海未「……今回の事態は、ある意味事故のようなものだったんです」

海未「これまでこの地に訪れた人間が相手なら、凛の行為は何も問題は無かったでしょう」

海未「一度海の生物に身を許す段階にまで至ったのなら、他の何者がその身を求めようとも、人間は喜んで応じていました」

海未「しかし……ことりは特別な人間ですから」

ことり「私、龍宮城に染まりきらないうちに、命を分け与えちゃったんだね」

ことり「だから凛ちゃんも、私に何をしても許されると思って……」

海未「……自分勝手な話をするのなら……」

ことり「……?」

海未「……ことりが、私にだけ命を与えてくれていたこと……特別な繋がりのように感じていて……本当に嬉しかったんです」

ことり「……私も……海未ちゃんとの秘密ができたみたいで……」

海未「ですがそれがいけなかったのです」

海未「浮かれた私は注意を怠り、気付かぬ部分で隙を見せたっ」

海未「結果的にことりに大変な事態をもたらしたっ」

海未「……私は…………最低の乙姫です」

ことり「……」

引用元: 【ラブライブ!】ことり「恋宮殿に誘われ」海未「乙姫心で抱き締めて」 


 

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267: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 22:17:51.03 ID:c+vPkEvQ0
海未「…………今後、夜にことりの部屋に訪れるのは、控えます」

ことり「!? そんなっ」

海未「事の発端は間違いなく私です。この先同様の行為を続けることはできません」

ことり「そんな……やだよ……」

ことり「そ、そうだよ、海未ちゃんは私から生気を貰わないと駄目だよ」

ことり「海未ちゃんの体調だって私が生気をあげないと、また今までみたいに、」

海未「その甘えがいけなかったんですっ!」

ことり「っ!?」

海未「甘んじて受けていたから……ことりに甘えてしまっていたから、ことりを傷つけてしまった……」

ことり「違う……そうじゃないよ……」

海未「……どうあっても、最早私は、自分を許すことができません」

268: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 22:18:22.22 ID:c+vPkEvQ0
ことり「嫌だよ……海未ちゃん……」

海未「皆には、ことりに対して手を出さぬよう勧告しておきます」

海未「ことりが今まで通り、龍宮城で平和な生活を送れるよう……」

ことり「そんなのいらない……! 私、夜に海未ちゃんとお話できるのが一番、」

海未「いけませんっ……いけないんですよ、ことり」

ことり「だって、私……」

海未「……」

ことり「やだ……海未ちゃん……やだぁ……!」


 私がいくら言っても、海未ちゃんはこれ以上話を聞いてくれなかった。

 決まりきった台詞みたいに、私の体調を気遣う言葉だけを最後に残して、部屋から出ていってしまった。
 引き留めようとしても、立ち去る海未ちゃんは、私の方を見てくれなかった。

269: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 22:18:59.76 ID:c+vPkEvQ0
 海未ちゃんが去って、一人になってから。
 そっと部屋の障子を開けて、凛ちゃんと希ちゃんが入ってきた。


凛「ことりちゃん……」


 恐る恐るといった様子で、凛ちゃんが私の枕元に近付いてきた。
 希ちゃんは部屋の入り口で私たちを見守っている。

 凛ちゃんが悪くないことはわかってる。
 だから、申し訳なさそうにしている凛ちゃんを気遣ってあげたかった……けど……。


ことり「…………ぅ……」


 涙を堪えきれなかった。

 去ってしまった海未ちゃんのことが。
 特別な繋がりが途切れてしまったことが、もう夜に部屋まで来てくれないことが、とにかく寂しかった。


凛「ごめんね…………ごめんね…………」

ことり「うぅ…………ぅぅぅ…………」


 謝る凛ちゃんに応えることもできずに、私は泣いた。
 失ってしまったものの大きさに、泣いた。

270: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 22:21:21.41 ID:c+vPkEvQ0
―――


 モノを映すのは瞳ではなく心なのかもしれない。
 昨日まであんなに綺麗だと感じていた海が、今は輝きも煌めきも消えてしまったように味気無い。


ことり(…………凪だ)


 海面に表れる微かな波模様、凪。
 海底の世界では決して見ることはない。
 それでも、私の瞳に移る海は、凪いでいるようにしか見えなかった。


ことり(穏やか……静か……)

ことり(海って……こんなに寂しいものだったんだ)

ことり(……思い出した、気がする……)


 龍宮城に来る以前、陸で生活していた際にもそう考えていたように思う。
 海は、寂しいもの。

 海底に降り立って直に触れる海の世界は、陸から眺めるものとは別物のように感じていたけれど、やっぱり同じものなんだ。

271: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 22:22:15.52 ID:c+vPkEvQ0
 あれから。
 海未ちゃんは宣言通り、夜に私の部屋に来ることは無くなった。


ことり(…………また……今日も……)


 海未ちゃんのことだから、必ず言ったことは守る。
 わかっていても、夜遅くまでベッドの上で座り込み、来訪者を待ってしまう。
 待ち人はいくら待てども来ず、最後には悲しみに抱かれながら眠りにつく日が続いた。

 夜だけじゃなく、日中宮殿内で海未ちゃんと会う機会もずっと減った。
 日頃のお世話は自分以外の乙姫、凛ちゃんや希ちゃんに任せてるみたい。
 私が顔を出す機織り教室や調理場に姿を表すことも無くなった。


ことり「……あ」

海未「あ……」


 廊下で偶然擦れ違うことくらいはある。
 けれど、いつでも忙しそうにしている海未ちゃんは軽く頭を下げるだけで、すぐに通り過ぎてしまう。


ことり「…………」

凛「ことりちゃん……」

希「……海未ちゃん、忙しいから」


 みんなの慰めの言葉は悉く空を切る。


ことり(……他人みたいな態度……しなくても、いいのに……)

272: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 22:22:48.41 ID:c+vPkEvQ0
希「ほら、凛ちゃん」

凛「うん…………ね、ねえことりちゃん、中央の娯楽室にでも行こっ!」

希「面白いことしてたらあっという間にご飯の時間になるって」

凛「海未ちゃんがいなくても、凛たちでちゃんとおもてなしするから!」

ことり「…………うん……そうだね」

凛「ことりちゃん……」

ことり「行こっか。遊ぼ、凛ちゃん、希ちゃん」

凛「…………ごめんね、ことりちゃん」

希「凛ちゃん、謝ってばかりなのは……」

ことり「もういいんだよ。私は平気だから」

凛「わかった……じゃあ……元気出して、行こう……!」

ことり「うん」

凛「……うん……」

希「……」

273: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 22:23:31.18 ID:c+vPkEvQ0
―――


海未「……」

希「元気ないね。最近元気になってきてたのに。……ことりちゃんのお陰で」

海未「…………」

希「話題に出して欲しくないなら話さへんけど」

海未「……いえ……」

希「また無理して。嫌なら嫌って言わないの、悪い癖だよ?」

海未「……嫌なはずありません」

海未「ことりの話が嫌になるだなんて、そんなことは……」

希「せやろねえ。だからこそ毎晩出歩いとるんやろうし」

海未「希、知って……?」

希「と言っても、距離を置いたままじゃ意味ないよ」

希「海未ちゃんが逃げてるうちに、他の誰かがことりちゃんを求めて、ことりちゃんだって応じるかもしれへん」

海未「…………構いません」

海未「ことりの意思であるのなら……私は見守るだけ……」

希「強がっちゃって。そういうところが隙になっちゃうのに」

希「どうなっても、ウチは知らんからね」

海未「…………」

274: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 22:24:33.87 ID:c+vPkEvQ0
―――


 色彩が失われた暮らしの中、何をしても胸に響かない。
 せめてもの癒しになったのは、中央区画の大浴場だけだった。


ことり「はぁ…………」


 自然と声が漏れる。
 嘆息なのか、諦観なのか、心と裏腹に体が弛緩した合図なのか……どうでもいい。


ことり(入浴中、やっぱりみんな私のことを見てる)

ことり(なのに前と違って、誰も私の方に近付いてこない)


 宮殿の住人たちは海未ちゃんの代わりとばかりに、毎日の世話をより積極的にしてくれるようになった。
 だけど入浴中だけは、私を避けるように距離を置いている。


ことり(こういう場所だから、私と肌で触れ合うようなことを避けるようにって言われてるのかな)

ことり(……海未ちゃんが、言ったのかな)


 私の身を案じての勧告なのは間違いない。
 日々の触れ合いが無くなっても、ふとした瞬間に海未ちゃんの優しさを感じる。
 その度に、腫れ過ぎて過敏になってしまった私の心は、切ない気持ちでいっぱいになってしまう。

275: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 22:25:19.16 ID:c+vPkEvQ0
希「それ、お湯やないね」


 誰も側に寄ってこない浴場で、希ちゃんが私の側にやってきた。
 以前、大浴場で二人組に迫られたのを助けてくれた時と同じく、美しい肢体が私の目を引く。


ことり「希ちゃん、綺麗だね」

希「何が?」

ことり「ううん、何でもないの」

希「ことりちゃん、目から何か零れとるよ」

ことり「え…………あ……ホントだ」

希「涙は悲しい気持ちを大きくしてまう。お湯に流しちゃお」

ことり「……うん……」


 色々な思いを拭うつもりで、無意識に流れていた涙を洗い流す。

 海未ちゃんは私から距離を置くようになった。
 凛ちゃんは今まで通りのようで、やっぱり先日の出来事をどこか引きずっているようにぎこちない。

 だから、今の私相手に最も親しく相手をしてくれるのは、希ちゃんなのかもしれない。
 今の私にとって、一番気を楽にしたまま一緒にいられるのも……。

276: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 22:26:07.03 ID:c+vPkEvQ0
希「はい、ことりちゃん。かんぱーい」

ことり「うん。乾杯」


 お風呂上りに牛乳で喉を潤す。
 入浴後はどこかさっぱりした気持ちになれるのが精神的に救われる。


ことり「……あ」

希「あーあ、服にこぼしてるやん」

ことり「もったいないね」


 ボーっとしていて牛乳が胸元にかかっちゃった。
 液体が服に浸みこんでベタつく。
 私は襟を摘んで胸元に風を送りながら、どのくらい奥まで零れたのか確認した。


希「ことりちゃん隙だらけだよー」

ことり「え? なにが?」

希「べつにー?」


 軽く流そうとする希ちゃんの態度に、遅れて気付く。
 龍宮城における人間の立場を思い出して、濡れて肌に張り付いた胸元をそっと腕で隠した。

277: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 22:26:57.68 ID:c+vPkEvQ0
ことり「……おじゃましまぁす」

希「いらっしゃーい」


 お風呂上りに誘われて、希ちゃんのお部屋にやってきた。
 龍宮城で誰かの部屋に行くことはあったけど、夜に二人きりなのは初めて。
 ちょっと緊張しちゃう。


ことり「綺麗……というよりも、すっきりしてる部屋だね」

希「あんまり物が無いから。殺風景でしょ」

ことり「全然良いと思うけど……乙姫さんの部屋だからもっと豪華なのかなって思ってた」

希「物に愛着を持つ子も多いけど、ウチはあまりって感じかな」

希「はい、着替え。脱いだ服はちょうだいね」

ことり「ありがとう」


 汚れた服の替えを借りて着替た。
 私には少し早いような気がする大人びた服だったけど、とっても素敵。
 身に着けると、希ちゃんの匂いがする。


ことり(落ち着く匂い……まるで包み込まれてるみたいに安心できる)

ことり(安心…………今、私が一番、欲しいものなのかもしれない……)

278: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 22:27:28.60 ID:c+vPkEvQ0
希「どうなんかな。今のことりちゃん」

ことり「どうって? どうもしないし、普通だと思うけど」

希「普通……とは、言えへんやろ」

希「色々知って、色々景色が変わって、龍宮城での普通を無くしたんやない?」

ことり「……希ちゃんに言われると、そんな風に思えてきちゃった」

希「ウチが言わんでも同じだよ。ただ、自分のことは気付きにくいから」

希「誰かに言って貰ったり、支えて貰ったりしないといけない。それが人間って生き物やん?」

ことり「うん……」

希「なーんて。お説教みたいやったかな?」

ことり「そんなことないよ。私には、必要な言葉だと思う」

ことり「ありがとう、希ちゃん」

希「構わへんて。ことりちゃんのお世話が乙姫のお役目やからね」

ことり「……うん……そうだよね」

279: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 22:28:03.26 ID:c+vPkEvQ0
ことり「ね。お役目だから、希ちゃんも、みんなも、私に優しくしてくれるのかな」

ことり「それとも私が欲しいから、みんな優しくしてくれるのかな」

ことり「私の命が欲しいから……私の身体が欲しいから……」

希「センチメンタルやんな」

ことり「……ごめんね」

希「ええんよ。今はそういうことしか考えられへんやろうし」

ことり「……どうしたらよかったんだろ」

希「何が?」

ことり「私……凛ちゃんに……海未ちゃんに……どうするべきだったんだろ」

ことり「間違っちゃったのかな……私がしたこと、駄目だったのかな」

ことり「みんなと仲良くしたかっただけなのに……もっと、近くにいたかっただけなのに」

ことり「もう、私が誰かに近付いたら、みんなは我慢できなくなっちゃうから……私が望むような、普通の付き合い方はできないのかな」

ことり「もう、駄目なのかな……」

280: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 22:28:52.50 ID:c+vPkEvQ0
希「ことりちゃん、悲しい?」

ことり「…………ごめん……希ちゃんに愚痴聞かせるみたいになっちゃって」

ことり「希ちゃん優しくて、安心できるから、つい思ってること口にしちゃう」

ことり「……わからないの」

ことり「私、どうしたらよかったんだろう……これからどうしたらいいんだろう」

ことり「今まで通りにできないのかな……」

ことり「私は海未ちゃんと夜にお話できるだけで幸せだったのに」

ことり「もう……取り戻せないのかなぁ」


 はらはら、と、静かに涙が零れ落ちる。
 希ちゃんに話しかけているのか、独り言なのか、わからない。
 心情の吐露は涙と連動して、ころりころりと、止め処なく流れ出た。


ことり「……私、寂しいんだ」

ことり「幸せが逃げていって……大切な人が離れていって……」

ことり「寂しいよ……希ちゃん……!」

281: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 22:30:00.78 ID:c+vPkEvQ0
 私は無意識のうちに希ちゃんに甘えていた。
 甘えたい気持ちがあったから、気持ちのままを口にしていた。

 情けをかけて欲しかったのか、優しくして欲しかったのか。
 どうして貰いたかったのかは曖昧なまま、希ちゃんなら今の私を癒してくれる、受け止めてくれる……そんな風に漠然と思っていた。

 だから……そう。
 結果的に私の態度が希ちゃんをどう刺激してしまったのか、考えを及ばせる余裕なんてなかった。


希「…………あかんよー。あかんて、ホント」

希「海未ちゃんといい、ことりちゃんといい、隙だらけやん」


 結果的に、そうなってしまったというだけ。

 私は弱くなっている部分を曝け出した。
 曝け出すという行為が相手をどう刺激するのか……なんて、まるでわかるはずが無かった。

 弱さを露わにすると、人は寄ってくる。
 弱さの露呈、それはつまり、隙を見せる、踏み入る余地を与えるということ。

 一言で言うなら……誘惑。


希「せっかく我慢してたのに、そんな弱ってる姿見たらさあ……」

希「ウチ、ことりちゃんのこと……慰めたくなってまうやん……?」

282: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 22:31:05.90 ID:c+vPkEvQ0
 布擦れの音がする。
 俯いた私の視界に、希ちゃんの足が入ってきて……寝間着が落ちてきた。


ことり「……え」


 顔を上げると……目の前に立つ希ちゃんは、下着姿だった。
 扇情的な身体のラインと、蕩けるような視線が、私を見下ろしている。


ことり「…………の、希ちゃ、」

希「ウチが慰めてあげる」


 抱擁が私を包み込んだ。
 ゆっくりと、だけど逃げられないように、全身を使って。


ことり(あ………………)

ことり(……あ、たた、かい……)


 抱かれたと同時に、色々な疑問や不安が魔法みたいに一瞬にして消え去った。

 希ちゃんの胸に収められた私は、体中から力が抜けてしまったようにくったりしてしまった。
 身を包むこの優しさに浸っていたい……そんな気持ちだけが胸に残る。

 掻き立てられた欲望のまま、希ちゃんの裸の腰に両腕を巻き付けた。

283: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 22:32:15.46 ID:c+vPkEvQ0
 私を抱いた希ちゃんは、そのままベッドに倒れ込んだ。
 希ちゃんの身体に私が埋もれる。


ことり(なんでだろ……離したくない、って気持ちでいっぱい)

ことり(抱き締めて欲しい……抱きしめていたい)

ことり(もっと……もっと……)


 理性が消えていき、欲望が増していく。
 まるで凛ちゃんに迫られた時と同じような心境の変化。

 湧き上がる動物めいた欲望に困惑しながらも、腰を抱く腕に篭る力は強くなっていく。


希「ことりちゃん、そんなにギュってされたら動けへん。ちょっとだけ離れて?」

ことり「……や。離したくない」

希「うん。ウチも離すつもりはないから。でもほら、ね。こうした方が……」


 希ちゃんは一度身体を仰け反らせてから、再び私を抱きしめてくれた。
 私は安堵して顔を胸元に押し付けると、頬に触れる感触がさっきまでと違っていた。


ことり「……わ」

希「うふふ……ほぉら。これでもっとくっつけるようになったやん?」


 希ちゃんの胸元から下着が外れていた。
 熱いくらいに温かくて、沈むくらいに柔らかな触感が、私を包む。

 状況を理解した途端、私の思考は真っ白になって、形振り構わず目の前の柔肌に抱きついた。

284: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 22:33:08.56 ID:c+vPkEvQ0
ことり「あぁ…………あぁっ……希ちゃん……!」

希「こんなに隙だらけで。だから凛ちゃんにも迫られてまうんよ」

希「あー、だからこそ愛しいわあことりちゃん。誰にも渡したくないくらい、可愛い娘やね」

希「最初は海未ちゃんにあげようかなって思っとったけど、もう我慢できひん」

希「ええんよー甘えても。寂しい気持ちは、ウチの力で慰めてあげるからね」

ことり「希ちゃん……希ちゃぁん……!」


 脳が熱を持って暴走していた。
 これまでの私なら素直に受け入れるはずの無いものを貪るように求めている。
 状況から生じる抵抗感も、違和感も、迸る欲望に呑み込まれてしまった。


ことり(わかんない……私がおかしい……だけど、もっと欲しい)

ことり(希ちゃんが、凄く、欲しい……欲しいよ)

ことり(いつもの私じゃない……変だよこんなの……でも……!)


 理性が全て消えたわけじゃなかった。
 ただ、理性による抑制以上の欲望が私を突き動かして、目の前の裸体を好き放題貪らせた。

285: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 22:33:56.45 ID:c+vPkEvQ0
ことり「へ、変なの、希ちゃん、私、おかしいの」

希「んっ……ふふ、ウチにこんなことしといて、何が変なん?」

ことり「我慢できない……の、希ちゃんが欲しくて、止まらない」

希「それでええんよ。今はウチのことだけ見て、ウチに溺れとき」

ことり「ダメだよこんなの、ダメ、こ、こんなこと」


 口では否定の言葉を繰り返しておきながら、私は矛盾した行為を犯している。
 希ちゃんの裸の肌を撫でまわし、露わになった胸元にむしゃぶりついた。


希「っっ…………! ふぅ……んっ…………! こ、ことりちゃん、案外大胆やね……♡」

ことり「やっ! 違うの! これは……止め、止められなくて……!」

希「んぅっ……!? え、ええんよ……もっとウチのこと味わって?」

ことり「ダメだよ……こんなの、おかしい……!」


 こんなのダメ。
 ダメだけど……止められない。


ことり(……かわいい)

ことり(かわいい。可愛いよ、希ちゃん)

ことり(こんなに可愛い希ちゃん……もっと、私が……私の手で……!)

286: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 22:35:11.75 ID:c+vPkEvQ0
 気付けば室内に熱気が篭り、全身汗まみれになっていた。
 濡れた服が邪魔で脱ぎたくなる。

 だけど、いつの間にか上下入れ替わり、私の下に敷かれていた希ちゃんの方がずっと汗だくだった。
 触れている肌がしっとりしている。
 吐息が荒くなって、肌が紅潮していて、いつもよりずっと色っぽい。


希「ぁっ……それいいよっ、ことりちゃん……!」

ことり「ち、違う……ダメ……!」

希「ダメとか言って、触ってるのはどこなん?」

ことり「違うのっ! だってこんなの、私……!」

希「否定しながらウチのこと離さへんのは、嬉しいんやけどね…………んっ!」

ことり「へ、変な声出さないでっ!」

希「出させてるのはだぁれ? んあぁぁっ!? ……今の、ウチが口答えしたお仕置き? うふふっ」

ことり「ちっ、違う、違う……!」


 乙姫の中でも一際大人びている、余裕があって落ち着いた女性。
 そんな彼女が、私の指先一つで身体を震わせて悶えている。

 未体験の興奮した思いが沸き上がった。

287: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 22:36:19.79 ID:c+vPkEvQ0
ことり(もっと……希ちゃんを……!)

ことり「ダメ……これ以上……!」

ことり(私が希ちゃんを……!)

ことり「変だよこんなの……どうして、私……!」


 希ちゃんが漏らす声が徐々に嬌声めいたものになってきて、余計に劣情を掻き立てる。
 知識のない私が本能に突き動かされるまま、希ちゃんを悦ばせようとあらゆる手を尽くした。


希「ひぁっ、あっ……! あぁん……ことりちゃん……ええよぉ……♡」

ことり「のぞ、希ちゃん……希ちゃん……」

希「もっとウチに溺れて……もっと欲して……」

ことり「欲しい……欲しいよ、希ちゃん、欲しい」


 横たわっていた希ちゃんが下から腕を伸ばす。
 私の首に抱き着いて、ぐいと顔を近づけた。


希「今は不安も疑問も、海未ちゃんのことも、ぜーんぶ忘れさせてあげるから」

希「ことりちゃん……キス、しよ?」

288: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 22:37:13.05 ID:c+vPkEvQ0
ことり「……………………キス」

希「ね? ことりちゃん、しよ?」


 キス、と聞いて。
 反射的に視線が希ちゃんの厚い唇に移る。
 ごくり、と、喉が鳴った。


ことり(唇……柔らかそうな……希ちゃんと、キス……)

ことり(…………き、す……)


 脳裏には二つの光景が浮かんでいた。

 一つは、先日、凛ちゃんに迫られた時のこと。
 あの時も今と同じ、不思議なくらいに昂揚した気分で私に跨る凛ちゃんを見上げていた。
 あの日の最後、私の唇の端に落ちた、舌の感触が蘇る。


ことり(凛ちゃんが私を押し倒した時、こんな気持ちだったのかな)

ことり(なら、やっぱり凛ちゃんのこと責められないや)

ことり(だってこんなに希ちゃんのこと……欲しいんだもん)


 のぼせた頭は希ちゃんのことばかり考えていた。
 他の何者の存在も入ってこなくて、このまま忘れてしまいそうだった。

 キス、という言葉に連動して、あの人の姿を思い出すまでは。

289: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 22:38:42.85 ID:c+vPkEvQ0
 蘇ったもう一つの光景。


ことり(…………うみちゃん……)


 海未ちゃん。
 私の乙姫様。

 龍宮城に来てからずっと優しくしてくれた。
 一緒に宴の準備をして、海中散歩を通じて海の素晴らしさを教えてくれた。
 夜毎語り明かし、命を分け与え……私の前から去って行った。


ことり(……きす)


 唇を重ねるという、互いの思いを交わす、特別な行為。

 凛ちゃんにされかけた時。
 快感に身を委ね、凛ちゃんを愛おしく感じていたはずの私は、どうしてあんなに強く拒絶したんだろう。
 希ちゃんに求められた時。
 欲望に身を任せて、欲しいと願う希ちゃんに請われた今、どうして別の誰かを思い描いているんだろう。

 私は、誰が相手なら、許せるの?
 誰と、したい、の?

290: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 22:39:20.31 ID:c+vPkEvQ0
希「ことりちゃん」


 私に組み敷かれた希ちゃんが物欲しそうな目を向けてくる。
 その瞳が私を魅了して離さない。


ことり「希ちゃん」


 求めに応じるように、手を希ちゃんの顔に添えて。


希「ことりちゃん……きて」


 指先で頬をなぞり、口元へと動かして。


ことり「…………希、ちゃん……」


 私と希ちゃんを隔てるように。
 そっと、希ちゃんの唇を、掌で覆った。

291: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 22:40:03.90 ID:c+vPkEvQ0
希「…………」

ことり「…………で、き、ない」


 拒絶の言葉を口にするには、声を絞り出すようにしなければいけなかった。
 それくらい、今の私は、本心から希ちゃんが欲しいと思っている。


ことり(でも…………ダメなの…………希ちゃんとは、できない)

ことり(だって……だって、私……)


 涙がまた流れた。
 私の頬を伝って垂れた雫が、希ちゃんの頬に落ちる。


ことり「……………………海未ちゃんが、消えないの」


 歪んだ笑みが顔に張り付いてるのがわかる。
 相反する気持ちがぶつかり合って、私がバラバラになってしまいそう。

 したいのに……とってもしたいのに……それでも……。


ことり「こんなに、わけわかんないくらい、希ちゃんが欲しいはずなのに……海未ちゃんが消えない」

希「……」

ことり「私……海未ちゃんのこと……忘れられないの……!」

292: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 22:41:24.11 ID:c+vPkEvQ0
 大きく息を吸った。
 名残惜しさを払拭して、希ちゃんから手を離し、跨っていた体をどける。
 ベッドから降りて数歩下がった。


ことり「ごめん……希ちゃん、ごめんね……」

希「……そう」

ことり「ごめんね……」


 希ちゃんはベッドの上でゆっくりを身を起こした。
 じっ、と、私を見つめる瞳は、悲しみとか怒りとか、負の感情に揺れたりはしていないように見えた。


希「凄いね……ここまできて、まだウチ以外のこと考えられるなんて」

希「……せやけど、ね。ことりちゃん。ウチ、前に言った通りの乙姫なん」

希「ウチはそんなに……善人やないから」


 ニヤリ、と。
 ゾッとするくらい不気味な笑みが口元に張り付いた。


ことり「ひっ……!」


 反射的に身を翻して、部屋の障子に手をかけた。
 障子を開き、中庭が視界が入り、逃げようとしたところで……背後から腕を掴まれた。

 瞬間、全身を蠢くような悪寒が襲った。

293: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 22:42:26.76 ID:c+vPkEvQ0
ことり「あっ…………! あっ…………!」

希「捕まえた……♡」


 体が思うように動かない。

 これまで希ちゃんに魅了されていたのとはまた違う。
 もっと暴力的な、希ちゃんを手離すのが許せなくなるくらいの渇望が、私を支配した。


希「ことりちゃんに悪いと思わんこともないけどさ」

希「一度しちゃえば虜になって、後はもう余計なこと考えなくて済むから、大丈夫だよ」

ことり「……の………………の……ぞ……」

希「それにほら、ウチは乙姫やから」

希「乙姫って生き物はね、一度捕まえた相手を絶対に離さないんよ」

希「海の生物が海中を泳ぐのと同じ、陸の人間が息を吸うのと同じ……そういう生き物なん」

希「だからね、どんなに他の誰かのことが気になっても、一度ウチが捕まえちゃったから、もうどこにも行っちゃ駄目」

希「ことりちゃんは……ウチのもの」


 ぎちぎちと、関節の滑りが悪い人形みたいな動作で、首を背後に捻る。
 私を離さないと言う希ちゃんの表情は……見ているだけで、信じられないくらい情欲を煽られる、官能的なものに映った。

 ……今、すぐ、むしゃぶり、つきたい。

 胸に生じた明確な欲に、私自身怖くなった。

294: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 22:43:35.47 ID:c+vPkEvQ0
希「はい、こっちおいで。続きしよ?」


 もう抗えなかった。
 勝手に体が動いて、私の全部が希ちゃんを求める。
 一度は希ちゃんを拒んだけど、どうして拒んだのかもうわからない。

 部屋から逃げ出そうとしていた私は手を引かれるままに、部屋の奥、ベッドの方へと戻される。
 私に微笑んでくれる希ちゃんが愛おしくて愛おしくて愛おしい。


ことり(……………………)


 心の隅に引っかかるものは残っていた。
 ただ、何がどう引っかかるのかはっきりしない。
 そんなことより、もっとずっと大きな欲望が希ちゃんを求めている。


希「さ。続きしよっか」


 続きと言いながら、希ちゃんは一度私から離れていった。
 焦らされたようで私は堪らなくなり、離れていく希ちゃんに手を伸ばす。
 そんな私を面白そうに眺める希ちゃんは、開いていた障子に手をかけ、ゆっくりと閉じていった。


希「焦らんでも、時間はたーっぷりあるんだから……ね」

295: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 22:44:45.68 ID:c+vPkEvQ0
海未「希」


 熱の篭る室内に、一筋の冷気が走った。


ことり(……あ)


 希ちゃんを追うだけだった視線が声に引っ張られる。
 今正に希ちゃんが閉めようとした部屋の障子に、外から別の手がかかっていた。


希「……………………海未、ちゃ、」

海未「答えてください」


 凛とした声が耳朶を打つと、失っていた理性が蘇ってきた。
 私の中に、私が戻ってくる。

 閉じかけていた障子が再び開く。
 中庭を背に、仁王立ちして室内を見下ろす、海未ちゃんがそこにいた。

296: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 22:45:34.05 ID:c+vPkEvQ0
希「なんでこんなところに……」

海未「ともすれば大変失礼な口出しかもしれません……それを承知で言います」

海未「今、この状況が、全面的に双方の同意の下にあるのなら……構いません」

海未「ことりが望んだことならば、私はこのまま身を退きます」

海未「ですが……もし違うのなら」

海未「乙姫の性質から、ただ手離したくないという欲望でことりを籠絡したというのなら」

海未「私は……!」


 強い表情、だった。
 仕事をしている時の冷静な厳格さとはまた違う、強く激しい、思いが篭った表情。

 そんな海未ちゃんが、全霊を籠めた瞳で……私を見ている。
 私を、見ている。
 私を。

 無性に涙が零れた。


ことり「………………う……み…………ちゃ……」

海未「……!」


 希ちゃんの返事を待たないまま海未ちゃんは室内に踏み入ると、一直線に私へと近づいて、手を掴んだ。

297: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 22:46:17.70 ID:c+vPkEvQ0
ことり(あ)


 海未ちゃんに触れられた瞬間。
 これまで私を支配していた情欲が完全に消し飛んだ。
 希ちゃんしか見えなくなっていた視野が元通り広がっていく。

 手を掴まれた私は、そのまま体ごと引っ張られた。
 肩を抱かれるように、海未ちゃんの隣に引き寄せられる。


海未「……希」

海未「夜にも関わらず勝手に部屋に押し入ったこと、強引にことりを連れていくこと、お詫びします」

海未「ですが悪いとは思いません。希がそのように訴える権利もないはずです」

海未「私の言い分が間違いならば指摘してください。潔く身を退きます」

海未「……が、そうでないのなら……理解してもらえますね?」

希「…………」

海未「…………」


 今度も返事を待たないまま、海未ちゃんは身を翻して、早足で希ちゃんの部屋を去っていく。
 問答の間も、部屋を出ていくときもずっと、私の手を強く握って離さない。

 海未ちゃんに引かれて、私は部屋の外へと連れ出された。

298: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 22:49:13.75 ID:c+vPkEvQ0
―――


ことり「はっ……はっ……」

海未「……」


 早足の海未ちゃんについて行くだけで息が切れる。
 肩で風切るような歩みで海未ちゃんは廊下をどんどん進み、背中を追うので精一杯。
 周りの何者をも置いていくようで、掴んだ私の手だけは離さなかった。


ことり(……海未ちゃん……)

ことり(海未ちゃん…………海未ちゃん…………!)


 胸がいっぱいだった。

 さっきまでのように、私ではない何者かの力で意識の全てを染められるような感覚じゃない。
 もっと、体の奥底から湧き上がる魂の叫びが、私を先導する人の名を呼んでいる。


ことり(海未ちゃんが……私を……)

ことり(離れていったのに……夜に来てくれなくなったのに……なのに私を……)

ことり(私を……!)


 言葉にならない。
 涙だけが溢れる。

 ただひたすら、どうしようもないくらいに、満たされていた。

299: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 22:49:52.96 ID:c+vPkEvQ0
 海未ちゃんに導かれ、私は誰かの私室に連れられた。
 きっと海未ちゃんの部屋だ。

 室内の明かりを点けて、障子を閉め。
 二人きりの空間に落ち着いてから、ようやく海未ちゃんは私の手を離した。


海未「……」


 私から顔を背けている。
 自分のした行動に自信がない……みたいな顔をして。


ことり(あんなに強引に連れ出したのに……)


 さっきまで掴まれていた手を軽く上げた。
 肌が赤くなって、痺れが残っている。

 こんなに力強く手を握られたのは、生まれて初めてだった。

300: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 22:50:22.74 ID:c+vPkEvQ0
海未「…………ことりは……」


 私の方を見ないまま、海未ちゃんが口を開いた。


海未「ことりは先程、希に対して、どのような思いを抱いていましたか」

ことり「……どのような、って……」

海未「本心から希を求めていたのなら、私の行いはただの余計な横槍です」

海未「しかしそうでないのなら……」

ことり「……よく、わからないの」

ことり「いきなり希ちゃんのことがとても欲しくなって、離したくなくて」

ことり「希ちゃんを求めることを強いられた感じ、と言うか……」

ことり「この前の凛ちゃんもそうだった。急に迫られて、普通ならもっと驚くはずなのに、自然と受け入れようとしてた」

ことり「好き、気持ちいい、もっと欲しいって、そればかり考えるようになって……」

301: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 22:51:12.72 ID:c+vPkEvQ0
海未「……ことりは、凛と希に誘惑されたのです」

ことり「誘惑?」

海未「ただ誘うだけではなく、より求心力を伴った形で人間を惹きつける……乙姫は人間に対し、そうした呪術めいた効力を発揮できます」

ことり「じゃあ、凛ちゃんに迫られた時や、さっきの私は、誘惑されて……?」

海未「乙姫の誘惑は、別段特別な力というわけでも魔力の類でもありません」

海未「人間同士でも意中の相手を己が者にしようと誘うことがあるでしょう」

海未「乙姫であってもそれは同様……ただし人間に対しては、本能に訴えかけるような強力な効果を発揮するんです」

海未「凛や希に誘われた際、初めて身に覚える情欲に戸惑いませんでしたか?」

ことり「……まるで私じゃなくなったみたいに、とにかく、えっと……そういう事しか考えられなかったの」

海未「だとしたら、必ずしもことりの本心で行為に臨んだわけではありませんね」

海未「先日も、今夜も、ことりは乙姫を求めることを強いられたのです」

ことり「強いられた……私……」

海未「だからと言って、凛も希も悪意をもってことりに迫ったわけでは無いはずです」

海未「ことりの意向を半ば度外視した、という事実は免れませんが……」

302: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 22:51:55.02 ID:c+vPkEvQ0
海未「乙姫が一度誘惑すれば簡単に人間を籠絡できます」

海未「誘惑された時点で人間は乙姫の虜となり、双方が相手を求め合う理想的な関係を構築できるのが常でした」

海未「ですから凛と希はことりの応諾が無くとも問題無いと読み、事に及んでしまったのでしょう」

海未「過去にも手順を飛ばして関係を進めてしまう事例はありました。これまでは何ら弊害はありませんでしたけど……」

ことり「私の場合、今まで通りにはいかなかったんだね。まだ理性を残していたから……」

海未「今夜のような事態が起こってしまう危険性は重々承知していました」

海未「日を追ってもことりは中々理性を失わず、龍宮城の極楽にのめり込む気配が無い」

海未「住人からすれば、手を伸ばせば届く所に人間が居ながら手を出せず、欲望が募るばかり」

海未「そんな状況下で、私がことりと、いくら軽微だとは言え生気のやり取りを交わしてしまった」

海未「いくら限定的とはいえ、ことりがその身を許したと聞いて、皆の欲はこれ以上抑制が効かない段階へと進んでしまったんです」

海未「先日は凛が迫ってしまい、今夜は希までもが……」

303: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 22:52:36.44 ID:c+vPkEvQ0
ことり「元々は、私が命を分け与えたからだよね……」

海未「違います。私の責任です」

海未「私との行為が引き金を引いてしまった……ですから私は身を退くべきだと判断して、ことりから距離を置いたんです」

海未「しかし私が身を退き、住民に勧告したところで、最早龍宮城の皆を留めることはできません」

海未「現に今夜、希がことりを誘惑して我が物にしようと試みたように」

海未「私が原因ですから……せめて、私がことりを守ろうと決めたんです」

海未「ことりが誰かに全てを差し出す覚悟を抱くまで、私がことりを……」

ことり「そう、だったんだ……海未ちゃん……」

海未「……」

ことり「…………嬉しい、よ」

海未「……何がですか」

ことり「海未ちゃんが来てくれたことが、だよ」

ことり「海未ちゃんが私を取り戻してくれた……助けてくれた……嬉しかったよ」

304: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 22:53:28.15 ID:c+vPkEvQ0
ことり「でも、どうして? どうしてさっきはあんな所に……偶然なの?」

海未「…………あの日、から」

海未「ことりが凛に迫られ、体調を崩して、それ以降夜にことりに会いに行かなくなってからも……ずっと見守っていました」

海未「毎晩、ことりを見守っていました」

ことり「見守って……?」

海未「……」

ことり「……え……も、もしかして、毎晩私の部屋に来てたの!?」

海未「……凛のように、誰がことりを求めにやってくるかわかりませんから」

ことり「だったら声かけてくれれば、」

海未「ことりと話すわけにはいきません。夜の会話が全ての原因なんですから」

ことり「……毎晩、私の部屋に……」

ことり(ずっと……海未ちゃんが来ないって、離れていったって思って……寂しかった)

ことり(でも本当は、海未ちゃんは毎晩……私の為に……!)

305: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 22:54:08.67 ID:c+vPkEvQ0
海未「今晩はいくら待っても、ことり当人が部屋に帰ってきませんでした」

海未「夜に誰かの部屋に招かれ、ことりが応じたというのなら……仕方ありません」

海未「ことりの意思で誰かに身を捧げるというのなら、受け入れるつもりでした」

ことり「……」

海未「ですがもしそうでないのなら」

海未「ことりの本意でないまま身体的な交わりを経て、一度味わった快楽に溺れ、逃れられなくなってしまったら……」

海未「そう思うと居ても立ってもいられず、宮殿内を見回っていました」

ことり「だからあんなところに……」

海未「……勝手ですよね」

海未「私からことりを突き放すようなことをしておきながら……厚かましい真似をして……」

ことり「……」

海未「…………私……どうしても私、ことりのことを……」

海未「私は……!」

306: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 22:54:52.34 ID:c+vPkEvQ0
ことり(……海未……ちゃん……)

ことり(海未ちゃん……!)


 もう抑えられない。

 後のことは何も考えなかった。
 感情のままに、私は海未ちゃんの手を引いた。


海未「わっ!? ことり!?」


 海未ちゃんを連れて部屋を出た。
 さっきとは逆に、私が海未ちゃんを引っ張って、宮殿内を足早に進む。

 私を呼ぶ海未ちゃんの声は無視した。
 縁側を通り、渡り廊下を跨ぎ、何度も角を曲がって、目的の部屋まで無心で歩いた。


海未「…………まさか」


 扉が目に入って、海未ちゃんは今まで以上に強く抵抗した。
 だけど私も絶対に連れていくんだって、力づくで海未ちゃんを引っ張った。

 北区画にある、黒くで大きな鉄の扉で固く封じられた部屋まで。

307: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 22:55:41.41 ID:c+vPkEvQ0
海未「待ってください! 北は……そこは駄目です! ことりっ!」


 この部屋が何の部屋なのかもうわかった。
 この部屋で、人間と海の住人が何をするのか。

 わかったから、私はこの部屋に入る。
 海未ちゃんと一緒に。

 扉が開いてるかどうか確証は無かった。
 だけど、鉄の扉に手をかけて力いっぱい引いたら、ゆっくりと開いた。
 ギ、ギ、って、扉の重厚感に相応しい鈍い音を立てながら。


海未「わかっているのですか!? ここがどういう部屋で、入ってしまえば、」


 当たり前じゃん。

 黙らせるつもりで、海未ちゃんに勢いよく抱き着いた。


海未「!? こっ!? ちょ、ことっ、」


 一瞬怯んだ隙を逃さない。
 抱きついたまま、海未ちゃんごと鉄の扉との隙間に飛び込んで、北の部屋に体を捻じ込んだ。

308: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 22:56:25.11 ID:c+vPkEvQ0
海未「った!」

ことり「ぅっ!」


 飛び込むようにして室内に入った私たちは、勢いのまま床に倒れ込んだ。
 打ち付けた肩が痛かったけど、気にせず立ち上がって、扉へと飛びつく。
 開けた時と同じように力を入れて鉄の扉を押し込み、頑丈そうな鍵をかけた。

 これでもう後戻りはできない。
 北の部屋に、私と海未ちゃんの二人。

 もう、離さない。


海未「…………ことり……あなたは……」


 文句を言いたいのはわかるよ。
 でもね、今は、したいようにしたいの。

 立ち上がった海未ちゃんを目がけて、私はもう一度飛びつくようにして抱き着いた。

309: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 22:57:26.13 ID:c+vPkEvQ0
海未「あ、う、こと、ことり!?」

ことり「……嬉しくないわけないじゃんっ」

海未「何、が、」

ことり「海未ちゃんが私を見守ってくれたことが、だよ」

ことり「だって、それって、私のこと、大切に思ってくれてたからでしょ?」

ことり「勘違いじゃないでしょ?」

海未「……私の意向は関係ありません」

ことり「大ありだよっ!」

ことり「そんな風に思ってくれて……嬉しくないわけないっ」

ことり「わた、私、もう海未ちゃんと、今までみたいに話せないのかと思ってた」

ことり「責任感じて……っ……私から離れていっちゃって、もう側にいられないと思ってた」

ことり「私のことを思ってそうしてくれるって、わかってた、けど……でもそんなの嬉しくないっ」

ことり「もっと一緒にいたい……近くにいたい……そう思ってた」

ことり「だから……海未ちゃんが、ぅ、毎晩、私の為に、ずっと…………うぅ……」

ことり「うぅ…………うぅぅ…………!」

310: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 22:58:07.95 ID:c+vPkEvQ0
 昂ぶりが抑えられなくて言葉に詰まる。
 これ以上は上手く言えない。
 言いたいことはもっともっと沢山あるのに。

 だから言えることだけ口にした。


ことり「好き」


 海未ちゃん……。


ことり「私、海未ちゃんのこと、好き」

ことり「好きな人に、大切にされて、嬉しい」

ことり「好きな人に助けて貰って、嬉しいよ、海未ちゃん」

ことり「海未ちゃん……!」


 貴女に大切にされて。
 素敵な思い出をくれて。
 私を取り戻してくれて。


ことり「私、海未ちゃんのものになりたい」

ことり「海未ちゃんに、私を捧げたい……!」

311: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 22:58:49.44 ID:c+vPkEvQ0
海未「……………………いっ…………いけませんことりっ!」


 顔を真っ赤にした海未ちゃんは、抱き着いた私を引き離そうと腕を突っぱねてきた。

 照れからきてるのか、本当に私を拒んでるのか、そんなのわからない。
 けどどうあってももう無理。
 乙姫は一度捕まえた相手を離さない……そんなことを希ちゃんが言ってた。
 私は乙姫じゃない……だけど、手離さないのは私だって同じ。


ことり「もう海未ちゃんを離したくない」

ことり「だから、離さない」

ことり「……離れたくない!」

海未「……そ……そのようなこと、されてしまっては……」

ことり「駄目なの? 好きな人に、好きって言ったら、駄目なの?」

海未「こ、ことりを求めてしまったら……ことりの生気を奪ってしまいます」

海未「ことりの命を、奪ってしまいます」

ことり「いいよ、海未ちゃんなら」

海未「いけません……いけません……!」

312: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 22:59:45.85 ID:c+vPkEvQ0
ことり「もし生気を奪わないなら?」

ことり「命のやり取りが無かったら、海未ちゃんは私のこと受け入れてくれるの?」

海未「……」

ことり「私じゃ駄目なら、それでいいよ。諦める」

ことり「もし、食べ物としての私にしか興味がないなら……そういう目的だけで食べられてもいい」

ことり「だから教えて。知りたいの。海未ちゃんの気持ちが知りたいの」

ことり「海未ちゃんにとっての私って、何?」

ことり「私のこと、どう思ってるの?」

海未「…………こと、り……」

ことり「私は龍宮城にいる限り、どうあっても食べ物なんでしょ?」

ことり「ならせめて、好きな人に私を捧げたい」

ことり「……海未ちゃん。こんな私でいいなら……」

ことり「私のこと、貰ってください」

313: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 23:01:15.87 ID:c+vPkEvQ0
海未「…………もし……もし、ことりを、受け入れてしまえば」

海未「私だってことりのこと、本気で……ですから一度触れたら、もう、止まれなくなってしまいます」

ことり「いいよ」

海未「……わ……私だって……乙姫なんですから……」

海未「一度ことりを手に入れたら、もう、手離せなくなる」

海未「最後にことりの命が尽きるまで……私は……!」

ことり「私はいいよ」

ことり「私は海未ちゃんに奪われたいの」

海未「いけません……そうしない為にも、ことりのことを諦めたのに」

ことり「諦めたのに、毎晩私を見守っていてくれたの?」

海未「…………それは……」

ことり「……人間はその身を捧げてもいいと思う程に龍宮城の極楽に染まる、だよね」

ことり「私は結局、欲望には染まりきらなかったけど……代わりに、海未ちゃんに全部を捧げたいって思った」

ことり「海未ちゃんになら、命を賭けたっていい。海未ちゃんに、私を全部、染めて欲しい」

ことり「快楽に溺れて理性を失う前に……海未ちゃんのことが好きって気持ちのままで一緒になりたいの」

ことり「……海未ちゃん。一緒になろ?」

315: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 23:01:56.53 ID:c+vPkEvQ0
海未「…………こ」

海未「ことり…………ことりっ!」

ことり「あっ」


 背中が苦しい。
 胸が締め付けられる。

 私以上の力で、海未ちゃんに抱きしめられた。


ことり(……あぁ……!)


 応じるように、海未ちゃんを抱きしめる腕の力を強めた。

 幸せ。
 私は今、誰からも強制されずに、私自身の気持ちで幸せを感じていた。


ことり(嬉しい……)

ことり(私、海未ちゃんのものになる)


 私を抱きしめた海未ちゃんは、そのまま部屋の奥まで私を連れて行った。
 押し倒されて、背中に柔らかい感触を覚える。

 大きなベッドに倒された私は、上に跨る海未ちゃんを見上げた。

317: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 23:03:04.41 ID:c+vPkEvQ0
ことり「海未ちゃん……」

海未「……もう、駄目ですから……止まりませんから……!」

海未「ことりが嫌だと言っても、やめませんから……っ!」


 海未ちゃんが顔を覗き込んでる。
 普段はあんなに落ち着いてるのに、今は凄く必死な顔をしている。
 一生懸命、私を見ている。

 可愛い。


ことり「海未ちゃんは私のこと、誘惑したの?」

ことり「凛ちゃんや希ちゃんみたいに、私の本能に訴えかけるような誘惑、した?」

海未「……私はしていません」

海未「今まで誰かを誘惑したことがありませんから、私にそのようなことができるのかさえわかりません」

ことり「じゃあ……今、こんなに海未ちゃんのことが好きな気持ちは、本物なんだ」

ことり「なら大丈夫だよ。どんな形でも受け入れられるから」

ことり「海未ちゃんになら何をされてもいいよ」

ことり「……して、ください」

ことり「私に、海未ちゃんがしたいこと、全部。して」

海未「…………」

318: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 23:03:44.73 ID:c+vPkEvQ0
ことり「……あ」


 海未ちゃんが私の頬に触れた。
 ゆっくりと、顔が迫ってくる。


海未「……ことり……」

ことり「海未ちゃん……」

海未「好き、です」

ことり「……」

海未「ことりのこと……私…………私はことりが、好きです」

海未「人間だからではありません。生気を頂く為ではありません」

海未「ことりが好きです」

ことり「……うん……!」


 頬に添えられた海未ちゃんの手に、私の手を重ねた。


ことり「好き……海未ちゃん」

海未「好きです、ことり」


 二人の距離がゼロになって、私たちは一つになる。
 唇から、これ以上無い幸せを感じた。

319: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 23:06:08.97 ID:c+vPkEvQ0
―――


希(…………そっか)

希(海未ちゃん……遂に乗り気になっちゃったか)

希(ええんよそれで。海未ちゃんだって、ちゃんとした乙姫やもん)

希(ことりちゃんのこと手離したくないよね。それが乙姫って生き物の性やし)

希(……せやけど、ウチも凛ちゃんも乙姫。一度手にしたものを手放せない)

希(ウチらこそ、海未ちゃん以上の乙姫なんだから)

希(どうしようもなく、ね)

320: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 23:07:08.31 ID:c+vPkEvQ0
―――――
―――



 お互いの苦難を慰め合うように寄り添って日々を生きる。
 小さな頃からずっと一緒にいた幼馴染み。
 楽とは言えない生活だったけど、私たちは力を合わせて乗り越えてきた。

 それでも、傷の舐め合いさえ出来ない程に追い込まれてしまうことだってある。


ことり「もういやっ!」


 全てが上手く回らなくて、どうしていいかわからなくて、私の精神は限界を迎えた。
 やりようのない負の感情を吐き出す為だけに、思ってもない言葉で相手を罵倒する。
 人生で一番激昂して、初めて口にするような汚い台詞で苛めた。

 私がいくら悪意をぶつけても、一言だって叩き返してはこなかった。
 口を噤んで我慢する方がずっと苦しいはずなのに。


「………………ご……め…………」

ことり「……なんで何も言わないの馬鹿っ!」


 けれど、この時の私に配慮なんて微塵もできなくて、感情のまま手を上げた。
 頬を打つ掌に衝撃が走る。

 相手に与える痛みはもっとずっと大きかったはずなのに。
 私は自分の手の痺れだけを心配して、自ら手を擦る。

 気付けば目の前から消えていたことにも気付かないまま、私は私の手を擦る。

321: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 23:07:55.75 ID:c+vPkEvQ0

―――
―――――


ことり「…………」


 夢の光景が、いつまでも脳裏から離れなかった。

 昨晩、私は、龍宮城で恋したヒトと結ばれた。
 幸せだった。

 なのに私は夢の中で、別の誰かを思い描いている。

 これまでだって、何かしらの一幕を夢に見ることはあった。
 夢の光景は、目を覚ませばどれも曖昧にしか覚えていなかったのに、今日のはやけに生々しい記憶として残っていた。
 誰かの頬を打った手の痺れが実際に残っているかのように。


ことり(どうしてこんなタイミングでこんな夢見たんだろ……)

ことり(心から好きな人と一緒になれたのに、夢に見たのは、別の誰か)

ことり(夢……ううん、違う……ひょっとしたら、私がここに来る前の……)

ことり(じゃあ、夢に見た誰かは、私にとって……)

322: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 23:08:44.50 ID:c+vPkEvQ0
海未「ことり」


 名を呼ぶ声に意識を引き戻された。

 隣には、大切な人が……そう、私にとって、きっと誰よりも大切な人が寄り添ってくれている。


ことり「……うん。大丈夫だよ」

海未「ええ。参りましょう」

ことり(今は目の前の事に集中しよう)

ことり(これからは、他の事なんて考えられないくらい大変なはずだから……)


 中央区画の大宴会場に立つ私は、室内を広く見渡して、大きく息を吐いた。

 私と海未ちゃんは、二人並んで宴会場の端に立ち。
 目の前には、大部屋を埋め尽くす何百と言う数の住人たちが、対面する形で居並んでいる。

 これだけの人数がいるのに、場は水を打ったように静まり返っていて、息遣いだけが微かに響いていた。
 みんなが神妙な顔つきでこちらの出方を伺っている。
 圧倒的な人数を前に、どうしても緊張してしまう。


海未「では、これより皆に説明します」

海未「現時点でのことりについて……そして、今後の対応についてを」

323: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 23:09:50.74 ID:c+vPkEvQ0
―――


海未「……住人のみんなに説明しなければなりませんね」


 薄暗い室内で天井を見上げていたら、海未ちゃんがポツリと呟いた。
 隣を見れば、海未ちゃんも私と同じように天井を見ていた。

 北区画にある大きな鉄の扉の部屋は、禍々しささえ抱かせる堅牢な扉の割に、室内はサッパリしていた。
 広くも狭くも無い部屋の奥に、大きなベッドが一つ。
 それだけがこの部屋の調度品。

 ここは本当に、そういう事をする為だけの部屋なんだって、如実に物語っていた。


海未「説明と言うのなら、先にことりに話しておくべきでしょうか」

海未「例えばそう……この部屋について、ことりは全て知っているわけではないのでしょう?」

ことり「うん。人間と海の住人が結ばれる部屋、ってだけ想像してたっていうか……」

海未「その認識があったなら十分です。北の部屋の最も大切な存在意義ですから」


 二人で一つのベッドに横になっている。
 柔らかいシーツだけが私たちを覆っていて、その下は、二人とも何も身に着けていない。
 シーツの下で、裸の手と手が触れ合っていた。


海未「色々と、話しましょう」

海未「これまでのこと、これからのこと……沢山のことを」

324: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 23:10:48.17 ID:c+vPkEvQ0
海未「さあ、どこから話しましょうか。いざ始めようとなると迷いますね」

ことり「じゃ、北の部屋……この部屋について聞きたいな」

海未「わかりました。手近なところから始めましょう」

海未「この部屋は先程言っていた通り、人間と海の住人が交わる為の部屋です」

ことり「ここで交わらないといけないっていう決まりとかあるの?」

海未「ありますが、今となっては慣習的な意味合いが強いです」

ことり「形だけの決まり事ってこと?」

海未「私はこれまで何度も、夜に部屋の障子を開けないよう言い含めてきましたね?」

ことり「うん。あっ……そっか、夜に室内に招くっていうのは……」

海未「ええ、招いた者にその身全てを許すという意味を持ちます」

ことり「だよね……凛ちゃんの時がそうだったんだ……」

海未「鍵もかからない障子一枚という隔たりですが、その一枚が最後の砦となります」

海未「人間から招かれぬ限り捕食を我慢する、という、住民たちの理性に頼った暗黙の了解ですね」

海未「一度招かれてしまえば、相手が事情を知っていようがいまいが関係なく迫ってしまう、極端な一面も有していますけど……」

326: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 23:12:01.99 ID:c+vPkEvQ0
海未「人間と交わる際には北を経由すべし、というのは列記とした掟です」

海未「しかし今では、夜に人間の部屋に出向き、招いて貰うのを契機として交わることが多いです」

海未「それでも北を経由することを推奨しているのは、北の使用はこの先人間に手を出しても良いと判断できる、明確な指標になるからです」

ことり「北の部屋に入ることが、人間を食べても良いよって合図なの?」

海未「夜に人間の私室に招かれたとして、何も事を済ませない場合も稀にあります」

海未「なので人間が行為を経験して極楽の虜になったのかどうか傍目では判断できず、他の者が手を出しにくいんです」

海未「しかしながら……北とは、その為に設えられた部屋です。必ず生気のやり取りを経たと見做されます」

海未「北に入った人間は確実に行為を経験し、虜になっているはずだ、と、以降は他の者も問答無用で捕食に踏み出せるのです」

ことり「そっか。じゃあ私、思い切ったことしちゃったんだね」

海未「まったくですよ。だからこそ私は止めたというのに」

ことり「ごめんなさい。でも……もう止められなかったから」

海未「……後悔はしていません。ことりと結ばれて、私は幸せです」

ことり「……良かった。私もだよ」

328: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 23:12:42.22 ID:c+vPkEvQ0
海未「北の部屋は交わりの場であると共に、一度行為を経た人間の隔離部屋でもあります」

ことり「隔離? 閉じ込めるってこと?」

海未「一度行為を交わした人間は理性を失い、快楽を貪ることだけを求める亡者と化します」

海未「今、ことりとこうして普通に会話できるのが異例なんですよ」

ことり「普通にお話できないくらい夢中になっちゃうんだ」

海未「正直なところ、ことりと結ばれるにあたり、最も心配していたのがこの点でした」

ことり「海未ちゃんと結ばれて私の人格が変わっちゃったら、ってことだね」

海未「ですが、ことりはこうして、今まで通りのことりでいてくれた」

海未「私はそれが嬉しいんです……本当に安心しました」

ことり「……うん、私も。海未ちゃんとこうして一緒になれて、同じ幸せを分かち合うことができて……」

海未「ことり……」

ことり「海未ちゃん……」

海未「…………い、いけませんね! 合間合間に脱線して話が進みません!」

ことり「う、うん、ごめん」

海未「いえ…………では、あの、続きを……」

ことり「お願いします……」

330: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 23:13:19.42 ID:c+vPkEvQ0
海未「あちらに部屋の奥へと繋がる通路があるでしょう?」

ことり「あ、ホントだ。全然気づかなかった」

海未「通路の向こうは小さな個室が沢山並んでいます」

海未「各個室には最低限の生活空間と、人間を繋ぎ止める用途の拘束具しかありません」

ことり「拘束……」

海未「快楽に入れ込んだ人間を龍宮城内に放置しておくと、性的交わりを求めて住人たちを襲ってしまいますから」

ことり「今ってあっちに誰か拘束されてるの?」

海未「いえ。今現在、龍宮城に人間は一人しかいません」

ことり「私、だね」

ことり「前にそのことに気付いて、龍宮城を回ってみたことがあったの。でも、人間は誰もいなかった」

海未「表に出回る人間はことりが来訪する以前から居ませんでした」

海未「現在は表だけではなく、北に収められた人数も含めて、他に人間が居ないんです」

ことり「表とか北ってどういう意味?」

海未「表が未だ理性を保ち宮殿内で普通に暮らす人間、北が極楽に夢中になり隔離された人間ですね」

海未「別の言い方をすれば、捕食対象に至らない人間と、至った人間です」

ことり「そっか……」

331: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 23:13:57.87 ID:c+vPkEvQ0
海未「捕食対象となった人間は北に隔離され、住民たちは規則に準じて北に入り、行為を通じて生気を頂く」

海未「行為を繰り返し、やがて生気が尽きた人間は埋葬され、北から出されます」

海未「北の部屋は、龍宮城における身体的な交わりを執り行う場所、というわけですね」

ことり「それで今は、人間はみんな死んじゃって、私以外居ない……」

海未「人間がことりしか居ない現状、皆の視線がことりに向いています」

海未「今夜私と北に赴いた事実もすぐに知られるでしょう」

ことり「じゃあこれからはどこにいても、みんな私のこと……その……食べに来るの?」

ことり「それか、あの奥に隔離されなきゃ駄目?」

海未「そうならない為に、皆の前で説明をしなければなりません」

ことり「説明って、どんな?」

海未「ことりはその身を私に許しました。ですが未だ理性を保ち、見境なく交わりを求めたりしない、と」

海未「このような例は今まで無かったので、納得してもらえるかわかりませんが……」

ことり「……海未ちゃん以外の誰かとこんなこと、したくない」

ことり「凛ちゃんや希ちゃんに誘惑された時だって、最後まで許せなかったもん」

ことり「海未ちゃんとじゃなきゃ……やだよ……」

333: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 23:15:19.08 ID:c+vPkEvQ0
海未「……いざ、自分が誰かと結ばれてみて、感じたことがあります」

ことり「?」

海未「この先何があっても、私は絶対、ことりを手離せない」

海未「ことりが他の誰の下に渡るだなんてとても耐えられません」

海未「乙姫だから感じているのでしょうか……一度手にしたものを離したくないと」

海未「では凛や希はどうなのでしょう? これまで何人もの相手と交わってきたはずの二人は……」

海未「二人だけではありません。乙姫でなくとも、他の住人だって同じ行為を繰り返してきました」

海未「皆、許せたのでしょうか……一度は結ばれた相手が、他の誰かと同じ行為に及んでいる事実を」

ことり「それが龍宮城なりのやり方だから……じゃ、無いの?」

海未「……これは、恋のはずなんです」

海未「私はことりに恋をして、好きになって……だから全てを捧げて、全てを頂いた」

ことり「……うん……恋、だよ」

ことり「私は海未ちゃんに恋をしたから、全部あげたの」

海未「恋とは、そう簡単に手離せるものなのでしょうか?」

海未「私にはとてもできません」

海未「私には……」

336: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 23:15:59.00 ID:c+vPkEvQ0
―――


ことり(海未ちゃん……)


 海未ちゃんは苦しそうだった。
 初めて人間と……私と交わって、龍宮城の極楽を知識じゃなく経験で知った。
 だからこそ生じた疑問に、海未ちゃんは葛藤していた。


海未「皆さん落ち着いて、意見や質問は順に……落ち着いてください!」


 私の現状について、一通りの説明を住人たちに行った。
 私が龍宮城についてどこまで理解して、どこまで受け入れられるのかを。

 説明を終わると同時に、今まで静かだった分余計に騒がしく質問の声が飛び交った。
 何とか収集を付けようと海未ちゃんは頑張ってるけど、とても収まりそうにない。


海未「ですからことりを捕食対象と見做してはいけません!」

「どうして海未さんは食べたのに私たちは駄目なんですか!?」

海未「説明した通り、ことりはまだ行為の虜にはならず理性を保ち、」

「今まではそんなことなかったじゃない!」

海未「ことりは特別なんです! 普通の人間に対する尺度で計ってはなりません!」

「自分が手付けたから他人に渡したくないだけじゃないんですか!?」


 住民たちの声は熱を帯び、敵意が表立ってくる。
 私たち二人に向けられるみんなの目つきが段々鋭くなってきて、怖かった。

337: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 23:16:50.20 ID:c+vPkEvQ0
海未「何度も繰り返しましたが、事態は話した通りなんです! 理解してください!」

「…………」「…………」「…………」

海未「で、ですから……」

「…………」「…………」「…………」


 質問攻めが終わると、今度は一転して静寂による圧力が生まれた。
 無言のまま、何百という瞳が私と海未ちゃんを睨みつける。


海未「ぅ…………」

ことり「ど、どうしよう……」


 一触即発の空気感に身を竦ませた。

 今はまだ海未ちゃんの話を聞いてくれている住人たちだけど、いつまで聞く耳を持ってくれるだろう。
 もし、何百人の住人が一斉に迫ってきたら、私たちは為す術もない。
 私と海未ちゃんは引き離されて、私は抵抗する間もなく、みんなに食べられてしまう。
 海未ちゃんとの愛を交えた行為ではない、完全に欲望に塗れた交わり方をした私はその先、理性を保っていられる自信は無い。

 大宴会場に満ちる空気は、そうなってもおかしくないって思わせるだけの威圧感があった。

338: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 23:17:40.87 ID:c+vPkEvQ0
 これ以上この場に居たらいけない……。
 私が抱いた思いを、海未ちゃんも感じ取ったのかもしれない。


海未「は、話は以上です! この先もことりには手出ししないように!」

ことり「あっ!」


 強引に説明を切り上げた海未ちゃんは私の手を取って、大宴会場の出入り口へと逃げるように走った。

 宴会場にひしめく住人たちは、場を去ろうとする私たちを押し留めはしなかった。
 かと言って、道を譲るわけでもない。
 物言いたげな目を向けられながら、脇に立つ住人と何度も肩をぶつけあって、私たちは這う這うの体で宴会場を抜け出した。


ことり「あれでよかったの?」

海未「説明を続けてもこれ以上理解を得られるとは思えません」

ことり「理解してくれないまま切り上げてよかったのかな……」

海未「……何とも言えません」


 説明が不十分だってことはわかってる。
 けど、迫る圧力を押し返せるとは思えない。
 私たちにできることは、最低限の勧告をして、この場で捕まらないよう逃げるだけだった。

339: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 23:18:38.13 ID:c+vPkEvQ0
―――


ことり「これからどうなるのかな……」

海未「わかりません……」


 私の部屋に逃げ帰り、声を潜めて相談する。
 この先に待つ不安が募るばかりで、海未ちゃんと一緒になれた喜びを味わう余裕も無い。


ことり「私は大切な人と結ばれたかっただけなのに」

ことり「みんなをの怖い顔を見てると、いけないことしたみたいに思えてきちゃう」

ことり「……いけないこと、だったのかな」

海未「……私の立場では、一概には何とも言えません」

海未「私たちの行いが悪いと認めたくはありません……が、龍宮城の風習を蔑ろにするわけにも……」

ことり「そう、だよね……」


 龍宮城の主として、海未ちゃんは私以上に思い悩むところがあるんだと思う。
 だけどそんな海未ちゃんに、私は何もしてあげられない……。

340: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 23:19:18.38 ID:c+vPkEvQ0
 二人して溜め息をついていたら、障子のすぐ向こうから声が上がった。


希「ちょっといいかな」

ことり「のぞっ……!?」


 正体はすぐにわかる、希ちゃんだ。
 昨夜、私を誘惑した……。


希「海未ちゃんもおるんやろ? ちょっと話したいんよ」

海未「希……」

希「別に何するってわけでもないからさ」


 声色からは普段通りの希ちゃんの調子に聞こえた。
 少なくとも、さっき大宴会場で私たちを睨んでいた住人たちよりは落ち着いてるように思える。


ことり「平気かな?」

海未「……昨夜の件があったとはいえ、希は大丈夫です」


 短く相談してから、海未ちゃんが部屋の障子を開いた。
 障子の向こうには、いつもよりは少し神妙な顔つきをしている希ちゃんと、同じような表情の凛ちゃんがいた。


希「招いてくれて嬉しいよ。お邪魔するね」

341: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 23:19:56.19 ID:c+vPkEvQ0
希「さあて……あれでみんな納得するんかなー」

海未「……難しいでしょう」


 座卓を囲むように私たちは座り、どことなく声を潜めて言葉を交わす。
 私個人としては、昨夜の希ちゃん、そして先日迫られた凛ちゃんの影がちらついて、最初は落ち着かなかったけど……。


ことり(こういう事態になって、二人だって私に迫ってきてもおかしくないのに、そんな気配が無い……?)


 怒気を発していた住人たちと違って、凛ちゃんも希ちゃんも至って自然体だった。
 過去に迫られた相手だから、今後最も警戒しないといけない相手だと思い込んでいたけど……。


ことり(大事な時にしっかりしてるのは、流石に宮殿の主ってことなのかな)

希「さてことりちゃん」

ことり「ひゃいっ!?」

希「昨日のことは一旦脇に置いて貰うとして……まずはこの先のこと考えよか」

ことり「……うん」

342: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 23:20:47.22 ID:c+vPkEvQ0
凛「ね、海未ちゃんはことりちゃんから……ちゃんとした形で生気貰ったんだよね」

海未「…………ええ」

希「構えんでも平気だよ。ただの確認やから」

希「でもそっか。ことりちゃん、海未ちゃんに貰われちゃったかー……」

ことり「ごめんね、希ちゃん。凛ちゃんも」

凛「うん……」

希「ま、何であれ、これでことりちゃんは龍宮城の一線を越えちゃったわけや」

凛「これからは凛じゃなくても、ことりちゃんのこと欲しいーって言ってくるよ」

海未「そうならぬよう事前に釘を刺したかったのですが……」

凛「全然聞く耳もってくれなかったね」

希「説明は半端だったとは言え、雰囲気に呑まれる前に逃げるのは正しかったと思うよ」

凛「あのままじゃみんな二人に襲い掛かりそうだったもん。端から見てるだけでもハラハラしちゃった!」

海未「ですが中途半端な勧告に留まり、十分な抑制にはならないでしょう」

希「仮にちゃんと説明出来てたとしても同じやないかな」

希「乙姫が何を言ったとしても、言うだけじゃあみんなもう止まらへん」

海未「……確かに……」

343: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 23:21:38.55 ID:c+vPkEvQ0
海未「凛、希。二人に質問したいことがあります」

凛「何?」

海未「二人は今まで数多くの人間と結ばれてきましたよね」

希「結ばれてって、またおもろい言い方するね」

海未「その際、一度結ばれた相手が別の誰かの手に渡ってしまう事態に抵抗は無かったのですか?」

希「んんー?」

海未「私はことりに恋をして、結ばれて、この先ことりを絶対に手離せないと感じました」

海未「乙姫が持つ、一度手に入れた者を手離せないという習性……初めて実感した限り、何事を置いても覆せる感情ではありませんでした」

海未「いくら皆の生命維持活動の為と言えど、他者に譲るなんてもっての外です」

海未「二人はこれまでどうやって克服してきたのですか?」

希「あー、そういう………………」

海未「…………?」

希「……今は、この先のことりちゃんについて考えよ」

海未「え……? あの、ですが、」

希「まずは目先のことから。余計なこと考えとる時間は無い。ええね?」

凛「……希ちゃんがそう言うなら、凛も答えるのは後回しにする」

海未「…………わかりました」

344: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 23:22:30.79 ID:c+vPkEvQ0
 私たちはこの先について話し合った。
 と言っても、明確な案や対策を出せたわけじゃなくて、今後どうなるかを予想するのが精一杯。
 今後増々増していくはずの住人たちの求愛行動にどう対処していくのか。
 私は出来るだけ身の危険から回避するよう、常に周囲に気を配るくらいしかできそうにない。


凛「できることって少ないねー」

海未「私がことりの側にいるのにも限度がありますし……」

希「それに、今は相談に乗ってるウチらも味方ってわけじゃないしね」

ことり「え?」

希「隙見せたらアカンよことりちゃん。昨日、ことりちゃんのこと手に入れようと迫ったのは誰やった?」


 私に警戒を促した希ちゃんは、おもむろにクスリと笑って立ち上がった。
 凛ちゃんも続いて、二人は障子へと向かう。


希「ウチらは帰るよ。みんなの様子見ておきたいから」

凛「ちゃんと気を付けてね。……凛たちにも、だよ?」

海未「あ……凛! 希!」

希「どうしたん?」

海未「相談に乗ってくれてありがとうございます。助かりました」

345: ◆qpwZInm6fw 2016/03/26(土) 23:23:34.82 ID:c+vPkEvQ0
希「……一応、二人に言っておくけど」

海未「……わかってます」

希「うん。まあそれでも……ウチはまだ、ことりちゃんのこと諦めてないからね」

凛「凛も! ことりちゃんのこと大好きだから!」


 二人の素敵な乙姫さんから、赤面ものの告白を面と向かってされちゃった。

 一度は誘惑に落ちかけた二人から宣戦布告されて、焦る場面なのかもしれない。
 でも、今のこの二人からは、素直な気持ちが伝わってくる。
 半ば強引に迫られた夜とは違う、素直に私のこと……好き、っていう気持ちが。


ことり「……相談に乗ってくれたのと、注意してくれてありがとう。私も二人のこと大好きだよ」

希「ほうら、またそんなこと言っちゃってさあ。甘々やんなあ」

凛「凛本気なんだからね! 海未ちゃんにだって負けないにゃ!」

海未「なっ!?」

希「ウチもね! せいぜい気を付けるんよ? じゃあねー」

海未「……まったくもう」


 海未ちゃんは呆れつつ、二人が去って行った障子を睨んでいた。

 何一つ解決できたことはないし、凛ちゃん希ちゃんは挑発してくるし、余計に心配事が増えちゃった。
 だけど、宴会場から逃げ帰った時の沈んだ気分の代わりに、力の抜けた笑いができるくらいには気が楽になっていた。


ことり(……ありがとう、凛ちゃん、希ちゃん)

358: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 20:16:19.37 ID:U4+BbBrW0
―――


ことり「…………」

「…………どうしたの?」

ことり「いや……うん……あの……」

「…………言いたいことあったら言っていいよ?」


 機織り教室でお着物を作ろうとする私の手に、教室仲間の子の手が重なっている。
 教えてあげる、っていう言い分だけど、余りにも距離感が近すぎる。

 一人だけじゃない、教室中の生徒全員が私の周りに集まって、隙を見ては私に触れてきた。


ことり(こんなあからさまに態度が変わるなんて……)


 住人みんなの前で説明をした翌日から、宮殿の様子は一変した。
 どこへ行ってもみんなの視線が突き刺さる。
 用が無くても私に近付いてきて、ともすれば理由の無いまま触れてくる。
 驚いて目を向けると、視線を合わせたまま相手の顔が迫ってくることさえあった。


ことり(みんなが私を欲しがってる)

ことり(芸事の時間も何も関係無い……もう、安心できる時間なんてないんだ)

359: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 20:17:49.57 ID:U4+BbBrW0
「そこっ! 生徒たちっ!」


 芸事仲間たちの求愛行動に参っていたら、教室内に険のある声が響いた。
 驚いて顔を向けたら、教室の先生が向かってくるところだった。


「今は手習いのお時間です、ことりさんに迷惑をかける暇があるなら集中なさい!」

「無理ですよ先生」「ことりさんと一緒にいたいです」「我慢できない」

「馬鹿を言わないでください! そのような言い分がまかり通るとお思いですか!?」

「御年配の先生にはもう興味ないかもしれませんけど」「私たちことりちゃんにしか興味ないです」

「では今すぐ教室から出ていきなさい!」

「やです」「ことりさんと離れちゃう」「ならことりさんも連れてくわ」


 私を巡って先生と生徒たちで言い争いが起きてしまった。
 先生みたいに味方をしてくれるヒトがいると知って安心したけど、一方で申し訳なく思う。


ことり(先生……ごめんなさい……)

ことり(ううん、先生だけじゃない。生徒のみんなだって私のせいで……)


 言い争いは終わらない。
 私が困惑してる間にも、折を見て誰かが手に触れてきてビクッとしてしまう。

 こんなんじゃ、習い事なんて進めようがなかった。

360: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 20:18:29.54 ID:U4+BbBrW0
―――


ことり(どこに行っても何をしても同じ……)

ことり(習い事も、お手伝いも、一つもまともに進められない)

ことり(それどころか、襲われないよう逃げるので精一杯)


 私が顔を出した場所では、皆が皆私にばかり意識を向けて、何であっても成り立たなくなる。
 あらゆる活動に支障を来してしまう私は大人しくしているしかなかった。

 落ち込んだ気分のまま、お昼を取ろうと大宴会場に顔を出す……けど。


ことり(……う、わ)


 室内に入ると、普段通り賑わっていた大宴会場が途端に静まり返り、全員の視線が私に集まった。
 獣に狙いを付けられた小動物のように、恐怖で身動きができなくなった。

361: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 20:19:13.21 ID:U4+BbBrW0
ことり「あ…………あ…………」

「…………」「…………」「…………」「…………」「…………」

ことり(どうしよ、どうしよ、今日でもこんな大勢から見られたことない)

ことり(……怖い)

ことり(ここでご飯なんて無理だよ、こんなの、どうしたら、)

「嬢ちゃん」


 向けられる多数の瞳に戸惑っていたら、重みのある声が隣から響いた。
 見れば、普段調理場でお世話になっている料理長だった。 


ことり「あ……」

「案の定か。ここじゃ飯なんて無理だろ、自分とこの部屋にでも持ってきな」

ことり「でも、ご飯はここでって決まりが……料理長も守れっていつも、」

「構うな。食い終わった配膳も部屋の外にでも置いとけ、後に回収に行く。いいな?」

ことり「…………すみません」


 追い払うような料理長の態度に促されて、一人じゃ動かせなかった体をなんとか大宴会場から逃がした。
 言外に込められた優しさに感謝しながら、それ以上に早くこの場から去りたいという恐怖心に従い、足早に自室に向かう。

 龍宮城に来て以来、私は初めて、一人きりで食事を取った。

362: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 20:19:55.23 ID:U4+BbBrW0
―――


 どこに行っても逃げ場は無かった。
 出向く所どこでも住人たちは私を待ち構え、居合わせた誰もが私を狙って近づいてくる。
 場所を移しても追われ続け、自室に逃げ込んでも、耐えず誰かが部屋の外をうろついている。


ことり(監視されてるみたい……落ち着ける時間が無い)

ことり(……焦っちゃ駄目。弱気になるから怖く感じるんだよ)

ことり(迫られてはいるけど、強引に何かされてはいないんだから)

ことり(まだ平気……まだ私は、龍宮城で普通の生活ができるはず……!)


 根拠も説得力も無いことは私が一番わかっている。
 だけど、このまま龍宮城での暮らしを恐怖の色に染められるのは嫌だった。


ことり(ここは海底の楽園)

ことり(海未ちゃん、凛ちゃん、希ちゃん、沢山の素敵なヒトたちと出会えた、掛け替えのない場所)

ことり(大切な毎日を、嫌いになりたくない!)

363: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 20:20:52.21 ID:U4+BbBrW0
 各所全方位から迫る求愛行動にも負けないよう、夕方からは覚悟を決めて、意識的に平常通りの生活をした。
 住人のみんなは即座に近付いてきて何かと接してくるけど、下手に弱気にならずにいればやり過ごすこともできた。


ことり(よかった。まだここでの生活を失ってない)

ことり(いけるよ、大丈夫。負けちゃ駄目。気をしっかりもって、私の毎日を取り戻そう!)


 身近に迫る住民たちを牽制し続けて、疲れ切った心身を癒す為に、夜には大浴場に向かった。
 私にとって一番の憩いの場。
 だけど……。


ことり(…………あ)


 入浴の準備をしようと脱衣所で着替えに取り掛かった瞬間。
 衣類を脱いで肌を一部露出しただけで、これまでと比較にならないくらいに熱い視線で貫かれた。


ことり(駄目)

ことり(無理。絶対に無理。お風呂場だけは駄目。ここはいけない)


 気圧されまいという意思があっという間に折られた。
 それ程に、この場で受ける視線が強くて熱くて、危ない。


ことり(このまま肌を見せて湯船に浸かったら、私はきっと……食べられちゃう!)

364: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 20:21:59.45 ID:U4+BbBrW0
 脱ぎかけた服を慌てて着直して、出口に向かおうと踵を返した。


「入らないの?」

ことり「ひっ!?」


 真後ろに見覚えのある人影を見定めて、足が止まった。


ことり(このヒト……! 前にお風呂場で私を引き留めたヒトだ!)


 以前、お風呂から上がろうとした際、二人の住人から強引に湯船に引き戻されたことがあった。
 希ちゃんに助けて貰って事無きを得たけど……その時の一人である長髪の女性が私の背後に立っていた。
 あの時と同じ低音の声音が、私の意識を惑わそうとする。

 二人組のもう一人、浅黒い肌をした女性もすぐに私の方へと近づいてきた。
 退路を塞ぐよう二人並んで、私の前に立ちはだかる。


「まだお風呂済ませていないじゃない。一緒に入りましょうよ」

「今度こそ私たちと温まりましょ?」

ことり(この二人、また……!)


 前回引き留められた時、あのまま湯船に浸かっていたらどうなっていたか、今なら容易に想像がつく。
 そして今、この二人が何をしようと考えているのかも。

365: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 20:22:49.60 ID:U4+BbBrW0
「安らぎましょう?」「温まりましょ?」

ことり「……私、やっぱりいいです」

「どうして?」「大浴場でゆっくりしたいんでしょ?」

ことり「一緒に入ったら、ゆっくりできないと思うから」

「そんなことない、最高の気分になれるわ」「入りましょう? 行きましょう?」

ことり(話を聞いてくれない……!)


 今日一日を通じて、他人の意向を蔑ろにする住人たちの態度が、ちょっと頭に来ていた。
 受け身だからつけ込まれるなら、相手に負けない気持ちでぶつかっていけば……!


ことり「私はっ、」

凛「にゃー!」

ことり「ふぇっ!?」


 反論しようと意気込んだと同時、突然凛ちゃんが割り込んできた。
 不意の登場に、私も、対峙する二人組も揃って呆気に取られていると、虚を突いた形の凛ちゃんは私の手を引いて走り出した。


「あっ!」「凛さんちょっと!」

凛「ことりちゃんは凛のものー!」

ことり「えっ!? えっ!? 凛ちゃん!?」


 何が何やらまるでわからないうちに、私は凛ちゃんに連れられて、脱衣所を抜け出していた。

366: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 20:23:29.38 ID:U4+BbBrW0
―――


凛「ふいー、泳ぐのもいいけど走るのもいいよねっ!」

ことり「はあっ、はあっ……もう、いきなりすぎだよぅ。ここどこ?」

凛「ごめんにゃー。宮殿のどこか端っこの方じゃない?」

ことり「凛ちゃん足早いんだもん、びっくりしちゃった」

凛「泳ぐのより走るようが得意なんだっ!」

ことり「いいなぁ、私あんまり走るの得意じゃないの」

凛「じゃあ今度早くなるコツ教えてあげるね!」

ことり「うん。……ねえ凛ちゃん」

凛「あのままだと危なかったよ」

ことり「え?」

凛「怒ったらね、みんなの思う壺なんだよ。言い争って気が高まって、襲うきっかけを作っちゃうの」

凛「前もね、同じことがあったんだ。まだ乗り気じゃない人間を怒らせて、掴みあいになった隙に強引に食べちゃったこと」

凛「勘違いして無理に迫った凛が責められることじゃないけどね……」

ことり「…………そう、だったんだ……」

367: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 20:24:12.46 ID:U4+BbBrW0
ことり「ありがとう、凛ちゃん。助けてくれたんだね」

凛「前に襲いかかったお詫びだよっ」


 にへらと笑う凛ちゃんは、私の顔をまじまじと見てから、そっと抱きついてきた。
 一瞬身構えたけど、寄り添うように体をもたれかけてくる態度からは、強引さみたいなものは感じなかった。


凛「なんて、ホントはね、他のみんなにあげたくなかったから邪魔したの」

凛「ことりちゃんのこと、ホントに好きなんだもん」

ことり「凛ちゃん……」

凛「ごめんね。これくらい、許してね」

ことり「……いいよ」


 いつも元気な凛ちゃんらしくなく、遠慮がちに私の胸元にしがみつく小さな体に、そっと両腕を回した。


凛「……あったかいにゃ」

ことり「うん。凛ちゃんも温かいね」

368: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 20:24:54.76 ID:U4+BbBrW0
凛「凛ね、ことりちゃんのこと好き」

ことり「うん。ありがとう」

凛「ことりちゃんは海未ちゃんのこと好きなのは知ってるよ」

凛「海未ちゃんも初めて誰かを……ことりちゃんを好きになったから、応援してあげたい」

凛「……でも、凛は乙姫だから。好きになったら手放せないよ」

ことり「今まではどうだったの?」

凛「今までって?」

ことり「今までも沢山の人間と……大切な事をしたんだよね?」

ことり「前に海未ちゃんが質問した時は答えてくれなかったけど、今まで凛ちゃんはどうやって我慢してたの?」

凛「……知りたい?」

ことり「うん」

凛「じゃ、教える代わりにチューしていい?」

ことり「……からかっちゃいけませんよーぅ」

凛「へへ、ごめんなさーい。チューはいいから、もうちょっとこうしてていい?」

ことり「いいよ」

凛「ことりちゃん優しいね。だから好きになったんだ」

ことり「私も、凛ちゃんのことは好きだよ」

凛「……えへへ……」

369: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 20:25:33.74 ID:U4+BbBrW0
―――


海未「…………凛が助けてくれたんですか……」

ことり「うん」


 宮殿どこに行っても住人の手が伸びてくる現状、いくら意地を張って普段通りを貫こうとしても、最早一人で室外を出歩くことは困難だった。
 凛ちゃんや希ちゃんが守る様にしてくれても、そんな私たちに向けられる視線は冷ややか。

 海未ちゃんは何かと用が出来て、私と一緒に居る時間を中々作れないみたいだった。
 住人たちが私に近付けないよう手を回している、って言ってたけど……。

 今日は久しぶりに、海未ちゃんと一緒に宮殿内をお散歩していた。


ことり「住人みんなが落ち着かなくなっても、乙姫さんたちは流石にしっかりしてるんだね」

海未「どうなのでしょう。人間に対する欲望は一般住人と大差無いはずなのですが」

ことり「そうなの? じゃあどうして凛ちゃんと希ちゃんは冷静なんだろ」

海未「理由があるのでしょうか……」

希「そら当然あるよ」

ことり「ひゃっ!? 希ちゃん!?」

海未「ど、どこから出てきたのですか!? 驚かさないでください!」

希「いやー面白そうな話してたからさ。つい、ね」

370: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 20:26:15.76 ID:U4+BbBrW0
希「はい。ことりちゃんに渡しに来たんよ」

ことり「これ……私の服?」

希「前に牛乳零してウチの着替え渡した時のやつ。……あの日着てた服、って言えばわかる?」

ことり「あ…………うん。……ありがとう」

海未「……希。あなたが私たちを助けてくれる理由を聞いてもいいですか?」

希「別に助けてはないけど?」

海未「私たちに助言したり忠告を与えたり、無理にことりに迫ろうとはせずそれとなく守っているではありませんか」

海未「一方で、私がことりと一緒に居るのは見逃しています」

海未「いくら乙姫同士とはいえ、捕食対象である人間を他者へ譲るのは解せません」

希「乙姫は一度抱きしめた相手を離さない生き物のはず、だから?」

海未「はい。恋した相手を他者に委ねるのは、私には理解できないのです」

海未「私はことりに恋をしました。だからこそ守りたい、離したくないと思っています」

希「恋……か」

希「ここは恋する宮殿……ふふっ。いいとこ突いとるよ」

海未「?」

371: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 20:26:53.83 ID:U4+BbBrW0
希「恋って、そういうものやんな」

希「理屈やなくて、ただただ手離したくないって思いでいっぱいになってまう」

海未「ええ。にも関わらず、希や凛はどうして一度手にした人間を手離せたのですか?」

希「それは……んー……海未ちゃんに教えるにはちょーっと早いかなあ」

海未「え? なぜですか? わ、私が恋を覚えたばかりで初心な精神の持ち主だからですか!?」

希「うーん、やっぱりまだ教えられへん。気が向いたらね」

海未「確かに私は恋する身として未熟者かもしれませんがっ! しかしですね!」

希「いやいやそういうわけでもなくてね、まあそういう意味もあるけどさ」

海未「ほらやっぱり! 心外ですっ!」

希「ムキになった海未ちゃんからかうのオモロイわー」

ことり「……同じ質問、凛ちゃんも答えてくれなかった」

希「うん?」

ことり「大切なこと、なんでしょ?」

希「……まあね」

希「ウチと凛ちゃんにとって、とーっても大事なことに関係する質問やから、まだ教えられないんよ」

海未「……」

372: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 20:27:30.46 ID:U4+BbBrW0
海未「希。あなたと凛は味方なのですか?」

希「どう思う?」

海未「……味方であって欲しい、と願っています」

希「甘いよ」

希「恋してるなら、何があっても手離さんよう、誰相手にも気ぃ引き締めなアカンて」

希「龍宮城のみんなだって、ことりちゃんのこと欲しいからあんなに必死になっとるやん。そんなんじゃ取られちゃうよ?」

海未「私は皆の様に、我を忘れてまで誰かを求めたくありません」

希「そう?」

海未「私は私のまま、きちんとした気持ちでことりに恋をしたいんです!」

希「だから甘いんよ」

海未「私の主張は間違っていますか!?」

希「自我を保って冷静になろうとして、その隙にことりちゃん取られたら?」

海未「…………そんな二者択一……考えたくありません」

希「それにいくら海未ちゃんでも、本当に欲しくなったら我を忘れてことりちゃんのこと求めるようになるって」

希「恋、しちゃったんやろ? なら絶対にそうなるよ」

373: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 20:28:25.05 ID:U4+BbBrW0
海未「私は……私は理性を失ってまでことりを求めたりはしません!」

希「言い争うつもりは無いよ。結果は勝手に出るものやから」

海未「…………」

希「さて、海未ちゃん怒らせちゃったからウチは帰るね。ばいばいことりちゃん」

ことり「あっ……」

海未「希……」

ことり「……さっきのも忠告だったのかな」

海未「わかりません……」

海未「情けないです。同じ乙姫なのに、私は時々凛や希がわかっていることがわからない」

海未「……ですが、やはり私は今の気持ちを大切にしたい」

海未「欲に流されたりせず、私は私のまま、ことりと恋をしたいんです」

ことり「……そういう海未ちゃんだから、私は好きになったんだよ」

ことり「大丈夫だよ。わからないことがあっても、海未ちゃんは海未ちゃんだもん」

海未「……私、きっとことりを守りますから」

ことり「うん。信じてる、海未ちゃん」

374: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 20:29:11.60 ID:U4+BbBrW0
―――


ことり(龍宮城に来て、大切な人たちと出会って、大好きな人と結ばれて……)

ことり(海底の世界で一歩一歩進んで、私なりの日々を築いてきた)

ことり(それでも、今もまだわからないことばかり)

ことり(凛ちゃんと希ちゃんは、どうして一度恋した人間を手離すことができたんだろう?)

ことり(海未ちゃんが質問しても教えないのはどうして?)

ことり(私はこの先ずっとみんなに怯えながら暮らさないといけないの?)

ことり(どうやったら逃げるだけの毎日から抜け出せる?)

ことり(それから……たまに夢に見る景色)

ことり(あれはきっと、陸での生活の記憶……私が忘れていた光景)

ことり(私は、誰かと一緒に生きてきた?)

ことり(その人は誰? 私にとってどんな人?)

ことり(どうして私たちは離れ離れになっちゃったの?)

ことり(私はどうして、龍宮城を求めて海に潜ったの?)

ことり(……わからない……私には、何もわからない……)

375: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 20:30:36.47 ID:U4+BbBrW0
―――


ことり「はっ…………はっ…………」


 早足で廊下を歩きながら背後を確認する。
 付かず離れず、微妙な距離を置いて、住人たちが私の後を追ってきていた。
 このまま逃げ続けていても、見逃してくれそうにない。


ことり(この先は確か……)


 角を曲がって、中央区画の調理場内へと身を滑らせた。
 普段からお手伝いで出入りしている場所だから、ちょっとした隙間や物陰の場所を知っている。


ことり(とりあえずここで……)


 私が隠れた直後、調理場に入ってきた住人たちは姿を消した私を探して室内の散策を始めた。
 逃がしたとか、奥から出ていったとか言い合いながら、足音騒がしく調理場を駆け抜けていく。


ことり(……いなくなった、かな)


 目先の危機を脱したことに一息付きつつ、今朝の出来事を思い出して、身を震わせた。


ことり(みんな、私の部屋に強引に上がってきた……)

ことり(開けようと思えば簡単に開けられる障子だけど、今までは私が招かない限り誰も勝手に開けなかった)

ことり(なのに今日のみんなは、私が何か言う前に……!)

376: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 20:31:29.83 ID:U4+BbBrW0
 昨夜から考えていた数多くの謎を抱えたまま、今朝の私は目を覚ました。
 悩みの種は体内の澱みとなって深く沈んでいるようで、体を起こす動作一つが重々しく感じてしまう。


ことり(……なんて風に、後ろ向きなこと考えちゃ駄目)

ことり(悩んだら憂鬱な気持ちになっちゃう。弱味を見せたら、いつ迫られるかわからないんだから)

ことり(今日も頑張って自分を守っていこう!)

ことり(……?)


 意気込みを新たにベッドから下りると、室外からの声に気が付いた。
 朝早いのに、ちょっとした騒ぎみたいな言い争いが聞こえる。


ことり(どうしたんだろう?)


 何かあったのか気になって、そっと障子を開けてみた。
 隙間から中庭を覗くと、住人たちが興奮した様子で話し合いをしていた。


ことり(話し声が聞こえる…………掟がどうとか…………)

ことり(……………………襲、う……?)

377: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 20:32:34.85 ID:U4+BbBrW0
 物騒な言葉が聞こえて、反射的に身が震えた……その瞬間。
 中庭で話をしていた住人たちが、揃って私の部屋へと顔を向けた。
 障子の隙間を通して目と目が合う。


ことり(……いけない)


 何とも言えない嫌な予感に襲われた
 急いで隙間を閉じて障子から離れると、上着を手に取った。


ことり(わからない……でも、目が合ったのは、きっと良くない……!)


 部屋の反対側にある窓へと向かう間に、障子の向こうから何人もの足音が近付いてきた。
 本当にやるのか、待ってると他に取られる、構わない開けちゃえ……なんて声が聞こえる。


ことり(逃げよう!)


 私は躊躇せずに、窓を開けて室外に飛び出した。
 ほぼ同じタイミングで、部屋の主である私の許可を得ないまま、住人たちは障子を開けて室内に踏み込んできた。

378: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 20:33:13.36 ID:U4+BbBrW0
 それから緩やかな追いかけっこが続いて……調理場に隠れた私はひとまず追手を振り払い、今に至る。


ことり(逃げられたけど、これからどうしよう?)

ことり(みんな力づくで私を捕まえようとしてきた。部屋が駄目なら、どこも安心できない)

ことり(……頼りにできるのは、一人しかいないよ)

ことり(海未ちゃんの部屋に行こう)

ことり(朝早い今ならまだ人気もまばらだし、移動するなら今のうちかも)

ことり(海未ちゃん、お願い、助けて……!)


 誰が襲ってくるのか、どこから襲ってくるのか、もしかしたら全員が私を狙っているのか。
 恐怖で足が竦む。

 でも、ここで捕まったら海未ちゃんと離れ離れになっちゃう。
 そうならないよう、私は勇気を出して、物陰から表に出た。

379: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 20:34:09.30 ID:U4+BbBrW0
ことり(…………! こっちも駄目!)


 調理場を離れて、宮殿内の廊下を恐る恐る進んでいく。
 遠くに人影が見えると歩調を緩めて、相手が私を追ってくるかどうか見極めるけど……。


ことり(誰が、じゃない。みんながみんな私を追ってくる)

ことり(全員から逃げないと!)


 住人たちは走ってきたりはせず、早歩きくらいのペースで私を追ってきた。
 私は距離を詰められないよう小走りを続けて、右に行きかけて人影を見つけては左に曲がり、前方に住人を見つけては一度後方に引いてを繰り返す。
 入り組んだ宮殿内を縫うように進んで行く。


ことり(なんだか……誘導されてる気がする……)


 気が付けば宮殿内をぐるりと回っていて、元居た場所近くまで戻っていた。
 廊下の左右から住人が迫ってきて、仕方なしに目の前の出入り口、大宴会場への扉を潜った。

380: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 20:35:11.59 ID:U4+BbBrW0
 龍宮城で最も広い部屋である大宴会場には、朝早くにも関わらず、ちらほらと食事を取っているヒトたちがいた。
 日頃騒がしくしている食事時だけど、今は不気味なくらいに静か。


ことり(ヒトはいるけど……みんなご飯食べて私に見向きしない)

ことり(ここにいる住人たちが追ってこないなら、反対側まで行って向こうの出入り口から外に逃げられるかも)


 宴会場を突っ切って対面の出口に向かおうと、部屋の奥へと踏み入った。
 しばらくは何事も起きなかったけど、私が室内の中央付近、各出入り口から遠のいた場所まで移動したら……。


ことり「……あっ!」


 それまで静かに食事を取っていた住人たち全員が、勢いよく立ち上がった。
 皆が皆、私を見ている。


ことり(誘い込まれた……!?)


 罠にかかった獲物を追い詰めるよう、宴会場にいた住人たちが距離を詰めてきた。
 じわり、じわり。
 廊下を逃げ回っている間から追ってきていた住人たちもどんどん宴会場に入ってきて、包囲網は大きくなっていく。


ことり(……捕まっちゃ駄目っ!)


 完全に囲まれる前に大宴会場を突っ切ってしまおうと、全力で駆けた。

381: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 20:36:06.49 ID:U4+BbBrW0
「あっ!」「逃げるわ!」「誰か止めて!」


 向かおうとしていた対面の出入り口を住人たちに固められてしまった。
 このまま前方に走っていっても捕まえられる。
 けれど、右も左も後ろからも、どの道追手が迫ってきている。


ことり(力づくでぶつかってでも突破するしかないよ!)

ことり(無茶でも何でもやらないと海未ちゃんに会えないんだから!)

ことり「……ぅ、えっ?」


 追手が待ち構える出入り口に突進しようと足に力を入れ……けれど走り出した途端、体がガクンと揺れて勢いが削がれた。
 勢いをつける前に、脇から腕を掴まれていた。

ことり「…………あ……」

希「…………」


 いつの間にか隣に立っていた希ちゃんが、私をしっかりと捕えていた。
 逃げられなかった……。


「希さん!」「やった!」「捕まえたわ!」


 住人たちが周囲で歓声を上げる。
 輪の中心で、私を捕えた希ちゃんが薄らと笑みを浮かべた。

382: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 20:36:44.17 ID:U4+BbBrW0
ことり(この笑い方……!)


 前に希ちゃんから誘惑された時を思い出した。
 妖しげな笑みと共に、意識の全てを欲望で上塗りされた異常な感覚が蘇る。


ことり「ぅ……ぁ……」


 誘惑されるまでもなく、あの日の記憶を思い出しただけで指一本動かせなくなってしまった。
 体が強張り、息が上がる。


ことり(一番捕まったらいけないヒトに捕まえられた……)

ことり(私を追ってきた住人たちの主……私を誘惑した乙姫……)

ことり(私、どうなるの…………助けて…………助けて!)

希「ことりちゃん」


 あの日のように、希ちゃんが顔を近づけてきた。
 まともに頭が働かない私は顔を背けることも出来ない。

 微動だに出来ない私に、希ちゃんはそっと顔を寄せて、耳元にキスをした。

383: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 20:37:22.70 ID:U4+BbBrW0
希「……………………」

ことり「……………………」


 抱き合うようにしている私たちを囲む形で、住人たちは無言のまま様子を伺っていた。
 やがて、私から顔を離した希ちゃんは、勢いよく背後へと振り返った。


希「提案や!」


 大声を上げて両腕を広げ、私から離れるようゆっくりと歩き出す。


希「今、みんなはことりちゃんが欲しくて堪らない。なのに海未ちゃんからは手を出したら駄目って言われとる」

希「これ、みんなは我慢できるん?」

「無理です!」「私だって欲しい!」「一人占めなんて許せない!」

希「せやろ!? みんなだって食べたいやろ!?」


 感情を掻き立てる言い回しをしながら、希ちゃんは宴会場を時計周りに進む。
 演説めいた言葉を発する希ちゃんにみんなの視線が集まっていく。


希「そこでや、ウチには名案があるんよ」

希「海未ちゃんの言いつけを無しにできる方法……みんな聞いてくれるかな?」

384: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 20:38:23.59 ID:U4+BbBrW0
 住人たちの欲望を縛る海未ちゃんの勧告。
 それを打ち破るという希ちゃんの発言に、追手たちの目の色が変わった。


希「みんな興味あるやろ!? 海未ちゃんの言いつけは破れなくても、同じ乙姫のウチなら解決できるんよ!?」


 みんなが声を上げて希ちゃんに賛同の意を表していた。
 歓声を浴びる希ちゃんは室内をぐるぐると歩き回りながら、声のトーンを増々大きくしていく。


ことり「…………」


 じり、じり、と。
 私はそっと、足音を立てないよう、摺り足で後ろに移動する。
 慎重に動いたつもりでも、私の挙動は幾人かの意識を引いてしまい、目を向けられたけど……。


希「脇見してるそこ! ウチの案聞かんでええの!? 海未ちゃんの言いつけ守ってずっと我慢し続けるん!?」

「!?」「い、いえ!」「教えてください!」

希「ええよええよー、みんなよく聞きやー!?」


 一人残らず注目を集めるよう皆を煽る希ちゃんに、場の空気感は完全に支配された。
 大宴会場に集う全員の意識が一人の乙姫に向けられて、他のものに関心が向けられる隙は無い。

 希ちゃんが声を張り上げるのを耳にしながら……。
 住人たちの視線から逃れることができた私は、静かに大宴会場を抜け出した。

385: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 20:39:20.96 ID:U4+BbBrW0
ことり(希ちゃん……)




 大宴会場で私を捕え、耳元に顔を近づけた希ちゃんは、潜めた声でこう言った。


希『返事せんで黙って聞いて』

希『みんなの意識が逸れたらゆっくりとここから出るんや。それまではじっとしとってな』

希『宮殿内は住人だらけで逃げられへん。外に出て塀に沿って遠回りに移動して、機織り部屋に行って』


 耳元に顔を寄せる希ちゃんの表情はわからないけど、何故だか私には、微笑んでくれているように感じられた。


希『上手くいくようおまじない、ね』


 優しい声色と共に、耳に柔らかな感触を覚えた。
 そして勢いよく両腕を広げた希ちゃんは、住人たちに向かって大声を張り上げ始めた。




ことり(…………)


 言いたいことは沢山あった。
 でも今は感謝を伝える余裕も無ければ手段も無い。
 ただ信じて、言いつけ通りの道筋で目的地を目指す。


ことり(希ちゃん…………ありがとう…………!)

386: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 20:40:18.00 ID:U4+BbBrW0
 希ちゃんの指示に従って、縁側から中庭に出た私は宮殿の周囲を巡る塀の方へと走った。
 絶対に誰にも見つからないよう警戒に警戒を重ねて、置き物代わりの珊瑚に隠れながら機織り部屋を目指す。


ことり(宮殿の中と違って外には誰もいない……これならいけそう!)


 順調に進んでいき、目的地が近付いてから、意を決して宮殿内に戻った。
 機織り教室までの内廊下を全力疾走して、教室の障子を勢いよく開けた。


ことり「あっ!」

海未「ことり!」

凛「来たにゃ!」


 室内には海未ちゃんと凛ちゃんが待っていて、私に駆け寄ると再会を喜んでくれた。


海未「どうなっているのですか? 住民たちの様子がおかしいですし、私は凛に連れられただけで事情を把握していません」

ことり「私は希ちゃんからここに向かってって言われて……」

凛「話は移動しながら! ついてきて!」

ことり「う、うん!」

387: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 20:41:01.13 ID:U4+BbBrW0
海未「…………遂に手段を選ばずことりを搾取しに来ましたか」

ことり「もう駄目かと思ったけど、希ちゃんが助けてくれたの」

凛「希ちゃんがね、海未ちゃん連れて機織り部屋で待っててって言ったんだよ」

海未「希が……」

凛「見てわかると思うけど、もうみんな我慢の限界みたい」

凛「正直気持ちはわかるよ。凛だってことりちゃんのこと、ホントは何をしても欲しいもん」

ことり「……そう、だよね」

凛「でもこんな形でみんなで寄って集ってっていうのは違うんだよねー」

海未「違う、とは?」

凛「凛が望んでるのとは違うってこと!」

ことり「ねえ、どこに逃げるの? 宮殿中にヒトがいて逃げ場なんてわからないの」

凛「大丈夫、とっておきの場所があるから!」

海未「……もしやこの方角は」

凛「海未ちゃんわかった? 鋭いにゃー」

凛「龍宮城で一番頑丈な部屋、北に逃げるんだよ!」

388: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 20:41:48.01 ID:U4+BbBrW0
ことり「どこに行ってもみんなから追われたのに、北区画の方は人が少ない気がする……」

海未「北は龍宮城でも特殊な部屋です、本来なら安易に近付ける場所ではありません」

海未「しかし北に逃げるとして、錠付きの鉄の扉と言えど鍵があれば外からも開けられてしまいます」

凛「鍵ってこれのこと?」

海未「あ、いつの間に! 鍵は私が管理しているはずですが!?」

凛「今は見逃して! 二人を北に入れたら鍵はどこか遠くの海に捨ててくるから!」

海未「そこまでして……」

凛「約束してね。ことりちゃんのこと守るって」

海未「…………わかりました」

ことり「凛ちゃん……」

凛「着いたよ! 北! あっという間だにゃ!」

凛「ほらことりちゃん、凛と一緒に走ったら早く走れたねっ」

ことり「……うんっ。もう走るの苦手じゃないよ!」

凛「今度は凛と競争しようね!」

389: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 20:42:35.49 ID:U4+BbBrW0
凛「じゃあ扉閉めるよー」

海未「凛……」

凛「何? 時間かけるとみんなに追いつかれるよっ、用があるなら早く早く!」

海未「いいのですか? ことりを私に預けて。凛だってことりのこと……」

凛「…………じゃ、凛と代わる?」

海未「…………」

凛「ね? それが海未ちゃんの気持ちだよ」

ことり「あ、凛ちゃん後ろ!」

凛「あーほら追いつかれたー。海未ちゃんのせいだよ!」

凛「時間ないにゃー……ね、ことりちゃん」

ことり「なぁに?」

凛「ほっぺになら許してね!」

ことり「えっ、ぅひゃっ!? わっ、やっ、」

海未「凛!? 今何しました!? キキキキスしましたっ!?」

凛「いいじゃんご褒美ってことでー。扉閉めたらちゃんと鍵かけるんだよ!」

海未「……後を頼みます!」

ことり「凛ちゃん気をつけて……!」

390: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 20:43:09.11 ID:U4+BbBrW0
凛「……ふう」

凛「さ、次はみんなと競争だね」

凛「はいこれ見てー! 一つしか無い北の部屋の鍵! 凛から奪ったらことりちゃんのところ行けるよー!」

凛「もし追いつけても意味ないけど……それでもいいなら凛のこと追ってみる?」

凛「えへへー、かけっこなら誰にも負けないよっ!」

391: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 20:43:51.27 ID:U4+BbBrW0
―――


海未「……」

ことり「……」


 鉄の扉を閉めたら、部屋の外の物音は一切聞こえなくなった。

 あの日、海未ちゃんと結ばれて以来二度目に入る北の部屋。
 ベッド一つを室内に置いて他に何もない簡素さが、今は無性に静寂を強めた。


ことり「……凛ちゃんも、希ちゃんも、私を助けてくれた」

ことり「味方じゃないって言ってたのに……」

海未「……現状、表に出るのは危険です。このまま北に籠城するしかありません」

海未「凛と希、二人を信じて」

ことり「うん……」


 一時的な安息を得ても、まるで落ち着けなかった。

 鉄の扉の向こうに残った凛ちゃん、そして希ちゃんは、一体どうなっただろう?
 いくら気懸りでも、二人に頼って逃げる事しかできなかった私に知る術は無く、無力さに耐えるしかない。

392: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 20:44:39.90 ID:U4+BbBrW0
―――


 北に入った私たちは籠城生活を始めた。

 窓一つ無い部屋からは外の様子は一切知れず、不安と歯痒さに苛まれるけど、今は一日を無事に過ごすことが大切。
 やれることをやってみようと、室内の通路から続く拘束部屋の並びを一通り見て回ってみた。


ことり(何十って数の部屋がある。これだけの人数が収容される場合もあるってことだよね)

ことり(全部の部屋に、人間を繋ぎ止める為の拘束具が用意されてる……)


 各部屋には手枷や足枷といった拘束具が壁やベッドに設置されていた。
 無視出来ない異物感に最初は狼狽えたけど、そこを除けばごく普通の小部屋みたい。


ことり「……あ、部屋に食料の貯えとかあるんだ」

海未「一度北に入った人間は以降この場が居住地となりますので。貯えは十分に備わっているはずです」

ことり「じゃあ立てこもる分には問題ないのかな」

海未「生活に必要なものは全てありますし大丈夫でしょう。余計なものが一切ないという点が難儀ですけど」

ことり「そういうことをする為の部屋……だもんね」

海未「……ええ」

393: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 20:45:16.53 ID:U4+BbBrW0
ことり「私たち、いつまでこうしていればいいのかな?」

海未「落ち着くまで、でしょうけれど……いつになれば住人たちが冷静さを取り戻すのか、まるでわかりません」

海未「暴動が起こるなんて、少なくとも記憶にある百年で初めてです……」

ことり「やっぱり私のせいで……」

海未「気持ちはわかりますが、自分を責めて悲観するのはよしましょう」

海未「例え暴動のきっかけがことりであっても、責任はありません」

海未「仮に責任を問うならば、人間を捉えた私たち龍宮城の民にこそ責があるはずですから」

ことり「上手くやっていけないんだね。人間と、海の生き物って」

ことり「私が自我を失って、人としての生き方を止めない限り、悲しい終わり方を迎えるしかないのかな」

ことり「……ごめんね、変なこと言って」

海未「今は後ろ向きな考えしかできない心境なんですよ。深く考えないようにしましょう」

ことり「うん。気を付けるよ」

海未「いえ。私も同じ気持ちですから……」

394: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 20:45:56.47 ID:U4+BbBrW0
海未「人間と海の生物は悲しい終わりを迎えるしかない、ですか……」


 会話の合間に、海未ちゃんが重々しい溜め息をついた。
 気分が参ってるのは私だけじゃない、海未ちゃんだって勿論同じなんだ。
 私が余計な心配をかけてばかりじゃいけない。


ことり「信じて待ってみよう? そのうち凛ちゃんか希ちゃんが外から迎えにきてくれるかもしれないよ」

海未「はい。待つ以外に、今の私たちにできることはありませんから」

ことり「そう……だね」


 待つことしかできない……。
 その状況に、慣れとも親しみとも言えそうな、漠然とした物覚えがある。


ことり(待つ……しか、できない……)

ことり(終わりが見えない、いつまで続くかわからないまま待ち続ける)

ことり(……前も、こうして待っていたことがあったような…………私は何かを、ずっと……)


 形にならない、どうにも輪郭のはっきりしない感覚にむず痒くなる。
 思い出すのを諦めて、今は出来ることをしようと、部屋の散策を再開した。

395: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 20:48:06.95 ID:U4+BbBrW0
―――


ことり(……あれから、何日経ったかな……)


 数だけは多かった個室の散策もすぐに終わって、北での籠城はあっという間にやることが無くなった。
 変わり映えしない一日を送るだけの生活。
 日数で言えば数えられる程度でも、余計な行動を一切できない場所で暮らすのは想像以上に辛くて、あっという間に音を上げそうになった。


ことり(寝て、起きて、何か変化を待ちながら、また寝て……)

ことり(変わらない毎日。変わらない私たち)

ことり(海未ちゃんと一緒なのは嬉しいけど、楽しくお喋りする雰囲気でもないし……)


 状況が状況だけに、私も海未ちゃんも黙りがちになって、会話も乏しい。
 沈黙の中に身を置くと、物音を立てただけでいけない事をしちゃったような気さえしてくる。
 身動き一つが気怠く感じ、時間の経過は最早把握できなかった。


ことり(このまま二人きり、永遠に閉じこもったまま生きていくみたい)

ことり(……それもいい、のかな。大勢に襲われて欲に塗れたり、怖がりながら逃げ続けるのに比べたら)


 だけど、表面に現れないだけで、変化は少しずつ起こっていたの。
 私にじゃなくて……海未ちゃんに。

396: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 20:48:45.08 ID:U4+BbBrW0
 最初は、具合が悪いんだと思った。
 少し前までそうだったように、海未ちゃんの体から力が抜けて、生気に飢えているんだって。


ことり「海未ちゃん、手繋ぐ? 私から生気貰っていいからね?」

海未「…………大丈夫です」

ことり「本当に? 元気なさそうだけど、」

海未「いいんですっ!」


 らしくも無く癇癪を起してまで拒絶されて、正直ショックを受けた。
 私は大人しく身を引いて、海未ちゃんの体調を心配しながらも黙って見守っていた。


ことり(……海未ちゃん、少しずつやつれてきてる)

ことり(なのに昨日も生気をあげようとしても断って……このままじゃ倒れちゃうよ)

ことり(海未ちゃん、どうして……)

397: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 20:49:20.83 ID:U4+BbBrW0
―――


 生気のやり取りを断るに留まらず、次第に海未ちゃんは私との接触を頑なに拒み始めた。
 私たち以外誰もいないのに、一切の会話も無く過ごし続けるのは、精神的に苦しい。


ことり(追い込まれてるの? 不安なの?)

ことり(……当然だよ。どうしようもなくて、待つしかできない。海未ちゃんだって苦しいよね)

ことり(私も苦しい……けど、海未ちゃんに何もしてあげられないのも、苦しいよ……)


 大きなベッドの上で一人転がり、無力感を噛み締めて……ふと、海未ちゃんがどこに行ったのか気になった。
 籠城中の今、北の部屋に居ないってことは、奥の拘束部屋にいるってことになる。


ことり(そう言えば、今日起きてから海未ちゃんの姿を見てないや)

ことり(奥にはもう用は無いはずだし、拘束部屋は狭すぎて生活するには不便なのに)

ことり(何をしてるんだろう……?)

398: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 20:50:15.65 ID:U4+BbBrW0
ことり「…………海未ちゃん!?」


 拘束用の個室を一つ一つ見回って、そのうちの一室で海未ちゃんを見つけた。
 どうして拘束部屋に居たのか、理由はすぐにわかった。
 部屋の用途に合った姿で見つかったから。


ことり「ね、ねえ、どうして手錠してるの? 自分でやったの?」

海未「…………」

ことり「海未ちゃん? 海未ちゃん!?」


 まるで生気が抜けたように呆然としたまま無言を貫く海未ちゃんに駆け寄って、手首の辺りに触れた。
 鉄の拘束具の触感……手枷がしっかりと嵌められている。

 鎖を通じて壁に繋がれている手枷をかけた海未ちゃんは、床に座り込んだまま微動だにしなかった。


ことり「これ、自分でやったんだよね? どうして?」

海未「…………」

ことり「とにかく外さなきゃ……!」


 辺りを見回して、部屋の端に鍵が転がっているのを見つけた。
 鍵を取って海未ちゃんの手を拘束する手枷に嵌め込むと、カチャリと音を立てて、鉄の塊が外れた。

399: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 20:50:50.73 ID:U4+BbBrW0
ことり「よかった。もう大丈夫だよ」

海未「…………ことり…………」

ことり「どうして自分で動けなくなるようなことしたの?」


 肩を揺さぶってみても海未ちゃんは焦点の合わない目をしていて、私を知覚できているのかわからない。
 呆けた顔のまま私を見て、自分の手を見て、外れた手錠を見た。


海未「…………外した、の、ですか」

ことり「え? ……外したよ、当たり前だよ!」

海未「どう、して……」

ことり「どうしてって……ねえ、ホントに大丈夫!?」

海未「外したら、もう……………………ならないように…………」


 聞き取りにくい声を漏らしていたけど、よく聞こえない。
 耳を澄ませていると、海未ちゃんが顔を上げて、カクリと首を傾けた。
 全体的に緩慢な動作を続けていたけど……眼球だけがギョロリと、獰猛な動きで私を捉えた。

400: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 20:51:40.07 ID:U4+BbBrW0
 急に立ち上がった海未ちゃんは、私の手を掴んで強引に引っ張った。


ことり「え。きゃっ!?」


 驚く私に有無を言わせず、個室に用意された小さなベッド上に投げつけた。

 北の部屋に比べると、拘束部屋のベッドはずっと小さくて、一人が身を屈めて寝るのが精一杯。
 そんな小さな場所に私を転がした海未ちゃんは、そのまま上に跨って来た。


ことり「な、なにっ!? どうしたの!?」

海未「せっかく、襲わないよう、繋がっていたのに」

ことり「襲う……って」

海未「ことりが悪いんです……ことりが私を解放するから……」

ことり「ちょっと待って、海未ちゃんもしかして、」

海未「もう待てませんっ!」


 抵抗する間もなく、海未ちゃんは私の両手を掴むと、頭上で固定するように押さえつけた。
 片手で私の両の手を封じる一方、空いたもう片方の手が私の胸を鷲掴みにした。


ことり「ぃっ……!?」


 遠慮の無い掴み方に痛みを覚える。
 抗議の声を上げようとしても、その前に、私の口は海未ちゃんに蓋をされた。

401: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 20:52:26.98 ID:U4+BbBrW0
ことり「んぐっ…………んんっ!? ん、ぉんぅ……!?」

ことり(なんで!? なんで!?)

ことり(こんな、海未ちゃん、どうして……!?)

海未「ぷはっ! ふうっ、ふうっ…………ふっ、ふっ」

ことり「んぅっ……はあっ……う、海未ちゃ、」

海未「ことりっ!!!」

ことり「んんんっ!?」


 海未ちゃんとの二度目のキス。
 でも、こんなのキスなんて言えない。
 無理やりに唇を貪られて、私の気持ちなんて微塵も汲んでくれない。


ことり(どうして急にこんなこと……っ)

ことり「ん…………んっ……っ……」

ことり(…………ダメ……良くなっちゃダメ…………流されちゃ……!)


 愛情も何もないような口付けなのに、海未ちゃんから力強く求められているっていうだけで、心身共に喜んでしまいそう。
 受け入れてしまいそうな本能を理性で叩き直す。
 唇に吸い付く海未ちゃんから逃げようと頭を激しく振って、何とか引き離すことができた。

402: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 20:53:25.74 ID:U4+BbBrW0
海未「はっ! はっ! はっ!」

ことり「海未ちゃん、どうしてこんな……」

海未「……耐えられません」

ことり「な、なにが?」

海未「ことりと結ばれて、全身で交わって、知ってしまった」

海未「私はことりの味を知ってしまいました」

海未「以来ずっと味わうことのないまま、北という特別な場所で二人きりにされて……どう耐えろと言うのですか!」

ことり「ねえちょっと、海未ちゃん、いつもの海未ちゃんじゃないよ」

海未「いつもって何ですか!? 私は乙姫なんです、愛する者を前にして耐えられないんです!」

海未「けれどいけないことだって私だってわかっていたから動けないようにしていたのにそれなのにことりが私を解放したりするからことりが私を」

ことり「海未ちゃん!? しっかりしてよ!」

海未「無理ですよっ!」

ことり「やっ!? ダメっ!」


 襟元を掴まれて思いきり引っ張られた。
 胸元のボタンが飛んで肌が露わになる。
 際どい部分の素肌を晒してしまい……私を見る海未ちゃんの目の色が、変わった。

403: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 20:54:07.68 ID:U4+BbBrW0
海未「ことり、お願いです、ことりっ、」

ことり「やっやだっ! こんな風にするの嫌だよっ!」

海未「もう一度私に全部下さい!」

ことり「一旦やめよ!? 冷静になって!」


 いくら声をかけても海未ちゃんは止まらなかった。
 素肌を露出した箇所に見境なく口付けられ、その都度私は歓喜の声を上げそうになるのを我慢しなくちゃいけなかった。


ことり(違う、反応しちゃ駄目、こんなの間違ってる)

ことり(今の海未ちゃんはおかしい、相手しちゃ駄目)

ことり「ぁんっ!?」

海未「良かったですか? もっとしてあげます……可愛いですよことり、ことり、ああことり」

ことり「ち、違うから……! ダメだよ海未ちゃん落ち着いて!」

ことり(まるで私を誘惑してきた時の凛ちゃんや希ちゃんみたい)

ことり(ううん、それよりも、私を追ってきた住人たちに近い)

ことり(欲望に夢中になって、こっちの言うことを聞いてくれない……!)

404: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 20:55:01.73 ID:U4+BbBrW0
 事態は把握しきれなくても、海未ちゃんに限界が来たんだってことはわかった。

 言ってみれば、目の前に御馳走をぶら下げられて我慢し続けるようなもの。
 初めて人間と交わり、最上級の極楽を知った海未ちゃんにとって、北の部屋に私と二人きりっていう状況がどんな影響を与えただろう。
 求められる側の立場にある私には理解できることじゃない。


ことり(……けど、やっぱりいけない)

ことり(海未ちゃんは言ってた。住民たちみたいに理性を失ってまで私を求めたくない、って)

ことり(普段あんなにしっかりしてる海未ちゃんなら、暴走してる今の姿を許せるはずがないよ)

ことり(海未ちゃん自身で止められないなら、私が止めないと……!)


 これはきっと一時的な暴走。
 一回冷静になれば考えを改めてくれる。

 そう信じて、思いつく手段で海未ちゃんに理性を取り戻させようと決めた。
 抑えつけられた手をばたつかせて、何とか右手の自由を得る。
 抵抗した私に反応して顔を上げた海未ちゃんを狙って、私は右手を振り上げた。


ことり(ごめん、海未ちゃん……!)


 遠慮はしない。
 全力を込めて、海未ちゃんの頬に掌をぶつける。

 けれど、頬を打つ寸前……。
 脳裏に滑り込んできた映像が、私の手の邪魔をした。

405: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 20:55:55.59 ID:U4+BbBrW0
 激しい閃光と共に、目の前の光景が別の光景で塗り替えられた。


ことり(あっ、あっ、あっ、あっ、あっ、あっ、)


 チカチカと点滅した視界に映ったのは……ここではない、どこか別の場所に立つ私と、もう一人。

 私は悲しみと怒りに染まった表情を見せていた。
 私の向かいには申し訳なさそうにしている誰かがいた。
 私は振り上げた右手で、向かいに立つ誰かの頬を叩いた。


ことり(……私……同じことをした)

ことり(前にもどこかで今しようとしたことをした)

ことり(そしてとても後悔した)


 記憶は無い。
 なのに、その時の感情だけが蘇ったように、胸が詰まって自然と涙が溢れた。
 悲しい……痛い……悲しい。

 かつて私は酷い事をして、取り返しのつかない事態を引き起こしてしまった。


ことり(……………………でき……ない……)

ことり(私には、もう……誰かに手を上げることは、できない……)

406: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 20:56:42.43 ID:U4+BbBrW0
 別世界へと飛翔した記憶と光景は、前触れ無しに終わりを告げた。
 気が付けば元通り、小さなベッドの上で、私の肌を撫で回している海未ちゃんに為すがままにされている。


ことり(…………もしかしたら……普段我慢しているだけで、本当はこうして、がむしゃらにしたいのかな……)

ことり(こんなに私を求めてくれる、恋した人を、拒めない……)


 私の衣類を剥ぎ取らんと荒々しく息を吐く海未ちゃんは、とても必死だった。
 見ていると庇護欲が生まれてきそう。


ことり「…………いいよ……海未ちゃん」


 抵抗するのをやめて、胸元に顔を埋める海未ちゃんの頭をそっと撫でた。


ことり「私のこと、欲しいって思ってくれるなら……あげる」

ことり「全部、海未ちゃんの好きにしていいよ」


 諦めて、受け入れることを決めた。
 拒んだら、今度もまた致命的な事態を引き起こしてしまう……そんな恐怖に囚われてしまったから。


ことり(私には、今の海未ちゃんを拒むことなんて、できないよ……)

407: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 20:57:37.65 ID:U4+BbBrW0
 一度諦めてからは楽だった。
 生まれたままの姿に剥かれた私の素肌に余すことなく海未ちゃんの指や舌が這い回り、私は全身を走る快楽に身を任せた。


ことり「あっ!? 海未ちゃん、それ凄い……っ」

海未「可愛いですよことりっ、もっと感じてください」

ことり「良いっ、もっと触って、してっ!」


 局部を深くまで抉られる度に身体が跳ねた。
 まるで海未ちゃんに操作されている気分。
 私が喘いで咽び泣く度に、海未ちゃんは笑ってくれて、その笑顔が余りに無邪気で愛おしい。


海未「ことり、好きです、悶えるあなたも素敵です」

ことり「……ぁぁぁぁぁああだめきちゃうきちゃう海未ちゃんもうそれだめっ! ああっ! ああああっあっあっっっっっ!!!」

海未「愛しいことり、ああ、ことり……」


 私を抱く海未ちゃんは、怖いくらいに激しかった。
 少し前までこんなこと知らなかったはずの私の肉体に、限界以上の快楽を植え付けていった。


ことり「……すき…………すき…………っ」


 過剰な刺激に耐えられなくなった意識がゆっくりと閉じていく。
 最後に目にしたのは、色々な体液で顔中をべちゃべちゃにした海未ちゃんの、恍惚の表情だった。

408: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 20:58:43.77 ID:U4+BbBrW0
―――


 淫蕩の日々。
 箍が外れた欲望が堰を切って雪崩れ込み、私たちは時を忘れて絡み合った。


海未「ことり、もう一度……」

ことり「うん、いいよ」


 どの道時間感覚なんて無くなっていたから、時を忘れてお互いを貪り合った。
 どれだけ口付けを交わして、身体のどの部位に触れたことが無いのか、もうわからない。


ことり「する時は激しいのに、される時は顔真っ赤にするの、可愛いよ」

海未「やっ、見ないでっ、駄目です見ないでくだ、さっ…………っく、ぁっ!」


 どちらかが疲れ果て眠るまで抱き続けた。
 時には相手が倒れても求め続けた。
 求められた側は絶頂で意識を取り戻して、過敏になりすぎた身体に震えながら涙と唾液と喜びの雫を垂れ流した。


ことり(これが極楽……海底の楽園、その中でも、最上級のシアワセ)

ことり(一度味わえば、快楽の虜になって、後戻りはできない……)


 目の前に広がる世界は夢みたいだった。
 夢なのか現なのか、境界も曖昧になるくらい私たちは溶け合って、他の何事をも意識下から捨て去った。

 夢のような時間を、夢を見ているような気分で味わいながら……。
 微睡みの中、私は、夢を見た。

409: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 20:59:26.86 ID:U4+BbBrW0
―――――
―――



 大切な人がいた。

 あなたが私を引っ張って、私があなたを支えて。
 二人だから辛い日々を頑張ってこれた。


ことり(帰ってきて……)


 手を引いてくれる人が居なくなってしまったから、私はここで待っているしかない。
 海を見つめながら、きっと帰ってきてくれるって信じて。
 いつまでも、いつまでも。
 それしかできないから。


ことり(待ってるから)

ことり(帰ってくるのを、私はいつまでも待ってる)


 大切な人の為にそれしかできない。
 それしかできないから、私は待ち続ける。
 待っていなければならない。

 そうしていなければ、私は私を許すことができないから。

410: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:00:08.25 ID:U4+BbBrW0

―――
―――――


ことり「……………………」


 薄闇の中で目を覚ました。
 気怠さを我慢してベッドから身を起こすと、隣では海未ちゃんが眠っていた。
 パリパリになったシーツの上、二人とも何も身に着けていない。


ことり「…………ははっ……………………あはははっ…………」


 変な笑いと一緒に、涙が出た。
 何一つおかしくないのに、おかしすぎて泣けてくる。


ことり(思い出した)

ことり(地上で暮らしていた時のこと…………忘れてた記憶…………やっと、思い出すことができた)

ことり(何してるんだろ私……なにこれ?)

ことり(快楽に負けて、好きな人だからって何もかも許して)

ことり(これが私のしたいこと? しなくちゃいけないことなの?)

ことり(……私は、帰りを待っていなくちゃいけない)

ことり(幸せな時間はもうおしまい。戻らないと)

ことり(海底の楽園から、私が生きるべき場所に)

411: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:00:54.52 ID:U4+BbBrW0
―――


ことり「むっかしー……むっかしー……うーらしーまはー……」


 私が暮らしていた海辺の地域では、多分一番有名な童謡。
 創作のようで、本当に存在した龍宮城で口ずさんでみると、不思議な気分になる。


ことり(御伽噺の最後ってどうなるんだっけ)

ことり(夢のような時間が過ぎて、陸に戻ったら……そう、残酷な現実が待っている)

ことり(宮殿で過ごしたよりずっと長い時間が陸では過ぎていて、周りは知らないものばかり)

ことり(絶望して、お土産に渡された時に絶対開けたら駄目って言われた玉手箱を開けたら、陸で過ぎた時間と同じくらい年を取っちゃう)

ことり(もし、私が陸に戻ったら、どのくらい時間は経ってるのかな)

ことり(あの人は帰ってきてる? それとももう死んじゃってる?)

ことり(……どうなっても、私は陸に帰って、海未ちゃんとお別れしないといけないことに変わりない)

ことり(御伽噺の結末が悲しい理由、今ならわかる気がする)

ことり(異なる世界に生きる人たちが交わっても幸せにはなれない……そんな教訓が込められてるんだ)

ことり(……まだ、大丈夫)

ことり(例え悲しい最後になっても、今ならまだ、悲劇を防げるはずだから)

412: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:01:33.70 ID:U4+BbBrW0
海未「……ん」


 声に気付いて目を向ければ、ベッドの上で海未ちゃんが目を覚ましたところだった。
 少し離れた場所に立つ私は、体を起こす愛しい人の姿をじっと眺めている。


海未「ああ……おはようございます、ことり」


 寝ている間に私が着つけた寝間着の裾を引きずりながら、海未ちゃんは私の方へと近づいてきた。
 ごく自然な動作で私の頬に手を添えて、にっこりと微笑む。


海未「ことり、今日も沢山交わりましょう」


 海未ちゃん……。

 昨日までのようにそうできたら、本当は幸せなのかもしれない。
 だけど思い出してしまった。
 私が陸でどういった暮らしをしていたのか……どうして海に身を投げたのか……。


ことり「海未ちゃん、ごめんね」


 頬に添えられた手を、そっと引き剥がした。


ことり「昨日までと同じことはできないよ」

ことり「私、陸に帰らないといけないの。だからおしまいだよ、海未ちゃん」

413: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:02:08.35 ID:U4+BbBrW0
海未「…………何を言ってるのですか?」

ことり「帰るんだよ。私、龍宮城にさよならして、陸に帰らないといけないの」

海未「……だって、ことりは私とここで、いつまでも二人で、」

ことり「できないよ。いつまでも続くはずがない。わかってるでしょ?」

海未「わかりません。何を言っているのか……ことり、どうしてですか?」

ことり「わかるはずだよ。海未ちゃんなら……私が好きになった乙姫さんなら」

海未「……私は……私もことりが好きです……」

ことり「うん。私も海未ちゃんが好きだよ」

海未「で、では一緒にここで結ばれましょう、交わりましょう」

ことり「できないんだよ。私は帰らないといけないから」

海未「……………………いけませんっ!」

海未「帰るなんて、私と別れるなんて、絶対に嫌ですっ!」

海未「どうしてそんなこと言うんですか!? 私のこと嫌いになったのですか!?」

海未「もっと愛しますから! ことりを満足させるため頑張りますから!」

海未「だからここに居ましょう! ずっと一緒に居てください! お願いですからっ!」

414: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:03:02.29 ID:U4+BbBrW0
 懇願する海未ちゃんに、私は首を横に振り続けた。

 海未ちゃんがどんなに私への愛を叫んでも、涙して引き留めても、これ以上龍宮城に居続けることは出来ない。
 私には、陸で為すべきことがあるから。


海未「……どうして聞いてくれないのですかっ!」


 耳を貸す気のない私に焦れたみたいで、海未ちゃんは私に押し迫ると、背後の壁に叩きつけた。
 片手で肩を強く押さえながら、もう片方の手は昨日まで同様、私の服の中に滑り込んでくる。


ことり(……目を覚まして)


 一度目を閉じて、すぐに開く。
 息を吸ってから、右手を高く振り上げた。

 記憶が蘇る。
 過去に同じことをして、どういった悲劇を招いてしまったのか。


ことり(……無理やり過去を見せられなくても、もう思い出したんだからっ!)


 今度は止めなかった。
 一切の容赦を捨て、全力を掌に込めて、私は海未ちゃんの頬を叩いた。

415: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:03:43.42 ID:U4+BbBrW0
 破裂音と共に、掌に大きな衝撃が走った。
 痛いけど、我慢する。
 叩かれた相手の方がもっとずっと痛いはずだから。


海未「……………………」

ことり「……思い出して。いつもの海未ちゃんを」

ことり「欲に負けない、自分に負けない、理性を保ったままで私を好きって言ってくれた……私が好きになった海未ちゃんのことを」

ことり「私もね、思い出したんだよ」

ことり「陸で暮らしていた頃の記憶、私、思い出したの」


 ポツリポツリと、言葉を零す。
 叩かれた海未ちゃんは手を頬に当て、俯いたまま微動だにしない。


ことり「私ね……大切な人と一緒に暮らしてたんだ」

ことり「ずっと二人、小さな頃から一緒だった幼馴染みと、力を合わせて頑張ってきたの」

ことり「龍宮城に比べれば、陸での生活はとても苦しかったけど、沢山の困難を二人で乗り越えてきた」

ことり「二人一緒なら何だって耐えられたし、幸せだった」

ことり「でもね、そんな些細な幸せは壊れちゃったの。……私が、壊したの」

416: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:04:34.69 ID:U4+BbBrW0
ことり「本当につまらないことの積み重ね……でも陸での生活では、そんな小さな出来事が大切なものだった」

ことり「ちょっとした不運が続いて、色々と上手くいかなくなって、私は自棄になっちゃったの」

ことり「好き放題泣き喚いて、何も悪くないのにあの人を罵倒して、責め立てて……」

ことり「気付いたら、私は一人きり。大切な人は、どこかに行っちゃった」

ことり「だからね、私は待ってないといけないの」

ことり「私が全部悪いから……私のせいで居なくなっちゃった人がいつ帰ってきてもいいように、私は待つの」


 陸には海にまつわる言い伝えがある。

『海底の宮殿では 人間が訪れるのを 乙姫姉妹が待っている』

 陸に生きる人間の中には、言い伝えに縋って海に身を投げる人もいた。
 もしかしたら、去ってしまったあの人も海に潜ったのかもしれない……そう思った。
 翌日から、私は一人海を眺めながら、帰りを待つだけの日々を送ってきた。


ことり「でも……ずっと、帰ってこなかった」

ことり「一人で待つのに疲れて……何となく、海に潜れば見つかるかなって思って、海に入ったの」

ことり「勿論見つかるはずなくて、そのうち息が出来なくなって、意識を失って……気付いたら、私はここにいた」

ことり「海底の楽園、龍宮城に」

417: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:05:24.70 ID:U4+BbBrW0
ことり「……海未ちゃんのことは、本当に好き」

ことり「幼馴染みは大切な人だった……誰よりも……だけど、好きになって、恋をしたのは海未ちゃんなの」

ことり「こんな話した後だけど、信じて欲しい……これだけは本心だから」

ことり「けどね、好きな人がいるからって、私はここに居続けることはできないよ」

ことり「もしかしたら陸ではあの人が帰ってきて、私を待ってるかもしれないから」

ことり「私の身勝手で突き放した人を放っておいて、一人で極楽を味わうなんてできない」

ことり「そんな軽薄な人間じゃ、海未ちゃんのこと愛してるなんて言えないでしょ?」

ことり「例え海未ちゃんが好きって言ってくれても、そんな私を私が許せない」

ことり「海未ちゃんみたいな素敵な人に恋して貰えたんだから、綺麗なままの人間でいたいの」

ことり「陸に戻らないと……例えあの人が帰ってきてなくても、この先ずっと帰ってこなくても、待っていないといけない」

ことり「人生を一緒に過ごしてきて、私の事をずっと支えてくれた、本当に大切な人なの」

ことり「そんな人の為に、待つことだけが、私ができるせめてもの償いだから」

ことり「……わかって、海未ちゃん」

418: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:06:08.76 ID:U4+BbBrW0
 ぱたり

 何かが静かに落ちる音。

 見れば、海未ちゃんの足下に、雫が落ちていた。
 海未ちゃんの瞳から流れる、綺麗な雫が。


海未「……………………何を…………していたんでしょうね…………私…………」


 真っ赤に張らせた海未ちゃんの左頬に、涙が一筋二筋と流れる。
 悲しい光景なのに、とても美しい。


海未「私は……私を保ちながら、ことりを愛すると言っておきながら……こんな体たらくで……」

海未「今だって、衝撃的な話を聞かなければ、未だに狂ったままだったかもしれません……」

海未「一時の欲に負け、我を忘れ……ことりを苦しめて……」

ことり「苦しめてなんていないよ」

ことり「幸せだった。海未ちゃんに愛されて、抱かれて、喜びを共有できて、幸せだったよ」


 海未ちゃんの頬を流れる雫にキスをした。
 ギュっと抱きしめて、頭に手を添えたら、海未ちゃんも私を抱きしめてくれた。
 柔らかく、温かく……これまで通りの優しさで、私を包み込んでくれた。

419: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:06:47.42 ID:U4+BbBrW0
海未「……お別れ……しなければ、ならないのですね」

ことり「……ごめんね」

ことり「私は何もできない……陸でも待つしか出来ないくらい無力だから、海未ちゃんにお願するしかないの」

ことり「私を、陸に帰してくれますか?」

海未「…………決まりでは、連絡役を除き、龍宮城と陸の往来は一人たりとも許されません」

海未「ですが、構いません。無法地帯となってしまった今の龍宮城に、掟も何もありません」

海未「ことりの身を守る為に……ことりが大切な人を待つことができるように……陸に帰します」

ことり「……ありがとう……ごめんね……」

海未「謝らないでいいんです。ことりは悪くありません」

ことり「うん…………でも、寂しい」

ことり「海未ちゃんと離れ離れになるの、寂しいよ……!」

海未「……私も……寂しいです……!」

ことり「ごめんね、海未ちゃん、ごめんね……!」

海未「私こそごめんなさい、ことり……ごめんなさい……!」

420: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:07:23.09 ID:U4+BbBrW0
―――


 北の部屋に逃げ込んでから何日、あるいは何十日経ったのかな。
 この間、扉の向こうからは何一つ音沙汰が無かった。
 あれから龍宮城の騒動がどうなったのか、外の様子を知る手立ての無い私たちにはわかりようがない。


海未「……行きましょう」

ことり「うん……!」


 それでも陸に帰る為には北から出るしかない。
 何が待ち構えているのか、再び住人たちから逃げ続ける騒動に巻き込まれるのか、わからなくても。


海未「…………?」

ことり「……静か、だね?」

海未「はい……人影が無いどころか、物音一つしません」


 北の部屋を守る頑丈な鉄の扉を開くと、予想外にも、表は静寂に包まれていた。
 私たちを待ち構える見張り一人いない。
 拍子抜けしたけど、移動するには都合が良くて、私たちは急いで廊下を走った。

421: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:08:08.64 ID:U4+BbBrW0
海未「このまま更に北に回って屋外に出ます」

ことり「正門は南だよね? 遠回りするの?」

海未「念のため、逃げ場が少ない宮殿内での移動は避けます。海に出て移動しましょう」

ことり「海に? 私息続くかな?」

海未「以前見せたように私が泡でことりを包みます。泡の中で移動して、堀の外をぐるりと巡って宮殿の入り口まで向かいます」


 海未ちゃんに続いて屋外に出て、外庭を走って塀まで向かった。
 南にある宮殿正面の豪華な門扉とは違って、裏口みたいな小さな扉が北側の塀には備えられていた。


海未「行きましょう。私から離れないようにしてください」

ことり「いつでもいいよ」


 以前、夜の海中散歩をした時のように、海未ちゃんが私たち二人を包み込む大きな泡を作り出した。
 泡に包まれた私たちは重力から解き放たれ、泡の中を浮かびながら海を泳ぐ。

 あの日交わした、また二人で散歩しようという約束が、こんな形で守られた……。


海未「本当なら、もっと落ち着いた時にこうしたかったです」

ことり「……うん」


 海中散歩は本当に素敵な時間だった。
 もしも希望が叶うなら、あの胸躍る感動を、時間を忘れて味わうことが出来たなら……。

 けれど、私たちの願いは、この先きっと叶う事はない。

422: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:08:54.50 ID:U4+BbBrW0
 塀の外側に沿って海中を泳いでいる間も、近くに住人たちの姿は見当たらなかった。
 不気味なくらい何事も無いまま南の正面門扉に辿り着いて、敷地内に舞い戻った。


海未「こっちです。この先にことりを陸に帰してくれる者がいます」

ことり「海未ちゃんが帰してくれるんじゃないの?」

海未「陸との連絡役は決まっているんです。住人たちとは一線を画す存在ですから、ことりを襲ったりはしません、安心してください」


 宮殿の中には入らずに、門扉の近くに建っているちょっとした小屋に向かった。
 一応中の様子を確認してから、私たちは室内に身を滑らせる。


ことり「あっ!」

海未「陸の言い伝えにもあるのでしょう? 人間は助けた亀に連れられて龍宮城に訪れる、と」

ことり「本当に亀さんなんだ……!」


 龍宮城の住人をこれまで沢山見てきたけど、みんな人間みたいな恰好をしていた。
 だから、ここにきて初めて人間の姿以外の住人……一目で長寿だってわかる巨大な亀を目にするのは、新鮮な気分だった。

423: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:09:28.70 ID:U4+BbBrW0
海未「彼の背に乗れば陸まですぐに向かうことができます。道中の心配をすることもありません」

海未「彼を連れて外に行きましょう。さあお仕事です、正門まで行きますよ」


 小ぢんまりとした部屋の真ん中に鎮座していた巨大亀は、海未ちゃんが指示をすると、なんと宙に浮かび上がった。
 驚いていると、私の身長以上もある大きさの亀さんが目の前をプカプカと浮かんだまま、外に出ていった。


ことり「あんなに大きな体が水の中じゃないのに浮いてる……」

海未「陸と海底を行き来する特別な役割を担っていますから、色々と異質なんです」

ことり「本当に海って不思議な世界なんだね」

海未「出来ることなら、もっともっとことりに紹介したかったのですが……」

ことり「……うん……」

海未「……すみません、感傷的になりました。いつ追手が来るかわかりません、急ぎましょう」

424: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:10:12.52 ID:U4+BbBrW0
 私は海未ちゃんに手を引かれて、再び正面門扉に戻ってきた。
 繋いだ手を離して、亀の背中に乗れば、今生の別れになる……。


海未「……」

ことり「……」


 わかっているから、互いに手を離すのを躊躇った。
 離さない限り、私は陸に戻ることはできないのに。


凛「無理だよ」

ことり「!?」


 門扉の手前、海水の支配する領域を目前に躊躇していた私たちの背後から、北の部屋を出て初めて他人の声が響いた。
 私たちは手を繋いだまま背後を振り返った。


海未「凛!? ……希まで!」

希「恋した相手を手離すなんて、海未ちゃんには出来ひんよ」

凛「だって、乙姫だもん」

希「一度抱きしめた相手を手離せない……ウチらはそういう生き物やから」

425: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:10:54.79 ID:U4+BbBrW0
ことり「二人とも無事だったんだね!」

凛「…………」

希「…………」

ことり「……? どうしたの? 二人が来てくれたなら、もう大丈夫ってことじゃないの?」

海未「待ってください、何かおかしいです」

海未「……二人とも、現状の龍宮城について教えてください」

希「教えてもええよ。何も変な事はしてへんし」

海未「いえ、私には十分異常に思えます」

希「どうして?」

海未「北に入る以前、あれ程執拗にことりを求めて躍起になっていた住人たちが、今は人影一つ見られません」

海未「いくら私たちが遠回りして人目を憚ったとは言え、流石に静か過ぎます」

海未「どういうことですか?」

凛「どうもしないよ。みんなは自分の部屋で静かにして貰ってるだけだもん」

海未「静かに……? 我を忘れ欲望に忠実となって動いていた住人全員が? どう収拾を付けたのですか?」

凛「簡単だよ。凛たちが本気で静かにしてって言えば、みんな静かにしてくれるもん」

凛「それが出来るのが龍宮城の主、凛たち乙姫三姉妹なんだから」

426: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:11:36.07 ID:U4+BbBrW0
 北の部屋に逃げる際、私たちを助けてくれた凛ちゃんと希ちゃん。
 再会を喜びたかったけど……どこか、不穏な空気が流れている。
 一重に味方だって言えないような……それこそ、以前希ちゃん自身が言っていたように……。


希「海未ちゃん、ことりちゃんを陸に帰そうとしたね?」

海未「……ことりが陸上で暮らしていた記憶を取り戻しました。ことりには、陸に帰る理由があります」

希「だから帰すんやね……本当は帰したくなくても」

海未「ことりが望んでいます。仮に私が帰したくないと認めたところで、無理に引き留められる問題ではありません」

希「でも握ったまま離さないやん」

海未「え?」

希「手、だよ。ことりちゃんのこと掴んで離さない」

海未「……今、別れと同時に手離します」

希「出来たら凄いね。この先一生の別れになるのを知って尚、手離すことができたら」

希「……でも無理なんよ。海未ちゃんだって、もうわかっとるやろ?」

427: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:12:14.66 ID:U4+BbBrW0
海未「…………」

ことり「……海未ちゃん?」


 私の手を握る海未ちゃんの手が締め付ける力を強くしていく。
 きり、きり、って、音が鳴るくらいに。
 握られる手の痛みが段々増して、辛くなってきた。


ことり「海未ちゃん、痛いよ……!」

海未「わかってます、今離します……!」

ことり「……海未ちゃんっ!」

海未「わかってますっ! わかっています、ちゃんと、離さないといけないって……!」


 痛みが生じるくらいの強さではなくなったけど、海未ちゃんは依然として私の手を握ったままだった。
 希ちゃんが言うように、本当に手離そうとしない。


ことり「……もしかして……できないの? 離せないの?」

海未「どうして……どうして……っ!」

428: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:13:10.89 ID:U4+BbBrW0
凛「無理なんだよ、海未ちゃん、ことりちゃん」

海未「何故ですかっ!?」

希「別にウチらのせいじゃないよ。何度も言うとるやん? 乙姫はそういう生き物やって」

凛「いくらことりちゃんの為でも、海未ちゃんが乙姫である限り絶対に離せないもん」

希「だからこそ、ウチらはことりちゃんを海未ちゃんに預けたんやから」

ことり「私を預けた?」

希「住人みんながことりちゃんに襲いかかったやん? あの時の話」

希「ウチらは龍宮城の主やから、その気になれば住人たちを意のままに操れる。今みんなを静かにさせてるようにね」

希「とは言え強制的に操るようなことは出来るだけ避けたいし、一瞬でどうこうできる程簡単でもない」

希「せやからあの時は、ことりちゃんがみんなの手に渡って快楽漬けにされるのを防ぐ為に、海未ちゃんに託したん」

凛「海未ちゃんなら何があってもことりちゃんを守るはずだし、相手が海未ちゃんならことりちゃんは理性を保ったままでいられる」

凛「そう聞いて納得したから、凛も手伝ったんだよ」

希「でもね、決して二人の為に逃がしたわけやない」

希「あくまでも自分の為に、海未ちゃんに預けたんよ」

429: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:13:57.32 ID:U4+BbBrW0
凛「凛たちもことりちゃんと結ばれたいもん。ちゃんとことりちゃんのままでいて貰わないと意味なかったの」

ことり「わからないよ……何を言ってるの?」

凛「ずっと言ってるでしょ? ことりちゃんのこと大好きだし、まだ諦めてないって」

凛「例え海未ちゃんと結ばれても、凛だってことりちゃんと大切なことしたいよ」

凛「けどみんなに捕まって好き放題交わって、ことりちゃんが快楽の虜になって、理性を失ったらつまらないじゃん」

凛「そんなの今まで見てきた人間と大差ないもん!」

希「簡単に言えば、ことりちゃんが理性を保ってるうちに交わりたい、ってことやね」

海未「その為にことりを私に……」

希「利用した、って思われても仕方ないけどね。と言うかそのまんま利用したわけやし」

凛「でも良かったでしょ? ことりちゃんがみんなに捕まる前に逃げられたもん」

希「海未ちゃんかて、北でことりちゃんと散々ええことしたんやない?」

海未「…………」

希「今の質問は上品や無かったかな? でも、間違いやないやろ?」

希「一人占めがズルイとは言わへん。ただ……ウチらは端で指咥えてるだけで終わるつもりはない、ってこと。わかってくれた?」

430: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:14:46.44 ID:U4+BbBrW0
海未「……二人は私たちの味方ではないと言いながら、私たちを逃がしてくれた理由がわかりました」

凛「計算したみたいでズルイって思う?」

海未「窮地を救ってくれたのは事実です。責めるつもりはありませんし、感謝しています」

希「甘いよねーホンマに。怒ってもおかしくない場面だよ?」

ことり「私も二人には感謝してるよ。助けてくれて嬉しかった」

ことり「けど……二人と一緒にはなれないよ」

ことり「私は海未ちゃんのことが好きだし……陸に戻らないといけないの」

希「陸かあ……」

凛「ことりちゃんは陸には帰れないよ」

ことり「どうして? 二人が許してくれないから?」

希「そういうわけやないけどね。その大亀に乗れば、誰だって陸上に行ける」

希「ただし、大亀はウチら乙姫三姉妹の指示が無いと陸との移動は行わない」

ことり「じゃあ海未ちゃんが指示した今なら帰れるんじゃ……」

凛「ちゃんと言葉にした? ことりちゃん連れて陸に帰してあげてって」

ことり「……それは……」

希「ちゃんと指示せんと帰れへんし、海未ちゃんは……そんな指示できひん」

凛「ことりちゃんを手離したくないはずだもん。言えないよ、絶対に」

431: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:15:22.59 ID:U4+BbBrW0
ことり「……」

海未「……わかって、います……」

海未「今、もう、すぐに……ことりを帰しますから……!」

希「無理だよ海未ちゃん。諦めよう?」

凛「乙姫ってそういう生き物だもん。諦めてことりちゃんと一緒に過ごそう? 凛たちだってことりちゃんのこと大切にするから」

希「今までの生活に戻って、ことりちゃんをみんなで幸せにしよ?」

海未「ことりの意向はどうなるのですか!?」

海未「海の生物と交わっていけば次第に行為の虜になることでしょう、抵抗する気も無くなるでしょう」

海未「しかしそれではことりの気持ちを度外視しているではありませんかっ!」

海未「ことりを独り占めしたいという思いがあることは否定しません……ですがそれを差し引いても! 無粋な提案過ぎます!」

希「ウチらかてわかって言ってるつもりだよ」

凛「でもそれ以上に良い案はないよ?」

海未「このままことりを陸に帰せば良いではないですかっ!」

希「だって、出来ないやん?」

凛「凛たちだって絶対に帰したくないのに、ことりちゃんの事を本気で好きになった海未ちゃんじゃ、余計に無理だよ」

432: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:16:02.88 ID:U4+BbBrW0
海未「帰します……私はことりを、陸に帰すんです……!」

ことり「海未ちゃん……」

海未「…………どうしてっ!」

海未「私は決めたんです! ことりを帰すと!」

海未「私が私らしくある為に……ことりに誇れる私である為に……!」

海未「もう欲望になんて負けないと決めたんです! ことりを苦しめないと誓ったんです!」

海未「なのに何故……! どうしてことりを手離せないのですか……っ!」


 海未ちゃんは苦しそうだった。
 歯を食いしばり、我欲に耐えて……私の為に一生懸命になって。

 けれどどんなに待っても、私の手は離されなかった。
 まるで別人のものをみるような目で、海未ちゃんは私を掴む自分の手を凝視していた。


海未「……………………ごめんなさい…………ことり……」

海未「あなたの為に、陸に帰してあげたいのに……」

海未「本心からそうしたいと思っています…………けれど……乙姫である私は……!」


 葛藤する姿が痛々しい。
 そしてそれ以上に……愛おしかった。

433: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:16:45.39 ID:U4+BbBrW0
ことり「わかってるよ、海未ちゃん」


 空いている方の手で、海未ちゃんの目元に溢れている涙を拭き取ってあげた。
 私の目にも同じように、溢れそうなくらいの涙が溜まっているのがわかる。


ことり「海未ちゃんの気持ちはわかるよ。だから泣かないで」

海未「……私……っ!」

ことり「嬉しいの。心から私のことを思ってくれて。こんなに頑張ってくれて」

ことり「乙姫じゃない私には、海未ちゃんがどれだけ苦しんでいるのかわからない」

ことり「私の為に我慢して別れを決意してくれたのに、それでも思い通りにいかない悔しさは、わかってあげられない」

ことり「だから……もし無理なら、それでいいよ」

ことり「私は受け入れるから。龍宮城で生きること、受け入れるよ」

海未「な……!? いけません! ことりは陸に帰るんです!」

海未「あなたを待っている人がいるのでしょう!? ことりは待っていなければならないのでしょう!?」

ことり「そうだよ。私は何があっても待っていないといけないの」

ことり「でもね……私を引き留めるのが海未ちゃんなら、諦められる」

ことり「自分から相手を突き放して、なのに自分一人だけ幸せを手に入れて……そんな汚い私を、私は受け入れるよ」

434: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:17:32.08 ID:U4+BbBrW0
ことり「龍宮城に居ても、幸せは長く続かないよね」

ことり「海未ちゃんとだけ一緒になりたくても、またみんなに追われ続ける」

ことり「捕まったら、私は全部を奪われて、私じゃなくなっちゃう」

ことり「みんなに捕まらなくても、海未ちゃんに生気を分け続けるだけで、そのうち私は死んじゃう」

ことり「どの道は終わりは見えてるから、残りの短い時間を幸せに過ごすよ」

ことり「陸に帰らないで、龍宮城に残って、近い未来に私の存在が消え去って……それだけ」

ことり「陸で待っていてもあの人は帰ってこなかった……そう言い聞かせて納得するだけ……」

ことり「大丈夫。私には出来るよ。全部、受け入れられるから」

ことり「海未ちゃんの為なら……海未ちゃんに引き留められた結果なら、それでいいの」

海未「いけませんことり、そんなの、」

ことり「恋した人が決めたことなら何だって受け入れてみせる!」

海未「…………」

ことり「……私、それくらいの思いで海未ちゃんを愛してるつもりだよ」

ことり「だからね……いいんだよ、海未ちゃん」

435: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:18:36.70 ID:U4+BbBrW0
 後悔は残るに違いなかった。
 この先自分にどう言い聞かせても、幼馴染みを裏切った私を許せないまま、海底の楽園で最期を迎える。

 けれども、このまま陸に戻ったところで、どの道後悔はする。
 心から恋した人との別れを選択した過去の私を、長く続く陸での人生で何度悔やむだろう。

 どっちにしろ後悔するのなら、恋した人に引き留められただけ、私は幸せ。
 私が私を許せなくたって、そんな私を求めてくれたヒトがいたんだから。


ことり「こんな私を好きになってくれてありがとう。求めてくれて、ありがとう」

海未「ことり……!」

ことり「龍宮城に残って、あの人を裏切って、一人だけ幸せを手に入れた自分のことを嫌いになって……」

ことり「そんなの、大好きな人から愛されたのに比べれば、小さなこと」

ことり「私が私を嫌いになった分、海未ちゃんは私のこと、好きって言ってね?」

ことり「海未ちゃんに好きでいて貰える限り、どんなことでも受け入れてみせる」

ことり「だから……もういいよ」

ことり「私はずっと、海未ちゃんの側にいるから」

436: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:19:37.34 ID:U4+BbBrW0
海未「…………」

ことり「…………」

海未「………………ははっ」

海未「は……はははっ…………ははははっ……」

ことり「大丈夫だよ。もう、自分を責めないでいいんだよ」

海未「…………そっ、か……」

海未「……そう……でしたか…………」

ことり「そうだよ。私はずっと一緒だよ」

ことり「この先海未ちゃんが自分を許せなくても、私も同じだから」

ことり「自分を許せない者同士、最期まで一緒に居ようね」

海未「……簡単なことでした」

海未「こんな簡単なこと……私はずっと悩んで……」

ことり「もう一人で悩むのはおしまい」

ことり「これからは、悩んだり、苦しんだり、後悔したりしても、私も一緒だよ」

437: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:20:44.52 ID:U4+BbBrW0
 力無く握られていた私の手が、少しずつ締め付けられていく。
 海未ちゃんの手に篭る力が強まる程、繋がっている実感が大きくなっていく。


ことり(この先、私は永遠に、この手から離されなくてもいい)

ことり(選ばれたことを誇りに、短い未来を生きていこう)

ことり(私が恋した……私に恋してくれた、海未ちゃんと一緒に)


 私を捕えて離さないヒトに、出来る限りの慈しみを込めて微笑んで見せた。
 彼女もまた、小さく微笑みを返してくれた。


海未「…………乙姫は、抱きしめた相手を手離せない生き物」

海未「恋をしたから、愛したから、手離したくないという思いを抑えきれない……」

ことり「それでいいんだよ」

ことり「私はそんな海未ちゃんのことを好きになったんだから」

438: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:22:02.20 ID:U4+BbBrW0
海未「……本当ですか?」

ことり「え?」

海未「違うはずです。ことり、そうではありません」

ことり「え……? なんで……?」

海未「ことりは、私を好きだと言ってくれました。こんな私のことを、ことりは好きになってくれた」

ことり「そうだよ、私は海未ちゃんを、」

海未「ええ。私だから、好きになって貰えた」

海未「私が乙姫だからではなく、海未という名の私を好きになってくれたはずです」

ことり「……海未ちゃん……?」

海未「あなたに恋して貰えた私で居られるのなら、他のことはどうでもいい」

海未「私の存在も、私の本心も、どうでもいいんです」

海未「……だから……私は……」


 ふっ、と。
 私の手を捕えていた力が消えた。
 支えを失った私の手は、ゆらりと垂れ下がる。


ことり「あ……」

海未「私はもう、乙姫でなくていい」

海未「ただの海に生きる者として……恋したあなたを手離しましょう」

439: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:23:13.29 ID:U4+BbBrW0
 自由を取り戻した手を掲げた。
 誰とも繋がっていない、孤独な私の手……。


凛「そんな……!」

希「嘘……!」


 二人の乙姫が信じられないものを目にしたという顔をして、言葉を失っている。
 驚いているのは、私も同じ。
 気持ちでどうこうできるものじゃない、そういう生き物なんだって、乙姫から離れられない運命を受け入れたのに。


ことり「どう、して……」

海未「行ってください。亀の背に乗ってください」

ことり「うみちゃ、」

海未「早くっ!!!」

ことり「…………」

海未「もう一度捕まえないうちに……次は、もう……!」

海未「お願いします、どうか、ことり……!」


 今の私に、何も言い返せる言葉はない。
 指示に従うまま、機械的に体を動かして、私は大亀の背に跨った。

440: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:23:55.45 ID:U4+BbBrW0
ことり「……海未ちゃん……どうして……!」

海未「……これでいいのです」

ことり「だって、乙姫なのに」

海未「さあ……何故なのでしょうね?」

海未「意思や決意など関係ない、手離せないのが乙姫という存在であるはずなのに」

海未「私の内にある乙姫の心は、今もずっと、抱きしめた恋人を離したくないと叫んでいるのに」

ことり「じゃあなんで……!」

海未「……どうでもいいんですよ、そんなこと」

海未「ことりは言ってくれました。恋した私の為なら、どんな自分だって受け入れてみせる、と」

海未「……私だって同じですよ」

海未「恋したことりの為なら、何だって受け入れてみせます」

海未「私の行動が乙姫でないというのならそれでいい。本心では別れを惜しんでいようが構わない」

海未「あなたの為なら、他はどうでもいいのです」

ことり「海未ちゃん……!」

海未「さあ、行ってください。帰る時です。ことりが生きるべき世界に」

441: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:24:45.49 ID:U4+BbBrW0
 海未ちゃんの指示と共に、私を乗せた大亀がふわりと浮いた。
 龍宮城の敷地から、正面の門扉を潜って、海の領域へと進んでいく。


海未「お別れです。どうかお元気で」

ことり「そんな……本当に……!?」

海未「悲しまないで。泣かないで。これが正しい選択のはずです。そうでしょう?」

海未「ことりに愛して貰えた私らしく、最後まで立派な私でいさせてください」

ことり「…………」


 大亀と私は高くまで浮かび上がり、その分龍宮城から離れてゆく。
 敷地外に出た私を追って、凛ちゃんと希ちゃんが門扉の前まで駆け寄ってきた。


凛「嘘だよ、待って、ことりちゃん!」

希「ありえへん、こんな……!」


 乙姫さんたちの姿が小さくなっていく。
 凛ちゃんも、希ちゃんも、旅立つ私を見上げて泣いていた。
 私の為に、泣いてくれていた。

442: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:25:56.15 ID:U4+BbBrW0
凛「海未ちゃん、どうして、出来るはずないよ……!」

海未「ええ、私自身信じられません」

希「理屈でどうこうできるはずないのに……!」

海未「希も言ったではありませんか。恋だって、理屈じゃないんですよ」

希「だって……そんな……」

凛「ああ、ことりちゃん、行っちゃう……」

希「ことりちゃん……!」

ことり「凛ちゃん……! 希ちゃん……!」

凛「ことりちゃんっ!」

ことり「ありがとう。凛ちゃんと沢山遊べて本当に楽しかった。もっと遊びたかったよ」

希「ことりちゃん!」

ことり「ありがとう。希ちゃんの側にいると凄く安心できた。ずっと一緒にいたかったよ」


 龍宮城に来て以来、私をお世話してくれた乙姫さん。
 これまで出会ったどんな人たちよりも素敵だった。


ことり「ありがとう、二人とも。ありがとう……さようなら……」


 万感の思いを込めて、ありきたりな台詞を送った。
 これ以上に、私の気持ちを伝える言葉を知らないから。

443: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:26:30.17 ID:U4+BbBrW0
ことり「…………」

海未「…………」


 海未ちゃん……。

 あなたと一生を過ごす未来を一度は考えた。
 けれど、何よりも幸せなはずの選択を手離してまで、この先私たちは別々の道を生きる。

 為すべきことの為に。
 私たちが私たちでいる為に。
 恋した人に愛して貰えた自分たちであり続ける為に。


海未「大好きです、ことり」

ことり「大好きだよ、海未ちゃん」


 海未ちゃんが遠くなる。
 手を伸ばしても、もう、届かない。


海未「さようなら……」

ことり「さよなら……」


 やがて声も聞こえなくなる。
 私は離れ、海未ちゃんは残り、二人の世界が完全に隔たれた。

444: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:27:02.93 ID:U4+BbBrW0
 海中を浮かび上がって、広大な龍宮城の全域を俯瞰できるくらいの高さにまできた。
 門扉の前に立つ三人の人影は、もうはっきりと映らない。


ことり(海底の楽園……幸せな時間を過ごした宮殿……大切な人たち……恋した人……)

ことり(私は絶対に忘れません。これからの長い人生、一生覚えています)


 龍宮城の陰影が海に溶けていく。
 暗闇に消え去った海底の宮殿の代わりに、上から光が差し込んで、私を包み込んだ。

445: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:27:41.53 ID:U4+BbBrW0

―――
―――――


ことり「…………」


 海を見ていた。

 一人、浜辺に立って、時折足元を掬う波を感じながら。
 海の底から見上げるんじゃない、陸の上から、遠い水平線を見つめていた。


ことり(……帰って、きたんだ)

ことり(元の世界、私の世界に、帰ってきた)


 空には太陽や雲が昇り、風が肌を撫でる。
 海の香りも、潮騒も、全部見知ったものばかり。

 龍宮城という夢から覚めて、陸という現実に帰ってきた。

446: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:28:16.71 ID:U4+BbBrW0
ことり(御伽噺のように、私も帰ってくることができた……)

ことり(あ、お土産の玉手箱貰ってない)

ことり(……まあ、いっか)

ことり(大切なものなら、もう沢山、貰ったから)


 苦笑を一つ零してから、背後を振り返る。
 海辺に居並ぶのは、海に潜る前と大差ないように思える建物が並ぶ風景。
 あの中の一つが私の……私とあの人の家だった。


ことり(帰ってきてるのかな……まだ帰ってきてないのかな……それとも……)

ことり(……帰ろう)

ことり(家に帰って……ずっとそうしてきたように、帰りを待っていよう)

ことり(海に潜ってから時間がどれくらい過ぎていて、あの人がまだ生きているのかわからないけど)

ことり(私はずっと、いつまでも、待っていよう)

ことり(待つ為に、私は帰ってきたんだから)

447: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:28:53.36 ID:U4+BbBrW0
 家へと帰る前に、最後にもう一度、海へと目を向けた。
 海のずっと奥深く、陸からは決して目に映ることのない場所に、確かに存在する宮殿を思い浮かべて。


ことり(海未ちゃん……)


 愛していた。

 生まれてからずっと寄り添っていた人が居ても。
 一生をかけて待ち続ける別の誰かが居ても。

 私はあなたを愛していた。


ことり「…………ああっ……!」


 海を眺めてあなたを思うと、嗚咽が漏れ、頬を涙が伝う。
 悲しみや後悔は無い、ただただ涙が流れる。

 あなたの記憶と共に、私はこの先、一人で生きていこう。
 帰ってくるかわからない相手を待つだけの孤独な日々も、あなたを思えば辛くはない。
 それだけのものを与えてくれた。


ことり(ありがとう……さようなら)

ことり(さようなら、海未ちゃん…………さようなら、私が恋した乙姫さん…………)


 涙を拭いて、海に背を向ける。
 帰ろう、私の家に。

448: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:29:26.84 ID:U4+BbBrW0
―――――
―――



 各所の最終確認は私自ら済ませた。
 各担当からの報告にも問題は見つからなかった。


海未「……では、始めましょう」


 私の指示を合図に、宮殿の住人たちが一斉に動き出す。
 皆が大宴会場に集い、この地に訪れた人間をもてなすための宴が開かれる。


海未(何事も無く今夜の祭典を迎えられそうですね)

海未(問題無い。何も問題はありません)


 慣れ親しんだ決まりに準じ、住人たちが来客をもてなし始める。
 龍宮城では今宵もまた、海底の楽園に相応しい喜びに満ちた時が流れ出した。

449: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:30:03.68 ID:U4+BbBrW0
 およそ百年前……。

 龍宮城では、私たち乙姫を含む全住人を巻き込んだ騒乱が起きた。
 たった一人の人間を巡り、誰しもが熱を上げ、掟も慣習も無い無法地帯と化した。

 最終的に彼女はこの地から去り、楽園らしからぬ悲しみを残して、騒乱は沈静化した。
 以降、龍宮城は百年続く平穏を取り戻し、今日まで変わらぬ日々を維持している。


希「海未ちゃんお疲れさま」

凛「ちゃんとお客様をおもてなしできたにゃ!」


 私と同じく乙姫である凛と希が労いにきてくれた。
 全面的な指揮役は私が担うものの、龍宮城の主たる二人もまた、各所で頑張ってくれている。


海未「ありがとうございます。二人もお疲れさまでした、凛、希」


 軽く笑いかけ、賑わいを見せる宴会場から私は早々に立ち去った。

 背後からは、二人の乙姫が去りゆく私を心配そうに見ていることでしょう。
 知っていながら、宮殿の極楽から距離を取る為、歩みを止めはしない。

 あの日々を経てから、私は享楽というものの全てから身を退くようになっていた。

450: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:30:47.75 ID:U4+BbBrW0
―――


海未「…………」


 敷地内の南端にあたる正面門扉に立ち、目前に広がる海の領域を見上げる。
 遥か彼方まで広がる海の世界に果てはなく、いくら目を細めても、海が開けた先は見えはしない。


海未(どれだけ見ようとも、海が広がっているだけだと言うのに……)


 元より龍宮城の実質的な代表者として一切を取り仕切っていた私は、より精力的に宮殿の管理を行うようになった。
 常に職務に追われ、余計な思考を挟む隙が生じないよう。

 意識的に娯楽から距離を取る私を、凛や希は心配してくれた。
 あれ以来、一度として人間から生気を頂くことの無い私が近頃衰弱してきている点も、余計に不安を煽っているのだろう。

 けれど、慰めの言葉はかけて欲しくない。
 慰めの最後には、必ず、彼女の名を出されてしまうことがわかっているから。


海未(また今日も無駄なことを考えて……)

海未(……宮殿に戻りましょう)

海未(来客の受け入れが済み、何事も無い日常に戻っても、やることは沢山あるのですから)

451: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:31:23.05 ID:U4+BbBrW0
 玄関から宮殿内に戻り、明日以降の予定を復習していた。
 問題点を幾つか上げ、対策を練っていると、遅れて玄関から入ってきた使いの者が私を呼び止めた。


海未「どうしました?」

「このようなものが届きましたけど」

海未「? 箱? 届いた?」


 忙しそうにしていた使いは箱を渡すだけ渡して足早に去ってしまった。
 押し付けられた形の私は呆気にとられつつも、実に珍しい、龍宮城への届け物をまじまじと見つめる。


海未(ここは海の底に存在する宮殿……外界とは接点の無い場所のはずなのに……)

海未(今現在この地に居る者以外に、龍宮城を知っている誰かがいるのでしょうか?)


 箱を観察していると、宛て名が書かれているのを見つけた。
 名指しされていたのは……私、だった。

452: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:32:02.39 ID:U4+BbBrW0
海未「……」


 一瞬。

 本当に一瞬だけ、とある人物を思い浮かべてしまった。
 しかし、即座に想像を捨て去るべく大きく首を振り、自発的に思い出してしまったことを悔やんだ。


海未(何年前の話だと思っているのです……!)

海未(私たちとは寿命が違うんですから……もう既に……)

海未(……開けてしまえばいいんですよ。正体がわかれば、余計な考えをしなくて済みます)


 何も期待はしていなかった。
 そのようなもの、とうに捨て去っていたから。


海未「……これは……」


 箱を開け、中から取り出したものは、折り畳まれた着物だった。
 艶めく青地の美しさに目を奪われた私は、しばらくの間無言で眺め続けていた。

453: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:32:46.89 ID:U4+BbBrW0
海未(綺麗……)

海未(素敵な、青みがかった……藍色? 空の色? ……いえ……この色は……海?)

海未(龍宮城では扱わない生地に思えますが……)

海未(…………)

海未(……ま……さ、か……)


 不意の予感に襲われ、着物を落としそうになる。
 慌てて着物を掴み、自制心を取り戻し、動揺しかけた自身に対し声を上げて叱咤する。


海未「馬鹿な……馬鹿な馬鹿なっ!」

海未「何を今になって……ありえませんっ!」


 悲鳴のような声が宮殿内に反響する。
 私は大きな呼吸を繰り返して、冷静を保つよう必死に努めた。

454: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:33:30.64 ID:U4+BbBrW0
海未(違います……そんな……現実的ではないでしょう。馬鹿な考えは止すのです)

海未(……ずっと、抑えてきたじゃないですか)

海未(耐えられるようになるまで、意識しないよう、思い出さぬよう、徹底してきたんですから……!)


 頭に血が上り、頬が熱くなり、しまいには泣きそうにまでなる。
 弱い私が嫌だった。


海未(……冷静に考えるのです)

海未(冷静に分析して、疑いようのない答えが出れば……当然の帰結として認めましょう)

海未(ですがまだ何一つ断言できる段階にはありません!)

海未(勝手に願望と結びつけるなど…………願望? 願望ですって? まだ未練があるというのですか!?)

海未(……何を、馬鹿な事を……)

海未(血迷ってはいけない……今更、私は何を……)


 着物を取る手が震える。
 震えの正体は何なのか……考えたくもない。

455: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:34:03.47 ID:U4+BbBrW0
 するり、と。
 着物の間から、一枚の紙が落ちた。
 反射的に、私は屈んで紙を拾い上げる。

 紙には短い一文が書かれていた。


『恋したあなたの名の色に染まっていますように』


海未「…………………………………………」


 言葉が、出ない。
 疑う余地が無かった。

 百年間封じ込めていた彼女の姿が記憶の濁流となって、私の内に溢れ返った。

456: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:34:30.68 ID:U4+BbBrW0
海未「嘘です」


 声が抑えられなかった。
 勝手に口が震え、思いの丈が声の形で私自身の耳を打った。


海未「嘘です、そんな……なんで……」

海未「今になって、どうしてこんな……」


 かつて共に過ごした日々の一幕が次々浮かび上がる。
 抑えていた分、一度溢れ出した思い出の数々は、余計に鮮明な姿で蘇った。


海未「だって……百年も経つのに……!」

海未「陸の世界はここよりも時の流れが早いのですから、尚更どうして……!」

海未「何故、思い出させるのですか……!」

海未「せっかく、耐えられるよう、なってきたのに……! 抑えられそうだったのに……!」

海未「あなたのこと……私はっ……!」

457: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:35:06.66 ID:U4+BbBrW0
 信じられない。
 有り得ない。
 理解がまるで及ばず混乱する。

 けれど、一文が示しているのは、他でもない……。


海未「……………………ぁぁぁっ……」


 膝から崩れ落ちた。
 縋るように着物を抱き締め、涙で視界が霞む。

 認めたくなかった。
 それでも認めざるを得なかった。

 だって、あなたの名残に触れただけで……私はこんなにも切ない。


海未「…………百年……経っても…………忘れられない…………」

海未「私は今でもあなたに……恋しています……!」

海未「手離したくなかった……手離さなければ良かった……そう思わずいられない……」

海未「どんなに汚くても、歪でも、あなたと一緒に生きたかった……」

海未「……ぁぁぁ…………ぁぁぁぁぁ…………っ!」


 涙しながら、脇目も振らず叫んだ。
 呼びたくても、呼べば悲しみを生むだけだからと、ずっと呼ばずにいた人の名を。


海未「……ことりぃっ!!!」

458: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:35:54.71 ID:U4+BbBrW0
海未「ことり……ことりっ……ぁぁぁぁぁっ…………ぁぁぁっ…………ことり…………っ!」

海未「何故あなたはこの地に招かれてしまったのですか……!」

海未「あなたと出会ってしまったから、好きになってしまったから、こんなに……どうして……!」

海未「どうしてあなたは私の前に現れてしまったのですかっ!」

海未「ぁぁぁ……ことり…………ぅぁぁぁっ……!」

海未「………………こんなことなら……出合わなければ良かった……」

海未「あなたとの別れがこんなに切なく、百年経っても心の傷が癒えず、欠片ほども恋心が損なわれないなんて……」

海未「どんなに求めようとも、二度と会うことはない……恋した人……」

海未「…………忘れられません」

海未「もう、わかってしまいました……私はこの先、何があっても、絶対にあなたを忘れないでしょう」

海未「忘れられないから……永遠にあなたを思いながら、孤独と共に生きます」

海未「あなたからの贈り物を心の支えに………………………………っ……ぅぁぁぁぁぁぁ…………ぁぁぁぁ…………」

海未「ぁぁぁぁぁぁぁ…………」

459: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:36:42.74 ID:U4+BbBrW0
 胸に着物を抱いたまま、地べたに座り込み、私は泣いた。
 声を上げ、涙を流し、恋した人の名を何度も何度も呼びながら。

 ことりがこの地にいた時、このようなことを言っていた。
 人間と乙姫、異なる世界に生きる者同士が交わろうとも、最後には悲しみしか残らないと。
 おそらくその通りなのだろう。
 根拠があろうがなかろうが、真実か虚言かも関係なく、私にとっては正しいのだから。


海未「……………………忘れません…………ことり…………」

海未「あなたを、絶対に、忘れない…………」


 この先、誰かに恋することは二度とない。
 ことり以上に愛する人と出会えるなんてことは起こりえない。
 私にとって、ことりは、運命だった。

460: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:38:17.29 ID:U4+BbBrW0
 私とことりの物語はここが終着点なのだろう。
 百年前ではなく、ことりへの思いを再確認したこの瞬間が。

 あなたと別れ、長い時間が過ぎ、最後に残ったのが悲しみでも、それでいい。
 共に生きた時間は確かに幸せだった。


海未(あなたを心から愛しています……)

海未(あなたが居なくなっても、いつまでも、愛しています……)

海未「ぁぁぁ…………ことり……………………ぁぁぁぁぁ……っ…………」


 あなたを思って私は泣いた。
 あなたとの思い出を胸に抱き、私は泣いた。

 さようなら、ことり。
 さようなら、私が愛した人。

461: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:43:40.56 ID:U4+BbBrW0
 
 
凛「本当にそれでいいの?」



希「悲しいまま終わってもいいの?」
 
 

462: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:44:20.93 ID:U4+BbBrW0
海未「………………………………り、ん…………の、ぞ、み…………」


 泣き叫ぶ私の前に、二人の乙姫がいた。

 悲しそうな顔をして私を見ている。
 どうして悲しそうにしているのだろう。


凛「こんなに悲しい終わり方、受け入れちゃうの?」

希「どんなに我慢しても忘れられないのに、まだ耐えるん?」

海未「………………もう……終わったことなんです……」

海未「どんなに願っても、私の望みは叶わない……」

海未「ですから、もう、いいんです……」

凛「凛はやだよ!」

凛「海未ちゃんが悲しいの、嫌だよ……!」

海未「……凛……泣いてるのですか?」

凛「海未ちゃんの方がボロボロ泣いてるくせにっ!」

海未「……そう、ですね……」

463: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:44:53.24 ID:U4+BbBrW0
希「普段しっかりしてる海未ちゃんがこんなになって泣いて悲しんでるのに、それでいいで済ませたら駄目だよ」

希「そんなんしたら、ウチも悲しくて泣いてまうよ」

海未「希……」

海未「ですが…………どう足掻こうとも、どうしようもありません……」

凛「でもでもっ! 諦められるわけないよ!」

希「諦められるはずない。だって……恋、したんやろ?」

希「乙姫は恋した相手を離せない。何があろうとも」

希「ウチらだって、どんな手を使ってでも手離さなかったんや」

海未「……二人はこれまで多くの人間と結ばれてきたではありませんか」

海未「結ばれた人間は、他の者の手に渡ってしまったではありませんか」

海未「どうして耐えられたのですか……私には、理解できません……」

464: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:45:53.48 ID:U4+BbBrW0
凛「恋じゃないもん」

海未「……恋じゃない?」

希「ウチらは沢山の人間から生気を貰ってきた。けど、全てを許して交わったことは一度も無いよ」

凛「手を繋いだり、肌の一部を触れ合うくらいのやり取りを沢山繰り返してずっと生き延びてきたんだもん」

希「他の住人たちにとって人間はあくまでも食べ物やから、一度交わった相手が誰かに渡っても何も気にすることはない」

凛「けど凛たち乙姫が本気で恋して結ばれたら、手離せるはずないよ」

希「せやから今まで人間を食べてきた中で、恋した相手はおらへん」

凛「恋はね、一回だけしかしたことないよ」

希「ウチも、凛ちゃんも、一度だけね」

海未「一度、だけ……」

凛「ここは恋する宮殿だけど、簡単にはできなかった。恋ってそんな簡単じゃないんだね」

希「長年恋が出来なかったウチらだけど、ある時、恋する相手が現れた」

凛「だけど、やっぱり恋って簡単じゃなかった。上手くいかなかったんだよね」

希「上手くいかなくても、どうしても手離せなくて……手離さないことを選んだ」

凛「だって、恋だもん」

希「恋する宮殿で、恋をする以上に大切なことは無いんやから」

465: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:46:46.19 ID:U4+BbBrW0
凛「……ね、海未ちゃん。凛たちがさっきから恋する宮殿って言っても、ピンときてないよね?」

海未「だって、ここは龍宮城ですから……恋する宮殿が何のことだか……」

希「それっていつから?」

海未「それとは?」

希「龍宮城……その名前で呼ばれるようになったのはいつからなん?」

海未「いつからだなんて……生まれてからずっと龍宮城と呼んでいましたし、ざっと思い出せる二百年で変わったことなど無かったはずです」

凛「どうして二百年前は思い出せないの?」

海未「どうしてと言われましても……」

希「乙姫は長寿やから、何百年もそれ以上も生きられるし、ウチらは生きてきてる」

凛「凛たちは二百年以上前のこともちゃんと思い出せるよ。でも、海未ちゃんはできないよね」

海未「……思い出せない……何故……?」

希「ここを龍宮城って呼ぶようになったのはね、二百年前からなん」

凛「宮殿の本当の名前はね、恋する宮殿って書いて、恋宮殿《ラブキュウデン》っていうんだよ」

海未「…………知りません、そんなの」

希「当然だよ。二百年前に恋宮殿にやってきた人間が、ここを龍宮城って呼んでるのを気にいって、呼び方を変えたんやから」

凛「龍宮城って名前はね、二百年前にここにやってきた……海未ちゃんから聞いたんだよ」

466: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:47:24.40 ID:U4+BbBrW0
海未「……………………」

凛「聞いても思い出せないよね」

希「自分じゃ絶対に思い出せへんからね」

海未「……何を言っているのですか?」

凛「海未ちゃんはね、人間だったんだよ」

希「人間だった海未ちゃんがここにやってきて、ウチらは恋をしてもうたん」

凛「でも、海未ちゃんには他に好きな人がいたの」

希「全てを捨てて恋宮殿に来たはずなのに、海未ちゃんは恋してた相手を忘れられへんかった」

凛「海未ちゃんは凛たちの愛情を受け入れてくれなかった……それでも、凛たちは諦められなかった」

希「ウチらは善人やない……恋したものを手離せない乙姫やから」

凛「だから、海未ちゃんを手離さないよう、恋宮殿から離れられないよう、乙姫にしたんだよ」

希「同じ乙姫同士になって、誰よりも近しい存在になるために」

海未「…………有り得ません…………そのようなこと…………」

凛「本当だよ。元々乙姫は二人だけだもん」

希「海未ちゃんはね、ウチらの欲が生み出した、作り物の乙姫なん」

467: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:48:00.74 ID:U4+BbBrW0
海未「……作られた……乙姫……私が?」

凛「陸でさ、龍宮城についてずーっと昔から言い伝えられてる言葉、知ってる?」

海未「……当然です。それが何か」

凛「『海底の宮殿では 人間が訪れるのを 乙姫姉妹が待っている』」

凛「これさ、乙姫は三人いるはずなのに、何で『乙姫三姉妹』じゃなくて『乙姫姉妹』なの?」

海未「理由など……ただの結果では、」

希「ちゃう。ウチらは自分たちの事を言う時、常に乙姫三姉妹って言っとった」

希「けどそれも海未ちゃんが乙姫になって、三姉妹になってからのこと」

希「言い伝えの文言が『乙姫姉妹』なんは、元々恋宮殿で人間を待つ乙姫が、ウチと凛ちゃんの二人姉妹やったからだよ」

海未「そんなまさか…………」

凛「他にもね、いっぱいあるんだよ」

凛「海未ちゃんが生まれつきの乙姫じゃない、って、説明できること」

468: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:49:03.18 ID:U4+BbBrW0
凛「例えばね、乙姫には住人を思うままに操る力があるんだよ」

凛「一日中部屋で静かにしててね、とか、やろうと思えば命令できちゃう。海未ちゃん知らなかったでしょ?」

海未「……そのような力、私にはありません」

凛「海未ちゃんは元々人間だから、乙姫としての力は全部発揮できないみたいだね」

凛「住人を操れないから、代わりに普段から決まり事を作ってしっかり指導してたんでしょ」

凛「海未ちゃんは凛たちに宮殿の主として責任もってみんなを監督しなさい、ってよく言ってたよね?」

凛「凛達が普段からみんなを好き勝手させてたのは、必要になったら言う通りにできるからなんだよ」

希「他には、恋した人間を誘惑する乙姫の力を海未ちゃんは持たない、とかね」

希「もし誘惑できるなら、ことりちゃんのこと好きになった時点で自然と誘惑してたはずやもん」

海未「そんな馬鹿なっ! 私はことりを誘惑の力で籠絡するつもりなど!」

希「する気があるとか無いとか関係無しに、誘惑はね、しちゃうの」

希「本当だったらことりちゃん、あっという間に海未ちゃんの虜になって、すぐに理性を失ってたやろうね」

希「乙姫が恋をするって、そういうことなん」

希「でも、ことりちゃんはそうならへんかった。海未ちゃんが誘惑出来ないっていう証拠なんよ」

469: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:50:16.29 ID:U4+BbBrW0
海未「そんな……そんな……!」

凛「海未ちゃんがまだ人間だった時、凛たちすぐに海未ちゃんのこと好きになって、誘惑したんだよ」

希「海未ちゃん、あっという間にウチらの虜になってくれたよ」

凛「でも、北に行って交わろうとしたら、突然抵抗しだしたの」

希「完全に虜にしたにも関わらず、大切な人のことは最後まで忘れなかったんやね」

凛「凛たちも本気で人間を誘惑したの初めてだったから、効果が不完全なのかなって焦ったよ」

希「実態としては、海未ちゃんには他に大切な人がおったから、虜にしても完全には落ちひんかったんや」

海未「私は、元々が人間……? 大切な人がいた……? 人間の時代に……?」

海未「嘘です……全部嘘です……まるで思い出せない……」

凛「ね、海未ちゃん。凛たちの誘惑に抵抗してた時、誰の名前呼んでたか憶えてる?」

海未「……覚えているわけ、」

希「ことり、だよ」

海未「…………は?」

凛「海未ちゃん、北で凛と希ちゃんから逃げながら、ことり、ことり、って叫んでたんだよ」

470: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:50:56.79 ID:U4+BbBrW0
希「ウチらが迫ろうとする限り、ことりって呼ぶのをずーっと止めへんかった」

凛「凛たち根負けして、仕方なしに誘惑をやめたの」

希「それから、落ち着いた海未ちゃんからお話を沢山聞いたんよ」

凛「陸で暮らしてた時のこととか、陸を捨てて海に潜った理由とか」

希「話を聞くうちに、ことりって子のことを本当に大切にしてたんだってわかった」

凛「不運なことがあって海に逃げても、まだ心はことりちゃんが好きなままなんだなーって」

希「海未ちゃんの心は奪えない。だから、恋以外に手離さない方法として、海未ちゃんを乙姫にした」

凛「人間だった記憶と存在を無くして、乙姫三姉妹の次女として転生させたんだよ」

希「恋とは違う形だけど、恋した相手とずっと一緒にいられて、ウチらは幸せやった」

凛「それが終わったのは……百年前だね」

希「ことりちゃんって子がここに来て、察しがついた。この子が海未ちゃんの大切な人や、ってね」

471: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:51:40.77 ID:U4+BbBrW0
海未「…………有り得ない…………有り得ませんっ!」

海未「有り得ない話ばかりでしたけど、最後だけは絶対に有り得ません!」

海未「だって……仮に二人の話が全て真実だとして、私が元人間で過去の記憶がなくとも、ことりはわかるはずです!」

海未「本当に私がことりの大切な人なら……ずっと帰りを待っていた相手なら……私に気付くはずですっ!」

凛「今の海未ちゃんはね、人間海未じゃなくて、乙姫海未っていう別の存在なの」

希「人間だった頃の海未ちゃんの記憶が他人に残っていても、乙姫である海未ちゃんと同一人物とは結びつきはしない」

海未「嘘です、嘘です嘘です、それだけは絶対……!」

海未「私のはずが……もしそうなら、私はことりの存在さえ忘れていたことに……!」

凛「ことりちゃんが記憶を取り戻した後、陸で一緒に暮らしていた相手の名前を聞いた?」

海未「…………ことりは……一度も言いませんでした」

凛「思い出せないんだよ。大切な人って風に覚えているだけ」

凛「だって、ことりちゃんが思い描く『海未ちゃん』は既にいなくなって、代わりに乙姫の『海未ちゃん』が存在するから」

希「生まれ変わった時点で、海未ちゃんは別の存在になって、その事実に気付く者はいない」

希「海未ちゃんを乙姫にした、ウチと凛ちゃん以外はね」

472: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:52:15.12 ID:U4+BbBrW0
海未「……………………何故…………そのようなこと…………言うのですか……」

凛「本当のことだからだよ」

希「勿論言わないつもりやった。人間だった事実は一生隠すつもりやった」

凛「でも、海未ちゃんが余りに悲しんでて、可哀想だったから、決めたの」

希「ウチらも遂に、大切な人を手離さないといけないんや、ってね」

海未「…………もし……そうだとしても…………話が、全て、真実だとしても……」

海未「何故……何故今なのですかっ!」

海未「ことりが去ってもう百年経ちました! 百年っ!」

海未「龍宮城での百年が陸で何倍になるのか…………ことりは……最早生きていませんっ!」

海未「だから思い出したくなかったのに……! 思い出したところで、二度と会えないのに……!」

海未「遅すぎるんです! 今になって全てを知ったところで、何もできないんですっ!」

海未「もう、やめてください……思い出すだけでも辛いんです……」

海未「思い出せば、二度と会えない現実を突きつけられるようで……その上、元はことりと共に生きていたなどと……」

海未「ことりを思っても、もう、何の、意味も…………ことり…………ぅぁぁぁぁ……!」

473: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:52:53.91 ID:U4+BbBrW0
希「……こういうところが、やっぱり乙姫として完全じゃなかったんやね」

凛「人間の記憶を忘れたつもりでも、変な風に残ってるんだもんね」

海未「…………何の話をしているのです」

凛「海未ちゃん、龍宮城で過ごした時間が陸では何倍にも長くなる、って思ってるよね」

凛「どこでそんな話聞いたの?」

海未「……だって……そういう話だと……」

希「それさ、陸に伝わる御伽噺の内容やろ?」

希「確か、陸に戻った人間は龍宮城で過ごした時間よりずっと早く時が流れていたことに驚いて、絶望して玉手箱とかいうお土産を……だったかな」

凛「ホントはね、逆なんだよ。陸の時間に比べて、龍宮城は百倍くらい時間の流れが早いの」

海未「…………本当に?」

希「やっぱり勘違いしとったやん。こうしてみると、人間だった頃の名残を消したとはとても言えへんわ」

凛「乙姫になってからも海未ちゃんって人間みたいなことよく言ってたもんねー」

希「まあそんなわけやから、ことりちゃんは、少なくとも寿命では生きとるはずだよ」

凛「後は、龍宮城に来る前と同じように、海未ちゃんのことを待ってくれてるかどうかじゃない?」

希「待ってくれてるって信じられるなら……海未ちゃんは、陸に帰るべきだよ」

474: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:53:29.67 ID:U4+BbBrW0
凛「説明も大分できたし、海未ちゃんそろそろ人間に戻ろっか」

希「元通りにしてあげたら今の話も全部本当だってわかるやろ」

凛「本当は手離したくはないし、今まで手離せなかったけど……しょうがないよね」

希「ウチらの愛だって本物やから」

凛「恋した人が悲しんでるの、見たくないもん」


 二人が私に近付き、屈み込む私の頭の辺りに手を翳してきた。

 不穏な予感が過った。
 これはきっと……二人にとって……。


海未「……や、やめ、やめてください」

希「大丈夫だよ海未ちゃん。もう決めたから」

海未「だ、駄目です、何か、これは…………二人が悲しみます」

凛「……ありがとね、凛たちのこと心配してくれて」

希「せやけど、いくら見続けたくったって、夢の時間はおしまいなん」

凛「海未ちゃん……凛たちと一緒に、夢から覚めよう?」


 脳裏で閃光が弾けた。
 一瞬意識を失い、すぐに取り戻し……私は、目が覚めた。

475: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:54:04.16 ID:U4+BbBrW0
海未「あ…………」


 蘇る。
 呆気ない程簡単に、過去の記憶が、次々と蘇ってくる。


凛「これで元通りだね」

希「もう思い出せたやろ?」

海未「…………私……私は……」

凛「海未ちゃんは、人間だよ」

凛「龍宮城……恋宮殿にお客様としてやってきた海未ちゃんを、凛と希ちゃんで乙姫にしたの」

海未「人間……私が……」

希「大丈夫、落ち着いて。すぐに思い出すから」

海未「…………はい…………思い出しました……」

海未「私は、ずっと前に、ここにやってきました」

海未「海に潜った人間として……招かれたんです……!」

凛「うん、そうだよ」

希「思い出せたね……良かった……本当に」

476: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:54:37.12 ID:U4+BbBrW0
海未「本当…………だったんですね…………」

海未「今の話、全てが、真実……」


 手を掲げ、まじまじと見つめる。
 変わったところは何一つない。
 けれど、人間と乙姫の見た目が同じであっても違いがわかるように……別の存在に生まれ変わっていた。

 私は……人間だ。


海未「私は、生まれついての乙姫ではなかった……」

希「そうだよ。だからこそ、ウチらにできることができなくても、ウチらにはできないことが海未ちゃんにはできた」

凛「乙姫なのに、恋したことりちゃんの為に手離すことができたんだもんね」

希「本当に凄いよ……ウチらじゃ考えられへん」

凛「でも、海未ちゃんは特別だから……特別な乙姫で、特別な人間だもん」

海未「人間……私は、人間」

海未「私は人間として、陸で暮らしていたんです……そう、ことりと共に」

477: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:55:19.55 ID:U4+BbBrW0
海未「かつて、私は、陸でことりと共に暮らしていました」

希「うん」

海未「貧しいけれど、幸せで……ことりと一緒なら、満たされていて……」

凛「うん」

海未「ですがあの日……ことりが、私を……私はことりに嫌われ、見捨てられたと……」

海未「ことりが居ない人生なんて生きる意味などなくて……だから、衝動的に海に……」

希「ショックやったんやね。表面的な言葉と態度だけでも、大切な人から拒絶されて」

凛「でも、ことりちゃんだって本気じゃなかったし、海未ちゃんに酷いこと言ったってずっと後悔してたんでしょ?」

希「後悔してなかったら、海未ちゃんの帰りを待ち続けたりしないもんね」

凛「海未ちゃんのことを好きでい続けたから、凛や希ちゃんの誘惑に負けなかったんだよ」

海未「……ことり……私を、待ってくれていた……ずっと……」

凛「まだ間に合うはずだよ。だって、ほら」


 私が胸に抱き続けていた青い着物を凛は指差した。
 ここに、ことりの名残がある。


希「ことりちゃんは今でもずっと、海未ちゃんのことを思ってるんや」

478: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:55:58.11 ID:U4+BbBrW0
凛「行こう、海未ちゃん」

希「陸に帰ろう、海未ちゃん」


 凛と希は片手ずつ私の手をを取って、ゆっくりと立ち上がらせた。
 二人に手を引かれて、私は歩き出す。


凛「……許してもらえることじゃないけど、ちゃんと謝るね」

凛「凛たちの勝手で、海未ちゃんを乙姫にして、ごめんね」

凛「手離せなくってごめんね……」

希「そういうものやってこっちが割り切ったつもりでも、相手にとってはただの開き直りやからね」

希「本当しょうもないことをした……取り返しがつかないから、謝るしかできひん」

希「ごめんね、海未ちゃん……本当にごめんね」

海未「凛……希……」

凛「ごめんなさい……!」

希「ホントに、ごめん……!」


 私を先導する二人の乙姫は、静かに涙を流していた。
 惜別を哀れんでいるのか、悔恨に苦しんでいるのか、定かではない。

 ただ、二人が泣く姿を前に、私は一切責める気は起きず、胸には愛おしさだけが募った。

479: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:56:37.38 ID:U4+BbBrW0
海未「泣かないでください、どうか、二人とも」

凛「だってっ……ぅぅ……」

希「ウチら、海未ちゃんに……酷いことして……っ」

海未「私は……感謝しています」

海未「本当なら、ことりから逃げた弱い私は、海に潜って既に死んでいました」

海未「ですが二人が私を呼んでくれたから、私は龍宮城に辿り着けました」

海未「二人が私に恋してくれて、乙姫として命を与えてくれたから、私は命尽きることなく今まで生きていました」

海未「二人のお陰で、私はもう一度、愛する人に巡り合えたんです」

海未「ありがとうございます…………凛、希……ありがとう……!」

凛「……うぅっ…………海未ちゃん……っ!」

希「海未、ちゃ…………ぅぅぅ……っ!」

海未「光栄に思います。二人のような素敵なヒトから愛して貰えたこと」

海未「離れ離れになっても忘れません。二人と過ごした日々を。二人の乙姫のことを」

480: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:57:27.33 ID:U4+BbBrW0
 ゆっくり、ゆっくり、宮殿内を進む。
 凛と希、二人の乙姫と歩調を合わせて。
 ここで暮らした日々を懐かしみながら、思い出たちに心で別れを告げる。

 玄関から外に出て、正面門扉に向かう。
 門扉の前には、陸との移動役を担う大亀が既に控えていた。
 それだけではない。


海未「みんな……!」


 龍宮城を囲む塀の外、海水が支配する領域に、何百もの住人たちが浮かんでいた。


凛「みんな海未ちゃんを見送りにきたんだよ」

海未「まったく、誰が伝えたのやら。普段からこうして迅速に動いてくれれば指導する私も楽でしたのに」

希「最後までお小言? ちょっとくらい許してあげてよ」

海未「……ええ。最後ですから、特別です」


 私を見送る為に集ってくれた全員が、私の大切な仲間たち。
 あなた方に見送られ、私は元居た世界に帰ります。

481: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:58:06.24 ID:U4+BbBrW0
 正面門扉に辿り着いた私は、凛と希に支えられながら大亀の背に跨った。
 二人の指示で、大亀はふわりと浮かび上がり、陸へと旅立つ。


海未「……一つ、聞いてもいいでしょうか」

希「なあに? 最後の質問になるんだから変な事聞かないでよ?」

海未「二人は私に恋をしてくれたと言いました。ですが今、恋した私を手離そうとしています」

海未「何故、出来るのですか? 乙姫なら……生粋の乙姫である二人には、絶対に無理なはずでしょう?」

凛「んーとねー……」


 二人はしばし考え込んだ後、互いに視線を合わせると、ひしと抱き合った。


凛「海未ちゃんとお別れするって決めた時に思ったの。希ちゃんとは絶対に離れられないって」

希「ウチには凛ちゃんがいて、凛ちゃんにはウチがおるから、ギリギリ耐えられるんやないかな」

凛「だって凛たち乙姫姉妹だもん! 海未ちゃんがいない分、今までよりもーっと一緒にいるんだからっ!」

希「仲間外れになったからって後悔しても遅いよ!」

海未「……ふふっ、よくわかりました」

482: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:58:41.05 ID:U4+BbBrW0
 最後に、凛、希、二人と視線をしっかりと合わせた。
 長く、人間である限り経験できない程の時間を共に過ごした相手、最早言葉にせずとも思いは伝わる。

 私を乗せた大亀が正面門扉を潜り、海の中を浮かんでゆく。
 長きに渡り身を寄せた龍宮城から去る時がきた。
 旅立ちであり、別れであり……帰郷でもある。


凛「大丈夫だよ、きっとことりちゃんは海未ちゃんのこと待ってるから!」

希「人間に戻った海未ちゃんの姿を見れば、ことりちゃんも全部認識できるようになるから、安心して」

凛「ことりちゃんによろしくね! まだ大好きだよーって!」

希「海未ちゃんと同じくらいにね!」

海未「ええ、必ず伝えておきます!」

凛「ばいばい海未ちゃん! 元気でね!」

希「さよなら! ことりちゃんと幸せになるんよ!」

海未「さようなら! 大切な日々をありがとう! 凛! 希! さようなら!」

483: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 21:59:26.58 ID:U4+BbBrW0
 大亀が私を高くへと運び、龍宮城から離れてゆく。
 長年過ごしていた宮殿が遠のいて、凛と希の姿が小さくなる。

 声が届く限り別れを告げた。
 声が届かなくなっても手を振り続けた。

 海中には沢山の住人が居並び、浮上してゆく私を見守ってくれている。
 彼ら彼女らにも別れを告げた。


海未(帰りましょう……私が本当にいるべき世界に)

海未(私をずっと待ってくれている人の下に)


 不安は多い。
 けれど、凛と希が大丈夫と言ってくれたから、きっと大丈夫。


海未(ありがとう、宮殿のみんな……)

海未(ありがとう……凛……希……)

海未(あなたたちを忘れません。素敵な日々の思い出をこれからもずっと胸に抱いて、私は生きていきます)

海未(……さようなら。お元気で)

484: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 22:00:41.84 ID:U4+BbBrW0

―――
―――――


 海を、見ている。

 激しく荒れる日も、静かに漂う日も、ずっと海を見続けていた。
 その向こうから、いつか帰ってくることを信じて。


ことり(私は、待っている)

ことり(例えあなたが帰ってこなくても、いつまでも)


 何日も何日も一人で待つのは辛いけど、私は耐えることができる。
 私が陸で待つことを許し、自身の本音を堪えて、私の為に全てを捧げてくれたヒトがいたから。


ことり(……贈り物は、届いたのかな)

ことり(贈るかどうかずっと迷って、覚悟を決めて、綺麗な色を作るのに時間かかって……)

ことり(届け方もわからないから、せめて届くようにって、海に流して……)

ことり(……きっと、届いたよね)


 あれから、一年が経った。

 もう会うことはできないくらい遠くにいても、大切な存在がそこにいると知っているから、何でも信じられる。
 離れていても、私の心を支えてくれる、最愛のヒト。
 その存在を糧に強く生きて、今日も海を眺めて帰りを待っている。

485: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 22:01:24.21 ID:U4+BbBrW0
ことり「…………………………………………」

ことり「…………………………………………………………」

ことり「…………………………………………………………………………あ」


 海辺に、小さく人影が見えた。

 波に足を取られないように、ゆっくりと浜辺に向かって歩いていた。
 浜に上がって、建物が並ぶこっちに向かって、ゆっくりと歩いてきていた。

 海から現れた人影は……彼女は、色鮮やかな、海色の着物を着ていた。


ことり(…………ぁぁああああ)


 その姿を見た瞬間、全ての記憶が繋がった。

 陸に帰ってから待ち人のことばかり考えていたのに、ずっとあの人の名前を思い出せず、思い出せないことに違和感さえ覚えなかった。
 あの人の名前が、今はわかる。

 陸で暮らして居た時、ずっと私を支えてくれた人。
 陸だけじゃなく、海の世界に行ってからも、私を支え続けてくれた人。

 浜辺に向かって走った。
 一秒でも早く辿り着けるよう、全力で走った。

486: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 22:02:03.09 ID:U4+BbBrW0
 姿がはっきりと見えて、彼女も私を見てくれた。
 声の限り叫んだ。


ことり「海未ちゃんっっっ!!!」


 同じくらい大きな声で名前を呼んでくれた。


海未「ことりっっっ!!!!」

487: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 22:02:45.46 ID:U4+BbBrW0
 私が駆け寄ると、彼女も……海未ちゃんも走り出した。
 衝突するくらい勢いが出ていても、一秒でも早く側に行きたくて、足を緩められない。

 私たちは全力で駆け寄り、お互いの胸に飛び込んだ。


ことり「海未ちゃんっ! 海未ちゃんっ!」

海未「ことり……ことりっ!」

ことり「待ってた……ずっと待ってた……!」

海未「遅くなりました……! 帰ってきました……!」

ことり「海未ちゃん…………ああ…………海未ちゃんは、乙姫さんだったんだ……」

ことり「私が恋したのは、海未ちゃんだったんだ……!」

海未「はい。私は乙姫として生きていました」

海未「乙姫としても、ことりに恋して……ことりと結ばれることができたんです!」

ことり「海未ちゃんっ……!」

海未「また、会えました」

海未「人間として、今度こそことりと一緒になる為、帰ることができました……!」

488: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 22:03:33.09 ID:U4+BbBrW0
ことり「うみちゃ…………あぁぁ……うみちゃぁん…………!」


 抱き合った私たちは膝を付き、何度も名前を呼びながら泣き続けた。
 大切な人に包まれて、これ以上ないくらい幸せを感じた。


ことり「よかった……帰ってきてくれた……」

ことり「私、酷いことして、もう帰ってきてくれないかもって、何百回も思った……」

ことり「ごめんなさい……海未ちゃん……!」

海未「私こそ、ことりに責められて辛いからと言って、ことりから逃げ出すという愚行を犯しました」

海未「本来なら二度と会うことなく、後悔さえできないはずが、もう一度謝罪する機会を得ることができた……」

海未「逃げてしまい、すみませんでした。一人残してしまって、本当にごめんなさい」

海未「こんな私をずっと待っていてくれて、ありがとうございます……!」

ことり「ううん……いいの……!」

ことり「帰ってきてくれたから……何でもいいの……!」

ことり「私をずっと……陸でも、海でも、海未ちゃんはいつでも助けてくれた……!」

ことり「ありがとう……ありがとう、海未ちゃん……ありがとう……!」

海未「ことり……私を好きになってくれて、ありがとうございます……!」

海未「ことりを愛しています……! もう、今度こそ、絶対に離しません……!」

489: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 22:04:55.43 ID:U4+BbBrW0
 後になって海未ちゃんと話した。
 乙姫は恋した相手を手離せないって言うけど……それは私たち人間だって同じだよね。
 本当に心から恋をしたなら、絶対に離したくない、離さないって、私たちは思うから。


ことり「これからはずっと一緒だよ、海未ちゃん……!」

海未「はい……! もう二度と離れません!」

ことり「離さないでね……! 私も海未ちゃんと、一生離れないから……!」

海未「離しません……! ことりのことを、いつまでも……!」


 いつまでも抱き合って、互いの温もりを感じていた。
 一度は手離してしまった大切なものを、今度こそ離さないように。

 手離す恐怖も、側に居られる幸福も、私たちは骨の髄まで味わった。
 もう何があっても、私たちは離れることはない。
 いつどんな時も、私の手は、海未ちゃんと繋がっている。

 私はこの先の長い人生を、大切な人と……海未ちゃんと、いつまでも一緒に、生きていく。

490: ◆qpwZInm6fw 2016/03/27(日) 22:06:08.98 ID:U4+BbBrW0
―――――
―――



 海に面したこの地域には、ずっと昔からこんな言い伝えがあるんよ。


『海底の宮殿では 人間が訪れるのを 乙姫姉妹が待っている』


 海底には龍宮城っていう楽園があって、そこを目指した人間たちは沢山海に潜るんやけど、誰一人として陸には帰らず…………あれ?


 違うにゃー! 
 陸に帰った人間はいたじゃん!


 そうやった、ついうっかり。
 とまあ、言い伝えとか御伽噺にありがちな逸話の食い違いはあるけど、龍宮城があるんはホンマなん。


 興味があったら海に潜ってみてもいいかもねー。
 海底の楽園を望む気持ちがあったら、龍宮城に招かれるはずだよ!


 だから、いつの日かあなたが来てくれたら……。



希「ウチらの乙姫心《オトヒメハート》で!」

凛「恋宮殿《ラブキュウデン》の虜にしちゃうよっ!」





おわり