もやもやした気分を抱えながら、緩慢な思考を続けながら、一人道を歩く。
何かが違うような、何かを忘れているような、何かが引っかかるような。
そんな違和感と焦燥感が、頭にこびり付いて離れない。
でもその正体が分からない。
そんな思考を、もう幾度となく繰り返している。
何が分からないのか、何で分からないのか、考えれば考えるほどに混乱してしまう。正に袋小路。
解決すべき問題を前にして、それに取り組むでもなく傍観しているような気分がして落ち着かない。
哲学者でもあるまいに、僕は何を悩んでいるのかと、そうしてまた思考が脱線していく。

 何かがおかしい、でも何がおかしいのかが分からない。
そんな疑問の堂々巡りを続けている内に、気がつけば日暮れ。
妙な違和感と焦燥感を抱えながらの帰宅。
事態はなお動かず、僕はなお気付かず、ただ時間だけが無為に過ぎてしまっていた。

引用元: 月火「火憐ちゃんも、お兄ちゃんのことどうこう言えないよね」  


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319: ◆/op1LdelRE 2012/01/25(水) 23:20:00.42 ID:xbngZ8B+0
 016.

 明けて次の日。
休日ということもあり、目覚ましをかけることなく寝ていたのだが、普段とそう変わらない時間に眠りから覚めてしまった。
重い瞼に重い気分、鈍い思考と鈍い動き、どうしようもなく憂鬱な目覚め。
そんな覚醒とあっては、すぐに体を起こす気にもなれず、まるで頭も回らず。
梅雨時の空よりもどんよりした気持ちで、しばらく天井を見上げていた。
悪夢にうなされたような記憶はないんだけど、あるいは忘れているだけで、もしかしたら嫌な夢でも見ていたのかもしれない。
もっとも寝入りの時からして気が重かったのだから、寝起きでそうなってしまうのも、まあ頷ける話ではある。

 昨日、悩んで頭を抱えながら帰宅して、それからも散々だった。
火憐と月火はなお冷戦状態で、互いに一言さえ言葉を交わすことなく、険悪なムードを隠そうとすらせず、たまに顔を合わせれば睨み合いになり。
一触即発というそんな状況に、僕はずっとはらはらしっ放しだった。
二人が接近する度に緊張を強いられてしまい、身体より心の方が疲弊してしまったくらいだ。

320: ◆/op1LdelRE 2012/01/25(水) 23:23:52.50 ID:xbngZ8B+0
 両親にも色々と聞かれたけれど、まさか本当の事を言う訳にもいかず、とにかく曖昧にぼかすしかなかった。思春期だからとか何とか。
もちろんその説明で納得したわけでもないだろうけど、それでも姉妹が喧嘩しているくらいの事で逐一口を出すつもりはないようで、両親の方は一応しばらく静観することにしてくれたらしい。
突っ込んだ所を聞かれなくて済んだのは良かったけれど、結局事態がまるで解決の見通しも立っていないということに変わりはなく。
板挟みの状況に、僕は一人神経をすり減らしながらの夜を過ごしていた。
世に言う中間管理職という役職にいる人達は、こういう気分を日々味わっているのだろうか。
だとすれば、よくぞそんな苦行に耐えているものだと、尊敬の念を覚えずにはいられない。

 しかし実際、火憐と月火の間で散らされている火花へと身を投じるというのは、物凄いストレスだった。
それこそ野生動物なら即座に逃げ出すんじゃないかってくらいに剣呑な空気。
とても話や説得なんてできるような雰囲気ではなく、どころか火憐に至っては目が合えば僕をも睨みつけてくるのだから。
そんな状況とあっては、こちらとしてももう接触すること自体を諦めるしかなく、近づくという選択肢すら頭から完全に放棄していた。

 全く、吸血鬼だてらに頭も胃も痛くなってくる話である。
月火は火憐を無視し、僕は火憐を放置し、火憐もまた僕らに近づいてくることはなく。
ぎすぎすした空気には閉口し、意地を張り続けている火憐には開いた口が塞がらない。
自分達の家なのに、居心地の悪さに全然気が休まらなかった。
眠りにつくまでずっとそうだったのだから、夜が明けた所で何も変わってはいないだろう。

321: ◆/op1LdelRE 2012/01/25(水) 23:26:51.55 ID:xbngZ8B+0
「はあ……」

 今日これからのことを思い、知らず零れる溜息。
しかし溜息をつくと幸せが逃げるとは言うものの、そもそも溜息をついてしまうような心境の人間の中に、逃げるほど幸せが残っているものなのだろうか。
というか、逃げ出すだけの幸せがある人間なら、そうそう溜息なんてつかないような気がするんだけど。

 そんな馬鹿なことを考えていたところで、不意に腕に鋭い痛みが走る。
反射的に視線を向けると、月火の手が僕の腕をがっしりと掴んでいた。
皮膚に爪が食い込む程に力が込められたその手は微かに震えていて。
眉根を寄せる寝顔に浮かぶその表情は、はっきりと苦悶の色に満ちていて。
食い縛るようにしている口元から漏れる呻きに、はっと気を取り直す。

「どうした月火ちゃん! おい! 大丈夫か!?」

322: ◆/op1LdelRE 2012/01/25(水) 23:31:00.00 ID:xbngZ8B+0
 珍しくも僕が妹を起こすという構図がそこにあったが、もちろんそんなことに気を回す余裕なんてなかった。
掴まれていない方の腕で、月火の肩をゆさゆさと揺さぶる。
ここまで月火がうなされる姿なんて見た記憶はない(いつも僕が起こされる立場だったというのもあるけれど)。
なので正直なところ、僕はみっともないくらいに取り乱してしまっていた。
何しろ体調に異常がある可能性を全く考えられなかったのだから。

 とはいえ、今回はその行動は正解だったらしい。
ややあって、ゆっくりと月火の瞼が開き、僕の目に焦点が合わせられる。
強張っていた体からも、少しずつ力が抜けていく。
そこでようやく僕の腕も解放され、血が通うような感覚が走る。どれだけ全力で握り締めていたのやら。

「お兄ちゃん……?」
「どうしたんだよ、月火ちゃん。随分うなされてたぞ」

 一つ瞬きした後、掠れたか細い声で僕を呼ぶ月火。
繰り返される呼吸は荒く、重そうな瞼の奥の瞳には疲労の色が濃く、汗もびっしょりかいていて、前髪は顔に張り付いてしまっていた。
とても一晩ゆっくり寝たとは思えないような姿だ。
心配になり、汗ばんだその頬を撫でてやりつつ、瞳を覗き込むようにしながら声をかけてみる。

323: ◆/op1LdelRE 2012/01/25(水) 23:34:34.51 ID:xbngZ8B+0
 全く頭が働いていないらしく、無言のままそれから何度か瞬きを繰り返していた月火だったが、少しして僕の胸元に転がってきた。
何も言わずに腕を僕の背に回し、目を閉じて顔を胸に押し付けてきて。
そしてそのまま、ぎゅっと僕の体を抱きしめてくる。
背中を掴む月火の手は、微かに震えている気がした。
傍で見ているこちらの方が不安になってしまうような所作。

「おいどうした? 大丈夫なのか? 何なんだよ、嫌な夢でも見たのか? まさか体の調子が良くないのか?」
「……分かんない」
「は? 何だって?」
「だから分かんないの! よく分かんないけどやな気分なの! しばらく黙ってて!」

 僕の体を抱きしめたまま、甲高い声でキレる月火。
というか、何でその矛先が僕に向けられているのかが分からない。
まあその声の調子を聞く限り、体に異常があったとかではなさそうなので、その点は一安心だけど。

324: ◆/op1LdelRE 2012/01/25(水) 23:38:07.38 ID:xbngZ8B+0
 しかしどうやら相当嫌な夢を見たようだ。
その内容を覚えていないというのは、言葉通りなのか言いたくないだけなのか。
まあこいつが見た夢の内容についてはともかく、その原因は容易に想像できる。
それはきっと、僕と同じだろうから。

 火憐との不和――思った以上にこの事実は、僕らの心に大きな負荷をかけてしまっているらしい。
一つ屋根の下で暮らしている人間とぎすぎすしていれば、それは負担になって当たり前ではあるにせよ。
これは何とか早いこと解決させないと、本当に体調にも障ってきそうだ。
精神的にもしんどいことこの上ないし。

 胸元でうーうー唸っている月火の頭を、そっと撫でてやる。
怒るかなとも思ったけれど、特に何も言ってくることはなく。
しばらくそうして過ごしている内に、どうにか心が落ち着いてきたようで。
一度ゆっくりと大きな深呼吸をしてから、マーキングする動物よろしく、月火が僕の胸に頭や頬を擦りつけてくる。

325: ◆/op1LdelRE 2012/01/25(水) 23:42:56.85 ID:xbngZ8B+0
「はぁ……あーもー最悪。超最悪。何この気分。むかむかしてくる。何で休みの朝からこんな気分になんなきゃなんないのよもー」
「ぐりぐりすんな、地味に痛いから」
「何だろこれ、凄いやな感じ。悪い夢とか最近全然見てなかったのに。ていうかいい夢見ることの方が多かったのに。何なのよホントにー」
「まあ忘れとけって、嫌な夢のことなんか。ほら起きるぞ」
「えー、いいじゃない、もうちょっとごろごろしてようよ、折角の休みなんだし」
「休みだからこそ、だらけててどうすんだって話だろ。大体僕は受験生なんだぞ」
「何よ、偉そうに優等生ぶっちゃってさ。ぶっ飛ばすよ?」
「物騒なこと口走ってんじゃねえよ、人の胸に頬擦りしながら。しかも手でも撫で回してるとか。どこの痴女だよ、お前は」
「ちょっと人聞きの悪いこと言わないでよね。これはあれだって、ただ妹として兄の成長具合が気になっただけだよ」
「それはだけと言い切っていいことなのか?」

 その発想は、兄を持つ妹として些か斬新過ぎる気がする。
もっとも第三者的観点から見れば、僕が言えたような立場じゃないって気もするけど。
きっと正しく五十歩百歩だろう。
これ以上突っ込んでも墓穴を掘るだけだろうし、とりあえず棚に上げておくことにする。

326: ◆/op1LdelRE 2012/01/25(水) 23:48:59.08 ID:xbngZ8B+0
 しかしまあ、相も変わらず僕達は一体どこに向かっているのだろう?
果たしてこのまま進んで良いものかと、ちょっと不安に思わないでもない。
とか、そんな下らないことを考えている間も、僕の胸を撫でる月火の手の動きは止まっていなかった。
男の胸なんて撫でて何が楽しいんだろうか? あるいはもう僕が月火の胸を撫でてやるべきなのか?
そんな風に僕が結構な疑問を抱えている内に、月火がちょっとうっとりしたような表情で小さく頷く。

「うん、でもなかなかいい体してると思うよ、お兄ちゃん。適度に鍛えられててさ。これなら九十点以上を上げてもいいかな」
「そんな評価はいらない」
「照れなくてもいいのに」
「照れてなどいない」
「デレればいいのに」
「何でだよ!?」

 今のやり取りのどこにデレる要素があったよ?
というかデレるの僕かよ。益々もってあり得ないだろ。
本当にこいつは勢いだけで何を口走ってやがるのか。
しかし最近気付いたことだけど、寝起きの月火って頭が変な方向に暴走してるよな。
とんだアイドリングもあったものだと思う。

327: ◆/op1LdelRE 2012/01/25(水) 23:53:37.72 ID:xbngZ8B+0
「あー、何か喋ってたら目が冴えてきちゃった」
「いいことじゃねえか、じゃあ今度こそ起きようぜ」

 最後にぽんぽんと背中を優しく叩いてやって、僕の方から体をずらしてさっさと起き上がることにする。
うつ伏せの状態でまだ不満げな声を上げていた月火だったが、それでもさすがに諦めたらしく、小さく溜息を一つ。
気怠げな様子で頭を上げ、そこでようやく体を起こす動作に移る。ゆっくりと。

 何気なくそちらへ視線をやり、そこで初めて月火の状態に気付き、思わず絶句してしまう。
どうやら今日は相当寝相が悪かったらしく、浴衣の前が完全にはだけてしまっていたのだ。
それはもう、帯がなかったら全部ずり落ちてたんじゃないのかってくらいに。
実際それは既にもう服の体を為してはおらず、ほとんどパンツ一枚と変わらない姿である。
だというのに、こいつは胸を隠す気も胸元を直す気も全く無いようで。
あられもない格好に恥じ入る様子など微塵もなかった。
いやもう本当に言葉も無いわ。

328: ◆/op1LdelRE 2012/01/25(水) 23:57:57.44 ID:xbngZ8B+0
「何? 私の○○○○がどうかした?」
「どうかしたというか、まずその質問がどうかしてるというか。つーか気付いてるんなら直せよ。丸出しだぞ」
「そう言うわりには視線固定されてるよね。そんなに気になるんだ。見たいんなら素直にそう言えばいいのに」
「馬鹿言え、そんなわけあるか。これはあれだ、ただ兄として妹の胸の成長具合が気になっただけだ」
「それをだけって言い切れるのも凄いと思うよ」

 至極もっともな指摘だった。因果応報とはこのことか。いや多分違うけど。
とは言え、当の本人がそれを気にした様子でもないので、ここはさらっと流しておいた方がいいだろう。
と、そこでようやく月火も浴衣を直し始めた。
特に隠すわけでもなく、別に見せようとしているわけでもなく、何というかごく自然に。
結婚二年目の夫婦でもあるまいに、もう少し恥じらいというか、ちょっとぐらい気にしたらどうなんだと思わないでもない。
まあ風呂上がりに半裸でうろつくようなやつだし、家の中で無防備なくらいなら特別問題視する程のことでもないのか?

329: ◆/op1LdelRE 2012/01/26(木) 00:04:14.19 ID:X9pkvxlo0
 しかし改めてその胸部をじっくり眺めてみると、やっぱり前に見た時より成長しているなと確信する。
もちろんまだまだ羽川とかと比べられるような世界には程遠いとはいえ、それでもこれは、そこへ近づく為の価値ある一歩だと思う。
果たして伸び代がどれだけ残されているかは分からないけれど、兄としてこれからもずっと見守っていこうと改めて心に誓った。

「やっぱり何か邪な思考を感じるんだけど」
「気のせいだ。いいからシャワーでも浴びてこいよ。汗びっしょりだぞ」
「それはお兄ちゃんもだよ。何? もしかしてお兄ちゃんも嫌な夢見たの」
「多分な、よく覚えてないけどさ」
「ふーん、何でだろね、二人揃ってなんて。まあ今更どうでもいいか。じゃあお風呂行ってくるね」
「そうしろ、僕は後でいいから」
「何なら一緒に入る?」
「馬鹿言ってんじゃねえよ、さっさと行ってこい」

330: ◆/op1LdelRE 2012/01/26(木) 00:12:41.83 ID:X9pkvxlo0
 そうして先に月火を風呂にやり、上がってきた所で交代して僕もシャワーを浴びる。
汗を流したところで、ようやく人心地ついた気がした。
風呂上がりに遅めの朝食をとり、二階に上がって自室に入ると、当然と言おうか、既にそこに火憐の姿はなく。
思わず知らず、小さな溜息が零れる。
きっと今日も、昨日までと同じように一人で動いているのだろう。
それに気付き、浮かんでくるのは呆れの気持ち――が、それと同時に何故か焦燥感も心に湧き上がってくる。

 軽く首を振って気を取り直すと、手早く外出の準備をする。
特に当ても無く、見込みも望みも薄いとはいえ、こんな状況で部屋で大人しく過ごすなんて到底無理だ。
全然心が落ち着かない。
勉強道具を鞄に詰めて、部屋を出て階段を下りる。
リビングを覗くと、月火が一人でソファに座って、何かの雑誌を読みつつ寛いでいた。
と、声をかける前に僕に気付き、顔を上げてこちらに視線を向けてくる。

「お兄ちゃん、お出かけ?」
「ああ、図書館行ってくる」
「行ってらっしゃい、勉強頑張ってね」
「おう。それじゃ留守番よろしくな」

331: ◆/op1LdelRE 2012/01/26(木) 00:17:14.92 ID:X9pkvxlo0
 もちろん図書館に勉強に行くというのは表向きの理由だ。
実際には事態解決の方法を考える為の外出である。
もし今回の件でまだ僕が動いていると知ったら、それがまた月火を動かす引き金にもなりかねないし。
その意味では勉強に出掛けるというのは、疑われる危険の少ない実に良い口実だった。

 そうして家を出て、一人で図書館へと向かう。
その道すがら、頭はずっと今回のことで一杯だった。
何をすればいいのか、何をすべきなのか、何ができるのか。
松木は何を望んでいるのか、どうすればそれを知ることができるのか。
そして、一体どうすれば事態を解決できるのか。

 しかしやはり、考えはそこから先に進んでくれない。
昨日までと同じく、思考に全然集中できていなかった。
まるで心の中に僕の思索を邪魔する何かがあるかのように、思考はずっと停滞し続けていて。
身も心もただ、惑い、迷い、彷徨い、戸惑い、揺蕩い、流離い、ぐるぐると同じ所を回っていた。
頼りなく、さながら迷子のように。

341: ◆/op1LdelRE 2012/01/29(日) 22:59:24.03 ID:3xx8EUsG0
 017.

 目的地へ向かう足取りは重く。
解決策を模索している思考は鈍く。
僕の心も暗く沈み込んでゆくのみで。
袋小路に迷い込んだような、そんな不安と焦燥感がずっと圧し掛かっていた。

 打つ手も決め手も何もなく。
千石や妹達とはこれ以上話をするわけにもいかず、他の情報源も思い当たらない。
松木を放置はしておけないけれど、迂闊に近づくことも叶わない。
堂々巡りな思考を繰り返しているだけの現状で、頭以上に目の方が回ってしまいそうだ。

342: ◆/op1LdelRE 2012/01/29(日) 23:01:44.25 ID:3xx8EUsG0
 そんな八方塞がりの状況にまたしても頭を抱えたくなってきた、正にその時。
僕の中の高感度センサーが、突如過敏に反応を示した。
ばっと顔を上げると、いつものように街を徘徊していたと思しき少女が目に留まる。

「おや、阿良々木さんではないですか」

 この街の愛すべきマスコットキャラクター、幸せを呼ぶ少女、八九寺真宵がそこにいた。
ほぼ同タイミングで僕に気付いたらしく、ちょこんと小首を傾げながら。
少しだけ驚いたのか、きょとんとしたような表情で。
砂漠でオアシスの喩えじゃないけれど、これは僕の乾いた心を癒してくれる邂逅に他ならない。
全くもう、一つ一つの仕草が一々愛らしいから困る。
こんな悩んで迷ってダウナーな状態じゃなかったら、一も二も無く飛びついて頬ずりするところだぞ。

343: ◆/op1LdelRE 2012/01/29(日) 23:03:29.78 ID:3xx8EUsG0
「というか八九寺、僕とのスキンシップの省略はさておき、噛むのも無しってどういうことだよ、手抜きは感心しないぞ」
「痴漢行為を随分マイルドな言い回しに変えてきましたね、相変わらず見下げ果てた根性です。一周回って軽蔑しますよ」
「何で一周回った?」
「二週回った方が良かったですか?」
「そういうことを言いたいんじゃないんだけど」
「それはさておき、噛むのはあれですよ、話の展開を急ぐ為に省略しました。巻きの指示があったので」
「誰からだよ」

 八九寺Pに指示を出せるようなやつ、いたっけ?
まあでも、そこを省略してもなお余分な雑談が入ってしまっている現状、全然巻きで進行できていない訳で。
誰かは分からないけれど、残念ながらその目論見は完全に崩れていると言わざるを得なかった。

344: ◆/op1LdelRE 2012/01/29(日) 23:06:04.98 ID:3xx8EUsG0
「さて、何か悩んでおられるようですね、お困りならば不肖この私が相談に乗ってあげますよ」
「うわあ、ここでいきなり巻きの進行きたよ」

 ショックだった。
この暗澹たる気持ちを晴らせるような小粋な雑談が始まると思っていたのに、僕には気分転換すら許されないというのか。
八九寺とのスキンシップも雑談も封じられるなんて、こんな酷い仕打ちは始めてだ。
まだしも八九寺の身体を撫で回して噛みつかれた方が心安らぐわ。
今からでもそうしてやろうか。
しかしそんな僕の思考をも置き去りに、八九寺は巻きの進行を続ける。続けてしまう。

「残念でしたね、阿良々木さん、時代は常に動いているのです。その最先端を走る私にとってはマンネリこそが最大の敵なのですよ。どんな形であれ意表を突かないと。ということで、さあ何でも相談して下さい。迷える子羊を全力で導いて差し上げましょう」
「ちょっと待てよもう、これはあれか、お前までキャラを変えようとかしてるんじゃないだろうな? そんなの嫌だぞ」
「別にそういうわけではありませんが――しかしまあ、確かに新しいキャラ付けというか方向付けというのはありかもしれませんね。八九寺Pなんて立場もいい加減飽きてきたところでもありますし」
「それはそれでどうなんだろうな、プロデューサーが飽きるって作品として相当末期な感じがするんだけど」
「いっそ新ユニットを結成して一旗あげるのもいいかもしれませんねえ。ユニット名は『ばけものがかり』、デビューシングルは『帰りたくないよ』とかどうでしょう?」
「それは止めてくれ、正直あの頃の事は僕にとっちゃ黒歴史でもあるんだよ。今はちゃんと家にも帰ってるし。あとその表現だと忍が可哀想だから。つーかそもそもパクリにも程があるだろ、それ」

345: ◆/op1LdelRE 2012/01/29(日) 23:11:35.96 ID:3xx8EUsG0
 全く、一言で何回突っ込めばいいのか。
それはさて置き、本気で止めてほしいぞ。人間強度が下がるとか、今から思えば割と赤面ものだったりするんだよ。
大体今ではかけがえのない友人ができたし、妹達とちょっとだけ仲良くなったし、大切な人もいるし、僕はもう春休み以前の自分とは違うのだ。
もちろん吸血鬼云々に関することだけではなく。
とは言え、あの頃の自分を黒歴史と認識できるようになったという事実そのものについては、自身の成長として素直に喜んでいいのかもしれない。

「それでしたらユニット名は『いきものがたり』にしてもいいですよ」
「そっちを否定した訳じゃねえよ。というか何一つ解決してないぞ、それじゃあ」

 どちらにしても結局パクリだった。
とんだ敏腕プロデューサーもいたものである。
豪腕ではあるかもしれないけれど。

346: ◆/op1LdelRE 2012/01/29(日) 23:14:30.74 ID:3xx8EUsG0
「まあ雑談は脇に置いておきまして」
「え? 本当に置いとくの? 拾わないの?」
「当たり前です。調子に乗らないで下さい。というか、悩み事を聞いてあげようと言っているのに文句ばっかり口にして、一体何様のつもりなんでしょう。むしろ感謝して崇め奉るくらいしたらどうなんですか」
「そんなに恩着せがましく言われる程のことでもないだろ、悩み事聞く位ならさあ」
「おやおや、随分態度が大きいですね、あんまり図に乗ってると阿良々木さんの黒歴史をダウンロードしちゃいますよ?」
「何その脅し!?」

 どこからというかどうやってというか、何かもう言葉の意味は全然分からないけど超怖い。ダウンロードした黒歴史をどうするつもりなんだ? というか誰がそんなもんアップロードするんだよ。
何にしても、やれるもんならやってみろとか、さすがにちょっと口にできない凄みがある。八九寺さんマジぱねえ。
まあ冗談と雑談はさておくにしても、折角と言えば折角の機会、これも巡り合わせと考えて、ちょっと相談してみるというのは確かにありだろう。
色々煮詰まっているのは事実なわけだし。

347: ◆/op1LdelRE 2012/01/29(日) 23:18:50.66 ID:3xx8EUsG0
「で、何なんですか? ほら勿体ぶってないでさっさと話して下さいってば。全く、阿良々木さんのくせに生意気ですよ」
「さりげなく僕を貶めようとするんじゃない。別に勿体ぶってるわけじゃないぞ。まあ相談事っていうか、僕の妹達のことなんだが」
「妹さん達がどうかしましたか?」
「最近いつも一緒に寝てるんだけどさ」
「死んで下さい」
「相談拒否!?」

 仏の八九寺さんは終了したらしい。
明確に表情が変わり、明白に距離を取り、まるで汚物でも見るかのような視線を僕に向けてくる。
こいつ、何て目で見やがるんだ――ちょっと興奮してしまうじゃないか。

348: ◆/op1LdelRE 2012/01/29(日) 23:21:52.37 ID:3xx8EUsG0
「今更過ぎるほど今更ですけど、とんでもないことをカミングアウトして下さいましたね。既にお手付きですか、ご賞味されてましたか、姉妹で味比べですか。そこまで突き抜けられますと、私ももう何も言えませんよ。弁護してくれと求められても困ります」
「いやいやいや、何を想像してるんだよ、別に性的な意味じゃねえよ、本当に普通に寝てるだけだ。全然やましくない。勿論やらしくもない」
「性犯罪者は皆そう言うんです」
「言わねえよ。限定的過ぎるだろ、状況が」
「それにしたって、あの阿良々木さんが、シスコンでロリコンで骨フェチに髪フェチの阿良々木さんが」
「ちょっと待て、お前は僕の何を知ってるんだ?」
「無防備にあどけない寝顔を晒している妹さん達を見て、阿良々木さんが発情しないわけがないでしょう。まさか不能にでもなったんですか?」
「ストップだ八九寺、その発言はさすがに流せないぞ」
「おや、私が何か変なことでも言いましたか?」
「自覚がないのかよ、ちょっとお前の胸に僕の手を当ててよく考えてみろ」
「本当に隙あらばセクハラを狙ってきますね、いっそ感心しますよ」
「まあそれはさておき、さすがにもうちょっと自重していこうぜ」
「阿良々木さんが自嘲でもしていて下さい」
「しねえよ。つーかそもそも不能じゃないから。ちゃんと八九寺にも反応してるさ。何なら確認してみてくれてもいい」
「死んで下さい」

349: ◆/op1LdelRE 2012/01/29(日) 23:24:52.60 ID:3xx8EUsG0
 本日二度目。しかし今日はよく僕の息の根が止まる事を求められる日だ。
八九寺に言われたんじゃなかったら三日は凹むところだな。

「私に言われたら喜ぶみたいな感想は止めてほしいんですけど」
「まあいいじゃないか。とにかく妹達とは普通に一緒に寝てるだけだよ。まだ今のところは」
「最後の一言で全てが台無しな気もしますが、逆に今日時点では大丈夫だという証拠とも受け取れなくはないですし、いやはや何とも突っ込みに困る発言をして下さいますね」
「それで話の続きだけどさ、そんな仲良し姉妹が喧嘩してんだよ、今」
「それを言いたかったのなら、一緒に寝てる発言ははっきりと不要だったような……しかしそれは何とも珍しい。連理の枝もかくやという程の間柄とお聞きしていましたが。どうしてそんなことに?」
「んー、ちょっと話が長くなるぞ」

 前置きして状況を説明。
今までに得た情報を含めて、淡々と話をする。
不幸を周囲にばら撒く少女に、その被害状況。周囲の心配を顧みず突貫する火憐と、その説得に失敗して衝突した月火達。
今は月火の号令で被害の拡大は抑えられていること、首を突っ込んでいるのは火憐だけという現状、その火憐に非難の声が出始めている現在。
僕の言葉に黙って耳を傾ける八九寺の表情は、少しずつ真剣なものに変わっていき、話が終わる頃には深く考え込むような仕草を見せていた。

350: ◆/op1LdelRE 2012/01/29(日) 23:28:20.01 ID:3xx8EUsG0
「どうした八九寺? 何か解決の糸口でも見出してくれたか?」
「そこまで直截に救いの手を求められても困りますけど……そうですね、話を続ける前にまず聞いていいですか?」
「何だ?」
「どうして阿良々木さんはそんな平気そうな顔をしているんでしょう?」
「は……? 何だって?」
「どうして阿良々木さんはそんな不愉快な顔をしているんでしょう?」
「さっきと言ってる事が違うぞ」
「聞こえてるじゃないですか、それなら聞き返さないで下さい。時間の無駄です」
「いや、そのやり取りも大概時間の無駄だと思うけど」
「まあ阿良々木さんの顔はともかく、不愉快なのは正直な気持ちですよ」

 冷たい、という程でもないけれど、しかし確かに厳しい目を向けてくる八九寺。
僕の話の中で、何か引っかかる事があったのは確からしい。
でも、それでどうして矛先が僕に向くんだろうか?

351: ◆/op1LdelRE 2012/01/29(日) 23:32:19.90 ID:3xx8EUsG0
「なあ八九寺、僕何か変なこと言ったのか? 不快にさせるようなことを言ったのなら全身全霊をかけて謝るけど」
「いえ、ごめんなさい、これは少し筋違いですね、私が怒ることではないですし」
「何の話なんだ? ちょっと分かるように説明してくれないか?」
「ですから、阿良々木さんがおかしいという話ですよ」
「まだ僕の悪口が続いてたのかよ」
「雑談ではありません、真剣に話してます」
「?」

 視線の先には、確かに真剣な眼差しの八九寺。
その表情を見る限り、完全にシリアスモードに切り替わっているようだ。
とすればその発言もまた、馬鹿にしたり茶化したりするようなものではなく、純粋な考察ということなのだろう。
そうして真剣な姿勢のまま、僕の目を覗き込むようにして八九寺が話を続ける。

352: ◆/op1LdelRE 2012/01/29(日) 23:36:48.61 ID:3xx8EUsG0
「その松木茜さんという方の噂は本当だったんですよね?」
「あぁ。忍は悪魔が憑いてるって言ってたけど、とにかくその子が周りに不幸をもたらしてるってのは間違いないと思う」
「そんな人の所に、上の妹さん――火憐さんでしたか――が今一人で乗り込んでいってるんですよね?」
「そうだよ。まあそういうこともあって、早いこと解決させないと駄目なんだけどさ。いいアイデアが浮かばないし、どうしたもんかと」
「それですよ」
「それ?」
「阿良々木さんは、いつからそんなに賢くなっちゃったんですか?」
「賢くって――」
「私の知ってる阿良々木さんは、こんな時に立ち止まったり考え込んだりなんてしません。むしろこっちが止めなきゃならないくらいに、それこそ馬鹿みたいに猪突猛進するはずです」
「え?」
「……その表情を見ると、全然疑問にも思ってないようですね、ご自身の思考も行動も。不自然に思いませんか? 自分に違和感ないですか? 本当に?」
「違和感――は、あるけど」

353: ◆/op1LdelRE 2012/01/29(日) 23:41:57.83 ID:3xx8EUsG0
 問い詰めるような態度の八九寺に、少し気圧される。
何か自分が大きな間違いをしているような、そんな気がして。
そして何より違和感という単語が、僕の心に重く響く。
それはここ最近ずっと、僕の中に燻ぶり続けているものだ。

「私に言わせて頂ければ、正直違和感しかないですよ。やけに物分かりはいいですし、動く前に考え込んじゃってますし、何より火憐さんを全然心配してないですし」
「いやちょっと待て、心配してないってことは――」
「ない、と言えますか? 本当に、そう言い切れますか?」
「……」

 真っ直ぐに、射抜く様な目で見つめられ、思わず言葉に詰まる。
というか、何で言葉に詰まる? 素直に答えればいいだけなのに。火憐のことを心配していると。
それなのに、言えない。口にできない。言葉にならない。
真摯に見据えてくる八九寺を前にしては、上っ面だけの言葉なんてとても口に出せなかった。

354: ◆/op1LdelRE 2012/01/29(日) 23:45:25.03 ID:3xx8EUsG0
 そこでようやく、僕の心に疑問が浮かんでくる。
そして一度気付いてしまえば、後は堰を切ったように次から次へと疑問が湧き上がってきて止まない。

 なぜ僕は、こんなに冷静なんだ? 結局のところ、今回の事態は全く解決していないというのに。
どうして僕は、こんなにも落ち着いていられるんだ? まるで月火や神原や千石達が危険から遠のいた時点で、問題の重要度が下がったかのように。
何でそんな自分の状況に、今まで疑問すら持っていなかったんだ? 火憐が今もなお、松木の傍にいることを――危険の渦中にいることを、理解していながら。
そして何より、僕は今、火憐のことをどう思っている……?

「阿良々木さん、もしかしてあなた今、火憐さんに対する本来の感情――愛情と言った方が適切ですかね――を失っていませんか?」
「っ!」

355: ◆/op1LdelRE 2012/01/29(日) 23:48:45.27 ID:3xx8EUsG0
 八九寺に言われて。明確に言葉にされて。
瞬間、気付いた。その指摘が正しいということに。
そして僅かに遅れて動揺してしまう。それを正しいと認めてしまった自分に。
事実僕は今、火憐のことをまるで関わりのない他人のように捉えてしまっている。
それこそ火憐に対する感情が抜け落ちてしまったかのように。
昨日だって、その無謀な行動に呆れを覚えるのみで、本来抱いているべき心配の情が薄れてしまっていた。

 いや、正確にはきっと僕だけではない。
意見が食い違ったとは言え、取っ組み合い寸前の喧嘩までして、それから全く歩み寄る気配を見せていない月火も。
火憐と月火のことを心配して話をしてくれていながら、火憐を止められなかった事実に特に反応を見せなかった神原も。
ファイヤーシスターズの不和の原因が火憐にあると信じて疑わず、冷遇するに至っている千石や他の中学生達も。
あるいは火憐の身の回りにいる人達全員が、火憐に対する好意を、それこそ外部から勝手に調整されたかの如く失ってしまっているような状況だ。
それもいつの間にか、無意識の内に。

356: ◆/op1LdelRE 2012/01/29(日) 23:52:36.76 ID:3xx8EUsG0
「やっぱりそうですか。本当に私からすれば目を疑うような異常事態ですよ、阿良々木さんが気付いていないのが不思議なくらいです。いくら無意識下の事とはいえ」
「待て、いやちょっと待ってくれ、何で――いや、何が……僕に、皆に何が起こってるんだよ」

 冷静な八九寺に比して、混乱を深めるばかりの僕。
いやもちろん言いたい事は分かる。
松木の、というか悪魔の術中に僕らが嵌っていると。そう言いたいって事は分かっている。
だけど、何で一度接近していた僕だけならともかく、一度も会ってもいないはずの月火や神原達まで影響を受けるんだ?
というかそもそも、僕達に一体何が起きているんだ? 混乱するばかりで思考が上手くまとまらない。

「本当に忍さんの懸念されていた通りになっているんですね、まあ無意識への干渉に注意するというのも無茶な話ですけど。しかしもうそろそろ気付いても良いのでは?」
「だから何にだよ」
「阿良々木さん達――というより、火憐さんと親しい間柄の方々全員が、その悪魔の術式の影響下にあるってことにです」
「いやでも、誰も松木って子に近づいてないんだぞ」
「近づいてるでしょう、火憐さんが。そうして今もアプローチし続けているんですよね? ただ一人だけ。その状況と、阿良々木さん達の現状と、そして松木さんという方が入院したという情報を合わせて考えれば、想像できるんじゃないですか?」
「――って、じゃあまさか、松木がまた悪魔に願ったのか? 自分に近づくやつじゃなくて、火憐ちゃんだけをターゲットにして、不幸――というか孤独になるように?」
「きっとそうでしょう。そしてその願いを聞いた悪魔が、火憐さんの近しい人間の好感度を余所にやってしまったんだと思います。ゲームのパラメータよろしく。それこそ味方の一人もいない状態になるまで」
「そんな……」

357: ◆/op1LdelRE 2012/01/29(日) 23:55:16.91 ID:3xx8EUsG0
 淡々とした言葉が胸に突き刺さる。
もちろん八九寺に責めるような意図があったとは思えないけれど、それでもその結論は、僕の心を深く抉った。
火憐が松木の願いを受けた悪魔の術式で周りから完全に孤立させられていて、なのに僕はそれを気付いていながら放置していたということなのだから。
悪魔に弄られた感情そのままに、あいつの状況をまるで考えもせず。
僕だけではなく、月火も皆もそうだったのだろう。
そこに思い至り、得も言われぬ不安と嫌悪と焦りと恐れが、絡み合うようにして心に湧き上がってくる。
同時に、心の中で失っていたものが少しずつ形を取り戻していくような感覚。

「さあ阿良々木さん、いい加減に気付いて下さい。思い出して下さい。というか、一体いつまでそんな悪魔なんかにいいようにされてるんですか!」
「僕は――」
「阿良々木さんの、妹さんへの愛情はその程度のものだったんですか!? しっかり意識を持って下さい! 今ピンチに陥ってるのは誰ですか!?」

 がっしりと、八九寺が僕の胸倉を掴む。
身長の関係で、それはむしろ縋りつくような、しがみつくような、そんな挙動になっているけれど。
だけどその声が、その言葉が、その視線が、あやふやな僕の心に喝を入れてくれる。
余所に行っていた僕の想いが、失われていた感情が、急速に心の中で拡大し、あるべき状態に戻って行く。
そうだ、火憐は――

358: ◆/op1LdelRE 2012/01/29(日) 23:56:22.89 ID:3xx8EUsG0
「僕の――妹だ。僕の愛すべき、何より大事な、かけがえのないたった二人の妹の片割れ――火憐ちゃんだ」

 言葉にしてやっと。意識できてようやく。今更ながらはっきりと。
僕は思い出した。あるいは取り戻した。
そうして気付いてしまえば、なぜ忘れていたのか、考える事もできなかったのか、自分で自分に腹が立つ程だった。
遅れて後悔と罪悪感すら重く圧し掛かってくる。
何でこんな当たり前な、大事な事を忘れられたんだ? 僕はいつからそんな馬鹿になったんだ?
火憐の危機を、その孤独を、その不幸を、気付いていたはずなのに、何で気にも留めずに、僕は――

359: ◆/op1LdelRE 2012/01/30(月) 00:01:09.65 ID:knPsCVpG0
「今は自身を責めても意味は無かろう。すぐに気付かぬのは無理も無いことじゃよ。そも、それが悪魔のやり方なんじゃから」
「忍……?」

 音も立てず、僕の影から姿を現す忍。
いつものように凄惨な笑みを浮かべている――というようなことはなく、むしろ苦虫を噛み潰したような、どこか不機嫌さすら滲ませた表情で。
昼間だというのに、それこそ出番を待ちかまえていたのかと思う程に、それは自然で素早い登場だった。

「しかしようも勝手に諭してくれおったな。本来自分で気付かねばならんかったものを、甘やかしおってからに」

 ずっと黙っておった儂の立場がないじゃろ、と八九寺に対して少し不満げに言う忍。
え? あれ? どういうことだ? もしかして忍、僕の――僕達の異常に気付いていたのか?
そんな僕の疑問を察してか、忍は表情を変えないまま頷いて返してくる。

「言うたじゃろうがお前様よ、あんな陳腐な悪魔の術式なぞ儂には通用せんと。しかし無意識に干渉する術式である以上、今のお前様では逃れられんと」
「確かに言ってたけどさ。でもそれなら気付いた時に教えてくれてれば……」

360: ◆/op1LdelRE 2012/01/30(月) 00:04:48.56 ID:knPsCVpG0
 その話は松木に会った直後、確かに聞いていた。
だけどそれなら、どうして僕達の異常に気付いた段階で教えてくれなかったのかと、勝手ながら思ってしまう。
そうすれば、こんな回り道をせずに、火憐を放っておく様なことをせずに済んだかもしれないのに。
いや、気付きもしなかった僕なんかが、そんなことを偉そうに言えた立場ではないけれど。
そんな僕の筋違いでお門違いの文句に、しかし忍は怒るのではなく、むしろ罰が悪そうな表情を見せてくる。

「これも以前に言うたと思うが、儂の立ち位置はあくまでもお前様との主従関係に起点があり、どこまで行っても怪異という立場から外れる事は無いのでな。さればこそ、如何にお前様の身内であろうと、儂は人間を救う為に自発的に動くようなことはせん。お前様の命令があるならまだしも」

 どこかもどかしげに、少し歯痒そうに、そう呟く。
あの時――四ヶ月だかの空白を経て辿り着いた和解の後、月火を巡るあれこれがあった時に、そんなことを言っていた記憶がある。
あくまでも、僕を介してのみ、忍は人と関わる。関わることを是とできる。人を滅ぼすことは無いにせよ、決して人を救う事も無い。
それが、忍が自身に課したルールだった。

361: ◆/op1LdelRE 2012/01/30(月) 00:08:15.21 ID:knPsCVpG0
 であれば確かに、僕が何も気付かずに間抜け面を晒している状況では、何かをする訳にはいかなかったのだろう。
例え異常に気付こうとも、それを口にすることはできなかったのだろう。
それはきっと、忍にとっても腹立たしくもどかしいことだったに違いない。
改めて自身の間抜けぶりに腹が立ってくる。
僕がもっとしっかりしていれば、自分の異常にもっと早く気付いていれば、忍にそんな思いをさせることもなかったのに。

「ごめん、忍、折角忠告してくれたのに」
「ふん、まあ今のお前様はほとんど人間と変わらんからの、容易には気付かんのも無理はあるまいよ。無意識に対象の思考・感情に干渉してくるというのは、実際厭らしいやり方じゃよ。余程強く意識できねば容易に流される。儂やこやつのように怪異であればともかく」
「まあまあ良いじゃないですか、こうして状況に気付いたわけですから」
「うぬが気付かせただけじゃろ」
「それでもですよ。今回は不肖この私がその役目を負うたわけですが、そういう風に自分ではどうにもならない時に、誰かが力を貸してくれる事もまた、その人の力だと思いますよ」

 八九寺がにっこりと笑う。
安心させるような、勇気づけてくれるような、そんな笑顔。
僕を救ってくれる、笑顔。

362: ◆/op1LdelRE 2012/01/30(月) 00:13:37.40 ID:knPsCVpG0
「それに、阿良々木さんも全く気付いてなかったわけじゃないのでしょう。ずっと不安や焦りを感じ続けていたという話ですし。きっと遠からずこの結論に至ったはずです。私達はその手助けをしただけに過ぎませんよ」
「あ、そうか、あの夢もそれじゃあ――」

 あの延々と何かを追う夢。あれは僕の中の無意識の、あるいは人ならざる部分からの警鐘だったのだろうか。
追いかけて、走り続けて、そして――
夢の結末は覚えていないけれど。
あの後、追いかけ続けた大切な何かを、僕が捕まえられたかどうかは分からないけれど。
だけど今は、夢よりも現実を見よう。現実を――火憐を追いかけよう。
そうと決まれば、それと分かれば、ここで立ち止まっている意味はない。
くよくよ悔むのも、うじうじ悩むのも、ぐだぐだ嘆くのも、今は必要ない。
そんな僕に価値なんてないのだ。

 今だって鮮明に覚えている――いつまでも、絶対に忘れてはならない。
別世界の僕に、あの悲壮な背中に、誓ったのだから。
僕は、皆を絶対に守ると。
だとすれば、今僕がやるべきことはただ一つ。

363: ◆/op1LdelRE 2012/01/30(月) 00:17:30.13 ID:knPsCVpG0
「では阿良々木さん、ここからはぜひ巻きでお願いしますよ」
「勿論だ、ここからはエンディングまで全力疾走だぜ」

 迂闊で粗忽な僕のせいで、随分と頁を無駄にしてしまった。
もうここからは寄り道も脇道も雑談も相談も必要ない。
一刻も早く、火憐の元へ――あいつを助けに行こう。
一人にさせてしまった事を、見て見ぬふりなんてしてしまったことを、謝らないといけない。
今も怒っているだろうし、意地にもなっているだろうけど、もう迷わない。
怒られるのも殴られるのも、後から好きなだけさせてやる。
あいつを助けられれば、まずはそれで全て良い。
その為になら、僕だって何でもしてやろうじゃないか。

 そう、宝石に封じられてしまっている程度の悪魔に。
そんな程度の存在なんかに、松木が魂を売ってしまっているというのなら。
僕はあくまで喧嘩を売ってやるまでだ。

372: ◆/op1LdelRE 2012/02/04(土) 01:12:33.88 ID:Kicava140
 018.

「忍! 火憐ちゃんのいる場所は分かるか!?」

 見送ってくれた八九寺に別れを告げてすぐに。
僕は身を翻し、一直線に駆け出した。
問いかけとほぼ同時に向けられた、忍が指し示す方向へ。

「しかしお前様よ、勢い駆け出したのは良いが、何か策でもあるのか?」
「ねえよ」

 駆け出すと同時に影の中へと潜んだ忍からの問いに、単刀直入に返す。
策なんてあるわけがない。
火憐への想いを取り戻したとはいえ、新しい情報なんて何一つ得られてはいないのだから。
そもそも僕の頭では、頑固なあいつを説得する妙案なんて思いつかないし、あの子の問題を解決する名案なんて考えも及ばない。
今の僕の頭にあるのは、火憐を助けたいという一念のみだ。
だからこそ全力で走っている。

373: ◆/op1LdelRE 2012/02/04(土) 01:15:18.14 ID:Kicava140
 もちろんそんな自分に思う所がないわけではない。
無知で、無能で、無策で、と考える程にほとほと情けなくなってしまう。
だけどそれでも、無情でなんかありたくはない。
ましてや、無残な結果なんて絶対に起こさせはしない。

「では、どうするつもりじゃ?」
「どうもこうもないよ、とにかく火憐ちゃんをあの子から引き離す」
「言うて聞くとは思えんが」
「言って聞かせるのは後回しだよ。とにかく強引でも力尽くでも、あいつを一旦あの子の傍から離れさせるのが先決だ」
「いや待て、よもや忘れておるのか? 距離を取ってどうにかなったのは、病弱娘が自分に近づく者の不幸を願っておったからじゃぞ。しかし今はお前様の妹御だけを狙い撃ちにしておる。である以上、距離を取ったとて何にも変わるまい」
「もちろん忘れてないよ」

374: ◆/op1LdelRE 2012/02/04(土) 01:19:10.58 ID:Kicava140
「では、どうするつもりじゃ?」
「どうもこうもないよ、とにかく火憐ちゃんをあの子から引き離す」
「言うて聞くとは思えんが」
「言って聞かせるのは後回しだよ。とにかく強引でも力尽くでも、あいつを一旦あの子の傍から離れさせるのが先決だ」
「いや待て、よもや忘れておるのか? 距離を取ってどうにかなったのは、病弱娘が自分に近づく者の不幸を願っておったからじゃぞ。しかし今はお前様の妹御だけを狙い撃ちにしておる。である以上、距離を取ったとて何にも変わるまい」
「もちろん忘れてないよ」

 松木が不幸を願うその矛先が、今はピンポイントで火憐に向けられているというのは、まず間違いない。
誰かの不幸ではなく、火憐の不幸を、その孤独をこそ、今の彼女は願ってしまっている。
そして月火もそうだけど、皆が火憐に冷たく当たっている現状から、その効果はずっと継続中だと思う。
そうであれば、距離を取ったところでどうにもならないという忍の指摘はもっともだ。

「それなら――」
「だから、まずはそれでいいんだ。一旦火憐ちゃんをどっかにやって、それからあの子の感情の矛先を、僕だけに向けさせる」

375: ◆/op1LdelRE 2012/02/04(土) 01:27:27.94 ID:Kicava140
 火憐が松木を助けようとして、関わろうとして、それ故に彼女がそれを疎ましく思い、恨めしく想い、その不幸を願っているのなら。
それならば、その矛先をもう一度変えてやればいいだけのことだ。
誰かではなく、火憐でも、もちろん月火達でもなく、この僕だけに。
火憐や月火達が無事ならば、僕が不幸になろうが孤独になろうが、そんなのは些事に過ぎない。
命の危険さえ回避するようにすれば、後はどうにでもなることだ。
それから改めて悪魔の処遇を考えよう。

「やれやれ、やはりそうなるのか。面倒じゃのう」
「悪いな忍、付き合わせて。でもこれ以上火憐ちゃんを危険には晒すわけにはいかないんだ。少しでも早くこの状態を解消しないと。その為には、多分このやり方が一番手っ取り早いと思う」
「早いは早いじゃろうが、まあしかしお前様に本当に性犯罪者の仲間入りをする覚悟があるというのならば、最早何も言うまい」
「待て、話が飛び過ぎだ。手なんて出さねえよ」
「手を出さんでも、相手の年が年じゃからの。望まれてもおらんのに、顔を出すだけならまだしも、口まで出すとなると安泰とはとても言えんじゃろ」
「そこは何とか考えるさ」

376: ◆/op1LdelRE 2012/02/04(土) 01:31:47.78 ID:Kicava140
 とは言ってみたものの。
残念ながら、僕は話術に長けてなどいない。もちろん交渉術なんて論外だ。
思考の誘導なんて、されたことはあっても、したことなんて一度もない。
正直なところ、人を呼ばれるような事態にならず、けれど無視させることなく彼女の情念の矛先を上手いこと僕へと変更させられる自信なんて微塵もなかった。

 だけどそんなことは今更の話だ。
結局は優先順位の問題でしかない。
僕の今の最優先事項が火憐の身の安全であるのなら。
最早あれこれ考えていられるような状況ではないのだ。
考えるより動く――今はそれでいい。
火憐を助けることができるのならば、それで。

 事態の解決よりも先に。
悪魔の処遇よりも優先して。
自身の安全も重要だと認識してはいるけれど、それすらも今は二の次。
火憐の無事を確保する――それだけが重要で、それこそが本質。
今の僕を動かす原動力は、正しく火憐への想いだけだった。

377: ◆/op1LdelRE 2012/02/04(土) 01:39:36.12 ID:Kicava140
 019.

 火憐の元へと一直線に走り続けること暫く。
ペース配分も何も考えないまま全力疾走を続けたせいで、息が上がってしまっていた。
忍に血を吸ってもらっていないので、今の僕の体力は、常人のそれとほとんど変わらないのだ。

 息苦しさに目が回りそうで。
肺腑は酸素を求めて悲鳴を上げていて。
足にも鈍い痛みが走り。
それでも止まらない。止まるわけにはいかない。
ただ力の限り走り続ける。
火憐のことを想えば、それこそ立ち止まって休む方がよっぽど辛く苦しいだろうから。

378: ◆/op1LdelRE 2012/02/04(土) 01:42:47.03 ID:Kicava140
 胸が痛くなってくるまで全力で走り続けて。
そうして辿り着いたのは、先日も来たあの病院だった。
それは取りも直さず、今も火憐は松木の傍にいるということであり。
すなわち、あいつはなお火中の栗を拾うような危ない真似を続ける為に、未だ悪魔のもたらす渦中に居残り続けているということである。

 走り続けた結果のそれとはまた違う痛みが、胸に、心に走る。
こんな状況を、こんな事態を、僕は放置していた。
何も考えることなく、碌に悩むことすらなく、黙って見て見ぬふりをしていた。
悪魔の術中に嵌り、その手の平の上で踊らされていたのだ。
つい先日、忍から忠言をもらっていたにも関わらず、それをまるで活かすこともできずに。

 それがどこまでも腹立たしく、何よりも苛立たしい。
昨日に戻れるならば、自分の頭を全力で殴り飛ばしたいと思う程に。
そんな怒りを、それでも腹に呑み込んで、病院内へと駆け込む。
今は何よりも、火憐の事だけを考えなければならない。
自分への憤りだの何だのは全部後回しだ。

379: ◆/op1LdelRE 2012/02/04(土) 01:47:58.39 ID:Kicava140
「まだわたしに関わってくるなんて、あんた頭おかしいんじゃないの? 近づくなって何回言ったら理解できるのかしら」
「そりゃ無理な相談だぜ。言ったろ、何て言われたって気持ちは変わらないってさ」

 呼吸を整えつつ、病院の廊下を突き進み、二人の姿を捜す。
幸いにも人影はまばらで、そんな挙動不審な僕を見咎める人はいない。
そうして捜し続けて、中庭の近くにまで来た時。
不意に話し声が聞こえてきた。
片や苛立ち混じりで、片や平静な声。
間違いなく松木の、そして間違えようもなく火憐の声。
捜していた二人の会話だった。

380: ◆/op1LdelRE 2012/02/04(土) 01:53:57.74 ID:Kicava140
「訳分かんないわね。何でそこまでするのよ、こんなことしてもあんたに得なんて何もないのに」
「損得じゃねーよ、誰かの助けになりたいって気持ちがそんなにおかしいか?」
「おかしいに決まってるでしょ、そもそも誰が助けなんて求めてるのかしら」
「声に出さなきゃ助けを求めてないってわけじゃないだろ。お前の目を見てたら伝わってくるよ」
「勝手なことを言ってくれるじゃない、訳知り顔で。あんたにわたしの何が分かるのよ」
「分かんねーよ、今は何も。でも、分かりたいんだ。だから友達になろうって言ってんだよ」
「ちっ――本当に鬱陶しいわね、鬱陶しくて暑苦しい。言うに事欠いて友達? 冗談じゃないわ、そんなのなれる訳ないでしょ、あんたみたいなのがわたしは一番嫌いなんだから」
「なれるさ。嫌いだってことは無視できないってことだろ。無関心じゃない。黙ってられないってのは、あたしの言葉が届いてる証拠だ。本当は分かってるんだろ、こんなの間違ってるってさ。だから動揺してる。違うか?」
「むかつく――あんた本当にむかつくわ。本当はわたしに喧嘩を売りに来たんじゃないの?」
「別にそれでもいいぜ。本音も口にしないで、ぶつかりも喧嘩もしないで、それで仲良くなれるなんて思ってねーよ」
「はん、それでわたしに関わり続けた結果、あんた今どうなってる? 友達は何て言ってた? 家族は? 皆あんたの敵になってるでしょ。無視されて、疎まれて、独りになって。それも全部わたしと関わったからよ」
「……みたいだな。よく分かんねーけど、あたしが間違ってるって、あたしが悪いんだって、皆にそう思われてるのは知ってる。誰も味方してくれないのも、分かってるよ」

381: ◆/op1LdelRE 2012/02/04(土) 01:56:47.48 ID:Kicava140
 ベンチに腰を下ろした状態で、親の敵を見るような目で睨め上げる松木。
その視線を、むしろ諭すような目で受け止めている火憐。
誰一人として味方をしてくれない中、僕や月火や仲の良かった友達にさえ見放されていて、更に助けようとしているその対象からも睨みつけられているような状況で。
それでもなお、火憐は揺らいでいなかった。
その立ち姿も、その視線も、その声も、真っ直ぐなまま。

 火憐のそんな揺らがぬ姿勢に、松木が苛立ちを深めていくのが分かる。
挑発するように、嘲笑するように、彼女の言葉が続く。

「わたしに関わるからそうなるの。わたしが、そうしてるのよ。あんた馬鹿だから理解できてないみたいだけど、はっきり言っとくわ。これ以上関わってくるならもっと悲惨な目に合わせてやる。わたしはそれが出来るの。これは脅しじゃないわ」
「止めろよ、そういうの。確かにあたしは馬鹿だし、だから何でそんなことできんのかとか、何であたしがこんなことになってんのかとか、そんなん全然理解できないけどさ、でもこれだけは分かるぜ。こんなこと続けたって、不幸になるのは、一番辛いのは、誰より悲惨なのは――お前だよ」
「――むかつくわ。あんたの全てがむかつく。偽善者ぶった態度がむかつく、説教染みた上から目線がむかつく、綺麗事ばっか喋るその口がむかつく、目も顔も表情も声も思考も思想も行動も、全部が全部むかついて仕方ないのよ。むかつくむかつくむかつくむかつくむかつくむかつくむかつくむかつくむかつくむかつくむかつくむかつくむかつくむかつくむかつくむかつく――」

382: ◆/op1LdelRE 2012/02/04(土) 02:03:15.95 ID:Kicava140
 怨嗟に満ちた声が、まるで呪詛のように低く重く響いてくる。
その視線だけで人を呪い殺せるのではないかと思ってしまう程の、そんな悪意と敵意と憎悪と憤怒に満ち満ちた目が、真っ直ぐに突き刺すように火憐へと向けられていた。
傍から見ているだけの僕でさえ怖気が走る。
およそ年端も行かぬ少女が向けていいような、また向けられていいような視線ではない。

 思わず息を呑み立ち竦んだ僕の視線の先――松木の手元に、ぎらりと鈍い輝きを放つペンダントがあった。
全身が総毛立つ感覚が走る。
瞬時に理解した――否、理解より先に身体が拒絶した。
やばい。あれはやばい。こいつは本当にやばい。
これ以上、それ以上、火憐をあれに関わらせてはいけない。
そう思った瞬間、上手い対処方法とか説得のやり方とか、そういう思考は欠片も残さず吹っ飛び、弾かれるようにその場を飛び出していた。

383: ◆/op1LdelRE 2012/02/04(土) 02:07:21.30 ID:Kicava140
「待て、火憐ちゃん! 止めるんだ、その子から離れろ!」
「兄ちゃん!? 何でここに!?」

 僕の声に振り返り、驚きに目を剥く火憐。
同じく、視線をこちらに向けて動きを止める松木。
二人が固まっている間に駆け寄り、火憐の腕を掴んだ。
それで気を取り直したのか、掴まれた腕を振り払おうと激しく身を捩りつつ、きっと睨みつけてくる。

「っ! 兄ちゃん、離せよ! 何しに来たんだよ!」
「お前を連れ戻しに来たに決まってるだろ」
「兄ちゃんの助けなんていらねーって言っただろ! 帰れ!」
「帰るさ、お前を連れて」
「一人で帰れってんだ!」
「そうはいかねえよ」

384: ◆/op1LdelRE 2012/02/04(土) 02:12:50.36 ID:Kicava140
 火憐と言い合っている内に、背中に妙な視線を感じて、思わず振り返る。
向けた視線の先に、震える程に冷ややかな眼差しがあった。
手にした石がそうさせるのか、嘲笑とか蔑視とかそんな言葉では言い表せないような負の情念が渦巻いているその目に、その表情に、思わず知らず息を呑む。
そこに浮かんでいるのは、火憐や月火と同年代とはとても思えない程に、暗く冷たくおぞましく黒く妖しく恐ろしく不気味で異様で醜悪で凄惨にしておどろおどろしい――まさに悪魔を思わせる笑みだった。

「何なの? その三文芝居は。あんた達こんな下らないものを見せつける為にわたしの所に来たの? 兄妹揃って頭がおかしいみたいね。気持ち悪い」
「何とでも言ってくれ。僕はこいつを連れて帰れればそれでいい」

 表情そのままの、まるで地の底から響いてくるような低く暗い声が、想い響きを伴って僕の耳に届く。
気を抜けば震えてしまいそうな程の、凍えるような声音。

385: ◆/op1LdelRE 2012/02/04(土) 02:17:49.08 ID:Kicava140
 けれど、それでも。
突き刺さるような負の感情に圧倒されそうになろうとも。
視線は逸らさない。
表情は崩さない。
一歩たりとも引きはしない。
火憐の前に立ち、僕の体で隠すようにして、真っ直ぐに視線を返す。
その意識が僕に向けられるように――他の誰でもなく、僕を標的とさせるように。
誰よりもまず、火憐を助ける為に。

「僕は妹を助ける為に、ここに来たんだから」

386: ◆/op1LdelRE 2012/02/04(土) 02:21:37.28 ID:Kicava140
 僕がそう言った瞬間、松木の苛立ちが更に深くなるのがはっきりと分かった。
一瞬表に出そうになった動揺は、しかし無理やり心の中に抑え込む。
決して狙い通りではないけれど、それでも目論見通りの結果が得られそうで、恐怖と高揚が心の奥から絡みつくようにして湧き上がってくる。

 ここからが正念場だ。
まずは不幸を願うその矛先を僕へ向けさせる。
そして、火憐を連れて一旦ここを離れる。
それから、どうにかしてここに近づけないようにする。
その上で、松木が魅入られている悪魔の問題を解決する。

 それら全てを、迅速に達成しなければならない。
綱渡りというか茨の道というか、あるいはいっそ茨の上を綱渡りするような、そんな厳しく狭い道のり。
だけど、何とかしてそれを渡りきらなければならないのだ。

387: ◆/op1LdelRE 2012/02/04(土) 02:29:47.25 ID:Kicava140
 そう考えていた。
今の僕の問題は、僕が正面から立ち向かうべきなのは、松木茜という少女なのだと。
考えるべきなのは、悪魔を求めた彼女の心なのだと。
それが火憐を助けることなのだと。
故にこそ、僕の意識は前方に集中していて。

「……邪魔だ、兄ちゃん」

 だから気付かなかった。後ろにいる火憐が何をしようとしているのかも。
考えもしなかった。いきなり間に入り込んできた僕に対して、火憐が何を思ったのかも。
全く思い至ることもできなかった。まず僕が考えるべきことが何だったのかも。
そう、火憐のその細くも引き締まった腕が、僕の首にかかってくる、正にその瞬間まで。

388: ◆/op1LdelRE 2012/02/04(土) 02:35:10.51 ID:Kicava140
「……っ!」

 首に巻きつけられる人肌の感触に、ぞっとする暇もあらばこそ。
完全に意表を突かれ、何の抵抗もできずに。
背後から火憐に首を狙われるという信じ難い現状に目を白黒させる間さえなく。
火憐は、一切の迷いも感じさせない動きで、僕の首を締め上げてくる。
正直なところ、痛みや苦しさよりも驚愕の方が遥かに大きかった。

「前言ったことさ、あれ取り消すよ。兄ちゃんが言った通りだな――あたしやっぱヒロインって柄じゃねーわ」
「おま、え……何、で……」

389: ◆/op1LdelRE 2012/02/04(土) 02:40:58.36 ID:Kicava140
 冷静で淡々とした火憐の声。
対する僕は、掠れた声しか出せない。
発した言葉も意味を為さない。
助けに来て、その相手に落とされかけているという、まさに目を覆うような事態。
必死でその腕に手をかけて対抗しようとしたけれど、時既に遅し。
体勢が悪過ぎるせいで全然力が入らず、火憐の腕は徐々に僕の首に食い込んできて、どんどん苦しさが強くなってくる。
こうなってはもう勝負は決しているも同然だった。
拮抗すらしていないこの状況は、数秒後に完全に決着することになるだろう。
僕が無様に失神するという、考え得る限り最悪の形で。

「邪魔なんだよ、兄ちゃん。何であたしを助けに来るんだよ。いらねーっつったろ、余計なことしやがって。これ以上あたしの邪魔はさせねー。恨みたかったら恨めよ、嫌いたきゃ嫌え。今のあたしに兄ちゃんなんて必要ない。月火ちゃんも皆もだ。あたしは一人でいい」

390: ◆/op1LdelRE 2012/02/04(土) 02:43:42.19 ID:Kicava140
 ぶつんと。
まるでブレーカーが落ちたかのように、そこで僕の意識は途切れてしまった。
それは息苦しいよりも、むしろ見苦しく、何より心苦しいことで。
そんな感想すら、けれど後付けのものでしかなく。

 火憐が何を思っていたのか。
一体どうしようと考えていたのか。
それは全然分からなかったけれど。
その時の表情を、確認する事はできなかったけれど。

 それでも、その声は耳に強く残っていた。
首を絞められる苦痛よりもずっと強く。

 意識を失う直前に聞こえてきた火憐の声音は。
決別を、決裂を思わせるその言葉は。
どこか悲しさが滲み、ひどく寂しさが募る、そんな苦渋の響きで満ちていた。

397: ◆/op1LdelRE 2012/02/05(日) 23:19:45.72 ID:QFVBey/l0
 020.

 全くもって無様極まりなく、我ながら情けなくなってくるのだけれど、かくして再び火憐を助けに来て逆に攻撃されるという既視感溢れる事態に陥った僕は、呆気なく病院の床に沈められてしまった。
それはもうお手本のようなチョークスリーパーでの見事なまでの秒殺劇。
やられたのが自分ではなく、観戦しているプロレスか何かの試合での出来事だったのならば、きっと惜しみない称賛と拍手を送っていたことだろう。
吸血されていない僕と体調万全な火憐が普通にやり合えば、まあ確かに僕に勝算など惜しむほどにもないわけで。
これは当然の帰結であり、翻って火憐にその絶対的な意志があったということに他ならず、すなわち今のあいつには僕を排除することに微塵も躊躇いがなかったということに他ならない。

 もちろんそんな思考はもっと後になってからのものであり、現実には、火憐に締め落とされた僕は完全に意識を喪失してしまい、暫くの間病院の床に無様に倒れ伏していた――らしい。
当然自分が落ちた後のことなんて自分で知る由もないのだから、伝聞形になってしまうのは許してほしいと思う。
伝聞形――ではそれを誰から聞いたかと言えば。

398: ◆/op1LdelRE 2012/02/05(日) 23:22:05.23 ID:QFVBey/l0
「いつまで寝てるのよ! いい加減に起きなさいよ! この役立たず!」

 そんな心優しいお言葉と同時に、僕の腹部に蹴りを入れてくれた少女――松木茜だった。
僕を起こしたのが忍じゃなかったのは、恐らくその場が無人になる事がなかったからだと思うけど。
しかしきっと影の中では、颯爽と登場しながらあっさりと退場した僕の姿を目の当たりにして、あるいは目も当てられず、その余りの不甲斐なさに歯噛みしていたことだろう。
何だかんだでプライドの高い彼女のその時の思いを考えると、全くもって申し訳ないことこの上なかった。

「ぐ……」

 とりあえず方法はともかく、起こしてもらえて助かったとは思う。決して感謝するつもりはないけれど。
もっとも松木としても感謝される為にそうした訳ではないだろうから、それで何も問題はないはずだ。

 閑話休題。
何しろ失神直後の身であり、暴言と苦痛で強制的に意識を取り戻しただけの状況では、すぐに起き上がることもできず。
呻くように呼吸をしつつ、軋むような体を捻って、睨むように声の方へと視線を向けるのが精一杯だった。
状況確認をしようというような意思による行動ではなく、ほとんど反射的な動作。
けれど。

399: ◆/op1LdelRE 2012/02/05(日) 23:27:26.14 ID:QFVBey/l0
「……!?」

 そこで目にした表情が。
その声や行動以上に、そこに表れている感情が。
僕の心に、一気に意識が覚醒する程の衝撃を与えた。

「何なのよ……何なのよ、あいつは!」

 僕の視線が向いた事を認識して捲し立ててくるその顔には、先程までの悪魔のような笑みも、余裕ぶった嘲りも、達観したような呆れもなく。
ただそこには、癇癪を起こした子供のような、怒りと焦りと混乱が色濃く表れていた。
さっきまでとはまた違う意味で年齢不相応な表情。
そしてまた、さっきとは違って室内のどこにも火憐の姿は見られず。
そんな事実を目の当たりにしてしまっては、呑気に寝転がっていられるわけもない。

400: ◆/op1LdelRE 2012/02/05(日) 23:30:49.13 ID:QFVBey/l0
「火憐ちゃんは――あいつは、どこだ? どこに行った?」
「知らないわよ! あいつがどこ行ったのかも、何考えてるのかも、わたしに分かるわけないでしょ!」

 未だ言うことをきかない身体をそれでもどうにか起こして。
発した問いに対して返ってきた、ヒステリックな声を耳にして。
そこで、ようやく気付く。
感情的になっている松木のその全身に、生気が満ちていることに。
さっきまであった病的な要素が、まるで最初からなかったかのように消えていることに。
そして同時に、その手にあったはずのペンダントが、無くなってしまっていることに。

 さーっと血の気が引いていくような気がした。
目の前の事実から連想される事態に、知らず息を呑む。
それでも、何が起こったのか、僕は確認しなければならない。

401: ◆/op1LdelRE 2012/02/05(日) 23:40:15.09 ID:QFVBey/l0
「お前、さっき持ってたペンダントはどうしたんだ?」
「ペンダント? ……あぁそう、あんた知ってたんだ、あれが何なのか。だからわたしにちょっかいかけてきてたのね」
「あれに悪魔が憑いてるんだな」
「えぇそうよ、下らない事ばっかりしてくれる鬱陶しい悪魔がね」
「あんなもの、どこで手に入れたんだ?」
「わたしの両親が大量に買ってきた胡散臭い物の中に混ざってたのよ。まさか悪魔が本当にいるなんて思ってもいなかったわ」

 吐き捨てるように言う松木。
もっとも、それは僕も予想できていた。
彼女の両親は、きっと藁にも縋るつもりで、そういう怪しげなグッズにも手を出していたのだろう。
娘の回復を願って、気休めでも、仮初でも、そんな些細な希望のようなものにだって縋りたかったのだろう。
そうして集めた物の中に、こんなとんでもない物が――悪魔を宿した宝石なんかが混ざっていて。
そして松木もまた藁にも縋るような思いで、それに願った。願ってしまった。
けれど今は、それに頓着している場合ですらない。

402: ◆/op1LdelRE 2012/02/05(日) 23:49:17.07 ID:QFVBey/l0
「それで、そのペンダントはどこにやったんだよ? まさか――」
「ふん、きっとあんたが想像してる通りだわ。あいつが持ってったのよ。有難迷惑にも、わたしの体が治るように願った挙句にね!」
「!」

 心臓が跳ねる感覚。今度こそ、はっきりと戦慄する。
ペンダントと火憐の姿が揃って消えていることから想像はできていたけれど。
断じてそうであって欲しくはなかったけれど。
現実はあくまでも無情だった。

 何が恐ろしいかといって、それは松木の体調が回復したという事実そのものではなく。
それが実現した経緯の方だ。
あるいは、松木の回復と同時に生じただろう副作用と言うべきか。

403: ◆/op1LdelRE 2012/02/05(日) 23:56:00.60 ID:QFVBey/l0
 悪魔というものは、総じて人の願いの裏まで読む――それでも松木が完治しているということはつまり、火憐は裏表なく松木の回復を最優先に願っていたということであり。
それと同時に、あの悪魔は移動に関する術を使う――であれば当然、彼女が回復する為には、その病状や体質の行き先が必要になるはずであり。
これらの事実から導き出される結論をこそ、僕は恐れていたのだ。
何しろその行き先なんて、考えるまでもなく思い至ってしまうのだから。
まるで周囲の気温が突然下がってしまったかのような震えが、僕の体を走り抜けた。

 改めて松木に何があったのか確認してみると、どうやら僕が気絶した後、僕や他の友人達すら切り捨てて――そこまでして、それでもなお彼女に関わろうとしている火憐を挑発する為に、種明かしをしてしまったらしい。
火憐への周囲の人間の悪感情が、松木の周囲で起こる不幸が、それらが全て彼女の願いによるものだということを。それが悪魔の仕業であることを。
もちろん言葉だけで信用できる訳もなく、それならと松木はペンダントを火憐に渡して試させたのだ。
火憐に願いを叶えさせようと――綺麗事ばかり口にしている火憐のその本性を、その裏を暴いてやろうと、そういう心積もりで。
けれど。

404: ◆/op1LdelRE 2012/02/05(日) 23:59:22.02 ID:QFVBey/l0
「何でよ……何でそこまでするのよ! それであいつに何の得があるの!?」

 その結果、松木は知ることになった。思い知らされてしまった。
火憐が掛け値なく本気で、揺るぎなく本心で、彼女を助けようとしていたということを。
口にしていた言葉も、見せつけた覚悟も、全て本物だったということを。
図らずも、松木自身が証明してしまったのだ。
悪魔の力を知ってしまっているが故に、それを認めないわけにはいかなかったのだろう。

 その結果が、今のこの状態だ。
感情のままに叫び、頭さえ掻き毟るようにし、僕を蹴り起こしてまで当たり散らして。
混乱し、動揺し、当惑し、狼狽し。
それこそみっともない程に取り乱してしまっている。

405: ◆/op1LdelRE 2012/02/06(月) 00:05:43.32 ID:egeB4XpD0
 その姿を、そんな感情の発露を目の当たりにして。
少しだけ、松木の心が見えた気がした。
彼女のこれまでの行動の、その一因が。
彼女が何を求めていたのか、その一端が。
全容には程遠くとも、少しだけ分かってしまった。

 そして、だから。
もうここで僕が為すべきことは何もないと。
彼女のその疑問に答えるべきは、僕ではないのだと。
そのことだけは理解できた。

406: ◆/op1LdelRE 2012/02/06(月) 00:08:54.74 ID:egeB4XpD0
「何よその目は……言いたい事があるんなら言いなさいよ!」
「僕に言える事なんて何もないよ。その資格も無いしな」

 表情の変化を目敏く見つけて、僕が何かに気付いたことを察知したらしく、松木が噛みついてくる。
けれど、僕には何も返してやることはできない。
もちろん意地悪だとか嫌がらせだとかではなく。
単にそれが僕の仕事ではないから。僕がやっていいことでもないから。だから何も言えなかったのだ。
しかし当然それで松木が納得してくれるわけもなく、むしろ更に突っ掛かってくる。

「何よそれ、あいつあんたの妹なんでしょ? わたしがあいつを不幸にしてるのよ? 恨み事の一つも言ってみたらどうなの!」
「だからそんなの無いんだよ。僕には何も言えない。あいつの考えを知りたいのなら、今度あいつに直接聞いてみればいいさ」

407: ◆/op1LdelRE 2012/02/06(月) 00:13:17.28 ID:egeB4XpD0
 答えながら、体の各部の動きを確かめる。
どうやら特に問題はないようだ。
それならば、もうここで留まっている場合じゃない。
今僕がしなければならないことはただ一つ。
決意を新たに、勢いをつけて立ち上がり、身を翻す。

「ちょっと、どこ行くのよ」
「あいつの所だよ。言っただろ、僕はあいつを助けに来たんだ」
「ふん、とんだシスコンね」
「何とでも言え」

408: ◆/op1LdelRE 2012/02/06(月) 00:16:52.03 ID:egeB4XpD0
 それだけ言い残して、一歩踏み出す。
そんな僕に、松木はそれ以上何も言わなかった。
動く気配も止める気配もなかった。

 あるいはもう、気付いているのかもしれない。
自分の中の疑問に、既に答えは出ているのかもしれない。
ただそれを信じられないだけで。
あるいは信じたくないだけで。

 いずれにしても、僕にはもう何も言うことなんてない。
言えることも、言っていいこともない。
だって僕は、火憐を助ける為にここに来たのだから。
そう、あいつと違って。

409: ◆/op1LdelRE 2012/02/06(月) 00:20:30.86 ID:egeB4XpD0
 それ以上何も言わずに、静かにその場を後にする。
こちらはこちらで時間も余裕もないのだ。
火憐が今どんな状態にあるのかが、はっきりと想像できてしまうだけに。
急がなければならない。
二歩目からは、もう走り出していた。
迷いも躊躇いもなく、真っ直ぐに。

 火憐がどこに行ったのかは、聞かなくても大体分かっている。
あいつの今の身体状況を思えば、ここからそう遠くない場所にいるだろうことは、ほぼ確実だ。
果たせるかな、その予想に良くも悪しくも違わず、僕はすぐに見つけることができた。
病院の屋上で、誰もいないその場所で、たった一人で壁にもたれて俯いている火憐の、そんな痛ましい姿を。

418: ◆/op1LdelRE 2012/02/10(金) 23:56:56.74 ID:G8TtBQ2z0
 021.

 火憐は目を閉じて、ぐったりと壁にもたれかかっていた。
浅く早いその呼吸が、力無く項垂れたその顔が、床に落とされて動かないその手が。
想像していた状況が事実だったことを、何より雄弁に物語っていて。
その痛ましい姿を目の当たりにして、胸が、声が詰まってしまう。
この事態を防げなかった自身の不甲斐なさに、今更ながら怒りと悔しさが込み上げてきて、気付けば痛みを覚える程に拳を握り締めていた。

「火憐ちゃん……」

 落ち着く為に一つ呼吸をして。
それからゆっくりと傍まで行き、しゃがんで静かに声をかける。
ぴくりと火憐の表情が動いた。
瞼を動かすことさえ億劫なのか、緩慢な動作で目を開けて、ゆっくりと視線が僕の方を向く。

419: ◆/op1LdelRE 2012/02/11(土) 00:01:21.22 ID:aOiPVNaz0
「何だ――兄ちゃん、また来たのかよ」
「何度でも来るさ。悪いか?」
「悪いよ、悪いに決まってる。いらねーって言ったじゃん、あたし、兄ちゃんなんて、いらねーって言ったのに――」
「そんなの知らねえよ、お前が僕をどう思ってたって、僕にはお前が必要なんだから。言ったろ? 僕はお前を助けに来たんだって」
「余計なお世話だ、帰れよ」
「強がるな、無茶しやがって――お前の体、今どんな状態なんだよ」
「別に、問題なんかねーよ、今はちょっと、疲れたから、休んでるだけだ」
「休むだけで治るんなら、松木があんな事になってたわけないだろ。隠すなよ。今のお前、さっきまでのあいつと同じような状態になっちまってんだろ? 悪魔の願いとかのせいで」

 口にする言葉がひどく空しかった。
掠れた声でなお強がりを口にしようというのは見上げたものだが、衰弱しきったその様では、説得力がないどころか冗談半分にしか聞こえない。
いや、ふざけて言っている方がまだ救いがあるだろう。
聞かされるこっちの方が心が痛くなってくる戯言だ。

420: ◆/op1LdelRE 2012/02/11(土) 00:05:27.94 ID:aOiPVNaz0
 唇を噛み締める。
どうしようもなく予想通りで、取り返しようもなく絶望的で、抗いようもなく予定調和な状況。
僕が間抜けにも失神している間に、そんな決定的な瞬間を迎えてしまった事実が、腹立たしくて仕方ない。
あれから何があったのか、火憐が何をどう願ったのか、想像するのは余りに容易だった。

 きっとこいつは、自分がどうなっても構わないというくらいのつもりで、松木の身体の完治を願ったのだ。
図らずもそれは、移動の術しか使えない悪魔に、ご丁寧にも移動先まで指定したようなものである。
だからこそ、松木の体質や病状は、余すことなく火憐の身体に移されてしまった。

 それが故の衰弱。
壁にもたれていなければ、きっと座ったままでいることすら難しいのだろう。
見ているだけで胸の奥が軋んでくる。

421: ◆/op1LdelRE 2012/02/11(土) 00:07:42.52 ID:aOiPVNaz0
 そんな僕の表情を見て。
そんな僕の言葉を聞いて。
火憐が少しだけ目を見開いた。
驚きの表情――それすら今はぎこちない。

「なんだ……兄ちゃんも、知ってたのか」
「松木に聞いたよ、悪魔の宝石のこと。それが今回の事の原因だってのも、今はお前が持ってるってのもな」

 正確には忍から聞いたんだけど、まさかそれを口にするわけにもいかないので、あくまでも全て松木から聞いたことにしておく。
決して嘘は言っていない。確かにあの子からも話は聞いているのだから。
怪異に関する話なんて、こいつが知る必要はないのだ。
ただ僕が火憐と同じ情報を持っているということさえ伝われば、それでいい。
それだけでいい。

422: ◆/op1LdelRE 2012/02/11(土) 00:17:00.69 ID:aOiPVNaz0
「そっか。じゃあもう、意地張っても、意味ねーか……」
「火憐ちゃん!」

 そこで緊張の糸が切れたのか、力無くずるずると横向きに倒れ込んでいく火憐。
慌ててその体を抱きとめる。
しっかりとこの手で。
今度は絶対に離さないように。

 そしてそこで、火憐の身体が不自然な熱を帯びていることや、鍛え上げていたはずの筋肉が嘘のように弛緩してしまっていること、いつもの溌剌とした生気が全く見られなくなってしまっていることに気付く。
蜂の時でさえ見せていた気丈さも、完全に影を潜めてしまっている。
触れているだけで折れてしまうのではないかと不安を覚える程に、目を離せば儚く消えてしまうのではないかと恐怖を抱く程に、脆くか弱くか細い体。
その現実を前に、僕の心が凍りつくような思いがした。
ともすれば、支えているはずの僕の方が崩れ落ちてしまいそうだ。
いっそ恐怖すら覚える。
ここまで弱さを見せるこいつの姿なんて、僕の記憶のどこを探しても見当たらない。

423: ◆/op1LdelRE 2012/02/11(土) 00:25:13.53 ID:aOiPVNaz0
 けれど。
そんな状態にありながら、それでもなお火憐は微笑みを浮かべていた。
顔色は悪いし、呼吸は苦しそうだし、熱のせいか汗が滲んですらいて。
そんな劣悪な体調なのに、それでも笑顔を見せられるような、そんな強さもまた、確かにそこにあった。

「はぁ――本当にあるんだな、こんな不思議なこと。あの詐欺師の時もそうだったけどさ。あいつの――茜の身体と、入れ替わったみたいな感じだ。病気がうつったってことなんかな? 身体がさ、もう全然言う事きかねーんだよ。こんなん初めてだ。立ってるだけでふらつくし、拳も握れねーし、身体のどこにも力が入んねー」

 僕に身体を預けながら、片手を自分の眼前に持ってきてみせる火憐。
握ることすら満足にできないその手が、微かに震えている。
そんな程度の動きにすら、多大な労力が必要なのだろう。
大きく重い呼吸を一つして、その手を元の位置に戻す。

424: ◆/op1LdelRE 2012/02/11(土) 00:33:15.95 ID:aOiPVNaz0
「つーかもう全身だるいし重いし、ずっと胸がむかむかしてるし、頭ももやがかかりっ放しだし、寒気だって止まんねー。体力も無くなってる感じっつーか、階段も一段ずつしか登れねーし、そんだけの運動でもうぜーぜー言ってんの。あり得ねえよな」
「火憐ちゃん……」
「なあ兄ちゃん、茜の方はどうだった? あいつ、元気になってたか?」
「あぁ、病人の気配なんて欠片もなかったよ。身体は健康そのものって感じだった」
「そっか、なら良かった」
「良くねえよ、この馬鹿! 何考えてんだ――それでお前がこんな状態になってたら意味ねえだろ!」

 弱弱しくも満足そうに笑う火憐を見て、思わず声を荒げてしまう。
今の火憐に怒鳴るようなことなんてしたくなかったけれど、もう感情を抑えることなんてできなかった。

 何やってんだ、っていうか何考えてんだ、こいつは。
いくらあの子を助けたいにしたって、やり方が滅茶苦茶過ぎる。
月火や千石や他の友達が、もちろん僕も神原も、火憐のこんな辛そうな姿を見せられて、こんな苦しんでいるところを見せられて、まさかそれで平気でいられるとでも思ってるのかよ。

 冗談じゃない。皆の気持ちを、心配を、一体何だと思ってやがるんだ。
それこそ、こいつの体調がこんなじゃなかったら、手を上げずにいられなかっただろう。
そんな僕の怒鳴り声に、けれどそれでも火憐は小さく首を左右に振って返してくる。

425: ◆/op1LdelRE 2012/02/11(土) 00:36:36.83 ID:aOiPVNaz0
「ううん、意味はあるよ。あいつが元気になったんならさ。そしたらきっと、これから変われるから。だってあいつさ、今までずっとこんな辛い状態だったんだぜ。何一つ自由にならなくて、自分の意思で何かすることもできないなんて、そんなの酷過ぎだろ。そりゃ色々恨みたくもなるよ」
「だからって、どうしてお前がこんな……」
「何言ってんだよ、兄ちゃんがあたしの立場なら、おんなじことしただろ?」
「ああもう、そういうこと言ってんじゃねえんだよ」

 呼吸を乱しながらか細い声で、耳に痛い言葉を投げかけてくる火憐。
支えている腕に伝わってくる熱が、力無く預けられているその重みが、痛々しくも苦々しい。
そもそも、今更何を言っても、起きてしまった事態は変えようがないのだ。
ただその事実が苦しい。

 心の中の柔らかい部分が、刃物でごりごりと抉られているかのように痛む。
自分が苦境に陥っている方が、どれ程気楽か分からない。
火憐が苦しんでいる時間だけ、心がじりじりと削られていくようだった。
気を張っていなければ、あるいは叫びを上げてしまっていたかもしれない。

426: ◆/op1LdelRE 2012/02/11(土) 00:41:13.30 ID:aOiPVNaz0
「そんな顔すんなよ、あたしは大丈夫だって。今はちょっとしんどいけどさ、ちょっと休んで、また一から体鍛えて、すぐに元気になってやるから」
「……」

 力無い笑顔でそんなことを言う火憐だけど、でもそれこそ意味のない宣言だ。
何も知らないからこそ口にできる言葉であり、知れば全ては霧消する。
松木ですら半信半疑で理解していなかった悪魔の存在を、火憐が理解できているはずもない。
というか、そもそも火憐はきっと、単純に松木の言うことに従っただけで、悪魔のことなんて全く信じていなかっただろう。
今だってそうだ。
その存在も、その影響も、こいつは毛の先程さえ信じちゃいない。

 それこそ何時ぞやの蜂の時と同じような状態だと、そう考えているのだろう。
今はこんな状態でも、いつかは元の身体に戻れるはずだと。
多少長引くことはあっても、自分が頑張れば、それを回復させることはできるはずだと。

427: ◆/op1LdelRE 2012/02/11(土) 00:52:55.30 ID:aOiPVNaz0
 けれど違う。
今回の異常は、あの時とは決定的に、絶望的に違うのだ。
今の火憐は、一時的に体が弱くなってるだけ、というわけではない。
これまでずっと鍛え上げてきた体力が失われた、というわけでもない。
0に戻ったというような話ですらないのだ。

 正しくそれよりももっと酷い。
こいつの身に起きたのは、そんな状態変化などではないのだ。
単純に、松木の身体状況をそっくりそのまま引き継いだだけ。
阿良々木火憐の本来の身体状況なんて、もう何の意味も為さない。
元に戻るも何も、戻るべき健康体すら、今の火憐は失ってしまっているのだから。
それこそ、生来病弱な身の上で十五年の間生きてきた、というような状態に等しい。

428: ◆/op1LdelRE 2012/02/11(土) 00:58:40.31 ID:aOiPVNaz0
 そうである以上、これからは今までの松木と同じような生活を送ることを余儀なくされてしまう。
家と病院を往復するような生活を、ずっと。
入退院を繰り返すような日々を、延々と。
そんな体を鍛えようなど、夢物語もいいところだ。
トレーニング以前にドクターストップがかかる。
些細な事で体調を崩すだろうし、そこでちゃんと対処できなければ、それこそ命にも関わりかねない。
持病もあるし、身体を補助する薬だって幾つも必要なはずで。
そんな状態では、学校に通うことすらままならなくなるだろう。

 今だってもう、いつ体調が急変してもおかしくないのだ。
そのくらいに体が弱ってしまっている。
今は気力で支えているようだけど、それも限度があるだろう。
いざとなれば吸血鬼の治癒能力を使うこともありだろうけど、それだって所詮はその場しのぎにしかならない。
病はどうにかできたとしても、体質までは癒せないのだから。

429: ◆/op1LdelRE 2012/02/11(土) 01:10:09.73 ID:aOiPVNaz0
 全ては手遅れ。
どうしようもなく僕の失敗で、失策で、失笑ものの失態だ。
真っ黒な絶望が心を蝕んでゆくような感覚。
けれどそれすら、火憐の苦痛に比すれば如何程のものか。

 と、歯噛みしながら見下ろす視界の中、火憐の手元に“それ”を見つけた。
瞬間、最悪の対処法が脳裏を過ぎる――“それ”をもう一度使えば。
その行き先を、火憐ではなく、僕にすることができれば。
決して解決にはならないけれど、それまでの時間稼ぎにはなるだろう。
少なくとも、最悪な現状だけは引っ繰り返すことができる。

430: ◆/op1LdelRE 2012/02/11(土) 01:15:33.53 ID:aOiPVNaz0
「――火憐ちゃん、そのペンダントを渡すんだ」
「は? 何だよいきなり。駄目に決まってんだろ」
「いいから渡せ。それはお前が持ってていいものじゃない」
「渡せねーよ。つーかこれは茜のものなんだぜ。大体これ渡したら、兄ちゃん絶対あたしが治るように願っちまうだろ。自分のことなんて考えずにさ。そんなん駄目に決まってる。つーかそれじゃ意味ねーんだ」
「駄々こねんな。心配しなくても僕の方がお前より丈夫なんだ。大体お前そんな状態で家に帰ったら大問題になるだろうが。両親にも月火ちゃんにも、何て説明するつもりだよ」

 病弱になろうと虚弱になろうと、吸血鬼の力を有している僕ならば、そんな致命的な事態にはならないと思う。
どころか、吸血鬼度を上げて体力の底上げをすれば、日常生活に支障が出ない状態に持っていくことだってできるかもしれない。
最悪でも、今の火憐の状態より悪くなることはないだろう。
そもそもこいつが苦しんでる姿を見せられ続けるなんて、それこそ僕の心の方が先に参ってしまう。
月火だって、両親だって苦しむことになる。友達だって心を痛めることだろう。
容易に予想できるそんな事態を看過することなんて出来ようはずもない。
こうなったら強引にでもと考えたが、そんな僕の思考に感づいたのか、火憐はペンダントを両手で握りしめ、僕の目から隠してしまう。
それは絶対に渡さないという、何より使わせないという、明確で明白な意思表示。

431: ◆/op1LdelRE 2012/02/11(土) 01:24:29.88 ID:aOiPVNaz0
「止めろよ、兄ちゃん。違うんだよ、そうじゃねーんだよ。兄ちゃんじゃ意味がないんだ、あたしじゃなきゃ、駄目なんだ」
「お前が松木を助けたいってのは分かってるよ。だから僕にも協力させろってだけの話じゃねえか」
「兄ちゃん分かってねーよ。言っただろ、助けはいらないって」
「この期に及んで意地張ってんじゃ――」
「だって、あいつには誰もいないんだ」
「?」

 目と目が合う。
微熱を帯びたその体はなお変わりなく、掠れた声音も弱弱しいままで。
それでもその瞳には、単なる意地や思いつきなんかではない、確かな意志が、強さが宿っていた。
その強さが、一瞬僕から言葉を奪う。

432: ◆/op1LdelRE 2012/02/11(土) 01:27:40.65 ID:aOiPVNaz0
「少なくとも、あいつはそう考えてる。自分には誰もいない。誰も味方がいないってさ」
「……」
「だから、兄ちゃんの助けは邪魔なんだよ。あいつが一人だってんなら――それで誰も信じられないってんなら、あたしも同じ立場にならなきゃ、何言ったって、何やったって、信じてもらえねーもん」
「じゃあお前、それで皆のことを無視したってのか? 皆を振り切ってでもあいつの味方になるって、皆以上にあいつを助けたいと思ってるって、そう示してやる為に?」
「もちろん皆には悪いと思ってるよ。全部解決したら、ちゃんと謝りに行く。だけどさ、もしかしたら正しいやり方じゃないかもしれないけど、でもやっぱあたし、あいつを見捨てられねーよ。あいつ一人切って解決なんて、そんなの嫌なんだ」
「だからってそんな――」
「それにさ、あたしがいなくたって、月火ちゃんには、兄ちゃんだって友達だっているだろ。独りなんかじゃない。兄ちゃんもおんなじだ。駿河さんだって他の皆だって。でもあいつは――茜は、そうじゃないんだ」
「……何か聞いたのか?」
「うん、色々聞いた。自虐的っつーか、やけっぱちみたいな言い方だったけど。親は治療費がすげーかかるからずっと働き通しで、ほとんど顔も見れなくて、話も出来なくて。すぐに体調崩すから学校にも通えないし、苛めとかもあったりしたみたいでさ」
「それで、なのか? そんな風に辛いことがあって、一人で悩んで苦しんで、嫉みとか恨みとかが募っていって、それで周りに不幸になれとか願ったり――」
「ううん、多分違う。あたしにこれ渡す時、あいつ言ってた、自分は願ってもまともに叶いやしなかったって」
「まともには叶わなかった?」
「だから違うんだきっと。あいつは多分、他人の不幸とかそんなのを願ったんじゃないんだよ。偶然か何か知らねーけど、結果的にあいつの周りで不幸事が続いちゃって、それで今みたいな噂が流れて、それがどんどん独り歩きして、だからあんなやけっぱちになっちゃったんだろうけど、でも最初はきっと――」
「……」

433: ◆/op1LdelRE 2012/02/11(土) 01:31:01.76 ID:aOiPVNaz0
 火憐はそこから先は言わなかったけれど、でも僕にも想像はできる。今ならばできる。
松木はきっと、一人で辛い思いをしていた時に、『友達がほしい』とか、あるいは『話相手がほしい』とか、そういうことを願ったのだろう。
そんな些細な、それでいて切実な希望を、けれど彼女は悪魔に対して縋るように願ってしまったのだ。

 もちろんその願いは純粋なものだと、少なくとも自身はそう信じていただろうけれど。
その願いの裏に、病弱な自身の身の上に比して、輝かんばかりに青春を謳歌している同級生達への羨みや嫉みといったものが皆無だったとは思えない。
苛めを受けたり、理解者がいない身の上だったなら尚更だ。そんな思いを全く抱くなという方が難しい。

 そして悪魔は、そうした負の情念を、隠された本音を、見逃すようなことはない。
だからこそ両方の願いを叶える手段を取った――松木と関わりのある人間を事故や病気に陥れ、病院送りとすることで。
入院者同士であれば、時間も距離も関係なく、いつでも話ができるようになる――と。

 そんなことが頻繁に起こる内、周囲はそれを恐れ、やがて今のような噂が流れ始めたのだろう。
そしてまた、松木も理解してしまったのだろう、その事態がどうして引き起こされたのかを。
それが悪魔に願った代償だと、自分の願いが不幸を招くということを、だからきっと認めざるを得なかった。
そうしていつしか諦めて、心を閉ざして、負の感情だけを募らせていったのだ。
だから――

434: ◆/op1LdelRE 2012/02/11(土) 01:35:14.46 ID:aOiPVNaz0
「だからさ、絶対に助けてやらないと駄目だって思った。傍に誰もいないってんなら、あたしが傍にいてやる。信じてほしいってんなら、無条件で信じてやる。知らないだけなら、教えてやるって、そう決めたんだ」
「この馬鹿……」
「そうかもな。でもあたしは、誰かの不幸を仕方ないって、そう諦められるのが賢い選択だってんなら、馬鹿って言われても諦めない方を選ぶよ」
「それで周りに迷惑かけてどうすんだよ。後で謝るったって、皆が皆理解してくれるわけじゃないんだぞ」
「うん、そうだと思う。理解してもらえないかもしれないのは分かってる。けどさ、だからって、それで苦しんでる人を見て見ぬふりなんてしたら、あたしはあたしじゃなくなるよ。人数の問題じゃねー。関係の問題でもねー。困ってる人がいるなら、その人を全力で助ける。例外とか順位とかそんなん無しで。それがあたしの信じる正義なんだ」

 誇らしげな表情で見上げてくる火憐。
見るからに辛そうで、聞くまでもなく最悪の体調で、それでも微塵も後悔していない顔が、そこにあった。
それを目の当たりにして、僕は言葉を失ってしまう――同族嫌悪か、自己嫌悪か。いつかの羽川の言葉が脳裏に過ぎる。
敵も味方も関係なく、多い少ないの問題でもなく、身近か疎遠かすら考慮せず、ただ皆が不幸から逃れられるようにと。
一人も見捨てることなく問題を解決したかったからこそ、火憐は松木を救うことを心に決め、その為に――松木に自身の想いが本物であることを示す為に、皆から疎まれるような選択肢を取ることすら覚悟し、その決意に従って行動した。
それがこいつの意志だというのなら、それを一方的に否定するわけにもいかないだろう。

435: ◆/op1LdelRE 2012/02/11(土) 01:39:16.85 ID:aOiPVNaz0
 だからといって、全面的に肯定することだってできようはずもない。
何しろ事態は全く解決していないのだから。
幾らこいつが望んでしたことだといっても、現実問題として、その体は深刻な状況に陥ってしまっているのだ。
しかも現状、僕らには何も打てる手がない。

 悪魔に願うことは論外。
吸血鬼の力でも根治できないのは既に忍に聞いている。
現代医療で打つ手が無いのも松木のこれまでの闘病生活が証明済み。

 苦しくも、悔しくも、狂おしくも、僕には何もできない。
いや、誰にも何もできない。
こいつはこれから一生涯、ずっとこの体質と付き合っていくことになってしまう。
いつかそれに気付いた時、それを理解した時の火憐の心情を思うと、胸に苦いものが広がる。
その終わりの見えない道行は、間違いなく言葉に出来ない程の苦渋と苦難に満ち満ちているだろう。
けれどきっと、それでもなお、こいつはそれを後悔せずに立ち向かっていくに違いない。

436: ◆/op1LdelRE 2012/02/11(土) 01:45:33.30 ID:aOiPVNaz0
 だとすれば。
火憐がそう決めたのならば。
確かにそれを覚悟しているというのならば。

「仕方ないな。とにかく火憐ちゃん、まずは医者の所に行くぞ」
「だから止めろって。あたしは一人で……」
「断るな馬鹿、診察室に連れてくだけだ。そのくらいの手伝いならいいだろ」

 その覚悟に、僕も付き合うまでのことだ。
こいつがそんな苦しみと戦い続けるというのなら、表からでも裏からでも、一生だって僕がそれを支えよう。
そしていつか見つけ出してやるのだ、他の解決策を。
両親や月火達への説明とかは難題だけど、それも含めて考えていけばいい。

437: ◆/op1LdelRE 2012/02/11(土) 01:52:36.08 ID:aOiPVNaz0
 僕の言葉に、驚いたように何回か瞬きを繰り返す火憐。
腕に力を込め、じっと目を見る。
僕の想いが伝わったのかどうかは分からないけれど。
それでも、まだ何か言おうとしていた火憐は、しかし黙って静かに口を閉じた。
黙ったまま目も閉じて、ゆっくりと僕の胸に頭を預けてくる。
それを確認して、立ち上がろうとした、その時だった。

「茶番劇は終わった?」

 無感情で、無感動で、無遠慮で、無慈悲な。
そんな声が背後から聞こえてきたのは。

448: ◆/op1LdelRE 2012/02/12(日) 23:49:41.45 ID:oIqahs7W0
 022.

 鼓膜を震わせる、低く冷たい声音。
ゆっくり背後を振り返ると、屋上の入り口前に立ち、腕組みしてこちらを見下ろしている松木の姿があった。
病室で見たまま、全身が生気に満ち満ちているのが分かる。
その立ち姿は正しく健常者のそれだ。
たださっきと違って表情は冷静そのものといった風で、焦りや混乱の色は微塵もなかった。
時間をおいたので落ち着いたということか。

「どうした? 何か用があるのか? できれば後にしてもらえたら助かるんだけど」

 ここでまた火憐とやり合われても困るので、機先を制して僕から問いかけた。
言いたい事とか聞きたい事とか色々あるかもしれないけど、まずはこいつを医者に見せてやらないといけない。
今じゃなくても、話ならいつだってできるんだし。
そんな僕の言葉に対し、松木は軽く鼻で笑った。

449: ◆/op1LdelRE 2012/02/12(日) 23:54:22.28 ID:oIqahs7W0
「ふん、あんたなんかお呼びじゃないわ。用があるのはその子の方よ」
「今じゃなきゃ駄目なのか?」
「はっ、シスコン兄貴は黙ってなさい、心配しないでもすぐ済むわ」
「お、おい――」

 迷いのない足取りで。
迷いのない表情で。
真っ直ぐに僕らの――いや、火憐の方へと歩いてくる松木。
火憐もまた気だるそうにしながら、けれどしっかりと目を開いて迎える。

 見上げる火憐の表情は、さながら湖面のように穏やかで。
見下ろす松木の表情は、さながら能面のように無機質で。
場に満ちた空気が、二人の醸し出す雰囲気が、僕から言葉を奪う。

450: ◆/op1LdelRE 2012/02/12(日) 23:56:25.87 ID:oIqahs7W0
 火憐の前で立ち止まる松木。
二人の動きと共に、時間まで静止したような気がした。
心臓の音すら聞こえそうな程の静寂。
と、松木がすっと火憐に向かって手を差し出す。

「返しなさい」
「……あぁ、これか」

 松木の言葉に一瞬考え込んだ火憐は、しかしすぐに視線を自分の手元に落とす。
僕から隠していたその手の中に、鈍い輝きを放つペンダントがあった。
この現況へと事態を導いた正にその元凶――いや、違うか。
あくまでもこの石は触媒に過ぎない。決してこの宝石単体で問題が起きたわけじゃない。
宝石の悪魔は、ただ願われてその力を使っただけだ。
全ては、見下ろすこの少女と、見上げるこの妹の、その意思によって導き出された結果なのだから。

451: ◆/op1LdelRE 2012/02/12(日) 23:59:54.15 ID:oIqahs7W0
「それはわたしのものよ、あんたにあげたわけじゃない。勝手に持ち去らないで」
「あー、そうだな、悪い、返すよ」

 謝りつつペンダントを持った手をゆっくりと持ち上げる火憐。
黙ってそれを見下ろしている松木。
火憐の手が、悪魔の宝石が、松木のその手に近づいて行く。

 その光景を黙ったままで見ている僕だったが、心の中はさながら暴風雨のような煩悶懊悩と自問自答の嵐だった。
これを黙って見ていていいのか?
ペンダントを――悪魔の宝石を返してしまって、本当に大丈夫なのか?
松木がまた変なことを願ったらどうする?
火憐に追い打ちをかけるような、あるいは他の誰かに害が及ぶような、そんな願い事をされたらどうする?
今度は誰に何が起こるか分かったものじゃないのに?
それこそ、僕が横から奪ってでも、ここで全てを止めてしまった方がいいんじゃないのか?

452: ◆/op1LdelRE 2012/02/13(月) 00:07:19.32 ID:ay/I0qVm0
 しかしそんな荒れ狂う思考が僕を強引な手段へと走らせるより先に。
記憶の中の忍の言葉が――物理的な距離に意味は無いというその話が、僕の体を縛り付けてしまう。
そう、きっと力尽くで奪ったって何の意味もない。
松木が、自身の意思で悪魔と決別できなければ、全ては無意味なのだ。
そして僕の手も、僕の言葉も、今の松木には届かない。
何をしても、何を言っても、今の松木には響かない。
僕に打てる手は何もない。

 だからって、このまま指を咥えて見ているしかないなんて。
この子がまた悪魔の誘惑に負けて、その命を――火憐が救おうとした命を削っていくかもしれないのに、ただ黙って眺めているしかないなんて。
そんな無力な自分が歯痒くて仕方がなかった。
だけど、そもそもこの場では僕には何の選択肢も与えられてなどいないのだ。
僕にできるのは、ただ火憐を支えてやることだけ。
何かあった時に、火憐を庇ってやる事くらいしかできない。

453: ◆/op1LdelRE 2012/02/13(月) 00:10:02.44 ID:ay/I0qVm0
 そうやって僕が歯噛みしている間に。
何もできず、ただ事態を見守ることしかできない僕の目の前で。
悪魔を宿すその宝石は、松木の手に返ってしまう。

 瞬間、僕の体にも緊張が走った。
もうどうなるかなんて分からない。
息を呑んで、固唾を呑んで、ただ次の事態に備える。

 黙ってそのペンダントに視線を送っている松木は、しかし何の感情もその顔に表してはいなかった。
喜んでもいなければ、悲しんでもいない。
ただ視線を下に落としたまま。

「……」
「……」

454: ◆/op1LdelRE 2012/02/13(月) 00:13:22.59 ID:ay/I0qVm0
 何の動きもなかった。
火憐からペンダントを受け取って、けれど松木は動かない。
もう用事は終わったはずだろうに、それでも視線は変わらない。
手元のペンダントへ、そしてその先にある火憐の、穏やかなその表情へ向けられたままだ。
僕がそれを訝しく思っていると、やがて痺れを切らしたように彼女はその口を開く。
表情が、感情が、そこでようやく動き出した。

「返しなさいって言ってるでしょ」
「? 何のことだよ、今返したじゃねーか」
「あんたがわたしから持ってった全てを返しなさいって言ってるのよ」
「は……? って、お前まさか――」

455: ◆/op1LdelRE 2012/02/13(月) 00:19:32.31 ID:ay/I0qVm0
 火憐の目が見開かれる。
詰まる声。驚きに満ちた表情。硬直した体。
視線を追って見上げれば、ついさっきまで無表情だった松木の顔に、今は感情の色がはっきりと表れているのが分かった。
それは、明らかに怒り。

「頼んでもいないのに勝手に人の身代りになって、悲劇のヒロイン気取ってんじゃないわよ。返せ、それはわたしのだ」
「止めろ!」

 激した感情そのままに吐き出された言葉。
彼女が何をしようとしているのかを理解し、必死の形相で火憐が手を伸ばす。
それを無視して、ペンダントを強く握り締めて目を閉じる松木。
祈るように、願うように、あるいは呪うように。
火憐を支えながら、僕はそれを見ていることしかできなかった。
次の瞬間、石が鈍い輝きを放つ。

456: ◆/op1LdelRE 2012/02/13(月) 00:22:45.91 ID:ay/I0qVm0
「……っ」

 刹那、びくっと二人の身体が同時に震えた。
見開いた目に映る松木の様子の変化に、知らず戦慄する。
両の足で立ってはいるものの、明らかに不安定で見るからに不調な立ち姿。
言葉にしなくても分かる――それ程に、彼女の表情からも身体からも、余裕の色が失われてしまっていた。
さっきまでの生気に満ちていた様子は、既に微塵も無い。
間違いなく、彼女の体質が元に戻されたのだ。
他ならぬ彼女の願いで。

 それでも、ふらつきながらも松木の気力は尽きていない。
一杯一杯になりながらも、それでも自分の足で立ち、真っ直ぐに火憐に視線を向けている。
対する火憐は、自身の身体の急激な変化に意識がついていかないらしく、呆けたような表情で見上げたままだった。

457: ◆/op1LdelRE 2012/02/13(月) 00:25:47.87 ID:ay/I0qVm0
「これで、元通り、ね」
「っ! お前っ!」
「近づかないで」
「何する気だ!?」

 呟かれた元通りという言葉でようやく事態に頭が追いついたのか、火憐が僕の腕の中からばっと立ち上がる。
こちらもまた、さっきまでの余裕も、穏やかな表情も、完全に失われてしまっていた。
その手を――火憐が伸ばした手をかわすように、松木がすっと一歩下がる。
ペンダントを、しっかりとその手に握り締めたままで。

「あんたの自己満足に、付き合う気なんてないわ。わたしは、あんたなんかに負けない。あんたの施しなんて、受けて堪るか」
「待てって! あたしはいいんだ、もっかい貸せよ、それを!」
「させないって言ってるでしょ!」
「あ!」

458: ◆/op1LdelRE 2012/02/13(月) 00:28:54.50 ID:ay/I0qVm0
 僕が口を挟むよりもずっと先に。
そして火憐が更に手を伸ばすよりほんの少しだけ先に。
松木は動いていた。

 その行動には、焦りや迷いや躊躇や混乱といったものは全く感じられなかった。
きっと彼女には、ここに来た時に既に覚悟ができていたのだろう。
既にもう、意志は固まっていたのだろう。
驚きに一手遅れた火憐の、その意味では負けだった。
僕を失神させた後のやり取りとは逆に。

 一際強くペンダントを握り締める松木。
その手の中のペンダントが。悪魔を宿すその石が。
火憐の目の前で。伸ばしかけていた手の、その少し先で。
ぱっ――と音も無く散った。
まるで最初から存在していなかったかのように、欠片すら残さず。

459: ◆/op1LdelRE 2012/02/13(月) 00:31:50.10 ID:ay/I0qVm0
 病弱な少女に砕くことが出来るような、そんな柔な石なんかじゃない。
勝手に消え去ってくれるような、そんな簡単な存在なんかでもない。
これはもう間違いなく、彼女の――松木の願いが導いた結末だ。
悪魔の宝石が消え去るようにと、彼女はそう心から願ったのだろう。
でなければ、消失するはずなどないのだから。
紛れもなく、偽りでもない、本心からの悪魔との決別。
それが為された瞬間だった。

 と、そこで気力が尽きたのか。
あるいは緊張の糸が切れたのか。
松木の足から力が抜け、がくんとその身体が大きく傾ぐ。
それを、今度はしっかりと、火憐のその手が受け止めた。

460: ◆/op1LdelRE 2012/02/13(月) 00:34:28.65 ID:ay/I0qVm0
「お前、どうして……?」
「ふん、何であんたが、そんな顔してんのよ」
「せっかく治ったのに、あたしはいいって言ってんのに」
「勝手なやつ。あんたの都合なんて、知らないわよ、あんたに借りを作るなんて、真っ平だわ」

 浅く早い呼吸、青白い顔、微かに震える身体――松木は、間違いなく元の体質に戻っていた。
力強く彼女の身体を支えている火憐もまた、同じく元の体質に戻っている。
松木の言うように、確かに全ては元通りだった。

「借りとかそんなんどうでもいいだろ、お前、治りたかったんじゃねーのかよ」
「しつこいわね、あんたの目的は果たされたんだから、どうでもいいでしょ。悪魔はもう消えたわ。あんたの友達連中も、これで元通りになるはずよ、それでいいじゃない」
「違う、それだけじゃ駄目なんだよ。だってお前が助かってない。あたしは、お前を助けに来たのに」
「何? この期に及んで、また勝手に友達面するわけ? ほんと馬鹿ね、あんた。わたしはまだ、あんたの友達なんかじゃないってのに」

461: ◆/op1LdelRE 2012/02/13(月) 00:40:57.44 ID:ay/I0qVm0
 そこで。
松木の口元が微かに持ち上げられるのが見えた。
ほんの少しだけど、でも確かに。
もっともそれは一瞬の事で、すぐに元の仏頂面に戻ってしまっていたけれど。
でもそれは、間違いも紛れもなく、明らかで確かな変化の兆しだ。

 身体状況は、確かに全て元通りになっただろう。
だけど、その心は、感情は、表情は――決してそれらまで全て元に戻ったわけではない。
何もかもが元通りになってしまったわけじゃないのだ。

 まだ、と彼女は口にした。
おそらく無意識にだろうけれど、その言葉を使った。
友達という単語の完全否定ではなかった。
まだ――ならば、いずれきっと。
それが分かったのか、火憐の表情も少しだけ緩んだ。

462: ◆/op1LdelRE 2012/02/13(月) 00:44:56.97 ID:ay/I0qVm0
「お前も、馬鹿だろ。治るチャンスを棒に振っちまいやがって」
「うるさいわね。もういいでしょ」
「あ、おい、どこ行くんだよ」
「自分の病室に決まってるじゃない、いい加減疲れたのよ」

 火憐の言葉で少しばつが悪そうな表情になった松木が、自分を支えてくれていたその手を突っぱねるかのように、ふらつきながらも再び自分の足で立ち上がった。
その足で、ゆっくりと扉の方へと歩き出す。
慌てた様子で立ち上がってその後を追う火憐。

「お前ふらついてんじゃねーか、手貸すぞ」
「もう鬱陶しいわね、別に助けなんていらないわよ。ていうかさっさと帰んなさいよ、もう用なんて無いでしょ」
「こんな状態のお前を放って帰れるわけねーだろ、ほら段差危ねーって」
「うるさいうるさいうるさい。何よもう、あんたほんとどっか行きなさいよ、目障りだし耳障りだわ」

463: ◆/op1LdelRE 2012/02/13(月) 00:49:28.53 ID:ay/I0qVm0
 元通りになったせいか、少し覚束ない足取りの松木。
心配そうにその横に付く火憐。
騒がしく慌ただしくやり取りしながら、二人がゆっくりと階段を下りて行く。
自分の足で、自分の意思で、真っ直ぐに。

 世話を焼こうとする火憐に、松木はやはり険のある言葉で返してはいるけれど。
だけどその悪態から、今までのような刺々しさが薄らいでいるように思えたのは、きっと気のせいではないだろう。
そして火憐も松木も、きっとそのことに気付いているだろう。
僕はただ、そんな二人を見送るのみだった。
徹頭徹尾、僕はただ見ているだけだった。

464: ◆/op1LdelRE 2012/02/13(月) 00:52:25.65 ID:ay/I0qVm0
「大したもんじゃな」
「――あぁ、そうだな」

 影から聞こえてきた主語も目的語もない言葉に、静かに頷いて返す。
視線を落とすと、影の中から顔だけ出して僕を見上げている忍と目が合った。
いつも通りの、どこか凄惨さを滲ませた笑み。
今はそこに呆れとかからかいとか、そういう意図が混じっているように思えたのは、決して僕の錯覚ではないだろう。
果たせるかな、忍は嘲るように鼻で笑ってきた。

「ふん、それに比べてお前様ときたら全く。とんだ無様を晒しおったもんじゃ」
「言うなよ、今まさに僕も痛感してるんだから」
「はっ。妹御が心配じゃと駆けつけておきながら、手も足も口も出せんまま締め落とされとるんじゃから世話がないわ」
「ここぞとばかりに言ってくれるな、お前も。まあでも、あいつが無事だったんだから、それでもいいんだよ。僕が無様で滑稽な姿を晒したって、そんなの今更だしな」

465: ◆/op1LdelRE 2012/02/13(月) 00:57:01.77 ID:ay/I0qVm0
 決して強がりでも、まして負け惜しみでもなく。
心からそう思い、だから忍にそう言った。
僕は何もできなかったし、それを情けなく思いはするけれど、それでも火憐が無事だったという結果の前ではそんなの瑣末事だ。
間抜けな道化と笑われるくらいのことなら、むしろ喜んで受け入れてやるさ。

「何じゃい、からかい甲斐の無い奴め――ふん、しかしまあそこまで自虐的になることもあるまいよ。そも、お前様も何もできなかったわけではないしの」
「いや、別に慰めてくれなくてもいいよ」
「慰めておるわけではないわ。確かにお前様の決意それ自体は空回りじゃったが、しかしお前様の行動は決して無意味ではなかった。それだけの話じゃ。実際お前様の登場で事態は動いたんじゃからな」
「? どういうことだ?」
「妹御がお前様を――自分を助けにきた者を切って捨てて見せたことで、彼の病弱娘もその言葉に本気を覚え、その覚悟の程を理解し、故にこそ悪魔の石を渡してやろうと考えたんじゃ。お前様の投じた一石が無くば、彼奴も恐らく心を閉ざしたままじゃったろうし、事態はまだまだ長引いたはず。当然妹御がもっと悲惨な目に遭っていた危険性は相応に高かったろうな」
「そっか、そういう見方もあるのか――それでもやっぱり、僕がもうちょっと上手くやれていればって思うけどな」
「何を贅沢を抜かしおるか。そも結果だけ見れば、概ね全員の願い通りになっておるではないか。病弱娘は自身の味方を欲し、妹御は病弱娘を救う事を願い、お前様は妹御の無事を望んでおったんじゃから。ちゅーか悪魔の問題も片付いた現状、この上何を望もうと? それは傲慢というものじゃよ」
「……そう、かもしれないな。まだ問題は残ってるけど、それはこれからあいつらが向き合っていくことか」
「そう思っておれ。どうあれ、これ以上はお前様が嘴を挟むべき話ではなかろう」

466: ◆/op1LdelRE 2012/02/13(月) 00:59:55.23 ID:ay/I0qVm0
 表情を変えることなく淡々と言う忍。
その言葉に、僕も小さく頷いて返す。
悪魔がいなくなったのならば、事実これ以上僕の出る幕なんて無い。
ここから先のことは、本当に普通の中学生同士の問題なのだから。
高校生の兄が口出しするなんて、さすがにみっともないどころの話ではないだろう。
精々見守るに留めるのが正しいあり方だと思う。
そもそも怪異が絡んでいないのならば、僕が出しゃばる道理なんてどこにもないのだ。

「それで忍、悪魔は本当に消えたんだよな?」
「ん? ああ、消えおったわ。宿主にそう願われてしまっては消えるしかないからの」
「じゃあ願いの効果は消えるんだよな? 火憐ちゃんが不幸になったりとか疎外されたりとかは、もうないよな?」
「効果はな。記憶までは消えんぞ」
「? どういう意味だ?」
「皆の妹御に対する感情はやがて元に戻ろう。近しければ近しい程早くな。じゃからそれは文字通り時間の問題と言ってよい。しかし妹御が皆の忠言を無視して動いた事実は消えたりはせんよ。記憶にも記録にも残ろう。もちろん孤立の経緯を忘れもせん。どうあれしこりは残るじゃろうな」
「そうなのか……でもまあ、それはさすがに仕方ないか」

467: ◆/op1LdelRE 2012/02/13(月) 01:05:46.37 ID:ay/I0qVm0
 二人が消えた扉の方へと視線を向けながらの忍の言葉。
月火との喧嘩も、他の友達からの冷遇も、悪魔の願いにより誘発されたものだった。
けれど、たとえ悪魔が消えたって、喧嘩した事実も、そこに至った経緯も、決して無くなりはしないのだ。
事実は事実として残ってしまう。起きてしまった事は変えられない。
それはやはり残念に思うし、悔む気持ちだってある。

 とはいえ、火憐が独断専行していたというのも確かなのだ。
もちろん理由はあったにせよ。
そうであれば、そこにわだかまりが残ってしまうのは仕方がないとも言えるだろう。

 だけど、それは決して修復不可能なものでもなんでもない。
これから火憐が説明して、謝って、そうやって解決していくべきことなのだ。
もちろんあいつも、それはちゃんと理解しているだろう。
僕はただ、それを見守ってやるのみである。
求められればもちろん力を貸すにやぶさかじゃないけど、多分その必要も無いと思う。
あいつは――あいつらはきっと、もう大丈夫だ。

468: ◆/op1LdelRE 2012/02/13(月) 01:10:06.87 ID:ay/I0qVm0
「ときにお前様よ、階下で少し騒がしくなっておるようじゃぞ」
「何だって? この上また何か問題が起きたのか?」
「いや、どうも医者に見つかったようじゃな。まあ病人が顔色を悪くしてうろついておれば、騒ぎにならん方がおかしかろう」
「そりゃちょっとやばいんじゃないか? 急いで下りよう」
「そう焦らんでもよい。急な体調変化で一時的に体が混乱しておるだけのようじゃ。さして深刻なものでもないし、すぐに落ち着くじゃろ」
「それでもだよ、大体火憐ちゃんはそれ分からないだろ? 大体そろそろ帰らないと駄目だしな、月火ちゃんだって心配してるだろうし」
「ふん、まあ好きにせい、儂は寝る」
「ああ、色々ありがとう、また夜にな」

 忍が影へと姿を消すのを確認して、僕も立ち上がる。
急いで扉へと向かい、階下へ――火憐の元へ急ぐ。
不器用だけど真っ直ぐな、誇るべき僕の妹の元へと。

476: ◆/op1LdelRE 2012/02/19(日) 00:10:12.43 ID:QKSt9JF20
 023.

 病院からの帰り道、時刻は既に夕暮れ時。
陽は既に大きく傾き、二つの影が長く伸びている。
細い細い架け橋で繋がった影が。
沈み行く太陽を背に、自分達の影を視界に、僕と火憐は並んで歩いていた。
共に無言のまま。

 あれから――悪魔が消えてからも、事態は簡単に終局を迎えてくれたわけではなかった。
体感的にはともかく、実際にはむしろそこからの方が長かったかもしれない。

 僕が階段を下り、踊り場から階下の様子を確認した時、丁度慌てた様子の看護師達がストレッチャーを運んできているところだった。
廊下へと膝をついて項垂れている松木の元へ真っ直ぐに。
荒く苦しげな呼吸、蒼白な顔、震える身体。
横で声をかけ続ける火憐に悪態を返す余裕すら、その時には既にもう失われていて。
支えが無ければ倒れ伏していただろうそんな状態で、むしろよく階下まで無事に辿り着けたものだとさえ思う。

477: ◆/op1LdelRE 2012/02/19(日) 00:12:46.68 ID:QKSt9JF20
 思わず足を止めて茫然と立ち尽くしている内に、松木はストレッチャーに横たえられ、そのまま運ばれていった。
忍の話ではそれ程深刻な状態ではないということだったけれど、あんな姿を見せられては心配するなという方が無理な話だ。
何も知らない火憐にとっては、きっと尚更だったろう。
目を閉じて横たわっていた彼女へと一瞬手を伸ばしかけた――が、邪魔をする訳にはいかないと考えたのか、すぐに動きを止めて、ただ黙ったまま見送るに留めていた。
力無く手を下ろすその表情に浮かんでいたのは、はっきりと憂いの色。

 それから残った看護師に事情を聞かれて説明に窮している火憐の傍に、ようやくのことで僕も辿り着き、状況について話をした。
もちろん悪魔のことを口にする訳にはいかなかったので、あくまで友人として見舞いに来ていた、とだけ。
病人である松木を僕達が連れ回していた、と疑われたらどうしようかと少し心配したものの、幸か不幸か、元より彼女は所謂模範的な患者ではなかったらしく、僕の説明をすんなりと信じてくれたようだ。
あるいは、それこそ僕らの方が振り回されていた、とか考えられていたのかもしれない。
心配げなというか同情的なというか、少しそんな目で見られていたくらいだったから。

478: ◆/op1LdelRE 2012/02/19(日) 00:16:16.23 ID:QKSt9JF20
 結局その後、火憐に松木と話をする機会が与えられることはなかった。
ただ後で話してもらったところでは、特に目立った病状の悪化等の傾向も見られず、疲労の蓄積と診断されたとのこと。
実際、僕らがその説明を受けた時には、松木は既に自分の病室で眠っていたそうだ。
隣で話を聞いていた火憐は、そこで安心したように大きく息をついていた。
もちろん僕も、そこで安堵できたのは確かだ。

 でもそれと同時に、裏の事情を知る僕としては、今後を憂えずにはいられなかった。
今はもうその存在は消え去ったとはいえ、松木が悪魔に願ったせいで少なからず精気を奪われたという事実は消えたりしないのだから。
忍曰く、そこまで大きく損なわれているわけではないそうだけど、どうあれ悪影響が無いはずもないだろう。
せめてそれが最小限のものであってほしいと、そう願わずにはおれない。

479: ◆/op1LdelRE 2012/02/19(日) 00:23:26.45 ID:QKSt9JF20
 そして松木の代わりという訳でもないけど、娘の病状悪化を知らされて駆けつけた彼女の両親と会話をする機会があった。
娘の方は親に対して少なからぬ不満を漏らしていたそうだけど、会ってみれば、二人は普通の人達だった。
本当に普通の、そしてただ純粋に、一心に、娘の身を案じている親だった。
もっとも、だからこそ娘の為にあらゆる手を尽くし、手当たり次第に縋る物を求め、遂には悪魔の石に届いてしまったのだろうけれど。
それでもそれはあくまでも結果論であり、二人の想いが本物である事実より優先されるようなものじゃない。

 病室の前で佇む僕らに声をかけてきた二人の表情には、疲労と心痛が色濃く刻まれていて。
その痛ましい姿は、しかし確かに心から娘のことを心配している親のそれで。
松木の事を自分の友達だと、そう胸を張って言った火憐に見せた少し安心したような微笑からも、彼女が強く想われていることが伝わってきて。
僕も少しほっとしたのを覚えている。

 その後、面会時間がとうに過ぎていたこともあり、二人が病室へ入るのを潮に、僕らも病院を出た。
より正確には、看護師から今日は帰るようにと言われて、大人しくそれに従っただけなのだが。
病院の出口を出てからも、火憐は後ろ髪を引かれるように、何度も立ち止まり、何度も振り返っていた。

480: ◆/op1LdelRE 2012/02/19(日) 00:25:45.53 ID:QKSt9JF20
 その気持ちは分からないでもなかったけれど、いつまでもそうしていたって仕方がない。
何より松木だけでなく火憐もまた、一時的にとはいえ深刻な体調不良に陥っていたんだし、その心身への影響も心配だった。
松木もそうだけど、こいつだって休ませてやらなければならないだろう。
なので、適当な所で僕がその手を取って、引っ張るようにして帰路に着いたわけだ。

 火憐は特に反発することもなく(最悪引きずってでもと思ってはいたけれど)、素直に僕に引かれるまま歩き出した。
それからずっと、無言のままで歩き続けている。
繋いだ手は離さない。
ちらりと横目で窺うが、その乏しい表情から内心を読み取ることは難しい。
きっと色々な思考が、今も頭の中をぐるぐると回っているのだろう。
今も一人で、考え続けているのだろう。
だから。

481: ◆/op1LdelRE 2012/02/19(日) 00:31:29.04 ID:QKSt9JF20
「――なあ、火憐ちゃん」
「……なに?」

 足を止めて声をかけてみると、小さな反応が返ってきた。
改めて真正面に立って視線を合わせる。
不思議そうな表情で見返してくる火憐。
言わなければならない言葉が、伝えなければならない想いが、僕にはあった。

「ごめん」
「え?」
「無視してて、放っておいて、ごめんな。お前はずっと一人で大変だったのに、僕はそれを気にもしないで――」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ、やめろよ、謝んなって。むしろあたしの方が謝んなきゃなのに」
「いや、それこそ必要ねーよ。お前が無事なら、僕はそれでいいんだ」
「でも――」

482: ◆/op1LdelRE 2012/02/19(日) 00:40:34.32 ID:QKSt9JF20
 なおも言い募ろうとする火憐だったが、僕は手を振ってそれを遮る。
こいつが謝る必要なんてない――少なくとも僕に対しては間違いなく。

「いいんだって。それに、お前がああしたからこそ、今回の事にも片を付けられたんだろうしな」
「……そう、なのかな?」
「当たり前じゃないか。これからはもう松木が周囲の人間を不幸にするとか、そういうことは起きないんだから。一番の問題は片付いたと言っていいだろ」
「だけどさ、あいつがそうしてたって事実は消えないじゃん。皆それを覚えてる。あいつだってそうだ。それに病気だって体質だって何も変わってないんだぜ。結局あいつ自身の状況は一個も良くなってねーのに」
「でもそれは、松木がこれから自分で向き合っていくべきことだろう。その解決の為に、あんな物に頼るのがそもそも間違ってんだ。それを無くして元に戻したってだけで、十分改善だよ」
「そりゃ、そうかもしんないけど」
「それにもう、あいつは一人じゃない。そうだろ?」
「……うん、一人になんてしねーよ、絶対」
「ならきっと大丈夫だよ。そんなすぐに素直にはなれないだろうけど、でも遠からず皆と仲良くだってなれるさ。まあ、もし何か助けが必要なら僕にも言えよ。できる限り手を貸すぜ、今度こそちゃんと」
「兄ちゃん――うん、ありがと」

483: ◆/op1LdelRE 2012/02/19(日) 00:45:50.69 ID:QKSt9JF20
 僕の言葉を噛み締めるように、頷いて返してくる火憐。
そこでようやく、その表情が少しだけ緩んだ。
一人でも、と気を張って。
松木を助ける為に、と強がって。
それでもやっぱり不安や心配はあったんだろう。
痛みや苦しみは大きかったんだろう。
どんなにフィジカルが強くたって、メンタルの方はそうはいかない。
何たってこいつはまだまだ十五歳の中学生なんだから。

 その背中を後押しするという程でもないけれど。
でも僕は確かに味方だということを、その意思を伝えようと、またしっかりとその手を握ってやる。
少し遅れて、緩く握り返してくる感覚。
ふっと微かな笑みを交わす。

484: ◆/op1LdelRE 2012/02/19(日) 00:50:18.01 ID:QKSt9JF20
「とにかく今は家に帰ろう。大体謝るってんなら、まず一番は他にいるだろ」
「……うん、分かってる。帰ろう、兄ちゃん」

 二人並んで、再び歩き始める。
その足取りはきっと、さっきまでより少しだけ軽くて。
無言のまま、それでも前を向いて真っ直ぐに。
帰るべき場所へ、返るべき形へ。

 完全に陽が落ちるより少しだけ早く、我が家の門扉が見えてきた。
街灯に照らされて浮かび上がるようなそれに、何となく安心感を覚える。
玄関の前、火憐が一つ深呼吸して。
僕の手を離し、一つ頷き、自分の手で扉を開けて。
そして。

485: ◆/op1LdelRE 2012/02/19(日) 00:56:41.98 ID:QKSt9JF20
「ただいま」

 帰宅の言葉を伝えて、扉をくぐった火憐が、玄関で靴を脱いだところで。
リビングからどたばたと音が聞こえてきて、それに気付くと同時に扉がばんと勢いよく開き、月火が飛び出してきた。
僕の目の前で、火憐の肩がぴくりと動く。
後ろに立っているので、その表情は見えなかった――見えるのは、言葉が、あるいは胸が詰まった様子の月火の表情。

「火憐ちゃん……」
「月火ちゃん……」

 一瞬見つめ合う二人。
きっと心の中で、頭の中で、いろんな想いが渦巻いているのだろう。
溢れそうな感情に振り回されて、言葉が出てこないのだろう。
月火の瞳は、不安や悲嘆や後悔で揺れていて。
そしてきっと目の前に立つ火憐もそれと同じで。
数秒間の、そんな硬直の後。

486: ◆/op1LdelRE 2012/02/19(日) 01:03:12.58 ID:QKSt9JF20
「ごめん! 火憐ちゃん!」
「ごめん! 月火ちゃん!」

 二人の、そんな言葉が綺麗に重なった。
言葉のみならず、ご丁寧にも下げる頭の角度まで同じで。
ただ心のままに、二人は想いを吐き出し続ける。

「酷いこと言ってごめん、無視しててごめん、放っといてごめん、話をちゃんと聞いてあげられなくてごめん」
「酷いこと言ってごめん、迷惑かけてごめん、困らせてごめん、心配してくれたのを無視してごめん」

 重ねる言葉と、重なる気持ち。
そんな風に想いが連なって行く内に、少しずつ二人の声が震えてくる。
その震えは身体にも少しずつ伝播していって。
揃って顔を上げて、ともすれば崩れそうな表情のまま、溢れそうな感情に従うまま。
互いが互いにゆっくりと歩み寄り、震えるその手を伸ばし合い。

487: ◆/op1LdelRE 2012/02/19(日) 01:10:13.81 ID:QKSt9JF20
「ごめんね、火憐ちゃん。ごめん、ごめんなさい――」
「ごめんな、月火ちゃん、ごめん、ごめんなさい――」

 二人はしっかりと抱きしめ合った。
後ろの僕のことなんて、視界からも意識からも放り出して。
ただ二人で抱き合い、泣き合い、謝り合い。
後悔と、そしてきっとそれ以上の安堵の気持ちで。
言葉を連ね、想いを重ね、涙を流し続けている。

 そんなやり取りを、僕はただ黙って眺めていた。
不覚にももらい泣きする、というようなことはなかったけど。
少しだけ、鼻の奥が熱くなったことは否定できない。
何にしても、もうしばらく僕がただいまと口にするまでには時間がかかりそうだった。

488: ◆/op1LdelRE 2012/02/19(日) 01:14:20.11 ID:QKSt9JF20
 でも、別にそんなことはどうだっていい。
二人の気が済むまで、好きにさせてやろうじゃないか。
こうしてどうにか、あるべき形に戻ってくれたのだから。
立ちっ放しで少し足が疲れる程度の事に一々文句を言うほど、僕は狭量な兄ではないのだ。
むしろずっと見ていたい気分ですらある。

 二人の謝り合う声を耳に。
二人の抱き合う姿を目に。
想い合う二人を心に。
僕はしばらくそうして立ち尽くしていた。
少しの疲労感と、多くの充足感を覚えながら。

489: ◆/op1LdelRE 2012/02/19(日) 01:19:15.06 ID:QKSt9JF20
 024.

 紆余曲折を経てどうにか辿り着いた、後日談というか、今回のオチ。
翌日、いつものように二人の妹、火憐と月火に叩き起こされる――ということには、この日もならなかった。
それが何故かって、まず僕の方が先に目が覚めたからであり、また同時に昨夜は火憐と二人だけで眠っていたからだったりする。

 昨夜、あの電撃的な仲直りの後、部屋に引き上げてからの話は省略したいと思う。
もちろん積もる話はあったけれど、僕ら以外にとってはそれこそ詰まらない話だろうから。
色々と溜め込んでいた何やかやを吐き出し終わった時には、もうとっぷりと夜更け。
そうしていざ寝ようかという段になって、やぶから棒に月火が火憐へと、僕と二人だけで寝るようにと言い放ったのだ(もちろん僕の意見は完全無視だ)。
曰く、『火憐ちゃんはお兄ちゃん分が不足してるだろうから』とか何とか。
後はもう僕や火憐に発言をさせることなく、月火はさっさと一人で僕の部屋へと引っ込んでしまい。
僕達も正直結構疲れていたので、大人しくその言葉に従うことにして、二人だけで眠りについたわけだ。

490: ◆/op1LdelRE 2012/02/19(日) 01:23:44.54 ID:QKSt9JF20
 しかし実際一晩明けて、とてもすっきりした気分だった。
悪夢にうなされるようなこともなかったし、痛痒を感じるようなこともなかったし、久しぶりに快眠できた気がする。
その理由なんて、考えるまでもなく明らかだ。

 視線を下へ向けると、目に映るのは、僕の胸の中に顔を埋めている火憐の頭だけ。
あまり口にはしたくないんだけど、身長の関係でこんな風に火憐の頭を見下ろすような形になるのは結構珍しいことだったりする。
そんなどうでもいい事実はさておき、改めてその頭頂部を見やりながら、小さく安堵の息をつく。
表情こそ隠れていて見えないけれど、耳に微かに届く安らかな寝息が、僕の背に回されている両手の力強さが、胸に伝わる温もりが、その無事を、健康を、何よりはっきりと教えてくれていた。

 何とはなしに、眠っている火憐の髪を撫でてみる。
意外にと言ったら怒られるかもしれないけれど、どうやら髪の手入れはきちんとされているらしく、とても滑らかな手触りだった。
指で梳いても引っかかる所なんて全くなく、さらさらと指の間を抜けていき、部屋に射し込む朝日を受けてきらきらと輝いている。
大雑把なようでいて、その辺はさすがに女の子ということか。

491: ◆/op1LdelRE 2012/02/19(日) 01:28:49.25 ID:QKSt9JF20
 あぁでも夏休みの時、鍵でポニーテールぶった切った前科があったっけ、こいつ。
あれだけが例外だったのか、あの後に心境の変化でもあったのか、一体どっちなんだか。
とは言っても、そもそも僕には女の子らしい火憐なんて想像できないんだけど。

「……何か不快な思考を感知したぞ」
「どういう目覚め方だよ」

 何だか既視感を覚える目覚めの一言。
目を開けた火憐が、顔を上げて僕の方に少し恨めしげな視線を向けてくる。
同じく既視感を覚える突っ込みをしつつ、しかし髪を撫でる手は止めない。
月火もそうだったけど、何か癖になるような手触りなのだ。
心安らぐというか、落ち着くというか。
やっぱり兄妹であり姉妹なんだな、と納得する。
断じて髪フェチとかではない。ないのだ。

492: ◆/op1LdelRE 2012/02/19(日) 01:35:40.21 ID:QKSt9JF20
 閑話休題。
そうして髪を撫でている内に、火憐の顔から不満の色は薄れていき、やがて照れたような表情へと変わる。
見ている僕の方も、自然と口元が緩んできてしまう。
ほんの数日ぶりだけど、何故かとても懐かしく思えるような、そんないつも通りのやり取りだった。

「おはよう兄ちゃん、いい朝だな」
「おはよう火憐ちゃん、よく眠れたみたいだな」
「もちろんさ。いやホント久しぶりに熟睡できた気分だぜ。ようやく帰ってきた感じっつーか。やっぱ兄ちゃん抱きしめてないと寝た気がしねーよ」
「重症だな、おい」
「いいじゃん別に。知ってんだぜー、兄ちゃんももうあたしらが傍にいなきゃ熟睡できねーってさ」
「何馬鹿なこと言ってんだ。そんなわけあるか」
「にっしっし、まーそういうことにしといてやるよ。あ、そだ」
「ん?」

493: ◆/op1LdelRE 2012/02/19(日) 01:39:07.73 ID:QKSt9JF20
 何かを思い出したように、火憐が今度は悪戯っぽい笑みを浮かべる。
こんな風に寝転がっている状態じゃなきゃ見られない、これも実に珍しい火憐の上目遣いだ。
狙ってやってるわけでもないだろうけれど、正直ちょっと胸にくるものがあるというか。
不覚にも少し動揺してしまった。
そんな僕の内心を知ってか知らずか、火憐は姿勢も表情も変えないまま、僕の顔へと手を伸ばしてくる。

「なー兄ちゃん、ちゅーしてくれよ、ちゅー」
「は? 何を言うかと思ったら、お前朝っぱらから何なんだよ」
「何だよもー、雰囲気壊すなよな。いいじゃんか、今そういう気分なんだよ。な、おはようのちゅーってことでさ」
「――まあ、たまにはいいか」

494: ◆/op1LdelRE 2012/02/19(日) 01:43:16.42 ID:QKSt9JF20
 珍しく素直に甘えてくる火憐に押し切られてしまった、という事もあるけれど。
それ以上に、見上げてくるその瞳の中に、ほんの少しだけ寂しさのようなものを見つけた気がして。
だから、火憐の言う通りにしてやろうと思った。
まあ朝起きた時にキスしてやるくらいのこと、どこの家でも割とよく見られる光景だろう。
何らおかしいところはない。ないはずだ。

 と、そんな風に自分の中で結論づけておいて。
それから体を横にして上半身だけ起こし、火憐の後頭部に手を添えてやりながら、ゆっくりと顔を寄せ、軽く唇を触れさせる。
少しの間をおいて離し、それからもう一度。
火憐は何も言わず、ただ確かめるように、噛み締めるように、僕のそれを受け入れていた。
目を閉じたまま、ちょっと強張ったような表情で。
それが何となく微笑ましく思えてきて、口元が綻ぶのを堪えながら、また二度、三度と繰り返す。

495: ◆/op1LdelRE 2012/02/19(日) 01:49:56.16 ID:QKSt9JF20
 ちょっと熱を感じる程度に軽く。
壊れ物に触れるようにそっと。
けれど包み込むように優しく。
じゃれ合うように、労わるように。
信頼の意を込めて、親愛の情を込めて。
昨日までの火憐の心の空白が少しでも埋まるようにと。
ただそう願う。

 そんな僕の気持ちは、きっと火憐の心にもちゃんと伝わったのだろう。
口づけを繰り返す内に、自然とその表情も柔らかいものに変わってゆく。
唇に触れる時は、おずおずとそのおとがいを上げて応えてきて。
頬に触れた時は、くすぐったそうに小さく笑う。
そんな穏やかな時間。

496: ◆/op1LdelRE 2012/02/19(日) 01:54:52.60 ID:QKSt9JF20
「ん――へへっ、こういうのも何か悪くねーかも。ホントはもっと深いの期待してたんだけどさ」
「朝っぱらからそんなもん要求してんな。どこの○○だよ」
「まあいいか。月火ちゃんも朝一の○○ちゅーはお勧めできないよって言ってたし」
「聞いてたのかよ、それ」 

 微かに頬を染めて照れ笑いする火憐と、少し憮然とする僕と。
それでもそれはとても心安らぐようなやり取りで。
僕もまた、何となく日常に帰ってきたような、そんな心地がした。

 そんな感慨を覚えている内に、火憐が再び僕の胸へとその顔を埋めてくる。
背中に腕が回され、しっかりと抱きしめられてしまう。
決して痛くはないけれど、とても強い抱擁。

497: ◆/op1LdelRE 2012/02/19(日) 02:00:01.07 ID:QKSt9JF20
 そうして火憐はゆっくり大きく息を吸い、同じくゆっくり大きく息を吐く。
噛み締めるかのような呼吸。
かかるその吐息に、少し胸がくすぐったかった。

「んー……」
「何深呼吸してんだよ」
「兄ちゃん分の補給。何しろ昨夜はすぐに寝ちまったからな」
「一晩で十分だろ」

 少なくとも、僕はこの一晩で十分に妹分(火憐分)を補充できたのだから。
もちろん変な意味ではない。
やましくもやらしくもない。
何なら八九寺の貞操に誓ったっていいくらいだ。
ちょっと抱きしめたり髪に顔を埋めたりはしてたけど、この程度なら全然セーフだろう。
それはさておき、そんな僕とは違って火憐の方はなお物足りなげで、ずっと胸に顔を押し付けたままだった。

498: ◆/op1LdelRE 2012/02/19(日) 02:05:04.12 ID:QKSt9JF20
「十分じゃないよ。全然足りねー」
「あんまりぐりぐりすんな、痛いから」
「何かもどかしいんだよ、もっと兄ちゃんの体温とか匂いとか感じたいのに。つーかもう服とか邪魔だろ、脱ごうぜ兄ちゃん」
「脱ぐか! 何馬鹿なこと言ってんだ」
「何だよー、兄ちゃんだってあたしら脱がすのは好きな癖によー」
「好きかどうかは置いといて、まず脱ぐのと脱がすのは全く別物だからな」
「じゃああたしが脱がせばいいってことか」
「だから朝っぱらから馬鹿なことは止めろってんだよ。つーか、いいだろこのままで。心配しなくたって、僕はちゃんとお前の傍にいるよ」

 全く、何を良いこと思いついたみたいに言ってるんだか。
大体からして今でも十分ぎりぎりなんだぞ。
頭を撫でてやりながらのそんな僕の言葉にしかし、火憐は口を尖らせて少し不満げな視線を返してくる。

499: ◆/op1LdelRE 2012/02/19(日) 02:15:09.08 ID:QKSt9JF20
「それは嬉しいけどさあ。でもそれだけじゃ何か物足りねーんだって。一昨日もその前も、あたし一人で寝てたんだぜ」
「まあそれが普通なんだけどな」
「萎える突っ込みすんなよ」
「何で今のやり取りで萎えるんだよ、お前は」
「――ちょっと不安だったんだ、実はさ。一人であいつを助けるんだって思って、だから考えないようにしてたけど」
「火憐ちゃん……?」

 また僕の胸元に顔を埋めながら、ぼそぼそと呟く火憐。
その表情までは見えないけれど、珍しくか細いその声は、言葉通りの感情の色を示していて。
聞いている僕まで言葉に詰まってしまう。

500: ◆/op1LdelRE 2012/02/19(日) 02:18:17.07 ID:QKSt9JF20
「もうこんな風にさ、兄ちゃんの傍にいられないかもとか、月火ちゃんと一緒に活動したりできないかもとか、友達と遊んだりできなくなるかもとか、そんなんが一杯ぐるぐる頭ん中で回っちゃってさ。それでもやるって覚悟決めたつもりだったけど、でも、兄ちゃんに、月火ちゃんに、皆に嫌われたかもって、そう考えちゃうとやっぱさ――」
「……考え過ぎだ、馬鹿。何があったって、皆がお前を見限ったりするわけないだろ。僕だってそうだ。つーか僕がお前を本気で嫌いになったりするなんて絶対にあり得ねえよ。もちろん月火ちゃんのこともな。いつか言ったろ、お前達は僕の誇りなんだって。どんなことがあったって、僕は死ぬまでずっと、お前達の事を大切に、この上なく愛おしく想ってるよ」

 言いながらその背に手を回し、強く強く抱きしめる。
火憐はあの時、松木を助ける為に、色々な物を切り捨てる決意をし、覚悟をし、行動をしたのだろう。
さっき吐露したように、ずっと少なからぬ不安を覚えながら。
友達と距離を置いて、月火と喧嘩して、僕を拒絶して――その時、その度毎に、きっと心を痛めながら。

501: ◆/op1LdelRE 2012/02/19(日) 02:24:02.81 ID:QKSt9JF20
 でも、それはあくまでも火憐の側の話だ。
勝手に僕がそんな程度で見限るとか考えるなんて、それこそ冗談じゃない。
たとえ殴られようが、蹴られようが、締められようが、罵られようが。
いくら否定されようが、拒絶されようが、無視されようが、嫌悪されようが。
僕が火憐を想う気持ちが揺らぐことなどあり得ない。あり得て堪るか。
こいつは、僕が僕として生きる為に、欠くべからざる存在なのだから。

 火憐のいない生活なんて考えられないし、考えたくもない。
もちろんそれは他の皆だって同じだ。
悪魔の願いの効果に負けそうになった僕が言っても説得力に欠けるかもしれないけれど、それでも僕には、今回忍や八九寺がそうしてくれたように、いざという時に助けてくれる頼もしい存在がいるのだから。
だから、この皆との絆は決して壊れたりはしないのだと、改めて強く思う。心からそう信じられる。

502: ◆/op1LdelRE 2012/02/19(日) 02:28:14.75 ID:QKSt9JF20
 と、腕の中で火憐が微かに身を捩る。
気付けば、何となくその体が微熱を帯びているようで。
ふと目と目が合う。
見上げる火憐の瞳はどこか熱っぽく、微かに潤んでさえいた。
頬ははっきりと紅潮し、僅かに濡れている唇は朝日を受けて輝いているように見えて。
そんな姿を目の当たりにして、僕の心臓が俄かに騒ぎ出す。

 何なんだこの感情は!
つーか誰だこの可愛い系女子!
このらしくないまでの可憐さは、一体どこからやってきた!?
不覚にも、あるいは迂闊にも、胸が高鳴ってしまうのを止められない。
思わず知らず息を呑む僕を見て、火憐は少しはにかみながら、胸に額をこつんと当ててくる。

503: ◆/op1LdelRE 2012/02/19(日) 02:32:24.92 ID:QKSt9JF20
「……駄目だよ兄ちゃん、そんな殺し文句を優しく囁いてくるなんてさ。こっちのが恥ずかしくなってくるじゃんか。こんなん反則だぜ反則。誘惑し過ぎだってもう」
「っておいちょっと待て、誘惑なんてしてねえよ。つーかすげえいい場面だったはずだろ、今のやり取りとか。何でそんな話になってんだよ」
「えー、だって今めっちゃくらっときたぜ? ときめきっつーの? 今すっげーどきどきしてるもん。女に生れてきて良かったって、マジで思うもん。もう今なら兄ちゃんに迫られても拒めねえよ」
「いやそこは拒めよ」
「つーかむしろあたしが兄ちゃんに迫るかも。何だろ、この気持ち。ちょっと胸がきゅーってなるみたいな。一つになりたいって、こういう気持ちだったりすんのかな?」
「気をしっかり持て、それはお前の錯覚だ」

 少し体を離して、頬を染めたままそんな馬鹿なことを言ってくる火憐に、全力で突っ込んでおく。
下手したらこいつは本気で行動に移しかねないし、さすがにさらっと流すわけにはいかないだろう。
ちなみに、僕が迫るという言葉について突っ込まなかったことについては、特に深い意味はない。ないよ多分。
そんな僕の言葉にしかし、火憐はやれやれと小さく頭を振って返してくる。

504: ◆/op1LdelRE 2012/02/19(日) 02:44:41.09 ID:QKSt9JF20
「何言ってんだよ、あたしは初めての相手は兄ちゃんだってもう心に決めてんだぜ」
「いやお前が何言ってんだよ!」
「後はもう時期だけの問題だな。中学卒業のタイミングがベストじゃねーかと思ってんだけど」
「ちょっと待て、まずは落ち着くんだ、時期以前の問題があるから」
「ちなみに月火ちゃんは場所にもこだわってるよ。ここ最近なんて全国各地の宿とか調べまくってるし。一番ムードの出る場所探すって」
「二人揃って何考えてんだ!?」

 僕のそれは真っ当な突っ込みだったはずだけど。
火憐はむしろ胸を張って、それが自分達の真実だと言わんばかりに主張してくる。
きっと自分の言葉に僅かさえ疑問を持っていないのだろう。
ここまでくると、いっそ清々しくすらあるかもしれない。
そんな風に僕が考えている間にも、火憐はどこか楽しそうに言葉を続ける。

505: ◆/op1LdelRE 2012/02/19(日) 02:50:10.88 ID:QKSt9JF20
「何考えてんだって言われてもなあ。だってあたしらにとっちゃ何でも兄ちゃんが基準なんだしさ。男を知るのも兄ちゃんからなんて当たり前じゃねーか」
「いや、それは当たり前じゃないだろ……」
「つーかそもそも、あたしらを女にしていいのは兄ちゃんだけだ。他の男に許すつもりなんて毛の先程もねーよ。並みの男が触れていい程ファイヤーシスターズはお安くねーぜ」
「格好良過ぎるっ!?」
「ってことでさ、避妊具ちゃんと準備しといてくれよ、兄ちゃん」
「何の心配だよ! 誰がそんなもん準備するか!」
「なに!? 避妊具無しなんてそんなん駄目だからな! そりゃあたしと兄ちゃんのガキとか世界狙えそうだし、見てみたい気持ちは分かるけど。あたしだって我慢してんだぞ」
「だからまず前提がおかしいことに気付け!」

 思わずヒートアップする火憐と僕。
もっともその方向性は真逆だったけど。
つーかもうどこに突っ込むべきなのかが分からない。

506: ◆/op1LdelRE 2012/02/19(日) 02:57:25.78 ID:QKSt9JF20
 とはいえ、会話の内容こそ落ち着かないものだったけれど、そうやってどたばたと騒ぐこと自体には、僕はどこか安心するものを感じたりしていた。
色々なことがあったし、問題が全部解決した訳でもない。
どころか、まだまだ山積みなのだ。
火憐は心配をかけた友人との関係修復をちゃんとしなければならないし、松木はそれに加えてこれからも自分の体質や持病と戦い続けなければならない。
そういう意味では、むしろこれからが本番だとすら言えるだろう。

 そもそも今後似たような問題が起きないとも限らないのだ。
いつかまた今回のようなことが起きれば、火憐はまた同じように――こいつが言うところの正義に従って行動するだろう。
そして僕もまた、それに振り回されることになるのだろう。
悩みの種も心配の元も、決して尽きる事は無い。
ずっとずっと続いていく。

 でも、それがこいつであり、僕らであるのだから。
だから、今はこれでいいのだろう。
これからもまた、そうしていけばいいのだろう。

507: ◆/op1LdelRE 2012/02/19(日) 03:07:15.57 ID:QKSt9JF20
「お兄ちゃん、火憐ちゃん、目が覚めてるんなら、ほら起きて起きて。折角の休みでいい天気なのに、寝てるなんてもったいないよ」
「あ、月火ちゃん、いいところに。兄ちゃんの説得手伝ってくれよ。避妊具準備しないとか言うんだぜ、あり得ねえだろ」
「だから違うだろ、何でお前ら相手に避妊具が必要になるんだよ」
「む! その発言は頂けないね、安全日なら大丈夫とか思ってるのかもしれないけど、それ間違ってるんだから。そりゃ私とお兄ちゃんの子供とか世界取れそうだし、見てみたい気持ちは分かるけど。私だって我慢してるんだよ」
「お前ら本当に似た者姉妹だな! というかまずお前達のその懸念が間違ってると声高に主張したい!」

 そうして扉を蹴破らんばかりの勢いで乱入してきた月火が加わり、また変な方向へと話が加速していく。
未だ寝転がっている僕達の方へ飛び込んでくる月火を受け止めつつ、話の軌道修正を試みて、しかし上手く行かず。
休日の朝から疲れるような真似は勘弁してほしいと思うけれど、まあこの妹達と関わっていくのに、疲れないなんてことはあり得ないのだから。
素直に諦めて、流れに任せるのが一番良いのかもしれない。
実際その話の内容はともかく、こうして三人で騒ぐ事を楽しいと思う自分が、確かにいるのだから。

508: ◆/op1LdelRE 2012/02/19(日) 03:12:23.15 ID:QKSt9JF20
 いつだって真っ直ぐで、馬鹿だけど実直で、不器用だけど誠実で。
そんな火憐を、そしてこいつと共に歩いて行ける日々を。
僕は誇りに思う。
迷惑とか心配とかかけられたりしても、そんなの瑣末事だと一笑に付せる程に。
こいつの兄であることを、兄であり続けられる事を、僕は誇りにしていこう。

 松木がこれからどうなるか、あるいはどうするか、僕には分からないし、またその必要もない。
きっとこれから先に僕の出る幕なんてないだろう。
ただそうである事を祈るのみだ。

 だから。
僕は僕で自分の物語を進めよう。
火憐がそうしたように。
僕もまた、自分の信じるものの為に、真っ直ぐに歩いていこう。

509: ◆/op1LdelRE 2012/02/19(日) 03:17:01.18 ID:QKSt9JF20
これにて完結です。
長い話になってしまいましたが、お付き合い頂いた方々に感謝します。
調べてみたら、何かちょっとした文庫本一冊分くらいあるし……
まあ少ししんどかったですけど、それ以上に楽しんで書けました。
不覚にも自分で書いてて火憐ちゃんにぐっとくるものがあったり。
やっぱりファイヤーシスターズが一番好きですねー。
まあまずは寝る事にします……また明日にでも。
それでは。

547: ◆/op1LdelRE 2012/03/03(土) 01:22:28.78 ID:eeFMisHk0
 ex1.

「……そうか、それは良かった。では万事解決したということだな? いや、礼などとんでもない。この不肖神原駿河、阿良々木先輩のお役に立てたのならば、その上何を望むことがあろうか――ふふ、相も変わらず慎み深いものだ。あぁ、ではまた」

 名残惜しい気持ちを抑えつつ、そこで携帯を切り通話を終える。
耳に心地よい阿良々木先輩の声が聞こえてくる状況を自らの手で断たねばならないというのは、実際苦行にすら思えもするが、これ以上迷惑をかける訳にもいかない。
そもそも今回の話は、先日私がお願いした事――中学生の間で噂になっていた、周囲の者を不幸にする少女の件――に端を発する問題だったのだから。
わざわざ事後の報告をして頂けただけでも、身に余る光栄と言う他ない。
それでなくとも面倒をかけた身なのだ、過分に要望するようなことは避けなければ。

 まあ何にしても、事態が悪化することなく終息したということだから本当に良かった。
まだ多少のしこりは残っているそうだが、しかし怪異が消えたというのならば、事態は既に落着したと考えて問題はないだろう。
さすがは阿良々木先輩だと改めて感嘆せずにはいられない。
あれで自分は何もしていないと言うのだから、奥ゆかしいにも程がある。
いや、勿論そこがあの人の美点とも言えるのだが。

548: ◆/op1LdelRE 2012/03/03(土) 01:26:17.69 ID:eeFMisHk0
 閑話休題。
そうして用を終えた携帯を脇に置き、暫しその声の余韻に浸る。
これは、私が阿良々木先輩との通話を終えた後の恒例行事だった。
世界広しと言えど、斯様に強さと優しさを湛えた声の持ち主など、まず他には存在するまい。
それこそ、私の携帯電話はこれだけの為にあると言っても過言ではない。
何ならその声をベースに脳内で台詞の補正を行えば、それだけで達することができる自信すらある。
決して他人に言えるようなことではないが。

「――さて」

 少しして気持ちを切り替える。
起き上がってから服を着て、部屋の扉を開け放つ。
特に用事があるというわけでもないが、時間を無駄にするのは性に合わない。
なので、書店に探索にでも行こうかと、それだけのことである。
どんな発見があるかも分からない――それこそが、書店巡りの醍醐味だ。

549: ◆/op1LdelRE 2012/03/03(土) 01:30:43.84 ID:eeFMisHk0
 元よりそう広くはない街なので、巡るルートも慣れたもの。
新刊の発売日や、未だ手に入れていない古書などに思いを巡らせながら歩くこと暫く。
見慣れた景色の中、軽快に走る少女の姿が視界に飛び込んでくる。

「あ、駿河さん、久しぶりー」

 私が気付くとほぼ同時にこちらに気付いたらしく、彼女は更に一段加速してこちらに走ってくる。
阿良々木火憐ちゃん。
私の敬愛して止まない阿良々木先輩の妹さんにして、街の中学生達の顔役、ファイヤーシスターズの実戦担当。
まあその肩書きは数あれど、今更それらを列挙してもさして意味はないか。
とにかく今や私にとっても馴染みの深い、大切な後輩であり友人だ。
しかし、これはまた思いの外、望外な出会いがあったものだと思う。
小人閑居して不善を為すではないが、やはり暇を余している時は外に出た方が良いものだな。

550: ◆/op1LdelRE 2012/03/03(土) 01:37:55.90 ID:eeFMisHk0
 そんなことを考えていたのも束の間。
火憐ちゃんは、あっという間に私の前まで到達すると一瞬で静止し、いつものように元気一杯の笑顔で挨拶をしてくる。
曇り一つ無いというか、輝かんばかりの生気に満ち溢れたその表情に、見ているこちらまで晴れやかな気分になってくる。
これもまた彼女の――というか彼女達の――才能なのだろう。
笑顔一つでここまで人を惹きつけられる者はそうはいない。

 しかしかなりのペースで走っていただろうに、その呼吸が僅かさえ乱れていないというのも凄いな。
私も相応に鍛えていた自負はあるのだが、正直この子の基礎体力を前にしては脱帽せざるを得ない。
空手の道場に通っているということだが、きっとアスリートに転身したとしても優秀な成績を収められるだろう。
全く、阿良々木家のDNAは実に素晴らしいと改めて舌を巻く思いだ。

551: ◆/op1LdelRE 2012/03/03(土) 01:43:07.15 ID:eeFMisHk0
「やあ火憐ちゃん、元気そうで何よりだ」
「もちろんだぜー、あたしが元気じゃない時なんてないよー」
「ふむ、阿良々木先輩の言われていた通りだな、安心したよ」
「? 何のこと? 兄ちゃんが何か言ってたの?」
「いや、それはもう解決したみたいだからいいんだ。気にしないでほしい」
「ふーん、何か分かんないけど、まあいっか。あ、そうだ」

 ぽんと手を叩く火憐ちゃん。
何に気付いたのか、とこちらが不思議に思うより先に、彼女はびしっと姿勢を正していた。
そして私が何か言うより更に先に、すっと頭を下げてくる。

「駿河さん、心配かけてごめんなさい、あと、心配してくれてありがとうございました」
「火憐ちゃん?」
「……えっと、兄ちゃんから聞いたんだ、駿河さんがあたしの事心配してくれてたって。なのにあたしそれを無視する感じで動いてたから、ちゃんと謝んなきゃって」

552: ◆/op1LdelRE 2012/03/03(土) 01:49:54.87 ID:eeFMisHk0
 きっかり三秒後に頭を上げて、火憐ちゃんはそう言った。
それに関しては既に阿良々木先輩から話は聞いていたが、特に謝られるようなことでもないというのに、本当に律義というのか実直というのか。
しかし、そうやって自分に非があると思った時に素直に謝罪できるというところも、また素直に感謝できるというところも、正しく彼女の美徳と言えよう。
私からすれば本当に眩しいくらいだ。
こういう所もまた、彼女が周囲から絶大な支持を集める理由の一つなのだろう。

「いや、感謝とか謝罪とかされるような事ではないよ。実際私は何もしてあげられてないしな。火憐ちゃんが無事ならばそれで十分だ。無用な心配で済んで本当に良かったよ」
「うん、見ての通りだよ。確かにちょっとしんどいことはあったけど、今はもう全快っつーか全開だぜ!」

 そこでびしっとポーズを決める火憐ちゃん。
何かの戦隊ものの決めポーズなのだろうか?
よくは分からないが、とりあえず元気が有り余っているということだけは伝わってくる。
阿良々木先輩の話では、一度は件の少女の病状をその身に受けていたという話だったが――

553: ◆/op1LdelRE 2012/03/03(土) 01:55:22.36 ID:eeFMisHk0
「一晩ゆっくり休んで復活、というところかな?」
「そーそー。月火ちゃんとしっかり仲直りして、一晩ベッドでゆっくり寝て、一日べったり兄ちゃんに甘えて、何度もしっとりちゅーして、むしろ前より強くなったかもしれねーぜ」
「……」

 サイヤ人みたいなことを言う火憐ちゃんだったが、何だろう、一部不穏なというか余計なというか、はっきりと不要な工程があったように思う。
気のせいだろうか? あるいは考え過ぎなのだろうか?
詳しく聞いた方がいいのか、さらっと流した方がいいのか。

 そんな埒も無い事を考えていたのだが、しかし火憐ちゃんはそこで少しだけ眉を寄せて、微かに陰りを含む笑みを浮かべる。
憂いの色――いつも溌剌としているこの子に、これ程似合わぬ表情も無いものだ。

「実は昨日まで色々あってさ、ちょっと不安定っていうか、心が弱くなっちゃってた感じだったんだけど――でも、兄ちゃんが抱きしめてくれたら、すげー安心できたんだ」
「……そうか、辛かったんだな」

554: ◆/op1LdelRE 2012/03/03(土) 02:00:37.84 ID:eeFMisHk0
 なるほど、そういうことか。
どれ程強いといっても、またどれ程鍛えているにしても、火憐ちゃんはまだまだ多感な年頃だ。
一時的なものとはいえ、兄妹や仲の良い友人達と袂を分かつようなことになってしまって、それで平然としていられようはずもない。
それでも事態を乗り切ったその精神力は見事と言う他ないが、その中できっと浅からぬ傷を心に負ってしまっていたのだろう。

 けれどそれを、阿良々木先輩がちゃんと見つけてあげて、確と癒してあげたということのようだ。
実際、今はもう既にさっきまでの憂いの色は露程も見当たらない。
いや、とんだ下種の勘繰りだったな、何とも恥ずかしい限りだ。

「うん、だけど兄ちゃん独り占めできたから結果オーライかも。やっぱ兄ちゃんに抱きしめられながら寝るのって安心感が違うんだー。温かいし優しいし良い匂いだし。あたし死ぬ時は絶対兄ちゃんの胸の中がいいな」
「そ、そうか。まあ癒されたのならば勿論それで良いのだが」

555: ◆/op1LdelRE 2012/03/03(土) 02:04:11.12 ID:eeFMisHk0
 どうやら私の懸念もまた当たらずとも遠からずだったらしい。
まあ阿良々木先輩は、純粋に火憐ちゃんの心身を案じてそうしたのだろうし、断じて不純な感情は無かっただろうと思うが……
いやいや、これもきっと想い合う兄妹故の行動であり感情なのだろう。そうに違いない。
何より、火憐ちゃんが今こうして曇りの無い笑顔でいられるのだから、私の余計な気回しなどそれこそ無用の長物か。

「駿河さんも兄ちゃんに抱きしめられたら分かると思うよ。ホントすげー幸せになれるんだぜ」
「ふむ、まあその機会があれば、一度くらいはお願いしてみたいものだな」

 頭の後ろで両手を組みながら楽しそうに笑う火憐ちゃんに、だから私も軽口で答える。
しかし実際、もし阿良々木先輩に抱きしめてもらえるのならば、それは確かに無上にして至上の喜びに違いあるまい。
決して叶うことは無いだろうが、それでも夢想することくらいは許されるものだろうか。

556: ◆/op1LdelRE 2012/03/03(土) 02:08:15.58 ID:eeFMisHk0
「それに、今のあたしにへこんでる暇なんて無いんだ」
「ふむ、というと?」
「茜のこと。あいつまだ入院してるけど、しばらくしたら退院できるって話だし、今度こそちゃんと学校生活送れるように協力してやんないと駄目だからさ、実際どうするかは月火ちゃんと相談中だけど」
「あぁ、今回の騒動の中心にいた子のことだな」
「うん、あいつも色々大変だったみたいだけど、もう大丈夫だよ。そんなすぐに素直にはなれないだろうけど、いつかは皆とも仲直りできるはずだぜ」
「そうか、何にしても全て綺麗に解決できそうだと言うのならば、それに如くは無い。阿良々木先輩は随分と気を揉んでいるようだったが」

 実際、私は解決後に知ったからまだいいものの、阿良々木先輩は早い段階で怪異絡みだと知っていたと言うのだから、その心労たるや相当なものだったはずだ。
最悪の場合、私のように、あるいは阿良々木先輩のように、後に何がしかの後遺症を残すような事態もあり得たわけだし。
それでなくとも、火憐ちゃんが怪異を知ってしまっていたら――そう考えると、改めて肝を冷やす思いがする。
禍根を残すことなく元のあるべき形に返ることができたのは、本当に僥倖だったと言えよう。

557: ◆/op1LdelRE 2012/03/03(土) 02:12:59.66 ID:eeFMisHk0
 もっとも、そんな経緯を知らない火憐ちゃんからすれば、阿良々木先輩の憂慮は過分に思えるらしい。
それもまあ無理からぬところではあるが。
実際今も心外だとばかりに口を尖らせている。

「ていうか兄ちゃんが心配し過ぎなんだよ。そりゃ心配してくれんのはちょっと嬉しいけどさ、なーんか過保護っつーか過干渉っつーかさあ」
「まあ気持ちは分かるが、そう面倒がるものでもないんじゃないか? それだけ火憐ちゃん達のことを大切に想っているということでもあるわけだし」
「うん、まあそうかもしんないけど」
「それに阿良々木先輩ももうすぐ受験だしな、そろそろ今までのようには構ってあげられなくなるという寂しさもあるのかもしれないぞ」

558: ◆/op1LdelRE 2012/03/03(土) 02:16:16.83 ID:eeFMisHk0
 実際、怪異に絡むごたごたにいつも首を突っ込んでいるせいで忘れそうになるが、あの人は一応れっきとした受験生だ。
勿論それでなくとも学生の本分は勉強なのだが、本番まであと半年というこの時期である。
そろそろ本気にならねば、さすがに危ないのではないだろうか。
というか、戦場ヶ原先輩が黙っているとは思えない。二重の意味で危険だ。
そうした受験勉強やらその先の大学生活やらを考えれば、当然今までのような生活は送れなくなるだろうし、そうなると必然家族と言えども距離ができるようになってしまうだろう(もしかしたら家を出る、という可能性もあるわけだし)。

 あるいはそれを寂しく思って、阿良々木先輩も必要以上に二人に構っているのかもしれない。
二人の為というだけでなく、阿良々木先輩自身の想い故に。
とまあそんなことを言ったのだが、当の火憐ちゃんはきょとんとしていた。

「え? 何言ってんの駿河さん、やだなあ、そんなことあるわけないよー」
「しかし阿良々木先輩も複数の大学を受けるのだろう? 無論のこと第一志望に合格するのが望ましいとは言え、そうならない可能性を無視する訳にも行くまい」
「いやいや、兄ちゃんが家を出るとか無理なんだよ。だって下宿先が見つかんないんだもん。月火ちゃんが色々調べたんだけどさあ、通える範囲のアパートは一つも無いんだって」
「アパートが見つからない? そんな馬鹿な。どんな辺鄙な所にある大学を受けるつもりなんだ? 阿良々木先輩は」

559: ◆/op1LdelRE 2012/03/03(土) 02:22:05.08 ID:eeFMisHk0
 思わず反射的に問い返してしまった。
というか、俄かには信じ難い話だ。
普通は大学近辺なんて、学生向けの賃貸住宅が林立しているものではないだろうか?
毎年毎年決まった時期に新規入居者がやって来る環境など、賃貸住宅の管理者からすればこの上ない好条件だろうに。
もし仮にそんなものさえ無いような辺鄙な所だとするなら、それこそ大学側が寮を用意して然るべきだと思うのだが、それすら存在しないというのか?

「や、そうじゃなくて。兄ちゃんが受ける大学で家から通学できない所って本当に遠いからさ、だから家借りたとしても通えないんだ、あたしらが」
「それは、何と言うか……」

 言葉も無い。正しく咄嗟には二の句が継げない。
まさか通える範囲というのが、『阿良々木先輩が大学に』ではなく『火憐ちゃん達が家から』という意味だったとは。
予想外と言うより奇想天外と呼ぶべき発想だ。
というか、それでは下宿の意味が無いんじゃないのか?
いや、まずそもそも何故火憐ちゃん達に通う必要が?

560: ◆/op1LdelRE 2012/03/03(土) 02:27:31.28 ID:eeFMisHk0
「だってほら、兄ちゃん家事壊滅的だし、あたしらがいてやんないと部屋で倒れるかもしんねーし、汚部屋とかマジ勘弁だし」
「そこまで心配しなくても大丈夫だと思うが。それに、いざとなれば戦場ヶ原先輩も助けてくれるだろう」
「いやいやいや、そんな不出来な兄ちゃんの世話まで戦場ヶ原さんにさせらんねーよ、申し訳ねーもん。まーあたしらが一緒に住んであげれば一番手っ取り早いんだけど、それはさすがにまだ早すぎるしさ。もう月火ちゃんとか最悪車の免許取らせてでも家から通学させるって言ってたよ」
「そこまで……」
「つーかそもそも、あたしらだって兄ちゃんいない生活とかあり得ねーし」
「あり得ないとまで……」

 もしかしたら私は思い違いをしていたのかもしれない。
てっきり阿良々木先輩が妹離れできていないだけだと軽く考えていたのだが。
よもやここまで見事な両想いだったとは。
麗しき兄妹愛にも限度というものがあるのでは、などと考えてしまうのは、私が凡百の徒に過ぎぬからなのだろうか。

561: ◆/op1LdelRE 2012/03/03(土) 02:32:02.04 ID:eeFMisHk0
 かと言って、では実際のところはどうあるべきなのか、と問われれば答えに窮してしまうのだが。
結局、どうしたって私には兄妹というものがいないのだから、究極的にはそういうところの機微は分からないのだ。
それに、そういうものは各家庭毎に異なっていて然るべきだろうし、共通解などそもそも存在する訳もなく。
周りがそれに意見しようなど、それこそ内政干渉にも程があるというものだろう。

 まあ、あるいは想い合う家族ならば、この程度の事はあっても然程におかしくはないのかもしれない。
少なくとも、ニュースで取り沙汰されるような事件にまで発展するほど憎しみ合う家族に比べれば、余程健全だろうし。

「それに兄ちゃんも、あたしらがいなきゃ生きてけないとか言ってたんだぜ、あたしを助けに来た時にさ。すっげー真剣な表情で。やー、兄ちゃん程の男にそこまで言わせるとか、あたしって罪な女だよなー」
「……」

562: ◆/op1LdelRE 2012/03/03(土) 02:38:14.30 ID:eeFMisHk0
 ――もしかしたら、ワイドショーで取り沙汰されるようなゴシップに発展する可能性はあるみたいで、その意味では健全とは言い難いのかもしれない。
照れているのか、くねくねと身を捩る火憐ちゃんを見ながら、彼女の将来を案じずにはいられなかった。
発言内容さえ無視すれば、それはとても可愛らしく微笑ましい姿ではあるのだが。

 しかし彼女の言に倣うならば、阿良々木先輩の方こそ罪な男だと言うべきではなかろうか。
電話では自分には何もできなかったと自省するように繰り返していたが、その実いつも通りにしっかりと男を見せていたわけだ。
さすがと言おうか、やはりと言おうか。

「ホント聞いてるこっちが恥ずかしくなってくるっつーかさぁ、全くプロポーズかってーの」
「いやいや、さすがに兄妹で結婚は無理だろう」
「あはは、何言ってんのさ駿河さん、やだなぁ、もちろんそんなの分かってるよ、あたしらも」
「そうなのか?」

563: ◆/op1LdelRE 2012/03/03(土) 02:43:37.88 ID:eeFMisHk0
 笑顔で話す火憐ちゃんに、つい懐疑的な声で聞いてしまう。
いやまあ確かに、幼稚園児ならいざ知らず、中学生にもなってそれを知らないというのはあり得ないだろうが。
しかし何しろ“あの”阿良々木先輩であり、そしてその妹さんだ――正直私などでは及びもつかない発想と信念を持っていたとて何らおかしくはない。
どころか、私如き凡愚にその深謀の一端でも理解できると考える方が不自然だとすら思う。

 幾多の怪異を相手取り、数多の死線を潜り抜け、なお揺るがず崩れず生き残り続けているあの人の存在こそが、既にもう伝説的だ。
破天荒ここに極まれりとでも言おうか。
この上倫理をすら相手取ったところで、それこそ行き掛けの駄賃にすら及ぶまい。
いや結構洒落にならない話ではあるんだが――あるんだが、果たして眼前で無邪気な笑顔を見せているこの子は、どこまで理解しているのだろう。
そんな私の心配を余所に、火憐ちゃんはあくまでも何でも無いことのように、とんでもないことを平然と言ってのけた。

「当然だって。月火ちゃんも言ってたよ、えーと何だっけな、確か『近親同士のリスクは、遺伝的に近いと同一の劣性遺伝子を持ってる可能性が高くて、子供に異常が発現する危険が高まるところにあるんだよ』って」
「え?」
「いやさすがにさ、そんなん聞いたら諦めるしかないじゃん。そりゃあたしも兄ちゃんのこと大好きだし、求めてくるなら応えてやりてーって思うけどさ、さすがに自分のガキを不幸にするようなことなんてできねーよ、女として」
「……」

564: ◆/op1LdelRE 2012/03/03(土) 02:52:12.50 ID:eeFMisHk0
 今度こそ本当に絶句せざるを得なかった。二の句どころか一の句も継げない。
一応は健全なる結論に至っているとはいえ、そこに到達するまでの過程があまりにも非健全に過ぎるような。
やはり倫理も法も、彼女達を止める一助にすらなり得ないということなのか。
というか諦めるって……そこでその単語を選んだ心理にこそ驚愕する。

 しかし会ったことはないものの、下の妹さん――月火ちゃんは、参謀担当というか頭脳担当というか、そういう役回りだと聞いていたのだが。
いや、下手をしたら火憐ちゃんより行動派なんじゃないのか? というか、既にそこまで調べているのか。
何を想定しての調査だったのかと考えると、実に空恐ろしいものがあるな。
いやはや、現実的というのか夢想家というのか。さすがに阿良々木先輩の妹さんだけのことはある。全くもって只者ではない。
将来お兄ちゃんと結婚するー、とか口にしているだけならば、まあ可愛いものだと言えるかもしれないが、さすがにこれは軽々に突っ込める話ではないな。

「そういや月火ちゃん、『逆に言えば、そこさえ事前に調べてクリアできれば問題無いってことでもあるんだよね』とかも言ってたっけ、よく分かんねーけど、そんなんできんのかな?」
「いや、それ以上は止めておこう。火憐ちゃん達がお互いに想い合っているというのはよく分かったから」

565: ◆/op1LdelRE 2012/03/03(土) 02:56:40.20 ID:eeFMisHk0
 というか、これ以上は聞いてはいけない気がする。
自分の中の価値観が丸ごと引っ繰り返されそうな予感がするのだ。
正直一抹どころか山ほど心配はあるにせよ、まあ阿良々木先輩ならば、少なくとも火憐ちゃん達を泣かせるようなことだけはすまい。
そう信じて見守るに留めるのが、凡庸たる私の在り方だろう。
十人並みの私には、これ以上の話は些か荷が重過ぎる。

「そう? とにかくあたし達は大丈夫だよ、今も皆に説明とかしに行こうとしてるところさ」
「あぁそうだったのか、それなら余り長いこと引き留めても申し訳ないな」
「ううん、そんなことないけど。でも駿河さんも用事とかあったんじゃないの? だったらあたしの方こそ申し訳ないっつーか」
「いや、ちょっと買い物に行こうとしていただけだよ、特に用事があった訳でもないから大丈夫だ」
「そっか。じゃー駿河さん、またねー」
「うむ、気をつけてな」

566: ◆/op1LdelRE 2012/03/03(土) 03:01:50.33 ID:eeFMisHk0
 会った時と同じように、元気一杯の笑顔でまた駆け出した火憐ちゃんを見送る。少し複雑な想いを抱きつつ。
もちろんあの人が火憐ちゃん達を泣かせるようなことはしないと信じてはいる。
だが、鳴かせることはあるのかもしれないと思うと……いや、何と表現すればいいのだろうか、この感情は。
不安? 心配? 恐れ? そのどれでもあるような、しかしどれとも違うような。
あるいはそれは嫉妬や懸想なのかもしれない。何とも身の程を弁えぬことに。
やれやれ、私もまだまだ修行不足なのだなと、そう痛感せざるを得ない。

 いずれにせよ、私如きがあれこれ悩んだ所で、それこそ詮無き事か。
きっと阿良々木先輩なら、最も正解に近い選択をされることだろう。
ならば、どんな選択であれ、私はただそれを是とするのみだ。

 火憐ちゃんの背中があっという間に小さくなり、やがて視界から完全にその姿を消してしまう。
それを確認してから、私も改めて歩き出す。
戦場ヶ原先輩も苦労するなあとか、そんな埒も無いことを考えながら。

616: ◆/op1LdelRE 2012/03/18(日) 23:47:54.31 ID:MJE7qopq0
 ex.2

「あ、撫子ちゃん、久しぶりー」

 陽が傾き始める少し前、一人で街を歩いていた時のことです。
ふと名前を呼ばれて振り返ると、月火ちゃんが笑顔で手を振っていました。
阿良々木月火ちゃん。撫子にとっては小学生の頃からのお友達。そして暦お兄ちゃんの妹さんでもあります。

 撫子と目が合うと、月火ちゃんはぱたぱたと駆け寄ってきました。
きっと毎日が充実しているのでしょう、その満面の笑みには一点の曇りさえありません。
いや本当に、撫子からすれば眩しい限りです。
まあ決して羨ましいという訳でもありませんが。

617: ◆/op1LdelRE 2012/03/18(日) 23:50:30.40 ID:MJE7qopq0
「こんにちは、月火ちゃん」

 何はさておき、挨拶は忘れずに。
礼儀は大切です。渡世に欠かせない処世術です。

「こんにちは、撫子ちゃん、お出かけ?」
「うん、ちょっとお買い物。お母さんに頼まれちゃって」
「あ、じゃあ目的地は一緒かな。商店街。私も買い物なんだー、夕御飯の準備で」

 そう言って手に持った鞄を持ちあげてみせる月火ちゃん。
それは普段の可愛いバッグなんかではなく、本当にお母さんのお買い物用鞄のような、飾りっ気も洒落っ気も全く無い実用性重視のもの。
何でしょう、撫子も今まさに同じようなものを持っていますので、それでこう言ってしまうのも変な気分なのですが、どことなく違和感があります。
いつもお洒落に余念の無い月火ちゃんだけに、こういう所帯染みた感じの小道具は、びっくりするくらい似合いません。
まるで間違い探しのサービス問題みたいな感じです。
撫子と同じで家のお手伝いなんでしょうか?
それにしては楽しそうというか嬉しそうというか、少なくとも渋々買い物に来ている撫子とは全然違う気分のようです。

618: ◆/op1LdelRE 2012/03/18(日) 23:54:25.97 ID:MJE7qopq0
 挨拶を終えて、折角だから一緒に行こっかと言われたので、並んで歩き始めます。
断る理由もありませんしね。
もちろん無言で歩いているわけではなく、普通にお喋りしながらの道行。
まあ静かに大人しくしている月火ちゃんなんて、撫子には想像できませんが。
というか、多分誰にもできないでしょう。
ファイヤーシスターズとしての活動を例として挙げるまでもなく、本当に行動力というのか実行力というのか、とにかくそういうのが一般的な中学生と比べ物にならない位に桁外れなんですよね。
南船北馬東奔西走の日々っていうのは私の為にある言葉だよ、とは本人の弁ですが、そんな過剰な表現もあながち的外れではないかもしれないと思えてしまう位に。
一人だけ倍速モードというか、一度のターンで二回も三回も行動できるキャラというか。
大魔王もびっくりです。それこそもう月火ちゃんなら、カイザーフェニックスとか使えても撫子は驚きませんよ……いえ、もちろん冗談ですけど。

 まあそれはともかく、そんな月火ちゃんだから、買い物に行く道すがらでも当然沈黙なんてしていられるわけもなく。
なので、あんまり人との会話が得意じゃない撫子ですけど、それに付き合わない訳にはいきません。
もちろん月火ちゃんとお話するのが嫌ということはないですよ、ただ時々ついていけなくなるというだけのことです。
そしてこの日も何となく、そんな予感はしていました。

620: ◆/op1LdelRE 2012/03/19(月) 00:01:20.52 ID:TRue0X0z0
「ふーん、じゃあ撫子ちゃんは家のお手伝いなんだ、偉いねー」
「ううん、撫子は別に……でも、月火ちゃんもそうなんだよね?」
「違うよ、私は好きでやってるんだもん」
「それをお手伝いって言うんじゃないの?」
「いやいや、ぶっちゃけちゃうと、お兄ちゃんに私の料理を食べさせる為だけにやってることだからねぇ」
「……」
「お兄ちゃんに私の料理の味を覚えさせる為だけにやってることだからねぇ」
「どうして言い直したの?」

 というか、そんなことぶっちゃけないで下さい。
そんな情報を撫子に伝えて、月火ちゃんは一体どうしたいのでしょうか?
もしかして突っ込み待ちなのでしょうか? だとしたら明らかに人選を間違えていますよ。
いえ、人選以上に多分もっと間違えていることが他にあると思いますので、敢えてそこにだけ突っ込むのもどうかとは思いますが。
難しいところです。
これが暦お兄ちゃんなら、きっともっと的確に適切に突っ込めるのでしょうけれど。
今ここにいてくれないことが実に悔やまれます。えぇ色々な意味で。

622: ◆/op1LdelRE 2012/03/19(月) 00:05:52.57 ID:TRue0X0z0
「まあまあまあ、だからほら、私のはどっちかっていうと実益重視なんだよ。お手伝いとかじゃなくて」

 にっこり笑顔の月火ちゃんですが、今はその笑みの意味がちょっと怖いです。
何故ここで実益という単語を使いますか? それで月火ちゃんにどんな利益が?
驚くべきことに、説明を受ければ受ける程に疑問が増えていってます。
相変わらず、いつまで経っても、どれ程話しても、月火ちゃんの思考は全然読めるようになれません。
嗜好は割と分かり易い子なんですけどね。

「そ、それで月火ちゃん、今日は何を作るつもりなの?」
「んー、実はまだ決まってなくてさ、お店で決めようと思ってるんだけど。何がいいかなぁ」
「そうなんだ、大変だね」
「ちなみに撫子ちゃんはお料理とかしないの?」
「し、しないよ」

623: ◆/op1LdelRE 2012/03/19(月) 00:09:55.51 ID:TRue0X0z0
 もっとも正確には、しないではなくやりたくないと答えるべきなのでしょう。
出来なくはないんですよ、一応。
レシピとかは覚えてませんけど、本とかを見ながらなら多分それなりに作れるとは思います。
だけど、どうしてもしなきゃいけない時以外は、あんまり台所に立ちたくありません。
できれば撫子は食べる専門で行きたいのです。
大体お母さんの方が美味しく作れるのに、どうしてわざわざ撫子に作る必要があるでしょうか?

「お料理覚えたらいいのに。結構楽しいよ?」
「う、うん、そうかもだけど、でも覚えることとか多いし、しんどそうだし、撫子はいいよ」
「勿体ないなぁ、お料理覚えたら色々捗るのに。ほら、男は胃袋をつかめ、とか言うじゃない」
「そ、そうなの?」
「もちろん。お兄ちゃんもそうだし」
「……」

624: ◆/op1LdelRE 2012/03/19(月) 00:16:22.77 ID:TRue0X0z0
 自信満々に胸を張ってみせる月火ちゃん。
つかんだんでしょうか? 実体験からの話なんでしょうか?
撫子には分かりません。というか分かりたくありません。
あまり赤裸々に語り過ぎないでくれると嬉しいんですが。

「撫子ちゃんがお料理作ってあげたら、きっとお兄ちゃん喜ぶと思うけどなぁ」
「そんなことないよ、きっと」
「まぁ無理にするようなことでもないんだけどね。楽しくやれなきゃ、結局長続きしないんだし」
「そ、そうだね――ちなみに月火ちゃん、暦お兄ちゃんの好きな食べ物って何なのかな?」

 これ以上この話は続いてほしくないので、何とか話を変えようと頑張ってみます。
できれば頑張りたくないんですけど、でもこれ以上話が続いて月火ちゃんがその気になっても困ります。
その気になった月火ちゃんを止めることは誰にもできません。
もうその瞬間から、撫子の趣味が半強制的にお料理にされてしまいます。
それは割と本気で勘弁してほしいです。

625: ◆/op1LdelRE 2012/03/19(月) 00:23:25.09 ID:TRue0X0z0
 ではありますが、暦お兄ちゃんにお料理を作ってあげるというのは、確かにありかもしれませんね。
そういうアプローチはした事がありませんし、何だかとってもそれらしいイベントでもありますし。
まあ暦お兄ちゃんが好きな食べ物というのは、知っておいて損をするような情報でもないでしょう。
咄嗟の質問でしたが、撫子にしてはファインプレーだったかも。

「お兄ちゃんの好きな食べ物?」
「う、うん、あんまり好き嫌いとかは無さそうだけど」
「あー、確かにそういうのは無いかも。出されたら何でも食べるって人だし」
「やっぱりそうなんだ」
「でもまあ強いて言うならあれだね、私の作った料理全般が好きってことになるかな」
「……」

626: ◆/op1LdelRE 2012/03/19(月) 00:29:51.72 ID:TRue0X0z0
 絶句するのも何度目でしょうか。
参りました。ファインプレーどころか、とんだ失策だったようです。
今、本当に何の迷いも躊躇いも無く言い切りましたよ、この子。
それにしても凄い自信です。その自信がどこから来るのか分かりません。
というか、月火ちゃんが一体どこに行こうとしているのかが分かりません。
分からないことだらけです。

「お兄ちゃんが好きな料理だから私が作るんじゃないんだよ、私が作る料理だからお兄ちゃんが好きなんだよ」

 いえ、そんなことを撫子に言われましても。
物凄く良いことを言った風ですけど、正直意味が不明過ぎます。
もしかしてのろけですか? まさか当て付けなんですか?

627: ◆/op1LdelRE 2012/03/19(月) 00:34:14.45 ID:TRue0X0z0
 何でしょう、ちょっと心がもやもやします。
すっきりしない気分といいますか。
もちろんそれを表に出したり口に出したりはしませんが。
だって、そんなことしたら月火ちゃんに何をされるか分かったものじゃないですからね。
基本的には良い子なんですけど、怒ると本当に怖いんですよ。
友達だからといって容赦してくれるような子じゃないんです。
ある意味では平等ということなのかもしれませんけど。

 とにかくです。
もしこの子を敵に回してしまったら、冗談じゃなく撫子はこの街で生活できなくなるでしょう。
そうなったらもう逃げるしかなくなります。
夜逃げです。逃避行です。暦お兄ちゃんと一緒に、車で夜明けの大脱走です。
……おや、それはそれで、もしかしたらありかもしれませんね。
何か映画のワンシーンみたいな感じで、ちょっと素敵かも。

628: ◆/op1LdelRE 2012/03/19(月) 00:37:59.99 ID:TRue0X0z0
「ん? 今何か変なこと考えなかった?」
「う、ううん、全然何も考えてないよ。暦お兄ちゃんのことなんて全然。ちっとも」
「そうなの? なんか今ちょっといらっときたんだけど、気のせいかな?」
「そ、それより! 火憐さんはどうしてるのかな!?」

 鋭いです。いつものことながら鋭過ぎます。
暦お兄ちゃんが絡むと、どうしてこうもキャラが変わってしまうんでしょう?
月火ちゃんのブラコンは今に始まったことじゃないとはいえ、それでも以前はここまでじゃなかったと思うんですけど。
もしかして最近何かあったんでしょうか? 暦お兄ちゃんへの心情に変化が生じるような何かが。
それこそ撫子が経験したような、怪異に遭うような驚愕の出来事があったとか。
あり得る話です。まさか暦お兄ちゃんみたいに内に怪異を取り込んでるようなことはないでしょうけど、あれだけ縦横無尽に暴れ回っていれば、怪異の一つや二つと出くわしてもおかしくない気もしますし。

629: ◆/op1LdelRE 2012/03/19(月) 00:42:29.01 ID:TRue0X0z0
「火憐ちゃん? 今は皆の所に謝りにっていうか説明に行ってたはずだけど。あ、喧嘩のことなら大丈夫だよ、もうちゃんと仲直りしてるから」
「そ、そっか、良かった」
「うん、心配かけちゃってごめんね。ていうか火憐ちゃんが迷惑かけたみたいだし、お兄ちゃんが面倒かけたみたいだし。何だったら二人にも撫子ちゃんの所に謝りに来させようか?」
「い、いいよそんなの。二人が仲直りしてくれたなら、それで十分だから」
「そう? 火憐ちゃんはともかく、お兄ちゃんは全然反省足りてないし、何かお仕置きしておいてもいいんだよ?」
「べ、別に暦お兄ちゃんは悪いことなんてしてないよ?」
「私に隠れて黙って動いてたって時点で十分アウトだね。ていうか何故まず私に頼らないのって話だよ。おまけに撫子ちゃんは巻き込んじゃうとかさ。ホント信じらんない」
「そ、そんなことないんだけど……」

 暦お兄ちゃんは別に撫子を巻き込もうとはしてませんでしたが。
というか、むしろ遠ざけようとしてたんですが。
けれどもはや、そんなことは言っても無駄のようです。
聞いてくれる気配が全然ありません。

630: ◆/op1LdelRE 2012/03/19(月) 00:47:30.62 ID:TRue0X0z0
 まあ月火ちゃん的には、前段の方が重要なのでしょう。
結局暦お兄ちゃんと火憐さんの二人だけで解決させたという話ですし、一人だけ蚊帳の外みたいな、そういう疎外感のようなものがあったのかもしれません。
気付けば、月火ちゃんがちょっと怒ってるみたいな気配です。
これはちょっと良くないかもしれません、暦お兄ちゃんにピンチが迫っています。

「まあだから罰として、お兄ちゃんが隠してる○○○な本、全部処分してやったんだけど」
「……」

 案外ピンチでもありませんでした。
いえ、暦お兄ちゃん的にはどうか分かりませんけどね。
もしかしたら物凄くショックを受けるかもしれません。

631: ◆/op1LdelRE 2012/03/19(月) 00:51:40.90 ID:TRue0X0z0
 というかまず、どうして月火ちゃんが暦お兄ちゃんの、その、そういう本の場所を把握してるんでしょうか?
まさか逐一チェックしてるとか? 何の為に?
正直なところ、暦お兄ちゃんの趣味よりもそっちの方が気になるんですが。
そんな撫子の気持ちを置いてけぼりに、月火ちゃんのテンションは上がる一方です。

「○○モノとか万死に値する! 私達への当て付けか!」
「その突っ込みもどうかと思う……」
「どうしてあと四年待てない!?」
「何でそんなに具体的なの?」

 どういう突っ込みなのでしょう。
もしかして、四年待ったらどうなるのか聞かないと駄目ですか? 誰をライバル視してるの、とか。
撫子にそんなリアクションを求めるのは止めてほしいんですが。

632: ◆/op1LdelRE 2012/03/19(月) 00:56:14.27 ID:TRue0X0z0
 それにしても、そうですか、暦お兄ちゃんは大きいのが好みなんですね。
確かに、羽川さんを見る時の目は明らかにそっちを追ってましたよ、そう言えば。
ふと自分の胸元に手を当ててみます……空しくなるのですぐに止めましたが。

「で、腹立ったから代わりに妹モノの本を置いといてやったの。どうなるか楽しみだね」
「いや、それはちょっと……」

 楽しみというか怖いです。
もちろん暦お兄ちゃん以上に月火ちゃんが。
一体何を予期しての行動なんですか。

 既にドン引きの撫子をまたしても置き去りに、月火ちゃんはまだぷんぷんと怒っていました。
この位の怒りなら可愛いものなんですが、この子は何を切っ掛けに爆発するか全然予想できませんので、撫子としてはびくびくせざるを得ません。
火薬庫の傍で火遊びしている気分です。あるいは手榴弾でお手玉してる気分といいますか。

633: ◆/op1LdelRE 2012/03/19(月) 01:00:02.48 ID:TRue0X0z0
「大体欲求不満ならまず私達に言えばいいじゃんって話だよ。素直に言ってくれれば私達だって無下にはしないのにさあ」
「そ、それは駄目なんじゃないかな……恋人とかなら、その、ともかくとしても」
「まあ確かに私達は別にお兄ちゃんに恋してるわけじゃないけどさ」
「で、でしょ?」

 正直ちょっと、いえ、かなり疑わしいんですけどね。
引っ込み思案な撫子でさえ突っ込みを思案する程に、空々しいというのか白々しいというのか。
もちろんそんなこと口にはできませんが。

「恋じゃなくて愛だし」
「……」

 自信満々というか喜色満面というか。何だかもういっそ誇らしげですらあるような笑顔で言う月火ちゃん。
これはもう駄目かもしれません。その、色々と。
撫子の十四年の人生の中で、これ程までに手遅れという言葉を口にしたかった瞬間は記憶に無いです。

634: ◆/op1LdelRE 2012/03/19(月) 01:04:13.31 ID:TRue0X0z0
「どうでもいいけどさ、恋と愛だと愛の方が綺麗に聞こえるのに、恋人と愛人だと全く逆だよね。日本語ってどうしてこう一々やらしいのかな?」
「それは本当にどうでもいいよ」

 平然と泰然と悠然としている月火ちゃんですが。
そんなことよりも、もっと気にすべき事が他にあるでしょう。
月火ちゃんは一体どこまで行ってしまってるんですか?
いえ、この場合むしろ暦お兄ちゃんがどこまで行ってるのか、の方が問題かもしれません。撫子にとっては。

「あ、誤解しないでね、愛って言ってもあれだよ、要するに家族愛ってやつだから」
「そ、そうなんだ」
「うん、ほら、旦那と嫁みたいな」
「……ごめん、月火ちゃんが何を言ってるのか分かんないよ」

 誤解どころか正解じゃないでしょうか。ホールインワン賞です。ちっとも嬉しくありませんが。
いやもう曲解のしようもありませんし、まず理解もできません。
どうやら弁解するつもりはさらさら無いようです。
失言ですら無かったという事実が一番驚きでした。
月火ちゃんは、撫子に一体何を伝えたいのでしょうか?

635: ◆/op1LdelRE 2012/03/19(月) 01:10:12.77 ID:TRue0X0z0
「まあ要するに、だから撫子ちゃんも頑張らないとねってことだよ」
「え? そんな話だったの?」
「何だったら私も協力してあげるし。今回迷惑かけちゃったお詫びってわけじゃないけどさ、撫子ちゃんが望むなら強力に協力しちゃうよ」
「別にそんな、協力とかはしてくれなくてもいいんだけど」
「遠慮しないでいいって、あ、良かったらお兄ちゃん貸してあげようか」
「か、貸す?」
「うん、オプションで、危険の無いように両手両足拘束した状態で引き渡してもいいよ」
「それされたら、多分撫子捕まっちゃうよね」
「うーん、まぁその可能性も無きにしも非ずかな」
「きっと暦お兄ちゃんを目一杯愛でてるところで、お巡りさんに踏み込まれてお縄にされちゃうんだ」
「あ、それでもやることはやるんだね」

636: ◆/op1LdelRE 2012/03/19(月) 01:13:45.99 ID:TRue0X0z0
 いえまあ正直魅力的な提案であることは確かなので。
暦お兄ちゃんは何もできない状態で、撫子が一方的に好きに出来るというシチュエーションは、中々心にくるものがあります。
今日初めてのときめきです。
何だかんだと優しいんですけど、いつもは全然撫子の期待通りに動いてはくれない人ですから。

 あ、いえ、もちろん本気ではないですよ、あくまでも冗談です。
なので、ここで月火ちゃんに本気になられても困りますし、否定はしておかないといけませんね。
もちろん未練なんて微塵もありませんよ。いえ本当に。

「も、もちろん冗談だよ」
「ふーん、欲無いね、撫子ちゃん」

 いえ、良くないでしょう、さすがに。
そこで不思議そうな顔をされましても。
もちろん撫子にも欲くらいありますよ。それはもう色々と。

637: ◆/op1LdelRE 2012/03/19(月) 01:18:34.25 ID:TRue0X0z0
「ていうか月火ちゃん、まさか本当に暦お兄ちゃんを拘束とかしてたりしないよね?」
「まあ滅多にはしないかな」
「したことあるんだ」
「うん、体調悪いのに家飛び出そうとした時とか」
「あ、そういう時」

 なるほど、と思います。
やり過ぎかもしれませんけど、暦お兄ちゃんはそうでもしないときっと止まってくれないでしょうし。
こればっかりは、身体の調子が悪い時でも大人しくできない暦お兄ちゃんの方にも問題があると思います。
もちろん誰かを助けるというのは良い事ではあるんですけど、それも時と場合によります。
全く、人に優し過ぎるというのも善し悪しですよ。

638: ◆/op1LdelRE 2012/03/19(月) 01:21:24.69 ID:TRue0X0z0
「まあそれでなくても危ないってのは事実だしねえ」
「危ない? 何が?」
「いやいや、撫子ちゃんはお兄ちゃんの危なさを理解してないかもしれないけど、あの人はホント油断してるとすぐ悪さするからね」
「悪さなんてしてないと思うけど」

 こっちを指差しながら言う月火ちゃんですが、撫子としてはそれに少し気圧されながらも、さすがに首を傾げずにはいられません。
悪さどころか、むしろ善いことをしてるじゃないですか、いつも。
撫子もそうですけど、暦お兄ちゃんに助けてもらった人なんてたくさんいるでしょう。
そのことは、誰よりもまず月火ちゃんがよく知っているのでは?

639: ◆/op1LdelRE 2012/03/19(月) 01:27:44.32 ID:TRue0X0z0
「そうじゃなくってさ。ていうか聞いてよ撫子ちゃん、ホント朝とかひどいんだって、目が覚めたら私達の胸掴んでたりするんだよ、たまに。寝惚けてる癖にピンポイントで。いくらお兄ちゃんと私達の間柄だって限度があるっていうかさあ」
「む、胸!?」
「そ。あれはもはや本能だね。というか煩悩? ある意味では才能かも。何せ気が付いたら鷲掴みにされてたりするもん」
「鷲掴み!?」
「ホントお兄ちゃんの胸への執着は只事じゃないよ。あれを野放しにしたら、一体どれだけの女子中学生が犠牲になることか……」
「あれ? 女子中学生限定なの?」
「まあだから私達が体を張って止めてるみたいなところがあるんだよ。この街の平和の為に。全く、これは涙無しでは語れないね。もうこのエピソードだけで映画が一本作れるレベルだよ。本当にプラチナむかつくったら」
「……」

 そのネタで映画を作ったら、プラチナむかつく前に発禁になってしまうでしょう。それこそ下手したら罰金じゃ済みません。
いやでも衝撃的な話でした。
危険です。危険過ぎます。
暦お兄ちゃんの挙動とかじゃなくて、まず月火ちゃんの思考が。

640: ◆/op1LdelRE 2012/03/19(月) 01:34:49.62 ID:TRue0X0z0
 というか、そんな軽い感じで聞いてよとか言われましても。
正直そういう聞き方をするのでしたら、こっちが返事するまで待ってほしいところなんですが。
あれですね、これならいっそ暦お兄ちゃんをいつも縛ってるって方が、まだしも健全な話だったかもしれません。

 それにしても、もしかして一緒に寝てるんですか? いつも。今の言い方だと。
まあ毎朝暦お兄ちゃんを起こしているとは聞いていましたけど。
何でしょう、それだとむしろ月火ちゃん達の方が誘惑しているように思えるんですが、撫子の気のせいでしょうか。

 本当にもう突っ込みどころが多過ぎて、全てがどうでもよくなってきますね。
撫子にはどうにも荷が勝ちすぎです。まるで勝てる気がしません。
勝負する気になんてなりませんけど。

641: ◆/op1LdelRE 2012/03/19(月) 01:39:59.21 ID:TRue0X0z0
「んー、よし、今日は天ぷらにしよう」
「え? いつの間にそんな話に?」
「ちょっとした連想だよ。じゃあ撫子ちゃん、私あそこのお店でキス買ってくるから。また明日学校で会おうね」
「う、うん、また明日」

 そう言って笑顔で手を振ると、そのまま身を翻して魚屋さんの方へたーっと駆け出す月火ちゃん。
撫子はというと、ただもう色々とついていけないまま、茫然とそれを見送るのみでした。

 連想? 何から何を? 今、月火ちゃんの中で誰と誰が何のシーンを演じていたの?
……いえ、これ以上考えるのは止めておきましょうか。
精神衛生上とてもよろしくないです。
聞かなかったことにするのが一番いいはずです、きっと。

 思えば、この程度(?)のことで一々驚いてたら身が持ちません。
月火ちゃんのブラコンが重症化したとか、そんなの今更ですしね。
どこまで本気かは分かりませんが、まあ流してしまうことにしましょう。

642: ◆/op1LdelRE 2012/03/19(月) 01:43:16.76 ID:TRue0X0z0
 気がつけば結構な時間が経っていました。
撫子もいつまでもぼーっとしている訳にもいきません。
斬新過ぎる情報が多過ぎて、頭の片隅に追いやられてしまってはいますが、一応頼まれたお買い物がありますので。
渡されたメモを取り出して、目的のお店へと足を向けます。

 歩きながら考えるのは、暦お兄ちゃんのこと。
月火ちゃんの衝撃発言に触発された訳でもないですけど。
何か新しいアプローチをしてみようかなと、そんなことを思います。
もうちょっとくらいこの恋を楽しんでみても、きっと罰は当たりませんよね。

 撫子にしては珍しく前向きな気持ちです。
まあ差し当たっては、お母さんに頼まれた用事を終わらせるのが先ですけど。
少しだけ早足で、気持ちは前に。
まずは明日、暦お兄ちゃんに電話してみようかな。

686: ◆/op1LdelRE 2012/04/07(土) 20:51:45.28 ID:W98hVobQ0
 ex.3

「お、翼さん、いらっしゃーい」
「こんにちは、火憐ちゃん」
「うん、こんにちはー。さーさーもう上がってよ上がっちゃってよ上がりまくっちゃってよ。いやー待ちかねたぜー、ていうかあたしってば待ちかね過ぎて待ちくたびれ過ぎちゃってさー、何ならもう迎えに行っちゃうところだったよ。危ねー危ねー」
「そうなんだ、ごめんね待たせちゃって、じゃあお邪魔します」
「何だよ水くせーなー翼さん、もっと気楽に気軽に気安く気兼ねなく上がってくれていいのにさあ。つーかお邪魔なんかじゃないよ、そんなんあり得ねえって、古今東西津々浦々どこを探したって翼さんが邪魔になる所なんてあるわけねーじゃん。ああもう断言してもいいね。むしろただいまって言ってくれてもいいくらいなのに」

 訪れた玄関先で軽やかに私を迎えてくれたのは、阿良々木火憐ちゃん。
いつも元気一杯で笑顔を絶やさない、天真爛漫を体現したかのような女の子だ。
阿良々木くんはよく火憐ちゃんのことを男前だとか女子力が低いとか言っているけれど、どうしてどうして、明るく元気なその笑顔は実にチャーミングでとても女の子らしいと思う。
少なくとも、私には到底できそうにない表情だ。実に羨ましい限り。いや本当に。

 会って早々、いつも通りにやや過剰とすら思える歓待をしてくれたけれど、しかしこれが全く嫌味にならず、むしろ嬉しく思えてくるのだから凄い。
この立て板に水な喋りにしてもそうだけど、やはり阿良々木くんと兄妹なんだなと変なところで感心する。

687: ◆/op1LdelRE 2012/04/07(土) 20:56:36.44 ID:W98hVobQ0
 さて、どうして私――羽川翼が、今こうして阿良々木家の敷居を跨ごうとしているのかというと、特に自発的な理由があるわけでもなく、別に能動的な根拠があるわけでもなく、実に単純な話、お呼ばれしてそれを受諾したが故だ。
臆面もなく言ってしまえば、阿良々木家に訪問できる理由を与えられたことに浮かれてのこのこやってきたということになってしまうだろうか。
客観的にはまあ、そう捉えられてしまっても仕方がないとは思う。

 とは言え、である。
私を今日呼んでくれたのは阿良々木月火ちゃんであり、決してお兄ちゃんであるところの『彼』ではない。
なので、ここで浮いた気持ちになるというのも、いい加減無理があるという気もする。
というか、安上がりだという方が近いか。
要は彼の居場所に自分がいることができるだけで、事程左様に心持ちが変わってくるのだから。
我ながら現金だと思わずにはおれない。

 もちろん、火憐ちゃんと月火ちゃんに会うことを楽しみにしていたのも間違いなく事実だけれど。
二人共とても良い子だし、一緒にいて楽しいし、阿良々木くんのことが無くてもそれは変わらない。
阿良々木くんが私にとって特別であるように、彼女達もまた大切な友人だと思っているのだから。

688: ◆/op1LdelRE 2012/04/07(土) 21:01:01.08 ID:W98hVobQ0
 閑話休題。
急かされるように(というか火憐ちゃんはもう私の背中を押し始めていた)、靴を脱いで玄関に上がった。
と、そこで忘れない内にと手土産のお菓子を渡すことにする。まあ、尚も私の背を押さんとしていた彼女の手を止めたい意図もあったけど。
色々な意味で期待通りに、火憐ちゃんはびっくりした表情で動きを止めてくれる。

「わ、お土産なんていいのに。つーかあたし達が呼んだんだから、むしろこっちが歓待しなきゃなんないのにさあ」
「いいのいいの、そんな値の張るものじゃないし、良かったら皆で食べてね」
「うん、ありがとう、翼さん!」

 嬉しそうに言う火憐ちゃん。
花の咲く様な、とはこういう笑顔をいうのだろう。
ここまで喜んでくれると、渡したこちらの方が嬉しくなってくるというものだ。

689: ◆/op1LdelRE 2012/04/07(土) 21:06:39.29 ID:W98hVobQ0
「あ、そーだ翼さん、今ちょっと月火ちゃんと準備中なんだけどさ、もうちょっと時間かかりそうなんだ。あたしも手伝わなきゃだし、ごめんだけど先にあたし達の部屋に行っててもらっていいかな?」
「そうなの? 良かったら手伝うけど」
「いーのいーの、翼さんはお客さんなんだから。あ、何なら兄ちゃんも今部屋にいるし、そっちで遊んでてくれてもいーよー。どうせ暇してんだしさ、兄ちゃん適当に使って暇潰ししててよ」
「そう? じゃあそうしようかな」

 若干気になる言い回しはあったけど、それは敢えて触れずにおいて。
私の返事を聞いてすぐ、火憐ちゃんはリビングの方へと駆け込んで行った。
さらっと放置されたのは、信頼してくれているが故なのだろう。
お客さんと言いつつ、応対は本当に家族のそれに近いなあ、と嬉しいやら恥ずかしいやらだ。

 勝手知ったるなんてとても口にはできないし、見慣れた場所では到底ないけれど。
でも、阿良々木くん達が日々暮らしている家だけに、何故かそこにいるだけで落ち着く様な気がした。
迎えてくれる空気とでも言おうか。
慣れない場所なら普通は落ち着かなくなりそうなものなのに、全くそんなことはなく。
阿良々木家の素晴らしさを改めて想う。

690: ◆/op1LdelRE 2012/04/07(土) 21:13:37.17 ID:W98hVobQ0
 じっとしているのも何なので、階段を進み二階へと向かう。
すぐに阿良々木くんの部屋の扉が見えてくる。
さて、彼は今この中で何をしているのだろうか?
チャイムが鳴っても無反応だったわけだし、もしかしたら今日私が来ることは聞いていないのかもしれない。
あるいは勉強に集中していて、気付かなかったのかも。
だとすると邪魔するのは良くないし、さてどうすべきかなあ。

「……」
「あれ?」

 二階に到達した辺りで、部屋の中から話声が聞こえてくることに気付き、思わず首を傾げる。
火憐ちゃんも月火ちゃんも下にいるはずなのに、一体彼は誰と話をしているのだろう? まさか独り言だったり?

691: ◆/op1LdelRE 2012/04/07(土) 21:23:00.62 ID:W98hVobQ0
「大体お前様は……」
「だからそれは……」

 扉の前まで来て、そこで阿良々木くんの会話の相手が忍ちゃんだと判明し、更にもう一度首を傾げてしまう。
聞いた話では、彼女は吸血鬼であるが故にか基本的には夜行性であり、昼間は眠っているはずなんだけど。
それがこうして起きていて、何やら阿良々木くんと言い合っているというのは、さてどうしたことだろう。
またぞろ何かトラブルがあったのだろうか? 私の知らない所でまた何か厄介事でも抱えているとか?
まさかと言いたいところだが、彼の場合は普通にそれがあり得てしまうから困るのだ。

 なので、盗み聞きは良くないとは思いつつも、つい聞き耳を立ててしまう自分を止められなかった。
しかも部屋の扉の前、いつでもノックできるような(要するに言い訳可能な)体勢で。
どうも私は阿良々木くんの家に来るとお行儀が悪くなる気がするなあ。

692: ◆/op1LdelRE 2012/04/07(土) 21:31:08.96 ID:W98hVobQ0
「ちゅーかお前様よ、明け方近くになり、さてそろそろ寝ようかと思うとるところで尻を撫で回される感触を味わう儂の気持ちも考えてみい」

 耳を澄ました瞬間、もうそれを狙い澄ましていたんじゃないかというようなタイミングで、忍ちゃんのそんな残念な発言が飛び込んできた。
もちろん声をかけるつもりなんて元より無かったわけだけど、改めて言葉を失ってしまう。
全く状況が分からない。というかあまり分かりたくないというのが本音かもしれない。

 いやはや、阿良々木くんは一体忍ちゃんのお尻に何をしているんだろう。
今朝この部屋で一体何があったのか――これ以上聞いていると、それはもう残念極まりないエピソードが詳らかになる予感がひしひしとしてくる。
私としては、もう割とこの時点で聞き耳を立てていた事を後悔し始めていたのだが、しかしその直感は些か遅い。
既に賽は投げられてしまっている。
これはもしかしたら、お行儀の悪い真似をした罰なのかもしれない。
果たして誰に対しての罰なのかは、正直微妙なラインだと思うけれど。
そうして私が硬直している間も、何とも残念なことにそんな残念な会話は続いていた。

693: ◆/op1LdelRE 2012/04/07(土) 21:38:05.12 ID:W98hVobQ0
「いやまあ、それは確かに悪いというか申し訳ないというか……でも、やったのは僕じゃなくて火憐ちゃんと月火ちゃんだし、そもそもその論に立つなら直接の被害者は僕ってことになるし、それで僕を責められてもなあ」
「たわけ、妹御の不始末はお前様の不始末じゃろうが。大体からしてお前様は何を大人しく彼奴らに尻を撫で回されとるんじゃ。またぞろ新しい○○にでも目覚めおったのか?」
「なわけあるか。大体やられっ放しじゃないぞ、今朝だって、ちゃんと仕返しとしてあいつらの尻を思いっきり撫で回してやったんだぜ。お前の味わった屈辱のリベンジだ。まさに江戸の敵を長崎で討つってやつだな」
「何がリベンジじゃ、お前様が楽しんどっただけではないか。あと言葉の意味は分からんが、恐らくその使い方は間違っておる」
「別に楽しんでなんかねえよ。僕はあくまで心を鬼にして反撃しただけだぞ。目には目を、歯には歯を、尻には尻を」
「キメ顔で言うな、うざい。あとお前様の感情はダイレクトに儂に伝わっとるからな、しっかり楽しんどったことは明々白々じゃ。ふん、妹御の尻を撫で回して喜ぶなぞ、本当にお前様は吸血鬼よりもよっぽど鬼じゃのう。変態もここまで極めればいっそ芸に程近いかもしれんが」
「人聞きの悪いことを言うな。まあ冗談はともかくとしてだ、あいつらも寝惚けてやったことだろうし、あんまり責めてやるなって」
「冗談には聞こえんかったぞ。あと儂とて妹御を責めるつもりは毛頭ない、責めを負うべきはお前様だけじゃ」

 うーん、実に突っ込みどころの多い会話だ。というか、それ以上に深入りしたくない話題だ。
何をやっているのと問うべきは、果たして阿良々木くんなのか火憐ちゃん達なのか。
聞けば聞く程謎が深まっていくような気がする。いや実に困ったものだ。

694: ◆/op1LdelRE 2012/04/07(土) 21:48:30.19 ID:W98hVobQ0
 しかしまあ、二人はいつもどういう起こし方をしているんだろう。
阿良々木くんはそれを叩き起こされると表していたけど、何だか随分様子が違うような。
朝も早くから一体どういうコミュニケーションの取り方をしているのだ、彼らは。

 それはさておくにしても、そもそも忍ちゃんがこんなに堂々と表に出て会話なんかしていて良いのだろうか? 階下には火憐ちゃんも月火ちゃんもいるんだけど。
確か忍ちゃんのことは、二人には秘密にしていたという話だったはず。
たまたま上がってきたのが私だったからいいようなものの、そもそも誰かが上がってきているという時点で、声を潜めるなり影を潜めるなりしても良さそうなものなのに。
まさか気付いていないとか? だとしたら、ちょっと無防備過ぎるんじゃないかなあ、阿良々木くんも忍ちゃんも。

 ん? いや違うか。誰かが近づいてくれば、それを忍ちゃんが気付かないわけがないのだ。
とすると、忍ちゃんは分かっていて、というか上がってきているのが私だと気付いていて、だから敢えてはっきりと部屋の外に聞こえる声で喋ったということかな。
そう考えた方が余程しっくりくる。
阿良々木くんはともかく、忍ちゃんがそんな迂闊な真似をするというのも考え難い。
上がってきたのが火憐ちゃんや月火ちゃんだったならば、きっと気付かれる前に隠れていたはずだ。
でなければ、今まで秘密を保持できていようはずもないし。

695: ◆/op1LdelRE 2012/04/07(土) 21:57:53.54 ID:W98hVobQ0
 じゃあ何でそんなことをしたのかとなると、それはきっと最後の台詞の通りなのだろう。
すなわち阿良々木くんへの罰。
というか嫌がらせかな。彼が狼藉を働いたという事実を私に伝えるという。
あるいは単に私達をからかって楽しんでいるだけの可能性もあるけど。
できれば私を巻き込まないでほしいのになあ。
全く、怪異の王様が随分と世俗に染まってしまったものだ。

「あー、うん、分かった分かった。まあ誰が悪いとかは置いといても、お前が気分を害したってのは確かに良くないし、お詫びにミスド連れてってやるからさ、それで許してくれよ」
「ふん、最初から下手な言い訳をせずにそうやって下手に出ておればいいんじゃ」
「何でお前はすぐにそうやって上手に出るんだよ、全く」
「まあしかし、素直になった褒美として、これ以上の暴露話は止めておいてやるとしよう」
「何言ってんだお前、誰が聞いてるわけでなし」
「そう思うか?」
「……おい、まさか?」

696: ◆/op1LdelRE 2012/04/07(土) 22:05:09.40 ID:W98hVobQ0
 ごくり、と息を呑む気配。
ドアの向こうの二人の表情が、もう見なくても伝わってくる。
忍ちゃんはきっといつものように物凄い笑顔をしているんだろうし、阿良々木くんはさぞ引きつった顔をしていることだろう。
これはあれだよね、登場しなさいという合図なんだよね。
嫌だなあ、こういう変な期待をされるのって。
忍ちゃんもホントいい性格してると思う。
まあ彼女も私に言われたくはないだろうけれど。

「……こんにちは、阿良々木くん」

 既に遅きに失したというか、まあ聞き耳を立てていた時点でどうしようもなく礼を失した感はあるけれど、それでも一応今更ながらにノックをしてからゆっくりと扉を開ける。
ベッドに腰掛ける忍ちゃんの加虐的な喜びに満ちた楽しそうな笑みと、勉強机の前の椅子に座る阿良々木くんの被虐的な絶望に満ちた歪んだ笑みが、そんな私を迎えてくれた。
さて、その前に立つ私は一体どんな表情をしているんだろう。

697: ◆/op1LdelRE 2012/04/07(土) 22:13:28.96 ID:W98hVobQ0
「は、羽川!? 何でここに!?」
「今日は月火ちゃんにお呼ばれしたんだ。勉強のことで相談したいことがあるからって」
「そ、そうか、それは何というか、うちの妹が迷惑かけて悪いな」
「ううん、そんなことないよ。それで阿良々木くん、さっきの話なんだけど」
「いや違うぞ羽川! まずは僕の話を聞いてくれ! 誓って僕の行為にやましいところは無い! お前は何か誤解してるかもしれないけど、あくまであれは兄妹間のコミュニケーションであって――」
「うん、まあここから一体どんな理論展開をするのか気にならないでもないけど、とりあえずもういいから。今更私がどうこう言う事でもないだろうし。とにかく度を越しちゃ駄目だからね」
「もちろんだ。安心してくれ。何ならお前のコンタクトレンズに誓ったっていいぜ」
「そこに私を巻き込まないで」

 もちろん常識的に考えれば、もっと色々と言うべきこともあるだろうとは思う。
しかし正直なところ、この私が常識について語るというのも些か滑稽な話だろうし。
深入りしたくないというのも偽らざる本音だけど、まあ忍ちゃんもいることだし、一線を越えるようなことはしないでしょう、さすがに。
怪異の王たる吸血鬼に人間の良心を期待するというのもいい加減おかしな話ではあるが、まあそれもご愛嬌ということで。

698: ◆/op1LdelRE 2012/04/07(土) 22:21:53.81 ID:W98hVobQ0
「おいお前様よ、いつまで委員長とじゃれ合っとるんじゃ、はよう行くぞ」
「お前もホント悪びれねーな。まあ約束したから連れてってやるけどさ」

 全く、とぼやきつつ立ち上がる阿良々木くん。
先程の慌てようは何処へやら、既にいつも通りのテンションだった。
悪びれないというなら、彼も全然負けてないと思う。
良くも悪しくも似た者同士。これもペアリングの効果なのだろうか。

「じゃあ羽川、悪いけど僕ちょっと出てくるよ。ホントあいつらが無茶言って申し訳ないけどさ」
「だからそんなことないって。それよりあんまり羽目を外し過ぎないようにね」
「言われるまでもないさ、僕は羽目を外したことなんて一度も無い」
「まあ常時外れっぱなしじゃからの、そりゃあこの上外れようも無いわ」
「きつい突っ込みすんな」

699: ◆/op1LdelRE 2012/04/07(土) 22:27:15.17 ID:W98hVobQ0
 どうやら忍ちゃんはいつの間にか突っ込みも習熟し始めているらしい。
阿良々木くんと過ごしていれば、その必要性を痛感するのは然もありなんと思うけれど、全く驚嘆すべき順応性の高さだ。
あるいは二人の親和性の高さなのか。
しかしとりあえず少なくとも今、阿良々木くんに忍ちゃんを糾弾する資格はないだろう。

「ふん、まあそういう訳で委員長よ、儂らはミスドに行かねばならんのでな」
「えぇまあ、私もそれを止める気はありませんけど」
「やっぱり止めてくれないのか……」

 視界の隅で阿良々木くんが肩を落としているのは置いといて。
というか先延ばししても仕方ないでしょうに。
約束はちゃんと守りましょう。

700: ◆/op1LdelRE 2012/04/07(土) 22:31:57.12 ID:W98hVobQ0
「殊勝な心構えじゃな、ほれ行くぞ、お前様よ」
「はいはい……」
「いってらっしゃい、二人とも。車に気をつけてね」
「あぁ、羽川に引き留めてもらえない寂しさと、それでも送り出してもらえる喜びと、僕の中で二つの感情がせめぎ合っている……」

 言葉通り複雑な表情を見せる阿良々木くん。
願わくばそんなことで身悶えないでほしい。
本当に、初期の頃のクールキャラは一体どこへ行ってしまったのだろうか。
いやはや、戦場ヶ原さんが嘆くのも無理からぬところだと思う。

701: ◆/op1LdelRE 2012/04/07(土) 22:38:01.54 ID:W98hVobQ0
「あぁそうじゃ委員長よ、念の為に言うておいてやるが、この部屋を家探ししても何も出てこんぞ。我が主殿の秘蔵本とやらは、つい先日妹御に捨てられおったからの」
「マジかよ!? じゃないじゃない! つーか何言ってんだよ忍お前羽川に対してそんな誤解を招く様な事言ってんじゃねえってんだそもそも僕は○○○な本なんて持ってるわけないし仮に持ってたとしてもそんな危ない趣味なんかじゃないしむしろ清く正しく健全でいっそ芸術作品に程近いとも言うべき高尚な嗜好のそれであり」
「阿良々木くん、動揺し過ぎ」

 というか語るに落ちている。
まあ阿良々木くんも男の子だし、逆にそういう本を持っていない方が不健全だろうとは思う、一般的に考えて。
ただとりあえず、清く正しく美しくはない。その言葉の選択はあり得ない。
一応年齢制限というものはあるのだから。
まあ制限速度40キロの標識のように、それこそ現状では有名無実になりかけている嫌いはあるにせよ。

「ちなみにやたら胸を強調した優等生風の眼鏡女子がメインで出ておってな」
「お願い黙って忍!」

702: ◆/op1LdelRE 2012/04/07(土) 22:45:04.13 ID:W98hVobQ0
 もういっそ泣きそうなくらいの勢いで懇願する阿良々木くん。
それに対して心底嬉しそうな忍ちゃん。
そしてちょっと引く私。
詳らかにされてしまった問題の本の題材に関しては聞き流しておこう。というか一刻も早く忘れたい。

「それ以上暴露されたら羽川の中の僕のイメージが! クールで知的な僕のキャラクターが崩壊してしまう!」
「そんなイメージはありません」

 その根拠の無い自信は一体どこから来ているんだろう。
驚いたことに、まだそういうキャラが維持できているつもりだったらしい。あるいはただの意地なのか。
私からすれば、割と早い段階でそういうイメージを崩してくれた記憶しかないんだけどなあ。
それに、彼がそういうキャラじゃなかったからこそ、私達は――
まあそれはともかくとして、もう一つ聞き捨てられないフレーズがあった気がする。

703: ◆/op1LdelRE 2012/04/07(土) 22:54:42.13 ID:W98hVobQ0
「それにしても、捨てられた?」
「うむ、極小の妹御の仕業じゃ。彼奴も随分憤慨しておったの」

 お前知ってたんなら止めろよ、せめて僕に教えろよ、と未練がましく呟いている外野の声は置いておきましょう。
というか、そんなことで泣かないで、お願いだから。
忍ちゃんは、寝ておったお前様が悪い、とつれなく返している。
ここだけ切り取ってみれば、むしろ彼女の方こそクールキャラだった。

「まあ月火ちゃんも中学生だし、そういう本に拒絶反応を示すのも仕方ないかな」
「いや、本の題材が○○だったというのが気に入らんかったらしい」
「怒りを感じるポイントがずれている……」
「そう言えば怒りのままにその本を処分した後、何やら別のものを代わりに隠しておったな。何処ぞの官能小説のようじゃったが」
「気配りのポイントもずれている……」
「――何?」

704: ◆/op1LdelRE 2012/04/07(土) 23:02:11.96 ID:W98hVobQ0
 忍ちゃんの言葉に、阿良々木くんが敏感に反応した。
起こした顔には生気が戻っている。
彼は本当に一体何を期待しているんだろうか。
何だかとっても残念な気持ちになってしまう。

 いや、というかまず月火ちゃんも何を考えてそんなことを?
阿良々木くんのそういう本をわざわざチェックしているのもそうだけど。
それって何だろう、まるで彼の性的嗜好を自分に都合の良い方向に誘導させようとしているみたいな……?
いや止めておこう、これ以上は深入りしない方がいい気がしてならない。
その本のタイトルとか、聞いたら絶対後悔しそうだ。
なので、阿良々木くんの為というわけではないけれど、ここでこの話題は打ち切る事にしておく。
君子でなくとも、危うきには近寄らないのが定石だ。

705: ◆/op1LdelRE 2012/04/07(土) 23:08:50.13 ID:W98hVobQ0
「とにかく、家探しなんてはしたない真似はしないから安心して。ほら、早く行かないと人気商品が無くなっちゃうかもしれないよ?」
「おぉ、如何にもその通りじゃな。我が主殿の○○なんぞを論じておる場合ではなかった。全く、無駄な時間を過ごしてしまったもんじゃ。猛省せいよ」
「ひでぇ、お前のせいで僕がどれだけ傷ついたと思ってんだよ」
「えぇい、四の五の言うとらんで早うせんか。ミスドが儂を待っとるんじゃぞ」
「んなわけあるか」
「勘違いするなよ? 儂がミスドを求めておるのではない、ミスドが儂を求めておるんじゃ」
「いや、明らかに勘違いしてるのはお前だ」

 何かを間違えているような会話だ、とここで私が突っ込むのもお門違いの筋違いか。
文句を言いつつも財布を手に扉の方へ向かう阿良々木くんと、その背を押すように続く忍ちゃん。
見送りというわけではないけれど、私も一応それに続く。
さすがに主のいない部屋にいつまでも居座っていられる程、私の心は図太くはない。
そろそろ二人も上がってくるだろうし、そちらに移動するのが適切だろう。

711: ◆/op1LdelRE 2012/04/08(日) 00:48:41.43 ID:RRMxgA4m0
「じゃあ羽川、もしあいつらが迷惑かけたら言ってくれよ、きっちり叱っとくから」
「あはは、大丈夫だよ、二人とも良い子だもん」
「そう期待したいよ。まあそれじゃ行くか、ほら忍、影に隠れてろ」
「うむ、急げよ、お前様」
「分かってるよ」
「では委員長よ、息災でな」
「この家、何か危険があるんですか?」
「うむ。まあ最大の危険因子は今から外出するわけじゃが」
「お前は一々僕の悪口を言わないと影に入る事もできないのか?」

 呆れたような阿良々木くんの声に、しかし反応を返すことなく、忍ちゃんはその影へと身を沈めて行く。
まるで彼の中へと溶けてゆくかのように。
春休み明けの頃を思えば、表情も豊かになったし私達と会話を交わすようにもなったけど、こういうシーンを見るとやはり違うんだなと思わされる。思い知らされる。
吸血鬼。阿良々木くんとのペアリング。同じ体質同じ現象同じ視点同じ思考。
それが少しだけ羨ましい。

712: ◆/op1LdelRE 2012/04/08(日) 00:54:54.26 ID:RRMxgA4m0
「儂の八面六臂の活動・活躍・活劇は、次回に確と見せてやるから楽しみにしておれ!」
「露骨に番宣しないで下さい」

 姿を消す直前に残された忍ちゃんの捨て台詞に、とりあえず突っ込んでおく。
メタな会話だった。真宵ちゃんでもあるまいに、そういう危ないことは慎んでほしいものだと切に思う。
というかそもそも本当にあるのだろうか? 次回なんて。

「ホントは劇場版のこと言いたかったんだろうなあ」

 成程成程。一応宣伝を遠慮はしてくれていたのか。遠慮のポイントはずれてるけど。
まあそれはさておき、次回作が仮にあったとしても、恐らく八面六臂の活躍というより七転八倒の苦難にしかならないと思う。
しかも忍ちゃんメインと思わせて、月火ちゃんとかが中心だったりするのだ、きっと。
今までの傾向から考えて。

713: ◆/op1LdelRE 2012/04/08(日) 01:01:11.09 ID:RRMxgA4m0
 さてさて、仮定の話はここまでとしておこう。
階下へ歩を進める阿良々木くんを見送って、私も改めて火憐ちゃん達の部屋へと足を向けた。
しかし、元よりそちらへ行くように言われていたわけだけれど、ここに来るまでに随分と時間がかかった気がする。
阿良々木くんの朝の風景もこんな感じなのだろうか?
これでよくぞ遅刻せずに日々学校に通えているものだと思う。
まさかここまで考慮して、火憐ちゃん達は起こす時間を算定しているということなのだろうか。だとすれば見事という他ない。

「あれ、兄ちゃん、どこ行くんだよ」
「ああ火憐ちゃんか、いや、ちょっと買い物にな」
「何だそれ、つーか翼さん来てんのに家を出てくってどういう了見だ? せめてあたしらが上がるまで丁重に敬重にもてなしとけよ。全く使えねえ兄ちゃんだな」
「何言ってやがる。大体招待したのはお前らなんだろうが。そっちこそ客放ったらかしにしてんじゃねえよ」
「ちっちっち、分かってねーなあ、むしろ全力でもてなす為にこそ頑張ってんじゃねーか。まーもう準備終わるからいいけどさ。にしても買い物か。○○○な本とか買ってくんなよ」
「買わねえよ! それならむしろ参考書買ってくるわ!」
「大人の?」
「受験生の!」

714: ◆/op1LdelRE 2012/04/08(日) 01:08:44.68 ID:RRMxgA4m0
 玄関先での兄妹の会話が聞こえてくる。
何ともはや、今更だけど本当に仲の良い兄妹だ。
打てば響くとはこのことか、会話のテンポにまるでよどみが無い。
あらかじめ打ち合わせしたって、他人じゃこうは行かないだろう。
まあ話の内容については聞き流しておくとして。

 それにしても、全力でもてなすって何だろう?
一体どれだけ熱烈な歓待をされてしまうのやら。
いやまあ冗談だとは思うんだけど。
いつもの誇張表現だと思うんだけど。
でも火憐ちゃんの場合、時に冗談のように本音を口にするからなあ。

715: ◆/op1LdelRE 2012/04/08(日) 01:14:09.47 ID:RRMxgA4m0
「まあいいや、とにかく遅くなんない内に帰れよ」
「分かってるよ。お前らも羽川に迷惑かけんじゃねーぞ」
「かけるわけねーだろ、兄ちゃんじゃあるまいし」
「むかつく突っ込みしやがって。とにかく大人しくしてろよ。んで、何か買ってくるもんとかあるか?」
「んにゃ、別にねーよ」
「そうかい。じゃあ行ってくる」
「あ、そだ、行ってらっしゃいのちゅー忘れてた」
「っておい待て! 止めろ! 上には羽川がいるんだぞ!」

 いや、その止め方はおかしい。
論点はそこじゃないはず。
あまりに流れが自然過ぎて、不自然さすら流されてしまいそうだったけど、さすがにこれは無視できない。
いや本当に、果たして今、階下では一体何が起きているんだろう。

716: ◆/op1LdelRE 2012/04/08(日) 01:18:39.20 ID:RRMxgA4m0
「おっと、そうだった。ついいつもの癖で」
「やれやれ、気をつけてくれよ全く……」

 呆れたような声の阿良々木くんだけど、この場合、気をつけるのも全くなのもやれやれなのも、多分彼の方だと思う。
というか、つい? いつも? 癖?
何たる言葉の選択か、これだけで具に状況が見えてきてしまう。
それも出来ればあまり把握したくない類のそれが。

 しかし、どうやら彼らの距離はまた一段と縮まってしまっているらしい。
零距離すらも時間の問題だったりするのだろうか。いや、そんなの時間以前に問題外だけど。
にしても、近くにいるはずの月火ちゃんが何も言わないところから判断するに、きっと彼女も“そう”なんだろうなあ。

717: ◆/op1LdelRE 2012/04/08(日) 01:26:18.11 ID:RRMxgA4m0
「しゃーねーな、ここは黙って見送ることにするぜ」
「最初からそうしててくれ」

 扉の開く音。
ここでようやく阿良々木くんの外出の許可が下りたようだ。
いやはや、それにしても妹達が中々外に出してくれないという常日頃からの彼のぼやきは、どうやら揺るぎなく真実だったらしい。
それにしても、仲良き事は美しき哉とはいうけれど、常に倫理と戦い続けている彼らの現状を指してそう表するのは、果たしてどうなんだろう。
止めも止まりもしない現状、せめて脱線だけは避けてほしいものだけれど。

 とはいえ、あれだけ大っぴらで明け透けにされていると、逆にまだそこまでの関係ではないと考えることもできるかな(この言い方もいい加減おかしな気はするが)。
もし何がしかの決定的な出来事があったとすれば、まず阿良々木くんがそれを表に出さず隠し通せるとは思えないし。
もちろん土俵際一杯での粘り腰に過ぎないかもしれないので、決して楽観はできないにしろ。
まあ要観察というところだろう。
どちらにしても、私には手の施しようなんてないわけで。
ただただ安寧を祈るのみである。

718: ◆/op1LdelRE 2012/04/08(日) 01:29:04.59 ID:RRMxgA4m0
「火憐ちゃーん、運ぶの手伝ってー」
「任せろ!」

 遠く聞こえる月火ちゃんの声で、私も気を取り直す。
どうやら思いの外、私も動揺していたらしい。
いけないいけない。
ここは大人しく部屋で二人を待つことにしよう。

719: ◆/op1LdelRE 2012/04/08(日) 01:33:50.18 ID:RRMxgA4m0
「羽川さん、こんにちは。遅くなってごめんなさい」
「翼さんお待たせー」

 程なくして、二人が両手一杯にお盆を持って上がってきた。
二人とも手が塞がっているけれど、どうやら器用にも足で扉を開けたらしい。
それでも揺らがないバランス感覚は褒めて上げたいところだけど――

「こんにちは月火ちゃん、お邪魔してるよ。あと火憐ちゃん、両手が塞がってるのは分かるけど、足で扉を開けるのはちょっとお行儀が悪いかな」
「え? そうなの? あたしいつも兄ちゃんの部屋の扉は足で開けてるけど」
「火憐ちゃんはいっつもそうだよね」
「……うん、まあこれから直していったらいいと思うよ」

 そう言えば阿良々木くんの部屋のドアノブ、やけにぐらついてるとは思ったけど、まさかそれも火憐ちゃんのせいなのだろうか?
いやでも、この部屋のそれはそこまでガタが来てはいなかったはず。
同じ条件にしては、傷み具合の差が大き過ぎるような気が。
まさか阿良々木くんの部屋の扉だけは蹴り開けてるとか、そんなわけでもあるまいし。

720: ◆/op1LdelRE 2012/04/08(日) 01:40:14.23 ID:RRMxgA4m0
 閑話休題。
とりあえず適当にお茶を濁しつつ、三人で円になるように座ることにする。
目の前に色とりどりなお菓子の数々が並び、まずはゆっくりご歓談ということらしい。
よく見ると、出来合いのものだけじゃなく、明らかに手作りのものがあったりして、成程大した手の込みようだった。
それはそれで素敵なことなんだけど、確かお勉強のことで相談があるという話だったのでは?

「それで月火ちゃん、今日の本題だけど。お勉強の話だったよね」
「あ、そうそう」

 さてさて、それからお菓子を頂くこと暫し、私が相談のことについて切り出すと、月火ちゃんはぽんと手を叩いて返してきた。
まさか忘れてたわけでもないだろうけど……どうなのかなあ、ちょっと表情から判断するのは難しい。
ただ、どうやら火憐ちゃんの方は明らかに忘れていたみたいだ。
それはもう明々白々に表情に出てしまっている。
まず取り繕う気すらないらしい。
この子はきっとカードゲームとか弱いだろうなあ。

721: ◆/op1LdelRE 2012/04/08(日) 01:48:22.41 ID:RRMxgA4m0
「それで、何かトラブルでもあったの? お勉強を教えてほしいとか?」
「いえいえ、そんなまさか。ていうかお兄ちゃんを教えてもらってるだけで十分過ぎるくらい迷惑かけてるのに、この上更に火憐ちゃんまでなんて考えてないよー」

 笑顔で手を振って否定する月火ちゃん。
まあ阿良々木くんも、二人とも成績は優秀だって(身贔屓はあるにせよ)言ってたし、その必要がないというのは納得かな。
にしても、この子おっとりしてるように見えて、実は物凄くプライドが高いんだよね。
自分の学力に問題があると思われるのが余程心外らしく、間髪入れない即座の否定だった。
その際に、さりげなく火憐ちゃんの学力に疑問を呈するような物言いになっていた気がしたんだけど――まあこれは置いておこう。

「まさか進路関係の相談? 栂の木高校以外への進学を考えてたりするとか」
「ううん、違うよ。そりゃお兄ちゃんがいる間に行けるんなら直江津高校もありかなって思うけど、もう卒業しちゃうし」

 いや、さすがにその理由はどうかと思う。
少なくとも進路を決定する為の根拠としては些か弱い。あるいは怖い。
できれば『違うよ』の時点で言葉を止めておいてほしかった。
それにしても、この子も段々隠さなくなってきてるなあ。

722: ◆/op1LdelRE 2012/04/08(日) 01:56:08.25 ID:RRMxgA4m0
「じゃあ何の相談なのかな?」
「そんな相談っていう程大したことじゃないんだけど。ちょっとお兄ちゃんの学力がどうなのかなって聞きたくて」
「阿良々木くんの学力? それって受験の合格判定みたいなのを知りたいってこと?」
「そうそう。お兄ちゃんに聞いても全然要領得ないんだよ、任せろとか適当なことばっか言ってさ。幾つか受験するみたいなんだけど、実際どの大学に行けそうか、客観的な意見が聞きたくて。それによって私達も色々と考えなきゃだし」
「直接聞いたの?」
「うん、ベッドで」
「ベッド……?」
「ベッドで一緒に寝ながら」
「いや、そこまで聞いてないんだけど」

 もう一度聞き直したら、より決定的な単語が飛び出しそうな気がしたので、これ以上は追及しないでおく。
しかしこの二人、隠そうとしないというよりも、むしろ知らしめようとしているんじゃないだろうか。いやまさかだけど。
何を枕に、何を肴に、寝物語は展開しているのか――土俵際一杯で踏み止まっている今の状況も、そう長くは続かないのかもしれない。
実に由々しき事態だ。当人達がそう認識していない辺りが特に。

723: ◆/op1LdelRE 2012/04/08(日) 02:04:44.74 ID:RRMxgA4m0
「ま、まあそれはともかく、じゃあ阿良々木くんの進路についての心配なんだ」
「その通りだぜ翼さん。だって兄ちゃんこの時期になってもあれだからさー、何かトラブルがある度に首突っ込んでやがるし、全く受験生の自覚がねーっつーか。ホント堪ったもんじゃねーよ」
「こないだのは火憐ちゃんのせいでもあるんだけどね」
「う、それを言われると……」

 月火ちゃんの突っ込みで言葉に詰まる火憐ちゃん。
何とまあ、また私の知らない所で厄介事があったとは。
果たしてトラブルが彼を呼ぶのか、彼がトラブルを呼ぶのか。
ちょっと目を離したらすぐこれだもの。
身内からすれば堪ったものじゃないだろう、確かに。
全く、二人が中々外に出してくれないといつもぼやく阿良々木くんだけど、文句を言うより先に、彼はまず自分自身の言動を真摯に振り返るべきだと切に思う。

724: ◆/op1LdelRE 2012/04/08(日) 02:11:23.93 ID:RRMxgA4m0
 もっとも、じとーっとした目の月火ちゃんと不自然に視線を逸らしている火憐ちゃんの様子からして、今話題になっているのは、夏休みに中学生の間で流行った例のおまじないの時のように、二人を助ける為の行動だったみたいだけど。
何かしら中学生の間でトラブルが起こって、その解決に火憐ちゃんが乗り出して、そこで更に厄介な問題が発生して、と展開していったのだろう。
阿良々木くんが首を突っ込んだということは、それは怪異絡みの問題だったということか。
大過なく片付いたみたいなので、それはまだいいにしても……まさかこの短期間で再びそんなことになっていようとは。
正しく不幸中の幸いとはよく言ったものだと思う。

「まあまあ。でも阿良々木くんの学力なら大分上がってるよ。この調子で頑張れば、第一志望も合格できるんじゃないかな」
「ホントに? 慰めとかは不要だぜ?」
「ホントホント。むしろ心配すべきなのは学校の卒業の方かも。出席日数にあんまり余裕ないからね、いつかみたいに学校をさぼるようなことはもうしないとは思ってるけど――」
「あー、そっちは確かに心配だな」
「心配だね、それで留年とかなったら悲惨だよ」

 頷き合う火憐ちゃんと月火ちゃん。息ぴったりだ。
阿良々木くんの生活態度については、この二人の方がよく分かってるわけだし、やはり懸念していたことらしい。

725: ◆/op1LdelRE 2012/04/08(日) 02:17:56.19 ID:RRMxgA4m0
「そんなんなったらあれだな、あたしが直江津高校に進学するしかねーよな」
「いや、それは違うと思う」
「羽川さんの言うとおりだよ火憐ちゃん、お兄ちゃんに留年させないことが第一なんだから」
「ああそっか、わりーわりー、つい願望が出ちまった」
「それなら私達が飛び級する方向で考えないと」
「いやいや、それはもっと違うから」

 自信満々に言う月火ちゃんだけど、日本でそれは実に難しい。
そもそも、飛び級が可能な大学も限られてるわけだし。
というかまず目指す動機が斜め上過ぎる。
どれ程自由な校風の学校でも、それはさすがに理解は得られまい。
いや得られてしまっても困るけど。

726: ◆/op1LdelRE 2012/04/08(日) 02:25:28.90 ID:RRMxgA4m0
「そういや飛び級ってマンガとかでよくあるけどさ、学年を超えるんなら飛び年って方が正しいんじゃねえの? 飛び級じゃクラス超えるだけに聞こえるぜ。一組から三組に移るみたいな」
「でもそれだと飛ばれたクラスは腹立つよね、うちのクラスに何の不満があるのよって。クラス間戦争勃発の危機だよ」
「いやいや、飛び級は『等級』を飛び越えるって意味だから。ほら、上の学年に進むのを進級って言うでしょ」
「おーそういうことか。さすがは翼さんだ、謎が一つ解けたぜ」

 ぽんと手を打つ火憐ちゃんだが、まず等級以前に話が飛び過ぎである。
こういうところは阿良々木くんと話している時と同じだ。油断したら話がすぐに逸れていくんだから。
正しく血は争えないと思う。

「とにかく私達が頑張るべきは、お兄ちゃんをしっかりと学校に通わせることなんだね」
「まあそういうことになるかな、頑張るのは阿良々木くんだけど」
「えらい低い目標だな……」

 ぼそっと酷いことを言う火憐ちゃん。
まあ私もそれは同感なんだけど。
けれど実際、一番心配なのはそこなのだから、これは仕方がないだろう。

727: ◆/op1LdelRE 2012/04/08(日) 02:31:02.64 ID:RRMxgA4m0
「でも第一志望に合格する可能性が高いんなら、私達の懸念事項も片付いたと考えていいかな。あそこ割と家から近いし」
「だな、もちろんこれからもちゃんと勉強してくんねーと駄目だろうけど」
「そんなに心配なの?」
「うん、あんまり遠いと通うの大変だし」
「……ちなみに彼が家を出るという可能性は?」
「皆無だよ」
「絶無だぜ」

 そして私は絶句する。
まあ彼が下宿するなんて、きっと親以上にこの二人が許してくれないだろうと予想はしてたけど。
しかし改めて実際に聞かされてしまうと、言葉も何もないものだ。

728: ◆/op1LdelRE 2012/04/08(日) 02:36:54.87 ID:RRMxgA4m0
 もっとも、その辺の事は阿良々木家の中の問題なわけで、そこに部外者たる私が嘴を挟む道理なんてあろうはずもない。
それにこれだけ自信満々な様子から考えて、既に彼らの間では解決済みのようだし。
きっと三人仲良く喧嘩して、そういう結論に至ったのだろう。
まさか戦場ヶ原さんよろしくこの部屋にでも拉致監禁して、忍ちゃんに文句を言われながら説得・納得したわけでもないでしょうし。

「まあ、あたしらと兄ちゃんは死が分かつまで一緒にいる関係だしな」
「その表現はどうかと思うよ」

 危ない表現だ。いやこの場合は放言というべきか。
確かに兄妹という関係は命ある限り途絶えるものじゃないかもしれないけど。どうもニュアンスがそれと異なっている気がしてならない。
本当にこのまま兄妹の範疇であり続けてくれるのか、些か不安になってきてしまう。

729: ◆/op1LdelRE 2012/04/08(日) 02:45:54.06 ID:RRMxgA4m0
「でも翼さん、あたしたまに思うんだよ、現実として兄ちゃんとあたしらが一緒になれないんなら、そりゃあむしろこの世界の方が間違ってんじゃねーのかって」
「さすがにその発想は危険過ぎる!」

 何? ちょっと待って、まさか三人が義理の兄妹だったとかいうオチはないよね? ここにきてそんなまさか。
いや、ここまで外見から内面から似通っている義理の家族なんて、そうそうあるはずもないけど。
そんな源氏物語じゃあるまいし――という言い回しこそ洒落になってないなあ。

 ん? でも改めてよく考えてみると、今の彼は厳密には人と同一ではないわけで。
もちろん今も昔も阿良々木暦という存在は、消えず変わらずあり続けているけれど、しかしその精神面に変容はなくとも、肉体面の変容を否定することはできない。
何しろ彼は、春休みに一度完全な吸血鬼の眷属となってしまい、今はある程度戻ったとはいえ、それでもその不死性を確かにその身に残しているのだから。
つまり、彼の中には吸血鬼としての因子――言ってみれば本来の阿良々木暦にはない性質が、根源から組み込まれてしまっているのだ。
それが大げさに言って彼の遺伝情報の書き換えにまで及んでいるのだとすれば(吸血鬼は遺伝するらしいし)――社会学的にはともかく、生物学的には彼らの関係性の進展を否認できなくなってしまうかもしれない。

730: ◆/op1LdelRE 2012/04/08(日) 02:52:04.26 ID:RRMxgA4m0
 って何を考えちゃってるの!? 私は! この推論こそ危な過ぎるでしょう!
いや本当に、これは間違っても阿良々木くん達の耳に入れてはいけない仮定だ。
検証もしていないような、それこそ推論どころか暴論とでもいうべき内容だけど、可能性がゼロじゃないというだけでもう論外である。
そんな可能性を知ってしまえば、今だってぎりぎりのところでどうにか踏み止まっているような彼らの背中を一押ししてしまうことになりかねない。
そう考えると、彼が自身の変容を火憐ちゃん達に打ち明ける気がないというのは、実に僥倖だと思う。
願わくば、ずっとそうであってほしいものだ。
しかし万が一この仮定が正しいとすると、火憐ちゃん達の阿良々木くんへの思慕の念に論理的な説明がつくことになり、ある意味では健全さの証左にもなるんだけど……いや何とも悩ましい。

「どしたの? 翼さん」
「ううん、何でもないよ。とにかくまあ阿良々木くんのことなら大丈夫、もちろん私も出来る限り協力していくつもりだよ」
「うん、本当にありがとう羽川さん。迷惑ばっかりかけちゃうけど、これからもお兄ちゃんのお勉強のこと、よろしくお願いしますね」
「そんなに改まらなくっても大丈夫だよ。阿良々木くんは私の大事なお友達だからね」

731: ◆/op1LdelRE 2012/04/08(日) 02:57:14.53 ID:RRMxgA4m0
 ぺこりと頭を下げる月火ちゃんに、こちらの方が恐縮してしまう。
若干その方向性は気になるものの、実に兄思いな妹さんである。

「あとはまあ、モチベーションが下がらないように適当に発破掛けてこっか」
「兄ちゃん爆発させんのか!?」
「じゃなくて、激励するってことだからね」
「何だそうか。でも兄ちゃんのやる気を出させる方法ねえ。何がいいんだろうな。欲しいもんとかあれば話は早いけどさ」
「難しいね、お兄ちゃんあれで割と物欲無いから」

 コントのようなやり取りを経て考え込む火憐ちゃんと月火ちゃん。
しかし言われてみれば、確かに彼の部屋にはあまり物が置かれていなかったような気がする。
彼が愛着を持っている物と言えば、いつも使っている自転車くらいしか思いつかない。
とは言え、物でなくともそういう激励が彼のやる気を出させる一助にはなるはずだ。

732: ◆/op1LdelRE 2012/04/08(日) 03:04:31.16 ID:RRMxgA4m0
「一度直接聞いてみたらどう? 何か欲しいものがないかって。そういうご褒美でモチベーションも高まるんじゃないかな。前に受験に合格したら何でも一つ言うこと聞いてあげるって言ったら、阿良々木くん凄い発奮してたし」
「な、何だって!? 翼さん、何て危険なことを!」
「全くだよ羽川さん! そんな無謀で軽率な真似をするなんて! らしくないよ! ていうかそれは発奮じゃなくて発情だから!」

 わなわなと震えながら、揃って青い顔になる火憐ちゃんと月火ちゃん。
そんな、この世の終わりみたいな表情しなくても。
しかし随分な言われ様だった。
この二人の阿良々木くんに対する信頼度は思った以上に低いらしい。というか発情って。

「そんなん兄ちゃんに言ったら、ぜってー○○いことされるに決まってるじゃん! あたしらみたいに! いやもう間違いねーよ、翼さんの○○○○狙われてるよ――くそ、許せねー!」
「あの○○○○魔人め! 私達だけじゃ飽き足らず、よもや羽川さんにまでその魔手を伸ばそうとしてるのか! 断じて許すまじ! あの触手へし折ってやる!」
「ちょっと待って、いやホント色々待って」

733: ◆/op1LdelRE 2012/04/08(日) 03:09:46.39 ID:RRMxgA4m0
 何だろう、今さり気なく決定的な言葉が飛び出してしまった気がする。
全くもう論理の飛躍というのか倫理の飛越というのか。
私は果たして何から突っ込んだらいいんだろう。
というか、激情にかられる前にまず私の話をちゃんと聞いてほしい。あるいは何も聞かせないでほしい。

 しかし既にエンジンがかかってしまったのか、二人の顔は一転してもう赤く染まってしまっていた。
図らずも望まずも、ファイヤーシスターズの何かに火を着けてしまったようだ。
それがどんな感情によるものかはさておき。

「いや何も言わなくていいぜ、大丈夫だ翼さん。心配すんな。翼さんの○○○○は絶対にあたしらが守るから」
「そうだよ、お兄ちゃんなんかに羽川さんの○○○○は指一本触れさせないから。ファイヤーシスターズが体を張って止めてみせるよ」
「あんまり○○○○とか連呼しないで」

734: ◆/op1LdelRE 2012/04/08(日) 03:14:44.98 ID:RRMxgA4m0
 立ち上がり拳を握り締める火憐ちゃんと月火ちゃん。
瞳の中がメラメラと燃えていて、完全にやる気になってしまっている。
というか私の貞操より、まずモラルとかマナーとか秩序とか節度とか、そういう所を優先して守るようにしてほしい。是非に。

 しかし、兄思いの二人にヒントをあげたつもりが、あに図らんや制裁の動機を与えてしまおうとは。
これは春休みの時の事は、本当に間違っても話せないなあ。
それこそ私にまでその累が及んでしまうかもしれない。
やはり言わぬが吉だろう、誰にとっても。

「とりあえず、兄ちゃんのお仕置きは後でじっくり考えようぜ、月火ちゃん」
「そうだね火憐ちゃん、ここは徹底的に思い知らせてやらないと」
「……勉強に支障が無い程度にしてあげてね」

735: ◆/op1LdelRE 2012/04/08(日) 03:20:01.96 ID:RRMxgA4m0
 決意を新たにする二人に、一応釘を刺してみる。効果の程は疑わしいけれど。
まあそこは阿良々木くんに頑張ってもらうことにしようか。
半分以上は彼の自業自得でもあるわけだし。
あるいは自縄自縛という方が適切かもしれないが。
本当に、彼ほど綺麗に華麗に墓穴を掘る人間も珍しいと思う。
もしかして苦境に陥る事を楽しんでいたりするのだろうか。

 そんなことを考えている内に、二人は阿良々木くんに対する文句とか愚痴とかを口々にぶちぶちとぼやき始める。
彼がいないのを良いことに、実に言いたい放題だ。
よく戦場ヶ原さんと同じ話題で盛り上がったりする私が言えたものでもないけれど。

 そうして飽きることも尽きることも果てることもないお喋りをしている内に、どうやらかなりの時間が経過したらしく。
玄関の開く音と、帰宅を知らせる彼の声が小さく響く。
その瞬間、敏感に反応する二人。
何とも鋭敏な感覚だ。流石と言う他ない。

736: ◆/op1LdelRE 2012/04/08(日) 03:26:05.12 ID:RRMxgA4m0
「帰ってきやがったぜ、月火ちゃん」
「帰ってきやがったね、火憐ちゃん」

 すっくと立ち上がり、ちらと視線を合わせ、確と頷き合う。
言葉も呼吸も意志も気持ちもぴったりだ。
一瞬の静止の後、弾かれたように二人は部屋を飛び出した。
これは私も追いかけなきゃ駄目なんだろうなあ、と。
そんなことを考えながら、ゆっくり立ち上がり、二人の後に続くことにする。

 廊下に出ると、早くも階下では騒がしいやり取りが始まっていた。
それを耳にして、自然と笑みが浮かんでくるのが自分でよく分かる。
色々と心配があったり不安があったりもするけれど、結局、傍で見ているのが一番楽しいのだ。
そこに自分もいられる喜びを噛み締めつつ、階段を下りる。
さて、彼のちょっと悲惨な姿をお披露目してしまうのはさすがに可哀想だし、今回はここで幕引きとさせて頂こう。

737: ◆/op1LdelRE 2012/04/08(日) 03:30:13.36 ID:RRMxgA4m0
ということでオマケ話③でした。
とりあえずバサ姉語り部は撫子とはまた別の意味で難しいことに気付きました。
頭の良い人の思考を想像するのは困難だ……
まあいい経験できたしファイヤーシスターズも忍さまも書けたし、それなりに満足でしたけど。
すいません、とりあえず寝ます。
また明日にでも。では。