2: ◆3feiQFueVc 2012/12/26(水) 12:12:58.57 ID:nzTAcqmZo
萩原雪歩

幽華仰月 自由律
『遥か空にまろぶ君へ』

---

「お兄さまァ……お兄さまァ……私です……あなたの許嫁です……」

 壁を叩きながら、向こうで目を覚ましたお兄さまに声をかけます。
 お兄さまは、私のことを覚えていないというのです。
 私は髪を振り乱し、首に痣を巻きつけて、照明の下、嗄れた声を張り上げました。



 第二回目の公演も無事に終わり、みなさんに挨拶をして、楽屋に戻ってくると、鏡の前に、ちょん、と、小さな鉢植えが置かれていました。『祝 萩原雪歩様』。差出人の名前はありません。小さな鈴なりの、下を向いた、白に近い淡い紫の花。アキチョウジだと思います。
 嬉しくなって、でもすぐに申し訳なく思いました。お礼をしたいな、と思ったのです。わざわざ公演中に楽屋に届くということは、多分関係者の人だから、スタッフに訊いてみれば何かわかるかも。

引用元: 雪歩「たかゆきはよ。はよ」 

 

3: ◆3feiQFueVc 2012/12/26(水) 12:14:01.33 ID:nzTAcqmZo

 ……思った通りでした。案外早く、送り主は判明し、それからというもの、なんだかどきどきしてたまりません。舞台に立ったときのような高揚が、足元にふわふわとした感覚を伴って、私の血を上へ上へと押し流していきます。

「四条さん……」

 思っていたより、声が弾んでしまいました。恥ずかしい……です。

「はい?」
「えっ」
「ああ、雪歩」

プロデューサーと、四条さんでした。楽屋からすぐの廊下で、立ち話をしていたようです。

「お疲れさまです、萩原雪歩……素晴らしい舞台でした」
「ありがとうございます。今日は、どうして?」
「無論……あなたの舞台を、観るためですよ」

 嬉しい。その怜悧な優しい眼が、私の姿を、照明の白色の輪に浮かぶ私を見ていてくれたなんて。どうして気付けなかったのでしょう。

4: ◆3feiQFueVc 2012/12/26(水) 12:19:09.40 ID:nzTAcqmZo


「花だけお渡しして、すぐに帰るつもりだったのですが。プロデューサーにつかまってしまいました」

 ふふふ、と笑います。プロデューサーは憮然とした顔で立ってますけど。照れくさいのでしょう。

「プロデューサー。ありがとうございます」
「勘違いしないように。土産物の安全確認は業務ですので」
「はい」

 社用車で、四条さんと一緒に事務所に戻ります。私と四条さんは並んで後部座席。膝に、鉢植えを抱えて、花と、四条さんの横顔を、交互に見つめます。気づかれないように。
 頬杖をついて、憂うように外を見ていた四条さんの顔は、街灯を受けて、周期的に光と影とが色合いを変え、長い睫毛が、まるで銀細工のようです。
 あ、眼があった。

5: ◆3feiQFueVc 2012/12/26(水) 12:20:00.89 ID:nzTAcqmZo

「……」

 四条さんは、何も言わず、にこ、と微笑むと、また窓の外に視線を戻してしまいました。
 私は頬が熱くなるのを自覚しながら、膝上に視線を落とし、それから、事務所に着くまで、誰も話はしませんでした。不思議と、居心地は悪くなかったんですけれど。

 私は、四条さんのことが好きなんでしょうか?
 そんなことを、近頃考えます。
 凛とした佇まいも、女性の美しさを湛えた体躯も、その行動が『四条貴音だから』の一言で理由づけされてしまう風格も、私がありたいと思い、そうあれなかった姿のようで、出会ってすぐ、私は憧れのような感情に突き動かされて、四条さんに惹かれていったのでした。

6: ◆3feiQFueVc 2012/12/26(水) 12:20:55.04 ID:nzTAcqmZo

「雪歩、お湯沸いてるよ」
「あっ、……うん、ありがとう」

 美希ちゃんに言われて、しゅんしゅんと蒸気を上げ続けるやかんの火を止めます。プロデューサーにはしょうがの擦りおろしとはちみつを入れた紅茶。四条さんと、私と、美希ちゃんと、小鳥さんに、緑茶。私たちのを淹れる前に、プロデューサーに持っていきます。どうせ、少し冷まさないといけないから。

「プロデューサー、お茶です。どうぞ」
「ああ……ありがとうございます」

 給湯室に戻ると、美希ちゃんが立ちあがって、私の前でくい、と頭を下げました。背中に腕を回して、斜め下から上目づかいをする、美希ちゃんお得意のポーズ。

「珍しいね、考え事?」
「珍しいって……」
「お茶淹れてる時にぼーっとするなんて、珍しいかも」
「ああ、そういう」

7: ◆3feiQFueVc 2012/12/26(水) 12:21:37.67 ID:nzTAcqmZo

 少し、相談してみようかな、と思ったのだけれど、何を訊けばいいのかわからなくて、曖昧に笑い、一口香を差し出しました。お盆から一つつまみあげて、立ったままぱくっ、と齧りつきます。行儀が悪い、なんて言われそうだけれど、そんな言葉よりもまず、美味しそう、なんて思ってしまう。彼女には、そんな魅力がありました。

「雪歩」
「はい、四条さん。ちょっと待っててくださいね」

 給湯室の扉の向こうから、ひょこ、と顔を出して四条さんが私を呼びます。柳眉が下がって、困った風な表情なのは、おなかがすいているのでしょう。それが微笑ましくて、くすり、と、小さく笑いました。
 湯呑も急須も十分に温まり、お湯も程よく冷えました。みんなの分のお茶を持って、私も談話スペースのソファに腰をおろします。美希ちゃんは、給湯室からここまでの間にもう一つ一口香を食べてしまうと、私の向かいに転がって、すぐに寝息を立て始めました。四条さんが隣にやってきて、「頂きます」と、へそ菓子をつまみ上げ、折りたたんだ懐紙の上に置くと、一口、お茶を含みます。

8: ◆3feiQFueVc 2012/12/26(水) 12:22:03.66 ID:nzTAcqmZo
 こくん、喉が動くのに、多分、私は見とれていました。

「正月菓子ですね」
「頂き物なんです。少し、余っちゃいそうだったので」

 もう、冬も終わります。

9: ◆3feiQFueVc 2012/12/26(水) 12:22:37.09 ID:nzTAcqmZo

「これよりレッスンの時代です」

 半期に一度の、定例ライブが近付いて、レッスン内容が基礎力から本番形式に変わってくると、トレーナーさんと一緒に、プロデューサーが付き添うことが多くなりました。
 プロデューサーの一風変わった演出に美希ちゃんが大ウケして、律子さんなんかは初めこそ困っていたようですけれど、そのやり方で結果がついてきているのだから、と、最近では大分協力的になってくれているみたいです。
 開幕とトリに、名実ともにこのプロダクションのツートップ、春香ちゃんと千早ちゃんを据えて、全員が入れ替わり立ち替わり、数組のペアと、一曲オールスターを挟む、二時間以上の長丁場です。観客動員数はアンダー八千人という、余りにも大きな仕事。
 そのライブに際して、プロデューサーが私に一つの曲を手渡しました。

「これは……」
「経験上、すこし面倒なことになる場合がある。経験上ですが。私個人はそういう下界のことには興味はないのだが、浮足立って仕事に手が付かないようなら、その考え事はライブの後までしまいこんでおきなさい」
「……はい」

10: ◆3feiQFueVc 2012/12/26(水) 12:24:32.20 ID:nzTAcqmZo

 それから、私を傷つけないように、と、何重にも言葉を重ねてくれました。確かに、この思慕の情に、最近の私はとらわれすぎていたのです。プロデューサーは、仕事のために、という言葉で、どつぼにはまってしまいそうな私をとりあえず掬いあげてくれたのでしょう。

「仕事場は……タブー」

 仮音源の入ったマイクロSDをプレイヤに入れて、談話スペースのソファで聴いてみます。曲調は……ロック。メタルでもパンクでもないロックのようでした。

「これ、Bパートがある……」
「じゃあそれ、ミキがいれてあげる」
「美希ちゃんが?」
「今回新譜出すの、雪歩とあずさだけなの。あずさは千早さんとハモるみたいだし、ね?」
「うん、ありがとう。じゃあプロデューサーに聞いてみないと」
「プロデューサーさんなら問題ないの。バカコーラスじゃないならだれが録ってもいいって言うと思うな」
「そうかなあ」
「そうなの。場合によっちゃバカコーラスも誰でもいいのかもしれないの。そのかわり、雪歩はミキのオーロラ、一緒にステージ出てね」

11: ◆3feiQFueVc 2012/12/26(水) 12:25:06.27 ID:nzTAcqmZo

 美希ちゃんは言うだけ言って、ころんとソファで眠りはじめます。
 セパレートの向こうで、あずささんと律子さんが新曲のミュージッククリップの話をしているのが聞こえてきました。

「あずささんは、余りにも喪服が似合いすぎるんです」
「あらあら」
「未亡人系アイドルなんです。毎日お墓参りに行くタイプの」
「あの、律子さん?」
「なので、逆に今度の曲では、あずささん。あなたが死んでみませんか」
「律子さん、律子さん?」

 どうなるのでしょう。プレイヤはカードの曲が終わったことを示す画面のまま、首にかけたヘッドフォンからは何も聞こえません。早春、あるいは晩冬、窓から差し込む柔らかな日差しは温かくて、なんだか眠く……――

12: ◆3feiQFueVc 2012/12/26(水) 12:25:37.60 ID:nzTAcqmZo

「雪歩、雪歩」

 誰かが私を呼んでいます。きれいなメゾソプラノ。あたたかくって、やわらかくって、ずっとここでこうして、その声に包まれていたい。

「雪歩、日が暮れてしまいますよ」
「ぴっ」

 自分が今どこにいるのか、ゆめうつつのまま知覚して、慌てて飛び起きます。

「ど、どうして、四条さんに膝枕されて……て?」
「最近少し、考え事をしていたようですから、起こすのも忍びなく」
「でも、なんで、その、膝……」
「だめでしたか?」

 眉を下げて、困った顔。私は、そんな顔をさせたいわけじゃないのに。
 ちょっと恥ずかしくて、本当にただ、理由がわからないだけなのに。
 うたたねしていた私を、四条さんが、脚に乗せて頭をなでてくれていた理由が、わからない。

13: ◆3feiQFueVc 2012/12/26(水) 12:26:42.82 ID:nzTAcqmZo

「いやじゃ、ないです」

 でもどうして、と、もう一度続けることはできませんでした。
 四月末のライブまで、あと二月ないくらい。
 さようなら、と挨拶をして。「貴女の髪は、柔らかいですね」と後ろから掛けられた声に、顔が熱くなって、振り向かないままコートを被って飛び出してしまいます。

14: ◆3feiQFueVc 2012/12/26(水) 12:27:08.91 ID:nzTAcqmZo

「夜空は曇天……シチューの泡、雲のみどろが……」

 隠喩のような歌詞を、口ずさみます。
 恥ずかしい、とは違う。照れくさい、わけでもなかった。
 怖い? そんなわけありません。でも、そう表すのが一番近い気がするのです。
 不思議……そう、不思議でした。
 不思議なものは、怖いのです。
 男の人は、わかりません。知らないからです。私が女だからです。
 プロデューサーも男の人ですけれど、あの人は、男の人とか女の人とかの前に、今はもう、プロデューサーです。初めのほうは怖かったですけれど。
 犬は怖いです。わからないからです。知らないからです。私が人だからです。けものは言葉を話しません。響ちゃんはそんなこと無いって言うけれど。
 牙が、眼が、毛並みが、骨格が、爪が、肉球が、かかとが、鼻が、ひげが、理解できません。

15: ◆3feiQFueVc 2012/12/26(水) 12:27:43.59 ID:nzTAcqmZo

 四条さんは……不思議な人です。
 不思議な人が近くて、私は、恐怖に似た感情を抱き、そのことにひどく狼狽しました。
 四条さんは、もっと、だれからも遠い、そんな風に思っていたのです。きっと、それは、私の憧れが、勝手に作り上げた四条さんで、四条さんは、もっと、きっと……。

「……よし」

16: ◆3feiQFueVc 2012/12/26(水) 12:28:10.11 ID:nzTAcqmZo

 翌日は、私は午後から仮録、四条さんはインタビュー記事一枠だけ。この日を逃せばチャンスはありません。
 タイミングを見計らって、茶器を片づけ、月刊ラーメンなる謎の情報誌に読みふける四条さんの隣に座ります。

「しっ、し、しし四条さんっ」
「はい」
「…………ど、どうぞっ!」

 下を向いて、膝に手を突っ張って、何を『どうぞ』だというのでしょうか。四条さんも、首を傾げ、「あの……?」と、怪訝な表情です。私は首を振るい、脚を手でぺしぺしと叩きました。

「あのっ、昨日の、その、」

 少し思案した四条さんは、「ああ」と得心したような声を漏らし、隣に座ってくれました。ふわり、と、ほのかにウィステリアの香りが揺らぎます。

「よいのですか」
「はいっ、お願いします」
「では、失礼して」

17: ◆3feiQFueVc 2012/12/26(水) 12:31:10.94 ID:nzTAcqmZo

 ころん。身長の高い四条さんは、真横に倒れるようにして私の脚に頭を乗せて。思っていたよりも頭蓋は重く、豊かな銀色の髪が流れては、絡みつきます。少し身じろぎして、形のいい頭をおなかに抱きかかえるように収めます。

「……」

 何か、呟いたようでした。恐る恐る、毛先に滑らせるようにした手を咎める声はなく、私は安心して、きしみも引っかかりもないすべやかな銀紗の髪に、柔らかな丸みを帯びる頭に、手のひらを、指先を、段々と大胆に、触れさせていきました。

「四条さんは、どうして、……私を」
「…………」

 応えはなく、沈黙が下ります。
 手を止めて、指先で髪をくるくるともてあそびます。やわらかい。
 四条さんが、少し行儀悪く、肘掛に長い脚を投げ出して、私を見上げて仰向けになりました。

18: ◆3feiQFueVc 2012/12/26(水) 12:32:19.46 ID:nzTAcqmZo


「あの」
「……雪歩」

 私の、何を問うでもない問いは、小さく、小さく、息を吐くような囁き声で、力を無くします。

「萩原、雪歩」
「四条、さん……?」

 下から、たおやかな指が、温かな手が、伸びて、頬に触れる。
 まるで世界が小さくなるような、ぜんぶぜんぶ落ちていくような。
 四条さんの瞳の中に落ちていくような。
 貴女の頬は磁器のように白くシルクのように甘く、弾ける直前の柘榴のように瑞々しく。
 その瞳に映る、うかされたような陶然とした表情の私が、近づいて、近づいて、

19: ◆3feiQFueVc 2012/12/26(水) 12:32:58.78 ID:nzTAcqmZo

 事務所のドアの開く音で、一気に世界が発破を食らいます。

「おかえり、春香ちゃん」
「ただいま、雪歩。貴音さんと何してるの?」
「うん……うーん、何だろう」

 春香ちゃんは、えー、何それ。なんて言って笑ったけれど、私には、本当に今まで何をしていたのか、それを表す言葉がわからなかったのです。

20: ◆3feiQFueVc 2012/12/26(水) 13:04:48.37 ID:nzTAcqmZo



『あゝ 窓に あゝ オーロラ
 眼を見張れ今は 夜が歌うとき』

『祈るなら今は 願いは叶うと』

 美希ちゃんとのステージデュオ、コーラスの件は、美希ちゃんの言った通りあっさりと採用されました。私の出番は、全員で歌う曲と、新譜と、美希ちゃんとのコンビです。
 ライブ当日、千早ちゃんの伸びやかな声が緞帳を上げ暗闇を裂き、開幕を告げます。

『巡る日々に 相応しく
 キミの声は 隠されて』

 会場にサイレンが響き渡り、歓声とスモークとともに春香ちゃんと千早ちゃんがステージに現れました。

「お仕事、お仕事」

 集中しろ私、とつぶやきます。

21: ◆3feiQFueVc 2012/12/26(水) 13:05:21.14 ID:nzTAcqmZo

『サイレン uh- 時が止まるよ
 サイレン uh- あとわずかで――』

 入れ替わり、立ち替わり、みんながステージに走り出ます。プロダクションのみんなと、観客のみんなと、あと、それから、何かわからないもの。気配とか、空気とかテンションとか、そういう言葉で表される、わからないもの。
 そういうものたちで構成された、なんだか、よく、わからないもの。
 不気味なほどに、高揚します。

 真ちゃんが、プログレッシヴを一曲踊りきります。
 やよいちゃんが、ダークな歌詞をかわいく歌い上げます。
――『ハーイヤッ! はいっ! やーはいやぁっ! はっ! はあーあ? ふうーう!』

 春香ちゃんは、右手をびしっと上げる決めポーズで、会場全体の雰囲気を病的なほどにヒートアップさせます。

――『私に続きたまえ』

22: ◆3feiQFueVc 2012/12/26(水) 13:05:46.84 ID:nzTAcqmZo

 四条さんは、驚くことにほとんど動きませんでした。あずささんはアコースティックギターを演奏していたし、千早ちゃんも身ぶりを交えて歌っていたのに。

――『TrujilloのHaldyn―TorujilloのHaldyn』

 どう、伝えるか、の違いなのでしょうけれど。
 何重にも重ねられた優しく呼びかけるような声が鼓膜から、眼窩から、全身の肌から染み込んで、私を甘くびりびりと痺れさせていきます。

 四条さんが動いたのはついに一度だけ、最後の、最後で、眼を艶麗に眇め、腕を差し伸べるように前に上げて。

23: ◆3feiQFueVc 2012/12/26(水) 13:32:19.90 ID:nzTAcqmZo

『一緒に 行きませんか』

24: ◆3feiQFueVc 2012/12/26(水) 13:38:03.26 ID:nzTAcqmZo

「ぁ――――!」

 雷でも落ちたようでした。
 視界が白く埋まり、延髄に甘く重い電流が渦を巻き。

「ん……はぁっ、ぅ」

 眼をきつく閉じて、唇を噛み、腕を自分を抱きしめるようにしてしゃがみ込みます。
 息が、頬が、それ以上に胸が熱い。
 長い睫毛が、潤む瞳が。あの眼が、あの指が、私を殺してやまないのです。
 慌てて駆け寄る美希ちゃんを制し、大きく呼吸をして、むりやり息を整えます。
 プロデューサーがこっちを見ているのを感じたけれど、どんな顔をしているのか、わかりませんでした。
 はしたない、と、渋い顔?
 ……そんな風には、思えませんでしたけれど。

25: ◆3feiQFueVc 2012/12/26(水) 13:40:03.46 ID:nzTAcqmZo

――『仕事場は タブー』

 そう、タブー。禁忌。でもそれもこの場まで。
 熱っぽく歌い上げます。美希ちゃんのコーラスは、ここでは別録のもの。メインMCでもある美希ちゃんの、体力を考えてのことでした。

――『グラビアの姫 人質に 
    吐息で竈に 火をつける』

 ステージが一巡したあと、初めの曲の二番を千早ちゃんが歌い、緞帳ではなくスクリーンが下ります。
 ステージの後ろに。
 これから何かがあると察した観客の人たちが、口々にアンコールを叫ぶ中、スクリーンに文字が映りました。段々と声が揃い始めます。『ウィーワット』

26: ◆3feiQFueVc 2012/12/26(水) 13:42:05.22 ID:nzTAcqmZo

 頃合いを見計らって、美希ちゃんがマイク片手に飛び出します。

「まったくぜんぜんなってないの。ロックのライヴを教えてあげる。みんなで声を揃えてウィーワットと叫ぶのだよ。いい? もう一回やってみて。ミキたち後ろに引っ込むから」

 スクリーンにもう一度、同じ文字が。今度はテンポよく、すぐに声が揃います。盛り上がり、盛り上がり、絶頂に達しようかという抜群のタイミングでもう一度美希ちゃんが口を開きました。

「しかしミキたちはロッカーじゃないの! 行くよ!」

 歓声。そして照明の熱を持つ閃光。アンコール曲が、唯一の全員で歌う曲です。

――『今日の日をまた閉めて 隣人の愛を見に』

27: ◆3feiQFueVc 2012/12/26(水) 13:42:33.04 ID:nzTAcqmZo

 プロデューサーは、簡単に、まあ良かった、というようなことを言って、すぐに出ていってしまいました。どうせ聞いていないって、わかっているんだと思います。春香ちゃんと千早ちゃんなんて、ハイになってキスしてましたし。
 私は、汗も拭かないで、息を荒げて真ちゃんや美希ちゃんと笑いあう自分を、ひどく冷静に観察していました。どう見ても、どこから見ても、私もライブ明けでハイテンションです。
 それを自覚して、ふらつく脚で立ちあがり、鏡台に腰をかけて水を口に運ぶ四条さんへ歩み寄りました。四条さんはすぐに私に気が付いて、微笑んで何かを言おうとするのに、飛びかかって首にすがりつき、ぐいと引きよせて妨げます。無我夢中で、感触なんてわかったものじゃない、やりかたもよくしらない、唇をぶつけるだけのそれ。

28: ◆3feiQFueVc 2012/12/26(水) 13:43:47.81 ID:nzTAcqmZo

「ひゅー! 雪ぴょんやるぅ→!」
「色バカが増えた……」

 四条さんの持っているペットボトルから、水が流れて、私たちの服ににじわ、と染みが広がります。
 床が濡れていきます。濡れて。滑るくらいに。
 後で拭かなくちゃ、なんて、やっぱり妙に冷静に、私は自分を観察していました。

29: ◆3feiQFueVc 2012/12/26(水) 14:04:51.18 ID:nzTAcqmZo

30: ◆3feiQFueVc 2012/12/26(水) 14:05:22.77 ID:nzTAcqmZo
 ライブのあとの空気というのは、いわゆる『あてられる』ものがあって、そこであったことは、たいていおぼろげな、現実感のない、あるいはあっても言質とするには余りにも不確実な、そんな曖昧さがあるのです。
 それにしたって、私がそんなことにかこつけて、四条さんの唇を強引に奪ったのは変わりないのですけれど。
 でも、いいんです。ややこしく考えていてもぐるぐるまわるばかり。だったらもういっそ、好きだって、それだけで、そんなくらいのことで。きっとそれだけで。
 どうしようもなく、私は、強くなってしまうのですから。
 隙を見つけては、四条さんと肩が触れるほど近くに座ったり、どちらからともなく、髪や指先に触れ合ったり。
 曖昧に、曖昧に、答えを避けて。強かに。

「四条さんは私に触れてくれないですよね」

 嘘。私がそれ以上触らせないだけ。

「もっと」「もっと」「ずっと」

 ああ、ひどく、甘い毒。
 戯れに唇を、互いの手指に触れさせて。

31: ◆3feiQFueVc 2012/12/26(水) 14:05:53.10 ID:nzTAcqmZo

「触れてもいいのですか?」

 ほら。四条さんはわかってるんです。私は言葉に詰まり、そして言葉に詰まったことで、私はそのことに気づきそうになるのを、必死に眼をそらそうと、抱きついて押し倒しました。
 私が、私の方が逃げている。

「もっとさわってほしいのは、本当ですよ」

 そう呟くと四条さんは唇を噛んで。私は、きっとおびえた顔をしていました。
 ごめんなさい。と言えなくて、視線を外して離れました。胸に残る四条さんの体温を、すぐに部屋の冷めた空気が奪い去っていきます。

32: ◆3feiQFueVc 2012/12/26(水) 14:06:19.13 ID:nzTAcqmZo

「仕事に行きますね」

 小鳥さんにそう告げて、事務所から出ます。彼女は、どう思っているのでしょう。
 何も言わないのがらしくなくて、そんなに私は醜いのかと、鏡もないのに自問します。
 鏡はないので、応えはありませんでした。

 こんなんじゃ、ダメなんだろうなぁ。

 言いたい言葉は、ただの二文字。
 唇に指を置いて、それを象ると、言葉は白く、結露して消えた。

33: ◆3feiQFueVc 2012/12/26(水) 14:07:02.18 ID:nzTAcqmZo

34: ◆3feiQFueVc 2012/12/26(水) 14:07:31.06 ID:nzTAcqmZo

 プロデューサーが、大きな仕事を持ってきてくれました。
 片付けたら、もう一曲あなたに差し上げたい。と。
 片付けたら、というのはもちろん、この舞台の仕事と、もうひとつ。
 私たちに気をつかって、事務所が少しおかしな雰囲気になっているのは、わかっていましたから。

「一人芝居……ですか」
「はい。今の構想では早着替えはなし。キミならできると思います。勿論、やるやらないはあなたの自由ですが」

35: ◆3feiQFueVc 2012/12/26(水) 14:10:45.29 ID:nzTAcqmZo


 オファーが来た仕事ではありません。プロデューサーが企画を立案し、スポンサーを募ってくれたのです。私のために。私たちのために。だから、それに責任を感じてはいけないのです。
 私はその仕事を是非やりたいと答え、本格的な舞台練習と調整に入ることになりました。
 そして、決意をします。

「がんばります。……いろいろ」
「そうですか」

 軽く頷くと、プロデューサーは律子さんのほうへ行ってしまいました。千早ちゃん、美希ちゃんと、インタラという新しいライブをやりたいらしいです。

36: ◆3feiQFueVc 2012/12/26(水) 14:11:12.72 ID:nzTAcqmZo
 四条さんは……窓際に椅子を持っていって、座って外を眺めています。そちらに私が歩み寄るだけで、みんなが妙に緊張するのがわかりました。私は不安そうにするやよいちゃんに、微笑みかけます。多分、とても久しぶりに。

「大丈夫だよ」

 やよいちゃんは、きょとん、として、それから、笑い返してくれました。

「はいっ」

「四条さん」
「はい」

 わざと、半歩離れて立ちます。四条さんはこちらに流し眼を寄越して、距離をはかるようにその紅玉髄の瞳を動かすと、すい、と、外に向き直ってしまいました。

37: ◆3feiQFueVc 2012/12/26(水) 14:11:40.13 ID:nzTAcqmZo

「私、大きな舞台、決まりました」
「ええ。聞いていました。おめでとうございます、成功を祈っていますよ」
「ありがとうございます。……それで」
「何でしょう」
「……きっと、大変だと思うんです」
「ええ」
「だから、じゃないんですけど。少し、おまじないを、したいなって」
「呪い、ですか」
「はい。いいですか?」
「私に協力できるものであれば」
「四条さんでないと、だめなんです」

 私は、その玉虫色の想いを、もう一度だけ、確かめておくことにします。

38: ◆3feiQFueVc 2012/12/26(水) 14:12:07.51 ID:nzTAcqmZo

「きっと、きっと、いいお芝居にしてみせます。私だけじゃない、みんなの力で。
 そうしたら、……そうしたら、四条さん。私のことばを、聞いてください」

「……承りました」

 なんとかなるよ。絶対、だいじょうぶだよ。
 なんて。

39: ◆3feiQFueVc 2012/12/26(水) 14:27:32.64 ID:nzTAcqmZo

40: ◆3feiQFueVc 2012/12/26(水) 14:27:58.67 ID:nzTAcqmZo

 それから、スケジュールに演技指導や打ち合わせ、演出や舞台設計の調整等、舞台に向けた予定が入ってきて、私はいままでにない忙しさに追われて、そんな中ぽつん、と空いてしまった時間、久しぶりに道具を揃えて、お茶を点ててみることにしました。
 すごく目立ちながら抱えて来た傘を組み立てて、毛氈を敷いた事務所の簡易スタジオに立てます。
 うん。邪魔。なんなんでしょうこれは。
 一面、壁にある鏡はホームセンターで買ってきた竹垣に一輪ざしを下げて、隠してしまいます。
 火を焚いてもいい、と(驚くことに)お許しがもらえたので、茶釜を炉にかけました。
 このあたりになってくると、なんだなんだと遠巻きにみんなが集まりだしていたので、ことさらにわくわくしていた響ちゃんと、亜美ちゃん、真美ちゃんを手招きして、作法を知っていそうな伊織ちゃんに上座についてもらいました。
 掬う。注ぐ。捨てる。ひとつひとつの所作に、歴史があります。最近では、科学的な理由も。
 一番美しく、無駄がない動き。
 それをたどりながら、場に応じて細かく気を配る。
 何も、考えなくていいことが、私には必要だったのです。

41: ◆3feiQFueVc 2012/12/26(水) 14:28:39.82 ID:nzTAcqmZo

「どうぞ」

 私と伊織ちゃんが軽く頭を下げるのに、慌てた様子で三人が続きます。

「あんまりかしこまらなくていいよ。脚も崩して大丈夫」

 そう言うと、後ろのほうで小鳥さんが息をついていました。いつのまにか三脚の上にカメラが据えられています。きっと後で、公式サイトにあげるつもりなのでしょう。
 もう、春でした。
 私の舞台公演は、十一月。
 半年以上、私たちには、考える時間ができてしまいました。

42: ◆3feiQFueVc 2012/12/26(水) 14:29:10.42 ID:nzTAcqmZo

「茶席を設けたそうですね」
「はい。少しだけ」

 四条さんは、私と違うソファにかけて、お茶菓子を上品にやっつけています。仕草は上品に。確実に着実にやっつけて。
 事務所に巨大な傘を持ちこんだ、三日後のことです。

「……」

 かり、かり、かり、と、四条さんが竹楊枝で指先をひっかくのが、やけに目につきました。

43: ◆3feiQFueVc 2012/12/26(水) 14:29:37.17 ID:nzTAcqmZo

「稽古の調子は如何ですか」
「覚えることが、多くて。でも楽しいです」
「そう……それはよいことですね」
「あの、頭、痛むんですか」

 眉を顰めて額を押さえる仕草が気にかかってそう訊ねると、四条さんは、少しだけ考えるそぶりを見せました。

「いえ……はい、少し。でももう、大丈夫ですよ」
「季節の変わり目ですし……気をつけてくださいね」
「留め置きましょう。あまり心配をかけても悪いですから」

46: ◆3feiQFueVc 2012/12/27(木) 21:37:56.41 ID:pKcdpWTAO

47: ◆3feiQFueVc 2012/12/27(木) 21:43:11.19 ID:pKcdpWTAO
「お花見をするの」
「乗った→!」

 美希ちゃんの一声で、慰安の予定ができました。簡単に準備をしてみんなで近くの公園に出向きます。並木のほうは普通の桜なのだけれど、一本だけ老樹の枝垂れ桜が、おぞけ立つほど妖艶に、見事に咲き誇っていました。平日の昼間のこと、桜のシーズンとは言っても、公園には親子連れの姿がちらほらとしているばかりです。
 美希ちゃんが、肩に担いでいた大傘を置く場所を探ろうと、指で四角を作って眺めています。また使うこともあるかと置いておいたのを、折角だから、というので持ってきたのでした。配置が決まったのか、架台を組み立て始めます。

「真クン、手伝ってー」
「……え? ああ、うん」

48: ◆3feiQFueVc 2012/12/27(木) 21:51:46.28 ID:pKcdpWTAO
 私は、野点をするつもりはなかったので、バスケットからデュワー瓶と茶器を取り出して並べ、ティーバッグに葉を移す作業をしながら、見事な枝振りの大樹の方を眺めていました。四条さんが立っている方を。
 茣蓙を広げるのを手伝っていたはずなのに、いつの間にかあの木の下で、じっと見上げていたのです。
 少し離れて。

「あの、雪歩さん」
「なあに」
「多分、お茶、そんなにいらないんじゃないかなーって」
「あれ」

 密閉容器に移して、バスケットにしまってしまいます。
 首を振って、四条さんのことを脳硬膜から払い落とそうとしました。まだ、考えがまとまっていないのです。身勝手にもキスをして、自分勝手にもそれ以上近づけなかった私は、まだ、答えを出せずにいました。ならば、見惚れてはいけない。

 バスケットの留め金をはめて、茣蓙のほうに振り返ろうとしたとき、ちらと視界に入りこんだ貴女は、私の方を見ていたような気がして。
 私は慌てて、顔を伏せたのでした。

49: ◆3feiQFueVc 2012/12/27(木) 21:58:12.03 ID:pKcdpWTAO
「なんかあれね、花見ガチ勢って感じね」
「このへんの桜の長の下で茣蓙敷いてでかい傘立ててりゃそうなるの。さもありなんってカンジ」
「花見酒っていうのも、やってみたいわねー」
「あー、いいですね。月見酒に花見酒、あと露天風呂とか。コンセプト写真集とかやってみますか」
「三浦あずさ写真集『ザ 酒』ですな」
「Simple25000シリーズ『ザ 酒』ですなー」
「これは    的な意味で見逃せない」
「はいはい、私の団子あげるから」
「えっ、そんな邪険にされるほど!?」
「扱い悪くない!?」
「あふぅ」

50: ◆3feiQFueVc 2012/12/27(木) 22:05:39.97 ID:pKcdpWTAO
 美希ちゃんが、朱塗りのお皿を持って躄寄ってきます。

「雪歩、眠くなってきたの」
「うん」
「膝貸して?」
「うん? ……あ、はい。どうぞ」

「これはなんていうか、校庭の伝説の樹って感じじゃないよね。いうならむしろマジモンの伝説の樹みたいな」
「羽衣伝説とか?」
「そうそう、そんなの。あれ、あんまり乙女っぽさがなくて好みじゃないんだけど」
「そうだねえ、まあ、この木の下で結ばれたカップルは~みたいな簡単な話で済みそうな気配はしないかも。でも私、異類婚姻譚は嫌いでもないよ」
「そう? 貴種流離譚のほうがロマンチックだと思うな」
「その二つ、結構重複してないかなぁ」

プロデューサーは、扇子で口元を隠して立っています。さっきからみんなの顔を見たり、桜を見たり、楽しんではいるみたいでした。

51: ◆3feiQFueVc 2012/12/27(木) 22:19:49.94 ID:pKcdpWTAO
「ねえ、千早ちゃん」
「ええ」
「四条さん、食べないのかな」
「ずっと向こうで立ってるわね」

 四条さんの分、とよそっておいたお皿は、手付かずのままぽつん、と置かれています。といって、片付けてしまうのも憚られました。

52: ◆3feiQFueVc 2012/12/27(木) 22:20:17.67 ID:pKcdpWTAO
「はぁ……」
「……まだ、悩む?」
「千早ちゃんって、春香ちゃんと付き合ってるの?」
「難しいところね。お互いに、そういう関係、と確かめあったことはないわ。その意味では、友達なのじゃないかしら」
「ふーん」
「萩原さんは」
「ストップ」
「……ふーん」
「ごめん、なさい」
「いいえ、私は、別に。でも、そうね。約束したんでしょう、答えるって」
「おまじないです」
「まあ、なんでも、いいですけれど」
「…………」
「答えは、だいたい決まっているのでしょうし。納得がいくまで考えてもいいと思うわ」
「でも」
「それに、私を頼ってくれたってことは、一人で抱え込みすぎることもなさそうだし」
「うん……」

53: ◆3feiQFueVc 2012/12/27(木) 22:21:42.94 ID:pKcdpWTAO

 プロデューサーは玄米ビスケットをかじっていました。

「貴音、これ片付けるから食べちゃってよ」
「ああ……ふむ、では、よろこんで」

58: ◆3feiQFueVc 2012/12/29(土) 17:12:44.63 ID:vcRVBh9AO

59: ◆3feiQFueVc 2012/12/29(土) 17:22:35.70 ID:vcRVBh9AO
 五月中ごろ、舞台装置のサンプルが上がってきたので、通しの練習を始めることになりました。シーン毎の練習がほとんどだったので、場面の接続についてのプランニングの意味も込めて、演出家さんや舞台監督、同じ劇を演ったことのある先輩俳優さんの前で、二夜構成の出だしを演じます。
 舞台は西ドイツ、とある大法学者の屋敷、その書斎に始まり、世界を巡る壮大な旅。
 私は、それを一枚の大きな布と背の高い椅子、小道具だけを使って演じきらなければなりません。

 椅子の後ろに、背景と同じく艶消しの黒布で覆われた板が立っています。正面から見ると舞台上には何もないように見えるよう工夫されていて、この後ろに小道具や照明が少し隠され、私がキャラクターを切り替えるときにも使うのです。
 舞台上で緩やかな足運びで立ち位置を変え、今博士から女神に変わった、と誰が見てもわかるよう演じるシーン。
 大仰な音響と暗転、特殊効果を駆使して、地の底から忽然と現れる超存在を主張するシーン。
 全ての動きを、見られることを前提にして組み立てていきます。
 今まで経験してきたどの演技とも似ていて、そのどれとも違いました。

60: ◆3feiQFueVc 2012/12/29(土) 17:41:11.87 ID:vcRVBh9AO
「よろしくお願いします」

 眼を閉じます。空調の音が耳障りだけど、すぐに聞こえなくなる。瞼の裏の暗闇に、ちらちらと色が踊る。
 その中に、私の演じる人がいる。その人の見る世界が、スタジオのフローリングを塗り替えてゆく。

「あらゆる書に溺れて生きてきた。
 天文学! 天球に満つ彼の煌めきに心を奪われた! アポロン、メルクリウス、エスペラス、テラ、マルス、ユピテル、サトゥルヌス、ウラヌス、ネプテューン、プルートゥス。皆私の前で踊るアラビアの舞子の如く輝いていた。
 法学! 世を統べ人を成す叡智の要だ。私はかつてこの教鞭をとった。裁判官を務め、神の代行を名乗りさえした。その御名において秩序の調停人として奉仕することは、アレキサンドリアに記された至上の甘露の如く私を潤した!
 医学! 人、牛馬、果ては虫けらに至るまで、その身体に満ちるあらゆる数字が私に囁きかけた! 東洋の魅惑的な薬の数々を、金細工や宝石の対価に蒐集することは喜びであった。
 数学! 世界を形作るすべてのものごとをこの文字列で表し切る快感ときたら、バルト三国の熱情的な娘をこの腕に掻き抱くかのようだった!」

61: ◆3feiQFueVc 2012/12/29(土) 17:48:52.06 ID:vcRVBh9AO
 布は老博士のローブ。私は懐から次々と書を取り出しては、これ見よがしに床へと落としながらぐるぐると歩き回ります。

「それがどうだ! 私は老いた。夜空の星は美しいが、最早この眼で数えることはかなわない。神の代行者! それがどれほどの虚栄であったことか! 私は隣の犬畜生が噛んだの噛まないのという罵りあいのとりなし役であった! 医学……医学だ。大陸の始皇帝はそれに憑かれて死んだのだ。これなる霊酒に煎じたライの実と仙人掌の汁を加えたものを飲めばたちどころに痛みは失せる。ある種の黴を正しく培養しこれなる摩訶不思議なガラスの機械にてエキスを絞り出したればこれすなわち万病に打ち勝つ霊薬となり……。それがなんだというのだ!
 おお、おおファウストよ、お前はこの身体が恨めしいのか。日に日にめしいてゆくこの身体が。
 神学……そうだ祈れファウスト、貴様に残された唯一の救いだ。全てのものにまったく与えられる最後の救いだ……」

十字架を大きく描いた聖書は、このスタジオの備品です。私は陶然と朗々と演技を続けながら、自分の姿をどこかから眺めているようでした。

62: ◆3feiQFueVc 2012/12/29(土) 17:55:29.72 ID:vcRVBh9AO
 見ていると私は、椅子にかけてローブを払うと一心不乱に聖書の頁を指でなぞりますが、やがて頭をかきむしり絶叫します。

「おお、神よ! Eli,Eli, Lema Sabachthani? 私は全てを得て全てを無くした、最早恐れることなどないというのに! この胸をバターのように貫く短剣でも、一切の苦痛なく眠りへと誘う毒薬でも、お前なら用意できるのだろう、ああ、ファアウストッ!」

 ふと動きを止め、何か聞こえて、あたりを見渡します。

「誰だ! そこで私に汚いことばを吐くのは!
 うすぎたないはつかねずみめ、後悔させてやるぞ」

 散らかった薄暗い書斎。床も壁も石造りでどこか湿っぽく、触れれば凍るほどに冷たい。まわりの壁は全てひとりでは届かないほどの高い書棚に埋め尽くされ、その内臓は床にまで広がります。ローブの前をかきあわせ、手つきを荒くひとつひとつの影をあらためてゆく私。やがて一つの黒い本に眼を留め、それを持ち上げて首を傾げます。
 表紙にも、背表紙にも、ただ黒いばかりの大判の書。

「黒魔術……」

63: ◆3feiQFueVc 2012/12/29(土) 18:05:20.25 ID:vcRVBh9AO
 顔見せ程度の予定でしたから、今日演技をするのはここまでです。私は私の体に戻り、深く息を吸い、吐きました。
 それから二、三技術的な指導を受けて、各部の繋げ方やキャラクター毎の布の使い方について話し合い、午後三時に予定通り終了しました。

「ありがとうございました」

「お疲れさまでした」
「はい。あの、どうでしたか?」
「ふむ……演技に関しては門外徒ですから……私の感想としてなら」
「はい」
「非常に、感情に響きました。けれど、萩原雪歩、あなた自身がどこか遠い」
「……やっぱり、わかりましたか」
「恐らくは、何人か気づいているでしょうね。プロですから」

 演技派にも何種類かあります。各人の『キャラクター』が強く、どんな役柄を演じても役者本人のカラーが出る人、顔つきや体つきまで変わって見えるほど役にのめり込む人。
 でも、私のそれは、そういうことを言える段階にはないのです。
 私自身が遠い。あれを演じているのは、萩原雪歩という人間ではなく、その身体に染みついた技術。いわば、私である理由がない、状態。次に私が行うべきは、私にしかできないことをやるのではなく、私ができることを、私がやる、こと。

 ――この乖離感は、いつから始まったのだったか。

64: ◆3feiQFueVc 2012/12/29(土) 18:23:28.90 ID:vcRVBh9AO
 事務所に戻って、台本の読み込みをしていると、亜美ちゃんと真美ちゃんが隣に座って覗きこんで来ました。

「お隣失礼→」
「失礼→」
「二人一緒なの、久しぶりだね」
「そうなんだよ、最近お互い忙しくってねー」
「雪ぴょん、それ今度の舞台っしょ? 調子どう?」
「うん、いい感じ、かな」

 いつの間にか話はぽんぽんと弾んでいって、詠唱する文句についての話題になりました。楽しそうなので、私は相槌程度にとどめて台本に眼を戻すことにします。

「Eloim,Essaim, frugativi et appelavi!」
「我が喚び声に応え魔府より来たれ、生者の僕として!」

「うーん、ちょっと雰囲気に合わないかな?」
「うあうあ→! またボツだー!」
「こんなんばっかだよー!」

「えろいむえっさいむ、我は求め訴えたり、の文句は、ふぁうすとの成立より後の時代のものですからね」
「そうなの? じゃダメかー」
「さっすがお姫ちんだねぇ。どこから来たの?」
「その、どあから参りました」

65: ◆3feiQFueVc 2012/12/29(土) 18:28:15.00 ID:vcRVBh9AO
 四条さんと眼が合います。

『あなたが遠い』

 プロデューサーの声が、目の前の透き通るような人に重なって、あふれて、ディレイして。
 私は、まっすぐ見続けることができなくて、顔を伏せました。

「……あの、雪歩」
「あっ、そうだ、新しいお菓子持ってきたの、用意するね」
「え、でも今お姫ちん」
「すぐ戻るから!」

 給湯室に飛び込んで、ドアを閉めて、壁に背をもたせかけ、大きく息をつきます。
 横隔膜が言うことを聞きません。心臓は割れ鐘のようにばくばくと鳴るのが耳の中で聞こえます。

「なんで、こんな……」

 四条さんのことを避けるような。
 クロッカンを持ってソファに戻るともう四条さんはいなくて、「仕事に行ったよ」とそれ以上何も言わない真美ちゃんがじっと私を見るのに耐えられなくて、その日は逃げるように事務所を後にしました。

67: ◆3feiQFueVc 2012/12/30(日) 17:52:43.85 ID:lt6tc5MAO

68: ◆3feiQFueVc 2012/12/30(日) 18:02:16.27 ID:lt6tc5MAO
梅雨が訪れ、紫陽花が瑞々しく咲き誇る遊歩道を、四条さんと並んで歩いています。

「この間は……ごめんなさい」
「いえ……」
「ずっと、謝らなくちゃって思ってて」
「……大丈夫ですよ。私は待てますから」
「ごめんなさい……」
「待てます。待ちますとも、それがたとえ、幾星霜の時であろうとも……」
「あの、四条さん」
「今日はもう、帰りましょう」

69: ◆3feiQFueVc 2012/12/30(日) 18:06:39.01 ID:lt6tc5MAO
 美希ちゃんと千早ちゃんのインタラクティブ・ライヴが、八月に決まりました。プロデューサーは会場の予約や仕掛けの試作、CG制作会社やフォントデザイナー、音響『暴力』技師との会議、他にもサーカスの見学など、東奔西走しています。

「なんか、ゲームブックみたいなの」

 美希ちゃんはライブについてそう評しました。

70: ◆3feiQFueVc 2012/12/30(日) 18:23:30.32 ID:lt6tc5MAO
 スケジュールに、定期ライブのレッスンが入ってきます。ライブ明けの九月中ごろには、ゲネプロが決まりました。二日連続、ほぼ本番と同様の進行です。そこを過ぎるともう公演までは二ヶ月を切り、直前のリハを含め、通しで練習する機会はほとんどありません。

「四条さんは、待っていてくれるんですよね」
「ええ、いくらでも」
「もうすぐ……もう、すぐです。私は、玉虫を、ずっと、ずっと大事に、隠しておきますから……」
「……初めて貴女を見た時、なんて儚いひとだろう、と思いました。まるで、一夜花のように、可憐な幻かもしれない、などと」
「…………」
「でもすぐに、貴女はそうではない、とわかったのです。雪歩、貴女は一夜花ではなく……一夜草でありました」
「一夜草」
「ええ。……私はそうはあれなかった。貴女のように強くあれなかった……だから私は、待つのです。ここで逃げては、……そう、ええ、ここで逃げては……」
「四条さん?」
「少し、眠ります。膝をお借りしても?」
「……はい」

71: ◆3feiQFueVc 2012/12/30(日) 18:30:31.72 ID:lt6tc5MAO
 前にこうして、四条さんに膝枕をしてあげられたのはいつだったでしょう。随分と久しぶりな気がします。四条さんとこんなに近いのも……こんなにゆっくりと話ができたのも。
 時間が私たちを置いていってしまっているようでした。時が止まったような銀色の髪は、まるで繊細なガラス細工のように光を散らして輝き、蝋色に透ける肌を妖しく彩ります。
 四条さんは、すぐに小さな寝息を立て始めました。メイクで丁寧に隠されていてわかりにくいけれど、少し、目の下に隈があるみたいです。よく、眠れていないのかもしれません。
 ふと、豊かな胸に寄せて、ゆるやかに握り込まれた腕に眼がいきました。服の袖口が、何か、不自然なような……と注視して、『それ』に気がついて絶句します。両の袖から覗く、その触れれば折れそうな華奢な手首に似つかわしくない、

「包帯……?」

 ガーゼの上から覆う、網状のそれは、アクセサリというには余りにずさんな造形で、その実、非常に機能的。
 機能的。何に対して?

「なん、で……」

72: ◆3feiQFueVc 2012/12/30(日) 18:36:54.03 ID:lt6tc5MAO
――「ああ主よ、親愛なる我が父よ。あなたもどうしてお人が悪い、それではわたくし、この悪魔、あわれな老博士の魂をあてに、近々人界へ馳せ参じましょう。約束ゆめゆめ忘れられませぬよう……」

――「さて、こうしてわたくしメフィストー=フェーレスは地上に這いあがり、敬虔な紳士ファウスト博士の魂を堕落させるべくあの手この手と四十八手の限りを尽くし奸計謀略を巡らせ回し、情緒纏綿たる文化の粋を、四十八鷹揃い踏みたる至高の舞台を、馥郁たる気高き美酒をと目もまわらんばかりの忙しさ……この狂言回しめのドタバタ喜劇、どうぞ笑い飛ばしておやりくださいませ……」

73: ◆3feiQFueVc 2012/12/30(日) 18:39:58.25 ID:lt6tc5MAO
「雪歩、雪歩」
「あ……真ちゃん……?」
「大丈夫? ぼーっとしてたけど」
「うん、平気……何でもないから」
「そう……でも、顔色悪いよ。少し、休んだら」
「うん、ありがとう。本当に何でもないから、心配しないで」

 真ちゃんはしばらく何か言いかけたりしていたけれど、結局そのままお仕事に行ってしまいました。
 そんなに、顔に出てたのかな。

 あの包帯は……多分、そういうことなんだと思います。私のせいだなんて、思い上がるつもりはないけれど。

74: ◆3feiQFueVc 2012/12/30(日) 18:51:41.24 ID:lt6tc5MAO
「黒魔術……誰だ、私に語りかけるのは! もうやめてくれ、私は疲れた……こうしてただ、迎えがくるのを待つばかりの老いぼれなのだ。甘言を弄するな、至言も金言も我が耳には届かぬぞ」

「……悪魔? 悪魔と言ったか。そうか、神に尽くし法に尽くして、人に愛も想も尽き果てた私は遂に地獄へ落ちるのか。いいだろう、それもまた、あるいは興が乗るというものだ……呪われた不思議な文字で円を描こう、雌鳥の血と麦の穂を捧げよう。話してみよ、話をしようではないか……我が前に来たれ、メフィストー=フェーレス!」

 スモークが焚かれ暗転し、舞台の上の視界はほぼゼロになります。ローブを脱ぎ捨て床に広げ、下に着こんでいた豪奢な金の飾りもきらびやかな軍服姿で立ち位置を変え、さっきまでそこに私が立っていたファウスト博士に傅くように、いまや絨毯に姿を変えた布の上に跪きました。照明が私にスポットして、一拍おいて舞台全面に広がります。そこから半拍、顔を上げて――

「あ――」

 声が、出ない。
 舞台端の暗闇に、眼を見開いて、視界が吸い込まれていく。喉が詰まる。浅く、早く、呼吸の音が、やけに耳について、四条さんの指先が、細くしなやかで白い砂糖菓子か何かのような指先がちらちらと浮かんでは消え、ぜいぜいと肺病のように胸が鳴り、誰かが叫んでいるのが聞こえる、やがてぐらりと世界が傾ぎ、何を考えていたのだったか、自分の倒れ込む音を聞きながら私は気を失う。

75: ◆3feiQFueVc 2012/12/30(日) 18:57:43.71 ID:lt6tc5MAO
 ――雨の音がしていました。
 自分のベッドの上に寝かされています。そんなことはあるはずがないのに、随分と久しぶりにこの部屋にいるような気がしました。劇場の医療スタッフさんによれば、ストレスと過労からくる神経性の発作だとのことで、プロデューサーからは週末二日を含む今週一杯、五日間の休養を言い渡され、提携の診療所からの診断書と一緒に、まるで荷物か何かのように社用車でぽいと家まで送り届けられてしまいました。
 眠るにも妙に眼が冴え、といって起き上がるには気だるく、音楽プレイヤを手玩具し、ベッドに半身を起こしてみたり、携帯を畳んだり閉じたり、閉じてばっかり。ぱたぱた……なんて、くだらない洒落で笑いがこぼれるあたり、思ったよりも疲れが出てきているのかもしれません。あるいは単に、眠いだけなのか……。みんなからぽつぽつと、お見舞いのメールが届き始めます。目に優しくないカラフルなLEDの光が、なんだかとても、温かくて。私はきっと、眠りに落ちていました。

78: ◆3feiQFueVc 2013/01/01(火) 20:41:45.46 ID:y+aTSrnAO

79: ◆3feiQFueVc 2013/01/01(火) 20:52:30.15 ID:y+aTSrnAO
「お初にお目にかかります、大法学者にして医学者、錬金術の大家にして星を知るもの、賢者『ドクトル』ヨハネス・G・ファウストゥス……ワタクシメフィストー、悪魔メフィストー=フェーレス、招請にあずかり罷り越しました次第で……マコトこの度は当悪魔勧請サービスをご利用頂きまして有難う御座いマスなどと――あいや博士困りますねそう呆れた顔をなさっては……ワタクシ共悪魔といたしましてはね、博士ですからお話致しますけれども腹の内を探られることこそいたァいものでして……まさしく痛くもない腹をですな、んふふ……探られて。それこそワタクシ共の臓腑はコールタールのごとくに真っ黒く、祝福などとは縁遠い軒下で生まれたようなもんで御座いマスからねェ……ナニ、ごたくはいいと、ウウム結構結構、それならば、といったところですね博士殿……ええ博士ファウスト殿……あなたこの世界に飽き飽きしたと仰った……ひとつその命、このワタクシめに預けてみては頂けませんか……悪いようには致しませんよ、岩へと根を張る木々の秘法で四方を夜に隠し、星の海を渡る秘儀をお教えしましょう、地獄の火で炙った仔羊の肉を、妖精の作る酒で食い、あらゆる宝石をあなたのマントに飾り付けてご覧にいれよう……そのかわり、あなたが私のもてなしにはたまたこの美しい世界に満足し、『時よとまれ、お前は美しい』とひとこと言ったなら――その時は私メフィストー=フェーレスが、きっと博士の魂を捕まえて地獄へお連れします、とこういった委細で……ナニ地獄ったってそう悪いものじゃあありませんよ……博士の魂がどうなるってそりゃあお教えするわけにはまいりませんが、このままなら博士はきっとお導きを受けて昇られるお方だ……そんな魂は地獄じゃ格別の……もとい地獄でも垂涎のものでして……伯爵さまの御屋敷に飾られるか、公爵さまの別邸で噴水の真ん中に佇む余生か、いや余死か……如何です、きっとご満足していただけると思いますがね――」

80: ◆3feiQFueVc 2013/01/01(火) 23:43:28.34 ID:y+aTSrnAO
「おひゃらかしですよ博士……しがない悪魔の戯れ言です」

 四条さんの姿がありました。ここはどこか、乳白色に凝った大気の満ちる空間で、四条さんは私に背を向けて立っています。顔を下向けて、体の前に回した腕を見下ろしているようでした。私はどことなく無機質な四条さんの姿に、ごく微量の恐怖を覚えながら近づき、声をかけようとします。

81: ◆3feiQFueVc 2013/01/01(火) 23:51:23.74 ID:y+aTSrnAO
 そこで四条さんは隠した腕を振りかぶり、私から見えない体の前へ、ぶしゅ、と、嘘臭いほどの水っぽく濁った音がして、赤褐色の、濁った汁が、液が、ばしゃ、飛び散っては、振り向くその顔は百万からなる蠢く蛆に覆い尽くされてじくじくと粘性の液体を滴らせる無数の穴ぼこが眼窩も鼻孔もないまでに赤黒くそのあぎとを開きて震え、だらりと力なく垂れ下がる腕の、その手首にばくりと粘膜を  に晒した唇がぐちりと厭らしい笑みの形に歪んだかと思うと濁った甲高い声でけたたましく哄笑しその聲は増えて増えて重なり重なり重なり、耳孔からずるりと染み込んで私の脳髄を掻きまわしヴィシソワーズのようにどろどろにかき混ぜられたそれが私の頭蓋の中で踊る吐き気を催す感覚に、最早糜燗して腐乱したようになった四条さんに抱きかかえられながら私は更に深く意識を手放すのでした。

82: ◆3feiQFueVc 2013/01/02(水) 00:00:20.81 ID:l+f6EfOAO
「雪歩……雪歩」

 温かい声でした……触れられるわけでもないのに。

「四条さん……」
「魘されていたようですが……悪い夢でも?」

 寝惚けたまま、私は考えます。寝惚けている。私は。それを言い訳に、瞼にちらつく崩れた顔を上書きすべく、ぺたぺた、と、除き込む四条さんの気遣わしげな表情をした頬に手を触れさせました。

「いいえ……もう、大丈夫です」
「そうですか……それは、まこと、重畳」
「はい、四条さんが、いてくれましたから」
「申し訳ありません。私、あなたが倒れたと聞いて居ても立ってもいられず……」
「ありがとう、ございます」
「先ほどまで真もいたのですが……どうしても帰らなければ、と」
「あの……」

 サイドボードに置かれた時計を見ようとすると、四条さんの手がそれを伏せてしまいました。

「……?」
「夜ですよ、雪歩。食欲はありますか? 何か、温かいものを貰ってきましょう」
「……はい」

 下を向いた時計の針の音ばかりが、耳朶を打ちます。その気になればそっと覗き見ることもできたけれど。私はそれから目を外して、四条さんを待つことにしました。枕元の携帯電話が、着信アリと点滅します。

83: ◆3feiQFueVc 2013/01/02(水) 00:08:02.18 ID:l+f6EfOAO
「ほっとちょこれぇと、でよろしいですか?」

 どろりとした茶褐色の。甘い。眉間に蟠るような薫り。
 それはあまりにも、静脈血を思わせる色合いで。
 くらくらする。
 私は立ち上がって、ドレッサーからカミソリを取り出すと、四条さんに見せつけるように面前に膝をつき、間に刃を挟み顔を間近に寄せました。
 息が触れるほど。指で呼べば……触れるほどの距離に。

「甘い……」
「……雪歩、危ないですよ」
「平気ですよ。なんのかんのと言っても、ただの貧血です」
「雪歩、危ないですから……」
「こっちを見てください、四条さん」
「あまり、私を惑わさないでください……お願いです」
「見せてください。そうしたらこれ、降ろします」

84: ◆3feiQFueVc 2013/01/02(水) 00:15:24.26 ID:l+f6EfOAO
 何を、と言うまでもなく。四条さんは髪をばさりと流して表情を隠し、俯いて袖を捲りあげます。
 包帯にかけるその細い指が、ブラウン運動のように細かく震えているのがわかりました。

「あの……」

 私は答えません。唇を噛み、眉を下げ、瞳を潤わせ、喉がひくつくと、押し殺した嗚咽が漏れました。かぶりつきたいほど艶麗な首筋が震えます。一点の曇りもないかに思える白亜の膚。そこに、白亜は自ら瑕を成す。
 私はそれを、暴きたてるのです。盗掘者のように迷いなく、考古学者のように残虐に、原住民のように敬虔に。

 四条さんは一度きり啜り泣く声を上げると、意を決した風にして左腕の包帯を解きます。綿の伸縮性に富む筒状のそれをするりと抜き取り、テープを剥いで、黄色みがかった油紙とアクリノールの染みたガーゼをまとめて――ぴりり、と肌がひきつれて、薄紅色の傷口が破れ、ほんの、ほんの一滴、血が流れました。

85: ◆3feiQFueVc 2013/01/02(水) 00:19:58.86 ID:l+f6EfOAO
 息をのむほどの。
 切り傷は原型を留めません。少し残るきれいに直線を描く傷口は、色薄く、古いものであることが一目で知れます。新しい……いえ、いつからのものなのかなど私に知る由はないのですが、今なお滲出液でてらてらと光るそれは、カミソリの走った痕を、執拗に、その爪で、掘り返し、抉り返し、剥ぎ取ったものでした。
 目立たないようにとの理由からだったはずの、手首の内側に刻まれたそれは、度重なる開拓を経て、四条さんの細い腕を一周するほどに育っています。瘡蓋になったでこぼこの濃褐色。盛り上がる薄紅色。鮮やかな暗赤色。そして、無垢の白。

 息をのむほどの、美しさでした。

86: ◆3feiQFueVc 2013/01/02(水) 00:26:23.09 ID:l+f6EfOAO
「雪歩! お願い、早く、それを隠して……!」

 私は、降ろす、と、言ったのですけれど。
 四条さんのがたがたと震える手に、そっと指を絡めて、それを持たせます。危なくないように把手を、優しく、握りこませて。
 今度こそ四条さんの瞳からは、大粒の涙が真珠のようにこぼれ落ちました。

「な、んで……っ」

 私は、微笑むことができました。それが一番、自然な表情だと思ったのです。
 多分今、この胸中にあふれんばかりに満ちるこの感情は、言いようもなく美しくて。私は、そのまま手を取り導いて、冷たささえ感じない、鋭すぎる切っ先を私の腕へとあてがいます。
「いや、いや」と、駄々を言う貴女は、瞼を見開いて、震える瞳孔は縫い付けられでもしたかのように、見えない糸で曳かれるように、ぴくぴくと、刃先から外れない。

87: ◆3feiQFueVc 2013/01/02(水) 00:29:20.28 ID:l+f6EfOAO
 息が荒いですよ?
 頬が、赤いですよ。
 涎が、こぼれていますよ。
 桜の花でも散らしたように。
 紅花で朱を入れたように。
 私で昂ってくれているんですか?
 私に劣情を燃やしてくれるんですか。
 ぶつけてください。
 ほとばしらせてください。
 あふれさせてください。
 こぼしきってください。
 ころしきってください。

 私は予期する甘い傷みにきつく瞼を閉じ、四条さんの手を勢いよく引きました。

「ひっ――!」

88: ◆3feiQFueVc 2013/01/02(水) 00:30:37.49 ID:l+f6EfOAO
これまで。ですが次章がインタラであることもあり、少しだけ、チュートリアルを兼ねて投下します

89: ◆3feiQFueVc 2013/01/02(水) 00:34:21.17 ID:l+f6EfOAO
10

90: ◆3feiQFueVc 2013/01/02(水) 00:54:44.91 ID:l+f6EfOAO
 ステージの上がゆるやかに茫とした明かりを増す中、穏やかな声が響きます。

『私が列車に乗ってその地を訪れるのは何年ぶりのことだったか。
 その者は、一周期前の還弦が失敗してから眠り通しなのだと言う――』

 そして、スクリーンに命令形。プロジェクトの名を象ったという不可思議なロゴを背景に。

『呼び覚ませ!』

91: ◆3feiQFueVc 2013/01/02(水) 00:55:33.27 ID:l+f6EfOAO


――CALL KISARAGI――



92: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/01/02(水) 00:56:06.63 ID:l+f6EfOAO
キサラギー!!

93: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/01/02(水) 00:56:45.42 ID:l+f6EfOAO
\ヒラs……キサラギ!!/

94: ◆3feiQFueVc 2013/01/02(水) 00:57:38.99 ID:l+f6EfOAO
『もっと大きく!!』

95: ◆9cbTaR.mtQ 2013/01/02(水) 00:59:55.00 ID:l+f6EfOAO
非常に楽しいです。どこまでも私だけが。
私だけが楽しいところで今日はこれまで。気が向いたら還弦奏者、大いなる庭園に眠る彼女の名を呼んでください。
ライブの採決方法の参考にします。

96: ◆3feiQFueVc 2013/01/02(水) 17:07:35.13 ID:l+f6EfOAO
キサラギぃぃ!

98: ◆3feiQFueVc 2013/01/02(水) 17:13:13.27 ID:l+f6EfOAO
 機械仕掛けの手袋のような不思議な楽器とHMDを身につけた千早ちゃんが、歓声に応え、ステージの上に置かれた椅子の上で目を覚まします。同時に始まるイントロ。

「嗄れた声――いらない言葉で洗い流す
 『ちょっと待ってね』今そこまで行くから……」

 優しい歌い出し。段々と歌声は力強く。そして弾けるサビ。

「おぉぉぉぉぉ……Day! Another-Day!」

:このレスのコンマ00~33で一日目 34~66は二日目 66~が最終日

99: ◆3feiQFueVc 2013/01/02(水) 17:19:00.92 ID:l+f6EfOAO
『彼女は記憶がないらしい。私は列車を止めさせ、還弦を進める方法を探ることにした』

 花道のようなもので分かたれた右側のステージの幕が上がり、汽笛の音がぐるぐると回ります。プロデューサーたちが何度もトライ&エラーを繰り返したこだわりの演出でした。
 前に回り込んだ汽笛が近付き、ステージ奥から煙を上げ、機関車が現れます。勿論電気仕掛けの偽物ですけれど。美希ちゃんが軽やかに飛び降り、歌い始めるのに構わず機関車はそのまま舞台裏へ、汽笛の音はサンプリング音源に切り替わり、そのまま曲の中へと溶け込みます。

「行く列車の塵は砂丘に文字を描く……『百年彼方の空より見守る』と
 アイリスが咲く 長い雨の夜、祈るようにキミを探して街を駆けた――」

100: ◆3feiQFueVc 2013/01/02(水) 17:25:21.97 ID:l+f6EfOAO
 千早ちゃんはあたりを見回し、一点を見つめてしゃがみ込みました。スクリーンに赤い花のつぼみが映し出されます。

『彼女は己を廃墟に見出だした。私は背景を描くもの。ボックスに詰め込んだ我がコレクションを見よ!』

「いつか越えたモノクロの丘で……聴いた凍える声
 遥か空でカラフルに走る 雷鳴に変わる」

 千早ちゃんの歌声によって高台から見はらす展望は晴れ、街の影とそこへ伸びる二本の道が現れました。

『L:影の町へ
  R:影絵の町へ』

 スクリーンに選択肢が表示されます。入場時に配られたLEDライトで決を採る仕組みでした。文字の色に合わせたライトを振ることで票になるのです。集計が進むにつれて得票の多い文字の色が濃くなってゆき、三十秒ほどで決定します。

:このレスのコンマ~49で影の町。50~で影絵の町

101: ◆3feiQFueVc 2013/01/02(水) 17:31:39.43 ID:l+f6EfOAO
1b
『影絵の町』

 美希ちゃんが読み上げ、背景は左へ流れ、コンピュータ・グラフィクスの中を奇妙な形の自転車を思わせる足漕ぎ飛行機で千早ちゃんが影絵の町へ向かいます。どことなく平面的な風景でした。

「近づく景色はバイ・デジタル 喧騒には隠れた古の
 怒れるマザーの泣き声に まだ眠らぬ擬装の都市バンコク!」

 美希ちゃんは歌い終わり、千早ちゃんが街に降りるとすぐに朗読を始めました。千早ちゃんは奇妙な装備でお芝居と歌、美希ちゃんは黒いテーラード・スーツで背の高い椅子に手をかけて、スクリーンに映るストーリーの朗読と歌を担当します。

『影絵は擬態だ、キミたちの眼は逆の色を見ている……あったぞ、赤のシナプスだ』

 千早ちゃんが街を出るとき、手にした『赤のシナプス』は補色の緑色に光を放ちました。

[1b]:アーティファクト『緑のシナプス』を入手

102: ◆3feiQFueVc 2013/01/02(水) 17:34:35.52 ID:l+f6EfOAO
 街を出てしばらく行くと、道端に打ち捨てられたような金属の塊が転がっています。

『“船”だ。以前の還弦奏者のものらしい。
 彼女のマシンはここで航路を選ぶことができる』

『U:空路
  D:海路』

:このレスのコンマ~49で空路。50~は海路

103: ◆3feiQFueVc 2013/01/02(水) 17:43:18.44 ID:l+f6EfOAO
2b
『海路』

 千早ちゃんの飛行機は翼が変形してフロートへ、機体の真ん中に空力抵抗なんて微塵も考慮せずまっすぐたてつけられた千早ちゃんの顔を映すディスプレイも少し形を変えました。機体の後ろに一対あるブースタらしき円形の機関が青く光り、波を立てて凪いだ夜の海へ滑り出します。千早ちゃんが苦々しく表情を変えます。何者かにエンゲージされたのです。

『ああ、灯台守に気付かれた』

千早ちゃんが――スクリーンの外の千早ちゃんが――歌います。

「Re-Doで! 何千回でも試みるミサイルで 何万の! 通路を閉じて威嚇する影を撃て!」

『いい船だ。すぐに灯台は背景になる……いたぞ、黄のニューロンだ』

[2b]:アーティファクト『黄のニューロン』を入手

104: ◆3feiQFueVc 2013/01/02(水) 17:48:29.36 ID:l+f6EfOAO
『神経網は網としてこそ意識たる。人は人としてこそ人たる――良かれ悪しかれ』

「でぃーや! でぃーや! でぃーやいやいやい!
  でぃーや! でぃーや! でぃーやいやいやい!」

 度肝を抜く前奏でした。

「物質の朝は……コロナ状に輪を描く 飛沫高きアドレナリン
  群衆は波のごとく――Oh DUSToid,DUSToid,歩行は今快適か?」

 (群衆には見えない宇宙のユーティリティよ
   まだ見ぬキングダムをランチタイムに支え

  聞こえない歌歌い ダストのごときキミよ
   群衆には見えない宇宙のユーティリティを)

「――はい」

 片手を挙げて、なげやりにさえ聞こえるHMD越しのその返答に、会場から黄色い歓声が上がります。

105: ◆3feiQFueVc 2013/01/02(水) 17:53:30.08 ID:l+f6EfOAO


 ニューロンが伸び、シナプスが接続します。科学信号が行き交いますが、色が違うためか、情報が網状に成長しきれません。

『違う……還弦奏者は緑の神経網を持つ意識なんだ。いけない、綿毛が飛びはじめている!』

「月には刹那にパトスの光 急いで登れよ無心の丘へ
  渦のように寄り添う哀楽 やがて飛ぶ空を 夢見る」

「そびえよ 丘のトーチカ 舞い飛ぶ 序章を射抜き
  狂えよ キミのトーチカ くびきを 無効と断じ」

106: ◆3feiQFueVc 2013/01/02(水) 17:56:18.45 ID:l+f6EfOAO
 無数、空を埋め尽くす綿毛に果敢に放火を吹きますが、やがて千早ちゃんのマシンは落ちて、壊れてしまいました。
 静かに、地平の彼方まで白い種子に覆われて行きます。
 千早ちゃんは諦めたように寝転ぶと、そのまま埋まってしまいました。

107: ◆3feiQFueVc 2013/01/02(水) 18:01:19.65 ID:l+f6EfOAO
『還弦は失敗した。彼女はまた、長い眠りにつく……。
 善意に覆われた地に、花は咲かない……私は、何もできなかった』

「胸にエナジー ケミカルは泡立ち
 バイヤーや 古タイヤや 血や肉の通りを行き
 あれがリバティ ユートピアのパロディ
 バイヤーやギガ・ムービーの絢爛の並木は晴れ

 マイナーな鬱は戯れ言 バラ色は廉価
 曰く幸せと知れ 持ちきれぬほど」

「さぁ――異臭を放ち来る キミの影を喰い
  恐怖のパレードがくる キミの名のもとに
 さぁ 地を埋め尽くすほど キミの影が産む
  狂気のパレードがくる キミの名のもとに」


(Bad End)

108: ◆3feiQFueVc 2013/01/02(水) 18:20:30.57 ID:l+f6EfOAO
11

109: ◆3feiQFueVc 2013/01/02(水) 18:28:08.99 ID:l+f6EfOAO
「え、このあいだのライブDVD、紀伊国屋に置かせてもらえないの?」
「如月千早の楽曲は、天使と契約を交わしていませんから。どうせ会員限定販売ですので」
「ふーん。変なの」
「変ですね。まったく」

 プロデューサーはそう言って、しょうが紅茶のインストールを終えました。千早ちゃんが以前、『歌だけで勝負したい』と言ったところ、ならばとプロデューサーが、楽曲の完全セルフプロモーションを提案したのでした。JASRACと契約しないということは、ほとんどの音楽チャートから無視され、大手CD販売店ではインディーズ枠となるため置かれる絶対数が桁違いに下がり、テレビ等の媒体を使った大規模な広告展開もほぼできないということです。その手法が軌道に乗り出してからは、一時期千早ちゃんの楽曲についてまで使用料の督促が届いたりしたけれど、今ではそんなこともありません。

「ふーん、千早さんはそういう方法を選んだんだね」
「間違っていたとは、思わないわ。でもそうね、少し、頑なだったの。あの頃の私は……」

110: ◆3feiQFueVc 2013/01/02(水) 18:31:18.52 ID:l+f6EfOAO
「ねえ、雪歩」
「…………なあに、真ちゃん」
「……その、さ」

 口ごもる真ちゃん。おかしいんだ……いつも私のこと、引っ張っていってくれるのに。

「ふふ……へんな真ちゃん」
「その、包帯のことなんだけど」
「ああ、これ……ううん、何でもないよ……うん、何でもない」

 頬を擦り寄せて、眼を伏せます。一度切り裂いただけのそれはもうほとんどふさがって、少しかゆみを残すばかりでしたから、本当になんでもないのでした。
 けれど、真ちゃんは思いもかけないことを言い出します。

111: ◆3feiQFueVc 2013/01/02(水) 18:36:02.75 ID:l+f6EfOAO
「貴音がやったの?」
「え? ……やだ、違うよ」

 多分私は、薄く笑ってさえいました。

「じゃあ、やらされたんだ」
「待って、どうしてそうなるの? 真ちゃん落ち着いて」
「ボクは冷静だよ! おかしいのは雪歩の方じゃないか! だって、雪歩がそんなことするわけないだろう、だったら貴音が……」
「四条さんを、悪く言わないでっ!」

 ぱぁん、と、水を打ったようになった事務所に、乾いた音。音。一瞬遅れて、じん、と手のひらに熱い痺れ。
 逆上して平手打ちをくらわせたのだとわかると、私の膝は身勝手にもがくがくと震えだします。

「あ、ぁっ……違……」
「…………ごめん、雪歩」
「なんで……」

112: ◆3feiQFueVc 2013/01/02(水) 18:41:07.78 ID:l+f6EfOAO
 真ちゃんはもう、私を睨んでいなくて、初めから泣いてもいなして、今はただ、悲しそうな眼で。
 私は、どうして真ちゃんが謝っているのか、わからなくて。

「ボクのせいだ……ボクが、雪歩を守らなきゃいけなかったのに……ごめんね……」
「真ちゃんに、私の、何が……」
「……ごめん」

 小さく言い返したそれは、余りにも負け惜しみじみていて、心の底からそう思っていたのだけれど、誰か自分以外を守ろうだなんて、誰か自分以外をわかろうだなんて、思い上がりにも程がある、そのはずなのだけれど、

 胸が、痛くて。

113: ◆3feiQFueVc 2013/01/02(水) 18:42:03.32 ID:l+f6EfOAO
「ほら雪歩、立って。ボクなら大丈夫だから……うん、うん、ちゃんと冷やすよ。大丈夫、腫れも残らない……。ね、今日は帰ろう。……ボクも言い過ぎたよ、うん、ボクが言うのもなんだけれど、その話はまた、今度にしよう……ね? 平気だって、大丈夫。だからさ、雪歩。泣き止んでよ……」

114: ◆3feiQFueVc 2013/01/02(水) 20:32:21.91 ID:l+f6EfOAO
 翌日の午前の間に、プロデューサーからメールが届いていました。学校が終わったら事務所に顔を出すように、制服は着替えて来なさい、と。
 言われたとおりに、私はきっと、よほどひどい顔をしていたのでしょう、事務所に入ってすぐに、小鳥さんが気遣わしげにこちらを見ているのがわかりました。

「四条さん」
「雪歩」

 呼び返してきた四条さんは、けれど私に焦点があっていなくて、膝に座って首に腕を回すと、きゅ、と弱々しく抱き返してきます。ふわふわの髪に頬を擦り寄せながら肩に顎を乗せて、もう一度「四条さん」、と呼びかけました。

115: ◆3feiQFueVc 2013/01/02(水) 20:39:34.14 ID:l+f6EfOAO
「雪歩……傷はもう?」
「はい、すっかり」
「そう……それは、良いことです……あれから夜毎、夢を見るのです。夢を見るのです、雪歩。私のつけたあの傷が、赤く頤を開くあの傷が、膿み、腐り爛れ落ちるように流れ落ち、ずるりと剥けた腕に映える白い撓骨が見目も鮮やかに、腐り、貴女が、ああ、腐って落ちるのです雪歩、その白く墨のようにつややかな肌が爛れて落ちるのです雪歩、私はそれを夜毎忌目に見るのです雪歩、ああ……」
「大丈夫……大丈夫ですよ、四条さん……もう傷は癒えました、四条さんが心配するようなことは何もありませんから……」
「雪歩、それは私がつけた傷なのです……あれは私がつけた……なんてこと……」
「四条さん、ほら、もう何ともないですから……本当に……ね、少し横になりましょう……良く眠れて無いんだと思います……」

117: ◆3feiQFueVc 2013/01/04(金) 23:46:18.83 ID:fJbK9iIAO
 私が膝から降りると四条さんは幼子のように素直にこくんと頷いて、嬰児のように瞬きの間に整った寝息を立て始めます。
 丁度、プロデューサーが真美ちゃんたちと戻ってきたところでした。私は四条さんの指を一本ずつ解いて、鞄からポプリを握りこませてからプロデューサーに向き直りました。

「…………」
「……一応、あなたたちの商売道具には、その優れた容姿も含まれますので」
「はい、すいませんでした」
「結構。では行きましょう。音無さん、私は今日はこれで失礼させていただきます」
「はい、お疲れさまです」
「U←」

 プリウスの助手席に座り、どこに行くのかも聞かされないまま、車は走り出します。夕方ももう終わりが近く、夜色がすぐそこまで浸み出していました。

「まったく妙に坂が多い……おかげで私は変な自転車に乗れません」
「あの、どこへ……?」
「キャバレー」
「へっ」
「キャバレー、です」

 キャバレーなのでした。

118: ◆3feiQFueVc 2013/01/04(金) 23:51:31.30 ID:fJbK9iIAO
「シショー!」
「その呼び方はやめなさい」
「シショー来たヨ!」
「やめなさい、アイドルじゃないんだから」
「来たネシショー、今日はドウシタ?」
「女のコ連れて来たノカ。ついに狂っタ?」
「やめなさい、ぞろぞろと。私は酒は飲めないって。注ぐのをやめなさい、この子も未成年なんだから」
「師匠」
「だから……ああ、Neng。ごきげんよう。来てくれたんですね」
「それは、もう。何か食べますか」
「それでは適当にお願いします」

 ねん……さんは耳慣れない言葉でプロデューサーの周りのホステスさんたちを散らすと、ボウイに二言三言伝えました。偏食家のプロデューサーが『適当に』なんてオーダーをするのを見たのは、初めてのことです。

119: ◆3feiQFueVc 2013/01/04(金) 23:55:34.81 ID:fJbK9iIAO
「きれいでしょう」
「……はい? あの」
「彼女たちは」
「はい……」
「SP-2たちの美貌は、手間と暇と、金と努力で、生きるために培われた術です」
「えすぴー、2」
「サオプラペーッソン。タイ語で『第二の女性』を意味することばです。彼女たちは、後天的に女性性を選択した」
「えっ? それじゃあ、あの……」
「些細なことです。けれどより根源に、両義に、混沌に近い。原型に近い」

 ふいに、ぴん、と来ました。余りに符号する曲を、以前に歌ったことがあったのです。

120: ◆3feiQFueVc 2013/01/05(土) 00:03:57.05 ID:vDMPNwHAO
「もしかして、ArchetypeEngineって」
「そう……私の歌詞はわかりづらいと言われますね。数曲は、SP-2ばかりではなく……。無知は時に攻撃的です。自分にも相手にも牙をむく。産地がマレーシアではないことを、私が遅れて知ることになったように」
「なんとなく……わかります」
「タイでは、『あなたはサオプラペッソンのようだ』というのは女性を褒める極めて上位の言葉です。それが手放しに良いとは言いませんが。しかし彼女たちはここでは余りにも肩身の狭い思いをする」
「それが、牙……」
「確かにアイドルなんかをするには、少しばかり『お上品に』してもらわなければならないでしょうけれども。……萩原雪歩、あなたのシナプスは、今あなたに牙をむいていませんか」

 シナプスは。私にも、プロデューサーの言いたいことが少し、理解できました。

「電気的な幻だと……言っているんですね」
「あるいは」
「性別などあまりに軽いくびきだと」
「あるいは」

 そしてくびきは、その重さよりも、『こいつが罪人だ』ということを瞭然たらしめることでこそ、私たちを縛り付けるのです。あるいは。

121: ◆3feiQFueVc 2013/01/05(土) 00:04:57.18 ID:vDMPNwHAO
 テーブルにあった、ライチの飾られたグラスを傾けます。

「あっ」
「あれ?」

 くらり。

「だから! 酒は出すなと言ったのに!」

123: ◆3feiQFueVc 2013/01/05(土) 18:35:46.33 ID:vDMPNwHAO
12

124: ◆3feiQFueVc 2013/01/05(土) 18:44:09.44 ID:vDMPNwHAO
「……ああ、目をさましましたね。良かった、そのまま家に送り返したのでは、私が余りに面倒なごたくをでっちあげなければいけないところでしたので」

 そう嘯いたプロデューサーは、けれどとても誠実に、家の者に詫びていました。私の不注意で、ホストに供された酒をお嬢様に飲ませてしまった。その看病で遅くなった、と。嘘のつけない人なのです。

 夢か何かのように定期ライブは過ぎ去りました。四条さんも千早ちゃんも、前回と違って激しく踊っていたのを覚えています。私は日々、時間の感覚が狂っていくのを見ていました。朝のことがまるで先月のように遠く思われます。一昨日の夕食を根拠に今日のお昼を食べたか混乱しました。眠くならない夜が増えました。東の空に薄く白むころになって、まどろみが粘菌のように私を溶かし始めます。眠ればよく覚えもしない悪夢に、全身を汗に浸して飛び起きます。それでも日々は残酷なほど律動的に歩を進め、私はそれに振り落とされないよう、ひたすらに舞台稽古に打ち込みました。

125: ◆3feiQFueVc 2013/01/05(土) 18:50:20.97 ID:vDMPNwHAO
 ある日、美希ちゃんに言われます。

「ミキね、雪歩のこと好きだったの」

 痛いくらいまっすぐに私を見つめて、私はやにでもこびりついたようにねばねばとした胸の内を見透かされるような居心地の悪さを覚えて、美希ちゃんから目をそむけます。

「ひたむきで、一途で、才能のある努力家。ミキに見えないところを、雪歩はまっすぐ見据えて、気が遠くなるくらい遠いそこに、何でもない風に歩いていってたの。最初はあんまりゆっくりだから、ミキ、少しからかってやろうって思って。鬼さんこちら、なんて。もしもしカメよ、なんて。でも雪歩はミキのことなんて全然気にも留めないし、気が付いたらずっと上にいるし」

 抑揚をつけて、読み聞かせのように、言い聞かせるように。

「そうやってかまってるうちに、雪歩に目を奪われてたの。後ろから、少しずつでいい、一気に飛び越えられないなら、ミキも一歩一歩、って」

 そうしたら、と、美希ちゃんは吐き捨てるように言い放ちます。

「そうしたら、いきなりそっぽ向いて走り出して、助走つけて崖に飛び込んじゃったの。ミキの話はこれでおしまい。ごめんね雪歩、時間とらせて」

126: ◆3feiQFueVc 2013/01/05(土) 18:54:12.38 ID:vDMPNwHAO
 それは彼女の、全力の、本気の、心からの、拒絶でした。
 また一つ、落とした。
 私とどこかを繋ぐ橋が、一つ、また一つ、粉々に砕けて虹色の光を放ちます。消え去る瞬間に、もう取り戻せないそれが、どんなに美しいものだったか私に思い知らせるように。
 私は迫る崩落の音に身を縮め、一つだけ、一つと決めたそれが壊れないように、抱え込んで、軋むほど強く、抱き締めて。

 すると橋は、必ず私の見ていない方から砕けて落ちるのでした。

「四条さん……四条、さんっ……!」

 貴女以外を、全部落としたとしても。
 貴女と全部、落ちていくとしても。
 あるいはそれなら、なんて。

127: ◆3feiQFueVc 2013/01/05(土) 20:58:02.56 ID:vDMPNwHAO
「旦那、ファウストの旦那! およしなさいってあんなあか抜けない街娘なんかにかまけるのは……アラブの踊り子だってラテンの開放的な娘だって、地の底から蛇の舌をした女だろうと天の上からかぎづめと翼の生えた女だろうと都合して差し上げられますのに、ああもう聞きゃしない、苦労するのはこの俺なんだぞ」

「あら……貴族様? わたし何かお気に障ることでも……いいえいけません、そんなご立派な身なりをされた方が……そんな……。きっとそうやって、何人もかどわかしておいでなのでしょう? ……もう、グヴェンドリン……グヴェンドリンです、旦那様。そうやってお云いになるのなら、明日もう一度わたしにお声をおかけになってくださいまし。わたし、きっと違う格好で参りますからね」

「くそう小娘め余計な真似を。何か手を打たなければ……そうだ、近々魔女の奴らが山登りに出かけるんだったな。あの出歯亀気質の偏屈博士のことだから、何を置いても混じってみたがるに違いない。そうと決まれば早速支度にかからなくては……ああはいはい、花屋はあちらですよ旦那。ねんねじゃあるまいし、そのくらいご自分でなさったら如何です。金ならたんとお持ちでしょうに」

128: ◆3feiQFueVc 2013/01/05(土) 21:01:55.63 ID:vDMPNwHAO
 右端からはけたグヴェンドリンは、裏を走りながらぼろを脱ぎ捨てると軍服姿で左側から歩み出て、どうにか博士をもっと大きな欲望に巻き込もうと画策します。
 息を切らしたり、汗を拭ったり、そんな様子を見せるわけにはいきません。その二人は何の関係もないのですから。

 そうして悪魔メフィストーフェーレスが魔女夜会にもぐりこむ手筈を整えている間に、ファウストは見事グヴェンドリンを探しあて、その巧みは話術と積み重ねた狡知でもって丸め込み、二人は一夜の契りを交わします。

129: ◆3feiQFueVc 2013/01/05(土) 21:10:22.28 ID:vDMPNwHAO
「おい、婆ァ。大魔女さんの小娘やい……うわっ、しっ、しっ、くそ忌々しい皺くちゃめ、この俺様にねずみをけしかけるたぁ偉くなりなさったもんだな? ふん、まあいい。そうさ知っているだろう、博士サマだよ。俺はあの方をエスコートして差し上げなきゃならないんだ。そこで何だ、ちょいと夜会の都合をつけてもらおうと思ってね……なあにちょっくらからかってくれればいいのさ、博士サマときたら世間知らずでいらっしゃるから、尻でも撫でてやればうぶな生娘みたいに頬染めて逃げ出すぜ」

 その夜、四月三十日、新月。ヴァルプルギュスの夜。
 ブロッケン山に魑魅魍魎が集います。光が踊り音が跳ね、見えない祝福を捨てたものたちがあたりでふしだらな身じろぎをします。ファウスト博士は魔女が  に垂らした酒に前後不覚となり、山に立ち込める霧に幻を見ました。

「おお、あれは何だ? グヴェンドリン……私が街に残してきた娘だ。どうしたというのだ、一体何がお前をそうまで苦しめる……」

「博士、妄執はお捨てになりなさい。酒も肴も存分にあるじゃありませんか。あの娘は敬虔で貞淑です、どのみち悪魔と   うようなタマじゃありませんよ」

「黙れ汚ならしい犬ころめ、それならお前のせいではないか。おおグヴェンドリン許しておくれ、私がそこにいればお前の手を握って口づけを捧げてあげられるものを」

130: ◆3feiQFueVc 2013/01/05(土) 21:20:37.84 ID:vDMPNwHAO
「やれやれやっとおねむだ。これだから酔っぱらいは始末に負えない。博士、ほら博士帰りますよ。あんまり駄々をこねないで、生まれた子の顔くらい見られましょうから……」

 しかし十月十日の後に再び相まみえたグヴェンドリンの姿はやせ衰え、うつろな目をして子に をくわえさせ、かすかに聞こえる子守唄のような旋律も、気のふれたそれに相応しく寒々しいものでした。

「――……。どなた……ファウスト様? いいえ、あなたも幻なのでしょう。お医者様にお伝えしなくてはね……あなたが来たら言うようにと言われているのよ。ファウスト様はわたしを置いて行ってしまわれたのですもの……見て、あなたの子です……わたしの……近づかないでばけもの! あなたもわたしからこの子を奪おうというのでしょう、わかっているのですからね! その……そのけものをこちらへ寄越さないで! 離れなさい、離れて! ああ、天にまします我らの父よ……願わくは御名を崇めさせたまえ……御国を来たらせたまえ……」

 グヴェンドリンはその不貞を嘆いた兄と仲違いし、兄は間もなく帰らぬ人となり、戻らぬファウストを待つ間にいつしか心を病んでいたのでした。泣きもせぬ赤子を乱暴に振り回すときつくかいなに掻き抱き、部屋の隅にうずくまっては祈りの言葉を繰り返します。

131: ◆3feiQFueVc 2013/01/05(土) 21:24:48.64 ID:vDMPNwHAO
「ちっ、信仰の抜け殻め。行きましょう博士、この娘はもうだめです。ああもうしつっこいな、なんだってこんな街娘なんかに……ほら早く、あんまり騒がしいんで下の店から人が来ますよ」

 ばたばたと騒がしく退場の後、暗転、ぽつ、と真上から、中央に立つメフィストーを照らします。

「どうやら娘が死んだようだ。あの様子じゃ、ろくに食べてなかっただろうし。
 教会の鐘が鳴っていやがる、不愉快な音だ。
 おや、あれは……耄碌め、また気まぐれに御使いをよこしやがったな。
 いいさ、女は天上の国へ、男は地の底へ、ってね……」

132: ◆3feiQFueVc 2013/01/05(土) 21:25:17.75 ID:vDMPNwHAO


 第一夜、幕。


133: ◆3feiQFueVc 2013/01/06(日) 17:44:02.31 ID:5oWpR96AO
13

135: ◆3feiQFueVc 2013/01/10(木) 14:14:49.73 ID:/RcjOFebo

 舞台を無事終えた十一月のこと、当日の間に、内々でのささやかな祝いの席を設けて頂くことになりました。プロデューサーにも指摘されていた私の乖離感は、本番ではすっかりと鳴りを潜め、私は私のまま、演じ切ることができました。

 それが、四条さんが客席にいたからに違いないことは、四条さんにも、プロデューサーにも言っていません。
 きっと、決して言うことはないでしょう。

「プロデューサー殿、音頭を取って下さいよ」
「……律子さんに任せます」
「もう! ……それじゃあ、雪歩の二夜連続舞台公演『悲劇 ファウスト』の成功を祝して。乾杯!」

 乾杯、と、みんなの声が続きます。社長の隣、いわゆるお誕生日席に座った私の角を挟んだ隣に、四条さんがいて、微笑みかけてくれました。

136: ◆3feiQFueVc 2013/01/10(木) 14:15:19.25 ID:/RcjOFebo

「雪歩、本当にすごかったよ! 私ちょっと泣いちゃった……メイク落ちてない?」
「リボンずれてるよ」
「嘘!?」
「うそ」
「もう雪歩ってば! 勘弁してよー……」
「春香ちゃんこそ。さっき化粧直ししてたのに」
「あは、バレてた? でも感動したのは本当だよ」
「うん。有難う」

「お疲れ様、雪歩。軍服姿なんて新鮮だったよ。雪歩だって、格好いい服も似合うんじゃないか」
「有難う。でも多分、あれも真ちゃんの方が歓声上がると思うよ」
「うーん。そうかなあ、そうなんだろうなあ……ともあれ、素敵だったよ。本当にお疲れ」
「うん」

137: ◆3feiQFueVc 2013/01/10(木) 14:15:53.07 ID:/RcjOFebo

「萩原さん。……どう、おまじないのほうは」
「うん。今日、叶うんじゃないかな」
「……そう。答えは、出たみたいね」
「私はね……」
「それって」
「ううん、なんでもない……」
「……いい舞台だったわ。悲壮で……でも雄大で。どうしようもなく求め続けて、全てを無くして、それでも救われて」
「…………」
「それじゃあ、頑張って」
「ありがとう」

「……素敵だったよ、雪歩」
「有難う、美希ちゃん」
「そうだね……不安定で、儚げで危うくて、とっても素敵だったの」
「うん」
「とっても……」

138: ◆3feiQFueVc 2013/01/10(木) 14:16:29.01 ID:/RcjOFebo
 帰り際に、待ち合わせたわけでもなく、四条さんと二人きりになることができました。

「四条さん。私、いい舞台を作ること、できたでしょうか」
「……雪歩はどう、思いますか」

 そんなこと、決まり切っていましたけれど。
 貴女がいたから、なんて、そんな、不遜なこと、他の誰をも無視して地に打ち捨てるようなこと、言えるわけがなくて。

139: ◆3feiQFueVc 2013/01/10(木) 14:16:57.37 ID:/RcjOFebo

「でも、……初めてでした。初めて、あんなに満足のいくお芝居ができました」
「はい」
「静かで。まるでホールが自分の体になったようでした。私の一挙手一投足に、見てくださっている方達の呼吸がシンクロしていくような……」
「ええ、まことに、息を感動にのみ、緊張に詰め、そして感嘆に吐く、あの時確かに、貴女は舞台を一つにまとめ上げていました」
「とても、疲れました。もう腕も上がらないって、何度も思ったのに、ベルが鳴る、緞帳が上がる、明かりが点く、煙幕が焚かれる、どれ一つをとっても、私をいとも簡単に駆り立てて」
「……」
「そう……あれはきっと、多分、いい舞台を作ることが、できたんだと思います」
「…………」
「みんなのおかげで」
「……ええ」
「四条さん」
「…………はい」
「聞いて、下さい」
「はい」

140: ◆3feiQFueVc 2013/01/10(木) 14:17:38.73 ID:/RcjOFebo
 14

141: ◆3feiQFueVc 2013/01/10(木) 14:18:06.98 ID:/RcjOFebo

 お父さんと、食事をする約束をしました。
 レストランとかではありません。家で、けれど、それが食事以上の意味を持つことは、お互いにきっとわかっていて。
 なぜなら、私は、こう言ったのでした。

「お父さん。誕生日が過ぎたら、話したいことがあるの」

 そうしたら、父が、それなら二十五日に夕食を一緒に摂ろう、と。
 当日を外してきたのも、気を利かせてもらっているのでしょう。
 私は、それまでも、捨てるのか。

 捨てるのか。

142: ◆3feiQFueVc 2013/01/10(木) 14:18:34.88 ID:/RcjOFebo

 私の中で、四条さんは、まるで暴風雨のように、私の橋を薙いでは飛ばし、打ち砕き、飛沫が目に飛び込んできて痛い。
 私は必死に四条さんを抱きしめているつもりでした。
 でも四条さんはどんどん大きくなって、抱えようとしてもだめで、橋はまだまだ、容赦なく、虹色に砕けては落ちて消えていきます。
 私が必死に抱きしめていたものは何か冷たくてとげとげしく鋭い切っ先のものに変わっていて、鈍色の金属質な表面に刻まれた血の滴る傷跡は、『愛』と読めるような気がします。

143: ◆3feiQFueVc 2013/01/10(木) 14:34:54.75 ID:/RcjOFebo

 十二月に入って、クリスマスの一か月も前からずっと続くお祭りムードは一層その気配を

濃く。
 私はもうすぐ、十八歳になります。

144: ◆3feiQFueVc 2013/01/10(木) 14:36:08.31 ID:/RcjOFebo

「四条さん、あの」
「雪歩は」

 遮って彼女は、頬を膨らませます。

「雪歩はそうやって、いじわるをします」

 拗ねてみせるその表情がかわいらしく、いとおしくて。

「貴音さん」
「はい」
「クリスマスに、私と過ごしてくれませんか」
「ええ、はい、よろこんで」

146: ◆3feiQFueVc 2013/01/20(日) 16:58:58.26 ID:WoVxoinSo

四条貴音

月下望郷 返歌
『触れ得ぬ高嶺にひとり咲く姫』

147: ◆3feiQFueVc 2013/01/20(日) 17:00:57.71 ID:WoVxoinSo
・・・

「貴音さんのことで、話があります」
「ええ」
「……小鳥さんは、知っていましたよね」
「そうね。貴音ちゃんから直接聞いたわ」
「いつから……」
「春季ライブが、終わった後かしら」
「…………」
「関係ない、と、言い切ってあげることは、私にはできないわよ」
「はい」
「……雪歩ちゃんを断罪してあげるつもりも、ありませんからね」
「はい」

 それを結びつけるのは、ひどく安直に見えて、私は頭の中で、オッカムの剃刀を手にただ立ち尽くしていました。既に丁寧に傷で覆い尽くされたそれには、もはや切り捨てる場所など残っていないように見えたのです。

「それから、貴音ちゃんのスタイリストやメイクさんは、私や社長、プロデューサーさんが斡旋した、限られた人だけになったわ。向こうの用意したスタッフが気に入らないんだと思われないよう、注意を払いながらだけど。幸いみんな押しも押されぬトップアイドル、こちらで人員を用意するといってもそう不自然には思われなかったみたいね」

・・・

………………。

149: ◆3feiQFueVc 2013/01/24(木) 16:33:46.98 ID:DKSLAXCCo

150: ◆3feiQFueVc 2013/01/24(木) 16:34:18.63 ID:DKSLAXCCo

 私には、自覚がありました。
 私の容姿が、人にある種の特別な印象を与えうること。
 私には、人に影響を与えるだけの、何かを伝える力があること。
 自負がありました。
 あいどるという仕事を通して、持てる力を発揮することは、私にとっての誇りでもあったのです。

 事務所の皆も、それぞれに才気あふれる魅力的な者で、その中に身を置けることは、幸福だと、そう確信していま

した。
 こと萩原雪歩という少女は、私に子犬のようにころころとなついてくれて、妹のように、かわいく思っていたもの

です。
 だから、雪歩が興奮気味に、舞台の仕事が決まったことを私に報告してくれた時には我がことのようにうれしく思

い、ともに喜びを抱けることに感謝しました。折に触れ、彼女の稽古場に顔を出しもしました。

151: ◆3feiQFueVc 2013/01/24(木) 16:34:46.85 ID:DKSLAXCCo

 そして、私は打ちのめされたのです。
 私の矜持も、誇りも、その裏付けとしての努力も才も、ひたむきで、まっすぐな、彼女のそれの前に、書割と化し

て砕けて落ちたのです。
 侮っていたのではありません。
 見下していたのでもありません。
 それはまさしく、無心の、無我の。
 私はそこに、私のあろうとした姿を見たのです。

 第一回公演、私は忘我しました。鬼気迫る、とはあのことを言うのでしょう。ただ一心に愛を叫ぶ、それだけの少

女の姿に、私は心を打たれ、打ち抜かれ、砕けて落ちたのです。

152: ◆3feiQFueVc 2013/01/24(木) 20:03:32.74 ID:DKSLAXCCo

 雪歩に初めて会ったとき、儚く透き通るようなその姿に、まるで一夜の幻のような、人目を忍び、闇夜に咲く月下美人のような、そんな印象を受けたこと、それが誤りであったことをどうしようもなく確信しました。
 彼女は、スミレだったのです。
 露に濡れながら、私をとらえてやまない。夜をなべて、世をなべてなお立ち去り難い、一夜草であったのです。

 アキチョウジの花言葉は、『秘めた思い』
 楽屋に届けてもらうよう言づけて、立ち去ろうとしたところでプロデューサーにつかまってしまったのは失敗なのか、あるいは。
 

153: ◆3feiQFueVc 2013/01/31(木) 23:55:38.41 ID:VaKpwyGHo

154: ◆3feiQFueVc 2013/01/31(木) 23:56:24.38 ID:VaKpwyGHo


 定期ライブに向け、雪歩は新しい曲を受け取ったようでした。へっどほんを被った彼女は、美希と二言三言打ち合

わせをすると、やがて日の射すソファで舟をこぎ始めます。私は広げていただけの雑誌を棚にしまうと、足音を殺し

てそちらへ歩いていきます。
 薄氷を踏むように。
 雪の上を、歩くように。
 陽は優しく舞い踊り、彼女の柔らかな髪は光を散らして、氷の彫像もかくやと、肌は蒼いほど透き通り。
 隣にそっと座ると、そふぁはきぃとかすかに発条の音を立て、沈み込んだそのままに、ゆっくりと倒れこんでくる

雪歩の、震える手で、息をのむほどに軽い、その頭蓋を、捧げ持つように受け止めます。
 いとけない寝顔。時が私たちをおいていってしまうようでした。
 取り残されてしまえばいいと、私たちを残してすべて消え去ってしまえと、彼女の額に指を触れさせて、祈ります


155: ◆3feiQFueVc 2013/01/31(木) 23:57:05.86 ID:VaKpwyGHo

「雪歩、雪歩」

 陽が傾いておりました。ほんの瞬きの間に、蒼穹には明星が瞬きはじめています。

「雪歩、日が暮れてしまいますよ」

 目を覚ましてください。私を見て。
 目を覚まさないでください。

 私を、見ないで。

 ほにゃりと、とろけた瞳で私を見上げた彼女は「ぴっ」とぷれーりーどっぐのようにすくみあがると、転がって身を起こします。

156: ◆3feiQFueVc 2013/01/31(木) 23:57:37.21 ID:VaKpwyGHo

「ど、どうして、四条さんに膝枕されて……て?」
「最近少し、考え事をしていたようですから、起こすのも忍びなく」
「でも、なんで、その、膝……」
「だめでしたか?」

 意地の悪いことです。雪歩が、そのような質問に是と言えようはずもないことを知ったうえで、私はそんな問いをなげかけていたのでした。

「いやじゃ、ないです」

 窓の向こうに暮れなずむ、大きな夕陽を背負った彼女の表情は見て取れず、そのまま小走りに事務所を後にしてしまいます。

「貴女の髪は、柔らかいですね……」

158: ◆3feiQFueVc 2013/02/11(月) 23:10:32.13 ID:KF13POLwo

 次の日、雪歩が私に膝枕をしてくれました。
 その目に映る私は、 雑にゆがんだ眼をしていて、怖くなる。
 怖くて、目をそらす。

 舞台の後で、唇を奪われてしまった。

 ああ、なんてこと。
 触れてはいけなかったのに。
 手を伸ばしては、いけなかったのに。
 指先に触れたが最後、壊さずにはいられない、
 万華鏡だと、わかっていたはずなのに。

159: ◆3feiQFueVc 2013/02/11(月) 23:35:06.29 ID:KF13POLwo

160: ◆3feiQFueVc 2013/02/11(月) 23:35:59.82 ID:KF13POLwo

 貴女は腕にすがりついて請う、

「四条さんは私に触れてくれないですよね」

 壊してしまうのが、怖いのです。

 私はその手を取りかねて乞う、

「触れても、いいのですか」

 そのまま、雪歩は私の上にのしかかって、小さく震え、その頭を抱き寄せることを夢想する手のひらを潜り抜けるように、仕事に行きます、と、事務所を出て行ってしまいました。

「もっとさわってほしいのは、本当ですよ」

161: ◆3feiQFueVc 2013/02/13(水) 16:50:45.88 ID:LOiG++5/o

 † † †

「ああ、嗚呼、小鳥嬢……私は」

「…………」

 悼むような目で、彼女は私を見て居りました。鎧のように、貝殻のように、臆病に着込んだ服を脱ぎ、指呼の間に寄り

て醜い傷跡を突き付けます。半裸の私に眉ひとつ動かすことなく、彼女は私を見て居りました。

162: ◆3feiQFueVc 2013/02/13(水) 16:51:18.93 ID:LOiG++5/o

「私は、壊してしまいそうなのです。いいえ、もう壊してしまったのかもしれません。萩原雪歩は清廉であったというの

に……いいえ、そうではありませんね」

 一度大きく息を継いで、

「……小鳥嬢、この浅ましい傷、貴女には報せておかねばならぬと」

「……そうね」

「商売道具を手前勝手な事情で傷物としたこと、到底この場で償いきれるものではありません」

「いいえ……貴音ちゃんは、頑張っているわ。ちょっと頑張りすぎたくらい」

 それから、じっ、と、私の目を見つめてくるのです。
 いたたまれなくて、何度顔をそむけようと思ったことでしょう。
 けれど、その深い水面を思わせるアレキサンドライトの瞳は、私を縫いとめるようで。

 気づけば膝を折り、嗚咽をあげて居たのです。

163: ◆3feiQFueVc 2013/02/13(水) 16:52:01.34 ID:LOiG++5/o

 気づけば膝を折り、嗚咽をあげて居たのです。

「私は……私は怖いのです。この衝動が、身に滾るこの劣情を、情欲のままにあの白く穢れのない透き通った肢体に横溢せしめようとする自分が――!」

「……そうね、傷のことは、社長とプロデューサーさんに報告させてもらいます。いいわね?」

 私はただ、頷くしかありません。

「安心して。ほかの誰にも話しません。約束する。それから、お仕事にも支障がないよう、万全を尽くすわ」

 支障。刺傷。私傷――?
 傷跡が疼き、手首を握りしめて呻きます。
 赤黒い私の中身が、吹き出し、  な形をとって全身をはい回り、しゅうしゅうと煙をあげて皮膚を焼く、そんな幻視に、声にならない悲鳴を。

「ぁあ゛ぁぁああぁ    ……!」

164: ◆3feiQFueVc 2013/02/16(土) 16:36:09.15 ID:Pjn2WUACo

165: ◆3feiQFueVc 2013/02/16(土) 16:36:36.78 ID:Pjn2WUACo


 雪歩が、『ふぁうすと』を演ずると言います。
 私は、それを離れて聞いていました。あまり近づくと、また、触れてしまいそうで。

「四条さん」と。

 私の言葉を、聞いてください、と。彼女は、私に猶予を寄越します。
 そこに甘んずるまましばしののち、雪歩が茶席をたてたと聞きました。そのことを思い出したのは、彼女と二人きりでそふぁにかけている、この状況を乗り切ろうと、慣れぬ心算をめぐらしたからに相違ありません。

 頭が痛い。くちづけを交わしてから、ずっと、私を責めるようにしくしくと、頭の奥が痛むのです。

「頭……痛むんですか。季節の変わり目ですし、気を付けてくださいね」
「留め置きましょう、あまり心配をかけても、悪いですから」

166: ◆3feiQFueVc 2013/02/16(土) 16:37:03.75 ID:Pjn2WUACo

 季節は春、それからすぐ、つややかに金髪を揺らし、軽やかに駆け込んだ美希は、爽やかに宣言します。

「お花見をするの」

 桜は満開、あとは散って、腐るばかり。雪歩を見ていると頭痛が少し和らぐようで、妖艶に曲がる老桜の下、浅ましくも、彼女を盗み見ておりましたところ、紅茶の用意を終えた雪歩がこちらに目を向けたように思えて、胸が締め付けられるような心地に、桜を見上げ、蟠ります。

「貴音、これ片づけるから食べちゃってよ」
「ほう」
「どうしたの、おなか痛い? さすってあげようか」
「響、私は犬ではありませんよ」
「……ふーん」

167: ◆3feiQFueVc 2013/02/16(土) 16:37:31.46 ID:Pjn2WUACo

168: ◆3feiQFueVc 2013/02/16(土) 16:37:59.02 ID:Pjn2WUACo

 雪歩が倒れたという報せを受けたのは、出先でのことで、プロデューサーが止めるつもりであったそれを手違いで得た私の仕事ぶりといったらそれはもう無様極まりないものでした。
 帰りの道中に渋るプロデューサーを拝み倒し、雪歩の本宅へ寄せて貰います。

 どれほど情けない顔をしていたのでしょう、菊地真の口添えもあって、私は雪歩を見舞うことができたのでした。
 母堂にじっと見つめられ、いたたまれない心地ではありましたが。凛とした方です、恐らくは私のこの、穢い心の内も見通されたことでしょう。でなければ、そのまま夕餉の席に招かれるということもありはしないはずですから。

 丑三つ時、世に言う、草木も眠る、しん、と染み入るような夜気。
 蝋人形のような、死体の美しささえ放つ寝姿に手を伸ばしたりひっこめたりしている私の前で、雪歩が寝返りをうちます。
 それまでじっと、呼吸を疑うほどに静かに眠っていたのに、眉を顰め、歯を食い絞めて、身をよじり。

169: ◆3feiQFueVc 2013/02/16(土) 16:38:26.71 ID:Pjn2WUACo

「…………」

 それは、どれだけ続いたのでしょうか。
 薄く雪歩が瞼を開きます。濁った瞳に、意思の光はありません。額には珠と汗が浮かび、まつ毛が震え、凄絶な色香が匂い立つようでした。

「雪歩……、雪歩」
「四条、さん」
「魘されていたようですが、悪い夢でも」

 へら、と彼女は笑い、寝具の下からぞっとするほどに冷たい手を伸ばして、私の頬に触れ、ぺたぺたと撫でまわします。

170: ◆3feiQFueVc 2013/02/16(土) 16:38:54.15 ID:Pjn2WUACo

「いいえ、もう……大丈夫です」
「そうですか。それは、誠、重畳」
「申し訳ありません。私、あなたが倒れたと聞いて居ても立ってもいられず……」
「ありがとうございます」
「真も先ほどまで居たのですが……どうしても帰らなければ、と」
「あの……」

 雪歩が気遣わしげに、窓と私とを見比べます。聡く優しい子でした。私は、見舞いに来たには多少非常識な時間を指す時計を伏せると、雪歩に優しさめかして食事を勧めます。

「……はい」

 不思議そうに、でも素直に、彼女は頷きました。

171: ◆3feiQFueVc 2013/02/18(月) 13:17:50.07 ID:6nSeCBcQo

172: ◆3feiQFueVc 2013/02/18(月) 13:18:16.74 ID:6nSeCBcQo

 夜毎忌目見る君へ。

 萩原雪歩が私を呼びます。私が応えて手を伸ばすと、触れた端から、赤黒く、あるいは穢い紫に、濁り、凝って腐り落ちるのです。頬も、腹も、胸も、目玉も、髪も、手も脚も全て。
 その左腕には、私が付けた傷跡が生々しく走り、未だ塞がらず、彼女を苛んでいるのでした。
 眠れば、必ず彼女の声が聞こえます。遠く、水底から響くような声が。
 私は恐ろしく、眠りを避けるようになりました。
 雪歩が恐ろしかったのではありません。
 その声に、ずっと耳を傾けていたくなる、私の、あまりにも深い業が。
 自分の汚い欲望を全て見せつけてくる、その忌目が恐ろしかったのです。

「四条さん」

 それが夢なのか、現なのかさえ、もう模糊として。

「雪歩」

「四条さん、」
「雪歩……傷はもう?」

 その白絹の肌には、一筋の赤味もありません。傷一つない、凪いだ水面のような。凍りついた湖面のような。

「はい、すっかり」
「そう……それは、良いことです……」
「大丈夫、大丈夫ですよ、四条さん。もう傷は癒えました。四条さんが心配するようなことは、何もありません」

 私は何か、うわごとを口にしていたようにも思います。
 雪歩はそんな私の頭を撫でて、眠るように言ってくれました。
 彼女に許された心地で、私は意識を手放します。

173: ◆3feiQFueVc 2013/02/18(月) 18:07:37.40 ID:6nSeCBcQo

 それから、幾月が過ぎたのでしょう。雪歩は見事、大舞台を演じあげ、ささやかながら祝宴が催される運びとなりました。
 夢見心地のまま散会し、私の前には雪歩がいます。

「四条さん。私、いい舞台をつくること、できたでしょうか」

 それを、貴女は、私に問うのですか?

「雪歩はどう、思いますか」

 何か言おうとした彼女は、うつむくと一度かぶりを振って、強い瞳で見据えてきます。

「四条さん」
「はい」
「聞いてください」
「……はい」

 私と雪歩は、恋仲となりました。
 未だ私は、夢から覚めぬまま。

174: ◆3feiQFueVc 2013/02/18(月) 18:08:05.85 ID:6nSeCBcQo

「貴音さん。クリスマスに、私と過ごしてくれませんか」
「……ええ、はい、よろこんで」

 もう一月も前から、町はきらびやかな電飾に彩られ、赤や緑やとりどりの、星に氷花も燦然と、近い降誕節を待ちわびるようでした。

「まらなた」
「……え、何か、言いました?」
「……祈りの言葉だそうですよ」

 その日のことを、私はあまり覚えていません。雪歩が妙にはしゃいでいて、少し気になったような記憶がおぼろげながらに残るばかり。私はといえば、傷の幻痛が、視界ににじみ出るのを眺めているだけでした。
 それでも、その冷たく、すべやかな手のひらの感触は、ぺたりと。張り付いたように覚えています。
 誰も雪歩の誕生日を祝わない、晴れやかな冬の日を、手をつないで歩いていました。

 あるいは、それが夢であっても、私に確かめる術は、もう、無いのです。

175: ◆3feiQFueVc 2013/02/20(水) 11:21:19.11 ID:7y7ZKbWUo

177: ◆3feiQFueVc 2013/02/20(水) 18:03:27.03 ID:7y7ZKbWUo

「四条、貴音さん。事務所の同輩で……私の、大切な人です」

 私は何か口にして、頭を下げたようでした。大方、雪歩の言ったことを鸚鵡よろしく繰り返すだけの、能のないものだったろうと察しはつきます。
 彼女の尊父は、取り乱すようなことはせず、といって笑みをこぼすわけでもなく、十分ばかり黙って雪歩を見つめておりました。雪歩もまた、何も言わず、きっと見返しております。
 後に座していた母君が、ちらと私を見て、手招きをすると、音もなく立ち上がります。
 一礼して着物の背に続き、綺羅な襖絵の向こうに出ると、そこは坪庭を囲む回廊で、折しも降り始めた雪が、石燈籠の灯りを受けて儚と輝いています。

 前に一度、お目にかかりましたね。と彼女は言います。
 私は、その節は、と深く礼を致します。

178: ◆3feiQFueVc 2013/02/20(水) 18:04:18.94 ID:7y7ZKbWUo

「……あの頃から?」

 答えず、笑みを。母君は、無粋でしたね、と破顔します。

「貴女……ご家族は」
「くにに、妹たちが。……けれど、もう会うことはないやもしれません」
「そう。……一人娘でね、大きいばかりの家で、いろいろとうるさごともあって……あの通りの箱入りですけれど」

179: ◆3feiQFueVc 2013/02/20(水) 18:04:48.05 ID:7y7ZKbWUo

 † † †

「四条さぁん……」
「ええ」
「よかった……よかったよぅ」
「ええ。はい」

 腕の中で、雪歩がしゃくりあげ、涙を流します。

「お父さんずっと何にも言わないし……四条さんたちはいなくなるし……私、私もうダメだと思って」
「いらぬ心配をかけましたね。大丈夫……もう何も心配することはありません」

 適当なことを言います。

 家族……?

180: ◆3feiQFueVc 2013/02/20(水) 18:05:17.68 ID:7y7ZKbWUo


 次の日、雪歩と別れてから、不意に赤い色が見たくなって、私は首を切りました。
 浅ましくも、死なない程度に加減して。

 きっと、どうしようもなく無垢な白に中てられたのです。
 それは、私には強すぎる色でしたから。

181: ◆3feiQFueVc 2013/02/20(水) 18:08:27.17 ID:7y7ZKbWUo

 業務命令で、休養を命ぜられてしまいました。
 まあ、さもあらん、と、いったものではありますが。
 情けない思いで、家に一人、長椅子にかけておりましたところに、呼鈴の音がころん、と飛び込んでまいります。
 封筒を抱えた雪歩は、ゆるりと笑み、「お仕事、です」と。

「プロデューサーが、二人にって」
「しかし、私は……」
「ふふ」

 すい、と紐をとくと封筒を開き、中の企画書を取り出します。

「どうぞ」

 A4版二枚のそれは、名のある旅雑誌の紀行文のものでした。
 私と雪歩、二人の仕事で、九州地方の名勝を巡る、といった風情です。
 活動休止だとばかり思っていたところに持ち込まれたというのもさることながら、驚嘆すべきはその締切日。

「半年後……」
「はい。締め切りは、七月末日。この取材は、期間中、すべての業務に優先します」

 いたずらっぽくもう一度、ふふ、と雪歩は笑いました。

「旅に行きましょう、四条さん」

182: ◆3feiQFueVc 2013/02/20(水) 18:09:44.07 ID:7y7ZKbWUo

「旅に行こう、貴音さん。ふたりで」
「……はい」

183: ◆3feiQFueVc 2013/02/21(木) 21:53:14.74 ID:Hs7ywa9Co

 せっかくだから、待ち合わせをしよう。白い服を着て。そう言って、また雪歩は笑います。また。
 私はそれに、ほほえみを返します。

 渋谷駅、ハチ公前に、午前九時。
 九時では、まだ駅一階フロアのデパートも開いていません。人は、掃いて捨てるほど居りましたが。
 山手線を左回り、品川駅から空港快速。空港まで、ものれーるのほうが高いのが少し可笑しく思えます。
 東京国際空港から、黒を基調とした小さな飛行機に。福岡空港までは、二時間足らずで到着です。

184: ◆3feiQFueVc 2013/02/21(木) 21:53:42.14 ID:Hs7ywa9Co

「どうしましょうか」
「博多に行きましょう。駅近くの適当なところに宿をとって……そう、とりあえず、らぁめんを食すと致しましょう。せっかくの福岡なのですから」
「はい、ではそのように」

 空港からは地下鉄が接続していて、到着フロアからずっといった地下から、私たちは陸路へ乗り換えます。博多駅は空港からほど近く、目当てをつけておいた宿もすぐに見つかりました。
 乗合が後ろ側から乗る仕組みで、少し戸惑いましたが、問題なくらぁめん屋台を見つけることができます。

185: ◆3feiQFueVc 2013/02/21(木) 21:54:27.08 ID:Hs7ywa9Co

「どこですか、ここ」
「中洲のようですね。あと二刻ばかりすれば、屋台も動き始めることでしょう」
「四時間……」
「退屈ですか?」
「いいえ、あなたといれば」

186: ◆3feiQFueVc 2013/02/21(木) 21:54:56.06 ID:Hs7ywa9Co

 とはいえこの寒空に立ち放しというのも酷ですから、天神まで戻って大きな書店の影の、小さな喫茶店に落ち着きます。
 雪歩は書店で購入したたろっと・かぁどを広げたりめくったりして、私は、道玄坂で購入した煙草の箱をもてあそんでおりました。

「喫うんですか?」
「いいえ、はじめてです」

 全席喫煙席、という店先のすてっかぁが魅惑的だったのは事実ですが。
 店の中は、細く、高いテーブルが三つ、壁の二面につながってテーブルと、そこに適当な間隔をおいて椅子が並べられた、十数人も入ればいっぱいになるような小さなもの。そこに今は、三人ばかりの客の入りで、皆自分のことで忙しそうにしています。
 それはたとえば、スコーンをつまむことであったり、携帯端末を覗くことであったり、あるいは、紫煙をくゆらせることでありました。
 仄かに香草の香りがします。パナマを机に伏せた紳士のたなびかせる煙は、どこか望郷の念を抱かせるもので、私の鼻腔をひどくいたずらにくすぐります。

「……貴音さん」
「はい」
「新しく買ったカードは、人によっては香を焚いて清め、よくまぜたあと、多くは大アルカナのみにわけ、挨拶染みた儀式として、一枚引きます」
「ええ」
「塔が出ました」
「そうですか」
「幸先いいです」
「そうなのですか?」
「ええ、この場合は」

187: ◆3feiQFueVc 2013/02/21(木) 21:55:30.78 ID:Hs7ywa9Co

 一通り、意味を知ってはいましたが、私は思い出そうとはしませんでした。
 かわりに、アークロイヤルの封を切り、マッチを擦って、そうして、ひどくむせました。

「あまり、おいしいものでもないのですね……」

188: ◆3feiQFueVc 2013/02/21(木) 22:05:05.96 ID:Hs7ywa9Co

189: ◆3feiQFueVc 2013/02/21(木) 22:05:34.59 ID:Hs7ywa9Co

「長浜らぁめん、博多とんこつ、久留米らぁめん、と……つけめん、札幌らぁめん、魚介とんこつ、みそ、しょうゆ、一通りは巡りましたか。やはり屋台の本場だけあって、なかなかの賑わいでしたね」
「もう覚えてません」
「無理をすることはありませんでしたのに」
「してませんよ……する前に、全部食べてくれましたから」
「おや、そうでしたか」
「満足しましたか?」
「ええ。水炊きももつ鍋も大変美味でした。とりあえず、四条貴音のような記事を書くことはできましょう」
「え?」
「いえ。さあ、では西ですね」
「はい。長崎です」

 九州新幹線、に乗る前に、JR九州で久留米まで、とりあえずとばかり久留米らぁめんを、雪歩が妙な顔をしていたので駅の中の店で済ませます。

 今度は久留米駅から、全線高架、長崎まで、そのまま乗り継ぎ、浦上。

「かすてらと、一口香は簡単に手に入りましたね」
「はあ」
「あとは、天主堂と、……如何します?」
「そうですね、出島に行きましょう」
「はい、それではそのように」
「なんで先にお菓子買っちゃったんですか?」
「そのほうが、四条貴音っぽいとは思いませんか?」
「そんなものでしょうか」

 びいどろのおもちゃも購入したかったのですが、それは場所が少し違うとかで。フェリーで直接南下、火の国熊本。

「熊本……あまり詳しくありません」
「めろんぶっくすが、大層立派だそうですよ」
「はあ」
「あと、じぇーけーがやたらかわいいとか」
「うーん……高天原、行きましょうか」
「そうですね」

 天の逆鉾、幾度か抜かれてはそのたび刺しなおしているとかいないとか、神格も哀れなうわさがついて回るものですが、よくよく考えてみれば、

「萩原雪歩」
「はい」
「高千穂は宮崎です」
「あー」
「熊本に戻ったら、馬を食べると致しましょう」

 一週間ほどは、そうして忙しく飛び回っていました。

190: ◆3feiQFueVc 2013/02/21(木) 22:06:22.39 ID:Hs7ywa9Co

191: ◆3feiQFueVc 2013/02/21(木) 22:06:50.12 ID:Hs7ywa9Co

 何度目の夜のことだったでしょう。
 煙草の、のどに貼り付くような煙にも、大分慣れました。新しく購入したヴォーグを銜えて、海の見える窓に、身を預ける私のことを、私は後ろから見ています。

「貴音さん?」
「……雪歩、御覧なさい、布良星があんなに高く……私たちは、本当に遠くにいるのですね……」
「…………」

192: ◆3feiQFueVc 2013/02/21(木) 22:08:18.15 ID:Hs7ywa9Co

† † †

「おお、何だ、これは? 羽が……忌まわしい白い羽が……くそう、地獄の火が消える!
 悪魔ども! この、役立たずの、芋虫め! もっと炭をくべろ! 火を吐け! ああ、もうすぐだっていうのに! もう、すぐおれの勝ちだっていうのに!
 天使め、この 売め、そのツラ拝んで……あっ、あっ、お前……お前は、グヴェンドリン……きちがいの、生娘の、グヴェンドリン……!
 待て! 待ちやがれ、ファウスト! お前は約束の文句を口にしただろう! ああ、羽がっ! 鬱陶しいっ
 爺めっ、このっ、ひきょうな手を使いやがって! おれは勝ったぞ! 貴様の大事な博士様に、悪魔の約束を成就させたぞ!
 それを、それを、ちくしょう! 全部持っていきやがった! ちくしょう、ちくしょうっ……」

† † †

193: ◆3feiQFueVc 2013/02/24(日) 23:37:31.84 ID:8o/7yNbjo

「四条さん、海を、見に行きましょう」
「となると……原稿を、仕上げてしまわなければなりませんね」
「お仕事、ですから」

 まるでドレスか何かのように、雪歩が羽織ったシーツが、月明かりに晒されて銀色にきらめきを帯びて見えます。

「それから……プロデューサーに、文を認めると致しましょう」
「はい」
「今日のところは、眠りましょうか。雪歩」
「はい、貴音さん」

 羽と見まごうほどにふわりと軽く、雪歩は腕の中に舞い込んできます。

「煙草のにおい……」
「……」

194: ◆3feiQFueVc 2013/02/25(月) 00:03:27.08 ID:tvkmI4vQo

 翌日。原稿と手紙を、雪歩と並んで仕上げてしまいます。取材のことを、彼女と語らい、思い返す時間は、とても愉快な思いでした。

 さらに翌日、郵便局まで出向き、手紙を投函します。雄大な桜島は、その頂から今日も白煙を優雅にたなびかせておりました。

197: ◆3feiQFueVc 2013/02/25(月) 00:05:56.55 ID:tvkmI4vQo
――『前略――
    澄み切った空に、震える寒月も一層冴え冴えとして見えるこのごろ、いかがお過ごしでしょうか。事務所の者の活躍を目にするにつけ、心のふるさとである皆やあなた様に、遠く九州の地より思いを馳せております。先日などは、大雪で大変苦労されたのではないでしょうか。こちらでは雪はあまり降りません。甍を争う家並みに薄く灰の積もった光景も、風情のあるものでございます。
    このたび、私こと四条貴音、このような有情の裁量取り計らい下さいましたあなた様に、告白致したいことがありこうして筆を執った次第です。

    私は、かねてより萩原雪歩に懸想して居りました。
    彼女の見せるひたむきな情熱は、私の身も心も焦がし、焼き尽くすに余りあるものであったのです。あなた様も、私が特別雪歩を慕っていることにはお気づきでしたでしょう。そのことを斟酌下さり、この紀行文の依頼を寄越されたことと思います。

    一思いに申し上げましょう。私と萩原雪歩とは、枕を交わす間柄であります。
    熾のように不健全な私の想いは、彼女に煤のごとく、黒い手形を付けてしまいました。

    これ以上、白雪を泥とまぶすような蛮行、続けるに忍びありません。夜毎、獣欲に身を任せて薄絹を裂く私は、まるで泣いている、と、彼女は言います。

    雪歩は、それでも良いと言ってくれます。
    それで良いと。

198: ◆3feiQFueVc 2013/02/25(月) 00:06:23.71 ID:tvkmI4vQo
    恐らくは、私のこの答えも、人に身勝手と、逃避であると、揶揄されることでしょう。私とて、これを最良などとは思えません。私のわがままに雪歩を巻き込んでしまうこと、それを思うだけで臓腑が千々に乱れるのです。
    しかしそれをおして、そのいざないは魅力的でした。

    雪歩は、それでも良いと言ってくれます。
    それで良い、と。

    願わくば今一度、皆と歌など、と、そればかりが悔やまれます。

    海に映る小さな星、どうか、その波間に輝く小さな光を見て、雪歩のことを思って下されば、四条貴音、無上の幸いでございます。

    かしこ』

199: ◆3feiQFueVc 2013/02/25(月) 01:00:14.01 ID:tvkmI4vQo

 二日かけて、雪歩と語り合いました。朝に日に、なにくれとなく。
 不思議と心は凪ぎ、あれほど私を苛み、雪歩に汚れを付けた色欲も鳴りを潜めています。

 手に手を重ね、指を綾めて、いとしいその名を舌に乗せる、それだけのことが、こんなにもこの胸を満たす。

「雪歩」
「はい。貴音さん」

 夜が来れば、どちらともなく唇を合わせ、そうして夢でまた君と歌う。
 確かに私は、幸せでした。どうしようもなく。

200: ◆3feiQFueVc 2013/02/25(月) 01:00:54.14 ID:tvkmI4vQo

 ある日、街に出向いて地酒を一本、買い求めます。

「雪歩、月見酒は如何ですか」
「……そうですね、ご一緒します」

 朱塗りの杯になみなみと、とろみのある液体が雪歩の手から注がれます。
 くい、と小さな月を傾ければ、馥郁たるかおりが焼けつきながら喉を駆けました。

「さあ、雪歩。……あら、そんなに気張らずとも」

 杯を渡して、少しだけ注ぎ込みます。

 しばし矯めつ眇めつしていた雪歩は、やがて大きく瞬きをして、ぷっくりとした桜色の唇を酒器に触れ、くーっ、と杯を空けます。一瞬遅れて喉が、こくん、艶やかに上下して、彼女は小さくおくびを漏らしました。
 さぁ、と、まさしく桜のつぼみがこぼれるように、頬に紅が走ります。

「綺麗ですよ、雪歩」
「うふ……雪解けですぅ」
「……」
「……い、今のは忘れてください……」
「ふふふ……」

201: ◆3feiQFueVc 2013/02/25(月) 01:01:40.57 ID:tvkmI4vQo

「ふわふわです……」
「ええ」
「貴音さん……どうして、いつも泣きそうな顔で……するんですか?」

 私にくたりと凭れかかって、雪歩はゆっくりした口調で問いかけます。その目は半分閉じてとろんとして、気だるげな色香が酒気と相まって、くらりとめまいを覚えました。

「私のその慾は、雪歩に、似つかわしくなく、汚れを付けるように思えるのです」
「…………」
「……怒りましたか? 勝手な女と、紊乱極まりないと」
「いいですね……私、貴音さんに、汚されてたんだ……」

 くすくす、と、無邪気に笑い、瞳を閉じて囁きます。

「うれしい」

202: ◆3feiQFueVc 2013/02/25(月) 01:33:10.86 ID:tvkmI4vQo

 岬は寒風吹きすさび、眼下には錦江湾が、かすかにけぶる視界に広がります。
 携帯電話が、懐かしいめろでぃを奏でました。
 こうして連絡が来るのを、心のどこかで待っていたのかもしれません。

「はい」
「東京の平Pです」
「見晴らす丘より、四条貴音と申します」

 プロデューサーは、電話口で、こっそりと息をつきました。

「プロデューサー、私たちのために、ほうぼう手を尽くしてくださったことと存じます。心より、感謝を」
「……私は、そんな親切ではない。仕事だから」
「いいえ、プロデューサー、あなたはとても優しかった。……そうして、謝らなければいけませんね。私たちは、765プロに大きな損害を与えることとなるでしょう」
「四条貴音、あまりめったなことを言うものではない」
「ええ。けれど……認められない恋路の果てに、ひそやかに散る仇花など……雅なものではありませんか」
「……それは幻です。電気が見せる幻に過ぎない、四条貴音に敵などいない」

 言いづらそうに、その言葉を口にします。嘘ではないのでしょう。プロデューサーは確かにそう信じています。けれど、それが彼の思うすべてでもまた、ないことは容易にうかがい知れました。

203: ◆3feiQFueVc 2013/02/25(月) 01:33:44.45 ID:tvkmI4vQo

「敵など……ええ、居りません。けれど、幻であっても、まやかしであっても、私の見ることができるのはそれだけでしたから。
 ……萩原雪歩という幻は、とても美しく光を放っています。そう、正しく幻想的に」

 袖を引くので、雪歩に電話を渡しました。

「プロデューサー。はい、萩原雪歩です……はい、そのつもりです。素敵ですよね。……この海の底には、桜島の灰が、白く、静かに、積もっているそうです。
 私、考えてみたんです。そこってどんな世界なんだろうって。陽の光がゆらゆらと揺れる、そこかしこに小さな命の気配がする、けれど、静かに、優しく、降り積もる灰が、それをゆっくりと覆い隠していくんです。ゆっくり、ゆっくり……」

「え?」

「……ダメです。私は、ずっと、貴音さんと一緒です。だめだめな私ですけど……そう、決めたんです」

 一度言葉を切って、耳を傾けていた雪歩は、決して語気を荒げることなく、告げて、私に電話機を返します。ほほえみと一緒に。

204: ◆3feiQFueVc 2013/02/25(月) 01:34:16.09 ID:tvkmI4vQo

「あなた様? あまり雪歩をからかわないでください……私、恥ずかしい……」
「とにかく……三時間もすれば、私もそこに着きます。……プロデューサーとして、アイドルに命じます。今すぐ、宿に帰りなさい」
「おや……三時間。ふふ、随分と、足の速い。……私の手紙を、見て頂けたのですね。
 プロデューサー……いえ、あなた様……あなた様は、とても、優しい方です……ずるいことを言いましょう、あなた様。
 ええ、皆によろしくお伝えください……あいどるとして過ごした日々、何物にも代えがたい、私の宝物です」
「待て、待ちなさい、貴音!」

205: ◆3feiQFueVc 2013/02/25(月) 01:35:02.12 ID:tvkmI4vQo

「貴音さん」
「はい」
「愛しています……『行こうファウスト、地獄へ』」
「嗚呼、愛しい雪歩――『時よとまれ、貴女は美しい』」

206: ◆3feiQFueVc 2013/02/25(月) 01:35:52.64 ID:tvkmI4vQo

 落華。

 つないだ手の温もりと、身を切る冷たい風の中、ひらり、視野を横切る灰は、風花に似て。




 畢

207: ◆3feiQFueVc 2013/02/26(火) 03:16:39.21 ID:AORtwfCuo
おしまい