追われてます! その2

526: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/22(水) 01:30:54.11 ID:7QiUf6tc0

【訪問者】

 四人で顔を見合わせてから、どうぞ、と胡依先輩が扉の向こうへ声を掛けると、数秒おいてガラッと勢いよく扉が開いた。

 小柄な一人の女子生徒が顔を出す。
 ここを訪れる人はそういないからヒサシかもと思ったがそうではなかった。

 東雲さんが「あれ、この前の……」と小さく呟くのを耳にした。

 女子生徒(多分先輩)はつかつかと足音を立てて、胡依先輩へと歩み寄る。
 
 そして、

「聞いてない!」

 と怒りを露わにした。

「うん、しゅかちゃんどうしたの?」

 対して、先輩の反応は落ち着いたものだった。
 それを見て"しゅかちゃん"と呼ばれた彼女は、顔を真っ赤にして激昂する。




SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1503749258

引用元: 追われてます! 



その者。のちに… 08 新婚旅行編(1) (アース・スターノベル)
ナハァト
泰文堂
売り上げランキング: 8,737
527: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/22(水) 01:32:08.85 ID:7QiUf6tc0

「部誌出すなんて聞いてないし!」

「いや、だってまず部員じゃないじゃん」

「それはそうだけど!」

「……あ、もしかして寄稿してくれるとか?」

「しないよ!」

 がるるーと吠えるように彼女は言う。
 胡依先輩は頭痛を抑えるようにこめかみに手をやった。

「あのさ、とりあえず落ち着かない?」

 お茶よろしく、と視線を向けられて、頷きを返してから電気ポットを準備するために腰を上げた。

「まあ、まず座りなよ。シノちゃんちょっと詰めて」

「えっと、私が退けます」

 東雲さんが俺の席側のパイプ椅子に座って、当の二人は並んでソファに腰掛けた。

「どうぞ」

「……」


528: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/22(水) 01:33:32.01 ID:7QiUf6tc0

 俺の言葉が聞こえていないのか、彼女は落ち着かなそうにかわいらしい留め具で束ねられた髪をくるくると指で巻く。
 胡依先輩はそれを見て無表情で湯呑みを手にしていた。

「で、部誌を出すからどうしたんですか?」

 誰も何も口にしないから、仕切り直すためにそう問いをぶつける。

 キッとした視線でしばし見られたが、その視線を逸らして、先輩に向き直った。

「絵を描きたいなら、うちでもいいじゃん。
 先輩たちだってもう引退していないし。今は私が部長だから、ああいうことをする人もいないし」

 はて? と三人並んで首をひねる。
 ただ一人胡依先輩は苦々しい表情を浮かべて、目を細めた。

「美術部に戻れってことなら、それはお断りだよ」

「どうして」

「もう終わったことだから」

「……」


529: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/22(水) 01:34:39.29 ID:7QiUf6tc0

「……べつに、いいじゃない。もう終わったことでしょ」

「違う?」と子供をあやすようにゆっくりと問いかける。

 彼女は言葉に詰まって目を逸らす。
 所在なさげにきょろきょろと辺りを見渡して、最後に視線を下向けた。

「……でも」

「しゅかちゃんのことは好きだよ。……けどもう終わったことだし、それとこれとは違う話だよ」

 二人の会話を聞き取りつつ、俺はそれに少しの違和感を感じた。
 なんというか、先輩の応答が俺たちと関わる時とはまるで違っている。

「それに、今年の担当はしゅかちゃんなんでしょ?
 こんなところで油売ってていいの? 文化祭までもう時間ないのに、あんまり進んでなさそうに見えたけど」

「気にはなってるんだ」

「ううん、たまたま見ただけ」

 言って、先輩はちらりとこちらを一瞥してふわりと微笑する。
 そして、彼女の手を握って立ち上がらせた。


530: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/22(水) 01:35:44.29 ID:7QiUf6tc0

 彼女は驚きを隠せずに鋭い視線で睨めつけるが、胡依先輩は動じない。
 俺たちに聞こえないくらいの声量で何かを耳元で囁くと、彼女は呆けたように口をぽかんと開けた。

 そのまましーっと人差し指を立てると、彼女はついに何も言わなくなった。

「邪魔になるといけないし外に行こっか」

「……」

「ね?」

「……うん」

 こくこく頷き混じりに上目遣いで先輩を見やる。
 顔をぽっと朱に染めながら。いや、なんで赤くなってるんでしょうかねえ……。

 前に言っていた"小さい子"ってもしかして。

 ぽんと頭を撫でるとまた赤くなる。さっきまでの威勢はどこかに飛ばされていったようだ。

「今日は早いけど解散でいいから、残っても帰ってもいいよ」

 そう言い残し、ばいばいと手を振りつつぐっと反対の手を引いて二人で扉の向こうへ行ってしまった。


531: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/22(水) 01:36:38.25 ID:7QiUf6tc0

 残された俺たち三人は事態が全く理解できずに途方に暮れる。

「今のなんだったの?」

「……さあ?」

「先輩の元カノじゃね」

「なら痴情の縺れ?」

「ワクワクしてくるな」

「……いや、ないだろ」

 自分で言っといて馬鹿らしくなった。

 辞めた部活の現部長。
 先輩の先輩。戻るつもりはない。

 そこまで考えて、やめることにした。

「……ソラはもう帰る?」

 今日やろうとしていたことは家でもできる。
 質問をしようと思っていたけど、戻ってこないならここにいるだけ手間かもしれない。

「あー、未来が帰るなら」

「東雲さんは?」

「私は、うん。そろそろ帰ろうかな」

「そっか」

 湯呑みは洗ってもらうことにして。
 戸締りは……まあ大丈夫だろう。

「じゃあ、帰ろうかな」


532: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/22(水) 01:38:44.80 ID:7QiUf6tc0

【寄り道】

 校門を出て東雲さんと別れると、ソラに「どっか寄ってから帰ろうぜ」と声を掛けられた。

 まずはコンビニな、と彼はすいすい進んでいくので、とりあえず歩みに従う。
 俺も夕食まで暇といえば暇だった。

 学校裏のコンビニ。学生の憩いの場。行事の際は裸足で入ったりしても怒られないらしい(運動祭は始めから終わりまで全員裸足だ)。
 店内にはクラスメイトがいて、軽く会釈をする。店員はソラの知り合いらしく、ようと手を挙げると手を振り返されていた。

「最近フーセンガム売ってねえんだよな」

「ふうん」

「あれ、なんだっけな。バブリなんちゃら、あれ好きだったんだけど生産終了しちゃったらしくてな」

「ま、これでもいいか」と彼はよくCMでやっているガムを手に取る。

「未来は買わんの?」

「なんか買って」

「いいけど、五百円までな」

「いやいいのかよ」


533: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/22(水) 01:39:26.91 ID:7QiUf6tc0

 小学校の遠足の上限金額。
 弁当以外持って行かなかった記憶。ソラの持ってきた一五〇〇円分のお菓子を二人で山分けしていたら先生にめっちゃ怒られたな。

「夕食入らなくなるからいいや」

「へえ、じゃあちょっと待ってて」
 
 店の外に出て彼を待つ。
 日が落ちてきてちょっと寒い。

 すぐに出てきた彼はガムを口に含んでからうちと反対の方向に歩き出す。

「どこいくの」

「ゲーセン行かね」

「目的は?」

「太達やりたい。あとノスタルジアとjubeatとmaimaiも」

「見てるだけでいいなら」

「うん、俺がやりたいだけだからそれでいいぜ」

 それ一人で行けばいいんじゃないの、とも思ったが付いていくことにした。


534: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/22(水) 01:40:07.33 ID:7QiUf6tc0

 駅からすぐ近くのアーケード街までの道のりで、だんだんと人の数が増えていった。
 学校帰りの制服の学生、会社終わりのスーツ姿のリーマン。この時間は特にここら辺は混み合っている。
 それを掻き分けながら歩くことしばし、県下一の大きさのパチンコ付設のゲームセンターにたどり着く。

 パチンコ特有の煙草の匂いと大音量で垂れ流された音楽に眩暈を感じつつ、

「いつも思うけど、ゲーセンってうるさいよな」

 と俺が言うと、

「俺は慣れたぞ。流行りの曲とか流れてると、あーこの曲かってなるし、好きな曲とか流れるとノれるし」

 と楽しそうに言われてしまった。
 そういえば、彼と一緒にゲーセンに来ること自体久しぶりのことだ。

 数プレイ太鼓を叩いて、すぐに音ゲーに移動する。
 集中した顔つきですると思いきや、愉しげに笑いながらやっている。

 ガムを買ったのは集中するためらしい。ドラム型洗濯機のような筐体の前で彼は見知らぬ女の人に声を掛けて、プレイを始めた。

 協力プレイ? の相手の女の人は手袋をはめて踏み台に乗りながら無表情で機械的にぬるぬると手を動かす。

「ぐあーまじかよ」

 とソラがミスったのか声を出すと、相手は驚いたようにちらと横を見る。
 すいませんと頭だけで謝る彼の姿を見て、なんだかおかしくなって笑ってしまった。


535: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/22(水) 01:41:05.90 ID:7QiUf6tc0

 数十分に渡って複数の音ゲーをプレイしているのを見た後、メダルゲームコーナーに移ることにした。

 俺もこれくらいならやるか、と千円を五百枚に換える。
 それから比較的静かめな恐竜のゲームを彼と隣り合わせでしていると、キリのいいところで話しかけられた。

「部誌の原稿、進んでるか?」

「いいや、まだ全然」

 答えると、ソラはふっと笑った。

「俺も同じだ」

「でも、何枚か提出したって胡依先輩が言ってたけど」

「つっても車の絵だからな。俺の求める美少女は未だに描けてないんだよ」

「そっか」

「未来はまるっこい絵が上手く描けるし、胡依先輩も褒めてたよ」

「ふうん?」

 彼の言葉が少し意外に思えた。
 褒められているニュアンスなんだろうけど、俺に対してそういった言葉を口にすること自体少ないことであった。


536: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/22(水) 01:42:06.34 ID:7QiUf6tc0

「初めはどうなんだろって思ってたけど、先輩の言う通りに続けて描いてると楽しいよな。
 車を描いてる時はほぼ感覚で描いてるけど、人間を描くなら身体のつくりとかを理解してないとめっちゃ歪になっちゃうし」

「楽しいんだ」

「……ん、未来は楽しくないの?」

「いや、俺も楽しいけど。ソラは部活自体が楽そうだし先輩が美人だから入ったと思ってたから」

 正直に言うと、彼は拍子抜けしたような顔つきになって肩をすくめた。
 と思ったらげらげらと腹を抱えて笑いだした。

「俺ってそんなふうに見える?」

「見える。てか言ってたし」

「ありゃ先輩と東雲さんが悪い。癒しの世界にいるような感覚になる」

「わかる」

 ん~わかる! すごくわかる! 今日は新キャラが登場して東雲さんがちょっと寂しそうな顔をしてた!(見てないからバイアスのかかった予想です)。

 そういう漫画ばかり借りて読んでいたから、そういう思考に耽りがちだ。
 つまり胡依先輩はこれを見越して俺に百合の素晴らしさを仕込んでいた……?


537: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/22(水) 01:42:45.31 ID:7QiUf6tc0

 などと馬鹿なことばかり考えていると、自分のメダルが底を尽きそうになっていた。

「これ、俺は苦手みたいだな」

「へー……未来に苦手なものってあるのか?」

 きょとんとした顔で問われた。
 答えが明確すぎて一瞬わけがわからなかったが、とりあえず「あるよ」と返しておく。

「佑希ちゃんとおまえは本当なんでもできるからな」

「そう?」

「うん。なんだ、育った場所とかは俺と変わらないし……DNAか?」

「違うだろ」

「なんだっけな……小学校の時、数学、いや算数で解けた人からどんどん次のプリントに行くみたいなのあったじゃん」

「……そんなのあったっけ?」

「伝説の百枚プリントってやつ。誰も終わった人いないとかなんとか」

「……覚えてねえな」

 本当に覚えてなかった。
 というか、小学生の頃の記憶がごっそり抜け落ちてしまっている気がする。


538: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/22(水) 01:43:27.28 ID:7QiUf6tc0

「俺もそれなりにできたけど、未来はひょいひょい次のやつに行くからすげーって思ってたんだよ。
 んで、担任の尾形が未来くんの妹さんも同じくらいすごいんですよーって言ってた。
 たしか、ほぼ同じタイミングで百枚終わったんじゃなかったっけかな」

「へえ」

 本当に同じくらいだろうか?
 ……違う、と俺は自答する。

 その頃は多分、きっと俺は。
 今よりは、マシに過ごしていた。

 どうでもよかったから。
 どうでもよくなくなるまでに、俺は成熟していなかったから。

「それで、結局何が言いたいの?」

「うん、なんだっけ」

「なんもないのかよ」

「……ごめんごめん、忘れちまった」

 言うとすぐに、彼のメダルも無くなった。

 それからソラは他の話を始めたから、何が言いたかったのかは結局分からずじまいだった。

 クレーンゲームでフィギュアを取ろうと有り金を溶かすのを見守ってからこの場所を後にすることにした。
 ○○○が見たかったらしい。ちなみに○○だとも言っていた。


539: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/22(水) 01:44:11.25 ID:7QiUf6tc0

 建物から出ると、耳がきーんと鳴った。
 外の空気は寒さが増している。
 この時間に出歩くことも少ないから、余計にそう感じるのかもしれない。

 行きとは違うルートを通った。
 俺たちの母校である小学校の近くを通るルートだ。

「ラーメンでも食べてくか?」

「この辺美味い店ないじゃん」

「そういえばそうだな」

 好きでソラと善くんとよく通った店は駅近に移転してしまった。
 食べログの評価が2.6くらいのまずい中華料理屋しかないから、外食しようにも戸惑う。

 家の方向へ歩いていると、「あ」とソラが声を上げた。

「わかったぞ、共通点が!」

「……なんの?」

「ちょっと考えさせて」

「……はあ」

 返答を待たずして、彼はうむむと頭を抱えて唸りだした。

 俺はその様子を、近くに置いてあったアーチ型の車止めに座りながら眺めていた。


540: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/22(水) 01:45:08.40 ID:7QiUf6tc0

【感覚】

「やっぱり、感覚なんだと思う」

 ソラがそう口にするまでに、結構な時間が過ぎていた。

 犬の散歩をするおばさまに変な目で見られたり、婦警さんに早く帰りなさいよ、と言われたりした。
 待っている間に自販機で買っておいた飲み物を渡すと、彼はくしゃっと笑う。

「俺が絵を描くのが楽しいって思う理由、やっぱり感覚なんだよ」

「……感覚?」

「うん、感覚だ」

 一拍おいてから、彼は話し始めた。

「たとえばさ、さっきやってた音ゲーも、暗譜してるところとかばっかなんだよ。
 たまにはアドリブで何とかせざるを得ない部分もなくはないけど、フラットな状態でやるなら、やっぱり自分の感覚が頼りになるんだよ」

「……」


541: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/22(水) 01:46:07.52 ID:7QiUf6tc0

「善くんにサッカーのこと訊いたらさ、あのボールが足に吸い付く感覚? は、そう簡単に身につけられるものじゃないって。
 あとバスケ部のハンドリングとか、野球部の送球とか、部員のやつらに訊いたらみんな同じこと言うの」

「それで?」

「絵も同じだよなって。俺そういうの好きなんだよね」

 感覚。
 経験と言い換えられるかもしれない。
 あるいは経験に基づく判断基準や咄嗟の時に勝手に身体が動くことの理由と言ってもいいだろう。

「数学の公式を習ったばかりのころはそれに当てはめることばっか考えるけど、
 ちょっと経つと公式の名前なんて忘れてても使えるようになってる、みたいなことか?」

「そうそう、そんな感じ」

 いい例えだったのか、彼は感心したように頷く。
 適当だったけど、意思の疎通ができたのなら結果オーライだ。


542: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/22(水) 01:47:06.71 ID:7QiUf6tc0

「あの、身体に染み付いてて、それが出るってのが好きでさ」

「なるほどね」

「『紅』は目を瞑っててもフルコンできるし、車を描くときもやっぱり何も見なくても描けちゃう」

「……ふうん」

 さっきもそんな話をしてた気がする。

「マリオの一面は目隠ししてもクリアできるし、ときメモは電話を使わずともクリアできる」

「どっかで聞いた話だな」

「なぞのばしょには行きまくったから何歩でどこに出るかも覚えてる」

「……なぞのばしょ?」

「ポケモンのダイパだ。中古で買った」

 俺はドラクエかFF派だった。
 まず世代が違うと思うし、よく知らんけど。


543: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/22(水) 01:47:48.90 ID:7QiUf6tc0

「感覚で出来るようになるまでは大変だけど、それを出来るようになるとめっちゃ気持ちいいんだよ、これがまた」

「まあ、ちょっとわかるかも」

「だろ? だから、絵はそういうところあるし、やり込みがいがある。
 この手が、この目が、いろんなものに触れて学ぶと、もっと自分の感覚が広げられるかもしれない」

「だから楽しいんだ」と彼は言う。
「たしかに」と少し経ってから俺は頷いた。

「"チャンスは最大限に生かす、それが私の主義だ"って、有名な偉人も言ってた」

「それシャアの言葉だろ」

「ばれたか」

 彼は周りなんか気にせずに笑った。
 俺もつられて笑った。そういう理由でもいいのかもしれない。


544: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/22(水) 01:48:20.69 ID:7QiUf6tc0

 遠くから赤ん坊の鳴く声が聞こえる。
 安眠を妨害してしまったのかな、普通に近所迷惑だ。

「まあ、先輩のためにもがんばろうぜ」

「ソラってやっぱり先輩のこと好きなの?」

「……建前だ」

「どうだか」

 どちらともなく歩き出して、ゴミ箱に空き缶を捨ててから帰ることにした。

 二人並んで歩く。
 月と街灯と家の灯りを残して街はもう真っ暗である。

 ソラの家の近くまで近付いた時に、彼は先ほどのように「あ」と声を上げた。

 視線の先には、制服姿の女子生徒。

「あの子ってさ、たしか──」


548: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/23(木) 01:01:49.96 ID:5i5UoTSS0

【提案】

 パソコンの電源を落としてソファに身を預けた。
 L字型ソファの大きい面には佑希がむにゃむにゃ言いながら寝ている。学習しないやつめ。

 今まで三時間ほど電子画面とにらめっこをしていたからか、照明の眩しさがいつもよりつらく感じて、窓の方へ目を移す。

 特に何も思わずに眺めているとだいぶ目がマシになってきた。
 ブルーライトカットの眼鏡でも買うべきなのかな、胡依先輩がしてるのはそれっぽいやつだし。

 そんなことを考えつつ、先程のことを思い出してため息をついた。
 面倒くさいことを押し付けられてしまいそうだ。ソラはうきうきしてたけど、俺はあんまり乗り気にはなれない。

 人との出会いは偶然ではなく必然なのですよ。

 掛けっぱなしにしていたテレビに出ているスピリチュアル系女子が真剣そうな声音で話しているのが耳に入る。

 ほんとかよ、と思う。
 ばからしいな、と鼻で笑った。

 かわいらしいセーラー服の女の子にナンパされて、そのまま連絡先を交換した。

 いや、全くの嘘だ。
 たまたま会って相談……もとい語りを聞いて、ソラが「この際だし協力できることがあるなら力を貸すぜ」と口を滑らせて。
 でも、なぜか彼女が指名したのはソラではなく俺という謎の状況に至ってしまった。


549: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/23(木) 01:02:57.26 ID:5i5UoTSS0

 プルルルル、と電話が鳴った。
 来てしまった。何も考えていない。

 佑希が起こしてしまうと嫌だから、自室に戻りながらスマホを耳に当てる。
 電話は金かかるしラインでいいのでは、とも思うけれど、彼女の負担だから関係ないか。

「こんばんは」

 涼しげな声で彼女は言うので、

「こんばんは」

 とオウム返しをした。

「……こんな夜遅くにごめんね」

「いや、大丈夫」

「さっき話したことなんだけどさ、どうかな?」

 いきなり本題に入った。
 電話だし、それもそうか。

「どうって言われても、あんまり俺はきみたちの関係についてよく知らないから、なんとも……」

「うん。でも、そのほうがいいのかも」

「……」


550: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/23(木) 01:04:21.13 ID:5i5UoTSS0

「形はなんでもいいから、取り付けてもらいたいの」

「自分で言うってのは?」

「さすがに、私から連絡取るのは気がひけるよ」

「……ああ」

 知らねえよ、と思う。
 だが、曲がりなりにも友人の友人だから、変な態度は取れない。

「一つ目はまだいいけど、二つ目の提案には乗れない」

「どうして?」

「暇じゃないから」

 本当は面倒だからだけど。

「でも、二人は不安っていうか……その」

「……連れてくならソラにしてくれないかな。それか、俺でもソラでもないきみの友達とか」

「中学校の頃から、あの二人が話してると間に入っていけなくて、ちょっと……。
 友達は女の子ばかりだから言いにくくて、でも未来くんなら緊張しないし距離感も大丈夫かなって思って」

「俺ときみって話した回数自体少なくない?」

「うん」

「だよね」


551: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/23(木) 01:05:10.46 ID:5i5UoTSS0

「……なんていうか、未来くんなら私の気持ちを少しくらいはわかってくれるかなって」

 言って、彼女はそれきり無言になった。俺が答えるまで沈黙を貫き通すつもりらしい。

「俺ならわかる」と言われても全くわからないのだが。

 まず彼女の個人的な情報をよく知らなくて、付き合いがどのようなものであったかも、聞かされたことでしか覚えていない。
 ソラはぐいぐい茶化したりしてはいたけど、俺はそこそこの興味程度に留めていた。

 忙しいのは事実だし、面倒事に首を突っ込んでる余裕はないのだが、その「理由」だけは気になっていた。

 離れてみて初めて気付いた、とか、
 やっぱりあなたがいいの、とか、
 そういう中途半端な理由で話を持ちかけてきたのではない、と直感で思う。

 彼は気にしていた。落ち込んでいた。
 いや、現在進行形でどこか沈んでいるように見える。

 同じように、彼女も蟠りを解消できずにいたのかもしれない。
 その選択を後悔していたのかもしれない。

 そう思うと、無下にはできない気持ちもある。
 何より、互いが互いを求めているのなら、それに手を貸してもいいのではないか。


552: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/23(木) 01:06:30.60 ID:5i5UoTSS0

 直接は何も関係のないことだけれど、三年近く遠巻きに見てきたから、少しだけ勝手に期待していた部分もあった。

「まあ、いいよ」

「ほんと?」

「……うん、そうだな。了承してもらえたらってことにはなると思うんだけど」

「あ、うん。ありがとう」

「それで、いつにするの?」

「……えっと、できれば今週末かな。
 来週再来週あたりはそっちの高校は文化祭とかで忙しいでしょ?」

「よく知ってるね」

「……嫌味?」


553: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/23(木) 01:07:09.04 ID:5i5UoTSS0

「……どういうこと?」

「そっか……ううん、なんでもないや。
 えと、じゃあ早いうちにどうか聞いてもらって、返答がどっちでも連絡くれるかな」

「了解」

「ありがとね、ほんとに。私のわがまま聞いてもらっちゃって」

「いいよ」

 まず成功はするだろう。
 それで、その先は俺が知ることではない。

「もう夜遅いし切るね」

「うん」

「おやすみなさい」

 うん、と頷いてから電話を切った。
 明日の朝にでも言って、早いうちに片付けるか。


554: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/23(木) 01:08:08.47 ID:5i5UoTSS0

【繋がり】

 そういうわけで、朝練帰りの彼にジュース奢るから自販機行かない? と声をかけた。
 一限の予習やんなくちゃいけないんだけど、と返されたが無理やり連れ出すことに成功する。

 飲み物を手渡してから、どう言ったものかと考える。
 まあ、誤解を生むと面倒だし単刀直入に話をすることにした。

 昨日話された内容を多少彼女側を考えつつ話すと、彼は「マジで?」と目を丸くする。

「嘘なんかつかないよ」

「美柑が遊びたいって言ったの?」

「うん、なんならソラも一緒に聞いてた」

「おまえらが俺を嵌めようとしているとかじゃなくて?」

「なわけないだろ」


555: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/23(木) 01:08:53.96 ID:5i5UoTSS0

 彼は懐疑心を抑えきれないように、何度も俺に問いかけた。
 そんな悪趣味なドッキリとかする仲じゃないでしょうに。

 いやまあ、振られた女の子にいきなり遊びたいって言われたから疑わないわけはないけど。

「でさ、今週の土日ってどっちか空いてるの?」

 埒があかないから、そう切り出した。
 
「土曜は部活だけど、日曜はオフ。
 マジで遊びに行くの? 場所は?」

「聞いてない。遊べるかどうかだけ聞いてくれって」

「なんで未来を通してなの?」

「……俺も知らない。けど、二人で会うのは気まずいんじゃないかな」

 知ったようなことを言った。

「まあ、そうだな。俺もいきなり二人きりは厳しいかもしれない」


556: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/23(木) 01:09:40.98 ID:5i5UoTSS0

 繋がりが切れてしまった相手ともう一度繋がりを結ぶことは難しい。
 会ったら会ったで言いたくないことを言ってしまったり、お互い遠慮をして言いたいことを言えなかったりするだろう。

「秋風さんは、俺も一緒にって言ってたけど」

「おう、そうしてもらえるとありがたい」

「いいのか」

「むしろこっちからお願いしたい」

「デートの邪魔になるかもしれないよ」

「未来はそういうことしないだろ」

 ……そうだろうか?
 いや、しないけど、意識せずとも邪魔になってたりってこともあり得る。

 空気のような存在でいよう。
 そう両の胸と頭に固く誓った。

「善くんは、今でも秋風さんのこと好きなの?」

「……そりゃまあ、な」

 あたりまえのことを訊くと、彼は照れたように頬をかりかり掻いて言った。


557: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/23(木) 01:10:21.23 ID:5i5UoTSS0

「なんだかんだ、別れてから調子出ないし、ふと気付くと美柑のことばっか考えちゃうんだよ」

「それ病気じゃ?」

「いやそもそも恋愛って病気と変わんねえだろ」

 そういう返しをしてくるとは思わなかったから、俺はすぐに返答することができなかった。

 恋愛をしているとドーパミンが分泌されると。その代わりにセロトニンが減少すると。
 何かの本で読んだ時に、これは躁鬱と変わらないのでは、と考えた記憶がある。


558: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/23(木) 01:11:04.07 ID:5i5UoTSS0

 恋人に会えないとイライラしたり、振られて自暴自棄になったりするのは、身体の内部からも説明がつく。
 心の問題であると思っていても、実は身体の問題であったりするものらしい。

「ほら、恋の病って言うじゃん?」

「少女漫画かよ」

「恋煩いなんて言葉もあるし」

「……わかったわかった、どうしても好きなんだな」

「うん、好きなんだよ」

 はっきり言える彼を羨ましく思う。
 それまで長く一緒にいたから言える発言で、嘘偽りのない感情の吐露だ。

「もう一回付き合えるといいな」

「そうだね」

「今から緊張してきたわ」

「当日体調崩したりすんなよ」

 そうなることは確定だとは思うけど、彼がちゃんと成功したら、ソラと二人でお祝いでもしてあげようかな、とそんなことを考えた。


559: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/23(木) 01:12:20.75 ID:5i5UoTSS0

【雨上がりの私】

「たまには一緒に帰らない?」

 と言われて、慌てて頷いてしまったところまではまだ良かった。
 誰かといるよりも一人でいる時間の方が好きだけど、今日はあいにく音楽プレーヤーを自室に忘れてきてしまっていたから。

「ちょっと寄り道していかない?」

 と言われて、まだ時間も余裕があるしと頷いてしまったところまでも、まだ良かった。
 知り合いと帰り道にどこかへ寄り道をするという経験をしてみたいという気持ちは、私だって女子高生なわけでちょっとばかし持っていたから。

 ──けど、さすがに……。
 さすがに、次の言葉を言われたときは頭が真っ白になった。

 べつに嫌だったわけではないけど。
 本当にこの人は突飛なことばかり言ってくる。

 いや、でも冗談かもしれないし。
 部長さんは茶化してくることが多いし。
 けどもう親しげに話を済ませてしまってるわけで。

 ぐるぐると回る思考回路。


560: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/23(木) 01:13:17.51 ID:5i5UoTSS0

 それを打ち破るために意を決して、にこにこ顔でストローを咥える部長さんを見て口を開く。

「あの、どういうことですか」

「え、どういうことって? シノちゃんのお祖母ちゃんには許可とったけど?」

「私は何も言われてないんですよ」

「あ、えー。今さっき言ったからいいじゃん」

「いや、あの……」

 話の通じなさに、思わずこめかみに手をやった。
 それを見て、部長さんは肩をぷるぷる震わせはじめる。

「いいじゃんいいじゃん女同士なんだしー。
 来週の特別合宿の予行演習だと思って、ね?」

「……それ部長さんがしたいだけでしょ」

「かもね」

 "どこかに寄る"の"どこか"の最後が私の居候先で、せっかくだし今日はここで作業をさせてもらう、なんていきなり言われても困ってしまう。

 お祖母ちゃんは私が知り合いを連れてきたことに喜んで、すぐに二つ返事で了承してしまった。


561: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/23(木) 01:14:29.29 ID:5i5UoTSS0

「あ、そうだ」

「どうしたんですか?」

「私が描いてる様子、隣で見ててよ。
 お客さんが来たらそっち行っていいから」

 言われて店内を見渡すと、部長さんの他にお客さんは四人。うち三人がぐーぐー寝ている。いつも半日くらい居つくおじいちゃんの友達だ。

「誰かに見られてないと集中できないのー。頼むよシノちゃん」

 わざとらしく目をうるうるさせる。
 部長さんを見ていると、ちょっと猫っぽいって思う時がある。

 それでなんとなく、未来くんと部長さんは似ている気がする。
 どこが、と問われると言い表せないが、とにかく似ている。

 それに二人は仲が良い。
 ソラくんも二人と仲が良い。

 私はというと、うまく溶け込もうと模索している途中だったりする。
 三人中二人は癖の強いタイプだから、結構やり辛いと思わなくもないのだ。

「はあ、わかりました」

「んんっ、シノちゃん好き……」

 隣に腰を下ろすと同時に身体をがっちりホールドされて頬をすりすりされる。


562: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/23(木) 01:15:07.69 ID:5i5UoTSS0

「……部長さんは、すぐそうやって」

「あっ、もっと……もっとその蔑むような目をお願いします」

「私ってやっぱり目つき悪いですかね」

「でも私は好きだからおーるおっけー!」

 締め付ける力がちょっと強くなる。
 ふわりと香る素敵な匂いに気を取られて、不思議と抵抗する気も失せていく。

 そういうのは前から抱きつかれる度に思ってたけど。
 今日は一段と距離が近い。二人だからかもしれない。

 てか……否定してくれないのね。
 睨んでるように見えるのは目が悪いからなだけなのに。

「ようし」と私を解放してから呟くと、彼女は漫画を描き始めた。

 そのままぼけっと頬杖でもつきながら部長さんのタブレット端末を見ていても良かったのだが、あんまり見られてても集中できないと思って、たまに見る程度におさめる。

 どうやら四コマ漫画のネームはもう終えているようで、今からペン入れを進めていくらしい。
 大部分はすらすらと、時折毛先をくるくる遊ばせてちょっと悩みながら描き進めていく姿を見ていると、時間が過ぎるのがやけに速く感じた。


563: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/23(木) 01:16:57.42 ID:5i5UoTSS0

 部長さんは絵が上手だ。
 私よりも。まず比較対象にならないかもしれない。

 まあそれはいいとして、部長さんの一番のすごさはどういうところかと問われれば、私は真っ先に『パターンの豊富さ』と答えるだろう。

 人であったら表情、髪、服など、参考資料はどこかにあるんだろうけど、描き分けがとても上手く出来ている。
 
 今回描いているのは、2.5頭身程にデフォルメされたキャラクターが動き回るものであるが、
 そういうデフォルメキャラは通常の頭身のキャラと違って頭を大きく描かなければいけないので、見ているぶんには簡単そうだけど描いていると案外難しいはずだ。

 でも、彼女はすいすいやってのけている。なんでもないことのように。
 楽しそうに描く姿を見ていると、ちょっとだけ羨ましい。

 もしそういうふうに描けたら、私はもうちょっとうまくやれたのかなって、ずっとそう考えていたから。

 でも、私には無理だった。
 楽しく描くなんて、私とは正反対のことだ。


564: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/23(木) 01:17:42.25 ID:5i5UoTSS0

 目を戻すと、彼女は私の顔をぐいっと覗き込んだ。

「シノちゃんも描く?」

 部長さんはそう言って、ペンを私の前に持ってくる。
 私はそれを受け取ってしまいたい気持ちもあったけど、うまく手を伸ばすことができなかった。

「いえ、いいです」

「笑ってたから、描きたくなったのかなって」

「……私笑ってましたか?」

「うん、すっごくかわいかったよ」

「部長さんってナンパ男みたいですよね」

「そんなことないんだけどなー」

 だって、この前の美術部の先輩にだってあの短時間であんなにベタベタしてたのに。
 ……いや、べつに部長さんがチャラチャラしていようがいまいがどうでもいいけど。

 気分を紛らわそうと飲み物に手を伸ばすも、中身は空っぽ。
 部長さんの飲んでいた飲み物もすでに中身は氷だけになっていた。

「……おかわり、コーヒーでも淹れてきましょうか?」

「ありがとう。だいぶ進んだしちょっと休憩しようかな。
 アイスコーヒーで、ガムシロとミルクひとつずつでお願い」


565: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/23(木) 01:18:36.50 ID:5i5UoTSS0

「わかりました」

 と言っても、厨房にいるお祖母ちゃんに声をかけるだけだけど。

 お祖母ちゃんは、飲み物と一緒にこれも食べなさい、とフレンチトーストを準備してくれた。
 私自身料理は苦手ではないし、向こうにいるときは全部自分でやっていたから同級生の子たちよりはできるはずだ。

 でも、お祖母ちゃんとお祖父ちゃんは私が料理をすることにあまりいい顔をしない。
 曰く「子供は黙って食事が出てくるのを待ってればいいんだよ」と。

 それが少し嬉しくて、今までずっと頼りきりになっている。
 お弁当もいつも作ってもらってるし、何でも自由にさせてもらっているし、本当に頭が上がらない。

 入部届けには保護者の同意が必要で、それを見せた時はちょっとだけ詰まったような顔をされた。
 あたりまえなのかもしれない、と思う。

 それでも私の意思を尊重してくれた。
 だから、何かを描けるならば描きたいと思う。私は違うんだって思ってもらいたいとも思う。

 たとえその奥に見えているものが、私とは全く違うものであったとしても。


566: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/23(木) 01:19:22.97 ID:5i5UoTSS0

「どうぞ。あとこれ、一緒に食べましょう」

「うん、ありがとう」

 部長さんと一緒にフレンチトーストをつつきながら、私は鞄からノートを取り出した。

 まっさらなノート。スケッチブックは見るのが嫌で、自由帳のようなものを買った。
 何かを描こうとして、何度もページを破ってぐしゃぐしゃにしたから、ページ数は少なくなってしまっている。

「どうしたの?」

 彼女は不可解そうに首をひねる。
 全然食べてないけどもういらないの、とでも言いたげに。

 部長さんが描いてて、ソラくんも描いてて、未来くんも描いてて、私は描けない。
 このままだとなにも描けなくて、誰にもなにも証明できなくて、私はなにも変われなくて。
 部活に入った意味もなくて、考えていた意味もなくて、ここに来た意味もなくて。

 このままでいいの? と私は自分に問いかける。

 答えはわかっているはずなのに、胸がずきずき痛んでうまく言葉に出てこない。


567: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/23(木) 01:20:32.88 ID:5i5UoTSS0

「えっと……」

 と沈黙を埋める言葉を発しかけて私は口籠もった。
 なんとなく、言うべきでないのかもしれないとも思う。

「描きたいんです」

 でも、私はペンを握りながらそう口にした。
 彼女には何度か言っていたことだったけど、そうとしか言いようがなかった。

「ふうん」

 真剣な目で私を見据えて頷く。
 確認するような目にどきりとしたが、がんばって目を逸らさないようにした。

「じゃあ、私の言うようにしてみてほしいの」

「……わかりました」

 彼女はふふんと微笑んだ。
 ちょっと得意げな顔。やっぱり美人だな、と場違いなことを考える。

「じゃあ、おっきく丸描いて」

「……」

「で、こことここにぐるぐるーって黒丸を描いて」

「……」

「それでそれで、ここに半月を描いて。
 最後にツノを四本生やして……完成!」

 私の様子など一切気にせず平然と言うので、思わず言葉を失った。
 完成、完成、完成……。完成?


568: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/23(木) 01:22:11.55 ID:5i5UoTSS0

「裏返してみると、じゃじゃーん。カービィが描けましたー」

「あの、え?」

「描けたじゃん」

「いや……」

 そのまま彼女は私からノートを奪い取る。
「返してください」と言うと「返さないよ」と言われた。

 私はため息をつく。
 苛立ちを感じて怒鳴ってしまいそうだった。どうせ言葉は出てこないのに。

「こんなの絵じゃないです」

「ううん、絵だよ」

「……馬鹿にしてるんですか?」

「馬鹿にしてなんかない」

「してますよ」

 彼女は傷付いたような表情をした。私の心は痛む。
 けれど、すぐに首を振って真剣な眼差しに戻る。

 落書きにも満たないような、そんな絵を私が描いた絵と言ってしまいたくない。
 もっと手を加えれば、あるいは描きなおせば。
 辻褄合わせでも、帳尻合わせでも、私は、だって、今までずっと……。


569: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/23(木) 01:22:56.38 ID:5i5UoTSS0

 藁にもすがる思いで私がノートに伸ばす手を、彼女は黙って払いのける。
 そして、もう一度確認するように「私は馬鹿になんてしてないよ」と繰り返した。

「私はこれでもいいって思う。シノちゃんは難しいことを考えすぎだよ。
 棒でも丸でも線でも、簡単なものだとしても、私は私にしか描けないものがあるって思うし、シノちゃんにはシノちゃんにしか描けないものってあると思うの」

「……」

「もしこれを部誌に載せても、私はなにも言わない。
 むしろ、よく描けたねって褒めるよ。それはシノちゃんにしか描けないものを描けたんだって思うから」

 言ってることがめちゃくちゃだ。
 ほんとにこれでいいですよと私が言ったらどうするというのか。

 でも、彼女の目は真摯で熱のこもったもののように思えた。
 私のことを考えて、私のためを思って言ってくれた言葉なのだと素直に感じた。


570: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/23(木) 01:24:07.56 ID:5i5UoTSS0

 "難しいことを考えすぎだよ"

 その言葉が、耳から離れない。

 部長さんの言い分が正しいなら、考えることはいけないことなのかな?
 部長さんは描ける側の人間だから、描けない私のことなんてちっともわかってないんじゃないかな?

 私が描けなくても世界は回るし、私が描けなくても誰も困らないし、
 私が考えていても誰も得をしないし、私が考えていてもきっと何も起こらない。

 私はつまらない人間だから、それが露呈するのが怖くて、ずっとそれに怯えてて。
 テクニックを磨いて、技巧を凝らせるようになれば、私は私を誇ることができると思っていた。

 いつか自信を持てて、私は私だけの絵を描けるって、ずっと信じてたつもりだった。

 ──あなたの絵って……。
 ──お母さんは賛成しないな。
 ──おまえにはおまえ自身のやりたいことはないのか?


571: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/23(木) 01:25:13.32 ID:5i5UoTSS0

 だから──。

「部長さんの言うことは、間違ってます。
 私が描きたいのは……うまく言葉にできないですけど、もっと他のものです。
 イラスト部の理念は『描きたいものを描く』。あなたが言ってたことです」

「そうだね」と彼女は自然に笑みを浮かべる。

「これは、部活の枠から外れた私の考え。私のスタンスって言い換えてもいい。
 だから、それに反論されたところで私にとってはどうでもいいことなの」

「……」

 つまり、どういうことだろうか。
 そう首をかしげそうになったところで、彼女はいつものように人差し指を私の前に突き立てる。

 にこりと微笑んで。
 なぜか目頭が少しあつい。


572: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/23(木) 01:25:41.46 ID:5i5UoTSS0

「でも、何か反論があるなら、議論の余地がある」

「……」

「シノちゃんの考えからまた別の解決方法を見出していけばいいんだよ。
 ちょっと手荒なことをしたかもしれない。でも、シノちゃん自身の考えを話してほしかったから、避けては通れなかったの」

「ごめんね」と彼女は頭を下げる。

 目上の人にこんなに丁寧に頭を下げられるのは私にとって初めてのことだった。
 戸惑いとともに、感嘆の念を覚える。

「描きたいって気持ちさえあれば、私は何だって描けると思う」

「どうしてそう言い切れるんですか」

「私がそうだったから」

 思わず目を逸らしてしまうくらい、自信たっぷりな言い方だった。
 そうなると、私は言い返せない。


573: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/23(木) 01:26:25.01 ID:5i5UoTSS0

 きっと、さっき出た言葉は、紛れもない私の本心だったから。

 浮かんだ記憶も、誰かの視線も、もう過去のことだ。
 過去であって今現在ではない。もっと言えば未来でもない。

 ずっと嫌いだった。
 もしかしたらそういう意味が込められているのかもしれないと思っていた。

 雨が上がって虹が架かって。
 人は綺麗だと言う。私はそうは思わない。

 それでいいじゃないか、と彼女は言うのだ。

「一晩だけ考えさせてもらってもいいですか?」

「うん」

「私の今の気持ちを整理してみます。
 問題は何なのか、どうしたらいいのか、どうすべきなのか。まとまらないかもしれないですけど、それを聞いてください」

 後にも先にも、どうしてこう言ってしまったのかはわからないだろう。

「うん、楽しみにしてる」

 ただ、"部長さんなら私のことをわかってくれる"のだと、そう信じることが、
 今の私にとっての、何よりの近道であるように思えた。


576: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/24(金) 00:11:19.95 ID:fHcA5xUa0

【それだけ】

 どうしてなのかな。

 ノートの後ろのページを開く。
 文字が並んでいる。それだって、今思えばなんてことのない暇つぶしだった。

 何が違うのかな。
 絵を描くことと、何が違うのかな。

 きっと私は、言葉に出せない想いを絵に乗せようとしていたんだ。
 それができなくなってしまったから、口籠ることを止められなくなってしまったんだ。

 そこにあったから。
 近くにあったから手に取った。

 それだけだ。
 それ以上でもそれ以下でもない。

 私が煩わされているのは、もっと低俗で卑怯で愚蒙なことなのだ。

 繊細な絵だね、と言われたことを思い出す。
 だけど、そうじゃないのに。怖いから、何度も描き直しただけなのに。

 伝えたいことは伝わらなくて、伝わってほしくないことだけ伝わってしまう。

 明るい色が好きだった。
 私を洗い流してくれそうだったから。

 でも、気付いたら黒の絵の具で塗りつぶしていた。
 黒は私を安心させてくれた。染まっていくイーゼルの上の水彩紙は私ではないと、そう教えてくれた気がした。

 でも、必死に糊塗して覆い隠しても、どこかで誰かが本当の私を見つけてくれるかもれない。
 そう願っていた。他人からは、覆い隠した姿が"私"として映るのに。
 浅ましくて醜い存在だと知って、みんな私を嫌っていくのに。

 縋りたいのに、縋れなかった。
 弱いのは、そういうところだ。

 私は、怖いんだ。
 どう取り繕っても、怖いだけなんだ。


577: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/24(金) 00:12:57.64 ID:fHcA5xUa0

【レディ・メイド】

「今よりもずっとずっと前から、わかってたことなんです」

 ふと部室の扉の先からそんな声が聞こえて、俺は取っ手を握る手を咄嗟に引っ込めた。

 廊下を吹き抜ける風は冷たい。
 早く部室に入って温まりたいのだが、この状況ではそうもいかない。

 ソラはクラスの手伝いをするから今日は部活に顔を出さないと言っていた。
 それは俺も同じで、五時前までネジ打ちを手伝っていた。

 となると、声の主は東雲さんで、話の相手は胡依先輩だ。

「きっと私は、描いたものに自分が透けて見えてしまうことが嫌なんです。
 絵を描いていると……自分の嫌な所ばかりが浮き彫りになるみたいで、気持ち悪くなって、やめてしまいたくなるんです」

 そんなに大きな声ではないと思う。
 けれど、この階の部屋は空き部屋ばかりだし、普通に声が漏れている。

 何か大事な話をしているようだし、盗み聞きはよくない。

 でも、その声が、俺をその場から動かさせずにいる。


578: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/24(金) 00:14:15.77 ID:fHcA5xUa0

「怖いんです。自分のからっぽの中身を見透かされるのが怖いだけなんです」

 "怖い"と彼女は言う。

 見透かされること。
 からっぽの中身。お茶を濁すように、だましだまし続けること。
 外側から塗り固めないと、すぐに壊れてしまう脆いもの。

 彼女から感じる儚さは、昔の奈雨に似ているように思える。

「やっぱり、考えすぎなんだと思うな」

 今度は胡依先輩の声が聞こえた。
「やっぱり」という発言から、俺が来る前からこの話は続けられていたのかもしれない。

 部室横の柱に背中を預ける。
 ほうっと息を吐いて耳をすませる。

「作品に作者の精神性が出るのは、あたりまえのことだよ。
 だって、僅かにでもそれが見えないんだったら、それはもう職人技と変わらないんじゃないかって思わない?」

 返事をする声は一言も聞こえない。


579: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/24(金) 00:16:37.97 ID:fHcA5xUa0

「ラブコメを書く作者が恋人欲しさに書いてるとか、人間関係のゴタゴタや恋愛関係のドロドロを書く作者は心に闇を抱えてるとか」

 そういう勝手な判断をされるのは困ることだけどね、と先輩は補足を入れる。

「部長さんの言ってることはわかります。でも……それが綺麗な感情なら、私はここまで悩んでないんです。
 私が感じているのは、もっと汚くて、もっと低次元なことなんです」

 扉一枚隔ててもわかってしまうくらい、切羽詰まった声音だった。
 東雲さんの抱えているものは、やはり内面的なもので、絵が描けないことと分かち難く結びついている。

 綺麗な感情。
 それは一体どんなものなのだろうか?

 人はある程度成熟すると、自身の物差しで目の前の事物を測ることができるようになる。
 それまでの経験から、それまでに得た知見から、様々なことを加味して判断を下せるようになる。

 優先順位をつけたり、取捨選択をしたり、きっぱりと諦めて投げ捨ててしまったり。

 時折それを「大人の目は濁っている」と表す場合がある。
 比喩ではなく事実としても、大人の白目は太陽や紫外線で傷つけられ、黒目とのコントラストが曖昧になってしまい、俺たちの目にはどんよりとしているように映るだろう。


580: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/24(金) 00:17:59.59 ID:fHcA5xUa0

 何にも侵されていない純粋な目、澄んでいる目。無邪気な子供はそう表現されるかもしれない。
 子供の頃のように、深く考えずにただ目の前のことだけを考えていることができるならば、それはきっと幸せなことなのだろう。

 などと考えていると、中から聞こえる声で急に現実に引き戻される。

「すみません、やっぱり抽象的にしか言えないです。
 ごめんなさい、狡いですよね」

「いやいや大丈夫。うんと、そっか……。でもさ、私はシノちゃんが──」

 それきり、部室の中から聞こえている声が止んだ。
 世界が止まったかのように、フロア一帯に静寂が訪れる。

 かと思ったら、ガラッと急に扉が開いた。

「おお、白石くんじゃん」

「おわっ」

 思わず変な声が出た。
 はろはろー、と先輩が手を振る。


581: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/24(金) 00:19:05.68 ID:fHcA5xUa0

「やだなー、入ってくればいいじゃん」

「すんません、入りづらかったんで」

「あ、うん。冷えるし中に入りなよ」

 何も咎められなかった。
 気まずさを抱えながら扉をくぐると、すぐに東雲さんと目が合う。

「未来くん……」

 彼女は呆然と呟く。
 一層増してしまった気まずさから逃げるように、視線だけで挨拶を済ませてさっさと自分の席に座る。

 もう一度ちらと目を向けると、彼女は肘に手を回して自分の身体を抱き、どこか所在なさげに顔を俯かせていた。

 その様子を見て、胡依先輩はにこりと微笑む。

「白石くんにも聞いてほしい話だったから、ちょうど良かったかも」

「あ、いえ……何の話ですか?」

「もう、聞いてたんでしょう?」

 そう言って、確信めいた目を向けられる。


582: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/24(金) 00:20:05.60 ID:fHcA5xUa0

 俺はできるだけ平静を装って頷く。
 東雲さんは、ばつの悪そうな顔でこちらを睨め付けた。

「ごめん」

「……うん」

 聞くつもりはなかったんだ、と重ねたかったが、胡依先輩の声がそれを遮る。

「続きを話そっか」

「でも……」

「シノちゃん、大丈夫」

 宥めるような優しい言い方で、先輩は東雲さんの肩を抱く。
 俺が出ていけば済む話だ、と立ち上がろうとするも、胡依先輩が「座ってていいよ」と先に釘を刺される。

「えっとね、たとえばの話なんだけど」

 言いながら、先輩はテーブルに置いてあるメモ帳と鉛筆を取り出す。
 そして、それを真っ黒になるまで塗りつぶして、東雲さんに手渡した。


583: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/24(金) 00:21:16.66 ID:fHcA5xUa0

「なんですか、これ」

 と東雲さんが眉を寄せて問いかけると、

「これじゃわからない……か」

 と呟いて、先輩はパソコンの画面を表示させる。
 真っ白な画面を墨汁の入った硯をひっくり返したような黒色に染め上げて、また東雲さんに視線を戻す。

「これならわかる?」

「……いえ、わからないです」

 ふむ、と先輩は頷く。
 俺もわけがわからない。

「じゃあ、これはどうかな」

 フルーツバスケットから一個のりんごを取り出しから、またパソコンをカチカチと操作して、画面に熟しかけのりんごの絵を表示させた。

「これは──」と東雲さんが小さく呟く。

「『これはリンゴではない』ですか?」

「そうそう、シノちゃん物知りだなあ」

 はて、と胡乱げな視線を向けると、胡依先輩はずびしっと俺の前に指を突き立てた。


584: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/24(金) 00:22:32.40 ID:fHcA5xUa0

「絵の中のりんごがどんなにりんごに似て見えても、それはりんごじゃなく、ただの観念でしかない。
 ルネっていう有名な画家の『イメージの裏切り』って作品群のひとつなんだ」

 と言われても、画面に表示されている絵はりんごにしか思えない。
 だから、それはきっと皮肉を含んでいるのだろう。

 絵は絵であって、それは"本物"にはなり得ない。
 それは"虚像"であって、誰かの物差しによって測られた「観念」にすぎない。

 私たちの目に映る青空は現実なのか。
 口付けを交わす恋人は本当に存在しているのか。

 そんな絵を前に見たことを思い出す。

 同時に、パースの記号論を思い出した。
 だからなにって話だけど。

「もし私がこのりんごをかじって、県美術館のフロアにガラスケースの中に入れて展示するとしたら、見にきた人の多くは足を止めると思う。
 さっきの私が塗りつぶしたものだって、『無』とかそれっぽい名前を付ければ、美術作品として成立しちゃうんだよ」


585: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/24(金) 00:24:02.32 ID:fHcA5xUa0

 評論家気取りの人が「複雑な心情を表現してますね」って言うかもしれない。
 逆に、何も知らない人が「こんなの適当じゃん」って言うかもしれない。
 もちろん、しかるべき場所に展示することが条件だけどね。

 どこかうたうように胡依先輩は言葉を紡ぐ。
 その姿は普段の彼女よりも楽しげで、少女のようなあどけなさを感じる。

「デュシャン」

 と東雲さんがぼそっと言うと、先輩はうんうんと大げさに頷いた。

「シノちゃんってやっぱり物知りだよね」

「……いえ、知っててあたりまえです」

 じゃあ知らない俺は……と一人で落ち込んでいると、彼女はそれに気付いたのかあわあわと狼狽える。
 手をひらひらと振って大丈夫だと伝えると、彼女はほっと胸を撫で下ろした。

「ちょっと毛並みは違うけど、『4分33秒』も似たことが言いたいんだと思うな」

 また知らない話だ。
 けれどそれは東雲さんも同じようで、そんな俺たちに対して胡依先輩はくすりと微笑む。


586: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/24(金) 00:25:30.51 ID:fHcA5xUa0

「美術作品は場所で定義されるものなんだよ。
 でも、ここは美術部と違って制約とか制限なんてものは存在しない。
 描きたいものを描いて、それがどんなものであったとしても、私は──この部活は、それを認めるよ。
 そういう部活にしてほしいって、ヒサシちゃんにも、前の部長にも言われたんだ」

 なるほど、と思った。

 美術館の展覧会には何度か足を運んだことがあるけど、あそこは"印象派"という宣伝文句を出すだけで満員御礼だ。
 したり顔で鑑賞して、いい気分になって帰っていく。画家の名前だけ見て帰ってしまう人だって少なくはない。

 何度も見ないとわからないものだってあるのに。
 両親の知り合いの家のトイレには浮世絵が飾られているらしい。真意がどうかはその人に聞いてないから知らないけど。

 場所で判断されるとしたら、ここは言っちゃ悪いけど定義が曖昧すぎる。
 イラストと言っても多種多様であるし、部誌に関しても、「絵でも文字でも何でもいい、昔からそうだった」と彼女は言っていた。


587: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/24(金) 00:26:14.42 ID:fHcA5xUa0

 だからこそ、ということだろう。

 わざとらしい咳払いが聞こえて、先輩に向き直る。

「それで、ここからが本題」

 言い切ると時を同じくして、東雲さんが息を呑む音が聞こえた。
 どこか楽しげな話から、真面目な話に移ると思って俺も少しだけ身構えたのだが、依然として先輩の態度は変わらなかった。

「シノちゃんは、作品に自分が透けて見えることが嫌だって言ったけど、
 それを決めるのは絵を見た人であって、シノちゃん自身じゃない」

 東雲さんは目を伏せて頷く。
 まるで、最初からわかっていたというふうに。

「作者の体験談を少しの脚色もなく文や絵にするとしたら、それはただの自伝だと私は思う」

「……そう、ですね」

 沈んだ表情を浮かべる彼女の面を上げさせて、正面から目を見つめながら、ゆっくりと言葉を継ぐ。


588: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/24(金) 00:28:02.62 ID:fHcA5xUa0

「でも、自分の体験や感情を落とし込むことは、なにも間違ってない」

 その言葉に、彼女は目を丸くする。
 確信を突かれたか、全く予想だにしていないことであったのか、あるいはその両方か。

「想像でしか描けないものがあることと同じように、経験していないと描けないものだってある。
 無機質なものよりは、どんな精神性が見え隠れしていたとしても、何倍も価値がある」

 自分の脆さ危うさを表現してもいいし、自分の理想を表現したっていい。
 絵柄が好みなだけで満足してくれる人もいるし、作品や登場人物にバックボーンやストーリー性を求める人だっている。
 無意味なものでも良いって言う人もいるし、無意味なものに価値はないって断言する人だっている。

 ──決めるのは、作品を見てくれた人自身だよ。

 そんな言葉は信じられない、というように東雲さんは首を横に振る。
 そして、ため息混じりに口を開く。

「でも、それは……よく考えずに丸投げすることと何が違うんですか」

 問うとすぐに、胡依先輩は「違わないよ」と気迫のこもった口調で言った。


589: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/24(金) 00:29:16.51 ID:fHcA5xUa0

「だって、言ったじゃん、見た相手に任せればいいんだって。
 それで何を言われたって、創ったものを一番知ってるのは作者なんだから」

「……」

「だから、どんと構えてればいいんだよ」

 真摯な表情で、でも、簡単なことのように彼女は言う。
 けれど、それは誰もができるほど簡単ではないと思ってしまう。

 目を瞑ること。
 口を閉すこと。
 耳を塞ぐこと。
 そうして見えないように蓋をしても、どこからか溢れてしまうもの。

 いい加減にではなく、一途に取り組んだからこそ、自分と分かち難く結びついたもの。

 自分の領域に土足で踏み入られて、勝手に優劣をつけられて、あれこれ知ったようなことを言われて。
 自分の嗜好や個性、果ては内面までを推察されて、白日の下に晒されるかもしれない。

 それを、気にしないでいることなんてできるのだろうか。


590: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/24(金) 00:30:21.06 ID:fHcA5xUa0

「でも、それでも……私は、私が描くものをきっと気持ち悪いって思ってしまいます」

 東雲さんは目に涙を浮かべてそう言った。
 拭うことすら忘れたように、両手を胸の前できゅっと握りしめて、胡依先輩から目を逸らす。

 今日はもう帰ります、と続けて、荷物を抱えて足早に部室を後にする。
 扉の閉まる音がしてから、先輩は緊張の糸がほどけたように、肩をすくめて、さらりと髪を撫でた。

「どうだった? 白石くん」

「あ……泣いてました、よね?」

「泣いてたね」

 女の子泣かしちゃったなー、と彼女は息苦しさを我慢するように呟く。

「……でも、わかった気もする」

「なにをですか?」

「子ライオンを崖から突き落とす親ライオンの気持ちかな」

「どういう気持ちですか、それ」

 意図はわかっていたけど、確認の意味を込めて問いかけた。

 でも、胡依先輩は俺の質問に答えることはなく、ほのかな微笑をたたえるのみだった。


591: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/24(金) 00:31:08.74 ID:fHcA5xUa0

 数分の沈黙の後、何かを思い出したように先輩は口を開く。

「私と白石くんは共犯だよ」

「……えっと」

「あの子は、誰にも頼らずに自分で自分を変えるしかない。
 だから、勝手に手伝っちゃダメだよ。きっと、それじゃどこにも進めないから」

 種は蒔いた。
 芽が出るかは、彼女に依る。

「先輩は優しいですね」

「……そうかな?」

「そうですよ」

「ううん、それは違うよ」

 嘘でも誇張でもなく、ただ思ったままを言ったのだが、彼女は頑として認めようとはしなかった。

「私は、誰にでも優しくすることなんてできない」

「……」

「私なんかより、白石くんの方がよっぽど優しいよ」

 その、彼女の透き通った瞳の前では、俺の浅ましさが見透かされているように思えた。

 ……だから、俺は何も答えることができなかった。


595: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/25(土) 00:04:34.41 ID:3lDaFXas0

【抱えること】

 私には無理だ。耐えられない。
 構えていることなんて、できない。

 貶されることは、何も怖くない。
 下手だね、と言われるならまだいい。

 事実、私は自分の絵を上手いだなんて思ったことは一度たりともない。
 何度か賞を獲ったことはあれども、その絵にしたって満足のいくものは描けなかった。

 絵を外に出してみない? と中学時代の顧問の先生に言われて、私は断った後を想像するのが怖くて、反射的にそれに頷いた。
 ちょっとだけ、お母さんとお父さんが私のことを見てくれるかもしれないって下心はあったけれど。

 部長さんの言ったことは理想論だ。
 つまり、理想であって現実ではない。

 ──あなたの絵って、

 また誰かの言った言葉が、私の心臓を揺さぶる。

 ──前から思ってたけど、

 誰の言った言葉だったかな。
 友達だと私は思ってた気がするけど、そうじゃなかったのかな。

 けれど、今考えても思い出せないってことは、私にとってもどうでもいい存在だったのかな。


596: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/25(土) 00:06:23.62 ID:3lDaFXas0

 ──気持ち悪いね。

 涙が頬をつたう感覚に驚いて、その場に座り込んだ。
 リノリウムの廊下はひどく冷たい。嫌になる、何もかも。

 そうだよね。一人で頷く。
 ……私の絵は、気持ち悪いよね。

 その言葉だけじゃない。
 私の絵に対して、いろいろな人に、いろいろな言葉をかけられた。

 いつしか褒められることですら、私は怖くなってしまった。

 そんな絵を描いた私は、気持ち悪いよね。
 そんな絵しか描けない私は、絵を描くに値しない存在だよね。

 ダメなのかな。
 ほんとうに、ダメなのかな。

 駄目だ、と私は答える。
 そうやって生きてきた。我慢して生きてきた。

 けれど、部長さんは「それでいいんだよ」と言った。

 ──この部活は、それを認めるよ。
 ──でも、自分の体験や感情を落とし込むことは、なにも間違ってない。
 ── 一番知ってるのは作者なんだから。

 どうして部長さんは、あんなに毅然とした態度でそんなことを言えるのだろうか。
 私と彼女の、何が違うんだろうか。


597: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/25(土) 00:07:32.60 ID:3lDaFXas0

 私は私の描きたいものを描いてきたつもりだった。
 わからなくなってしまっても、私には描きたいものがあるんだって、そう思いたかった。

 いつか忘れられるって、欠落していたとしても、私は生きていけるって。
 でも、何もかもが勘違いだった。思い込みだった。

 私は描かなきゃ生きていけないんだって、逃げ出してから気付いた。

 受け入れなきゃいけないんだって。
 抱えて生きていかなればならないんだって。

 "かいている"時も、それを止められなかった。
 ただ終わりのない幸せは、いつだってかけなかった。

 実家に飾ってある虹の絵を見ると、いつも自分が責められてるように思えた。


598: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/25(土) 00:09:37.59 ID:3lDaFXas0

 七色の彩りが、
 雨上がりの青空が、
 天まですら届きそうなその整ったカタチが、

 私は何者でもなくて、どこにも走っていくこともできなくて、何かを生み出すことなんてもってのほかだと、そう突きつけてられているように思えた。

 "かいていた"ものは、やっぱり途中で止まってしまった。
 怖かったから。私の終わりが見えなかったから。

 言わなきゃ。
 声に出さなきゃ。
 言葉にして、彼女に伝えなきゃ。

 そうじゃないと、私はずっとこのまま変われない。
 描きたいものが何かなんて一生わからないまま、簡単に終わってしまう。

 涙が止まらなかった。
 今まで、ずっと堪えてきたのに。

 ここで泣き喚いても、誰も助けてくれない。
 頼れる誰かなんて一人もいない。
 そう思っても、私はきっとどこかで誰かを求めてしまう。

 ……それでも、一人で立ち上がって進んでいくしかないんだ。
 駄目だと思っても、諦めたくなっても、誰に何を言われても、私の決着は私でつけるしかないんだ。

 だから、私は──。


599: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/25(土) 00:10:51.06 ID:3lDaFXas0

【その先】

 今日の夜は寒いし鍋にしよう。

 そう考えながら夕焼けの道を歩くことしばし。

 スマホを取り出して、先程開いた画面を表示させる。
 秋風美柑からの連絡は思ったよりも早く返ってきていた。

「ありがとう、良かった」
「じゃあ、日曜日の13時に駅前のモール前の噴水に集合ってことで」
「よろしくお願いします」

 あー返信忘れてたわ、ということで、適当にスタンプを送信!
 奈雨に怒られた時の二の舞になる気がするが、秋風さんにどう思われようが正直どうでもいい。

 二人の様子を鑑みれば鑑みるほど、「俺マジでいらないんじゃないすかね……」となるのだが、付いていくことを了承してしまった手前、今更引くにも引けない。

 三人で会って具体的に何をするんだろう。
 モールとか映画館しか知らねえ……まず行かないし、行っても服屋を周って適当に買って帰るくらいだ。


600: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/25(土) 00:11:48.58 ID:3lDaFXas0

 買い物にしても我が家の近くには愛すべきスーパー(なぜか同じスーパーが三キロ四方に二つもある)とバラエティに富んだコンビニエンスストアがあるから街に出ていく必要もあまりない。

 便利な世の中だよ。ほんともう……いろいろなものが便利になりすぎて逆に困ることもあるくらいだし。

 たとえば今から家に帰ってする料理にしたってそうだ。

 時間が経って冷えてしまったものだって、レンチンすればまた温かくなって食卓に並ぶ。
 あー今日は料理メンドクセ、となれば、レトルト食品で間に合わせることだってできる(セブンプレミアムの金のビーフカレーは美味しい)。

 ただ、それにだって裏側はある。

 電子レンジの電磁波で細胞が破壊されるとか、酵素が破壊されるとか。
 添加物が沢山入ったものを食べ続けていると身体に悪影響だとか。

 保存料、発色剤、乳化剤、などなど。
 頭が働かなかったりネガティブになりがちなのは、それが原因だったりするかもしれない。


601: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/25(土) 00:12:53.77 ID:3lDaFXas0

 街の至る所から和式トイレが消えて「しゃがむ」「踏ん張る」という日本人ならではの動作をしなくなったことによって、
 いろいろな所が緩くなってしまうだとか、腸に負担がかかるだとか、果てはガンになりやすいだとか。

 営利目的のこじつけや不明瞭なソースによる信憑性のない情報もあるのだが、それにしたって情報化/便利化が進まなければ得ることすらなかったものだ。

 どうしてこんなにどうでもいいことばかり考えてしまうのかというと、
 やはり部室での胡依先輩と東雲さんの会話が尾を引いていたからだった。

 話の相手は俺ではないとか、
 あまりに酷なことばかり言っていたとか、
 言いたいことは多くあるけれど、でも、とにかく刺さる話だった。


602: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/25(土) 00:13:21.22 ID:3lDaFXas0

 本気で取り組んでいるからこそ、彼女は、もしくは彼女達は、あそこまで悩んでいる。

 それに比べて、自分はどうなのだ。
 不真面目とまではいかないにしろ、咎められない程度に取り組めているのだろうか。

 自分の能力を過信してはいないだろうか。
 ちゃんと期限までに終わらせることができるのだろうか。

 その先にあるものは、やり遂げたことへの達成感か、上手くできなかったことへの絶望感か、はたまた終わってしまったことへの虚無感か。

 それを知りたいと思うなら。
 ……今はとにかく、ペンを握らなくては。


603: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/25(土) 00:14:59.26 ID:3lDaFXas0

【パンはパンでも……?】

 面倒な日曜が来てしまった。
 土曜日はずっとパソコンとにらめっこしながら、夜は善くんから来るラインに適当に返信していた。

 部活が終わったであろう十七時から二十三時に渡って同じような内容がエンドレスに送られてくる。
「ソラは茶化すから迂闊なことは言えない」という文言もあったが、あいつだってそれくらいは考えそうだけどな、と思う。

 そんなに不安なのかな。
 彼は爽やかクール系イケメンだと思っていたのに。サッカー部らしくノリもいいし。

 へっ女なんて夏場の虫ほどいるぜ、くらい言ってほしいほどだ。
 普通は星の数ほどって言うかもしれない。飛んで火に入る夏の虫。鴨葱。
 バレンタインデーには三人くらいに告られてた。
 密かにソラと分けてもらったのは内緒だ(秋風さんが怒るから処理に困っているという名目だったけど)。

『呪い 方法 モテなくする』で検索していたソラのことは誰にも口が裂けても言えない。

 面倒事の前はどうでもいい思考に陥りがちである。
 現実逃避だ。あんまり得意じゃないから意味のないことばかり考えている。

 おかげで今日の朝食のトーストは味を感じない。ゴムを食べてるみたいだ。


604: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/25(土) 00:15:50.64 ID:3lDaFXas0

「おにい、ジャムつけないの?」

「え」

 なるほど、そういうわけで。
 プレーン状態。ほのかな甘み。小麦粉だ、この味は。

「いやあ、ジョークジョーク。寝ぼけてた」

「……」

 じいっと見つめられる。
 パンになにもつけない人や豆腐になにもつけない人だっているかもしれないのに。

「そういえば、最近よく夜更かししてるけど、なにしてるの?」

「……うるさかった?」

「ううん、音とかしないし。
 でも、なにかやってるでしょ?」

「イラスト部で部誌作るんだよ。
 それで、パソコンで載せる絵を描いてる」

 へえー、と佑希はどうでもよさそうに頷いた。それでいい。
 彼女は休日の優雅な朝なのにも関わらず、もう部活のジャージに着替えていて、寝癖もしっかり直されている。


605: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/25(土) 00:17:21.92 ID:3lDaFXas0

「今日も午前から部活なのね」

「うん。中間の後すぐに記録会あるし、文化祭期間中は満足に練習できないから」

「大変なんだな」

「でも次はもっといい記録出したいから、今日もがんばるね」

 ぞいの構えをしてえへへとはにかむ姿はきらきら眩しい。
 おーほしさーまーきーらきらー。
 思わず心の中で歌を諳んじてしまった。

 だってめっちゃ眩しいんだもんな。
 今日も相変わらず澄んだ目をしている。
 俺はもやもや曇った目。寝起きだからだろう。

「でさ、今日は早起きしてどこか出かけるの?」

「あー、うん。野暮用というか、ミッションというか……」

 なんだろうな。お手伝い? 小間使い? 人数合わせ?


606: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/25(土) 00:18:00.77 ID:3lDaFXas0

 善くんと連絡を取っている間も俺の行く意味を考えていたが、結局何一つとしてわからなかった。
 憂鬱だ。気まずい時間もあるかもしれない。

 だが、影になっていれば数時間で終わることだ。見えないように、カメレオンのように主役の二人以外の周囲に溶け込めばいい。
 僕は影だ。影は光が強いほど(以下省略)。

 何の漫画だっけな。俺もゾーンに入って目から燃え盛る焔を出したい。

「もしかして女の子と?」

 馬鹿なことを考えていると、彼女はそう質問をして小首をかしげる。
「うん」と答えると、後に続く質問はひとつに確定されてしまう。

 だから、勘違いのないように、

「秋風さんと善くんと遊んでくる」

 と伝えた。


607: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/25(土) 00:18:50.00 ID:3lDaFXas0

 佑希は一瞬きょとんとした顔をして、あははと笑う。
 なにかに安堵したのか、またしてもどうでもよさげに見える。

「あたし今日は六時前には帰ってくると思うけど、夜はどうするの?」

「帰ってくると思う」

「そっか。今日はなに食べようね」

「出前の寿司でもとろうか」

「おにい今日おかしくない?」

「ふつうです」

「……それじゃあ、秋めいてきたし炊き込み御飯にしようかな」

「楽しみにしとく」

 そういや十三時って微妙な時間だ。
 時間指定以外されていないから、昼を食べるのかもわからない。

 今更二人に連絡を取るのは面倒だ。
 ほとんど部外者の分際でやる気あると思われるのは好ましくないし。

「あ、もう出るから洗いものよろしく」

「うん」

 さて、と俺も午前中に塗りを進めておこうと立ち上がると、ブルブルとスマホが振動した。

「突然で悪いんだけど、今日動きやすい格好で来てくれない?」

 俺はため息をついた。


610: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/26(日) 00:44:48.64 ID:SbxpzmOI0

【もっと】

 正午を過ぎてから動き出すことにした。

 結局男女どちらにも連絡をして、適当にジャージを着て外に出た。
 今日は風もなくあたたかい。寝るのに絶好の休日だというのに、どうして外に出なければならないのか。

 これも運命か。読み方は"さだめ"。
 まあ、秋風さんの言ってたことも気になったし。

 学校に吸い込まれていく野球部やバスケ部を横目に駅の方角へと歩みを進める。
 日曜日のお昼時なのに学生以外の人が全くいない。車はよく通ってるけど。

 ちょうど中間地点ほどにある善くんの家のインターホンを鳴らすと、彼はすぐに出てきた。

「おっす」

 すーっとつむじからつま先まで眺められる。

「あ、そんなにジャージ?」

 彼は普通に私服だった。
 かっこいい。着崩し方がプロい。

「普段運動しないから、シャカシャカにスウェットしか持ってないんすよ」

「わりー、じゃあ俺も合わせるわ」

「うい、待ってるね」


611: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/26(日) 00:45:53.12 ID:SbxpzmOI0

 彼とこうして二人で遊びに行くのは初めてのことかもしれない。
 中学時代の彼は部活とか生徒会活動で忙しかったし、遊ぶとしてもソラと三人でだった。

 秋風さんとのことを相談されてから暫く間を置いて、志望校が同じだと判明してそっから仲良くなった。
 一応今も含めて四年間クラスが同じだから、知り合ってからは長いのではあるが。

 待っている間にスマホを開く。

 彼女からの連絡は何も来ていない。
 橋渡し的なことはもう疲れた。
 お互い連絡先は持ってるんだから自分たちで連絡を取ってほしいものですよ。

「ごめん。待たせた」

「うん」

「もう時間だし行こうか」

 爽やかに言う彼はアンダーシャツまで着ていた。ガチすぎるんじゃなかろうか。
 めっちゃ関係ないけど、アンダーアーマーのジャージってかっこいいよな。運動しないのに欲しかったりする。


612: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/26(日) 00:46:54.01 ID:SbxpzmOI0

 地下鉄駅まで行き、上り線に乗車して数分揺られると、すぐにここのあたりで言う駅近くの"モール"に到着する。

 鈍行もあるにはあるのだが、駅から五分程度離れているため、地下鉄の方が時間を少しだけ短縮できる。
 人の数も地下鉄は少ない。値段が高いのが少々ネックではあるが、気にしなければ遅延やらなんやらとも無縁で使い勝手もいい。

 噴水前噴水前……と半ば迷いながら歩いていると、ベンチに秋風さんの姿を見つけた。

 ちょっとこの季節には肌寒そうなスポーツウェアにオレンジ色の運動靴。
 こちらも真面目に運動をしそうな服装。そういや運動部だったっけな。

 彼女はこちらの存在に気付くと、はっとした顔をして、たたたっと小走りで駆け寄ってくる。

「こんにちは」

 俺はまず挨拶をした。会釈される。
 二人はお互いを見て変な顔をしている。

 緊張感を拭えないのか、善くんはしきりに頬を掻く。
 が、このままでは埒があかないと思ったのか、息を飲んでから口を開いた。


613: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/26(日) 00:47:37.17 ID:SbxpzmOI0

「久しぶり」

「うん」

「でも……ないな」

「そう、だね」

 うん。何だこれ。
 さながら三流映画の再会シーンのようだ。

 善くんは会ってからどういう態度を取ろうか練習していると言っていたが、それも吹き飛んでしまったらしい。
 それは秋風さんも同じようで、彼の目を見たまま無言で固まっている。

「……まずはどこに行くの?」

 添え物とはいえ、こういう時に役立たなくてはな。
 自分がこの気まずさに何時間も耐えられないだろうから、早めにパンチを打っておきたい。

 彼女は俺をちらと見、ほうっとため息を漏らす。


614: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/26(日) 00:48:40.66 ID:SbxpzmOI0

「あ、うん。えっと、どうせだから身体動かしたいなって思って」

「ここからまた歩くの?」

「七、八分くらいかな。スポーツセンターだよ」

「そっか。……じゃあ、歩こうか」

 俺が勝手に歩き出すと、彼女は案内するように少し前に出た。
 すぐさま善くんが隣にやってきて、うーんと首をひねる。

「どうしたの?」

「……ああ。なんでもない」

「やっぱり緊張してるのか」

「正直ちょっとな」

 これが初々しいカップルなら「なんと微笑ましいことよ」とでも言えるのだが、いかんせんどうとも言いようがない。

 てか、なんだよ運動したいって。
 普通こういう時って時間潰すために映画をチョイスして、さりげなく隣で手が触れて、
 映画の終わる頃には仲良くなってる、とかそんなんじゃないんすかね……?


615: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/26(日) 00:49:43.01 ID:SbxpzmOI0

 歩調を早めて三人で並んで歩く。

 適当な話を振られて、相槌を打つ。
 二人は会話をしないから、両方から違う聞こえてよくわからない。
 聖徳太子ってやっぱすげえんだなあ……と歴史上の偉人に悠久の思いを馳せていると、目的地にはすぐに到着した。

 名前はそのままスポーツセンター。
 本当に小さい頃に何度か来たことがある。

 ボーリングに温水プール、トランポリンに人工芝の開放運動場。身体を動かすにはもってこいだ。
 ついでに上階にはゲーセンやらレストランもあるらしく、子供から大人まで幅広く利用者がいるらしい。

 中に入って券売機で一日券を買って窓口に提出する。
 千円ってのがまた。そんなに長い時間いるわけでもないでしょうに。

 財布の札の残り枚数を数えていると、ふいに秋風さんに声をかけられた。

「未来くんって運動できるよね? 佑希ちゃんの兄妹だし」

「まあ、それなりには」

「ボーリングとか、よく行く?」

「行かない」

「ふうん……最初はどこで身体動かす?」


616: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/26(日) 00:50:42.83 ID:SbxpzmOI0

 俺に決めさせんのかよ……と思う。確実に顔に出ている。
 それを見て、彼女はごめんねと視線で言ってくる。

 なんだかこちらが申し訳なくなる。

 まあ、いいか。
 俺も動ける格好をしてきたわけだし、風邪予防の運動と捉えればギリいける。

「善くんはどれがいい?」

「……ああ、うん。空いてそうだしボールでも蹴りにいくか」

「だってさ」

「よし、行こう」

 おー、と拳をあげて秋風さんが運動場へ足を向ける。
 一歩、二歩と歩く姿を見ていると、急に善くんが俺の横をすり抜けて、彼女の肩に手を触れた。

 そして、「美柑さ」と彼は比較的冷静な口調で口を開く。

「なんか話あるんじゃないのか。いきなり呼び出して」

「まあ、あるけど」

 彼女の反応はそっけない。
 善くんは額に手を当てて、またしても小さなため息をつく。


617: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/26(日) 00:51:35.95 ID:SbxpzmOI0

「……ここでいきなり運動しようなんて言われても、訳がわからない」

「そうだね。ごめん」

「そう謝られても……いや、俺のほうこそごめん」

「ううん。話については、あとで言うから今は遊ぼう」

「ああ、わかった」

 彼は納得することにしたようで、それ以上は追及しなかった。
 生殺し状態ってこういう時のことを言い表すんですかね、きっと。

 靴は履き替えなくてもいいらしく、土足で入ってボールを入口で借り、端に荷物を下ろす。
 善くんは心なしかさっきよりも面持ちが良くなっている気がする。

 仕切りで区切られた反対側では、バスケットコートの半分で三人対三人(スリーオンスリーって言うんだっけ?)をしている人たちがいる。
 こちら側の芝のコートでは、十数人の学生とおじさんの入り混じった集団がフットサルをしている。

 秋風さんは「ちょっと走ってくる」と言ってコートの脇を周り始めた。
 善くんはフットサルを眺めつつリフティングをしている。

 俺はスクワットでもしてればいいんすかね、と彼に視線を向けると、上にボールを蹴り上げキャッチして、こちらに向き直った。


618: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/26(日) 00:52:28.80 ID:SbxpzmOI0

「未来もやる?」

「いや、サッカーあんま得意じゃない」

「なんだよ運動得意だろ」

「……わかった、貸して」

 ボールを受け取って、二十回程右足で蹴り続ける。
 左足に移し替えても意外とできた。才能があるのかもしれない。

 サッカーやってたら百年に一度の革命児として世界に名を轟かせていたかもしれない。
 いやあやってなくてよかった。
 と思ったところでボールが落ちた。ころころと転がって、善くんが足でそれを止める。

「上手いじゃん」

「なんかできた」

「サッカーの授業んときもっとやればいいのに」

「キーパーが一番楽しい」

「いつも通り変わったやつめ」

 とはいえ、スキルテストはちゃんとやったけどな。
 初心者に優しく十五回でA判定だったからクラスの人もだいたいできていた気がする。


619: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/26(日) 00:54:03.49 ID:SbxpzmOI0

 フィールドプレーヤーをやると、足の内側で蹴るのに慣れていないから、ついついつま先で蹴ってしまって爪を殺してしまう。
 ということで、俺はいつもキーパーだ。校庭を広く使っているから暇な時には座ってサボれるしホワイトな職業である。MFとかブラック企業の社畜でしょアレ。

 まあ、ドリブルで相手を躱すのは楽しいけど。
 サッカー部のボール捌きを見ると魔法使いみたいだ。洗練されていて、無駄な動きが少ない。

 ソラの感覚の話を思い出す。
 たしかに、善くんは足にボールが吸い付いているように見える。

 それから何回かパスをし合っていると、秋風さんが戻ってきた。
 はあはあ息を切らして上着の裾をきゅっと握りしめている。どうやらこちらもこちらでかなり緊張していたらしい。

 善くんはその様子を見てくすりと笑うと、彼女に向けてボールを蹴った。

「ここ場所あるし、鳥籠やろーぜ」

「うん、でも三人で?」

「まあ、できなくもないだろ」

 断る理由もないので了承する。
 彼女も同じように頷いて、俺にボールを蹴ってきた。

「最初は俺が鬼。取られたらチェンジで、五分後鬼だった人がジュース奢りでいこう」

 腕時計を見ながら善くんが言った。
 やはりサッカーをしていると楽しいのだろう。顔つきもにこやかになっている。


620: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/26(日) 00:55:35.34 ID:SbxpzmOI0

 さあて、と秋風さんに向けてボールを蹴る。
 一瞬で取られる。あれれー? おっかしいなー。

「あはは、未来くん下手!」

「上手いも下手もないと思います」

 チェンジする。追いかける。なかなか取れない。
 そうだ。善くんの頭上を越える高さのパスをすれば良かったんだ。今更感。
 てか秋風さんパス上手いし、普通に体育会系じゃねえか。

 俺が必死にもがいていると、パスをしながら二人は会話を始めた。

「美柑ってサッカーするの好きだったっけ」

「うん。いつもは見てるだけだけど、やるのも好き」

「言ってくれればこういうとこ来たのに」

「県スタに試合観に行ったりしたじゃん」

「あー、でもそん時ちょっと退屈そうに見えたから」

「そんなことないよ。楽しかった」

「そっか」

 まてまてなんか普通にイチャイチャし始めてませんか。

 なるほど、これが会話のキャッチボール。比喩でもリアルでも。
 普段ほとんどドッジボールしかしていないから、素直に羨ましい。


621: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/26(日) 00:56:13.91 ID:SbxpzmOI0

「あ」

 簡単に取れた。
 つーか善くんが珍しくぼうっとしてた。

「チェンジ」

「未来もやるな」

「いま何分?」

「あと二分半」

 言うとすぐに、めっちゃプレッシャーを掛けられる。
 慌てて蹴り上げる。今度はうまくできた。

「うわっ」

 と思ったら今度は秋風さんが取られた。
 三人なんだから相手の方で待ち構えてれば余裕で取れてしまうのだが、
 まあそこは気にしないということで。
 秋風さんの動きは俺よりも全然機敏だし。運動不足がすぎる。これだけで疲れている。

 その後は一進一退の攻防を繰り返し、善くんの声でようやく勝敗がついた。

 結論から言うと、俺が負けた。
 足がついていかなかった。あと二人のパスがうますぎた。


622: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/26(日) 00:57:14.98 ID:SbxpzmOI0

 五分と言わず三分も持たなかった。
 俺はウルトラマンか。
 あれは戦闘シーンを撮るのにお金がかかるから三分がギリだったという話だ。つまりそれ以下。

 二人はにこにこにやにや笑っている。
 最後の情けとばかりに善くんがチャンスボールをくれたのに、反応できなかった。

「俺オレンジジュースで」
「私は炭酸で」

 よろしくー、とひらひらと手を振られる。

「わ、わざと負けてあげたんだからね!」とツンデレごっこをしようと思ってやめた。負け惜しみっぽいし。
 いや、ほんとに。悲しくなるくらいに息が上がっている。
 てか、秋風さん負けず嫌いすぎる。目がマジだった。佑希が言ってたのはそういうことか。

 自販機まで歩く途中に後ろを振り返ると、彼と彼女の距離は近付いていて、お互い笑みを浮かべながら違和感なく会話をしていた。

 いや、本当に俺いらなかったんじゃね……?


623: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/26(日) 00:57:58.19 ID:SbxpzmOI0

 飲み物を四本(老体には二本必要だった)買って戻ると、秋風さんは芝の上に座っていて、善くんの姿はなかった。

「善くんは?」

「あそこ。人数合わせで呼ばれちゃった」

 彼女の指をさした先で、善くんは大人に混じってボールを蹴っていた。
 見た途端に簡単にゴールを決める善くんに感心していると、隣からぷしゅっと缶の開く音がした。

「ごちでーす。ありがとね」

「どうも」

「かんぱいしよ」

 缶を向けられる。
 いえーいと言って合わせる。擬似的なアレ。頭がおかしくなってきた。

「次はなにして遊ぶ?」

「まだやるんすか」

「まだ……ってまだ三十分も経ってないよ? 運動不足やばくない?」

「やばいですね」

「善が戻ってきたら、上のバッティングセンター行こうね」

「ええ……」

 そんなのあったんすか。
 ストラックアウトもあるんだよー、と言ってにこにこ笑っている。


624: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/26(日) 00:59:19.40 ID:SbxpzmOI0

 普通にかわいい。そういえばちっちゃくておしとやかだから好みだったんだ。
 友達の彼女じゃなきゃ今頃惚れてるわ。
 何かに一生懸命な女の子って素晴らしい。

「おー」とか「あー」とか「うわー」とか言いながら善くんを応援していると、急に秋風さんが話しかけてきた。

「そういえば、未来くん」

「なに?」

「身体動かすの、やっぱ得意じゃん。
 運動部じゃないのにすごいと思うよ」

「えー、照れるな」

「ふふふ、照れるなんて思ってないでしょ」

「……ん?」

「だって、未来くんはもっとやれるはずなのに」

「……」

 ……。
 ……もっとできる?

 意味がわからなくて俺が黙ると、彼女も黙った。
 遅れて、まずいことを言ったという顔をされる。余計わけがわからない。


625: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/26(日) 00:59:54.79 ID:SbxpzmOI0

「ごめんごめん! もう試合終わったから次行こうぜ」

 が、それも一瞬のことで、善くんがタオルを肩にかけていい汗をかきながら戻ってきた。

「どうしたの?」

 彼は俺と秋風さんを交互に見て、首をかしげる。

「善くんすごいって話してた。あとこれ、オレンジジュース」

「おー、ありがとう。……んで次はどこ行く?」

 善くんが秋風さんに問いかけると、彼女の表情はいつものゆるふわな感じに戻った。
 俺は少しほっとした。どうしてだろう。

「バッティングセンター行こ」

「お、未来くんもやる気出てきたの?」

「勝負しよう。次は俺が勝つ」

 言うと、二人の目がマジモードになる。その場の空気が変わる。
 口からでまかせで言ったはいいが、どんなスポーツでも勝てる気はしなくなってしまった。


626: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/26(日) 01:01:13.62 ID:SbxpzmOI0

【疎外】

 数時間に渡るスポーツ対決の末、待ち合わせ場所のモールに戻ってカフェに入った。

 ぐーっと大仰に伸びをしてもまだ身体が痛い。
 普段使わないようないろんな筋肉を使った。

「はいこれ、お返し」

 アイスコーヒーとホットドッグを善くんが持ってきてくれた。
 ありがとうと言って受け取って、ミルクを入れてから飲む。

「いやあ、最後はぼろ負けだったな」

「未来くんダンスゲーム強すぎだよ」

「たまたまだと思う」

 今目の前にあるものは、二人からの奢りだ。
 なぜかと言うと、最終対決のDDRでなぜか大勝してしまったから。

 ちなみに全スポーツを含めた通算戦績は二勝五敗だった。生粋の体育会系の二人から二勝あげただけでも褒めて欲しい。
 勝ったのがボーリングとDDRだからあんまり運動神経関係ないかもしれないけど。


627: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/26(日) 01:02:20.65 ID:SbxpzmOI0

 勝負とは関係ないけど、ひとつ気になったことがあった。
 どことは言わないけど勝負中に揺れが気になって集中できない俺と涼しい顔をしている善くん。

 どこで差がついた?
 いやまあ、うん。どうでもいいな。

「善がダンス苦手だって初めて知ったよ」

「……やる機会ないし」

「ふふ、新たな発見だね」

「そうだな」

 微笑ましい光景を見て、向かいに座る俺は心が浄化される気分になる。
 ホットドッグに口をつける。ちくしょう、美味しいじゃねえか……。

 二人は対決を重ねるにつれてだんだんと打ち解けていって、チーム戦じゃないのにチームのように攻めてきた。
 カップルと 俺。結局楽しかったからいいけど、二人が眩しいからなあ。

「未来は運動するべきだな。三時間かそこらで足攣るのはさすがに運動不足じゃ済まないと思うぜ」

「……返す言葉もないです」

「運動部入ったらいいじゃん。たしか帰宅部だったよね?」

 俺のことを意外とよく知られておる。善くんから聞いてたのかな。


628: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/26(日) 01:03:00.94 ID:SbxpzmOI0

「いや、最近ソラと部活入ったんだよ。文化部だけど」

「何部?」

「イラスト部」

「へー。美術部みたいな感じ?」

「まあ、うん」

 ちょっとだけ胡依先輩の言っていたことが脳裏をよぎったが、一般的な認識としてはそれで間違いではないから訂正はしなかった。
 実際俺も先輩の発言を聞くまでは、何が違うのと問われても答えられなかっただろう。

「あ、そうそう。月末に文化祭あるんだよ」

 と善くんがフルーツジュースを飲みながら言うと、

「知ってる」

 と光の速さで秋風さんが答えた。謎の速さだ。

「サッカー部って何やるんだっけ?」

「毎年恒例のチョコバナナ。
 今年はビンゴとかもやるらしいけど、それについては一個上に任せてる」

「ふうん。なら善くんは店番とか?」


629: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/26(日) 01:03:40.44 ID:SbxpzmOI0

「そうそう。イラスト部は?」

「部誌を作って販売。だから今作ってる途中」

「あ、じゃあ今日ももしかして」

「いや、大丈夫だけど」

 言わないけど、大丈夫じゃないんだよなあ。
 昼までに少しやったが、今日一日の遅れは結構でかいかもしれない。

「美柑の高校は文化祭いつなの?」

「来月の終わり。初めてだからわからないけど、ミスコンとかあるって聞いた」

「ああ、女子校だもんね」

「未来くん知ってたんだ」

 口を挟むと意外そうな顔をされた。
 ストーカーじゃないです。なんか知ってただけです。

 つーか女子校ってどんな百合ワールドが展開されているんだろうか。
 いやけどネットで見た記事とかだと平気で下ネタとか話すし色気も微塵にもないとかなんとか……。

 わたし、気になります! 折木さん教えてください!
 思わず好奇心の塊である黒上美少女を想起してしまった。
 胡依先輩は京アニで一番好きらしい。俺は人が飛ぶアニメが好きだ。


630: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/26(日) 01:04:32.60 ID:SbxpzmOI0

 うちも大概女子が百合百合している思うけど(大部分は先輩と東雲さんのせい)一応男子の目はある。
 その下卑な視線(誇張)から解放された時、女の子達はどうなってしまうんでしょうかね。

 れーちゃんとかいうガチっぽいのもいるし。あの子危険だから奈雨は絶対に俺の手で守らねばならん。

 などと実用的な妄想を繰り広げていると、俺を他所に二人は会話を続けているようだった。

「うちの文化祭くるか?」

「……どうしよう。予定が合えば行けるけど」

 秋風さんは答える時に少しだけ顔をしかめた気がした。二秒ほどではあったものの、彼女はいつもにこにこしているイメージだから気になってしまう。
 けれど善くんは隣に座っているから、その表情を見てはいない。

 なんのこっちゃと思ってたら彼女と目が合った。
 あっ、と驚いた顔をしてすぐにくすくすと笑われた。

 年上女子感すらある微笑み。
 ……でも、なんだろう。

 少しだけわかってしまった気もするけど、善くんはあえて話題に出したのだろうか?


631: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/26(日) 01:05:14.65 ID:SbxpzmOI0

「うちのクラスの出し物ジェットコースターだからさ、良かったら来てよ」

「うん。考えとく」

 なるほど、ますますわからん。
 べつに知らなくてもいいんだけど、それが俺ならわかるってわけではないと思うし。

 それ以上の広がりがないと判断したのか、善くんは話題を変えた。

 お互い連絡先を消していたらしい。
 交換している。現代っ子って怖い。

 ほどほどに会話があったまってきた頃に時計を確認すると十八時を過ぎていて外も暗くなり始めている。

「明日も学校だしそろそろ帰らない?」

 長居してもアレなので簡潔にそう伝えると、秋風さんは頷いたが、善くんは渋るような態度を見せた。

「あー、俺だけ帰ってもいいけど」

 話については俺がいると面倒かもしれない。
 いや、確実に面倒だ。どっちかからは知らないけど告白するだろうから。

「大丈夫だよ未来くん、みんなで帰ろ」

「そうしよ?」と隣の善くんに彼女は甘えたような口調で言う。

「美柑がそう言うなら」

 頭を掻きながら言う。そういう反応をする人だっけか。

 まあ何はともあれ、三人で帰路につくことにした。


634: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/27(月) 01:15:47.83 ID:AjZ8IGZn0

【核心】

 最寄り駅から家の方角へと歩く。
 夜になったからなのか少し風が出てきて肌寒い。

 四、五歩前に秋風さんと善くん。
 どういうわけか雰囲気が悪かった気もして、スマホをいじるフリをしつつ距離を取った。

 耳を澄ますと会話が弾んでいるようでなによりだ。
 身長差も程よい。お互い後ろ姿まで(ジャージなのに)決まっているから絵になる。

 秘技隠し撮り。トレスしよう。
 手とか繋いだらもっと映えるのに。

 黒子に徹していると、すぐに善くんの家の前まで到着する。
 秋風さんの家はもう少し先らしい。
 じゃあねと手を振りあっているから、話とやらは次に会う時になるのかな。

 俺も俺で善くんに目掛けて手を小さく上げて、秋風さんともここで別れようとしたのだが、彼女からは待っててと視線で促される。


635: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/27(月) 01:17:04.35 ID:AjZ8IGZn0

「この際だし送ってよ」

「善くんに頼めば……もう中に行っちゃったけど」

「えーいいじゃん。こっからあんまりかからないし、この前会ったコンビニの近くだから、そこまででいいよ」

「まあ、そこまでなら」

「あー未来くんやっぱり優しい」

「そりゃどうも」

 この子警戒心とかないのだろうか。
 ……いや、警戒されても困るけど。送り狼にならんとも限らない。

 自然と並んで歩き始める。
 実際問題、この辺は暗くなると街灯間隔も広いから、女の子一人だと危ないかもしれない。
 車の通りはいつもどおり多いんだけどね。無灯火が多いので警察もパトロールしてるし。

 とはいえコンビニまではさして遠いわけでもなかった。
 小学校の時は地区わけなんかもあって、運動会は地区対抗だった。秋風さんの家のあたりの地区(ソラもそのあたり)が圧倒的に強かった記憶。うちの地区は同級生が佑希と俺だけだったような気もする。

 送れと言ったのは彼女なのに、何も話しかけてはこなかった。
 無論ほぼ顔見知り程度だから共通の話題もないし、無言の時間が耐えられないわけではないが、この時間はやけに長く感じる。


636: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/27(月) 01:17:58.67 ID:AjZ8IGZn0

 路地を抜けて大通りに出たところで、仕方なく俺から会話を切り出すことにする。

「秋風さん」

「うん?」

「結局善くんとより戻すの?」

「うん、たぶん」

「おー、それなら良かった」

「……そう言っても、あんまり私たちのことに興味ないでしょ」

 あっさり見透かされている。俺ってやっぱ顔に出やすいのだろうか。
 否定するわけでもなく苦笑いをすると、彼女は夜空に向けてふふふと笑った。

「……でも、今日はありがとう。
 久しぶりに部活以外で身体動かせたし、善のことを抜きにしても楽しかったよ」

「何も役に立たなかったけど、どういたしまして」

「ううん。未来くんがいてくれて助かったよ」

「……そうすか」

 素直に感謝を受け取ったつもりだが、俺の返事を不満に思ったのか、彼女は首をかしげながら立ち止まる。
 合わせるようにしてその場で足を止めると、俺の一歩前に出てくるりとターンをして振り向いた。


637: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/27(月) 01:18:40.56 ID:AjZ8IGZn0

「私が善のことを振った理由、わかってるでしょ?」

「……いや」

 薄々気付いてはいるけど、それを本人に面と向かって言うのはお門違いな気がする。
 間違っている可能性もなきにしもあらずだ。下手なことは言えない。

 彼女は「そっか」と呟いて小さく咳払いをする。

「未来くんなら、わかると思ったんだけどな」

「どうして?」

「……どうしてって、私と同じ気持ちを抱えてそうだからに決まってるじゃん」

「なんのこと」

 俺はとぼけた。次に言われる言葉なんてわかっているのに。
 その様子を見て、彼女はゆっくりと首を振る。


638: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/27(月) 01:19:27.91 ID:AjZ8IGZn0

「私が善に感じてる気持ちは、たぶん未来くんが佑希ちゃんに向けているものと同じだと思うんだ」

「……」

「……違う?」

 そうくるだろうとはわかっていたのだが、いざ言われてしまうと、咄嗟の判断ができなかった。

 カフェで感じた違和感。うちの高校の話を避けている。
 でも、うちの高校についてよく知っている。
 そこから導き出される結論は、ひとつしかない。

 俺が黙っていると、彼女はひとりごとのようなものを語り始めた。

「善って、かっこいいし優しいけど、ちょっと無思慮なところがあってさ。
 私はいつも笑うようにしてるけど、いろいろ考えてることだってあって、付き合ってるなら言わなくても気付いて欲しいことも多かったの」

「……」

「高校の話をされるとさ、本当に付き合ってていいのかなって思うの。
 善は楽しそうに行事の話とかをしてきて、私は駄目だったのにって思って、なんとなく気分が沈んでさ」

「秋風さんは……」


639: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/27(月) 01:20:21.05 ID:AjZ8IGZn0

「うん、そうだよ。一緒に目指してたのに、私だけ落ちちゃった。
 たしか未来くんとは入試の席近かったよね」

 言われて思い出す。彼女は頭が良かった。でも、今通っている高校はお世辞にも進学校とは呼べないところだ。
 首都圏に比べればこっちは田舎だから、私立ではなく公立至上主義なところがある。

 彼女はひとつのターニングポイントで、彼と違う道を進むことになってしまった。
 だから、会うことが億劫になって、耐えきれずに別れてしまった。

 受験の合否は友情ですら簡単にヒビが入る。
 仮に俺は受かってソラや善くんが落ちたとしたら、こちらとしても顔を合わせにくくもなる。

 それでも、男女交際を続けているのなら、彼と会わずにはいられない。
 学生なのだから会話の端々に学校の話題が織り込まれる。その度に少しずつ嫌な気持ちが溜まっていく。

 何より彼は受かった"が"私は落ちたという明暗がはっきりと分かれてしまった。

 恥ずかしいと思うかもしれない。
 惨めだと思うかもしれない。
 もしかしたら嫉妬するかもしれない。

 対等な関係で付き合っていたのならそれは尚更だ。


640: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/27(月) 01:21:02.17 ID:AjZ8IGZn0

「でも、それと俺の何が関係あるんだよ」

「……佑希ちゃん。すごい子だよね。
 勉強もスポーツもなんでもできるし、私は何ひとつ勝てなかった」

「それで?」

「実は私さ、未来くんたちの学校の中学受験もしてたんだ。
 高校でまた受けたのは、善と同じが良かったのもあるけど、小学校の時のリベンジマッチって意味もあったの」

「……」

「佑希ちゃん、やっぱりすごいよね。
 私たちの小学校ちょっとレベル低かったから、受かったのあの子だけだし」

「ああ、すごいな」

 取り合わないように適当な相槌をすると、彼女は見てわかる程の苛立ちを面に出した。
「俺ならわかる」というのは、こういうことが言いたかったのか。

「私は模試でもボーダーぐらいだったから、先生にも博打ですねって言われてたんだ。
 それで、悔しかったから、受かりそうな人はいるんですかって先生に聞いたら、
 佑希ちゃんと未来くんはたぶん余裕で合格するだろうって言ってたの」


641: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/27(月) 01:21:54.68 ID:AjZ8IGZn0

「ねえ、どうして受験しなかったの?」と彼女は俺を見ずに言う。
「自信がなかったから」とすぐさま俺は答える。

「嘘でしょ」

「嘘じゃないよ」

「だって、小学校の時は佑希ちゃんと二人で競い合ってたじゃん」

 そうだっけ? 覚えていない。
 同じぐらいのレベルではあったけど、俺は別に真面目にやってはいなかったし記憶にない。

「未来くんは、佑希ちゃんと比べられるのが嫌だから受けなかったんじゃないの?」

 まるでそうでないと困るとでも言いたげに、彼女は俺を見据える。
 俺は舌打ちを堪える。こういうのは相手にしたら駄目だ。

 けれど、仮に俺が佑希に嫉妬して受験しなかったからといって、それが何なんだ。

 俺が高校を受けて合格したから、それにもまた悪い感情を抱いているとかか?
 それか、落ちた自分と回避した俺を重ねて、勝手に同類だと決めつけているのか?


642: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/27(月) 01:22:55.07 ID:AjZ8IGZn0

 どっちにしたって、彼女の稚拙な妄想にすぎない。
 佑希は喜んで受けていたけど、勉強をしたくない俺がわざわざ受ける必要は微塵にもなかった。

「悪いけど、秋風さんは何か勘違いしてると思う」

 冷静に言うと、彼女は押し黙った。
 またしても出かける舌打ちを抑えて、再度口を開く。

「俺は、べつに佑希が受けようが受けまいが中学受験はしなかったよ。
 あんなとこ入って中学から勉強漬けなんて嫌だし、小学の友達はみんなそのまま同じ中学校だったから、新たな関係を築く手間も省ける」

「……」

「言い方は悪いけど、中学なんてどうでもよかったんだ」

 これは本心だった。
 受験して落ちたわけでも、直前まで迷ってて止めたわけでもない。

 ハナから受けるつもりなんてなかった。

「──なら、どうして」

「なにが」


643: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/27(月) 01:23:44.93 ID:AjZ8IGZn0

「なら、どうして高校は受けたの。
 わざわざ佑希ちゃんと比べられる場所になんて行く必要ないじゃん」

 ……ああ、そういう。

 この子俺の話聞いてないな。
 どうして受けたって、そんなの俺も知らねえよ。
 第一、俺のことを知った気になっている他人に咎められることでもない。

「近かったから」

「ほんとうに?」

「ほんとうに」

 真面目に勉強に取り組んで落ちてしまった側からすれば、俺の言い分は最低かもしれない。
 でも、俺が受かったからといって彼女に実害は出ていないし、つまるところ落ちたのは彼女の実力不足という四文字で片付けられる。
 俺が受けなかったからといって彼女が受かったとは言い切れないし、何を言われたって俺には関係がない。

 彼女はまだどこか信じられない様子で俺の表情が崩れないかを観察する。

 それでも無表情を貫き通すと、やがて彼女は諦めたようにため息をひとつついた。


644: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/27(月) 01:24:54.28 ID:AjZ8IGZn0

「……ごめんなさい。私の思い違いだったんだね」

「うん。まあわかってくれればいいよ」

 遅くなると面倒で、風も吹き付けていて立ち止まっていると寒いから、歩き出すことにした。
 彼女はまだ何か言いたげにしていたが、構わず歩き進めると俺の半歩後ろを進み始めた。

 フォローくらいしようかと思った。
 だが、それ以上に聞いておきたいことがあった。

 俺に勘違いを押し付けてきたのだから、彼女は今何を質問しても答えてくれるだろう。

「……秋風さんは、これから付き合うとしてつらくならないの?」

 一度駄目になって、でも好きで。
 復縁したとしても、言わなければ彼のスタンスは変わらないだろう。

 ひょっとしたら、言ったとしてもつらくなってしまうかもしれない。

「なると思う」と彼女は沈んだ声音で答える。


645: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/27(月) 01:25:33.50 ID:AjZ8IGZn0

「だけど、あんまり気にしないように……がんばる。
 善のことは好きだから、周りは関係ないって思うことにする」

「そっか」

 彼には、きっと言わないのだろう。
 彼女にだってプライドはある。負けず嫌いならばより一層高いだろう。

 早足で進むとあっさりコンビニの前に辿り着く。
 中の時計をチラ見して時間を確認すると、いつのまにか結構経っていた。

「ここまででいいや」

「うん。いい結果になるといいね」

 それじゃあ、とだけ言って帰ろうとすると、彼女は「待って」と俺を呼び止める。

「聞き流してもらって構わないし、未来くんに自覚はないかもしれないけど」

 反応するか迷っているうちに、彼女は少しだけ間を置いた。


646: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/27(月) 01:26:25.05 ID:AjZ8IGZn0

「何に対してだって、露骨に手を抜くのはやめたほうがいいと思う。そういうの、わかる人はわかるから。
 これも勘違いだったらごめん。でも、前から言いたかった」

「……お説教?」

「ごめんね」

「……まあ、それも勘違いだよ」

 答えると、彼女はもう一度「ごめん」と言って取り繕いの笑みを俺に向けた。

「今日はありがとう。今度はソラくんも誘って遊びに行こうね」

 手をひらひらと振りながら、俺に背を向けて去っていく。
 その姿を見えなくなるまで送ってから、彼女の言葉を反芻する。

 月の綺麗な空に渇いた笑いを放つ。
 どうして見抜かれたんだろうな。やっぱり、俺も"そっち"なのかもしれない。

 最初が全くの誤想であったから、次も頓珍漢なことを言うのだと油断していた。
 すんでのところで我慢できたが、かなり危ないところだった。

 彼女は俺の核心をついていた。
 それも、極めて正確かつ的確に。


647: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/27(月) 01:27:49.87 ID:AjZ8IGZn0

【そこがまた】

 家に帰り、佑希と二人で夕食を食べてから自室に戻る。
 身体がとにかく痛い。マラソン大会並に引きずるかもしれん。

 佑希に「スポーツセンターに行ってきた」と会話の流れの中で言うと、意外に食いついてきた。
 よく部活の友達と行くらしい。今日は行かなかったけど運動後にはカラオケをすると。

 善くんからの連絡を適当に切り上げて荷物をベッドにぶん投げる。
 気を抜いたら眠ってしまいそうだ。シャワーはあそこで浴びてきたけど、それにしたって身体がべたついている気がする。
 秋風さんとの会話中に嫌な汗をかいていたのかもしれない。

 ああいうことを言われたのは初めてだっただろうか。
 ……いや、初めてではないな。二回目だ。

 部室で、胡依先輩に俺の印象を聞いた時にも、ほぼ同じようなことを言われた。
 そしてその時も否定した。自分の頭の中ではそれが正しいかなんてわかりきっていたのに。

 絵を描くことにおいて直面している問題でもあった。
 手の抜きどころがわからない。ほぼ初心者だから"一から十まで丁寧に"が理想なのではあるが、それをするには時間が足りない。
 一度手を抜いてしまうと、他のもっと詰められる部分にまで影響を及ぼしそうだと思ってしまう。


648: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/27(月) 01:28:42.40 ID:AjZ8IGZn0

 とはいえ感覚でちょろちょろっとごまかせる部分もあるし、胡依先輩もそれでいいと言っていたが、ますますやめどきがわからなくなってしまう。
 線を引いていると、どれが正しいのかわからなくなってしまう。
 マーク試験で二択を迷った時のように。大抵最初にマルをつけたほうが正しいらしい。

 感覚を身につけることは簡単だ。
 少なくとも俺にとっては、そういうコツを掴むことやテクニックを見つけることは造作もないことだった。

 でも、問題なのはその"感覚で動く自分の身体"を信用できるか否かだ。

 勝手に身体が動く。
 自分の親しんできたスポーツでの慣れや経験なら、完全にとは言わずともほぼブレなく信用できると思う。

 ただどうしようもないことに、俺のそれはいつだって曖昧だった。
 0か100かで物事を捉えていた期間が長かったからか、答えがひとつで確定している問題については得意だが、各々の判断を要する問題は少しだけ苦手意識を持ってしまいがちだ。

 コンコン、とノックの音でふっと頭をあげる。
 ベッドの上でペンタブをいじるのはよくない。もう少しで落ちてた。


649: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/27(月) 01:29:31.65 ID:AjZ8IGZn0

「おにい、電話」

 と、扉の向こうから佑希の声が聞こえる。

「入っていいよ」

「あ、うん」

 すぐに入ってきて、家の固定電話を手渡される。
 彼女はそのままぽすんと俺のベッドの上に腰掛ける。どうやら電話を聞いていたいらしい。

「誰から?」

「伯母さんから」

 珍しいな電話なんて、と思いつつ保留機能をオフにする。
 もしもしと言うと、電話の向こうから「みーくん?」と伯母さんの声がした。

「こんばんは」

「おひさー! 元気してた?」

「はあ、ぼちぼちです」

 そっか、と彼女は言う。
 件のGW以来あっちには行っていない。


650: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/27(月) 01:30:12.83 ID:AjZ8IGZn0

「今日電話したのはさ、ちょっとお願いがあってね」

「うん」

「月末に文化祭あるらしいじゃない。
 それでうちの子、朝早く学校行かなきゃならないって言うんだけど、ここからじゃ始発間に合わないし、私も毎日は送れないのよね」

「……うん」

「だから、火曜日から一週間と少しそっちに預けることにしようって思って、みーくんのお母さんにはもう了承貰ったから。
 だから、ちょっとだけの間奈雨の面倒を見てほしいの」

「それお願いって言わなくないですか?」

「だって、頼れるのみーくんしかいないし、仕方ないじゃない。
 佑希ちゃんと奈雨は仲悪いでしょう?」

 ちらりと佑希を見る。
 ん? と小首をかしげてきょとんとしている。どうやら漏れ聞こえてはいないらしい。

 ちょっと待って下さい、と言って保留ボタンを押す。

「なに?」


651: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/27(月) 01:31:39.75 ID:AjZ8IGZn0

「ああえっと、奈雨が一週間くらい泊まりに来るって」

「……そう」

「べつにいいよな?」

「あたしは……。うんと、おにいはどうしたいの」

「母さんがもう受けたって」

「そっか……お母さんが。なら、仕方ないね」

 それだけ聞いたらもう大丈夫だと思い、しっしっと手をはらって彼女を部屋から出させてから、再度通話ボタンを押す。
 怪訝な目を向けられたが、伯母さんは何かまずいことを言ってくるかもしれない。

「いいですよ」

「そっか、良かった。奈雨とラブラブな一週間を過ごしてね」

「……はい?」

 ほら言わんこっちゃない。普通に声大きいし。


652: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/27(月) 01:32:50.52 ID:AjZ8IGZn0

「え、なに。まだ付き合い始めてないの?」

「うん」

「……あれ? お兄ちゃんが来てくれるって今年の春に喜んでたから、てっきりそうなったのかと。
 あの子、みーくんの話を出すと途端に機嫌悪くなるから、てっきり照れてるのかと思ってたんだけど」

 はあ、なに言ってんだろこの人。
 アレだろ。雪村零華的反応。俺マジでれーちゃんのこと好きすぎるな。

「そういえば、昔はみーくんのことお兄ちゃんじゃなくて"みー"って呼んでたよね。
 いつからお兄ちゃんって呼ぶようになったんだっけ」

「知らないよ。気付いたらそうなってた」

 本当は覚えているけど。
 なんとなく答えてしまいたくはない。

「ふうん。みーくんが呼ばせてるの?」

「そんなフェチはないよ」


653: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/27(月) 01:33:22.40 ID:AjZ8IGZn0

「あらやだ。こんなおばさんにフェチだなんて」

「失言でした」

 言葉通り失ってはいけない何かを失ってしまった気がする。
 電話口からは、あららうふふとマダムな微笑みが聞こえる。

「昔は"みー"って言って甘えてたのにね。
 いつからうちの娘はあんなにかわいげがなくなってしまったのかな……お母さん悲しいのよ」

「反抗期ですよ」

「でもぷんぷん怒ってるあの子かわいいわよね」

「ですね」

 そうだ、この人親バカだった。
 うちとは正反対。奈雨も少しうざがっている。
 まあ、過干渉とかではなくて、この歳の娘がいたら誰だってなるくらいの軽いものではあると思うけれど。


654: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/27(月) 01:34:06.45 ID:AjZ8IGZn0

「なら奈雨のこともらってくれない?」

「……いきなりなにを言い出すんですか」

「あ、婿入りでもいいよ? 旦那の家だって由緒正しいところだから」

「あの……」

「だって、みーくん以外に奈雨をお嫁さんに出してもいいって思える男の子いないんだもん!」

 もん! って……。
 ちょっと買い被りすぎやしないか。
 俺も彼女もまだそういう年齢に達していないのですが。

「俺はそんな立派な人間じゃないですよ」

「えー……でも、あのとき奈雨を助けてくれたのはみーくんじゃない」

 あのとき。あのときか。
 ……いや、そうなのかな。

「あのときも、きっとたまたまですよ」

「なんかみーくん、今日は一段とネガティブじゃない?」

「ていうかまず、奈雨の気持ちもあるでしょ」

「ずっとみーくんに向いてるはずだよ?」


655: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/27(月) 01:34:38.88 ID:AjZ8IGZn0

「いや、俺には好きな人いないって言ってましたよ」

「……なるほどー。あの子も意外といじらしいところあるのね」

「……え?」

「こっちの話」

「……はあ、まあちょっと生意気になりましたよね」

「そこがまたかわいく見えちゃうんだけどね」

「親バカ拗らせすぎでしょ」

「言うようになったねー」

 それから取り留めもない話をして、「あとはあの子に任せるから、よろしくね」と電話を切られた。

 少しして思い出したけれど、俺合宿あるから家を空けると思うんですが。
 てことは奈雨と佑希が家に二人。大丈夫か? いや、俺と接触している方がかえって危険かもしれない。
 表立って仲悪くしているわけでもないし。電話の内容からは普通にバレてるみたいではあったけど。

 いやまあ、大丈夫だろ。
 さすがにうちに来てまで奈雨がせがんでくるとは思えないし。

 なってしまったことは仕方がない。
 先にどうなるかは、なってみてから考えよう。


656: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/27(月) 01:35:16.80 ID:AjZ8IGZn0

【計画】

 昼休みの教室でソラと善くんと三人で昼食をつついていると、不意に後ろからズドンという感覚を背中に得る。
 昨日のことを根掘り葉掘り聞かれて俺の痴態が暴かれていたから、その心理的ショックが身体にダメージを与えているのかと思ったのだがそうでもないらしい。

 視線を肩に落とすと、女の子っぽい細い指が確認できる。

「あ、黒髪ショート」
「あ、未来を拉致した子」

 というソラと善くんの同じような呆けた声とともに振り返ると、雪村零華が俺の肩を掴んでいた。
 目が合うとかわいらしくはわわーと笑い出す。そのまた後ろには奈雨がばつの悪い顔をして俯いている。

「先輩。デートの予定を立てにきました」

「帰ってください」

「えー、せっかく奈雨ちゃんも連れてきたのに、先輩のいけずぅー。
 約束破らないでくださいよ、わたしみたいな女の子とのデートなんですから」


657: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/27(月) 01:36:17.20 ID:AjZ8IGZn0

「約束したっけ」

「しましたよ! あ、録音聴きますか? ちょっと待ってくださいねスマホ出しますから」

「あのさ……」

 と文句を言おうとしてから、男二人の方へ向き直る。
 善くんはやれやれと笑っている。ソラは泣き真似をしつつ目を抑えている。

「ついにミクちゃんにも春が来たのか……」

「来てねえから。あとミクやめろ」

「なあ善くん……俺の春はいつくるんだい?」

「きっとそろそろ来るよ」

 爽やかな善くんが戻って来ている!

 いや、昨日も充分爽やかだったけど、今日は何だか三割増しくらいで爽やかだ。

 さっき聞いたけど今週また二人で会うらしいし。
 まあ、彼の男を見せる相手は秋風さんだけだろうけど。


658: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/27(月) 01:36:51.58 ID:AjZ8IGZn0

「あのう、先輩。無視しないでくださいよ」

「あ、うん」

「ここじゃあれですし、いつもの場所に行きましょうよ!」

 なぜかテンションが高い。
 奈雨は「いつもの?」と首をひねっている。

「ややこしい言い方やめてくんね」

「はいはい。じゃあささっと立つ! 歩く!」

 無理やり立たされて引っ張られる。
 男二人からひらひらと別れのジェスチャーをされる。

 心なしか教室がざわついている気もするが、きっと気のせいだな。

 渡り廊下を通って中学校舎側の階段を降り、いつもの場所(二回しか来ていない)の中庭に到着する。

 今日も今日とて日陰で寒い。
 女の子二人は何やら内緒話をしている。あ、奈雨の顔が赤い。

 伯母さんの言う通りかわいいなと思っていると、ベンチに俺と奈雨を隣り合わせで座らせて、うるさい後輩は腰に手を当てて不満げな顔をつくる。


659: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/27(月) 01:37:31.89 ID:AjZ8IGZn0

「てかてか、先輩のおうちに昨日も行ったんですけど、いなかったじゃないですかー」

「……え、れーちゃんお兄ちゃんの家知ってるの?」

「ほら、佑希先輩の家だし」

「あ、あー。うん、ごめん……そうだよね」

「え! ううん。謝らなくて大丈夫だよ奈雨ちゃん」

 全ての語尾にハートマークがついてそう。
 てか雪村零華のことを何と呼べばいいんだろうか。
 れーちゃんか? あや、奈雨の前だと普通に恥ずかしい。奈雨はれいちゃんっぽいれーちゃんだった。ちょっと舌ったらずっぽいんだよな。

「で、先輩。昨日はどこ行ってたんですか?」

 頬をぷくーっと膨らませてぷんすか怒っている。
 奈雨はあははと半ばお姉ちゃんのような笑みを浮かべている。


660: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/27(月) 01:38:38.47 ID:AjZ8IGZn0

「零華は?」

「……い、いきなり呼び捨てとかきもくないですか?
 れーちゃんって呼んでくださいって言いませんでしたっけ」

「はあ……れーちゃんはどこに行ったんですか?」

「うわれーちゃんとかちょっとアレですね。ぞくっとします」

「このやり取り何回目だよ……」

 三回目くらいか? もはや天丼化している。
 他の人が見ているならまた違うけど、二人でゼロ人の観客の前で漫才をやったって誰も笑ってくれませんよ。

「れーちゃんはわたしと一緒に学校で文化祭の練習してたよ」

「あ、そう。変なことされなかった?」

「……う、うん。なにが?」

 あれ? 伝わっておられないのか。

「ちょっと先輩。わたしのことどんなふうに思ってるんですか!」

「変な女」

「奈雨ちゃんの前では、わたしはいつもかわいい美少女でありたいんです。偏見はやめてください」


661: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/27(月) 01:39:15.90 ID:AjZ8IGZn0

 ぶつぶつ文句を言ってくる零華に「れーちゃんはかわいいよ」と奈雨が微笑み混じりに言うと、うへへと嬉しそうに笑いながら俺に視線を向けてくる。

「それで、どこ行きますかー?」

「俺の昨日の話はどこいった」

「だってどうでもいいじゃないですか。
 今のわたしは奈雨ちゃんとのデートに注力しているので、はやく決めましょ」

 じゃあ最初から訊かないでくれませんかね……。

「奈雨はどこがいい?」

「お兄ちゃんが行きたいところならどこでもいいよ」

 あっ、はい。一番困るやつ。

 というかいつもと態度違くないですか。同級生の子もいるし、二人きりの時のような態度はとってはこないかもしれないけど、それにしたってなあ。

「うち来る?」

 妥当な選択肢を提供すると、零華は「はぁー」と大きくため息をついてやれやれと両の手のひらを曇り空に向かって上向けた。


662: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/27(月) 01:40:07.32 ID:AjZ8IGZn0

「家デートってなくないですか。しかも三人ですよ」

「え、そう?」

「わたしはいいけど」

 奈雨はふふんと笑う。
 えー、と零華に睨まれる。でも奈雨を気にしてかキレがない。

「そういえば、火曜からうちに泊まるんでしょ?」

「うん。お世話になるね」

 え? とまた驚きを体全体で表現する零華に、奈雨がざっくり説明をする。

「だったらなおさら外に行きましょうよ。
 二人はおうちでいちゃいちゃしててください」

「いちゃ……」と奈雨は口籠る。

 俺はため息をつく。勝ち誇った笑みを向けられる。
 〇〇とか犯罪並に怖い行為だからな、わかってるんだろうか。


663: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/27(月) 01:41:07.33 ID:AjZ8IGZn0

「モールとかか?」

「いいですね! わたし冬に向けて買いたい服があるんですよー」

「いや訊いてないけど」

「なんか今日の先輩棘強くないですか。
 ……まあ、どうでもいいしそれはいいとして、いつにしますか?」

 きみの言葉の方が鋭利だし刺さるんですがね。
 ん、と零華は奈雨に目をやる。俺の意見は採用される見通しは立っていないらしい。

「今週はほぼ練習あるけど、水曜日はお休みだよ」

「じゃあ水曜日と。先輩ももちろん空いてますよね?」

「普通に予定あるよ」

「空けるんですよ!」

 はーわかってねえなこいつ、という顔をされる。表情筋柔らかすぎるだろこいつ。


664: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/27(月) 01:41:58.66 ID:AjZ8IGZn0

 逡巡していると、零華は俺の隣に腰掛けて、奈雨から見えないように口パクで何かを伝えようとしてくる。

 い、う。いう? え、違う。
 あっ……キスですか。わかりづれーよ。

 ゆ、き、せ、ん、ぱ、い、に……。

「ああもうみなまで言うな。
 わかったから、予定空けとくから」

「あはは、先輩さいこーですね」

 手のひらクルックルだなおい。
 さながらドリルだ。穴が開いちまうかねじ切れちまう。

「あ、せっかくだし奈雨ちゃん先輩に服選んでもらったら?」

「うん、そうしよっかな。お兄ちゃんよろしく」

 二人だけで会話を成立させるのやめてもらえる?
 だが何かしらの波動を感じて強くは言えない。俺は年下の女の子に弱い生き物だ。


665: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/27(月) 01:43:10.69 ID:AjZ8IGZn0

「お兄ちゃん。わたし楽しみにしてるから」

「うん」

「えと、お泊まりも……うん」

 なぜ頬を赤らめる。
 あ、やー……。もういいや。
 零華こっちみんなあほ。あとで呪う。

 まあ、そうだな。かわいい従妹と(一応)かわいい後輩の頼みと思うことにしよう。
 問題は水曜分の作業をどこに持っていくかだ。俺はできる男、さすがに抜かりはない。

 解決策を思いつきはしないんだけどな。
 今日はとりあえず部活に早く行って塗りを進めるとしよう。

「俺も楽しみにしとく」

「あ、えへへ……嬉しい」

「……ちょっと、わたし忘れられてませんか!」

 素手でべしっと叩かれる。
 ……本気で呪おうかなこの子。


669: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/27(月) 21:55:47.90 ID:AjZ8IGZn0

【統合】

 ふーんそっかあ、と胡依先輩が紅茶を嗜みながら頷いた。

 かと思ったら、

「許せるわけないでしょ!」

 と声を荒げられる。服に溢れてますよお嬢さん。
 それにしても実に耳にきんきん響くボイスをお持ちで。

「待ちに待った合宿初日から! 女の子とデートするから! 来れないなんて! 部長は許さないぞ!」

 胡依先輩はぷんぷん怒っている。
 ソラはゲラゲラ笑っている。
 東雲さんはまだ来ていない。

「昨日もずっと待ってたのに誰一人として来てくれないし!」

「すみません」

「夜にププのアプが尊いんじゃ! とか大声で叫んでも私は一人だし!」

 ププのアプ。ププノアプ?
 呪文か何かだろうか。全くわからない。


670: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/27(月) 21:56:49.55 ID:AjZ8IGZn0

「あ、胡依先輩。ちなみに女の子は二人でした」

「ええっ? そらそらくんその情報は正しい情報かい?」

「はい。未来にラブレターを出してきた黒髪ショートともう一人は茶髪ツインテっす。
 どっちも未来の好きそうなロリっ子でした」

「俺は○○○○じゃねえよ」

 なるほどうんうん、と先輩が頷く。
 本当に俺のイメージどうなってんだよ。

「でも、そらそらくんは少し間違ってる!」

 おお?

「白石くんは○○○○じゃなくて妹好きなだけだもん!」

「どっちみち違いますから」

 なんだよ……期待して損した。
 してやったりという顔を二人から向けられる。

「そらそらくんはどっちの子が好みだった?」

「え、俺は黒髪ショートの方ですかね。
 あの子は絶対性格いいっすよ。ノリもよさそうだったし、お近付きになりたい」


671: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/27(月) 21:57:34.66 ID:AjZ8IGZn0

 勝手に寸評しているけれど、あっさり零華の外面に騙されているな。
 にこにこの笑顔の裏で腹はドス黒いからな、あいつ。

 あの、人の話を聞かずに俺を連行した様子も、彼の美少女フィルターを通せばノリのいい子として映ってしまうらしい。

 三人の後ろ姿を映した盗撮写真をソラが胡依先輩に見せている。
 いつのまに撮ったんだよそんなの。

 普通に怖いわ、と思っていると、先輩が写真を指差しながら「かわいいー」と言っている。
 上半身しか映っていないのにわかるものなのかそれって。

「白石くんは? どっちが彼女?」

「どっちも違います。片方は従妹ですし」

 もう片方はやかましい後輩な。
 奈雨と零華じゃ妹レベルが違う。

 俺がどう思いたいかを抜きにしても。

「あ、もしかしてお兄ちゃんって呼ばせてた子?」

「……えっ?」


672: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/27(月) 21:58:23.49 ID:AjZ8IGZn0

「ほらほら、白石くんのスマホの画面がちらっと見えたことあったじゃん。
 あれ、そんとき私忘れるって言った気もする」

 あー……そんなこともあったようななかったような。
 つーかなぜ覚えているし。やっぱ妖怪並に怖えよこの人。

「なるほどー。妹だけでは飽き足らず従妹にも手を出しているのかー。
 白石くんって見かけによらずたらしだよねー」

「その棒読み口調やめて下さい」

 あははごめんごめーん、と謝られる。
 それも棒読みなんですけどね……。

「つーか未来と佑希ちゃんにあんなかわいい従妹いるとか聞いたことねえし」

「言う機会ないだろ」

「いや、おまえ隠してたんだろ」

「……はあ?」

「俺にいじられるのが怖いからだな! 善くんがツインテと未来が逢引してるの見たって言ってたぞ!」

「いや逢引って」

 まあ意味の上ではそうだけど。


673: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/27(月) 22:00:14.94 ID:AjZ8IGZn0

 その後もいかにモテたいかを無限に語り続けるソラを軽くいなしていると「白石くん」と先輩に名前を呼ばれる。

「デートたってどこ行くの? 場所によっては私も許せる」

 許す許さないの話なのか。

「えっと……多分駅前のモールです。服買うって言ってました」

 言うと、先輩はそっかそっか、と小さく呟いて顎に手をやる。

 ソファに背中を当てて外してを一定のリズムで繰り返すのを見ていると、
 急に何かを閃いたように顔だけこちらに向けた。

「白石くんの絵ってかわいいじゃない」

 はあ、ととりあえず返す。
 すると、先輩は立ち上がり俺の席へと寄ってきて、先ほどまで色を塗っていた絵を指でさした。

「この上目遣いでキスをせがむ女の子の絵。ものすごく艶っぽくて好き」

「あ、はい」

 隣のソラも覗き込んでくる。
 たしかに○○○、と言っている。
 いや○○絵ではないからな。健全。全年齢対象。まずそんな絵部誌に載せられねえよ。


674: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/27(月) 22:02:15.33 ID:AjZ8IGZn0

「未来ってそういう絵得意だよな。なんでこのシチュエーションにしたの?」

「無意識で」

 まあ、理由は知られると困る。
 奈雨とキスした翌日に頭に浮かんだから、だなんて口が裂けても言えない。

「でも、未来くんの絵にはひとつ問題点があります」

「はい」

「二次絵はいろんな服を描いてるけど、オリジナルで描くといつも制服じゃない?」

「……あ、たしかに。無意識ですかね」

 それもいいけどだめだよー、と先輩は言う。
 言われるまで気付かなかったけど、顔と首を描き終えるといつもブレザーかシャツばかり描いていた気もする。

「女の子の服に詳しくなると、白石くんの描ける幅も広がっていくよ?
 ネットで検索するとかして、好きな服があったらそれを自分の描いてる子に着せる!」

「白石くんにはちょっとはだけた服とかを描いてほしい!」と胸を張る。


675: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/27(月) 22:03:09.80 ID:AjZ8IGZn0

 それ完璧あなたの趣味じゃないですか。
 制服だってはだけさせようとすればはだけられるし、零華が着ていたような服は描くだけでこっちが恥ずかしくなりそうだ。

 ともあれ、絵のバリエーションという点では、ありがたいアドバイスではあるのだが。

「それで、実際に服を見てこいというわけですか」

「そうそー。男の子一人だと女の子向けの服屋さんには入りにくいからね。
 かわいい子にかわいい服を着せて参考にするのが一番手っ取り早いよ」

「わかりました」

 これぞ一石二鳥。服選びでさえも合宿には必要ということにしてくれた。
 先輩って天才か? と思っていると、にやりと笑ってポケットからスマホを取り出した。

「あ、でも写真を撮ってくるんだよ」

「なんのために?」

「私に横流しするために」

「撮らせてくれるかわかんないですよ」

「じゃあ撮れたらでいいや」

「……ああ、了解です」

 仮に撮れても危険だから渡さないけどな。
 てか横流しって麻薬の密売人か何かなのかよ。胡依先輩は東雲さんの服もぱしゃぱしゃ撮ってたっけか。


676: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/27(月) 22:04:16.81 ID:AjZ8IGZn0

 お話もそこそこ、各自の作業に移る。

 ソラはカラー絵を、俺は白黒塗りを、胡依先輩は部誌のレイアウト決めを。
 十八時を回った頃に、ソラが晩飯だからと帰ってしまって、先輩と二人きりになる。

 紅茶を淹れなおしてカップをテーブルに置くと「そういえばさ──」と先輩が口を開く。

「はい?」

「今日はシノちゃん来ないね」

「ああ、たしかに」

「でも私は待てる女だから待たなくてはいけないのだ」

 勝手に自己完結しないで。
 そういうわけで──どういうわけで?──何と言ったものかと返答を考えていると、再度先輩が後ろ髪に触れながら俺を見据えた。

「この前言ったのはね、本当は理想なんだ」

「……この前?」

「あ、うん。創る側はどっしり構えてればいいんだよって、シノちゃんに言ったじゃない」

 言いながら先輩はごまかすように笑った。スイッチの入ってない状態の先輩だと思う。


677: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/27(月) 22:05:21.62 ID:AjZ8IGZn0

「厳しいこと言ってましたね」

「かもねー。でも、シノちゃんには期待してるからさ」

 これ見て、とパソコンをちょいちょいと示されて、先輩の後ろに回り込むと、画面にはブラウザが立ち上げられていた。

 そこには複数の絵と描いた人の名前が載っている。
 スクロールを目で追うと、中盤付近で先輩はマウスを止めた。

「これ」

『会長賞 題:流線型 ──中学校二年』

 名前は……。
 去年まで住んでいたと聞いた県のページで、フルネームまで見事に一致している。

 東雲さんだ。この絵を描いたのは。

「いやこれって……」

 離れて見てもわかるくらいに様々な色を使った水彩画。

「シノちゃんの名前で検索したら出てきてさ、私も驚いたの」

 カチカチとクリックをして、全画面にその絵を表示させる。


678: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/27(月) 22:06:21.46 ID:AjZ8IGZn0

 曇り空とも青空とも言えない風景。
 建ち並ぶビル群。少し遠くには川に架かるアーチ。すぐ近くには両親二人の間で手を繋がれている小さい子供の影。

「すごいと思わない?」

「思います」

「こういう絵は私には描けないから、最初見たとき感動したんだ。
 シノちゃんはこんな絵を描ける子なんだって」

「いつ見つけたんですか?」

「おとといかな」

 名前検索したら出てきちゃうとか普通にアレだけど、これは……。

「……水面とか、めっちゃ綺麗ですね」

「配色がセンスぴかいち。私の好みにぶっ刺さりなの。
 しかもこれを中学二年の春に描いたっていうんだから、たいした子だよ」

 他の作品を見ても、東雲さんの絵だけ際立ってよく見えてしまう。
 それらとは違う"言い表せないなにか"があるように感じられる。


679: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/27(月) 22:08:09.90 ID:AjZ8IGZn0

「肉体に理想を統合させること」

 絵に見とれていると、不意に先輩がそう呟いた。

「白石くんがメジャーリーガーだとするじゃない。野球の、大リーグの」

「……あ、はい」

 話題の移り変わりについていけなくて思わず反応が遅れた。

「そんで、メジャーリーガーになりたいっていう子供が、どんなことをすればなれますかって聞いたら、なんて答える?」

「……無難に考えると、寝る間も惜しんで練習しろ、とかですかね」

「普通だね」と言われる。
「そうですね」と返す。

「あるメジャーリーガーは"まずは自分の持っている道具を大切にしろ"ってインタビューで答えたらしいの。
 どこかのネット記事で見た話だから英文も見てないんだけど、ニュアンスは間違ってないと思う」

「……それがどうしたんですか?」

「理想は理想であって現実ではない。
 けど、私たちの生活は結果の連続ではないと思う」

「……」

「いくら練習したってメジャーに行ける人なんて一握りもいないじゃん。
 でも、それを結果だけ見て『俺は駄目だった』って落ち込んでしまうのは、とっても悲しいことなんだよ。
 練習においてだって、体格とかでいろいろ違ってくるから、一概に"とにかく練習しろ"とは言い切れないの」


680: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/27(月) 22:09:29.39 ID:AjZ8IGZn0

 結果が駄目だったら過程は見られない。そういうことが多々ある。

「"道具を大切にする"ことは誰だってできる。
 貧乏な子、体格的に不利な子、初めたばかりの子──それが誰でも平等にすることができる」

 ──いくら簡単に見えても、それは自分の達成したいことへのプロセスになる。

 言い終えると、先輩はにこりと微笑む。
 きっとこの前の先輩の話は、東雲さんの一歩目を踏み出させようとしていたのだろう。
 淡々としているようで、ちゃんと深くまで考えられていたらしい。

「いい話ですね」

「所詮私の解釈だけどねー。実際はもっと、親から買ってもらったものを大切に、とかもあるとは思うし」

「まあ、そうかもしれないですけど、先輩の解釈好きですよ」

「あはは、ありがとう。そう言われると照れるな」

 あつーい、と先輩は頬に手を置く。
 そして、何かを思い出したように、ほうっと息を吐く。

「私だって、渾身の絵を批判されたら落ち込むし、昔の自分の絵を見てうぐぐってなることはあるよ」


681: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/27(月) 22:11:00.54 ID:AjZ8IGZn0

「……ありそうですね」

 コミケの絵を見るときやたらと躊躇っていたし。

「でも、進んでいくしかないんだよね。立ち止まったら、きっとそこで成長は止まってしまうから」

 進む先に何が待ち構えていたとしても、頑として譲らない信念。
 自らの確定したスタンスを持って、理想を現実の中に内包させる。

 ずっともっていないもの。
 そして、もっていないから今まで困ってきたもの。

 俺が何かを答える前に、先輩はパソコンの画面をスタジオに戻して、ペンをくるくると回し始めた。

 二十時を回って、お腹もすいたしそろそろ帰ろうかと腰をあげる。
 胡依先輩も「今日はここまでにしよ」と帰りの支度をし出した。

 廊下を歩いて校門の前で別れるまで、先輩とは一言も話をしなかった。
 また明日、と手を挙げると、先輩は何かを言いたげに俺を見つめて、結局じゃあねと手を振って駅の方へ駆けて行った。

 "だから白石くんもがんばろうね"

 きっと先輩が言いたかった言葉はそういうものなのだろう。

 記憶の淵で燻るいつかの記憶が、頭痛となって俺の額を疼かせた。


682: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/27(月) 22:11:57.98 ID:AjZ8IGZn0

【びしょびしょ】

「てかまじでかわいくないですか?」

 知らない番号からの電話を取ると、第一声がそれだった。
 俺はこめかみに手を当てる。そんなことしたって向こうには伝わらないけど。

「どうした」

「先輩と電話したかったので」

 きゃぴるんとした口調で言われる。
 俺は間髪入れずに通話終了ボタンを押す。

 またすぐに電話がかかってくる。
 四コール置いてから通話ボタンを押す。

「あ、せんぱ」

「おかけになった電話番号は現在使われておりません」

「あの、つまらないですよ?」

「なんだよ」

 はぁー、という大きなため息が聞こえる。


683: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/27(月) 22:12:58.27 ID:AjZ8IGZn0

 いや俺だって面白いとは思ってないけどさ、彼女だったらもうちょいウィットの効いた会話をしてくれると期待したんだ。

「今日の奈雨ちゃん、ばりかわじゃなかったですか?」

「ばりかわ」

「めっちゃかわいいってことです」

「知ってる」

 どうしてこうコントみたいになるのかね。

「あのはわはわっとゆるい表情、いつもより割増で優しい声音、今日もかわいいふよふよついんてーるも!
 なんですかあれ人間国宝ですか世界無形文化遺産に登録ですか」

「いや形あるから」

「うるさいですね」

「お、おう……」

 感想を共有できる相手がいないから俺に電話をかけてきたのね。
 てかどうして電話番号割れてんだよ……俺のプライバシーはどこ行った。

 とりあえず三橋家のお母様の連絡先をお教えすればいいのでしょうか。
 テンションが同じ。いや同じ小中だしもう知っている可能性もあるな。

 電話口からぶつぶつ聞こえるが聞き取れない。
 正確に言うと俺の耳が聞き取ろうとしていない。

「せんぱーい、聞いてます?」

「……なに?」


684: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/27(月) 22:14:23.81 ID:AjZ8IGZn0

「ほんとにほんとにかわいかったですよね。
 奈雨ちゃんに『れーちゃんはかわいいよ』って言われただけでわたしはびしょびしょになるって発見をしました」

「び……どこが」

「まじでデリカシーないですねー。先輩は変態ですか」

「どっちがだよ」

 まずそれを俺に報告するな。
 普通に冗談だろうけど。

 ……冗談、だよな?

「ていうか泊まるってなんですか」

「奈雨が言った通りだよ」

「おはようからおやすみまで奈雨ちゃんですか!」

「その言い方最高だな」

 こいつと話してるとIQがどんどん下がっていく気がするわ。

「奈雨ちゃんに玄関で迎えられたら、有無を言わせずすぐにベッドインする自信あります」

「いくらなんでも今日振り切れすぎじゃない?」

「あ、直接じゃなくて電話だからですきっと。
 あと、今バスに一人なので、先輩とおしゃべりして暇つぶしです」


685: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/27(月) 22:15:23.16 ID:AjZ8IGZn0

「俺は便利屋じゃないですよ」

「でも付き合ってくれてるじゃないですか」

「切るぞ」

「わわっ、待って待って。待ってください!」

 こう言わないと用件を話さないのは経験済みだ。そろそろ改善してほしい。
 無駄話は嫌いじゃないけれど、それにしたって人を選ぶ。

 零華と喋っていると、芋づる式に奈雨のことを考えてしまって駄目だ。

 かわいいとか言われると、たしかにかわいいけど、うん。ボロが出るかもしれない。

「それで、明日って空いてますか?」

 奈雨を介さない。
 つまり、二人きりってことか。

「夜なら少しは。何時頃?」

「終電が九時過ぎなんですけど、その前くらいまでなら大丈夫です」

「なに話すの」

「デート前なのでわたしがアドバイスを伝授します!」

「いらないっす」


686: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/27(月) 22:16:39.21 ID:AjZ8IGZn0

「……ってのは建前で、ちょっと先輩に相談がありましてですねー」

 わざわざ建前を言う必要ってあったのだろうか……。
 なんとなく、話しづらいことではあるらしい。
 
 零華には佑希に言うと脅されているから、聞き入れられる程度の頼みなら了承せざるを得ない。

 べつに佑希にバレようが奈雨と俺の問題だから関係はないはずだが、両方の親に伝わったりしようものなら面倒なことになる。
 向こうは伯母さんがいるから大丈夫だろうけど、こちらの方はどうなるかわからない。

 姓は父方だけど、奈雨はどちらかと言えば白石家の本家側の人間で(祖父母宅からほど近いところに住んでいる)、うちの両親は向こうにへこへこしているきらいがある。

 まあ、そこらへんはあまり詳しくは知らなし、大人の世界のあれこれだとは思うが、リスクヘッジのためにも下手な行動は取らない方がいいだろう。

 普段見ていない人に文句をつけられることは是が非でも避けたい。


687: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/27(月) 22:17:29.46 ID:AjZ8IGZn0

「七時頃まで部活出るから、その後に待ち合わせ場所教えて」

「はーい。先輩優しいですね」

「どうも」

「お礼と言ってはなんですが、先輩の質問も聞きますよ」

「……今でもいい?」

「内容によってはですけど、いいですよ」

 "質問"というワードで思い出した。

 雪村零華に対して優しく扱っている理由は、さっき考えたことや彼女自身のかわいらしさもあるが、一番は奈雨のことについて訊きたかったからだ。
 あのときの、俺の知らない奈雨について、ずっと近くにいる彼女なら知っているかもしれないと、そう思ったからだった。

 べつに時間は用意されているのだし明日でもいい。
 だが、直接訊かれても零華は答えにくいかもしれない。

「先輩? もうバス停着きましたよ」

「ああ、うん。あのさ──」


691: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/29(水) 02:39:11.78 ID:6C7ZJzN00

【待てない】

「もう我慢できない! 無理だ!」

 という胡依先輩の甲高い声が、中学棟四階フロア全体にわたってこだました。

 合宿を明日に控えた火曜日。
 朝から降り続くあいにくの雨に気分がどんよりするなか、今日は二人で作業をしていた。

 先輩はずっとそわそわしていて、コンビニに行こうと言ってきたり、紅茶が残っているのに自販機に行こうと言ってきたりしている。
 そして今はその帰り。濡れた廊下は歩くたびにきゅっきゅっと音を響かせる。

「シノちゃんどうして来ないし!」

「先輩がいじめたから」

「あ、あんなのジャブだし! 私はもっと濃くなるし!」

 意味わかんねえ。

「私は待てる女私は待てる女私は待てる女私は待てる女……」

 壊れたスピーカーのようにぶつぶつ念仏を唱える姿は物寂しい。
 これがわびさび。全然違う。

「明日からの合宿。東雲さんが来なかったらどうしますか?」

「ハラキリ」

「え?」

「私のモチベの八十割が失われる……」

 それ800%じゃ……?



692: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/29(水) 02:40:20.81 ID:6C7ZJzN00

「明日は昨日言った通りもしかしたら日中全て空けるので、俺今日は泊まりがけでやるつもりですよ」

「白石くんじゃ癒しになり得ない……」

「なっても困ります」

「だ、だよねー」

 先輩は「はあー」とわざとらしく大きなため息をつく。
 両手で握りしめられたコーンポタージュの缶は今すぐにでも破損してしまいそうなくらいミシミシと音を立てている。

「私のシノちゃん籠絡計画が……ぐうう。これからって時なのに……」

「なに考えてるんすか」

「実を言うと、まだ入部届けをヒサシちゃんに出してないのね」

「胡依先輩が?」

「そうそう。入部仮置き、預かり置き? ってところなのよ、シノちゃんは」

「どうしてですか?」

「ほら、シノちゃんが自分の意思で描けないまま入部しちゃっても、あとで困っちゃうかもしれないじゃない」

「……」

「私は部室に来てくれるだけでも嬉しいけど、シノちゃんはそうじゃないかもしれないし」


693: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/29(水) 02:41:18.51 ID:6C7ZJzN00

 たしかに。
 みんなが作業をしていて、それを見ているだけでいるのはつらいかもしれない。
 描けないことを突きつけられているようで、ここにいていいのかと思うかもしれない。

「あの、全然関係ない話なんですけど」

「なに?」

「この前来た"しゅかちゃん"って人って、美術部の部長なんですよね?」

 今日の朝登校中に高校棟一階の屋根のある場所で入場門やら何やらを作っているのを見かけた。
 十数人で、でも、その中でテキパキと指示を出していたから、上に立っているのは間違いない。

 部活を辞めるという気持ちは経験したことがないからわからない。

 東雲さんと胡依先輩に共通するもの。
 それは何らかの原因で中学時代に美術部を辞めたことだ。
 お互い絵が上手く、東雲さんについては市の表彰まで受けているのにも拘わらず、美術から離れてしまっている。

 先輩は俺からの質問に答えあぐねているように見えた。


694: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/29(水) 02:42:02.31 ID:6C7ZJzN00

 けれど、部室に入り深く息を吐き、「そうだよ」と真面目な面持ちで言った。

「しゅかちゃんとは、まあ中学の時にいろいろあってね」

「美術部の頃にですか?」

「あれ、私言ったっけ」

「……あー。えっと、小耳に挟んだので。
 あと、この前も美術部には戻らないって先輩言ってましたよ」

 先輩は取り繕いの笑みを浮かべた。
 そして、気まずさを紛らわすように窓の方を見つめた。

 つられて俺もそちらを振り向くも、依然として雨が打ち付けていて空は暗いままだ。

 前から先輩のことが気になってはいた。
 絵に対する情念。東雲さんに対する態度。哲学的な思考回路。殆どのことなら先回りできる聡明さ。

「……先輩は、どうして美術部を辞めたんですか?」

 びくりと彼女の肩が跳ねた。
 でも、それも一瞬のことで「そうなるよね」と言いたげな表情で俺を見て頷く。


695: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/29(水) 02:42:56.37 ID:6C7ZJzN00

「私はね、ただ描けてたらそれで良かったの。
 まあ私も昔は尖ってたっていうか、一人でいるのが好きだったから、馴れ合いとかがすごく嫌いだったの」

 ほんの僅かにだけ、その言葉は納得がいった。
 先輩は人好きのする印象だけど、人付き合いは苦手そうであったから。

「この学校に入って一番最初にできた友達がしゅかちゃんでさ。
 あの子も絵を描くことが好きだったから、一緒に中一から美術部に入部した」

「……」

「ここに入ってなにをしようなんて考えてなかったから、授業も勉強もつまんなくてさ、
 友達もしゅかちゃん以外いなかったし、私の学校生活の中心は美術部だったの」

「そうですか。そいえば中学受験したんですよね」

「……意外?」

「まあ、ここ難易度高いですし」

「そんなこと……あるかも」と言ってうっと唸る。何かを思い出してしまったらしい。


696: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/29(水) 02:43:36.09 ID:6C7ZJzN00

「なんで受けたんですか?」

 秋風美柑が俺にした質問を問いかけてみた。

 彼女は顎に手をやり首をかしげる。
 やっぱり、普通の人なら受験することにちゃんとした理由を持っているに違いない。

「ヒサシちゃんがいたから」

 先輩はどこか自虐的に微笑みながら言った。

「ヒサシ……」

「うん」

「ヒサシって、この部活の顧問のヒサシですか?」

「そうそう。ヒサシちゃんがこの学校の教員だったから、私はここを受験した」

 言葉の意味がよく掴めない。
 ヒサシと、何か古い付き合いでもあるのだろうか。

 そう思ったところで、先週ヒサシと階段で会った時にした会話を想起する。

 胡依。
 と彼は彼女を下の名前で呼んでいた。

 白石、伊原、若松、とかクラスメイト全員のことを苗字で呼ぶ人なのに。


697: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/29(水) 02:44:23.57 ID:6C7ZJzN00

「あ、いや好きとかじゃないよ?
 ヒサシちゃんと私は十二? 三? 個離れてるわけだし」

 瞑目する俺に、慌てたように手をわちゃわちゃさせながら補足を入れる。

 俺は何も言ってないのに。勘違いされたくないのだろうか。

「それに私が好きなのは女の子だし!」

「さらっと爆弾発言しないで下さい」

「えっ……冗談だよ?」

 言いながら彼女は目を泳がせる。
 クロールというよりバタフライ。そう思ったけどなぜかは説明できない。

 俺の中の激しいイメージかな、多分。

「本当ですか?」

「ほ、ほんとうです」

 確認すると、彼女は突然敬語になった。
 いくらなんでもわかりやすすぎる、と思わず笑ってしまった。


698: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/29(水) 02:45:44.08 ID:6C7ZJzN00

 ……やっべ。俺の目に広がっていた百合ワールドって虚像じゃなかったんだ。百合漫画を薦めてくる先輩がそうだったのか。
 最近できた知り合いにガチ勢が二人もいるとは……この学校侮れないな。いや零華くらいまでハードになるとこっちも引くけど、先輩はノーマルだろ、たぶん。

 などと脳内で頭の悪いことを考えている間も、先輩はどうにかして弁解しようとしていた。
 焦っている先輩。ああ、よきかなよきかな。

「あーもう! 何かと話したくさせる白石くん嫌い!」

 うがーと吠えられる。叩かれる。
 今日は子犬のように思えてならない。

「よく言われます」

「ずるいんだよほんとにさー。そうやって弱みを握って悪さをしようとしてるんでしょ」

「してないです」

 訊いたら勝手に話してくれるだけだ。
 大抵の人は訊かずとも喋りだすけど。

 超高性能感情サンドバッグ。都合よく聞き逃したり忘れたりするのはお手の物。
 実際はどうでもいいこと/取るに足らないことがいつのまにか記憶から消し去られているだけではあるが。


699: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/29(水) 02:46:20.22 ID:6C7ZJzN00

「話戻しますか」

「もう私は話さない。白石くんの話をしよう」

「しませんよ」

「シノちゃんに手を出したら許さないんだからね! めっ!」

 これはこれで冗談なのかガチで言っているのか判別がつかないな。

「俺は別に東雲さんのことは」

「知ってる」

 言い終わらないうちに断言される。
 そういえば、そういう話を前にもしたっけか。

「でも」と彼女は口を開く。

「白石くんはシノちゃんに頼ってほしそうにしてる。
 それが、私はちょっとだけ気になる」

「そういうふうに見えますか?」

「うん。まあ、白石くんの優しさってそういうところだと思うよ」

「ちっちゃくて庇護欲が唆られるんじゃないですかね」

「今真面目な話をしてるつもりだけど」

 それまでよりトーンを落としてじいっと目を見て言う。
 逸らしちゃいけないと思ったが、結局耐えきれずに逸らしてしまった。

 だが、俺の様子を見て彼女は「ふふふ」と笑う。
 は? と思って目を戻すと、先輩はいつもの笑みを取り戻していた。


700: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/29(水) 02:46:57.46 ID:6C7ZJzN00

「ひとつわかったことがありました」

「なんですか?」

「私は待てない女らしいのです」

「はあ、そうですか」

 からかわれていたらしい。
 それにしては、真面目な表情と声音だったけれど、案外先輩は演技派だ。

 優しげに映る外側に包まれたその内部を見せてくれない。
 さっきの話だって、全部が全部正しいとは思えない。

 俺の警戒を解くために、わざと隙を作ったか、話がそっちに行くように誘導したか。
 どのみち、このまえ釘を刺されたことと、内容的には一致している。

 ……まあ、いいか。疑いすぎはよくない。

「さて、それじゃあ行きますか」

 先輩はぐいっとコーンポタージュを飲み干してゴミ箱に投げ入れる。
 荷物は置いたまま、パソコンの画面をスリープモードにして、俺に立ち上がるように促す。

「どこへ?」と俺が問うと、彼女は「決まってるでしょ」と言って腰に手を当てながら人差し指を突き立てる。

「シノちゃんのところに直談判。白石くんも一緒に行こう」


701: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/29(水) 02:47:44.11 ID:6C7ZJzN00

【雨音】

 というわけで、東雲さんの家に向かうことになった。

 駅までの道を二人並んで傘を差して歩く。
 先輩がそうしたように、俺も荷物は財布しか持ってきていない。

 昨日の帰り道と同じく何も話しかけてはこなかったので俺も黙っていると、彼女は小さく歌を口ずさみながら軽快に足を進める。

「涙は流線形 こぼれて悲しい順に雨になる
 いつだって僕等は淋しい夜をすれちがう」

 それは、どこかで聞いたことがあるような、そうでないような。
 今の天気が雨だから、そんな歌を口ずさんでいるのだろうか。


702: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/29(水) 02:48:47.68 ID:6C7ZJzN00

 本当についていっていいのだろうか、と思った。
 自分一人で変えるべきだと彼女は前に自分で言っていたのに。

 俺が東雲さんに手を貸す可能性を消したかったから、わざわざ一緒に話を聞かせた。
 それを言われたときには「胡依先輩が東雲さんを気にかけているから」だと思ったのだが、どうやらそうではないようだ。

 彼女は曇り空が好きらしい。
 少し雨が降っているときに傘を差して街をぶらぶらと歩くのが好き、と知り合って間もないときに言っていた。

 昨日の絵だってそうだ。
 雨は降っていなかったものの、空は厚い雲で翳っていて。
 でも、所々には雲のない青が見え隠れもしている。

 あそこに東雲さんの言う"自分"が潜んでいるとすれば、彼女の気持ちは一体どういうものなのだろうか。

「白石くん、もう降りるよ」

 ぼうっとそんなことを考えていると、すでに降車駅に到着していた。


703: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/29(水) 02:49:48.02 ID:6C7ZJzN00

 ホームから下に降りて改札をくぐり、駅からほど近い東雲さんのカフェへと向かう。

「直談判たって、なにを言うんですか?」

 もうひとつ信号を渡れば着くというところで、学校を出てから初めて話し掛けた。
 するとすぐに彼女の鼻歌は止んで、前を向きつつ苦笑いを浮かべて、あははと肩をすくめる。

「なんだろうね」

「無策」

「そうだよ!」

「考えてから行きましょうよ」

 テンションでごまかされないぞ。
 無策でピラニアの池(言いすぎ)に飛び込んでいくのはあまりにも危険すぎる。

 先輩がそんなヘマをする様には見えないけれど、どこに地雷原があるかは彼女でもわからないだろう。

「一番伝えたいことは?」

「好きって気持ち!」

「……真面目に考えてくださいよ」

「えーだって、私はシノちゃんと会って話をしたいだけなの。
 それに、愛の言葉にはリリックは必要ないんだよ」

「じゃあ行きますか」

「……あの、つっこむところだよ?」

 信号が青に変わって、その言葉を無視しつつ前へ進む。

 どうせ俺はいるだけで、直接何かを言うのは先輩だから、もう任せることにしようと思う。
 先輩はちらと俺を確認して、また隣に並んだ。


704: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/29(水) 02:50:40.71 ID:6C7ZJzN00

【過去】

 お店の扉を開けると、いつものようにカランカランと音が鳴る。

 迎えてくれる店員さんは、東雲さんのおばあさんだった。
 それで、ざっと店内を見渡しても東雲さんの姿は見受けられない。

「あの子はまだ帰ってきてないよ」

 案内された席に腰を下ろすと、彼女は俺と胡依先輩にそう告げた。
 コーヒー二つで、と先輩が俺を見ずに言う。スマートに奢ってくれるらしい。

「待ってますか?」

「うーん」

「……行き違いですかね」

「そうかもね」

 三分ほど経って、席にコーヒーが運ばれてくる。
 これを飲む間だけは待っていようかと考えていると、何を思ったのか先輩は東雲さんの祖母を「あの!」と言って呼び止めた。

「どうしたんだい?」とすぐに怪訝な目を向けられる。


705: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/29(水) 02:52:10.38 ID:6C7ZJzN00

 先輩はいくらか緊張しているように見えたが、一拍間を置いてから、

「あの、お孫さんについて教えてもらえませんか」

 と言った。マドラーを回す手が止まった。

 まずいだろ、と思ったが案外気さくな様子で話を聞いてくれるらしく、彼女はひとつ隣の席に座る。
 お孫さんの部活の部長です、と先輩が遅れて挨拶をすると、孫がお世話になっています、と深々と頭を下げられる。

「今日は、お仕事はしていないんですか?」

「ええ。あの子にはおうちにいる時だけ注文取りをしてもらっているのよ。
 私らも頼んでいるわけではないんだけどねえ、ここにいるのが楽しいみたいで」

 なるほど、と先輩が頷く。

 あの窓際の席で、空を見つめながらぼーっとしている東雲さんが思い浮かぶ。

 それからお客さんは他にはいないからなのか、不思議と世間話のようなものに移行する。

 学校でうまくやってるかい?
 人間関係とか、大丈夫なのかい?
 あの子、人見知りだけれど友達とかいるのかい?

 全く知らないはずなのに、先輩はそれっぽい返答をする。
 最後には「私は親友です!」と言っていた。一個上だろうに。


706: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/29(水) 02:53:23.77 ID:6C7ZJzN00

「それで、聞きたいことがあるとか」

 五分くらい学校での東雲さんの様子について問われた後に、間を埋めるような形で話題が当初のものに戻った。

 何を言うのだろう。
 そう思っていると、先輩が真面目な顔をつくっておばあさんの方へ体を向ける。

 少しだけ緊張した雰囲気が流れ、店内はかかっている音楽が終わるタイミングを見計らったように、胡依先輩は喉を鳴らす。

「親御さんのことです」

 言うなり、彼女の眉根がぴくり動く。
 眉間にしわを寄せ、表情が強張ったものに変わる。

 それまで柔和な表情を浮かべていただけに、その変化がとても大きなもののように見えてしまう。

 だが、先輩は目を逸らさない。
 最初からそう言おうと決めていて、どういう反応をされるかも予期していたとでも言うように。

「あの子から、何か聞いてるのかい?」

「いいえ。でも、なんとなくは伝わってきます」


707: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/29(水) 02:54:13.87 ID:6C7ZJzN00

 親については聞いたことがないな。
 でも、中学の時は他県に親と住んでいたとは言っていた。

 高校になってこっちに来たとなれば、当然今は両親とは暮らしていないということで間違いない。

「たしか、あなたたちは美術部だったわよね」

「あ、いえ、イラスト部です」

「何か違うのかい?」

「ほぼ同じですけど、ちょっと違います」

 胡依先輩に続いて頷くと、おばあさんは言おうか言わまいか逡巡するような顔をした。

「たぶん、大事なことなんです」

「……大事なこと?」

「きっと、避けては通れないことなんです」

 おばあさんはなおも困った顔をしていたが、
 何か思い当たる節があったのか、深いため息をついてから問われたことについて語り出した。


708: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/29(水) 02:55:38.64 ID:6C7ZJzN00

「あの子の両親は、どちらも美術に関係する仕事をしていてね」

 その言葉に、先輩は確信めいた頷きを返す。
 そこまで予想していた……わけないよなさすがに。そこまできたら妖怪だ。サイキッカーだ。

「それが親譲りなのか、ただの見よう見まねだったのか、あの子は絵を描くことが昔から好きでね。
 小さいころにここに遊びに来たときなんて、外に一度も出ずにずっと絵を描いてたの」

 まるで絵を描くことに執着しているみたいにね。

「そうなんですか」

「たぶん、あの子なりに親に振り向いてほしかったんじゃないかと思うのよ。
 うちのバカ息子とバカ嫁には私とお父さんからも口うるさく言ったんだけど、話半分で全然聞き入れなくて、仕方なく私らが預かることにしたのよ」

「……はい」

「それで、いざこっちに来てみたら、絵を描くでもなくずうっとぼんやりしているものだから、あの子に訊いてみたのね」

 絵は描かないの? と。

「……でも、あの子は何も言わずに首を振るだけだったのよ。
 部屋のゴミ箱には、くしゃくしゃに丸められた紙がたくさんあったから、何かを描こうとはしていたとは思うのだけどね」


709: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/29(水) 02:56:11.83 ID:6C7ZJzN00

 描かないのではなく、描けない。
 手が震えて、うまく動かせない。

 俺と胡依先輩の知っている少ない情報と照らし合わせても、何れもずれているところはない。

「シノちゃんは──」と先輩はおそるおそるというように口を開く。

「──ずっと、昔住んでたところでは、家にひとりぼっちだったんですか?」

「そうよ」とおばあさんは頷く。

 聞くと、先輩の表情はどこか悲痛を感じたようなものに変わった。
 懐古するような、後悔するような、そんな姿は冷静さとはかけ離れていた。

「そうですか。やっぱり、そうなんですよね」

 先輩はそのまま、誰に対してでもないような言葉を呟く。

「うん?」とおばあさんに訊ね返されると、テーブルの木目を見るように目を伏せて小さく頷き、ささっと前髪を整える。

 その仕草が、なんとなく気になってしまう。


710: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/29(水) 02:56:43.52 ID:6C7ZJzN00

「いえいえ、なんでもないです。それだけ訊けたら満足です」

 それ以上は訊いても何もないと思ったのか「ありがとうございます」と先輩は一方的に話を締める。

 俺は助け舟を出すつもりで、そのまま席を離れようとするおばあさんを呼び止める。

「先輩。明日からのこと言わなくていいんですか」

「……え?」

「合宿についてです」

「あー。そっか、それもあったか」

 本当に頭になかったのか、えらくしどろもどろになりつつ、明日から数日間東雲さんを借りることを説明しだした。
 まだ彼女が来るかどうかはわかっていないが、連絡ミスによるトラブルは早めに回避するべきだろう。

「それについては、もう聞いてたわよ」

「……はい?」

「あの子が、部活で何日間か学校に泊まるって昨日の夜に言っていたのよ」


711: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/29(水) 02:57:22.35 ID:6C7ZJzN00

「あ、そうなんですか。じゃあ話は早いですね」

「そうね。あの子をよろしく頼みます」

 任せてください! と先輩は胸を叩く。

 数分後には二人ほぼ同時にコーヒーを飲み終えて、用件も終えたから帰ろうということになった。

 時計を確認すると、もうだいぶいい時間になっていた。

「また来てね」と言われて、それに頷いてから二人で外に出る。

 すっかり暗くなってしまった道を歩く。

「雨、止みませんね」

「そうだね」

「このまま戻りますか?」

「白石くんは?」

「ちょっと用事があります」

「りょうかーい」

 先ほどトイレに行った時に確認すると、零華から学校の最寄り駅前で待っていると連絡が来ていた。


712: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/29(水) 02:58:38.78 ID:6C7ZJzN00

 交差点で足を止めると、彼女はふうと息を漏らす。

 ぐいと服の裾を引かれる感覚にどきりとして隣を向くと、彼女の指は信号の向こうを指し示している。

「シノちゃんだ、あれ」

 うちの高校の制服。黒色の傘。
 顔ははっきりとは見えないけれど、背丈と姿格好からして東雲さんだろうと思う。

 信号が変わると足早にこちらに向かってきて、俺ら二人を目で捉えたのか、渡りきった後に足を止めた。

「あれ、未来くん、と部長さん?」

 先輩はふいっと目を逸らす。
 その様子を見て、東雲さんはきょとんと首をかしげる。

「東雲さんが部室に来ないから、明日どうするのかなって思ってこっち来てみたんだ」

「えっ……と。部長さんにはラインしたんだけど」

 先輩はここにスマホを持ってきていない。
 というか、今日使っていることすら見ていない。


713: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/29(水) 02:59:09.97 ID:6C7ZJzN00

「シノちゃん」と先輩が口を挟む。

「……どうしたんですか?」

「もう来てくれないかと思った!」

 その場に傘を落として、がばっと東雲さんを抱きしめる。なぜか涙目で瞳をうるうるさせながら。

「シノちゃんあったかい、好き」

「……こ、こんなところで抱きつかないでくださいよ。
 今日はクラスの手伝いをしていたんです。ちゃんと言いに行けなくてすみません」

 東雲さんがよしよしと頭を撫でると、先輩の表情はぱあっと晴れやかになった。
 ……いや、本気で好きなんですかねこの反応は。

「シノちゃん、荷造りは済ませた?」

「いえ、まだです」

「手伝おっか?」

「……そんなに荷物ないですけど」


714: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/29(水) 02:59:39.63 ID:6C7ZJzN00

「とりあえず家に行こう!」

 よっぽど会いたかったらしい。
 やっぱり、彼女なりに罪悪感を感じていたのかな。

「先輩。俺もう戻りますけど、どうしますか?」

「私は、とりあえずシノちゃんのおうちに戻る」

 東雲さんは「え、来るんですか?」と驚いている。
 普通の反応すぎて逆に安心する。

「じゃあまたあとで部室行くので、ひとまず失礼します」

「おっけー。またあとでね」

 胡依先輩の言葉とともに、ひらひらと隣の彼女からも手を振られる。

 そのまま落ち着いた様子で傘を拾った先輩は、東雲さんと二人で踵を返していった。


715: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/29(水) 03:00:23.49 ID:6C7ZJzN00

【自然】

 駅前で零華と合流して、近くのバーガーショップに入る。

「遅いです」とか「女の子を待たせるのは最低です」とかうだうだ言われたから、餌付けをして黙らせた。

 それで、今目の前でもきゅもきゅとチーズバーガーとポテトを食べている。この時間に食うと太るぞ。

「で、相談ってなに」

 言いながらメロンソーダを差し出すと、ありがとうございますと素早く喉を潤した。

「メインディッシュはあとにとっておくものですよ」

「もうお腹いっぱいなんだけど」

「昨日のことについてですけど、一晩思い出してみても、わたしには原因はわからなかったです」

 前菜はこっちだとばかりに、零華は話を変えた。
 俺にとってはそれが会う目的だったのではあるが、この際順番なんてどうでもいいことだ。


716: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/29(水) 03:01:15.25 ID:6C7ZJzN00

「つーか、足どうしたのおまえ」

「……足?」

「引きずってるように見えたけど、怪我でもしたのか?」

 真面目に話をしたいし食べ終わるまで待ってやろうと他愛のない話を振ると、
 零華はぽかーんと呆けた様子で俺を見つめてきた。

「そ、そこに気付くとはさすがですねー。
 わたし雨の日は足が痛くなる病を抱えているんですよ」

「……偏頭痛的な?」

「気圧の変化ですかね。てかわたしのこと見すぎですよ、きもいです」

「いきなり攻撃しないでくんね」

 明らかに足を引きずりながら歩いている子を見たらそりゃあ気になってしまうでしょう。

「まあ、ちょっと昔の古傷ですよ」

「お大事にな」

 言うと、零華はくすくすと笑って恥ずかしそうに目を外へ向けた。

「なるほど。これがナンパ入門ですね」

「俺の心配を返せ」

「……でも、ありがとうございます。
 気付いてくれる人ほぼいないので、困ったりした時にこき使えますし」


717: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/29(水) 03:01:55.79 ID:6C7ZJzN00

「使われないぞ」

「現に今使ってますし、感謝ですよ」

 うへへと邪悪な笑みで見られる。
 感謝の気持ちが足りないなあ、まったく。

 零華が食べ終えたことを確認してから、ゆっくりと口を開く。

「さっきの話だけど、本当になにも知らないのか?」

「はい」

「奈雨が学校でいじめられてたとかは?」

「え、ないですないです。まずひと学年に二クラスしかないですし、わたしと奈雨ちゃんはそのとき同じクラスでしたから」

 俺が小六、奈雨が小五の時の話。

「じゃあどうして、奈雨は学校に行けなくなったんだ?」

「なんていうか、そのときのことを奈雨ちゃんに言うと、お茶を濁されるといいますか、露骨に嫌な顔されるんで訊けなかったんですよ。
 それで、どうして先輩がそのことを訊きたいんですか?」

「……いや、ただ気になって」

 ずっとそうだと思っていたから、違うと言われてしまうと続く言葉に詰まってしまう。


718: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/29(水) 03:02:52.87 ID:6C7ZJzN00

「今のクラスでは?」

「わたしが奈雨ちゃんに変な虫がつかないように警戒してます」

「それ頼もしいな」

「えへへ」

 褒めてねえから。若干引き気味だから。皮肉だから。

 まあ、零華が違うと言うなら違うのだろう。
 奈雨があのとき外に出れなくなったのは、他者からの攻撃ではないということだ。

 あのとき以降の奈雨は、ちょっとした変化かもしれないけれど、俺の目には、かわいい自分を作らなくなったようにも映った。
 自然体でも充分かわいらしいから、その方が俺もいいと思う。

 伯母さんは俺が奈雨を助けたと言っていたが、本当にそうなのかな、と思う。

「奈雨が外に出ようとしないからどうにかしてやってくれ」と母さん伝いに聞いて、三橋家に泊まったついでに説得して彼女を外に出した。
 と言っても、誰も入れないはずの部屋の中には簡単に入れてくれて、三日くらいはかかったものの、俺が何をしたっていうわけでもない。

 彼女が笑っていなくて。
 俺は彼女の笑っている顔が一番好きで。
 彼女にはいつも笑っていてほしくて。


719: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/29(水) 03:03:28.38 ID:6C7ZJzN00

 何を話したかとかは全く覚えていないが、ただ最後に交わした約束だけを覚えている。
 もしかしたら彼女は忘れてしまっていて、今は俺だけが盲信しているものなのかもしれないとは、いつも思っているけれど。

「ごめん時間取らせて。それだけ」

「それだけ、ですか?」

「うん。ありがとう」

「どういたしまして」

 訊きたいことは他にもあったが、彼女の相談とやらに話題を移すことにした。

「零華の相談は?」

「あ、はい。先輩と奈雨ちゃんが一緒に寝るなら奈雨ちゃんの寝顔を」

「撮らないぞ」

「なんでですか」

「自分で撮らせてもらえよ」

「オフショットがほしいんですよ」

 俺はため息をついた。


720: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/29(水) 03:04:10.55 ID:6C7ZJzN00

「まあ、冗談はさておき本題に入りますよ」

「最初からそうしてくれ」

 彼女は苦笑した。
 これから言うのは真面目な話だから、緊張をやわらげるジョークが必要だったというように。

「……えっとですね、明日のことなんですけど。
 わたしのことは気にしなくていいので、奈雨ちゃんと楽しく遊んでもらえませんか?」

 その言葉に、俺はなんとなくの据わりの悪さを感じてすぐに「どういうこと?」と訊き返した。

 彼女は所在なさげに笑う。

「わたしもいますけど、いないものだと思ってくれてかまいません。
 本当に、わたしのことは気にせずに、奈雨ちゃんのことだけを見てあげてください」

 言葉の意味をうまく咀嚼することができない。
 誘ってきたのは零華で、場所を決めたのも零華なのに。


721: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/29(水) 03:05:05.75 ID:6C7ZJzN00

「わたしは二人のいちゃいちゃを見たいので、お邪魔にはなりたくないんです。それだけです」

「いちゃいちゃなんてしないけど」

「じゃあ自然に、ナチュラルにでいいんで、奈雨ちゃんと絡んでください」

 怪訝げに彼女を見ても、いつもと違う表裏のない表情でにこにこと笑うだけだった。

 ……いったいどういうことなのだろうか。

「とりあえず普通にしてればいいんだよな」

「そうです」

「……でも、普通って言われてもな」

「なんですか」

 普通が、一番難しいんだ。
 奈雨の前では普通でなんていられない。


722: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/29(水) 03:05:45.10 ID:6C7ZJzN00

 ふと気を抜いたら、すぐに駄目になってしまいそうだから。
 まだいけないことのはずなのに、もういいのではないかと錯覚してしまいそうになるから。
 俺は彼女にとっての"お兄ちゃん"なのに、それ以上を求めてしまいそうになるから。

 いくらかの動揺を感じ取ったのか、零華はぐぐっと身を縮こまらせる。
 そして、触れてしまいそうな距離にまで顔を近付けられる。

 思わず反射的に仰け反ると、席に身を乗り出して俺の肩に手を置いた。

「先輩は、もうちょっとだけ素直になった方がいいと思います」

 薄茶色の凜とした瞳が揺れる。

「ちゃんと、奈雨ちゃんのことを正面から見てあげてください」

 それだけは、わたしと約束してください。


723: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/29(水) 03:09:04.75 ID:6C7ZJzN00

【閉塞】

 家に帰る。玄関には見慣れない靴。
 奈雨がすでに来ている。
 一階では佑希がソファに寝転がってゲームをしている。

 自室から少し物音が漏れている。
 零華の言葉が頭に響く。

 目を瞑って、胸に手を当てて息を吐いてから、ゆっくり開ける。
 そうすると、なんとなく大丈夫な気がした。

 意を決してドアノブをひねる。
 床に座る彼女と目を合わせると、にこやかに微笑をたたえる。

「おかえり、お兄ちゃん」

「ただいま」

 自分が"普通に"返答できたことに驚いた。目を合わせられたことにも驚いた。

 というのも、彼女が髪を結っていなかったから。
 もっと言うと、風呂上がりで彼女の色白の肌が上気したように赤く色っぽくなっていたから。

 どうしてここにいるの、とかそういう野暮なことはこの際訊かない。


724: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/29(水) 03:09:38.89 ID:6C7ZJzN00

 どうせそうなるだろうとはわかっていた。

「今日ここで寝るの?」

「うん。そのつもりだよ」

「そっか」と返して勉強机の椅子に座る。

 奈雨はあたりまえのように俺に近付いてくる。人に懐いている猫のように。
 警戒心など全くなく、俺の意思など意に介さずに。

 指先が触れる。なんだかもどかしい。
 諦めて彼女へ向けて両手を広げると、勢いよく身体に飛び込んでくる。

「……したいの?」

「……うん」

 自分で言ったのに、断ろうかと思った。
 普段なら問題なく──していること自体が問題ではあるのだが──やれていたのに、今日はえらく気が滅入っている。

「お兄ちゃん」

 背中に手を回される。
 奈雨の服が薄着だから、やわらかい感触が直に伝わってくる。
 湯冷めしていないのか、まだ身体があつい。あつくて、こっちはくらくらする。


725: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/29(水) 03:10:08.71 ID:6C7ZJzN00

 髪の匂いがふんわりと香る。
 いつもと違う匂い。でも、好きな香り。

「せっかくだし、お兄ちゃんのシャンプー使ったの」

「うん」

「ボディーソープも同じだから、今のわたしはお兄ちゃんと同じ匂いがするよ」

「佑希も同じだけど」

「お兄ちゃんと同じなだけだもん」

「そっか」

「そうなの」

 しばらく抱きしめられていると、今度は手を引かれる。
 椅子から立たされて、彼女はベッドに座って横をぽんぽんと叩く。

「座って」

「……なにするの」

「ちゅーする。してもらう」

 そんなことを言われて、素直になれるわけなんてない。
 佑希が家にいるんだぞ。一応鍵はかけたけど、音なんて出さないけど。


726: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/29(水) 03:10:49.11 ID:6C7ZJzN00

「まずはわたしからするね」

 こくりと頷くと、すぐに唇を塞がれる。
 だが、いつものようにすぐに離れる。

「お兄ちゃんもして」

 とろんとした上目遣いをされては、それを断れる気なんて微塵にもなくなってしまう。

 俺からキスをする。離すと、彼女は切なそうに唇を動かす。
 もどかしさは消えない。もう一度唇を触れさせると、ほうっと熱い吐息が彼女の口から漏れた。

「立って」

 言われるがままに起立すると、彼女は背伸びをして俺の肩に触れてキスをしてくる。
 頭がまわらない。というか、まわすのを脳が拒否してしまっている。

「お願いがあるの」

 うん、と屈んで目線を合わせる。
 分けられていない前髪を横にはらうと、少しだけ彼女が大人っぽく見える。

「なに?」

「耳塞いで」

「こうか?」

 自分の両の耳を塞ぐと、彼女は「ちがうちがう!」とぶんぶん首を横に振った。


727: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/29(水) 03:11:26.62 ID:6C7ZJzN00

「わたしの耳」

「いいけど、なんの意味があるの」

「なんか、よくわからないけど、れーちゃんがすごいって言ってた」

 れーちゃん。
 その言葉で頭が活動を始める。

 全くわからないけど、彼女が言うことは危険性を孕んでいるように思えて仕方がない。

「やめよう」

「いいじゃんいいじゃん」

 はあ、とため息をつく。
 でも、すぐにただをこねられるくらいならばさっさと終わらせてしまいたい。

「座ってじゃだめ?」

「立っててがいいらしいよ」

「わかった」

 彼女の耳を塞ぐ。
 ゆっくりと唇が近付いてきて、目を瞑ったまま俺の唇を捉える。

 それまでとは違って長いキス。
 両肘を彼女の肩にスライドさせて、頭に手を回す。

 油断していると舌が入ってくる。
 拒もうとしたけれど、なぜか拒めない。避けようとすると舌が彼女の舌と絡む。


728: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/29(水) 03:13:03.33 ID:6C7ZJzN00

「んあっ」と彼女が出すとは思えないようなだらしない吐息が聞こえる。
 身動きがとれなくて、されるがままになる。

 一分半ほど経つ頃には、彼女ははあはあと肩で息をしながら、体重のほぼ全てを俺に預けていた。
 頭がぼーっとしてあつくなってくる。
 彼女とそういうキスをしたことは二、三度あるが、ここまで激しくされたのは初めてだった。

「おにい……ちゃん。やら……いっ」

 やめてと言いかけても、彼女は自分で続けている。
 俺はもう何かを考える余裕なんて持ち合わせていない。

 数分に渡って続けていると、不意に奈雨の腰がかくかくと痙攣し、かかっていた力が完全に抜けた。

 慌てて耳から手を離すと、彼女はその場に座り込んだ。

「……た、立てない」

「え?」

「やっ、ごめんなさい。……腰抜けちゃった」

 唇を戦慄かせながら涙目で見上げられる。
 言葉に詰まる。わけがわからない。


729: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/29(水) 03:13:33.48 ID:6C7ZJzN00

「あ、あははっ……立たせて、お願い」

「どうしたんだよ」

 腰を掴んで立たせたものの、彼女の息は荒いままで、俺が支えていないとすぐにでも倒れてしまいそうだ。

「いまの、もうやっちゃだめだからね」

「ああ。……うん」

「……ぜったい、だめ」

 自分に言い聞かせるように唱えていたから「自分からやってきたのでは」とは言えなかった。
 彼女は涙を指で拭いながら、俺に向けて心なしか嬉しそうに笑った。

「お手洗い、連れてってもらってもいいかな」

「トイレ?」

「……まあそんなとこ。ごめん、お兄ちゃん」

 二階のトイレの前まで彼女をそのままの姿勢で運ぶ。
 運び終えてベッドに腰を下ろすと、俺の心臓も落ち着いてきた。

 彼女は五分程度でさっぱりした顔で戻ってきて、また俺の隣に腰掛けた。
 顔色も良く見えるし、体調が悪くなったわけではないようだ。

 小声で「れーちゃんに文句言わなきゃ」という声が聞こえた。
 何か反応すべきかもと思ったが、聞き逃したことにした。


730: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/29(水) 03:14:02.75 ID:6C7ZJzN00

 時計は二十三時を示していた。
 もうこんな時間にまでなっていたのか。

「お兄ちゃん学校戻るの?」

「あーうん」

「明日九時に出るから、朝起こしにきてくれると嬉しい」

「できたらな」

「ありがとう」

 手持ち無沙汰をごまかすように、頭にぽんと手を置く。
 彼女は戸惑ったようにじとっとした目を向けたが、すぐに目を閉じて首をこちらに倒した。

 これでいいのかな、と思う。
 だめ。ではあるはずだけれど、彼女を前にすると、何も言えなくなる。

 しばらくすると彼女は俺の布団にごろんと入って、数分とも経たぬ間にすやすやと寝入り始める。

 あの、蕩けた目。声。表情。
 ……はあ、とことんだめだな俺は。

 結局家を出たのは(シャワーを浴びたり着替えたりしていて)日付が変わるまでにずれ込んでしまった。


734: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/30(木) 01:17:56.73 ID:YvRDjLe80

【人それぞれ】

 ウェルカム休日。さらば休日。
 ということで、七時半過ぎに家に戻る。

 出るとき胡依先輩とソラは爆睡していた。
 東雲さんは午後から少しだけ来るとか来ないとか。
 二人は夜中一時頃からテレビゲームをやりだして、俺はパソコンの上で寝ていた。
 絵はほんのちょっとだけ進めた。家にいたらできなかっただろうから結果オーライかもしれない。

 ……いや、疲れたんですよ。
 奈雨の表情しか頭に浮かばない。
 完全な病気です。あの子が悪いんだけどね。

 佑希はもう起きていた。
 昨日と同じくリビングでごろんとしながらスマホを操作している。

「奈雨は?」と一応訊ねる。
「知らない」と返される。

 そりゃそうか。
 今日も午後から部活らしい。たいしたものだ。

「昨日の晩飯ってどうしたの?」

「べつに。普通に食べた」

「二人で?」

「ううん、一人で」


735: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/30(木) 01:18:40.54 ID:YvRDjLe80

 まあ、そうか。
 ちょっとでも仲良くしてくれることを期待したのが悪かった。
 期待するのは俺の勝手な都合だけど、一週間以上もいるなら少しでも良好な関係でいてほしい。

 でないと困る。
 主に心労的な意味で。板挟みってこのこと(もうやだ)。

「午前中出掛けるから」

「……どこに?」

「モールに買い物」

「あの子と?」

「奈雨と友達と三人で」

 ふうん、と俺を見ずに相槌をうつ。
 どうでもいいやと思って階段の手すりに手をかける。

「やっぱり好きなの?」

「……だったらどうなんだよ」

「べつに」

 この前はそれなら何も言わないって言ってた気がするのだが。


736: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/30(木) 01:19:49.56 ID:YvRDjLe80

 俺は答えないまま部屋に上がる。

 ベッドは大荒れだった。
 掛け布団、落ちてる。枕、抱きしめてる。奈雨、半分床に落ちてる。
 こいつ寝相悪すぎだろ、と思いつつ彼女の身体を揺する。

 規則正しい呼吸音が聞こえる。
 寝息ですらそれっぽく思えてしまう。

 しているときは顔が近いけれど、緊張とかでそれどころではない。
 だから、こうして無防備な姿で彼女を見ると、いつもとは少し違って見える。

 思わずぱしゃり。
 最近はシャッター音が聞こえなくてよろしい。
 横流しはしません(断言)。

 彼女はなかなか起きなくて、その場にいると昨日の焼き増しになりかねないと感じて、上半身も床に落としてみた。

「へやっ」と声がする。どんな鳴き声。かわいいけど。

 持ち上げてベッドに戻す。
 身体が軽いといろいろ楽そうだ。
 そうこうしているうちに、彼女はぱちりと目を開ける。

「おはよ」と声を掛けると、眠たげな表情で「おはよ」と返事される。

「起こしにきた」

「……おはよ」

 目をごしごし擦る。声は甘ったるい。


737: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/30(木) 01:20:25.31 ID:YvRDjLe80

「顔洗ってこいよ」

「ん、わかった」

 すっくと立ち上がりすたすたと部屋の外へ歩いていく。

 外ではちゅんちゅん鳥が鳴いている。

 今日は太陽さんさんの青空である。
 ふと考えたが、太陽さんさんのさんってSUNなのだろうか。愛燦燦のさんかな。
 どうでもいいや。公共広告機構がキーボードで右手だけで打てるくらいどうでもいいや。

 そういえば奈雨は起こされても平然としているけど、寝顔見られたりして恥ずかしくないのかな。

「おまたせ」

「うん」

 彼女はきょろきょろと部屋を見渡して、照れたように笑みをこぼす。

「めっちゃ部屋荒れてるね」

「寝相悪すぎない?」

「あ、うん。お母さんによく言われる」

 言って、ふふんと鼻を鳴らした。
 もしかして毎朝起こしてもらってるのでは?


738: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/30(木) 01:21:18.06 ID:YvRDjLe80

「奈雨って愛されてるな」

「そうかな?」

「愛に飢えている俺とは違う」

「ふふ、なにそれ」

 彼女は腕を伸ばして俺の頬をつねる。

「なに」

「愛のかたちは人それぞれだよ」

「……そう?」

「そうだ」

 そうなのか。
 釈然としない。

「でも、たくさんの人に愛されるよりも、ひとりからその全員分の愛を受けたいかな」

「……」

「って、れーちゃんが言ってた」

「言いそう」

「ね」

「俺もそのほうがいいかもしれない」

「わかってるよ」

 彼女は窓の向こうへと視線を移して、どこか楽しげに笑った。


739: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/30(木) 01:23:30.61 ID:YvRDjLe80

【繋ぎ方】

 少し余裕を持って家を出て、地下鉄に乗って零華との待ち合わせ場所へと向かう。

 道中はなんでもないような話をしていた。不思議と途切れなかった。

 文化祭の話。
 イラスト部の話。
 今日の話。

 昨日の話はしなかった。
 単純に俺も彼女も話さなかったからだけれど。

 今日の話については、とりあえずウインドウショッピングをするらしい。
 実に女の子的な楽しみ方。買わなくても見ているだけで満たされちゃうのね。

「れーちゃんは買いもの長いから」と奈雨はくすくすと笑っていた。
 自分は短いらしい。比較的、らしいけど。


740: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/30(木) 01:24:34.76 ID:YvRDjLe80

 噴水の近くのベンチに本を読みながら座る零華を見つける。

「遅れてごめん」と俺が言う。
「はー、待ちました待ちました」と手をはらう。

「れーちゃんごめんね」と奈雨が言う。
「いやいや、わたしも今来たところだよ」とにこにこ調子になる。

 こいつほんといい性格してるな。
 逆に裏表ないのかとまで思ってしまう。奈雨には出してるっぽいし。

 俺の周りにはどうにも外面が完璧な人が多すぎるようだ。
 内面を出されるのは信頼されているのかどうでもいいと思われているのか。

「楽しみで二時間しか寝てません!」

「嘘つけ」

「嘘です!」

 あっさり否定するのな。

「ささ、二人とも手を出して」

 そう言われて、考えなしに手を出す。
 奈雨も続いてすっと手を出す。

「今日は手を繋いでてください」

 二人で目を見合わせる。
 零華は俺たちを見てけらけら笑っている。奈雨は無表情だった。


741: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/30(木) 01:25:35.13 ID:YvRDjLe80

「奈雨がいいなら」

「いいよ」

「なら繋ぐか」

「……うん」

 はい、と出された彼女の手の指を自分の指に絡めると、零華は鳩が豆鉄砲を食ったような顔を俺らに向ける。

「恋人つなぎですか」

「どっちでも変わんないよ」

「そういうことにしときましょうか」

「そうしてくれ」

 反応が満足するものだったらしく、彼女は「行きますよ!」と俺たちを置いていくように建物の入口に吸い込まれていく。

「台風みたいだな、ほんと」

「でも、れーちゃんいい子だよ」

 そうだろうな。

「……じゃあ、俺たちも行こっか」

「うん」

 そのとき、ぎゅっと指にかかる力が少しだけ強くなるのを感じた。


742: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/30(木) 01:27:09.62 ID:YvRDjLe80

【責任】

 零華が一歩先を歩いて、俺と奈雨がその後ろを歩く。

 あてもなくエスカレーターを乗り降り。内装が以前とは変わっている。
 休日とだけあってモールは混み合っている。この時間なのにふと通り過ぎたフードコートには行列ができていた。

 目星でもつけていたらしい店に入って出てを繰り返す。
 それを十店舗くらい続けるうちに零華の手にはいくつもの袋がかけられている。

 いや、買いすぎ。
 明らかにシーズンじゃないものも買っていた。
 奈雨も買っていたが、片手に収まるくらいだ。

 手を繋ぐ男女とその前にいる女。
 モール内の光景としてはだいぶ奇怪に映るらしく(カップルや家族連ればかりなのに)、歩いている途中に何度もちらりと見られる。

 奈雨が試着をするのを待っているときに、店員さんに「彼女さんかわいいですね」と話し掛けられる。
 ははは、と適当な相槌をうつとそれ以上は続けてこなかった。

 ……まあ、べつにいいんだけど。
 零華が彼女だと思われてしまったりもした。どっちともそうではないのだが、それはなんか嫌だ。


743: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/30(木) 01:28:03.35 ID:YvRDjLe80

「お兄ちゃんは、これとこれのどっちが好き?」

 質問がわかりやすい。選んできて、と言われないのはすごくありがたい。
 自分の服のセンスについては沈黙せざるを得ないが、彼女から提示される二択ならぎりぎりいけなくもない。

 好みな方を指差すと、選ばなかった方を戻して、もうひとつ違う服を持ってくる。

 ひと店舗でそれを五回ほど繰り返して、最後に残ったのを奈雨は購入する。

 気付くのに時間を要したが、どうやらオーバーサイズやモコモコ系の服が好きらしい。
 対して零華は露出強めのVネックセーターやら柄付きのミニスカやらを買っていた。
 タイツ履けば余裕ですよ! と言っていたが奈雨曰く痩せ我慢らしい。

 乙女ってたいへん。ヒートテック完備でも寒いとかなんとか。
 冬はとにかく着込んで身体おっきくしないと!

 男って楽だわ。だっせえジャージで出歩いてもいいんだから。
 柄シャツにジーンズでも可。全年齢が手を抜ける。男最高!

 まあ俺に関して言えば、まず家から出ないから買っても服を着る機会がないんだな、これが。


744: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/30(木) 01:29:25.34 ID:YvRDjLe80

「先輩ってこういう服似合いますよ」

 奈雨を待っていると、零華が近くにあった服を俺の前に出してきた。

「それ女物じゃん」

「こういうビッグシルエット系って、先輩みたいな顔立ちの人が一番似合うんです」

 なるほどわからん。
 首にかけるアクセサリーまでついて4500円か……安いのか高いのか微妙だ。

「ていうかさ、きみ奈雨に変なこと吹き込まないでくれないかな」

「はい? なんのことですか?」

「耳塞ぎながらしたら、あいつ具合悪くなったんだよ」

 昨日キスをしたのだとそのまま言っている気もしたが、文句をつけなければならないと思った。

 だが案の定、

「キスしたんですか!」

 と零華は叫んだ。

 店員さんが怪訝な目を向けてくる。
 ただでさえ片身が狭いんだから、ほんと勘弁してくれよ。


745: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/30(木) 01:31:57.09 ID:YvRDjLe80

「詳しく! 詳細ぷりーず!」

「落ちつけよ」

「ここで落ちついたらわたしのアイデンティティが崩壊します!」

「黙ったら話す」

「黙ります」

 変わり身の早さにため息が出る。

 アイデンティティの崩壊する瞬間を見た。実にあっさりだった。
 おお れいかのあいでんてぃてぃよ! しんでしまうとは なさけない……。

 それでも、零華の目は好奇心できらきら輝いている。

「なんか、五分くらいしてたらいきなり力がすーっと抜けていった」

「ほう」

「腰抜けたらしい」


746: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/30(木) 01:32:45.70 ID:YvRDjLe80

「ほう」

「……ほう?」

「いや、先輩。その情報だけでわたしは今日の夕飯五杯はいけますありがとうございます」

 ぺこりと頭を下げられる。
 初めて心から感謝された気がする。

「どういうことなんだ」

「わかりませんか」

 考えてみる。
 ……わからない。

「簡単に言うと、女の子って例外なく耳が弱いんですよ」

 うん。

「耳触りながらだったからってこと?」

 違います、と零華は即答する。

「響くんですよ、音が」

「……音?」


747: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/30(木) 01:33:25.47 ID:YvRDjLe80

「水音がですね、ぴちゃぴちゃって。
 わたしはしたことないのでわからないですけど」

「試しに耳塞いで歯をカチカチやって見てください。よく響きますから」と言われてその場でやってみると、たしかに音が鮮明に聞こえる。

 耳を塞がれて、奈雨は目を瞑っていたから目隠しをされている状況で、
 キスをしている音だけが耳に響いたら…………考えただけでぞっとするな。

「そのあとはどうでしたか?」

「そのあと?」

「え、あの……奈雨ちゃんの腰が抜けたあとです」

「えっと、トイレに行った」

「……あ、あー。あはは、ちょっとそれはあれですね」

 動揺の色を隠せないように、零華は「やっちまった」とでも言いたげな苦笑いをする。


748: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/30(木) 01:34:21.46 ID:YvRDjLe80

 そんな顔をされては、俺は気まずくなる。

「もうやっちゃだめっても言われた」

「ですよねー」

 手に持っている紙袋をくるくるまわしながら彼女は頷く。
 意味がうまくつかめない。やらなければいいのだからやらないけど。

「そこまでしちゃったら、もう責任とらなきゃだめですよ」

「なんの?」

「奈雨ちゃんの」

 はあ、と俺は戸惑う。
 責任。言われてみればたしかに。

 拒まない俺が悪かったと言われても仕方がない状況だった。

「善処する」

 と答えると、

「ならいいんですけど」

 と零華はそっけない口調で言った。


749: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/30(木) 01:36:33.30 ID:YvRDjLe80

【帰り道】

 お昼時になって、最上階にあるレストラン街で食事を済ませる。

 奈雨と零華の足元にはたくさんの袋が転がっている。
 結局奈雨もいろいろ買っていた。うちに置くのだろうか。

 俺も一応お金は持ってきていたから、現役女子中学生二人に服を見繕ってもらった(ちょっと嬉しい)。

 二人とも俺の服を選ぶ点では意見が一致していて、言われるままに上から下まで買ってしまった。
 札が消し飛んだ。さよなら諭吉……しばらくは野口と友達でいるよ。

 ほぼ並んでいない店に入って三人とも軽食を頼んだからか、十四時前にはモールを出ることができた。
 立体駐車場の出入りを見ても、この時間から一気に専門店街が混雑するようだったので、早めに出られたのは幸運だった。

 奈雨と手を繋いで、零華は繋いでいない側を横並びで歩く。


750: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/30(木) 01:37:14.32 ID:YvRDjLe80

「このあとどうします?」

 と歩道橋についたところで零華は言う。
 奈雨とともに俺を見て首をかしげている。二人とも今日はずっと休みだといっていた。

「俺は部活で学校行く。奈雨は?」

「わたし暇だし、学校行こうかな」

「それならわたしも行きますか」

 というわけで、目的地が学校に決定する。何をするのだろうか。

「あ、この荷物どうするの」

 自分で買ったものの他に、奈雨が重そうにしていた袋を受け取って持っていた。
 ほぼ役に立たなかったから、荷物持ちくらいはさせてほしいと考えたから。

 零華にも持つか訊いたが、意外にも「べつにだいじょうぶでーす」と返される。
 けれど、彼女のような華奢な身体では肩にかけるのがそこそこきついようで、道の途中でひとつだけ持ってあげることにした。

「お兄ちゃんの部屋に置かせて」

「いいよ。零華はどうする?」

「あー、どうしましょうね」


751: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/30(木) 01:38:24.91 ID:YvRDjLe80

 そう言いながら俺を見て、数秒後にその横を見る。
 奈雨は何かに気付いたようで「ああ」と首を縦に振る。

「お兄ちゃん、佑希いま家にいる?」

 ……佑希?

「部活だからいないと思う」

「ならお兄ちゃんの部屋に置かせてもらおうよ」

「大丈夫だよ」と奈雨は付け加える。
「ありがとう」と零華は笑いかける。

 どうしてそれを気にするのかは全く見当がつかないが、
 佑希が家に人が来るのを嫌がっていることを奈雨が察してくれたのかもしれない。

 けれど、わざわざそういう気遣いなんてしなくていいのに。
 彼女には心配をかけさせまいと思ってしまうのは、やっぱり俺の浅ましさが起因しているのではないか。

 ぐらり、とする。なんとなく。

 彼女はそういう存在ではない。
 深く考える必要はない。彼女がそれでいいなら──俺がそう思いたいからね──構わないのでないか。

 いつもだ、と思う。
 いつもこうなんだ、と思う。

 俺の心配はいつになったら終わるのだろうか。
 自分勝手なのは彼女なのに、どうして俺がここまで気を揉む必要があるのか。
 本当に心配したい相手がいて、でも、俺が何を求められているかは俺が決めることではなくて。


752: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/30(木) 01:40:11.88 ID:YvRDjLe80

 互いの求めるものを押し付けあって、ほどほどのところで満足して、それでいいんじゃないだろうか。

 彼女が俺に求めるものがそれであるなら、今の関係でも構わない、と思う。
 彼女の体温を感じるだけでも、俺は充分に安心することができる。

 でも、それこそ、代替可能なものなのではないか?
 俺が彼女に求めるものって、どんなものなのだろうか?

 あの、朝のことを思い出す。
 彼女だって、もしかしたら気付いてしまっているのかもしれない。
 気付いていて、"都合の良い"存在がなくなるのが嫌だから、あんなことを言ってきたのかもしれない。

 進めない、と思う。
 進んでいない。進んでいた気分になっていただけ。

 息を吐く。空気が冷たい。

 なにか嫌なことが起こりそうな気がした。昨日からずっとふわふわ浮いているような感覚でいる。
 もしくはずっと前からそうだったのかもしれないけれど、俺が何か致命的な思い違いをしているように思えて仕方がない。


753: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/30(木) 01:41:21.40 ID:YvRDjLe80

 手を握る力が強くなってしまったのか、奈雨はこちらを見上げる。
 心配そうに俺の顔を覗き込む。彼女の瞳はしっとりと濡れている。
 身体が熱くなりそうな感覚に耐えきれなくなって目を逸らす。

 不意に反対側の服の裾が掴まれる。

 隣にいる零華が、何か言いたげに立ち止まる。
「抱きしめちゃえばいいんですよ」と勝手に口が動いているように錯覚する。

 そうなのかな? と考えて、
 いやちがうだろ、と答える。

 血の気が引いて手の体温がどんどん冷めていく感覚を得て、俺はゆっくり手を離した。
 彼女は力無さげに離れた手を空に彷徨わせる。

 どうしてこんなことばかりなのだろう。

 切符を買って階段を降りて、ホームの椅子に二人を座らせる。
 少し疲れている様子が見え隠れする二人に飲み物を買って手渡す。

 落ちついているように装いたかった。見栄っ張りは止められない。


754: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/30(木) 01:41:57.02 ID:YvRDjLe80

 それにしても。
 零華ははしゃいでたが、奈雨はずっと俺の隣にいてあんまり動いていないはずだ。

 この疲れようはおかしい。
 昨日の姿が眼に浮かぶ。
 零華の言った言葉。自然に。責任。
 心配しているだけなのに、自分が自分でないように思えてならない。

 本当は彼女のことを心配したくなんてないのではないか。
 一方的な想いを押し付けているのは俺の方じゃないのか。

 荷物を下におろして地下鉄が来るのを待っていると、バッグの奥底でスマホがぶるぶると振動する。
 同時に、下り方面の地下鉄が来るとアナウンスが聞こえてくる。

 悪いタイミングだと思った。
 でも、なんとなく今は二人から離れてしまいたかった。

「電話?」と奈雨に問いかけられる。

 手を突っ込んで取り出して誰からのものかを確認し、二人に「先に乗って帰っていいよ」と告げて荷物を持ち上げる。

 一階に上がってからため息が出た。
 買った飲み物を一気に飲み干すも、気持ちは落ちつかない。

 さっきまでなんともなかったはずの気分は、一瞬にして沈んでしまった。


755: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/30(木) 01:43:00.82 ID:YvRDjLe80

【コール音】

「もしもし、未来?」

 静かな場所へ移動して掛け直すと、母さんは窘めるような口調で俺の名前を呼んだ。

「……もしもし、どうしたの?」

 滅多に電話なんて掛けてこない人だから、こういう場合は面倒ごとかもしれない、と直感で思ってしまう。
 今は仕事……休憩中だろうか。ここ二日ほど家に帰ってきていない。

「うんとね、ここ二週間くらい厳しくて、泊りがけになるから帰れそうになくてさ」

「……ああ、うん」

 わざわざ連絡しなくても多々あることだったから、どう返したものかと困った末に適当に頷く。
 家に留守電でも入れておけばいいのに。

「お父さんもそうだって」

「ふうん」

「その態度はなに?」

 どうやら癇に障ってしまったらしい。
 額を手で押さえる。これもいつものことだから気にしない。

「なんでもないよ」

 それ以外に言いようがない。


756: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/30(木) 01:43:58.00 ID:YvRDjLe80

「……なにか私に文句でもあるの?」

 口数が少ない割に、考えて発言をしないから、聞いている側からは不快に取られてしまう。
 こういう場合の母さんと佑希は似ている、と思う。

 昔は俺も上手くやれていたはずなのに、今は上手くやれていない。

「いや、いつもそんなこと言わないから、どうしてって思って」

 ふうん、と電話口の向こうから声がした。
 自分が怒ったことを自分がしてしまうのも、昔から変わらない。
 母さんがもし今デスク周りにいるとしたら、指先でコンコンと叩いているだろう。貧乏ゆすりもしているかもしれない。

「だってほら、奈雨ちゃん来てるじゃない。お父さんじゃなくて私の方に連絡来たのよ」

「そっか」

「ちゃんと仲良くね?」

「うん」

 じゃあ──と電話をこちらから切ろうと言いかけた時に、母さんは半ば遮るようにして続きを話し始める。


757: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/30(木) 01:44:44.70 ID:YvRDjLe80

「もしかして、もうなにか問題でもあった?」

 問題。

「どうして?」

「だって、佑希と奈雨ちゃん、仲悪いでしょ?」

「それをわかってたなら、お願いされても断ればよかったんじゃないの」

 伯母さんも気付いていたし、二人を知っている人ならみんなわかってるのか。
 あそこまで露骨に話したり遊んだりしなければ、まあわかって当然かもしれないけれど。

「だって、お義姉さんからのお願いでしょう?
 私の立場では、断るに断れないのよ」

「……よくわかんないけど、まだなにも起きてないよ」

 どうせ良い顔したかったんだろ。
 それを言わないのは、親のエゴやプライドか。

 それに、問題はこれから起きるかもしれない。

「そっかそっか。でも、もしなにかあったら、あなたが止めてあげるんだからね」

「……」


758: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/30(木) 01:46:48.85 ID:YvRDjLe80

「あなたは、お兄ちゃんなんだから」

「……」

 ──あなたは、お兄ちゃんなんだから。

 ああ、やっぱり。
 普段なら適当に相槌を返して聞き逃したことにするはずのに、
 今その言葉を受けてしまうと、他の何よりも的確に俺の内面を抉られてしまう。

 コンクリートの壁に身を預ける。
 避けては通れない、と昨日誰かが言っていた。

 そうだよな、と心の中で笑う。
 何ひとつ変わってすらいない。
 他の部分をいくら磨こうとしたって、いくら覆い隠そうとしたって、俺は俺の問題を解消しないことには何も変わらない。

 スピーカーから何か聞こえる。お兄ちゃんがどうとか言っている。
 聞こえているはずなのに、耳には入ってこない。どうしてだろう。

「未来? 私の話聞いてる?」

「うん、聞いてるよ」

「で、返事は?」

「……わかった」

 半分も聞いていないのにそう言うと、母さんは満足したように深くため息を漏らす。


759: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/30(木) 01:47:29.55 ID:YvRDjLe80

「じゃあ、くれぐれも近所迷惑になることとかをしないように。
 あとはいつも通り好きにしていいから」

 それが親の台詞かよ、と思う。
 でも、それを言葉には出さないし、彼女も何も察してはくれない。察されても困る。

「うん」

「じゃあね」

「うん、じゃあね」

 プツッと電話が切れる音がする。
 行き交う人の群れ。親子連れが多い。休みだからかな。

 すれ違いざまに学生にぶつかる。
 ぺこりと謝られる。舌打ちを我慢する。
 俺はこんなに性格が悪かったのだろうか。

 親との関係は良好だ。
 信頼されていると思いたい。
 親は俺や佑希に干渉しないし、初めはなんでも自由にやらせてくれている。

 その代わり何か失敗をすると、いつまでも同じことを言われ続ける。

 親からの愛に飢えているわけでもないし、もっと放置してくれてもかまわないとまで思ってしまう。


760: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/30(木) 01:48:31.23 ID:YvRDjLe80

 東雲さんは、昨日の話を鑑みると、親との関係が大分悪いらしい。
 反応からして、もしかしたら胡依先輩もそうなのかもしれない。

 うちはきっと彼女らに比べたらまだ良いのだと思う。
 俺が身勝手に比べてしまっているだけで、比較対象にすらならないほど二人の家の状況は酷いものなのかもしれない。

「でも」と俺は考えてしまう。

 "完全に放置されること"と、"中途半端に放置されて、後からあれこれ文句をつけられること"だったら、どっちがマシかだなんて、簡単に決められるのだろうか。

 中途半端なことが一番嫌いだった。
 そのくせ、自分が一番中途半端なことには、とっくの昔から気付いていた。
 
 心理と行動は必ずしも一致するわけではない。
 "心"で思っていても、"体"が動かないことなんてざらだ。

「わかっているなら行動で示せ」と口うるさく言われた。俺が悪いのだろうか。他者を気にして口籠ることは罪なのだろうか。

 自分のしたいことばかりしている人間がいれば、その周りが必ず割りを食う。
 光があれば影があるように、勝者がいれば必ず敗者がいる。

 光の中で生まれた存在は、光がどんなものであるかを知らない。
 成熟するにつれて影の有り様を知って、初めて光の存在を確定させる。


761: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/30(木) 01:49:32.72 ID:YvRDjLe80

 だから、二人の人間がいれば比べられて当然だ。
 その距離が近ければ近いほど頻度は増していく。ずっとそうだった。

 そんなことはわかっている。
 わかっていて、

 ──でも。
 
 でも、俺にはその両者の乖離が、酷く惨たらしいものに感じてならない。
 そう思ってしまうのは、きっと、俺もどこかで誰かと誰かを比べてしまっているからに他なかった。

 地下鉄に乗る。
 なんとなく昨日胡依先輩が歌っていた曲を口ずさむ。

 改札を抜ける。
 昔の佑希の泣き顔が心中をかすめる。

 地上に上がる。
 歩いているうちに背中にズドンと重い感触を得る。

 振り向けば奴がいる。
「先輩」と彼女は俺を呼ぶ。

「さてと、今日のデートの採点をしましょうか」


764: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/30(木) 23:18:49.20 ID:YvRDjLe80

【焦点】

 人混みを避けるために、高架下の商業施設に向かう。

 零華に半ば引っ張られるようにして、適当に付設のそれっぽいカフェに入ることにした。
 一息つける所ならどこでもよくて、それでこの施設にはここしかなかった。

「あの、わたし買ってきますから席取っててください」

 言って、彼女は二人がけの小洒落たソファーの席を指差す。
 ひとつだけ絶海の孤島のようにポツンとあるものだから、お客さん誰も座らないんじゃないかな、くらいにも思ってしまう。

「あそこでいいの?」

「あそこしか空いてないので」

 言われた通り見渡すと、たしかに他の席は全て埋まっていた。
 老若男女人数問わず、パソコンを操作したり本を読んだりしている。

「アイスコーヒーでいいですか?」

「うん」

 それだけ訊くと、さっさと行けと手をしっしっと返される。俺は虫とかなんですかね。


765: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/30(木) 23:19:55.79 ID:YvRDjLe80

 零華を待っている間に、部活のグループラインに少し遅れる旨を連絡する。
 胡依先輩から「大丈夫だよ!」とすぐに返信がくる。反省したのかもしれない。

 ふう、とため息をつく。
 上着を羽織っているには暖かすぎる室内、近くのスピーカーから流れるゆったりとした音楽、カフェ特有のあまったるい匂い。
 もうちょっと人の入りの少ないところならなおいいのだが。

 戻ってきた零華は、二人ぶんの飲み物が乗ったトレーをテーブルに置いて、少し動けば肩が触れそうな程の位置に腰を下ろした。

 お金を、と思って荷物から財布を取り出そうとしたが、手でそれを制される。
「さっきと昨日のお返しです」と。

「そういえば、学校行くんじゃなかったのか」

 俺からの問いかけに、彼女は「ああ」と笑う。

「よく考えたら、学校行ってもやることないじゃないですかー」

「たしかに」

「奈雨ちゃんとふたりっきりは正直心躍りますし大歓迎なんですけど、
 学校までの距離を往復するのはめんどいですし、このまま帰ろうかなーと思いまして、先輩を待ってました」


766: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/30(木) 23:20:29.28 ID:YvRDjLe80

「……待つ必要ある?」

「いや、わたしの買ったもの持ったままですし」

 言われて、自分の持ってきた荷物を横目で見る。
 電話がかかってきて急いで階段を上がったし、それ自体が黒い袋だったから、彼女の服を持ってあげていたのを思いっきり忘れていた。

「それに先輩の様子がおかしかったので、ちょっと気になってですね」

 大丈夫ですかー、と肩をポンポン叩かれる。
 昨日から何かあるたびにボディータッチされるけど、こういうところが男を勘違いさせるのでは……。
 いや、でもこの子は奈雨ちゃんスキーだしな。男に興味ない可能性もなくはない。

 そんな俺の心中を察したのか、彼女は慌てて手を離す。
 気恥ずかしさをごまかすかのようにストローを咥えてちゅーちゅーと飲み物を飲む。


767: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/30(木) 23:21:10.48 ID:YvRDjLe80

「それで、採点結果は?」

 問うと、彼女はうーんと唸った。

「三十点ってとこですかね」

「高いな」

「……高いですか?」

「わざわざ言うんだから、もっと低く言われるかと思った」

「あくまでわたし目線の話ですし」

「まあ、そうか」

 それっぽく適当に頷く。
 本当は彼女に対してだってそんなふうに振る舞いたくないのに、さっきの電話が尾を引いている。

 意味もなくマドラーを回す俺に対して、零華は胡乱げに目を細める。

「どうして、駅の近くで奈雨ちゃんの手を離したんですか」

「なんとなく」

「じゃ、ないですよね」

「……どうしてそう思う?」

「あんなひきつった顔見てたら誰だってわかります」

「今だってそうです」と彼女は言う。


768: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/30(木) 23:22:01.34 ID:YvRDjLe80

 いやそんなことないだろと愛想笑いをしようとしたが、顔の筋肉がうまく動いてくれない。

「気を悪くさせたならごめん」

「否定しないんですね」

「しても意味ないだろ」

「……ま、そうなんですけど」

 かたり、と彼女はソーサーにカップを置く。

 怒っているわけではないと思う。
 けれど、何かを告発するようなその語気は、今の俺には鋭くも感じられてしまう。


769: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/30(木) 23:22:52.83 ID:YvRDjLe80

「今更ですけど、わたしは猫かぶりで性格が悪いです」

「……いきなりどうしたの?」

「いえ。……でも、そう思いますよね?」

「まあ」と答えると、「ですよね」と彼女は苦笑する。

「わたしは、できれば初対面の人にはよく見られたいですし、仲良くしたい人ならなおさら自分を飾ろうとしてしまいます」

「……」

「でも、だからこそ先輩を見ていてわかったのかもしれません」

「何を」

「先輩も、わたしと同じですよね?」

「どういうことだよ」

「わたしと同じで、先輩も猫かぶりってことですよ」

 自分でも理解していますよね? とでも言うように、彼女は俺の目をじっくり見つめる。
 俺は目を合わせたまま答えない。零華は待たずに話を続ける。


770: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/30(木) 23:23:42.31 ID:YvRDjLe80

「奈雨ちゃんと先輩が一緒にいるのをそばから見ていると、ちょっとだけ違和感を感じます」

「……」

「わたしと二人のときの先輩はもっとぶっきらぼうですし、奈雨ちゃんはもっと……なんていうか、クールです」

「まだ二回しか会ってない」

 そう返すと、零華はくすりと笑った。

「それでも、わかります。二人が何かを演じているってことは、回数はどうであれわかります」

「……」

「わたしは、奈雨ちゃんをずっと見てたから」

 彼女は確信している。それで、その推測は的中している。
 だから「それ以上言うな」と言いかける。

 けれど、その言葉は俺の喉を通過しないまま消えてしまう。
 感覚的に、けれど、自分の意思で。


771: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/30(木) 23:24:18.99 ID:YvRDjLe80

 まだ数回しか会っていない子にさえ、あっさり見透かされてしまっている。
 ……違う、俺が自分で見せつけていたのだろうと思う。

 俺はとっくの昔から気付いていて、きっと誰かにそのことを糾弾されたかったのかもしれない。

 彼女にそういう役目を押しつけているのは俺で、彼女は俺に合わせて演じてくれていて。
 対等でいたいとずっと考えていたはずなのに、俺の方から対等でない状態を強要させていることに。

 距離を離されることが嫌だから、佑希と同じ扱いをされたくないから、そういう何かを比較するような目で見られたくないから。

 黙ったまま続きを促すと、彼女は気まずそうに俯いて、胸元できゅっと手を握りしめる。

「先輩だって、わかってますよね」

 俺に確認するように、言葉を区切る。
 こくり、と喉を鳴らす音がする。

「──奈雨ちゃんの世話を焼いていないと、そんなに不安ですか?」


772: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/30(木) 23:25:01.68 ID:YvRDjLe80

 思わず声を失った。
 その瞬間だけ世界が止まってしまったかのように思えた。
 秋風さんに言い当てられた時と似ている。核心をつかれてしまった。

 そう言われるだろうと予想していたことなのに、実際言葉にされるとどう反応すればいいかわからなくなってしまう。

 答えずにいる俺に、零華はコーヒーの残りを一気に流し込んでから話し始める。

「どういう事情があるのかはなにも知りません。
 でも先輩は、お兄ちゃん然としていないと嫌なんじゃないですか?」

 そうじゃない、とは言い切れない。

「先輩はすごく優しいです。奈雨ちゃんもそう言ってました。
 ……わたしも、会いませんかって言ったらすぐに会ってもらえましたし、何かを買ってほしいって言ったら、やっぱり買ってもらえました」

「……」

「誰かの頼みを受けたら、先輩は拒まないんじゃなくて、拒めないんですよね」


773: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/30(木) 23:25:47.94 ID:YvRDjLe80

 ──私なんかより、白石くんの方がよっぽど優しいよ。
 ──白石くんはシノちゃんに頼ってほしそうにしてる。

 胡依先輩の忠告はこういうことだったのだと思う。
 ここ最近で覚えているだけでこれだ。他にも言われたかもしれない。ずっと言われてきたことだった。

 ──あなたは、お兄ちゃんなんだから。

 昔からよく優しいと言われた。
 人に優しくしなさいと言われた。
 優しくしていることが"普通"で"自然"だと思い込むようにしていた。

 そのうち、誰かに優しくしていないと怖くなってしまった。
 誰かに頼られている自分が見えないと、自分がここにいていいのかとばかり考えてしまうようになってしまった。

「優しさだって一長一短です」と零華は言う。

 そうだよな、と思う。

 相手に押し付ける優しさは、多分優しさではない。
 本当の優しさは、相手が求めてきた時に与えるものだ。
 相手のことをよく観察して、理解して、適切なタイミングまでに手を貸すための準備を整えている人が、きっと本当に優しい人だ。


774: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/30(木) 23:26:39.97 ID:YvRDjLe80

 俺は違う。そういう優しさは持ち合わせていない。
 一度彼女を頼ったらどんどん駄目になってしまう自分を見ることが怖いから、あらかじめ優しい自分を装っているだけだ。

「奈雨ちゃんのことを本当に妹としてしか見ることができないなら、きっぱり拒絶してほしいんです」

 妹としてしか見れない。
 かわいさ、子供っぽさ、わがままさ。
 無意識に求めてしまっていた。否定はできない。

「そうじゃないと、お互い困るだけだと思いますよ」

 いつのまにか、隣にいる彼女の視線は冷たく鋭いものに変化していた。

 今だって、俺は困っている。
 奈雨も、困っているかもしれない。

 家族愛? 兄妹愛?
 俺が彼女に向けている感情は、本当にそういうものなのか?

「違う」とはっきり言えた。昔なら。
 今は……どうだろうな。

 俺はわけもなく頷いた。
 零華の言葉にというより、自分の中の感情に折り合いをつけるために。

「佑希先輩も同じですよね」と彼女は耳にかかる髪をはらいながら言う。


775: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/30(木) 23:27:20.90 ID:YvRDjLe80

 その名前が出たのは意外だった。
 何かがあるのだろうとは思っていたけれど、とにかく驚いた。

「あの人は、自分のことばっかり。それが他の人を傷付けるだなんて、微塵にも思ってない」

「よく知ってるな」と俺は言った。

「事実ですから」と零華は答えた。

「佑希先輩も、先輩のことをアテにしてるんですよね。
 よく聞きました。なんでも言うことを聞いてくれる優しいお兄ちゃんがいるって」

「……」

「まあたしかに、先輩以上にそういう役目が適任な人はいないと思います」

「そうかな」

「先輩は、頼られたら甘やかしちゃいますもんね」

 嘲るような声音は、でも、彼女自身の芯の強さをうかがわせる。

 酷いことを言われている気もするが、苛立ちも何も感じなかった。
 嫌な気分になる。でも、発散はせずに溜めたままでいる。そういうのが、多分癖になっている。

「奈雨と佑希が従姉妹ってことは知ってたの?」


776: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/30(木) 23:28:11.11 ID:YvRDjLe80

「もちろん、知ってましたよ。
 でも、先輩経由で佑希先輩まで伝わるとわたしとしては面倒なので、嘘をつかせてもらいました」

 全く知らなかった、と。
 それにどういう意味があるのかは、限られた情報では理解が追いつかない。

「先輩は──」と彼女は言葉をためる。

「なに?」と訊き返すと、うーんと数秒唸ってから閃いたように手をうって、

「そんなに迷っているなら、その気持ちをぶつけちゃえばいいんですよ」

 と言った。

「誰に」

「奈雨ちゃんに」

「……」

「きっと、そんなことでなくなってしまう関係じゃないと思いますよ」

「そうかな」とまた彼女に訊ねる。
 すると彼女は、それまでの作りものの表情を崩して、彼女らしい狡知な笑みを浮かべた。


777: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/30(木) 23:29:14.91 ID:YvRDjLe80

「いっそのこと、いま以上のことをしちゃえばいいんじゃないですか?」
 
「……は?」

「えっと、奈雨ちゃんとですよ?」

「知ってる」

 知ってるけど。
 そういうこと言うか普通。

「そういう対象として見れるか見れないのか、はっきりすると思いますよ」

 零華はあっけらかんと言う。
 でも、バカ言えよとしか思えない。

「わたし目線だと、先輩はそういうふうに見てるとは思いますけどね」

「……さあな」

「本当に妹としか思えないのなら、罪悪感でキスなんてできませんよ」

 そう言ってふふんと笑う。

 それはそうだろうな、と思った。
 余計なことを考えなければ、そうなのだと思う。

 何かに気を取られているから、そう思えないだけの話だ。

 でも、だからってどうしたらいいんだろう。
 進む方法。方針。指針。欠けてしまっている。


778: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/30(木) 23:29:46.53 ID:YvRDjLe80

【rewind】

──たとえばさ、

──たとえばもし、わたしがみーに追いついたらさ、

──そのときは、わたしと……。