明後日の方向を見ながら更に狼狽しまくる輿水。その目は泳ぎに泳いでいた。自分で問い詰めといてなんだがもう少し頑張れ自称・女優。



幸子「……く、暗闇で気付かなかったんじゃ!」

八幡「その時はもう既に明かりついてたよな」

幸子「…………べ、別のルートを通って……!」

八幡「この旅館は上の階に行く階段は一つしかないだろ」

幸子「………………ちょ、ちょっとトイレに寄って…て……」

八幡「そもそもトイレの為に部屋へ行ったんじゃないのか」



発言の旅に縮こまっていく輿水。ここまで語るに落ちまくる奴も珍しい……
ここまでくると、もはや嘘をついてるって言っているようなものだ。



幸子「う、ううう……ボクじゃない、ボクじゃないんです!」

八幡「いや、そう言われてもな……」



せめて宴会場から抜け出した本当の理由を説明してくれれば助かるんだが、それも言いたくないようだし、困ったもんだ。
そんなに苦渋の表情をされると、なんだかこっちが悪い事をしてるような気分になってくる。



凛「……プロデューサー、その辺にしといてあげたら?」

文香「少し、不憫に思えてきました……」



見かねたのか、小さな声で告げてくる凛と鷺沢さん。まさかの高垣探偵団からの助け舟であった。まぁ、気持ちは分からんでもない。さっきまでうろちょろしていた楓さんも若干申し訳なさそうだ。



幸子「う、うう……」

楓「……ごめんなさい、幸子ちゃん」

幸子「楓さん……?」

楓「確かに私たちはあなたの証言を疑ってはいるけれど、それでも、貴女の事を犯人だとは思っていないわ。そこだけは信じて」



引用元: 八幡「やはり俺のアイドルプロデュースはまちがっている。」凛「またね」 


THE IDOLM@STER CINDERELLA GIRLS 4thLIVE TriCastle Story(初回限定生産)[Blu-ray]
日本コロムビア (2017-08-30)
売り上げランキング: 83
341: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/07(月) 23:00:53.54 ID:ttV+FyVW0



輿水へ歩み寄り、まるで子供を諭すかのように優しい声音で話しかける楓さん。
……まぁ、14歳と25歳だし実際大人と子供なんだが。



楓「責め立てるつもりもないの。だから安心して頂戴」

幸子「楓さん……」



その言葉に、少しだけ気持ちが揺らいだような表情になる輿水。
しかしすぐに思い直したのか、キュッと口を結び、眉を寄せ、珍しく決意するかのような強ばった顔になる。



幸子「……すいません。嘘をついたことは認めます。……でもやっぱり、本当のことは言えないんです」

八幡「…………」



そこまでか。
一体どんな理由があれば、ここまで口をつぐむというのか。



楓「……そう。どうしても、教えてくれないわけね」

幸子「はい。こればっかりは」

楓「分かりました。…………それじゃあ、勝負をしましょう♪」

幸子「はい。…………はい?」



一転、ポカーンと間抜けな表情になる輿水。正直その反応は正しい。



幸子「へ? え、勝負って……勝負というのはつまり、どういうことですか……?」



輿水幸子は混乱している。頭上にはてなマークが見えるようである。
それに対し、楓さんはとても楽しそうだ。さっきまでの優しい笑顔は何処へ……



楓「さきほど兵藤さんともやってきたんです。私たち高垣探偵団が勝てば、ちゃんと事情を説明して貰う。幸子ちゃんが勝てば、私たちはもう何も訊かない。そういうことです」

幸子「はぁ…………いやどういうことですか!?」



342: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/07(月) 23:02:04.34 ID:ttV+FyVW0



一瞬納得しかけたように見えたがすぐに我に返る。
まぁ、普通に考えてよく分からん展開だよな……俺もよく分からん。さっきは勝負事好きな兵藤さんが相手だったし。そもそも言い出したのはあっちだし。



楓「まぁ良いじゃないですか。要は、幸子ちゃんが勝てば良いんです」

幸子「え、ええー……」

八幡「諦めろ輿水。じゃないと話が進まない」



普通に考えれば輿水がこの勝負を受ける義理は一切無いのだが、そこはそれ、さすがは輿水。盛大な溜め息と共に流れを受け入れたのか、陰鬱な表情で問うてくる。



幸子「……それじゃあちなみに訊きますけど、勝負というのは何をするんですか?」

楓「そうね……例えば」

幸子「例えば?」

楓「甘いもので早食い、とか?」

幸子「そういうのはかな子さん辺りとやってくださいよ!」



完全に今考えたなこの人。白くまでも買ってくる?



楓「そういえば、肝心の勝負内容を考えてなかったわね……」

八幡「さっきは向こうが用意しましたしね」



その結果メダルゲームという相手の得意そうな種目で勝負する事になったのだが……まぁ、勝ったから結果オーライだな。

と、そこで輿水がピーンと何か思いついたようにし、次第にその表情は笑みへと変わっていく。これはまた碌でもないことを考えてるな。



幸子「分かりました。勝負は受けます」

楓「!」

幸子「ただし、勝負内容はボクが考えるというのが条件ですが」



ニヤリと意地の悪そうな笑みを浮かべながら言い放つ輿水。やはりそうくるか。



343: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/07(月) 23:03:53.48 ID:ttV+FyVW0



楓「……その勝負内容というのは?」

幸子「ふふーん、よくぞ訊いてくれました。ズバリ……」



そこで輿水は言葉を切る。大仰に勿体ぶったかと思うと、右手を大きく頭上に掲げ、その後俺たちへと人差し指をさし、犯人はお前だ! と言わんばかりに突き出す。むしろそれはお前がやられそうなポーズなのだが。

そして輿水は、妙に自信満々に言い放った。



幸子「……題して! 『本当にカワイイのは誰か選手権』ですっ!」

八幡「……………」

凛「(プロデューサーが『割と真剣にこいつバカなんじゃないか?』みたいな目で見てる……)」



こいつバカなんじゃないか?



幸子「ルールは簡単です。貴女たち……えー……少年? 探偵団?」

楓「高垣探偵団です」

幸子「失礼。高垣探偵団が一人一人何か『カワイイ行動』をして、それをボクにカワイイと認めさせることが出来れば、貴女たちの勝ちとしましょう!」

八幡「お前のさじ加減ひとつじゃねぇか」

楓「受けて立ちます」

八幡「楓さーーーん!?」



もはや様式美と言っていいかもしれない。



八幡「輿水が絡むとどうしてもバラエティ色が強くなるな……」

幸子「どういう意味ですか!」



ぷんすこと怒っているが言ったままの意味である。っていうか君、絶対自覚あるよね?



幸子「ボクたちはアイドルなんですから、むしろこれ程おあつらえ向きな勝負も無いと思いますけどねぇ」

八幡「……そんなら、もちろんお前もやるんだよな」

幸子「へ?」



344: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/07(月) 23:05:23.45 ID:ttV+FyVW0



ここで主導権を握られるのは癪にs……じゃなくて、得策ではないので、俺も言わせてもらう。



八幡「アイドルとして誰が一番カワイイ行動を取れるか、俺が見極めるとしよう」

楓「なるほど。プロデューサーである比企谷くんは、確かに審査員には最適ね」

幸子「ちょ、ちょっと! ボクはやるなんて一言も……」

八幡「まさか、できないのか?」

幸子「!?」



大きく大きく、わざとらしーく溜め息を吐き、心底がっかりしたような目で輿水を見る。目つきは元々死んだようなもんだが。



八幡「そうか、いつもあんだけ自分をカワイイと言っておきながら、勝つ自信は無いんだな」

幸子「なっ、べ、別に、そういうわけじゃ……!」

八幡「なら、やるんだな? そのカワイイ選手権とやらを」

幸子「……や、やってやりますとも! フフーン! ボクが一番カワイイということを、証明してあげましょう!」



チョロい。もの凄いチョロさである。プロデューサーちょっと心配よ?
そもそも、いつの間にか勝負の判定権が俺にあるんだがそれは良いのだろうか……



凛「……っていうか、これ私たちもやるの?」

文香「…………」



約2名ほどとばっちりを食らい死んだような表情を浮かべているが、まぁ、こういう流れだ。諦めてくれ。



楓「ふふ……やるからには、全力でいきましょう」



そして何であんたはそんなにやる気まんまんなんだ。

とにもかくにも、勝負開始!






345: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/07(月) 23:06:34.25 ID:ttV+FyVW0



× × ×






女将「えー、今回司会を努めさせて頂きます。当旅館の女将でございます。そして審査員兼解説の……」

八幡「比企谷です。よろしくお願いします」



ちょうど掃除で近くに来ていた女将さんに協力を仰ぎ、全然全くもって必要は無いとは思うが、こういう形で勝負が行われる事になった。場所は談話室。

前乗りの際、念のためデジカムを持ってきていたので、折角だから回すことにした。輿水曰く雰囲気は大事とのこと。凛は最後まで抗議を申し立てていたがスルーされた。哀れなり。



女将「今回公平を期すため、順番はくじ引きにで事前に決めております。持ち時間は5分ですが、短い分には特に問題はありません。あくまで『カワイイ』といかに思わせられるか、自由に表現して頂ければと思います」

八幡「……慣れてますね」

女将「宴会では司会は付き物ですので」



にっこりとした笑顔で応える女将さん。面倒事に巻き込んで申し訳ないと思っていたが、もしかしなくても結構楽しんでらっしゃいます?



女将「それでは早速参りましょう。エントリーナンバー1番。”お酒は飲んでも飲まれるな。それでもやっぱり飲まれちゃう”高垣楓さんです。どうぞ!」

八幡「なんですか今の」



恋する女は奇麗さ~♪ とどこからか曲が流れ、ソファに座っている我々の向かいに楓さんが現れる。ちなみに横で待機していただけで普通に全員同じ部屋にいる。カメラに映らなきゃいいんだよ映らなきゃ!



346: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/07(月) 23:08:00.17 ID:ttV+FyVW0



楓「えっと、それじゃ始めたいと思うのだけれど……」



ちらっと、何故か俺の方を見る楓さん。



楓「比企谷くん。ちょっとこっちへ来て貰ってもいいかしら?」

八幡「はい?」

楓「今からするのは、相手がいないと出来ないことだから…」

八幡「…………」



不安だ。めっちゃ不安。一体何をするつもりなんだこの人は……俺解説なんだけどなぁ……
まぁ、ここで渋っても仕方が無いので協力はするが。

横で待機している輿水に念のため視線で許可を求めると、グッと何故かサムズアップ。返答としては非情に分かりやすいが可愛さで言えばマイナスだぞそれ。

ソファから立ち上がり、楓さんの近くへ歩み寄る。



楓「それじゃあ、こちらの方へ」



ふわっと、一瞬とても良い香りがした。

楓さんは近くに来た俺の肩を引き寄せるように手を添え、壁の方へと誘う。いや、自然なエスコート過ぎて焦るっていうか壁……!?

気付いた時に既に遅かった。そのまま導かれるように俺は背を壁に預け、そしてすぐに顔の横を、楓さんの細くも流麗な手が過る。これ……は…………!?



ドンっ



幸子「か、かかか、壁ドンですってぇ!!?」

凛「ていうか顔近くない!?」

女将「お静かにお願いします」



そう、これぞまさに壁ドン。女子の憧れ。ただしイケメンに限る。その筋で有名な、あの壁ドンである。八幡は動揺している。……ってかいやマジで顔近ぇな!



347: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/07(月) 23:09:35.21 ID:ttV+FyVW0



八幡「か、楓さん。ちょっと、顔が近いというか…」

楓「それはそうです。……近づけているんですから(イケボ)」



ひぃぃいいいいい!!!

な、なんだこれは! 妖艶な笑み、息遣いが分かりそうな程の距離、そして再び漂ってくる形容し難い良い香り……ど、ドキドキが止まらないよぉ! もしかして恋ですか? 八幡は動揺しt…



凛「す、ストーっプ! 終わり! もう5分経ったでしょ? 経ったよね!?」

女将「いえ、まだ2…」

凛「経った! 経ったって!」



珍しく張り上げるような凛の声で我に帰り、遮られてない方から慌てて抜け出す。た、助かった。あれ以上あの空間にいたら、危なく青春ラブコメが始まる所だった……始まっても一方通行で即終了するだろうけど。



女将「さて、実際にやられてみてどうでしたか? 解説の比企谷さん」

八幡「え? え、ええ、そうですね……」



よれよれの疲労困憊になりながら、なんとか解説席に戻る。ダメージでか過ぎ……



八幡「……とりあえず楓さんに訊きたいんですが、一体どういう意図であの行動を?」

楓「えーっと、以前何かで見たんですが、男性はギャップ萌え、というものに弱いと聞きまして」



思い出すように説明を始める楓さん。ギャップ萌え……まぁ間違ってはいないが、誰か入れ知恵でもしたんじゃないかと勘繰ってしまうな。



楓「お恥ずかしい話ですが、私は普段あまり真面目とかクールな印象を持たれる事が少なく、どうしようもない人扱いされることが多いようで……何かカッコいい事をすれば、ギャップ萌え? になるかと思ったんです」

八幡「……それはただ単にカッコいいと思われるだけなのでは」



そして恥ずかしいと言う割にはなんだか嬉しそうなんだが、まぁそこは置いておく事にする。



八幡「正直主旨とはちょっと違いますが……かなりのアピール力だったことは認めます」



というか結構な破壊力である。正直まだ心臓が痛いし、もうやめて頂きたい。これで面白がって色んな人にやり始めたら被害者が続出するのが目に見えて想像できる。罪な女だ。



348: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/07(月) 23:11:00.41 ID:ttV+FyVW0



楓「でも私が普通に可愛らしいことをするよりは、与える印象は強かったんじゃないかしら」

八幡「まぁ、確かに楓さんが可愛いことしてても『ふざけてるのかな?』とはなりますね」

楓「中々辛辣なことをおっしゃいますね」



そう思うならカッコいい行動がギャップにならないよう、普段からきちんとして頂きたいものである。

次だ次!



女将「高垣楓さん、ありがとうございました。……それでは次はエントリーナンバー2番。”叔父の書店でお手伝いをしていたらいつの間にかアイドルになっていた件”鷺沢文香さんです。どうぞ!」

八幡「だから何なんですそれ」



恋する女は奇麗さ~♪ とまたもどこからか曲が流れ、今度は鷺沢さんが現れる。この人がある意味一番想像できないな。一体何をやってくれるのやら。



文香「よろしく…お願い致します……」



ぺこりと、ご丁寧にも深くお辞儀をする。その時ふわっと前髪が一瞬舞い、少し緊張した様子の可愛らしい顔が垣間見えた。この時点で既に可愛い。



文香「えっと、比企谷さん」

八幡「はい?」

文香「私も、協力してほしい事があるのですが……よろしいでしょうか……?」

八幡「…………」



またか。またこのパターンなのか……
まぁ、楓さんを手伝った以上断ることも出来ないんだが。一応また輿水に視線で尋ねると、今度は両手で頭上に大きく丸を作。真顔で。だから、お前はもう少し可愛くできないんか。

しぶしぶ再びソファから立ち上がり、鷺沢さんの元へと向かう。さすがに楓さん程のインパクトは無いと思うが、この人の場合何をするか未知数過ぎてな……やはり怖い。



八幡「それで、俺はどうすれば?」

文香「少々、お待ちください……」



すると鷺沢さん、解説席とは別のソファにおもむろに腰掛ける。



文香「……はい、こちらにどうぞ」

八幡「は?」



349: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/07(月) 23:12:11.57 ID:ttV+FyVW0



ぽんぽん、と。まるで誘うように自らの膝を優しく叩く鷺沢さん。



八幡「えっと……」



え。いや、どうぞってのは、その……いやいや、まさかそんな、そんなはずは……

ない。とは思うが、恐る恐る、俺は確認する。



八幡「…………あの、どうぞ、っていうのは……?」

文香「はい。……所謂、膝まくら、というものをしようかと」



やっぱりだったーー!!!



幸子「ひ、ひひひ、膝枕ですとぉ!!?」

凛「そ、そういうのもありなの!?」

女将「お静かにお願いします」



いやいやいや、いかんでしょ、これは。マジで。本当に。



文香「本当は、耳かきがあればそちらもしようかと思ったのですが……生憎と、持ち合わせていなかったもので……」

八幡「なっ……」



膝まくらに、耳かきまでしようとしてたのかこの人は!?
楓さんのギャップ萌えとは逆の、盛りに盛った方向性での破壊力だ。鬼に金棒。鷺沢文香に膝まくらに耳かき……恐ろしい程のバフ盛り合わせである。孔明さんもビックリやで。



文香「それでは改めて……こちらに、頭をどうぞ」



またも、ぽんぽんと自らの膝へ誘う鷺沢さん。
え、っていうか何、自らあそこに頭を置きに行けっていうの!? いやいやいや普通に考えて厳しいでしょう! 色んな意味で!

だが、ふと考える。冷静になってよくよく考えてみれば、これは人生に一度あるか無いかのチャンスではないだろうか? あの、あの鷺沢文香に、合法的に膝まくらをして貰えるんだぞ? 違法な膝まくらってなんだよ。いや今はそんなんことはいい。そりゃ周囲に見られまくってる上に自分から頭を差し出しに行くというこの上ない羞恥はあるが、それを補ってあまりある幸福が、そこに待っているんだぞ? 鷺さんが、ほんのり頬を赤らめながら、膝まくらを良しとしてしているんだぞ? これは、これはこれは、行かなければ男が廃るってもんじゃあないのか!?(ここまでの思考約0.5秒)



350: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/07(月) 23:13:30.33 ID:ttV+FyVW0



気付けば、足はゆっくりと動き出そうとしていた。


ゆっくりと、その柔らかそうな膝へ向かい、進もうとーー









凛「……………………」









ーー進もうと、した所で、凛と目が合った。

ガン見だった。



文香「比企谷さん……?」

八幡「あ、いえ。…………遠慮しておきます」



頭は一瞬で冷えきり、つとめて冷静に、丁重にお断りさせてもらった。

超怖かった……



女将「えー、では席に戻って頂いたところで、いかがでしたか比企谷さん」

八幡「そうですね。色んな意味でドキドキが止まりませんでした」

女将「高垣楓さんに続き、相当なアピール力であったと」

八幡「ええ。男のロマンを突くという点においては中々の作戦だったと思います。可愛い行動かどうかは微妙な所ですが」



壁ドンもそうだが可愛さアピールとはちょっと違う。ってかかなり違う。やってる人たちが可愛いのは認めるが、たぶんそこじゃない。求めているのはカワイイ行動だ。企画発案者の幸子が「何か思ってたのと違う……」と呟いている辺り、俺の認識は間違ってないんだろうな。俺を驚かせる企画か何かと勘違いしてない?



351: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/07(月) 23:15:15.84 ID:ttV+FyVW0



楓「やるわね文香ちゃん……」



というか、トップバッターがこの人だった時点で色々ダメだったのかもしれない。

次だ次!



女将「鷺沢文香さんありがとうございました。では続きまして、エントリーナンバー3番。”最近胃薬を飲むようになりました”渋谷凛さんです。どうぞ!」

八幡「責任を感じる」



恋する女は奇麗さ~♪ ともはやお決まりの曲の後、我らが担当アイドル渋谷凛が躍り出る。……いやごめん盛った。かなり嫌々出て来た。



凛「えーっと……」



前に出たはいいが、視線を彷徨わせかなり躊躇った様子の凛。どうにも踏ん切りがつかないようだ。

しかしまた協力してほしいと言われたらどうしようかと思ったが、この様子じゃそれはなさそうだな。一体何をするつもりなのか。

……正直、担当プロデューサーとして凛の思う”カワイイ”がなんなのかは興味がある。



凛「……よし。いくよ」



どうやら決心がついた様子。ともすれば睨むかのようなその決意の眼光は、これからカワイイことをしようとしているアイドルとはとても思えない。ちゃんとカワイイの意味を理解しているのかかなり心配になるな。

さて、我が担当アイドルは一体何をーー






凛「渋谷凛。諸星きらりのモノマネをやります」

八幡「は」

凛「すぅーー……うっk

352: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/07(月) 23:16:02.36 ID:ttV+FyVW0






 ※ しばらくお待ちください。 ※






353: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/07(月) 23:17:14.43 ID:ttV+FyVW0






カメラの映像はそこで途絶えている。

きっと、思わず担当プロデューサーがカメラに残すことを躊躇うほど、劇的な何かがあったのだろう。もっと言うとシン劇的な何かが。


撮影が再開した時、そこには羞恥に打ち震える担当アイドルの姿があった。



凛「~~~~っ!」

八幡「もういい……よくやった……お前はよくやった……!」



凛の決死のカワイイ行動……俺はよっぽどタオルを投げようかと思ったが、それでも担当アイドルのステージを邪魔してはいけないと、最後まで見届けた。凛は最後までやり切った。ラジオからまた腕を上げたな……



女将「どうでしょう、解説の比企谷さん」

八幡「凛が優勝で良いんじゃないでしょうか」

幸子「ボクまだやってませんよ!?」

女将「お静かにお願いします」



さすが輿水。隙がない。お前もうそっちの道で行ったら?



八幡「まぁ冗談はその辺にして。可愛さをアピールにするにあたって諸星をチョイスするというのは中々良かったんじゃないですかね。……若干一発芸感は否めませんが」

女将「確かにあれだけ可愛いことに余念の無いアイドルもいませんからね」



女将さん諸星のこと知ってるんだという素朴な疑問は置いといて、輿水もそこは同意なのかうんうんと頷いていた。輿水の思う可愛いアイドルっていうのもちょっと興味あるな。



八幡「あとこれはあくまでファン目線での話ですが、恥ずかしさに悶えながらも可愛くあろうとする姿はアイドルとしてかなり可愛く映ったのではないでしょうか。……あくまでファン目線での話ですが」

女将「とても主観の入ったご意見ありがとうございます」

八幡「やっぱり凛が優勝で良いんじゃないですかね」

輿水「だからボクまだやってませんよ!?」

女将「お静かにお願いします」



354: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/07(月) 23:18:45.52 ID:ttV+FyVW0



なんか凛が「私もプロデューサーに手伝ってもうようなのにすれば良かった……」とか呟いているが、こっちの体力が保たないのでノーサンキューです。



女将「少々解説から担当贔屓のあるような発言も見られましたが、渋谷凛さんありがとうございました。……それでは、次で最後になります」



いよいよ、ラストのあいつが登場か。何の因果か、トリを飾ることになろうとは。



女将「エントリーナンバー4番。”自称・カワイイ”輿水幸子さんです。どうぞ!」

八幡「初期の肩書きを踏襲していくスタイルは嫌いじゃないです」



恋する女は奇麗さ~♪ とこれで最後になる曲が流れ、輿水幸子はそこに現れた。認めるのは癪だが、妙にオーラを出すじゃねぇか。



幸子「フフーン。さぁ、世界で一番カワイイボクの、最高にカワイイところをとくとご覧あれ!」



言い放ち、自身たっぷりの笑顔。

さぁ、自称世界一カワイイアイドル輿水幸子はどう出る……?



幸子「…………」

八幡「…………」

幸子「…………」

八幡「…………?」

幸子「…………」

八幡「……おい、どうした?」



宣言し、笑顔をつくったっきり微動だにしない輿水。特に話すこともしない。その余裕の表情から、緊張して何も出来ずにいるというわけでもなさそうだ。



355: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/07(月) 23:19:42.41 ID:ttV+FyVW0



八幡「何かしないのか?」

幸子「ええ。何もしませんよ」

八幡「は?」



意味が分からず変な声が出る。何もしない??






幸子「だって、こんなにカワイイボクですから、こうして笑顔で立っているだけで、最高にカワイイでしょう?」


八幡「…………」






………………。






幸子「フフーン、どうしました比企谷さん? ボクのあまりの可愛さに、声も出せn…」

八幡「優勝、渋谷凛」

女将「以上、『本当にカワイイのは誰か選手権』でした」

幸子「あれぇ!!?」



こうして何ともあっけなく勝負は幕を閉じた。

ちなみに、準優勝は鷺沢さん。






356: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/07(月) 23:20:45.95 ID:ttV+FyVW0



× × ×






八幡「さて、女将さんにもお帰り頂いたし、真実を聞かせて貰おうか」



とんだ茶番に付き合わせてしまって、ちょっとご迷惑だったかな。……普通に考えて迷惑か。でも楽しそうにはしていたし、合意の上だしな。後でちひろさんに頼んで菓子折りでも送らせて貰おう。

しかし、企画発案者で最下位になった当の輿水は拗ねてるご様子。



幸子「ボクとしては、勝負の判定に不満があるんですが……」

八幡「まだ文句垂れてんのか。もう一回戦いっとくか?」

凛「絶対嫌っ!」



違う方向からの瞬時の即答だった。優勝者が一番嫌がってるってこれどうなの。まぁ、そうは言っても俺だってやりたくないが。



幸子「……分かりました。ちゃんと話しますよ」



渋々ではあるが、ようやく折れてくれた輿水。こいつも約束は守る辺り、根は真面目だよな。



幸子「あの時、トイレに行ったのは本当なんですよ。ただちょっと事情があって……」

楓「? トイレというのは、お部屋のトイレですか?」

幸子「いえ、一階にあるレストルームです。そこで、その……」



またごにょり始める幸子。なんだ、一体何がそんなに言いにくいというのか。



357: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/07(月) 23:21:33.22 ID:ttV+FyVW0



楓「一階のレストルームということは、確か早苗さんも行ったとおっしゃってましたね」

凛「でも、幸子とは会わなかったって……」

幸子「いやその、本当は会ったというか、見たと言いますか…」

凛「見た?」



見た……って言うのは、その、つまり……



八幡「……まさか」

文香「霊的な何か……ですか?」

幸子「違いますよ!! そういうのは小梅さんにおまじないをお願いしてるんで大丈夫です!」



なんだ良かった。もし本当にそういうアレを見たとか言い始めたら夜出歩けなくなる所だったぜ。場合によっては帰らせてもらう。帰れないんだけど。

ってか、白坂のおまじないってそれ大丈夫? 逆に寄り憑かれる系のやつじゃない?



幸子「見たというのは、早苗さんを見たという意味です!」

八幡「……あー」



会ったのではなく、見た。そして、あまり言いたくはない事実。
その輿水の言い回しで、何となくは察した。



八幡「それは要するに、あまり人に言えないような現場を目撃した、ってことか。……早苗さんの」

幸子「……そういうことに、なりますね」



目を逸らし、ばつが悪そうに言う幸子。なるほどな。

ああも理由を説明したがらないから、一体どんな醜態を晒したのかと思えば……他の誰かの秘密を守ろうとしていただけだったとは。



幸子「……? なんで笑ってるんですか?」

八幡「いや、なんでもねぇよ」



うちの事務所って、こういう奴しかいないのかね。



358: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/07(月) 23:23:00.12 ID:ttV+FyVW0



楓「ふむ……その現場というのは、一体?」

幸子「あれ!? それ普通に訊いちゃうんですか!?」

楓「探偵ですから」



にっこりと、非常に良い笑顔で言う楓さん。非情にと言った方が正しいか。
まぁ、野暮な詮索であることは既に重々承知。でも気になるからね! 仕方ないね。



幸子「ええと……さすがにこれ以上は、アイドルの矜持に関わると言いますか…」

「いいのよ幸子ちゃん。もう、喋ってしまっても」



と、どこからか突然謎の声。

楓さんが「何奴!」とか言って振り向いているが、声ですごい分かるしもう既に何だか残念な感じが漂っている。



早苗「あたしよ」

幸子「さ、早苗さん!」

早苗「ごめんなさい幸子ちゃん。辛い思いをさせたわね……」



ひしっと、何やらお涙頂戴な抱擁をしているが、こっちはさっさと進めて頂きたいんじゃが。



八幡「そういうのいいんで、早く話してもらえます?」

早苗「もう! 雰囲気が無いわね!」



ならもうちょっと演技を頑張ってくれ。撮影が今からちょっと不安になってきたよ?



早苗「言っておくけど、武蔵とは無関係よ? あたしがちょっと、その、粗相をしちゃって、それにたまたま幸子ちゃんが居合わせただけの話だから」

八幡「…………」



あれ? これ、俺聞いて大丈夫なやつ?

思わず俺が変な汗をかき始めると、それに気付いたのか早苗さんは慌てて訂正をする。



早苗「あっ、粗相っていうのは別に、間に合わなかったとかそういう意味じゃないわよ!? 言葉の綾だってば!」


その台詞でホッとする。なんだ、そうか。別にこっちはそんなつもりもないのに、セクハラでもしたかのような錯覚になって焦ったぜ。



359: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/07(月) 23:24:37.47 ID:ttV+FyVW0



早苗「アイドルとしてそんな醜態は晒さないわよ~アッハッハ」

八幡「ですよね。安心しました」

早苗「ええ。ちょっとゲロっちゃっただけだから」

八幡「おいッ!!!」



いや言ったね! 今アイドルとして充分な醜態をハッキリと!!



早苗「停電の間も暇だからって飲んだのがいけなかったのかしらね~思いっきりやっちゃったわ」

八幡「いいです。そんな説明はいいです……」



問い詰めたのは確かにこちらだが、それでも中々に聞きたくない話だった。そりゃアイドルとして隠したくもなるわ……



楓「なんだ、そんなことですか。私たちなら別に珍しい話じゃないのでは?」

早苗「うーん、普通に吐いただけならそうなんだけどねー」

八幡「そういう会話をしれっとしないでくれます?」



あの、貴女たちアイドルなんですよ? 分かってます?
しかし俺のツッコミも早苗さんは完全スルー。



早苗「……言っちゃってもいいわよね? 幸子ちゃん」

幸子「うぐっ……」



あからさまに顔をしかめる輿水。なに、まだ何かあんの?
というか、この口ぶりだと早苗さんじゃなくて、輿水絡みで……?



早苗「ーー彼女、もらっちゃったのよ」






アイドル 輿水幸子!  も ら う !






八幡「あー……」

輿水「だから言いたくなかったんですよー!!」



360: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/07(月) 23:25:50.07 ID:ttV+FyVW0



俺を含め一同、なんとも言えない顔になる。
なるほどな……早苗さんだけじゃなく、しっかり自分の醜態も含まれてたわけだ。

なんちゅーか、ちょっと申し訳なくなってきた。



早苗「トイレでゲーゲーいってる所に彼女が来てね。最初は背中をさすってくれてたんだけど、いつの間にかいなくなってどうしたのかなーと思ったら、隣で見事に、ね……」

輿水「フギャー! やめてくださいよ! そんなに事細かに説明しなくていいですから!」



もはや半泣きの輿水。これは確かにアイドルとして隠したいわな。……早苗さんはともかく。



幸子「……アリバイを確認された時、急にトイレで会ってないなんて嘘を振られるから、誤摩化すのが大変でしたよ」

早苗「いやーごめんなさいね。でもそういう意味じゃ、あたしと幸子ちゃんは共犯者だったってわけ。ああ、あと着替えの浴衣を貸してくれた仲居さんも」

八幡「そんな言い方だけカッコよくされても」



沈んだ様子の輿水に対して、快活に笑ってのける早苗さん。この人の場合本当に隠すようなことじゃなかったんだろうな。大方輿水に隠してほしいと言われ付き合ったのだろう。



幸子「うう……ボク、アイドルなのに…」

楓「大丈夫よ幸子ちゃん。あなたが思ってるよりも、うちの事務所のアイドルは吐いてるわ」

幸子「なんですかその嫌なフォロー……」



プロデューサーとしても本当にやめてほしい。頼むからそういうこと他所で言うなよマジで!



楓「でも、嫌な思いをさせてしまったのは事実ね。謝るわ」

幸子「……もういいですよ。ボクも、話したら少しスッキリしましたから」

早苗「文字通り、吐いたら楽になったってやつね!」

楓「ぶふっ」

幸子「もーうっ! 本当に悪いと思ってるんですかー!?」



そうして、部屋の中には笑い声が木霊する。

何とも微妙な真実ではあったが……とにもかくにも、こうして輿水(ついでに早苗さん)の身の潔白は証明された。……ある意味じゃ潔白とは言えないかもしれないが、とにかく武蔵を持ち出した犯人ではなかったことはハッキリしたと言っていい。

なんだか明かさなくていい謎を解き明かしてしまった感はあるが、まぁ、仕方ないな。



361: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/07(月) 23:27:43.14 ID:ttV+FyVW0



楓「ーーさて、それじゃあ次で最後ということになるわね」



早苗さんと輿水と別れた後、再び談話室にて打ち合わせが行われる。

最後の容疑者は、城ヶ崎莉嘉。
本人は電波が繋がらないにも関わらず、部屋へ電話をしに行ったと証言していた。



凛「でも正直、莉嘉もお酒を持ち出すとは考えられないんだけど」

文香「確かに、そうですね……」



既に何度も言われていることだが、莉嘉はまだ中学生。酒を欲しがることまず無いだろうし、他の理由も考えにくい。



凛「そう言えば、楓さんは動機について考えが無いわけじゃないって言ってたけど、それはどうなの?」

楓「ああ、それですか」



ふむ、と。腕を組み、考え込むようにする楓さん。



楓「……あるにはあるんですが、とりあえずは莉嘉ちゃんの部屋へ行きましょうか」

凛「という事はつまり、また勝負するんだね……」

楓「ええ。場合によっては♪」



はぐらかすかのように微笑み、一人先に歩いて行ってしまう楓さん。
こういう勿体ぶる所は探偵っぽく振る舞ってるのか、はたまた素でやっているのか。

後をついて行き、程なくして莉嘉の部屋へと辿り着く。



八幡「………っ! 楓さん」

楓「? どうしたの比企谷くん」

八幡「これ」



362: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/07(月) 23:28:41.04 ID:ttV+FyVW0



俺は楓さんへ一つの欠片を手渡す。



八幡「扉の前に落ちてました」

楓「これは……」



眉を寄せ、”それ”をジッと見つめる楓さん。



凛「なに? 何かあったの?」

文香「見た所、ガラスの欠片のように見えますが」



そう、ガラスの欠片だ。

更に言えば、恐らくこれはーー破片。



楓「……どうやら、莉嘉ちゃんとは勝負をする必要な無さそうね」

凛「それってつまり……」

楓「ええ。私の推測……探偵らしく言うなら、私の推理が正しかったみたい」



楓さんは不適に、そして少し楽しそうに、微笑んでみせる。






楓「それじゃあ、事件の幕を降ろしましょうか」






言い放ち、扉をノック。
次第に近づいてくる足音。


固唾を飲む一同を前に、その扉は開かれた。






363: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/07(月) 23:29:53.36 ID:ttV+FyVW0










部屋には、5人の人間がいる。


探偵、高垣楓を筆頭とした高垣探偵団4人。
そして、城ヶ崎莉嘉。

莉嘉のその表情は、部屋の中へ通されてから以前変わらない。
いつもの莉嘉だ。



莉嘉「それで、お話ってどうかしたの?」

楓「莉嘉ちゃん……」



が、楓さんの顔は真剣そのもの。

かつてこれ程までに真面目な時があっただろうか。そう思わせる程の雰囲気を醸し出している。……やはり、お酒が絡んでいるからだろうか。そんな思いはそっと内に秘めておいた

そして少しの間の後、その言葉は紡がれた。



楓「……単刀直入に言いますね」

莉嘉「うん?」

楓「あなたが、剣聖武蔵を持ち出したのよね」



楓さんのその言葉に、しんと部屋が静まり返る。

だがそれも一瞬のことで、すぐに莉嘉は取り繕うかのように笑って話し出した。



364: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/07(月) 23:31:09.21 ID:ttV+FyVW0



莉嘉「な、なに言ってるの? アタシじゃないよー」

楓「それじゃあ、どうして部屋へ電話をしに行った、と嘘をついたの?」

莉嘉「嘘?」

楓「ええ。この階はどの部屋も電波が届かないから、談話室か一階へ行かなければ電話は出来ないはずでしょう?」



自分の携帯電話を取り出し、画面を見せるように掲げる楓さん。確かに、画面上部の方には圏外の文字が表示されている。
これは俺たち全員の携帯もそう。確認したので、間違いは無い。



莉嘉「そりゃあの時はそう言ったけど、部屋へ戻った後に電話できないのを思い出して、談話室まで行っただけだってば。説明が面倒だったからそう言ったの」

楓「それじゃあ、実際は談話室で電話をしたの?」

莉嘉「うん。だからそう言ってるじゃん」



あっけらかんとそう言う莉嘉。まぁ、そりゃそうくるわな。
別に莉嘉が言っている事におかしな店は無い。あの時はああ説明しただけで、実際は別の所で電話してましたーと言われればそれまでだ。何の疑いようもない。



楓「ふむ。そう言われると、こちらも納得するしかありませんね。特に証拠もありませんし」

凛「えっ」



楓さんの発言に、素っ頓狂な声が上がった。
上げたのは、誰でもない隣に座る助手。



凛「証拠……無いの?」

文香「……………」



しかし凛もそうだが、どちらかと言うと隣の鷺沢さんの方が「ガーン……」とややショックを受けているご様子。もしかして劇的な謎解きを期待していたりしたんだろうか……



莉嘉「えー証拠も無いのに疑ってたのー?」

楓「ふふ、ごめんなさい。でも証拠は無くても、莉嘉ちゃんが持ち出したんじゃないかと思った理由はあるの」

莉嘉「理由?」

楓「ええ。順に説明してもいいかしら?」



楓さんの犯人を追いつめる気のまるで無さそうなゆったりとしたトーンに、莉嘉も少々ぽかんとした様子だったが、すぐに顔を引き締め迎え撃つかのように笑う。



莉嘉「うん。いいよ! 聞かせて」



365: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/07(月) 23:32:36.55 ID:ttV+FyVW0



この探偵と容疑者、実に楽しそうである。
楓さんが小声で「これもある意味じゃ勝負ね」とこっちを見て笑ったが、確かにそうかもな。探偵と容疑者の直接対決。

さて、我らが探偵はどう出るか。



楓「まずみんな分かっているとは思うけれど、あの時夕食会場からお酒を持ち出すことが出来たのは、電気が回復してすぐに部屋を出た3人しか恐らくいない……そうよねミス・ワトソン?」

凛「えっ、あ、ああ。うん、そうだと思う」



突然の呼びかけに驚く凛。莉嘉は「ワトソン?」と何のこっちゃと首をかしげているが、今は面倒だから触れないでくれ。



凛「プロデューサーと楓さんと私が懐中電灯を取りに行って、その間部屋から誰も出てないらしいから、その間に持ち出すのは無理だと思う。私たちもお互いが何も持ってなかったのは分かってるし」

楓「そうね。部屋へ残った文香ちゃんも、あの誰がいつ戻ってくるか分からない状況でお酒を隠すのはまず不可能でしょう」



くまなく探した結果夕食会場のどこにもお酒は無く、そして外へ出そうと窓を開ければ嵐のせいで必ず痕跡が残る。なので、お酒は部屋を出て行った誰かが持っていった……そう考えるのが普通だろう。



楓「つまり考えられるのは早苗さん、レナさん、幸子ちゃん、そして、莉嘉ちゃん……ここまではいいかしら?」



楓さんの確認に、莉嘉も探偵団も、全員が頷く。



楓「それじゃあここからが重要なのだけど……実はさっきまで、莉嘉ちゃん意外の人たちに確認しに行ってたのよ」

莉嘉「確認?」

楓「ええ。なんでアリバイを聞いた時に、嘘をついたのか、とね」



その発言に、さしもの莉嘉も目をパチくりさせ驚いた様子。そりゃ、こんな強引な捜査もそう無いわな。



莉嘉「っていうか、みんな嘘ついてたんだ」

楓「けれど聞いてみたら、どれも剣聖武蔵とは関係のない理由からだったわ。……あまり声を大にして言えないものだけど」

莉嘉「えっ。何それ」



そこで楓さんはチラと俺を見る。言っていいものかというなぞらしい。いや、それを俺に委ねますか。



366: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/07(月) 23:33:58.59 ID:ttV+FyVW0



八幡「……まぁ、後で本人たちに訊いてくれ」



莉嘉はぶーぶー言っていたが、こう言うほかあるまい。兵藤さんの件は俺も知らないが、早苗さん……というより輿水案件はさすがに説明するのが憚られる。

しかしそこで莉嘉はやや不満気な顔をつくる。



莉嘉「えー。っていうか、もしかして最終的にアタシが残ったから疑ってるの? 理由ってそれだけ?」

楓「まぁ、正直に言えばそれもあるにはあるけれど……でもそれだけじゃないわ。なにも金田一的推理だけで判断したわけじゃないの」

八幡「あまりそういう敵を作りそうな発言はやめて頂けますか」



ただちょっと鷺沢さんにはウケたらしい。笑ってる。というか、俺と鷺沢さんにしか意味が伝わっていなかった。



楓「ずっと考えていたんです。今回の事件で、一番の謎を」

莉嘉「一番の謎?」

楓「そう。……それは、”動機”です」



動機。

何故、酒を持ち出すなんてことをしたのか。何故、隠すようなことをしているのか。
それは事件が起きてずっと全員が不思議に思っていたことだ。



楓「4人の内2人は未成年でお酒に興味は無さそうですし、残りの2人だってわざわざ独り占めしようなんて考える方たちじゃない……なら、一体何故持ち出したのか」

莉嘉「…………」

楓「最初はイタズラで隠しているのかとも思ったんです。ですがそれにしては長く引っぱり過ぎだし、これだけ探しているのに見つからないのもおかしい……」



そこで、何故か楓さんは俺の方をチラッと見る。



楓「でも、前に比企谷くんと話していて気付いたんです」

八幡「俺と?」

楓「ええ。”不可抗力による行動”……つまり、何か”隠さなければいけない理由”があったんじゃないかって」



楓さん言っているのは、ペアを作って捜索した時のことだろう。

悪意によった行動ではなく、そうせざるをえない状況。その可能性。



楓「それを考えれば、お酒が探しても見つからない理由も見えてきますよね」

凛「……文香、分かる?」

文香「……いえ、残念ながら…」



367: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/07(月) 23:35:10.55 ID:ttV+FyVW0



ヒソヒソ会話を交わす助手と安楽椅子探偵。ここまで言えば気付きそうなもんだがな。



楓「比企谷くんは、もう察しがついているんじゃないかしら」



にこっと、期待の眼差しを向けてくる楓さん。
いやー俺ただの語り部なんだけどなー……



八幡「……見つからないんじゃなくて、もう”無い”ってことですか」



俺の言葉で、二人も合点がいったのかハッとなる。



楓「そう。つまり剣聖武蔵をーー”割ってしまった”。これが真実じゃないかしら」

莉嘉「…………」



いつの間にか、莉嘉は言葉をつぐんでいる。
ジッと、楓さんをただ見つめたままだ。



楓「夕食会場から持ち出した後……最初はさっき言った通りイタズラだったのかしら? そこは分からないけれど、ただその途中で何らかのトラブルにより、割ってしまった」

莉嘉「…………」

楓「処理は自分でやったか仲居さんに頼んだか……恐らく後者かしらね。早苗さんたちの件もあるし、黙っていて貰えるよう頼むのも不可能じゃないでしょう」

莉嘉「…………」

楓「これならいくら探してもお酒が見つからない理由になりますし、特におかしい所は…」

莉嘉「……でも、やっぱり証拠は無いよね」



やっと、莉嘉は口を開いた。
その目は、未だ退く様子はない。



莉嘉「その推理なら、別にアタシじゃなくても通用するよね? 他のみんなが説明したことも嘘だったかもしんないじゃん」

楓「……ええ。確かにその通り」

莉嘉「だったら……!」

楓「けどそれでも、莉嘉ちゃんじゃないかと思う理由があったんです」



368: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/07(月) 23:36:12.07 ID:ttV+FyVW0



楓さんは、ゆっくりとその手を莉嘉へと差し出す。
その手の平の上には、ガラスの欠片があった。

黒く、まるで何かの瓶の欠片のような。



莉嘉「っ!」

楓「これが、莉嘉ちゃんの扉の前に落ちていたそうです」



先程俺が楓さんに渡した、たった一つの欠片。
だが、それが名案を分けた。



凛「もしかして、それが割れた酒瓶の欠片ってことなの?」

楓「ええ。おそらく」



楓さんが勝負の場所をわざわざ相手の部屋を指定したのは、たぶんこれが本来の目的。
別に欠片に限った話ではなく、何か部屋に痕跡が無いか、それを確かめるべく各部屋へ来たのだろう。



文香「さきほど幸子さんの部屋で何やら探していたのは、そういう理由だったんですね……」



確かにウロチョロしていた。もう少し上手く探せよと思ったのが正直なところ。

ちなみに兵藤さんの時は相手に場所を指定されてしまったが、そこはそれ。あらかじめ予期していたのか既に楓さんは早苗さんと兵藤さんどちらの部屋にも行っていた。宅飲みをするという名目で。……まぁ、半分以上はそっちのが目的だろうけどな。



莉嘉「…………」

楓「もちろん、これが武蔵のものであるという確証もありません。もしかしたら本当に何の関係も無い破片かもしれませんし、扉の前にあったからと言って、莉嘉ちゃんが酒瓶を割ったとも限りません」

莉嘉「…………」

楓「これはただの私の推理……いえ、推測です。証拠も何もありませんから、もし違ったなら、謝ります」

莉嘉「…………」

楓「だから、聞かせて莉嘉ちゃん。……あなたがやったの?」



優しく、諭すように、探偵は尋ねた。

問い詰めるのではなく、解き明かすのでもなく、ただ単純に、彼女は尋ねたのだ。



369: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/07(月) 23:37:27.26 ID:ttV+FyVW0



莉嘉「…………その、前に…」

楓「はい?」



莉嘉の表情は、俯いているせで伺い知れない。
聞こえてくるのはか細い声だけだ。



莉嘉「…………一個だけ…訊いていい……?」

楓「ええ。どうぞ」

莉嘉「……………………アタシがやったって言ったら……怒る……?」



その最早降伏したも同然のような質問に、楓さんは目を丸くする。

丸くして、そして、本当に優しげないつもの笑みで、こう応えた。



楓「まさか。そんなはずありませんよ」



その言葉で、どうやらもう決着はついたようだ。






莉嘉「……うっ…………ごめんなさぁ~~~いぃぃっ!!!!!」


楓「あらあら」






ひしぃ、っと。楓さんに抱擁……というより、しがみつく莉嘉。なんだか既視感のある光景だ。

もっとも、さっきより目の保養にはなるがな。……すげぇな、こいつ。



莉嘉「本当は、ちょっと隠すだけの、ドッキリとか、そういう出来心だったの! でも、まさか転んで割っちゃうなんて……」

楓「いいのよ。莉嘉ちゃんに怪我な無くて良かったわ」



頭を撫で、まるでお母s……お姉さんのように慰める楓さん。さっきまで探偵と容疑者だったのに、今はそんな雰囲気はどこへやら。美嘉が見たら羨ましがりそうだ。



370: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/07(月) 23:38:38.65 ID:ttV+FyVW0



文香「これで、事件は解決……ですね」



まるで良いものを見届けたかのように、満足げに微笑む鷺沢さん。やっぱりこの人が一番楽しんでんな。



凛「でも良かったね」

八幡「ん?」

凛「誰も、悪い人はいなかったんだからさ」



凛のその何気なく言った台詞に、今度は俺が目を丸くしてしまった。
そして、その後思わず吹き出す。



凛「な、なんで笑うの?」

八幡「いーや、なんでもねぇよ」



悪い人はいなかった、ね。確かにそうだ。
いたのは、ただ隠し事をしていた子供が一人。酒を盗ろうなんて奴は、いなかった。

こいつは、本当に最後まで誰も疑わなかったな。変な奴。



凛「……なんか、すっごい失礼なこと考えてない?」



さて、なんのことやら。



こうして、事件は幕を閉じた。

蓋を開けてみれば、真実は単純。誰も盗みをしようなんて奴のいない、ただのちょっとした一騒動。

その後莉嘉と高垣探偵団で、他のみんなに謝りに行ったが、当然ながら怒る奴なんているわけもなく。
お酒を楽しみにしていた早苗さんも兵藤さんも、ただ、笑って許すのだった。


やっぱこの面子じゃ、事件なんて早々起きないらしい。






371: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/07(月) 23:40:43.09 ID:ttV+FyVW0










かに、思われた。



だが事実は小説よりも奇なりとはよく言ったもので、今現在俺は、事件に巻き込まれている。それも、超かなり弩級の。

身体が熱く、上手く思考がまとまらない。いや、身体が熱いのは別に異常でもなんでもなく……

そう。今俺は、温泉に入っている。入っているんだ!
更に言えば、露天風呂。

嵐も大分弱まってきているおかげで、夕方くらいには何とか屋根付きの露天風呂へは入れるようになった。なったから、折角だし夕飯前に入っちまおうと意気込んでルンルン気分でやってきたのが、それが間違いだった。


と、言うのも。






楓「ふ~」


八幡「…………」


楓「良い湯加減ね、比企谷くん」






この人のおかげである。なにこのベタな展開ぃーー!!



遡ることは数分前。俺が鼻歌を歌いながら湯に浸かっていた時のことだ。

なにやら脱衣場の方から物音が聞こえ、掃除のおばちゃんとかかなーなんて呑気に考えていたら、現れてたのは想像の斜め遥か上空。タオル一枚で登場した高垣楓さんその人である。い、一応言っておくが、何も見ちゃいないからな! 残念ながら!

瞬時に俺は背中を向け、何故か俺が悲鳴をちょっとあげるという謎のシチュエーションだったのだが、さすがは楓さん。折角だからと湯に浸かり始めてしまった。その胆力なんなの……



372: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/07(月) 23:41:45.48 ID:ttV+FyVW0



楓「最初は男湯の暖簾がかかっていたんですけど、間違えたのか仲居さんが入れ替えてたんです。まさか、既に比企谷くんが入っているなんてね」

八幡「そ、それは不運でしたねー(棒)」



笑って流す楓さんだが、俺にはそんな余裕は毛頭ない。ちょっと、お願いですからあまり近くに来ないでくれます!?

あまりの展開に頭がおかしくなりそうだ。これが世に言うラッキースケベなの? トラブって何パーセントなの?
っていうか、これどうやって出たら良いんだ。できれば先に出てってほしい。見ないから。……見ないって。


そしてまたやってくる沈黙。だがたまに鼻歌が聴こえてくるし、やっぱこの人余裕だ……

もしかして俺は男として見られてないんじゃないかと不安になり始めた頃、不意に楓さんが話し始めた。



楓「……比企谷くん」

八幡「は、はい?」

楓「比企谷くんは、どのタイミングで莉嘉ちゃんだって気付いたのかしら」

八幡「へ?」



突然の問いに、一瞬何のことかと混乱する。



八幡「あ、ああ。捜査の話ですか。……それはやっぱり、欠片を見つけた時ですかね」

楓「莉嘉ちゃんと話をしに行った、その直前?」

八幡「そうなりますね」



背中を向けているため、楓さんの表情は分からない。
そして楓さんも、何故かそれ以降口を開かない。

……つーか、俺そろそろ限界なんだが。なんとか楓さんの方を見ないようにして、タオルで前を隠しつつ行けば……



八幡「すんません、俺は先に……」

楓「比企谷くん」



遮るような楓さんのその呼びかけ。

その次に投げかけられる言葉に、俺は、射抜かれるように足を止めることになった。



373: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/07(月) 23:42:56.81 ID:ttV+FyVW0









楓「本当は、武蔵は割れていないんでしょう?」


八幡「ーーーっ」






一瞬、頭の中が真っ白になる。


思わず、目を見開くのが自分でも分かった。
動かそうとしていた足は止まり、さっきまで熱を帯びていた思考が、すっと冷めていくのを感じる。

……マジか。



八幡「…………それを俺に訊くってことは、もう気付いてるんですか」

楓「そうね。どちらかと言えば、思いつきに近いですけれど」



ふふ、っと。楽しそうに笑っているのが分かった。……敵わねぇな。
去ろうとしていた足を戻し、座り直す。

依然背中は向けたままだが、話す分には困らない。



八幡「……いつから、俺が一枚噛んでるって気付いたんですか?」

楓「そうね。思い至ったのはそれこそ莉嘉ちゃんと会う直前だったけど、実は違和感はかなり前から感じてたんです」



違和感、とな。それもかなり前からときたか。



八幡「後学のために聞いても?」

楓「ええ。もちろん」



顔は見えないが、どこか楽しげな雰囲気を声音から感じ取る。



374: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/07(月) 23:43:57.67 ID:ttV+FyVW0



楓「……簡単に言えば、やけに捜査に協力的だなって、そう思ったんです」



思わず、がっくりと肩を落とす自分がいた。
……協力的な所に違和感を持たれるって、俺の人間性どうなのそれ。



楓「まぁ、これは正確には凛ちゃんが言っていたんですけど」

八幡「え」

楓「ペアを組んで捜査した時があったでしょう? その時に『今回のプロデューサー、珍しく文句も言わずに手伝ってるよね』って、そう言ってたんです」



まさかの担当アイドルからの疑惑。
あいつ、よく見てるなぁ……これはプロデューサーとして喜ぶところなのだろうか。



楓「まぁそうは言っても、結局は違和感止まりだったんですけどね。それよりも、不思議に思っていたことがあって」

八幡「それは?」

楓「莉嘉ちゃんが、どうやって瓶を持ち出したかです」



その言葉で、俺は本当にこの人に感心してしまった。
本当、よく観察してるな。



楓「前に話した時は、急な事態だったから着物に隠すなりして出てけば分からない、という話でしたけど……普通に考えれば、それでもやっぱり難しいですよね。莉嘉ちゃんは小柄ですから、着物に隠すのだって限度があります」



まぁ、確かに難しいだろうな。抱くようにして隠して出ればバレない可能性はあるかもしれないが、それでも賭けと言わざるを得ない。



楓「ただあの時部屋から出て行った人たちの中で、莉嘉ちゃんだけは、特に違和感なく酒瓶を持ち出せる方法があるんですよね」

八幡「……それは?」



俺の問いに、少しだけ笑いを零す楓さん。何となく、分かっているくせにというニュアンスを感じた。



375: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/07(月) 23:45:10.52 ID:ttV+FyVW0



楓「鞄ですよ。あの時、莉嘉ちゃんに鞄を預けた人がいましたよね」

八幡「…………」

楓「それも、その預けた人は直前まで武蔵を持っていた」

八幡「……いったい誰のことやら」



俺の言葉に、また笑う楓さん。



楓「もし比企谷くんが莉嘉ちゃんに手を貸してるなら、って考えたら、なんとなく辻褄が合ってしまったんですよね」



何となく、とは簡単に言ってくれる。
一応、これでもバレないよう気を付けたんだがな。



楓「あとは、そうですね……電気が復旧した時、莉嘉ちゃん以外にも夕食会場から何人か出て行ったから良かったですけど、もし出て行くのが莉嘉ちゃんだけだったらどうしたんだろう? とも考えました」

八幡「正直、あれは俺も予想外でした」

楓「ふふ……たぶん、本当はあの時懐中電灯を取りに行った私たち三人を容疑者に据えるつもりだったんでしょう?」



俺が懐中電灯を取りに行くと言えば、何人か、少なくとも凛は付いて来ると予想していた。そして、そこに加え莉嘉。それだけでも3人は容疑者ができる。



楓「あの時も、比企谷くんは積極的に手伝いに行ってましたね」

八幡「本当、俺の信用度の低さなんとかしたいです」



そういや、その時も凛は俺の行動に違和感もってたな。さすがは担当アイドルだ。



八幡「っていうか、容疑者を据えるとか、まるで俺が事件を起こしたがってる風に言いますね」

楓「あら。だって、実際その通りなんじゃないかしら。”事件を起こす”こと。お酒云々じゃなく、そっちに注力していたように感じるけれど」

八幡「うぐ……」



全くもって、その通り。
いやはや、何もかもお見通しで何か怖くなってきた。これが名探偵に追いつめられる犯人の心境か……



376: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/07(月) 23:46:04.75 ID:ttV+FyVW0



楓「ここからは想像だけど……恐らく、比企谷くんと莉嘉ちゃんは元々何か余興ないし、イタズラとかドッキリを仕掛けるつもりだった。そこへ、あの停電が起きた」

八幡「あの停電は、本当に偶然の産物でしたよ」



全ては、夕食会場へ向かう前。莉嘉にされた”お願い”が事の発端。



『折角時間があるんだから、何か面白いことをしたい!』



そんな莉嘉のお茶目な頼み。それを叶えるため、あの停電の際に俺は咄嗟に行動に出た。
本当なら、夕食を食べた後に莉嘉と二人で余興を考える予定だったのだがな。丁度良くトラブルが起きてくれた。



楓「お酒を隠すドッキリを思いつき、鞄に武蔵を隠し、それを莉嘉ちゃんに渡した。この時、メモか何かで莉嘉ちゃんに指示を出したのかしら?」

八幡「イエス。暗闇の中で字を書くのは苦労しましたけど、そのおかげで気付かれることなく伝えることが出来ましたよ」



その後は予定通り容疑者が何人か浮上。そこから捜査は始まり、探偵ごっこが行われる。……まさか、自分が探偵側に付くとは思っていなかったがな。



八幡「そんで、極めつけがあの欠片ですか」

楓「ええ。だって、前日にあんなに捜索したのに、丁度良くあのタイミングで見つかるんだもの」

八幡「しかも、見つけて渡したのが俺でしたしね……」



今思えば、確かに怪しさ満点である。いや唐突過ぎるかなとも思ったが、捜査を進めるにはああするしかなかったんだって!

ちなみに、あの欠片は女将さんに頼んで貰っておいた瓶の破片である。



楓「そして莉嘉ちゃんと協力していたはずの比企谷くんが、何故捜査を助長するような真似をするのか……そう考えたら、自ずと答えは見えてきました」

八幡「ふむ……」

楓「”莉嘉ちゃんが武蔵を割ってしまった”……その結果へ導こうとしていたという事は、本当は逆。つまり、武蔵は割れてない。そう思ったんです」



377: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/07(月) 23:47:18.06 ID:ttV+FyVW0



つまりは、二重のドッキリ。
あえて分かりやすい真実へ導き、その後に更にネタ晴らし。……上手くいったと思ってたんだがな。

ここまでバレちゃあ、いっそ清々しい。



楓「……まぁ、それでもやはり推測だったんですけどね。何も証拠はありませんし、間違っていたら謝れば良いと思って、思わず訊いてみちゃいました」

八幡「じゃあ、莉嘉との勝負の時も確信は無かったわけですね」

楓「半信半疑、くらいですかね。何より、莉嘉ちゃんが演技しているように見えなくて」

八幡「正直そこは俺も驚きました」



莉嘉のあの演技力。真実を知ってる俺からすれば本当に感心してしまった。

ありゃ、将来はマジで女優の道もあるかもな。



八幡「……けど、俺と莉嘉が本当に瓶を割ったことを隠そうとしてるだけだった、とは思わなかったんですか」



何となく、気になっただけの俺の問い。

結果的には楓さんの推理が正しかったわけだが、それでも俺の言った可能性も低くはないと感じたはずだ。
いくら俺の行動が捜査を手伝ってるように見えても、それでも楓さんの言ったように違和感止まり。単純に考えれば、莉嘉が割ってしまったから俺も協力して隠蔽した、そう考えた方が自然だろう。


しかし、楓さんはその問いに、何ともあっけらかんと応える。






楓「思いません。……だって、莉嘉ちゃんも比企谷くんも良い子ですから」






それこそ、思考を放棄するかのように。



楓「ドッキリとかイタズラで隠すならまだしも、割ってしまったことを黙ってるとは思えなかったんです。それに……」

八幡「…………」

楓「比企谷くんなら隠すのを手伝うよりも、一緒に謝るのを手伝いそうですし」

八幡「……どうですかね」



楓さんのその評価が褒めているのかは分からないが、俺がそんな殊勝な行動をとるだろうか。俺、結構普通に悪いことは隠すぞ。

……信じたい奴ほど疑わないといけない時がある、なんて言っておきながら、これだもんな。

まぁ、あの台詞も元々は前に俺が楓さんに言ったものなんだが。今にして思えば何をドヤ顔で俺はそんなこっ恥ずかしいことを言ってたんだ……



378: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/07(月) 23:48:20.38 ID:ttV+FyVW0



楓「それに聞きましたよ?」

八幡「?」

楓「中学生の時、迷子のワンちゃんの為に学校をサボってでも探してたこと♪」

八幡「なっ!?」



思わず、驚愕で振り返りそうになる。いやそれだけはダメだ危ない危ない……ってかそうじゃなくて!



八幡「……もしかしなくても、早苗さんですか?」

楓「ええ。部屋で飲んだ時に、色々と」



やっぱりかー!
ってか、色々ってなに? 一体何から何まで話したんだあの人!?



楓「『あんだけ捻くれて斜に構えて性根が曲がりまくってるくせに、変なとこはビックリする程まっすぐなのよね』って、早苗さんが」

八幡「……それ、果たして褒めてるんですかね」



プラマイゼロどころか、マイナス要素の方が遥かに多そうだ。
……本当、昔から余計なことしか言わねぇな、あの人。



当時、たまたま飼い犬が迷子になって泣いている小学生の女の子に出くわした。
可哀想だねと言って慰める大人がいた。保健所に連絡を入れる大人もいた。

けど、自分で探そうとする大人はいなかった。

俺はその時登校途中だったが、何だか急に学校をサボりたくなり、家に帰るわけにもいかないので、何となく一緒に探した。ただそれだけ。


その時だ。あの、おせっかいで面倒な絡みをする婦警さんに会ったのは。






『なに、犬を探してる? だからって学校をサボっていいわけないでしょ!』


『仕方ないわね、もう。ほら、あたしはそっちの方見てくるから』


『え、なに? 一人で探すからいい? ……そういう時は、大人に甘えなさいっつーの!』






誰も頼んでもいないのに、自分がしたいからって余計なお節介を焼く。

本当に、変わらない。



379: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/07(月) 23:49:22.29 ID:ttV+FyVW0



八幡「……やっぱ、気付いた時にちゃんと挨拶しとくべきだったかな」

楓「比企谷くん?」

八幡「なんでもないっす」



こんな恥ずかしくて誰にも言えないような独白、そして思い出なんて、語る必要も無いだろう。秘めてる内が華だ。……まぁ、この人はもう既に色々聞いちゃってるらしいが。

もう言い触らしたりしないよう、口止めしとかないとな。
その為なら、少しくらいお酒の席に付き合うのも我慢しよう。真に遺憾ながら、な。

そして、口止めをしておくのは何も早苗さんだけではない。



八幡「楓さん。お願いですから、その過去の話とか言い触らさないでくださいね?」

楓「……え?」

八幡「いや、え? じゃなく」



なんなのその意外や意外みたいな反応。まさか、もう話しちゃってるわけじゃないよね!? そうだよね!?



楓「うーん、どうしましょう」

八幡「いやどうしましょうじゃなくて…」

楓「……あ、そうだ。それなら、これはどうかしら?」

八幡「はい?」



その時、浸かっているお湯が動く気配を感じる。

気付いた時には、すぐ背後に楓さんが寄り添っていた。



380: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/07(月) 23:50:20.81 ID:ttV+FyVW0






楓「私のプロデューサーになってくれたら……考えますよ」


八幡「はっ!?」






吐息がかかるんじゃないかという耳元のその呟きに、思わず飛び跳ねるようにして避ける。
いやいやいやいやいや、なななななな何してんの!!???

しかし俺の焦りをあざ笑うかのように、楓さんは「なーんて♪」と言って立ち去ってしまった。つーか、ちょっ、少しは隠せぇ!!


瞬時に視線を逸らした為、俺は何も見ていない。ここ大事。俺は、何も、見ていない。


そして露天風呂に残されたのは、やたらと体中が熱くなった俺一人。






八幡「……………はぁ~~~っ…」






本当、勘弁してほしい。

……やっぱあの人、苦手だわ。



その後、この露天風呂が今女湯になってる事を思い出し、慌てて上がって着替えたのだが、丁度脱衣所を出た所で凛たちと出くわし、白い目で見られたのは言うまでもない。というか、かなりの怖い目にあった。

素っ裸じゃなかったとポジティブに思うことにしよう。じゃないとやってられん。



しっかりしてくれよ、青春ラブコメの神様。






381: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/07(月) 23:51:22.99 ID:ttV+FyVW0










三日続いた嵐が過ぎ去った後、撮影は無事開始された。
まぁ、予定を押している時点で無事とは言えないかもしれないがな。その後は特にトラブルも無かったし良いだろう。

順調に滞りなく進んで行き、およそ2週間程で撮影は終了した。

凛も、良い経験になっただろうな。
……演技力については、これからステップアップしていけばいいと言っておこう。



ちなみに剣聖武蔵のネタばらしだったが、あの対決の日の夜、夕食時に行われた。
どうせなら撮影の始まる前の日よりも、更に前日の方が心おきなく飲めるだろうとの配慮だったが……まぁえらい騒ぎだったな。

つーか、俺と莉嘉でドッキリでしたーごめんなさーいとバラしたのに、俺だけ即ヘッドロックはどうなのだろうか。ちょっと八幡意義を唱えたい。ちなみに言わなくても分かると思うがロックしてきたのは早苗さんだ。何回目だよ!

だが、それでも楽しそうだったな。
最後の宴会もそうだが、それまでやった探偵ごっこも。本人たちがそう言ってたのだから間違いない。莉嘉も満足そうだった。

……まぁ、一番楽しんでたのはやっぱ鷺沢さんだったと思うがな。気付かなかったことに対してめっちゃ悔しそうにしてたし。


あとこれは本当についでに言うが、楓さんの今回の役は”犯人”であった。

何とも、皮肉なオチである。






八幡「…………こんなもんか」



382: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/07(月) 23:53:07.08 ID:ttV+FyVW0



ぐっと伸びをし、一息入れる。


場所はいつものシンデレラプロダクション、その事務スペース。お決まりのデスクだ。
本来であれば今回の撮影の報告書を作っていたのだが、ちょっと飽きてきたので今は息抜きがてら別の作業をしている。



八幡「どれどれ」



書類を手に取り、目の前の文字の羅列に目を通す。

……読み辛いな。



光「ん? 何してるんだ八幡P」

八幡「お、光いい所に」



たまたま事務所にいたのか、俺を見つけて光るが近くに寄ってくる。
というより、机の上にある”こいつ”が気になったのだろう。



八幡「お前なら、これが何か分かるよな」

光「こ、これって!」

蘭子「む、ひっふぁいふぉうひたのふぁ?」 もぐもぐ



今度は温泉饅頭を食べている蘭子も寄ってくる。こいつもこういうの好きそうだなー



八幡「こいつは、所謂”タイプライター”ってやつだな」

光「翔太郎が使ってたやつだ!」



目をキラキラと輝かせる光。
まぁ、実際はあんなに古いタイプじゃないけどな。一応欧文用ではある。



蘭子「むぐっ……タイプライター?」

八幡「このキーボードみたいなのを叩いて、紙に字を打ち込むんだよ。そうすれば……ほら」



実際にその場で打ち、せり出てきた紙をちぎり渡してやった。
ちなみに、紙には『Ranko Kanzaki』と印字されている。



383: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/07(月) 23:54:36.27 ID:ttV+FyVW0



蘭子「何これカッコいい!」

八幡「……まぁ、やっぱ好きだよな」



実際俺も打つのがなんか楽しくなっちゃって、ちょっとカッコつけちゃったりしている。翔太郎の気持ちが分かるな……



光「でもやっぱり英文じゃなくてローマ字打ちなんだな」

八幡「ほっとけ」



そこも、翔太郎リスペクトさ……



光「でも、これどうしたの?」

八幡「この間の撮影の小道具に使ったんだよ。なんでも事務所の倉庫に元々あったやつらしい」



それを片付ける前に、こうして拝借しているわけだ。大丈夫、ちゃんとひちろさんに許可は取っている。
しかしタイプライターを置いているとは、ますます謎の会社だな。……社長の趣味か?



蘭子「何かいっぱい打ってるみたいだけど、何を印字してたんですか?」



興味津々とばかりに視線を注ぐ蘭子。興奮してさっきから熊本弁が抜けているんだが、分かりやすいからほっとく。



八幡「撮影とは別に、報告書を作ってたんだよ。……撮影前の、とある一つの事件のな」

光・蘭子「「じ、事件!?」」



何とも良い反応をしてくれる中二コンビだ。ちょっと勿体ぶって言った甲斐がある。
まぁ、実際は事件と呼んでいいかかなり微妙な出来事だったんだが、そこはどうせだから盛っておく。



八幡「ほら、ちょっと読んでみるか」



384: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/07(月) 23:58:05.52 ID:ttV+FyVW0



最初の冒頭部分の一枚を渡す。
受け取ったのは、目をキラキラさせている蘭子。


 
蘭子「うむ!」 わくわく

八幡「…………」

蘭子「ふむ……」

八幡「…………」

蘭子「…………」

八幡「…………」

蘭子「……読み辛い」

八幡「言うと思った」



ローマ字書きって結構見にくいよね。
黙ってパソコンで打てよという話だが、それもハードボイルドなのさ。



光「ねぇねぇ、アタシにもちょっと打たせてよ!」

蘭子「あっ! わ、私も!」

八幡「分かった分かった、ちょっと待ってろ。今最後の所だから…」



わーわーと寄ってくる中坊を制し、ちゃっちゃと終わらせにかかる。

さて、この小さな物語の最後をどう締めようか。



八幡「……ま、こんな所が妥当だろう」






今回の主人公は、あくまであの探偵さん。

俺は狂言回しであり、語り部であり、そしてその実共犯者。
ノックスの十戒なんて守る気のない、酷い配役。



でも、たまには良いだろう?

こんな、”誰も悪い人のいない”、そんな事件があったって。


だから、最後はこう締めるのが相応しい。






Yahari ore no aidoru purodhu-su ha machigatteiru.






Fin



391: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/09(水) 02:57:44.58 ID:rz2WyN+/0




アイドル。

それは人々の憧れであり、遠い存在。



そう言ったのは、濁ったような、淀んだような、どこかに斜に構えて物事を捉える、そんな目をした男の子だった。

ーーそう、男の子。

自分とそう歳の変わらない、どこにでもいるような普通の男の子。
……いや、どこにでもいるって言うのは、少し言い過ぎかな。あの人みたいなのがいっぱいいたら、正直色々と大変だと思う。

捻くれていて、素直じゃなくて、卑屈で不遜で、でも、本当は優しい男の子。

その在り方は不器用そのものではあったけど、きっと醜いものではなかった。一見しただけでは、表面だけを見るのであれば、それは歪で、とても完璧とは程遠いものではあったけど……



ーーそれでもきっと、それは美しいものだったんだ。






凛「……ねぇ、奈緒」



私は窓の外を流れる雲を見ながら、ぽつりと、言葉を零す。



凛「奈緒にとって、アイドルって何?」



それは、いつかあの少年から問われたこと。
自分に自信が持てず、憧れから目を背けていた、私への問い。

結局その時は答える事が出来なかったけれど、”それ”を探し続け、私は今も歩み続けている。



392: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/09(水) 02:58:43.56 ID:rz2WyN+/0



奈緒「あん?」

凛「だから、奈緒にとってアイドルは何なのかって、そう訊いてるの」

奈緒「それは……」



言葉を淀む奈緒。その表情は曇っていて……というより、訝しんでいた。



奈緒「……それは、今答えないといけないことか?」



私が押さえる椅子の上で、雑巾を持ちながら。



奈緒「急に真面目なトーンで話かけてくるかと思ったら、まさかそんなどこぞのインタビューみたいな質問をされるとは…」

凛「ごめんごめん、なんか窓の外を見てたら、ふと考えちゃって」

奈緒「そっから連想する時点で謎だよ。……うーん、そうだなぁ」



棚の上を拭きつつ、それでも奈緒は考えてくれている。
なんだかんだ言いつつ、こういう所は素直だよね。



奈緒「私にとっての、アイドルね……」



どこか虚空を見つめるようにしていた奈緒は、そこで腕組みをしたかと思うと、静かに、そして何故だかとても恥ずかしそうに呟いた。



奈緒「……か、可愛さの頂点、かな」

凛「可愛さの、頂点……」



393: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/09(水) 02:59:38.22 ID:rz2WyN+/0



うん、なるほどね。確かにその言い方は分からなくもない。
女の子の夢、とも言われるくらいだし、間違ってはいないと思う。どこか可愛さに対して憧れのようなものを抱いている奈緒にはピッタリな表現かもしれない。

と、納得している人物がもう一人。



加蓮「ふんふん、なるほどなるほど。つまり奈緒は、可愛さの頂点に立てた、と」

奈緒「なっ、いや別に、アタシがそうって言うわけじゃなくてだな……!」



茶化すように言うのは、いつの間にか側で聞いていた加蓮。壁に寄りかかり、その手にはモップを携えている。



加蓮「いやいや、謙遜することないって~。奈緒は立派なアイドルだし、可愛さの頂点に立ってるとアタシも思うよ♪」

奈緒「~~っ! だ、だから、別にアタシのことじゃ……あーもう、だから言いたくなかったんだよ!」



顔を真っ赤にして、ぷいっとそっぽを向く奈緒。慌てて椅子を押さえ直す。そんなに動くと危ないんだけど……



凛「……それじゃあ、加蓮は?」

加蓮「ん? アタシ?」



ニマニマと楽しそうにしている加蓮に、今度は話を振る。なんとなく始めた話題ではあったけど、聞いていたら何だか興味が湧いてきた。



加蓮「そうだなぁ、アタシにとってのアイドルは……うーん……夢、かな?」

凛「夢、か」

加蓮「あ、今なんか普通だなって思ったでしょ?」

凛「えっ、いや、そんなことは……」



ない、とは言い切れない。正直思った。というよりは、ポピュラーな言い回しだな、という感じだけど。



加蓮「アタシにとっては、ちょっと意味合いが違うんだよね。二つあるっていうか」

凛「二つ?」

加蓮「うん。アタシにとっての夢っていうのは、良い意味じゃなかったから」



そう言う加蓮の顔は、先程までと比べ少し儚げなものになる。
どこか哀愁を感じさせるその表情には、私も、そして奈緒も、覚えがあった。



394: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/09(水) 03:00:31.11 ID:rz2WyN+/0



加蓮「夢は叶えるもの、なーんてよく言うけど……アタシにとっては、夢は見るだけのものだったからさ」

奈緒「…………」

加蓮「でも、今は違うよ?」



一転、加蓮の表情は明るくなる。そこにいたのは、私たちが知る、いつもの加蓮。



加蓮「今のアタシにとっては、夢は叶ったもの。そして、これからも更に見続けるものだから」

凛「……そうだね」



思わず、自然と笑みがこぼれる。見てみれば、奈緒も同じ様子だった。

そう。ただ見ているだけだったのは昔の話。
今は夢を叶え、そしてずっと見続けている。加蓮だけじゃなく、私も、奈緒も。


アイドルは、可愛さの頂点であり、夢、か。



凛「…………」

ちひろ「こらこら。三人ともお喋りは良いですけど、掃除もちゃんとしてくださいね」



振り向くと、何やら段ボールを抱えたちひろさんが立っていた。その中身は、やたらに多い白封筒……あ、閉じられた。



ちひろ「午後からは合同レッスンがありますから、午前の内に終わらせちゃいましょう」

奈緒・加蓮「「は~い」」

凛「……ふふ」



395: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/09(水) 03:01:36.19 ID:rz2WyN+/0



まるで先生と生徒のようなそのやり取りに、思わず笑ってしまう。

辺りを見てみると、アイドルたちが皆一様に掃除へと勤しんでいる。雑巾がけしている子もいれば、掃除機をかける子に、棚の整理をしている子も。
普段であれば、業者の人たちがやっている仕事ではあるけど、今日は別。それも……



社長『この会社も設立して随分と経つ……たまには、社員皆で奇麗にして労おうじゃないか』



という社長の発言から、こういう事になってるというわけ。確かに、この事務所にはいつもお世話になってるし、良いことだよね。



きらり「こらー! 杏ちゃん! サボってないで、ちゃんとお掃除しないとダメだにぃ!」

杏「うぇー充分きれいじゃーん、もう終わりでよくなーい?」



……まぁ、一部めんどくさがってる子もいるけど。



凛「……けど、そっか」



ふと、事務所の一角へと視線を向ける。

事務スペースにある一つの机。今は誰も使っていない、何の道具も資料も置いていない、どこか空虚さすら感じる、何の変哲もない机。
今は丁度ちひろさんが掃除をしている所だ。その今は使われていない机を、丁寧に拭いている。

けど、なんでだろう。こうして皆で掃除をする時じゃなくても、ああしてちひろさんがあの机を掃除している光景を、よく目にするような気がするのは。

……たぶん、気のせいなんかじゃないんだろうな。



凛「ん……」



不意に、緩やかな風が頬をなでた。

視線を向けてみると、誰かが開けたんだろう。カーテンを揺らしながら、窓が開けている。
その切り取られた青い空を眺めていると、どうしても、あの約束を思い出してしまう。


いつも隣にいてくれた、あの少年との約束。



凛「……あれから、もうそんなに経つんだね」



いつもいた筈の彼は、今はいない。そしてそれが当たり前になってしまった。
そんな風景が、”いつも通り”になってしまった。



これは、






彼がプロデューサーを辞めて、一年程たったある日の出来事。






396: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/09(水) 03:02:35.62 ID:rz2WyN+/0










社長の発案による掃除はその後も進み、ある程度片付いたのはお昼前くらいの時間だった。思ったよりも早い。

まぁ、アイドルも含めてこの会社には相当な人数の社員がいるからね。全員で取りかかれば、そりゃあ早く終わるはず。
あまり広いとは言えない事務所だけど、今では思い入れも強い。それだけの時間を、ここで過ごしてきた。

社長だけじゃなくアイドルもそう思ってるんだから、しばらくは移転も無さそうだね。


掃除が終わった後に昼休憩を挟んで、予定通り私たちはレッスンルームへと向かった。既に着替えは済ませている。



未央「私にとってのアイドル……すばり、星だね!」



壁によりかかり、レッスンが始まるまでの待ち時間。
キラン、と。それこそ星のように目を光らせて言う未央。

別に訊いて回るつもりもなかったんだけど、さっきの話をしたら何となく話題が続いてしまった。ちなみに、その奈緒と加蓮は少し離れた所でストレッチをしていた。……加蓮容赦無いなぁ。



凛「星って例えは、また未央らしいね」

未央「でしょ? 遥か高みにある、輝く星。それぞれ違うし、どれも奇麗。まさに、夢は星の数ほどあるって感じ?」

卯月「なるほど~」



こっちは、座ってスポーツドリンクを飲んでいた卯月。



卯月「素敵ですね。さすがは未央ちゃん」

未央「そ、そう?」



397: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/09(水) 03:03:27.26 ID:rz2WyN+/0



本人的にはちょっとカッコつけて言ったのかもしれないけど、卯月が屈託のない笑顔でそう言うもんだから、ちょっと気恥ずかしそうにしている。本当に純真だよね。



未央「それじゃあ、しまむーはどうなの?」

卯月「私ですか? 私は、そうだなぁ……」



むーっと、眉を寄せて考え始める卯月。



卯月「えーっとですね……」

未央「うんうん」

卯月「え、えーっと……」

未「……うん」

卯月「う、うぅー……ん~……?」

未央「……し、しまむー? そんなに真剣に考え込まなくても…」



頭から煙が出てくるんじゃないかと、そう思うくらい目をぐるぐるさせている。その様子はちょっと可愛らしいけど、何もそこまで悩まなくても。思わず苦笑する。



卯月「ダメです……何も良い例えが思い浮かびません……」

未央「別に良いって。大喜利やってるんじゃないんだからさ」

凛「そうだよ。卯月は、どうしてアイドルになりたいと思ったの?」



私がそう訊くと、卯月は思い出すかのように、虚空を見つめる。
その瞳、未央に負けないくらい光を灯していた。



卯月「憧れ……だったんです。キラキラしてて、あんな風に、なりたいなって」

未央「良いじゃん、憧れ! 私も分かるよ。っていうか、全世界の女の子の憧れだよね。アイドルって」



確かに、それはその通り。
女の子が一度は思い描く、理想の存在。正に憧れと言うに相応しいね。



398: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/09(水) 03:06:08.13 ID:rz2WyN+/0



卯月「えへへ……でも、良いんでしょうか? そんなに普通の答えで」

凛「悪いことなんてないよ。というか、別に私は普通だとは思わないけど」

卯月「え?」

凛「素敵なことだよ。……それに、アイドルを目指すくらい憧れを抱き続けるって、簡単なことじゃないと思うし」



私の台詞に、うんうんと未央も頷いている。
こうして憧れの存在になれた私たちだから分かるんだ。ここまでの道のりは決して簡単なものじゃなかったし、そしてこれからも、きっともっと大変なことが待ち受けてる。



凛「だから憧れを持ち続けている卯月は、凄いよ」

卯月「凛ちゃん……」



嬉しそうに、顔を綻ばせる卯月。ちょ、ちょっとくさかったかな。
そんな顔をされちゃうと、何だか非情に照れくさくなってくる。



未央「っていうか前から思ってたけど、しまむーってある意味普通じゃないよね」

凛「ああ、それは分かるかも。……普通じゃないね」

卯月「え、ええ!? どういう意味ですか!?」



卯月を普通だなんて言ったら、たぶん世の女の子たちに怒られそうだ。


そうして雑談をしていると、レッスンルームの扉が不意に開いた。
今ここにいるデレプロのアイドルたちは大体揃っているから、恐らく入ってきたのは……



千早「失礼します」



落ち着いた声音で、礼儀正しく入ってるくるその人は、私も良く見知った人。
765プロ所属アイドル、如月千早さんだ。

千早さんはこちらに気付くと、近くまで来て挨拶をする。



千早「こんにちは。渋谷さん」

凛「お久しぶりです。千早さん」



399: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/09(水) 03:07:13.13 ID:rz2WyN+/0



ぺこっと、思わず深くお辞儀をする。

……初めて会った時から随分経つけど、やっぱり今でも緊張しちゃうな。もちろん、話しかけてきてくれるのは凄い嬉しいんだけど。



千早「今日はよろしくお願いするわね」

凛「はい。こちらこそ」



そう。今日は765プロとデレプロの合同レッスン。

約三ヶ月後に控えている、合同ライブに向けてのレッスンである。

最初話を聞いた時は、本当に信じられないくらい驚いた。
どちらかと言えば、今まではライバルとしてイメージが強かったからかな。まさかこうして肩を並べてライブに挑む日が来るなんて、思いもしなかったよ。



凛「今日は765プロの皆さんは全員参加ですか?」

千早「いえ、私を含めて5人かしら。みんな忙しいから、時間を見つけて来れる時に来るという感じね」

凛「なるほど。確かに、こっちもそんな感じですね」



デレプロの場合、今日来ているのは私と卯月と未央、あとは奈緒に加蓮、もう少ししたら愛梨や蘭子も来るはずだ。だから今日は7人。

……今回765プロとの合同ライブということで、当然ながらデレプロでは出演の選考があった。765プロに比べて、こっちはさすがに人数が多過ぎるからね。

最初は希望を募って、その先は完全に事務所側の抽選。最終的には、デレプロからは15人での参加となった。一応同じくらいの人数に合わせたみたい。

正直、選ばれないことも覚悟してたけど、選ばれて良かったな。こんな貴重な機会もそうそう無いだろうし……

何より、あの765プロと共演できるんだ。
出たくないわけがない。



千早「……元気そうね」

凛「? はい」



何故か、含みのあるように笑う千早さん。
確かに元気ではあるけど、どうして今そんな風に確認したのだろう?



千早「それじゃあ、ああ言って間違いはなかったようね」

凛「何がです?」

千早「何でもないわ」



400: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/09(水) 03:08:14.86 ID:rz2WyN+/0



そう言って、また笑う。どういう意味?

首を傾げていると、再びレッスンルームの扉が開かれたのに気付く。



千早「他のみんなも来たみたいね」



入ってきたのは、今日来る765プロアイドルの他の4人。

高槻やよいさん、四条貴音さん、水瀬伊織さん。そして、最後にあくびをしながら星井美希さんが入ってくる。

千早さんが入ってきた時もそうだったけど、765プロのアイドルたちがこうして目の前に現れると、やっぱり凄いね。他のみんなも、少し緊張してるのが伝わってくる。



未央「うわー……凄いねしまむー! 本物だよ本物!」

卯月「はい! やっぱり、オーラってあるんですね!」



ヒソヒソと、何やら興奮して話し込んでる二人。まぁ、気持ちは凄い分かるけど。

とりあえず、今いるメンバーだけでも挨拶をすることに。
各々が挨拶を交わしてる中、高槻さんたちが私に気付いて歩いてくる。



やよい「うっうー! お疲れ様です、凛さん!」

凛「高槻さん、お久しぶりです。四条さんも」

貴音「ええ。お元気そうで……心配はいらなかったようですね」

凛「心配……?」



はて? とまた首を傾げていると、四条さんは千早さんと目を合わせて笑い出す。
どうしたんだろう……なんか視線がやけに生暖かいというか、優しげに感じる。


そう言えば、この3人とは初めてテレビに出演する時に共演した縁があった。因縁の相手、ってわけじゃないけど、私からすれば特別な印象を持っている。今日はいないけど、たぶん美嘉も。

……それに、高槻さんに関してはちょっとしたライバル心みたいなのも。個人的にね。



やよい「? どうしたんですか?」

凛「な、なんでもないよ……です」



危ない、またちょっと敬語が崩れた。どうも苦手なんだよね……
前に千早さんたちに同年代なんだしいらないとは言われたけど、他所の事務所の、その上大先輩だからね。さすがにそれは遠慮した。

早く慣れるよう頑張ろう。



401: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/09(水) 03:09:00.01 ID:rz2WyN+/0



あと挨拶していないのは……と、視線を彷徨わせると、やがて一人と目が合った。

相変わらずどこか眠たげな、金髪の少女。



凛「渋谷凛です。よろしくお願いします、星井さん」



いたって普通の挨拶。
けど、星井さんはジッと私の顔を覗き込むように見て、何も言おうとしない。



凛「……?」



不思議に思っていると、しかしすぐに星井さんは笑顔になる。



美希「うん。よろしくなの。凛」



テレビでよく見る、あの無邪気そうな笑顔。

でも、さっきの表情はなんだったんだろう。
まるで、見定めるかのような……



美希「ねぇ、凛」

凛「はい?」

美希「これからストレッチしようと思うんだけど、相手をしてくれないかな?」

凛「えっ」



その申し出に驚く。
いや、別に嫌というわけじゃないんだけど、ちょっと予想外というか。

それにしても、いきなり名前呼びとは凄いフレンドリーだ。



美希「ほらほら、早くやるの」

凛「ちょ、ちょっと…」



手を引っ張られ、比較的空いたスペースに連れてかれる。ほ、星井さんって、こんなに積極的なタイプなの?
確かに765プロの人たちは奇数だし、ペアを作ったら一人溢れるけど……

と、何だか分からない内にストレッチが始まってしまった。

先に開脚をしている星井さんの背中を、ゆっくりと押してやる。
……さすが、柔らかいね。



402: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/09(水) 03:10:18.24 ID:rz2WyN+/0



美希「……ねぇ、凛」

凛「なんですか?」



ぐっ、ぐっ、と。
背中を押しつつ、言葉を返す。


その時は、他愛のない話だろうと思って特に身構えてなかった。だからだろう。



星井さんの言った次の言葉に、思わず身体が固まってしまったのは。









美希「プロデューサーのこと、本当に大切に思ってたの?」









その、さっきまでと何ら変わらない声。


それなのに、その言葉はまるで刃物のように、鋭く渡しの胸に刺さった。






凛「…………えっ……」






言葉が、出てこない。

というより、上手く頭が働いていなかった。
突然すぎるその質問を、すぐに理解することが出来なかった。

それでも、星井さんは私の返答を待たずに話し続ける。



美希「はちまん、だっけ? 凛のプロデューサー。この前、少し会ったの」

凛「どうして……」

美希「んーそれは言わない方がいいのかな。まぁ、その内分かるの」



あっけらかんとした物言い。
その内分かるって……彼が、765プロの星井美希と? 一体どんな理由があれば会うことになるのだろう。考えても全然分からない。

けどそれよりも、さっきの質問。



403: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/09(水) 03:11:19.47 ID:rz2WyN+/0



凛「……大切に思ってたのかって、どういう意味?」

美希「そのままの意味だよ。詳しくは知らないけど、事情があって辞めちゃったんだよね?」

凛「…………」

美希「それでも、普通にアイドルをやれてるみたいだから。ちょっと気になったの」



何でもない事のように、変わらないトーンで喋る星井さん。
背中をこちらに向けているため、今、彼女がどんな顔をしているのかは分からない。

……それでも、中々踏み込みにくいことを訊いてくるものだ。



凛「…………大切だったよ。凄く」



だから、だからこそ私も、真摯に応えることにした。

きっと彼女も、自分が何を訊いてるか、分かった上で話してると思うから。



凛「もちろん、今でも大切に思ってる。だから約束を守る為に、私はアイドルをやってるんだ」

美希「約束?」

凛「うん。必ずトップアイドルになるって。そうしたら、必ず迎えに行くって約束」



もう一年くらい前にもなる、あの日交わした約束。
思えば、このことを人に話すのは初めてだ。そりゃ、話して回るようなことでもないしね。

そしてそれを聞いた星井さんは、少し面白そうにして声を上げる。



美希「あはっ。迎えに行くって、王子様みたいだね凛」

凛「そ、そんなカッコいいものじゃないと思うけど…」

美希「……まぁ、どっちが先かは分からないけど」

凛「え?」

美希「なーんでもないの!」



すると星井さんは立ち上がり、今度は交代と私を座らせて背中を押す。

そう言えば、今はストレッチの最中だった。



404: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/09(水) 03:12:23.86 ID:rz2WyN+/0



美希「さっき、凛は約束の為にアイドルをやってるって言ったよね」

凛「ん、うん」



背中を押しながら、星井さんは再び会話を続ける。



美希「じゃあ、その約束が無かったら、凛はアイドルやらないの?」

凛「え?」



またも、一瞬身体が止まる。
約束が無かったらって……



美希「もしプロデューサーが元々いなかったら、アイドルやってなかったの?」

凛「いや、それは……」

美希「それとも……プロデューサーが『アイドル辞めて結婚してくれー』って言ったら、辞めてた?」

凛「け、結婚!?」



思わず、上ずった声が出る。
け、結婚って、そんなの考えたことも……いや、確かに迎えに行くとは言ったけど。

狼狽する私を見て、星井さんは「大袈裟なの」とおかしそうに笑う。
けど、その後すぐに静かになって言ってくる。



美希「……ごめんね、急に色々訊いちゃって。ただ、ちょっと気になったの」



振り返ると、彼女はジッと私の目を見る。

さっき見せた、あの覗き込むような目。



美希「あんな奇麗な歌を唄う凛が、どんな思いで唄ってるのか」



奇麗な、歌。

どこかで、私の歌を聴いてくれていたのだろうか。だとすれば、その評価を含めてとても光栄なことだ。素直にそう思う。



美希「それに千早さんや、あの春香も気にかけてるみたいだしね」

凛「え?」



405: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/09(水) 03:14:09.16 ID:rz2WyN+/0



千早さんはともかくとして、ハルカというのは、あの天海春香さんでいいのだろうか。私は直接会ったことは無いはずだけど……どういうこと?
しかし、星井さんは特に説明はしたりしない。こうい所は本当にマイペースだ。

そして星井さんは、改めて問うてくる。






美希「だから、聞かせてくれないかな。あなたが、どんな思いでアイドルしているのか」






悪意なんて感じない。

冷やかしとか、皮肉とか、そんなものは一切感じない。


ただ純粋に、彼女は”アイドルとして”私に尋ねたいんだろう。


その気持ちに応えるべく、私はーー






凛「……私は」






と、そこで私の声は遮られる。


音の方を見てみれば、今日最後のアイドル、愛梨と蘭子が丁度来たところのようだった。



伊織「アンタたち、いつまで話してんのよ。みんな集まったみたいだからレッスン始めるわよ」

美希「むー、まだ話してるのに。でこちゃんってば厳しいの」

伊織「今日はレッスンしに来たんでしょうが!」



ぴしゃり、と叱ってのける水瀬さん。
こうして星井さんにはっきり言える人は案外珍しいように思う。



伊織「ほらアンタも」

凛「あ、はい」



言われ、慌てて立ち上がる。
すると何故か、水瀬さんは私の近くに寄ってきて小声で話し出した。



伊織「……ごめんなさいね。あの子も、悪気があるわけじゃないの」



言いながら見る視線の先には、ドリンクを取りに行った星井さんの背中。



406: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/09(水) 03:15:26.40 ID:rz2WyN+/0



凛「き、聞いてたんですか」

伊織「そりゃ、あれだけ普通に喋ってれば聞こえるわよ」



そこまで言われて気付いたが、他のアイドルたちも少し気まずげにこっちを見ている。そうじゃないのは今来た愛梨と蘭子だけだ。



凛「……まぁ、いいですよ。隠すようなことじゃないし、それに…」

伊織「それに?」

凛「星井さんが言ってたことは、私もずっと思っていたことでもあるから」



苦笑しつつそう言うと、水瀬さんは少し驚いたように目を丸くする。
そしてその後、同じように苦笑い。



伊織「アンタも大概面倒そうな性格ね。……プロデューサーとアイドルって似るのかしら」

凛「え?」

伊織「なんでもないわよ」



最後の方が聞こえなかったので聞き返すも、水瀬さんはさっさと行ってしまう。

……765プロのアイドルって、みんな何か含みのある言い方するよね。高槻さん以外。
あの人がファンになる理由が、ちょっと分かった気がする。



その後合同レッスンはつつがなく進み、予定より少し早めに終了した。
今日は顔合わせも兼ねていたので、内容としては軽いものだ。


そして着替えも終わって各々が帰り支度をしてる中、星井さんは「また明日ね」と去り際に言い残し、他の765プロのアイドルたちと一緒に帰っていった。確かに明日もレッスンはある。

……あの言い分じゃ、明日また訊かれるのかな。


デレプロのアイドルたちもそれぞれ帰宅。レッスン前の会話について誰も触れてこなかったのは、私に気を遣ってくれたんだろう。



未央「しぶりーん、早く帰ろー!」

凛「うん。……あ、ごめん。私ちょっと忘れ物しちゃったみたいだから、先行ってて」



407: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/09(水) 03:17:01.97 ID:rz2WyN+/0



出口の方で待っててくれていた未央と卯月にそう告げ、レッスンルームに戻る。
着替えの入った手提げを忘れちゃ、さすがにまずいよね。

暗い部屋の中、目当ての物を見つけてすぐに戻る。


出口へ向かう途中、しかしそこで思わぬ遭遇をすることになった。






「失礼しまーす……」






扉を開け、キャスケット帽を被った女の子が入ってきたのだ。






「あれ、もう終わっちゃったのかな……顔だけでも出しておこうかと思ったんだけど…」






キョロキョロと辺りを見渡し、そこで、ようやく私と目が合う。

眼鏡をかけ、帽子から少しだけ赤いリボンが見え隠れしてる、この人はーー









凛「……天海、春香さん?」


春香「あなたは……」









お互い目を丸くして、見つめ合う。

こうして、私は彼女と初めて出会った。



恐らく、今一番トップアイドルに近いであろう、彼女と。






416: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/11(金) 22:30:59.02 ID:JnIiLH7j0










前にも言ったけど、765プロというアイドルプロダクションは、この業界においてトップの知名度を誇る。

所属人数も、事務所の規模も、そこまで大きくはないと聞いたことがあるけど、それでも765プロは間違いなくトップアイドルへの座へと足を踏み入れている。それだけは確か。


それぞれのアイドルがそれぞれの分野で輝き、様々なことに常に挑戦し、時には、一致団結し最高のライブを届ける。

その輝く姿は、誰をも魅了してやまない。

もちろん、私もその一人。


そして、そんな765プロにおいて一人中心的アイドルがいる。
全員のライブではセンターを張り、765プロのアイドルたちを引っ張っていってる、そんなアイドル。



天海春香さん。



その人が、今、すぐ隣に座っている。

合同レッスンでいつか会う日が来るとは思っていたけど、まさか、こんな二人っきりの状況で偶然会うことになるなんてね。






春香「はい、これ」



レッスン場の廊下にある、備え付けのベンチ。

そこに腰掛けながら、天海さんはこちらに缶コーヒーを手渡してくる。
先程、側の自販機で買っていたものだ。



春香「コーヒーで良かった?」

凛「あ、うん。じゃなくて、すいません……っ」



417: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/11(金) 22:32:46.67 ID:JnIiLH7j0



受け取った後、慌てて鞄から財布を取り出す。



春香「あっ、いいよいいよ! これくらい!」

凛「でも……」

春香「お近づきの印ってことで、ご馳走させて?」



ニコッ、と。屈託のない笑顔でそう言う天海さん。

なんとなく、卯月を思い出した。
何と言えば良いんだろう。安心感、というか、素直に可愛らしいと心から思える、そんな笑顔。



凛「ありがとう……ございます」



お礼を言うと、彼女はまた笑ってくれた。


たまたま忘れ物を取りに戻ったことで偶然会った天海さん。
折角会えたのだから、という理由で、彼女はお話をしようと言ってくれた。もちろん私としても嬉しいんだけど……さっきの星井さんの件があるから、ちょっと怖い。

でも、この感じだと大丈夫そうかな。
卯月と未央には先に帰っていてほしいとお詫びのメールを送っておく。



春香「そっか。予定より早く終わってたんだね」

凛「はい。私は、ちょっと忘れものをしちゃったから」

春香「本当、偶然だったんだね~」



何でも、天海さんも重なっていた仕事が早く終わったので顔だけでも出そうと、レッスン場へ足を運んだらしい。
残念ながら入れ違いになってしまったけど、本当に偶然、私とは会うことができた。



春香「合同レッスンはどうだった? 上手くいった?」

凛「ええと……」



その質問に、思わず苦笑いを浮かべてしまう。

レッスン自体は良かったと思う。初日ということもあって軽めではあったし、765プロアイドルの動きを間近で見れたのも貴重な体験だった。



418: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/11(金) 22:33:57.13 ID:JnIiLH7j0



……ただ、星井さんとのアレがあったから、ね。
それをわざわざ説明するのもどうかと思うし、なんと言えばいいのか…



凛「レッスンは上手くいったと思います。ただ、その……」

春館「うん?」



な、なんて純真な目で見てくるんだろう。なんだか既視感を覚える。……たぶん卯月だろうけど。
まぁ、どうせその内聞くかもしれないとも思うし、言ってしまっても問題ないかな。



凛「ちょっと、星井さんとお話したんです」

春香「美希と?」

凛「はい。その、私のプロデューサーの件で。……元ですけど」

春香「えっ!?」



声を上げ、思った以上に大きなリアクションを取る天海さん。内容をまだ言っていあいのに、この驚きよう…



凛「もしかして、天海さんも会ったことあるんですか?」

春香「え、ええーっと、そう……だね」



私の質問に、天海さんは何とも答え辛そうに言う。ただ、その返答内容にも驚いた。



凛「美希さんといい、どうして……?」

春香「う、うーん……どこまで話していいのかな……」



聞き取れないくらいの小さな声で、ぶつぶつと何やら呟いている天海さん。
少しの間があった後、彼女は思い至ったように、思いもよらない発言をする。









春香「えっと、そう! 比企谷くんとは、友達なの!」


凛「……………………」






419: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/11(金) 22:35:26.07 ID:JnIiLH7j0



なの……なの………なの…………



と、天海さんの言葉が木霊していくのを感じる。

静寂が、辺りを包んだ。



凛「…………天海さん」

春香「な、なに?」

凛「いいんですよ、別にあの人に気を遣わなくても」

春香「どういう意味!?」



いや、だってね……

友達って、そりゃ、最初に会った頃に比べればそういう関係も増えたみたいだけど。



春香「いや、本当だよ? ちょっと詳しくは話せないっていうか、言い辛いんだけど…」



言葉を選ぶように、ゆっくりと話す天海さん。



春香「……友達っていうのは、間違いじゃないよ。もしかしたら、私がそう思ってるだけかもしれないけど」



そう言って、苦笑する。

あの天海さんにこんなことを言わせるなんて。本人はちゃんと自覚してるのかな……してないだろうね。あの人のことだし。



春香「それにほら、LINEのIDも交換してるし」

凛「えっ!?」



今度は私が思わず大きな声を出す。
ま、まさか本当に友達なの……? いや、天海さんは最初からそう言ってるんだけどさ…



420: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/11(金) 22:36:33.36 ID:JnIiLH7j0



と、今はそんな話をしてるんじゃなく。



凛「その、星井さんに言われたんです」

春香「言われた?」

凛「はい。……『プロデューサーのこと、本当に大切に思ってたの?』って」



その後の会話も含めて、大体のあらましを説明する。
話してる途中、天海さんはずっと申し訳なさそうな顔をしていた。



春香「ご、ごめんね! 美希がそんなこと話してたなんて…」

凛「いえ、良いんです。別に嫌なわけじゃなかったんで」



これは本当。
確かに凄い驚きはしたけど、言っていたことは、やっぱり向き合うべきことだから。



凛「なんていうか、再確認した気分です。私の気持ちを」



あの人と約束していなかったら、私はアイドルを続けなかったのか。

あの人がいなかったら、私はアイドルになっていなかったのか。

あの人が、結婚しよう、なんて事をもしも言っていたなら、私はアイドルを辞めていたのか。



そんな、誰に訊かれるでもない、誰に答えるでもない、自分への問い掛け。

それを、改めて訊かれただけの話なんだ。



凛「凄い人ですね、星井さん」



苦笑しつつ、素直に思ったことを口にする。
あんなことを面と向かって訊ける人は、中々いない。もちろん、良い意味で。

そんな私の様子を天海さんは少し意外そうな顔で見ていたかと思うと、不意に、安堵したかのように笑みをつくる。



春香「……なんだ」

凛「え?」

春香「もう、凛ちゃんの気持ちは決まってるんだね」



421: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/11(金) 22:37:56.49 ID:JnIiLH7j0



その台詞で、今度は逆に私が意表を突かれた。
私が驚いているのが伝わったのか、天海さんは少しおかしそうに笑って言う。



春香「だって凛ちゃん、そういう顔してるから」

凛「……なに、そういう顔って」



私も、つられて笑ってしまった。

そうだよ。
私の気持ちなんて、もうとっくに決まってる。


一頻り笑ったあと、天海さんはやけに嬉しそうに話す。



春香「凛ちゃん、やっと敬語とってくれたね」

凛「えっ……あ、すいません!」

春香「ううん、いいの。私はそっちの方が嬉しいな」



また、あの屈託のない笑顔。



凛「でも、先輩に向かってってのは……」

春香「それ以前に、もう友達でしょ?」



そんなことを言う天海さんに一瞬呆気にとられた後、思わず吹き出してしまう。
今日初めて会った後輩に、それ以前に友達だから、とはね。

何となく、あの人と友達と言うのも頷けてしまった。
この何とも言えない押しの強さに翻弄される姿が、目に浮かぶ。



凛「ふふ……」

春香「な、なんで笑うの? 私、変なこと言ったかな?」

凛「……ううん。全然?」



なんだが、無理をするのがバカらしくなった。
本人が良いと言うのであれば、良いのだろう。そう思うことにした。



422: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/11(金) 22:39:08.68 ID:JnIiLH7j0



その後結局レッスン場が閉められるまで話し込んでしまい、すっかり暗くなった頃に別れることとなった。
私はそこまで人見知りってほどじゃないけど、それでも、初めて会った人とこれだけ話せるんだから、天海さんは凄い。



春香「明日は私もレッスンに参加できそうだけど、凛ちゃんは?」

凛「私も明日はいるよ。……どうやら、星井さんもいるみたいだし」

春香「あはは、それは大変そうだね」



苦笑した後、天海さんはふと遠くの街の方を眺める。
つられて見れば、仄かに青さが残った暗い空の向こうに、ついさっき太陽が沈んだであろう微かな灯火が見えた。

その光へ辿っていくように、ぽつぽつと、まるで星のように街の明かりが灯り始めている。

なんだか、いつかの帰り道を思い出してしまう。



春香「……前も、こんな時間だったな」

凛「え?」

春香「ううん。こっちの話」



誤摩化すように笑う天海さんは、改めて私の方へ向き合う。



春香「頑張ってね。……って、私が言わなくても、凛ちゃんはもう頑張ってるよね。あはは」

凛「どうかな。必死ではあるけど、それが頑張ってることになるかは分からないし」

春香「あ、今の言い方比企谷くんっぽい」

凛「……それは、あまり嬉しくないかな」



まさか反面教師じゃなくて、真っ当に似てきているなんてね。そりゃ、見習いたい所もあるにはあるけどさ。



春香「……凛ちゃんも比企谷くんと同じくらい、悩んで考えて、必死に進もうとしてきたんだね」

凛「……それこそ、どうなんだろうね」



423: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/11(金) 22:40:15.60 ID:JnIiLH7j0



あの時、私は何もできなかった。

考えることもできず、悩むことすら放棄して、ただただ流れに身を任せてただけ。
そんな私の背中を押してくれたのは、やっぱり彼だった。

あれから一年。彼がいなくても、私なりになんとか頑張ろうともがいてきた。
悩んで、考えて、少しでも前へ、前へと。

でも、それも結局は自分の為なんだ。

そうして足掻いていないと、苦しいから。何もしない方が、じっとしている方が、苦痛になってしまったから。
だからこうして駆け抜けている間だけは、楽でいられる。ただ、それだけ。


そんな私の自分よがりな思いが、本当に、彼と一緒と言えるんだろうか。






春香「大丈夫だよ」






でも、彼女は笑って言ってくれる。

なんてことのないように、背中を、押すように。






春香「だって、二人ともそっくりだもん。私が保証するよ」






たったそれだけの言葉で、ただ笑顔でそう言ってくれるだけで、

何故だか、自分でも信じられないくらい安心することができた。



凛「……ありがとう、天海さん」



しかし私がお礼を言うと、彼女は少しむくれてしまう。
というより、呼び方が気に入らなかったようだ。



春香「もう。春香でいいよ、凛ちゃん」

凛「え? い、いいのかなぁ」

春香「いいの!」



ウインクし、まるでお願いするかのように、力強く言い放つ。
……なら、ここで渋るのも失礼な話か。



424: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/11(金) 22:41:21.34 ID:JnIiLH7j0



凛「……ありがとう、春香」



少々照れくさいけど、でも、他でもない彼女の頼みだから。



春香「うん。どういたしまして」



そうして、春香は満足げに微笑んだ。
やっぱり、トップアイドルって凄いんだね。



春香「それじゃあ、また明日ね」

凛「うん。また明日」



手を振り、春香と別れる。
逆方向へと向かって歩き出し、今日は色んなことがあったな……なんて考え出した時、






春香「凛ちゃん!」






突然の呼びかけ。
驚きすぐに振り返る。

5メートルほど離れた所にいる春香。彼女はバレることなどお構い無しに、よく通る大きな声で、私にエールを送ってくれた。






春香「昔の偉い人は言ったよ。……『乙女よ、大志を抱けっ!』」






そう良い残し、彼女は去っていった。


最初は呆気にとられていたが、遅れて笑いが起きてくる。
本当、強敵だなぁ。

あれがいずれ超えなきゃいけない存在なんだから、アイドルは大変だし、面白い。



たぶんその偉い人っていうのは、リボンを付けた笑顔のとてもよく似合う、可愛らしい女の子なんだろうね。






425: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/11(金) 22:42:38.68 ID:JnIiLH7j0










765プロアイドルとの予想外の出来事があった、その翌日。


私は少し早めに目が覚めた。昨日あんなことがあったせいかな。なんだか、とても懐かしい夢を見たような気がする。
今日は朝一から合同レッスンがあるし、折角だから早く家を出ることにしよう。もしかしたら、彼女も早く来てるかもしれないし。

……いや、あの人だったらギリギリまで寝てるかな。どうだろ?


手際良く準備を済ませ、両親とハナコに行ってきますとちゃんと挨拶をし、家を出る。
今日は気持ちがいいくらいの快晴だ。


きっと、良いことがある。


レッスン場へ着くと、何故だかほとんどのアイドルたちが揃っている。結構早めに着いたと思ったんだけど、もしかしたら765プロとの合同レッスンだってことで、みんな先に来ていようと気をつけたのかな。

でも、その765プロの人たちも既に全員来ているとは、さすがに予想外。
もちろん、その中には春香もいる。



春香「おはよう、凛ちゃん」

凛「おはよう、春香」



他に人がいる中で呼び捨てにするのは少し勇気が必要だったけど、思ったより周りの反応は小さい。……もしかして、私敬語とか使わないのが普通だと思われてる?


そしてレッスンルームの奥の方。壁に寄り掛かるようにしてる星井さんを見つけた。

星井さんは私に気付くと、いつもと変わらない笑顔で軽く手を振ってくる。
それに私も笑い返し、近くまで歩いて行った。

隣に立ち、寄り掛かるように私も壁へ背中を預ける。



426: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/11(金) 22:43:43.36 ID:JnIiLH7j0



美希「おはよ、凛」

凛「うん。おはよう……ございます」



私が取り繕うように後から付け足すと、星井さんはおかしそうに笑い出す。



美希「あはっ、もう敬語なんて使わなくていいの」

凛「そ、そう……かな」

美希「うん。それに昨日もほとんど使ってなかったよ?」

凛「えっ」



そう言われて思い返す。
確かにそう言われれば、そうかもしれない……あれ、なんか会話に集中してたせいで良く思い出せない。たぶん本当に使ってなかったんだろう。



美希「呼び方もミキでいいよ。今更、他人行儀なの」

凛「……なら、遠慮なく」



既に春香に対してそうだし、星井さん…じゃなくて、美希は同い年だ。
これも本人が良いと言うのであれば、遠慮なく呼ばせて貰おう。正直、私としても助かる。

……こんなんだから、敬語が使えないと思われてるのかもしれないけど。ほ、本人が良いって言ってるから良いの!



凛「朝は弱いのかと思ってたけど、随分早く来てたんだね」

美希「むー、レッスンは別なの! っていうか凛、はっきり言い過ぎじゃない?」

凛「あはは、ごめんごめん」



ぷんぷんと怒った風に言うが、全然怖くない。むしろ可愛らしいくらい。



美希「そう言う凛は、来てすぐにミキに会いにきたよね」

凛「ん。まぁ、昨日のこともあったしね」

美希「……じゃあ、聞かせてくれるんだ」



427: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/11(金) 22:46:51.78 ID:JnIiLH7j0



期待するかのような、それでいて、穏やかな目で私を見る美希。

どうしてそんなにも私のことが気になるのか、そこが少し不思議に思う。あの星井美希に興味を持たれるなんて光栄だけど、やっぱりちょっと信じられないからね。

私の歌にそこまでの魅力を感じてくれたなら、こんなに嬉しいことはないけど。



凛「私がどんな思いでアイドルをやっているのか……だったよね」



色んなことがあった。



アイドルになっていいのかと悩んだこともあった。

アイドルを続けていいのかと苦悩したことがあった。

私にとってアイドルとはなんなのか。そう、今でもずっと考え続けている。



正直、今でも気持ちが揺らいだり、どうしていいか分からなくなることもある。

でも一つだけ、たった一つだけ、はっきりと言えることがある。



胸を張って、確信を持って、堂々と言えることがある。









凛「楽しいから」









それは、とても簡単なこと。






凛「私は楽しいから、アイドルをやってるんだ」



428: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/11(金) 22:48:10.63 ID:JnIiLH7j0



至極単純で、シンプルすぎるその答え。

でも、だからこそ心からそう言える。



凛「歌を唄ってる時は気持ちがいいし、ライブが上手くいけば凄く嬉しい」



美希は、私の言葉に頷いてみせる。



凛「新しい仕事を貰えればやる気が溢れてくるし、ファンから応援されれば思わず舞い上がっちゃう」

美希「うん」

凛「辛いことも、苦しいことも沢山あるけど、でもそれ以上に、アイドルが楽しい」

美希「うん……分かるの」



毎日たくさんレッスンをして、仕事をこなして、くたくたになって眠りにつく。

起きれば、またレッスンや仕事をして、その繰り返し。

非難や中傷もある。応援や賞賛もある。

数え切れない、私もまだ見たことのない景色が、ここにある。






凛「こんな楽しいことを辞めちゃうのは、私は勿体無いなって、そう思うんだ」






それを教えてくれたのは、今は隣にいないあの人だけど。

でも、だからと言って私が手放す理由にはならない。



429: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/11(金) 22:49:22.27 ID:JnIiLH7j0



あの人と約束していなかったら、私はアイドルを続けなかったのか。

あの人がいなかったら、私はアイドルになっていなかったのか。

あの人が、結婚しよう、なんて事をもしも言っていたなら、私はアイドルを辞めていたのか。



その問いに対する答えは……否だ。



あの人との約束を叶えたい。

あの人が残した思いを無駄にしたくない。

あの人が背中を押してくれたことを無かったことにしたくない。



でも、それ以上に。



私は、私がやりたいから、アイドルをやるんだ。

それが、私の答え。






美希「……そっか」






じっと聞いていてくれた美希は、目を閉じて満足そうに微笑む。

彼女がほしい答えを、私は返すことができたのかな。



美希「それが、凛の思いなんだね」

凛「ただの我が侭だよ。誰の為でもない自分の為。そんな立派なものなんかじゃないんだ」

美希「そんなことないの。ミキだって、キラキラしたいからアイドルをやってるし」



キラキラしたい……

その例えは、何だかとても美希らしい。会って間もないけど、そんな風に思えた。



美希「もちろん、ハニーに喜んで貰いたいっていうのもあるけどね。あはっ」

凛「は、ハニー?」



430: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/11(金) 22:50:30.05 ID:JnIiLH7j0



もしかして、それは765プロのプロデューサーのことを言っているのかな。凄い呼び方だ。



美希「あ。あとこれは本当に興味があるから訊くんだけど…」

凛「な、なに?」

美希「凛は、ハチマンのことを好きだったの?」



また、なんともどストレートなその質問。
でも、正直予想はついてたかな。だから私は、特に言い淀むこともなく言う。



凛「……うん。好きだよ」



思いのほか、簡単にその言葉は出て来てくれた。
気恥ずかしくはあったけど、でも、相手が美希だからかな。こうしてちゃんと口にできたのは。

その答えが何やら嬉しかったのか、美希は「そっか」と言って、また微笑んだ。


そこで、なんとなく気付いた。

たぶん。美希もそうなんだろう。
自分のプロデューサーのことをハニーと呼ぶ彼女も、きっと私と同じで、同じように色んな思いを抱えてるのかもしれない。

だから、こうして歩み寄ってきてくれたのかな。



美希「なんだか甘酸っぱいね」

凛「甘酸っぱい?」

美希「うん。楽しいことや辛いことがあって、好きな人と出会ったり別れたりもして、なんていうか…」

凛「……青春してる?」

美希「そう! まさにそれなの」



青春、ときたか。
美希のその例えに、思わず苦笑してしまう。

それは、またなんとも皮肉が効いてるね。まさか、あの人が嘘であり悪であると言った青春を私が謳歌しているとは。

……うん。でも、確かにそうかも。

その言葉は、なんだか私にはとても素敵に聞こえた。



凛「……私にとってのアイドルは、青春なんだ」



431: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/11(金) 22:52:21.24 ID:JnIiLH7j0



他の人には笑われてしまうかもしれない。あの人が聞いても、たぶん苦い顔をするだろう。

でも、私は好きだな。

少なくとも、今隣にいる彼女もそう感じてくれている。



美希「ありがとね、凛。色々聞かせてくれて」

凛「ううん、こっちこそ。良い経験? になったよ」

美希「……ちょっと疑問系なの」



思わずジト目で見られる。
でもこっちだって結構驚いたんだから、これくらいは許してほしいかな。



美希「これからは、ライバルだね」

凛「……美希にそう言って貰えるなら、光栄だよ」

美希「あと、恋バナ友達?」

凛「それは、あまり大っぴらには言えないかな……」



でも、美希が私をライバルと言ってくれたように、私だって負けたくないとずっと思っていた。必ずあの頂きへ行くと、思い続けてきたんだ。



凛「……美希や千早さんや、春香にも。いつか追いついてみせるから」



私のその言葉に、美希はやや挑戦的に、不適に笑う。



432: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/11(金) 22:53:54.50 ID:JnIiLH7j0



美希「ふーん? 追いつくだけでいいの?」



その返しには思わずぽかんとしてしまったが、こっちも、負けじと笑い返してやる。



凛「まさか。追い抜いて……トップアイドルを目指すよ」



アイドル。

それは人々の憧れであり、遠い存在。


誰をも笑顔にして、勇気を与えて、元気をくれる。
キラキラしていて、懸命で、美しく、真っ直ぐで。

人々に希望を与え、輝きを見せる、そんな存在。

そんなまるでお伽噺のような、偶像と言われても仕方が無いような存在を、私は目指す。


きっと、それは難しいのだろう。
辛いし、苦しいし、数え切れない程の困難がきっと待っている。道は険しいなんてものじゃない。

もしかしたら、最初から辿り着けるような場所じゃないのかもしれない。
そもそも、そんなものは存在しなくて、ただの幻想なのかもしれない。


けど、私は諦めたくないんだ。



たとえ私が抱いているのが叶わぬ夢で、ありもしないものへの憧れだったとしてもーー






それでも、私は本物になりたい。






本物のアイドルに、なりたいんだ。






433: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/11(金) 22:55:32.09 ID:JnIiLH7j0



凛「……全力で、駆け抜けてみせるから」



いつか、彼と約束した時のように。

私は、私へと言い聞かせた。



と、そこでレッスンルームにトレーナーさんが入ってくるのに気付く。

もうそんな時間かと思って準備にかかろうとすると、何やら他のアイドルたちも慌てて動き始めている。
……この様子は、またみんな聞いてたな。

私も美希も、なんだかおかしくて笑ってしまった。



美希「凛、ストレッチしよっか」

凛「うん。よろしく」






その後はレッスンを順調にこなし、お昼頃まで取り組んだ。

昨日も集中してやっていたとは思うけど、でも、それでも頭の片隅には美希との件があったからね。どこか少なからず気持ちが入り切っていなかったかもしれない。

だからその分、今日はちゃんとやれたと思う。
……こうして見ると、やっぱり765プロのみんなは凄いね。



合同ライブまで、あと三ヶ月。

時間はまだ結構あるように感じるけど、きっとあっという間だ。


だから今のこの気持ちも、貴重な経験も、忘れないよう胸に刻んでおこう。






434: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/11(金) 22:56:59.68 ID:JnIiLH7j0










月日の流れは、本当に早い。


美希や春香、765プロのアイドルたちと出会ったあの日から、もう三ヶ月。
あれから何度もレッスンを重ね、打ち合わせし、時にはご飯へ一緒にいったり、親睦も深めたりもした。

……美希や春香、千早さんが家まで遊びに来た時は本当に驚いたよ。

どうやら他のアイドルのみんなも、それぞれ交流しているみたい。
春香と連絡先を交換できたと、卯月がとても嬉しそうにしていたのを思い出す。

765プロが憧れなのは、みんな一緒だからね。



そしてそんな日が続いて、今日は遂に、765プロとシンデレラプロダクションの合同ライブ。その当日だ。


きっと上手くいく。そう信じられる。

だって、デレプロも765プロも、みんなどうしようもないくらい素敵で、輝いているって、私が誰よりも知ってるから。


だから、きっと今日は大丈夫。


開場前の待機時間、各々は準備に取りかかったり、気持ちを落ち着かせたりしている。
もちろん私もその一人で、ステージの様子を確かめたり、他のみんなと話したりしてから、控え室に戻った。






凛「……あれ」






しかしデレプロの控え室に戻っても、そこには誰もいなかった。
いや、正確にはスタイリストさんやマネージャーさんが何人か出入りしているけど、アイドルは一人も見当たらない。

たぶん、まだ他の所にいるのかな。もしかしたら765プロの方へ挨拶へ行ったりしてるのかも。



435: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/11(金) 22:57:47.78 ID:JnIiLH7j0



ただ少し出歩いて疲れたので、私は座って待つことにする。その内誰か来るだろう。



凛「ふぅ……」

「ステージ、どうだった……?」

凛「ひぁっ!?」



どこからかの突然の声に、椅子ごと倒れそうになるくらい驚く。び、びっくりした……



凛「……輝子。またそんな所にいたの?」

輝子「フヒヒ……落ち着くから」



控え室の机の下、そこを覗けば、思った通り輝子がいた。アイドル衣装で。
っていうか、他にほとんど人がいないのに入る意味はあるのかな……落ち着くんなら良いけどね。



凛「ステージならもう準備万端だったよ。そろそろ開場じゃないかな」

輝子「そ、そうか……いよいよ、だな……」



ぷるぷると、緊張しているのか肩を振るわせる輝子。
でも、不思議と表情に陰りは見えない。むしろ、目をギラつかせているようにすら見える。



凛「……楽しみ?」

輝子「うん。……こんな大きなステージ、立てるとは、思わなかったから……」

凛「ふふ、そっか」



そうやって笑えるなら、きっと大丈夫だね。

なんだか、輝子がとても頼もしく思えた。



輝子「……凛ちゃんは、やっぱり平気そう、だな…」

凛「そんなことないよ。これでも緊張してる」



436: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/11(金) 22:58:46.64 ID:JnIiLH7j0



こういうライブは何度経験しても慣れるなんてことはない。しかも今日は756プロとの合同ライブ。平気なんてことはなく、強がっているだけだよ。



輝子「でもその割には、最初のレッスンの時、啖呵切ってたよな……」

凛「あ、あれは啖呵とかじゃないから!」



思わず反論してしまう。
いや、確かに追いつくとか追い抜くとか、そんなことを美希(と765プロアイドル)の前で言ったけど、あれは別にそういうつもりじゃなくてね?

しかし輝子は、分かった分かった、みたいなしたり顔で頷くのみ。絶対分かってないでしょ。



凛「……そう言えば、レッスン二日目の時は輝子もいたんだったね。みんなしてばっちり聞いてるんだから…」

輝子「フフ……私、存在感が薄いから……」

凛「ああいや、そういう意味で言ったんじゃなくてね?」



というか、ある意味じゃとてつもない存在感を放ってる気がするけど。
特にライブなんかはそう。その誰もの目を引く存在感に、私も負けてられないと常に思っている。……まぁ、気恥ずかしくて本人には言えてないけど。



凛「……別にあの時の話を聞かれたのは良いんだけどさ。でも、やっぱりちょっと恥ずかしいね」

輝子「なんでだ……?」

凛「だって、結局は私の独りよがりな思いだからね。アイドルの答えとして良いとは言えないでしょ?」



私がそう言うと、輝子は「ふむ……」と頷くようにする。



輝子「……確かに、”アイドルとして”は良くないかもな」

凛「うっ……思ったよりハッキリ言うね…」

輝子「ただ……」

凛「?」



437: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/11(金) 23:00:14.23 ID:JnIiLH7j0



輝子はそこで言葉を切ると、ニッっと笑みを見せ、真っ直ぐな目で私を見つめる。






輝子「私はそれ以前に……凛ちゃんの親友だから、な……」


凛「っ!」


輝子「あの時の凛ちゃん……かっこ良かったぜ」






フヒヒ……と、何故だか嬉しそうに笑う輝子。

……嬉しいのは、こっちの方だってば。






凛「……ありがとう、輝子」






私もニッと笑みを返し、お互い笑い合う。

全く……こんな台詞を当然のように言えるんだから、本当にニクい。
私には、勿体無いくらいの親友だ。



そうしていると、スタッフさんの一人が開場の始まりを教えてくれる。

ステージ裏に招集とのことで、たぶん他のみんなも直接向かっている頃だろう。



凛「それじゃあ、私たちも行こっか」

輝子「おう……フヒヒ……」



438: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/11(金) 23:01:19.91 ID:JnIiLH7j0



机の下から出てきた輝子(まだいた)と共に、ステージ裏へと向かう。途中、他のアイドルたち何人かとも合流した。

ステージ裏には、もうほとんどのメンバーが集まっている。
そこには、いつもお世話になっている事務員さんの姿も。



凛「ちひろさん。お疲れ様です」

ちひろ「あ、凛ちゃん。お疲れ様です」



ぺこっとお辞儀。手には、何やら色々な資料を持っている。



凛「もしかして、アナウンスの準備ですか?」

ちひろ「ええ。デレプロのライブでも毎回やらせて頂いてますけど、今回は765プロの事務員さんの音無さんと一緒にやることになりまして…」



ちらっ、と。ちひろさんの視線を辿ってみれば、ショートヘアーのこれまたアイドルのような容姿をした女性がスタッフさんと話をしている。ちひろさんに負けず劣らずの美人だ。

というか、事務員さんがアナウンスをするのは伝統か何かなのかな……?



ちひろ「アイドルのみなさんには敵いませんが、やっぱり緊張しますね」

凛「ふふ……いつもありがとうございます。ちひろさんも、頑張ってくださいね」

ちひろ「はい。凛ちゃんも」



と、そこでちひろさんは何かを思い出したように耳打ちをしてくる。
内容はそこまで秘密にしたいことではなかったけど、一応気を遣ってくれたらしい。



ちひろ「今日のチケット、ちゃんと彼に送っておきましたよ」



439: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/11(金) 23:02:22.69 ID:JnIiLH7j0



彼……というのは、もう言うまでもないね。

来てくれるかどうかは分からなかったけど、それでも、この晴れ舞台を見てほしいという思いはあった。
無理強いはしたくないし、連絡も特にしていない。チケットが送られても、向こうからも何か返事が来ることは今日まで無かった。



ちひろ「……彼のことです。きっと、どこかで見てますよ」



微笑みながら、ちひろさんはそう言う。



凛「大丈夫だよ」

ちひろ「え?」



たとえあの人が来ていなくても、それでも私がすることは変わらない。
今は隣にいなくても、全力で私は駆け抜けるだけだから。



凛「あの人がどこにいたって、私は歌うし……全力でアイドルをやるよ」



どこかで、今日も私を信じて待ってくれていると、そう信じてるから。



ちひろ「……そうですか」



ちひろさんは最初目を丸くしていたが、その後微笑んで言ってくれる。



ちひろ「彼が残したものは……こうして、今も輝いているんですね」

凛「……まぁ、良くないものも色々と残していった気もするけどね」

ちひろ「それは確かに」



言って、お互い声を出して笑う。

……本当、ただでいなくならないんだから、あの人は。



440: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/11(金) 23:03:48.66 ID:JnIiLH7j0



ちひろ「それじゃあ、そろそろ準備をお願いしますね」

凛「はい。行ってきます」

ちひろ「行ってらっしゃい!」



踵を返し、集まっているアイドルたちの方へ歩き出す。

しかし向かう途中で、「凛ちゃん!」とちひろさんに再び呼ばれてしまい慌てて足を止めた。
振り返ってみれば、ちひろさんは小さなフラワーバスケットを抱えている。



ちひろ「はい、これ。凛ちゃんにです」

凛「私に? 誰から……」



と、そこでメッセージカードに気付く。
バスケットをちひろさんに預け、開封し、中のカードを取り出す。

カードには、ただ一言。






『 しっかりな。 』






とだけ、書かれていた。






凛「…………」

ちひろ「凛ちゃん?」

凛「……ふふ」



思わず、笑いが零れてくる。

その、不器用さを隠そうともしないたった一言。
何を書くかと悩んで、考え込んで、何とか絞り出したのがこれだと思うと、なんだか無償におかしかった。



441: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/11(金) 23:06:35.31 ID:JnIiLH7j0



凛「……アザレア、か」



フラワーバスケットの花を見て、私の好きな歌を覚えてたんだなと、少し嬉しくなった。
とりあえず、次会った時にはうちの花屋を差し置いてどこでこれを買ったのか、問い詰めなくちゃね。

そんな私の様子を見て、ちひろさんも何だかおかしそうにしている。



ちひろ「……さっきより良い顔してますよ?」



それは、何とも複雑な台詞だ。少し顔が熱くなる。
どうやら、私もまだまだらしい。

隣にいなくたって、こうしてあなたの一押しが、私の力になるんだからね。






凛「ーー行ってくるね」






だから、もう一度私は告げる。

この会場のどこかにいる、あの人に向かって、そう言ってやる。



誰も見たことのないような景色を、キラキラとした最高の光景を。

あの人と、会場にいる全員に見せてあげよう。



今はまだ至らない、未熟なアイドルだけど。

情熱と憧れを手に、ずっと走り続ける。



ステージの、その輝きの向こう側。

そこを目指し、私は駆け出す。






いつか違った道が交わるようにと、思いを込めて。













448: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/12(土) 23:18:00.18 ID:P+l3VGEy0

~エピローグ~






青春とは嘘であり、悪である。



青春を謳歌せし者たちは常に自己と周囲を欺く。

自らを取り巻く環境のすべてを肯定的に捉える。

何か致命的な失敗をしても、それすら青春の証とし、思い出の1ページに刻むのだ。


例を挙げーー






八幡「なんだ、こりゃ」






随分と、懐かしいものが出てきた。

確か、平塚先生へ最初に提出したレポート用紙だよな。再提出を言い渡されて、奉仕部やりながら書いたっけ。


たまには片付けをしようと机を漁っていたら、くしゃくしゃのレポート用紙。内容はリア充への犯行声明。
ふむ……



八幡「我ながら、なんと的を射た文面だろうか。とっとこ」



ぴしっと、レポート用紙のシワを伸ばし、改めて引き出しにしまう。

もしかすれば、こいつが日の目を見る時が来るやもしれん。万が一俺が自伝を書く時が来たら冒頭に載せることにしよう。



449: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/12(土) 23:18:51.17 ID:P+l3VGEy0



小町「なーにやってんの。お兄ちゃん」



声に振り返ると、そこには廊下から部屋の中を覗き込んでいる小町。
その格好は寝間着のままで、眠たげに目を擦っている。もしかして起こしちまったか。



八幡「おう。ちょっとヒマだったんで、部屋の片付けをとでも思ってな」

小町「……朝の5時に?」

八幡「朝の5時に」



外からはチュンチュンと鳥のさえずりが聞こえ、窓を見れば空は未だ薄ら暗い。ようやく白んできたと言ったところだ。



小町「……緊張して早く起きちゃったんだね」

八幡「別にそういうわけじゃない。ただ……」

小町「ただ?」

八幡「なんだか寝付けなくて色々してたら、いつの間にか朝だっただけだ」

小町「めっちゃ緊張してるよそれ」



ですよねー
いや、だって、仕方が無いだろ? 今日ばっかりは。

俺が口を尖らせていると、そんな様子を見て小町は呆れたように笑う。



小町「……それじゃ、朝ご飯用意するから」

八幡「いやいいぞ、そんな俺に合わせなくても」

小町「もう起きちゃったし。それに、何かしてないと落ち着かないんでしょ?」



どこまでも見透かされたかのようなその台詞。さすが、長年俺の妹をやっているだけある。
ここは、お言葉に甘えておこう。



450: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/12(土) 23:19:27.38 ID:P+l3VGEy0



八幡「悪いな」

小町「いえいえ。……っていうか、やっぱりそのスーツなんだ」



小町が言っているのは、今の俺の格好。
ワイシャツにスラックス。ネクタイをピンでしっかりと留め、ジャケットは既に椅子にかけてスタンバイ。もういつでも出れる格好だ。



小町「新しいのもう一着あるんでしょ? ネクタイも。そっち着てけばいいのに」

八幡「いいんだよ」



小町の提案も、今日くらいは断らせてもらう。



八幡「今日は、これでいい」

小町「……そっか」



小町は微笑むと、それ以上は何も言ってこない。

ホント、出来た妹だ。



小町が用意してくれた朝食をいただき、出かける準備をする。
と言っても、もう既にほとんど終わっているんだが。

両親はまだ寝ているようだが、もう出ることにする。なんだか気恥ずかしいしな。



小町「初日なんだから、しっかりね」

八幡「おう。任せとけ」

小町「言ってるのがお兄ちゃんだからなぁ。小町は不安です」

八幡「どういう意味だそりゃ」



言って、二人して笑う。



451: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/12(土) 23:19:56.32 ID:P+l3VGEy0



八幡「……見送り、ありがとな」

小町「お、お兄ちゃんがそんな素直な言葉を……! ちょっと気持ち悪い……」

八幡「うるせぇよ」



ちょっと素直にお礼を言ったらこれである。
……まぁ、日頃の行いがあれだからなんだろうけども。



小町「……今日くらいはね。私も見送りたかったんだよ」

八幡「小町……」

小町「なんだっけ? 門松はおめでたい、みたいな感じ」

八幡「……もしかして、門出を祝う、か?」

小町「そう、それ!」



いや全然似てねぇよ。お前ホントに高二?
よく総武高に受かったなと、今更ながら呆れてしまう。

本番に強いってのは、何とも小町らしいが。



八幡「そんじゃ、行ってくる」

小町「うん。行ってらっしゃい」



玄関の前で手を振る小町を背に、俺は歩き出す。


さて、気合い入れて行きますか。






452: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/12(土) 23:20:39.31 ID:P+l3VGEy0

× × ×






八幡「し、失礼しまーす……」



恐る恐る、中を覗き見る。

既に入り口は開いていたので、誰か人はいると思うんだが……



八幡「……変わってねぇな」



相変わらず受け付けらしい物も無く、広いとは言えないオフィス。
ちょこちょこ物の配置は変わっているが、基本的には俺がいた時と一緒だ。

しかし、人の気配は無い。さすがにちょっと早過ぎたか。



八幡「…………ちょっとその辺で時間潰してk…」

ちひろ「おはようございます♪」

八幡「おぁっ!?」



突然の背後からの挨拶に、思わず飛び退くほど驚く。
いや、今気配も音も無かったんだが……

振り返れば、そこには事務員の千川ちひろさんが笑顔で立っていた。

……この人も、まるで変わらない。



八幡「ち、ちひろさん。えっと……お、おはよう、ございます……」

ちひろ「ええ。今日は早いですね、比企谷くん」

八幡「そう言うちひろさんこそ」



453: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/12(土) 23:21:22.18 ID:P+l3VGEy0



俺がそう言うと、ちひろさんはやけに嬉しそうにする。



ちひろ「待っていたかったんですよ。……おかえりなさい、比企谷くん」

八幡「……別に、この間も面接の時会ったじゃないですか」

ちひろ「もう! こういう時くらいは素直に、ただいま、って言ったらどうなんです?」



ぷんぷんと、全く怒ったように見えない怒り方をするちひろさん。

……まぁ確かに、今の言い方は我ながら捻くれていた。ただ気恥ずかしいのは勘弁してほしい。



八幡「あー……」

ちひろ「……………」



待ってる。ちひろさんめっちゃ待ってる。

……仕方ねぇなぁ、ホント。



八幡「…………ただいまです。ちひろさん」



俺がそっぽを向きつつ、何とかそうひねり出すと、ちひろさんは満足げに微笑んだ。

こういう所も、相変わらずだな。



社長「おー比企谷くん! 来てたのかね!」



と、そこで奥の方から社長もやって来る。こっちはこっちで相変わらず黒い。



社長「今日からよろしく頼むよ。……よく戻ってきてくれた」

八幡「……はい。こちらこそ、本当にありがとうございます」



454: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/12(土) 23:22:08.92 ID:P+l3VGEy0



深く礼をして、感謝を告げる。
本当に、礼を言っても言い足りない。こんな俺を、また引き受けてくれたんだからな。

そしてなんかちひろさんが「私の時より素直……」みたいな非難めいた顔をしているが、スルーしておく。



社長「これからは、きっと前以上に大変な事が待っている。やれるかね」

八幡「ええ。承知の上です。……それに、やり残した事も沢山ありますから」



思えば以前の俺も、ここへ戻ってくるまでの俺も、支えられて、与えられたからやってこれた。
なら、少しずつでも、それを返していこう。

正社員として、ここから俺は再出発するんだ。



八幡「……飲みに行く約束も、忘れてませんしね」

社長「っ! ……それは、嬉しいことを言ってくれるね」



そう言って社長は快活に笑う。
飲める年齢まではもう少しかかるが、それでもその時は必ず付き合おう。これも約束だ。



ちひろ「え、なんですか飲みに行くって。それ、私も入ってます?」



私聞いてないとばかりにちひろさんがしゃしゃり出てくる。いや、あなたはちょっと……
この人も誘うと、なんだか他の酒豪アイドルたちも寄ってきそうでなぁ……それは勘弁してほしい。

社長は一つ咳払いをすると、仕切り直すように改めて話し始める。この人も流したな……



社長「それじゃあ、比企谷くんに今日一日の仕事を今ここで命じよう」

ちひろ「あれ、今私スルーされました?」

社長「それはズバリ……」



勿体ぶる社長に、俺も何となく身構える。

俺の、初仕事。



社長「手始めとして、今日一日アイドルとの交流をするんだ!」

八幡「……ん?」



455: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/12(土) 23:22:40.94 ID:P+l3VGEy0



アイドルとの、交流?



社長「もうしばらくすれば、アイドルたちもどんどんと事務所へやってくる。積もる話もあるだろう。よろしくやってくれたまえ」



社長はそう言うが、それはつまり、ほとんど自由にしていいってことだよな?
初日にいきなり、そんな事をしてて良いのだろうか……?

俺の不安が通じたのか、社長は不適に笑う。



社長「安心したまえ。明日からはビシバシ働いてもらう。期待してるよ、君」



そりゃまた、何とも安心できない言葉だ。
しかし社長がそう言うのであれば、謹んで受けよう。

俺の、初仕事。



ちひろ「……あの子も、すぐに来ますよ」



そう言って微笑むちひろさん。

……それじゃあ、情けない姿は見せられないな。



今日から、俺はプロデューサーなんだから。






456: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/12(土) 23:23:20.67 ID:P+l3VGEy0

× × ×






未央「ヒッキ~~! 待ってたよー!!」



会うや否や、ぐわーっと、しがみつきにかかって来る元気娘。
思わず相手がアイドルということも忘れてアイアンクロー。しかしそれでもなお向かってくる。くっ……こ、こいつ……!



八幡「こ、この、そんな寄るんじゃない……!」

未央「そんなこと言わずに~」

卯月「わ、私も……」



一緒にいた卯月まで手をもじもじさせているので、絶対に来るんじゃないと目で制す。そんな可愛くしょぼんとしたってダメ! つーか、お前は無駄に力強ぇな!

なんとかかんとか、ひっぺがす。



八幡「ったく、お前らも変わんねぇな」



その遠慮が無いとことか。



卯月「八幡くんも、お元気そうで何よりです」

八幡「お前らと会ったら体力が減ったけどな」

未央「またまた~目の保養になったからプラスの方が多いでしょ?」



457: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/12(土) 23:23:54.57 ID:P+l3VGEy0



それ自分で言う?

……まぁ、見た目が良いのは間違いないから何も言えん。っていうか、口が避けても言ってやらん。



八幡「まぁ、なんだ……」

卯月・未央「「?」」



そんなキョトンとしやがって……
言わなくもいいと思ったが、初日だからな。面倒な上に気が乗らないことこの上ないが、一応言っといてやる。



八幡「……改めて、これからよろしくな」



そう俺が気恥ずかしさMAXで言うと、二人は目を丸くし、お互いを見て、盛大に吹き出した。舐めてんのか。
こんだけの覚悟を持って言ってやってんのに、酷い奴らだよ。

けどま、



未央「うん! これからもよろしく!」

卯月「よろしくお願いしますね♪」



と、本当に良い笑顔を見れたんだから、チャラにしといてやろう。

……むしろ、プラスの方が多いくらいだよ。






458: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/12(土) 23:24:30.60 ID:P+l3VGEy0

× × ×






瑞樹「そうね。わかるわ」



どこか遠い所を見つめ、何とも哀愁漂うオーラの川島さん。



瑞樹「月日の流れっていうのは、本当に早いわよね。……残酷なくらい」

レナ「本当、その通りね」



なんで兵藤さんまで……と思ったが、そうか。そういう事か。

つまり、この人も……



早苗「年齢なんて、アイドルには関係ない、関係ないのよーー!!」



思った通り、荒れに荒れている。
何年ぶりにお会いしましたね~なんて、そんな話題を振ったのがいけなかったらしい。俺のせい?



八幡「そうか。三人とももう、さn…」

楓「ストップよ比企谷くん。それ以上はいけないわ」



無駄に切なげな顔で諭すように言う楓さん。

しかし止めるのが遅かったのか、早苗さんは素早く俺の首をホールド。というかロック。技の衰えを感じさせない。ってか絞まってるぅーー!



早苗「女性に、年齢の話を、するなって、言ったでしょうがー! おかえり比企谷くん!!」

八幡「だ、だから、言い出したのはそっち……!」



つーか、最後のは締めながら言うことじゃねぇ! ギブギブギブギブ!



楓「……これで、また飲みに行けますね。ふふっ」



何やら楓さんは嬉しそうに笑っているが、そんな事より助けてほしい。この人なんとかしてー!



瑞樹「若いって、良いわね……」

レナ「あれ止めなくてもいいの?」






459: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/12(土) 23:25:11.93 ID:P+l3VGEy0

× × ×






パシャリ、と。スマホから音が鳴る。



莉嘉「もっかいもっかい! 次はアタシのケータイね!」

美嘉「オッケー、それじゃ別の角度でー…」



イエーイとばかりに、もう一枚。

忙しなくスマホを弄りつつ、さっきからあっちへこっちへ色んな角度で写真を撮りまくっている。つーか、いちいちケータイ変えんでも後で送ればいいだろ。



八幡「なぁ、もういいか?」



いい加減うんざりしてきたので、鬱陶しさを隠そうともせずにそう言う。

しかし姉はともかく妹の方は未だ満足できていないようで…



莉嘉「えー! 好きなだけ撮ってやるって言ったじゃん。まだダメだよ!」

美嘉「だってさ」

八幡「さいですか……」



460: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/12(土) 23:25:42.67 ID:P+l3VGEy0



久々に会ったからと言って、何をそんなに撮る必要があるのか。八幡、誰かと写真を撮るなんて経験が無いので分かりません。……ここ、笑うとこだぞ。



莉嘉「……だって、八幡くんがまたいなくなっちゃったら、撮れないかもしれないじゃん」

八幡「……っ」



俯き、そんなことを言う莉嘉に思わず口を噤んでしまう。

……ったく、んなこと言うなよな。自惚れちまうぞ、俺。



八幡「……別に、今日じゃなくたって大丈夫だろ。そんな心配する必要ねぇ」

莉嘉「え?」

八幡「ここに来れば、いつでも俺なんて会える。見たくなくたって顔見ることになんだから、覚悟しとけ」



我ながら捻くれたもの言い。
だが、それでも莉嘉には充分だったようだ。



莉嘉「……えへへ。ダメだよ、今日もいっぱい撮るし、これからも嫌になるくらい撮るんだから!」

美嘉「……だってさ」

八幡「そうかよ」



正直それは本当にマジで勘弁してほしいが……まぁ、千葉のお兄ちゃんはみんなシスコンだからな。
たとえ妹っぽいってだけの女の子でも、その力を遺憾なく発揮してやろう。仕方なくな。

と、そこで不意に袖を引かれる。



461: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/12(土) 23:26:12.95 ID:P+l3VGEy0



美嘉「ねぇ、さっきの台詞……」

八幡「あん?」

美嘉「アタシも、信用していいんだよね?」



小悪魔的な笑みで、ジッと俺を見てくる美嘉。そ、その訊き方はちょっと卑怯じゃないですかね。
まぁ、俺の返す答えなんて決まりきってはいるんだが。



八幡「ああ、骨を埋める覚悟だよ」



あんだけ働きたくないと言っていた俺が、まさかこんな台詞を吐くことになろうとは。
昔の俺に聞かせてやりたいぜ。



美嘉「……そっか」



うんうんと、何そんなに満足しているのか頷いている美嘉。



莉嘉「ほらほら二人とも、次撮るよー?」

美嘉「オッケー! ほら、もっと笑って。……は、八幡」



言って、みるみる顔を赤くしていく美嘉。



美嘉「あ、つ、次はアタシが撮るから、二人で並びなよ、ほら!」

莉嘉「お姉ちゃん、照れるくらいなら言わなきゃいいのに」

八幡「本当にな……」



こっちまで恥ずかしくて、そっち見れねぇよ。畜生め。






462: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/12(土) 23:26:49.67 ID:P+l3VGEy0

× × ×







光「やっぱり、Wの世界観と繋がってるんじゃないかと思うんだよね」

八幡「まぁ、確かに見た目もそれっぽいし、財団Xあたりが絡んできそうな気もするな」

光「でしょ? ……あ~でもビルドも楽しみだけど、エグゼイド終わっちゃうのか~」

八幡「最初は正直ゲームと医者ってどうなんだと思ったが、予想に反した面白さだったな。正直俺の中では、平成二期だとかなり上位に入る」

光「アタシもだ。くぅ~……最後どうなんのかなぁ」

麗奈「……アンタたち、何の話してんの?」



呆れたように言う小関。いたのか。



光「あ、今度映画一緒に行こうよ! 麗奈も一緒に!」

麗奈「いや、アタシは別にそういうの興味ないし」

八幡「つーか、お前まだ見に行ってなかったんだな。意外だ」

光「ううん、行ったよ! 2回!」



まさかの3回目。好きだなホント……俺も特典目当てで何回か行くことはあるけどさ。主にアニメ映画。



光「じゃあ約束な!」

麗奈「いや、アタシ行くって言ってn…」

八幡「本当はあんま良くないんだがな。変装はしっかりな」

光「おう!」

麗奈「聞けぇ!」



諦めろ。こうなると光は折れない。


ヒーローは諦めないのが常だからな。






463: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/12(土) 23:27:28.86 ID:P+l3VGEy0

× × ×






李衣菜「だーかーらー、こっちの衣装の方が絶対ロックだってば!」

みく「別にロックである必要もないでしょー!? もっと可愛い方が絶対良いにゃ!」



ぎゃーぎゃーわーわーと、姦しく何やら言い争っている二人。

まぁ、意見をぶつけ合うのは良いことだ。少なくとも、ろくろを回すような手つきで延々と話し合いしてるよりかはな。……だが、もうちょい静かにやってほしい。



八幡「……いっつもこんな感じなんすか」

夏樹「まぁな。ユニット組んでからはよく目にする光景だよ」



苦笑しつつ、その様子を眺めている木村先輩。
特に仲裁したりもしない所を見るに、もう慣れたもんなんだろうな。



菜々「はいはい、コーヒーをお持ちしましたよ~」



と、そこへ安部さんの差し入れ。この人も相変わらず変わらんなぁ……今いくつなんだろうか。



夏樹「二人とも、コーヒー飲まないか」


みく「ネコミミはアイデンティティーなの! これは絶対なの!」

李衣菜「そんな取り外し出来るアイデンティティーなんていらないよ!」

みく「にゃっ!? と、とってつけたようなロックよりはマシでしょー!?」

李衣菜「なんだとー!?」


夏樹「……ダメだこりゃ」

菜々「あ、あはは」



まぁ、変わらないようで安心したよ。……したのか?






464: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/12(土) 23:28:12.67 ID:P+l3VGEy0

× × ×






廊下を歩いていた時に急に声をかけられたのは驚いたが、その顔を見てもっと驚いた。まさか、向こうから話しかけられるなんてな。



モバP「就職おめでとうございます、比企谷さん」

八幡「ありがとうございます」



そう祝ってくれたのは、十時愛梨のプロデューサーだ。

廊下に備え付けてあるベンチに座り、話を聞く。



モバP「今日からもう仕事に?」

八幡「ええ。……と言っても、社長の計らいで今日は見学みたいなもんですけど」



自分で言って苦笑する。本当、こんなダベっているだけで良いんだろうか。



八幡「十時、相変わらず色んな所で見ますよ。さすがですね」

モバP「そう言って貰えると、嬉しいです」



お世辞でもなんでもなく、これは本当に思っていること。

かつれ俺が参加した、『プロデューサー大作戦』という企画。そしてその優勝者、総選挙を行い見事一位となったシンデレラガール……


それが、十時愛梨だ。


十時自身もそうだが、その手伝いをしたこの人も、さすがと言うほかない。



モバP「……でも、凄いのはあなたもですよ」

八幡「え?」

モバP「あなたが担当していた彼女も、あなたがいなくなってからも、ずっと頑張っている。ずっと輝き続けている」



465: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/12(土) 23:28:40.70 ID:P+l3VGEy0



そう言う十時のプロデューサーは、笑っていた。



モバP「彼女が活躍するのを目にする度に、あなたに負けられないと僕はずっと思っていました」



その言葉に、素直に驚く。

まさか、この俺なんかのことをそんな風に思っていたとは。



モバP「これからよろしくお願いします」

八幡「ええ。こちらこそ」



同僚としてだけではなく、ライバルとして。

告げなくても分かる。お互いがお互い、負けたくないと思っている。
きっと、これも悪い関係じゃない。



愛梨「プロデューサーさーん、そろそろ出る時間ですよー?」



見ると、遠くの方で十時が手を振って呼んでいる。俺に気付くと、彼女はぺこっとお辞儀をした。



モバP「ああ! ……それじゃ、僕はもう行きます」

八幡「ええ」



この二人が、俺とあいつがいずれ超えなきゃならない相手。
そして、更にその先にも、超えるべき奴ら沢山いる。

一筋縄では、いかなそうだ。



愛梨「プロデューサーさん、なんだか今日は熱いですね~」

モバP「ちょっ、こら愛梨! こんなとこで脱ぐな!?」



……たぶん。






466: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/12(土) 23:29:20.05 ID:P+l3VGEy0

× × ×






鷺沢「比企谷さん……これを、どうぞ」



そう言って渡されたのは、何やらリボンの巻かれた包み。
形状と重さからして、恐らく中身は本だろうな。それもハードカバーの。くれたのが鷺沢さんなら尚更だ。



八幡「あの、これは……?」



本というのは分かるが、それを何故くれたのかが分からない。
困惑しつつ尋ねると、鷺沢さんは微笑みながら説明してくれる。



鷺沢「所謂……就職祝い、というものです。私のおすすめの本ですので、是非」



就職、祝い……?

一瞬、脳が理解しなかった。そうか、世の中にはそんなものが存在するのか。都市伝説だと思ってた。



美波「ごめんね、私は用意してなくて…」



一緒にいた新田さんが何やら申し訳なさそうにしているが、別に全く気にしていない。というか、わざわざ用意していた鷺沢さんに驚いたわ。



467: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/12(土) 23:29:49.73 ID:P+l3VGEy0



八幡「その、ありがとうございます。新田さんも、お気持ちだけで嬉しいです」



ここは素直にそう言っておく。デレプロきっての常識人二人だ。さすがの俺も皮肉の一つも言えやしない。



新田「ううん。今度、ごはんでもご馳走するよ。プロデューサーさんも一緒に♪」

八幡「それは、なんというか、できれば遠慮したいですね……」



あの金髪眼鏡の美人プロデューサー、苦手なんだよな……
まぁ、いつかお礼を言いたいとは思ってたけどさ。



鷺沢「読み終わったら、是非、感想を聞かせてくださいね……」

八幡「ええ。……そういう約束でしたからね」

鷺沢「っ! ……はい」



笑顔で頷く鷺沢さん。
この人がおすすめする本だ。きっと、面白いんだろうな。

また、楽しみが一つ増えた。






468: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/12(土) 23:30:26.45 ID:P+l3VGEy0

× × ×






まゆ「どうやら、リボンがまた結ばれたようですね」






驚いた。そりゃもう驚いた。

不意に、なんてもんじゃない。音も気配もなく、どこからともなく現れた。



八幡「…………頼むから、もうちょい普通に話しかけてくれ」



一息つこうとしていた所だったから、余計に驚いた。こいつも相変わらずどこか人間離れしてんな。



八幡「ところで、お前が今持ってるそれはなんだ?」

まゆ「これですか? これは今営業に出てるプロデューサーさんに付いてる発信器を探知する端末で…」

八幡「もういい分かった。もう充分だ」



あれ、おかしいな? 前に会った時はコイツ恋愛アンチじゃなかったっけ?
恋は盲目、とは言うが、ここまで人が変わるとちょっと怖い。

あまり踏み込みたくはない話題なので、話を変えよう。



469: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/12(土) 23:30:52.33 ID:P+l3VGEy0



八幡「……それで、最初なんて言ったんだ?」

まゆ「リボンですよぉ。……今度は、解けないようにもっと固結びをしてくださいね」

八幡「あー……」



そういや、そんな話をしたこともあったな。よく覚えてる奴だ。



八幡「分かんねぇぞ。どれだけ解けないくらい固く結んでも、切れちまえば終わりだ」



もちろん、そんなつもりはない。
けど、なんとなく照れくさいので、いつものように捻くれたもの言いをしてしまった。

だが、それでも彼女は不適に笑う。



まゆ「ふふふ……なんだ。知らないんですか?」

八幡「あん?」



小指を立てて、まるで恋する乙女のように、歌うように彼女は言う。



まゆ「リボンがある限り、何度だって結び直せるんですよ?」






470: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/12(土) 23:31:40.50 ID:P+l3VGEy0

× × ×







蘭子「フゥーーーハッハッハァーー!!!」

八幡「絶好調だなお前……」



会うや否や、キレッキレの動きでポーズを決める蘭子。

しかし、その距離は何故だか遠い。



八幡「なぁ、なんでそんな離れて……」

蘭子「ちょっ、少々待て眷属よ! それ以上は、その、とにかく寄るなっ!」

八幡「…………」



ズザザーっと、すかさずポーズを取りながら後ずさる蘭子。
え、なに、どゆこと?



八幡「……そんなに俺と近寄りたくないか」

蘭子「えっ!? あ、いや、そういう意味じゃ、なくて…」

八幡「じゃあどうしたってんだ」



何か納得のいく理由を教えてくれないと、俺体臭キツいのかな? とか、もしかして近いだけで不快なの? とか、普通に傷ついて今夜枕を濡らすことになる。久々だな……昔はよくあった。あったのかよ。



蘭子「え、えっと、その…」

八幡「…………」

蘭子「いざ久しぶりに会うと……何を話せばいいのか、分からなくて……」



恥ずかしそうに、震える声でそう言う蘭子。
よくよく見てみれば、その大仰なポーズは顔を隠すようにしているだけにも見える。耳赤いし。

どうやら、絶好調に見えたのは俺の勘違いだったらしい。


だから、俺はこう言ってやったのさ。



471: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/12(土) 23:33:31.19 ID:P+l3VGEy0



八幡「アホかお前」

蘭子「えぇっ!?」



ガーン! と、ショックを受けたように思わずポーズを解除する蘭子。やっと顔が見れたが、ちょっと涙目になっている。



八幡「そんなの、俺だってそうだっつの」

蘭子「え……?」

八幡「会わせる顔が無いってのに、こうして色んな奴に会って回ってんだ。ちったー見習えよ」



なんとも情けないその台詞。だが、そう言いたくもなる。

これでも、結構な勇気をもって歩き回ってるんだぜ?



蘭子「……ふふ」

八幡「なに笑ってんだ」

蘭子「だって、変わってないから」



安堵するかのように笑う蘭子。

変わってないのはお前も一緒だよ。どいつもこいつもな。



八幡「つーか、お前はもう少し大人っぽくならんのか。もう高校生だろ?」

蘭子「なっ、わ、我とて、以前よりも更に魔力が増大し、深淵なる闇の業火を…」

八幡「あー分かった分かった」



こいつは、当分中二病を卒業する気は無さそうだな。

つーか、卒業したらただの可愛いアイドルになっちまうんだが。



八幡「……そろそろメシの時間だが、なんか食いに行くか? 二代目シンデレラガール」

蘭子「っ! うん!」



そんな雑な誘いでも、蘭子は嬉しそうに頷いてみせる。思わず熊本弁を忘れるくらい。
……どうやら、相当頑張ったみたいなだから。少しくらい褒めてやっても、あいつも怒らないだろ。


しかしこうして女の子をメシに誘えるくらいには成長したんだから、誰か一人くらいは変わったね~とか言ってほしいぜ、本当。






472: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/12(土) 23:33:59.33 ID:P+l3VGEy0

× × ×






思わず、身体が固まった。

食後にコーヒーでも飲もうと、自販機まで来たのはいいのだが……




常務「…………」

八幡「お、お久しぶりです」



まさかの、あの強面常務のお出ましだ。
いや、この人は元々いたから、お出まししたのは俺なんだが……



常務「……挨拶に来ないと思えば、まさか昼休みに出くわすとはな。比企谷」



いちいちトゲのある言い方をする人だ。いや、確かに上司に真っ先に挨拶しなきゃならんのはその通りなんだが……
とりあえず、大人しく謝罪しておこう。



八幡「す、すいません。常務」

常務「違うな」

八幡「へ?」



違う、とはどういう意味だろう。そう思っていると、常務は仏頂面のまま、表情も変えずに言ってのける。



専務「今は専務だ」



473: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/12(土) 23:34:33.78 ID:P+l3VGEy0



まさかの昇格だったー!
ま、まさか俺のいない間に、専務になっているとは……いや、無い話じゃないんだろうが、さすがに予想外だ。



八幡「……すいません、専務」

専務「以後気をつけろ」



そう言ってブラックコーヒーを飲む専務。

しかし相変わらず寡黙ではあるが、なんだか以前よりも印象が柔らかくなった気がするな。本当に気持ち、ってレベルだが。もしかしたら、あいつの影響か?

そんな風に思っていると、その噂のあいつがやってきた。なんだかデジャヴを感じる。



ライラ「おや、八幡殿。お久しぶりございますー」



何とも言えない間延びした話し方。こいつはこいつで変わらんな。



八幡「おう。……その分じゃ、アイドルは順調そうだな」



あれから、ちょこちょことライラの姿を目にすることも増えてきた。今じゃ、結構な知名度を誇るんじゃないか? 無事にアイドルを続けられているようで、俺としても何よりだ。






474: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/12(土) 23:34:59.25 ID:P+l3VGEy0



ライラ「はい。これも、プロデューサー殿のおかげでございますですねー」

八幡「ほう」

専務「…………」

八幡「……企画が終わっても、まだ担当プロデューサーなんですね」

専務「……それが何か?」



ギロッと、いつも以上の眼光で睨まれた。怖い……

けど確か、あの時は企画の一般プロデューサーが足りないから、臨時的にライラの担当になったんだったよな。それが、今もこうしてプロデューサーとしてやってるんだ。



専務「……何を笑ってるんだ」

八幡「いえ、なんでもないっす」



そりゃ、頬を緩むだろ。

しかしそんな俺の態度が面白くないのか、専務はコーヒーを飲み終わるとさっさと行ってしまう。
去り際、こんな言葉を残して。



専務「もうヘマはするなよ。……人手が足りなくなるのは、私も困る」

ライラ「また、一緒にアイス食べるでございますよー」



専務を追うように、ライラも手を振りながら去っていく。

……期待に応えられるよう、頑張りますよ。


自分に出来ないことをやれって、あなたに頼まれましたしね。






475: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/12(土) 23:35:42.88 ID:P+l3VGEy0

× × ×






奈緒「な、な、なんでアタシには教えてくれなかったんだよぉーーー!!!」



つんざくような非難めいた叫び。というか非難。

あまりの声の大きさに、俺も加蓮も耳を塞ぐ。



加蓮「あれ、言ってなかったっけ? おっかしいなー」

八幡「ちひろさんに聞いてたんじゃないのか?」

奈緒「き、聞いてないぞ!?」

加蓮「んー何人かに直接教えてたみたいだったけど…………あ、そっか。そういえばあの日奈緒いなかったから、アタシが伝えておくって言ったんだった」

奈緒「かれぇーーーーんっ!!」



アハハーごめんごめん、と頭をかきながら笑う加蓮。全然悪びれる様子ねぇなオイ。



奈緒「ったく、普通にお前がスーツ着て事務所にいるもんだから、こっちはめちゃくちゃビックリしたんだからな」

八幡「いや、俺に言われても…」



伝え損なったちひろさんと加蓮に言ってくれ。

そしてそこで奈緒は一旦静かになったかと思うと、こっちをジッと見て、睨むようにする。一体どうした。



奈緒「……………んん、……あー……」



チラチラと、俺の方を見て、俯いての繰り返し。
そして意を決したかのようにもう一度睨み、やっとこさ口を開いた。



奈緒「……………………おかえり」

八幡「おう」

奈緒「だぁー! なんでアタシがこんな恥ずかしい思いをしなくちゃならないんだよ!」

八幡「だから、俺に言われても…」



見事な逆ギレである。そんなに恥ずかしいなら言わなきゃ良いのによ。
それでも言わないと気が済まないってんだから、生きにくい性格だな。



476: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/12(土) 23:36:13.23 ID:P+l3VGEy0



加蓮「それじゃあ、アタシからも」



と、便乗するように加蓮もこっちに向き直り、満面の笑顔で告げる。



加蓮「おかえり、八幡さん」

八幡「お、おう」



こいつはさすがだな……言われたこっちが恥ずかしくなる。

そんな様子を奈緒が「そのメンタルが羨ましい……」とジト目で見ている。気持ちは分かる。



加蓮「……でもホント、戻って来てくれて良かったよ」



さっきまでのイタズラっぽい笑みとは違い、安堵したかのような顔になる加蓮。



加蓮「あなたが育てたアイドルなんだから、最後まで面倒みてよね?」



期待するかのような、その眼差し。
直視するのもこっぱずかしく、目を逸らす。つーか、育てたつもりも特に無いんだが……



奈緒「まぁ、確かに中途半端に逃げるのは良くないよな」



習うように、奈緒も勝ち気な笑みを浮かべて言う。



奈緒「責任はちゃんと取れよ、比企谷」



……本当、遠慮の無い友達だよ。

こんなんだから、俺もほだされるんだ。
だから、仕方なく返事をしてやる。



八幡「……へいへい」



なんともやる気の無さそうな、照れ隠し満載の返事。
けど、これが俺の精一杯だ。


それでも奈緒も加蓮も、満足そうにしてるんだから、許してくれ。






477: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/12(土) 23:36:40.51 ID:P+l3VGEy0

× × ×






休憩スペースでちょっと一休み……と言っても、元々今日は仕事らしい仕事はしてないんだが。

自販機でMAXコーヒーを買い、ソファに座ってゆっくりする。なんだが、こうしているのも懐かしい。
そういや今は炬燵は無いんだな。あれも季節感ゼロだったし大分謎だったが。



杏「うー……疲れたー」



そこにやって来るは、仕事終わりなのかやたらとぐったりした杏。
まぁ、こいつの場合レッスンとか何やってもその後ぐったりしてたけど。



八幡「お疲れさん」

杏「お疲れー。もう、杏はダメだよ……ぐはっ…」



わざとらしいうめき声を上げ、反対のソファへと倒れ込む。



八幡「なんか飲むか」

杏「甘いものを……」

八幡「あいよ」



確か炭酸は平気だったはず、と。テキトーにコーラを買って、渡してやる。



杏「サンキュー」



478: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/12(土) 23:37:21.12 ID:P+l3VGEy0



起き上がり、ごくごくと良い音を立てて飲む杏。
その後ふぃ~と何ともオッサンみたいな仕草で口元を拭う。そして、目が合い一言。



杏「え、なんでいんの」



今更かい。



きらり「杏ちゃん? ここにいたの……って、あー! はっちゃーん!」



そこへ諸星登場。駆け寄り、手を握ってぶんぶんと振ってくる。いや、ちょっ、そんなに軽々しく手を握るとか青少年の心を玩ばないで!



きらり「今日からだったもんね! やっと会えたにぃ~」

八幡「お、おう。お疲れさん」



俺がたじろいでいると、杏が納得したように頷いていた。



杏「あーそう言えば正社員として入るって言ってたもんね。今日からだったんだ」



何ともあっけらかんとしたその言い方。だが、その気持ちは俺も少し分かる。



杏「……たまにオンラインで会うし、ソシャゲでログインしてるの確認できるから、あんまり久しぶりな感じしないなぁ」

八幡「俺が心に留めたことをあっさり言うんじゃない」



まぁ、そこがお前の良い所だけどよ。






479: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/12(土) 23:37:53.12 ID:P+l3VGEy0

× × ×






八幡「……やっぱ、懐かしいな」



丁度人が少ないのを見計らって、事務スペースへとやってくる。
目の前にあるのは、かつて俺が使っていたデスク。

正式にここの社員になったとは言え、またここを使っていいかは分からないからな。今はこうして眺めているだけ。

何も物が無いのを見る限り、特に誰も使ってはいないようだ。……その割には、何故か奇麗にしてあるが。



八幡「ちょっとくらいなら……」



ちひろさんや社長なら構わないと言いそうなもんだが、念のため周りに人がいないことを確認し、座ってみようと椅子を引く。



輝子「フヒヒ……」



キノコの精が、そこにいた。



八幡「…………」

輝子「だ、黙って椅子を戻さないで……」

八幡「冗談だ」



改めて椅子を引いて、そこへ座る。
……こうしてると、本当に懐かしいな。

正直に言えば、輝子ならここにいるんじゃないと思ってやって来た。



480: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/12(土) 23:38:24.19 ID:P+l3VGEy0



八幡「どうだ、元気にやってるか?」

輝子「フフ……ちひろさんに許可を貰って、ここを正式にキノコの栽培場所として使わせて貰ってる。……見よ、この新たなフレンドを」

八幡「聞きたいのはそういうことじゃないんだが」



まぁ、たまにLINEとかで連絡は取ったりするから、上手くやってることは知ってるけどよ。



八幡「あんまり俺が戻ってきても驚かないんだな」

輝子「フヒヒ……まぁ、ね」



俺の質問に、いつもとなんら変わりなく、さも当然のように、輝子は言う。



輝子「八幡のことだから……帰ってくると、思ってた」

八幡「そんなん分かるのか」

輝子「分かる。……親友、だからな」



そうして、また笑う。

……そうか。



八幡「……親友なら、分かっても仕方ないな」



481: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/12(土) 23:38:50.98 ID:P+l3VGEy0



そんなことを言われてしまえば、俺も納得するしかない。
やれやれ。何かもお見通しだぜ。


俺がそう言って笑うと、輝子も嬉しそうに微笑んだ。



輝子「……あ、そろそろ、来るな」



不意に、輝子がケータイを見ながらそう呟く。



八幡「来る?」

輝子「八幡。外に、行くんだ……」



真剣な目でそう告げる輝子。

まさか、来るってのは……



八幡「……ああ。分かった」



椅子から立ち上がり、すぐに出口へと向かう。
チラッと背後を見てみれば、机の下から掲げるように腕を突き出す輝子の姿。

その手は、健闘を祈るように親指を立てていた。
ターミネーターかよ、お前は。



……けど、サンキューな。






482: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/12(土) 23:39:38.03 ID:P+l3VGEy0

× × ×






事務所の外へ出てみれば、気持ちの言い風が吹いていた。


朝出た時は早過ぎて気付かなかったが、今日はどうやら快晴みたいだな。気温も丁度良いし、仕事初日としては最高と言える。

まぁ、もう既に半日以上は終わってしまったんだが。



事務所の前に立ち、ぼーっと空を眺めながら待つ。

輝子はそろそろ来るとか言ってたが、辺りに人影は無いし、特に誰か来る様子も無い。
っていうか今更だが、来るのってのはあいつのことで良いんだよな? 宅配便とかじゃないよね?



八幡「…………」



……しかし、こうして事務所の前に立っていると思い出すな。

あれは最初の最初、初めてここへやって来た時。
今もしてるこのネクタイを見てニヤついてる時に、あいつに見られたんだっけ。あん時は、まさかその女の子が俺の担当アイドルになるなんて思いもしなかったな。

思わず、笑みが零れる。

本当に、懐かしいーー






483: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/12(土) 23:40:16.87 ID:P+l3VGEy0








「なに、ニヤニヤしてるの?」









よく通る、済んだその声。



不意を突かれてかなり驚いたが、それでも、動揺はない。

今日は、いつ会えるのかとずっと考えてたからな。


振り向けば、そこには思った通りの人物。


容姿は特に変わらない……と思ったが、ちょっと大人っぽくなったか?
もしかしたら、少し背が伸びたのかもしれない。元々高い方なのにな。


……相変わらず、まっすぐな目をしてやがる。



凛「もしかして、アイドルのプロデューサーになれるのが嬉しかったの?」



イタズラっぽく笑って言うその台詞は、いつかの真似事か。
なら、俺も返す答えは決まってる。



八幡「ちげぇよ。……このネクタイ、妹に選んで貰ったんだ」

凛「知ってる」



そうして、俺たちは笑い出した。

……ああ、本当に、俺は戻ってきたんだな。



484: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/12(土) 23:41:16.79 ID:P+l3VGEy0



八幡「昼過ぎから出社とは、随分と社長出勤だな。うちの社長なんて6時前にはいたぞ」

凛「午前は直行で収録があったんだよ。っていうか、それはうちの社長が特殊なんでしょ?」

八幡「どうしても俺より早く会社にいたかったらしい」

凛「社長らしいね」

八幡「あと、ちひろさんもな」



久しぶりに会ったってのに、話すことはこんなことばかり。



凛「あ、そう言えば春香がまた会いたいって言ってたよ? みんなでお茶でもしようって」

八幡「……そういや、LINEでそんなことも言ってたな。っていうか”春香”?」

凛「それもだよ、そもそもなんでLINEのIDを交換してるんだか」

八幡「ま、まぁ、おいおい説明してやるよ」

凛「どうだか」



笑って、他愛のない話をする。



凛「あのフラワーバスケット、どこで買ったの?」

八幡「どこって、普通に近所の花屋だが」

凛「ふーん。……うちじゃなくて、他所の花屋で買ったんだ?」

八幡「いや、さすがにお前んとこは無理だろ……ちょっと考えたけど」

凛「考えたんだ……」



もっと、話さなきゃならないことがあったと思ったのに。



凛「そのスーツ、久しぶりに見たよ」

八幡「社会人は最低二着はあった方が良いって聞いたから、もう一着買ったけどな」

凛「でも、今日はそっちを着てきたんだ」

八幡「……まぁ、な」

凛「……そのネクタイピンも」

八幡「…………まぁ、な」



話したいだけ話して、いつの間にやら、もう事務所の前で随分と話し込んでいた。



485: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/12(土) 23:41:58.00 ID:P+l3VGEy0



凛「…………ねぇ」



向かいに立っていた凛は俺の近くまで歩いてくると、隣に立ち、ふと事務所を見上げた。

俺も、それに習う。



凛「もう、いなくなったりしないんだよね」



こっちを見ずに、そう問いかけてくる凛。



八幡「なんだ、俺がいなくてもトップアイドルを目指すんじゃなかったのか?」

凛「もう、またそうやってひねた言い方をする…」



拗ねたようなその物言い。

自分でも悪いと思うが、これが俺なんでね。諦めてくれ。



凛「これはただの確認だよ」



そう言って、凛は強気に笑ってみせる。



凛「私は私がなりたいから、トップアイドルを目指す。一人でも、走り続ける覚悟はある。……けど」

八幡「…………」

凛「……あなたが隣にいてくれれば、きっともっともっと、遠くまで行けると思うんだ」



そう言う凛の瞳は、キラキラと輝いている。

まだ見ぬ景色を見通すように、輝きの向こう側を、見定めるように。



486: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/12(土) 23:43:00.97 ID:P+l3VGEy0






凛「私の、隣にいてくれる?」






俺を見て、凛は再び尋ねてきた。






八幡「……そんな今更な質問、すんなよな」





だから、俺は決まりきった、ずっと思い続けていた答えを返す。






八幡「当たり前だろ。……俺が、隣にいたいと思ってるからな」





約束のために。

凛のために。

そして何より、俺のために。



俺は、ここへ戻ってきたんだ。



そんな俺の答えに、凛は「そっか」と言って、満足したよう微笑んだ。



凛「……本当に、先に迎えに来て貰っちゃったな」

八幡「あ?」

凛「なんでもないよ」



487: ◆iX3BLKpVR6 2017/08/12(土) 23:44:49.92 ID:P+l3VGEy0



上手く聞き取れず聞き返すが、凛は笑って流すのみ。

いや、なんかすげぇ気になるんですけど……



凛「それより、そろそろ事務所入ろうか。ちひろさんとか探してるかもよ」

八幡「あ、おい!」



俺を放って、さっさと行こうとする凛。

……本当、決めたらどこまでも行こうとする奴だ。



一度は辞めて、それでもこの場所に焦がれ、俺はまた戻ってきた。

隣にいたいと、凛を、トップアイドルにしたいと、またやってきたんだ。


どうやら人生ってのは、簡単には終わらないらしい。



好きになった女の子はアイドルで。

だからこそ辞めたプロデューサーに、俺は、再びなった。



……本当に、おかしな話だよな。

もしも自伝を書くんなら、最後の〆はこうしようと思う。



いつかの再提出の、更にやり直し。









凛「ほら、早く。プロデューサー!」



八幡「……ああ」









やはり俺の青春ラブコメは、まちがっている。