紅葉は地へと散り、鎮守府から見える山々から色が失せ、ずいぶんと寂しいものとなった。細々とした枝は吹きすさぶ風に揺らされ、蝶のごとく落ち葉が舞う。
冬への移ろいが、景色から伺えた。鎮守府では、夏服から冬服への衣替えが、思い出したかのようにおこなわれ、みんな嬉しそうに顔を綻ばせていた。海沿いにある鎮守府は、風の影響を直に受ける。そのため、体感気温が内地よりも圧倒的に低いのだ。彼女たちの喜びに共感はできないが、理解はできた。
地獄の中に、ささやかな幸福が咲く。それは、晩秋に顔を見せた穏やかな花であった。だが、鎮守府にこれから吹き荒れる暴風によって、ほんの一瞬で花弁を散らせることとなりそうだが。
その風が音を立て始めたのは、十一月下旬の某日のことである。この日、ついに呉提督一行が南鎮守府へと訪問することとなったのだ。
私たちは全員、出迎えのために正門前へと召集させられた。本館へと続く道を囲うように、私たちは列をつくった。随分と大げさであるが、訪問する相手は南提督の実父であり、海軍で三番目に偉い人物である。
遠征隊のみんなは、誰一人落ち着かない様子だ。何度も正門の方へ目を向けたり、こっそりと手をこすり合わせたりしている。一応これも任務だから、直立不動でいなければならないのだが、習性といってもいいほどに身に着いたはずのその決まりを、誰も守っていない。横にいる谷風はスカートでしきりに手汗を拭い、唾が溢れるのか、何度か喉を鳴らしていた。
正面、つまり向かい側には出撃部隊の先輩たちが立っている。さすがというべきか、緊張に肩を強張らせていたものの、しっかりと前を向き、背筋を伸ばしていた。誰も私へと一瞥もくれなかったが、空母の先輩とだけ一瞬目線が繋がった。
――いよいよね。
厳しく細められた目が、言外に告げた。私はわずかに頷く。
そう、今日この日こそ、温め続けた『計画』を実行に移すときだった。私たちは自身の運命を左右するほどの分岐路に立っている。そのことを、ここにいるほとんどの人間が知らない。
私は視線を走らせ、道の真ん中に立っている南提督を睨んだ。私の敵意には一切気付かず、ギャンブルで有り金全てを失ったかのような、青ざめた顔をして地面を見つめている。憐れみでも誘おうとしているのだろうか。切羽詰まったその表情は、ただただ軽蔑の念しか湧かせない。人を失望させることにかけて、このクズの右に出るものはいないだろう。
SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1423330282
引用元: ・【艦これ】提督「風病」【SS】
「劇場版 艦これ」Blu-ray限定仕様
posted with amazlet at 17.08.06
KADOKAWA / 角川書店 (2017-08-30)
売り上げランキング: 81
売り上げランキング: 81
329: ◆WvruwVSMos 2015/12/06(日) 12:32:26.38 ID:TBhc3WWy0
ややあって、正門の鉄格子が重たい音を立てながら開かれた。そして、用水路から飛び出す鯉のごとき優雅な動きで、三台の黒塗りの車が入ってきた。
南提督が、はっと顔を上げる。
車は、南提督の目の前で綺麗に止まった。
瞬間、私たちは示し合わせたかのようなタイミングで敬礼する。地面を蹴る音が静寂に満ちた空気を叩く。
前方から一台目と三台目の車から、軍服を着た男たちが数人と、精悍な顔つきをした女性たちが現れた。間違いなく呉鎮守府の艦娘であろう。その中の一人が中央の車に近づいて、丁寧な動作でドアを開いた。
そこから、一人の老人がゆったりとした動作で降りてきた。杖をつき、背中を丸めているせいか、とても小柄に見える。だが、皺の刻まれた顔は貫録に満ちており、精悍だ。身を包む白い軍服には、豪奢なモールが襷のようにかかり、金色の威光を放っている。
間違いない。この老人こそ呉提督だ。
なんという凄まじい存在感であろうか。まるで、巨大な惑星だ。この場の重力を一人で奪い取っているかのようである。相対する南提督の顔に、とめどなく汗が流れていた。
戦々恐々と、南提督は挨拶をした。
南「ち、父上……お久しぶりでございます」
呉「二週間前に本部で会ったばかりだがな」
辛辣な言葉であった。南提督は顔を引きつらせる。
しばし息子を睨み付けていた呉提督は、感情を抑え込むように、ゆっくりと息をついた。
呉「……まあ、出迎えご苦労とだけ言っておこう。それ以外には、今、貴様に対して話すことは何もない。さっさと修練場に案内しろ」
南「は、はっ!」
南提督は仰々しく声を張り上げ、「こちらでございます」と手を前へ突き出し、歩き始めた。
その後ろに呉提督とその一行が黙々と続き、最後に私たちが付いて行った。こうして大勢で列をなして歩くのは、養成学校での行進以来、半年ぶりではなかろうか。これほど緊迫感に包まれた行進は初めてだ。
私は、呉一行の背中を見つめる。呉提督は、石垣のように固まって歩く従兵たちに阻まれて見えない。男たちの肉壁には興味がないので、私は呉の艦娘たちへ視線を移した。
全員、知っている。有名な艦娘たちの特徴は、把握済みだ。高速戦艦の比叡さん、軽空母の隼鷹さん、高雄型重巡洋艦の鳥海さんと摩耶さん、朝潮型駆逐艦の霞さん、夕雲型駆逐艦の朝霜さん……。呉の『第二艦隊』のメンバーである。秘書艦の飛龍さんはいない。
第二艦隊を連れてきた理由は、鎮守府防衛に戦力を置いておくためと、単純に手加減のためであろう。呉提督が、第一艦隊では勝負にならないと判断したのである。それはまったくもって正解だ。しかし、第二艦隊も並の鎮守府の第一艦隊以上の戦力であるから、こちらの敗色が濃厚であることに、なんら変わりはないが。
しかし、それでいい。『最初』は、南提督が指揮を執っているときは、負けてもらわねばならない。それも、かなり無様な形でだ。
問題は、その後の『二回目』なのだ。それを考慮に入れると、最精鋭を連れてこなかったのは、こちらとしては都合がいい。
330: ◆WvruwVSMos 2015/12/06(日) 12:33:42.16 ID:TBhc3WWy0
谷風「呉提督、怖えな……」
谷風が小声で話しかけてきた。私は小さく微笑んで見せる。
浜風「かなり、威厳に満ちていますよね。あんなに迫力のあるご老体、初めて見ました」
谷風「そういう割に、ずいぶん余裕そうだな。緊張しねえの?」
浜風「してますよ。ただ、私は人よりも分かりにくいだけです」
緊張など別にしていないが、常よりも意識が尖っているのは確かだ。今日、すべてが決すると言っても過言ではないのだから。
谷風「ときどき、浜風が羨ましくなるな。谷風さんは逆に顔に出やすいからさ……。こういうときに動じない心が欲しいぜ。身体、変えっこしねえ?」
谷風の冗談に失笑が零れそうになったが、肩を竦めて取り繕う。変えられるものなら、是非とも変えてやりたい。そうすれば、この無駄な二つの脂肪とも、沈黙の疫病神ともおさらばできる。
浜風「こういうときに冗談はよしてくださいよ、まったくもう」
谷風「わりいわりい。ガチガチになってっからさ、少しでも解したくて。まあ、谷風さんは、別にやるわけじゃねえんだけど……」
浜風「……」
私は答えなかった。
彼女は『計画』について何も知らない。だからこそ、知らず知らずのうちに、『計画』の当事者にさせられているなんて、夢にも思わないだろう。
それもそのはず、私はあえて谷風には何も教えていないのだ。
谷風「相手、すげえつええんだろうなぁ。先輩たち大丈夫かね……」
谷風は心配そうな眼差しを、前を歩く先輩たちに向けた。
浜風「大丈夫ですよ」
根拠が十分とは言えないくせに、私は自信満々に言ってみせる。
ここからは、ギャンブルだ。だが、だからこそ、堂々と構えていた方がいい。変に不安がってみせても谷風を動揺させるだけだし、そうした弱気は、時機を捉えるときに妨げとしかならない。
準備は周到にしたのだ。後は、信じよう。
浜風「絶対に、上手くいきますから」
331: ◆WvruwVSMos 2015/12/06(日) 12:35:14.97 ID:TBhc3WWy0
修練場は、通常、鎮守府の港からやや沖合の海が指定される。その条件は深海棲艦が出現せず、定期的に巡回がおこなわれる安全な範囲である。つまりは、鎮守府の防衛上の管轄海域だ。ただ、深海棲艦が出現しないといっても例外はあって、潜水艦が待ち伏せをしている可能性がなくはないから、頻繁に対潜掃討をおこなうことが義務付けられている。
二重、三重に安全が保障された場所で、私たちは演習をおこなうわけだ。
「これより三十分後、一二〇〇に演習を開始します。ルールの確認ですが、時間制限は三十分、初期位置は中点より半径二海浬、使用弾薬はペイント弾および炸薬を抜いた魚雷です。魚雷は、審判が雷跡から被弾したかどうかの判断をおこなうこととします。被弾判定の詳細につきましては、お手元の資料をご覧ください。まず――」
修練場すぐ近くの港で、元秘書艦が緊張に声を震わせながら、説明を行っている。それを取り囲う呉鎮守府と南鎮守府の人員たちは、真剣な面持ちで話を聞いていた。
私は、手元の資料には目を落とさなかった。内容についてすでに知っているからだ。基本的な演習のルールであり、特筆すべき点もない。
それに、大して参考にもならない。
これはあくまで、ペイント弾による演習のルールでしかないからだ。
「――説明は以上です。何かご質問などございますか?」
周囲を見回しながら、元秘書艦が訊ねる。誰も挙手をするなどの反応を示さなかった。
「それでは、これで説明を終わります。開始時刻までに、各員十分な用意をしていただけますと幸いです。――解散」
その一言で、各自解散、自分の陣営に戻り、準備に取り掛かった。
私たち遠征隊のように、参加しない者たちは、審判員(呉提督が連れてきた軍人たち)の後ろから、観戦することを許されていた。私は列の前方を陣取った。ここから遠巻きに、呉鎮守府と南鎮守府双方の出撃部隊の様子を伺う。
まず、我らが陣営では、南提督が全員を集めて何やら話しているようだった。声は聞こえないが、内容は大体察しがつく。おそらく失態の無いように全力をつくせ、とでも言っているに違いない。話を聞いている先輩たちの白け切った表情が言外に教えてくれた。
次に、対する呉提督陣営は、落ち着いた雰囲気だった。まるで、これから日課の海軍体操でもするかのごとく、艦娘たちは余裕綽々、平然と振る舞っている。楽しそうに談笑しているほどだ。もうこの時点で、勝敗は分かってしまうのが、なんともつまらない。
332: ◆WvruwVSMos 2015/12/06(日) 12:38:33.04 ID:TBhc3WWy0
私は小さく息をついて、陣営の奥で堂々と構える呉提督を見遣った。
油断ならない眼差しは、ずっと南提督を捉えている。愚かな息子が慌てふためく様を見て、彼は何を思うのだろうか。もし、その眼差しに、消えかけたかがり火に漂うわずかな火の粉のような、微かにくすぶる期待があるというなら、この演習で塵芥と帰すことを所望する。
そうこうしているうちに、時間となった。
艤装を身に付けた艦娘たちが、挨拶を交わし合い、海へと出る。
双方が配置についたところで、私は懐から折り畳み式の双眼鏡を取り出した。こちらから肉眼で捉えるには、少々距離があるからだ。呉提督や審判たち、その他の観客となった全員も、双眼鏡を構えた。
ひゅう、と潮風が吹き抜ける。重たい沈黙が、爽やかな港の空気を打ち壊し、徐々に緊迫したものへ変えていく。表情筋が自然と引き締まるのを感じた。
呉「始めい!」
呉提督が、無線機へと怒鳴った。無線を通し、艦娘たちへと開始が告げられる。
始まった。
堰を切ったように、艦娘たちは動いた。
まずは、航空戦からだ。ここで制空権を握れるかどうかで、戦いの優劣は決まる。隼鷹さんが巻物の紐を解き、飛行甲板を広げ、空母の先輩が弓をしならせる。
ほぼ同時に、発艦した。
333: ◆WvruwVSMos 2015/12/06(日) 12:40:27.48 ID:TBhc3WWy0
結果は、予想通りであった。南鎮守府側の完敗だ。
単純な損害判定で見ても、こちらは全員が大破したのに比べ、呉鎮守府側は重巡洋艦一隻の中破以下、損害はゼロであった。言い訳のしようもないほど、圧倒的な負けである。試合内容についていうなら、それなりに見るべきところもなくはなかったものの、それでも見ていて気の毒になるくらい、酷いものであった。
最初の航空戦に関しては拮抗していた。制空権を取ることはできなかったものの、相手の優勢を阻止できたのだから。空母の先輩および、彼女の妖精たち、航空部隊が十分奮戦したといっていいだろう。
ただ、攻撃隊の数はこの時点でかなり減らされた挙句、敵艦隊上空に何とかたどり着けた僅かな生き残りも、ほとんどが防空巡洋艦である摩耶さんの手によって撃墜されてしまった(対空砲によるものは判定となる)。航空戦で上がった遠征部隊の歓喜の声が、一瞬で消え去るほどの、目を瞠る対空能力であった。厳密には、このときに制空権を握られたと言えるかもしれない。
対する隼鷹さんの攻撃隊は、悠々と艦隊に襲い掛かり、対空砲火の合間を縫い、爆撃と雷撃を見舞った。これによって、重巡洋艦が二隻大破判定を受け、落伍してしまった。
この時点で、三分の一がやられたのである。しかし、先輩たちの動揺は最低限であった。これほどの差を見せつけられたのに関わらず、だ。今まで重ね続けた地獄の日々が、彼女たちに不屈の闘志を宿らせたのであろう。すぐに、次の砲撃戦に備えて、体勢を立て直そうと尽力していた。
だが、そんな彼女たちの足を、南提督が引っ張った。彼は無線で艦隊に指示を出していたが、航空攻撃の損害に動揺してしまったようで、速やかに次の指揮を出さねばならないのに、まごついていた。
南提督から指揮が来ないことに痺れを切らしたのか、空母の先輩が代わりに指示を出した。艦隊は隼鷹さんの第二次攻撃も視野に入れ、輪形陣から複縦陣を形成した。悪くはない判断だ。
しかし、若干、立て直しが遅かった。
334: ◆WvruwVSMos 2015/12/06(日) 12:44:36.72 ID:TBhc3WWy0
隼鷹さんの第二次攻撃隊よりも先に、朝霜さんと霞さんが切り込んできたのである。なんという機動力か。魚雷の有効射程圏に入った彼女たちは次々と魚雷を放ち、すばやく煙幕を張って反転。一撃離脱をはかってきた。
これをなんとかかわした先輩たちだったが、立て直した体勢は崩されてしまった。そこへ、今度は摩耶さんと鳥海さんが煙幕を切るように現れ、砲雷撃を打ち込んできた。石を穿つ雷のごとき轟音が、幾重にも幾重にも空気を揺さぶる。絶え間なくおこなわれた第二波は、艦隊に混乱を呼び、反撃の暇を奪い、防戦一方に追い込んだ。
先輩たちが苦し紛れに主砲を唸らせた。が、一切当たらなかった。摩耶さんと鳥海さんは抜群のコンビネーションで攻撃と回避をして、先輩たちを翻弄。思わず舌を巻くほどの巧妙さで、動きを抑えにかかったのだ。彼女たちの主目的は、艦隊の撃滅というより、空母の先輩に第二次攻撃隊を出させないことだろう。
次へ、繋げるための一手だ。摩耶さんたちの妨害が、ようやく終わったかと思った。その瞬間、一寸の隙も無く隼鷹さんの第二次攻撃隊が到着した。
再び襲い来る、爆撃の嵐と銃撃の雨。しかし、それだけでは済まなかった。
比叡さんの主砲が、同時に火を噴いたのだ。それに合わせる形で反転した朝霜さんたちと、摩耶さんたちも、攻撃を再開した。この日最大の音の暴力に、観客席にいた何人かが悲鳴を上げた。その声も、瞬時に掻き消えてしまう。
これが、ペイント弾による演習であることを思わず忘れるほど、凄惨すぎる試合展開だ。あまりにも……あまりにも容赦がない。
呉提督の怒りが、形となって表れているのではないか。比叡さんたちは、怒り狂う主神の鉄槌を代理として下す死神だ。そう、思えてならない。
赤、緑、黒、様々な彩をもった水柱が林立した。先輩たちの姿が見えなくなる。潮風に含まれた水気が増し、まるで霧の中にいるようであった。
すべてが終わったかに思えた。観客席は絶望に静まり返っていた。
比叡さんも勝利を確信したのであろう。口を動かし、仲間に連絡を取っている。声は聞こえなかったが、「撃ち方やめ」の指示を出したことは分かった。少々撃ち過ぎてしまったのだ。これでは、視界が塞がれて、審判側が判定をおこなえない。そのための攻撃中止でもあった。
が、彼女たちのその判断は、正着とは言い難いものであった。戦いは、まだ終わってなどいなかったのだから。
335: ◆WvruwVSMos 2015/12/06(日) 12:47:30.51 ID:TBhc3WWy0
轟音。摩耶さんのすぐ傍に、天を衝くような巨大な水柱が上がった。不意打ちを食らった摩耶さんは驚愕したようであったが、すぐに退避行動をとった。しかし、上半身に所々赤い塗料が付着している。
これが唯一の被弾であり、判定は中破だったが、まだこの時、審判は判定を下さなかった。攻撃をしたのは水柱の規模からみても、間違いなく元秘書艦である。彼女の被害状況がまだ分かっていない以上、判定をするわけにはいかなかったのだろう。元秘書艦が大破だった場合、反則となるからだ。
いくつかの砲声とともに、比叡さんたちの近くで爆発が起こり、水が散ったが、命中弾は一つもなかった。
徐々に霧が晴れ、明滅を繰り返している炎光が見え、先輩たちの姿が鮮明になっていく。四つの影は、色を成した。現れた彼女たちは、ひどく汚れていた。しかし、元秘書艦と空母の先輩は、比較的汚れが少ない。審判は二隻に大破判定を言い渡し、元秘書艦と空母の先輩に対しては、中破を無線で知らせた。
それを聞いた瞬間、彼女たちは雄たけびを上げて、やけを起こしたように突撃した。
しかし、やけに見えても、この行動は間違いではなかった。これほど接近を許し、戦力差が開いた以上、もはや取る手は突撃しかない。
南「馬鹿者! 下がれ、下がらんか! いったん引いて単縦陣を形成するんだ!」
南提督が脂汗だらけの顔を歪ませて叫んだ。
馬鹿はお前だ。二隻しかいないのに、どうやって陣形をとるというのか。それに後退しても、先輩たちより遥かに足の速い駆逐艦に追いつかれ、雷撃をかまされてしまうのがオチだ。
この指示を、彼女たちは当然のごとく無視した。
疾駆しながら、二人は鉾と盾、それぞれの役割に徹する。空母の先輩が元秘書艦を庇うように前に立ち、元秘書艦がひたすらに砲撃を放つ。中破になった以上、空母は艦載機を出せない。盾になるしかなかったのだ。
ああ、そうか。
彼女たちも賭けたのだろう。被弾箇所が少なかったことを鑑み、審判が大破判定を下さないことを信じて、攻撃をしかけたのだ。どんな手段を使おうと、少しでも抵抗して、一隻でも多く道ずれにしてやろうという、戦士の執念を見せたのである。
これに関して、彼女たちを責める気にはなれなかった。
持てる力のすべてをぶつけるつもりで、戦ってほしい――。
私は、『計画』について語った日、先輩たちにそうお願いしていた。彼女たちは、それに従って全力を尽くしただけのことである。無様な敗北を目指しているといっても、できる限り飾りつけ、演出しなければならない。『南提督』のせいで負けたのだと、少しでも見えるように、だ。
彼我の戦力差など、呉提督も分かり切っているであろう。彼は、こちらが勝利する可能性など欠片も眼中にない。こちらの出撃部隊がどれだけ善戦できるのか、また自分の息子がどのような指揮をとるのか、彼の興味はこの二点にこそあるはずだ。
後者は、期待通り南提督が自爆してくれた。後は彼女たちの頑張り次第で、この演習に対する呉提督の印象が変わる。
が、先輩たちの抵抗も一瞬で鎮圧された。
突貫してくる彼女たちに対し、比叡さんたちはあくまで冷静であった。退避に見せかけて散会し、追い込み漁でもするかのような鮮やかな動きで、二人を包囲したのだ。そのまま無表情に攻撃態勢に入った。虹色の爆発が、彼女たちの間で巻き起こる。聞こえるはずもない、彼女たちの慟哭が聞こえた気がした。
もはや、審判の判断を待つまでもない。
私は眼を閉じて、損な役回りを演じてくれた彼女たちに謝罪の念を思う。ごめんなさい、そしてありがとう。
あなたたちは、十分すぎるほどに役割を果たし、舞台に彩を与えてくれた。結果は無様でも、上出来だ。
次は、私が賭けをする番である。
348: ◆WvruwVSMos 2016/01/05(火) 17:58:49.98 ID:vfOMWv5xO
演習が終了した後は、通常だと反省会に移行するのが慣例である。試合を通して得た経験や知見を議論することによって、問題点や課題を洗い出すためだ。
これこそが演習の最大の目的であると言っても過言ではない。これを行わなければ、演習はただの艦隊の展覧会になってしまう。つまり、互いの艦隊の練度を誇示し合うだけの形骸化したものとなり、有用性がほぼ消失する。
だから、当然流れとして試合の後は反省会になり、呉鎮守府側から相応のアドバイスや叱責を頂けるはずなのだが……。
呉「……」
椅子に腰掛ける呉提督は、杖に額を乗せて深く瞑目していた。
南「……」
その正面には南提督が立っている。真っ青を通り越し死人のように白い顔で、沈黙を守った呉提督を見つめている。朝の出迎えのときよりも、ずっと深刻な様子であった。
二人はどちらも一向に喋ろうとはしない。まるで言葉を発すれば死ぬと思っているかのようである。
この鋭いほどの静寂に、修練場の空気は凍てついていた。
呉鎮守府の人員は、艦娘も兵隊たちも、知り合いの犯罪行為を偶然目撃したときのように気まずげな表情をしている。『計画』を知らない遠征隊のみんなも似たような感じだ。オロオロと周囲を伺ったりして、とにかく落ち着きがない。
対する出撃部隊はこの事態を予測していたためか、冷静な様子である。感情のこもっていない瞳で二人を伺っていた。
明らかにこれから反省会をおこなう雰囲気ではなかった。それもそのはず、これから開催されるのは弾劾裁判なのだ。修練場は裁判所と化し、失態を犯した被告人への判決が鬼の老将より下される。
果たして有罪となり制裁が下るか、無罪放免となるか――。
349: ◆WvruwVSMos 2016/01/05(火) 18:00:50.00 ID:vfOMWv5xO
一つ目の賭けとは、この判決の行方を指していた。
演習での南提督の失態を呉提督がどう受け止めるのか。これまで集めた呉提督の情報を分析して、十中八九上手くいくだろうとは思っていた。しかし、土壇場になって呉提督の心の振り子が私の望む方向に揺れ動いてくれるとは限らない。
彼は、優れた将校であると同時に父親なのだ。ときに人間は理よりも感情でものを見ることがある。我が子可愛さに情が働いて、この失態を見逃してしまう可能性もゼロではないのだ。
情愛ゆえの盲目に陥る。私には経験がないことだが、さんざん人の感情というものを学んできたから、その可能性も馬鹿にすることはできなかった。
しかしその上で、私は呉提督の将としての器と慧眼に賭けた。情愛を無視して、正しい選択をしてくれることを信じたのである。
呉「……今回の演習を実施して、よく分かった」
呉提督が重い口を開いた。その低い声はとくに大きく張り上げられたものでもないくせに、鼓膜に突き刺さるような鋭さが込められている。
南「……」
呉「貴様に……貴様に、指揮官としての才能が一切ないことにな」
雷に打たれたかのような衝撃があったのだろう。南提督が狼狽もあらわに目を見開いた。
私は内心でほくそ笑む。最初の賭けが成功したことを悟ったからだ。
呉「これほどまでに酷い試合は初めて見た。艦娘どもの未熟さはともかく、指揮があまりにもお粗末に過ぎる。……なんだあれは? 統制がまったく取れていないどころか、なに一つ有効な指示を出せていなかったではないか」
淡々と酷評する呉提督の声は深い失望の念で沈んでいる。首を動かし、南提督を光のない瞳で見た。虚ろな、価値のない石ころでも見るかのような目だ。
南提督はその視線から逃れるように下を向いた。
350: ◆WvruwVSMos 2016/01/05(火) 18:02:44.44 ID:vfOMWv5xO
呉「まるで、幼子のようにオロオロオロオロと……。みっともないことこの上なかったぞ。『いかなるときも臆せず、寛容であれ』という我が教えを忘れたか? 我が家のものとして……いや、それ以前に海軍軍人としてあるまじき振る舞いだ。私は恥ずかしい。こんな情けないやつが後継だというのだからな」
ご先祖様に顔向けできんわ。呉提督はそう言って、懐から葉巻を取り出した。
隼鷹「おい、提督……」
呉「捨て置け。別に構わんだろ」
TPOを気にしたのか、隼鷹さんは眉根を寄せながら喫煙を諌めようとした。が、呉提督は冷たくあしらって葉巻を口にくわえた。取り巻きのものが慌てて駆け寄り、ライターで火をつけると、彼は心に生じた空白を煙で埋めるように大きく吸う。紫煙がゆるゆると立ち昇り、みるみるうちに葉巻が灰へと変わっていった。
南「……お言葉、ですが」
南提督が唇を戦慄かせながら、絞り出すように言った。
呉「……」
南「お言葉ですが、父上。……先ほどの試合は、私の部下どもが能無しであったことが、敗因だと思うのです」
馬鹿もここまで極まると逆に清々しい。
隣に立っている空母の先輩が、歯が砕け散るのではないかと思えるほど激しい歯軋りを鳴らした。出撃部隊の間に剣呑な空気が漂う。一方、呉鎮守府側の人員たちは、南提督の責任転嫁があまりにも酷かったせいか唖然としていた。
呉提督が小刻みに震える手で葉巻を掴んだ。口から真っ白な煙を濛々と吐き出す様が、噴火する直前の火山のようである。みるみるうちに額に青筋が浮かび上がっていくのが、遠くからでも分かった。
南「もし、部下どもが最初の航空戦で不覚を取っていなかったのなら、私も」
呉「この痴れ者が!!」
言い訳を続けようとした南提督に、ついに老将は怒りを爆発させた。火のついた葉巻を南提督の顔に全力で叩きつける。それをマトモに受けた南提督は、小さく悲鳴を上げてたたらを踏んだ。顔を手で抑え、驚愕に目を見開く。
南「ち、父上いきなり何を!」
呉「黙れ! 自らの失態を部下のせいにするなど……! 貴様には最低限の矜持さえないようだな!」
南「ぐっ……。で、ですが、私の部下が無能なのは事実です! 父上も……それをお認めになっているではありませんか!」
呉「たしかに貴様の艦隊の未熟さには言及したぞ! だがな、それはあくまで『我が艦隊と比べて』の話だ! まだまだ動きに無駄が多かったのは事実だが、指揮系統の乱れに動揺を見せなかったことや、所々で見受けられた豪胆さは一見に値するものではあった! あの練度であれば、南西海域の攻略もさして労せずに達成できるだろう!」
351: ◆WvruwVSMos 2016/01/05(火) 18:05:04.36 ID:1EC+bU4h0
愚かな反論を寄越した息子を噛み殺さんばかりの勢いで捲し立てる。あまりにも腸が煮え繰り返っているのか、声を荒げただけでは怒りの発散が難しいようで、杖を振り回し乱暴に地面を叩いた。
呉「先刻の試合も指揮さえ正着だったなら、もう少し拮抗していたはずだ! そう、指揮さえ正着だったならな! どう見ても、あれは貴様の失態だろうが! 無能は部下ではなく貴様だ!」
あまりにも容赦のない批評に、南提督は反駁しようとしたのだろう。口を何度か開けたが、言葉が出てこないようで、悔しげに下唇を噛んで押し黙った。
屈辱に耐えるように肩を震わせている。憎たらしさしかないキツネ目の端に光るものが溜まっており、最高にみっともない。口元を手で隠さないと、もう耐えられなかった。
ああ、あのクズにしてはなかなか愉快なものを観せてくれるではないか。これが笑わずにいられるはずがない。さんざん煮え湯を飲まされ続けてきた、殺してやりたいくらい憎い奴が、公衆の面前で屈辱の極みを味わっている。シャーデンフロイデの毒というものが、血液という血液に溶け込んで、痺れを伴う快楽を全身に巡らせているかのようだ。
横を見やると、空母の先輩が口裂け女かと思うほど口を吊り上げて露骨に笑っていた。気持ちはわかるのだが、どうか堪えて欲しい。まだ、本当に面白いものはこの先に待っているのだから――。
南提督が黙ったのも御構い無しに、呉提督の嗄れた怒声が矢継ぎ早に飛ぶ。試合の細かい酷評、指揮官としていかに無能なのかの説明、そして先日の本部での件に至るまで、かれこれ十数分は憤激を吐き出していただろうか。まるで、機銃を叩き込まれ、錐揉みしながら堕ちていく戦闘機のように、南提督はどんどんプライドを打ち壊され、肩を落としていった。
痛いところを突かれすぎて、完全に自信喪失した様子の南提督。彼への追及はまだ止まないかに見えた。
が、呉提督はその途中で唐突に咳き込み始めた。声を張り上げ続けたせいであろうか? 隼鷹さんが飛ぶような勢いで駆け寄り、丸まった小さな背中を労わるように撫でた。
隼鷹「提督、あんま無茶すんなよ……! 気持ちは分かるけどさ」
呉「……はぁ、はぁ。……この、この愚か者めがあ」
隼鷹「とりあえず落ち着けよ、なあ。もう、充分に言いたいことも言っただろ? ……ちょっとは自分の身体のこと考えようぜ」
穏やかな笑顔を作りながら宥める隼鷹さんは、どこかこうした事態に慣れているように見えた。もしかすると、呉提督と付き合いが長くて、彼が憤怒を露わにしたたびに調整役を務めていたのかもしれない。隼鷹さんがいくつか言葉をかけると、呉提督はゆっくりとだが落ち着きを見せ始めた。
352: ◆WvruwVSMos 2016/01/05(火) 18:07:13.21 ID:vfOMWv5xO
しばし、静謐な時間が訪れた。ここにいるほとんどのものが、重石を背負ったかのような苦々しい顔を浮かべている。海鳥の甲高い声がときおり穏やかな潮騒に被さり、優しい音の調和を奏でていたが、しかしまったく空気を和ませてはくれない。みんなはきっと、段々と安らいでいく呉提督の荒い呼吸音しか耳に入っていないはずだ。
呉「……南の秘書艦よ」
息を整えた呉提督が、若干の疲れを滲ませながら言った。
一瞬、私が呼ばれたのかと思って、反射的に返事をしそうになった。が、便宜上この鎮守府の秘書は元秘書艦となっていることを思い出し、すんでのところで留まった。
元秘書艦も、一瞬自分が呼ばれたとは思っていなかったのかぽかんとしていた。
呉「聞いているのか、秘書艦」
「は、はい!」
やや語調を強めた呉提督に、元秘書艦は慌てて返した。
呉「……お前にいくつか聞きたいことがある」
「な、なんでしょうか?」
呉「まず、なぜ嘘をついた?」
「えっと……」
呉「飛龍への報告のことだ。あやつから聞いた話とはずいぶん違うからな。貴様らが不出来なせいで攻略が難航し、それゆえに息子は追い詰められてしまった……という話だったはずだ。どう見ても、その逆ではないか。なぜお前たち自らが汚名を被る真似をしてまで、そんな嘘をつく必要があった?」
呉提督がこの件について尋ねてくることは予想の範疇であった。報告と事実が丸っきり違うのだから、疑念を抱くのは当然の帰結といえるだろう。
ちらりと、元秘書艦がこちらに視線を向けてきた。その瞳は灯火のように頼りなく揺れている。ゆっくりと頷いてやると、覚悟を決めたように唇を噛み締めて、呉提督に向き直った。
「……呉大将に、この鎮守府の本当の問題を知っていただくためです。そのために、私たちは嘘をついてでも、演習をお受けしていただく必要がありました」
呉「本当の問題」
眉をひそめる呉提督。
「ええ……」
秘書艦は言いにくそうに答えて、恐る恐る南提督を伺った。話についていけないからだろう、南提督は白痴のごとく口を開いて呆然としていた。
呉「……なるほどなあ。そうかそうか、そういうことか」
どうやら大凡の事情が飲み込めたらしい。彼はシワだらけの顔を歪め、不気味な笑い声を上げる。冷静沈着で知られる稀代の老将のそうした姿を今までで見たことがなかったためか、呉の人員たちは表情を強張らせていた。
353: ◆WvruwVSMos 2016/01/05(火) 18:09:28.09 ID:vfOMWv5xO
呉「たしかに、これは問題だなあ……。ああ、誇り高き○○家始まって以来の惨事なのは間違いない。くくく、知らず知らずのうちに私は狸の子供でも育てていたのかもしれん……。そうだ、そうに決まっている」
額に手を当てて考える像のように俯くと、深い深い絶望の息を溢した。苦悩に沈んだ老将の姿は、悲哀を誘うには十分すぎて、少しだけ同情の念が湧いて出てくる。
南「おい秘書艦! 一体何の話をしているんだ! 説明せよ!」
ようやく我に返った南提督が高圧的な態度で迫った。だが、元秘書艦は目を逸らして答えようとしない。
南提督は怒りに鼻の穴を膨らませ、さらに詰め寄ろうとした。が、「次に訊くが」という静かな声が、彼の足を止めさせた。
呉「今までこの鎮守府の指導は、本当に息子がおこなっていたのか?」
南「――」
南提督の表情が凍りついた。
呉「ずっと、妙だと思っていた。息子の鎮守府の報告に目を通すたび、引っかかるものを感じていたんだ。海域攻略に苦心しながら、一方では資源献上量が急激に伸びたり、艦娘どもの轟沈率が下がったりしていただろう。不自然なほどにな。……そう、そういえば『捨て艦』をおこなった時期もおかしかった。出撃回数は十を超えていたはずなのに、囮となった駆逐艦は一隻のみだという。信じられないことに、駆逐艦を轟沈させていないのだ。そのような繊細緻密なる指揮、並み以上の技量をもつ将であろうと到底不可能だ。ましてや、息子になどこなせるはずがない」
呉提督は一旦言葉を切った。
呉「ともかく、それらの情報を読み取っていくと最悪な可能性に思い当たってしまった。……息子の代わりに指揮を執っているものの存在だ。息子が胡座をかいて、肝心な手柄だけ掠め取っているのだと考えればすべてに納得がいくからな。だが……だが、私は息子を疑いたくはなかったのだ。だから、その可能性については最後まで否定しようと努めていた。しかし」
――今回の醜態を見て、そう思わざるをえなくなった。
そう言葉を紡いだ老将の顔は冷たく、それでいて苦しげであった。
話を聞いていた南提督は石像のように固まり、元秘書艦も絶句していた。呉提督の考察がほぼ正鵠を射たものであったからだ。
私も彼の洞察力に舌を巻く。事件となって仔細な調査がおこなわれた『捨て艦』の件はともかく、上層部に届く鎮守府の情報はほとんどが数字などの上辺のデータであり、内情について詳細に触れているとは言い難いものだ。だのに、よくもここまで推察できたものである。やはり南のような能無しとは格が違うらしい。
さすがは『神算鬼謀の将』。説明を弄する手間が省けて助かる。
呉「それで、どうなのだ? 答えよ秘書艦」
「それは……あの……」
私は前に出てて、答えあぐねた元秘書艦の肩に手を置いた。振り返った彼女の表情は強張っていたので、気休め程度にでも安心させてやろうと微笑んであげた。固さはほとんど取れなかったが、ほんの少しだけ緩んだように見えた。
ここから先は私の仕事である。
浜風「私です」
私は敬礼しながら言った。
呉「……なに?」
浜風「僭越ながら自己紹介させていただきます。私は陽炎型駆逐艦『浜風』と申すものです。閣下の仰るとおり、この鎮守府の運営の一部は南提督以外が指導をおこなっていました。それが、この私です」
354: ◆WvruwVSMos 2016/01/05(火) 18:10:42.88 ID:vfOMWv5xO
南「貴様! 駆逐艦の分際で」
呉「黙っていろ」
呉提督が南提督の言葉を遮って告げる。
呉「貴様はこれから一言も喋るな。これは命令だ」
腐っても南提督は軍人である。軍人にとって上官の命令は朕の命令に等しいものだ。そう言われてしまっては、大人しく口を閉ざすほかないだろう。悔しげに顔を歪めて、私を睨んできた。呉提督から向けられる鬼のような眼光に比べれば、そんなもの取るに足らない。
呉「……ふざけているわけではあるまいな?」
浜風「はい。閣下の前でそのような大それた真似、できるはずがございません」
呉「……秘書艦」
「はっ!」
呉「本当なのか? 本当にこの小娘が指導をしていたと?」
「……浜風さんの言葉に間違いありません。遠征の運営、資材源の管理、攻略指揮の一部は、彼女が指導していました。恥ずかしながら本当のことを申し上げますと、この鎮守府の真の秘書艦は事実上彼女です。秘書の仕事も……ほとんど彼女がこなしていました」
呉「なんだと?」
呉提督は目を丸くした。
呉「では、今までお前が表では秘書として振る舞いながら、裏では小娘がすべての仕事を担っていたというのか。どうしてそんな馬鹿げたことになっておるんだ?」
浜風「南提督の命令です。私のような駆逐艦は社交の場では相応しくないとの判断で、こうなりました」
呉「……どこまでも」
口から出かけた言葉を飲み込んで、怒りを抑え込むように息を吐いた。
呉「……まあ、いい。信じ難い話ではあるが、お前が指導をおこなっていたのは本当であるらしいな。血相を変えた馬鹿者の顔を見ても、まず間違いあるまい。……浜風と言ったな。では、お前に尋ねる」
浜風「はい」
呉「貴様が配属されてから、この鎮守府であったことを洗いざらい全て説明しろ」
その命令を聞いた瞬間、電流のような快楽が私の中を突き抜けた。
「やめろっ!」
南提督が必死の形相で叫び、私に掴みかかろうと迫ってきた。呉提督が「捕らえろ比叡」と一声かけると、比叡さんが走り、目にも留まらぬ早業で南提督を捕らえてしまった。後手にとって、そのまま地面に叩きつける。
倒された南提督は呻き声を上げながらみっともなく暴れたが、常人を超える力を持った艦娘に捕まえられてはどうすることもできまい。地面をのたうちまわる姿が、干上がった大地に出てきたミミズのようで愉快だ。ああ、たまらない。
危うく、引き締めた表情が崩れそうになる。
臥薪嘗胆とはまさにこのことなのだろう。辛酸を舐め続けてきた日々が、ついに報われようとしている。
嗅ぎなれたはずの潮の香りが、どうしてか花のように芳しく思える。まだ、これからが本番であるというのに。もし、すべてが円滑に達成されたとしたら、私は一体どうなってしまうのか?
不安さえ付き纏う甘い快楽に突き動かされながら。
私は朗々と、この鎮守府であったことの顛末を語り始めた。
385: ◆WvruwVSMos 2016/02/08(月) 02:03:37.94 ID:T12y+4kr0
顛末を語るとは言っても、もちろん呉提督の命令どおりすべてを話すつもりはない。私は改革をおこなう中で、いくつか法的な面で危ない橋を渡っているからだ。それこそ、監獄に叩き込まれかねないことだってやっている。
その辺りを上手く隠しながら、いつも以上に慎重な説明をおこなった。喜悦に揺られて口の滑りはよいが、内心でブレーキを小刻みに踏み、余計なことを喋ってしまわないように気をつける。
呉提督は敵性音楽でも耳にするように厳しい顔つきを浮かべていた。胸中で渦巻くドス黒い怒りを堪えているのか、嫌な沈黙を保つ。絶えず周囲の緊張を集めながら凍り付いていく空気が、波の音すら耳から消した。
どのくらいの時間、話しただろうか。
最初は暴れていた南提督も、いつの間にか下を向いて動かなくなっていた。観念したらしい。肩が小刻みに震えている。そんな死にかけた芋虫みたいになった南提督へ、軽蔑に濁った無数の瞳が向けられていた。
浜風「――以上が、これまでの顛末です」
そう結んで、私はすべての説明を終えた。幸い呉提督からは怪しまれずに済んだ。言いようもない達成感を覚えながら、意気消沈と俯く老将を見つめる。
呉「……ご苦労。話は分かった」
呉提督は椅子に深く背中を預け、枯れた息を吐いた。
呉「思っていたよりもずいぶんと深刻だったようだな。規定数を超えた出撃と遠征、部下への行き過ぎた鉄拳制裁、それゆえに艦娘どもの多くが余裕を失い、あるいは精神状態を著しく減退させていたと……」
浜風「ええ」
呉「お前の示したデータと説明は、すべてにおいて的確で理にかなったものであった。まず間違いなくお前の話は真実であろう。……よくぞここまで問題を洗い出し、改善に導くことに成功したな。駆逐艦とは到底思えぬ才気と行動力に賛辞を送ろう」
浜風「はっ、身に余る光栄でございます」
呉「うむ、これからも誠心誠意努めるがよい」
呉提督は乾いた微笑みを浮かべ、私の返礼に応じてくれた。が、すぐに表情を引き締めて冷酷な瞳を息子へと向ける。
呉「それに比べて、貴様ときたら……」
南「……」
南提督は動かない。頭を下げて、父親の追及から少しでも逃れようとしている。その子供じみた態度が癪にさわったのか、呉提督は杖を地面に叩きつけた。
一驚を喫した南提督が顔を上げる。
呉「貴様の罪状は計り知れない。規定数違反から始まり、公文書の偽装、虚偽の報告、過剰な私的制裁、そして『捨て艦』……。軍法会議にかければ懲戒免職、いや牢獄行きだろう」
南「牢獄行き……」
さっと、南提督の顔がさらに青ざめた。
386: ◆WvruwVSMos 2016/02/08(月) 02:06:06.50 ID:T12y+4kr0
呉「大変なことをしてくれたな」
南「……」
呉「……とはいえ、私にも立場というものがある。佐世保と横須賀のガキの前でこれ以上恥を晒すわけにはいかん。できれば、穏便に済ませたい」
そう思うのは当然だろう。予想どおりの展開になりつつあった。
呉提督はこのまま目をつむろうとするはずだ。他の提督たちに知られない形でなんらかの私的制裁をくわえ、それでこの件を終わらせる。彼にはそれ以外に取れる手段がない。
しかしここで問題となるのは、その手段が現状の解消にはなりえても解決にはなりえないことである。厳罰を与え反省を促したところで、南提督が無能であることには変わりはない。だから、呉提督はどうにかして息子の能力を改善したいと考えるはずだ。
そこで、ある提案を持ちかける。南提督の指揮能力の不足を一気に補い、また彼の成長をも促せる魔法のような嘘。
私を、南提督の教育係に任命して欲しいという案だ。
こうすれば、自然と南提督の権利を私に移すことが可能となる。もちろん、それでも一部ではあるだろうが、最初はそれで問題ない。そもそも私は南提督を成長させる気なんてない。ゆっくりと少しずつ実権を奪い、私がいなければ鎮守府の運営が立ち行かなくなるところまで持っていく。遅効性の毒のごとく、肝臓癌のように、静かに侵食し支配する。
これから行なうのは、呉提督の説得だ。これを成功させることさえできれば、南鎮守府は夜明けを迎えるだろう。
私は大きく息を吸い、呉提督へと意見具申すべく口を開こうとした瞬間――
呉「――だが、それでもだ」
呉提督が、今までにないほど冷めた瞳を浮かべ、鉛のように重たい声を発した。
呉「貴様のやってきたことは、○○家のものとしての誇りを忘れた卑劣極まるものだ。絶対に見過ごすことはできん」
387: ◆WvruwVSMos 2016/02/08(月) 02:08:48.63 ID:T12y+4kr0
椅子を飛ばす勢いで立ち上がり、南提督へと近づいていった。ズンズンと踏みしめる足は、老人のそれではない。まるで鎧武者のような力強さに満ちていた。
呉「たとえ、私の名誉が地に堕ちようとな」
杖をくるりと半回転させ、持ち手の部分を掴むと、バイクのスロットルのように回した。
――カチリ。
乾いた音とともに、呉提督の背後から殺気がこぼれ出た。
まさか、呉提督は――。
浜風「待って――」
声をかける間も無く、白銀の閃光が空気を引き裂いた。刹那のことである。止めようなどなかった。
私はただ虚空に手を伸ばす。
杖から抜き放たれた仕込み刀、その切っ先が地面を叩いた瞬間、南提督の首がこぼれ落ちた。まるで木の実のようにあまりにもあっけなく。
凍りついたときが急速に収縮し、そして真っ赤に迸り、弾けた。血の濁流が呉提督を襲い、比叡さんを濡らし、私を湿らせた。鉄の匂いが混ざったそれは細い横振りの雨となって、この場の全てに赤の飛沫をぶつける。
「あ、え――」
誰の口からこぼれたか判然としない。暴力的な血の動乱からやや遅れて、この場にいる全員が事態を飲み込んだ。
「きゃああああっ!!」
悲鳴という名の雷鳴が轟いた。悲鳴がさらなる悲鳴を呼び、空気が破裂せんばかりの爆音が渦を巻く。鎮守府は阿鼻叫喚の地獄と化した。絶望的に破裂した空気の中で、私と、全身を朱に染めた呉提督と、ただの肉塊だけが沈黙を守り続けている。
呉「……」
光のない瞳が、切り離された頭と向かい合っていた。舌をだらしなくこぼし、上目を向いた息子はじっと見つめ返している。そこにはもはや生命の息吹はない。ただ、絶望的なほどの恐怖だけが凝り固まり、醜い肉として落ちているにすぎない。
呉「……すまんな」
その価値のない肉に、呉提督はぽそりと語りかける。当然返事はない。
ゆっくりと目を転じ、動転する比叡さんを見た。彼女は濡れた体を気色悪そうにさすっていたが、すぐに呉提督の視線に気づいて、顔を強張らせた。
388: ◆WvruwVSMos 2016/02/08(月) 02:10:36.13 ID:T12y+4kr0
不気味なほどに中身のない笑顔を浮かべると、呉提督は言った。
呉「すまんな、比叡。……汚してしまって」
比叡「い、いえ……。その、閣下……」
呉「なんだ?」
小首を傾げる呉提督に、比叡さんは息を飲むと視線を逸らした。
比叡「……なんでも、ありません」
呉「そうか……」
今度は、私に笑顔が向けられた。血染めにした福笑いのお面から見つめられている気分だった。いや、それよりももっと空虚で、枯れていて、気味が悪い。人の心を見透かすことに長けている私ですら、今の老将から本心を読み取ることができない。
思わず、足を後ろに動かしていた。
呉「浜風、すまなかった。……息子が迷惑をかけたな」
浜風「……」
答えることなどできようがない。あまりにも唐突な終わりと、あまりにも未知な悍ましさとが、私の意志とは無関係に唇を震わせていた。私の返事など期待していなかったのだろう、彼は壊れたラジオのように、ただただ謝罪を繰り返した。
呉「……すまなかったな、すまなかった」
一体何に対して謝っているのか。虚空に死んだ睨みを利かせる彼を見ながら思う。
分からない。分からないが……一つだけ、分かることがある。
私は、失敗したのだ。
389: ◆WvruwVSMos 2016/02/08(月) 02:12:29.43 ID:T12y+4kr0
終わりは唐突に訪れた。
真っ黒な夜の帳が降り切っている。白波の砕ける音が静寂に溶けた。
狂った外灯が明滅を起こして、ドス黒い血がこべりついた地面を、繰り返し繰り返し照らし出している。まるで私の愚かさと、それ以上に愚かな死の証を強調し、嘲っているかのようだ。闇と光が道化のように踊っている。
海風はやや鉄臭い匂いを運び、それを追いかけるように蠅が飛んで、私の頬を止まり木にした。ゴミが残した赤い廃汁の匂いにつられ、やってきたうちの一匹だ。
払うのも億劫だった。
そのうちまた血の海に口づけをしたいと思い直したのか、小刻みに羽を鳴らして飛び立つ。そして歓声を上げる大衆の中に混じり、気持ち悪い集合体の一部へ転じた。
この中で歓喜しているのは、羽虫たちだけだ。
浜風「……ふふっ」
ざまあみろ。虫けらに喜ばれるなんてお似合いの末路だ。
そう吐き捨てようとしても喉元で引っかかってしまう。言葉にしてしまえば、より惨めな気分になるとわかりきっているからだ。このわだかまりは言葉という形には変わらない。胸の中で汚泥として沈んでいる。
390: ◆WvruwVSMos 2016/02/08(月) 02:14:30.95 ID:T12y+4kr0
私は呉提督を侮りすぎていた。
将としての能力を十分に評価していながら、その器を軽んじていたのだ。彼は貴族である、ゆえに自身の保身を考えて行動するだろうと。それに、彼は合理主義者でもあった。捨て艦を危険視し、艦種で差別をせずに純粋な能力で人物評価を行うことからも、それは間違いない。霞さんや朝霜さんを第二艦隊として重用し、私の説明も合理性を十分に見た上で判断していた。
だからこそ、計画を叶える上で理想的だと思っていた。理にかなった説得をおこなえば、かならず条件をのんでくれる。貴族らしい合理性を発揮して保身に走ってくれる。そう、疑わなかった。
が、彼はどこまでも将であり、誇り高い貴族であった。今の帝国にはおそらく存在し得ない、本当の意味での矜持を背負った貴族――。南提督から受けた仕打ちや醜い海軍の権利争いについて調べる中で、そんなものはいないと確信し、鼻で笑っていた存在そのものだったのだ。
呉提督は、自身の保身を顧みず、貴族の誇りを貫く選択として――今後の遺恨を一切断ち切り『終わらせる』意味で――息子の処刑を選択した。これはこれで合理的な選択と言えるのではないか。今後家の歴史に塗られることになるであろう汚辱を、最小限で済ませるという点で。
あの不気味な笑いの意味は、すべてが終わってしまったゆえの絶望がもたらしたものであろう。南提督の死によって、家督を継ぐものはいなくなり、家の断絶は決定的になったのだ。そして、なにより息子を殺さねばならなくなった運命への呪わしさもあっただろう。どんなに不出来でも、許しがたい愚行を犯そうとも、息子は息子だ。父親としての痛みは相当なものであったに違いない。
呉提督を侮り、追い詰めすぎた。それが私の敗因だ。
この失敗の責任はすべて私にある。
浜風「……」
処刑からしばらくして、呉提督は改めて私たちに謝罪をした。海軍大将から謝られるなどあり得ないことだし、なによりショックから帰りきれない私たちは、返事をすることさえできなかった。
391: ◆WvruwVSMos 2016/02/08(月) 02:17:35.11 ID:T12y+4kr0
後始末はすべて私が済ませる。安心しろ。
呉提督はそう言い残し、南提督の死体を片付けると、呉一向とともに鎮守府に帰っていった。
死体は呉に持ち帰られた。残されてもこちらではどうすることもできないし、そうしていただく他ないが、それでもなんとも後味が悪い。突然提督が消滅した鎮守府は、困惑と恐怖をそのままに置き去りにされて、混乱の極みに達していた。
それをなんとか収束させ、ようやく落ち着きを取り戻したころには、すでに夜中であった。夜の静けさと空虚さが鎮守府を不気味に包んだ。
寝れるはずもない。部屋でじっとしているのも耐えきれず、処刑の跡地を訪れて、一人自嘲の笑みを浮かべていた。
波の砕ける音がやけに響いた。車が路面の水溜りを弾き飛ばすように、海水が地面を濡らしているらしい。
いつの間にか、満潮になろうとしている。
「ここにいたのね」
空母の先輩の声だ。気だるく後ろを振り返ってみると、眉根を下げた白い顔が夜に浮かんでいた。
浜風「……どうかしましたか? まさか、また過呼吸になった子でもいたのでしょうか」
「ううん、そういうのじゃないから心配しないで。みんな大人しくしているわ」
吊り上がった頬肉はややぎこちない。あんなことがあった後だ。明かりを落としてはいるものの、鎮守府はまだ眠りにつけてはいない。
「寝れなくてちょっとね……。浜風さんの部屋に行こうと思って部屋に行ってみたらいなかったからさ。どこにいるかなって探してたのよ」
浜風「私に何の用ですか?」
「ちょっと、話をしたくて。このままじゃどうせ寝れそうにないし、話し相手が欲しかったの」
浜風「……申し訳ありませんが、今はあまり人と話したい気分じゃないんです。後日にしていただくことはできますか?」
少々冷たい言い方をすると、先輩の斜めに向いた上瞼が横向きに倒れ、萎びれた草のようになった。
「だよね……。ごめんなさい。どうしても落ち着かなくてつい」
浜風「こちらこそ、すいません」
392: ◆WvruwVSMos 2016/02/08(月) 02:20:03.96 ID:T12y+4kr0
地面へとふたたび視線を戻した。
飛び回る虫が秒針代わりに音を立てている。靴擦れ一つ聞こえない。背後から先輩が遠ざかる気配はまったくなかった。
「浜風さん、あのさ……。今は話したくないだろうけど聞いて欲しいの」
先輩が意を決したように口を開いた。私は返事をしなかった。
「あのクズ野郎が呉大将に処刑されて良かったって思うの、私。あいつは死んで当然みたいなどうしようもない奴だし……」
浜風「……」
「計画に沿うなら、たしかに傀儡化した方が良かったかもしれない。でも、その本懐は『南提督の実権が及ばなくなる』ことにあったはずよ。そういう点では、失敗していないと思う」
浜風「失敗ですよ。あいつに死なれたら困るんですから。その場合どうなるか説明しましたよね?」
「それは……」
言葉に詰まった先輩には構わず言う。
浜風「これから新しい提督が着任することになります。その提督によっては、私が今までおこなってきたことがすべて台無しにされるかもしれない。そうなってしまっては意味がないから、あいつには人形になってもらわなくちゃいけなかったんです」
そして私の汚らわしい欲と、復讐のためにも。
393: ◆WvruwVSMos 2016/02/08(月) 02:21:35.43 ID:T12y+4kr0
浜風「はははは……。それなのに、まさか殺されてしまうなんて……。さんざん耐え抜いて耐え抜いて耐え抜いてきた結果が、これ。こんな馬鹿馬鹿しいことが他にありますか?」
笑いが止まらない。
浜風「策士策に溺れる。まさにこのことを言うのでしょうね。自分の迂闊さが可笑しくて可笑しくてたまりません。……どうして良く知りもしないはずの呉提督を、ここまで純真無垢に信じていたのでしょう? 私は賭けであることを認めながら、しかし失敗を疑わずにいました。それは、私の自惚れに他なりません」
「……浜風さん」
浜風「今までほとんど失敗して来なかった。だからこそこのような慢心が生じたのでしょう。……ふふっ、馬鹿ですね」
「……馬鹿じゃない」
浜風「馬鹿ですよ。もっと慎重に考えれば危惧できたはずなのに……」
「違うわ」
肩にそっと手が置かれた。いつの間にか、先輩はすぐ背後に寄っていたらしい。
労わるように撫でてくる。
「あなたは、天才よ。あなたじゃなければ、ここまで鎮守府の改革を行うことはできなかった」
浜風「……」
「たしかに最後の最後だけは、上手くいかなかったかもしれないわ。でもね……大局で見れば、あなたは十分に成功を収めているはずよ。だって、呉提督がすべての責任を背負ってくれたおかけで、誰も不幸にはなっていないんだから。ガンを取り除く手術は、成功したの」
滑らかに動いていた手が伸び、白磁のような腕が胸元を回る。贅肉が柔らかくつぶれ、驚くほどに優しく後ろに引かれた。まるで上質なベッドに倒れこんむような感触が、背中から伝わってきた。
「浜風さんは、良くやったわ」
赤子に語りかけるような声。
「誰も……誰もあなたを責めたりしない。あなたは私たちの誇りよ。だから、自分をそんなに卑下しないで欲しい」
浜風「……」
「あなたが危惧するように、新しい提督次第ではガンが再発するかもしれない。……でも、大丈夫。そのときは、私が命にかけてでも止めてみせるから」
悲しいほどに強い決意を口にして、彼女はちょっとだけ腕の力を入れた。
「あなたには、もう何があってもこんな思いはさせない。あなたが背負ってきたものを、今度は私が背負うわ。それが、私にできる精一杯の恩返しよ」
394: ◆WvruwVSMos 2016/02/08(月) 02:24:08.71 ID:T12y+4kr0
この感覚には、覚えがある。
自分でも気付かぬうちに、彼女の腕に手を置いていた。記憶の棚にしまいきりにしていたものが蘇って、懐かしい感傷とともに溢れていく。
包帯を巻いてくれる母だった。ちょっと困ったような笑顔を浮かべ、それでも青い瞳を慈愛に染めている。ゆっくりとゆっくりと、痛みなんてないはずなのに、気遣ってくれる。そして巻き終わると、愛情一心に抱きしめるのだ。
暖かさなど生じない。けれど、不思議なほどの穏やかさに満たされていく。
ああ、あのときの気分だ。深緑の森で深呼吸するかのような、無味だけど清涼な感じ。あれを思い出してしまった。
相当、参っていたのだろうか。もう長いこと忘れていたはずなのに、いまさらになって出てくるなんて。折り重なる血生臭い日々のなか、沈んでしまった安らぎを、この手を通してたしかに感じる。
私は彼女の手を握った。苦しんでいると勘違いされたのか、力が緩められた。
「ごめんなさい。なんか、見ていられなくてさ……」
そんな言い訳が、いかにも気恥ずかしそうな感じで耳を濡らす。彼女の吐息をはっきりと感じて、それが不思議と嫌じゃなくて、「いいですよ」と自分でも気付かないうちに溢していた。
浜風「お気遣い、ありがとうございます。……先輩の言うとおりかもしれませんね」
虚しい響きの嘘だった。
道化の点滅が嘲り、羽虫の群体はなお随喜の合唱を奏でる。圧倒的な現実を目の前にして、無視などできようはずもないと分かりきっているのに、どうしてか目を逸らしてしまった。等間隔に並んだ外灯の灯りがボンヤリと、寝たふりを続ける鎮守府を映す。
その曖昧な影は、この先に待ち受ける未来の投影なのだろうか。
浜風「……これで、よかった。そう思うべきなのでしょうね」
「そうね。そう思った方がいいわ。……今までお疲れ様」
浜風「はい、お疲れ様です。先輩もよかったですね、あいつが死んでくれて」
「ホントはこの手でぶち殺してやりたかったけどね」
彼女は冗談っぽく笑った。私も笑顔を作ってみせた。ニヒルな感じが出ていないかどうか、少し自信がない。
浜風「実を言うと、私もです」
「あら気が合うわね。浜風さんとは美味い酒が飲めそうだわ。今から飲まない?」
浜風「未成年ですよ、私」
「そう堅いこと言わないでよ。小うるさいやつがせっかくいないんだしさ。今までのお礼も兼ねてね、ね、一杯やりましょうよ。……酒はギンバイしたやつがたんまりとあるし、心配しないでもいいわ。酒保開けよ、酒保開け!」
浜風「今まで主計の帳簿が合わないって思ってましたが、あなただったんですね。まったくもう……」
無理やり楽しそうに騒ぐ彼女を、やや呆れた目で見ながら息をついた。味なんて分からないけど、酒というものを体験してみるのもいいかもしれない。そう、思うことにした。
新しい『南提督』が着任したのは、それから一週間後のことであった。
413: ◆WvruwVSMos 2016/03/16(水) 06:58:56.16 ID:fYHaz7bI0
その後の展開については不明瞭な部分が多い。
事実関係の調査にきた憲兵たちの質問から思案するに、呉提督の独断専行はやはり責任追及がなされたようである。法政官を通さずに処断することは禁じられているため、いかに海軍大将であろうと責められるのは当然だった。
おそらく呉提督はこれについて言い訳を一切せず、責任を認めたに違いない。彼の性格なら、そうするだろう。そもそも隠したり誤魔化したりするくらいの性根の持ち主ならば、息子を殺しはしないはずだ。責任を取る覚悟をしたからこそのあの処断である。憲兵の派遣も、この鎮守府で起こったことの事実調査を目的としたものだった。
その調査に立ち会った私は、聞かれたことには正直に回答した。嘘をつく意味も、メリットもないからだ。話すたびに背中の重石を一つ一つ外していくような感じを覚えたが、同時に何か秘密めいたものを失っていくような気分にもなり、とうてい晴れやかになったとは言えなかった。むしろ、心の空洞が広がったように思う。
憲兵隊の調査がひと段落ついたあと、平穏が訪れた……なんてことはもちろんなかった。さらに事態は加速的な変化をみせた。
呉提督の引退が決まったのだ。もちろん引責辞任であろうが、表面上は病気による退職と公表されたらしい。提督会議が体面を気にして揉み消したのだろう。海軍大将の辞任は、大物政治家のそれなどとは比べものにならないインパクトを与えてしまう。さすがにこの事実が表に出れば、世論を敵に回しかねない。ビロードを着ていなければ恥ずかしくて表に出れないような連中にとって、それはなにより恐ろしいことだったのだろう。南提督の死も、同様に心臓病による急死と発表された。
この件は、完全に闇に葬られてしまったわけである。なんと呆気ない終わり方か。結果的に家の名誉は守れたものの、すべてを失う覚悟でいたのが空回ってしまった呉提督の心境はいかがなものだろう。金メッキのような名誉をいかにも金塊のごとく扱われる。それは呉提督のような真性の貴族にとっては、おそらく耐え難い屈辱となったはずだ。
偉大な大将のその後は知らない。彼なら腹を切りそうなものだが、それならそれで情報が入ってくるだろう。何もないということは、死んではいないはずだ。
できるかぎり彼には安らかな老後を送り、静かに眠りについてもらいたいものだ。彼ほどの将が失意のうちに死んだとあっては、さすがにやりきれないものがある。
呉提督引退の件で、ただでさえ東鎮守府の騒ぎから冷めない海軍内部は大混乱に陥っているはずだ。しかしそれが嘘のように、数日後には南鎮守府へ新しい提督がやってきた。まるで、消えた電灯を変えるかのような簡潔さで、あっさりと後任が決まったのである。
後任の提督は、いかにもエリートという見た目の男であった。眼鏡をかけ、鋭い目つきをしているところは自尊心に溢れていて、前任の南提督と似ていた。しかも佐世保鎮守府の従兄弟であり、分家筋とはいえ家柄においても優れている。しかも階級まで同じ中佐だ。苦労して消した南提督が蘇ってきたかのような錯覚を覚え、めまいを感じたほどだった。
初見の時点で嫌な予感がしたが、まさしくそれは当たってしまった。新しい南提督もエリート然とした見た目そのままに捻くれきっており、大層根強い差別意識を持っていた。私が秘書艦と聞いた瞬間に、銀紙を噛み潰したような表情をわかりやすく浮かべてくれた。
もちろん私は秘書から外されることになった。なんとなくこうなるだろうなとは分かっていたものの、納得などできるはずもない。それは空母の先輩たちも同じだったようで、異議申し立てをしようかと憤然やるかたなしといった様子で提案してきた。が、どう足掻いてもこの決定は覆しようがないので、これには許可を出さなかった。それに、提督について情報がないうちから逆らうのは、あまりにも無謀である。彼女たちを私のエゴで危険な目に合わせるわけにはいかなかった。
私は秘書から転落し、ただの一介の駆逐艦へと戻ったわけだ。こうもあっさりと、苦労して得た地位を失ったのだ。失敗のツケだと思えば幾分か慰めにもなるかもしれないが、それはあまりにも惨めであろう。
ネズミに猫のフリなどできはしない、お前には路地裏の排水口がお似合いだ。何者かに指をさされ、そう嘲られているようであった。
414: ◆WvruwVSMos 2016/03/16(水) 07:01:47.98 ID:fYHaz7bI0
一月下旬となった。
秋の気配は完全に消え去り、冬が重たくのしかかる。海辺に生活するものにとって、一番嬉しくない時期の到来であろう。
この日は雪が降っていた。雫は一粒一粒が小さく、風の勢いに流されて白い機銃掃射のようである。この地域にしてはよく降る方で、うっとおしい白さが外を支配していた。木枯らしが窓を叩き、食堂に寄り集まる遠征部隊のみんなを脅かそうとしている。目にも耳にもうるさい光景だった。
私は窓から目を転じ、正面に座る少女を見た。十月に養成所から配属されたばかりの、茶色のポニーテールが特徴的な新人である。汚れを知らない初々しい顔立ちを、やや緊張で強張らせ、喉を鳴らしたり額の汗を腕で拭ったりしていた。
思わず噴き出しそうになる。
私もとうとう慄かれる立場になったのだな。
浜風「それで、話というのは何かしら?」
微笑みをつくりながら尋ねると、ポニーテールの少女が「はっ!」と大仰な声をだした。
「そ、その浜風隊長にぜひご教授願いたいことがありまして……」
浜風「教えてもらいたいこと?」
「は、はい。どうすれば、その……隊長のようになれるのでしょうか……?」
思わず瞬きをしてしまう。私たちを囲んで話を聞いていた遠征部隊のみんなが、どっと笑った。
谷風「かああっ、青いねぇ……。気持ちは分からなくねえけど」
「浜風さんのようになりたい、ねえ。海軍大将になりたいってくらい無理なことよね~」
谷風「ちげえねえちげえねえ」
隻腕の先輩の言葉に谷風が楽しげな同意をみせる。さらにみんなは笑った。
からかわれたポニーテールの子は涙目になりながらも口を尖らせた。
「だって……隊長、すごいかっこいいですし」
浜風「そうかしら? お世辞でも嬉しいわ」
謙遜すると、彼女は鼻を膨らませて身を乗り出した。
「お、お世辞じゃありません! 任務のときの凜とした佇まいとあの素晴らしい戦いぶり……いつも見ていて鳥肌が立つようです! 隊長は私の憧れなんですから!」
浜風「ありがとう。その気持ちはとても有難いのだけど、顔が近いわ。離れてちょうだい」
415: ◆WvruwVSMos 2016/03/16(水) 07:04:27.38 ID:fYHaz7bI0
「あ……」
頬を真っ赤にして、彼女は席についた。
「す、すいませんでした! その、興奮してつい……」
谷風「おーおー、お熱いねえ!」
「きゃー! まるで恋する乙女みたい!」
「浜風さんと後輩ちゃんの組み合わせ。これはこれで……」
ポニーテールの子は、とうとう俯いてしまった。耳が茹でた海老のように真っ赤になっており、頭から湯気が立ち込めているみたいだ。さすがに気の毒になってきたので、彼女の名前を呼びながら肩を叩いた。
おずおずと顔を上げた彼女に、ゆっくりと気の利いたセリフを言ってやる。
浜風「私のようになる……というのが優秀な艦娘になるという意味で合っているなら、決して弛まず日々精進することね。努力をしないものに決して成長はないから」
「努力ですか」
浜風「そう、訓練だけをこなすだけではなくて常に多くを学び、学んだことを自分で考えなさい。そうすることで、色んな知識がついて物事にも臆せず対応していけるようになるから」
「なるほど……」
分かっているのか分かっていないのか、彼女は言われるままに頷いていた。少々呆れながらも続ける。
浜風「あとはそうね……これが一番大切なことなのだけれど。自分に誇りを持つことね。あなたは何型かしら?」
「松型です」
浜風「なら、自分が松型駆逐艦であることを強く誇りに思いなさい。自分の行動、自分の立ち振る舞いが、松型全体の名誉に関わってくる……。そう強く思うことで、あなたの心には魂が宿る。その魂こそが大切なの」
「……」
浜風「今はまだ、そのことが分からないかもしれないわね。無理もないわ。でも、大切なことだから覚えていて。窮地に立たされたときに助けてくれるのは、その誇りなのよ。誇りが、心に信じられない力を与えてくれる。私もなんども、これに助けられたのだから間違いない」
私は断言する。彼女が私に近づくのはとうてい不可能だろうが、これだけは真実だし、伝えねばならないことだ。
みんな、さっきまでの意地悪な様子ではなくなっていた。ゆるやかに破顔しながら、優しい眼差しで地獄を知らない彼女を見つめている。長い時間をかけて、ここにいるみんなは失った尊厳を取り戻してくれたのだ。だからこその、この表情だ。
彼女は呆然と口を開く。まるで、プラネタリウムを眺める幼子のようだ。星の名称や星座について何も分からないけど、その美しさに圧倒されている。そんな感じといえばいいだろうか。
肩を強くたたいた。痛そうに顔をしかめた彼女を少し羨みながらも頭に手をやって撫でる。少し驚きつつも、今度は気持ち良さそうに「ん」と零した。
416: ◆WvruwVSMos 2016/03/16(水) 07:06:45.23 ID:fYHaz7bI0
浜風「それは……それだけは忘れないでね。技術なんて後からいくらでもついてくる。でも、矜持はそうじゃないから」
「……はい」
照れくさそうに、それでいて嬉しげに口元を解した彼女は、きっと理解できてはいない。しかし、それでいいのだ。これは、『その状況』が来たときに初めてわかるものだろうから。
それから自然と堅苦しい雰囲気も解れ、私たちは再び談笑に花を咲かせた。ほどなくして出撃任務を終えて帰ってきた先輩たちも、一升瓶を片手にこちらにやってきた。自分たちの寮があるにも関わらず、わざわざ駆逐艦娘寮の食堂にだ。最近はこうしてこの場所に、遠征部隊も出撃部隊も関係なく集まるのが習慣となりつつあった。
空母の先輩が気前よく酒を飲みながら軍歌を口ずさみ、それに合わせて谷風たちが踊る。わざとらしく可笑しな振付けを見せる谷風たちに、みんなが腹を抱え、いいぞいいぞもっとやれ、と手を叩きながら囃し立てる。みんな幸せそうに、楽しそうにこの空間を共有している。
ほんの九か月前には、絶対にあり得ない光景だった。誰もが苦しみ、誰もが荒み、そして誰もが絶望していた。その中で笑えるものなど、人のことを考えられる余裕のあるものなど誰もいなかった。出撃部隊と遠征部隊の間には大きな溝があって、みんながみんな余所余所しい態度でいたのだ。
それが、このように繋がっている。これは紛れもなく私が変えたものだった。最後の最後で見誤り、苦労して得た地位を失いっても、これだけは紛れもなく私が得たものだ。彼女たちの喜びと感謝、そして羨望と尊崇……。
一番、欲していたもの。鎮守府に入るまえに夢見てきた世界が、ここに広がっている。人喰いの怪物が泣いて喜んだ自分が必要とされる場所、承認欲求を湯水のごとく浴びることができる、私にとっての理想郷だ。
たしかに、私は『人』としてここに存在することを許された。泣けるなら涙を流すかもしれないほど、喜悦の波濤が私を襲って心の形を保てなくする。
その、はずなのに。
どうしてだろう。どうしてか、私は満たされきれずにいたのだ。心にぽっかりと空洞が広がり、水が流れ出ていく。別にあの日の失敗を引き摺っているわけではない。これは以前からあったものだ。
承認欲求という黄金の杯に、最初から空いていた穴だった。私が見て見ぬふりをし続けているそれが、彼女たちとの平穏な生活に慣れていくにつれ、だんだんと――。
「浜風さーん?」
私は思考の海より立ち返った。いつの間にか横に来ていた空母の先輩が、怪訝そうに私の顔を覗き込んでいる。
「どうしたのよ、ぼうっとしちゃって。まさか、お酒が効いてきたとか? あ、でもそんなわけないか。あなた強いし」
浜風「ええ、ごめんなさい……。少し考えごとをしていただけです」
「そう? ならいいけど」
さばさばとした性格の彼女は、あまり気にせずにそう言って腕を肩に回してきた。吐く息からいも焼酎の匂いが微かにする。
417: ◆WvruwVSMos 2016/03/16(水) 07:09:00.98 ID:fYHaz7bI0
「そーそー、それより聞いてよ。新入りちゃんいるでしょ、あのポニーテールの。あの子、重巡の妹らしいわよ」
浜風「もう知ってます」
「えー、なんで知ってるの? 驚かせてやろうって思ったのにー」
浜風「お酒の席のたびに、なんどもあなたに聞かされましたから。さすがにもう驚きませんよ」
「あり? 話したっけ?」
私はこめかみに手を添えて息をついた。彼女は酔っ払うとけっこう面倒くさいのだ。
「ご、ごめんなさい浜風さん! 目を離した隙にそっちに行っちゃってたみたい」
重巡洋艦の先輩が慌ててこちらに駆け寄ってくる。
「もう、あなた飲み過ぎでしょ。明日は非番だからっていくらなんでも」
「いーじゃんいーじゃん! 細かいな~」
「細かくないわよ。……ごめんね、浜風さん」
浜風「いつものことですから、大丈夫ですよ」
「ほらー大丈夫じゃない! 浜風さんはやっぱり優しいから好きー、重巡は口うるさいからいやー」
私の体にしなだれかかりながら、空母の先輩はしっしっと手を振る。重巡洋艦の先輩のこめかみが、ひくついた。
「いい加減にしろー!」
「うわっ!」
力づくで私から空母の先輩を引き剥がした。
「痛、痛い。なにすんのよいきなり!」
「あんたが言っても聞かないからでしょ。ほら、浜風さんも迷惑そうだし、あっちいくよ」
「相変わらず乱暴極まりないわね、このゴリラ! 妹は大人しくて可愛らしいのに、なんであんたはそんなにゴリラなのよ!」
「なんですってぇ」
その言葉にはさすがに堪忍袋の尾が切れたらしい。目を三角に立てて、空母の先輩を米俵みたいに頭上へ担ぎ上げると、そのままコマのようにグルグルと回った。
これは堪らなかったのか、空母の先輩は「ストップストップ」と悲鳴を上げる。「誰か止めて」と嘆願していたが、誰も止めるものはいなかった。むしろそれを見たみんなは、ゲラゲラと声を上げていた。ポニーテールの子だけは「ね、姉さん!」と驚いている。普段は優しくされているのだろう。姉の粗野な一面が信じられないと言わんばかりの面持ちであった。
418: ◆WvruwVSMos 2016/03/16(水) 07:11:36.79 ID:fYHaz7bI0
谷風「よっ! いいぞいいぞ、もっと景気良く回せ~」
「た、谷風ちゃん、煽らないでよ! と、止めて止めて~」
「ね、姉さん! やめてあげて!」
それから何十回か回されて、空母の先輩はようやく解放された。目を回し、よろよろと千鳥足で私の隣に来ると、倒れかかってきた。
「うぇぇ……」
浜風「大丈夫ですか?」
「たぶん、大丈夫」
浜風「やめてくださいね、ここで吐くのは」
青い顔がこくこくと動く。私はとりあえず背中を撫でてあげた。
空母の先輩が落ちついたころになって、
南「おい」
低い、耳障りな声がした。
私たちは一斉に食堂の入り口へと目を向ける。南提督が尊大に胸を張り、腕を組んで立っていた。
全員、慌てて立ち上がり挙手の礼をした。南提督は返礼せずに、私たちを順繰りに睥睨している。外の鬱屈した空気よりも濁りきった瞳だ。みんなから明るさを吸い取り、この場の雰囲気を白けたものへと変えていく。
やがて、私で止まった。その目は親の仇でも見ているかのごとく、いやに鋭い。別段動じることもなく、ただ静かに見つめ返す。
そんな態度が気に食わなかったのか、南提督は眉根を寄せて大きく舌を鳴らした。
「なにか、御用でしょうか?」
重巡洋艦の先輩が訊ねた。言葉遣いこそ丁寧であるが、そこには何の熱もこもってはいない。
提督は気にしたふうを見せずに、言った。
南「……秘書艦はどこだ?」
「戦艦○○なら、自室にいると思われます。報告書の整理をしなければならないといっていましたので」
南「そうか、ではそちらに伺うとしよう」
「あの……○○さんなら、私が呼んできましょうか? 提督のお手を煩わせるのは申し訳ないので」
先輩が気を利かせてみせた。が、実際は自分たちの生活空間に、土足同然で踏み込まれることが嫌なだけだろう。とくに親しみのない、いや、むしろ嫌っている男性からそんなことをされて喜ぶ女はいない。同様の理由で、遠征隊のみんなも渋い顔をしていた。
南「ならば頼もう。沖ノ島海域攻略について相談があるので、関係書類を持参の上、執務室に来るように伝えてくれ」
「了解しました」
南「では、私は執務室に戻る」
南提督は言葉少なめに告げ、踵を返す前にまた私へと暗い目を投げかけてきた。蛆虫をみるようなその黒さには、笑えるほどにわかりやすい敵意が染み付いている。前任が腐るほど私に向けてきたそれと同じだった。
下らない。噴き出しそうなほどの浅ましさに、私は微笑でもって相対してあげる。
南「……ちっ」
忌々しそうに顔を歪め、南提督は出て行った。
谷風「……何しに来たんだよ、あの野郎」
谷風が毒を吐きながら入り口を睨んだ。話を聞いてなかったの、と真面目ぶった指摘をするものは誰もいない。それくらい、みんな提督という存在が嫌いなのだ。
私は首を動かして、窓を見た。窓は、吹き荒れる雪風に揺れながら、半透明の鏡となって私の顔を薄く映していた。
そこには何の感慨も浮かんではいない。
419: ◆WvruwVSMos 2016/03/16(水) 07:14:15.99 ID:fYHaz7bI0
秘書艦でなくなってから一番不利益だったのは、情報が入ってこないことである。そのため、私は現在の秘書艦に協力を要請した。彼女の権限で知り得る範囲ではあるものの、運営状況や南提督についてなど様々な情報を横流ししてもらえるよう頼んだのだ。
私に代わって秘書艦に返り咲いた彼女は快く引き受けてくれた。このことが南提督に知られれば懲罰は免れないのにも関わらずである。おそらく私に対して負い目を感じていたのだろうが、それでも有難い話である。
私の知っていることや、彼女から得た情報をまとめると以下の通りだ。
まず運営状況であるが、これに関しては大きな問題はなさそうであった。規定回数違反もないし、出撃任務も比較的円滑に進んでいる。呉提督の評価通り、出撃部隊は南西海域をさして労せずに突破できるほどの実力をもともと有していた。指揮がまともで、適正な労務管理がされているならば、苦戦する理由はなかった。
一月下旬までで攻略は沖ノ島海域まで進んでいる。あの海域は通称『魔の海域』とも『南西のアイアンボトムサウンド』とも呼ばれており、攻略回数も今までの倍の二十回と多く、艦娘の轟沈率はすべての海域を通して五本の指に入る。だが、七回目をクリアーした時点で、轟沈したものは誰一人としていない。
次に、新しく着任した提督についてである。前任の生まれ変わりのような見た目と家柄をもつ男だが、明らかに違うところがある。それなりに優秀なのだ。運営は基本に忠実なもので違反もしないし、指揮能力に関してもなかなかに高い。失敗したときは烈火のごとく責め立ててくるそうだが、それでも私的制裁はそれなりのところで留める。エリートらしくネジくれた性格に難があるものの、前任と比べてもはるかに弁えている方だと言えるだろう。
問題は南提督の経歴にあった。彼は、もともと西鎮守府というところの提督で、そこから異動させられたのだ。西鎮守府は北方海域を攻略中であり、ここよりもワンランク上のところである。つまり、これは左遷だ。
南提督が以前の鎮守府で何かしらの問題行動を起こしたと考えるべきであろう。家柄においても優遇措置がとられるはずの南提督が、降格処分(提督は北方海域に進出した時点で大佐に昇格するのが通例)の末に左遷されるほどの事態だ。
時期的に考えて、おそらくは『捨て艦』だろう。あの一件で咎められた鎮守府は複数ある。中には懲戒免職されたものもいるほどだし、南提督もそれで咎められた可能性が高い。この点はあくまで推測でしかないが、なんにせよ警戒に値するのは疑いようもなかった。
とはいえ、南提督が捨て艦を再びおこなうかといえば、その可能性は皆無に等しいといえる。なぜなら、『捨て艦』についてはすでに法規制されており、一ヶ月に一度予告なしで憲兵の監査が入るようになったからだ。例えるならば、労働基準監督署の臨検に近いだろうか。しかし、強制力の点では段違いだ。是正勧告なんて甘い処置はなく、『捨て艦』が認められた時点で提督会議へと報告が行くようになっている。そしてすぐさま軍法会議だ。処罰も降格処分か懲戒免職とかなり重い。
このとおり、相当厳しく取り締まられているから、簡単には『捨て艦』はできなくなっている。今や『捨て艦』はハイリスクローリターンどころではなく、ハイリスクでしかないのだ。一度この件で罰を受け、目をつけられている南提督ならばなおさらだろう。彼のようなエリートは自分の経歴の瑕疵を何よりも気にする。これ以上の失態を望むはずもない。
420: ◆WvruwVSMos 2016/03/16(水) 07:17:11.13 ID:fYHaz7bI0
『捨て艦』の心配はしなくていいわけだが、注意すべきは南提督の人間性である。艦娘を使い捨てにしたような男ということ。こいつは殺人者だ。まともな神経の持ち主とは言い難いだろう。
そして、その猜疑はまさに正しかった。彼は左遷という挫折と屈辱を舐めに舐めて捻くれ、屈折したコンプレックスを抱えているようだった。一見心を入れ替えて、南鎮守府ではまともな指導をするようになったと見えるかもしれない。しかし、それは表面上の話だ。失態を重ねることを怖れて慎重になっているだけ。彼の腐った心根と、臆病なほど尊大な自尊心は変わらない。
南提督の鬱屈したやり場のない苛立ちは、私に向けられた。出る杭は打たれるという言葉があるように、この鎮守府で一番優秀な私は目立ったようである。みんなから崇拝に近い信頼を寄せられ、常に私の周りには人が居たから、目立たない方が無理な話だ。
彼もまた膨大な承認欲求の持ち主なのだ。会社で偉そうにふんぞりかえっている上司のような感じといえばいいか。周囲から尊敬されていることを望み、いや尊敬されていて当然だと考えている、厚かましい人種。そんな人間は当然失笑を買って、裏では愚痴の餌食にされるものだと相場が決まっているが、この鎮守府でもそうだった。
このタイプは、自分より下の立場のものが優秀であることが許容できない。まして、私は最下層の駆逐艦だ。嫌悪感と苛立ちはさらに強くなるだろう。
それもあってか、私は何回か嫌がらせを受けた。遠征隊長の任命もその一環である。
元秘書艦であったことを口実に、私を責任のある立場に就かせ失敗を引き出そうとしたのだ。ついでと言わんばかりに遠征の運営まで押し付けてきたから、その本気度が伺える。これは本来ならば相当な無茶ぶりだ。中学生に大学の講義を教えさせるようなもので、普通ならば絶対にできるわけがない。南提督もその点を理解した上で、こうしたのだ。
だが、南提督は私のことを何もわかってはいなかった。あいにく、遠征の運営は得意中の得意である。私は内心でほくそ笑みながら、仕事に取り掛かった。みんなも私が再び遠征の指揮を執ると聞いて躍起になったらしく、士気も相当に高まっていた。誰が指揮棒を握るかで、従うものたちのモチベーションというのはかなり差異がでるものだ。おかげで遠征はすべて大成功を収めることができたし、徹底した効率化も合わせ、一ヶ月の間で私はかなりの数値を叩き出した。同期間の比較で、南提督が指揮を執っていたときの二倍近い量である。
これには南提督も度肝を抜かれたらしい。失敗した私に罰を与えてやるつもりが、まさか逆に勲章ものの成功を収めてきたのだから。あのときの苦々しい表情は面白かった。まさか、これだけの成果を達成したものに罵声を浴びせかけるわけにもいかない。さすがの彼も、私にどう声をかけるべきか迷っていたようだった。
この隙を見逃さなかった。私は、提督の前で大げさに手を合わせ、感激したように声を震わせながら、「私のような一介の駆逐艦にもチャンスを与えてくださり、光栄でございます。提督はなんとお心が広い方なのでしょうか……。敬服いたしました。これからも誠心誠意隊長として勤めさせていただきます」と白々しく言ってみせたのだ。そのとき、執務室には出撃部隊がいた。こうまで感激するものを邪険にしたとあっては、ひんしゅくを買うどころではすまない。南提督は歯ぎしりしながら、私に労いの言葉をかけて褒美まで寄越してきた。
このように、他の嫌がらせも受け流し、やり過ごし、あるいはカウンターを返してすべて封殺した。どうせ、どう足掻いたところでいい感情は持たれない。ならばいっそのことと容赦はしなかった。
思えば、私は少しやけになっていたのかもしれない。満たされない日々の中で、焦燥にも似た苛立ちを感じていたのだ。
満たされたい、なんとしても満たされたい――。そう何度渇望しても、決して満たされることはなかった。なにをやっても、どれだけみんなから慕われ感謝されようとも、まったく足りなくなっていたのだ。これをなんとかしたくて、南提督との駆け引きに突破口を見出そうとしたのだと思う。
たしかに、南提督の策謀を叩き伏せるのは楽しかったが、すぐにその喜びも空虚なものへと朽ちていった。ただの退屈な遊びと成り果て、私はまたしても満たされない思いに喘ぐ。オアシスを追い求め彷徨い歩く遭難者と化した。
私が飽きていく反面、南提督の敵意はますます増大していくようだった。だが、火が強まればその分煙も出てくる。彼の瞳はだんだんと隠しようがない慄きで濁り始めていた。なにをやっても潰せない。すべてが看過され、予想を上回る成果まで上げられてしまう。自身の物差しでは私を測ることができないと、どうしようもなく悟ったのだろう。その無力感が不完全燃焼を起こし、恐れを生んだのだ。
それが破滅への門をあける鍵となった。
私もまた、どうしようもない虚無の中で目を濁らせていたのだ。これも慢心なのであろう。
自分でも呆れ果ててしまうほどに浅ましい。
421: ◆WvruwVSMos 2016/03/16(水) 07:19:09.71 ID:fYHaz7bI0
裸同然になった山林には、紅梅だけがポツポツと灯っていた。
深い眠りについた枯木の中で、一番早く目を覚ますのが梅である。冬の気配は頑として消えようとしないが、季節の再生はゆっくりとした開花の中から徐々に現れようとしていた。立春とは梅の寝起きのことなのだろう。
あと二ヶ月もすれば桜が乱れて、ホトトギスの声音が澄み渡る空を打つ。私の着任から一年の節目が、如月に入り明瞭な色彩を持って見えていた。
その情景を眺めながら、遠征隊のみんなを連れて鎮守府本館のそばを歩いていると、空母の先輩がやってきた。
「浜風さん、重巡が呼んでるわよ」
浜風「何の用でしょう?」
「詳しくは知らないけど、相談したいことがあるから部屋に来て欲しいってさ」
先輩は小首を傾げながら言った。
浜風「重巡先輩が相談とは珍しいですね」
「たしかにそうね。あの子、あまり自分のこと話したがらないし。……相談ってなんだろ?」
谷風「もしかしたら、妹ちゃんのことじゃねえかな?」
隣にいた谷風が私の袖を引っ張り、眉を伏せる。
谷風「ほら妹ちゃん、労咳で最近休んでるじゃん? その関係でなんかあったのかもなあ……」
ポニーテールの子は、二月に入ってから結核にかかって療養中であった。結核はストレプトマイシンなどの治療薬が見つかってから久しいものの、インフルエンザのようにすぐに治せる病気というわけではない。完治するまでには長い時間がかかる。空気感染のリスクが高い病気だから、結核菌の除去が完了するまでの間は特別治療室に隔離され、面会も制限されてしまうのだ。
もう一週間、彼女とは顔を合わせていない。一応、主治医の妖精から経過が順調であることはうかがっているが、それでもみんなが懸念を抱くのは詮無きことであろう。治療薬が高価だったほんの数年ほど前まで、結核は「国民病」として怖れられていたのだ。艦娘たちはほとんどが下流階層の出身である。その恐怖から抜けきっていないのは当然だった。
422: ◆WvruwVSMos 2016/03/16(水) 07:21:05.82 ID:fYHaz7bI0
浜風「主治医の話では快方に向かっているとの話ですが……。しかし、しばらく顔を合わせていないはずですし、それで不安になっているのかもしれませんね」
「でも、それだけなのかな……。なんか今朝から様子が変だったのよね。すごい顔色が悪かったというか。……谷風ちゃんの言うとおり、妹ちゃんの容態が悪くなったりしたのかしら?」
谷風「心配だな……」
谷風がそうつぶやくと、みんなは表情を曇らせた。
浜風「ふむ……。とりあえず、様子見を兼ねて先輩のところに向かおうと思います。話を聞いている中でおのずと問題も分かるでしょうから」
「私たちもついていくわ」
私たちは艦娘療へと向かった。
出撃部隊の寮は数が多い駆逐艦より幾分か豪華であり、部屋も個室が当てがわれている。赤レンガの建物の二階に、重巡洋艦の先輩の部屋はあった。
私は部屋の前に立ち、扉をノックした。反応がないので声をかけてみる。
浜風「先輩、浜風です」
応答はなかった。
浜風「……先輩?」
谷風「不在なんかね?」
「呼び出しといて外出するとは思えないけど」
私たちは顔を見合わせて、眉をひそめたり首をひねったりした。
「……ごめんなさい」
やけに重たい声だった。錆び付いた鉄扉を押すように、ゆっくりとノブが回って開かれる。
扉の隙間から蒼白な顔が出てきた。先輩たちが息を飲んだ。
「浜風さんと……。なんだ、みんなもいるの」
「……あんた大丈夫? 朝見たときよりなんか顔色が悪くなってるように見えるんだけど」
「ちょっと気分が悪いだけだから、平気だよ」
谷風「そうは見えねえよ」
谷風の言うとおりだ。今にも倒れてしまいそうな様子である。そうとう深刻な悩みをかかえていると見るべきだろう。
谷風「なあ、どうしたんだよ? はっきり言って今の先輩、普通じゃねえぞ」
「……」
谷風「もしかしてだけど、さ。妹ちゃんのことで何かあったのか?」
先輩がぐっと息を飲んだ。目に動揺の光が揺らめく。
「やっぱりそうなのね。妹ちゃんに何かあったの?」
「……」
「重巡……」
「……それについては、ごめん。みんなには言えないの」
重巡洋艦の先輩が、酸素の少ない空間にいるかのように、苦しげな声を出した。
423: ◆WvruwVSMos 2016/03/16(水) 07:22:56.24 ID:fYHaz7bI0
谷風「どうしてだ?」
谷風がそう訊ねても、先輩は目を逸らして口をつぐんだ。それ以上は話せないということだろう。
はっきりとしない先輩の様子に業を煮やしたのか、谷風が詰め寄ろうとした。私はそれを手で制する。
浜風「何があったのかはわかりませんが、どうしてもみんなには話せないことなんですね。ですが、私になら話しても大丈夫と」
先輩は私に相談を持ちかけてきた。それはすなわち「私になら話せる内容」だということだ。
先輩はゆっくりと頷いた。
浜風「……ということらしいです。申し訳ありませんが、皆さんには席を外していただこうと思います。……それでいいですか?」
「ええ」と力なく溢した先輩をみて、空母の先輩が大きく息を吐いた。
「わかったわ。どうしても私たちに話せないならしょうがないわね」
谷風「でもさ……」
「谷風ちゃん。心配なのは分かるけど、ここは浜風さんに任せましょう。こういう相談事とかは浜風さんが適任だしね」
空母の先輩は私の肩に手を置いて、
「悪いけど、あの子のことよろしくね」
と微笑みながら告げた。そのまま谷風の手を引いてみんなとともに去っていく。眉毛をハの字に曲げた谷風が、廊下の角から消えるまでこちらを見ていた。
浜風「……さて、それではお話を聞かせていただきましょう。お邪魔してもよろしいですか?」
「どうぞ」
薄暗い部屋だった。曇り空からこぼれるなけなしの光が、八畳一間の質素さを重々しく強調している。ベッドが、本棚が、テーブルが、色素を吸いとられ沈んで消えてしまいそうだ。
先輩は気にせず椅子を引き、座るように促してきた。戸惑いながらも座る。
浜風「あの、明かりは……」
「あ、ああ……」
蒼然と浮かんだ微笑みはぎこちなく、硬かった。
「ごめんなさい。すぐにつけるよ」
電灯がついた。
色彩を取り戻した部屋はなお質素だった。汚水を水で薄めたような感じで、いぜんとして暗さが抜けきっていない。
先輩はそのまま台所に行って、コーヒーを淹れ始めた。ミルクを注ぎ、角砂糖を入れている。普通はミルクと角砂糖を分けて出すのが作法だと思うが、そんなことを考えている余裕もないのだろうか。
席に戻ってくると私の前にカップを置いて、対面に座った。
424: ◆WvruwVSMos 2016/03/16(水) 07:24:47.23 ID:fYHaz7bI0
「けっこういい豆なんだよ。実家が喫茶店やっててさ、送ってもらったんだ」
浜風「そうですか」
「浜風さんに一度飲んで貰いたかったんだよね。すごく美味しいから、飲んでみて」
曖昧に笑いながらも、せっかく出されたものを飲まないのはマズイと思って口を付けた。火傷しないように慎重に傾ける。
相変わらず温度も味も分からない。ただ、ほんのりと豆の香ばしさだけが鼻腔の裏からするだけで、水を飲んでるのと変わりはしない。
浜風「とても美味しいですね」
息をするように嘘をつく。
浜風「私はコーヒーには詳しくありませんが、これが良質なものであることは分かります。先輩のご実家は、さぞかし素晴らしいところなのでしょうね」
「……」
下唇を噛んで俯くだけで、先輩は反応しない。髪が垂れ幕のようになって表情を覆い隠す。首元にのぞいた傷跡を気にするそぶりさえなかった。
「……ごめんなさい」
浜風「別に気にしないでください。どうせ、今日はもう仕事はありませんでしたし」
「……ごめん、なさい」
先輩は謝るばかりだった。
浜風「そうかしこまらないで。本当に、気にしてませんから」
「……」
細い指先が赤いカップのマグに添えられた。病的なまでに白く、リンゴのヘチに子蛇が絡みついているようである。カチカチカチカチと時計の秒針よりもはやく、陶器の擦れ合う音が静寂を揺すった。
――震えている。
まるで、イジメをしていたことを厳格な親に知られた幼子のように。怯えて、いた。
「わたしさ、あの子が大好きなの」
ゆらゆらと落ち着かない声で先輩は語り始めた。
「とても優しくて、純粋で……。正直、戦場に立つには向いてるとは言えないと思う。本来は実家でコーヒーを淹れたり給仕したりして、看板娘にでもなるべきだったんだよ。……選ばれた以上、仕方ないけどさ」
たしかにあの子は連装砲を握るには甘すぎる。もし、私と同じ頃に入っていたならば、初陣でバラバラにされていたか、そうじゃなくとも首を吊って死んでいただろう。十月に入ったからこそ、彼女は壊れずにすんでいる。
425: ◆WvruwVSMos 2016/03/16(水) 07:29:06.45 ID:fYHaz7bI0
「あの子はとても嬉しそうだった。艦娘に憧れていたんでしょうね。……姉さんと一緒に戦いたいからかならず南鎮守府に行くって、送られてきた手紙には書いていたよ。複雑……だったよね。妹に会えるかもしれないって思うと嬉しかったけど、こんなところにあの子が来るのかって考えると……」
息を吐き、やや間を置いた。「でもさ」と続ける。
「浜風さんのおかげで、この鎮守府は変わった。戦争している日常にはなんら変わりはないけれど、それでもみんなが心から笑っていられる場所になった。明日に消えるかもしれない自分の命に悔いなく生活できるように。……ありがとう」
浜風「こちらこそ、そう言っていただけて頑張った甲斐があるというものです」
「……あの子ね、あなたにすごく憧れているの。いつも言ってるわよ、『隊長のような素敵な艦娘になってお国に尽くすんだ!』って」
浜風「光栄です」
「私もあなたのことを尊敬しているわ。あなたはきっと、十年に……ううん、百年に一人の逸材だと思う。そんな人と轡を並べていられるのは、私にとっても幸運だよ」
その言葉に柔らかさを感じなかったのは何故だろう。いぜんとして彼女は顔を上げず、茶色い波はとうとう受け皿に溢れ出ていた。そこに、揺れとは関係ない波紋が一つ、起こった。
涙だった。
「あなたが肩に手を置いてくれると勇気が湧く。あなたがそばにいるだけで安心する。あなたが手を握ってくれると、すごくドキドキする。あなたがいれば……私たちは笑っていられる。私は、あなたが大好きなの。妹と同じくらい、家族のように愛していた」
なぜ、愛していると言わないのか。
部屋が、不思議なほどボンヤリと暗くなっていく。
いや、違う……。私の視界が霞んでいる。
「私は最低な人間よ。みんなを救ってくれたあなたを裏切ろうとしているんだから」
いったい、なんの、話だ。
――ダメだ。だんだんと頭が重くなっている。考えがまとまらない。
頭が勝手に落ちていく。机に手をついた。その勢いでカップが倒れ、コーヒーが広がる。体勢を立て直そうとしたが、まともに力が入らなくて頭を少ししか上げられない。
クスリを盛られていたのだ。そう気づいたときには、もはやどうしようもなくなっていた。黒ずんだ視界の中で、ふと彼女が顔を上げるのが見えた。
その顔はひどく辛そうに歪み、涙で汚れていた。
「ごめんなさい……。浜風さん、ごめんなさい……」
私の横に一枚の写真が差し出される。そこに写っていたものを見たのを最後に、私は完全に闇の中へと落ちていった。
「こうしないと、妹が殺されるの――」
懺悔が、聞こえた気がした。
431: ◆WvruwVSMos 2016/03/18(金) 07:04:49.95 ID:EVs6CB3Q0
重たい瞼をゆっくりと開いた。
青灰色に揺らめく海が見えた。穏やかな波が私を揺らした。もう一度目を閉じて眠りにつこうとしたが、つんざく海鳥の声に邪魔をされる。粘着剤をつけられたみたいに動かしがたい瞼をふたたび開くと、今度は灰色に濁った空も見えた。雲の動きが、枝を這い回る蛇のようだ。
ゆっくりと起き上がる。入渠した後に病室のベッドで迎える目覚めにも似た、泥の中から引き摺りだされるような最悪の寝起きであった。酒を飲んだときでもこんなに気持ち悪くなったことはない。ぐらぐらと揺れる頭を押さえながら、周囲を見渡す。
茫洋と広がる海には島影の一つも見当たらない。どこを見渡しても同じ景色だった。どうやら相当沖合いで漂流しているらしい。
私はどうしてこんなところにいるのだろう?
頭を動かすのも億劫だったが考えてみる。波に流されたときにでも思考回路が乱れたのか、なかなか思い当たるものが出てこない。今日は遠征に出かけただろうか? そのときに敵にやられて、みんなとはぐれてしまったか。しかし、そんな記憶はどこにもない。
あれこれ考えるうちに、ふと重巡洋艦の先輩の顔が浮かんだ。涙で化粧をした悲愴に満ちた顔が。
頭を殴られたような衝撃が走り、一気に意識が覚醒した。
そうだ。
私は、彼女の自室に赴いてそこで――そこでクスリの入ったコーヒーを飲み、意識を失った。
おそらくはその後に海へと運ばれてしまったのだろう。そう考えると自分の現状におよそ納得がいく。私はそう、捨てられたのだ。しかもご丁寧なことに艤装を装備させられた上で。
手のひらに目を落とし、開いたり握ったりしてみた。周囲の空気が、静電気を帯びながら不自然に揺れる。艤装の装備とともに展開される、限りなく不可視に近い『装甲』が起こす現象だ。
今度は手に持った連装砲を見てみた。異様に軽く、残弾もゼロと表示されている。そのまま太ももの方へと目を転じ、雷管を確認した。虎の子の酸素魚雷は予備に至るまで一本も入っていない。他も探ってみたが、機銃から爆雷に至るまで弾薬という弾薬は一つも補充されていないようだった。
432: ◆WvruwVSMos 2016/03/18(金) 07:07:03.33 ID:EVs6CB3Q0
舌打ちを禁じ得なかった。徹底的に私を生かして返す気がないようである。
こんな悪趣味なことをする奴は、一人しかいない。
南『おや、起きたかね』
耳元の無線から、下衆野郎の声が雑音混じりに響いた。
浜風「ええ、おかげさまで……。最悪の目覚めです」
南『そうかそうか、気に入ってくれたようで何よりだよ。私からのちょっとしたサプライズプレゼントだ。驚いたろう?』
浜風「そうですね。あまりのセンスのなさにびっくりしましたよ。唾を吐きかけてやりたいくらいです」
南『あはは、珍しく怒っているじゃないか。君からそんな暴言が聞けるとは思いもしなかったぞ』
浜風「暴言どころか、殴り飛ばしてやりたいですね」
南『構わんよ。帰って来れるならな』
握り締めた拳が怒りのあまり震える。
浜風「……大層な自信ですね」
南『腹を空かせた猛獣の檻に子羊を投げ入れればどうなるかなんて、考えなくとも予想がつくだろう? それと一緒だ。自身もクソもないさ。浜風くん、君は確実に死ぬ』
浜風「へえ」
南『弾薬も魚雷もゼロ、豆鉄砲もなければ鹿の糞のような爆雷もない。戦う術を無くした君に生き残る術は皆無だ。対空火器すらないのにどうやって敵艦載機をやりすごす? 戦艦や巡洋艦を相手にしたら? ほら、どうやって凌ぎきる? いつものように朗々と説明してみろよ』
浜風「……」
閉口せざるを得ない自分が腹立たしい。そして何よりも癪にさわるのは、答えようがないことを分かっていながら訊ねてくる南提督の底意地の汚さだ。
ザリザリと割れた嘲笑をならしている。今すぐに執務室へ飛んでいって喉仏を引き裂いてやりたい。
433: ◆WvruwVSMos 2016/03/18(金) 07:09:32.70 ID:EVs6CB3Q0
南『まあ無理だろうなあ。賢しい君のことだ、そんなこと言われなくとも気づいているだろう。……ああでも、燃料は片道分入れてある。運が良ければ万に一つでも生き残れる……かもしれないな。武士の情けというやつだよ、うん』
浜風「武士の情け?」
私はあからさまに鼻で笑った。
浜風「これのどこに情けがあると言うんですか。そんなお綺麗な概念を持ち出して、自身の愚かしい行為を正当化しようとするなど人として恥ずべきおこないです。……あなた、頭が膿んでいるのではないですか? 正気を疑いますよ。さすがは、左遷されてきただけのことはありますねえ」
南『貴様……』
南提督の声が低く、ドスの効いたものへと変わった。
南『粋がるなよ小娘が。私はなあ、貴様の普段の働きに免じて温情をかけてやったのだ。本来ならば地下室に閉じ込めて嬲ってやっても良かったんだぞ。あの、松型駆逐艦のガキのようにな!』
浜風「――」
私は倒れる直前に見た写真のことを思い出した。
コンクリートでできた薄暗い一室、そこの柱に先輩の妹が捕らえられていた。星のように目を輝かせながら私を見て、いつも天真爛漫な笑みを見せていた彼女の顔は、元のそれが思い出せないほどひどく歪んでいた。鼻は骨が突き出るほどにへし折られ、目は何倍にも晴れ上がり、黒ずんだアザが肌色を焦げ上がらせている。腐ったジャガイモが、少女の華奢な体にくっついていると言えばいいか。辺りには惨状を示すように鮮血が飛び散り、およそ見るには絶えない光景だった。
間違いなく、彼女は拷問を受けていた。鉄の棒か何かで執拗に殴られたのだろう。そうでもなければ、ああはなるまい。
口の中で、歯が削れる音が響いた。それには気づかない南提督は引きつった笑いを零しながら、凶行を暴露していく。
南『ヒヒヒ……本当はな、二三発殴って済ませるつもりだったんだ。それがあの糞ガキ……「隊長助けて」と泣きながら喚き出したんだよ。黙れ、と命じたのに聞く耳を持たず、隊長隊長隊長隊長隊長隊長隊長隊長隊長隊長隊長隊長隊長隊長隊長隊長隊長隊長……! ずうっとそうやって貴様の名前を呼んでいてな。貴様の面が頭をチラついてチラついて、腸が焼けそうなほどに頭にきたもんだから、ついやりすぎてしまった』
話すにつれて興奮してきたのか鼻息を荒くしながら続ける。
南『艦娘とは頑丈なものだなぁ。軍人精神注入棒で何十回と殴りつけてやったのにまだ息があったのだから。まあ、死なれては困るからその辺でやめておいたが。しかしおかげでいい写真が撮れたよ。ヒ、ヒヒヒヒ……』
434: ◆WvruwVSMos 2016/03/18(金) 07:11:49.64 ID:EVs6CB3Q0
唇が裂けて血がこぼれた。頭が真っ白になって呼吸がうまくできない。
このクズ野郎は無垢なあの子を壊し、その姿を写真に収めて脅しの材料にしたのだ。従わない場合は妹を殺すと告げ、私を海へと捨てるように命令した。
先輩がそれに従うのは無理はないだろう。家族があんな姿にあっているのを見て、動揺せずにいられるわけがない。
浜風「この下衆野郎が……」
南『ヒヒヒヒ……。全部貴様が悪いんだぞ。貴様さえいなければ、私はこんなことをせずにすんだんだからな! そうだ、そう貴様が悪いんだ! 貴様があ』
私はとうとう無線を掴み、粉々に握り潰した。破片が海のもずくと化す。奴との会話から位置情報でも引き出してやるつもりだったが、これ以上は聞くに堪えなかった。
腕を抱き、怒りに震える身体を抑えるために大きく息を吐いた。なんどか深呼吸をして、肺の中の空気を入れ替える。
落ち着かねばならない。今の状況でこれ以上冷静さを失うのは自殺行為でしかないから。
どうにか現状を打開する策を考えようと頭を切り替えた。まさにその瞬間だった。
心電計にも似た音が鳴った。背後の十三号対空電探が感応したのだ。その音は少しずつ速さを増して鼓膜に響いてくる。
私は曇天を睨んだ。
雲に覆われて見えないが、間違いなく向かってきている。無数の敵艦載機が私の命を喰らいにやってきたということか。
435: ◆WvruwVSMos 2016/03/18(金) 07:13:58.36 ID:EVs6CB3Q0
くそったれが。
舌打ちをして、私は反転後すぐに機関を回した。速度を上げるまでには時間がかかるから、敵艦載機が頭上から現れたタイミングでは遅きに失する。両舷全速、速力を一気に原速から第三戦速まであげていく。
第三戦速になりきるかなりきらないかというところで、真っ黒な敵機が雲を切り、雲霞のごとく押し寄せてきた。数は多すぎてわからない。
面舵にきる。瞬間、私がいた場所に水柱が次々と上がった。水平爆撃だ。たった一隻を狙うにしては大袈裟すぎる量に、思わず息が詰まった。
が、吐き出す間もなかった。艦載機が一列に連なり、私へと突っ込んできた。考えるよりもさきに取り舵へと変える。洗練された動きのもとに行われた急降下爆撃。辛うじてかわしたが、左右から飛沫を浴び、爆弾の破片が装甲を削る。まるで、化け物の爪に嬲られているようだ。
歯を食いしばり、私はさらに速力を上げた。張り子の虎同然である連装砲と魚雷発射装置を放棄し、少しでも身体を軽くする。燃料を節約しようなどケチなことをしている暇はない。最大戦速を出した。
対空砲火という妨害のないやつらは、まさに水を得た魚となっている。もてる全力を発揮しなければ、簡単に殺されてしまう。
舵を切るたびに艤装が鉄の悲鳴を上げた。下半身の関節という関節が軋んで、千切れてしまいそうだった。それでも、力を込め、動く。動き続ける。動くことを辞めた瞬間が、私の最期だ。
浜風「ぎっ……」
横っ面に鈍器で殴られるような衝撃が走った。至近弾を喰らったのだ。視界が一瞬黒く染まり、思わずよろめいて倒れかけたが、踏ん張ってまた走る。
すべてを避け切れるはずなどなかった。当たりはしなくとも、徐々に徐々に削られていく。私は数分、いや数十分かもしれないが、そうして黒いカラスどもに突かれ続けた。
436: ◆WvruwVSMos 2016/03/18(金) 07:15:53.42 ID:EVs6CB3Q0
すべての攻撃が終わり、敵機が引き上げたときには、すでに私の装甲は傷だらけであった。
呼吸が、マラソンを走ったときのように乱れていた。とめどなく溢れた汗が、米神や鼻筋をするりと通り、目に入ってきて視界を滲ませた。制服が肌に張り付いて気持ち悪い。装甲を展開中に汗は拭えないし、そもそもそんなことに気遣う暇はない。
休息など取らせないと言わんばかりに、十三号対空電探がどやしてきた。整わぬ息のまま、之の字運動で白波を撒き散らす。
敵機はまたしても雲より現れた。唇がわななくのを抑えきれない。さっきよりもずっと数が増えていた。第一次攻撃で、こちらが一隻であることは悟ったはずだ。ネズミ一匹たりとも生かしては返さぬと言わんばかりで、まったく容赦というものがない。
爆音はもはや隙間などなくて、巨大な爆竹のように延々と騒ぎ立てた。私を追いかけてくる水柱の間隔が、先ほどよりもはるかに狭い。計器が振り切れるほどに機関をいじめ、無感をいいことに身体の節という節に負荷をかける。苛む。筋肉の奥からぷちぷちと音がした。
浜風「あああああああああっ!」
爆発、爆発、爆発。
濁流のごとき飛沫をかぶり、黒煙をつきやぶり、火炎にあぶられ、怪物の爪に殴られる。脳内にスパークが起こり、視界が闇に潰れ、あまりにも激しい明滅が、私を狂わせようとする。
その爆撃地獄に、鉄の暴雨が降り注いできた。
戦闘機が機銃をうならせ、私を嘲笑う。
爆弾とは違い、かわしようがない速度の攻撃。稲妻が視界に走り、重たい衝撃が幾重にも襲う。まるで、キツツキが幹に穴を開けるがごとく。
浜風「――が、あが」
痛みなんてない。偽の呻きを反射で上げていた。攻撃を受けたとき、そうなるように訓練してきたせいだ。
装甲で防御できたとはいえ、衝撃をすべて殺せるわけではない。軽く脳震盪を起こし、足が震え、航路が歪んだ。爆弾が刺さらないのが奇跡である。
しかし、刹那――低空より悪魔が突っ込んできた。右七十二度より雷撃機が魚雷を投下して上昇した。
白い槍が海面を舐めながら迫りくる。
437: ◆WvruwVSMos 2016/03/18(金) 07:17:19.34 ID:EVs6CB3Q0
――面舵一杯。
雷跡と平行になってやり過ごそうと右に舵をとる。それが、命取りとなった。
浜風「――」
突如として私は叩き潰され、海面とキスをさせられた。
何が起こったのか理解できない。いきなり土砂崩れに巻き込まれたような困惑が思考を押しつぶし、耳鳴りがけたたましく騒いだ。空と海が反転しているような錯覚を覚えるほどに世界が歪む。が、脳震盪など慣れきっているから、すぐに私は意識を振り絞り、体を捻って状況を確認した。
背後からはもうもうと煙が上がっている。
ちょうど私が避けた方向に、水平爆撃の爆弾が落下していたのだ。私は雷撃に気を取られすぎて、それに気づくことができなかった。
立ち上がれない。機関も完全に故障したのだろう。手元のスロットルを捻っても、まったく反応を示さない。つまり、航行不能に陥っていた。
雷撃がどんどん迫りくる。
――こんなところで死ぬのか。
死を覚悟した瞬間、脳内に光が溢れた。えもいえぬ感覚に全身が震える。桜が見えた。誇り高き姉とともに現出せしめる撫子色の閃光を放つ花びら。楽園を舞うその一枚一枚は、まるで天使の羽のようであった。
陽炎姉さんの、悲しいほどの微笑みが、私の胸を貫いた。
――死んで、たまるか。
なんとしても生き残る。あの約束だけはたとえ四肢が千切れようとも守り通さねばならない。
私は坂から転げ落ちる芋虫のように、もがいた。満足に動かない身体を捻り、手をついて、逃げようとあがく。そのみっともなさたるや、南提督が見たならば絶頂に達したかもしれない。
魚雷はもはや目と鼻の先だ。ぞっとした感覚に襲われ、内臓がせりあがる。
とてもかわしきれない。
――神よ。
もはや神にすがる他なかった。悪魔でも聖書を引用するとは言い得て妙ではないだろうか。悪魔も人も手前勝手な目的のためならば、都合よく神を利用するのだ。
神などいないと、蔑んでいながらも。
だが、このときだけは一瞬だけ神の存在を信じかけた。魚雷が爆発することなく艦底を通り越していったのだ。
奇跡という他なかった。死神とも揶揄される駆逐艦「雪風」を思わせるほどの幸運。私は呆然と、遠くに過ぎていく白い軌跡を追っていた。やがてパッと発光したかと思うと、轟音とともに水の塊が跳ね上がり、火と煙が曇天を焦がした。
安堵のあまりに肩の力が抜ける。ほっとしている場合ではないはずなのに、それでも人間とは、突発的に襲った危機から救われた瞬間、足元が泥になったように緩んでしまう。そして、神の存在に手を合わせるのだ。
が、神は不信者を何度も救うほど慈悲深くはない。
鉄のスコールが私を襲った。
四方八方から、入れ替わり立ち替わり、戦闘機が機銃掃射を敢行してきた。蹴たぐられるマリオネットさながらに私は踊らされ、蹂躙された。銃弾が波を蹴散らし、装甲をえぐり、徐々に徐々に私をなぶり上げ、裸同然にひん剥いていく。
浜風「がああぁああああああ! あああああああああああああああああああ、あああああああああああああああああああああああっ!」
狂乱じみた劇が幕を開ける。
その劇の中で、私はひたすらに悲鳴を上げ続けた。
438: ◆WvruwVSMos 2016/03/18(金) 07:20:06.11 ID:EVs6CB3Q0
いったいどれほどの間、蹂躙され続けたのだろう。
五分か、十分か。あるいはもっと長い時間か。
戦闘機がすべての弾薬を使い果たし、引き返したときには、すでに私はボロ雑巾同然になっていた。
しばらく私を守ってくれた装甲も、薄皮一枚を剥いでいくように壊されてしまった。あまりにも絶え間ない弾丸は雨というよりもはや嵐で、駆逐艦のしけた装甲では到底耐え切れるものではなかった。爆撃を受けて中破になった私もとうとう大破となり、ほとんど生身のまま攻撃を受けることとなった。
まるで針地獄が逆さになって落ちてくるがごとく。足は縦笛のようになり、右の膝小僧は裏から破壊された。額も深く削られて、服を破かれ、全身という全身に裂傷が刻まれていることだろう。おそらくは内臓もぐちゃぐちゃのスクランブルエッグにされたのではないか。あまりにも負傷が多すぎて、途中から考えるのをやめたから分からない。
浜風「うぅぅ……」
呻き声が血のあぶくとともに吹き出てくる。空の色が分からなくなるほどに目が霞んでいた。わずかに視界の端に、赤くにじんだ水面が映るのみである。波は不気味なほどに凪いでいて、風もないせいかむせ返るほどの血の香りが充満していた。
身体はもはや、指一本たりとも動きそうにない。金縛りにあったように重たく、億劫さが頭を曇らせている。
こんな状況で、よくも生きていられるものだ。
自分のしぶとさに、関心を通り越して呆れてしまう。
浜風「……」
どうして、こんな目にあってまで私は死なないのだろう。普通なら発狂するほどの痛みによって、ショック死しているはずだ。私が生きていられるのは、艦娘の頑丈な身体もあるのかもしれないが、おそらく痛みを感じないがゆえ。
……なんで。
なんで、痛みも、熱も、ないのか。
そんな当たり前の疑問が、ふと湧いてくる。手に入れた種々の知識が、私の常識との間で葛藤を生じさせる。世界に当たり前に存在する痛みがないのが、おかしく思えてしょうがなかった。
439: ◆WvruwVSMos 2016/03/18(金) 07:22:14.97 ID:EVs6CB3Q0
普段ならこんな疑問なんて湧いてこない。とうの昔に納得し、受け入れていたからだ。だのに、今の私の朧げな思考は、すべてその奇妙さに支配されていた。
もう一度問うた。なぜ?
確認するように答える。簡単だ、無痛症という病気に侵されているからだ。
なぜ、こんな病気があるの?
くそったれな神様が、押し付けてきたからだ。
この病気は治せないの?
治せない。治療法がないから。
治す方法は本当にないの?
ない。
――じゃあ、あんたはやっぱり人形ね。
疑問ではなく断定だった。しかも、私の声ではない。
目を動かすと、そこにはあり得ない存在が幽鬼のように佇んでいた。私を虐待し、楽しんでいたあの義姉である。
口の端を三日月のように歪め、彼女は言った。
――いい気味だわ。今のあんたの姿、最高よ。
黙れ。
――気持ち悪くてたまらなかったわ、あんた。ただの『欠陥品』の分際で、得意げな顔でチヤホヤされて、人間ゴッコをしてたんだから。人形はどんなに頑張っても人形でしかないのに。
黙れ。
――なに? なんか言いたそうね。
440: ◆WvruwVSMos 2016/03/18(金) 07:24:03.03 ID:EVs6CB3Q0
浜風「……たしは、にんげん……だ」
――バーカ。あんたはただのオモチャよ。認めなさい。
浜風「だれ……が。だって……んな、私の、ことを……」
――みんなが認めてくれたから、人間だって? 笑わせんな! みんなに認めてもらえて、それであんたの気持ち悪い体質が治ったとでもいうの!? ああっ、どうなんだよ!?
浜風「――」
――ほら、答えられないでしょ?
義姉の亡霊は暗澹と口元を押さえ、笑う。私を痛ぶっていたときに必ず浮かべた残虐な貌。
――あんたはね、『それ』がある限り、一生人間にはなれないの。……あんたが大好きな人食い化け物の出てくる本。あれの主人公が、最期どうなったかあんた知ってるでしょ?
浜風「それ、は……」
そうだ、人間に認められて泣いて喜んだあの主人公は最期……。
正体を知られてしまい、人間たちに裏切られ殺された。
――そいつと同じよ。
やめて!
そう叫ぶこともできず、耳も塞げない。
浜風「ぐ……うぅ!」
――あんたは、そいつと同じように惨めたらしく死ぬの。しょせん、自分は人間にはなれなかった。汚らわしい存在でしかないんだって自覚しながらね!
違う。違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違うチガウチガウチガウチガウチガウチガウ――。
私は人間だ。人間なんだ。
――まあ、あんたを殺すのは人間じゃないんだけど。
そう言った瞬間、義姉は影のごとくふっと立ち消えた。そうして太陽が沈み月と星が出てくるように、代わりに不気味なほどに歪められた無数の白い笑顔が、私を見下ろしていた。
驚愕に目を見開くのを禁じえない。いつの間にか、私は複数の深海棲艦にとり囲まれていたのだ。
それも、尋常な数ではない。数十体はいる。
黄色い輝きを放つ空母ヲ級、戦艦ル級、軽空母、重巡、軽巡、駆逐艦、補給艦……。およそ考えられるほとんどの艦種が雁首を揃えている。いま私は、まな板の上の死にかけた鯛同然になっているのだと気付いた。
怪物たちは私の様子を心底楽しそうに観察していたかと思うと、手を伸ばしてきた。指を一本一本広げ、無数の腕が絡み合い、迫ってくる。
ワット・ロンクンの亡者の腕を彷彿とさせるおぞましい光景に、悪夢のような恐怖を覚え、弱りかけた心臓が早鐘のように鳴った。
441: ◆WvruwVSMos 2016/03/18(金) 07:26:22.80 ID:EVs6CB3Q0
逃げなければ。そう思っても、動けない。
手が、私の足を掴み、腹を撫で、胸を触り、頬を通った。冷たいのか暖かいのかどうかすら分からない。ただひたすらに戦慄に震える。
怪物どもが、一層甲高い声で嗤う。
腹の「中」に、手が入ってきた。
浜風「うぅぅぅ……!」
一度だけ大きく身体が跳ねたのは、反射だったのだろう。やつらは私の腹を裂き、手を突っ込んで中身を掻き回し始めた。そのたびに、意思とは関係なく声が漏れ、血の塊が噴水のように口から飛び出る。
助けて。助けて……お父さん、お母さん。……陽炎姉さん。私をどうか……。
どうか、この地獄より私を救い出してください。
祈るように空へと手を伸ばそうとする。しかし、祈る手すらもはや私にはなかった。両腕とも先程の機銃掃射で破壊され、鱶の餌に変わっていたから。
狂気が、世界を満たしていく。
血を浴びる怪物たちの嗤いは、もはや壊れそうなほどに響いていた。
ただ、その中で足りないのは、やはり熱と痛みであった。私の反応が鈍いことがつまらなかったのか、怪物たちは遊びにさらなる趣向をこらし出した。わたしのはらわたを引き摺り出して、わたしの目の前で食い始めたのだ。ねばっこい輝きのサーモンピンクの肉が、石臼のような牙で千切られ、擦り切られ、ねとねとと赤黒い液体が私の顔に滴り落ちてくる。
そんな目にあっても、私は死ねなかった。次々に細切れにされていく自分の腸を見ながら、とある本に出てきた事件を思い出す。肉食獣に襲われた少女が、私と同じような目に合いながら母親に電話をかけたという事件。その子もきっと私のようにショック死しにくい体質だったのだろう。だが、きっと何も感じないわけではなかったはずだ。焼けるような痛みの中、苦しみながら死んだに違いない。
私も死の途上にいる。それなのに、こんな目に合いながらも私の体には痛苦も熱も訪れなかった。
何も、何も――感じようとはしてくれなかった。
浜風「ぐ、ふふっ」
血を吹きながら、私はいつしか笑っていた。
おかしくてしょうがない。自分の身体の異常さからもはや目をそらすことなんてできなくなっていた。ああ、私はやはりおかしな存在なのだな、と思う。
だって、こんな目にあっても、何も感じない。普通なら痛みのあまりに絶望しているところが、逆に痛みがないことに絶望している。これが奇形といわず、なんというか。
442: ◆WvruwVSMos 2016/03/18(金) 07:28:13.38 ID:EVs6CB3Q0
ああ、そうか。
なんで満たされなかったのか、黄金の杯に空いた穴を、いま初めてはっきりと自覚できた。あの義姉が言ったとおり、人形は人形でしかいられないということなのだろう。この病があるかぎり、私は『人間』ではいられない。
つまり、私は一生、満たされることなんてない。
浜風「ぐふ、ふふふふ、ははは、ひひ、あはははは……あは、あはははははははははは、あははははははははははははははははは……」
身体を壊されながら、心が壊れた。堰が切れたように、私の心にあったものが一斉に崩れ、砂となり、一陣の風に拾われるように消えていく。
あれほど欲した承認欲求も、ともにあり続けた陽炎型の誇りも、そして陽炎姉さんと見た桜さえも――。
徒花とは、すぐに枯れゆく花。生という絶望の園に一瞬だけ咲いては消えてしまう幻想だ。まさに、桜とはそれに相応しい花ではないか。
なにが誇りだ。
なにが、約束だ。
馬鹿馬鹿しい。そんなものが、一体なんの役に立つ。この病気を治してくれることなんてないじゃないか。生きなければいけない理由のすべてが、無感の世界へと私を繋ぎ止める鎖のようにしか思えなかった。
もういい。もう、生きている意味はないんだ。
さっさと殺してくれ。
だんだんと虚ろになっていく意識のなか、そう願った瞬間だった。
443: ◆WvruwVSMos 2016/03/18(金) 07:29:43.08 ID:EVs6CB3Q0
時が止まったように音が消えた。
あまりにも唐突に、沈黙が訪れたのだ。
とうとう死ねたのか。最初はそう思ったが、ぼやけた視界でも怪物たちの顔はまだ見えていた。
やつらは、誰もが顔から笑みを消していた。私を見ておらず、目を見開いてじっと右側を見つめている。
もしかして、助けが来たのか? だとしたらすべてが遅い。すでに私は助からない状態だし、もはや助かりたいとも思わない。もし救助だとしたらいい迷惑だ。
だが、どうも違うらしい。
能面のようになっていた怪物たちの顔が、明らかな恐怖で染まった。深海棲艦は非常に好戦的な生物で、艦娘を見た程度では怯えることはまずあり得ない。たとえ数で負けていようとも、牙を剥き出しにして迫ってくるのだ。やつらを恐怖で屈服させることなど不可能である。
それが、ひどく狼狽している。顔が引きつり、泣き出しそうになっていた。駆逐棲艦が、まるで蹴り飛ばされた犬のようにか細い悲鳴を上げ、震えている。
「……オォォ……」
私は、たしかに、その声を聞いた。
落ちかけた意識も、覚めてしまうほどに薄気味の悪い声であった。山羊の鳴き声と、牛の悲鳴と、狂人の嘆きと、火炎に焼かれる亡者の慟哭を混ぜ合わせ、一つにしたような感じといえばいいか。およそこの世のものとは思えない、あまりにも低くく、あまりにも苦しい響き。
「オ……オオォ……」
間違いない。だんだんと近づいてきている。
深海棲艦たちが臓物を投棄して後退り、空母ヲ級が何かを喚きながら頭の付属物から艦載機を発艦させた。
爆音が何度か耳を打った。
が、
「オォォォ」
声は止まらずに近づいてきていた。
空母ヲ級に続いて戦艦ル級や、重巡たちも砲撃を打ち始めた。視界の端で膨大な火炎が吐き出されたが、それでも声は止まらなかった。あれだけの量の斉射をやり過ごしたとでもいうのか。
斉射はさらに激しさを増していく。やつらの焦燥がはっきりと耳朶から伝わってくるようだ。それから間もなく、砲音の中に黒板を刃物でひっかいたような絶叫が混じり、やがてそれだけの阿鼻叫喚に変わった。
駆逐棲艦や軽巡棲艦などが泡をくって逃げていく。重巡棲艦とおぼしき頭と肉片が私の元に飛来して、雹のように落ちてきた。ぶちぶちと音がした。咀嚼するような音も。何かが、深海棲艦たちを殺して、食べている。
やつらを喰う生物など……私は知らない。
「キィィィ……リ、ナイ……。タリ、ナイノォ……」
ついに、叫び声さえも無くなった。血で湿った声が妙な妖しさをもって聞こえてくる。近くで聞いたその声は、喉を潰された女の声にも似ていた。
影が揺らめいて、こちらに向かってきた。そのころには、私の目にもはっきりと映っていた。
枝のように細長い四本の手足と、樽のように太った胴体をもつ異形の生物だった。体色は全体的にクヌギの幹みたいに茶色く、大量の返り血がこべりついて樹液みたいに照り輝いている。一目では巨大なナナフシのようにも思えたが、明らかにそんな可愛い存在ではない。
それには顔がなかった。いや、顔らしきものはあるのだが白磁のように白く、表情がない。目も、耳も、鼻も、口も、そこにはついていなかった。かろうじて髪の毛のようなものが生えているから、おそらく顔なのだろうと推察できたが、それも不確かであった。やつは『首』を左右に傾げながら、四足歩行をしていた。ときおり何か呟いているようだが、その声が一体どこから発されているのか分からない。
なんだ、この生き物は。一体なにが起きている。
あまりにもわけがわからない展開に、ただでさえ混乱していた私の頭は狂いそうだった。生まれてこの方、一度たりともこのような恐怖を味わったことはない。はやくここから逃げ出したいと、死んでしまいたいと、心の底から思った。自分のしぶとさが恨めしくてたまらなかった。
影が、とうとう私の頭と重なった。白い顔がメトロノームのように揺れながら、ゆっくりと落ちてくる。私の歯が壊れそうなほどに音を立てた。
顔が、笑った気がした。
「カォ……チョウ、ダァイ……」
454: ◆WvruwVSMos 2016/04/10(日) 10:56:33.52 ID:b7HDAk740
第二章
「発病」
455: ◆WvruwVSMos 2016/04/10(日) 10:57:24.23 ID:b7HDAk740
陽炎「ふざけんな!」
陽炎の怒号が飛んだ。
浜風を保護して二週間が経とうとしていた、三月上旬のことである。梅の花が白い輝きを放ち、桜の蕾がポツポツと赤い膨らみを見せ始めていた。春の匂いが微かに漂い、ウグイスの鳴き声なんかも楽しげで、世界は暖かく穏やかな雰囲気に包まれようとしている。
しかし、出撃ドッグの空気は反対に冷え冷えとしていた。俺がたどり着いたころには、すでに事態は険悪なものへとなりつつあった。
陽炎が浜風の胸倉を掴み上げ、ドスの効いた瞳で睨みつけていたのだ。よほど腹が据えかねているのだろう。襟が千切れそうなほどに力強く握りしめている。二人を囲うようにして立ち竦んでいる遠征隊のものたちは、一様に困惑顔を浮かべて二人を伺い、どうすればいいのか分からなさそうにしていた。
陽炎「あんた、自分がなにをやったか分かってんの!?」
陽炎がさらに声を張り上げる。普段は大らかな彼女がこのように腹を立てることなど滅多にない。俺は事情をすでに把握していたものの、それでも驚かずにはいられなかった。
浜風「……」
浜風は無言を貫き通している。憤怒に燃える陽炎を見つめる瞳は、氷のように冷たい色だった。
どこまでも無機質で、感情の欠片すら感じられない。
俺は急いで遠征隊の間に割って入り、二人の元へと駆け寄った。
提督「陽炎、やめろ!」
陽炎「うるさい! 司令はすっこんでて!」
完全にヒートアップしている陽炎は、俺の注意など聞く気もないようだった。さらに力を込めて、頭突きをするのではないか思えたほど、浜風に顔を近づけた。
陽炎「黙ってないでなんとか言いなさいよ!」
浜風「……わかってますよ」
浜風は呟くように答えるとため息をついた。
浜風「命令無視および単独行動ですね。鼠輸送の途上で遭遇した敵水雷戦隊に単独で交戦を挑み、壊滅させました」
まるで罪状を読み上げる検事のように淡々と白状していく。自分の過ちを、他人のそれと同じようにだ。
これには陽炎も一瞬呆気に取られたみたいだが、すぐに目の角を吊り上げた。襟を掴む手が小刻みに震えている。
456: ◆WvruwVSMos 2016/04/10(日) 10:59:19.73 ID:b7HDAk740
陽炎「そうよ……。それがどういうことなのか分からないあんたじゃないはずよ」
浜風「まあ、普通なら独房行きでしょうね。激しい折檻を受けたとしても文句は言えないでしょう」
陽炎「そういうことを言ってるんじゃない!」
提督「よせ!」
さすがにこれ以上は見ていられない。
俺は陽炎の腕を掴んだ。だが、さすがは艦娘というべきか、野太い枝のようにビクともしない。俺程度の膂力では止められそうもなかった。
周囲に協力を要請しようと口を開きかけたとき、
浜風「痛いじゃないですか」
浜風が空虚な声を発した。
思わず動きを止めて、浜風を見た。どこまでも中身がない微笑みが俺たちに向けられている。
浜風「痛いじゃないですか、陽炎姉さん。私、あばらを数本と右腕を骨折しているんですよ。そんな風に迫られたら、とても痛いです」
痛いですよ、ともう一度零し、柔らかく口角を上げた。
その言葉に込められた虚無を、正確に理解できたのは俺だけだろう。
しかしながら、その不気味なほどに中身がない笑顔に気圧された陽炎は、はっきりと喉を鳴らした。死の匂いというか、それに近い異様な空気を感じとったに違いない。俺の背中にも冷たい汗が流れていた。
『死に至る病』、だ。
彼女の絶望があまりにも悲しい嘘から、アオミドロに侵された池みたいに濁った瞳から、ぞっとするほどに伝わってくる。
浜風は、緩んだ陽炎の手を片手で外した。
浜風「提督、入渠許可をいただきたいのですが、よろしいでしょうか?」
提督「あ、ああ……」
浜風「では後ほど執務室へと向かいます。処分はそのときにでも」
凛然と告げ、彼女はゆっくりと出口へ向かった。遠征部隊のみんなが自動車を避けるように道を開ける。
457: ◆WvruwVSMos 2016/04/10(日) 11:01:17.17 ID:b7HDAk740
陽炎「待ちなさい!」
陽炎が必死の形相で浜風を呼び止めた。
陽炎「どうしてよ……。あんた、一体どうしちゃったのよ……! 私が知っているあんたは、こんな無謀なことなんて絶対しなかったわ!」
浜風は背中を向けたまま、答えない。
陽炎「答えなさい浜風! あんたに何が」
浜風「あなたには関係ありませんよ」
冷たい声が陽炎の言葉を遮り、拒絶した。
浜風が振り返る。そこには酷薄なまでの嘲笑が張り付いていた。
浜風「それに、変わってしまったのはあなたも同じではありませんか」
陽炎「――」
陽炎の顔がさっと青ざめた。浜風の黒く煤けた指先が、陽炎の右腕へと向けられた。
浜風が言わんとしていること、それは言ってはならないことだ。
提督「やめるんだ」
俺の声は微かに怒気を孕んで、震えてしまったと思う。
だが、浜風は陽炎にとって踏み躙ってはならない領域を、嘲り半分に犯そうとしていたのだ。見過ごせるはずがない。
提督「もう行きなさい。……いいか?」
俺の忠告に、浜風は肩を竦めた。わざと憎たらしく見えるよう大仰に。
浜風「了解しました」
扉が閉じる。去り際に揺れた銀の髪が、飛沫を飛ばし、あだっぽい輝きとなってこの場に残影を残した。朝日を孕んだホコリの輝きを見るのと同じように、純粋に綺麗だとは感じられない。
後に残ったのは後味の悪い空気だった。ここにいるみんなはそれぞれに戸惑うように眉を顰めたり、鋭い目つきを出口の方へと向けたり、俯いて動かない陽炎に気遣うような眼差しを向けたりしていた。
陽炎「……どうして」
陽炎は重くつぶやいて、右腕を掴んだ。鉄の擦れ合う音が弱々しく耳をつく。
陽炎「浜風……」
458: ◆WvruwVSMos 2016/04/10(日) 11:03:30.08 ID:b7HDAk740
浜風「無期限の謹慎……ですか」
浜風は、少し驚いたように言った。
提督「ああ、君には少し休んでもらおうと思う」
口調だけはややきつめにしながらも、内心では激しい後悔が渦巻いていた。
やはり、浜風を出撃させるべきではなかった。
南提督に捨てられ、地獄の海を当て所なくさまよった浜風。
彼女がそこでどんな事態に遭遇したのか、詳細はわからない。が、あの夥しい傷から察するに、相当な敵から襲われたことはまず間違いないだろう。
そのときに彼女が感じた恐怖と絶望。それは想像を絶しているに違いない。あまり考えたくはないが、そのときの経験に影響され、精神になんらかの変調をきたしていたとしてもおかしくはないだろう。
PTSD、鬱、統合失調……繰り返される地獄の中で、そうした心の病にかかる艦娘たちは珍しくないのだ。浜風がそうなっている可能性だって十分にある。だからこそ、俺は当初浜風の復帰には反対していた。
提督「穀潰しにはなりたくない、という君の強い要望もあって、遠征部隊に加わることを許可したがな……。やはりまだ早計だったようだ。ゆっくり休んで、今回の件を反省したまえ」
浜風「……はい。寛大な措置、感謝の言葉もございません」
謝辞を述べながらも、浜風の顔には苦い笑みが張り付いていた。皮肉なのだろう。
提督「なにか質問はあるか?」
浜風「とくには」
提督「そうか。では、退室してくれて構わない」
浜風は敬礼して執務室から出て行った。ウッド調の観音開きの扉が閉まるのを見届けてから、背もたれに背中をあずけ、息をつく。
さて……どうしたものか。
浜風のケアももちろんだが、浜風に対する周囲の不信感も無視はできない。このままでは士気の低下や軍規の乱れが発生しかねないし、なによりも浜風が孤立してしまう。
459: ◆WvruwVSMos 2016/04/10(日) 11:05:28.90 ID:b7HDAk740
どうにかしなければならない。どうにかして、浜風を救ってやらねば。
だが、彼女の絶望をどうやって取り払ってやればいいのだろう? まず間違いなく、浜風の『死に至る病』は無痛症に起因する。あれは現在の医学では治療することはできない厄介な病だ。医者ですら匙を投げかねないというのに、俺ごときになにかできることがあるのか……。
雷「ねえ、司令官」
あまりの難渋さに頭を抱えていると、資料を抱えた雷が口を開いた。俺の顔と扉を交互に見て、眉を顰める。
雷「あれで良かったの?」
提督「……まあ、甘すぎるよな」
雷は頷いた。
雷「だって、命令無視および独断専行よ? 普通なら独房行き……いえ、軍法会議にかけられていたとしてもおかしくないわ」
提督「……」
雷「司令官、いくらなんでも優しすぎると思う。ああいう子は甘やかしたらダメよ? 付けあがるもの」
俺は手を組んで、額を置いた。
提督「……付けあがるかどうかは知らないが、たしかに雷の言うとおりだとは思う。指揮官としてはもっと厳格に、峻厳に、浜風へ罰を与えるべきだろう」
雷「なら」
提督「だが、俺個人としてはできるかぎり浜風の事情を汲んであげたいんだ。彼女は彼女なりに思うところがあるのだろう。彼女の状況を掴めていないうちから、厳しい罰を与えるようなことはしたくない」
我ながら軍人とはとうてい思えない口ぶりだ。砂糖水のように甘い感傷が人を殺すことだってあると知っているくせに、俺は臆病な俺でいることを止められないのだから、救いようもない。
雷もさぞかし呆れているだろう。
そう思って雷の方を見てみたが、目線を下に向けて薄紅色の頬を膨らませていた。呆れているというより拗ねているふうだ。
雷「……ずいぶん、あの子の肩を持つのね」
提督「そういうつもりはないさ。別に浜風だけを特別扱いしているわけじゃない。それは君だって、分かっているだろう?」
雷「でも……」
雷は言葉を詰まらせた。しばらく思考を巡らせて言うべきことを探していたようだが、何も見つからなかったのだろう。口から代わりに出てきたのは悪態だった。
460: ◆WvruwVSMos 2016/04/10(日) 11:07:39.43 ID:b7HDAk740
雷「なによ、あんな子……」
溜息を飲み込む。
雷はどうにも浜風のことがいけ好かないようである。それはたぶん、今回の一件があったからではないだろう。単に気質や相性という根本的な問題か、もっと邪な感情から発露されたものか……。
前者もまったくないとは言えないだろうが、おそらく後者なのだろう。
俺は聞こえなかったふりをすることにした。雷もそれ以上何も言おうとしなかった。
窓から入る夕陽がだんだんと赤みを失い、部屋の明るさが増していく。夜の帳が降りつつあった。
俺は手元の資料に目を落とし、事務を再開した。
雷が持ってきてくれた資料の山を、少しずつ少しずつ切り崩しながら判を押していった。ベルトコンベアのように作業を流していくと、ふと、その中に一枚の封筒が現れた。「極秘」と書かれた茶封筒である。
俺はこめかみに手を当てた。
極秘資料を、秘書とはいえ艦娘の目につく方法で送ってくるなど、ひどく杜撰だ。このリテラシーのなさには呆れる他ないが、現海軍の情報認識の低さは昔からの体質というべきものなので、まあ慣れてはいた。
封蝋を切ろうとひっくり返した瞬間、そこに書かれている字が目に飛び込んだ。
これは……。
俺はすぐに封筒を仕舞う。慌てて雷の方に目をやると、戸棚の方でコーヒーをドリップしていた。
胸を撫でおろす。
あの封筒は、『捨て艦事件』に関する情報が入っているのだ。帝国史上最も残酷とまで称される、東鎮守府で起こったあの事件。
あれを起こした東提督は逮捕され、その後十一月に獄中死した。どうやって仕込んだのかわからないが、爆薬を使って自殺したのだ。牢屋は吹き飛び、肉片一つ残らなかったという。
ともかく、容疑者の死亡によって事件の調査は極めて困難となってしまった。あとは被害者たちから個別に聞き取り調査をする他ないが、ほとんどの子達が精神を壊されていたから、それも難しい。遅々として進んでいないのが現状である。
だが少しずつ明らかになってきてはいる。その更新された情報が俺のところに送られてきたのだ。
デリカシーのない奴らめ……。
本部の役人どもの気の利かなさ、想像力の欠如に腸が煮えくりかえる。どうしてこう、海軍には無神経なやつらが多いんだ。
雷「どうかしたの?」
コーヒーカップを置く音。顔を上げると、雷が少しだけ心配そうな顔をしていた。
提督「ん……。ああ、朝から働いてばかりだから少し疲れたのかもしれない。一休みしようか」
そう、と雷は言って可憐に微笑んだ。
雷「お茶請けも用意しましょうか。なにがいいかしら……」
提督「たしかバームクーヘンがあったろう。それを食べよう」
雷「いいわね」
バームクーヘンバームクーヘンと陽気な歌を口ずさむ彼女に、表情を緩めた。
彼女もあの地獄からここまで立ち直ることができたのだ。どうか浜風も、こうなって欲しいと願わずにいられない。
そのためなら、できるかぎりのことはしてあげたい。
472: ◆WvruwVSMos 2016/04/20(水) 00:34:18.10 ID:W4fFOaVDO
窓枠に肘を預けて夜空を眺めていると、半月が真ん中に座っているのが見えた。爛漫な星々から憧憬を受けながら、暗い夜の中でそっと微笑みをみせている。
揺れた氷が、グラスを叩いた。
酔いの世界で聞こえる風鈴の音だ。静かな高揚に導かれ、俺はグラスを傾ける。
喉を焼く感じとともに、ブラックニッカの香りが鼻を通っていく。顔が少しだけ熱くなったように感じられた。
ああ、美味い。
ほうっと一息をついて、酔いがじんわりと広がる感覚を楽しむ。この瞬間こそが至福であり、唯一嫌なことを忘れられるときだ。
酒は、人類に許された最後の救済である。
そんなことを言った偉人が別にいるわけではない。俺が思うことだ。しかし、ただでさえ苦しい現実から気軽に逃れられる手段として、酒はうってつけではないか。酒を飲んで嫌な現実から逃れる、そんな刹那的な生き方を、もう数年近く繰り返していた。
そうでなければ、この世の中、生きるのはあまりにも苦しすぎる。現実という地獄を彷徨いながら、一輪の花を見つけては微笑む。そうやって微かな喜びのかけらを拾いながら、俺たちは生きていくしかないのだから。
たまには、逃げたっていいじゃないか。忘れようとしたっていいじゃないか。
窓枠にグラスを置いて、空を見ながら一人言い訳を重ねる。
もう、これで何度目になるかわからないな。
雷「うぅん…….」
寝言が聞こえた。ベッドの方へと目を向けると、雷が枕を抱いて寝返りを打っていた。
胸を撫で下ろす。もし起きていたら、もう一度あやしに戻らなければならないところだった。今は雷よりも、ブラックニッカとともにありたい。
瓶を掴んでウィスキーをグラスに注ぎ、また呷る。そうして空になると、同じことを繰り返す。ウィスキーはどんどん、酔えば酔うほど勢いよくなくなっていく。
とうとう瓶が空になった。それなりに酔えたような気がする。俺は肘をついて、高揚した気分のまま、うとうと微睡みの中にダイブしようとしていた。
扉がノックされたのは、そのときだった。
俺は目を開けて、扉の方を見遣った。もう一度音がなった。やや力のこもった叩き方である。
なんとなくだが、ノックの仕方で扉の向こうにいるのが誰なのか判別できる。おそらくあれは陽炎だろうなと、半ば確信しながら重い腰を上げ、扉を開けに向かった。
やはり、そこにいたのは陽炎であった。
どこか思いつめたように唇を噛んで俯いている。
473: ◆WvruwVSMos 2016/04/20(水) 00:35:19.81 ID:W4fFOaVDO
提督「どうした、こんな時間に……」
一応尋ねながらも、要件は予想がついていた。
陽炎「遅くに申し訳ありません。どうしても聞きたいことがあったんです」
提督「もしかして浜風のことかな?」
陽炎は小さくうなずいた。
陽炎「あの子のことで、どうしても聞きたいことがあって……」
提督「……そうか」
俺は振り返って、ベッドの方を見た。雷の寝息は聞こえないが、おそらく陽炎にも姿が見えたのだろう。訝しそうな瞳で奥を覗いていた。
提督「よく来るんだよ……。俺と一緒じゃないと眠れないって言ってさ」
苦笑しながら告げると、陽炎も似たような顔をした。
陽炎「司令も大変ですね」
提督「まあ、な。……少し場所を変えようか」
陽炎「いいんですか?」
提督「大丈夫さ。一度寝たらまず起きないからな」
俺と陽炎は部屋を出た。俺の自室は鎮守府本館の一階にあるから、三階まで上り執務室へと向かう。
灯りをつけて、陽炎を隅に設えられた安楽椅子に座らせる。
提督「少し待っていろ。コーヒーを淹れてやるから」
陽炎「いえ、お気遣いなく」
そういえば、陽炎はコーヒーが苦手だったな。
俺は何も用意せず彼女の対面に座って、話を切り出した。
提督「さて、浜風の話だったな……」
陽炎「ええ」
陽炎は首を縦に振った。
474: ◆WvruwVSMos 2016/04/20(水) 00:40:40.82 ID:W4fFOaVDO
陽炎「浜風に……一体何があったんですか? あの子、あんな無茶で身勝手な行動をとるような子じゃないんです。いつも冷静沈着で慎重で……生真面目と行ってもいいくらいでした」
提督「……」
陽炎「なにか理由があるとしか思えないんです。司令は、なにか知っているんじゃないですか?」
俺は目を積むって、黙考するように閉口した。
俺以外の誰も、この鎮守府で浜風の境遇を知るものはいない。それは彼女の親友である陽炎も例外ではなかった。
提督「まだ事実は明白ではないが、おおよそのことは知っているよ」
陽炎「なら」
提督「しかし、教えることはできない」
俺ははっきりと告げる。
陽炎が目の角を立てた。
陽炎「どうしてですか?」
提督「浜風の名誉に関わるからだ」
陽炎「浜風は私の大切な妹です! 言いふらしたりして、あの子の名誉を傷つけるような真似はしません!」
陽炎は身を乗り出して気炎を吐いた。
提督「わかってるよ。君がそうした軽率な振る舞いをしないということは」
陽炎は、ただただ浜風のことが心配なだけだろう。今朝のあの騒動だって、浜風を思うが故の行為に違いない。感情が先走りすぎるのは難点ではあるが、誰よりも仲間思いで、情に厚い子なのだ。
しかし、だからこそ。
だからこそ、安易に喋るわけにはいかない。
475: ◆WvruwVSMos 2016/04/20(水) 00:42:35.42 ID:W4fFOaVDO
提督「だがな……。他ならぬ浜風本人が言ったことなんだよ。みんなには……とくに君には自分のことを喋らないで欲しいとな」
陽炎「どうして!?」
提督「君が大切だからだよ。家族のようにかけがえのない存在だからこそ、言えないことだってあるだろう。……浜風は、君を傷つけたくないんだ」
ただの嘘だった。浜風がなにを思って口止めしたのかなんて、俺にはまったく見当がつかない。浜風の思惑は、俺も知りたいところだ。
だから、邪推としかいいようがない、希望的観測を彼女へと告げる。
彼女をなるべく傷つけないように。それがなによりも恐ろしいから。
陽炎「……」
陽炎の表情は、柔らかい明かりに包まれた室内において、影が落ちたように暗かった。絶望的な暗さだった。
陽炎「……あったん、ですね?」
提督「……」
陽炎がさらに俺の方へと顔を近づけてきた。燃えるような瞳には、まさに陽炎のごとく頼りない揺らめきが潜んでいる。不安と恐怖がゆらゆらと、揺れている。
俺の馬鹿が。もう少し言いようがあったろうに。
陽炎「浜風が、私に隠さないといけないような、私やここにいるみんなが経験したような酷い目に……酷い目にあったんですね……!」
言い訳を考えようとして、しかし何も思いつかなくて。愚かな俺はただ閉口して沈黙を守る。
陽炎が怒りに任せて机を叩いた。
陽炎「答えてください司令! お願いです! あの子に一体何があったんですか……!?」
提督「……」
陽炎「司令!」
口を閉ざすのが辛くなってきた。目に涙すら溜めて必死に懇願する陽炎を見ていると、縫い合わせた口を解きたくなる。
喋って、しまおうか。しかし、これを言ってしまったら、陽炎は間違いなく何かしらのアクションを起こす。何もわかっていない状況下でそれは、あまりにもリスキーであろう。
それだけではない。陽炎を深く傷つけてしまう可能性もある。かつて彼女は戦場で、まさに阿鼻叫喚を聴いてきた。浜風の凍えるような絶望と諦観を知り、自分の経験と重ね合わせ、より深い穴に落ちていってしまう。
その可能性もありえなくは、ない。
俺は生来からの臆病さゆえの選択を下した。
提督「すまない。何も言えないんだ……」
二の句を告げようとした彼女を遮り、続けた。
提督「浜風のことは、どうか俺に任せて欲しい。なにぶんデリケートな問題だ。……俺が解決に当たった方がいいと判断した。悪いとは思うが、君は静観していてくれないか?」
陽炎「……、……それは命令ですか?」
提督「そうだ」
軍人の習性というべきものであろうか。何かの行動を起こすように示唆されたとき、命令の存在の有無を確認してしまうのは。その習性を、俺は意地汚くも利用した。
陽炎は悲しいかな、情深くもあれど生粋の軍人でもあるのだ。上官の命令には、律儀に従うよう訓練されている。
しかし、このときばかりはさすがに怒り心頭に達していたようだった。唇を噛み締めて耐えている彼女を見ていると、ひどく心が痛んだ。
陽炎「わかり、ました……。司令にお任せします」
提督「……」
謝罪の言葉を俺は飲み込む。彼女は椅子を蹴飛ばすように立ち上がり、去り際に告げた。
陽炎「……でも、約束してください。浜風の身に何があったか、いずれ必ず教えると」
提督「……約束しよう」
彼女はなお不服そうに肩を怒らせて退室した。
執務室には重たい沈黙が降りた。時計の針の音が、こくこくと耳を打つ。
俺は無意識に胸ポケットを漁っていた。酒は自室に置いてきたのだと思い出して、項垂れる。
酒を持ってくれば、良かった。
476: ◆WvruwVSMos 2016/04/20(水) 00:46:03.70 ID:W4fFOaVDO
■
月の脆弱なあかりが海面を撫でている。波の揺らめき、風の音。行きつけの喫茶店で流れるクラシカルな音楽のように、聴き慣れた心地よさがあった。
ここは、狂気の世界への出入り口だ。海は沖合に出ると、もう戦場である。深海に住んだ怪物たちがひしめき合う死の国だ。
艦娘の使命は、この死の国から怪物たちを駆逐することである。とは言っても、そんなものはただのもっともらしい大義名分でしかなく、実際はただの貴族の遊楽……『狩り』に近いものだ。一部の特権階級どもが見栄を張るための機会であり、そして出世競争の舞台でもある。
国防の要、巫女……そう持て囃される艦娘の実際の姿は、ただの出世競争の道具でしかないのだから、滑稽であろう。素直に自分たちの使命を信じている子達は、理想と現実とのギャップに苦しめられて、苦悩の末に朽ち果てていく。そんな子達を今まで何人と見てきた。艦娘というのは、いやはやなんとも世知辛い存在だ。虚構の尊敬を買う代償に、ほとんどすべての自由と尊厳を失うことになるのだから、割に合わないなんてものではない。
たぶん、ほとんどの艦娘たちは百回生まれ変わったって、また艦娘になりたいとは言わなかろう。
だが、彼女たちはまだいい。自分が何者なのか知っているのだから。自分が、「艦娘である」というアイデンティティを持っているのだから。
私には、それすらなかった。いや、それよりももっと根源的な視点で、アイデンティティが崩壊しているというべきか。人か否か問われたとしても、無言の回答をよこすしかない。それは私の無痛症に起因する部分もあれば、そうじゃない部分もある。むしろ、後者の部分が、私から完全に人間性を奪っていったというべきだろう。
その後者の部分とは、なにか?
答えは空から帰ってきた。
私はゆっくりと星のまたたく夜空に目をやった。遠くから微かに、レシプロ機の飛行音が折り重なって聴こえてくる。徐々に徐々に音は大きくなり、私の元へ向かってきた。
暗闇の中でも、私の目にはその姿が鮮明に見える。
零式艦上戦闘機や紫電改二、烈風……我が国が保有するそれらの戦闘機とは、明らかに形が異なるものだった。機械と生物の中間とでもいうべき細長い機体をしており、先端には何の役に立つのかも分からない歯が並んでいる。
そう、あれは、空母ヲ級の戦闘機。
私は右手をかざして、雨を受け取るように広げた。迎え撃つ対空火器はない。迎撃の必要なんてないからだ。
私の腕が爆発的な膨張を起こした。
肉が盛り上がり、皮膚が異様に膨れ、まるで粘菌の動きを高速化して見ているように、ぐちゃぐちゃと形を変えていく。骨の砕ける音が何回も鳴った。手はもはや原型を留めてはおらず、ただの肉風船と化していた。肌が真っ赤に染まっていたのは、中で血管が千切れたせいだ。
膨れた肉は、次第に膨張を止めて、さらなる変化をみせた。それは粘土をこねくり回して人形を作っていくのに似ていて、形がどんどん整然となっていく。赤から、光沢を帯びた黒へと変わった。
出来あがったのは、空母ヲ級の頭部の付属物とまったく同じものであった。
『口』を開けると、艦載機が一機ずつ一機ずつ吸い込まれるように入ってくる。
おかえりなさい。
あら、またたくさん殺したのね。
そう……今度は戦艦を二隻も沈めたの。おめでとう。戦艦は無駄に硬いからね、なかなか沈められるものじゃないわよ。艦載機の直衛がいなかったからかしら? なるほど、やはりそうなのね。
身体の中に取り込まれた艦載機が、楽しそうに報告をおこなってくる。私はそれを内から聞きながら、いつしか笑っていた。
狂った笑い声が、波に揉まれながら夜空へと昇ってゆく。
ああ、もう。
もう私は、完全に人ではなくなっていた。
493: ◆WvruwVSMos 2016/05/23(月) 01:14:05.78 ID:b1XltnjB0
鎮守府本館の裏手は影がかかっており、微かに肌寒いくらいだった。暖かくなってきたとはいえ、冬の気配は微かに残り香を漂わせているようである。
踊り場に座っている俺は、口から煙草を離して小さく息を吐き出した。勢いよく飛び出した紫煙は、ゆるゆると空を登り消えていく。相変わらず「誉」は不味いが、心を少しだけ落ち着かせてくれるから、味を無視して吸っていた。
陽炎と話をしてから、一週間が経とうとしていた。
その間、俺は陽炎と約束したとおり浜風をケアするべく行動を起こしていた。浜風に関する情報を整理し、先天性無痛症の文献をいくつか漁ってヒントを見出そうとしたり、浜風にそれとなく話しかけて信頼関係を深めようとしたりした。しかし、どれも上手くいっているとは言い難い。
とくに浜風とのコミュニケーションは難航している。彼女は俺を気に入っていると言いながらも、まったく心を許していないのだ。話をしても本心を隠している感じがするというか、それとなく踏み込もうとしたら壁を張って牽制されるというか。
思ったとおりかなり賢い子だ。こちらの目的はすべて見抜いたうえで対処してくるから厄介である。彼女にはまだ一歩も踏み込めておらず、ゆえにその本心は欠片も見えていない。
長い時間がかかることになるだろう。
浜風のケアは、俺が今まで経験してきたものの中で一番難しいと言ってもいい。問題の根源はおよそ見えているのに、そこを解消する手段があまりにもなさすぎるからだ。無痛症は医者でも治せないし、彼女はあまりにも頭が良すぎる。だからこそ、どうしようもないことを悟って、的確に絶望してしまっているのだろうが……。
俺は短くなった煙草を煙草盆に叩き込んで、新しいものを取り出し火をつけた。
494: ◆zw6F91tI4g 2016/05/23(月) 01:16:08.88 ID:b1XltnjB0
ただ、唯一といってもいいが、希望がないわけでもない。それは、浜風が自殺をしようとしないことだ。『死に至る病』に犯され、死の香りを漂わせてはいるものの、自ら命を絶つことに対して積極的な姿勢を示さない。
なぜかははっきりと分からないが、おそらく生きていく動機というか、理由というか、そういうものがまだ彼女の中で失われていないからではないだろうか。灯火のように小さなものであろうが、それがギリギリ彼女をこの世界につなぎ止めているように思えるのだ。
その理由が、プラスかマイナスなものなのかは分からない。どちらの可能性だってあるだろう。しかし、この点は見逃せないところではないか。彼女の中にある、小さな生の種火を見つけ出していこう。
できれば、明るいものであってほしいと願う。
気づけば、二本目もほとんどが灰に変わっていた。俺は大きく紫煙を吐き出して、二本目も放り込んだ。
「あれ、司令官じゃないですか?」
胸ポケットから「誉」の箱を取り出そうとして、止める。聞いてるだけで菓子の甘さが思い出せるほど甘やかな声がした。
特徴的な声だから、横を向く前に正体を把握できた。
提督「ああ、青葉か」
青葉「はい、そーです青葉です。珍しいですねえ、こんなところに司令官がいるなんて」
提督「一服するときはだいたいここにいるよ。ところで、君は?」
俺が尋ねると、よくぞ訊いてくれたと言わんばかりの得意げな顔をして、カメラを突き出した。
青葉「今日は非番ですからね、バードウォッチングってやつですよ! この島は、珍しい鳥が生息してますからねえ。撮影場所としては絶好のところなんです」
提督「へえ……」
カメラが好きなことは知っていたが、バードウォッチングの趣味もあったのか。悪趣味な目的のために使っているイメージがあまりにも強すぎるから、そんな健全な理由がでてきたことに驚いていた。
495: ◆WvruwVSMos 2016/05/23(月) 01:17:57.79 ID:b1XltnjB0
青葉「むむ、なんですかなんですか。青葉が鳥を観察していたら何か変ですか?」
どうやら顔に出ていたらしい。
提督「いや、変とは思わないが。まあ、君の場合は日頃が日頃だからな……」
青葉「失礼な! ちゃんと健全な目的でも使ってるんですからね!」
提督「どうか健全な目的だけで使って欲しい」
青葉「それはできない相談ですね~」
青葉は肩を竦めてそう言った。こめかみを押さえながらため息をつく。
提督「君らしいな、実に……」
青葉「ふふっ、取材をしない青葉は青葉ではありませんからね! 取材は青葉のアイデンティティみたいなもんです。やめたら死んじゃいます。死にませんが」
言ってすぐに自ら否定するのは卑怯だ。俺は不覚にも吹き出してしまった。
提督「適当なことを言うなよ、まったく」
青葉「よく言われます。とくに陽炎さん辺りから」
たしかに陽炎はよく言ってそうだ。
青葉「ところで司令官さんは、どうしてこんなところに? 執務室は別に禁煙ってわけじゃないですよね?」
提督「煙草の匂いが嫌いな子もいるからな。それで外で吸うようにしているんだ」
青葉「ああ、そういえば雷ちゃんも嫌いでしたね煙草」
そこまで言って、青葉は手を叩いた。意地の悪い微笑みが浮かぶ。
青葉「……なるほど、斬新な蚊取り線香ですねぇ」
口元を引き攣らせてしまったのは、仕方のないことだと思いたい。
提督「……まあ、たまには一人になりたいこともあるさ」
青葉「司令官も大変ですねぇ。大きな子供のお守りもしながら、指揮も取らなきゃならないんですから」
提督「そう言わんでやってくれ。君はあの子がなぜああなったのか、知っているだろう?」
青葉「そうですね。だからこそ、いろいろ思うところもあるわけですが」
青葉は楽しげな口調でそうこぼすと、緩やかにターンをして、ふわりと俺の横に腰掛けた。タオルを投げて渡すような、柔らかい動作に思わず見惚れる。甘い香りが横から漂ってきた。
496: ◆WvruwVSMos 2016/05/23(月) 01:19:42.94 ID:b1XltnjB0
薄い青紫の髪を揺らして、青葉は破顔した。
青葉「せっかく二人きりになったことですし、少しお話しませんか?」
提督「……」
青葉「あり? ダメですか?」
提督「もちろん構わないが……」
少し、距離が近すぎるような気がする。
さりげなく距離をとると、こともあろうに青葉はついてきた。眉をひそめても、青葉は変わらずにこやかな顔つきである。また離れる。ついてくる。三たび離れる。それでもついてくる。
とうとう端まで追いやられた俺は諦めた。勝ち誇ったような青葉の顔が、少しだけ腹立たしい。
青葉「ふふーん。久しぶりですね、こうやってお話しするの」
提督「……あまり時間は取れないぞ? 今はただの小休止だからな」
青葉「かまいませんよ。では何を話しましょうか? 最近のホットな話題は~……」
顎に人差し指を当てた青葉は、二呼吸ほど間を置いて、
青葉「浜風さんについて、でどうでしょう?」
一番口に出しづらい話題を持ち込んできた。
提督「浜風についてか……」
青葉「はい、数日前命令無視をやらかして陽炎さんと揉めてましたよね。青葉は現場にいなかったから、聞いた話でしかありませんが」
当然と言えば当然だが、あの件はもう周知の事実となっている。
この鎮守府には、悪評を聞いたからと言ってすぐに当事者を排斥しようとする陰湿なものはいないが、それでも浜風の行動を快く思うものがいるはずはない。遠征隊のみんなが抱いた不信感は出撃部隊にも継承され、浜風を腫れ物扱いする空気が確実に醸成されつつあった。
青葉「彼女、なんか出会ったときと雰囲気変わりましたよねえ。最初は知的で話しやすい印象だったんですが、どうにも近寄り難くなったというか……。うーん、でもなあ、命令無視を犯すような人には見えなかったんですけどねえ」
青葉は小首を傾げながら、訊ねてきた。
497: ◆WvruwVSMos 2016/05/23(月) 01:21:54.13 ID:b1XltnjB0
青葉「どうして命令無視なんてしたんでしょう? 司令官は当然ご存知ですよね?」
提督「……一応、事情聴取はしている」
青葉「それで、理由はなんだったんですか?」
提督「とくにはない。それが彼女の回答だ」
青葉「……は?」
青葉は目を白黒させる。俺も浜風から理由を訊いたときは似たような顔をしただろうから無理はない。
青葉「なんの訳もなく命令無視したってことなんですか? それはさすがに謹慎程度で済ませてはいけないと思うんですが……」
提督「甘すぎるという自覚はあるさ。ただ、浜風が本心からそう言っているとは限らない。何かしら理由があって、隠匿している可能性もなくはないからな」
青葉「つくづくお人好しなんですね、司令官って……」
処置なしですよ、と言って肩をすくめる青葉に、苦笑いしか返すことができなかった。
提督「だが、妙だと思わんか? 浜風はかなり優秀な艦娘だ。彼女が動機もなくあんなことをするとは到底考えにくい」
青葉「どうなんでしょうね。ただ単に自棄になっただけなのかもしれませんよ。もしくは、精神になんらかの変調をきたしたか」
提督「もちろん、その可能性も否定はできないだろうな」
実際、作戦行動中に艦娘が発狂した事例はごく稀なものだがなくはない。できればそうであって欲しくはないと思うが……。
青葉「まあ、浜風さんへの処分が妥当かどうかは置いておくとして。彼女も彼女で、いろいろと抱えているのでしょうねえ。前の鎮守府でなんかあったんでしょうかね? もしくは、遭難中のことがトラウマになっているのかも」
498: ◆WvruwVSMos 2016/05/23(月) 01:24:05.01 ID:b1XltnjB0
提督「その辺りはまだよくわかっていないな」
俺はあえて曖昧な表現でとどめて、時計に目を落とした。
提督「さて、と……。そろそろ戻らなくては」
青葉「えー、もう帰っちゃうんですか? まだまだ訊きたいことがたくさんあったのになあ~」
提督「すまんが、あまり長く開けることはできないんだ。仕事もまだまだ山積みだし、これ以上休むと今日の分が終わらなくなってしまう」
青葉「雷が落ちるのも怖いし?」
そのジョークには半笑いを禁じ得ない。俺は肩を竦めて立ち上がり、鎮守府本館へと歩き出した。
青葉「ああ、ちょっと待ってください」
振り返ると、後ろから風が一陣走り抜けた。ホテイアオイを思わせる、水を溶かしたような薄紫の髪がゆれる。彼女の頬に美しい笑窪が刻まれた。
青葉「一つだけどうしても訊きたいことがあったんですよねえ」
提督「なんだ?」
青葉「浜風さんが命令無視をしたあの任務についてです。あのとき、陽炎さんたちが会敵した深海棲艦の様子がなんだかおかしかったそうなんです。浜風さんを見た瞬間悲鳴に近い声を上げ始めて、彼女を集中的に狙い出したらしいんですよ。相当切羽詰まった様子でね」
猫のごとく目を細めて、続ける。
青葉「……興味深いですよねえ。深海棲艦は恐怖を感じない。それが通説です。その常識に従うなら、この話ってだいぶ妙だと思えるんですよ」
そう思いませんか、ねえ?
小さな口から紡がれたその言葉は、やけに色気を持って聞こえたような気がした。好奇心の旺盛な彼女は疑問を呈したとき、子供のように純粋な顔をすることがある。しかし、そこには未成熟な果実にはない落ち着いた瑞々しさがあった。
どこか危うささえ感じる、輝きだ。
提督「……その情報は」
俺は訊ねようとして言葉を飲み込んだ。
そこを尋ねることに意味はない。彼女がどうやって情報を引き出したのかなんて、考えるまでもなかった。陽炎たちの誰かから引き出したに決まっている。
提督「たしかに君の言うとおりだ。陽炎たちからその話を聞いたとき、私も妙だと思ったよ」
喉に引っかかる感触というか、妙な息苦しさを感じながら口を開く。愉快そうな顔のまま、青葉が続きを促す雰囲気を見せた。
提督「……だが、深海棲艦も生物だ。恐怖を感じることくらいあるかもしれないだろう?」
やつらが恐怖を持たないという生態は、たしかな実験から明らかとなったものではない。それは艦娘制度が始まって数十年の経験則と教訓から得られたものである。海軍の連中の杜撰な調査と、先入観から勝手に決められた穴だらけの理論だ。
「艦娘」というあまりにも強力な対抗手段を得たことに端を発する、「海軍の慢心」の一例である。やつらは力を得たことに満足して、深海棲艦への研究を怠ってきたのだ。そんな適当な理屈を素直に信用するのは間違っている。
青葉「言いたいことはわかります。ですが、ただの一介の駆逐艦相手にですよ? おかしくないですか?」
その点は青葉の言うとおりだった。
伝説の艦娘と謳われる戦艦「大和」であろうと、軍神と称される軽巡洋艦「神通」であろうと、艦娘が深海棲艦を戦かせた事例は、今まで聞いたことがないのも事実といえば事実だ。浜風が飛び抜けて優秀であることは間違いないだろうが、それでもあくまで駆逐艦にすぎないのだ。「大和」と「神通」、あの二人の威圧感は艦娘の中でも一二を争う。怖れない好戦的な生物を、果たして浜風が怖れさせることができるというのか。
俺は答えに窮し、地面を見た。顎をさする。ピースの足りていないジグゾーパズルのような木漏れ日が、風を受けた枝々とともに揺れ動いた。
青葉「うーん。今ここで話をしても、答えは出そうにありませんね」
提督「……そうだな」
青葉「それにしても、浜風さんは面白い方ですよねえ。彼女が来てから、ずいぶん鎮守府も賑やかになりました。いろんな意味でね」
癪にさわる言い方だったので、つい睨みつけてしまった。青葉は飄々とした様子で「失礼」と告げて、
青葉「さあ、私もそろそろバードウォッチングに行くとしますか。司令官、引き止めちゃってごめんなさいね。お仕事頑張ってください」
と手を振ってきた。
俺はため息をついて踵を返し、今度こそ本館へと向かう。角を曲がった瞬間に、青葉のつぶやきが聞こえた。
青葉「面白いですよ、ホント」
日差しの当たる場所へ出たのに、耳に触れた風はひどく冷たかった。
522: ◆WvruwVSMos 2016/07/15(金) 12:27:03.67 ID:a7xacY0eO
浜風「おや、提督。こんばんは」
振り返った浜風が笑顔を浮かべる。外灯の灯りを吸う銀の髪が、ゆらりと揺れた。
夜の海。潮騒が静寂に優しく語りかけている。
艤装開発の下見で工廠へ向かう途中、港の方へ通っていると浜風を見つけた。ボラードに腰掛けて、何をするでもなく海を見ているようだったので、声をかけたのだ。
提督「こんばんは」
俺は挨拶を返し、続ける。
提督「こんな時間に港で何をしてるんだ?」
まさか夜釣りをしているわけでもあるまい。いくら外灯があるとはいえ、夜の海はほとんど見えないから眺めに来たということもないだろう。
浜風「潮騒の調べを聞きに……」
口元を吊り上げて浜風が答える。
提督「詩的なことを言うね」
浜風「詩的というより洒落が過ぎているだけですがね。本当のことを言うと、外に出たかったんです。部屋にばかりいても気が滅入りますし」
提督「……ああ」
浜風「提督はなぜここへ?」
523: ◆WvruwVSMos 2016/07/15(金) 12:28:29.96 ID:a7xacY0eO
提督「ちょっと工廠へ用事があってな。そこへ向かっている途中だった」
浜風「ふうん」
浜風はどうでもよさそうに言うと、足をパタパタと動かした。水を切るような動きだ。
浜風「そういえば、雷さんがいませんね。いつもくっついているのに珍しい」
提督「先に工廠へ行かせて、必要書類の整理をしてもらってるよ」
苦笑いを浮かべる。
ほぼ一日中一緒にいるから、そう思われるのも無理はないだろう。だが、金魚のフンみたいに思われるのはあまり好ましくは思えない。
浜風「へえ……一応、仕事はしているのですね」
提督「それはそうだろう。さすがの俺も穀潰しを秘書にはしないさ」
浜風「てっきり、カタチだけの存在かと思っていましたが」
提督「役割はきちんと与えるさ」
いくら、秘書に向いているとは言えないといえ。やることはやってもらわなければ、周りが納得しない。
ただでさえ、雷に対する不満の声は少なくないのだから。
524: ◆WvruwVSMos 2016/07/15(金) 12:29:59.35 ID:a7xacY0eO
浜風「提督は人気者ですし、そうしないといけませんよね」
浜風が妖艶に笑う。目がすうっと細められ、薄いピンクの唇に指先を這わせる。
毒の花のように危険な香りが、風に吹かれ、鼻腔を擽った。
浜風「ふふふっ、いま、その人気者と二人きりなわけです。……誰かに見られたら誤解されちゃいそうですね」
口から零れる声も溶けそうなほどに甘い。大きな胸が呼吸で揺れるところに、つい目が行ってしまった。
浜風がさらに目を細めた。
浜風「いやらしい目ですね」
提督「……」
浜風「目をそらしてもダメです。ちゃんと、見ていましたから」
提督「……勘弁してくれ。俺が悪かった」
本当に、勘弁して欲しい。
浜風は顔を合わせるたびにこの手の「悪戯」をしてくる。俺が困ると分かっていて、その反応を楽しんでいるのだ。
浜風が立ち上がり、こちらに寄ってきた。楽しげに下から見上げてくる。青い空のような瞳は、煙が溶けたようにやや黒さがあった。――虚無の瞳。
目をそらすと、浜風は小さく笑った。
浜風「そんなに嫌そうにしなくてもいいじゃないですか」
提督「別に、嫌ではないが……」
浜風「嘘、嘘ですね。顔に書いてありますよ。嘘をついてはいけません」
お前が言うなと言ってやりたい。
浜風「ふふ……」
提督「……」
波が遠くで割れ、静寂の世界を揺らした。俺たちの間に天使が通る。
天使。それは目の前の少女のような顔をしているのだろうか。彼女は海を見ていた。その横顔は彫刻のごとく完成された造形でありながら、微かに少女らしい丸みもあって、天使と言われても納得できそうではある。
525: ◆WvruwVSMos 2016/07/15(金) 20:11:17.11 ID:AVBA9vJf0
それほどまでに、彼女は群を抜いた美しさがあった。我が艦隊の駆逐艦の中では一番大人びている。
……なぜだろう。なぜか、彼女を思い出す。
全然似ていないはずなのに。飛び抜けた美麗さという点では共通しているとはいえ、その美しさは白と黒とでも言うべき対極のものだ。だのに、どうしてか、似ていると直感が告げてくる。
あの娘……静流と。
提督「……」
浜風。彼女は、家族とともに過ごしていたのだろうか。艦娘には戦災孤児が多いが、彼女もそうなのだろうか。
俺は、浜風のことをあまりにも知らなさすぎる。彼女が何を好み、何を喜びとし、どんな道を歩んできたのか。きっと、艱難辛苦を味わってきたに違いないだろう。無痛症と味覚障害をもつものの人生が、安易に平坦なはずがない。
彼女のことを知りたいと思った。全部ではなく、ほんの少しでもいいから。
浜風「提督」
ふわり、と風が吹きつけてくる。浜風が口火を切ったのはその直後だった。
提督「なんだ?」
浜風「……この風は、よいものだと思いますか?」
風が、いっそう強まって走り抜けた。
浜風「三月の中旬ですし、気温的にはおそらく冷たいのでしょう。しかし、それが心地よい冷たさなのか、不快な冷たさなのか……。提督にはどう感じます?」
提督「そうだな……」
浜風の言うとおり、風は水気を含んでいることもあって冷たい。それも長く触れていると体調を崩してしまうような、冬の名残を感じるものだ。
浜風の瞳が、真剣な青さをもつ。
526: ◆WvruwVSMos 2016/07/15(金) 20:13:53.47 ID:AVBA9vJf0
空が青い理由を尋ねてくる幼子のごとく、純粋な目だ。彼女には熱を感じる能力がない。ゆえに季節の変化の節目にある、微妙な気温の変化を体感できないのだ。肌で触れても、肌が受容しない。
彼女の内的世界では、季節は死んでいる。無味乾燥とした感覚世界。そこを彷徨わざるをえない彼女を、ただ不憫に思った。
純粋なはずの青の瞳は、狂気の上澄というべきか。誰にも理解することができない、孤独の狂気だ。
提督「この風は、いい風だよ。冷たくて清々しい。デスクワークで凝り固まった気持ちをほぐしてくれるような、な」
浜風「……」
しばし無言で見つめてくる浜風。
彼女は、静謐な笑みを浮かべた。
浜風「いい風、なのですね」
そうですか、と確かめるようにつぶやく。忘れ去られ、冬に音を立てた風鈴のように美しく、空虚な声だった。俺の嘘を見抜いているのかいないのか、それは窺い知れない。
彼女は月に目を遣った。
浜風「嘘つき」
……どうやら、見抜かれていたようだ。
527: ◆WvruwVSMos 2016/07/15(金) 20:15:46.43 ID:AVBA9vJf0
■
嘘つきな優しい提督が工廠に行ったのを確かめてから、私は港を後にした。艦娘寮や本館がある方へはいかず、雑木林の中へと入る。草木をかき分けながら進むと、磯へと辿り着いた。波飛沫くだく黒い岩の塊は、闇夜の中でもズンと重たい存在感があった。
そのまま磯を歩き断崖に立つ。海面からの距離はそう遠くはないと、顔に当たる水気が教えてくれる。
懐から折りたたみ式の双眼鏡を取り出した。海を見渡して念のために巡回の有無を確認した。この時間に巡回組がここを通らないことは把握しているが、万が一にも見られるわけにはいかないので、万全を期す。
いない。艦影一つ見受けられない。夜目が利くようになったので見逃すこともあり得ないだろう。
私はそのまま海へと降りた。
艤装など装備していないが、構わない。私にはそんなものなんて必要ないからだ。艤装がなくても海面へ足を踏みしめることができてしまう。
そんな艦娘は、まずもっていない。
ならばなぜ、私はそれができてしまうのか。簡単な話だ。私は人間でもなければ艦娘でもないからだ。なにか、よくわからない漠然とした存在である。
528: ◆WvruwVSMos 2016/07/15(金) 20:18:11.08 ID:AVBA9vJf0
いや、私は『欠陥品』だったか。人間はおろか艦娘さえも超越しつつも決定的に欠落している。その歪さは、笑えるほどにおかしい。ああ、私の自我はどこにある。歪んでしまったものは、もう戻らない。戻りようがない。
私は、艤装を動かす要領で念じ、航海を開始した。
波が高速で流れていく。星がぐんぐん飛んでいく。私は頭の中でスロットルを絞る。狂ったように絞る。ギチギチと背中から不気味な音が聞こえた。何が付いているのかは知らない。確認したいとも思わない。
内側から湧いてくる絶望的な狂気を、消し飛ばすように。私は一気に速度を上げて沖へ向かう。
その途上で、だんだんと風切り音にノイズが混じり始めた。
アアアアァァ……!
オレノ足……ドコ……? チガトマラネェヨ……チガチガァ……。ヒヒ……ヒヒヒヒ……。ギャ、アァァァアァ……。腕、腕ウデウデウデウデウデウデウデウデウデウデウデウデウデウデウデウデウデウデ。……ハラワタ……ヒキズ…リ、ダセ……。コロシ……テェ……。ちぎれ、アタマが……脳みそグチャグチャ、グチャグチャ……。
怨嗟、嘆き、慟哭、恐怖――。
壊れたテレビのような音に混ざって、それらの声が聞こえてくる。艦娘だったときには、聞こえなかった出迎えだ。
目を凝らして空を見る。怨念どもが――そうと表現する他ない異形の浮遊物が――蠢いていた。いや、遊浴していたというべきか。
あれらが何かは知らない。戦争や事故で失われた命が、成仏しきれずに彷徨っているもの。そう考えるべきなのだと思う。
彷徨い苦しむ魂どもは、まるで河原を飛び交う蛍のごとく明滅している。当たり前だが綺麗だとは思えなかった。もしそう感じるようになったら、この目玉を抉り出してやる。
私は怨霊も、声も無視して、手をかざした。
529: ◆WvruwVSMos 2016/07/15(金) 20:19:43.30 ID:AVBA9vJf0
手が不気味な音を立てながら形を変え、空母ヲ級の頭部についた付属物と同じものとなった。口を開き、偵察機を発艦させる。空母ヲ級の艦載機は夜間でも正確に敵を捕捉できるから重宝する。誰にもバレずに「実験」をおこなえるのは、この力のおかげだ。
飛んでいく偵察機を見送りながら、おかしくて笑った。いつもだ、いつも、この力を使うと笑いが堪えきれなくなる。こんなものを有難がる自分が、おかしくておかしくてしょうがない。
いや――違う。
私は、喜んでいる。この力に溺れ、この力を使い、深海の怪物どもを八つ裂きにしている瞬間は、自分の怪物性に疑問を持たなくていいからだ。
私は、怪物である。怪物だ。人間ではない。艦娘でなくてもいい。このときだけは――。
しかし、欠陥からは逃れられないが。
浜風「どうでもいい」
殺せるなら。
やつらを、壊せるなら。そうして、私をこの地獄に叩き落としたあのクズ野郎を抹殺できると思えるのなら。
魂だってなんだって売ってやろう。
――いいわ、今のあんたこそ見たかった。
怨霊どもの声に、最悪なほどに耳障りなものが混じった。それは不気味な嗤いを連鎖的に爆発させる。私の目の前にふっと現れた義姉が、怨霊どもを呼び寄せながら、言った。
――あんたは、ああ、やっぱり可愛い。苦しんでいるあんた、すごくそそるわあ……。あんたは陰気臭い顔をしてなきゃダメよ、ダメ。
530: ◆WvruwVSMos 2016/07/15(金) 20:21:18.24 ID:AVBA9vJf0
浜風「……」
――ねえ、無視しないで。今のあんたとなら仲良くなれそう。うふふ、だって私が壊そうとしなくたって、ずっとその顔をしてくれるんですもの。
浜風「……」
雑音が、煩わしい。歯を砕く勢いで噛み締めながら、目の前の亡霊を睨みつけた。
――きゃ、こわあい。そんな顔しないでよお。お人形みたいな顔が台無しでしょお。……あ、お人形だったか。
嘲笑う声が、渦巻いた。
浜風「……うるさい」
私は、貴様の……お前たちの、オモチャではない。笑われる理由なんかないんだ。
――笑うわよ。あんた、あんたほど、滑稽なやつなんかいないわ。
――ワタシハ、ニンゲンダ……。カゲロウガタノホコリィ……。ゲハハ、キャハハハ……ニンゲン、ニンゲンジャナカッタ。ケッカンヒンダッタヨォ……。カナチイ……ゲハ、カナチイ……ネェ。
浜風「うるさい」
怨霊どもの顔が、みんな義姉に変わった。
奴らは、みんな同じ顔で、嘲りをぶつけてきた。
浜風「黙れぇっ!」
背中が膨張する。膨れ上がった肉が制服を突き破り、翼のように広がると瞬時に形を変えた。戦艦ル級の艤装……十六インチ三連装砲へと。
脳髄を刺す衝動が、引き金をおろした。膨大な音の暴力が空気を叩き、内蔵に響く勢いで下腹を震わせる。砲弾がやつらを裂いた。遠間に水柱が上がった。
風が煙幕をさらい、奴らの姿が消えてもなお、腹を這いずる怒りは消えなかった。
やつらの憎たらしい声が、反駁許されぬ存在否定が、頭の中で反響する。私は歯ぎしりをした。この内なるドス黒い衝動を、いますぐぶつけてやりたい。偵察機、何をしているんだ。さっさと、さっさとエサをみつけろ。このウサは、奴らの血肉をもって晴らしてやる。
偵察機が帰ってきたのは、それから五分ほど経ってからだった。体内に吸収し、持ち帰った情報を吟味する。ここより十時の方角、五海浬ほど先に敵の艦隊が航海中であるということだった。空母ヲ級も含む機動艦隊。
私は、いつもの要領で艦載機を発艦させた。
壊してやる。八つ裂きにしてやる。皆殺しにしてやる。
お前たちは、私が扱える唯一のオモチャだ。
546: ◆jc3o0gJHYo 2016/08/29(月) 21:02:10.71 ID:vIOvbhOV0
玩具のように蹂躙した。
奴らが私にそうしたように、私も奴らを弄んだ。
恐怖に怯え、逃げ惑い、爆撃と魚雷に食いつぶされる奴らの姿は滑稽であった。ときには砲撃で足を潰して、逃げられなくなったやつらをゼロ距離から痛ぶった。機銃で、少しずつ少しずつ壊していくのだ。装甲が崩れ、皮が裂かれ、肉片が飛び散り、臓物がグズグズに壊れていく。中がどんどん広がって、まるで肉が花弁のように開いていく。そのたびにやつらの声は跳ね上がったりか細くなったりを繰り返す。
奴らの目にはどんなふうに私が映っただろう。
悪魔だろうか。それとも死を与えてくれる天使であろうか。どんなイメージにせよロクなものには映っていまい。
怪物たちから「怪物」に見られるというのも奇妙な感覚だ。お前は人間でも艦娘でもないんだぞ、と告げられているようである。
私の曖昧な自我は、やつらから怯えた目を向けられるたびにさらに溶けていくようだった。
その感じがたまらなく不快で、不快で、いつしか壊す途中でやつらの顔に砲弾を叩きこむようになった。それでもその感覚は日に日に強くなっていく。やつらを殺るたびに、やつらから教えられる。いまや海は、ただの戦場ではなく、私の存在を否定し続ける魔女裁判の壇上と化していた。
547: ◆jc3o0gJHYo 2016/08/29(月) 21:09:00.55 ID:vIOvbhOV0
海に出れば、すべてを否認される。
わけのわからない亡霊どもからは笑われ、義姉の幻影からはなじられ、深海棲艦からは恐怖される。月は茫漠と死を告げる鉄の鳥を空に描き出し、醜く変質した私の影を照らす。最近では、波の音も空気も星の輝き一つ一つすらも、私を拒絶しているようにさえ思えてくる。
行き過ぎた被害念慮だとは思う。だが、そう思ってしまうほどに、海というものは私の味方ではなくなっていた。艦娘にとっての故郷であるはずのこの場所から、私は排除されようとしていた。
もはやどこにも、私の居場所なんてない。この世界で自我を崩されたまま取り残されてしまった。わけがわからない混乱のさなかで、もがき苦しむことを強制させられている。
それでも私は海へと出ることをやめなかった。
意地になっているわけではない。反駁がしたいわけでもない。
ただ、憎しみを晴らしたかったのだ。
私にはどうしても許せないやつがいる。怪物どもとは比べものにならないほどに、そいつへの憎悪は根深い。そいつを恐怖に陥し入れ、悲鳴を上げさせなけば、私は死んでも死に切れない。
その憎悪が、怒りが、まだ私をこの世に繋ぎとめている。
548: ◆jc3o0gJHYo 2016/08/29(月) 21:10:29.21 ID:vIOvbhOV0
浜風「もう、十分ね」
私は、頭部の破損した死体を蹴り飛ばした。空母ヲ級だったその肉塊は仰向けに転がり、壊れた頭部を露わにする。まるで落ちたザクロのように四散し、脳組織は撒き餌として海に撒き散らされている。絶叫の名残に開かれた口から舌を垂れ流し、海を舐めていた。
汚い死体だ。汚らわしい汚らわしい肉だ。
こんなふうにやつが変わるなら。それはさぞかし愉快であろう。もう、我慢ができない。もう、もう、もう、壊したい。実験は終わりだ。私が何者であるのか考えるのもやめだ。結局は「怪物になった」ということが分かっただけで、どのような怪物であるのか具体的なことは何も分からなかった。グレーゴル・ザムザが毒虫に変わったのか、甲虫に変わったのか、それとも「生贄にできないほど汚れた獣」に変わったのか、本当の正体が正確に分からないのと同じように。真相を考えるだけ徒労だった。
終わりにしてしまおう。最後の玩具遊びは、やつの血肉を引き裂いて終幕を迎える。
南提督の絶叫と、ともに。
562: ◆jc3o0gJHYo 2016/10/21(金) 22:58:55.73 ID:9fg38WUn0
■
浜風と話してから五日が経った昼下がり。いつものように執務をこなし、そろそろ昼休憩にしようかと思っていた矢先に、黒電話が喧しく騒ぎ立てた。
まったく、一息つこうとするときに限って連絡が入るのはどうしてなのだろうか。
間宮の唐揚げ定食を心待ちにしていただけに、水を差されてげんなりした気分になる。空きっ腹も空きっ腹だから、はやく唐揚げを胃に詰め込みたいのだが。
いっそのこと聞かなかったフリをしようか、と職務放棄も甚だしいことを考えていると、真面目な秘書官からお節介が入った。
雷「司令官、お電話鳴ってるわよ」
可愛らしく小首を傾げる雷が、指をさして教えてくれる。こう言われた以上出ないわけにもいかないから、俺は諦めの息をこぼして、仕方なく受話器を取った。
提督「……こちら南西鎮守府、柊中佐です」
『やあ、柊君』
どっしりとした物腰を感じさせる、落ち着き払った声であった。その重厚さはそびえ立つ岩壁を空想させるほどで、威厳に満ちている。俺の萎んでいた意識は一気に覚醒し引き締まった。電話の前にもかかわらず、ピンと背筋を張ってしまう。
提督「舞鶴中将……! お久しぶりです」
彼は、帝国で五本の指に入るとも言われる舞鶴鎮守府の長である。勇猛果敢な将として名高いが、ギョロリとした丸い目玉と大きな鼻、恰幅の良い大きな体?から「ダルマ中将」の異名をもっていた。
俺の恩師であり、敬愛する上官であり、数少ない信頼のおける人物だ。ぼうっと応対し、不敬を働くわけにはいかない。
563: ◆jc3o0gJHYo 2016/10/21(金) 23:00:48.84 ID:9fg38WUn0
舞鶴『一月ぶりだな。前に会ったのは定例会議のとき本部でだったか』
提督「ええ。その節はどうもありがとうございます。十分ご挨拶もできなかったのに、ウイスキーまで頂いてしまって……」
俺が畏まってぺこぺこしていると、舞鶴中将は豪快な笑い声をあげた。まるで、黒電話の前で頭を下げる俺を見ているかのようだった。
舞鶴「気にするな気にするな。ちょうど舶来品が手に入る機会が巡ってきてな、お前にも分けてやろうと思っていたんだ。……で、どうだ? 美味かったろう」
部屋の端に置かれた棚へと秋波を送る。ブラックニッカのボトルが林立している中に、ひときわ異彩な琥珀色の光を放つボトルがあった。
マッカラン18年。有名なスペイサイドのシングルモルトで、「シングルモルトのロールスロイス」とまで称されたスコッチウイスキーだ。深海棲艦の出現によって各国との貿易が分断された昨今では、まずお目にかかるのも珍しい一本で、値段は艦娘制度が始まる前と比較にならないほど高くなっている。市井のものでは、まず飲めないだろう。
そんなものをタダでもらってしまったのだから、恐縮する他ないが、味の感想を聞かれると少し困ってしまう。
俺は少しだけ躊躇しつつも、事実にも触れた嘘をつくことにした。
提督「すいません。どうしても、特別な日に飲みたくて、まだ開けていません……」
舞鶴『む、そうだったか。まあ無理もない。飲んでみたらそのとき教えてくれい』
提督「はい。南西諸島海域を攻略した暁には、このボトルを開けて、飲んだ感想と一緒に報告をしようと思います」
564: ◆jc3o0gJHYo 2016/10/21(金) 23:02:47.23 ID:9fg38WUn0
舞鶴『がはははっ、頼もしい限りだな! 楽しみに待っているとするよ』
バシバシと机を叩く音が聞こえてくる。きっとその場にいれば、岩のようにゴツゴツとした手で肩を叩かれていたことであろう。
心の中で、小さな息をこぼす。
飲まなければならなくなってしまったか。俺には安酒があればそれで十分満足せねばならないのに。あのボトルの輝きは、あまりにも眩しすぎて、目に消毒液を塗るようなものだ。
俺は憂鬱さを誤魔化すために、話題を変えることにした。
提督「……ところで、ご用件は一体なんでしょうか?」
舞鶴中将もただ酒の感想を聞きたいためだけに電話をしてきたわけではあるまい。ただでさえ、大規模作戦中で忙しい時期なのだ。暇をつぶす余裕などあるはずもないだろう。
舞鶴『ああ、そうだそうだな。前置きはこの辺りにして、本題に入るとしようか』
舞鶴提督の声が、重く鋭いものに変わった。
ピンと空気が張り詰めた。外の風が窓硝子を叩き、去っていく。そのノックがやけに大きく聞こえたのは、唐突に訪れた重力を帯びた静寂に、イマイチ耳がついてきてくれなかったせいか。
舞鶴『あってはならないこと……いや、起こるべくして起こったことと言うべきだろうか。大変な事件が起こってしまった』
提督「……大変な事件とは?」
俺は縫い付けられるように受話器を耳へ押し付けていた。
時計の針が、沈黙を刻んだ。
舞鶴『……南鎮守府という鎮守府を知っているだろう? 最近提督が交代した鎮守府だ』
提督「ええ」
知らないはずがない。
あいつの、南提督の声を思い出すだけで腸が煮えくり返るくらいだ。一体、あのクズ野郎の鎮守府がどうしたというのだろうか?
舞鶴『本日、その鎮守府が深海棲艦による襲撃を受けた』
565: ◆jc3o0gJHYo 2016/10/21(金) 23:07:11.11 ID:9fg38WUn0
提督「え――」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。言葉は正しく耳に入ってきたのだが、脳の処理が追いついてくれなかったのだ。
舞鶴『襲撃を受けたんだよ、南鎮守府がな』
舞鶴提督は俺の反応を察したようにゆっくりと繰り返す。
襲撃……? それは本当のことなのか。もし、本当のことだとしたら、大事などでは到底すまない。
海軍を、この国を揺るがしかねない事態だ。
俺の動揺を察したのか、トレイを持った雷が心配そうにこちらを覗き込んでくる。なにか言いたそうに口を動かしていたが、訊いてこなかったのは通話中であることを配慮したためだろう。俺は軽く眉間を揉んで、受話器をさらに強く握りしめた。
提督「……詳しい経緯を、教えていただいてもよろしいでしょうか?」
舞鶴『襲撃を受けたのは深夜だ。時刻は〇一三〇。艦載機による空襲がおこなわれた』
空襲。それはつまり空母機動部隊による襲撃ということを意味している。
提督「空母ヲ級……」
舞鶴『おそらくはだが、それで間違いあるまい。夜間艦載機を飛ばせるもので、鎮守府近海に出現する可能性が高い深海棲艦となると、やつ以外には考えられん』
提督「被害はどうなっているのでしょうか?」
舞鶴『……単純な被害で言うとだが。被害は軽微な方だ。死者は一名のみで、負傷者も三名に満たない。建築物への被害は工廠と鎮守府本館の半壊。当時、夜間哨戒が出ていなかったことを考えると、たったこれだけの被害で済んだのは奇跡というべきだろうな』
たしかに奇跡的なほどに被害は小さい。だが、被害の大小はここで真に問われるべきことではなかろう。ここで問うべきは、内地へ――それも鎮守府へ――敵の空襲がおこなわれたという事実そのものだ。
艦娘制度が始まってから三十年ほど経つが、その間に内地への空襲は一度たりとも起こってはいない。詳しい理由はわからないが、無責任な御用学者どもの間では、「深海棲艦の縄張り行動が関係するのではないか」という学説が有力視されている。深海棲艦はそれぞれ群れ……艦隊ごとにテリトリーを持っていて、その範囲内でのみしか行動しないという説だ。
566: ◆jc3o0gJHYo 2016/10/21(金) 23:10:58.11 ID:9fg38WUn0
それを証明するように、事実、これまで空母ヲ級や戦艦ル級のような沖をテリトリーにする深海棲艦が、近海に近づいたことはなかった。
冷静に考えれば、眉に唾をつけるような説であることはすぐにわかる。しかし、三十年という期間は、無責任な言説にそれなりの説得力を与えるには十分すぎるほど長かった。
艦娘という、強大な対抗手段を早期に得てしまったこともあって、軍の連中はこの説を疑いなく信じてしまっている。もはや驕りというほど愚直にだ。そしてこの説を根拠に、政治家どもは内地の『絶対安全神話』を作り出し、国民へ喧伝し続けた。――『帝国は神に愛された国』をキャッチフレーズにして。馬鹿げた説明だ。しかし、そんな馬鹿げた説明も、すんなり受け入れられてしまうのが軍国主義の蔓延る大衆社会の可笑しいところだと思う。弾圧され、批判がおこり難い社会というのは、実に愚かなものだ。
だが、この事実が明るみに出てしまえば、いかに愚かな国民であろうとも目を覚ましかねない。信じられ続けた『絶対安全神話』が嘘だということが明らかとなるのだから。そうなった場合、混乱は避けられないだろうし、軍への不信は多少なりとも生じてしまうだろう。いまは限りなく抑制された左翼団体にも動きが出てくるかもしれない。いずれにせよ、国内の治安が乱れる可能性が少なからずある。
上層部の連中が、この事実をどう扱うのかなんて考えるまでもない。ホラ吹きは、罰の悪さからはすぐに目をそらし、取り繕うと相場が決まっている。
提督「……提督会議は、この件をどう処理したのですか?」
少しの沈黙の後に、舞鶴提督は答えた。
舞鶴『当然隠蔽した。私が連絡を取るまで、お前のところに情報が渡っていなかったのがいい証拠だ。この件は……』
言葉を詰まらせ、続ける。
舞鶴『この件は事故として処理される。気を違えた艦娘が、狂乱の末に起こした不幸な事故としてな。そのために空母の艦娘が反逆罪で逮捕、軍法会議にかけられることとなった』
567: ◆jc3o0gJHYo 2016/10/21(金) 23:13:11.41 ID:9fg38WUn0
受話器を叩きつけなかったのは、俺にしては我慢した方だと思う。
クズ野郎どもめ。
どこまでも愚かで救いようのない連中だ。事態をもみ消すために、なんの罪もない艦娘に罪を着せ、捨て駒にするなど……。
雷「あの、司令官……?」
心配に耐えかねたのか、雷がいつの間にか側に来ていた。怯えと不安に潤んでいるから、瞳にぼんやりと映る俺の顔は歪んで判別もつかない。が、その形相の酷さは見るまでもなく知覚できていた。
雷の頭に手を置いてゆっくり撫でる。絹のような弱々しい柔らかさとともに、花のようなシャンプーの香りがふわりと舞う。だが、煮え立つ腸はまったく冷めようとはしなかったし、雷もいつものように気持ちよさそうな顔をしてくれはしなかった。むしろ、涙が溢れそうになっていた。
俺は正面の扉を睨みつけた。
提督「……ふざけている」
舞鶴『そうだな、私もそう思うよ。閣下が退陣されてから、我が軍の腐敗はさらに加速している』
それはそれは耐え切れないくらいの悪臭を放つほどに。舞鶴提督の言うとおり、呉提督が居なくなり、横須賀提督が舵取りを独占するようになってからというもの、海軍はさらなる利権と欲望の坩堝に入って、虫も食わないほどに酷い状態になりつつあった。
舞鶴『このような外道の行い、閣下がいたら許しはしなかったはずだ。忸怩たる思いに駆られるものだよ。……私一人では止めようがなかった』
提督「上層部の方々は、矜持を忘れてしまったのでしょうか」
ああ、と短い返事があって、
舞鶴『忘れたんだろうな……。まったく、欲とは――栄光とは怖ろしいな。あまりにも強すぎる光というものは目を眩ませて、あらゆるものを見えなくしてしまう』
568: ◆jc3o0gJHYo 2016/10/21(金) 23:16:26.38 ID:9fg38WUn0
栄光とは、海軍が真の意味でこの国の盾となったことを指す。
艦娘という力は、深海棲艦に対する唯一の対抗手段であり、それを独占した海軍が軍事において権力を握るのは至極当然のことであろう。この国の軍事的な権力は、文明開化以前の内戦を収めてきた陸軍の手中にあり、海軍は長らく日陰にいることを強いられてきた。半世紀以上だ。その間に溜まったフラストレーションが、権力を手にした途端爆発し、暴走をおこして歯止めが効かなくなってしまった。権力はあらゆるものを食い散らかし、成長する化け物をその内に飼っている。栄光という名の陰に隠れた化け物を。
その化け物に、我々の誇りは壊されてしまったのだ。
鉄臭い匂いが、染み込むように口に広がった。
知らない間に唇を噛み締めていた。海軍軍人の端くれとしてあまりにも情けなく、何もできない自分が許せなかった。
提督「……南提督はなにをしていたんだ」
やり場のない怒りを南提督のやつへと向ける。
夜間の哨戒は海軍全体で見ても軽んじられている傾向にあるが、それでもやつの防衛意識の低さが、この件を招いたのは事実だ。鎮守府を預かるものとして、責任を取ることは免れないはずである。これは、軍法会議にかけられて死罪になってもおかしくはないような失態だ。
舞鶴『……そういえば、まだ言ってなかったな』
舞鶴提督が声を発するまで、やや間があった。
舞鶴『その亡くなった一名というのが、南提督なのだよ』
青天の霹靂だった。腹の底の苛立ちも消し飛ぶほどに。
提督「南提督が……!」
舞鶴『ああ。まず敵は工廠を爆撃し、その後間を置かずに鎮守府本館へ爆弾を投下した。それもただ一発、執務室へ向かってな。それによって執務についていた南提督は死亡した。当然のことだが、肉片一つすら残ってはいなかった』
提督「……」
舞鶴『非常に残念で、遺憾なことだ』
痛みいるように言葉が沈んでいる。その重さが胸に落ちて、波紋のように戦慄を広げた。
569: ◆jc3o0gJHYo 2016/10/21(金) 23:18:29.05 ID:9fg38WUn0
南提督ことなんか嫌いだが、これは単純な嫌悪を根拠に無関心を装える程度の事態ではない。初の空襲が、提督の死という結果を迎えたことは、同じ提督という立場として無視できようもなかった。
背中が、汗で濡れているのを感じる。暖房が効きすぎていないことは、机の上の温度計が示していた。
間違いない……。
なにかが、なにかが確実に変わろうとしている。
これまで常識と思い込んできた物事が、変化を迎える過渡期に立っているのだと、確信した。
この確信が、怖れの正体なのだ。
いや……それだけではない。
どうしてか、一瞬浮かんでしまった浜風の顔が脳裏から離れなかった。
その顔は死に至る病に侵され、瞳を暗月のごとく妖しく輝かせていた。
寒気を感じるほどに凍てついた表情だった。
585: ◆jc3o0gJHYo 2017/01/01(日) 11:05:27.86 ID:GWUlp6O40
■
火炎が渦巻く鎮守府本館の執務室を見ていると、口角が釣り上がるのを抑えられなかった。
私は、殺した。
ついに、この手で、やつを殺したのだ。私を地獄の底に叩き落とし、化け物へと変質する要因を作り出した痴れ者を――。
私は無線を下ろした。やつの位置を把握するために、無線を傍受して情報を探っていたのだ。
現在、南鎮守府が大規模作戦中であることは情報として掴んでいた。大規模作戦は夜間出撃を敢行することも珍しくはないので、深夜帯でも無線での出撃部隊とのやり取りは積極的に行われていた。私が傍受したときは戦闘の真っ最中で、爆音混じりの先輩たちの声と、南提督の耳障りな怒号が飛び交っているようだった。
私は、戦闘が終了するタイミングを待った。戦闘が終了すれば、報告書をまとめるために提督が作戦指揮室から執務室へ向かうことを知っていたからだ。遠間から鎮守府本館を眺め、機会を伺った。
そして、そのときは来た。出撃が成功に終わり、帰還を告げる報告があった後、しばらくしてから鎮守府本館の執務室に明かりが灯った。
私はすぐに艦載機を発艦させた。
586: ◆jc3o0gJHYo 2017/01/01(日) 11:06:47.24 ID:GWUlp6O40
まず工廠を破壊した。工廠には艦娘の艤装が保管されているので、追撃を断つ目的があった。だが、狙いはそれだけではない。これは言うならば少々派手な花火のようなものである。予期していない花火の音が聞こえたとき、室内にいる人間がどのような行動をとるか。それは想像するに容易であろう。
そして予想どおり、やつは執務室の窓から顔を覗かせた。望遠鏡から見えるやつの顔は、動揺に色付いて間抜け面そのものといった感じだった。
私はほくそ笑んで、執務室へ急降下爆撃を行なった。爆弾は突き刺さるように落ち、爆発を起こして執務室を崩壊させた。飛び散る破片は、やつの肉塊が消し飛ぶ様を想起させ、黒煙が火を伴いながら闇夜に登っていくところは美しくすらあった。
そして私は、恍惚としてその光景を目に刻み込んでいた。
ああ……ああ、なんて綺麗なんだろう。
587: ◆jc3o0gJHYo 2017/01/01(日) 11:07:59.43 ID:GWUlp6O40
この炎が、やつの肉を焦がしていると考えただけで身体が内側から震える。腸を蠢くドス黒い感覚に擽られるようにくつくつ、くつくつ笑った。くつくつ、くつくつ。ケタケタ、ケタケタ。
ゲラゲラ、ゲラゲラ。
私じゃない、誰かの笑いが混ざった。
――おめでとう。
祝福する声は、ただ鬱陶しいだけのもの。背後から耳を撫でるように聞こえた、義姉の声。
――よかったわね、憎たらしいやつを殺せて。とても嬉しそうでなによりだわ。
浜風「消え失せなさい」
――相変わらず連れないわねえ。せっかく私が祝ってやっているんだから、少しは嬉しそうにしてもいいじゃない。
無視をした。興が一気に削がれ、思考が冷めていく。
――もう、無視しないでよ。ひどいわねえ、傷つくわ。
義姉は言葉とは裏腹に楽しそうに笑っていた。それがなおさらいけ好かない態度で、不快である。
588: ◆jc3o0gJHYo 2017/01/01(日) 11:09:29.14 ID:GWUlp6O40
――ほんと、あんたは可愛いわね……。どうしようもないくらい呑気で、愚かで。ねえ、あんた気づいてないの? あんた、自分が今どういう状況にいるのか。
浜風「……」
私は、黙って昇り立つ黒煙を見つめた。
そんなこと言われなくても分かっている。南提督の殺害は怪物となった私の悲願であったし、生きる意味でもあった。その悲願を達成してしまったということは、今の私には何も残っていないということになる。そう、何も残ってはいないのだ。
私は、空っぽになってしまった。
今このときをもって、無感の化け物へと変質を完遂した。
浜風「……ふふっ」
もう、それでいい。
私は私がどうなろうと、もはや構わない。
この内で蠢いていた憎悪に突き動かされるように生きてきたが、それもなくなれば後は止まるだけであろう。電池がなくなった玩具のように。
いつの間にか正面に来ていた義姉が、訝しそうに首をかしげていた。彼女の魂胆は見え透いていた。報復を果たした私に、生きる意味がなくなったことを、空っぽになってしまったことを指摘して、絶望させようとしたのだろう。
間抜けは貴様だ。そんなことが分からない私ではない。
私は、最初からそうするつもりであった。
この人間社会で生きる資格は、私にはない。
でもせめて。せめて、ここからいなくなる前に。
最後にこの景色だけは楽しみたい。
589: ◆jc3o0gJHYo 2017/01/01(日) 11:10:31.41 ID:GWUlp6O40
生きる意味を失った人間の選択肢は二つある。
再び生きる意味を見出そうと行動するか、諦めて死ぬかだ。
前者と後者の選択肢に単純な優劣は存在し得ないだろう。個々の複雑な状況の中で個人の自由意志によって決められる事柄だからだ。それこそ個人差というものである。
だが、そうそう前者を選び取るものがいないことはわかる。人間は誰しも強い生の欲求を持っているから、そう簡単に死ぬことはない。生きる意味を失うような出来事に遭遇した場合も、レジリエンスが有効に働けば生きる力もまた湧いて出てくる。人間の心理は基本、生の方向に軌道修正するようにできているのだ。
しかし後者の方へ転じる場合もある。それはレジリエンスが働かず生きることに意識が向かなくなってしまうことだ。つまり、他に生きるための理由が見つけられず、もはや死ぬしかないと考えてしまう状態を指す。ジークムント・フロイトがいうところのデストルドーという概念である。
私はデストルドーに支配されていた。
南提督を殺害したことによって、私は生きている意味すべてを喪失した。やつへの復讐が最後に残された生きる動機であったからだ。これからまた新しく生きていく意味を探していこうとは思えなかった。なぜなら、私の希望は絶対に叶えられないからである。元々人として不完全で、とうとう人でないものとなってしまった私に、堕ちるところまで堕ちた私に、人間社会で生きる意味が見つけられようはずもない。
だから私は死のうとした。
何度も何度も死のうとした。
だのに、死ねなかった。
590: ◆jc3o0gJHYo 2017/01/01(日) 11:12:25.12 ID:GWUlp6O40
鎮守府本館から飛び降り自殺を図った。なぜか死ねなかった。気付いたら地面に無傷で寝転がっていたのだ。だから何度も飛び降りた。だけどその度にコンクリートの上で無傷で眼が覚める。
わけがわからなかった。夢だと、なにかタチが悪い夢だと思おうとした。だが、何度もやっていくうちに飛び降りでは死ねないことを理解した。
だからやり方を変えてみた。刃物を身体に突き立てる。首を吊る。毒を採取して飲み込む……ありとあらゆる手段を試した。
だが、そのすべてが無駄に終わった。刃物が、透明な壁に阻まれて身体に刺さらない。首を吊ってもなぜか紐が千切れてしまう。毒を飲み込んでも苦痛に襲われることすらない。他の手段をやっても、何らかの妨害が入って無効化される。
死ねない。なにをやっても、死ねない。
どうして死ねないのか、最初はわからなかった。だが、やっていくうちにその理由がわかってしまった。
私の内に取り込まれた深海棲艦の力のせいだ。
深海棲艦は、艦娘の艤装以外で殺すことはできない。艦娘制度が始まる前は、前時代の軍艦や航空機はもちろん、ありとあらゆる深海棲艦の殺害方法の実験がおこなわれた。そのいずれも上手くはいかなかったらしい。深海棲艦はたとえ強烈な爆発を受けてバラバラになろうとも身体を再生させ、元に戻ってしまう。異常なほどの再生能力を持っていたのだ。
そして、あらゆる実験の果てに有効な手段として開発されたのが艦娘である。深海棲艦は海で死んだ怨念と沈んだ軍艦のパーツをベースに生まれた生物だ。それは研究の結果明らかとなった事実であるが、その魂を浄化する力を艦娘が有していることがわかった。
591: ◆jc3o0gJHYo 2017/01/01(日) 11:13:35.98 ID:GWUlp6O40
そう、艦娘の力以外では殺せないのだ。
だからその存在と力を取り込んだ私も死ねない。
私は深く絶望した。
私には死ぬ自由すらないというわけだ。こんな理不尽なことがあって良いのだろうか? 神という存在を殺してやりたいと思うくらいに、すべてが呪わしい。
どうして、私ばかりがこんな目に合わなければならない。
ふざけるな。
死ぬ自由さえ私から奪うというのか。
私はもう疲れたんだ。こんな乾き切った地獄のような世界で生き続けねばならないことに。
だから、死なせろ。私はもはやそれ以上は何も望まない。
死なせろ。死なせろ。死なせろ。死なせろ。死なせろ。死なせろ。死なせろ。死なせろ。死なせろ。死なせろ。死なせろ。死なせろ。死なせろ。死なせろ。死なせろ。
死へ至ることができない、絶望。
それはもはや病ではなく呪いだった。
604: ◆jc3o0gJHYo 2017/03/10(金) 23:18:11.11 ID:biUWJQ3C0
■
雷「甘味~、甘味~。あんことお餅とアイスクリーム~」
上機嫌な歌が春日の空に飛んでいく。茶色のクセ毛がぴょんぴょんと跳ねているところを見ながら、俺は小さく微笑みを浮かべた。
昼下がりの空は穏やかな青だった。悠々とした雲を目指すように海鳥が飛び、声を立てている。潮止まりなのか、テトラポッドを打つ波も静かだった。飛沫は消え入るような透明な白。
雷「司令官、司令官は何食べたい? 和菓子? 洋菓子?」
提督「ん~、何食べようかなあ」
雷「決まってないの?」
提督「そうだな。雷と同じものでいいかな」
雷「え~、それじゃつまんないわよ。違うものを頼んで食べ合いましょう! 私はわらび餅を頼むから、司令官は洋菓子系でなにか頼んでね!」
提督「おいおい、勝手に決めないでくれ」
雷「じゃあ、いちごパフェにしてちょうだい。ちょうどいちごも食べたかったのよね」
話を聞いていないらしい。雷はパッと花が開くように笑って、勝手に話を進めていく。そして、決定と言わんばかりに再び前を向くと翼のように両手を広げて走って行った。不思議な鼻歌が徐々に遠ざかる。
苦笑いをこぼす。
まったく、仕方のない秘書艦だ。こんな子供っぽい秘書艦はどこを探したってこの鎮守府にしかいないだろう。
まあ実際に子供なのだが。
605: ◆jc3o0gJHYo 2017/03/10(金) 23:20:00.89 ID:biUWJQ3C0
提督「待て待て。そんなに走らなくても間宮は逃げないぞ」
雷「いやー。司令官も走りなさい。ただでさえ机仕事ばかりで運動不足なんだから」
提督「それを言われると辛いな」
その上、酒と煙草に溺れているからなおのことだ。「その調子だと五十になる前に死ぬぞ」と大学校時代の先輩に冗談交じりに忠告されたことを思い出す。そのときは苦笑いで済ませたが、最近の体力の衰えをみるにあながち冗談ともいえなくなってきている。
まあ、人間の命など篝火と同じでいつか燃え尽きてしまうものなのだから、それが多少早まったところで問題はないだろう。別に長生きしたいとも思わないから、一時的な快楽のために寿命をすり減らすことには抵抗を感じない。
人間五十年。有名な敦盛の一節にもある。長生きするというのは、嫌なことだ。生きているということは地獄の中を歩いて行かねばならないということに他ならないのだから。
こうして甘味を食べに行こうとしている今も、歩いている道には俺にしか見えない血が広がっている。
数々の屍が転がり、そしてこれからも数多の屍を築き上げていくことになるであろう血濡れた道。
俺は目線を空に向けた。
空には、地上の血の色を知らない鳥が飛んでいる。俺はその鳥を羨むように見つめた。
雷の鼻歌は、鳥たちには届いていないだろう。俺は彼らを心底羨ましいと思った。
606: ◆jc3o0gJHYo 2017/03/10(金) 23:21:55.73 ID:biUWJQ3C0
甘味処の門を開くと、多くの艦娘たちが座っているのがみえた。店内は雑談の声でやかましい。今日はオフだし、ただでさえ娯楽の少ない鎮守府内だから、ここに人が集まるのは半ば必然といえた。
トレイを抱えてあちらに行ったりこちらに行ったりと忙しそうな間宮が、俺たちに気づいて「いらっしゃい」とにこやかに挨拶してくれた。堅苦しい敬礼をしないで出迎えてくれるところが素直に嬉しい。俺が表情を綻ばせていると、雷が「間宮さん!」と目を輝かせながら彼女に抱きつきに行った。
イノシシのような突撃を優しく受け止めて、間宮は言った。
間宮「雷ちゃんもいらっしゃい。お仕事終わったのかしら?」
雷「ううん。まだ整理しなきゃいけない書類がたくさんあるわ。今はお昼休憩~」
誰に対しても懐かない彼女も、間宮には懐いている。これも彼女の包容力のなせる技なのであろうか。楽しそうに語りかける雷と柔らかく応じる間宮のやり取りは、子供と母親のそれのようで微笑ましい。
二人の様子を静かに見ていると、後ろから肩を叩かれた。
振り返る。そこには鈴谷と熊野がいた。鈴谷はコーヒカップを片手にもち、熊野はチョコレートパフェが二つ乗ったトレイを持っており敬礼ができないためか、あたふたと落ち着きがなかった。
鈴谷「提督ちーす!」
提督「やあ」
熊野「鈴谷……! 失礼ですわよ」
厳しい口調で鈴谷を諌めようとする熊野に、俺は笑って手を横に振った。オフのときはある程度フランクでいいと何度も言っているはずだが、熊野は相変わらず真面目である。きちんとしていないと落ち着かない性分なのかもしれない。
ですが、と納得のいかなそうな熊野をみて、鈴谷が溜息をついた。
607: ◆jc3o0gJHYo 2017/03/10(金) 23:24:05.35 ID:biUWJQ3C0
鈴谷「いいかげん慣れなよ熊野~。提督はそういう畏まったの苦手なんだからさ。鈴谷みたいに接すればいいんだよ」
提督「お前はフランクすぎるけどな」
鈴谷「え~。そんなことないでしょ。実際このくらいの方が気楽っしょ?」
鈴谷のあっけらかんとした態度に苦笑いが溢れる。
熊野の目付きが厳しいものになってきたので、俺は話題を変えた。
提督「みんな来ているのかな?」
鈴谷「んー、みんなは来てないかな。釣りをするっていう子たちもいたね。深雪たちとかさ。後はどうだろ?」
熊野「青葉さんは羽黒さんを連れてバードウォッチングをしにいくと言ってましたわ」
鈴谷「あ、そういや言ってたね」
提督「へえ、青葉と羽黒が」
鈴谷「相性そんなに良くなさそうなのにさ、意外と仲良いんだよねえあの二人」
なんでだろう、と鈴谷は首を傾げる。理由を知っている俺は曖昧な返事でごまかした。
あの二人の仲が良くても別におかしくなんてない。「同郷」だからだ。
雷「司令官」
静かな声とともに袖を引かれる。
首を動かすと、笑顔の雷が見えた。
608: ◆jc3o0gJHYo 2017/03/10(金) 23:25:51.64 ID:biUWJQ3C0
雷「あっちに空いている席を見つけたわ。行きましょう?」
提督「ああ」
溜息を飲み込んで頷く。鈴谷の方を見ると、苦笑いを浮かべながら手を振っていた。雷の存在に気づいていなかったのかもしれない。その後ろで熊野が小さく息を吐いているところを見ると、おそらく間違えではないだろう。
雷に引っ張られるのに逆らわずついていく。ぐいぐいと強引にされるのは好きではないが、逆らうともっと面倒になることが分かっているので抵抗しない。
――そのつもりだったのだが。
ある席が目に入った瞬間、思わず足を止めてしまった。急に停止したからか雷が前のめりによろめき転けそうになったが、俺の意識のほとんどは美しい髪に奪われていた。
提督「浜風……?」
そこにいたのは陽炎と時津風、そして浜風だった。店内の角に位置する、ちょうど入り口から死角になる座席にいたため気づかなかったのだろう。
彼女たちはそれぞれ山盛りのパフェと向かい合っているようだった。時津風は頬のあちこちをクリームで汚しながら嬉々として?張っていたが、陽炎はどこか浮かない表情で浜風を見つめており、当の浜風はいつものごとく人形のような表情でスプーンを動かしていた。機械じみた所作だと言わざるを得ない動きである。それなのに目を惹きつけられてしまったのは、彼女のどこか人間離れした美しさのせいゆえだ。
浜風はこの賑やかな空間において、特異な芸術性を発揮しつつその存在感を示していた。
白銀の粒子が、風鈴の音とともに舞っている。
陽炎「……どう? 美味しい?」
陽炎が、口元を緩めて尋ねた。
浜風「ええ、とても」
陽炎「そっかそっか……よかった。あんたパフェとか好きだったはずだから誘ってみたんだけど正解だったわ。ここの間宮さん、いい腕してるでしょ?」
浜風「そうですね。素晴らしいと思います」
陽炎「気に入ってくれたかしら?」
浜風「ええ」
聴いている分には普通の何気ない会話である。だが、事情を知っている俺にとっては、空恐ろしさしかない会話だった。
609: ◆jc3o0gJHYo 2017/03/10(金) 23:29:08.08 ID:biUWJQ3C0
浜風の言葉には虚無しかなかった。
彼女は何も感じてはいない。今口に運んでいるパフェだって、味のしない泡やスポンジを食べているのと同義だ。
青い瞳は、パフェをゴミとでも認識しているように濁りきっている。
浜風の障害を知らなくても、顔色が良くないことには気づいているのだろう。陽炎の微笑みはどこかぎこちないものだった。
ここ数日のうちに、浜風は変質していた。
俺は浜風の中にある生きる希望を探そうと注力していた。しかし、彼女は相変わらずのらりくらりと躱すばかりでなかなか心を開いてくれず、見つけられてはいなかった。心の壁は想像以上に高く、一向に超えることが叶わなかったのだ。
情けなくも、俺は浜風を見守ることしかできないでいた。
そして、なにもできない無力感を噛み締めている間に、浜風の死の病は進行してしまった。顔から生気という生気が抜け落ち、その様は萎れた花のごときものである。が、それでもなお美しさを放つ彼女はまさに特異な存在だと言わざるを得ないし、だからこそなお痛々しく映ってしまう。
一体、浜風に何があったというのだろうか。心当たりといえば先日の南鎮守府襲撃の件であるが、この件は伏せているし、とくに資料もなければメモもとっていないから情報の漏れようがない。仮になんらかの方法でこの件を知ったとしたら、今の変化にも説明はつくが……彼女からそれを探るのは到底不可能であろう。
だが、浜風の中に変化を及ぼすようななんらかの出来事があったのは確実だ。それはおそらく内心の変容であり、決して可視化できる変化ではないだろう。彼女の心の奥底に触れでもしないかぎり理解のしようがないものである。それはまるで、頼りない明かりを照らして深淵を覗き見ようとするような行為に等しいものだ。
610: ◆jc3o0gJHYo 2017/03/10(金) 23:31:39.22 ID:biUWJQ3C0
そんな彼女を、陽炎もとうとう放ってはおけなかったようだ。先日、痺れを切らした陽炎から「浜風の件については私も動かせていただきます」と申し出を受けた。だが、変わり果てた浜風を前にして、陽炎もどうしようもなかったらしい。陽炎も日々無力感に打ちひしがれながら、彼女と相対していた。
そして今日も、彼女は懲りずに妹に向かい合っている。
冷たく重く閉ざされた鉄の門を前にして、立ち竦むように。
時津風「あれ~、陽炎、イチゴいらないの?」
時津風がほとんど食べ進んでいない陽炎のイチゴパフェを見ながら、甘ったるい疑問を投げかけた。いきなりの問いかけに、陽炎の肩が跳ねる。
陽炎「え、なに?」
時津風「もーらいっ」
陽炎「あっ!」
陽炎がそうこぼしたときにはもう遅い。時津風は頂上に乗っていたイチゴを奪いとって頬張った。
時津風「ん~、うっまーい。やっぱイチゴは最高だよね~」
陽炎「あ、あんたねぇ! そのイチゴは最後に食べようと思ってたのよ!」
時津風「そーなんだ。いらないって思ったからもらっちゃった」
時津風は小さく舌を出して誤魔化すようにウインクした。
米神をひくつかせた陽炎が、時津風の頬をつねった。暴れる時津風。
611: ◆jc3o0gJHYo 2017/03/10(金) 23:33:01.78 ID:biUWJQ3C0
時津風「いたたたたっ! 放して放して!」
陽炎「放して欲しかったら何か言うことがあるんじゃないかしら?」
時津風「ごめん、ごめん! 勝手にイチゴ食べちゃってごめんなさい~!」
陽炎から解放された時津風の頬は真っ赤であった。陽炎のことだから加減しているだろうが、それでもあの陽炎の抓りである。やられた方は相当痛いであろう。時津風は涙目になりながら頬を摩っていた。
時津風「痛かったぁ~」
陽炎「食べ物の恨みは恐ろしいのよ。覚えてなさい」
時津風「相変わらず怪力なんだから……」
陽炎「なにか言ったかしら?」
時津風「い、言ってないよ! なにも! 絶対!」
迫る陽炎に、時津風は手と首を精一杯横に振って否定する。まるでコントを見ているようでおかしかった。思わず笑いそうになったが、不満の籠った催促を袖を通して伝えられたので、コントを見るのはここまでのようである。
提督「足を止めてすまない。行こうか」
俺がそう言うと、雷は膨らませた頬を萎ませて笑顔になった。
浜風たちに一言かけたかったが、仕方ないだろう。あまり雷を放置しすぎるのも彼女に悪い。
雷に手を引かれながら席へ向かう。その途中で二人の様子を無表情で見ていた浜風と目があった。黒く淀んだ瞳は、芯から冷めていくような冷たさに満ちている。
彼女は何も言わなかった。何も言わず、ただ困ったように微笑んだだけである。二人のコントに呆れているのであろうか。それにしてはあまりにも空虚で、物悲しく見える。
それはきっと俺の気のせいではない。
俺は、そんな彼女に笑い返すことすらできなかった。
自分の無力さを思い知った気がして。
その二日後のことだった。
浜風が、無断出撃を強行した。
621: ◆jc3o0gJHYo 2017/04/16(日) 20:19:11.80 ID:V0VpMhKJ0
■
白いベッドで眠る浜風の顔は穏やかであった。
だが、俺の内心は決して穏やかなものではなかった。怒りとも不安ともつかないドロドロとした感情に心を濁らせ、ベッドの柵を指で叩く。リズムでも刻んで気晴らしをしたいわけじゃない。ただただ落ち着かないからそうしているだけだ。
俺は胸ポケットから酒瓶を取り出して呷った。ブラックニッカで胸を焼きでもしないと、この不安定さに勝てそうにもなかった。
陽炎「ここ病室ですよ。お酒は控えてください」
陽炎が俺のほうを向きもせず、注意してきた。その声にはほとんど抑揚が感じらない。
感情を抑えつけているせいだろう。それは浜風に向けられた目付きの鋭さからも察せられる。
俺は酒瓶をすぐに胸ポケットへ閉まった。
提督「すまない」
陽炎「いえ。それにしても中々目覚めませんね」
提督「『強制送還』してから二時間くらいだな」
陽炎「ああ、もうそんなに。早く起きてくれませんかね。言いたいことが山ほどあるので」
ミシリ、と冊が軋む音がした。
壊さないでくれよ、とは言う気になれなかった。彼女の気持ちが痛いほどわかるからだ。
提督「まあ、そのうち目覚めるだろう」
陽炎「そのうちっていつでしょう?」
提督「さあな。もしかしたら、明日の朝まで目覚めない……なんてこともあるかもしれない」
俺は浜風の顔を見ながら言った。よく見ると首筋には紫の大きな痣が走っている。
本日の一二二〇に工廠から艤装を盗み出し、無断出撃を敢行した浜風を連れ戻したのは陽炎だった。これはそのときの痣である。後ろから絞め落としたか首筋を強かに打ちでもしたのであろう。装甲で守られている艦娘を素手で気絶させること自体驚くべきだろうが、陽炎の突出した戦闘能力を考えれば別におかしくはないし、それだけ彼女も怒っていたということだ。
とにかく、陽炎は『やりすぎた』わけである。だから浜風も帰ってきてからしばらく目を覚まさずにいた。
622: ◆jc3o0gJHYo 2017/04/16(日) 20:20:49.00 ID:V0VpMhKJ0
陽炎「顔に水でもかけてやりましょうか。バケツ用意します?」
提督「気持ちはわかるが、手荒なことはやめてくれ。それに、部屋が水浸しになるだろう」
陽炎「後で拭けばいいんですよ」
陽炎はにべもなく告げる。
陽炎「この馬鹿にはいい目覚ましになるでしょう。バケツはどこにありますっけ?」
提督「いいからやめなさい。目を覚ますまで待とうじゃないか」
陽炎「提督はずいぶん気が長いんですね」
皮肉っぽい言い方に聞こえたのは彼女が苛立っていているせいか、それともこれまで浜風に対して何もできなかった俺への当てつけか。
なんとなく気まずくなって、口を噤む。陽炎もそれ以上何も言わず、浜風を睨んだ。
時計の針が刻々と音を刻む。
病室は、俺たち以外誰もいないこともあって静寂に沈んでいた。窓から溢れる光は、室内の陰鬱とした雰囲気とは相反し、春の暖かさを感じるものである。外から見える木の枝に、メジロが止まっているのが見えた。澄んだ声で鳴いたが、今一風情を感じられない。
この空気が嫌になって、溜息を吐こうとした。気がついたのはその時である。陽炎には見えない位置――布団から這い出てきた紙片に、だ。
623: ◆jc3o0gJHYo 2017/04/16(日) 20:22:32.56 ID:V0VpMhKJ0
提督「陽炎」
陽炎「なんでしょうか?」
提督「そういえば、先日の遠征の報告書がまだだったろう。それを提出してもらいたいのだが」
案の定、陽炎の眉が吊り上がった。
陽炎「お言葉ですが提督。今はそれどころじゃありません」
提督「さっきも言ったが、君の気持ちはわかる。だが、仕事はきちんとやってもらわなければならないからな。優先順位を忘れてもらっては困るよ」
陽炎「優先順位なら」
提督「どのみち浜風はこの様子だと当分起きないだろう。報告書をまとめるくらいならすぐに済むのだし、せっかくだからやってきなさい」
言葉を遮ってそう言うと、陽炎は押し黙った。渋面を作り明らかに納得のいっていない様子であったが、俺はもう一言かけた。
提督「それに少々、時間を空けて気分を切り替えた方がいいように見える。今の君は、明らかに冷静ではないからな」
陽炎「……」
提督「命令だ。行きなさい」
卑怯だが、こう伝えればもはや何も言えないだろう。
陽炎は諦めたようにも、呆れたようにも見える様子で息を吐いた。
陽炎「わかりました。わかりましたよ。命令なら、従うしかありませんね」
提督「ああ。悪いな」
陽炎「いえいえ。上官の命令は朕の命令ですから」
嫌味たっぷりな言葉に苦笑するほかない。
陽炎は柵から手を離し、病室を去っていった。大きな音を立てて閉められたドアが軋んだ。部屋が揺れたのではないかと錯覚するほどである。
溜息をついて柵を見ると思わず顔を顰めてしまった。鉄でできた柵が手の形に歪んで、公園でたまに見かける奇怪なオブジェクトのようになっている。凄まじい怪力だ。
もう、行っただろう。
足音が遠ざかったのを確認してから声をかけた。
624: ◆jc3o0gJHYo 2017/04/16(日) 20:25:11.22 ID:V0VpMhKJ0
提督「……起きていいぞ」
浜風「ご協力ありがとうございます」
浜風は、ぱちっと目を開けて起き上がった。ゆっくりと伸びをした後に、歪んだオブジェクトへ目を移す。微苦笑が浮かんだ。
浜風「ずいぶんとお怒りのようですね」
提督「当然だろう。自分が何をしたのか分かっていないわけじゃあるまい?」
浜風「ええ。無断で艤装を持ち出し、出撃までしました。死罪を免れないほどの重罪です」
さらりと。
あまりにもさらりと、浜風は自分の罪状を述べた。澄んだ水のように透明な声なので、耳朶に触れてもしばらく脳が正常に動いてくれなかった。
頭に怒りの火が灯ったのは、数秒後のことであった。
……こいつは、本当に分かっているのか?
たしかに、浜風の言葉そのものは正しい。浜風の言う通り、通常ならば死罪に相当するほどの罪だ。だが、その言葉は正確な意味を捉えてはいても、感情的な理解がない。彼女の笑顔からは後悔も怖れも……何も感じられはしなかった。
提督「……君の言う通りだ」
感情を押し殺し、告げる。
提督「これは、以前の命令無視とは比べ物にならないほどの重罪だ。軍法会議にかければまず死罪は免れまい。それほどのことを仕出かしたんだぞ?」
浜風「……」
提督「今回ばかりは、君を庇えないだろうな。これを見逃したとあっては軍規が乱れる。君が言った通り、俺はたしかに甘いがな……これを見て見ぬ振りするほど甘くはないぞ?」
浜風「ええ、そうでしょうね」
浜風はふっと小さく笑った。堪忍袋の尾が切れた。
提督「君は分かっていない!」
浜風「何がでしょう?」
提督「自分がしてしまった事の大きさがだ! 死罪になるようなことをしてしまったのだぞ! それなのにどうしてそんなにも平然としていられる?」
声を荒げて言っても、浜風は眉一つ動かさない。その冷たい態度がなおさら俺の苛立ちをかきたてた。勢いよく立ち上がる。椅子が大きな音を立てて倒れた。
625: ◆jc3o0gJHYo 2017/04/16(日) 20:26:42.90 ID:V0VpMhKJ0
声を荒げて言っても、浜風は眉一つ動かさない。その冷たい態度がなおさら俺の苛立ちをかきたてた。勢いよく立ち上がる。椅子が大きな音を立てて倒れた。
提督「君は正気じゃない! 単艦で、南西海域に出撃するなど……どうかしているんじゃないか」
浜風「否定はしませんよ。あなたの言う通り、私はおかしい」
提督「ああそうだろうな! どうしてこんな馬鹿なことをしたんだ? 陽炎たちが連れて戻らなければ今頃どうなっていたか……」
浜風「死んだでしょうね、確実に」
浜風はあっさりと言ってのけた。
浜風「ですが、それがどうしたというのです? 無断出撃をしてしまった時点で死罪になることは確定していたのですから、どうせ同じではありませんか。死ぬのが後か先か。ただ、それだけの違いです」
提督「何を言って」
浜風「なぜこんなことをしてしまったのか、についてですが」
俺の声は、浜風の言葉に塞がれる。
浜風「それは、簡単なことです。私は死にたかったのですよ。せめて、艦娘として艦娘らしく。最期を迎えたかったのです」
浜風の笑顔がふと影を指して重たくなった。深海のような瞳に背筋が凍る。押し黙らずにはいられなかった。
唾を飲み込んで、なんとか声を出した。
提督「……君は、死にたかったのか?」
浜風は空を映した窓を見遣った。
626: ◆jc3o0gJHYo 2017/04/16(日) 20:30:30.12 ID:V0VpMhKJ0
浜風「はい」
どうしてだ、とは聞けなかった。
聞かずとも分かってしまったから。彼女には俺と出会ったその日から侵されている病がある。
死に至る病。
その病を取り除くべく、俺と陽炎は足掻いていた。絶望の淵に立たされた彼女が、最後の一歩を踏み出そうとしないところに幻覚にも似た希望を見出し、生きる理由となる灯火を探していた。それさえ掴めば、活路はあると信じて。
だが、その火はとうの昔に消え失せていた。
それを今、この瞬間、どうしようもなく悟った。
提督「浜風、君は……」
浜風「もう、疲れました」
酷く疲れた声だった。
浜風「……私には、不完全で人未満にしかなれない私には、この世界で生きていく資格はありません」
提督「……」
浜風「なぜ、こんな風になってしまったのでしょうね。私は、ただ普通であることを望みました。人間であることを。けれども、それは不可能だったのです。猿が人間になりたいと望んでもなれないのと同じように、しょせん欠陥品は欠陥品にしかなれません。味も痛みも熱も感じない……。ふふ、ふふふふふ」
627: ◆jc3o0gJHYo 2017/04/16(日) 20:31:34.97 ID:V0VpMhKJ0
笑い声が不気味に溢れる。窓から振り返った浜風の顔を見て呻きそうになった。
目も口も何もかも、表情の全てが歪だった。今までにないほど破滅的なそれは人間が限界に追い込まれた際に浮かべる、混沌とした感情の発露だ。喜びを表すものでも、内心を取り繕うものでもない。
どうしようもなく浜風は追い詰められていたのだ。
堰を切ったように、ぐちゃぐちゃになった感情が溢れ出ていく。
浜風「私は、あの日……あんな目にあったせいでおかしくなってしまったんです。ふふ、くくっ。無数の手が私に伸びてきて、まるで陵辱するかのように私の身体を弄りました。それらは腹に穴を穿ち、私の中からあらゆるものを引き出していった。あはははは、内臓、臓器が、引きずり出されたんですよ! 顔にはいっぱい血がかかりました。食われて、内容物まで飛び散って……ひひひ、あのときの奴らの楽しげな貌が、まるでオモチャで遊ぶ子供みたいで……ひ、ひひひひはははははは」
圧倒されて言葉が出ない。
浜風が何を言っているのか分からない。取り乱すあまり誇大な妄念に囚われてしまったのか。だが、その言葉には、?偽りを感じさせないほどの身に迫る「何か」がある。それだけ彼女の歩んできた人生が、地獄のようなものだったということなのだろうか。
浜風は狂ったように頭を掻き毟った。美しい銀の髪が崩れ、乱れる。
浜風「それなのに私は何も感じなかった! 何も、何も感じなかったんですよ! あんな目にあったのに……なんで、どうして。普通なら痛みと熱でもがき苦しむはず。それがなかった。私にはそれが。あはは、こんなのが人間なわけ、ないでしょう! 私は人間にはなれない、なれないんです。挙げ句の果てに堕ちるところまで堕ちて……。私は、欠陥品としてこの世に存在する定めだったのです!」
提督「……それは、違うよ」
浜風「何が違うって言うんですか!」
その声は血を吐くようだった。
浜風「あなたなんかには何も分かりません。私の苦悩なんて、普通の人間として生まれたあなたなんかに……色彩豊かな世界で生きられるあなたなんかに! 分かるわけないんですよ!」
628: ◆jc3o0gJHYo 2017/04/16(日) 20:34:04.36 ID:V0VpMhKJ0
彼女の拒絶が、俺の心を深く抉る。
理解できないことは重々分かっていた。絶対に踏み込めない領域であることも分かってはいた。だが、それでも実際に当事者から拒否を投げかけられてしまうと辛いものがある。終着点を前にして、その向こう側にいる人々から吊り橋を落とされ罵倒された旅人は、きっとこのような心持ちなのだろうか。
俺は唇を噛もうとした。噛んで血を流し、甘い鉄の味を舐めることで少しでも気持ちを紛らわせようとしたのだ。自傷行為の甘さは落ち着く。そのことをパブロフの犬のように身に染みて知っていたから。
だが、それは許されることではない。
痛みも、味も知らない彼女を前にして。それを甘受することは彼女の領域からさらに遠ざかる愚かなことだ。ああ、俺はつくづく馬鹿だ。彼女のことより自分がそんなに可愛いのか。
違うだろう。
いま、苦しみの業火の中にいるのは誰か。それを考えろ。
そして、彼女の苦しみに目を向けるのだ。剣先を向けられたからといって、まだ諦めてはいけない。彼女が炎に焼き尽くされてしまう前に、彼女にかける言葉はないか思案しろ。
血の甘さに酔うのは、それからだ。
感情の発露に慣れていないからだろう。言葉を尽くした浜風は肩で息をしながら俺を睨んでいた。射殺すような目線を受けて、俺は歯を噛み締める。ごりごりと石臼が擦れるような音が口の中に響いた。
彼女の苦しみはなんだ。「普通の人間」になれないことだ。普通の人間と同じ感覚を持てないことだ。ゆえに、彼女は己の人間性のすべてを否定してしまっている。
だが、彼女は……彼女自身が言うほどに人間ではないのだろうか?
俺は、違うと思っている。
そうだ。彼女は人間だ。たしかに普通の人間が持って生まれてくるはずのものを彼女は与えられはしなかった。しかしだからと言って、彼女が人間でないということにはならないはずだ。
629: ◆4G3mTjsxhA 2017/04/16(日) 20:35:14.58 ID:V0VpMhKJ0
その根拠はなにか。
それは、浜風がしっかりとした感情を持っていることだ。彼女は己の障害に苦しみ、悩み、その理不尽に怒り、絶望した。その葛藤と心の激動はまさに人間だからこそ起こるものではないか。人間は、理性の生き物であると同時に感情の生き物でもあるのだ。
感情とは、卓越した人間的活動である。
浜風は、それを失ってはいない。
それに――
提督「君の言うことは、もっともだ」
俺は、窓に近づいた。浜風の目が追いかけてくる気配を感じながらカーテンを隅に追いやり、窓を開く。風がふわりと駆け抜けて、俺の髪と窓辺のガーベラを揺らした。
提督「俺には、君の苦悩を理解することは難しい……だろう。悔しい話だが、それはどうしようもない事実だ。だがな、浜風。それでも俺は――」
目を閉じて、風が止まった瞬間に浜風と目を合わせた。黒く淀んだ眼差しから逃げずに、告げる。
提督「君を、人間だと思う」
浜風の目が、微かに見開かれた。
風が柔らかく、包み込むように彼女にまとわりついて、乱れた髪を散らした。ゆるりゆるりと自然の櫛が彼女の銀髪を梳かす。
提督「この風は、優しくて心地いい」
春らしい風だった。土筆や蒲公英が、満開になった桜の花びらが、そよいでいるところを想像できるくらいの安らかさである。
今度は嘘なんかじゃない。
630: ◆jc3o0gJHYo 2017/04/16(日) 20:36:37.28 ID:V0VpMhKJ0
提督「君は、あの時、風の色を知りたがった」
あの港で吹いた風が冷たいのか暖かいのか。子供のように純粋な瞳をして尋ねてきた。あのときは狂気の上澄みだと思ったが、それも見方を変えればただひたすらに綺麗な知的好奇心の表出だとも見ることができる。
知りたい。その欲求は、誠に人間らしい素直で美しいものではないか。
提督「『人間についての真なる学、真なる研究、これが人間である』――そう言った人がいる」
シャロン。浜風の呟きに、俺は頷いた。
提督「そう。人間であることを追求するものは、たとえ答えが出せなくとも人間なんだ。君は人間らしさを誰よりも真摯に探求してきたはずだ。その上で答えが出せずに立ち止まってはいるが、今この時においてそれに苦しんでいる君が、人間でないわけがない」
浜風「……」
提督「もう一度言う。君は、人間だ」
詭弁。そう言われたとしてもおかしくはないだろう。
だが、この言葉は俺の本音だ。なにも浜風への気遣いから出たものではない。この一月あまり浜風と接し、浜風を見続けてきたからこそ分かる。彼女は暇さえあれば港に立って陽が沈むのを見つめていた。潮風と光に目を細めながら、想像していたのであろう。感じることができない世界の色彩を。
その姿が、人間でなくて何と言う。
提督「……」
俺たちはしばし無言で見つめ合った。そよ風の音が聞こえるほどの沈黙は、微かな緊張感を持ちながらも清々しさがある。コミュニケーションを重ねるとともに積み上げられてきた思いを、ようやく言葉にすることができたからだろう。
手に滲む汗を誤魔化すようにカーテンを握る。浜風の瞳は、一石を投じた水面のように感情の揺らぎを映していた。
だが、俺の言葉は所詮一石でしかなかった。
瞳の揺らぎが治ったとき、その色は以前と変わらずにドス黒いままであったから。大河の流れをわずかに揺すったにすぎなかったのだ。
浜風の口が小さく吊り上っていく。
631: ◆jc3o0gJHYo 2017/04/16(日) 20:38:21.72 ID:V0VpMhKJ0
浜風「提督は、本当にお優しいのですね」
感謝など一片もそこにはない。バツが悪くなって目を逸らしたくなる。だが、逸らさなかった。俺自身の言葉に対して責任と意地を感じていたからだ。
浜風はベッドから出て立ち上がった。
浜風「こういう言葉もありますよ。『知ることによって、人間は人間らしさに至る』と」
その言葉が誰のものか見当がつかない。ハーフェズです、と浜風が付け足す。
浜風「ゲーテも影響を受けたイランの詩人ですよ。ご存知ないですか? 『ハーフェズ詩集』はかなり有名なものですが」
提督「すまないが、未読だ」
浜風「そうですか」
浜風はこちらに近づきながら言った。
浜風「ハーフェズの言葉は、こういう風にも解釈ができると思います。『知らなければ人間らしくなれない』ということです。提督は知ろうとすることそのものが人間らしさだと好意的に解釈してくれました。認知の是非は問わないと……。ですが、それでも知ることができなければ、やはり人間にはなれないのですよ。どう足掻いてもね」
提督「俺はそう思わない。仮にそうだとしても、君には感情がしっかりと根付いている。ならば君は、やはり人間だよ」
浜風「提督はいつから哲学者になったのですか?」
浜風は嘲笑いながら一蹴した。
浜風「あなたは普通の人間で、ただの提督でしかありません。私たち艦娘を死地に向かわせて椅子に座っているだけの存在です。そんなあなたの言葉に、一体どれほどの説得力があるというのでしょう?」
凶器のような言葉に怒りすら湧かなかった。ただ、そのあまりの鋭利さに心を引き裂かれそうになっただけだ。俺は呼吸の仕方も忘れたほどに、押し黙る。
632: ◆jc3o0gJHYo 2017/04/16(日) 20:39:53.68 ID:V0VpMhKJ0
それは、俺にとって最も触れられたくないジレンマであった。目に見えて動揺した俺を馬鹿にするように、浜風は見上げてきた。手を伸ばせば触れられるくらいの距離。
風を受け、浜風は鼻を鳴らす。
浜風「何も感じません。優しいんですね、この風」
提督「……」
浜風「ひょっとして、また嘘をついたんですか? ふふ、私を騙そうとしてもそうはいきませんよ」
提督「……違う。本当だ、今回は本物の感想だ」
浜風「ああ、そう」
浜風は興味がなさそうに言って、
浜風「そうですね、少しだけ面白い見世物をあなたに披露しましょう。これを見ても、私を人間だと思えるなら……私はあなたを狂人だと思うようにします」
提督「……一体」
何をする気だ?
そう確認する前に、浜風は左手を俺の眼前に晒した。人差し指を右手で握り締め、微笑む。
633: ◆jc3o0gJHYo 2017/04/16(日) 20:41:06.01 ID:V0VpMhKJ0
浜風「こうします」
枯れ木を圧し折るような音が静謐な病室に響いた。
パキン、ポキポキ。
鼓膜に染み入る音だった。現実味がなさすぎるその音に、俺は最初何が起こったのか理解できず、白痴のごとく口を開けて立ち竦んでいた。
浜風が、左手から手を離す。糸の切れたマリオネットが、関節をぐちゃぐちゃにしながら倒れるみたいに、人差し指があり得ない方向に垂れさがった。節々から真っ白い骨が突き出て、血が一斉に溢れ出た。
浜風「あは、あはははは。あはははははっ。見てくださいよ、ねえ! 人差し指が壊れちゃいましたよ! ねえねえ!」
提督「……何をやっている」
浜風「見て分かりませんか? 折ったんですよ、自分の指を! 不思議ですよねえ、普通の人間はこんなことをやったら痛みで泡を吹くんでしょう? でも、私は吹きません。ふふっ、だって痛くないんですもの!」
提督「なんて、なんてことを……」
汗が止まらない。背筋が一瞬で濡れていた。まったく理解不能な浜風の行動に絶句して、首を振る。
指。浜風の綺麗な指が、歪んで、おかしな形になっている。なんだ、あれ。なんだなんだなんだなにが――。
目眩がした。全身に蠢めくような悪寒に耐え切れず、後退る。
新月が、二つ浮かんでいた。その下にも一つ。浜風の顔。笑顔。どうしてこんなときに笑っているの? わからない。おかしい、おかしい。
また、乾いた音。幾重にも重ねた乾いた音。
二本目の指がぐちゃぐちゃになっていた。視界が真っ赤に染まったと思うくらい血が流れ、白い床が汚れた。
634: ◆jc3o0gJHYo 2017/04/16(日) 20:42:14.95 ID:V0VpMhKJ0
浜風「どうしたんですか? さっきまであれだけ私に優しい言葉をかけてくれたのに。ふふっ、怖くなっちゃいましたか? 顔が汗まみれで、真っ青ですよ」
提督「あ、ああ……。こんな、なんて……」
浜風「あははっ、あはははははははははははっ! やっぱり、私は人間ではないんですよ! ねえ、私の言った通りでしょう? 安心しました。あなたが、私のような壊れた欠陥品を人間だと思い込む異常者じゃなくて。よかった、ふふっ、よかったです」
吐き気がこみ上げてくる。指の歪な形が、現実味がなさ過ぎて見ているだけで辛い。忌避感のあまり身体中が震えて止まらない。口を押さえた。その手もまるで自分の身体じゃないみたいに震えている。
浜風「あーよかった。私は、間違えてはいなかったようですね。やはり私は欠陥品です。ふふっ、それが改めて確認できた記念に、『これ』、全部折っちゃいましょうか?」
提督「――」
声にならない悲鳴が、酸味とともに口内に広がる。
浜風が、薬指に手をかけた。
提督「や、めろ……」
浜風「嫌です」
指が、徐々に曲がっていく。
提督「やめろ!」
耐えきれなかった。衝動的に浜風の暴走を止めに入った。彼女に駆け寄り、右腕を掴んだ。
血が、舞い上がる。力が入りすぎたせいであろう。俺は腕を掴んだまま浜風を壁へと押し付けてしまった。何かが落ちる音が背後から聞こえる。何が落ちたかはわからない。衝撃に思わず目を閉じた。
635: ◆jc3o0gJHYo 2017/04/16(日) 20:43:36.40 ID:V0VpMhKJ0
時計の秒針が刻まれるか刻まれないかの刹那、意識に空白が生まれる。その空白から早く復帰したのは、浜風の方であった。
浜風「……え」
さっきの狂気はどこに消えたのか。突然の大きな音に驚いた赤ん坊のような顔で、俺に掴まれた右腕を見つめていた。
遅れて我に返った俺は、その変化に戸惑った。押し付けられたのだから驚くのも無理ないかもしれないが、それにしても様子が妙だ。
浜風の表情が、爆発的に変化した。
目が飛び出しそうなくらい見開かれ、口元をひくつかせている。まるで毒蛇に噛み付かれでもしたかのように、明らかに怯えた顔をしたのだ。首を横に振りながら、
浜風「いや…….!」
俺の手を信じられないほどの力で振り払おうとしてきた。
提督「お、落ち着け!」
俺も一杯一杯で、頭が働かない。今浜風を振り払えば、なにか恐ろしいことが起こるのではないか。そんな考えに囚われて、より一層力を込めて押さえつけようとした。
悲鳴が上がった。
ファラリスの雄牛を連想するほどの、恐怖に満ちた叫び声だった。
浜風「いや、いやああああっ! 離して、離してええええええっ!」
提督「浜風! やめろ!」
浜風「離せえええっ!」
米神の辺りに鈍い衝撃が走った。浜風がボロボロになった左手で殴りつけてきたのだ。凄まじいその力に耐えきれず、俺は浜風の腕を離してしまった。そのまま突き飛ばされ、血で濡れた地面に尻餅をついた。滑り気のある感触。意識が真っ黒に染まった。
遠くから、扉が乱暴に閉められる音がした。
意識の混濁が治った頃には、浜風は居なくなっていた。ただ血で汚れ、荒れ果てた病室がそこにあるだけ。
まるで殺人現場のようになったそこで、俺は一人、茫然と倒れていた。
提督「……浜風」
ドアの方に目をやると、ノブが真っ赤に濡れている。血の足跡が、彼女が外に飛び出したことを無言のうちに告げていた。
642: ◆jc3o0gJHYo 2017/05/15(月) 01:19:02.21 ID://WtdlbVO
■
あり得ない。
あり得るわけが、ない。
提督に右腕を掴まれた瞬間、感じたもの。
なんだあれは。
あれの名前が分からない。あれをなんて形容すればいいのか分からない。私は、あんなものを知らない。
怖い。今までのどんなものよりも、怖い。
内側からこみ上げてくる恐怖から目をそらすように、私は走った。廊下を駆け抜け、階段を落ちるように降り、そして誰かとぶつかった。
陽炎「きゃっ!」
小さく悲鳴を上げたのは陽炎姉さんだった。勢いあまって尻餅をつき、私も後ろに倒れた。
陽炎「何よもう、前を見なさいよ! ……って、浜風?」
浜風「……」
陽炎「目が覚めたのね。良かったわ。……それより、廊下を走って一体どうしたのよ? なんか、顔色もすごく悪いし」
気遣うような眼差しを向けてくる陽炎姉さんの目が、大きく見開かれた。
陽炎「あんた……それ、どうしたのよ!」
私は何も答えられなかった。
643: ◆jc3o0gJHYo 2017/05/15(月) 01:20:16.13 ID://WtdlbVO
陽炎「体中血だらけじゃない! それに、その指……」
陽炎姉さんは絶句した。指先が震えている。
浜風「指……?」
なんのことを言っているのだろう。私の指がどうかしたのか?
私が呆然としていると、陽炎姉さんはすぐに表情を引き締めた。
陽炎「とにかく立ちなさい。今から入居施設に行くわよ!」
浜風「入居施設に、なぜ?」
陽炎「いいから! 来なさい!」
陽炎姉さんは、私の腕を掴んで無理矢理引っ張った。ふわりと一瞬だけ無重力状態になったかのように、軽々立ち上げられてしまう。
そのまま、陽炎姉さんは何も言わず私を引いて駆けた。私はされるがまま付いていく。
ああ、そうか。そういえば指を折ったのだった。
他人事のように思い出して、小さく笑う。
何がおかしいのか、よく分からなかった。
644: ◆jc3o0gJHYo 2017/05/15(月) 01:21:31.90 ID://WtdlbVO
入居施設に半ば強制的に入れられた私は、高速修復材による回復を施された。
高速修復材は、提督の許可がなければ使ってはならないものだが、陽炎姉さんはそんなこと関係ないと言わんばかりに使用した。なけなしの修復材を独断で使用したとあっては始末書ものだが、彼女のことだ、紙一枚書けば済むことだと思っているのかもしれない。
私の指は、瞬時にして原型を取り戻した。
別に修復材なんてなくとも、深海棲艦の能力ですぐに再生したのだが。陽炎姉さんに見られるわけにはいかないし、見られたら説明が面倒だったので、ちょうど良かったかもしれない。
『お湯』を浴び、指が治ったころには、私の混乱も大分引いてくれていた。
だからこそ、余計にあのことばかり考えてしまうのだが。
陽炎「骨はズレてはいないようね」
私の指を微生物の運動でも観察するように注意深く見ながら、陽炎姉さんは安堵の息をこぼした。指を動かすように言われたので大人しく従うと、よしっと言って笑った。
陽炎「完治したみたい。よかった」
浜風「ええ……ありがとうございます」
陽炎「違和感があったらすぐに言うのよ? 高速修復材使っているから大丈夫だとは思うけど、折れ方が折れ方だったんだから」
浜風「ええ……」
生返事ばかり口から零れる。
頭の中にあるのは、あのことばかりだった。
提督の手から感じられた違和感。あれは、まったくの未知の感覚であった。そもそも何かを感じる機能を持ち得ないはずなのに、感じるというのはおかしいではないか。
645: ◆jc3o0gJHYo 2017/05/15(月) 01:22:49.83 ID://WtdlbVO
もしかして。
もしかして、私の気のせいだろうか?
私が何かを感じたように勝手に思い込んだだけで。錯覚だったのではないか。私の醜い未練が生み出した幻想。そう考えれば納得はいく。そうだ。気のせい。そうに決まっている。そうじゃないなら、そうじゃないのなら、私の存在そのものが蝋燭の火のように揺らいでしまう。
だけど、あれを単なる錯覚と片付けてしまってよいのか? あれは幻想だと断じるにはあまりにも現実味がありすぎた。
頭の中で、反駁がぶつかり合う。あれを否定したい自分と、否定しきれない自分がせめぎ合い、落ち着かない。
陽炎「浜風?」
陽炎姉さんの言葉に我に帰る。
浜風「はい、なんでしょう」
陽炎「いや、さっきからぼーっとしていたから。話聞いてた?」
浜風「……いえ、すいません。少し考え事をしていました」
やっぱり、と陽炎姉さんは息を吐く。
陽炎「あんた、一体どうしたの……? 朝の件といい、最近これまでにないくらい妙よ」
浜風「……」
陽炎「何があったのか教えてちょうだい。たぶん、私が部屋に戻った後に提督と何かあったんだろうけど。それにしたって、どうすればあんな風に指がなっちゃうのか分からないわ」
浜風「……」
陽炎「答えない、か。もしかして、提督に何かされたの? だったらあいつのこと締め上げるけど」
浜風「いえ、提督は何もしていません」
思わず、強い口調で否定してしまった。陽炎姉さんが少しだけ驚いた顔をする。
646: ◆jc3o0gJHYo 2017/05/15(月) 01:23:50.18 ID://WtdlbVO
陽炎「そ、そう。なら、あの怪我はどうしたのよ?」
浜風「自分でやりました。目が覚めてから、錯乱してしまって……。わけが分からなくなっていたもので。提督は、必死に止めようとしてくれました」
陽炎「自分でやったの?」
ゆっくりと首肯すると、陽炎姉さんは額に手を置いて俯いた。
陽炎「なんて馬鹿なことを……」
そう呟いて、しばらく黙っていた。
きっといろいろ問い詰めたいに違いないし、私の愚かな行いを責め立てたいだろう。だが、そうしないで黙っているのは、私に気を使ってくれているからだ。姉さんは、根っからのお人好しで優しいから。きっとそうだ。
水滴の音が静寂に落ちる。入居施設は音がよく響くからか、まるで木霊を聴いているかのようだった。私は、ただ姉さんを見詰めていた。
陽炎「朝の件はもう、私からは何も言わないわ。今回のことについてもね」
ただ、と姉さんは重たい口調で言って、顔を上げた。真剣で、それでいて悲壮なアメジストの目に私の虚ろな影が映っていた。水面のように揺れている。
陽炎「あんたに何があったのか、それだけでいいから教えて。お願いよ、浜風。私は知りたい……ううん、知らなければならないと思うわ」
包み込むように手を握られる。人肌の柔らかさと、鉄の硬さが同時に触れた。本物の手と、作り物の手は、どちらも同じく温度がない。
陽炎「親友として、そしてあんたのお姉ちゃんとしてね」
647: ◆jc3o0gJHYo 2017/05/15(月) 01:25:00.01 ID://WtdlbVO
入渠施設に窓はない。
けれど、風が吹いているような気がした。思い出したのはあの日、姉さんに抱かれながら受けた風。暖かさのない、何も感じることはなかった風。それでも私の心を揺さぶったもの。
ああ、姉さん。あなたはやはり優しくて、尊敬すべき姉だ。ただ、もはや何もかもが遅い。
桜はもう、枯れているんだ。
浜風「姉さん」
私は手を添える。
浜風「ごめんなさい。今までご迷惑とご心配をおかけしてしまって。私は……少し、おかしくなってしまっていたのです」
何も言わずに耳を傾ける姉さんを、真っ直ぐに見つめる。
そうして私は嘘をついた。
浜風「話します。『全て』を」
全部なんて話せはしない。彼女に話すのはせいぜい、南鎮守府であったことと南提督に捨てられたことぐらいだ。その先の私が見た地獄については一切を秘匿する。
信じられるわけもない。
姉さんも、自分さえも。
信じたいものは――。
滔々と話しながら、提督の覇気のない顔と、大きくてざらついた手が頭に浮かぶ。
姉さんの顔を見ているはずなのに、目に入らない。私は遠くの世界を見つめていた。
縋りたいのは、この手ではない。
648: ◆jc3o0gJHYo 2017/05/15(月) 01:27:40.05 ID://WtdlbVO
浜風「――以上です。これが、あの鎮守府であったすべてです」
話し終えると、姉さんは俯いて「そう」と力なく返事をこぼした。肩が震えている。
水滴の跳ねる音。一つ、また一つと響いた。
姉さんの涙だった。
浜風「姉さん?」
私が声をかけると、堰を切った水のように彼女は抱きついてきた。突然のことに身体が上手く反応しなかったが、なんとか抱き留める。機械の擦れる音が耳朶を打つ。肉と鉄に抱かれながら、私は声にならない悲哀を受けていた。
嗚咽に濡れる。
蕾をつけた桜の木で抱きあったときと、同じようで違う涙だった。あのときのは惜別と無事への祈り。そして今のは悲劇への嘆き。案じていた結果とは違うものになってしまったことへの絶望が、彼女を突き動かしたのだ。
陽炎「はまかぜ……! はまかぜ……!」
ごめんね。
浜風「謝らなくて、いいんです」
姉さんは首を横に振る。
陽炎「守ってあげられなくて、側にいてやれなくて……。あんたが、そんな辛い目に遭っているなんて知らなかった! ……ごめんね」
浜風「大丈夫ですから。姉さんは、本当にお優しいですね」
赤い髪を撫でながら、出来る限り感情をつくって言う。
自分も利き腕を失っているくせに。
彼女はいつもそうだ。自分のことよりも友のことばかりを優先する。友の不幸を自分のことのように悲しみ、それを防げなかったことを責めてしまう。実直で、仲間想いなのだ。かつては、そんな彼女の姿に花が咲くような美しさを感じたものだが。
今は、何も、感じない。
この手の中には、無味乾燥とした残滓しかない。
労るような手つきは、どこか機械的だった。
陽炎姉さんは、それに気づくこともなく謝り続けていた。
ああ、姉さん。
あなたさえも、今の私にとってはもう、有象無象の一つでしかないようだ。
私の関心のすべては、提督の手にある。
たとえ錯覚だったとしても。答えは、あの中に――。
653: ◆jc3o0gJHYo 2017/05/28(日) 20:21:16.94 ID:3vzrU5pA0
■
春の風は暖かい。
四月七日。南西鎮守府の島の桜は咲き誇っていた。輝かしいばかりのピンクの花々が大きなカーテンのように波打つ。蜜を運ぶミツバチたちが忙しそうに飛び回り、桜の開花を喜んでいた。花びらが、艶やかに舞う。
メジロの鳴き声が空気を叩いた。爽やかな朝だった。
俺は日の光を浴びながら港を歩いていた。
防波堤の先には、銀の少女が佇んでいる。凪いだ海を静かに見詰めながら、揺蕩う髪を抑え、少女は何を思っているのか。きっと青き眼差しで自分に見えないものを求め、考えているのであろう。美しい無味乾燥とした世界へ疑問を投げかけている。いつも彼女はそうしていたから。
だが、今回はおそらくそれだけではない。
彼女は、待っている。不思議なくらい、そう確信していた。
俺は、浜風の背後に立った。
提督「浜風」
声をかけても、浜風は振り返らなかった。手を掲げ、ひらりと流れる花びらを一枚受け止める。
浜風「今日は、いい天気ですね。桜も綺麗に見えます」
654: ◆jc3o0gJHYo 2017/05/28(日) 20:23:14.07 ID:3vzrU5pA0
提督「ああ」
浜風「私の処分は決まりましたか?」
たとえ死刑でも甘んじて受け入れます。
そう告げながらも、声には揺らぎがあった。いつもの淡々とした、投げやりで空虚な感じがない。たしかに、微かな死に対する抵抗のようなものが認められる。
提督「まだはっきりとは決まっていない。だけど、死刑にするつもりはないよ」
浜風「……そうですか。あれだけの過ちを犯したのにも関わらず、それでもあなたは許すと」
提督「許しはしないさ。相応の罰は受けてもらうからな」
浜風「あなたは本当に……本当にお人好しですね」
呆れたような、安堵するようなそんな言い方だった。
提督「俺はそんなに優しいかな?」
浜風「優しいですよ。だからこそ、みんなあなたに付いてくるのだと思います」
思わず苦笑いが零れたのは無理のないことだった。
付いてくる、か。
このアルコール中毒者に。俺は酒がなければ立っていることも難しいような弱い男でしかない。ただ、周りがあまりにも彼女たちに優しくないから、相対的に美化されてしまうだけだ。それはほとんど、錯覚に近い。
だが、たとえ錯覚でも、縋りたくなってしまうのも分からなくはないから。俺がアルコールに救いを求めるように、彼女たちが甘美な酔いにも似た「優しさ」を欲するのも無理はないと思うから。
俺はこの「優しさ」に満ちた世界の玉座に腰かけている。
滑稽で、虚しい王なのだ。
提督「……ありがとう」
か細い声が出てしまったから、風に攫われたかもしれない。浜風には聞こえていないようだった。
浜風「ねえ、提督」
花びらが、ふわりと宙に浮いた。浜風が花びらを手放したのだ。
銀の髪が太陽の光を孕みながら揺蕩う。水平線により近い海面の輝きよりも美麗で、髪の一本一本、細部に至るまで、まるで光が形を成した工芸品であるかのように感じられた。
浜風が振り返った。銀の粒子が舞った気がした。
風とともに、問うてくる。
655: ◆jc3o0gJHYo 2017/05/28(日) 20:24:21.44 ID:3vzrU5pA0
浜風「この風は、良いものですか?」
ああ、なんて。
なんて、美しい瞳なのだろう。澄んだ青さに引き込まれる。
間違いない。俺はいま、この世で最も純粋な美しさに触れている。
浜風「……提督?」
提督「……」
浜風「あの、提督。聞いていますか?」
提督「あ、ああ……。すまない」
浜風「もう」
浜風が頬を膨らませて抗議する。そんな浜風は初めて見た。
提督「ちゃんと聞いていたよ。そうだな、この風は……」
言葉を区切り、続ける。
提督「この風は、とても温かいよ。いい風だ」
浜風「……」
答えを聞いた浜風は、しばし何も言わなかった。そのままじっと俺を見詰めてくる。俺は気恥ずかしさを隠しながらその眼差しを受けた。
浜風は、ゆったりと微笑んだ。
浜風「そうですか」
今までにない、嬉しそうな表情だった。決して作り物なんかではない本物の感情の表出だった。
浜風「……そうですか。この風は、温かいんですね」
提督「ああ」
浜風「いい風、なんですね」
浜風は嬉しそうに言いながらも、目を伏せた。
浜風「……でも、私には何も感じられません」
提督「浜風……」
浜風「だから、言葉だけではどうしても信じることができません。とくに、提督はお優しいですから……私に嘘をついている可能性だってあります」
俺は黙って聞いていた。
浜風の声にも、表情にも猜疑心を感じさせるものは一切なかった。浜風は本当に俺を疑っているわけではない。それがなんとなく分かったから、俺は彼女の言葉を待っていた。
浜風「だから、証明してください。私に嘘をついていないことを。信じさせてください。この世界に本当に色彩があることを」
656: ◆jc3o0gJHYo 2017/05/28(日) 20:25:38.04 ID:3vzrU5pA0
私に、信じさせてください。
浜風はもう一度そう言うと、目を上げて、グローブを取った。白く細い手がすっと俺の方へと伸びてくる。
俺は静かにその手を受ける。指を置いた瞬間、焼け石にでも触れたかのように浜風の手が反射的に引いた。が、彼女は恐る恐るだがその手を戻した。
震えていた。怖いのだろう。
何を恐れているのか、それは察していた。だが、答えは俺が述べてはならない。
浜風「ああ……」
桜色の唇が重たく動いた。
浜風「ああこれが……これが……」
もう一つの手も、添えられた。小動物を包み込むかのごとく俺の手は優しく扱われる。
いくつもの感嘆の声が、風とともに昇っていく。
彼女は今、答えに至ったのだ。
世界の色彩を見つけてしまった。
浜風「これが『温もり』というもの、なんですね」
海と空が一際輝いた。世界が金色に包まれる。神々しい光の中に溶ける浜風は、悲しいほどに華やかだった。
浜風の頬に、一筋の涙が伝う。
浜風「あれ?」
次々に溢れて止まらない。困惑したのか、どうすればいいのかわからないのか。浜風は首を左右に振って、涙を拭うことすらしなかった。
浜風「なんでしょうこれは……。胸の内から、次々と込み上げてきて止まりません。提督、どうすればいいのでしょう」
提督「いいんだよ、そのままで」
きっと今まで一度も泣いた事がないのだろう。過酷な運命にありながら。
提督「いいんだ、浜風。嬉しくて泣いたっておかしいことじゃない」
浜風「……私は、泣いているのですね」
提督「ああ」
浜風「そうですか」
そう短く言って、彼女は俯いた。
657: ◆jc3o0gJHYo 2017/05/28(日) 20:27:08.89 ID:3vzrU5pA0
彼女の肩はこんなにも小さいものだったか。震える肩を見ながらそう思った。きっと、凛とした彼女ばかり見てきたせいだ。
浜風「離さないで……」
提督「離さないよ」
浜風「怖いんです。この手を離してしまったら、この『温もり』も消えてしまうんじゃないかって……」
提督「大丈夫、消えない。絶対に消えないから」
彼女が安心できるように、俺は握る手の力を少しだけ強めた。
ほうっ、と吐息が桜色の唇から零れる。
浜風「……ああ」
提督「……」
浜風「……たしかに、ここに。提督、どうかお願いです。しばらく、このままで」
提督「わかった。君の気が済むまで付き合うよ」
浜風「ありがとう、ございます」
水滴が、地面を次々と濡らしていく。彼女はとうとう耐えきれず、嗚咽を洩らして泣き始めた。今までの苦悩をすべて吐き出すような、堰を切った感情の爆発。
波音がかき消される。でも、その声は静謐な朝の空気を不思議と壊さない。俺は胸が締め付けられるような思いで、唇を噛んだ。
抱きしめたいと、思ってしまった。頭を撫でて慰めてやりたいと。だけど、それはしてはならないことだ。浜風のあまりにも気高い純真さをこれ以上穢してしまうような気がしたから。
浜風の叫びを聴きながら、俺は素直に喜べないでいた。それは、俺の意図しない形で浜風を救ってしまったことに対してではない。救えてよかったと思いつつ、また救ってしまったとも思ってしまう自分がいるからだ。その吐き気を催すほどの身勝手さに、自分自身ほとほと呆れた。
風が俺たちの間を吹き抜けていく。その暖かさもどこか今は薄らいで感じられた。
後悔するなら救わなければいいのに。
そんな静流の皮肉が、空から聞こえてきそうだった。
658: ◆jc3o0gJHYo 2017/05/28(日) 20:30:17.94 ID:3vzrU5pA0
■
私は、とうとう見つけた。
自分が生きる意味を。自分が人間でいられる寄る辺を。あの優しくて大きな手の内から感じられた『温もり』によって。
自室の布団に丸まりながら、胸の内に手を抱いた。
今は何も感じない。だが、港で感じていた『温もり』はまだこの中に残っている。これが錯覚でしかないことは分かっているが、ここにはない今でも忘れることなどできなかった。
提督。
あの人の覇気がない顔が浮かんでくる。いつも顔色が悪そうだけど、とても端正な顔つきで優しい目をしている。
また、あの人に触ってもらいたい。
あの手の温もりを感じたい。
提督。
あの格好いい顔立ちを見たい。あの目を見たい。あの声を聴きたい。あの人と話したい。あの人に会いたい。あの人をからかいたい。あの人を困らせたい。あの人に、あの人にあの人にあの人にあの人にあの人にあの人に……。
あの人が、欲しい。
太ももをすり合わせる。何故か下腹部に違和感があって落ち着かない。どうしてだろうか、あの人のことを、あの人の温もりを考えただけで心と体が震えてくる。気持ちが昂って、ああ……抑えられない。
浜風「……ん、はぁ」
提督が、今すぐ欲しい。
衝動のように湧き上がってくる。提督を求める気持ちが。
私は確信する。
私には、彼しかいない。私が人間で居られるのは彼と過ごし、彼と触れ合っているそのときだけだ。彼が居て、初めて不完全な私は完成するのだ。いわばパズルの失われたピースのようなもので、絶対に不可欠な存在。
私は、誓った。
なんとしても彼を手に入れる。
たとえどんな手を使ってでも。何人殺すことになろうとも。絶対に。
この小さな島の鎮守府で、私は私の世界を見つけた。その世界にいるのは私と提督だけでいい。
あの温もりは、私だけのものだ。
674: ◆jc3o0gJHYo 2017/07/30(日) 10:19:19.05 ID:PA6H2EBi0
■
罪を犯すということは、まっさらなキャンバスに絵を描いてしまうようなものである。
元の、何も描かれていない状態に戻すことはできない。
だが、消せないとしても薄めることは可能である。
例えば時間。時間はすべての万能薬であるという表現はまさに的を射ており、それは罪に対してもあてはまってしまう。場合によっては、思い出にまで昇華されてしまうことだってある。少年時代の悪行は、大人になれば酒を進める題材として扱われるようになるのはよくある話だ。
しかし、時間は遅効性である。緩く穏やかで、人間の良心に期待し依存する。全ての人間に平等に与えられる薬ではあるが、それで許される罪というのは実に軽い。
だから、重い罪に対しては時間に合わせて、もう一つ劇薬が必要となってくる。
それは、その罪に相応の罰を指す。
だから俺は、浜風へ劇薬を与えることに決めた。不本意ではあるが、それが責任のある立場についた人間の果たすべき役割でもあるから。
浜風は薬を受け入れた。不満など一つも漏らすことなく、穏やかに微笑みながら艤装を背負った。
榛名『――撃ち方、やめ! 両者元の位置に戻ってください』
榛名のアナウンスが聞こえる。甲高い砲音が止み、海は静けさを取り戻す。
二本の白波が引き合うように広がっていた。浜風と、対戦相手の深雪、両者の脚部ユニットのスクリューが作り出す人工的な波だ。両者はところどころペイント弾の粘っこい色味を体に浸み込ませて、ペンキを被ったかのごとき有様になっている。
俺は双眼鏡の倍率を上げて、浜風を見た。
一目見た瞬間、疲弊しきっていることが分かった。肩で息をして、航行が若干おぼつかなくなっている。疲労が足にきて震えているからだろう。無理もない。深雪との戦闘で三十一試合目だ。どれだけ屈強に鍛え上げた戦士であろうとも動けなくなってもおかしくはないくらいの対戦数である。
苦し気に歪んだ浜風の表情をみていると、胸が締め付けられる。
コメントする
このブログにコメントするにはログインが必要です。
さんログアウト
この記事には許可ユーザしかコメントができません。