前回 美希「忘れてた想い出のように」 

1: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/16(土) 10:35:19.32 ID:bwJZNukvo


「おはよー」

「おはよう。ねぇねぇ、昨日のドラマみた?」

「みたみた、俳優の人カッコよかったよねー」

「夢に出てきちゃった~」

「それはないわー」

「……ヒドイ」

「あ、……ゴメン」

「いいでしょ! あの俳優好きなんだからッ!」



たわいの無い、ありふれた日常の中の何気ない会話が私の耳に届いてくる。

ごくごく普通の、どこにでもよくあるような光景が教室内に広がっている。



「おはよ、春香」

「……おはよ」



友達のあげはが朝の挨拶をしてくれた。

それを私はいつもとは違う声で返した。



「どうしたの?」

「……ううん。……なんでもないよ」



声に異変に気付いたのか、表情に気付いたのか、
あげはが私の変化に気付いてくれた。

目の下にくまでもできたかな、と思って目元を軽くこする。

昨日の夜もあまり眠れなかった。

色々考えて、色々と想い出して、色々と……


目の奥が熱くなってきてしまった。



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引用元: 春香「これからのきみとぼくのうた」 

 

THE IDOLM@STER MASTER ARTIST 3 01天海春香
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2: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/16(土) 10:35:58.70 ID:bwJZNukvo

あげはを交わして席に向かう。


「ちょっと、春香?」

「……っ」


大きく息を吸って、自分の感情を落ち着かせる。


「具合でも悪いの?」

「うぅん……っ……なんでもない」

「なんでもないって声じゃないよ……」

「……先生来るよ」


失った日のことを話したいけど、時間がなかった。


キーンコーン

 カーンコーン



「あとで、話を聞かせてね」

「うん…ありがと……」


あげはの優しさに触れて、少しだけ落ち着けた気がする。


3: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/16(土) 10:37:20.83 ID:bwJZNukvo

……




「――で、あるからして、ここで徳川家康が登場したんだな」

「出ねえよ! いつの話だ!」

「おい、教師に突っ込みを入れるとはいい度胸だな。明日の補習、覚悟しておけよ」

「天保の改革になんで家康が出てくんだよ!」


日本史の授業中。
先生が時空の流れを歪めたことに男子生徒が突っ込みを入れた。

周りからクスクスと笑い声が漏れる。


「……本当に出てこないのか?」

「あ、当たり前だろ」

「…………ア、ホントダ。……ふ、正解だ」

「……は?」

「試したんだよ、この中の誰がこの仕掛けた罠に気付くかをな。後で飴玉やるよ」

「そ、そうだったのか、いらねえよ」

「来週のテストに出るかもしれないから注意しておけよ。それでは、授業を続ける」

「いやいや、センセー、教科書を確認して『あ、ほんとだ』って言ったでしょー」

「言ってない」

「言った」

「おいおい、おまえたち。冬休みボケが抜けてないんじゃないかー? 精神が弛んでるぞ、まったく」

「責任転嫁するなよ、アンタが一番弛んでるよ!」

「ブフッ……」

「あはははっ」


笑い声が教室を包む。
先生と生徒のいつものやりとり。

それをどこか別の世界での出来事のように感じる。

私も先月までは一緒に笑えていたのに、今は同じ空間で違う時間が流れているような疎外感があった。

新学期の最初の授業。

黒板の文字をノートに写していたけど、内容が頭に入ってこない。


4: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/16(土) 10:39:28.56 ID:bwJZNukvo


「それじゃ、誰かに答えてもらおうか」

「……」

「新学期ということで、天海」

「は、はい」

「新学期関係ねえ!!」

「うるさいぞ、ホリオ。天海、復古的改革で最初におこなわれるとすれば何か?」

「倹約令です」

「そうだ。……庶民の娯楽に制限を加えたんだな。当時の歌舞伎役者が処罰を受けている」


一緒に勉強をして…いたところだから……

覚えてた……


「寄席に対する規制も厳しくしていた。
 アイドルの天海でいうなら、
 コンサートホールを規制して、歌を披露する場所が奪われていったんだな」


似たようなことを言ってる。


「しかし、今の時代でも歌舞伎が残っているのは、それを望む人が多いからだろう。娯楽はどの時代も必要不可ということだな」


同じ事を言ってる。


「それはそうと、天海の新年の番組、良かったぞ。……悪いけど、競演した女優さんのサインを――」

「授業しろっ!!」


授業とは関係の無い流れに痺れを切らした委員長が怒り、
軽く謝る先生のやりとりで教室内にまた笑い声が生まれた。

これも冬休み前と同じ光景。


先生が年始番組を褒めてくれた。

あの人も同じように褒めてくれたことを思い出してしまう。



あの番組の撮影日にはまだ、失ってなかったから。

今、あの撮影と同じように求められたら、同じように応えられるのかな……


5: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/16(土) 10:41:39.47 ID:bwJZNukvo

……




お昼時間の学校の屋上。


「新春といっても、まだ冬だよね」

「そうだねー、さむーい」

「……」


あげはと委員長の三人でお昼ご飯を食べることになり、私がここで食べたいと提案した。



「体を冷やすから、教室にしない?」


委員長が体を気遣ってくれる。

だけど、空が晴れてて綺麗だから。

冬の空は澄んでいて綺麗だから、少しだけ眺めていたい。


「その、委員長さんは……どうぞ」

「どうぞ、って、教室に一人で戻れって言ってるの?」

「うーん……そうじゃないけど」

「私には……聞かせられない話……?」


私の顔色を伺ってくる委員長。気配りができてクラスを纏めてくれる優しい人。

誰かさんに似ていて、少し落ち着くかもしれない。……メガネは掛けていないけど。


「とりあえず、ご飯を食べようよ」


私がお昼の残り少ない時間を無駄にしないよう、食事を促す。

話をするなら、ここがいい。


「ジャージ取って来るから、先に食べてて。……あげはと春香のも取って来ようか?」

「あ、それなら一緒に。春香、一人で食べないで待っててね」

「……うん」


1分で戻るから、と言って駆け出して行った。


「……」


空に視線を送る。


晴れていて私の体は太陽の光に照らされているのに、暖かさはあまり感じられない。


誰にも話せなかったこと。


あげはと委員長が心配して聞いてくれる。


何から話そう――

6: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/16(土) 10:44:18.96 ID:bwJZNukvo

―――

――





「わ、私、天海春香と言いますっ。よろしくお願いします!」

「初めまして。よろしくな、春香」


それは765プロダクションに入所した日のこと。


「春香は得意なこと、趣味や特技はあるか?」

「えっと……」


プロフィールの作成をするということで色々と質問を受けてたっけ。


「おかし作りとカラオケが大好きです! 今度お菓子を作って持ってきますっ!」

「う、うん。……カラオケな。……人前で歌うのが好きなのか?」

「は、はいっ。でも、本当はカラオケじゃなくて、ステージに立って歌ってみたいんです!」

「なるほど。アイドル志望はそれなのか」

「練習、一生けん命がんばってトップアイドルを目指します! よろしくお願いします!」

「おぉ……すごいエネルギーを感じる」

「えへへ、明るさだけが取り得だって友達にもよく言われます」

「充分な素質だな……なるほどなるほど」


紙にペンを走らせてメモをしていた。

覗き込んでみると……


「だ、ダメだ」


と言って隠されてしまう。

隠されると気になってしまう。


「私の事ですか?」

「そうだ。……春香だけじゃなく、他のアイドルたちのことも書いてあるから、一応秘密なんだ」

「……そうですか」

「それを、今書く方が悪いんだよな。……えっと、もうちょっと待っててくれ」


そして、私に隠すようにして何かを書く。


その仕草が可笑しくて、少しだけ緊張が解けたのを覚えている。

これから付き合っていく人なんだと思うと、なぜか安心できた。

これからのアイドル活動が楽しみになって。

たったそれだけの事が、私との距離を縮めてくれたようで。


私はこの事務所で頑張っていこう、と強く思った。


7: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/16(土) 10:46:46.30 ID:bwJZNukvo



――

―――



初対面の挨拶を交わしたのは去年の秋ごろ。

年が明けたから一昨年……

長いようで短い時間を共に過ごした。


「……」


涙は枯れたはずなのに。

頑張るって伝えたのに……


「すぅぅ……はぁぁ……」


大きく息を吸って、大きく息を吐いて。


それでも目に溜まった涙は引くことはなくて。


しずくとなって頬をつたい、流れた。



『はるか……の……えがお……すきだ……よ』



最後の言葉がずっと頭に響いている。



「春香……」

「……っ」


あげはがジャージを掛けてくれた。



「あ……ありがと……」

「大丈夫?」

「……うん」

「……」


二人が心配そうにしてる。


8: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/16(土) 10:47:53.64 ID:bwJZNukvo

もたれていいかな……


一人でも頑張ってみようと思っていたけど……



「大丈夫じゃない……みたい」

「……え……?」

「悲しくて……つらいよ」

「春香……」



ハンカチを取り出して止まらない涙を拭う。

年が明けた一週間は心に穴が空いたような感覚で、少しずつ傷が癒えていくのを待つだけだと思ってた。


だけど、学校であげはと委員長が気にかけてくれて、ありふれた日常を感じてしまったから、

世界はなにも変わっていないような錯覚になって。

事務所に行って、挨拶をしたら……返事をしてくれるような気がして……


でも、あの日の言葉を私は確かに受け取っていたんだから。

やっぱり、それは錯覚なんだって気付いてしまう。



「わたし……ね、……物心ついてから……」



冬の寒空の下。

学校の屋上で私は失った人のことを話す。



「身近な人を……亡くしたことがなくて――」



10: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/16(土) 10:50:12.64 ID:bwJZNukvo

―――

――




「プロデューサーさん! お菓子ですよ、お菓子! どうぞー!」

「ありがとう、春香。約束を守ってくれたんだな」

「約束?」

「作るって言ってくれたじゃないか」

「あれは約束の内に入りませんよぉ」


約束なんて大きなことじゃないのに、それでも彼は嬉しそうにしてくれた。

クッキーバスケットから一つ摘んで、出来を確かめた。


「色合いもいいな……市販で売ってるのと同じくらい上出来なんじゃないか」

「それは、食べてみてから言ってください」

「では、……もぐもぐ」

「ど、どうですか?」

「ん! 美味しい!」


子どものように表情を明るくして。

それがとっても嬉しくて。


「どんどん食べちゃってください!」


その表情をもっとみたくて、仕事中の彼に食べるのを進めた。


「ありがとう、春香」


押し付けがましい行為なのに、素直に受け取ってくれて。

その時の私は、あまり気配りができなくて。


「プロデューサー、のんびりしてられないですよ」

「もぐもぐ……そうだな。そろそろ行こうか、律子」


棘々した雰囲気が怖くて、あまり会話をしたことがなかった秋月律子さん。


「す、すいません。忙しいときに……」

「気にしないでいいよ、春香。……あと三つ、貰っていいか?」

「は、はい。どうぞどうぞ」

「プロデューサー」


強めに呼ぶことで、急かしているのは誰が聞いても分かった。

彼は私の作ったクッキーをティッシュで包んでポケットにしまった。


11: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/16(土) 10:53:16.56 ID:bwJZNukvo

「プロデューサー……クッキーのカスがポケットに残ったらどうするんですか?」

「……うるさいなぁ」

「うるさいってなんですか! 人が忠告してるのに!」

「後で食べよう。春香が作ってくれたクッキー、おいしいぞ」

「話を聞いてるんですか!?」

「それじゃ、行ってきます」

「は、はい。二人ともお気をつけて」

「い…行ってらっしゃいです……」


事務員の小鳥さんと私に挨拶をして、二人はケンカをしながら事務所から出て行く。

ケンカというより、律子さんが一方的に叱って、彼がそれを右から左へ流しているようだった。

でも、私にはそれが信頼関係の表れのように見えて。


「仲がいいですよね」

「うーん……いいっていえるのかしら」


あの頃は、律子さんを重点的にプロデュースを行っていて、私はレッスンの毎日だった。




そして、次の日。


「クッキーおいしかったわよ、春香」


事務所に到着して挨拶を交わした後、律子さんから感想を言われる。


「そ、そうですか、そう言ってくれると嬉しいです」


突然のことで、驚いてしまった。


「あ、でも……また作ってくれないかしら」

「?」

「仕事が終わって食べたから、少し湿気っていたのよね」

「わかりました、また作ってきますね!」

「よろしくね」


棘の無い、柔らかな笑みになっていた。

頼りない彼に対してだけ棘を出していたと、後から聞くことになる。


そんな、些細なことが嬉しかった。


急速に広がっていく世界が楽しかった。

12: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/16(土) 10:55:58.18 ID:bwJZNukvo



――

―――


キーンコーン

 カーンコーン



その彼が年の暮れに亡くなった事を話す。



あげはと委員長は黙って聞いてくれて、

お昼ごはんを食べ終わった後も、この寒空の下を一緒にいてくれた。


「予鈴もなったことだし、行こうか」

「……うん」

「……」


私は何も応えずに黙って立ち上がる。


「まったく、この三人娘はなにやってんだか……」

「あ、先生……」


日本史の先生が入り口から出てきた。


「ほら、これ飲んで体を温めろ」


委員長、あげは、私の順に飲料缶を放り投げる。


「おっと、ありがとうございます」

「少し寒かったんですよねー」


あげはと委員長がお礼を言う。


「天海、大丈夫か?」

「……はい。大丈夫ですよ」


プルタブを開けながらそう応えて、


「いただきます」


体を温める為に飲み込んでいく。


先生は彼に似ているところがある。


こういう、小さくてあたたかい気配りをしてくれるところとか。


「他の生徒には内緒な」


こういう、軽い口調でとても楽しそうするところとか。

13: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/16(土) 10:59:20.46 ID:bwJZNukvo

―――

――




「他のみんなには内緒な」

「……いい話だと思ったんですけど、内緒なんですね」


私の初仕事となるテレビ局へ向かう途中の車の中で、
彼のプロデューサーという仕事に就く動機を聞かせてもらった。

緊張していた私の気を紛らわせる為、会話をしてくれていた。


「いい話かどうかは知らないが、……人に聞かせることでも無いだろうからな」

「そんなことないですよぉ。もっと誇ってもいいと思います!」


「そうだよ、兄ちゃん」


「「 うわぁーッ!? 」」


突然聞こえた、後部座席からの声に私と彼は驚く。

運転している彼が車を左に右に大きく揺らした。


「に、にぃちゃん危ないよぉ!」

「お、落ち着きましょうプロデューサーさん!」

「う、うん……って、なにやってんだ、亜美!!」

「へへー、はるるんの初仕事を見物でありんす」

「ありんすじゃないだろ! ……って、亜美のスケジュールは……空いてるけども……! 遊びじゃないんだぞ!」


いまいち迫力の無い叱り方に声の主は悪戯っ子のように笑っていた。

彼は声だけを聞いて、真美を亜美と間違えていた。


「ずっと隠れてたの、真美?」

「おふこーす」

「あれ……真美なのか?」

「そだよ、まだ真美の声を覚えてないんだね、兄ちゃんはー。ぷんぷん」

「わ、悪い」

「いやぁ、いきなり兄ちゃんが語りだしちゃって、出るタイミングを失ってたでござるよ。ニンニン」

「キャラを固定しないとダメだぞ。……こんな狭いとこ、よく隠れられたな」

「窮屈だったよー。首や肩の関節が悲鳴をあげててね。やれやれですわ」


家事を終えたばかりのお母さんのような仕草をしていた。

彼の話を聞いたことで仕事への緊張が解け、真美のアクシデントで程よい緊張もなくなった。


14: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/16(土) 11:22:29.17 ID:bwJZNukvo

……




仕事場となるテレビ局に到着して、スタジオへと向かう途中。


「はるるんはマーメイド♪」

「真美、おとなしくしてるんだ」

「ラジャッ」

「……」


お気楽な真美を叱る彼。


私の十八番となる曲をこれから歌える。
それが嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。



「765プロさんは合同控え室でお願いしまーす」

「分かりました」


スタッフさんに応えて、彼が私たちの先頭に立ちその部屋まで案内する。


「プロデューサーさん、ここに来たことあるんですか?」

「歌姫楽園は律子も通った道だからな。……なんて、大げさか」

「ふーん、それじゃ、真美たちも出られるかもしんないね」

「それはどうかな」

「どして!?」


彼は意地悪そうな顔をした。


「俺のいいつけを無視して、ここに遊びに来るような不真面目なアイドルには遠い番組だ」

「あぁっ! 兄ちゃんが真美をストライクするつもりだよ!」

「ストライク?」

「仕事放棄のことっしょ?」

「それをいうならストライキだよっ、意味も違うよっ、私たちをプロデュースしてくれるよーっ」


このオーディションは私がメインのはずなのに、付き添いみたいになっていたっけ。


控え室で賑わう私たちは、番組出演を競うライバルのアイドルたちに睨まれる。


「しずかにしような」


彼が右手人差し指を口にあて、小声で言う。


15: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/16(土) 11:23:52.74 ID:bwJZNukvo

「はるるん、髪の毛はねてるよん」

「え、どこどこ?」

「ほら、ここここ」


正面の鏡を確認しても、真美は後頭部辺りを指しているので分からない。

とりあえず、用意してあるヘアブラシで整えてみる。


「どう?」

「まだだよー。兄ちゃん、スプレーとかないの?」

「あるにはあるけど……」


彼が道具箱から幾つか取り出して台の上に並べる。

だけど、私がいつも使っているものはなかった。


「いつも使用してるモノ以外、使わないほうがいい……かな……?」

「……どうしよう」


一回ぐらいの使用なら全然問題は無いけれど、その時はたったそれだけのことで不安になった。

大事なオーディション。

よく知っている番組、出演者のレベルも高いという記憶があった。


今思えば、彼に対して不安があったのかもしれない。

身の丈に合わない仕事なのではないか。

彼が僅かにみせる、自信なさ気な言葉の一つ一つに揺らいでいたのか。


要は、彼を信頼していなかったんだと思う。


そんな、私自身が気付かない程の小さな不信を彼は一瞬で払いのけてしまう。


「春香、俺が梳いていいか?」

「え? えぇ!?」


男性に髪の毛を梳いてもらったことなんて今まで一度もなかった。

スタイリストさんも女性ばかりだったから、彼の提案に驚くしかなかった。


「兄ちゃんが?」

「あぁ、願掛けをかねて、な」

「願掛け……ですか……?」

「時間も無いから、どっちにするか決めてくれ」


スプレーを使うか、彼にやってもらうのか。

願掛けという言葉が引っかかり、迷いはなかった。

16: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/16(土) 11:25:39.34 ID:bwJZNukvo

「お願いします!」

「言っておいてなんだけど、俺でいいのか?」

「え、えぇー!?」

「兄ちゃん! はるるんが困ってるっしょー!?」

「そ、そうだな」


彼は鏡の前に座る私の後ろに立つ。

鏡を通して彼の表情を伺うと、真剣だった。


一つ、上から下へ、ヘアブラシが優しく流れる。


もう一度彼の顔を伺うと、さっきとは違ったいつもの表情になっていた。


このとき、私は彼を信頼したのだと思う。


そして、それが……私の……。


「願掛けってなんですか?」

「……律子のときも、似たようなミスがあってな」

「ミス?」

「律子な、今とは違う髪形だったんだ。ポニーってやつ。それで、あの時はスプレーすら忘れて……」


懐かしい想い出のように語り、頬を緩ませている。

真美は彼の隣で話の続きを急かしていた。


「そんでそんで?」

「今の春香と同じように、髪の一部がはねてて……。俺も律子も慌てて……な」


真美と私の中間の位置に顔を寄せて……


「他のライバルたちに借りるのは絶対に嫌だったから」


と小声で話し、


「俺がやると言ったんだ」


悪戯好きの子どものような表情だった。

いつの間にか私は周りの目が気にならなくなっていた。


「その時、律っちゃんはなんて言ったの?」

「歌詞の確認をしなきゃいけなかったから、背に腹はかえられないですね、ってさ」

「あはは」


律子さんらしくて、笑ってしまう。


17: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/16(土) 11:27:12.17 ID:bwJZNukvo

「春香、笑ってるけど、歌詞は大丈夫なのか?」

「……大丈夫……ですよぉ」

「自信なさそうだぞ……。真美、その鞄から歌詞カードを取ってくれ」

「あいさー!」


真美が一足飛びで跳ねて、鞄を探っていると、彼が一つの言葉を零す。


「春香で三人目か」

「?」


ひとり、ふたり、さんにん。

その間のひとりが誰なのか、その時はまだ分からない。

鏡に映った、彼のその瞳が優しかった理由は事務所に戻ってから知ることになる。

それが、私の……。


「はいよん、はるるん」

「ありがとう、真美」

「そのおかげかどうかは知らないけど、律子は合格したんだな」

「おぉー、だから願掛けなんだね」

「そういうこと」

「私、頑張りますね!」


持っているカードごと手を強く握って拳を作った。


「春香……それ……」

「あぁー!?」


くしゃくしゃになったカードを伸ばしながら、髪に触れる不思議な感覚を味わいながら、

忘れることのない、もう二度と味わうことのない、時間を過ごした。


18: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/16(土) 11:28:58.98 ID:bwJZNukvo



――

―――



キィー

 キィー


放課後、事務所に行かない私は公園のブランコに乗って軽くこいでいた。


「……私って……バカだなぁ」


電話をして、今日も行けないと伝えた後、ひとりここに来てしまった。

授業中に彼の仕事に対する意志を思い出したから。


キィー

 キィー


「……」

「よぅ、春香」


後ろから声が掛かった。

声だけで誰かが分かる。


「どうしたんですか、こんなところで」

「こっちの台詞だ。どうしたんだ、こんなところで」


日本史と私たちのクラスを担当している先生。

授業や学校以外では下の名前で呼ぶ。


「なにしてるんでしょうね」

「……」


なにしてるんだろ、私。


「チョウから聞いたぞ」

「何をですか……?」

「つらいことがあったって」

「……そうですか」


チョウとはあげはのこと。


「あげはが……」

「チョウってあだ名、浸透しなかったな……」


先生だけが呼んでいるあげはの愛称。

19: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/16(土) 11:31:21.45 ID:bwJZNukvo

キィ......

 キィ...


ブランコの勢いを緩めて、陽の傾いたオレンジの空を見上げる。

雲が夕陽に照らされて焼けていた。


「なにがあったんだ?」

「……」


あげはから詳しく聞いていないのかな。

それとも、私の口から聞きたいのかな。


私は右腕を伸ばして空の向こうを指差す。


「旅立っていきました」

「……」


人差し指が震えたので、そっと下ろす。


「私たちの、とても大切な人が」

「…………そうか」


いつもと変わらない口調で、いつもと同じ声で先生は応えた。


「……」

「私たちってことは、いつも聞いていた、事務所の人か?」

「…………そうです」

「……そうか」


私がアイドルとして名前が売れ出した頃。

事務所の中でイマヒトツ魅力を表現できていないと感じていた私。

そんな――どっちかというとごく普通な――私をアイドルとしてステージに立てるのは彼の力が大きいと、単純にそう考えていた。

アイドルの私をもてはやすクラスメイトたちにそれを伝えるには彼の存在を示す必要があった。

その時はみんなから謙遜だなんて言われたけど、彼の努力を蔑ろにされない為にも一生けん命に伝えた。

そしたら、想い人にされてしまって、それを否定したいけど、否定もできなくて。

色々と誤魔化す為に必死に混乱した言葉で伝えていたのも、いい思い出になった。


いい想い出……だったのに……いまは…………胸が痛い。


「私ってバカですよね」

「……」


先生は黙って、隣のブランコに腰を降ろす。

20: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/16(土) 11:33:43.85 ID:bwJZNukvo

「頑張るって…約束したのに……いつまでも…………影を追ってて……」


最後のとき、彼にそう伝えたのに。

まえに進めず、立ち止まって。


「バカでいいだろ、春香は」

「……っ」


キィー

 キィー


ブランコを大きくこいで私に語りかける。

私の知らない私を。


「前しか……みてない……から……転ぶんだ」

「……」

「……たまには……振り返って……自分の……居る……場所を」

「……」

「確認する……のも……必要じゃないかな」


行ったり来たりするブランコに合わせて声が上手く聞き取れない。


振り返ってていいのかな。


過去に囚われているんじゃないかって不安になって……

でも、過去という言葉で片付けたくなくて……


「先生、真面目な話なんですから、こぐのをやめてください」

「そうですよ」


あげはと委員長の二人がブランコを囲む手すりにもたれていた。

先生と一緒に来たのかもしれない。


「……おまえたち、隠れるの止めたのか?」

「いちいちバラさないでいいですから」

「……先生に頼んだのが間違いだったかな」

「チョウ、失礼だぞ」


キィー

 キィー


進めないのなら思い切って立ち止まってみよう。

進む為にも、振り返って大切な時間を一つ一つ辿っていこう。


最後の時間をみんなとそうしたように。

21: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/16(土) 11:34:25.51 ID:bwJZNukvo

「ブランコに……乗るの……久しぶりだなー」

「先生、前に乗ったのって10何年前なんですか?」

「2桁も遡らないっての。失礼だぞ、委員長」


キィ...

 キィ...


みんなに心配させているけど、
甘えていいよね。

いいですよね……


彼に語りかけるようにしたら、鼻の奥がじんと熱くなった。


22: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/16(土) 11:37:03.30 ID:bwJZNukvo

―――

――




「私、なんにもないところで転んじゃうんですよねっ!」

「……そうか」

「一日に一回は転びます」

「……足元をみないからじゃないのか」

「足元を見ていたら、今度は電柱や人にぶつかるんですっ」

「…………そうか」


デスクで作業をしている彼に、私は遠慮なく喋りかけていた。

相槌を打ってくれているだけで嬉しかったから喋ることを止めない。


「受け身の練習とかした方がいいのかなって、思います」

「……というより、転ばないようにした方がいいような気がする」

「それは難しいんですよ。こればっかりはしょうがないんですよね……」

「……そうか」

「同じミスばっかりしちゃって……私ってバカですよね」

「……」


企画書に記入していた彼のペンが止まった。


「何かあったのか?」

「……」


相談に乗って欲しいから喋りかけていた。

空いている彼の隣の椅子に座って、事務所には私と彼の二人しかいないから、寂しさを紛らわせる為に。

そしたら、気付いてくれた。


「あったというか、なかったというか」

「……ふむ」


作業を止めて腕を組み、背もたれに重心を預けて話を聞くといった雰囲気を作ってくれた。

23: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/16(土) 11:40:35.64 ID:bwJZNukvo

「その、新学期になってクラス替えをして……ですね」

「うん」

「私がアイドルをやってるってこと、みんな知っててですね」

「うん」

「特別扱いしてるといいますか……ですね」

「うん」

「掃除とかさせてくれないんですよっっ」

「…………そうか」

「忙しいだろうから、早く帰っていいよ、と委員長が言ってくれたり」

「うん」

「休んだ日のノートを写させてくれたお礼にお菓子を作ろうとしたんですけど、
 忙しいだろうからいいよって断られたり」

「……」


優しさが距離に感じてしまって、クラスメイトに近付いていけなかった。

だから、寂しかった。

以前、彼も似たような中学時代を過ごしていたと聞いたから。

だから、私は心置きなく話したのかもしれない。


「私も、それじゃ嫌だからって、強引に箒を取って掃除に参加したんですけど」

「……なんとなくオチがみえたな」

「お…オチってなんですかっ」

「ゴミ箱ひっくり返したり、集めたチリを分散させたり……とか。いくらなんでもそれはないか」

「…………」

「……あったのか」

「はい」


まるでみていたかのように答えられて、ショックを受けた。

24: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/16(土) 11:41:28.53 ID:bwJZNukvo

「私の、その……ドジを……最初は笑ってくれるんですけど」

「うん」

「何度も繰り返しているうちに……引きつった笑い声になって……」

「うん」

「だんだん鬱陶しがられるんですっっ」

「春香はまっすぐしか見ていないからな」

「……?」

「猪突猛進……とは違うけど、まっすぐ進むところがあると思う」

「……」


私の知らない私。


「それは春香の武器だから、それでいいと俺は思う」

「……」

「春香はバカなんかじゃないよ」

「……そうですか」

「提案としては、お礼のお菓子を作って、渡してしまえばいいんじゃないかな」

「……」


相手に迷惑かなって考えていたから、近づいていけなかった。

天井を見上げて、思い返す。


中学校までのいつものパターンとしては、そろそろ引きつった笑いになる頃かなって。


「……」

「わかりました。今日、さっそく帰って作ってみます!」

「……ん」


そして、彼は作業に戻った。


25: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/16(土) 11:44:28.11 ID:bwJZNukvo

次の日。


「おはようございまーす!」


事務所の扉を開けて挨拶をすると、給湯室から小鳥さんが顔を出してきた。


「おはよう、春香ちゃん。今日も元気ね~」

「えへへ、これくらいしか取り得がありませんから」

「ちょうどお茶を淹れたところなの。こっちでお菓子を摘んでって」

「ありがとうございます。でも、報告がありますのでっ」

「報告?」


いい事があったから、相談に乗ってくれた彼にいち早く伝えたかった。


「ほんと、亜美って食いしん坊なんだよねー。姉として悩みどころだよー」

「……亜美も同じこと言ってたぞ。……真美が勝手に亜美のおやつを食べたって」

「兄ちゃん、それはもう過去の事なんだぜぇ」

「……そんなこと言ってると、また同じ過ちを繰り返すぞ」

「それが生きるということなんだよ。業の深き人類には無理な話でさぁ」

「さっき読んでた漫画にある台詞か」

「うん、そうだよ」

「……反省も大事なんだ。そうやって人類は発展して……って、何の話だ?」

「だからー、真美のケーキを食べちゃった亜美に仕返しをするってはなしだよー」


彼は先日と同じように、作業をしながら真美と会話をしていた。


「……仕返しをしても何も生まれない。ここは姉として寛大でいるべきだ」

「…………カンダイって意味が分かんないけど、わかったよ」

「……よし。……今度、ケーキ買ってくるから、それでこの件は終わりな」

「ほんと?」

「……ケーキ以外でも、なんでもいいぞ」

「そいじゃあねー……あ」



考え込む真美と彼を挟んで目が合った。

デスクの傍に立って話を聞いているけど、彼は私に気付かない。


「……予算を大幅に超えるものはダメだからな」

「はるるんは?」

「…………どうして春香がでてくるんだ」

「はるるんは何が食べたい?」

「……ん?」


顔を真美のいる方向へ向けて、視線を辿って……ようやく私の存在に気付く。

26: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/16(土) 11:46:28.08 ID:bwJZNukvo

「い、いたのか春香……」

「はい、居ました。……どうして私に聞くの、真美?」

「みんなで食べたほうがおいしいかんね!」

「でも、私はなにもしてないよ……?」

「へぇ、独り占めするのかと思ってたけど、いいとこあるな、真美」

「そういうこと言っちゃう兄ちゃんはくすぐりの刑だっ」


手をわきわきとさせて彼のわき腹をくすぐろうとする。


「や、やめろっ」


ガタッと席を立ち、必死な表情で真美から距離を取った。

まるで苦手なものから逃げる子どものように。


「?」

「兄ちゃんはねー、くすぐられるのが苦手なんだよー」

「そんなわけないだろ。いい大人がくすぐりぐらいで――」


真美に諭している姿はいい逃れをしている様で……

密かに封印したものが解かれていくようで。

もう一度心の奥深くに抑える為に、私は隙だらけの彼のわき腹に手を伸ばした。


「こちょこちょ」

「だはっ……はるかッ!」


彼は体を大きく反応させた。

予想外の攻撃にビックリしたというより、本当に苦手だという反応だった。


「はるるんグッジョブだよ」

「なにしてるんだ! やめっ」

「意外な弱点ですねー」

「んっふっふ~」

「やめろっ、危ないから離れろっ」


真美と二人で彼と遊んでいると、


「プロデューサーさんの仕事の邪魔をしちゃダメよ」


小鳥さんに叱られた。

27: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/16(土) 11:49:11.34 ID:bwJZNukvo

「すいません」

「もうちょっとだったのに」

「なにがだ。……ふぅ」

「はい、どうぞ。……くすぐりが弱点だなんて意外ですね」


小鳥さんが彼のデスクの上に湯呑みを置きながら尋ねる。


「ありがとうございます。……他人に触られるという行為に慣れていない、のかもしれません」

「へんなのー」

「得意な人なんていませんよね」

「……」


普段触られない箇所だから、それは当たり前なのではないか、と不思議に思った。


「握手も苦手……とまではいきませんけど、恥ずかしかったりするんです」

「それはまた、ウブな告白ですね」

「どうして握手が恥ずかしいんですか?」


報告を忘れて、会話を楽しむ。

彼のことをもっと知りたいと思っていた。真美もそうだった。


「はい、兄ちゃん」

「……なんで、いま、真美と握手をしなくちゃいけないんだ」


右手を差し伸べた真美から目を背ける仕草が可笑しかった。


「それで、どうして恥ずかしいんですか?」


小鳥さんが私の疑問を再び投げかける。


「少し、変な話になりますけど……いいですか?」

「……変な話、ですか」

「お色気話?」

「そんなわけないだろ。この仕事に関わろうと思った、きっかけ……に繋がるのかな」

「それは、是非聞きたいですね」

「……あの日に聞いたことですか?」

「そう、春香と真美に話したこと。大した話じゃないんですけど……」


私の初仕事のとき、車の中で聞いた彼が内緒にして欲しいと言っていた話。

その時の事務所には4人しかいなかったから、他の人に聞かれることは無いということだった。

28: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/16(土) 11:52:23.30 ID:bwJZNukvo

「俺は小さい頃から偏屈で……」

「ヘンクツ?」

「素直じゃないとか、心が曲がってるという意味だな」

「兄ちゃんが?」

「そう、俺がだ」


その話はまだ聞いていなかった。


「一人っ子で、両親も働いてて……貧乏暇なしの家庭だった」

「……」

「やよいも『貧乏なんですー』なんて言ってるけど、俺からしたら羨ましくて眩しかったりするんだよな」

「やよいには妹や弟たちがいるから、ですか?」

「そう。……とは言っても、話を聞いただけで、やよいの家族にはまだ会ったことはないんだけど」

「……」


自嘲気味に笑う彼。

私たち3人は静かに彼の小さい頃の話を聞いていた。


「……偏屈だったから、当然友達もできない。人が離れていくから、人との繋がりも持てない」

「……」

「兄ちゃんが言ってた、『アイドル』はその時?」

「いや、それはまだ後だ。……中学校に上がってからになる」

「『アイドル』……?」


小鳥さんが首を傾げる。

彼はその『アイドル』に魅了され、この仕事に携わりたいと決心をした。


「それは別の話ですから。……それで、他人との関わり方を知らないから、ひとりぼっちだったと」

「……兄ちゃんの話だよねぇ、信じられないよぉ」


真美が腕を組んで疑いのまなざしを向けた。

私たちは彼が仕事場でも事務所以外の人たちと楽しく雑談をしていたのを見ている。

偉い人から彼と同じくらいの年齢の人、私たちの共演者、それは男女年齢を問わず、誰にでも。

だから、真美の気持ちがよく分かる。私も彼がそんな性格だったとは信じられなかった。


29: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/16(土) 11:54:26.77 ID:bwJZNukvo

「ひとりぼっちだから、触れ合いもない。もちろん、握手もしなかった」

「……」

「春香、手を見せてくれるか」

「?」


手相を見せるように、てのひらを差し出す。


「『たなごころ』といって、人のこころが『掌』に現れると昔の人は言っていたそうだ」

「……」


私の掌に、彼の手が重なる。


「こうやると、お互いの気持ちが伝わるってな」

「ほぉほぉ、……うん? それが兄ちゃんのくすぐりが弱いのと、どう関係があるの?」

「単純に、スキンシップが照れくさいってだけ」

「プロデューサーさんのこころ、それが相手に伝わるのことが恥ずかしい。ということですか?」

「……そういうことです」


小鳥さんに見抜かれた彼ははにかんで答えた。

私は掌に乗った彼の手をそっと握る。


「……春香?」

「お菓子を作ったんです」

「昨日の話の続きか」

「はい。……そしたら、喜んでくれましたっ」

「……そうか」


彼は嬉しそうな表情をした。

私はお礼を伝えるように、その手に力を込める。

律子さんのときも彼がいたから私はすぐに馴染むことができた。

本来ならもう少し時間がかかっていたのかもしれない繋がり。

彼がいることで、私の世界は加速して広がりをみせたと今でも確信している。


「ありがとうございます、プロデューサーさん」

「……俺はなにもしてないんだが」


引っ込めようとする彼の手を強引に掴む。


「春香?」

「プロデューサーさんが偏屈だったのは……小学生の時ですか?」


彼が影響を受けた『アイドル』は中学生に上がってから。


「もういいだろ、俺の話は……」


そう言って、手を引っ込めようとするけど、私は聞きたいから離さなかった。

30: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/16(土) 11:56:21.15 ID:bwJZNukvo

「は、春香」

「聞きたいです」

「どうしたんだ、今日は……」

「……」


今思えば……

聞いておきたかったのかもしれない。


「あれ、兄ちゃん顔が赤くない?」

「だから、照れくさいんだって。……仕事に戻らせてくれ、春香」

「変わるきっかけがあったんですよね?」


それでも私は食い下がる。


「続きはテレビ前のソファでしましょうか」

「そだねー。ピヨちゃん、上の棚にあるまんじゅう食べていいー?」

「どうして知ってるのかな~?」

「亜美とお宝捜索したんだよーん」


小鳥さんと真美が私の目的に同意して、くつろげる場所へと移動した。


「近所に、知り合いのお姉さんがいたんだ」

「……お姉さんですか」

「俺たち家族が住んでいたのは、団地でな。近所にはたくさんの家族が暮らしていた」

「……」

「俺と歳の近い子たちはその人に面倒を見てもらっていたんだ」


彼は椅子に座って、語り始める。

私も座るように促され、腰を降ろしたけど、手は握ったままだった。


「面倒見がよかったんですね」

「いや……彼女は乱暴でガサツで、女性と呼ぶには難しい人で、
 子ども達と一緒に暴れまわってただけなんだ。だから、面倒見がいいとは違うな」


真面目に答える彼に、話の辻褄が合わなくて少し困惑する。


「兄ちゃんがあっちで話の続きをしてるよ!?」

「ずっと待ってたのにっ!」


「それでも、彼女の周りにはいつも5・6人の子供たちがいた」

「……」

「いつも楽しそうにしてた。一緒に駆け回ったり、悪さをして一緒に怒られたり、一緒に……悲しんだりしてた」

「悲しんだり……?」


一つだけ楽しそうというキーワードから外れている。

31: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/16(土) 12:00:04.35 ID:bwJZNukvo

「団地だから家で生き物は飼えないんだ。……大人に見つからないよう、隠れて野良犬に餌を与えたりしてた」

「……」

「……今思えば、大人たちが気付かないはずは無いんだよな」

「……」

「黙認という形で、犬と遊ぶ彼女達は見守られていたんだろう」

「……」

「俺は遠くから見ていただけだから、その犬がいなくなった理由を知らない」

「……!」


少し寂しそうな顔をした彼に反応するよう握った手に力がこもった。


「ひとりでフラフラと歩いていると、ひとつのお墓をみつける」

「……」

「そこにはみんなが呼んでいた、その犬の名前が墓標として刻まれていた」

「……」

「しばらく彼女たちが遊ぶ姿をみない日が続いたけど、そう日を置かずに笑い声が戻った」

「……」

「そんな人が俺の曲がった性格を叩き直したんだ」


知りたいと思った。


「そのお姉さんと何があったんですかっ」

「それより……手を離さないか、春香……?」

「まだ握ってたの、兄ちゃん?」

「いや、春香が……」

「スキンシップも度を越えないようにしてくださいね」

「何の忠告ですか、小鳥さん!?」

「プロデューサーさん、話の続きをお願いします」


手を握っていれば彼の心の内が聞けるのではないかと、そう思っていた。


「何でこんな話になったんだ……。……えっと、俺は小学校中学年の時までひとりで遊んでいた」

「にぃちゃん……」

「本当に、可愛くないガキだったと思う。あの頃の思い出なんてほとんど無いんだよな……」

「……」


他人事のように言う彼に寂しさを覚えた。

32: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/16(土) 12:02:01.82 ID:bwJZNukvo

「小学校4年生のとき。学校が終わって、帰る途中の俺は彼女に呼び止められる」

「……」

「『おまえ、アタシたちと遊びたいのか』って聞くんだ」

「なんて答えたんですか?」

「『ううん』と言って、首を振った。近くに林や池なんかがあって、ひとりで探検していた方が楽しかったからな」

「……」

「彼女は『そうか』と言って去っていく」

「……」

「そして次の日、彼女は『おまえのせいでアタシが怒られたじゃないか』と言って俺に拳骨を浴びせるんだ」


乱暴でガサツな性格がわかった。


「要は、俺が一人で危ないことをしているから面倒を見ろ、と周りの大人たちに言われたんだな」

「……」

「『一緒に遊ばなくていいから、近くにいろ』って。それから、行動を共にするようになる」

「ドラマのようだね」

「……真美ちゃん、プロデューサーさんにとっては特別なことなんだから。茶かしちゃダメよ?」

「……特別なの?」

「俺の初恋だったから、特別な人なんだろうな」

「初恋ですかっ?」


小鳥さんが一番驚いていた。


「彼女も一人っ子で、3つくらい離れてたかな。部活をしてなくて勉強で忙しそうだったのを覚えてる」

「遊んでたのに?」

「彼女が小学生の時までは走り回ってたイメージだけど。制服を着てからは本を読んでたイメージなんだ」

「よく見てましたね」


小鳥さんが含み笑いで言う。


「いつも彼女が中心でしたから」

「……」


だから自然と目が行くのだと、彼の声がそれを物語っていた。


それは私も同じだったのかもしれない。多分、――彼女も。

33: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/16(土) 12:04:29.87 ID:bwJZNukvo

「そして、時間が経つにつれて、彼女の周りから子供の姿が減っていくんだ」

「どして?」

「引っ越していくから。最後まで一緒にいたのは俺だけになる」

「……」

「俺が中学に上がるまでほとんど毎日一緒にいたよ。
 お互いの親が遅くまで仕事をしていたから、交代して晩御飯を作ったりしてたんだ」

「奇妙な生活だったんですね」

「そうですね。奇妙な関係だったと思います」

「だから、プロデューサーさんは料理が上手なんですね」


その前の冬に給湯室で料理をしていた。
味見をさせてもらったら、とてもおいしかったのを覚えている。


「彼女と一緒にいるときはもう、勉強しかしてなかった。他にやることもないからな」

「……」

「そんな生活をしていたある日、おかしなことを言い出したんだ」

「……?」

「『楽しかった?』って」

「……」

「『なにが?』って聞いたら、『今までの生活が』って繋げるんだ」


それは別れの前の言葉だった。


「なんて答えたんですか?」

「『わからない』って答えた」

「……そのお姉ちゃんと一緒にいて、楽しくなかったの?」

「よく言うだろ? 失って初めて気付くって」


その言葉が今は痛い。


「お姉さんはなんて返したんですか?」

「『おまえが一人で居たいと思っていたから、アタシは見えない振りをしていたんだ』」

「……」

「『だけど、誰かと一緒にいて寂しいなんてことは無いはず。だから、あたたかさに触れてみろ』」

「…………」

「『それでもひとりで居たいのなら、それはしょうがない』と言って、勉強に戻ったんだ」

「……」

「俺は聞いたよ。『俺と一緒に居てどうなんだ』って」

「そしたら?」

「『退屈だったよ』と言って、丸めた教科書で俺の頭を叩いたんだ」

「……容赦ないですね」

「ちょっとショックだったから、新聞紙を丸めて反撃した」


意地悪そうな表情で、懐かしんでいた。

34: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/16(土) 12:06:27.15 ID:bwJZNukvo

「彼女も本気で叩きに来て、それから真剣勝負になったんだよな……」

「……」

「でも、その時初めて、彼女の言うあたたかさに触れたんだと思う」

「…………」

「そして次の日、彼女は引っ越して行く。俺に何も言わないで、な」


悔しかったのかもしれない。やられた、って表情だったから。


「彼女は時間をかけて、俺に大切なモノを教えてくれた。……と思っている」

「……なるほどぉ」

「…………そろそろ離してくれ」

「あ……。えへへ」


掌。

彼の想いが伝わったような気がした。


「どんな女性の方なんですか?」

「……乱暴でガサツで」

「いえ、性格ではなくて……。雰囲気というか、見た目というか」

「真と伊織を足して……って、真に失礼か……」

「……」

「男勝りな性格のくせに、髪の毛は腰の辺りまで伸ばしてて……。感情よりも先に手が出て……」

「……」

「3年近く一緒に居たのに、何も言わずに去っていく……。酷い人です」


他人を悪く言う彼は新鮮だった。

それだけ気を許している相手だということ。


「たっだいまー!」

「ただいま戻りました~」


噂をすれば影。

事務所の入り口から届く元気な声と穏やかな声に、少し緊張した彼を見逃さなかった。


「さ、さてと……仕事に戻ろうかな」

「その人と『アイドル』がいたから、プロデューサーという仕事に就いたんですよね」

「……そういうこと」

「そうですかぁ」


彼は平静を装って作業に戻った。

気付かない振りをしているのは、大変だな、なんてその時の私は思っていた。

35: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/16(土) 12:18:04.88 ID:bwJZNukvo



――

―――


気が付いたら、外灯に照らされた足元を見ていた。


陽は沈んで辺りは薄暗くなっている。


私はどれくらいの間、想い出の中に居たのかな。


「……春香、帰ろうよ」

「…………そうだね」


あげはの声に同意したのに、私は腰を上げなかった。

上げられなかった。


「……はぁ」


空気が私の溜息を凍らせて白く漂わせる。


「ねぇ、あげは……」

「……うん?」

「ノートを貸してくれたお礼に、お菓子を作ってきたときのこと、覚えてる?」

「あのドーナツね、よく覚えてるよ。あれが私と春香が友達になったきっかけだから」


彼がいたから世界が広がりをみせた。


「……それがどうかしたの?」

「うん……」


彼のおかげで、あげはと友達になれたんだよ……

それを言うことで、どうなるのかな。

彼の存在が私たちの中で大きいことを伝えて、何になるのかな。


「……」


顔を冬の夜空へと向ける。

そこには天の海に広がる無数の星たちが煌々と瞬いていた。


東の空にはオリオン座のベテルギウス。


「冬の大三角形だよね」


あげはが私の視線を辿り、同じ星たちを見つける。

36: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/16(土) 12:19:53.29 ID:bwJZNukvo

「……オリオン座は有名だけど、他は知らないんだよね」

「多分、あれがおおいぬ座のシリウス。そしてあれが、多分、こいぬ座のプロキオン」

「多分が多いぞ。自信を持って言おうな、春香」

「先生が送ってくれるって。帰ろうよ」


学校に行ったはずの先生と委員長が戻ってきた。


多分が多い……


頭がズキズキとしてきたので、人差し指でこめかみを軽く押す。


「本当に大丈夫か、春香?」

「……はい」


早く帰って休もう。

みんなに迷惑をかけているんだから、さっさと立ち上がって歩いていこう。

そうすれば、時間と共に痛みを忘れられる。

時間が経てば……自然と……この胸に空いた穴も埋まっていくのだろう……




――それでいいのかな?


忘れてしまってもいいの?


夢半ばで彼の人生は閉じてしまったんだよ?


私に出きること、いっぱいあったはずだよね?


あるはずだよね?


彼の夢を受け継いで、目的を忘れずに進むべきなんじゃないの?




「……っ」



幾つもの問いに答えが見つけられず、頭をズキズキと締め付けていく。


また、しずくが頬を伝い、地面に流れ落ちた。


両手で顔を覆って、大きく息を吐く。


私の傍に居てくれる三人に申し訳ない。



「……ごめんね……」



やっと出た言葉は、涙声となり、相手に届いたのかさえ分からなかった。


37: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/16(土) 12:22:18.29 ID:bwJZNukvo

―――

――





運命のあの日。



「……」



彼は事務所の入った建物の屋上で夏の夜空を見上げていた。


「……うーん、どうしよう」


私はどうやって声を掛けようかと、扉の奥で考えあぐねていた。


「……?」


すると、彼はてのひらを見つめ、一時の後、そのまま片手を空へ伸ばした。

まるで星を掴むかのように。


「なにをしているんですか?」

「……春香か」


いつもなら体を震わせて驚くところだけど、その時の彼は不意をついた私の声にも冷静でいられた。

変なところを見られたな。なんて、恥ずかしそうにすると予想をしていたのに。


「……ほら」

「……」


彼は私にも夜空に視線を送るよう促すだけ。


この日はいつもと違っていた。

いつもの彼ではなかった。


「あれが、夏の大三角形の一つ、こと座のベガだ」

「……」


彼の差す方へ辿っていくけど、私にはその星座が見つけられなかった。


「どれですか?」

「大きく瞬いてる三つの星は確認できるか?」

「えっと……多分、あれと……多分…あれ……はい。多分、確認できました」

「多分が多いな……。その西側の星、あれがベガなんだ」



もう少し星について勉強していれば、彼と会話ができたかもしれない。

彼が私に気を許してくれれば、彼が抱えていたモノを知ることができたかもしれない。

38: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/16(土) 12:35:01.47 ID:bwJZNukvo


「……織姫のベガ。掴まえられないよな」



そう言って、かざしていた手を静かに下ろした。


「……」


こと座のベガ、織姫と彼女を重ねたのだと思う。


「お疲れ様。どうだった、仕事のほうは」

「……無事、終わることができました」

「悪いな。急な用事が入って、一人で行かせてしまって」

「ひとりでも平気でしたけど……ラジオ、聞いてくれなかったんですね」

「……あぁ。ラジオ聞きながら仕事なんて……できないからな……」

「そうですよね」


出演したラジオ番組について、指摘があればしてほしかった。

そのことで、一抹の不安を感じていた。


それと、小鳥さんから聞いたことについて。


「プロデューサーさん……私なんかが聞いていいことなのか分からないですけど」

「なんだ?」

「その……社長と……なにか……あったそうですね」

「……」


慎重に聞くはずが、ストレートに聞いてしまった。

だから、彼は隠してしまう。


社長と揉めていたことを。


小鳥さんだけが僅かに聞いたという、二人の口論を。



「今後について、ちょっとな」

「……」



仕事のことだと勘違いしたから、それからは深く聞くことが出来なかった。


今思えば……今……思えば……


あの時が運命の分かれ目だったのかもしれない……


もっと早くに気づくことができれば。


私が彼にしてあげられることがたくさん……あったかもしれないのに……!


42: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/17(日) 21:02:30.01 ID:H1WPBXuto



――

―――



彼はどんな思いだったのだろう。


トップアイドルを育てたいという夢を果たせぬまま、空へと旅立っていってしまった。


私じゃなくても、事務所の他の誰かならそれは叶ったはずなのに。



「うぅぅっっ……ぁぁっ…ぁぁあぁああッ」



声と共に涙が零れていく。




どうしよう……わたし……もう……

ステージに立てないですよ……


どうしたらいいですか。


教えてください……プロデューサーさん……



43: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/17(日) 21:03:30.55 ID:H1WPBXuto

……






チャプン


足からゆっくりと湯船に浸かっていく。


「……ぐすっ」


鼻をすすって体を浴槽に沈めていく。


体が芯から温められる。


先生の心遣いがあたたかかった。



44: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/17(日) 21:05:21.33 ID:H1WPBXuto

……




「先生が料理!?」

「今日の委員長は本当に失礼だな。来週のテスト、楽しみにしてろよ?」

「生徒を恫喝してどうするんですか」

「……あ、春香」


浴室から出て、声のする方へ歩いていくと、先生が台所に立って調理をしている光景が目に入った。


「お風呂……ありがとうございました」

「……あぁ。大丈夫か?」

「……はい」

「大丈夫じゃないな」

「先生! 言葉を選んでください!!」

「う……」


あげはが怒った。

迷惑を掛けているんだから、そこまで気遣ってもらうのも気が引ける。



「……ごめんね……」


今日一日で何度、私はこの言葉を口にしたのだろう。


「春香……」

「……」

「家に帰っても、その様子じゃ部屋に篭って食事なんてしないだろ」

「……」


照明も付けずにベッドに寝転んで天井を見上げて…いたはず。

まるで予知をしているようで……なんだか……


「こういうときは、誰かと一緒に居て、あたたかさに触れたほうがいい」


どこかで聞いた言葉。

やっぱり先生は彼に似ている。

45: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/17(日) 21:06:11.48 ID:H1WPBXuto


「特製料理を食べさせてやるから、期待してろよな」

「……」


子どもっぽく笑う表情に胸が痛む。


「で、何をつくるんですか?」

「……このごぼうを使うんですよね……?」

「ただのきんぴらごぼうだけど」

「……」


トントントンと包丁がリズムを刻む。


先生と彼が重なる理由は――


なんて、そんなことあるわけ無いか……


46: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/17(日) 21:12:46.44 ID:H1WPBXuto



――

―――



社長と彼が口論になった原因を聞けずにいた私は、彼の横で星を眺めるだけだった。


今ならわかる。


きっと、彼が患っていた病気の事を報告したから。

みんなには黙っていて欲しい、と言ったのだと思う。

結局、私たちはその時が来るまで彼の病気のことは知らなかったのだから。


社長は基本的に私たちの意志を尊重してくれる人。
だけど、彼の考えに納得が出来なかったのかもしれない。
だから、言い聞かせようとして小鳥さんを不審にさせるくらいの口論になった。


今となっては、その辛く悲しい意志を責めることもできない。



「春香」

「はい」



何も知らない私は、彼の呼びかけに何の不信を抱かずに応えるだけ。


「昨日、勉強したとこ覚えてるか?」

「天保の改革、ですよね……?」

「そう、その改革。……庶民の娯楽に制限を加え、当時の歌舞伎役者が処罰を受けているってところな」

「……はい」


学校の勉強を見てもらっていた。

みんなで夏休みの間に勉強をするという、本来なら嫌になるような企画。

それでも楽しく過ごせたのは、彼と事務所のみんなが一緒にいたから。



「寄席に対する規制も厳しくしていたんだよな。
 アイドルである春香で喩えるなら、
 コンサートホールを規制して、その場所が奪われていったということになるのかもしれない」

「……」

「だけど、今の時代でも歌舞伎が残っているのは、それを望む人が多いからだろう。娯楽はどの時代も必要不可欠なんだ」

「……」

「演じる者、それを鑑賞して楽しむ者。伝える側と受け取る側の両方があって生まれるモノ」

「……」

「俺はそれを体験しているんだ」

「……?」


それが彼のプロデューサーを志す原点だった。

47: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/17(日) 21:15:27.64 ID:H1WPBXuto

「春香がアイドルを志した原点と似ているな」

「?」

「魅了する側と、魅了される側」

「あ……そうですね」


私は小さい頃、近所の公園でよく歌を歌っていたお姉さんと一緒に集まってきた人たちの前で歌ったことがあり、
それを褒めてもらった経験がアイドルを志した原点となっている。


「彼女のこと覚えてるか?」

「はい、プロデューサーさんの初恋の人ですよね?」

「……そういう覚え方されると困るけど、そう、その人」

「……」


彼の記憶を辿るのも好きだった。


「俺がこの仕事に携わりたいと思ったのは、とある『アイドル』がいたから、というのは話したな」

「……はい」


車の中で、隠れている真美と一緒に聞いた話。

それは彼が中学生のとき。

テレビで明るい笑顔で歌って踊る『アイドル』を見て、魅了されたと聞いた。


「そのテレビを見ている時、彼女も一緒にいた」

「……」

「食い入るように見ている俺に、『好きなのか、そのアイドル』と聞く」

「……」

「俺はその時が初めてだったから、『知らないけど、なんか凄い』と、輝いている姿を見つめていた」

「……」

「そして、ちょうど彼女が日本史の勉強をしていたところ。天保の改革、歌舞伎の話が出てきて」


 『演じる者、それを鑑賞して楽しむ者。伝える側と受け取る側の両方があって生まれるモノ』


「という、彼女のご高説を承ったわけだ」


意地悪なことを言いつつも、その表情は寂しそうだった。

その日の、その時の彼はとても寂しそうだった。


「俺はその『アイドル』の明るくて素敵な笑顔をみて、何かが変わった」

「なにかが……?」

「そのなにかは俺にもよくわからない」


彼は遠い記憶を思い出そうとしていたのかもしれない。
寂しそうに笑ったのは、忘れて思い出せなかったからなのかもしれない。

私は彼のことをよく知ることができなかった。

48: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/17(日) 21:18:10.77 ID:H1WPBXuto


「春香や、みんなの近くで応援できて、俺は楽しかったよ」


唐突に聞かされる彼の寂しげな言葉。


それが過去形だったのは彼の運命が決まっていたから。

彼はその先を諦めてしまったから。

ひとりでその時を迎えようと決めてしまったから。


「そのお姉さんと『アイドル』がいたから、プロデューサーさんは変われたわけですね」

「うん」


彼は誤魔化そうともせず、ただ素直な子どものように頷いた。


「偏屈で、人と触れ合えなくて、中身が空っぽな俺に、変わるきっかけをくれた『アイドル』」

「……」

「そして、俺の曲がった性格を叩きなおしてくれた彼女。二人がいたから、俺はここにいられるんだろうな」


私もその二人に感謝したい。

彼とめぐり逢えたんだから。


「なにかが変わったといっても、今までの生活が劇的に変化するということはない」

「……」

「だから、彼女が引っ越していって……寂しく感じた俺が取った行動は……」

「……」

「彼女の真似をすること」

「真似……ですか?」

「そうすれば、人が集まってくるのだと思った」

「……」

「口調も真似たりして……な……」


過去の話するなんて照れくさいな。と、頭を掻くものだと思っていた。

いつもの彼ならそうしていたはずだった。

だけど……


「元気にしてるかな……」


星を見上げるだけ。

その横顔は、やっぱり寂しそうで。


「プロデューサーさん」

「……ん?」

「私は――……」


私がその寂しさを埋めてあげられないかと思い、無意識に言葉を紡ぎそうになった。

封印するって決めたのに、彼の過去を知れば知るほど……

49: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/17(日) 21:20:09.72 ID:H1WPBXuto

「…………どうした?」

「あ、えっと、その『アイドル』って誰なんですか?」

「それはだな……」


まだ抑えていられた。抑えてしまった。

ちゃんと伝えていれば、何かが変わっていたのかもしれないのに。


「小鳥さん」

「えぇーッ!?」

「小鳥さんは俺の憧れだったりしないんだけどな。嘘だから」

「小鳥さんがプロデューサーさんの憧れのアイドルだったんですかーッ!?」

「いや、聞いてくれ春香」

「わわわ! これは重大ニュースですよ、重大ニュース!! みんなに教えなくちゃですよ!」

「待ってくれ、嘘だから!」

「嘘だとしても凄いことじゃないですか! ……え? ウソ?」

「小鳥さんがアイドルをやっていた、としてもだ。時間の計算が合わない……あれ、小鳥さんっていくつだ?」

「教えませんよっ!」


彼の背中が叩かれ、バシッと乾いた音が響く。


「いづっ、小鳥さん!?」

「今日はプロデューサーさんのオゴリですからね!」

「な、なぜですかっ」

「女性の繊細な部分に触れてはいけないんです」

「そうですか……。ついでに聞きたいんですけど、アイドルをやっていたのは本当ですか?」

「とっぷしぃくれっとです」

「貴音の真似をしなくていいですから、教えてください。春香の言うとおり、それって凄いことだと思うんです」

「そうですよ、小鳥さんっ」

「凄いって、何が凄いんですか?」

「……話をどこから聞いていました?」

「小鳥さんがアイドルをやっていた、としてもだ。の所からです」

「「 聞いてなかったんですか…… 」」


私と彼は期待した分の息を吐いて脱力した。


小鳥さんは彼を迎えに行った私を気にして屋上まで来てくれていた。

50: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/17(日) 21:24:04.60 ID:H1WPBXuto

その後ろにいる真美と一緒に。


「兄ちゃん、真美もイザカヤに行くかんね」

「どうしてだ?」

「ピヨちゃんたちとお食事するんでしょ、混ぜてよー」

「子どもが行く所じゃないっ」

「あ、私も行きます!」

「あのな、春香……未成年者は控えてくれないと」

「えっと、私が活動していたのは……もにょもにょ」

「ちょっと、プロデューサー! こんなとこで油売ってないでください! 仕事が片付かないじゃないですか!」

「う……律子だ」


扉の近くで律子さんの声に呼ばれた彼は出口へ向かって歩き出す。
そして、彼の周りが賑わい出す。


「真美ね、ホッケが食べたい!」

「なぜホッケ……?」

「ミキミキとお魚の話になってねー」

「お肴……?」

「醤油をかけて……うん、いいわね。私もホッケを食べよう♪」


真美の希望に小鳥さんが乗った。


「ホッケといったら、知床の羅臼が有名ですよね」

「北海道だよな。行ったことあるのか、律子」

「私じゃなくて雪歩がですよ」

「あぁ……あのロケか……」


みんなが並んで屋上から出て行く。
私はその場から動かずにその姿を黙って見送っていた。

すると、彼は振り返って。


「春香、どうした?」


気にしてくれる。
必ず気付いてくれると期待していた。それが届いて嬉しかった。

走って駆け寄り、


「ずるいですよね、プロデューサーさんって」


と、思わせぶりなことを言っても、


「……そうか」


と、笑うだけで、言葉の真意を探らず、
私のくすぐったい気持ちに気付いたのかどうかも分からなかった。


それを確かめる術はもうない。

51: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/17(日) 21:27:35.20 ID:H1WPBXuto

―――

――





私は先生の顔を見つめていた。


「春香、どうした?」

「……あの……先生」

「ん?」

「…その……」

「無理に喋らなくていいから、ちゃんとご飯を食べろ。せっかくチョウが作ってくれたカレーだぞ」

「……はい」

「こ、今度、料理を教えてください」

「いいですよ。その代わりに今度、委員長さんが私に勉強を教えてくれるということでどうでしょう」

「お安い御用です」


4人で卓を囲んでご飯をご馳走になっている。

先生とあげはが作った料理を一口ずつ食べていくと、胸に空いた穴が埋まっていくような気がした。

私はとても救われていた。


「先生、旦那さんは遅くなるんですか?」

「もぐもぐ……。あぁ、生徒が来てるって伝えたら時間をつぶしてくるってさ」

「……それはなんだか申し訳ないですね。……私たちは平気ですから、帰ってきてもらってください」

「若い子たちとコミュニケーションが取れないんだろ。放っておいていいよ」

「……」


あげはと委員長がバツの悪そうな顔をしている。

私もなんだか申し訳が立たない気持ちになる。


「そうだ、春香。……授業中にも言ったことだけど」

「……はい」

「ウチの旦那様が、春香と競演した女優さんの大ファンでな。サインを貰ってきて欲しいなぁ、なんて――」

「先生! 春香の立場を考えてくださいよッ!!」

「……わ、悪かったよ」


母親に怒られる子供のように謝る先生。

それは律子さんに怒られる彼のようで……

52: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/17(日) 21:37:42.16 ID:H1WPBXuto

「あの……先生……」

「さっきから何か言いたげだな。聞きたいことがあるならなんでも聞いてくれ」

「先生は……ずっとその髪型なんですか?」

「そうだけど……似合わないか?」

「えっと……」

「似合いますよ。日本史というより、体育教師って感じですけど」

「あぁ、分かる分かる」

「カレー美味いなぁ、ホクホクじゃがいも」

「……子どもみたい」

「おい、聞こえたぞあげは」

「それは禁句だよ、あげは」

「どういう意味だ、委員長。……教師という威厳なんてありやしない」

「そこが先生のいいところじゃないですか」


あげはと委員長が会話を楽しんでいる。

私は気になること投げかけ続ける。


「……いつからその髪型なんですか?」

「変なことを聞くんだな……。確か、高校に上がって短くしたから……」


ドクンと心臓が跳ね上がった。

ロングヘアだったということ。


「あの、料理をし始めたのって……いつくらいですか」

「髪はもういいのか? 小学校高学年の時はもう台所に立ってたぞ」

「そんな……男勝りな先生が……小学生の時から料理していただなんて」

「委員長さん、まだ間に合うよ。私だって高校に上がってから料理を始めたんだから。ね?」

「う、うん……私……頑張るね」

「そこの二人、明日補習な。他は休みだけどおまえ達は必ず、絶対に、何が何でも学校に来いよ」

「わ、私は関係ないのに……」


先生の周りはいつも賑やかで、生徒達が集まってくる。

53: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/17(日) 21:39:44.40 ID:H1WPBXuto

「『アイドル』に夢中な男の子のこと……知りませんか」

「……なにそれ?」

「男子生徒はアイドルに夢中ってこと?」

「…………はは」


委員長とあげはは私の言葉に困惑していた。

先生は苦笑いをしている。


「いたいた、そんなヤツ。バカみたいにテレビに釘付けになっててなー」


もしかして……と、思っていたことが……


「せん…っ……せい……」

「……春香?」

「その男の子に……黙って……引っ越していきませんでしたか……」

「……どうしてそれを…………――え」


先生は思い当たる節があるのか、息を呑み込んだようにみえた。


彼の得意だった料理が、先生も得意だったこと。

彼が人と触れ合いたくて、彼女の真似を始めたこと。二人の持つ雰囲気が似ていること。

彼と共通する『アイドル』がいること。

彼の初恋相手はロングヘアの彼女だったこと。

勉強内容と、アイドルとしての誇りを教えてくれたこと。


色々と繋がる点はあった。


彼の言う彼女は私の学校の先生。


だけど私にはもう、彼から聞いたお姉さんのことについては知らない。

だからこれ以上確かめる術はなくて……


「どうしたんですか、先生?」

「――いや、なんでもない」

「……っ」

「冷めないうちに食べよう。……もぐもぐ」

「さっきのはなんだったの、春香?」

「……ううん、なんでもない」


先生が黙ってしまえば、それはそこで終わってしまう。


54: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/17(日) 21:41:12.79 ID:H1WPBXuto

……





食後の一服をするといって、ベランダに出た先生。


あげはと委員長が後片付けをしてくれるというので、私も外に出た。



「……」


ガシュッ ガシュッ


親指で何度も着火させようとしていた。

着かないというより、着ける気が無いようにも見える。


「……どうした?」


振り返る先生の口にくわえられたタバコは火が着いていない。


「『あたたかさに触れてみろ』って言ったの……先生ですか?」

「さっき言っただろ」

「……いえ、その男の子にです」

「……さぁな」


シュボッ


煙草に火を着けた。

辺りにタバコの臭いが漂う。


「……悪い」

「…………いえ」


ただ、くわえているだけのようにみえた。


「周りからもやめろって言われてるんだけどな……バカみたいに意地張って……」

「意地……?」


タバコを持つその姿は、先生には似合わないと思う。


「春香、こっちに来い」


煙の流れを考えて先生の反対側へ誘導してくれた。

火の着いたタバコは右手に持っているだけで、煙は微かに流れる夜の風に乗っていく。

55: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/17(日) 21:43:15.30 ID:H1WPBXuto

「アタシは小さい頃から落ち着き無くて、よく『女の子らしくしろ』って言われてた」

「……」

「こんな性格だから、反発して、男子のような言動を取るようになって、周りや親を呆れさせてた」

「……」

「中学に上がってもそれは変えられず、アタシってバカだなぁ……なんて思ってた」

「……」

「だけど、担任の先生に言われた一言で、何かが変わった」


『俺はその『アイドル』の明るくて素敵な笑顔をみて、何かが変わった』

彼の言葉と重なる。


「なりたい自分になればいい、って。そしたら、反発してるだけの自分は誰なんだって思った」

「……」

「それからは本を読んだり、勉強をしたりした。……小学校時代、アホみたいに遊んでた分を取り返すようにな」

「…………それでも、子ども達と一緒にいたんですよね」


私は探るように問いかけたけど。


「…………」

「……」

「さぁ……な」


先生は時間を置いてはぐらかした。


「……」

「結局、変われてないのかもしれないな。タバコを吸い始めたのもそのせいなんだから」


口元にタバコを寄せたけど、躊躇いをみせて元の位置に手を置く。
その振動で灰が崩れ落ちていった。


「先生」

「……ん」

「話を、きいてくれますか?」

「……聞こうじゃないか」


56: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/17(日) 21:47:01.60 ID:H1WPBXuto



――

―――


「あれ、プロデューサーさんは?」

「んー……? にぃちゃんはあっち」


座敷の上で横になり、眠たそうにしている真美が出入り口を指差した。


焼き鳥の匂いが漂う小鳥さんたちのお馴染みといわれる居酒屋。



「春香ちゃん、プロリューサーさんを呼んできてっ」

「わ、わかりました」


頬がほんのりと赤く、少し呂律の回らない小鳥さんに従い外に出る。


扉を開けると少し離れたところで彼が電話を片手に話をしていた。


「……分かってるよ。……うん。今日もお疲れ様、また明日な」

「……」

「……おやすみ、千早」

「まるで恋人ですかっ」

「……ん? 今のツッコミはなんだ春香」

「なんだか、お互いを気遣うような雰囲気でしたよ」

「あまり飲みすぎないでください、ってさ」

「……そうですか」


やっぱり、いつもと違っていた。


pipipipipi

彼の携帯電話が鳴り、ディスプレイに表示された名前を読み上げる。


「……今度は響か」


少し嬉しそうに。


「……今日もお疲れさま」

「……」

「……うん。……分かった、明日聞かせてくれ」


嬉しい報告があったのだろうとは思う。
だけど、彼の寂しそうな瞳が何を捉えているのかは分からなかった。

憂う表情が私の心を変に動かしてしまう。

57: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/17(日) 21:49:00.69 ID:H1WPBXuto

「……いや、なんでもないよ。……小鳥さんたちとお酒飲んでるからだろう」

「……」

「……はは、さっき千早にも言われたよ。……響も夜更かししてないで早く寝るんだぞ」

「……」

「…………うん、おやすみ。また、明日」


普段とは違った優しい声で、その日の別れの挨拶を交わし、電話を切った。


「……どうしたんだ、春香?」

「小鳥さんがはやく戻ってこーいって、言ってます」

「それじゃ戻ろう。……って、春香はいつ帰るんだ?」

「そうなんですよね……、帰るタイミング逃しちゃって」

「いくら夏休みだからって、気を抜いてると体調を崩しかねないぞ」

「……はい」

「駅まで送っていくから、帰ろうか。……その前に、小鳥さんに言っておかないとな」


彼は入り口の扉に手をかけてあることに気付く。


「……真美を忘れてた」


苦笑いをして入っていく。


取り留めの無い日常のはずだった。

ずっと一緒にこんな時間を過ごしていれば、いつかは彼の抱えているものが分かると思っていた。



でも、その時間がなかった。



「春香、そこで何をしてるのよ?」

「なにか考え込んでるみたいだけど……」

「あ、いえいえ、なんでも……。小鳥さんが首を長くして待ってますよ」



遅れてきた律子さん達を促して私ももう少しだけ、真美と一緒に大人のお酒の席を楽しんだ。


58: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/17(日) 21:50:58.12 ID:H1WPBXuto

―――

――




「……最期を…看取ったのか?」

「……はい」


私はまた泣いていた。

どうして、今日はこんなにも泣いてしまうのだろう。


「その小さい頃のお姉さんの事、どんな風に言ってた?」

「……乱暴で……ガサツだと」

「…………そう…か」

「……っ」


鼻をすすっていると、先生は持っていたタバコを携帯灰皿に入れた。


「アタシの知ってる子と、春香の言う人が同一人物なのか、正直分からない」

「……」

「春香の話を聞いた限りでは別人だからな……」

「……でも、彼は……プロデューサーさんは、昔のお姉さんの真似をして人と触れ合ったそうです」

「……真似……?」

「子ども達の輪の中心に居るお姉さんの真似をすれば、人と打ち解けやすくなると……思ったんじゃないですか?」

「なにそれ……」


先生の声が震えたような気がした。


「そのお姉さんはその男の子と三年近く一緒に居たのに、別れの前日に『退屈だったよ』と言ったそうです」

「……はは…………はぁ」


苦笑いをして、浅く溜息を零した。


「……ごめんな、春香」

「…………え?」

「認めたくなかったんだ……春香の言っていた人が、アイツで」

「……っ」

「そのアイツが……逝ってしまったんだって……」


手すりに置いた腕に顔を隠してしまった。


59: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/17(日) 21:52:09.88 ID:H1WPBXuto

「ひとりで居ることが多かったんだ、アイツ」


彼が小さかった頃の話。

好きだった話が、今はとても胸を痛くする。


「家庭環境も、周りの環境も、普通の家庭に比べたら良いとはいえないけど、決して悪いわけじゃなかった」

「……」

「それに、いつも無表情だったわけじゃない。雨上がりの虹を見つけては、宝物を見つけたような顔をしていた」

「…………」

「夏には虫を捕まえてたり、秋には木の実を摘んでいたり」

「…………」

「冬には澄んだ空を眺めたいたりしていたんだ」

「…………」

「だけど、それは誰かと一緒じゃなく、ひとりぼっちで。
 それ以外は……やっぱり無表情でいて、それが普通なんだって顔をしていた」

「……」


さっき先生が言ったように、たとえ小さい頃の話でも、同一人物だとは考えられなかった。

彼は……誰かと居るとき、楽しそうにしていたんだから。

それは事務所の誰もがそう感じ取っていたはずだから。


60: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/17(日) 21:53:16.78 ID:H1WPBXuto



――

―――


「すぅ……すぅ……」

「よく眠ってますね」

「……あの騒がしさでよく寝られたよな」


呆れ声の彼の背中で、真美は幸せそうに眠っていた。

小鳥さんたちを居酒屋に残して、駅に向かって私たちは歩いていた。


「悪いな、春香。俺も飲んでしまったから、車で送ることができなくて……」

「気にしないでください。私が勝手に付いていっただけなんですから」

「……気をつけて帰るんだぞ」

「はい。大丈夫ですっ」


気遣ってくれる彼を安心させる為に明るく応えた。


「……春…か」

「……なんですか?」

「あ……いや……春香のことを呼んだわけじゃなくて」

「?」


そのときの私はあの言葉の意味が分からなかった。

今の私には分かる。


医者に宣告された、限られた時間が春までだということ。

無理をして、時間を削ってしまっていたのを誰に責めればいいのだろう。


61: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/17(日) 21:55:26.91 ID:H1WPBXuto


「春香」

「はい」


今度は私を呼んでいた。

前を見据えて、彼は語りかける。


「俺は夏、秋、冬と、巡る季節が好きなんだ」

「……?」

「夏は自然のエネルギーが溢れていたり、秋は静寂さが身に染みてなんともいえない気持ちになったり」

「…………」

「冬は空気が透き通って世界が綺麗に見えたりして、とにかく好きだったりするんだ」

「……あれ、春はどうなんですか?」

「一番好きだよ」


季節の事を言っていたのに、胸の鼓動が早まったのは私がバカだったから。


「どうして……ですか?」

「蝶々が羽化するから」

「……蝶々が好きなんですね」

「特別、蝶々が好きってわけじゃないんだけど……」


彼の背中で寝ていたはずの真美が目を覚ましたのに気が付いた。



「生き物にとっては辛く厳しい冬は毎年必ず訪れる。辛く厳しいのは俺たち人間だって例外じゃない」


「冬は訪れるけど、過ぎ往くから」


「過ぎ去った後に、必ず春は来るから」



つらい時間は誰にでも訪れる。


それは彼を失った私たちのように。


pipipipipi

彼の携帯電話が鳴る。

それをポケットから取り出した彼はそのまま私に差し出した。


「すまん、春香。真美が落ちるから出てくれ」

「……は、はい」


背中の真美は彼に気付かれない程の小さな欠伸をしていた。

電話に出ると、相手は亜美で、迎えに来たお父さんと駅に到着したことを知らせた。

もうすぐ駅に着くと伝えた私は電話を切って彼に携帯電話を返す。

62: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/17(日) 21:59:13.51 ID:H1WPBXuto

「プロデューサーさん、到着したそうですよ」

「そうか……。意外とはやく着いたんだな」

「真美……亜美がずるいって怒ってたよ?」

「亜美は仕事で忙しかったからしょうがないっしょー?」

「それを私に言われても困るんだけど……」

「お、起きたなら言ってくれないか、真美。ずっと背負ってるのも大変なんだが」

「真美も今日の仕事で疲れたから、もう少し楽をしてていいよね?」

「疲れてるのは真美だけじゃないんだけどな」


そういいながらも真美をおんぶしたまま歩いていく。


「最近、とっても忙しくなってきましたよね」

「……そうだな」


彼がプロデュースしてくれる活動を私たちなりに一生けん命、できる限りの事を精一杯やればいいのだと思っていた。
それが私自身のため、応援してくれるファンのため、支えてくれる彼のためになるのだと思っていた。


「兄ちゃん、今日の真美の仕事って、まこちんが良かったんじゃないの?」

「あのCM撮影は、爽やかな真だと少しイメージが違ってくるんだ」

「そっかそっか、なるほどね。……ところで、真美のイメージってなに?」

「躍動感、やる気、希望とか光のイメージに近いな」

「ふーん……」

「雪歩も一緒でしたよね、真美と近いイメージなんですか?」

「そうだな……。真美が黄色だとしたら、雪歩は白だな。……白は光の色なんだ」

「ヒカリ……ですか」

「そう、光だ」

「……ふぁぁ」


瞼を重たそうにしている真美は大きく欠伸をして、彼の背中に顔を沈めた。


「おい、真美?」

「……あと五分」

「もう駅に着くぞ、起きるんだ」

「亜美が手を振ってますよ」

「そうだな。……ほら、降ろすぞ」

「…………五分だけ……」

「五分も背負ってなくちゃいけないじゃないか、真美ぃ!」


彼の背中が居心地いいのか眠たそうにしている真美。

その真美を呆れながらも起こし続ける彼。

駆け寄ってきた亜美が彼にじゃれつく。


彼を中心にして楽しそうにしていた。

私はそんな光景が好きだった。

63: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/17(日) 22:01:53.18 ID:H1WPBXuto



――

―――


先生は火をつけたタバコを口に寄せ、


「すぅ…………はぁ……」


煙を吸い込んで吐き出した。


「終わり」


その言葉と一緒にタバコを携帯灰皿へ押し込んだ。

そして、ポケットからタバコの箱を取り出して、

クシャッと握りつぶす。

私はその動作を黙ってみつめているだけだった。


「もう止める。これが原因で病気にでもなったら、つまらないからな……」

「……」

「中に入ろう。風邪を引いたら損だぞ」

「……はい」


ベランダから室内へ移動すると、あげはと委員長がテレビを観ていた。


「そろそろ帰るか、おまえ達」

「そうですね……って、先生……タバコの臭い」

「いつもうるさいな、委員長は……」

「この消臭剤って先生専用なんですか?」


そう言って委員長は先生に消臭スプレーを差し出す。


「違…わないけど……」


それを受け取って自分にかけている。


「春香、この二人……真美ちゃんと雪歩さん……だよね」

「……うん」


テレビCMに映る二人の姿をあげはが確認をする。


「それぞれ違った雰囲気なのに、似たようなイメージだね」

「……そう思う?」

「うん……。ただの感だけどね」

「……」


毎日のように顔を合わせていた二人がテレビに映っている……

あれから私は事務所に行っていないから、みんなの状況がわからない。

64: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/17(日) 22:02:45.95 ID:H1WPBXuto


「先生、車で送ってくれますよね」

「……」

「面倒くさそうって顔しないでください……もう9時回ってるんですから、お願いします」

「……それもそうだな」

「春香とあげはも帰る準備してね」

「うん」

「……」


委員長の言葉を聞いていたけれど、私はテレビが映すバラエティ番組をボンヤリとみつめるだけ。


「もしもし、……生徒達を送ってくるから帰ってきても平気……え?」

「……?」

「旦那さんに連絡しておくんだってさ」

「それじゃ、私たちも家に連絡をしておいた方がいいね」

「……」

「春香……聞いてる?」

「……うん」


みんなに会いたいと思った。


65: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/17(日) 22:06:55.08 ID:H1WPBXuto

……




布団をかけて照明の消えた天井をみつめている。

不思議と何も考えられなかった。

あの日からずっと振り返ってばかりいたのに、今は何も考えられなかった。


疲れちゃったのかな……


「春香、狭くない?」

「……ううん、大丈夫」

「先生、わがまま言うようでアレなんですけど……」

「他に布団は無い。調達するの面倒くさい。寝ろ」

「……ですよねぇ」


結局私たち三人はあげはと委員長の提案により泊まることになった。

二人が遊びでこういうことを提案するとは思えないから、やっぱり私の為にしてくれてることなんだと思う。


「麻雀ってそんなに面白いんですか?」

「アタシもたまに旦那様たちと混ぜてもらってるけど、運が絡むから面白いぞ」

「……博打はダメですよ」

「してないっての。お喋りしながら卓を囲んでるだけ……。その雰囲気も楽しい」

「……」

「愉快な仲間たちと無駄な時間を過ごすのは最高の贅沢なんだぞ」

「……無駄なんですか?」

「有効活用しているとは言い難いな。何かを得るとも思えないしな」

「……それじゃ、どうしてそんなことをしてるんですか?」


あげはと委員長が好奇心をもって話しかけている。


「ルールを知ってる者同士、同じ時間、同じ場所にいないといけない。アタシたち大人はそれが難しいから集まると面白い」

「…………」

「それが、さっきも言った贅沢になる。気の合う仲間と一緒に居る時間は何物にも代え難いよ」

「……」

「仲間とは言っても、高校からの付き合いで、腐れ縁ともいえるけどな」

「今日は先生だけ仲間はずれですね」

「こっちの方が重要だろ。あっちはこれからいくらでも出来る。……というか、アタシは学校なんだから徹夜で麻雀なんて出来るか」

「そうですよね」


はっきりとは言わないけど、私のために一緒に居てくれている。

それを肌で感じていた。

66: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/17(日) 22:09:09.16 ID:H1WPBXuto

「……私たちも、先生くらいの歳になったとき、同じように付き合っていけてるのかな?」

「……」

「……」

「……あれ、春香? 委員長さん? 反応してくれないと困るよ……?」

「あ、あぁ、私にも言ってたんだね……春香だけに言ってると思った」

「先生、今日の委員長さん、なんだかヒドイですよね」

「いや、おまえもヒドイよ。アタシの布団を引っ張るな……!」

「あ、ごめんね、あげは……」

「ううん、大丈夫だよ」


私とあげはで一つの布団に入っていたから、あげはが布団からはみ出しているのだと思った。


「大丈夫なら、意味の無いことするなよ……」

「……はい」

「静かに寝ましょう、先生は明日学校なんだから」

「そうだね、おやすみなさい」

「おやすみ」

「ちょっと待て、あげはと委員長は学校で補習だって言ったよな」

「……」

「……」

「返事しろ」


ひとりでいたら、色々考えてしまっていたのかもしれない。

振り返ってばかりで前をみないでいた。


だけど……

そろそろ前を向かなくてはいけない……


忘れるんじゃなくて、過去にするんじゃなくて、私の糧にするために。


寂しい気持ちが大きいけど……

でも……



冬はすぎて春は必ず訪れるから。



そうですよね。

67: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/17(日) 22:12:44.54 ID:H1WPBXuto

「先生」

「……ん?」

「男の子と観ていた『アイドル』の名前を覚えてますか?」

「あぁ、覚えてるよ」

「ひょっとして『ことり』ですか?」

「いや、違う」

「……そうですか」


ちょっとガッカリしたりする。


「『みらい』って名前だよ」

「……」


聞いたことあるような無いような……?


「春香」


先生の声が暗い部屋の中で響く。


「アイツの……最期はどんなだった」

「……」

「……」

「ありがとう、と言っていました」


私もありがとうと伝えた。


たくさんのありがとうを交わした。


私はあの時を思い出して、また涙を零してしまう。

隣で静かに聴いているあげはに気付かれないように、そっと拭う。


「……そうか」

「……っ」

「ありがとう、春香」

「…ぅぅ…ッ」



『ありがとう、春香』

先生の声と彼の声が重なってあふれ出す涙を止めることができない。

68: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/17(日) 22:14:26.99 ID:H1WPBXuto

「ずっとひとりでいたアイツは何を考えてるのか分からなかった」

「……っ」

「だから、何をしてやれば楽しんでくれるのかも分からなかった」

「……」

「そんなアイツが……誰かに感謝するくらい、誰かと想いを交わせていたんだな……」

「…………」

「ひとりじゃなかったんだな……」

「……」


それからは言葉をつぐんでしまう。



先生の言葉を聞いて、私の中で何かが変わった。



「ありがとう、あげは、委員長」

「……え?」

「どうしたの、急に?」

「二人のおかげで、乗り越えられそうだよ」

「……」

「……」

「乗り越えるとは違うような……? なんていうんだろ、まっすぐ進んで行ける気がする」


先生の言葉を聞いて、二人が傍に居てくれたことを胸に受け止めて、みんなに会いたい気持ちを膨らませて。


「だから、ありがとうって」

「気にしないで」

「……うん」

「ありがとうございます、先生。ひとつひとつ大切なモノが繋がっていきました」

「……ん」



三人に感謝を伝えて、誓いをたてる。



「明日から、頑張ろうっと」



布団を深く被って最後に泣いた。



69: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/17(日) 22:16:40.27 ID:H1WPBXuto

―――

――





「くれぐれも、気をつけて」

「そんな、大げさですよぉ」


真美たちを見送った後の駅の改札前。

別れの挨拶を交わすと、彼はいつもより不安そうな顔だった。

心配してくれていた。


「あ、そうだ」


私はポケットに入っている、ある物を思い出して取り出す。

それをそのまま、彼に差し出した。


「どうぞ、今日のお礼です」

「……飴玉?」

「クラスの担任の先生が、よく飴玉をくれるんです。私もなんとなく真似をしてみました」

「……変な先生がいるんだな。……ありがと」


苦笑いをして、胸ポケットにしまうと、


pipipipipi

彼の電話が鳴った。


「……? もしもし、どうしたんですか?」

「……」


私には電話相手が誰なのか、すぐに分かった。


「……はい、まだ一緒ですけど……。……はい、春香。話があるんだって」

「……話ですか?」


内容は、もう時間も遅いから帰らないで小鳥さんの部屋か私の部屋に泊まっていったらどうかな、というものだった。

私はすぐにその提案に乗った。


「ありがとうございますっ。これから戻りますね」

「え!? 戻るってどこにだ春香!?」

「…………どうぞ、プロデューサーさん」

「……?」

「代わってくださいって、言ってます」

「……うん」


困惑している彼に電話を返す。

70: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/17(日) 22:19:12.08 ID:H1WPBXuto


夏休みなんだからお泊りは基本だよね、なんて気楽に考えていたっけ。


「……そうですか、そういうことなら」

「……」


屋上で見た寂しそうな表情は消えていた。

だから、私ではなく――彼女が必要なんだと無意識に感じ取っていた。


「……春香、なにか食べたいものがあったら先に注文しておきますよ、って」

「砂肝っ」

「……砂肝だそうです。……はい、それでは」

「こういう突然の誘いに対応できるのが夏休みの醍醐味なんですよね!」

「春香は家の人に連絡しておかないとダメだぞ」

「あ、そうですね」


私と彼は引き返して歩いていく。

まだまだ一日が終わらないことが嬉しくて、これから5人でたわいのない話が出来るのが楽しみでしょうがなかった。


次の日も、その次の日も、いつかは訪れる私たちの別れがくるまでずっと続くものだと思っていた。

その別れはもっとずっと先にあるものだと信じて疑わなかった。



親に用件を伝えて電話を切ると、彼が何かを考え込んでいた。


「どうしたんですか?」

「……社長にも声をかけたって、小鳥さん言ってたよな?」

「分かりませんっ」

「一応、電話をかけておくか……」


携帯電話を操作している姿をみていると、疑問がわいてきた。


「社長とケンカしているのでは……?」

「ケンカか……まぁ、間違ってはいないけど。……そんな小さいことに拘る人じゃないよ」


口論となった内容が小さなことだと勘違いした私は、この件を気に留めなくしてしまう。


社長も誘って、貴音さんも誘っていた。

私も千早ちゃんを誘ったけれど、断られる。


71: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/17(日) 22:21:08.46 ID:H1WPBXuto



歩きながら、彼は言葉を紡いでいく。


「春香」

「はい」




「冬は訪れるけど、過ぎ往くから」


「過ぎ去った後に、必ず春は来るから、好きなんだ」


「春に羽化する蝶々のように、羽ばたいていってほしい。なんて……思ったりな」




この先にある彼と私たちの別れ。


その別れの為に彼はその言葉をのこした。



72: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/17(日) 22:22:56.04 ID:H1WPBXuto



――

―――




翌朝。



「線香をあげに行こうと思っているんだけど、春香も行くか?」


という先生の誘いに、


「いえ、私はまだ行けません」


と応えた。


「そうか……」


まだ私の傷も癒えていない。

彼を失った痛みはまだ残っている。


「事務所のみんなと一緒に行けるまで、頑張りますから」


みんなで一緒に進みたいから。


「補習に行かないの春香?」

「うん……ごめんね」

「用事?」

「うん……とっても大切なこと」

「それが何か知らないけど、頑張ってね」

「うん」

「それじゃ、月曜日に学校で」

「うん」

「くれぐれも、気をつけろよ」

「ふふっ」


私を見送る3人が驚いていた。

そういえば、久しぶりに笑った気がする。

73: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/17(日) 22:26:47.83 ID:H1WPBXuto

「やっぱり、彼と先生は似ていますよ」

「あんまり嬉しくないな、アタシの真似してたんだろ?」

「そうですけど……」

「……まぁいいさ。アタシが変わればいいんだ」

「変わるってどう変わるんですか?」

「なりたいアタシになるってやつだな」

「それ、中学生か高校生の台詞ですよ」

「うるさいよっ」

「ちょっと、やめてください」


つま先立ちで怒りながら委員長の髪をクシャクシャにした。


「どうせアタシは見た目も性格も子どもだよ、ガキだよっ」


私よりも背の低い先生。

口調は男性そのものだけど、それが愛嬌にもなって生徒のみんなから愛されている。


「あ、春香……電車の時間」

「うん……」


改札に向かって歩こうとしたとき、最後の疑問が浮かんだ。


「そうだ、先生」

「なんだ?」

「くすぐりが弱いのって理由があるんですか?」

「くすぐり?」


私と真美が彼をくすぐったときその理由を聞いたけれど、いまいち納得できなかったのを覚えている。


「こちょこちょってすると必死に逃げたんですよ」

「何をしてたんだおまえ達……。まぁ……あれはな……」


言い難いことなのかな?


「あんまり笑わないアイツに、くすぐりをしたことがあってな」

「先生もですか」

「無表情すぎてイライラしてたんだろう。無理に笑わせてやったさ」

「……」

「そしたら、暴れて、アイツの肘がアタシの顔を殴ったんだ」

「え……」

「うわ……」

「なにをしてるんですか……」

「だから、弱いっていうより……トラウマになってたんじゃないかな」


傷が残ってないようでよかったと思います。

74: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/17(日) 22:39:48.61 ID:H1WPBXuto

「それじゃ、行ってきますっ」

「あ、待て、春香」


そういって、先生は胸ポケットからある物を取り出し、私に向かって放り投げた。

放物線を描いて私の両手の中へ飛び込んでくる。



「ありがとうございます!」



私は飴玉を両手で包んで、小さくて大きな心遣いにお礼を言った。



「応援してるから、頑張れよー」

「じゃあ、また来週ね」

「気をつけてねー」

「本当に、ありがとう!」



あげは、委員長、先生への感謝の気持ちを飴玉と一緒に胸に手を当てて浸透させていく。


そして、私は走りだした。

まだ電車は発車しないけど、あの場所へ行きたいという、はやる気持ちを抑えられなかったから。




巡る季節の中で

めくるめく時の中で心を探して

前しか見ぬバカでいよう。

胸に手を当てて

誓いをたてよう


冬は訪れる

そして、過ぎ往く


その先に待っているのは春。




『彼女は時間をかけて、俺に大切なモノを教えてくれた』


あなたも時間をかけて、私に大切なモノを教えてくれましたよ。



ありがとう、プロデューサーさん。




ありがとう。




75: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/17(日) 22:41:07.03 ID:H1WPBXuto



階段を駆け上がり、扉の前に立つ。


少し緊張するけど、早くみんなに会いたい。


ドアノブを握り締めて、事務所の扉を開いた。



「おはようございます!」


「この声は……」

「春香ちゃん!」

「あらあら、おはよう~」





「天海春香、今日からまた頑張りますっ」






終わり



77: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/03/17(日) 22:47:06.78 ID:H1WPBXuto

美希「忘れてた想い出のように」   ― プロローグ・前編

春香「これからのきみとぼくのうた」 ― プロローグ・後編


あずさ「嘘つき」          ― 本編


あずさ「約束を」          ― 補足編

娘「アイドル人生、スタートです!」 ― 完結編(未投下)



となります。

本編に興味を持ってくれたら嬉しいです。



春香と美希は重要な位置にいる設定なんですけど、
社長、小鳥さんを含めた765プロ全員が居ないとプロデューサーは乗り越えられないという意味を込めてプロローグを書きました。

纏める力が欲しい……orz