1: ◆54DIlPdu2E 2015/03/16(月) 21:27:48.35 ID:/hCDD+UR0
※以前書いて中断した『BとYとK』の改訂版です※

昔々の物語。とある国、南の港町、初秋の暖かなある日。

商人「今回の旅はまず王都へ、次に北辺都市へ立ち寄ったら、まっすぐ帰るよ」

商人「さて、子供達。お土産は何がいいかな?」

長姉(19)「最新デザインの飾り付き帽子♪」

次姉(18)「大粒真珠のネックレス♪」

長兄(20)「特にないけど…どうしてもと言うなら趣味の木彫用の新しいナイフを」

次兄(16)「なめしていない熊の毛皮……」

末妹(14)「私は何もいらないから、元気に帰って来てね、お父さん」


SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1426508868

引用元: 末妹「赤いバラの花が一輪ほしいわ、お父さん」 (旧タイトル【BとYとK】) 



2: ◆54DIlPdu2E 2015/03/16(月) 21:28:35.59 ID:/hCDD+UR0
長兄「ははは、末妹は本当に欲がないな」

長姉「ふん、何よ、またいい子ぶって!」

次姉「お父さんに一番可愛がられているからって、調子に乗んじゃないわよ!」

商人「はっはっは、子供のくせに遠慮するんじゃない」

商人「赤珊瑚の指輪、ガーネットの耳飾り、何をねだっても構わんぞ」

末妹「それじゃあ…お花」

末妹「赤いバラの花が一輪ほしいわ、お父さん」

商人「わかった。赤いバラだな? きっ持ち帰るよ」

商人「では出かけるぞ。みんな留守を頼むよ」

商人「さあ愛馬、馬車をしっかり引いてくれ」ピシッ

馬「ひひーん!」

3: ◆54DIlPdu2E 2015/03/16(月) 21:29:29.02 ID:/hCDD+UR0
数日後、北辺都市から少し離れた土地、商人は帰途についていた。

商人「どうにか仕事も順調だったし、帽子とネックレスは王都で、木彫ナイフは北辺都市でいい物が見つかった」

商人「熊の毛皮は少し苦労した…どちらの街でも、毛皮工房にさえ在庫がなくて」

商人「北辺都市の郊外の村で、ちょうど家畜を襲った熊が仕留められた話を聞き」

商人「仕留めた猟師から買い取ったのだが…加工していない毛皮は本当に臭いな……」

商人「末妹のバラの花だけは、最盛期ではないためか、どこの花屋でも品切れ…困ったなあ」

商人「……おや、こんな森の中を通るのはおかしいな? まずい、一旦馬車を止めよう…どうどう」

馬「ひひん?」 ピタッ

商人「困った。夜中なのに、本格的に道に迷った…しかも人家が見当たらない」

商人「そう言えば…子供の頃に聞いた言い伝えでは、北の国境付近には……」

商人「近隣の人々が決して足を踏み入れない呪われた森がある、と…」

商人「もしかして、この辺りではないのか?」

わおおーーーーん

馬「ぶひ?ひんひーん!」

商人「馬が怯えている、落ち着いておくれ」

4: ◆54DIlPdu2E 2015/03/16(月) 21:30:06.99 ID:/hCDD+UR0
商人「遠吠えは狼か野犬かわからんが、無人の小屋でいい、少しでも安全な場所を探さないと」

ガサガサッ

馬「ひんっ!?」ビクッ

商人「頭上の梢が揺れている…大丈夫、小さな動物だ。それに、もう行ってしまった」

商人「おっ? 遠くに灯りが見えるぞ。行ってみよう。ハイヨー!」 ピシーリ

馬「ひん!!」

馬車:ガラガラガラガラ……

商人「森の奥にこんなに大きな屋敷があったなんて…もしもし、どなたか……」

呼び鈴:カランカラン

商人「誰も出て来ないが、門は開いている。入ってみよう」

商人「馬は庭木につないで、と。塀が高いから、門を閉めておけば狼だって入れまい」

商人「玄関のカギも開いていて、屋敷の中に入れたぞ。しかし誰にも出会わない」

商人「この部屋からいい匂いがする…温かい料理だ。おや、手紙が置いてある」

手紙『夜道に迷った旅人へ。作り置きのスープと簡単な料理ですが、ご自由にお食べください。料金は取りません』

商人「まるで私が来るのがわかっていたみたいだ。しかし、信用していいものか……」

料理の湯気:ほんわり~

ぐうううううううううううううううう

商人「うう、腹の虫が…馬車には携行食もあるが…我慢できない。いただきまーす!!」

5: ◆54DIlPdu2E 2015/03/16(月) 21:31:17.64 ID:/hCDD+UR0
商人「ふう、美味しかった…ごちそうさま」

商人「豆のスープに温めたパン、できたてのオムレツ、添えてあった野菜も新鮮だ」

商人「どなたか存じませんが、本当にありがとう……」

商人「ん? 皿の下に手紙が挟まっている」

手紙『お腹は膨れましたか? では、この応接間の隣の客間でお休みください』

商人「なんと」

手紙『ベッドは整えてあります。朝までごゆっくり。但し、他の部屋の扉は決して開かぬように』

商人「本当に不思議な話だが、ありがたい。お言葉に甘えて休ませてもらおう」

商人「そうだ、庭につないだ馬は?」

手紙の続き『馬にも水と飼い葉を与えて、休ませています。安心なさい』

商人「至れり尽くせりとはこのことだ。ああ、気が緩んだら眠くなって来た。客間に行くとしよう」

6: ◆54DIlPdu2E 2015/03/16(月) 21:32:01.10 ID:/hCDD+UR0
翌朝……

スズメ:チュンチュン

商人「もう朝か…ふわあ、よく眠れた。おや、枕元にまた手紙が」

手紙『おはようございます。疲れは取れましたか? お目覚めのミルクティをどうぞ』

商人「いつの間に、淹れたてじゃないか。…これも美味いな。手紙の続きは…」

手紙『部屋の片付けは気になさらず、どうかこのままお帰りください』

商人「屋敷の主人に挨拶もしないのは気が引ける。それに、道が……」

手紙『街道に戻るための地図を馬車に置いてあります』

商人「何か人に会いたくない事情でもあるのか? ならば、早々に立ち去るのが礼儀なのだろうな」

馬「ひひひん!」ゴシュジンサマー

商人「お前もゆっくり休めたようだな」ガチャ

商人「本当に地図が置いてある。ポケットに入れて行こう」ガサガサ

7: ◆54DIlPdu2E 2015/03/16(月) 21:33:00.69 ID:/hCDD+UR0
商人「……おや? 昨夜は気付かなかったが、バラの香りがどこかから漂ってくる」

商人「バラ…赤いバラ…末娘への土産……」

商人「だめだ、人様の庭、人様のバラ。しかも、恩人の」

商人「それとも…せめてこの目に焼き付けて、土産話として語ってやろうか?」

商人「そうだ、それがいい。きっと美しく咲いているだろう、見るだけ……」フラフラ

馬「ぶるる…?」トコトコ

商人「すごい、裏庭は一面バラが満開じゃないか!!」

バラの花:色とりどり~

バラの香り:漂い~

商人「あの赤いバラの木はひときわ見事だ、今まで見たことがないほど」

商人「…こんなにたくさん咲いているんだ、一輪、たった一輪だけ折り取るなら……」

商人「心優しいこの家の主人なら、許してくださるはず……」

パ キ ン

8: ◆54DIlPdu2E 2015/03/16(月) 21:34:21.06 ID:/hCDD+UR0
恐ろしい声「グゥオオオオオオオオオオオオオオオ!!」

商人「!?」

馬「ひいん!?」

恐ろしい声「親切の恩を仇で返すか、裏切り者!! 許すわけには行かん!!」

商人「こ、このお屋敷のご主人様ですか!?」

恐ろしい声「暖かい料理と柔らかなベッド、帰路の安全、それでは足りぬと言うか、強欲な男め!」

商人「…あ、ああ、なんて恐ろしい姿の人物だろう……」

馬「ガクガクガクガク」

商人「服を着て、二本の足で立ち、人語を発しているが……」

商人「熊のような巨体、毛むくじゃらの顔と大きな牙、頭の尖った耳、ギラギラ光る紫水晶のような瞳」

商人「…これは人間ではない、獣、荒々しい野獣だ……」

恐ろしい声の主(以下野獣)「今までなぜ姿を現さなかったか、わかるか? 貴様を怖がらせないためだ」

野獣「きっと善良な旅人だろうと、一宿一飯を与えた。なのに…盗人だったとは!」

9: ◆54DIlPdu2E 2015/03/16(月) 21:35:12.12 ID:/hCDD+UR0
商人「ゆ、許してください、いえ…申し訳ありません、お屋敷のご主人様……!」

野獣「土下座しても遅いわ! 貴様が手折った大切なバラ、その命で償ってもらう!」

商人「わ、私の命でよいのなら差し出しましょう……」

商人「しかしその前に一度だけ…家に帰らせてください」

野獣「たわけた事を!」

商人「い、家には5人の子が私の帰りを待っています」

商人「最期の別れとして、一目会いたいのです……」

野獣「ふん、残念ながらお前の妻はこのまま子持ちの未亡人となろう」

商人「私の妻…子供達の母親は、何年も前に亡くなっておりまして」

商人「特に末の娘は14になったばかり、父親までこのまま帰らなければ、どんなに悲しむ事でしょう……」

野獣「……」

10: ◆54DIlPdu2E 2015/03/16(月) 21:36:17.53 ID:/hCDD+UR0
商人「私は商人、南の港町で雑貨店を営んでおりますが、末の娘は看板娘として皆から愛されております」

商人「それもあの子が働き者で人懐っこい、心の優しい、謙虚な娘だからです」

野獣「この私に、両親とも失う娘を哀れんでもらって、解放されようという算段か? はっ、流石は商売人だな」

商人「…お洒落に目覚める年頃になっても、ドレスや宝石など一度もねだったことのない子」

商人「今回も、お土産には赤いバラ一輪を、と……」

野獣「…その娘のためのバラだったのか?」

商人「は、はい。それも、最初は私が無事に戻れば何もいらない、と言ったのです」

商人「どうしても土産を持ち帰ってやりたくて、無理にねだらせたのは私です」

野獣「親の自己満足だな。全く、人間というものは……」

商人「返す言葉もございません……」

野獣「よかろう。一度家に帰るがいい」

商人「ほ、本当に!?」

野獣「しかし、条件がある。その娘を伴って、ここへ戻って来るのだ」

商人「えええっ!?」

商人「な、なぜです、私の代わりに、娘の命を奪うと仰るのですか!?」

11: ◆54DIlPdu2E 2015/03/16(月) 21:38:14.95 ID:/hCDD+UR0
野獣「14年しか生きてない子供の命を奪ったところで、何の埋め合わせにもなりはしない」

野獣「私にとって、必要なのは生きている娘、意味があるのは娘の今後」

商人「そ、そ…そ、それは、つまり…つつつつつ、妻に娶りたいと、そういう意味ですか!?」

商人(女の子には殺されるより恐ろしい話じゃないか……!)

野獣「………………」

野獣「……私の目的を……貴様に説明してやる義務なんぞ、これっぽっちも、ない」

野獣「私にお前が殺されるか、娘を差し出すか、貴様はただどちらかを選ぶだけだ」

商人「く、くうううう……」ギリギリ…

野獣「戻ってくる時には、狩人や兵隊…お前の子以外の人間を連れて来てはならんぞ?」

野獣「私は魔法が使えるからな、そんな連中はどうにでもできるのだ」

商人「ま、魔法……。ぜぜぜ絶対そんなことはしません!神に誓って!」ガタガタ

野獣「では期限を決めよう。家は南の港町と言ったな」

野獣「では、5日後までに必ず来るように。これだけあれば充分だろう」

12: ◆54DIlPdu2E 2015/03/16(月) 21:39:23.50 ID:/hCDD+UR0
商人「さすがに無茶です! どんなに馬を急がせても片道で二日、いやそれ以上かかりますよ!?」

野獣「罪なき馬を酷使しろとは言わぬ」

野獣「私の魔法の地図に従えば、二日かかる道なら二時間で着く。そして……」

野獣「…上着のポケットに地図が入っているな? 手間が省けた」ポワーン

商人(…? 何が起きたんだ?)

野獣「後日ここに戻って来る時も使えるよう、追加の魔法をかけたのだ」

野獣「私の地図を信じなければ何日かかるか、いや、辿り付く事も不可能だろう」

野獣「で、期限までに戻って来なければ…どうなるか、察しはつくな?」

商人「……」

野獣「貴様にかける最後の情けだ。裏切るでないぞ?」

商人「…はい…承知致しました……」

野獣「あと、バラはそのまま持って行け。二度と元の木には戻れないのだからな」

13: ◆54DIlPdu2E 2015/03/16(月) 21:40:40.18 ID:/hCDD+UR0
それから数時間後。

馬の足音:闊歩、闊歩…

商人「困ったことになった……」

商人「子供達に…末妹にどう言えばいいのか……」

商人「…野獣のくれた地図、これ自体には、大きな道以外はまともに地形が描かれていないのに」

商人「動く赤い点が浮かんで道を示してくれる。本当に不思議な地図なのだな」

商人「…そして、野獣が魔法を使えるのも本当だ……」

商人「南の港町へ続く街道が目の前に…本当に二時間ちょっとしか経っていないぞ」

商人「お、赤い点が勝手に消えた」

商人「行きずりの旅人に、親切にしてくれた上、こんな珍品を渡してくれたのか」

商人「なのに、ああ…私はなんという愚かな事を……」

商人「家まであと少しだが、こうも足取りの重い帰宅は初めてだ……」

馬「ひん……」ションボリ

馬車:ガラガラガラガラ……

14: ◆54DIlPdu2E 2015/03/16(月) 21:41:41.06 ID:/hCDD+UR0
同日、南の港町、商人の家。

長兄「ええっ、またその屋敷に戻るって父さん!? しかも末妹を連れてなんて!」

長姉「末妹のせいよ! あんたがそんなもの欲しがるから!」

次兄「…あああ、まだ脂の残る熊の毛皮…むせかえる獣の臭い…堪らないよお」クンカクンカスーハー

次姉「あんたは相変わらずね、変態弟……」ケーベツ

末妹「お父さん、私をそこに連れて行って。お父さんが死んでしまうより、ずっといい方法だもの」

長兄「末妹、何を言うんだ! 俺が行くよ、父さんと二人で屋敷の主人を説得しよう」

長姉「あーウザい、末妹の偽善者発言が始まった」

次姉「行けば最後、帰りたいと泣いても通用しないのに、バカな子」

商人「しかし、約束を破れば私だけじゃない、お前達もどんな目に会うか……」

商人「何しろ相手はヒトではない、不思議な魔法の力を使う野獣なのだから」

次兄「…野獣?」ピクッ

次兄「父さん、屋敷の主人とは、人間ではなく、獣なんですか!?」ずいずいずい

商人「次兄よ、近い近い…あと獣臭い、毛皮を置け」

商人「…どんな決断をするにせよ、もっと詳しく話す必要があるな。実は……」

15: ◆54DIlPdu2E 2015/03/16(月) 21:42:23.77 ID:/hCDD+UR0
~かくかくしかじか~

商人「…という訳だ……」

長兄「やっぱり俺が末妹の代わりに行くよ。銃も持って行こう、野獣を倒してやる!」

次姉「だめよ、兄さん! お父さんだけじゃなく兄さんまでいなくなったら!」

長姉「そうよ、姉妹とこんな弟とだけ家に残されても、今までのように生活できない!」

商人「既に私は恩を仇で返して野獣を裏切ってしまった、もう約束は破れない」

商人「だが…その上でもう一度、野獣と話し合ってみよう」

末妹「私はもう決意しています。約束通り、お屋敷に行きましょう」

商人「約束は破れない、破れないが…お前のような小さな娘を…私はどうしたら……」

末妹「やだ、お父さん。私が小さいのは見た目だけで、もう14よ、知っているでしょ?」

末妹「それに私、頑固よ。行くって決めたらもう譲らないんだから!」

商人「…父さんには充分過ぎるほど小さいよ…末妹」ギュウ

次兄「一緒に行きます、お父さん、末妹!!」

商人「次兄!?」

末妹「お次兄(にい)ちゃん!?」

次兄「…野獣は末妹を連れて来いとは言ったけど、二人だけで、とは言ってないんだろ?」

次兄「それに父さんの子供以外の人間はダメだと言うなら、俺が同行しても約束破りにはならない」

次兄「相手の約束事にうるさい性質を逆手に取るんだ」

長兄「そうだけど…だったら長男の俺が……」

次兄「長男だからこそ家に残ってくれ。姉さん達を頼むよ!」キリッ

16: ◆54DIlPdu2E 2015/03/16(月) 21:43:42.31 ID:/hCDD+UR0
次姉「家にほぼ引きこもりで体力もない、ガリガリのドチビのくせに」

長姉「一日中毛皮を弄んで動物の絵ばかり描いている次兄が、何の役に立つんだか」

長姉「それにしても…その魔法を使える野獣だか怪物だかは、末妹をどうするつもりかしら?」

次姉「姉さんそれはアレよ。娘を連れて来いって事は嫁に寄越せって話」

長姉「あー……」ナルホド

長姉「でも、それが見た目10歳の小便臭いチビっ子じゃあ…怪物だって期待外れよね」

次姉「気に入らなければ胃袋に直行でしょ、ましてや余計なおまけの次兄は」

長姉「だけど約束を破れば家族皆にも危険が及ぶのなら、どうしようも無いわよ…ね?」

次姉「どうしようも無いわ。それとも姉さん代わりに行く?」

長姉「とんでもない!! なんで私が!?」

長姉「だいたい末妹がバラなんか欲しがったからでしょ!!」

次姉「そう、だから他に道はないの」

次姉「前向きに考えるの。引きこもりで変人の次兄とガキんちょの末妹がいなくなるのよ」

長姉「あ、家計の使い処が減った分、こちらに余分に回って来るかも」

次姉「その通りよ」

次姉(それに…お父さんの関心もね)

次姉「お嫁に行くまでは、それなりに良い暮らし続けさせてもらいましょ、私達……」

17: ◆54DIlPdu2E 2015/03/16(月) 21:45:21.85 ID:/hCDD+UR0
あれよあれよと日は過ぎ出発前夜、末妹の部屋。

長兄「末妹…荷造りは済んだか?」

末妹「あまり多くの物は持っていけないと思うの。カバン一つ分だけよ」

末妹「お母様が私に直接くれた十字架は持って行くけど」

末妹「他のアクセサリーは…前から欲しがっていたお姉さん達にあげて?」

末妹「これもお母様の形見だから、お姉さん達がこれからも使ってくれた方がいいと思うの」

長兄「あの二人の事まで気遣って…そもそも、お母さんの形見なら公平に分けられた物なのに欲しがるなんて」

長兄「おまけにこんな日に、男爵家のパーティーに出かけるとは……」

末妹「前から楽しみにしていたもの、仕方ないわ」

長兄「これも持ってお行き。俺が作ったものだが、お守りにしてくれ」

末妹「木彫りの聖母様の像…ありがとう!」

長兄「…お前の友達にお別れする時間は取れなかったなあ」

末妹「うん…だからね、お友達みんなに手紙を書いたの」

末妹「『遠い親戚のお家にしばらく行って来ます』って、これなら心配かけないでしょ?」

末妹「それぞれ宛名を書いた封筒に入れたから、お願い……」

長兄「ああ、みんなに渡してあげるよ」

18: ◆54DIlPdu2E 2015/03/16(月) 21:46:01.72 ID:/hCDD+UR0
次兄「兄さん、俺は毛皮…死んだ毛皮を卒業する」 ヌッ

末妹「お兄ちゃん」

長兄「唐突になんだ次兄」

次兄「動かない毛皮のコレクションより、もっと素晴らしいことを始めたいのさ」

次兄「言わばそれは昨日までの自分との決別。少年から大人に変わる男の決意の表れだ」

長兄「…よくわからんが、末妹のため勇気を奮い立たせてくれたお前を尊敬しているよ」

次兄「奮い立つのは勇気だけじゃないけどね。とにかくこれを受け取ってくれ」

長兄「お前が今まで溜めこんだ毛皮?」

長兄「…一番新しいはずの熊の毛皮…腐敗臭が混じってきてないか……?」

次兄「その毛皮だけは加工していないので仕方ない」

次兄「しかし工房に頼めば、防寒具か何か作ってもらえるだろう。本来の目的に役立てるべきだ」

長兄「わ、わかった。有効に使わせてもらうよ」

腐りかけの毛皮:臭気ぷ~ん

長兄「…オエエ」

長兄「…次兄は人付き合いは苦手だが、色々な本をたくさん読んで、そのせいか妙な所で(だけ)頭が回る」

長兄「きっと俺には思いもよらない事を考え付いて、末妹の助けになるだろう」

長兄「末妹を頼んだぞ」

次兄「まかして」

19: ◆54DIlPdu2E 2015/03/16(月) 21:46:47.31 ID:/hCDD+UR0
そんなこんなで、翌朝。親子3人は野獣の屋敷に向かった……

野獣「期限いっぱいだが、約束は守ったな、商人。まずお前ひとりが降りるんだ」

商人「……」ガチャ

野獣「娘を連れて来たのだな? 泣いて嫌がったか、それとも騙して連れて来たのか」

商人「ここでの出来事を子供達には説明しました、その上で末妹…連れて来た娘は……」

商人「私や上の息子が止めても、父親が殺されるより良い方法だと、進んで自分がこちらに来る事を選びました」

野獣「健気で父親思いの、良い娘ではないか。よし、馬車から降ろせ」

商人「…さあ、末妹、おいで」ガチャ

末妹「はじめまして、お屋敷の御主人さま……」

野獣「ふ、しっかりした少女だ。それにこの愛らしさ、将来さぞかし美しくなるだろう」

野獣「それから、私の事は『野獣』と呼ぶがいい。いや、ぜひそう呼んでくれ」

次兄「はじめまして、野獣様ああああああああああああああああ!!!!」ガバァ

野獣「!? な、なんだこの少年は!?」

20: ◆54DIlPdu2E 2015/03/16(月) 21:47:43.43 ID:/hCDD+UR0
次兄「隠れて様子を見ていたが、もう我慢できない!! この巨体、この筋肉の張り、この毛艶!!」クンクン

野獣「ええい離れんか! しょ、商人、貴様の息子か!?」

商人「…ええ、下の息子、末妹のすぐ上の兄です……」

野獣「こ、こんな奴に用はない…ちょ、鼻を擦り付けるな! 今すぐ連れて帰れ、娘だけ残してな!」

商人「娘だけを!?」

末妹「お父さん、私のことは構わないで。この方の仰るとおりにして」

末妹「私がバラを欲しがったのは事実。その償いを私がするのは当然です」

野獣「聡明な娘だ。…く、小僧、しがみ付くな、吸うな!!!! 貴様はセミか!?」

次兄「ちゅーちゅー、ああ、生きた毛皮の味…血の通った、体温のある獣の味……」

末妹「お兄ちゃん。野獣様の言葉に従って、怒らせないで…お父さんとお家に帰って」

商人「末妹……」

次兄「…でも、惜しいのは香水かなんかの香りがする所だな。野生のままの獣臭でいいのに、勿体ない」

野獣「貴様を喜ばせても嬉しくもなんともないわ…このっ!」ベリッ

次兄「あう」 ドテッ

野獣「…ぜえはあ…奴の涎が付いてしまった…鼻水も……」フキフキ

21: ◆54DIlPdu2E 2015/03/16(月) 21:48:56.60 ID:/hCDD+UR0
野獣「商人、さっさとそいつを馬車に乗せろ!」

商人「は、はい…。おいで次兄!」次兄の襟首むんず

次兄「こ、このまま父と俺が帰ったら…妹は貴方様に食欲的な意味で食べられちゃうんですか?」ズルズル

野獣「貴様の妹はこれからこの屋敷で暮らすことになる。赤いバラの償いだ」

野獣「命の安全は保障しよう、だが、どのように過ごすかはこの先お前達の知った事ではない」

次兄「目的は食用じゃないんですね? 嘘ではありませんね?」ズルズル

野獣「殺さぬと言ったからには殺しはせぬ。まして…私は確かに化け物だが、人間を食うほど悪食ではないぞ」

次兄「ふむ」ズル

商人「よいしょっと…。次兄、お前も末妹が心配だろうが、ここで大人しくしていてくれ」

商人「…野獣様、息子が大変なご無礼を…申し訳ありません」

商人「その上で図々しいお願いではありますが、今一度、話を聞いてはいただけないでしょうか……?」

野獣「娘以外に用はないと言ったはずだ」

商人「し、しかし…。 ? な、なんだ体が動かない、馬車から降りられない!」

末妹「お父さん!」

野獣「森を離れたら動けるようになる。早いところ家に戻るがよい」

末妹「お願いです! 少しだけ、二人にお別れをさせてください、野獣様!」

野獣「それくらいは許そう。長い別れになろうから、な」

22: ◆54DIlPdu2E 2015/03/16(月) 21:49:42.79 ID:/hCDD+UR0
商人「…本当に、私の軽率な行為で……」

末妹「もうそのことで苦しまないで。大丈夫、私の命を奪うつもりがないのは嘘ではなさそうです」

商人「殺されなくたって、お前はこんな寂しい場所で野獣と昼も夜も過ごすんだよ…いつ家に帰れるかもわからないのに」

末妹「そんなこと、私とっくに覚悟しているわ。…お姉さん達より先だけど、お嫁に出したと思ってください」

商人「…う、うううううう……」涙

野獣「キリがない、もういいだろう?」

野獣「馬車には自動的に家に帰るよう魔法をかけた、馬の身体に負担はかからない仕様だ」

馬「ぶひひぶひんひんー(足が宙に浮くー)!?」5cmホド

商人「末妹、末妹ーーー!!」

末妹「お父さん、お兄ちゃん……!」

野獣「…寂しいだろうが……」

野獣「名前は末妹と言ったな、お前はこれからここで何不自由なく暮らせるようにしてやろう」

次兄「俺の名前は次兄です!!!!」シュバッ!

野獣「うわああああああああああああああああ!!!!!!??????」

末妹「お兄ちゃん!? 馬車に乗っていたはず……!?」

23: ◆54DIlPdu2E 2015/03/16(月) 21:50:39.14 ID:/hCDD+UR0
次兄「ふ、末妹…あれは俺の服を着せた案山子だ。馬車に乗ってすぐ入れ替わった」

次兄「こんなこともあろうかと、道中の畑に打ち捨てられていたのを拾って馬車に隠しておいたのだ」

次兄「というわけで、末妹、安心しろ。俺が一緒に残ってやるぞ」

末妹「お兄ちゃん、私のために……」

野獣「ええい小僧、貴様に用はないと言っただろうが!? 今すぐ馬車を追って家に……」

次兄「えー、あのスピードでここから離れた馬車を今から追いかけろ、と?」

次兄「この鬱蒼とした森、俺みたいに土地勘のない無力な少年はどんな悲惨な末路を迎えてしまうのでしょう?」

末妹「お兄ちゃん……」涙目

野獣「…………」

野獣(…魔力を無駄に消耗してまで安全に家に帰す価値がこの小僧にあるとも思えない、とは言え)

野獣(こんな奴でも兄は兄、身ひとつで放り出そうものなら末妹嬢は心配するか…こんな奴でも)

野獣(それに…こんな兄でも一緒にいるだけで、末妹嬢は安堵するのだろうな…こんな兄でも)

野獣「仕方ない、ものすごく仕方ないが、おい小僧」

次兄「は、はい野獣様」

24: ◆54DIlPdu2E 2015/03/16(月) 21:51:30.75 ID:/hCDD+UR0
野獣「末妹嬢がここに慣れるまでしばらく置いてやるが、いつでも熨斗つけて送り帰す事はできるのだ、それは覚悟しておけ!」

末妹「…野獣様、ありがとうございます!!」

次兄「俺からもありがとうございます! 『何不自由なく』は求めません、なんなら使用人として貴方のお世話を!」スピョーン

野獣「同じ手を何度も食うか!」ヒラリ

次兄「いべ」ベチャ

末妹「お兄ちゃん、大丈夫!?」

次兄「あいたた、さすが獣の運動神経…華麗な身のこなし」

野獣「とりあえず、一応は、客人として扱ってやるしかなさそうだ……」クヤシイデモシカタナイ

野獣「末妹よ、腹が空いたろう。食事を用意してあるから、ついて来なさい」

野獣「…小ぞ…いや少年、お前も来るがいい」

次兄「はい、はいはいはい!」トテトテ

25: ◆54DIlPdu2E 2015/03/16(月) 21:51:59.64 ID:/hCDD+UR0
屋敷の中、応接間。

野獣「うむ、一人分だな、二人残ることは想定外だった。すぐできる料理を用意させよう」

末妹「野獣様、せっかくですが、私一人でこんなに食べられません」

末妹「御覧の通りこんなにチビですから、入る所がありません…兄と分け合います」

次兄「うーん、俺、偏食激しいだろ? 俺が食べられない物を末妹にやるよ」

野獣「き、貴様の残り物を末妹嬢にだと……!?」ビキビキ

末妹「ごめんなさい、お行儀悪い事をしては駄目ですよね。最初から取り分けます」

末妹「ただの好き嫌いではありません、兄は食べると体調が悪くなってしまう食材があるので……」

野獣「…ううむ……少年。後でその食べられない食材を教えろ」

次兄「へ?」

野獣「うっかり食べて貴様が病気にでもなれば、末妹嬢が心配するからな」

末妹「ありがとうございます、野獣様!」

次兄「ふむ…俺の直感は当たった、優しい面もあるようだな」

次兄「案外、妹がひどい事をされる心配は本当に杞憂かもしれん」

次兄「実益(妹を守る)と趣味を兼ねるつもりでついて来たが、もう少し趣味に重きを置いても許されそうだ」

野獣「私はしばらく席を外す。食べ終わった頃にまた来るから、気兼ねせずゆっくり寛ぐがいい」

26: ◆54DIlPdu2E 2015/03/16(月) 21:52:44.17 ID:/hCDD+UR0
野獣「終わったようだな。口には合ったか?」

末妹「ごちそうさまでした。本当に美味しかった……」

次兄「うちも小金持ちだけど、こんな料理は滅多に食べられないや」

末妹「そうだ、野獣様」

野獣「何だね?」

末妹「花瓶…一輪差を使わせていただけませんか?」

次兄「あれ、お前そのバラ持って来てたの?」

末妹「ええ、水がなくてもしおれない不思議なバラだけど……」

末妹「だからってカバンに入れっぱなしは可哀相だもの」

野獣「気に入ったのか。花は好きかね?」

末妹「大好きです。それに、お父さんが私にくれた」

野獣「……」

末妹「!! ごめんなさい!」

末妹「私のわがままのせいで、このバラは木から切り離されてしまったのに」

27: ◆54DIlPdu2E 2015/03/16(月) 21:53:46.02 ID:/hCDD+UR0
野獣「切り花となったからには、そばに置いて可愛がってくれ。気に入ってもらえて嬉しいよ」

末妹(…あ、今、笑った……?)

次兄「俺は貴方の体毛とガチムチ巨体が大のお気に入りです!!」

野獣「貴様は黙っとれ! おぞましい!!」

野獣「…一輪差だったな。メイドに持って来させよう」

末妹「お屋敷にあなた以外の方がいらっしゃるのですか?」

野獣「うむ、この機会だ、使用人達を紹介しよう」

女の子の声「ご主人様、一輪差を持って参りました」

次兄「! メイド服を着た二足歩行の兎!?」

末妹「まあ可愛い!」

次兄「茶色の体毛に大きな黒い瞳。ノウサギならばもっと耳が大きく顔もやや面長のはず、となるとアナウサギか」

次兄「草食小動物はサイズも体臭も物足りないが、兎の真価は丸い尻尾を備えたプリケツ。悪くないな」

兎のメイド「末妹様ですね。はじめまして。私はこの家のメイドです」

野獣「他の皆も入って来るがよい」

28: ◆54DIlPdu2E 2015/03/16(月) 21:54:34.27 ID:/hCDD+UR0
次兄「料理人姿の、二足歩行の穴熊だ」

次兄「アナ『グマ』とはついているがイタチの仲間、とは言えどっしり感と獣臭は捨てがたいものがある」

次兄「…やや年老いているが標準より大柄で固太り、かなりいい感じだ」

穴熊の料理長「わしは料理『長』…と言っても一匹しかおりませんが、今後よろしくお願いします、末妹様」

末妹「こちらこそ。お料理、とても美味しかったわ」

猫らしき動物「僕は庭師です。末妹様、よろしくお願いします!」

末妹「元気で可愛い猫さんね、よろしく」

次兄「動きやすそうな服を着た二そ(略)の山猫」

次兄「ヨーロッパヤマネコ。家猫よりやや骨太で大柄だが、サイズに大差はない。しかもまだ成獣になりきっていない個体だな」

次兄「せめて『オオヤマネコ』ならば大型犬サイズで抱きつき甲斐もあったのだが」

次兄「しかしさすが野生動物、家猫とは眼光が違う。なかなか良いぞ」

次兄「…親しくなればピンクの肉球○○○○できる機会も巡って来るかもしれん」

野獣「そして最後が、執事の……」

29: ◆54DIlPdu2E 2015/03/16(月) 21:55:41.68 ID:/hCDD+UR0
次兄「!!」

次兄「来やがった! 直球が来やがった!!」

狼の執事「わたくしが執事です、末妹様。我々はかつて森の野生の獣でしたが……」

次兄「スーツ姿の狼、しかもなんて大きな! 二本足で立つとうちの長兄より背が高い!」

執事「主人には命が危ないところを助けられたのがきっかけで、更に魔法の力でお仕えできるようにしていただきました」

次兄「縦のサイズだけじゃない、あのぶっとい前肢と広い前胸部、見事な尻尾」

執事「主人の命令は絶対、主人のお客様は我々にも大切なお方」

次兄「あの体格と、比較的淡色で豊かな被毛…恐らくこの国ではレアな寒冷地の亜種の血が濃いか?」

執事「困りごとなどありましたら、どんな些細な用でもご遠慮なくお申付けくださいませ」

次兄「何よりあの首周りを覆う毛のふさふさ感!」

次兄「野獣様よりは確かに体躯で劣るとはいえ、二人並ばれたら俺はどっちを見つめていいかわからない」

次兄「なんという贅沢な悩み、楽園はここにあったんだ……!!」

執事「改めて、我々をこの先よろしくお願い致します、末妹様」

30: ◆54DIlPdu2E 2015/03/16(月) 21:56:12.16 ID:/hCDD+UR0
次兄「…しかし、誰一人として俺には挨拶がなかったのだが?」

執事「主人から云い付けられました」

執事「何やら呟きつつ粘っこい視線を向けてくる少年の存在は空気と思え、と」

次兄「いつの間に」

野獣「だが今ので皆の顔と名前は覚えただろう?」

野獣「執事、皆も、一応は末妹嬢の兄上だ。とりあえずは失礼のないように」

野獣「しかし最低限の我が身を守る行動に、私の許可は不要だからな」

メイド「末妹様、これから私があなたに付いて、身の回りのお世話をさせていただきます」

末妹「ありがとう、メイドさん」

次兄「俺には誰が付きっきりで世話してくれるのかな?」

野獣「彼の世迷言は極力無視する方向で」

執事・料理長・庭師「「「仰せの通りに」」」

31: ◆54DIlPdu2E 2015/03/16(月) 21:58:02.36 ID:/hCDD+UR0
※ ※ ※

……さて、これから語られますは、『美女』…将来の美女、今はまだ美少女、とでも言うべきでしょうか。
その彼女と、人語を話し魔法を使う不思議な『野獣』、そしてもう一人……少しばかり歪な意味での『獣好き』な
(今の時代ならばもう少し別の呼び方もあるのかもしれませんが)少年。
この三人を中心に織りなす、どこかで見たかもしれない、そうでないかもしれない物語です……

※ ※ ※

※というわけで、今日はプロローグまででした。今後はもう少し小出しでの更新になります※

33: ◆54DIlPdu2E 2015/03/17(火) 20:58:59.47 ID:iZ/i7oO80
末妹と次兄がいなくなって数日過ぎた、商人の家。

次姉「どうかしら、新しい髪形。黒髪が肌の白さを際立たせるように、ってお願いしてみたんだけど」

長姉「なかなかいいわ。私の髪型はどう?」

次姉「素敵ね、流行の先端だと思うわ」

長姉「実は床屋を変えたのよ。北国の人のような天然の金髪はこの地方では珍しいから」

長姉「切るのだったら高く買いますよ…なんて、今までの店ではしつこかったの」

次姉「変えて正解よ。4年かけてここまで伸ばしたのに」

長姉「それにしても…私達はこんなに美しいのに」

長姉「先日のパーティーで知り合った殿方、誰一人連絡を寄越さないなんて」

次姉「姉さんはたまに手紙が来ているじゃない、ほら、名前出て来ないけど、あの」

長姉「幼馴染男!? 冗談じゃない、あんなの数に入らないわ!」

長姉「そもそも、近況報告ばっかりのつまんない手紙よ!」

次姉「昔はけっこう羽振りは良かったはずよね?」

長姉「両親が旅先で事故死した後に父親の借金が発覚して、遺産で借金チャラにして……」

次姉「ああ、嘘の投資話に騙されて乗っかったのが理由の借金だっけ」

長姉「結果プラスマイナスゼロの一文無しになったくせに、私に相手をしてもらおうなんて図々しいわ」

長兄「…お前達、相変わらずお喋りしかすることないのか?」

34: ◆54DIlPdu2E 2015/03/17(火) 21:00:05.84 ID:iZ/i7oO80
次姉「あら、兄さん、お出かけ?」

長兄「商談に行って来る」

長姉「一人で? お父さんは?」
 
長兄「父さんは今日も自室に閉じこもったままだよ」

次姉「まだ末妹のことを引きずっているの? いい加減、諦めたらいいのに」

長兄「それだけじゃない。次兄が独断で屋敷に残った事も気に病んでいる」

長兄「自分が不甲斐ないばかりにあの子達を犠牲にしてしまったと思っているんだ」

長兄「そういうわけで、二人とも…店番を頼む」

次姉「ちょ、なんでそうなるの!?」

長兄「俺は商談、末妹も次兄もいない、今の父さんには無理…お前達しかいないだろ?」

長姉「私達、店の仕事は素人なのに」

長兄「次兄はともかく末妹は10歳から一人で店番できたぞ」

次姉「わかった、わかったわよ!」

長姉「お客と世間話しながら品物を売ればいいんでしょ、こんなの簡単よ!」

35: ◆54DIlPdu2E 2015/03/17(火) 21:01:21.88 ID:iZ/i7oO80
長兄「任せたよ」

長兄「あと行き掛けに馬を知人に預けてくる」

長兄「しばらく遠出する用はないし、構ってやる時間が取れなくて可哀想だからな」

玄関のドア:バタン…

次姉「…末妹が小さい頃から手伝えるのは当たり前じゃない」

次姉「私と姉さんは、それくらいの歳には王都の寄宿学校にいたのよ」

長姉「学校は違うけど兄さんもよ、あの歳まで家でずっと暮らして来たのは下の二人だけ」

長姉「次兄は小さいころ病弱だったから、家に家庭教師を呼んで」

長姉「末妹なんてお父さんが手放したくないって理由で、家からこの町の初等学校に通わせて……」

次姉「…あーなんか面白くない! こうなったらガンガン売りまくって兄さんを驚かせてやる!!」

36: ◆54DIlPdu2E 2015/03/17(火) 21:02:17.67 ID:iZ/i7oO80
そのころ、野獣の屋敷では。

野獣「ここに少しは慣れたかね、末妹」

末妹「野獣様。ええ、野獣様も、執事さん達も親切にしてくださいますから」

野獣「退屈ならば、本のたくさんある部屋や様々な楽器を置いた部屋もある、メイドに案内させよう」

末妹「…私は囚われの身なのに、遊ばせてもらってよいのでしょうか」

野獣「お前を囚人として扱う気はない。客人として持て成しているつもりだ」

野獣「むしろ、自分の家だと思って欲しいくらいだよ」

末妹「野獣様」

野獣「何だね?」

末妹「バラの償いと仰るのなら、私に何かして欲しい事があるのではないのですか……?」

野獣「…率直だな」

末妹「っ、ごめんなさい、私、失礼な質問を」

野獣「いや、それで良いのだ。お前の疑問は尤もだからね」

野獣「望む事はひとつだけ、お前はただ、ここに居てくれればいい。何かをしてもらおうとは思っていない」

末妹「……」

37: ◆54DIlPdu2E 2015/03/17(火) 21:03:03.22 ID:iZ/i7oO80
野獣「そして、お前が居続けてくれるためならば、私はどんなことでもしよう」

野獣「何か私に望むことがあれば、遠慮せず言ってくれ」

メイド「末妹様」

末妹「メイドちゃん」

野獣「すっかり仲良くなったようだな」

メイド「庭師がご主人様のお言いつけで、庭を案内したいと」

末妹「野獣様……」

野獣「行っておいで、お前は花が好きだと言っていたからな」

末妹「ありがとうございます」

庭師「末妹様、メイドから聞いたでしょう? 僕がご案内しますよ!」

末妹「嬉しいわ、ここに来た翌日から昨日まで雨だったから、外に出るのは初めて」

庭師「メイドちゃん、君も手が空いていたらおいで」

メイド「…また私に雑草処理させる気でしょ?」

メイド「一緒に行くけど、その手には乗らないんだから!」

39: ◆54DIlPdu2E 2015/03/19(木) 21:52:07.97 ID:07F5Ju0h0
屋敷の前庭。

次兄「うーん、日向ぼっこしていたら眠ってしまったようだ」ノビー

次兄「ん、誰か来る…末妹と…小獣コンビか」

次兄「女の子と二足歩行の猫と兎が花咲く庭を仲良くお散歩」

次兄「一般向けには無難な…女子供に好まれるモチーフ」

次兄「好んで描きたい題材でもないが、こんな光景を『現実に』目にする人間もそういまい」

次兄「せっかくなのでスケッチしとくか」

次兄のカバン:パカッ

次兄「鉛筆と紙、と」

40: ◆54DIlPdu2E 2015/03/19(木) 21:53:09.86 ID:07F5Ju0h0
末妹「すごい! コスモスにアリッサムにゼラニウム…こっちではもうこんなに秋のお花が咲いているのね」

庭師「末妹様のいらした南の港町はここよりずいぶん暖かいと聞きました、まだ夏花の季節なのでしょうね」

末妹「みんな庭師さんがお世話しているの?」

庭師「僕の事は『庭師』でいいですよ」

庭師「確かにそうですけど、へへ、庭の花達にはちょっとだけご主人様の魔法がかかっているんです」

庭師「虫に食われもしなければ病気にもなりません。だから庭師のすることと言えば」

庭師「雨風で傷んだ部分を整えたり、咲き終えて枯れた花を取り除いたり…」

末妹「ここのお花も枯れるの?」

庭師「ええ」

末妹「私がもらった…父が折った赤いバラは、まだ活き活きして花弁一枚も欠けていないわ」

庭師「ああ、バラ達はまた特別なのですよ」

庭師「屋敷の裏庭、僕らはバラ園と呼んでいますが、あそこにだけは僕の手は入っていません」

メイド「バラ園だけはご主人様が世話をしています」

末妹「…よほど大切なのですね」

メイド「ご主人様も、ここのバラについての詳しいお話は執事様にさえされないんです」

庭師「僕ら使用人が知っているのは、一年中、いつまでも枯れない『魔法のバラ』と言う事と」

庭師「末妹様が仰るように、ご主人様にとっては『非常に大切なバラ』だって事だけです」

末妹「……」

41: ◆54DIlPdu2E 2015/03/19(木) 21:54:07.36 ID:07F5Ju0h0
次兄「ふむ…描き始めると意外と興が乗ってきた」カキカキ

野獣「…何をしているのかと思えば」

次兄「野獣様!?」バッ

野獣「満面の笑みで振り向くな…続けろ。少し離れた所から見させてもらおう」

次兄「へいへい」

次兄(ちっ、さすがに行動パターンを覚えられたか、隙がなくなってきた)

次兄(しかし向こうから接近して来るとは新展開だ)

次兄(ここはおとなしくスケッチに没頭しておくか)

野獣「なかなか上手いな、少年」

次兄「いい加減、名前覚えてくださいませんかね」カキカキ

野獣「む、そうであったな。次兄、いや、なかなかどころの腕前ではないぞ」



メイド「…やっぱりここのハコベは最高」

メイド「歯応えも甘さも絶品ね!」パリパリプチプチ

メイド「ああ、オオバコも美味しい! あ、こっちにはカラスムギ!!」 モシャモシャモグモグ

庭師「その調子でどんどん食べ尽くしてくれ」

42: ◆54DIlPdu2E 2015/03/19(木) 21:57:20.05 ID:07F5Ju0h0
野獣「すごいな。庭師やメイドの立ち姿といい……」

野獣「白黒の鉛筆画だというのに、毛並みの風合いまで伝わって来る」

次兄「そう、俺は動物の絵は初対面の相手にも感心されるレベル」カキカキ

野獣「…褒めちぎってやるつもりでいたのに、なんだ? 二匹の真ん中の……」

野獣「位置的に末妹嬢だと思うが…なんというか」

野獣「壊れた案山子とナメクジの融合体にしか見えん」

次兄「…これが、俺が画家を目指そうと思わない第一の理由」カキカキ…

次兄「人間を描こうと思った途端、デッサンもフォルムも総崩れ」

次兄「しかし絵描きを仕事として成立させるには、肖像画や宗教画の依頼もこなさねば」

次兄「好きな物だけ描いてても商売として成り立たない事くらいは俺にもわかる」

次兄「俺だって一応は商人の息子だからな」…カキカキ

野獣「…お前の素質ならば、勉強次第ではなんでも描けるようになると思うのだが……」

次兄「いかん、独り言の声が大きかったぞ」

野獣「獣の絵が商売にならんのなら、お前がその第一人者になってみてはどうだ?」

次兄「……は?」



末妹「…メ、メイドちゃん、大丈夫?」

メイド「…もぉ、だべられないよぉ……」ゲプゥ

庭師「やば、途中で止めるべきだったかな」タラーリ

43: ◆54DIlPdu2E 2015/03/19(木) 21:59:04.05 ID:07F5Ju0h0
さて、商人の店では。

次姉「いらっしゃいませ~」

客「あれ?確か…次姉さん、おや、長姉さんもいるじゃないか。店であんた達に会うのは初めてだよ」

長姉「父の具合がちょっと悪いもので、きょうだい力を合わせなくては…ホホホ」

客「商人さんが…また腰痛の悪化かね?」

客「そう言えば末妹ちゃんの姿が見えないな」

長姉「…あの子は先日、怪物のえじk…いえ、遠くのお屋敷にお嫁に行きました」

客「ええ!? 突然だなあ…それにうちの婆さんの世代ならともかく、13、4で嫁入りは今時ちょっと早くないかね?」

客「…あ、商人さんの具合が悪いってそのせいか」

客「末妹ちゃんの事は目に入れても痛くないほどだったものなあ!」

次姉「……」

次姉「相手の方に強く望まれて嫁いだのです、それにもう決まった事ですわ」

次姉「あの子がいなくたって、私達にも店番くらいできますのよ」

次姉「そう…末妹にすらできることが私にできないはずがない……」

次姉「というわけで、お客様! 本日のお勧めはこちらになっております!!」

客「は、はいはいはいっ???」

長姉「…急にどうしたのこの娘?」

44: ◆54DIlPdu2E 2015/03/19(木) 22:03:46.75 ID:07F5Ju0h0
屋敷の庭。

野獣「…3人から目を離していた間に」

野獣「メイドがひっくり返ってしまったようだが……?」

次兄「第一人者って、なんのことでしょうか」

野獣「ああ、思いつきで口から出ただけだが」

野獣「動物を描いて一流になった画家が今までいないのなら」

野獣「お前がその分野を開拓して、成功した最初の一人になってはどうか、と」

次兄「そう簡単じゃありませんよ」

次兄「何より俺には恩師や友人レベルの人脈すらないし」

次兄「ぶっちゃけ家では引きこもりでしたから……」

次兄「家だって俺のための人脈を金で買える程の大金持ちじゃない」

野獣「だがお前のその絵は…人間の絵は置いといて…見た者の心を動かすぞ」

野獣「次兄にそれをもっと描かせたいと願う人間が、きっといるはずだ」

次兄「……」

45: ◆54DIlPdu2E 2015/03/19(木) 22:05:12.53 ID:07F5Ju0h0
野獣「…すまんな」

野獣「もう長いこと人の世と関わらずに生きて来た、世間知らずの獣の戯言だ」

野獣「だがな」

野獣「私にこんなことを言わせるほど、次兄の絵に力があるのは信じていいと思う」

次兄「…野獣様」

野獣「頼みがある、今考えたのだが」

野獣「屋敷にいるうちに、私の絵を一枚、描いてくれるかね?」

次兄「……!」

次兄「ぜひ!ぜひとも…描かせてください!」

野獣「ありがとう」

次兄「その時はどうか裸身で! 布を一枚も身につけぬ、野生のままの荒ぶる裸身でぇぇぇ!!」ハァハァ

野獣「……やっぱり忘れてくれ…頼むから……」

46: ◆54DIlPdu2E 2015/03/19(木) 22:10:34.03 ID:07F5Ju0h0
庭師「だめですよ、あなたにそんな事はさせられません!」

末妹「あら、いいのよ」

末妹「メイドちゃん小さな兎さんだもの。私でも抱っこして運べるわ」

メイド「うええ…ぐるじぃぃぃぃ……」

末妹「お薬が必要じゃないかな……?」

庭師「お屋敷の地下には、あらゆる薬草や薬効のあるスパイスの保管庫があります」

庭師「混じり合った香りが強烈過ぎるからって、嗅覚の鋭い僕ら使用人は入れない部屋ですけど」

庭師「食べ過ぎの薬くらいはご主人様があっという間に調合してしまうんですよ」

次兄「ほほう」

末妹「あら、お兄ちゃん…と、野獣様」

末妹「お兄ちゃん達も二人でお散歩していたの?」

野獣(『二人で』とか勘弁してくれ……)

次兄「俺は久しぶりに絵を描いていたんだ。ほら、庭師くんとメイドさん」

野獣(末妹嬢の部分は切り取ったな)

庭師「うわあ、お上手ですねえ! (ただの変な人じゃなかったんだ)」

47: ◆54DIlPdu2E 2015/03/19(木) 22:12:49.04 ID:07F5Ju0h0
末妹「やっぱりお兄ちゃん上手ね。今度は他の皆さんのも見たいなあ」

末妹「って、それより野獣様、メイドちゃんが」

野獣「ふう……調子に乗って食べた奴は回復してから説教するとして」

野獣「それを知りながら調子に乗せた奴もいたようだな」

庭師「ごめんなさい……」

野獣「メイドは私が預かって手当てしよう。すぐ治る、心配いらん。庭師、手伝え」

庭師「は、はい」タタタ

末妹「……」

末妹「…不思議に思っているの」

次兄「ん?」

末妹「お父さんを脅した恐ろしい野獣様と、こうして私達が目にする野獣様が結びつかない」

次兄「ま、確かに。基本的に優しそうで紳士だし(何より思った以上に素敵だし)」

末妹「お父さんが死んでしまうか、生きている私が償いをするか、どちらかしか選べないから、私は『こっち』を選んで」

末妹「会ってみてわかった、野獣様、私を殺さないでいてくれるのは本当だって」

48: ◆54DIlPdu2E 2015/03/19(木) 22:17:20.74 ID:07F5Ju0h0
末妹「…でもね…殺されるわけではなくても、本当はとっても怖くて心細かった」

次兄「そりゃそうだろう。我慢してたんだろ? 父さんの気持ちを思って」

末妹「やっぱりお兄ちゃんには見抜かれてしまうのね」

次兄「そりゃ、きょうだいでお前と一番長く一緒に過ごしたのは俺だから」

末妹「…お兄ちゃんがここに留まってくれて、どんなに心強かったか」

次兄「今は馴染んでいるよな、メイドさん達とも仲がいいし」

次兄(俺ももっと野獣様及び執事さんとの距離を詰めたいものだ)

末妹「メイドちゃんは可愛いし私に好くしてくれる、他の皆さんだって」

末妹「それでも、私達の家で…家族一緒に、お父さんの元で暮らすのが一番だと思う……」

次兄「末妹……」

末妹「お兄ちゃんが家に帰されたら…私は一人……」

次兄「お前がここにいる限り、俺も一緒にここにいるよ。どんな手を使っても残るつもりだ」

次兄「どんな手を使っても、ね」

49: ◆54DIlPdu2E 2015/03/19(木) 22:19:03.83 ID:07F5Ju0h0
その夜、商人の家。

長姉「あーあ、疲れちゃった。お肌のためにも早く寝なきゃ……」

長兄「長姉、今日は店番お疲れ様」

長姉「あら、珍しいわね。兄さんが私に優しい言葉なんて」

長兄「二人で頑張ってくれたからね。本当はもっと早くこうなって欲しかったが」

長兄「しかし予想以上の売り上げで驚いたよ」

長姉「当然よ、私達の手にかかれば容易いわ!」

長姉(…ほぼ全部、次姉の働きだけどね。私は世間話担当)

長兄「また頼むかもしれないが、もう安心して任せられそうだ」

長姉「ねえ、あの子の…次兄の毛皮で作った防寒具」

長姉「あれ全部売れたのよ?」

長兄「うん、それも嬉しかったよ」

長兄「次兄が撫でまわし顔を擦りつけ時々しゃぶってた毛皮だから」

長兄「勿論よくよく洗浄したとは言え、買ってくれたお客様には少し申し訳ないが……」

長姉「あれは正式に仕入れた品物じゃないから、要するに、売り上げは臨時収入よね?」

長姉「だから…私達がもらっても構わないわよね?」

50: ◆54DIlPdu2E 2015/03/19(木) 22:20:24.09 ID:07F5Ju0h0
長兄「…はあ…珍しく褒める所があったと思えばすぐこれか……」タメイキ

長兄「正直、今後の事は父さんがいつ仕事に戻ってくれるかにかかっている」

長兄「だから当分は家計を締めて、貯蓄にもっと勤しむべきだと思うんだ」

長姉「え…これからもっと節約しろって言うの? 食いぶちが二人も減ったのに!?」

長兄「自分の弟妹にひどい言い方だな」

長兄「あの子達の事で、家族にもいつ何が起こるかわからないとつくづく痛感したよ」

長兄「もしもの時のためにお金を取っておくのは悪い事じゃない」

長兄「それに、これは言いたくなかったが…父さん今までお前達二人に甘過ぎた」

長姉「甘いって、どういう意味よ! それなら末妹にだって……!」

長兄「お前と次姉が店を手伝わなくても、何も言わなかっただろ?」

長兄「小遣いも与えているのに、ねだられるまま高価な服や装飾品を買い与え……」

長姉「だ、だから、親孝行できる結婚相手を探しているんでしょう!」

長姉「そのためにお洒落をして、パーティーに顔を出して」

長姉「大金持ちと結婚して、今までの分を返せばいいじゃない!」

長兄「欲望のまま着飾って遊び歩いて異性を選り好んでいるとしか思えないが」

長兄「それが親孝行って、物は言いよう、か? でも俺には通用しないな」

長姉「…次姉も、次姉だって納得しないわ」

51: ◆54DIlPdu2E 2015/03/19(木) 22:21:26.19 ID:07F5Ju0h0
長兄「あいつとはもう話をした」

長兄「渋々ながらも、納得してくれたぞ」

長姉「…!?」

長兄「次姉はこうも言ってた」

長兄「物を売る仕事ってちょっと面白いかもしれない、って」

長姉「な、何よ、何よ…あの裏切り者……」

長姉「看板娘だった末妹に今さら対抗しているつもり……?」

長姉「それなら…もう私は店なんか手伝わない」

長姉「次姉がやってくれるんでしょ!? あの娘にだけ頼みなさいよ!」

長姉「私は自由にさせてもらうわ! へそくりだって貯めてたんだから!!」ダダダダダ

長兄「おい、長姉……」

長姉の部屋のドア:バーーーン!!

…ミシミシ…パラパラ…

長兄「…家じゅうが揺れる勢いだ」

長兄「やれやれ…とりあえず、妙な事をしないよう目を離さないでおくか」

長兄「昔は、あんな面倒くさい娘じゃなかったんだけどな……」

54: ◆54DIlPdu2E 2015/03/20(金) 22:47:39.58 ID:H0gEby410
誰かの夢の中。

(その昔『とある国』の北東部は、今は忘れ去られた小国の領土だった)

(かつての狭い国土の三分の一をも占めた森にあるこの屋敷は、野獣が暮らす前は王家の別荘で)

(更に元を辿れば…機械いじりの好きな変わり者の伯爵から王が無理矢理奪った屋敷だ)

(屋敷に仕掛けられた数々の罠、玄関の上にある大時計と連動して自動的に開閉する門)

(戦の技術に応用できると思ったらしい)

(王は周囲の大国に攻め込む準備という名目のため、王妃は自分の贅沢のため)

(国民に重税をこれでもかと課し、逆らう者…親身に忠告する者にさえ厳罰を与え)

(自分と意見の合わない血族すら、強引な理由をつけて王位継承権を剥奪し、国外に追放した)

(たった一人の世継ぎの王子はもうじき二十歳、贅沢にも興味がなく、戦はもっと馴染まなかったが)

(何しろ消極的で小心者、例えば王や王妃が「黙ってここに立っていろ」と命ずれば「はい」と答えて)

(「もう行っていい」と言われるまで大人しくその場に佇んでいる、そんな性格)

(王にとっては『操り人形』…いや、王に言わせれば「何をやらせても駄目な出来損ないの世継ぎ」だったので)

(置いておくだけの『お飾り人形』に他ならなかった)

55: ◆54DIlPdu2E 2015/03/20(金) 22:49:14.09 ID:H0gEby410
(国には王家よりずっと歴史の古い魔術師のギルドがあった)

(王家さえ…傲慢な王でさえ口を挟めない、ある意味、聖域で)

(形だけの僅かな研究費を国から援助する事で、逆らわせないようにするのが精一杯だった)

(ギルドにはいくつかの魔法を、学費を払いさえすれば誰にでも教えるという部門があって)

(そこでは王族も物乞いも関係ない、教わりに来る者は分け隔てなく扱われた)

(城の暮らしになじまず、民の中にも身を置く場のない王子の息抜きは)

(週に2~3回、そこで魔法を習う事だけ)

(人一倍白い肌と王妃から受け継いだ灰色がかった金髪を、マントと帽子で覆い)

(もっと珍しい薄紫色の瞳は、色ガラスをはめた伊達眼鏡で誤魔化し)

(こうやって変装した姿で、護衛も付けずに城下町を徒歩で通り抜ける)

(教えてもらえる魔法は人を傷つける力のない…これも王の価値観では役に立たない呪文ばかり)

(手を触れず茹で卵と生卵を見分ける魔法だの、絡まったモップを一瞬でほぐす魔法だの)

(王子にはそれが楽しかった、むしろ人を殺す術など覚えたくもなかったのだ)

(ギルドの図書館には本の貸し出しを手伝う若い娘がいた)

(ギルドでも王子の正体を知る者は、魔法使い達の他には彼女ただひとり)

(貧しい出自で図書館に勤めるまで字の読み書きもできなかったが、短い期間に独学で文字を習得した彼女)

(本当の意味で賢く、勤勉で、心の優しい、よく笑う娘)

(いつしか王子と唯一冗談が言い合える、そんな仲になっていた)

56: ◆54DIlPdu2E 2015/03/20(金) 22:50:29.56 ID:H0gEby410
真夜中、野獣の屋敷、次兄の客間。次兄は眠れない様子。

次兄「昼寝したせいか眠れんな……」

次兄「ここらで今後の対策を練ってみるか」

次兄「まずは趣味部門」

次兄「毛皮ライフから生身の獣ライフへの移行は始まったばかり」

次兄「さて、この屋敷にはどんな動物とも違う野獣様と、人語を解する野生動物がいる」

次兄「千里の道も一歩から、フルコースも前菜から」

次兄「まずは兎メイドのプリケツ観賞から達成したいところ」

次兄「…む?」

次兄「尿意が来たか……」

次兄「遠いから面倒だが、トイレに行ってくるか」

57: ◆54DIlPdu2E 2015/03/20(金) 22:52:28.32 ID:H0gEby410
次兄の客間のある階、その廊下。

次兄「窓からの月明かりのおかげで灯りがいらないな」

次兄「…問題は、スカートに隠れてしまっている点だ」

次兄「兎とは言え、言葉を喋り、着衣で過ごし、女子として振舞い」

次兄「そして末妹と仲が良い」

次兄「つまり…兄が自分の妹の友人に向かって『お兄さんにスカートの中を見せて?』と頼んだらどうなる?」

次兄「…………」

次兄「一点の曇りもない変態、いや、もう犯罪者だ」

次兄「俺は決して『妹』とか『小さい女の子』といった存在に対しての執着はないが」

次兄「末妹の事は妹として普通に可愛いと思うし守るべき存在だと思っている」

次兄「俺が病弱でしょっちゅう寝込んでいた時、小さな手で看病してくれるあの子にどれだけ励まされたか」

次兄「そんな末妹に嫌われ軽蔑されたら凹むどころでは済まないだろう……」

月明かり:フッ…

次兄「……う、月が雲に隠れてしまった」

58: ◆54DIlPdu2E 2015/03/20(金) 22:53:09.88 ID:H0gEby410
次兄「廊下が真っ暗だ、面倒くさがらずランタンを持ってくるべきだった」

何かの物音:…ぴったん、ぴったん

次兄「……?」

ぴったん……

聞き覚えのある声「あら、次兄様ではありませんか?」

次兄「その声…メイドさんか?」

メイド「ええ、驚かせてしまったらごめんなさい」

メイド「人間さん達は夜目が利かないですものね」

次兄「…昼間の腹痛は治ったの?」

メイド「お気遣いありがとうございます」

メイド「ええ、夕方にはすっかり。ご主人様のお薬であっという間に」

メイド「その後こってりしぼられましたけど…恥ずかしいから忘れてくださいな」

次兄「ま、よかったよ。末妹も心配していたし」

59: ◆54DIlPdu2E 2015/03/20(金) 22:54:48.42 ID:H0gEby410
次兄(こんな夜中に、俺の進行方向から来たと言う事は彼女もトイレだったのか)

次兄(この棟のこの階にはトイレが一つしかないから、使用人と共用でも我慢してくれと野獣様が言ってたな)

次兄(俺の客間の右隣が末妹、そのまた右隣がメイドの部屋だからな)

月明かり:サーッ

次兄「……お、月がまた顔を出した」

メイド「では私はこれで」

次兄「……!?」

メイド「どうかされましたか?」

次兄「メイドさん、裸…しかも、四足歩行……」

メイド「ああ、これはご主人様の私達への配慮です」

メイド「就寝時間から起床までは人間の真似事…服と二本足から解放されて」

メイド「ゆっくり身体を伸ばして休むがいい、って」

メイド「二本足の時も、魔法のおかげで身体に無理はかかっていないのですけどね」

メイド「では本当に、これで失礼します。おやすみなさい」ぴょん

ぴったん、ぴったん…トオザカルー

次兄「…月の光に照らされるプリケツと毛糸玉のような尻尾」

60: ◆54DIlPdu2E 2015/03/20(金) 22:55:37.54 ID:H0gEby410
次兄「まさかこんな形でこんなに早くお目にかかれるとは」

次兄「…朝になったら忘れずにこの記憶をスケッチしておこう」

次兄「それにしても」

次兄「この階のトイレは俺でもちょっと窮屈なくらい狭いから」

次兄「体の大きい野獣様や執事さんはまず使わないだろう」

次兄「つまり、今夜のようにトイレに起きた裸体の執事さんや野獣様に偶然出くわすことは期待できない」チッ

次兄「ま、野獣様は寝る時も着衣なんだろうけど」

次兄「…そう言えば野獣様はどういう種族のモンスターなんだろう?」

次兄「子供のころから熟読した『世界大動物図鑑』でも『図説:幻獣&魔獣』でも見たことのない外見」

次兄「『なんとなく似ている』程度のものならいるが、人語を解し基本的に温厚、なんて性質は当て嵌まらない」

次兄「末妹からバラ園についての話も聞いたけど」

次兄「なんとなく、俺達のみならず、使用人達に対しても色々秘密が多そうなんだよな……」

次兄「…でもそんなミステリアスなところも魅力的」ポッ

次兄「っと、忘れてた、尿意尿意」バタバタバタ

62: ◆54DIlPdu2E 2015/03/21(土) 18:17:23.23 ID:JzbLRlFW0
誰かの夢の続き。

(気弱で心の幼い王子と生真面目な娘の会話はいつも図書館のカウンター越し)

(それでも王子は満足だった)

(あの呪文を知るまでは……)

(当時、小国内部では民衆の不満はますます膨れ上がっていたはずだが)

(ここ十数年の間に何度も『反乱分子』の集団は潰されて、不満を持つ人々を率いるリーダーも以降は現れず)

(重税に困窮する人々はひたすら疲弊しきっていた)

(そんな中、王子の二十歳の誕生日を祝う舞踏会が開かれることになった)

(王妃の提案、いつも通り、王子を口実にして自分が楽しみたいだけの……)

(そして王の提案で、会場は城ではなく例の別荘を使う事になった)

(他国から招待する来賓に城下の悲惨な状態を見せたくなかったのだ)

63: ◆54DIlPdu2E 2015/03/21(土) 18:18:16.04 ID:JzbLRlFW0
(王子の二十歳の誕生日が近付く中、城に奇妙な客が現れた)

(ローブに身を包み素顔を仮面で隠した男は『西の島国から来た魔法使い』と名乗った)

(…それは嘘で)

(この国の魔術師ギルドを随分前に追放された男だと知ったのは、もっとずっと後の事)

(客人は王子に、ギルドでも見た事のない魔法の指南書を差し出した)

(『人の心を読む魔法』)

(王子も存在は知っていたが、元々は戦闘中に使用される呪文)

(生きるか死ぬかの瀬戸際でなければ不要であるはずの呪文)

(それゆえギルドの魔法教授所では教えることは禁じられていた)

(…どころか禁じられた魔法の中でも最上位の呪文だった)

(他のどんな呪文より、人間関係を、社会生活を)

(ヒトの世界を破壊してしまう恐ろしい呪文だから、という理由)

(王子も知っていた、それが禁忌であることも、その理由も。)

64: ◆54DIlPdu2E 2015/03/21(土) 18:19:56.74 ID:JzbLRlFW0
(その一方で…王子はあまりにも単純で子供だった)

(自分に笑いかけてくれる魔法図書館の優しい娘)

(同時に彼女と立場の近い人々の間に広がる王家への不信、不満、憎悪)

(「彼女は本当のところ、私をどう思っているのだろうか?」)

(「彼女の心の内すべてを知りたいわけではない」)

(「たったひとつ、私への本心を、ただ一度だけ知りたい」)

(…気付けば、王子は男に金貨を渡し、代わりに指南書を手にしていた)

(本人に自覚はなかったが、ギルドの魔法使いは皆知っていた)

(王子の魔法使いとしての素質は稀に見るほど高いものだと言う事を)

(現に、呪文の習得にそれ程の時間も労力も必要なかった)

(そしてこの呪文で心を読むためにはしばしの間、相手の体に触れ続けていなければならない)

(王子は彼女を舞踏会に誘おうと考えた……)

65: ◆54DIlPdu2E 2015/03/21(土) 18:21:36.55 ID:JzbLRlFW0
更に数日後、野獣の屋敷。

末妹「ごちそうさま」

次兄「今日の朝飯も美味かった。料理長さん、アナグマなのに上手だなあ」

末妹「料理長さんが言うには」

末妹「アナグマは人間と同じで雑食性だから味覚が近いので、料理人に選ばれたんですって」

次兄「…わかったようなわからんようなだが」

次兄「草食専門や肉食専門よりは、確かに扱える食材の幅が広くなるかもしれん」

メイド「食後のお茶ですよ~」

コポコポコポ……

次兄(あの前足で器用に茶を淹れるなあ)ニクキュウモナイノニ

末妹「いい香り……」

メイド「紅茶に香草をブレンドしているんですよ。今日はレモンバームです」

66: ◆54DIlPdu2E 2015/03/21(土) 18:22:48.21 ID:JzbLRlFW0
メイド「紅茶の葉はご主人様が『どこかから』手に入れていますが」

メイド「香草はうちの菜園で育てたもので、生のまま、乾燥させたもの、用途に合わせて使い分けています」

次兄「菜園なんてあったのかい」

メイド「前庭の一角の、小さなスペースですけど、庭師と料理長が共同で世話をしています」

末妹「そこも見る事ができるのかしら」

メイド「ええ、いつでもご案内しますね」

メイド「野菜と香草が少しずつ常に何種類か育っているので、花よりは地味ですが、あれはあれで美しい光景です」

メイド「それに、とっても美味しそ……」

メイド「……こほん」

メイド「見たくなったら、いつでも声を掛けてくださいませ、末妹様」

次兄「菜園か……」

67: ◆54DIlPdu2E 2015/03/21(土) 18:28:15.47 ID:JzbLRlFW0
商人の家、自室でゴロゴロする長姉。

長姉「あーあ、最近めぼしいパーティーもないから退屈……」

長姉「いつもと違うアクセサリーをつけて気分を変えてみようか」

長姉「と言っても、あれもこれも、最近使ったものばかり」

長姉「あ、これ…末妹の持ってた紅縞瑪瑙のブローチ」

長姉「2、3年前までは確かに欲しかったけど、今こうして見るとデザインが子供っぽくていまいちね」

長姉「でも、はまっている石は小さいけど質はいいって次姉も言ってた」

長姉「そうだ、作り直しに行けばいいのね!」

長姉「元々、お母様の形見は裸石の紅縞瑪瑙だったもの」

長姉「末妹に渡す時に、お父さんが既製品のブローチ台をつけたはず」

長姉「だから台にだけ手を加えても、問題ないわよね?」

長姉「…かと言って、このために貴重なヘソクリを使うのも……」

68: ◆54DIlPdu2E 2015/03/21(土) 18:30:24.14 ID:JzbLRlFW0
長姉「兄さんからお小遣い貰うのはあきらめたし」

長姉「お父さんの部屋にこっそり行って、気弱になっているお父さんを言いくるめて?」

長姉「駄目か。今のお父さんには財布を持たせていなさそうね、兄さんが」

長姉「…最近の次姉に頭下げるのはなんだかシャクだし……」

長姉「そうだ、あの地図…魔法の地図は?」

長姉「みんな忘れている頃だけど、確か居間の飾り棚の引き出しにしまい込まれたはず……」コソコソ

長姉「うまいこと見つからずに持ち出せた♪」

長姉「さて、これを質屋に…この恰好じゃ目立つわね」

長姉「学校に行っていたころのブラウスとスカート、まだ着られるかしら」ゴソゴソ

長姉「……久しぶりに見たけど、何の飾りっけもない、つまらない服」

長姉「あと、胸がちょっとキツくなったわ……」

長姉「仕方ないけどね。スカーフで髪も隠してと」

長姉「これなら知り合いに質屋に入るところを見られても、私だとは気付かれないでしょ」

69: ◆54DIlPdu2E 2015/03/21(土) 18:33:22.09 ID:JzbLRlFW0
朝食後、屋敷内某所。

次兄「何日か、屋敷の中をウロウロして気付いた事がある」

次兄「昨日は壁があった場所に今日は何もなかったり」

次兄「逆に何もなかった廊下に壁ができている事がある?」

次兄「俺達の客間がある階は今の所そんなことはないけど」

次兄「…野獣様の魔法と解釈できなくもないが」

次兄「この屋敷には、あちこちにからくりがあるのかもしれん」

次兄「その証拠にほら、あったりなかったりする壁は」

コンコン

次兄「叩くとこの軽い音」

次兄「塗装で周囲の壁と同じように石造りのように見せかけているが」

次兄「正体は木製で、しかもそんなに重さもなさそうだ」

次兄「少なくとも新しい建物ではないだろうが…誰がこのからくりを作ったんだろう?」

70: ◆54DIlPdu2E 2015/03/21(土) 18:36:15.59 ID:JzbLRlFW0
その頃、長姉は…

看板【年中無休 ~あなたの味方、さわやか質屋~】

長姉「質屋の主人が腰を抜かしていたわ」

長姉「なんでも、100年以上昔に失われた魔法技術だとか何とか」

長姉「詳しい事はわかんないけど、それならもう少し高い値段で買い取ってくれても……」

長姉「…って言ったら、貴重な珍品だけど真価が理解できる人はごく限られるから微妙なんだって」

長姉「ま、とにかく、ブローチの直し代としてはお釣りが来るわ。残りはヘソクリに回しましょ♪」

若い男性「長姉? 長姉じゃないか」

長姉「あ」

長姉「…幼馴染男」

幼馴染男「いつも王女様みたいな恰好で歩いているから声が掛けにくかったけど」

幼馴染男「今日はどうしたんだ? まるで子供の頃みたいで…よく似合っている」

長姉「よ、よ、よ、よく似合っている、ですって!!!???」ビキビキブチブチ

長姉「好きでこんな恰好しているんじゃないわよおおおお!!!!!!!!!!」

幼馴染男「ご、ごめん!? 気に障ったなら謝る!」

71: ◆54DIlPdu2E 2015/03/21(土) 18:42:35.99 ID:JzbLRlFW0
幼馴染男「じゃあ店の手伝いか何かで? 聞いたよ、お父さんの調子が悪いんだってな」

長姉「我が家には神に誓って借金はないからご心配なくっ!!」

幼馴染男「…うちの親父の事か、耳が痛いなあ……」

幼馴染男「確かに借金の理由はしょーもなかったけど、事故に遭わなければ何年かけても返済する予定はあったんだ」

長姉「うちの店は兄と次姉がいれば安泰なんですって」

長姉「父も元気になればまた忙しく働くわ」

長姉「そしたらまた自由に買い物だって観劇だってパーティーにだって行ってやるんだから!」

幼馴染男「なんだかわかんないけど…苦労しているようだね」

長姉「あんた程じゃないわよ、この貧乏人!! 落ちぶれ成金!!」

幼馴染男「君と次姉の通ってた女学校には、悪口の科目もあったのか…?」

幼馴染男「お金は少ないなりに平穏に暮らせているんだ。仕事…収入だってあるし」

長姉「天文学者の助手とか言う、まっとうな人には理解不能の仕事でしょ?」

幼馴染男「君の言うまっとうな人がどういう人を指すかわからないけど」

幼馴染男「本当は、子供の頃からずっと天文学者になりたかったのさ」

長姉「…それは初耳だわ…子供の頃から相手になんかしてやらなきゃよかった……」

幼馴染男「そうかな、当時の君ならそうは言わなかったと思うが」

72: ◆54DIlPdu2E 2015/03/21(土) 18:47:57.67 ID:JzbLRlFW0
幼馴染男「とにかく生前の父も理解して、無理に後継ぎにならなくていいと」

幼馴染男「金銭的に応援をしてやるって言ってくれていた、実現しなかったけど……」

長姉「あなたの師匠とやらに家政夫でいいから雇ってくれと頼み込んだって噂を聞いたわ」

幼馴染男「その通りだよ」

長姉「男のプライドはないのかしら?」

幼馴染男「先生は住み込みで僕を雇ってくれて、今や大事な仕事も任せてくれるほど信頼してくださっている」

幼馴染男「何年先かわからないけど、いずれ本格的に独立の後押しもしてくれるとお言葉もいただいた」

幼馴染男「…そうなったらあの約束に一気に近付く事が出来るよ」

長姉「あんたなんかと何か約束した記憶はないわよ?」

幼馴染男「君があの学校に行く前…8歳のときだった」

幼馴染男「確かに君に言ったよ、『大きくなったら天文学者になって……』」

幼馴染男「『新しい星を発見して、長姉の名前を付けるんだ』って」

長姉「」

73: ◆54DIlPdu2E 2015/03/21(土) 18:50:01.56 ID:JzbLRlFW0
ふたたび、屋敷内某所。

謎の音「…むぐ…むぐ……」

次兄「…?」

謎の音「むぐ…むぐううう……」

次兄「…鼾だな、重低音の」

次兄「この動く壁のすぐ向こうから聞こえるぞ」

次兄「と言う事は、この壁が下りている間は西の端の階段から一階へ行って」

次兄「東の端の階段からまた登らねば辿りつけん」

次兄「ここは二つの階段の中間地点、面倒だな…だが」

次兄「これが野獣様か執事さんの鼾なら……」

次兄「労力を払う価値もあると言うもの」

次兄「寝顔ゲットの為に急がば回れ」

次兄「上手く事が運べば観賞しながらスケッチも出来るかもしれない」

次兄「さすがにあの二人なら、触れようものならすぐに起きるだろうからな」

74: ◆54DIlPdu2E 2015/03/21(土) 18:52:20.90 ID:JzbLRlFW0
屋敷某所、動く壁の裏側。

次兄「…はあ…はあ……」汗ビッショ

次兄「け…けっこう早足で…駆けつけてみたら」

次兄「壁にもたれて眠っているのは」

料理長「…むぐう…むぐう……」

次兄「料理長さんじゃないか……」ヘナリン

次兄「しかしぐっすり眠っているな」

次兄「早起きだから、お歳のせいで疲れるのかね」

ズボンと上着の間から腹肉たぷーん

次兄「だらしないな」

次兄「むしろそこが良い」

次兄「お年寄りにあまり過激な事は出来ないが」

次兄「…これくらいは許されるだろう」テヲダス

腹肉むにゅ

料理長「…むぐう?…むぐ……」メヲサマサナイ

75: ◆54DIlPdu2E 2015/03/21(土) 18:55:21.11 ID:JzbLRlFW0
次兄「…腹の弛んだ贅肉」タプ

次兄「例えば自分の父親のそれからは目を逸らしたいのに」タプタプ

次兄「それを覆っているのが毛皮と言うだけで何故こんなにも魅力的なのだろう」タプタプタプタプ

次兄「おっほおおおおおお気持ちいいいいいいいい」タプタプタプタプタプタプタプタプタプタプタプタプタプタプ





数分後…いや、もっとでしょうか?

次兄「…ふう」

次兄「要するにアナグマの腹肉をタプタプしただけだが」

次兄「なかなかよかった……」ニヘヘ

次兄「タプタプしすぎたせいで右手がちょっと痺れて…しばらく鉛筆を持てそうにないが」

次兄「この感触を覚えておく事はアナグマの絵を描く時にも役立つだろう」

料理長「…むぐう…むぐう……」

次兄「本当によく眠っているな」

次兄「楽しませてもらったよ」

次兄「後で、いつも美味い料理のお礼を念入りに言っておこう……」

76: ◆54DIlPdu2E 2015/03/21(土) 18:59:12.55 ID:JzbLRlFW0
商人の家、長姉が帰宅すると……

次姉「姉さん、出掛けていたの?」

長姉「あら…次姉」

長姉(…あんまり会いたくなかった)

次姉「珍しい恰好で、どこ行ってたのよ」

長姉「あんたに関係ないわ! 私なんかいなくたって店は回るんでしょ!」腕ブンブン

長姉「…おー痛い」

次姉「何やったのよ、右手、腫れてない?」

長姉「ちょ、ちょっとね…野良犬を一匹、殴ってきたから」

長姉(あのあと思わず…反射的に幼馴染男をぶん殴ってしまった……)

長姉(倒れて気絶しちゃったので逃げて来たけど…あのくらいでは死なないわよね?)

次姉「気をつけなさいよ、狂犬だったらどうするの」

次姉「あら? そのブローチ」

長姉「ギク」

次姉「この紅縞瑪瑙…末妹のブローチを直したのね」

長姉「お、お店の売上には手を出していないわ!」

次姉「…ヘソクリ貯めていたのは知ってたから」

77: ◆54DIlPdu2E 2015/03/21(土) 19:03:12.45 ID:JzbLRlFW0
次姉「でも、なんだか…デザインは一見よさそうに見えるけど」

次姉「台の銀の質が、前より下がっていると思う」

長姉「ちょっと、ジロジロ見ないでよ、触らないで」

次姉「あ、こんな所がメッキだなんて…お父さんがつけた台には純銀をもっと使っていたはず」

次姉「どこの店よ、これにいくら払ったの?」

長姉「たった○○(金額)で直してもらったの、お得でしょ」

次姉「これに○○も!? 元の台も店に回収されたんでしょ!? 完全に足元見られたわ、カモにされたのよ!」

長姉「何よ、そんなこと言ったって…あげないわよ!?」

次姉「姉さん、お父さんが買ってくれた宝石は信頼できるからいいとして」

次姉「プレゼントは誰から貰ったかだけ重視して」

次姉「まともに宝石自体の価値を調べたことなんかないでしょ?」

78: ◆54DIlPdu2E 2015/03/21(土) 19:04:49.94 ID:JzbLRlFW0
次姉「私は違うわ、宝石や貴金属の本は出来る限り読んだし」

次姉「パーティーに行って身分の高い女性と知り合えば」

次姉「身に付けている宝石を褒めて気分を良くさせて、じっくり見せて貰って」

次姉「質の高い物はどこが違うのか…だんだんわかるようになってきた」

長姉「…ちょっとくらい目利きの真似ができるからって、偉そうに……」

次姉「そうよ、私のやってる事はまだおままごと。だからこれからもっと勉強したいの」

長姉「勉強って…あんた修道院学校を卒業した時、もう二度と勉強なんかするもんか! って」

次姉「鞭で叩かれながら、いい成績取るためだけの『お勉強』ならもう沢山だけど、興味のある事はもっと知りたいわ」

長姉「うちの店に宝飾部門でも作ろうっての? そんなことやってたら、行き遅れるわよ!」

次姉「…納得行かない結婚なら、急いですることもないわ」

長姉「あんたも末妹みたいに化け物とでも結婚させられるか、心配なの?」

次姉「違うわ、そんなんじゃない」

次姉「今までの…4年前に家に帰って来てからの生き方が…急につまんなくなったのよ」

長姉「……!!」ブンッ

79: ◆54DIlPdu2E 2015/03/21(土) 19:06:36.95 ID:JzbLRlFW0
次姉「その振り上げた手をどうしたいの?」

長姉「……」フリーズ

次姉「私を引っ叩きたいならそうすれば? でもその理由は何なのよ」

長姉「何よ…偉そうに…偉そうに、偉そうに偉そうに偉そうに!!」

長姉「あんただってあの子が…末妹がいなくなって清々していたくせに!!」

長姉「あの子の抜けた隙間に収まって、お父さんや兄さんに可愛がられたいだけのくせに!!」

次姉「…………」

長姉「ほぉら、図星でしょ!? 何も言えなくなった!!」

次姉「……」ツカツカ

長姉「な、何よ、殴る気? あんたにそんな資格…!」壁ニオイツメラレ

ド ゴ ッ

長姉「」

80: ◆54DIlPdu2E 2015/03/21(土) 19:09:54.45 ID:JzbLRlFW0
長姉の顔のすぐ横、壁に穴が開いた。

次姉「…そうよ」

次姉「私に姉さんを殴る資格はないわ」

次姉「末妹と…ついでに次兄にも…詫びる資格だってありゃしない」

次姉「…わかっているわよ」

長姉「……」ヘナヘナ

次姉「ちょっと頭、冷やしてくる」クルッ

次姉「…あと、右手も……」

長姉「……」ヘタリコミ

ドキドキドキドキドキドキドキドキ……

長姉「…あの娘、私より細いけど背が高いから…は、迫力が……」

長姉「……」

長姉「…何よ……」

81: ◆54DIlPdu2E 2015/03/21(土) 19:12:47.07 ID:JzbLRlFW0
午睡の夢。

(飾り人形の王子でも考えた事がないわけではない)

(「自分の治世になったなら」)

(「王族の贅沢より、意味のない戦の準備より、もっと有効なお金の使い方もできるはず」)

(町で見かけた、皮膚病だらけの痩せこけた幼い子供達)

(金を持っていそうな男を選んで誘っては家の中に消えて行く、どう見ても十代前半の少女達)

(少なくともこれらは改善しなければならない最優先課題と思っていた)

(必要なもの…皆に行き渡る量の食糧や日用品、教育の場、働きと対価が釣り合う仕事、それから……)

(…しかしそれらが自分にできるのはいつの話なのだろうか? 二十年後? 三十年後?)

(父は、現王はいつ王座から退くのか、その時王子は何歳になっているのか?)

82: ◆54DIlPdu2E 2015/03/21(土) 19:15:05.02 ID:JzbLRlFW0
(王はある日、面と向かって王子に言った)

(「お前が二十歳になったら早く嫁を取らせ子を作らせる」)

(「孫が生まれたらその教育は余が引き受け、幼いうちからしっかりと余の教えを叩きこめば……」)

(「お前のような腑抜けではない、王位を譲る意義のある、頼もしい後継者に育つだろう」)

(自分には次代の王としての価値もないのか、と悲しくなったが)

(王子は『いつものように』黙ったまま曖昧に微笑み、そこで用事を思い出した振りをして)

(一刻も早く王の声が聞こえない場所へと逃げ出す事しかできなかった)

(……成程、自分は確かに『腑抜け』以外の何者でもない)

(これでは誰も、何も、守れやしない)

(民どころか、自分の手が触れられるほど近しい誰かさえも)

(こんな自分が彼女と結ばれることは…最初から諦めている)

(だから、彼女に知られずに彼女の自分への思いを知りたい理由は)

(この先も生きて行くための支えとなる『思い出』が欲しいだけ)

(それだけのためならば、たった一度ならば、『禁じられた呪文』の使用も)

(「……きっと許されるはず」)

83: ◆54DIlPdu2E 2015/03/21(土) 19:16:12.48 ID:JzbLRlFW0
昼下がり、野獣の屋敷。

次兄「やあ、料理長さん」

料理長「次兄様、昼ごはんも残さず食べてくださって嬉しいよ」

料理長「ご主人様から聞いたが、あなたは動物の絵が上手いらしいな」

料理長「わしは人間のゲージュツとかなんとかはさっぱりわからんが」

料理長「よかったら…アナグマの絵を一枚、お願いできないかね」

次兄「いいですよ、あなたをモデルに?」

料理長「…実は、雌のアナグマを、だが」

次兄(雌? …アナグマ用の○○○なピンナップ…とか??)

料理長「アナグマ風情が可笑しいかもしれないが」

料理長「わしには森で暮らしていた頃に、長年連れ添っていた女房がいて」

料理長「この屋敷でご主人様にお仕えする前に、死んでしまったのだが……」

次兄「……」

料理長「今日、休憩時間に昼寝をしていた時、久しぶりに女房の夢を見てね」

84: ◆54DIlPdu2E 2015/03/21(土) 19:18:54.69 ID:JzbLRlFW0
料理長「あいつはわしのこの腹を、前足でタプタプ揺すって遊ぶのが好きだった」

次兄(あ)

料理長「なんでよりにもよってその時の事を夢に見るのかわからんが……」

料理長「目が覚めた時、なんだかとても懐かしい気持ちになって」

料理長「はは、本当に可笑しいな、ただの年寄りアナグマのくせにな」

次兄「いいですよ、奥さんを描きましょう」

次兄「さっそく今日からでも取り掛かりましょう」

料理長「ほ、本当かい!?ありがとう……」

次兄「細かい特徴なんかは教えてくださいね?」

料理長「勿論だよ、お、お礼は何がいいかな!?」ウキウキソワソワ

次兄「いいですよ、あなたはいつも美味しいもん作ってくれるから」

次兄(こっちも散々タプタプを楽しませてもらったし)

次兄(さて…次なるターゲットは……)

85: ◆54DIlPdu2E 2015/03/21(土) 19:21:59.74 ID:JzbLRlFW0
そのころの商人の家。

長兄「仕入れから帰って来たら」

長兄「今朝まで何もなかったはずの壁に穴が開いて、妹達がどちらもそれぞれ右手に包帯を巻いている」

長兄「それに、二人ともどういうわけか非常に話しかけづらい雰囲気だ」

長兄「家政婦さんは何があったか知らない様子だし」

長兄「…父さんはたぶん相変わらずだし……」

長兄「父さん、昼食は食べたかなあ?」ドアガチャ

商人「……」椅子に座ってボー

長兄「家政婦さんや俺が促せば、着替えもするし顔も洗うし物も食べるけど」

長兄「少し食べてやめてしまう…ほら昼食もパン半分かじっただけだ」

長兄「あとは日がな一日、あの椅子に座ってボーッとしているだけ」

長兄「身体はどこも悪くないと医者(せんせい)も言うし、父さんまだ43なのに」

長兄「…老人介護ってこんな感じなんだろうか?」

86: ◆54DIlPdu2E 2015/03/21(土) 19:24:32.21 ID:JzbLRlFW0
商人「末妹……」

長兄「口を開いたと思えば、ああやって末妹の名前を。五回に一回弱で次兄の名も」

長兄「やはり全財産はたいてでも、狩人をできるだけたくさん雇って伴って行くべきだったのでは?」

長兄「…こういう事を言えば、次兄が『脳筋』って言ってくるんだよなあ」

長兄「末妹を殺しはしないと約束をしたらしいが……」

長兄「人間ではない怪物の言うこと、信用に値するのだろうか?」

長兄「…でも、相手は魔法を使うんだ、約束を破れば家族全員が危険に晒されていた可能性がある」

長兄「さらに雇った人たちまで巻き込んでしまった時は……」

長兄「『魔法使い』なら対抗できるかもしれないが、百年以上前から」

長兄「この国、いや、この大陸からは殆どいなくなったって学校で習ったし、当然会ったこともない」

長兄「やっぱり次兄と末妹の決断は正しかったのか?」

長兄「せめて、あの子達がどうしているかだけでも知る手段があれば……」

商人「うっうっうっ……」嗚咽

長兄「…父さん……」

87: ◆54DIlPdu2E 2015/03/21(土) 19:26:27.70 ID:JzbLRlFW0
商人「末妹…末妹!!」ガッシ

長兄「ちょ、父さん!?」

商人「末妹、末妹…あうあうあうあうあ」グリグリワシャワシャ

長兄「な、なんで末妹の名を呼びながら俺の頭を抱え込むんですか?」

商人「末妹…妻と同じ、この髪……」

商人「母親譲りの、艶やかな栗色の髪…うううう」

長兄「…ああ、きょうだいの中で母さんと同じ髪の色は、俺と末妹だけだったな……」

長兄「しかし、性別といい体格といい他には全く共通点はないのに」

長兄「…ねえ、父さん?」

商人「……」

長兄「父さん、最近、次姉が店を手伝ってくれるようになったんですよ」

商人「……」

長兄「長姉は相変わらずですが…最近は割とおとなしくはしているようです」

商人「…次姉が……?」ハンノウガオソイ

88: ◆54DIlPdu2E 2015/03/21(土) 19:29:02.74 ID:JzbLRlFW0
長兄「末妹と次兄だって、帰ってくる可能性が無いわけではありません」

長兄「あの子達が戻って来た時に、4人で店で働いていたら…驚くでしょうね」

長兄「その時は元気な顔を見せてあげましょう、父さん」

商人「…ううううう……」

商人「…私は我が子さえ守れない…不甲斐ない…駄目な父親だ……」ウナダレ

長兄「父さん……」

長兄(…こうやって、項垂れた父さんの頭を改めて見てみると)

長兄(後退してきた額と、頭頂部の空白地帯がつながりそうになって来たなあ)

長兄(俺もいずれ『こんな感じ』になるんだろうか?)

長兄(それでも父さんが『こんななった』のは30過ぎてからと記憶しているが)

長兄(次兄と末妹がいなくなって、父さんが引きこもって以来)

長兄(俺も枕につく抜け毛が…なんとなく増えつつある気がするんだよな)

長兄(俺まだ二十歳なんだけど)

長兄(早くまた家族全員そろって平穏に暮らしたいものだ……)

89: ◆54DIlPdu2E 2015/03/21(土) 19:33:32.70 ID:JzbLRlFW0
夢のつづき。

(城のある都から遠く離れた屋敷、機械仕掛けの屋敷、王家の別荘)

(自分の二十歳の誕生日を口実に開かれた舞踏会の場で)

(王妃に呼びつけられた理由、王子にはわかっていた)

(「なぜあんな卑しい身分の娘がここにいるのか」)

(魔法図書館で働く娘、もちろん王子が王妃に内緒で招待した)

(自分の誕生日に免じてただひとつのわがままを許して欲しいと頼むと)

(形の上では王子を溺愛していた王妃は渋々)

(舞踏会の後、他の招待客のように別荘に泊まらせる事は許さず)

(その晩のうちに馬車で王都へ送り返す事を条件に、承諾した)

(もとより娘自身が、早く家に帰りたがっていたのだけれど……)

90: ◆54DIlPdu2E 2015/03/21(土) 19:37:12.84 ID:JzbLRlFW0
(「王子様、私がここにいるのはどう考えても場違いです」)

(「それに私、踊れません……」)

(招待状には、いつも世話になっているお礼、という言葉を入れた)

(彼女が来ているドレスは招待状と共に王子が贈ったもの)

(正確な寸法は当然測ることはできなかったので)

(それでも着られるよう、紐やボタンで調節できる仕様にと注文した)

(ここまでされては、彼女も断ることはできなかった)

(「無理に誘って悪かった」)

(「しかし、それでも君と踊りたかったんだよ」)

(「私の動きに合わせて、足を動かしていればそれでいい」)

(「…さあ娘さん、私の手をお取りください」)

91: ◆54DIlPdu2E 2015/03/21(土) 19:39:43.75 ID:JzbLRlFW0
(彼女は少し考えて、王子に言った)

(「身分の高い方は気まぐれだって世の人は言うけれど」)

(「王子様は優しいお方。私に一生一度、今夜限りの夢を見せてくださると思うことにします」)

(彼女はそっと、王子の指に触れる)

(……)

(…王子も彼女も、いや、屋敷にいた人間全て、知らなかった事がある)

(ギルドの魔法使い達を金で雇った人々の集団があった)

(目的を同じくして集った人々は、下級貴族から貧民窟の住人まで、職業や地位は様々)

(各自が自分の生活水準の中で精一杯の…人によっては犠牲を払ってまで用意した金で)

(魔術師ギルドが受けた依頼は)

(『王と王妃と、王子の暗殺』)

94: ◆54DIlPdu2E 2015/03/21(土) 23:38:17.51 ID:JzbLRlFW0
翌日、野獣の屋敷、野獣の部屋。

執事「ご主人様……?」

野獣「……」

執事「…お昼寝中か、よく眠っておられる」

執事「もうすぐお茶の時間だが、もう少し寝かせておこう」退室

執事「末妹様達のほうはメイドが準備しているだろう」

執事「料理長も午前中からはりきって胡桃入りのサブレを焼いているし」

執事「この離れた場所からでも甘い香りがする」

執事「料理長が、胡桃は次兄様の好物だから、と言っていたが」

執事「しかもわざわざ末妹様から彼の好物を聞き出したとか」

執事「……」

執事「末妹様の兄上とは言え、初対面のご主人様に無礼を働いた……」

執事「……あの次兄様を喜ばせたい、のか????」ワケガワカラナイヨ

末妹「執事さん」

執事「おや、末妹様」

95: ◆54DIlPdu2E 2015/03/21(土) 23:40:35.20 ID:JzbLRlFW0
調理室。

メイド「料理長さん、まだ終わらないの? 三時になっちゃうわ」

料理長「待っておくれ、メイドちゃん」

メイド「…あら、胡桃のサブレ、予定通りの数があるじゃない」

メイド「このお皿もう運びますよ!?」

料理長「待っておくれったら……」

料理長「サブレの生地が余ってしまったのでね、楕円形に型抜きして」

料理長「真ん中にジャムを流し込んで、縁を白ザラメで飾って……」

料理長「鏡のクッキーを作っているんだ」

メイド「末妹様にぴったりだわ、とっても綺麗なお菓子ですもの!」

料理長「次兄様の好物を教えてくれて、それを秘密にしてくれて」

料理長「末妹様は大事な協力者だからね」

料理長「こっちは末妹様へのお礼のつもりだ」

メイド「それなら待てます、だけど早く仕上げてね!」ワクワク

96: ◆54DIlPdu2E 2015/03/21(土) 23:42:25.05 ID:JzbLRlFW0
執事と末妹。

執事「もうすぐお茶の時間ですよ、応接間へどうぞ」

末妹「ごめんなさい、いつもは来ない所まで来てしまって……」

執事「謝る事はありません」

執事「あなた様はこの屋敷のどこの廊下も歩いて良いし」

執事「鍵の開いている部屋には、どこに入っても構わないのですよ」

末妹「…ありがとうございます」

末妹「あの、執事さん……」フタリデアルイテイルヨ

執事「はい?」

末妹「皆さんは…執事さんやメイドちゃん達はいつお食事を?」

執事「我々はそもそも凝った料理の味はわかりませんからね……」

執事「やはり料理長が用意はしてくれますが、あなた様達の感覚では、きっと料理とも言えない代物です」

執事「それに各自食べられる物や食べる回数も違いますから」

執事「朝に一日分を受け取って、好きな時間帯にそれぞれの部屋で食べています」

執事「食事と眠る時くらいは本来の姿に近い状態でくつろいでほしい、と言う主人の配慮ですね」

97: ◆54DIlPdu2E 2015/03/21(土) 23:43:02.87 ID:JzbLRlFW0
末妹「では野獣様は…おひとりでお食事をされているんですよね?」

執事「そうです」

末妹「兄や私とは、お食事やお茶の時間が違うのですか?」

執事「…いいえ、ほぼ同時刻にしています」

執事「大幅にずらしては、料理長の準備が大変になりますから」

末妹「ご自分のお部屋で?」

執事「ええ。つまり、なぜ末妹様達と同席しないのか、それをお聞きになりたいのですね」

末妹「…はい」

執事「人間であるあなた様が奇妙に思われるのも当然ですね」

執事「あなた様のお家の、あなた様がご存知の」

執事「『客人』と『家の主人』…人間同士のしきたりとは何かが違う」

末妹「……」

98: ◆54DIlPdu2E 2015/03/21(土) 23:44:34.87 ID:JzbLRlFW0
執事「主人に提案してみましょう」

執事「この家のあるじならば、この家のお客様と同じテーブルにつくのが礼儀でしょう、と」

末妹「…あの、私」

末妹「……」

末妹「ごめんなさい、私は本当に物を知らない子供で…どう言えばいいのかわからなくって」

執事「立場をわきまえない無礼な娘と思われるのでは、とご心配ですか?」

執事「主人はただ」

執事「あなた様を怖がらせたくないため、ご自分で決めた時間しか顔を出さず」

執事「話す時も距離を置き、ご自身の獣の臭いであなた様の食欲をなくさないよう」

末妹「…私は野獣様が…けもの臭いとは思いません」

末妹「兄は『香水の匂い』と言っていましたが、あれはバラの香り…野獣様からは微かなバラの香りがします」

末妹「それに野獣様は優しいお方だと私はわかっています、あの見かけを怖いとは思いません」

末妹「ですから、私達を気遣って、という理由でしたら…それは必要ありません」

99: ◆54DIlPdu2E 2015/03/21(土) 23:46:54.26 ID:JzbLRlFW0
末妹「でも、もし、野獣様が同席をお嫌だと仰るなら」

執事「いいえ、末妹様」

執事「今のあなた様のお言葉を伝えれば、主人は喜びますよ」

執事「もしかしたら今日のお茶から同席してくださるかもしれません」

執事「そうなったら、次兄様もさぞかし喜ばれるでしょうねえ」

末妹「あ、いえ、そんなつもりでは…と言うか、そのあの」アワアワ

末妹「…兄が…ご迷惑、とんでもないご無礼を…本当にごめんなさい!」

執事「ふふ、いや、こちらこそすみません」

執事「…末妹様、主人やわたくしに対し、聞きたい事や話をしたい事がある時は」

執事「メイド達と話をする時のように、あなた様の言葉で話をして良いのですよ?」

執事「あなた様は本来、もっと素直で率直なお方のはず」

執事「…と、主人が申しておりました」

末妹「……」

執事「おや、メイドが待ち切れずに探しに来たようです」

100: ◆54DIlPdu2E 2015/03/21(土) 23:49:15.44 ID:JzbLRlFW0
メイド「末妹様、こちらにいらしたんですか!?」パタパタ

執事「メイド、先に末妹様を応接間へお連れしなさい」

執事「それでは、主人を呼んで来ましょうか」クルリ

メイド「え…ご主人様を??」

末妹「…もしかしたら、一緒にお茶を召し上がってくださるかも…と」

メイド「ええええ、本当ですか!?」

メイド「よかったあ、私、ずっとそうすればいいのにって思っていたんですよ!」

メイド「だって、せっかく招いたお客様と同じものをお食べになるのに」

メイド「同じ時間にそれぞれ別のお部屋でお茶もお食事も、だなんておかしいですもの」

末妹「……」

執事の声「メイド!」

メイド「あ」

メイド「執事様、すっごく耳がいいんだった……」

末妹「執事さんの仰る通り、先に行ってましょう?」

101: ◆54DIlPdu2E 2015/03/21(土) 23:52:24.40 ID:JzbLRlFW0
またも午睡の夢。

(王子は娘の手を握ると、彼女には聞こえぬ声で呪文の詠唱を始めた)

(唱え終わるか終らぬうちに……)

(気が付けば彼は闇の中に一人佇んでいた)

(何が起きたかわからないまま、王子は彼女の名を呼び、辺りを見回す)

(自分の両脇に倒れていたのは自分の両親、王と王妃)

(二人とも苦悶と絶望の表情を顔に貼りつかせたまま微動だにしない)

(王子は恐慌状態になって娘の名を呼び続ける)

(彼女の無事を確かめたかったのか)

(…彼女に取り縋って恐怖から救い出して欲しかったのか)

102: ◆54DIlPdu2E 2015/03/21(土) 23:54:58.02 ID:JzbLRlFW0
(聞き覚えのある誰かの声が王子を呼び、周囲に光が戻る)

(そこにはやはり自分と、倒れ動かない両親がいるだけ…いや)

(聞き覚えのある声の主が目の前にいた)

(魔法教授所で一番熱心に自分を指導してくれた魔法の師匠)

(同時に、貧しい娘の賢さ勤勉さを見抜いて、図書館の仕事を斡旋した人物でもあった)

(師匠はギルドが受けた依頼について話し、王と王妃は既に絶命していると告げた)

(魔法使い達は、王と王妃の心臓が止まるまでのほんの一瞬の間に『悪夢』を見せた)

(夢の中では『数か月が経って』おり)

(国に革命が起き二人は捕えられ裁判にかけられ)

(自分達が苦しめた民衆の手によって『彼らの行いに見合った最期』を遂げていた)

103: ◆54DIlPdu2E 2015/03/21(土) 23:57:09.09 ID:JzbLRlFW0
(そこまで話を聞いて、王子は)

(「では王の世継ぎであった私も、ここで死ぬのですね」)

(「師匠、これだけは教えてください、彼女は…どうなりました?」)

(師匠が言うには、自分達が頼まれたのは三名の暗殺だけで)

(舞踏会の客…他国の来賓やこの国の貴族達、大金持ち)

(そして別荘に連れて来ていた城の使用人達は)

(明日の朝、何事もなかったかのように自分の家で目覚めるだろうと)

(王家に従うこの国の権力者がその後どうなるかは、魔法使い達の知るところではないとも)

(そして図書館の娘については)

(舞踏会の招待状を受け取った時から王子の手を取るまでを)

(『本当に』夢だと思うように仕向けてあるということを、付け加えた)

(王子は安堵して、呟いた)

(「それでしたら、私も…心残りなく死ねます……」)

104: ◆54DIlPdu2E 2015/03/21(土) 23:59:06.76 ID:JzbLRlFW0
メイド「末妹様、お茶のお代わりいかがです?」

末妹「ありがとう、いただくわ」

野獣「昼前に調理室の前を通りかかった時に、いい匂いがしていたのはこれか」

野獣「こんなに胡桃がたくさん入った焼菓子は初めてだが、なかなか美味いな」

次兄「一体何があったというのか」ボリボリ

次兄「お茶受けのお菓子が胡桃ぎっしりのサブレと言うだけでも嬉しいのに」ボリボリ

次兄「…この場に野獣様が同席しているだと……?」ボリボリボリ

末妹「お兄ちゃん、口に何か入っている時の独り言はお行儀が悪いわよ」

野獣「ふ、最初にお前達が来た日を思い出すな」

野獣「あの時も、食事の席で末妹嬢が次兄の面倒を見ていた」

次兄「…モムモム」租借中

次兄「ズーゴクン」お茶飲み

105: ◆54DIlPdu2E 2015/03/22(日) 00:01:16.07 ID:WAioSZl30
次兄「…あの日は俺達が食べ始めると、野獣様は席を外し、食べ終わると戻って来られましたね」

次兄「もちろんわざわざ遠路からやって来た俺達、というか末妹のために用意された食事だから」

次兄「屋敷の正式な食事時間じゃなかったけど」

次兄「次の日からは食事やお茶の前後に姿を現す事も無くなった」

次兄「野獣様のモンスターとしてのプライドかなあ、とか俺を警戒しているのかなあ、とか」

次兄「理由は色々推測していたんですけどね」

次兄「それが、どういう風の吹きまわしで…いや正直嬉しいんですけど」

末妹「……」

野獣「…ちょっとな。私の気が変わった、それだけだ」

次兄「それだけですか…そう仰るならそれでいいか」

野獣「しかし次兄、お前は率直な奴だな」

野獣「…ま、初対面の事を思い起こせば…私を最初から怖がっていなかったことは明白だが」

106: ◆54DIlPdu2E 2015/03/22(日) 00:02:54.91 ID:WAioSZl30
野獣「なんにせよ、お前は変わった奴だからさて置き」

野獣「末妹嬢は本当に私が恐ろしくないのかね?」

末妹「…私も、率直に言っても構いませんか?」

野獣「ん? ああ、構わん」

野獣「むしろそうしておくれ」

次兄(ほう)ボリボリ

末妹「…父から野獣様のお話を聞いて、私…もっと恐ろしいお姿を想像していました」

末妹「想像のお姿の恐ろしさが10だとすれば」

末妹「実際のお姿の恐ろしさは…6くらい?」

野獣「数値で表現されたのは初めてだよ」

末妹「だから、全然怖くなかったのとは、また違うのです」

末妹「最初は一生懸命、怖がっていないふりをしていました」

野獣「……」

107: ◆54DIlPdu2E 2015/03/22(日) 00:04:23.38 ID:WAioSZl30
末妹「でも…私に対しての野獣様の態度は、とても優しく穏やかで」

末妹「お料理はとても美味しかったし」

末妹「予定になかった(その上あんなことをした)兄の事まで気遣ってくださって」

末妹「使用人の皆さんを紹介してくださった時には、随分緊張もほぐれて……」

末妹「それと…初対面の瞬間…なぜかはわからないけど思ったのです」

末妹「『このかたは嘘はつかないはず』って」

野獣「……」

次兄(お…野獣様がハッとした表情を)ボリボリ

末妹「あ、ごめんなさい!? 生意気が過ぎました…!」

野獣「正直な感想なのだね、末妹」

末妹「は…はい」

108: ◆54DIlPdu2E 2015/03/22(日) 00:06:56.60 ID:WAioSZl30
野獣「それでいいのだよ」

野獣「お前の率直な言葉を私が怒る理由はない」

野獣「尤もお前は、怒られるのが怖いという理由で言葉を選んでいるわけでもなかろうが」

野獣「私にはわかるよ、相手を傷つけたくなくて言葉を選んでいると」

次兄「俺はいつでも正直で率直ですから」ボリボリボリボリ

野獣「お前は少しくらい私を怖がってくれ」

末妹「…ふふ……」

メイド「さてと…このへんで」

メイド「ねえ次兄様、今日のお菓子は美味しかったですか?」

次兄「あ、ああ。美味いのはいつもだが」

次兄「胡桃ぎっしりで嬉しかった」ゲプ

メイド「ふふ、そうでしょう」

メイド「実はね、これ、料理長からの、絵を描いてくれたお礼ですって」

メイド「お礼は何もいらないと仰るので、せめて好物の胡桃が入ったお菓子を、と」

次兄「お礼? まだ描いている途中なんだけどなあ」

109: ◆54DIlPdu2E 2015/03/22(日) 00:08:23.05 ID:WAioSZl30
次兄「…あれ、なんで俺が胡桃が好きなの知ってんの?」

メイド「うふふ、末妹様に協力していただきましたあ」

次兄「なるほど…そういう事か」

メイド「それで、こちらのお皿はぜひとも末妹様にって、料理長が」

末妹「まあ、とっても綺麗で可愛いお菓子!」

メイド「真ん中にはツヤツヤのジャム、周囲はザラメで飾って……」

メイド「女性の手鏡を模ったお菓子なんですよ」

末妹「素敵、料理長さん本当に何でも作れるんだ」

メイド「勿論お二人の分もあります、どうぞ」

次兄(俺はとっくに腹一杯だから、部屋に持ち帰って夜食にでもしよっと)

野獣「ふむ…『鏡』か……」

110: ◆54DIlPdu2E 2015/03/22(日) 00:12:37.33 ID:WAioSZl30
その夜の夢。

(しかし師匠は)

(「言う事はそれだけか? …愚かな、心弱い、哀れな我が弟子よ」)

(「依頼をしてきた人々には、王の直系であるお前は『王の存在の一部』に過ぎないが」)

(「お前と言う人間を知る我々の間では、王子の処遇について意見が分かれた、依頼を受けた上でもなお、な」)

(「王子として生きる道は失っても、お前自身を生かす方法はいくつかあった」)

(「しかし…お前は我々にとって許されない事をやらかした」)

(王子はそこで初めて、禁忌を使った事を知られていたのだと気が付いた)

(「…指南書を手に入れた時点で、相談をしてくれたなら」)

(「いいや、せめて、己の死を前にして、禁を犯したことを罪と思い、告白してくれたなら……」)

(王子は師匠達への裏切りを心の底から悔いたが、すべては遅かった)

111: ◆54DIlPdu2E 2015/03/22(日) 00:14:03.76 ID:WAioSZl30
(師匠は続けた)

(「お前がこれから受ける罰は、まず、このままこの場所で200年の眠りに着くこと」)

(「次に、目覚めた時には今と違う姿……」)

(「自身の心の内に相応しい姿に変わっていること」)

(「その姿である限り、この屋敷とそれを取り巻く森から出る事は叶わないと言うこと」)

(「森を抜け出そうと踏み出した足は、凍り付いたように動かなくなる、引き返すしかできなくなる」)

(「そして…屋敷の裏庭のバラ園。あれはお前が丹精したものだったな」)

(「王子のすることではないと王が蔑み、虫が出るからと王妃が嫌がったにも関わらず」)

(「あれだけが、両親に逆らってまでお前が自分の意思で守り抜いたもの、そうだな?」)

(「あのバラから『目に見えぬ根』を長く伸ばし、お前の心臓に根付かせた」)

(「お前の自由な意思の象徴が、今度はお前を縛り付ける」)

(「お前が生きている限りバラは枯れも散りもせず、お前が死ねばバラも枯れ、二度と新しい芽を出す事もない」)

(「そしてバラの花が折り取られた時…正確には、バラを欲した人間が花一輪でも手にした時」)

(「代償としてその日のうちに相手に手を下さなければ、残りのバラも枯れ、枯れ切った時にお前も死ぬだろう」)

112: ◆54DIlPdu2E 2015/03/22(日) 00:15:32.22 ID:WAioSZl30
(「ここで、唯一の救い…救済の可能性も…与えよう」)

(「バラの花を欲した人間を、殺さずに受け入れることをお前が選んだ時、相手の死による代償は『保留』される」)

(「そして相手がお前を心から信じてくれて、お前がその信頼に誠実を持って応え」)

(「その誠実さが相手に伝わった時…お前はようやく完全にバラの呪縛から解かれる」)

(「世の信頼しあう人々には、お互いに心を読む魔法がなくてもできることだ、しかしお前にはできなかったことだ」)

(「だから…一度受け入れた相手と信頼を築きあげる途中で、お前からそれを諦め、放棄して」)

(「そんなお前に対し、相手が怒り、悲しみ、失望、拭えない不信…このような感情を表した時には」)

(「…やはり相手を殺さなければ、お前はバラと共に死にゆくだろう」)

(王子にとっては、200年の眠りだけで十分すぎる罰だった)

(目覚めた時、図書館の娘はとうにこの世からいなくなっているのだから……)

113: ◆54DIlPdu2E 2015/03/22(日) 00:18:12.11 ID:WAioSZl30
(師匠はなおも続けた)

(「眠りに着いている間、この屋敷には誰も入れないよう我々の魔法で完全に隠蔽され、動物さえ入り込めない」)

(「屋敷の建物自体も時間を止める」)

(「建物が老朽化して200年の間に崩れでもして、お前が眠りの途中で死んでしまっては意味がないからな」)

(…王子はそれでも一向に構わないと思った)

(「目覚めた後は、お前は自分の力で我が身とこの屋敷を守らなくてはならない」)

(「今の魔法の力はそのまま残してやろう、心を読む術を除いて」)

(「お前のたぐい稀な実力ならば、魔法を上手く使えばここで独りでも生活はできるだろう」)

(「知性と記憶も手つかずにしておくが、お前の正体、過去とバラの秘密に関する話だけは」)

(「誰かに語ろうとした瞬間に言葉を失う、誰にも話せなくなる。話せない理由すら説明できない」)

(「裏庭のバラだが、雨風や鳥や獣、また人間であっても完全な過失によって傷付いたならば何も起こらない」)

114: ◆54DIlPdu2E 2015/03/22(日) 00:20:50.07 ID:WAioSZl30
(「しかし同時に、花に惹き付けられる人間を拒む事もできない」)

(「バラに人が近づくことを防ぐには、屋敷ごと誰も入れないよう閉ざしてしまう他にない」)

(屋敷ごとバラ園を閉ざし、人間と触れ合わず寿命を終えるか)

(屋敷に招き入れた、バラを折り取るかもしれない人間と関わるか……)

(人を惹き付けるが故に手折られ傷付く運命にある美しい花)

(そんな儚い存在と一蓮托生になるのか……)

(ならば、200年後と言わず、今すぐ誰かバラを折ってくれ、切ってくれ)

(そのまま共に枯れて散って朽ち果ててしまいたい、と)

(王子が叫ぼうとした瞬間、その意識は暗闇に沈んだ……)

115: ◆54DIlPdu2E 2015/03/22(日) 00:22:18.83 ID:WAioSZl30
野獣の屋敷の某所。

次兄「庭師くん、庭師くん」

庭師「あれ、次兄様」

次兄「これ、なーんだ?」パッ

庭師「大きな麻袋とエノコログサ……」

庭師「僕をじゃれつかせようって魂胆ですか?」

庭師「その意図はよくわかりませんけど」

庭師「あいにく、仕事中はその程度で惑わされないように心掛けています」

次兄「さすがだね庭師くん。だが、これはどうかな?」

袋の口:くぱぁ

庭師「開いた袋の中から、何かの香草の香りが……?」

庭師「…キャットニップか、考えましたね」

次兄「庭の菜園に生えていたのさ」

116: ◆54DIlPdu2E 2015/03/22(日) 00:23:25.82 ID:WAioSZl30
庭師「確かにネコ科の動物はその香りに弱いけれど」

庭師「キャットニップはご主人様が召し上がる料理やお茶にも使うので栽培しています」

庭師「庭師がいちいち酔っ払っては仕事にならないからと」

庭師「ご主人様の魔法で耐性をつけていただきました」

次兄「つまり君はこの香りでも惑わされないと。それなら」

次兄「この、固く栓をした小ビンに何が入っているかわかるかな?」

庭師「茶色い粉末…さあ……?」

次兄「屋敷の地下の薬草とスパイスの保管庫にあったのさ」

次兄「まさか東洋の珍しい生薬まで揃っているとはね…」

小ビンの栓「ポン」

庭師「にゃっ!?」

庭師「な、なんだろう、この香り」

庭師「魔法をかけてもらう前の、キャットニップを嗅いだ時のような気分」

庭師「でも…この香り自体は初めてだ……」

次兄「これを袋の中にパッパとね♪」

117: ◆54DIlPdu2E 2015/03/22(日) 00:24:31.95 ID:WAioSZl30
次兄「更に袋の口の前で」

エノコログサ「パタパタパタパタ」

庭師「う、うわあ、理性が、理性があ……」

次兄「これはマタタビという東洋の植物を乾燥させたもの」パタパタパタ

次兄「あれだけ保管庫に膨大な種類があれば、野獣様も滅多に使わない薬草もあるだろう」

庭師「あああ…エノコログサが、袋が…未知の香りが僕を誘うよお……」

次兄「野獣様には黙っておくよ」パタパタパタ

庭師「うわああああああ、この香りに、あの粉にまみれたいいいいいいい!!」ルパンダーイブ

スボッ

庭師「狭いよー薄暗いよー楽しいよー」ゴロゴロゴロ(転がる音)

庭師「いい匂いが、気持ちのいい匂いがするうううう」ゴロゴロゴロ(喉を鳴らす音)

庭師「…はっ…駄目だ駄目だ、まだ勤務時間中……」ザッ

庭師「……」

庭師「ふあああああもうどうにでもしてえええええええ」コロコロクネクネ

118: ◆54DIlPdu2E 2015/03/22(日) 00:25:48.44 ID:WAioSZl30
次兄「…ふ、山猫も家猫も変わらんな」ノゾキコミ

次兄「しかしモノの本によるとあまり長時間トリップさせると体に負担がかかるとか」

次兄「早めにミッションを完遂せねば」

次兄「この袋の端っこの糸。これを一気に引っ張ると…」

糸:シュルルルッ

麻袋→麻布:バサッ

次兄「麻袋から一枚の麻布になるのだ」

庭師「うふふふふ、ゴロゴロ…うふふふふ、ゴロゴロ…」ラリラリ

次兄「すっかりあっちの世界に旅立っている」

次兄「マタタビ凄い。東洋の神秘」

庭師「この世は天国だあああああ、バンニャーイ」両手ナゲダシー

次兄「これなら両前肢いけるかな」むんず

次兄「それでは本日のメインイベント……」

次兄「肉球○○○○祭の開幕です」

119: ◆54DIlPdu2E 2015/03/22(日) 00:26:40.64 ID:WAioSZl30
商人の家、次姉の部屋。

長兄「次姉、ちょっといいかな」

次姉「何、兄さん?」

長兄「手の怪我はどうだ? 包帯しているじゃないか」

次姉「…これはなんでもないのよ」

長兄「まあ詮索はしないよ。それより…お前も、うちの地下室にある金庫の事は知っているだろ?」

次姉「ええ、あのすごく大きくて、とてつもなく重い」

次姉(持ち上げようと試みたことないから、本当の重さ加減は知らないけど)

次姉「特別製の金庫の事でしょ?」

長兄「そうだ。あの金庫にはうちのほぼ全財産が入っていて、必要な分のお金だけその都度取り出している」

120: ◆54DIlPdu2E 2015/03/22(日) 00:28:38.12 ID:WAioSZl30
長兄「今あそこの鍵を持っているのは父さんと俺だけだが」

長兄「そろそろ、お前にも一つ預けておこうと思う」

次姉「…!」

次姉「…信用していただいてありがたいけど、断るわ」

長兄「どうして? お前は真面目に店の仕事をやっているし、今の父さんの状態を考えても」

次姉「ううん、まだまだ、私、自分が信用できないもの」

次姉「お金が自由に出し入れできると思ったら……」

次姉「私はまた、浪費家で遊んでばかりの悪い次姉に戻ってしまうかもしれない」

長兄「そんなことは……」

次姉「兄さんがさせないわよね。でも、私は怖いの、自信がないの」

次姉「むしろ……」ゴソゴソ

121: ◆54DIlPdu2E 2015/03/22(日) 00:29:50.74 ID:WAioSZl30
長兄「…お前の宝石箱?」

次姉「私の持っている貴金属や宝石も、当分のあいだ金庫にしまってほしいの」ドン

次姉「普段使いにしても違和感がない程度の物だけ、手元に残しておくわ」

長兄「…………いったいどうしたんだ、次姉……」

次姉「その顔、いくらなんでも驚き過ぎだと思うけど」

次姉「パーティーに着て行くようなドレスも衣装箱にしまうわ」

次姉「もちろん永遠にじゃないけど…昔の私に戻らないって自信ができるまでの間ね」

長兄「…お前にしては大変な決意だと思うよ」

長兄「わかった、次姉の気持ちは受け止めた」

長兄「金庫の鍵については現状維持、お前の大切な宝石は俺が責任持って預かろう」

次姉「ありがとう、兄さん」

122: ◆54DIlPdu2E 2015/03/22(日) 00:31:35.75 ID:WAioSZl30
次兄と庭師……

次兄「庭師くんのネコ科肉球を○○○○にペロ尽くし、気が付いてみると……」

庭師「…すぴょー…すぴょー……」

次兄「気持ち良さそうに熟睡している」

次兄「彼の全身に付着していたマタタビ粉はブラシを使ってきれいに払い落し」

次兄「念のため固く絞ったタオルでも拭き取り」

次兄「マタタビ粉まみれの麻布も床にこぼれた粉も、この蓋付きの缶に密封した」

蓋付きの缶:カーン

次兄「証拠隠蔽は完璧だが…問題は」

庭師「すぴょー……」

次兄「彼の記憶の中での一連の出来事」

次兄「…実は、やや強引な手口を、ちょっとばかり後悔している」

次兄「今更ながらのてめえ勝手な理屈だが、さすがに嫌われたくはないのだ」

123: ◆54DIlPdu2E 2015/03/22(日) 00:33:01.85 ID:WAioSZl30
次兄「ほら、欲望に突っ走った世の男性がその対象に罪悪感を覚えて気まずくなる、あの感じ」

次兄「……『感じ』というよりは、むしろそのもの?」

次兄「世の中によくある話と違うのは、同性といえど共感してくれる人が世界中探してもいないような」

次兄「オンリーワン且つワーストワン、これが今の心境です……」

庭師「…うーん……」フニャ

次兄「」

庭師「…くぅあああああああ、よくねたああああああああ」のびーーーーーーー

次兄「にににに、庭師くんっ?」

庭師「あれぇ、次兄様…なんでこんなとこにいるんですぅ?」ネボケー

次兄「…君こそ、どうしてこんな所で寝てたのか…な?」

庭師「え…僕は、確か…ここで次兄様に呼び止められて……?」

庭師「……」

124: ◆54DIlPdu2E 2015/03/22(日) 00:33:55.61 ID:WAioSZl30
庭師「…そこから先の記憶が曖昧だ…おかしいな?」

次兄「きっと疲れていたんだ、そのせいだよ!」

庭師「…そうかな、そうかも…確かに目が覚めたのに、なんとなくだるい……」

次兄「そう、絶対疲れているせいだから!」

庭師「ですよねえ…もう今日は執事さんに話して、休ませてもらおうかなあ」

次兄「それがいいよじゃあ俺はこれで食事の時間だ末妹が待っているだろう」イッキニシャベッタヨ

庭師「はい、次兄様、また明日……」テヲフル

庭師「…もうちょっと、ここで昼寝していこう……」ゴロリ

庭師「…すー……」

次兄「酒に泥酔すると、前後の記憶がすっぽ抜ける人間が時々いるが」

次兄「庭師くんは人間ならばそのタイプなのかもしれないな」

次兄「……助かった、とりあえずは」ホー…

125: ◆54DIlPdu2E 2015/03/22(日) 00:35:13.39 ID:WAioSZl30
そして誰かの夢。

(……………………)

(どれ程の時間が過ぎたのか、夢を見たのか見なかったのか……)

(王子の最後の言葉、悲しみの叫びは、外に吐き出される直前に内へと呑み込まれた)

(そのまま『叫びたい心』は200年間くすぶり続け)

(王子を獣の咆哮が相応しい、元の姿とは似ても似つかないかたちへと、すっかり変えてしまっていた)

(少しでも以前の名残が残っているのは瞳の色くらいで、しかし目の形は獣のそれ)

(鏡に映し出されたのは…全身褐色の毛に覆われた、恐ろしげな、見た事もない大きな獣の姿だったが)

(あの愚かで、心弱く、哀れな王子の姿よりは遥かに『まし』に思えた)

(そう思うと、不思議と)

(しばらくは『野獣』として生きてみようかという気力が沸いて来た)

(最初は獣の唸り声しか出せなかったが、少し練習すれば人間の声も出せたし使い分けもできた)

(人間の声もテノールからバスには変わっていたが、今の外見には似合いだろう)

126: ◆54DIlPdu2E 2015/03/22(日) 00:37:30.40 ID:WAioSZl30
(次に半日かけて広い屋敷の中を探索し、もう半日で城の周辺を探索した)

(建物は師匠が時間を止めたと言った通り、中も外も傷んでおらず)

(大時計と連動している門は、王が舞踏会の前に装置を解除したままで普通に手動になっているけれど)

(「そう言えば、私は門を操作する装置がどこにあるか知らないな…」)

(城の中の日用品もどうやら同じく時を止めていたようで、200年前のままと思われた)

(そして裏庭では)

(この200年間、人が手入れし続けて来たかのように美しくバラ達が咲き誇っていた)

(最初のうち、野獣は屋敷で寝泊りをすることを除けば)

(本物の獣のように必要最低限の糧を森に求めて暮らした)

(幸いなことに、その大きさに関わらず野獣の身体は多くの食料を求めなかった)

(食べられる植物かどうかは魔法で鑑定できたので、効率よく採取を行い)

(3日に1匹だけと決めて川魚を捕る、捕れない日は諦めるだけのこと)

(しばらくのち、野獣は庭の片隅に食用の野草を育てる事を覚え)

(『収穫の日を楽しみにしている自分』に気付いた時)

(同時に、ようやく、『孤独な自分』をも自覚した)

(更にそれは、今現在の外の世界を知りたい『欲』にも繋がって行く……)

128: ◆54DIlPdu2E 2015/03/23(月) 21:50:56.71 ID:0RdccuDh0
ある日、商人の家、長姉の部屋。相変わらず暇そうな長姉。

長姉「あー……」

長姉「私のヘソクリ、残りこれだけになっちゃった…」チャリンチャリン

長姉「…あれは私が7歳くらいの時かしらね」

長姉「お昼休み中のお客がいないうちの店で、次姉とかくれんぼして遊んでいたら」

長姉「目の前にあった売り物の紅茶の缶が消えて、小さな革袋が降って来たの」

長姉「びっくりして大声出したら次姉に見つかったんだっけ」

長姉「お父さんに言っても最初は信じてくれなくて、でもその革袋の中には金貨が詰まっていて」

長姉「しかもデザインからすっごく昔の貨幣のはずなのに、使われたような傷や摩耗が殆どない」

長姉「これは不思議だってことで、お父さんは憲兵さん呼んじゃって、正直に話した結果」

長姉「憲兵さん曰く『実は国内各地で、たまぁに同様の現象が起きています』」

長姉「『妖精か何かの仕業としか思えないのですが、人外相手の事件はぶっちゃけ我々にはお手上げでして』」

長姉「『特に治安にも影響が出ていないので、おおごとにしないで、黙って金貨は取っときなさい』…って」

長姉「…あれが今、私の目の前で起きてくれたらラッキーなんだけど」

長姉「どんな妖精か神様か悪魔か知らないけど、着なくなった服でも、金貨と交換してくれないかしら?」

長姉「……」

長姉「退屈……」

129: ◆54DIlPdu2E 2015/03/23(月) 21:55:28.30 ID:0RdccuDh0
そのころ、野獣の屋敷では。

メイド「末妹様、菜園をご覧になりたいんですか?」

末妹「ええ」

メイド「ちょうど庭師が手入れをしている時間ですね、さっそく行きましょうか」



庭師「…で、こちらが芽キャベツです。もう少し秋が深まれば収穫期になります」

末妹「わあ、茎についた芽キャベツは初めて見たわ! 面白い形ね」

メイド「収穫を終えた後の茎や葉っぱは、私が美味しく」

庭師「ナスはうちの庭ではそろそろ終わりですね。紫も緑も白もあります」実ノ色デス

末妹「昨夜のナスのグラタンもこれなのね、本当に美味しかった」

メイド「こっちは、私は茎も葉も好みませんから収穫後はすぐ土に埋めて肥料にします」

末妹「…野菜の種や苗はどうやって手に入れているの? 森には生えていないでしょ?」

メイド「ご主人様は色々な物を『どこかから』入手してくださいます」

庭師「方法は僕らはあまり気にしないんですが…代価は払っている、と前に仰っていましたねえ」

メイド「今朝も料理長が小麦粉と砂糖の残りが少なくなったのに気付いて、私からご主人様にお知らせしました」

メイド「いつもなら、そろそろ調理場に運ばれている頃です」

130: ◆54DIlPdu2E 2015/03/23(月) 22:00:19.72 ID:0RdccuDh0
ちょっとだけ前の時間、野獣の部屋。

野獣「……さてと、小麦粉と砂糖だな」

野獣「金貨の箱を開くか」

金貨の箱:がぱぁ

野獣「かなり使ったが、まだこんなに残っている」ジャラジャラー

野獣「私の父が、舞踏会に呼んだ外国の王族への賄賂として用意した金貨……」

野獣「結局、当初の目的には使われずに終わったが」

野獣「…小麦粉の大袋ならば、この革袋にこれくらいか」ジャラララ

野獣「砂糖はこんなものかな」ジャララ

野獣「金貨の入った革袋を魔法陣に置いて、呪文を唱える」

金貨の袋が消えた!

131: ◆54DIlPdu2E 2015/03/23(月) 22:04:32.60 ID:0RdccuDh0
ある町の製粉工場。

作業員1「!? ここにあった小麦粉の大袋が消えた!?」

ボトッ

作業員2「…と思ったら、革袋が天井(?)から降ってきた!?」

作業員1「おい、この袋…金貨が詰まっているぞ」

作業員3「旦那様(製粉会社の社長)を呼べ!」

同時刻の砂糖を扱う店。

店員1「!? ここにあった砂糖の袋が消えた!?」

ポトッ

店員2「…と思ったら(以下略)

132: ◆54DIlPdu2E 2015/03/23(月) 22:07:57.27 ID:0RdccuDh0
野獣の部屋の魔法陣の上

小麦粉の大袋デーン

砂糖の袋テーン

野獣「…森で採取も庭で栽培もできない物は、こうやって手に入れて来た」

野獣「相場がわからんのでいつも適当な金額だが……」

野獣「金貨と無生物の交換という魔法だから本当は金貨一枚でも成立するが、あまりに気が引けて」

野獣「…『魔術師ギルドの裏歴史』という特殊ルートでのみ出回った書物によると」

野獣「あの魔術師ギルドを追放された男は、この魔法の効果を少し変えて」

野獣「人身売買に利用しようと目論んで除名処分されたとか」

野獣「…奴に出会わなければ、私は……」

野獣「いやいや…そんな事を今さら考えるのはやめよう」ブンブン

133: ◆54DIlPdu2E 2015/03/23(月) 22:11:54.40 ID:0RdccuDh0
野獣「小麦粉と砂糖を運ばなくてはな」ヨイショ

野獣「執事が気付けばすっ飛んで来るが、自分でやりたい気分なのだ」

執事「ご主人様!? わたくしが運びますよ!!」ビュン!

野獣「ほらな」

執事「呼んでくださればすぐに参りましたのに」

野獣「せめて砂糖くらい運ばせてくれ…いい、いいから」

執事(小麦粉袋担いでる)「使用人の立場として、ご主人様にこんな事は」

野獣(砂糖袋抱えてる)「たまには運動がてらさせてくれ」

野獣「私とお前くらいしか、この屋敷では力仕事ができる者はいないし」

執事「運動でしたら…末妹様と、なんでしたっけ、箪笥…ではなくて…だ…ダ……」

野獣「ダンスだな」

134: ◆54DIlPdu2E 2015/03/23(月) 22:16:38.68 ID:0RdccuDh0
執事「それです…すみません、人間の言葉を使えるようになって随分経つのに」

執事「未だに、耳慣れない言葉はなかなか覚えられなくて」

野獣「気にするな、しかし…ダンスか……」

執事「正直に申し上げますと、わたくしも具体的にはどういうものか、よく…いえ」

執事「どういうものか、『さっぱり』わからないのですが」

執事「人間やそれに近い生活をする生き物は」

使用人達は野獣の種族を亜人か魔族の類だと『漠然と』思っています。

執事「『音楽』に合わせて『踊る』のが楽しいのでしょう?」

野獣「誰でもと言うわけではないが、な」

執事「何より、末妹様もたまには体を動かされた方が健康にも良いと思います」

野獣「…それもそうだな、考えてみるか」

野獣(あの舞踏会以来だ……)

135: ◆54DIlPdu2E 2015/03/23(月) 22:17:42.85 ID:0RdccuDh0

※今日はここまで。当面は小出し投下で進行する予定です※

137: ◆54DIlPdu2E 2015/03/25(水) 00:42:19.94 ID:tKmdDz3I0
その日の午後、どこかの廊下。

次兄の足音:てくてく

次兄「メイドさんのプリケツ、料理長さんの腹肉、庭師くんの肉球は攻略(?)済み」

次兄「しかし次のステージは一気に難易度が上がる」

次兄「執事さんのふかふか首毛とふさふさ尻尾」

次兄「そして野獣様の、衣服に隠されたもっさもさの『胸毛』」

次兄「野獣様は俺の知る限りでは謎生物だから、裸体は想像の域を出ないが」

次兄「初対面でしがみついた時に服の上からでもわかったぞ、あの毛のボリューム……」

次兄「たまんねえ」

次兄「これが人間式の胸毛ならば、近付けられたら16歳の男が号泣する勢いでキモチワルイのに」

次兄「四匹ともかつては森の野生動物と言っていたが、執事さんは特に」

次兄「あの体格、大きな犬歯、そしてよく見ると顔に古い傷跡」

次兄「厳しい生存競争を戦って生き抜いた歴戦の勇士、森林の王者だったに違いない」

次兄「まだ成獣になりきっていないメイドさんと庭師くん、年老いた料理長さんのような隙は見せてくれまい」

次兄「不思議な力を持つ野獣様に至っては、もう不意打ちが成功しない限り、言うに及ばずだ」

次兄「ん」ピタ

誰かの足音:コツ…コツ…

次兄「廊下を歩いてくるのは野獣様じゃないか、あ…立ち止まったぞ」

138: ◆54DIlPdu2E 2015/03/25(水) 00:46:58.06 ID:tKmdDz3I0
次兄「こんな廊下で何をやっているんだろう、使用人の誰かも近くにはいないようだし」

次兄「つまり俺と二人っきり」イベントハッセイノヨカン

次兄「まだこっちには気付いていないようだが、声を掛けない手はない」

次兄「……?」

次兄「本当に何しているんだろう、壁の一部を…組まれた石のひとつを手で押している?」

次兄「俺には全く届かない高さだな」

ボコォ

次兄「!?」

次兄「押した石が飛び出して来た!?」

次兄「それをもう一度押した…と。元通り平らになった、と」

ゴゴゴゴゴゴゴ……

次兄「低い唸るような音と、微振動…あっ」

次兄「俺と野獣様の間に、あの動く壁が降りて来た!」

次兄「また遠回りは面倒だ、と言うかその頃には野獣様が別の場所に移っているかもしれん!」ダダッシュ!

次兄「野獣さまああああああああああああああ!!!!」

野獣「な」

次兄「滑り込みいいいいいいいい!!!!!」ズッザアアアアアアアア

動く壁:ピシャン☆

次兄「…セーフ」

139: ◆54DIlPdu2E 2015/03/25(水) 00:50:24.16 ID:tKmdDz3I0
野獣「……次兄か……」

次兄「ども」ウヘヘ

野獣「何をやっておる、壁に挟まれたら危ないではないか」

次兄「この壁って木製だし、見た目より軽いんでしょ、大怪我はしないのでは?」タチアガリ

野獣「怪我は大したことなくても、挟まり方では誰かが操作するまでその場から動けなくなるぞ?」

野獣「私は、お前だったら挟まれているくらいでは助けないし」

次兄「ひどい」

野獣「…ズボンが破れてしまったな。このやんちゃ小僧が……」

次兄「自分で繕いますよ。これを末妹やメイドさんにやらせたら怒るでしょ、野獣様が俺を」

野獣「裁縫なんかできるのか?」

次兄「昔、うちには住み込みのばあやがいて…父親が子供の頃から家で働いていた人ですけど」

次兄「母親が亡くなってから、2年前に歳のせいで引退して田舎に帰るまで」

次兄「俺達きょうだいの母親代わりにあれこれ世話をしてくれたり色々なことを教えてくれたり」

次兄「俺は小さい頃、身体がずいぶん弱く病気がちで」

野獣(…そんな風にはこれっぽっちも思えないが)

次兄「遊ぶのもほとんど家の中で、末妹がばあやから裁縫や編み物を習っている時は」

次兄「近くに行って、飽きるまでは一緒に教わったこともあります」

野獣「色々と意外だな」

140: ◆54DIlPdu2E 2015/03/25(水) 00:53:41.14 ID:tKmdDz3I0
次兄「ところで野獣様、この動く壁は故意に動かしていたんですね」

野獣「ああ、これか……」

野獣「仕掛けは屋敷中の至る所にあるが、何日かおきに時々こうやって操作をしている」

野獣「内部が錆ついて動かなくなって、こうやって降りたまま二度と上がらなくなっても困るからな」

次兄「メンテナンス作業ってわけですね」

野獣「そういうことだ」

次兄「しかし高い位置に操作する仕掛けがあるんですね、俺には届かないや」

野獣「前の持ち主が何を考えていたかは知らないが」

次兄「前の…ってことは、元々野獣様のお屋敷ではなかったんだ?」

野獣「……」

野獣「ずいぶん古い時代の話になるが、最初にこの屋敷と機械仕掛けを作った人間がいて」

野獣「別の持ち主の手を経た後、長いこと無人になり、そこに私が住み着いた」

野獣「大雑把に説明すると、こんな感じだ」

次兄「ふーん」

野獣「で、その機械仕掛けを作った人間が、何を考えていたかは知らないが」

野獣「あまり誰にでも手が届いても危険だからではないか、例えば子供が悪戯したり……」

野獣「特にお前のような悪童が」

次兄「…野獣様、俺の事をガキ扱いし過ぎ、と言うか」

次兄「末妹の『兄』とすら本当は思っていないんじゃないですか?」

141: ◆54DIlPdu2E 2015/03/25(水) 00:56:53.91 ID:tKmdDz3I0
野獣「確かに、見ているとお前の方がちょっと体が大きいだけで、どっちが『上』かわからなくなる」

次兄「俺は見ての通り無邪気で純真ですからねー」プクー

野獣「ははは、そう拗ねるな」

野獣「とりあえずお前も背が伸びたら届くようになる(かもしれん)ぞ」

次兄「こー見えても、もうすぐ17になります、諦めていますよ身長の事は」

野獣「そんなことはない、17ならまだ伸びるだろう」

野獣「私だって少年の頃はずっと小柄な方だったが、18歳から急に伸びた」

次兄「…野獣様と比べたってなあ……」

次兄「……?」

次兄(そっか、今までその発想はなかったが、ひょっとしたら……)

次兄「ねえ野獣様?」

野獣「何だ?」

次兄「野獣様って、元々は『人間』だったりします?」

野獣「!」

次兄「え」



……

142: ◆54DIlPdu2E 2015/03/25(水) 01:01:15.48 ID:tKmdDz3I0
……



次兄「……」

次兄(一瞬だが燃えたぎるような眼光、まさに『野獣』と呼ぶに相応しい)

次兄(あんな野生剥き出しの眼で睨みつけられたら普段の俺なら大喜びのはずだが)

次兄(…今のはマジで怖かった……)

野獣「……」

野獣「…!」

野獣「すまん! すまなかった、怯えさせるつもりはなかったのだ」

野獣「……そんな顔をしないでくれ」

次兄(……俺、今どんな顔してるんだ?)

次兄(「気にしていませんけどぉ(ヘラヘラ)」……)

次兄(「とんでもない!むしろ御褒美です(ハァハァ)」……)

次兄(何か言え、俺……)

野獣「すまなかった」クルリ

次兄「っ」

次兄「……野獣様!」

次兄「すみません、でした……」

野獣「……お前が謝る理由はない」

…コツ…コツ…

次兄「……」

145: ◆54DIlPdu2E 2015/03/25(水) 20:01:48.59 ID:tKmdDz3I0
その夜の夢。

(魔法を駆使して手に入れた書物によると、この屋敷のある森一帯は)

(屋敷の前の持ち主、機械好きな伯爵の怨念が渦巻いていて、足を踏み入れた人間は呪われる)

(…王子が眠りについて間もない頃から、そういう話になっていた)

(伯爵の怨念と人々が思ったのも無理はない)

(王が屋敷を手に入れたのは、王子が13歳の時)

(いくら書状や部下を使いにやって譲渡を求めても、伯爵の意思は固く)

(王はある時とうとう、王子を交渉役に派遣した)

(城から伴った強面の付き人に囲まれて王子は王の書面を読み上げるが、伯爵は首を縦に振らず)

(埒が明かないと判断した側近は、王子に耳打ちした、この通りに言えと)

(「あと一週間与える、よく考えておくように」)

(王子は最後にそう告げると、側近たちに伴われて屋敷を去った)

146: ◆54DIlPdu2E 2015/03/25(水) 20:08:06.17 ID:tKmdDz3I0
(子供ながらに失敗したという自覚はあった)

(最後のセリフも、言われた通りを繰り返しただけだが、どんな意味を含んでいるかはわかる)

(『一週間以内に色よい返事をしなければ、そなたの安全は保証しない』)

(帰り際、年端も行かない王子は震えっぱなし)

(「僕が交渉を上手にできていたら、血を見ることなく伯爵から譲り渡してもらえたはずだ」)

(「僕のせいで、伯爵は殺されてしまうかもしれない……」)

(後になって思えば、王は最初から王子の交渉に期待などしておらず)

(王子による直接交渉はあれこれ手を尽くしたという既成事実を作るために過ぎなかった)

(そして一週間…伯爵からは音沙汰がなく、八日目に王は大勢の兵士を屋敷に派遣した)

(王子は結果だけを聞いた、兵士を前にしてもなお伯爵は渋ったので、その場で斬り捨てられた、と)

(これは国民にも周知され、一層、王に逆らうことの恐ろしさを印象付けた)

(…『真偽』は今となっては確かめようがない)

(歴史書の類を読んでも、当時に近い年代に書かれたものほど、屋敷を奪われた伯爵がどうなったか記載は曖昧だ)

(できることは、自分が生きている間だけでも、この屋敷を『大事に使う』ことだけ……)

147: ◆54DIlPdu2E 2015/03/25(水) 20:14:20.97 ID:tKmdDz3I0
(あの日、王子の二十歳の誕生日、王家の舞踏会の翌朝)

(王と王妃と、そして『王子』も、森を遠く離れた王城で亡骸が発見された)

(苦悶の形相を浮かべた王と王妃のそれはまだ新しく、不思議な事に『王子』だけは)

(王子の服を着てはいたが、『まるで何年も前に埋葬されたかのような、完全な白骨』だった)

(舞踏会の場にいたはずなのに気が付けば家で眠っていた招待客達は)

(自分達に起きた不思議な出来事も含め、これは王を恨んでいたであろう伯爵の呪いだと言い始めた)

(呪いでなければ説明が付かないし、呪いであれば王子の亡骸の不思議も説明できる)

(王家に協力的だった貴族達は民衆よりも呪いを恐れたか)

(ある者は他国へ逃げ出しある者は今更になって王家への批判を始めた)

(一夜にして王家が滅びた小さな国は程なくして)

(あっさりと平和的に南側に接する大きな国…つまり現在の『とある国』に吸収されて消滅し)

(困窮していた人々の暮らしも順調に改善されて行ったという)

(魔術師ギルドはそれとほぼ同時に各地へ分散し、その力を弱め)

(どこか別の地、別の世界に、居場所を求め去ったという説もあったが…とにかく)

(周辺諸国の人々の生活からも、徐々に魔法自体が忘れ去られて行った)

148: ◆54DIlPdu2E 2015/03/25(水) 20:17:00.78 ID:tKmdDz3I0
(王子の故国は歴史的にどう扱われて来たかと言えば)

(『圧政で国民の不満が溜まって来た頃、突然の流行り病で王家が死に絶えたため滅びた』)

(尤も人々の間では、あれは病なんかではなく、呪いだ、怨念だと言い伝えられて来たが……)

(そして歴史書には、公的に何も残さず二十歳になった日に『死んだ』王子については殆ど記載がなく)

(物語風に脚色された歴史読み物では、大概、王と王妃の尻馬に乗って民を虐める高慢で残忍な王子)

(「違う、私は……」)

(「私は……」)

(…何もしていない、いや、できなかった、いや、何もしようとはしなかった。少なくとも、しようとしなかったと同然だ)

(「私の『後世の評価を甘受する苦悩』など、苦しみの内にも入るまい」)

(そして魔法図書館の娘)

(結局、彼女に触れていた時間は短くおまけに踊りながらだったためか、心は読めなかった)

(今となっては、自分の事は何とも思っていなかったと、そうであって欲しいと願うだけ)

(あの後、彼女はどういう生涯を送ったのか)

(下層階級に生まれしかも女性、更に国自体が今や存在しない)

(どこにも記録が残らない、調べようがない条件は、あまりに揃い過ぎていた)

(「…せめて、心安らかに平穏に一生を終えたと信じたい……」)

149: ◆54DIlPdu2E 2015/03/25(水) 20:22:07.51 ID:tKmdDz3I0
(誰ひとり、何ひとつ、守りきることができず、人から恨まれた『王子』)

(それはもう『死んだ人間』であり『死んで良かった人間』でもあると野獣は思う)

(ここにいるのは、王子では…人間ではなくなった『野獣』)

(それだけで自分の罪が雪がれたとはさすがに思ってはいないが、いつか)

(いつか、バラの呪縛から完全に解かれる日が本当に来たのなら……)

(「私は、王子だった過去からも完全に自由になれるのだろうか?」)

(そうであればいいのに、と野獣は願わずにはいられない)

(今の姿は)

(今の姿は見せかけだけに過ぎない)

(獣の外見をしただけの『人間』であることには目を瞑って)

(『野獣』として自由を得ることを願わずにはいられない……)

150: ◆54DIlPdu2E 2015/03/25(水) 20:23:07.01 ID:tKmdDz3I0
※今日はここまでなのです※

>>144 キャラ関連のコメありがとうございます。正直嬉しいす

151: ◆54DIlPdu2E 2015/03/26(木) 19:50:17.23 ID:milpQbJT0
真夜中。次兄の客間。

次兄「……」

次兄「さっきも○○○○○して来たのに眠れん」ゴロン

次兄「結局夕食の席に野獣様はいなかった、執事さんは用事があって、と説明していた」

次兄「明日の朝食にはまたおいでになります、とも……」

次兄「つまり、その時には顔を合わせることになるわけで」

次兄「三択です」

次兄「1・いつも通り『おはようございます』」

次兄「2・それとも『昨日は本当にごめんなさい』」

次兄「3・『野獣様の正体が、過去が何であろうと俺の気持ちは変わりません!』」

次兄「(続き)『何故かって、大切なのは今! 今の全身、特に胸毛が、フサフサモフモフの貴方が全てなのです!!』」

次兄「……」

152: ◆54DIlPdu2E 2015/03/26(木) 19:54:38.16 ID:milpQbJT0
次兄「3は…俺の今の偽らざる本音なのだが…却下」

次兄「ストレート過ぎる」

次兄「自然な関係に戻ってから、もう少しソフトにさりげなく伝えるべきだろう」

次兄(他人が聞いていたら『それは本当に伝えるべき言葉なのか?』とツッコミが入るかもしれないが)

次兄「2も…もう蒸し返すな、だよな。却下」

次兄「1しかないな」

次兄「あまり普段と様子が違っていても、末妹を心配させてしまうし」

次兄「…末妹と言えば…俺の趣味と実益における『実益方面』がすっかりおろそかになっていたのでは?」

次兄「『兄として妹を守る』」

次兄「…具体的な行動、なんも起こしてねええええ!」ゴロンゴロン

153: ◆54DIlPdu2E 2015/03/26(木) 19:57:40.62 ID:milpQbJT0
次兄「末妹は屋敷の皆とうまくやってるし…俺も野獣様に追い帰すとか全く言われなくなり」

次兄「平穏すぎて緊張感がないせいだ」

次兄「……」

次兄「野獣様は本当に、どういうつもりで末妹をここに置いているんだろう?」

次兄「『父さんが折ったバラの償い』が何故」

次兄「客人として丁重にもてなし、不便のないよう使用人をつけ、外に出る以外は自由に振舞わせ……」

次兄「罰を与えるよりよっぽど不可解な扱いじゃないのか?」

次兄「はっきりした理由は教えてくれないだろう」

次兄「末妹も疑問に思っているはずだが、教えてくれないのを察して、問い質したりはしないと思う」

次兄「きっと野獣様の正体と同じで、彼のトップシークレットに当たる」

次兄「そしてこの二つは密接に絡み合ってると見た」

154: ◆54DIlPdu2E 2015/03/26(木) 20:01:12.39 ID:milpQbJT0
次兄「…屋敷に来て間もない頃は、そう遠くない未来」

次兄「なんとかして、平和的に二人揃って家に帰る手も探せるだろう……と考えていたが」

次兄(ちなみに俺の虹色プランでは帰宅後も野獣様や執事さんとはペンフレンドとして関係が続く予定)

次兄「そう簡単な話ではないのかもしれない気がして来た」

次兄「でも」

次兄「まずは目先のこと…野獣様との親密な関係の修復」

次兄(今まで親密な関係かどうかはいかがなものか? と俺の冷静が囁くがそれは情熱で捻じ伏せて)

次兄「その…目的とか手段とか計算とかじゃなくてさ」

次兄「あんな申し訳なさそうな寂しそうな顔をさせてしまった事を、なんとかしたいだけ」

次兄「…だったら俺にできる事は一つ」ガバ

次兄「どうせ眠れないんだ、灯りをともして、っと」

155: ◆54DIlPdu2E 2015/03/26(木) 20:05:34.58 ID:milpQbJT0
翌朝。

コツ…コツ…

野獣「朝食で…次兄と顔を合わせるのだな」

野獣「不自然に振舞っては末妹嬢をも心配させてしまう」

野獣「まずは普段通り、おはようの挨拶…が良いのだろうな……」フゥ

次兄「おはようございます!!」シュバァ!

野獣「おおおうっ!?」ビクッ

野獣「…次兄」

野獣「…なんだ、廊下の曲がり角で待ち伏せたりして……」

次兄「おはようございます。挨拶は大事なことなので2回言いました」

野獣「…おはよう」

次兄「実はですね。お渡ししたいもんがありまして」ゴソゴソ

次兄「これ…この絵、野獣様を描きました。あ、ちゃんと服着てます」

野獣「え……?」

次兄「どんなもんでしょ?」

野獣「……」

156: ◆54DIlPdu2E 2015/03/26(木) 20:08:16.75 ID:milpQbJT0
野獣「…素晴らしい…な、目の前でモデルになったわけでもないのに……」

次兄「いっつも見てますからね」ボソ

野獣「嬉しいぞ…ありがとう、ありがとう…次兄」

野獣「描いてくれるとは思わなかった…本当に嬉しいよ……!」

次兄「……」

次兄(顔に毛がなければ、頬が紅潮しているのが見えるんだろうか)

次兄「野獣様って、なんか子供みたいですね」

野獣「……」ピク

次兄「やべ」タラーリ

野獣「…次兄には言われたくないぞ、と腹の中では思っているが」

野獣「素晴らしい絵に免じて、言わずにいてやろう」

次兄「言ってるし」

次兄「…喜んでもらえて、俺も嬉しいです」ウヘヘヘヘ

次兄「じゃ、先に朝食の場に行ってますよ!」タタッ

野獣「あ、おい……」

野獣「……」

157: ◆54DIlPdu2E 2015/03/26(木) 20:14:04.32 ID:milpQbJT0
少し後、朝食の席で。

メイド「ご主人様、スープのおかわりはいかがですか?」

野獣「ありがとう、いただくよ」

野獣「…それで、馬に乗るのは許してもらえたのかね、末妹」

末妹「ええ、『うちの馬なら大人しくて賢いから乗っても良い』となりました」

末妹「走らせなければ、という条件付きですけど……」

野獣「いやいや、女の子でそれだけ出来るのは大したものだ」

メイド「…ご主人様、ご機嫌ですねえ」

メイド「今朝、お目覚めになったばかりの時は、なんとなく塞ぎこんでおられたのに」

次兄「……」

次兄(俺の絵も、野獣様のご機嫌に貢献してたら嬉しいな……)

末妹「乗馬服ですか? 上の兄が小さい時のお古です」

末妹「いえ、古着なのは一向に構わないのですが」

末妹「8歳くらいに着ていたという服が今ぴったりで…それがちょっと恥ずかしいです」

158: ◆54DIlPdu2E 2015/03/26(木) 20:17:55.37 ID:milpQbJT0
野獣「お前もまだ14歳だ、これから伸びるぞ」

次兄「そうそう、兄さんがちょっとでか過ぎるだけー」

野獣「…次兄は乗馬に興味はないのか?」

次兄「俺、運動神経は半端なく鈍いもんで」

次兄「…あと、うちの馬は賢い奴だから…なんとなく(俺から)危険な匂いを感じ取っているのかもしれません…」ボソ

野獣「…ああ……」サッシタ

野獣「(話題を変えようかな)末妹よ、うまく行けば今日、お前に見せたいものが『届く』予定でな」

末妹「…私に見せたいもの? なんでしょうか?」

野獣「それはその時のお楽しみだ」

野獣「…内緒にしておけよ、メイド」ヒソヒソ

メイド「私だって心得ていますー」ヒソヒソ

次兄(俺が見たいものは貴方のフサフサ胸毛ですけどね)ミルクグビー

161: ◆54DIlPdu2E 2015/03/28(土) 18:23:50.50 ID:uQU6YMeW0
同じ日、夕食前のこと、応接室。

末妹「赤いドレス……」

末妹「綺麗…まるで赤いバラの花みたい!」

野獣「気に入ったかね」

野獣「ここに来た最初の日、メイドが寸法を測っていただろう?」

野獣「いつかお前にプレゼントしたくて、用意したのだよ」

末妹「」

野獣(金貨と物品を交換する呪文と、自分の魔法を遅く発動させる呪文とを組み合わせて使用)ベンリデスネ

野獣(手紙付きの金貨を先に仕立屋に送り込み、時間差で出来上がったドレスと交換)

野獣(手紙には注文の詳細と多少…いや、かなり脅迫めいた内容も盛り込んで、完成日時を指定)

野獣(上手く事が運んで一安心だ……)

野獣「どうした、ただでさえ大きな目が見開きっぱなしではないか?」

末妹「…ほ」

末妹「…本当に、私がこれをいただいて良いのですか?」

野獣「末妹嬢以外に誰がそれに袖を通すのかね」

野獣「無駄にさせないでくれ」

162: ◆54DIlPdu2E 2015/03/28(土) 18:26:37.16 ID:uQU6YMeW0
末妹「あ…ありがとうございます! 野獣様!」

メイド「えへへ、きっと素敵でしょうね、私も寸法を測った甲斐があります」エッヘン

次兄(物欲の薄い末妹でも、やはり女の子、嬉しい事には違いないんだろう)

次兄(この子の平服と礼服以上の、姉さん達が持っているようなおしゃれ着なんて今まで見たことないものな)

次兄「俺にはタキシードとは言いませんので、継当てのないズボンなんかを」

野獣「ふむ…執事用に入手したが、サイズが小さくて一度も履いていないズボンがあったな」

野獣「さすがに庭師に履かせるには大き過ぎるが、そう言えば次兄には丁度よさそうだ」カルクチニマジレス

次兄「環境と家計に優しいリサイクル最高」イエーイ

次兄(せめて一度でも執事さんが履いたズボンなら嬉しかったが)

野獣「もうひとつある、これをご覧」

末妹「なんでしょう…飾りのついた木箱?」

野獣「蓋を開くと」カパ

音楽:♪~♪~~♪~

末妹「オルゴール!? オルゴールですね!」

野獣「見るのは初めてか?」

末妹「だって、うちのお店でも扱っていないし…すごく高価なんですもの」

163: ◆54DIlPdu2E 2015/03/28(土) 18:31:40.43 ID:uQU6YMeW0
野獣(オルゴールが比較的最近の発明で珍しいのは知っていたが)

野獣(父親…商人は平民にしては裕福なほうだろうに、それでもおいそれと買えない品とは)

野獣(…オルゴールの店に後で追加の金貨を送っておくか)

末妹「音を鳴らす仕組みを作るのがすごく難しくて、職人さんがあまりいないのでしょう?」

末妹「一度でいから、実際に見て、音を聴いてみたかったの…」

末妹「こんなに早く願いが叶うなんて」

野獣「気に入ってくれたかね」

野獣「見て聴くだけじゃないぞ、これは末妹嬢のものだよ」

末妹「……」ミアゲテル

野獣「ほら、またそんな顔をする」

野獣「これもお前にあげるために用意した、何度も言わせるな」

末妹「…こんな…素敵なドレスとオルゴール…本当に、もらっていいのかしら……」ポー

野獣「ああ、勿論だ。ただ、代わりにひとつだけ私の頼みを聞いてくれ」

末妹「え?」

次兄(俺空気)

野獣「そのドレスを着て、このオルゴールの音楽で、私と踊ってほしい」

164: ◆54DIlPdu2E 2015/03/28(土) 18:42:40.09 ID:uQU6YMeW0
その日の夜、屋敷の大広間。

末妹「…着て来ました……」キラキラフワフワー

野獣「おお、やはりよく似合っている…いや、思っていた以上だ」

末妹「…何度も何度も言いましたが、私、踊ったことはないのです」

末妹「本当にちっちゃな頃、真似事で遊んだくらい」

末妹「姉達はダンスを習っていましたし、パーティーにもよく行きますが私は」

末妹「…元々、どちらにも興味はなくて」

末妹「本を読んだり馬に乗ったり、そちらの方がずっと……」

野獣「気にすることはない、と私だって何度も何度も言っている」

野獣「最後に踊ったのは、とんでもない昔だから、古い時代のステップしか知らないし」

末妹「古いも何も、本当にわかりませんから」

末妹「…野獣様の足を踏んでしまうかもしれませんよ?」

野獣「はは、お前の足に踏まれても、スズメがとまった程度にしか感じないだろうな」

野獣「私の動きに合わせて、足を動かしていれば…それでよい」

野獣「さあ、末妹、私の手をお取り」

165: ◆54DIlPdu2E 2015/03/28(土) 18:51:10.49 ID:uQU6YMeW0
大広間の一角。

次兄「オルゴールを伴奏に」

次兄「降るような星の夜、二人きりの舞踏会」ナガレルノハボサノバデハナイガ

次兄「ちなみにギャラリー及びスタッフはカウントしません」

次兄(ギャラリー)「…ロマンティックな光景のはずだが」

次兄「こうも体格差が極端だと最早シュールな光景だな」

次兄「身長だけでも、野獣様は末妹とたっぷり1m以上の差があるから、見た目的にはほぼ2倍」

次兄「そこに幅と厚みも加えたらその体積は末妹何人分か答えよ」

次兄「と、計算したくもなる程にシュールな光景なのだ」

次兄「…決して嫉妬でこんなロマンの欠片も無いことを言うのではない」

次兄「今、野獣様が屈んで末妹を胸に引き寄せたのはそういう振付だから」

次兄「う、羨ましくなんかないんだからね!」

メイド(スタッフ)「次兄様、相変わらず賑やかな独り言ですね」

次兄「…あ、メイドさん」

166: ◆54DIlPdu2E 2015/03/28(土) 18:56:45.29 ID:uQU6YMeW0
メイド「次兄様は、あの『ダンス』とやらは嗜まれないのですか? あ、アップルティーとプチケーキをどうぞ」

次兄「ありがと、もらうよ」

次兄「ダンスねえ、音楽に合わせ相手を気遣いつつ手と足を別々に動かすとか、想像だけで脳がこんがらがる」

次兄「朝も話したが、身体を動かす事は全般的に苦手だ」

メイド「でも時々、人間離れした動きをなさるようにお見受けしますが?」

次兄「愛の成せる技だ」ケーキパク

メイド「次兄様の仰る事の半分は本当に意味不明ですが」

メイド「それにしても…ご主人様とっても楽しそう、こんなご主人様は久しぶりです」

次兄「ど素人の末妹をリードしている様子を見るに」

次兄「俺にはよくわからんが上手なんだろうな、野獣様」

次兄「末妹も、ぎこちないなりに楽しんではいるようだ」



むにっ

末妹「ああっ!? ごめんなさい、またまた野獣様の足を!」

野獣「構わん、本当に痛くもなんともないぞ」

野獣「それより慌てるとお前が足を挫く、だから落ち着け」

末妹「は、はい……」

167: ◆54DIlPdu2E 2015/03/28(土) 19:00:59.84 ID:uQU6YMeW0
庭師「次兄様、メイドちゃん」

次兄「庭師くん」

庭師「なんだか珍しい事をやってらっしゃると言うので見に来ました、へへ」

庭師「…二人でくるくる回って、あれがカブト虫と赤いテントウ虫なら僕の野生の本能を大いに刺激しますね」

メイド「お二人が昆虫サイズじゃなくてよかったわ」

料理長「わしらも仕事が一段落したので、見に来ましたよ」

次兄「料理長さん、わし『ら』…?」

執事「なるほど、これがダンスと言う行為ですか」

次兄「執事さん!?」ウレシイオドロキ

執事「…わたくしが主人に『ダンス』を提案してみたのですが」チョットドヤガオ

執事「なかなか面白い動きですな、興味深い」

料理長「そう言えば、ここにお仕えするようになって間もない頃」

料理長「森へキノコ狩りに行った時、野営中のジプシーとかいう人間の集団を見かけました」

料理長「彼らも『音楽』に合わせくるくる動いて、あれも『ダンス』だったのでしょうな」

料理長「しかしあれはかなり忙しない音楽と激しい動きで、こんなにゆったりとはしていなかった」

次兄「俺はあまり詳しくないが、音楽と踊りと言っても種類がたくさんあるんだよ」

168: ◆54DIlPdu2E 2015/03/28(土) 19:02:56.38 ID:uQU6YMeW0

※とりあえず、ここまで※

>>160 ペンフレンドを持つことは、この世界の当時のナウなヤングにはイカす行為でした

169: ◆54DIlPdu2E 2015/03/28(土) 22:52:52.30 ID:uQU6YMeW0
野獣「ふむ、観客が増えたな」

末妹「…恥ずかしいな……」

末妹の胸元:キラッ☆

野獣「そのペンダント…十字架か、いつも着けているのか?」

末妹「え、ええ…普段着だと外から見えませんが、ずっと着けています」

末妹「お母さ…母の形見なんです」

末妹「亡くなる少し前に、私のお守りとして、母の手でじかに首にかけてくれたそうです」

野獣(「くれたそうです」…か)

野獣「…お前が物心つく前なのかね?」

末妹「ええ、美しく元気な人だったと聞いていますが」

末妹「私を産んだために体調を崩し、最後には肺炎を起こして、出産から二カ月後に……」

野獣「……」

末妹「だから私は全く母の記憶がなくて」

末妹「幼かった次兄もほとんど覚えていないとは言っていますが」

末妹「上の兄や姉達はよく覚えていて、甘えたい盛りに母を失ってしまいました」

170: ◆54DIlPdu2E 2015/03/28(土) 22:55:15.55 ID:uQU6YMeW0
末妹「更に、父は子供達にはちゃんとした教育を受けさせたいからと」

末妹「王都にある学校…上の兄をかつて父が通った、姉達を母が通った寄宿学校に、それぞれ入学させて」

末妹「3人とも年2回の帰省を除けば、家から離れて暮らしていました」

野獣「何歳(いくつ)くらいの頃だね?」

末妹「上の兄と上の姉は、9つから15まで」

末妹「飛び級で上の姉と同時に入った下の姉は、8つから14まで」

末妹「それぞれ学業は優秀だったと聞きますが、寂しかったと思います」

野獣「お前と次兄は寄宿学校には行っていないのか?」

末妹「ええ、そうです。ずっと家で育ちました」

末妹「体の弱かった次兄といつまでも甘ったれの私を、父は心配したのでしょうね」

野獣「…末妹よ」

末妹「はい?」

野獣「お前は自分の兄姉に、負い目を感じているのかね?」

末妹「!」

野獣「そんな口ぶりだからな」

171: ◆54DIlPdu2E 2015/03/28(土) 22:58:59.75 ID:uQU6YMeW0
野獣「兄姉を遠くの学校で学ばせたのも、お前が親元で育ったのも、それは父親の判断だ」

野獣「それに、母親が亡くなったのは自分のせいとでも思っているのか?」

末妹「……」

野獣「父親がお前にそう言うのか? それとも昔いたという住み込みのばあやか?」

末妹「違います!! 父は…父から聞いたのは、母がどんなに素敵な人だったかという話と」

末妹「…母がどれほど子供達…私達きょうだいを愛していたか、という話だけ」

末妹「ばあやだって、母が直接私に教えたかったことを代わりにたくさん教えてくれました」

末妹「母の思い出話を、笑顔で語りながら、です……」

野獣「では」

野獣「他の誰かに…言われたのか……?」

末妹「……」

172: ◆54DIlPdu2E 2015/03/28(土) 23:02:11.16 ID:uQU6YMeW0
末妹「今まで誰にも話した事はありませんが」

末妹「上の兄…私の6歳上の長兄が15で家に戻って来た時」

末妹「それから間もなく、母方の親戚という方が3人、家にいらして」

末妹「母の従兄に当たる皆さんですが」

末妹「後々知った話では、父が以前とても世話になった方々で」

末妹「うちの店は、南の港町では老舗と呼ばれるほど以前から商いを続けていますが」

末妹「私や次兄が生まれる前…父が祖父から店を継いだ頃、昔からのお客さんの信用をなかなかいただけず」

野獣「確かに、若くして老舗の店を継ぐのは大変な重圧だろうな」

末妹「いちじ経営が傾いた時に、ずいぶん助けてくださった恩人なのだそうです」

末妹「で、その日は小さい頃可愛がってたという長兄に、何年かぶりに会いに来られ」

末妹「うちの家族とお客様がそろった会食の席に次兄がいなかったのは何故だ、という話になり」

末妹「次兄は熱を出して寝込んでいたので、それを父は説明して、詫びました」

末妹「その場はそれで済んだのですが」

末妹「後からばあやのお手伝いで、客間に私一人でお酒を持って行くと……」

173: ◆54DIlPdu2E 2015/03/28(土) 23:06:12.20 ID:uQU6YMeW0
以下、末妹の語りの内容を、回想シーンでお送りします。

(親戚1「次兄はまた寝込んでいるのか…この家の子供の様子を聞けば、いつもこうだな」)

(親戚2「長兄は15だがもう立派な若者だ、同じ兄弟であの出来の悪さと来たら」)

(親戚3「まだ女学校に行っている長姉と次姉も、母親以来の優秀な生徒らしい」)

(親戚2「全く、下の二人はいらなかったんじゃないか?」)

(親戚1「おい、末妹がそこにいるんだぞ」)

(親戚2「聞こえていないさ。それにこんな小さい子供、なんの話かわかるものか」)

(親戚3「次兄は体も貧弱で病気がち、15まで生きられるかもわからんし」

(親戚3「おまけに酷く内気で、ろくに喋りもしないそうだな、利発ではきはきとした長兄とは本当に大違いだ」)

現在時間の野獣「ちょっと待った。次兄が内気で無口だと??」

現在時間の末妹「体が弱い頃は見知りで、それでも家族とは喋っていましたけど、口数は少ないほうでした」

174: ◆54DIlPdu2E 2015/03/28(土) 23:12:31.61 ID:uQU6YMeW0
(回想シーンの親戚3「末妹もな」

(親戚3「父親はそうとう甘やかして手放さないようだが…」)

(親戚3「次兄があんなのじゃなければ、下にもう一人作ろうなんて思わなかっただろうよ」)

(親戚2「その通りだ。おまけに末妹を産んだせいで死んでしまうなんて」)

(親戚1「いくらなんでも言い過ぎだって……」)

(親戚2「事実じゃないか。葬式の時だって、上の三人と来たら可哀相で見ていられなかったぞ」)

(親戚2「赤ん坊だった末妹は何も知らないけどな」)

(親戚3「次兄も3歳になる前か、母親の記憶はないだろう」)

(親戚2「次姉のように早熟で賢い子供だったら別かもしれんが、普通以下の出来では尚の事さ」)

(親戚3「上の三人は、ある程度の歳になるまで家を離れて丁度よかったかもしれないな」)

(親戚2「ああ、母親の思い出が残る家で、母親を死なせた妹を目の当たりにして暮らすより余程いい……」)

175: ◆54DIlPdu2E 2015/03/28(土) 23:20:55.49 ID:uQU6YMeW0
現在時間の末妹「……」

現在時間の野獣「当時のお前だって」

野獣「大人の話とは言え、自分に関わる話も理解できない程には、幼くもないのにな……」

末妹「…お酒を置くためのテーブルは小さい私にはちょっと高くて」

末妹「落としたりひっくり返したりしないように慎重に、と思ったら時間がかかってしまいました」

末妹「話をそこまで聞いて、ようやくお酒と水差しとグラスをテーブルに並べ終えて、客間を出る事ができました」

野獣「…で、誰にもその話はできなかったのだな?」

末妹「熱で苦しんでいた次兄には、もちろん言えませんでした」

末妹「口を開けば泣いてしまいそうで、父やばあや、上の兄を心配させてしまいそうで」

末妹「…いえ、それ以上に、これは誰にも言ってはいけない話だと子供ながらに思ったので」

末妹「今まで…誰にも……」

野獣「その親戚とやらは」

野獣「長兄と姉達…というよりも、お前達の母親にずいぶん思い入れがあったのだろうが……」

末妹「……」

176: ◆54DIlPdu2E 2015/03/28(土) 23:24:05.86 ID:uQU6YMeW0
野獣「ひどすぎないか?」

野獣「第一、お前と次兄も同じ母親の子だ」

末妹「……」

野獣「なぜそこまで言われなくてはならない?」

野獣「その無責任な立場からの放言を、お前は真に受けているのかね?」

末妹「…とにかく悲しい気持ちと、事実だから仕方ないという気持ち、両方が常にありました」

野獣「百歩譲って事実であったとしても、お前を悲しませた彼等の言葉は理不尽でしかない」

野獣「『仕方ない』などと自分を納得させる理由はどこにもないのだぞ」

末妹「『事実であったとしても』……?」

野獣「例え『事実』であろうとも、お前にとっての母親の『真実』は父親から聞いた話と」

野獣「ばあやを通して教わったこと、お前が身に付けている形見の十字架……それだけではないのか?」

末妹「…そう…でしょうか……」

177: ◆54DIlPdu2E 2015/03/28(土) 23:27:21.30 ID:uQU6YMeW0
野獣「お前も他のきょうだいと同様に母親に愛されて、家の者もそれをわかっている」

野獣「これで充分だろうに」

野獣「お前はそれ以上の何かを求めているのか?」

末妹「…い…いいえ……」ジワー

野獣「」

野獣「…あ、す、すまん、これではまるで詰問しているようではないか」

野獣「そんなつもりはない、ああ、こんな時でも私は怖い顔しかできないし…泣くんじゃない、な?」オロオロ

末妹「…平気です」

末妹「ただ…何だか…気が緩んじゃって……」

末妹「あの時、実は私……」

末妹「…一人で自分の部屋に戻って、泣こうと思っていましたが」

178: ◆54DIlPdu2E 2015/03/28(土) 23:30:37.97 ID:uQU6YMeW0
末妹「ばあやにお手伝いが終わったと知らせなきゃならないのを思い出して」

末妹「それから次兄にお薬を持っていたり、父に勉強を見てもらったり、と」

末妹「やらなくてはならない事が案外たくさんあった物ですから」

末妹「結局、そのまま涙は呑み込んでしまいました」

末妹「…その時の涙が今頃…5年ぶりに出て来たみたい……」

末妹「やだ、踊りながら泣いていたら、みんな変に思いますね」

野獣「私の大きな図体なら隠せるぞ、ほら」

野獣「見ている皆、こういう踊りは詳しくないのだ、こんな振付と思うだけだ」

末妹「や、野獣様、そんなに膝と腰を曲げたまま踊られては……」

野獣「私は頑丈にできている、この程度で筋肉痛を起こすほどヤワでも年寄りでもないぞ?」

末妹「……」ポロポロ…

末妹「…ありがとうございます……」ポフ

179: ◆54DIlPdu2E 2015/03/28(土) 23:33:51.08 ID:uQU6YMeW0
次兄「またも野獣様の胸に末妹が」

次兄「しかもさっき以上に密着、いや、服越しに埋もれていると言ってもいい」

次兄「なんというけしからん振付、もっとけしからんのは末妹にその価値は全く理解できていない所」

次兄「兄として実の妹に嫉妬とかつくづくアレだと俺の理性は囁くが」

次兄「あああ禁断の語句が喉元まで出かかっている! 『末妹、そこを代われえええぇ!!!!』…と」

メイド「もう出ていますよお」

次兄「…ハッ」

次兄「やばいやばい、思わず我を忘れてしまった」

次兄「しかし本当に野獣様にはきつい体勢だな」

次兄「俺と執事さんなら身長差的にもう少し収まりいい感じにならないか?」

次兄「寄り添えば、ちょうど執事さんのふっさり首毛が俺の顔の正面に」

次兄「左右の頬を代わる代わる擦り寄せ、匂いを嗅ぎ、あわよくば○○○○ちゅーちゅー」

執事「狼の聴力とはどの程度かご存知ですか?次兄様」

180: ◆54DIlPdu2E 2015/03/28(土) 23:37:13.24 ID:uQU6YMeW0
次兄「…ちゅーちゅー……」

次兄「聞こえていたんですね」

執事「人間の子供は狼を恐れるものだと思っていましたが、貴方様と来たら恐れるどころか」

次兄「生まれ育ったのは港町で、周辺地域にまとまった山や森もなく、鳥以外の野生動物などまず出会わない」

次兄「お伽噺の狼はそれはそれは恐ろしいし」

次兄「現実の狼は家畜を飼う人や、人里離れた土地を行く旅人が最大級警戒しなければならない獣なのも理解できる」

次兄「それでも野生の獣は基本人間を恐れるものだし、襲ってくるのはそれなりの理由と条件があるからで」

次兄「『狼』と言うだけでその存在を闇雲に恐れたところで、人類になんの得があるのか? いや、ない」

次兄「と、これが俺の持論です」

執事「…次兄様は本当に珍しい人間ですね」

次兄「でもそんな持論さえどーでもよくなるほど執事さんと野獣様は俺の好みのど真ん中ですから」ゲッヘッヘ

執事「…………精神衛生上、最後の一言は聞こえなかった事とさせていただきます」耳ペターン

オルゴール:♪~~♪♪~♪~~♪~

183: ◆54DIlPdu2E 2015/03/29(日) 19:21:51.58 ID:1LNwhmBZ0
その夜の夢。

(野獣が空白の200年間の歴史を書物からおおまかに得て)

(更に季節がいくつか廻った頃……)

(師匠達の強力な隠蔽魔法が解かれた影響だろう、盗賊が屋敷の存在に気づいたらしく)

(最初は偵察か、一人だけ)

(身を隠して獣の唸り声を聞かせると慌てて逃げ帰った)

(「…仲間を引き連れて戻って来ないとも限らない」)

(「師匠も言っていた、『お前は自分の力で我が身とこの屋敷を守らなくてはならない』と」)

(「まずはまた吠え声で脅し、それが通用しなければこの姿で恐れさせよう」)

(「あの手この手でも駄目ならば、最後の手段で魔法を使ってみる」)

(しかし直接的な殺傷能力のある魔法は何一つ覚えていない)

(…さて、どうしたものか?)

184: ◆54DIlPdu2E 2015/03/29(日) 19:25:37.87 ID:1LNwhmBZ0
(「そうだ、物の形状を変える魔法…いくつか種類はあるが、あれの練習用の呪文は習得している」)

(『金属を3秒間だけ羽毛に変えることができる呪文』だ)

(あくまでも練習用だから、その効果自体に意味も実用性もないと当時は思っていたが…)

(「刃物や飛んでくる銃弾を羽毛に変えればその時点で勢いは格段に下がる」)

(「3秒もあればそのまま地面に落ちる、仮に当たったとしても傷は負わないはず」)

(「…呪文発動のタイミングを間違えれば危険だが」)

(「やはり武器を使わせる前に恐怖を与えて、戦意喪失させるのに越したことはないな」)

(「…獣の声だけではなく、態度や口調で凄みを利かせる練習でもしようか?」)

(「この巨体と、顔のつくりは充分に怖いのだから、より効果的に利用しないと」)

(『予行練習』を積みながら、いつ来るか、いつ来るかと)

(数日間、眠れぬ夜を過ごし、休まらない頭が疲れ果て微熱を帯びて来た頃に、それはやって来た)

(銃を手にした3人連れの盗賊)

(幸いと言うか…連中はほぼ野獣が思い描いた模擬実験どおりに動いてくれた)

185: ◆54DIlPdu2E 2015/03/29(日) 19:27:26.69 ID:1LNwhmBZ0
(服を着た見たこともない毛むくじゃらの大きな生き物が)

(人間の言葉で凄みを効かせて喋り出すと、彼らの恐怖は最高潮に達したらしく)

(まず兄貴格らしい男が撃ってきて、他の二人もそれに倣う)

(三発の銃弾は全て羽毛と化して野獣の周囲に舞い散り、前庭の地面に落ちてから、元の鉛玉に戻る)

(呆気に取られる盗賊達に、練習を積んだ台詞を、ここぞとばかり言い放つ)

(出来ることなら、次の弾を装填する気力を削いでしまいたかったので。)

(「どうした、貴様等の頼りにしている銃とやらはそんなものか!?」)

(「見ただろう、私は魔法が使えるのだ、今のはほんの小手調べに過ぎぬ!」)

(「もっと恐ろしい目に遭いたくなければ…」)

(言い終わらぬうち、盗賊達は踵を返して逃げ出した)

(「…………」)

(もう戻って来ないと確信し、野獣はその場にへたり込む)

186: ◆54DIlPdu2E 2015/03/29(日) 19:29:19.28 ID:1LNwhmBZ0
(初めてだった)

(誰かと争うことも、凄んだことも、獣の吠え声を除けばあんなに大声を張り上げたことさえ)

(「でも…できた、できたぞ、私にも『戦うこと』ができた……」)

(それでも気を抜けず、野獣は寝ずの番)

(緊張の中で魔法を一気に使い過ぎた反動もあるのか、割れるように痛む頭を太い首で支えながら)

(翌朝、小石を包み込んで塀の外から庭に放り込まれた手紙、部屋に戻ってそっと広げる)

(その内容を要約するとこんな感じ)

(昨日の連中が屋敷を狙った理由は、金品宝物への期待はさほどでもなく、目的は屋敷そのもの)

(隠れ家として恰好だと考えたらしい)

(結論としては、とある国および周辺国の『盗賊ギルド』は今後いっさい野獣の屋敷に手を出さないという)

(だから呪わないでくれ、危害を加えないでくれ、と続いている)

187: ◆54DIlPdu2E 2015/03/29(日) 19:31:49.70 ID:1LNwhmBZ0
(実際は、その手の魔法は一向に使えないわけだが)

(そのように勘違いしてくれたのならこちらには好都合)

(今日の日付の後に、これっぽちも知らぬ人名だが、各地のギルド代表者らしき署名が連なっている)

(それは盗賊達から屋敷の主への『宣誓書』だった)

(「」)

(読み終えると同時に、野獣はベッドに倒れ込んだ)

(倒れこむのと眠りに落ちるの、どちらが先だったかは思い出せない)

(目が覚めて、手近な食糧…干したプラムを頬張り水で流しこみ、とりあえず空腹を満たすと)

(金貨と引き換えに『新聞』を魔法で取り寄せた)

(盗賊の宣誓書の日付と比べると、自分は四日間も眠り続けていたらしい)

(記事には、国王が最近発表した声明、各地の主要都市での様々な出来事等が掲載されている)

(この屋敷この森の外では、当たり前だが人間達の営みが続けられて)

(人の世は止まることなく刻々と変わって行くのだ、と改めて思う)

188: ◆54DIlPdu2E 2015/03/29(日) 19:35:22.31 ID:1LNwhmBZ0
(「必要最低限、世間で何が起きているかを知らなくては屋敷を守れないのかもしれない」)

(毎日ではないにしろ、新聞を読み、遠く離れた場所を覗き込む魔法を時折使用し)

(…後にして思うと、単に情報が欲しいだけではなかったのかもしれない)

(やがて、野獣は簡単な料理に興味を持ち)

(自分が動ける範囲内では手に入らない材料等を金貨と引き換えに入手することも始めた)

(自分のための料理でさえ、とにかく何かを作り出すことは『楽しかった』)

(もともと…王子であった頃から孤独には慣れてはいたが)

(城で大勢の自分の世話をしてくれる人間に囲まれながらも感じていた孤独に比べたら)

(この孤独はなんと『楽しい』のだろうか)

(……そんな『平穏な生活』が何年続いただろうか)

(春先の、まだ風が冷たいある日、野獣が森を散策していると)

(「…おや、珍しいな。人間がこんな所に。……盗賊の類ではなさそうだが?」)

(それは旅の途中で道に迷ったらしい、一人の聖職者)

(冷たい風を避けるように森に入って来たが今にも倒れそう)

(野獣は相手に見つからないうちに屋敷に引き返すと、門の外に灯りを灯し、門の鍵を解除した)

189: ◆54DIlPdu2E 2015/03/29(日) 19:38:29.58 ID:1LNwhmBZ0
(次に、玄関から入ってすぐの場所に、魔法で手に入れたパンとチーズ)

(自分が庭で育てた香草で作った暖かい茶をテーブルに置いた)

(玄関先だが、風がしのげるだけでも違うだろう)

(そして毛皮のマント、真冬に森で凍死した大きな雄鹿の死骸から作った物)

(ここに置いた食べ物と茶は自由に食していいと置き手紙)

(余ったら遠慮せず持って行きなさい、とも)

(しばらく休んで、ここを立ち去る時にはこのマントも着て行きなさい、とも書いた)

(灯りに導かれて現れた聖職者は、いちいち神に感謝しながら、置き手紙のとおりにして)

(最初よりは随分と元気になって、風がやんだ頃を見計らい、再び旅立った)

(裏庭のバラに気付く事すらなく……)

(その姿を窓からこっそり見送りながら、野獣は自分の行いを振り返った)

(「私は何を思ってこんな事をしたのだろう?」)

(「放っておけなかった? 人恋しくなった? 気まぐれ? …過去の罪滅ぼしのつもりか?」)

(一つ言えるのは、自分はまた同じ事をするかもしれない)

(どうかバラに気付かないでくれ、バラを欲しないでくれ、)

(私に人を殺させないでくれ、と祈りながら相手を見守るこの行為を……)

190: ◆54DIlPdu2E 2015/03/29(日) 19:42:05.04 ID:1LNwhmBZ0
(敷地内に人間を自ら呼び寄せたのは、これが『一回目』)

(『二回目』はそれから数年後)

(二人組の男、職業はわからない、中型犬を一頭連れていた)

(これで猟銃を持っていれば猟師だったかもしれないが、どちらも銃身の短い拳銃しか持っていない)

(やはり置き手紙を置いたが、彼らは疑い深く)

(この時の食事は多めに用意したパンと燻製肉とミルク、これらを全て犬に毒見させてから口に入れた)

(…この時点で少しだけ、飛びきり恐ろしい咆哮を聞かせて男達を追い出してしまいたくなったが)

(問題ないと知るや、誰だかわからない相手に感謝しながら食べ始め)

(犬にも改めて分けてやったので、許してやることにした)

191: ◆54DIlPdu2E 2015/03/29(日) 19:43:47.74 ID:1LNwhmBZ0
(彼らが出て行く際、ちょっとしたアクシデントがあった)

(庭に一匹の野ネズミが入り込み、犬が興奮してそれを追いかけ始め)

(男達は慌てて犬を追いかけるが、野ネズミと犬はあっという間に裏庭へ回った)

(野ネズミは首尾よくバラの間を縫って奥へ奥へと逃げ、犬の牙から無傷で逃れる事ができたが)

(飛び付いた犬によってバラが一株、根元近くからへし折られてしまった)

(自分が押し倒したバラの棘に逆襲された犬はギャンと鳴き、尻尾を巻いて飼い主の一人に飛びつく)

(犬を抱きかかえた男は青ざめて相棒に話しかける)

(「おい、やべえよ、やっちまったよ」)

(もう一人も蒼白になって茎を手で起こそうとするが、無駄な抵抗)

(「見つかったら…弁償物だよなあ、こんな立派なバラ……」)

192: ◆54DIlPdu2E 2015/03/29(日) 19:44:43.49 ID:1LNwhmBZ0
(「早く立ち去ろうぜ、犬の悲鳴を聞いても誰も出て来ないんだ、ばれちゃいない」)

(野獣は窓から一部始終を見ていたのだが)

(「そうだな、今のうちに…」)

(すっかり二人と一匹の姿が見えなくなってから、野獣が裏庭に来てみると)

(せめてもの…だろうか、銀貨が数枚、置いてあった)

(バラが傷つけられたのは完全な過失、しかも動物のしでかしたこと)

(「今回は少し肝を冷やしたが…バラになぞ興味を持たないか、ああいう男達は」)

(「彼らには『思わず手に取りたい美しい花』ではなく『傷つければ高くつきそうな花』なのだろうなあ」)

(「…お陰で『お互い』命拾いしたと言えるかもしれんが」)

(野獣が少し水を与えただけで、皮一枚で根元と繋がっていたバラの株は起き上がり、みるみる元気を取り戻した)

(師匠が言った通り、本当に、『何も起こらな』かったのと同じ……)

193: ◆54DIlPdu2E 2015/03/29(日) 19:49:10.65 ID:1LNwhmBZ0
舞踏会翌日、野獣の自室。

野獣「……」

野獣「朝食で末妹嬢と会った時はなんとか誤魔化せたが」

野獣「案の定、腰と膝に来た」イタタタ

野獣「湿布薬を調合して、なるべく大人しくしていよう」

野獣「しかし無駄に過ごすのもな」

野獣「部屋で出来そうなことは……」

野獣「…私の前では決して出さないけれど」

野獣「末妹嬢は家族の事で気を揉んでいるに違いない」

野獣「とりあえず、鏡の魔法で商人の家の様子を見てみよう」

野獣「…何年ぶりかな、この術を使うのは」

野獣「見たい場所にある鏡に映った風景が、そのまま目の前の鏡に映し出される」

野獣「同じ鏡は1日に90秒間しか覗けないので、あまり実用的でもないのだが」

194: ◆54DIlPdu2E 2015/03/29(日) 19:52:41.46 ID:1LNwhmBZ0
鏡「もにょもにょもにょ」

野獣「お、何かが映った。これは…応接間か」

野獣「小さい鏡なのか、狭い範囲しか見えないな」

野獣「私は商人の顔しか知らないが、子供はあの二人の上に他3人」

野獣「末妹嬢の話では、上から兄1人と姉2人」

野獣「青年が家政婦らしき女に何かを指示している」

野獣「この魔法はなんとか音も聞こえるが、鏡が小さいせいか、はっきり聞き取れん」

野獣「末妹嬢と同じ髪の色、この若者が上の兄…長兄なのか、鏡よ?」

鏡「ソウダヨー」

野獣「…若い筈だが落ち着きのある雰囲気、けっこう長身、なかなか逞しい体つきの好男子」

野獣「次兄とは似ても似つかんな……」

195: ◆54DIlPdu2E 2015/03/29(日) 19:55:22.10 ID:1LNwhmBZ0
野獣「場面が変わった、これは商人の店の店舗だな」

野獣「広く内部を映している、店員が不審な客がいないか見渡すための鏡だろうか」

野獣「店番をしている若い女、これが片方の姉か」

鏡「ソウデスー」

野獣「黒髪で長身痩躯、美人の部類に入るが、ぱっと見は恐ろしく勝気そうな……?」

野獣「上質だが華美に過ぎない服装と装身具」

野獣「日用品からちょっとした高級品まで扱う店の店員としては、適切だろう」

野獣「客にはてきぱきと対応しているみたいだな」

野獣「この若さでなかなか商売の才はありそうだが…もう少し愛想も欲しいところ……」

野獣「末妹嬢とは似ても似つかんな」

野獣「また場面が変わった。女性の部屋か」

野獣「…こんな昼間から、まるで夜会のために着替えたかのようなドレス姿」

野獣「椅子から立ったり座ったり、部屋の中をうろうろしたり、落ち着かんな」

野獣「もう一人の姉なのか?」

鏡「ソウダケド」

196: ◆54DIlPdu2E 2015/03/29(日) 19:57:39.72 ID:1LNwhmBZ0
野獣「生まれつきならばあの地方に珍しい金の髪はとても豊かで」

野獣「中背で女性らしい体つき、美人には違いないし、異性には魅力的なはずなのに」

野獣「なんだろうか、勝気以上に傲慢で高慢で鼻持ちならん女のように見えてならない」

野獣「……雰囲気を私の母親に重ねているだけかもしれないが……」

野獣「とにかく末妹嬢とはますます似ても似つかん」

野獣「この3人、次兄、末妹」

野獣「私は一人っ子だったからわからんが、きょうだい個性さまざまにも程があるのでは」

野獣「もうひとつ、この部屋は……」

野獣「見覚えある中年男、商人だ」

野獣「しかし、会った時より一回りしぼんでしまったように見える」

野獣「……」

野獣「声が小さすぎて聞こえんが、唇を読めば」

野獣「『末妹』とずっと呟き続けている……あ、今、一度だけ『次兄』とも」

197: ◆54DIlPdu2E 2015/03/29(日) 19:59:33.13 ID:1LNwhmBZ0
野獣「我が子を失った喪失感だけではないな」

野獣「『自分のせいで』という罪悪感が彼を苛んでいるのだろう」

野獣「たった一つ、これくらいなら許されるだろう、と」

野獣「甘い考えで犯した罪により、大切なものを失って、それを悔い、嘆く男……」

野獣「…まるで誰かにそっくりではないか」

野獣「…くそ……」

野獣「とにかく、こんな父親の姿は末妹嬢には見せられん」

野獣「もう少し元気ならば、彼女の客間の鏡にこの術をかけてやろうと思ったが」

鏡の覆い布:ファサァ

野獣「私だけは時々、この鏡で様子を窺ってみよう」

野獣「……」

野獣「…解決するのは簡単だ」

野獣「末妹嬢をすぐにでも家に帰す、それだけで、この父娘は再び幸福に暮らせる」

野獣「しかし、そうすれば私は……」

野獣「……」

201: ◆54DIlPdu2E 2015/04/03(金) 00:08:37.05 ID:KR1qttPk0
屋敷内某所。

次兄「末妹」

末妹「お兄ちゃん」

末妹「あら、手に持っているのは○○○○キャンディ?」

次兄「ゆうべはお楽しみでしたね」

末妹「…恥ずかしいわ、合計7回も野獣様の足を踏んじゃったもの」赤面

次兄「後半の振付は接触が多かったようだが」

末妹「ドキ(泣いていたの、気付かれた?)」

次兄「その件について率直な感想をお聞かせ願います」ずいっ

末妹(なぜ私の顔の前にキャンディ突き付けるのかしら)

末妹「感想と言われても……」

末妹「…そうね…とても暖かくて、気持ちが落ち着いた…かな?」

次兄「温もりと安らぎですと!!??」

202: ◆54DIlPdu2E 2015/04/03(金) 00:10:34.21 ID:KR1qttPk0
末妹「う、うん」ヒキギミ

末妹「別の言い方をすれば…お父さんじゃないけどお父さんみたいな…感じ?」

次兄「…そっちでしたか」

次兄(一瞬、末妹も俺と同様『目覚めて』しまったのかと思ったが)

次兄(さすがにそれはないか、とりあえず安心した)

末妹「小さい子みたいで恥ずかしいから、今のは誰にも言わないでね?」

次兄「お、おう、心得た」

次兄「それから…キャンディはお前にあげる」ホイ

末妹「あら、私がもらっていいの?」

次兄「料理長さんの手作りだってさ。じゃあまた後で」クル

末妹「…ありがとう」

末妹(結局何がしたかったのかしら)

203: ◆54DIlPdu2E 2015/04/03(金) 00:13:43.57 ID:KR1qttPk0
次兄「『お父さんみたい』とか言われちゃったら具体的な詳細を聞く気が失せるじゃないか」スタスタ

次兄「服越しの胸毛のボリュームとか、シャツのボタンの隙間からチラリとのぞく胸毛の色とか、そういう詳細を」スタスタ

次兄「尤も普通の女の子は…そんな所に興味は向かないから覚えちゃいないか」スタスタ

次兄「…そう、末妹は普通の女の子、それは何よりだ」スタスタ

次兄「俺は別に『ライバル(?)が増えなかった事』に安堵しているわけではないぞ」スタスタ

次兄「さすがに妹にはノーマルな道を歩んで普通に幸福になってもらいたい」スタスタ

次兄「それに俺の影響でそっちの趣味に目覚めたとでもなろうものなら」スタスタ

次兄「父さんにも天国のお母さんにも、兄として申し訳ないからな」スタスタ

次兄「…普通に幸福……」ピタ

次兄「普通…の生活…が、あってこそ、だよな……」

次兄「今ここにこうしているのは楽しいが」

次兄「いつかはこの日々にも終わりが来るのだろう」

次兄「俺が望むのはできるだけ誰も不幸にならずに済む終わり方」

次兄「もちろん、他の皆だって不幸な結末なんか望んではいないと思うが」

次兄「俺はそのために何ができるんだろうか……?」

204: ◆54DIlPdu2E 2015/04/03(金) 00:16:01.93 ID:KR1qttPk0
執事「おや、末妹様」

末妹「あ、執事さん」

執事「昨夜は素晴らしいものを見せてくださって、ありがとうございます」

末妹「…野獣様はともかく、私ったらあんなみっともないダンスで」

末妹「野獣様を痛い目に遭わせた上、ずいぶんお気を遣わせてしまいました」

末妹「…せっかくのドレスとオルゴールが勿体ないわ……」ペロキャンカジカジ

執事「それは料理長の試作品ですか」

末妹「試作品?」

執事「料理長は貴方達がここにおいでになってから、色々と新しいメニューに挑戦しているのですよ」

執事「ここ数日は特に、菓子のレパートリーを増やそうとしているようです」

208: ◆54DIlPdu2E 2015/04/04(土) 21:53:30.27 ID:hfp6ddtP0
末妹「試作品とは思いませんでした、とっても美味しいから」

執事「前にも話しましたが、我々には菓子や凝った料理の味はよくわからないので」

執事「貴方様や次兄様や主人…失礼ながらも、本番で食べさせたい方に味見していただくしかないわけですが」

執事「末妹様が美味しいと仰るのなら、料理長も自分の腕に自信を持てるでしょう」

末妹「……」キャンディペロ

末妹「ふだんは忘れがちですけど…執事さん…達、は、森の動物…なのですよね」

執事「ですね」

末妹「…私は本物の『狼』という生き物を今まで見たことはなくて」

末妹「生まれ育ったのも港町で、狼や大きな野生の生き物が近くに現れたという話も聞いたことがありません」

末妹「だから、人から聞いた話や物語の中の狼しか知りませんでした」

209: ◆54DIlPdu2E 2015/04/04(土) 21:54:32.90 ID:hfp6ddtP0
執事「例えば、お伽噺の狼は、それはそれは恐ろしく描かれている、のですよね?」

末妹「…はい」

末妹「だから…あの、失礼な言い方かもしれませんが、なんだか不思議…です」

執事「それはそうですよね、不思議なのは当然です」

執事「ここで働くようになった理由…初めてお会いした時のわたくしの言葉、覚えておられますか?」

末妹「ええ…野獣様に命が危ないところを助けられて、と……」

執事「お時間があるようでしたら、そのあたりをもう少し詳しくお話ししましょうか」

執事「と言うより…貴方様に聞いていただきたいのです」

末妹「…私は構いませんが、執事さんのお仕事の邪魔をしては」

執事「メイドではなく、わたくしが淹れたものでもよろしければ」

執事「お茶でも飲みながら、応接室で」

210: ◆54DIlPdu2E 2015/04/04(土) 21:56:09.64 ID:hfp6ddtP0
執事「ミルクティです。どうぞ」

末妹「ありがとうございます」

執事「わたくしは紅茶抜きで」タダノミルク

執事「そうですね、主人と出会う前の話から始めましょう」

執事「他の三匹にも共通していますが、森で暮らしていた頃の事は、断片的にしか思い出せません」

執事「しかし、ここへ来るきっかけになった出来事はよく覚えています」

執事「森にいた頃、わたくしは森の狼の群れのひとつを統べていました」

執事「8年前の冬、森に雪が例年よりたいへん多く降ったせいか、主な獲物である鹿が激減してしまいました」

執事「鹿は深い雪が苦手です。おそらく、少しでも雪の少ない地域へ多くが移動したのでしょう」

執事「とにかく、そのためわたくしの群れは食料に困窮しました」

執事「…人間が飼っている家畜を襲えば手っ取り早いのかもしれませんが」

末妹「……」

執事「わたくしは『人間の恐ろしさ』を『嫌と言うほど』知っていましたので」

211: ◆54DIlPdu2E 2015/04/04(土) 21:57:40.86 ID:hfp6ddtP0
執事「もっと以前にわたくしと人間との間に何かあったためかもしれませんが、それが何かは思い出せません」

執事「とにかく、わたくしには家畜を襲うという選択はありませんでした」

執事「しかし、人間の恐ろしさを知らない群れの若い狼の中には『手っ取り早い方法』を選ぼうとする者がいて」

執事「結論から言うと、わたくしに従わない若い雄狼の数匹が結託し」

執事「不意を突いて集団で、わたくしに襲いかかって来ました」

末妹「まあ……」

執事「皆わたくしよりは一回り小さな体格で経験も少ない狼でしたが、『数』と若さには敵いません」

執事「こちらにも油断…驕りがあったのかもしれませんがね」

執事「相手にもいくらか傷は負わせましたが、深手を負って、命からがら逃げ出したのはわたくしのほうでした」

執事「ほとぼりが冷めた頃を見計らい、群れに戻ろうとしても、件の連中に見つかれば殺される勢いで追われ」

執事「傷のために、自分一匹のための小さな獲物を狩るのもままならず」

執事「それからは自分が率いていた群れの仲間から逃げ回りながら、細々と生き延びる日々が始まりました」

212: ◆54DIlPdu2E 2015/04/04(土) 21:59:27.28 ID:hfp6ddtP0
執事「日々、と言ってもわたくしの体力が長くは続かず」

執事「数日後の吹雪の日、森の中の開けた場所で馬車を停め休憩している人間達がいました」

執事「人間は馬車の中ですが、馬は外」

末妹「…っ」

執事「…貴方様には恐ろしい話でしょうね、やめましょうか?」

末妹「いいえ…続きを聞かせてください」

執事「承知しました」

執事「空腹と傷の痛みで、もうまともな判断はできなくなっていたのでしょうね」

執事「馬車に繋がれ丸々と太った馬は、手負いのわたくしでさえ仕留める事が出来そうに見えて……」

執事「その状況で風上から吠え声を上げて襲いかかる」

執事「群れを率いていた頃のわたくしならば、考えられない行動です」

執事「音と臭いで、馬はかなり距離のあったわたくしの存在に気付き、高く嘶きました」

執事「馬車の人間も当然、野生の獣のことは警戒していたはずです」

213: ◆54DIlPdu2E 2015/04/04(土) 22:02:36.89 ID:hfp6ddtP0
執事「銃声が轟いて、牙どころか前足の爪さえ馬に掠りもしないうちに、わたくしは雪の上にもんどり打って倒れました」

執事「銃弾は右の後足の付け根に当たり、殆ど歩けなくなりましたが」

執事「吹雪で人間達の視界が利かないのをいいことに、どうにかその場から離れ」

執事「しかし、どこをどう逃げたのか…それこそ思い出せません」

執事「動かない足を引きずりながら、ずいぶん歩き回った気はするのですが…」

執事「ふと気が付けば、わたくしはそこの…この応接間の、そこの暖炉の前にいたのですよ」

末妹「え」

執事「森の中で…たまたまこの屋敷の近くで力尽き、そこを主人が拾ってくださったのです」

執事「不思議なのは、その状態で主人が話しかけてくれた言葉を」

執事「今と違ってただの狼だったにも関わらず、わたくしははっきりと覚えているのです」

214: ◆54DIlPdu2E 2015/04/04(土) 22:05:57.76 ID:hfp6ddtP0
(野獣「狼よ、出来る限りの傷の手当てはしたが、お前はこのままでは今夜一晩もつまい」)

(野獣「お前の森での一生は今日で終わりだが」)

(野獣「ある方法を使えばお前はまだ生きられる、いや、生まれ変わると言うべきか」)

(野獣「……そこから先、私と共に、ここで送ってみないか?」)

執事「後から主人は、いくつかの魔法を組み合わせてわたくしに使ったと言いました」

執事「魔法の事は理解できませんが、翌朝、どこも痛まない身体で久し振りに軽快な気持ちで立ち上がったわたくしは」

執事「自分の今後の一生を、この方の…目の前にいる主人のために捧げようと」

執事「生まれて初めて使う…主人が与えてくださった『言葉』で、忠誠を誓いました」

執事「…これが、わたくしがここにお仕えすることになった、全てです」

執事「そして2年後の晩秋、主人は死にかけた、年老いた穴熊を連れて来ました」

執事「猟師が撤去を忘れて放置された古い罠にかかっていたとかで」

215: ◆54DIlPdu2E 2015/04/04(土) 22:08:55.59 ID:hfp6ddtP0
執事「一昨年の夏には、何者かに足を噛み砕かれた巣立ち前の仔兎」

執事「本人の記憶では、猟師に巣穴を襲われ、親きょうだいはすぐに捕えられ…」

執事「一匹だけ生き残って森の奥まで逃げて来ましたが、追跡してきた猟犬に足を噛まれたそうです」

末妹「メイドちゃんですね……」

執事「同じ年の秋、散弾の弾が腹に当たった山猫の仔」

執事「巣立ち前に親が病気で死んでしまい、空腹のあまり餌を探しに人里に立ち入って撃たれたと」

執事「…いずれも、わたくしと同じように主人に命を助けられ」

執事「こうやって主人のために働く力、貴方様達と話せる言葉、人間並みの長い寿命を与えられました」

末妹「…皆、人間に傷付けられたのがきっかけで、ここに来たなんて」

執事「主人に聞かれた事があります。人間を恨んではいないか、と」

末妹「……」

執事「わたくしは、狼としてではなく、わたくし自身の考えであると前置いて、こう答えました」

216: ◆54DIlPdu2E 2015/04/04(土) 22:13:06.19 ID:hfp6ddtP0
執事「人間も、動物と同じく自分の身や家族」

執事「その他にも色々な…時にはよくわからない『何か』も守って暮らしている」

執事「ですから、何かを守るため、その妨げになるものを排除しなくてはならないのは理解できます」

執事「そして…わたくしは森で暮らしている頃」

執事「ひたすら人間との諍いを避け、かわし、逃げる、それを続けて来ました」

執事「あの冬の日、人間に殺されかけたのは自分のミスです」

執事「だからと言ってむざむざ死んでやるのは、断じて嫌だったので」

執事「必死に逃げた結果ご主人に出会えました、それで今ここにいます」

執事「それだけの話です……と、答えました。」

執事「他の三匹も三者三様の答えを返していましたが」

執事「結論は皆だいたい似たようなものでした」

217: ◆54DIlPdu2E 2015/04/04(土) 22:16:15.01 ID:hfp6ddtP0
執事「主人と共に生きる今は幸せ、そして貴方様と出会えた事は楽しい」

執事「…わたくし達が、主人の元に居続けたいと思う理由です」

末妹「色々なお話し、ありがとうございます、執事さん」

執事「最後まで聞いてくださって、わたくしも嬉しいですよ」

末妹「執事さん達は、本当に野獣様のことが大好きなんですね」

執事「ええ、仰る通りです」ニコ

執事「最後に付け加えるなら」

執事「主人が貴方様と楽しく過ごされている様子を見るのは、より幸せです」

末妹「……」

執事「貴方様にこの話を始めた理由」

218: ◆54DIlPdu2E 2015/04/04(土) 22:18:44.14 ID:hfp6ddtP0
執事「主人はあまり自身のことを語りません、わたくし達相手にも」

執事「特にこの屋敷に来る以前のことは、欠片ほども言葉にしたことはありません」

執事「我々はそれでも一向に構わず、現在目の前にいる主人を信じ敬愛することはできますが」

執事「しかし『人間同士』は、秘密が多すぎると相手の信頼を得にくいものだ、と聞きます」

末妹「……」

執事「主人はご覧のとおりの姿で『野獣』と名乗っていますが、わたくし達の本来の姿である『動物』よりも」

執事「ずっとずっと、『人間』に近い存在であるとわたくしは思っています」

執事「…主人とそっくり同じ『種族』が地上のどこかに存在するか、しないのかすら、わたくしにはわかりませんし」

執事「主人が屋敷の、森の外の世界と、そこに住む貴方達の所へ自ら足を伸ばさないでいる、その理由もわかりません」

執事「ですが、今、主人の近くにいる人間である末妹様にはどうか…主人に親しみを持っていただきたい」

末妹「…私に、野獣様のことをもっと知って欲しかった、そういうことですね?」

執事「その通りです」

219: ◆54DIlPdu2E 2015/04/04(土) 22:50:59.29 ID:hfp6ddtP0
執事「わたくし達はある意味、主人のことを『何も知らない』のかもしれませんが」

執事「主人がとても孤独であるということは、わかります。いえ、わかっているつもりです」

執事「末妹様は幸い、主人の見た目や暮らしぶりを必要以上に恐れたりはなさらないお方」

執事「……貴方様のご都合やお気持ちを考えもしない、実に身勝手な願いかもしれませんが、どうか」

末妹「いいえ、執事さん」

末妹「私も、野獣様ともっと仲良く…お友達と思ってくださるような存在になれたら、と考えています」

末妹「…こんな、バラの盗人、いえそれ以前に」

末妹「物知らずでなんの取り柄もない、甘やかされて育った私のような子供に」

末妹「そう思っていただける資格があるなら、ですが……」

執事「末妹様」

執事「貴方様とお話をした後の主人や、貴方様のために何かを準備する主人の姿を、見せてあげたいですよ」

末妹「…?」

執事(…いつか、わたくしや他の誰かを介さずとも、その時は来るでしょうね)

執事(ご主人様が、わたくし達には想像もつかないほどの孤独から抜け出せる日が)

222: ◆54DIlPdu2E 2015/04/05(日) 15:23:25.74 ID:xJzPSgbK0
夢の中。

(このあと『三回目』はしばらく訪れなかった、その間(かん)の出来事)

(ある年の冬、今から8年近く前になるだろうか)

(野獣は屋敷の近くで瀕死の狼を拾った)

(それまでも森で傷つき衰弱した動物に出会ったことはあったが)

(大概は、この得体のしれない服を着て人間のような仕草をする大きな『獣』から逃げ出す程度の元気は残っており)

(もう少し弱っていても、せいぜいその場で応急処置をすれば済む程度の軽症か)

(それとも見ているうちに死体になってしまうほどの重症か、の両極端だったので)

(屋敷に連れ帰ったのはその狼が初めてだった)

(この傷と、衰弱している様子では、通常の手当では助からないだろう)

(「…いくつかの魔法を組み合わせて使えば、あとはこの狼の生命力次第で助かるかも?」)

(「『彼』の野生の獣としての一生が今日で終わるのだとすれば……」)

(「……」)

(「そうして助かったとしても、それはもう、元の『狼』なのだろうか?」)

223: ◆54DIlPdu2E 2015/04/05(日) 15:24:32.72 ID:xJzPSgbK0
(もしかしたら…『また』罪深い事をしようとしているのかもしれない、との思いも胸をよぎったが)

(思い留まることは、しなかった。)

(翌朝、立ち上がれるようになり、『言葉も喋れるようになった』狼は)

(野獣の姿に気づくなり、ためらわず、こう『言った』)

(「ご主人様!!」)

(野獣としては、狼にそう思わせるよう仕向けたつもりはなかったので、最初は戸惑ったが)

(「…何かの本で、飼い犬の忠誠心は狼由来と読んだことがある」)

(「その説が事実かどうかはともかく……」)

(「わかった、お前は今日から私の『従者』だ。そして私は『主人』としてお前に責任を持とう」)

(「これからよろしくな」)

(バラと屋敷と、もうひとつ)

(野獣が守るべき存在が新しく出来た)

(しかも初めての、心のある、意思を持つ存在……)

224: ◆54DIlPdu2E 2015/04/05(日) 15:26:40.21 ID:xJzPSgbK0
(この森には旅人が入り込む事はたまにあっても)

(件の言い伝えのせいで近隣地域の住民はまず訪れなかった)

(それでも数年に一度くらいはごく少数の猟師が森の獣や野鳥狙いで入るらしく)

(彼らにも生活がある、用を済ませたら綺麗さっぱり立ち去れば別に良いのだが)

(ごく稀に厄介な忘れ物を残して行く)

(狼を拾った2年後の晩秋、野獣もごくたまにしか入らない森の中心部で)

(どう見ても数年前に仕掛けてそのまま放置されたらしい、錆びついたトラバサミに一頭の穴熊がかかっていた)

(少しばかり年をとってはいたが、骨格も肉付きも通常より一回り大柄な雄)

(さんざん暴れたらしく、周囲の土や草は荒らされ、罠に挟まれた前肢はちぎれかけ)

(口から泡を吹き、半開きの目は曇り、もう細い息しかしていない穴熊を、やはり野獣は連れ帰ることにした)

(外した罠も持ち帰り処分することも忘れなかった)

225: ◆54DIlPdu2E 2015/04/05(日) 15:28:24.04 ID:xJzPSgbK0
(それから更に4年後)

(今から2年前の夏、ちっぽけな茶色の塊が門の隙間から屋敷の庭に入り込んできた)

(穴兎のまだ幼獣)

(引きずった片方の後肢は、肉食獣の牙で細い骨が噛み砕かれている)

(傷はそれだけだったが、足の傷は兎にとって命取り)

(おまけに恐怖で小さな小さな心臓は爆発しそう)

(「……運のいい奴だ」)

(野獣はつぶやくと、自分の大きな片方の掌に乗ってしまう雌の仔兎を、丁重に掬い上げた)

(さらに同じ年の初秋、森に最も近い人間の村がある方角の『森の出口』)

(野獣が足を進められなくなる境界線ぎりぎりの場所)

(散弾を腹に受けた山猫の幼獣が草むらに倒れていた)

226: ◆54DIlPdu2E 2015/04/05(日) 15:29:52.09 ID:xJzPSgbK0
(「雄の仔だが『メイド』と年頃は同じくらいだろう、いい友達になるかもしれない」)

(野獣は虫の息の山猫の仔をそっと抱き上げ、傷口にハンカチを宛がうと)

(草露で冷え切った体を暖めるように自分の懐に入れた)

(四匹の獣達は月日と共に『使用人』としての振る舞いも板に付き)

(特に執事は、見事なほどに彼らをまとめ上げてくれる)

(そして)

(野獣として暮らし始めて30年ほどになる今年)

(夜の屋敷周辺の様子を軽く見回って、木々伝いに戻って来た、山猫の庭師の知らせ)

(「森で馬車に乗った人間が迷っていますよ、ご主人様」)

(『三回目』。それが、あの商人だった……)

227: ◆54DIlPdu2E 2015/04/05(日) 15:53:45.39 ID:xJzPSgbK0
その日の夜、野獣の部屋。

野獣「商人の家の様子が気になる。一度見てしまうと、こうなってしまうのだな」

野獣「商人の部屋の大きな姿見は今朝使ったので、今日はもう見られないが」

野獣「部屋の中に、小さな鏡のついた置物があったはず」

鏡「チョットミヅライケドネ」

野獣「…代わり映えせんな」

野獣「商人は椅子に座ってぼんやりしているだけ」

野獣「上の兄がちょうど食事の世話をしに来ているが、ほぼ無反応」

野獣「今度は…店舗のガラス戸に映る光景だな」

鏡「ヤッパリミヅライッスネ」

野獣「黒髪の姉が『閉店』の看板を出すところだ」

野獣「金髪の姉は自室で暇そうにゴロゴロか……」

鏡「スガタミニケショウダイニカベカケニテカガミニ…カガミオオスギデスヨ、コノヘヤ」

野獣「商人の部屋だけ出さないようにすれば、末妹に見せても良いだろうか?」

野獣「……」

228: ◆54DIlPdu2E 2015/04/05(日) 15:55:26.19 ID:xJzPSgbK0
野獣「父親が家族の食事の席にいない、店に顔も出さない」

野獣「商談や仕入れに出掛けるのも兄だけ……」

野獣「余計心配するだろうな」

野獣「この屋敷に迷い込んだ時のように、取引のために旅に出ていると思わせるか?」

野獣「いいや、そんな誤魔化しは必ず綻ぶ」

野獣「それに」

野獣「何も見えず、知らずに、それ故に心配しながらも、家族は元気に違いないと信じている今の彼女と」

野獣「鏡に映る、意図的に一部が隠された光景を、父親が元気で働いている証拠として支えにする彼女」

野獣「どちらが見るに忍びないか、考えるまでもない」

鏡「モイッスカ?」

野獣「…ああ、ご苦労だったな、鏡よ」

鏡の覆い布:ファサ…

229: ◆54DIlPdu2E 2015/04/05(日) 15:58:54.57 ID:xJzPSgbK0
野獣「…ふ、結局は私の気分次第か……」

(「お前を囚人として扱う気はない。客人として持て成しているつもりだ」)

野獣「何が『客人』だ」

野獣「私の気まぐれで弄ばれる哀れな虜囚」

野獣「今の彼女は、それ以外のなんだと言うのだ?」

野獣「……」

野獣「…特に大きな動きがないのならば」

野獣「結論を急ぐ必要もあるまい……」

野獣「ただの先延ばしなのは自覚している」

野獣「この姿になり、年齢を重ねて」

野獣「他者からは多少なりとも強そうに見えるとすれば、それは表面上の言動だけ」

野獣「真実の私は、臆病者で優柔不断な王子のままなのだ……」

230: ◆54DIlPdu2E 2015/04/05(日) 16:22:36.88 ID:xJzPSgbK0
別の『誰か』の、夢の中。

(医者「…今のうちに、奥様とお話を」)

(商人「わ、わかりました」

(商人「子供達、もっと近くへ……」)

(商人の妻「…私の赤ちゃん…末妹……」)

(ばあや「奥様、末妹様ですよ」)

(商人の妻「末妹…あなたの事は、数えるほどしか胸に抱く事ができなかったのが心残り……」)

(商人の妻「私の分も皆から愛されて、優しい子に育つのよ」)

(商人の妻「これを…私の十字架をあげるわ、私に代わってあなたを守ってくれる……」)

(乳児末妹「ふにゅ…?」)

231: ◆54DIlPdu2E 2015/04/05(日) 16:23:47.24 ID:xJzPSgbK0
(商人の妻「次姉…次姉は一番の甘えん坊だから」

(幼次姉「おかあさまぁ……」ぐしぐし)

(商人の妻「凄く心配なのだけど、あなたはとっても賢い子」)

(商人の妻「皆に必要とされ尊敬される、素晴らしい女性になるわ……」)

(商人の妻「泣かないで、大好きよ、次姉」)

(商人の妻「次兄、おいで」)

(幼次兄「…おかーしゃま?」ジョウキョウガリカイデキナイ)

(商人の妻「…まだこんなに幼い、体も弱い子、申し訳ない気持ちでいっぱい……」 )

(商人の妻「元気に大きく育ってくれたら、それだけで私は嬉しいわ」)

(幼次兄「…うん、わかった」ジツハワカッテイナイ)

(商人の妻「ふふ、いい子……」)

232: ◆54DIlPdu2E 2015/04/05(日) 16:25:25.67 ID:xJzPSgbK0
(商人の妻「長兄」)

(幼長兄「はい、お母さま」)

(商人の妻「あなたは強い子、妹達や弟と仲良くして、お父様を支えてあげるのですよ……」)

(幼長兄「ぼくがみんなをまもります。お母さま、しんぱいしないで」)

(商人の妻「ありがとう…お母さん、安心したわ」

(商人の妻「長姉……」)

(幼長姉「おかあさま……」)

(商人の妻「私のお姫様、花のように美しく、お日様のように輝く子」)

(商人の妻「あなたの笑顔は、家族を照らしてくれるわ」)

(商人の妻「どうかこのまま…このまま曲がることなく、真直ぐに育ってね……」)

ドアを叩く音:コンコン

ドア越しの長兄「長姉、長姉、起きてくれ」

233: ◆54DIlPdu2E 2015/04/05(日) 16:27:17.39 ID:xJzPSgbK0
長姉「…何よぉ…兄さん、朝っぱらから…」もぞり

長姉「ん、何かしらこれ」

長姉「涙…? 寝ながら、夢見ながら泣いてたの、私?」

長姉「…どんな夢、見てたんだっけ??」オモイダセナイ

長兄「長姉!」

長姉「はいはい、起きたわよ兄さん!!」ガウンハオリーノ

長姉の足音:ドスドスドスドス

ドア:ズバーン!!

長姉「何よ!!!!!?」

長兄「…おはよう。朝からすまん」ノケゾリギミ

長兄「父さんが部屋からいなくなった、どころか家の中にもいない」

長姉「お父さんが…!?」

長兄「悪いが、みんなで手分けして探したい。今日は店も開(あ)けない、協力してくれ」

234: ◆54DIlPdu2E 2015/04/05(日) 16:29:50.85 ID:xJzPSgbK0
野獣の部屋では。

鏡「ゴランノアリサマデス」

野獣「なんだ、商人の家が早朝から慌ただしいな」

野獣「商人の寝室がもぬけの殻だ、このせいか」

野獣「…向こうに鏡さえあれば、家以外の場所も見える」

野獣「別の魔法をいくつか組み合わせれば、商人の居場所を探す事もできるはず」

野獣「鏡、頼むぞ」

鏡「ガンバリマスワ」

野獣「…ここか、港? 船着き場?」

野獣「鏡ではなく、磨かれた金属だな。舟の部品かな」

野獣「あああ、複数の魔法を即興で混ぜたせいか、90秒ももたない、もう消えてしまった」

野獣「別の場面が映った、揺れている…水面だな、海面だ」

235: ◆54DIlPdu2E 2015/04/05(日) 16:33:01.57 ID:xJzPSgbK0
野獣「よく見えないが、商人が…海を覗き込んでいる?」

野獣「え、商人の体が鏡に、いや、海面に近付いて……」

野獣「」

野獣「商人が海に飛び込んだ!!!?」

執事「どうされました、何事ですか、ご主人様!!」ダダダダ

野獣「執事か、本当に耳のいい奴だな……」

ドア越しの執事「ご主人様? 何かあったのですか!?」

野獣「執事よ、なんでもないのだ。用があればこちらから呼ぶから、今は下がれ」

執事「…は、はい」

野獣「騒がせたな」

野獣「…行ったか」

236: ◆54DIlPdu2E 2015/04/05(日) 16:36:06.60 ID:xJzPSgbK0
野獣「商人はどうなったか、使用時間を過ぎた、海面はもう覗けんな」

野獣「尤も乱れた水面では意味がないか」

野獣「居場所が特定できたので、あの港に焦点を合わせ、鏡の魔法だけ使おう」

野獣「ただのガラスでも、金属でも、映り込みさえすればなんでもいい」

野獣「…む、人がたくさん集まっている、港や停泊中の船にいた人々か」

野獣「救助しようとしているのだな、それも当然か」

野獣「さすが海の男揃い、あっという間に引き上げられた」

野獣「…息はあるようだ」

野獣「よかった……」ホー

野獣「老舗の店の主人、知人も多かろう、顔を見て驚いている人間がいる」

野獣「すぐ家に送り届けられるだろうが」

野獣「商人の子供達は、このあと大変だろうな……」

237: ◆54DIlPdu2E 2015/04/05(日) 16:37:19.64 ID:xJzPSgbK0

※続きは今夜にでも。読んでくださる皆様、ありがとう※

238: ◆54DIlPdu2E 2015/04/05(日) 19:59:59.66 ID:xJzPSgbK0
しばらくのち、商人の家。

長兄「と、父さん、どうしてこんなことしたんだ……」

次姉「お父さん……」

長姉「……」

医者「幸い、助け出されるまでの時間が早かったおかげで、命に別条ありません」

医者「念のためこのまま明日の朝まで安静に」

医者「…ですが」

医者「この先、目の付く場所に刃物や紐状の物は決して放置せず」

医者「誰か一人は必ず側に付くようにしてください」

長兄「…はい」

医者「では、今日はこれで。明日また来ますよ」

長兄「ありがとうございました。…家政婦さん、見送りお願いします」
 

239: ◆54DIlPdu2E 2015/04/05(日) 20:01:57.32 ID:xJzPSgbK0
次姉「兄さん」

長兄「次姉、父さんには交代で付くようにしよう」

長兄「おそらく、これから、噂を聞いた常連のお客や取引先の人が押しかけて来ると思う」

長兄「そっちの対応は俺がするから、まずしばらくはお前に父さんを任せたい」

次姉「わかったわ。どうせお店も休むしかないだろうし」

長姉「……」クル

次姉「姉さん?」

長兄「長姉、どこ行く」

長姉「どこって、自分の部屋に戻るのよ」ドアノブガチャ

長姉「お父さん、命に別条ないんでしょ。それに看病は次姉がやるんでしょ」ドアバタン

長兄「お前にも手伝って欲しい。まだ話は終わっていない」ガチャバタン
 

240: ◆54DIlPdu2E 2015/04/05(日) 20:04:15.86 ID:xJzPSgbK0
長姉「放っておいてよ!」スタスタスタ

長兄「待てよ、待てったら」グイ

長姉「……」キッ

長姉「……どうせ末妹が戻って来なくちゃ元気になんてならないわ、私でも次姉でも代わりになれない」

長姉「お父さんはあの子がいなきゃ駄目…あの子さえいたらいいの」

長姉「…もう末妹はいないのに」

長兄「だから残った俺達で父さんを支えないと」

長兄「それに末妹達が戻って来ないとは限らない」

長兄「野獣は父さんに『末妹はここで暮らすことになる』と言ったそうだ」

長兄「あの子達が生きている限り、希望を捨てるべきじゃない」

長姉「化け物の言う事なんか信用しているの?」
 

241: ◆54DIlPdu2E 2015/04/05(日) 20:09:38.75 ID:xJzPSgbK0
長兄「…本当はどんなにお金をつぎ込んでも、こちらから取り返しに行きたいさ」

長兄「しかしそれは奴との約束を破ることになる、相手はただの獣じゃない」

長兄「不思議な力…魔法が使えるんだ」

長兄「怒らせたらどんなに恐ろしい事が起きるか」

長姉「つまり手も足も出せないってことでしょ?」

長姉「生きていても帰って来ないんじゃ死んだと同じよ」

長姉「もう、いないのよ」

長兄「だから、残ったきょうだいで父さんを支えて……」

ダンッ!!

長姉「」ビクッ

長兄「何度、同じこと言わせるんだ!?」

242: ◆54DIlPdu2E 2015/04/05(日) 20:12:49.95 ID:xJzPSgbK0
長兄は、長姉の頭上の壁に右の拳を叩きつけた。穴こそ開いてないが、かなりの強い力で。

長姉「…に」

長姉「…兄さんが…怒るなんて……」

長兄「…すまん」

長姉「…な、なんで、謝るの……」

長兄「出来ない事をやれと言った俺が悪かった」

長兄「お前に何かをさせるのはやめた。今、決めた」

超姉「兄さん…!?」

長兄「が、せめて父さんが口を聞いてくれるようになるまで」

長兄「俺の目の届く範囲内だけでも、大人しくしていてくれ」

243: ◆54DIlPdu2E 2015/04/05(日) 20:15:13.10 ID:xJzPSgbK0
長兄「その程度なら、お前にだって出来るだろ?」

長兄「見せかけだけ取り繕ってくれれば、それで充分だからな。」

長姉「……私には…期待しないって意味……?」

長兄「……」

長兄「俺や次姉を手伝うのは嫌なんだろう?」

長姉「っ」

家政婦の声「長兄様ー、お客様がお見えです」

長兄「は、はい! 今行きます!」クルッ

タタタタ……

長姉「……」

長姉「何よ……」

長姉「…なんで皆…なんで私ばかり……」

244: ◆54DIlPdu2E 2015/04/05(日) 20:25:48.44 ID:xJzPSgbK0
翌日、朝食後。

野獣の屋敷、野獣の自室

野獣「商人の家はどうなったかな」

野獣「いつも1日1回に決めて集中的に窺っているから」

野獣「今日は短時間ずつ複数回に分けて見てみようか」

野獣「30秒の砂時計を目安にして……」

鏡「ハイドウゾ」

野獣「商人の部屋」

野獣「この時間だが商人はベッドにいるか、昨日溺れかけた人間ならば仕方ないな」

野獣「一応は目を開けている、今は眠ってはいない」

野獣「黒髪の姉が付き添っている」

245: ◆54DIlPdu2E 2015/04/05(日) 20:28:31.28 ID:xJzPSgbK0
野獣「話しかけているが、全く無反応だな……」

野獣「昨日の様子を見るに、下手に動き回られるよりは安心かも知れないが」

野獣「ドアの近くに空になった食器の乗った盆、枕元には手をつけていない食事」

野獣「空になったほうは次姉がここで食事を摂った後で、もうひとつは商人のものだろう」

野獣「30秒は短いな。長兄はどこにいるか」

野獣「自室にはいないが」

野獣「机の上に何か作りかけの木彫りとナイフが出しっぱなし」

野獣「周囲は木屑だらけだ」

野獣「そう言えば、末妹嬢も長兄が作ってくれたという木像を持っていたな」

野獣「次兄の動物画に比べると趣味の域を出ないが、なかなか良いセンスだとは思う」

野獣「ベッドはきちんと整って…使った形跡すらないような印象だが」

246: ◆54DIlPdu2E 2015/04/05(日) 20:32:07.41 ID:xJzPSgbK0
野獣「まさか一晩中、寝ずに木彫に没頭していたのか?」

野獣「…寝ずにというより、むしろ、眠れなかったのだろうな」

野獣「もう一人の姉も自室だが、まだ寝間着のまま、顔はいつにも増して不機嫌そう」

野獣「アクセサリーも着けず、着替えもせず、髪形も整えず」

野獣「この娘ですらそれどころではない気分なのか」

野獣「一旦、閉じよう」

鏡の覆い布:パサリ

野獣「見るのを中断するには覆い布をかぶせるだけで良いのだ」

野獣「90秒の使用時間が切れていないことが前提だが、その日のうちに再び見たい時は合い言葉さえ不要」

野獣「後は、昼過ぎと夕食後にまた30秒ずつ見てみよう」

247: ◆54DIlPdu2E 2015/04/05(日) 20:36:29.89 ID:xJzPSgbK0
同日、末妹の自室。

メイド「おととい本のお部屋から持って来たご本、もう読んでしまわれたんですか?」

末妹「ええ、お屋敷に来るまで、町の図書館に通って半分以上読んでいた本なの」

末妹「ここで続きが読めてよかったわ」

末妹「読み終わった本を返しに行ってくるね」

メイド「私もご一緒しますー」



末妹の足音:てくてく

メイドの足音:ぽてぽて(二足歩行バージョン)

メイド「それを返されたら、また新しいご本を持って来ますか?」

末妹「今日はこのあと庭のお花を見たいから…本はまた別の日にするわ」

メイド「末妹様、バラ園はまだご覧になっていませんよね?」

末妹「…そうね……」

248: ◆54DIlPdu2E 2015/04/05(日) 20:41:19.18 ID:xJzPSgbK0
メイド「ご主人様のお時間が空いていたら、一緒に裏庭に出られてはどうでしょう?」

末妹「……」

メイド「…末妹様?」

野獣「メイド」

メイド「あ、ご主人様」

末妹「野獣様…」

野獣「メイド、本はお前が返してこい」

末妹「…そんな、これくらい自分でやります」

末妹「メイドちゃんにはこの本でも大荷物ですし……」

野獣「いい運動だ、最近のメイドは少し引き締めた方がいいからな」

メイド「秋は脂肪がつくんですもの」プンだ

249: ◆54DIlPdu2E 2015/04/05(日) 20:46:11.06 ID:xJzPSgbK0
野獣「その後、ついでだから久し振りに本棚の埃を払っておいてくれ」

野獣「お前の届く範囲で構わないからな」ヒョイ

末妹「あ、本」

野獣「しっかり持てよ」ホイ

メイド「げええ重い」ヨロメキ

末妹「メ、メイドちゃん……」

メイド「へ、へっちゃらです、ご主人様のお言い付けですからっ!」フンヌ!

野獣「頼んだぞ。私と末妹嬢はバラ園を見て来る」

末妹「野獣様?」

メイド「はあい、行ってらっしゃいませえ」ヨタヨタトサッテユク

野獣「本は引き摺らなければ途中で下に置いて休憩して構わんぞー?」

メイド「お気遣いありがとうございますうう」トオザカル「ガンバレ私ー」

250: ◆54DIlPdu2E 2015/04/05(日) 20:51:19.08 ID:xJzPSgbK0
末妹「…本当に大丈夫かしら」

野獣「さて…裏庭に出ようか、末妹」

末妹「……」

野獣「さあ?」

末妹「は、はい」



野獣の足音:コツコツ

末妹の足音:てくてく

野獣(花の好きな末妹が、今までバラ園を見たいとは一度も言わなかった)

野獣(彼女があの場所をどう思っているか、私はおおよそ『わかったつもり』になって、誘わずにいた)

野獣(本当の所は、どう思っているのか)

野獣(一度きちんと末妹の口から聞いてから誘うかどうか決めようか、とも思ったが……)

野獣「……」コツ…

251: ◆54DIlPdu2E 2015/04/05(日) 20:54:35.61 ID:xJzPSgbK0
野獣「この扉から裏庭に出られる」

末妹「……」

野獣「さあ、おいで」

末妹「…はい」

扉:ギギィ……

末妹「……!」

末妹「バラの香りで溢れている……」

末妹「白いバラ、黄色いバラ…赤いバラ」

末妹「…やっぱり…綺麗……」

野獣「……」

野獣「無理に誘い出してしまったね」

末妹「…わかっていらしたんですね、私の気が進まないでいたのを」

252: ◆54DIlPdu2E 2015/04/05(日) 20:57:18.02 ID:xJzPSgbK0
野獣「実のところ、お前はこの場所をどう思っているのだ?」

野獣「正直に答えて欲しい」

野獣「お前が話し終えるまで、私は何も言わないよ」

末妹「…怖かったんです、バラ園に来るの」

末妹「私が父にねだったお土産のバラ一輪、軽い気持ちで選んだのですが」

末妹「父の…人ひとりの命と引き換えになるとは思ってもいなかった……」

末妹「そう思うと怖くなってしまったんです」

末妹「気軽に、花一輪を木から切り取って私に下さい、と頼んだ自分の言葉が」

末妹「そして…それを気付かせるこの場所が」

野獣「……」

末妹「この真っ赤なバラ、私がもらったバラの木…ですよね?」

末妹「あの一輪をここに戻せたら一番いいと思っています」

253: ◆54DIlPdu2E 2015/04/05(日) 20:58:47.53 ID:xJzPSgbK0
野獣(それは私も考えたことがある)

野獣(誰かにバラを折られても、私が魔法で繋げば、無かったことにできるのではないか、と)

末妹「…それでも父や私がバラを盗んだ罪は消えないのでしょうけど」

野獣(一度自分で折り取って試してみたが、出来なかった)

野獣(動物や風がへし折ったバラは私の魔法を使うまでもなく生き返ったが)

野獣(意図的に折ったバラだけは繋げられなかった、ましてや他人が折った物は試すまでもなかろう)

末妹「自分の生まれた木に戻れるだけでもどんなにいいか」

末妹「…でも、それは出来ないんですよね……」

末妹「だから私にできるのは、野獣様の仰ったとおり一輪差しのバラを可愛がって」

末妹「見る度に優しいお父さんを、懐かしい家を…自分のわがままを、思い出す」

末妹「それしかできないんです」

野獣(少女が父親に花一輪ねだった『わがまま』がなんの罪になろうか)

野獣(商人の命や末妹の幸福と引き換えになる価値を付加したのは、私なのだ)

254: ◆54DIlPdu2E 2015/04/05(日) 21:02:38.66 ID:xJzPSgbK0
末妹「……」

末妹「でも…こうして実際に来てみると」

末妹「バラ達はとっても綺麗」

末妹「私がどう思っているのもお構いなしで、精一杯咲いている姿はとっても綺麗」

末妹「ただただ…綺麗」

末妹「だからこの場所は『美しい場所』だと、今は思います」ニコ

野獣(…そう言ってお前は、私に向かって笑顔を見せるのだな……)

末妹「……」

末妹「…このバラ園をどう思うかを、話し終わりました」

野獣「では…私も少し話をしようか」

野獣(『秘密』に抵触せず、どこまで話せるかな……)

255: ◆54DIlPdu2E 2015/04/05(日) 21:05:13.90 ID:xJzPSgbK0
野獣「私がこの屋敷に初めて来た時、裏庭のバラは人に踏み荒らされていた」

野獣(屋敷の機械仕掛けで自分達に害が及ばないかと、父が兵士達に調べさせた際にな)

野獣「私は水と肥料をやって、手入れをして…なんとか『バラ園』と呼べる程度に修復した」

野獣(父には馬鹿にされ、母には蜂や蛾が集まるからやめろと言われたが)

野獣(花が咲いて、客に褒められるようになってからは何も言われなくなった)

野獣「確かに愛着もある、私には大切なバラだ、たかが一輪、たかが一株、とは思ってない」

野獣「でもな、知っていると思うが、花は…植物は強い」

野獣「花一つもぎ取っただけでは死にはしない」

野獣「これは魔法がかかって枯れないバラだが」

野獣(枯れない以外に、このバラが例外なのは)

野獣「本来は、冬が来て枯れたとて、春になれば新芽が出て花の季節が来ればまた咲く」

野獣(根の先にある私の心臓が止まれば、完全に枯れて二度と蘇らない事)

256: ◆54DIlPdu2E 2015/04/05(日) 21:08:41.03 ID:xJzPSgbK0
野獣「根が死なない限り、そう簡単に命は終わらないのだ」

野獣(私には選べたはずだ、バラを折った人間に危害を加えない代わりに)

野獣「それを、花ひとつと人ひとり、引き換えだとお前の父に告げた私は」

野獣(バラに詫びながら、共に枯れて朽ちて行く道を)

野獣「理不尽で残酷だと、お前は思わないか?」

野獣(それができなかったのは…今の私には守るべき存在、執事達がいたから)

野獣「…どう思う?」

野獣(そして、もしかしたら相手と心を通わせ、信頼関係を結ぶ事ができるのでは、と思ったから)

末妹「…私は」

末妹「野獣様が私に何を求めていらっしゃるのか、よくわからないままです」

末妹「それが、もどかしい……」

257: ◆54DIlPdu2E 2015/04/05(日) 21:14:19.86 ID:xJzPSgbK0
末妹「それがわかれば、きっと私は」

末妹「…こんな子供が、生意気でごめんなさい、でも他の言い方を知りません」

野獣「構わない、続けておくれ」

末妹「私は」

末妹「野獣様と、本当の友達になれるのに、と思っているのです」

野獣「……!」

野獣「お前は、私と、友達になりたい…のか……?」

末妹「メイドちゃんとは随分仲良くなりました」

末妹「執事さんも、野獣様と出会った時のことを、詳しくお話ししてくださいました」

野獣「執事が……」

末妹「料理長さんや庭師くんも、自分の知っている事はなんでも話してくれます」

258: ◆54DIlPdu2E 2015/04/05(日) 21:18:35.60 ID:xJzPSgbK0
末妹「でも野獣様は…私に嘘はついたりしないけれど」

末井妹「沢山の教えてくださらない事を、誰にも言わずにおられる事を、きっと抱えていらっしゃる」

末妹「私には、そんな気がしてならないのです」

野獣「末妹……」

末妹「言いたくても言えない理由…事情…も、あるのだろうと、思います」

末妹「けれど、そうであっても」

末妹「私はもっと…野獣様とお話がしたい、野獣様のお話が聞きたいのです」

末妹「こんなことを望むのは、おかしいでしょうか?」

野獣「…いいや」

野獣「ちっともおかしくはない、お前は優しい子だからな」

野獣「私のような化け物の心まで、思い遣ってくれる」

259: ◆54DIlPdu2E 2015/04/05(日) 21:21:15.45 ID:xJzPSgbK0
野獣「…そうだな…いつか…洗いざらい話そう、言えなかった理由も含めて」

野獣(こんな良い娘を)

野獣「その時は、私を本当に友だと思ってくれるかね?」

野獣(家族から、普通の幸福から切り離すのはやはり許されない)

末妹「…野獣様はよろしいのですか? 私なんかが…友達で」

野獣(近いうち必ず、当たり前の日常に帰そう)

野獣「何を言う、こんなに嬉しい言葉をお前から聞けるなんて」ニコ

末妹「……」

末妹「野獣様、笑ってくださった……」

野獣(私も覚悟を決めよう……)

260: ◆54DIlPdu2E 2015/04/05(日) 21:23:35.70 ID:xJzPSgbK0
野獣「風が冷たいな、そろそろ中に戻ろうか」

末妹「はい」

野獣「今度からは、末妹から裏庭が見たいと言った時に来ような」

末妹「さっきのお話…いつか……」

末妹「いつか、ずっとずっと先になっても」

末妹「約束、してくださいますか…?」

野獣「ああ、いつか」

野獣「その日を迎えられるように、努力しよう」

野獣(…お前にとうとう)

野獣(隠し事どころか、嘘をついてしまったな……)

261: ◆54DIlPdu2E 2015/04/05(日) 21:27:42.45 ID:xJzPSgbK0
同日、数時間後。

鏡「ホンジツ3カイメデスネ」

野獣「商人は昼も今も、朝の状態と変わらない」

野獣「あれ以来、末妹達の名をつぶやいている様子すらないし」

野獣「…今は兄が付き添っているようだな」

野獣「食事の盆の内容は見る度に変わってはいるが、いずれも手をつけないまま下げられたんじゃないか?」

野獣「ガラスの水差しの水も朝から減っていないように見える」

野獣「食事はともかく、水も飲まないのでは、安静にしていても身体がいくらももたないぞ」

野獣「目を開けてはいるし息もしてはいるが、まるで死人の顔……」

野獣「……」

ファサッ

野獣「執事!」

264: ◆54DIlPdu2E 2015/04/06(月) 18:17:30.57 ID:yR8ElJ8i0
次兄「…執事さんが俺達を?」

末妹「ええ、二人で一緒に野獣様のお部屋に、って」

次兄「夕食の席にも野獣様いなかったよな。何かあったのか?」

末妹「メイドちゃんの話では、考え事があると仰っていたって」

執事「お二人とも揃われましたね。では、ご案内します」

次兄「野獣様の部屋ってこの辺りだったのか」

執事「ご主人様、お連れしました」

次兄「んで、部屋の中はこう…と」キョロキョロ

野獣「ご苦労、お前は下がって…いや」

野獣「部屋の外で待機していてくれ」

執事「畏まりました」

次兄「そして、これが部屋の匂い…と」クンカクンカ

野獣「…さて、二人とも、まずはそこの長椅子にお掛け」

265: ◆54DIlPdu2E 2015/04/06(月) 18:23:44.00 ID:yR8ElJ8i0
次兄「なんのご用ですか、一体?」ヨッコイショ

末妹「……」トナリニトン

野獣「二人とも、今夜寝る前に旅支度をしておくんだ」

次兄「へ?」

末妹「え……」

野獣「明日の朝、お前達を家に帰す」

末妹「な、なぜですか?」

次兄「俺だけ追い返すならともかく妹も? どーゆーことです?」

野獣「落ち着いてお聞き。商人が…お前達の父親が、病床に就いている」

末妹「…お父さんが!?」

次兄「!?」

266: ◆54DIlPdu2E 2015/04/06(月) 18:27:34.66 ID:yR8ElJ8i0
野獣「もっと詳しく話すと…ここ最近は塞ぎ込んで部屋に籠り、元気がなかったらしいが」

野獣(…この先はとても言いにくい)

野獣「昨日の朝、一人で突然家を抜け出し…港に来て、海に飛び込んでしまった」

次兄「な」

末妹「…嘘……」

野獣「幸い港にはたくさん人がいたので、溺れるより前、あっという間に救助された」

野獣「今は自分の家にいて、お前達の兄姉と一緒だが、そのまま寝込んでしまったようで」

野獣「自由に出歩くより安全かもしれないが」

野獣「身体はともかく、精神はどれだけ弱っているかと……」

次兄「父さん…何やってんだよ……」

末妹「…ああ、お父さん……」カタカタ

次兄「…野獣様、どうして貴方がそれをご存じなのですか?」

野獣「こちらの鏡とあちらの鏡、鏡同士を通じて見たい場所を見られる、という魔法がある」

267: ◆54DIlPdu2E 2015/04/06(月) 18:35:07.89 ID:yR8ElJ8i0
野獣「お前達の家の様子をそっと窺ったのだ」

野獣「この屋敷では、他所の場所と手紙のやり取りなどはできないからな」

野獣「何か変わった事があれば知らせるつもりで見ていたのだが、ここまで大変な事が起きるとは」

末妹「…それなら…それなら、私にも…今の家の様子を、父の様子を見せてください…お願いです」

末妹「お願いです、お願い……!!」

野獣「…いいだろう、少し待て」

野獣「執事」

執事「お呼びですか、ご主人様」

野獣「お前の聴力(みみ)ならば中のやり取りは聞こえていただろう」

野獣「…近くにいてくれ。『一人』はちょっと耐えられそうにない」

執事「仰せのままに」

野獣「先に言っておこう。同じ鏡は一日に90秒しか使えんし、音も微かにしか聞こえない」

野獣「大きな姿見は私がさっき見ていたのでもう使えないが、部屋にもう一つ、小さな鏡のついた置物がある」

次兄「元はお母さんの部屋にあった置物だ」

268: ◆54DIlPdu2E 2015/04/06(月) 18:44:27.59 ID:yR8ElJ8i0
鏡の覆い布:ペラリ

野獣「…これだな」

野獣「少し見づらいが、辛抱してくれ」

鏡「ドウゾ」

末妹「…お、お父…さん?」

次兄「…生きてはいるみたいだけど…こんな……」

次兄「こんな、まるで、別人、いや…抜け殻のような」

野獣「……」

末妹「私が…私がお父さんの側にいれば……」

野獣「末妹」

次兄「野獣様、こっちの様子…俺達の無事を今すぐ伝える手はないんですか?」

野獣「双方向にする方法もある、ただし」

野獣「…誰でもよいが、誰かが、向こうの鏡に『私が決めた同じ合言葉』を使わなければならない」

次兄「……」

269: ◆54DIlPdu2E 2015/04/06(月) 18:52:04.17 ID:yR8ElJ8i0
末妹「…お父さん…私は無事です、元気です、心配しないで」

次兄「末妹」

末妹「ごめんなさい、お父さん、ごめんなさい…今すぐ、私は」バシ

次兄「鏡を叩くな、危ない」

末妹「お父さんの所に、帰ります…帰りたい…」バシ、バシバシバンバンバン

次兄「やめろって!!」グイ

鏡「ミガイタ銀板ナノデワレマセンヨー」

末妹「帰りたい、帰してください、帰して…帰るの…!」

次兄「……」ギュ

野獣「次兄」

次兄「…野獣様」

野獣「末妹嬢の荷造りは、メイドと…お前も手伝ってやれるか?」

次兄「…帰れる、んです…か…? 本当に?」

270: ◆54DIlPdu2E 2015/04/06(月) 18:56:16.00 ID:yR8ElJ8i0
野獣「私の使える魔法に、遠くだろうが、道がなかろうが」

野獣「人間を一瞬で元いた場所に帰せる呪文がある」

野獣「本当なら今すぐにでも帰してやりたいが、ちょっと面倒な魔法でな」

野獣「呪文を『掛けられる』側がひどく取り乱していては、失敗してどこへ飛ばされるかもわからない」

次兄「俺は冷静ですよ、俺がしっかりしなくちゃ」

野獣「お前もさっきからひどい顔色だが?」

次兄「……」

野獣「する必要のない無理はするな」

野獣「だから荷造りを終えたら今夜はもう休んで、明日の朝…発てるようにしてやろう」

末妹「…お父さ…う、うう…ああ……」シクシク

野獣(…見ていられない)

野獣「執事…メイドを呼べ」

執事「皆も獣の耳と獣の勘を持っています」

執事「全員、部屋の外で様子を窺っていますよ」

271: ◆54DIlPdu2E 2015/04/06(月) 19:04:37.00 ID:yR8ElJ8i0
末妹の客間。

メイド「末妹様のお荷物は、こんな感じでよろしいでしょうか」

次兄「…うん。万が一、後で妹から不平不満が出ても俺が責任を持つ」

メイド「さすがはお兄様」

次兄「……」

メイド「今のは冗談でも皮肉でもなく、心からです」

メイド「次兄様がいてくださって、本当によかった、本当に」

末妹「すーすー……」ベッドノナカ

次兄「よく眠っている」

メイド「ご主人様のお薬がよく効いているようで」

次兄「薬を飲ませてから、しばらくメイドさんを撫でていたのも良かったと思うよ」イヤシコウカ

272: ◆54DIlPdu2E 2015/04/06(月) 19:12:41.04 ID:yR8ElJ8i0
メイド「でも、今夜はそばにいてあげてくださいね?」

次兄「言われなくても」

次兄「…俺も一人でいたくないし」

メイド「……では、私はこれで失礼致します」ペコリン

メイド「いつも通り隣の部屋にいますから、何かあればご遠慮なく」

次兄「うん、ありがとう」

次兄「……」

次兄「末妹?」

末妹「すやすや……」

次兄「…ぐっすりだ」

次兄「末妹とよく遊ぶようになったのは、お前が4歳くらいの頃からだっけか」

273: ◆54DIlPdu2E 2015/04/06(月) 19:24:22.25 ID:yR8ElJ8i0
次兄「俺が具合悪くて寝込んでいる時は、チビのくせに何かと世話を焼いてくれて」

次兄「本を読んでくれたり、水を持ってきてくれたり」

次兄「側にいてくれるだけでも、ずいぶん元気付けられた」

次兄「だからお前が辛い時は、俺がお前を元気付けてやりたい」

次兄「って、思っているんだよ」

次兄「ずっと前から、そう思っている」

次兄「……思っているけど、お前はいつも元気で明るいし店のお客にも好かれて友達もいて」

次兄「片や、俺は稀に見るダメ人間だから……」

次兄「自分の楽しみを優先したり、趣味を優先したり、欲望を優先したりしている」

次兄「まあ内容的にはこの3つは全部同じようなものだがとにかく」

次兄「こんな兄で、つくづくごめん」

274: ◆54DIlPdu2E 2015/04/06(月) 19:31:02.13 ID:yR8ElJ8i0
次兄「それでもこれからの一生、お前がどんな人生を送ろうと、俺がお前の兄ちゃんなのは変わらない」

次兄「お前のために、俺にできる事であれば、頑張る」

次兄「頑張りたい」

次兄「……頑張りますから見捨てないでくださいこの通りですから」土下座

メイド「末妹様は見捨てたりしませんよ、安心してくださいな」ヒョッコリ

次兄「独り言聞こえていましたか」

次兄「…安眠妨害だったね、ごめん」

メイド「ほどほどにされて、お休みくださいね」ヒッコミ

次兄「……」

次兄「自分の部屋から布団持ってきて…この部屋で寝よう」ジブンハユカノウエ

次兄「しっかり眠ろう、俺がひっくり返るわけには行かないもんな」

275: ◆54DIlPdu2E 2015/04/06(月) 19:44:15.34 ID:yR8ElJ8i0
翌朝。

次兄「……ふにょ?」

次兄「もう、朝か…」モゾリモゾリ

末妹「おはよう、お兄ちゃん」

次兄「っと、お前は起きていたのか」オキアガリ

次兄「…もう着替えてるのな。寝起きいいなお前」

末妹「皆のおかげで、ぐっすり眠れたから」

末妹「…昨夜は…心配かけて、本当にごめんなさい……」

次兄「謝ることじゃないし」

次兄「とりあえず、今は落ち着いてるか?」

末妹「うん」コクリ

次兄「そんならよかった」

276: ◆54DIlPdu2E 2015/04/06(月) 19:49:11.82 ID:yR8ElJ8i0
次兄「俺は昨日の服のまま寝ちゃったから、着替えなくていいや」

メイド「おはようございます、次兄様、末妹様」

次兄「おはよ、メイドさん」

執事「おはようございます」

次兄「執事さんまで!?」

末妹「おはようございます……」

メイド「お二人とも、お食事の用意ができましたよ」

末妹「でも」

執事「急ぐお気持ちはわかりますが、貴方様達を空腹のまま送り出したくないのが、わたくし達の総意です」

執事「かと言って時間も確かに惜しいので、軽い朝食と温かい飲み物をこちらにお持ちしました」

執事「メイドひとりでは一度に運べないので、狼の手も借りたいという状況ですな」

メイド「お二人で気兼ねなくどうぞ。終わった頃を見計らって下げに来ます」ペコリ

277: ◆54DIlPdu2E 2015/04/06(月) 19:55:41.69 ID:yR8ElJ8i0
次兄「執事さん、メイドさん、ありがとう」

次兄「末妹、食べよう。せっかく用意してくれたんだ」

末妹「…うん」

(食事中)

次兄「サンドイッチうめー」モムモム

末妹「……」モグ…

末妹「私の分も荷造りしてくれて、ありがとう、お兄ちゃん」

次兄「メイドさんも手伝ってくれたよ。女の子の荷物は俺にはよくわからないし」

次兄「でも総責任者は俺なので、お気づきの点がありましたら、お客様窓口担当お兄ちゃんまでお知らせください」

末妹「ふふ……」

末妹「…オルゴールとドレスは、ここに置いて行くのね」

次兄「うん、オルゴールは繊細な機械だから迂闊に持ち歩きたくないし」

次兄「あっちでドレス着る機会もないだろ?」

278: ◆54DIlPdu2E 2015/04/06(月) 20:01:48.95 ID:yR8ElJ8i0
次兄「それにどっちも高級品だから、姉さん達には目の毒だ」

次兄「ドレス本体は二人ともサイズが合わないけどさ」

次兄「付いている一番大きい飾りは、本物のルビーだって執事さんが」

末妹「る」

次兄「執事さん自身は、野獣様から聞いただけだからガラス玉と何がどう違うのかわからない、って言ってたけど」

末妹「……知らなかったわ」チョットアオザメ

次兄「姉さん達がルビーやオルゴールを奪い合う姿は見たくないからなあ」

次兄「第一…少なくとも一度は、またここに戻って来るんだし」

次兄「俺だけは『もう来るなよ』って言われそうだけどね」

末妹「…戻って…?」

次兄「来るんだろ? 家に帰りっぱなしじゃないだろ?」

次兄「いつになるかわからないけどさ、父さんが元気になったら……」

次兄「家にいつでも帰れるってわかったんだから、逆にいつでもこっちに来れるんじゃないか?」

末妹「いつでも」