1: ◆5o0gtk7tVI 2016/04/22(金) 10:18:58.46 ID:1ueVwqRf0




小説家、伊佐坂難物が無人島に別荘を建てた!

伊佐坂夫妻は、建てた洋館に『難物館』という名前をつけ、穏やかに暮らしていた。

そして迎えた夏休み、しばらく館を離れることになった夫婦は、かねてから親しかった磯野家をそこへ招くことにした。

バカンスの間、彼らに自慢の別荘で過ごしてもらおうというのだ。

かくして、サザエさん一家は、島へ足を踏み入れるのだった―――……





SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1461287938

引用元: サザエ「そして誰もいなくなったのね」 


 

 
2: ◆5o0gtk7tVI 2016/04/22(金) 10:22:42.29 ID:1ueVwqRf0





サザエさん×ミステリ

キャラ崩壊や、不遇な扱い等あるかと思いますが、気にせんでください





3: ◆5o0gtk7tVI 2016/04/22(金) 10:24:46.45 ID:1ueVwqRf0
島の図


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4: ◆5o0gtk7tVI 2016/04/22(金) 10:27:25.40 ID:1ueVwqRf0





『さあ太陽は登り始める、

 まるで不幸などなかったみたいに。

 不幸が襲ったのは私だけだ、

 太陽は皆に輝いている』





5: ◆5o0gtk7tVI 2016/04/22(金) 10:29:02.56 ID:1ueVwqRf0

深い青みを湛える海の上に、悠然とその島は存在していた。

波に揺られるボートの上で、まず一同は、ゴツゴツとした岩礁を、それから土とも磐ともない島の大地を見た。そして、その上には苔みたいに点々と木々が生い茂っていて、見る者に自然の凄みにも似た畏敬を感じさせた。

「立派なもんですねぇ……!」

船尾に立ったマスオの感嘆に背中を押されて、カツオも舳先に身を乗り出してみる。

ボートは間近に迫った島の外周に沿うようにして進路を変え、カツオは岩礁の向こうの森のシンとした声を聴いた。海の障害物たる島に打ち寄せた波が白い泡になって、また新しい波に揉まれながら消えてゆく。

岩場が背後に見えなくなると、今度は綺麗な砂浜が見えてくる。磯野一家は、海水浴も目的のひとつとしてここへやって来ていたから、皆が「おお!」という喜びに満ちた声を上げた。

6: ◆5o0gtk7tVI 2016/04/22(金) 10:30:36.33 ID:1ueVwqRf0
「綺麗ねぇ、わたし早く泳ぎたいわ」

はしゃいだ声を上げるワカメに、ボートを漕いでいた地元の漁師が笑って言った。

「ははは、元気の良いお嬢ちゃんだ。でも、今日はやめておきなさい。皆長旅で疲れているだろうし、なんといってももう直夕方だ。夜の海には決して近づいちゃいけないよ」

「もうこの子ったら。すみません」サザエも苦笑した。「ワカメ、海は逃げたりしないから安心しなさい」

「左様。海なら皆で明日泳げば良かろう」

7: ◆5o0gtk7tVI 2016/04/22(金) 10:31:34.49 ID:1ueVwqRf0
「そんなこといって、実は姉さんが一番海を楽しみにしてるんじゃないの?」

カツオの茶化すような態度にサザエはムッとした顔をした。

「あら、どういうこと?」

「最近急におやつを我慢するようになったり、ジョギングに出たりしていたじゃないか。その様子だと、ダイエットには成功したと見て良いね」

「カツオ!」

「まぁまぁ、いいじゃないかサザエ。僕も明日が楽しみなったよ」

マスオが照れたように笑って、その場は収まった。

8: ◆5o0gtk7tVI 2016/04/22(金) 10:32:35.27 ID:1ueVwqRf0





積み荷を下ろすのを手伝うと、漁師は来た時と同じようにボートを漕いで帰っていった。

彼は、ちょうど五日後の朝にここへ迎えに来ることになっている。

食料や水や着替えも、すっかり島へ運びこんだから、それまで誰も島へはやってこない、家族水入らずを楽しめるようになっていた。

もしなにか急な用事があれば、館の中の黒電話が通じていると、招待主から言われていた。

9: ◆5o0gtk7tVI 2016/04/22(金) 10:33:41.24 ID:1ueVwqRf0
一同は砂浜から島へと足を踏み入れ、丘を上り、とうとう話に聞いていた『難物館』を目の当たりにした!

「立派なお屋敷ねぇ! まるでお城みたいよ!」

今度はサザエがはしゃいでみせた。フネも笑った。

「ええ、そうだね。楽しみだね」

石造りの古風な洋館は、まるで映画や小説の舞台だった。

隙間なく設計された石の壁は荘厳ですらあったし、磯野家の玄関ほどはあろうかという大きな窓には余さず白く上品な枠が通っていて、大きく外に露出したヴェランダからは、今にもどこかの国のお姫様が飛び出してきそうな雰囲気があった。

10: ◆5o0gtk7tVI 2016/04/22(金) 10:34:50.75 ID:1ueVwqRf0
「それにしても、流石は伊佐坂先生だよねぇ。小説が翔ぶように売れて、あっという間に大ベストセラー! 無人島を丸々買った上に、気がついたら、こんな館まで建っちゃうんだから!」

「ほんとねぇ」

「すごいでーす!」

「とにかく、中へ入ってみよう」

マスオが先導して、一同は難物館へ入った。鍵は預かっていたから、すんなり入ることが出来た。

「これまた感じの良い内装ですね」

興奮したマスオに続いて、一同はスリッパに履き替え屋敷に上がった。

11: ◆5o0gtk7tVI 2016/04/22(金) 10:35:51.57 ID:1ueVwqRf0
ちょうど真正面にあたる廊下には大きな花瓶があった。そこにはヒッペアスケリアやベラドンナ・リリーといった綺麗な花々が生けられていて、館の雰囲気に華やかさを添える役を買っていた。

「綺麗ねぇ。伊佐坂先生からの歓迎の贈り物かしら」とワカメがいった。

「そうかなぁ。案外ファンから貰っただけだったりして」

「まったく、アンタって子は!」

カツオは舌を出した。

「サザエ、台所を見ておきましょうか」とフネが言い出して、女二人が部屋の奥へ姿を消すと、一同は、それなら部屋に荷物を運び入れようということになった。

12: ◆5o0gtk7tVI 2016/04/22(金) 10:36:56.40 ID:1ueVwqRf0
客室は幾つもあったから、「たまにはひとりで眠りたいよ」とカツオが波平に頼んだ。

波平は少し考えていたが、マスオがカツオの肩を持ったので、それは認められた。

「やったー、流石はマスオ兄さん! ワカメ、僕らの姉さんは素晴らしいお婿さんをとったみたいだよ」

「お兄ちゃん、わたしひとりじゃ怖いわ」

ワカメは肩を抱いてみせた。

「何を言っているんだいワカメ、だいたい、兄妹がいつまでも同じ部屋でいる方が変だよ」

「そんな……」

「ワカメお姉ちゃん、ひとりになるですかー?」

13: ◆5o0gtk7tVI 2016/04/22(金) 10:38:22.01 ID:1ueVwqRf0
「それなら、僕達の部屋に来るかい? サザエとタラちゃんと、四人で泊まろうか」

マスオが柔和に微笑んだが、ワカメは悩んだ末に断った。

(旅先でお姉ちゃんたちの邪魔はできないわね……、少し怖いけれど)

ワカメが遠慮して「ひとりで眠るわ」といったので、とうとうそういう運びになった。

が、一応の配慮として、ワカメの部屋は波平達夫婦の寝室と気心の知れたカツオの寝室との間に挟まれる形になった。

「なにかあったらすぐにお兄ちゃんのところにいくわね」

ワカメは喜んでいた。カツオはやれやれと溜息を付いた。

14: ◆5o0gtk7tVI 2016/04/22(金) 10:39:33.52 ID:1ueVwqRf0





まるで別世界のように思えるこの島も、たしかに地球上に存在していて、誰が忘れても必ず夜はやってくる。

大きな波の音に誘われるようにして島の外へ目をやると、森の隙間から夕日の紅い色が見えた。

「ねぇワカメ、夕日を見に行かないかい? ここからじゃよく見えないけど、岩場からならきっと上手い具合に見えるよ」

「まぁ! いいわね」

15: ◆5o0gtk7tVI 2016/04/22(金) 10:40:25.42 ID:1ueVwqRf0
今にも駆け出しそうだった二人の間に、サザエの鋭い声が割って入った。

「コラ! 二人だけで岩場なんて危ないわ」

「お姉ちゃん、だってきっと綺麗なのよ!」

「ようし、それなら僕が一緒に行ってあげよう。岩場なら砂浜から陸続きで行けるからね。サザエ、僕がしっかり監督するよ」

「それならいいけど……」

「カツオ兄ちゃんたち、どこか行くですかー?」立ち上がったタラオの腕をサザエが掴んだ。「タラちゃんはここに居るのよ」

「よーし、しゅっぱーつ!」

カツオが意気揚々と先導すると、「早めに戻ってくるのよ、今夜はバーベキューなんだから」というサザエの声が後ろから聞こえた。

16: ◆5o0gtk7tVI 2016/04/22(金) 10:41:09.63 ID:1ueVwqRf0



岩場につくと、カツオは蛙にも似た身軽さで磐と磐とを飛び移り、さっさと先へ進んでいったが、反対にワカメはゆっくり足元を確かめながらカツオを追った。

「お兄ちゃん、そんなに急いだら危ないわ」

ワカメの咎める声を、カツオは聞きもしなかった。

「ねえ、マスオ兄さんが居ないんだからあんまり無茶しないで」

彼はようやく振り返った。

「やれやれ、僕は平気だよ。それより、マスオ兄さんが先に行くなって言ってただろ。ワカメは砂浜のほうで待ってろよ」

「だってぇ」

17: ◆5o0gtk7tVI 2016/04/22(金) 10:42:08.92 ID:1ueVwqRf0
もじもじするワカメを放って、カツオは気に入った丸い磐の上に座った。「わぁ、こりゃいいや! 最高の眺めだよ」

ワカメも羨ましくなってパッと顔を明るくしたが、すぐに表情を曇らせた。ワカメは上手く磐を渡れないのだ。

と、そこへ、トイレに立ち寄ると言ったマスオが帰ってきた。

「ごめんごめーん、って、先に行っちゃ駄目だって言っただろう。ケガはないのかい?」

「マスオ兄さん、僕達子供じゃないんだから……」

カツオは呆れた顔になって、「なぁワカメ」と妹を振り返ったが、ワカメは「ふんっ」と一蹴した。

18: ◆5o0gtk7tVI 2016/04/22(金) 10:42:41.63 ID:1ueVwqRf0
「喧嘩でもしたのかい?」

「知らない。お兄ちゃん、きっといつか大怪我するんだわ。そしてその時になってからでしか反省できないのよ、かわいそう」

「僕はそんなヘマしないね」

「どうかしら」

マスオは困った笑みを浮かべた。


カツオの座った磐があんまり大きかったので、三人は並んで座ることが出来た。

あんなに青かった海は、ちょっと見ない隙に朱色に染まり、あっけらかんとその変化を受け入れているようだった。

地平線にはただひとつの障害物もなく、太陽との間を一羽の鳥が横切ることさえなかった。

19: ◆5o0gtk7tVI 2016/04/22(金) 10:43:33.29 ID:1ueVwqRf0
「夕陽ってあんなに大きいのね」

しみじみとしたワカメの感想に、マスオも頷いた。

「そうだねぇ、僕もこんなに綺麗な夕陽を見るのははじめてだよぉ」

「これを見れただけでも来た甲斐があったね」

「そうねぇ」

その時だった。

パシンッという、枝を踏み砕いたような音が背後から彼らに突き刺さった。

20: ◆5o0gtk7tVI 2016/04/22(金) 10:44:17.82 ID:1ueVwqRf0
ワカメがいち早く反応した。

「今、なにか音がしなかった!?」

カツオも磐の上に飛び上がった。「ああ、結構近くだったよ!」

「誰かいるのかな」

マスオが率先して音の方へ近づき、波に削られた崖岸の上の林を見上げたが、特別なにかの気配は感じ取らなかったようだ。

「きっと古くなった枝が折れたんだろうね、山ではよくあることなんだよ」マスオは振り返ってそう言った。

(確かに、人がいるみたいだった気がするなぁ)

(あぁ、なんてことを!)

(こんなに上手くいくなんて! あははははは!)

三人は思い思いを口には出さなかった。

21: ◆5o0gtk7tVI 2016/04/22(金) 10:45:17.66 ID:1ueVwqRf0





サザエの言うとおり、晩御飯はバーベキューだった。

一行は、砂浜に赴いて、ドラム缶を二つに裂いたようなバーベキュー・コンロを囲んだ。木炭の弾ける音と波の音が、夏の雰囲気を醸し出していた。

「追加のお肉を持ってきましたよ」

マスオがフネからそれを受け取った。「お義母さん、あとは僕が引き受けますよ」

マスオは、手際良く肉を焼き、野菜に火が通ったかを確認しながらも、常に子供たちの皿に気を配り、義父のグラスにも目を向けていた。

22: ◆5o0gtk7tVI 2016/04/22(金) 10:46:35.82 ID:1ueVwqRf0
良い焼き加減の肉を受け取りながら、やれやれ、大したお婿さんだとカツオは思った。そして、無理をしていないか心配になった。

「マスオ兄さん、今度は僕が肉を焼くよ。マスオ兄さんは座ってて」

カツオは横合いからトングを掠め取った。

「ええ、でも……」

渋るマスオに、波平がダメ押しをした。

「左様。マスオ君は座りなさい。カツオ、火には気をつけるように」

「任せておいてよ」

23: ◆5o0gtk7tVI 2016/04/22(金) 10:47:12.16 ID:1ueVwqRf0
「カツオにまかせて大丈夫かしらぁ」

「心配ないよ、姉さん。ダイエット中の姉さんはもう食べる必要がないんだからね」

サザエは赤面して眉を釣り上げた。

「冗談だよ……」

カツオは気圧されたように焼きたての豚肉をサザエの皿に載せた。「あら、ありがとう」そして空いた母のグラスにすかさずお茶を注いだ。

「優しいのねカツオ。母親冥利につきますよ」フネは嬉しそうににっこりした。

誰かが、二人をじっと見ていた。

24: ◆5o0gtk7tVI 2016/04/22(金) 10:52:09.26 ID:1ueVwqRf0





食事の後片付けを済ませ、順番に風呂に入ると、一同は眠りに就くことになった。

まだ起きていたいと、カツオなんかは主張したが、しかし長旅の疲れがあることも否定出来ない事実だった。

客室に引き上げてフカフカのベッドに足を入れると、案の定、心地よい睡魔が襲ってきた。が、眠りそうになったところで、ドアが控えめにノックされた。

「お兄ちゃん、起きてる?」

25: ◆5o0gtk7tVI 2016/04/22(金) 10:53:35.44 ID:1ueVwqRf0
声の主はワカメだった。カツオはげんなりしながら入口まで行き、ドアを開けてやった。

「やれやれ、早速かい?」

カツオはワカメが持っていた枕を見ていた。

「だってぇ」

ワカメはいつかみたいにもじもじして抱いた枕に顔を伏せた。

「仕方がないなぁ。ほら、おいで」

ワカメはほっとしたように顔を輝かせて部屋に滑り込んだ。カツオは自分の枕を隅に寄せて妹の分のスペースを作ってやってから、先に布団に潜った。ワカメも申し訳無さそうな顔で後に続いた。

26: ◆5o0gtk7tVI 2016/04/22(金) 10:54:19.22 ID:1ueVwqRf0
「ベッドが広くてよかったよ」

カツオがぼそっと呟くと、緊張が解れたみたいにワカメがくすくすと笑った。

「まぁ、ベッドだなんて。はじめて使ったくせに」

「……ベッドで眠ったことくらいあるよ」

カツオはムッとして言い返した。

「ねぇ、お兄ちゃん。夕方のことなんだけど」

ワカメは目を下に落としながら、細い声で切り出した。どうやらそれを話したかったらしい。

27: ◆5o0gtk7tVI 2016/04/22(金) 10:55:13.44 ID:1ueVwqRf0
「ああ、あの物音のことかい?」

「うん……」ワカメはカツオの袖を摘んだ。「なんだか、あのことが頭から離れなくって。なにか嫌な予感がするのよ」

カツオは、声を落とした。「実は僕も同じことを考えていたんだ。なにか不吉なことの前触れみたいだってね」

「縁起でもない!」

ワカメはカツオを睨みつけた。

「自分が言い出したんじゃないか……」カツオは呆れかけたが、ワカメの怯える様子を見て、彼女の頭に手を乗せた。「みんな気のせいさ。起きたらそんなことすっかり忘れてるよ」

「ほんとう?」

「ほんとうだとも。さぁおやすみ」

「おやすみ」

ところが、生憎と、そうではなかった。

33: ◆5o0gtk7tVI 2016/04/22(金) 23:25:59.32 ID:gvfU7wur0






『私にはわからなかった。なぜそんな冷たい炎を、

 おまえたちがその瞳に輝かせていたのか。

 私を覆う深い霧に、目を欺かれていたために』






34: ◆5o0gtk7tVI 2016/04/22(金) 23:28:00.74 ID:gvfU7wur0





難物島に朝がやってきた。

夕暮れ時とは反対に、朝日は林に遮られることなく、穏やかな温もりを帯びて館に降り注いだ。

カツオは、例の大きな窓から照らす陽光に照らされて目を覚ました。

「うわぁ、いい天気だ。これは絶好の海水浴日和になりそうだぞ」

彼の隣で丸くなっていたワカメも、カツオの声で目が覚めたらしかった。カツオには、その動作が、どことなくタマに見えていた。

35: ◆5o0gtk7tVI 2016/04/22(金) 23:28:53.20 ID:gvfU7wur0
「おはようお兄ちゃん、いい天気ね」

「怯えてたわりには、随分ぐっすり眠っていたじゃないか」

「お兄ちゃんの隣、すごく安心して眠れたわ」

ワカメはまだ眠そうな目を細めて嬉しそうに微笑んだ。

あぁ、これがカオリちゃんならどんなにいいか、とカツオは思った。

「そういえばお兄ちゃん、夜どこかに出かけた?」

「え?」

「わたし、一度目が覚めて、お兄ちゃんが居なくて、それで……」

「そんな、夢でも見たんじゃないの」

「そうかなぁ、でも、そうね、そうかもしれないわ」

「僕はずっとここにいたよ」

「うん、ごめんねお兄ちゃん」

36: ◆5o0gtk7tVI 2016/04/22(金) 23:30:13.67 ID:gvfU7wur0



同じ時、サザエも床の上で目が覚めた。

彼女は、いつもの癖で、まず枕元に忍ばせた手鏡で顔をチェックした。なんといっても、まだ20代の少女だった。

「マスオさん、タラちゃん、起きなさい」

サザエは鏡を元に戻すと、これまたいつもの癖で無意識に旦那と息子の名前を呼んだ。しかし、返事はなかった。

その時になって、ようやくサザエは寝室に自分一人だけしか居ないことに気がついた。

ベッドの中、高級そうなソファ、漆塗りのティー・テーブル……。部屋中を見回したが、誰の姿も見つけることができなかった。

「あら、おかしいわねぇ。マスオさんとタラちゃんがわたしより先に起きてるなんて」

サザエはベッドから這い出ると、スリッパを引っ掛けて部屋を出た。

37: ◆5o0gtk7tVI 2016/04/22(金) 23:30:55.98 ID:gvfU7wur0



キッチンでは、既にフネが食事の用意をしているところだった。

サザエは母に駆け寄り、手伝いを申し出た。鍋からは作りかけの味噌汁が、フライパンからは焼き鮭が覗いていた。

「美味しそうね。昨日はすこし食べ過ぎたから嬉しいわぁ」

「ふふふ。じゃあサザエは生姜を擦ってくれるかい?」

サザエは、おろし金を受け取って冷蔵庫に向かった。そして思い出したように口を開けた。「ところで母さん、マスオさんとタラちゃんを見なかったかしら?」

38: ◆5o0gtk7tVI 2016/04/22(金) 23:32:33.93 ID:gvfU7wur0
「おや? 部屋にいなかったのかい?」

サザエは頷いた。「朝の散歩にでも行ったのかしら……」

「そうかもしれないね。お父さんもわたしが起きた頃にはとっくに部屋に居なかったからねぇ」

「ええ、父さんも? やーねー男の人って。散歩に出るなら行ってくれればいいのに」

「たまには姉さんから開放されたいんじゃあないかなぁ」

いつの間にかキッチンに姿を見せたカツオを、サザエは厳しく睨みつけた。「ちょっとカツオ、それどういう意味よ」

39: ◆5o0gtk7tVI 2016/04/22(金) 23:34:38.26 ID:gvfU7wur0
「どういう意味もなにも、そのまんまじゃないか。僕に言わせれば、姉さんはすこし押えつけすぎるんだよねぇ」

「アンタになにがわかるのよ、小学生のくせに」

「ホーラそうやってまた僕をおさえつける。反省しないなぁ姉さんは」

「これカツオ、喧嘩はやめなさい」

フネが咎めたので、カツオはしぶしぶ引き下がった。サザエもどこか言い足りない様子だった。フネだけが満足している。

まったく、こういう時、どうして僕ばかりが怒られるんだ! カツオは理不尽を感じていた。

「お兄ちゃん、ご飯の前に顔を洗ってきましょうよ」ワカメに手を引かれて、カツオは我に返った。

40: ◆5o0gtk7tVI 2016/04/22(金) 23:35:58.99 ID:gvfU7wur0



ワカメと二人で顔を洗い、歯を磨いていると、玄関から波平らの声がした。

うがいをして出迎えに行くと、そこにはマスオと波平、それからマスオの背にタラオがいた。

「どこに行っていたのよもう」サザエが駆け寄っていった。

「パパとお散歩でーす!」

「すまなかったねサザエ、あんまり良く眠っていたものだから」

マスオの弁解を聞いても、サザエはまだ不服そうだった。

「あなたも散歩ですか?」

「ああ、朝が気持ちよくってな」波平は健康そうな笑みを見せた。そして、朝飯かと一声上げてさっさとダイニングへ向かった。

41: ◆5o0gtk7tVI 2016/04/22(金) 23:36:46.00 ID:gvfU7wur0
「父さんったらご機嫌ねぇ」

「年をとると朝型の人間になるものなんですよ」フネは忍び笑いをした。

朝食の席での話題は、今日の予定についてだった。

サザエとカツオ、ワカメの三きょうだいは揃って海水浴を提案した。

「だってせっかく綺麗な海があるんですもの」サザエは席を立ち、リビングの広い窓の傍で家族に振り返った。「ほら見て。あんなに澄んでいるわ」

「お父さんはどうします?」

フネが尋ねると、波平は美味そうに食べていた手を止め、「いいんじゃないか、海。子供は海で遊びなさい」といった。

「だったらみんなで泳ぎましょうよ」

ワカメの弾んだ声に、タラオが立ち上がった。「わーい、うーみですぅー!」

42: ◆5o0gtk7tVI 2016/04/22(金) 23:37:27.31 ID:gvfU7wur0



真上に登りつつある太陽が燦燦と夏の恵みを降らせている。一行は、空の下を、館を南に下ったところにある海へやって来た。

際限なく広がる海は絵の具を混ぜたみたいに綺麗な水色をしていて、その澄み具合に彼らは一々感動した。

タラオが、手で掬った水には色がないことを発見して疑問を口にすると、カツオは大笑いして波打ち際を転げまわった。

「不思議ねぇ」とサザエが微笑んで息子の髪を撫でる。「タラちゃんはきっと学者になれるよぉ」マスオも上機嫌だった。

波平とフネは、白い砂に立てたパラソルの下で彼らを見守っていた。時々、目を細めた子供たちが彼らに手を振ることがあった。

43: ◆5o0gtk7tVI 2016/04/22(金) 23:38:24.02 ID:gvfU7wur0
「子供たちは元気ですねぇ」フネはワカメに手を振り返した。

「ああ、連れてきた甲斐があったというものだな」

「伊佐坂先生に感謝しなくちゃいけませんねぇ」

「今度何かお礼をしよう」

しばらく、磯野家は今年初の海水浴を楽しんでいた。と、そこへ、タラオとカツオが連れたって傘のところまでやって来た。

「どうかしたのかい?」フネが尋ねると、タラオが「おしっこですぅ」と堂々と答えた。

「僕は海の中ですればいいって言ったんだけどねぇ、姉さんが」カツオは自分とタラオの身体を拭いて、やれやれのポーズを取った。

「あたりまえですよ」今度はフネが呆れた。

「じゃ、行こうかタラちゃん。すぐ戻るよ」

「はーいですぅ」

カツオとタラオは砂浜を丘へ上がってゆき、やがて見えなくなった。

44: ◆5o0gtk7tVI 2016/04/22(金) 23:39:29.51 ID:gvfU7wur0



「カツオに任せて大丈夫かしらぁ?」

海では、サザエが館の方角を向いては心配そうな顔をしていた。

「おいおいサザエ、それはいくらなんでも心配し過ぎだよ。カツオくんはしっかりしているじゃないかぁ」

「違うわ、そういうことじゃなくって。カツオのイタズラ癖がタラちゃんに伝染らないか心配なだけよ」

ワカメが乾いた笑みを浮かべた。「そのうち戻ってくるわよ」

そうして、再びマスオがビーチボールを打とうとした時だった。

「父さん母さん姉さーん!」

カツオが必死の形相で走ってきた。一同は何事かと彼を凝視し、一も二もなく集まっていく。

そして砂浜に全員が集まると、カツオが懸命に息を整えてこう言った。

「タ、タラちゃんが―――っ!」

45: ◆5o0gtk7tVI 2016/04/22(金) 23:40:38.81 ID:gvfU7wur0



サザエの言葉は、まさに最悪の形で実現することになった。

タラオが、行方不明になった!

サザエは反射的に「どういうこと!」と怒鳴っていた。マスオが慌ててサザエを落ち着ける。

カツオは怯えた顔で話し始めた。

「……タラちゃんと、館に入って、トイレに行ったんだよ。それで、僕はまずタラちゃんを先に入れて、ドアの前で終わるのを待ってたんだ。そしたら、タラちゃんが出てきて、次は僕がするから待っててねって言って、……終わって外に出てみたら、タラちゃんが、いなくなってたんだ」

「ちゃんと探したの!?」

46: ◆5o0gtk7tVI 2016/04/22(金) 23:41:45.31 ID:gvfU7wur0
「もちろんだよ。でも、いくら呼んでも返事をしなくて……」

カツオの言葉はだんだん弱々しくなっていった。

サザエは、これじゃあ埒が明かないとみて館の方へ走りだした。「きっとそう遠くへは行ってないはずよ。みんなで探しましょう」

ワカメもすぐに後を追った。マスオも、カツオに慰めの言葉をかけて走っていった。

最後に波平とフネが発つと、カツオもよろよろと走りはじめた。

47: ◆5o0gtk7tVI 2016/04/22(金) 23:42:52.29 ID:gvfU7wur0



島は広かったが、六人の人間が協力すれば短時間で踏破することが可能だった。彼らは懸命にタラオを捜索した。しかしタラオは一向に見つからなかった。

磯野一家は、難物館に集まった。

「ごめんなさい、僕が目を離したから……」

珍しくしょげた様子のカツオが頭を垂れていた。

「それより、まだ探してないところはないのかい?」

館内を探しまわっていたフネが全員に訊いた。

「海よ……」サザエが崩れるように膝をついた。「海に落ちたんだわ。かわいそうにタラちゃん」手で顔を覆い、嗚咽を漏らし始めた。

48: ◆5o0gtk7tVI 2016/04/22(金) 23:44:00.11 ID:gvfU7wur0
カツオは悲痛な面持ちで姉の姿を見ていた。

そしてそんな彼を睨みつけるものが居た。

波平が、もう一度全員で捜索することを言い出し、解散の雰囲気が流れたが、そこでサザエがふらっと立ち上がった。

彼女は、真っ赤になった目をきょとんと広げていた。

「待って、ヘンだわ……」

そして、こう言った。


「カツオ、あんた嘘をついているわね?」


54: ◆5o0gtk7tVI 2016/04/30(土) 17:56:19.51 ID:Kl/IOB9+0



「待ってよ姉さん、一体僕がなんの嘘をついてるっていうのさ!」

カツオは顔を真っ赤にして抗議した。皆の訝しむようなあの目つき! だめだ、頭に血が上って……。

しかしそれでサザエの追求が止むことはなかった。

「あんたは自分が用足しをしている隙にタラちゃんがいなくなったって言ったけど、そんなことってないわ! だってタラちゃんはしっかり者なのよ。誰かに黙ってどこかへ行くなんて、そんな勝手なこと今まで一度だってしなかったもの!」

55: ◆5o0gtk7tVI 2016/04/30(土) 17:57:10.03 ID:Kl/IOB9+0
ねえそうでしょう? とサザエはマスオに問いかけた。

マスオは妻の肩を抱いた。「落ち着くんだサザエ」そう囁いて背中をさすった。

「そんなの屁理屈だよ、なんだって僕が嘘をつくのさ。タラちゃんにだって一人で出掛けたくなることもあるに決まってるのに」

「あんたとは違うのよ!」

「サザエ、止さんか、カツオもそれまでだ。わしら家族が互いを信用出来んでどうする」

「そうですよ」フネが後を引き取った。「もう一度、皆で捜せばきっと見つかりますよ」

56: ◆5o0gtk7tVI 2016/04/30(土) 17:58:09.14 ID:Kl/IOB9+0
そして、今度こそ捜索を再開することになった。タラオを欠いた磯野家の面々は、散り散りに駆けていった。そしてこんなことを考えていた。

(ああ、早く見つけないと)

(こんなことになるなんて)

(昨日の……あれは一体……)

(これからが本番……)

(はぁ、危なかった。さて―――)

(よくも、よくもあんな嘘をぬけぬけと!)

57: ◆5o0gtk7tVI 2016/04/30(土) 17:59:00.97 ID:Kl/IOB9+0





波平は、ゴツゴツとした岩場に居た。

視界の右には波に削られた崖が、左には見渡すかぎりの大海が広がっている。

彼は潮風を頬に感じながら、歩くにはほど適さない足元を一歩一歩注意しながら進んだ。岩肌で水を吸った苔の鬱陶しいこと! こんなことなら、杖代わりの枝でも拾っておくんだった。

だがそれは後の祭りだった。そんな枝が落ちていそうな森はここより高い場所にある。彼は仕方なく手で身体を支えながら磐を渡った。

58: ◆5o0gtk7tVI 2016/04/30(土) 17:59:47.67 ID:Kl/IOB9+0
それにしても、ここで磯釣りをしたら、どんなに楽しいだろう!

波平は押し寄せる小波を横目に見ながら、想像してみた。グレやタイが、釣れるかも。波平は慌ててかぶりを振った。今はそんな場合じゃないと自分を叱りつけた。

人間という奴は、緊張した状態が続くと、それから逃れようとしてこんなことを考えてしまうらしい。波平はそう結論した。とにかく先へ進まねば。



サザエは森のなかを走っていた。

(タラちゃんはどこ! わたしの、わたしの可愛いタラちゃんは一体どこ!)

木々は一切の人工を感じさせない雑木林だった。だから、背の大きさにも当然バラつきがあって、どうにも視界が悪い。おまけに雑草は青青と伸び放題だ。腐葉土が靴底で錘になってサザエの足を苦しめた。

59: ◆5o0gtk7tVI 2016/04/30(土) 18:00:36.57 ID:Kl/IOB9+0
走っている間に、息子を見過ごしてはいないだろうか。サザエは薄汚れた腕で額を拭いながら、そんなことを思った。

やがて目の前に光が差してきた。森の端まで来たのだ。下に海の気配がある。サザエは肌のすべすべした木の幹に手をかけ、そっと崖の下を覗き込んだ。

10メートル程の高さだった。真下で海から突き出た磐が睨んでいた。ここで足を滑らせたら、ひとたまりもない! サザエはぞっとした。

見渡す限りを観察してみたが、幸いなことに、タラオの姿はどこにも見当たらなかった。

60: ◆5o0gtk7tVI 2016/04/30(土) 18:01:30.48 ID:Kl/IOB9+0
(まったく、うふふふ、海に落ちただなんて)

サザエは笑みを浮かべていた。タラオは、きっと島の中にいる。でも、それなら何処に?

「そうよ!」

サザエはハッとした。

タラオの居場所に気を取られて忘れていた。なぜ忘れていたんだろう。わたしは犯人を知っている!

(探さなくちゃ!)

サザエは再び走りだした。

61: ◆5o0gtk7tVI 2016/04/30(土) 18:01:59.14 ID:Kl/IOB9+0



カツオとワカメ―――二人の兄妹は、丘から砂浜に下る坂を走っていた。カツオがワカメの手を引いて先導する形だった。

「お兄ちゃん、一体どうしたの? 見せたいものなんて」

「見ればわかるさ」

カツオはさっきからずっとこの調子だった。今はそれどころじゃないのに! ワカメはイライラした。

(もしかしてお兄ちゃん、タラちゃんのことなんかどうでもいいのかしら)

62: ◆5o0gtk7tVI 2016/04/30(土) 18:02:46.51 ID:Kl/IOB9+0
タラオは明るい男の子だった。そして、とても賢かった。素直で……。

ワカメはタラオが大好きだったが、妙に大人びたタラオの一面に不快感を覚えることもあった。兄はどうだろう。

(もしかしたら、お兄ちゃん、ほんとうにタラちゃんのことなんて……)

ワカメは首を振った。そんなはずがない!

(そうよ。お兄ちゃんはきっと、なにかタラちゃんの足掛かりを見つけたんだわ! ううん、もしかしたらタラちゃん本人かも!)

砂浜の幅が狭くなってきた。磯が近いのだ。と、前を走るカツオの背のさらに向こうに、ワカメは父の姿を見た。

63: ◆5o0gtk7tVI 2016/04/30(土) 18:04:13.14 ID:Kl/IOB9+0
「お父さん」

「カツオにワカメじゃないか。岩場ならわしがもう捜したぞ、タラちゃんは見つからなかったが……」

彼はとても残念そうに眉を下げた。

「お兄ちゃん、戻りましょう。あっちはお父さんがもう捜したって」

「左様。カツオ、そっちには何もないぞ」

「いや、ちょっとね……」

カツオはそれ以上は答えず、またワカメを引っ張って走りだした。岩場へ向かうつもりなのだ。

「お兄ちゃん、お父さんの話を聞いてた? そっちにはもう―――」

「いいから」カツオは答えをはぐらかしてさっさと進んでいく。

(お兄ちゃん、何を考えてるんだろう)

ワカメは後ろからそっとカツオの顔を覗き込んだ。カツオは笑っていた。

ワカメは背筋に冷たいものを感じた。

67: ◆5o0gtk7tVI 2016/05/02(月) 19:10:06.94 ID:OcwQl7p80



カツオ達と別れてからすぐの時だった。森を出たマスオは、砂浜から館の方へ登って来る人影を発見した。

「お義父さん、海の方を探してたんですか?」

「ああ、だが岩場にも砂浜の方にも、」彼はそこで言葉を切って首を横に振った。

「そうですか……」マスオは肩を落とした。彼の息子が姿を消してから、もう何時間になるだろう。タラオの姿は見つからないのに、時間だけは刻々と過ぎていく。

68: ◆5o0gtk7tVI 2016/05/02(月) 19:11:25.74 ID:OcwQl7p80
「畜生! わしが、ちゃんと監督するべきだった!」

「お義父さんのせいじゃありませんよ。僕の方こそ父親失格です。これじゃあサザエに顔向けが出来ません」

マスオは歯を食いしばり、込み上げる自責の念と戦っているようだった。涙の一つもこぼさなかったのは、義父の手前であったからかもしれない。

「マスオくん、カツオもワカメも、それにサザエや母さんだって必死にタラちゃんを探しとるんだ。ここで諦めてはいかんぞ」

「ええ、勿論です!」

「それで、マスオ君は森を探したのか?」

「そうです。サザエと二人で手分けをして」

「よしわかった。なら今度は館の中を探してみよう」

マスオは頷いた。二人は連れたって館へ走った。

69: ◆5o0gtk7tVI 2016/05/02(月) 19:12:56.25 ID:OcwQl7p80



フネは難物館の二階に居た。バタバタと忙しく客室を順番に回っていた。

丁度入った寝室に時計があり、見るともうじき夕方になる時刻だった。フネは時間の経過に驚いた。夜はほど近いのだ。それはいつも太陽を追い出すようにしてやってくる。何もかもがあの陰鬱な黒に染められたら、きっと捜索は中止になるだろう。そうしたら、一体どうなる?

一階で、扉の開く音がした。フネは吃驚した。彼女は廊下に出て、吹き抜けから下を見下ろした。夫と娘婿だった。彼らの方も、フネに気がついたらしい。

「母さん」

尋ねるような視線だった。フネは首を振った。

「一階は見て回りましたけど、何も。今二階を捜してる途中です」

「よしマスオくん、わしらも母さんを手伝おう」

「わかりました!」

(タラちゃんはまだ見つかっていない)フネはそう思った。

70: ◆5o0gtk7tVI 2016/05/02(月) 19:13:58.71 ID:OcwQl7p80



しばらくすると、また玄関で扉の音がした。今度はサザエだった。

三人は期待と不安の入り混じった顔でサザエを出迎えたが、彼女は誰も連れていなかった。もしかしたら、タラオの手を引いているかもしれないと思ったのだ。

「ねえ」とサザエは言った。「カツオは中にいる?」

フネは奇妙に思った。てっきり、タラオのことを聞かれると思っていたのだ。

71: ◆5o0gtk7tVI 2016/05/02(月) 19:15:22.13 ID:OcwQl7p80
「いいえ、わたしたち三人だけだよ」

代表してフネが答えると、サザエは眉をひそめた。

「おかしいわね、岩場や砂浜にもいなかったわよ」

「いなかったって、カツオがかい?」

「ええ」サザエは頷いた。そしてこう言った。

「でもそれだけじゃないわ。わたし、森でマスオさんと別れてから、誰の姿も見なかったわ」





72: ◆5o0gtk7tVI 2016/05/02(月) 19:16:09.13 ID:OcwQl7p80
どう考えてもおかしかった。

サザエの話によれば、彼女は森の口でマスオと別れたあと、一人で森の中を捜索し、そこを出て、砂場や岩場を捜し回ったという。

しかし結果として、サザエは誰も見ていないといった。

館の中には三人の人間しか居なかったのだから、カツオやワカメ、それにタラオは外にいなければおかしいのだ。

つまり、タラオに引きずられるようにして、カツオやワカメまでもが姿を消したことになる!

サザエを含めた四人は血相を変えて館を飛び出した。サザエの見落としに違いないと考えたのだ。

73: ◆5o0gtk7tVI 2016/05/02(月) 19:16:57.22 ID:OcwQl7p80
「わたし、森に行って見てくるわ!」とサザエが叫んだ。

白昼鳴らしていた太陽が朱色に変わりつつあった。森の中は一層に薄暗さを増している。影が長く伸びて館へ迫っていた。

「待つんだサザエ」マスオが妻の手を取った。「もうすぐ日が暮れる。そうしたら森の中は危険だ」

「左様。潮の満ち引きもあるだろうし、岩場と森はわしとマスオくんで捜索する。母さんとサザエは館の周りと、もう一度隈なくすべての部屋を見まわってくれ」

サザエは名残惜しそうに森へ目を向けていたが、やがて首肯した。フネがサザエの肩に手を置き、ふたりは踵を返した。

「許さないわ、カツオ……」サザエはすっかり赤くなった目を鋭く尖らせて、静かにつぶやいた。

74: ◆5o0gtk7tVI 2016/05/02(月) 19:19:10.27 ID:OcwQl7p80





声が枯れるほど名前を呼んだ。躓いたら立ち上がれないくらい疲労困憊だった。マスオは一度も足を止めずに、ずっと森のなかを走っていた。しかし、子供たちの影すら見つけられなかった。

青空はみるみる色素を失い、紫がかって夜を待っていた。木々が邪魔をしなければ、一番星が見つけられたかもしれない。蜩が鳴いている。

森のなかは隈なく探した、そろそろここを出て応援に向かおう。そう思った直後、マスオは森の入口に波平の姿を見た。

75: ◆5o0gtk7tVI 2016/05/02(月) 19:20:17.06 ID:OcwQl7p80
「お義父さん」

「マスオくんか」

二人は歩み寄って、もう何も言わなかった。互いの姿を見ればわかる。なにか知らすことがあるなら、聞かずとも話し出すに決まっていた。

「戻りましょうか」

「そうだな」

二人は森をあとにした。すると、フネが走ってくるのが見えた。彼女のずっと後ろの空に、うっすらと月が浮かんでいた。

「ふたりとも一緒でしたか」

「サザエはどうした?」

「海のへ下りて行きましたよ。お父さんたちを捜しに」

「行き違いだったか」波平はこめかみを揉んだ。

その時だった。

76: ◆5o0gtk7tVI 2016/05/02(月) 19:20:46.30 ID:OcwQl7p80
突如、油断した彼らの心臓を止めるような悲鳴が響いてきた!

それは一瞬にして三人を緊張の糸で縛り付けた。直後、彼らは鳥威しを喰らったみたいに駈け出した。

「サザエの声ですぅ!」ギョッとした表情のマスオが叫んだ。

声は岩場の方角からだった。三人は砂浜へ滑り降り、その足で岩場までを転がるように走った。嫌な予感がする!

先頭を走っていたマスオが磐に飛び上がり、サザエの姿を見つけた。彼女は無事だった。

しかし、膝から崩れ落ちていたサザエの足元にあるモノは、無事とは遠くかけ離れていた。

77: ◆5o0gtk7tVI 2016/05/02(月) 19:23:46.07 ID:OcwQl7p80
それはタラオだった。

タラオは、遠目にチラリと見ただけで目を覆いたくなるような有様だった。

「ぁぁああぁぁあ……ダラぢゃ……ぐぐっうぐおォォォ」

サザエは目を剥いて嘔吐した。マスオは溢れ出る涙を拭いながら、タラオの身体を自分の上着で覆った。彼はこれ以上死体を晒したくないのだ。

タラオの身体には、鋭い切り傷が三本走っていた。どれもが頭から下半身まで縦につけられた傷だった。

サザエはマスオには目もくれず、彼の上着に包まれた息子に縋り付いた。

悲劇はまだ終わらない。

今度はフネが悲鳴を上げた。大きな磐に、丁度椅子にもたれかかるような格好で倒れている子供がいる。

ワカメだ!

ワカメは頭から水をかぶったみたいにずぶ濡れだった。彼女の美しい黒髪が、顔に張り付くように垂れている。フネは何度も愛娘の名を呼び、その体を揺すった。それから天を見上げて泣きじゃくった。

波平もワカメの足元に跪き、怒鳴るような声で泣いた。

四人の大人たちは、声がかれるまで叫んで泣いた。

78: ◆5o0gtk7tVI 2016/05/02(月) 19:24:49.11 ID:OcwQl7p80





7匹のお魚さんが、隠れんぼをしたら
1匹が切り身になって、残りは6匹



6匹のお魚さんが、岩場を散歩したら
1匹が海に溺れて、残りは5匹





79: ◆5o0gtk7tVI 2016/05/02(月) 19:26:08.61 ID:OcwQl7p80







島には、腹を抱えて笑っている、オーエンがいる。







80: ◆5o0gtk7tVI 2016/05/02(月) 19:35:44.66 ID:OcwQl7p80
一時中断。遅くてすみません

81: ◆5o0gtk7tVI 2016/05/02(月) 22:30:12.97 ID:OcwQl7p80





『もし、すべては夢の話で

 あの幸せな家で目覚めたならば、

 いつもどおり何も変わらない

 私の家族であるのに』





82: ◆5o0gtk7tVI 2016/05/02(月) 22:32:18.73 ID:OcwQl7p80





あれから、かなりの時間が経った。子供たちを失った磯野家の大人たちは、やっとの思いで難物館へ戻った。

太陽のぬくもりは遥か地球の裏側に消え、残されたのは暗く冷たい夜だった。海の向こうに、嵐の気配がある。

タラオもワカメも死んでいた。しかも、誰の目にも明らかな他殺体であった。さもなければ、タラオは三歳の身で自らの身体を三枚に下ろしたことになる!

レンガ造りの暖炉で薪が燃えている。サザエは真っ青な顔で火にあたっていた。彼女の隣にはフネがついて、肩を抱いていた。半身を失った今、ひとりでいることができないでいるのだ。

83: ◆5o0gtk7tVI 2016/05/02(月) 22:34:22.77 ID:OcwQl7p80
すぐ近くでは、ソファに浅く腰掛け、表情を殺していた波平が顔を上げた。自分が切り出すしかないと彼は思った。

「タラちゃんと、ワカメが殺された。カツオの行方も知れん……」

しかし、それだけの―――わかりきっている事実を並べることがやっとだった。波平は再び口を固く結んで頭を垂れた。

そのまましばらくの沈黙が続き、薪の弾ける音だけの居間だった。

「カツオよ」火を見つめたままサザエが言った。「カツオだわ」

「カツオがどうしたんだ」とは、誰も言わない。全員がそれだけでわかってしまったのだ。いや、もしかしたら、同じことを思っていたのかもしれない。

84: ◆5o0gtk7tVI 2016/05/02(月) 22:35:36.91 ID:OcwQl7p80
「タラちゃんがいなくなった時、わたし、ヘンだって思ったわ。あの時はうまく言えなかったけど、今ようやくわかったわ。あの子がタラちゃんを見失ったとき、砂浜にいるわたしたちの所へ飛んできて、行方不明だって言っていたでしょう。それがおかしかったのよ」サザエは一度言葉を切って、「トイレではぐれたのなら、先にひとりで海に戻ったって考えるのが普通でしょう。なのにカツオったら、血相を変えて走ってきて、まるで最初からタラちゃんが海にいないことを知っているみたいだったわ」

マスオも、波平も、フネも、サザエの言葉にはっとして顔を上げた。彼女の言うとおりだったのだ。

トイレに出掛けたタラオを見失ったのはカツオだった。では、そのカツオが嘘をついていたとしたら?

波平は考えた。あの、生意気で、手塩にかけて育てた、カツオのことを……。

カツオが、タラオを、殺した?

85: ◆5o0gtk7tVI 2016/05/02(月) 22:36:37.01 ID:OcwQl7p80
波平は想像してみた。カツオが、鋭い刃物でタラオの身体を切り刻む姿を! ぷくりとしたやわらかいタラの下ごしらえをするところを!

ありえない。カツオがそんなことをするはずがない!

「しかし、カツオとタラちゃんが席を外していたのは、ほんの15分足らずだぞ。その間になにができる?」

「屋敷まで戻らずに、すぐ近くで……殺したのよ、きっと」

サザエは耐え難い苦痛を受けたかのように顔をしかめた。

「だとしたら、カツオくんは、タラちゃんの遺体をどこに隠してたんだろう……」

86: ◆5o0gtk7tVI 2016/05/02(月) 22:38:00.27 ID:OcwQl7p80
「きっと何処かに隠れ家があるのよ。そう、洞窟があるんだわ! 暗くて、大きくて、深い洞窟が、大きな口を開けているのよ。そこでカツオが笑っているんだわ!」

「サザエ……」

フネは苦しげな表情を隠せずに居た。彼女は、カツオの潔白を信じたい、そんな顔をしていた。

「じゃあ、ワカメちゃんも、カツオくんが……」マスオは顔を青くした。

「マスオくん、何を馬鹿なことを!」

87: ◆5o0gtk7tVI 2016/05/02(月) 22:40:42.71 ID:OcwQl7p80
「馬鹿なことですって?」サザエは波平を睨みつけた。「ワカメも、首を絞められていたのよ! あの首の痣、父さんも見たでしょう? あれが自殺なもんですか。ワカメも殺されたのよ!」

それを聞いて、波平はハッとした。彼は、『マスオと合流する直前に、カツオとワカメの二人に会っていた』ということを思い出したのだ。

彼はその後すぐにマスオと館へ戻って、フネと三人で館内を捜索した。つまり、ワカメ殺しのアリバイがないのは、サザエとカツオの二人だけなのだ。

波平はそのことを説明した。

「これではっきりしたわね」サザエは満足気に頷いた。「タラちゃんの件と、ワカメの件。両方の事件の際のアリバイがないのは、カツオだけよ」

88: ◆5o0gtk7tVI 2016/05/02(月) 22:43:21.13 ID:OcwQl7p80
「そんな!」フネが眉根を寄せた。「皆どうかしてますよ、家族を疑うなんて! これは外部の人間の仕業に決まっていますよ」

「違うわ」サザエは首を振った。「タラちゃんも、ワカメも、首に痣があったでしょう? ふたりとも絞め殺されていたのよ。殺すだけならそれで十分じゃない。なのに、タラちゃんはその上から刃物で、ワカメは死体に水をかけられていたのよ?」

「だからって」

「だからこそよ!」サザエは、今度こそ母を睨み上げた。「ねえ母さん。タラの切り身に、髪の毛が海藻みたいに張り付いていたワカメよ? 外部の人間の一体誰にこんなことができるっていうのよ」





89: ◆5o0gtk7tVI 2016/05/02(月) 23:29:55.46 ID:OcwQl7p80


正常からは大きく逸脱していた。そんな精神状態だった。が、それでも睡魔は確実にやってくるし、だからこそ休息を取る必要があった。

四人は、それぞれの部屋に引き上げて睡眠をとることにした。

ただ、これまでと違っていたのは、全員がバラバラの部屋になったということだった。

この時点で、家族の絆はまだあった。しかし、疑惑の芽というものは、各々の心のなかで着実に芽吹きつつあったのだ。

―――カツオの協力者が、いないとも限らないし。

つまりはそういうことだった。

90: ◆5o0gtk7tVI 2016/05/02(月) 23:32:28.53 ID:OcwQl7p80
まず、一番奥に波平が部屋を取り、ワカメとカツオの寝室は空き部屋になって、その隣にマスオが入った。そして次にサザエ、最後にフネという形だった。

それにしても、なんという部屋の数だろう。

「そういえば、わたしたちの他にも、伊佐坂先生はたくさんのお客様を招待していたみたいだね」

四人で部屋に引き上げる途上、フネが言った。

「立派なお屋敷だものね」

務めた明るさでは、それ以上の会話は続かなかった。

91: ◆5o0gtk7tVI 2016/05/02(月) 23:38:43.94 ID:OcwQl7p80
四人はそれぞれの部屋の前に立った。波平とマスオを隔てる空間の虚しさが際立っていた。そこにあったものは、間違いなく家族の宝であったのに!

「わかってるとは思うが、こうなった以上、自分の身は自分でも守るしかない」波平は自室のドアを見つめていた。

「わかりました」マスオが頷いた。

「ええ、そうですね……」娘を殺され、息子を犯人扱いされるフネの哀しみは計り知れなかった。

「父さんの言うとおりだわ。次は誰かしらね」サザエはニヤリとした。

「サザエ!」

「何を怒ってるのよ、ほんとうはみんなそう思ってるくせに。このままじゃカツオに、殺されるのよ。わたしなんて恨みを買ってるから、もう大変」サザエはおどけてみせた。「わたしは、つぼ焼きかしらねえ! とびっきり美味しくしてくれるのかしら! ねぇカツオ、つぼ焼きにするんでしょ! あはははは!」

そして素早く部屋に入って、勢い良くドアを閉めた。ガチャリという施錠の音がする。

サザエのタラオへの溺愛は大変なものだった。それが遂にタラオを失って、おかしくなったに違いない。そしてここには、そうなる準備のできた人間しか居ないのだ。マスオは寒気を覚えた。残った三人も部屋に入って、鍵をかけた。夜は更け、南の空から漂う雲が、嵐を連れてくる。

92: ◆5o0gtk7tVI 2016/05/03(火) 00:27:26.98 ID:BtC+c+Xt0





『こんな嵐の日には、決しておまえたちを外に出したりしない。

 私はおまえたちが病気になりはしないかと心配だった。

 今やそれはむなしい考えごとであった』





93: ◆5o0gtk7tVI 2016/05/03(火) 00:28:53.43 ID:BtC+c+Xt0



夜が過ぎ、朝になったが、島を照らすはずの太陽は、雲の上に眠ったままのようだった。かわりに、シャワーのような豪雨が風に乗って窓を叩いていた。

マスオは、ベッドの上で伸びをして、立ち上がった。

彼には鏡を見なくてもわかることがある。それは、自分の顔がどれだけ酷いことになっているか、ということだ。泣き腫らした目は、まるでリングの上のボクサーのようだった。

マスオは部屋を出るとき、外の風雨に気がついた。そしてこう思った。もしも、カツオが島のどこかにいるのなら、それは一体どこだろう。



フネもその頃に目が覚めた。先ずは自分の命があることに安堵した。たとえば、自棄になった誰かが、襲いかかってこないでもないのだ。さすがにそれは、考えすぎだろうけれど。

フネは備え付けの小さな洗面台で顔を洗い、手ぬぐいで顔を拭いた。両の充血は、引きそうにない。

手ぬぐいを衣紋掛けにかけると、腹の虫が鳴った。そういえば、昨日は、お昼から何も食べていない!

母親らしいことをしなければ。フネはそっと部屋を出た。

94: ◆5o0gtk7tVI 2016/05/03(火) 00:31:27.02 ID:BtC+c+Xt0



憐れ、油断が仇となった!

マスオとフネは、奇跡的に同時に部屋を出て、立ち込める煙に鼻を顔を覆って咳込んだ。覚えのない臭いだった。喩えるなら肉の焼ける匂いだが、これはもっと強烈で、もっと不条理な予定外の死の歪さを感じさせる臭いだった。

雨が降っていたから、無意識に楽観していたのだ。昨日のサザエの言葉は、またしても最悪の形で実現した。

レンガ構えの暖炉で、サザエが燃えていた!

かろうじて彼女だと確認できたのは、その顔がまだ生焼けの状態だったからだ。

身体の部分は、玄関にあったあの大きな花瓶にすっぽりと包まれていて見えなかった。が、おそらくはもう焼けてしまっていた。ジュウジュウと、ヒトを構成する大部分である水分が失われていく音がした。同じようにサザエの存在も着実に炎に飲み込まれていく。

いつかグリルで焼いた魚のように、サザエの両の目は白濁して飛び出していた。

95: ◆5o0gtk7tVI 2016/05/03(火) 00:34:02.94 ID:BtC+c+Xt0
「サザエェェエエエ!!!」

フネは暖炉に飛び込まんばかりだった。慌ててマスオが羽交い締めにして止めた。フネの壊れんばかりの叫びはしばらく続いた。

やがてフネが崩れ落ちると、堪え切れないようにマスオが唸り声を上げた。マスオの、ほんとうの家族は、彼一人を残して皆で先立ってしまった。

「カツオくん……どうして……」

ポタポタと流れ出る涙を、マスオは拭いもしなかった。

ヒッペアスケリアとベラドンナ・リリーが、サザエの近くで咲いていた。






やがて、ふたりは気がつくのだ。

波平が、いない。

96: ◆5o0gtk7tVI 2016/05/03(火) 00:36:45.06 ID:BtC+c+Xt0





5匹のお魚さんが、お花を摘みにいったら
1匹がつぼ焼きになって、残りは4匹



4匹のお魚さんが、早起きしたら
1匹が波にさらわれて、残りは3匹





97: ◆5o0gtk7tVI 2016/05/03(火) 01:00:08.84 ID:BtC+c+Xt0



波平が見つかったのは、砂浜の、波打ち際だった。

波平は雨に打たれ、波にもまれながら、釣られた魚のように砂浜に打ち捨てられていた。

威厳ある、良き父であった波平の、そのゴミのような様は、かろうじて残っていた生者の希望のようなものを粉々に砕いた。

フネとマスオは、最後に残ったほんの細い糸で結束し、波平を海から遠ざけた。

波平の身体は冷えきり、顔は青ざめていた。顔は浮腫んでいて、体中の細胞がすべて死んでいるようだった。

もう体力も気力も尽きかけていた二人が、波平を館まで運ぶのは不可能だった。波平は二人の手を離れ、雨で沼になった砂浜に転がった。

二人は言葉をかわさずに、館へ向かって歩き始めた。屍は置き去りにされた。

98: ◆5o0gtk7tVI 2016/05/03(火) 01:01:55.24 ID:BtC+c+Xt0



嵐に混じって、ギーギーという音がした。

二人は、館を望む丘を登ったところで、その音を聞いた。林の方から聞こえてきた。とっさに、カツオかと身構えた。その通りだった。

カツオが、まっすぐに立って二人を見ていた。

今にも、マスオ兄さん! 母さん! と呼びかけ、走って来そうなものだった。

しかしそうはいかない。カツオの足は、宙に浮いているのだ。

突風で、雨が横に流れながら落ちてくる。カツオの身体が大きく揺れて、ギーギーという縄が軋む音がした。

カツオは首を吊っていた。首を吊って死んでいるのだ。

しかも、それだけでは終わらなかった。

ようく目を凝らせば、身体のあちこちに痛々しい傷があった。まるで、何度も、何度も全身をなぶられたような痕だった。

カツオは死んだのか。殺されたのか。

宙吊りにされて、何度も、何度も、殴られたのではないか?

その瞬間、義理の親子の間を結んでいた細い糸がプツンと切れた。

99: ◆5o0gtk7tVI 2016/05/03(火) 01:04:20.79 ID:BtC+c+Xt0





3匹のお魚さんが、ブランコに乗ったら
1匹が叩きになって、残りは2匹



2匹のお魚さんが、互いを信じられなくなったら
1匹が息をつまらせて、残りは1匹





100: ◆5o0gtk7tVI 2016/05/03(火) 01:19:15.03 ID:BtC+c+Xt0


あのあと、どうなったのかよく思い出せない。確か……。

ああ、そうだ。僕がお義母さんを! あの人でなしを!

マスオは、足を引きずりながら島を歩いていた。

あの時、フネは血相を変えてマスオに飛びかかってきた。その瞬間、マスオの中で何かが弾けた。

フネを殺さなければ! そして終わりにしなければ! 彼はそう思った。

タラちゃん、ワカメちゃん、サザエ、お義父さん、カツオくん……そしてお義母さん。みんな気のいい連中だったなぁ。でも、もうなにもかも終わりだ。疲れた。泥のように、眠りたい。

101: ◆5o0gtk7tVI 2016/05/03(火) 01:23:48.65 ID:BtC+c+Xt0
マスオは雨の中を歩いて行く。

ああ、そうだ。フネだ。フネを忘れていた!

タラオは、切り身になった。

ワカメはワカメになった。

サザエはつぼ焼きになったし、お義父さんは波打ち際に捨てられてた!

カツオくんは全身を叩き潰されていたし……。フネは、どうするべきだろう。

「んー」マスオはしばらく考えて、やがて妙案を思い浮かべた。

間もなく、館の救急箱から一枚のシップが失くなった。それはフネの口に貼られた。

102: ◆5o0gtk7tVI 2016/05/03(火) 01:25:09.66 ID:BtC+c+Xt0


館の裏手へ回ってきた。マスオは下を見下ろしてみた。10数メートル下に、荒れ狂う海がある。確か、暗礁がゴツゴツしていた。

ここに落ちれば、ゆっくり眠れるに違いない!

マスオの頭は、まともな動作をすっかり忘れてしまった。

一歩、一歩、自分の意志で、また、風に押されるように、進んでいく。

ああ、つま先が、崖にかかって……。風が吹いてくる。吹いてくる。皆が背中を押しているんだ。ここから落ちたらどうなる……? 僕は死ぬのか? 死んだらどうなる?

サザエがきっと出迎えてくれる! そしたら、ゆっくり話そう。教えてあげなきゃ。そうしたら、サザエはなんて言うだろう?

ああ、ふわっと宙に浮く感じがする。なんて気持ちが良いんだ。まるで――――………





1匹のお魚さんが、あとに残されたら
海に帰って、そして誰もいなくなった!





105: ◆5o0gtk7tVI 2016/05/03(火) 02:00:51.44 ID:BtC+c+Xt0






『こんな荒れ狂う天候の中で

 こんな嵐の中で

 彼女らはまるで生家にいるかのように

 もうどんな嵐も驚くことなく

 神の手におおわれて

 彼女らはまるで生家にいるかのように』






106: ◆5o0gtk7tVI 2016/05/03(火) 02:02:52.45 ID:BtC+c+Xt0

三日後の朝、やってきた漁師によって、一家の惨殺体は発見された。

すぐに地元の警察がやってきて、身元の確認と調査が行われた。

島には、7人分の遺体があった。

3体が女性、4体が男性の遺体で、うち3体は子供の遺体であった。

7つの遺体は、海に転落していた1人の遺体を除くすべてが焼かれており、とくに頭部の損傷がひどく身元の確認は困難を極めた。

結局、捜査員の聞きこみ調査によって東京都に在む、

磯野波平

磯野フネ

フグ田サザエ

フグ田マスオ

磯野カツオ

磯野ワカメ

フグ田タラオ

の家族であると判明した。

7つすべての遺体に扼殺や撲殺の痕があるのに対し、フグ田マスオが自殺だったことを見て、フグ田容疑者が引き起こした一家心中であるとして捜査は進んでいる。

107: ◆5o0gtk7tVI 2016/05/03(火) 03:24:14.52 ID:BtC+c+Xt0



港町の漁師より
警視庁へ送付された証拠文書



私は、ひょんなことから、自分が愛する家族の一員でないことを知った。
それは何年も前の事だったが、そのことを知ってから、私は家族の誰一人をも愛することができなくなってしまっていた。なにより、私を騙し、私の無知の故に成り立つこの家族の存在が、到底耐えられなかったのである。

時折、私にはあの嘘つきを問い詰めてやろうと思う瞬間があった。しかしその度に思いとどまり、今回の、あの難物島への正体の話が来るまで、私は一切の報復行為を行わなかった。そして、その話を聞いた時、秘めていた復讐の火が現実に燃えあがったのである。

108: ◆5o0gtk7tVI 2016/05/03(火) 03:25:28.25 ID:BtC+c+Xt0
思いの外、計画のヒントを与えてくれたのはカツオだった。
憎らしくさえ思っていた奴のイタズラ癖が、ここにきて最高の策を私に思い起こさせたのである。

伊佐坂氏から誘いを受けたのは、島へ行く1月も前からだった。カツオは、そこで、あるイタズラを家族に仕掛けようとした。カツオは、仕掛け人として協力を依頼した男に、電話でこう話したという。


「だからね、絶海の孤島で、父さんが二人出たら面白いと思わない?」


私はこの計画を利用することにした。
が、私はそれをおくびにも出さず、単なる協力者として手伝いを申し出た。

なんといっても、二人出る波平の両方が内通した仕掛け人ならば楽だろう。カツオは目を丸くして喜んだ。

私はそれから、彼らに殺意を気取られないように、私にとって都合のいいように計画を軌道修正した。
新しい案は、子供たちを狂言誘拐して、混乱させようというものだった。これなら、まずはうろちょろと邪魔な子供たちをまとめて始末できるし、用が済んだ後で内通したカツオと兄を殺せばいい。

これがうまくいった!

私達家族が島に到着し、最初の晩を過ごす間に、海平がゴムボートで島へやって来る。奴は岩場の影にある洞窟の中にキャンプを張った。

一応、カツオと私とで夜明け前に様子を見に行った。洞窟の入り口はそこそこ重みのある磐で上手く隠してある。海平は中に居た。
我々は細かな計画を話し合い、それが終わると、疑われないように別々に館へ戻ることにした。私は戻る途中で、偶然散歩中のマスオくんとタラオに見つかったから、一緒に館へ戻った。

109: ◆5o0gtk7tVI 2016/05/03(火) 03:26:43.19 ID:BtC+c+Xt0
その後海へ向かい、計画通りカツオがタラオを海から連れ出す。タラオはトイレが近いから、これは容易だった。
カツオはその足で洞窟へ向かい、待機していた海平にタラオを引き渡す。タラオはまだ子供だからかなり楽だっただろう。

その後、タラオがいなくなったと騒ぎ立てるカツオが戻ってきたが、この時のサザエにはひやっとさせられた。
あとから指摘していたが、はじめから誘拐だと決めてかかったカツオの態度はたしかに妙だったことだろう。しかしこれも乗り切れた。

その後、私は岩場を捜索するフリをして洞窟へ入り、ここで海平兄さんと波平役を交代した。
洞窟の中は、海平が持ってきたライトで明るかった。

私はまず、洞窟の中でタラオの首を絞めて殺した。
タラオに恨みはなかったが、しかし血のつながらない赤の他人である。赤の他人が我が家の一員を名乗るのは、いただけない冗談だった。タラオはすぐに事切れた。あとは、死体を影にでも隠し、間もなくワカメを連れてやってくる馬鹿なカツオを待った。

いまごろ、私の手のひらの上とも知らずに、必死に私のフリをする海平を誰かが目撃している頃かな?

洞窟の扉が外から開かれた。

ワカメは、適当に言いくるめられてここまで来たらしく、どこか不安げな面持ちだった。

私は中で二人を出迎えた。ワカメの吃驚したあの顔は今でも忘れられない。
なんといっても、彼女はさっき「私」とすれ違ったばかりなのだから。

110: ◆5o0gtk7tVI 2016/05/03(火) 03:27:37.05 ID:BtC+c+Xt0
しっかり磐のフタを閉じると、私は二人に襲いかかった。カツオを石で殴って黙らせ、ワカメの首を絞めた。

ふたりともおもちゃのように簡単に逝ってしまった。だからだろう、物足りなさを感じたのは。
私は、自分に流れる殺人者の血に驚いた。名前になぞらえて、あんなイタズラをしようと思い至った自分を恐ろしく感じた。

もうすぐ、海平がやってくる手筈になっている。
岩場の捜索を他の人間にされたらおしまいである。海平は、なんとかして岩場の捜索を申し出られるだろうか。

まもなく海平がやってきた。どうやら、マスオが、森と岩場は危険だから男性がする、森は広いから自分が、と願い出たらしい。なんという幸運!

そこまで饒舌に話していた海平も、転がった三つの死体を見つけては口をあんぐり開けていた。
わたしは、その頭を石で殴りつけた。一撃で済んだ。

言い忘れていたことだが、海平は、今回の計画のために髪の毛を一本提供していた。
家族の中には、遺憾ながら、我々を毛の数で判別する輩がいるのである。

とにかく、死体は4つ出揃った。あとはこれを上手く利用するだけである。
カツオが疑われていることを聞いていた私は、その死体を、海平のものと一緒に洞窟に放置し、タラオとワカメの死体だけを外に捨てた。
じわじわと、人が減っていく恐怖を奴らに与えたかった。

タラオの身体は包丁で切り、ワカメには海の水を掛けてやった。

そうして何食わぬ顔で、砂浜のほうから森へ上がり、マスオと合流した。

そしてサザエが死体を発見する。

館へ引き上げ、犯人探しが始まったが、ここでカツオの遺体を隠したのと、死体にイタズラをしたことが功を奏してきた!
サザエがカツオを犯人と決め付けてくれたのだ。

111: ◆5o0gtk7tVI 2016/05/03(火) 03:29:07.94 ID:BtC+c+Xt0
岩場を捜索しに行って、自分で死体を捨てておきながら、遺体などなかった、自分にはアリバイがあると主張するわたしの滅茶苦茶な自己弁護もすんなりと受け入れられた。しかし、誰かが冷静に考えれば、楽に看破されそうなペテンに過ぎなかった。そう思った私は、さっさと次の殺人を、劇的に起こす必要にかられた。

それでサザエのつぼ焼きである。

アイディアは、まるでシェフへのリクエストのように、サザエが前の晩に話していたのをそのまま使うことにした。

明朝、わたしはサザエの部屋を訪れ、ノックし、カツオの姿を見かけたと話した。
サザエが冷静でなければ、きっとついてくるだろう
逆であれば嘘を本当にして全員で捜索すればいい。
寝起きの状況も手伝ってか、サザエは前者だった。わたしは息もつかせずに(新聞紙で返り血を浴びないように工夫した)サザエを刺殺し、軽く床の血をふき取った後につぼ焼きにとりかかった。

この人が焼ける臭い、衝撃の前では、瑣末な証拠や事情などは人の記憶から消し飛ぶものだ。

サザエが焼けるのを確認すると、わたしは死体を、洞窟から砂浜とは反対方向の森に直通するスロープから運び、カツオを枝にくくりつけた。カツオの身体は洞窟で何度も殴って叩きにしていた。

そして洞窟に戻ってくては、海平の死体を砂浜に捨て、岩場の影で様子を見守った。

案の定、フネとマスオはふたりきりになって殺しあった。

体格で劣るフネが勝てる見込みもなく、彼女はマスオの手にかかって死んだ。私は一種の興奮を覚えていた。
それにしても、マスオがわたしの儀式に則って、フネをシップ処理したことには驚いた。彼にも、殺人者の血が流れていたらしい。

気を違えたマスオは自殺をしてくれた。
ほんとうは突き落とす予定だったが、手間が省けて助かった。警察は、自殺と他殺を上手く嗅ぎ分けると聞く。

ともあれ、これで誰もいなくなった。

112: ◆5o0gtk7tVI 2016/05/03(火) 03:29:44.83 ID:BtC+c+Xt0
私は当初の計画通り、海平としてこれからの人生を生きるため、マスオ以外の全ての死体を館に集めた。
まず、それぞれの指を徹底的に焼き、指紋を潰した。それから歯の治療痕等を消す目的で、全員の頭部を粉砕した。何度も何度も殴って、かなり疲れた。

ちなみに全員に同じことをしたのは、私が入れ替わりを画策していることを隠すためだ。それから、指紋を焼いたことを隠すために、順番に全身ごとを焼いた。

指になくとも、建物の中から指紋はいくつも出るだろうし、警察が怠慢でなければ海平兄さんの指紋も必ず見つかる。けれどそれで問題なかった。伊佐坂先生はこれまでに多くの人間をここに招いている。もはや、指紋などは関係ないのだ。ダメ押しの事実として、海平は一度この館の見学に来たことがある。そもそもわたしたちが洞窟の存在を知っていたのは、一度訪れた海平から事情を聞いていたからなのだ。

いよいよ全員の焼却作業が終わり、わたしはこの手記を記している。

計画はすべて、子を望めないわたしを裏切り、私と瓜二つの兄と契りを結んだあの薄汚い女と、その子孫、並びに弟の妻に手を出した不貞な兄を抹殺するためのものである。

私は、あの時芽生え、未だ衰えない好奇心に任せてこの証拠文書を書いている。書き終えたら壜につめて海に流すつもりだ。
これから、己を捨て、海平として生きる退屈な人生を思うと、それくらいのスリルはありがたかった。

さて、もうすべてを記した。

私は海平のボートを使って、夜中にでもこの島を離れ、彼の住まいである福岡に戻ることにする。




磯野波平

113: ◆5o0gtk7tVI 2016/05/03(火) 03:30:25.22 ID:BtC+c+Xt0






『おお、お父さまの心の憩いよ、

 ああ、あまりにもすみやかに

 消えた喜びの光よ、おまえ!』

   ―――――亡き子をしのぶ歌