1: ◆vkHTV4M25U 2015/02/08(日) 02:31:23.24 ID:oe4UGcwQ0

 風病という言葉がある。

 古くは、風の気に当たって起こると考えられた病のことだ。他にも中風なんて意味もあるが、私にとっては前者の意味が何よりも関わりがあった。

 昨日のことだ。すっかり日も暮れた鎮守府の波止場で、風に当たりながら私は大好物のウィスキーをストレートで嗜んでいた。

 晩秋の海風は仄かな潮の香りを漂わせ、長く続いた夏日に終焉を告げたかのように冷たかった。寒がりな人には充分鳥肌を立てるくらいであったが、ウィスキーで火照った身体には、丁度よかった。

 月明かりに照らされた海を見ながら呑む酒は格別だった。飲んでいる酒はブラックニッカ。トランプに出てくるような髭の王様が描かれたウィスキーで、いかにも高級そうだが、安酒中の安酒だ。しかし低級品といっても侮るなかれ。飲みやすくて中々美味いウイスキーだ。安酒では、美味い方だと私は思う。

 もちろん、より上等な酒を楽しみたいというのが本音といえば本音だ。しかし、今は戦時中でただでさえ物資が不足している。私の所のような駆け出しの鎮守府では、高級品など望むべくはない。安酒でもこうして配給されればいい方だし、贅沢はいえないだろう。この『髭の王様』とは、それなりの付き合いができて、今では愛着さえ湧いていた。

 相棒を傾け、喉と胃を焼きながらただ海を見る。

 月を写した暗い海は、ゆったりと動いていた。押しては返す穏やかな潮騒が、静かな夜に木霊する。俺は、この静かな一時が何よりも好きだった。

 何もかも忘れていられるから。


SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1423330282

引用元: 【艦これ】提督「風病」【SS】 

2: ◆vkHTV4M25U 2015/02/08(日) 02:32:54.44 ID:oe4UGcwQ0

 楽しかったことも、嬉しかったことも、悲しいことも、辛いことも、全て。

 自分が提督であり、年端のいかない少女たちを死地に追いやる悪魔であることも——。

 この広い海の前では、全てがちっぽけに思えるのだ。俺など、浜辺の一握の砂ほどもない存在なのではないかと、錯覚できる。波に飲まれ、すぐに形を崩して分からなくなるつまらない存在だと。

 しかし、現実というのは、記憶というのはふとした瞬間に頭を過る。身悶えするほど恥ずかしいことや、内臓が沸騰するほどの怒り、そして目尻を湿らせる悲しさ。それが途端に湧いて来ると、俺は己の残忍な実像を思い出してしまう。

 それは俺にとって、とても残酷なことだった。

 現実からは逃げられないぞ。目を逸らすな。そう内側から何者かに語りかけられる気分になり、気が滅入る。現実は残酷さの象徴だった。

 だから、相棒の力を借りて、現実さえも歪めてしまう。頭の中を歪め、仮初めの高揚感に委ね、静かに笑うのだ。

 決まって、酔いが覚めれば死にたくなるのだが。しかし、そうと分かっていても身を委ねてしまうのだから、俺は立派なアルコール中毒者なのだろう。

 こうしてこの波止場で1人晩酌に暮れるのも、もう何度目か分からないほどだ。

 いつも淡々と、ボトルが底を突くまで呑む。

 潮騒に揺れて、歪んだ現実を一頻り楽しんだ後、部屋へと戻るのだ。

 だがしかし、昨日はそうしなかった。何故かは分からないが途中で記憶が途絶え、気がつけば波止場で大の字になって寝ていたのだ。

 つまり、一晩中冷たい夜風に曝されていたことになる。酒の火照りなど、薪をくべない篝火のようにすぐ消し飛ぶから、結果として俺がどうなったかなど簡単に分かるだろう。

 間抜けにも、風邪を引いてしまったのだ。

3: ◆vkHTV4M25U 2015/02/08(日) 02:34:58.76 ID:oe4UGcwQ0

 そして、俺は自室の布団に押し込められてしまった。頭には氷を乗せられ、口には検温機が挿さっている。鎮守府の長としては、何とも恥ずかしい格好であった。

 ピピピピ、と小さな機械音がした。

 俺の枕元に鎮座する浜風が、口から検温機を抜き取った。検温機をしばし眺めて、大人びた端整な顔をしかめた。

浜風「……三十八度五分ですか。朝より酷くなりましたね」

 浜風は溜息混じりにそう言った。艶かしい口から息が零れるのに併せ、豊満な二つの脂肪が揺れる。そこに目が行ってしまうのは仕方ない。男の性だ。

浜風「提督……、何を見ているのでしょうか?」

 浜風が目を細める。

提督「いや、空は青いなあと思ってな……」

浜風「今十九時ですよ。とっくに日は暮れています」

提督「……」

 ぐうの音も出ない。

 俺が目を逸らすと、浜風は頭痛を抑えるように頭に手を置いた。白銀の髪がハラリと動く。

浜風「いやらしい……」

提督「はい、ごめんなさい」

浜風「別に謝らなくて結構です。提督がいやらしいのは、今に始まったことではないのですから。この前だって……」

 真面目そうな見た目にそぐわず、浜風は以外と毒舌である。チクチクと、言われたくないことを小言のように言ってくるのだから、まるで小姑だ。

4: ◆vkHTV4M25U 2015/02/08(日) 02:37:14.56 ID:oe4UGcwQ0

 クドクドと説教し出した浜風に少しうんざりして、俺は寝返りを打った。氷が落ちたが気にしない。とにかく聞かないフリをした。

浜風「まだ話の途中ですよ。こっちを向いて下さい」

 無視無視。

浜風「提督、聞いていますか?」

 聞こえないですよ。

浜風「……」

浜風「ちょっと、この部屋熱いですね……。上脱いじゃいましょうか」

 俺は振り向いた。ほとんど条件反射だった。

 浜風の呆れた顔が、そこにはあった。

浜風「嘘ですよ、ハレンチ提督」

提督「計ったな」

浜風「いい大人がこの程度の罠に引っかからないで下さい。全く、呆れてものも言えません」

提督「だがな……」

 俺は反論しようとして咳き込んだ。胸の内側に幾度か衝撃が走り、腫れた喉が震える。

浜風「大丈夫ですか? 提督」

 心配そうに、浜風が覗き込んできた。咳をしながら手振りで大丈夫と伝える。

浜風「無理しないで下さいね。ちゃんと咳止めは飲まれましたか?」

提督「あ、ああ……。渡されたクスリはお粥を食べた後にちゃんと飲んだよ」

浜風「そうですか」

 そう言って、浜風は微笑む。その可愛らしい表情に、何処か熱っぽい艶やかさがあるように感じたのは錯覚だろうか。風邪のせいで頭の中がぼやけているから、そう見えるのかもしれない。

浜風「それなら、そろそろ効いてくるでしょうね……」

 ふふっ、と笑う浜風。

 何だか、少しぼうっとしてきた。睡魔が襲ってきたと言った方が正しいか。咳止めや抗生剤には服用すると副作用で眠くなるものもあるが、俺が飲んだのは強力だったみたいだ。眠気を感じた瞬間、睡魔が恐ろしい速度で侵食を始めた。黒いシミが津波のように広がり、意識が遠くなる。

浜風「提督……」

 浜風が優しげに俺を呼んだ。

浜風「おやすみなさい」

 その声を最後に、俺の意識はブラックアウトした。

5: ◆vkHTV4M25U 2015/02/08(日) 02:39:02.26 ID:oe4UGcwQ0

………
……


 可愛い寝顔。

 私は、提督の穏やかな寝顔を見ながら安らぎと高揚感を感じていた。

 この安心し切ったあどけない寝顔を独り占めにしている。そう思うだけで、私は身が震えるほどに幸せだった。

 ここには、私たち以外誰もいない。時計の音と提督の小さな寝息しかなく、静寂に満ちた楽園であった。この世界では提督がアダムであり、私がイブである。

浜風「ふふっ……」

 笑いが、堪えられない。

 私の理想とする世界が、擬似的であっても創造されたのだ。絶頂を覚えずにはいられなかった。

 私は安らかに眠る提督の額に氷を載せ直した。そのまま手を彼の柔らかい頬へと進ませた。

 撫でる。二度三度、その柔らかさを確かめる。

浜風「全く、外でお酒を飲んで寝るなんて、不要人ですよ。風邪引くに決まってるじゃないですか」

 私は呟きながら、どの口がそんなことを言うのかと思った。

 そうなるように仕向けたのは、私だと言うのに——。

6: ◆vkHTV4M25U 2015/02/08(日) 02:40:33.43 ID:oe4UGcwQ0

浜風「でも、あなたが風邪を引いてくれたおかげで、今は二人きりです……」

 心臓が鼓動を強める。血流が速まり、全身が多幸感で溶けてしまいそうだ。

 喉がやけに渇いた。飲み込んでも飲み込んでも唾が溢れて止まらない。渇きと飢えで私はどうにかなってしまいそうだった。暗い欲望が理性に陰りを生み、飲み込もうと胎動し出した。

 ああ。ああ、あなたを食べてしまいたい。

 貴方と繋がり、あなたの愛の結晶をこの身で受け止めたい。あなたの肉も、骨も、血も、体液の全てに至るまでこの身に取り込み、私だけのものとしたい。ああ!ああ——。

 提督の頬を撫でる手が寝巻きから露出した胸板へと伸びかけたところで、私は手を止めた。

 冷静になれ——。

 私は自分にそう言い聞かせる。

 私は、盛りのついたメス猫どもとは違う。ここで一方的に提督を求めてしまえば、私はその低俗な獣どもと一緒になってしまう。

 堪えるのだ。

 襲うのは簡単だ。無理やり繋がって子種を得るのもそう難しくはないだろう。既成事実を作ってしまえば、この優しい提督のことだ、真摯に応えようとするに違いない。だが、それでは意味がないのだ。私のイデアは、そんな結末に生じたりなどしない。

 そこには、提督の意思がないからだ。

 真実の愛とは、お互いの同意があってこそのものだと私は信じている。

 だからこそ、私が求めるだけでは意味がない。提督が私のことを求めるようになって始めて、私の愛は真の形を得るのだから。

 提督が、私を……否、私だけを求めるようになるまで、待たなければならない。

 今は、ひたすら我慢だ——。

 計画はゆっくり慎重に、確実に進めることが肝要だ。欲望に流されれば、全てが台無しとなる。

浜風「我慢、我慢……」

 私は、提督が咥えていた体温計を眺める。熱を感知する先端部分が、しっとりと濡れていた。提督の唾液。それは、私にとって蜜に他ならない。

 このくらいなら、いいだろう。

浜風「はあ、はむ……ちゅう……」

 私はアイスのように、検温機を舐め回した。舌でねぶり、吸い、その極上な甘さに酔いしれる。

浜風「ああ、提督……。あなたは、何故こんなに……」

 こんなにも甘いのか。

浜風「待って……ちゅる、ちゅ……ちゅう……いて、くださいね。どんな手を、使ってでも……ちゅ……必ず……はむ、れろ……あなたを、私の虜に……」

11: ◆vkHTV4M25U 2015/02/12(木) 03:18:50.20 ID:S+ppQ+Wq0






第一章
「風の訪れ」







12: ◆vkHTV4M25U 2015/02/12(木) 03:19:29.64 ID:S+ppQ+Wq0
 
 彼女、浜風と出会ったのは、二月の中旬、身を切るような寒さがまだまだ残っている頃だった。

 その頃は俺が鎮守府に着任して三ヶ月の節目を迎えていた時期で、各エリアの攻略も順調に進み、ついに南西諸島海域のバシー島沖攻略に乗り出していた。

 南西諸島海域は、鎮守府近海の敵に比べてかなり強くなっていた。赤く輝くeliteクラスに、空母ヲ級などの強力な敵が次々と現れ、我々艦隊は非常な苦戦を強いられていた。

 何度かバシー島沖に出撃しては、誰かしら大破をし帰投するという流れを繰り返していた。悪い流れが生まれ、資材も段々と少なくなり、焦りを感じずにいられなかった。

 ある日、第一艦隊を出撃させて旗艦の榛名が大破してしまい、帰還する流れになった。またしても攻略できず、頭を抱えたが、出来なかったものはしょうがない。すぐにマイナス思考を断ち切った私は、当時の秘書艦だった雷とともに、第一艦隊を波止場にて出迎えることとした。

 帰ってきた第一艦隊は皆、事前の報告通りボロボロだった。服は焼け焦げ、血を流しているものもいた。

榛名「只今帰投しました。提督……その、申し訳ありません」

 敬礼した榛名が申し訳なさそうに言う。彼女の装甲はほとんどが剥がれ落ち、弾が掠めたのだろう。腹部が赤く染まっていた。

 大破状態だった。俺はその痛々しい様子に眉を潜める。彼女に労いの声をかけて、雷に榛名を入渠させるよう指示を出した。

雷「さあ、榛名さん。行きますよー!」

榛名「ちょ、ちょっと。雷ちゃん、もう少し優しく」

 快活な雷に引き摺られるように連れて行かれる榛名を横目で見送り、俺は第一艦隊の方へと向き直った。

 皆、軍人だけあって直立不動で待機していた。幸い大破は榛名だけで、その他の皆は中破している者はいたものの、さほど大きな外傷は見られなかった。事前の報告で知ってはいたが、俺は胸を撫で下ろさずにはいられなかった。

羽黒「あ、あの、提督……」

 羽黒が、ビクつきながら遠慮気味に発言する。彼女が何を言おうとしているのかは、すぐに分かった。

提督「ああ、分かっている」

13: ◆vkHTV4M25U 2015/02/12(木) 03:21:23.89 ID:S+ppQ+Wq0

 俺は、一列に並ぶ第一艦隊の背後を見遣った。そこには見覚えのない少女が立っていた。

 プラチナの輝きを思わせる銀髪に、サファイア色の瞳が特徴的な少女だった。身長は低いが、その顔は端整な作りをしていて大人びて見える。髪で片目が隠れているせいか、何処かミステリアスな雰囲気を感じさせた。

 彼女は、第一艦隊と同じく、所々負傷しているようだった。顔や腕には鮮血が流れている。右腕が紫色に変色し腫れ上がっているところを見ると、骨折している可能性が高い。

 負傷の具合は、榛名以上だろう。すぐに救護妖精に診せて入渠させた方がいい。

提督「君が報告にあったはぐれ艦の子だな」

浜風「ええ、浜風と申します。艦隊にはぐれて彷徨っていたところを助けていただき、ありがとうございます」

 落ち着いた様子で、浜風は頭を下げた。

 彼女の表情は氷のように冷たく、涼しげであった。激痛で身悶えしてもおかしくない程の負傷があるにも関わらず、脂汗一つたりとも流していない。

 俺は首を傾げる。

 やけに冷静すぎはしないか。

提督「まあ、詳しい話は後で聞くとしよう。それより怪我を治してもらう方が先だ」

浜風「そういえば、そうですね」

 さも興味なさそうに浜風は言った。まるで他人事のようなその口調に違和感を覚える。しかし、その違和感は一旦頭の片隅に追いやることとした。今は彼女の傷の手当てが何より優先されるべきだ。

提督「羽黒。済まないが、救護室に彼女を案内してやって欲しい」

羽黒「は、はい!」

 羽黒は慌てて頷くと、浜風に声をかけて案内を始めた。浜風は怪我の具合から考えられないほど、しっかりとした足取りで羽黒に着いていく。足の負傷はなさそうであったが、それにしても……。

提督「……浜風、か」

 変わった娘だな。

14: ◆vkHTV4M25U 2015/02/12(木) 03:23:34.35 ID:S+ppQ+Wq0





 執務室で、私は書類整理をしながら浜風を待っていた。榛名や、羽黒たち第一艦隊はすでに入渠を終え報告まで済ましてくれたが、浜風は中々来なかった。第一艦隊が帰還してから六時間が経つ。まだ入渠しているのだとしたら、戦艦並みの入渠時間だ。

 俺はふと、救護妖精が提出した浜風の診断書に目を落とした。そこに書いてある内容を見て、暗澹たる気分になる。

 裂傷十箇所、打撲跡二十五箇所、内出血四十二箇所、微細骨折六箇所、完全骨折四箇所、全身への火傷――。これ以外にも聞き覚えのない様々な症状が、列を作って並んでいる。

 俺が想像していたよりもずっと酷い。普通なら息をするだけで激痛に悩まされるほどの重症だ。昔交通事故にあって、肋骨を折ったことがあるから分かる。寝返りを打つだけで激痛が走るから、しばらくの間寝不足に悩まされたほどだった。

 浜風の負傷は、その時の俺の怪我とは比肩に値しないほど酷いものだ。どうしてこんな怪我であんな涼しい顔ができるのか、いや、そもそも動くことができるというのか。

 診断書を持ってきた救護妖精の報告を思い出した。

 浜風は検査の際も冷静な表情を崩さず、まるで何事もないかのように振る舞っていたらしい。負傷箇所を確かめる触診で「痛いところはないか?」と幾度か尋ねても、浜風はそのすべてに「いいえ」と答えたそうだ。検査が終えて、診断書に書いてある結果を伝えても、至極どうでもよさそうに一言礼を述べただけだったという。まるで他人事のようだった、と救護妖精は戸惑いを隠さない顔でそう言った。

 波止場での彼女とのやり取りで、私が感じた違和感と同じだった。

 おそらく、浜風は痛覚がマヒしているのではないだろうか。そう考えると納得がいったし、何より救護妖精も同じことを指摘した。浜風はおそらく、「無痛症」なのではないかと。

 「無痛症」とは、遺伝的要因により起こる神経障害のことで、文字通り痛みを感じない病気のことだ。国内でも推定二百人ばかりしかいない珍しい病気である。これは、一見すると羨ましく感じるかもしれない。なぜなら、人は痛みに恐怖するからだ。世界には様々な痛みが溢れている。通常人は、その痛みを避けられるなら極力避けて生活するはずだ。特殊な性癖でもない限り、自分から痛みを受けに行くものなどいないだろう。

 だが、痛みとは危険信号なのだ。熱したヤカンを触れば熱くて痛いから人は手を放すし、胃や腸、筋肉などの体内の組織に痛みが走ることで、人はそこに潜んでいる病気に気が付くことができる。だが、無痛症はそれらの警告に全く気付くことができない。ヤカンを触って皮膚がグズグズになっても、骨を折っても、体内の病気が深刻なレベルまで進行したとしても、気付けないのだ。それは、恐ろしいことだ。

15: ◆vkHTV4M25U 2015/02/12(木) 03:26:28.15 ID:S+ppQ+Wq0
 
 「無痛症」の患者は、「痛み」がないことを恐れるという。それもそうだろう。自分がいつ、何が原因で死に至るのか分からないのだから。

 浜風も、そうなのだろうか。

提督「……いや」

 そうは思えなかった。

 浜風、彼女は……。

 その時、ノックがなった。こんこんと、小刻みにウッド調のドアを叩く音が木霊する。俺は浜風の診断書を机の引き出しに仕舞うと返事をした。

提督「入れ」

 ドアが開いた。現れたのは浜風だった。彼女はドアを丁寧に閉めると、背筋を伸ばして敬礼した。

浜風「浜風です。入渠が終わりましたのでご報告に参りました」

提督「ご苦労。随分長かったな」

浜風「ええ。どうやら大変な怪我をしていたみたいで」

 またしても、浜風は他人事のように言った。

提督「そのようだな。戦艦並みの入渠時間だった」

浜風「申し訳ありません。私はただの駆逐艦ですのに……」

提督「別に謝らなくていい……って、え?」

 俺は驚きのあまり目を白黒させた。

提督「君は、駆逐艦だったのか……」

浜風「はい、そうですが」

 怪訝な顔をする浜風だったが、すぐに何やら得心がいったみたいで自分の胸元を見て、呆れたように息を吐いた。どこか、悟ったような表情だった。俺はすぐにその意味を理解して慌てて訂正する。

提督「いや、勘違いしないでくれ。なんというか、すごく落ち着いてて大人びていたから駆逐艦には見えなかったというだけだ。てっきり軽巡洋艦だと思っていた」

浜風「大丈夫です。慣れているので」

 浜風は呆れた表情を崩さない。どうやら俺の言葉は、ただの助べえの言い訳と解釈されたらしい。正直、そのような誤解は御免被るが、変に訂正を重ねても疑いが増すばかりなのでやめておいた。
 
 俺は咳払いをする。

21: ◆vkHTV4M25U 2015/02/18(水) 17:02:41.52 ID:ZH1xDooiO

提督「それより、君について色々と聞かなければならないことがある。まずは君の所属と艦隊からはぐれた経緯を聞きたい」

浜風「了解しました」

 浜風は敬礼して、続ける。

浜風「私は南鎮守府所属です」

提督「南……。こことは随分離れているな。確かあそこは今沖ノ島海域を攻略中だったはずだが、君は何故バシー島沖などに?」

浜風「……」

提督「浜風?」

浜風「聞いたら驚くかもしれませんが、私は沖ノ島海域攻略中に艦隊とはぐれました」

提督「は?」

 俺は驚くどころではなく、絶句した。

提督「ちょっと待て、今、沖ノ島海域攻略中にはぐれたと言ったよな……?」

浜風「ええ」

提督「沖ノ島海域からバシー島沖まではかなり距離があるぞ。君は一体何日間彷徨っていたんだ?」

 驚愕する俺とは違い、浜風は実に落ち着いていた。顎に指を当て、思考を巡らせている様子は可愛らしくすらあった。

浜風「太陽が四回昇ったので、おそらく四日ほどではないかと……」

提督「四日……」

22: ◆vkHTV4M25U 2015/02/18(水) 17:04:51.16 ID:ZH1xDooiO

 そんなに長い間、おそらくは飲まず食わずで漂流していたというのか。しかも、ただの漂流とは違い、南西諸島海域は深海棲艦が出没するから常に命の危険が伴う。四日間たった一人で生き残っているのは奇跡としか言い様がない。

提督「よく、無事だったな」

 俺の言葉に、浜風は苦笑いを浮かべる。無事とは言えませんでしたが、とその表情は語っていた。

浜風「悪運が強いのでしょうね。何度も敵と遭遇して、数え切れないくらい砲雷撃を叩き込まれたというのに。自分でも、よく生き残れたものだと思います」

 浜風は目を落として小さく笑った。吊り上がった口元とは対照的に、青い瞳は輝きを失い、黒ずんだガラス玉のようになっている。何処か自嘲を匂わせた、翳りを帯びたその表情に、俺は眉を顰めずにはいられない。

 まるで生き残ったことを後悔しているようではないか。浜風は、やはり無痛症による無自覚な死を怖れているわけではなさそうだ。むしろ、積極的に死にたがっているのではないかと、俺は思う。

 浜風の顔には黒い影が取り付いている。俺はその影に見覚えがあった。

 絶望という名の影だ。キルケゴールの言葉を借りるなら、死に至る病である。浜風は間違いなくその凶悪な病を患っている。見紛うはずはない、今でも時折この影に取り憑かれた人達の顔が夢に出てくるくらいなのだ。

 俺の、両親の顔が——。

 いけない。思い出すな。あの老け切った顔と四つの仄暗い虚ろな瞳が頭の中に浮かぶたび、火のようなムカつきで胸が焼け、強烈な吐き気に襲われる。ここで催してしまうのはまずい。

 胸にせり上がりかけた焼ける感覚を、深呼吸をして抑えつける。暖房によって暖められた空気は、焦熱感を抑え込むのにあまり向いているとは言えなかった。

 それでも、マシにはなった。俺は口元を隠すように腕を組み、浜風を見る。

提督「とにかく、無事でよかったよ。南の方には俺が連絡を入れて無事を伝えよう。おそらくは数日程で君を引き取りに来ると思う。それまでの間、我が鎮守府でゆっくりしていてくれ」

浜風「お気遣い感謝します。ですが……」

 浜風は何かを言いかけて、

浜風「……いえ、何でもありません。流石に疲れたので、お言葉に甘えて少しの間ここで休ませていただこうかと思います」

提督「そうしてくれ。後で皆にも君のことを紹介しようと思う。構わないか?」

浜風「はい、わかりました」

 淡々と答える浜風の瞳は、欠けた月のように仄暗い光を帯びていた。

31: ◆vkHTV4M25U 2015/02/24(火) 03:55:18.29 ID:Y3QSGkv50







 浜風が退出した後、俺はすぐに南鎮守府へ連絡をかけた。

 当然、浜風を保護したことへの報告と、引き取りをお願いするためである。

 南提督も、はぐれた浜風のことを心配していることだろう。なるべく早く連絡して、相手を安心させてあげたかった。難関海域である沖ノ島海域ではぐれれば生存率はほぼゼロに近いから、浜風が生きていることを知れば手を挙げて喜ぶに違いない。

 俺は面識のない南提督の喜ぶ姿を勝手に想像して、気分を良くしていた。だが、その気分は南提督へと電話をし出してから消し飛ぶこととなった。
 
南『断る』

 浜風の引き取りをお願いすると、南提督はそう即答したのだ。

 俺は耳を疑った。

提督「はい?」

南『だから、断ると言っている』

 南提督は苛立ちを匂わせた声で答えた。
 
提督「どうして断るのでしょうか?」

南『あれは、もう我が鎮守府の所属ではなくなったからな。私の預かり知るところではないよ』

提督「……は?」

 所属ではなくなった? 一体どういうことだ。

32: ◆vkHTV4M25U 2015/02/24(火) 03:57:36.34 ID:Y3QSGkv50

 俺の困惑が伝わったのだろう。南提督はわざとらしい溜息を零した。嫌味な感じが鼻につく。

南『私はあれが助かる見込みはないと踏んで、すでに轟沈報告を本部に送ったのだよ。艦娘の轟沈は除隊を意味する。まあ、そういうことだ』

提督「……つまり轟沈報告して、すでに除隊申請が通ったから、浜風を引き取れないと?」

南『ああ』

提督「いやいや、ちょっと待って下さいよ。浜風は生還したんですよ? それなら轟沈報告を取り消してすぐにでも引き取るのが筋ってものじゃないですか」

南『知らんな』

 南提督は憮然と言い放った。

 一瞬唖然とした俺は、しかしすぐに憤慨した。眉根を寄せて、遠くにいる相手を睨みつける。

提督「知らないとは何ですか。あなたそんなことを言える立場ではないでしょう?」

南『なんだと?』

提督「浜風の遭難は、作戦行動中に部隊の確認を怠ったあなたの責任です。浜風を引き取らないということは、その責任を放棄するということに他なりません」

南『……』

提督「あなたが引き取りを断る場合、責任放棄と見做して、本部へ抗議させていただきます。こちらには浜風という生き証人がいるんです。あなたは間違いなく、本部から厳重注意を受けて信用をなくすことになるでしょうね」

 厳しい口調で脅す。容赦はしない。俺はすでに南提督への印象を悪い方に傾けていた。

 南提督は押し黙っている。電話では彼の表情を伺いしれず、それが小さな不安を煽った。気味の悪い沈黙がしばしの間降りて、時計とエアコンの音が強調された。

 静寂を破ったのは南提督だった。ふっ、と小さく鼻で笑った。

33: ◆vkHTV4M25U 2015/02/24(火) 03:59:45.18 ID:Y3QSGkv50

南『なるほど、生き証人か』

 それは俺へ向けた言葉ではなく、自分の中で吟味するために出したものなのだろう。なるほど、と二度ほど繰り返し、南提督はくつくつと笑い出した。低い笑い声は不愉快でしかない。

南『なあ、南西提督……。取り引きをしないか?』

提督「取り引き?」

 この後に及んで、この男は何を言い出すのか。

南『君は確か……バシー島沖海域の攻略に手こずっているはずだったな。確かにあの海域は中々に困難だ。私も攻略には随分骨を折ったから気持ちは分かるよ。……早く攻略したいとは思わんかね?』

提督「……まあ、そうですね」

南『ふふ、そこでだ。君に浜風をくれてやろうではないか。あれは憎たらしいほどに優秀だからな、旗艦に添えれば役に立つぞ』

提督「……あんたふざけてるのか?」

 俺は頭に血が上って、失礼な言葉使いをした。お互い階級は中佐であるが、面識のない相手だったので気を遣っていたのだ。だが、敬意を払う必要など一切なかった。俺はこの男をはっきりと嫌悪した。

南『おいおい、そんなに怒ることはないだろう。私は建設的な提案をしているんだぞ?』

提督「何が建設的だ!」

 俺は怒鳴った。

提督「あんたの言っていることは交換条件にすらなっていないんだよ。こちらに浜風を押し付けて口止めをしようとするなど……。恥を知れ!」

南『ふん、確かに私は恥知らずかもしれんな』

 開き直った物言いだった。

南『ならば、恥知らずとして頼もうではないか。どうか、何も言わずあれを貰って頂けないだろうか。南西提督殿』

提督「性根が腐ってやがるな、あんた」

南『かもしれん』

34: ◆vkHTV4M25U 2015/02/24(火) 04:01:17.43 ID:Y3QSGkv50

 南提督は笑い声を零した。卑屈で陰気な笑い声だ。

南『さて、どうする。本部に私のことを報告して浜風を引き取らせるか。私のような性根の腐り切ったやつの元に戻るあれも、気の毒だろうなあ』

 殴り飛ばしてやりたいと思った。だが、南提督はこの場にいない。代わりに机を叩きつける。ガン、と甲高い音と共に振動が起こり、置かれていた書類の束が地面に散らばった。拳が痛い。だが、そんな痛みなどどうでもよかった。

提督「貴様……っ。何故だ、どうしてそこまで浜風を拒む! あの子がお前に何かしたのかっ!?」

南『ああ、したね。あれは、ただの兵器の分際で出過ぎたことを色々してくれたからな。私が指揮官だというのに、あの小娘……っ。私より……名門出身のこの私よりも……!』

 南提督の声は憎しみで震えていた。その憎しみの正体が醜い嫉妬であることは明らかであった。

 まさか。俺はある可能性に考えが至ってしまった。だが、あまりにも人道に反することなので、否定したくなる。それはないだろう、と。しかし、次の南提督の言葉で、それは確信に変わってしまった。

南『あのクソガキ……! まさか、生きていたなんて……っ』

 ああ、やっぱりそうか。

 このクズ野郎、なんてことをしてくれたんだ。

 怒りを超えた冷たい感情が俺を満たした。それは、心底からの失望と悲しみであった。

 浜風は。

 浜風は、はぐれたのではなく捨てられたのだ。自信が優秀なために理不尽な妬みを買って。なんということだ、と私は思った。

 汚ない言葉を吐き続ける南提督。その全てが嫉妬で濁り切り、聞くに耐えない。俺は全てを聞き流す。このクズに不運にも仕えることとなってしまった浜風へ、憐憫の情を抱かずにいられなかった。

 浜風は、無痛症というハンデを抱えているだけではなかったのだ。南提督の憎悪の有り様から、他にも理不尽な目にあったのであろうことは容易に想像がついた。そして、挙句に捨てられた。しかも、遭難したら生還不可能とまで言われる沖ノ島海域にだ。悪意の程が知れている。

 死に至る病——。浜風の抱える絶望の片鱗を、見た気がした。

35: ◆vkHTV4M25U 2015/02/24(火) 04:03:17.06 ID:Y3QSGkv50

提督「もういい」

 深い深い溜息の後、俺は言った。自分でも驚くほど疲れた声だった。

 怒りはある。もちろんだ。だが、それ以上に落胆と悲哀が大きかった。

 もうこんなやつとは話をしたくない。

提督「浜風は俺が引き取る。本部にもあんたのことは報告しない。約束しよう」

 おお、本当か。受話器から聞こえた声は歓喜に満ちており、俺をより一層疲れさせた。

提督「だから、俺の鎮守府には今後一切関わるな。あんたとは口も効きたくない」

 俺は返事を聞かず、受話器を叩きつけた。乱暴な音が鳴る。黒電話の上で踊る受話器は、陸に上げられた魚のようであった。

 力を抜いて、椅子に背中を預ける。黒革でできた椅子の柔らかさが、これほど有難いと感じたことはなかった。

 少しの間、ぼうっとする。

提督「……」

提督「……、酒が呑みたいな」

 俺はそう呟いた。ナーバスな気分になると、どうしてもあの喉を焼き脳を溶かす感覚が恋しくなる。まだ執務中であったが、もう仕事をする気分ではない。とにかく呑みたい。呑んで忘れたい。

 酒は何処だ。俺は机の上を見る。いつも、オブジェクトとして置いているブラックニッカがない。さっき、机を叩いた時に落ちたか。

 億劫だが立ち上がると、すぐに見つかった。赤い絨毯の上に転がる瓶は、黄金色の輝きを放っていた。見慣れた色光だが、荒んだ心中では砂漠の中のオアシスとさえ思えた。

 拾い上げ、椅子に座ると、フタを開けて呷った。グラスに注ぐことさえ面倒だった。今は風情など気にしてられない。

 嚥下する度に、焦熱した感覚が食道にきた。ウィスキーを一気には呑めないので、何度か小分けにして呑んだ。だが、常より速いペースで。

 まさに自棄酒だった。

36: ◆vkHTV4M25U 2015/02/24(火) 04:05:13.99 ID:Y3QSGkv50

雷「あの、司令官?」

 いつの間にか執務室に雷がいた。酒に夢中で入室に気づかなかった。

 俺はボトルを置いた。酒はほとんど空かしたが、暗澹たる気分を打ち消してはくれなかった。酒に酔えないなど久しぶりだ。

提督「雷か……。どうした?」

雷「どうしたじゃないわよ。こんな時間にお酒を呑むなんて……。何かあったんでしょ?」

 雷は心配そうに尋ねてきた。

提督「……ちょっとな。少しだけ、嫌なことがあったんだ」

雷「嫌なこと? それは私には話せないことなの?」

提督「ああ……」

 話せるはずがない。あんな話、純真無垢なこの子には聞かせたくなかった。

 雷は目を落とした。人から頼られるのが好きな彼女だ。俺が話さないと言ってしまったせいで、力になれないと思い、落ち込んだのだろう。少し罪悪感があったが、こればかりはしょうがない。浜風の名誉のためでもあるのだ。

提督「すまないな」

 俺は謝った。少しでも、後ろめたさを和らげたかった。

 そんな俺の浅はかな意図を読み取ったのか、雷はにっこりと笑ってくれた。「いいのよ」と言ってくれる。人間の汚い部分を見た後だと、彼女の純な優しさが心に染みた。

提督「ありがとう」

雷「お礼はいいわ。もし、話したくなったら、その時は私を頼っていいんだからね?」

 精一杯に胸を張る雷。あまりにも可愛らしくて、俺は思わず微笑んだ。

雷「さて、それより散らばった書類を拾いましょ」

提督「ああ、そうだな」

 俺は立ち上がる。酒を結構呑んだのにも関わらず、立ちくらみは起こらなかった。雷と向き合う形で、俺は書類を一枚一枚集めていく。存外量が多く中々集まらない。

雷「ねえ、司令官」

 雷が話しかけてきた。「ん?」と返事をする。

 唐突に、何か柔らかい物が顔面を覆いつくした。俺は驚いた。雷に頭を抱きかかえられたのだと、少ししてから気づいた。菓子のように甘い香りが鼻腔を擽る。

雷「辛い時は、我慢しなくていいのよ。あなたはただでさえ溜め込むんだから。……今日のことは聞かないけどね」

雷「私は秘書艦なんだから……。お酒なんかじゃなくって、私を頼って……」

 温かい。その言葉が、彼女の体温が全て。

 俺は年甲斐もなく、泣きそうになった。だが、辛いのは俺ではなく浜風なのだ。俺が泣いていいはずがない。それでも……。

 これには、心を揺さぶられた。酒などよりもずっと。

 俺は無言で彼女の抱擁を受けた。言葉はいらない。その優しさの期待に沿えるよう頑張りたいと、小さな身体を抱き返して伝えた。

 雷は、子供をあやすように俺の頭を撫でた。

雷「私だけを……ね」

43: ◆vkHTV4M25U 2015/03/01(日) 00:57:59.05 ID:Rc8rCsmn0
 




 翌日。

 朝までにしなければならない仕事を片付けた俺は、雷とともに食堂へと向かっていた。

 二月の廊下は空調のある執務室と違って、鳥肌が立つほどに寒かった。窓に張り付いた結露が凍りつき、ステンドグラスのように陽光を淡くしている。寒がりな性分である俺にはたまらない。部屋に戻って布団を被りたいと思ったが、しかし空腹には勝てず、足は引き返す選択をしなかった。

 書類整理や、浜風に関する報告などに手間取ったおかげで、もう十一時近い。遅目の朝食、早目の昼食といったところか。

雷「お腹空いたわねー。今日のメニューは何かしら?」

 雷がお腹を抱えながら言った。

提督「B定食じゃなかったか?」

雷「Bってどっちだっけ? うどんと唐揚げ」

提督「うどんだな。俺的には唐揚げがいいんだがなあ」

雷「贅沢言わないの」

 雷に怒られた。リスのように頬を膨らませて、俺を睨んでいる。かわいい。

提督「ごめん。でもな、最近麺類ばかりじゃないか。ちょっと飽きてこないか?」

雷「そう言われればそうだけど……。司令官は唐揚げを食べたいの?」

提督「まあな。最近食べてないし、それに俺唐揚げが大好物なんだよ」

雷「ふうん……」

 雷はそう言って、顎に人差し指を当てた。考え込む時の彼女のクセだ。少しして、彼女は頭上に豆電球を浮かべたような顔をした。

雷「なら、今度私が作ってあげよっか?」

提督「本当か?」

 俺は思わず雷を凝視した。

 雷の手料理は間宮からも定評があるほどだ。しかも唐揚げ。食べたくないはずがない。

44: ◆vkHTV4M25U 2015/03/01(日) 00:59:56.31 ID:Rc8rCsmn0

雷「そ、そんなに食べたいんだ……」

 俺のリアクションに驚いた雷は、少しだけ引きつった顔をした。だが、すぐに嬉しそうな笑顔を浮かべる。

雷「それじゃ、今度時間がある時に作ってあげるね」

提督「ぜひ頼んだ」

雷「頼まれた」

 お互いそう言って笑い合う。彼女とのこうしたやり取りが俺は好きだった。心が洗われる。とくに、浜風の件で色々ナーバスになっている今は……。

 俺には、大事な仕事がこの後控えている。浜風に、南西鎮守府へ異動が決まったこととその経緯を説明しなければならない。嫌な仕事だ。できるなら、やりたくない。

 俺の話を聞いた浜風は、一体どんな顔をするのだろう。彼女はおそらく、自分が捨てられたことに気づいているはずだ。昨日、退出する直前、何かを言いかけてやめた。それはおそらく、捨てられた件を伝えようとしたのではないか。

 連絡しても無駄だ、と。

提督「……」

雷「司令官?」

提督「今日は寒いな」

 俺は窓を見た。風が、枯れ木を揺らしている。細く頼りない枝は、簡単に折れてしまいそうに思えた。

雷「そうね……」

 俺たちはその後も雑談を交わしながら歩く。そして、すぐ食堂についた。

 食堂は騒々しかった。食事時はやかましいのはいつものことであるが、今は昼食時ではないので、不思議に思った。皆、早く食べに来たのだろうか。

45: ◆vkHTV4M25U 2015/03/01(日) 01:01:53.83 ID:Rc8rCsmn0

雷「あれ、みんないるんだ……」

 雷がぽつりと言った。

提督「今日は休みのはずなんだがな」

雷「休日でこんなに人がいるなんて珍しいわね。なんか、あっちの方にみんな集まっているけど……」

 雷が指差した方向を、俺は見遣る。

 ずらりと並ぶ長机の一画に人集りが出来ていた。この鎮守府の顔ぶれが一同に介している。一体何事か、と少し驚く。

 人集りの中心に居たのは浜風だった。皆から色々と質問を投げかけられているようだ。浜風はその一つ一つに対して表情をコロコロ変えながら応答していた。彼女が答える度に、大げさな声が上がる。

 俺は目を白黒させていたと思う。浜風が、こんなにも表情豊かだとは思わなかったからだ。執務室で見せていた冷たい雰囲気とは百八十度違う。とても愛想よく振舞っている。

 ふと、浜風が微笑を浮かべた。少女のものとは思えないほど、あまりにも艶やかで美しかった。まるで群生したタンポポの中に、一輪の白薔薇が咲いているかのようで、俺は思わず見惚れていた。

 袖を引っ張られる。我に返ってそちらに目を遣ると、雷が面白くなさそうな顔で俺を見ていた。唇を尖らせている。

雷「司令官、あっちに行こ」

 雷は、浜風たちとは一番離れた位置にある席を顎で示した。急かすように引っ張る力が強くなる。

提督「いや、しかしなあ……」

 俺は戸惑ってしまう。せめてみんなに一声かけたかった。

 俺がアタフタしていると、

鈴谷「おっ、提督じゃん。ちぃーすっ!」

 その中にいた鈴谷が気付いて手を振ってきた。その声で全員俺に気がついたようで、慌てて表情を引き締め敬礼をした。

46: ◆vkHTV4M25U 2015/03/01(日) 01:03:54.49 ID:Rc8rCsmn0

熊野「鈴谷、敬礼なさい」

 熊野が鈴谷に注意する。俺はそれを手振りで制した。

提督「作戦行動中ならいざ知らず、今日は休日だ。そう畏まらなくていいよ」

熊野「ですが……」

提督「堅苦しいのは苦手でね。出来れば普通にしてくれた方が有難い」

 食い下がろうとした熊野に、やんわりと言う。真面目な彼女は少しだけ渋い顔をしたが、溜息をついた。

熊野「分かりました。普通にしますわ」

提督「助かる」

 俺は小さく笑みを浮かべてそう言うと、浜風の方を見た。目が合う。綺麗な青目は澄んだ海を思わせる美しい色彩だった。昨夜の淀んだ暗さはそこにはない。

浜風「こんにちは」

提督「ああ、こんにちは」
 
 挨拶を交わすと、浜風は苦笑した。

浜風「色々聞かれちゃいました」

提督「何を聞かれたんだ?」

浜風「私の個人的な話とか、遭難したときのこととかです」

 俺は顔を顰める。

 遭難ではないだろう、と言いそうになった。君は、畜生にも劣るクズから捨てられた被害者ではないか、と。だがそんなこと、皆がいる前では口が裂けても言えない。

提督「そうか……」

青葉「いやあ、興味深い話でしたよ」

 浜風の対面に座っている青葉が言った。ペンとメモ帳を手にもち、満足そうに笑っている。

青葉「最近面白い出来事がありませんでしたが……。これはいい記事が書けそうです。表題は『奇跡の生還——魔の海域より舞い戻った駆逐艦に密着取材!——』ってところでどうでしょう!」

47: ◆vkHTV4M25U 2015/03/01(日) 01:05:49.59 ID:Rc8rCsmn0

陽炎「こら、私の妹のことを記事にしたら許さないわよ」

 浜風の隣に立っていた陽炎が、青葉を睨んだ。

青葉「えー」

陽炎「えー、じゃないわよ。あんた、どうせ余計なことまで書くつもりなんでしょ?」

青葉「嫌だなあ、書きませんよ」

陽炎「ダウト」

鈴谷「ダウト」

熊野「ダウトですわ」

提督「ダウトだな」

 その場にいた全員が、口々にダウト、ダウト、と続ける。いつも笑顔を崩さない青葉も、これには困惑顔を浮かべた。

青葉「信用ないですねー……」

陽炎「普段の行いが悪いからよ。当たり前でしょ」

 陽炎の言葉には棘があった。彼女は正直な性格をしているため、嫌っている相手に対しては分かりやすいくらい冷たい態度をとる。青葉は旺盛な好奇心が悪い方向に作用することが多々あり、人に迷惑をかけることがよくあるから、真面目で芯の真っ直ぐな陽炎とは相性が悪いのだ。

 青葉はちぇーっと言いいながら、アヒル口を作っていた。

 それにしても、気になることがある。

提督「なあ、陽炎?」

陽炎「なんでしょう、司令?」

提督「さっき、私の妹と言っていたがもしかして……」

陽炎「ああ。そうですよ、浜風は陽炎型なんです」

浜風「十三番艦です」

48: ◆vkHTV4M25U 2015/03/01(日) 01:07:37.69 ID:Rc8rCsmn0

 浜風が続ける。

浜風「まさか、こんなところで陽炎姉さんと会えるとは……。因果なものです」

陽炎「私も驚いたわよ。保護された艦娘がいるって聞いて誰かと思えば、まさか浜風だったなんてね」

 腰抜かすかと思ったわよ。陽炎は妙におばさん臭い冗談を口にする。

 陽炎の浜風に対する気安い接し方を見ると、姉妹艦だというのは納得がいった。しかし、陽炎が姉で浜風が妹なのか。正直、そうは見えない。浜風が姉と言われた方がしっくりするだろう。

 浜風はそれだけ大人びている。決して、そう決して身体の一部を比較して判断した訳じゃない。

雷「司令官」

 今まで沈黙を決め込んでいた雷が口を開いた。その未熟な声は、隙間風のように酷く冷たかった。

提督「ど、どうした、雷?」

雷「どうしたじゃないわよ。お腹空いてるんじゃなかったの? 早くご飯食べましょうよ」

 袖を引っ張られる。買い物に飽きて帰りたがっている子供が母親を急かすような調子があった。

 言われて、俺は腹の具合を思い出す。ぐぅ、と小さな音が中から響いた。

提督「そうだな……。そろそろ飯にするか」

 雷の白けた顔に、チューリップが咲いた。

雷「もう、私もお腹空いてたんだからね。さ、あっちに行って食べましょ?」

 雷の指差した場所は、先程彼女が顎で示した席と同じであった。浜風たちよりも一番離れた席。

 どうやら、雷は皆と距離を取りたいらしい。おそらく、食事中に皆と話をするのが嫌なのだろう。前、昼食を一緒にとっている時に、「食事中に喋るのはマナー違反よ」と彼女から怒られたことがある。彼女は甘やかすように見えて、そうした礼儀作法には存外うるさいのだ。

 それは、俺も納得するところである。会食という言葉があるように、食事は人との交遊を深める機会である。その観点からすると、人を楽しませるために会話をすることが、マナーであるはずだ。

 しかし、静謐さを重視することも、これまた一つの作法なのだ。静寂の中に洗練された美を感じる、人間の高潔さが生み出した誇りの顕現。それを重視する彼女を俺は感心していたし、素直に見習わなければとも思っていた。

49: ◆vkHTV4M25U 2015/03/01(日) 01:09:02.21 ID:Rc8rCsmn0

提督「分かった。それじゃ行こうか」

 もう挨拶も済ませたし、従わない理由もない。雷に引っ張られるままついて行こうとすると、

鈴谷「え、あっちに行っちゃうの? 提督たちもこっちで食べようよ」

 鈴谷が笑顔でそう誘ってきた。太陽のように明るく可憐な表情だった。どきり、と俺の心臓が音を立てた。

鈴谷「みんなで食べた方が楽しいじゃん。ね?」

 鈴谷の提案。それは前述した一つのマナーである。それに従うのも悪くないかもしれない、と意識が傾きかけた瞬間——。

 鈴谷の顔が、強張った。

 まるで、何か、恐ろしいものを見たかのように。

雷「ねえ、司令官」

 抑揚のない声。

 あの雷が出していると思えないほどに、その声は無機質だった。

提督「な、なんだ雷……?」

 雷がこちらを見た。いつもの快活な表情がそこにはあった。

雷「司令官は、あっちで食べたいんだよね?」

提督「あ、ああ」

 俺は雷の静かな迫力に押されて、思わず頷いてしまった。

 雷がくるりと首を動かし、鈴谷を見た。鈴谷の肩が跳ねる。

雷「ごめんね、鈴谷。司令官、あっちで静かに食事がしたいんだって。ほら、それに私たちこの後仕事があるから早く食べないといけないのよ」

鈴谷「そ、そうだね……」

雷「せっかく誘ってくれたのに、ごめんね」

 雷の声は、明るさを取り戻していた。いつもの甘い響きに、何故か俺は安堵を覚える。鈴谷も、何かから解放されたように小さく息を吐いていた。

雷「ほら、行くわよ司令官」

提督「あ、ああ……」

 厨房の方へと歩いていく雷を、俺は追いかける。鈴谷が気掛かりで、俺はちらりと振り返った。

 疲れたように座る鈴谷へ、皆は訝しげな目を向けていた。熊野が首を傾げながら、鈴谷に声をかけている。

 皆、鈴谷に注目していた。ただ、青葉と浜風だけは俺たちを見ていた。

 青葉は口元を吊り上げ、浜風は氷のように無表情であった。




64: ◆vkHTV4M25U 2015/03/08(日) 07:32:19.88 ID:oByozWxG0
 




 食事を取った後、俺と雷は執務室に戻って仕事を再開した。

 黙々と大本営から送られてきた書類に目を通し、記入事項があればサインし、あるいは判子を押す。

 その作業を機会的に繰り返す。

 ふと、一枚の資料に目が止まった。来月に迫った大規模作戦の参加報告書である。呉や佐世保などの有名鎮守府がずらりと名乗りを上げる中に、南鎮守府の名前を見つけて、俺は顔を顰めた。

 初参加の鎮守府ということで、大々的に取り上げられている。しかも、南提督の写真付きだ。初めて奴の顔を目にする。メガネをかけ、いかにも自尊心の高そうな顔つきをしていた。

 浜風を捨てといて早速『祭り事』に参加か。いいご身分だな、クソ野郎。

 写真に唾を吐いてやろうかと思ったが、辞めておく。何故なら、目の前にはニコニコと笑いながら俺の仕事ぶりを見守っている雷がいるからだ。純粋な彼女の前でそんなことはできない。

 代わりに、俺はその紙をクシャクシャに丸めてゴミ箱に投げ捨てた。綺麗に収まり、心の中でガッツポーズをする。

雷「あー、要らない紙だからって投げちゃダメよ。行儀悪い」

 雷に怒られる。

提督「ごめんごめん」

雷「まあ、いいけど……。次から気をつけなさいよね?」

提督「はいはい。なんか、やっぱり雷って母親みたいだよなあ……」

 俺が分かりきった事実を指摘すると、雷は「そうかしら?」と首を傾げる。

65: ◆vkHTV4M25U 2015/03/08(日) 07:34:55.69 ID:oByozWxG0

雷「前の鎮守府でも良くそう言われていたけど、どうなんだろ? 自分じゃ分からないわね」

提督「自覚なしなのか……。世話焼きなところとか、ちょっと口うるさいところとか、そんな感じがするけどな」

雷「ん~、言われて見ればそうかもねえ……」

 雷は難しそうな顔をする。その顔は、納得していないようにも見えた。

雷「でも、お母さんみたいって言われてもあまり嬉しくないわね……、年的に」

 確か彼女は十三歳だったか。その年でそう言われても確かに嬉しくはないだろうな。

雷「どちらかというと……」

 ちらりと雷は俺を見て、

雷「母親より、奥さんがいいかな?」

提督「んー、それはないな」

雷「ひどーい!」

 プンスカと怒る雷。

 漫画の登場人物みたいな怒り方だったので、俺は噴き出した。「笑うなあ」と雷は更に怒ってこちらに突進し、持っている書類で叩いてきた。結構痛い。

提督「痛い痛い。冗談、冗談だよ」

雷「もう、次からかったら許さないんだからね!」

 何だかんだ言って次も許すんだろうなあ。甘いところはとことん甘い。それが雷だ。

提督「分かったよ。次はからかわない」

雷「ホント?」

 嘘だ。

提督「ああ、神に誓うよ」

雷「随分安っぽい神様ね……。まあ、いいわ」

 雷は溜息をついた。

 嘘だと分かっていて許す辺りが、やっぱり甘い。

提督「それにしても……」

雷「ん?」

提督「……」

 小首を傾げる雷を見詰める。すると雷は、少しだけ顔を赤らめ、恥ずかしさを誤魔化すように歯を見せた。

雷「何よ、司令官?」

提督「いや……」

 昔に比べて、感情表現が豊かになったよな。

 心の中に浮かんだ感慨は言葉には出さず、「何でもない」とお茶を濁した。

69: ◆vkHTV4M25U 2015/03/09(月) 09:24:56.44 ID:FHb4Oud70

雷「変な司令官。そんなに私の顔が気になるの?」

提督「別にそういう訳じゃないけど。何ていうかさ、雷の顔を見てると元気出るんだよな」

雷「ふうん、そうなんだ」

 雷は嬉しそうに笑う。少しだけ照れ臭そうだった。

雷「司令官が元気出るなら、もーっと私を見てもいいのよ?」

提督「今はこれくらいでいいかな。また、元気がなくなった時にでも頼んでもいいか?」

雷「はーい!」

 雷の返事に、俺は微笑み返した。

 元気が出るのは本当だ。快活な彼女の愛らしい笑顔を見ていると、落ち込んでいた気分が癒され、頑張ろうと思うようになる。

 この後、浜風への報告という憂鬱な仕事が控えていることを考えると、少しでも気持ちを楽にしていたかった。鬱屈さが進みすぎると酒を飲みたくなるからだ。

 ブラックニッカより、雷の笑顔。

 うむ、健全だ。

提督「さて、そろそろ浜風を呼び出そうかな?」

 俺は気持ちを切り替えて、浜風を呼び出すことを雷に伝える。すると彼女は露骨に嫌そうな顔をした。

雷「えー、浜風さんをここに呼ぶの?」

提督「ああ。少し、連絡しないといけないことがあるからな」

雷「なによ?」

 むすっとした顔で、雷は言った

提督「大した用事じゃないよ。ちょっとした報告だ」

70: ◆vkHTV4M25U 2015/03/09(月) 09:28:38.90 ID:FHb4Oud70

雷「なら、一々呼ばなくても私が伝えるわよ?」

提督「いや、できれば直接伝えたいんだ」

雷「……ふうん」

提督「不服か?」

雷「別にー」

 思いきり不服そうだが。 

雷「せっかく二人きりなのに……」

 雷は目線を下に落として、そう呟いた。

 溜息が出た。

 どうしてこう、排他的なのか。彼女はどうにも俺以外の人間にはよそよそしいところがある。挨拶したり話したりはするのだが、積極的に関わろうとはしないし、むしろ関わることを避けている節すらある。

 思えば、食事の時皆と離れた席に座りたがったのも、静かに食事をしたいだけではなく、そうしたよそよそしさがあったからだろう。
 
 鈴谷に対する態度なんて、露骨だった。

提督「……」

 どうにか皆にも心を開いてくれないものか、と思う。雷は、俺以外に中々気を許そうとはしない。特別好かれているようで正直悪い気はしないのだが、しかし鎮守府の長としては、皆とも仲良くして欲しいのだ。

 俺にいつも見せるような愛想を振り撒けば、皆すぐにでも打ち解けてくれるはずだ。気のいい奴らばかりだから、そんなに警戒する必要はないんだけどな。

 だけど、それは簡単に見えて実は難しいことを俺は理解していた。

 彼女が抱える過去のトラウマが、足枷になっているのだ。

 大切にしてきた、寄る辺としてきたものを全て奪われ、

 信じてきたものに裏切られ、

 傷つき過ぎて、人間不信に陥っていた雷。

 彼女にかかっていた絶望の影は落ちたものの、今もなおそのトラウマは彼女にしこりを残しているのだ。過去は消えない。だからこそ、均衡の崩れた心を元に戻すことは容易ではない。

 俺も、彼女と同じだ。全てを失ってしまった人間だ。だから、彼女に共感と同情を抱いてしまい、皆ともう少し仲良くするように言えないでいる。
 
 甘えさせ、甘やかしてしまう。

 彼女のただ一つの寄る辺となっている事実を黙認してしまう。

 それでは、駄目なのだ。雷は、もう少し人と接する喜びを思い出すべきである。集団生活をしている以上、もっと人を見なければならない。俺にだけ気をさいて、時間を取られてはならないのだ。それは、彼女の自立心の養成にも関わることなのだから。
 
雷「……分かったわ」

 沈黙を破ったのは雷だった。少しだけ落ち込んだように肩を落とし、息を吐いていた。

雷「浜風さん、呼んで来るね?」

提督「ああ」

 残念そうに微笑む雷を見て、心にチクリとした痛みが走る。

 どうして、こんな感情を覚えたのかよく分からなかった。ただ浜風を呼び出す。それだけのことの筈なのに。

 雷は扉を開けて執務室を出た。音は鳴らなかった。

提督「……」

 やはり、今日はブラックニッカを一本空かすことになるかもしれない。

74: ◆vkHTV4M25U 2015/03/11(水) 22:06:33.03 ID:4TVOgGOcO





雷「連れて来たわよ」

浜風「連れて来られました」

 不機嫌そうな雷の声に、浜風が応じた。困ったように曖昧な笑顔を浮かべているところを見ると、無理やり引っ張って連れて来られでもしたのだろう。

提督「雷……、浜風にちゃんと説明したか?」

雷「したわよ。司令官が呼んでるって」

 確認を取る意味で浜風を流し見ると、彼女は小さく肩を竦めた。米神を押さえそうになる。

提督「まあいい……。浜風、君に少し報告しなくてはならないことがあってな。呼び出させてもらったよ」

浜風「そうですか」

 感心がなさそうに言う浜風。

提督「……君の今後の所在についてなんだが、少し変更になってな」

浜風「ああ、南から所属が変わるんですね」

 何でもないように、浜風は言った。あまりにもあっさりした口調だったので、深く考えず頷きそうになった。

 ある程度予想したことであったが、それでも面喰らった。見ると、雷も目をパチクリさせている。

提督「……察しがいいな」

75: ◆vkHTV4M25U 2015/03/11(水) 22:08:31.06 ID:4TVOgGOcO

浜風「まあ、事態は全て把握しているので」

 ふっ、と鼻で笑った浜風を見て、悲憤の念に駆られる。浜風の諦観に満ちた表情が、あまりにも空虚で物悲しかった。

 やはり、捨てられたことを自覚していたか。出来れば、それだけはあって欲しくなかった。

提督「そうか……」

 両肘をつき、指を絡めて組んだ両手に額を預ける。瞑目し、深い溜息をついた。

雷「司令官……?」

 この中でただ一人事情を知らない雷が、心配そうな声を出した。答える余裕が、俺にはなかった。

雷「どうしたの? 頭痛いの?」

提督「……」

雷「ねえ?」

提督「……大丈夫だよ、雷」

 やっとの思いで、俺は声を出せた。

雷「どこが大丈夫なのよ? どう見ても辛そうじゃない」

提督「大丈夫だから、心配しないでくれ。ちょっとだけ、嫌なことがあっただけだから」

 どうにも俺は感情が表に出やすい性分らしい。隠そうといつも努力しているのだが、どうしても表情に出てしまう。とくに嫌なことがあって鬱になった時は。

 部下を心配させ、その上で取り繕うこともできないとは、司令官として失格だ。

76: ◆vkHTV4M25U 2015/03/11(水) 22:10:26.05 ID:4TVOgGOcO

雷「浜風さん……っ。あなた、司令官に何かしたの!?」

 雷が激昂して、矛先を浜風に向けた。

 彼女は被害者だ。止めなければ。

提督「雷、浜風は……」

浜風「してませんよ、何も」

雷「嘘着くな! あんたが何かしたから、司令官が落ち込んだんでしょ!」

提督「雷……!」

 雷の怒りは浜風の言葉でさらにヒートアップする。掴みかからんばかりの勢いだ。

 普段優しい彼女は、俺のことが絡むと人が変わったように感情的になる。こうなったら、彼女は中々手が付けられない。

浜風「そう言われましても。あの会話のどこにも貴女の司令官を貶めるような内容はありませんでしたし、距離がありますから物理的に何かするのも不可能です」

 顔色一つ変えることなく、浜風は冷静に指摘する。全て正論に違いないが、感情の昂ぶった相手に冷静な論述は、火に油を注ぐ行為だ。

雷「ふざけるな! あんたが何かしないと!!」

提督「雷っ!!」

 やむ負えず怒鳴り声を上げた。雷の肩がビクリと跳ね、途端に大人しくなる。不安気に目を潤ませて、俺を見てきた。

雷「あっ……」

雷「司令、官……っ。あ……あの、私、貴方が心配で……」

77: ◆vkHTV4M25U 2015/03/11(水) 22:12:01.04 ID:4TVOgGOcO

 怯えたように後退り、袖を伸ばした右腕を左手でギュッと握り締めた。不安を感じた時の彼女の癖だ。

提督「分かってる」

雷「だから、あの……その……。き、嫌いに……嫌いにならないで」

提督「ああ、嫌いになるわけないだろ」

雷「捨て、ないで……っ!」

 悲鳴のように、雷は叫んだ。ドングリのような瞳から涙が零れ、唇が戦慄いている。雷の悲痛な様子に、刺すような痛みが胸に走った。

 俺は堪らず立ち上がり、雷に駆け寄った。

 泣きじゃくり出した彼女を抱き締める。小さな身体は暖かく、しかし小刻みに震えていた。甘い香りが、手折られる寸前の花を思わせた。

提督「ごめんな、雷。俺が不甲斐ないばかりに」

雷「……し、れ」

提督「俺は大丈夫だから、な。怒鳴ったりして悪かった。別に怒っているわけじゃないんだよ」

雷「捨て、ない……?」

提督「捨てるわけないだろ。誰がそんな酷いことするもんか」

 ゴミ箱にいる奴への怒りも込めて、強い口調で言った。グスグスと鼻を鳴らす音がくぐもって聞こえる。俺はさらに力を込めて、雷を抱き締めた。

雷「そう、だよね。司令官が、そんなことするわけないよね……」

 雷が確認するように呟いていた。

提督「ああ。だから、落ち着いてくれ、な?」

雷「ん……」

78: ◆vkHTV4M25U 2015/03/11(水) 22:13:58.89 ID:4TVOgGOcO

 雷の頭が動いて髪が擦れ、少しむず痒かった。

 俺は安堵の息をついた。腕を緩め、頭を撫でる。

提督「あのな、雷。俺は別に浜風から何かをされたわけじゃないんだよ」

雷「でも……」

提督「本当だ。俺がただちょっと嫌なことを思い出しちゃって、勝手に凹んだだけなんだ」

雷「そうなんだ……。何を、思い出したの?」

 しまった、言い訳を考えていなかった。俺は狼狽しながら何とか頭を捻る。

提督「あれだ! この前青葉に全裸で寝ているところを写真に撮られてな! 間宮アイスを買わないと、この写真ばら撒きますって脅されたんだよ!」

雷「あいつ、オシオキしないとね」

 底冷えする声に、体が震える。

 すまん青葉。

提督「そ、そうだな。それより、あれだ……。浜風に謝らないとな。誤解だったんだから」

 意外なほど素直に、雷は頷いた。目尻を袖で擦って涙を拭き、浜風の方へと向く。

雷「その、ごめんなさい。勘違いして怒鳴っちゃって……」

浜風「別にいいですよ。気にしてませんから」

 怒りに表情を歪めることも、愛想笑いを浮かべることも一切なく、浜風は淡々と許した。まるで、精巧なビスクドールのようだと不謹慎にも思ってしまう。

79: ◆vkHTV4M25U 2015/03/11(水) 22:16:05.60 ID:4TVOgGOcO

提督「よし、ちゃんと謝れたな。偉いぞ」

雷「もう、子供扱いしないでよ……」

 拗ねたように雷が抗議する。いつもの調子が戻ってきたらしい。

提督「なあ、雷。ちょっとお願いがあるんだけど聞いてくれないか?」

雷「なに?」

提督「少しの間だけでいいんだけど、席を外してくれないか? 人に聞かれたら困る話をこれから浜風としないといけないんだ」

雷「や」

 雷は駄々をこねる子供のように、頭を横に振る。

提督「頼むよ、本当にちょっとの間だけだからさ」

雷「どうして私がいたら駄目なの? 私、誰にも言いふらしたりしないよ?」

提督「君が口の硬いことは分かっている。だけど、駄目なんだ。浜風の名誉に関わることだから」

 ここまで言えば、雷も分かってくれるだろう。そんなに聞き分けの悪い子ではない。それに、彼女も我儘を言ってまた怒られるのは本意ではあるまい。我ながら卑怯な考えだ。

 俺の予想通り、雷は不服そうに頬を膨らませていたものの、諦めたように息を吐いた。

雷「分かった……。司令官の言うとおりにするね」

提督「ああ、ありがとう」

 俺がお礼を言うと、雷は俺から離れた。真っ直ぐ扉の方に向かう。

 ドアノブに手をかけたところで、雷は振り返った。

雷「司令官、気を付けてね……?」

 浜風をちらりと見ながら、忠告した。返事をせず、俺はただ微苦笑を浮かべて小さく頷いた。

 一体何に気をつければいいと言うのか。気をつけるものなど何もありはしない。

 雷が部屋を出た。扉が閉まる。相変わらず、音はしなかった。

 残った俺と浜風の間に天使が通った。柱時計の秒針が小刻みに、沈黙を揺らしている。

浜風「……好かれているのですね」

 沈黙を破ったのは、浜風の皮肉であった。僅かに口を吊り上げて、艶やかな雰囲気を醸し出す。

提督「そういう冗談は、好きじゃないよ」

 非難を込めて言う。すると、浜風の口元が更に歪んだ。

浜風「お気に召しませんでしたか。なら言い換えましょう。カクレクマノミとイソギンチャクのように仲がいいですね」

 俺は思わず乾いた笑みを溢した。その比喩は、かなりの部分で正鵠を射ていたから、笑うしかなかった。

 たったあれだけのやり取りで……。なんて鋭い子だ。

85: ◆vkHTV4M25U 2015/03/16(月) 21:05:10.27 ID:YgwCZNM6O

 戦慄すら覚えた俺の心情を知ってか知らずか、浜風は続ける。

浜風「あるいはサメとコバンザメ、カッコウとモズと言ったところでしょうか。いえ、もしくは……」

浜風「もしくは、レウコクロディリウムとカタツムリ、だったりして」

 わざと遠回りな言い方をして、ジワジワと俺を責めてきた。「やめないか」と、情けない声で反論することしかできない。

 顔を引きつらせる俺を、楽しげに眺める浜風。その顔は、食堂で皆に見せていたあの笑顔とはまるで違っていた。墓を暴いているかのような背徳と愉悦に塗れた、危険な色香を匂わせる表情であった。

 楽しんでいるのだろう。俺が困惑しているのを。

 嘲笑っているのだろう。気づいていながらも雁字搦めになっている俺の現状を。

浜風「ふふっ」

 蠱惑的な声。微かに湿り気を帯びた桜色の唇が滑らかに動くたび、俺の背筋にゾクゾクとした感覚が走る。浜風が腕を組んだ。腕の動きに合わせて豊満な二つのものが官能的に揺れ動く。

 本当に、駆逐艦なのか。

浜風「私は、貴方が気に入りました」

 突然の告白に、俺は狼狽した。浜風の言葉の意味が恋愛感情を含んだものでないことが分かっているのに。恋愛に免疫のない童貞のごとく、呼吸を詰まらせた。

提督「何をいきなり……」

浜風「冗談じゃありませんよ」

 浜風はゆっくりと近づいてきた。

86: ◆vkHTV4M25U 2015/03/16(月) 21:07:52.48 ID:YgwCZNM6O

浜風「あなたは、とても優しい方のようです。そういう人、嫌いじゃありませんから」

提督「俺は、優しくなんてないよ……」

 優しくない。他人にも自分にも、ただ甘いだけ。そして、臆病なだけ。

浜風「いいえ、優しいですよ。前の提督さんと違って、貴方は沢山の人から慕われています。皆さんから貴方の印象を沢山聞きました。お酒臭いけど、優しくて情に厚い人だって誰もが賞賛していました。無理な出撃は決してさせないし、傷ついたらすごく心配してくれる、と。『こんな指揮官他にいない』なんて、伊58さんが絶賛してましたよ」

 違う。俺はそんなに立派な人間ではない。南提督みたいな人でなしと比べないで欲しい。俺は、ただ彼女たちを当たり前のように扱っているだけだ。

 言葉にはできない。間近に立つ浜風から漂うカトレアを思わせる香りに、頭が溶けそうだった。

浜風「それに、彼女。雷さん……でしたね。あの人にも、貴方はよく好かれているようです。形は歪ですけれど」

提督「……っ」

浜風「でも、あの人から懐かれている、好かれているという事実が、貴方の優しさの証左になると思います。……どうしてそんなことが分かるって言いたげですね。簡単ですよ。何故なら、あの人は私と同じ匂いがするからです」

提督「……決めつけるのは良くないよ。自分の匂いは、感じないものだ」

浜風「嫌でも感じますよ。それが、酷く据えた臭いなら」

提督「そんなこと……」

浜風「貴方は気付いているはずです。私の欠陥に」

 俺は押し黙る。欠陥という言葉が、何のことを指しているのかはすぐに察しがついた。

 彼女が抱える沈黙の病。どこまでも鈍感で、だからこそ何よりも恐ろしい、『無痛症』という名の死神のことだ。

87: ◆vkHTV4M25U 2015/03/16(月) 21:09:47.58 ID:YgwCZNM6O

提督「……それは、無痛症のことか?」

 確信を置きながらも尋ねる。自嘲を匂わせた笑顔で、浜風は答えた。

浜風「ええ、そうです。まあ、それだけではないのですけど」

 浜風の瞳に、黒い影が落ちる。

 まただ。死に至る病が顔を出した。

 浜風は乳房に手袋がはめられた白い指を這わせ、心臓のある位置を差した。

浜風「私は、痛みを感じません」

 するり、と今度は口元へ。舌をペロリと出し、人差し指を舐める。

浜風「私は、味を感じません。カレーやケーキがどれだけ美味しいのか皆目見当つきません」

 舌から指を離した。唾液が銀の橋を舌と指の間に作り、艶かしい。橋が下に落ちたのに合わせるかのように、その指を俺の胸元に押し付けた。円を描くように撫で回す。

浜風「そして、私は熱を感じません。私には、人が当然に持っているありとあらゆる感覚がないのです。これらの全ては無痛症がもたらし、私の心すら奪っていきました」

 その独白に、俺は言葉を失うしかなかった。彼女の抱える絶望の片鱗が更に顔を見せ、未完成の暗鬱たるパズルにピースを増やした。絵が、完成に近づく。

88: ◆vkHTV4M25U 2015/03/16(月) 21:11:37.88 ID:YgwCZNM6O

 浜風に差し込んだ影がより濃さを増し、俺の両親が死ぬ間際に浮かべていたそれと近似を強めた。

 心臓が早鐘を打つ。汗が流れ、極度の緊張で胃が収縮する。俺は慌てて口を抑えて、浜風から目を逸らした。

 何と勘違いしたのか、浜風がクスリと小さく笑う。苦い笑いだった。

浜風「すいません。不快だったみたいですね」

提督「いや……。そんなことはない」

浜風「無理しないでください。顔に書いてありますよ」

 自分の性格に嫌気がさしたのはこれが何度目だろう。どうしてもっと上手く隠せないのか。

 浜風が指を離した。くるりと反転し、背中を見せる。

浜風「私は自分に絶望し、この世の全てに失望しています。雷さんも、そうだったのではないですか? 彼女の過去は知りませんが、それで間違いないはずです。貴方は、雷さんを救ったのでしょう? だからこそ、彼女はあなたに固執している」

提督「……」

 本当に、鋭い子だ。

浜風「当たったようですね。やはり、貴方は優しいです。優しくて、お人好しに違いありません」

 俺は答えない。浜風の言葉が誤解であることを知っていながら、何も言えない。もっと汚くて浅ましい思いの発露から、俺は行動しているだけだ。そう指摘してやりたかったが、喉から出かかった言葉を飲み込んだのは、やはり俺の浅ましさからだった。

 暫しの沈黙が降りる。

 嫌な静寂だ。俺は何とか言葉を探す。頭を捻って捻って、ようやく出てきたのは浜風を呼び出した元々の要件についてだった。

提督「君の所属についてだが……」

 浜風がこちらを見た。

提督「君は今日付けで、こちらの鎮守府へと配属になる。よろしく頼む」

 きっと、彼女はこのことにも気付いている。そうでなければ、わざわざ俺に自分の抱えている問題を吐露する意味がない。

 やはり、その予想は当たっていた。彼女はただ小さく口元を吊り上げただけだったが、それで十分伝わった。

浜風「ええ、よろしくお願いします」

92: ◆vkHTV4M25U 2015/03/19(木) 00:27:51.05 ID:8kwI7GBR0

………
……



 私の人生を絵に描いて、題名をつけるとするなら「沈黙ゆえの絶望」である。

 私は生まれ落ちた時より、無味乾燥とした世界に生きることを宿命づけられていた。先天性無痛症と呼ばれる極めて症例の少ない奇病を持って生まれたが故にだ。人は生まれた時より原罪を背負っているというのはキリスト教の教えであるが、この奇病が私の原罪であるというのなら、私は地獄に落ちてでも神を呪ってやろう。

 許せない。不完全な世界を歩かされたことが。

 いや、完成した世界に不完全なまま生誕させられたことが。

 私には、最初からすでに二つの感覚がなかった。文字通り痛みと、熱感覚である。あの忌まわしき奇病は、何よりも静かなくせにどこまでも貪欲に人の体を蝕むパラサイトなのだ。あれに取りつかれた者の多くは痛覚だけではなく、熱感覚さえも奪われてしまう。熱を感じなくなる幅には個人差があるらしいが、私は全てを無くしていた。

 春の陽光の平穏な暖かさも、夏の照り付けるような暑さも、秋風の涼しさも、冬の寒さと降りしきる雪の冷たさもまるで感じない。そこに一切の風情はなく、感動も生じない。私にとって季節とは、全てが等しく同じものなのだ。

 乳呑児の頃より潜在的にすらそうした感動を知らない私は、実に意思希薄な幼子へと成長した。私の目の前に、沈黙の世界の決して感ずることができぬ悍ましさが幾程にも立ちふさがった。

 まず、私は出歩くたびにほとんどと言っていいほど怪我をして帰った。痛みという危険信号がない私には、何が怪我をもたらすのかてんで検討がつかないからだ。人の危機回避プロセスは「認知」「判断」「行動」の三段階を経るが、私にはこの入り口である「認知」が働かないわけである。

 例えば、あまりにも高いところから飛び降りれば捻挫や骨折などすることは誰にでも分かるものだが、それが理解できなかったからよく高所から飛び降りて怪我をしていた。しかも性質の悪いことに、痛みがないせいで防衛本能が上手く機能しないから、大抵の場合大怪我を負った。ただ転んだだけでも、私は大惨事を起こした。救急車を呼ばれた回数は一体どのくらいだっただろうか。思い出せないほどだ。

93: ◆vkHTV4M25U 2015/03/19(木) 00:29:57.98 ID:8kwI7GBR0

 また、私はよく口から血を流した。何故かというと、舌や咥内を頻繁に噛んでしまうためだ。しかも加減が分からないから口の中が血塗れになるまで気付けなかった。

 何度も何度も舌を噛み続けたせいか、この頃には味覚も無くなってしまった。私は物心ついてすぐに、情緒を養うために必要な感覚をほとんどすべて失ったことになる。

 そんな欠落した私を、両親はどう扱ったか。

 彼らは腫れもののように私に接してきたが、しかし愛してくれた。これだけは、心を失った今の私でも確信をもって言える。彼らは本当に愛情を注いでくれたし、私を人間扱いしてくれた。

 ある日、私がケーキの箱についていたドライアイスを面白がって触ってしまった時のことだ。私は全く気付かずにそれを触り続けていたわけだが、勿論両手はただでは済まない事態になっていた。そんなこと露知らず、私は無表情のままそれを父に見せびらかしたわけだ。「お父さん、何これ?」と小首を傾げながら。

 父は当然、仰天した。鬼気迫る形相で私からドライアイスを取り上げると、手を火傷しながらもそれを台所に放り捨てた。自分の手の損傷など全く気にした素振りを見せず、グズグズに皮膚が爛れ血に塗れた私の手を急いで応急処置すると、涙を流した。そして、力強く抱きしめてきた。

「ごめんな、ごめんな。目を離しちまって……」

 子供のように泣きじゃくる父を見て、どういう顔をすればいいのか分からなかった私は、取りあえず笑った。

「どうして、そんなに泣いているの?」

「ごめん……ごめん……」

 父は謝り続けた。それは彼の自責であり、そして涙と抱擁は愛するものが無自覚に傷つく姿を見て堪え切れなかったためであろう。しかし、頬を渡る水滴の冷たさも抱擁の温もりも感じない私には、それが愛ゆえの行為であることが理解できなかった。

 ただ、包帯の巻かれた手を見て、「ああ、また私は仕出かしてしまったのだな」と無感情に思っただけだった。

94: ◆vkHTV4M25U 2015/03/19(木) 00:32:28.05 ID:8kwI7GBR0
 
 母も、父と同じくらいとても過保護だった。でも、危なっかしい私を甘やかすだけでなく、時には叱り、そして優しく諭してくれた。温めたものは触っちゃだめよ、高いところから落ちたら足を怪我するから危ないわよ、といった具合に。

 しかし、母の教えも虚しく私の怪我はあまり減ることはなかった。それでも母は諦めず懸命に私と向き合ってくれた。私の頭を撫で、穏やかな微笑みを絶やすことなく接してくれた。

「いい○○、あなたには『痛い』ってことが何なのか分からないと思う。だから、もしかしたら人の痛みが分からないかもしれないわ。だから知らないところで、人を傷つけてしまうかもしれない」

「もしそうなってしまったら、あなたは多くの人から嫌われてしまうかもしれない。それは、ある意味仕方ないことなのよ。でもね、○○」

「あなたには、私たちがついているわ。私とお父さんはあなたのことを絶対に嫌いになったりしない。だって、私たちの大切な娘なんですから。貴方が誰かを怪我させたとしても、私たちが一緒にその重みを背負ってあげる」

「だから――」

 この後の言葉は覚えていないが、何か大切なことだったような気がする。

 忘れてしまったのだから、もしかしたら大切ではないのかもしれないけれど。

 ただ、この時も私は母の言葉から愛情の一片も感じることができなかった。言葉の意味さえ、あまり理解していなかったと思う。人を傷つけたらいけないのだな、と漠然に思っただけだった。

 危険と隣り合わせで、しかしどこまでも静謐な日常にあった私は、父と母に愛され、しかしその愛を正しく受容できずにいた。それはとても無味乾燥とした空虚な時であったが、今からすると私にとって一番幸せな日々だったことは間違いない。

 だって、人として愛されていたのだから。

 欠落した私が人として生きていられたのだ。それを幸せと言わず何という。

 だけれども、私の『幸せな日々』は長くは続かなかった。

 家具もカーテンもない真っ白な部屋を彩っていた、たった一輪のベコニアが枯れてしまった。

 両親が死んだのだ。

 事故だった。私たちが旅行から帰っている途上、飲酒運転の暴走車が私たちの乗用車に猛スピードで突っ込んできた。私たちの乗用車は激しく横転し、中に乗っていた父と母が死亡した。即死だったらしい。後部座席は幸い衝撃をあまり受けなかったようで、私だけが助かってしまった。

 運が良かったのだろう。いや、運が悪かったと言った方が正しいか。その時死んでいれば、私はこの世界に失望することはなかったはずだ。

 その日より、私の元に沈黙の絶望を運ぶ使者が舞い降りた。

98: ◆vkHTV4M25U 2015/03/20(金) 02:54:15.15 ID:RANGfDvN0

 親を失った私に待っていたのは、親戚の容赦ない冷遇だった。

 私を引き取った親戚は、無痛症の私を気味悪がっていた。だからだろう、私は彼らから人扱いはされなかった。

 何か少しでも粗相をすれば容赦なく殴られたし、食事もまともなものを与えられたためしがなかった。外に出て何か問題を起こすのではないかと疑われていたためか、親戚の許可がなければ外出すらできなかったほどだ。

 まるで、犬畜生だった。いや、それ以下だった。彼らが大層可愛がっていたラブラドールレトリーバーの毛並みの良さは素晴らしいものだったのに比べ、私はやつれていく一方だったから。

 彼らは私を手酷く取り扱ったが、中でも酷いのが義姉だった。彼女は私が痛みを感じないのをいいことに、まるで私をストレス解消の道具のように扱った。実験といって、私の爪を穿いだり、金属バットで殴ってきたりした。彼女は嬉々として、私が壊れる限界を見極めて執拗に暴力を振るった。

 虐待だった。それが、一年近く続いた。いくら痛覚のない、感情の乏しい私といえど、人扱いされない日々に段々と心の平静を失っていった。

 ある日、私はとうとう我慢できなくなってしまった。

 あいつらは、平然と私を傷つける。私が痛がらないのをいいことに、まるで人形の糸を一本一本抜き取るがのごとく。自分の身体がおもちゃにされている事実に、幼く希薄な精神しかない私でさえ、静かな怒りを覚えた。

 母の話を、私は「人を傷つけてはいけない」という意味で解釈していたが、それは誤りだったと思い直したのだ。母は、私が痛みを知らない故に無自覚に人を傷つけてしまう可能性を言及したものの、「人を傷つけるな」とは一言も言わなかった。

 そうだ、あいつらは私を傷つけてくるのに、どうして私があいつらを傷つけてはいけないという道理になるのか。

 それは誤りだ。我慢する必要なんてなかった。

 だったら、やってしまおう。奴らが私にしたことをそのまま返してやるのだ。

99: ◆vkHTV4M25U 2015/03/20(金) 02:56:15.98 ID:RANGfDvN0

 気が付くと、私は金属バットを手にしていた。義姉が私を殴打したそれで、私は義姉と義父、義母を何度も殴った。

 何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も——。

 ただ怒りに任せて。悲鳴が聞こえようと、泣きわめき懇願されようとも私は止まらなかった。

 初めて感じた激しい感情のうねりを、私はコントロールする術を知らなかった。そして、痛みを知らないから彼らの味わう苦しみの一切が理解出来なかった。だから、やり過ぎた。

 激情から解放された私が見たのは、血だらけになった部屋と、苦しげな呻き声を上げ動かなくなった三人だった。

 三人とも酷い有様だった。頭からは大量の血を流し、腕や足がまるで蛇行する蛇のような形に変形していた。奇抜なオブジェクトを見ている気分だった。私は笑った。ただ、笑った。

 返り血で真っ赤に染まりながら笑う私は、きっと不気味に違いなかっただろう。何が可笑しいのか、自分でも分からなかったくらいだ。

 初めて私は罪を犯した。母の言葉とは違って、自覚的に私は人を傷つけてしまった。幸い三人が死ぬことはなかったが、一番殴打された義姉は脳に障害が残ってしまったらしい。ざまあみろとも思わなかったし、かと言って罪の意識も湧かなかった。

 ただ、どこまでも空虚なだけだった。

 その後のことはあまり覚えていない。いつの間にか、床も壁も真っ白な場所にいた。何故かそこの窓には鉄格子が嵌っていて、まるで監獄のようであったが、それにしてはあまりにも清潔すぎる場所だった。

 白衣を着たおじさんが、優しく何かを語りかけてくる。それに淡々と答える。毎日のようにそのやり取りを繰り返していた。それ以外にはとくに何もせず、寝ているだけで過ぎていく静かな日々。

100: ◆vkHTV4M25U 2015/03/20(金) 02:59:38.07 ID:RANGfDvN0

 暴力だらけの日常から、私はまた静寂に戻された。だけどその頃にはすでに、私の心は親戚たちから蹂躙され続けたおかげで、すっかり壊れていた。私は自分を人間だとは思えなくなっていた。彼らから常に言われ続けた蔑称が頭の中に強く残っており、自分をそう思い込んでしまっていたのだ。

 『欠陥品』。私のことを、親戚たちはそう呼んでいた。

 痛みも味も熱もない私に、その名称は言い得て妙だ。なるほど、私は人が当然にもつ感覚がほとんどなければ、感情も無に等しいから、欠けているというのは確かにその通りなのだろう。言い換えると、人が当然に持つものを持っていない私は、人ではないということになる。

 『欠陥品』という呼称に、疑念を持つことはなかった。受け入れていた。

 白衣のおじさんは、その考えを改めさせようとしてきた。「君は人間だよ」と、私にいつも言い聞かせていた。それでも、根底にまで絡みついた暗いアイデンティティは、中々変革を起こそうとはしなかった。

 それでも彼はサジを投げず、私のために色々としてくれた。

 話を聞くだけではなく遊びに誘ってくれたり、勉強を教えてくれたりした。私はあまり遊びには積極的ではなかったが、勉強の方は熱心にやっていたと思う。感情が薄いくせに、知的好奇心は多分にある子供だったのだ。

 どうやら私は賢かったようで、彼や看護婦さんが教えてくれることを砂漠が水を吸収するような速度で憶えていった。これには、彼らも大いに驚きつつも、意志薄弱と思われていた私が勉強に積極性を見せたことが嬉しかったのだろう。彼らは次々とテキストや本を持って来てくれた。

 半年も立たないうちに、私はそこらの子供の水準を遥かに超える学力と知識を身につけていた。本、中でも小説を沢山読んでいたこともあってか、情緒面でもそれなりに成長したと思う。無感情なのは相変わらずだったけど、それでも人の感情の機微が分かるようにはなっていた。

 実に多くの本を読んだ私であったが、ある時、とある本との出会いが私の意識を大きく変えた。

 人間の振りをして生きる、人喰いの怪物を主人公にした話である。主人公は人間と全く同じ見た目をしているが、しかし人間以外のものを食べることはできない。パンやケーキなど普通の食べ物は、吐瀉物や排泄物みたいな食感に感じ、決して食べられないらしい。身体が、人間の肉以外を受け付けないのだ。

101: ◆vkHTV4M25U 2015/03/20(金) 03:02:00.94 ID:RANGfDvN0

 そんな主人公であるが、しかし食料であるはずの人間が好きであり、彼らと共存しようとする。そのために人間のフリをすることが必要不可欠であり、彼は人前で不味くて喉も通らないはずの普通の食べ物を咀嚼するという無茶までやってのける。また、食料にする人間も自殺した人や悪人などであり、一般人には決して手は出さない。

 私は、この主人公の生き方にいたく関心を抱いた。どうしてそこまで主人公は人間と共存したいと思っているのか、気になったのだ。彼は、人間が好きだからと言っていた。人喰いの怪物のくせに、人間が好きなんておかしな話である。

 だが、それにはちゃんとした理由があった。彼はいつも孤独だったそうだ。仲間もおらず、食料の人間と仲良くするなど考えられないと思っていたから、独りでいるしかなかったのだ。

 そんなある日、主人公は怪我をした。死にそうになる程の大怪我で、動けなくなっていたところをある人間に助けられた。助けた人間は、献身的に主人公を治療しようとし、また多くの他の人間たちに協力を要請した。彼らのおかげで、主人公は助かった。病室で目を開けた彼を見て、多くの人たちが喜び合った。その光景を見たことと人の温かさに触れたがきっかけで、主人公は人間が嫌いになれなくなり、ついには好きになってしまった。

 そして、独りだった主人公は、人との触れ合いに喜びを感じるようになった。人は誰しも、誰かから認められたいという承認欲求があるが、彼も例外ではなかった。自分を認めてくれる誰かの存在が、彼を幸せにしたのだ。頼られることが何よりも嬉しいと、作中泣きながら語っているのが印象的だった。

 私は、主人公が羨ましいと思った。

 私にも、両親という自分の存在を認めてくれる誰かがいた。そして、今は白衣のおじさんや看護婦さんたちがそれにあたる訳だ。だけども、正直彼らでは私の奥底に生じた欲求を満たすに足らなかった。

 何故なら、彼らは私を一方的に認めてくれるだけであって、私を頼りにはしてこないからだ。相手は大人で、自分は子供なのだからそれも当然だが、しかし私は頼られたかったのだ。私を頼る誰かが欲しかったのだ。

 だから、そのために私も主人公と同じような努力をしようと思った。つまり、普通の人間のフリをしようと思案したわけだ。

 怪我をした時に痛みを感じている演技をしたり、食事をして食べたものの感想を正確に言えるようになったり。そうすれば、私も人に近づけるのではないか。人に近づけば、障害がないと思わせれば、人が頼ってくれるようになるのではないか。そう考えた。

102: ◆vkHTV4M25U 2015/03/20(金) 03:03:30.65 ID:RANGfDvN0

 しかし、その努力をするには大きな障害が一つあった。この場所には、私を頼ってくれそうな誰かがいないということだ。皆、私の障害を知っているためである。どうしようか、と頭を悩ませていた時だった。

 大きな転機が訪れた。

 私に、艦娘の適性が出たのだ。国は毎年、一定年齢に達した女児を対象に、艦娘の適性検査を行う。軍艦の記憶を人に植え付けて艦娘にするわけだが、誰でも良いわけではなくて、それなりの基準を満たしたものにしかなれないのだ。その基準を満たせるものは一万人に一人の確率であるそうだが、私はその極小数に選ばれた。

 選ばれたからには、拒否権はない。逃げようとした場合は法律違反となり下手を打つと一生幽閉される。私は艦娘になるしかなかった。

 白衣のおじさんも看護婦さんも私のことを心配した。当然だ、無痛症患者が戦場に立つなど自殺行為に他ならないからである。しかし、私は私に出せる精一杯の明るさで大丈夫と答えた。

 これは、他人に必要とされたいという承認欲求が芽生え始めた私にとって、チャンスであった。

 艦娘の適性が出たものはまず最初に、養成学校に入ることとなる。私は駆逐艦だったから、最短二年で卒業するコースだ。もちろんその二年間は集団生活することとなるから、『人間のフリ』についての練習や研究が出来るわけだ。

 これから戦争しなければならなくなるというのに、私は呑気なものであった。恐れや不安などより、小さな期待感の方が大きかった。

 こうして私は駆逐艦『浜風』になり、養成学校へと入学を果たした。

107: ◆vkHTV4M25U 2015/03/25(水) 04:16:56.68 ID:TFdFo+VC0
 


 

 浜風となった私は、養成学校で艦娘としての生き方や戦い方を学んだ。私たちが教官から最初に教えられたことは、兵器として生きろということだった。私たちは軍艦の生まれ変わりであり、深海棲艦を倒すことが本懐であるから、人としての意識を捨て去れということである。

 これから『人間』になろうとしている私は、最初、教官の言葉に戸惑いを覚えた。結局ここでも人扱いはされないのかと思って落胆したものだ。

 しかし、すぐにそれは気にしなくてもいいのだと気づいた。何故なら、このような人格否定は軍隊では珍しいものではないからだ。ある種人格や感情を捨てなければ、人が簡単に死ぬ狂気と理不尽の極致である戦場では生き残ることはできない。その点からすれば、人格すら否定する苛烈な訓練はある種仕方のない部分がある。大事にされて甘えた精神しか持たないものに、銃が握れるはずはないのだ。

 実際、私の同期たちもその点には理解があった。もちろん、理不尽な扱いに怒りを感じてはいたが、戦場の厳しさを同時に教えられていたから、納得はせずとも妥協できていた。おそらく軍人とは、こうした妥協によって戦士としてのアイデンティティを獲得していくのだろう。

 つまり、私たちに行われる人格否定は、あくまで艦娘としての、戦士としての人格を新たに形成するためのものだ。だから厳密に言うと『完全な人格破壊』ではない。私が親戚たちから受けてきた拷問とは、訳が違うのだ。あれは完全に私の人間性そのものすら認めぬ鬼畜の所業であった。

 だから、私は訓練において精神的な苦痛を感じたことはほとんどなかった。むしろ、教官の意図された暴言に、生温さを感じていたほどである。そもそも感情なんて初めからないに等しい私に、そうした訓練は不要とさえ言えた。

 しかし、私はつまらなさすらあったこうした訓練に、熱心に取り組んだ。理由は色々ある。まず単純に、真面目だからだ。何かをやり始めると一切妥協ができない、ある種の融通の効かなさが私にはある。極めるまで気が済まないというわけだ。

 次に、訓練を適当に受けて低い練度しか獲得できなかった結果、戦場で犬死するなんてことになるのが嫌だったということもある。死ぬことを恐れてはいなかったが、かといって無駄に死にたいわけでもなかった。この頃の私はまだ生に幾ばくかの期待を持てていた。生きていれば、何かできることがあるはずだと思ってさえいた。ああ、笑える。

108: ◆vkHTV4M25U 2015/03/25(水) 04:19:00.05 ID:TFdFo+VC0

 そして、これが最後だが、人から認められるようになるためには、自身が優秀でいなければならないからだ。愚鈍なものを好きになるものはいない。私の承認欲求を満たすためには、どうしても私は優秀でいなければならなかった。

 だから、私は己を高め続けた。その結果、座学では私に並ぶものはいなくなり、また運動神経も鈍い方ではなかったから、実技も五本の指に入るほどには秀逸した成績を残した。

 その時点で、私はすでに周りから一目置かれた存在になっていた訳だが、しかし距離を置かれていた。能面とも思えるほど表情の変化が希薄な私に、冷たくて近寄りがたい印象を抱いていたせいだろう。これでは意味がない。

 私は入学当初から『人間のフリ』の研究と実践を欠かさなかったが、中々上手くいかなかった。ずれた反応ばかり繰り返していた。

 誰も食べなかった食堂で一番まずいメニューを美味いといいながら食べていたり、偽装整備室の空調が壊れていることに気付かず蒸し焼きになりながら作業を続け倒れたり(何故か教官からは感心された)、足首を捻挫していることに気付かなくて、顔色一つ変えずに訓練に参加したり、など。

 私の奇行は訝しまれ、優秀だけど取っ付きにくい変人だと思われるようになってしまった。今期一番の変わり者だとレッテルを貼られるまでとなったのだ。

 しかし、私は諦めなかった。あの主人公は決して人との共存を諦めなかったのだから。肝胆を砕く思いで、私は切磋琢磨し続けた。これまで以上に膨大な本を読み、映像作品でリアクションと表情を学び、同期の子達を人知れず観察して差異や共通点を検証した。

 だが、中々上手くはいかなかった。やはり、第一印象で失敗したのが痛かった。中々、私とコミュニケーションを取ろうとしてくれる子がいなかったのだ。

 だが、中には例外もいた。その例外が、ここでの私の生活を大きく変えた。

 どうしようと途方に暮れながら、食堂でまさに味気ないカレーを食べている時だ。淡々とカレーを口に運ぶ私に、小さな影が差した。誰かが近づいてきたのだ。

「ねえ、前の席いいかな?」

 その子はとても快活に笑う子だった。私とは違ってとても自然で、違和感がない。

109: ◆vkHTV4M25U 2015/03/25(水) 04:23:04.31 ID:TFdFo+VC0

 私は一瞬惚けていたと思う。まさか、声を掛けられるなんて思ってもいなかったからだ。私と同じように、周りにいた他の子達もギョッとした目でその子を見ていた。

 無反応でいる私に、彼女は少しムッとしていた。無視されたと思ったのだろう。流石に良くないと思って、私は「どうぞ」と答えた。

「ありがとう。いやあ、いつも一緒にご飯食べている友達が教官に呼び出されちゃってねえ。話し相手を探してたのよ。ね、あなた相手になってよ」

浜風「いいですよ、私で良ければ。陽炎さんの暇つぶしの相手になれるかは分かりませんが」

 陽炎、私がそう呼んだ子は、驚いたように目をパチクリさせていた。「あらまあ」なんて、おばさん臭い声を漏らした。

陽炎「私の名前知ってたんだ。隣のクラスなのに」

浜風「有名人ですから」

 実際、有名人だ。彼女は私とは違う意味でとても目立つ子だった。実技では私より上の成績を保持しているし、何より誰に対しても気さくで別け隔てなく接するため、皆から人気があった。

陽炎「え、そうなの?」

浜風「はい。人当たりが良くて接しやすいと評判ですよ。私も見本にしています」

陽炎「見本だなんて。照れるじゃない」

 陽炎さんは、本当に照れたように頬を赤らめた。分かりやすい人だな、と思った。多分、あまり裏表のないサバサバしたタイプだ。だから人気があるのかもしれない。

陽炎「あなたいい子ね。あ、私もあなたのことは知ってるわよ。浜風さんでしょ? 座学一位の」

 私は頷く。

110: ◆vkHTV4M25U 2015/03/25(水) 04:26:43.84 ID:TFdFo+VC0

陽炎「あなたも有名よ。色々話を聞いててね、面白そうな子だなあとは思ってたの」

浜風「そうですか」

陽炎「そうそう。ねえ、ところであなたって何型なの? 吹雪型? それとも白露型?」

浜風「あなたと同じ、陽炎型です」

陽炎「ふーん、陽炎型ね。て、ええっ!? あんた陽炎型なの!?」

 机を叩いて、陽炎さんは身を乗り出した。顔が近づく。周りの子達がこちらに視線を向けていた。瞳には、少し非難するような色があった。

浜風「落ち着いて下さい。周りが見ています」

陽炎「あ、そうね。……すいませーん」

 小さく謝りながら陽炎さんは戻った。

陽炎「それにしても、あんたが私の姉妹艦だったなんてね。こりゃ、驚きだわ」

浜風「私もまさかネームシップに会えると思ってませんでした。ちなみに私は十三番艦です」

陽炎「十三番艦ってマジ?」

浜風「マジです」

陽炎「十三番艦……妹……」

 陽炎さんは、ジロリと観察眼を向けてきた。私の存在意義が皆無な二つの膨らみに焦点があっている。やがて、自分の胸元に視線を移し、平原のようなそれを手で触った。少し涙目になった。

111: ◆vkHTV4M25U 2015/03/25(水) 04:28:54.70 ID:TFdFo+VC0

陽炎「……負けた。妹に、負けた」

浜風「胸ですか?」

陽炎「……みなまで言うな」

浜風「やっぱり胸ですか」

陽炎「みなまで言うなと言っている!」

 ちょっと怒られてしまった。

 そんな敗北感に打ちひしがれる必要はないのにと思ったが、私はそれ以上追求しなかった。

 どうして貧乳の人は私の胸を見ると、溜息をついたり涙目になったりするのだろう。こんなものついていても邪魔でしかない。合う下着も中々見つからないし、大変なだけだ。それに、男からもジロジロ見られる。いい事などありはしない。

 そんなに欲しいのなら、引き千切って渡してやろうか。どうせ痛みなんて感じないのだからやろうと思えばできなくはない。まあ、やらないけど。そんな猟奇的なことを仕出かしたら、私の努力が全て水泡に帰すこととなる。

陽炎「まあ、いいわ。いつか私だって大きくなるはずよ」

浜風「そうだといいですね」

陽炎「勝者の余裕ってやつ? ちょっとムカつくわー」

浜風「すいません」

陽炎「謝らなくていいわよ。冗談なんだから」

 そう言って、陽炎さんは楽しそうに笑った。何故か知らないけど、私もつられて顔の筋肉を緩めていた。

112: ◆vkHTV4M25U 2015/03/25(水) 04:30:34.40 ID:TFdFo+VC0

陽炎「あら、あなたが笑ったところ見たの初めてね」

浜風「え?」

 私は驚いた。笑っていたのか、この私が。

陽炎「笑うと可愛いわね。その笑顔を見せたら、きっとみんなと仲良くなれるわよ」

浜風「……」

 なるほど、そういうことか。

  陽炎さんがどうして私に話しかけてきたのか分かった。友人が呼び出されて話し相手が欲しかった、なんて方便でしかないのだ。彼女なら、苦労せずとも友人の代わりを探すことができるはず。私にわざわざ声をかける必要なんてない。

 きっと、いつも一人でいる私に、皆と馴染めないでいる私に、気を遣ってくれたのだろう。誰も話しかけようとしないから、自分から私に歩み寄ることで、私が皆と仲良くなるためのパイプになろうとしてくれているのだ。隣のクラスの私に対してわざわざ。

 何て気の利く人なんだろう。人に対して感心を抱いたのは久しぶりだ。彼女の優しさに、凍っていた心がほんの少しだけ溶けた気がした。

浜風「陽炎さん、いえ陽炎姉さん」

 私は敬意を込めて、陽炎姉さんと呼んだ。いきなり呼称が変わったせいか、彼女は困惑顔を浮かべていた。だけれども、何も言わず元の優しい笑顔に戻してくれた。

陽炎「何?」

浜風「その……、ありがとう」

 本心から誰かにお礼を言ったのは、これが初めてだと思う。何だか首が上げづらい。どうしても俯いてしまう。

113: ◆vkHTV4M25U 2015/03/25(水) 04:33:30.86 ID:TFdFo+VC0

陽炎「お礼はいいわ。ま、頑張りなさい」

 陽炎姉さんはそう言って、私の肩を叩いた。痛みは感じない。温かさもない。だけど、そこにある優しさが伝わって来たことが嬉しかった。小さな子供の頃、両親に対して感じることができなかったそれを読み取れるようになっていた。私も、成長したということなのかもしれない。

 途方に暮れていた私の内心に、一筋の木洩れ陽が差した気がした。

陽炎「ところで浜風」

浜風「何でしょう、陽炎姉さん」

陽炎「そのカレー、美味しいの?」

浜風「……『甘ったれカレー』のことですか? はい、とても甘くて美味しいです」

陽炎「……」

浜風「……姉さん?」

陽炎「あんた、本気で言ってんの?」

浜風「え?」

陽炎「そのカレー、この食堂のメニューで一番辛いやつよ? 一口で舌が痺れて食べられなくなるほどにね」

浜風「……」

陽炎「あんた、相当な辛党みたいね。これが甘く感じるなんて……」

浜風「……」

 後日、私は知ることとなった。この『甘ったれカレー』の甘ったれというのが、甘さを指すのではなく、甘ったれた精神をもつ兵士に罰ゲームとして食わせていたことに由来するのだということを。

 あまり調子には乗らないようにしよう。そう思った。

121: ◆vkHTV4M25U 2015/03/30(月) 03:27:31.32 ID:NgmRhTPn0
 
 その後、陽炎姉さんは頻繁に話しかけてくれるようになった。一人で来ることもあったし、友達を連れて来ることもあった。

 陽炎姉さんは、私に友達のことを紹介してくれた。浦風と谷風という、同じ陽炎型の姉妹艦だった。近寄り難く変人としても知られていた私に会わせられた二人は、最初明らかに戸惑っていた。浦風は上手く表情を隠していたが、谷風は露骨に引きつった顔をしていたのを覚えている。

 しかし、何度か顔を合わせていると、彼女たちは次第に警戒を解いてくれた。私に対する偏見もほとんど無くなったようだった。二人は陽炎姉さんが居なくとも私の元に来てくれるようになった。

 陽炎姉さん達が私と普通に接しているのを見てか、一人また一人と私に近寄ってくれる人が現れた。その数は段々と増え、歩いていればたくさんの人達から挨拶され、食堂にいれば私の周りには人が集まるようになった。わずか一月の間に、私を取り巻く環境は大きく変化した。

 全ては、陽炎姉さんの後援があったからこそだ。彼女は私の知らないところでも、皆の偏見を消すために行動してくれていた。そのことは決して言わないが、私は知っている。

 陽炎姉さんには感謝してもしきれない。彼女は私にとって、恩人であり尊敬すべき姉であった。それは今でも変わらない。そう、今でも。

 陽炎姉さんが開いてくれた入り口に、私は足を踏み入れた。後は、支援してもらうこともあるが、基本的には自分で歩いていかねばならない。それは楽な一本道ではない。罅も入っていれば穴もある。しかし、それは扉さえ開いていなかった最初に比べれば何てことはないものだ。それにこれこそが、私が望んでいた道ではないか。

122: ◆vkHTV4M25U 2015/03/30(月) 03:29:53.30 ID:NgmRhTPn0

 『人間になるための道』。その本当の切符を掴んだ。

 私は今までの成果を存分に発揮した。最初の頃と比べたら演技力も上がっていたが、しかし、まだまだ周囲の怪訝を取り去るには足りなかった。ズレた反応をしてしまった時は、陽炎姉さんや浦風がからかいながらも上手く誤魔化してくれた。「浜風は天然なところがあるから」といった具合に。

 そのおかげか、皆、私のことをクールで天然な子だと思うようになった。その頃には私を訝しむ人はいなくなったと思う。奇しくも私は、輪の中に入ることができるようになったわけだ。

 だけれども、足りない。何故なら、これは陽炎姉さんから与えられた場所であって、私の力で手にしたものではないからだ。それに、欲求の本懐は、「人から頼られるようになる」ということにある。私はまだ、人から真に必要とされていない。ただ、与えられているだけだ。

 それでは、白い場所にいた時と何も変わらない。私はさらに研鑽を積んだ。これ以上、ただ受容するだけの存在で居るのは嫌だった。

 さらに二ヶ月が経った。ついに、痩せた大地を耕して巻き続けた種が、全て芽を出し花を咲かせた。この頃には、私の演技力は格別なものとなり、もう普通の人のそれに限りなく近づいたと言っても良かった。

 怪我を負うと、傷口を庇ったり痛そうな表情を自然に作れるようになった。怪我に気づけないことも勿論あったが、その時は「感覚が鈍っていてあまり痛みがなかった」と嘘をついた。アドレナリンが分泌されている間は痛みを感じにくくなるというのは有名で、私が怪我をして気づけないのは、大半が激しい運動をしている最中だから、疑われることはほとんどなかった。

 熱感覚の把握はそこまで難しいことではない。季節によって暑いか寒いかははっきりしているからだ。夏なら暑いし、冬なら寒い。大雑把でいい。また、天気予報を毎日確認していれば更に気温の詳細が分かる。とにかく気をつけたことがあるとすれば、気温が高い日の行動だ。あまり蒸し暑いと思える場所には近寄らず、水分はかなり小まめに取った。

123: ◆vkHTV4M25U 2015/03/30(月) 03:32:22.42 ID:NgmRhTPn0

 そして、一番苦労したのが味覚であった。味を把握するのは、至難の技だ。同じ品目でも味に結構な違いがある。甘いカレーもあれば、辛いカレーもあるように。私は五味表現をなるべく避け、「美味しい」と曖昧な表現をするようにした。味の細かい感想は、会話中に相手を誘導して上手く引き出した。後はそれに同意すればいい。逆に相手から聞かれた時は、知識の中から予測して言うしかない。だが、ほとんど当たってくれた。勉強の賜物であろう。

 巧妙に作られた影絵を見せられた観衆のごとく、皆は私の演技に騙されてくれた。

 もちろんこれらの感覚だけが欠落したものではなく、感情表現や表情もそうであったから、これらの表現についても技術を磨いた。これらも違和感なくできるようになった。作り笑いなら、誰にも負けない自信がついたほどだ。

 まるで詐欺師にでもなったかのようだ。しかし、あまり罪悪感を感じてはいなかった。確かに人を騙してはいるが、それで誰かが損をしたわけではないからだ。

 もう、私は陽炎姉さんの助けを借りずとも、社交的に人と交流できるようになった。自分の力で『友人』を作れるようになったのだ。また、人の観察や研究をし続けていたおかげか、私はいつの間にか人の感情や気持ちの機微や変化に気配りできるようになっていた。面白いくらい、気付けるのだ。人が何を考え、何を求めているのか。私は彼女たちの欲求をことごとく満たしてやった。

 するとどうだ。皆、私を頼るようになってきたのだ。ただ、人から擁護されるだけであった私が、反対に頼られるように――。

124: ◆vkHTV4M25U 2015/03/30(月) 03:33:39.64 ID:NgmRhTPn0

 その事実に確かな愉悦を覚えた。私は、生まれて初めて何かに喜びを見出したのだ。

 ああ、なんて、なんて、香しい。これが、「頼られる」ということか――。

 あの主人公が泣きながら喜んだのも分かる気がする。まるで、溶けそうだ。性感なんてないけれど、多くの本に触れてきた私には分かる。私は初めて快感を覚えたのだ。

 気持ちいい。私の中に残っていた微弱な感情が全て総動員されているかのようだった。私は、空腹な獣が捉えた獲物を貪るように、この承認欲求を満たそうとひたむきに動いた。

 最初は良かった。未知なる感覚に酔いしれたものだ。だが時間が経つにつれ、私は異変に気付いた。

 どこか、物足りなく感じるようになってきたのだ。まるで衣服に生じた小さな綻びのように。その物足りなさは段々と大きくなり始めた。針で刺すほどに小さかった穴が、徐々に虫食いのごとくぽっかりと。

 その正体が何なのか、私はおそらく気付いていた。しかし、無意識下で考えないようにしてしまったのだ。初めて感じた明確な感情の波に、逆らうような真似をほんの少しでもしたくなかった。人は圧倒的な愉悦の前では、思考停止して普段見えているものが見えなくなるというのは本当なのだろう。これは、私の数少ない精神的な隙となってしまった。

 そして、承認欲求という名の黄金の杯に空いた穴。

 いや、始めから空いていたといった方が正しいか。この穴が、人の道を歩んでいた私を地獄へと叩き落とす片道切符になろうとは思いもしなかった。全ては、醜い人の本性を忘れていた私の慢心だったのだ。

 ――笑えばいい。この後に待っている、私の滑稽な結末を。

  

130: ◆vkHTV4M25U 2015/04/08(水) 01:24:44.41 ID:y/sz5Vvp0
 






 桜が蕾をつけ始める季節となった。皆に囲まれながら過ごした養成学校もついに卒業を迎えたのだ。これからは各々が各地の鎮守府に配属され、深海棲艦と戦わなければならない。

 皆、別れを惜しんで涙を流していた。二年間は彼女たちにとって厳しく辛いものであったはずだが、それでも友人たちと過ごした時間は楽しい思い出であったのだろう。永遠の別れではないけれど、しかし皆と過ごした時間はもう帰って来ない。私は一切泣かなかったが、彼女たちの目から溢れる結晶がどういうものかは理解出来ていた。

 私にも、微かにそうした気持ちがあったと思う。苦労して築き上げた人間関係であり、私の欲求を満たしてくれていたものたちだったのだ。だから、ほんの少しだけれども、失いたくはないと思った。

 厳かな式が終わり、配属先発表が終わってから解散となった。これから一週間の休暇の後、鎮守府へと移ることとなる。

 私の配属先は南鎮守府と言う、開設して半年ほどの新しい鎮守府だった。主席で卒業した私には配属先を選択する権利が与えられており、行こうと思えば横須賀にでも行けたのだが、あえて南鎮守府にしたのだ。

 何故なら、横須賀には優秀な人材が集まっているからだ。頼ってくれる人が少ない場所には行きたくなかった。

 教官は私の進路希望に難色を示したが、新しい鎮守府だからこそ私の能力が活かせるということを説明すると、渋々と納得してくれた。横須賀や呉などの大きな鎮守府に優秀な人材が集中しすぎている危険性について理解を示していた方だったから、説得は難しくなかった。「新しい鎮守府を支えたいんです」なんて言葉を使ったが、偽善なんてものではない。私の想いはもっと邪なものなのだから。

 配属先発表で、私の南鎮守府行きが読み上げられた時は皆一様に驚いていた。やはり、皆は私が横須賀か呉に行くと思っていたようだ。誰だってそう思うはずだから無理はない。国の官吏になるチャンスを蹴って、地方の小役人になる道を選ぶようなもので、私の選択は通常では有り得ないものである。

131: ◆vkHTV4M25U 2015/04/08(水) 01:27:06.60 ID:y/sz5Vvp0
 






 桜が蕾をつけ始める季節となった。皆に囲まれながら過ごした養成学校もついに卒業を迎えたのだ。これからは各々が各地の鎮守府に配属され、深海棲艦と戦わなければならない。

 皆、別れを惜しんで涙を流していた。二年間は彼女たちにとって厳しく辛いものであったはずだが、それでも友人たちと過ごした時間は楽しい思い出であったのだろう。永遠の別れではないけれど、しかし皆と過ごした時間はもう帰って来ない。私は一切泣かなかったが、彼女たちの目から溢れる結晶がどういうものかは理解出来ていた。

 私にも、微かにそうした気持ちがあったと思う。苦労して築き上げた人間関係であり、私の欲求を満たしてくれていたものたちだったのだ。だから、ほんの少しだけれども、失いたくはないと思った。

 厳かな式が終わり、配属先発表が終わってから解散となった。これから一週間の休暇の後、鎮守府へと移ることとなる。

 私の配属先は南鎮守府と言う、開設して半年ほどの新しい鎮守府だった。主席で卒業した私には配属先を選択する権利が与えられており、行こうと思えば横須賀にでも行けたのだが、あえて南鎮守府にしたのだ。

 何故なら、横須賀には優秀な人材が集まっているからだ。頼ってくれる人が少ない場所には行きたくなかった。

 教官は私の進路希望に難色を示したが、新しい鎮守府だからこそ私の能力が活かせるということを説明すると、渋々と納得してくれた。横須賀や呉などの大きな鎮守府に優秀な人材が集中しすぎている危険性について理解を示していた方だったから、説得は難しくなかった。「新しい鎮守府を支えたいんです」なんて言葉を使ったが、偽善なんてものではない。私の想いはもっと邪なものなのだから。

 配属先発表で、私の南鎮守府行きが読み上げられた時は皆一様に驚いていた。やはり、皆は私が横須賀か呉に行くと思っていたようだ。誰だってそう思うはずだから無理はない。国の官吏になるチャンスを蹴って、地方の小役人になる道を選ぶようなもので、私の選択は通常では有り得ないものである。

132: ◆vkHTV4M25U 2015/04/08(水) 01:28:30.68 ID:y/sz5Vvp0

 発表が終わった後、多くの人が私の元に来て理由を尋ねてきた。私が教官にしたものと同じ説明すると、彼女たちは嘆息し、あるいは目を輝かせながら私を褒め称えた。あまりにも純粋な反応だったので、もう少し疑ったらどうかと思わず言いそうになった程だ。

 話しかけてくる人たちがいなくなった頃、そろそろ帰ろうかと歩き出したら、谷風がついてきた。軽く挨拶を交わして、一緒に歩く。

谷風「いやあ、しかし驚いたぜ。まさか浜風が私と同じところに配属されるなんてなあ」

浜風「そうですね。これからもよろしくお願いします」

谷風「おう! でも、勿体ねえなあ。せっかく横須賀とかに行けたのにさ」

 私は困ったように笑って見せた。この日、その言葉を投げかけられたのは何度目だろうか。答えるのもいい加減面倒だった。

 私が答えないのを見て、谷風は小さく肩を竦めた。そして快活な笑顔を浮かべる。

谷風「ま、いっけどよ。浜風には浜風の考え方があるんだろ? 私は浜風と一緒になれて嬉しいしな」

浜風「ありがとうございます。そう言って貰えるとこちらも嬉しいです」

谷風「おいおい、本当にそう思ってる? あんま嬉しそうじゃねえぞ~」

浜風「そんなことは」

 からかってきた谷風にそう言って、お互いに笑い合う。私はほとんど演技だが、それでも無邪気な谷風と同じように笑えたはずだ。

 谷風と雑談しながら養成学校の出口付近にまで来た。すると、正門近くの壁に背を預ける陽炎姉さんの姿を見つけた。彼女は私たちに視線を送り、小さく手を上げた。

133: ◆vkHTV4M25U 2015/04/08(水) 01:30:08.24 ID:y/sz5Vvp0

陽炎「よ、待ってたわよ浜風」

谷風「えー、私は?」

陽炎「あんたはいいわ」

谷風「ひっでー。同じ陽炎型なのに、浜風とは随分扱い違うじゃねえか」

 谷風が頬を膨らませて抗議する。

陽炎「あんたとは散々教室で話したじゃない」

谷風「ま、そうだけどさ」

陽炎「浜風とはまだ話してなかったからね。ちょっと話がしたくて待ってたのよ」

谷風「ふうん」

 陽炎の言葉を聞いた谷風は、やや不満を残した声を出したが、私と陽炎姉さんを交互に見ると、小さく息を吐いた。

谷風「私はお邪魔みたいだねえ」

陽炎「……悪いわね」

谷風「いいってことよ。じゃ、お二人さん。後はごゆっくり」

 谷風は私の背中を叩くと、手を振って足早に去って行った。

 後には、私と陽炎姉さんが残った。陽炎姉さんは何も言わず蕾をつけ始めた桜を眺め、私は憂いを表情に滲ませた彼女を見ていた。風が草木を揺らし、静寂に心地よいアクセントを与える。

134: ◆vkHTV4M25U 2015/04/08(水) 01:32:06.23 ID:y/sz5Vvp0

陽炎「桜、咲いてないわね」

 陽炎姉さんが口火を切った。

浜風「桜が咲くにはまだ少しだけ早いですからね。近年は気温も低いし、開花日は遅れるのではないでしょうか?」

陽炎「……そう。あーあ、どうせなら満開になった桜を見ながら卒業したかったわね。これじゃ風情がないわ」

浜風「そうですね」

 私が頷きながら言うと、陽炎姉さんがこちらを向いた。困ったような、それでいて寂しそうな何とも言えない表情を浮かべている。

陽炎「聞いたわよ。あんた、南に行くんだってね」

浜風「はい」

陽炎「そっか。私は岬鎮守府に行くわ」

浜風「……そうですか」

陽炎「離れ離れね、私たち」

浜風「……」

 私は、何も言えなかった。普段明るくて暗い雰囲気を嫌う彼女が、こんなにもメランコリックになるなんて思いもしなかった。

 彼女のアメジストを思わせる瞳は惜別に沈み、そこに映した私の姿が霞んでいた。どうしてなのかは、すぐに分かった。雨が上がって開けた青空の下、葉っぱから溢れた雫のように清々しいものが、彼女の頬を伝っていた。

 すぐに陽炎姉さんは目を閉じて、誤魔化すように笑った。

135: ◆vkHTV4M25U 2015/04/08(水) 01:34:05.53 ID:y/sz5Vvp0

陽炎「あんたと過ごした一年間、とても楽しかったわ」

浜風「姉さん……。私も、楽しかったです」

 何も言わず、陽炎姉さんは頷いた。

陽炎「あんた、最初は見てられないくらいおっちょこちょいでドジだったけど、どんどんそういうところがなくなっていって……。すごい成長だったわ。誰よりも、みんなと仲良くなろうと努力していたものね」

 彼女は、私の障害のことを何も知らないし、努力の方向性が似て非なるものであることも理解してはいない。だけど、誰よりも私の努力を見守ってくれていたし、認めてくれていた。それは、疑いようもないのだ。

 言葉を切って、陽炎姉さんは短く息を吸い、続ける。

陽炎「あんたは、いつの間にかみんなの中心になっていた。嬉しかったわよ、自分の妹が成長して立派になっていくみたいで」

浜風「……」

陽炎「もう、あんたは一人でも大丈夫よ。私が言うのは何だけど……自信を持ちなさい」

浜風「はい、ありがとうございます……」

陽炎「浜風」

 陽炎姉さんは、突然私を抱きしめてきた。

 いったいどうしたんだ。陽炎姉さんがこんなことをするなんて。

 私の背中に強く回された陽炎姉さんの腕は、微かにだけど震えていた。あの陽炎姉さんが、震えている。それは、私の希薄な感情を小さく波立たせた。私は気付いたら、彼女を抱き返していた。

136: ◆vkHTV4M25U 2015/04/08(水) 01:35:28.88 ID:y/sz5Vvp0

陽炎「あんたは、私の妹であり――誇りよ」

浜風「……姉さん」

 陽炎姉さんが、抱き締める力を強めた。

陽炎「だから、だから絶対……」

陽炎「絶対、死なないで……」

 私の胸の中で、ついに陽炎姉さんは決壊した。くぐもった嗚咽が、木々を揺らす風の中でもしっかりと聞こえてきた。

 彼女は強い人だ。一年以上見てきたから分かる。どんなに過酷な状況にあっても、彼女は弱音を吐いたことなんて一度もない。いつも明るく振舞って、率先して皆を引っ張ってきた誰よりも頼り甲斐のある人なのだ。今の彼女は、そんな陽炎姉さんの凛々しい姿からはかけ離れていた。

 そうか。

 彼女も、泣くのだな。

 きっと怖いのだろう。私たちはこれから戦場に行き、理性の効かない怪物たちと命をかけたやり取りをするのだ。それに、駆逐艦は数が多く養成も容易なため代わりが効きやすいから、他の艦種に比べると軽く扱われる傾向にある。そのため、一番死亡率の高い艦種でもあるのだ。間違いなく、私たちの同期の半分以上は数年以内に死ぬだろう。皆、それを知っていて何も言わず、だからこそあんなにも涙を流したのだ。確定した永遠ではないけれど、この卒業式が今生の別れになる可能性は十分すぎるほどあるから。

 友人が、二年間仲良くしていた誰かが死ぬ。それほどに怖ろしいことはないはずだ。とくに、陽炎姉さんのように仲間との絆を大事にする人にとって、想像するだけでも怖いに違いない。彼女はあまりにも気高く、思慮深く、そして優しすぎるのだ。きっと彼女にとって、自分が死ぬかもしれないということよりも遥かに、仲間が死ぬかもしれないということの方が耐え難いものがあるのだろう。

137: ◆vkHTV4M25U 2015/04/08(水) 01:37:05.42 ID:y/sz5Vvp0

 それでも。それでも、彼女は最後まで泣かなかった。誰よりも泣きたいくせに、弱さを見せまいと、別れ行く友を不安がらせまいと、気丈に振舞っていた。だけど、私の前で耐えられなくなって泣いてしまったのだ。

 なんという、美しい心をもった人だ。

 やはり、陽炎姉さんは私の誇りだ。私はこの時ほど、自分が陽炎型駆逐艦であることを誇らしく思ったことはない。この姉のためなら死んでもいいと柄にもなく思ったほどだ。

陽炎「お願い……お願いよ……」

浜風「姉さん」

 私は、彼女の頭を出来るだけ優しく撫でた。少しでも安心させてやりたかった。

浜風「大丈夫、私は死にません。私の慎重さは貴女だって知っているはずです。そんなヘマは絶対にしません」

陽炎「でも……!」
 
浜風「私は陽炎型駆逐艦十三番艦です。貴女の妹を信じて下さい」

陽炎「浜風……。あんた……」

浜風「約束します。私の、陽炎型の誇りにかけて」

 顔を上げた陽炎姉さんに向って、私は小さく微笑んだ。どうしてだろう、彼女の前だと自然に笑えてしまうのは。温もりなんて一切感じないのに、それでも彼女の優しさを感じてしまうのは。心が、承認欲求を満たした時とは違う、心地よさで満ちていく。

浜風「約束します、必ず」
 
 私は力強く言った。そしてまた、陽炎姉さんは泣き出した。彼女の頭をゆっくり抱きながら、もう一度髪を梳くように撫でた。

 まだ蕾を開かぬ桜。しかし私たちの桜は、咲いている。桃園の誓いのように厳かでしっかりとした約束ではないけれど、私は確かに陽炎姉さんとの間に桜を見たのだ。

 桜という、徒花を見た。




145: ◆vkHTV4M25U 2015/04/23(木) 23:14:48.64 ID:xxzKE14PO






 卒業から一週間が経ち、私は谷風、他数名の仲間と一緒に南鎮守府へと配属されることとなった。その頃には桜が咲いていおり、新しい生活の始まりを美しく彩っていた。ただ、これから戦場へと続く切符を初めて切ろうとしている私には、その美しさも何処か白々しいものに思えてしまった。

 出来たばかりの真新しい鎮守府の門をくぐり、まず私達は最高責任者である提督の元へと行った。

 提督は中背の若い男性だった。年齢はおそらく二十代後半になるかならないかといったところだ。痩せこけた頬とキツネのように尖った目が印象的で、黒縁の眼鏡を掛けており、如何にもインテリゲンチャらしい感じであった。

 私たちが挨拶を済ませても、彼はつまらなさそうに鼻を鳴らしただけで、挨拶らしい挨拶を返してくれなかった。私たちに向けた目は無機質で、まるで岸に捨てられた河豚でも見ているかのようであった。駆逐艦などに興味はないとでも言いたげな、見下した態度だ。

 はっきり言って、私はこの時点で南提督に対してあまり良くない印象を抱いていた。しかし、海軍の上層部が駆逐艦を軽視している現状は周知の事実であるから、士官である提督が私たちに対して見下した態度を取るであろうことは想定してはいた。しかも、南提督は提督会議の副議長を務める呉鎮守府提督のご子息であり、名家出身と血筋においてもエリートである。その傾向は顕著であろう。

 まあ、私たちは代えの効きやすい駆逐艦だし、偉ぶったエリートというのは軍隊に限らず大きな組織になると少なからずいるものだ。私たちの扱いなどこんなものだろう。私はそう納得した。この時は、棒アイスの外れを引いた時のような軽い残念さしかなかった。

 南提督への挨拶は直ぐに済んだ。退室すると、皆一様にがっかりした顔をしていた。特に谷風は「かあっ、外れたぜ!」と大きな声で言っていた。聞こえたら不味いので、口を塞いで黙らせたが。

146: ◆vkHTV4M25U 2015/04/23(木) 23:17:48.50 ID:xxzKE14PO

 その後は、艦娘の先輩達と顔合わせをした。この鎮守府は始まって半年にしては、戦艦が二隻、正規空母一隻、軽空母三隻と戦力が充実していた。聞くと、まだ南西諸島海域入りを果たしたばかりなのにだ。普通なら南西諸島入りして初めて、戦艦を一隻持つことを許されるというのに。家柄の力だろう。

 戦艦や空母などの優遇される艦種(一次戦力という。重巡・軽巡・潜水艦などが二次戦力、駆逐艦は三次戦力)は、軽巡や駆逐艦を見下すものは少なくない。だが、ここの一次戦力はそうした態度を取らなかった。口調も丁寧で優しく、私たち駆逐艦に対しても笑顔で接してくれる。

 しかし、彼女達の笑顔にあった違和感を私は見逃さなかった。かなり微妙にだが引き攣り、作為的な気配があったのだ。巧妙に隠しているため、表情の変化に敏感な私だからこそ気付けたといっていい。実際、谷風達は気づいていなかった。

 私は、ここでの艦娘の扱われ方がどのようなものか、かなり大まかにだが察することができた。その推察を決定付けたのは、一次戦力の後に出会った駆逐艦の先輩達である。

 一番最初に出会った駆逐艦の先輩は、片腕がなかった。おそらく、深海棲艦との戦いで消失したのだろう。砲撃で吹き飛ばされたか、食い千切られたかは分からない。風に揺らめく長袖が、あまりにも軽やかで痛々しかった。

 衝撃的な先輩の姿に、谷風たちは息を呑んでいた。私も少しだけ驚いていたと思う。先輩といっても、私達とほとんど年が変わらない少女には違いない。その少女が片腕を失っているという事実は、残酷なまでの現実を知らしめるには十分過ぎた。

 彼女の姿は、戦場の狂気と恐ろしさを体現したものだった。

 先輩は淡い影がさした瞳で私達を眺め、薄っすらと微笑んだ。

147: ◆vkHTV4M25U 2015/04/23(木) 23:19:33.95 ID:xxzKE14PO

「貴女たちが新入りね、宜しく」

 答えるものは誰もいなかった。先輩が少し不機嫌そうな顔をしたのを見て、すぐに私が答えた。

浜風「はい。私は浜風と言います。今後ともご指導ご鞭撻宜しくお願いします」

 私の挨拶で皆も我に返った。一人一人挨拶する。全員の挨拶が終わったのを見て、先輩は背中を向け歩き出した。

「着いてきて。皆の事を紹介するから」

 私達は言われた通りに先輩の背中を追いかけた。

 数分ほど歩き、鎮守府本館と離れた位置にある建物へと辿り着いた。入り口に立てかけられていた看板には、「駆逐艦娘寮」と墨が入れられている。中に入り、廊下を歩くと、百人くらいが入れそうな広間に出た。食堂である。

 ずらりと並んだ長机。それに添うような形で置かれた数多の椅子に、駆逐艦の艦娘たちが座っていた。全員ではないが、彼女達は先輩と同じように所々負傷を抱えていた。片腕がないもの、眼帯をしたもの、火傷でもしたのか顔に包帯を巻いたもの――。怪我をしていないものを探す方が難しいほどだ。

 ふと私は、幾つか空席があることに気がついた。すぐにその意味を理解したが、それ以上は考えないようにした。

「皆、注目!」

 先輩が声を張り上げると、席についていた全員がこちらに注目した。彼女達の目は、どこか土のついたガラス玉を思わせる濁りがあった。一斉に向けられた暗い視線の束に空恐ろしさを感じたのか、同期の誰かが押し殺したような悲鳴を上げた。

148: ◆vkHTV4M25U 2015/04/23(木) 23:21:26.97 ID:xxzKE14PO

 それは先輩にも聞こえていたはずだが、彼女は特に気にした様子も見せず続けた。

「今日配属の子達を連れて来たわよ! 皆、色々と教えて上げなさい。……それじゃ自己紹介してもらおうかしら」

 ちらっと先輩が私に目をくれた。私から紹介しろと言うことなのだろう。頷いて、私は自己紹介をした。

 疎らな拍手が起こった。あまり歓迎されているようには見えない。

 続いて、谷風がガチガチに緊張した様子で挨拶し、他の子達も谷風と大差のない自己紹介をした。拍手は誰の紹介の時でも変わらずにやる気がなかった。流石の私も、もう少し歓迎してくれても良いではないかと思ったほどだ。

谷風「こりゃ、やべぇところに来ちまったかもな……」

 隣の谷風が耳打ちしてきた。私は思わず苦笑いをしてしまう。ある程度予想していたことではあったが、いくらなんでも先輩たちの表情も態度も暗然としすぎている。まるで、年中通夜でもしているかのような雰囲気だ。

 棒アイスの外れどころではないらしい。私は考えを改めた。私達はとんだ貧乏くじを引いてしまったみたいだ。

「どこもこんなもんよ」

 先輩が私と谷風を見て言った。谷風の肩がびくりと跳ねる。どうやら聞こえていたらしい。

 先輩は諦観の籠った微苦笑を浮かべた。

「ガッカリしたでしょ? 気持ちは分かるわよ。でもね……鎮守府なんて、私達駆逐艦の扱いなんて、こんなものなの。戦艦様や空母様達と違って、私達は代えが効きやすいからね」

149: ◆vkHTV4M25U 2015/04/23(木) 23:23:37.73 ID:xxzKE14PO

 谷風が唾を飲み込む音がやけに大きく聞こえた。説得力が凝固したような先輩の言葉に、部屋の空気が一層重苦しくなる。ここにいるルーキーたちの安直な覚悟を圧し折らんばかりの重圧だった。

「これがあんた達が踏み込んだ現実よ。これからは常に棺桶に片足を突っ込んでいることを意識しておきなさい。そして、割り切りなさい」

 先輩はひらりと揺れる長袖を握り締めた。そこにあったはずのものを惜しむように。

「それができないものから、死ぬわよ」

 これが。

 これが、戦争というものか。私の予測や想定は、教本を読んで将棋や囲碁を理解したつもりになったが如く、甘いものでしかなかった。

 私達を地獄へ誘う死神との距離は、思ったよりも近い。感じないだけで、もしかするともう既に肩に手を置かれているのではないか。

 私と谷風を虚ろに見つめる先輩。彼女はもう、囚われているに違いないだろう。

 承認欲求を満たすどころでないかもしれない。まず、忍び寄った死神の手を払うことから始めなければ。そうでないなら、誇りを賭けて誓った陽炎姉さんとの約束を破ることになりかねない。

 それは、あってはならないことだ。

 怯えて涙目になった谷風を、「大丈夫ですよ」と笑顔で励ましながら、私はこの鎮守府で生きる術を探ることから始めようと思った。

163: ◆WvruwVSMos 2015/05/09(土) 13:57:00.98 ID:kkBuK4HP0






「開けて、急患よ!」

「あああぁ……、痛い……痛いよぉ!」

 怒声が飛び交い、苦しげな呻き声が穏やかな潮騒を打ち壊す。昼下がりの港は、殺伐とした空気に満ちていた。

 身体中に包帯を巻かれた少女が担架で運ばれている。血が滲んで真っ赤に染まった包帯が、少女の傷の深さを物語っていた。

 少女は陸に上げれた鯉のように暴れ、喉が千切れんばかりの勢いで泣き叫ぶ。担架の横についていた他の駆逐艦の子達が少女を取り押えた。落ちてしまわないように気をつけているのだ。苦しむ少女を励ます声が幾度か聞こえる。

「しっかり! しっかりしなさい!」

「痛い……顔が痛いぃ! あああ、助けてお母さん! お母さん!!」

「くっ……、早く運ぶわよ!」

 駆逐艦の子が焦った様子で急かす。実際、重症だ。急がなければ少女が危ないだろう。

 少女を乗せた担架が医務室へと運ばれていく。姿が見えなくなり、呻き声も聞こえなくなってから、私は小さく溜息をついた。

 これで負傷者を見るのは何度目だろうか。配属されてから一カ月しか経ってないというのに、私は多くの怪我人を目にしてきた。そのほとんどが駆逐艦というから、他人事では片付けられない。気をつけなければ、私もああなるかもしれないのだ。

 しかし、その思考とは裏腹に、私の心は凪のごとき静けさで満ちていた。呆れはあっても、恐怖心もなければ怪我をした少女に対する同情もない。

164: ◆WvruwVSMos 2015/05/09(土) 13:59:32.45 ID:kkBuK4HP0

 痛みがない私に、彼女の苦しみの一切を理解できるはずがないからだ。ただ、上部の意味で「痛み」を理解できるだけである。私に生じるのは、「こうならないように気をつけよう」という冷たい教訓のみ。

 私は医務室から視線を逸らし、騒動で中断していた連装砲の点検作業を再開した。

 もうすぐ私は遠征任務に着かなければならない。そのために、艤装の最終チェックを港でしていたのだ。その途中に朝の遠征をしていた艦隊が帰還して、先程の騒動に至ったわけである。

 連装砲の角度調整や砲筒の清掃など、一通り作業を済ませた私は艤装を背負った。肩にかかる圧力は慣れたもので、違和感や不快さはない。ただ、ベルトが胸に食い込む感触だけはどうしても慣れない。この無駄に大き過ぎる胸のせいだ。任務の度に引き千切りたいと思ってしまう。

 予定よりやや早かったが、私は艦隊の集合場所へ向かうことにした。

 その途上で谷風と出会った。後ろには四人の駆逐艦の子達がいる。皆、暗澹とした表情を浮かべていた。谷風たちは先程帰還した遠征隊のメンバーであるから、負傷した少女のことを思えば、暗くなるのも無理はない話だろう。

浜風「お疲れ様です」

谷風「ああ……」

 私に気づいた谷風が、疲れた様子で返事をした。取り繕うように笑顔を作っていたが、全く隠しきれていない。

 ぎこちなく吊り上がった口元。そこが、青く変色していることに私は気がついた。

165: ◆WvruwVSMos 2015/05/09(土) 14:01:48.76 ID:kkBuK4HP0

浜風「……、……何かあったんですか?」

 尋ねながらも、凡そ何があったかは予想がついていた。おそらく、南提督の仕業だろう。

谷風「あはは……やっぱ気付くよね。提督に殴られちゃった」

 そう言って、谷風は困ったように笑う。

 やはり、予想通りだったか。

浜風「もしかして、資源の回収に失敗したからですか?」

谷風「それもあるけど、ちょっと違うかな……」

浜風「それなら、一体何が……?」

 谷風はきゅっと下唇を噛み、眉根を寄せた。何かに耐えるように表情を引き締めている。固く握られた小さな拳が震えている様が、内に秘められた彼女の感情を物語っていた。

 押し黙った谷風を見兼ねたのか、後ろにいた駆逐艦の子が代わりに事情を話してくれた。

「私達は帰還してすぐに呼び出されて、報告に行ったんだけど……。私達が資源回収を出来なかったことを報告すると凄く怒ったのよ。『どうして回収出来なかったんだ! ウスノロどもめ!』って……」

 映像を見せられたかのように、その情景が思い浮かんだ。あの提督は仕事に少しでも不足があれば、短気を爆発させて叱り付けてくる。特に駆逐艦に対しての当たりは酷いものがあり、ほとんど理不尽と言っていいほどである。

 しかし、今回の谷風たちの失敗には致し方ない理由があった。任務の途中、谷風たちは伏兵から奇襲を受けたのである。全員が中破以上の損害を被った上、大破状態で至近弾に巻き込まれた少女は致命傷を負った。とてもではないが任務を続行できる状態ではないのは明白であろう。資源回収を断念した旗艦の判断は正しかったと言える。そのまま作戦を無理に続ければ、全滅していたはずだ。

166: ◆WvruwVSMos 2015/05/09(土) 14:05:04.28 ID:kkBuK4HP0

浜風「……なるほど。それで、弁明したんですか?」

 私は訊いた。深い溜息が、谷風以外の全員から溢れた。

「もちろんしたわ……。でも、聞き入れてもらえなかった。言い訳するなって更に怒られただけ。で、その時にね……」

 私は谷風を見遣った。

 谷風の小さな身体が震えている。栗のように丸い瞳が、溢れてきた感情の高ぶりに濡れそぼっていた。唇を震わせながら、口を開いた。

谷風「提督のやつ……、『それがどうした?』って言いやがったんだぜ……。○○が大怪我を負ったのを聞いて、そう言いやがった……」

浜風「……谷風」

谷風「確かに、資源を持って帰れなかったのは私達のせいだと思うぜ? でもさ、あいつもギリギリまで少しでも資源を持って帰ろうと頑張ってたんだ。それで無茶をして、怪我を……。飛び散った破片が、散弾みてえに顔に突き刺さって……。そんなあいつを、せめて一言くらい労ってやってもいいじゃねえか。それなのに、提督は……あの野郎は!」

 谷風の目からついに涙が溢れた。怒りに満ちた声に嗚咽が混ざり、どうしようもない悔しさが滲んでいるようだ。

谷風「あの野郎は、私達を道具としてしか見てねえんだ……! 許せねぇよ……クソッ!」

浜風「……」

 谷風が何故殴られたのか分かった。彼女は、少女の負傷を歯牙にも掛けなかった提督を許すことができず、反抗したのだろう。それが提督の怒りを買う結果となったわけだ。彼女が文句を言いたくなる気持ちも分からなくはない。私だって、そんなことを聞いたら決していい気はしないだろうから。

「谷風ちゃん……。落ち着いて、ね?」

167: ◆WvruwVSMos 2015/05/09(土) 14:07:39.22 ID:kkBuK4HP0

 事情を説明してくれた子が、谷風の肩に手を置いて優しく微笑んだ。しかし、その表情に隠しきれない翳りが見えている。それは、少女の件や提督からの叱責により気分が落ち込んでいるだけではない。間違いなく、連日の遠征任務による疲労のせいでもあるはずだ。

 その子に便乗して他の三人も谷風を慰め出した。谷風の勇気を称えたり、南提督への文句を述べたりしながら、彼女たちはなるべく明るい感じで振舞っていた。しかしやはり、彼女たちの顔にも疲れが見える。

 興奮気味になっていた谷風だが、周りの励ましによって段々と落ち着いてきたようだ。目元を拭い鼻をすすりながら、「すまねえ、皆」と謝った。

浜風「別に謝らなくていいんですよ。貴女は間違っていませんから」

 谷風が少しだけ嬉しそうに笑った。

谷風「浜風にそう言ってもらえると嬉しいや。やっぱ、私は間違ってなかったんだな……」

浜風「はい。でも、提督に反抗するのは少し無謀ですので、今後は気持ちを抑えた方がいいと思います。下手に目をつけられると、自分が損をするだけですから」

谷風「そうだな……。気をつけるよ……」

「さ、そろそろ行こう谷風ちゃん。医務室に行って湿布貰おう? 浜風も、もうすぐ出撃なんでしょ? 気をつけてね」

谷風「……頑張れよ」

浜風「ええ。ありがとうございます」

 その後、谷風達とは別れた。医務室に向かう彼女達を見届けてから、私は遠征メンバーとの集合場所へと足を進めた。

 歩きながら、私は南鎮守府のことについて思案する。

 配属から一カ月の間に、私は与えられるタスクをこなしながらこの鎮守府の内情を探った。一カ月は組織を理解するのに決して十分な期間とは言えなかったが、それでもかなりの範囲で鎮守府の現状を把握できたと思う。

168: ◆WvruwVSMos 2015/05/09(土) 14:12:34.40 ID:kkBuK4HP0

 はっきり言ってしまえば、この鎮守府は異常だ。人も組織運営も尽く疲弊し、有効に機能していない。組織として崩壊しかかっていると言っても良かった。

 その一番の要因は、異様なまでに艦娘達へ過重労働が課されていることである。とにかく出撃回数や遠征回数が多いのだ。

 まず出撃についてであるが、そのペースは「一日に二回」である。そう聞くと、人によっては「少ないのではないか?」と取るかもしれない。しかし、これは決して少ない回数ではない。私の調べたところによると、大本営が定めた出撃回数の最低基準は「二日に一回」である。これは、出撃によって艦娘が受ける疲労とストレスを勘案した結果によるものだ。

 艦娘達が出撃任務で被る疲労とストレスは並大抵のものではない。出撃は常に命懸けの状況であり、どこに伏兵が潜んでいるのかもしれないので、片時も気を抜くことができないのである。監視を怠らず、開かれた棺桶の蓋を意識しながらも緊張の糸を貼り続けなければならない。艦娘達の平均出撃時間が三時間以上であることを考えれば、いかに艦娘達への精神的な負担が大きいかは分かるだろう。それに、戦闘中に怪我を負ったり、仲間が目の前で敵に撃たれ轟沈してしまったりすることもある。それによる磨耗も考慮しなければならない。

 これらの疲労とストレスは、決して数時間の休息で解消できるものではなく、一日休みを取らせたとしても正直足りない程である。「一日二回」の出撃は、艦娘の心身の健康維持をまるで配慮していない。

 そして、次に遠征任務の回数についてだ。これに至ってはもっと酷い。出撃すればするほど、資材や資源をより多く確保する必要があるから、必然的に遠征任務の数も増えていく。通常、「一日二回~三回」と規定された遠征任務であるが、この鎮守府では「一日六回」も実施されている。

 遠征任務はただのおつかいではない。谷風たちのように、任務の途中で敵と遭遇したり待ち伏せされていたりする可能性は大いにある。だから、出撃ほどではないが、それなりの精神的負担はかかるのだ。

 大本営も遠征における規定の中で、一度遠征へ出した艦娘には、一日の休暇を与えることを推奨している。だが、南はその規定を完全に無視していた。遠征任務の編成が適当で、一日に同じ艦娘が二度以上任務に就いていることは珍しくない。私も、最大で一日に三度遠征をこなした事があるが、ストレスを受けにくい私でもしばらく立てなくなるほどに堪えた。他の子たちからすると、拷問に近いものがあるだろう。

169: ◆WvruwVSMos 2015/05/09(土) 14:15:19.83 ID:kkBuK4HP0

 この鎮守府での負傷・轟沈の大半が、もちろん出撃によるものも少なくはないが、実は遠征任務によるものである。そして、過重労働によってモチベーションの低下が起こり、ミスも増えるから、遠征の失敗率も高い。加えて、失敗すれば提督の激しい叱責や暴力が待っているから、それもプレッシャーとなり、遠征組を縛る。だが、そのプレッシャーは決していい方向に繋がることはなく、ただストレス要因を悪戯に増やし、負傷率や失敗率の増加に「貢献」している。

 失敗が増えれば、獲得できる資源や資材は減り、それを何とか確保しようと、遠征の回数は増える。「一日六回」という回数は、間違いなくそのせいであろう。そして、負傷して任務をこなせないものが増えれば、残っているものたちの負担が増す。つまり、負の連鎖が起こっているのだ。

 私達はこの連鎖に巻き込まれ、異常に働かされる。そうして、怪我を負い、精神を病んで、使い捨ての電池のように空になるまで絞られてしまう。初めて食堂で会った先輩たちの濁った目を思い出した。あれは、過重労働とパワーハラスメントという黒い絵の具で塗り潰された結果なのである。

「……来たわね」

 声をかけられ、私は思考の海から帰った。集合場所についたのだ。声をかけてきたのは片腕を失った先輩であった。後ろには、他のメンバーが既に揃っている。皆、少しだけ非難がましく私を睨んでいた。
 
「あんた、少し遅いわよ。もう少し早く来なさい」

浜風「はい、すいません」

 私は謝りながらも、内心では一切反省してはいなかった。時間に遅れたなら分かるが、私は集合時間より早く着いたのだ。本来、責められる謂れはないはずである。

 先輩は「まあ、いいわ」と言って、溜息をついた。

「それじゃ、早く行くわよ」

浜風「了解しました」

 そう言って、早々に歩き出した先輩たちの後ろをついて行く。先輩の揺れる片袖と、小さな背中を見ながら私は思った。

170: ◆WvruwVSMos 2015/05/09(土) 14:18:20.17 ID:kkBuK4HP0

 どこもこんなもの。先輩は顔合わせの時、食堂でそう言った。あの時は鎮守府の内情なんて知らなかったから、その言葉を否定できなかったが、今ならハッキリとそれが誤りであると言える。

 確かに、他の鎮守府でも似たような状況はあるかもしれない。だが、多くの鎮守府が組織の機能を保ち、順調に成果を上げていることを考えると、ここより酷いところはないはずだ。ここは、南西諸島海域の攻略が、配属した当初からまるで進んでいない。苦戦しているというレベルではなく、一切の成果を出せてないのだ。そんなところ、他にはない。

 先輩のあの言葉は、防衛機制が働いた故のものであろう。

 先輩は、過酷な労働と腕を失った受け入れ難い現状の中、心が壊れてしまわないように己を「合理化」したのだ。どこも同じ環境で、他の艦娘達も同じように苦しんでいる。だから、己の苦しみに満ちた現実は特別なものではない――。そう、心を納得させた。

 事実、彼女はこの鎮守府以外で働いた経験はない。半年前に私とは別の養成学校を卒業し、それからずっとこの地獄に身を浸している。

 ずっと虚構と自己欺瞞で、己を守っているのだ。

 そうでもしないと、壊れてしまうから。

浜風「……」

 私は鎮守府本館のある一室に目を向けた。そこは、執務室。この鎮守府の「歪み」を生み出した最大の原因、南提督という名の悪魔が住まう部屋だ。そこから悪魔が顔を出し、冷ややかに私達を見下ろしていた。目が合う。初めて会った時からその無機質さは変わらない。嫌悪感を抱きながらも、不自然にならないよう、私はゆっくりと目を逸らした。

 ――無能め。

 内心で吐き捨てる。

 あの提督がリーダーでは、この鎮守府はそう遠くない内に崩壊するだろう。今の疲弊しきった状態を変えるには、この鎮守府の制度そのものを根本から見直さねばならない。だが、あの提督が玉座にいる以上、それは困難を極める。

 絶望的な状況に思えたが、しかし私は攻略の糸口を見つけていた。それをこれから実行していく。

 思い知らせてやろうではないか。自分の本質が、誰からも肯定されず、慕われてもいない「裸の王様」であることを。

 私は連装砲を握り締めながら、薄く笑った。



178: ◆vkHTV4M25U 2015/05/29(金) 20:45:30.76 ID:+8Ic3NCI0
 





 癌に侵された患者を救うために何が必要か?

 それは手術だ。放置すれば癌は広がり続け、やがて取り返しのつかないほど体を蝕んでいく。そうなる前に癌を取り除く必要がある。

 私がやろうとしていることは手術だった。手術は改革であり、そして癌とは南野鎮守府に蔓延する暗い現状そのものだ。過重労働とパワーハラスメント、よそよそしい壊れかけた人間関係、そして無能の指揮官。それら全て。

 鎮守府を取り巻く問題は、あまりにも課題が多く複雑なものとなってしまっているから、すぐに解消することは不可能だ。幾重にも絡まった糸を解いていくように、どうしても時間がかかってしまう。しかもやり方を間違えてしまえばさらに絡まって事態が悪化する可能性もあった。だから、時間をかけて段階的にやっていく必要があるのだ。

 まず、メスをどうやっていれるのか。そこから考えていかねばならなかった。

 私は慎重に問題の現状と課題を精査し、どこからがアプローチしやすいか検討を重ねていた。鎮守府の現状を把握しきる頃には、すでにもっとも取り組みやすく、そしてもっとも効果的であろう改善点を見つけだしていた。それは、多大な遠征回数や重複編成、そしてずさんな健康管理などの「遠征隊を取り巻く悪環境」である。

 理由としては、私自身が遠征隊であり、駆逐艦の子たちと鎮守府内の地位が同じであることが一つ。駆逐艦は言わずともがな軽視されるため、当然鎮守府内での地位は低い。現状の私では、出撃やその他の根幹をなす運営に口出しすることなんて不可能に等しかった。だから必然、遠征隊の問題が取り組みやすかったのだ。

 そしてもう一つ。これが最大の理由と言ってもいい。遠征隊の編成から運用に至るまでの仕事を担当しているものが、提督ではなく秘書艦である戦艦の先輩だったことである。

 そう、あの提督は本来ならば自分がやらなければならない遠征隊の運営を秘書艦に丸投げしていたのだ。何故かというと、「ただのお使いごときに頭を使う必要はないだろう」という、空いた口が塞がらないような理由のためだった。これを先輩たちから聞いて知ったときは、あまりの無知蒙昧さに眩暈を起こしそうになったほどである。この世にこんな馬鹿が存在していいのか、と小一時間考える羽目になった。

179: ◆WvruwVSMos 2015/05/29(金) 20:49:57.19 ID:+8Ic3NCI0
 






 癌に侵された患者を救うために何が必要か?

 それは手術だ。放置すれば癌は広がり続け、やがて取り返しのつかないほど体を蝕んでいく。そうなる前に癌を取り除く必要がある。

 私がやろうとしていることは手術だった。手術は改革であり、そして癌とは南野鎮守府に蔓延する暗い現状そのものだ。過重労働とパワーハラスメント、よそよそしい壊れかけた人間関係、そして無能の指揮官。それら全て。

 鎮守府を取り巻く問題は、あまりにも課題が多く複雑なものとなってしまっているから、すぐに解消することは不可能だ。幾重にも絡まった糸を解いていくように、どうしても時間がかかってしまう。しかもやり方を間違えてしまえばさらに絡まって事態が悪化する可能性もあった。だから、時間をかけて段階的にやっていく必要があるのだ。

 まず、メスをどうやっていれるのか。そこから考えていかねばならなかった。

 私は慎重に問題の現状と課題を精査し、どこからがアプローチしやすいか検討を重ねていた。鎮守府の現状を把握しきる頃には、すでにもっとも取り組みやすく、そしてもっとも効果的であろう改善点を見つけだしていた。それは、多大な遠征回数や重複編成、そしてずさんな健康管理などの「遠征隊を取り巻く悪環境」である。

 理由としては、私自身が遠征隊であり、駆逐艦の子たちと鎮守府内の地位が同じであることが一つ。駆逐艦は言わずともがな軽視されるため、当然鎮守府内での地位は低い。現状の私では、出撃やその他の根幹をなす運営に口出しすることなんて不可能に等しかった。だから必然、遠征隊の問題が取り組みやすかったのだ。

 そしてもう一つ。これが最大の理由と言ってもいい。遠征隊の編成から運用に至るまでの仕事を担当しているものが、提督ではなく秘書艦である戦艦の先輩だったことである。

 そう、あの提督は本来ならば自分がやらなければならない遠征隊の運営を秘書艦に丸投げしていたのだ。何故かというと、「ただのお使いごときに頭を使う必要はないだろう」という、空いた口が塞がらないような理由のためだった。これを先輩たちから聞いて知ったときは、あまりの無知蒙昧さに眩暈を起こしそうになったほどである。この世にこんな馬鹿が存在していいのか、と小一時間考える羽目になった。

180: ◆WvruwVSMos 2015/05/29(金) 20:51:44.22 ID:+8Ic3NCI0

 遠征の運営は、出撃のそれと同じくらい重視しなければならない。それによって遠征の成功率や、資源の確保量が大きく変わってしまうためである。だから、通常は提督が勘案しなければならない最重要案件として扱われているのだ。こんなこと運営論を独学しただけの私でも知っている。それを、仮にも海軍大学校を卒業したはずのエリートが知らないなんて有り得るだろうか。いや、現実有り得てしまっているのだから目も当てられなかった。
 
 こんな無能が提督を務めていられるのも、呉鎮守府提督のご子息であり、華族の家柄をもっている故であろう。名門意識に胡坐をかいて、大した努力もせずここまで上がってきたに違いない。それならば、あの無能さにも納得がいくというものだ。

 ……思考の道筋が逸れたので戻そう。重要なのは、遠征の運営が秘書艦に任されているということである。

 私はここに目をつけた。提督ではなく同じ艦娘の秘書艦が相手なら、交渉次第で仕事を譲ってもらうことも不可能ではない。秘書艦に意見具申し運営を改善してもらった方が早いかもしれないが、私はどうにも人をそこまで信用できない性分のようで、あくまで改革は私自身がおこなった方が良いと思っていた。だからこそ、彼女から仕事をもらおうというのだ。

 仕事を譲ってもらえるようになるには、まず彼女から信用を得ることが不可欠だ。信頼関係という土台をしっかり作ってから交渉に移る。しかし、一次戦力と駆逐艦の確執はこの鎮守府にも当然あり、遠征隊と出撃組の間には溝があった。だから、コミュニケーションを取るのは難しいように思える。

 だが、私にはそんなこと苦にもならない。これまで比べ物にならないほど深い溝の中、蛆虫のように這いばり抗ってきたのだ。感覚の消失した世界と、人ではないという意識。それを必死に変え、多くの人から信頼を獲得してきた。

 そう、養成学校時代さんざんやってきたこと。人とより良い関係を築き、その心を掌握する術は心得ていた。

 私は秘書艦に接近し、交流を図った。ただ、私も相手も多忙であるから中々機会をつくるのは難しかった。短くて数分しか話せないことは珍しくなかったし、長くても三十分時間が取れればいい方だ。私は限られた時間を有効的に使って、なるべく急いで信頼関係を養成しなければならなかった。時間をかければかけるほど、それだけ「犠牲者」が増えていくからである。

 私は急ぎながら、しかし慎重に秘書艦との仲を深めていった。さいわいなことに秘書艦が比較的穏和で友好的な性格をしていたおかげで、さほど苦労することはなかった。こちらが話しかけるようになって二週間ほどで、傍から見ても「仲のいい先輩と後輩」ほどの関係を築くことに成功。

 頃合いを見計らい、私はある質問を彼女に投げかけた。

181: ◆WvruwVSMos 2015/05/29(金) 20:53:48.84 ID:+8Ic3NCI0

浜風「秘書艦」

秘書「どうしたの、浜風さん?」

 秘書艦はやや翳りの見える微笑みを浮かべた。緩んだ目元には水墨のような隈がしみ込んでいる。

浜風「秘書艦は、遠征の運営についてどうお考えですか?」

 彼女の表情が、まるで一時停止ボタンを押した映像のように固まった。

秘書「……どうって、言われてもね。もう少し具体的に聞いてきて欲しいわ」

浜風「そうですね、言い直します。遠征の運営が現状、上手くいっているとお思いですか?」

秘書「……上手くいっていると思う、わよ。出撃で必要な分も大本営に送る分も十分に確保できてるんだから」

 秘書の目が私から逸れ、冷たいアスファルトの地面を見ていた。人は本心とは違うことを口に出すとき、相手の顔を無意識に見ないようにするものだ。つまり、彼女は運営が上手くいっているとは思っていない。

 私はすかさず追い討ちをかけた。

浜風「数字の上では確かに仰るとおりです。ですが、その数字を確保するために通常より多くの遠征が課せられています。それによって駆逐艦の子達は負傷率が高く、轟沈するリスクも並以上です」

秘書「……」

浜風「遠征の編成が重複していることや、負傷者が多すぎて入渠ドッグに空きがないことなど、他にも問題は多数あると思います。……秘書艦は『提督』の運営方針に疑問を持ったことはありませんか?」

 私はあえて秘書艦が運営を担当している事実を知らないフリをして、そう尋ねた。『提督』が見当違いな運営をしていると指摘することで、間接的に彼女を否定し責めたのだ。

 秘書艦が奥底にしまった不満と苛立ちを吐露しやすくするために。私は、彼女が指摘されては困る部分を指先で軽く撫でた。

182: ◆WvruwVSMos 2015/05/29(金) 20:55:49.01 ID:+8Ic3NCI0

 秘書艦は苦しげに眉根を寄せた。

秘書「そう、ね……。貴方の言うとおり、色々と問題があると思うわ」

浜風「やはり、秘書艦もそう思いますか。提督は一体、何をお考えなのでしょう。遠征の運営を真剣にやっているとは思えません」

秘書「浜風さん、その……提督じゃないの」

浜風「はい?」

 かかった。

秘書「だから、遠征の運営をしているのは提督じゃないのよ。……私よ。私に、一任されているの」

浜風「そんな……」

 私は驚いたフリをしながら、内心で小さくほくそ笑んでいた。

浜風「どうしてですか? 遠征の運営は、提督がやるのが当たり前のはずです。補佐をするのなら分かりますが、運営そのものを任されるなんて幾ら何でも……」

秘書「そう思うのが普通よね……。提督に『遠征の運営なんかお前でも考えられるだろう』って言われて、いきなり任されたの。……私は、遠征の運営のやり方なんて全く分からないのに。やり方も、情けない話だけど木刀で殴られるのが怖くて、聞くに聞けなかったわ……。他にもやり方を知っている人なんかいなかったしね……。なんとか、私一人でやるしかなかった」

浜風「そうですか……」

 光の萎んだ瞳がちょっとずつ湿り出した。やがて、するりと一筋の水滴が頬を滑る。

183: ◆WvruwVSMos 2015/05/29(金) 20:57:49.54 ID:+8Ic3NCI0

秘書「私がもっとちゃんとしていれば……。駆逐艦のみんなも大変な目には合わずにすんだかもしれないのよね。ごめんね……ごめんなさい……」

浜風「秘書艦」

 私はそっと彼女の手をとった。「あ……」と小さく声を漏らした秘書艦が、私を見た。

 微笑む。出来るだけ優しく、私は言った。

浜風「自分を責めないでください。貴方はよく、頑張りました」

秘書「そんな……私は……」

浜風「卑下することはありません。ただでさえ一日に二回も出撃任務をこなしながら、秘書の仕事をしなければならなかったんです。それにも関わらず、遠征の運営まで任されてしまったのですから……。遠征の運営をするのは難しい状況だったはずです。勉強する時間も、中々取れなかったんでしょう?」

 彼女は唇を噛み締めた。握った手が微かに震えている。

浜風「そんな状況では仕事を上手く回せなくても仕方ありませんよ。……きっと辛かったんですよね? 誰にも話せなくて。私でよければ、話を聞きますよ」

秘書「浜風、さん……」

 秘書艦はついにボロボロと泣き始めた。そしてダムが決壊したように、抱えていた苦悩を次々と吐き出していく。

 無茶な要求をしてくる提督に対する不満と悪口。

 自分に課せられた加重労働へ怒りの感情。

 他の一次戦力の先輩と関係が上手くいっていないこと。

 駆逐艦のみんなが一次戦力と距離を取り、コミュニケーションを取ろうとしないこと。

 そして、己が秘書艦として自信を持てないこと。

 それらひた隠しにしてきた思いを、私は黙って聞いた。表情は相手が安心しやすいよう柔らかく、しかし内心は冷ややかに――。

 この秘書艦は、はっきり言って秘書には向いていない。事務処理能力がないことはもちろんだが、秘書艦として必要な能力であるリーダーシップ、そして決断力が全く備わっていないのだ。秘書艦に選ばれるべき人材ではないのは明白である。しかし、あの提督のことだ、おそらく自分の言うなりになって扱いやすそうだから選んだに違いない。

 素直で心根の優しい性格をしているから提督と違って嫌いにはなれないが、だからと言って好きにもなれない人だった。いくら無茶振りされたからと言っても、この秘書艦の間違った采配で犠牲者が増えてしまったことは、忘れてはいけない。

 そう、この秘書艦はアテにはできなかった。

浜風「秘書艦……、貴女の苦しみは痛いほど分かりました。私は貴女の負担をどうにか減らしてあげたいです」

秘書「浜風さんありがとう……。貴女、いい子ね」

 その褒め言葉を、私は黙殺した。

浜風「そこで提案があります。どうでしょう、私に遠征の運営を手伝わせて頂けないでしょうか――」



194: ◆WvruwVSMos 2015/06/15(月) 20:51:17.12 ID:yabg5hOi0
 






 秘書艦との交渉は案の定上手くいった。

 秘書艦は提督の無茶ぶりにかなり不満を抱いていたし、自分の忙しさと未熟さのせいで仕事を回せていないことを自覚していた。仕事を譲れるなら是非とも誰かに譲りたかったところであろう。彼女からすると、私の提案は棚から牡丹餅だったはずである。この提案に乗らない理由はない。

 もし秘書艦が承諾しないとしたら、私が失敗することを恐れる場合だろう。だが、この可能性については全く心配していなかった。提案した段階で、すでに私は彼女の信頼を獲得していたからである。いくら優しくほだされたとはいえ、私に対してひた隠しにしてきた弱音を吐露したのがいい証拠だ。それに、私が全国の養成学校において今期最高の成績で卒業していることは周知されている。横須賀や呉を蹴って、ここに来ていることもだ。能力的にも任せる上で不安はないだろう。

 秘書から仕事を譲り受けることを確約した後、すぐに改革へと乗り出したかったが、その前にやらなければならないことが一つできてしまった。引き継ぎの件を南提督に報告しなければならなくなったのだ。

 秘書艦から聞いて知ったことだが、南提督は運営のすべてを投げ出しているわけではないようで、大本営へと送付する最終報告書の作成だけは自分でやっているらしかった。報告書を書き上げるためには、当たり前だが遠征に関する情報へ目を通す必要が出てくる。つまり、南提督は遠征の内容をある程度は把握していると考えなくてはならない。

 それでは、私が改革を行なったとしても、遠征に関する変更点を見咎められる可能性が高かった。改革は筋力トレーニングと同じように、効果が現れるまでどうしても時間がかかってしまう。軌道に乗る前に口出しされでもしたら、すべてが水泡へ帰してしまう危険があった。だからこそ、提督に引き継ぎを認めさせる必要が出てきたのである。

 どうせ発覚するのなら、先にこちらから報告し、釘を刺しておこうというわけだ。多少のリスクは伴うが致し方ない。なんとしても提督を説得し、認めさせようではないか。

195: ◆WvruwVSMos 2015/06/15(月) 20:51:48.51 ID:yabg5hOi0
 






 秘書艦との交渉は案の定上手くいった。

 秘書艦は提督の無茶ぶりにかなり不満を抱いていたし、自分の忙しさと未熟さのせいで仕事を回せていないことを自覚していた。仕事を譲れるなら是非とも誰かに譲りたかったところであろう。彼女からすると、私の提案は棚から牡丹餅だったはずである。この提案に乗らない理由はない。

 もし秘書艦が承諾しないとしたら、私が失敗することを恐れる場合だろう。だが、この可能性については全く心配していなかった。提案した段階で、すでに私は彼女の信頼を獲得していたからである。いくら優しくほだされたとはいえ、私に対してひた隠しにしてきた弱音を吐露したのがいい証拠だ。それに、私が全国の養成学校において今期最高の成績で卒業していることは周知されている。横須賀や呉を蹴って、ここに来ていることもだ。能力的にも任せる上で不安はないだろう。

 秘書から仕事を譲り受けることを確約した後、すぐに改革へと乗り出したかったが、その前にやらなければならないことが一つできてしまった。引き継ぎの件を南提督に報告しなければならなくなったのだ。

 秘書艦から聞いて知ったことだが、南提督は運営のすべてを投げ出しているわけではないようで、大本営へと送付する最終報告書の作成だけは自分でやっているらしかった。報告書を書き上げるためには、当たり前だが遠征に関する情報へ目を通す必要が出てくる。つまり、南提督は遠征の内容をある程度は把握していると考えなくてはならない。

 それでは、私が改革を行なったとしても、遠征に関する変更点を見咎められる可能性が高かった。改革は筋力トレーニングと同じように、効果が現れるまでどうしても時間がかかってしまう。軌道に乗る前に口出しされでもしたら、すべてが水泡へ帰してしまう危険があった。だからこそ、提督に引き継ぎを認めさせる必要が出てきたのである。

 どうせ発覚するのなら、先にこちらから報告し、釘を刺しておこうというわけだ。多少のリスクは伴うが致し方ない。なんとしても提督を説得し、認めさせようではないか。

196: ◆WvruwVSMos 2015/06/15(月) 20:53:17.75 ID:yabg5hOi0

 私は説得材料を周到に用意し、秘書艦とともに執務室へと向かい、引き継ぎに関する説明を行なった。

 私が運営の引き継ぎをしたいと切り出すと、予想通り南提督は難色を示した。そして、「お遣いの管理すらまともにできんのか」と辛辣なまでに私の横にいた秘書艦を責め始めた。自分のことは棚に上げ、秘書艦の無能さや人格否定に関する暴言を散弾のように次々と浴びせかける。肩を震わせ、顔を真っ青にしながら秘書艦は小さくなっていった。普段からこうして罵声を受けてきたのであろう。

 しかし私は一握の砂ほども秘書艦に同情しなかった。助け舟を出して上げようという気概も、彼女に対する何かしらの感慨も湧いてこなかった。ただ冷たい心持で、南提督の罵倒が終わるまで静聴していた。

 一しきり秘書艦をこき下ろした南提督は、その矛先を私に向けた。「駆逐艦ごときがよくも大言壮語を吐いたものだ」と。狐のように鋭い眼差しで睨まれたが、私は怯まなかった。

 ――このタイミングだ。一秒の遅れもなく、私は即答した。

浜風「大言壮語ではありません。私ならより効率の良い運営を行うことが可能です」

 私のきっぱりとした物言いに、提督が目を白黒させた。ほんの少しだけ気圧された様子で、目を逸らし口に出すべき言葉を探しているようだった。だが、上手い返しが思いつかなかったのだろう。舌打ちしてこう言った。

南「……貴様、ずいぶんと自信があるようだな。ええ?」

浜風「はい。私は遠征効率化に関する論文を書いたこともありますので。専門的な知識のない秘書艦よりは、有用な運営を行うことができるでしょう」

 大嘘だ。そんな論文など書いたことはない。

浜風「駆逐艦ごときがおこがましいとは分かっていますが、秘書艦に運営を任せるのは得策ではないのではと。たかが『お遣い』程度、私に委ねてしまった方が秘書艦も出撃任務に集中する時間が増えていいと思います。適材適所、お遣いは頼まれた子供に任せてしまった方が管理も楽なはずです」

197: ◆WvruwVSMos 2015/06/15(月) 20:55:26.59 ID:yabg5hOi0

 一旦言葉を切って、ゆっくりとしかし明瞭な声で告げる。

浜風「――提督、どうかご一考を」

南「…….」

 提督は机に目線を落としながら顎を撫で始めた。眉間のしわがより一層深くなったところを見るに、駆逐艦程度に正論を吐かれたことが相当気に食わないのであろう。だが、正論は正論だし、私の提案は目先の数字ばかり気にする南提督にとってもメリットがある話なのだ。私が言葉通りに獲得資源量を増やせるのなら、だが。

 執務室に沈黙が降りる。時計の針が音を立て、秘書艦が唾を飲み込んだ。

 南提督の狐のような目がこちらを向いた。乾いた唇が、重そうにゆっくりと開く。

南「……仮にだ。仮に貴様が運営をやるとして、どの程度増やせる?」

浜風「二か月ほどで、現在の一・五倍ほど資源を獲得できると思います」

 南提督は、微かに目を見開いた。

南「一・五倍だと? その根拠はなんだ?」

浜風「現在の運営状況を効率的に見直して、どの程度獲得できるか計算しました。……こちらが、私が計算したグラフになります」

 私は胸ポケットから折りたたんでいた数枚の紙を取り出して、机の上に広げた。そこには、私が事前に用意していた獲得資源量の変化値における計算結果が克明に記載されている。

 その資料を基に、どのような運営方針をとっていくか大まかに解説した。遠征の効率をいかに上げ、獲得資源量をどのように増やしていくかということだけ終始話し、遠征回数の削減などの過重労働に対する抑制案については触れなかった。南提督は上辺の数字にしか興味がないからである。

198: ◆WvruwVSMos 2015/06/15(月) 20:57:18.53 ID:yabg5hOi0

 説明をすべて終えると、私は深夜の凪のように静かな心で南提督の返答を待った。

 提督は腕を組んで、目を瞑っていた。私の案を熟考し、吟味しているようだ。

 さて、なんと答えるか。自分で言うのはナンセンスかもしれないが、これ以上はないと言うほどにかなり練り上がった運営案を示したはすだ。これを無碍にも却下するのなら、ただでさえ底のしれた将としての器がひっくり返ることとなるだろう。

 南提督が瞼を開いた。無機質な瞳に火のついたマッチ棒ほどの光を宿し、口の前で手を組んだ。

南「貴様……名はなんと言ったか?」

浜風「浜風です」

南「浜風……なるほど、貴様が今期の『工廠』で最優秀成績を残した船だったか。ふん、それなりには出来るようだな」

 『工廠』とは、養成学校に対する揶揄である。海軍では艦娘を兵器扱いするための一環として、そうした揶揄がよく使われているのだ(ちなみに艦娘の育成事業は、『建造』と言われている)。一応褒めているつもりなのだろうが、根底にある差別意識を隠そうとしないあたりがいかにも彼らしい。

 南提督は聞くものを不快にさせるような低い声で笑って、

南「駆逐艦ごときがなあ……。まあ良かろう。貴様、やってみろ。貴様の言ったとおり二か月期間をやるから、それまでに一・五倍に増やして見せるんだ」

浜風「はっ、お任せください」

 私はただでさえ乏しい感情の波を押し殺し、敬礼して答えた。たとえ豚が上官でも敬礼しろという、養成学校で受けてきた軍人としての教育は、こんなところで役に立ってくれた。

南「しかし、貴様……」

 南提督はドスの利いた声を出す。

南「もし失敗したら、その時はどうなるか分かっているだろうな?」

浜風「……」

 明確なまでの脅しだった。眼鏡のレンズから三白眼が鋭い光を放っている。秘書艦が再び顔を青くしていたが、私は恐怖どころか一片の感情さえも湧いてこなかった。

 下らない。心の底からそう思った。

 その脅しにいったい何の意味があるというのだ。失敗すればどうなるのかなんて一々言われなくても想像がつく。運営から外されるのは当然として、よくて営倉行きであり最悪監獄に入れられる可能性もなくはない。私以外に鎮守府の改革を推し進められる人材はいないから、私の失敗はすなわちこの鎮守府の崩壊を意味するといっても語弊ではない。だからこそ、私は絶対にしくじることができないのだ。自身の置かれた状況を把握しきっている私からすると、南提督の脅しなど興ざめするものでしかなかった。

 軽蔑は最高潮に達し、もはや失望へと変わっていた。

浜風「重々、承知しております」

 自分でも冷え切っていると分かる声で、そう答えた。

199: ◆WvruwVSMos 2015/06/15(月) 20:59:37.81 ID:yabg5hOi0
 





 無能の提督から引き継ぎの許可をもらってからすぐに、私は改革へと取り掛かった。

 私がどういう改革をしようとしているのか。簡単に言ってしまえば「過重労働を減らしつつ、獲得資源量を向上させよう」というものであった。

 一見無茶なことをしようとしているように思えなくもないが、実はそうでもない。元々行われていた遠征が、最悪なまでに効率もクソもない拙劣なものだったのだ。これらの悪い箇所を一つ一つ段階的に精査しつつ改善を図り、極限まで無駄を排除して効率化を行えば、私が事前に南提督へ示したデータどおりの結果を得ることは可能だ。

 まず私がやったことは編成案の見直しであった。重複編成を見直し、最低限ではあるが過重労働の軽減を図ったのだ。しかしこれは大前提でしかない。次からが重要だった。
 
 次にやったのは遠征内容の変更だった。私は編成した遠征隊の練度に見合った遠征内容を考察し、それぞれに担当を割り振った。遠征の失敗率が高い理由は過労によるものがほとんどであるが、一度で獲得できる資源量に注目した、練度に見合わない遠征が行われていたことも問題の背景にあった。

 さすがに露骨なほど高いレベルの遠征が行われていたわけではなく、頑張ればなんとか成功できるくらいのものであった。しかし私たちには頑張る余裕なんてそもそもないし、それがなくとも失敗する可能性が高いので、非効率でしかないのだ。

 やるならば、たとえ一度に獲得できる量が少なくとも、確実に成功し資源を安定して持って帰ることができる遠征をおこなった方がよい。塵も積もれば山となるという言葉通り、長い目で見れば明らかに獲得できる資源量はこの方が多くなる。それに、成功率が増えるということは、遠征隊のモチベーション向上も期待できる。失敗するプレッシャーは減り、それによるストレスも減るからだ。失敗しないから、提督から『罵倒』されることも少なくなるのでそれによる心労も和らぐと考えられた。

200: ◆WvruwVSMos 2015/06/15(月) 21:01:47.28 ID:yabg5hOi0

 遠征隊のみんなは、遠征内容が見直されたことに困惑を隠せないようだった。「こんな簡単な遠征任務で良いのか」と何度尋ねられたか分からないし、不安の声も多かった。だが、それは予測の範疇であった。

 私は遠征隊の皆に繰り返し説明を行って、彼女たちの漠然とした不安の解消を図った。従来の遠征案と新しい遠征案の、獲得資源量の予測結果とその比較を示すと、みんな目を白黒させて驚いていた。遠征の難易度が下がったのに獲得資源が増加するというのだから、一見すれば矛盾した結果に思えなくもないだろうし、みんなには魔法を見せられたように思えたのかもしれない。しかし、結果に至るまでの構造を理解しさえすれば、それが魔法でもなんでもないことは簡単に分かる。

 事実、詳細を解説するとみんな納得してくれた。そして、自分たちがいかに無茶な遠征をさせられていたのかを知って、激しい憤りと悲しみを感じていたようだった。説明が終わった後、怒りに満ちた声とすすり泣く声が渦のように起こった。『提督』に対する暴言や憎悪の言葉、呟かれる死んだ仲間の名前……。

 彼女たちの悲憤は、もっともだ。

 以前の遠征が、どれだけ私たちの心や身体を傷つけ、あるいは壊してきたか。そして、どれだけの仲間を奪ってきたか――。

 それを思うと南提督を憎まずには、悲しまずにはいられないだろう。この時、私達遠征隊の気持ちは一つになったのだ。なんとしても自分たちの現状を変えたいという想いで繋がったのだ。

 計画通りであった。私は改革を主導しやすくするために、意図的に彼女たちを煽るようなことを言ったのだ。今までのあり方を論理的に、あるいは感情に訴えかける形で否定し、すべての憎悪を南提督へと向けさせ、私の改革がいかに効果的で正しいのかを説いた。

 これは、そう、言ってしまえば『演説』である。過去の偉人たちは演説を有効的に使って、聴衆を引きつけ支持を集めたという。私もそれに習ったわけだ。

 私はその『演説』によってみんなから支持を集め、改革を行いやすい環境をつくることに成功した。誰もが、私の改革に協力的な態度を示してくれた。

 後は、結果を出すだけだ。

201: ◆WvruwVSMos 2015/06/15(月) 21:03:54.60 ID:yabg5hOi0

 私は改革を進めていった。

 改革から約一月が経ち、みんなが変化に慣れ始めた頃、効果は見え始めた。資源量に関してはまだだが、明らかにみんなの顔から疲労の色が薄まり、少しずつではあるものの余裕が現れるようになっていた。負傷率も下がったし、一月に数名は出ていた轟沈は新しい遠征案に変わってからはゼロであった。成功率も格段に上がったためか、任務をこなす遠征隊のモチベーションもかなり向上していた。

 予想通りの結果が現れようとしていた。私は更なる改善のため、次々と施策を展開して行った。

 遠征ルートの研究と開拓、人間関係の改善とコミュニケーション強化を目的としたミーティングや交流会の開催、そしてカウンセリングに代表されるアフターケアの実施……等々。私の余裕がある限りではあったが、様々なことをやっていった。

 この中でも私がとくに熱心に取り組んだのは、アフターケアの実施であった。

 鎮守府によっては艦娘のストレス軽減や精神疾患の予防対策としてカウンセラーを雇っているところもある。だが、当然この鎮守府にそのような人たちはいない。だからといって雇おうとしても、南提督が許可を出すはずもないことは分かり切っていた。

 ならばどうするか。簡単だ、私がカウンセリングを担当すればいいだけの話である。

 そもそも雇う余地があったとしても、はなからその気はなかった。なぜなら、カウンセリングこそが、心の奥底で燻っていた承認欲求を満たす最良の手段であったからだ。鎮守府に入った当初は、生存する手段を得ることに必死だった私も、改革を通してゆとりがでてきたためか、本来の欲が出てきた。まるで、雨上りの後、暗所から湧いて出て来るナメクジのように――。

202: ◆WvruwVSMos 2015/06/15(月) 21:06:20.21 ID:yabg5hOi0

 秘書艦に近づき運営を譲るよう交渉したときと同じ手段で、私は遠征隊の駆逐艦娘たちの心を掌握していった。積極的に交流をもち、信頼関係を築き、彼女たちが抱える心の傷や苦悩を上手く引き出し、そして白々しいまでに優しい言葉と態度で彼女たちを受け入れ、ほだした。

 私は罪深い子羊たちの懺悔を聞き入れる神父にでもなった気分だった。どうしようもないと諦観し、殺してきたはずの救いを求める心は、洞に投げ入れただけで死んではいなかったのだ。その小さな叫びを見逃さず拾い上げた私は、彼女たちにとっては神父どころか救世主に映ったかもしれない。

 『カウンセリング』を受けた駆逐艦娘たちは、誰もが目を輝かせ、私に縋るようになっていった。ややもすれば、私の『カウンセリング』が忘れられず依存するようになった子たちも現れたほどだ。これは、正直言って予想以上の結果であった。それだけ彼女たちがひた隠しにしてきた闇は深かったということである。

 彼女たちが私の足もとに縋りつくたびに、快楽と愉悦の波が迸った。その大きさは養成学校時代のそれとは比肩にならないほどのものであった。巨大な波に呑まれ、私の身体が砕け散り、喜悦の海に溶けて消えてしまうのではないか。そんな馬鹿げた不安さえ何度か頭を過ったほどだ。

 ああ、これだ。私はこれを、この感覚を待ち望んでいたのだ――。

 その大きさに酔いしれた。それが欲しくて欲しくて堪らず、光に向かう羽虫のごとく寄ってくる彼女たちを、暇さえあれば向かい入れた。そのたびに、なみなみと満ちてゆく黄金の杯。そこに空いた穴に気付くことができないほど、多量の水が注ぎ足されていった。

 私はこの魔窟としか思えない腐った鎮守府であっても、充足感を覚えるものに出会うことができたのだ。盲目になっていることは言うまでもないが。この時の私も、まだまだ実に呑気なものだった。

203: ◆WvruwVSMos 2015/06/15(月) 21:08:46.24 ID:yabg5hOi0





 そうして、予定していた二か月が過ぎた。

 改革の結果はいうまでもなく、大成功を収めた。獲得できる資源量は予定よりも多くの数字を叩き出せたし、過重労働の問題は、遠征回数自体はほとんど減らせなかったものの、かなりの部分で改善することができた。

 私の改革がこれほど上手くいくとは思っていなかったのだろう。南提督は私の報告書を目を見開いて何度も何度も確認していた。そうしてつまらなさそうな顔で、見下しを多分に含んでいたものの、一応は私に賛辞を投げてきた。それから、これからも遠征の運営を担当するように指示を出してきた。

 報告が終わり執務室を出た私は、次の用事を片付けるために艦娘寮へと向かった。

 鎮守府本館を出ると、照り付ける日差しの眩しさが私を襲った。思わず目を細める。配属から四か月ほどが経ち、八月になっていたためか太陽の勢いは増しているようだった。しかし、私に感じることができるのは眩しさだけであるから、どれだけ熱くなったのかはまるで分からなかった。

 蝉がジリジリと鳴いている。私の愛用する目覚まし時計よりもやかましいと思うのは錯覚だろうか。

 その騒音に被さるように、地面を蹴る軽快な音が聞こえてきた。誰かが後ろから走ってきているようだ。

204: ◆WvruwVSMos 2015/06/15(月) 21:11:04.18 ID:yabg5hOi0

 私が振り返ると、片腕を失った先輩がこちらに向かってくるのが見えた。どうやら、こちらから向かうまでもなく、用事の方が来てくれたらしい。彼女は私の近くで立ち止まって、呼吸を整えると、ぎこちなくはあったが笑顔を浮かべた。汗で濡れたその顔は、日に照らされたせいか、いつもより赤く見えた。

「その……浜風さん……」

 蚊の鳴くような声を出し、何度か目配りを繰り返して私の表情を伺っていた。最初に知り合った頃からでは考えられないほどいじらしい彼女の様子に、私でも思わず噴き出しそうになった。

浜風「分かってますよ。待ちきれなかったんですよね?」

 私に図星を突かれ、先輩は恥ずかしそうに身を捩った。

「そ、そうよ……。その、はやく浜風さんに会いたくて……」

浜風「そうですか、それは嬉しいですね。でも、そんなに慌てなくとも私は逃げませんよ?」

「それは分かってるけど……」

 私は微笑んで、手を差し出した。

浜風「さあ、行きましょうか。今日も貴方の話を聞かせてくださいね――」

「うん……」

 先輩は私の手を取った。まるで、宝物を貰った子供がそうするように。目を潤ませて、うっとりとした顔で私を見つめた。

 身体に快楽の波が走った。なんて弱々しくて、可愛らしいのだろう。彼女の『カウンセリング』をやって良かった。

 腐りきった内情は予想外であったが、配属前に思っていたとおり、ここでなら私は満たされる。そう、私は『人間』でいられるのだ。

 たとえ、ここが無慈悲な戦場であろうと。

 

215: ◆WvruwVSMos 2015/07/04(土) 15:32:19.42 ID:t4+cSbWN0
 





 九月となった。

 遠征の改革を成功させ、想像以上の成果をもたらした私は、新しい秘書艦に任命された。

 とはいっても戦艦の先輩と秘書を代わったわけではない。二人目の秘書艦になったのだ。別に大本営は秘書の人数を限定していないから、二人だろうが三人だろうが増やしても問題はない。それは承知しているのだが、私はどうにも気に食わなかった。なぜなら、私は先輩の影にさせられたからである。

 分かりやすくいえば、ゴーストライターのような感じであろうか。私が実際の業務を全てこなし、先輩が『本当の秘書』として表で振る舞うわけだ。

 どうしてこのようなことを、あの提督がしたのか。簡単な話である。私が秘書では体裁を保てないからだ。

 私は鼠と揶揄されるほど下等に扱われる駆逐艦だ。対して、南提督は士官であり、華族の血筋を引いた貴族である。アケビの実ほども食えない見栄と驕慢を舐めて悦に浸り、宝石の散りばめられた仮面を被らないと歩くこともできないような、下らない人種だ。外面を取り繕うことには人一倍敏感なのだ。補佐とする艦娘の、社会地位的な『質』にも拘らずにはいられないのであろう。

 秘書艦は言わば、鎮守府の艦娘代表であり、顔とされている。「秘書艦を見ればその鎮守府の実力が分かる」とまで言われるほどで、それはこの鎮守府の元々の秘書が誰かを考えれば、皮肉にも言い得て妙だった。しかしだからこそ、その実力を映す鏡が鼠では面目が立たなくなってしまうのである。いくらその鼠が猫を食い殺すほどに優秀な存在であってもだ。周囲はそのことを知らないのだから、間違いなく笑われて恥をかくこととなるに違いない。

216: ◆WvruwVSMos 2015/07/04(土) 15:34:26.33 ID:t4+cSbWN0

 事実、南提督は会食や交流会などに参加することがままあり、そうした体裁が重要となってくる場合には私ではなく戦艦の先輩を連れて行っていた。客人が訪ねてきたときも、その対応をさせられていたのはやはり先輩だ。

 私はまさに鼠よろしく穴倉に追いやられたわけだ。海軍の上官たちと面倒な交流をしなくてもいい分楽ではあったが、このような扱いを受けて面白いはずはない。これは明確な差別であり、そして私に対する侮辱に他ならないからだ。

 しかし、これ以上の差別と屈辱的な扱いを今まで何度も目にしてきたし、受けてきた。だから、この程度では別に大して腹が立つことはなかった。

 慣れているからといえばそうだし、私の感情が人より希薄だからというのもその通りだ。だが、どれも正解とは言えない。この程度では感情が波立たなくなっている。そう言ったほうが正鵠を射ているのだ。それほどに、内に秘めた南提督への負の感情が巨大なものとなっているのである。時化った海に石を投げ込んでも波紋が起こらないのと同じように。灼熱地獄に松明を一つ落としてもその勢いが変わらないのと同じように。

 こんな程度では、もはや、失望し足りないのである。

 影に追いやるのなら追いやればいい。そう思った。元々私は光に照らされるような『人間』ではないと、自覚していたからだ。暗がりに灯された僅かな灯だけしか、触れることが許されぬ希薄な存在。それが私の本質である。

 だからその扱いを甘んじて受け入れようではないか。だが、ただではすまなさい。

 お前も引きずりこんでやる。影の中へ。暗暗たる地獄の底へと。

 私は、あの提督と顔を突き合わせるたびに、その高慢な顔が絶望に変わるところを想像し、心にどす黒いロベリアを咲かせていた。

217: ◆WvruwVSMos 2015/07/04(土) 15:37:04.08 ID:t4+cSbWN0

 その花を臓物を撫でるように愛でながら、素知らぬ顔で淡々と秘書艦として仕事をこなした。南提督から理不尽な要求をされたり、改善が追いついていない出撃部隊から様々なトラブルを持ち込まれたりしたものの、しばらくは比較的平穏に日々が過ぎていった。もちろん、その間に何もしない私ではない。あの無能を地獄へと叩き落とすための準備を着実に進めていた。

 事件が起こったのは、秘書艦任官から一月後、十月上旬のことであった。

 その頃、南鎮守府はバシー島沖の攻略を数か月かかって終わらせ、ようやく東部オリョール海へと進出していた。あの、潜水艦の資源集めで有名な海域である。練度の高い艦隊を有する上位の鎮守府なら、潜水艦をお遣いに出せるほど楽な海域であるが、海域攻略が進んでいない鎮守府からすると、十分すぎるほど難しい場所であった。当然、南鎮守府は苦戦を強いられた。

 ところで、海域を攻略する基準……定義についてであるが、これは回数制と定められていた。つまり、出撃して最深部にいる敵を決められた回数倒さなければ攻略したとは認められないわけである。十回なら十回。二十回なら二十回と言ったように。この回数は各海域によって変化し、南西諸島海域ではどの場所も十回と定められていた。

 なぜ回数制が取られているのか。それは深海棲艦の驚異的な再出現速度に理由があった。

 倒しても倒しても、やつらはゴキブリのように湧いて出て来る。しかし、復活にも不思議なことに規則性があって、湧いて出て来る数には上限があり、さらに一定回数倒すとしばらくの間復活しなくなるのだ。しかも、最深部に潜んでいる『ボス』を一定回数倒し、復活を遅らせると、その場所全体の深海棲艦の行動と活性が鈍る。理屈としては女王蜂を失った蜂の巣に近いだろうか。

 だが、どちらにしろ不可思議な生態だ。深海棲艦については出現してから十数年経って研究もそこそこ進んではいたものの、まだまだその生態については解明されていない部分が多かった。前述した生態についても、よく分かってはいない。

218: ◆WvruwVSMos 2015/07/04(土) 15:39:04.83 ID:t4+cSbWN0

 深海棲艦の生態に合わせ、回数制が取られたわけだが、だからこそ偶然やまぐれによる攻略は絶対にできないのである。一回や二回ならそうしたことも起こりうるだろうが、せいぜいその程度。天候や海面の状況など様々な不確定要素を受けることがある。そして何よりも深海棲艦はゲームの敵ではない。奴らは生物であり、学習する。配置や編成を巧みに変えて、私たちを出迎えるのだ。

 当然、このような戦況の変化に対応するには、指揮を執るものの手腕が重要となってくる。無能が指揮棒を握っていたら、いつまでも攻略は進まないのだ。南鎮守府の攻略が遅いのは、全てにおいてあの愚図に原因があるというわけだ。

 南鎮守府の攻略が遅いのはいつものことだが、東部オリョール海に入ってからは格別であった。まさに亀の歩みというに相応しいものだ。上手くいったのは一回目だけ。天候の条件と敵が油断していたことに助けられた。だが後はお察しのとおり。

 その後は何度出撃しても、最深部にさえたどり着くことが適わなかった。秋雨前線や台風の影響によって天候にも恵まれないことが多く、警戒心を強めた敵に待ち伏せを受け、返り討ちにされていたのだ。

 南提督はかなり苛立っているようだった。自身の指揮能力の無さが最大要因だというのに、理不尽にもすべて出撃部隊のせいにして、八つ当たりした。怒鳴り散らし、罵声を浴びせかけ、あるいは暴力を振るった。

 秘書となってからよく見る光景ではあった。だが、これまで以上にどれも執拗で悪質だった。虫の居所が悪い時は制裁と称して木刀で頭を殴りつけることもあったくらいだ。しかも一発で済ませることはなく、何発も何発も。頭をかち割られた空母の先輩が、医務室へと運び込まれ、入渠させられていたのを見たことさえある。陸で大破とは、笑い話にもならない。

 南提督の仕打ちはどれも常軌を逸していた。おそらくただの苛立ちだけが原因ではないだろう。苛立ちの影に、何かに急かされているかのような焦りが見えたのだ。それが、彼の心に怪物を生み出したのか。

 しかし、そんなことはどうでもいい。それよりも深刻なのは被害を受ける出撃部隊だ。

219: ◆WvruwVSMos 2015/07/04(土) 15:41:52.27 ID:t4+cSbWN0

 このような過酷すぎる状況の中で、これまでどうにか均衡を保っていた彼女たちの精神も、次第に崩れ始めたようだった。まるで、死人のように目を濁らせ、絶食しているのかと思えるほどひどく痩せこけた真っ青な顔をしていた。そんな顔色の女性が六人ほど、入渠室を行き来している光景を想像してもらいたい。身の毛がよだつような光景であろう。

 もちろん、私は彼女たちをただ放っておいた訳ではない。遠征隊のときのように、何度かアプローチをかけた。だが、秘書艦となって私自身が忙しくなったことや、彼女たち自身が多忙すぎて時間も精神的な意味でもゆとりが持てないことなどが影響し、『カウンセリング』には苦戦した。ほとんど、進まなかったといっていいくらいである。

 連日の出撃による抜けきらない疲労、大きすぎるプレッシャー、死への恐怖、地獄の拷問と化した南提督の暴力――。彼女たちが追い込まれるには十分すぎる理由であろう。入り込む隙間すら見つからないほど、彼女たちは蝕まれていた。

 そしてついに犠牲者が出た。

 軽空母の先輩が、壊れた。

「ああああああああああああああ……!」

 彼女は、唐突に発狂した。戦闘終了後、出撃部隊が鎮守府へと帰投した直後のことだ。わけの分からない叫び声を上げ、頭を掻き毟りながら走り出したのである。そして、鎮守府本館の壁へ向かって頭を何度も打ち付けだした。まるで、呪いのわら人形でも打ち付けるがごとき壮絶なる狂気を孕んだ瞳で、だ。

 血が飛び散り、壁と地面が真っ赤に染まっていく。昼間の鎮守府に、惨劇が幕を開けた。

 突然のことに呆然とした私と先輩たちだったが、すぐに我に返って、全員で彼女を止めにかかった。彼女を捕まえて壁から引き離そうとしたが、その力は信じられないほど強く、六人がかりでも止めるのに苦慮したほどである。致し方なく、戦艦の先輩が締め落として何とか事は収まった。

 しかし、それだけだ。直後には嫌な静寂が起こった。私たちは気を失った軽空母の先輩と鮮血で汚れた地面を、呆然自失と見下ろしていた。

「もう、嫌だ……」

 誰かがボソリと零した。

 誰なのかは分からない。そこに思考を割く余裕がなかった。ただ、その言葉は私の心の中で、暗い洞穴に石を投げ込んだときのように反響した。

 はやくなんとかしなければならない。このままでは出撃部隊の心がもたなくなってしまう。それはこの鎮守府の崩壊をも意味するが、それ自体は別にどうでもよかった。こんな鎮守府なんて滅んでしまえばいい、と思っているくらいだ。しかし、その過程で壊されてしまう人たちを無視することはできない。

 計画を実行する目途を、早々につけるべきだ。慎重な私も、ジリジリと静電気のように微弱な焦りを覚えた。

 しかし、この出来事はただの前座に過ぎないと、これよりすぐに知ることとなった。

 

228: ◆WvruwVSMos 2015/07/20(月) 01:56:20.31 ID:yQ0M3E5f0





 
 走れメロスの冒頭にこうある。メロスは激怒した。

 同じだ。私浜風は激怒した。

 あの事件から一週間後のことである。暴虐の王が全身の毛が逆立つほどに悍ましい計画を考え付き、実行しようとしていたのだ。東部オリョール海の攻略が行き詰ったあの提督は、焦燥の悪魔に脳をかき回されたのか、気が狂ったようであった。そうでもなければ、こんな外道の計画を誰が思いつくものか。

 それは通称、こう呼ばれるものだ。

 ――捨て艦戦法。

 練度の低い駆逐艦を捨て駒に、効率のよい海域攻略を目指すという、倫理や道徳の欠片すら存在しない戦法である。いや、死ぬことを前提においたものを作戦と呼んではいけない。狂気の極地。私たちは、それに追いやられようとしていた。

 許容できるはずがない。こんな作戦をとってしまえば、それこそ苦労して立ち直らせた遠征隊の心が再び崩れてしまう。

 そして、それに付き合わされる出撃部隊も間違いなく精神のバランスを欠くこととなるだろう。当たり前だ。ピラニアの群れに投げ込まれた鼠がどうなるか。それを目の前で見なければいけなくなるのだ。バラバラに食い散らかされる少女たちの姿を目に焼き付け、あるいは絶叫を鼓膜に刻みながら、作戦を実行することがどれだけ苦痛をもたらすか。凄まじい自責と後悔に苛まれることは間違いないから、普通の神経を持った人間ならマトモではいられなくなるだろう。

 間違いなく、今度こそ取り返しのつかない事態となる。いま南提督に逆らえば計画に支障をきたす可能性が大きかったものの、そんなことを気にしている場合ではなかった。

229: ◆WvruwVSMos 2015/07/20(月) 01:58:35.43 ID:yQ0M3E5f0

 戦わなければならない。

 過酷な懲罰を覚悟してでも、反対の意を示すのだ。

 私は真っ向から南提督に逆らった。執務室、南提督が出撃部隊に『捨て艦戦法』を取ることを伝えたタイミングで、暴虐の王の前に立った。

 私が言葉を述べた瞬間、その場の空気が凍り付いた。

南「……なんといった?」

 怒りに打ち震えた声。南提督は獲物を奪われた肉食獣のごとき鋭い眼差しで私を射ぬいた。

浜風「その作戦は許容できないと言いました」

 私はもう一度告げる。

南「ふ、ふふふ……」

 不気味な笑いが乾いた音を伴って、口から紡ぎ出される。怒りが行き過ぎているのか、大きな肩が小刻みに震えていた。

南「駆逐艦の分際で……よくも、よくもこの私に口出しを……」

浜風「申し訳ありません。ですが、その作戦だけは取らせるわけには参りません。そんなことをしてしまえば――」

南「貴様ァ!」

 私が言い終わる前に、南提督は激昂した。

230: ◆WvruwVSMos 2015/07/20(月) 02:01:51.57 ID:yQ0M3E5f0

 側に立てかけられていた木刀を掴むと、近づいてきて、私の頭に向かってそれを振り下ろした。ガツンと硬質な音が響き、私の脳内が激しく揺れた。視界が一瞬黒く歪む。

 痛みはない。私はなんとか踏ん張った。

 そこに、もう一撃が飛んできた。視界がもう一度黒く染まり、チカチカと星が明滅する。今度は耐えられなくて、吹き飛ばされた。

 地面の堅い感触が頬から伝わってくる。それとともに、一斉に血が頭から溢れ出した。

 痛みがなくても、私は無敵ではない。他は、普通の人間と同じなのだ。殴られれば脳震盪を起こすし、最悪死に至る。むしろ痛みがない分、己の限界が見極められないから普通より危険ですらあった。

 だが、殴られるのは慣れていた。それに、ここで引くわけにはいかない。

 負けるか。私は、誇り高き陽炎型駆逐艦だ。あの誰よりも凛々しく気高い姉なら、ここで引いたりはしない。血塗れになってでも立ち上がるだろう。ならば、その妹も同じだ。あの姉に恥をかかせるわけにはいくものか。

 私は唇が破れるほど噛みしめて、足の震えと闘いながら懸命に立ち上がった。

 目を吊り上げて、南提督を睨み付ける。
 
南「多少有能だから使ってやっていればつけ上がりおって……っ! 貴様はここで殺処分にしてやる!」

 南提督が金切り声を上げ、木刀を大上段に振り被った。

「やめてください!」 

231: ◆WvruwVSMos 2015/07/20(月) 02:04:31.15 ID:yQ0M3E5f0

 戦艦の先輩が私たちの間に割って入った。両手を広げ、私を守るように立ちはだかる。

「もうこんなこと……。私たちは人間なんですよ! どうしてこんな酷いことばかりするんですか!」

南「……人間だと?」

 南提督はせせら笑う。

南「笑わせるな! 貴様らは化け物を殺すことだけが存在理由のただの兵器だ! 海軍の所有物ごときに人権も心も不要! 下らんことを言って邪魔をするなら貴様も殴り殺すぞ!」

 戦艦の先輩は怖気づいたように小さな悲鳴を零したが、引かなかった。体を恐怖に震わせながら、立ち続けている。
 
 彼女の勇気ある行動に触発されたのか、残りの先輩たちも私の前に立った。空母の先輩は私に寄り添い、支えてくれた。

南「貴様ら……!」

 激しい歯ぎしり。

「提督……これ以上はお止めください」

 空母の先輩が、静かな声で告げた。しかし目には刃の反射光を思わせる、鋭い光が宿っている。南提督の態度と言葉が相当腹に据えかねたようだ。いや、もともと抱えていたものが、私や戦艦の先輩の行動をきっかけに溢れてきたのであろう。彼女も我慢の限界だったのだ。

232: ◆WvruwVSMos 2015/07/20(月) 02:06:22.78 ID:yQ0M3E5f0

 南提督は隠し切れない動揺を顔に浮かべ、口をつぐんだ。空母の先輩が放った怒気に気圧されたようだ。忌々しそうに眉を顰め、木刀を振り下ろすか否か逡巡していた。

 この時生じた空白を、私は見逃さなかった。彼がやけを起こし先輩たちを殴り出す前に、口を開いた。

浜風「私が行きます……」

 全員の目が見開かれた。構わず続ける。

浜風「私が囮役になって出撃します。残り九回攻略し終えるまでです……!」

「浜風さん!」

 戦艦の先輩が悲鳴を上げた。

 私のトチ狂っているとしか思えない提案を聞けば無理もないだろう。私は自ら、生贄になろうとしているのだから。

 しかし、現状打てる手がこれしかないのだ。遠征隊を向かわせ、悪戯に死人を増やし、彼女たちの精神を破壊させてしまうくらいなら、私が向かう。常に慎重さを忘れず抜かりなく作戦を遂行し続け、生き残るために最善の努力をし続けていた私ならば、まだ生き残る可能性があるからだ。しかし、一瞬でも気を抜くことは許されない。それだけですべてが終わる。

 海域攻略を済ませる前にしくじり、私が沈めば、結局は遠征隊が捨て駒にされることとなってしまう。つまり、私は犬死するというわけだ。これほど馬鹿らしい提案はないと我ながら思った。

 そもそも、あの提督が提案を呑む保障すらない。なぜなら、東部オリョール海はそもそも駆逐艦を連れていくような海域ではないので、私が生きて帰ることができる確率は極めて低い。それが最低でも九回続くと仮定すると、もはや絶望的な確率しか残されていないのだ。そんなこと、あの提督も十分理解しているだろう。

 予想通り、提督は鼻で笑った。木刀を地面に叩きつける。

233: ◆WvruwVSMos 2015/07/20(月) 02:08:29.17 ID:yQ0M3E5f0

南「貴様……ふざけているのか? そんな馬鹿げた提案、軟弱な駆逐艦ごときに遂行できるはずなかろう!」

浜風「確かに達成する可能性は低いでしょう。ですが、まったくのゼロではありません」

南「話にならん! やはり貴様はここで殺処分にしてやる! ええい、貴様らどかんか!」

 南提督は私の提案を狂言と断じ、再び声を荒げた。木刀を構え直そうとしたところで――

浜風「殺すならば構いません!」

 私は声を張り上げた。

 これまで一度たりともこの鎮守府で、はっきりとした大声を出したことはなかった。だからだろう、先輩たちも、そして提督も私の怒声に意識を飲み込まれてしまったようだった。

浜風「殺すならば……殺して下さい。ですが、私は艦娘です。たとえ鼠と揶揄されようと、その事実は変わりません。ならばこそ、私を殺すなら『海』でお願いします……!」

南「なんだと……?」

浜風「私がどれだけ生き残ることができるか、それは分かりません。しかし、その作戦をどうしても遂行なさるなら、最初に連れていくのは私にしてください。私ならば、他の駆逐艦よりは長く生き残るはずです。その作戦によって鎮守府が被る損害も、比較的軽微なもので済ませることができるでしょう」

南「……ほう」
 
 南提督が残忍極まりない冷笑を浮かべた。

南「貴様、いい度胸じゃないか。自ら処刑の代案を示すとは……。確かに貴様なら他の鼠どもよりは使えるからな。使えるまで使い潰して処分した方が有益ではあるだろう」

「浜風さん取り消しなさい! そんな馬鹿げた提案する必要はないわ!」

南「黙れい! 元はと言えば、貴様ら愚図がいつまでも成果を上げなかったことが原因だろう! 異論があるのならば、貴様らだけで海域攻略を済ませてみせろ!」

 空母の先輩はぐっと言葉を詰まらせた。海域攻略が遅れる理由のほとんどすべてが南提督の無能さに端を発するといえ、彼女たちの実力不足もまったく関係しないわけではないから、痛いところを突かれた形だ。

 それに、常日頃から使えないと誹りを受ける人間というのは、潜在的に「自分がダメだ」という負の感情を抱く傾向にある。募らせてきた劣等感を刺激されれば、押し黙らずにはいられないだろう。

 私は空母の先輩の肩に手を置いた。悔しそうな顔がこちらに向く。小さく微笑んで首を横に振ってやると、その表情が丸めた紙のように一層歪んだ。

浜風「それでは……私の提案を聞き入れてくれるのですね?」

南「ああ、よかろう。貴様が何度目の出撃で潰れるか見ものだなあ」

 南提督の言葉には、不気味な加虐心が込められていた。猫に囲まれたドブネズミでも見ているような気分でいるのだろう。空母の先輩が、私を庇うように抱き寄せてきた。あるいは嫌悪に寒気さえ感じてしまい、私の体温に安らぎを求めたのか。私にはその感覚は理解できない。

 ただ怒りは依然としてあった。南提督への単純なる憎悪、下衆の思い通りに扱われなければならない屈辱感、自身の行動に対する矛盾への自嘲。これらのヘドロのように濁った感情が、幾つもの支流となって、ぶつかり合い、怒りという本流を形作った。

 刺す。撃ち殺す。そんな風にさえ思った。だが、私はその殺意を頭の中で砕き潰した。

 この男にはいずれ必ず報いを受けさせる。今はそれよりも、この地獄でどう足掻き生き残るかということを思索しなければならない。

 なんとしてでも、生き残ってみせようではないか。親愛なる姉との約束を、破るわけにはいかないのだ。


241: ◆WvruwVSMos 2015/08/06(木) 14:10:43.33 ID:Ukdfjeyg0
 





 十月下旬。狂気の作戦が幕を開けてから二週間ほどが経った。

 これまでに出撃した回数は、天候の関係でどうしても出撃不可能だった場合を除いても、約二十回を超えていた。そしてそれと同等の回数、私は死にかけた。

 私に期待される役目は囮として敵の注意を引きつけることである。つまりは、集中的に敵から狙われ続けるというわけだ。掠るだけで装甲にヒビが走る戦艦ル級の砲撃、一撃まともに食らうだけで体がバラバラに消し飛ぶ駆逐艦や雷巡などの雷撃、空母の艦載機による水平爆撃や急降下爆撃が、雨あられと注いでくる。

 それを全てかわすのは至難の業だ。私に谷風並みの回避能力があるのなら別かもしれないが、あいにくそれほど避けるのが得意という訳ではない。だから出撃のたびに何度か攻撃を受けて、怪我を負うことが多かった。

 もちろん、元々の作戦が『私を使い潰すこと』を前提とおいたものなのだから、私がどれだけ重傷を負おうと、撤退することは許されない。道中の戦闘が原因で複数の破片が腹部に食い込み、大量の出血をしたにも関わらず、そのまま最深部まで向かったことさえあるくらいだ。あの時はさすがに、三途の川というものを渡り切りそうになった。

 私は命がけの綱渡りをほぼ毎日のように繰り返した。

 だがその甲斐あってか、作戦の成果は少しではあったものの確かに出ていた。この間に海域攻略は四回ほど成功していたのである。私が囮になることで、出撃部隊の損害が大幅に減ったためだ。

 しかし、それだけが要因ではない。指揮系統に若干の変化が生じたことにも理由がある。大まかな指揮を執るのは相変わらず南提督であったが、それでも現場でなければ判断できない部分などの指示は私が出すようになったのだ。知略に関してはそれなりの自信がある。囮作戦と並行しながら、上手く敵の間隙をつくような指示を出して、海域攻略を成功に導いた。

 また、出撃部隊の士気が高まっていたことも、作戦成功に影響を与えていただろう。彼女たちは依然と比べものにならないほど、鬼気迫る表情で作戦に取り組むようになった。私の命を懸けた献身に心を打たれたのか、それまで諦観に満ち命令に従うだけだった彼女たちの心境にも変化が生じたようだった。私に対する負い目と、南提督への憎しみを糧にして、彼女たちは深海棲艦を撃ち殺し続けた。

 鎮守府の皆は、修羅となった私たちに畏敬の念を抱いたようだった。見送る瞳は恐怖で揺れ、出迎える顔は痛々しいものでも見るかのように歪んでいた。作戦が始まってから、私に気を遣ってか『カウンセリング』を受けに来る子達は一人もいなくなった。私に依存している子達でさえだ。

 日に日に、鎮守府の空気は殺伐としたものに変わっていった。だが、前と比較してもそこには重苦しく淀んだ雑多な暗さがない。南提督に対する統一的な怒りと憎しみが、花を咲かせているだけだ。そしてそれは、私が意図的に植え付けた種が成長したものである。

242: ◆WvruwVSMos 2015/08/06(木) 14:13:28.96 ID:Ukdfjeyg0
 
 そして、五回目の成功からさらに数日が流れた。

 ついに出撃部隊は東部オリョール海から六度目の凱旋を果たした。太陽の照り付ける港に、血塗れの部隊を出迎える鐘がなった。

「浜風さん!」

 遠征部隊の皆が、心配そうに出迎えてくれた。しかし、その掛け声に応える余裕は一縷も残されていない。空母と戦艦の先輩に担ぎ上げられる私は、歩くことさえできなかった。

 私は戦艦ル級の砲撃をまともに受けたのだ。強烈な爆発によって全身に火傷を負い、破片が体に食い込んで大量の出血をしてしまった。大破状態であり、死んでいてもおかしくはないほどの重症である。四肢が消し飛んでいなかっただけ、まだマシではあったが。

「はやく担架を持ってきて!」

 空母の先輩が叫ぶと、谷風が担架を持って現れた。こうなることは分かっていたからか、事前に用意していたらしい。

「浜風! しっかりしろ!」

「いいから早く乗せて! 応急手当は済ませてるけど、血を流し過ぎてるわ! このままじゃ――」

 先輩が怒鳴り、谷風が何かを叫んだ。そして、傍から様子を伺っていた遠征隊のみんなも、なにやら悲痛な声を上げているようだった。意識が朦朧としてきて、音が正常に聞き取れなくなっていた。歪んで聞こえる。潮騒なのか人の声なのか海鳥の声なのか、分からない。全てが混ざって混沌の様相を呈していた。

 黒い染みが、霞んだ視界を塗りつぶしていく。谷風の泣きそうな顔を最後に捉え、私の意識は奈落へと落ちていった。

 意識を取り戻したのは、それから数時間後のことだった。

 私は医務室のベットに寝かされていた。目を開けて最初に飛び込んできたのはシミがついた白い天井だった。漂ってきた薬品の香りと、拭いきれていない微かな鉄臭さは嗅ぎ慣れたものである。

谷風「気が付いたか」

243: ◆WvruwVSMos 2015/08/06(木) 14:16:25.15 ID:Ukdfjeyg0

 声につられて首を動かすと、安堵したように顔を綻ばせた谷風がいた。椅子から腰を浮かせて私の顔をのぞき込んでいる。

谷風「具合はどうだ? 起き上がれそうか?」

 私は起き上がろうと身体に力を入れたが、岩をくくりつけられでもしたかのように重たくて、ほとんど動くことができなかった。頭がジンジンと痛み、億劫である。

 簡易ベッドが侘しく軋んだ。

谷風「動けないようだな。身体の傷は入渠して治ったけど、輸血したばかりだし無理もねえか」

浜風「あの、私は一体どのくらい寝ていたのですか?」

谷風「入渠してから五時間くらいだ」

浜風「そんなに……。出撃はどうなりました? あと一回残っていたはずです」

 谷風が顔を顰め、溜息をついた。

谷風「中止になったよ。作戦が成功したことを理由に、空母の先輩が提督と交渉してくれたらしくてな。なんとか上手く説得できたみたいだ。もっとも……」

 その続きは紡がれることはなかった。谷風が何を言おうとしたのかはすぐに察しがついた。空母の先輩が、身体を張ってくれたようである。

浜風「彼女に、お礼を言わないといけませんね」

谷風「そうだな。でも、今はゆっくりしとけ。休めるうちに休んでおかないと先輩に申し訳が立たなくなるぞ」

浜風「そうします」

 私は身体から一切の力を抜いて、ベッドに預けた。

 さわさわと風が吹き抜け、白いカーテンが小川のせせらぎのごとく穏やかに揺れた。その動きによって生じた隙間から、白い満月と無数の星々が覗いている。灯がなくても旅に困らなさそうな明るい夜だ。

 谷風が持て余したのか、戸棚から折り紙を取り出して折り始めた。指が滑らかに動き、紙を畳んで形を整えていく。あれはおそらく鶴であろうか。彼女は存外手先が器用であった。

 私はゆっくりと目を閉じる。ついさっきまで爆音轟く戦場にいたためか、医務室の静謐さがとても穏やかなものに思えた。張り詰めた神経が、少しだけ解れていく。

244: ◆WvruwVSMos 2015/08/06(木) 14:18:41.05 ID:Ukdfjeyg0

 どれくらい時間が立っただろう。紙を折る音が、ふと止まった。私は目を開けると、谷風が暗澹とした雰囲気を纏い俯いているのが見えた。ベッドには色鮮やかな鶴が群れをなし、白く波立つ海を遊泳していた。

 谷風の様子がおかしい。怪訝に思っていると、彼女が口火を切った。

谷風「二日前、陽炎から手紙が届いたんだ」

 手にした折かけの紙を、手紙の封を解くように広げた。そこへ向けられた谷風の瞳は淀んでいる。

浜風「私のところにも来ましたよ」

谷風「そうか。なんて書いてあった?」

浜風「こっちは色々ゴタゴタしていて大変だけど、頑張っていると書いていました。あと、そっちも元気にしているのか、と」

谷風「私も似たような内容だったかな。二ヶ月に一回、必ず手紙を送ってきてくれるから、あいつも意外と律儀だよなあ」

浜風「陽炎姉さんは情に厚い人ですし、私たちのことが心配でしょうがないのでしょう。手紙しか連絡手段がないのですから」

 私たち艦娘は一度鎮守府に配属されると、外出や外部への連絡さえも自由にはできなくなる。外部への情報流出を防ぎ、機密保持性を高めるためだ。唯一許される手段は、手紙のみであった。もちろんこれには検閲がかかり、自由な内容を書くことは許されていない。しかも出せるのは二ヶ月に一回、家族と艦娘仲間に対してだけである。

 私たちに、普通の人間と同じような自由など到底あり得るものではなかった。鎮守府には「牢獄」という皮肉が存在するくらいであり、この閉鎖性が提督の絶対的な権力を高めている要因ともなっていたのだ。

 陽炎姉さんの手紙も、検閲を気にしてか、いくつも訂正した跡が見られた。最終的に当たり障りのない内容へと落ち着いたようだが、紙のあちこちに刻まれた筆跡を見るに、伝えたいことはまだまだたくさんあったに違いない。彼女の苦心が透けて見えるようだった。
 
谷風「だよな。私たちは、手紙でしかやりとりできないからな……」

 その言葉はひどく乾いたものだった。手に力が入ったようで、折り紙がみるみるうちにシワだらけになっていく。

谷風「だから陽炎には、私たちのことは分からない。手紙に書けるわけないからな。このイカれた鎮守府で、ゴミみたいに扱われる私たちが、どれだけ苦しんでいるかなんてさ……」

浜風「……それは」

谷風「なあ、浜風は陽炎の手紙にどういう返事をしている? 『こちらも息災に過ごしています』って書いているんじゃないのか?」

245: ◆WvruwVSMos 2015/08/06(木) 14:20:37.47 ID:Ukdfjeyg0

 私は首肯した。まさか、過重労働とパワーハラスメントが酷すぎて元気の欠片もありません、なんて書けるはずがない。

谷風「そう書くしかないもんな。本当はそんなことなんてねえのにさ。陽炎を心配させる訳にはいかねえから、強がりでもなんでもそう書くしかねえ。……最初はさ、それが抵抗なくできていたんだ。でも、二回目、三回目ともなると段々筆が進まなくなってきた。おかしいだろ? 私たちのどこが、息災だってんだよ。そんなの嘘だろ。私たちが健やかに過ごしているなら、他の奴らなんかリゾートで暮らしてるようなもんさ」

 何がおかしいのか、谷風はくつくつと押し殺したように笑った。折り紙を放り、顔を上げる。笑顔だ。でも、不自然なまでにつくられた表情だった。

 私はぞっとしたものを感じた。この表情は悪魔に誘われ、心の折れかけたものが最後に浮かべるものだ。今まで、何度も見てきた。その子達は例外なく壊れた。

谷風「私さ、もう、嘘つくの疲れちゃったよ」

 谷風も、悪魔に肩を掴まれていた。

 思えば谷風は、私の『カウンセリング』を一度も受けにきたことがなかった。養成学校時代から彼女の健やかな強さを知っていたし、この鎮守府でも明るく振る舞っていたから、彼女は問題ないと勝手に判断していたのだ。

 そんなことあるはずがない。この異常な鎮守府に身を置いて、平静でいられるものなどどこにいるというのか。谷風は我慢して抱え込んでいただけで、本当は極限まで蝕まれていた。

 気づかなかったのは、迂闊だった。

浜風「すいません」

谷風「……どうして浜風が謝るんだよ? 悪いのは、あの提督だろ?」

浜風「もっとはやく気づくべきでした。貴女がそんなにも思いつめて、苦しんでいるなんて」

谷風「違う」

浜風「違わないでしょう。我慢してはいけませんよ」

谷風「違うんだ」

浜風「しかし」

谷風「違うって言ってるだろ!」

246: ◆WvruwVSMos 2015/08/06(木) 14:23:45.01 ID:Ukdfjeyg0

 怒声が静かな病室に響いた。谷風の曖昧な笑顔が、怒りと悲哀の混ざった苦しげな表情へと変わった。
 
谷風「私じゃない! 今一番苦しんでいるのはお前だろ! あんなクソみてえな作戦の犠牲になってんだぞ! いつもいつもボロボロになって死にかけてんのに、それでも休みなく次から次へと戦場に送られちまう……! それなのに、私なんかのことを気遣ってる場合じゃねえだろ!」

浜風「谷風……」

谷風「もう嫌なんだよお! 浜風ばかりが、こんな酷い目にあって傷ついていくのを見るのは……! お前が私たちを庇ったせいで、罰として任務に就かされたのは分かってる! だから、私たちじゃどうやっても助けてあげられないこともだ! それが情けなくて、悔しくて……。浜風は、私たちを地獄のドン底から救ってくれたっていうのに、私たちはお前に何もしてあげられない! お前を、救えないんだ!」

 谷風は叫んだ。苦しい胸の内を、隠してきた自責と悔恨を吐き出すように。栗色の瞳から溢れる大粒の涙が、鶴の群雄へ雨となって降り注ぎ、その整然とした翼をくしゃりくしゃりと濡らしていく。

 堪え切れなくなったのか、谷風はとうとう言葉すら出せなくなり嗚咽を漏らした。

 彼女は、私のために泣いている。私が苦境に苛まれていることに、酷く心を痛めているのだ。それが、彼女を追い詰めた苦しみの正体であった。私に友情を感じている彼女からすると、それは自然な感情であろう。おそらく他の子達も、何も言わないだけで、同じ思いを抱いているに違いない。

 助けたい。苦しみから救ってくれた恩を返したい。でも、できない。あの提督が、私への処刑としてこの作戦を取っており、手伝う余地など欠片もないことを知っているからだ。それは谷風や彼女たちに、身を焼くような葛藤と絶望を与えただろう。磔台へ十字架を背負いながら向かうイエスを見る、弟子たちの心持ちはこれに近かったのではないか。

 さすがに少しだけ後ろめたかった。いくら悪意がないとはいえ、私は谷風の純真なる友情や、遠征隊のみんなの無垢なまでの敬愛を、欺瞞でもって答えていることに変わりはないのだから。

 私には嘘しかない。こんなにも谷風は、苦しんで泣いてくれているというのに。ああ、しかし、申し訳なく思っているはずなのに、吊り上がりそうになるこの口元よ。笑いながら懺悔をするものがいようか。後悔よりも暗い愉悦が、溢れそうである。

 私はそっと、誤魔化すように谷風の手を握った。小さな手が震えている。

247: ◆WvruwVSMos 2015/08/06(木) 14:25:37.88 ID:Ukdfjeyg0

谷風「怖いんだ」

浜風「……」

谷風「浜風が、沈んでしまうんじゃないかって。いや、仮に沈まずに済んだのだとしても、あの軽空母の先輩みたいに……」

浜風「大丈夫ですよ」

 私は優しい声を意識して言った。

谷風「大丈夫だって? そんな保証なんてどこにあるんだよ」

浜風「私には、陽炎姉さんとの約束がありますから」

谷風「陽炎との約束?」

 谷風は鸚鵡返しに尋ねてきた。困惑した様子が、泣き腫らした顔に現れている。

 このことは誰にも話すつもりはなかった。しかし、自身の意図するところではないとはいえ、谷風が傷つき苦しんだのは私のせいだ。

 だから、ささやかな罪滅ぼしに唯一の真実を告白しよう。

 私はゆっくりと頷いた。

浜風「『絶対に死なない』。そう、陽炎姉さんに誓ったんです」

 そのとき、窓から風が吹き抜けた。私の頬を涼やかに撫で、その心地よさが季節外れの心象風景を呼び起こす。桜の花びらが舞い上がり、私はその中で惜別に暮れる尊敬すべき少女を抱いていた。

 谷風が、その情景を見たといわんばかりに、目を見開いた。

浜風「だから私は死なないし、死にません。あの約束があったこそ、あんな九死に一生の作戦でも、私は生き残ってこれたと信じています」

 あの約束がなければ、私はとっくに水底へと還るはめになっていただろう。死にそうになったとき、いつも頭の中には桜が花開いた。その美しき桜の花に、何度も何度も奮い立たされた。

浜風「これからもそうです。私は生きねばならない。生きるために、私は戦っています。死を乗り越えるために、戦場に立っています。あと四回、なんとしても体も心も壊さずに乗り越えてみせますよ。――陽炎型の誇りと意地を、あの無能に見せつけてやるんです」

谷風「……」

248: ◆WvruwVSMos 2015/08/06(木) 14:27:19.44 ID:Ukdfjeyg0

浜風「いいですか、谷風。私もあなたも誉れ高き陽炎型駆逐艦です。私を信じてください。陽炎型の一員である浜風が、この程度で折れるわけないと」

 ――信じてください。念を押すように、私はもう一度言った。後は静かに谷風を見つめる。

 視界の端で、鶴がひっくり返るのが見えた。また、風が吹いたのだ。何度かそれを繰り返し、数羽ほど白い海から飛び立ち、すぐに地面へと落ちていく。

 それから少しの間があって、谷風が私に握られていない方の腕で、目元を擦った。鼻をすすり、ぎこちなく笑う。酷い表情だ。でも、先ほどまでの不吉な影は消えている。

谷風「そう、だよな……。私たちは陽炎型なんだ。とくに浜風は私や陽炎よりずっと優秀だしな……」

浜風「そんなことはありませんよ。回避能力では貴女に勝てませんから」

谷風「それ以外は全部負けてるよ。知性も人望も、何もかもな。遠征隊のみんなもたった一人で救っちまったし、あんな無謀な作戦だってかなりの頻度で成功させてる。浜風……間違いなく、お前は陽炎型の誇りそのものだよ」

浜風「そこまで言われると、さすがに照れますね」

谷風「本当にそう思うぜ。お前はすげえやつだ」

 その言葉には深い感慨が籠っているようだった。本心から言っているのだろう。

谷風「だからこそ、信じねえといけないよな。浜風ならやれるって」

浜風「……ありがとうございます」

 私はお礼を言いながらも、内心では複雑な気持ちであった。「信じてください」とはどの口が言うのか。いや、嘘つきだからこそ軽々しくそんな『戯言』を叩けるのだ。詐欺師の語る真実は、結局は欺瞞へと結びつく。

谷風「こっちもありがとうな。あと……取り乱してすまねえ」

浜風「いいですよ。それに、謝らなければいけないのはこちらです。心配させてごめんなさい」

谷風「ああ。心配したんだからなホント」

 谷風は小さく笑って、ほっと息を吐いた。

谷風「……大丈夫だとは思うけど、私たちの力になれるようなことがあればいつでも言ってくれ。私も他のやつらも、みんな喜んで力を貸すからよ」

浜風「そうですね。頼れそうなら頼るかもしれません」

 それから数時間、私が動けるようになるまで、私たちはたわいもない話をした。思えば『友達』とこうしてゆっくり雑談するなんて久しぶりのことだ。

 鎮守府に配属されてから、私は様々な事態へ対処するために奔走した。まだ半年ほどしか経っていないということが信じられないほどに、劣悪なまでの鮮烈さで日々が過ぎていった。これからも、忙しくなるだろう。あの提督を椅子から引きずり落とすまで、私たちに平穏は訪れることはない。

 谷風との雑談は、ささやかな平穏だった。そこに安らぎを見出すことはできなかったが、それでもその穏やかさだけは嫌いではなかった。

249: ◆WvruwVSMos 2015/08/06(木) 14:29:00.38 ID:Ukdfjeyg0




 一週間後、十一月となった。これまでと同じように血反吐を吐きながら任務をこなし、なんとか七度目の成功を収めることができた。後三回を残すまでに迫り、鎮守府の空気もより一層ピリピリとしたものになった頃。

 急に、この作戦が中止となった。

 南提督が私の意地を認めたとか、私に情けをかけたとか、そんな理由で取り止めた訳ではない。彼にそのような血の通った情は存在しない。中止にせざるを得ない事態が起こったのであった。

 それは東鎮守府で起こった、凄惨な悲劇に端を発するものであった。

 捨て艦戦法を原因とした、内部崩壊。南鎮守府が危うく辿りかけた最悪な道を、東鎮守府が無残にも歩んでしまった。

 ――破滅まで、残り三ヶ月。

266: ◆WvruwVSMos 2015/08/31(月) 23:46:48.32 ID:brupgiBi0
 






 東鎮守府で起こった事件は、通称『捨て艦事件』と呼ばれ、海軍全体に多大なる影響を及ぼすこととなった。

 事態が発覚したのは10月の末である。東鎮守府の関係者による内部告発があったそうだ。徹底した情報管制が敷かれる中で、誰がどうやって情報を漏らしたのかは不明だが、一部では外部、それも報道関係者にまで漏洩したらしい。もちろん、軍部が方々に圧力をかけて火消しをしただろうし、そもそも軍事国家である我が国で、軍部の不利に繋がるような報道が行なわれることはまず考えられない。よって、白日の下に晒されることは辛うじて回避された。

 だが、海軍内部では大騒動となった。この事件は簡単に揉み消して終われるほどのものではなかった。事件があまりにも凄惨すぎるし、一つの鎮守府が崩壊したという異常事態を、問題として無視できるはずもないからだ。

 私は任を解かれてから、南提督が急に作戦を中断した理由を知るために探りを入れた。秘書艦は補佐という性質上、海軍の資料をいくつか閲覧する権限を与えられている。もちろん制限されているものもあるが、あの提督は情報管理でさえその無能さを発揮してくれるから、彼が留守のときにいくらでも拝借できた。そして、それらの情報を参照し、すぐに『捨て艦事件』が関係していることを突き止めたのだ。

 東は開設して三年ほどが経つ、それなりの規模を誇った鎮守府である。西方海域のカスガダマ沖まで攻略を進め、南方海域入りは確実と言われていたそうだ。空母四隻、軽空母四隻、そして戦艦三隻以上の戦力を誇り、ビッグセブンと称えられた長門型戦艦まで任されていたようである。

 提督も優秀な人物で、階級は少将であった。沖ノ島海域を歴代三位の速さで攻略してみせ、北方海域の研究を推し進め、様々な新しい戦術を見い出したことで知られている。とくに、これまで流氷が多く駆逐艦以外の運用が困難とされていたキス島周辺の攻略に、軽巡洋艦を加えた水雷戦隊の運用方法を示したことは有名であった。養成学校でも、教官から話として上がったほどである。

267: ◆WvruwVSMos 2015/08/31(月) 23:48:50.06 ID:brupgiBi0

 充実した戦力に加え、優秀な提督が指揮をとる、将来を有望視された鎮守府だった。そんな鎮守府が、なぜ『捨て艦』などという愚行に走り、どのようにして崩壊へと至ったのか――。

 その始まりは、七月下旬からであると推測されていた。その頃から明らかに駆逐艦の轟沈数が急増したからだ。

 舞台となった海域はリランカ島周辺と、カスガダマ沖だった。東はリランカ島周辺の攻略をすでに済ませているが、ここには潜水艦を始めとした多様な艦種が出現するため、攻略担当の鎮守府がいないとき、かつボスの出現が確認されていない間は、実戦訓練が積極的に行われているのだ。東も、対潜訓練を目的として駆逐艦を編成に組み込み、出撃をしていた。あくまで、建前の形では。

 実施された期間は一週間である。ここで駆逐艦が三隻、ことごとく沈んでいた。これはあくまで訓練であり、攻略の戦法である『捨て艦』には数えられないとする意見もあるようだが、それは違う。今まで轟沈者をほとんど出さなかったはずの東が、たった一週間で三隻も犠牲を出したのだ。その異常さを考慮に入れれば、これが始まりであるとするのが妥当であろう。
 
 そして、『訓練』が終わると、カスガダマ沖の攻略が再開された。そこで、本格的に『捨て艦』が行われるようになった。

 犠牲となったのは、ほとんどが駆逐艦である。この海域攻略は八月から始まり、事件が発覚するまでの約三ヶ月間で、その数は二十名以上にものぼっていた。

268: ◆WvruwVSMos 2015/08/31(月) 23:51:25.52 ID:brupgiBi0

 しかし、被害はそれだけには留まらない。私が南の件で予想したとおり、この事件によって東鎮守府の艦娘たちの多くは精神を蝕まれてしまった。精神疾患がまるで感染症のごとく蔓延し、直接『捨て艦』に関わらされたものの中には発狂者や自殺者まで出ていた。事件後、精神の不調を理由に解体されたものは、人員の三割ほどにも上っている。艦娘は鎮守府の要だ。柱が腐れば、建物がどうなるかなど想像に難くない。

 こうして内部崩壊へと繋がり、告発によって発覚した。これがこの悲劇の顛末である。

 すべてにおいて異常な事件だ。私には、東提督が到底人間だとは思えなかった。ヒトの皮を被った悪魔であり、快楽殺人という麻薬にはまった狂人だと思った。

 なぜか? 

 東提督が、明らかに『捨て艦』を遊びでおこなったからだ。

 東提督は極めて優秀な人物であった。『捨て艦』の愚かさとデメリットもすべて理解していたはずである。事実、北方海域における徹底した戦術研究と、事件までほとんど轟沈を出さずにきていたことが、それを証明している。戦術研究の専門家とも言える人物が、ハイリスクローリターンの『捨て艦』を指示するとはどうしても考えられない。そもそも、海域攻略自体は順調であったのだ。カスガダマ沖の攻略も、そう苦戦していたわけでもない。つまり、『捨て艦』をする必要すらないわけだ。なのに、動機もなく作戦を遂行した。

 これはもう、わざととしか考えられない。東提督は唐突に狂い、『捨て艦』にかこつけて彼女たちの命と心を弄ぶようになったのだ。なにかが彼の精神に狂気を呼び起こしたのか、それとも元々腹に抱え込んでいたのか、それは分からない。だが、彼が人間性をかなぐり捨て、悪魔へと変貌したことに変わりはないだろう。

 行為に加減が一切見られないところから、その悪虐さと暗澹たる欲望には底知れないものがある。艦娘たちが沈み、苦悶し、絶望し、慟哭を上げるたび、腹の中を無数の虫が蠢くような、悍ましい愉悦を感じていたに違いない。形は違えど、性質は似たものを持っているから分かる。そうした意地汚い欲望というものは一時は満たされて、しかしすぐに溢れてしまうから、また満たさずにはいられなくなる。そして、麻薬中毒のように同じ量では満足できなくなって、行為はだんだんエスカレートしていく。

269: ◆WvruwVSMos 2015/08/31(月) 23:53:10.49 ID:brupgiBi0

 東提督は快楽殺人者であり、一種のサイコパスであろう。正直、南提督が可愛く見えるほど悪辣非道の存在であった。当然、事件発覚後に捕まり、鎮守府の司令官を解任され、重罪人として軍法会議にかけられることが決まったらしいが、その後の展開はまだ分かっていない。おそらくは死罪を免れないはずだ。まさか、これほどの凶悪犯を降格処分や懲戒免職程度で済ませはしないだろう。

 この下種は、確実に生かしておいてはならない存在だ。他人を破壊することに随喜の涎を流さずにいられないものを、人間と呼んではいけない。あの親戚どもと同じ、血で祝杯を上げる怪物である。東提督にはぜひとも、地獄の底で絶叫してもらいたい。

 この事件の影響で、海軍の上層部では『捨て艦』に関する様々な動きが起こった。

 まず、『捨て艦』禁止を法制化する議論が活発になった。実は以前から『捨て艦』を禁止するべきだという意見は少なくとも出ていたようなのだが、提督会議(階級が中将以上の者で構成される、海軍における意思決定機関)が無視していたのだ。だが、このような事件が起こった以上、簡単に見て見ぬ振りはできなくなる。おそらくは定義や範囲で揉める部分はあるだろうが、法制化自体はされるだろう。

 次に、事件を受けての立ち入り検査が行われることとなった。これは全ての鎮守府が対象になっているそうで、作戦中止から数日ほどが経って、南鎮守府にも憲兵隊の介入があった。

 海軍には、「鎮守府運営は個々の提督の裁量に任されるべきである」とする、官僚制における縦割り行政にも似た、悪しき慣習が存在する。事実、海軍の上層部は海軍大学校を極めて優秀な成績で卒業したものたちで構成されており、官僚主義の色が強い組織原理をもっている。エリート特有の縄張り意識や失敗を追求されることを過度に怖れる体質が影響を及ぼし、このような慣習を生み出したのであろう。ただ、これはあくまで調べたことから類推した部分もあり、すべてが正しいかどうかは分からない。しかしこのせいで、『捨て艦事件』の発覚が遅れ、南提督のような無能がいつまでも提督で居られるのだと考えれば、間違いはないだろう。

 よって、この立ち入りは異例の事態であっただろう。『捨て艦』が見られた鎮守府は複数あり、疑わしいとされたところも決して少なくはなかった。南鎮守府は『疑わしい』とされた。『捨て艦』戦法を行なったのはまず間違いないのだが、肝心の私が沈んではいないから、戦法として成立されていると言い難いと判断されたのである。ここには、家柄による酌量が見え透いている。だが、上層部が南提督に疑惑を抱いたことも事実だ。調査後、彼には連日の出頭命令が出ていた。

 南提督はこれまでにないほど焦燥にかられ、青ざめた顔をしていた。私たちに対して八つ当たりをする気力すらないようであった。完全に身から出た錆だ。このときばかりは溜飲の下がる思いがした。だが、こんな程度では到底足りるはずがない。地獄に落ちて貰わねば、愉悦の花は咲き乱れないのだ。

 私は作戦で中止せざるを得えなかった『計画』を再開した。そして、元秘書艦と南提督が本部へと出向いて留守にしているタイミングを狙い、出撃部隊の先輩たちを自室へと呼び出した。現在、指揮官不在の関係で出撃は行われておらず、彼女たちとスケジュールを合わせるのは容易であった。

 招来した理由は、『計画』を行なう上で彼女たちの協力が必要不可欠だったからだ。そのため、『計画』について説明しなければならない。私が南提督の椅子をどのように蹴落とし、この鎮守府をどうしたいのかということを。

282: ◆WvruwVSMos 2015/09/20(日) 10:59:39.64 ID:D4cNctIX0

 声をかけたのは、付き添いで留守にしている秘書官以外の一次戦力、であった。全員が部屋に集まったところで、私は社交辞令もそこそこに話を切り出した。

浜風「単刀直入に言いますが、私は南提督から実権を奪おうと考えています。その『計画』について聞いていただくために、みなさんをお呼びしました」

 先輩たちの顔に動揺が走った。お互いの顔を見合わせたり、正気を疑うような瞳を私へと向けたりしながら、困惑を露わにしている。

「あなた……自分が何を言っているか分かっているの?」

 重巡洋艦の先輩が恐々とした表情で尋ねてきた。

浜風「ええ、もちろん。冗談で言っているつもりはありません。本気です」

 真顔で言うと、彼女は顔を引きつらせた。

「ふうん、クーデターを起こすつもりなのね?」

 そう言ったのは空母の先輩だ。扉に寄りかかり、腕を組んでいる。他の先輩たちと違って、私の招集にどのような意図があったのかなんとなく察していたのだろう。落ち着いた様子であった。よく見ると、黒く淀んだ冷たい目をゆるりと細めている。

「面白いじゃない。貴女のことだから何か妙案があるんでしょう。で、どうするの? 殺すの?」

 彼女は物騒な発言をした途端、抑えきれないと言わんばかりに笑顔になった。

「殺すって……。そんなことしたらタダじゃ済まないわよ……」

「でしょうね。で、それがどうしたの?」

 重巡洋艦の先輩の常識的な言葉は、苛立ちを含んだ声ににべもなく封殺される。

「別にいいでしょ。今までも散々酷い目にあってきたんだし、いまさらじゃない。○○を壊したあのクズにこのまま従い続けるくらいなら、いっそのこと八つ裂きにして雷撃処分された方がマシよ」

 ○○とは軽空母の先輩のことだ。空母の先輩は彼女と仲が良かった。

 部屋の空気が、途端に重苦しくなる。ここにいる全員が程度の差はあれ、提督に対して思うところがあるからだ。俯き、眉間にシワを寄せ、あるいは瞑目し、それぞれが自身の憎しみと向き合っている。重巡洋艦の先輩も、それ以上何も言えないようだった。

 空母の先輩が、ドス黒い感情に声を震わせながら続ける。

「それで浜風さん。もし殺るつもりなら今度は私に任せて。貴女には、これ以上何も背負わせたくはないの。だから私にあの男を殺させて?」

浜風「……」

「ね、いいでしょう? ね?」

283: ◆WvruwVSMos 2015/09/20(日) 11:01:56.08 ID:D4cNctIX0

 気持ちとしては首を縦に振って上げたかった。私も何度、執務室へ十二・七ミリ砲を撃ち込んでやりたいと思ったことか。しかし、それでは根本の解決にはなりえないのだ。

 私は首を横に振った。

浜風「申し訳ありません。気持ちは分かりますが、提督を殺すつもりはないです」

 空母の先輩が拍子抜けしたように顔を固め、やがて眉根を寄せた。

「……殺さないの?」

浜風「ええ。殺したところで私たちにはほとんどメリットがありませんから。むしろ生かしておいて利用した方が、都合がいいんです」

「生かしておくこと自体がすでにデメリットじゃない」

浜風「そうですね。現状のままならばその通りです。しかし、仮にあの男を殺したとしても問題はその後なんですよ」

「その後?」

 空母の先輩が訊いてくる。誰もピンとこなかったのか、首を傾げたり表情を曇らせたりしていた。

 私は溜息をつく。

浜風「そうなったら、代わりに新たな提督が着任することになりますよね?」

「当然、そうなるわね。それがどうしたのよ?」

浜風「その提督が、マトモな人間であるという保証がどこにあるんですか?」

 私がそう言うと、先輩たちは「ああ……」と力なく漏らした。空母の先輩も、ぐっと言葉を詰まらせている。彼女たちの『提督』に対する猜疑心は、百年生きている樹木のように根強いものだ。『提督』を恨むように散々仕込んできたのだから、その分疑いも増すのは当然であろう。

284: ◆WvruwVSMos 2015/09/20(日) 11:03:42.41 ID:D4cNctIX0

浜風「南ほどの無能はそういないでしょうから、もしかすると、提督が変わることで状況がよくなるかもしれません。しかし、変化というのは必ずしも良い結果をもたらすわけではないんです。私が改革した運営方法だって、新しい提督が気に入らなければ、すべて白紙に戻される可能性もあります。それ以上に良い運営方法を取るなら別でしょうが、果たしてそうなるでしょうか?」

 いったん言葉を切って、誰も反論してこないのを確認し、続ける。

浜風「どうにも、私には悪い方向に転ぶような気がするんです。海軍というのは官僚主義的な組織であり、かつ全体として成果主義的な考え方が根強い組織です。成果主義というのは確かに効率的で良い面もあるのですが、それが行き過ぎると結果を重んじるあまり、そこに与する労働者を異常なまでに酷使し、彼らの人権や精神を無視することがよくあります。つまりは、過重労働に繋がる危険性があるわけです。皆さんにも、嫌というほど覚えがありますよね?」

 全員が青ざめた顔で項垂れた。ここまで言えば、およそ察しがついたようだ。

浜風「組織の主義、思想というのは、当然そこに所属する人たちにも反映されるものです。個々の能力にもちろん差はあるはずですが、考え方が似たり寄ったりということは、新しい提督も南と近い運営方針を取る可能性が高いと考えるべきでしょう」

「つまり、提督が変わっても今の状況が改善されるとは限らないということよね。いや、下手をすると浜風さんの改革がなかったことにされて、今よりひどくなるかもしれないのか……」

 重巡洋艦の先輩は苦しげな声で確認してきた。首を動かして同意する。

 全員の顔が不安げな陰りを帯び始めた。彼女たちは閉鎖的な状況下で生活してきたこともあり、海軍内部の詳しい情報などほとんど知らない。もともと抱いていた『提督』への不信感に加え、ネガティヴな海軍の人事状況を聞かされれば、不安を覚えずにはいられないだろう。

 彼女たちは私がもたらす情報を疑いなく信じてくれる。秘書という肩書きももちろん役立っているが、私に絶大な信望を寄せているためだ。幼子が父親と母親の言葉を絶対的なものと捉えるように、無批判的に受容するのだ。

 私は出撃部隊の心も、完全に掌握していた。優れた能力、人望、情報……これらをすべて握っているからこそ、駆逐艦と一次戦力という階層の差すら飛び越え、心理的に優位へ立つことができた。南鎮守府の艦娘たちにとって、私はすでに絶対の存在となりつつある。

 そのことを改めて実感し、愉悦を覚えながらも、口角が吊り上がるのをなんとか堪えた。

浜風「さっきも言いましたが、気持ちはわかります。しかし、殺しても溜飲が下がるだけで何も得るものがありません。殺した人は反逆罪で死刑は免れませんし、殺人者を出した鎮守府と上層部から目をつけられることにもなります。次に来る提督も、私たちのことなんてまず信用しません。……分かりますか? 誰も得をしないんです」

 私は目線を下げ、悲しげな表情を作ってみせた。

浜風「もうこれ以上……誰かが犠牲となり、苦しむのを見るのは嫌なんですよ。絶叫も、慟哭も、聞きたくありません。誰一人傷つかず、健やかに笑うことができる、そんな生活こそ私の望んでいるものです。私はできる限り、そんな生活が送れるような鎮守府に変えていきたいと思っています」

 ひどい嘘だ。私が望むのは、『人間』でいられる生活だけだ。そんな高尚な理想など持ち合わせてはいない。

 が、私の腹なんて知らない彼女たちは後光を見たようだった。目を見開き、嘆息を零している。空母の先輩だけは眉間に皺をよせ、恥じ入ったように目を逸らしていた。

浜風「先輩、ご理解いただけましたか?」

「ええ……。ごめんなさい、少し興奮していたわ。みっともないところ見せちゃったわね」

浜風「いえ、謝らないでください。私も同じ穴の貉ですから」

「違うわよ。あなたは私たちのことを考えてくれていたけど、私は自分の恨みしか頭になかったから」

 私は答えず、曖昧に笑った。それならば、やはり同じ穴に住んでいる。

 私は私の欲求でしか動かない。その中に、あの無能に対する殺意がないと言えようか。もちろんあるに決まっている。今までどれだけ屈辱的な扱いを受け、辛酸をなめ続けてきたか。数え切れないほどの悪辣たる記憶は折り重なり、憎悪は山となっている。
 
 私があの男を生かしておく理由は、殺害後に起こる事態を危惧しているだけではない。

 殺すより、生かしておいた方が、あの男により深い絶望を与えてやれると考えたからだ。

 虐待、暴力、戦争、圧政、差別、そして沈黙の病――。真の地獄とは、死後にはない。生の営みの中にこそ存在する。

 それを、身をもって、思い知らせてやる。

浜風「それでは、私の『計画』について具体的なことを説明していきたいのですが、よろしいでしょうか?」

 全員が表情を引き締め、首肯した。

浜風「最初にも言いましたが、私は南提督から実権を奪うつもりでいます。とどのつまり、私の『計画』は南提督の傀儡化です。それを可能にするために、呉鎮守府を……彼の父親である呉提督を利用しようと思っています」

297: ◆WvruwVSMos 2015/10/21(水) 00:37:28.45 ID:4PD3tdjO0

 私はそう切り出して、淡々と語り始めた。まず、南提督を傀儡化する『計画』が、運営改革を行う上での前提でしかないということから説明していく。

 これから改革するのは、今までと違って南提督の実権が色濃く絡んでくる範囲だ。出撃や資源の管理方法など、鎮守府の根幹を成す部分。ここの改善を行わなければ、南鎮守府を健全に導くことは難しい。

 そのためには、南提督から仕事を譲ってもらわねばならないわけだが、そう簡単に譲るはずがないことは目に見えている。鎮守府の長としてのアイデンティティとプライドが、それを許しはしないからだ。

 だから、南提督から多少強引にでも仕事を奪わなければならない。そのために、彼から権力を奪って無力化し、私の言うことを聞かざるおえない状態にする必要があった。

 だが、南提督を無力化するのは容易にはいかない。彼と私の間には、権力に絶大な差が存在するからだ。私たち艦娘は提督の独裁政権の元、暮らしている。生活のすべてを管理され、生殺与奪の権力すらも握られているのだ。そんな状況下で、提督から仕事を奪うなんて望めるはずがない。

 どうにかして、この差を埋めなければならない。しかし、それを行う上での方策がこれまでで一番の関門であった。傀儡化をおこなうためのさらなる前提、そしてそれを成すための方法。

 それは、南提督の力を封じ込めることができる、より強力な権力者を味方につけるというものだ。つまり、後ろ盾を作ろうとしているわけである。虎の威を借る狐のごとく、強者の威光をもって、南提督を押し潰し、私に逆らえない状況を作り上げる。

 その後ろ盾として、私は呉提督に目をつけたのだ。

298: ◆WvruwVSMos 2015/10/21(水) 00:40:23.57 ID:4PD3tdjO0

「――呉提督を利用するというのは、そういう意味ね」

 そこまで話して一旦言葉を切ると、空母の先輩がそう口を開いた。どうやらさっきまでの煮え滾るような興奮も落ち着いて、冷静さを取り戻したようだ。組んでいた腕を解き、顎に手を当てる。

「後ろ盾を作るのはいい考えだと思うわ。南を生かしたまま改革するには、それ以外に道はないでしょうしね……。ただ、こんなこと言うのは気がひけるけど、どうしても成功するかどうか確信が持てなくて、少し不安だわ」

浜風「そうでしょうね。正直、この方法は運の要素が強いですから。絶対に上手くいくという保証はしかねます」

「そう……」

浜風「ただ、成功したときの見返りは大きいですし、可能性が少しでもあるならやる価値はあるでしょう。これ以外に方法がない以上、やらないという選択肢もありません。何もしなければ、あのクズの独裁が続くだけですし」

「それだけは死んでもゴメンね」

 空母の先輩は息をついた。

「……やるしかないわよね。でも、どうして呉提督なの? あなたも言ってたけど、あの人って南の父親じゃない。肉親を盾にしても有効に働くとは思えないけど」

 彼女の意見はもっともだ。普通に考えれば、呉提督が南の肩を持つ可能性が高いからだ。後ろ盾にする相手として不適切だと思うのは当然であろう。

 だが――

浜風「仰るとおりです。ですが、呉提督でなければならない……いえ、彼を選ばざるおえない理由があるんです」

「選ばざるおえない理由?」

浜風「それを説明するためには、まず、後ろ盾にする人物の条件について触れなければなりません。……どういう人物が適しているか分かりますか?」

299: ◆WvruwVSMos 2015/10/21(水) 00:42:15.79 ID:4PD3tdjO0

 私が尋ねると、先輩たちは首を捻って考え始めた。

「……南より階級が上の人かな」

 重巡洋艦の先輩が、オズオズと自信なさげな声で言った。

浜風「そうですね。それが、まず一つです」

「ということは、他にもあるってことか……。えーと」

「南と家柄が対等以上である人物、じゃないかしら」

 言葉に詰まった先輩の代わりに、空母の先輩が答えた。

「あのクズは曲がりなりにも華族出身だからね。家柄を重んじる風潮が帝国では根強いし、それは海軍でも同じことでしょう。生まれの貴賎が、海軍における発言力の強さに影響しているとしてもまったく不思議じゃないわ」

「あ、なるほど……。それじゃ階級が上でも、南を立てようと遠慮してしまうかもしれない」

 重巡洋艦の先輩が、得心がいったように声を出す。

 私は首を縦に振った。

「生まれもそうですし、何より南の背後には呉提督の存在が影のように見え隠れしています。海軍大将であり、『神算鬼謀の名将』として畏敬の念で讃えられている呉提督を恐れて、南に対し強く出られない人はおそらく少なくないでしょう。だから、『呉提督の威光を無視できる』という条件も満たしておかねばなりません」

「それらを全部含めるとなると、かなり少なそうだね……」

浜風「私が知っている限りですが、数える程しかいませんよ。海軍大臣、提督会議議長の元帥、もう一人の提督会議副議長である横須賀大将、華族出身者の佐世保中将……そして、呉提督本人。有力な候補はこの五人だけです」

300: ◆WvruwVSMos 2015/10/21(水) 00:45:47.64 ID:4PD3tdjO0

「呉提督の圧力に屈しない人間なんて、上層部でも一握りだろうし、必然的に候補も少なくなるよね……。他にはいないの?」

浜風「残念ながら。私も海軍の内情についてはそれほど詳しく調べられていません。他にもいるかもしれませんが、情報が少なすぎて確信が持てないんです。確実に、南を抑え込むことができる人物でなくては意味がありませんから」

「確実なのはその五人か……」

 重巡洋艦の先輩は、確認するような調子でつぶやいて下を向いた。茶色味を帯びた長髪がハラリと揺れ、首元に刻まれた戦いの傷を露出させる。

 気づかないふりをして、さりげなく目をそらした。そのままゆっくり視線をスライドし、全員を見回した。みんな真剣な表情で続きを促してくる。

浜風「さて、候補者は五人に絞られましたが、ここで終わりではありません。さらにもう一つだけ条件が加わってきます。これも、絶対にクリアーしておかねばなりません」

 私は一息置いて、言った。

浜風「それは、『絶対に南提督をクビにしない』という条件です。なぜこれが絡んでくるのかはさておき、辞められるわけにはいかない理由は分かりますよね?」

「ええ、南を殺せない理由とほぼ一緒でしょう」

 空母の先輩は絞り出すような低めの声を出した。あからさまなほど口惜しさが滲み出ていて、不謹慎だが少しだけ可笑しかった。よほど殺してやりたいのだろう。

浜風「そうです。これから私が後ろ盾を作るためにやろうとしていることを考えると、どうしてもその恐れが出てくるんです。南が鎮守府から降ろされれば本末転倒ですから」

「まあ、人形にする存在がいなくなっては、『計画』も何もあったものではないし、当然といえば当然か。それで、浜風さんは一体何をする気なのかしら?」

浜風「簡単に言うなら、南の無能さを完全に証明した上で、私の実績と能力を提示し、後ろ盾の対象者に比較させようと考えています」

「……比較ね。つまり、あなたの能力を認めさせて、味方に変えていこうと考えているわけ」

浜風「はい。具体的に何をしようとしているのかについては、後で述べさせていただきます。ややこしい話ですから、きちんと段階に分けて説明しなくてはならないので……。申し訳ありません」

「謝らないで。むしろ詳述してくれてありがたいくらいよ」

浜風「そう言ってもらえて、よかったです」

301: ◆WvruwVSMos 2015/10/21(水) 00:47:07.40 ID:4PD3tdjO0

 軽く微笑んでみせ、説明を再開する。

浜風「言うまでもないことですが、南提督は海軍きっての無能です。それが今まで露呈せずにいたのは家柄はもちろん、海軍の体質にも問題があるからなんですね。話の本筋から外れるので詳しくは言いませんが、南提督の無能さが上層部に伝わりにくい、ややもすれば伝わらないような体制になっています」

「……クソね」

 汚物に唾でも吐き捨てるような調子で言って、空母の先輩は眉根を寄せた。気持ちは分かるが、いちいち反応していては話が進まないので黙殺する。
 
浜風「ですので、今の今まで南は提督で居続けられたんです。そうでなければ、例え家柄があるといっても、呉提督の息子であろうとも、さすがに鎮守府からは降ろされていたと思います。それだけあの男は使えません。なにせ、運営の『う』の字も理解できていないのですから……。炸薬の込められていない魚雷を、そうだと気付いても使い続けるものはいないでしょう? だからこのままだと、あの男の無能さを示した時点で、計画が崩れてしまう恐れがあります」

 重巡洋艦の先輩が、はっと目を見開いた。

「もしかして提督の無能さを証明しても、クビにしない人間というのが……」

浜風「そう、呉提督です。彼だけは絶対に南提督を辞めさせることはありません」

「呉提督を選ぶしか選択肢がないというのは、そういうことなんだね……。でも、どうして呉提督がクビにしないって言いきれるの?」

浜風「肉親だからです」

「えぇ? それってつまり、贔屓を期待しているということ?」

 先輩の顔が困惑に歪んだ。その顔には「それじゃあ味方につけるのがまず無理だろう?」と書かれてある。

浜風「違います」

 はっきりと否定をした。

浜風「贔屓ではなく体面の問題です。能無しだからと息子を解任すれば、必然その理由が海軍中に知れ渡ることとなりますからね。そうなった場合、呉提督の面子は丸潰れです。立場上、それを避けるのが当然でしょう」

 肉親の失態が、自身の社会的な地位を脅かすことはままある話だ。大げさな例えだが、殺人事件の加害者家族がどうなるか考えてもらえれば分かりやすいか。むろん、息子がお払い箱になった程度で呉提督の地位は揺らがないだろうが、一生付いて回る汚点になることは間違いない。

「南は呉提督唯一の息子で、家督を継ぐことになっているから、そんなことになったら周囲の心象は最悪になるでしょうしね……。たしかに、家名をむざむざ落とすような真似を、貴族である呉がするとは思えないわ」

「一理あるね。……それにしても、あんなのが後継者なんて呉提督も可哀想……」

 重巡洋艦の先輩がそう毒づくと、全員が苦い笑みを浮かべた。まったくの同意である。呉提督もみんなにとって疑うべき『提督』であることに変わりはないのに、思わず同情してしまうほど、アレはクズだ。

 場の空気が乾いたものとなったことに、重巡洋艦の先輩が少し狼狽していた。私は咳払いをして、とりなす。

浜風「体裁を気にして辞めさせないと断定したのには、まだ根拠があります。先日から、南提督は本部の方に出頭していますよね? 『捨て艦』に関して本部から疑いをかけられて」

 本当は疑惑ではないけど。

浜風「そのことはもちろん海軍内にも広まり、然して呉提督にも伝わります。息子が本部で晒し上げをくらって、それが周知されてしまったのですから、呉提督からすると恥以外の何物でもないでしょう。つまり、彼はすでに息子のせいで体面を汚されているんです」

「恥の上塗りになるようなことは、できないってわけか……」

浜風「そういうことです」

 空母の先輩の言葉に頷いて、私はまとめに入った。

浜風「以上が、後ろ盾として呉提督を選んだ理由となります。現状ではすべての条件を満たした人物は彼以外いません。だから、呉提督を選ばざるおえないのです。――さて、次がいよいよ本題となります。実際に呉提督をどう味方に変えていくのか……。これから縷々説明していこうと思います」

315: ◆WvruwVSMos 2015/11/15(日) 02:27:21.83 ID:v/Lz3bjW0




 呉提督は、海軍大将である。

 階級がものをいう世界において、元帥に次ぐ地位である大将は、神にも等しい存在だった。末端の兵士にすぎない私たちでは、直接お目にかかることすら、そうやすやすとはできない。完全に、違う世界の住民である。

 そんな彼を動かして、味方に変える。果たしてそれは可能か? 

 普通に考えれば、一介の駆逐艦にすぎない私では無理だ。海軍に関する情報を集めていく中で、呉提督に目をつけたわけだが、この点で行き詰まりを覚えた。頭を捻って捻って、なんとか善作を絞り出そうと苦慮したものの、なかなか名案は浮かばず。さすがの私も、『計画』を諦めて、『最後の手段』を取らなければならないかもしれないと、覚悟したくらいだった。

 だが、ある時期に入って、案が浮かび始めた。霧は晴れ、天上へと続く道が、ぼんやりと見えてきたのだ。

 十月上旬のことである。その頃、南鎮守府は東部オリョール海に苦戦を強いられていた。最悪な進捗状況に、南提督は追い詰められ、焦燥の悪魔に取り憑かれてしまった。悪魔の思うに委ねて、暴力を振るい、出撃部隊を恐怖のドン底に叩き落とした。

 あの異常なほどの焦り。あれは、攻略の遅れだけを理由においては説明がつかないものがある。たしかに、東部オリョール海の攻略は特別遅かったが、遅れていたのは他の海域も変わらなかったのだ。カムラン半島のときもバシー島沖のときも、南提督はそこまで焦ってはいなかった。

 ということは、それ以外に原因があると考えるべきだ。それは、攻略と当時に並行して起こっていたある出来事にある。

 呉鎮守府からの、度重なる演習の申し込みだ。

316: ◆WvruwVSMos 2015/11/15(日) 02:28:44.96 ID:v/Lz3bjW0

 干渉を嫌う鎮守府制度において、数少ない協同作業の一つが演習である。鎮守府同士で行なう模擬試合であり、互いの経験を擦り合わせながら多くのことを学べるので、練度向上においては高い効果が認められている。積極的に行うべきなのだが、信じられないことに、南提督はこれまで一回も演習を申し込んだり受けたりした試しがなかった。

 なぜか? 鎮守府の実力がはっきりした型で明らかとなるからだ。艦娘たちの練度もしかり、提督の指揮能力もしかり。下手な戦闘をして、不様に敗れでもすれば、恥をかくことになりかねない。

 だから、海軍全体で見ても、演習は消極的に行われる傾向なのだ。官僚制の弊害の一例といえるだろう。南提督の場合、さらに貴族としてのプライドの高さも加わってくるから、こうした回避思考はより顕著なものとなる。

 恥をかきたくない。その幼稚ですらある考えは、しかしこうも解釈できる。自信のなさの表れ。つまり、恥をかいてしまいかねない要素に、心当たりがあるということだ。

 南提督は自覚している。自分に、指揮官としての才能がないということを。そして、誰かに気付かれてしまうことを怖れている。あの高慢極まる態度は、単に高貴な生まれゆえの歪みだけではない。虎になった李徴のごとき、臆病な自尊心の裏返しだ。極まった小心者の愚かさだ。

 あの焦り様も、そこから来ているのだ。とくに父親である呉提督は、もっとも知られたくない相手であろう。南提督が呉提督を苦手にしていることは、用事で出かけるたびに護衛として付き従い、上層部の連中とも顔を合わせる、元秘書艦の証言からも間違いない。南提督はそうした現場において、呉提督を極力避けていたという。おそらくは、彼にとって父親の存在が強力な武器であると同時に、重荷となっているからだろう。稀代の名将が親であるということは、その分周囲からの期待も大きく、相当なプレッシャーの中、生きていかねばならなくなる。父親があまりにも偉大で、眩しすぎるのだ。

 その父親から、唐突に演習を何度も申し込まれるようになった。今まで、呉鎮守府から申し込みは、まったくこなかったはずなのに。

317: ◆WvruwVSMos 2015/11/15(日) 02:30:41.19 ID:v/Lz3bjW0

 南提督はこう考えたはずだ。

 呉提督から疑われている。自分の無能さを勘付かれたから、それを確かめようと要請してきたのだ、と。

 だから、私たちを鞭打って、なんとしてでも攻略を速めようとしたのだ。一方で、演習をどうにか断りながら、誤魔化そうとしていた。

 私はここに活路を見出した。

 呉提督を動かす方法として演習を利用しようと考えたのだ。南提督が演習を受けざるをえない状況を作り出し、呉提督の前で無能さをさらけ出してもらい、彼を失望させる。その上で、この鎮守府で起こった出来事や私の働きをすべて暴露し、私の優秀さを認めさせることによって、味方に変えていく――。それが、先輩たちに語った『計画』の全容だ。

 ただ、この『計画』は『捨て艦』によって一旦中止しなければならなくなった。しかも皮肉なことに、私たちの死力を尽くした活躍によって、海域攻略が進んでしまったから、演習の申し込みが来なくなったのだ。『計画』が崩壊の憂き目を見た。やむをえず、『最後の手段』に出ようか、と考え始めたとき……あの東鎮守府の事件が発覚したのである。

 その後、何が起こったのかはもはや説明の必要はない。南提督は恥をさらしたあげく、一番怖れている呉提督の顔に、泥まで塗りたくってしまったのだ。死人のごとく青ざめた顔が想起される。まるで、これから死刑宣告を受ける囚人のようであった。

 呉提督はこの件について激昂した。本部での査問の後に、南提督を個別に呼び出し、激しく糾弾したそうだ。それも、外で待機しながら盗み聴いていた元秘書艦が、思わず気の毒になったほどの激しさだったという。彼の立場を考えれば無理なからぬ話であろう。しかも、彼はもともと上層部でも数少ない『捨て艦規制派』だ。息子から自身のイデオロギーと反することをされてしまったのだから、たまったことではない。提督会議における面子も丸潰れとなっただろう。

 これは、千載一遇のチャンスだった。

 呉提督の怒りを買い、周囲から不評を受けている今なら、南提督は下手なことはできない。そう、もし呉提督から再度演習を申し込まれたとしても、断ることはできないはずだ。

 呉提督に演習の依頼を出させるべく、私は工作を開始した。とはいっても、やることはただの念押しにすぎないのだが。

 これには、元秘書艦に協力してもらった。彼女は南鎮守府の一員の中で、もっとも呉提督やその関係者と距離が近い。だから交渉がおこないやすいのだ。とはいえ、元秘書艦も、呉提督と直接会話ができるわけではないので、交渉は呉鎮守府の関係者に対しておこなうことにした。

318: ◆WvruwVSMos 2015/11/15(日) 02:32:30.50 ID:v/Lz3bjW0

 その相手として目をつけたのは、呉鎮守府の秘書艦であった。噂に名高い第二航空戦隊の飛龍さんだ。彼女が相手なら、元秘書艦も同じ艦娘として対等な立場で話すことができる。彼女に取り次ぎ、呉提督へ意見具申してもらうのだ。

 内容はこうである。

 ――現在、南鎮守府の攻略は、遅々として進んでいないのが現状である。これはひとえに、我らの練度不足が原因と言わざるをえない。南提督は、この点に不安を感じておられていたが、父君様を心配させるのは忍びないとの思いから、こ自身の力のみでなんとかしようと誰にも頼らず、試行錯誤を繰り返しながら、攻略に当たっておられた。非常に忸怩たる思いであり、提督にはただただ頭が下がるばかりである。呉鎮守府からの有難い申し入れを断っていたのも、このあまりにも情愛に満ちた子心ゆえのものであったと思われる。しかし、父君のことを気遣うあまり、苦戦を強いられる中で、次第に追い詰められているようだった。あのような作戦を取らせてしまったのは、我々の不甲斐なさが提督に心労をかけたからに他ならず、致し方ない理由もあったのだ。どうか、提督のことを、許していただきたく思う。

 また、これ以上提督に心労をかけないよう、我々は強くなることが急務なのだと、改めて考え直した。そこで、恥を忍んでお願いしたい。我々にまだ期待をかけていただけるなら、どうかもう一度演習を申し込んでいただけないだろうか? 貴家からお願いさせる形をとるのは申し訳なく思うのだが、提督を説得しても、どうしてもお聞き願いしていただけず、貴家に頼る他なかったのだ。海軍一の名鎮守府よりご指導があれば、我らのような出来損ないでも、強くなることができるかもしれない。貴家との演習は、我らの切望するところである。どうか、このことを呉提督閣下にお伝えしていただけると嬉しく思う。お願い奉る。

 だいたい以上のような感じだ。なんとも白々しく、虚偽と湾曲に満ちた内容だが、演習さえ受けてもらえればそれでよい。あとは、南提督が演習の中で、勝手に自爆してくれるだろう。それに、呉提督の失望感をより高めることも期待できなくはない。

 結論から言うと、この企みは上手くいった。

 飛龍さんは秘書艦だけあって、呉提督が以前から、南鎮守府について気にかけていたことを、よく知っていたようだ。南提督が追い詰められていたことを知り、事態の深刻さに『気づいた』のだろう。すぐに了解し、呉提督への取り次ぎを約束してくれた。

 後日、呉鎮守府から、演習の依頼が届いた。いや、依頼ではなく、命令だった。

 各鎮守府の自主性と相互の了承を、暗黙の了解におく演習において、これは異例の事態だ。私もまさか、重大な判子が押された命令書が届くとは思ってもみなかったので、少しだけ驚いたほどである。開催日は一週間後で、場所は南鎮守府の修練場と指定されていた。

 出撃部隊を呼び出し、説明をおこなったのはそれからだった。彼女たちにはこれから起こることも含め、すべてを話した。

 これで、準備は整った。あとは運が味方してくれるかどうかだ。

 すべては当日にかかっている。