いっそのことニセモノという立場を利用してどうにかできないだろうか……
日下部の運転で脳が揺さぶられた後遺症か、とっさに思いついた作戦の1つを良く考えずに実行へ移す
「早くしないと憲兵さんを呼びますよ」
「いや、それは困る」
「だったら、自分がニセモノさんだって……」
「ああ、そうだ」
「俺は君嶋大悟の偽物だ」
突然の告白に驚いたのか、少女は言葉を失って沈黙する
その隙を見逃さずに、思いついた事をあることないこと畳み掛ける
本部の最高機密を握っているだとか、少尉に成り代わった諜報員だとか、妖精にあったことがあるだとか
荒唐無稽も甚だしいが、とにかく子供が好きそうな単語を並べてみた
「……というわけで」
「今すぐ、本条大尉に会わなければならいんだ」
自分で言っていて笑いそうになるが、あくまで堂々と言い放つ
こうすると不思議と疑われなくなるらしい、下山田の奴が嘘を吐く時に良くやっていた方法だ
SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1449754311
引用元: ・軍人たちの艦隊コレクション
453: ◆pOKsi7gf8c 2016/04/10(日) 23:27:22.70 ID:bONm3BLJ0
「う……嘘付きは泥棒の始まりなのです」
「いや、そうじゃない」
「でも……そんな」
「証拠がないと信用できません!」
「それは……」
『証拠』と言われてドキリとする
当然、全部が全部ハッタリであって、証拠などあるはずがない
悩んでいるの悟られないようにしながら、何気なく腰へ手を当てる
右手に触れたホルスターに何かしらの違和感を覚えた
「さぁ、証拠は?」
「そうだな……」
そういえば、ここには仙田に渡された携行カメラを入れておいたままだった
返すのをすっかり忘れていたが、これは使えるかもしれない
「これならどうだ?」
そう思い至ると、辺りを憚るようにホルスターの留め金を外し、手にしたカメラを少女に見せる
454: ◆pOKsi7gf8c 2016/04/10(日) 23:28:14.28 ID:bONm3BLJ0
「これは……何なのですか」
目の前に付きだされた奇妙な物体を訝しみながら、指先でそれを触ろうとする
「ダメだ!」
「はわっ……」
それを強い調子で制止ながら、わざとらしく急いでホルスターへカメラと戻す
怒鳴られた少女はビクリと震えると、おびえるような目つきでそれを眺めていた
その様子に満足して、今のはスパイの秘密道具だとか、いきなり触ると何が起こる分からない等と嘘を重ねる
「ほ、本当なの?」
そんなやり取りを経て、疑惑が不安に変わったのだろう
偽物の件はすっかり忘れて、先ほどの話が本当かどうかを確かめてくる
だが、あえてそれには答えずに彼女の右肩を軽く2、3回たたいた
嘘を付くときは『本当だ』と言い切らない方がボロが出ない、下山田の入れ知恵だ
「わ、分かりました」
「今すぐ大尉さんのところまで案内するです!」
何をどう理解したのか全く分からないが、とにかく少尉のところまでは行けるらしい
ひとまずホッと息を付くと、新たに気を引き締めながら彼女の後に付いていく
455: ◆pOKsi7gf8c 2016/04/10(日) 23:29:34.94 ID:bONm3BLJ0
軽い足取りの少女の後を追って、静まり返った司令部の廊下を歩く
非常灯と最低限の照明以外は消されてしまった通路には、古めかしい建物が醸し出す独特の閉塞感が漂っている
普段は少女たちが行きかう場所であっても、そんな息苦しさだけはあの頃とは変わらない
彼女たちも良く知っているであろうこの司令部に、どことなく懐かしいものを感じた気がした
「ここなのです」
しばらく歩いていると、目の前の少女がこちらを振り向き、目的地への到着を伝える
彼女が指さす部屋の立札には『士官執務室』とあり、ドアの隙間から明かりが漏れ出していた
部屋の状況と聞いている話から、ここに本条大尉が居るのはまず間違いなさそうだ
「ありがとう、助かった」
取りあえず、案内をしてくれた少女に礼を言う
彼女の返礼を受け、1人にして貰うために声を掛けようとした時、
『どうして出撃できねぇんだ!?』
中から怒号にも近い抗議の声が聞こえてきた
それに続いて諌めるような声と言い争うような声が数秒くりかえされ、再び沈黙する
鎮守府も判断しかねているようだ、防衛隊とは違った意味で緊迫した空気が伝わってくる
456: ◆pOKsi7gf8c 2016/04/10(日) 23:42:20.51 ID:bONm3BLJ0
「あの……」
今ので本当に自分を通して良いか不安になったのだろう
扉の前に立つ彼女が心配そうな顔をしてこちらに顔を向けている
「大丈夫だ」
「後は何とかするさ」
そんな彼女の目線に合わせるように片膝立ちになって言い聞かせた
それでも表情を崩さない彼女であったが、無理やりにでも分からせようと頭に手をやってワシャワシャとかきむしる
少女は驚いてこちらを見返すが、それに構わず『帰るまで止めない』などと適当な事を言って動作を続ける
「……わかりました」
「これで失礼するのです」
暫くそれを続けていると、いい加減に付き合うのが面倒臭くなったのか、少女が帰ると言い出す
そうか、と返事をしてクシャクシャにしてしまった髪を軽く戻してやる
それもあまり気に入らなかったようだが、何も言わずにもと来た道を戻り始める
立ち上がって服についた埃をはらい終えた頃には、廊下の暗がりに溶け込んで見えなくなってしまっていた
「さて、行くか……」
ここまで来たからには手ぶらで帰るわけには行かない
そう自分で自分に発破をかけると、目の前のノブを回して部屋に押し入った
459: ◆pOKsi7gf8c 2016/04/17(日) 22:34:01.94 ID:9cSMv6Rc0
扉を開けると、目の前に女性の後ろ姿が現れた
艦娘の象徴する独特な制服と怒りを露わに小刻みに震える肩、おそらく彼女が先ほどの怒声の持ち主なのだろう
辺りに気を配っている様子もなく、こちらの入室にも気づいていないらしい
海図が広げられた机に両手を付いて目の前の上官、本条大尉を睨みつけている
だが、そんな様子の彼女とは裏腹に、その向こうに見える大尉は両手を口元で組み合わせながら座したまま黙している
視線を下ろして海図を眺めている表情は、目深にかぶった制帽に隠れて読み取ることはできなかった
「失礼ですが……」
不意に、横から声を掛けられる
ハッと目の前の2人から意識を戻して、声がした方向を振り向く
自分が入ってきたドアの右手、視覚となっていた場所にもう1人、いかにも頭が切れると感じの澄ました女性が立っていた
「貴方は?」
突然会議に押しかけて来た人間を怪しんでいるのだろう
キリっとした鋭い視線で、こちらの素性を確かめてくる
どうやら彼女にはさっきの少女みたいな子供だましは通用しそうになさそうだ
下手な嘘をついてつまみ出されるわけには行かない
話は伝わっているはずだと念押しして、自分の素性とここまでやってきた目的を話すことにした
460: ◆pOKsi7gf8c 2016/04/17(日) 22:37:20.88 ID:9cSMv6Rc0
「……分かりました」
「大尉に掛け合ってみます」
こちらの話を聞いて、彼女は大尉の居る机へと向かう
もう1人の例の怒鳴り声の女性に声を掛けると、二三耳打ちして彼女を脇へと下がらせた
そして、そのまま机の正面に立ち、突然の来訪者について報告し始めた
(さて、どう出てくるか……)
『話は伝わっている』と言い放ったはいいが、大尉がどう出てくるかは分からない
中佐から連絡が入っているはずだが、向こうが事実を否定すればそれで終わりだ
半ば騙すような手口でこの部屋まで案内させたこともあり、最悪何も聞き出せずに追い出されてしまう可能性もある
だが、そこまで酷い対応をされることはないだろう
態度こそ人を食ったようなものある男だが、決して自らの保身のみを考える人間ではない
自分が直接やってきたと知ったら、必ず何か反応をするはずだ
「君嶋特務少尉」
どうやら、こちらの思惑は当たったようだ
取り次いでくれた女性が自分の名を呼ぶと机の右側へ避けて大尉の正面を空ける
来いという合図だろうが、今の今まで大尉とやり合っていた彼女の事が気にかかる
歩を進めながら横目で確認すると、抗議をしていた女性も鋭い目つきながらも黙ってこちらに目を向けるのみだ
そういえば、水兵時代に士官へ報告する時もこんな雰囲気だった
そんなことを考えながら、ゆっくりと正面の机まで歩いて行く
461: ◆pOKsi7gf8c 2016/04/17(日) 22:41:21.93 ID:9cSMv6Rc0
「やはり……貴様が来たか」
机を挟んで正面に立つと、目の前の男はそう呟く
部下とのやり取りに力を使い果たしたのか、いつものような高圧的な態度は無い
自分がやってきたことへの率直な感想といった感じであった
「大尉……」
「必要ない、話は聞いている」
改めて今日の目的を告げようとするが制止され、先を急ぐように促される
普段ならば皮肉の1つも入る場面であるが、それが無いということは余程余裕がないのだろうか
完全に毒気を抜かれて戸惑いながらも、気を取り直して本題にはいる
「では、単刀直入に聞きます」
「艦娘が消息不明だという報告は事実なのですか?」
そんな大尉の態度に応えて、今もっとも知りたい情報を問いかける
だが、その答えは返答を待つまでもなかった
目の前の男は苦虫を噛み潰したような顔をし、左隣の女は歯を食縛りながら激しい憤怒を見せる
右に控えた女も一見冷静な風を取り繕っているが、瞳の奥の動揺を隠しきれないでいた
こんな反応を見せられれば否が応にも理解させられる
船団護衛の任にあたった艦娘が行方不明になったというのは明白だ
462: ◆pOKsi7gf8c 2016/04/17(日) 22:54:32.62 ID:9cSMv6Rc0
「誰が……」
その疑問は自然と口に出ていた
誰かが行方不明となれば、その『誰か』が気になるは当然の心理である
だが、それを言葉にするのはまた別の問題だ
己の不用意な発言に背筋に冷たいものが走る
いずれ聞かなければならない事だとしても、今この時ではなかった
完全な失言だったが、次に打ち出すべき挽回の一手を考えなければならない
はやる心を押さえつけて自分が取るべき行動の最適解を探ろうとする
「美津島提督の秘書」
「……貴様がよく絡んでいた彼女だ」
しかし、それも次の発言によって全て吹き飛でしまった
「なにっ……!」
気づけば、右腕で机を叩き付け、身を乗り出す格好になっていた
突然の行動に両脇の艦娘が驚いたような反応をしているが、そんなことはどうでも良い
報告を受けた時から頭の片隅に燻ぶっていた悪い予感、それが現実のものとなったのだ
例えようのない焦燥感が、早鐘を打つ鼓動となって耳元まで伝わってくる
463: ◆pOKsi7gf8c 2016/04/17(日) 22:58:01.16 ID:9cSMv6Rc0
「本当……なのか」
独り言か質問なのか自分でもわからない言葉が口からこぼれる
目の前の男はそれに返事をするでもなく、ただジッと机に広げられた海図を見つめていた
(……嘘では無いか)
そう得心すると、激情する己の姿を妙に冷めた視線で眺めている自分の存在に気が付いた
第一報を聞いただけで、ここまで自分が抑えられなくなるとは
ここへ乗り込むときに自分がなすべき事を決めていたはずであるのに
(相変わらず、仲間の危機に弱いらしいな)
そんな風な感傷に浸っていると、
「君嶋特務少尉」
嗜めるような言葉づかいで名前を呼ばれた
確認するまでもなく右隣に控えている女性の声だ
軽く返事をして乗り出していた体を引き戻す
冷えてきた頭は平静を取り戻し、意識の中から閉めだしていた周りの状況が目に入り始めていた
464: ◆pOKsi7gf8c 2016/04/17(日) 22:59:05.15 ID:9cSMv6Rc0
「……状況はどうなっているのですか?」
頭が冷えてきたところで、再び質問を投げかける
他所の組織の人間がこうやってズケズケと物を言うのは本来は悪手なのだろう
だが、相手は他でもない本条大尉だ
こうなってしまっては下手に遠まわしに質問するよりも、この方がずっと効果的だ
そして何より、彼女の知り合いとしても、現状についていち早く知っておきたかった
「詳しくはこちらも把握していない」
「だが、深海棲艦との戦闘があったのは確かだ」
「襲撃を予想される時刻に、向こうからこちらへ打電があった」
大尉は静かに口を開く
その視線はこちらを向くことは無く、机の上に広げられた海図に落とされていた
目の前に広げられたそれは、自分も何度か目にしたことのある鎮守府近海の海図であった
そして、そこにはバッテン模様といくつかのピンが刺されており、ピンの脇には時刻と思わしき数字が書き込まれている
しばらくその図を眺めていると、大尉に促されて右隣の彼女がその意味を説明し始めた
「海図に引かれたラインが当初の想定航路です」
「中央付近にあるバツ印が襲撃予想地点とその時刻」
「そこから続くピンの列が無線標識から送られてきたおおよその位置と時刻です」
465: ◆pOKsi7gf8c 2016/04/17(日) 23:01:35.23 ID:9cSMv6Rc0
彼女の話を横で聞きながら海図に目を落とす
そこには地図の西端から横浜の港まで伸びる実線が引かれており、その中腹に大きなバツ印が付けられている
印から東、横浜方面まではピンの列が三筋に別れて伸び、その内の2つは防衛隊の基地へと、1つは印から南東の方角へと向かっていた
おそらくこの線が船団の航路であり、事件にあった艦娘は横浜まで船団を護衛して鎮守府に返ってくる予定だった
だが、その途中にバツ印で深海棲艦と接触し、戦闘後に1人がはぐれてしまったのだろう
「今夜、作戦に従事していた者は3名」
「2名は第二艦隊所属の駆逐艦型、もう1名が補充人員として従事した秘書艦だ」
大尉が先と続ける
視線はそのままに、意識をその声の方向へ向ける
「襲撃があったのは午後10時ごろ、横須賀の南西50キロ地点とみられる」
「鎮守府に打電において、当方の指揮の必要がないと報告したことから当初の敵は少数であったと考えられる」
「そして、同時刻の30分後に非常事態を通告、正式に私の指揮下となった」
本条大尉はこの事態は自分たちよりも早くに知っていた
日下部が部屋に飛び込んできたのが11時頃であるから、およそ1時間の落差だ
その事実がこちらの胸に鋭く突き刺さる
もっと早く知らせてくれていれば、そんな気持ちが握った拳を強く握らせる
466: ◆pOKsi7gf8c 2016/04/17(日) 23:02:54.42 ID:9cSMv6Rc0
「だが、その時点では現場は混乱を極めた」
「辛うじて把握した内容によると、第五艦隊の1名が重傷、それに刺激されたもう1名が特攻をしかける」
「残る1名が何とか特攻を思い留まられようとしたところに、敵艦の攻撃が直撃」
「この攻撃により無線装置が破損、以降の交信が不能となった」
男は淡々と事実を伝える
表情からは読み取れないが、言葉の節々に適切な指示を下せなかった忸怩の念が籠っているように感じた
「後は貴様の知っての通りだ」
「第五艦隊の2名は護衛目標と共に防衛隊の港に辿り着き」
「もう1名は……」
「囮になったんだ」
本条の発言に被せて、左の女が怒気を孕んだ声を上げる
自分の登場にしばらく声を潜めていたようだが、いい加減に我慢の限界といった感じで机へ身を乗り出した
「こうしている間にも沈んでるかもしれねぇんだ!」
「こんなところで話し合ってる場合じゃないだろッ!?」
彼女の怒りはもっともであった
事実、自分が彼女と同じ立場であったらならば、同じように抗議の声を上げているだろう
それでも、目の前の男は表情を崩さない
467: ◆pOKsi7gf8c 2016/04/17(日) 23:05:52.42 ID:9cSMv6Rc0
「オレ達、いやオレだけでもいい!」
「始末書を書けってなら、後で何枚でも書いてやる」
「だから……頼む! 行かせてくれ」
仲間を失うかもしれない恐怖か、それとも自分への不甲斐なさか、次第に抗議と言うよりは懇願になっていく
もう1人の彼女も思うところがあるのだろうか、ひどく悲しい顔をしてその様子を見つめていた
だが、指揮官と呼ばれる人間は時として冷酷な判断を下さなければならない時もあるのも事実だ
本条大尉にとって今がその時なのだろう、『ダメだ』の一言で彼女の意見を取り下げた
「もういい! オレは勝手に行く」
「アンタの許可なんか知ったことか!」
「無許可の出撃は認められない」
「強行した場合は軍法会議にかけるぞ」
業を煮やした彼女が遂に強行手段へと乗り出す
しかし、それでも本条大尉は怯まない
軍紀に反する行為であることを告げて、軍法会議という単語まで繰り出した
「どうしてだ! どうしてそんなことが言える」
「アンタはアイツとは旧い仲なんだろ!」
「助けたいとは思わねぇのかよ!?」
いくら抗議しても強固な本条の態度に嫌気がさしたのだろう、ついに捨て台詞とも取れる言葉を吐く
その罵倒とも言える言葉からは、彼女の抱える焦りや不安、憤りが読み取れる
だが、今回ばかりは相手が悪い
このカタブツ大尉のことだ、そんな言葉など耳を貸さずに冷静に突っぱねるだろうと思った
468: ◆pOKsi7gf8c 2016/04/17(日) 23:11:26.65 ID:9cSMv6Rc0
しかし、その目論見は大きく外れた
大尉はカッと目を見開くと、椅子が倒れるのもお構いなしに立ち上がり、
「今……何と言った?」
そのまま真っ直ぐに目の前の彼女を見据えて問いかける
口調は静かなものであったが、その裏には激しい怒りが込められていた
隣で聞いているだけでもピリピリとした緊張感が伝わってくる
当の本人は完全に気勢をそがれて、答えかねていた
「何と言ったと聞いている!」
次の瞬間、烈火のごとき怒り本条大尉から噴出した
怒った拍子に叩き付けられた机は振動し、山積みにされていた書類がバサバサと落ちて行った
その様子にもう1人が慌てて止めに入る
しかし、そんなもので今の大尉が止められる筈も無かった
「助けたくないはずがあるか!」
「出来ることなら、今すぐにでもここを飛び出している!」
「だがな……そうしたくても、私には出来ないのだ」
抑えつけていた感情の箍が外れたのだろうか、怒髪天を衝いていた声は次第に誰かに言い聞かせるようなものへ変わっていた
もはや彼に割って入ろうなどいう者はいない
自分も左右の彼女も、ただ黙ってその話に耳を傾けていた
469: ◆pOKsi7gf8c 2016/04/17(日) 23:17:18.91 ID:9cSMv6Rc0
「普段の状況ならば、言われずとも救出に向かっている」
「だが、今はそんなことが出来る状況ではない」
「多くの戦力を先の海戦で失い、残った大半も呉の聯合艦隊へと徴収された」
「今の私には、この鎮守府を守るの事で背一杯なのだ」
ひとつひとつ確かめるように、自らの置かれた状況とその胸中を独白する
様々な要因で拠点を守りきることができる限界の戦力しか保有できていない現状、
戦力になる艦娘に対して、実戦経験が乏しい艦娘が多数いるという鎮守府の状態、
そして、1人を生かすために2人を殺すような作戦を立てることが出来ないとういう指揮官の苦悩
深夜の執務室には、海軍の司令官としての本条大尉と彼女たちの仲間としての本条誠、そのふたつに板挟みにされた1人の人間の姿があった
「ハッ、余計なことまで口走ってしまったな」
話を終えた本条はそうやって自嘲気味に笑うと倒れた椅子を戻しにかかった
今にも部屋を飛び出して行きそうだった彼女は俯いたまま、その場で立ち尽くす
もう1人の方も、何と声を掛けたらいいか分からないといった風に左横で固まっていた
「さて……」
倒れた椅子に座り直した大尉は、曲がっていた制帽のツバを正してこちらを向き直る
反射的にこちらも姿勢を正し、その話を聞く準備を整える
470: ◆pOKsi7gf8c 2016/04/17(日) 23:33:20.66 ID:9cSMv6Rc0
「今、貴様が見たのがここの現状だ」
「もう私から聞き出せるような情報は無いはずだ」
「帰って報告するなり好きにしろ」
「防衛隊の決定について、私がどうこう言える筋合いなど無いからな」
溜まっていたものを全部吐き出して何時もの調子が戻って来たらしい
厄介事を押し付ける新海軍の士官としては満点の返事で、こちらの出撃を容認した
「はっ、承知しました!」
「必ずや敵を撃滅し、行方不明の味方を救出して見せます」
それに応えるように大げさに敬礼すると、味方の救出に加えて敵の撃沈まで宣言してやる
たが、当の大尉は特に大きな反応もせずにずれた帽子を被り直す
そして、澄ました方の艦娘に目くばせすると、机上の資料を1枚こちらへ寄こす
「無線標識の発信記録だ」
「時刻と発信地点が乗っている」
資料についてそうとだけ説明し、後は勝手にと言わんばかりにそっぽを向く
そんな大尉へもう一度敬礼をすると、すぐに踵を返してその場を後にする
もうこれ以上ここへ居る理由は無い
(基地に戻って、一刻も早く出撃だ)
はやる気持ちを抑えつつ足早に部屋を後にした
472: ◆pOKsi7gf8c 2016/04/25(月) 22:27:29.08 ID:FN+t7kdx0
工長室へと戻ると、すぐさま五十嵐中佐に鎮守府での出来事を報告する
すでに日下部とは基地に出戻った時点で別れており、出撃準備に加わるよう命令していた
「そうか……」
全ての報告を終えると中佐はそう呟いた
そして、手持無沙汰に握っていたペンを半回転させ、その端を机にぶつける
室内に軽い音が響くが、すぐに外の喧騒に飲み込まれていく
「で、彼女は生きている?」
そのペン先をこちらへ向けながら、左手を顎の下にして尋ねてくる
迷うことのない鋭い質問
さすがに防衛隊の主要な基地を任されている将官だ
下手な小細工などせずに核心を突いてきた
「正確には分かりません」
当然、現状では彼女の生死は不明だ
このように答えるほかはなかった
しかし、これだけで終わらせるわけには行かない
「……これを見てください」
胸ポケットにしまっていた例の無線標識の記録を差し出す
473: ◆pOKsi7gf8c 2016/04/25(月) 22:28:54.99 ID:FN+t7kdx0
「無線標識の記録か」
片手でそれを受け取った五十嵐は、右手でペンを持ったまま記録の上から目を通す
2、3枚めくって要点を掴んだのか、机上に資料を置いて、こちらに視線を戻す
「最後の発信は30分前」
「お前が向こうに乗り込んだ頃か……」
独り言のように呟やいた五十嵐は、それきり黙り込む
考える時間をくれといった感じに左手で額を抑えている
おそらく、彼も迷っているのだろう
出撃命令を下す者として、その名目を『救出』とするのか『捜索』するのか
生前の見込みがあり、救出の必要性があるなら今すぐにでも出撃して助けなければならない
だが、生存の可能性が限りなく低いならば、夜が明けるのを待つ方が得策である
結局は自分一人で決めることを放棄したのだろう、額から手を下ろしてこちらの顔を見上げる
「……彼女は生きています」
「生きて、我々の助けを待っているのです」
何を言われるでもなく言い放つ
どうせこの状況で問われるとしたら自分の意見だ
ならば、それは本条大尉に話を聞いた時から決まっている
何としても彼女を救出する……それが掛け値なしの本心であった
474: ◆pOKsi7gf8c 2016/04/25(月) 22:29:55.03 ID:FN+t7kdx0
「そこまで言われちゃ悩んでいられんな」
「出撃は予定通り3時間後、船の積み込みが終わり次第だ」
「救出部隊の隊長は……」
そこでいったん話を切ると、脇に置かれていたティーポットからカップに紅茶を注ぐ
自分が居ない間に沸かし直したのであろう、注がれた琥珀色の液体から湯気が立ち上る
立ち込める紅茶の匂いが抑えていたはずの睡魔を刺激し、漫然とその様子を眺める
「頼んだぞ、君嶋特務中尉殿」
「はい……?」
そんな様子を見破られたのか、からかう様な口調で五十嵐中佐が続ける
睡魔にやられた頭が呼ばれた階級の違いに一瞬処理不良を起こすが、すぐに冗談だと理解する
「そんな調子じゃ、船上で眠りこけても知らんぞ」
「技術部の連中に頼んでコーヒーでも貰って来たらどうだ?」
すこし遅れて敬礼と返事を返すと、紅茶をすすり終えた中佐に冗談を返される
その言葉を受け止め、知らずに緩んでいた精神を再び引き締めた
いざ海に出ても睡魔にやられてたんでは意味がない
自分の士官室にも日下部が持ちこんだインスタントのコーヒーがあったはずだ
(あれでも飲んで眠気を飛ばすか)
そんなこと考えていると、不意に後ろの扉がノックされる
475: ◆pOKsi7gf8c 2016/04/25(月) 22:33:04.80 ID:FN+t7kdx0
「失礼します」
五十嵐中佐が招き入れると、作業着姿の宗方兵曹長が現れた
戦闘配備が敷かれておよそ1時間が過ぎようとしているが、技術部は依然として大忙しらしい
彼の身に着ける作業着には汗に滲んで、裾には真新しい油や泥のシミがこびり付いていた
(……戻っていたのか)
顔を合わせた兵曹長はそんなことを言いたげな目でこちらを一瞥するが、直ぐに顔を戻して中佐の前へと向かってくる
近くまで来た宗方に場所を譲り、正面のドアから向かって左側に立つ
机を挟んで五十嵐の目の前までやってきた宗方は、その場所で敬礼する
「積み込みの報告に来ました」
そして、時間が惜しいかのように早速本題に、小脇に抱えていた帳簿を差し出す
「そんなことなら、俺を通さなくてもいいぞ」
「お前なら好きにやらせても問題ないだろうからな」
「こいつを見たって、おかしなところは見つからない」
渡された帳簿をパラパラとめくると、中佐は元の持ち主に突き返す
しかし、兵曹長はそれを受け取ろうとしない
そんな態度の宗方に違和感を覚えたのだろう、五十嵐も何があったのか尋ねる
476: ◆pOKsi7gf8c 2016/04/25(月) 22:41:31.61 ID:FN+t7kdx0
「妖精さんが持ち込んできた例のアレですが……」
アレというのは、例の本部の命令で試験搭載する誘導ミサイルの事だろう
基地に運び込まれたときも技術部で騒ぎになったらしいが、また何か起こったのだろうか
状況が状況だけだけに、この土壇場でなにか起こるのは可能な限り避けたい
「言ってみろ」
中佐も嫌な気配を感じたのだろう、低い声で宗方に先を促す
「先方から送られてきたアレ、取りあえず奥の倉庫に突っ込んでいたんですが」
「どうにもあそこの搬出装置が不良を起こしたらしく」
「まだミサイルを搬出できないという報告が上がってるんです」
「どうにか、倉庫から出せれば牽引車なり何なりで引っ張っていけますが……」
宗方が持って来たのは予想通り、良い報告ではなかった
施設不良でミサイルを搬出できないという話だったが、基地の整備が疎かになった結果がこんなところに出るとは
このまま行けば確実に積み込みが遅れ、結果的に出撃も遅くなってしまう
そうなってしまえば……考えたくもない
「とにかく人手を寄こして下さい」
「人力でも荷台を押して入り口まで持っていければ、クレーン車で積み込める」
「クレーン操作はともかく、荷台の押し出しができるだけの頭数はウチじゃあ用意できない」
だが、望みが完全に断たれたと言う訳ではなかった
兵曹長の見込みでは、人の力で荷台を押し出せば搬出ができるらしい
477: ◆pOKsi7gf8c 2016/04/25(月) 23:03:14.39 ID:FN+t7kdx0
「自分が行きます」
気づけば、一歩前に踏み出してそう言っていた
頭で考えるよりも早く体が勝手に行動を開始していたようだ
突然の申し出に2人がこちらに振り向くが、お構いなしに先を続ける
「兵科の人間と一緒に搬出をやります」
「彼らの力を借りれば出来るはずです」
そんな自分の出方に予想は付いていたのだろうか、
「やっぱり、そう言い出すよな」
机の向こうの中佐は、特に驚いた顔もせずにその場で隊員を招集する放送を始めた
その様子を見つめながら、黙って目の前の上官に敬礼をする
それが今の自分にできる最大限の感謝の印であった
「俺はクレーンの方をどうにかする」
「人手の確保はお前に任せた」
すると、今度は後ろから宗方の声がかかる
反射的に振り向くが、既に部屋を後にしようとする背中しか見えなかった
「行かなくていいのか? 時間は待ってくれないぞ」
後手に回った自分をからかっているのだろう、冗談が混じり口調で中佐が話しかけてくる
確かに許された時間はあまり多くは無い
すぐさま居住まいを正すと、再び敬礼をして足早に部屋を後にした
478: ◆pOKsi7gf8c 2016/04/25(月) 23:24:46.77 ID:FN+t7kdx0
(……冷えてきたな)
不意に、黙々と動かしていた足を止める
汗で湿っていた体はすっかりと乾き、大きく開いたシャツの胸元から入り込む夜風が体の熱を奪っていく
ミサイルの搬出を無事に終えてから数十分、ひとり真夜中の基地を歩いてきた
他の兵科の面々は休息のために宿舎へと帰っていったが どうにもすぐに休む気になれずにこんなことをしていた
気が付けば、港に併設された倉庫群を抜けて岸壁の終わりというところまで来ていた
ここまで来ると波止場の喧騒は嘘のように静まり、さざ波と風のうなりだけが時折り静寂を破るのみだった
(出撃まであと2時間か……)
護岸の向こうに広がる海は黒々として底が知れない
そんな海を眺めていると、今まで頼りにしてきたガス灯の光がひどく弱々しいものに感じられる
同時に、この海の向こうで消息を絶った彼女の顔がまぶたに浮かび、再び嫌な想像が頭を支配する
軽く頭を振って嫌な考えを吹き飛ばす
(考え過ぎだな。もう休んで出撃に備えよう)
そう自分に言い聞かせながら、踵を返して波止場の方を向く
足早に宿舎へ戻ろうと片足を踏み出そうとしたとき、波音の合間に誰かの足音が近づいてくるのが聞こえた
こんな時間にこんな場所まで来るに人間を不審に思いながら、その人物がやってくるのをを待つ
そんなものを待っているよりさっさと宿舎へ戻るべきなのは分かっているが、何故だが動けずにその場で留まっていた
しばらくすると、黄白色のガス灯に照らされた短靴が目に入り、足音の主が姿を現した
479: ◆pOKsi7gf8c 2016/04/25(月) 23:26:08.94 ID:FN+t7kdx0
「本条大尉……!」
「貴様……こんなところに」
全く想定していなかった出会いに戸惑い、お互いに言葉を失くす
目の前の男は最初こそ目を見開いて驚きを示していたが、既にその表情を隠してしまっている
「どうして、ここに……」
解しがたい状況に何とか言葉を捻りだし、固まっている大尉へ質問を投げかける
『お前こそどうしたんだ』という顔をしている本条だが、おもむろに口を開く
「部下の様子を見に来ただけだ」
「ここで保護されているという話だったからな」
どうやら、今回の騒動に巻き込まれた艦娘の様子を見に来たらしい
負傷した彼女達は一時的に防衛隊で保護されたまま、その処遇を決めかねている状態であった
その状況を確かめるために鎮守府の士官である大尉がここまでやって来たということだろう
だが、司令部の方は良いのだろうか、こんな状況で司令官が部屋の外すのは……
「司令部の心配なら杞憂だ」
「向こうは彼女たちに任せている」
480: ◆pOKsi7gf8c 2016/04/25(月) 23:27:25.34 ID:FN+t7kdx0
「頭に血が上りやすいきらいがあるが、あれで場数を踏んでいる」
「仮に動きがあったとしても無線で十分に対処可能だ」
無意識に表情へ出してしまったのだろうか、こちらを制する口調で釘を刺される
反論してやりたい気持ちもあったが、水掛け論になりかねないので口をつぐむ
大尉としては今の自分にできることは他に無いと判断したのだろう、司令部で会った時の張りつめたような緊張感は無くなっていた
「しかし……何故、こんな場所に?」
今度は純粋に気になったことをぶつけてみた
防衛隊で保護している艦娘の様子を見に来たとしても、こんな基地の外れまで来る必要はないはずだ
仮に来る用事があったとしても、その理由が知りたかった
大尉もこの質問をされることは予想がついていたのだろう、苦い顔をして海の方へ目をやった
つられて同じ方向へ顔を向けると、横から大尉の声が耳に入ってきた
「さぁな……自分でも良く分からん」
「考え事をしていたら足が勝手に動いて」
「気が付けば、貴様の前に居たということだ」
そこまで話して、大尉は岸壁の方へと歩き出す
岸壁まであと一歩というところで立ち止まり、黒く塗りつぶされた水平線を見据えた
後ろ手に組んで海を見つめる背中を前に、数秒の沈黙が流れる
481: ◆pOKsi7gf8c 2016/04/25(月) 23:29:57.59 ID:FN+t7kdx0
「君嶋特務少尉……」
声を掛けるべきかと迷っていると、不意に名前を呼ばれる
とっさの出来事に返事をする機会を失い、言葉を失う
軍人らしくピンと張った背中を見せながら大尉は続ける
「お前は、どう思う?」
「この……私の決断を」
質問の意味が解しかけて、口ごもる
大尉の言う『決断』とはいったい何の事を指しているのだろう
司令官として鎮守府での救出を諦めたことだろうか、それとも格下に扱っていた防衛隊に全てを委ねたことだろうか
その真意を測りかねて、もう一度聞き返した
「そうか……貴様には分からんか」
「まぁ、それで良いのかも知れないな」
そう呟くと、後ろ手に回していた右手で軍帽のツバを摘んで目深にかぶる
そして、再び数秒ほどの沈黙が流れた後に、大尉が口を開く
『また何か聞かれるのか』と身構えるが、
「アイツは……私が訓練課程を終えてから」
「初めて教育した部下の1人だった」
海を見つめる男は、確かめるような口調で独白を始めた
482: ◆pOKsi7gf8c 2016/04/25(月) 23:33:33.20 ID:FN+t7kdx0
「私の初任務は入隊直後の彼女たちの教育」
「お互いに右も左も分からない未熟者同士で……」
「今にしてみれば、子供のままごとの方がまだマシだったな」
はぁ、とため息を付いて、帽子を掴んでいた右手を戻す
背筋を真っ直ぐと伸ばしているはずの背中は、何処か物悲しく曲がって見えた
「指揮官とは残酷な生き物だな」
「ただひとつの勝利、生還のために、その他を切り捨てる」
「そうはならないの誓ったはずなのに……皮肉なものだ」
「その癖、私はただの一将校にすらなり切れていない」
「犠牲を怖れるがゆえに、貴様が来るまで防衛隊の協力を拒んだのだから」
自嘲気味に呟く目の前の男に、普段の自信と矜持にあふれた姿は無かった
司令部で見せた苦悩の表情と目の前で誰となく独白する背中、それが本条誠という人間の本当の姿なのかもしれない
誰しも生きていく上で何かしらの仮面を被っている
本条大尉も例外ではなく、軍隊という官僚組織の歯車として軍人の仮面を被っているのだろう
その証拠に、今の大尉は他人に毒を吐くどころか、自分に回り切った毒を見せつけるような話しぶりだった
「本当のところ……私はお前が羨ましかったのかもしれない」
「好き勝手なことを言いながら、それを実行に移せるお前が」
「でも、それは……」
「例え1人の力でなかったとしても」
「今の……この現実が全てだ」
「お前は彼女を助けるために出撃し、私は何もできずにここにいる」
483: ◆pOKsi7gf8c 2016/04/25(月) 23:41:20.78 ID:FN+t7kdx0
あまりに自虐的な物言いをする本条をどう扱っていいか分からずに、言葉を失う
いつもの大尉が仮面をかぶった姿だったとしても、自分にはそれを剝いだ彼をどうして良いか分からない
しばらく押し黙っていると、軽く咳払いして大尉から口を開く
「また余計な事を言ってしまったな」
組んでいた手をほどいて、やれやれといった具合に両手をあげる
口調はいつもの調子に戻っていたが、まとっている空気は変わっていなかった
「……もう帰れ」
「貴様にはまだ仕事が残っているだろう」
こちらの反論は受け付けないといった調子で続ける
これ以上自分がここに居ない方が彼のためにも良いだろう
宿舎の方へ向き直って本条の後ろを通り過ぎようとしたとき、
「頼んだぞ、君嶋」
ささやくようにこぼした声が聞こえた
その声に一瞬だけ足を止め、振り返らずにその場を後にした
(言われなくても、この手で助けだしてみせるさ)
そう心の中で呟きながら、まばらに立ち並ぶガス灯を目印にして宿舎への道を急いだ
487: ◆pOKsi7gf8c 2016/05/01(日) 23:52:01.17 ID:amZw1Cmy0
出港してから1時間、時刻は4時を回ったところであった
最後に無線標識が検知された地点を中心に捜索を続けているが、めぼしい成果はあげられていない
彼女が消息を絶ってから既に6時間近くが経過し、乗組員も焦りを隠せなくなってきている
自分も例に違わず、艦橋を任せて甲板まで降りてきていた
「……どうだ?」
いつかと同じように、隣には双眼鏡をのぞいた仙田の姿があった
異なるのは、彼が手摺りを握る力は焦燥感からくるもので、その眼前に広がるのは深い藍色に塗りつぶされた海のみであることだった
問いかけに応じないことから、おそらく何も発見できていないのだろう
甲板には他にも双眼鏡をのぞく隊員の姿があるが、誰も声を上げる気配は無かった
(まだなのか……)
気が付けば、こぶしを強く握りこんでいた
大見得切って出て来たくせに何も見つけらないのか
あの時と同じうように自分は誰も助けることが出来ないのか
何もできない自分に憤り、奥歯を噛みしめていると、不意に鈍い振動を感じる
原因を探ると、ポケットに入れていた無線呼び出し器が受信のランプを点灯させて震えていた
488: ◆pOKsi7gf8c 2016/05/01(日) 23:54:41.19 ID:amZw1Cmy0
「君嶋だ」
すぐさま受令機のボタンを押して応答する
『少尉、今すぐブリッジに繋いでください!』
しかし、焦ったような声がしたと思ったらすぐに切れてしまった
かけ直そうにもこの端末では折り返すこともできない
言われた通りに、辺りを見回して船内通信用の通信ボックスを探す
「どうかしました?」
その姿を不審に感じたのだろう、双眼鏡を覗いたまま仙田が尋ねてくる
事情を説明すると近くの通信ボックスを顎で示して、再び捜索へと戻った
そんな仙田に軽く礼を言い、箱の中の受話器を取ると艦橋へと繋げる
『君嶋少尉ですか?』
2、3秒の取次ぎ時間の後、観測手の大久保が電話口に出た
『ああ』と答えて、何があったのかを問いかける
『レーダーに反応が有りました』
『南南西に約10km、本艦から向かって1時の方角です』
489: ◆pOKsi7gf8c 2016/05/02(月) 00:01:27.54 ID:w0GFhXIn0
簡潔な返答であったが、押し殺したような声から大久保の興奮が伝わってくる
それに釣られてこちらの胸も高鳴る
成果らしい成果を上げられていなかった反動もあり、興奮もひとしおであった
だが、まだそうと決めつけるには早計だ
「こちらで確認を取ってみる」
「少しの間、外すぞ」
反応のあった場所を肉眼でも確かめるために通信を繋げたまま保留にする
手に取った受話器を耳から外して、隣の仙田に話しかけた
「……何ですか?」
捜索を邪魔された仙田はぶっきらぼうに答える
未だに目標を発見できていない苛立ちからか、その言葉尻には不快感が現れていた
「南南西に10キロだ」
そんな様子を余所に、先ほどの方位と距離を伝える
突然具体的な情報を与えられた仙田は、ハッとこちらの方を振り返える
しかし、それには応えずに黙って海の方へ眼をやった
490: ◆pOKsi7gf8c 2016/05/02(月) 00:08:59.87 ID:w0GFhXIn0
「本当にそうなのか?」
双眼鏡を目にして海を捜索し始めた仙田が口を開く
その声は期待が半分、不安が半分といった調子だった
「詳しくは分からない」
「とにかく、何か見つけたら教えてくれ」
『そうだ』といってやりたいところだったが、情報が足りなさすぎる
とにかく調べるように促し、肩口に据えていた受話器を手に取って通信を再開する
隣の仙田は既に彼女の捜索へと戻っていた
「それで……確証はあるのか?」
電話口で待たせたことを詫び、一番気になっていたことを尋ねた
『ええ……』
数秒おいた肯定に続いて根拠を話し始める
『付近を航行する海軍の艦艇及び艦娘の情報は無し』
『運輸省に問い合わせても、この時間にこの海域を運行する一般商船の情報はありませんでした』
491: ◆pOKsi7gf8c 2016/05/02(月) 00:09:36.61 ID:w0GFhXIn0
『後は届出を出していない漁船ですが……』
その可能性は限りなくゼロに近い、といった風に言葉を切る
そう考えるのも当然だ
あの頃とは違って、内地の港といえども敵の襲撃に備えなければならない時代だ
護衛も無しに夜目の効かない夜に航海する船があるとしたら、それは余程の命知らずだろう
『それに加えて、対象は広域探知に引っかかりませんでした』
『広域探索でも海上から1.5メートルの高さまでは十分に検知できる性能を持っています』
『それが、10kmに接近するまで感知できなかったとすると……』
「負傷した艦娘」
大久保が続けるであろう言葉を口に出す
もちろん、海上に浮かぶ漂流物か救命ボートのような小型舟艇の可能性もあった
だが、そんなものは実際にこの目で見てみなければ分からない
だとすれば、負傷して沈みかけている彼女だとしても罰は当たらないはずだ
艦橋で監視を続けるように命令して、通信を切ろうとしたとき、
「おい! 光ったぞ」
仙田が興奮した声で呼びかけてくる
492: ◆pOKsi7gf8c 2016/05/02(月) 00:13:54.58 ID:w0GFhXIn0
一言ことわりを入れると、通信もそのままに仙田に駆け寄った
「ライトの光だ!」
「光ったり消えたりして、合図を返してる」
こちらの気配を背中で感じたのか、双眼鏡で見えている光景を話し始める
「合図は分かるか?」
「多分、モールス信号だ」
規則的に明滅する光の意味を捉えた仙田が返事を返す
すぐさま解読するように言いつけて、握ったまま放置していた受話器を取る
「目標を発見した」
「今すぐ小林に取り次いで、野田に合図の照明弾を……」
「イマスグ ニゲロ」
そこまで言いかけたとき、ブツブツと信号の解読をしていた仙田が声を上げた
いきなりの意味の分からない言葉に、そのあとの言葉を失う
「何を言っている?」
大久保が命令を聞き返してくるが、構わず確認を急ぐ
493: ◆pOKsi7gf8c 2016/05/02(月) 00:20:33.34 ID:w0GFhXIn0
「今すぐ逃げろ」
「……彼女はそう言ってる」
逃げろ……とはどういうことだ
彼女がこちらの姿を確認して助けを求めているのなら、自分たちを遠ざける理由が分からない
なら、仙田が解読を間違えたのか?
しかし、こいつも水兵の端くれ、簡単なモールス信号を間違えるとは考えにくい
それに艦娘に対して人並み外れた執着心を持つ男だ、彼女が発した信号を読み違えることは無いだろう
だとすれば、彼女が明確な意思をもって自分たちに『逃げろ』と言っている
そう考えるとすれば、導き出される答えは……
『少尉! 返答をお願いします』
『野田上等に照明弾の手配をさせますが、大丈夫ですか』
受話器から流れる声が思考を中断させる
先ほどの命令に従ったのだろう、小林が電話口に立っていた
もし、自分の仮定が正しいとするならば、このまま了承するわけには行かない
野田に取り次ごうとしている小林を制止して、もう一度大久保と代わるように伝える
『変わりました、大久保です』
ブチッと回線が切り替わるノイズが流れ、大久保の声が聞こえてくる
494: ◆pOKsi7gf8c 2016/05/02(月) 00:21:55.07 ID:w0GFhXIn0
「大久保、今すぐ広域探索に切り替えろ」
『しかし……目標は』
「いいから、早く!」
こちらの怒鳴り声に動揺したのか、大久保の戸惑った声が通信機を通じて送られてくる
だが、それについて詳しく説明する暇はない
今は彼女の伝えた言葉の意味を確かめることが先決だった
『……レーダーを切り替えました』
『捜索範囲に反応は……!』
そこまで報告し、大久保の声が止まる
その反応から大方の予想は付いたが、結果を聞くまでは安易に信じる訳には行かない
固まった大久保に向かって、何があったのかを問いただす
『と、東南東に30km』
『高速で移動する物体があります』
少し震えた声の大久保がレーダーに示された情報を伝える
『少尉、これは……』
何が起こっているか感づいたのだろう、緊張と興奮がない交ぜになった声で大久保が尋ねてくる
495: ◆pOKsi7gf8c 2016/05/02(月) 00:23:38.12 ID:w0GFhXIn0
「俺達の敵……深海棲艦だ」
その言葉は自然と口から出ていた
自分でも驚くほど静かで、落ち着いた口調であった
その単語に、電話口の大久保は沈黙に陥り、近くにいた仙田もこちらの方を振り向く
空いている左手で双眼鏡から目を離した仙田を制しながら、大久保との通信を続ける
「敵の進路と速度は?」
『北西方向に約40ノット』
『ほぼ真っ直ぐに救出目標まで向かっています』
彼女の合図と敵の進路から、敵が彼女を探していることは容易に想像が付く
先ほどの彼女が放った光で居場所が割れてしまったのだろうか、敵は脇目も振らずに彼女の元まで向かっている
それだけならば敵が辿り着くよりも先に彼女を助け出してしてしまえば良いが、
「接敵までの時間は?」
『およそ25分』
『本艦は12分で到着しますが、救出作業を考えると……』
「接敵は……不可避か」
現実は厳しいものであった
496: ◆pOKsi7gf8c 2016/05/02(月) 00:25:57.20 ID:w0GFhXIn0
全速力で彼女の元まで向かっても、救出作業中に敵艦と遭遇するのは必至
敵の砲撃を喰らって共倒れすることも十分に考えられた
無傷で助ける可能性が残っているとすれば、敵が追撃を諦めるか、彼女が自力で敵の到達海域から離脱することだが、
獲物を見つけた敵が進路を変更することもなければ、負傷した彼女が自走することも考えられない
つまりは、彼女を救出するにはあの敵と戦う他ないということだった
「全艦消灯だ」
「必要最低限まで電源を落とすように伝えろ」
考えあぐねた結果、ひとつの答えを出す
現状はほぼ最悪に近いが、唯一こちらに有利に働くことがあった
それは、敵が自分たちに一切の興味を示していない事だった
こちらを発見出来ていないのか、それとも優先目標に設定していないのかは不明だったが、不意打ちをする機会はある
その一点を付けば、速度と火力を兼ね備えた敵であっても勝てるはず
『……分かりました』
『それで、少尉』
指示を受けた大久保は確かめるようにこちらの名を呼んだ
497: ◆pOKsi7gf8c 2016/05/02(月) 00:29:35.73 ID:w0GFhXIn0
「ああ、今すぐ行く」
その『艦橋に戻ってこい』という合図に返事をして通信を切った
「どうだったんだ?」
受話器を元に戻すと仙田が声をかけてきた
すっかりこちらの様子に気を取られていたらしい、双眼鏡を外して自分の方へ向き直っていた
隠し立てすることでもない、簡単に今の状態を説明してやった
「……戦うのか?」
状況を飲み込めたのか、堅い表情で聞き返してくる
その質問に答えずにいると、警告の放送と共に船内の明かりが消えた
拍子を抜かれたように辺りを見回している仙田に向かって口を開く
「彼女は必ず助ける」
「そのために、俺は出来ることは全てするつもりだ」
その答えを待たずに踵を返して艦橋と向かう
彼女が接敵するまで25分、それまでに敵にどう対抗するか考えなければならない
現段階で得られた情報を整理しながら、舷梯を駆け上がった
500: ◆pOKsi7gf8c 2016/05/09(月) 23:00:52.08 ID:AzHtbRrs0
艦橋への扉を開けると、操舵をしている井上を除いた面々がこちらの方を振り向く
明かりの消えた艦橋は計器から放たれるモニターのバックライトと窓から降り注ぐ月明かりに淡く照らされていた
事態とは裏腹に静寂を保っている艦橋へ足を踏み入れ、指揮官の定位置まで移動する
「少尉、進路は」
配置に付くと、井上が背中越しに指示を仰いでくる
だが、そうすぐには決められることではない
『今から決めるところだ』とひとまず保留にし、
「大久保、敵の進路変更は?」
観測手の大久保に話しかける
「有りません」
「先ほどの航路を40ノット付近の速い速度で航行中です」
名前を呼ばれた大久保は、レーダーサイトの光に照らさた顔をこちらへ向けながら返事を返す
消灯して向こうから姿が見えにくくなったにもかかわず、敵は何の反応も見せない
どうやら、敵は本気で自分たちについては気にも留めていないらしい
「彼女に変化は?」
続けて、救出目標である艦娘の状態を確認する
501: ◆pOKsi7gf8c 2016/05/09(月) 23:01:56.35 ID:AzHtbRrs0
「いえ、目立った行動は見られません」
レーダーサイトに目を落とした大久保は何も変わっていないことを告げるが、
「少尉、甲板からの報告です」
通信手の小林が横から入電の報を知らせてくる
甲板から連絡ということは何かしらの動きがあったに違いない
直ぐに小林の方を向き、先を続けるように促した
「対象からの明かりが消えたそうです」
「こちらの消灯に反応して合図を止めた、と推測されています」
その報を聞いて、もう一度大久保に敵の進路を確認させる
だが、敵は相変わらず直進を続けており、速度も緩めてはいない
どうやら、向こうは完全に彼女との位置を把握しており、何があっても進路変更をするつもりは無いらしい
「このまま直進するとして」
「会敵までどれくらいだ?」
今度は自分たちが敵の想定航路に到達するまで時間を尋ねる
敵がこちらの読み通りに動くならば、この予測はそれなりの精度を持っているはずだ
502: ◆pOKsi7gf8c 2016/05/09(月) 23:09:19.48 ID:AzHtbRrs0
「敵艦が直進を続けることを想定すると……」
「およそ7分20秒で航路上に到達」
「その後、11分40秒で会敵します」
大久保から与えられた情報を元に、頭の中で今の状況を整理する
戦闘をするとして、向こうの速度から逆算すると、航路上に先回りしても15キロメートル程度の余裕は見込める
また、この時間はまだ空も白んでおらず、視認性は高くない
おまけにこの艦はステルス迷彩が施されているため、通常の状態でも発見されにくくなっている
となると、索敵を視覚に大きく依存している深海棲艦は15km先に浮かぶ無灯火の艦艇を捉えることはできないはずだ
したがって、遠方から敵の行動を一方的に把握できるレーダーなどの広域管制設備は奴らにとっては致命的な凶器となり得る
つまり、自分たちが取るべき行動は……
「不意打ちからの一斉攻撃」
それこそが最も勝率が高く、彼女の救出が現実的になるものだろう
「不意打ち……ですか」
こちらの呟きを聞いていたのだろうか、はっきりしない声で大久保が聞き返してくる
『そんなことができるのか』と疑問に感じているのは明白であった
503: ◆pOKsi7gf8c 2016/05/09(月) 23:10:56.76 ID:AzHtbRrs0
「彼女を助けるにはそれしかない」
その疑念を払拭するように強い口調で言い切る
もちろん、この作戦に絶対の自信があるわけではない
細かいことを考えれば、穴だらけでどうしようもないものに見えるだろう
だが、ここで実行に移せなければ、自分たちがここまでやってきた意味は無い
「井上、このまま直進だ」
「敵の航路で待ち伏せするぞ」
自分自身の迷いを吹き飛ばすように真っ直ぐ前を振り向く
正面の窓からは、いまだ深い藍色に染まった空と黒くうねる波が見える
『了解』と返事を返して舵輪を握る井上の背中も視界に入った
「小林、全船通信だ」
そのまま小林に通信の準備をさせ、手元の通信機へと手を伸ばす
通信機のマイクを手に取ると、小林の声と共に手元のランプが点灯した
スピーカーから流れるノイズが通信がつながったことを証明する
「艦橋の君嶋だ」
通信が繋がったことを確認し、自分の名を名乗る
504: ◆pOKsi7gf8c 2016/05/09(月) 23:13:02.29 ID:AzHtbRrs0
続いて、現在の救出任務の状況をかいつまんで話す
「既に知っている者もいるだろうが」
「本艦の南南西、約10kmに救出目標らしき反応を察知した」
「まだ詳細は確認していないが、目標である可能性は極めて高い」
少し遅れてスピーカーから流れ出す自分の声を聞きながら、それが終わるまでしばし待つ
待ちに待った成果に船員たちが色めき立つ光景が目に浮かぶが、
「だが、ひとつ……大きな障害が見つかった」
それを抑え込むように話を続ける
全貌を知っている艦橋の面々も息を飲み、こちらを見つめている
「東南東に30km」
「高速で彼女へと接近する反応があった」
そこまで話して一度言葉を切る
言葉にしなくても皆分かっているのだろう、先ほどまでは無かった緊張感が辺りに張り詰める
505: ◆pOKsi7gf8c 2016/05/09(月) 23:17:49.38 ID:AzHtbRrs0
「これを敵深海棲艦と断定」
「任務遂行に交戦は避けられないと判断した」
しかし、それを敢えて言葉にする
戦闘単位としての目標を明確にするとともに、自分の覚悟を確かめるために
胸に垂れ込めた不安を払うように深く呼吸をした
肺に溜めた息を吐き出すと、戦闘の開始を宣言する
「これより本艦は敵深海棲艦との戦闘に突入する」
「敵艦の想定航路へと侵入し、不意打ちからの一斉攻撃で撃退する」
同時に作戦を説明し、今後の行動指針とする
先ほど大久保に示したように自信を覗かせるような言い方に努めた
「総員、第一種戦闘配備」
最後は一息に言い切ったが、それに反して胸中はザワついている
本当に皆が自分に付いてきてくれるのだろうか、今まで勝ったことのない相手と勝負できるかだろうかなど
腹を括ったはずなのに色々な不安が急に押し寄せてくる
通信機越しでは皆の反応が分からないのももどかしい
その不安をかき消すように、手元の通信機のボタンを押して回線を切った
506: ◆pOKsi7gf8c 2016/05/09(月) 23:30:03.26 ID:AzHtbRrs0
「少尉、後部砲塔から入電です」
一仕事終えたのも束の間に、小林から通信の知らせを受け取る
後部砲塔といえば、例のミサイルを発射する発射装置を備え付けている場所だ
兵科の人間には手に負える代物ではなかったので、応援部隊の宗方と森がこの場所に乗船している
取りあえず、小林に取り次ぐように伝え、手元の通信機を取った
『早速、敵のお出ましだな』
数秒してスピーカーから宗方兵曹長の声が流れてくる
あの男の事だから、深海棲艦と交戦する判断に文句を付けにでもきたのかと、一瞬身構えるが
流れてくる声の調子から感じるに、別段抗議をするという様子はない様だ
では、『一体何をしに来たんだ?』と思索を巡らすが、
『何の用だと思っているかもしれんが』
『実戦の前に、こいつの注意事項を確認しておこうと思ってな』
こちらの考えぐらい分かるいった具合に、兵曹長が先を続ける
話しぶりからして、ミサイルの格納庫まで降りているのだろうか
すぐ近くにあるモノを指さすような調子で話をしてきた
『一応、前に軽くは話しておいたが』
『実戦となったらまた勝手が違うだろ?』
どうやら、例のミサイルの実戦使用についてアドバイスをするために繋いだようだ
前にも簡単な説明は受けていたが、今の今まで頭の中から抜け落ちていたことも考えると、兵曹長の判断はありがたかった
敵との戦闘を決断した興奮を落ち着かせるように先の話に耳を傾ける
507: ◆pOKsi7gf8c 2016/05/09(月) 23:33:29.09 ID:AzHtbRrs0
『まず、一番大事な装弾数だが』
『装填しているミサイルは1番から6番の、全部で6基だ』
そっちでも把握するようしておけよ、と念を押される
勿論、そんなことは言われるまでもない
弾薬の積み込みをやっていた時から残弾の管理は嫌というほどやっていた
戦闘継続の可否を決める重要な事項ゆえに、しっかりと頭に叩き込む
『後、ミサイルの誘導についてだが』
『半自動の指令誘導式だから、オペレーターが1人必要になる』
「オペレーター?」
そんな話は聞いていない、と聞き返す
説明では誘導ミサイとは発射したら勝手に飛ぶようなことを言っていたが、それは間違いだったのか
『ああ、勘違いするな」
『ミサイル自体は勝手に飛んでいく』
こちらの疑問を察したのか、宗方が回答をする
『誘導方式の関係上、ある程度は照準器でミサイルを追う必要がある』
『それでオペレーターがいるってわけだ』
『おかげで射程も短くなっているが、こればかりはどうしようもないな』
508: ◆pOKsi7gf8c 2016/05/09(月) 23:39:38.98 ID:AzHtbRrs0
オペレーターの役割は分かったが、それが誰か分からなければどうしようもない
早速、その正体について尋ねてみる
『直接話したほうが早い』
しかし、兵曹長はそう返事をしたきり、反応が無くなる
通信相手の宗方が居なくなった代わりに、スピーカーからは周囲の雑音が流れてくる
想定外の事態に困惑し、通信機越しに何度か呼びかけるが返答は無い
そうこうして、しばらく待っていると、
『どうも、代わりました』
突然、別の声が流れてきた
この何処か偏屈な響きのある声には聞き覚えがある
何時ぞやか数時間にわたって船のウンチクを聞かされた……
「……森上等?」
『はい、森です』
名前を呼んだはいいが、先の言葉が思いつかない
「お前が……やるのか」
『まぁ、兵長や他の部員が工場の関係で現場を離れらなくて』
『エンジン関係もついでに見れる自分が指名されたんです』
取りあえず聞いてみたはいいが、他に聞くことが無くなってしまった
そもそも兵科の人間がミサイルを扱うことが出来なかったため技術部の2人が乗船したのだ
そして、兵曹長が自分でやらないとすれば、残る森上等になるのは当然のことだ
509: ◆pOKsi7gf8c 2016/05/09(月) 23:46:16.57 ID:AzHtbRrs0
『ミサイルを撃つときは自分に言ってください』
『自信はありませんが、絶対に当てて見せます』
意思表明か何か分からないが、何時もの調子で森は自分の心意気を話す
相変わらずの態度に勇気づけられ、気負っていた気持ちが少しだけ軽くなった気がした
それに礼を言うと、通信機の向こうの森は不思議そうな声で答えた
『それじゃあ僕もミサイルの準備とかしないといけないんで』
『何か知りたいことがあったらまた連絡してください』
今思えば、兵曹長は森について話したかったのかもしれない
装弾数などは実戦の中でも伝えようと思えば伝えられる
それよりは森の件を話して、動揺しないような配慮に気を配ったのだろう
1人で納得すると、小林に全部砲塔に入電するように指示する
『はい、こちら砲塔』
取り次いでもらった電話口からは聞きなれた部下の声が返ってくる
戦闘前の緊張に感化されているのか、何時もの日下部らしくない固い返事だった
だが、それについて言及している時間はない
「日下部、聞きたいことがある」
すぐさま本題を切り出し、『何ですか』という言葉が返ってくる前に、
「標的へ確実に命中させれる自身があるのは、何キロまでだ?」
こちらの質問を投げかけた
510: ◆pOKsi7gf8c 2016/05/09(月) 23:52:03.26 ID:AzHtbRrs0
質問の意図をつかみかねたのか、一瞬黙って日下部は聞き返してくる
だが、それに構わずに答えを迫った
「3、いや……このシステムなら」
「でも練習だと……」
問いを受けた日下部は、ひどく悩んで途中で言葉を濁す
やはり『確実に』と問われると萎縮してしまうようだった
だが、どうにか最後には『6キロ』という明確な答えを出してもらった
初めは答えが出ないんじゃないかと不安になったが、取りあえずその答えに満足し、軽く礼を言って通信を切る
結局のところ、日下部は意図を理解できていないのかもしれない
しかし、それでも答えは得られた
目の前で舵輪を握る井上に指示を出す
「井上、6キロだ」
「敵が6キロに近づくまで航路から動くな」
明かりの消えた艦橋に自分の声が響く
命令を受けた井上は『了解』と応対し、他の船員は懸念を振り払うかのように各々の仕事に取りかかっていた
五十嵐中佐へ交戦と彼女の発見を告げる電報を打ちながら、自分たちの浮かぶ海に目をやる
今までの喧騒が嘘のように、薄明が近づく海原は寝静まったように凪いでいる
その静寂は何かの拍子に荒波へと変わってしまう危うさを持っているように感じた
512: ◆pOKsi7gf8c 2016/05/22(日) 22:03:14.53 ID:a8UQq4dj0
戦闘配備の命令を下してから、十数分
自分たちを乗せた船は敵の通過が想定される航路上で静止していた
左舷に見える東の空は深い藍色から濃いブルーへと変わっていた
あと1時間もすれば空も白み始め、垂れ込めていた夜の帳も上がるだろう
「……夜明けか」
前方で舵輪を握る井上が独り言のように呟くのを耳にする
思えば、襲撃の一報を聞いてから夜を徹しての作業であった
果たしてこのまま夜明けを迎えられるかは分からない
しかし、もう引き返すわけには行かない
「大久保、敵との距離は」
芽生えた不安を噴き飛ばすように彼我の距離を確認する
「現在7.5キロ」
「なおも接近中です」
問いかけられた大久保はじっとレーダーサイトを睨みつけながら答えた
その答えに『そうか』と返し、正面に広がる海を見据える
513: ◆pOKsi7gf8c 2016/05/22(日) 22:13:33.10 ID:a8UQq4dj0
奴が航路を変更しなければ真正面にその姿を捉える事ができるはずだが、目の前には黒と藍の一色でそれ以外の物は確認できない
辺りが薄暗く、投光器も使えない状態で一般船舶よりはるかに小さな対象を見つけることは至難の技なのは分かっている
だが、何としても相手よりも先に敵を発見し、先制攻撃を喰らわせなければならない
一向に変化の見られない現状に業を煮やして日下部に確認を取ってみるも、
『自分も確認できていません』
当然ながら彼の回答は予想通りのものであった
それでも、待っていれば嫌でも敵の姿を拝むことになる
現状では想定した状況どおりに事が進んでいるからどうにかなると、自分に言い聞かせる
未だに敵を目視で発見できていないことは不安材料だが、まだ猶予はある
「通信はこのままにしておく」
「何かあったら、連絡を寄こしてくれ」
日下部にそう伝えて、通信機を下ろして小林の方を確認する
しかし、今の発言で察したらしい小林は合図をするまでもなく計器を操作していた
そんな小林を一瞥すると背中越しに礼を言い、再び通信機を寄せる
接続中のランプが点灯した通信機の向こうからは雑音に交じって呼吸音が流れていた
その息遣いは浅く、スピーカー越しに日下部の緊張が伝わってくる
514: ◆pOKsi7gf8c 2016/05/22(日) 22:15:54.68 ID:a8UQq4dj0
「いつもの調子はどうした?」
「そんなんじゃ、当たるものも当たらないぞ」
少し緊張を解してやろうと、軽く茶化してみる
それに反応した日下部は小さく礼を返してくるが、相変わらず堅い調子だった
普段は調子良いの奴なのに、こういう場面でぎこちなくなってしまうところがある
全く緊張感が無くなってしまうよりは十分にマシなのだろうが、このままでは危なっかしくて見ていられない
「いいか? 日下部」
彼に本来の力を出してもらうためにも、一声かけることにする
「勘違いしているようだから言っておくが」
「何も必ず当てなきゃいけない訳じゃないんだ」
先ほどとは真逆の事を言う自分に驚いたのだろう、こちらの名前を呼んだきり日下部は黙り込む
しかし、それに構わず先を続ける
「確かに命中させてくれるのが一番だ」
「だが、お前が外しても後は俺達が何とかする」
正直に言って、不意打ちの初弾を外した場合の勝率はかなり低いものになってしまうだろう
だが、そうなったらそうなったでまた別の手を考えるだけだ
元から命綱なしの綱渡りみたいな作戦だ
そんなものに付き合わるのだから、作戦の失敗を他人の所為にはしたくなかった
515: ◆pOKsi7gf8c 2016/05/22(日) 22:18:55.79 ID:a8UQq4dj0
「だから、余計なことは考えずに一発ぶっ放してみろ」
「そのためにお前はそこに座っているんだろ?」
姿の見えない日下部へと語りかける
どんな表情でこれを聞いているかは彼にしか分からない
いつもの顔をしていれば良し、強張った顔でも良しとする
とにかく下手に力んで訓練通りの力を発揮できないのは勘弁してほしかった
『はは……そうですね、少尉』
『ちょっと深く考えすぎてたみたいっす』
『ありがとうございます、おかげで肩の力が抜けてきましたよ』
数秒の間をおいて日下部から返答が返ってくる
無理して何時もの調子に戻そうとしている感じは残っているが、そう考えられる余裕があれば十分だ
軽く冗談を返して会話を終えようとしたとき、
「敵、6.3キロまで接近」
「目視で確認できます!」
敵の発見を報せる大久保の声が艦内に響きわたる
516: ◆pOKsi7gf8c 2016/05/22(日) 22:20:47.04 ID:a8UQq4dj0
「日下部!」
反射的に通信機に向かって砲撃主の名を呼ぶ
指示の内容は口に出さなかったが、そんなものは分かり切っていた
数秒の沈黙のあと、
『距離6.1キロ、確認できました!』
通信機からは敵の発見を知らせる一報が飛び込んでくる
「行けるか?」
『これなら……行けます』
実際に敵を前にして緊張がぶり返してきたのか、先ほど見せた余裕が吹き飛んでいた
しかし、それでも訓練を受けた軍人の1人だ
緊張を見せているが、動揺は感じられなかった
「発砲の機会はお前に任せる」
「何時でも好きな時に撃ち込んでやれ」
日下部に最後の指示を飛ばして通信を切る
返事は待たなかったが、これ以上は邪魔にしかならないだろう
後は彼が上手く敵に攻撃を浴びせてくれるのを祈るだけだ
517: ◆pOKsi7gf8c 2016/05/22(日) 22:22:35.45 ID:a8UQq4dj0
「小林、機銃部隊に通知」
「主砲発射後、目標に向かって一斉斉射だ」
日下部との交信を終えると、間髪おかずに小林へと命令する
もしも、日下部が主砲を外した場合の保険
再装填の時間を稼ぐための目くらましだ
「ブリッジより通達」
「主砲発射後、目標に向かって一斉斉射!」
「繰り返す……主砲発射後、目標に向かって一斉斉射」
指示を飛ばされた小林がせわしなく計器を弄りながら、全船に向けて指示を流す
それを確認し、今度は手元の通信機を取ろうとしたとき、
「!」
ドシンと全身に衝撃が走る
「主砲が発射されました!」
不意打ちの初撃、主砲による先制攻撃の報を大久保が伝える
自分のやろうとしていたことも忘れ、前方に釘付けとなる
それは他の船員たちもそうであったようで、正面を眺める井上たちの姿が視界の端に映った
518: ◆pOKsi7gf8c 2016/05/22(日) 22:24:48.40 ID:a8UQq4dj0
「主砲、着弾します!」
大久保の報告と同時に前方に巨大な水柱が上がる
だが、肉眼ではこれ以上の情報は得られない
「結果は!」
とっさに大久保を問い詰める
「命中……命中です!」
「詳細は不明ですが、敵装甲の一部が脱落しました!」
返ってきた答えは求めていた以上のモノであった
初撃は完璧に命中し、尚且つ敵に損害を与える事に成功
これ以上に無い快調な出だしだった
「よしッ!」
思わず声が漏れる
それと同時に眼下の甲板から火花が散り、目の前の海へと銃弾がばらまかれた
「敵艦、未だに健在です」
「速度を上昇させて、こちらへ突撃してきます」
続けて大久保が敵の状況を報告する
浮かれるのはまだ早い、戦闘は始まったばかりだ
519: ◆pOKsi7gf8c 2016/05/22(日) 22:27:24.67 ID:a8UQq4dj0
「両舷全速前進」
「進路、112度から116度へ」
こちらも接敵するために動き出す
理想は射程外からの一方的な砲撃の繰り返しであったが、足の速い深海棲艦相手の立ち回りでは直ぐに追いつかれてしまう
ならば、この機に乗じて一気に接敵、集中砲火からの短期決戦が望ましい
「了解、両舷全速前進」
「進路112度から116度」
井上が指令を復唱して、待機状態にあった船の機関が始動を始める
そのまま前進を始めた船が速度に乗ろうとしたとき、
「来ます!」
正面の海面が空に向かって打ち上げられる
「敵、正面4.2キロ地点まで接近!」
「肉眼で敵影が確認できます」
先ほどの警告した大久保が彼我の距離を再び報告する
手ににしていた双眼鏡は既に首にかけられており、左舷前方をまっすぐに睨んでいる
彼の目線の先には海上に浮かぶ黒い敵影が確認できた
今の一撃で装備の一部が破壊されたためか、その影は歪な左右非対称であった
520: ◆pOKsi7gf8c 2016/05/22(日) 22:31:57.75 ID:a8UQq4dj0
「森、行けるか?」
その黒い影を視界の真ん中に捕えながら、手元の通信機で後部砲塔の森へ発信する
『まだ無理です』
『3キロまで近づかないと捕捉できません』
しかし、電話口の森はあくまで冷静に不可能と回答する
射程が短いとは聞いていたが、敵を肉眼でとらえる位置まで近づいても使えないのは何とも歯痒い
「なら、近づき次第発射しろ!」
「こっちの合図は待たなくていい」
敵を前にした焦りからか、少々乱雑に通信を切ってしまう
そうしている間にも戦況は刻一刻と変化していた
既に敵の射程圏内に入っており、何時敵の弾が当たってもおかしくない事態であった
「伏せろッ!」
突然、誰かが大声を張り上げる
次の瞬間には船体が大きく揺さぶられ、倒れそうになる
目の前にあった操作台を支えに倒れるのを免れると、
「前方甲板に直撃!」
大久保の声に敵の砲撃を知らされた
521: ◆pOKsi7gf8c 2016/05/22(日) 22:35:32.22 ID:a8UQq4dj0
「前方甲板より入電!」
「砲撃によって副砲の一部が破損、負傷者も出ています」
それに続いて、小林の声が甲板から発せられた情報を知らせる
初めて敵の直撃を受けたが、損傷は軽微だ
副砲の破損程度なら応急処置でまだ戦えるはず
そう判断し、折り返して指示を出す
「後部甲板の人員を前方へ移動」
「彼らに副砲の復旧に当たらせろ」
「ケガ人の搬送は……」
そこまで言いかけたとき、再び船体に大きな衝撃が走る
「左舷すぐ横に砲撃が着弾」
「本艦への損害は不明です!」
如何にか直撃は免れたらしいが、確実に敵の攻撃は激しさを増してきている
何とか今の有利な状況のうちにケリを付けなければならない
このまま長期戦となれば火力と速度を兼ね備えた敵に勝つ術は無くなる
仮にうまく立ち回ったとしても、じわじわと戦力をそぎ落とされて最後には海の藻屑となるのが関の山だ
522: ◆pOKsi7gf8c 2016/05/22(日) 22:41:18.76 ID:a8UQq4dj0
距離が近づくにつれ明確になる敵の姿を睨みつけながら、頭の中で現状を整理していると、
『1番発射するぞ!』
『歯ァ食いしばっとけ』
不意に手元の通信機から聞き覚えのある男の声が流れる
意表を突かれて面食らっているうちに、砲撃とは違った種類の振動と何かが飛び出すような音が伝わってきた
「後部甲板よりミサイル発射を確認!」
すぐさま大久保が何が起こったのかを報告し、事態を理解する
さっきのは数刻前に出した命令に従い森がミサイルを発射し、それを兵曹長が通信機で伝えてきたのだろう
だが、こちらからはミサイルの姿は確認できない
『一度打ち上げてから標的まで降下する』
『ブリッジで確認できるのは着弾の直前だ』
電話口の宗方へ尋ねると、そのような答えが返ってきた
説明されたところで軌道がピンとくるものでもなかったが、今はそんなことはそんなことを気にしている余裕はない
どんなものでも敵を沈めてくれさえすれば良いのだ
『そろそろ……来るぞ』
通信機の向こうから張りつめた宗方の声が聞こえる
それを合図に正面の窓から敵の姿を臨む
大きな損害を受けているにもかかわらず、それを感じさせない挙動げ猛烈に接近してきている
確実に傷は負っているものの、未だに致命傷となるのは不意打ちの初弾のみであることが見て取れた
523: ◆pOKsi7gf8c 2016/05/22(日) 22:51:27.84 ID:a8UQq4dj0
「ミサイル、敵に接近します!」
大久保の声とほぼ同時に視界の隅に高速で移動する白い物体が映る
技術部に『妖精さん』と言わせしめた海軍の技術開発部、そこに所属する人間たちが作製した秘密兵器も同然の代物
それが今、敵に向かって一直線に向かっていた
艦橋の船員たちは皆、目の前の光景に光景に釘付けとなる
『チッ……気づかれたか』
そんななか、通信機から舌打ちが聞こえてくる
宗方の声に意識と取られて敵から目を離した瞬間、大久保が敵のミサイルに気づいたことを叫ぶ
正面に向き直ると、敵は自分に向かってくる飛翔体に反応し、回避行動へと移ろうとしていた
『そう簡単に避けられて堪るか』
『森! 絶対に逃がすな』
しかし、相対するのはただの砲弾ではなく誘導機能を持ったミサイルだ
敵は砲撃の網を縫って大きく左へ旋回するような進路を取るが、その進路を沿うように飛んで追いかける
その軌道に意表を突かれたのだろう、敵は精彩を欠き、機銃から照射される銃弾の雨にさらされる
「あと20、19……どんどん近づいて行きます!」
敵は銃弾により動きを鈍らせ、その速度を奪っていく
対するミサイルは悠然とその胴体に積まれた燃料を燃やして追尾する
そして、追いかけっこが始まってから数秒、
「追いつきます!」
『よし、行けッ』
標的を捕らえたミサイルがその炸薬を爆発させる
526: ◆pOKsi7gf8c 2016/05/29(日) 22:57:10.72 ID:3rTWVY4V0
ミサイルから発せられた爆炎が敵を覆い隠す
立ちこめた煙はその場で停滞し、敵の姿を隠す天然のカーテンとなっている
「小林、撃ち方止めだ!」
その姿を確認するために全艦へ射撃攻撃の中止を通達する
数秒後には斉射を繰り広げていた機銃たちも沈黙し、夜明け前の穏やかな海が戻ってきた
不気味な静寂が辺りを支配するなか、静かに観測手の名を呼ぶ
名を呼ばれた大久保は正面を向いていた顔を落としてレーダーサイトの確認を行う
「……どうだ?」
計器を見つめる大久保の背に問いかける
視線を落として微動だにしない背を前にして、生唾を飲み込む
この攻撃で敵に大きな損害を与えられたかで戦局は大きく変わる
(これで無傷などということがあれば……)
そんな結果に対する気負いが、渇きとなって表れていた
「サイトに反応はあります」
「ですが、肉眼で確認できない以上は……」
だが、得られた返答は何とも歯切れの悪いものだった
それは本人も自覚しているのだろう、険しい顔をこちらに向けて押し黙っていた
527: ◆pOKsi7gf8c 2016/05/29(日) 23:00:40.89 ID:3rTWVY4V0
大久保に『そうか』と返すと、再び正面の煙幕に目をやる
それは風が凪いだ洋上で今だ色濃く残り、その内にいる敵の姿を覆い隠してた
捜索の間は感謝していた穏やかさもこの期に及んではいじらしい
弾薬の数も限られている以上は無闇に見えない敵へ撃ち込むわけにもいかない
ただ時を待つことしか、今の自分たちにはできない状況であった
『アレが当たったんなら俺達の勝ちだ』
『技本の「妖精さん達」は気に食わない連中だが、持ってる技術は確かだ』
『あのミサイル一基だって、敵の主力級を葬れる火力は持っている』
『まぁ……ここまで煙ってるのは煙幕の具合なんて考えずに作った所為だろうがな』
待っているだけの現状に痺れを切らしたのか、通信機の向こうから兵曹長の声が聞こえる
かなり楽観的な見方だが、一概に間違っているともいえない
事実、敵の覆う煙幕の天蓋は未だに晴れる気配を見せず、その爆発の威力を窺わせている
なによりも自分自身がその状況を望んでいた
「少尉、左舷砲門より入電です」
突然、小林が入電を知らせる声が響く
長い沈黙で少し緩んでいた艦橋の空気が一気に張りつめた
528: ◆pOKsi7gf8c 2016/05/29(日) 23:04:05.31 ID:3rTWVY4V0
「……繋ぎますか?」
そんな空気を察したのか、小林は躊躇するように入電の許可を求める
敵健在の報が飛んでくる未来が脳裏をよぎり、一瞬取るのをためらう
しかし、直ぐにその考えを振り払い、小林に取次ぐように指示を出す
勝手な理論で報告を聞き流すよりは些細な事でも情報を仕入れた方が良いに決まっているはずだ
『少尉、野田です』
通信の主は自分も良く知っている野田上等水兵だった
彼は甲板の射撃部隊に加わっており、今の今まで機銃で敵に斉射を加えていたはずだ
その野田がわざわざこちらへ連絡を寄こすということは、敵の動きを捉えられたのだろうか
『敵の状況は……』
だが、そんな見立てに反して野田は伺うように敵の状況を確認してきた
もし敵の挙動を報告するのなら、そんなことを聞いてくるのはおかしい
それに、緊急の連絡にしては妙に冷静な口調だった
野田の行動に対する疑念が広がっていくが、今は仲間を疑っているような状況ではない
彼にとって何かを判断するのに必要な情報なのだろうと、艦橋で把握している限りの状況を説明してやる
『やはり……そうですか』
『なら、敵は沈んでいません』
説明を聞いた野田は何か納得したように相槌を打ち、宗方とは正反対の結論を出す
ある種確信めいた言い方をする野田に艦橋がざわついた
529: ◆pOKsi7gf8c 2016/05/29(日) 23:05:09.54 ID:3rTWVY4V0
『おい! どういうことだ』
ホットラインで繋がる兵曹長もその発言を拾ったのだろう、強い口調で聞き返してくる
未だに沈黙を続ける煙幕の向こうを確認し、その根拠を問いただす
『……俺は見たんですよ』
『ミサイルが爆発する瞬間に奴が砲撃へ移るのを』
艦橋のざわめきが一瞬にして凍りつく
自分とて例外ではなく、冷や汗が頬を伝うのを感じながら固まっていた
野田の言うことが本当ならば、敵は直撃の瞬間にミサイルへの攻撃を試みたことになる
ということは……
『そうです、少尉』
こちらの考えを読み取ったかのように野田は言葉を続ける
もはや返事を返すことも出来ずにただその先を待つだけだった
それは他の男たちも同様で、この場にいる全ての者が次の一言に意識を囚われていた
艦橋の沈黙を悟った野田は自分の証言を確かめるように一呼吸おくと、
『奴はミサイルを迎撃したんです』
静かに結論を言い放った
530: ◆pOKsi7gf8c 2016/05/29(日) 23:07:25.95 ID:3rTWVY4V0
『なら……どうして奴は何もしてこない』
『迎撃したってなら、とっくに攻撃してきてもおかしくないぞ』
数秒の沈黙が流れ、やっと反論の声が上がる
それはこちらの通信機越しに話を聞いていた宗方のものだった
深海棲艦との交戦を指示した指揮官としてはその主張を信じたい
だが、野田の話も十分に筋が通っているように感じられた
正体不明の生物とはいえ、奴らには統率のとれた行動が出来るだけの知能と合理性を持っている
それこそが帝国海軍を追い詰め、艦艇による戦略的行動を不可能とした最大の理由だ
だとすれば、攻撃を凌いだ敵が攻撃してこない理由は?
攻撃に回すだけの力が残っていないのか、それとも……
「機会をうかがっている」
自然と出てきた言葉に『その可能性が高いです』と、野田は付け加える
あまりにきっぱりとした答えに誰も反論する者はいなかった
むしろ、相手を考えればそれぐらい用心に越したことはない
そんな気にさせる言い方だった
『だから、攻撃を止める訳には行きません』
こちらの空気が変わったことを察しのか、野田は先を続ける
そして、
『もう一度、一斉射撃をするべきです!』
敵への斉射攻撃の再開を求めた
531: ◆pOKsi7gf8c 2016/05/29(日) 23:10:07.40 ID:3rTWVY4V0
「敵艦、未だ沈黙」
「煙幕も晴れる気配はありません」
風の凪いだ水面を眺めていた大久保が状況を報告する
どうやら、ここでの決断を下せと言っているようだ
勝つも負けるも自分の判断次第
この船に積まれた弾薬も多くは無く、期を逸せば負けは目に見えている
目の前の敵に全てを使い切るつもりで攻撃するか、それとも彼女を助け出すまで警戒を解かずに監視を続けるか
そして、決して多くはない選択肢の中でひとつの結論を達した
「斉射は無しだ」
「見えない敵に弾をばら撒いても、無駄弾になるだけだ」
『しかし、少尉!』
「その代り、砲撃とミサイルで奴に止めを刺す」
煙幕の向こうに機銃を撃ち込んでも敵にあたる確率は低い
仮に命中したとしても、とても致命傷になり得る傷は負わせられない
あれは物量による目くらましと行動封じを目的とした武器だ
この状況で選択するとなれば、一撃必殺の威力も持つ武装……すなわち艦砲射撃とミサイルだった
532: ◆pOKsi7gf8c 2016/05/29(日) 23:13:38.12 ID:3rTWVY4V0
「奴が生き残っているなら必ず反撃をしてくる」
「そして、反撃に転じるからこそ、煙幕が晴れる前に顔を出すはずだ」
「そこへミサイルをぶち込めば……」
不意打ちの一撃で敵を沈めることが出来る
攻撃の機会を窺っている相手に不意打ちを仕掛けるなど、なんと頭の悪い作戦だろうか
だが、普通にやって勝てる相手じゃないのはよく分かっている
ここは『行ける』という己の直感に賭けてみることにした
『了解……しました』
野田もこの期に及んでは命令に逆らう気は無いらしい
大人しく了解の合図をして通信を切った
次いで、兵曹長に森に取り次いでもらい、何時でもミサイル発射を指示できるようにした
主砲の日下部にも『砲撃用意』の指令を送り、攻撃の準備を整える
『こちら砲塔、何時でも発射できます』
『ミサイルの方も整いました』
日下部、森の両名からの通信が入り、攻撃準備が整ったことが知らせられた
2人には回線を維持したまま、こちらの指示を待つように伝える
533: ◆pOKsi7gf8c 2016/05/29(日) 23:18:33.22 ID:3rTWVY4V0
「反応は未だに前方1キロ、煙幕の中です」
敵はまだ動かない
先手を決められれば戦況を有利に進めることができる
だが、こちらの主砲は単装砲であり、装填の間に反撃を受けることは避けられない
ミサイルにしても、この状況で発射したところでまともに当てることはできないだろう
だとすれば、可能性があるのは……
「小林、前方甲板へ発信」
「副砲の復旧状況を確認してくれ」
荒唐無稽な作戦でもその成功率を上げるために打てる手はすべて打つ
そのために、敵の初弾でダメージを受けた副砲の状態を確認させる
指示を受けた小林は計器をいじりながら何か言葉を交わすと、ヘッドホンを耳から外して報告を始める
「全部甲板より、確認が取れました」
「修復状況は概ね良好」
「射角に制限はありますが、数発であれば砲撃は可能とのことです」
思っていたよりも状態は悪くなかった
これならば敵を誘き出すには十分役立ってくれるはずだ
「直ぐに砲撃準備を整えさせろ」
「準備が整い次第、発射だ」
思わぬ朗報に胸が高鳴る
534: ◆pOKsi7gf8c 2016/05/29(日) 23:27:08.52 ID:3rTWVY4V0
「前進速度15ノット、取舵20度」
そして、その興奮のままに舵輪を握る井上へ進路変更を指示する
「前進速度15ノット」
「取舵20度、了解!」
指示を受けた井上は力強く復唱すると、スロットルを上げて速度を落とし、大きく右へ舵輪を回した
船の舳先が右にふれ左舷側にあった煙幕のカーテンが右舷側へと移動する
そのまま、その拡散した煙の臭いが微かに臭ってくるまで接近した時、
「副砲、発射します!」
通信を受けた小林の声と共に、ドンという軽い衝撃が襲ってくる
眼下の副砲から放たれた砲弾は敵の居る場所から大きく外れ、煙幕の外側へと着弾する
だが、それでも敵の沈黙を破るには十分であった
煙の向こうに微かに火花が見え、煙をまき散らすように砲弾が飛び出してきた
先ほどの砲撃でこちらの位置を割り出したのだろうか、右舷のすぐ近くに着弾し、巻き上げた水柱が右舷甲板を濡らす
「日下部、森!」
すぐさま2人の名前を叫ぶ
本来ならこの先に指示がつくのだが、今更その必要もない
通信機の向こうから2人分の返事が返ってきていた
535: ◆pOKsi7gf8c 2016/05/29(日) 23:28:51.95 ID:3rTWVY4V0
「敵、行動を開始」
「右舷方向へ回り込もうとしています!」
レーダーを監視していた大久保が敵の行動開始を知らせる
左に舵を切っている今、右舷方向へ回り込まれたならば背後を取られることとなる
この船は後部砲塔をミサイル発射装置に換装したために、背面の攻撃力には大きく劣る
何としても、背後へまわられるわけには行かなかった
「森、発射しろ!」
「2番、続いて3番だ」
『了解しました』
勝負を決めるべく、出し惜しみなくミサイルを投入する
1基で迎撃されるなら2基、単純だが撃沈の可能性は上昇するはずだ
「第二射、来ます!」
大久保の声と同時に船体が大きく揺れる
恐らく船のどこかに命中したのだろう、艦橋の皆もふらつき、一様に近くの支えにつかまる
こちらも何とか、近くの椅子にしがみ付き転倒は避けられた
536: ◆pOKsi7gf8c 2016/05/29(日) 23:32:18.84 ID:3rTWVY4V0
『少尉! 大丈夫ですか!?』
通信機から日下部がこちらの無事を問いかける声が聞こえる
だが、そんなことを気にかけている暇は無い
前方に集中するように日下部を叱りつけ、森との通信を続ける
「着弾までの時間は!」
『捕捉ナシの状態で最大50秒』
『捕捉出来れば30秒まで縮まります』
残された猶予は50秒
そこまでに敵を煙幕から引きづり出さねばならないが、
「敵、右舷側正面1.5キロ」
「煙幕から完全に抜け出しました!」
敵も痺れを切らしたらしい、向こうから飛び出してきてくれた
「森!」
通信相手の名前を叫ぶ
向こうも何の呼び出しかは分かっていた
指示をするまでもなく、簡潔に『25秒』という返答が返ってくる
今度は通信相手を日下部に変えて、手順を確認する
537: ◆pOKsi7gf8c 2016/05/29(日) 23:35:13.29 ID:3rTWVY4V0
『了解っす』
『自分はあくまで陽動、本命は向こうですね』
いつもの調子の軽い調子で日下部が答える
土壇場で緊張のタガが外れたのか、戦闘に慣れて来たのかは分かたなかったが、今は頼もしい限りだった
敵が健在であり、誘導ミサイルの迎撃をする能力があるとこが判明した今
この戦闘の勝利は主砲を操る彼の手腕にかかっているとっても過言ではなかった
「合図はこっちで出す」
「狙いは……任せたぞ」
『ええ、任せといてください』
全てを任せる覚悟で日下部との会話を終えたとき、
「2番、3番ミサイル、接敵します!」
大久保がミサイルの接敵を知らせる
敵の上空に、ミサイルが白い胴体がきらめかせながら飛翔しているのが確認できた
「敵、回避行動に移ります」
装備が半壊し所々に裂傷のみられる体ながら、敵は信じられない速度を出しながら旋回を始める
それを追いかけるミサイルもその軌道を垂直降下から水平飛行へと切り替えて敵を追う
その距離は徐々に詰まっているが、敵には先ほどのような焦りは感じない
『一度見切った攻撃は受けない』とでも思っているのだろうか
そうだとすれば、それは大きな驕りであることを、その身をもって教えてやらなければならない
538: ◆pOKsi7gf8c 2016/05/29(日) 23:36:19.57 ID:3rTWVY4V0
「……日下部」
通信機の向こうの男に最後の確認をする
電話口の青年は『分かってます』と静かに答え、その覚悟が決まっていることを伝える
「3番ミサイル、敵に接近!」
再び大久保の報告で、意識を目の前の移す
先ほど放ったミサイルの1基が、今まさに敵を捕捉して撃沈させようとしている
だが、敵もそんなことは分かっている
すぐさま体を反転、砲門の照準を目の前に迫る飛翔体へと向け、
「敵、主砲より砲撃!」
「ミサイル、迎撃されました」
迫りくる脅威を排除した
『少尉ッ!』
ミサイルを誘導する森が叫ぶ
敵は既に2基目の迎撃態勢に入っている
このままではなす術もなく撃墜され、ミサイルを無駄撃ちしただけになってしまう
しかし、それはが自分が目論んでいた勝利への布石
敵がミサイルの迎撃に注意を向けている、今こそが確実に不意打ちを撃ち込める好機
539: ◆pOKsi7gf8c 2016/05/29(日) 23:44:24.18 ID:3rTWVY4V0
「撃てッ! 日下部」
主砲を操る日下部に発砲の合図をする
これで、全てが決まるはずだ
「主砲、発射されました!」
直ぐに大久保の確認と共に船体へ軽い衝撃が走った
耳をつんざく発砲音は意識の彼方に消え、自分の心臓の拍動がやたら大きく聞こえる
敵へ向かって伸びた主砲が打ち出した砲弾が空を切り、数百キロの鉄の塊を敵へと向かって飛ばす
水平線の向こうから届けられる陽光が煌めき、砲弾を淡い紅色に染めていた
打ち上げられた砲弾は重力に従い、ある頂点を境に上昇から下降へ転じる
「敵、砲撃に反応!」
敵の動向を知らせる声が聞こえた
砲弾に狙われた敵は、高速で飛んでくる物体に反応し、ミサイルへの迎撃態勢を崩す
その瞬間、
「主砲着弾!」
「ミサイル、それに続きます!」
敵の機影は海面が発する水柱によってかき消える
そして白い飛翔体は、その全てを自身が発する爆炎へ飲み込んでいった
544: ◆pOKsi7gf8c 2016/06/18(土) 22:04:50.79 ID:urIs08YJ0
打ち上げられた水柱が立ち消え、再び煙幕が敵を覆い隠す
だが、今回は薄らと海を灰色に染めるのみで視界を完全になくすほどではない
試作段階のミサイルにもムラがあるのだろう、今のは炸薬の調整が当たりだったようだ
立ち上った爆炎は海風にさらわれ、みるみる薄くなっていく
「大久保……」
薄いグレーに隠された水面を臨んで、観測手の名を呼ぶ
その声に我に返った大久保は、呆然と目の前を見つめていた視線を手元の計器へ戻す
そして、慌ただしく表示された情報を読み上げる
「レーダーサイトに反応……ありません」
艦橋にいる水兵たちが皆、聞き耳を立てる
誰が言うでもなく、この報告で勝負が決まると理解していた
通信盤の前に座る小林は耳あてを耳から外し、舵輪を握りしめる井上は正面を向いたまま静止し、通信機を手にした自分は観測手の背中を見つめる
周りの関心を一身に受ける観測手は、その左手に掴んでいた双眼鏡を目に当て、敵がいた海域をくまなく探す
立ちこめていた煙が風に乗ってすっかり薄くなった頃、
「敵影……完全に消失」
「敵深海棲艦、撃沈しました」
索敵の結果を報告する
大久保の報告に耳をそば立てていた兵士たちは、その言葉に聞いても尚、その場に立ち尽くしている
戦闘で極限まで張りつめていた緊張が消え、皆どうすればいいのか分からないといった様子だった
自分も例外ではなく、既に敵影がなくなった海面を眺め続けていた
545: ◆pOKsi7gf8c 2016/06/18(土) 22:05:45.02 ID:urIs08YJ0
『少尉、これって……』
そんな艦橋の状態を察したのか、通信をつないだままの日下部が口を開く
「ああ、そうだ」
その問いかけに対して、未だに掴めない勝利の実感を確かめるように肯定する
そして、それを確固たるものにするべく、
「俺達の勝利だ」
自分たちの勝利を宣言した
「そうか……そうですね」
「俺達は勝ったんですよね」
手にした勝利を確かめるように、井上は呟いている
「ああ、俺達は勝ったんだ!」
「軍艦で深海棲艦に勝利したんだ」
それに応えるように、再び勝利を宣言する
先ほどまで、皆を覆っていた静寂は何処かへ吹き飛んでいた
艦橋の人間は各々に勝利の実感を噛みしめ、外も敵の消滅を確認したのだろうか、兵士たちの歓喜が聞こえる
回線を繋げてたままにしていた通信機からは電話口を離れた森と宗方のやり取りも聞こえてくる
546: ◆pOKsi7gf8c 2016/06/18(土) 22:06:28.88 ID:urIs08YJ0
「少尉、船内からの戦況確認の要請が多数あります」
「全船に通信を繋ぎますが、よろしいでしょうか?」
そんな状況に浮足立っていると、小林から通信の要請を受ける
敵の消失を確認してたとはいっても、まだ戦闘配備を敷いたままだった
小林に了解の旨を伝えて、日下部との通信を切り替える
「艦橋の君嶋だ」
全船に繋いだ通信を取ると、交戦の指示を出し時と同じように名を名乗る
始まった通信に艦橋の面子も反応し、喜び勇んで騒いでいたその口を閉じる
「甲板の皆は既に確認しているかもしれないが」
「先ほど、敵の反応がレーダー上から消滅した」
「付近にもそれらしき艦影は見られない」
そこまで伝え、一呼吸置いて言葉を切った
正直な話、ここまで言ってしまえば後に続けてわざわざ話さなくても良いような気はしていた
だが、それをハッキリさせるのも一種の様式美だ
「つまり、我々の……」
肺の奥まで行き渡った空気を吐き出しながら、一息に続けようとした時
耳をつんざく爆発音と強烈な衝撃が体を襲った
547: ◆pOKsi7gf8c 2016/06/18(土) 22:07:53.66 ID:urIs08YJ0
無防備に放り投げだされ、盛大に床に叩き付けられる
とっさに受け身を取って体を守るが、防御に使った両腕を強かに打つ
持っていた通信機もどこかに放り投げていた
「ぐっ……」
打ち付けられた拍子に、肺から押し出された空気がうめき声となって漏れる
だが、そんな体の痛みなどどうでも良かった
今は自分の身を案ずるよりも先に、ある一点に思考を集約させていた
(敵が生きていたのか?)
まさか、そんなことがあるはずがない
あの敵はミサイルの着弾によって沈んだ、それはしっかりと確認した
(では、一体何が……)
うつ伏せになったまま思考を巡らせるが、その答えが出るはずもない
現状に理解が追いついていない頭を右手で押さえながら、左手を支えに立ち上がる
操作盤の影に隠れていた艦橋があらわになると、
「これは……!」
右手に半分隠れた視界には衝撃の光景が映った
艦橋から外を見下ろす窓には何かの金属片が突き刺さり、そこから蜘蛛の巣状ににヒビ割れている
そのヒビ割れの向こうには捲れあがった甲板とその隙間からチラチラと見える赤い炎が窺えた
「少尉……無事でしたか」
立ちあがったこちらの姿を確認したのか、頭から血を流した井上が話しかけてくる
548: ◆pOKsi7gf8c 2016/06/18(土) 22:35:31.13 ID:urIs08YJ0
「お前、その傷」
「大丈夫です、軽く切っただけですから」
「それより……」
辺りを確認してくださいと言った具合に、井上は首を振る
それに従って意識を周囲へと向ける
どうやら、今の衝撃で艦橋の船員の多くがケガを負ったらしい
ほとんどが軽傷のようだが、窓のガラス片をもろに浴びた数人はかなりの傷を負っているように見える
負傷した隊員たちを前に先ほどの攻撃から思考が逸れるが、
「敵です! 敵が現れました!」
叫ぶような大久保の声にすぐさま現実に引き戻される
「どういうことだ!」
殆ど反射的に答えていた
自分でも驚くほど大きな怒鳴り声だった
『そんなことない』という懇願にも似た想いがそうさせたのだろう
「……新手です」
「右舷後方、15キロの地点に敵が出没しました」
怒鳴られた大久保は少し驚いた様子を見せるが、冷静に報告をする
その強張った表情が嘘では無いことを示していた
549: ◆pOKsi7gf8c 2016/06/18(土) 22:37:15.61 ID:urIs08YJ0
(15キロ?)
大久保の報告のある部分に違和感を覚える
15キロ離れているとはどういうことだろうか
一般的な深海棲艦の射程は一般的に10km未満だと言われている
火力と速度を兼ね備えた深海棲艦だが、その物理的な制約で長射程の砲を搭載することが出来ない
しかし、それを補うような速力をもって敵に肉薄、大火力の砲弾を撃ち込むことで幾多の艦艇を葬ってきた
これは艦娘についても同じ条件が当てはまり、その射程の短さも相まって近距離の格闘戦が主流とされる理由だった
だが、今回の敵は直線距離が15キロで砲撃を命中させてきた
その事実から考え出される可能性があるとすれば、それは……
「……鬼」
仮定の結果をボソリと呟く
その言葉は、凍りついた肝の温度を表すかのように冷たく艦橋へと響いた
「今、なにを」
微かな囁きのつもりだったが、目の前の男には聞こえたのだろう
井上が血に塗れた顔をこちらに向けて聞き返してくる
「それは……」
突き付けられた事実と最悪の想定、そうであって欲しくないという思いと諦めに近い悟ったような心境
それらが混ざり合い、井上への返答を鈍らせる
どのように答えるべきかを見失っていると、
「前方甲板から入電!」
「被害状況が明らかになりました」
小林の入電を知らせる声が艦橋に響き渡る
550: ◆pOKsi7gf8c 2016/06/18(土) 22:44:02.99 ID:urIs08YJ0
「敵砲弾は前方甲板に副砲付近に直撃」
「負傷者多数、副砲にも致命的な被害が出ています」
決定打となる副砲が潰され、人的被害も無視できないものとなっている
沈没こそ免れたが、致命傷になり得る被害だった
いくら特殊装甲の船だといっても、そうそう何度も耐えられる攻撃ではない
「現場が指示を求めています」
「君嶋少尉、命令を……」
報告を終えた小林が上官の指示を仰ごうとこちらに振り向く
だが、その声は轟く爆音によってかき消される
「砲撃を確認!」
「本艦前方、200メートル」
ひび割れた窓からは盛り上がった海面が水の柱となって散っていくのが窺える
まだ必中の射程に入ったわけではないが、それも時間の問題だ
このまま何もせずにいれば確実に沈めに来るのは明らかだった
「少尉! アレは何なのですか」
「何か知っているなら教えてください」
「このままじゃ俺達は全滅です」
その予感は皆も同じなのだろう、井上の問いに辺りが静まり返る
551: ◆pOKsi7gf8c 2016/06/18(土) 22:46:00.98 ID:urIs08YJ0
もはや、自分ひとりの中にしまっておくのは不可能だった
思いつく限り最悪の想定を伝えるべく、口を開く
「……海上に現れる鬼」
「深海棲艦の中でも特に戦闘能力に優れた特別な個体のことを」
「新海軍の人間は、そう名付けている」
正直に言って、奴らの生態については良く分かっていない
しかし、その中でも航空戦、艦隊戦、水雷戦のそれぞれの能力に特化した特別な個体が存在することが判明している
それらの特徴は容姿や装備など多岐にわたるが、特筆すべきはずば抜けて高い戦闘能力だ
過去には艦娘の精鋭一個艦隊が壊滅的に追いやられたという記録も残っている
「遭遇記録自体が少ないために、断定することは難しいが」
「15キロ超で命中圏内に砲撃する能力がある敵は……」
少し間をおいて、『他に考えられない』と言い放つ
その言葉は艦橋の面々を凍りつかせた
先ほどまでの勝利の余韻は完全に消え失せ、すぐ後ろまで迫った死の恐怖に包まれていく
「なら、どうすれば……」
沈黙に耐え兼ねたのか、俯いたの大久保がボソリと呟く
552: ◆pOKsi7gf8c 2016/06/18(土) 22:49:59.92 ID:urIs08YJ0
「……この距離ならまだ撒ける」
「幸い今までの記録からもヤツの船足はそこまで速くない」
「全速力で基地まで逃げ出せば、単騎での追走は諦めるはずだ」
その疑問に、現状で考えられる最善の行動を答える
ひねりだす言葉ひとつひとつが艦橋の空気をさらに冷え切ったものへと変える
彼らがこんな答えを求めているわけでないことは重々承知であった
「しかし、それでは……」
予想通り、レーダーに目を落とす大久保が言葉を濁ごす
それ以外に助かる望みが薄い事は、多くの敵を観察してきた観測手として、よく分かっているのだろう
反論するでもなく、頭をうなだされていた
「そんな……何を言ってるんだ!」
そんな沈黙に対して反論するように井上が吠えた
「それじゃあ、ここまでやってきた意味は!?」
「尻尾を巻いて逃げるためにここまでやってきたのですか!」
半身を翻し、殆ど片手で舵輪を握っているような格好でこちらに詰め寄ってくる
頭部から流れる血は額を伝って目尻にまで達していた
「……すまない」
わずかに捻りだしたそれが、目の前の男に返せる精一杯の言葉だった
その言葉に井上は絶句する
血に塗れの顔に光る双眸には、何処かで見たことのある表情をした男の姿が映っていた
553: ◆pOKsi7gf8c 2016/06/18(土) 22:51:42.52 ID:urIs08YJ0
(残酷な生き物……か)
つい数時間前までの自分には理解もできなかった気持ちが痛いほどによく分かった
頭では理解していたつもりでも、感情を切り離すのは容易ではない
今だって彼女を助けられる方法を必死に探っている
予想される敵の戦力、残された弾薬の数、与えることのできる損害と、考えられるすべてを再現してみた
だが、考えれば考えるほどに1つの答えへと収束する
それが……
(奴には勝てない)
という事実であった
「少尉……指示を」
先ほどの怒号が嘘のように、操艦へと戻った井上が指示を仰ぐ
しかし、反論を止めたところで納得がいっている訳でもないのだろう
短く発せられたその言葉の端々に、悔しさが押し込められているのがヒシヒシと感じられた
「進路80度に変更のち、両舷全速前進」
「……了解」
「進路80度に変更後、両舷全速前進」
逃げの一手を告げる指示を井上が復唱し、舵輪を回す
その動作は緩慢で型にはまったように機械的だ
先ほどまで巧みな操艦で敵を翻弄していた操舵手の面影はそこには無かった
554: ◆pOKsi7gf8c 2016/06/18(土) 22:53:10.26 ID:urIs08YJ0
「……俺だって悔しいさ」
誰もが感情のこもらない作業を続ける光景を眺め、独り言ちする
(だが、それでも……)
無謀な戦いを挑んで船を沈ませるわけには行かない
彼女を救うことが出来る可能性がわずかでもあるなら、喜んで臨んでいた
だが、現状でそれは皆無に等しかった
単騎で鬼に挑んでも勝敗は歴然、救出を強行しても敵がこちらを捕捉している以上、共倒れになるのは必至だ
願わくば、逃げるこちらに釣られた敵が彼女を発見せず、鎮守府からの救援が来るまで彼女が持ちこたえてくれるのみ
「……小林、主砲に繋げてくれ」
先ほどの砲撃で一部被害を受けた通信をいじっている小林へ日下部に取り次ぐように頼む
その指示に了解と短く答えた小林はすぐさま、目の前のダイヤルを調整して主砲へと通信を接続する
通信確立しの合図に軽くうなずく小林を確認して、手元の通信機から日下部へ敵に砲撃をするように命令する
『でも、ここからだと……』
その命令に対して電話口の日下部はダメだといった具合に言葉を濁す
もっとも、そう返されるのは分かっていた
左舷に回頭しているとはいえ、敵がいるのは右舷後方、主砲の旋回範囲の外であった
だが、今は敵の注意を引ければそれでいい
とにかく敵へ向かって砲撃するように指示して通信を切った
「主砲、発射を確認」
数秒後、軽い衝撃と共に大久保が主砲の発射を告げる
そして敵から大きく外れて海面に着弾したことを報告し、再び口を閉ざした
東の空が薄らと白み始めた中、その薄明を求めるように船は北東へと舵を切った
556: ◆pOKsi7gf8c 2016/07/03(日) 20:45:18.87 ID:HMesxzsu0
『どういうことなんだッ!』
艦橋に怒号が響き渡る
あまりの声量に、手に持つ通信機が震えたような気がした
進路変更を指示してからの一号通信は、自分を責めたてる部下のものだった
『何で敵から逃げてるんだよ!』
船員たちの耳目が声の発生源である自分に集まる中で、通信の主、仙田は構わずに先を続ける
その問いは何とも耳の痛いものだった
彼を含めて、ここにいるのは命を賭してでも味方を助けようという気概の持ち主だ
当然、敵から背を向けて逃げるいまの指示をここ良く思うはずはない
だが、指揮官として無駄死にをする選択を取る訳にはいかなった
「少尉……」
仙田への返答に窮していると、小林に小声で呼ばれた
目が合った小林は渋い顔をしながら計器に向き直り、何やらスイッチに手をかける
今の状態で、仙田と話しても仕方ないと判断したようだ
いつでも通信をシャットアウトする準備は出来ているという合図らしい
557: ◆pOKsi7gf8c 2016/07/03(日) 20:47:18.49 ID:HMesxzsu0
しかし、それではあまりにも身勝手すぎる
せめて自分でまいた種は自分でケリを付けなければならない
顔を横に振り、小林に止めるように指示すると、
「……聞こえているか?」
意を決して仙田へ返答をする
『アンタ? 聞こえてるのか』
『どうなってんのか説明してくれよ!』
こちらの声を聞いたが否や、口早に先ほどの質問を繰り返される
今起きている事の真偽を問いたいのだろう、先ほどまでの怒声はなりを潜め、急かすような口調になっていた
「ああ……わかった」
通信機の向こうに居る男の期待に応えるように、全てを説明した
今の自分たちが戦っているモノの正体とそれが持っている力……そして、戦闘を継続した場合の自分たちの末路
そうしなければ自分で自分の決定を覆してしまいそうだったからだろうか
驚くほど事務的に、淡々とこの決定に至るまでの論理を説明していた
『そんな……だからって』
『だから、仕方ないってのかよ!』
当然と言えば当然だが、仙田もこの決定を簡単には認めようとはしない
鳴りを潜めていた怒気を強めて食い下がってきた
558: ◆pOKsi7gf8c 2016/07/03(日) 20:48:50.72 ID:HMesxzsu0
「……悪い」
こっちだって本心では敵に背を向けて逃げ出したくなどない
だが、どうあがいても奴に勝てる算段が思いつかない
『他に方法が無い』そう答える意外に言葉が見つからなかった
『悪い……だって?』
『そんな言葉で彼女を見捨て良いのかよ!』
「なっ……」
思わず声が漏れる
確かに自分が下した判断はそうとも取れる
いや……そう言われても仕方のないものだとは分かっていた
しばらく言葉を失い、仙田の言葉を聞き流す
『アンタ言ったよな』
『彼女は必ず助ける、そのために出来ることは全てするって』
『そいつは口から出まかせだったのかよ!』
そんなことはない、そう言い返せればどんなに良かったか
しかし、現実はそれを許してはくれない
事実として自分は敵との交戦を避け、逃げ出すように命令している
彼が言っているように、彼女を見捨てる決断を下したに他ならなかった
559: ◆pOKsi7gf8c 2016/07/03(日) 20:51:26.47 ID:HMesxzsu0
『……そうかよ』
『否定もしないのかよ』
しばしの沈黙の後、仙田は納得したように1人で呟く
さっきまで捲し立てていた勢いもどこかに、酷くわびしい声だった
『多分……どこかで期待してたんだ』
『どんな状況でも、きっとアンタは戦う道を選んでくれる』
『他の奴らと違って、真正面から深海棲艦と戦うつもりのアンタならってな』
『でも、そんなのはオレの勝手な思い過ごしにすぎなかったみたいだ』
仙田の独白がスピーカーから艦橋に流れる
だが、何も言うことはできなかった
普段はひた隠しにしている彼の本心に、かける言葉が見当たらなかった
『だから、後はオレが引き継ぐ』
『アンタが出来ることがここまでだって言うなら、オレがやってやる』
『オレが自分の手で彼女を助けて見せる!』
「おい、何を言って……」
聞き返す間もなく、通信機からの応答が無くなった
直後に小林が通信の断絶を知らせる
どうやら、向こうから一方的に回線を切ったようだ
560: ◆pOKsi7gf8c 2016/07/03(日) 20:57:45.63 ID:HMesxzsu0
(仙田、どうするつもりなんだ)
先ほどの言葉を頭の中で繰り返してその真意を探る
仙田は自分の手で彼女を助けると言っていたが、その意味は一体……
知り得る限りで仙田の性格を考え、彼が取りそうな行動に思考を巡らせる
「右舷甲板より通達」
「何者かによって救命艇が下ろされているようです!」
しかし、こちらの思考よりも向こうの行動が早かったようだ
通信を受けた小林が甲板の異変を報じる声が艦橋に響く
「本当なのか……小林!」
報告に反応した井上が問いただす
今までのやり取りは静観していた彼だが、注意は向けていたらしい
救命艇の出現に対する声には焦りと驚きが混ざっていた
「船のアラートも反応しています!」
「間違いありません、誰かが操作しています」
すぐさま他の船員が救命艇の作動を報じる
誤報などではなく、歴然とした事実のようだ
561: ◆pOKsi7gf8c 2016/07/03(日) 20:59:08.78 ID:HMesxzsu0
「少尉、やめさせてください!」
「本艦は高速航行中です」
「こんな状況で救命艇なんか降ろしたら……」
小林が声を荒げて警告する
だが、その先は言われなくても分かっていた
最低でも着水した救命艇は波にさらわれ転覆、最悪本船に衝突して二次被害が生まれる
このまま発信するつもりならば、何としてでも制止しなければならない
「少尉! 再び通信です」
「これは……救命艇の緊急無線からです」
続けざまに小林が通信の受信を伝える
了解して、繋ぐように指示すると、
『少尉、一之瀬です』
スピーカーの向こうから知った名前を名乗る声が聞こえる
ここで一之瀬が出てくるということは、案の定仙田の仕業なのだろう
「一之瀬、お前もか……」
そう得心すると、勝手にそんなことを呟いていた
命令をしてでも直ぐに辞めさせるべき場面なのだが、何故だがその言葉が先に出てきていた
562: ◆pOKsi7gf8c 2016/07/03(日) 21:00:59.47 ID:HMesxzsu0
『……すみません』
こちらの声を聞いた一之瀬は、開口一番謝辞を述べる
自分が何をしているのかは分かってるようで、酷く萎縮した声だった
だが、その裏に処遇は顧みないという固い覚悟が見え隠れしていた
「止めろ! こんな状況で飛び出すのは危険だ」
「お前ら、死にたいのかッ!?」
井上が通信に割って入る
1つの船の操縦を任される者として認められないのだろう
血に染まる頬をさらに赤くして、猛烈に反論する
『……悪いとは思っている』
『でも、引くわけには行かない』
「何、馬鹿な……!」
今にも怒りが爆発しそうな井上に操艦へ戻るように指示して、通信を代わる
無線の相手も覚悟を決めているらしい、その様子を黙って聞いていた
「引き返す気はないのか?」
『はい』
こちらの質問に対して、一之瀬はキッパリと答える
先ほど感じた決意は嘘では無かったみたいだ
563: ◆pOKsi7gf8c 2016/07/03(日) 21:08:34.42 ID:HMesxzsu0
『本当のところ、成功するなんてこれっぽっちも思っていません』
『失敗する可能性の方が断然大きいです』
『でも、それでも……僕らは行きます』
『僕だって、彼女を助けたい気持ちは一緒ですから』
そう告げて、一之瀬は通信を切った
小林が切れた回線に何度も呼びかけるが反応は無い
仙田と一之瀬は完全に自分の指揮下から離れてしまった
「少尉、すぐにでも彼らを止めてください!」
「あれじゃあ、自殺行為だ」
操艦の命を下されていた井上が意見を述べる
他の船員たちも同じ意見らしい、彼を諌めようとする者はいない
「通信が完全に拒否されています」
「こちらからの応答を受け付けません」
続けて、小林が通信不能を知らせる
もはや自分たちには彼らを説得する術は無いようだ
564: ◆pOKsi7gf8c 2016/07/03(日) 21:17:08.16 ID:HMesxzsu0
(もう無理だな)
それが今の状況の率直な感想であった
いったい何が無理なのか、自分でもよく分かっていない
2人を説得することなのか、ここから無事に帰還することなのか、それても作戦目標を達成することなのか
ただ、ひとつだけハッキリ言えることがあるとすれば……
「これ以上、自分を騙すのは無理だ」
ということだった
「少尉……?」
突拍子もない言葉に驚いたのか、気の抜けた声で井上が聞き返してくる
しかし、それを無視して井上に命令を下す
「両弦機関停止」
「今すぐ船の速度を落とせ」
突然の豹変に、事態が飲み込めていないらしい井上は困惑した顔でこちらを振り返る
だが、そんな様子を気にせず、再び船を減速させるように急かす
さっきと言っていることが違うと井上が反論すると、
「未だに敵の射程圏内です」
「ここで船を減速させるのは危険です」
レーダーサイトと外を交互に観察していた大久保も口を開く
565: ◆pOKsi7gf8c 2016/07/03(日) 21:22:52.62 ID:HMesxzsu0
そんなことは言われなくても分かっている
だが、あの2人が意地を見せたのだから、自分もそれに応えてやられなければならない
少なくとも、彼らが無茶をしてくれたからこそ見えた光明があった
「皆、悪かった」
大きく顔を上げ、皆の顔を眺める
一様に疲れをにじませ、不安に包まれた表情に包まれていた
「こんなことになってしまったのは俺の所為だ」
「でも、俺は本条大尉みたいに器用には生きられないらしい」
船員たちの顔に驚きの色が映る
それも当然だろう、何の脈絡もなしに指揮官が独白を始めるのだから
井上が何か言いたげな顔をしているが、それを横目に先を続ける
「気づかないうちに自分自身を欺いていたようだ」
「船を任された者として皆の安全を保障しなければならない」
「そのためには分を超えた危険を冒してはならないし、被害を最小限にとどめることが最優先であると」
566: ◆pOKsi7gf8c 2016/07/03(日) 21:26:22.93 ID:HMesxzsu0
最初は驚いていた乗組員たちの顔が段々と神妙になっていくが良く分かった
そんな彼らの視線を一身に感じながら続ける
彼らがどんな反応を示すにしても、全てを話さずには居られなかった
「だが、本当の俺はそんなことを望んでいなかった」
「1人の軍人として、兵器の扱いを受けている彼女たちを助けたい」
「ただそれだけの想いでここまでやってきた」
「それは今救命艇で海に出ようとしているバカ2人と一緒だ」
「だから、俺は……」
そこで言葉を切って、再び皆の顔へと目をやる
相変わらず疲れが表れている顔ぶれだったが、それでも誰一人として顔を伏せる者はいなかった
皆が、まっすぐにこちらを向いて次の言葉を待っている
その期待に肌で感じつつも、足元に脱げ落ちたままだった軍帽を拾い上げる
そして、その帽子を被りなおすと、
「何としても彼女を助ける」
「それが俺の、軍人としての意地だ」
一息に言い放った
568: ◆pOKsi7gf8c 2016/07/18(月) 20:51:08.45 ID:+WK9hsMD0
数秒の沈黙が流れる
座っている者、立っている者……皆が自分が発した言葉の意味を探るように押し黙っていた
その表情からは肯定か否定かは読み取れない
誰一人として反応がない状況に、このまま推し進めてよいかを見失う
(無理、だったか……)
そんな思いに駆られそうになったとき
「両弦機関停止」
「救命艇が発艦できる速度まで減速します」
操舵手の言葉が沈黙を破った
同時に急制動がかかり、船は減速に転じた
急激な加速度の変化によって生まれた慣性力が体を前方へと引き寄せる
とっさに近くの手すりを握って、何とか前向きに力へ抗う
「発艦処置を行っている救命艇に警告を出します」
「個別無線が封鎖されているので、全艦放送にて勧告を行います」
続いて、小林が全艦放送の次第を伝える
そんな彼らの行動に感化されたのだろうか、他の船員たちも続々に作業へと戻っていく
気付けば、静まり返っていた艦橋へ活気が戻ってきていた
569: ◆pOKsi7gf8c 2016/07/18(月) 20:56:28.26 ID:+WK9hsMD0
「これは……」
その光景に言葉を失い、茫然と眺める
水を得た魚のように動きはじめた船員たちの姿に、喜びよりも驚きの方が大きかった
「あの2人、口でどうこう言うのは苦手ですからね」
そんな自分を見かねたのか、誰かが声をかけてきた
その方を向には、軽く口角を上げた大久保の顔があった
こちらの視線に気づいた彼は、井上達の方を目で示し、
「アレで少尉の気持ちに答えたつもりなんですよ」
冗談まじりにそう続ける
少し困ったように眉をひそめるその顔は、苦楽を共にしてきた仲間を見守る顔であった
「しかし、少尉……」
だが、友に向けられていた眼差しは直ぐにこちらへと差し向けられる
「一体、どうするつもりですか?」
観測手らしく鋭い目つきでこの後について問い、
「このままでは、自分たちの敗色は濃厚です」
「上手く立ち回ったとしても、まともに戦えば大破は免れません」
「こんな状況で勝ち目なんかあるんですか?」
続けざまに現状と予想される被害を報告してきた
しかし、生憎とそんなことはとうの昔に分かっていることだ
そもそも勝ち目があるのならば、最初から真っ向勝負を挑んでいる
などと、言い返したい気持ちが出てくるが、ぐっと抑え込んで首を横に振った
570: ◆pOKsi7gf8c 2016/07/18(月) 21:00:51.34 ID:+WK9hsMD0
「では、まさか……」
こちら答えに大久保は動揺を隠せないようだ
何かを勘違いしているのだろうか、その顔は落胆と絶望の色で染まっていく
だが、希望が無いのなら余計な事などせず大人しく逃げだすつもりだ
勝手に悲観している目の前の男の考えを正すべく、
「俺達が何をしに来たか忘れたか?」
逆に別の質問を浴びせかる
「な、 なにを…?」
突然の質問に、大久保はその意図が理解できないといった風に聞き返す
内心穏やかでない彼には、自分の発した言葉の意味を探る時間は無かったのだろう
それには構わずに先を続ける
「確かに、俺達には勝ち目はない」
「1対1での戦闘は勝利はほぼ絶望的だ」
「しかし、少尉」
「だからと言って……特攻など」
案の定、おかしな勘違いをしていたらしい
彼の頭の中では捨て身の特攻をしかける算段になっているようだ
初めにはっきりと言っておくべきだった、と反省し、
「何を勘違いしているのか知らんが」
「俺は特攻なんてするつもりは毛頭ない」
「それだったら、素直に尻尾を巻いて逃げている」
その考えを訂正する
571: ◆pOKsi7gf8c 2016/07/18(月) 21:02:58.97 ID:+WK9hsMD0
「では、さっきの意味は……」
それでも納得がいっていない様子で、怪訝な表情でこちらを見つめている
問答を続けているうちに、再び辺りがしんとし始めた
手こそ動かしているものの、他の船員たちも話の内容が気になっているようだ
(下手なこと言ったら、殴り倒されそうだな)
腹が決まったおかげか、そんな状況をどこか他人事のように捉えていた
だが、そんな悠長な事は言っていられない
自分が何を思ってこんなことを言いだしのか、ここではっきりと答える必要がある
そう確信し、深く息を吸い込む
周囲もその気配を察して、息を飲む
「俺がこんな指示をしたの理由はひとつ」
「敵を倒すためじゃない、仲間を助けるためだ」
そう言い切ると、艦橋は静まり返る
多くの者は動かしていた手を止めてこちらに向いたまま静止する
正面の大久保も沈黙していた
舵輪の前の井上と通信盤を操作する小林は気を向けながらも作業を続けていた
皆の注意が自分へ向いたことを確認し、先を続ける
572: ◆pOKsi7gf8c 2016/07/18(月) 21:04:49.20 ID:+WK9hsMD0
「繰り返すが、今回の作戦目標は消息を絶った艦娘の捜索と救助」
「敵との戦闘はそこには含まれていない」
「目標の遂行こそ、俺達軍人が真っ先に考えるべきこと」
「あの2人は知ってか知らずか、それをよく分かっていた」
「だから、俺も軍人らしく作戦目標を第一に考える」
ここまで聞けば、皆自分たちがどうするべきなのかは理解したのだろう
聞き耳を立てていた者はそれぞれの作業の続きへと戻り、大久保もしたり顔でこちらを見てくる
それを横目に、仙田たちへ発信を続けている小林に回線を回すように指示する
彼も何をするかは察したようで、それまで使っていた通信をそのまま明け渡してきた
「こちら艦橋の君嶋」
「至急、皆に伝えたいことがあって連絡をした」
スピーカーから流れる自分の声がやけに響く
まだ何処かで自分の下した決断に迷っているのかもしれない
その迷いを振り切るようにマイクを握る手に力を込めると先を続けた
「報告が遅くなってしまったが」
「現在、本艦は新手の敵から長距離砲撃を受けている」
「そして、ここまで長距離の砲撃能力を持つ敵艦を照合した結果」
「現状の我々の戦力で敵を沈めることは難しいと判明した」
「そこで現在、敵の砲撃から逃れるべく北東方面に進行中だ」
新手の敵の出現と現在の進路、仙田の件で延び延びになっていた報告を行う
この程度の事は現場の船員たちなら何も言わず分かっているだろう
しかし、報告を省けばそれだけ皆の不信感を買ってしまう
彼女を助けるためには、この船に乗る全員の力が必要不可欠だ
573: ◆pOKsi7gf8c 2016/07/18(月) 21:06:16.60 ID:+WK9hsMD0
「当然だが……このままでは当初の目的である味方の救出は絶望的だ」
「本艦を見失った敵艦の狙いは救出目標へと移る可能性が極めて高い」
「そこで、敵の陽動と味方の救出を同時に決行する」
敵の陽動と味方の救出の二正面作戦
救命艇を用いて彼女の救出を行い、それが終了するまで捨て身の攻撃を決行する
奴らも捨て身で自分たちのような戦力外を相手にするような馬鹿ではない、主力級が単独で深手を負うことがあれば、撤退を選択するはずだ
敵がこちらの思惑通りに行動する保証も、救命艇が彼女に辿りつける保証も、自分たちが持ちこたえられる保証もない、無い無いづくしの大博打だった
だが、それでも不思議と失敗する未来は見えなかった
仙田の暴走で思いついた時から、心の中でこれと決まっていたのかも知れない
作戦のあらましを説明し、再び通信機を執る
「最後に言っておくが……」
「指揮官としての俺はこの作戦に反対だ」
「陽動とはいっても、敵主力級に捨て身の覚悟で攻撃することは変わりない」
「はっきり言って……ここに残った者に命の保証は出来ない」
自分の声が予想以上に冷たく響く
死の宣告とは、思っているよりも重く冷たいモノなのかと再認識される
だが、それでもここで話を切るわけには行かない
通信機を握る腕に力を込めながら、館内放送を続ける
574: ◆pOKsi7gf8c 2016/07/18(月) 21:08:51.56 ID:+WK9hsMD0
「だが、それでも……俺は彼女の救出を諦めることが出来ない」
「ここから先は防衛隊の士官としての行動じゃない、一兵卒のわがままだ」
「付き合いきれない者は降りていってくれて構わない」
「幸い今のところ敵は静観を決め込んでいるらしい」
「今ならまだ救命艇で船を離れることが可能なはずだ」
「5分の猶予をつくる……それまでに降りる者たちは船を下りて行ってくれ」
手元のボタンを押して通信を切る
無線機を静かに置くと、辺りを見渡して船員たちの顔を眺めながら口を開く
「……この通りだ」
「さっきの放送はお前達も例外じゃない」
「降りると言うなら、ここから出て行ってくれて構わない」
しかし、それに答える者は誰も居ない
規則正しい計器の動作音だけが沈黙を破っていた
575: ◆pOKsi7gf8c 2016/07/18(月) 21:18:59.18 ID:+WK9hsMD0
「本当に誰も居ないのか?」
「何度も言うが、ここから先は俺の勝手な行動だ」
「嫌な奴は今すぐ降りろ! 命令だ」
微動だにしない船員たちに痺れを切らし、念押しをする
本当のところを言えば全員いなくなってくれた方が気が楽だった
そうすれば、自分は心置きなく死ねる
身勝手な言い分だが、自分の決断で彼ら危険に晒したくなかった
だが、その思惑は見事に裏切られてた
艦橋の船員は誰一人として辞退せず、甲板からも離脱するという報告は無い
もう一度、最後の通告しようと通信機に手をかけた矢先、
「少尉、仙田一等の救命艇の切り離しが完了しました」
船員の1人が仙田と一之瀬を乗せた救命艇が船体と切り離されたと報告する
それに続いて、小林が仙田からの着信を知らせる
急いでい繋ぐように指示すると、数秒後に仙田の声が聞こえてきた
『こちら……仙田』
『救命艇からアンタの放送を聞たよ』
「……そうか」
その声は、命令を無視して飛び出したとは思えないほど落ち着いた口調であった
576: ◆pOKsi7gf8c 2016/07/18(月) 21:21:48.17 ID:+WK9hsMD0
『悪かった、勝手に飛び出したりして』
『でも、こうでもしなきゃアンタは動かないと思ったんだ』
「気にするな」
「俺も今、似たようなことをしている」
お互い様だな、と仙田は軽く笑いかけてくる
ああ、と返事をするとこちらも笑い返す
『じゃあ、そろそろ……』
ひとしきり笑い終えた頃に仙田が別れを切り出す
それに待ったと声を掛けて止めて、その言葉を遮る
どうした事かと不審げな彼を尻目に、腰のホルスターへと手を伸ばして先を続ける
「お前から渡されたハンディカメラ」
「まだ、預かったままだった」
「これが終わったら返してやるから、死ぬなよ」
それを受けた仙田の返事は、『そっちこそ』と短く吐き捨てる様なモノだった
苦笑いしながらそれを聞いていると、再び彼から返事が返ってくる
『約束のことは覚えてるだろうな』
『ダメだったらもう一回撮ってもらうぞ』
一方的な言葉に答える間もなく、直ぐに通信を切られてしまった
「仙田一等の救命艇、本艦を離れ救出目標へと直進していきます」
通信の様子を窺っていた大久保が彼の救命艇の発進を告げる
その報告を受け、前方の景色へと目をやる
朝焼けが彩る海に、仙田と一之瀬を乗せた小舟が一艘、波を切って進んでいた
579: ◆pOKsi7gf8c 2016/08/08(月) 20:58:29.24 ID:p+28Bi1I0
仙田たちを見送ってから5分
あれから艦橋へ無線も救命艇が切り離されたという報告もない
動きがあるとすれば、時折り敵が発砲する砲弾が近くの海面に着弾するだけだった
「少尉」
我慢できなくなった船員の1人から、自分を呼びかける声がする
彼の言いたいことは分かっていた
もう十分に待ったのだから、戦闘を再開しろということだろう
「……出て行ったのは?」
しかし、彼の求める返答はせず、発艦した救命艇の数を尋ね返す
「仙田一等の一艘のみです」
目の前の計器を軽く確認した彼はきっぱりと答える
想定してどおりの返答
彼に聞くまでもなく分かり切っていたことだ
「分かった。ありがとう」
彼に礼を言い、今度は小林の方へ目をやる
いつ入電がきても良いように待機していた彼は気配を察してこちらを振り向く
そして、こちらが問いかけるまでもなく
「いえ……」
首を横に振る
580: ◆pOKsi7gf8c 2016/08/08(月) 20:59:44.60 ID:p+28Bi1I0
「……そうか」
その返事に短く嘆息を漏らし、天井を仰ぐ
どうやら、この船に乗っている人間は余程の命知らずか根っからの軍人らしい
彼女の救出へ向かった仙田と一之瀬以外、誰も船から降りようとしなかった
果たしてこれは己の人望のなした業なのか、それともただでは沈ませないという皆の意地の表れなのか、本当のところは分からない
だだ、1つだけハッキリしていることがあるとすれば、
(絶対に生きて帰ってみせる)
という決意が芽生えたことだった
「少尉!」
不意に井上がこちらの名を呼ぶ声がする
呆けていた意識を元に戻して前方に向き直る
「ご命令を」
視線の先には、半分こちらへと向き直った井上の横顔が映った
もう少しぐらい黄昏ていたかったところだが、そうも言ってはいられないらしい
自分の指示を待ちわびている皆の気持ちに応えるべく、口を開く
「進路、80度から260度」
「両弦全速前進」
581: ◆pOKsi7gf8c 2016/08/08(月) 21:00:37.59 ID:p+28Bi1I0
「了解! 進路80度から260度」
「両弦全速前!」
大声で指示の復唱をした後、井上は舵輪を右に回す
ガラガラと舵輪が右に回転するにつれて船体が左へ傾いていく
船を操る男の横顔には流れて固まった血の後が見える
だが、そんなことなどお構いなしに彼は自分の作業に取り掛かっていた
その姿に元気を貰いながら、これから始まる戦闘へと頭を切り替える
「大久保!」
とにかく敵の状態を確認するため大久保へ声をかける
「敵は……っ!」
しかし、その先は激しい爆発音によって中断させられる
それが敵の砲撃だと理解する前に、強烈な衝撃が艦橋を襲う
猛烈が揺れに足を取られて倒れそうになるが、とっさに近くの計器盤にしがみ付き回避する
「砲撃です!」
間髪入れずに大久保の叫び声が聞こえる
582: ◆pOKsi7gf8c 2016/08/08(月) 21:03:01.24 ID:p+28Bi1I0
「後部甲板付近に被弾!」
「詳しい被害は……不明です」
どうやら船の後部に被弾したようだ
だが、大久保の説明は要領を得なかった
「今の攻撃で通信の一部が遮断されました」
「後部甲板と連絡が取れません」
そんな大久保の報告に小林が補足する
砲撃で通信がやられて現場の状況を確認出来ないようだ
「被害の確認を急げ」
「連絡が付く甲板の隊員を後部甲板へ向かわせろ」
「負傷者は船倉に搬送、出火している場合は直ちに消火作業に移るように」
取りあえず、被害の状況の確認と拡大防止の指示を出して小林に取りつがせる
そして、観測手に仙田たちの被害を確認をさせた
「仙田一等の救命艇は未だに健在」
「目標海域へとまっすぐ進行しています」
583: ◆pOKsi7gf8c 2016/08/08(月) 21:10:13.55 ID:p+28Bi1I0
彼の報告にひとまず胸を撫で下ろす
この作戦の肝はあの2人と言っても過言ではない
彼女の救出に向かっている2人を真っ先に狙われては、そもそもここで敵と戦う意味が無くなってしまう
敵がこちらに攻撃を仕掛けてきてくれたおかげで、その心配は無くなった
しかし、だからと言って戦況が有利という訳でもなかった
「第2射、来ます!」
大久保の声によって意識が頭の中から現実に引き戻される
同時に、前方左舷側に大きな水柱がそびえ立った
水柱の破裂音は衝撃となって押し寄せ、腹の底へと響いた
(……本格的に動き出してきたか)
耳をつんざく轟音に、心の中で悪態を付く
今まで静観ぎみだった敵が、ついに本気でこちらを仕留めに掛かってきた
撤退命令を下した後の敵の砲撃間隔は明らかに広がっていた
しかし、敵へ向かって舵を切った途端に、一転して攻勢を強めてきた
どうやら向こうも砲撃をするしか能がない単細胞ではないらしい
分かってはいたが、今度の敵は一筋縄では行かないようだ
584: ◆pOKsi7gf8c 2016/08/08(月) 21:18:47.37 ID:p+28Bi1I0
反撃の機会を探るため、彼我の状況をもう一度確認する
「大久保、敵との距離は?」
「南西に約8キロ」
「本艦から向かって右舷側、双眼鏡で確認できます」
「旋回後はどれくらいまで近づく?」
「敵がこのままの進路を取るとすると……」
「前方に4キロメートルほどです」
左舷前方4キロ、日下部なら主砲を必中させることのできる距離だ
このまま戦況が変わらなければ、一撃必殺の砲弾を敵に浴びせることも可能である
もちろん、こちらが必中の距離であるなら敵からの被弾の可能性も跳ね上がる
だが、それでも敵に有効打を与えるチャンスであることには変わりない
むしろ敵にここまでの接近を許してしまった今となっては、何かしらの被害を与える必要がある
そこで問題となるのは、有効射程へと接近するまでにかかる時間だが……
「井上、旋回までにどれぐらいかかる?」
判断に必要となる意見を求め、操舵手に質問を投げかける
「正確には分かりませんが……」
「4分はかかると思います」
突然の質問に戸惑いながらも、井上は半面をこちらに向けながら答えを返す
彼がきっぱりと答えるということは、この4分というは信用してよいい数字だろう
585: ◆pOKsi7gf8c 2016/08/08(月) 21:21:27.32 ID:p+28Bi1I0
『4分』という、彼の答えに思考を巡らせる
今、自分たちを乗せた船は南西方向に向けて旋回中だ
この進路を取り続ければ敵の右側面に突っ込む形となり、主砲の必中圏内に敵を捉えることが出来る
だが、旋回をしている間、敵はこちらの右側面を見ながら行動することになる
つまり、旋回が終わるまでの4分間、こちらの土手っ腹を敵艦に晒すことになるのだ
(どうにか、それまで敵の砲火を凌げれば)
敵に接近さえできてしまえば方法はいくらでもある
いくら敵がこちらを遥かに凌駕する機動力を持っていたとしても、面制圧力と火力ではこちらが勝っている
敵の主力級なだけに油断はならないが、近距離ならば機動力を持った敵にも何かしらの有効打を与えられるはず
そうなれば、敵がよっぽどの戦闘狂でもない限り交戦を打ち切るはずだ
奴らがどんな考えで船を動かしているのかは分からないが、作戦外の戦闘で主力艦が大破する危険を冒してまで戦闘を継続するとは考えにくい
「砲撃確認! 着弾します」
大久保の声に考えを妨げられる
その直後、割れんばかりの轟音が鳴り響き、打ち上げられた波が砕ける飛沫の音が聞こえる
「右舷後方に着弾を確認!」
「本艦に被害はありません」
敵の砲撃は一層の激しさを増している
現状では小破状態で留まっているが、次に船体に直撃を受けたら戦闘不能に陥る公算が高い
つまり、この後の4分をどうやり過ごすかがこの場を切り抜けるカギだろう
586: ◆pOKsi7gf8c 2016/08/08(月) 21:22:47.45 ID:p+28Bi1I0
(やるだけやってみるしかないか)
しかし、そうそう上手い作戦などは思いつくものでは無かった
とにかく行動を起こす以外に、今の自分にできる事は無い
そう思い至ると手元の通信機を手に取り、ある場所へと通信を繋いだ
『……おい! 何だ』
通信をつないで数秒、電話口からは不満げに返事をする壮年の男の声が聞こえてきた
「兵曹長? 森は……」
『悪いが、今は取り込み中だ』
特有の雑音が混じった音声が細切れに聞こえてくる
どうやら、森上等の代わりに宗方兵曹長が応対しているようだ
森が出られな理由も含めて何があったのかを聞いてみた
『さっきの攻撃でこっちも被害があった』
『今は総出で復旧に当たってるところだ』
報告が遅くなって悪かった、と後に続ける
こちらに連絡を取るのもままならなかった状況らしい、兵曹長の声の後ろからは慌ただしく作業する船員たちの声が聞こえている
しかし、気になるのはミサイルの状態だ
もしここで使用不可能ともなれば、切り札が無くなったも同然となる
そうなれば敵に損害を与えることはおろか、生きて帰ることすらままならなくなってしまう
587: ◆pOKsi7gf8c 2016/08/08(月) 21:24:30.37 ID:p+28Bi1I0
「それで……ミサイルの状況は?」
努めて冷静にミサイルの状態を尋ねる
だが、直後に大久保が敵の砲撃を伝える声が耳に入り、大きな炸裂音が鳴り響く
船体が大きく揺さぶられるが、振動は軽微、すぐさま外れたとの報告が入る
『……悪い』
それに気を取られていると、噛みしめるような声が通信機から流れてくる
その声色にどういう状態であるかを薄々感じ取るが、黙っては居られない
どういう事かと問い詰めると、兵曹長は重い口を開いた
『発射口のハッチがやられた』
『現状でミサイルの発射は不可能だ』
キッパリと無理だと言い渡されるが、そうすぐには納得できない
食い下がってどうにか使えるようにできないかと尋ねるも、
『今、総出でハッチの蓋を退かしてる』
『そいつが終わらない限り、発射は無理だ』
技術屋らしく不可能だとバッサリ切り捨てられる
588: ◆pOKsi7gf8c 2016/08/08(月) 21:25:17.80 ID:p+28Bi1I0
『とにかく、復旧は急ぐ』
『後はそっちでどうにかしてくれ』
兵曹長もこちらに構っていられないのだろう、返答を待つこともなく通信を切られた
耳に当てた通信機から流れるノイズはプツリと途切れ、右手に冷たい鉄の感触だけが残る
「クソっ……」
柄にもなく悪態を付いた
切り札たと思っていたミサイルが事実上使用不可能となったのだ
これでは奴に一泡吹かせるどころか、生きて帰れるかも怪しい
考えなしに敵に突っ込もうとしている自分の見通しの甘さに辟易しながら、拳を握りしめる
「敵砲ッ!」
突然、誰かが叫んだ
顔を上げると、目の前に黒い物体がこちらへ飛び込んでくる
(来る……!)
そう思った時には、もう遅かった
何かがはじけ飛ぶような音が聞こえ、強烈な振動に襲われる
体がふわり宙に浮き、すぐさま艦橋の床へと叩き付けられた
590: ◆pOKsi7gf8c 2016/08/27(土) 20:42:57.02 ID:lyQ0MxM40
(……生きている?)
冷たい床の感覚から、生の実感を得る
今度こそ死を覚悟しただけに、少しの間虚を突かれて、その場に伏していた
次第に打ち付けた右肩がじんじんと痛み始め、現実に引き戻される
痛めた肩を庇いながら、近くの計器盤を支えに上体を引き起こす
「……少尉」
声がする方には頭を押さえた大久保の姿があった
今ので切ってしまったのだろうか、右頬から赤い血を流していた
「敵弾はブリッジ右側面に着弾」
「損傷、軽微……不発弾です」
こちらの顔を確認した彼は敵弾の不発を報告をする
どうやら、まだ天には見放されていない
本来なら致命の一撃であるが、運よく不発弾で一命を取り留めた
「少尉! 非常電話です」
ひとまず生き残ったことに息を付くと、小林の声が響く
その声に周りの船員たちも我に返ったのだろうか、静まり返っていた艦橋がにわかに活気づく
井上も、回るに任せていた舵輪をその手に掴み、船の進路を修正し始める
そんな様子を横目で確認しながら、足早に小林の元へと向かった
591: ◆pOKsi7gf8c 2016/08/27(土) 20:44:09.42 ID:lyQ0MxM40
「どこからだ?」
「左舷の砲門です」
非常電話とは、有事の際に艦橋と直接やりとりのできる通信設備のことだ
設備自体は船が改装される前から備え付けらていたものだが、複数個所と同時に連絡を取れないという点で後付けのもに劣っている
わざわざこの電話を使う理由として、通常通信が使えない状況にあるか非常電話でなければならない必要があるなどが考えられるが
どちらにしてもこちらに何かを伝えたいというのは確かだ
小林に取り次ぐように頼むと、通信機の脇に備え付けられた非常電話の受話器を取る
『君嶋少尉ですか?』
受話器をフックから外すと、向こうから切羽詰った声が流れだす
聞き覚えのあるその声の主に
「野田か?」
と返すと、
『そうです』
肯定の返事が返ってきた
やはり彼であったことを確認し、なぜ非常電話で艦橋にかけて来たのかと問う
592: ◆pOKsi7gf8c 2016/08/27(土) 20:45:42.93 ID:lyQ0MxM40
『……済みません』
『他に使えそうなものが無くて』
本来の通信機が破損してため、やむなくこの回線を使用したようだ
そんなことを少し声調を落とした声で話し始めると、
『少尉、このまま進路を南に固定してください!』
『それなら奴を出し抜けます』
突然強い口調で進路の指示をしてきた
「……どういう意味だ?」
いきなり発せられた彼の言葉に、その真意を探る
突然の要求でもあったが、何よりも彼が要求していることの意味が分からなかった
撤退を進言するにしても、南進では敵から逃げることは難しい
それに戦うべきでないというなら、仙田と一之瀬が出ていた段階でこの船を下りているはずだ
逆に、真正面からやり合うべきだという意見でも、このまま敵に肉薄して主砲で仕留めるのは間違ってはいない
なぜ進路を南に変更する必要があり、どうしてそれが敵を出し抜くことになるのか、全く分からなかった
『朝焼けの空を見て思い出しました』
『日の出前のこの時間、この海域には強い北風が発生するんです』
『それが起こるのがおおよそ日の出の2分前……』
『つまり、今なんです!』
593: ◆pOKsi7gf8c 2016/08/27(土) 20:47:57.79 ID:lyQ0MxM40
その風に乗れば予想よりも早く敵に接近することができ、接近戦を仕掛けられる
そういうことを野田は言いたいのだろう
だが、それには大きな問題があった
「……確証はあるのか?」
本当に、今この時、その風は吹くのか
敵へ肉薄しようと大きく進路を変更している今、船の速度を変えるほどの速度を出すことが出来るのか
それが問題であった
『それは……』
電話口の野田はこちらの質問に言葉を詰まらせる
当然だろう、自然の事など誰にも分からない
いくら前例があるとしても、本当にそうなると断言することは出来ない
そんなことは彼も分かっているのだろう、完全に黙り込んでしまった
「なら、後は決まりだな」
数秒の沈黙の後、そう言って会話を終わらせる
野田も『仕方ない』と諦めてしまったのか、何も言ってこない
しかし、その気持ちは直ぐに裏切られるだろう
594: ◆pOKsi7gf8c 2016/08/27(土) 20:55:12.33 ID:lyQ0MxM40
「お前の案、使わせてもらうぞ」
上官の言葉に虚をつかれたのか、野田は珍しく間抜けな声を出す
どうやら完全に思惑が外れたようで、どうしてそうなるのか分からないという風だった
「この戦い自体がどうなるか分からないんだ」
「だったら、少しでも勝率の上がる策を取る」
「それが起こるかどうか分からないモノでも、やってみる価値はある」
『違うか?』と意地の悪い口調で聞いてみる
『まぁ……そうですね』
してやられたといった感じの野田は生返事で答える
その返事を聞いて、自然と口角が上がる
ミサイルが使えなくなって万事休すかと思ったが、まだ終わっちゃいない
そう考えると、現状も悪くない気がしてきた
『後の事はお任せます、少尉』
『自分は自分にできる事をやります』
『だから、ヤツに目にもの見せてやってください』
そんな気持ちを見透かされたのか、野田には珍しい軽口を利いてきた
595: ◆pOKsi7gf8c 2016/08/27(土) 20:57:57.82 ID:lyQ0MxM40
『任せとけ』と返事をすると、そのまま受話器を置いて通話を終了させた
すぐ隣に座っていた小林に軽く礼を言い、艦橋の正面を振り向くと、
「井上!」
舵輪を握る操舵手の名を叫んだ
「了解! 進路180に変更」
「取舵、3度へ修正します」
名前を呼ばれた井上は何の迷いもなく、進路変更の確認を復唱して応じる
いつ命令を出したのかと戸惑うが、冷静に考えればおかしいことは無かった
野田が使った非常電話は有事の際に艦橋の全ての人間へと情報を伝えるために、その音声はスピーカーによって拡散される
受話器から直接野田の声を聞いていたため気付かなかったが、会話の内容は艦橋の人間すべてに筒抜けだったのだ
「少尉!」
続いて、背後から自分の名を呼ぶ声が聞こえる
声のした方向を振り向くと、気象観測を担当している船員が声を上げる
「突風を計測しました」
「北方から風力6! 非常に強い風です」
彼も野田の通信を聞いていたのだろう、興奮を抑えきれないといった風に報告を重ねる
分の悪い賭けではあるが、こちらにも運気は向いてきたようだ
宗方兵曹長の報告から重く沈んでいた艦橋の空気が変わってきていた
596: ◆pOKsi7gf8c 2016/08/27(土) 20:58:39.55 ID:lyQ0MxM40
(後は、敵の弾が命中しないことを祈るだけか)
そう独りごちして、自分の持ち場へと戻ろうとしたとき、
「少尉、試算が出ました!」
大久保の声が艦橋に響く
「この風よって艦の速度が上昇」
「あと1分で、敵から4キロメートル地点へ到達します!」
その報告は野田の想定通りの結果を伝えていた
風の力によって敵に肉薄するまでの時間……
つまり、敵の的になる時間が減らされたことを証明していた
(よし……これなら行ける!)
そう確信して、砲塔の日下部へ指示を送るべく小林に指示を出そうとした瞬間、
「来ます!」
大久保の叫びと共に強烈な炸裂音と揺れが体を襲う
この衝撃は何処かに被弾したのだろう、ここ数時間で何度も受けているが未だに慣れない
崩れた体制を戻して辺りの状況を確認する
艦橋は相変わらずガラス片が散らばっているが致命傷は免れている
だが、正面の窓に目をやると、甲板から黒煙が上がっているのが目に入った
その光景に背筋に冷たいものが走る
597: ◆pOKsi7gf8c 2016/08/27(土) 21:00:16.11 ID:lyQ0MxM40
「大久保ッ!」
反射的に大久保の名を叫ぶ
もし、今の攻撃で主砲がやられたらすべては水泡に帰す
敵に一矢を報いるどころか、この船の生存すら危ぶまれる事態だ
「ぜ、前方甲板に着弾」
「被害は……」
このことは彼も分かっているのだろう
その顔に冷や汗を滲ませながら、被害の確認を急ぐ
だが、時間は待ってはくれない
焦りが苛立ちに代わり、拳を握りこむ力が強くなってきたころ、
「少尉! 砲塔から通信です」
小林が日下部のいる砲塔からの入電を知らせてくる
「今すぐ繋げ!」
半分怒鳴るように小林に命令すると、目の前の通信機に取り付けられていたマイクロフォンを引っ手繰る
『……砲塔の日下部です』
艦橋のスピーカーから日下部の声が聞こえる
少し音声が悪いが、どうやら大事は無いらしい
日下部の無事にひとまず胸を撫で下ろしながら、砲塔の状況を知らせるよう詰問する
598: ◆pOKsi7gf8c 2016/08/27(土) 21:01:07.17 ID:lyQ0MxM40
『今の砲撃で砲塔の一部が損壊した様です』
『主砲の発射には影響ありませんが、これ以上右へ旋回できません』
彼の報告は最悪の事態が発生したことを伝えるものだった
現在、この艦は船首を南に向けて進んでおり、南西方向の敵に真東からの接近を試みていた
つまり、このまま敵の砲撃を掻い潜り、右舷正面4キロの地点に居る敵へと一斉攻撃を加えることを想定している
しかし、右舷側に旋回できないとなれば、主砲の発射機能はそこ縄ていないとしても、それと同等の意味合いを示していることになる
「……っ」
言葉にならない悔しさが自分の拳を堅く握りしめさせる
スピーカー向こうの日下部も、報告をしたきり黙りこんでいる
彼も自分と同じく、どうしようもない悔しさに苛まれているのだろうか?
ここまでなのか? 本当にもう……何もできないのだろうか?
自問自答を繰り返すが答えは出てこない
マイクロフォン掴んだまま通信機に両手を付き、がっくりと首を垂れる
「ここまで、か……」
自然にそんな言葉が漏れる
脇で控えている小林も沈黙を保ったまま何も言わない
全てを諦めて思考を停止させようとした、その時、
「まだだ!」
誰かの叫ぶ声が艦橋に響き渡った
600: ◆pOKsi7gf8c 2016/09/24(土) 20:09:21.31 ID:tZaL5E9A0
「まだ諦めるには早い」
こちらの考えを見透かすように、その声は語りかけてくる
先ほどとは打って変わって穏やかな口調には確かな自信と静かな闘志を湛えていた
ハッと頭を振り上げて、声がした方向へ振り向く
「そうですよね? 少尉」
そこには口角を上げてこちらを見返す井上の姿があった
朝焼けに染まったその顔は、まだ勝利を諦めていない戦士の顔だった
その顔に敗北を考えることの愚かさを悟り、彼に全てを託す決心をした
「井上、後はお前に託す」
「好きなようにやってみろ」
気づけばそんなことを言っていた
ここまで来ると完全に指揮官としての仕事を放棄しているといっても過言ではないだろう
だが、四の五の言っている時間は無かった
敵が必中の射程圏に入るのは直ぐであり、ここで敵に肉薄できなければ持ち前の機動力で煙に巻かれてしまう
「了解!」
こちらの言葉に力強く返事を返した彼は、通信手へと同僚の通信手へと向き直る
「小林、投錨要員を手配してくれ」
「チェーンカッターを持たせて、右舷側の錨をおろせ」
601: ◆pOKsi7gf8c 2016/09/24(土) 21:23:51.84 ID:tZaL5E9A0
小林は一瞬戸惑った表情を見せるが、直ぐに目の前の計器を慌ただしく操作し始めた
「カッターは後回しでもいい」
「とにかく右舷の錨を下ろさせるんだ!」
その後ろ姿に、井上は付け加えるように指示を繰り出す
「まさか、お前……」
ここに来てようやくこの男がやろうとしていることが分かってきた
いきなりの投錨命令とアンカーワイヤの切断を想定したチェーンカッターの携行指令
この2つから導き出される答えはただ1つ
錨の抵抗力を利用した右舷側への急速回頭、それしか考えられなかった
「ええ、そうです」
彼も上官が自分の考えに思い至ったことには気づいているだろう
しかし、井上はただ肯定の返事を返すのみで、あっけらかんとしている
確かに主砲が旋回できないのなら船体の方を回頭させれば良いというのはわかる
だが、それは……
「……かなりの大博打だぞ」
彼の考えに対する率直な感想が言葉に出ていた
だが、それは井上にとっても分かりきっていることでもあったのだろう
顔色ひとつ変えずに『これしかありません』と言ってのけた
602: ◆pOKsi7gf8c 2016/09/24(土) 22:37:11.37 ID:tZaL5E9A0
おまけに、『それに……』と付け加えながら、
「博打を打ったのは少尉の方が先ですよ?」
と本気だか嘘だか分からない冗談を口走る
そう言われてしまったら、もう返す言葉もない
迷いを振り切った面持ちで前を見つめる彼に、『そうだな』と応じる他なかった
丁度、井上とのやり取りが終わった頃、
「配置に付いたぞ! 井上」
こちらのやり取りを見計らったかのように、小林が投錨準備の完了を知らせる
「了解、投錨開始の指示は俺が出す」
「その場で待機させてくれ」
舵輪を握った井上は後ろを振り向かずに指示を返す
それを受けた小林も、返事を返して、甲板の作業員へ待機の命令を下した
(俺もこうしちゃいられないな)
再起に燃える井上と冷静に自分の仕事をこなす他の船員たち
そんな彼らの姿を目の当たりにして、再び自分に喝を入れ直す
いつまでも、ここで茫然と戦いを眺めている訳には行かない
今、自分が出来ることは限られているが、それでも何もしないなんてことはあってはならない
そう決心すると、目の前の通信機に引っ掛けられたヘッドフォンを耳に当て、繋がったままであった主砲塔との回線をプライベートに切り替える
603: ◆pOKsi7gf8c 2016/09/24(土) 22:42:13.11 ID:tZaL5E9A0
『あ、ああ……はい』
『聞こえてます』
砲塔の日下部に呼びかけると、少し遅れて返事が聞こえてきた
通信の無事を確認して、今の状況を把握しているかどうかを彼に尋ねる
『まぁ、何となくは……』
問いかけを受けた日下部は、歯切れ無く言葉をにごす
どうやら繋ぎっぱなしにしていた通信から艦橋の様子を拾い聞いていたらしく、おおよそは察しているようだった
しかし、日下部の理解に甘えて情報の齟齬があってはならない
掻い摘んで井上がやろうとしていることを伝えて、これからの想定を話す
「未だに敵は進路を変えていない」
「恐らくこのまま北上してこの艦の背後に回り込むつもりだろう」
「敵が予想進路を変更しないとなると、こちらは真東から敵に接近することとなる」
「つまり、我々が急旋回をした真正面に敵が現れるはずだ」
想定される敵の進路と船の動きを伝えていく
こんなことは言わなくても分かっているかもしれないが、それでも伝えておくことにした
些細な事でも作戦の成功率が上がるならそれで良かった
604: ◆pOKsi7gf8c 2016/09/24(土) 22:45:37.00 ID:tZaL5E9A0
「井上なら必ず敵の正面に船を持っていく」
「だから、お前は……」
『前だけを見てろ、ってことですか』
言いたいこと先に言われてしまい、内心苦笑する
だが、それは彼は自分の考えていることを理解してくれた証拠でもあった
電話口の日下部に『ああ』と力強く返事をしながら、
「後の事は俺達が何とかする」
「お前は目の前の敵だけに集中しろ」
「砲撃は……お前に任せたぞ」
思いつく言葉すべてで日下部を激励する
もっと有益な助言を与えられれば良かったが、他に言葉が見つからなかった
ただ、『俺はお前を信じている』ということが伝われば良かった
『少尉、自分は……』
激励を受けた日下部が何かを言おうと口を開く
だが、その言葉は、
「小林! 今だ!!」
井上が小林に指示を飛ばす声によってかき消された
それは、井上が投錨の開始を小林に指示した声であった
綱渡りを繰り返して何とか生き延びてきた自分たちが、遂に攻勢に出る局面となる
まさに一世一代の大一番が始まろうとしていた
605: ◆pOKsi7gf8c 2016/09/24(土) 22:47:37.46 ID:tZaL5E9A0
「投錨開始! 全員何かに掴まれ!!」
小林の怒声ともいえる警告が発され、海面に何かが叩き付けられたような音が響く
すぐさま船に急激な減速力が働き、体が大きく前に迫り出すのを感じた
目の前の通信機にしがみ付くことで何とか体が持って行かれることを阻止する
「ぐっ……」
急激な減速が生み出す強力な慣性力に晒され呻き声が漏れた
すぐ隣に居る小林も自分と同じ状況らしい、食いしばるような声が聞こえる
「と、投錨を……確認!」
「船体が、右へ傾いています」
艦橋の誰かが、報告を繰り出す
その報告の通り船体が右に傾き、前のめりになっていた体が今度は右へ沈み込む
「今、右舷何度だ!?」
井上が叫ぶ声が聞こえた
どうやら、何度まで回頭出来ているのか聞いているらしい
「現在……面舵39度」
「目標進路まで、後10度だ!」
大久保が返答する声が聞こえる
彼にも相当な加速度がかかっているらしい、その声は息も絶え絶えだ
606: ◆pOKsi7gf8c 2016/09/24(土) 22:49:14.65 ID:tZaL5E9A0
「負けて堪るかッ!!」
井上が咆哮を上げる
そして、渾身の力で舵輪を右へ回し始めた
艦橋には性能の限界を超えた急旋回を警告する警報音が響く
「旋回角度……46!」
「あと少しだ! 井上」
大久保も負けじと計器の数字を読みあげる
努めて冷静さを保っていた大久保だが、ここに来てその報告に熱を帯びる
もう報告と言うよりは井上に対する激励の意味合いの方が強いのかも知れない
「ぐっ……クソっ」
もはや限界まで右に回された舵輪はそれ以上右へは周らず、後は元に戻ろうとするだけだった
その反発力に抗う井上は、両手で1つハンドルを握りこむと全ての体重をかけて舵輪を抑え込もうとする
一歩間違えば舵輪が根元から折れてもおかしくないが、それでも力を緩めない
大久保や他の船員たちの期待に応えようと、渾身の力を籠めて舵輪を押さえつける
旋回が激しさを増し、さらに右舷側へと沈み込むを感じた時、
「船が……船体が傾き過ぎています!」
「これ以上は危険です!」
船員の1人がこれ以上の旋回は無理だと警告する
607: ◆pOKsi7gf8c 2016/09/24(土) 22:51:15.53 ID:tZaL5E9A0
「大久保ッ!」
すぐさま井上は大久保の名前を叫ぶ
「旋回角49度! 行けるぞ!」
対する大久保は計器に示された数字を読み上げ、目標の角度まで到達したことを知らせる
「鎖を切れ! 早く」
観測手の報告を受け、井上はアンカーワイヤーの切断を命じる
小林は繋げたままにしていた回線を使い、その指示を現場の前方甲板へと伝える
「全員! 何かに掴まれ」
指示を終えた井上は衝撃に備えるように警告した後、両手で抑えていた舵輪から手を放す
拘束から解き放たれた舵輪は勢いよく左へと回り始める
船の船首、主砲の砲身が右から、左へと流れていくのが目に入った
それに釣られるように体も左へと引っ張られていく
「ワイヤ切断!」
「総員、衝撃に備えろ!」
小林が叫ぶ
608: ◆pOKsi7gf8c 2016/09/24(土) 22:52:12.31 ID:tZaL5E9A0
直後、砲撃とも聞きまごう爆音と共に、右舷へ沈んでいた船体が跳ねあがった
余りの浮力に足の裏が床から浮き上がるように感じる
そして、すぐさま重力によって艦橋の床に押し付けられる
「ぐっ……!」
押し上げられた臓物に重力が加わり、掠れた呻き声が漏れる
何とか通信機に取りつくことで転倒は免れたが、バランスを崩した船員たちは強かに床に体を打ち付けたらしい
誰かの呻き声が耳に入ってきた
「ワイヤ切断完了」
「被害は……不明です」
大きな揺れが収まると、小林がワイヤーの切断終了を伝える
続けて、
「船体角度、正常に戻りました」
別の船員が船体の角度が危険域から脱したことを報告した
その知らせに皆が胸を撫で下ろしたの束の間、
「敵、深海棲艦を確認」
「肉眼で確認できます!」
決戦の相手が目の前に、水平線に浮かぶ影となってその姿を現していた
610: ◆pOKsi7gf8c 2016/10/23(日) 09:39:40.73 ID:Jj5KE7Sa0
(あれが……鬼)
この距離まで近づいて、初めて敵の姿を目の当たりにする
それは、正しく異形のモノと言って然るべき風貌をしていた
人の姿と見紛う本体と、そこから幾本もの触手のような器官が伸びている
大きく迫り出した背部は、艦娘の艤装にあたる部分だろうか、自身の数倍はある砲が空に向かって突き出していた
『少尉、アレは……』
耳に当てていたヘッドホンから自分に向けて問いかける声が聞こえる
そういえば、日下部との通信を繋げたままにしていたか
いきなりの質問の理由を勝手に納得すると、
「見ての通り、俺達の敵だ」
と目の前の敵を眺めながら返事をする
答えになっていない答えだろうが、自分にも奴が何なのかは詳しく分かっていない
ただ、1つだけ明らかなのは、水平線に浮かぶあの怪物と自分は戦ってきたということだった
「……正面4キロ」
「未だ、攻撃の態勢を崩していません」
日下部との会話に少し遅れて、大久保が敵の動向を報告する声が聞こえてくる
今までレーダーサイトで敵の姿を確認し続けていた大久保だったが、生身の敵の異様さに息を飲んでいるのだろうか
彼の報告にには先ほどまでの覇気を感じられなかった
611: ◆pOKsi7gf8c 2016/10/23(日) 09:40:43.70 ID:Jj5KE7Sa0
「……正面4キロ」
「未だ、攻撃の態勢を崩していません」
日下部との会話に少し遅れて、大久保が敵の動向を報告する声が聞こえてくる
今までレーダーサイトで敵の姿を確認し続けていた大久保だったが、生身の敵の異様さに息を飲んでいるのだろうか
彼の報告にには先ほどまでの覇気を感じられなかった
「俺達はあんなモノを相手に……」
隣からボソリと呟く声が聞こえる
視線を落とすと、通信機の前に腰かけた小林が正面の海を向いて固まっていた
これまでどんな状況でも冷静に自分の仕事をこなしてきた男でも、こればかりは想定外と言うことかも知れない
現実となって目の前に現れた敵の存在感に、皆の士気が衰えていくのが感じられる
だが、敵にとってはそんなことなど構いはしない
「敵艦! 射撃体勢を取っています」
目障りな敵を敵艦を沈めるべく、淡々と射撃準備を整えていた
「砲撃、来ます!」
大久保が警告を発するが、もう自分たちになす術は無い
出来ることがあるとすれば、敵弾が致命傷にならないように祈ることだけだった
そして、次の瞬間には、鼓膜を震わせる爆発音と体が揺さぶれる衝撃が、着弾を知らせてくる
612: ◆pOKsi7gf8c 2016/10/23(日) 09:42:17.17 ID:Jj5KE7Sa0
「左舷砲門付近に着弾」
「火災が……発生しています」
何とか艦橋への被弾は免れたが、祈りも虚しく致命傷を喰らってしまった
艦橋からは甲板から立ち上る黒煙が目に入る
『今の場所は……』
通信機を通して今の報告を聞いていたのだろうか、日下部が呟く声が聞こえる
そこから先は何も言わなかったが、言わなくても分かっていた
砲撃の直撃を受けた左舷砲門は、野田上等水兵の配置
つまり、あの炎の中に野田が居るかもしれないということだった
「アイツなら心配いらない」
「こんなに簡単に死ぬ男じゃないさ」
自分で自分に言い聞かせるように、日下部へ言葉をかける
死なないと思っていても簡単に逝ってしまうのは、下山田の件でよく分かっていた
だが、例え嘘だとしても、仲間が死ぬ未来は想像したくなかった
「今は目の前に敵に集中しろ」
「これ以上、奴の砲撃を喰らったらいよいよおしまいだ」
嫌な事から目を逸らすように目の前の敵へと話題を変える
日下部も今すべきことは分かっているのだろう、黙ってこちらの話に耳を傾けていた
613: ◆pOKsi7gf8c 2016/10/23(日) 09:45:11.41 ID:Jj5KE7Sa0
「とにかくお前は命中させることだけを考えろ」
「発射の準備が出来たら合図を送る」
「そうしたら、ヤツに一発ぶち込んでやれ」
通信機の向こうの日下部は全ての指示に『はい』の一言で答えて、それきり口を閉ざす
野田の事が気になるとしても、自分がヘマをすればこの船の全ての人間が危険に晒される
絶対に失敗できないと言う緊張と友がどうなっているか分からないという不安に向き合うための沈黙なのだろう
それ以上は返答を求めずに『それまで通信は繋げたままにしておけ』と付け加えて日下部への命令を終わらせる
(さて、次はこっちか)
マイクに余計な声が入らないように口元から外すと、今度は艦橋の船員たちへと目をやる
敵から致命傷を受けた衝撃と目の前に現れた敵の異様な風貌のせいか、未だに軽く放心している者が多かった
舵輪を握る井上や敵に釘付けになっている大久保はともかく、小林や多くの船員たちはまだ立ち直っていない
この局面でこのまま見過ごすわけには行かない
「しっかりしろ! 小林」
目の前で呆けている小林の名を呼んで、現実に引き戻させと、
「主砲発射だ」
「投錨部隊を今すぐ退避させろ!」
半分怒鳴るように投錨を行った隊員を避難させるように指示した
614: ◆pOKsi7gf8c 2016/10/23(日) 09:50:20.15 ID:Jj5KE7Sa0
一瞬呆けたような表情をした小林だが、直ぐに我に返って手を動かし始める
その姿を横目に、今度は正面の大久保に向かって激を飛ばず
「大久保! もう計器は見なくていい」
「敵の動きだけに集中しろ!」
大久保は何も言わずに大きく頷く
そのまま踵を返して正面へ振り返ると、左手に持っていた双眼鏡で敵の観察を再開した
続けて、操舵手の井上へと指示を下す
「進路はこのままだ」
「敵が逃げるかこっちが沈むか」
「それまで真っ直ぐ突き進め!」
指示を受けた井上は『了解』と大きく返事を返す
先ほどの急旋回で、遠心力と慣性力の影響をもろに受けたはずの井上だったが、その声には一切の疲労は見られない
空元気かも知れないが、今はありがたかった
そんな井上の不屈の精神を受けて、挫けかけていた船員たちの気持ちが再び熱を帯びて盛り上がっていく
今、艦橋にいる全ての人間が勝利に向かって突き進もうとしてるのが感じられた
「敵、砲門に動きあり!」
「次弾、来ます!」
観測手が敵が再び砲撃を開始する素振りを伝える
その視線の先に浮かぶ影は、もぞもぞと針のむしろのように飛び出した砲門をうごめかせている
615: ◆pOKsi7gf8c 2016/10/23(日) 09:51:27.34 ID:Jj5KE7Sa0
(今度こそ沈めてやろうということか……)
冷やりとした汗が、頬を伝っていくのが分かった
奴が全力を出した時の火力は新海軍の艦隊を一瞬で壊滅させるほどの威力を持っている
いくらこの船の装甲が厚いとは言っても、そんな化け物の斉射を受けたらひとたまりもない
文字通り、海の藻屑と変り果てるだろう
それは他の船員たちも察しているようだ
熱を帯びて膨張した空気が収縮し、ピリピリと張り詰めたものへと変質していくのが感じられた
「皆! ここが勝負どころだ」
「奴が撃つのが先か、こっちが先か」
「後はそれを見守るだけだ」
艦橋の全員へ向かって叫ぶ
ここまで来たら後は腹を括るしかない
生きるにしても死ぬにしても、覚悟を決めるしかないことを皆へ伝える
そのまま、彼らの反応を待たずに舵取台の方を向くと、
「井上、分かっているな」
敵を睨みつけるように正面を向いている井上へと言葉をかけた
「分かっていますよ、少尉」
彼は後ろを振り返ることなく応じる
さも冷静に分かっていたかのような口調だったが、心の中はそう穏やかではないらしい
その両肩は力んでふくらんでおり、舵を握る腕に力が入っているのが見て取れた
616: ◆pOKsi7gf8c 2016/10/23(日) 09:53:26.84 ID:Jj5KE7Sa0
「進路このまま……両弦全速前進!」
だが、そんな不安を振り払うように指示を復唱する
不退転の覚悟の下に戦闘へと乗り出すと言うことだろう
「敵主砲、動きを止めました!」
「副砲以下も順次、動作を停止しています」
どうやら残された時間はそう多くは無いらしい
敵の状態を報告する大久保も不穏を隠せないようだ
艦橋に響く声もさっきより声高になっている
(……まだなのか)
そんな焦燥感に当てられてしまったのだろうか
一向に甲板から撤退報告がない現状に焦りが募る
このまま発射指示を出せば、主砲は発射され、敵を射抜くだろう
だが、それによって決死の覚悟で投錨作業を行った兵士たちは砲撃の巻き添えを喰らってしまう
1人の指揮官として、何より同じ海で戦う者として、味方を見殺しにするわけには行かない
だが、このままでは敵の砲火によって1人残らず海の藻屑と化してしまう
617: ◆pOKsi7gf8c 2016/10/23(日) 09:55:56.58 ID:Jj5KE7Sa0
(今更何人か死んだところで関係ない、今すぐ日下部に発射指示を出せ)
内なる悪魔がそう囁く
その声は蠱惑的でありながら、何とも言えない甘美な響きで、焦りと緊張で乾ききった心へ容易に溶け込んでいく
それでも、残された理性はそれを制す
仲間を助けるためにやって来たはずなのに、どうして仲間を殺すようなことが出来るだろうか
そう自分に言い聞かせて、心を揺さぶる妄言を振り払う
しかし、悪魔は囁くことを止めない
(やらなければ全員が死ぬ)
(これ以上はどうしようもなかった、必要な犠牲だったんだ)
敵の攻撃まで残された時間は僅か
その焦りが思考に霧を掛け、判断力を鈍らせる
いつ来るとも分からない終わりが選択の迫り、決断を急かす
見えない恐怖が、遂にヘッドフォンのマイクへと手を掛けさせようとしたとき、
「投錨部隊より入電!」
「甲板からの撤退が完了しました!」
小林が声高らかに甲板の部隊の撤退を知らせる
618: ◆pOKsi7gf8c 2016/10/23(日) 10:05:23.87 ID:Jj5KE7Sa0
(来たッ!)
待ちに待った知らせに、反射的に体が動く
伸ばしかけていた手が一気にマイクまでの距離を縮めると、それを口元まで手繰り寄せる
「日下部!」
そして、気が付いたときには通信相手の砲撃主の名を叫んでいた
集中しているのか彼からの返事は聞き取れない
だが、もはやこれ以上の言葉は必要ない、後は日下部を信じるだけだ
「大久保、どうだ?」
敵の動向を逐一観察し続けている観測手へ声を掛ける
「まだ攻撃態勢が整っていません」
「行けます! 行けますよ!」
声をかけられた大久保は興奮した調子でこちらを振り向く
彼に『そうか』と言葉を返して、窓の向こうを臨む
水面には薄灰色の肌を燃えるような紅色に染めた敵の姿があった
朝焼けの海に、異形ともいえる姿をした敵、そんな現実離れした風景に目を奪われる
一寸先も分からない生と、背後まで忍び寄っている死
決定的に分けられない生と死の未来が混在するここは、あの世とこの世の境界線なのかもしれない
果たして目の前に立つ『鬼』は地獄の獄卒か、それとも現世に迷い込んできただけの子鬼か、
「主砲、発射を確認!」
それを決める一発が今、放たれた
621: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/11/19(土) 10:50:34.46 ID:NqzZnGLY0
全身に軽い衝撃がはしる
割れ窓の向こうへ赤い閃光が煌めくのが目には入った
その強烈な光に目を背けた一瞬、つんざく様な発砲音がヘッドフォンを付けた耳の上から鼓膜を揺さぶる
次の瞬間には、先ほどの輝きは消え失せ
立ち上る黒煙に黒く塗りつぶされていた
(何処だ)
硝煙が風に流されるのを確認するまでもなく、すぐさま撃ち出された砲弾の後を追う
砲身から飛び出した砲弾は、空を切り、朝焼けの空をに飛んで行く
その弾頭の先にあるものはただひとつ、目標となる敵の姿である
艦橋の誰もが息を飲んでその行方を見守っている
ほんの僅か、まだ1秒も立っていない筈のなのに、やたらと長く感じる
次第に耳から聞こえる音が意識の外へと消え失せ、自身の拍動の音のみがやけにハッキリと聞こえる
もう、この瞳の先には敵も自分も見えていない
ただ自分たちが生き残る最後の希望を託した一発の砲弾のみが映っている
(そういえば、あいつは敵の姿を見たのかだろうか)
不意に下山田の顔が頭に浮かんだ
思い返してみれば、あの時のことを考える時間はあまり無かった
いや……本当は深く考えることから逃げていたのだろう
622: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/11/19(土) 10:52:51.34 ID:NqzZnGLY0
今、この場に立ってようやく、あの時の真実が知りたいという思いが強くなった
彼らの見た最期の光景はどのようなモノだったのだろうか、そして、それをどんな想いで迎えたのだろうか
最後の瞬間を前にして、そんな疑問ばかりが頭をよぎる
そんなものを問ったところで答えなどでるはずもない、誰にも死んでしまった彼らの気持ちなどは代弁できないのだから
(だから……俺は生きて帰ってみせる)
決心を新たに、過去の想いを振り払う
いま必要なのは昔を懐かしむことではなく、未来向けて戦うことだ
現実から剥離しかけていた精神を呼び戻して五感を開放する
砲弾のみを捉えていた瞳には艦橋の光景が映り、拍動の音しか聞こえていなかった耳には仲間の声が聞こえてくる
「着弾まで、あと10…9……」
気づけば、着弾の秒読みが始まっていた
艦橋から見える砲弾はもう殆ど敵と重なっている
「行ける」
自然とそんな声が出ていた
ここまで来れば敵に直撃することはほぼ間違いない
奴の重量では今更、回避機動を取ることも出来ないだろう
だとすれば、この攻撃は敵への有効打となるはずだ
623: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/11/19(土) 10:53:35.33 ID:NqzZnGLY0
「6…5……」
秒読みは刻一刻とゼロに近づく
それにつれて、船員たちの緊張も極限まで高まっているのが分かる
もう、誰も艦橋のことなど気にしている者はいない
この場に居る全ての人間が目の前のある1点を、空に向かって打ち出された鉄の塊を見つめていた
「2…1……」
そうして、遂に最後の数字へと差し掛かり、
「着弾!」
その終了と共に轟音が鳴り響いた
敵へと吸い込まれていった砲弾は爆裂し、爆炎となって消え失せる
爆風は敵を飲み込み、その姿を黒い煙で覆い隠した
どうなったのか分からない敵の姿に皆、息を飲む
624: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/11/19(土) 10:55:31.45 ID:NqzZnGLY0
「め、命中……」
静まり返った艦橋に、ひとつの報告が響いた
皆、一斉にその声がした方向へと顔を向ける
そこには双眼鏡を手から放してこちらを見る大久保の顔があった
目のあった大久保はにやりと口角を上げると、
「命中です! 少尉」
主砲の命中を高らかに宣言した
その報告に艦橋がどよめく
今まで張りつめていた緊張が一気に解放され、『よしっ』という感嘆の声も聞こえる
隣に座っている小林も高翌揚を抑えきれないのだろうか、軽く拳を握った右腕を自分に向けている
かくいう自分も例外ではなく、目的を達成した解放感からか口元が緩んでいた
それを隠そうと左手を差し出した時、炸裂音が鳴り、体に大きな衝撃が押し寄せる
「どうした!?」
突然の出来事に観測手へと事態の確認を急ぐ
「敵です! 敵の砲撃です」
すぐさま大久保から返事が返ってくる
625: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/11/19(土) 11:09:13.01 ID:NqzZnGLY0
その報告で何が起こったのかを察した
まだ敵は生きていたのだ
奴は主砲の直撃を喰らっても、なお健在であり、こちらへ反撃を敢行したのだった
「敵の被害は?」
態勢を立て直すべく、敵の状態を尋ねる
「敵、左舷機関部の一部を喪失」
「損害は小破と思われます」
どうやら先ほどの攻撃は致命傷にはならなかったらしい
今の一撃で左の武装の一部が吹き飛んだようだが、それで終わってしまった
だが、まだ諦める訳には行かない
「日下部! 次はまだか」
マイクを通して次の砲撃を急かす
『装填まで、あと40秒』
『それまでは無理です!』
はやる気持ちは彼も同じなのだろう、悲鳴にも近い声で砲撃が出来ない事を伝えてきた
「敵主砲に動きあり」
「砲撃態勢に入ります!」
それに追い打ちをかけるように大久保が敵が射撃体勢に入ったと報告する
このままでは不味い
ここでもう一発でも直撃を受ければ間違いなく戦闘不能となる
そうなれば、今までやってきたこと全てが水泡に帰す
敵の攻撃が来る前に、致命傷を負わせることが出来れば……
626: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/11/19(土) 11:10:03.31 ID:NqzZnGLY0
「敵、主砲の静止を確認」
「……来ます!」
必死に勝利の糸口を探すが現実はそう甘くは無い
最後の警告が下されて、いよいよ後が無くなる
事ここに至っては、敵の砲弾が直撃しないようにと祈ることしかできなかった
これから自分たちを葬る敵の姿を目に焼き付けて、最期の覚悟を決めようとしたとき
背後から何かが炸裂するような音が聞こえた
(何だ……? 今のは)
後を追うように伝わってくる微かな振動を感じながら、今の音に正体を探る
敵の攻撃ではないのは確かだ
何しろ、この目で敵の一挙手一投足を確認している
その敵が攻撃を仕掛けて来たならば、とっくに気づいているはずだ
しかし、それが無いと言うことは原因は……
「ミ、ミサイルが発射されています!」
突然、船員の1人が叫ぶ
興奮のせいか少し上ずった声だったが、しっかりとミサイルが発射されたことが伝わってきた
「なっ……どういうことだ?」
反射的にその船員に問いただす
何の前触れもなく発せられたその報告が信じられなかった
627: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/11/19(土) 11:11:21.82 ID:NqzZnGLY0
「後方ハッチからミサイル発射」
「4番、5番が現在上昇中です!」
しかし、目の前の計器を再確認した彼はきっぱりとミサイルの発射を告げる
正面を観察していた大久保もその声を荒げて、
「敵、何かを察知した様子です」
「本艦の情報を確認しています」
敵がミサイルらしき何かを察知したことを報告する
これは一体、どういうことなんだ
宗方兵曹長からはミサイルの発射は不可能だと聞いていた
それが出来たということは、問題が解決されたということなのか
目の前で起こっている出来事が理解できずに頭を悩ませていると、指揮官席の通信機から電子音が発せられた
それは後部砲塔と直接やり取りを行うために用意していた専用回線だった
すぐさま指令席に駆け寄るとヘッドホンを首元へ押しやり、受話器を取る
『どうにか、間に合ったみたいだな』
電話口からは宗方兵曹長の低い声が聞こえてくる
疲労が滲んではいたが、何かをやり切ったかのように穏やかだった
628: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/11/19(土) 11:12:59.24 ID:NqzZnGLY0
「兵曹長、今のは……」
色々と聞きたいことがあったが、何から問いただせばいいのか分からない
とにかく今のミサイルは何だったのかと尋ねた
『見ての通り、俺達がミサイルを発射させた』
『お前にとっちゃ命令無視かも知れないが』
『そんなもの待っていられる状況じゃなかったからな』
どうやら、ミサイルが発射されたのは事実であり
兵曹長たちが独断で発射したらしい
だが、あの状況でどうやってミサイルを発射したというのだ
最後の通信ではミサイルの発射口が閉じられてミサイルが射出できなかったと言っていたはずだ
それを問いかけると、
『簡単ですよ、少尉』
『ハッチをこじ開けたんです』
兵曹長と変わって別人が応対に出る
「お前……」
その人物の声を聞き、言葉が詰まる
629: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/11/19(土) 11:15:09.55 ID:NqzZnGLY0
どうして兵曹長に代わって彼が通信に出るのか、こじ開けたとはどういう意味か
聞きたいことは山ほどあったが、言葉にできたのはただひとつ
「無事だったのか、野田」
という一言だけだった
『ええ、まぁ……』
『あの攻撃の前に後部砲塔まで移動していて』
『自分を含めて、隊の皆命拾いしました』
『勝手に配置を離れて済みません』と続けるが、そんなことはどうでも良い
一度は死んだかも知れないと思っていた男が無事だったのだ
それだけで十分過ぎるほどに十分な報告だった
『……野田?』
『野田が居るんですか! 少尉』
突然、首にかけていたヘッドホンから日下部が叫ぶ声が聞こえた
通信用のマイクは口元から外していたが、環境音と一緒に今の会話を漏れ聞いていたらしい
野田の声を聞いて我慢できなくなったようだ
日下部の問いに『ああ』と短く答えると、
『そうか、アイツは……』
心底安心したと言った具合にため息を漏らす
630: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/11/19(土) 11:15:56.44 ID:NqzZnGLY0
『済みません、少尉』
『日下部に伝えたいことがあるんです』
すると、その声に反応したのだろうか日下部と話をしたいと野田が伝えてくる
その意思を汲んで、通信機の受話器を耳から外すとヘッドホンのマイクへと近づけてやる
『日下部、聞こえてるか?』
『ああ、聞こえている』
通信機を通して会話する2人の声が漏れ聞こえてくる
『今のミサイルはただの目くらましだ』
『射出だけを優先して、誘導については全く考えていない』
『ある程度は敵に向かって飛んで行くが、細かな誘導は聞かない』
『敵が回避行動を取ったら、間違いなく回避される』
『だから、あとはお前がやれ』
そこまで一息に喋ると口をつむぐ
恐らく、後は日下部に任せつという意味なのだろう
確実にヤツを仕留めろと言外に匂わせて、相手の返答を待っているのかも知れない
631: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/11/19(土) 11:34:43.00 ID:NqzZnGLY0
しかし、日下部がそれに言葉を返すことなかった
彼は何かを納得したように黙すると、
『済みません、もう大丈夫です』
そう告げて野田との会話を止める
「敵、4番、5番ミサイルを回避!」
「再び攻撃態勢へ移ります!」
これ以上の時間を敵は許してはくれない
大久保が再び敵が攻撃態勢に入ったことを報告する
『主砲、装填完了』
『いつでも撃てます』
ほぼ同時に日下部が主砲の装填完了を告げる
彼も覚悟を決めたらしく、その言葉の端々に覇気がみなぎっていた
その日下部の様子に勝利を確信し口元が綻ぶ
ここまで来たらどうせ後には引けない、彼に『任せる』と伝え、その通信を切った
632: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/11/19(土) 11:35:16.36 ID:NqzZnGLY0
『まぁ、大丈夫ですよ』
『アイツは何かを壊すは得意ですから』
残された回線からは野田にしては珍しい軽口が聞こえてくる
その冗談に軽く返事を返しながら、正面に目をやる
半壊していびつな形になりながらも、まっすぐにこちらへ砲口を覗かせる敵の姿がった
「敵の静止を確認」
「……来ます!」
奴も最後の攻撃を行う態勢へと入っている
いい加減、何度も邪魔が入ってい痺れを切らしている頃だろう
だが、それはこっちだって同じだ
(決めろ、日下部!)
心の中でそう叫んだ瞬間、
ドンという発砲音と共に微かに船体が揺れるのを感じた
「主砲発射!」
艦橋の誰かが叫ぶ
633: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/11/19(土) 11:38:38.91 ID:NqzZnGLY0
全ての意識を目の前に現れた黒い鉄の塊へと集中させる
先ほどはコマ送りのように遅く感じていた光景だが、不思議と遅くは感じない
むしろ、宙に放り出されてからどんどん速くなっていく様にすら感じられた
砲の原理上、初速が最も速度が出ているはずだが、それでも自分の目にはそう見えた
ただの錯覚には違いないが、
(これなら奴も避けられない)
と確信するには十分であった
「着弾まで、10…9……」
大久保の秒読みをする声が聞こえてくる
勝負の決着まであと、ほんの少しだ
「6…5…よっ……!?」
だが、唐突に大久保の秒読みが止まる
突然の出来事に思考が停止する
アイツは何を見た、どうしてアイツは秒読みを途中で止めた
その疑問が頭の中を一瞬にして埋め尽くし、砲弾から意識を逸らす
そして、次の瞬間、
「伏せろッ!」
艦橋が白い閃光と頭が割れるような炸裂音に包まれた
637: ◆pOKsi7gf8c 2016/12/18(日) 09:57:48.99 ID:543n5fYR0
「うっ……」
軋むような体の痛みで意識を取り戻し、呻き声を漏らす
どうやら全身を派手に打ち付け、一瞬だけ気を失っていたらしい
目の前に現れた無機質な艦橋の床を見て、自分の状況を悟る
(……やられたか)
ひとまず自身の無事を確認し、意識が別の方向へと向く
今のは、間違いなく敵の攻撃だった
最後に大久保の口が止まっていたのも、敵の砲撃を確認したからだろう
しかし、そうなると……
(敵は……どうなったんだ?)
日下部の砲撃で致命傷を与えたか、それとも自分たちを沈めるべく攻撃態勢に入っているのか
それを確認しなければならい
今の体勢では確認できない艦橋の被害も気になる
「ぐっ……」
体に力を入れると全身に鈍い痛みが走る
その痛みに、まだ死んでいないことを実感しながら体を起こす
まず上半身を起こして、片膝を着くと、指揮官席の椅子を支えにして立ち上がる
638: ◆pOKsi7gf8c 2016/12/18(日) 09:58:20.61 ID:543n5fYR0
「……これは」
艦橋全体を見渡せる位置に立つと、その被害の全容が見えてくる
どうやら、艦橋そのものには大きな被害は無かったようだ
正面の窓ガラスが衝撃によって割れて、中に飛び散っているようだが、それぐらいしか目立った被害は無い
船員たちも殆ど横倒しになったため、ガラスの破片に晒されずに済んだらしい
だが、その窓の向こうには黒煙が立ち上っており、甲板からはチラチラと赤い炎が見えている
そして、そのさらに向こうの水面には、朝日に照らされた敵が居た
「あれは……!」
だが、その輪郭は先ほど見ていたものとは全く違っていた
本体の両側に大きくせり出していた機関部の右側、奴の左舷砲塔に相当する部分がごっそり無くなっていた
砲弾の直撃を受けて吹き飛んだのだろうが、未だに海中へと没しない生命力に驚嘆する
『しょ、少尉……』
その光景に目を奪われていると、首元に掛かっていたヘッドホンから自分を呼ぶ声が聞こえる
直ぐにそれを頭から被り、マイクの向こうの男へ応対する
『……済みません』
『今のでやられちゃったみたいっす』
ヘッドホンの向こうからは日下部が弱々しく軽口を吐いてくる
時折り挟んでくる浅い呼吸が、彼も怪我を負っていることを語っていた
639: ◆pOKsi7gf8c 2016/12/18(日) 10:01:24.87 ID:543n5fYR0
「気にするな、お前は良くやった」
「後はしっかり休んでろ」
気丈にふるまう日下部に労いの言葉をかけ、休むように言いつける
『でも、奴はまだ……』
しかし、日下部は食い下がる
まるで自分の事など気にしていられないという風に、敵の名を出した
「奴の事は先ほど自分も確認をした」
「あの状況では直ぐには復帰できないだろう」
「それまでに俺達がどうにかする」
そんな日下部に現状を確認したことを伝えた
彼は敵の姿を確認していないからそういうことを言うのだろうと睨んでいたが、そうではなかった
ヘッドホンの向こうの日下部は『違います』と声を荒げて反論すると、
『まだ生きてます』
『奴はまだ、諦めちゃいないんです』
そう言って正面を向くように求めてくる
内心、あの傷でそんなはずはないと思いながらも、正面の敵へと目をやった
水面に浮かぶ敵は、さっき見た時と同じように半分近くを失った姿で微動だにしない
640: ◆pOKsi7gf8c 2016/12/18(日) 10:02:59.09 ID:543n5fYR0
やはり、日下部の思い過ごしだ
『あの傷ですぐに動けるはずがない』と視線を戻しかけた時、視界の端に何かが朝日を受けて煌めくのが見えた
(今のは……)
その輝きに、もう一度目を凝らして敵の姿を確認する
すると、敵の残された右舷側の主砲の砲身が朝日の光を反射していた
入射角が殆ど変化しないの日光に対して、反射光が瞬く理由は1つしか考えられない
敵の砲身が稼働することで反射した光がキラキラと輝いているのだ
「まさか……」
目の前で起こっている事実に嘆息が漏れる
まさか、あの状況でまだ攻撃の意志を失っていないなんて
いや……あそこまで追いつめてしまったのは、他ならぬ自分たちだ
こちらが玉砕覚悟で敵に攻撃を行ったのと同じように、今の奴は己の命を懸けてでも自分たちを沈めようとしている
適度に損害を与えて、撤退を狙う作戦であったが、奴に致命傷を与えたのが仇となってしまった
「クソッ!」
思わず、今日何度目になったか分からない悪態をつく
641: ◆pOKsi7gf8c 2016/12/18(日) 10:08:40.83 ID:543n5fYR0
状況は悪い……最悪と言っても良いかもしれない
日下部の状況からして主砲は使用不可能、ミサイルも誘導機能が殆ど機能していない上に最後の一基が発射できるかも怪しい
おまけに、艦橋の船員たちはまだ殆どが気を失ったままだ
操舵手の井上ですらまだ復帰していない
急いで彼ら起こそうとしたろころで、艦の機能が回復するまでに敵が主砲を撃ち込んでくる方が圧倒的に早い
『……少尉』
今の舌打ちから察したのだろう
通信機の向こうからは、気遣うようにこちらを呼ぶ日下部の声が聞こえた
『ここまで来れて楽しかったです』
『最後はまぁ……もっとカッコよく決めたかったっすけど』
『中途半端にしか出来ないのが自分ですもんね』
もう諦めてしまったかのようなに日下部が独白を始める
最期の挨拶とでも言うのだろうか
戦意の裏に隠されていた『死』というものの実感がはっきりと形になって表れてきた
642: ◆pOKsi7gf8c 2016/12/18(日) 10:10:29.32 ID:543n5fYR0
(終わるのか、ここで?)
だが、納得できない
こんなところで終わるなんて、あそこまで追いつめたのに
そんな感情が達観を塗りつぶすように渦巻き始めた
(いや、こんなところで終わっていられない!)
そして、ある1つの答えへと収束する
『でも、自分はこれで満足です』
『仙田たちに会えないのは……』
「まだだ」
そう呟いて、日下部の独白に割り込む
何の脈絡もない言葉に驚いたのだろうか、通信相手は怪訝そうにこちらの名前を呼ぶ
だが、そんなものなど気にしてられない
「俺は諦めない」
「何もしないで、やられるものか!」
最後の悪あがきとばかりに日下部に叫ぶと、その場を飛び出す
643: ◆pOKsi7gf8c 2016/12/18(日) 10:12:12.93 ID:543n5fYR0
通信機の向こうから自分を呼びかける声が流れてくるが、もう耳には入っていなかった
どうせ死ぬなら、やれることをやってから死んでやる
そうでなければ死んでいった仲間たちに失礼だ
士官席から飛ぶように艦橋の中央へ向かうと、散らばったガラスを踏み締めて舵取り台の前に立った
「井上、少し借りるぞ」
足元で倒れたままの井上へそう告げて、両手で舵を握る
『少尉、一体何を……』
ここに来てようやく日下部の声が耳に入ってきた
当然だが、今から自分がやろうとしていることが分かっていないらしい
「敵に突っ込む」
「何かにつかまっていろ!」
一方的に注意を促すと、スロットルレバーを思い切り前へ倒した
その操作によって生まれた加速が慣性力となって、体にのしかかる
『うぐっ……』
耳元には日下部が呻く声が聞こえる
今ので傷ついた体を痛めたのだろうか、浅い呼吸する息遣いが聞こえていた
644: ◆pOKsi7gf8c 2016/12/18(日) 10:12:58.11 ID:543n5fYR0
(悪いな、日下部)
そんな日下部に心の声で謝る
結局、最後の最後まで彼を自分のわがままに突き合わせてしまった
さっきの攻撃で気を失っていれば、とばっちりを受けずに済んだだろう
(でも、最後まで足掻きたいんだ)
ここからの行動は殆ど自己満足に近い
正直言って、この距離では突撃する前に、敵の砲撃を受けて終わりだろう
だが、その光景を黙って見ていることなどできない
例えそれが質の悪いわるあがきだったとしても、やらずに後悔だけはしたくなかった
船首が力強く波をかき分けながら、船はその速力を上げる
急激に加速した船は目の前の敵との距離をみるみる縮めて行く
しかし、それは敵も分かっているのだろう
キラキラと輝いていた砲身の煌めきは、無機質な鈍色へと変化する
それは奴がこの船に狙いを定めたことを意味していた
彼我の距離は約200メートル、今の速度では敵にたどり着くまであと20秒は必要だ
それに対して、奴が発砲に要する時間はほぼゼロ
つまり、狙いが決まる前に敵へ突撃できなかった時点で負けが確定するのだ
645: ◆pOKsi7gf8c 2016/12/18(日) 10:25:04.33 ID:543n5fYR0
(仙田たちは上手くやっているだろうか?)
そんな空を眺めながら、頭の意識は仲間の救出へと向かった別働隊へ向かう
こうなった分、せめて彼らだけでも生き残って欲しいと切に願う
仙田から借りたカメラを返すことは出来そうにないが、それも心の中で謝っておく
視線を戻すと、真正面に砲口をこちらへ向けた満身創痍の敵の姿が見えた
その姿に終わりが近いことを悟り、
(……俺もそっちへ行く時間か)
先へ逝ってしまった仲間たちへと思いを馳せながら、両の瞼を瞑る
全ての視界が真っ黒に染まった次の瞬間、ドンという発砲音が鳴り響いく
その瞬間、炸薬が爆発する音が鼓膜へと届き、全身にちぎれるような衝撃が走った
(終わるときは一瞬か……)
衝撃に吹き飛ばされながら、最期の時を想う
誰しも死ぬのは最初で最後の一回きりのみ
幾度も戦友の死を見つめてきた自分が、その感覚を初めて味わうというのはどこか可笑しく感じる
刹那にそんな他愛もないことが頭をよぎる
死の間際には走馬灯のように今までの記憶が巡るという話もあったが、自分はそうではなかったようだ
もうこれ以上、自分にできることはない
あとは思考が闇に堕ちるのを待つだけだ……
646: ◆pOKsi7gf8c 2016/12/18(日) 10:43:21.37 ID:543n5fYR0
しかし、一向にその時はやってこない
(……どういうことだ?)
まさか既に地獄に落ちたということはないはずだ
その証拠に、頬には冷たい金属の感触が張り付いている
瞼を開けると先ほどまで自分が立っていた場所が横倒しになって現れる
とくかく現状の確認が第一であると判断すると、おもむろに立ち上がる
そして、正面から望む海に目をやると、
「何だ? これは……」
先ほどまでそこにいた敵の姿はなく、何かが飛び散ったような破片が辺りに浮いているだけだった
目に入る情報を処理しきれず立ちつくしていると、何かの通知音が艦橋へと響く
これは外部通信を受信した時に鳴るはずの音だったが、現状で本艦に通信をつなぐ相手がいるのかと不審に思う
しかし、訝しんだところで今の自分たちにはもはや戦う余力は残されていない
通信を受け入れる判断をすると、気を失ってった小林が突っ伏している通信盤へ向かう
そのまま通信盤を操作し、外部信号を受け入れ、艦内に無線を繋ぐ
647: ◆pOKsi7gf8c 2016/12/18(日) 10:44:46.84 ID:543n5fYR0
『間に合ったみてぇだな』
通信が繋がったや否や、通信の相手は少女の声でこちらに呼びかける
まったく想定外していなかった相手に言葉を失うが、彼女は構わず続ける
『大丈夫、敵はさっきので沈んだ』
『オレたちの勝ちだぜ』
「君は……本条大尉のところの」
今ので声の主を思い出す
出撃前に本条大尉のところへ行ったときに、こんな口調で喋っていた艦娘が居た
その質問に反応したのか、彼女は大きな声で答えてくる
『ああ、そうさ』
『あの大尉もやっと俺の出撃を認めてくれてな』
『アンタたちが敵と交戦してるから、援護してやれだと』
そうか、そういうことか
何が起こったのかを理解して、乾いた笑いが出る
自分たちが交戦状態に入ったという情報が五十嵐中佐経由で本条大尉へと行き、待機していた彼女を派遣したのだ
敵が突然消えたのは怪奇現象でも何でもない、すんでのところで彼女が敵に止めを刺しただけだったのだ
『お、おい……大丈夫かよ?』
突然笑い出した自分に、彼女は不安そうに声を掛けてくる
648: ◆pOKsi7gf8c 2016/12/18(日) 10:45:52.04 ID:543n5fYR0
「いや、悪い」
「こちらなら大丈夫だ」
そんな彼女へ軽く謝りながら、大丈夫だと伝えた
すると、今度は別の信号が無線の入電を知らせてくる
それは仙田たちも使っている救命艇の緊急無線信号であった
彼女に断りを入れると、すぐさま回線を切り替え、
「仙田か?」
通信相手を確認する
『ああ、そうだ』
『こちら救命艇の仙田』
やはり、睨んだとおり仙田一等からの連絡であった
昂ぶる気持ちを抑えつつ、こちらの状況を伝える
『なら、こっちも報告だ』
すると、仙田の声が一瞬遠くなり、
『あの……ありがとうございます』
という聞き覚えのある声に切り替わった
649: ◆pOKsi7gf8c 2016/12/18(日) 10:55:01.27 ID:543n5fYR0
つい数日前まで普通に聞いていたその声に、胸が一杯になる
遂に自分はやり遂げた
忘れていた達成感が全身に満ち溢れ、充足感が脳を支配する
『でも、どうしてこんな無茶までして、あなたは……』
しかし、そんな自分を現実に引き戻すように、彼女は問いかける
なぜ、こんな無茶を押してまで自分を助けに来たのか
どうして、わざわざ危険に身を晒すような行為に至ったのか
兵器として使われてきた彼女にとっては、それが理解できない行為なのかもしれない
「俺たちが……いや」
「俺は君を助けたかった」
「ただ、それだけさ」
言葉を詰まらせている彼女へ、自分の真っ直ぐな想いを伝える
もちろん、自分たちの力で深海棲艦を倒したいという思いもあった
だが、それ以上に『この手で彼女を助けたい』と心の底から願ったのだ
きっと他の船員たちもそう思ったに違いないと、眠り続けている艦橋を見渡しながら勝手に納得していると、
『えっ、と……』
無線から彼女は恥ずかしげに戸惑う声が聞こえてくる
その声に冷静に自分のかけたセリフを思い返し、急に小っ恥ずかしくなる
これでは軟派な口説き文句に間違われても仕方ないではないか
「い、いや……これはそういう意味では」
堪らずに訂正すると、彼女も『分かっています』と抑え気味に返してくる
だが、一度火のついた羞恥心はそうそう消えるものではない
熱を帯びた頬を冷やそうと、顔を上げて窓の外へと意識を飛ばす
空の藍色は薄れて薄紫色へと変化し、海は朝焼けのオレンジ色に染まってる
割れ窓からそよぐ風は磯の香りを纏って鼻孔をくすぐる
(朝か……)
新たな一日が今、始まろうとしていた
654: ◆pOKsi7gf8c 2017/01/15(日) 12:43:14.46 ID:riSoZa5X0
「……随分、汚れていたな」
つい今しがたまで磨いていた石碑に向かって呟く
ブラシで擦った表面には長年の風雪でこびり付いていた土や泥が汚れとなって浮かび上がっていた
黒くなったブラシを桶に戻すと、別の桶から柄杓ですくった水を目の前の石碑にかける
「綺麗になったぞ」
元の淡灰色を取り戻した御影石に『下山田』という文字が姿を現していた
辺りをそよぐ風が、自分が置いた線香の香りをまき散らす
昼の日差しに照らされたそれは、輝くような白を取り戻していた
そんな白に目がくらみ、伏見がちに目を逸らすと、
「待たせて……悪かったな」
下山田の墓に向かって謝った
人によってはこんなことをしても無駄だと言うだろう
彼の体は今でも海の底に沈んでいるし、戦没者の慰霊碑だって別にある
自分にもそんなことは分かっている
ただ、1人になれる場所でアイツと向き合いたかったのだ
655: ◆pOKsi7gf8c 2017/01/15(日) 12:47:17.70 ID:riSoZa5X0
「でも、こっちも色々あってな」
献花、樒、線香、持参したそれらを供えながら先を続ける
目が覚めたら数十年後の未来だったこと、海軍も随分変わってしまったこと、自分が士官になったこと
今まであった事を思いつくままに羅列していった
そういえば、あの時はお前が話し手で自分が聞き手だったか
自分の事を思い返しているはずなのに下山田との思い出が一杯に溢れてくる
(本当は、これが来なかった理由なのかもな)
そんな自分をどこか冷静に眺め、ふとそう思う
頭の中では分かっていても、下山田が死んだということを受け入れたくなった
だからこそ、ここへ来るまでにこんなに時間がかかったのかも知れない
「君嶋特務中尉」
不意に後ろから話しかけられる
物思いに耽っていたせいか、近づいてくる人の気配に全く気付く事が出来なかった
内心で驚きつつも、そんな素振りを悟られないようゆっくりと首を回す
656: ◆pOKsi7gf8c 2017/01/15(日) 12:49:02.15 ID:riSoZa5X0
「そろそろ時間です」
振り向いた先には端正な顔立ちの少女が立っていた
日差しの強いなか、上から下まできっちりと制服を着こんで顔色ひとつ変えていない
そんな彼女は自分に付けられた所謂お目付け役というものであった
軍艦一隻で深海棲艦と戦った一件から、軍令部の上層部から目を付けられてしまったらしい
次の報復作戦で勝手な真似をしないようにと艦娘の監視を付けられてしまったのだ
「もうそんな時間か?」
下山田の墓を前に屈んでいた体を起こして尋ねる
「はい」
無表情な少女は短い答えを返してくる
まるで一分の隙も与えないといった具合の返答だ
これなら宗方兵曹長の方がまだ愛嬌がありそうだ
だが、折角の旧友との再会だ
もう少しだけ時間をくれと頼んでみる
657: ◆pOKsi7gf8c 2017/01/15(日) 12:52:09.78 ID:riSoZa5X0
「着任式まであと3時間」
「20分後の汽車を逃すと遅刻です」
しかし、彼女の方が一枚上手だった
こちらの頼みをばっさりと切り捨てる
式典を引き合いに出されたら、こちらも引き下がらざる負えない
流石に艦隊長官の着任式をすっぽかすわけには行かなかった
「今日は悪いな」
「続きは、また戻ってきてからだ」
下山田の墓にそう挨拶をし、踵を返して少女の下へと向かう
自分が近づいていくるのを確認した彼女も、回れ右をして元来た道の方へと歩いて行く
そのまま追いついて少女の横に並ぶと、おもむろに彼女が口を開いた
「君嶋特務中尉」
「ひとつ、質問があります」
普段は質問なんてめったにしない彼女には珍しい言葉だ
そんな彼女に内心驚きつつも、先を続けるように促す
658: ◆pOKsi7gf8c 2017/01/15(日) 13:06:05.66 ID:riSoZa5X0
「中尉は私も……」
「私たちも、こんな風に思い出してくれますか?」
彼女の瞳の先には、つい今しがたまで自分がいた下山田の墓石を見つめている
相変わらず仏頂面が張り付いていたが、その瞳だけはかすかに潤んでいるように見えた
それは表情をつくるのが苦手な彼女なりの精一杯の感情表現なのだろう
だからこそ、安易な答えに走るのは許されない
軽く息を吐いて気を引き締めると、ゆっくりと首を横に振る
「そう……ですか」
揺れる瞳をもどして、彼女は自分へと向き直る
感情表現が豊かでないとしても、明らかに落ち込んでいることは分かった
だから、もう一度『違う』と否定する
「俺は君たちを沈ませない」
「過去の思い出なんかに君らを追いやるつもりはない」
「だから、俺には君の希望に応えるてやることはできないのさ」
659: ◆pOKsi7gf8c 2017/01/15(日) 13:32:04.53 ID:riSoZa5X0
気がつけば、空を仰いでいた
ガラになく格好をつけたことを口走ったおかげで、彼女を直視することができなかった
今の自分がどんな顔をしているのかも、彼女がどんな表情をしているかも分からない
『大見得を切りすぎだ』と非難する自分もいれば、『よく言った』と褒める自分もいる
前回の戦いが偶然の産物だというのは己が一番よくわかっている
しかし、だからといって曲げられないものがあるのは自分も同じだ
正直に言って、この先どうなるかなんて誰にもわからない
もしからしたら自分の前にいる少女との約束も破ってしまうかも知れない
「でも、今はこれで良いさ」
誰にも聞こえないように小さくつぶやくと、視線を戻す
そこには少し驚いたような顔の少女が立っていた
「ほら、行くぞ」
何かを言いたげな彼女が口を開く前に制する
これ以上、今の台詞について詮索されるのは勘弁願いたかった
戸惑う彼女に構わず、さっさと通りへ降りる石段を目指して歩き出す
そんな石段の先に見える空には、抜けるような青が広がっていた
おしまい
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