ハルヒ「スティール・ボール・ラン?」 前編

212: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 07:58:02.811 ID:d3LUbuSf0.net
「駄目ね」

 半ば凍り付いたマキナック海峡を行く手に臨みながら、ハルヒはため息混じりに、

「ここにあった私の『衣服』も、すでに誰かに取られてるわ」

 と、呟くほどの音量で、落胆の声を発した。それに倣うように、俺も一つため息を吐く。
 ミシガン湖で長門と別れてから、俺たちは豪雪と強風の中を、十日間かけて北上し続けた。いやはや、アリゾナ砂漠よりよっぽどキツかったよ。アリゾナにはたった二日しか居なかったというのもあるが。
 いくら、俺の愛車にとって、雪道が何でもないものだとしても、視界が霞むほどの雪と、強烈な向かい風に見舞われたら、移動力は普段の半分、いや、それ以下まで落ちてしまう。
 とは言え、天気と文字通り相談出来る朝比奈さんの能力のおかげで、キャンプの時などは、雪や風を弱めることができたのが救いだった。寒冷地用でないテントでも何とかやってこれたからな。
 そうして、町の少ないシックスステージのコースを八割方走破し、俺たちはシックスステージの難関―――ハルヒが感じ取った衣服のありかでもある、マキナック海峡までやってきたのだ。
 しかし―――今回も一手遅れちまっていたってか。原因は分かりきっている。俺が、ミシガン湖畔で熱を出し、数日そこでロスったことだ。

「すまん」

 と、俺が短く謝辞を述べると、ハルヒは首を横に振りながら、

「責めてもいないのに謝らないで。しょうがなかったと思ってるんだから」

 視線を水平線へと向け、すこし諦観の色が窺える声色でそう言った。
 しかし、本格的に首が回らなくなってきたぞ。ハルヒ曰く、残りの衣服で、まだ誰の手にも渡っていないのは、あと一つしかないらしい。もしその衣服までもが、誰かに取られてしまったら……

「……ここまで来たら一緒っていう気もするわね。どのみち、私たちの目的は、衣服を『すべて』取り戻すことだもの」

 そう―――もし、最後の衣服を手に入れることができても、結局は、他の衣服を手に入れるためには、他の所持者から奪い取らなくてはならないのだ。Dioやホット・パンツ、ジョニィだのジャイロだの、挙句の果てには大統領。
 そんな面々と交戦し、衣服を奪還する―――そんなことが、俺や朝比奈さんに可能だとは、正直言って思えない。と、なると―――頼みの綱となるのは、もう一つしかない。
 そう、長門有希だ。

引用元: ハルヒ「スティール・ボール・ラン?」 



213: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 08:02:02.599 ID:d3LUbuSf0.net
「……長門さん、大丈夫でしょうか」

 ぽつり。と、朝比奈さんの口から、鈴の音の様な声がこぼれる。

「一人で大統領の事を調べるなんて……やっぱり危険だったんじゃ」

「……長門は、言い出したら聞きませんから」

 不安げに表情を曇らせる朝比奈さんに、そんな言葉を返しながら、俺は心中で、十日と数日前、長門が残していった言葉を思い出していた。





「ファニー・ヴァレンタインは、少なくとも二つ、あるいはそれ以上の数の衣服を所持している。もし、ファニー・ヴァレンタインの能力が、私たちに不利益、有害なものであれば、暗殺し、衣服をすべて奪い取る。それが最も合理的」

 長門の眼は、いつだかコンピ研とのゲーム対決で見せたような、少しばかりの憤りを孕んだ色をしていた。こんなヘンテコな世界に迷い込まされたという事に、長門なり腹を立てているんだろうか。

「……どうして先に大統領の衣服を奪うのよ? 私の知る限り、ホット・パンツが、最低でも三つ持ってるんだから、狙うならそっちだと思うけど」

 少し考える様に、長門の言葉を吟味した後で、ハルヒが口を開いた。俺も同じようなことを考えていた所だ。
 衣服の所持数もさることながら、相手は一国の大統領だ。一般人に攻撃を仕掛けるのと比べたら、手間も危険度も桁違いだぞ。
 ハルヒの言葉を受け、長門は視線をハルヒの顔面へと移し、

「ファニー・ヴァレンタインについては、能力についての調査も必要なため。衣服の奪取と同時に行える」

 と、淡々とした口調で述べた。確かに、大統領の能力について詳しく知れるなら、それに越したことはないが……それにしても無茶な作戦じゃないか? 調査するにしろ、攻撃を仕掛けるにしろ、一人で簡単に行えることじゃ―――

「私の『能力』なら可能」

214: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 08:06:04.771 ID:d3LUbuSf0.net
 言い切ったな、おい。
 長門の能力。というのが、俺たちの世界で長門の持っていた、あの情報なんたら思念体が絡んだものだとしたら、確かに可能だろうさ。大統領なんか敵じゃない。しかし長門の口ぶりからすると、

「現在、リンクは不可能」

 俺の思考を読み取ったかのように、視線を一瞬、こちらへ投げながら、短く呟く長門。やっぱりか。例の思念体とリンクができないって事は、長門はこの世界では、俺たちと同じ土台の上にしかいない、って事だ。
 その上での、長門の『能力』とは―――どんなもんなのか、想像もつかないが、どうやら長門は、すでにその能力を持っていることを自覚しているらしい。

「言い方を変える。あなたたちの能力では不可能なこと。これが可能なのは私しかいない。許可を」

 ハルヒもそうだが、長門もこうなんだよな。何かを言い出した時には、もう『本気』なんだ―――長門が許可を求めているのは、俺になのか、SOS団団長になのか。あるいは両方になのか。とにかく、長門は『やる気満々』だった。
 俺は、ハルヒに視線を送ってみる。我らが団長様は、胸の前で腕を組み、険しい顔をして、じっと考えていて―――やがて、何かを諦めるかのように目を閉じ、一つ息をついた。
 そして、

「一つだけ約束して。『暗殺』なんて物騒な真似はやめてちょうだい。私たちに必要なのは、大統領の首じゃない……あくまで目的は、衣服を奪うこと」

 俺が言い添えようと思っていた点を、ハルヒがしっかり押さえてくれた。そう、長門に誰かを暗殺させるなんてのは天地がひっくり返ったってご免だ。俺たちが長門に求めているのは、そんなものじゃない。

「……危なくなったら、逃げろよ」

 ハルヒの忠言が終わったのを見届けた後、俺が短くそう言うと、長門は二秒ほど時間をかけ、手の中のスープ皿を見つめた後、

「了解した」

 と、俺とハルヒ、二人分の言葉を飲み込み、小さく頷いて見せた。
 
 
 
 
 

215: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 08:08:02.978 ID:d3LUbuSf0.net
 で、翌朝になったら、長門の姿はどこにもないと来たもんだ。行ってきますぐらい、言えってんだよな。

「有希なら大丈夫よ。あの子が約束を守らなかったことなんて、ないでしょ」

 と、長門の身を案じ、俯いていた朝比奈さんの肩を、ハルヒが優しく叩く。そして、再びマキナック海峡の水平線へと視線を移すと、

「私たちも、私たちに出来ることを、やれるだけやらなきゃ。最後の衣服のありかは―――きっと、この町」

 右手で、すっかり便利な収納空間となったマントの中から、地図を取り出し、それを広げるハルヒ。紙面の一点を指で示し、俺と朝比奈さんがそれを覗き込むという、この世界にやって来てから何度目かのやり取りを交わす。

「『ゲティスバーグ』……遠い、ですね」

 俺が見て思って感じたことを、朝比奈さんが代わりに口にしてくれた。もうツッコむのも面倒だが、やはり最後もレースのコース上。馬鹿みたいに長いセブンスステージのゴールであるフィラデルフィアから、150kmほど西に離れたところだ。

「そう言や、レースは今頃どうなってるんだろうな」

 ふと、このところ町がなかったせいで、レースの動向を探っていなかったことに気づく。確かシックスステージのゴールは、この海峡を越えて4~5kmくらいの地点にあったはずだ。

「とっくにセブンスステージに突入してるでしょうね。レースも佳境、ってところかしら」

 と、ハルヒは続いて、左手でレースの概要の記された新聞紙を取り出す。この世界に来た夜、ハルヒがホット・パンツに貰ったという、まあ、旅のしおりみたいなものだ。

「ゴールのマッキーノ・シティに着いたら、新聞を買いましょう。もうあんまり意味はないかもしれないけど、上位が誰だったか気になるわ」

 ハルヒが今少し触れた通り、俺たちは今となっては、レースに固執する理由はあまりないのだが―――とは言え、Dioやジョニィ、ホット・パンツなんかと接触しないよう注意するためにも、動向を把握しておくことは必要か。
 実際のところ、俺はこのシックスステージの間中、そろそろDioが追いついてくるんじゃないかと思い、まさかの遭遇を避けて行動していたくらいだからな。

「もしあんたの言うように、Dioが先頭に復帰してたら……ゲティスバーグへ急ぐか、Dioとの距離を考えるか、悩むところだわ」

 いっその事、俺たちは最後の衣服は無視して、ジョニィだのホット・パンツだのに取らせてやっちまうってのはどうだ? あとあといただく予定ならよ。俺が提言すると、ハルヒはキッと目を吊り上げ、

216: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 08:10:02.756 ID:d3LUbuSf0.net
「あんたね、面倒くさくなってるんじゃないわよ。そんなことして、最後の衣服がDioの手にでも渡って、あの恐竜能力が強化でもされたら、本当に勝ち目なくなるわよ」

 ああ、そういう線もあったか……でも、ゲティスバーグを目指してるのは、マキナックの衣服を取ったジョニィたちだけなんじゃないのか?

「ミシガンとマキナックの衣服は、多分ジョニィとジャイロが取ったけど、それをDioが奪ってたりする可能性もあるわ。とにかく、油断はできないのよ。私たちが自分で手に入れるのが、一番安全なの」

「そりゃそうだ。それが出来れば、な」

「ここまで来て気を抜かないでよ。あんたがそういうスタンスだと、本当に誰かに、最後の衣服まで取られちゃう」

 と、教育ママみたいな口調で俺を叱責するハルヒ。ああ、悪かった。本気のお前に、本気でなく付き合おうって、俺の怠け心が間違ってたよ。

「とは言え、Dioの馬の回復にはまだ時間がかかると思う。注意するべきなのは、セブンスステージの道中ね。とにかく、あんまりのんびりしていられない。シックスステージのタイムスコアだって気になるし、早く渡りましょう、このマキナック海峡を」

 確かに、連中がこの海峡を越えたのがいつなのかによって、俺たちの進むペースも変わってくるしな。俺は一つ息をついた後、愛車のキーを回す。ドルドルと、いつでも元気よくエンジンがかかってくれるのが、俺の救いと言ってもいいかもしれない。

「よし、行くか、ゲティスバーグ」

 俺が、星の欠片でも散らしながら、といった気持ちで、颯爽とそう言うと、

「あんた、その言い回し、気に入ってるの?」

 と、唇を平たくしながら、ハルヒが言葉を返してきた。思わず顔が熱くなるのを感じる。なんだよ、俺だってたまには格好つけたっていいじゃねえか。

「ふふっ」

 俺とハルヒのやり取りを見ていた朝比奈さんが、そよ風のように笑いながら、サイドカーに乗り込む。ハルヒが後部座席に着いたのを車体の揺れで確認した後、俺はアクセルを吹かした。

217: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 08:12:42.479 ID:d3LUbuSf0.net
 誰の姿もない、野良犬一匹としていない、閑静な野原の片隅を、南東へと駆け抜けてゆく。その途中、不意に、視界の端に人影と思しきものを捉え、ホット・パンツは手綱を引き、自身の愛馬を停止させた。
 正確には、『それ』を捉えたのは視覚だけではない―――ホット・パンツの『能力』が記憶している、複数の『ニオイ』の内の一つが、反応を示したのだ。

「このニオイは……『涼宮ハルヒ』のものだ」

 誰にともなく、そのニオイが示す、ホット・パンツの知る、一人の少女の名前を口にする。
 涼宮ハルヒ。ホット・パンツ自身を含む、スティール・ボール・ランレースの参加者たち、そしてファニー・ヴァレンタイン大統領が追い求めている、『聖なる衣服』と同じ力を持つ少女。いや、正確には―――『衣服の一つ』と言うべきだろうか。
 彼女と最後に出会ったのは、もう一か月ほど前になる。ホット・パンツが、ミシシッピーの岸辺で、ジョニィ・ジョースターとジャイロ・ツェペリから三つの衣服を奪った直後の事で、彼女の持つ力に気づいたのもその時だ。
 あの時―――ホット・パンツは。衣服を追い求めていながらも、衣服のうちの一つである、涼宮ハルヒを連れ去ることはしなかった。一体、それが何故だったのかは、ホット・パンツ自身にも分からない。
 ホット・パンツは、聖なる衣服を手にし、自らの罪を清める、ただその為だけにあのレースに―――いや、『あの日』から今日までを、生きていたと言うのに―――

「……いや、ニオイはアイツから微かにするだけだ……涼宮ハルヒ自身ではない。『最近涼宮ハルヒと接触した者』か?」

 背後に積んだ荷物の中から双眼鏡を取り出し、その人影へ視線を注ぐ。人影は―――体格からして、大人の男性ではない。女性か、子供か―――そんな事を考えていた時、ホット・パンツはあることに気づく。

「あの服は……わたしの持つ『聖なるセーラー服』と似ている……そうか、アイツは涼宮ハルヒの仲間か。しかしなぜここに?」

 その、荷物の一つすら携えていない、少女と思しき人物は、一方向を目指し、まっすぐに歩き続けている。ホット・パンツに気づいた様子はない。その向かう先は、どうやらフィラデルフィアのある方角のようだ―――

「フィラデルフィア……セブンスステージのゴール……『ヴァレンタイン大統領』が今、いるらしいな……もっとも、大統領の持つ衣服は、シカゴでわたしがあらかた『貰っ』たが」

218: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 08:14:16.416 ID:d3LUbuSf0.net
 そう言って、ホット・パンツは背に携えた布袋に意識を移した。そこには、聖なる衣服のうち、ジョニィとジャイロから奪った『ヘルメット』、『右靴』、『セーラー服』―――そして、シカゴで大統領から奪取した、『両靴下』、『スカート』が収められている。
 大統領が今、所持しているのは、ホット・パンツが奪取できなかった『リボン』のみのはずだ。
 あと少しだ―――あと少しで、『聖なる衣服』がすべて揃う。それがそろった時、ホットパンツはやっと救われるのだ。そして、ホット・パンツの人生は、そこから始まるのだ。そう、ホット・パンツは信じていた。
 しかし、そのためにはあの少女を―――涼宮ハルヒを手中に収めなくてはならない。ミシシッピーの川辺で、一度は見逃したあの少女を。

「……なぜ『彼』は……あの時、涼宮ハルヒを『さし出さ』なかった?」

 気が付くと、ホット・パンツの思考は、言葉となって唇から零れ落ちていた。『彼』―――涼宮ハルヒとともに、あのアリゾナ砂漠で出会った、ハルヒと同じほどの年頃であろう少年。
 バイクを動かすことが彼の能力のようだったが―――彼は何故、あの時、あれほど強い目をすることができたのだろう。

「……わたしの罪は、清められなくてはならない。たとえ誰かの人生を犠牲にしてでも」

 ホット・パンツがそう呟くと同時に、愛馬が一度だけ、低い鳴き声を上げた。―――そう、何も問題はないのだ。この正体の分からない『迷い』さえも、『その時』が来れば、解き明かされる。すべてが『白』になる。
 名も知らぬ、セーラー服の少女は、フィラデルフィアを目指して歩き続けていく。愛馬に鞭を打ち、その背を追い越すつもりで、ホット・パンツは再び進みだした。聖なるセーラー服が示した、最後の衣服のある場所―――ゲティスバーグへ向かって。
 
 
 
 
 

219: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 08:16:14.650 ID:d3LUbuSf0.net
 ハルヒの予想した通り―――ホット・パンツの名前は、シックスステージの着順表からなくなっていた。ミシシッピーで言った通り、レースを離れ、大統領の持つ衣服を奪いに行った、という事なのだろう。その後どうなっちまったのかは、俺たちのうちの誰にもわからん。
 俺の懸念していたDioの復活も、ハルヒが言った通り、まだ実現はしていなかったんで安心したよ。
 一着がジャイロ、二着はその仲間のジョニィ、次にポコロコ。以下、その他大勢。それが、シックスステージの結果だった。俺は、マッキーノの地元新聞から顔を上げ一つ息をつく。

「ジャイロがゴールしたのが、おとといの昼。着順からいって、やっぱりマキナックの衣服を取ったのはこいつらよ」

 つまり、この1300kmとかいうアホみたいに長いセブンスステージのどこかで、こいつらを抜き、先にゲティスバーグへたどり着けば、俺たちの初白星が実現するってことか。
 今度こそ何とかなりそうなもんだけどな。フィラデルフィアまでの道のりは山道でも砂漠でもないし、馬の一日の移動距離は、せいぜい70kmってとこだろう。俺の愛車は、その気になりゃ一日200kmは走れる。

「キョン君、大丈夫? あんまり無理はしないほうがいいよ」

「少しくらい無理をしなきゃ、元の世界になんて帰れないわよ」

 朝比奈さんが俺を労ってくれた直後に、ハルヒの厳しい一言。……俺の気のせいだろうか。ミシガン辺りから、この二人の関係がちょっとおかしい。 なんつーか、ハルヒが必要以上に朝比奈さんに突っかかると言うか―――

「す・ず・み・や・さ・ん」

「……ま、一日に100kmも走れば間に合うペースかしらね」

 しかし、それでいて、朝比奈さんがちょっと優位というか。なんだろうな、これ? 女同士の関係ってのはよく分からんが、こういうものなんだろうか。

220: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 08:18:20.583 ID:d3LUbuSf0.net
「とは言え、安心なんてできないのよ。ゲティスバーグは、完全にレースのルート上というわけではない。もしジョニィやジャイロが、少しでもルートを外れたら、大統領は気球からの情報でそれをすぐ知り、行き先を読むはず」

 気球? 気球って、あのやたら空に飛んでる奴か。そういや今まで気にしたことがなかったが、アレと大統領が何か関係あるのか?

「あんたホントになんも知らないわね……アレはレースの運営の監視よ。リタイアした選手を見つけたり、不正がないか見張ったりするためのね。大統領には気球の情報が直で行くの。今回みたいなパターンは筒抜けってこと」

 おいおい、初耳にもほどがあるぞ。むやみやたらに飛んでるから、てっきり十九世紀ってのは、気球がそこら中に浮かんでるもんなんだと思っていたぞ、俺は。知ってるならなぜ教えてくれないんだ。

「別に、私たちはレースの選手じゃないもの。基本的には無関係よ。でも、今回はジョニィたちの動きが変則になるから、アイツらが衣服を取りにゲティスバーグを訪れるころには、大統領側からも刺客が送り込まれるはず」

 そこでハルヒは、一度言葉を区切り、

「っていうか、正直に言って、私たちがゲティスバーグに向かうだけでも、大統領は事態を察知する可能性があるわ」

「ちょっと待て、俺たちはレースの参加者じゃないって、今言わなかったか? どうして俺たちの動きを、大統領が気にするんだよ」

 俺のその発言に、ハルヒはハバネロ食らった小学生みたいな顔になり、

「あんたバカね。これだけしつこくレースについて行ってるんだから、私たちの存在なんて、とっくに大統領に知られてるわよ。ついでに、衣服のどれかを持っていて、さらに狙ってるとも思われているはず」

 おいおい、とするとだ。俺たちがゲティスバーグに直行なんてしたら、大統領に、衣服はここだよーって教えてやるようなもんじゃないか。

「だから、余裕なんてないって言ってるでしょ。ゲティスバーグに行く、衣服を取る、大統領の追っ手から逃げる、この三つを、出来るだけ早く、スムーズに、滞りなく済ませる必要があるの」

221: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 08:20:01.864 ID:d3LUbuSf0.net
 ちょっと待ってくれよ涼宮さんよ。大統領が本格的に俺たちを殺しにかかってきたら、どんなのが来るか分からないぜ。Dioみたいな強力な能力のなんかが来られたら、冗談抜きに命があるか―――

「……あたしはそれでいいと思ってる」

 ……何?

「元の世界に戻れない―――あんたたちと一緒に、あの世界に戻れないくらいなら、死んだほうがマシよ」

 それに対して、俺は何かを言い返そうとして―――ハルヒの眼に、気づいた。なんだ、この目つき。今までハルヒが、こんな眼をしてるのは見たことがないぞ。そこには、いつも通り、強気な光が灯っているのだが、それとともに、何かを慈しむ様な―――

「……あんたは、違うの?」

 ハルヒの眼に注がれていた俺の意識を、現実に引っ張り戻す声。一瞬、その意味が分からず、黙り込んでしまう。なんだ、ハルヒは、元の世界に帰れないなら死んだほうがマシだって? そして、俺はそうじゃないのかと、そう訊いているのか。
 そりゃ―――命がなきゃ、何にもならないだろう。

「……お前、少し疲れてるぞ」

「はあ?」

 俺の言葉を払いのけようとするハルヒ。ジロ。と、こちらを睨んだ目を、真正面から見て、さらに言葉を紡ぐ。

「死んだほうがマシ、なんて言うなよ。もし、もしだぞ? 俺たちがもう、元の世界に帰れなかったとして……お前が死んで、俺たちだけがこの世界に残ったら、どうしてくれるんだよ」

「そんなの―――あり得……」

 それが、あり得るんだっつーの。俺たちは、何しろ―――弱い。そう、もし、ハルヒ目当ての、強力な刺客と出会ったとして、そいつからハルヒを守り切ることができるかどうか怪しいほどに。
 情けないことを言っているようだが、これは本当なんだ。俺にできることは―――せいぜい、ハルヒと朝比奈さんを乗せて、ひたすら逃げる事。走る事くらい。
 だからさ、せめて逃げさせてくれよ。走らせてくれよ。お前を危ない状況に持っていくような道を、進ませないでくれよ。でなきゃ―――俺は。

222: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 08:22:02.677 ID:d3LUbuSf0.net
「キョン……」

 ハルヒの眼が、その双眸が、俺の眼を見つめている―――俺は今、相当格好悪いこと言ってるな。と、自覚はしてる。
 だが、それでも―――

「……あんたの言いたいことは分かったわ」

 無言の時間が、十秒ほど続いただろうか。傍らの朝比奈さんも、何も言葉を発することなく、俺とハルヒの言い合いを、ただ見守っていた。途中からは、俺の一人語りだったけどな。
 やがて、ハルヒはゆっくりと沈黙を破った。

「でも、ゲティスバーグには行く。負けないためには、勝つしかないから」

 一瞬だけ、俺から視線を外し、したたかに言い放つ。こいつ、俺の言いたいこと、分かってんのか? と、俺が思ったその直後、ハルヒは、

「……ジョニィたちを囮にするわ」

「……囮?」

 再び、俺の顔面に視線を戻し、ハルヒはそう言い放った。そして、その意味を、俺が訊ねようとするよりも早く、地べたに座り込んでいた体を、すっくと立ち上げる。

「そうと決まれば、やっぱりあんまり時間がない。キョン、ハウス! さっさと寝て、明日は早朝四時起き! ジョニィとジャイロを追い越す必要はなくなったけど、追いつく必要はあるわ」

「おい、お前が何を思いついたか知らんが、とりあえず……飯ぐらい食わせてくれ」

 と、俺は、右手に持っていた、パスタの入った木の器を指で示し、立ち上がったハルヒに向かって、そう言った。―――話に夢中で、すっかり冷めちまったじゃねーか、朝比奈さんの作ってくれた、カラいトマトソースのペンネがさ。

「ぐす……ふふっ、温めなおしてきますね、キョン君」

 と、何やら涙目になった朝比奈さんが、これまた何やら嬉しそうな笑顔で、俺の器を取ってくれた。……泣かすようなこと、言ったか? 俺。

223: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 08:24:02.082 ID:d3LUbuSf0.net
 
 
 
 
 
 明くる朝。簡潔に言うと、『ジョニィとジャイロを、一定の距離を保ちつつ、気づかれないように追跡すること』―――それが、ハルヒが俺に下した使命の概要だった。
 その追跡の果てに、何を狙っているのかは、俺には皆目見当がつかない。しかし、そこから先の作戦を、詳しく説明する気はまだないらしい。仕方がないので、従ったよ。抗ったって話が進まないしな。

「エンジン音が聴こえる範囲まで行っちゃ駄目。目で見えてもだめ。二人の馬の蹄の跡を追う、ぐらいの気持ちで進むのよ」

 蹄ねえ。しかし、馬の蹄なんて嫌って程見てきたが、どの蹄がジョニィたちのモノかなんて見てわかるのか? 俺が訊ねると、ハルヒは少し得意げな表情を浮かべ、

「二人は十中八九、衣服を持って行動してる。蹄から衣服の気配がするかどうか、私にならわかるわ」

 引力バンザイ。それだけ衣服の気配に敏感なのに、なんで俺たちはここまで、一つも衣服を取れていないんだかな……。

「早速だけど見つけたわよ」

 と、ハルヒが手袋をした指先で、マッキーノ・シティからわずかに南の大地に刻まれた、一つの蹄の跡を指で示した。

「この足跡を追っていくのよ。気をつけてね、馬ふんとか踏まないように」

 女子が馬ふんとか言うなっつーの。

「まず最初に、ジョニィたちを見つけるまでは、ガンガン進んでいいわ。二人だと思しき姿や、二人のキャンプなんかを見つけたら、そこからは距離を保ってついていく。あ、みくるちゃん、しばらく雨はよすように、空に言っておいてね」

「は、はい」

 なんとなくだが、昨晩言っていた、囮ってのの意味が、俺にも分かってきた。要するに、ジョニィたちに先にゲティスバーグに行かせて、大統領の差し金とドンパチやらせて、その隙に何とか衣服を横取りしちまおうって言うんだろ?
 そんな都合よく行くのか、実際のところ。確かに、大統領側がジョニィ&ジャイロに照準を定めてくれたら、俺たちは動きやすいが……

224: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 08:26:02.090 ID:d3LUbuSf0.net
「下手に先回りして、その真逆の展開になるのだけはご免だわ」

 真逆。つまり、俺たちが大統領の刺客とすったもんだしているところに、ジョニィたちがやって来て、衣服を持っていかれるって事か。確かに、それは勘弁願いたいな。

「どこかでホット・パンツも絡んでくると思うし、すべて思い通りにいくかはわからないけどね。可能な限り安全に歩み寄った、私の作戦よ」

 ハルヒのその発言に、俺は昨晩、自分がハルヒに投げた言葉を思い出す。なるほど、安全と攻めの両取りって事か。ハルヒが俺の忠言を聞き入れるとは珍しい。

「……そろそろ行きましょ。今日でもう、セブンスステージの三日目。結構進んでるはずよ、ジョニィたちも。それに、あんまり町に溜まってたら、そろそろ追い上げて来そうなDioに見つかっちゃう」

 それも勘弁願いたいな。Dioの奴とは、できればもう顔を合わせたくない。まあ、アイツは『左靴』を持ってるわけだから、いつかはもう一度絡まなきゃ行けないんだろうけどよ。
 それにしても―――先行きが不安だ。一体、この旅は、どこで終わってくれるんだろうか。俺は頭痛を覚えつつ、愛車のエンジンを掛けた。

「キョン君、昨晩のことなんだけど」

 と、不意に、サイドカーの朝比奈さんが、華奢な手で、俺の肩をポンポン、と叩き、

「カッコよかったよ。多分、涼宮さんもそう思ってる」

 と、プライスレスの笑顔を浮かべながら、言った。思わず、顔が熱くなる。

「何、何の話?」

 俺と朝比奈さんのやり取りに、後部座席にちょうど跨ったところだった、ハルヒ口を挟んで来る。

「何でもねーよ」

 と、無駄に何度もアクセルを吹かしたのは、まあ、照れ隠しなんだけどな。
 
 
 
 
 

225: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 08:28:02.749 ID:d3LUbuSf0.net
 びっくりするほど何事もなく、フィラデルフィアへの旅は、今夜で九日目を記録しようとしている。ターゲットである二人の馬乗りは、俺たちのいる地点から、300mほど離れた位置でキャンプをし、夜を明かすつもりらしい。

「なあ、ハルヒ。フィラデルフィアに近づいて来たぜ。あいつら、本当にゲティスバーグを目指してるのか?」

 木陰に身を隠しつつ、俺が、数日前から抱いていた疑問を、隣で双眼鏡をのぞき込むハルヒにぶつけると、

「もしかしたら、あの二人の持つ衣服は、ゲティスバーグを示していないかもしれないわね」

 と、何でもないことのように返されたのだが、結構デカい問題じゃないか? それ。

「アイツらがゲティスバーグに行かないんじゃ、囮もへったくれもないじゃないか」

 いわゆる、作戦失敗って奴だろ、それは。おまけに、俺たちはもう、最短距離でゲティスバーグに向かうルートを見送り、丸一日ほど、ジョニィたちを追跡している。いわゆる、引っ込みのつかない状態ってわけだ。
 ハルヒは、ミントティーと間違えてセンブリ茶を飲み干してしまったような顔をしながらも、

「もう少し様子を見るわ。大丈夫、私の感覚だと、またゲティスバーグの衣服は、誰の手にも渡ってない」

 断言するハルヒ。俺はため息を吐きつつ、予備の双眼鏡で、ジョニィとジャイロのキャンプをのぞき込む。俺たちの視点からは、二人の顔は見えないが、どちらかのものと思われる足が、簡易型のテントからはみ出しているのが見て取れる。

「本当にあいつら、マキナックの衣服を取ったのか? ゲティスバーグに衣服があることに気づいている様子がねえぞ」

 小声で俺がぼやくと、ハルヒは双眼鏡から目を離し、俺の眼をジロりと睨んだ。そして、

「衣服の気配の残った蹄の跡を追って、ここまで来たんじゃない。間違いないわ、あの二人は衣服を持っている」

 じゃ、奴らは何でゲティスバーグをスルーしようとしているんだ?

「言ってるでしょ、衣服にも、持っている力の傾向があるの。アイツらが持っているのは、次の衣服の位置を教えてくれるタイプのものじゃない可能性があるわ」

 そんな区分があること自体、俺は今初めて聞いたがな。ハルヒは、自身の衣服について、『まるで体の一部のこと』のように感じ取れると言っているが、言うことがちょくちょく変わるので、正直信用に足るものか怪しいと俺は思っている。

226: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 08:30:03.240 ID:d3LUbuSf0.net
「二人とも、スープ、もうできましたよ?」

 300m先の世界に注がれていた、俺たちの意識を、朝比奈さんの声が、現実に引っ張り戻してくれる。今日は干し肉とトウモロコシの入ったコンソメスープだって言ってたっけな。
 旅が長引くと、どうしても保存食だらけの食事になりがちなんだが、ハルヒと朝比奈さんは、なんというか、言い方は悪いが、そのあたりの誤魔化し方が上手いんだよな。最終的に満足できるメニューを供してくれるのさ。

「なあ、あいつら、今日はもう動かないだろ。俺らも飯にしようぜ」

「……そうね」

 俺の提言を受け入れるようなフリをしつつ、ハルヒは双眼鏡を離さない。やれやれって感じだな。
 実際のところ、ジョニィとジャイロの走行ペースは、ここまでかなりハイではある。予想行程日数が二十二日のところを、こいつらは十二日目で、フィラデルフィアまであと数日でたどりつけるであろう地点までやってきている。
 確か、マッキーノで耳にした限りじゃ、現在、オッズで一番人気なのはジャイロだそうだ。次いでジョニィ。旅を進めていく様子を尾行した限り、人気が独り歩きしているというわけではなく、馬術や戦術面で、こいつらはなかなかハイグレードのようでもあった。

「はい、涼宮さん。少しの間、私が見張ってますから、ご飯、食べちゃってください」

 朝比奈さんに声を掛けられ、ハルヒはようやく双眼鏡を手放した。目の周りに赤く跡が残るくらいに、長いこと遠くを見ていたためか、その目からは少し疲労の色が窺える。

「ありがと、みくるちゃん。悪いけどお言葉に甘えるわ、ほんの十分くらいでいいから、ジョニィたちを見てて」

「はい。あ、キョン君もね」

 ハルヒから受け取った双眼鏡を目元に宛がい、300m先へと視線を注ぐ朝比奈さん。
 見れば、たき火の横に、俺の分のスープも用意されている。ありがたく頂くとしよう。木製の皿を手元に引き寄せ、同じく木のスプーンで具材を掬い上げた―――その瞬間だった。

「あっ、えっ? あ、あの、涼宮さん、あれ」

 つい今さっき、ジョニィたちを見張り始めた朝比奈さんが声を上げたのだ。俺は、口に運ぼうとしていたスープの具材を皿に戻しながら、何があったのかと訊ねる。すると朝比奈さんは、

「ふ、二人が荷物をまとめて……あっ、行っちゃいます!」

227: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 08:32:02.714 ID:d3LUbuSf0.net
 ジョニィたちが動き出したって? この、これから夜も深まるであろうって時間に? 何故だ?

「分からないけど、何か見つけたみたい……わ、私たちも、行かなきゃ!」

 慌てて、双眼鏡から目を離し、キャンプグッズの片づけを始める、朝比奈さん。その手から落ちた双眼鏡を拾い上げ、俺はジョニィたちが居たはずの方角に視線を投げる。
 朝比奈さんの言った通り、そこには、先ほどまで奴らがいた形跡はあるものの、すでに二人と、馬たちの姿はなくなっていた。

「ボサッとしない!」

 不意に、ぺし。と、ハルヒに後頭部を叩かれた。振り返ると、仕事の早いもので、二人はすでに、キャンプ用品のあらかたをカバンに仕舞い終え、俺が愛車を発進させるのを待っているような状態だった。

「みくるちゃん、二人はどっちに行ったの!?」

 ハルヒの声に、朝比奈さんは、

「あ、あっち! 方角で言うと、えと、南です! ちょうど、ゲティスバーグのほうです!」

 と、舌ったらずな口調で言いつつ、サイドカーのシートに飛び乗った。俺もあわててカバンを背負い、愛車に跨る。ああ、俺の晩飯はとりあえずお預けか。恨むぜ、ジョニィ&ジャイロさんよ。

「キョン、こっからが本番! アイツらを追って、きっと大統領も動く! 私たちは正面からはぶつからないけど、状況はきちんと把握すること! 分かったら、出しなさい!」

 へいへい。という返答を、アクセル音で代用しつつ、俺は愛車を発進させた。―――さて、どうなるか、だ。





 キャンプ跡から、南へと続く、真新しい足跡を辿って走り始め、もう一時間ほどになるだろうか。すっかり夜も更け、愛車のライト無しでは、あたりや、大地の様子が分からないくらいだ。

「気球の監視が甘くなる、夜の間にコースを外れて、衣服を取りに行くつもりなのかしら……あっ、キョン。ちょっと停まって」

228: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 08:34:33.435 ID:d3LUbuSf0.net
 背後でブツブツ言っていたハルヒが、不意に俺の肩を叩き、そう声を上げた。言われるがままに、俺はブレーキをかけ、片足を大地の上に下ろす。

「どうした?」

「足跡が、三頭分になってる」

 愛車のライトが照らす大地を、目を細めて睨みながら、後部座席から降り、ジョニィたちの馬の蹄の跡が刻まれた地面へ駆け寄ってゆくハルヒ。どうやら、足跡の数が問題らしい。よく気付くな、そんなところ。
 別にどうってことはないだろ。昼の間に、誰かがジョニィたちと同じルートを、馬で走ったってだけじゃないのか?

「いや、三つとも、ついさっきって感じの足跡よ。おそらくだけど、ジョニィたちはこの足跡を付けたやつを追跡している。だから三頭の足跡が同じルートを辿ってるのよ」

 それに、と、ハルヒは一つ息をつき、

「この、ジョニィとジャイロのものじゃない足跡から、衣服の気配がプンプンするわ。多分だけど、この足跡の主は―――」

 ホット・パンツか。
 俺がその名を口にすると、ハルヒは深く頷いて見せた。奴は現在、衣服を、少なくとも三つは持っている。ミシシッピーで、ジョニィたちから奪ったというヤツだ。 
 更に、俺たちが最後に出会った時、ホット・パンツは、大統領の衣服を奪いに行くと言っていたが、結局どうなったのだろうか。こうして、奴さんが付けた足跡が残っている以上、大統領の返り討ちに会って帰らぬ人に、という事はなかったようだが。

「ホット・パンツは、お前の言うところの『衣服のありかを示す衣服』を持ってるのかもな」

「あり得るわね。もしアイツが、本当に大統領の衣服を奪ったなら、相当な数の衣服を持ってることも考えられるわ。その後、誰にも奪われてないのなら、少なく見積もっても五つは持ってていいはず」

 確か、衣服の総数は十個だと、ハルヒが前に言い洩らしていたっけな。靴下だの靴だのは、二つで一つと数えた場合の話らしい。さらに加えると、この個数は、ハルヒという存在自体をも、一つと数えた上での数だとか。

229: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 08:36:02.761 ID:d3LUbuSf0.net
「多分だけど、まだ見つかっていない最後の衣服は、私の『カチューシャ』だと思うわ。このところ、衣服の内訳が、はっきり感じられるようになったのよ。マキナックにあったのが私の『下着』だったと思う」

 女子高生の下着を血眼で奪い合うとは、この世界の連中も、相当頭をやられてんな。
 難しい顔をしたハルヒが、後部座席に戻ったのを確認し、俺は引き続き、ジョニィとジャイロ、そしてホット・パンツのモノと思われる、三つの足跡を追跡し始めた。
 
 
 
 
 
 そうやって、更に一時間ほどの時間が経過しただろうか。俺たちは、ゲティスバーグの市街地へとやって来ていた。大地は、土から、石畳になり替わっていて、ここから先は、足跡から奴らを追跡することはできない。

「おいハルヒ、どうする」

 俺が肩越しに、次なる指示を仰ぐと、ハルヒは、

「大丈夫、衣服の位置は感じてるわ。私の言う通りに進んで頂戴」

 と、俺を見ず、周囲の街並みを見回しながら言った。そして、数秒ほど、そうして周囲を探った後、一方向を指で示して見せる。

「あっちから感じる」

 随分アバウトな指示だが、指示待ち人間である俺は、それを鵜飲みにして進むほかない。夜なこともあってか、人影のない市街地を、愛車のタイヤを転がして進んでゆく。数度、ハルヒから方向転換の指示を受けた後―――

「ここだわ、この建物の中。見て、塀のところに、ジョニィとジャイロの馬がいる。あっちには、ホット・パンツの馬も!」

 古めかしい建物が並ぶ中、一軒の館を指で示すハルヒ。
 俺の眼には、どれが誰の馬なのかはさっぱり見分けがつかないのが本音なのだが、とにかくハルヒの言う通り、その建物の入り口周辺に、俺たちが追っていた連中のものらしき馬が停まっていた。

「ありゃ、ゴミ捨て場か何かだと思うが……こんなところに衣服が? どうする、入ってみるか?」

 と、口では言っておきながら、俺は相当ビビっている。もしハルヒから、突入の指示があっても、とりあえず抗うつもりでいた。
 何しろ、あのホット・パンツや、何かしらの能力を持っているであろう、ジョニィ&ジャイロだとかが溜まってるんだぜ? その上、大統領の刺客まで居るかもしれないんだ。
 下手に侵入なんかしたら、どんな目にあわされるか、想像もつかない。ハルヒには、俺がそういう状況を避けたいと思っている旨は伝えてあるはずなんだが―――

231: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 08:38:01.767 ID:d3LUbuSf0.net
「……入りはしないけど、近づいて様子は見る。感じるのよ、あそこにある衣服に、『何かが起こっ』てる」

 何かって、誰かに取られたって事か?

「そうじゃない―――と、思う。でも、そうじゃない『何か』よ」

 ハルヒの言葉は、漠然としすぎていて、いまいち飲み込みにくいが、ここまで来て、何もせずに引き返すわけにもいかない。俺は愛車を、交差点の角に停め、同乗者二名とともに、そのゴミ捨て場に近づいて行った。恐る恐る、な。
 近づくにつれて、その建物の内部から、物音やら、誰かの声やらが、漏れていることに気づいた。中に、人がいる気配がする―――それも、一人や二人じゃない。

「なあ、この中にいるのは、ジョニィとジャイロにホッパンだけじゃないのか? 何か知らんが、相当いるぞ」

 俺が、小声でハルヒにそう問いかけると、

「大統領側の人間が送り込まれるっていう予想は、やっぱり当たったみたいね。多分、中で争ってるんだわ」

 やがて、俺たちは、建物の外壁に触れるくらいの地点にたどり着いた。屋内からは、何やら奇妙な音が相次いで聴こえてくる。
 それは、銃声のようにも聴こえ、俺は身震いをしたのだが、映画やドラマで聴いたことのある銃声よりは、いくらか音が軽い気がした。なんつーか、おもちゃっぽい?
 建物の入り口は、開けっ放しにされていて、物音はそこから聴こえてきているようだ。俺は無言で、朝比奈さんとハルヒに、少し離れているよう合図を送った。額に汗がにじむのを感じながら、入口へと歩みを進めてゆく―――

「待ったッ!」

 と、俺がその館の内部を覗き込もうとした瞬間、ハルヒが俺のマントを引っ張った。

「中から、誰か出て来る―――そいつが、『衣服』を持ってる!」

 その言葉に、慌てて、入口から距離を取り、建物の影まで退避する俺たち。二秒ほど息を飲んだ後、石の壁に身を潜ませたまま、入口の方を見ると―――ハルヒの言った通り、誰かが入口から出て来た。何かを抱えているようだ。

「私の衣服―――それも、ほとんど『揃っ』てるわ!」

232: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 08:40:01.574 ID:d3LUbuSf0.net
 俺たちの居る場所からでは、視覚的に、それがハルヒの衣服であることを確かめることはできない。が、衣服のありかや、引き合う力を感じ取れるというハルヒが断言するのだから、きっとそうなのだろう。
 今にも飛び出しそうなハルヒを手で制し、俺は状況を見る。少なくとも、衣服を抱えたその人物は、ジョニィやジャイロ、ホット・パンツらの誰かではないようだった。まあ、俺はジョニィとジャイロの詳しい風貌は知らないのだが。
 そして、その手の中に、ハルヒ曰くほとんど揃った衣服―――

「―――今しかない! キョン、アレを奪うわよ!」

「待てって! あいつが、この館の中での戦いで、衣服を手に入れて、出てきたって状況だろ!? どんな能力持ちかもわからないんだ、簡単に奪えねえっての!」

「でも―――でも!」

 ハルヒは歯がゆそうだが―――どうにもならない状況だと、俺は思う。そもそも、大した攻撃能力も持たない俺たちが、衣服の奪い合いに飛び入り参加しようってのが間違っていたのかもしれない。
 おそらく、大統領の差し金なのであろう、その人影は、やがて、館から離れてゆく―――その、寸前に。
 どう説明したらいいんだろうな、これは。破壊音だとか、物音は、ほとんどしなかったのだが―――簡潔に言うと、誰かの腕が、建物の壁から生えてきた。そして、謎の人物の手の中の衣服を、ガシッと音が出そうな勢いで、掴んだのだ。

「あ、あれ……」

「な、何?」

 ハルヒと朝比奈さんが、小さく声を上げる。瞬間的に、俺はホット・パンツの、例の能力だと思ったのだが―――しかし、突如壁から生えてきた腕の、その手の中に、肉スプレーは握られていない。
 何も持っていないその腕は、謎の人物と、衣服の引っ張り合いを繰り広げている―――これは、チャンスかもしれない。及び腰な俺でもそんな気がした。漁夫の利を狙うなら、今だ。

「ハルヒ、朝比奈さん、ここにいてくれ」

 呟くほどの音量で、二人にそう告げ、態勢を整える。二人は、何らかの反応を俺に返してきたようだが―――それが俺の耳に届くよりも早く、俺は建物の影から飛び出し、衣服を奪い合う二人(?)に向かって駆け出していた。

「オラァ―――ッ! その手を放しやがれェ―――!」

 恐怖を握りつぶすように、叫ぶ。壁から突き出た腕と、衣服を引っ張り合っていた男は、俺のその声に気づき、一瞬だけ視線をこちらへと投げてよこしたが、すぐに壁へと向き直り、ナイフらしき得物で、壁の腕と格闘をし始めた。ちくしょう、こうなりゃ力業だ。

233: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 08:42:28.605 ID:d3LUbuSf0.net
「こッの―――野郎ォ!」

 人を殴る手法なんて、習ったことも、習いたいと思ったこともない。俺は何も考えず、握りしめた右腕を振りかぶり、謎の人物に殴りかかろうとした。

「キョン!」

 背後で、ハルヒの声がするのも構わず、右の拳を振り下ろすことだけを考えて―――ついに、俺の一撃が、そいつの顔面を捉えようとした―――その、直前の事だった。

 ガァァ―――ン

 不意に、刺々しい、耳朶に響く音が、あたりの空間を揺らした。今にして思えば、それは紛れもなく、『銃声』だったんだな。

「がふっ! あ……ぐふ……ああっ……ウソ……何だと……」

 その音が響き渡ったのと、時を同じくして。俺が殴り倒そうとしていた、見慣れない面をした男が、呻きながら、入り口のドアを巻き込み、大地に倒れ込んだのだ。
 それに伴って、俺はその人影にちょうど隠れる形で、入口を挟んだ反対側の壁際に、誰かが立っていることに気が付く。

「あああ……あなたは……! あなたは! そんな……何で……」

 館の出入り口の敷居の上に倒れ込んだ男が、そこにいたもう一人の人物を見上げ、さらに呻く―――滑り気を帯び、泡の立った声で。

「よくやった……アクセル」

 夜の闇の中に浮かび上がってきた新たな人影は、どうやら肩ほどまでの長髪の男のようだった。その、低く、ドスの利いた声が、俺の耳を打つ。男の左手に握られているのは―――拳銃。

「君はまだ死なない……少し急所をはずして撃ったからな」

「だっ―――誰だッ!?」

 念仏のような男の声に混じって、聴いたことのない、少しトーンの高い男の声がした。建物の中からだ。
 長髪の男は、まるで、人間ではない―――はるかに位の下の生物を見るような素振りで、館の中を一度覗いた後、大地に倒れた、衣服を引っ張っていた男の腕の中から、『衣服』一式を、拾い上げた。

「何だと……ここに……この場所に!? お前はッ!」

234: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 08:44:01.578 ID:d3LUbuSf0.net
 あとから聴こえて来た方の男の声が、ふたたび、出入り口からこぼれて聴こえてくる。そこでようやく。気が遠くなるほどの回り道の思考の果てに、俺は現状を理解した。
 こいつは、この長髪の男は、衣服を持っていこうとしている。まさか―――こいつこそが―――『大統領』なのか。
 俺がその思考にたどり着いた時。ふと。それまでは、俺の存在など、気にもしていなかった長髪の男―――大統領が、俺に視線を投げつけた。
 そして―――

 ガァァ―――ン

 突然の展開に、直前まで行おうとしていた行動さえ忘れ、竦みあがっていた俺の体―――その右脚、腿の部分に、強烈な痛みが走った。

「な―――ッ!」

 さすがの俺でも、今何が起きたのか、くらいは、瞬時に察することができた。大統領が、左手の中の銃で、俺の脚を撃ち抜いたのだ。

「ぐあ……いっ―――テェェェ!!」

 痛さと、熱さ。二つの感覚が、俺の身体中を駆け巡っているかのような気分だった。これが―――銃というものなのか。何かを考えようとしても、右脚から身体中に広がった、痺れのようなものが、それさえも許してくれない。

「キョンくんッ!」

 背後で、朝比奈さんが、俺の名を呼ぶ声がした。その声が耳に届いたか、届かなかったかぐらいで、俺はその場に崩れ落ちてしまう―――立っていることなんて、出来るかよ。

「わたしは斧で襲いかかるそこの『アクセル』から、君を助けた―――」

 大統領が、何かを誰かに言っているようだが、その意味は全く理解できない。そこでようやく、俺は右脚の、痛みを覚えている箇所に視線を移した。当たり前だが、穴が開いていて、そこから俺の血液が流れ、ズボンの生地を湿らせている―――

「う……あ……」

 俺は、その光景を見ながら、大量の血を見て、失神するヤツがいるって話を、大昔に、そんな訳ないだろうと思って聴いたことを思い出していた。誰から聴いたんだか覚えてないが―――謝るよ。本当にそういうもんなんだな。
 俺が覚えてるのは、そのあたりまでだ。
 
 
 
 
 

235: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 08:46:01.918 ID:d3LUbuSf0.net
 目を覚ますと、いつだか見たような……そう、この世界にやってきた初日、アリゾナ砂漠で見たのと似たような―――陳腐な言い回しだが、今にも降って来そうな星空が、目の前に広がっていた。
 あの時と違うのは、俺が寝かされている大地が、アリゾナの砂塵ではなく、ゴツゴツとした石畳の上だったことと、すぐ傍らに、不安げな表情で俺を見下ろす、二人の人物の姿があったことくらいだろうか。

「キョン……大丈夫?」

 泣き出しそうな顔と、震えた声で、そう問いかけて来たのは、ハルヒで、

「キョン君、ごめんね、ごめんね」

 すでに、夜空のような瞳から、流星群のような涙をポロポロとこぼしているのは、朝比奈さん。
 俺はどうなったんだっけ―――そうだ、確か、あの名も知らない男から、衣服を奪い取ろうとして―――突如現れた、大統領らしき男に、右脚を撃たれたんだった。そして、気を失ってしまった。
 空を見る限り、夜はまだ続いているらしく、俺が意識を失っていたのは、そう長い間ではなかったようだが……

「動かない方がいいわ―――まだ肉が落ち着いてないから」

 体を起こそうかとした時、不意に、どこかで聴いたような―――それでいて、初めて聴いたような―――誰かの声がした。視線を、声のした方向にずらすと、館の壁に背を預けて、こちらを見ている、見知らぬ女性の姿がある。

「あんたは……?」

「ホット・パンツよ」

 俺が、その人物に投げた問いかけを、ハルヒが横からキャッチし、投げ返してくる。ホット・パンツ? だって、俺の目の前にいるのは、修道服に身を包んだ女で―――
 しかし直後、その女性の手の中に、あの肉スプレーが握られていることに気づき、俺は状況を把握した。ホット・パンツ―――あの、不愛想な馬乗りの正体が、修道女だったってのかよ。
 と、その事実はその事実で驚愕すべきことなんだが、俺はそれより優先すべき事象があることを、修道服ってワードで思い出した。

「衣服は……どうなった?」

「全部、持っていかれたわ。大統領にね」

 誰にともなく訊ねかけると、今度もやはりハルヒが答えてくれた。あの長髪の男は、やっぱり大統領だったのか―――まさか、大統領が直々に衣服を奪いに出てくるとは思っていなかった。

237: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 08:48:01.783 ID:d3LUbuSf0.net
「わたしの持っていた衣服も、ジョニィたちの持っていた衣服も、すべて持っていかれた。大統領がまだ手にしていないのは、Dioの持つ『左靴』と―――そこの涼宮ハルヒだけよ」
 普段とは違う口調で、何かを諦めたかのような表情で、ホット・パンツがそう言った。そうだ、ハルヒ―――ハルヒは、何もされなかったのか?
 ジョニィはともかく、大統領は俺たちが衣服を持っていると思っているはずなんだろ? だったら、その場にいた俺たちからも衣服を奪おうとして、結果、ハルヒの持つ力に気づかれてしまってもおかしくない。
 すると、ホット・パンツが、

「わたしが誤魔化したわ。咄嗟に、肉スプレーで『口』を、涼宮ハルヒのところまで移動させて、大統領とジョニィたちが去るまで身を隠しているように伝えたの」

 口を移動。そんなこともできるのか、コイツの能力は。

「わたしはもう駄目よ……すべてをさし出してしまった。大統領の刺客であったアクセルに……これほど自分が弱いとは、思っていなかった」

 浮ついた視線を、空中に揺蕩わせながら、ホット・パンツは、呆然とそう口にした。俺は、そこでようやく体を起こし、上半身をホット・パンツの方へと向ける―――ちょうど、目が合う。

「お願い、涼宮ハルヒを連れて、逃げて。おそらく、大統領は涼宮ハルヒが最後の『衣服』であることをすでに知っている―――あなたたちを狙って攻撃を仕掛けてくる。そうなる前に、どこか遠くへ逃げて」

 ホット・パンツは、僅かにだが、涙を流しているようだった。その涙声が、続けて言葉を紡ぐ。

「わたしは……衣服を守ることさえもできなかったわたしには、もう、あなたたちが逃げてくれることしか、希望がない」

「……ホット・パンツ」

 目の前で泣き崩れる修道女の名を、ハルヒが呟く。ホット・パンツの事情は詳しく知らないが―――コイツにとっては、衣服を手に入れることが、本当に『すべて』だったんだな。

「……だけど、あんたは私を助けてくれたじゃない」

 不意に、嗚咽を上げるホット・パンツに、ハルヒがそう言葉をかけた。

「あんたがすべてをさし出すつもりだったなら、私に、身を隠していろだなんて教えてくれなかった。だけど、あんたは私にそれを教えてくれた……私を守ってくれた。それに、キョンの傷も治してくれたしね」

238: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 08:50:30.212 ID:d3LUbuSf0.net
 その言葉に、そういえば、先ほどから、あの全身を包む様な痛みがないことに気づく。
 撃たれたはずの傷を見てみると―――穴ぼこの空いたズボンの下に、いつだか俺を窒息寸前までもっていった、あの『肉』でできた膜が貼られていて、傷口を綺麗にふさいでいた。こんなこともできるのか、あのスプレーは。
 と、今しがたのハルヒの言葉に、ホット・パンツが、涙を帯びた瞳を、俺たちに向ける。

「ありがとう、ホット・パンツ。あなたが居なかったら、私はとっくに、大統領のものになっていたわ」

「う……うう……」

 ハルヒの言葉を受け、再び泣き崩れる、ホット・パンツ。なんだ、こうしてると―――結構美人じゃないか。それに、なんとなく可愛らしくも見えてくるもんだな。能力はグロいけどよ。

「でも、悪いけど、私たちは逃げられない。私たちが元いた場所に帰るには、どうしても衣服が必要なのよ」

 そう言いつつ、チラ。と俺を見るハルヒ。
 ―――そうなんだよな。ホット・パンツとは理由は違うかもしれないが、俺たちにとっても、衣服がすべてなんだ。
 俺がそう口にすると、ホット・パンツはわずかに顔を上げ、

「あなたは……なぜそこまで、強いの……? 体を撃たれたっていうのに……いいや、これから大統領の衣服を狙うのなら、それだけじゃ済まないかもしれない……だというのに、あなたが決してさし出さないのは、何故なの?」

 強い―――俺が? いや、ホット・パンツが俺の事を、どんな奴だと認識してるかどうかは知らないが、俺は決して強い人間なんかじゃないぜ。また銃で撃たれるのも勘弁願いたいと思っているしな。
 故に、何と言い返すべきか、迷った。しかし、ここで、俺は弱い人間だと訂正するのも格好悪いだろうし―――しばらくモゴついた後、ようやく出てきた言葉は、

「ま―――最終的に、悪いようにはならないと思ってるのさ。ハルヒがそばにいるからな」

「なっ……」

 俺の言葉に、ホット・パンツよりも早く、ハルヒが反応した。夜の闇でいまいちわからんが、またリコピンたっぷりな感じの顔色になってるんだろうか。

「そう……あなたたちは……『白』の中にいるのね。輝いて見えるほどに……『真っ白』」

239: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 08:52:02.296 ID:d3LUbuSf0.net
 涙を拭き、遠い景色を見るような目つきで、俺たち三人を見つめる、ホット・パンツ―――しばらくそうした後で、ホット・パンツは、何かを決心したかのように、表情を変えた、そして、修道服の中から何かを取り出す。

「……せめて。これを持って行って―――わたしの『肉スプレー』のひとつを、あなたたちに預ける」

 肉スプレー? あの? あれって、俺たち……っていうか、他人も取り扱えるものなのか? 頭の中に『?』を並べる俺を他所に、ひょい。と、投げて渡されたそれを、ハルヒが右手で受け止める。

「重ね重ねありがとう、ホット・パンツ。私たちは大丈夫―――根拠とかはないけどね」

 そう言って、俺と朝比奈さんに向き直るハルヒ。すこし厳しい表情で、俺たち二人の顔を順番に見た後、

「フィラデルフィアに行きましょう。Dioとジョニィたち、大統領は、きっとそこでぶつかるはず。それに、大統領のところに行った、有希の事も気になるわ」

 長門。そうだ―――あいつは大統領の近辺を探り、可能なら衣服を奪うとも言っていた。
 大統領は現在、セブンスステージのゴールであるフィラデルフィアに滞在してるんだろう。とすると、長門もフィラデルフィアに行った可能性が高い。

240: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 08:52:34.169 ID:d3LUbuSf0.net
「ただし、Dioはおそらくもう復活してる。フィラデルフィアで鉢合わせる危険はぬぐい切れないけど……でも、もう間誤付くのはやめよ。私たちからも、攻めていく」

 ちょっとばかりだが、戦力も強化されたしな。ハルヒの手の中の肉スプレーに視線をやりつつ、俺がそう言うと、

「これはあんたが持っていて」

 少し考える様に視線を泳がせた後、ハルヒはそれを俺に向かって突き出してきた。俺でいいのか? ハルヒが護身用に持っておくのが妥当だと思うが。

「いいから、あんたが持ってなさい。いざという時は、あんたが私のために戦うんだから」

 そうかい。そこまで言うなら、受け取っておくよ。
 この肉スプレーを近くでまじまじと見たのは初めてだ。思ったより軽い。無骨で、カッコいいポイントも何一つないのが、なんとなくホット・パンツの能力らしいって気がした。

「あんたが撃たれたのを見てたら、急に有希が心配になってきた。急ぎましょう」

 と、ハルヒが俺を急かすのだが―――とりあえず、なんだけどな。

「ハルヒ、もう遅い、出発は明日にしよう―――俺、腹減ったよ」

 今が何時なんだか知らんが、朝比奈さんのトウモロコシスープ、食いそびれたしさ。
 
 
 
 
 To be continued↓

260: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 18:24:02.069 ID:d3LUbuSf0.net
 僧侶は肉を食わないっていうが、シスターってのは、肉を食ってもいいんだったっけか?
 大統領が、あらかたの衣服を浚って行った、あの日の夜。俺たちは、ホット・パンツの持っていた食料で腹ごしらえを済ませ、一夜をゲティスバーグの街角で過ごした後、フィラデルフィアを目指して旅立った。
 しかし、ホット・パンツはスゴイ。いつだか、奴はいいやつなんかじゃないと言い切った覚えがあるが、訂正しよう、ホット・パンツはとてつもなくいいやつだ。
 スティール・ボール・ランレースやら、衣服の奪い合いやらに参加しながら、これだけ手が込んでいて、ウマい料理を作れる。まず、善人か悪人か以前に、その根性がスゴイと俺は思う。ローストビーフの塊を携えて旅をしている奴なんていないだろ、普通。

「わたしはもう、大統領に挑むことはできない……心が折れた。けれど、あなたたちがこの先へ進むというなら―――わたしにできる事があれば、言ってほしい。それが、わたしがあなたたちに表する、『敬意』というもの」

 ホット・パンツの持っていたローストビーフと、朝比奈さんが所持していた乾パンで、簡単でありながら豪華な食事を済ませた俺は、右腿に僅かに癒えきらない痛みを感じながら、それでも一晩寝倒した。
 就寝したのが午前一時ごろで、目覚めたのは、もう朝日の上り切った、午前七時。普段ならもう二時間は早く、ハルヒにたたき起こされるのだが、さすがに右腿を撃たれた俺を気遣ってくれたのか、この日は無理やりに朝日を拝まされはしなかった。
 もうしばし、ゲティスバーグに残ると言うホット・パンツに別れを告げ、俺たちは、一度逸れたレースのコースへと戻るため、愛車に乗り込み、北上し始めたのだ。
 目指すのは、セブンスステージのゴール地点である、フィラデルフィア。現時点で、おそらく大統領がいて、間もなく、Dioやジョニィたちがたどり着く。そんな、一種の修羅場のような場所に、俺たちはノコノコと出て行こうとしていた。

261: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 18:26:27.957 ID:d3LUbuSf0.net
「ケータイがないって、不便ね……どうしたら、有希と会えるかしら」

 そう、昨晩も言っていたが、前述した連中の他に、フィラデルフィアには、長門もいると思われる。俺たちが危険を冒してまで、わざわざフィラデルフィアに出向くのは、長門と落ち合うためという目的もあった。

「有希と落ち合うことは、打倒大統領としては、とても重要よ。私たち三人の能力だけじゃ、大統領を倒すどころか、近づくことだって難しいもの」

 ま、確かにな。長門の能力の詳細は知らないが、長門自身が、大統領へ接近する事も可能だと自称していたくらいだ。おそらく、半端じゃない能力なのだろうと思う。
 戦力面を強化する、という意味で、長門と合流するのは、俺たちにとって大事な目標だ。……今、ハルヒが言ったことだけど。

「気になるのが―――大統領が、自分の能力を、一切見せなかったことね。あの場にいたジョニィたちや、私たちに、自分の能力を察知されないためだったんでしょうけど」

 後部座席で、両腕を組みながら、ハルヒがそんなことを言った。危ないから、俺の体に捕まっとけと言っているのに。

「でも、逆に考えたら。大統領の能力にも、弱点はあるのよ。きっと、致命的な弱点が。それを見つけ出せたら―――」

「俺たちにも、目はあるってか」

 ハルヒはおそらく、闘争心のこもった瞳で、後部座席にいるのだろう。視覚的には見えないが、気配でわかる。こういう時―――ハルヒは、あの目をするんだ。どこまでも『本気』な目をな。





「……見つけた」

 長門有希が、この建物に侵入してから、すでに一時間ほどの時間が経過していた。
 その場所に至るまでに、長門が攻撃し、無力化させた人数は、十五人にも上る。そこにいる、たった一人の命を守るためだけに、それほどの命が費やされていたのだ。
 もっとも、長門は、その十五人たちから、命を奪ったわけではない。手際だけを考えれば、そうするのが適切だったのだが―――涼宮ハルヒと、『約束』をした故にだ。
 だから、長門はここまで、たとえ野ネズミ一匹からも、命を奪いはしなかった。ただ、無力化させてきただけだ。

262: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 18:28:02.671 ID:d3LUbuSf0.net
「……君か。さっきから、わたしの周りの連中を騒がせているのは」

 長門の視線の先に居る、その男は―――奏でられた弦楽器のような声色で、そう呟いた。その発言の内容に、間違いはない。長門は、その男を探していた―――そしておそらく、その男も、長門を探していた。

「あなたが『ファニー・ヴァレンタイン』」

 と、確かめる様に、長門が呟くと、

「いかにも、わたしはこの合衆国大統領、ファニー・ヴァレンタインだ。失礼でなければ、君の名前もお教え願いたい……それが『公平』というものだ」

 と、やはり、静かで、慎ましやかな声で、そう返してきた。

「……長門有希」

 他人が聴けば、正直すぎると笑うであろう程正直に、長門はヴァレンタインの質問に答えた。やはり、呟くほどの音量で。その名を聴いたヴァレンタインは、フン。と、笑い飛ばすように、一つ息をつくと、

「良い名前じゃないか。日本人か? そのミス長門が、私にどんな要件があって、こんなところまで―――わざわざやってきたのかね?」

「衣服を奪いに」

 間髪を入れず、長門がそう返すと、ヴァレンタインは少しだけ、驚く様に目を見開いた後、

「話が早いな。わたしと会話するのはつまらないか?」

「割と」

「フンッ」

264: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 18:30:02.882 ID:d3LUbuSf0.net
 再び、鼻で一つ息をつくヴァレンタインに向かって、長門は―――ゆっくりと、確かめる様に、一歩だけ、歩みを進めた。
 そして、

「抵抗は無駄」

「なかなかオモシロいな」

 静謐な空間に、長門とヴァレンタインが発した言葉の、余韻だけが揺蕩っていた。―――決して、動かない。物音ひとつ立てない。長門も、ヴァレンタインも。

「あなたを、処理させてもらう」

 長い沈黙の果てに。長門がそう呟いたのが、切っ掛けだった。その瞬間、長門とヴァレンタインは、同時に、自身の体から『力』を溢れ出させた。

「『アイ・ワズ・スノー』」

 長門は、自身の右腕を、ヴァレンタインに向けて突き出し、その名を―――自身の『能力』の名を呼んだ。それと時を同じくして、ヴァレンタインの体から、人間によく似た形をした『能力』が、姿を現す。

「『D4C(いともたやすく行われるえげつない行為)』」

 湿り気のある声で、呟くように、その名を呼ぶヴァレンタイン。その体から飛び出した、人型の、青白き能力の『ヴィジョン』が、長門との距離を詰めてきた。速い―――長門は、攻撃に専念させた意識の端で、そう考える。

「処理、開始」

 人が持つべき身体能力を、遥かに超えた動きで、迫りくるそのヴィジョンに向け、長門はそう呟き、右手を握りしめた。程なくして、ヴァレンタインの『D4C』の、左の拳が、長門の右腕に触れる。
 ―――直後、氷が砕け散るような音とともに、長門の右腕の肘から先が、形を失った。
 砕かれた長門の右腕に、一瞬だけ視線を移しつつ、続けて、ヴァレンタインの『D4C』が、腰を落とし、右脚を繰り出す。脚払いにも近いローキックが、長門の下半身を、『破片』へと変える―――

「このわたしに、むざむざ肉体を壊されるのが、君の能力かね?」

「間違いではない」

267: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 18:34:17.375 ID:d3LUbuSf0.net
 振り抜いた右脚を引き戻す、その一瞬の合間に、ヴァレンタインが叩いた軽口に対し、長門は短く、そう呟き返した。
 直後、

「何ッ?」

 ヴァレンタインの表情が、僅かに強張った―――『D4C』の右脚に、『砕け散った長門の破片が食い込んだ』からだ。
 ムッ。と、短く唸り声をあげながら、自身の能力のヴィジョンを、傍らまで引き戻すヴァレンタイン。
 そのヴィジョンの右脚に、無数の細かい傷が走っている。それに伴い、ヴァレンタインの、質のいい生地で作られたズボンに、血の染みが滲んできた。

「私の身体を破壊すれば破壊するほど、あなたの体が蝕まれてゆく」

 ヴァレンタインが回避行動をとったことにより生じた、そのわずかな空白の時間を、長門が自身の発言で埋める。
 程なくして、ヴァレンタインは気づいたようだ―――長門の周囲の空間が、飛散した『長門の身体の破片』で光り輝いていることに。

「私の身体は、『がらすの破片』へと変わる。それが私の能力、『アイ・ワズ・スノー』」

 上半身のみを空中に浮遊させた姿で、長門がそう言うと、ヴァレンタインは、隠しきれないといった様子で、僅かに眉の端を吊り上げた。
 長門の攻撃の間合いに踏み入るかどうか、逡巡している―――その隙を逃さず、長門は接近した。
 予備動作なしに、『能力』によって、自らの上半身を前進させる。その接近に、0.5秒ほど遅れて、ヴァレンタインは、『D4C』の両腕を、自身の体を覆うように、目前で交差させた。
 長門の右腕―――肘から先に該当する部分は、ない。『がらすの破片』となり、周囲に飛び散っているためだ―――
 その先端の、とげとげしく輝く切り口を、全身の力を込め、『D4C』の防御の上に突き立てる。
 肉の繊維が絶たれる、ざくり。という、滑り気を帯びた音が響き渡り、長門の右腕の先端が、『D4C』の腕へと食らいついた。

269: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 18:36:33.714 ID:d3LUbuSf0.net
「ヌゥッ」

 再び、唸り声を上げるヴァレンタイン。先ほど脚に生じた血の染みが、ほどなくして腕にも生じるだろう。能力のヴィジョンと本体は、ダメージを共有する。それが、ヴァレンタインのようなタイプの能力のルールだからだ。
 やがて、『D4C』の腕に突き刺さった、長門の体を振りほどく様にして、ヴァレンタインが飛びのいた。長門とヴァレンタインの間に、再び10mほどの距離が生じる。

「なるほど―――この『フィラデルフィア独立宣言庁舎』の警備をかいくぐり、わたしのところまでたどり着いただけの力はあるようだな。私の『身辺警護』の職にでも就く気はないかね?」

 わずかに痛みにかすれた声で、ヴァレンタインが言葉を紡ぐ。その発言に対する返答の代わりに、長門は、

「もう一度言う。抵抗は、無駄」

「フンッ」

 右腕の欠損した、上半身のみの姿となった長門を見つめながら、鼻を鳴らすヴァレンタイン。長門は、

「『約束』をしている。衣服をさし出せば、私は攻撃を中止する。拒否すると言うのなら―――」

 そう言葉を紡ぎながら、空中に浮かぶ、自身の体の破片を操作し―――ヴァレンタインと自身の間に、絨毯の敷かれた大地と水平な、『刃』を作り出した。

「この、透明な『がらすのギロチン』が、あなたの首を落とす」

 しばし、ヴァレンタインは考える様に、沈黙した。時間にして、ほんの二秒ほど―――『D4C』のヴィジョンを消さないまま、その場に立ち尽くした後、やがて、唇の端を歪めながら、口を開く。

「ミス長門。なかなか目の付け所がいい。このわたしに接近するのを許さないという戦術はけっこう有効だぞ。わたしの『D4C』の射程はあまり長いとは言えないからな」

 と、一つ息をつき、

「だがしかしある意味マヌケだなッ。この距離で攻撃を仕掛けてこないということは、君の能力にも射程があるということを自白しているようなものだ―――もっとも、『射程のない能力』など、この世界には存在しないがな」

270: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 18:38:02.753 ID:d3LUbuSf0.net
 言葉を紡ぎながら、ヴァレンタインは―――左手で、腰に携えた、能力とは別の『武器』を取り出した。
 その武器の名は―――『拳銃』。

「君の作る『がらすの破片』は、今のわたしと君の間の距離ほど、遠くまでは飛ばせない……精々射程は5mくらいか? このわたしを追い詰めるには狭すぎる射程だな」

 左手の中の拳銃を、長門に向け、

「ならばわたしは、君の攻撃の届かない位置から、君を追い詰めるまでだ―――『能力』ばかりが戦術ではない」

 ドォ。と、銃声が、庁舎内に響き渡るのとほぼ同時に、長門の顔面の右半分が砕け散った。長門は考える。たった今受けた攻撃―――拳銃による攻撃を、予備動作から予測し、回避することが可能かどうかを。
 しかし、その計算が終わるよりも早く、ヴァレンタインはもう一度、手の中の銃に火を吹かせた。咄嗟に、長門は左腕を、前方に突き出す―――その手のひらの中心に、弾丸は命中した。
 長門の左腕の、肩から先が砕け、中空に飛び散る―――周囲に光を反射させながら。この攻撃は、まずい―――『がらす』に変えられるのは、全身の90%程度までだ。ギロチンを分解し、肉体として『再構成』しなければ―――

「よし、見えた―――やはり『5m』!」

 長門の思考を遮るように、短く、ヴァレンタインがそう言った。左腕を砕かれた直後であり、右腕も『ギロチン』の構成に使っている長門は、今、防御態勢を取る事が難しい。

「光の反射で『がらすのギロチン』の位置は分かったぞ―――そしてこのわたしが君に接近し、全身をくまなく叩き潰すまで、もう五秒もかからんッ! 貴様が全身を細かく砕かれても生きていられるのかどうかを試してやるぞッ!」

272: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 18:40:01.445 ID:d3LUbuSf0.net
 ドシュ。と、音を立て、ヴァレンタインが地を蹴り飛ばした。長門のギロチンの直前まで接近した後、『D4C』が放たれる―――空中に浮かべたギロチンと床の間を、体勢を低くしながら駆け寄ってくる、白いヴィジョン。
 長門は、『再構成』を急ぐと同時に、接近してくる『D4C』に向け、周囲の空間に散らばった、自らの体の破片を飛ばした―――しかし、その破片たちは、『D4C』の体表を軽く傷つける程度で、決定打には至らない。
 やがて、グシャァ。と、音を立てながら、『D4C』の右の拳が、長門の左胸に叩き付けられた。長門の身体が、音を立てながら弾け飛ぶ―――能力の『限界』は、目前まで近づいてきている。これ以上は『がらす』に変えられない。

「大統領閣下ッ! ご無事ですかッ!?」

 不意に。それまで、長門とヴァレンタインの二人のみが存在していた、その空間に、数名の男たちがなだれ込んできた。長門の侵入に駆け付けた、警備の者たちだ。彼らは一人残らず、銃で武装しているはずだ。
 現れた、四名の闖入者たちは、目の前の光景に息を飲んだ後、慌てて、ヴァレンタインの背後に並び、手の中の銃の砲口を長門に向け、射撃の体勢を整えた。
 頭部のみとなった長門の姿を、三つの砲口が見つめている。そこから弾丸が発射され、長門の頭部に炸裂するまで、あと何秒かかるだろうか。
 いや、それよりも早く、ヴァレンタインの『D4C』の腕が、長門の顔面を砕くか―――どちらにせよ、再構成は間に合わないだろう。

「貴様の負けだッ! くらえ―――『D4C』ッ!」

 ヴァレンタインが叫ぶ―――勝者のみが上げることの許される雄叫び。しかし、『D4C』の左の拳が、中空に残った、長門の頭部を粉砕しようとし、同時に、長門へ向けられた砲口が、一斉に火を噴こうとした、その刹那。

「させませんよ―――なにしろ、これだけ近いのですからね。外しようがありません」

274: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 18:42:15.571 ID:d3LUbuSf0.net
 長門にとって、その声は、とても懐かしい声だった。とは言え、長門の体感時間としては、その声の持ち主と離れていたのは、ほんの十数日の事だったのだが―――

「何ッ!?」

 長門は、その瞬間を見ていた。空中に残った、片方だけの瞳で。
 声が発せられた方向へ振り向こうとした、ヴァレンタインの背に、血のように赤い色をした『光』が迸ったのだ。

「グハッ!?」

 直後、ヴァレンタインの体が、長門の方向へと吹き飛ぶ。咄嗟に、長門は、空中に浮かべたギロチンを引き戻し、ヴァレンタインの体が、ギロチンの切り口に叩き付けられるのを防ごうとした―――が、僅かに間に合わず、

「ガッ……ぐ……」

 ザグ。と、粘ついた音を立てながら、ヴァレンタインの首に、がらすのギロチンの切り口が、深く食い込んだ。
 ヴァレンタインが、僅かに声を上げながら、ガクゥッと、絨毯の上に崩れ落ちる。即死とは言えないが、致命傷であることに間違いはない。
 砲口を長門に向けていた警備員たちは、一体何が起きたのか、理解できないと言った様子で、

「だ、大統りょ―――」

 呆気に取られながらも、吹き飛ばされ、首を切り裂かれたヴァレンタインを、視線で追い、声を上げようとした。しかし、その声を、さらに鳴り響いた、破裂音にも似た爆発音が遮った。

「ゲベッ!」

 その声を上げようとした、警備員のうちの一人が、四人の群衆のなかから、何かに弾き飛ばされるように飛び出し、ヴァレンタインの身体に重なるようにして、床に倒れ込んだのだ。周囲に、先ほどと同じ、赤い光が飛び散る。

275: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 18:44:01.920 ID:d3LUbuSf0.net
 その瞬間、長門は気づいた。その赤い光は、目の前の、警備の男たちの中の一人が放っているのだという事に。―――見慣れない、警備員の制服を着込んではいるものの、その男の顔は、一度見ればそう忘れはしない。

「な、何だ―――グエッ!」「ゲハッ!」

 警備の男たちが、次々に、声を上げながら、前方へと吹き飛ばされ、倒されてゆく―――やがて、残ったのは一人。
 その人物が、帽子を脱ぎながら、数十メートル離れた位置に浮遊する、長門の頭部に視線を投げ、その片眼を閉じて見せた。

「どうやら間に合ったようですね。お久しぶりです、長門さん」

 口元に微笑みを浮かべながら、古泉一樹は、手の中に浮かべていた、赤い光の玉を、ひょい。と、一度、手の中でバウンドさせた後、霧散させた。長門は少し―――数秒ほど、現れた古泉に投げかけるべき言葉を模索した後、

「『約束』を守れなかった」

 と、片方だけの瞳で、床に倒れ伏したたヴァレンタインの姿を見つめながら、短く呟いた。すると、古泉は少しだけ、目を見開いた後、

「約束? ……なるほど、涼宮さんと会われたのですね?」

「そう」

 がらすのギロチンを分解し、その他の破片と共に、肉体として再構成しながら、長門は古泉の言葉に、短く声を返した。

「ファニー・ヴァレンタインを生かしたまま、衣服を奪う。涼宮ハルヒとそう約束した。あなたは何故ここに?」

 人の姿へと戻った長門が、そう訊ねかけると、古泉は、長門に歩み寄りながら、

「話すと長くなります。今はとりあえず―――この庁舎から脱出することを優先しましょう」

 と、低い声で囁いた後に、ヴァレンタインたちの倒れている床へと視線を移した。
 そして、

「なにしろ―――長門さんの言う『約束』は、まだ、破られていないのですからね」

277: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 18:46:03.339 ID:d3LUbuSf0.net
 古泉の発言に、長門は再び、床に倒れた男たちへ視線を向け―――直後に、気づいた。その場所から、ヴァレンタインの姿が消えていることに。

「逃げますよ、長門さん―――衣服を奪うのは、またの機会としましょう」

 そう言って、古泉が、長門の手を取り、廊下の端に向かって駆け出す―――その直前、長門は視界の端に捉えていた。警備の男たちの身体と、絨毯の敷かれた床との間から、ヴァレンタインが這い出てくる光景を。

「…………あれは、異次元同位体?」

 斜め前を駆ける古泉に、長門が、たった今眼にした光景から推測した考えを、言葉にして投げかけると、

「ええ、あれが、ヴァレンタイン大統領の能力です。今、すべてを話すには、少しばかり時間が足りませんが」

 ドアを蹴破るようにして開き、階段を数段飛ばしで駆け下りてゆく。この階段を下り切り、20mほどの廊下を駆け抜ければ、エントランスに行きつく。

「それより、長門さん。僕らがこの世界へ来てしまったのは―――」

 と―――そこまで話したところで、突然、古泉が立ち止まった。視線を階下の踊り場へと向け、数秒間硬直した後、たった今駆け下りてきた階段を、逆に駆け上ろうとし始める。
 その理由を、程なくして、長門も理解した。階下からこちらへと上ってくる、足音が聴こえたのだ。

「『D4C(いともたやすく行われるえげつない行為)』―――」

 ゆっくりと、踊り場に現れた、その足音の主―――ヴァレンタインは、傍らに自らの能力のヴィジョンを携えていて―――その左手の中で、拳銃が、黒く光り輝いていた。
 その砲口が、長門と古泉に向けられた瞬間、長門は、古泉の体に覆いかぶさるようにして、間もなく行われるであろう砲火から、古泉を庇った。直後に、銃声。長門の背中、左肩甲骨の上に弾丸が撃ち込まれ、左上半身が砕け散る。

「長門さんッ!」

「問題ない」

 古泉の声に、そう、短く返答し、長門はヴァレンタインを振り返った。リボルバー式の拳銃を二人に向けたヴァレンタインは、右眉の端を吊り上げながら、

278: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 18:48:01.987 ID:d3LUbuSf0.net
「フン、このわたしの周りに、妙な動きをしている野ネズミが紛れ込んでいることは、気づいていたさ。レース選手の誰かだと思っていたが、それが『聖なる少女』の身内だったとはな」

 カチン、と音を立て、撃鉄を起こしながら、ヴァレンタインは言葉を紡ぐ。

「衣服がすべてわが手の中に集まった今、貴様らは用済みだ―――わが目的は『聖なる少女』のみッ!」

 銃声が、長門と古泉の耳朶を打った。右手を突き出し、その銃撃を受ける長門。長門の腕が、肩まで破壊され、その破片が、辺りの空間に光の粒のように散らばる―――その直後、長門は、

「『アイ・ワズ・スノー』」

 そう呟きながら、砕かれた自身の身体の欠片を、いくつかのパーツに分けて、空中で結合しなおし、ディナーナイフほどの大きさの、『がらすの刃』を、無数に作り出した。

「ムッ」

「『がらすのシャワー』」

 雨のように降り注ぐがらすの刃に向けて、ヴァレンタインは、『D4C』の両腕を振るった。長門が放った刃の半分ほどは、その腕に払いのけられたが、残りの半分が、『D4C』の体表をついばむように切り裂く。

「古泉一樹、距離を取って」

 上階への扉がある踊り場に、上半身を乗り上げ、うつぶせに倒れ込んでいる状態の古泉に向けて、長門は短くそう告げると、足元を蹴り飛ばし、ヴァレンタインに向かって、重力に任せての体当たりを仕掛けた。

「チッ!」

 長門の、揃えられた両膝が、『D4C』の身体に叩き込まれようとした、その直前に、『D4C』は、傷ついた右腕を薙ぎ払い、迫りくる長門の下半身を粉砕した。粉のようながらすの刃が、『D4C』とヴァレンタインの頭上に降り注ぐ。
 その欠片を、ヴァレンタインに吸引させ、肺を破壊することが、長門の最大の狙いだったのだが―――ヴァレンタインは、すでにその考えに至っていたのか、空中に残った長門の頭部を攻撃することよりも、防御に専念したようだ。

280: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 18:50:25.554 ID:d3LUbuSf0.net
 その為、一瞬。ほんの僅かな時間だけ、ヴァレンタインの視界が、闇に包まれたのだ。その僅かな時間に、長門の背後で、体勢を整え終えていた、古泉が牙を剥いた。

「くらえ―――『ミステリック・サイン』!」

 声とともに、古泉の右手が振り抜かれ、その手の中から、赤い光が迸った。古泉の能力によって作り出された、真紅の光球が、長門の欠片が舞い散る空間を抜け、『D4C』の身体へと叩き込まれる。
 迫りくる光の玉に、ヴァレンタインは、『D4C』の両腕を、眼前で交差させることで、防御行動をとった。そのガードの上に、赤い光が炸裂する。

「ぬぅッ!」

 どうやら―――古泉の『光球』の持つ威力は、ヴァレンタインが想定していたよりも、僅かに強力であるようだった。ガードを突破こそしなかったものの、ヴァレンタインと『D4C』の体が、光球の弾ける力に押され、僅かに後方へと移動する。

「長門さん、今のうちに、体を元に戻すんだ―――もう一発、行きます!」

 続けざまに、古泉は左手の中にも、先ほどと同様の光球を作り出し、それをヴァレンタインに向けて解き放った。質量をもったエネルギーの塊が、ギャルギャルと回転しながら、『D4C』の両腕に食らいつく。
 が―――

「フン―――子供の遊びだな。バカバカしくて付き合っていられんぞ」

 その攻撃を、一身で受け止めながら―――ヴァレンタインが、ほんの、囁くほどの音量で、そう口にしたのを、長門は聞き逃さなかった。

「ムンッ!」

 その直後、『D4C』が、組み合わせていた両腕を、解き放つように広げたと同時に、古泉の光球が、まるで、重さのない風船がそうされるかのように、古泉たちのいる方へと、弾き返されたのだ。
 長門、そして古泉は、咄嗟にそれを回避する。二人の背後の、上階へ続く踊り場の壁に、弾き返された光球が叩き込まれ、獣が吠えるかの如き衝撃音が、あたりに響き渡った。

「参りましたね。ほんの少し本気になっただけで、ですか」

281: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 18:52:02.359 ID:d3LUbuSf0.net
 普段通り、柔和で丁寧でありながら、どこか張り詰めた声色で、古泉が呟く。分厚いコンクリートの壁に、外界へ続く穴を穿つほどの威力を込めた攻撃を、容易くいなされたのだから、無理もない。
 長門は、欠片となり飛び散った体を引き戻し、肉体を再構成しながら、一瞬、古泉を振り返り、視線を交わした。―――仕方ない。長門はその時、そんな言葉を、言葉には出さず、胸の内のみで呟いていた。
 そして、次の瞬間、

「―――逃げますよ、長門さん」

 古泉、そして長門は、行く手を塞ぐヴァレンタインに背を向けないまま、床を蹴り、背後へと飛びのいた。向かう先は―――今しがた、古泉の能力によって生じた、壁の『穴』の中。
 二人が、その穴を潜り、外界へと飛び出す直前、二発の銃声が響いたのだが、そのどちらもが、辛うじて、長門と古泉の体を傷つけるには至らなかった。

「『約束』は無事、守られましたね、長門さん?」

 陽光が差し込む、『独立宣言庁舎前広場』の上空に、体を躍らせながら、古泉が、長門に向かってそう囁いた。しかし、長門は、

「私は、衣服を奪って帰るという『約束』もした」

 その言葉を受けた古泉は、何か言葉を返そうとして、直後、少し呆気に取られたように肩をすくめて見せた。程なくして、長門と古泉の脚が、大地を捉える。着陸を無事済ませた二人は、顔を見合わせると、

「逃げましょう。付いて来てください、僕の『仲間』のところへ行きます」

「了解した」

 捉えた大地をすぐさま蹴り、ヴァレンタインのいる庁舎と距離を取るべく疾駆した。庁舎の三階の壁から二人が飛び出してくる、その一部始終を目撃していた、数名の一般人たちの、奇異の視線を背に受けながら。





「『逃げ』たか……奴ら……『聖なる少女』の仲間たちは……」

 壁に穿たれた穴から、上半身を覗かせ、去りゆく二人の人影を睨みながら、ファニー・ヴァレンタインは、忌々しげに呟いた。

「とは言え―――問題ない。わが能力は『聖なる少女』たちに知られてしまうだろうが……それも大したリスクではない」

283: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 18:54:02.040 ID:d3LUbuSf0.net
 ヴァレンタインは、脳裏に、『聖なる少女』の姿を思い浮かべ、僅かに口の端を吊り上げた。そして、自身の『能力』―――『D4C』のヴィジョンを体に引き戻す。
 やはり『D4C』は、衣服の持つ力によって、『新たな力』に目覚めつつある。あと少しだ。『涼宮ハルヒ』さえ手に入れば、『D4C』、そして、ヴァレンタインの『計画』は完成する。
 その喜びを思えば、どれほどの痛手を受けようとも、問題はない。『すべては正しくなる』のだ。

「衣服が我に示す事は、ただ一つ―――わたしが向かうべき場所は、『トリニティ教会』という事のみ。この天啓に従えば、その先に勝利があるだろう―――圧倒的勝利が!」

 昂る気持ちは抑えきれず、それはやがて、言葉として、ヴァレンタインの口から洩れ出す。
 不意に。ヴァレンタインの耳に、僅かなざわめきの気配が届いた。間もなく、庁舎中の人間が、騒ぎを聞きつけ、ヴァレンタインのもとへやってくるだろう―――今考えるべきことはその対応だ。

「……フン、野ネズミどもが騒いだおかげで、わたしの仕事が増えてしまった」

 荒れ果てた踊り場を振り返ったヴァレンタインの頭の中には、すでに、たった今逃げ去った二人の事など、顔や名前に至るまでも存在していなかった。
 彼らはヴァレンタインにとって、『取るに足らない存在』達なのだ。

「そう―――そんな者どもよりも……」

284: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 18:56:03.161 ID:d3LUbuSf0.net
 ヴァレンタインは、大統領業務へと引き戻そうとした、その思考の片隅で―――とあるレース選手の顔と名前を思い出し、奥歯を噛み締めた。
 セブンスステージを一位で通過した、『ディエゴ・ブランドー』だ。
 現在、『聖なる少女』自身を除いて、唯一、ヴァレンタインが手中に収めていない衣服である、『左靴』を所持している男。能力は『恐竜(スケアリー・モンスターズ)』。

「Dioめ……今になってもまだ、このわたしの衣服を狙いに来ない……ヤツも気づいているのか? 『聖なる少女』こそが、『衣服』の力の神髄を有していることに……」

 厄介なのはこちらの方だ。Dioは―――平民から成り上がってきた、『飢え』を知る者。そして、『勝利』を掴むためになら、他の何を犠牲にすることさえも厭わないと思っている。

「Dioを叩き潰し、『左靴』を奪取したいッ! しかし、残りの衣服はすでに、スティール・ボール・ランレースの終着地、トリニティ教会を示している……果たしてどちらを優先すべきだ?」

 ヴァレンタインは考える。たとえ、『衣服』がすべて揃っていなくとも―――『引力』は圧倒的にヴァレンタインの方へと傾いている。

「レースはすでにエイスステージへ突入している―――『聖なる少女』を迎え、このわたしが衣服を『総取り』する瞬間が、近づいてきているぞ」

 そして、すべての『聖なるもの』を、ヴァレンタインが手中に収め、『トリニティ教会』へとたどり着いた時―――その時こそ。

「その時、この『世界』が―――わたしのいるこの『世界』こそが、新たな『基本世界』となるのだッ!」
 
 
 
 
 

285: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 18:58:41.865 ID:d3LUbuSf0.net
「ディエゴ・ブランドー、完全復活。か」

 フィラデルフィアの地元新聞の一面には、そんな文句がでかでかと記されてしまっていた。セブンスステージを、二十一日目に、トップでゴールしたそうだ。ハルヒの予想は、例によって当たってくれちまったってことになる。
 俺たちSOS団・十九世紀アメリカ支部は、数日前からフィラデルフィアにたどり着いていて、長門を探して町をうろついていたわけなんだが、

「Dioはおそらく、大統領に攻撃を仕掛けるために、フィラデルフィアに留まるはず……今この町にいるのは危険だわ」

 例によって例のごとく、眉間にしわを寄せながら、ハルヒが言う。人影のない、フィラデルフィアの町の路地裏で、俺たち三人は、首を突き合わせていた―――呆然とな。

「それに……この感じ、何なのかしら。もう『衣服』は残っていないのに―――とても強く感じるのよ、『引力』を」

 引力。またそれか。

「『ニューヨーク』―――『マンハッタン島』に、私の『行くべき場所』がある。その場所が、私を呼んでいるの」

 行くべき場所。その引力とやらは、俺たちが元の世界に帰る事と何か関係があるんだろうか。俺たちは、ハルヒの言う『引力』に導かれるままに旅をしてきた。最初は、奇妙な能力を持っている奴を探して。次は、衣服を求めて。
 それが俺たちが元の世界に帰るために必要なことだと、信じてやってきたわけだが、実際のところ、

「……それが正しかったのかどうかは分からないわ。でも、私たちにはそれしか寄る辺がなかったじゃない」

 ま、確かにな。
 それに―――俺たちをこの世界へ連れて来た要因の最有力候補であるヴァレンタイン大統領が、血眼になって衣服を集めていることを考えると、ハルヒの衣服が持つ力が、元の世界へ帰る方法と、何らかの形で関係していることは間違いないだろう。
 そのハルヒが新たに感じ取ったのが、『マンハッタン』へ向かうことだと言うのだから―――ここまで来たら、それに乗っかるしかないわな。

286: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 19:00:32.337 ID:d3LUbuSf0.net
「え、でも、長門さんのことは、どうするんですか?」

 俺と一緒に地図と新聞を見比べていた朝比奈さんが、遠い上空を見つめているハルヒに向かって訊ねかける。ハルヒは、すこし渋い顔で俺たち二人を振り返り、

「有希が大統領の事を追っているなら、きっとどこかで会えるわよ。多分、この『引力』は、衣服を所持している、大統領も感じ取ってる―――つまり、大統領もニューヨークを目指すはず」

 大統領。先日、俺の体に、銃撃を食らうことの痛みを教え込んでくれた、憎たらしいアンチクショウか。
 個人的には二度と会いたくないと思っているんだが、ヤツの能力が、俺たちを元の世界に帰せるという可能性もある以上、そういう訳に行かねえよな。

「私、思うんだけど……私たちをこの世界に連れて来たのが、大統領の意思っていうのは、違うんじゃないかしら」

 え、そうなの?

「思うのよ。もし大統領が、私と、私の衣服を目当てに、故意に私たちを連れて来たのなら、連れて来るのは私だけでいいじゃない。でも、実際には、あんたやみくるちゃん、有希までこの世界に来ちゃってる」

 ハルヒの言葉に、約一名、余計な人間の顔と名前を一瞬思い出したのだが、とりあえずそれは置いておくとして、まあ確かに言われてみればそうだが―――

「おそらくだけど、私たちが来たのは『事故』なのよ」

 確かに俺とハルヒは、あの星条旗トラックと、事故ったと言えなくもないが、ハルヒの言いたいことはそういう事じゃないんだろうな。

「何かと何かがぶつかり合って起きた、『事故』……前に、私が、元の世界でも、何か特殊なパワーの様なものを持っていたのかもっていう話はしたじゃない?」

 ああ、あの俺が冷や汗をかかされた話か。

288: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 19:02:03.470 ID:d3LUbuSf0.net
「例えばだけど、それが本当のことだとして。それで、この世界にも、それに近いパワーを持つ人がいて、その力が、お互いを、こう―――引っ張り合った。みたいな感じかしらね」

 何となくだが、ハルヒの言わんとしていることは分かる。つまり、長門や朝比奈さんが言うところの、『情報爆発』や『時空断裂』みたいなものが発生したと考えればいいんだろう。もっとも、その考えが合っているか、ハルヒに確認することはできないけどな。

「でも、不思議なのが―――『衣服』があることよ。この世界で、どうして、別の世界から来た私や、私の衣服が、力を持っているのか」

 そりゃ、お前がもともと持ってたっていうパワーが、この世界でも力を発揮しているってだけの事なんじゃないのか?

「何て言えばいいのかしら―――私の衣服も、私自身も、この世界に『元からあった』わけじゃないでしょ? なのに、私の衣服は、こんなにも、この世界で強い力を持っている。皆が奪い合うほどに。それが引っ掛かるのよ」

 元からあったわけじゃない。言われてみれば確かにそうだな。この世界の人間―――特に衣服を集めている連中は、ハルヒや俺たちがこの世界に来る前は、何をしてたんだ?

「……例えば、よ? この世界が、『特殊な世界』だったとしたら」

 改めて言うまでもなく特殊な世界だと思うが、とりあえず口を挟むのはやめて、俺はハルヒの次の言葉を待った。

「そう、『事故』よ。『あるはずのなかった世界』―――つまりね、この世界は、私の力と、他の世界の誰かの力が『事故』を起こして生まれた―――」

 段々と確信に近づいてきたハルヒの言葉に、俺がそろそろ嫌な汗を額に滲ませ出した―――そんな時だった。
 不意に、俺の視界の端を、何かが掠めて行ったような気がしたんだ。見間違いだと思って、俺は大して気にもせずハルヒの話の続きを待とうと思っていた。しかし、俺の隣の朝比奈さんが、

「え? 今の―――」

 そんな声を上げた。
 俺と同じものを見たのだろうか、だとしたら、今のは見間違いじゃなかったのか? だったら、何だったんだ? 俺の眼には、何かとても『速い』ものに見えたんだが―――

290: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 19:04:11.893 ID:d3LUbuSf0.net
「何? 二人とも―――」

 俺と朝比奈さんが、自分の話でなく、何か別の事を気にしている様子を察知したのか、ハルヒが首を傾げながら、世界トークを一時中断した、その瞬間だった。
 三角形に並んでいた俺たちの目の前に、ドザァ。という音を立てながら、『そいつ』は舞い降りてきたのだ。

「迎えに来たぜ―――涼宮ハルヒ」

 俺は―――そいつの名を、知っていた。

「Dioッ!?」

 突然に―――本当に突然に、俺たち三人の間に現れたその男は、既に『能力』を発動させているらしく、人と呼べる姿をしてはいなかった。
 そして、俺たちに何かを考えさせる暇も与えずに、耳にまで到達する口を大きく開き、ハルヒを―――

「えっ―――かはっ―――」

 その光景を見て、俺は、大昔に見た映画のワンシーンを思い出していた。どんな映画だったかをここで語れるほどしっかり覚えちゃいないのだが、それはそう、『吸血鬼』の映画だった。
 その映画に出て来た吸血鬼は、ちょうど今のDioが、ハルヒにそうしているように―――体を抱きすくめながら、首筋に噛み付くのが得意技だったんだ。

「ひ―――いや……」

 朝比奈さんが、虫の鳴くような声を漏らした。俺は―――声を出すことすら出来なかった。本当にすべてが、突然すぎて。恐竜化したDioの体に重なって、ハルヒの姿はほとんど見えないが、首から上だけはDioの肩の向こう側に覗けて、

「あぐ……キョ―――みくるちゃ―――」

 その眼が、俺たちを順番に見て、唇の間から譫言の様なトーンの声が漏れ出た。その声を遮るようにして、Dioがハルヒの首筋に食らいついていた口を放すと―――
 ブシュウゥゥ。と、音を立て―――ハルヒの鮮血が、首筋に刻まれた、いくつもの傷から迸った。

291: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 19:06:13.559 ID:d3LUbuSf0.net
「―――ハルヒィィィッ!」

 俺の喉から声が漏れたのは、そこでようやくだった。Dioは、ハルヒの両肩に手を置いたまま、俺と朝比奈さんを振り返り、耳まで裂け、血で赤く汚れた唇を妖しく歪めながら、

「こうした方が持っていきやすい。こいつが生きている必要はないんだ」

 低く、ひび割れた声でそう言った。そして、力なく崩れ落ちようとしたハルヒの体を、その両腕で担ぎ上げる―――この世界に来てから、何度目だ? 俺が、急すぎる展開に、頭の回転が追い付いていないのを感じるのは。
 ―――ナニガオキヨウトシテイルンダ。

「う―――おおおおおッ!」

 はっきり言って、思考は置いてけぼりだった。ただ、今、目の前で起きた事は、俺にとっては、あまりにも信じられなくて、呆気のないことで……気づいたときには、そう叫び声をあげながら、ポケットの中の『肉スプレー』に手を伸ばしていた。
 Dioは、そんな俺を、落ち窪んだ金色の瞳で一瞥すると、まるでもう、俺たちには何の興味もないとでも言うかのように、意識を失い、血を流すハルヒの体を抱えて大地を蹴った。『恐竜』の力なのか、人を一人抱えているとは思えない速さで遠ざかってゆく。
 そこでようやく、肉スプレーを取り出し終えた俺は、もう一方の手を背後に停めていた愛車に伸ばした。グリップに触れたと同時に、エンジンがいななく音が辺りに響き渡る。
 朝比奈さんがサイドカーに乗り終えていないことは分かっていたが、それを無視し、俺は愛車を発進させた。Dioの背を追って。
 グリップを握りしめた片腕だけで、愛車に引っ張られながら、狭い路地を抜け、大通りに出る。周囲を歩いていた人々が、何事かと俺を見ているが、それを気にしている余裕なんざあるわけもない。
 やがて、町を出ようと北向きに大通りを駆けて行く、馬に乗ったその後姿を見つけると、無我夢中でそれを追いかけた。俺の愛車は、ただの馬くらいになら余裕で追いつけるはずなのだが、何故か、Dioとの距離は縮まらない。

293: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 19:08:17.930 ID:d3LUbuSf0.net
「くそッ……くそぉぉッ!」

 昂る感情に任せ、叫びながら、ひたすら愛車を走らせていると、ようやく、頭の中で、いろいろな整理がついてきた。
 Dioが。あの恐竜野郎が、あの日―――朝比奈さんを連れて、俺たちの前に現れたあの日に言った通り、俺たちからハルヒを奪いに来たんだ。大統領の持つ衣服より、こっちを優先して。『ハルヒの命すら必要ない』と判断までして。
 おそらくだが―――奴は大統領が、ハルヒと左靴以外のすべての衣服を揃えるのを待っていやがったんだ。そして、そのタイミングでハルヒを手に入れれば、大統領がそれを奪おうと接近してくると読んだ。
 考えてみれば、万全の状態で塒にふんぞり返っている大統領の首を狙うより、ハルヒを餌に誘い出した方が、どこぞに侵入する手間も省けて、いいに決まっている。
 それに、自分で衣服を取りに行ったり、ジョニィだのジャイロだのホット・パンツだのに散らばった衣服を狙うよりも、大統領一人に衣服が集中していた方が、Dioにとっては好都合だったんだ。その方がレースに集中できるから。
 奴は北東へ向かっている。エイスステージのゴール、ニュージャージーを目指しているんだ―――前々から目をつけていたハルヒを手に入れて、ホクホク顔でレースの優勝まで持っていこうとしている。
 わかる。わかるぜ、Dio。お前の考えていたことが、俺にも―――しかし、だから何になるってんだ。みすみすハルヒを奪われて、おまけにハルヒは死に体で、Dioに追いつくこともできなくて―――

「何なんだ……何なんだよ、ちくしょおォォッ!」

 叫べど叫べど、誰も何も返しちゃくれない。何で追いつけないんだ―――俺の愛車が、ハルヒから離れちまったから、能力が弱まっているのか?
 ちくしょう―――何でこんな時に、俺の頭は冴えて来るんだ。遅いんだよ。今からじゃもう、遅すぎるんだよ。Dioの奴が行っちまうんだよ―――

「誰か……Dioを、止めろぉ―――ッ!!」

 自棄になりつつある頭で、そんな事を叫んだ。しかし、俺の周りには誰もいない。朝比奈さんは置いてきちまったしな。もっとも、朝比奈さんの能力じゃ、Dioは止められないと思うが―――

295: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 19:10:04.492 ID:d3LUbuSf0.net
 俺はどうして一人なんだ。何の力もない俺が、どうして、一人きりでこんな事になってるんだ。

「Dioォ―――ッ! 停まれッ! ハルヒはやる―――せめて、ハルヒを……ハルヒの命を助けてくれェ―――ッ!」

 俺は叫んでいた。無論、Dioははるか遠くにいて、俺の声が聴こえたとは思えないが。
 頼むよ。せめて―――ハルヒの命だけでも、助けてやってくれよ。ハルヒが、このまま死んじまったら……元の世界に帰れようが、帰れまいが、もう俺には何も―――何もかも。

「誰か……助けてくれェ―――ッ!」

 涙が出てきた。正確には大分前から泣いていたんだが、気づく余裕もなかった。ただ、俺はその時―――涙の向こう側で、何かが光ったのを見た。
 何だろうな。まるで、夜空の星がそうするみたいな光り方だったんだが、今は真昼だし、空を見ていたわけでもないし―――だが、確かに、何かが光り輝いたんだ。
 まるで、遠ざかってゆくDioの後姿が、キラキラと光を反射させたような―――
 そして、俺がその光に気を取られた直後。Dioが、突然、馬ごと路上にぶっ倒れた。

「え……?」

 思わず、声が出た。何だ? 何でDioがぶっ倒れる? 俺は何もしていないのに。つまり―――『俺じゃない誰かが何かをした』のか?
 結論から言って、俺のその思考は正解だった。

「『アイ・ワズ・スノー』―――『がらすの向かい風』」

 声がしたんだ。Dioとはまだかなり離れているから、Dioのそばに現れた―――CGのように、頭から胴体、下半身にかけて、光り輝きながら現れたそいつの声が、俺に聞こえるはずはないんだが、それでも確かに聴こえた―――その声が。

296: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 19:12:06.098 ID:d3LUbuSf0.net
「長門……!」

 光とともに現れた、そいつは―――長門有希は。まだ数十メートルは離れている俺を、真正面から見つめてくれた。俺が、いつの間にか大好きになっていた―――あの、遠く遠く離れた星が瞬くのを見つめるかのような眼で。

「ディエゴ・ブランドー。あなたを敵性と判断し、処理する」

 憤りの色の秘められたその声が響き渡ると同時に、路上にぶっ倒れていたDioがむっくりと体を起こした。そして、少し離れたところに倒れるハルヒと、傍らに立つ長門。全速力で接近する俺を見比べた後、

「このオレを―――ナメてるんじゃあないぞ、ザコども」

 眉間に、ロッキー山脈の崖のように深いしわを寄せ、こちらもまた、憤りに満ちた、真っ黒い声で、そう言い放った。
 それと同時に、長門が俺に視線を送り、一つ頷いて見せた。そして、僅かに首を動かし、大地に倒れたハルヒを顎で示す。
 そうだ、ハルヒ―――たった今、馬から落ちたハルヒは、無事なのか? いや、それ以前に、あの首の傷を、早くこの『肉スプレー』で塞いでやらないと―――
 まるで、俺のその思考に重なるように。不意に、背後から、聴き覚えのある声が掛けられた。

「涼宮ハルヒを連れて、先へ行け―――Dioは、わたしと長門が始末する」

 その声は―――強く、やわらかく、不愛想な、その声は。

「ホット・パンツッ!」

 愛車を停めず、背後を振り返ると、俺のすぐ斜め後ろに、あの馬乗りの姿があった。右手の中に、俺が手にしているのと同じ『肉スプレー』が握られている。
 最後に出会った時に着ていた修道服ではなく、革製の無骨な男物の衣服に身を包んだホット・パンツは、涙の気配など欠片もしない、信念に燃えた瞳で、涙目の俺に向かって、長門同様、短く頷いて見せた。
 何だ。この感じ―――そうだ、確か、ゲティスバーグで、ホット・パンツが言っていた―――俺たちが、『白』の中にいる、と。その感覚が、俺にも理解できた気がする。
 そして、あの恐竜野郎のDioは、『黒』だ。ああ、『真っ黒』だ。―――その真っ黒に、好き放題させてたまるかってんだよ。

298: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 19:14:07.045 ID:d3LUbuSf0.net
「長門、ホット・パンツ! 悪い―――恩に着る!」

 ハルヒに近づくにつれて、愛車が加速して来た―――ハルヒは今、意識はないようだが、その身に秘めた引力とやらはまだ働いているらしい。アクセルをガンガン吹かしながら、俺は大地から起き上がりかけているDioの馬を追い越した。
 続けて、どうも俺より早くハルヒを攫う気はないらしく、ゆっくり起き上がり、こちらを睨みつけていたDioのいる地点を越え―――肉スプレーをポケットに押し戻し、空いた右手でハルヒの腕を掴み、車上へと引っ張り上げる。

「ハルヒッ!」

 朝比奈さんを連れてこなかったため、空いていたサイドカーの上に、ハルヒの体を横たわらせ、今しがたポケットにねじ込んだ肉スプレーを再度取り出す。すぐにでも停車して傷の治療をしたいが―――まだもう少し、Dioから離れなくては。

「頼む、ハルヒ―――死ぬなよ……!」

 アクセルを吹かし、俺は前方へと向き直った。フィラデルフィアの町からはすでに出ているらしく、行く手には、何処までもと言わんばかりに、何もない野道が続いている。そんな光景の中を、俺はひたすら、北東に向かって愛車を走らせた。





 朝比奈みくるは―――この世界に来てから、一体何をしたというのだろうか。
 フィラデルフィアの街角に、たった一人残された朝比奈は、走り去る『彼』の後姿を見つめながら、そんなことを考えていた。
 涼宮ハルヒが、ディエゴ・ブランドーに襲われた時、もっとも近くにいたのは、朝比奈だった。だというのに―――何一つできることはなかった。自分の名前を呼びかけた涼宮ハルヒに、声を返すことさえもできなかったのだ。

「キョン君……わたしは……」

 小さくなってゆく『彼』の背を見つめていた、自分の眼に涙が溜まってゆくのが感じられた―――それを止める事さえも、きっと朝比奈にはできないのだろう。
 たった一人、この十九世紀のアメリカ大陸に残された朝比奈が、Dioを追っていった、彼を助けることなど出来るはずもない。

300: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 19:16:28.465 ID:d3LUbuSf0.net
「私にできるのは……『おしゃべり』すること、だけ……」

 朝比奈は、数週間前の夕暮れ時の出来事を思い出していた。―――それは、長門がこの世界に現れ、彼が熱を出した時。朝比奈が聴いた、ハルヒの言葉。そして、朝比奈がハルヒにぶつけた言葉。

 ―――まったく、『たったこのくらいの事』でヘバッちゃうなんて。

 ―――運転手にもならないキョンなんか、何の使い物にも―――

 ―――涼宮さん! どうして……そんなことが言えるんですかッ!

 ―――キョン君は、涼宮さんと私のために、こんな世界でも、頑張り続けてくれて。

 ―――なのに、そんな事……たとえ、涼宮さんが神様だって、言っちゃダメです!

 あの時。朝比奈の言葉に、涼宮ハルヒは少し驚いたように表情を変えた後―――拗ねたような表情で、朝比奈に背を向けた。たったそれだけのやり取り。
 けれど、その日から少しだけ、ハルヒは変わったように思えた。『彼』に少しだけ、優しくなったのだ―――本当に。
 ハルヒが、朝比奈の言葉を受け入れてくれた、そう思うと、心が軽くなった。ただ、足手まといなだけだった朝比奈が、少しだけ救われたような気がした。
 そして、『彼』は、朝比奈の言葉を聴くと、決まって優しそうに微笑んでくれた。朝比奈が食事を作れば、必ず喜んでくれた。時々失敗した時は、朝比奈を励ましてくれた―――それらは、この世界にやってくる前からの事ではあったけれど。
 そう―――あの二人こそが、この奇妙な世界に、朝比奈が『いる』事の証だったのだ―――だから朝比奈は今日までを生きてこられた。
 けれど、

301: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 19:18:04.411 ID:d3LUbuSf0.net
「うっ……ううう……涼宮さん……キョン君……」

 朝比奈の言葉を聴いてくれる者は、もう、そばにはいない―――朝比奈を一人残して、二人ともどこかへ行ってしまった。一人はDioに攫われ、もう一人は、それを追って、朝比奈の事を気にも留めず、走り去ってしまった。
 彼は―――心から、ハルヒと朝比奈のために、今日まで走り続けて来てくれた彼は。朝比奈の言葉を受け止めてくれた涼宮ハルヒを、もう一度、後ろに乗せて、帰って来てくれるだろうか―――

「寂しいよ……何もできないよ、私……」

 気が付くと、周囲には雨が降り始めていた。行き交う人々が、雨脚から逃れるために建物の中に身を隠してしまうと、朝比奈は本当に、たった一人ぼっちになってしまった。
 雨音に紛れて、遠くから、誰かの馬の蹄の音が聴こえてくる。どこかを『目指し』ている足音だ。朝比奈は―――どこを『目指し』て歩けばいいというのだろうか?
 身体が雨に濡れてしまうと―――涙をこらえようとする必要さえ、なくなってしまった気がした。涙は、雨に流れてしまうだろうから。

「ひぐっ……うううっ……」

 肩を震わせながら、嗚咽を上げ始めた朝比奈の背に―――不意に、『声』がかけられた。

「君を『探し』ていた」

 それは、低く、野太く、どこか―――優しい声。
 突然かけられた声に、朝比奈が涙をぬぐいながら振り返ると―――そこに、馬に跨った、一人の『男』の姿があった。顎にひげを蓄えた、髪の短い男。その男の口にした言葉が、朝比奈の脳に染み渡るまで、僅かに時間がかかる。―――朝比奈を、探していた?

「あなたは……?」

 やがて、朝比奈が口を開くと、

「オレの名前はどうでもいい。ただ―――君を『迎えに来た』んだ。『古泉一樹』に頼まれたのでな」

 男が口にしたのは―――朝比奈にとって親しみ深く、僅かに懐かしい名前。やはり、その名が示す彼も、この世界へやって来ていたという事なのだろうか。

303: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 19:20:09.681 ID:d3LUbuSf0.net
「悪いがあまり時間がないんだ―――急いで馬に乗ってくれ。これから、」

 男は、そこまで話し、一つ息ついた後、

「『大統領』を追う―――君が、オレとともに」





「『してはいけないこと』を、あなたは、した」

 涼宮ハルヒとともに『彼』が走り去ってから、僅かな時が経ち、長門有希と、ディエゴ・ブランドーのいる大地には、雨が降り始めていた。その場に舞い降りていた、長い沈黙を破ったのは、長門だった。
 その言葉を受け、敵は―――ディエゴ・ブランドーは、『恐竜』の能力を解除したのか、満月に似た色から薄い青色へと変わった瞳を、ぎろりと長門に向ける。

「あなたを生かしておくという約束はしていない」

 雨に打たれながら、長門は、淡々と、脳裏に走った言葉を口にした。Dioは何も言おうとしない―――ただ、紡がれる長門の言葉を、そよ風を受けるかのように聴いていた。
 やがて二人のもとに、蹄の音を鳴らしながら、ホット・パンツが到着する。彼女は愛馬に跨ったまま、Dioと、長門に、一度ずつ視線を送ると、

「Dio。わたしはあなたに、具体的な恨みがあるわけじゃない―――けれど、わたしは『白』でありたい」

 その言葉を耳にし、Dioの青い瞳の矛先が、長門からホット・パンツへと移る。

「わたしがさし出すのは、もう、わたし自身だけだ」

「フンッ」

 ようやく。長く沈黙していたDioが、声と呼べるようなものを、口ではなく、鼻先から漏らした。

305: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 19:22:49.246 ID:d3LUbuSf0.net
「ホット・パンツか。オマエのことは、衣服を集めていたらしいとは知っているが……レースから消えてからは忘れてた」

 続けて、声を放ちながら、Dioはちらりと、視線を長門、そして、泥まみれとなった自身の愛馬に向け、

「オレも、貴様らに恨みはない―――と、思っていたが、たった今できたぜ。このオレの馬を傷つけ、地に伏させるとはな」

 声とともに、Dioの皮膚が、少しづつ、人間のそれではないものに変わってゆくのを、長門は視線で捉えていた。『恐竜(スケアリー・モンスターズ)』が、発動したのだ。
 実際に目にするのは初めてだが、長門もその能力について多少の知識はある。自身や他者の身体を、恐竜へと変化させる能力。

「わが愛馬『シルバー・バレット』を侮辱した罪ハ、重イゾ」

 Dioの声が、低くひび割れたものへと変わってゆく。長門が、一度、地を踏みなおすのと同時に、ホット・パンツが、腰から自身の能力である『肉スプレー』を取り出した。

「ブッ殺シテヤル―――『スケアリー・モンスターズ』! オマエラノ首ヲ、二ツ並ベテ、コノ雨ニ晒シテヤルゾッ!」

 Dioが、恐竜へと変化したその肉体で、長門に食らいつこうと動き出した―――その瞬間、長門は自身の体を『分解』した。下半身を、雨粒に混ざるほどに細かな欠片へと変化させ、人間の出せる速度を遥かに超えた速さで繰り出された攻撃をいなす。
 宙を切り裂くDioの右腕に、長門は分解した自身の欠片を叩き付ける。しかし、恐竜のそれと化したDioの肌は硬質化しており、思うように食い込ませることは叶わなかった。

「ギャァァァース!」

 もはや、声ではなくなった声で、Dioがいななき、腕を振り抜いた勢いに任せ、体を半回転させる―――直後、長門の上半身に、Dioの尻尾が叩き付けられた。身体が音を立てながら、破片の集まりへと変わってゆく。
 首から上のみを残して全身を砕かれた長門は、Dioがさらに体を回転させる様子を見て取り、後退した。長門の眼元に触れる寸前の空間を、Dioの前足の爪が切り裂いてゆく。速い。

306: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 19:24:19.815 ID:d3LUbuSf0.net
「『ゲッツ・アップ』―――くらえ、Dio!」

 その直後、Dioの背に、蹄が泥を踏む音を立てながら、ホット・パンツが向かってくるのが見えた。馬ごと突進を仕掛けるつもりなのだろうか―――
 しかし、恐竜となったDioは、聴覚までもが人間を超越しているのか、その蹄の音を耳ざとく聞きつけ、空中へと高く飛び上がった。

「キシャァァァ―――!」

 Dioの跳躍は、馬上のホット・パンツよりも、さらに高い地点へと及んだ。直後、舞い降りて来るDioのかぎ爪のような後ろ足が、ホット・パンツへの頭上へと差し迫る。

「くらえ―――Dioッ!」

 どうやら、Dioが跳躍することと、恐竜化したDioの身体能力の高さを先読みしていたらしいホット・パンツは、眼で追うのがやっと、という速さで飛び上がったDioを正確に視線で追い、降り注ぐかぎ爪に向け、手の中の肉スプレーを唸らせた。
 ブジュウウ。と、耳につく音とともに、噴出口から飛び出した肌色の泡が、Dioの後ろ脚に纏わりつき、その瞬間からDioの体の一部となった『肉』が、Dioの身体の自由を奪う。

「ギィィィ!」

 後ろ足の攻撃を防がれたことを察したのか、Dioは続いて、重力に任せて体を回転させながら、両前足による攻撃を繰り出した。それを見受けたホット・パンツは、

「『クリーム・スターター』!」

 と、猛るように声を上げながら―――ぬかるんだ大地へと向けた『肉スプレー』で、自身を『噴きつける』事で回避した。スプレーの噴出口を伝い、ホット・パンツの肉体が、肌色の泡へと変わって、地の上へと移動してゆく。

308: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 19:26:02.531 ID:d3LUbuSf0.net
 後ろ足、前足と、続けて攻撃を失敗したDioが、大地へと降り立った。後ろ足は、ホット・パンツの肉スプレーによって繋ぎ止められていたが、

「ギャァッ!」

 そう、一声上げると同時に、Dioは躊躇なく、前足の爪で、両足を繋いでいた『肉』を断ち切り、無力化して見せた。チッ。と、馬上から大地へ移動したホット・パンツの、短い舌打ちが、長門の耳にも届く。

「『アイ・ワズ・スノー』……『がらすの刃』」

 Dioが再び動き始めるよりも早く、長門は宙に舞ったままの自身の欠片を、無数の刃へと変化させ、その切り口をDioに向け、解き放った。銃撃よりは遅いが、長門が自身の体を動かすほどの速さを持った透明な刃が、Dioに牙を剥く。
 しかし、

「シャァァッ!」

 一声。Dioはいななきながら、自身の腰から延びた巨大な尻尾を一振りし、迫りくるがらすの刃を、正確に叩き落とした―――今回もやはり、恐竜となったDioの皮膚に、長門の作る『刃』が食い込むことはない。
 空中に残った欠片を引き戻し、肉体として再構成しながら、声も上げず、表情も変えないまま、長門は胸の内で呟く―――Dioを斃すには、

「その『がらす』を、オレの『口の中』に潜り込ませるか?」

 まるで、長門の思考を読み取ったように。Dioが言葉を放った―――先ほどまでの恐竜の鳴き声とは違う、人間としてのDioの面影を残す声で。その発言の内容は、長門が思い浮かべていたことと、一致する。

「だがオレには、貴様の身体の欠片の動きなど、止まったボールのように見えるぞ―――無駄ァッ!」

309: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 19:28:03.058 ID:d3LUbuSf0.net
 そう叫びながら、再び長門に矛先を向け、地を蹴り飛ばすDio。右腕と胴体のみを空中に残し、人型に戻った体で、長門は迫りくるDioに、再構成したばかりの左腕を向けた。

「『アイ・ワズ・スノー』」

 言葉と同時に、辺りを漂う長門の破片が、長門とホット・パンツの前方―――ちょうど、Dioの首の高さへと集まり、そこに、幅の広いがらすの刃を作り出す。恐竜化したDioは、静止したものを視認する力が弱くなっているはずだ。なら、この『がらすのギロチン』は―――

「無駄無駄無駄無駄……貴様の小細工は、この『雨』の降る中では通用しないッ! 雨粒はお前の体の破片の位置を教えてくれるぞッ! それも無駄だァッ!」

 刃の切り口に、Dioの体が触れようとした瞬間、Dioは後ろ足と尻尾で大地を蹴った。ギロチンの存在する空間を飛び越え、長門たちの頭上へと、巨体が差し迫る―――それに対し、長門とホット・パンツは同時に動いた。

「『アイ・ワズ・スノー』……『がらすの槍』」

 長門は、残った自身の体を欠片へと分解し、いくつかの槍の形へと構成しなおし、その先端を重力に任せて降りて来るDioに向け、

「『クリーム・スターター』ッ!」

 ホット・パンツは、スプレーを操り、迫りくるDioの目元へ向けて肉の泡を吹き付けた―――二人の攻撃は、どちらも有効だった。
 空中から舞い降りて来たDioの後ろ脚には、長門の槍が深く食い込み、同時に、ホット・パンツの放った肉は、狙いを定めた通りDioの目元へと炸裂した。

「ギャァァース!」

 声を上げながら、Dioは飛び退こうとしたようだが、脚に突き刺さった長門の槍がそれを阻んだために、ほんの一瞬、Dioの動きが止まった。

「今だ―――『肉スプレー』ッ! Dioを窒息させろ―――ッ!」

 地響きのような声を上げるDioの、耳まで裂けた口に向け、ホット・パンツが、自身の能力を放つ。しかし―――

311: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 19:30:35.820 ID:d3LUbuSf0.net
「シャァァッ!」

 Dioは、片足に深く、がらすの槍を突き刺されながらも、その場で体を横に一回転させ、巨大な尻尾を、ホット・パンツに向けて振るった。攻撃を放った直後であるホット・パンツはそれを回避することができず―――

「がぁグッ!」

 獰猛な牛の突進のような勢いで、Dioの尻尾がホット・パンツの体を、右から左へと打ち付けた。
 衝撃に任せて吹き飛ばされ、少し離れた大地の上に、泥をまき散らしながら叩き付けられるホット・パンツ。腰の骨が折れる音がした―――意識は失っていないようだが、体を動かすことはできないだろう。

「グギャァァース!」

 ホット・パンツを薙ぎ払った直後、Dioはがらすの槍を脚から引き抜きながら、再び跳躍し、長門からわずかに離れた位置へと降り立った。しかし、その動きに先ほどまでの異常な俊敏さはない。長門の攻撃で、後ろ足が傷ついた影響だろうか。
 それと同時に、ホット・パンツの攻撃により、Dioの視界は閉ざされている。長門は再び、自身の胸から下を分解し、その破片で『ギロチン』を作り出し、Dioと自分との間に浮かべた。

「これで、あなたは私に近づくことはできない」

 呟くほどの音量で、長門がそう口にすると、Dioは目元の肉をはぎ取ろうとしていた手を、一瞬だけ止めたようだった。そして再び、人間の声と辛うじてわかるほどの声色で、

「オレヲナメルナトイッタハズダ」

 と、唸り声にも似た声を上げた。そして直後に、傷を負った後ろ足で大地を蹴り、三度、長門へと向かってくる。空中のギロチンを、Dioは視認していないはずだ―――しかし、Dioは、

「ギャァァァ―――ス!」

 雄たけびを上げながら、自身の腕に該当する前足を突き出し、その前足で、目の前の空間を払いのけながら、長門へと接近してきた。
 ザグ。と、滑った音を立てながら、その前足がギロチンの切り口に触れ、骨まで到達していると思われる、深い傷が生じる。

313: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 19:32:16.789 ID:d3LUbuSf0.net
 ―――しかし、Dioは前進をやめなかった。

「この腕は―――オレの未来への『犠牲』とするッ!」

 閉ざされた視界の中、ギロチンの食い込んだ腕を、我武者羅に振り抜くDio。傷口はやがて、切断面へと変化し―――Dioの右の前足の先端が、空中へと撥ね飛ばされる。

「キシャァァァ―――!」

 たった今、腕を切り飛ばされたとは思えない、きわめて攻撃的な動きで、Dioは残ったもう一方の腕を、ギロチンの表面へと叩き付けた。ガシャァ。と、刺々しい音が響き渡り、がらすのギロチンが破壊される。

「シャァァァッ!」

 長門が、破壊されたギロチンの破片を、微細な刃へ変え、Dioの口の中へと滑り込ませようとしたが、その直前。Dioは、前進する勢いを殺さないまま、身体を回転させ、その尻尾で、長門の破片で光り輝く空間を薙ぎ払った。
 霧雨が風に吹かれて舞うように、光を反射させる長門の欠片が、その攻撃で舞い散ってゆく―――後に残ったのは、上半身のみの長門と、その長門に牙を剥くDio。

「クイ殺シテヤルッ! 『スケアリー・モンスターズ』ッ!」

 巨大な上弦の月の様な口を限界まで開き、長門に食らいつくDio。その牙が、長門の喉に食い込み―――頸動脈の千切れる音が、辺りの空間に響き渡った。





 口の中に、血の味が広がっている―――その味から、『勝利の美酒』という言葉を連想し、ディエゴ・ブランドーは、少女の首に食らいついている口の端を僅かに歪めた。
 身体を砕かれても、痛みの声の一つも上げなかった、その少女の身体から、ガクリと力が抜け、何らかの力によって空中に浮遊していた肉体が、重力に引っ張られ始める―――少女のもとに、『死』がやってきたのだ。

314: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 19:34:02.608 ID:d3LUbuSf0.net
 その少女が何者であったのか、Dioは知らない。知りたいとも思わない。ただ、少女は、Dioの道を阻もうとした。それだけで、Dioが少女を殺すには十分すぎる理由だ。
 Dioはそのまま、顎にさらに力を籠める。メシメシと音を立てながら、少女の首の骨が軋み、さらに多くの血液がDioの口の中にあふれた。
 得物を捕食する、飢えた獣がそうするように、Dioは顎の力のみで、胸像のような姿となった少女の体を空中に引っ張り上げ、空中に泳がせた後、泥の大地にたたきつけた。少女の体が、ベシャァ。と音を立て、地面と接触する。
 前足で少女の頭を掴むと、Dioはそのまま首を引き、少女の喉の肉を食いちぎった―――ブシュウウ。と、音を立てながら、少女の首から大量の血液が噴き出し、Dioの顔面を汚す。

「WRYYYYYYYッ!」

 それは、勝利の雄叫びだった。今だ肉スプレーに視界をふさがれているDioは、ドバドバと音を立てながら自身の顔面に降り注ぐ血の熱さに、自分の身体が、皮膚が、魂が奮い立つのを感じていた。
 そう、勝利の甘さに酔ったDioは―――閉ざされた視界と、その興奮故に、次の瞬間起きることを予見することができなかった。

「Dio……オマエの、負けだ」

 不意に、Dioの背後で囁くような声がした。そして直後、ブジュウウ。と、耳につく音が、Dioの鼓膜に届く―――それはホット・パンツの能力、肉スプレーの噴出音だった。

「なッ―――グッ……」

 突然。口の中に違和感を覚えたDioは、大きく開いていた口を閉じようとした。しかし、『それ』はDioの口の中にすでに忍ばされていた。
 その正体は―――ホット・パンツの腕だ。自身の能力で、腕を分離させたホット・パンツが、その腕を、Dioの口の中に忍び込ませていたのだ。

「『肉スプレー』で腕を細かくし、長門の『体内』に隠しておいた……オマエが長門のギロチンと遊んでいる間に、すでにだ……」

316: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 19:36:01.788 ID:d3LUbuSf0.net
 次の瞬間。ブジュウウ。と、スプレー音が再びDioの鼓膜に届くと同時に―――Dioの口腔内に『肉』が溢れてくる。

「がッ―――ホット・パンツ、貴様……ぐあ……息がッ……でき……」

「長門は命を賭して、このチャンスをわたしにくれた―――この『肉』はわたしの身体の肉だ。ありったけ、オマエに食わせてやる……望み通りな」

 長門と呼ばれていた少女の体が、ドシャァ。と音を立てて大地に落ちる。Dioが、少女を掴みあげていた前足を放したからだ。
 ホット・パンツの『肉』は、水がスポンジに染み込むかのように、Dioの口腔と同化してゆく。いや、それより更に奥、器官までもを塞ぐつもりらしい―――

「キサマ……らのような……ザコどもに……このオレが……ッこの……Dio……が……ッ!」

 Dioは言葉を発しようとしたが、口の中に肉が溢れかえっている故に、それは声にはならず、胸をわずかに膨らせるのみに終わった。
 Dioは勝っていた。勝っていたのだ。あの少女は死んだ。首から血を流して―――そして、ホット・パンツも。これほど大量の肉をスプレーから絞り出せば、自身の身体が大きく失われる―――
 既にこの後、命を保っていられるかどうかという所まで、到達しているはずだ。

「う……ぐ……あ…………」

「わたしがさし出すのは、もう―――わたし自身、だけだ」

 Dioの意識が遠のいてゆく中―――自分自身も、意識を保つのが厳しい状態になっているであろうホットパンツが、最後に口にした言葉の意味は、Dioには理解できなかった。
 やがて、すべて闇に包まれた。すべての感覚が闇に包まれたのだ。思考さえも。ディエゴ・ブランドーの人生は、そうして終わりの時を迎えた。

318: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 19:38:17.077 ID:d3LUbuSf0.net
 
 
 
 
 
 Dioと長門、ホット・パンツの姿が、視認できないほどまで遠くなったのを確認して、俺は気の遠くなるようなスピードで走らせていた愛車を停め、座席から飛び降りた。
 サイドカーのある側へと回り込みながら、握りしめたままになっていた『肉スプレー』に意識を向ける。

「ハルヒッ! 大丈夫か―――ハルヒッ!」

 サイドカーのシートの上に横たわるハルヒ。その肌は、陶器のように青白くなっていて、首の傷からあふれた血液に汚れた部分と、奇妙なコントラストを作っていた。Dioの牙は、辛うじてハルヒの頸動脈を傷つけてはいなかったようだが、それでも出血量はかなりのものだ。
 俺は、ホット・パンツの見様見真似で、スプレーの噴出口を、ハルヒの首の傷に向ける。ブジュウウ。と音がして、ハルヒの首を肌色の泡のような物体が包み込んだ。これで出血は止まったはずだ。しかし、既に流れ出てしまった血液はどうしようもない。
 ハルヒの身体を少し揺さぶってみる。が、意識を取り戻した気配はない―――まさか、と思いながら、俺はハルヒの唇に頬を近づけてみた。
 しかしその『まさか』は―――

「ウソだろ……おい、ハルヒ……」

 呟きながら、ハルヒの頬に指をあてる。―――冷たい。閉じられたハルヒの瞼から、眼には見えない『何か』が、立ち上っているような気がした。それはまるで―――『命』というものが、煙のようなものへと変わって、ハルヒの身体から抜けて行ってしまっているような―――

「―――ハルヒ……ハルヒ! ……ハルヒ」

 冷たくなったハルヒの頬が、ピクリと動くことを祈って―――動かなくなったハルヒの瞼が、不意に開かれることを祈って、俺はその名前を呼んだ。しかし―――ハルヒは、動かない。何も答えてくれない―――

319: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 19:40:19.438 ID:d3LUbuSf0.net
「し、心臓マッサージ―――心臓マッサージをッ!」

 馬鹿か、俺は。動かなくなっちまった―――死んじまったかもしれない人間の名前をいくら呼ぼうと、何にもなるわけがない。
 今やるべきことは、現実を見て、現実的な範囲で残された望みに、すべてを託すことだ。
 俺は、サイドカーによじ登り、ハルヒの胴体に跨って、その左胸に両手をあてた。脈動している気配を一切発していない、その、びっくりするほど薄い胸に、全身の力を込めて、何度も衝撃を与える。その度に、俺の愛車が、ギシギシと、壊れそうな音を立てた。
 確か、人間は心臓が止まり、脳に酸素がいかなくなってから、五分以内なら、息を吹き返す可能性がある―――そんな話を聞いたことがある。
 しかし、出血がひどい場合は、その法則は適用されるんだろうか。そもそも、体を流れ、脳に行く血自体が足りてないんじゃ―――

「―――ちくしょう……ちくしょおォ!」

 血に染まった、ハルヒのマントに額を当て、叫ぶ。何で、こんなことになっちまったんだ。どうすれば、こんなことにならずに済んだんだ。あんな―――たった一瞬で。たったの一瞬の出来事で、ハルヒは―――ハルヒは。
 遠くから、列車が近づいてくる音がする。ついに姿を現した大西洋の、さざ波の音がする。ぽつり、ぽつりと、雨が降り始めた。誰もいない、俺とハルヒの抜け殻しかいない空間に。
 もし、俺が―――Dioの野郎と真っ向から戦えるような。ハルヒがDioに襲われた時、咄嗟に動き、ハルヒを救えるような、そんな力を持っていたら。そうだ。すべては、俺が弱いからいけなかったんだ。
 だから、ハルヒは……俺を叱って、叩いて、励ましてくれたハルヒは―――もう二度と目を覚まさない。
 ―――アノ野郎。
 俺はその瞬間、胸の内に芽生えた思いに、抗うことができなかった。その感情の名は―――『殺意』だ。

321: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 19:42:04.835 ID:d3LUbuSf0.net
 ハルヒを殺した、あの恐竜野郎を―――現在、おそらく、長門、そしてホット・パンツと交戦しているであろう、『ディエゴ・ブランドー』を、俺の手で殺さなければ気が済まない。

「Dio……Dio―――Dioッ!」

 ―――殺してやる。
 あの男―――Dioから、俺の手で、すべてを奪ってやる。あいつは、俺のすべてを奪っていったのだから。

「Dioぉッ!」

 その瞬間、俺は―――本気だった。心の底から、Dioの野郎を潰し、砕き、殺してやるつもりで、愛車のグリップに手を伸ばし、体を半回転させたのだ。あの男の元へ戻るために。
 けれど。その直後―――Dioのいるであろう方角へ振り向いた俺の鼓膜に、パァン。と、何かがはじけるような音が届いた。

「え…………?」

 その音が響き渡った瞬間、俺は―――三つ。突然、俺の感覚に届いた、三つの、予想していなかった現象に、心を奪われ、立ち尽くした。
 一つは、前述した音が耳に届いたこと。二つ目は、俺の頬に、何かに刺されたような、熾烈な痛みが走った事。そして、三つめは―――背後を振り返った俺の目の前に、その男が立っていたこと―――だ。

「自分を、見失わないでください」

 俺の頬を叩き飛ばした右手を、ゆっくりと戻しながら―――そこにいた古泉一樹が、涙を浮かべ始めていた俺に向かって、そう言い放った。
 まただ―――また、俺は感じている。『目の前の出来事に、理解追いつかない』という現象を。

「涼宮さんは―――『そんなこと』を望んではいないはずです」

323: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 19:44:17.844 ID:d3LUbuSf0.net
 雨の向こうから―――いつも、どこか人を小馬鹿にしているようだと、俺が感じていた双眸が、真剣そのものといった光を湛え、まっすぐに俺を見つめていた。
 どうして―――古泉が、ここにいる? いや、考えるまでもない。俺たちがこの世界にやってきてしまったのと同じことなんだろう。正直、こいつが俺たちの前に現れるっていう展開を予想していないわけではなかったさ。しかし―――このタイミングでかよ。
 そう考えた直後、俺の脳がようやく、古泉の発言の内容を噛み砕き始める。ハルヒは、俺がDioを殺すことを望んでいない―――そう言いたいのか? 古泉は。

「……どうしてお前にそんなことが分かる」

「涼宮さんという人物のことを、よく知っているからですよ」

 俺が訊ねかけると、古泉はいつもそうしていたように、顔面に、僅かな微笑を浮かべ、

「あなただって知っているはずです。涼宮さんは、『そんなこと』を望む人ではない、とね」

 ……そうだな。
 古泉の言葉に、俺は声を詰まらせ、一つ息をつくことしかできなかった。 ―――確かにそうだ。ハルヒは、俺に、Dioの首を取ってくれ、なんて言いはしないだろうさ。
 あいつは。自意識過剰な、涼宮ハルヒという生き物は。きっと、こんな場合には、自分が信じ、目指していたものを、実らせてほしいと願うだろう。それはつまり―――現状で言うなら、

「……元の世界へ、帰ること」

 俺が呟くと、古泉は満足そうに頷いて見せた。そして、俺の顔面を捉えていた、どこか安心したような視線を、俺の右側の空間へと逸らし、

「ディエゴ・ブランドーのことは置いておきましょう。長門さんたちを信じて―――僕らが向き合うべき相手は、別にいるのですから」

324: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 19:46:01.656 ID:d3LUbuSf0.net
 そう言って、ゆっくりと背後を振り返った―――そこで俺はようやく、先ほど耳に捉えた、『列車が向かってくる音』が、大きくなりつつあることに気が付いた。
 これまでは気づいていなかったが、俺たちを挟んで、大西洋と反対側の大地に、『線路』が敷かれていて、音を立てて近づいてくる列車は、そのルートを辿り、間もなく俺たちのいる位置を通り過ぎようとしているようだった。
 その線路の伸びる先によく目を凝らしてみると、地平線に、ポツリ。と、黒く光るシルエットが見て取れて、それは、馬や、俺の愛車の全速力を上回っていると思われるスピードで、こちらへと近づいてきていた。
 その列車に乗ってくる者が、誰なのか―――察しの悪い俺にさえ、十分予想が付いたよ。

「あなたは、『先』へ行ってください―――大統領は、僕が食い止めます。命を懸けて」

 迫りくる列車の影を行く手に臨み、古泉がふと、俺を振り返り、そう囁いた。先ってのは、つまり……ハルヒが感じ取っていた、俺たちの行くべき場所―――『マンハッタン』を目指せっていうのか。

「お互い、出来ることをしましょう。僕が戦いますから、あなたは―――逃げてください。涼宮さんと共に、ね」

 肩越しにこちらを見ながら、そう言った古泉の眼は―――なんだろうな。まるで、今にも泣き出しそうなのをこらえている、子供の眼のように見えた。そうだよな―――何しろ、俺たちのそばにいるハルヒは、もう……

「……任せるぜ、古泉」

 俺自身もまた、瞳の奥が熱くてたまらない感覚を覚えながら、目の前の男に向け、握り拳を突き出した。すこし驚いたように、俺の行動を見つめていた古泉は、やがて、諦めたような微笑みを浮かべ、俺の拳に、コツン。と、自身の拳をぶつけた。

326: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 19:48:02.521 ID:d3LUbuSf0.net
「―――『シックス・センス・アドベンチャー』!」

 俺が、その名を叫ぶとともに、停止していた愛車のマフラーから、熱が溢れ出し、エンジンがドルドルと音を立てる―――俺は、サイドカーに横たわるハルヒの体にほんの少しだけ触れ、前方がよく見える様に向きを直してやった。

「ご武運を」

 古泉が、そう短く呟くのが聴こえたが、俺は―――これ以上ここに居たら、これから溢れ出すであろう涙を、全部古泉に見られちまう気がして、まるで逃げる様に愛車を発進させた―――
 ハルヒが目指していた、『マンハッタン』のある、北東に向かって。





「やはり―――Dioは、『聖なる少女』を殺したか」

 雨の降る、ニュージャージーを目前とする大地の上に一人立つ、古泉一樹の目の前で―――古泉の『光球』によって、大地に敷かれた線路を大きく外れ、横転した車両の中から、その男はゆっくりと這い出てきた。
 少し巻き毛気味の長髪。清潔そうな衣服。他人の心を見透かしたような瞳。おそらく、その風貌を見知らぬものは、このアメリカ大陸に誰一人としていないだろう。

「やはり、奴のことを優先して潰すべきだったか―――しかし、この世界のために、涼宮ハルヒの『命』が不必要であることを突き止めたのは、けっこう大した働きだな」

 凄惨な横転事故に見舞われたにもかかわらず、体に傷一つ追っていないファニー・ヴァレンタインは、その鋭い双眸で、ギロリ。と、古泉一樹を睨みつけながら、

「『聖なる少女』の持つ『引力』は、本人が死した今もなお存在し続けている―――やはりあの少女は、『わが世界』のために存在していた」

329: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 19:50:02.276 ID:d3LUbuSf0.net
「それは違いますね」

 その言葉を古泉が一蹴すると、ヴァレンタインは、古泉を見つめる視線に、僅かな苛立ちの気配を混ぜながら、

「フンッ―――貴様らのような異世界人には、『わが世界』の理など、理解できなくて当然ッ」

「ええ、その通りです―――あなたにあなたの事情があることは知っていますが、生憎、僕らにも僕らの事情というものがある」

 禍々しい光を灯した双眸に負けぬよう、目一杯に殺気を込めた瞳で、ヴァレンタインに視線を返しながら―――

「僕らは、『回帰』を求めています。たとえそれが、『あなたたちのいる、この世界の消滅』を意味していてもね」

 古泉の言葉に、一瞬、ヴァレンタインは動きを止めた。胸の内で、禍々しさを練り合わせるように、五秒ほど沈黙を揺蕩わせた後、

「貴様……どこまで知っている?」

「それはもう―――あなたの目論見も含めて、すべてですよ。それが、僕の持つ『能力』なのですから」

 たった今言い放った通り、古泉は『すべて』を知っている。この世界が、どうやって生まれたのか。何が世界を動かしているのか。ヴァレンタインが、この世界をどうしようとしているのか―――その、すべてを。

「言っておきますが、あなたに恨みなどありませんよ。むしろ、同情したいくらいです。『世界を行き来する能力』などという物を持っているせいで、『世界を作り出す能力』を持つ、涼宮さんと引き合ってしまったのですからね」

「フン、本当に『すべて知っている』ようだな―――野ネズミがッ」

 雨に濡れた肩ほどまでの髪の毛を、右手で払いのけながら、ヴァレンタインは眉を吊り上げた。
 ―――『引力』。

330: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 19:52:11.061 ID:d3LUbuSf0.net
「なぜ、『聖なる少女』だけではなく、貴様らのような不要因子までもが、この世界へ呼ばれたのか。その理由が、たった今、わかったぞ」

 そこまで話し、一つ息をついたヴァレンタインは―――直後、

「貴様らは『試練』だ―――このわたしが、『真』へと進む、その道中に設けられた『試練』ッ! たたきつぶしてくれる―――『D4C(いともたやすく行われるえげつない行為)』ッ!」

 まるで、猛獣がそうするかのように、大地を蹴り飛ばし、俊敏に古泉に迫ってきた。それを迎え撃つべく、古泉も自身の能力を発動させ―――両手の中に、『光球』の原型となる光を作り出す。

「『ミステリック・サイン』―――僕らには、『帰るべき場所』がありますッ!」

 ヴァレンタインの身体から、青白く光る『ヴィジョン』が飛び出したのと同時に、古泉はヴァレンタインに向け、手の中の光を放った。バスケットボールほどの大きさの、赤く艶めいた光の球が、僅かに弧を描きながら、ヴァレンタインの身体へと突き進む。

「ムゥンッ!」

 迫りくる光球を、ヴァレンタインは『D4C』の右腕を一振るいすることで、いともたやすく弾き返して見せた。ギャルギャルと音を立てながら、軌道を真逆に捻じ曲げられた赤い閃光が、自らを生み出した主の元へと帰ってゆく。

「貴様の能力は子供の遊びだと言ったろう」

「そうですか―――では、『これ』ならどうです?」

 古泉は、その言葉と共に、両足で大地を踏みしめ、右腕を振りかぶり、広げた手のひらを、自身の眼前まで弾き返されてきた光球に叩き付けた。速度を増した鮮血色の礫が、再びヴァレンタインへと向けて放たれる。

332: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 19:54:01.747 ID:d3LUbuSf0.net
「フンッ、『キャッチボール』か? 少しボールが大きいが―――このファニー・ヴァレンタインを付き合わせるには幼稚すぎるッ!」

「いえ―――『千本ノック』です」

 古泉がそう言葉を放った直後。ヴァレンタインの立つ大地へと向かって突き進んでいた赤い光球に変化が現れた。その球形の輪郭が、僅かに凹凸を帯び始めたのだ。

「何? ―――ムッ!」

 その直後。古泉の光球が―――パァァンと音を立て、弾け飛んだ。『無数の小さな球体』へと、分解されたのだ。そうして生じた赤い礫の雨が、ヴァレンタインへと差し迫る。

「『D4C』ッ!」

 自らを標的として放たれた真紅の雨に向け、『D4C』は鋭敏な動作で腕を繰り出し、その半数ほどを撃墜したが、防ぎきれなかった幾つかの光弾が、『D4C』の体表に傷をつける。

「チィッ!」

 身体に痛みが生じたことから、ダメージの発生を察知し、『D4C』をわずかに後退させるヴァレンタイン。その歪められた表情に向け、古泉は薄く笑いを浮かべたまま、

「僕は、このまま、あなたを『拳銃』の射程外まで押し出し続けるだけです。みすみすあなたに接近を許しはしません―――さて、どうやって僕を退け、涼宮さんを追いかけます?」

 と、右手の人差し指で、拳銃を示すジェスチャーを作りながら、言い放った。ヴァレンタインの右眉が、ピクリと反応を示す。

「フンッ―――わたしを聖なる少女から遠ざけるため、足止めをするのが貴様の役割か。しかし、このわたしはすでに、聖なる衣服を手にしている」

 その言葉と同時に、ヴァレンタインが、自身の身に着けた濡れたコートの裾から、何かを取り出す―――古泉には、それが、『星条旗』の描かれた、身を隠せるほどに巨大な布切れのように見えた。

334: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 19:56:15.496 ID:d3LUbuSf0.net
「貴様は知っているだろうが―――」

 空中を、取り出した星条旗で薙ぎ払いながら、ヴァレンタインは言葉を紡ぐ。

「このわが『世界』は、『基本世界』や、貴様らのいた『聖なる世界』とは、いわば、『別の宇宙』に生まれた世界だ」

 古泉は、20mほど離れた位置に立つヴァレンタインの言葉を遮ることはせず、しばし、それに耳を傾けた。ヴァレンタインの星条旗が、古泉の目線から、ヴァレンタインの体を覆い隠すように、僅かに雨風になびく。

「故に。わが『D4C』の持つ『世界を行き来する能力』は、何の効果も持たない、『死に能力』だった。しかし、私が手にした『聖なる衣服』はッ! 『涼宮ハルヒ』の衣服は、このわたしを新たなステージへと導いてくれたぞッ!」

 その言葉と共に、ヴァレンタインは、空中に水を吸った星条旗の布を広げた。そして、まるで、古泉や長門、朝比奈がこの世界に連れてこられた瞬間のように―――大地へと舞い降りる星条旗の下に身を隠したのだ。
 次の瞬間、

「『D4C(いともたやすく行われるえげつない行為)』」

 星条旗の下から、ヴァレンタインの姿が消滅した―――大地と星条旗の間に挟まれ、その空間に吸い込まれるようにして、かき消えたのだ。古泉は、手の中に光球の原型を作り出しながら、周囲を探る―――
 やがて。古泉の目の前で、その現象は発生した。

「どじゃアァァァァ―――ん」

 大地に広げられた星条旗が、モコモコと膨らみ、たった今消えたはずのヴァレンタインが、星条旗と大地の間から這い出して来る―――
 『何人も』だ。

「何―――だと?」

336: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 19:58:01.719 ID:d3LUbuSf0.net
 古泉は思わず、額に汗をにじませ、声を漏らした―――
 ヴァレンタインの『D4C』……世界を行き来する能力が、この『閉鎖した世界』の中でも、何らかの形へと変わって存在していることは、先日、フィラデルフィア独立宣言庁舎で交戦した際に察していたが―――

「そう、この宇宙に『別世界』は存在しない」

「しかし―――涼宮ハルヒの『創造』の力は」

「その源となる力を秘めた『衣服』を手にしたこのわたしは」

「『無』から『有』を作り出すことができる―――」

「たった今。わたしはこの宇宙に『別世界』を作り」

「そこからわたし自身を『連れて来た』ぞ」

「『十一人』ほどな」

 現れた十一人のヴァレンタインが、次々と口を開く。声が何重にもなり、鼓膜に届く―――古泉は、自身の胸に『焦り』が灯るのを感じた。

「わが『D4C』は新たなステージへと到達した」

「この、基本世界とは別の宇宙上に生まれた世界は」

「わたしが『涼宮ハルヒとその衣服』のすべてを手にしたとき」

「新たなる『基本世界』へと昇華されるのだ」

「その時は近づいている―――貴様ごときに邪魔はさせんッ!」

 ズア。と、音を立て、十一人のヴァレンタインが、次々と腰から何かを取り出そうとする―――『拳銃』だ。

「『ミステリック・サイン』ッ!」

 古泉は、手の中の光を、先ほど放ったのと同様の『礫』へと変化させ、それをヴァレンタインたちに向けて放った。接近を許せば、古泉はハチの巣だ。
 距離さえ保てば、勝てる―――十一人という人数は恐ろしいが、それでもまだ、ヴァレンタインたちには弱点がある。それは、『D4C』の存在。

338: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 20:00:02.227 ID:d3LUbuSf0.net
「あなたが何人来ようと―――『能力』はひとつ。僕の攻撃を、『D4C』で防御できるのは、ひとりのはずです。生身で僕の『球』を防ぐことができるでしょうか?」

 真紅の雨を放ちながら、古泉が囁くと、ヴァレンタインたちは口々に、

「フンッ馬鹿を言え」

「誰が貴様とのボール遊びに付き合ってやるといった?」

「たった今、わたしの作り出した世界の『わたし』が、『イイモノ』を持ってきてくれたぞッ!」

「ぱんぱかぱァァァ―――ん」

 古泉は、視界の中に捉えていた。その言葉の直後、ヴァレンタインたちのうちの一人が、背に携えていた―――『ライフル』を取り出す様子を。

「くッ―――『ミステリック・サイン』ッ!」

 冷や汗が額に滲むのを感じながら、古泉はもう一波、赤い礫の雨を放った。しかし、ヴァレンタインたちは、自らの体を盾にし、ライフルを持ったヴァレンタインを赤い礫から逃れさせる。
 手早い動作で、ライフルを組み立てたヴァレンタインは、古泉の光弾を受けて倒れてゆくヴァレンタインたちの背後から、その砲口で、古泉を狙っている―――正確に。

「さらばだッ『赤球使い』! せめてもの慈悲で『ヘッド・ショット』で葬ってやるッ!」

 スコープに片目を当て、古泉へと照準を定め終えたヴァレンタインが、高らかに叫ぶ―――しかし、その直後。鳴り響くはずだった銃声を、何かが遮った。ヴァレンタインの後方から放たれた、『何か』が。

340: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 20:02:38.950 ID:d3LUbuSf0.net
 ギャルギャル。と、音を立てながら、その『何か』が、ライフルを構えたヴァレンタインの体を『掠め』―――直後、ヴァレンタインの体が右半分を残し、『失われ』たのだ。

「何ッ!」

 それにより、ヴァレンタインがバランスを崩し、ライフルの銃身が大きくぶれる。何が起きたのか分からない、といった様子で、声を上げるヴァレンタイン―――古泉は、状況を、ヴァレンタインより一足早く把握し、

「間に合ってくれましたか―――」

 いつの間にか、ヴァレンタインたちの背後に差し迫っていた―――馬にまたがるその男に向け、呟いた。

「『壊れゆく鉄球(レッキング・ボール)―――左半身失調』」

 脱線した列車の脇を、馬の蹄をビシャビシャと鳴らしながら―――古泉の『仲間』が、こちらへと駆けてくる。作戦が滞りなく進んでいるなら、おそらく、その背後には『彼女』の姿もあるだろう。

「こっ、古泉くぅ―――ん!」

 古泉の思考より一瞬だけ遅れて、雨音に紛れたその甲高い声が、周囲に響き渡った。その二人の名は―――『ウェカピポ』と、『朝比奈みくる』。
 ウェカピポは、今しがたヴァレンタインに投げつけたらしい、『鉄球』を手の中に戻しながら、手綱を引き馬を停止させた―――そして、背後の朝比奈に短く何かを告げると、

「古泉、待たせたな。だが『切り札』は連れて来たぞ」

 と、大地に降り立ちながら、低く、研ぎ澄まされた声で、古泉に向け言い放った。その声を受け、古泉は一つ、短く頷き返すと、ヴァレンタインたちに再び視線を向ける。

341: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 20:04:19.070 ID:d3LUbuSf0.net
 十一人いたヴァレンタインたちは、その内六人が古泉の放った光弾を受け、泥の大地に倒れていた。残りは五人―――『失調』中の、ライフルを携えたヴァレンタインは、忌々し気に顔をゆがめながら、

「ウェカピポか……貴様が噛んでいたとはなッ!」

 その言葉と同時に、周囲のヴァレンタインたちが、腰の拳銃を抜き、その砲口をウェカピポへと向ける。が、直後、ウェカピポの手の中の鉄球が回転し始め、

「『硬質化』だ」

 放たれたその言葉と共に、ウェカピポの全身が、まるで鋼鉄の様な光を帯びた。数発の銃声が響いた直後、放たれた弾丸がウェカピポの体表に弾き飛ばされる、金属音にも似た音が、辺りの空間を切り裂く様に揺らす。
 ヴァレンタインの攻撃が途切れたことを察知すると、ウェカピポは、左半身を失っているヴァレンタインに向け、手の中の鉄球を放った。
 ズギャァ。と、鈍い音を立てながら、ヴァレンタインの抱えていたライフルが、ぬかるむ大地の上に弾き飛ばされる。
 ヴァレンタインたちの注意がウェカピポに向かっている―――今なら倒せる。少なくとも、『D4C』を持っている以外のヴァレンタインは。古泉はそう確信し、両手に赤い光を迸らせた。

「『ミステリック・サイン』―――食らえ、大統領ッ!」

 その声に、五人のヴァレンタインたちが、一斉に古泉に振り返る―――しかし、回避行動をとる時間はなく、赤い光が炸裂し、五人中、四人のヴァレンタインが、新たに地に倒れ伏した。残るは―――一人。

344: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 20:06:02.782 ID:d3LUbuSf0.net
「チィッ」

 ヴァレンタインが、舌打ちをしながら、再び星条旗を広げようとコートの内側に手を伸ばす―――しかし、それをウェカピポが放った、二球目の鉄球が妨害する。ベギィ。と、鈍い音を立てながら、その左腕がへし折れ、『失調』が始まった。
 ドシャ。と音をたて大地に落ちる、星条旗と拳銃。その拳銃を、駆け寄ったウェカピポの右足が、はるか遠くへと弾き飛ばす。

「オレたちを撃ち殺すとか、また新たに『自分』を連れて来るとか、そういう事はさせない」

 浴びせられた、ウェカピポの短い言葉に、右側のみとなった顔を歪める、ヴァレンタイン。古泉は、再び光球を放つ準備を整えながら、

「あなたを『挟む』ものは、もう何もありませんよ―――ウェカピポ、大統領から離れてください」

 チィッ。舌を鳴らし、その場から飛びのいたウェカピポと、離れた位置にいる古泉に、順番に視線を巡らせるヴァレンタイン―――彼に残された攻撃手段は、『D4C』による、近接格闘能力のみのはずだ。

「あなたが『近づいていい』ものは、ここには何もありません」

 古泉の言葉に重なるように、雨雲に包まれた空から、轟くような音が降り注いで来た。『失調』の時間が終わったのか、ヴァレンタインの左半身が、少しづつ元の姿へと戻ってゆく。そして、直後―――

「ふ……フフフ……フハハハハッ」

 ヴァレンタインが、笑った。

346: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 20:08:02.152 ID:d3LUbuSf0.net
「近づく必要などない―――『引力』は、向こうの方から来てくれているぞ―――勝利すべきもの、この、ファニー・ヴァレンタインの元へとなッ!」

 そう言い放ち、視線と手のひらを頭上へ……『空』へと向けるヴァレンタイン。その言葉を合図とするかのように―――ヴァレンタインの体が、『消滅』し始める。『雨に打たれ』た部分から。

「なんだと―――まさか、雨粒と地面の『間』に―――そんなことまでッ!」

 声を上げながら、ウェカピポが手の中の鉄球を、ヴァレンタインに向けて放つ―――しかし、それよりわずかに早く、雨粒がヴァレンタインの姿を完全に消滅させた。
 そして、ほんの一瞬―――雨音のみが響き渡る時間を挟んだ後、

「『作り出し』たぞ」

「このわたしの『D4C』が」

「この『宇宙』に」

「新たなる『世界』を」

「そして『連れて来た』ぞ―――」

 ヴァレンタインが現れたのは―――古泉、ウェカピポの周囲。『大地と雨粒に挟まれた空間』から。

「―――『百八人』だッ!」

347: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 20:09:13.008 ID:d3LUbuSf0.net
 群衆。
 たった今の瞬間まで、古泉、ウェカピポ、朝比奈の三人が、取り残されたかのように立ち尽くしていた空間に―――古泉らを取り囲むように、無数のヴァレンタインたちが現れたのだ。
 ヴァレンタインによって作られた『別世界』から呼ばれて来た『群れ』。幾億と降り注ぐ雨粒が、彼らを『連れて来』た。

「く―――気を付けろ、古泉! ヴァレンタインの狙いは―――『拳銃』でオレたちを撃つことなんかじゃない、奴は―――」

 無数のヴァレンタインたちの姿を挟んだ向こうで、ウェカピポが叫んだ。しかし、その声が途中で遮られる―――おそらく、ヴァレンタインの『攻撃』によって。

「げはッ!」

 直後に、呻き声。そして、

「このまま貴様らを『108vs3』で甚振ってもいいが―――『聖なる少女』を手にするためには、手早く済ませなくてはいけない」

「グゥッ!」

 ヴァレンタインの声と、打撃音。さらに、ウェカピポの物らしき二つ目の呻き声が、相次いで古泉の耳に届く、ヴァレンタインの群れによって視界は遮られ、何が起きたか、確認することはできないが、おそらく、ウェカピポがやられたのだ。

「そしてわたしの『D4C』は―――この百八人のファニー・ヴァレンタインの元を『伝っ』て、すぐ貴様のそばまでも行くぞッ! 古泉とやらッ!」

 ドシュ。と、大地を蹴る音とともに、ヴァレンタインの群れの頭上に、『D4C』の耳にあたるパーツが飛び出し、それが徐々に、古泉の元へと近づいてくるのが分かった。
 ヴァレンタインから、隣のヴァレンタインへ。そこから、さらに次へ。次々と受け渡されながら、古泉の元を目指しているのだ。

348: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 20:10:04.622 ID:d3LUbuSf0.net
 そして、それは―――古泉が、接近してくる『D4C』に備え、身構えてから、ほんの五秒ほど先の未来の出来事だった。古泉と接近して存在していたヴァレンタインのうちの一人が、古泉に向き直り、叫んだのだ。

「『D4C(いともたやすく行われるえげつない行為)』ッ! はらわたを抉り出してやるッ!」

 声を発したヴァレンタインの身体から、屈強の男性のような姿をした『D4C』が現れ、その拳が、古泉の腹部に叩きつけられた。おそらく、いくつもの内臓が破裂しただろう。
 古泉は、その瞬間、口の中に、苦みばしった、血液の味が広がるのを感じていた。

「ぐ―――はっ……」

「わたしは突き進むぞ―――この国、この世界、この宇宙をッ! 『真』へと昇華させるためになッ! 貴様らはその『礎』となったのだッ!」

 雨音をかき消すほどに強く、ヴァレンタインは叫んだ―――古泉は、全身が、この世から消え去ってしまったかのような、虚無感にもにた感覚を覚えながら―――それでも、腹部に突き刺さった、『D4C』の腕に両手で掴みかかった。

「ムッ」

 異常を察知し、ヴァレンタインが声を上げ、古泉に突き刺さった『D4C』の腕を引き抜こうとするが―――古泉は、自身の体に残された『能力』で、それを繋ぎとめた。真紅の光が、古泉と『D4C』、ヴァレンタインの姿を包み込み始める。

「チッ、悪あがきを―――」

「ありがとう……あなたに―――あなたの『D4C』に、こうしてもらうために……僕はこの世界に来たんです」

350: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 20:12:02.838 ID:d3LUbuSf0.net
 その声を発すると、同時に。古泉は、ぼやける意識の中、自身らを包んだ赤い光の球を、ゆっくりと―――気が遠くなるほどにゆっくりとした速度で、『大地から持ち上げ』始めた。

「何ッ―――これは!」

 突如、足元から大地の感覚を失ったヴァレンタインが、周囲を見渡しながら、声を上げる。古泉が『空中』へ連れて行くのは、自分自身と、目の前のヴァレンタイン。そして―――『D4C』のヴィジョン。

「たとえ―――あなたが、何人で来ようと。この『D4C』さえ斃すことができれば良かった。いわば、あなたの『能力』の本体は、この『D4C』の方なのですから、ね」

 人の背の高さを大きく越えた高度へと、古泉たちは『上昇』してゆく―――その瞬間。空が轟く音を聴き、ヴァレンタインは『理解』したようだ。古泉の、最後の『狙い』を。

「ッ―――貴様、まさかッ! このわたしの『D4C』をッ!」

「あなたは……『電気椅子の刑』です……『椅子』なんて……何処にもありませんが……ね……」

 古泉の意識は、ついに途切れようとしている。生と死、その限りなく死に近い場所で、古泉は、残された大地の上に立つ―――一頭の馬と、その馬にまたがっている、その人物に視線を送った。

「お願いします―――空よッ! 私の願いを、聴いてください―――たとえ、これが最後になってもいい! 私の『声』に、答えてッ!」

 古泉の合図を受け、その人物が、甲高い声で―――今にも泣き出しそうな表情で、古泉たちの姿を見つめながら叫んだ。

「くッ……やめろ、考え直すんだッ! このわたしが―――このわたしの『D4C』なくして、この世界は―――!」

352: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 20:14:04.463 ID:d3LUbuSf0.net
 ヴァレンタインがもがき、『D4C』が再び古泉の体に拳を叩き付ける。しかし、古泉は、『能力』を解除しない。空中に留め、上昇させ続ける―――『D4C』と、ヴァレンタインを。

「『勝利』なんていらない―――ただッ! 私に一度だけ、『力』を貸して―――ッ!」

 おそらく―――朝比奈は、悲しむだろう。
 この、古泉と朝比奈の最後の『攻撃』が終わった後には―――多くの『痛み』が残るのだから。
 『D4C』を斃すことができても、古泉とウェカピポは恐らく息絶え、Dioと交戦している長門も、すべてを無事に済ませることはできないと思われる。そして、涼宮ハルヒは―――もう、この世にいない。
 けれど、それでも―――古泉には、朝比奈には、『希望』が残っている。たった一人―――この閉鎖された世界で、涼宮ハルヒを乗せて、今日まで走り続けて来た、『希望』が、たった一つ残っている。
 だから―――これでいい。『彼』になら、すべてを任せられるから。

「お願い―――『サムデイ・イン・ザ・レイン』ッ!」

 やがて、両眼から宝石のような涙をあふれさせながら、朝比奈がその名を叫んだとともに―――古泉たちの頭上に、押しつぶされそうなほどの轟音が降り注いできた。空が―――朝比奈の声に、応えたのだ。

「やめろ―――やめるんだァァァ―――ッ! このわたしを―――誰だと思っているッ!」

 不意に、古泉の身体から、痛みというものが消え去った様な気がした。古泉の、命が―――あの『女神』へと捧げ続けられていた、そのちっぽけだった命が、終わろうとしているのだ。

353: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 20:16:02.372 ID:d3LUbuSf0.net
「また……会いましょう……朝比奈さ……また……部室……で……ね……」

 ―――最後に、古泉はそう呟きながら、朝比奈に視線を送り、必死で微笑みを浮かべようとしたが―――その笑顔と声が、朝比奈に届いたかどうかはわからない。
 その瞬間、天から舞い降りて来た『雷』が、古泉と、ヴァレンタイン。そして、『D4C』を、強く強く打ち付けたからだ。
 
 
 
 
 
 静かで、誰も居なく、何もない空間を、バイクでただひたすら走るってのは、思うに、バイクに乗りたがる奴ら全員の夢なんじゃないだろうか。この世界に来て、飽きるまでそうしていられた俺は、ある意味じゃ幸せ者かもしれない。
 そして、同じくバイク乗り垂涎のものであろう、心から親しい仲間や、見目麗しい異性を、後部座席やサイドカーに乗せて走るって夢まで叶えられた。たった、バイクを手に入れてから、二か月ほどでだ。
 前に、ハルヒと朝比奈さんと、トウモロコシ&ポテトチップス談義をしながら、長閑な農耕地帯を走った時、俺は確かに『幸せ』を感じていた。
 こんな訳の分からん世界に放り込まれ、話の合わない連中と、衣服の奪い合いなどという物騒なやり取りをさせられながら、俺はあの時、『幸せ』だったんだよ。
 だから、もし―――今、俺の後部座席で、あの涼宮ハルヒが何やら企んでいて、サイドカーのシートの上で、朝比奈さんが微笑んでいたとしたら、きっと俺は、今だって『幸せ』を感じていたと思う。

355: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 20:19:03.785 ID:d3LUbuSf0.net
「ハルヒ……寒くないか?」

 三十分ほど降り続いたあの雨がやみ、大西洋から吹き付ける潮風が、濡れネズミの俺と、真っ白になったハルヒの肌をぶしつけに撫でていくようになっていた。
 ハルヒの身体は、俺が途中でマントを脱がせ、代わりに雨具をかぶせてやった為、それほどは雨に濡れていないが、それでも―――言葉を発さない、寝顔にも似た表情を湛えたハルヒが、『寒い』と言っているような気がしたんだ。
 少し考えた後、俺は愛車を停め、カバンの中からシカゴで買った赤いマントを取り出し、それをハルヒの体にかけてやった。暑すぎるだろうか?

「もうすぐニュージャージーだぜ。レース選手たちは、ボートで海を越えるらしいが、俺のこの愛車で、ランタン湾を渡ろうとしたら、さすがにみんなびっくりするだろうな」

 水滴のついた雨具をしまい込みながら、ハルヒに話しかける―――変な話なんだが、ハルヒがもう何も言わないと、分かっていても。
 それでも、こうして話しかけていたら、何か一言でも帰ってくるんじゃないかと、未だに思ってるんだよな、俺は。まあ、よくある話っちゃそうなんだけどさ。
 涙は、雨の中を走っている間に、ほとんど流し尽くしてしまったはずだったのに―――こういうことを考えていると、まだ、目の奥にこみ上げてくるものがあり、俺はつくづく、自分が弱い人間だという事を思い知らされる。

「俺は『温厚』じゃなくて、『ヘタレ』って、前にお前が言ってたよな。あれ、正解だったみたいだな」

357: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 20:20:29.673 ID:d3LUbuSf0.net
 ハルヒに語り掛けていると、ふと、愛車のミラーに映った、自分の顔が目に入った。ミラーに映った俺は、俺自身が、こんな微笑み方ができたのか、なんて、びっくりするような表情をしていて―――
 だけど、そんな驚きも次の瞬間に忘れるようなものを、鏡に映った背後の空間に見つけ、俺は息を詰まらせた。
 俺の愛車の轍が残った大地の上を、馬に乗った誰かが、こちらへ向かって走ってくるのが見えたんだ。それだけ考えたら、別に驚くような事でもない。
 俺が走っていたのは、レースのエイスステージのコースその物なのだから、選手の誰かが通りかかっても、おかしいことは何もないんだが―――
 まだ、誰だか確認できないほど遠くにいる、そいつが誰なのか。俺にはなぜかすぐにわかった。

「……ハルヒ。すぐ―――すぐ終わるからな」

 ハルヒの、閉ざされた瞼にかかっていた、濡れた前髪を除けてやりながら、俺はそう告げ―――程なくして、俺の目の前までやってきた、その男に向き直った。

「お前が……『ジョニィ・ジョースター』か」

 俺はそいつの事を知っている。一時期は、尾行していたこともある。だというのに、真正面から顔を見たのは、それが初めてだった。脚が動かない身でありながら、レースに参加し、ここまでのステージで上位にガンガン食い込んでいる男。
 そして―――『衣服』を集めていた者たちの一人。

358: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 20:22:01.395 ID:d3LUbuSf0.net
「―――君は、あの日……ゲティスバーグで」

 馬から降りないまま、ジョニィは青色の瞳で、俺と、俺の愛車を順番に見た後、譫言の様な語調でそう呟いた。ゲティスバーグ……そうだ、俺が大統領に撃たれた時、こいつは俺のすぐそばに居たはずなんだよな。

「ああ、俺はあんたの顔は見ていなかったがな」

 俺が、短くそう呟き返すと、ジョニィは、

「そうか―――『聖なる少女』は? 一緒じゃないのか?」

「話が早いな、ずいぶん」

 苦笑しつつ、俺がそう漏らすと、ジョニィはそこでようやく、俺の愛車のサイドカーの上にハルヒが横たわっていることに気づいたらしい。

「彼女は―――そうか、Dioに……」

 俺は、黙って頷き返す―――それにしても、こいつはハルヒ自身が、最後の『衣服』だってことを知っているようだが、何処で仕入れた情報なんだろうか。

「Dioやホット・パンツから聴いたのか? ハルヒの事を」

 俺が、どうせ答えは返ってこないだろうと思いながら、そう訊ねかけると、

「いや、ヴァレンタイン大統領から聴いたよ」

 え、ヴァレンタイン大統領?

360: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 20:23:10.452 ID:d3LUbuSf0.net
「そうだ。フィラデルフィアでな……そして、『この世界』のことも。―――ハッキリ言おう、僕は大統領の遺志を『受け継いで』ここまで来た。この世界を『定着』させるために、君から『聖なる少女』を奪う―――これから」

 ―――ちょっと待て、ジョニィたちと大統領は、睨み合っていたような仲じゃなかったか? それが何故いきなり、ジョニィが大統領の遺志を受け継いだ、なんて話になる? それに―――『世界を定着』ってなんだよ。

「知らないのか? 君は『聖なる少女』とともに、『聖なる世界』からやってきた者でいながら。この世界の成り立ちを。そしてこれから、この世界に起きようとしていることを」

 ジョニィのその言葉を受け、俺は思いだした。ハルヒが―――まだ、Dioに攫われる前に、言いかけていたことが有ったことを。確か、この世界が、ハルヒの力と誰かの力が引き合って、どうのこうのというような話だったはずだ。

「……僕は大統領がしようとしていたことはどうでもいい。アメリカ国や民衆のこともな。しかし―――この世界を『消滅』させる事だけはさせないつもりだ」

 ジョニィは、俺が話を飲み込んでいないことを分かっているのかどうか知らんが、構わず次から次へと言葉を放つ。俺はそれに何かを言い返そうとして―――ジョニィの眼に滾っている光の色に気づき、息を飲んだ。

362: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 20:24:02.228 ID:d3LUbuSf0.net
「たとえ何があっても、僕は『この世界』を『定着』させる。この―――僕とジャイロが生きて来た世界を」

 執念にも近い意思の込められたその瞳には、どんな言葉も掛けづらく―――と、ジョニィがその人物を示す名前を口にしたことで、俺は初めて気付く。

「ジャイロ・ツェペリは……一緒じゃないのか?」

「ジャイロは、ここまでは来れなかった。衣服を手に入れた大統領が『作り出し』た『別世界』から、自分自身を連れてこられて―――死んだよ」

 ヴァレンタインが……世界を作り出した? それが、ヴァレンタインの能力だったのか? もしそうだとしたら、それじゃまるで―――いや、待てよ。
 そうか―――『だからハルヒの衣服だった』のか?

「ジャイロが死んだ後、僕は聴いたんだ。聖なる少女が『回帰』し、この『宇宙』から失われれば、世界は『消滅』すると。―――けれど、この世界の誰かが、衣服と、聖なる少女を『トリニティ教会』へ連れていく事ができれば」

 俺の思考とは無関係に、ジョニィは言葉を紡ぎ続ける。

「その時、『この宇宙』は、『本当の意味での宇宙』になるそうだ。聖なる少女の力によって守られた、調和した宇宙に。大統領が死んだ今、それができるのは、僕しかいない」

 世界が消滅する。
 念仏のように聞こえるジョニィの言葉の中で、たった一つ、俺にとって心当たりのある文句があった。ハルヒが去年の春にやらかそうとした事だ―――自分で創造した世界へと鞍替えし、元いた世界を消滅させる。

363: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 20:25:01.851 ID:d3LUbuSf0.net
 そうか、つまり―――俺たちが元いた世界で、古泉や朝比奈さん、長門らが、世界の消滅―――崩壊を防ぐべく奮闘していたように、このジョニィ・ジョースターという男も、今、ハルヒを連れて行こうとしている―――世界のために。

「悪いが、僕は本気だ。君が僕の邪魔をするというのなら―――君を殺してでも、聖なる少女を連れていく。この世界には、その少女が必要なんだ」

 ―――ああ、そうかい。よく分かったよ、お前の言いたいことが……実際は半分も分かっちゃいないが、肝心なポイントだけは把握出来たんじゃないかと思う。つまり、ハルヒが元の世界に帰っちまったら、この世界が消えちまうって事なんだろ?
 俺がジョニィに返すべき言葉は―――たった一つだ。

「俺も本気だ。お前にハルヒは渡さない」

 たとえ、この世界にいるすべての人間が、ハルヒがこの世界に残ることを望んだとしても。ハルヒが望んでいたのは―――『元の世界へ帰る』ことだからさ。
 こればっかりは―――譲れないんだ。

「…………わかった」

 ゆっくりと―――手綱を握った手を開き、俺に指先を向けるジョニィ・ジョースター。俺は、愛車のグリップに手を伸ばし、強く―――強く、それを握りしめる。決して放さないように。
 ―――世界のために戦う者と、世界を消滅させるために戦う者か。これじゃ、俺がラスボスみたいだな。

「―――『爪(タスク)』ッ!」

「『シックス・センス・アドベンチャー』ッ!」

365: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 20:26:01.708 ID:d3LUbuSf0.net
 ジョニィが声を上げるとともに、俺に向けられた指先から、銃弾のような『何か』が迸った。それと時を同じくして、俺の声で呼び起こされた愛車が、雄叫びを上げるかのようにエンジン音を放つ。
 まっすぐに向かってくる弾丸を、俺は、愛車を前進させることで、かろうじて回避した。空中で身を翻しながら、座席に跨り、アクセルをいななかせる。
 ジョニィの能力は、よく分からんが、あの指先から弾丸らしきものを放つ能力のようだ。今はなんとか躱すことが出来たが、真正面からぶつかって、俺に勝機があるとは思えない―――もどかしいことにな。

「ぶっ飛ばすッ!」

 今の『ぶっ飛ばす』は、ジョニィの野郎をって意味でなく―――愛車をニュージャージーに向かってぶっ飛ばすっていう方の『ぶっ飛ばす』だ。俺に出来るのは、精いっぱいの小細工を仕掛け、『逃げる』事のみ。

「『スロー・ダンサー』ッ!」

 パァン。と、ジョニィが、手の中の鞭か何かを鳴らすと同時に、ジョニィを乗せた馬が大地を蹴り、北東へと駆けだした俺の事を追いかけて来始めたのが、ミラー越しに見て取れた。
 ハルヒの体が、サイドカーから落ちていないことを確認すると、俺は、ポケットにねじ込まれていた例の物を取り出す。使い方がまだイマイチわからんが、武器と呼べるようなものは、これくらいしか持っていない。

「食らえッ! 『肉スプレー』だッ!」

366: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 20:27:15.758 ID:d3LUbuSf0.net
 ブジュウウ。俺は背後を振り返り、もはや親しみ深いものとなっちまった怪音を鳴らしながら、空中に肉の泡を振り撒いた。何処も狙わずにな。しかし、苦し紛れに放ったわりにその攻撃は有効で、

「くっ」

 俺を追うジョニィは、馬の体に肉が付くのを避けたかったのか、その場でたたらを踏んだ。ホット・パンツのやつなら、この隙に腕を分離させて、馬上に潜ませるとか出来るのかもしれないが、俺には無理だ。多分。
 ジョニィが一時停止したことで、距離が20mほど空いた。俺は、次なる小細工をどう仕掛けるか、周囲を見回しながら考える。実はもう『奥の手』は考えてあるんだが―――これは俺自身、どういう結果になるか分からないので、できれば避けたい。
 と、いうか、俺はジョニィをどうすればいいって言うんだ? さっきの様子を見る限り、ジョニィをいくら説得しても効果は無いだろう。そりゃそうだ、自分も含めた世界が消滅する道を選ばせる説得なんて、古泉の口八丁でも不可能だ。
 じゃあ、せめて無力化させる方法は、何があるか?
 ―――たとえばだが、あの馬を何とかすれば―――しかし、それはあまりにもどうなんだろうか。この世界に来てから、俺は誰かが他人の馬を攻撃する光景を、一度として見ていない。
 さっきの肉スプレーは馬に食らわそうとした感じになっていたが、アレは車上の俺からでは、馬上のジョニィの高さを攻撃するのは、どうしたって難しいという事。
 それと、放った攻撃がほとんど嫌がらせの様なものだった点を考慮して、ギリギリセーフという事にしておいてほしい。

367: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 20:28:08.047 ID:d3LUbuSf0.net
 じゃあ―――残る道は、一つしかない。ジョニィの馬を狙わず、説得もせず、ジョニィを『倒す』方法―――

「やるのか……俺が」

 歯噛みしながら、愛車をドリフト気味に停車させ、敵を振り返る。肉スプレーの嫌がらせは案外効いたらしく、ジョニィはまだ間誤付いている―――しかし、『そんなこと』が、出来るのか? この俺に。

「……君がもし、僕を『殺せない』とか、そういうことを考えているなら」

 不意に。ようやく肉スプレートラップから逃れたらしいジョニィが、停止している俺を見て、思い出したように口を開いた。

「もしもそうだとしたら―――君にはまだ、覚悟が足りないって事だ」

 ジョニィは、俺の思考を見透かしたように、

「僕は、『もし君に殺されたとしてもかまわない』―――そういう覚悟を既にしている。だから『撃てる』……いくらでもな。『殺す』というのは、『そういうこと』だ」

 覚悟? ―――俺は、自分の胸の内に、そういったものが転がっていないか、数秒かけて考えてみた。この場で、ジョニィに殺されてもいい覚悟?―――そんな物、あるわけねえだろ。この世界のプッツンした連中と一緒にしないでくれよ。

369: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 20:29:01.480 ID:d3LUbuSf0.net
「……そんなもんが無い俺には、お前を殺せないってか」

「そうだ」

 ずいぶんと人をナメた態度とセリフだが―――その通りかもな。
 そういやいつだか、ハルヒに言ったことがあったっけ。『命がなきゃ何にもならない』ってな。そうさ。俺たちは―――『五人揃って元の世界に帰る』ために、その為だけに、このプッツン世界を旅してきたんだ。
 少なくとも、俺は―――この世界で、一度として、誰かに『勝ちたい』がために行動したことなんてない。ただ、あるべき場所へ帰るために必要なものを探し求めていた―――時には、それを他人から奪おうとしたこともあったけどさ。
 そう―――俺は『勝利』なんて欲しくないんだ。この世界の連中、レースに出ている連中が、血眼になって欲しがっている、『勝利』なんてものは。ただ、この世界で野垂れ死んじまうなんて言う、『敗北』だけは、受け入れられなかった。
 そして―――気が付いたらこうなっていた。
 俺の目の前には、Dioだの、ホット・パンツだの、大統領だのが現れ―――勝ちたくなんてない俺たちを負かそうと、あの手この手で攻めてきて、その結果ハルヒは……
 だって言うのに。この上、まだ俺たちを負かそうと……俺たちから奪おうとしているのが、目の前のこの男なんだ。
 この男に負けちまったら、本当にすべてを奪われる。何もかもを。『負けないためには、勝つしかない』―――ハルヒが言ってたっけな。いつだか……忘れちまったけど、まだ、ハルヒが話せて、怒れて、笑えてた時の話だ。

370: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 20:30:01.603 ID:d3LUbuSf0.net
「……どうして泣くんだ? 敵である、僕を目の前にして」

 ジョニィに訊ねられ、俺は初めて……今日何度目になるか分からないが、両眼から涙が溢れ出していることに気が付いた。俺は、こんなに泣き虫じゃあなかったはずなのにな。ただ―――何で、こんなことになっちまったんだと思ったんだ。

「お前が……最後なんだよな?」

 俺が呟くと、15mほど離れた位置にいる馬上のジョニィが、少し眉を顰めた。俺は肉スプレーを握った腕の袖口で、目元の涙をぬぐい、

「お前が、最後で……その後はもう、『敵』なんてのは来ないんだよな?」

 突然の俺の言葉に、ジョニィは本当に困惑しているらしく―――手綱を握る手をわずかに緩め、首を傾げた後、

「少なくとも―――Dioは死んだ。大統領もだ」

 死んだ。ディエゴ・ブランドーと、ファニー・ヴァレンタイン大統領が。それはつまり―――長門や古泉、朝比奈さんたちが、それを『やった』って事なんだろう。つまり、アイツらにはジョニィが言う所の、『覚悟』があったんだな、きっと。
 ここで俺が、勝つことを求めなかったら。『覚悟』をしなかったら、あいつらの決めた『覚悟』とか、場合によっては『犠牲』とか―――そんなものまで、意味がなくなってしまうって事だ。
 だけど―――だけど。ハルヒが―――あいつが求めているのは、きっとそんな物じゃなくて、

371: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 20:31:02.783 ID:d3LUbuSf0.net
「―――ちくしょう……ちくしょぉッ! 行くぞ―――ジョニィ!」

 分からなかった。俺には、何も。
 だから、俺はせめて―――もし、『死後の世界』とかが有ったとして、そこにハルヒがいたとして、そこにいるアイツが悲しんだり、後から行った俺が、出会い頭にひっぱたかれたりするような選択だけは、したくないと思って。
 だけど、それでも、俺には―――ハルヒをさし出すことなんて、できないから。俺は、止まらない涙で滲んだ視界の先―――ジョニィ・ジョースターがいる地点に向かって、アクセルを吹かし、猛突進した。
 せめて―――ちゃんと狙えるように。ジョニィの弾丸が、ちゃんと、一発で終わってくれるように、

「『シックス・センス・アドベンチャー』ァ―――ッ!」

「―――ッ! 『スロー・ダンサー』ッ!」

 俺の突進に、さすがのジョニィも焦ったらしい。何しろこのまま接触したら、ジョニィもそうだが、馬が無事じゃ済まないだろうからな。
 ジョニィは、まっすぐに突っ込んで来る俺を、馬を斜めに前進させることで躱し、愛車に跨って移動する俺とすれ違いながら、

「『爪(タスク)』ッ!」

 いらなかったんだ―――『勝利』なんて。
 
 
 
 
 

373: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 20:32:13.005 ID:d3LUbuSf0.net
 ウェカピポの馬から降りた、朝比奈みくるの目の前からは―――何もかもがなくなっていた。ヴァレンタインの姿が大地に落ちると同時に、その空間に群れを成していた『ヴァレンタインたち』の姿は、大地に吸い込まれるようにして消え去ってしまった。
 そして、ヴァレンタインと同時に地に落ちたのは、ヴァレンタインともども、落雷に打たれた古泉一樹の肉体。そこから少し離れた場所に、ウェカピポの姿もあるが、古泉同様、腹部にあれほどの攻撃を受け、雨を受けた大地が染まるほどの血を流していれば―――

「うっ―――うううっ……うわあああッ……古泉く……ウェカピポさん……涼宮さ……わあああああ―――!」

 朝比奈が、ぬかるんだ大地に顔を伏し、泥で汚れることもかまわずに泣き始めたのと、ほぼ時を同じくして、空を覆っていた雨雲は姿を消したのだが、それに気づくこともなく、朝比奈は泣き続けた。
 何もかも―――何もかも。
 何故、すべてがなくなってしまった後に、朝比奈は残されてしまったのだろう? ただ胸が痛いだけ―――誰もいないのに、誰かに助けてほしいだけ。この奇妙な世界の、誰もいなくなった大地の上で、ただ朝比奈が涙を流すだけ。

「うっ……うううっ……」

 朝比奈の頭に思い浮かぶ名前は、もう、たった一つしかなかった。
 『彼』に―――『彼』に会いたい。彼はきっと、朝比奈の目の前で起きたことを知って、傷つくだろうが―――それでも、彼に会いたい。この胸の痛みを、誰かと共有したい。

374: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 20:33:01.848 ID:d3LUbuSf0.net
 しかし、彼を追いかける術など、朝比奈には―――

「え……?」

 不意に。朝比奈の突っ伏した泥の大地を伝って、何かが朝比奈に近づいてきていることを感じ、朝比奈は顔を上げた。
 それはウェカピポの馬に乗せられている間に、嫌というほど耳にした、馬の蹄が泥の大地を打つ音のようだったが―――

「あっ―――」

 周囲に視線を張り巡らせ、やがて朝比奈は気づいた。遠くから―――馬がやってくる。一頭の馬が―――その馬に、朝比奈は見覚えがあった。

「あれは、ホット・パンツさんの―――」

 ホット・パンツの馬―――『ゲッツ・アップ』という名のつけられたその馬の事を、朝比奈はわずかに知っている。ゲティスバーグで、ホット・パンツと共に一夜を過ごした時に、彼女からその馬の話を聞いたのだ。
 やがて、ゲッツ・アップは、数分の時間をかけて、朝比奈の目の前へとやってきた。朝比奈が目を奪われたのは、その口に咥えられていた『何か』―――その正体は、程なくして分かった。

「これは―――涼宮さんの、左靴……Dioさんの持っていた……」

375: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 20:34:01.636 ID:d3LUbuSf0.net
 ゲッツ・アップは、その言葉と同時に、首を低く下げた―――口に咥えた左靴を、朝比奈に手渡すかのように。一瞬躊躇った後で、それを受け取る朝比奈。

「そうだ―――『衣服』は。ヴァレンタイン大統領の持っていた衣服はッ!」

 朝比奈は、ヴァレンタインの亡骸に視線を移す。『衣服』の力がヴァレンタインに味方をしていたというのなら、その衣服はこの場のどこかにあるはずだ―――ヴァレンタインが、衣服を身に着けていた様子はない。となると、

「この『列車』の中―――? あっ、左靴が―――」

 古泉の攻撃を受けて起きたのであろう横転事故の現場を、朝比奈が振り返った瞬間、手の中の左靴が僅かに光を放ち始めた。引き合っているのだ―――衣服同士が。
 朝比奈は、その光に導かれるままに、列車の先頭車両の横転した出入り口によじ登り―――ほどなくして、座席と座席の間に押し込められた大きな布袋を見つけ出した。

「涼宮さんの『衣服』が、ついに『揃っ』た―――これで!」

 雨に濡れた石炭の奇妙なにおいが充満した空間から、布袋を引きずり出す朝比奈―――中を覗いてみると、そこには朝比奈にとっても馴染み深いデザインの、セーラー服やスカート―――
 それに、ハルヒのトレードマークであるカチューシャや、ブルーのヘルメットなどが収められていた。

377: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 20:35:02.645 ID:d3LUbuSf0.net
 そして、それらはいずれも、僅かに光り輝いている―――『引力』が働いているのだ。すべての衣服を手にした朝比奈には、衣服が引っ張られてゆく方角が分かる―――北東。

「届けなきゃ―――キョン君に! そうすれば、きっと私たちは、元の世界に帰れる―――!」

 それ以上躊躇う事はしなかった。衣服を抱きかかえた朝比奈は、二頭の馬をその場に残し、雨にぬかるんだ大地を駆け始めた。『彼』と、涼宮ハルヒの元へ向かって。





 顔面からいき、口の中に泥がもろに入った俺は、しばらく大地の上で悶絶した。愛車の座席から弾き飛ばされた際に口の中を切ったらしく、そこには血の味までもが混じっている。
 俺はどうなったんだ? ジョニィに向かって、何も考えずに突進して―――そうだ、確か、ジョニィが撃ったのは、

「……バイクの『タイヤ』を撃った。これ以上、君が動けないように」

378: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 20:36:01.685 ID:d3LUbuSf0.net
 ぶるる。と、馬が息をつく音とともに聴こえた、ジョニィの声。どうやら、大地にうつぶせに投げ出されたらしい俺は、体を起こし、状況を把握しようとする―――
 泥の地面の上に、愛車が横転している。サイドカーのある側を上にして。
 そして、僅かに離れた場所に、ハルヒが―――俺のかけてやったマントと共に、泥にまみれて横たわっていた。俺も大概泥まみれだったが、慌てて体を起こし、地に伏したハルヒへと駆け寄り、頬に付着した泥を拭ってやる。

「……どうして、俺を撃たなかったんだ」

 数秒の沈黙の後、俺は、10mほど離れた位置から俺とハルヒを眺めていたジョニィに、そう訊ねかける。するとジョニィは、少し諦めたような表情で、

「これからいくらでも撃てるさ―――君が、僕に聖なる少女をさし出さないというのなら」

 そう言って、俺の目の前で馬から降り始める。こいつは脚が動かないはずじゃなかったのか―――などと、俺が考えていると、ジョニィは俺に一瞬だけ視線を送った後、

「君は『聖なる世界』から来た。『聖なるもの』を撃とうとしたのは、今が初めてだ―――だから、まずはそのバイクで試した、それだけさ」

 そう言って―――左手を馬の胴体に当ててバランスをとったまま、自らの足を大地に着け、再び俺に指先を突き付ける。

「最後に訊かせてもらう。君は、これでもまだ、その聖なる少女を『さし出』さないか?」

379: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 20:37:02.331 ID:d3LUbuSf0.net
 やや高めだった声色を、これまでよりもわずかに低いものへと変え、ジョニィは言った。
 ハルヒをさし出す、か―――それができりゃ、話は早いんだろうけどな。俺が黙って首を横に振り、ハルヒの体を強く抱えなおすと、ジョニィは―――遠い遠い、果てしなく遠い場所を飛ぶ、鳥を見つめるような瞳をして、

「君には君の事情がある―――よく分かった。悪いけど、僕は僕の決めた道を進む―――君とはこれで、さようならだ」

 大地にべしゃっと座ったままの俺。その腕の中のハルヒ。馬の脇から、俺の体に指先を向ける、ジョニィ・ジョースター。聴こえるのは、さざ波と風の音。時々、鳥の声―――。

「ああ」

 俺が短く、言葉を発しながら頷くと、ジョニィもそれに頷き返してきた―――さようならだ。この世界と。
 奇妙で、恐ろしくて、不気味で、不思議で、えげつなくて―――
 けど、わずかにだけど、幸せや、楽しみもあったこの世界から、俺はいなくなるんだ。これから、わずかな時間が経った後で。本当に―――何でこんなことになっちまったんだかな。

381: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 20:38:01.960 ID:d3LUbuSf0.net
「君は、これまで僕が出会ってきた、誰よりも……弱いようで、強いようで―――うまく言えないやつだな」

 ジョニィがぽつりと、そんなことを口にする。
 てっきり、銃声が真っ先に来るもんだと思って、来るであろう痛みだとか、死への恐怖だとかを、胸の内でこねくり回していた俺は意表を突かれた。いつの間にか閉じていた瞼を開け、ジョニィを見る。

「でも―――おそらく『強い』……今この状況で、そんな『微笑み』を浮かべられるというのは……君のいる世界では、それが『強さ』だったんだろう」

 え、今、俺、笑ってた?
 強い、か―――それは前に、ホット・パンツにも言われたっけな。

「そうだと、少しうれしいかもな」

 そう言って、再び目を閉じようとした俺に、ジョニィが続けて、

「『名前』を聴かせてくれ。名前も知らない相手を撃つのは―――そう気が引ける事でもないんだが、なぜか今だけは、君の『名前』が知りたい」

 名前、ねえ。

「ジョン・スミスとでも呼んでくれ」

382: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 20:39:01.880 ID:d3LUbuSf0.net
「そうか。知ってるだろうけど、僕はジョナサン・ジョースター……愛称はジョニィ―――さようなら、ジョン・スミス」

 そこまで言って、ようやく俺に、目を閉じることを許すジョニィ。ああ、言われてみれば―――俺は今、微笑みを浮かべているようだ。
 さあ、さっさと済ませてくれよ。俺は今度こそ、『死』がやってくるのを待ち始めた―――不思議だが、案外悪い気がしないんだ、これが。
 俺に出来ることは―――やったしな。

「…………」

 沈黙―――俺には、何処までも長く感じられる沈黙を、やがて、破ったのは、

「…………ジョン、スミスが―――いるの?」
 
 
 
 
 

383: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 20:40:01.658 ID:d3LUbuSf0.net
 もし、『奇跡』というものがあったら、と、考えたことがある。
 そんなの、誰だって一度くらいはあるだろうって話なんだが―――俺はその時、とてつもなく切実に『奇跡』が起きることを願ったんだよ。
 あれは、俺の妹が―――シャミセンとかが来るよりもっと昔に、子猫を連れて家に帰って来た時だ。連れて、と言っても、その子猫はもう―――

「―――カラスにやられたんだ。きっと親猫のところから離れちまったんだな……高いところからウッカリ落とされて、もう死んじまってる」

 妹は泣いたよ。高らかに。今よりももっと甲高かった声で、それはもう―――泣かれすぎて、俺は途中から苛立ちすら覚えていたけど、今思えば、やっぱり子猫は可哀そうで―――
 奇跡でもなんでも起きればいいと思った。死んだ生き物が動き出しちゃいけないなんて決まり、何処のバカが作ったんだって本気で思ったんだ。けど―――死んだ生き物が動かないのは、やっぱり当たり前で、

「うわああああ―――ん!」

 こんな小さな俺の妹が、どうしてそんな『現実』を突きつけられて、絶望しなきゃならないのか―――心底理不尽に思った。この世界を『司っ』てる奴なんかがいるんなら、そいつを殴り飛ばしてやりたいと思った―――。

385: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 20:41:01.646 ID:d3LUbuSf0.net
 なのに、どうして。
 あの時は起きなかった『奇跡』が―――今、俺の目の前で起きようとしているんだろう。これじゃ、あの日の妹に申し訳なくなっちまうじゃないか。

「ジョン・スミスが―――いるのね、そこに……今行くって……伝えてちょうだい」

 そう、妹に申し訳ないけど―――それでも、やっぱり俺はうれしくて、また新しい涙が出てきて―――止まらなくて。
 もしかして、このプッツン世界になら『奇跡』だってあるって話で、それなら、あの日の妹を……あの日死んじまった、あの子猫と一緒に、この世界に連れてきてやりたいとか、そんなことを思っていて―――
 訳が分からないけど、気が付いたら、俺は、その『名前』を呼んでいた。腕の中で、たった今言葉を発した、そいつの体を、強く強く抱きしめながら。
 俺が、この世界で―――いや、たとえどの世界に行こうと、一番好きなんであろう、その『名前』を。

「ハルヒ……ハルヒ―――ハルヒぃっ!」

 ハルヒは、たった今、南極の氷をブチ割って這い出してきたみたいに冷たい身体をしていたが、それでも瞼を開き、俺の眼をまっすぐに見つめながら、

「―――キョン? ……ジョン、スミスは……? いや、今分かったわ……あなたがそうだったのね……キョン……」

387: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 20:42:15.884 ID:d3LUbuSf0.net
「そのコ……生きていたのか? いや、僕の眼にも死んでいたように見えた―――しかし」

 ジョニィが何か言っているんだが、正直、それを気にする余裕はなかった。だって―――ハルヒが、蘇ったんだ。確かに止まってた心臓が、また動いている。呼吸もしている。

「……ジョニィ・ジョースターもいるのね……大体……わかったわ」

 その言葉と同時に、俺の腕の中でガックリとしていたハルヒの体に、急に力が入った。身体を持ち上げ、足を大地に着け、立ちあがろうとしていようだ。慌てて俺はそれを助ける……肩を貸してやろうとしたら、何故かペシっと脇腹を叩かれたけど。

「……ヴァレンタイン大統領が死んだのね……だから、かな。多分だけど―――この世界は、私に『傾いた』んだわ」

 そのあたりで、俺はようやくハルヒの口にしている言葉の内容に意識が向いた。そうか、ジョン・スミスって言葉は、コイツのいろんなものを呼び起こしちまう禁句だったんだが……いつかの冬のように、この世界ではそれが『鍵』となって―――

「正直言って、まだ整理がついてないけど……頭の中がね。でも、いまするべきことは分かった」

 慌てだした俺の思考をよそに、ハルヒは、俺と、ジョニィと、大地に横たわる愛車を見比べ、

388: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 20:43:31.598 ID:d3LUbuSf0.net
「ジョニィ・ジョースター。とりあえず、あんた罰金。百万ドルね。私の運転手の愛車をパンクさせて、横転させるなんて、許されないことだわ」

 と、およそこの状況で、一番優先すべきではない事象に視線を注ぎ、その事故が発生した原因である男をビシィっと指さしながらそう言い放った。
 ジョニィは―――多分、俺より現状が理解できていないであろうその男は、そこでようやく、俺に向けていた指先を下ろした。うわ、今まで攻撃態勢だったのかよ。

「君たちの言っていることはわからない……しかし、どうも君は今、『復活』したみたいだな……さっきまで身体に力が入ってなかったのに。そして、今僕がやったことを咎めているのか……」

 復活―――その単語で、俺は欧米では一般的であるという、日本人の俺にはあまり馴染みの深くない行事を連想した。のだが、そんなこととは全く無関係に、ハルヒは、

「咎めるに決まっているじゃない。キョンまで……いや、私の身体まで泥だらけじゃないのよ。クリーニング代は別に請求するから、お金を工面する方法、考えておきなさい」

 と、そこまで矢継ぎ早に言葉を紡いだ後、何かを考える様に黙り込み、

390: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 20:45:01.805 ID:d3LUbuSf0.net
「―――ま、いいわ。どうせあなたはこれから『ミリオンダラー』になるんだしね」

 と、今度はよく分からんことを言い始めた。ミリオンダラー? 大金持ちって事か?

「何から話したらいいかしら―――とりあえず、キョン、この世界の事は少しは理解できた? ジョニィの話で」

 ジョニィの話……さっき聞いた、世界が定着するとか、消滅するとかっていう話の事なのか。その話をしてた時、ハルヒは意識がなかったわけだが―――とりあえず今はその点に突っ込むのはやめ、

「いや……ほとんど……つーか、全然」

「でしょうね」

 ハルヒは何かを考える様に、こめかみに指をあて―――

「この世界は、私とヴァレンタイン大統領の能力が、爆発を起こして生まれた。そこまでは話したわよね、私が。覚えてる?」

 Dioに攻撃される直前にしていた話の事なら、辛うじて覚えがあるが、その意味を飲み込めたかというと、それほど飲み込めてもいない。何しろ、あれから怒涛の如く時が流れ、気が付いたら今に至るって展開だったんだ。

391: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 20:46:32.931 ID:d3LUbuSf0.net
「この世界の『源』は、その爆発によって発生した『光』のようなものなのよ。私とヴァレンタイン大統領の力は、引き寄せ合い、一瞬ぶつかり、また離れて行った。その二つの力っていうのが、ヴァレンタインの言う基本世界と、私たちのいた世界のことなの」

 爆発。火だの煙だののあれを想像していていいんだろうか。俺はとりあえず、記憶の引き出しの中に突っ込まれていた、ありがちな『爆発』を脳裏に浮かべた。導火線に火が付き、火薬まで至り、直後に爆発。煙が出て、火がはじけ、

「『光』が発生する。その光に、世界が『映し出され』た。それは、自身の能力をよりよく理解していた、ヴァレンタイン大統領側の……つまり、『基本世界』の形を強く映し出し、そこに、もう反対側にいた私たちが映りこんだ」

 つまり……なんだ。よく分からんが、写真のフラッシュみたいなものか?

「あ、あんたにしてはいいこと言ったわね。そう、写真よ。この世界は、大統領のいた『基本世界』が、一瞬、私の能力と重なって生じた『光』に映し出された、写真のような世界……いや、世界を映し出した瞬間の、『光そのもの』なの。わかるかしら?」

 ハルヒは、大分俺の脳みそに歩み寄った言葉を選んでくれているんだが……そもそも俺はヴァレンタインの能力もろくに理解していないし、基本世界とやらも今初めて聞いた。故に、ピンと来るところがない。

393: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 20:48:01.715 ID:d3LUbuSf0.net
「一瞬の『光』……そうか、だからこの世界の大統領の能力には」

「『隣の世界』がない。そういう事よ、ジョニィ。そもそも、この現象で発生した光が、たとえどんなに小さな力でも、『世界』の形を保っていることがおかしいことなの。―――その原因は、『元の世界』にいた、私の力が働いたから」

 俺には分からない何かを、ジョニィは理解したらしい。ヴァレンタインの能力については、さっきも言ったが珍紛漢紛以前にろくな予備知識がないので、とりあえず俺は黙っておくことにする。

「私の『世界を作り出す力』が、その『光』に反応して、無意識に―――そもそも意図的にやったことはなかったんけど、とにかく無意識に、その光の映し出した光景を、『世界』として『作り出し』てしまった」

 この辺りで、やっと俺の知っている単語が出て来た。要するに―――この世界は、ハルヒが作った世界なんだ、っていう初日に考えた俺の予想が、丸ごと当たってたって事だろう? しかし、何でそんな面倒くさいことをわざわざ?

「言ってるでしょ、無意識にって。私の力が、急に起きた爆発に、びっくりして作っちゃったのよ。そして、その際に生じたこの世界を、世界の形に保とうとして、自分の力の一部を紛れ込ませた。―――無意識によ?」

395: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 20:49:32.272 ID:d3LUbuSf0.net
 びっくりしてって……ま、ハルヒが無意識にどえらいことをやらかすのは、今に始まったことじゃないがな。

「だから、この世界では私の衣服、そして私自身が強い力を持っている。この世界を世界の形に保っているのが、私の力なのよ。私から離れれば、この世界は―――消滅するでしょうね」

「……無責任すぎる」

 と、ジョニィが頭を押さえながら、呟くほどの音量で言った。確かに―――無責任だ。この世界は以前ハルヒの作った新世界とは違って……命があって、人がいて、営みがある。
 たとえハルヒの能力から生じたものだとしても、ジョニィや、ホット・パンツのような、この世界の人々には、ハルヒが世界から離れることを容認できるとは―――

「わかってるわ。だから―――私は、残ることにするわ、キョン」

 ――――――何だって?

「私は、自分の起こしちゃったことの責任を取る。この世界に残るのよ、世界を秩序立てる、力の源として」

 ハルヒは―――一体、何を言っているんだ?

400: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 20:51:02.416 ID:d3LUbuSf0.net
「救い、だったのがね。私が、涼宮ハルヒ自身じゃなくて、涼宮ハルヒの『力の一部』だったことよ。さっき言ったでしょ、涼宮ハルヒの力の一部が、この世界に紛れ込んじゃったって」

 俺の思考が追い付いていないことなど構う様子もなく、ハルヒは淡々と言葉を紡ぐ。ジョニィが何かを言おうとしたが、それを遮ってまでハルヒは、

「つまり、『涼宮ハルヒ』は、まだ元の世界にいるの。正確には、『爆発』が起きた瞬間から、元の世界は『凍結』されている―――この状態なら、きっと、私の力を僅かに含んでいる、あんたたち四人が『回帰』すれば、世界はまた動き出すわ」

 ちょっと待ってくれ、つまり―――俺の目の前にいるお前は、ハルヒじゃない。そう言いたいのか?

「そう……ハルヒの分身、力の欠片。それが、私なの。ついさっき、ヴァレンタイン大統領が死ぬまで、それは分からなかったけどね」

 と、自分の力の至らなさに、苦笑するような表情を作るハルヒ―――いや、ハルヒじゃない?

「そんな訳あるか―――だって、お前は現に、今日まで俺と―――俺と、朝比奈さんと……」

「……安全装置が働いたのよ。『爆発』の瞬間、『涼宮ハルヒ』は、自分の力の一部を切り離すことで、まるごと引き込まれることを免れたっていうこと」

 そんな―――ことが。

401: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 20:53:03.308 ID:d3LUbuSf0.net
「……本当なら、私の『力の一部』は、『衣服』のみの姿で、この世界に紛れ込んだはずだった。それでも、この世界を維持するっていう条件は満たせたはず。でも、『引力』があんたたちをも引っ張りこんだから。みんなの『私』のイメージが、私を『象っ』てくれたのよ」

 象った―――俺たちが、俺たちの知るハルヒの姿に、ハルヒの力の一部とやらを形作ったって言いたいのか?

「そう。だから、私をこの世界に『作っ』てくれたのは、あんたたちなの。」

「だって、そんなことをしなくたって……つーか、そもそも俺たちはどうして、この世界に―――」

「『引力』なのよ。あなたたちが、この世界に引っ張られたのも、私がこの『姿』でこの世界に来たのも。すべて、引力に導かれるがままに、だったってわけ」

 そこで一つ、息をつくと、ハルヒは大西洋の果てへと視線を移し、

「もし、そこに、意図的な『理由』があるとしたら、多分、涼宮ハルヒは、爆発によって、元の世界が『凍結』されるのを感じ取った。それで、あんたたちをこの世界に『避難』させたんだと思う……無意識に」

 凍結―――避難。

「そう。あんたたちがいる世界が、そのまま『凍結』されたら、それを『再始動』させる人が、誰もいなくなっちゃうでしょ? だから……なのよ、きっと」

403: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 20:54:24.081 ID:d3LUbuSf0.net
 そう言って、ハルヒは微笑んだのだが―――その微笑みに向かって、俺は言った。

「だったら、お前も、帰ればいい。俺たちと一緒に、帰ればいいだろ。俺たちがいた、凍結された元の世界とやらに。そして、『再始動』させれば―――それも、不可能なことじゃないんだろ?」

「……言ったでしょ。私は、『責任を取る』って」

 ハルヒがそう囁くと同時に、俺の周りのすべてのものが止まった気がした。動かない。風も吹かない、海も鳴らない。もちろん、俺の身体も、口も、ジョニィのそれらも、決して動こうとしない……『音』がない。

「私は、この世界を『作り出』してしまったんだから。その、『責任を取る』のよ」

「だって―――」

 お前の他に、『涼宮ハルヒ』がいて。そのハルヒが元の世界にいることも分かったさ。けど……だけど、今、俺の目の前にいる『お前』は、ここにしかいないって、そういう事じゃないのかよ。
 だったら、俺がこの世界に来てからお前と培ったものは―――そういう、すべてのものは、

「……大丈夫」

 ハルヒは、そう呟いた後で、ただ、微笑みを浮かべたまま、俺に、僅かに近寄って来たんだ。少しだけ唇を窄めて。そして、小鳥のくちばしのような唇の中心を―――ほんの一瞬だけ、俺の唇に、触れさせたんだ。

404: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 20:55:55.618 ID:d3LUbuSf0.net
「これで、あんたの事を忘れない。あんたの象ってくれた……生かしてくれた私は、ずっと、『ここ』にいるから」

 いつの間に、俺はまた泣き出していたんだろう。いや、泣き止むタイミングもなく、ただ泣き続けていただけの事なのかもしれない。
 ハルヒは、その、宝石よりもずっと綺麗な瞳から、まるで、この宇宙に浮かぶ、すべての世界を照らす『光の粒』のような涙を零しながら、

「これで、あんたを……忘れずにッ……この世界で、生きられるから」

 そう言って、俺の体を強く抱きしめたんだ。まるで、そう―――俺の愛車の後ろに跨った時みたいに。そして、その身体の暖かさで、俺は思い出したんだ。
 ハルヒがこうして俺に暖かさをくれるときは、いつも決まって―――こいつは、『本気』なんだっていう事を。

「……ジョン・スミス、涼宮ハルヒ」

 気が遠くなるほど長い間、俺とハルヒは、そうしていた気がする。やがて、ジョニィの声がそれを遮った。ジョニィが言いたいことは分かってるよ、さすがの俺でも。何しろ、ハルヒ本人がこう言っちまってるんだから、抗いようがない。
 俺はすべてをハルヒに任せ、ハルヒが口を開く瞬間を待った。ハルヒは、俺が何も言うつもりがないという事を察すると、

406: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 20:57:02.628 ID:d3LUbuSf0.net
「―――勘違いしないでね、ジョニィ・ジョースター。あんたには、私を手に入れるだけの代償を払ってもらうから」

 俺の身体から腕を放したハルヒは、もう、俺の顔面には目もくれず、その視線と指先をジョニィに向け、

「あんたはこれから、誰より早く『トリニティ教会』に行くのよ。このスティール・ボール・ランレースのゴール地点へ―――私をのせて『優勝』ッ!」

「それは分かって―――って、君をのせて!?」

「当たり前じゃない。『聖なる少女』が、『聖なる衣服』と共に、『トリニティ教会』へとたどり着いた時。その時、この世界の命運が決まるのよッ! こんな風にグダグダしてる時間なんてないのよ、本来」

 その言葉を受けたジョニィは、戸惑いと、そして僅かに、申し訳ない。といったような色の秘められた視線を俺に向け、そして、

「―――ああ、僕は行くよ。彼女を連れて、このレースの終着地へと」

 俺は―――その言葉に、ただ頷くことしかできなかった。そう、弱かったんだ、俺は。
 たったひとり、ハルヒの決めた道を、その場で説得するっていう手段を持っていながら、その道すら選べないほどにさ。
 と、その時、

407: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 20:58:42.266 ID:d3LUbuSf0.net
「涼宮さぁーん! キョンくぅーん!」

 少し離れた場所から、馴染みの深い、鈴の音に似た声が聴こえて来た。俺がフィラデルフィアの町に置き去りにしてしまった朝比奈さんが、俺たちの元へと追いついたのだ。

「みくるちゃん―――衣服を持ってきてくれたのね」

「は、はぁーい……はあ……よかった、涼宮さん、無事、だったんですね……」

 荒く息をつきながら、朝比奈さんは、抱え込んでいた布袋をハルヒと俺、どちらに渡したものかと迷った後、そこでようやくジョニィの存在に気づき、

「あ、えっと……こ、これは、涼宮さんの衣服とかじゃなくてッ、その……」

 と、しどろもどろし始めた。朝比奈さんなりに現状を誤魔化そうとしているようだが、正直あんまり効果は期待できない。

「大丈夫よ、みくるちゃん。衣服は私が受け取るから。ジョニィも了解済みよ」

 ハルヒがそう言うと、朝比奈は安心したように表情を和らげ、ハルヒに、腕の中の布袋を手渡した、その瞬間、ぱぁっ。と、ハルヒの体が光を発し始める。

「揃った―――『聖なるもの』が」

 光り輝くハルヒの姿を、尊いものを見るような表情で強く見つめながら、ジョニィが呟いた。そして次の瞬間、その光が止んだかと思うと、

409: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 21:00:05.875 ID:d3LUbuSf0.net
「―――よしっ!」

 ハルヒの腕の中からは、その布袋は消え去っていて―――ハルヒの体は、俺にとってずいぶん懐かしいものとなった、あの『セーラー服』に包まれていた。カチューシャだってちゃんと着けてる。おお、懐かしいな、それ。おまけに、例のSOSヘルメットまで小脇に抱えている。

「これで、『私』は完成したわ。―――ジョニィ、行きましょう。さっきも言ったけど、こんなところで間誤付いてる暇はないんだからね」

 真・ハルヒが、呆然とそれを見つめていたジョニィに向き直り、そう言い放つ。ジョニィは、二秒ほどたっぷりと無言で、ハルヒを見つめた後、

「そうだな。もうニュージャージーまですぐだ……今にレース選手たちも集まってくる。行こうか、聖なる……いや、『涼宮ハルヒ』」

 ジョニィの言葉に、朝比奈さんが眉毛をハの字にし、

「えっ、涼宮さん、えっと、行くって、何処へ?」

「ん、ちょっとね。―――大丈夫よ、みくるちゃん。あなたたちを、元の世界に返すために、ちょっと寄らなきゃいけないところがあるだけ」

410: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 21:01:02.293 ID:d3LUbuSf0.net
 戸惑う朝比奈さんに、笑顔でお茶を濁すハルヒ。―――朝比奈さんには、言わない方がいいって事なんだろうか? ここにいるハルヒが、ハルヒ本体じゃないって事や―――ハルヒがこの世界に残るってことを。
 俺は、ジョニィに手伝われながら、なんとか馬に乗ろうとしているハルヒの背中に、何か言葉をかけようとして―――だけど、どんな言葉をかければいいかまるで分らなかったから、黙ってそれを見つめていた。
 と、不意に。

「へ……はえっ!?」

 傍らの朝比奈さんが声を上げた―――視線を朝比奈さんに向けると、なんだ、こりゃ。朝比奈さんの体が、さっきのハルヒのように光り輝いている―――そして、次の瞬間、

「は、ハルヒ―――朝比奈さんが消えちまった」

「大丈夫よ。『回帰』が始まっただけ。あんたたちが、元の世界に戻り始めてるのよ―――有希と古泉君も、すでに『回帰』した。残るは、あんただけよ」

 戸惑う俺に、ようやく馬に跨り終えたハルヒが言葉をかけてくる。そうか、本当に―――俺たちがずっと願っていた、『元の世界に帰る』っていう目標が叶おうとしているんだ。

411: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 21:02:05.379 ID:d3LUbuSf0.net
 そして、ハルヒが俺じゃない誰かの後ろに乗って、俺の元から去ってゆく瞬間もまた、目の前まで近づいている。もう二度と、目の前にいる『このハルヒ』には会えなくなる……そんな瞬間が。

「キョン……忘れないで。私は―――あんたが象ってくれた私は、この世界で、生きている」

 と、朝比奈さんが消え去った後、ジョニィが馬を出す直前に、馬上のハルヒが俺に囁いた。こんな時になっても、やっぱり俺は、何を言ったらいいか皆目分からない。
 別れを告げるのも、礼を言うのも、謝るのも、どれを選んでも、俺はまた、ぐしゃぐしゃになるまで泣いちまいそうな気がして―――
 そんな風に逡巡していたら、ハルヒは僅かに目を潤ませながら、

「あの日は言えなかったけど、今なら言える。今日まで……『ありがとう』。あんたのおかげで、私はここまで来られた。そして、これから、生きて行けるの。だから―――」

413: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 21:03:04.464 ID:d3LUbuSf0.net
 結局、その言葉のそこから先を聴くことはできなかった。ハルヒがそこで言葉を切り上げ、ジョニィに発進の合図を送ったからだ。少し戸惑った後で、ジョニィはその合図に従って、馬を発進させた。―――北東へ向かって。
 そして、俺は―――ただ、俺は、ジョニィの後ろに乗って、遠ざかってゆく『涼宮ハルヒ』を見つめていた。本当に、見えなくなるまで、ただ見つめていたんだ。
 たった一人で、いつまでも。





 不思議だったのが―――朝比奈さんや、長門、古泉に至るまで、あの世界での記憶をまるで持っていないという所だった。
 それが、あの世界に残ったハルヒが意図的にそうしたのか、ただの偶然の産物なのかは分からないが、俺はそれでいいんじゃないかと思った。
 朝比奈さんはまだしも、長門や古泉に、あのプッツン世界で暴れた記憶を持っていてほしいだなんて、俺は思わない。
 一緒に旅をした朝比奈さんが、それを丸ごと忘れてるってのは、ちょっと寂しかったけどさ。

414: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 21:04:28.658 ID:d3LUbuSf0.net
 そうして―――現代の日本、九月初旬の世界に帰ってきた俺は、納車したばかりの愛車が、いつの間にかパンクしているという謎の現象に見舞われ、納車してから一週間が経った昨日、ようやく愛車に跨ることが出来た―――この世界で。
 わかっちゃいたことだが、あの世界で培った運転技術なんてのは、現代の公道では大して役に立たないものだった。この世界には法定速度があり、一方通行があり、交通標識がある。1890年のアメリカの野道には、そんなものなかったからな。
 『クマ注意』の標識ならロッキー山脈にあったけど。

「近頃、あなたは少し変わりましたね」

 不意に。俺と向かい合って、碁盤を睨みつけていた古泉が、顔を上げ、俺にそんなことを囁きかけて来た。
 変わった、か―――そりゃそうだろ。二か月以上掛けて、アメリカ大陸をほぼ横断した経験のある日本人男子高校生なんて、世界広しと言えども俺ぐらいだろうからさ。マッキーノの寒気だって、アリゾナの熱気だって知っている。
 しかし、それを目の前の男に言ってもおそらく通じないと判断した俺は、

「そうかもな、いろいろあったんだよ」

「ふむ?」

416: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 21:05:17.685 ID:d3LUbuSf0.net
 俺の適当なレスポンスに、古泉は何を思ったのか知らんが、とりあえずその話をそれ以上続ける気はないらしく、再び、頭の中を次の一手のことでいっぱいにしたようだった。

「私もそう思います。キョン君、なんだか大人になったなあって。免許を取ったせいなのかな?」

 と、一度は切り上げられた短い会話を拾い上げ、真夏だってのに編み物をしていた朝比奈さんがそんなことを言う。
 すると、一度は碁盤へと意識を戻した古泉が、ワルノリで、

「涼宮さんとの間に、なにやら喜ばしいことでもあったのでは?」

 何でそこでハルヒが出て来るんだ―――と、思ったのだが。あながち間違ってもいないな。あの世界で俺の身に起きた出来事は、すべて、ハルヒとともにあった。言うなら、あの世界に残った、ハルヒの分身と共に歩んだ『物語』だったんだ。
 何しろ、ようやく愛車に跨れた昨日、俺は背後にハルヒが乗っていないと落ち着かないな、なんて考えたくらいだったからな。サイドカーもついてないし。
 俺は、あの世界で、あのハルヒと共に、いろんなものを培った―――言い合ったり、助け合ったり、叩き合ったり、照れ合ったり、疲れ合ったり、笑い合ったり。

417: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 21:06:11.784 ID:d3LUbuSf0.net
 だけど―――それは、俺の記憶の中にしかない。それを寂しいと思うのは、仕方ないことだと思わないか?

「……別に何も」

 すこし考えた後、俺が古泉の囁きに返答しようとした―――のと同時に、バァン。と、ドアをひっぱたく様に開ける音が部室内に響き渡った。当然、入ってきたのは、

「やっほー!」

 なにやら、資料―――古新聞やらなにやらを抱えた我らが団長が、部室内に飛び込んできたのだ。当然、俺と古泉の会話はそこで切り上げられる。別に、これ以上続けたい内容じゃなかったから、構わないけどな。

「今度は何を持ってきた?」

 頭を掻きながら、俺が訊ねると、ハルヒは、

「バイクの歴史の資料」

 お前はバイクについて卒業論文でも書くつもりなのか、六年ぐらいの時を飛び越えて。
 ハルヒは、苦笑する俺を無視し、以前、バイクのカタログやらをそうしたように、俺と古泉の着いている長机の上にそれを無造作に放り投げると、団長席へと駆け寄り、パソコンの電源を入れた。

418: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 21:07:13.411 ID:d3LUbuSf0.net
 何の気はなしに。本当に何気なく、俺はその無造作に積まれた資料の中から、一つ、冊子を手に取って、その紙面に目を落とし―――そして、愕然とした。

「……ハルヒ、お前、これ」

「ああ、それ? 何か、昔アメリカであったレースの記録よ。あんまりバイクと関係ないんだけど、そのレースと同じころに、当時じゃ考えられない機能のバイクが走ってたっていう記述があったから、一応持ってきた」

「何か興味深いものでも?」

 古泉が俺にそう訊ねかけて来たんだが、それを無視し、俺はその冊子のページを捲った―――俺の視力に問題がなければ、その冊子の表紙にはこう書かれていた。『スティール・ボール・ランレース全記録』と。

「結構奇妙よね。私ね、そのバイクは、タイムスリップした未来人が乗ってきた、タイムマシンの一種なんじゃないかと思うのよ」

 タイムマシン。あながち間違っていないかもしれない。だって、この冊子に書かれていることが本当だったななら、『あの世界』は、『この世界』と……? それじゃあつまり、あの『ハルヒ』は、俺たちが今いる、『この世界』で―――

419: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 21:08:04.869 ID:d3LUbuSf0.net
 そこまで考えた後、俺はあの世界での記憶の最後の部分が、エイスステージの途中で終わってしまっていたことを思い出し、レース全記録のページの最後の方を探った。そして―――数秒後、『それ』を見つけ、またもや言葉を失った。

「優勝……『ジョニィ・ジョースター』……」

 あいつは―――ハルヒを乗せて、俺の元から去り、マンハッタンを目指して駆けて行った、あの男は―――本当に優勝しやがったんだ。
 名前の横には写真まで乗っている。多くのマイクを突き付けられながら、誇らしげに笑う、あのジョニィの姿がそこに写されている。
 そして、そいつは、まるで見せびらかすように、小脇に抱えていた―――人の頭よりもわずかに大きいほどの『ヘルメット』を。

「おや……そのメットは、涼宮さんのものと似ていますね」

 俺の向かいから紙面をのぞき込んだ古泉が、不思議そうに呟く。無理はない。だって、カラー写真でこそないものの、そこに載っているヘルメットは、『衣服』のうちの一つでもあったらしい、あのハルヒのヘルメットと同じ光を放っていて、

「あ、本当だ、『SOS』って書いてありますよ、涼宮さん」

421: ◆2oxvcbSfnDfA 2017/05/27(土) 21:09:01.622 ID:d3LUbuSf0.net
 と、俺の背後から紙面を覗き込んだ朝比奈さんの言葉に、ハルヒが、何か面白そうなものを見つけた時の顔になり、

「何、何、見せて!」

 溌剌とした声を上げながら、席を立ち、俺のそばと駆け寄って来たもんだから―――ただ、目が潤んじまっていることをバレないようにするのが大変だったさ。
 
 
 
 
 
SUZUMIYA BALL RUN 完