2: ◆kiHkJAZmtqg7 2017/09/03(日) 19:34:21.22 ID:6LMiOYr90
 大切なものが手の中から滑り落ちるのを、止まったような時間の中で呆然と眺めていた。

「モカなんて知らない。先、帰るからっ」

 屋上でモカと話してて、モカの他愛のない冗談があたしの心のへんなところをくすぐってくるものだから、恥ずかしくなって。逃げるように後ろ手で屋上のドアを開いて、モカを軽く睨んだまま出ていこうとしていた。

「ちょ、あぶない、蘭っ!」

「え、ぁ…………?」

 前方不注意……正しく言えば後方不注意だけど。階段の位置を見誤って、盛大にバランスを崩す。オレンジ色の空が、やけにはっきりと視界に映る。ぐるりと世界が回り始めて、やばいと今更のように認識したときにはもうどうしようもない。

 咄嗟にぎゅっと目を瞑った直後、手を掴まれる感覚があった。

 楽器をやっている人間特有のところどころが硬い、だけど柔らかな手。華奢なくせにぐい、とあたしの身体を引っ張ってくる。

「う、蘭、重い……っと、うわっ…………」

「ちょっと、重いとか……!」

 今度は世界が横に回る。聞き捨てならない言葉に目を見開くと、そこにはあたしと入れ替わるみたいに階段を背にしてバランスを崩したモカがいて。

 一秒前まではあたしがいた場所で、あたしが辿るはずだった動作を再現するモカを、スローモーションみたいに眺めることしかできない。今度はこっちから伸ばそうとした手は、致命的なまでに手遅れだ。

 とすん、と。あたしが無様にしりもちをついたのとほぼ同じくらいのタイミングで、その何十倍も暴力的で形容しがたい鈍い音が鳴る。

「モカ……? ねぇ、モカっ!!」

 弾かれるみたいに飛び起きて、階段を駆け下りる。その先には、モカが、倒れていて。右腕をかばうようにして、苦しげに呻いていて。身体にうまく力が入らなくなった。

「モカ!? ねぇ、大丈夫なの、モカっ!」

「みんな、呼ん、痛っ…………Afterglowのみんなに、れんらくっ……!」

「っ、わかった……!」

 どこも怪我なんてしてないのに壁に寄りかからないと座り込んでしまいそうで、吸った息を吐き出すリズムすら不規則だ。言われるままに普段は不精しているSNSを開いて、Afterglowのグループに震える指で助けを求める。

 何度も何度も打ち間違いながら、まともな文章にもならない単語をいくつも送信する。ちゃんと伝わってくれるだろうか……震えが止まらなかった。あたし一人でどうにかできればよかったけど、わけのわからない感情で頭の中はとっくにぐちゃぐちゃで、そんなこと、できる気がしなかった。

「モカ、みんなは呼んだ。痛む? あたし、どうすれば……」

「大丈夫ー……じゃ、ないけど、どうにか我慢はできそう。っ、みんなが来るまで、一緒にいてくれると、モカちゃんは嬉しいなー」

 時折苦しげに顔をしかめて言葉が止まって、途切れ途切れのモカの言葉。それを強いてくる今を招いたのは、あたしの不注意だって今更のように気づいた。身体はガタガタうるさいくらいに震えて、それでも胸の奥以外に痛みを訴える場所がないのが恨めしかった。

「ごめん、モカ。あたし…………」

 二人してロクな知識もない中で、どうにかモカが少しでも楽な姿勢にしてあげられたところで、ようやく謝る。でも、モカは不機嫌そうな顔でゆるく首を横に振った。そんな謝罪なんて欲しくない、って言わんばかりだ。

「…………」

「…………」

 なんて声をかけていいのかわからない、気まずい無言。モカと二人でいる時間から早く解放されたいと思ったのは、たぶん初めてのことだった。

「おい蘭、大丈夫か!? 何があったんだよあのメッセージ、言葉が足りてない……って、モカ!?」

「ケ、ケガしたの? えーっと、こういう時は……そう、救急車! 呼ぶね!」

「えっと、それじゃあ私は……」

「アタシと蘭でモカを運ぶから、つぐみは先に保健室に行って先生がいたら事情を話してくれ。ひまりは電話終わったら合流頼む!」

 みんなが揃って、そうしたらすぐに何をすべきかはっきりして、呆然とした。……ううん、ほっとした、って言うべきなのかもしれない。ひどく、無責任だけど。

「ね? みんなを呼ぶのが一番だったでしょー?」

「モカ、あんまり喋んないで。……よい、しょっと……」

「えー、ひどーい」

 だって、無理して喋ってるのがわかるから。そういう姿を見るだけで、無力感に襲われて仕方がない。あたしがもうちょっとしっかりしていれば、モカだってこんな状態で軽口を言ったりしないと思うのだ。

 つまり、要するに。こういう時に何もできないあたしが、あたしは大嫌いなんだと思う。

引用元: 美竹蘭「陽が落ちて」青葉モカ「夜が明けたら、また」 



3: ◆kiHkJAZmtqg7 2017/09/03(日) 19:35:52.06 ID:6LMiOYr90



 人生で初めての救急車体験は、あんまり余裕がなかったからよく覚えていない。病院まで運ばれて、そこそこ長い診察を受けて、右腕が骨折していると伝えられた。痛みも酷かったし、そうだろうなーと思いながらぼんやりと説明を受けていた。

 一通りのあれそれが終わった時にはもう夜の遅い時間。それなのに面会オーケーになった瞬間、Afterglowのみんなは病室になだれ込んできた。ちょっと心配性すぎだと思う。

「あれ、みんなこんな時間まで待ってたのー?」

「……あのケガだし、気になって」

 ぶっきらぼうな蘭の言葉が、でも一番に返ってきた。顔色は悪いなんてものじゃなくて、ほんと、心配かけてるなぁって思う以上にこっちが心配になる。それでもこうしてのんきなことを言っていれば、少しくらいは楽になってくれるかな。

 一拍遅れでみんなの視線があたしの右腕に集まっていくのを感じる。大仰に固定されたギプスを見て、ニュアンスは違えど表情を曇らせたのは誰も一緒だった。

「どーしたの、みんな。そんなにじーっと見て」

「茶化すようなことじゃないだろ。……その腕じゃギターも無理だろうし、バンドの活動の話もしないとな、って話してたんだ」

「……その、ね。ちょうどこの間、次のガルジャムにも出ないかって声がかかったの」

 絶対に避けては通れない、二か月後のガルジャムの話。骨折を告げられたその時から答えは決めてあった。だけど、もうちょっとだけ。返答の先にあるやり取りが目に浮かぶからこそ、もうちょっととぼけていたかった。

「おー、やったね。やっぱり前回のガルジャムで評判よかったのがプラスだったのかなぁ」

「かもね。……あの時は、いい演奏ができたと思う」

「そうだねっ。蘭ちゃんが作った新曲も、すっごくいい曲だったし!」

「……でも、その…………今回は、どうしよう……?」

 ひーちゃんは本当に、空気が読めないというか、逆に空気を読んでるというか。何の解決にもならないって分かってて、それでも先延ばしにしていたかった話をこうやってすぐ蒸し返してしまう。

 でも、そろそろあたしも覚悟を決めて話そうと思う。お医者さんからの長々とした説明を聞き流しながら考えてたこと、ぜんぶ。


4: ◆kiHkJAZmtqg7 2017/09/03(日) 19:37:29.06 ID:6LMiOYr90
「それなら、あたし抜きで出て」

「…………!!」

 さらりと、できるだけなんでもないみたいに言ったつもり。それでも明確にみんなの空気が変わるのを感じた。何を考えてるのかすぐに分かって、こういう以心伝心はちょっと嫌だなぁなんて思う。

「っ……モカ。何、言ってるの」

「そ、そうだよ! Afterglowはどんな時もずーっと5人でやってきたんだよ? 誰かが欠けるのなんて……」

 寂しがり屋な二人は真っ先に反対の声を上げた。モカちゃん離れできない二人のことはやっぱり好きなんだけど、今に限ってはうれしくない。

「アタシはモカの言うこともわかるよ。同じ状況になったらたぶん、同じことを言ったと思う。……それに、やっぱり大きなチャンスなのもわかってるからさ」

「でも、いつも通りの演奏ができないなら意味なんてない。そうでしょ」

「ちょ、ちょっとみんな。顔、怖いよ……?」

 小動物みたいな顔でみんなを見回すつぐ。険悪なムードを作った原因の問いかけを彼女にも押し付けなきゃいけないのは……正直、気が進まない。

 選べないって顔してるのは重々承知だ。それでもつぐの言葉を求めなきゃ、多分この場は収まらない。つぐを置いてヒートアップするだけで……それは覚えのある光景だった。あの時は水に流せたけど、今は状況がぜんぜん違うのだ。

「つぐはどうしたい? 蘭とひーちゃんか、あたしとトモちんか。どっちに味方する?」

「え……えっと、私、私は……」

「おいモカ、そんな言い方しなくたっていいだろ。何も今すぐ決めなきゃいけないってわけでもないんだし」

「…………ねぇ、モカちゃん」

「……なーに、つぐ」

 張り詰めた表情、だけど緊張に飲まれているわけじゃない。そういう真剣な顔をしたつぐは、見違えるくらいの強さを持ってることをみんなが知ってた。だから、そういう時のつぐの選択はきっとあたしたちにとって正しいものだと、少なくともあたしは信じている。

「骨折って、確か一か月くらいで大体治るんだよね。モカちゃんの場合は、どうだって言ってた?」

「うん、だいたいそんな感じー。ギプスが取れて本格的なリハビリまで一か月とちょっと。……だから、多分ガルジャムには間に合わないよ?」

「そんなこと、ないっ! 譜面アレンジして、モカちゃんのパートをできるだけ簡単にすれば、きっとできるよ!」

「だって、“五人”で“やりたい”! 誰かが欠けるのも、だから全部やめにしちゃうのもおかしいって、私は思う!」

「…………」

「……あ、その、ごめん。やっぱり、こういうワガママじゃダメ、だよね」

 しゅん、といつものつぐが戻ってくる。みんなが黙ってるのは、そういう意味じゃないと思うけど。……少なくとも、あたしは違う。いざって時の逃げ場はなくなっちゃうけど、間に合わせれば問題なんてどこにもない。

「つぐー、ナイスアイデアー。つまり、天才ギタリストのモカちゃんが頑張ればいい、ってことでしょー? それなら、みんなも文句ないよねー」

「……ああ。モカがやれるっていうなら、アタシが反対する理由はないよ」

「ほらほらひーちゃん、寝返るおつもりはないかなー?」

「うぐっ……確かに、五人でできるならそっちの方がいいけど……」

 ほら、簡単にみんな賛成しちゃう。つぐが見つけた一番星は、いつだってきらきら眩しいから。蘭も……きっとそうだよね。

「らーん。あたしのパートの分、蘭は大変になっちゃうかもしれないけど、結構いい案だと思わない?」

「……そうだね。モカこそ、リハビリに手を抜いてる時間なんてないから、早く治してよ」

「ってことで、決まりー。ほらつぐ、ぼーっとしてないで」

「え、でも……いいの?」

 最後まで自信なさげなつぐにみんなして笑って、それでこれからの方針は定まった。理想ばっかり追いかけて、だけどあたしたちにはきっとそれくらいがちょうどいい。

 夕暮れはもう通り過ぎたけど、だからといって深刻な顔をし続ける理由もきっとないのだ。

5: ◆kiHkJAZmtqg7 2017/09/03(日) 19:38:35.61 ID:6LMiOYr90



「いらっしゃいませー……って、モカ。いらっしゃい」

「いらっしゃいましたー。パンは焼けてるー?」

 いついかなる時でも、何があろうとあたしにとってパンは欠かせない存在だ。やまぶきベーカリーには今日も今日とてお世話になっている。と、言っても今日の目的は買い食いじゃないんだけど。

「焼けてる焼けてる。あー、手伝うよ。常連客のよしみってことで」

「ありがと、さーや。いやー、看板娘を独占なんて、モカちゃんも役得ですなぁ」

 片腕が使えないとトレーを持ってパンをトングで取る、という動作をするには腕の数が足りない。はじめは大道芸みたいにバランスを取ってやってたけど、最近はさーやが手伝ってくれている。曰く、見てるこっちがハラハラする、だそうだ。

 めぼしいパンをひょいひょいとトレーに乗せていく。いつもより欲張りなペースにさーやが反応した。

「あ、もしかして差し入れ用? 流石に一人でこの量は食べないよね」

「んー、食べられないことはないと思うけど……あたりー。みんなは今練習中だからさ」

 みんなが練習しているさなかでも、あたしにできることはこれくらいだった。もちろん、練習を見ていてもいいんだけど、それだってやっぱりただ見ているだけになる。そんな、大層なコーチングとかができるほどの腕じゃないから。

「そっか。そのこと、気にしてる?」

「……わかっちゃう? みんなにバレるとちょっと困るんだけど」

「わかりやすいってほどじゃないけどね。……今日、結構焼きたてのパン外してるよ?」

「うぇ。パン屋の娘は怖いなー」

 一度、さーやにどうしてピンポイントで焼きたてのパンを選べるのか聞かれたことがある。正直、なんとなく選んでるのだ。温度でわかることもあるし、匂いでわかることもある。こうだから、っていう具体的な目印はなかった。

 ……まさか、そういうことで調子がバレるとは思わなかったけど。

「……それじゃ、ちょっと愚痴っていいー?」

「どうぞ。知らない仲でもないんだし、それくらいぜんぜん」

 さーやの距離感は、ほんとにありがたいと思う。お互いバンドをやってて、そこそこに顔見知りで、でも弱音を吐いても迷惑がかからない関係。リサ姉もそう。そういう相手が増えたのは、他のバンドと関わるようになってできた嬉しいことの大きな一つだ。

 ぽつり、ぽつりとAfterglowのみんなには見せたくないものを吐き出していく。みんなはいつも通り以上に張り切ってて、だからこそ自分のリハビリの成果が一か月後までどうなるかぜんぜんわからないのが不安だった。

 あたしのせいで台無しになったら、なんて。できるだけ考えないようにしてるけど、右腕が使えない不便に直面するたびに頭をちらついてしまう。

「まあ、そんな感じなんだよねー。心配しててもしょうがないのはわかってるけど、なかなか難しくて」

「なるほどねぇ。……うん、今からすっごく無責任なこと言うけど、いい?」

「……んー? いいけど?」

「そういうの、ちゃんとAfterglowの仲間に言ったほうがいいと思うよ」

 その言葉はあたしの虚をついて、びっくりするくらいあっさりと胸の奥をつついてきた。そうすべきじゃないと思ったから相談した相手がそんな風に言ってくるとは思ってなかったから。

「そうー? どうして?」

「私は聞いてあげることしかできないからさ。モカの不安なことを話したい、って気持ちは解消できるけど、おおもとの不安はどうにもできない」

「あたしは、それで十分なんだけどなー」

 それに、とさーやは続ける。その表情はちょっと寂しげで、やけに目を引いた。どこかで見たことのある雰囲気だと思った。

「モカってそうやって受け流すのが得意じゃない? 人並みに不安もあって頼る相手を欲しがってるってこと、私ならちゃんと知りたいって思うけど」

「そういうものかなぁ……ちょっと考えてみる。あ、これで最後ね。おいくら?」

「はいはい、えーっと……」

 伝えられた金額と、比較的新しいポイントカードを渡した。とん、とんと小気味よく押されていくスタンプを見ているとちょっと気分がいい。このポイントカードはモカちゃんの買い食い用にしてしまおう。

「それとー……うん、頑張るモカに一個おまけ。スタジオまでに食べてっちゃってよ」

 手渡されたのは包み紙の中に入ったあつあつのカレーパン。ああ、一番焼き立てのパンをくれたんだなーってすぐにピンと来た。ここまでくると至れり尽くせりが過ぎていて、役得ってレベルを超えてる気もする。

「さーや、あたし辛いの苦手なんだけどなー」

「ウチのカレーパンはよく買ってくくせに。ほら、商店街で美味しそうに食べて宣伝してってよ」

「んー。色々ありがとねー」

「はいはい。これからもごひいきにね」

 みんなの分のパンが入った袋を腕にぶら下げながら、さーやからのオマケをほおばる。甘口仕立てのカレーパンは、なんだか元気が出る味がした。

6: ◆kiHkJAZmtqg7 2017/09/03(日) 19:39:51.05 ID:6LMiOYr90



「……あたしはもうちょっと残って練習してく。みんなは先に帰っていいよ」

 今日の蘭はそう言うんじゃないかと思っていた。ギターの譜面アレンジが一通り完成して最初の練習はやっぱり難儀だったらしい。

 ギターの譜面が複雑になっているからといって、ギターに集中すればその分だけボーカルが不安定になる。片方が崩れればもう片方も連鎖的に上手くいかなくなっていた。今までやって来なかったことをしているんだから、最初のうちは当然だと思う。それで納得しないのが蘭なのも、わかってることだけど。

「蘭ちゃん、あんまりムリはよくないよ……?」

「経験者は語る、だね。でも、ダメって言っても蘭は聞かないでしょ?」

「蘭が残るなら、あたしも残ろっかなー」

 あたしの言葉にだけ、蘭がぴくりと反応を示した。表に出そうとしてないだけで、ひどくわかりやすい。

「モカが残ってもやることなんてないと思うけど」

「そーおー? ほら、夜道を蘭が怖がらないようにとかさー」

「っ、そんなに子供じゃないし」

「まあまあ。でも確かに一人だけ残すってのは良くないかもな。つぐの時も、どれくらい無理してるのか誰も知らなかったから起きたことだと思うし」

 少しずつ場の空気が誰かを残していこう、って方向に流れ始める。それも、最初に立候補したあたしに任せようとする方へ。蘭の表情はどんどんと難しくなっていくようで、ちょっと寂しかった。

 最近、蘭はあんまりあたしと二人きりになりたがらない。理由は聞けてないし、そもそもはっきりと行動にされたわけでもないけど、なんとなく伝わってしまうこともある。

「それじゃ、あたしが蘭を見てるってことでいい?」

「……勝手にすれば」

 ぶすっと一言だけ返した蘭に対して、不意にそのほっぺたをぐにぐにしたい衝動に駆られた。だいたいの場合怒られるけど、機嫌の治りが早くなることもあったりなかったり。でも今は片腕が使えないから無理そうだ。

 ひーちゃんたちには適当に挨拶して、さて蘭にどんな言葉をかけようかと考え始める。蘭は蘭でギターを構えて、すぐにでも練習に入ろうとしているみたいだった。

 まだ完璧には噛み合わないギターとボーカルをBGMに、蘭があたしを避ける理由を想像してみた。あたしのケガは間違いなく関係してるとは思うけど、その裏で蘭が何を思ってるのか、まだよくわからない。

 心配ないってちゃんと伝えれば安心してくれるだろうか。それとも。さーやが言っていた言葉も、ちょっとだけ頭に残っている。

 ……そういえば、ケガしたあたしに駆け寄ってきた蘭、すごく震えてた。あたしを見るだけでそのときのことを思い出して辛くなったりしてるのかな。だとしたら、一緒にいようとすることは余計なお世話どころか逆効果だ。

「……蘭、そろそろ休んだ方がいいんじゃない? みんなで練習してた時から、ちゃんとした休憩挟んでないでしょ」

「……別に。疲れてないから」

 危なっかしいなあと思う。練習に夢中になる感覚は分かるし、うまくいってないとちょっとムキになる気持ちだって否定はできない。でも、見てみぬふりもできなかった。

「じゃあ、モカちゃんの話し相手になってよ」

「はぁ……モカさ、そんなにあたしが心配?」

「んー? まあ、蘭は思い詰めると周りが見えなくなる方だからねぇ」

「……別に、今くらい前だけ見てたっていいでしょ。モカはあたしのこと、放っといてよ」

 やっぱり、ちょっと聞き流せない事ばかり言う。そんな心配させるような態度で放っておいてなんて言われたら、なおのこと放ってなんておけない。

「やだ。そういうこと言う蘭は絶対放ってなんておかない」

「っ……! モカ、わかってない。モカは何よりも、自分のケガのこと考えててよ! それを治すのが、一番先でしょ……!?」

「むー……。だから蘭が無理するのを見過ごせっていうの? 蘭こそわかってないんじゃないの?」

「~~~~~~!! モカの、バカっ……!」

「あ、ちょっと蘭っ!?」

 逃げられた。あの時の屋上と似たシチュエーション……だけど原因は冗談なんかよりもっと深刻で、蘭はあたしの顔を見もせずにどこかへ行ってしまった。

 取り残されたあたしは結局蘭の気持ちも分からずじまいだ。今更みたいにやっちゃったな、って思うけど、それでも間違ったことを言ったとも思わない。

 明日、みんなに相談してみよう。あたし一人で話しても、またこうやってぶつかってしまうかもしれないから。

 蘭と意見が合わなくて言い争いをするようになったのは、成長なんだろうか。それとも悪い傾向なんだろうか。どちらにしても、ちょっと虚しいのは確かだった。

7: ◆kiHkJAZmtqg7 2017/09/03(日) 19:42:54.38 ID:6LMiOYr90



 時がたつのは早いもので、なんて言葉を使うほどの時間は過ぎていないと思うけど、長いのか短いのか、今になっては判断がつかない一か月は気づけば終わりを告げていた。

 ギプスが取れて、左腕と見比べると細くなった右腕にちょっと驚いたりしながら本格的なリハビリも始めて、どうにかギターを握れるようになったのがついこの間のこと。記念すべきモカちゃん快気祝いのスタジオ練という日だったのだけど。

「蘭、遅いな……」

「こんな記念すべき日に遅刻だなんて、蘭にはおしおきしないとかなー」

「それ、遅刻常習犯のモカが言うー?」

 蘭が来ないのだ。こんな日にまで遅刻しなくても、とは思う。でも、一緒に行こうと誘えなかった時点であんまり強く言うことはできないのかもしれない。

 蘭と言い争いをした日以来、あたしは蘭と少しだけ距離を取って、その分をあたし以外のみんなに埋めてもらっていた。時間を延長しての練習は日に日に減っていって、それでもちゃんとギターもボーカルも上手くやれるようになっていた。

 ここからはあたしの番だと思う。まだ思う通りに動いてくれない指先と腕の感覚を、少しでも取り戻していかないと。そんな矢先くらい、全員がいい感じに揃ってくれたってよかったのにな、なんて不満をひとつ。

「あれ……みんな。蘭ちゃん、今日は来れないってメッセージが来てるみたい」

「本当だ。どうしたんだろうな……蘭はちゃんと説明してくれないから事情が分からないよ」

「うーん……仕方ないし、四人で練習始めちゃおっか。今日は早めに切り上げて、蘭の家に行けば何があったのかも聞けるよね」

 ひーちゃんの言葉に反対意見は出ず、そのまま練習が始まった。一人足りない演奏はやっぱりちょっと物足りない。みんなは一か月以上こんな風に練習してたんだと思うと、迷惑かけたんだなって実感が改めて湧いてくる。

 ついでに、すぐには上手くいかない歯がゆさも蘭が感じていたものだと思うとへんなシンパシーが生まれた。少しでも早くみんなに追いつきたい……だけど、無理しちゃダメだって蘭に注意したあたしが同じことをするのは間違ってる。気長にやれるほど時間に余裕はないけど、だからこそ確実に進まなきゃ。

 小休止を挟みながら練習を重ねていく。アレンジされた譜面は弾きやすくて、ちょっとずつだけどフレーズが形になっていくたびに自信が湧くのを感じた。

「今日はここまででいいだろ。これ以上遅くなると、蘭の家に迷惑がかかるような時間になるし」

「そうだねっ。みんな、お疲れ様!」

「お疲れー。モカも何とかなりそうでよかったぁ」

「ふっふっふ、どやあ。モカちゃんに不可能はないのだー」

 いつも通りなら、ここで蘭がチョーシ乗りすぎ、ってツッコミを入れるところだろうか。やっぱり五人の方が掛け合いのテンポも良くなる気がする。

 蘭、なんで休んだんだろう。蘭が携帯に連絡だけ入れて休むのって、珍しい気がする。たいていの場合は誰かに直接休むって伝えてくるから、誰も休む理由を知らないなんてことはそうそう起きないはずなのだ。


8: ◆kiHkJAZmtqg7 2017/09/03(日) 19:44:26.85 ID:6LMiOYr90
 蘭の家の玄関前に並んで、誰がインターホン押そうか、なんて話し合う。なんだかんだでみんなノープランだから、今になってどう切り出したものかと二の足を踏んでるのだ。

「……えいっ」

「ちょ、モカ!?」

 まどろっこしいから難しいことは後で考えることにした。ぴんぽーん、と電子音が鳴り響く。数秒の後、反応があった。

「はい、美竹です」

「モカですー。バンドのみんなと様子を聞きにきたんですけど、蘭、今家に居ますかー?」

「ああ……見舞いに来てくれたんですね。どうぞ、上がってください」

 蘭パパの厳しげだけど丁寧な声が響く。見舞いという単語に、目を見合わせた。

 少しして、ドアの鍵が開く音がした。蘭の家は少し広めな以外はごく普通の一軒家だけど内装とか家具は和風に統一されている。流石は華道の家元。

「蘭は風邪を引いてしまったようで、熱はもう引いているんですが……。どうも、まだ本調子ではないのでしょう」

 みんなの様子を窺っても、誰も風邪だなんて知らなかったらしい。よほど酷かったんじゃないかと不安になる。ちゃんと事情を伝えてこなかった理由もそれで説明がついてしまうことが恐ろしかった。

「蘭、モカちゃんたちが見舞いに来てくれた。入って大丈夫か」

「っ……!」

 扉の向こうで、蘭が動揺する気配を感じた。それもほんの少しの時間だけで、すぐに静かになる。

 蘭パパはリビングに居るから話が終わったら伝えてほしいと告げて、場をあたしたちに譲ってくれた。緊張を感じながら、改めてドアを叩く。

「……蘭ー? 入るよー?」

 反応がないので扉を開けてしまう。そこにはパジャマ姿で座椅子にもたれた蘭の姿があった。表情は明るくないけど、ぱっと見だと体調がそこまで悪いようには見えない。

「もう、蘭ってば風邪ひいたならちゃんと教えてよ。私たち、心配したんだよ?」

「……」

「蘭、親父さんはまだ本調子じゃないって言ってたけど、大丈夫なのか?」

「…………」

 あたしたちの言葉にも、蘭は唇を震わせて押し黙ったまま。ぞわ、と嫌な予感が倍増しになった。

「……蘭。何か答えてよ。それとも、答えられないの?」

「っ……。こういう、こと。わかるでしょ」

 ようやく届いた返答は、蘭の声とは思えないほどがらがらに渇いた声だった。それだけで誰も二の句を継げなくなる。

「ら、蘭ちゃん、その声……」

「風邪のせいだと思ってたけど……熱が引いても、どんどん酷くなって。…………いつ治るかも、わからないっ……」

 今にも泣きだしそうな蘭に、何か声をかけなきゃと思う。でも、なんて伝えればいいのかわからない。慰めて、元気づける……どうやって?

「ねぇ、モカぁ……」

「んー? えっと、なーに、蘭」

 すがるような視線に、応える術がわからない。ただできるだけまっすぐに見つめ返して、どうにか言葉を受け止めたかった。考えなんてまとまらないけど、それくらいなら。

「ごめん、なさい……。あたし、モカの努力、ぜんぶ台無しにして…………モカにしてあげられること、もう、何も残ってない……!」

「……ぇ、な、なに、言ってるの、らん……?」

 ――絶句した。そんな言葉を向けられるなんて、思ってもみなかった。ごめん、じゃなくて、ごめんなさい。そんなの、幼馴染に向ける謝り方じゃないはずなのに。

 何もかも心が折れて、絶望したみたいな表情、しないでよ。……あたしが、そうさせてるの?

 どうにかしてあげたい……その、気持ちを。自覚した瞬間に、わかってしまった。

 ……あたしのバカ。あたしがどれだけ愚かしく、残酷に、蘭のことを傷つけていたのか、苦しめていたのか。

 蘭だって同じだった。あたしのことを、どうにかしてあげたいって思ってたんだ。あたしの腕の痛みだって共有したかった。あたしに身体を預けてほしくて、その重みを感じていたかった、肩代わりしたかった。

 あたしがそれを蘭に渡さなかったから、蘭は自分にできるたった一つ……あたしのために、難しいパートを練習することにしがみつくことしかできなかった。

 その最後の一つを、しかも自分の無理のせいで失って……そんなの、蘭が積み重ねた全部の否定だ。苦しいに決まってる!

 どこまでもどこまでも、あたしが独りよがりに蘭に心配をかけまいとしたから招いた結果じゃないか!

 体育座りでうずくまって、蘭はずっと自分の無力を呪詛みたいにしてこぼしていた。全部、自分のせいで駄目になったって。みんながそんなことはないって伝えようとしている中、あたしは……何も、言えなかった。

9: ◆kiHkJAZmtqg7 2017/09/03(日) 19:45:15.42 ID:6LMiOYr90
 お通夜みたいな空気をどうにかごまかして、あたしは家に帰ってくることができた。自分の部屋に入って、扉を閉めたら……すとん、と膝から崩れ落ちた。身体を支える力も残ってなかった。

「最近は特にバンドに打ちこんでいて、時折部屋から歌う声が聞こえてきたものです。だから、ショックも大きかったんじゃないかと」

 蘭パパの言葉が頭をよぎる。無理しないようにってみんなで見張ったから、蘭は自主練習の場所を自分の家に……誰にも文句を言われない場所に変えていた。

 蘭のあの表情が頭にこびりついて離れてくれなかった。追い詰められて追い詰められて、致命的に、壊滅的に、どうしようもなく、押しつぶされたその末の……何も残ってないって言わんばかりの空っぽの表情。それでもなお、自責の言葉で自分を傷つけ続ける姿が。

 大きくかぶりを振る。今、ここで。あたしまで折れていいはずがない。蘭を傷つけたまま、自分まで勝手に傷ついて諦めていいはずがない。だって、蘭はこんなにも弱さを見せてくれた。あたしが一緒に抱えたい蘭の重荷を伝えてくれた。だったら、できることはいくらでもあるはずなんだ。

 これ以上蘭を悲しませたくない。ただ笑っている顔が見れれば、今はそれだけでいいから。

10: ◆kiHkJAZmtqg7 2017/09/03(日) 19:47:09.76 ID:6LMiOYr90



 涼しげに吹く風を感じながらぼんやりと街を見下ろして、待ち人の足音に耳をそばだてる。真夏と真冬以外なら、屋上は意外と快適だ。

 蘭にちゃんと話したい、屋上にいるとだけメッセージを送って、それ以上のことはせずにずーっと待ってる。押しかけるのも、無理に呼び出すのもダメだと思った。

 別に何を眺めてもわかりやすく面白い出来事が起きているわけじゃない。でも、そういう変わりないものをぼーっと眺めるのは好きだ。緩やかに時間が流れるのは、ことのほか心地いい。

 そういう居心地の良さがあったから、あたしも蘭もこの場所が好きになったのかもしれない。なぞるように歩き回ってみれば、いろんな思い出も浮かび上がってくる。

「…………モカ」

「蘭。とりあえず、ありがと。来てくれて」

「……うん」

 蘭の言葉も態度も、やっぱりまだ弱々しい。声だって全然治ってないみたいだし、立ち直れる理由なんてまだどこにもないか。

 余計な心配はしない。蘭は、そんなことを求めてる訳じゃない、と思う。

「ほら、蘭。こっち来てよ。そんな入口に立ってないで」

「……話したいこと、って?」

 あんまり乗り気じゃないみたいだから手を引いて隣に並ばせた。拒絶はされないことに少し安心する。何を話すかは実のところほとんど決めてないけど、最初にやる事だけは決まっていた。

「難しいことを話すのはめんどくさいし、音楽で語るってやつ? とりあえず、聴いて欲しいなーって」

「……?」

 ギターケースからギターを取り出す。小型アンプに変換プラグでイヤホンを繋いで、蘭と片耳ずつつけた。軽く鳴らして指先の感覚と音を確認する。

 指先で軽くリズムを取って、演奏を始めると同時に……フレーズを口ずさむ。付け焼刃であることは違いない。骨折してる間はギターの練習をしていた時間が浮いたから思いつきで始めたことだったけど、今回だけは蘭の役に立てると思った。

 あたしのギターを蘭が支えるみたいに、蘭のボーカルだってあたしが支えることができれば……そういう対等の形もアリじゃないのかな。

 蘭のボーカルをずっと隣で聴いてきたから、できることなんだよ。どうすれば蘭に寄り添って歌えるか、あたしは知ってるから。まだまだ技術が足りなくて思った通りに歌えないことは多いけど、込める気持ちだけは間違いようがない。

 ギターの方もちょっとミスしちゃったけど、どうにか一曲歌い終えて蘭の方を見やった。できるだけ柔らかく笑いかけて、安心させられたらな、って思う。

「あたしね、この前久しぶりにギターもって練習して、蘭にすごく助けられてること、やっと実感したんだ」

「ホントのことを言うと、一か月ずーっと不安だらけ。リハビリが上手くいかなかったら、みんなが頑張ってるのを台無しにしちゃうかも、って。でも、蘭が大変なところ全部やってくれたから、あたしのパートはすっごく弾きやすかった」

 とん、と蘭に肩を寄せる。ちょっとだけ体重をかけて、蘭の腕に身体を沈み込ませた。

「あたしは治せたから、今度は蘭の番。それだけだって。蘭がしてくれたみたいにさ、あたしもできるだけ支えるから。……ほら、蘭がいてくれたから、頑張ってくれたから、あたしだって頑張れたんだよー?」

 蘭から貰ってるものなんて、いくらでもある。言葉だけじゃ足りないから、じゃれつくみたいにもっと蘭に寄りかかったって、別にいいよね?

「一緒に歌ってよ、蘭。また五人で演奏したいよ」

「…………」

「らん……えっと、なんて言うんだろ……その、だからね?」

「……ふふっ。モカ、変な物でも食べた? 賞味期限切れのパンとか」

 とん。蘭の方からも、体重がかかってくる。二人分の重みを、二人で分け合って支える。こういうの、いいなあって思う。それと、蘭はやっぱり素直じゃないなって。

「蘭の泣き顔なら、しばらく見たくないって思うくらいには堪能したかなー」

「なっ……! ……うん、わかった。しばらく泣き虫は卒業」

「蘭の方こそ、変な物食べたんじゃないのー?」

「モカのクサい台詞と粗が多いけど熱い歌なら、向こうしばらくはお腹いっぱい」

「えー、ひどい。蘭だって今はこんながらがら声のくせにー」

 お互いに皮肉りあって、堪えきれずに笑い出す。肩はぴとっとくっつけたままで、じゃれたり笑いあったり、ずっと昔にしてたみたいなコミュニケーションを取るのがどうしてか無性に楽しい。

「帰りにのど飴とうがい薬買ってこっか。ちょっとでも早く治してもらわないと」

「え……あれ、味とか匂いキツいから嫌なんだけど……」

「……らーんー?」

「う……わかった。わかったから」

 やっぱり、幼馴染といえばこういう距離が、一番心地いいとあたしは思うんだ。

11: ◆kiHkJAZmtqg7 2017/09/03(日) 19:48:39.14 ID:6LMiOYr90



「つ、次、私たちの番だね」

「ホント、一時はどうなるかと思ったよねぇ。ちゃんと間に合ってよかった!」

「全くだよ。蘭、モカ、二人とも心配かけさせてさ」

「そーお? 終わりよければ全てよし、って言うじゃん?」

「……そもそも、まだ始まってもいないし。行こう。やり方はいつも通りじゃなくても、最高の演奏をすることだけはいつも通り変わらない、でしょ」

「もちー。それじゃあAfterglow、ダブルボーカルエディション……れっつごー!」



おしまい