追われてます! その3

784: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/05(火) 00:02:29.88 ID:HHfyV3AE0

【投影】

「一回家に戻ります」と言って部室を出る。

 眠気のように視界が霞む。もやもや感。ぼやけ。
 本当は眠気ではなくて考え事のせいかもしれないけれど、何を描いていても、それがいいものであるとは思えないまま時間だけが経過していた。

 まず今日の精神状況で部活に来たこと自体が馬鹿げた行為だったのかもしれない。哀愁。
 先輩は昨晩と同じくソラと二人でマリオパーティをしていた。夜に本気出すらしい。もう夜だけど。最強。
 東雲さんはパソコンをいじっていた。編集作業を手伝っているらしい。健気。

 絵を描いている間も歩いている間も零華から告げられた言葉がぐるぐると頭のなかを支配する。

 もしかしたら東雲さんに対してもそういう目を向けていたのだろうか。
 自分にとって何かを感じる女の子に対してなら、誰にでもそう思ってしまうのだろうか。

 だとしたら最低だな、と思う。
 気持ち悪い、とすら思う。

 それを意識していたならまだ救いがないこともないと思うが、このことに関しては全く意識していなかった。

 そう思うと、ため息すら出てこなかった。俺はひどく落ちこんでいた。
 ひょっとすると俺は人のことを記号としてしか見ていないのではないか。




SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1503749258

引用元: 追われてます! 




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785: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/05(火) 00:03:11.19 ID:HHfyV3AE0

 容姿、性格、性別、価値観ら雰囲気、家庭環境。それらの優劣を頭ごなしに決めつけて勝手に羨んだり見下したりしているのかもしれない。

 お年寄りがテレビゲームやらスマホやらタブレットやらを諸悪の根源と一緒くたにするように。それはちょっと違うけど。

 今まで描いてきた絵にだって、それは言えるのかもしれない。

 胡依先輩と東雲さんの会話を聞いても、あまりピンとはこなかった。
 けれど、今になってなんとなく理解するに至っていた。

 描いているものには俺自身の願望が投影されている。
 描きたいものを描く、というと、奈雨のような女の子の絵ばかりを描いてしまっていた。

 それ以外も描いたりはしてみたけれど、一番筆が乗るというか、やる気が出るのはそういう絵を描いている時だった。

 奈雨は俺にとって理想の女の子だ。
 いや、逆だ。理想の女の子が奈雨だった。それが奈雨であるならなんでも良かった。

 彼女がもし同い年でもひとつ上でもふたつ下でも、俺は確実に同じ想いを抱いていたと思う。
 彼女に甘えられると嬉しく思う。心に平穏が訪れる。そういう所作を求めてしまう。ある意味依存している。

 まあ、気付いたらそうなっていた。
 というより、そうなってしまっていた。
 会わないうちに、俺が立ち止まっていて彼女が進んでいるうちに、いつのまにか変わってしまっていた。


786: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/05(火) 00:04:08.34 ID:HHfyV3AE0

 御託を並べても仕方がないので結論から言うと、零華の予想は的中していた。

 俺は彼女をそういう目で見ている。
 というか、そういう目以外で見ていた時間の方が少ない。

 だから、キスをすれば当然のように胸の鼓動は早まるし、終わってしまえば切なく感じたりもする。
 昨日の夜のように蕩けた表情を向けられたり、色っぽい声を聞かせられれば、彼女に対して色欲に近い感情を抱いてしまう。

 俺だって"普通"の男子高校生なのだから、そういうことに興味がないわけではなかった。

 クラスメイトが数人集まってそういう会話をしていれば、聞き流さずに当たり障りのない返答をしようとは思うし、会話の流れ次第ではおどけてみせたりもする。
 どういうタイプの女の子が好みなの? と問われれば奈雨を思い浮かべてそれっぽい特徴を並べたりもした。


787: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/05(火) 00:05:21.91 ID:HHfyV3AE0

 ただ、そういった感情は俺にとって行き場のないものだった。
 彼女とキスをするまでは。あるいは、同じ学校になるまでは。

 そして、俺はその溜まってしまったものを発散する方法を持ち合わせていない。

 彼女以外の女の子に対して一度もそのような感覚になることがなかったのに、その彼女と会える機会は限られているとなると、そういう欲求は自然と立ち消えになってしまう。
 それが関係したのかは定かではないが、俺には○○というものが殆どなかった。

 これもまた同級生の話を聞くと、ほえーそっかあとはなるものの、だからといってそれを試してみようとはならなかった。

 変なところで潔癖なのだ。多分。
 処理しようとしたところで収まりがつかなくなるのが怖いだけなのではないかとはいつも思っている。


788: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/05(火) 00:06:21.29 ID:HHfyV3AE0

 家の前まで歩いていくと、ちょうど奈雨が玄関から出てくるのが見えた。
 結構暗くなっている時間なのに。なぜか門をくぐるまでの間が長く感じる。

 彼女は俺の姿を捉えるなり、少し驚いた様子で駆け寄ってくる。

「お兄ちゃん帰ってきたんだ」

 慣れていたはずなのに、今はお兄ちゃんというワードですらも胸がちくりと痛む。
 けど、気のせいだと思い込むことにする。

「少しな。……奈雨は?」

「夜食べなきゃなって、買い物」

「食べてないのかよ」

「……まあね。勝手にキッチン使うのはまずいでしょ」

「佑希は奈雨のぶんの夕食作ってないの?」

「なかった」

 なかった、って……呆れすぎてため息すら出てこない。
 あいつほんとなにしてんだよ。嫌いとかそういう話じゃなく常識の問題じゃないのか。

「俺が作るから中に入ろう」

「悪いよ」

「お客さんだろ。もてなしてあたりまえだって」


789: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/05(火) 00:07:09.75 ID:HHfyV3AE0

「でも……」

「でも?」

 問うと、彼女は困ったように視線を逸らす。

「遊んでるとき、ちょっと疲れてるみたいだったから」

「そんなことないよ」

「そんなことあるでしょ」

「じゃあ何か買ってくるから。奈雨は部屋に戻ってろ」

「なら一緒に行く」

 はい、と目の前に手を出される。
 俺は幾分か戸惑う。

「なに?」

「繋いで」

「どうして?」

「ちょっと寒いから」

「……」


790: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/05(火) 00:07:43.28 ID:HHfyV3AE0

「あと、わたしが繋ぎたいから」

 そう言って、ポケットに入れたままでいた右手を彼女の左手に強引に繋がれる。
 昼と違って普通の繋ぎ方だった。だからって何もないけれど。

 知っての通りコンビニまでは目と鼻の先だ。
 店内は暖かい。というか、外だってたいして寒くはない。

「お兄ちゃんはもう食べたの?」

 右手でバタースティックパンを手に取りながら彼女は小首をかしげる。

「食べた」

「嘘でしょ」

「なぜわかった」

「なんとなく」

 買わないの? とじとりとした目を向けられたので、俺も近くにあった惣菜パンを買うことにした。


791: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/05(火) 00:08:14.85 ID:HHfyV3AE0

 飲み物コーナーでひとつ、お菓子コーナーでひとつ、レジ前のホットスナックをひとつずつ適当に選ぶ。

 会計をする間はさすがに手を離して、店を出てからまた手を繋ぐ。
 今度は指を絡ませられた。どういう心境の変化だろう。

 数分前のように家の門をくぐり、手持ちの鍵を使って家に入る。
 部屋に行くにはリビングを経由する必要があるので、仕方なく手を離そうとする。

「離したくない」と彼女は呟く。

「どうして?」

「どうしても」

「わけがわからない」

「……わからなくていいよ」

 と俺の様子を気にせずに、ぐいと引っ張っていかれる。
 何かを決心したような表情が目に焼きつく。いつになく、真剣な表情だった。


792: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/05(火) 00:10:21.63 ID:HHfyV3AE0

【VS】

 ドアを開けると、彼女は二階へ向かうことなくテーブルにつく。
 そして、目の前の様子を気にせずに、買ってきたものを袋から取り出す。

 佑希はイヤホンを付けていたが、誰かが座ったことに気付いて面をあげる。
 視線はすぐに正面から逸れて俺に向かってきたが、それが下に向かうと彼女の表情は瞬く間に苛立ちを含んだものに変わった。

「なにそれ」と佑希は射竦めるような目を俺の隣に向ける。

「なにが」と奈雨は涼しげな声音で応答する。

「どうして手なんて繋いでるの」

「わるい?」

 冷めた口調を崩さない奈雨に、佑希は少しだけたじろいだ様子を見せる。
 その様子が少しだけ意外に思えた。彼女はどうでもいいと思っている人の感情なんて気にも留めないと思っていたから。

「わたしとお兄ちゃんのことなのに、佑希に何の関係があるの?」

 衒いもなくそう続けると、佑希はまたしても鋭い視線を彼女に向ける。


793: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/05(火) 00:11:06.84 ID:HHfyV3AE0

「おにいと付き合ってんの?」

「答える必要ある?」

「……うるさい」

「うるさいって、どこも理由になってないんだけど」

「はあ? 何その言い方」

 このままだと確実に喧嘩になると直感して部屋に戻ろうと立ち上がるも、彼女は腰を上げようとはしない。

「行くぞ」

「……どうして?」

「いいから戻ろう」

 彼女は咎められたと思ったのか、顔を俯かせて唇を浅く噛む。
 思わず語気が強くなってしまっていたことに、その反応を見てからようやく気付いた。

「あんただけ戻ればいいじゃん」

 立ち上がりかける奈雨を、佑希が怒気を含んだ声音で呼び止める。

「ここはあたしとおにいの家で、あんたが邪魔者なんだから、あんただけ消えればいいじゃん」

 その言葉に、奈雨はくすりと笑う。
 強がっている、と思う。でも、佑希はおそらくそれに気付くことはない。


794: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/05(火) 00:12:02.58 ID:HHfyV3AE0

「お兄ちゃんが、わたしに一緒に部屋に戻ろうって言ったんだよ?
 それをとやかく言う筋合いがどこにあるの?」

「はあ?」

「だから、そういうの理由になってないって」

 奈雨は先ほどと変わらないうんざりした様子で肩をすくめてため息をついた。

「ほんとになんなのさっきから!」

 バン、と勢いよくテーブルを叩いて、佑希は激昂する。
 彼女のそういう様子は、随分と久しぶりに見たように思える。

 今にも前傾になって掴み掛かりそうな彼女を、佑希と名前を呼んで制そうとする。
 それでも彼女は手を正面に向けて突き出したが、奈雨が後ろに下がったためにそれは空を切った。

「自分の思い通りにならないとすぐに手を出すところ、昔から何も変わってないのね」

「……なんなの」

「お兄ちゃん、いこ」

 取り合わずに深く息を吐いて、奈雨は足を前に出す。

 今するべきことは二人をこの場から離すことだと考えて足を前に出そうとする。


795: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/05(火) 00:12:44.05 ID:HHfyV3AE0

 でも、いくら踏み出そうとしても足がうまく動いてくれない。
 吐きそうになるほどの不快感。金縛りにでもあったように、身体が強張る。いつもそうだった。

 佑希がこちらに縋るような目を向けている。
 それだけで、俺は彼女を慰めなくてはならないと思ってしまう。

 ──あなたは、お兄ちゃんなんだから。

「おにい」と弱々しい声で呼ばれる。
 ぎりぎりと頭が痛む。俺はどうしてこんなにも罪悪感を感じているのだろうか。
 
「……お兄ちゃん?」

 と奈雨が振り返る。
 心配するような目を向けている、ように思える。
 けれど、俺の目は佑希に向いたまま動いてくれない。

 彼女はぽろぽろと涙を零していた。
 いつもの大人びた雰囲気とはひどくかけ離れた、迷子になった幼子のような表情で。

「おにいは、やっぱりあたしのことはいらないの?」

「……」

「……奈雨のほうが、あたしよりもいいの?」

 俺は彼女のこういう表情を見ることがたまらなく嫌だった。
 過保護なまでに優しくしていた理由はそれだ。彼女にこういう表情を見せてほしくなかったからだ。


796: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/05(火) 00:13:34.49 ID:HHfyV3AE0

 そして、それは優しさではなく俺の利己的な思考に基づく態度だった。
 俺がやるしかなかったから、今まで彼女を支えてくれる人は現れなかったから、誰も使い物にならなかったから。

 ──先輩以上にそういう役目が適任な人はいないと思います。

 俺は、きっと、こういうふうに頼られることに義務感のようなものを感じてしまっている。
 そうしていないと、強い不安を感じる。"兄"をしていないと駄目なのではないかと思ってしまう。
 ずっとしてきたことだったから、俺の中でもはや性質化してしまっている。

 いつからか彼女に"妹"をされることを不快に思うようになっていた。
 普段は邪険にしているくせに、弱ったときにだけ頼ってくる相手を、それでも優しくしてしまう自分が嫌だったから。

 たまたま俺がそういう役回りを引き受けているだけであって、ずっと彼女だけを見ていることなんてできない。
 彼女が他の誰かを見つければ、そこで俺とはおさらばだ。
 ……でも、もし見つけられなければどうなる?

 それに、相手にとって都合の良い存在であり続けることは、相手が思っているよりも神経を使うことだ。
 常に気を遣って、わかるわけない相手の気持ちを推し量って、本心を口に出さないで。

 そういうことばかりしてきた。
 上手くいっていたと思っていたのは俺だけだろうか。

 佑希は俺の知らないところでとっくに強くなっていると思っていた。
 強いのにも関わらず──ひとりで立っていられるにも関わらず──どこかで溜まったフラストレーションを俺にぶつけることで発散しようとしているのだと思っていた。


797: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/05(火) 00:14:05.90 ID:HHfyV3AE0

 だが、今の様子を鑑みるに、その認識は全くの誤りであったことに気付いてしまう。
 いくら自分を磨いて外面を取り繕っても、肝心の弱い内面までは矯正できていない。
 心の何処かで誰かに選択を委ねている。

 昔から何ひとつ変わっていないのは、俺だけではなく彼女もだったのだ。

「お兄ちゃん」と俺を呼ぶ声が再度聞こえてくる。

 気付かないうちに手を握る力が強くなる。俺にはこれくらいしかできない。
 どういうわけか、彼女にこの手を離されたらおしまいだ、と思う。

「おにいがいないと、あたしは……」

 悲痛に滲んだ声を聞いて、都合の良い言葉を掛けそうになってしまう。
 習慣とはそういうものなのだろう。自分の意思とは正反対に身体が動いてしまおうとしている。

 けれど、不意に風が吹いたような感覚を得て、俺の思考は引き戻される。

「もういいよ」

 目の前には、つんと背伸びをした奈雨が立っている。
 彼女は俺ら二人の間に飛び込んできて、反対側の席へ向かう俺の視線を遮った。


798: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/05(火) 00:14:45.06 ID:HHfyV3AE0

「……お兄ちゃん。もういいよ」

 目が合う。
 言葉を続けようとして、彼女の口が何度か形を変える。

 彼女のあどけない顔つきを見ていると、それまで硬直していた身体が自然と動きはじめる。

 何か言ったら変わってしまう。この状況で対話を試みることは俺にとって害になり得る。
 まず部屋に戻ろう、と思った。手を引くと、彼女は俺に聞こえる程度の大きさで安堵の息を漏らした。

 すれ違うとき佑希は呆けたようにこちらを見つめたまま、何も言うことも動くこともしなかった。
 階段を上がる最中も、後ろ髪を引かれる思いを感じていた。

 戻らなくてはという思いは少なからずあった。
 当たり前だと思う。俺はずっと彼女の抱える問題について近くで見て考えている振りをし続けていたのだから。

 疚しさは肥大化していく。
 彼女がこうなってしまった責任の一端は俺にある。

 俺が彼女を蔑ろにできなかったのは結局自分が楽をしたかったからだ。決定を先延ばしにしたかったからだ。誰かに文句をつけられることが嫌だったからだ。

 彼女を蔑ろにすることは、俺が今までとってきた言動が全て欺瞞だったと認めることになる。

 今この行動を取ったからといって、この後にどうすればいいのかなんて、俺には何も判断できない。


799: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/05(火) 00:16:08.74 ID:HHfyV3AE0

【1/4】

 佑希の過去について語ることは、この家の問題点について語ることに通じるかもしれない。

 昔の佑希は、今よりも不器用で無思慮な子供だった。
 すぐ泣いて怒って喚き散らしては、それが終わるとこてっと寝てしまうような、そんな子供らしい子供だった。

 俺もよく喧嘩をふっかけられたし、陰口を言わずに相手の正面から正論をぶつけてしまう性格が災いして、毎年のように周囲と軋轢を生んでいた。
 クラス替えで昨年度佑希と同じクラスだった人の話を聞くと、俺の知らない所でも随分と問題を起こしていたらしい。

 ただ、幸か不幸か彼女の容姿は頗る端麗であることから、取り巻きの女子や好意を持って丁重に扱ってくる男子もそれなりにはいたようだった。

 そういう意味では、教師の手を煩わせる結構な問題児ではあった。


800: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/05(火) 00:16:59.13 ID:HHfyV3AE0

 彼女は他者から認められないことにひどく怯えていた。
 いつも誰かに褒められていないと、自分の存在意義を疑うような言動を取ることも少なくはなかった。

 だから、彼女は自分の弱い内面を鎧を纏うために、すべてのことに全力で取り組むようになっていった。

 でも、そんなに躍起になっている佑希よりも、俺の方ができてしまった。
 そりゃあ同じ環境で同じようなことをしていれば、同程度の実力にはなるし、そうなってくると向き不向きの問題になってしまう。

 男女差もあるかもしれないけど、小学校くらいだと女の子の方が成長していることが多いだろうかは、あんまり関係はないだろう。

 佑希は俺よりできないことがあると、決まって母さんに泣きついた。
 父さんは今と同様仕事で忙しくて、家に帰って来るのは俺たちが寝てしまってからだった。

 それで、母さんは佑希のその態度を見て、いつもうんざりしたような顔をしていた。


801: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/05(火) 00:18:26.43 ID:HHfyV3AE0

 母さんは仕事が好きな人だ。職場に復帰してからは昔よりも楽しそうにしている姿を見ることが多い。

 だからあの頃に関しては、家事育児によって仕事ができないストレスを抱えていたのかもしれない。
 父さんはいい顔をして働いていて、俺と佑希は学校で外に出ていくのに、家に一人で残されていたことがつらかったのかもしれない。

 それで、佑希のことを考えると、母さんにとっての俺は都合の良い子供だったに違いない。

 あまり自分の意見を話さないこと。
 母さんの言うことを必ず聞いて、学校でも問題を起こしたりしないこと。
 何より、うるさくせずに静かにしていられること。

 母さんは佑希が泣きつくたびに、「できない自分が悪いって思わないのかな」と愚痴を俺に零していた。
 徹底した成果主義。母さんのスタンスは昔からそうだった。

 佑希は周りのことを気にせずに自分の世界が全てという子供だったから、その母さんの機敏にはまるで気付いていなかった。
 自分の話を最後まで聞いてくれるお人形のように自分の母を扱っていることに、違和感などまるで感じていないように思えた。

 母さんも、きっと初めはそれが親の務めだと考えて、それを表には出そうとはしなかった。

 ──でも、あるとき。


802: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/05(火) 00:20:08.85 ID:HHfyV3AE0

 佑希が泣き散らかして自室に戻った後、母さんは額を手で押さえながらうんざりした顔で俺の名前を呼んだ。
 疲れ切った顔だった。話は三十分以上続けられていた。俺は聞いていない振りをしていた。

 娘は母親に一番影響を受け、一番似てしまうものだ、とそこかしこで聞いたことがある。
 その通りだと思う。佑希と母さんの性格は酷似している。

 溜まったストレスを発散するために、誰か都合の良い存在を求めてしまう。

 佑希の愚痴人形が母さんであるように、母さんの愚痴人形は俺だった。

 ──あの子、いつになったらあなたに勝てるんでしょうね。
 ──それまで、私はずっとこんなしたくもない慰めをかけなきゃならないのかな。なにか、きっかけがあればね。

 ──……そうだ。

 ──お兄ちゃんなんだから、負けてあげなさい。

 母さんのふと呟いたそのひとことが、この状況のすべての始まりだったように記憶している。


803: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/05(火) 00:21:31.11 ID:HHfyV3AE0

【2/4】

 ──あなたはお兄ちゃんなんだから。
 ──お兄ちゃんなんだから、わざとでも負けてあげなさい。

 ──お兄ちゃんなんだから、我慢しなさい。

「あの子はわがままだけど、あなたはお母さんの言うことをよく聞くし、聞き分けのいい子なの」
「担任の先生も嬉しそうに言ってたわよ。あなたはすごく優秀で落ち着きのある子だって」
「初めから失敗しないように努力しなさい。辻褄合わせなんて一番してはいけないことよ」

 ──お兄ちゃんなんだから、しっかりしなさい。

「あなたはできる子なんだから、これくらいできて当たり前よ」
「家事や料理の練習をしなさい」
「言われなくても未来はできるだろうから、お手本を見せたりしなくていいわよね」
「お母さん、二人が中学校に上がったら職場に戻ろうと思うんだけど」
「訊かなくても大丈夫よね」
「しっかりものの未来がいるから大丈夫よね。佑希とちゃんと足並みを揃えてあげるのよ」

 ──お兄ちゃんなんだから、譲ってあげなさい。

「佑希がこれをほしいって言ってた?」
「あなたにはあんまり好みもないし、好き嫌いの多い佑希に買ってあげるのが無難かもね」
「そういう子供っぽい遊びはやめなさい」「外で遊ぶなら、佑希も連れていってくれない?」
「二人でいるときは、甘えさせてあげなさい」
「あなたは我慢できるいい子ね」

 ──お兄ちゃんなんだから、妹に優しくしてあげなさい。

「あの子に何をされても怒ったりしちゃ駄目よ。すぐ癇癪を起こすから大変じゃない」
「佑希が泣いてるときは、あなたがなぐさめてあげなさい」
「お母さんよりも、あなたの方が佑希のことをわかっているでしょう」
「それがお兄ちゃんの役目。私がいないときも、佑希のことを頼んだわよ」


804: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/05(火) 00:23:21.79 ID:HHfyV3AE0

【3/4】

 その言葉の数々は、俺の行動に影響を及ぼした……かもしれない。よく覚えていない。
 よく覚えていないくせに、言われた言葉だけが耳から離れない。

 そのときの俺は子供ながらいろいろなことを考えたのだと思う。
 母さんの様子。徹底した成果主義。後付け。認められるためにがんばっている佑希。適当にやってもなんだかんだできてしまっている自分。

 俺は自分のことを井の中の蛙か何かだと思っていた。どうせ世の中には俺よりもっとできる人はいるし、たまたま自分の成長が人より早かったり、やり方が効率的だっただけなのだ、と、
 それと同時に、佑希を井の中の蛙にすらさせないでいるのは他でもなく自分の存在であることにも気付いていた。

 100まで到達したとしても、佑希は101を目指そうとする。
 たとえそれ以前の80や85で足踏みしたとしても、そこを突き破ろうと努力を重ねることができる。
 俺は頭打ちになった時点で踏ん切りをつけてやめてしまう。そういう姿勢が染み付いてしまっている。


805: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/05(火) 00:24:07.23 ID:HHfyV3AE0

 俺と彼女の何が違うんだ? できているのは俺の方なのに、どうして俺が責められている感覚にならなきゃないんだ?

 きっと、俺はそう考えた。
 だから、俺と彼女を天秤にかけた。

「俺よりもがんばっている人が賞賛を得ることができないなんておかしいだろ」

 悩んだ末に出した結論はそれだった。
 俺だってうんざりしていたのかもしれない。

 何か競うことがあっても、佑希のことを思うと急速に冷めていく自分が嫌だった。
 競わなくてもいいことなのに、自分が満足できればそれでいいことなのに、どうして俺は後ろめたくならなければならないのだろうか。

 ちょっとずつ手を抜いた。母さんの言う通りにわざと。佑希が勝って気持ちいいと思えるほど、ギリギリな程度に。
 べつに、それ自体はなんてことはなかった。

 俺はそんな佑希のことを特段煩わしくは感じていなかったし、競っている感覚なんてなかったから、自分が少しでも調整すればそれでいいと、そう思っていた。


806: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/05(火) 00:24:53.73 ID:HHfyV3AE0

 がんばれない俺と直向きにがんばれる佑希だったら、先が見えてるのはどちらかなんて言わずともわかることだった。

 仮に俺が弟で、佑希が姉だったとしても、母さんは同じことを言っただろう。「男なんだから」とか、「ちょっとは考えてあげなさい」だとか理由をつけて。

 俺に負担を丸投げしていることはわかっていた。
 でも、だからって母さんのことが嫌いとは言えない。そういうことではないと思いたい。

 きっと、俺が、俺自身が抱えている不安がどこかで露呈してしまうことに耐えられなかったのだと思う。

 "何をしても続かない"、というのはずっと昔から理解していた。

 自分は「本当の意味で」できるだなんて、一度も思ったことがなかった。
 いろいろなものに手をつけては、そこそこキリのいいところでやめて、でも周りからはある程度の賞賛を受けて。
 一度手を抜くことを覚えると、それ以降は気が楽だった。変な期待をかけられて、本当は大したことないと後で勝手に失望されるようなことは、是が非でも避けたかったから。

 俺が勝たせるようになってからの佑希は凄かった。
 枷が外れたように、いろいろなもので一番の成績を修めて、母さんや父さん、教師や友達問わず誰にでも褒められるようになった。


807: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/05(火) 00:25:33.14 ID:HHfyV3AE0

 けれど、問題が起きるのは早かった。

 あまりに佑希が自分の手に入れた力を誇示するようになって、両親は今度は俺に気を使いだして、佑希を褒めなくなった。
 一番褒めてほしいと思っていた人に褒められなくなってしまった。
 俺は「佑希を褒めてやってくれ」とは言えなかった。それは何か違うことだと思ったから。

 そうすると当然のように佑希が拗ねた。

 親は自分を満たす役割において全くアテにならないと思ったのか、俺に成果を見せてくるようになった。

「今日もがんばったよ」
「先生に褒められたよ」
「張り合ってくる子がいたんだけどね、全然勝負にならなかったの」
「中学校は近くのところを受けようかな。頭いい人いっぱいだって言うし」
「お母さんもあそこに入れたらすごいねって言ってくれた」
「合格した! これからお祝い連れてってもらう!」
「あたしががんばってればみんなに認められるんだってわかってよかった」

 俺はただただ頷く。
 本当は、もっと違うことを考えていたのに。

「おにいちゃんはどうだった?」

 同時に何度も何度も彼女は俺に問いかけた。母さんの気持ちが少しだけわかった気がした。


808: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/05(火) 00:26:22.96 ID:HHfyV3AE0

 けれど、俺の役割はそれを我慢して褒めてあげることなのだろうと考えた。
 俺が"お兄ちゃん"をしていれば、彼女は"妹"として俺に甘えることができる。
 彼女が壊れなくて済む。俺は彼女に必要とされている。

 がんばったな、と頭を撫でてあげると、見てわかる程に頬を緩めて喜んだ。

 いつのまにか差が開いていくのがわかった。
 自分の現状に満足せずに努力を重ねる佑希を褒めてあげようと思った。自分はこういう扱いでも別に構わない。
 勝てないとしても、誰も困らないなら最善の手を打てている。
 中学だって、もしかしたら俺と比べられて何かを言われるかもしれない。

 なら、違うところに行けば佑希は傷つかないだろう。

 俺が我慢すれば、佑希はどんどん強くなれるし、母さんや父さんが困ることもない。
 "できない"側の俺よりも"できる"側の佑希の方がずっと価値がある。

 そういう目で見られても、心無いことを言われても、気付いていない振りの愛想笑いをして、自分の立ち位置や取るべきスタンスを心の中で定めて、認めて、「うちの妹はすごいんですよ」と返答して。

 ……それで、それで良かった。


809: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/05(火) 00:28:48.70 ID:HHfyV3AE0

【4/4】

 そういった状況からの転機は、中学二年生にあがる頃だったと思う。

 中学以降は母さんは仕事が忙しくて──忙しくしていて──滅多に顔を合わせなかった。
 心のどこかで母さんの俺への愚痴が止むことを期待していた。

 けれど、それは悪化した。
 見られなくなった部分を恣意的に補完して、身勝手な妄想で俺の行動を後付けで批判するようになった。


810: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/05(火) 00:29:42.10 ID:HHfyV3AE0

「あなたはどうして最後までやりきることができないの?」
「とやかく口を出す気はないけど、妹に負けたままで悔しくはないの?」
「自分の意見はないの?」「人に合わせてばかりで恥ずかしくないの?」
「何事にもはっきりしているから佑希の方が接しやすいわね」「佑希の方がよっぽど大人ね」「あなたはいつまでそうなの?」

「奈雨ちゃん受かったんだってね。未来はどうして受けなかったの?」
「私が見ていないからって、勉強なんてしていないんでしょう?」
「なにこれ。通知表。ふうん、それなりにいいんだ」「クラスで一番ね。まあまあかもしれないわね」「でも奈雨ちゃんと佑希のところとは違ってレベルの低い子もいるのよね」「昔のあなたの方ができたわよね」
「部活はどこに入ったの?」「え、入ってない? じゃあ放課後なにをしているのよ」「まさか遊んでるんじゃないでしょうね」
「なら、あなたはなにも成長していないじゃない」
「いつからあなたはそういうふうになっちゃったの?」

「三橋さんのところとは比べられて嫌なのよね」「でも、うちには勉強も運動もできる佑希がいるから軽く見られたりはしないわよね」
「もう佑希から聞いた? 来年から学年で上から三十人しか入れない特進クラスになるらしいのよ」「来週は部活の地方大会だってさ」「お母さん休みとって応援に行こうかな」「未来も来る?」
「そっか。あなたは妹思いのいいお兄ちゃんだものね。」
「受かったんだ。ならお祝いにでも行きましょう」「佑希ができたんだから、あなたもできて当然よね」「兄妹二人で同じ学校っていいわね」「佑希に追いつけるようにがんばりなさいよ」
「佑希のことを、これからもお兄ちゃんとしてあなたがしっかり見てあげなさい」


811: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/05(火) 00:30:39.86 ID:HHfyV3AE0

 佑希と比べられることに関しては、無関心を貫き通すつもりだった。
 母さんの感知しない所で佑希が心の安寧を得ているのだし、今更俺がそれを嘆くことは今までの苦労を台無しにすることに繋がるものだったから。

 俺が悩んだのはもっと別のことで、もっと単純なことだ。

 奈雨が佑希の中学に合格した。それだけのことだった。
 でも、その"それだけのこと"が俺の心を苦しませた。

 奈雨は俺を追い越していってしまうかもしれない。
 追われているつもりが、いつのまにか追いつかれて離されていっているかもしれない。
 彼女とだけは他の誰とよりも比べられたくなかったはずなのに、いつのまにか勝手に比べられるようになってしまった。

 ウサギがすやすや眠っているうちに、ずっと後ろにいたカメに追い越されてしまったあの童話のように。


812: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/05(火) 00:31:31.70 ID:HHfyV3AE0

 本当は、カメが追いついてきたら、一緒に並んで終着点まで進んでいけたらいいと思っていたのに。
 無駄なことで競うのはやめにして、ちょっぴり不器用なカメとどうでもいいような話をしながらゆっくり歩いていきたかったのに。
 そういうつもりで、俺は彼女をずっと待っているつもりだったのに。

 自分が誰よりも大事に思っている女の子との約束を、俺は守れないかもしれない。

 怠惰でなあなあの毎日を過ごしているうちに、自分の力はすり減って劣化して、そんな俺なんて誰も求めなくなってしまうかもしれない。

 ……奈雨が、自分から離れていってしまうかもしれない。

 だから彼女に会っても、その約束について確認することが怖かった。彼女はそんな約束なんて忘れてしまって、俺の知らない場所へ行ってしまう。そのことが怖かった。

 ──だから。

 今度は、俺が追いつく番だと考えた。そうでなければ、彼女の隣を歩けない。彼女を守ってあげられない。

 ──お兄ちゃんなんだから……。

 母さんの言葉は、俺を鎖のようなもので縛り付けている。
 俺は佑希の兄で、奈雨の親戚のお兄ちゃんで、なのに、彼女たちよりも劣ってしまっている。

 俺の"お兄ちゃん"は形だけで、中身が全く伴っていない。それはただのハリボテと変わらない。

 このままだと、彼女と正面から向き合うことができない。

 それだけだった。
 俺が自分の意思で初めて何かに取り組もうと思えた動機は、たったそれだけのことだった。


813: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/05(火) 00:32:24.93 ID:HHfyV3AE0

【言葉にすれば】

「お兄ちゃんは悪くないよ」

 と奈雨が口を開くまでに、だいぶ時間が経過していた。
 いろいろなことを思い出して、彼女はその間俺の肩に頭を乗せて目を瞑っていた。

「……でも、佑希は泣いてた」

「あんなの嘘泣きだよ」

「どうして?」

「そう思ってたほうがいいって、わたしは思う」

 そう思えないから、この後の処理について頭を悩ませているわけだが。
 でも、もしかしたらそうなのかもしれない。佑希が必要としているのは、必ずしも俺でなくてもいいのだから。

「佑希は自分のこと以外何も見えてないんだから、あんなの放っておけばいいよ」

 そういえば、零華もそんなことを言っていたっけか。


814: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/05(火) 00:33:00.47 ID:HHfyV3AE0

「それでさ」と彼女は話を変える。

「……今日は、なにかあったの?」

「……なにかって?」

「モールから帰るとき変だった。それに、今もちょっとおかしい」

「おかしいかな」

 復唱するようにして答えると、奈雨は何かを考えたのか少しだけ口籠った。

「れーちゃんも、わたしにお兄ちゃんの様子がどうか訊いてきた」

「うん」

「……会ってたんでしょ?」

「知ってたのか」

「『ごめんなさいって先輩に言って』って連絡がきたから、そうなのかなって思って」

「……まあ、ちょっとな」

「そっか」

 軽めの相槌を返して、彼女はふうっと息を吐き、呼吸を整える。
 そして、にこりと微笑んで、繋いでいる手を天井に向けて持ち上げた。


815: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/05(火) 00:33:38.06 ID:HHfyV3AE0

「どうしたの」

「ううん。なんでもない」

「……訊かないの?」

「なにを?」

「零華と話したこと、とか」

「訊いていいの?」

「まあ」

「でもいいや……訊かない」

「わかった」

 そこで話は途切れて沈黙が落ちる。

 訊きたかったのは帰り道のことで、零華とのことではないのかな、と思った。
 どのみち同じような話ではあるから、片方を話せばもう片方を言うことに繋がるかもしれない。

 そんなことを考えていると、彼女は「んっ」と俺の目の前に唇を突き出す。
 何度目だろうか、零華の言葉が脳裏をかすめる。

 唇を重ねると、彼女の肩がびくりと跳ねて、上目遣いで眉を寄せる。
 おろしている髪の毛が首にあたって少しこそばゆい。

 数秒足らずで離そうとするも、服の裾をきゅっと握りしめて、離さないでほしいというメッセージを伝えられる。


816: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/05(火) 00:34:19.69 ID:HHfyV3AE0

 十秒、二十秒、三十秒と触れている時間が過ぎていくうちに、俺の思考はびりびりとしびれるようなものから、いろいろなものに変化していく。

 目を瞑る。開けたままでいると、目の前のことばかり考えてしまいそうになるから。

 きっと、さっきまで考えていたことは、まだ半分でしかない。
 彼女を、今このとき口付けを交わしている彼女を、零華の言う妹のように扱っている理由が説明できない。

 彼女はたしかに健気でかわいらしくて、周りよりも少し身長が低くて、俺よりも年下で、不器用なゆえの危なっかしさを時折見せてくる。
 少なくとも俺の周りではとびきりかわいらしい女の子であるし、彼女の魅力的なところを問われれば真っ先にそのかわいらしさを挙げるだろう。

 けれど、だからといって彼女に頼られていないと不安になってしまうというのはおかしい。間違っている。矛盾している。


817: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/05(火) 00:34:53.96 ID:HHfyV3AE0

 俺は彼女と並んで歩きたかった。
 お互い一人で立っていられるくらいに強くなって、それでもどこか不安を感じてしまったら、そのときは安心を与えられるような存在でありたかった。

 押し付け。自分のことしか考えていない。我慢していられない。
 その言葉はそっくりそのまま自分に返ってくる。

 口に出さないことで取り繕っていたとしても、きっと心は傷付いていたのだと思う。
 そのうえで、最初は転んだ際にできた擦り傷程度のダメージだったものだから、それを軽視して──自分なら大丈夫だと思い上がって──早急に手当てをしたり休息を取ることを忘れてしまっていた。

 だからこそ、それは外へ放出されることなく蓄積して、今になって可視化できるところにまで大きくなってしまった。

 俺は小さいころから誰かに頼られることに慣れてしまっていた。
 自分が我慢することによって、何かが未然に防げたり守れたりするならば、それは現状での最善の手を打てているのだと思っていた。
 目に見えてしまうと面倒なことを、助けたり肩代わりすることによって先延ばしにしていた。

 だとすれば、問題だったのは、俺がそれを"できてしまった"ことではないだろうか、と思う。


818: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/05(火) 00:35:36.99 ID:HHfyV3AE0

 人には各々広さ大きさの異なるキャパシティが存在する。
 自分のことで手一杯な人は、他者にかまけている余裕はなくなるし、ある程度余裕が持てる人、もしくは自分を蔑ろにしている人は、他者を抱え込めるだけの隙間/余地が残されている。

 誰かに頼られる。それを助ける。
 もう一度頼られる。また助ける。
 それを続けていくうちに、片方はやめどきを見失ってしまい、もう片方は「もっと」「もう一回」と相手に必要以上の期待をかけるようになってしまう。

 その悪循環から解き放たれて嬉しく思うのは、多くの場合頼られる側だろう。

 だが、誰かに頼られることがその人の習慣だとなると、状況がまるで違ってくる。

 頼られる側が、他者を抱え込むために、自分の領域を犠牲にすることによってスペースを確保していたとして、
 その部分があるときごっそりと抜け落ちてしまったとしたら、開いてしまった穴はどうやって埋めあわせるのだろうか。

 一番の近道は、新たに頼ってくれる誰かを見つけることだろう。


819: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/05(火) 00:36:36.94 ID:HHfyV3AE0

 それを求めた。無意識のうちに。

 でも、自分のことですら満足にできなくなってしまった俺が、誰かを助けてあげられるだけの力を有しているとは到底思えなかった。
 たまたま人よりも力を持っていたからそういう人が寄ってきただけで、その力が弱くなれば、俺のことを頼る人なんてどこにもいなくなる。

 それでも、俺は頼られなくなってしまうことが怖かった。
 きっとどこかで頼られることに悦びを感じて、そのことで自らの存在意義を見出していたのだから。そういう自分が見えないと、どう振る舞えばいいのかわからなくなるから。

 俺のことを頼ってくれる人を見つけなければならない。
 奈雨を妹のように扱えば、妹のように甘えてくれる。頼ってくれる。
 そう思って、近くにいた彼女に役割を押し付けてしまった。

 何かに流されていたのではなく、俺が、自らの意思をもってして判断を下していたことだった。


820: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/05(火) 00:37:20.08 ID:HHfyV3AE0

 目を開けると、唇はすでに離れていた。そういう感覚も、頭から抜け落ちてしまっていた。

 奈雨は心配するように俺の顔を覗き込む。
 ひょっとしたら、結構な時間ぼうっとしていたのかもしれない。

「……もうちょっとだけ、近付いてもいい?」

 目を合わせると、彼女は視線を逸らして俯きがちにそう言った。

 頭がくらくらする。意識がぼんやりとしている。
 本当に、彼女とこういうことをしていていいのだろうか。

 逡巡しているうちに、彼女は距離を肩が触れるまで詰めてくる。

「なんでこんなに近付くんだよ」

「……だめ?」

 堕ちてしまいそうな甘ったるい声。
 肩に手を置かれる。その部分だけ、さーっと熱が冷めていく感覚を得る。

「もし俺が押し倒したらどうするんだよ」

 離れてほしい、と言おうと思った。
 けれど、それを言うだけの勇気がなかった。


821: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/05(火) 00:38:08.35 ID:HHfyV3AE0

 こういうことを言えば、彼女の方から離れてくれる。

 それを願った。また押し付けようとした。

 なのに、

「いいよ」

 と彼女は躊躇する様子を僅かにも見せることなく頷く。

「わたしはお兄ちゃんになら、そういうことをされてもいいよ」

 彼女は言葉を重ねる。
 しっとりと濡れた目が、逸らすことを許してくれない。

「冗談だぞ」

「遠慮しなくていいよ」

「……なに言ってんだよ」

 強めの口調で言うと、彼女は負けじと肩が完全に触れるまで距離を詰めてくる。

「お兄ちゃんが安心できるなら、わたしはそれでもいい」


822: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/05(火) 00:38:46.97 ID:HHfyV3AE0

 耳朶を打つ蕩けた声にのまれて、ベッドに彼女を押し倒してしまった。
 我慢しようとした。けれど、身体が言うことを聞いてくれなかった。

 彼女は一瞬だけ怯んだ顔をして、すぐにいつものようにえへへとはにかむ。

「いいよ。我慢しなくて」

 彼女は俺の手を取り、自らの胸部へと誘導する。

 触れるとすぐに彼女の早い鼓動が伝わってくる。
 それがいっそう頭をしびれさせ、流れに身を任せてしまいたくなる。

「でも、ちょっとだけ恥ずかしいから電気だけ消してほしい」

 言いつつも、彼女は俺の腰に腕を回して、ゆっくりとベッドに引き寄せる。

「お兄ちゃんがちゃんとわたしを見てくれるなら、邪険に扱われても○○されてもかまわない」

 心臓がばくばくと脈打ち、耳の先まで真っ赤にしている。
 なのに、今にも泣き出しそうな表情で微笑んでいる。


823: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/05(火) 00:39:39.00 ID:HHfyV3AE0

 このままでは駄目だ、と思う。

 そういう対象として彼女を見ることができる。というか見ている。それは否定しない。勢いに任せてしまってもいいと思う気持ちもなくはない。

 俺は、ずっとずっと前から彼女のことが好きだったから。

 でも、これは違う。間違っている。

 好きだから……好きだからこそ、やめなければいけないと思う。
 今に至るまで、ずっと彼女の発言を免罪符にして甘え続けていた。好きな子と身体を触れ合わせる行為を楽しんでいた。自分の致命的なまでの弱さを間違ったかたちで押し付けていた。
 兄妹のように接することによって、溢れ出してしまいそうな彼女への好意に蓋をしているつもりでいた。

 キスまでなら、少しだけ心はちくりと痛んだけれどまだ抑えることができた。

 けれど、これ以上は駄目だ。
 今は良くても、そのあとのことについて考えが及ばない。

 俺は、彼女に対して何も責任を取れない。取るだけのものを持っていない。責任という言葉を出すことすら烏滸がましい。

 そう考えていると、身体は逆方向へと勝手に動いていた。

「離れろよ」

「……やだ」


824: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/05(火) 00:40:10.08 ID:HHfyV3AE0

 ふるふると首を振りながら請い願うような言い方に、優しい声音で諭そうとしたけれど、

「離せって言ってるだろ!」

 と気付けば半ば強引に彼女を突き飛ばしていた。

「きゃっ」という声とスプリングが軋む音が聞こえる。表情を見たくなくて、俺は彼女に背を向けた。

「駄目なんだよ」

「……なんで」

「わかんないけど、駄目なんだよ。
 こういうのは違う。俺は奈雨とそういうことはしたくない」

「……わたしのこと、嫌いなの?」

「違う」と答える。それだけは、はっきりと言える。

 けれど、その続きは一向に出てこようとしてくれない。


825: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/05(火) 00:40:43.65 ID:HHfyV3AE0

 きっと彼女は俺が何を言ったとしても許してくれる。受け入れてくれる。仮にここで彼女のなすがままに身体を求めたとしても、きっと応じてくれる。
 そうなってしまったら、歯止めが効かなくなるのは目に見えている。彼女を際限なく求めて、彼女を困らせて、最後には嫌われてしまうのではないか。

 そして何よりも、

「俺は奈雨にふさわしくない」

 そう思っていて、いつのまにか口に出ていた。彼女がどういう表情をしているのかはわからない。

「……わたしは、お兄ちゃんと誰かを比べたりしないよ」

 彼女はそうなのかもしれない。
 俺は彼女のそういうところが好きだったから。

 ──でも。

「でも、比べられるんだよ」

「……誰に?」

「みんなに」

「……そんなことないよ」

 不意に手を掴まれる。
 けれど、その驚きよりも、否定してしまいたい衝動が打ち勝ってしまう。


826: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/05(火) 00:41:14.83 ID:HHfyV3AE0

「そんなことあるんだよ」

 言いながら手を振りはらうと寂しそうな吐息が聞こえてくる。俺は聞こえていない振りをする。

 話しているのは奈雨なのに、彼女とは離れた他のことまでもが浮かんできてしまう。比べられることで、俺はずっと嫌な思いをしてきた。
 誰かと誰かを比べることに呪われている母親と妹がいたから、俺だけでもそれをどうにかして避けたいと思っていた。

 そんなのは実現不可能な妄想であることはわかっているのに。
 比べられることは当たり前のことなのに。俺も知らず知らずのうちにいろいろなものを比べてしまっているのに。

 だったら誰が悪いんだ? 俺は、それがたまらなく嫌で、そういう自分も嫌で、なにもかもが嫌で。
 でも、嫌な言葉ほどよく覚えていて、記憶から消し去ろうとしてもうまく消えてくれなくて。

 俺だってわかってる。選択をしているのは自分で、言葉に出せないのも自分で、全部が全部俺のせいだってわかってるよ。
 なんとなくである程度出来るから、やめどきがわからなくなって、何かを捨てたくても捨てきれなくなって。


827: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/05(火) 00:41:53.89 ID:HHfyV3AE0

「なら俺が悪いのかよ! 人より出来ることがそんなに偉いのかよ! 黙ってればいい子なのかよ! 何も言わなければ好き放題言っても許されるって思ってんのかよ!
 自分の負担を俺に押し付けて好き勝手に振る舞って、最後に謝ればそれで許してもらえるって思ってんのかよ!」

 こんなふうに怒鳴り散らしたら、彼女に幻滅されるかもしれない。
 けれど、口は勝手に動いて止まってくれない。

 自分が何を言いたいかなんて、ずっとわからなかった。
 俺が黙っていれば、佑希は笑っていて、母さんのうんざりした表情を見ずに済んで、すべてがいいようにまわって。

 でも、俺は。

「俺だってあいつの兄である前に一人の人間なのに。比べて優劣をつけて勝手に同情してんじゃねえよ!」

「……お兄ちゃん」

 うかがうような声音は耳に入ってきて、でも、思考を止めることはできない。


828: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/05(火) 00:43:01.99 ID:HHfyV3AE0

 誰も頼んでないのに、ただの兄妹ってだけなのに、俺とあいつは違うのに。
 兄妹だと知ったら、みんなは二言目にはあいつの話をする。あいつを褒め称えて、俺は頷いて笑みを返す。
 そうするしかないのに、勝手に調子付かれてしまって、三言目にはいつも決まった言葉を掛けられる。

「でも、比べられて大変じゃない?」
「あんなにできる妹がいるとつらくない?」
「妹さんほどじゃないけど未来くんもできるよね」

 その何気ない言葉が、薄っぺらい同情が、いつも胸に突き刺さっていた。俺は我慢したのに、やりたいことも捨ててきたのに。
 それが一番嫌だったのに。そういう目で見られることが気持ち悪くて仕方がなかったのに。

「わかってるよ」

「……うん」

「俺は何かを背負っていないと不安になって、頼られないと不安になって、
 誰かの世話を焼くことで自分の存在意義を確かめようとしてることなんてわかってるよ」

「……」

「でも、でもさ──」

 ──自分の気持ちの押し付けだけじゃなくて、俺の気持ちだって少しは考えてくれよ。

 その言葉は、最後まで出てくれなかった。


829: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/05(火) 00:44:02.31 ID:HHfyV3AE0

 視界がまたしてもぼやける。佑希としていることが変わらないということはわかっていた。
 奈雨に対してだけはこういうことをしてはいけないとも思っていた。困らせたくないって、それだけを思っていた。

「お兄ちゃん、ぎゅっとするね」

 その声が聞こえて、俺の身体は奈雨の腕でつつまれる。

「離せよ」

「離さない」

「……なんで」

「……わたしが考えてるのは、ずっとお兄ちゃんとわたしのことだけだから」

「他の人は関係ないよ」と彼女は額を背中に押し付けながら言う。

 彼女は俺の言ったことをわかっていないのかもしれない。
 わかっていなくて、わかっていないなりに、彼女の言葉にしてそれを伝えようとしてくれているのかもしれない。

「お兄ちゃんが本心を話してくれたこと、嬉しいって思う」

「……」

「わたしだから話さなくてもわかることもあるけど、話さないとわからないことの方が多いから」

「……でも」

「わたしが嬉しいって言ってるんだからいいの」


830: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/05(火) 00:44:50.58 ID:HHfyV3AE0

 熱のこもった声に、考えごとをやめさせられる。
 彼女はいつだってそうだった。俺の言葉を待ってくれている。準備をしててくれる。

 まわされていた腕を外して、彼女の方へ振り向く。
 呆けたようにぽかんとしている彼女の表情を見ると、気持ちが安らいだ。

「ごめんな」

「……ううん、大丈夫」

 ほわっと笑う彼女が愛おしく思えて、抱きしめてしまおうかと思った。
 が、さっきの仕返しも込めて彼女の頬をちょっと強めに引っ張ることにした。

「なに」

「なんでもない」

「……いたい」

「奈雨は、自分を大切にしろよ」

 言うと彼女は首をかしげたが、少しして意図を察したのか照れたように身をよじらせながら、

「お兄ちゃんこそね」

 と、俺の頬をつねり返してきた。


831: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/05(火) 00:45:30.81 ID:HHfyV3AE0

 なんだか気恥ずかしくなってお互い笑う。
 と思ったら、すぐに奈雨はむすっとした顔をした。

「てか、べつにわたしはよかったのに」

「なにが?」

「……わ、わたしに言わせるか!」

 近くに転がっていたレジ袋で殴られる。
 パンと肉まんがぼろぼろと下に落ちる。そういえば、温めてもらったんだけどもう冷めてる。

 拾い集めて渡すと、机に向けてそれを投げた。食べ物は粗末に……ってほどしてないか。

「まあ、いいや。こういうのは急ぐべきでもないってれーちゃんが言ってたし」

 零華? 名前だけで危険な香り。
 ていうか、さっきから混乱してらっしゃるのでしょうか。

「あー、なんだ。風呂でも入ってきたらどうだ」

「それって」

「……それって?」

 訊き返すと、拗ねたような顔をして「ふぎゃー」と胸をぽかぽか叩いてきた。
 ふぎゃーってなんだよ。かわいさの暴力(やっと頭がまわってきた)。


832: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/05(火) 00:46:06.37 ID:HHfyV3AE0

「なんだよ」

「なんでもないし!」

 ドタドタと足音を立ててベッド横のキャリーケースまで移動すると、中から服やらなんやらを取り出してさっさと部屋から出て行ってしまった。

 すれ違うときに白くてふりふりの下着が見えた。
 いや、隠せよ普通に。触れたときを思い出すと意外と……むにゅってなったんだけど。

 結構あるとは思っていたけど、前からあたったりしてたけど、ああいうのはちょっとな……。
 それも、咄嗟の判断を迫られたときには全く頭になくて、今になってから考えていることだけれど。

 まあ、なんだ。
 こっからどうしようか。
 部室に戻れば、家に彼女たち二人になるとか、戻らないと怒られそうだとか。

 佑希をどうするか、とか。
 それは、少し考えることが億劫なことかもしれない。

 ひとまず、奈雨が戻ってきてからどうするか考えよう。

 今はこの、彼女のおかげで少しだけ落ちついた気分に浸っていたい。


836: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/14(木) 18:40:07.13 ID:oAV4+yJj0

【温もり】

 ふと外の景色に目を向けると、夜はすでに更けてしまっていた。
 日付がまわる少し前から本腰を入れて私以外の二人が動き出して、でも、数時間とも経たぬ間に部室はめっきり静かになってしまった。

 いくら目をこすっても、眠さは消えてはくれない。
 夜更かしは苦手だった。というより、家だとこの時間まで起きていることはほとんどないのだから、当たり前といえば当たり前なのだが。

 起きているために。
 コーヒーは甘くないと飲みたくないけど、この深夜に甘いものは控えたい。
 エナジードリンクの類は部長さんとソラくんが冷蔵庫から出して飲んでいたが、私はあまり飲めない。薬品ぽくて苦手なのだ。

 対戦ゲームのタイトル画面のままつけっぱなしのテレビ、
 そこらへんに転がっている本やらレジ袋やら何やら、
 キーボードに手を置いてぽけーっとどこかにトンでいる部長さん。

 いやいや、まだ一日目も終わってないのに。
 あ、いや……もしかしたら今日より前からずっと徹夜してたとか。この人ならありえそう。


837: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/14(木) 18:41:05.62 ID:oAV4+yJj0

 そういうわけで、だいぶ出来心で彼女の耳をつまんでみた。
 ひんやりした感触で、ちょっとだけびびる。

 見た目は和風美人。少しだけ憧れなくもない。日本人形って評するのは普通に悪口だと思う。個人的な感想(私はよく言われるけど嫌)。

「うぎょっ」

 低い声を発すると同時に、彼女の目に生気が戻ってくる。
 思わず目を逸らしながら手を引っ込める。

「私の福耳を触ったな!」

「……あ、はい」

「寝込みを襲うなんてへんたい!」

「襲ってませんよ」

「ショヤ前にキズモノにされちゃったよう……」

 わんわんと目に手を当てて泣き真似をされる。
 寝起きでこのテンション。素なのかな。だとしたら怖い。
 ていうかまずショヤってなんだろう。

「寝るなら椅子じゃなくてちゃんと横になったほうがいいかなと」


838: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/14(木) 18:42:08.76 ID:oAV4+yJj0

「そらそらくんは?」

「それです」

 部長さんの近くに転がっている寝袋とはまた別の、明太子みたいな真っ赤なものが窓際に横たえている。キューピーみたい。

「買おっかな」

「やっぱり変わってますよね」

「んやー、かわいいからね」

「そうですか」

「……あー、でも」

 ふらふらと部屋のあちこちに彷徨わせられていた視線が、言葉を区切るとこちらをまっすぐに捉えた。

 目を合わせると、彼女はなんの躊躇いもなく抱きついてきて、体格差も相まって後ろにバランスを崩す。
 半ば押し倒される形になって、彼女の顔がすぐ近くまで近付いてくる。

 頬がほんのり朱に染まって見える。私もきっと同じ顔をしている。

「シノちゃんの困った顔の方が好き」

 好き、という言葉に戸惑う私をよそに、冗談めかしたように続ける。


839: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/14(木) 18:43:08.34 ID:oAV4+yJj0

「いま呆れてる顔です」

「じゃあ呆れてる顔でもいいや」

「……はあ、軽いですね」

 明らかにからかわれている。
 私をからかう必要なんてないと思うのに。

「てことでさ、このまま寝ようよ」

「はい?」

「人肌の温もりを感じつつ微睡みに落ちていく感覚を味わいたいんですよ」

「……欲求不満なんですか?」

「そうかも」

 いや、そうかもって……。
 軽口に真面目に返されても。

 と、そんなことを思っていると、部長さんは口元に手を置いて楽しげに笑う。

「おお、いまの顔!」

「……これも呆れた顔です」

「呆れた顔も好きって言ったじゃん」

「私ならなんでもいいんですか」

「そうそう」

「そういうの手慣れてますよね」

「……いや?」

 首を振りながら私から離れて、テーブルに置かれた湯呑みに手を伸ばし、それをこくこくとわざとらしく喉を鳴らして飲んで、元の位置に戻してからぷはあと吐息を漏らした。


840: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/14(木) 18:43:55.44 ID:oAV4+yJj0

「シノちゃんと愛を語り合ってたら眠くなくなってきちゃったかも」

「語り合ってないですけど」

「こまけーことはいいんだよ!」

 居酒屋で年下を窘めるおじさんのような口調で言いつつ、私の肩をバシバシと叩く。
 さっきまでのとろんと底まで溶けていってしまいそうだった瞳は、言葉の通り普段のものに戻っている。

「風にあたりにいこっか」

「いまからですか?」

「いいじゃん」

「……もう夜中ですよ」

 どういう意図かも確認する前に真面目に返答すると、彼女はふふんと笑った。

「お堅いことは言わずにさ。風邪引くといけないからあったかい服装してね」

 有無を言わせずに私に立ち上がるように促して、ソファの横に掛けてあった上着を手渡される。

 財布をポケットに入れていたから、きっと行くとしてもコンビニまでだろう。


841: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/14(木) 18:44:44.27 ID:oAV4+yJj0

「お菓子とか奢ってあげるから」

「誘拐犯みたいな台詞ですね」

「ふふふ、それでもいいや」

 れっつごー、とばかりに右手を掲げて、扉へとずんずん歩いていく。

「もたもたしてると置いてっちゃうぞー」

「あ、はい。ちょっと待ってください」

 上着を羽織って、髪をささっと整えて、そこまで寒くはないだろうし前は開けたままでいいか。
 一応身嗜みに気を遣いつつ外に出ると、校舎内は全て窓を閉め切っているからか、部室内とほとんど暖かさが変わらなかった。

 電気を消し、ぴしゃりと扉を閉め切ってから階段へ進む彼女を追いかける。

 が、すぐに違和感に気付く。
 先ほどまでは近くに座る彼女と会話をしていたからあまり感じていなかったけれど、暗さもあってか視界が滲む。

 シャワーを浴びたあとに目が痛くてコンタクトを外したことを今さらになって思い出した。
 遠視気味だからかな、多分。ワンデイしか使ったことないし……部長さんは眼鏡だし。

 戻ることも考えて、でも、まあ呼び止めるのも忍びないしこうなれば仕方ないか、と私の中で早めに結論付ける。


842: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/14(木) 18:45:24.81 ID:oAV4+yJj0

 早足で駆け寄って、ぶらりと自然に下ろしていた部長さんの腕を取った。

 二の腕は細い割にふわふわしていて柔らかい。サボン系のフレグランスの匂いがふわりと漂う。
 いつも思うけど、どうやったらこんなに人を落ち着かせるような雰囲気を出せるのだろうか。
 ついつい甘えてしまいそうになる。こんなこと、今までなかったのに。

 唐突に腕を組まれて立ち止まった彼女は、私をちらと見て少し困ったように微笑む。

 どうしたの、と訊ねられる。
 足元が覚束ないだけではあるのだが、普通に答えるのは一人で何もできないみたいでちょっとだけ恥ずかしい。

「人肌の温もりです」

 誤魔化すつもりでそう言うと、彼女はにこりと笑った。

「あー……なんかこれ、幸せしか感じない」

 反対の手で髪を撫でられる。
 いつもわしゃわしゃと無造作にされるけれど、今回は、サイドの髪を手櫛で梳くようにゆっくり撫でられる。耳にかけられたり、毛先を遊ぶように。
 それで、どういうわけか、私の胸はどきどき高鳴ってしまう。


843: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/14(木) 18:46:37.76 ID:oAV4+yJj0

 腕には私の胸が当たっているから、多分部長さんにもそれは伝わっている。
 そう思うと、ますます募る恥ずかしさで彼女の顔を直視することができなくなった。

 自分から腕を取ったのに、ちょっと近いだけでこのありさまだ。スキンシップに慣れてなさすぎる。

「あの、もう行きませんか」

 軽く息を整えてから、なるべく平静を装って彼女にそう告げる。
 すると、はっとしたように浅く呼吸をして、目の前の暗闇へと視線を戻す。

「うん。だね、行こう」

 ぎゅっと腕を締められて、さらに距離が詰まる。
 彼女の肌のあたたかさが、柔らかさが、それまでよりもダイレクトに伝わってくる。

 取り留めのない話をしながら階下へと進む途中で、窓から少しだけ光が差していることに気付く。

 手摺に手をかけて足を止める彼女を見上げると、微かな月明かりに照らされたその横顔は、心なしか紅潮しているように、私の目には映った。


844: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/14(木) 18:47:48.19 ID:oAV4+yJj0

【つまさきせのび】

「部長さんは、私に訊かないんですか?」

 フェンスに身を預けて鼻歌をうたう彼女に、私は意を決してそう問いかける。

 それは、一日中ずっと言おうと思っていたのに、なかなかタイミングが掴めなくて言えずにいたことだった。

「ん?」

 わかっていないように、彼女は首をかしげる。
 言葉が足りなかった。言うことが億劫だったから、直接的に述べることを避けてしまった。

 けれど、こういうふうに訊き返されてしまっては仕方がない。

「絵のことです」

「うん」

「……いろいろ考えてみて、けど、まだ描けてないです」

「そっか」

 なんでもないように、彼女は頷く。


845: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/14(木) 18:48:59.22 ID:oAV4+yJj0

 頬を刺す冷えた夜風に、お互いぶるぶると身震いする。
 どちらともなく近付いて、アスファルトに座り込む。彼女の体温を、息遣いを、すぐ近くに感じる。

 本当は少しだけ描いていた。描こうとしていた。
 今はどうであれ、先に進むしかないことはわかっていて、それなら自分の取るべき行動は決まっている。

 でも、それを見せる気にはどうしてもなれなかった。
 一部分しか描いていないから完成はしていないし、落書きと呼べるかすらもわからないような代物だったから。

 部長さんは、でも、私の絵を見てくれると思う。
 それは彼女の言っていたことから確実ではあるけれど、それでも、誰かに絵を見せることは躊躇してしまう。

「お祖母ちゃんに、私のことを訊いたんですよね」

「ごめんね」

「……あ、謝らなくてもいいです」

「うん、ありがと」

 昨日部長さんが喫茶店をあとにしてから、私はお祖母ちゃんから「未来くんと部長さんにこういう話をしてしまった」ということを聞いた。

 内容に関しては、別に知られたところで私にはなんともない。
 でも、そこから間違った解釈を付けられたり、勝手な考察をされてしまうのは、少しだけ嫌な感じがする。


846: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/14(木) 18:50:05.48 ID:oAV4+yJj0

 などと考えていると、はい、とガムを手渡される。
 受け取ってから彼女を見ると、薄紫色の風船をぷくーっと膨らませていた。

 それを真似するように、ベリー味のガムを口に含む。
 いつも買っていてブレザーの内ポケットには忍ばせているが、そういえば今日は食べていなかった。

 口に何か入れていないと落ち着かないのは、甘えたい心や気持ちの表れらしい。
 私は、甘いものが好きで食べてるだけだから違うけど。

「どうして、シノちゃんは水彩画を描いてたの?」

 出し抜けに投げかけられた言葉に、私は少しの戸惑いを感じる。
 それも、お祖母ちゃんに訊いたのだろうか。お祖母ちゃんにだって、誰にだって言った記憶は微塵にもないのだが。

 私が水彩画を選んだ理由。
 油絵でもデッサンでもデザイン画でもなく、初めは取っつきやすいものの上達したのかがそれほど定かにならないものを選んだ理由。
 一見するとあまり差が出ないようで、表現や色使いなど作者個人の在り方によってかなりの差が出てしまうものを選んだ理由。

 水彩画特有の手法も多いし(私は結構無視していた)、同じ美術部だった子は、誰も進んで描こうとはしていなかった。

 まあ、いろいろ考えたところで陳腐にしかならない。
 私の答えはひとつに決まっていて、言葉としてすんなり出てくる。


847: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/14(木) 18:51:00.94 ID:oAV4+yJj0

「やり直しが効かないところだと思います」

 小さいころは、紙とペンさえあればそれでよかった。
 単に近くにあったから。それだけの理由だけど、そのままでいられたらどれだけ良かったのだろうと思ってしまう。

「なるほどね」と部長さんは頷く。

「ウォーターカラーを使ってるとガッシュみたいに重ね塗りはできないし、油絵みたいに削ったりもできない」

「強い色で塗りつぶしちゃえば、また別の話ですけどね」

 当たり前のことを言ったのだが、彼女はむふんと得意げに微笑みを浮かべる。

「踏ん切りをつけるのって大変だもんね」

「まあ、そうです」

 だから、ある程度塗ってしまえば諦めのつく水彩画が私には合っていた。
 絵を描いている人なら、多分誰しも通る道で、殊更に言うほどのことでもない。


848: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/14(木) 18:51:40.22 ID:oAV4+yJj0

「んじゃさ、好きな画家は?」

「いろいろいます」

「ぱっと思いつくのは?」

「……えっと、モネですかね」

「モネモネ……あ! 私も『かささぎ』好きだよ」

「『並木道』とか『印象・日の出』とかじゃないんですか?」

 普通の人は、というか、かじっている(そこそこ知っている)人は、だいたいそう言う。
 特に後者は、"印象派"という言葉が生まれたきっかけになったものでもあるし、あまり絵に詳しくない人でも知っているかもしれない。

「シノちゃんのいたところは、どれくらい雪が積もるの?」

 突然話題が変わった。
 と思ったけれど、よく考えてみれば『かささぎ』は雪景色の絵だった。

「ふとももくらいまでは埋まってた気がします」

 言うとすぐに、あはは、と笑われて、頬をつつかれる。

「それシノちゃんだからでしょ」

「足が短いとでも?」

「……そうとは言ってないよ!」

「わかってます。どうせ私はちびっこですよ」

 部長さんは、背が高いし出るところは出てるし……私とはまるで大違い。


849: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/14(木) 18:52:28.27 ID:oAV4+yJj0

 誇れるのは雪国育ちの色白くらい。
 ……だと思っていたのに、未来くんは私より白い気がする。なぜか悔しい。

「拗ねないでよ」

「拗ねてません」

「せっかくのさくらんぼ美人が台無しだよ?」

「なんですかそれ」

「さくらんぼ美味しいじゃん」

「……はあ」

「そういえば、隣の県なのに行ったことないや」

 よく知らないと、そういうイメージを持たれるのか。名産だから少しはわからなくもないけど。

「こっちと違って市内でも田舎ですしなにもないですよ」

 私が出不精だったというのもあるかもしれない。
 でも、なにもないというのは本当のことで、こっちに来て娯楽施設の豊富さに驚いたくらいだ。

 ちょっと歩けばコンビニがあるし、駅の間隔も狭い。地下鉄だってこの地方だったらここにしかなかったと思う。


850: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/14(木) 18:53:10.80 ID:oAV4+yJj0

「シノちゃんはここに来てさ、どこか観光地とか行った?」

「いえ」

「ふうん……。じゃあ、私と行こうよ」

「……どこにですか?」

 問うと、部長さんは「うーん」と何かを思い出そうとするように頭を抱えて考えこんだ。

「これからの季節だと、紅葉狩りとかイルミネーションとか?」

「あー……ちょっと聞いたことあります」

「有名だもんね」

 この人だって、普段の様子を顧みると、そこまでアウトドア派でもないだろうに……。

 そういうことを言いかけて、とどまる。見越して言っているはずだから。

「……行けたら行きましょう」

 誰かと出掛ける予定をつくるなんて、記憶の限りでは初めてのことで、ついついお茶を濁すような言い方をすると、

「約束だよ?」

 と小指を指切りげんまんとばかりにふりふりと振ってくる。


851: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/14(木) 18:53:57.36 ID:oAV4+yJj0

「そんなに行きたいんですか?」

「うん」

「なら、楽しみにしてます」

 言って、宙ぶらりんになっていた彼女の右手に向かって自分の左手を差し出す。

 断る理由がない、というのが半分。

「ゆーびきーりげーんまーん!」

「恥ずかしいので止めてもらえますか?」

「いいじゃんいいじゃん。どうせ私たち二人しかいないんだし」

「それは……まあ、そう、ですけど」

 もう半分は……うまく言葉にできる自信がないから、今よりもうちょっと時間が経ってから再検討してみよう。

 それよりも、今私がすべきことは──。

 ひとつ小さく咳払いをしてから、部長さんに向き直る。

「部長さん」

「ん?」


852: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/14(木) 18:54:51.59 ID:oAV4+yJj0

「明日……いえ今日までは、編集作業のお手伝いをさせてください。
 どっちつかずは、どうしても避けたいですし、私もこの部の力になりたいです。
 お茶汲みでも、文章の校正でも、ゴミ捨てでも、なんでもやります」

 それが、今の私にできる最善のことだと思うから。

「じゃあさ、もし私がダレそうになったら、檄を飛ばしてほしいな」

 彼女はくすりと微笑みながら、私の頭にぽんと手を乗せる。

「部長さんは、あとどれくらいなんですか?」

「スケジュール的には、漫画一日五ページと、背景があと七枚……終わる気がし……なくもないけど結構厳しいかも」

「……他の二人は?」

「えっと、そらそらくんは八割がた終わってると思う。白石くんは、多分私と同じくらい。
 クオリティ的には、私はいいと思うんだけど、渋ってるっていうか、満足できないらしくてさ」

「さっきちょっと見たんですけど、未来くんの絵かわいいですよね」

「それそれ! 雰囲気がもう癒し、本人通り」

 未来くんは癒し枠なの……?
 あ、でも、なんかちょっとわかる気もする。


853: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/14(木) 18:55:24.46 ID:oAV4+yJj0

「私の趣味で、かわいい女の子描いたら? って適当に言ってみたんだけどさ、だいぶ頑なにロリっ娘を描き続けてる」

「執念ですかね」

『適当に』というのは、いい加減の意味じゃなくて、適切の意味だと思いたい。
 この人なら口から出まかせを言いかねないけど、殊更絵に関しては真剣な人だから判別がつかない。

「白石くん真面目だから、私が文句……アドバイスをすると、初めは嫌な顔してもすぐに飲み込んでくれるし、ついついかわいがりたくなっちゃうんだよね」

 部長さんは言いながらその様子を思い浮かべているのか、頬がほにゃっと緩んでいる。

「いい師弟関係ですね」

「んー……だって、せっかくの部活なんだし、部長らしいことしたいじゃん」

「それに私は、みんなより先輩なんだから」と彼女は居住まいを正して、握りこぶしを胸に押し当てる。

 暗がりに咲く笑顔が眩しい。
 向日葵みたいだ、と思う。実際は、花言葉のなかに"笑顔"はなかったはずだけれど。


854: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/14(木) 18:56:09.23 ID:oAV4+yJj0

「私は白石くんとそらそらくんを厳しくして、シノちゃんが私を厳しくすれば、なんかいける気がする!」

「……あの、」

「シノちゃんの蔑んだ目で見られたら、怖くて二十四時間いつでもがんばれちゃう!」

 ……。

 その眩しい笑顔も、こういう発言で台無しになってしまうのはね……。

「まずはゲームを没収しましょうか」

「それは鬼!」

「なら一日三十分に留めましょう」

「……えー、最低一時間」

 ぺたぺたと私の腕を触りながら、彼女はうーっと唸る。
 そういうボディータッチが……女同士だけど、私の判断力を鈍らせるには充分なわけで。

 言ったところで意味がないし、触れられている部分のことを考えないようにして、どうにか再検討してみる。

 先輩の速筆を考慮すると、そこまでハードではないと思うし、そもそも私が管理することでもないかもしれない。
 が、今日の夕方からの様子を見ていると、不安感は拭いきれない。


855: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/14(木) 18:56:48.67 ID:oAV4+yJj0

「もし早めに脱稿したら、いくらでも私が相手になりますから」

「……一日中?」

「それはわかりませんけど、可能な範囲でならお付き合いします」

 部員の中で、私が一番自分が何をできるのかがわからない状態なのに、こうやって人にものを言うのはどうなのか、とは思う。

 でも、部長さんが私にそれを望むのなら。
 何もできない私に、こうして仕事を与えてくれるのなら、その厚意を無下にはしたくない。

「そっか」

「はい」

「……じゃあ、早速続きしにいこっか」

 もうちょっとぼやかれると思ったのに、案外けろっと私の意見を呑んで、彼女はフェンスから身体を離す。

「ようし。シノちゃんに怒られないように、胡依ちゃんがんばっちゃうぞー」

「ファイトです」

 わざとらしく右手を突き上げる彼女に短く返事をして、私も立ち上がった。


856: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/14(木) 18:57:52.41 ID:oAV4+yJj0

【時制】

 寒空にさらされて冷えた身体には、校舎の中でさえ少し暖かく感じる。

 階段を部長さんの腕に掴まりながら一段一段降りていく。
 もうだいぶ暗さには慣れたけれど「はい」と腕を出されたのでは、断りづらいし仕方がない。

 いちいち外と校舎で靴を履き替えなくていいのが土足アリの高校の良いところ。
 この学校は変に自由だから、ローファーに限らずランニングシューズでもいいし、夏前はサンダルで登校している人もいた。

 部室前の扉の磨りガラスから僅かな明かりが漏れている。

 あれ? と二人で顔を見合わせる。
 電気は出るときに消して、ちゃんとパソコンもスリープモードにしてきたはずだ。

 部長さんはふうと息を吐いてから引き手に指をかける。
 そのままぐいっと横に引っ張ると、あっさりと扉は開いた。

「……お、白石くん?」

 前にいる彼女が呆けたような声を出したので、私も部室を肩越しに覗くと、未来くんがパソコンを操作していた。

「あれ、胡依先輩。他の場所で寝てたんじゃないんですか?」


857: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/14(木) 18:58:26.52 ID:oAV4+yJj0

「……あっ、そっか。白石くんは一回家に戻って帰ってくるって言ってたよね」

「家でいろいろあって、遅くなりました」

「そっかそっか。それで、どうしてこんな暗くして作業してたの?」

「えっと……ソラが寝てたんで、起こすと悪いかな、と」

 少しの歯切れの悪さが見え隠れする未来くんの言葉を聞いて、部長さんは顎に手を当てつつも、ずんずんと中央に向かって進んでいく。
 ソファの位置まで着くと、未来くんが「あ、そこは」と慌てたように声を上げるのが聞こえた。

 リモコンを探して彷徨う部長さんを横目に腰を下ろそうとすると、太ももに変な感触。
 ていうかこれ……毛布と……。

「……人?」

 ぱちり、と部屋に明かりが灯る。
 未来くんがわりかし驚いた顔をしてこちらに駆け寄ってくる(当然私はすでに立ち上がっていた)。

 彼の目元は微かに赤みを帯びている。
 暗い中でパソコンとにらめっこをしていれば、そうなって普通なのかな。

 動物柄の毛布をめくると、初めて見る女の子がすうすう寝息を立てて寝ている。


858: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/14(木) 18:59:09.40 ID:oAV4+yJj0

「連れ込み?」と思わず呟く。

「お持ち帰り?」と部長さんが嬉々とした声で私に続く。

「違いますよ」

「じゃあこの子は誰だ!」

「……あの、一応そいつ寝てるんで。多分起きないとは思いますけど」

 かりかりと頬を掻きながら彼は言う。
 いつも通り優しいな、と思いながら女の子に目を戻す。

 緩いウェーブのかかった亜麻色の髪の毛。
 降り積もった雪を想起させるほどの、白く透き通るような肌。
 一見するとそれに似つかわしくないような、鮮やかなに色付く小さめの唇。

 顔まわりを見ただけで、どこかいいとこのお嬢様なのかなと思うような、可憐でかわいらしい子だ。

 それに、未来くんの好みどストライクだと思う……知らないけど、きっとそう。

「このまえ話に出た従妹で、今うちに泊まりに来てるんですけど、いろいろあって家に一人で置いとけないと思ってやむなく連れてきました」

「ほお」


859: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/14(木) 18:59:42.65 ID:oAV4+yJj0

「もしここで邪魔だったら移動するので、一晩だけ泊めてもらってもいいですか」

 言葉に頷きを返してはいるが、部長さんの視線は斜め下に向かっている。

 どこからかビビッとくる電波を受信したんだろう。
 この人は何かとブレないから、大方かわいい子の寝顔を見て変なことでも考えているのだと思う。

「……先輩?」

「あ、うん。まず私たちも無断だし、泊まるのは大丈夫だよ」

「わかりました」

 ぺこっと頭だけで一礼して、彼はソファから女の子を抱き上げる。

 先程の言葉そのままで、動かされているのにも関わらず、目を覚ます気配は全くと言っていいほど感じ取れない。
 それどころか、あどけない口元を幸せそうに綻ばせて、未来くんの腕にぎゅっとしがみついている。

 毛布がはだけて、丈が長くゆったりとした寝間着が覗く。
 ワンピースだから分類的にはネグリジェで、多分ジェラピケとか、そんな感じの。詳しくないからなんとも言えないけど。


860: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/14(木) 19:00:19.75 ID:oAV4+yJj0

 じとっと目を凝らして見ていると、
 なんか、なんていうか。

 いや、今の私がものすごくダサい服装なのは関係なくて、ああいう服を着てみたいな、と思ったわけでもなくて。
 ……うん、ちょっとだけ思った。抱え上げられたいとか、もろに考えた。相手は、まあ、なんでだろうな。

 眠さは消えていても、頭はすでに活動を止めてしまっているのかもしれない。普段ならこんなことなんて考えないはずなのにな。

 ぷかぷかと水に浮かぶような幻想を断ち切ろうとしていると、隣からぱしゃりとシャッター音が鳴る。

「胡依先輩」

 と呆れた顔をつくる未来くんに向けて、部長さんはにひひと邪悪な笑みを浮かべる。

「お姫様抱っこはいい構図。尊みが溢れんばかりに深いの!」

 出た。部長さんが口癖のように言う"尊い"。
 気になって訊いたら、"尊い"は概念らしい。謎がますます深まる。

「ていうか、その私心をくすぐる服は、もしかして白石くんが買ってあげたの?」

「何の話ですか?」

「従妹の子に好きな服を着せるって宿題にしたじゃん」

「……しましたっけ?」

「したよ!」


861: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/14(木) 19:00:56.36 ID:oAV4+yJj0

「……いや、俺好みかは教えませんけど、服は一緒に選んで買いましたよ。
 今着てるのは、なうが家から持ってきたやつですけど」

「なう?」

「この子の名前です」

 なうちゃん。珍しい名前。
 ふうん、と部長さんが私を見ながら頷く。未来くんは少し笑っている。

 ああ、と遅れて意図を察する。
 たしかに、言葉遊びみたいだ。

「それで、なうちゃんの写真は? 私に業務上横領させてくれるって約束は?」

「何が業務上なのかは知りませんけど、もちろん撮ってないです」

「反故だ! 契約破棄だ!」

「いやテンション高いっすね」

 言いながら、彼はなうちゃん(と呼ぶことにする)を椅子に座らせて、ふわふわしたクッションをあてがう。
 それでもなかなか離してくれないようで、少し困った顔をしながら腕を引き抜く。

 部長さんはその様子をふむふむと頷きまじりに見て、ちらと一瞬だけ私に目を向けてから、また彼へと目を戻す。


862: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/14(木) 19:01:30.86 ID:oAV4+yJj0

「でも、絵を描く上での参考にはなりそうでしょ?」

「はい」

「てことは収穫にはなったわけだ。よかったよかった」

「昨日お店で見たような服も、さっきから少しずつ描いてました」

「おー、それはよいよい。じゃあ、あらかた描き終えたら見るから呼んでね?」

「ういっす」

 がんばろー、と未来くんの肩をぽんと叩いて、定位置へと足を伸ばす。

「さてさて、私も描き始めないとシノちゃんに怒られちゃうな」

 今度は私の頭にぽんと手を置く。
 で、もう片方の手には。

「ならまず、そのコントローラーをテーブルに置きましょうか」

「あっはい」

 注意したはずなのに、にへらと彼女は笑っている。

「……なんですか?」

「置く……けど、睨むのはキープで!」

「無理です」

 まったくこの人は……。
 呆れの意味でため息をついて、パソコンへと目を移した。


866: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/22(金) 16:54:38.56 ID:i0ByN4Ty0

【ちびっこ先輩】

 天井を見上げながら首を数回コキコキと鳴らして、んーっと軽く身体を伸ばす。

 ずっと座っていたせいもあって、背中や股関節周りが少しだけ痛む。
 それでなくても、昨日今日とまだ寝ていないわけであるから、節々は痛んでしまって当然なのかもしれないが。

 三十分程度のお昼休憩を挟んで、午前中の作業を再開する。

 昼下がりの部室には人が三人。
 夜遅くから泊まらせてもらった奈雨は、文化祭の練習のために、七時頃にせっせと教室へと向かっていった。
 人見知り? が発動したのか、起きるなり顔を赤らめていた。朝からめっちゃかわいかった。

 そして、この部活の華々しい女子部員二人は、遅めのランチへと出掛けている。
 デートだ! ときゃぴるんとした声で叫び部室内を大きなステップを踏みながら駆け回る胡依先輩を、東雲さんは冷ややかな視線で睨みながらも、渋々それにお供することにしたらしい。

 そんな凍てつくような表情をしていても、あまり嫌がってはいないし、それどころか少し嬉しそうに見えたというのは言わぬが花か。

 と思ったが、まず言う相手がいない。
 仮に言ったとしたら、もっと冷めた視線が飛んでくることはもとより、他の人物がそれ以上の反応を見せてくるかもしれない。


867: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/22(金) 16:57:02.71 ID:i0ByN4Ty0

 二人に、というより東雲さんに向けて、嫉妬の(?)炎を燃やしている人の凄まじい表情を見てしまって、少し居たたまれなくなったくらいだ。

 そんなことを考えていると、後ろから頭をごすっと叩かれる。
 なんだ痛ぇよ……と振り返ると、さっき思い描いたまま不機嫌そうに眉を寄せたちびっこ先輩が立っている。

「休憩終わったんなら早くやりなさいよ」

 そう言いつつ、すっと椅子を引いて俺の隣に腰掛ける。

 コンビニで買ってきたであろうトマトスープをくるくるとかき混ぜながら足をバタバタと動かす彼女の身長は、東雲さんより少し大きいくらいで、足が床に届いていない。
 加えて、動く度に幼い雰囲気を醸し出すサイドポニーが撓るように揺らめき、その都度鬱陶しそうに後ろに流している。

 愛すべき世界のロリっ娘。
 胡依先輩の籠絡対象(違う)。

 そんな彼女は、朝早くに部室の扉を壊れそうなくらいの強さで開けて姿を現したかと思えば、
 すぐに「特別ゲストです!」と胡依先輩に肩を抱かれて紹介を受けた。

 何をするんだろう、と横目でぼんやり眺めていると、てくてくと俺とソラの方へ向かって歩いてきて、今と同じようにちょこんと腰を下ろした。

 どういう経緯かは知らないが、自分の絵で手がいっぱいになっている先輩が協力を求めたらしい。

 それで、後は御察しの通り。


868: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/22(金) 16:58:27.19 ID:i0ByN4Ty0

「……どうですか?」

 スタジオソフトからペイントツールへと画面を切り替えて、一応お昼休憩前に塗りまで終わらせた絵を表示させる。

「どうって、何が?」

「午前中に先輩に言われたことを、それなりに意識してみたんですけど」

「……ふうん」

 身を乗り出して、半ば食い入るように──少しだけ品定めをするように──画面を眺めてから、彼女は俺に向けて小首をかしげる。

「○○○は見せなくていいの?」

「ぶはっ」

 反応を示す前に、ソラが吹き出した。
 そのままかつかつと歩み寄ってきて、絵を見てもう一度笑う。

 俺が描いていたのは、椅子に体育座りをする少女の絵だった。
 もう描き終えて提出するつもりだった絵について、直立の体勢が多すぎること、正面から描きすぎだということ(俯瞰/アオリなど構図に幅を持たせるといい)を指摘されて、まあたしかに、と納得した。

 なんというか、これまで通り女の子ばかり描いていたから、見ている先輩に勘違いされてしまっている気もしなくはない。
 そうでなきゃ、○○○を見せなくていいのかなんて訊かないと思う。

 最初にミニスカを履かせた奴が悪い。
 二択で選ばせた奴はもっと悪い。結局俺が悪い。


869: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/22(金) 16:59:07.38 ID:i0ByN4Ty0

「未来さあ……しゅかちゃん先輩にこんな絵見せちゃ駄目でしょ」

「おい天パ。しゅかちゃん先輩って呼ぶな」

「えー、べつにいいじゃないっすかー」

「もう一回呼んだら、もうアドバイスとか一切しない」

 いーっと歯を見せて睨むしゅかちゃん先輩──萩花先輩は、健気で俺たちよりも元気が有り余っているように見える。

 指を突き立てて宣告する彼女をからかおうとしたのか、

「しゅかちゃん先輩」

 とソラはノータイムで口にする。

 前から思っていたが、この部室にはコントを発生させる結界でも張られているのだろうか。
 だいたい九割九分くらいソラと胡依先輩二人のせいではあるけど。


870: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/22(金) 16:59:51.41 ID:i0ByN4Ty0

「はあ……まずきみはさ、胡依ちゃんに人体の描き方とかを教わってないわけ?」

「教わってないです」

 ええっ……と萩花先輩は呻く。

「白石くんは教わったんだよね?」

「えっと、はい。……いや、俺もソラも教わりました。
 ソラが上手くイメージを掴めないのは、それを話半分だったのが悪いかと」

「駄目じゃん」

 と彼女は呆れ混じりにソラへと苦笑したが、

「……いやでも、二、三週やそこらで描けるようにっても無理ゲーだとは思うけど」

 とすぐさまフォローを入れて、ふむふむと頷いた。

「先輩が『とりあえず楽しく絵を描こう』って言ってたんで、それでいいかなって思ったんすよ」


871: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/22(金) 17:00:38.64 ID:i0ByN4Ty0

「それ本当に胡依ちゃんが言ったの?」

「え、そうっすよ。だよな?」

「ああ」

 ソラの言葉には怪訝げな顔をしていたが、俺が重ねて首肯すると、萩花先輩は「なるほどね」と言った。

「胡依ちゃんがそう言うなら、私がその方針についてとやかく言うのもよくないし、それでもいっか」

「あざっすしゅかちゃん先輩!」

「よし。じゃあまず伊原くんは手を動かすところから始めましょうね」

「はーい」

 さすが美術部部長。人の扱いには慣れている。
 美術部の実態については知らないが、上がこれくらいしっかりしている人だと、下につく部員も真面目にやってるんだろうなと思う。

「それで、白石くん」

「はい」

「この女の子、本当に○○○見せなくていいの?」

 前言を大幅に訂正。
 芸術を嗜んでいる人は変わっている人ばかりだ。


872: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/22(金) 17:01:25.87 ID:i0ByN4Ty0

「見えそうで見えない所が良いんですよ」

「もどかしさがそそるのね!」

「その通りです」

 もはや自分でも何言ってるのかわかってない。
 俗に言う反重力/鉄壁スカートと呼ばれるもの。だってもろ見せはちょっとお下品な気がするからな。いやあ、仕方ない仕方ない。

 夜更かしかつ深夜テンションで描き始めた絵は、正気を取り戻すまでにある程度描き終えないと、その先には全消しが待っている。

「俺にはもっとビシバシ文句付けてくれてかまいませんよ」

「今でも充分付けてるよ?」

「多分その方が集中できるんで。お願いします」

「……そう?」

「誰かに見られてることを意識した方がモチベも上がりますし、ずっと喋らずにパソコンに向かってるだけだとどうしてもダレそうなので」

「あー、そっか。うんうん、絵に対してやる気があることは良いことだね」

 萩花先輩は機嫌を取り戻したようで、椅子をずずっと俺の真隣まで寄せてきた。


873: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/22(金) 17:02:59.52 ID:i0ByN4Ty0

【人任せ】

「次は髪の塗り方について教えてほしいのね」

 手で促されるままにペンを渡すと、彼女は新規ページを立ち上げて、いくつかの丸を描いて、髪をさっさっと描きたしていく。

「まず最初に言っとくけど、私の中のイメージで話すから、白石くんも自分が好きな塗り方を見つけてくれればいいからね」

「はい」

「えっと、それじゃあ──」

 今までの俺は結構適当に、と言ってしまうと聞こえが悪いが、胡依先輩の塗り方を見よう見まねで、ほぼ感覚的に塗っていた。

 だが、どうすれば立体的に見えるか、髪を柔らかく見せたいのか細く見せたいのか、光/影の方向や明暗の付け方など、それだけでは到底補えないものがあり、そのまま塗り進めて「あれ、おかしい」と後になってから気付くことも多かった。

 例えば、ハイライトの入れ方については、ツヤっぽく見せたいのなら側頭部から中央にかけて三角形を描くように入れ、ふわふわに見せたいのなら水玉を描くように入れると良いらしい。
 影は、"影の伸びる方向"と"どこまで影が伸びるか"を光源直下の点からある程度割り出すことができるらしい。

 午前中から思ってはいたが、この人はガチガチの理論派だ。
 胡依先輩も理論派といえばそうなのだが、あっちは感覚系の理論派という印象を受ける。

 楽しく、という観点からは外れるかもしれないが、そこまで大きくは外れていないとは思う。


874: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/22(金) 17:04:06.15 ID:i0ByN4Ty0

「ねえ、胡依ちゃん」

 一通り説明を聞き、それを実際に試していると、萩花先輩はソファに(うたた寝をしている東雲さんの太ももに)液タブを抱えて寝転んでいる胡依先輩に話しかけた。
 さっきちらっと見たが、なかなか眼福な光景。まあ起きたら先輩は確実に怒られる。

「これさ、思いっきり漫画用のソフトじゃない?」

「あ、うん。そうだけど?」

「白石くんみたいに一枚絵を描くんだったら、イラスト用のソフトの方がやりやすいんじゃないかなって思ってさ。
 それに、いちいちフォトショを開いてファイルを読み込むのって面倒じゃない」

「……えー、レイヤー別に読み込めるしいいんじゃない。
 最初のうちはソフト内蔵のやつよりフォトショの方が綺麗に塗れると思うし」


875: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/22(金) 17:04:42.49 ID:i0ByN4Ty0

「てか、このソフトもう販売終了してるはずだよね」

「ライセンスがとうとう三月でお亡くなりに……」

「でも胡依ちゃんが使ってるのは最新のやつでしょ」

「そうそう……え、どうして知ってるの?」

「胡依ちゃんのシブアカウントの備考欄に製作環境が書いてあったから」

「……」

 なにやら専門的なお話をしているようだったから聞き流していたのだが、
 いきなり声が止んだのが気になって振り返ると、胡依先輩はタブレットを顔に押し当てて小さい声で唸っていた。

「しゅ、しゅかちゃん。ちょっともう一回言ってもらってもいいですか?」

「あ、ちゃんとフォローもしてるよ」

「……え、え? あれ? 私しゅかちゃんにアカウント教えたっけ?」

「あんなにわかりやすいハンネ使ってたら普通にわかっちゃうよ」

「うわ、え……いや……」

「それに、胡依ちゃんの絵柄と塗り方はだいたい知ってるから」


876: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/22(金) 17:05:15.13 ID:i0ByN4Ty0

「……い、いや、ヒトチガイダトオモウナー……」

 初めて見たぞ、ギャグマンガみたくカタコトでしらばっくれる人。

 普段攻めの胡依先輩が受けになっている珍しい光景。
 これが俗に言うリバ……! どんどん俺の頭のなかが変なもので汚染されている。

「そういえば、水着の中だとオレンジのビキニが好きなの?」

「……へ?」

「黒セーラーがはだけてるのも好きなんだよね」

「うぐっ」

 東雲さんの家を訪ねる前に話した時のように、なかなかしおらしくなっている。
 ……いや、下手したらそれ以上かも。

 あの時はいくらかの演技が入っていたはずだけれど、これは紛れもなく胡依先輩の素の反応だろう。

「胡依ちゃんがあんなに肌色が好きだなんて知らなかった」

「……」

 ついに押し黙ってしまった。


877: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/22(金) 17:05:53.04 ID:i0ByN4Ty0

 もうやめて! 胡依先輩のライフはゼロよ!
 そう突っ込みたくなるくらいのオーバーキルでクリティカルな攻撃。
 いや、リアルの知人にアカウントを特定されるとこうなるのか。怖すぎるだろ。

 それで、さらに攻めるのかと思いきや、萩花先輩は「わわっ」と手と首を素早く振って、

「いやその、○○○な絵を責めたいとかそういうわけじゃなくて。
 前よりも、描いた絵から楽しそうなのが伝わってきたから」

 と、めちゃくちゃ申し訳なさそうな顔で胡依先輩に謝った。

 なんだか無自覚攻めって心踊りませんか? ませんね。はたから見てるとね。

 面を上げた胡依先輩は、俺をちらと見て、それから萩花先輩をじいっと見つめてにやりと微笑む。

「なんだー……もう少し言われてたら、しゅかちゃんの秘密も暴露しようと思ってたのに」

「……胡依ちゃん?」

 一瞬にして、場の空気が変わった。


878: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/22(金) 17:06:37.69 ID:i0ByN4Ty0

「しゅかちゃんは、中学二年までお尻に大きなもうこは」

「うわっ! まじでやめて! ほんとに!」

 言葉を遮って叫ぶ。さながら絶叫。
 まさしくこれが一転攻勢! 胡依先輩はやっぱりジャグラーとかエンターテイナーが似合っているらしい。

「別に恥じることなんてないよー?
 ……ん、もしかして高校二年生の今でもあるのかな?」

「ないよ!」

「あはは、しゅかちゃんはいつでもかわいいなあ」

「なっ……」

 そんなじゃれあいのようなやり取りについつい口元が緩むと、顔を真っ赤にした萩花先輩にキッと睨まれる。

「白石くん。今の話はもちろん聞いてないよね?」

 強張る顔の後ろで、さっきまで攻められていた先輩が爆笑を堪え切れないかのように肩をぷるぷる震わせて唇をビクつかせているのが見える。
 ほんとこの人は……萩花先輩もやり返せばいいのに。

 でもまあ、俺の立ち位置からすると、ここは胡依先輩に合わせた方が面白そうではある。


879: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/22(金) 17:07:18.52 ID:i0ByN4Ty0

「俺はお二人の関係について気になりますね」

 と、流れを一切無視して言うと、

「……は?」

 と、萩花先輩は目を丸くする。

「あ、裸の付き合い?」

「なに、それ」

「いや、だってその大きなもうこは」

「うっさい! 黙ってろこの○○○○!」

 俺は○○○○らしい。
 ほぼ初対面の人にまでそんなことを言われるなんて、ひょっとしたら本当にそうなのでは……?

「ぷくくっ、白石くん最っ高! ぱないね!」

 ぱないって、どこかのゴーグル付きヘルメットのドーナツ好きかよ。
 そういやあの子もロリ……あ、実年齢は600歳くらいだっけか。まあかわいいことに違いはない。描きたいです!

 などと、すっげえどうでもいいことを考えていると、胡依先輩はようやく笑いが止んだようで、
 ごほんと咳払いをひとつしてから、わりかし真面目な顔でこちらに目を向けた。


880: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/22(金) 17:07:50.55 ID:i0ByN4Ty0

「つまり、導き出される結論はひとつ!」

 横目で萩花先輩を見たが、どうやら、言葉の方向は彼女ではなく俺の方に向かっているらしい。

「……はあ、なんですか」

 先輩に胡乱げな視線を返すと、隣にいる彼女もまた俺に向かって小さく頷いていた。

「私も、わかった気がする」

「お、やっぱり?」

「うん。せっかくこのソフトだし、いろいろと筋はありそうだから、描いてみた方が良いと思うよ、絶対」

「おー、白石くん。現役美術部部長とイラスト部部長のお墨付き頂いちゃったね」

「……あの、だから何の話ですか?」

 釈然としないので、同じことを再び問い掛ける。

 すると、胡依先輩はソファから壁際まで移動してきて、俺のパソコンの前で立ち止まり、
 そして、マウスを左上に移動させ、塗りまで全て済ませた絵を保存して新規ページを立ち上げた。

「この際イラストだけじゃなくて、漫画も描いてみようよ」


881: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/22(金) 17:08:42.69 ID:i0ByN4Ty0

「いや無理っすよ」

「いけるいける! 大まかなプロット立ててネーム描いて高速でペン入れしてればあっという間だから!」

「いやいやいや」

 あっけらかんと言い切る胡依先輩自体が何日もかけて描いてないか?

「白石くんが奈雨ちゃんと黒髪ショートちゃんとデートしてたせいでギリッギリになっちゃったページも、そのほうが早く埋まるかもしれないよ?」

「それ言われると痛いですけど、まず漫画描いたことないじゃないですか」

 イラストよりむしろ時間かかるだろ、普通に考えて。

 それに俺が今から何か話を考えるなんて……と思っていると、ぐっと親指を突き立てた萩花先輩が、

「トーン貼りとか背景とか手伝うから描こうよ」

 と、覚悟を決めたように言って、傍に置かれていたトートバックから紙とボールペンを取り出した。


882: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/22(金) 17:09:20.91 ID:i0ByN4Ty0

「お、しゅかちゃんがいれば心強いね!」

「いや、」

「もー、負荷はたくさんかけてなんぼなの。
 白石くんだって、そのほうが好みでしょ?」
 
「……はあ」

 ……そういう話したっけ。いや、してないな。
 なら筋トレ話か。ないな。結構頭がまわっていない。

「じゃっ、そういうことで。私はシノちゃんのもちもち太ももで寝まーす」

「ちょっ……」

 四の五の言わせぬ速さで冷蔵庫からエナドリを取り出し机に置き、
 言葉通りイヤフォンとアイマスクを装備して東雲さんの山吹色のロングスカートの上に頭を乗っけた。


883: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/22(金) 17:10:26.98 ID:i0ByN4Ty0

 ……あ、これは。

「あのさー、午前中からずっと訊きたかったんだけど、あの子は胡依ちゃんのなんなの」

 予想通り、目には燃え盛る炎。完全に嫉妬。
 "胡依ちゃんはあの子の"ではなく、"あの子は胡依ちゃんの"と言うあたり、少しだけ零華と同じ匂いを感じる。

 いせいれんあいの ほうそくが みだれる!
 きさまら はんらんぐんだな!
 おれは しょうきに もどった!

 無駄なことしか考えられない頭。
 でもDDFFのカインは絶許。流石にアレは許せん。

「抱きついたり手握ったりあーんしたりめっちゃベタベタしてるよね。あんなの不純同性交遊だよ」

 変なボキャブラリー。

「……聞こえますよ?」

「いや、胡依ちゃん寝るの早いからもう寝てるし、音量もめっちゃでかいから聞こえないはず」

「……たしかに」

「……んで、どういう関係なの」

「普通にこの部活の部長と部員だと思いますけど」


884: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/22(金) 17:11:55.72 ID:i0ByN4Ty0

「本当に?」

「強いて言うなら、胡依先輩のおさわりの被害者……?」

 それ以外に言いようがないと思ったのだが、すぐに「ああ」と相槌を打たれる。
 どうやら心当たりがあるらしい。……逆に心当たりしかないのでは。

「……でもま、いっか。胡依ちゃんが元気なら、それでも」

「いいんですか」

「うん」

 じゃああんな目をしないでいただきたい。なおさら怖いから。

 貰った缶をぷしゅっと開けて、荒んだ我が身に翼を授ける。なかなかに美味なり。

「さてさて、白石くん。ネタ出しからやってこうか」

「あの、俺も眠いんすけど」

「それ飲んだじゃん。二百円分の働きをしなくちゃだよ」

「どんな理屈ですか」

 やる気を出したと思われたらしい。


885: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/22(金) 17:12:47.14 ID:i0ByN4Ty0

「つべこべ言わずやるの!」

「……」

「大体こういうのは、一番初めの取っ掛かりが大事なんだよ!」

 それにしても、どうしてこの人がやる気を出してるんだろう。
 何の見返りもないボランティアなわけではあるし。

「……もしかして、美術部って文化祭で何もやらないんですか?」

「ん、いや、やるやる。入場門とか、ポスターとか、ゴミ箱とか作ってる」

「こういうふうに部誌とかは?」

「それは作らないね。当日は前に描いた絵を美術室に展示して、あとは綿飴ぐるぐるして売ってるだけ」

 すっげえ暇そう。

「要約すると暇なんですね」

「まあね。……それでも、昔はここの部活みたいに、泊まりこみで作業をしてたんだけど」

 と、そこで言葉を止めて、こちらに背を向けている胡依先輩を一瞥する。

「人数がいるなら計画的にやったほうが作業効率も上がるし、役割分担とか締切なんかを事細かに決めれば、
 誰かに全てを押し付けるなんてことにはならないって──そんなことをさ、いろいろあって学習したんだ」

 以前萩花先輩がこの部室を訪れた時に言っていたことを思い出す。
 それに、胡依先輩が美術部を去った事実を照らし合わせると、そのきっかけとなる何かが文化祭であったのだろうと思う。

 "ただ描ければそれでよかった"と先輩は言っていた。


886: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/22(金) 17:13:22.54 ID:i0ByN4Ty0

 だとすれば、その『ただ』では済まない状況に置かれたのは間違いないだろう。

「この部活のナントカって人とは大違いですね」

 返事に迷い、結局何ひとつ知らないふりをして言うと、

「ほんとにね」

 と向こうから目を外し、困ったような苦微笑を浮かべた。

「……なら、そのナントカさんの負担を増やさないように、ちゃっちゃと始めちゃいましょう」

 椅子の向きを正して、缶の残りを一気に飲み干す。

 突然やる気が出たとか、迷惑をかけたくないとか、そういう難しい理由ではなく、ただ「描くべきだ」という考えが頭に浮かんだ。

 胡依先輩がどうであれ、東雲さんがどうであれ、ソラがどうであれ、
 好きなものを好きに描けることが、この部活の美点であり、"らしさ"であるはずだから。


889: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/28(木) 15:28:15.23 ID:xOgRNUoX0

【果て】

 夜半、冷たい風にでもあたろうかと、部室を出て階段へと向かう。
 廊下から覗く景色はほぼ真暗闇で、微かな月明かりのみが周囲の様子を伝えてくれている。

 水飲み場で顔を洗う。ライトで照らした鏡に映るのはひどい顔。むくみと目の隈が自分とは思えない。

 とはいえ……まあ、作業のキリがいいところと萩花先輩の帰宅する時間が重なり、そこから数時間程の仮眠を取ったので、
 ずっとぽかんとし続けていた頭は少しずつ冴えを取り戻しつつあった。

 それで、そうなると、集中していた(かは実際のところ定かではないが)日中とはうって変わって、様々なことが頭に浮かぶ。

 萩花先輩の協力のもと描いていたものは勿論のこと、水曜の夜の出来事が、俺の思考の大半を占めていた。

 ──水曜の夜、と考えを反芻していると、頭がきりきりと痛むのを感じる。

 その場の雰囲気に流されて良かったことと、逆に流されなくて良かったこともあり、その双方とも、客観的に見れば俺の選択は間違っていなかったのだと思う。

 あのやり取りのきっかけを作ったのは佑希の方に見えて、けれど、奈雨は明らかに彼女が苛立つように誘導した。
 手を繋いでリビングに入ったりしなければ、ひいては手を繋いでいたとしても彼女の視界に入らないように部屋に戻ったとしたなら、ああいう事態には陥らなかった。


890: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/28(木) 15:28:50.01 ID:xOgRNUoX0

 お兄ちゃんは悪くないよ、と奈雨は言った。

 奈雨自身も、佑希に対して何か思うところはあったのだろうと思う。
 それまでの言動からしても、あの時の表情や声音、佇まいからしても、二人はどう頑張ったところで相容れないということはわかっていた。

 でも、直接二人が顔を合わせなければ、家にいたところで何も起きないはずだった。
 もっと正確に言えば、奈雨と俺が二人揃って佑希の前にいなければ、彼女は何も言わなかった。

 同じ部屋で寝ることについて少しの干渉もしてこなかったことが、何よりの証拠だ。
 "目に見える形で"奈雨と俺が接近していることに嫌悪感を覚えただけで、それ以上でもそれ以下でもない。

 兄妹だからというよりも、『飼い犬に手を噛まれた』『ロボットが意思を持ってしまった』から、佑希はああいう態度を取った。取る他なかった。


891: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/28(木) 15:29:32.15 ID:xOgRNUoX0

 そこまで考えて、それはさすがに俺の意地の悪い思い込みか、彼女を悪く見すぎていると感じた。
 前々から思っているように彼女の言動は、全て俺に返ってくるものであるから。

 でも、もう無理なのかもしれない。
 俺は彼女に対して明確に反抗の意思を示した。
 それは奈雨の導きに従ってなのかもしれないが、結局最後に決断を下したのは俺だ。

 いつかは言わなければならないと思っていた。
 それがたまたまあのタイミングだっただけで、遅かれ早かれそうなることは決まっていた。

 先延ばしにすることの有責性。
 親身になっている振りをして、その実何も拾い上げずに、自分の都合の良いように立ち回ることの有責性。

 そういうものを、今になって感じている。


892: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/28(木) 15:30:08.43 ID:xOgRNUoX0

 家に戻る気にはなれなかった。
 どうしてだろう、と思う。

 きっかけを作った奈雨に何かをしてくるかもしれないと思ったから?
 母さんの言葉が頭に過って、それを打ち消したいと思っていたから?

 ……いずれも違う、と思う。

 理由は至極単純で、
 佑希のことが怖かったから。

 奈雨と二人で部室へと向かう途中、彼女の部屋からすすり泣く声が漏れ聞こえてきた。

 どうなんだろうな。奈雨の言う通り嘘泣きだったのかもしれない。違うかもしれない。それは彼女にしかわからない。

 一旦そうなってしまったのなら、最後まで決めた態度を崩すわけにはいかない。
 と、頭ではそう考えていても、実際に彼女と目を合わせたら、俺はまた動けなくなってしまうだろう。

 何度かため息をついた。気付けば足は止まっていた。


893: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/28(木) 15:30:58.36 ID:xOgRNUoX0

【当たり】

 やっとの思いで自販機へ辿り着く。
 部室を出てからたかだか数分のことなのに、その倍の倍も時間がかかってしまったように思える。

 手探りで財布から小銭を掴み、ブラックコーヒーのボタンを押す。

 ガタンと缶が取り出し口に落ちる音とともに、当たり判定の四桁のスロットが起動する。

 どうせ当たらないと思っていても、何となく見てしまう。

 7、7、7……それで期待させておいて6か8だろ。見てらんねえよ。
 が、ピコーン、と少し間抜けな音の後に豪華な音が鳴って電子画面に目を戻すと、一桁目の数字は7が表示されていた。

 ……いや、マジか。
 当たってしまった。無駄に。
 しかもラッキーセブン。今年の運を使い果たしたまである。

 昔テレビか何かで見たことがあるのだが、当たり付き自販機の当たりの確率は景品表示法だかで上限が2%と定められているらしい。
 ジュースを五十本買ってやっと一本当たるかどうか。メーカーによって確率は違うから、大手だともっと低いかもしれない。

 もしかしたらソシャゲの大当たりよりも低確率か?
 すげえ。俺持ってる。フェスまでは石を貯めておこうな。何もやってないけど。

 そんなちょっとした浮かれ気分でココアのボタンを押して、二本の飲み物を両手に持って歩き出す。


894: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/28(木) 15:31:46.86 ID:xOgRNUoX0

 体育館と武道館の間の通路を抜けて、校庭側へと足を進める。
 石段近くのベンチで音楽でも聞きながら、あたたかい飲み物を口にすれば、気分が少しでもマシになるのではないか、という淡い期待を抱きながら。

 ベンチに背中を預ける。ここには俺の他に誰もいない。
 ポケットからコードがグシャグシャに絡まったイヤフォンを取り出して、スマホのイヤフォンジャックに差し込む。

 先に買ったブラックコーヒーを一口飲んで、イヤフォンを耳にかけようとすると、小さな音が俺の近くからではないどこからか耳に入ってきた。

 誰かいるのだろうか?
 部室には……ひょっとしたら。

 校舎付近へ戻るにつれて、耳に伝わる音がどんどん大きくなっていく。
 弦を弾く音。多分ギターだろう。
 中学棟と高校棟を繋ぐ吹きさらしの渡り廊下には、手すりに寄りかかる一人の影が見える。

 声をかけようとしたときに、さーっと冷たい風が吹きつけて、ギターの音と人影が消える。

 ここから話しかけてもな、と校舎に入り階段を昇りきり、横引きの扉を開けると、
 この寒いなか、彼女はスカートで足を伸ばして、地べたに腰を下ろしていた。


895: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/28(木) 15:33:12.51 ID:xOgRNUoX0

【多彩】

「眠れなかったんですか?」と彼女の近くまで寄って話しかけると、
「ううん、ちょっと黄昏てたの」と微笑み混じりに返された。

 ポケットに入れていたココアを手渡す。
 当たったからです、と言うと信じていないような目をされた。普通当たると思わないよな。まあどっちでもいいや。

「ギター弾けるんですね」

「そうそう。私は何でもできちゃうからね」

「かっこいいです」

「えー、ほんとに思ってる?」

 言いながら、胡依先輩は手をパタパタと横に振る。
 弾いているところを見られたことが少し恥ずかしかったのだろうか。

「暇なときに弾く程度だから、あんまり上手くはないんだけどね」

「でもなんか、アレじゃないですか。
 楽器弾けない人からすると、ちょっと触れるだけでも異次元に見えるっていうか」

「じゃあ今度教えようか?」

「マジすか」


896: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/28(木) 15:33:44.83 ID:xOgRNUoX0

「……あ、でも白石くんはすぐに私よりも上手くなっちゃうからダメか」

「……はい?」

「や、白石くんは何でも上達早いからさ。
 そういやしゅかちゃんも褒めてたよ? 飲み込みが早いし、教えがいがあるって」

「……鬼ですよあの人は」

「そのちょっとSっ気はいってるところがかわいいんじゃん!」

「それは、わかりますけど、萩花先輩はちょっとどころじゃなくて……」

 描き直し、描き直し、描き直し、描き直し……。
 澄んだ瞳と笑顔で「だーめ」と言われては、従うしかない。

 俺は年上の女の子には弱いんだ。
 無論同い年にも年下にも弱いのではあるが。


897: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/28(木) 15:34:58.14 ID:xOgRNUoX0

「でも、しゅかちゃん教えるの上手かったでしょ?」

「それは……はい、すごく」

「なら良かったじゃん」と胡依先輩はギターのボディを撫でながら言う。

「どこまで進んだんだっけ?」

「漫画ですか?」

「うん、そうそう」

「……えっと、とりあえずネームは描き終えました。
 全部で十二ページなので、萩花先輩が立ててくれた今日分のところまでは、なんとか」

「おー、そっか。あ、プロット読んだよ。白石くんらしいし、早く絵を描いたのも見たいな」

「……善処します」

「……うん。えと、プレッシャーかけてるとかじゃなくてね? 純粋に楽しみっていうか、期待も込めてっていうか」

 胡依先輩は、愛想笑いに失敗したような、少しだけ取り繕った笑みを浮かべた。


898: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/28(木) 15:35:44.27 ID:xOgRNUoX0

 俺はなぜかいたたまれない気持ちになって「すみません」と謝った。
 彼女は慌てて「だいじょぶだいじょぶ」と繰り返した。

「……何か弾いてみる?」

「え?」

「ギター。簡単な曲なら弾けるけど」

「ああ、はい。じゃあ、胡依先輩のお任せで」

 本当に何も思いつかなくてそう言うと、先輩は眠たげに何度か擦っていた目を大きく見開いた。

 すみません、という言葉を引っ込める。堂々巡りになりそうだ。

 ……まあ、場を和ませようとしてくれていたんだろう。
 失敗させてしまったみたいで申し訳ないけど、いきなり言われても反応ができないものだった。

「んっ、こほん。それじゃあいきます。
 わたくし塒胡依のアコギで弾き語りのコーナーです」

 ラジオのような挨拶をして、ジャッジャッ、と指で弦を弾きつつもう片方の指の位置と音を確認して、俺にぺこりと頭を下げた。

「気休めぐらいになればいいよ 道に迷って引き返して 時間だけ過ぎて行くけど──」


899: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/28(木) 15:36:28.44 ID:xOgRNUoX0

【光と影、その先にあるもの】

 七、八曲歌い終えた後の胡依先輩は、ぜえはあと肩で息をしていた。
 選曲はなぜか曲名縛りらしく、くるりから絢香、果ては尾崎まで多種多様なジャンルから歌っていた。

 途中からテンションが上がってアドレナリン? が出てきたのか、最初はまだ遠慮がちに出されていた声が、終盤には普通の音量になっていた。
 俺は俺でそれに聴き入りつつ手を鳴らしてリズムを取ってみたりして、単純に近所迷惑だった。

「前から思ってましたけど、胡依先輩って歌上手いですよね」

「まあね。こう見えてカラオケ通いに精を出していた時期もあったんです」

 言いながら、ぬるい、とココアに口をつける。時間が経っているのだし当たり前だ。

「最高で96点出したこともあるよ」

「カラオケ行っても採点付けないんで、どれぐらい凄いのかわからないです」

「そうだなー……。人気がさほどの曲だと、全国一位になれるよ」

「……凄いっすね」

 と反射的に答えたはいいが、あまり実感が湧かないのだが。
 まあ、俺が自分の耳で聴いて上手だと思ったのだから、それはそれで良いのだけれど。


900: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/28(木) 15:37:45.94 ID:xOgRNUoX0

「シノちゃんと私ね、音楽の趣味とか多分めっちゃ合うの」

「へえ」

「うんうん。今度カラオケ行こーって言ったら、ちゃんと部誌が脱稿したらいいですよって」

「そうなんですか」

 もうその予定だけできゅんきゅんして頑張れちゃうよねー、と目をキラキラとさせて胸の前で手を握りしめる。
 どこからが冗談でどこからが本気なのかが全くつかめない。

 それに東雲さんのことだから、きっと「そんなこと言ってる暇があったら進めましょう」という意図が含まれているに違いない。
 日中集中力が切れて他のことをやりだそうとする胡依先輩を、何度も健気に止めていたから。

「でも、片耳イヤフォンは萩花先輩が殺気飛ばしてましたよ」

「……白石くんも気付いてた?」

「うわ……」

 わかっててやってたのかこの人。

「ほんっと久しぶりに話したからだと思うんだけど、妙に視線が鋭いよね」

 先輩は大仰に肩を竦めて見せ、ふーっと息を吐く。
 何となく嘘をついている、と思う。隠そうとしたらできるはずなのに、それをあえてしていない。


901: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/28(木) 15:38:34.21 ID:xOgRNUoX0

「いや、あれはそれだけじゃないでしょ」

 だから、思わず敬語も忘れて返すと、

「うん、それはわかってる」

 と胡依先輩はそれまでの笑みをひっこめて、つまらなさげに夜空に手のひらを掲げた。

「いま会ってみたら、そうでもなかったんだけどね。
 ……なんていうか、昔の私は、しゅかちゃんといることがつらかったの」

「……」

「知らなくていいことは、聞こえない振りをして、
 知られたくないことは、気付かれないように気を張って、
 そういうやり過ごし方がだいっきらいで、でも、そうすることしかできなくて」

 何の話をしているのだろう、と思う。
 いつものように胡依先輩の言葉は、俺だけには向けられていない。

「知らなくていいところまで知られることが嫌だった」と彼女は言う。

「知られたくないところまで知られることが嫌だった」と彼女は繰り返す。

「何ひとつ話さずにへらへら笑っている私を肯定してほしかった。
 錯覚でも、演技でも、見掛け倒しのハリボテでも、それは、それで、ひとつの私だと思ってたから」


902: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/28(木) 15:39:46.13 ID:xOgRNUoX0

 そこで、先輩は言葉を区切った。
 数秒に渡って沈黙が流れる。俺が何かを言うべきだという気がした。

「……萩花先輩が、胡依先輩のことを知ろうとしたんですか?」

 訊ねてもいいのかと迷ってしまったから、何を、とは訊けなかった。
 ただでさえパーソナルな部分だ。
 それに、仮に訊いたとしても教えてくれるとは思えない。

 閉ざされた箱の中身は、誰かが観測するまではわからない。

 ため息をつく音が聞こえる。
 彼女と同じように空を見上げてみるも、月は半分以上厚い雲に隠れてしまっている。

「ううん、違うの」と彼女は首を横に振る。

 それじゃあ、と言いかけるよりも早く、胡依先輩が「ごめんね」と手でそれを制する。

「自分のことについて、全部なんて到底不可能で、どう頑張っても中途半端にしか話せないのに、
 それで『私はこれくらい頑張って話したんだから、あなたはそれをすべて認めてくれませんか』って言うのは、あまりにも身勝手で、烏滸がましいにもほどがあるって思わない?」

「……」

「1を聞いたら、2、3、って知りたくなる。逆に、1を話したのなら、2、3、って話してしまいそうになる。
 相手にだって限度があって、許容量があって、一度それを超えたら、もうそれまでの関係ではいられなくなるかもしれないのに、
 "認めてほしい"って願望や幻想を押し付けて、いつしか知ってほしくないことまで知られてしまって」

 壊れてしまうのが怖かった、と彼女は呟く。


903: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/28(木) 15:40:35.78 ID:xOgRNUoX0

「だから私は、あの子のことを一方的に避けたの。
 あとで深く傷付くなら……早いうちに、浅いうちに切ってしまいたかったから。
 私のせいで傷付かせるようなことがあったら、きっと耐えきれなくなるから」

 影があるからこそ、光が映える。
 その影が強ければ、比例して光もまた強くなる。

 多くの場合はそう語られる。
 陰の存在が陽を際立たせる。それは何も間違っていない。

 なら、そのバランスが取れなかった場合はどうだろうか?

 あまりにも強すぎる影を前にして、光は光のままでいられるのだろうか?
 傷付けはしないだろうか? 損なわせはしないだろうか? 影という不純物が混ざることによって、光が光でいられなくなったりはしないだろうか?

 混じり合っても輝きを放っているように見えるところは、でも、それは光本来の輝きではない。
 辻褄合わせのようなものだ。ふとした瞬間に、白は黒に反転してしまうかもしれない。

 光は煌々と輝いているがゆえに、そこに実際の価値以上のものを感じさせる。
 きっと俺が彼女に抱いていた想いと根っこでは大きく変わらない。

「どうして俺に話すんですか?」と確認の意味で問いかけた。

 案の定、胡依先輩が発した言葉は、「その先を知ってると思ったから」というものだった。


904: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/28(木) 15:41:50.58 ID:xOgRNUoX0

 俺が彼女に無くしてほしくなかったのは、何の混じり気のない純粋な部分だった。

 うまく先回りして、道に転がっているものはどんなに小さな小石だったとしても取り除いて、
 それでも残ってしまった障害物でできた傷については、後からどうにかして修復するようにして。

 そういう意識が、心のどこかにあったのかもしれない。
 彼女に対して少しの苛立ちを感じることはあっても、それが先行したことは一度たりともなかった。

 きらきらしている彼女を見ることで、どこかで俺は安心していた。
 ただ只管に動いている間は、彼女は彼女で在ることができるから。
 彼女を彼女たらしめているものは、高い志と、それに見合った才能、人一倍負けず嫌いな心である、と思っていたから。

 だからこそ、彼女のことが怖かった。
 俺が肯定してあげなくて、誰が彼女を肯定してあげられるのだろうか。立ち止まってしまったとして、彼女には一体何が残るというのだろうか。


905: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/28(木) 15:42:58.38 ID:xOgRNUoX0

 ──ならば、と考える。

 もしかすると、周りの友人や大人からの「すごいね」「がんばってるね」などという言葉は、彼女には何か別の意味を孕んだものとして耳に入ってしまっていたのではないか。

 どう頑張ったところで、終わりのないもの、果てしのないものだと気付いていても、
 自分の中ではとっくに冷めてしまっていても、周りの目を気にした結果の義務感であったとしても、
 それを一度でも止めてしまったら、期待も、理想も、成し遂げたことですらも、瞬く間に裏返ってしまうから。
 
 思い返してみると、ここ数年の彼女はいつも退屈そうにしていた。

 仮にだ、と思った。仮に。仮に。
 底に溺れないために。間違いを起こさないように。

 もし俺の恣意的な解釈を切り捨てて、他者からの視線というフィルターを外して彼女を見たとすれば、"そう"解釈立てられはしないだろうか?

 もし"そう"なのだとしたら、俺は彼女に対して度し難いまでの思い違いをしているのではないか?


906: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/28(木) 15:43:45.52 ID:xOgRNUoX0

「あの、白石くん」

 不意に耳元で名前を呟かれて、はっと我に帰る。数秒経ってその近さに驚いて、慌てて片手を手すりから離して距離を取ると、胡依先輩は心配そうにこちらを見つめていた。

「いや、なんでもないです」

 何かを訊かれる前に答えていた。
 いまはどうしても、出来合いの言葉を並べられる自信がなかった。

 うん、と先輩は伏し目がちに頷く。

「さっきの続き、って言っても、ちょっと違う話になっちゃうかもしれないけど、聞いてくれる?」

「違うんですか」

「えっと、駄目……かな?」

「……別にいいですけど」

「……けど?」

 胡依先輩の様子が、明らかに普通ではなく見えて。
 何か悪いことをして怒られることを怖がっている子供のような、おもねるような表情と声音は、どこか冷静さが抜け落ちている印象を受ける。

 そしてそれは、ほんの数日前に見た所作と酷似していて、

「東雲さんの話ですか?」

 確信はないのに、そう訊ねていた。


907: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/28(木) 15:44:42.42 ID:xOgRNUoX0

 違っていたら、とは思わなかった。
 彼女が、俺の言葉を聞き終わらないうちに、口をぽかんと開けて、それから忌々しげに微笑んだから。

「白石くんは、超能力者か魔法使いなの?」

「なわけないですよ」

「なら、どうして?」

 どうして?

「そういう顔をしてたから」

 彼女はまた笑う。小首をかしげて、今度は微笑みというよりも苦笑いだった。

「さっきから散々話しておいて、自分を曲げたいって言ったら怒る?」

「……どういうことですか?」

「私は、シノちゃんのことを、もっと知りたいの。
 知って、どうにかしてあげたい。ほんのちょっとでも、力になりたい。助けてあげたい」

 いつかの会話を想起する。
 あの時も「どうにかしてあげたい」と彼女は言っていた。

 焚きつけるようにも言っていた。
 一人で解決しなきゃいけないとも言っていた。

「それは、善意からですか?」

 ううん、と先輩は首を振った。


908: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/28(木) 15:47:14.59 ID:xOgRNUoX0

「どう言い繕っても、結局は私自身のためなんだと思う。
 あの子が悲しそうにしている姿を見たくないから。描きたいのに描けない気持ちは、痛いほどわかるから」

「……じゃあ、先輩も」

「うん。そうだよ。私も絵が描けなくなった時期があったの。
 中二の秋に美術部を辞めてから、イラスト部に入るまでは、何も描かなかった。描けなかった。
 絵を描こうって思うだけで、気持ち悪くて、吐きそうになって、どうにか自分を奮い立たせようとしても……駄目だった」

 それは、東雲さんの「描けない状態」とほぼ完全に一致していた。
 先輩は、描けないと……何て言っていたんだっけ。

「……その、絵が描けない間は、どうだったんですか?」

 具体性を丸投げするような質問で、訊ねてから、戸惑わせてしまうかもしれないと思った。

 けれど、その心配は杞憂なもので、先輩からの返事はすぐになされる。

「うん。それがね、普通なの。驚くほどにね、何もかもがそのままなの」

「……」


909: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/28(木) 15:48:36.41 ID:xOgRNUoX0

「たとえば、勉強したり、歌をうたったり、ギターを弄ったり、どこかに出かけたり、
 そういうことは、容易くできてしまうの。描けなくなったところで、私の生活は、何ひとつとして変わらないの」

 誰にも強制なんてされてない。
 私の代わりはいくらでもいる。
 同じように、それが絵でなくても、何か別のものに代替可能なのかもしれない。

 それでもね、と彼女は顔を上げる。

「……胸が、締め付けられるの」

 ぐっと胸元を握りこむ彼女の拳は、その痛みを表すように戦慄いている。

「ふとしたときに、どうしようもなく苦しくなるの。
 教室の窓から外を眺めてるときに、月明かりのない夜道をひとりで歩いてるときに、
 前までは嫌いだった曲を聴いているときに、こういうふうに誰かと話してるときに」

 どうして私は、こんなことをしてるの?
 どうして私は、こんなところで足踏みしてるの? って。

 音が聞こえて、渇いた風が頬を撫でて。でも、私の内側までは届かなくて。
 欠落しているのは、ただひとつだけのはずなのに、もしかしたら、他のものでもいいのかもしれないって思うのに、
 けど……私が生きてきたすべてが、否定されているように思えて。


910: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/28(木) 15:49:20.81 ID:xOgRNUoX0

 ぽつりぽつりと紡がれる言葉を、俺は黙って聞く。
 声が止まってからも続きを待っていると、一分程過ぎた後に、先輩はこくりと喉を鳴らした。

「だから、あの子を助けたいって、そう思っちゃうのは、駄目なことなのかな?」

 俺の性質を見抜いた上で、先輩は問いかけている。

 無責任な優しさ、無責任な承認。
 先輩の言う、その先にあるもの。

「先輩には、飲み込まれない自信がありますか?」

 きっと東雲さんは、それを望んでいるのだと思う。
 もちろん憶測の域を出ることはない。つまり俺の身勝手な想像だ。

 わからない、と彼女は首を振る。

 難しい質問だと思う。その真偽は誰にだってわからない。
 きみはどうなの、と訊ねられても、俺には答えられる気がしない。

「でも、助けたい」

 続く言葉はそれだった。
 その先に進んでいくこと。選択をすること。何らかの責任を持つこと。

 じっと彼女の目を見つめても、その覚悟の程は窺い知れない。
 けれど、決まっているだろうな、と思う。彼女から感じ取れたのは、そういう覚悟だったから。


911: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/28(木) 15:50:51.24 ID:xOgRNUoX0

「胡依先輩がそう思ってるなら、それでいいんじゃないですか?」

「……本当に?」

 聞き返されるとは思っていなくて、けれど、自信はなくても頷いた。

「多分、助けたい誰かを助けることに疚しさを感じるのは、無駄なことなんですよ」

 いつも彼女がそうするように、俺は、言葉を外に出すことによって、もう一度確認する。

 口をついて出た言葉はなくならない。
 だけど、言えぬままに消えてしまうことや、内に溜め込んでしまうことよりは、少しでもマシなのだろう。

 そのことを、奈雨が気付かせてくれた。

「"自分が見ててつらいから"でいいんだと思います。
 だって、誰もが認めるぐらい正当な理由なんて、きっと、どれだけ考えたとしても思いつかないから」

 共犯、という言葉が頭に浮かぶ。
 それは違うな、とすぐに打ち消す。

 彼女がしたかったのは、おそらく『確認』だ。

 であれば、これでいい。
 この場合の言い足りなさは、秘めているべきだ。


912: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/28(木) 15:51:27.41 ID:xOgRNUoX0

「ありがとう」と胡依先輩は言った。
「私が間違ってると思ったらすぐに教えてほしい」とも言った。

 俺の目が曇ってる可能性は、と言いかけて、押しとどめた。

 この人なら、そんな致命的なまでの間違いは起こさないはずだ。
 もしかしたらのときのための『保険』であって、俺が直接何かをする事態に陥るなんてことはほぼ確実にないだろう。

 だから、それよりも、と思う。

「それだけですか?」と問いかけた。

「何が?」

「胡依先輩が、東雲さんを助けたいと思う理由は、本当にそれだけですか?」

 過去の自分にごく僅かでも重ねて、"見ててつらいから"助けたい。
 理には適っている。俺もそれでいいと思うと彼女に告げた。

 けれど、こと胡依先輩に関しては、それだけであるとは思えない。
 これもただの直感だ。ロジックなんてものは毛ほどもない。


913: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/28(木) 15:52:27.89 ID:xOgRNUoX0

 頭のなかで思い描いたイメージ通りに、胡依先輩は「それだけだよ」と答える。
 だったら無理に続きを問いただすようなことはしないし、こんな卑怯な質問に乗っかってくれるあたり、この質問の意図は彼女に伝わっていると思う。

 なぜなら、それだけ、なんてことはありえないのだから。

「なら、心置きなくお節介を焼いてあげてください」

「……白石くんって、たまに容赦なく発破かけるよね」

 少しだけ照れたように、拗ねたように、彼女は目を逸らす。

「いやこの話を聞いた時点で、乗りかかった船ですから」

「……沈没させないようにがんばらなきゃ」

「大丈夫ですよ、きっと」

「そこは絶対って言ってよ」

「その方が不安を煽りそうじゃないすか」

「あはは、たしかに」と彼女は笑った。

 今夜見たうちで、一番自然に笑っている気がした。


914: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/28(木) 15:53:40.78 ID:xOgRNUoX0

「胡依先輩と東雲さんのやり取り、見てて楽しいんで、もっと仲良くなってほしいです」

「えー、見せ物じゃないのに」

「でも露骨に俺に視線向けてくるじゃないですか」

「シノちゃんは私のものってアピールだよ!」

「独占欲強いですね」

「……つ、強くてなんぼだよ!」

 否定しないのか。

「まあ、今でも仲の良い姉妹みたいに見えるので、そのままでも充分眼福ですよ」

「……」

 ただの返答をしたつもりだったのに、胡依先輩の笑みが、少しだけ途切れた。

「……なんていうか、白石くんはやっぱり魔法使いだと思うよ」

 と思ったら、くしくしと耳にかかった髪を撫でながら、そんなことを呟いた。


915: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/28(木) 15:54:13.48 ID:xOgRNUoX0

「どういう意味ですか」

「えっと、そうだな。んー……白石くんは、妹ちゃんのこと好き?」

「シスコンじゃないです」

「あ、いや、真面目な感じで」

「真面目」

「そう、真面目に」

「……」

 真面目に妹のことを好きか訊かれても困るんですが。
 そんな思いが顔に出ていたのか、胡依先輩は下唇を浅く噛んで、表情を緩める。

「じゃあ質問を変えよう。白石くんは、妹ちゃんのことを、特別な何かがなくても守ってあげたいでしょ?」

「それは、まあ……」

 歯切れの悪い返答をしたのだが、先輩はすぐに小さく息を吐いて、それからあきらめたみたいに微笑んだ。


916: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/28(木) 15:54:40.51 ID:xOgRNUoX0

「これが、さっきの答え」

「……」

「むしろそっちの方が多いのかも」

 意味を確認するために、さっきの答え、と頭のなかで呟く。

 だが、そうしてみてもその言葉がどこに掛かっているのかわからずに、首をかしげると、
「まあ、それはおいといて──」と彼女はいたずらっぽい表情を浮かべた。

「今回の部誌は、ちゃんと四人揃って完成させたいな」

「……そうですね」

「うん。今はちょーっと大変かもしれないけど、みんな頑張り屋さんだから、きっとできると思う」

「はい」

「こういうふうに、みんなでお泊まりしたりとか、同じ目標に向かって頑張れてるときってすごく楽しいし、
 この部の部長になってから、ずっとやってみたかったことだったんだ」

 だから、と先輩は言葉を繋ぐ。

「ほんとにありがとね、白石くん」

 彼女はそう言って、ぺこりと頭を下げた。


921: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/01/10(水) 13:57:51.91 ID:LnmL9/o10

【選択】

 胸元に伝わる振動で目が覚めた。

 上半身を起こしてもまだ眠い気持ちは残り、目を瞑りながらポケットに手をやると、何か四角くて硬いものの感触がする。

 なんだこれ、と思いつつ目を開けて斜め上を見上げる。
 掛け時計が指し示す時刻は朝五時。日付が変わる少し前に作業を終えて眠りについたから、まあまあな時間寝ていたことになる。

 ひとつあくびをしてから、さっき握ったものに目を落とす。

 黒色のカバーのスマートフォン。よく見ると兎と狐の絵が描いてある。
 さっきの振動の正体は、これのバイブレーションだったらしい。

 これが誰のものというのは、見覚えがあるというか、私にこういうことをしてくるのは一人しかいない。

 あたりを見渡して、このスマートフォンの持ち主──部長さんがいるかを確認したが、今の部室に彼女の姿はなかった。

 昨晩、寝ようとソファにもたれた時には、彼女は私の隣にいた。隣で本来今日描くはずのものを描いていた。

 そのとき、眠かったのか単に集中していたのか、話しかけても反応があまり良くなくて、いつものちょっかいもかけられなかった。


922: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/01/10(水) 13:58:26.06 ID:LnmL9/o10

 ……あ、いや、別にかけられたかったわけではないけど、
 と意味もないのに数秒前の思考を否定しようと考えていると、またしても握っていたものがブルブルと震えた。

 さっきは鳴り止んだ後に見たから気付かなかったが、ロック画面には通知がたくさん表示されている。
 十五分前、十分前、五分前、そして今のもの。全部アラーム。五分おきってどういうこと。

 画面に指を滑らせて、アラーム機能をオフにする。
 そのまま人のスマホを持っているのも何だか気が引けて、電源ボタンを押して机に置こうとしたところで、通知の一切消えた画面が目に入る。

 誰かの、というか……。

 ……。
 ……うん、そうだ。見なかったことにしよう。

 ちょっと驚いて、一瞬だけ思考が停止してしまった。
 まあ、けれど、その代わりに頭が冴えてきた。


923: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/01/10(水) 13:59:12.80 ID:LnmL9/o10

 今日は金曜日で、昨日は木曜日で、部長さんと話をしてから一日が経った。

 約束の朝だ、と思う。
 部長さんと交わした、大切な約束。

 その自分なりの答えを、私はまだ決めきれていない。

 私の取るべき選択は、言うべき言葉は、ただひとつに決まっている。
 それを分かっていて、理解していて、それでも少し悩んでいる。

 本当はあのときに言ってしまいたかった。
「お願いします。力を貸してほしいんです」って。「絵を描きたい気持ちはあって、でも、その勇気がどうしても自分ひとりでは出せないから、私を助けてほしいです」って。

 そう言えなかったのは、どうしてだろう。

 恥ずかしかったから。緊張していたから。
 ……というよりもきっと、私がひどく臆病だから。


924: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/01/10(水) 14:00:21.93 ID:LnmL9/o10

 もし部長さんの力を借りて場当たり的に絵を描けたとしても、いずれ自分はまた描けなくなってしまう。
 不用意に誰かの力を借りることは、自分を蔑ろにしてその人に依存することと何が違うのだろうか。

 部誌に描いた絵を載せてもらって、達成感や充足感を得れば、何かが変わるのかな──もしかしたら、そのままなんてことなく描けるようになるのかな。
 そういう思考も浮かんだことは浮かんだけれど、私は絵に関してそういった想いを抱いたことがほとんどなくて、それこそ、その場限りのものになってしまうだろうと思ってしまった。

 私は私自身のことに決着──あるいは納得をしなければ、前には進めない。

 部長さんに描けなくなってしまった理由を話して、その上で「助けてほしいです」と言える自信が、どうしても持てなかった。


925: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/01/10(水) 14:00:55.71 ID:LnmL9/o10

 軽くため息をついて、先ほどスマホを置いた机に目をやると、パソコンの電源が付けっ放しになっている。

 そしてその近くには、見慣れない付箋が貼られていて、

「寝起きのシノちゃんへ。目が覚めたらひとりで上に来てね。
 朝は寒いかもしれないから、ちゃんと上着は羽織ってくるように!」

 と綺麗な文字で記されている。

「P.S. 待ち受けはいつもじゃないからね! シノちゃんがとってもかわいかったから、ちょっとした先輩ジョークだよ!」

 ちらっと目に入ったこの文については、いつものちゃちゃだとしても全面的にスルーを決め込むことにした。

 彼女からの指示通りに腰を上げて、鞄の近くに置いていた上着を手に取る。

 この呼び出しと私の考えていたこととは、全く別のことなのかもしれない。ただ朝焼けを見たいとか、ただ話したかっただけとか、考えればキリがない。

 でも、それでもなぜか、いまの私と彼女の考えていることが一致しているように思えてならない。

 だれかを頼ること。
 描けないままなこと。
 一歩目を踏み出すこと。
 何かから逃げ続けること。

 選択。天秤。照らし合わせ。
 何かを選べば何かを選べない。

 階段を昇りきり外へと続くドアノブに手を掛けたときに、そんな当たり前なことが頭に浮かんだ。


926: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/01/10(水) 14:02:10.58 ID:LnmL9/o10

【指先】

 外気はつめたく、しとしとと降り落ちる秋雨が頬を濡らした。
 もう九月も終盤に差し掛かってきている。こういう雨も、もしかしたらこれから増えていくのかもしれない。

 雨除けのついた塔屋の柱にもたれかかるようにして、彼女は地面に腰を下ろしている。
 フードを深く被って、襟元からコードが伸びているから、きっとヘッドホンをつけているのだろう。

 立ったままで「おはようございます」と声を掛けた。
 近くに寄ってもいつものように音が漏れ聞こえては来なかったから。

 すると、すぐに面を上げて「遅かったね」と返された。寒空に透き通るその声は、私の耳にまっすぐ伝わってくる。

 ひとつ頷きを返してから部長さんの隣に腰掛ける。
 彼女を隔てて反対側には焦茶色のギター。ボーダー模様のついた水色のピックが弦に挟まれている。

「夜からずっとここに?」

「ううん。さすがにそれは凍えちゃうよ」

「……まあ、そうですよね」


927: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/01/10(水) 14:02:40.45 ID:LnmL9/o10

「おー、まさか心配してくれたの?」

「いや、そんなバカな人はいくらなんでもいないよな、と思いまして」

「じゃあ私は半分くらいバカってことか」

「……はい?」

「や、白石くんと下で喋ってたら結構時間いってて、今から寝ると起きれなくなりそうだから校内ぶらぶらしてたのよ」

 これとね、と部長さんは横に置いてあるものをぽんと叩いた。

「……未来くん寝てましたよ?」

「あー、うんうん。ギター弾いてるの聴いてもらって、あとはちょっと世間話とかして。三時ちょっと過ぎくらいかな、もう遅いしなうちゃんと一緒に寝たいから戻るー、とかなんとか」

「はあ」

 どうせ最後のは嘘だろうけど、部室を出るとき二人の寝ている様子を見てしまうとなんとも言えない。

「どういう話をしてたんですか?」

「ん?」

「その、未来くんと」

 ついつい、間を持たせるために、彼女の発言の端を拾ってしまった。


928: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/01/10(水) 14:03:10.29 ID:LnmL9/o10

 本当なら、こういう話は全てすっ飛ばして私の話をするべきと思ったけれど、それでも彼女から何かきっかけを与えてくれることを願ってしまった。

「ちょっとした昔話とか、白石くんが描き始めた漫画についてとか」

「その昔話は……部長さんの?」

「うん、そうそう。白石くんとなうちゃんの話とかも訊きたかったんだけど、気付いたら私ばっかり話してた」

「聞いてくれますからね」

 話を遮らないし、否定もしない。
 どんなことでも話してもいいよって言われているように思ってしまう。

「話してるうちにね、優しさってなんだろう? って思い始めてさ。
 それを伝え得るような会話をしたわけでもないし、私自身も、そのことについては考えてたつもりではあったんだけど」

 どこかで何かがズレてたのかもね、と部長さんは私から目を外す。

 その言葉の意味と話の内容のどちらも全く読めなくて、私はただただ彼女の表情を見つめているほかなかった。

「もっともらしい理由なんていらないって言われたんだ」

「理由?」

「うん」

「それは、どういう……」

 聞き返しても、彼女はすぐには答えてくれない。


929: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/01/10(水) 14:04:10.38 ID:LnmL9/o10

 その代わりに、私との距離を一歩詰め、半身に寄りかかってくる。
 そのままでは取り零してしまうのではないかと座ったまま背筋を伸ばして目を合わすと、彼女の表情はそれまでの真剣なものから慈しむようなものへと変化していく。

「でもね、それだけってわけじゃないの」

 柔らかな微笑みと共に放たれた言葉に頷くよりも早く、彼女はもう一度その言葉を繰り返す。

 私の視界に映るのは彼女だけ。目を逸らしてはいけない。続く言葉に、耳を傾けなければならない。

「ねえ、シノちゃん」

 確認を取るように、彼女は私を呼ぶ。
 同時に、地面に下ろしていた手に彼女の指先がそっと触れた。

「──私は、シノちゃんのことを、もっと知りたいって思うよ」

 どくりと、心臓が波打つ。
 思わず、何の意味もなさない声が漏れ出てしまう。

 彼女が発したのは、一番掛けてほしかった言葉で、一番掛けてくれるとは思っていなかった言葉だった。

「知りたいって……何をですか」


930: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/01/10(水) 14:04:46.07 ID:LnmL9/o10

 踏み越えるかどうか決めるのは、私が判断するべきことなのだと思っていた。
 でも、そんな気持ちとは裏腹に、訊いてほしいとも思っていた。……多分、自分のことを自分で語るには、かなりの勇気を必要とするから。

「理由」と部長さんは囁いた。さっき言った言葉と同じようで、意味の異なる言葉。
 後付けではなく、それ自体が既に意味を成しているもの。

「シノちゃんが絵を描けなくなった理由を、私は知りたいな」

「……」

「もし話したくないなら、無理に訊いたりはしないよ。
 そういうことよりも……なんていうか、私が知りたいと思ったことだけは、知っててほしいっていうか……その、ね」

 考えがそこまでまとまっていないのか、彼女は口を開いて閉じてを繰り返す。
 その間も、もっともらしい理由は、飾り立てた言葉は、何一つとして口にはしてこなかった。

 感じたのは、思い込みとは違った、ある種の確信を持った"予感"のようなもの。

 だから……それゆえに、なのかな。

 本当に、私のことを知りたいがために、そう問うてきたことが伝わってきてしまう。
 私のことを話してもいいのだと、そう思ってしまう。


931: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/01/10(水) 14:05:22.61 ID:LnmL9/o10

 ふと気付くと、触れていた指をしっかりと握ってしまっていた。最初は小指だけのつもりだったのに、すぐに手を広い方へと滑らせていた。
 それは、いけないことだとわかっていて、けれど、彼女だっていつも私にこうやって触れてきていた。

 反射的なものだと偽ることにした。
 べつに、誰に問われたというわけではない。私なりのごまかしだ。

「……話しても、いいんですか」

 言いながら、「ああ、私って単純なんだな」と思う。でも、それくらい、誰かに頼ってしまいたかったのかもしれない。

 一旦片側へ傾いた気持ちは、抑えられないままじんわりと広がり続ける。
 手の先に体温が伝わるだけで、すぐそばに誰かを感じるだけで、私は不思議な感覚を得る。

 夢に沈んでいくときのような、水に溶け出してしまいそうな、ふわふわとした浮遊感。

「大丈夫だよ」と部長さんは照れたように笑って、手のひらを上向ける。

 深く息を吐いて、目を閉じた。
 変えるなら──変えたいのなら、きっと今しかない。


932: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/01/10(水) 14:06:52.60 ID:LnmL9/o10

【救/堕/明け方の虹】

 雨足は僅かながらも弱まる様子を見せ、雲の切れ間から明るみが顔を出し始めた。
 私が口を開くに至るまでの間、彼女は急かすわけでもなく、ただ黙って待ってくれていた。

「もう、お祖母ちゃんに聞いたとは思うんですけど……私の両親は、どちらも美術関係の仕事に就いているんです」

 なら、包み隠さずに全てを明かしたい、でもあまり重い話にはしたくない、と考えた末に出てきた話の糸口はそれだった。

 彼女は無言で頷いて、私に続きを語るよう働きかける。
 いくらかの緊張を解すために、胸に手を当て息をつき、再び彼女に視線を戻す。

「でも、だからってわけじゃなくて、私が絵を描き続けていたのは、一人でいることが退屈だったからなんです」

 兄弟もいなければ、親しくしてくれるような友人がいないわけではないけれど、そう多くもない。むしろ少なかった。
 両親はここ数年ほどではないにしろ家を空けることが多くて、夜に帰ってくるまでの時間を潰すためには絵を描いていることが最適だった。

「誰かに描いたものを見せたいとか、褒められたいとか、好いてほしいとか、そういう気持ちは持っていなくて、
 ただ退屈だったから、描くこと以外に自分が少しでも楽しめることが思いつかなかったから──こういう言い方は悪いとは思うんですけど、仕方なく描いてたんです」


933: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/01/10(水) 14:08:01.22 ID:LnmL9/o10

 好き、という気持ちは曲がりなりにもあったはず。
 ……けれど、絵を描くことをおそらく本気で好いている部長さんにとっては、私の好きは好きとは呼べないのではないかと思ってしまう。

 だから、彼女が頷いてくれたことは救いだった。
 咎められるとは思ってないし、彼女のことだから聞いてくれるとは思ったけど、それでも怖かったから。

「中学に上がってからは、入りたい部活もなくて美術部に入部しました。
 それも、私にとっては、数ある部活のなかから楽そうなものを選んだってだけなのに、両親はそれにいい顔をしませんでした」

「……どうして?」

「わからないです。でも、なんとなく……それは、伝わってきました」

 私は私の描きたいものを描いているだけで、評価なんてされたくなかったのに。自分一人で完結していて、それでもよかったのに。
 絵を見せなさいって言われて、見せたくなかったけど見せて、そうしたら、何ひとつ頼んでもないことをいろいろされて。

 それは、たとえば、
 描いた絵への駄目出しだったり、
 そんなことはいいから勉強しなさいと言われたり、
 かと思えば休みの日に美術展を一緒に観に行こうと言われたり。

 両親に嫌われたくないから、その各々にわかったように頷いて、わかったフリをしてやり過ごそうとした。


934: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/01/10(水) 14:08:46.29 ID:LnmL9/o10

「中学校はそこそこ美術活動が盛んなところで、公募とか市の展に作品を出すようにしていて、一応自由ではありましたけど、みんなはそれを目標に頑張ってました」

「シノちゃんも?」

「……いえ、私は特には」

 親に見せることですら戸惑ったのに、大多数の目に触れるなんてもってのほかだった。

 どこかへ出してみない? とは顧問の先生に何度も言われた。
 先生には、部活の都合上どうしても見せなければいけなくて。どういうわけか、取るに足らないと言い捨てられるはずの私の絵を褒めてくれて。

「でもさ、シノちゃんの絵、見たよ。
 綺麗な水彩画……私は、いいなって思ったよ」

「……」

「どうして、描こうと思ったの?」

 柔らかく優しげに、でも不安そうにこちらを見つめる彼女を直視することができなくて、扉側へ目を逸らした。

 私が描いたものを外に出したのは、今の今まで一度しかない。
 つまり部長さんが言っているのはあの絵だと思う。


935: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/01/10(水) 14:09:15.63 ID:LnmL9/o10

 私が最後にちゃんと描いた絵。
 私が好きなはずの私が描いた絵。
 見てほしい誰かに向けて描いた絵。

 ……これまでで一番上手に描けた絵。

「単純で、馬鹿らしい理由ですよ」

「うん」

 ぐっと指にかかる力が強くなる。
 頷く彼女の顔は、やっぱりまだ直視できない。

「……顧問の先生が見せてくれた、実施要項の選考委員の欄に、私のお父さんの名前があったんです」

「じゃあ、お父さんに絵を見てほしかったの?」

「……いいえ」

 部長さんの問い掛けは、全てが間違っているというわけではなかったけれど、私は首を横に振った。

「あのコンクールで提示されていたテーマは、『この街と家族』でした。
 だから、もし何らかの形で両親の目に留まれば、私の気持ちに気付いてくれるんじゃないかって、そう思って」

 もちろん、絵を見てほしい気持ちもあった。
 けれどそれよりも、私がこのテーマの作品を出したということを知ってほしかった。


936: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/01/10(水) 14:09:51.03 ID:LnmL9/o10

 直接言葉にして告げることなんて、私には到底できそうになかった。

 だって、困らせるだけだと思ったから。
 そんなことをしたって、何も変わらないことくらいわかっていたから。

「結果として、私は賞をとりました。
 とりました、けど……それはどうでもよくて、お父さんとお母さんに、そのことを言ったんです」

「……」

「でもやっぱり、私のほしい答えは返ってくるわけなくて」

「……どういうふうに言われたの?」

「はい。……普通に『見ていない』って、ただそれだけです」

「……」

「まあ、そのあとに、お母さんからは『おめでとう』と、お父さんからは『次はもっと良い賞をとれるといいな』とは言われました」

 結果のみを褒め称えるだけで、絵は、その深部に込めた想いについては、何一つとして見てくれなかった。
 仮に見たとしても、作品の粗や私自身の乏しい技術について指摘されるのが関の山だなんてことはわかってるけど、私が求めたのは"それ"じゃなかったから余計に悲しかった。


937: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/01/10(水) 14:11:09.46 ID:LnmL9/o10

「それで、描くことが嫌になっちゃったの?」

「……いえ、宝くじみたいなものですし、変わらないって半ば諦めてたので、そのこと自体についてはどうにか納得することにしました」

 外れくじしか入っていないとわかっていても、引かないよりは引く方がマシだって、もしかしたらを願って、変わるんじゃないかって。

 実際には、納得なんて今でもできていないし、もっともっと悩んだけれど、それを嘆いたところでもう終わったことだ。

「褒められて嬉しいって、そういう気持ちを持ってしまったことが失敗でした」

「……」

「良いものを描けば、良い賞をとれば、絵を描くことをもっと好きになれば、また褒めてくれるかもしれない。あわよくば私をもっと好きになってくれるかもしれない。
 今になって思うと、そのときに賞なんてとらなければ良かったんです。そんなものにかすりもせずに、私の空虚な妄想を映しただけのある種独善的なものを、一人で消費して、誰に見せることなく消し去って、それができていれば良かったんです」

 想いは、絵に現れる。
 想いが、絵を塗りつぶしていく。


938: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/01/10(水) 14:12:10.49 ID:LnmL9/o10

「小手先の技術を身につけて、自分の感覚を疎かにして……そういうことを続けてふと気付いたら、私は私のための絵なんて描けなくなっていました」

 違う。こうじゃない。こうじゃない。私はそんなものを得てまで描きたくはない。
 評価されたいわけじゃない。でも、評価されなければ、私の想いは形にはならない。意味を持たぬまま消えていく。

 けれど、どうしたらいいの?
 そんなものを描いてて楽しいの?
 それは一番嫌いな自分じゃないの?

 絵を描くことが好きなの? それとも嫌いなの?

 そうやって振り返ることができずに走り続けていた道は、もう人が一人入ることですらも窮屈なほどに狭くなっていた。
 辛くて苦しくて、それでもなお進んだ先はきっと行き止まり。ここで諦めて立ち止まるか、藁にもすがる思いで走り続けるか。

「踏ん切りがつかずにだましだまし続けていたら、美術部員の……友達だと思っていた子に言われたんです」

 ──あなたの絵って気持ち悪いね。


939: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/01/10(水) 14:13:02.08 ID:LnmL9/o10

「でも、それは、きっと嫉妬とかも」

 彼女の包み込むように柔らかな声音は、纏う雰囲気は、私の心を落ち着かせる。
 他の人だったら、とっくに泣き出してしまっていた。彼女は何も言わないけれど、私の声はすでに震えていた。

「はい。それも考えました。だけど、そこは……やっぱり重要じゃないんです。
 仮にそうだとしても、私は多分そんなことはどうでもいいって思ったはずです。いや、確実に思いました」

 うん、と部長さんは相槌を打つ。
 その相槌だけで、言いたいことはもう伝わっているだろうと直感する。

「だって、図星だったんです。気持ち悪いって、歪なんだって、わかってたんです。
 私じゃないんです。……描いているのは私なのに、描いたものは私じゃないんです」

 その差異に耐えられなくなって。
 何にも縛られない描き方を忘れてしまって。
 果てには、初期衝動から間違っていたのではないかと疑心暗鬼になって。

 囚われていることが怖くなって、何の理由も見つけられなくて、手の震えが止まらなくて、粗野になる視界に我慢できなくなって──私は、離れることを選びました。


940: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/01/10(水) 14:13:48.83 ID:LnmL9/o10

 言い終えて部長さんを見ると、彼女は私の触れていない方の拳をきゅっと胸元で握りしめて、何かを言いたげに瞑目していた。

「……たいしたこと、ないですよね」

 掛ける言葉が思いつかず、出てきたのは自嘲めいた言葉だった。
 語りたいことはこれで全てではなかったけれど、言葉にしたところで──詳らかに語ろうとしたところで──それは私の思考とは別物になってしまうだろうと、打ち止めにしようと決心した。

 どう言い繕っても、つまるところ私の心の弱さが原因であって、対処しようにもそこを避けては通れなくて、そんな状態で何かを表現するなんて、不合理で可笑しくて荒唐無稽としか言いようがないはずで。

 けれど、

「たいしたことないわけないよ」

 小さくそう言って目を開いた彼女の瞳は潤んでいた。


941: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/01/10(水) 14:15:16.32 ID:LnmL9/o10

「私さ、シノちゃんのこと好きだよ」

「……」

「言いづらいことも話してくれて、私は嬉しい。
 どう言うのが正解なのかはわからないけど、シノちゃんは一人でも頑張ってきたんだって思うよ」

「私は、べつに……」

 否定の言葉を口に出そうとしたが、部長さんの今にも泣き出してしまいそうな表情に遮られる。

 どうして、私じゃなくて彼女が、他人のことにこんなにも感傷的になっているのだろうか。

「絵を描けなくなっちゃったのも、仕方ないことなんだと思う。
 コントロールのできない感情に不安になるのも、咄嗟のときに声を出せないのも、いろいろなことの積み重ねでシノちゃんが自分を責めちゃうのも、きっと全部仕方のないことなんだよ」

 話していないところまで、彼女は私のことを言い当てる。

「でも、それでも……シノちゃんは『絵を描きたい』って私に言ってくれた。
 それはつまりさ……きっと、」

 くぐもるような、でも一本芯の通った声は、私の心を強く揺さぶる。絡まった糸が、少しずつ解けていく。


942: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/01/10(水) 14:16:11.94 ID:LnmL9/o10

「きっとさ、シノちゃんが絵を描き続けてきたことだけは、仕方のないことじゃないと思う」

 それは、初めに私が言った言葉。
 退屈を紛らわすための代替可能なものだと嘯いてしまった。

 本当は、替えの利かないものなのに。

「絵を描くことが好きだから、シノちゃんは続けてこられたんだよ」

「……」

「間違ってる、かな?」

「……いえ、間違ってない、です」

 誰かに、ずっと誰かに、たったそれだけを言ってほしかった。

 私は私の理由を見つけられなかったのではなく、認められるだけの自信を持っていないだけだった。
 好きなものを好きと言うだけの覚悟がなかった。
 両親や周りのことなんて関係なしに、私は絵を描くことが好きなんだって、それは既に私の一部になってるんだって、だからできないと苦しいんだって。

「ならさ、絶対に描けるよ」

 それまでの真剣さを崩した明るい調子で、彼女はその言葉を私に向ける。
 あまりにも平然として言うものだから、そぐわないとは思いつつも、ついつい乾いた笑みがこぼれてしまった。


943: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/01/10(水) 14:16:54.68 ID:LnmL9/o10

「描きたいって気持ちさえあれば、どんなものだって描ける」

 先の夜に部長さんから告げられた言葉を、そのまま復唱した。

 彼女は私に確認するように頷いて、それからにこりと彼女らしく口元を綻ばせた。

「うん、シノちゃんならできる! 絶対に! 私が保証する!」

 大きな声を出すと共に身を翻し、私の身体をぎゅっと抱き寄せて、温かい手で優しく頭を撫でてくる。

 包み込まれるような感覚に心地良さを覚えて、思わず目を閉じた。

「……そういうの、無責任だと思いますよ」

 それでも、完全に彼女に身体を預けてしまうのはいけない気がして、憎まれ口を叩いた。

「……じゃあさ、こうしようよ」

「……」

「えっとね、私は、これまで言ってた通り、絵を描くことに理由なんていらないと思うよ。
 でも、シノちゃんがどうしても理由がほしいなら、理由がいらなくなるまでの理由がほしいなら──私をその理由にしてくれないかな」

「……どういうことですか?」


944: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/01/10(水) 14:17:23.12 ID:LnmL9/o10

 訊ね返すやいなや、小さな吐息が耳をかすめる。
 ぐっと身体全体にかかる力が強くなる。私だけでなく、多分彼女も緊張している。

「私のために、絵を描いてほしい。
 シノちゃんが望む限りは、私がずーっと近くで見ててあげるから」

 言うと、部長さんは私からぱっと腕を離した。
 そのまま正面を向いて目を合わせると彼女はこくりと頷いた。

「……わかりました」

 彼女がそう言ってくれたことが嬉しかったから、あれこれ考える前に素直に返事をした。
 見てくれる人がいることは、きっと喜ばしいことなのだと思う。

「雨、晴れたね」

 示し合わせたように──部長さんと私が気付かなかっただけかもしれないけれど──空を厚く覆っていた暗い雲は彼方へと動き、所々に青が見られるまでになっていた。

「ねえ、あれ」

 引っ張られるようにして立ち上がり、彼女の見上げる視線の先を追う。
 雨上がりの空には、やはり当たり前のように虹が架かっている。


945: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/01/10(水) 14:18:11.27 ID:LnmL9/o10

「シノちゃんは自分の名前が嫌いって言ってたよね」

「はい」

「でも、私はさ、素敵な名前だって思うよ」

「……」

「押し付けがましいって思う気持ちも、わかるんだけどさ」

 そんな話を、いつかしただろうか。
 わかってくれている、と思う。空を仰ぐと、東の空から太陽が見え隠れしている。

「明け方の虹は、決まって西に出るらしいですよ」

「……そうみたいだね」

「朝虹は雨、夕虹は晴れって言葉もあります」

「うん、聞いたことある」

「そんな、馬鹿らしいことを、よく考えます。意味のないこととか、私が気にしたって無駄なことでも、考えずにはいられないんです」

 ずっと一人だったから。
 何かを考えていないと自分の存在を忘れてしまいそうだったから。

「けど、ありがとうございます。そういうふうに言ってくれたのは、部長さんが初めてです」

 同じふうに呼ばれれば、どこかで繋がっていると思えたから、そう呼んでほしかった。


946: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/01/10(水) 14:19:00.75 ID:LnmL9/o10

「こより先輩」と私は覚えてる限りで初めて彼女の名前を呼んだ。

「……ん」

「私に、力を貸してください」

 遅れた答えを、彼女に発した。
 胡乱なままにせずに、ちゃんと言葉にして、確定させる。

「うん、わかった」

 晴れやかな表情で、私の前にもう一度手のひらを差し出した。

 その手を、私は躊躇なく手を取る。
 そうしてほしいという気持ちが、どこからか伝わってしまっていたみたいだ。

「そんでさ、どんな絵を描きたい?」

 にこにこ調子のまま、彼女は小首を傾げる。

 その質問に対しての答えは、既に用意しているつもりでいた。

 今じゃなくても、と彼女は言うかもしれない。
 でも、私ができること。あと数日に迫った締切日までに、私が何かを描けるとしたら。

「あの──少しだけ、考えていたことがあるんです」


947: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/01/10(水) 14:19:53.59 ID:LnmL9/o10

【SS-Ⅸ/Gypsophila】

「この感情に意味なんてない」

 そう思っていました。

 私のことは私にしかわからなくて、私のことを決めるのは私だけに与えられた権利だと、そう思っていました。

 雪の降るなか家に帰ると、私はまたひとりぼっちでした。

「寂しい」と私は思いました。

 経験することがこんなにも怖いことだなんて、私には想像もつきませんでした。

 洪水を塞ぎとめるのは不可能で、ただ嵐が過ぎ去るのを待つのみです。ダムは決壊し、堪えきれずに溢れ出た濁流は、私の心を黒で染め上げていきます。

 ふと、彼女が家に忘れていったMP3プレイヤーで彼女の聴いていたラブソングを聴きました。なぜか、涙がとまりませんでした。

 経験したことのない、体全体が疼くような、鋭い痛み。
 今までに様々な経験をしてはきましたが、この痛みだけはほんとうに、初めてのことでした。

 朝起きて、学校に行って、早くに帰宅して、目を閉じて、眠りに落ちて。

 ずうっと、気を抜いたら泣き出してしまいそうでした。


948: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/01/10(水) 14:20:30.39 ID:LnmL9/o10

 学校では、ピリピリした空気が流れているように感じました。
 それまでは、平気だったのに……きっと、埋めてくれるものは、何もないとわかっていたから。

 クリスマスの日に、私は縋るような想いで、彼女と出会った場所に向かいました。

 案の定、そこには誰もいませんでした。
 育てていた花壇も、かわいがっていた野良犬も、彼女以外は何も変わりなく、でも、それすらもよそよそしく感じてしまってなりませんでした。

 きっと今の私は、正真正銘のひとりぼっちです。ここはすでに、私の場所ではないのかもしれません。

 ベンチに腰掛けて空を仰いだときに、私は気付いてしまいました。

 彼女は私の根底にある意思を汲み取って、「寂しい」と口にしていたのです。
 誰かと気持ちを共有したい私の意思を、彼女は全てわかっていたのです。

 涙がとまりませんでした。
 抑えようとしても、漏れ出た声は消えませんでした。
 私が身勝手に離したのに、私が全て悪いのに、想いは、鋭利な痛みは、何一つとして消えてくれません。

「彼女に会いたい」と寒空の下で、そう思いました。


955: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/01/31(水) 17:46:30.67 ID:bbAsJ8Or0

【手玉】

「うーん……」

「……やっぱり、微妙、ですよね」

「いやー……微妙っていうか、悪くはないと思うんだけどね」

 金曜日の放課後。場所はいつもの通り中等部校舎最上階の部室にて。

「ま、そろそろ休憩にしよっか」

 と俺の隣に座る彼女は言葉の続きを語ることなく立ち上がった。

「紅茶でいい?」

「あ、俺やりますよ」

「いいのいいの。ちょっと待っててね」

 念のために一応(と軽快な声音とは真逆の神妙な面持ちで胡依先輩に言われた)バックアップを取ってから、ペン入れを進めていたPCの画面から目を外す。

「今日はちょっとお疲れなの?」

「どうすかね」

「昨日と違ってカメみたい」

「多分寝不足です」

 真面目か不真面目かどちらかを選べと問われたら、真面目派に属していたい俺ではあるが、今日に限っては授業中に居眠りをしてしまった。


956: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/01/31(水) 17:47:42.12 ID:bbAsJ8Or0

 だが、とはいえ不真面目だったのは俺だけではなく、文化祭前の特別日程による三限までの短縮午前授業ということもあって、生徒のみならず教師のやる気もあまり感じられなく、
 二限の地歴の授業に至っては、クラス分けの教室に教師がまず来ない→その場の流れで職員室に呼びに行かない→つまり実質自習(その後確認を取ったところ出張だったらしい)であったくらいだ。

「白石くんのクラスは何人来たの?」

「まあ、四割くらい」

 考え直してみると、俺は授業に出ているだけ、ひいては学校に来ているだけ、比較的真面目と言えてしまうかもしれない。

「おー。なら私のクラスと同じくらいだ」

「この学校って自由すぎますよね」

「ほんとね」

 そう、クラスの約六割が朝に登校すらしてこなく、加えて勤勉な(?)側の四割のうち半数は朝の出欠で帰ったり、授業中にどこかへ行ってしまったのだから。

「今日サボった人たちって何してるんですか?」

「あー、どうだろ。……クラスが同じ友達は、昨日今日と週末で三泊四日の旅行に行ったよ」


957: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/01/31(水) 17:48:38.32 ID:bbAsJ8Or0

「どこに?」

「関東」

「ディズニーとか?」

「だと思うよ」

 意味わかんねえ。

「……他には?」

「部活のお店用の材料を買いに行ったりかな」

 でも、そういうやつらに限って放課後の部活には来るんだからタチが悪いんだよね、と。

 耳を澄ましてみれば、確かに窓の外からは部活をしているだろう声がいつも通りの音量で聞こえてくる。
 ここに来る最中だって、廊下から昇降口にかけてはジャージ姿にエナメルバッグという部活テンプレスタイルの人が多くいた。

「この時期は毎年こうだから、私としてはお好きにどうぞって感じ」

「ははは……」

 どうやら風物詩らしい。

「で、さっきから気になってたんだけど、君の相棒の伊原くんは?」

「さあ?」

「えー……」

 俺が来てから四時間と少し、この部屋には声が一つか二つであり、
 他の三人は──まず、この部活自体が自由なところはあるものの──部室を訪れてはいなかった。


958: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/01/31(水) 17:49:28.91 ID:bbAsJ8Or0

「まあ、ずっとここに泊まってたんで、家に服とか取りに行ったりしてるんじゃないですかね」

「にしては遅くない?」

「えっと、何かあるんじゃないですかね」

「そっかそっか……」

 しばしの沈黙。

「そういえば、あとの二人のことならさっき連絡来ましたよ」

「なに?」

「それが訊きたいんじゃないんですか」

「いや、いやいや、べつに?」

 振り返らずとも、中々に慌てているのが声音だけで伝わってくる。

「二人で胡依先輩の家に行ってくるって言ってました」

「ふ、ふーん……」

「なんか、東雲さんのことでいろいろあるっぽいです。
 わざわざ訊くのはアレだったんで、そうはしませんでしたけど」

「いや、べつに私は興味ないし関係ないし」

「……へー」

「なによ」


959: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/01/31(水) 17:50:29.98 ID:bbAsJ8Or0

「いえ、なんでも」

「白石くんは何か勘違いしてるよ! 私は胡依ちゃんのことなんてどうでもいいし! 呼び出しておいて放置されてもなんとも思わないし!」

「それ飼い慣らされてるってやつじゃないですか」

「うっさい!」

「怒んないでくださいよ」

「先輩をからかう方が悪い!」

「それは……いや、俺何も言ってないですよ」

 直接言及しないだけでからかっている自覚はあったけれど。

「あと、頼まれたからってそれだけで教えてくれる理由にはなりませんし」

「うう……そりゃまあ、ちょーっとは何かあるんじゃないかなって考えてた部分はあったよ?」

「つまり、何かしらワンチャン狙ってたと」

「それ、言い方がイヤ」

「間違ってはないでしょ」

「いや、だって……だってさぁ……」

 ポッドから熱湯を注いだカップをすぐ横に置いて、元の位置に戻った萩花先輩は、
 むすーっと不満げに頬を膨らませ、拗ねたように椅子の上で膝を抱えた。


960: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/01/31(水) 17:51:17.11 ID:bbAsJ8Or0

「昔はよく……な、撫ででくれたりしたのに、今は淡白っていうか、ドライっていうか、今までずっと喧嘩してた感じだから、仕方ないことなんだけど」

「どうにかして甘えたいと」

「……そうとまでは言ってない」

 ふくれっ面から一転、じとっとした視線を向けられる。
 怒られるだろうとは思いつつも、そんないじらしくもかわいらしい様子に笑みがこぼれてしまった。

「どうして笑うの」

「つい反射的に」

「そういう、いろんなことを見透かしてくるの、ちょっと胡依ちゃんに似てるよね」

「そうですかね」

「女の子を手玉に取ってるんでしょ」

「どんな偏見……」

 俺のその、軽口への何気ない返答に、彼女はわずかに口角を上げる。

「だって、今日の朝ここを覗いたら」

「……」

「白石くんは真面目で頑張り屋さんだから、もしかしたら朝から作業してるかなーって期待してたんだけど」

「すみませんでした」

 これ以上言わせてはならないと察知し、先手を打ってこれまでの非礼(?)を謝罪したつもりでいたのだが、

「女の子と一緒の毛布にくるまって寝てるとかね……」

 と両手を頬に当てつつ、冷ややかに、でも少し楽しげにこちらを見て微笑んだ。


961: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/01/31(水) 17:52:09.87 ID:bbAsJ8Or0

「ね、あの子彼女? 付き合ってたりするの?」

「ないです」

「ひゃー……なら尚更タチが悪い。こういうとこも胡依ちゃんそっくり」

「……」

 あんな乙女ゲーの主人公みたいな振る舞いはしてない。

「いやまあ、白石くんの色恋沙汰には興味ないんだけどね」

「ですよね」

「……私が気になったのはさー、胡依ちゃんと東雲さんの二人が、朝六時なのにここの教室にいなかったことなの」

「……」

「あの二人って、ほんとにどんな関係なんだろ」

 彼女はそう言って紅茶に口をつけ、カップの縁を指でなぞりつつ深くため息をついた。

 この人、もしかして結構重い人なんじゃないか。
 朝に部室の様子を見にきたのだって、俺のことはオマケで、実際は女子二人のことが気になったが故の監視目的だったのでは。


962: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/01/31(水) 17:53:35.29 ID:bbAsJ8Or0

「外でいちゃいちゃしてたとか……」

「さすがにないと思いますけど」

「どうして?」

「え? いやどうしてって……」

 胡依先輩との夜の会話が頭によぎって、でもあれから彼女がどういう行動を起こしたのか、はたまた起こしていないのか、今このときに起こしているのかについては聞いていなくて、答えに窮した。

「なんというか、東雲さんは見かけ通りの硬派ですけど、胡依先輩は誰がいてもおかまいなしだから、わざわざ二人きりになる必要はないんじゃないですか」

「ああ、うんうん。……なるほどね」

 ただの適当な出まかせに納得されてしまった。

「胡依ちゃんはその、逆に見られてる状況の方が燃えるってタイプだよね」

「いやそこまでは言ってないです」

「教室で、みんなの前で抱きつかれたり、みんなから見えるように手を繋いできたりとか、胡依ちゃんは何かとスキンシップが過剰なとこあるから」

「惚気ですか?」

「でも、それもどうせ昔のこと……」

 元恋人に未練タラタラの想いを寄せるような言い草と佇まいは、どことなく哀愁を感じさせる。
 胡依先輩……やはり罪な人。この人は彼女が語った好み通りの女の子のはずだし、二人ともどちらかといえば温厚なタイプなのに、どうして喧嘩してしまったんだろうか。


963: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/01/31(水) 17:54:42.53 ID:bbAsJ8Or0

「私からぐっといくのは気がひけるし、てか恥ずかしくて無理だし、
 ちょっと手つきがあれだから言ったらどうされちゃうかわからないけど」

「……」

「昔くらいのスキンシップなら、されてもいいっていうか……」

 不穏なワードが聞こえた気がしたが、胡依先輩のあれこれについてはなんとなく理解が及ぶ。

「むしろされたいと」と思ったままに勝手に続きを言うと、
「ビンタするよ」と耳まで真っ赤にしながら否定された。

「そういうのってさ、言葉にしないことでも伝わってきたりとか、安心できたりとか、いろいろあるじゃない」

「……はあ」

「それに私たちさ、二年とちょっとくらい、ろくに話せてなかったし」

「間を埋めるために、ですか」

「まあ、そういう感じかな」

 萩花先輩はごまかすように笑い、多く語りすぎたと思ったのか、トレードマークの長めのサイドポニーを揺らしながらそっぽを向いた。

 そうされてしまうと、さっきのように茶化す気持ちは起きなくて──というより、堂々巡りな気がして──俺の思考は、先輩の発言の内容にシフトしていた。


964: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/01/31(水) 17:55:30.50 ID:bbAsJ8Or0

 触れていると、安心できる。
 それは、奈雨が言っていたことと重なる。

 聞いてすぐにはあまり判然としなくて、けれど、ここ数日で少しずつ意味を理解してきたように感じる。

 "今まで"が全く別物であったり、"これから"が不透明であったとしても、"今このとき"どこかに触れてさえいれば、
 その瞬間の自分と相手の関係については、他の誰よりも近くにいると保証できる。

 奈雨が伝えたかったのは、恐らくこういうことなのだろうと思う。

 ……それが、肩や手ではなく唇なのはともかくとして。

「えっと、白石くん。あの、さりげなくでいいからさ」

 先輩は呟き声で言って、身じろぎしつつもどうにかして恥じらいを捨てようとしたのか、咳払いをしてから俺に正対した。

「あの……私の教えが良かったー、とか? おせわになりましたー、とか……。
 そういうことを言ってもらえると、私としてはありがたいかなーって」

 あー……。

「いや……私の教えも何も別に大したこともしてないんだけど、一応その、さっき言った通りボランティアじゃない?
 だから、対価って言ったら聞こえは悪いかもしれないけど、うん。そんな感じで、よろしくできないかなって」

 すっげえ面倒な性格してんな。
 まわりくどいにも程がある。


965: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/01/31(水) 17:55:58.30 ID:bbAsJ8Or0

 俺が(胡依先輩の前で)萩花先輩を褒める→胡依先輩が萩花先輩を愛でる(かもしれない)。

 やっぱりワンチャン狙ってるじゃないか……。

 あの人が相手なら、直接言葉にした方が効果があると思うけどなあ……。
 でもまあ、あの人だって持って回った言い方とかまどろっこしいやり方を好むところはあるし、内に秘めし面倒くささは、随所で漂わせてはくるけれど。

 そんなことを考えながら目を戻すと、先輩は制服の裾を浅く握って、子犬のような目でこちらを見つめていた。

 なんだろうな……そういう仕草や表情で向かっていけば胡依先輩なんてイチコロじゃないのかと思う。

「そう! そんな感じですよ!」

 と内心グッときたが故の言葉を胸に押しとどめて、

「わかりました」

 と軽めに答える。
 そのまま言ってしまうのは、何だか惜しい気がして。

 当の彼女は「わかりました」の「わかりま」のあたりでもう口元を綻ばせていた。

 少しのしてやられた感は抱いたが、流れに乗った俺も俺だと、またしても出かけた言葉を押しとどめることにした。


966: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/01/31(水) 17:57:28.41 ID:bbAsJ8Or0

【近い】

 きょろきょろと辺りを見渡してみると、思わずその部屋の広さにため息が零れた。

 主要駅近くの高層マンション。
 階は、確か十五階? そこまで長いエレベーターに乗ったことがなくて、というより高いところがあまり得意ではなくて、ずっと下を向いたままここまで来ていた。

 ……いや、田舎風情の私には驚くことでいっぱいすぎる。

 エントランス広すぎない?
 エレベーターが四つもあるって何?
 鍵が二つに加えてカードキーまであるってどういうこと?
 ちらっと耳に入った『最上階にはシアタールームがある』ってリアルな話?

 この南向きの角部屋(高そう)に入室したあとも、玄関の広さだったり廊下から確認できる部屋の多さだったりに驚きを感じずにはいられなかったりして。

 でも、私が一番驚いたのは。
 表に出ている靴が一つしかなくて、何の気なしに訊ねたら、彼女はここに一人暮らしをしているらしい。

 それに、リビング以外の四つの部屋は寝室を除いて使っていないらしい。外にはバルコニーが二つあるらしい。ベッドがクイーンサイズ? とにかく大きいらしい。

 と、らしいらしい並べてみたが、彼女が言ったことをそのまま羅列しているだけだから、そのすべてが事実で間違いない。


967: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/01/31(水) 17:58:07.85 ID:bbAsJ8Or0

 あっちに住んでた時は、私も一戸建てをほぼ一人で使っていたようなものだけど、ここは他の住人もいる高級感溢れるマンションなわけで。

 なんかすごい。

「シノちゃんごめん。お茶とかあると思ったんだけど、オレンジジュースしかなかった」

 不意にかけられたその言葉とともに、かたりとダイニングテーブルの上にマグカップが置かれる。

「いえ、ありがとうございます」

「マグカップにジュースって変な感じだけど」

「大丈夫です」

 言われてみれば、という感じだ。
 まず気にしないのもあるが、それよりもここの雰囲気に圧倒されている。

「あの、シノちゃん」

「……はい?」

「あんまり綺麗にしてないから、そんなじろじろ見られると申し訳ない感がね」

「あ……ごめんなさい」

「ううん。いいよ」

「……でもその、整頓、されてると思いますよ」


968: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/01/31(水) 17:58:49.27 ID:bbAsJ8Or0

 部屋にあるのは、ダイニングテーブル。大きめのテレビとソファ。あとは、本棚とパソコン、液晶タブレットくらい。

 生活するのに必要最低限のものしか揃えていないようで、だから部屋の広さ以上に広く見えてしまったのだろう。

「あー、うんうん。ここに人をあげたのシノちゃんが初めてだから、いろいろと人一人分しか家になくてさ」

「そうなんですね」

「いつも学校に泊まってるし、ここにいる方が少ない週もあるんだよね」

「ちょっと待っててね」と部長さんは椅子から立ち上がって、廊下へと歩いていく。

 一人取り残されて、出された飲み物に口をつける。
 さっき注意されたばかりではあるのだが、また部屋の中を見回す。

 壁紙やカーテンも、備え付けのものから変えていないようだ。
 そしてそのどちらも白色で(テーブルも椅子も白を基調としているもので)、物の少なさも相まって、部屋全体が白っぽく見える。

 例えるならビジネスホテルのシングルルームだと思う。それくらい簡素で、漂う雰囲気に僅かな物寂しさを覚えた。


969: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/01/31(水) 17:59:33.91 ID:bbAsJ8Or0

 数分して戻ってきた部長さんは、制服から私服に着替え右腕でボストンバッグを抱えていた。

「私ちょっと多くなっちゃったけど、シノちゃんはそれで大丈夫なの?」

「着替えだけ入ってればとりあえずは」

「胸元緩い服とか着ちゃ駄目だよ?」

「それ、部長さんの方が気をつけるべきだと思いますよ」

 などと会話をしていると、彼女はさっきまでと違って私の隣の椅子に腰掛ける。

「なんですか」

「……んー?」

 小首をかしげつつ椅子をずずっと引きずって、一人分くらいあったスペースを詰めてきた。

「……ちょっ、近くないですか」

「えー、なに?」

 聞こえてないよー、というジェスチャーとともに身体を寄せられて、左肩を掴まれる。もう片方の手は、私の顔へと近付いてきて、長い指先で頬に触れる。


970: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/01/31(水) 18:00:36.08 ID:bbAsJ8Or0

 そして彼女の顔もまた、すぐ近くへと迫る。反射的に瞳を閉じてしまう。

 家。二人きり。初めて。初めて?
 ……いや、え? こんなところで?

 余計な思考がぐるぐる回る。
 頬を撫でていた指が、這うようにして下へ下へと移動する。

 不思議と嫌じゃないのは、やっぱり私が単純だからなのかな。
 それとも……、ってなに考えてるんだろ。馬鹿じゃないの。

 首筋にひんやりとした手が触れ、驚いて仰け反りかけた身体をさっと抱えられる。
 息を止めて、飲み込んで、もういいかなと待っていたのだが、そこから一向に動きがない。

 薄目を開けると、前屈みの部長さんの顔が、触れるか触れないかの位置にまで近付いてきていて、私にくすくすとした笑みを向けていた。

「……あの」

「……されたい?」

 なっ……。

「……わけないです」

「ん、そっか」

「……へんたい」

「……なにもしてないよ?」

 目を完全に開くと、身体を解放される。椅子の位置はそのままで、正常な距離感を取り戻す。


971: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/01/31(水) 18:01:22.56 ID:bbAsJ8Or0

「でも、いいのかなー? こういう密室に、ホイホイついてきちゃって」

「そのセリフって、こういうことする前に言うものじゃないですか」

「あはは、ナイスツッコミ」

 再び近付いてこようとする部長さんを、両手を前に突き出して制する。
 心臓に悪い。これ以上は無理。

「それにしても、さっきから顔真っ赤だけど」

「……」

 たしかに、全身が熱い。

「この部屋暑い? 飲み物のお代わりいる?」

「……だれのせいだと」

「ええっ、私のせい? もしかしてドキドキしちゃった?」

「してないです。……そんなの、ありえないですから」

「んー、ありえないとまで言われちゃうと、ちょっと悲しくもなるのですが」

「知りません」

「……ツンデレ?」

「デレたことなんて一度たりともないです」


972: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/01/31(水) 18:01:57.37 ID:bbAsJ8Or0

「でも仮にツンツンだとしてもかわいいから許せちゃうんだな、これが」

「ツンツンもしてないです」

「そんなに睨まれながらだと説得力に欠けるなあ……」

「……」

 もはや何を言っても返されてしまいそうな気がする。

 立ち位置がおぼつかなくなるくらいなら黙っていようと目を伏せたところで、
「さて」と狙いすましたように部長さんは呟いた。

「もう学校戻る?」

「……どちらでも」

「実際問題あんまりゆっくりもしてられないし……どうしようね」

 とは言うものの、部長さんの手提げ鞄には液晶タブレットが入っていて、
 目と鼻の先にはスタンドに取り付けられたいつものよりも大画面のものがある(併せて何円くらいするのだろうという疑問は──すごく高そう)。

 だからきっと、部長さんは自分の都合ではなく、私の都合を気にしてくれている。

 部室には、当然人がいる。
 未来くんと、ソラくんと、萩花先輩となうちゃんももしかしたら。


973: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/01/31(水) 18:02:25.44 ID:bbAsJ8Or0

 部長さん以外の誰かがいると困るってわけではないけど、まだ正式にそうするとは決めていないから、不用意に曝すようなことはしたくない。

「渡したものはどうなってますか?」

「んと、午前中あんまり時間取れなくて、でも半分くらいは目を通したよ」

「そうですか」

「ここで残りを見てから戻ろっかなって思ったんだけど」

「……そうですか」

「シノちゃんさえよければ、ね?」

 確認するように言って、彼女は鞄から一冊のノートを取り出す。

 私が朝に渡した、ここ数ヶ月に渡って手慰み目的にいろいろな用途で使っていたもの。

 見てほしいと、読んでほしいと渡したのではあるが、てっきりもう見終えてしまっているとばかり思っていた。
 どことなくそわそわする気持ちがずっとついて回っていたのは、このせいだろう。

 彼女の言う通り見終わっていないのなら、かなり魅力的な提案だ。


974: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/01/31(水) 18:02:58.95 ID:bbAsJ8Or0

「でも、それだと……」

「うん。シノちゃんはちょっとだけ暇になっちゃうかも」

「……なら、私寝てますよ」

「駄目だよ!」

「さっきからすごく眠たくて……」

「嘘おっしゃい! せっかくこうして隣に座ってるんだから、シノちゃんは読み終えるのをちゃんと待ってるべきだよ!」

「うぐっ……」

 そう。私が書いたものを読んでいる姿を見ていなくてはならない、という簡単かつ重大な点を除いて。

「……や、でも」

「私のこと、人の作品を茶化したりするように見える?」

「……」

「……」

 目が合う。なぜかすぐに逸らされた。

「どうしたんですか?」

「なんか、自分で言ってて説得力ないなって」

「え、いや、そこは自信持ってくださいよ。その、創作については、いつものちょっかいとは違うってさすがにわかりますから」

 今でさえ怖いのだから、不安を煽る言い方はやめてほしい。


975: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/01/31(水) 18:03:45.65 ID:bbAsJ8Or0

「じゃあ、読んでもいい?」

「……」

「沈黙は肯定と受け取っちゃうけど」

 ずるい。というか酷い。だってこんなの、イエス以外の解答なんてないじゃん。

 どのみち半分はすでに読まれていて、しかも、彼女が絵を描く姿をいつも隣で見ていたのだから、ここで私が渋るのはフェアじゃないというのはわかるけど。

 ……もうどうしようもないな。彼女の優しさに甘えてはいられない。

 私が、私の意思で、決めたことだから。お願いしたことだから。
 私の身勝手な都合を、何度も何度も押し付けるわけにもいかないから。

「……わかりました」

 それに、これを本当に部誌に載せるのなら、つまり、もっと大多数の人の目に触れるのなら、今のうちに慣れておくのが最善かもしれない。

 と、どうにか自分を納得させることにした。


976: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/01/31(水) 18:05:16.64 ID:bbAsJ8Or0

【分岐】

「それって、納得できないからなの?」

 描いては消してを繰り返し、手が止まった際に彼女に視線を向けると、そんな言葉が返ってきた。

「ちょっと戻してみて」

「線をですか?」

「うん」

 ファンクションキーを操作して、さっきまで描いていた絵を画面に戻す。
 ネームを透かしたものの上から描いているのだから、そうおかしくはならないのだが、それでもなぜかうまく先へ進めずにいた。

「……どう? 自分でもう一度見てみて、どこが嫌で消したかわかる?」

 問われて、戻した線を隈なく見る。
 なんてことのない線の集合。……けれど、これまで描いていたものより、少しだけ歪な気がする。

「すみません。何となく、としか」

「うんうん、そんな感じだよね」

「……」


977: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/01/31(水) 18:05:48.03 ID:bbAsJ8Or0

「一言で言うと、線にね、迷いが出てる」

「……そういうのって、やっぱりわかるものですか?」

「うーん……どうだろうね。白石くんの線が、すごくわかりやすいのもあると思うけど」

「けど?」

「絵描きなら誰しも通る道っていうか、私もそういう経験はあるから、
『あ、もしかしたらこうなのかもなー』って感じるんだと思う」

「なるほど」

「そんでさ、今の話を踏まえてもっかい訊くよ。
 何度も消した理由は、線の一本一本に納得がいかないから? 満足できないから?
 それとも、何か別の理由があるの?」

 ……どうなんだろう。
 みんなに起こり得ることというのなら、それ相応に解答にも幅があるはず。
 
 納得していないわけでもない。
 満足していない……わけでもない。

 いや、100%完全に満足してるわけでもないけれど──この程度で満足とか鼻で笑われるかもしれないが──許容できないわけでもない。むしろ大いに許容できる範囲だと思う。


978: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/01/31(水) 18:06:15.83 ID:bbAsJ8Or0

「自分で言うと変かもしれないですけど、悪くはないとは思うんですよ」

「私も悪くないと思うよ」

「……でも、良いかって言ったら、それはまた別の話じゃないですか」

「うん」

「それで──」と続けようとしたが、その先の言葉が見当たらない。

 良くないから、描き直した。
 それって、"納得できていないから"/"満足できていないから"、と同じ意味なのではないか、という考えがよぎって。

 次に浮かんだ可能性は"人に見られることを気にしたから"なのだが、これはまずないだろう。

 これまで描いていた時には、上手さの面で他者を気にすることはあっても、それが今の実力なのだから考えたところで仕方がないと思っていて、今もそう思っている。
 そもそも絵を描き始めて日が浅いというのも、その考えの裏付けというか言い訳になってはいるのだが、ここでは特に関係はないだろうと思う。

 答えあぐねる俺に対して「こういうのはかなり大事なことだから、あまり適当なことは言えないんだけど」と萩花先輩は前置きする。


979: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/01/31(水) 18:06:48.81 ID:bbAsJ8Or0

「絵に関しての判断基準が磨かれたってことじゃないのかな?」

「判断基準……?」

「そう。つまり、絵がちょっとずつ上達するにつれて、許せる範囲の下限が上がっていってるってこと」

「あー……」

「範囲の上限はみんな気にするから、レベルアップしている自覚がなくても、数をこなすうちに何となく成長してるって感じられる部分があると思うの。
 でも、下限は曖昧にでも頭の中で線引きできちゃうから、その自覚をしてないと、『違くないはずなんだけど何か違う』みたいな、うまく言い表せないモヤモヤになっちゃう」

 ああ、なんかすげえしっくりくる。

 簡単に言うと、原因は頭と手の"ズレ"だ。判断基準の変化に、手がついていけていないんだ。

「どうかな……違ったかな?」

「いえ、合ってます合ってます。多分萩花先輩の言ったことそのままです」

「なら良かった」と先輩は少し嬉しそうに頷いた。


980: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/01/31(水) 18:07:21.08 ID:bbAsJ8Or0

「……なんていうか、こういうのはさすが胡依ちゃんだなーって感心する」

「胡依先輩?」
 
「うん。ほら、ぜひとも漫画を描きなって言ったじゃない」

「ですね」

「きみは真面目なタイプだし、遅かれ早かれこうなることがわかってたから、描かせようとしたんだろうね。
 私は単に、絵柄の好みとか、描き方のバリエーションを増やすためにそう言ったのかと思ってたけど、ちょっと違かったみたい」

「……」

 また話がぶっ飛んだのは気のせいか。

「白石くんがこれまで描いてたものと違って、漫画にはストーリーが必要不可欠じゃない」

「まあ、はい」

「だから、その分余計に迷いが生じるんだよ」

「……それってつまり?」

「うん。胡依ちゃんが悪どいって話」


981: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/01/31(水) 18:07:50.98 ID:bbAsJ8Or0

 一枚で完結する絵との相違点は、そのコマに至るまでの流れや文脈があることだろう。
 経験したことのないレベルで自分の絵が歪に見えたのは、無意識のうちに以前のコマに引っ張られてしまっていたこともあるかもしれない。

 これまで流れに沿って描こうとしてこなかったから、一枚一枚、ここでは一コマ一コマがぶつ切りに見えてしまう。
 だからと言って全描き直しをするわけにもいかないし、したところでもっと良い絵になるという保証はどこにもない。むしろ考えすぎで悪化する可能性もなきにしもあらず。

 ……少し考えただけでもまずいな。

「こういう時の解決策って、何かあるんですか?」

 到底自分では思いつきそうにないから、ただただ訊ねる。

「一つは、自分の感覚を無理やり信じること。……もう一つは、自信がつくまで理論を学んで、試行錯誤を繰り返すこと」

 でも、と彼女は続ける。

「前者は私としては薦めたくないし、後者はそもそも今からじゃ絶対間に合わないんだよね」

 こんな講釈を垂れてる私だって学んでる最中だし、と。


982: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/01/31(水) 18:08:41.47 ID:bbAsJ8Or0

「じゃあどうすれば……」

 選択肢すらもないとなれば、と藁にもすがる思いから出た言葉だった。
 が、それも、

「もう諦めるしかないんじゃない?」

 という言葉ですぐに崩壊する。

「……え?」

 僅かにも想定していなかった第三の選択肢を提示されて、思わずまぬけな声を上げてしまった。

「……あ、違うの違うの。描くこと自体を諦めるんじゃなくて、無理に落としどころを見つけようとするのを諦めようよって言いたいの」

「……すみません。もうちょっとわかりやすく言ってもらえませんか」

 言うと、萩花先輩も説明不足と感じていたのか、自分の頭を数回小突いた。

「『これくらいならいい』みたいな意識を持たないようにして、描いちゃったものについては、割り切らずに諦める。要らない希望は捨てる!」

「……」

「だって、ポジティブな割り切りは『もしかしたら』に繋がるに決まってるんだもん。
 割り切るにしてもとことんネガティブに。……は難しいだろうから、最初から諦めちゃいなよ」

「はあ……」

「まずは描ききって、それから明らかなミスから順繰りに修正を入れていこう。
 とりあえずは、細部をあまり気にしないで、一枚絵を描いてる時みたいに楽しんで描きていきましょう」


983: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/01/31(水) 18:09:15.08 ID:bbAsJ8Or0

 とまあ、ここまで言い切られてしまうと、考えなしに(とは思いつつもまた考えてしまっている)頷きそうにはなるのだが。

「めちゃくちゃに酷いものができるかもしれないですよ」

 あ……、と発してから気付く。
 どうやら、この思考が萩花先輩の言う"希望"の正体らしい。

 同時に、胡依先輩に言われたことを思い出す。
 理想を現実に落とし込むことが何より難しくて、けれど、とても大切なことなのだと、彼女は言っていた。

 口元に手を当てる俺に、先輩は椅子から立ち上がってにこりと笑う。

 そして──

「それでもね、完成しないよりは何倍もマシに決まってるよ。
 せっかくここまで頑張って進めてきたんだから、それを『描きたいって口では言うけど全く描かない人』とか、
『実力不足で……向き不向きが……って一生悩んでる振りをして逃げてる人』と一緒にされたら、すっごく悔しいじゃない!」

 と多方面に喧嘩を売りそうなセリフを、身振り手振りサイドポニー振りで熱く語った。

「まあ……そうですね」

「もどかしい部分は、また次に描けばいいの。何か一つでも完成まで持っていけば、きっと見える世界も変わってくるよ」

 わかりました、と頷くと彼女は満足したように両手で握りこぶしを作った。


984: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/01/31(水) 18:09:57.69 ID:bbAsJ8Or0

 胡依先輩と同じで、やはり絵に対しては殊更真摯な人なんだな、と思う。
 それぐらい本気で絵に──自分自身に向き合っているから、こうして彼女たちは俺に言葉を掛けてくれる。

 けれど、俺は……。
 俺には、本気になれる何かがあるのだろうか。あっただろうか。
 続けていけば、いつしか見える世界は変わるのだろうか。

 ──あたし、がんばれてるかな?

 そうこう考えているうちに、なぜか佑希の顔が頭をよぎった。

 彼女は、どうなのだろう。
 俺とは正反対に、彼女はいつだって手を抜かずにやり続けてきた。

 そんな彼女に掛ける言葉が、俺にあっていいものなのだろうか。

 けれどもし、昨夜思い至った可能性が正しいとすると、俺以外に、誰が彼女に言葉を掛けられるのだろうか。

 変えたい、と思った。
 変わってほしい、とも思った。

 変わってほしくない、と思っていたのは、
 どこかで希望を捨てきれていなかったからだ。

 自分か、彼女か、
 二つに一つだ。

 だから、諦めてしまおう。希望なんて、いつまで経っても希望でしかない。
 それに、選びたい選択肢と、選ぶべき選択肢は同じだ。

 "いつか"を待っていたって、何も変わらない。

 俺はきっと他の誰よりも、俺自身と向き合わなければならない。


985: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/01/31(水) 18:10:59.43 ID:bbAsJ8Or0

【幸か不幸か】

 読み終えるのを待っていて、と言われても、それはそれで手持ち無沙汰になってしまう。

 お菓子に手をつけて、飲み物に口をつけて、じいっと部長さんを見つめて……やっぱり数秒持たずして目を背けて。

 掛け時計のチクタク鳴る音は普段と変わらないはずなのに、その進みはやけに遅く感じる。

 それくらい落ち着かないし、恥ずかしい気持ちだってもちろんある。

 でも、誰かに絵を見られたときとはまるで違っている。
 あのときは、単純に嫌なだけだった。自分のどうしようもない内側を不用意に曝してしまっているようで、どうにかして隠してしまいたいと思っていた。

 だけど、これはどうなんだろう。

 手段が違うから、なのかな。
 絵で怖いのだから、文章ならもっととばかり思っていたのに、それほど怖いとは思わない。


986: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/01/31(水) 18:11:29.41 ID:bbAsJ8Or0

「これで終わり?」と声が聞こえて、すぐ横へと目線をずらす。
 また近い。……が、動揺を見せないようにしなくては。

「終わりじゃないです」と平静を装って答えた。
 部室での距離感と変わらないのに、なぜかそうは思えない。さっきのことが尾を引いている。

「もっと続くってこと?」

「……いえ。あと一つ書けば、とりあえず終わりの予定です」

「おー、そっかそっか」

 彼女が持つノートに記されているのは、全十一編の小説のうちの十番目まで。
 そこそこ長くなっているから、掌編というよりも、短編やショートショートと称すのがちょうどいいだろう。

「それで、どうでしたか?」

 本題はそれでないにしろ、一応訊いてみることにした。
 書いたものについては、自分ではどうとも思えない、客観視しようにも主観が入り混じってしまう、と思ったから。

「おもしろかったよ」

「そうですか」

「……あ、嬉しそう」

「……まあ、はい。ありがとうございます」

「どういたしまして」


987: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/01/31(水) 18:12:18.67 ID:bbAsJ8Or0

 おもしろかったらしい。部長さんにとっては。
 じゃあ私にとってはどうなのかと再度考えたが、やはりどうとも思えなかった。

 最低限の文章作法。一人称。簡素な文体。会話はほとんどせずに、語り手がつらつらと出来事を語るだけ。

 物語設定にもこれといった工夫やこだわりはせずに、登場人物の二人に名前をつけていない。まず考えてすらいない。
 描写したのは、身なりや背丈のおおまかなイメージと、場面場面の服装くらいで、かといってそれを気に留める人なんていないだろう。

 絶対に必要というわけではないと思った部分は徹底的に排除した。
 というのも、ひとたび何かを書けば、それまでの一本道が枝分かれするように広がってしまうような気がして、
 それで迷いが生じるくらいなら、初めから書かないことを選んだ。

 だから、おもしろさは全くと言っていいほど意識しなかった。ただ何となく書き始めて、ただ何となく終わろうとしているだけのことだ。

 とまあ、"おもしろい"と言われたことが気にはなったのだが、自分の書いたものを褒めてくれるなんて、掛け値無しにありがたい話で、だから素直に嬉しいとは思っていた。

 そして、それはやはり絵のときとは違っていて、驚きつつもほっとしている自分がいることに、少しだけ自己嫌悪した。


988: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/01/31(水) 18:13:06.94 ID:bbAsJ8Or0

「ラストはどうなるの?」

「ラスト……」

「うん」

「どうなるって……どうなるんですかね」

「決めてないんだ」

「はい。きっと、どう転んでもハッピーエンドにはならないので」

 言うと、納得いかなそうに部長さんは首をひねった。
 説明が足りなかったのだと、私は言葉を重ねる。

「だって、会えなければ普通にバッドエンドですし、仮に会えたら会えたでどうしようもないじゃないですか」

「どうしようもないってのは?」

「たとえば、会えて、気持ちを伝えて、二人でずっと一緒にいることを選んだとしても、それでも根本的な問題は何も解決していないんです。
 幸福の度合いをグラフで表すなら、冒頭からずっとマイナスで、多少上下することはあっても、終わりまで一度もプラス側になることはないんです」

「うん」

「気休めの幸せは、緩やかに、でも確実に不幸せへと移り変わっていくはずです」

「それを、ハッピーエンドと呼べるのか、ってことね」

「そうです」


989: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/01/31(水) 18:13:41.37 ID:bbAsJ8Or0

 書いている途中は、会えて、ちゃんと想いを伝えて、二人が幸せになっておしまいにしようと考えていた。
 それが理にかなっているだろうし、私としてもそうあってほしいと思っていた。

 けれど、ラストを書くにあたってそれまでの文を読み返していると、それでは駄目なのだと気付いてしまった。
 
『私』と『彼女』は双方ともに解決できない問題を抱えていて、それをどうにかしない限りは、本当の意味での幸せが訪れはしないだろう。

「シノちゃんはさ、駆け落ちはハッピーエンドだと思う?」

 考え込みそうになったところを、部長さんの声で引き戻される。
 そういえば、読み始めてから今に至るまで、彼女はずっと真面目な表情をしているように思える。

「状況によりますね」

「じゃあ、駆け落ちしたところで話が終わって、それきり続きがないとしたら?」

「えっと、それは少なくともハッピーではないと思いますけど」

「んー、その二人がMAX幸せだとしても?」

「……まあ、そうなりますね」

「そっか」と部長さんは何度か頷いたあと、なぜか楽しげに笑った。


990: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/01/31(水) 18:14:23.68 ID:bbAsJ8Or0

「私は、それもひとつのハッピーエンドだと思うな」

「どうして?」

「んと、それでバッドエンドだと思うのは、こっち側、つまり読者側の意見じゃない。
 だから、当人たちがスタート地点よりもちょっとでも幸せになれてれば、それはハッピーなんじゃないかなって」

「……」

「べつにさ、見る人によって解釈が違くなっても悪くないんじゃないかな?
 ほら、前にも言ったじゃない。こういうのは見る人に任せればいい、って」

 そう言われてしまうと、私は答えに窮する。
 現にこうして解釈違いが起こっているのだし、部長さんが間違っているとは思わないけれど、だからといって合っているとも思わない。

「まあ、あとはシノちゃんの判断に委ねることになるんだけど」

「……」

「ラスト、楽しみにしてるから」

「……はい」

 書けるかどうかはわからないが、とりあえず書いてみるしかないか。

 目下の目標は、どうにかハッピーエンドになるように。バッドエンドは、あまり見てても書いてても気分の良いものじゃない。
 それでもなってしまったら、それは方向修正をうまくできなかった私のせいだということにしよう。

 初めてだ。失敗はつきもの。
 ……しないに越したことはないけれど。


次回 追われてます!'