2: ◆xS5JZuNSIIml 2017/08/01(火) 23:06:13.61 ID:ss87dLg80
こうして家族で出かけるのはいつぶりだろうか。最上静香は、窓から見える夏の海と、トンネルや木々の陰に入った時に覗く自分の顔とを、見るともなく見ながら、そんなことを思った。





ーーー「アイドルになりたい」

十年来の夢を掲げて踏み出そうとしたとき、足枷になったのは、いま目の前で、黙って車を走らせる父だった。

打ち明けたあの日、父は、私が父の日に買ってきた豆で挽いたコーヒーを啜りながら、新聞片手に、遊びたい年頃だろうと言って、高校受験まで、という制限付きで、アイドルになることを許可してくれた。子どものやりたいことは全て尊重されるもの、というのは、やはり幻想だと実際に確認して、少し落ち込んだ。鳥籠は、うちにもあったのだ。それでも、鳥籠に脚を挟めつつ、私は、念願のアイドルになった。



引用元: 【ミリマス】ある休日 


THE IDOLM@STER MILLION THE@TER GENERATION 01 Brand New Theater! (特典なし)
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3: ◆xS5JZuNSIIml 2017/08/01(火) 23:09:04.64 ID:ss87dLg80
毎週日曜日は、家族で出かけていたが、それ以来、その習慣はなくなった。

私は嘘を吐いた。レッスンのない日も、今日は参加しなければならないレッスンがある。

そうやって嘘を吐いた。積極的にその習慣の遂行を回避した。

ただ何となく、私は家族との時間を犠牲にするほどアイドルに真剣である、

というのを表明したかったのだ。だから嘘を吐く。鳥籠へのささやかな抵抗のために嘘を吐く。

そして私は、そうやって家族から抜け出す日曜日、本当に劇場に行って、自主レッスンをする。

自分の嘘を幾分か真実にするためだ。たまたま会う仲間からは、努力家で、

夢にひたむきだと思われているかもしれないが、この日曜日の自主レッスンに関しては、ひたむきでもなんでもない。

嘘を吐いたことの贖罪に他ならない。

誰もいないレッスン室の扉を開けると、空調の音ばかりが響いている。

そんな中にカセットで音楽をかけて、踊る。

贖罪だと思う癖に、踊っている間は、嘘を吐いたことも、時間制限があることも、

自分が籠の中の鳥だということも、全て忘れられた。自分はただ、全身を使って踊っている。

そればかりが頭にあった。ーーー



4: ◆xS5JZuNSIIml 2017/08/01(火) 23:11:23.55 ID:ss87dLg80




 窓から見える景色は、海から緑へと変化していた。

木漏れ日が土と草花に模様を付けている。

車は、海沿いの国道を逸れて、白線のない森の小道をゆっくりと走る。

転がった小石に乗り上げて、小刻みに車が揺れる。

その度に、助手席で船を漕いでいた静香の母が、目を覚ます。

そうしてまた、船を漕いで、いよいよ首をシートに預けて、眠ってしまった。

 しばらくして、突然父が、静香、と声を掛けた。

静香は、その響きをぼんやり聞いて、自分の名前だのに、懐かしかった。

いつも劇場で呼ばれていることを思うと、尚更不思議な心持になった。

「なに?」

「母さんにタオルケットをかけてやってくれないか」

「うん」

 後部座席には、いつも三枚のタオルケットが畳んで置いてある。

顔に当てると、うちの匂いがした。

静香は、昨夜、母が突然外へ出たのは、車にあるこのタオルケットを取りに行って、

洗うためだったのだと気がついた。

薄いクリーム色のが母、薄い青色が父、薄いピンク色が私だ。

静香は、そういえば昔はピンク色が好きだったなと霧の中で思った。

そうしてその思いは、いろいろに遷移を繰り返して、一つの場所に落ち着いた。


5: ◆xS5JZuNSIIml 2017/08/01(火) 23:13:41.42 ID:ss87dLg80




―――父が私の将来を思うのだとしたら、母は、私のこころと身体を思ってくれる。

定期ライブとテストが重なってしまって、遅くに帰ってきて、

遅くまで勉強する私に、人肌のミルクを持ってきて

もう寝なさい、と眉をひそめて、呟いたりする。

そうでなくとも、いつもレッスンのある日は、

迎えに行こうか、今日は早く帰るのか、と仕切りに連絡をよこしてくれる。

正直鬱陶しいと思うこともある。けれど。―――



 静香は、薄いクリーム色のタオルケットを二つ折りにして、

母の背後からそっと掛けてやった。母にそうされるように、愛を以て掛けた。


6: ◆xS5JZuNSIIml 2017/08/01(火) 23:16:39.10 ID:ss87dLg80


 山頂に着くと、小さな雲は青い空を躍動して散りじりに消え、

遠くでは入道雲がのっそりと構えている。

それよりももっと遠い、地平線の向こう側から、

風鈴を僅かに揺らす冷えた風が、ゆらゆらと断続的に吹いた。

 静香の父が、4ドアのワゴン車の後部を開け放ち、クーラーボックスを取り出す音を聞いて、

静香の母が目を覚ました。

母は、タオルケットを畳んで、大きな真黒い日傘を差して、外へ出た。

既に大空を細目に仰いでいた静香に、日傘をかざす。

 二人は、せっせとレジャーの椅子や机を並べる汗ばんだ父を、四方の木々から聞こえる蝉の声を聞きながら、見ていた。


7: ◆xS5JZuNSIIml 2017/08/01(火) 23:18:29.28 ID:ss87dLg80


 暑そうね、という母の、侮蔑と優越、余裕の混じった言葉は、蝉の声に埋もれて、くぐもった。

静香は、そんな母の態度を見て、私にはない美しさだと思った。

かといって、欲しいとも、手に入るとも思わなかった。

その美しさは、父と母、前近代的な夫と妻の関係からくる。

家庭において、父は威厳を持ち、母はそれに黙って仕えるばかり。

しかし外においては、父は何も言うことなく、ただ無私愛を以て母に仕え、

母はそんな父を、余裕な眼で見つめている。

その美しさに、静香は嘆息を漏らすものの、手に入るとも、欲しいとも思わなかった。

なので、静香は、父を手伝いたくて仕方がなかった。

今すぐに、余裕の影の中から出て行って、私も手伝うわ、と言いたかった。

しかし、父母の描く、美しい古風芸術を汚す気には、毛頭なれなかった。


8: ◆xS5JZuNSIIml 2017/08/01(火) 23:20:21.26 ID:ss87dLg80


 巨大なパラソルの下で、家族は向き合うこともせず、各々の椅子に座って、

ただ遠くにある夏の山並みを眺望していた。

車の後部に吊るされた風鈴の音が、風と共にささやかな涼を誘う。

 静香は、何も考えていなかった。自分が何者であるか。

何を夢見て、何を愛し、何に愛されている存在であるのか、

それら全てに対して盲目になった。

その無我の静寂を、静かに打ち破ったのは、父だった。

「最近どうなんだ」

静香は、その一言に含意されている意味を、どうとでも捉えることができた。

学校のことか、友人のことか、

それとも、アイドルのことか。

どうとでも捉えることはできたが、そうとしか捉えることができなかった。


9: ◆xS5JZuNSIIml 2017/08/01(火) 23:21:56.68 ID:ss87dLg80


 父からアイドルのことを聞いてくるとは、意外だった。

母は何も言わない。静香は、自然に口を開いた。

飾った言葉は使えそうにない。時間制限を撤廃する方向に、

半ば誘導するような上手い文句を垂れる頭は、一切働かなかった。

純粋な、清廉な、打算の無い、正直な言葉を紡ぐ。

「頑張ってるよ」


10: ◆xS5JZuNSIIml 2017/08/01(火) 23:22:54.41 ID:ss87dLg80


 静香は、言ってから自らの言葉を反芻して、

「楽しい」と言えなくなった自分に自覚した。

勿論「楽しい」のだ。しかし今はそれ以上に、

「頑張っている」という意識の方が強いということに気がついた。

それも当然である。楽しいばかりのはずがない。

むしろ夢を目指すのはつらいことの連続である。

楽しいのは、それを超えて得られるものだ。静香は漠然とそう思った。

「そうか」と父は言う。母は何も言わない。静香は眼を閉じて、風鈴の音を遠くに感じた。


11: ◆xS5JZuNSIIml 2017/08/01(火) 23:24:40.04 ID:ss87dLg80


 気がつくと、香辛料の香りが鼻を通った。

父と母が、コンロを出してカレーライスを作っていた。

静香は、首をもたげて、その光景を見た。父が味見をしているところだった。

父の顔は、少し緩んで、すぐまた引き締まった。

 空は茜と青の水彩に染まり、蝉の声も穏やかに鳴っていた。

母が目を覚ました静香に気がついて、おはよう、と声を掛けてきた。

随分と疲れていたみたいだから、と言って微笑むので、静香もまた微笑み返した。

父は、黙って飯盒の白飯を紙の食器によそっていた。


12: ◆xS5JZuNSIIml 2017/08/01(火) 23:27:17.34 ID:ss87dLg80


 食事が済むと、辺りはすっかり暮れ、暗い青で空が塗られていた。

西の空に星が見えた。月はない。今夜は新月である。



 静香と、その両親、すなわち他に代え難い一つの家族は、

コーヒーを飲みながら、夜の全天を横切る星々を、共に待った。


13: ◆xS5JZuNSIIml 2017/08/01(火) 23:28:41.80 ID:ss87dLg80


「あっ、いま流れた」

「ほんとう?」

「……見えなかったぞ。嘘を吐くな」

「ほんとうだってば!」



 静香は、星に願うことも忘れて、はしゃいだ。

自分だけが目にした流星を、大事な家族に何とか伝えようと努力した。

しかし、伝えようとすればするほど、嘘っぽかった。

その流星は一瞬で燃えて、既になくなった。

伝えようとすること自体が無意味だ。静香はそう思って、

はしゃいだ自分を子どもらしいと恥じながら、椅子に腰を落とした。


14: ◆xS5JZuNSIIml 2017/08/01(火) 23:29:34.84 ID:ss87dLg80


 その時である。

時間という一瞬の集積から、ほんの少しだけ、切り取って、

引き伸ばしたように、一際大きな光の粒が長いこと流れた。

「見えた」

「見えたな」


15: ◆xS5JZuNSIIml 2017/08/01(火) 23:30:49.56 ID:ss87dLg80


 その流星を皮切りに、夜空に、光の粒が数え切れないほど流れ出した。

しかし、静香の心は、あの一際大きな流星ばかりであった。

 静香は、あの流星に願い事をした。

かといって、なにを願ったのかは、本人にも判然としない。

しかし、確かに願った。それだけはやはり確かで、

こころには確固たる何かがある。それだけで十分だった。思い出す必要はない。


16: ◆xS5JZuNSIIml 2017/08/01(火) 23:33:11.19 ID:ss87dLg80


 夜通し空を見上げて、帰りは次の日の朝になる。

明け方に三時間ほどの仮眠を取り、行きと同じく、父の運転で自宅へ帰るのだ。

父は月曜日に有給を取っていた。父が有給を取るなど、あり得なかった。

 母はぐっすり眠っている。

父はひたすらに前を見つめてハンドルを握っている。

眠くないのだろうか、と静香は思う。大丈夫なのだろうか。

もし居眠りでもして事故になれば、などと思って、不安になった。

 別に、眠くないか、と話しかけるでもなく、

静香はただ、夜を越した重い瞼を持ち上げて、

万が一父が居眠ったら、すぐに後ろからハンドルを握って、それからブレーキを踏む、

という妄想を働かせて、仮初めの安心を得ながら、

ルームミラーに映る父をこまめに見た。

 すると、父とミラー越しに目が合った。

静香は、すぐに目を逸らす。対向車とすれ違う度に、風を切る音がした。

そればかりが車中に響いた。父が言う。

「眠くない。大丈夫だ。静香も寝なさい」

「でも」

「大丈夫だ。事故など起こさない。明日もレッスンなんだろう。今は寝て、疲れを残さないようにしなさい」

「……うん。ありがとう、お父さん」


17: ◆xS5JZuNSIIml 2017/08/01(火) 23:34:30.04 ID:ss87dLg80


 静香は、この言葉を後にしても、

父が、アイドルの活動を認めてくれたとは思わなかった。

時間制限は簡単には解けない。

これこそ仮初めである。父は頑固だ。

それも、私の将来を考えてくれている頑固だ。私のためにひたすらに頑固だ。


18: ◆xS5JZuNSIIml 2017/08/01(火) 23:35:28.51 ID:ss87dLg80


 確かに、父の思うようにアイドルは不安定だ。

専念して、失敗したら、遅れた分、通常の道への復帰は、

かなりの努力を有するかもしれない。

それに、成功したとしても、いつまでも成功し続けることができるわけではないし、

アイドルを引退した後どうする、という問題もある。


19: ◆xS5JZuNSIIml 2017/08/01(火) 23:36:38.78 ID:ss87dLg80


 それでも、私は走り続けたい。

たった一つの夢、初めて夢中になった。

この先の未来がよく見えなくても、一つだけ光が見える。

そればかりを指針に、殆ど盲目のままでも進む。

かけがえのない夢は動かない。ただ目指して走るだけだ。


20: ◆xS5JZuNSIIml 2017/08/01(火) 23:37:40.68 ID:ss87dLg80


 父の頑固と母の愛情、その居心地の良い「思い」を振り切って、

走る覚悟があるか。あるに決まっている。あるに決まっているのだ。

 静香は、目を閉じた。安心感があった。

先ほどまでの不安はない。父を信頼している。父は必ず約束を守る。



 でもせめて今くらい、居心地の良さに甘えたって、良いではないか。

静香は、そう思いながら、目を閉じたのだ。



<了>

3: ◆xS5JZuNSIIml 2017/08/01(火) 23:09:04.64 ID:ss87dLg80
毎週日曜日は、家族で出かけていたが、それ以来、その習慣はなくなった。

私は嘘を吐いた。レッスンのない日も、今日は参加しなければならないレッスンがある。

そうやって嘘を吐いた。積極的にその習慣の遂行を回避した。

ただ何となく、私は家族との時間を犠牲にするほどアイドルに真剣である、

というのを表明したかったのだ。だから嘘を吐く。鳥籠へのささやかな抵抗のために嘘を吐く。

そして私は、そうやって家族から抜け出す日曜日、本当に劇場に行って、自主レッスンをする。

自分の嘘を幾分か真実にするためだ。たまたま会う仲間からは、努力家で、

夢にひたむきだと思われているかもしれないが、この日曜日の自主レッスンに関しては、ひたむきでもなんでもない。

嘘を吐いたことの贖罪に他ならない。

誰もいないレッスン室の扉を開けると、空調の音ばかりが響いている。

そんな中にカセットで音楽をかけて、踊る。

贖罪だと思う癖に、踊っている間は、嘘を吐いたことも、時間制限があることも、

自分が籠の中の鳥だということも、全て忘れられた。自分はただ、全身を使って踊っている。

そればかりが頭にあった。ーーー



4: ◆xS5JZuNSIIml 2017/08/01(火) 23:11:23.55 ID:ss87dLg80




 窓から見える景色は、海から緑へと変化していた。

木漏れ日が土と草花に模様を付けている。

車は、海沿いの国道を逸れて、白線のない森の小道をゆっくりと走る。

転がった小石に乗り上げて、小刻みに車が揺れる。

その度に、助手席で船を漕いでいた静香の母が、目を覚ます。

そうしてまた、船を漕いで、いよいよ首をシートに預けて、眠ってしまった。

 しばらくして、突然父が、静香、と声を掛けた。

静香は、その響きをぼんやり聞いて、自分の名前だのに、懐かしかった。

いつも劇場で呼ばれていることを思うと、尚更不思議な心持になった。

「なに?」

「母さんにタオルケットをかけてやってくれないか」

「うん」

 後部座席には、いつも三枚のタオルケットが畳んで置いてある。

顔に当てると、うちの匂いがした。

静香は、昨夜、母が突然外へ出たのは、車にあるこのタオルケットを取りに行って、

洗うためだったのだと気がついた。

薄いクリーム色のが母、薄い青色が父、薄いピンク色が私だ。

静香は、そういえば昔はピンク色が好きだったなと霧の中で思った。

そうしてその思いは、いろいろに遷移を繰り返して、一つの場所に落ち着いた。


5: ◆xS5JZuNSIIml 2017/08/01(火) 23:13:41.42 ID:ss87dLg80




―――父が私の将来を思うのだとしたら、母は、私のこころと身体を思ってくれる。

定期ライブとテストが重なってしまって、遅くに帰ってきて、

遅くまで勉強する私に、人肌のミルクを持ってきて

もう寝なさい、と眉をひそめて、呟いたりする。

そうでなくとも、いつもレッスンのある日は、

迎えに行こうか、今日は早く帰るのか、と仕切りに連絡をよこしてくれる。

正直鬱陶しいと思うこともある。けれど。―――



 静香は、薄いクリーム色のタオルケットを二つ折りにして、

母の背後からそっと掛けてやった。母にそうされるように、愛を以て掛けた。


6: ◆xS5JZuNSIIml 2017/08/01(火) 23:16:39.10 ID:ss87dLg80


 山頂に着くと、小さな雲は青い空を躍動して散りじりに消え、

遠くでは入道雲がのっそりと構えている。

それよりももっと遠い、地平線の向こう側から、

風鈴を僅かに揺らす冷えた風が、ゆらゆらと断続的に吹いた。

 静香の父が、4ドアのワゴン車の後部を開け放ち、クーラーボックスを取り出す音を聞いて、

静香の母が目を覚ました。

母は、タオルケットを畳んで、大きな真黒い日傘を差して、外へ出た。

既に大空を細目に仰いでいた静香に、日傘をかざす。

 二人は、せっせとレジャーの椅子や机を並べる汗ばんだ父を、四方の木々から聞こえる蝉の声を聞きながら、見ていた。


7: ◆xS5JZuNSIIml 2017/08/01(火) 23:18:29.28 ID:ss87dLg80


 暑そうね、という母の、侮蔑と優越、余裕の混じった言葉は、蝉の声に埋もれて、くぐもった。

静香は、そんな母の態度を見て、私にはない美しさだと思った。

かといって、欲しいとも、手に入るとも思わなかった。

その美しさは、父と母、前近代的な夫と妻の関係からくる。

家庭において、父は威厳を持ち、母はそれに黙って仕えるばかり。

しかし外においては、父は何も言うことなく、ただ無私愛を以て母に仕え、

母はそんな父を、余裕な眼で見つめている。

その美しさに、静香は嘆息を漏らすものの、手に入るとも、欲しいとも思わなかった。

なので、静香は、父を手伝いたくて仕方がなかった。

今すぐに、余裕の影の中から出て行って、私も手伝うわ、と言いたかった。

しかし、父母の描く、美しい古風芸術を汚す気には、毛頭なれなかった。


8: ◆xS5JZuNSIIml 2017/08/01(火) 23:20:21.26 ID:ss87dLg80


 巨大なパラソルの下で、家族は向き合うこともせず、各々の椅子に座って、

ただ遠くにある夏の山並みを眺望していた。

車の後部に吊るされた風鈴の音が、風と共にささやかな涼を誘う。

 静香は、何も考えていなかった。自分が何者であるか。

何を夢見て、何を愛し、何に愛されている存在であるのか、

それら全てに対して盲目になった。

その無我の静寂を、静かに打ち破ったのは、父だった。

「最近どうなんだ」

静香は、その一言に含意されている意味を、どうとでも捉えることができた。

学校のことか、友人のことか、

それとも、アイドルのことか。

どうとでも捉えることはできたが、そうとしか捉えることができなかった。


9: ◆xS5JZuNSIIml 2017/08/01(火) 23:21:56.68 ID:ss87dLg80


 父からアイドルのことを聞いてくるとは、意外だった。

母は何も言わない。静香は、自然に口を開いた。

飾った言葉は使えそうにない。時間制限を撤廃する方向に、

半ば誘導するような上手い文句を垂れる頭は、一切働かなかった。

純粋な、清廉な、打算の無い、正直な言葉を紡ぐ。

「頑張ってるよ」


10: ◆xS5JZuNSIIml 2017/08/01(火) 23:22:54.41 ID:ss87dLg80


 静香は、言ってから自らの言葉を反芻して、

「楽しい」と言えなくなった自分に自覚した。

勿論「楽しい」のだ。しかし今はそれ以上に、

「頑張っている」という意識の方が強いということに気がついた。

それも当然である。楽しいばかりのはずがない。

むしろ夢を目指すのはつらいことの連続である。

楽しいのは、それを超えて得られるものだ。静香は漠然とそう思った。

「そうか」と父は言う。母は何も言わない。静香は眼を閉じて、風鈴の音を遠くに感じた。


11: ◆xS5JZuNSIIml 2017/08/01(火) 23:24:40.04 ID:ss87dLg80


 気がつくと、香辛料の香りが鼻を通った。

父と母が、コンロを出してカレーライスを作っていた。

静香は、首をもたげて、その光景を見た。父が味見をしているところだった。

父の顔は、少し緩んで、すぐまた引き締まった。

 空は茜と青の水彩に染まり、蝉の声も穏やかに鳴っていた。

母が目を覚ました静香に気がついて、おはよう、と声を掛けてきた。

随分と疲れていたみたいだから、と言って微笑むので、静香もまた微笑み返した。

父は、黙って飯盒の白飯を紙の食器によそっていた。


12: ◆xS5JZuNSIIml 2017/08/01(火) 23:27:17.34 ID:ss87dLg80


 食事が済むと、辺りはすっかり暮れ、暗い青で空が塗られていた。

西の空に星が見えた。月はない。今夜は新月である。



 静香と、その両親、すなわち他に代え難い一つの家族は、

コーヒーを飲みながら、夜の全天を横切る星々を、共に待った。


13: ◆xS5JZuNSIIml 2017/08/01(火) 23:28:41.80 ID:ss87dLg80


「あっ、いま流れた」

「ほんとう?」

「……見えなかったぞ。嘘を吐くな」

「ほんとうだってば!」



 静香は、星に願うことも忘れて、はしゃいだ。

自分だけが目にした流星を、大事な家族に何とか伝えようと努力した。

しかし、伝えようとすればするほど、嘘っぽかった。

その流星は一瞬で燃えて、既になくなった。

伝えようとすること自体が無意味だ。静香はそう思って、

はしゃいだ自分を子どもらしいと恥じながら、椅子に腰を落とした。


14: ◆xS5JZuNSIIml 2017/08/01(火) 23:29:34.84 ID:ss87dLg80


 その時である。

時間という一瞬の集積から、ほんの少しだけ、切り取って、

引き伸ばしたように、一際大きな光の粒が長いこと流れた。

「見えた」

「見えたな」


15: ◆xS5JZuNSIIml 2017/08/01(火) 23:30:49.56 ID:ss87dLg80


 その流星を皮切りに、夜空に、光の粒が数え切れないほど流れ出した。

しかし、静香の心は、あの一際大きな流星ばかりであった。

 静香は、あの流星に願い事をした。

かといって、なにを願ったのかは、本人にも判然としない。

しかし、確かに願った。それだけはやはり確かで、

こころには確固たる何かがある。それだけで十分だった。思い出す必要はない。


16: ◆xS5JZuNSIIml 2017/08/01(火) 23:33:11.19 ID:ss87dLg80


 夜通し空を見上げて、帰りは次の日の朝になる。

明け方に三時間ほどの仮眠を取り、行きと同じく、父の運転で自宅へ帰るのだ。

父は月曜日に有給を取っていた。父が有給を取るなど、あり得なかった。

 母はぐっすり眠っている。

父はひたすらに前を見つめてハンドルを握っている。

眠くないのだろうか、と静香は思う。大丈夫なのだろうか。

もし居眠りでもして事故になれば、などと思って、不安になった。

 別に、眠くないか、と話しかけるでもなく、

静香はただ、夜を越した重い瞼を持ち上げて、

万が一父が居眠ったら、すぐに後ろからハンドルを握って、それからブレーキを踏む、

という妄想を働かせて、仮初めの安心を得ながら、

ルームミラーに映る父をこまめに見た。

 すると、父とミラー越しに目が合った。

静香は、すぐに目を逸らす。対向車とすれ違う度に、風を切る音がした。

そればかりが車中に響いた。父が言う。

「眠くない。大丈夫だ。静香も寝なさい」

「でも」

「大丈夫だ。事故など起こさない。明日もレッスンなんだろう。今は寝て、疲れを残さないようにしなさい」

「……うん。ありがとう、お父さん」


17: ◆xS5JZuNSIIml 2017/08/01(火) 23:34:30.04 ID:ss87dLg80


 静香は、この言葉を後にしても、

父が、アイドルの活動を認めてくれたとは思わなかった。

時間制限は簡単には解けない。

これこそ仮初めである。父は頑固だ。

それも、私の将来を考えてくれている頑固だ。私のためにひたすらに頑固だ。


18: ◆xS5JZuNSIIml 2017/08/01(火) 23:35:28.51 ID:ss87dLg80


 確かに、父の思うようにアイドルは不安定だ。

専念して、失敗したら、遅れた分、通常の道への復帰は、

かなりの努力を有するかもしれない。

それに、成功したとしても、いつまでも成功し続けることができるわけではないし、

アイドルを引退した後どうする、という問題もある。


19: ◆xS5JZuNSIIml 2017/08/01(火) 23:36:38.78 ID:ss87dLg80


 それでも、私は走り続けたい。

たった一つの夢、初めて夢中になった。

この先の未来がよく見えなくても、一つだけ光が見える。

そればかりを指針に、殆ど盲目のままでも進む。

かけがえのない夢は動かない。ただ目指して走るだけだ。


20: ◆xS5JZuNSIIml 2017/08/01(火) 23:37:40.68 ID:ss87dLg80


 父の頑固と母の愛情、その居心地の良い「思い」を振り切って、

走る覚悟があるか。あるに決まっている。あるに決まっているのだ。

 静香は、目を閉じた。安心感があった。

先ほどまでの不安はない。父を信頼している。父は必ず約束を守る。



 でもせめて今くらい、居心地の良さに甘えたって、良いではないか。

静香は、そう思いながら、目を閉じたのだ。



<了>