/Fo
「……あ゛あ゛……あ゛ぁ゛ぁぁ……」
「……い゛……ぁ゛ぃ゛……」
口を動かしたら、『あ』が『い』になった。
ニンゲンが話していたような、はっきりした音にはならないけど。
ああ、痛い。
苦しい、痛い、痛い、いたい、いたい。
――い は……いたい の い
頭の中で、誰かの濁声が聞こえたような気がした。
一度も、聞いたことのない声なのに。
「……い、だ……い……」
ぼくは、なんだか無性に眠たくなった。
遅れてきた頭の痛みは、またいつの間にかぼんやりして、よくわからない。
身体がどろどろと溶けて、地面に吸い込まれていくような気分だった。
ぼくは形を失い、自分と誰かの境目も、自分と地面の境目も薄れていった。
377: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/16(月) 14:43:50.19 ID:RjkIcXLMo
ジュプトルは、ダゲキの言動を注意深く見守っていた。
当のダゲキはおぼつかない目つきで、焚き火を見詰めている。
何かを思い出している。
ジュプトルにとっても、『ひょっとしたら』と思ったことがないわけではなかった。
そもそも捨てられたり逃げ出してきたポケモンは、森に居場所などない。
森や森に住むものにとって、よそものは所詮よそものだからだ。
森は、よそものが住むための寝床を用意しない。
森が、よそものに食べさせるためのきのみを実らせることもない。
ましてや『人間と旅をしたポケモン』などのために、存在意義を与えることもない。
あからさまに拒絶することもないが、本当の意味で受け入れることも滅多にない。
“闖入者”として、明確な境界を示される。
運がよければ“来訪者”として、存在が許されることもある。
それでも、“異邦者”であることに変わりはない。
いずれは“邪魔者”として、疎まれ小さくならねばならない。
そんな異物たちを疎まないどころか、あれこれと手を使ってまで交わろうとする。
考えたことがないわけではなかったのに。
378: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/16(月) 14:44:49.75 ID:41GjdY6uo
なぜ、人間の言葉をよく知っているのか。
考えてみれば、理由は簡単だった。
ジュプトル「……やっぱり おまえも、そうだったのか」
ダゲキ「……うん」
観念したように、ダゲキは項垂れた。
それほどのことなのだろうか、という疑問がミュウツーとジュプトルの脳裏をかすめる。
ダゲキ「ぼくにも トレーナーがいた」
ダゲキ「このもりで うまれて、そとにでて……かえってきた」
ジュプトル「どんなトレーナーだった?」
ダゲキ「あんまり……いいニンゲンじゃなかった」
ジュプトル「そっか……」
379: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/16(月) 14:51:25.24 ID:Q/5YwjIso
まるで溜息のような声が出た。
どういう気持ちで今の言葉を受け止めているのか、ジュプトル自身よくわからない。
森のポケモンでありながら、他の森のポケモンの白い目を浴びてなお、よそものを助ける理由。
なあんだ。
こいつも、俺と同じだったのか。
何も、違わない。
……なあんだ。
ジュプトル「それ、しってるの だれ?」
ダゲキ「ふたりと……あと、ヨノワール」
ミュウツー『……』
ジュプトル「ふーん……」
ジュプトル「……あいつも、しってるのか」
少し悔しかった。
自分が毛嫌いするヨノワールでさえ、知っていたというのに。
この森に来たばかりのミュウツーでさえ、聞かされていたというのに。
ジュプトルたちの話を黙って聞いていたミュウツーが、不意に口を開いた。
380: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/16(月) 14:53:42.33 ID:CKhipEcIo
ミュウツー『他の連中に、黙っているのは不思議ではない』
ミュウツー『なぜ、こいつにまで黙っていた?』
ダゲキ「……うん……」
ミュウツー『親しくなるために、秘密を明かすことで距離を縮めようとするのは、理解できる』
ダゲキ「……」
ミュウツー『ましてやお前たちふたりならば、同じような境遇を共有することになるのだ』
ミュウツー『利点こそあれど、それを上回るデメリットは、私には思いつかない』
ミュウツー『なぜ黙っていたのか、私には合点が行かない』
ミュウツーは無意識に堅苦しい言葉遣いになっていた。
責める意図があるわけではない。
ただ、思考しながらその考えを垂れ流しているだけだった。
そのために、その場にいる『ふたり』に合わせた語彙ではなくなりつつあったが。
それでもおおむね、ミュウツーの言いたいことは伝わっていた。
ダゲキ「い……いえなかった……」
ダゲキ「しられたく なかった」
381: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/16(月) 14:54:49.43 ID:CKhipEcIo
いたずらを厳しく咎められている人間の子供のように、ダゲキは怯えた声を出した。
弱々しい声音で発せられた『言えなかった』という答えに嘘はないのだろう。
少なくとも、声を聞いたふたりはそう感じていた。
言葉に表れてない部分に、ふたりとも敢えて触れるようなことはしない。
そこに本当の意志が隠れていることを、それぞれに理解はしていたが。
ミュウツー『ならばなぜ、私には言った?』
ダゲキ「……」
ジュプトルはダゲキに、横目で視線を送る。
少なくともダゲキの方は、その一瞥に非難がこめられていると感じたようだった。
それを見ていたミュウツーが呆れたように溜息をつく。
ミュウツー(こんな程度のことで、ずいぶん落ち着きを失うのだな)
ジュプトルの視線にも言葉にも、実のところ非難の色はない。
しかし、受け取る方に含むところがあれば、話は別だった。
382: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/16(月) 14:57:05.75 ID:VjrtAdH0o
ジュプトル「……なーんだ、おれだけ なかまはずれかぁ」
ダゲキ「そ、そんなことない」
ダゲキ「ないよ……」
自分でも自信を失いつつあるのか、ダゲキの言葉尻がかすれた。
ダゲキは助けを求めるような眼差しをジュプトルに、そしてミュウツーに投げかける。
だが、ミュウツーは寄越された視線をはたき落とすように目を閉じ、これ見よがしに肩を竦めた。
ミュウツー『さあ、どうだかなァ』
ダゲキ「えっ……」
ミュウツーは少しおどけた身振りをしてみせ、ちらっとジュプトルに視線を送る。
するとジュプトルもその意図を受け取った。
いたずらっこのようにやはり目を細め、アイコンタクトを交わす。
ダゲキはふたりに挟まれて困っていた。
383: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/16(月) 14:58:26.24 ID:VjrtAdH0o
ミュウツー『そんな重要なことを黙っていたとは、油断も隙もない』
ジュプトル「そうだなー おしえてくれないなんて、ひどいや」
ダゲキ「……」
ミュウツー『なんとも、友達甲斐のない奴だ』
ジュプトル「ウン。ミソコナッタよ ダゲキ」
ダゲキ「……ご……ごめん……」
ミュウツー『……』
ジュプトル「……」
ジュプトル「……ぶっ」
ミュウツー『……やれやれ』
ダゲキ「……?」
堪えきれなくなったジュプトルが吹き出し、ミュウツーも肩を竦める。
ダゲキはそんなふたりを、呆気に取られた様子で見ていた。
384: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/16(月) 14:59:27.24 ID:VjrtAdH0o
ジュプトル「おいおい、ほんきに すんな」
ダゲキ「えっ……あ」
ミュウツー『……まったく、友達甲斐がない上に、からかい甲斐もないとはな』
何が起きているのかわからないとでも言いたげに、ダゲキは目を瞬かせた。
ジュプトルはすっかり呆れた顔で、さらさらと頭部の葉を揺らして笑う。
ジュプトル「あのなぁ……おれと こいつが、ほんきで あんなこというとおもうのか?」
ジュプトル「おれは、さあ」
ダゲキ「?」
ジュプトル「……おれ、おまえが どっちでも、べつに よかったよ」
ダゲキ「ごめん」
ミュウツー『私から見ればダゲキ、お前が秘密にしたがったことは、秘密にするほどではないもののように思うのだ』
ミュウツー『特に、似たような境遇のジュプトルにとっては』
ジュプトル「そんなに、きにしなくても いいのに」
ダゲキ「……わからない」
ダゲキは俯いて首を横に振った。
385: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/16(月) 15:01:02.38 ID:cJDi8ezpo
ダゲキ「……でも、はじめに いえなかった」
ダゲキ「だから、あとから いったら」
ジュプトル「なかよく できなくなるって、おもったのか?」
ダゲキ「……」
ミュウツー『……』
ジュプトル「おれ、さ」
ジュプトル「うまれた ときから、ニンゲンのところにいたし」
ジュプトル「あんまり……たたかったこと ないから」
ジュプトル「おまえが、なんで いいたくなかったか よくわかんない」
ジュプトル「……みーちゃんは どうよ」
ミュウツー『み……い、いや……私にも、よくわからない』
ミュウツー『ここに来る少し前まで……私も外の世界など知らなかった』
ジュプトル「だよなあ」
386: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/16(月) 15:03:24.52 ID:ONTWIpE5o
ジュプトル「なあ、ダゲキ」
ダゲキ「なに」
ジュプトル「おまえ いいなぁ」
ダゲキ「……?」
ジュプトル「だってさあ、おまえ うまれたときは……だれのポケモンでも なかったんだろ」
ああ、違う。
自分は友人に向かって、そんなことが言いたいんじゃない。
いや、全く違うわけでもないけど、そうじゃない。
どう言ったらいいのかわからない。
自分の中に言葉が足りない。
もやもやとして、はっきり形を持てないこの気持ちを、どう言葉にしたらいいのか。
誰かの所有物ではない時期があったことを言いたいわけではなかった。
何かに所属しない、自分が自分である、という……それだけの……。
ジュプトル「な、なんていうのかな……」
ジュプトル「うまく、いえないや」
ミュウツー『……お前が言いたいことは、わかるぞ』
ジュプトル「そう? でも、なんだか……もやもやするな、これ」
ダゲキ「その きもちは、ぼくにも わかる」
387: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/16(月) 15:06:41.28 ID:ONTWIpE5o
手に持っていた枝を、ジュプトルがぽいと放り投げた。
いらだちと、ぐるぐると定まらない思考も投げ捨てて口を開いた。
ジュプトル「……おれ ほんとは どんなポケモンなんだろ」
ぽつりとそう漏らした。
それが、今のジュプトルに出来る最大限の表現だった。
まさに言いたいことではないものの、一番本質に近い気持ちだとジュプトル自身も思う。
頭の葉は控えめに靡いている。
ミュウツー『ニンゲンといた間に、知ることはできなかったか』
ジュプトル「ぜーんぜん……うーん、どうだったかなぁ」
そう言いながら焚き火を放り出し、ジュプトルは腕を組んで考え始めた。
昔の記憶を呼び起こしているのだろう。
その脳裏には、どんな風景が広がっているのだろうか。
『私』が見たことのない、あの景色。
……見たことのない、まぶたの裏の、あの……世界……?
それは……『私』が、この世界に生まれる前の記憶だ。
ふと、頑丈な袋に開いた小さな穴から水が流れ出るように、記憶の中の人間の言葉が漏れ出した。
388: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/16(月) 15:09:43.02 ID:ONTWIpE5o
――『ミュウツー』?
――それが、私の名か
――そうだ、お前は『ミュウツー』
――我々が生み出した、最強にして最高のポケモンだ
――生み出した?
――命を生み出すことができるのは、神だ
――ならば、貴様は神なのか
――いいや
――生命を生み出すことができるのは、神だけではない
――生命を創り出す秘技、それを持つのは神と……
ジュプトル「おれの トレーナー、おれを バトルで、つかわねーんだ」
ジュプトル「うまれてから あのニンゲンのとこ いくまでは、たのしかったのになあ」
ジュプトル「あ、そうだ」
ジュプトル「なあ、ふたりは……いちばん さいしょの こと……おぼえてる?」
ミュウツー『……なんだ、突然』
ダゲキ「え? うまれたときの こと?」
ジュプトル「うん」
389: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/16(月) 15:12:06.66 ID:ONTWIpE5o
ジュプトルから突然振られた話題に、ミュウツーは少なからず焦った。
考えていることが漏れてしまったのだろうか。
それも考えたが、誰もその記憶に触れないところを見ると、どうやら単なる偶然だったようだ。
ジュプトル「うーんと……おれは、さ」
ジュプトル「さいしょに すっごく、まぶしいところに いてさ」
ジュプトル「それで、おおきな『かげ』が いっぱいみえた」
ダゲキ「かげ?」
ジュプトル「ニンゲンのかげ……だったと おもうよ」
ジュプトル「あとは……『かこい』がある はらっぱ みたいなところにいた」
ミュウツー『囲いのある原っぱ……牧場のような場所だな、おそらく』
ジュプトル「そうなのかな?」
ジュプトル「……で、はらっぱには、おれとおなじ キモリが いっぱいいた」
想像を巡らせる。
覗き込む影たち。
囲いのある原っぱ。
同じ種類のポケモンが集められている。
390: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/16(月) 15:16:00.28 ID:ONTWIpE5o
ミュウツー『それは……ニンゲンがポケモンを育てる施設……ということなのだろう』
ジュプトル「そうなの? いつのまにか ふえたり、いなくなったり、よくわからなかった」
ジュプトル「ああ、でもたぶん そうだな」
ジュプトル「わりと、たのしかったよ」
ジュプトル「それで、ボールにいれられて、ニンゲンにつれてかれた」
ジュプトル「……みんな、どうしてるんだろうな、って」
草の上にごろりと横になり、ジュプトルは呟いた。
ジュプトルにも、当然ミュウツーやダゲキにも疑問の答えは予想がついている。
生まれた時から人間に育てられたポケモンたちは十中八九、トレーナーたちに与えられるものだからだ。
自力でポケモンを捕まえる手段を持たないトレーナーたちに。
すなわち、生まれて初めてポケモンを手にするトレーナーたちに。
少しでも人間に関わる機会があれば、いつのまにか知ってしまうたぐいの知識である。
ミュウツー『そいつらの行く末は……あまり、考えない方がいいだろうな』
391: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/16(月) 15:19:38.10 ID:onsRAkxdo
そうなってしまえば、与えられる道は限られる。
よいトレーナーに出会い、よい扱いを受けてトレーナーと共に生きるか。
悪質なトレーナーに出会い、あのコマタナのような扱いを受けるか。
どこかに押し込まれ、存在すら思い出されないままになるか。
ポケモンバトルという、ある種の晴れ舞台に上がることもなく。
あるいは、捨てられるか。
ジュプトル「うん……それも、そうだな」
どの未来を歩むことが、はたしてポケモンにとって幸せなのだろうか。
もっとも、人間と関わってしまった以上、大した違いはないのかもしれない。
ジュプトル「で ダゲキ、おまえは?」
ジュプトル「もう かくすような ヒミツなんて ないだろ」
ジュプトル「ついでに おしえろよ」
ダゲキは彼自身が考え込んでいるとき、よくそうしているように首をかしげた。
返事をまとめているようだった。
392: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/16(月) 15:23:44.41 ID:cWjsJhk+o
ダゲキ「え、ええと……」
ジュプトル「ダゲキは、このもりの ポケモンじゃん」
ダゲキ「うん……」
少し、引っ掛かりのある返答だった。
だがそれに気づいていないのか、ジュプトルは特に気にする様子もなく話を続けた。
ジュプトル「もりのなか なら、ほかの ダゲキとか、いただろ?」
ダゲキ「ううん……」
ダゲキ「おなじポケモンは……いなかった」
ダゲキ「……ほんとは いたかもしれないけど」
ミュウツー『どういう意味だ?』
ダゲキ「ぼくが……うまれたときは、きに ハトーボーがたくさん、とまってた」
ジュプトル「ハトーボーが?」
ミュウツー『それで?』
ダゲキ「すごく、じっと みられてて……こわかった」
ジュプトル「……そ、それで?」
ダゲキ「たべられそうになった」
ジュプトル「……えっ」
ミュウツー『……おいおい……』
393: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/16(月) 15:26:25.21 ID:ULCZPUIgo
ミュウツーもジュプトルも、思わずダゲキの顔をまじまじと見る。
ダゲキの方はいつもと同じで、涼しい顔をしていた。
表情というものが欠如している。
特徴的な、人間でいう眉にあたる部分もほとんど動かない。
ジュプトルもミュウツーも、彼の感情の動きを顔から読み取ることは諦めている。
もっとも、話し振りやしぐさで心の動きはわかるようになっていた。
ダゲキ「つつかれて……いたかったな」
ミュウツー『確かに、それは痛いのだろうが……』
ジュプトル「おっかねえこと いうなよ……」
ミュウツー『それで、どうした』
ダゲキ「いそいで、にげたよ」
ミュウツー『それだけか』
ダゲキ「うん」
ダゲキ「……たぶん、ぼくが さいしょにみたのは、たまごのから……だったとおもう」
ダゲキ「じめんに、たくさん われてて、でももう だれもいなかった」
ダゲキ「ひょっとしたら ぼく、きょうだいとか いたのかな」
ジュプトル「ふうん……」
394: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/16(月) 15:29:52.68 ID:p/L/9leao
ダゲキのその言葉を聞き、ジュプトルはパッと目を見開いた。
ジュプトル「あっ、じゃあ おれは、なんにんきょうだい だったんだろ」
ジュプトル「おれよりさきに うまれてたやつ、みーんな きょうだいだったりして」
ミュウツー『……貴様やダゲキが山ほどいても、私には見分けがつかんぞ』
思わず、ミュウツーはげんなりした口調で呟く。
ジュプトル「ひでえなあ……だいいち、おまえはどうなんだよ」
ダゲキ「そうだな」
ダゲキ「ぼくも ジュプトルも、いったもんな」
ダゲキ「きみだけ いわなかったら、『ヒキョウ』じゃないか」
ダゲキ「あ、『ヒキョウ』ってことばの、つかいかた、あってるかな」
ミュウツー『……そういう時は、どちらかといえば「不公平」の方を使うものだ』
ダゲキ「そう……なのか」
ミュウツー『第一、お前たちふたりが言ったからといって、私まで言わねばならん道理はないぞ』
ジュプトル「あっ いいたくなかったら、いわなくて いいんだぜ」
ジュプトル「おれだって、ちゃんと いったの、きょうだけ だし!」
ダゲキ「うん、ぼくも はじめてきいた」
ミュウツー『む……いや、別に言いたくない……わけではないのだが』
ジュプトル「おぼえてないのか?」
ミュウツー『ううむ……いや、そうでもない』
ダゲキ「むりは、しなくていいけど」
395: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/16(月) 15:33:27.36 ID:JRvuqJBso
口ではそう言っていても、興味はあるのだろう。
ミュウツーはふたりから強い好奇心を感じた。
風変わりな、聴衆を惹きつけるような出自を語らなければならないのだろうか。
話を創作する気はない。
ただ、見たことも聞いたこともないだろう話を、正直に受け取ってもらえるのか。
自分の生まれ方は、どのくらい奇異なのだろうか。
それが少しだけ、心配だった。
しばらく考え、それからミュウツーは軽く首を振った。
ミュウツー『いや、無理をしているわけではない』
ミュウツー『……ある程度は憶えているし、思い出せる』
ミュウツー『話すことに抵抗があるわけでもない』
ミュウツー『私は、ガラスの筒の中にいた』
ジュプトル「ガラスって……ニンゲンのいえの、まど?」
ミュウツー『ああ……うむ、あれの、もっと分厚いやつだ。それで、そこの木くらいの太さだったか』
ミュウツー『中は液体で満たされていて、私はその中に浮いていた』
396: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/16(月) 15:35:48.67 ID:JRvuqJBso
ふたりが、ミュウツーの指し示した立木を見た。
見たこともないはずのガラス筒が、ふたりの中ではどのように想像されているのだろうか。
ミュウツー『カントーという土地に、ある研究所があった』
ミュウツー『そこでは、私のような存在をいくつも生み出していたのだ』
ミュウツー『私のガラスの筒以外にも、似たようなものがいくつもあって……』
ミュウツー『その中にも、誰かが浮いていた』
ダゲキ「どんなものかなあ。よくわからない」
ミュウツー『……だろうな』
ジュプトル「オタマロの“す”、みたいな やつかな」
ダゲキ「あー」
ミュウツー『私は、むしろそっちの方がわからん……』
ジュプトル「あ、そう」
不思議な気分だった。
『普通』の、どうということのないごく普通の話をしているような心持ちだった。
積極的に語ろうと思ったことなどない、自らの生まれを話すことになってしまったというのに。
どう贔屓目に見ても、尋常な由来ではない。
それなのに……。
397: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/16(月) 15:39:28.91 ID:JRvuqJBso
ミュウツー『私は、その筒の中で……ずっと眠っていた』
ミュウツー『私にとっての卵の殻は、その筒だった』
――私は、まだ……この世界に生まれてすらいない
ミュウツー『貴様が言っていた“はらっぱ”も』
ミュウツー『私にとっては、その筒がそうだった』
――ここに、ただ存在しているだけだ
――ずっとずっと、眠ったまま
――深い深い、眠りの中で
ダゲキ「……どうして、そんな ガラスのなかに いたんだ?」
『どうして』?
そういえば、どうしてだろう?
ふと、脳裏を誰かが通り過ぎた。
薄く短い体毛に、何かのまばゆい光が反射した。
あの光は、太陽の輝きだ。
『私』が見たことのない景色を、自由に飛んで行く、小さな、小さな姿。
――記憶にない、この世界を
――私は、あの誰かが飛び立っていった あの世界を
398: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/16(月) 15:45:08.97 ID:3NmQQuK5o
ミュウツー『どうして……か』
ミュウツー『私にもわからない』
ダゲキ「そうか……」
ミュウツー『その……いろいろあって、そこから飛び出した。あまり、いい思い出はない』
『いろいろ』という言葉に全てを集約させる。
思い出せない部分も、思い出したくない部分もまとめて。
ミュウツー『初めに逃げ込んだ場所には、いつの間にかニンゲンが来るようになってしまった』
ミュウツー『それが鬱陶しくて、な』
ミュウツー『……お前たちと比べて、特に面白いものでもなかっただろう?』
自嘲しながらふたりを見た。
面白いか否かで言えば、自分にとっては極めて面白くない話だ。
思い出せる部分、話してもいいと思える部分は特に。
399: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/16(月) 15:46:53.34 ID:3NmQQuK5o
ジュプトル「そんなこと、ないだろ」
ジュプトル「いままで きいたこともないぞ、おまえみたいの!」
ミュウツー『そ、そうか』
ジュプトル「それで、その……なんだっけ」
ジュプトル「カントーってトコから、ここまで とんできたんだろ?」
ダゲキ「あの、うみ とか……の、むこうからか」
ミュウツー『海……ああ、海は越えたな。夜だったから、よくは見えなかったが』
ダゲキ「……いいなあ」
ジュプトル「なんか、おまえ すごいな!」
ジュプトル「……あ、ごめん」
ミュウツー『いや、いい。別に気にしていない』
ダゲキ「はなしてくれて ありがとう」
ジュプトル「うん。やっぱり おまえ、いいやつだよ」
ミュウツー『……そう……だろうか』
ジュプトル「うん、いいやつ……ふぁー」
400: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/16(月) 15:48:41.70 ID:3NmQQuK5o
大きなあくびをしながら、ジュプトルは身体を伸ばした。
それを見て、ダゲキも眠たそうな目をする。
ミュウツーもつられてあくびを噛み殺した。
ダゲキ「やっぱり しゃべるの、つかれる」
ジュプトル「うん……もう ねむいや」
ミュウツー『ただでさえ、今日はいろいろあった。無理もない』
ジュプトル「もう、ねようかなー」
ミュウツー『私もそろそろ眠ろう』
ダゲキ「じゃあ ぼくは……」
ミュウツー『修行か』
ジュプトル「『シュギョー』だろ」
ダゲキ「……えっ……うん」
ダゲキ「なんで、わかったの」
ジュプトル「おまえだもんな」
ミュウツー『お前だからな』
ダゲキ「そ、そう……」
ミュウツー『やれやれ……まったく、本当にからかい甲斐のない奴だ』
ジュプトル「……あっ、たきび、おわりそう」
401: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/16(月) 15:50:50.95 ID:3NmQQuK5o
いつの間にか、ジュプトルのつついていた焚き火が終わりかけていた。
さきほどまでは顔に温かさを感じていたというのに、今ではそれがまったく存在しなかった。
森に来てからというもの、ミュウツーは焚き火の炎が気に入っていた。
近づけば温かく、離れれば温かくない。
当然といえば当然の物理現象が、やけに嬉しかった。
ちらちら揺れる炎の動きも実に興味深い。
ミュウツー『もう終わってしまうのか』
その焚き火が終わりつつあることが、少し残念だった。
ダゲキ「でも、つきがあるから、きょうは あかるい」
ミュウツー『月……?』
402: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/16(月) 15:52:45.77 ID:3NmQQuK5o
――あれ、は、なあに?
――あれはね、おつきさま
――お、つ、き、さ、ま……
――とっても、きれいでしょ
――うん、とっても、あかるい、きれい
――よるのあいだ、おひさまは、ねむってしまうでしょう?
――だから、まっくらに ならないように
――ひとりぼっちじゃ ないんだよって、おそらで、ピカピカしてくれるの
――ぴか、ぴか?
――そう、ピカ、ピカ
ミュウツー(……空で、月が、ピカピカ……)
ミュウツー『月は好きだ』
ダゲキ「……そう」
ジュプトル「おひさまのほうが、あったかいぜ」
ミュウツー『だが、月の光は優しい』
ミュウツーは、懐かしそうに空を見上げた。
つられて、ジュプトルやダゲキも空に目を向ける。
太陽のように、暖かく力強い光を放つわけではない。
だが月は、ひんやりとして穏やかな風のような光を、森に向けて静かに注いでいた。
403: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/16(月) 15:54:35.44 ID:3NmQQuK5o
それから間もなく、ミュウツーはふたりと別れた。
まるで月明かりそのもののような、涼しい風を受けて空を見上げる。
お互いの日々の時間を共有することは多いが、一緒に生活しているわけではない。
ダゲキは修行へ行くというし、ジュプトルも夜は眠らないと調子が出ないという。
なぜだか、妙に嬉しかった。
そうして共に過ごす時間と、そうでない時間を当たり前に認め合えることが。
ミュウツー(ああ、そういえば私たちは、結局きのみを食べそこねてしまった)
腹は当然減っていたが、今から何かを食べる気にはならなかった。
顔を洗った川で水を飲み、敢えて歩いて寝床にしている木のところまで戻る。
ミュウツーは、うろのある高い木のてっぺんに近いところまで浮かび上がった。
そう太くない枝に、体重はかけずに足を載せる。
木々に遮られることがないため、ここまで上がれば月明かりが眩しい。
地面からこれだけ離れても、月の大きさはあまり変わらなかった。
ミュウツーは、月がどこにあるどんなものなのか知らない。
ただ、空に浮かぶ丸いなにかであることしか知らない。
月のことを教えてくれた、どうやっても思い出せない誰かは、もうここにはいない。
それでも、なんとか心安らかに生きていけそうな気がする。
ミュウツーは、希望を抱いた。
404: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/16(月) 15:55:32.09 ID:JIxQTYg0o
それから間もなく、ジュプトルはふたりと別れた。
ぺたぺたと音をさせて、ジュプトルは森の中を進む。
木々の間から月明かりが注ぎ、茂る葉の薄いところが夜だけ浮かび上がる道しるべのように見えた。
いいことと、悪いことの重なった日だった、と回顧する。
ダゲキやミュウツーと、今までしたことのなかった話をたくさんできたことは、嬉しい。
だけど、それ以上にヨノワールが許せなかった。
神出鬼没で、ああして目の前で消えられてしまっては自分に打つ手はない。
自分では少なくとも、奴にはハハコモリや“アイツ”の死の責任があると思っている。
とはいえ冤罪である可能性があることに、意図的に目を瞑ってきたことも事実だった。
それでも、真実を突き詰めれば、拠り所を失ってしまいそうで、怖い。
ヨノワールを憎むことで自分の心を安定させているなんてことは、誰にも言えない。
仲良くしていても、自分の中のどろどろした部分を晒すつもりはなかった……けど。
思わず、背中に流れ落ちる月の光を振り返る。
あのふたりはどちらも、口裏を合わせたかのようにハハコモリやヨノワールの話をしなかった。
ジュプトル(ふたりになら、はなしても いいかもな)
話してもなお、友人でいてくれるかもしれない。
それっぽい笑い方じゃなくて、心から笑っていられるかもしれない。
ジュプトルは、希望に満ちていた。
405: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/16(月) 15:57:56.89 ID:tPpWSv4qo
それから間もなく、ダゲキはふたりと別れた。
肩を落として、月明かりの差す森の中を歩く。
道が行き着く先は、いつも修行に使っている場所だった。
あの日、ニンゲンから逃げて辿り着いた場所。
あの時は、ただ『帰りたい』とひたすら走っていただけで、他には何も考えていなかった。
同じ道を歩いているけれど、あの頃と今では色んなことが違う。
一歩一歩踏み出す足に覆い被さる、気持ちが違った。
なんだか、ほんの少しだけ心の中がすっきりしている。
あんなことがあったあとだけど、ふたりとたくさん話をして、楽しかった。
ひょっとしたら、今まで誰とも作れなかった関係を、作れるかもしれない。
ニンゲンを捨てたにせよ、ニンゲンに捨てられたにせよ、自分たちはそれぞれの境遇がある。
同じような心の傷を不用意に共有すれば、そこだけを“かなめ”に繋がる関係になってしまう。
それがどうしても嫌だった。
境遇を慰め合い、傷を舐め合うだけじゃなくて、『そうじゃない』、もっと真っ当な関係。
ダゲキ(……ぼくの きもちを、ふつうの ことのように わらってくれた)
ふたりとは、友達になれるかもしれない。
ここに至る前のことなんか、関係ないと言ってくれるかもしれない。
ダゲキは、希望にすがった。
406: ◆/D3JAdPz6s 2013/09/16(月) 15:59:18.12 ID:ACv8CEVMo
あれから間もなく、ヨノワールは別の場所に姿を現した。
森のずっと、奥の奥の方、思索の原のほど近く。
森に住むポケモンさえ、あまり近づかない深い場所。
刺すような月明かりを浴びて、逃げるように深夜の木陰に潜り込む。
ずるずると腰を降ろし、大きな両手で頭を抱える。
頭の中で反響する誰かの声を、それでも自分の中に入らせまいとするように。
暗く寂しい洞窟でニンゲンに捕まり、そのままニンゲンのポケモンとして過ごした。
ニンゲンと過ごすうち、彼らの言葉を憶えた……だからなのだろうか。
忘れてしまった。
忘れてしまった……言葉を憶えて、忘れてしまった。
自分に課せられた本当の役割と、心を蝕むこの声との付き合い方を。
今は聞こえないけれど、いつまた聞こえてくるかもしれない。
誰かの命が終わる鐘、教えてやれとそやす声。
それが、お前の使命だと告げる……電波。
ヨノワール(それをつたえて……しあわせに、なれるのだろうか)
それでもいつか、思い出すことができるかもしれない。
誰かが近く死ぬことを、どうしてあの声が教えてくれるのか。
そうして自分が掬い上げた魂を、どうしてやればよかったのか。
ヨノワールは、希望を捨てられない。
420: ◆/D3JAdPz6s 2013/10/01(火) 01:35:00.09 ID:Nc6v5zDNo
私はその時、とても緊張していた。
なにせ、レンジャーになって初めての任務らしい任務だったからだ。
普段は事務所で書類の整理をしたり、定期的なパトロールをしたりするばかりだった。
要請がかかれば誰かしら出動はするものの、新人に任せてもらえるような都合のいい任務はなかなか来ない。
来たとしても、スピアーが人家の近くに巣を作って騒音が凄い、とか。
あるいは、ミミロルが畑の回りに穴を掘って年寄りが転んだ、とか。
そんな任務さえ、なかなか私のところへはやって来ない。
ドラマのように上手くはいかないものだ。
あの日だって、私は机の上のモンスターボールをぼーっと眺めては雑務をこなし、電話番までしていた。
そんな時、どこかの現場へ出ていたはずの上司から連絡が入った。
電話口で上司はこう言う。
――人手が足りない。動ける奴を何人か寄越してくれ
その言葉を聞いて、私の心は躍った。
これこそ、ようやく巡ってきた『レンジャーらしい仕事』だ。
多少うわずった声で返事をし、電話を切って居合せた先輩たちに話を伝えた。
421: ◆/D3JAdPz6s 2013/10/01(火) 01:38:06.74 ID:7LUQUtFVo
結局、先輩と私を含む数名が出動することになった。
私は思わず、浮き足立った。
人手が足りないというのなら、ポケモンの大量発生で何か問題が起きているとか、そういう話に違いなかった。
詳細は向こうに到着してから説明する、と上司は言っていた。
まあ……夢に描いていたような、華々しい任務にはならないかもしれない。
それでも、同期が駆り出された『民家の軒下でサンドが掘った穴を埋めてまわる任務』に比べれば、栄えある初陣になりそうだった。
経験を積んでいるはずの先輩は、やや緊張した面持ちを見せている。
すっかり浮かれていた私は、それを些細なこととして気にも留めなかった。
先輩「お前さぁ、のぼせるんじゃないよ」
無意識に、顔が笑ってしまっていたのだろうか。
明るい声でそう先輩が釘を刺してきた。
淡々と身支度を進める先輩に指摘されて、私は慌てて真顔に戻る。
レンジャー「は、いや、そんな……」
先輩「……そういえば初任務か」
先輩「勢いづくのもいいけど、吐くなよ」
レンジャー「は……はい!」
422: ◆/D3JAdPz6s 2013/10/01(火) 01:40:57.92 ID:DZybcM5xo
大量発生の対応で、吐くほど大変な作業があるのだろうか。
そりゃあ、大量発生したポケモンを全部捕まえろ、なんて言われたら……。
それはそれで、吐いてもおかしくないかもしれないけど。
……でも私の認識は、正直言って甘かったのだと思う。
到着した『現場』は、何の変哲もない雑居ビルのように見えた。
あまり目つきのよくない男たち……たまに女も混ざっていたが、それが制服の警察官に引っ張られてビルを出て行く。
手錠をかけられているのだろう、彼らの手元は一様に覆い隠されていた。
一部の男女は、思いがけず上等そうな装いをしている。
キャバクラのように、派手なだけの服装ではない。
なんというか、地味なのだが実はえらく高価なスーツ……といった印象だった。
少し待つと、連行される人間はすっかりいなくなった。
上司が何も言わずに頷き、私たちレンジャーは入れ替わりにビルへと進入する。
階段に、満足な照明はない。
今となっては旧式の蛍光灯が、ひどい音をさせながら腐った色合いの光を瞬かせている。
あまりそこに意識を向けていると、気持ち悪くなってしまいそうだった。
私はごくりと喉を鳴らし、埃だらけの足元を見つめることにした。
423: ◆/D3JAdPz6s 2013/10/01(火) 01:42:13.68 ID:v56YSE+Xo
かつんかつんと音を響かせて、手入れの行き届いていない階段を降りていく。
この期に及んでそこかしこに警察官が立っているのが目についた。
もう連れ出す人間はいないはずなのに。
第一、いまだに物々しい、この妙な雰囲気はなんなのだろう。
『物々しい』というのは、少し違うかもしれない。
警察官たちはみな一様に、沈痛な表情を見せている。
彼らは犯罪と犯罪者に対処するのが職務だ。
その彼らが、なぜこんな顔をするのだろう。
いい加減、大量発生の対応ではないことくらい、私にも理解できていた。
たしか、行き着いた先は地下二階くらいだっただろうか。
いずれにせよ、階段はそこで終わっていた。
重厚で、階段の古臭さとは不釣り合いな扉が眼前に鎮座している。
扉を潜る。
そこには少しばかり畏まったクラブのような空間が広がっていた。
424: ◆/D3JAdPz6s 2013/10/01(火) 01:44:08.45 ID:83tHOYCPo
クラブと違うのは、広々とした部屋の一辺に分厚いガラス板をはめこんだ吹き抜けがある点だ。
いや……ガラスで区切られている以上、吹き抜けとはいえないかもしれない。
もう一階分、あるいは二階分ほど下の階層があって、そこにある部屋をこの階から覗けるようになっている。
そういう作りだった。
分厚いガラスの周囲には、高級そうな椅子とテーブルが何組も並べられている。
簡易なボックス席になっているところもある。
……これは、何かを『観覧』するための設備だ。
上司「ひでえもんだな」
誰に言うともなく、上司が呟いた。
何がどう『ひどい』のか、私にもおおむね察しがついた。
ガラスの横を通り過ぎながら、中をちらっと覗く。
何も、誰もいない。
壁も床も無愛想なコンクリートが剥き出しで、ありていに言えば『何か』で汚れている。
金持ちが高見の見物を決め込む、ガラス製のコロシアムといった印象を受けた。
先頭に立つ上司に促されるまま、コの字型に奥へ進む。
425: ◆/D3JAdPz6s 2013/10/01(火) 01:46:22.46 ID:SjsaijO8o
『立入禁止』の文字が掲げられた扉が、バーカウンターの横にあった。
元々照明は雰囲気優先でよく見えないのだが、それにしても空気が暗く息苦しかった。
空調の調子が悪いのかもしれない。
扉の前に制服の警察官が立っていて、私の上司を認めると何も言わないうちに誰かを呼びに行った。
やって来た責任者と思しき人物とこちらの上司が、何か言葉を交わしている。
どちらも深刻そうな顔をしていた。
簡単に敬礼を交わし、警察の責任者は今降りてきた私たちと交代に、階段を上がって行った。
扉を背に、上司がこちらに向き直る。
上司「さて、仕事だ。初任務の奴もいるようだが……おい、話はどこまで聞いている?」
レンジャー「えっ……あ、あの……」
いきなり尋ねられて、私は思わずどもった。
レンジャー「ポ、ポケモンの保護、としか……」
上司「そうか。それはある意味でもっとも本質的だ。ではそのままの認識でいい」
レンジャー「???」
上司「まあ……ここに来るまでに説明できなくてすまない」
レンジャー「いえ、なんだか……なんとなく察しはついてます」
先輩「……あ、そうか。ちゃんと説明してなかったか」
426: ◆/D3JAdPz6s 2013/10/01(火) 01:49:29.01 ID:pna86Aszo
上司「……」
上司「非合法団体がポケモンを『虐待』していたことがわかった」
上司「人間の方は既に大半を引っ捕えてあるが、ポケモンの保護は警察ではなく我々の管轄だ」
レンジャー「虐……待……」
ぞっとすると同時に、私は心のどこかで熱狂していた。
大量発生絡みの、地道で地味な任務ではなかったからだ。
これぞ、私が思い描いていた『華々しい初陣』に相応しい事案だ。
もちろんこれだけで箔がつくとも、兄を越えられるとも思わないが。
上司「この先に保護対象がいる」
上司「我々の任務は、虐待されたポケモンの保護及び施設への収容、その後の諸々だ」
上司「やっと『落ち着いた』ところらしいから、極力刺激しないように気をつけるんだ」
それでも、レンジャーとしての経歴に堂々と書き加えることは出来るだろう。
だが私の認識は、実に甘かったのだ。
427: ◆/D3JAdPz6s 2013/10/01(火) 01:54:06.06 ID:1t5grHeio
そこで目にしたのは、夥しい数の傷ついたポケモンたちだった。
ただ『傷ついた』に留まらない。
目や手足をはじめとして、身体のどこかに著しい欠損を生じているもの。
目立つ欠損こそないものの、目を覆いたくなるほど傷だらけのもの。
どこを見ているのかわからない目をしながら、自分の腕を齧りつづけるもの。
身じろぎひとつせず、薄暗い檻の中からじっとこちらを見つめるもの。
凶暴な犯罪者だとでも言うように、非常識な量の鎖で繋がれ身動きが取れなくなっているもの。
まるで檻のような小部屋に、それぞれのポケモンが別個に押し込められている。
なんだ、これは……なんなんだ、ここは。
レンジャー「なん……なんですか、これ」
上司「保護対象、だよ」
428: ◆/D3JAdPz6s 2013/10/01(火) 01:58:28.77 ID:1t5grHeio
上司はそれだけ言うと、それ以上は何を尋ねても返事をしなくなった。
私たちは刺激しないよう、そっと歩みを進めていたつもりだ。
それでも、大人数の私たちを見て一部のポケモンが狂ったように騒ぎ始めた。
私は呆然として、斜め前を進む上司の顔を盗み見る。
上司は今まで見たこともない苦々しい顔をしている。
発狂しているポケモンに影響されたのだろうか。
暴れるほどでないものの、どのポケモンもすっかり落ち着きを失っていた。
聞くに耐えない悲鳴じみた鳴き声を上げ、あるいは狭い独房のような個室の奥へ、少しでも私たち人間から離れようとして縮こまる。
濁りきった、汚泥のような目を光らせて、彼らは一様に不信と憎悪と恐怖を露わにしていた。
どれも小型から中型のポケモンばかりで、わざわざボールではなく個室に入れられているのが不思議だった。
……なぜ、ボールに入れておかないんだろう。
どういう目的でここに置いているにせよ、その方が管理も楽だろうに。
入り口に近い『独房』にいるポケモンほど外見上の損傷は少なく、暴れる元気が残っていた。
奥へ進むほど欠損や傷だらけのものが増え、反比例するかのようにおとなしくしている。
そして奥へ行くほど、何かを諦めた目をしていた。
429: ◆/D3JAdPz6s 2013/10/01(火) 02:02:05.58 ID:sY4XZCF/o
……手を引っ掻かれた傷がひりひりする。
助けようとした相手に暴れられ敵意を向けられるというのは、やっぱり嫌なものだ。
私を引っ掻いたあのマリルは、耳と尻尾が欠けていた。
違う。
外に見える傷は、耳や尾の損傷だけかもしれない。
では、外部から見えない心の傷はどうだ。
触れることのできない心の『損傷』は、形ある尺度で測ることはできない。
別の形で、私たちの眼前に現れる。
簡単にボールに入れてしまえるポケモンもいたが、不用意に近づけば暴れて危険なポケモンもいた。
なんとなくその拒絶の強さこそ、傷だらけの心から滴る流血のように思えた。
正確には一致しないのだろうが。
先輩が自分のモルフォンを出して、暴れるガルーラを眠らせ、保護していた。
その場にいた連中みんなで、手分けして探したのに。
『コロシアム』中のどこを探しても、最後までガルーラの子供を見つけることはできなかった。
どうしてなのか、子供はどこにいったのか、考えたくもない、と先輩は笑いながら言っていた。
この先輩の心から零れる血の量もまた、私に推し量る手段はない。
430: ◆/D3JAdPz6s 2013/10/01(火) 02:04:00.23 ID:AQaNUR+go
レンジャー「……デスマッチ、ですか」
上司「文字通りのな。プロレスの方じゃないぞ」
私と上司、それから先輩は、すっかり生き物の気配がなくなった地下を歩きながら話をしていた。
ポケモンたちは、既に全て運び出されている。
あとはこまごまとした仕事を済ませ、引き上げるだけだ。
レンジャー「どうして、そんなこと……」
上司「普通の『戦闘不能』じゃ、満足できない連中がいる」
上司「だから、本当に『死ぬまで』戦わせる、というだけのことだ」
レンジャー「……」
それじゃ、死んじゃうじゃないですか。
あとなんでボールに入れないんですか。
ポケモンって強いじゃないですか……なんでみんな逃げないんですか。
こんなの、逆らえばいいじゃないですか。
嫌だって……やめてくれって。
頭の中を、ぐるぐると様々な疑問が渦巻いた。
そんな私を見て、上司はやれやれという顔をする。
431: ◆/D3JAdPz6s 2013/10/01(火) 02:05:48.97 ID:eTpclVaVo
先輩「色々思うところはあるだろうけど、まあ……あとで一緒にカウンセリングセンター行くか」
先輩「たぶん、環境の変化に耐えられなくてここ数日で何匹か脱落すると思うけど」
『脱落』という言葉の影に、もっといやらしい死の匂いが見え隠れしていた。
涼しい顔でそんな言葉を吐く先輩に、私は腹立たしさよりも踏んだ場数の違いを感じた。
慣れてしまえばいいというものではないんだろうけど。
上司「人間と同じだ。急激な変化ってもんが苦手な奴はどこにでもいる」
上司「心身に負った傷に、耐えられないことだってある」
上司「それって『弱い』ってことだと思うか?」
レンジャー「……思わないですよ」
上司が何を答えさせようとしているのか、よくわからなかった。
上司「あいつらは、ある意味取り返しのつかない虐待を受けた」
レンジャー「……?」
上司「わかるか?」
432: ◆/D3JAdPz6s 2013/10/01(火) 02:12:19.77 ID:1NJwpi0Go
わかってしまいそうだった。
口にしたら、自分がわかっていることを、自分自身が自覚してしまう。
それでも、言葉に出さないといけないことではあった。
レンジャー「ここにいたポケモンは……」
レンジャー「みんな、勝ち残った方」
先輩「つまり、生き残った方、ってことだよね」
上司「自分の意志だったとしても、あるいは人間に命令されて仕方なく、だったとしても」
上司「あそこのポケモンたちは、『ポケモン殺し』をさせられたってことだ」
がつんと殴られたような気分になった。
上司「賢いポケモンほど、そういうことを理解してしまうもんだ」
上司「たとえ自分が生き存えるためには仕方なかったんだとしても」
上司「むしろ、そういう免罪符を与えられるほど、心は蝕まれる」
先輩が笑って私を見た。
笑っている。
433: ◆/D3JAdPz6s 2013/10/01(火) 02:13:35.30 ID:xMgkVEiRo
先輩「まあ……こんな調子だけど、俺だってショック受けてないわけじゃないんだよ」
上司「最初の出動にしては重かったか」
先輩「いいんじゃないんですか。こいつ、早く現場に出たがってたし」
先輩「華々しい初陣、ってやつにはならなかったかもしれないけど」
見抜かれてたのか。
いや、それとも新人が必ず通る道、というやつなのだろうか。
私はなんだか無性に恥ずかしくなって、下を向く。
情けない思惑がバレていたから、ではない。
人間であることが恥ずかしくなったのだ。
無意識に、ポケットに忍ばせたモンスターボールに触れてしまう。
人間とポケモンの関係って、なんなのだろう。
私と、この小さなボールに押し込められた相棒の関係は、なんなのだろう。
その答えを見つけなければならない。
このボールに入った相棒が、進化してしまうまでに。
先輩「引き取り手、どんくらい見つかるかなあ」
あっけらかんとした声で、先輩が呟いた。
これが、私の初任務だった。
443: ◆/D3JAdPz6s 2013/10/14(月) 22:53:52.08 ID:bOx9A3pZo
テレビから、アナウンサーの神経質な声が聞こえる。
日誌を書くための音楽がわりだとしても、本当はもう少しマシなものを流したかった。
しかし仕事との関わりを考えると、このニュースを見ないという選択肢は初めからない。
画面が切り替わり、ドキュメンタリー的なよく揺れる映像が流れ始めた。
レンジャーの若者はテーブルに向かい、何かを書きながら耳を傾ける。
ナレーション『この日、我々は……』
ほどなくして、小さなテレビの枠の中に不愉快なものが映った。
それほどショッキングなものではないが、見て楽しいものでもない。
散乱する、独特の模様に覆われた大量の卵の殼。
周囲には湿った草の積み重なる地面、画面の奥には湿度の高そうな樹木が広がっている。
地面との馴染み具合や殼の汚れから考えて、卵の殼はかなり新しいものだと一目でわかった。
テレビ画面を盗み見ながら、そんなことを考えた。
ありがたいことに、その『森』は若いレンジャーのよく知るヤグルマではなさそうだ。
生えている植物も、伺い知れる気候も、ヤグルマとは違う。
レンジャーの若者にとっては、どの風景も全く見覚えがなかった。
カメラが少し引き人物を映すと、ナレーションが淡々とした声で何か説明した。
444: ◆/D3JAdPz6s 2013/10/14(月) 22:58:22.11 ID:bOx9A3pZo
ナレーション『我々は、彼の普段の業務に同行させてもらうことになった』
画面に映った誰かが、同行する撮影スタッフに向かって目配せした。
オレンジと黒っぽいツートンカラーで統一された、見慣れたユニフォームに身を包んでいる。
ニュースを初めから見ていたわけではないが、どこかの地方のレンジャーに間違いなかった。
レンジャー『……週に一度は、見つかりますね。こういうの』
カメラが撮影しているにも関わらず、テレビの中のレンジャーは険しい表情を取り繕おうともしない。
ぼうっと見ていたつもりだったが、いつの間にか自分まで顔が引き締まった気がした。
レンジャーの男はおもむろにしゃがこみ、そこに落ちている不愉快な何かを調べ始めた。
カメラもまたレンジャーの前方に回り、同じくゆっくりとその不愉快な何かに近づく。
何かが映り、ほんの一呼吸遅れて、テレビの映像に粗いモザイクがかけられた。
レンジャー『他にも、孵化直後に捕食されたらしい食べかすがありますね』
テレビクルー『孵化したのは、何ですか?』
レンジャー『これ全部、ケムッソで間違いないでしょう』
レンジャー『……厄介だなぁ』
テレビクルー『どう厄介なんです?』
レンジャー『いや、どっちに進化しても、この森には……』
445: ◆/D3JAdPz6s 2013/10/14(月) 23:02:32.92 ID:bOx9A3pZo
映像はそこから数分で終わった。
明るい照明で白っぽく見えるスタジオに、映像が戻る。
見慣れないセットに驚いたのか、コマタナがテレビの前に陣取って画面にかじりついた。
アナウンサー『……この件に関して、ポケモンリーグ理事会イッシュ支部理事長は次のように述べています』
レンジャー「おぉいコマちゃん、テレビ見えないよ」
コマタナ「う゛ぁ……お゛……?」
コマタナは、レンジャーの言葉を難なく理解した。
テレビにくっつきそうなほど近づくのは止め、ちょこんと床に座って画面を見上げる。
ようやく、コマタナはレンジャーやこのログハウスに慣れてくれたようだった。
さっきまでは、何かしら大きな物音がするだけでおどおど怯えを見せていたのだが。
きのみを食べて満腹になったことで、なんとか落ち着いているのが現状である。
レンジャーの若者は、コマタナのこれまでの日々に思いを馳せた。
どういう経緯があったにせよ、今後このコマタナが人間と共に暮らすのは、相当に難しいだろう。
人間がいない世界でなら、この子も穏やかに毎日を重ねていけるのだろうか。
……そうすることでしか、この子や彼の傷は癒えないのだろうか。
人間とポケモンの関係そのものを否定されたような気になった。
446: ◆/D3JAdPz6s 2013/10/14(月) 23:04:20.95 ID:bOx9A3pZo
レンジャー(……私は、こうやって気を引き締める機会があるだけ、運がいいか)
その後ろ姿を眺め、レンジャーは溜息をついた。
コマタナに気づかれないように、こっそりと。
レンジャー「うん、そう、そう。見えるようになった。ありがとう」
努めて明るい声で礼を言いながら、再びテレビに目を向けた。
いつの間にか、テレビには見たことのない男が映っている。
男にはマイクが向けられ、眩しいフラッシュを焚かれている。
レンジャーは、コーヒーカップに口をつけながらその映像を眺める。
レンジャー(へー……理事長って、こんな顔してたのか)
レンジャー「うん、やっぱりエスプレッソが一番だなぁ」
理事長『……このような行為は、ポケモンと共に生活する全ての人々にとって、許されざる蛮行です。
悪質なブリーダー、無認可の心ない育て屋が跋扈することにより、生命の尊厳はもとより……』
447: ◆/D3JAdPz6s 2013/10/14(月) 23:07:03.65 ID:bOx9A3pZo
コマタナは、かじりついていたテレビから離れ、レンジャーの元に近づく。
目の前で何かを書きつける様子を見て、コマタナは嬉しそうに飛び跳ねた。
コマタナの両手には、周囲のものを傷つけないよう堅い革製の手袋がはめられている。
それがテーブルに当たり、がたがたと鈍い音をたてた。
見知ったものを意外なところで見てしまい、それで喜んでいるように見える。
コマタナ「イギッ! あ゛ー……ぢゃ!!」
レンジャー「な、なんだよ、そんなに珍しい? 日誌書いてるだけだってば」
コマタナ「ぉ……ぅ゛……?」
レンジャー「あはは、お前ホントかわいいなぁ」
理事長『……遺伝的に能力の高い個体を生み出すために行われる乱獲や無計画な交配と繁殖、
また意に添わない個体や卵の不法な遺棄は、今や社会問題と言っても過言ではありません』
レンジャー「お前のトレーナー……あ、いや」
レンジャー「お前が一緒にいた人間も、こうやって何か書いたりしてたの?」
コマタナ「……ぉぁ……?」
448: ◆/D3JAdPz6s 2013/10/14(月) 23:10:56.06 ID:bOx9A3pZo
首をかしげるコマタナを見て、レンジャーは再び複雑な気分になった。
身体の表面に残る傷こそ薄れ、内部を蝕む痛みこそ消えているかもしれない。
それでも心ない誰かが、このコマタナを肉体的にも精神的にも痛めつけたことに変わりない。
ただの、人間の勝手な都合で。
コマタナ「お゛ー、あー……」
回復不能なほど、発声器官を傷つけられた痛々しいコマタナの声。
ポケモンセンターの治療が済んでもこの状態ということは、もうこれ以上の改善は見込めまい。
あの場では、ダゲキにああ言ったが。
キリキザンに進化してしまえばまた、身体の構造も変化するから話は別だ。
だがそれは、コマタナという種類の生態を考慮すれば……随分と先の話になるだろう。
このコマタナは、これから相当な期間をこの喉と付き合いながら生きていかなければならない。
たとえコマタナ本人が楽しそうに鳴いていても、どう贔屓目に考えてもひどい声だった。
似たような悲惨な鳴き声を、レンジャーになってすぐの頃に聞いたことがある。
薄暗い、あの雑居ビルの地下深くで。
449: ◆/D3JAdPz6s 2013/10/14(月) 23:13:29.66 ID:bOx9A3pZo
狂ったように叫ばれ続けていた、耳を覆いたくなる鳴き声。
声もなく鎖に埋もれ、薄暗がりからこちらを見る濁った目。
あの目が今のように力を取り戻すまで、どれほどの時間を費やしたのだろう。
アナウンサー『……森や海岸、里山を始めとした「もともとポケモンが多種生息する場所」を狙って、
不法な遺棄する場合が多い、と理事長は語っています』
レンジャー「……ひどいことするよなぁ」
レンジャー「それ結局、人間の勝手でポケモンを捨ててるってことだもんな」
人間の勝手。
ポケモンたちが、理不尽なまでの苦しい状況に置かれるのは……常に人間のせいだ。
だったら……人間とポケモンは、一緒にいてはいけないのだろうか。
そんなのは寂しすぎる。
一緒にいることで生まれる不幸があるとしても。
同じように、別々の存在が時間を共有することで幸福だって生まれるはずだ。
そうでなければ……そうでなければ、自分の存在意義すら怪しくなる。
何のためにレンジャーという、人間とポケモンを繋ぐ仕事をしているのかわからない。
レンジャー「お前さあ、『もぐり』って意味、わかる?」
コマタナ「……?」
レンジャー「……うん、いいよ、わかんないよなぁ」
レンジャー「こんなこと続けてたら、人間はいつかポケモンに見捨てられちゃうよね」
450: ◆/D3JAdPz6s 2013/10/14(月) 23:16:33.87 ID:bOx9A3pZo
若いレンジャーは、コマタナにこちらの言葉が通じることを素直に喜びたくなかった。
言葉が十分に通じるということは、『この子』がそれなりの期間を共に過ごしてきたという意味でもある。
『この子』をこんな目に遭わせた、トレーナーの風上にも置けない人間と。
保護施設に収容されたぼろぼろのポケモンたち。
彼らが治療を受け、新たな飼い主に引き取られていく光景を幾度も見てきた。
頃合いを見て、引き取り手のところへ抜き打ち調査を入れる。
全ての引き取り手を調べることは難しいが、それでもおおまかな傾向を調べ、対策を練ることはできる。
肉体的に疲弊したポケモンが多いせいもあって、トレーナーとしてバトルに使うため引き取る人間は少なかった。
子供や孫が巣立ってしまった年寄りの、心の拠り所。
あるいは、小さな子供がいる家庭に加わった、新たな家族。
あるいは、何らかの形で失ってしまった、パートナーの代理。
若いレンジャーが担当した範囲では、おおむね安らかな『余生』を送るものが多かったように思う。
ほら、心ない人間ばかりではないんだ。
だから、人間であることに罪悪感を覚える必要はない。
自分もまた罪深い人間である以上、その希望は捨てたくなかった。
捨てないようにしてきた。
幾度、同じ人間に圧し折られそうになっても。
451: ◆/D3JAdPz6s 2013/10/14(月) 23:22:16.10 ID:bOx9A3pZo
『いつまでも懐かない』。
『可愛げがない』。
そういって突き返してくる人間も、決していないわけではなかった。
少ないながら、保護される前と大差ない、むしろ劣悪な環境に放り込まれるポケモンもいる。
たちの悪い保護団体の元へ行き着いてしまえば、たちの悪い引き取り手のところへ行く可能性は格段に上がる。
もっとレンジャーや警察の権限、人員、時間があれば精査は可能なのだろう。
だが、現実問題として何ひとつ実現できてない。
人間として悔しいが、何も間に合っていない。
だから、社会的に言えば『仕方がない』のだ。
あのダゲキが人間である自分の前に姿を見せてから、協力関係を結ぶまでずいぶんと時間がかかったこと。
助けを求めて彼が連れてきたポケモンたちが、二度とログハウスを訪れてくれないこと。
先日連れてきた『彼の友達』が、自分には姿すら見せてくれなかったこと。
彼らから一定の信用を得たとはいえ、決して信頼を獲得できているわけではないこと。
何か頼みがあって顔を出す時も必ず謝礼を寄越し、決して人間に借りを作らない姿勢を崩さないこと。
……いつか、一度尋ねたことがあった。
『謝礼を渡すことを考えたのは君か』と。
彼は黙って私を見上げるだけだった。
彼がひとりで決めたのかもしれないし、『よそもの』同士で話し合い決めたのかもしれない。
いずれにせよ、何も答えようとしなかった。
私には、それを拒絶と受け取る以外にない。
452: ◆/D3JAdPz6s 2013/10/14(月) 23:28:53.54 ID:bOx9A3pZo
レンジャー(思い出してもらえないってのも、寂しいもんだね)
初心を忘れず、本分を失わず、常に持つべき意識を抱き続けるのは容易ではない。
人間だから、ともすればレンジャーとして忘れてはならないことさえ、忘れてしまうかもしれない。
この若いレンジャーが、この森からの異動を拒み続ける理由がそれであった。
彼や森に潜む『人間との繋がりを捨てさせられたポケモンたち』のありさまから、目を逸らさないこと。
アナウンサー『……では、豊富なフィールドワーク経験をお持ちで、ポケモンの生態にもたいへんお詳しい……』
レンジャー(……にしても、ニュースでまでやるなんて、明日は朝刊にでも載るんかな、この話題)
レンジャー(現場の私たちには今更でも、世間は知らないもんなのかも)
レンジャー「人手、もっと配置してくれりゃいいのに」
レンジャー(いや……頭の固い奴が派遣されてきたら、それはそれで困るけどさ)
不良レンジャーを気取るつもりはなかった。
同じレンジャー同士でも『どこまでがレンジャーの仕事なのか』という認識に幅がある、というだけのことである。
テレビからは、専門家と紹介された恰幅のいい男の声が聞こえていた。
柔らかそうな椅子に腰掛け、アナウンサーと話をしている。
453: ◆/D3JAdPz6s 2013/10/14(月) 23:31:05.39 ID:bOx9A3pZo
アナウンサー『……なるほど、ではどういう意図が考えられますか』
博士『一見、多種多様なポケモンが生息する場所になら、
十数匹ほどの不法な遺棄でもさほど影響がないように思われるかもしれません』
博士『しかし、それは大いなる勘違いというものです』
アナウンサー『はあ……』
博士『考えてもみてください。それぞれが“これくらいなら”とゴミを捨てる。
それが一人や二人ならともかく、百万人が、一億人が同じことをすれば、
それは自然に対するテロリズムとも言える規模になるのですよ』
アナウンサー『な、なるほど』
博士『それに多種多様なポケモンが生息する場所にこそ、複雑で繊細な生態系、
まあいわば、ポケモン同士の住み分けや自治とでも言うのでしょうか。
そういうものがしっかりと形成されている場合が多いのです』
テーブルの片隅には、浅い籠にモンスターボールがいくつか並んでいる。
レンジャーはその中のひとつに手を伸ばした。
中には、長年の相棒であるココロモリが収まっている。
子供のころ、年の離れた兄に協力してもらって初めて手に入れたポケモンだった。
もちろん、捕まえた当時の姿はココロモリではなく、コロモリである。
『将来はココロモリになるから』と、不自然にならないよう家族総出で名前を考えた。
手に入れたその日から片時も離さず、どこへ行くにもポケットに連れていた。
用もないのにボールから出し、抱きかかえて寝ようとしたことさえある。
『羽を痛める』と兄にこっぴどく叱られて、すぐにボールに戻すよう言われてしまった。
その兄はレンジャーになった。
今ではそれなりの地位にいるとかで、末端の自分ではどこに行けば会えるのかもよく知らない。
……ココロモリに進化したのは、自分がレンジャーになってしばらく経った頃だ。
レンジャー試験にパスした時よりも、ずっと嬉しかった。
454: ◆/D3JAdPz6s 2013/10/14(月) 23:35:03.44 ID:bOx9A3pZo
アナウンサー『……それでは博士、どのような場面を見かけたら、遺棄である可能性を疑えばいいのでしょうか』
博士『そうですね……ポケモンの多くはそれぞれのテリトリーを持ち、おおむねその奥、
何よりも人間や天敵の目には触れない場所で繁殖すると考えられています。また……』
どれも、レンジャーとしての基礎知識を学んでいた頃に聞いたことがある話だった。
懐かしささえ感じる。
だが懐かしさと同時に、優秀な兄と常に比べられていた苦い記憶も蘇る。
最近では、あまり思い出していなかったことばかりだ。
コマタナ「……?」
レンジャー「ココ、出ておいで」
ココロモリ「きゅーっ?」
コマタナ「う゛ぁっ!?」
ボールから飛び出したココロモリはそのまま舞い上がり、ログハウスの梁にぶら下がって毛づくろいを始めた。
ココロモリ「キュイーウ」
レンジャー「大丈夫、おとなしい子だから」
コマタナ「お゛ぁ……お??」
レンジャー「ココ、お前、私と一緒にいて、楽しい?」
ココロモリ「キュ? キュキュイーッ」
455: ◆/D3JAdPz6s 2013/10/14(月) 23:40:04.11 ID:bOx9A3pZo
ココロモリは毛づくろいを止め、嬉しそうに羽ばたいて好意を伝えた。
ほら、私とこの子の気持ちは、確かに通じている。
はじめの頃は、ねんりきを自分にかけられて引っくり返ったこともあった。
バトルで出した指令を聞いてもらえず、ボイコットされたこともある。
それでも少しずつ、私とココは『仲良く』なって来た。
人間とポケモンの信頼関係とは……いや、誰かと誰かの関係は、そうやって薄い紙を積み重ねていくように培っていくものだ。
……と思う。
レンジャー「……ありがとう」
レンジャー「今まで、ココには本当に世話になってきたなあ」
そうやって築き上げる信頼は、森の野生のポケモンたちとの間でも変わらないはずだ。
だから、レンジャーになったといっても過言ではない。
博士『……つまりですね、先程の映像のように、天敵に狙われやすい場所にゴロゴロ転がってるとか、
そんな状態の卵があったとすれば、その時点で不法遺棄の可能性が極めて高いと、そう考えて差し支えないわけです。
いやむしろ、それ以外の可能性は限りなく低い。
一刻も早く、関係機関への通報をお願いしたい状況ですよ、それは』
博士『もっとも、天敵に食べられて、結局は半数以上が生き延びることもままならない場合も多いでしょうが……。
だからといって、人倫に悖る人間の行為が見過ごされていいわけではないのですよ!』
アナウンサー『な、なるほど、よくわかりました。地域のレンジャー、警察機関、リーグやジム関係者が連携を取り、
早急に対処していかなくてはいけませんね。オダマキ博士、本日はありがとうございました』
アナウンサー『えー、次は明日の大量発生予報です』
456: ◆/D3JAdPz6s 2013/10/14(月) 23:42:30.49 ID:bOx9A3pZo
テレビの中の男の言葉が熱を帯びていた。
アナウンサーが焦って切り上げたところを見ると、本気で憤っているのかもしれない。
レンジャー「……コマちゃん、もう寝よっか。明日は早起きして、お前の検査だよ」
コマタナ「ぇ゛……ぅー……ぁ゛?」
レンジャー「そう、そう。け・ん・さ」
コマタナ「キヤァーッ!」
ココロモリ「きゅーい」
必死で言葉を真似ようとするコマタナを微笑ましく思いながら、若いレンジャーは書類を片付け始めた。
さすがに、前回のように切羽詰まった状況ではない。
とはいえ明日の朝一番に、シッポウシティに到着しておきたかった。
人員が慢性的に不足している現状、平日の午前中に話が終わっていて欲しかったのである。
レンジャー「よーし、みんなー! 寝るぞ!」
コマタナ「ィア゛ー!」
ココロモリ「キュー」
457: ◆/D3JAdPz6s 2013/10/14(月) 23:44:21.70 ID:bOx9A3pZo
相棒のココロモリをボールに戻らせ、レンジャーはボールをテーブルの上に戻す。
その中が、相棒にとって快適な世界であることを願うばかりだった。
ありったけのクッションを積み上げてコマタナのベッドを作る。
手袋をさせているから、破かれてしまうということもないだろう。
レンジャー「ほら、お前のベッド」
コマタナ「! ア゛ァー!」
コマタナは奇声を発しながら、クッションの山に飛び込んだ。
手足をばたばたと動かし、ふわふわしたベッドの中で飛び跳ねている。
しばらくするとクッションに頬擦りし、丸まって寝息を立て始めた。
どうやら、即席の寝床は気に入ってもらえたようだ。
レンジャーはほっと息をつき、ベッドに倒れ込む。
ベッドがやけにすっきりしているのは、クッションや枕を全て明け渡してしまったからだった。
458: ◆/D3JAdPz6s 2013/10/14(月) 23:49:23.70 ID:bOx9A3pZo
その夜、レンジャーの若者は夢を見た。
見覚えのない青年が、見覚えのない場所で、見覚えのない何かを手に持っている。
もちろん兄ではないし、知り合いの誰かでもない。
どちらかといえば、自分と同じくらいの年代に見える。
夢だから、知らない人間が出てきてもおかしくはないのかもしれない。
青年の周囲にも、また別の誰かが何人も立っているような気がした。
けれど夢の中で思うように身体が動かず、そちらを見ることもできない。
もごもごと、くぐもった話し声が聞こえる。
声は確実に聞こえているのに、何を言っているのかはわからない。
夢だからなのかもしれない。
ゼリーの中を泳いでいるような気分だった。
それなのに、突如として何かの鳴き声が響いた。
とても夢の中とは思えない、鮮明な声。
地獄の底から響いているような、心を押し潰す声。
あんな遠吠えを上げる生き物が、この世にいるのか。
その声に反応するかのように、青年がゆっくりとこちらを振り向いた。
青年は、ぞっとするほど冷たい目をしている。
真っ黒な何かが、タールよりもなお黒い雫を滴らせながら青年の足元に迫り――
そこで目が覚めた。
とんでもない『悪夢』だ。
469: ◆/D3JAdPz6s 2013/10/23(水) 02:25:14.48 ID:MiJ3zmh5o
日が出ていれば、おそらく真上に近い場所にあっただろう。
けれども彼らの周囲では音のない、絶え間ない雨が降っている。
雨の粒子は細かく、息を吹きかければ舞い上がりそうなほどに軽かった。
降り始めを知らずにこの光景を見れば、雲や霧の中に入ってしまったのと区別がつかないかもしれない。
青々とした樹木たちも白く霞み、ぼんやりしていた。
それでも空気そのものは乾燥しており、皮膚に触れる霧のような雨粒が心地いい。
水気と植物の甘い香気が綯い交ぜになった瑞々しい匂いも、憂鬱な森の中にあって爽やかさを醸し出していた。
その中をゆっくりと歩く、二つの影がある。
片方は小さい。
もう片方の影も比較で言えばやや大きいという程度で、せいぜいが人間の幼児ほどの背丈しかない。
やや大きい方が、ギィギィと軋むような鳴き声を発した。
ジュプトル『雨、いいなー』
小さな方も、ピィと高い声で返す。
チュリネ『うん、雨、大好き』
470: ◆/D3JAdPz6s 2013/10/23(水) 02:27:45.68 ID:MiJ3zmh5o
傍目には、ふたりの草ポケモンがそれぞれの鳴き声で、さえずり合っているようにしか見えない。
事実ふたりの間に、未熟な人間の言葉を除く共通の言語は存在しなかった。
相手と同じ鳴き声、同じ言語を発することもできない。
生物学的に構造が大きく異なる以上、相手と同じ鳴き声を出すことは極めて難しかった。
とはいえ流石に、相手の鳴き声が言わんとしていることは、なんとなくわかる。
それもこれも、比較的近い種類のポケモン同士だからだった。
あまりに種類の遠いもの同士では通じない。
そもそも発した鳴き声が、相手の聴覚器官に届かないことさえある。
隣り合う土地の、起源の近い外国語同士のようなものであった。
ジュプトル『バシャーモとか、濡れるの好きじゃないんだと』
チュリネ『にーちゃんも、あんまり好きじゃないって』
チュリネ『でも、水浴びは好き……なんだって』
ジュプトル「……」
ジュプトル『お前……ほんと、あいつの話ばっか』
ジュプトルがなかば呆れ顔でそう唸ると、チュリネは驚いたような顔をした。
チュリネ「そう……かなぁ?」
471: ◆/D3JAdPz6s 2013/10/23(水) 02:30:51.63 ID:MiJ3zmh5o
たどたどしい、甲高い声と人間の言葉でそう言った。
ジュプトルは少し面喰らって、それでも気をとりなおし相手に合わせることにする。
どちらの方が込み入った話ができるかと言えば、疑念の余地はなかった。
チュリネはジュプトルの皮肉に対して、人間の言葉を使ってでも言いたいことがある。
意識的ではないにせよ、このふたりの間で人間の言葉を選択するということには、そういう意味があった。
ただ、本来の声の出し方ではないから、人間の言葉での会話は少し疲れる。
ジュプトル「だって、おまえ」
ジュプトル「なんでもかんでも……すぐ、にーちゃん、にーちゃんって」
チュリネ「チュリネ、そんなに いわないもん」
チュリネ「みーちゃんも、イーブイちゃんも、フシデちゃんも、ジュプトルちゃんのことも、いっぱい おはなし してるもん」
ジュプトル「でもさあ、ほんとは ダゲキと、しゃべりたいんだろ?」
チュリネ「……」
自分が言う前に核心を突かれたのか、あるいは言われたくない本心を言われたのか。
何も言わずにぷいと向きを変えてしまう。
チュリネは新しく生え揃った頭頂部の葉を揺らし、歩く速度を少し上げた。
言葉で答えが返ってくることはなかったが、肯定したも同然であった。
ジュプトル(……わっかりやすいなぁ)
472: ◆/D3JAdPz6s 2013/10/23(水) 02:35:05.11 ID:MiJ3zmh5o
人間に連れられたポケモンは、もはや野生のポケモンとは異なった存在となる。
一度も人間と関わったことのない野生のポケモンは、近づこうとすらしない。
『元』人間の所有物であるポケモンを、あからさまに敵視してくるものもいる。
トレーナーが繰り出すポケモンに対して、野生のポケモンたちが『そう』するように。
幸い、この森で出会う連中の中に、後者はほとんどいなかったが。
ジュプトルはダゲキから何度も、そんなふうに扱われるだけの理由というものを説明されていた。
攻撃的に接してくるポケモンがほぼいない理由も含めて。
説明されれば理屈は理解できる気がしたが、いまいち腑に落ちない。
野生の連中に敬遠されるのも仕方ないらしい、という認識が持てた程度だった。
ならばなぜ、親しくしてくれるポケモンが一部とはいえいるのか、それも疑問だった。
彼がよそものに世話を焼いてきたわけは、ひょんなことから知ってしまったが。
だがチュリネは、それともまた異質だった。
ジュプトル「おまえも、へんなやつだよな」
チュリネは全くの野生のポケモンであるにもかかわらず、頻繁に彼らの元に顔を出す。
人間の言葉を憶え、草ポケモンなのに火を恐れなくなった。
ジュプトルが平然と焚き火にあたることができるのと、同じように。
そういう意味では、このチュリネも変わり者である。
だからこそ、他の同じチュリネたちから距離を置かれていた。
チュリネの方も、今は他のチュリネたちと積極的に関わろうとはしない。
なぜここまで『よそもの』といることを求めるのか、ジュプトルにもよくわからなかった。
473: ◆/D3JAdPz6s 2013/10/23(水) 02:37:04.13 ID:MiJ3zmh5o
いや、そんなことはない。
ジュプトルはすぐに自己欺瞞に気づく。
理由は、ある意味どうしようもなく単純で明快だからだ。
彼女は、『よそもの』に寄り添うことを望んでいるわけではない。
『よそもの』と『そうでないもの』の間に立とうとしていた誰かの、傍らにいたいだけだ。
無言で走っていたチュリネが立ち止まり、振り返った。
チュリネ「チュリネ、ね」
ジュプトル「ん?」
チュリネ「チュリネ、にーちゃんと、いっしょがいい」
ジュプトル「ふうん」
ほうら、やっぱり。
おれの思ったとおりだ。
ジュプトル「あんな おもしろくないやつの、どこが いいんだ?」
その言葉に、チュリネがわかりやすく、むっとした。
それもまた予想通りであり、いつもの応酬である。
チュリネ「にーちゃん、おもしろくない ちがう」
ジュプトル「はい、はい」
474: ◆/D3JAdPz6s 2013/10/23(水) 02:38:31.63 ID:MiJ3zmh5o
『あこがれ』を受け止めなければならないのは大変だ、とジュプトルはいつも思う。
子供は真似をしたがり、同じようにやりおおせてみたがる。
無茶をし、無理を通そうとし、足が攣りそうなほど背伸びをする。
そうすれば、一人前として認められるとでも思っている。
今日の『見回り』ひとつとっても、本来ならばジュプトルひとりで出るはずだった。
それなのに、『少しでも早く、ひとりで見回りができるようになりたい』とくっついて来たのがチュリネである。
チュリネの意図に気付いていたのかどうかわからないが、ダゲキも特に止めるそぶりはなかった。
おおげさに反対するほどではなかったから、ジュプトルも受け入れてしまった。
だが正直、めんどくさい。
ジュプトル(……ペンドラーも、めんどくさい って、おもってたのかな)
そうではなかったと思いたい。
そんなのは悲しい。
そんなのは、いやだ。
475: ◆/D3JAdPz6s 2013/10/23(水) 02:40:38.74 ID:MiJ3zmh5o
チュリネ「ねえ、ジュプトルちゃん」
ジュプトル「ん?」
チュリネ「『いっしょ』って、どういう こと?」
ジュプトル「……え?」
ジュプトル「いま じぶんで、いったろ」
チュリネ「……うん」
チュリネ「チュリネ、いっぱい いっぱい おぼえたの」
チュリネ「みんなが おはなし してるの」
チュリネ「いっぱい いっぱい かんがえたの」
チュリネ「でも わからない」
チュリネ「ぜんぜん、いっしょじゃない」
チュリネが少し寂しそうに吐露した。
ジュプトルには、チュリネが何を悩んでいるのかよくわからない。
彼女の目指すところがどこなのか、わからない。
自分の同族と生きることを捨ててなお、したいことなどあるのか。
種族にこれほど隔たりのあるポケモン同士で、彼女がなぜそこまで執着するのか。
こちらは『チュリネ』で、あちらは『ダゲキ』だ。
どうしても理解できなかった。
476: ◆/D3JAdPz6s 2013/10/23(水) 02:42:22.44 ID:MiJ3zmh5o
ジュプトル「しらないよ」
チュリネ「……」
お前はあいつの……あんな奴のどこがいいんだ。
そりゃあ、あいつは悪い奴じゃないけど。
でも気がきかないし、変な奴だし。
……嘘つきだし。
チュリネ「いっぱい がんばったの」
チュリネ「でもね」
チュリネ「にーちゃんと チュリネ、いっぱい ちがう」
チュリネ「みーちゃんも、ジュプトルちゃんも いっぱい ちがうけど……」
わからない。
お前はさ、あいつを仲間だと思ってるかもしれないけど。
あいつはとっくに、森のポケモンじゃないんだ。
お前やおれに、嘘ついてたんだぞ。
ヨノワールや、ミュウツーでさえ、本当のことを知ってたのに。
おれは、知らなかった。
お前も、知らない。
それでも……あんな奴がいいのか?
477: ◆/D3JAdPz6s 2013/10/23(水) 02:43:21.99 ID:MiJ3zmh5o
……なんだよ、おれ。
ただの“いやなやつ”じゃないか。
ジュプトル(……くそっ)
まだ、自分の中で落とし所が見つかっていない。
見つけた“つもり”、納得した“つもり”でしかなかった……のかもしれない。
自分の中のせめぎ合う感情を、コントロールできない。
『騙された』?
『隠さないで教えてくれてもよかったじゃないか』?
ともだち……じゃないか。
だから、なんなんだ。
おれたち、ともだち……なんだろ?
でも、ともだちだからって、なんでも言わなきゃいけないわけじゃない。
ともだちといえども、言いたくないことだってあるかもしれない。
――ねえ、お前が言う『ともだち』って、なーに?
そう、誰かが問いかけてくる。
478: ◆/D3JAdPz6s 2013/10/23(水) 02:44:40.49 ID:MiJ3zmh5o
腹の中に、もやもやとした何かが……別の生き物がいるような気がした。
その生き物は、はらわたのなかにどろどろ渦巻く膿を手に掬い、これみよがしに掲げてみせる。
そしてにやにや笑いながら、うっかり目を向けてしまったジュプトルの顔に押しつけてくる。
――お前は、本当に酷い奴だ
――これまで世話になっておきながら、腹の中ではそんなふうに思っている
――ほら、見てみろよ
――お前があんまり毒づくから、腹の中に……こんなに素敵な膿が溜まってる
つまりは、そういうことなんだ。
頭ではわかってる。
あいつは、別に悪くない。
言いたくなかった気持ちも、十分理解できる。
結局は教えてくれたじゃないか。
黙っていたことを、悪かったとも言ってくれたじゃないか。
だからチュリネに……あんな子供に苛立ちをぶつけても、意味はない。
そりゃ、ただの八つ当たりだ。
悪いのはたぶん、おれなんだ。
それが余計に腹立たしかった。
爽やかに感じていた霧雨も、不快に思える。
479: ◆/D3JAdPz6s 2013/10/23(水) 02:46:29.49 ID:MiJ3zmh5o
――あっちは、やっと秘密を教えてくれたっていうのに
――なのに、お前はどうだ
――こんな醜い秘密を、まだ誰にも言えないで身体の中に溜め込んでるなんて
――本当に、いやな奴
ああ、もう。
気分悪いや。
ジュプトルは自分の足元を見ながら歩き、顔を顰めた。
チュリネ「あー」
唐突に、チュリネが大きな声を出した。
ジュプトル「ん? どうし……」
ジュプトル「あ」
ミュウツー『……お……』
チュリネの声につられて前を見ると、見慣れた生っ白い巨体が佇んでいた。
どこか腰の引けた様子で立ち止まるミュウツー。
驚いた顔をしてこちらを見やり、細く頼りない両腕にきのみを抱えている。
腰が引けているように見えたのは、そのためだった。
480: ◆/D3JAdPz6s 2013/10/23(水) 02:48:22.19 ID:MiJ3zmh5o
チュリネ「みーちゃんだ! わーい!」
呑気な声でチュリネが大喜びしている。
ミュウツー『あ、ああ……』
先日、恐るべきちからの一端を見せつけられてからというもの、ジュプトルはミュウツーに複雑な思いを抱いていた。
友人である限り、頼もしいことは間違いないだろう。
万が一にも敵対するようなことがあれば、あの時以上の恐怖を覚えなければならないかもしれない。
あんな風に怒らせてしまうことさえなければ、敵になることもないはずだが。
けれどもそれ以上に――
ジュプトル(……いいよな、おまえは)
名前のない、汚泥のような気持ちがごぼごぼと湧き出ようとしていた。
その気持ちはチュリネにも、イーブイにも、むろんダゲキに対しても感じている。
人間であれば、この感情に名前をつけているのかもしれない。
でも、自分は人間ではない。
ジュプトル「……こんなとこで、なにしてるんだ?」
ミュウツー『……う、あ、いや……』
チュリネ「みーちゃん、どうして きのみ、もってるの?」
ミュウツー『特に……何というわけではないんだが』
481: ◆/D3JAdPz6s 2013/10/23(水) 02:50:18.36 ID:MiJ3zmh5o
ばつが悪そうに、ミュウツーは抱えたきのみを隠すしぐさをした。
といっても、実際にはほとんど隠せてはいなかったが。
ミュウツー『……な、なんでもない』
ジュプトル「?」
ミュウツーはあちらこちらと目を泳がせ、そわそわしている。
何かを言おうとして、言い出せずにいるようだった。
ミュウツー『……』
図体のでかい友人は、何かを恥ずかしがっていた。
自分よりずっと小柄なふたりに対して、何を引け目に感じるようなことがあるのだろうか。
その中身は知れなかったが、ジュプトルはなんとなく優位に立てている、という確信を持った。
ジュプトル「どうしたんだ?」
ミュウツー『……いや、その……聞きたいことが』
きのみを抱え、もじもじ言いにくそうにしている巨躯。
初めて出会ったころは、もう少し尊大で、傲慢で、自信に満ちた印象を受けていたように思う。
本当に同じ存在なのだろうか。
482: ◆/D3JAdPz6s 2013/10/23(水) 02:52:29.72 ID:MiJ3zmh5o
ジュプトル「なんだ? なんでも、きけよ」
その姿は、ジュプトルにもう一つの仮面を与える。
『自己嫌悪にふさぐ自分』ではなく、『気のいい先輩』の仮面。
そうすることで、腹の中のあの生き物は目を閉じ、口を噤んで眠りにつく。
噤んだはずの口元にはきっと、いやな笑いを浮かべているのだろう。
――また、そうやって騙すんだろ
ジュプトル「おれが しってることなら、おしえてやれるけど」
ミュウツー『……』
チュリネ「みーちゃん、どうしたの?」
ミュウツー『……ハ、ハハコモリの巣があった場所へ行きたい』
ミュウツー『かれこれ二時間ほど探している……』
ミュウツー『……の……だ、が……』
ミュウツー『どうにも辿り着けない上に、寝床へ戻る道もわからなくなった』
ジュプトル「まいごか」
483: ◆/D3JAdPz6s 2013/10/23(水) 02:54:04.75 ID:MiJ3zmh5o
言葉にして聞かされたことで、ミュウツーは衝撃を受けたようだった。
目に見えてしょんぼりと項垂れ、肩を落とした。
ミュウツー『ま……迷子……』
ミュウツー『そうとも……言うかもしれない』
チュリネ「……みーちゃん、『まいご』って、なーに?」
ミュウツー『え……えーとだな……』
ジュプトル「もりにきて、そんなに ながく ないんだし」
ジュプトル「そりゃー、しょーがない」
零れ落ちそうになった仮面を辛うじて拾い上げ、ジュプトルは応える。
森のことなら、こいつに出し抜かれることはない。
向こうも、きっとこちらに一定の敬意を払ってくれる。
なんたってここじゃあ、おれの方が先輩なんだから。
大丈夫。
化けの皮が剥がれることは、ない。
484: ◆/D3JAdPz6s 2013/10/23(水) 02:55:28.17 ID:MiJ3zmh5o
ミュウツーは開き直ったかのように大きく息を吐き、チュリネを見下ろした。
初めて見た頃ミュウツーを覆っていた刺々しい険は、今となっては影を潜めている。
気難しそうな雰囲気こそ残っているものの、それだけの奴ではないことくらいわかっていた。
ミュウツー『「迷子」……とはな』
チュリネ「うん」
ミュウツー『道がわからなくなって、行きたい場所へ行けなくなった奴のことだ』
チュリネ「みーちゃんが、そうなの?」
ミュウツー『……』
ミュウツー『そ……そうだ……』
チュリネ「そっか!」
不思議そうに首を傾げていたチュリネが、突然大きな声を出した。
何かに合点がいったらしく、やけに嬉しそうに飛び跳ね始めた。
チュリネ「みーちゃん、『まいご』なんだね!」
チュリネ「チュリネ、ちゃんと おぼえた! イーブイちゃんにも おしえてあげる!」
ミュウツー『お、おいそれはやめろ! やめてくれ!』
チュリネ「え? どうして?」
ジュプトル「あははは! しょーがねーな」
485: ◆/D3JAdPz6s 2013/10/23(水) 02:57:15.59 ID:MiJ3zmh5o
ミュウツーとチュリネのやりとりを見て、ジュプトルが吹き出した。
仮面は頑丈で、分厚い立派なものになっていく。
この場で演ずるべき役割を全うできるような、不透明で濁った仮面に。
ジュプトル「よし、わかった。つれてって やるよ」
ジュプトル「チュリネも、いいだろ?」
チュリネ「うん! チュリネもいく!」
ジュプトル「これから いく『みまわり』のみちと、そんなに ちがわないから、な」
ミュウツー『感謝する』
ジュプトル「あ? 『カンシャ』?」
ミュウツー『気にするな。礼を言っただけだ』
ジュプトル「あー……、ダゲキが ときどき、いうやつ」
ミュウツー『そうなのか』
ジュプトル「あいつ、ニンゲンのことば、よく しってるからな」
ミュウツー『そうか……?』
ジュプトルは返事をせず、進む先を顎でしゃくって歩き始めた。
チュリネは鼻歌を歌いながら、ミュウツーは黙って、ジュプトルに従った。
ジュプトルは、気分がいい。
486: ◆/D3JAdPz6s 2013/10/23(水) 02:58:37.89 ID:MiJ3zmh5o
チュリネ「チュリネ、みち しってる!」
大きな声を上げ、チュリネは二人を追い越して行く。
ジュプトルはにやにやと笑って、ミュウツーの足を叩いた。
人間同士であれば肩を叩いているところなのだろうが、ジュプトルにとってミュウツーの肩は思いのほか、遠かった。
ミュウツー『なんだ』
ジュプトル「いやー、べつに」
ふと、根本的な疑問が湧き出た。
ジュプトル「……そういえば、なんでハハコモリのところに いきたいんだ?」
ミュウツー『……』
ミュウツー『それは、私にもよくわからない』
ミュウツーが呟く。
心なしか、気弱そうな響きが見え隠れしているような気がした。
ジュプトル「?」
ジュプトル「なんだ、それ」
ミュウツー『さあな』
487: ◆/D3JAdPz6s 2013/10/23(水) 03:00:18.78 ID:MiJ3zmh5o
訳がわからないという顔でジュプトルが聞き返すと、ミュウツーはそっけない返事をよこした。
辛うじて返答はしているものの、ミュウツーの意識は別のところを向いている。
ミュウツー『ただ……最近、とみに思うようになったのだ』
ジュプトル「なにを」
ミュウツー『……』
ミュウツー『あのハハコモリは、なぜ死んだのか』
ジュプトル「……それは……」
ミュウツー『わかっている。お前が言いたいことは』
ジュプトルが見上げると、ミュウツーはかぶりを振った。
ミュウツー『だが、私が言いたいのは……そういうことではない』
ジュプトル「じゃあ、なんだ」
ミュウツー『死が、“なぜ”ハハコモリに訪れたかだ』
ジュプトル「なにが ちがうのか、よくわかんねえ」
ミュウツー『……』
ミュウツー『……お前は、本当にヨノワールが、ハハコモリの命を奪ったと思っているのか』
ジュプトル「ちがう って?」
ジュプトル「そんなはず……ない」
ミュウツー『確証は……いや、なぜそこまで疑う』
ジュプトル「……」
488: ◆/D3JAdPz6s 2013/10/23(水) 03:01:32.48 ID:MiJ3zmh5o
立ち止まる。
それに気づいてミュウツーも立ち止まった。
チュリネもまた、少し進んでから後ろのふたりが立ち止まったことに気づく。
こちらを振り返り、戻ってふたりの会話に交ざったものか決めかねていた。
ジュプトルは下を向き、再び眉間に皺を寄せた。
この心に渦巻いている疑い、憎しみ、そして自他への嫌悪をどう表せばいいのだろうか。
ジュプトル「おまえも……みたんじゃないのか」
ミュウツー『何を?』
ジュプトル「ヨノワールが……なにか……」
ミュウツー『ハハコモリから、何かを取り出したところを……か?』
ジュプトル「うん」
ミュウツー『それなら、私もダゲキも見た』
そうだった。
おれがあの場所に着いた時、向こう側にはもうふたりが来ていた。
ちょうど挟み撃ちにするような感じで、ヨノワールを見ていたはずだ。
489: ◆/D3JAdPz6s 2013/10/23(水) 03:03:21.00 ID:MiJ3zmh5o
ジュプトル「だったら……」
ミュウツー『それだけでは、証拠になるとは思えない』
食い下がるジュプトルを撥ねつけるように、ミュウツーはジュプトルを見た。
ジュプトルはごくりと喉を鳴らす。
ミュウツー『だが……それはあくまで私の視点で考えた、私の理屈だ』
ミュウツー『私は、新参者でしかない』
ミュウツー『私がこの森へ来る以前のことは、お前たちにしかわからない』
ミュウツー『……肝心なのはお前の視点であり、お前の理屈、お前の心情だ』
ジュプトル「……」
それからミュウツーは押し黙った。
視線を泳がせ、考え込むそぶりを見せている。
ジュプトルにも、相手が何かを言うべきか否か迷っていることが理解できた。
はたしてミュウツーは、ゆっくりと言葉を伝え始めた。
ミュウツー『私は、大切な誰かを失う悲しみを知らない』
ミュウツー『……私は、私にとって大切な誰かを失ったことがないからだ』
490: ◆/D3JAdPz6s 2013/10/23(水) 03:04:31.76 ID:MiJ3zmh5o
淡々とした調子で、ミュウツーはそう言った。
厳密に言えば、その発言は事実に反している。
だが、現在のミュウツーにとってはまぎれもない真実であった。
『思い出せないこと』と『存在しなかったこと』を、自分自身で見定めるすべはない。
ミュウツー『だから、お前の気持ちを理解できていないような気がする』
ジュプトルには、ミュウツーの声に『残念がる』響きがあるように思えた。
ミュウツーはジュプトルを残して、再び歩き始めた。
ジュプトル「……」
ジュプトル「そうかな」
ジュプトル「おれ、そう おもわない」
無意識に、その言葉が口を突いて出た。
ミュウツーの背中に声を投げかける。
ジュプトル「もし おまえが、そういう『きもち』……わからないやつなら」
ジュプトル「『あれ』をみて はいたり しない」
ジュプトル「あんなふうに……おこったり、しないと……おもう」
ミュウツー『……そうだと、いいがな』
ジュプトルの口不調法な擁護も、ミュウツーは控えめに否定するだけだった。
491: ◆/D3JAdPz6s 2013/10/23(水) 03:05:44.93 ID:MiJ3zmh5o
ミュウツー『まあ……私のことは、いい』
ミュウツー『問題は、お前の方だ』
ジュプトル「……おれ?」
思わず、ジュプトルは顔を上げた。
チュリネは相変わらず、ずっと先に佇みふたりを待っている。
ミュウツーはきのみを大事そうに抱えたまま振り返り、少し困ったように肩を竦める。
ミュウツー『お前は、あのヨノワールに関することとなると、あまりに感情的だ』
ミュウツー『確かに奴は何か隠している、と私も思う。だが証拠もなければ動機……』
ジュプトル「『ドウキ』?」
ミュウツー『……あ、いや……』
ミュウツー『そうだな……』
ミュウツー『ハハコモリや、お前が言っていた“ペンドラー”とやらは……ヨノワールに恨まれてでもいたのか』
ミュウツー『あるいは……ふたりが、ヨノワールの捕食対象だった』
ジュプトル「『ホショク』?」
ミュウツー『……ああ……餌だ』
ミュウツー『その可能性はあるか?』
ジュプトル「ううん……それは……ない とおもう」
ミュウツー『ならば動機もない、ごく薄い状況証拠しかない……』
ミュウツー『なぜ、そこまで理屈を度外視して疑う』
ミュウツー『お前が奴を嫌っているからだとして、なぜそこまで嫌う』
492: ◆/D3JAdPz6s 2013/10/23(水) 03:08:08.79 ID:MiJ3zmh5o
『なぜ』。
理由なんて、うまく言葉にならない。
ただ、とてつもなく嫌なんだ。
あいつの纏う――
ジュプトル「……におい……っていうのかな」
ミュウツー『匂い?』
ミュウツー『きのみの甘い匂いとか、風の匂いの……匂いのことか?』
ジュプトル「うん」
ミュウツー『……』
目の前のミュウツーは、本気で訝しんでいた。
ミュウツー『匂い、か……』
493: ◆/D3JAdPz6s 2013/10/23(水) 03:11:31.81 ID:MiJ3zmh5o
ミュウツーには、自分が特別、鼻が悪かった認識はない。
これまでヨノワールと対峙して、特段に嗅覚を刺激された覚えもなかった。
記憶の中に、ジュプトルがヨノワールを嫌うほどの『匂い』があったかどうか、必死に思い出す。
だが、それらしい刺激は思い当たらない。
ジュプトル(……そう だろうな)
自分の言葉を受けて首を捻るミュウツーを、ジュプトルは諦めの目で見ている。
誰かに、上手く伝えられるとは思っていなかった。
それでも伝えたい。
ジュプトルは人間の言葉を使って考え、そして少しずつ絞り出した。
ジュプトル「なんていうか……」
ジュプトル「いやな……においがするんだ」
ジュプトル「しんだやつとか、これから しぬ……やつの、におい」
ミュウツー『死の……匂い?』
504: ◆/D3JAdPz6s 2013/11/04(月) 23:50:24.66 ID:+oW1ZAAco
きっといつも上手くいく。
おれたちの誰かが死ぬなんて、ありえない。
何ひとつ根拠はないのに、おれはそんなふうに信じていられた。
たぶん、何も知らなかったからだ。
……知らないってことは、シアワセだ。
あの頃は、湿気がかなり多い季節だった。
おれなんかニンゲンよりずっと背が低いから、あいつらよりずっと地面が近い。
薄汚れた硬い地面に、びたびたした嫌な雨が降ってて、跳ね返った水滴が気持ち悪かった。
それが嫌で仕方なかった。
空気が臭かった。
ニンゲンも家もたくさん。
綺麗なところが多いんだけど、汚いところは、もっと多い。
ニンゲンが『カイナシティ』と呼ぶここは、そういう街だった。
広くて、ニンゲンがたくさんいて、建物も隠れる場所もたくさんあるところ。
しかも剥き出しで食べ物を売っている、おれたち宿無しにとっては天国みたいな街。
この街に住んでいるニンゲンは、誰も彼も明るかった。
まるで汚いところなんか、最初から無いみたいにニコニコしていた。
でもそれは、ニンゲン同士だけの話。
おれは、いつもと同じようにニンゲンの街の、建物と建物の間を走っていた。
あいつと一緒に。
505: ◆/D3JAdPz6s 2013/11/04(月) 23:53:04.58 ID:+oW1ZAAco
キモリは立ち並ぶ住居の壁、窓枠、雨樋を飛び移り、何かから逃げていた。
走る合間に何度もちらちら後ろを振り返り、誰も追ってきていないことを確かめる。
少しずつ速度を落とし、すっかり立ち止まった。
キモリ(……)
そこでようやく息をついて一声高く鳴いた。
キモリ「ギーッ」
やや間があって、ゴミ箱の中から返答がある。
ガコッ
サボネア「ガァーゴッ」
すると半開きだった巨大なゴミ箱の蓋が押し開けられ、中から薄汚れたサボネアが顔を見せた。
目をぱちぱちさせて、サボネアもまた周囲を伺っている。
真剣なのはお互い様なのだが、それでも真面目くさって辺りを探るその様子に、キモリは滑稽さといじらしさを感じた。
それでも相棒の元気そうな姿を見て、キモリはホッとしている。
506: ◆/D3JAdPz6s 2013/11/04(月) 23:54:48.54 ID:+oW1ZAAco
サボネア「……ガガゴッ」
キモリ「ギー」
互いの安全を知ると、キモリはサボネアのいたゴミ箱の中に身を隠した。
ひんやりとしたゴミ箱の壁に背を預け、ふたりは息が落ち着くまでじっとすることにした。
ひょっとすると、追手がまだ諦めていないかもしれないからだ。
ゴミ箱の蓋には、ずいぶんと隙間がある。
蓋は彼らが何かするまでもなく、ぴったり閉まらないほど元から歪んでいた。
隙間から湿気と鈍い光が射し込んでいる。
少しずつ心臓の高鳴りが収まるにつれて、目に見える世界は徐々に広くなった。
色々なものが目に入るようになってくる。
ゴミ箱の内側は、正体のわからないベタベタした汚れで変色していた。
食べ物の包装紙、何かの容器、何だかわからない中身の詰まったビニール袋。
キモリ(……きたねえ)
キモリ(ま……あとで あらえばいいや)
必死で走っている間はきっと、必要のない情報が削ぎ落とされるようになっているのだろう。
ゴミ箱の中がひどい匂いだったことも、やっと気づいた。
とはいえ、かなり安全な場所でもある。
この匂いと汚さを考えれば、ニンゲンだって開けて鼻っ柱を突っ込みたくはないだろう。
507: ◆/D3JAdPz6s 2013/11/04(月) 23:57:10.46 ID:+oW1ZAAco
どれほどの時間そうしていたのか、ふたりも正確にはわからない。
しばらく息を潜めていても、どうやら誰も追いかけてはこないようだ。
キモリ「ギー……」
キモリは目を細め、してやったりという顔をする。
図体ばかりでかくて馬鹿なニンゲンをまんまと出し抜くのは、いつも気分がよかった。
あいつらはぼーっとしてるから、おれたちが食べ物を盗むのなんて簡単なんだ。
その上、こうやって街中を逃げ回ってみせれば、あっという間に撒ける。
うっすらと照らし出されたゴミ箱の中で、ふたりは安堵の溜息をついて向かい合う。
それぞれに抱えた獲物を見て、互いの戦果をつたなく称え合った。
サボネア「ガガガァ……ギー」
戦利品に埋もれたピンク色のきのみを手に取って、サボネアが嬉しそうに鳴いた。
キモリ「ギュー」
キモリもそれに同意する。
508: ◆/D3JAdPz6s 2013/11/04(月) 23:58:55.60 ID:+oW1ZAAco
種族こそ、言葉こそ違っていても、それなりに意志の疎通は出来ていた。
ピンク色でつやつやしたきのみは、甘くて美味い。
本心を言ってしまえば、ふたりともこのモモンのみを食べたかった。
これほど美味しそうなモモンのみを見るのも、久しぶりだった。
けれど、ゴミにまみれて笑うふたりの気持ちは一致している。
このきのみはここで食べず、ねぐらに持ち帰ることにした。
別のきのみを齧って取り敢えずの飢えを凌ぎ、ふたりはそう遠くない夕暮れを待った。
夕闇に紛れて、町の路地裏をこそこそと移動した。
時おり、短く鳴いて互いの安全と位置を確認するだけで、必要以上に声は交わさない。
ある場所へ到着すると、どちらともなく歩みを止めた。
サボネアがキョロキョロして、安全を確認している。
警戒しすぎるということはない生活だった。
サボネア「ガァー」
キモリ「キッ」
509: ◆/D3JAdPz6s 2013/11/05(火) 00:00:10.16 ID:oKbzagM8o
いつものように、緩んだ側溝の蓋を注意深く持ち上げた。
街を一回りして調べた結果、ここが一番開け閉めが容易なのだった。
しんがりを務めるキモリが最後に周囲を見回し、ガチャンと音をさせて側溝の蓋を閉めた。
地上よりも一段と色濃くなった臭気と湿気をくぐり、サボネアとキモリはすぐに下水の横道へ潜って行く。
サボネア「ガガガ」
楽しそうなサボネアの声が反響する。
モモンのみを、あいつに見せてやるのが楽しみだとサボネアは言っている。
キモリ「ギー」
キモリもまた、あいつは甘いものが好きだからと笑って応じた。
自分の声も同じように反響している。
汚い水の流れるざぶざぶという音と、かすかなふたりの足音だけが下水道に響いている。
ねぐらにしている場所が近づき、キモリは『あいつ』を呼ぶ声を上げる。
キモリ「ギッギー!」
510: ◆/D3JAdPz6s 2013/11/05(火) 00:01:57.65 ID:oKbzagM8o
湿り気の多い反響がおさまると、すぐそばの横道から小さな影が姿を見せた。
ハスボー「ガビー」
六本の足を器用に動かし、ハスボーがふたりに這い寄ってくる。
ハスボーは頭の上に大きな皿があるから、自分の背丈より上の世界を見るのは不得手だ。
可能な限り身体を反らせ、帰ってきたキモリとサボネアを見上げて鳴いた。
キモリ「ギッ」
サボネア「ガー」
サボネアが、いきなりモモンのみを取り出した。
ハスボーが見やすいように身を屈め、ニコニコしながら。
それはそれは嬉しそうに、掲げた手にきのみを持って振り回すのだった。
素晴らしい土産物を見せびらかすように。
ハスボー「ガガ、ガビガ!」
見せられたピンク色のきのみに、ハスボーは傍目にもわかりやすく目を輝かせた。
何と言っているかはよくわからなくても、喜んでいるのだけは確実だった。
511: ◆/D3JAdPz6s 2013/11/05(火) 00:04:07.44 ID:oKbzagM8o
キモリ「ギ……ギー……」
サボネア「……ガッガッ……」
ハスボー「……?」
キモリが責める口調で声を上げると、サボネアは丸い目を歪めて申し訳なさそうにした。
もう少しくらい、もったいぶってから見せてもよかっただろうに、とキモリは思っている。
ハスボーはそんなキモリの思惑など知らず、喜んできのみに食いついている。
その光景を見ていると、キモリもまあいいかと思ってしまう。
大事な“弟”が、こんなに喜んでくれるんだから。
当然、実際の兄弟関係にあるわけではない。
本当の兄や弟という存在がどういうものなのかも、よくわからない。
けれどもサボネアとキモリにとって、ハスボーは実の弟以上の存在だった。
何ひとつ実体のなかったキモリに、明確な存在意義を与えてくれたからだ。
守らなければならない相手であり、大切にしなければならない弟だ。
サボネアも大事な家族ではあったが、ハスボーとは少し違う。
どちらかといえば対等な立場にあり、守るべきハスボーのために共に奔走する仲間だった。
512: ◆/D3JAdPz6s 2013/11/05(火) 00:05:57.60 ID:oKbzagM8o
サボネアはメスだと言っていた。
ならば、少し間の抜けた姉か妹のようなものなのだろうか。
種類が違うから、メスだろうがオスだろうが、キモリにとってはどうでもよかったが。
せっかく驚かそうとしたのに、あっさりきのみを見せてしまったサボネアに腹は立たない。
ハスボーを喜ばせてやりたかった気持ちは、おれと同じだから。
サボネアと共にキモリは、無心にモモンを食べるハスボーの横で残飯を漁った。
キモリはナナシのみを手に取り、変色した部分を削ってから食べ始めた。
少し腐り始めているくらいの方が、むしろ硬い皮が柔らかくなるし、味が落ち着く。
同じナナシを食べるなら、キモリはこのくらいの傷みかけが好きだった。
一方サボネアは、半分くらい駄目になっているリリバのみをニコニコしながら食べていた。
キモリの目から見ても、サボネアは細かい作業ができるとは思えない手をしている。
だが先の方に生えているトゲを上手く使って、傷んでいる部分だけをポロポロと外していた。
……シアワセという言葉は、ニンゲンの口から聞いたことがある。
心が嬉しくて、恐いことがなくて、心配することもない気持ちのことだって言っていた。
確かにそう言われてみれば、『かつて』のおれはシアワセだったんだろう。
『今』のおれも、きっとそうなんだ。
513: ◆/D3JAdPz6s 2013/11/05(火) 00:08:01.51 ID:oKbzagM8o
初めて世界を見て、自分以外に同じようなポケモンがたくさんいると知った頃、おれは確かにシアワセだった。
食べることを心配したこともない。
誰かに安全を脅かされていたわけでもない。
周りには、同じポケモンがたくさんいた。
まさにシアワセ、ってやつだったんだろう。
それが『かつて』のおれ。
他のキモリと同じように、トレーナーの手に渡るまでのおれ。
トレーナーのところへ行った時だって、おれはこれからの生活を夢想して、シアワセだった。
でもおれの最初のシアワセは、そこで終わった。
知らないってことは、なんてシアワセなことなんだろう。
ポケモン同士を戦わせる、ということにどんな意味があるのか、おれは知らない。
せめて、もう何度かでも戦わせてもらえれば、わかったのかもしれないけど。
ほら、ニンゲンって、ボールの中でも音が聞こえるって、知らないから。
……つまりニンゲンは、シアワセだ。
あのニンゲンは、おれのことを時々喋っていた。
514: ◆/D3JAdPz6s 2013/11/05(火) 00:09:28.51 ID:oKbzagM8o
『使えない』
『役に立たない』
『戦わせても、すぐ落ちる』
そんなことを言っていた。
不思議なもので、最初はよくわからなかったニンゲンの言葉も、少しずつわかるようになった。
だから、どうして自分が使ってもらえないのかも理解できた。
だから……。
だから、おれはずっとボールの中にいた。
眠っているような、起きているような不思議な感じ。
たくさん考えごとができて、それでも外の音や声は、けっこう聞こえる。
ニンゲンが、ポケモン同士を戦わせ始めた。
たぶんキノガッサって言ってたと思う。
ポケモンセンターにまとめて預けられた時とかに、何度か顔を合わせたことがある。
進化する前のキノココだった頃にも、会ったことがあると思う。
キノガッサは間抜けそうな顔のわりに、やけに迫力があって、いかにも戦い慣れてる感じだった。
おれの方がずっと先に、あのニンゲンのところに来たんだけどな。
あのニンゲンはおれのことが気に入らなかったらしくて、全然戦わせてもらえない。
あっちはよく『使われ』てる。
515: ◆/D3JAdPz6s 2013/11/05(火) 00:10:37.65 ID:oKbzagM8o
外から、終わったらしい声が聞こえた。
キノガッサが褒められている。
あいつ、勝ったんだな。
……いいな。
使ってもらえて。
戦わせてもらえて。
戦えて、しかも強くて、勝てて。
それってさ、ポケモンがニンゲンに連れられて、一番意味があることだよね。
戦って勝つことで、ニンゲンといる意味がある。
たぶんそう。
他にあるの?
少なくとも、おれは知らない。
516: ◆/D3JAdPz6s 2013/11/05(火) 00:12:19.22 ID:oKbzagM8o
じゃあ、おれは?
おれは、なんなの?
戦いに呼ばれることもない。
そばを一緒に歩くこともない。
何もさせてもらえない。
ずっとボールの中。
たまに、餌をもらえるだけ。
でもその回数も、最近は減ってきたような気がする。
そりゃあ、そうだよな。
戦わせたって弱い奴だもの。
そんな奴にやる餌なんてない。
死なない程度にでも、食べさせてもらえるだけいい。
……じゃあ、おれはなんのためにいるの?
なんでここにいるの?
いる意味は、あるの?
いつまでここにいないといけないの?
誰か教えてくれよ。
帰りたい。
あの平和な場所に。
何の心配もない、苦しみも悩みもないあの頃の、あの柵のあるはらっぱ。
でもたぶん、それは無理なんだ。
もう帰れない。
帰る場所はない。
だから――
517: ◆/D3JAdPz6s 2013/11/05(火) 00:14:22.54 ID:oKbzagM8o
キモリ(だから……こいつらを まもるのが、おれの……“いみ”だ)
無邪気に喜んでいるふたりを見ながら、おれはそう思った。
あの頃のように、自分が何のためにいるのかわからなくて苦しむことはない。
ニンゲンなんかに、自分の存在の意味を求めるからいけないんだ。
せいぜいあの頃のマイナスを取り戻すために、食べ物でも掻っ攫ってやる。
できれば、もう関わりたくもないけど。
このふたりと、シアワセに、楽しく生きていられればそれでいい。
寝起きする場所が下水道の中だとしても。
食べ物を盗んで石を投げられ、舌を出しながら逃げ回ることになっても。
結局は居場所がバレて、同じ街には長いこと留まれないとしても。
このふたりがいれば、それだってちっとも苦ではない。
サボネア「ギィー?」
ハスボー「ガァ?」
不思議そうな顔で、ふたりがおれを見ている。
おれはふたりに、まるでニンゲンがするみたいに肩を竦めてみせる。
心配することなんか何もない。
恐いと思うものなんて何もいない。
食べ物だって、きっとなんとか手に入る。
だから、おれたちはシアワセだ。
524: ◆/D3JAdPz6s 2013/11/14(木) 00:24:09.39 ID:okXdmrtNo
……水が冷たい。
昼前の木漏れ日が眩しい。
ダゲキは仰向けに寝転がって身体を水に浸し、ぼうっとしようとしていた。
ただぼうっとしたいわけではない。
何も考えないようにする、という行為もまた身体を鍛えたあとの日課の一部だった。
必ずしも沐浴をしなければならない、というわけではないのだが。
汗を洗い流すついでに、そんな時間を過ごすのが常になっている。
木の葉が揺れれば、ああ風が吹いたと無意識に考えてしまう。
目に入った何かをきっかけに、昨日までの記憶を呼び起こしてしまう。
森から連れて行かれた時、周囲に満ちていた風の音。
もう思い出すこともない、ずっと前にどこかで嗅いだ不快な金属の匂い。
人間に、物で殴られた時の痛み。
ともだちとたくさん話ができて、嬉しい気持ち。
――ポケモン なのに……なんで たたかわない!
そう罵ってきた時の、ジュプトルの怒りに満ちた目。
525: ◆/D3JAdPz6s 2013/11/14(木) 00:27:07.24 ID:okXdmrtNo
何も考えないというのは思いのほか大切で、それでいて難しいものだとダゲキは思う。
『何も考えないように』と考えてしまえば、それもまた目的にそぐわない。
それでは意味がない。
ダゲキ(……きょうは、うまく いかない)
どうにも、風のそよぐ音が気になる。
木の葉の揺れる音が頭に響く。
水の撥ねる音が、誰かのはばたく音が、今日に限ってやけに耳障りだった。
ダゲキ(どうしてかな)
しばらく前の、ハハコモリの一件があったからだろうか。
今までに、ポケモンの死を目の当たりにしたことは何度もあった。
死んでしまったポケモンを同族の元へ送り届けたことも、一度や二度ではない。
生まれて、生きるということは、いずれ死ぬということだ。
たとえ森に在ろうが人と在ろうが、そこに違いはないはずだった。
今回だけ心に引っ掛かる、何かがあったのだろうか。
あの光景を初めて見て、嘔吐してしまったミュウツーがいたから?
今まで言うに言えなかった自分の来歴の一部を、ジュプトルにも明かしたから?
だから、あの夜そのものが印象に残ったのだろうか。
考えれば、どれもそれなりに理屈は通りそうだった。
けれども、どれもしっくりこない。
526: ◆/D3JAdPz6s 2013/11/14(木) 00:29:54.99 ID:okXdmrtNo
突如、森全体が息を呑んだように押し黙った。
風は変わらず吹いているのに、葉が身を強張らせている。
水は変わらず流れているのに、水面が息を潜めている。
森の中には無数のポケモンたちが生活しているのに、その誰もが固唾を飲んでいる。
そんな気がした。
誰かが近づいてくる。
はじめは気配だけ。
それから、少しずつ足音が聞こえ始める。
さく、さく、と軽やかな音で草を踏み締め、誰かが歩み寄ってきている。
音の数はやけに多く、テンポも自分と全く違った。
四本足の誰かなのだろう。
水から身体を持ち上げるのが億劫で、ダゲキはそのまま太陽を見上げていた。
来訪者が人間でないのならば、そう神経質になることもない。
ダゲキ(……だれ だろう)
がさっ
『誰か』が、明らかに自分のすぐ近くで立ち止まった。
527: ◆/D3JAdPz6s 2013/11/14(木) 00:33:12.78 ID:okXdmrtNo
ダゲキ「……」
?????『こんにちは』
ダゲキ「……?」
ダゲキ「……あ……」
?????『そのままでいいよ。私は話をしに来ただけだから』
耳ではなく、頭の中に響く声。
そういう話の伝え方をする知り合いは、そう多くない。
怒りっぽく、小難しい言い回しばかりするミュウツーか、あるいは――
ダゲキ「にんげんの ことばだと、『ひさしぶり』……って、いうのかな」
?????『さあ……そういう、細かいことはわからない』
?????『そんなに、ニンゲンの言葉を知りたい?』
ダゲキ「……」
頭の上の方、声の主が立っているあたりから言葉が流れているのは確かだった。
それなのに、本当に上から聞こえているかと考えてしまうと、自信がなくなる。
528: ◆/D3JAdPz6s 2013/11/14(木) 00:37:12.45 ID:okXdmrtNo
テレパシーを相手にした会話は、慣れるまで時間がかかる。
ミュウツーと話をする時も、多少は感じていたことだが。
頭の中に響くだけで、音が外から振動で伝わっているわけではないからだ。
自分が考えているだけの言葉なのか、誰かの意思が言葉となって頭の中で響いてるのかを判断するのは容易ではない。
慣れてしまいさえすれば、話を聞いて返事をするだけのコミュニケーションにさほど支障はないのだが。
ミュウツーと出会った時、あまり驚かずにすんだのも、彼にとってはこうした話し方が初めてではなかったからである。
人間が使う『離れた所にいる相手と話をする機械』に、少し似ているように思った。
?????『それにしても、君はずいぶん……ニンゲンの言葉を話すのが上手くなったね』
ダゲキ「……ぼく?」
ダゲキは思わず聞き返した。
誰かにそんなことを言われたのは、初めてだった。
ダゲキ「……ともだちに、たくさん おしえてもらった」
?????『……ああ』
?????『ミュウツー……だっけ』
?????『テレパシーに頼らずにこれだけ言葉を話せるポケモンは、そんなにいないと思う』
?????『私の知る限りは、だけど』
?????『それが、いいことか悪いことか……私にはなんとも言えないけどね』
529: ◆/D3JAdPz6s 2013/11/14(木) 00:41:14.17 ID:okXdmrtNo
声の主は、棘のある言い回しをしてきた。
かつて『話』をした時も、あの頃の理解力でも受け取ることができるほど、皮肉っぽい言い方を好んだ。
ただ単にこの相手がそういう性格なのか、自分が嫌われているだけなのかは知らない。
話をしに来た、と言っていた。
まさか皮肉を言うためだけに来たわけではないはずだった。
ひょっとすると、嫌味や皮肉ですらないのかもしれないが。
ダゲキ「なにか、あった? きみが でてくるのは……」
?????『気は進まないけど、仕方ないんだ』
?????『必要なら、私だって棲み家から出てくることもあるさ』
ダゲキは首だけを捻って、そこで初めて声の主を見る。
春先に茂る若葉のような色の体毛に、ちらちらと陽が当たっていた。
ほっそりと伸びた四肢と、頭から伸びる二本の角。
これだけ種族が異なっていても、その容姿が殊更に優れたものであることはダゲキにも理解出来た。
その『見目麗しい』四本足のポケモンが、これまた堂々とした出で立ちで森の中に佇んでいる。
『居るべき』まさにその場所に、居るべき存在が居る。
ダゲキの目に映るその風景には、そう思わせるだけの説得力があった。
531: ◆/D3JAdPz6s 2013/11/14(木) 00:44:47.35 ID:okXdmrtNo
ダゲキ「……もう、ビリジオンという ポケモンがいるって、しらないやつも いる」
ビリジオン『それならそれで、私は構わない』
ビリジオン『私は別に、この森のボスじゃない』
細い首を大きく反らし、ビリジオンは鼻先を空に向けた。
目を閉じて周囲の匂いを嗅いでいる。
ビリジオン『ずいぶん、よそものも増えたようだ』
ダゲキ「……」
ビリジオン『ああ……君が気に病むことじゃないよ』
ビリジオン『私が気にしていたような懸念は、君だってちゃんと考えていたんだから』
ビリジオン『森に悪影響がないよう、君たち……よそものはよくやっていると思う』
ビリジオン『実際、トラブルらしいことも特にない』
ビリジオン『その努力は評価したい』
しかし美しいポケモンは、自身の言葉に含意あることを隠そうともしていない。
ダゲキ「……でも、ほんとうは いや?」
ビリジオン『そりゃあ、もちろん』
532: ◆/D3JAdPz6s 2013/11/14(木) 00:47:06.29 ID:okXdmrtNo
そう応えながら、ビリジオンはダゲキが浸っている水辺に足を踏み入れた。
水しぶきはほとんど上がらず、滑るように数歩進む。
まるで幽霊が浅瀬を歩いているようだった。
ダゲキ「どうして、でてきたの?」
ビリジオンはダゲキを一瞥する。
ダゲキには、その優しげな視線の影に、別のものが潜んでいるように思えてならない。
ビリジオン『とてもよくないことが、起きそうだから』
ビリジオン『それを、起きてしまう前に伝えておこうと思って』
ダゲキ「よくないこと?」
ビリジオン『よくないこと』
念を押すように、ビリジオンは繰り返した。
ビリジオン『どうしてわかるのか、なんてのは聞かないでね』
ビリジオン『言ってしまえば、ただの予感だから』
ビリジオン『君に伝えるのが、一番早いと思って。君も無関係ではないし』
ダゲキ「……?」
ビリジオン『正確には、君ではないけど』
ダゲキ「……??」
ビリジオン『最近、君が助けた奴のことだよ』
ビリジオン『さっきも言った、きみのともだち、「ミュウツー」』
ダゲキ「……どうして?」
533: ◆/D3JAdPz6s 2013/11/14(木) 00:50:49.73 ID:okXdmrtNo
ダゲキには、ビリジオンがミュウツーの名を挙げる理由がわからない。
そもそもビリジオンとダゲキの間に、何らかの連絡手段はない。
森でどんな“よそもの”を受け入れようと、報告する義務もない。
ある種の約束を交わして折り合いをつけているだけで、協力関係にあるわけではないからだ。
『ミュウツー』という名前さえ、伝えていなかったはずだ。
ダゲキ「あいつは、なにも……わるいこと しない」
ダゲキ「すぐ おこるけど……」
ダゲキ「もりの じゃまにならないように、ちゃんと かんがえ ら、れ、る」
ビリジオン『君が言うように……ミュウツー本人は、問題ないかもしれない』
ダゲキ「……?」
ビリジオン『ああ、まぁ……場合によっては、本人も危ないと思うけど』
妙だった。
ダゲキたちがこれまで“助けて”きたポケモンは、それなりの数になっていた。
人間に見捨てられたもの、人間に見切りをつけたもの、よそから紛れ込んできただけの野生のもの。
話が通じやすく森にいち早く馴染めたポケモンもいれば、そうでないポケモンもいた。
おとなしい性質のものも、どうしようもなく凶暴だったものもいた。
だがどんなポケモンを受け入れるにしても、ビリジオンが口を出してきたことはなかった。
少なくとも、これまでは。
534: ◆/D3JAdPz6s 2013/11/14(木) 00:54:05.36 ID:okXdmrtNo
ダゲキ(……それは、そういう やくそく だから)
ダゲキ(めいわく、かけない……から)
ダゲキ(そのかわり、おいださないって……)
ダゲキからすれば、ミュウツーもまた『よそもの』であるポケモンとしては例外ではない。
むしろ、ミュウツーは外来のポケモンとしては優秀な方だった。
人間の言葉を解し、『話がわかる』。
森から排除されないために、何に気をつけなければならないか理解できる。
にも関わらず、ビリジオンはこうして明確な警告を発してきた。
それも、これほどまでに直接的な形で。
ダゲキが記憶している限り、初めてのことだった。
ダゲキ「……ほかの ポケモンと、ミュウツーは……なにが、ちがう?」
少ない語彙の中、必死で言葉を選びながら尋ねる。
ダゲキはどこか妙な感触を覚えていた。
自分にはわからない、回答を求めるための問いかけをしているはずだ。
そのはずなのに。
536: ◆/D3JAdPz6s 2013/11/14(木) 00:57:55.77 ID:okXdmrtNo
目に見えない、言葉にならない『自分たちとミュウツーの違い』を、既に感じ取っていたような気さえする。
『だから爪弾きする』とか、そう考えてしまうような“違い”ではなかったが。
ビリジオン『……君もわかってるでしょ』
そんな葛藤を見透かしているかのように、ビリジオンは言葉を繋いだ。
ビリジオン『とても、違うよ』
ビリジオン『……いや、それは語弊があるかな』
ダゲキ(……『ゴヘイ』……?)
ビリジオン『私から見れば、そのミュウツーも見慣れない“よそ”のポケモンでしかない』
ビリジオン『けれど、ニンゲンはそうは思わない』
ダゲキ「い……いみ わからない」
ビリジオンは口角を吊り上げた。
笑っているというよりは、笑われていると思った。
ビリジオン『君ならわかると思ったけど。まあいいや』
ビリジオン『私が守りたいのはこの森と、この森のポケモンたち』
ビリジオン『いずれ必ず、ミュウツーの存在は森に大いなる厄災を齎すだろう』
ビリジオン『私はそれを防ぎたいし、もし起きてしまったら……禍いは撥ねのけなければならない』
ビリジオン『残念だけど、ミュウツーの存在が原因で、ニンゲンによって森や仲間に危害が加えられることがあれば』
ビリジオン『私はミュウツーを敵と見做すし、君たちも敵として排除しなければならない』
538: ◆/D3JAdPz6s 2013/11/14(木) 01:00:45.70 ID:okXdmrtNo
相変わらず、優しい目をしてそう言い放った。
ダゲキ「ぼく……“も”……」
意図のよくわからない言葉を投げつけられ、ダゲキは訝しむ。
返答はない。
ビリジオンは慈愛に溢れたような、さもなくば侮蔑を込めたような不思議な笑顔を浮かべている。
歩み寄る気のない厳然たる溝か、あるいはぶ厚く堅固な壁があるように思えた。
どちらも、そこに敢えて踏み込もうとはしない。
ビリジオンは言いたいことを言うと、細い音をさせて森の奥へと消えていった。
あとに残されたダゲキは、身体を水に浸したまま、今度こそぼうっとしていた。
『ケネン』、『ゴヘイ』、『ヤクサイ』、『イブツ』、『ハイジョ』。
どれも耳に馴染みのない、難しい言葉ばかりだ。
前後の言葉があるから、いい言葉なのか、悪い言葉なのかの推測はできる。
けれど、ちゃんとした意味がわからないのは、なんだかもやもやする。
あとで、ミュウツーに意味を尋いてみよう。
『イブツ』という言葉は、ミュウツーが一度言っていたことがある気がする。
きっと、いつものように意味を教えてくれるはずだ。
539: ◆/D3JAdPz6s 2013/11/14(木) 01:04:26.11 ID:okXdmrtNo
それはともかく、いつまでも水浸しになっているわけにはいかない。
ざぶんと音をさせて水から立ち上がる。
すっかり身体が冷えてしまった。
こんなに長い時間、水浴びをするつもりではなかったのに。
風邪をひいては困るから、ひと走りした方がいいかもしれない。
水を吸って重くなった帯を絞る。
だいぶ傷んできたから、本当は新しいのを作りたいと思っている。
見回りもしなくては。
森の外れまで行けば、また人間のポケモンに挑みたがる連中もいるのだろう。
わざわざ出て行って、相手の怪我を治してやる奴もいる。
それが悪いことだとは思わない。
どういうつもりなのか、何がしたいのか、ぼくにとっては理解しがたいだけだ。
……それでも、やると約束したことは、しないと。
ダゲキ「……はぁ」
思わず溜息をつく。
ダゲキは、ビリジオンが去り際に残していった言葉を思い返した。
――ぼくも……“ハイジョ”する?
――そういうことになるね
――だって
――君も、この森のポケモンじゃないでしょ
557: ◆/D3JAdPz6s 2013/12/05(木) 00:32:59.47 ID:6KUOsZ9r0
今までどうして、なんの疑いもなく信じていられたんだろう。
きっと、いつも上手くいくって。
おれたちの誰かが死ぬなんて、そんなことはありえないって。
いつまでも、シアワセに暮らしました。
最後の締めは、そうなるはずだって。
何ひとつ根拠はないのに、そんなふうに信じていられた。
でも、そんなのは……それこそシアワセな思い込みだ。
もっとよく考えてみればよかったんだ。
ニンゲンが好きな『シアワセに くらしました』のそのあとが、どうなるのか。
生き物なんて、簡単に死ぬ。
びっくりするほど簡単に。
そして死に始めてしまったら、もうどうにもならない。
その時、おれはついにそう思った。
やっとのことで思い知った。
558: ◆/D3JAdPz6s 2013/12/05(木) 00:35:14.27 ID:6KUOsZ9r0
おれは、耳が遠くなるほど強く降り続ける雨の音を聞きながら、呆然としていた。
たぶん放心していたのは、ほんの短い時間だけだったと思う。
キモリ(……どうしよう)
キモリ(どうすればいい……)
キモリ(おれは、どう……しなきゃいけない)
キモリ(このままじゃ、しんじゃう)
おれは薄暗い下水道の中で、目の前に蹲まるサボネアを見ながら、そればかり考えていた。
あまり天気のよくない日だった。
たしか、それほど遅い時間じゃないのにべったりと暗くて、なんとなく肌寒く感じていたと思う。
いつもと同じように、おれたちはニンゲンの『イチバ』から食べ物を盗んだ。
いつもと同じように、路地に駆け込もうとした。
途中で二手に別れ、追いかけてくるニンゲンを撒く作戦も、いつも通りだ。
あとちょっとで逃げ切ることができそうだというところ。
おれは少し余裕さえ見せながら、道路を走っていた。
うしろから、怒り狂ったニンゲンの声が、途切れ途切れに聞こえてくる。
559: ◆/D3JAdPz6s 2013/12/05(木) 00:36:28.98 ID:6KUOsZ9r0
――野良ポケ の駆除 終わったんじゃ よ!?
―― まだ なに、うろちょろ る ねーか!
――駆除 にやってん くそが!
何を言ってるのか、さっぱりわからない。
でも、流石に『怒ってるんだろうなぁ』というのは、よくわかる。
それがかえって、誇らしいくらいだった。
ニンゲンを怒らせるってのが、おれにとっての楽しみだった。
曲がりくねった路地にさえ駆け込んでしまえば、隠れる場所に不自由することはない。
たしか路地に入ってすぐの曲がり角なら、上へも下へも逃げ込め――
キモリ(……!?)
おれは思わず呆然とした。
狭い路地には、段ボール箱が山積みになっている。
一瞬、進むのを躊躇するくらいの威圧感があった。
キモリ(……こんなの いつもは……)
いつもは置いてなかったはずの荷物。
その上、どうやら空ではなく中身も詰まっている。
慎重に登れば登れないこともないが、段ボール箱は木箱と違って体重をかけられないから、おれは苦手だった。
これじゃ……こんなところで手間取ってたら、ニンゲンを撒くどころか距離を縮められてしまう。
560: ◆/D3JAdPz6s 2013/12/05(木) 00:37:16.77 ID:6KUOsZ9r0
そうだ……だからだ。
だからおれは、ほんの何メートルかを逆走して、今来た大通りに戻ろうとしたんだ。
もう一つ先の路地に入れば、また隠れる場所はいくらでもあるから。
一瞬の間に、おれは次に隠れられそうな場所をいくつも思い浮かべる。
それだって、ニンゲンとおいかけっこをしながら生きていくのに必要な技術っていうやつだ。
そうしたら、大通りに出ようとした瞬間、いきなりそこに大柄なニンゲンが姿を現した。
デッキブラシとかいう、長い棒を持っている。
おれたちを引っ叩くために使うんだろう。
カァン
凄い音をさせて、ニンゲンはそいつの先端を堅い地面に叩きつけた。
あれで殴られたことがあるわけでもないのに、その音が物凄く神経に障る。
とても嫌な気分になる。
おれは、もう殴りつけられた後みたいにびくりと痙攣した。
男「くそっ、いつもいつも!」
男「よくもウチの商品、毎度毎度パクってくれたな……!」
キモリ「……」
男「ちょこまか逃げやがって……今日という今日は――」
561: ◆/D3JAdPz6s 2013/12/05(木) 00:38:38.85 ID:6KUOsZ9r0
ニンゲンが一歩ずつ足を踏み出しながら、デッキブラシを振り上げた。
……やばい。
逃げないと、このまま殴られる。
一刻も早く走り出さないと、殺される。
なのに、身体が言うことを聞かない。
足が動いてくれない。
真っ黒に聳え立つニンゲンのシルエットを見上げながら、おれは硬直していた。
怖い。
……怖い?
ニンゲンって、そんなに怖い相手だったっけ?
間抜けで、図体ばかり大きくて、簡単に出し抜ける馬鹿……っていうのがニンゲンじゃなかったのか?
じゃあ……どうして、こんなにおれは……。
ひょっとして、おれは今までとんでもないことを、してたんじゃないのか?
たくさんのことをぐるぐると考えた。
ニンゲンを怒らせるって、こういうことだったのか。
おれは、死を覚悟した。
562: ◆/D3JAdPz6s 2013/12/05(木) 00:40:09.12 ID:6KUOsZ9r0
サボネア「ガギーッ」
ドスン
おれが諦めて目を瞑ろうとしたその瞬間、大きなニンゲンの影に、別の小さな影が飛びついた。
聞き覚えのある鳴き声がした。
男「うおっ!?」
サボネア「ゴアー!」
男「痛っ……」
見上げると、サボネアがニンゲンの頭に飛びついていた。
不器用な手でニンゲンの視界を遮りながら、サボネアは逃げろと言っている。
ニンゲンは、自分に何が起きてるのか理解できず、腕を振り回している。
違う。
それは、おれの役割じゃないのか。
おれは、頼りになるリーダーなんだぞ。
だから、助けるのは、おれの……
563: ◆/D3JAdPz6s 2013/12/05(木) 00:40:59.35 ID:6KUOsZ9r0
サボネアが、また何か一声鳴いた。
なんて言ってるかは、流石にわかる。
急かされたんだ。
早く逃げろって。
おれが呆気に取られて、もたもたしていたからだ。
助けられるなんて、守られるなんて癪だけど。
キモリ「ギッ」
お前の意図は理解したと伝え、おれは壁を蹴ってニンゲンの足の間を駆け抜けた。
後ろを振り返らず、そのまま走って大通りを少し進む。
擦り抜けた先の道で、おれは自分がもう安全であることを伝えるべく、走りながら少しだけ首を回した。
男「こ、このやろ……!」
ベキッ
キャベツを叩き割るような、いやな音がした。
キモリ「……!」
564: ◆/D3JAdPz6s 2013/12/05(木) 00:44:01.66 ID:6KUOsZ9r0
おれが振り返ったときはもう、吹き飛ばされたサボネアが視界から消えるところだった。
ニンゲンがデッキブラシを振り回していた。
あれで殴ったんだ。
それから、ニンゲンはサボネアには見向きもせずに、おれ目掛けて走り出した。
何か、罵声を上げながら。
それを見て、おれは慌てて跳んだ。
ゴロゴロと腹の底に響くような、雷が聞こえていたと思う。
必死の思いで、とにかく走った。
やっと見慣れてきた街の中を、ひたすら無我夢中で走り回る。
どこをどう逃げたかなんて、まったく憶えてない。
いつの間にか、ニンゲンの罵声は聞こえなくなっていた。
それでもまだ緊張を解く気になれなくて、おれはいつもよりずっとずっと、ゆっくり速度を落とした。
心臓がばくばく鳴って、頭や目の周りまでガンガン痛む。
……どうやら今度こそ、本当に逃げきれたみたいだ。
キモリ(……サボネアは……?)
今、自分のいるここがどこなのか……は、問題なくわかる。
棲み家を決める時に、逃げるルートを把握する意味も込めて、その街の造りも必ず頭に叩き込むようにしているからだ。
さっき追い詰められ、サボネアが殴り飛ばされた場所までは、そう遠くない。
キモリ(……たすけに いかなきゃ……)
ニンゲンをすっかり撒いた今なら、救出しに行けるはすだった。
565: ◆/D3JAdPz6s 2013/12/05(木) 00:45:30.70 ID:6KUOsZ9r0
結論から言うと、サボネアはあの場所にいなかった。
積み重ねられた段ボール箱は、さっきより崩れている。
何かが叩きつけられたような、妙なへこみも見える。
殴り飛ばされた時に、サボネアがぶつかって崩れたのかもしれない。
おれは、サボネアがどこに行ったのか、手掛かりを探して辺りを見回した。
何かを引き摺ったような、むしろ『痛む身体を引き摺りながら這ったような』汚れが段ボール箱のあちこちについている。
なんとなく、あちら側へ行けばサボネアがいるような気がした。
どうしようか迷っていると、ぽつぽつと雨が降り始めた。
このまま放っておくと、ぐねぐねに濡れてしまった段ボール箱は登るのがとても面倒になる。
向こう側を確かめてみるのなら、もう今しかなかった。
段ボール箱にそっとよじのぼり、崩れないように慎重に、次の取っ掛かりに手をかける。
サボネアも自分と同じように、この段ボール箱を越えたのだろうか。
軽々と飛び降り少し進むと、さっき自分が逃げ込もうとしていた曲がり角が見えた。
いつもと同じようにここに来られれば、どれほどよかっただろう。
せめてこの道がいつもと違って、通れなくなってるとわかっていたら。
そうすれば、少なくともサボネアは殴られずにすんでいたはずだ。
胸が痛くて、頭がおかしくなりそうだった。
具合が悪いわけでもないのに。
頭の中と胸の真ん中へんが、捩じ切られそうなくらい締めつけられている。
なのに、同じくらいの強さで胸の中がちぎれ飛んでしまいそうだ。
566: ◆/D3JAdPz6s 2013/12/05(木) 00:46:53.23 ID:6KUOsZ9r0
おれとあいつと、どっちに落ち度があったわけでもない。
ふたりして力を合わせて餌を探してるんだから、失敗もふたりの失敗だ。
ただおれには、おれが仲間の中で担うべきだと自分自身に定めていた役割がある。
それを全うできなかった。
できなきゃいけなかったのに。
おれのせいだ。
そういう気持ちのことを、『悔しい』とか、『後悔する』というのだと、あとから知った。
地面にも、何かを引き摺ったような跡……に見えそうな汚れがある。
キモリ(……だれか とおった、か……?)
早くあいつを見つけて、無事を確認したかった。
『いや、今日は危なかったな』なんて笑って言いながら、それをハスボーに、武勇伝のように伝える。
獲物は少なかったけど、みんな無事で笑ってられてよかったじゃないか、って。
伝わってるかどうかわからなくても、ハスボーはその話を楽しそうに聞いてくれる。
サボネアも、ちょっと申し訳なさそうにしながら唸っている。
まったく頼りない妹だ。
そこでおれは、わざとらしく溜息をつきながら言うんだ。
明日からはもっと気をつけようぜ、とか、今度は街の反対の方を狙おうぜ、とか。
そういう話をして、また明日から――
567: ◆/D3JAdPz6s 2013/12/05(木) 00:47:44.60 ID:6KUOsZ9r0
ずりずり……カラン
キモリ(……!)
サボネア「……ぎ……ガァ」
さっきよりも少し強くなった雨音に紛れて、音と声が聞こえた。
キモリ「ギーッ!」
走って、角を曲がる。
引っくり返ったゴミ箱がある。
散乱したゴミは生ゴミで、匂いも見た目も酷かった。
その更に向こう……。
容赦ない雨に打たれて、サボネアが横たわっていた。
キモリ「ギギッ……ギィッ!」
サボネア「ゴァー……」
568: ◆/D3JAdPz6s 2013/12/05(木) 00:48:48.07 ID:6KUOsZ9r0
元々、そんなにふっくらしていたわけではない。
それにしても、今のサボネアは殴り飛ばされたおかげで全身がボコボコだった。
ひょっとしたら、おれが知らない間にもっと殴られたり、酷い目に遭わされていたのかもしれない。
おれの声に気づくと、サボネアは辛そうに目を開けておれを見た。
申し訳なさそうな顔をしている。
違う。
申し訳ないとか、悪かったなんていうのは、おれの方が思うべきなんだ。
おれが……。
おれに、なにが出来た?
何も出来なかったじゃないか……。
ニンゲンの役に立つことなんか、もう考えてもいない。
ずっとずっと前に忘れた。
なら、せめて大事な仲間くらいは守れなきゃいけないじゃないか。
なのに、妹を守ることもできない。
ニンゲンを翻弄して、餌を掠め取ることも満足にできない。
あいつとハスボーと揃って、シアワセに生きてくために頑張ろうって思ったんじゃないのか。
シアワセに?
これの、どこが?
569: ◆/D3JAdPz6s 2013/12/05(木) 00:49:53.99 ID:6KUOsZ9r0
サボネア「……ゴブッ……」
おれは、サボネアの妙な鳴き声に気がついた。
びゅうびゅうと、おかしな呼吸をしている。
顔色が……というか、ようすも少しおかしい。
ひょっとしたら、怪我が見た目より酷いのかもしれない。
キモリ(……かくれないと……!)
キモリ「ギーッ、ギギキッ! ギ!」
サボネア「ガゴ……ゴヴォア……ゴッ」
キモリ「ギギ……」
何か伝えようとしてくるのを抑え、おれはサボネアを背負った。
思っていたより、ずっと軽い。
おれが……満腹にしてやれないからだ。
サボネア「ゴゥ……ゴガァ……」
あいつが、か細い声で鳴いたのが聞こえた。
痛々しいくらいの声なのに、楽しそうに話している。
おんぶが嬉しいと言っている。
いつもだったら『重いから、おんぶなんてしたくない』と、おれが突っ撥ねていたからだ。
570: ◆/D3JAdPz6s 2013/12/05(木) 00:50:54.23 ID:6KUOsZ9r0
キモリ「ギィー、グギィ、ギッ!」
サボネア「おご……ア……」
おんぶくらい、いつでもしてやるよ。
なあ……おんぶくらいしてやるから、そんな声出すなって。
……心配になるだろ。
少しずつ、本当に少しずつだけど、あいつが重くなってきたような気がする。
背中から伝わってくる呼吸も、どこかぜえぜえした、ほんのちょっと不規則なものになってきた。
そのことについて、考えてはいけないような気がした。
考えれば考えるほど、意味は深刻なものになってしまうような気がする。
ねぐらまでの距離はそれほどなかったはずなのに、ずいぶんと時間がかかってしまった。
身体が重い。
身動きも自由にならないからと、いつもよりずっと慎重に進んだせいもある。
いつの間にか、背中におぶった妹の呼吸は、ひゅうひゅうと吹き抜ける乾っ風のように変わっていた。
雨は強くなっている。
下水の水嵩も増して、ざぶざぶ流れているから余計にやかましい。
歩ける場所は辛うじて残っている程度で、気をつけないと流れに足を取られてしまいそうだった。
サボネア「……ゴォ……ォ……」
キモリ「ギィ……」
571: ◆/D3JAdPz6s 2013/12/05(木) 00:52:14.84 ID:6KUOsZ9r0
いつも寝起きしているあたりに、サボネアを降ろした。
床は冷たい。
本当は温かいところで、寝かせてやりたい。
けど、おれにはその手段もないし、方法もわからなかった。
炎を操れるポケモンに知り合いもいない。
少し前までは、他にもこの街で野良として路地裏を飛び回るポケモンがいたはずだった。
前は街を走っているとロコンとウソハチのコンビをよく見掛けたけど。
……あれ?
そういえば……最近、見ない。
……まあ、いいや。
あいつらがいないとなると、おれに暖を取る手段はない。
身体をさすってやるくらいはできるだろうけど。
おれは、手近にあった段ボールを掻き集めてサボネアに被せた。
重くないかと聞いてみたけど、返事をするのも辛そうだった。
サボネア「……ゴァ……ゴボッ……」
キモリ「……ギィ……」
サボネアが、たぶんおれに呼びかけた。
おれは、ちゃんとそばにいるよ、と答える。
そうしてやる以外に、おれに何ができるんだろう。
572: ◆/D3JAdPz6s 2013/12/05(木) 00:53:34.71 ID:6KUOsZ9r0
夜中を過ぎた頃、雨は止んだ。
明け方頃には下水の濁流も落ち着いて、周りは静かになった。
自分の心臓の音と、サボネアの不自然な呼吸音だけが浮かび上がって聞こえる。
昼間になって、ゴミ捨て場から濡れていない段ボールと、半分が傷んだきのみを拾ってきた。
段ボールを新しいものに取り替えてサボネアに着せてやる。
きのみの、食べられないところを削って渡した。
あいつはちらっときのみを見て、身体を起こそうとする。
おれは、それを止める。
きのみを小さくちぎって、ちょっとずつ口の中に入れてやった。
指先がべたべたになってしまったが、そんなことはちっとも気にならない。
すっかりきのみを食べきると、サボネアは静かに眠り始めた。
サボネアの身体に触れると、びっくりするほど熱い。
キモリ(どうしよう……まだ こんなに あついなんて)
怪我だけでなくて、病気にもなっているかもしれない。
殴られたから、それがいけなかったのか。
573: ◆/D3JAdPz6s 2013/12/05(木) 00:54:25.73 ID:6KUOsZ9r0
キモリ(こんなとき……ニンゲンの ところなら)
ニンゲンのポケモンならば、ポケモンセンターへ行けばいい。
あそこなら、腕が落ちたとか首が飛んだでもない限り、なんとかなるはずだ。
でも、おれはニンゲンのポケモンじゃない。
こいつも違う。
おれなんかがサボネアを連れてったって、追い返されるだけだ。
野良の泥棒を受け入れてもらえる道理はない。
……あそこの調理場とゴミ捨て場からも、色々盗んだな。
『レストラン』のゴミほど美味しいものはなかなか手に入らないけど、変わったものが多かった。
盗んだ中にシーツの切れ端があって、それをハスボーが――
キモリ(そういえば……)
キモリ(……ハスボーは?)
昨夜戻ってから一度も見ていない。
サボネアのことで頭が一杯だった。
……水嵩が戻るまで、どこかに隠れているのだと思ったけど。
キモリ(……へんだ)
キモリ(あいつ、えさ……とれない、のに)
574: ◆/D3JAdPz6s 2013/12/05(木) 00:55:28.29 ID:6KUOsZ9r0
他の野良がここへやって来たのだろうか?
それなら、それらしい形跡が残っていそうなものだ。
なにごともないなら、とっくに腹をすかせてギィギィ鳴いてないとおかしい。
どうして、姿を見せないんだろう。
キモリ(……)
キモリ「ギィー……?」
呼んでみるが、返事はない。
キモリ(……でも、こいつ おいて、さがす……むり)
サボネア「……フゥ……ゴァ……」
キモリ「ギ?」
腹が減ったのかな。
具合、悪いのかな。
なあ、どうしてほしい?
おれ……どうしたらいい?
575: ◆/D3JAdPz6s 2013/12/05(木) 00:57:11.25 ID:6KUOsZ9r0
ふと、匂いが鼻に触れた。
嗅いだことのない匂い。
食べられなくなったきのみが腐って、もっともっと腐って、すっかり残り滓だけになってしまったあとのような。
ゴミ箱ともちょっと違う、ずっと開けていなかった古い倉庫の中の、隅っこのような。
甘ったるい何かのような。
あまりいい気分になれない匂いだ。
よくない匂いなんだろうか?
頭の中にいる誰かは、この匂いに凄まじい拒絶反応を示している。
けど、どこから匂ってくるのかわからない。
下水道を通って、誰か見慣れない奴がやってきたのだろうか?
でも、いくら待っても誰かが近づいてくる気配はない。
夕方になって、おれはサボネアを残してまた街へ出た。
もう『誰か』が来ることもないと、区切りをつけたのだ。
獲物は、また新しい段ボールを何枚かと、ニンゲンの食べ物。
きのみでもポケモンフードでもないけど、しょうがない。
茶色くてフワフワしてて、真ん丸じゃないけど、小さい雲みたいな形。
焼いたみたいな、嗅ぎ慣れない匂いがする。
すみっこに緑色のカビが生えていたから、そこだけちぎって捨ててみた。
中は茶色くなくて黄色っぽい。
なんていうんだっけ、これ。
ニンゲンがよく食べてるものだ。
パン……だったかな?
わからないけど、どうでもいい。
576: ◆/D3JAdPz6s 2013/12/05(木) 00:57:55.32 ID:6KUOsZ9r0
もう地面も濡れてない。
雨が降ったことなんて、みんなもう忘れてる。
おれやおれの仲間が、ここでニンゲンと追いかけっこしたことも。
おれがニンゲンに捨てられたことも。
おれがニンゲンのところへ来たことも。
おれが、どこかで生まれたことも。
誰も憶えてない。
みんな忘れてる。
誰も思い出さない。
別にそれでもいい。
ニンゲンに、おれのことを憶えててもらう必要なんてない。
他の誰かに憶えててもらう必要もない。
あいつとハスボーは、おぼえてて くれてる。
ふたりと、いっしょに いきていたい。
あいつと ハスボーしか、おれには もう いない から。
でも あのね おれ。
あのね――
577: ◆/D3JAdPz6s 2013/12/05(木) 00:59:49.74 ID:6KUOsZ9r0
獲物を持って帰ってきたおれは、思わず抱えたパンを落とした。
パンはほとんど音をさせずに地面に落ちて、一回だけ跳ねた。
キモリ「……ギ……ギィ?」
サボネアが、出掛けた時と違う場所に蹲っていたからだ。
最初に寝かせた場所より、ずっと出入口に近い場所だった。
前に寝ていた場所からここまで、段ボールが点々と落ちている。
……ここまで這って来たんだ。
さっきもしていた、変な匂いがする。
さっきよりも、ずっと強い。
甘ったるいような、饐えたような、カビ臭いような、嫌な匂い。
これは……やっぱり、不吉な匂いだ。
おれはなんとか落ち着いて、パンを拾い上げた。
這いずりまわるほど腹をすかせているのなら、早く食べさせてやりたかった。
頭の中で、誰かが叫んでいる。
サボネアは目を閉じて眠っている。
578: ◆/D3JAdPz6s 2013/12/05(木) 01:00:34.51 ID:6KUOsZ9r0
ほら、食べもの。
ニンゲンの食べものだけど、けっこうイケるよ。
段ボール、湿っちゃっただろ?
新しいの見つけてきたから、替えよう。
……眠ってるの?
そりゃ、そうだよね。
具合、悪いんだもんな。
怪我も、まだ痛いんだろ?
ゆっくり眠ったらいいよ。
疲れてるもんな。
おれ?
おれは大丈夫だよ。
なんたって、おまえとハスボーを守る、リーダーなんだ。
おまえが起きるまで、おれ、眠らないで見張り、してるからさ。
そのくらい、ぜんぜん平気。
579: ◆/D3JAdPz6s 2013/12/05(木) 01:03:10.81 ID:6KUOsZ9r0
三回太陽が登って、三回太陽が沈んで、全部で五回、夜が来た。
その間に雨が二回降った。
おれはずっと眠らないで、ほとんどを座って過ごした。
おれはリーダーだったから。
サボネアが起きるまで、おれが見張っててやるって、約束したんだもんな。
けど、サボネアは目を開けなかった。
ハスボーも帰って来なかった。
毎日、毎日、毎日、毎日、毎日。
おれは、ちょっとずつ変わっていくサボネアをただ見ていた。
サボネアは少しずつ、サボネアじゃなくなっていった。
変な匂いは、日を追うごとにどんどん強くなった。
そのうち、腐っていく匂いがし始めた。
それでもサボネアは起きないし、おれは眠らなかった。
ハスボーは帰って来ない。
足元に置いたパンは、とっくにカビて真っ黒になっていた。
ぐずぐずのしわくちゃになって、もう食べる気にもなれない。
それでもサボネアは目覚めない。
ハスボーは帰って来ない。
580: ◆/D3JAdPz6s 2013/12/05(木) 01:04:47.20 ID:6KUOsZ9r0
サボネアは、二度と目を覚まさなかった。
ハスボーが帰ってこないことも、おれにはもうわかっていた。
おれは意識が朦朧としていた。
ずっと、起きているのか眠っているのかわからない状態だったと思う。
眠っているのに、目は開けている。
目は開けているのに、頭は動いていない。
ただ座って、じっとしている。
時々、身体のどこかが痛くなるから、その時だけ姿勢を変える。
それに加えて、本当に最低限の運動をする。
それだけだった。
サボネアらしさの減ってしまったあいつを見ている。
おなかがすいた。
このぱんは、こいつのためのものだ。
おれは、たべない。
もう、とてもじゃないけどパンには見えないのに、おれはそう思っていた。
けど、とても、とても、おなかがすいたから――
581: ◆/D3JAdPz6s 2013/12/05(木) 01:05:26.22 ID:6KUOsZ9r0
サボネアが動かなくなってから、四度目に降った雨が、さっき上がった。
凄く爽やかな日射しに照らされて、雨上がりの気分のいい風が吹いている。
おれは、ずいぶん久しぶりに、外に出た。
少しだけ腹がふくれていて、それでも意識はぼんやりしている。
こんなに清々しい朝がやってきたのに。
ハスボーはいない。
サボネアもいない。
おれには、もうなにもない。
なんにもない。
582: ◆/D3JAdPz6s 2013/12/05(木) 01:09:09.59 ID:6KUOsZ9r0
少しだけ食べたもんだから、かえって腹が減った。
そんなことを考えていた。
イチバの賑やかな声が聞こえてきた。
とても久しぶりに思える。
無意識に足が向いていたんだろうか。
そうだ、食べ物を手に入れないと。
今日はひとりでやらないといけないけど、しょうがない。
ひとりでだってニンゲンに捕まることはない。
おれの足と素早い動きがあれば、ニンゲンなんて寝てるヤドンより余裕だ。
あいつらが腹をすかせてるからな。
おれも、腹が減ったよ。
……どうにも、調子が出ない。
きのみをひとつ手にとったところで、もうニンゲンに見つかってしまった。
物凄い怒鳴り声を浴びせられて、おれは目が覚めたように飛び跳ねた。
ああ……そうだ、走って逃げないといけないんだ。
ニンゲンはのろいから、捕まることなんてないけど。
とにかく、走らないと。
前みたいに。
サボネアはどっちに逃げたんだろう?
583: ◆/D3JAdPz6s 2013/12/05(木) 01:10:23.19 ID:6KUOsZ9r0
そうだなあ。
今日は、海が見える方に逃げてみよう。
きっと気分がいいはずだ。
もう少し、気分がよくなれるはずだ。
ハスボーに、いい土産話ができる。
ブゥンだか、ボォンだかよくわからない音がした。
聞き慣れた音だ。
港町から船が出て行く時に鳴らす、笛みたいな音。
船……船、って、海の上を走って、よそへ行くんだよな。
よそ?
違う場所?
ここじゃない場所?
おれのことを、誰も知らない場所?
じゃあ、ここと同じだな。
どこでも同じってことだ。
どこにいても同じ。
ここにいても、これ以上、何かが変わることはたぶんない。
584: ◆/D3JAdPz6s 2013/12/05(木) 01:12:14.23 ID:6KUOsZ9r0
短くなっていくタラップに飛び乗り、おれは船に潜り込んだ。
ニンゲンのために作られている船は隙間が多い。
特に、おれみたいに小さな奴にとっては十分な隙間が。
エンジンの音がゴウンゴウンと響くところに入り込むと、おれはやっと腰を下ろした。
たぶん、ここなら『船を動かす』ニンゲン以外、来ることはない。
次に止まったところで、船を降りよう。
きっと、そこはおれの見たことも、行ったこともない場所だ。
海を越えてどこかへ行くはずなんだから。
どんなところなんだろう。
『盗み』のやりやすいイチバがある街だと、いいな。
さっきだって、きのみひとつを盗むのにずいぶん苦労した。
そう考えながら、盗んだきのみをじっと見つめた。
これは……なんていうんだっけ。
ピンク色のこれは……たしか……そうだ。
モモンだ。
甘くて、うまいんだ。
おれは、これが好きだ。
585: ◆/D3JAdPz6s 2013/12/05(木) 01:17:28.10 ID:6KUOsZ9r0
そうだ。
ハスボーはこれが好きだった。
あの時、必死になって盗んだモモンを、ハスボーのためにふたりで我慢した。
サボネアもおれも、本当はこれが好きなのに。
……。
どれくらい、モモンを食べてなかったかな。
齧ってみると、やっぱり甘い。
最近食べた何かよりも、ずっと美味しい。
キモリ(ああ……)
キモリ(……そうだ……)
サボネアより、モモンのみのほうが、ずっとおいしいかった。
604: ◆/D3JAdPz6s 2014/01/15(水) 22:48:23.15 ID:ditlEqqDo
雨はいつのまにか、水滴の見えない霧からパタパタと音のする雨粒に変わっていた。
それでも、ここには誰ひとりとして雨を気にする者などいない。
ミュウツーでさえ、抱えたきのみや自身が濡れていくことを歯牙にもかけていないようだった。
ジュプトルの鼻筋を、ひときわ大きな水滴が滑り落ちていく。
それが、パタンと地面に当たる。
たったひとしずくの落ちる音が、反響する銅鑼の音のように耳に届いた気がした。
実際は降り注ぐ雨粒に紛れ、そんな音は聞こえるはずもなかったのだが。
ジュプトルにとっては、感じ取ることのできる世界がそれほどまでに狭まっていた。
唐突に、口の中に“あれ”の味が甦る。
舌を刺激しない、単純でぼんやりとした味。
仲間だと思っていた――少なくとも、あちらはそう思っていたはずの――あいつの味。
付随して思い出される、青臭さのある味わいのない香り。
“あれ”を頬張ると共に流れ込んできた、下水道の不快な臭い。
そして鼻をつく、忘れようのないあの匂い。
大事な仲間は、美味しくなかった。
ジュプトル「……うっ……」
ジュプトルのささやかな世界は更に狭まり、雨で色味を失いつつあった。
こみあげてくる何かを飲み下し、膝を突き、かろうじて耐える。
彩りに乏しい地面を睨み、暴れる内臓が落ち着くのを待つ。
605: ◆/D3JAdPz6s 2014/01/15(水) 22:53:02.06 ID:ditlEqqDo
ジュプトルは努めて平静を保とうとする。
けれども、頭の方は思うように働いてくれない。
おおざっぱに繋げられた鎖を手繰り寄せるように、記憶が繋がっていく。
いつもは思い返すこともない、嫌な思い出までひとつずつ拾い上げてしまう。
シアワセで、何も知らなかった日々。
カイナシティで走り回っていた日々。
そこで味わった、敗北感と後悔。
乗り込んだ船の片隅で蹲まっていた自分。
船が停泊した街。
あの街には、やけに大きくて赤い橋がかかっていた。
カイナシティで降り掛かったような経験をするのは、二度とごめんだった。
心に、埋めようのない大きな穴を開けられてしまった。
たとえ、この森で新たに仲間を得ることが出来ても、満たされることはないような気さえする。
たぶんそれは、失う可能性を知ってしまったからだ。
ほんの些細なきっかけで、誰かのせいで、あっという間に世界が変わってしまう。
だから……あれからずっと、ひとりでやってきた。
誰か仲間を見つけて組めば、食べ物を盗むのだって難しくはない。
苦しい時には、慰め合うこともできる。
楽しい時には、その喜びを分かち合うことだってできる。
でも、もう誰かを仲間にするのは嫌だった。
また、失ってしまうかもしれない。
人間や、人間以外の何かに奪われてしまうかもしれないから。
606: ◆/D3JAdPz6s 2014/01/15(水) 22:59:01.03 ID:ditlEqqDo
そうだ。
初めての仲間は、人間に奪われた。
今でも、あの時に響いた鈍い音と、匂いと思いを忘れることはない。
たぶん、死ぬまで忘れることはない。
人間なんかのせいで、あんな思いを……。
――本当に?
ジュプトル(……)
いつもそうだった。
人間のせいで仲間を失った時のことを、考える。
さもなくば、ヨノワールのせいでハハコモリやペンドラーを奪われた、と憎しみを募らせる。
ジュプトルはそんな時、内側から自分をつつく誰かの存在をまざまざと感じていた。
その声は自分を嘲笑い、蔑み、見下し、軽蔑の眼差しを向ける。
自分の中に巣喰う、醜い笑い声を上げる、自分ではない誰か。
あれは……誰だ。
地表に触れては、間髪を入れず消えていく雨水。
小さな水玉を抱え、重そうに堪えている草。
元より背の高い友人たちに、この景色は遠い。
その小さくて広い世界が、いつにも増してジュプトルの視界をいっぱいに占拠していく。
少しでも気を許すと、あの日の友人のように臓物の中身を吐き出してしまいそうだった。
607: ◆/D3JAdPz6s 2014/01/15(水) 23:01:35.17 ID:ditlEqqDo
ミュウツー『チュリネ』
ジュプトルをただ見守っていたミュウツーが、不意に彼方のチュリネを仰ぎ見た。
それまで様子を伺うばかりで距離を置いていたチュリネが、突然の声に飛び上がる。
声の主が誰なのか理解すると、小さなポケモンは慌ててふたりに駆け寄った。
チュリネ「みーちゃん、なあに? どうしたの?」
チュリネ「……ジュプトルちゃん、ぐあい わるい なの?」
チュリネ「チュリネ、どうしたら いい?」
チュリネ「にーちゃん、よぶ?」
チュリネ「きのみ、ほしい?」
いつの間にか生え揃った新しい葉は重く揺れ、雨粒を滴らせている。
よくわからない状況の中で、自分には何が出来るのか、チュリネは必死に見出そうとしていた。
初めから探さなくていい立場にあるはずの彼女は、そうやって今もなお居場所を探している。
ジュプトルには、そんな彼女の気持ちが、いまいち理解できない。
ミュウツー『いや、その必要はない』
ミュウツー『……チュリネ』
聳えるような高さから、ミュウツーはチュリネを見下ろした。
ミュウツーはもう一度、チュリネの名前を呼ぶ。
これから真面目な話をする。
名前を呼んだことで、ミュウツーはそれを知らせようとしていた。
荒い息をつきながら、ジュプトルはようやく顔を上げる。
608: ◆/D3JAdPz6s 2014/01/15(水) 23:04:51.70 ID:ditlEqqDo
ミュウツー『……私とこいつは、ここで少し休憩することにした』
ジュプトル「……」
チュリネ「きゅーけい?」
そう言いながら、チュリネは真偽を確かめるかのようにジュプトルを見る。
さきほどミュウツーに名前を呼ばれ、これがただの『休憩』ではないことをチュリネも理解していた。
自分が仲間外れにされるのではないか、という不安が彼女の中で首をもたげる。
子供だから、と聞かせてもらえない話なのではないか。
お前にはわからないから、と爪弾きにされてしまおうとしているのではないか。
チュリネは判断しかねたのか、少し困った顔をしている。
ミュウツー『だからお前には、しばらく待っていてほしい』
ミュウツー『これはおそらく、こいつにとって大事なことだ』
『大事』という言葉に反応し、チュリネは再びミュウツーを見上げた。
大事な話に入れてもらえない。
このままでは心から憧れる存在との間に、明確な線が引かれてしまう。
それは彼女にとって、何よりも耐えがたい。
チュリネ「だいじ おはなし?」
チュリネ「チュリネも、だいじ おはなし……だめ?」
ミュウツー『……それは』
ジュプトル「だめ」
強い語気で、ジュプトルがミュウツーの言葉を遮った。
ミュウツーがその言葉に疑問を持つより早く、チュリネが抗議する。
609: ◆/D3JAdPz6s 2014/01/15(水) 23:10:52.68 ID:ditlEqqDo
チュリネ「どうして?」
チュリネ「チュリネ、こどもだから たいじ おはなし、だめ?」
やっぱり、とジュプトルはうんざりする。
チュリネはどうしても、『子供』という世界が耐えられないらしい。
彼女の思い描く『おとな』の世界に行けば、望みが叶うと信じている。
いや、信じたいだけなのかもしれない。
彼女にとって、他に道しるべはない。
ジュプトル「『おれの』、だいじな はなし……だから」
チュリネ「……」
チュリネ「……うん、チュリネ わかった」
チュリネ「あっち いいこ してる」
そう言うと、チュリネはふたりに背を向けて歩き始めた。
ジュプトルとミュウツー、ふたりはその背中を目で追う。
ミュウツー『やけに聞き分けがいいな』
ジュプトル「あいつ、『こども』……いわれたく ない」
ジュプトル「だって……あ」
ジュプトルは、すんでのところでその続きを飲み込んだ。
どれほど傍目には明らかだったとしても、これはチュリネの個人的な話だ。
今ここで言っても意味がないばかりか、下手をすれば彼女の尊厳を傷つけることにもなる。
そこまでするほど、おちぶれてはいないつもりだった。
ジュプトル「……でも、ばかじゃ ない」
ミュウツー『そうか』
610: ◆/D3JAdPz6s 2014/01/15(水) 23:17:38.01 ID:ditlEqqDo
チュリネは、やはり雨など気にする様子もなく真っ直ぐ歩いていく。
元より彼女やジュプトルなどといった草ポケモン、そして植物にとって、雨は恵みをもたらす存在である。
度を越した豪雨でもない限り、避ける必要さえないはずだ。
にも関わらず、彼女はこうして『しなくていい雨宿り』をしてみせる。
理由は、極めて簡単だ。
彼女は大きな葉の茂る木の根元に辿り着くと、幹に背を預けてちょこんと座った。
やかましい雨音が、ジュプトルの耳を遮る。
その音の壁さえものともせずに、ジュプトルの頭にミュウツーの声が飛び込んできた。
ミュウツー『我々も、雨宿りしようか』
ジュプトル「う……うん」
その実、今となっては雨宿りも何もない。
ふたりとも、とうにずぶ濡れになっている。
さほど気温が低くないことが救いだった。
ミュウツー『そこの木のところでいいな』
返事を待つこともなく、ミュウツーは巨躯を軽々と動かして、目指す場所へさっさと歩き始める。
611: ◆/D3JAdPz6s 2014/01/15(水) 23:23:08.13 ID:ditlEqqDo
ジュプトルはその平然と歩く後ろ姿を見て、やけにしっかりした足取りを見て、少し驚く。
二度目にこのポケモンを見た時のことを、ジュプトルは思い出した。
初めてミュウツーを目にしたのは、言うまでもなくこの森に墜落してきた夜のことだ。
その次に目にしたのが、ミュウツーがチュリネに導かれてあの小川にやって来た時だった。
あの頃は、もっとよたよたと歩き慣れない風情ではなかったか?
大した距離を来たわけでもないのに肩で息をし、重い身体を引き摺ってはいなかったか?
身軽で敏捷な自分とは、見るも無惨なまでに大違いだったはずだ。
だが、今はどうだ。
自分のような俊敏さこそないものの、ずっと歩き慣れているといった所作で、危なげなく足を動かしている。
両足を繰り出し、尾でバランスを取り、歩くことがごく当たり前の動作として落ち着いている。
――誰かが、かつては出来なかったことを、ちょっとずつ出来るようになっていく
――その姿を見て、お前は何を思う?
――“あいつばっかり”か?
――前になんて、進む気はないもんな、お前
ジュプトル(……そんなこと……)
頭の中に響く罵倒を振り払い、ジュプトルはげっそりした顔で後を追った。
人間が嫉妬と名付けて疎む泥に足を浸し、劣等感と名付けて避ける雨を浴びている。
ぐるぐると苦しむことが無意味だと、誰よりもわかっている。
それでも、やめられない。
変わりたくても、今まで変われなかった。
612: ◆/D3JAdPz6s 2014/01/15(水) 23:26:55.02 ID:ditlEqqDo
バシャーモが羨ましい。
自分の居場所を見つけ、爪弾きのよそものとして自分たちと群れることもなく、生きているからだ。
力を借りたい時は喜んで貸してくれるが、普段は彼なりの交友を持って生きている。
チュリネが羨ましい。
自分の気持ちを衒いなく表に出し、憧れを口にでき、何よりハハコモリから役割を引き継いだからだ。
この森で生まれ、何不自由なく育ち、天真爛漫で、きちんと『森の一員』だ。
ダゲキが羨ましい。
森に住むことになった、よそのポケモンたちに居場所を与える『仕事』を全うしているからだ。
自分の修行も疎かにせず、たくさんものを考え、いつも何かの答えを探している。
ミュウツーが羨ましい。
誰よりも人間のことをよく知り、憎み、誰よりも強大なちからを持っているからだ。
気難しいが聡明で、人間に限らず色んなことを知っているのに、まだ貪欲に学び、知ろうとしている。
ああ……みんな、羨ましい。
自分には、ひとりで生きていく覚悟なんてない。
自分の心を曝け出す勇気もない。
自分や誰かのために、一生懸命になる心意気もない。
新たに学び、前に進むちからさえ、ない。
その『足りなさ』を、是正していく気も持てない。
そんな気力は、あの時に綻び、すっかりこぼれ落ちてしまったから。
だから、変わりたくても、変われなかっただけ。
あんな目に遭ったせいで。
613: ◆/D3JAdPz6s 2014/01/15(水) 23:33:13.17 ID:ditlEqqDo
――じぶんじゃない だれかの、せい?
――それ、いつまでやるの?
ミュウツー『大丈夫か』
ジュプトル「う、うん……」
ミュウツー『ちっとも、大丈夫そうに見えないがな』
ジュプトル「じゃあ、きくなよ」
ミュウツー『それもそうだ』
座り込んだミュウツーが神妙な顔で、手に持ったきのみを眺めている。
その中のひとつを手に持ち、ジュプトルに向け差し出しながらこう言うのだった。
ミュウツー『……これはお前にやろう』
ジュプトル「あ?」
ミュウツー『どうやら間違えて、フシデに甘いきのみまで要求してしまったようだ』
ジュプトル「フシデ?」
何を言っているんだと言わんばかりの顔で、ミュウツーがジュプトルを見る。
ミュウツー『お前か、あのチビに頼もうと思ったら、揃って出発したと聞いたからな』
ジュプトル「あ……そうか」
ミュウツー『私は、イアのように酸っぱい方が好きなんだ』
ミュウツー『このモモンは、お前が食べろ』
ジュプトル「……モ、モモン……」
614: ◆/D3JAdPz6s 2014/01/15(水) 23:35:00.09 ID:ditlEqqDo
気分が悪い。
けれども、さっきまでの不安定さに比べれば、随分と落ち着いている。
皮肉で返すことができる程度には。
ジュプトル「べつに……あまいの きらいじゃ、ないだろ」
ミュウツー『嫌いではない。だが、好みの優先順位というものがある』
ジュプトル「おまえ、めんどくさいよ」
ミュウツー『そうか?』
きのみを受け取り、こちらも躊躇なくかじりつきながら、ジュプトルは皮肉を続ける。
この期に及んで、仮面が剥がれないように。
そんな悪い癖を止めたくても、これまでどうしても止められなかった。
この森に来てからずっと被っている冷たい覆い。
笑う時は、仮面が笑う。
自分は、笑えない。
ジュプトル「ふつうに いえば いいだろ」
ミュウツー『さっきまでのお前は、それでは受け取れないだろう?』
ジュプトル「さっきの……おれ?」
ジュプトルは呆気に取られたような顔をした。
仮面を支える手が震える。
615: ◆/D3JAdPz6s 2014/01/15(水) 23:36:18.49 ID:ditlEqqDo
ミュウツー『さっき、会った時のお前だ』
ミュウツー『様子がおかしかった』
ジュプトル「……どんな ふうに?」
ミュウツー『説明しようがない。私の知るお前ではなかった』
ミュウツー『しばらくすると……正確には、少し話をした後、“いつもの”お前に戻っていた』
ミュウツー『だから、単なる思い違いか、とも思ったのだが』
ミュウツー『ハハコモリの話を振ってから、お前は……また様子が変だ』
ミュウツー『……ほう。私がものを齧ると、こんなが「あと」がつくのか』
自分で齧ったきのみの歯型をしげしげと見ながら、ミュウツーはそう言った。
わかってるくせに、とジュプトルは内心毒突く。
ジュプトル「おまえが……あいつのはなし、するから」
ミュウツー『ヨノワールのことか』
ジュプトル「おれ……あいつ、いや……だっ、たんだ」
無意識に、言葉尻が弱々しくなる。
ミュウツー『そんなにも憎いか』
ジュプトル「……うん」
――どうして?
ミュウツー『それは、何故だ?』
ジュプトル「だから……におい だよ」
ジュプトル「あいつ あう、と……においが した」
ミュウツー『死を連想させる匂い……だったか』
ジュプトル「すごく いやな におい」
ジュプトル「しんだとき、しぬとき、そういう におい する」
616: ◆/D3JAdPz6s 2014/01/15(水) 23:37:50.77 ID:ditlEqqDo
何かを想起して、ジュプトルが鼻先に皺を寄せる。
今となっては、その匂いの記憶だけがジュプトルにとっての真実だった。
ジュプトル「あいつ ハハコモリに あった」
ミュウツー『そういう、話だったな』
ジュプトル「だからだ」
ミュウツー『……?』
ジュプトル「ハハコモリも その におい、した」
ミュウツー『……私には、わからなかった』
ジュプトル「ぜったい あいつのせいだ」
ジュプトル「……あのひ より まえは、ぜったい……においは、なかった」
ジュプトル「あいつだ。そうに きまってる」
――お前はいつも“そう”言ってきた
――楽だよな
――そっから先、考えなくていいんだもんな
――わかるよ
――俺は、お前だから
ジュプトルの腹の中で、『あいつ』が言う。
――あいつのせい、こいつのせい
――“おれは わるくない”……だろ?
ジュプトル「ち……ちがう! ちがう!」
ミュウツー『……?』
617: ◆/D3JAdPz6s 2014/01/15(水) 23:39:19.07 ID:ditlEqqDo
何度自分に言い聞かせても、罪悪感は最後まで消えなかった。
どうしても、自分で自分を騙しきれなかった。
騙しきれないから、繰り返し吹聴するしかない。
騙しきれないから、塗り固めるしかない。
理由はわかっている。
ジュプトルは固く目を瞑った。
雨音が神経を逆撫でする。
ジュプトル「あいつが なにか した……んだ……」
自分の声がこんなにも醜く、虚しく聞こえたのは初めてだった。
決して、嘘をついているわけでも、虚偽を並べているわけでもない。
けれども、真実とはほど遠い。
違うことを誰よりもわかっている。
わかっているのに、わかっていないふりをして口にする。
ジュプトル(だめだ、おれ)
――そうだな
――サボネアが死んだのは、ニンゲンのせい
――ハスボーがいなくなったのも、ニンゲンのせい
――よかったな、どっちもお前のせいにならなくて
――最初は、ちゃんと、わかってたのにな
618: ◆/D3JAdPz6s 2014/01/15(水) 23:41:01.28 ID:ditlEqqDo
腹から響く声が、いつの間にか少しずつ変わっていた。
自分を責めているのとは、少し違う。
“最初は”わかっていたのに、と声は告げている。
わかっていたのに、わからなくなった。
わかっていたことを、自分でわからなくした。
だから、もうあの頃の自分には戻れないんだ。
本当の自分に戻るための道は、口を噤むように閉じられている。
それは、誰のせい?
――自分で、やったんじゃないか
悪意ある何者が、戻れないように邪魔をしていたわけではない。
他ならぬ自分自身が、自分の示した行動で、口にした言葉で、自分自身に呪いをかけた。
あるいは行動しなかったがために、口にしなかったがゆえに、かもしれない。
自分につき続ける嘘が、戻りたいあの頃を踏みつけている。
根を傷つけ、葉をちぎり、腐らせようとしている。
――ペンドラーが死んだのも、あいつのせい……だもんな
――ハハコモリだって……きっとそうに“決まってる”
――だよな?
ジュプトルの言葉を咀嚼するように、ミュウツーは眉間に皺を刻んでいた。
ミュウツー『お前は……そう思っているのか』
619: ◆/D3JAdPz6s 2014/01/15(水) 23:42:31.06 ID:ditlEqqDo
友人は、ジュプトルの脆弱な告発を肯定も否定もしなかった。
ミュウツーには、ジュプトルの話を肯定するだけの材料も、否定するだけの材料もない。
そのずっと向こうで、小さなチュリネが雨を眺めている。
そのチュリネに合わせる顔が、自分にはあるのだろうか。
ハハコモリや、ペンドラーには?
ジュプトル(……やっぱり……すごく、いやな やつだ……おれ)
ミュウツーの沈黙を、死刑宣告を待つような心境でジュプトルは耐える。
ぐるぐると体内に渦巻く罪ならぬ罪を、誰かに糾弾してほしい。
誰でもいい。
もちろん、他ならぬヨノワールにこそ、その権利はあるのだろうが。
むしろ、親しい誰かに責められる方が、逃げ場はないかもしれない。
『誰か』が責めてくれれば、楽になれる。
その時を、消極的に待ち望む。
ミュウツー『ヨノワールは……あの時、“本当は”何をしていたのだろうか』
ミュウツー『それを、お前は知っているか?』
ジュプトル「それは……しらない」
ミュウツー『そうか。ならば』
ミュウツー『私は、知りたい』
ミュウツー『お前は知りたいか?』
雨の音を潜り抜け、ミュウツーの言葉が脳裏を駆け巡る。
620: ◆/D3JAdPz6s 2014/01/15(水) 23:43:50.69 ID:ditlEqqDo
ジュプトル「……なにを?」
ミュウツー『本当のことを、だ』
ミュウツー『知りたいとは思わないのか?』
ジュプトルが、驚きとも怒りとも判じかねる顔をミュウツーに向けた。
ミュウツーもまた、気難しげな紫色の瞳をこちらに真っ直ぐ向けていた。
ジュプトルはその目を睨み、ミュウツーがこんな話をする意図を探り出そうとしている。
自分の罪が、ようやく暴かれるのだろうか。
ついに、白日の下に晒されて後ろ指を指されるのだろうか。
それは、なんとも、喜ばしいことだ。
ジュプトル「……」
ジュプトル「なんで……そんなこと」
――お前はそんなの、考えたくないよな
ミュウツー『まあ……何よりも、まず私自身が知りたいと思ったのだ』
ジュプトル「……なにを?」
ミュウツー『さあな』
そう尋ねると、ミュウツーは肩を竦めた。
ミュウツー『残念ながら、私には何がどうなっているのか、よくわからない』
ミュウツー『……』
ミュウツー『あのヨノワールという存在に、ほんの少しだけ興味が湧いたのかもしれない』
ミュウツー『お前の説明では、納得できなかった……というのも、あるにはある』
ミュウツー『お前は、何を尋ねても「ヨノワールが悪い」としか言わんしな』
621: ◆/D3JAdPz6s 2014/01/15(水) 23:47:38.56 ID:ditlEqqDo
食べ終えたきのみのへたを、ジュプトルはくさむらに投げ捨てた。
ミュウツーの言葉は、その通りである。
思考停止としか言いようのないところで、ジュプトルはもうずっと足踏みしている。
ミュウツー『この森に暮らすようになるまで、私は本当にごく狭い世界しか知らなかった』
ミュウツー『それは、以前お前たちに話した通りだ』
ミュウツー『何かを知り、何かを理解すると、周囲の見え方が変わった』
ミュウツー『森にいるものたちは、森にいるものたちなりのルールで生きていることを、多少だが知った』
ミュウツー『お前たちのようなポケモンが、色々と折り合いをつけて生きていることも知った』
ミュウツー『私がニンゲンではないと知ってなお、求める知識への道と示そうとするニンゲンの存在を知った』
ミュウツー『自分が何かを知っていて、何かを理解している気になっていたことを思い知った』
ミュウツー『……』
ミュウツー『知らないということは、愚かなことだ』
ミュウツー『……だがある意味、幸せなことなのかもしれないな』
ジュプトル「!」
ミュウツー『……? どうした?』
ジュプトル「えっ……あ、ああ……いや」
その言葉は知っている。
その考え方は知っている。
おれ自身が、一番よくわかっている。
降り注ぐ雨は、いつしか少しずつ弱くなっていく。
いずれ雨が止もうとする変化だった。
自分自身を騙し続けるための嘘が力を失いつつある。
ジュプトルの耳には、弱くなっていく雨音がそう聞こえていた。
622: ◆/D3JAdPz6s 2014/01/15(水) 23:50:02.52 ID:ditlEqqDo
ジュプトル「おまえの、いってること」
ジュプトル「……おれ しってる き……する」
ミュウツー『そうか』
知らなければ、このままでいられる。
シアワセでいられる。
安全が保障された『はらっぱ』の外が、どんな世界なのか、知らなければ。
生きる意味を持てた日々が、どんな毎日なのか、知ろうとしなければ。
欠けることなどないと信じていた仲間が失われる可能性に、考えが至りさえしなければ。
本当に憎むべき相手が何なのか、考えようとしなければ。
自分を囲む世界は、変わることなく続く。
向き合い方を変えない限り。
知らなければ、シアワセな姿のままだ。
知ろうとしなければ、今のシアワセは揺るがない。
“そこ”は楽園だ。
ミュウツー『だが、知ろうともしないのは、もっと愚かなことだ』
ミュウツー『……と、私は思う』
知ろうとしなければ、真実に行き着くことはない。
真実に行き着かないかわり、手放しに誰かを責め立てることができる。
誰かの本当の姿を知ることなく、自分自身の罪を知ることもない。
だがそんな日々に、未来が訪れることはない。
“そこ”は誰もいない、ひとりきりの楽園だ。
――寂しいかい?
――ひとりきりは……誰もいないのは、寂しいだろう?
――でも、その世界を望んだのは、お前だった
623: ◆/D3JAdPz6s 2014/01/15(水) 23:50:54.85 ID:ditlEqqDo
ミュウツー『お前は、どうしたい?』
――お前は、知りたいのか?
ジュプトル「おれ……」
ジュプトル「……しりたい」
……何言ってるんだ、おれ。
『答えなんていらない』って言えばよかったんだ。
『関係ないんだから黙ってろ』って、言ったってよかった。
こいつが、そうまで言うおれを追求してくることは、たぶんない。
それで話が終わるはずだ。
なのに、おれは……どうしてそんな返事をした?
――お前だって、本当はわかってるから
――真実を前に、偽りの楽園は……
頭の中に棲むあいつが、やけに穏やかな顔をしている。
どうしてだ?
“いい気味だ、もっと苦しめ”……だろ?
“ざまあみろ”……じゃないのか?
――違う
――おれは、お前だから
624: ◆/D3JAdPz6s 2014/01/15(水) 23:52:17.14 ID:ditlEqqDo
ジュプトル「……あ……」
ジュプトル「……そう、なんだ……」
喉を唸らせた程度の、ほんの小さな声でジュプトルが鳴いた。
小さなその声は、ともだちの耳まで届かないかもしれない。
――ともだちに なりたいのに、な
ジュプトル(あいつら、は……)
ジュプトル(ともだち……に、なんて なれないよ)
――こんな、自分だから?
――それとも……そんなに、辛かった?
――自分が無力だったこと
――大事な仲間を守れなかったこと
――それが、他の誰でもない自分のせいだってこと
パキン、と何かにひびの入る音が聞こえたような気がした。
ミュウツー『……ん?』
ジュプトル「……い、いや……その……」
ミュウツー『……』
ジュプトル(だれかの せい?)
ジュプトル(ちがう……おれの せいだ)
ジュプトル(そ……そうだ)
ジュプトル(おれが にくいのは……あいつじゃ ない)
625: ◆/D3JAdPz6s 2014/01/15(水) 23:54:00.74 ID:ditlEqqDo
ジュプトル「もう いやなんだ」
ジュプトルは頭を抱えた。
頭の中と外の区別がつかなくなる。
自分が声を出しているのか、頭で思い浮かべただけの言葉なのかも、よくわからない。
そもそもはじめから、そんな区別など存在しなかった気さえしてくる。
自分の中には、自分しかいない。
塞いだ耳に、自分の鼓動と共にもやもやと歪んだ音が届く。
雨が止み、声が止んだ。
頭の中で、腹の底から、自分を責め続けてきた、誰かの声。
違う……あの声は、『おれを責めてる誰か』なんかじゃない。
おれ自身だ。
おれ自身が、言い訳を並べるおれを忘れないように、声を発していただけだ。
誰かを憎み、誰かを羨み、誰かに嫉妬する醜い『おれ』を、忘れないように。
その浅ましい姿こそ、本当の自分なのに。
どうして、忘れていられたのだろう。
どうして、見て見ぬふりなんて、していられたんだろう。
どうして……。
ガラスよりも低い音で、何かが割れたような気がした。
ジュプトル「なあ、みー……あ、じゃなくて」
ジュプトル「ミュウ……ツー」
ミュウツー『なんだ』
ジュプトル「なんで……おまえ なんかが、ここに きたんだろうな」
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