アスカ「私なりの愛ってやつよ」 前編

2: アスカ「私なりの愛ってやつよ」 2011/04/13(水) 23:21:43.98 ID:nYXsbXrS0
『第四話』 畳の上の放浪

 中学3年生になるまでの15年間、実益のあることなど何一つしていない事を断言しておくよ。

 異性との健全な交際、学問への精進、肉体の鍛錬など、社会的有意義な
人材となるための布石の数々をことごとくはずし、異性からの孤立、学問の放棄、肉体の衰弱化などの
打たないでも良い布石を狙い澄まして打ちまくってきたのは、なにゆえだろう。

 わかってるさ。
 責任者は僕だ、今回ばかりは。

 ○

 中学二年生の12月を迎えた僕は、勉学に励むでもなくマンションの一室にこもって暮らしていた。
 この狭き空間をこよなく愛し、ひきこもり生活を満喫している。

 僕は外の世界に嫌気がさしていた。
 特に父やNERVの連中を相手にするのは、いい加減うんざりしていたんだ。

 不毛な中学校生活を過ごして未来に泥を塗ったうえ、出席日数は決定的に足りなかった。
 いくら必死に足掻こうとも、どうにもならない泥沼の境地へ達している。
 漠然と三年目を迎えるにあたって、僕が世間に求めるものは何もなかった。
 この腐りかけたベッドと机、本棚と申し訳程度の服。

 それが僕の小さな世界の全てだった。
 そして今はそれが客観的な事実でもある。

 僕がこのちっぽけな世界に追いやられてから、既に一カ月以上が経過している。
 何故こんなことになってしまったのか。

 ○

 この手記の主な登場人物は僕だ。本当に申し訳ないことだけど、ほとんど僕だけなんだ。

 しかし、そんな世間から断絶された僕も、ついに部屋から外へ出る時が来た。
 これほど世界を嫌っていた僕が、なにゆえそこから追われることになったのか。
 その経緯を今から語ろうという訳さ。

 ○

 中学二年生もとうに半分を過ぎた、12月29日。
 年の瀬も押し迫り、街を歩く人々はいそいそと用事を済ます。
 そんなせわしない人々の様子を、僕は窓から眺めていた。

 僕が住まいにしているのは、第三新東京市の郊外にある「コンフォート17」というマンションだ。

 聞いたところによると、15年前のセカンド・インパクトの混乱期も生き残り、
この度改修を終えたばかりという物件だ。

引用元: アスカ「私なりの愛ってやつよ」 



アニメ リアルサウンドシリーズ ~エヴァンゲリオン 編~ Vol.1
TERAFRONT メロディー (2016-01-28)
売り上げランキング: 3,362
3: アスカ「私なりの愛ってやつよ」 2011/04/13(水) 23:23:08.33 ID:nYXsbXrS0
 同居している葛城二佐は要人であるため、保安上の問題から現在マンションには僕たちしか住人はおらず、
部屋からの明かりが全くないため廃墟同然だ。

 おまけに同居人は生活力が皆無であるため、部屋は散らかり放題になっている。

第三新東京市に越してきた頃、葛城二佐の勧めでここを訪れたとき、ゴミ屋敷に迷い込んだのか
と思ったのも無理のない話さ。

 彼女の生活無能力者ぶりはもはや重要文化財の境地へ達していると言っても過言ではないけれど、
僕たちがこの家ごと消失しても気にする人は誰もいないであろうことは想像に難くない。
 本部に住んでいる父さんですら、いっそせいせいするに違いない。

 忘れもしない、あの「冒険旅行」にでる前夜のことだった。
 コンフォート17の一室で、一人でふくれっ面をしてジョニーを慰めていた僕を、アスカが訪ねてきた。

 アスカとはこの街に越してきて知り合って以来、腐れ縁が続いていた。

 秘密機関<NERV>から足を洗い、他人と交わることを潔しとせず孤高の地位を保っている僕にとって、
長く付き合っているのはこの腐れへっぽこ妖怪のような女だけだった。

 僕は彼女によって自分の魂が汚染されることを厭いながらも、なかなか袂を分かつことが出来ないでいたんだ。
 彼女は隣近所に住んでいる加持という人物を「師匠」と呼んで足しげく通っていたんだけれど、そのついでに
いちいち僕の部屋へ顔を出すんだ。

「相変わらず冴えない顔してるわねえ」
 とアスカは言った。

「恋人もいない、学校にも行かない、友だちもいない、アンタはいったいどういうつもり?」

「アスカ……、いい加減口を閉じないと、僕でも怒るよ」

「アンタにそんな度胸、あるかしらね?」
 アスカはニヤニヤした。

「そういえばおとといの夜、アンタいなかったでしょう。わざわざ来たのに」
 おとといの夜?僕は記憶を手繰り寄せるため、思案する。
 ああ、あの時のことかと思い当たる。

「おとといの夜は、たしか小腹がすいてコンビニに出かけたなあ」

「ユイさんっていう女性を紹介しようと思って連れて来たんだけど、アンタはいないし、
仕方ないからほかに連れてったわよ。残念だったわね」

「君の紹介なんかいらないよ」

「まあまあ、そんな不貞腐れないで。そうだ、これあげるわ」

「何だいこれ?」

「あんたバカァ?見て分かんないの、カステラよ。加持師匠から沢山貰ったから、
おすそ分けってコト」

「めずらしいね。君がものをくれるなんて」

「大きなカステラを一人で切り分けて食べるなんて、孤独の極地だもんねえ。
せいぜい、人恋しさをしみじみ味わいなさいな」

4: アスカ「私なりの愛ってやつよ」 2011/04/13(水) 23:26:53.69 ID:nYXsbXrS0
「そういうことか。まったく、どうやって育ったらそんな風になるんだよ」

「これも師匠の教育のたまものよ」

「何の師匠なのさ」

「一言ではとても言えないわねえ。深遠だから」
 アスカは欠伸をして言った。

「もう、とっとと出て行ってくれよ。僕は忙しいんだ!」

「言われなくてもそうするわ。今夜は師匠のところで闇鍋ってのをするそうだから」

 にやにや笑うアスカを廊下の外へ追い出して、ようやく心の平安を得た。
 そうして、この街へ来た時のことを思い出した。

 ○

 8ケ月前の4月、僕は中学2年生になったばかりだった。

 先生のところに預けられていた僕に、単身赴任中の父さんから手紙があった。
 手紙にはただ一言、「来い」とだけ書かれていた。
 急な呼び出しの知らせを見て驚いたけれど、同時にうれしかった。

 そして、
 「父さんがが僕を待っているんだ」
という甘い幻想に惑わされ、新たな学校で友だち100人作るべく、その日のうちに
首都へ向かって旅立っていた僕は、手の施しようのない阿呆だった。

 幻の至宝と言われる「バラ色のスクールライフ」への入り口が、今ここに無数に
開かれているように思われ、誘われるがまま、ふらふらと父の元へ向かった。

 そこで出会ったのが、秘密機関<NERV>だった。

 秘密機関と大々的にビラを書く秘密機関がある訳がないのだけれど、驚くことに、
本当に秘密機関であることが後になって分かった。

 第三新東京市に降り立った僕に声をかけたのは、NERVの技術開発部・部長、赤木博士だった。
 いかにも頭が切れそうで、涼しげな目をきらりと輝かせている。
 物腰は柔らかいけれど、どことなく慇懃無礼な印象を受けた。

「色々な人たちと付き合えるでしょうから、面白い経験が出来るかもしれないわよ」

 赤木博士は僕をケージに誘い込んでそう説得した。

 僕は考えた。自分の世間が狭い事は確かだ。
 大人になる前に、世界で活躍する様々な人間たちと交わって見聞を広めることは重要だよ。
 そうして積み重ねた経験こそが、輝かしい未来への布石となるだろう。

 もちろん、そういった真面目な事を考えただけではなくて、赤木博士の成熟した色香に、
なんとなく魅力を感じてしまったという事実は否めない。

 繰り返すけれど、手の施しようのない阿呆だったんだ。

 ○

 NERVとは何か。

 公には、みんなで和気藹々と人類を守るという唾棄すべき体制が打ちたてられていた。
 しかしその真の目的は謎に包まれている。

5: アスカ「私なりの愛ってやつよ」 2011/04/13(水) 23:27:46.81 ID:nYXsbXrS0
 それは複数の下部組織をまとめる一つの漠然とした名称だった。
 その下部組織たるや、名前と活動内容を聞いても、まるでマンガに出てくるような話ばかりだった。

 主なものだけでも、
 優秀な子供を軟禁状態にして強制的にパイロットとして使役させる、<戦術作戦部>
 クローン技術もなんのその、人体実験も辞さないという極悪非道のモルモット宣言<技術開発部>
 組織一のパシリ屋、神様も運んで差し上げるという<特殊監査部>
 など多岐にわたる。

 歴史的に見て「<NERV>の母体は<技術開発部>であった」というのが共通の見解だった。
 したがって、<技術開発部>発足当時からの古株である碇司令と冬月副司令が、組織全体の
最高指揮権を持っているとされた。

 いずれにせよ、<戦術作戦部>の下っ端パイロットとしてこき使われていたに過ぎない僕は、
父と接触することもままならなかったんだ。

 父は元々僕を嵌めるつもりで、第三新東京市に呼び寄せたということさ。

 赤木博士の命令で<戦術作戦部>に所属することになった僕は、
「とりあえず、この子と組みなさい」
と言われて、ケージで一人の少女を紹介された。

 暗いケージを照らすたった一つの明かり。
 その明かりの下に、ひどく縁起の悪そうな顔をした不気味な少女が立っていた。
 繊細な僕だけが見ることができる地獄からの使者かと思った。

「アンタひどいこと言うわね。安心しなさい、私はアンタの味方だから」

 それがアスカと僕とのファーストコンタクトであり、ワーストコンタクトでもあったんだ。

 ○

 平凡な男がある朝目覚めると一匹の毒虫になっていたというのは、有名な小説の冒頭だ。
 僕の場合、そこまで劇的ではなかったさ。

 僕は相変わらず僕のままであったし、我が男汁を吸いこんできた自室にも、
 一見何ら変わったところは無かった。

 僕自身が毒虫ならぬ、ウジ虫だという最低の見識を、アスカという女は平然と言ってのけた。
 しかし、それは例外すぎる例外だ。
 読者の皆さんは、お願いだから僕をそんな目では見ないでほしい。

6: アスカ「私なりの愛ってやつよ」 2011/04/13(水) 23:28:24.43 ID:nYXsbXrS0
 僕の記憶するところでは、あの事件が起こったのは12月30日のことだった。

 朦朧とする意識の仲、目をこすって時計を見ると六時をさしていた。
 朝の六時なのか夜の六時なのか判然としない。

 布団の中で思案してみたけれど、いつの間に眠ったのか覚えていない。
 誰かがインターホンを押したのでドアを開けたところで、記憶が飛んでいる。

 僕は布団の中で毒虫のようにもぞもぞしてから、のっそりと起き上がった。
 何だかひどく気分が悪い。まるで水の中を泳いでいるようにふわふわする。
 しかし、愛すべき自室を見まわしてみても、特に変わった様子はない。

 静かだ。

 僕は自前の小型冷蔵庫からミネラルウォーターを出し、コーヒーメーカーで珈琲を沸かして、
カステラを食べることにした。殺伐とした食事を済ますと、ふいに◯◯◯◯がしたくなった。

 廊下へ出て、玄関脇にあるトイレへ向かおうとした。
 ドアを開けた僕は、僕の部屋へ踏み込んでいた。

 怪奇だ。

 僕は振り返った。
 混沌とした我が自室がそこにある。
 ところが目の前で半開きになったドアの向こうにも混沌とした我が自室がある。

 [たぬき]で言う、「鏡面世界」を見ているようだ。

 僕はドアの隙間を抜けて、隣の部屋へ踏み込んだ。そこは間違いなく僕の部屋だった。

 ベッドにごろんと横になった時のきしむ感触。雑多な書籍が並んでいる本棚。
 壊れかけのウォークマン。ネジの取れかけた学習机。埃の積もった教科書の山。

 生活感あふれる光景だ。

 ドアをくぐって元いた部屋に戻ったけれど、そこも僕の部屋には違いない。

 長きに渡る使途との戦いの末、ちょっとのことでは動揺しなくなった僕も、こればかりは動揺した。
 何という怪奇現象。僕の部屋が二つになった!

 ドアから出られないんじゃあ、窓を開けるしかない。
 僕はこのところずっと閉めきってあったカーテンを開いたけれど、曇りガラスの向こう側には
蛍光灯の明かりが輝いている。

 がらりと窓を開けた僕は、部屋を覗きこんだ。
 窓枠を踏み越えて中に入り、詳しく調べてみたものの、そこは僕の部屋だった。

7: アスカ「私なりの愛ってやつよ」 2011/04/13(水) 23:30:07.20 ID:nYXsbXrS0
 もとの部屋へ戻った僕は、頭を抱えて唸った。
 およそ80日間にもおよぶ僕の「冒険旅行」は、こうして始まったんだ。

 ○

 もとの部屋へ戻った僕は、自分が今なすべきことについて思いを巡らせた。
 慌てたところで埒があかない。

 冷静になって考えてみるに、これまで熱心に出ようとしなかったものを、今さら慌てて出ようなんて
いかにも人間の底が浅いじゃないか?

 今まさに危機が迫っているってわけじゃない。
 腰を据えてどっしり構えているうちに、事態は自ずと好転するだろう。

 僕はそう決めた。
 そうして悠々とわいせつ図書をひも解き、適当なものを取り上げて、官能の世界へ思いを馳せた。
 ひたすら馳せて、虚しくなってきた。

 やがて時計の針が一回りした。
 自室に置いてある小型冷蔵庫の中にはろくなものがない。
 手で剥いて食べるタイプのソーセージが一本と、ミネラルウォーターが数本あるだけだった。

 ソーセージに手をつけると、後には何にも残っていない。
 携帯電話で助けを呼ぼうとしたけれど、無情にも圏外だった。

 寝る前にもう一度確認したけれど、やっぱり窓の外もドアの外も
 僕の部屋が広がるばかりだった。

 明かりを消してベッドに横になり、天井を睨んだ。

 どうしてこんな世界に迷い込んだのか?僕は一つの仮説を立てた。

 「第三新東京市の占い師の呪い」仮説だ。

 ○

 数日前、気晴らしに駅前アーケードへ出かけた。
 古書店や洋服屋を覗いたりした後、僕は繁華街をぶらぶら歩いた。
 そこであの占い師に出会ったんだよ。

 飲み屋や◯◯◯がならぶ中に、身を細めるようにして暗い民家が建っていた。
 その軒下に、白い布をかけた木の台を前にして座る少年がいた。

 「……?男の子?」

 台の上に掛けられた小さな行燈からの明かりが、その少年の顔を浮かび上がらせる。
 彼は銀色がかった白い髪の毛をしており、顔色も負けないくらい白い。
 目は赤かった。

 人目を引く容貌をしているものだから、僕が目を離せないでいると、やがて相手もこちらに気づいたらしい。
 夕闇の奥から目を輝かせて僕を見た。

 しかし、彼が発散する妖気にはなにやら説得力があり、僕は論理的に考えた。
 これだけの妖気を無料で垂れ流している人物の占いが当たらないわけはない、と。

 僕は少年の妖気に吸い寄せられるように足を踏み出した。

8: アスカ「私なりの愛ってやつよ」 2011/04/13(水) 23:32:11.97 ID:nYXsbXrS0
「学生さん、何を聞きたいんだい?」

「そうだね、何と言ったらいいか……」
 僕が答えに詰まっていると、少年は微笑んだ。

「今の君の顔からするとね、とてももどかしいという気持ちがわかるよ。不満というものかな。
君、自分の才能を生かせていないように感じるなあ。どうも今の環境が君にはふさわしくないようだね」

「うん、そうなんだよ。まさにその通りだ」

「君は、非常に真面目で才能もあるようだから…」
 少年の慧眼に、僕は早くも脱帽した。

「とにかく好機を逃さない事が肝心だよ」

「好機?」

「好機はいつでも君の目の前にぶら下がっている。君はその好機をとらえて、行動に出なくちゃいけない」

「ヒントをあげる。それは"メガネ"さ」
 僕はきょとんとして聞き返した。

「メガネ?何のことだいそれは。僕は近眼じゃないよ」

「メガネが好機の印ということさ。好機がやってきたら逃さない事だよ。その好機がやってきたら、
漫然と同じことをしていては駄目なんだ。思い切って、今までと全く違うやり方で、それを捕まえてごらん」
 答えのようで、答えでないような事を言われた。

「もしその好機を逃したとしてもね、心配することは無いんだよ。君は立派な人だから、
きっといずれは好機をとらえることが出来るだろう。僕には分かっているさ。焦る事なんてない」
 そう言って、占い師は締めくくった。

「ありがとう、なんだか気分が晴れたよ」
 僕は頭を下げ、料金を支払った。

 そして迷える子羊のように、フラフラと繁華街を後にした。この少年の予言について、よく覚えておいてほしい。

 ○

 ひょっとしてこれは少年の呪いじゃないだろうか?
 その恐るべき呪いを解くカギは、彼の言ったメガネという言葉に隠されているかもしれない。

 僕は眼鏡をかけるほど悪くないし、眼鏡をかけている知り合いなんて沢山いる。
 ひょっとして、既に起きた出来事の中にメガネに関わる好機を見逃しているんじゃないか?
 そう思って思案しているうちに、僕は安らかな眠りについた。

 目が覚めると、時計の針は12時を指していた。起き上がってカーテンを開いた。

 ひょっとしたらと期待したけれど、窓の外は相変わらず部屋が続くばかりだった。
 青空なんてこれっぽっちも見えない。

 寝れば何とかなると思っていたけれど、目覚めてみても状況は変わらない。
 ドアを開いてみても、鏡映しの部屋に出るだけだ。

 僕は自室の真中にあぐらをかいて、珈琲がゴボゴボ沸く音を聞いた。

9: アスカ「私なりの愛ってやつよ」 2011/04/13(水) 23:32:51.57 ID:nYXsbXrS0
 流石にお腹が減っている。食べたものと言えば先ほどのカステラとソーセージ一本だけだ。
 食べざかりの中学生にはとても足りない。

 見知らぬうちに何か湧いてこないかという祈りを込めて冷蔵庫を開いてみても、あるものといえば
ミネラルウォーター数本のみだった。砂糖もミルクもない苦い珈琲を無理やり流し込んで、空腹をごまかした。

 ○

 約二日目にして、食糧が完全に底をついた。
 冷蔵庫にある水も飲みきって、残っているものといえばカステラの食べカスばかりとなった。

 こうなると冷静な振りなどしていられない。一刻も早く自室から脱出しなければ、待っているものは死だ。
 人知れずこの部屋で餓死し、朽ち果てる自分の姿をちらと想像し、全身から冷や汗が噴き出た。

 僕はおもむろに立ち上がり、本棚やら押入れやら机やらを、めちゃめちゃにひっくり返し始めた。

 何でもいい。何か食べるものが残っていないだろうか。
 まずは押入れを念入りに調べた。

 中学生男子といえば不潔。不潔といえばキノコだ。
 押入れの隅にキノコの一本や二本生えていれば、それを調理して食べよう。
 そう思ったものの、押し入れは乾燥していてとてもキノコが繁殖するような環境ではなかった。

 畳をゆでで食べるというのも考えた。
 しかし繊維質が多すぎる。お腹を下して死期を早めるだけだろう。

 本棚と机の間を漁ってみて、僕は埃の積もったビンを見つけた。
 埃を払ってラベルを見ると、栄養補助食品と銘打ったビタミンの錠剤だった。

 半年ほど前、風邪を引いた時に買ってきて、あまりのまずさに飲みきれず放置したものだ。
 食糧不足の昨今、いかにまずいとはいえビタミン剤も貴重な栄養源だ。
 水がないので、唾液で何とか飲み込むしかないだろう。

 ほかにも机の棚から、食べかけのチョコレートを見つけた。

 山で遭難した時に、生き残る命綱だったという逸話もある。
 これは大きな収穫だと思ったけれど、箱に入っていたのはほんのひとかけらだった。

 部屋の中を散々ひっくり返した挙げ句、見つけたのはビタミン剤とチョコレートひとかけらだった。
 水も尽きている。

 改めて自分の置かれている状況の切迫度を再認識し、僕は発狂しそうになったがぐっと堪えた。

 太陽の光が見られないから、今が昼なのか夜なのか分からない。
 だから一日一日と区切ってはいても、それが正確な区切りである保証もない。

 そして、起きた時から感じるこの違和感。
 水中をふわふわ漂う、何か空虚な感じは未だに続いていた。

 カーテンを閉めてドアを閉じれば普段通りの景色だから、今にもアスカがドアを蹴り破って、
厄介な揉め事を持ち込んできそうだ。

 しかし現実は、いくら待てどもそんな気配はない。嗚呼、僕は一体どうしたらいいんだ。

 ○

 僕が部屋にこもって生活しだしたのは、10月の終わりごろだった。
 あらゆる外界との連絡をシャットアウトして、ひきこもり生活を満喫していた。

 そもそもの発端は父への反発心から生まれた行動で、ヱヴァに乗らない事で皆を
困らせてやろうと思ったんだ。

10: アスカ「私なりの愛ってやつよ」 2011/04/13(水) 23:33:38.10 ID:nYXsbXrS0
 タンポポの綿毛のように繊細な人間をもてあそんだ、NERVの連中に怒り心頭
だったのも理由の一つだ。

 最初のうちは葛城二佐たちが心配して様子を見に来てくれたが、一週間ほどで
それも無くなった。

 いつしか社会に戻るきっかけも失い、出るに出られなくなった。
 踏ん切りがつかなくなってしまったんだ。

 そんな孤独の極地に立たされた僕の下に、たった一人だけ足しげく通ってくる妖怪がいた。

「どうせアンタは自分の人生にスネてるだけよ。黒髪の乙女がどうとか、そんなことで悩んでるんでしょ」
 アスカは変態を見る目つきをした。

「組織も辞めてのんべんだらりとしてるだけのくせに。悩んでるふりしたって、構ってくれる人
なんていないわ」

 アスカのくせに、言っている事はもっともだ。
 しかしいざ外に出たとしても、NERVの奴隷として命がけの生活に舞い戻るだけなんだ。
 あんな仕打ちはもう耐えられない。

 確かに表面上は何もしていないように見えても、報われない思索に日々性を出して自分を追い込んでいる僕は、
日々激烈なストレスに晒されているんだと主張した。

「アンタ大脳新皮質にウジでも湧いたんじゃないの?それ、きっとただの恋煩いよ」
 アスカは索漠としたことを言った。

「私知ってんのよ、アンタ、ファーストのこと好きなんでしょう?」
 唐突に彼女の名前が出てきたので、僕はドキッとしてしまった。

「なんで綾波さんが出てくるんだよ?」

「またまた~、とぼけちゃって。いつも目で追ってるじゃない。付き合うどころかアンナ事もしてみたいなんて考えているんでしょう。
 まったく手のつけられない変態よねぇ」
 アスカは弁護の余地のない卑猥な目つきをした。

「僕は変態じゃない!君みたいな奴と一緒にするな」
 売り言葉に買い言葉だった。

 要するに、アスカは僕を焚きつけて外に出そうと考えていたらしい。
 しかし気が立っていた僕は、アスカの言うことにまともに取り合わなかったんだ。

 ○

 心のどこかでどうせこんなことは夢なんだと、タカをくくっているところがあった。
 しかし約三日が経っても、ドアの向こうも自分の部屋、窓の外も自分の部屋だ。
 さすがにベッドに寝転んでいられなくなった。

 チョコレートも底をつき、ビタミン剤も残すところ数粒となった。

 できるだけ行動を起こさずに誇りを保つことだけに専念したかったけれど、
 なけなしの誇りも死んでしまっては意味がない。

11: アスカ「私なりの愛ってやつよ」 2011/04/13(水) 23:34:31.56 ID:nYXsbXrS0
 僕はビタミン剤を唾液と共に流し込み、カステラの敷き紙に残った食べカスをちびちびと食べて
空腹を紛らわした。
 トイレもないから、空のペットボトルに用を足していたけれど、それももう限界だろう。

 まずいなぁ、目がぼやけてきた。

 僕たちは学校で、セカンド・インパクトの体験談を担任から聞かされた事がある。
 先生たちの世代は、水も食べ物も無い絶望的な状況を、なんとか耐え抜いたと語った。

 飢えも貧困とも無縁に育った僕は、今一つピンとこない話ではあったけれど、今なら分かる。
 食べ物がある有難み。もし無事にこの部屋から脱出した暁には、先生にお礼を言おうと思った。

 こうなればもう、僕自身が問題の解決に向けて立ち上がるしかない。
 どのような世界であろうとも、頼れるものは自分だけなんだから……。

 ○

 決死の覚悟を決めた数分後に、食糧問題はあっさりと解決してしまった。
 隣の部屋に移ったんだ。

 ドアの向こうに現れた鏡面世界は、明らかに僕の部屋だった。
 部屋の間取りが鏡映しのように逆ではあるものの、そこにあるのは間違いなく僕の部屋だ。

 それならこのへやを僕が自由に使っても、悪いはずがない。

 ドアを通りぬけて自室Aから自室Bへ踏み込んだ僕は、
 二度と見ることはできないかもしれないと思っていたカステラとソーセージを見つけた。

 ミネラルウォーターもある。
 とりあえず魚肉ソーセージの皮をむき、三日ぶりの動物性たんぱく質を心ゆくまで味わった。

 あれほどソーセージが美味しかったのは未だかつてなかった。
 そのあとにデザートとしてカステラを一切れ食べた。
 まるで生き返ったように力が漲ってくるのが感じられたよ。

 僕は自室Bの窓から、さらに向こうの自室Cを眺めた。

 自室D、自室E、自室F……自室∞というように、永遠に僕の部屋が続いているんじゃ
ないだろうか。

 絶望的ではあったけれど、考えようによっては幸運と言える。
 なぜならば、たとえこの部屋の食料を食べ尽くしたところで、
 隣の部屋に移ればまたカステラとソーセージが手に入る。

 栄養に偏りはあるけれど、それでも餓死だけは避けられるからね。

 それにしても、アスカがくれたカステラによって得られる栄養分は無視できない。
 二年生の春に不本意な出会いを果たして以来半年間、切るに切れない腐れ縁だったアスカ。
 ここにきて、彼女の存在が初めて役立った。

 ○

 NERV加入後の数カ月は、<戦術作戦部>の活動で終わった。

 既に述べたけれど、<戦術作戦部>なる組織の目的は、正体不明の「使徒」と呼ばれる生物を根絶やしにすべく、
ロボットを操縦するパイロットを徴兵し、戦地に送り出すことだった。

 必要とあらば非人道的手段に訴えることも辞さない。
 というか、人道的な手段でパイロットになった人間なんて、見た事がない。
 僕が良い例だ。

12: アスカ「私なりの愛ってやつよ」 2011/04/13(水) 23:35:06.18 ID:nYXsbXrS0
 <戦術作戦部>に対抗する組織として、<特殊監査部>がある。

 <特殊監査部>の役割は機密情報保護のほかにもう一つ、
 これはと目をつけた人物の個人情報を網羅的に収集し、それを様々な用途に活用することだった。
 もともと個人情報の収集は、パイロットの強制召集を可能にするための一手段だった。

 相手の居場所を突き止めるためには行動パターンを把握しなければならないし、追い詰められても
シラを切り通そうとする悪質な輩に言う事を聞かせる為には、弱点を知ることも必要だったからさ。

 しかし蓄積する情報が増えるにつれて、情報の力、情報の魅力が組織を虜にしていった。

 <特殊監査部>の情報収集が当初の目的を大きく逸脱して肥大し始めたのは、10年前からだという。

 日本国内は言うに及ばず、北は北極から、南は南極まで、<特殊監査部>の情報網は至る所に
張り巡らされていた。

 世界中のありとあらゆる破廉恥な個人情報を網羅している<特殊監査部>の人間を、人々は
恐れてたんだ。

 だから、ヱヴァシリーズの大量生産によって莫大な収益を上げ続ける<技術開発部>に対抗できるのは、
唯一<特殊監査部>だけだった。

 しかし、<特殊監査部>部長の正体が謎に包まれている以上、<技術開発部>部長が
<NERV>の実質的な首領と目されたのも無理はない。

 当時の僕は<戦術作戦部>の下っ端パイロットだった。
 下っ端の任務は、戦地に赴いて使途を倒すことだ。

 とはいえ、僕がスマートに任務をこなす訳がない。
 使徒相手に好んで煙に巻かれてみたり、使徒と意気投合して吸収されたりした。
 身の入らないことこの上なかった。

 僕がそれでも成果を上げたのは、アスカがいたからだった。

 アスカはあらゆる技巧を駆使して、使途を殲滅した。
 闇打ち、泣き落とし、情報操作、卑劣な罠、戦略自衛隊への賄賂、暴走なんでもやった。

 当然、戦績は上がる。連鎖反応的に、相棒である僕の戦績まで上がった。
 <戦術作戦部>の存在そのものに疑問を抱き始め、適当にやっていた僕には迷惑な話さ。

 さらにアスカは根っからの情報収集好きであった為に、その不可思議な人脈を広げ続け、
冬月副司令の右腕と言うべき存在に成り上がった。

 ぼくが<NERV>に加入した夏、冬月副司令が僕たち二人に昇進話を持ちかけて来た。
 僕とアスカを幹部に引き上げようというんだ。
 でもアスカは意外にもその申し出を断って、<技術開発部>へ引き抜かれて行った。

 やむなく僕が主任パイロットとして幹部になったけれど、見事なまでにやる気はなく、
<戦術作戦部>の戦績は下がり続けた。

 あっという間に名目だけの幹部に転落したのさ。
 冬月副司令は僕を軽蔑し、路傍の石ころも同然に無視し始めたんだ。

 ○

 <戦術作戦部>時代、妙な人物に出くわした。
 9月のことだ。

 僕は冬月副司令に呼び出され、戦績が芳しくない事についてネチネチと小言を言われた。

 挙げ句の果てに、
「パイロットもろくにこなせない人間には、使い走りがお似合いではないかね?」
と酷い侮蔑の言葉を投げつけられた。

13: アスカ「私なりの愛ってやつよ」 2011/04/13(水) 23:38:30.41 ID:nYXsbXrS0
 冬月副司令から言い渡された任務はこうだ。

 最近めっきり出勤してこない不良職員がいるらしい。自宅へ行って、NERVへ連れて来いというんだ。

 組織にとってなんの益も生み出さないような男をクビにせず、僕ばかりこき使うなんて
ひどい差別というほかない。
 ブツブツと文句を垂れながら、僕は不良職員の所に向かった。

 彼は僕の住むコンフォート17の隣近所に住んでいて、名前を加持リョウジと言った。

 謎めいた人物であり、社会人らしくない。部屋にいるのかいないのか分からない。

 在室と睨んでドアを開けてみたら、ネコが部屋をウロウロしているばかりで、
本人はどこかに消えていたりした。

 よれよれな白いシャツの袖を肘までまくりあげ、無精ひげがぼさぼさに伸びている。
髪は台風が通り過ぎたようにもしゃもしゃ、手入れをする暇がないといったように、後ろで一つに
束ねている。年齢不詳で、おっさんかと思いきや、大学生のような幼さも垣間見える。

 目立つ容貌をしているから外出先で見つけるのは簡単だけれど、接触を図ろうとすると
煙のごとく消えうせるんだ。

 ある深夜、屋台ラーメンでようやく捕えた。

「前から俺の回りをうろついているね」
 とにこやかに彼は言った。

「行こう行こうと思っていたんだよ。でも俺は他の用事で忙しくってね」

「出勤日数は大幅に足りないんですからね」
 僕は釘を刺した。

「うん。分かってる、もう諦めるよ」

 僕たちは一緒にラーメンをすすった。
 その人物の後にぴったりくっついて、彼の部屋に戻った。

「ちょっとトイレに行ってくる」
 と彼は言い、トイレに入った。

 しばらく待っていたけれど、中々出てこない。
 しびれを切らしてトイレに踏みこむと、もぬけの殻だった。
 トイレに備え付けの窓から外を見てみると、彼は悠々と道路を歩いてる。
 神業だ。

 その日以来、僕は何度も彼の部屋に行き、ドアをドラムのように叩いて
「加持さん」
と呼んだけれど返事がない。

 人を馬鹿にしていると思った。
 そうやって暴れているうちに、当時はまだ相棒だったアスカがやって来た。

「ごめんなさいね、この人は私の師匠なのよ」
 アスカは言った。

「この人は大目に見てあげてよ」
 彼女は下手なウインクでお茶を濁そうとする。

「そんな訳にはいかないよ。副司令の命令なんだよ?」

「無理よ。この人が司令たちの言う事を聞くなんてありえないわ」

 アスカがそこまで断言するのであれば、僕も引かざるを得ない。

 いったい何の師匠なのか分からなかったけれど、
 アスカのような女が尊敬しているのだからろくな人間ではないだろう。

「師匠、こんばんは。差し入れよ」
 アスカは僕を尻目に加持氏の部屋へ上がりこんだ。

14: アスカ「私なりの愛ってやつよ」 2011/04/13(水) 23:39:01.45 ID:nYXsbXrS0
 振り返ってドアを閉めながら、
「ごめんなさいね」
と言い、ニヤリと笑った。

 ○

 二日ほど、僕は自室Aから自室Fの間をウロウロして暮らした。
 事態は好転しなかった。

 それまでは自室に好きで籠っていたけれど、いつでも外へ出る事ができるという安心感があった。

 ドアを開ければリビングへ通じる廊下があり、リビングを抜ければ玄関があり、
玄関を抜ければマンションから外へ出る事ができる。
 いつでもその気になれば外へ出る事が出来るからこそ、僕は出なかったんだ。

 いくら外へ出ようともがいても、自室であるという事実がやがて僕の心を圧迫し始め、
食糧事情によるカルシウム不足も手伝って、苛立ちは募った。

 いくらおとなしく待っていても、事態は好転しない。
 かくなる上は、この永遠と続く部屋の果てを目指して旅立ち、脱出を試みるしかない。

 この不毛の地に閉じ込められて一週間ほど経ったある日の6時、
相変わらず朝なのか夜なのか分からなかったけれど、僕は出発することにした。

 自室Aのドアを開くと、自室Bに出る。
 そのまま自室Bを真っ直ぐ突っ切ると、窓がある。
 窓を乗り越えて向こう側へ出ると、そこは自室Cだ。

 僕はそうやって、真っ直ぐ突き進んだ。

「部屋の果てを目指す」
 なんて大層な決意を固める必要はなかった。
 要は部屋を横切る動作の繰り返しだったからね。

 部屋の食べ物が無くなれば、隣の部屋に移ればいい訳だし、水もある。
 疲れたら、腐りかけのベッドが僕を温かく包んでくれる。

 初日、僕は20の部屋を横切った。それでも部屋は続いていた。
 流石に阿呆らしくなって、その日はそこで宿泊することにした。

 ○

 3日目、錬金術を発見した。
 本棚の隙間に、千円札が挟まっていたんだ。
 いつだったか、ゲームでも買おうと貯めるつもりで挟んでおいたのを忘れていた。

 果てしない部屋の旅に、千円札なんて何の価値もない。
 そう思って隣の部屋に移る。
 しかし、その部屋でも本棚の隙間から千円札を発見した。

 なんてこった!
 これじゃ部屋が続くかぎり、無限に金を増やす事が出来るじゃないか。
 部屋の脱出を果たした暁には、僕は大金持ちになっているだろう。

 何という商売。
 この金さえあれば、もうNERVに媚びへつらうことなんて無くなる!
 この街からおさらばして、悠々自適な生活が待っているんだ。

15: アスカ「私なりの愛ってやつよ」 2011/04/13(水) 23:40:07.72 ID:nYXsbXrS0
 それ以後、僕はリュックを背負って旅をした。
 部屋を移るごとに千円札を投げ込んでいくのさ。

 ○

 初めのうちは制覇した部屋の数を数えていたけれど、途中から数えるのを諦めた。

 ドアを開け、入り、部屋を横切り、窓を開け、乗り越え、部屋を横切り、
 ドアを開け、入り、部屋を横切り、窓を開け……
 この作業が延々と続く。

 千円ずつ儲かるけれど、脱出の希望が見えないため、僕は希望と絶望に影響されて、
千円札の値打ちが乱高下した。

 ついに我慢の限界が来ると、僕は畳に丸太のように横たわって行軍を拒否した。
 ビタミン剤をガリガリと噛み砕き、水で流し込む。

「なんで僕がこんな目にあうんだ!」
 と天井に向かって喚き続ける。

 己を押し包む無音の世界が怖くなって、知っている限りの歌を大声で歌った。

 ただし何も発見がなかったわけじゃない。
 僕は、全く同じに見える自室にも、少しずつ違いがあるらしいと気付いたんだ。
 旅に出てから10日も経った頃だろう。

 かすかな変化だけれど、本棚の品ぞろえが変わってたんだ。

「吾輩は猫である」
を読もうと思ったら、その部屋には「吾輩は猫である」が存在しなかった。

 この事実は何を示すのか。
 まだ答えは出なかった。

 ○

 他に考えることもなかったので、不毛に過ぎた半年間について考えた。
 あんな阿呆らしい組織に身をやつしていたことが、今さらながら悔やまれた。

 夏になってアスカとのタッグを解消した僕は、
<戦術作戦部>史上空前の役立たずという勇名を馳せた。

 でも、ぐうたらしていたのに、追い出される事は無かったんだ。

 ヱヴァパイロットにおける輝かしい実績をひっさげて<技術開発部>幹部となったアスカが
しきりと僕を訪ねてくるので、彼女との関係を考慮に入れて、大目に見られていたのじゃないだろうか。

 僕はアスカに
「辞めよう」
と相談を持ちかけたけれど、彼女は笑って取り合わなかった。

「まあまあ、何となく居座ってたら、それなりに楽しい事もあるってば」
 いい加減な奴。

 組織の連中は僕を阿呆幹部だと思っているし、NERVのブレーンとして君臨する冬月副司令は
僕と口もきかない。

 冬月副司令への反感も増すばかりだ。

 不毛な日々を過ごす内に、僕は「逃亡」について思いを巡らせるようになった。
 ただ逃げるだけではつまらない。
 NERV史上に残る派手な反抗を示して逃亡してやろうと思った。

 秋のこと。
 アスカと鍋をつつきながら僕がそんな事を漏らすと、彼女は、
「あんまりお勧めできないわねぇ」
と言った。

「いくら無能の冬月副司令でも、<特殊監査部>の情報網は本物よ。敵に回すとなかなか怖いもんよ」

「怖いもんか」

 アスカは鍋に入っていた豆腐をひょいとつまみ、
「ふぎゅう」
と声を出して押しつぶした。

「こんな風になっちゃうわよ?私は心が痛むわぁ」

16: アスカ「私なりの愛ってやつよ」 2011/04/13(水) 23:40:33.74 ID:nYXsbXrS0
「屁とも思わないくせに」

「またそんなこと言うんだから。今だって、アンタの評判は悪いけれども、私の天才的な立ち回りを見せて、
かばってあげているんだからね。少しは感謝してほしいってもんよ」

「感謝なんて、するもんか」

「感謝するのはタダよ」

 秋の淋しさが身にしみてくる頃で、鍋のぐつぐつと煮える音が温かい。
 こんな秋の夜を共に過ごしてくれる人がアスカだけというのは由々しき問題だと思った。
 人間として間違っている!

 妙な組織に紛れ込んで不貞腐れている場合じゃない。
 組織の外には、まっとうなスクールライフが待っているんだ。

「もうちょっとましな学生生活を送るべきだったとか思ってるんでしょ」
 アスカが急に核心をつくような事を言った。

「……僕はもっとほかの道を選ぶべきだった」

「慰めるわけじゃないけど、アンタはどんな道を選んでも私に会っていたと思うわ。直感的に分かるのよ。
いずれにせよ私はアンタに出会って、全力でアンタを駄目にするわ。運命に抗ってもしょうがないでしょう」

 アスカは小指を立てた。

「私たちは運命の黒い糸で結ばれてるってワケ」

 ドス黒い糸でボンレスハムのようにぐるぐる巻きにされて、暗い水底に沈んでいく男女の
恐るべき幻影が脳裏に浮かび、僕は戦慄した。

 アスカはそんな僕を眺めながら、愉快そうに豚肉を食べている。

「冬月副司令にも困ったもんよ」
 と言った。

「私は<技術開発部>に移ったというのに、色々と相談を持ちかけてくるのよね」

「君みたいな人間が、なんで気に入られるんだろうね?」

「非の打ちどころのない人柄、巧みな話術、明晰な頭脳、可愛らしい顔、こんこんと溢れて尽きない隣人への愛。
人から愛される秘訣はこれよ。少しは私に学んだらいかが?」

「うるさい!」
 僕が言うと、アスカはにやにやした。

 ○

 旅を始めて約20日が過ぎた頃のことだ。
 何番目の部屋かも分からない自室を通りぬけて、そろそろ行軍にも嫌気がしてきた頃。
 休憩することにして、大嫌いになったカステラを頬張った。

 休憩を終えて窓を開けた僕は、隣の部屋を覗きこんだ。部屋の隅に誰かが座って、読書に耽っていた。

 陳腐な表現を使えば、
「心臓が口から飛び出すほど」驚いた。

 本を読んでいるのは女性だった。
 静かにうつむいて、膝に乗せた「幸福な王子(オスカー・ワイルド著)」を読んでいる。
 美しいショートカットの黒髪が肩にかかって、つやつやと光っている。

17: アスカ「私なりの愛ってやつよ」 2011/04/13(水) 23:41:09.93 ID:nYXsbXrS0
 僕が窓を開けたのに、彼女は反応しなかった。不審に思いながら部屋に入り、彼女に声をかけてみた。

「あの、失礼します」

 いくら声をかけても彼女は反応しない。僕はおずおずと彼女の顔を覗きこんだ。

 彼女は美しい顔をしていた。肌は人間そっくりの色合いをしているし、ソッと触れてみると弾力がある。
髪は丁寧に手入れされ、整えられた衣服には乱れがない。透き通る目を見ていると、吸い込まれそうになる。
不思議な感覚だ。

 まるで、昔から知っている人のような、懐かしさを覚えた。しかし、彼女は微動だにしない。
どこか遠くに目をやった瞬間に凍らされた人のようだ。

「これはユイさんか?」
 思わず呟き、僕は茫然とした。

 ○

 秋の終わりの事だった。

 冬月副司令は個人的な感情から、<特殊監査部>と<保安部>を私物化し、ある人物の失脚作戦を立案した。
 陰謀の餌食となったのは我がNERVの長、碇司令だった。

 碇司令と冬月副司令との間に個人的ないさかいがあったという説が最も有力だった。
 面倒事は全て副司令に押し付け続けていた事に、堪忍袋の緒が切れたという説を唱える人もいた。

 いずれにしても冬月副司令は碇司令を破滅に追い込むことに決めたんだ。何をおいても、まずは情報収集だ。

 組織内に張り巡らされた情報網を伝って、碇司令にまつわるあらゆる情報が集められた。
 そのなかに彼女の写真があった。

 碇司令を失脚させる策を練る為に召集された会議の席上で、冬月副司令は弁護の余地のない最低の作戦を言い渡した。
 碇司令はそのユイさんを目に入れても痛くないほどに慈しんでいる。これを誘拐すれば、碇司令はこちらの要求を
飲むと踏んだんだ。

 計画遂行の夜。
 碇司令は国連に呼び出されていて、その日は帰ってこない。
 <保安部>の幹部数人と僕は闇にまぎれて地下10階へ集合した。

 当初の計画では<保安部>の一人が第二執務室の鍵を開け、幹部たちが侵入、
ラブドール「ユイさん」を盗み出すという事だった。
 しかし、計画は早くもとん挫しかけた。

 犯罪めいた所業に手を染めると分かって腰が砕けた、根性も忠誠心もない男が一人いたからだ。
 つまり僕だ。

 僕は、
「いやだいやだ」
と駄々をこね、壁にへばりついて抵抗した。

 他の幹部たちも、そもそも気が進まない事だったのだから、実行を躊躇した。
 そこへ、まさかわざわざ来るまいと思っていた冬月副司令が現れた。

「お前たち、何をぐずぐずしているのかね?」

 彼が一喝するが早いか、幹部たちは二手に分かれた。

 すぐさま計画の遂行に向かう一派と、闇雲に逃亡を図る一派だ。
 もちろん、逃亡を図ったのは僕だった。

 闇夜に乗じて逃げ出しながら、僕は
「こんな阿呆なことするもんか!」
と捨て台詞を残した。

 冬月副司令の眼が蛇のごとく輝いた。殺されるかと思った。

 僕の抵抗もむなしく、ユイさんは冬月副司令によって連れ去られてしまった。
 翌日、帰国した碇司令との間で取引が行われ、碇司令は冬月副司令の要求に膝を屈したという。

 数日を経ずして、碇司令は自分が創設して以来手放そうとしなかったNERVの実権を、
冬月副司令へ譲り渡したんだ。

18: アスカ「私なりの愛ってやつよ」 2011/04/13(水) 23:41:53.98 ID:nYXsbXrS0
 あまりの理不尽さに僕は憤った。冬月副司令、断固許すまじ。

 僕はアスカの手配してくれた隠れ家に速やかに逃げ込み、冬月副司令に見つからないように息をひそめ、
生まれたての小鹿のようにぷるぷると怒りに震えていた。

 ○

 この20日間あまり、単調にドアから入って窓から出るという行為ばかりを繰り返してきた。
 考えてみればこれはあまりに頭の固いやり方じゃないか?

 本当に脱出したいのであれば、壁を破ればいいじゃないか。
 ひょっとすると、それだけで全てが解決するかもしれない。

 隣は葛城二佐の部屋があるはずだけれど、もし僕が壁の穴から乱入してきても、
彼女なら笑ってすませてくれる気がする。たぶん。

 そう考えると急に元気が湧いてきた。
 僕は腕立て伏せ及び似非ヒンズースクワットをしてから、イスを持ち上げ壁に向かって放り投げた。

 壁に壁が凹み、亀裂が入った。
 亀裂が入ったところを思い切り蹴飛ばすと、直径15センチほどの穴が開いた。
 穴の向こうには蛍光灯の明かりが見えた。

「やったー!」
 僕は感涙にむせび泣き、穴を広げてくぐり抜けた。そうして僕が出たところは、やっぱり同じ部屋だった。

 その後、僕は思いつくままに壁を壊し続け、ドアを開け、窓を開け、ジョニーを慰め、
カステラを食べ過ぎてゲロを吐き、また思い出したように壁を壊し続けたりした。

 広大な自室を放浪し続けた。

 ○

 冬月副司令が覇権を握った後の話をするよ。

 「ユイさん誘拐計画」から逃走した後、僕は隠れ家に籠ってぷるぷる震えていた。

 はっきりと反抗の意思を表明した以上、冬月司令は<特殊監査部>を動かして、
僕をひねり潰してしまうだろう。
 父さんの運命は、僕の運命でもある。

 アスカによると冬月司令は鵜の目鷹の目で僕の居所を探しているらしかった。

「冬月司令にも困ったもんよ。ちょっと暴走気味なのよねぇ」
 とアスカは言った。

「<技術開発部>の方でもナントカしなくっちゃと話しあっていたところなの」

 僕は隠れ家から一歩も外に出なかった。
 隠れ家と言うのは、かつて僕がNERVへ出頭させようとしていた加持リョウジの自室だった。
 加持師匠の部屋に隠れるというアスカの案を初めは真に受けなかった。

「ヘタに動くよりもここに隠れていたほうが良いのよ。灯台もと暗しと言うでしょう」
 アスカに説得されて、僕は加持師匠のもとへ居候することにした。

 アスカはしばらく姿を見せなかった。
 僕の学生生活が終わろうとしている今、こんな所でうずくまっていていいんだろうか。
 僕が陰気な顔をして本を読んでいると、加持師匠は煙草吸い、のんきな口調で慰めてくれた。

「まあ大船に乗ったつもりでいなさい。アスカならきっとうまく収めるだろう」

「あいつ裏切るんじゃないですかね」
 僕は疑い深げに尋ねた。

「うん、ま、そういう可能性もあるな」
 加持師匠は楽しそうに言った。

「あの子の行動は予測がつかないからな」

19: アスカ「私なりの愛ってやつよ」 2011/04/13(水) 23:42:21.67 ID:nYXsbXrS0
「冗談じゃないですよ」

「でも、君の事は身を挺してかばうと言っていたよ」

 ○

 僕がこの世界に閉じ込められてから50日が経過した。

 信じられない。

 外はもうとっくに年が明け、三学期も終わろうとしている。1200時間もの間、
僕は外食をしていない。日光を浴びていない。新鮮な空気を吸っていない。
人間と言葉を交わしていない。例の錬金術にも嫌気がさして、真面目に千円札を
集めなくなっていた。

 なんという世界だ。
 何という世界。

 地表はどこまでも隙間なく敷き詰められた畳で、朝も昼もなく、風も吹かず雨も降らない。
 世界を照らすのは貧相な蛍光灯の明かりのみだ。
 ただ孤独だけを友として、僕はがむしゃらに世界の果てを目指して歩き続けた。

 数え切れない壁を破り、数え切れない窓枠をよじ登り、数え切れないドアを開けた。

 秋に組織から足を洗って一カ月。僕は自室に立てこもってきた。
 自分は孤独に耐えうる人間だと思っていたんだ。

 浅はかだった。
 僕は孤独なんかじゃなかったんだ。
 今の僕に比べれば、あの頃の僕はちっとも孤独じゃなかった。

 僕は孤独に耐え得ない。何としてもここから出なければならない。
 そうして僕はよろよろと立ち上がる。ふたたび自室横断の旅に出るんだ。

 ○

 誰もいない。
 誰とも言葉を交わしていない。
 最後にアスカと言葉を交わしたのはいつだったろう?
 希望を持って歩く事は、日に日に難しくなった。
 もはや僕は独り言も言わなくなった。
 歌も歌わない。
 身体も拭かない。

20: アスカ「私なりの愛ってやつよ」 2011/04/13(水) 23:42:50.89 ID:nYXsbXrS0
ソーセージを食べる気にもならない。
 どうせ同じ部屋に出るだけだ。
 どうせ同じさ。
 僕はただ胸の内でそう呟いていた。

 ○

 僕が加持師匠の部屋に潜み、読書に耽っている間に何が起こっていたか。
 アスカが妖怪のように暗躍していた。

 彼女は手始めとして、<技術開発部>の赤木博士が出張で松城に出かけた隙をつき、
代理権限を行使して<技術開発部>の操業を停止した。

 そんなことは初めてのことだったから、冬月司令は僕の件を放りだし、急きょ<技術開発部>へ
駆けつけた。

 アスカは悪徳商人のように物欲しげな顔をして冬月司令の前に姿を現したんだ。

「NERVの運営で疑問があるの。どうやら謀反を企てている奴がいるらしいわ。
それで会議を開いてほしいのよ」

 まさかアスカが全てを乗っ取ろうとしているとは、冬月司令は考えもしなかっただろう。
 冬月司令と交渉する一方、アスカは着々と他の組織に根回しをしていた。

 <戦術作戦部>時代の人脈を使って、引きこめるだけの人間は自分の陣営に引き込んだ。
 引き込めなかった人間は、<保安部>を差し向けて会議の当日には自宅へ閉じ込めることにしたらしい。

 恐るべき八面六臂ぶりだよ。
 縦横に巡らされた陰謀の中へ、冬月司令は誘い込まれたんだ。
 会議は開かれるなり終わった。

 個人的怨恨から冬月司令が組織を私物化し、碇元指令を追い出したという恥ずかしい事実が暴露され、
満場一致で冬月司令は追放されることに決まった。

 まだ唖然としている冬月司令が、<保安部>によって議場から放りだされた後、会議は静かに続いた。

「アスカ、あんたがやればいいんじゃない?どうせ形だけの司令なんだし、私は忙しいし」

 <戦術作戦部>の葛城二佐が、アスカを推薦した。

「私には荷が重すぎるわよ」

 アスカは一応、遠慮して見せた。
 けっきょく、アスカが<技術開発部>室長及び、NERV総司令を兼ねることが決まった。

 ○

 アスカがNERV総司令に就任した夜。
 僕は一週間ぶりに隠れ家から出て、恐る恐るNERV構内へ入った。
 夜陰に紛れてケージを抜け、会議場となっていた指令室へ入り込んだ僕は、そこでアスカのクーデターが成功し、
冬月副司令がいともやすやすと放りだされるのを見たんだ。

 散会して職員たちがいなくなった。司令の机にアスカがぽつんと座っていた。

 僕は指令室の隅に座ったまま、アスカの顔を眺めていた。
 NERV総司令たるアスカは、その堂々たる肩書にふさわしい貫禄を微塵も感じさせず、
相変わらずぬらりひょんのごときヘンテコな顔をしていた。

「恐ろしい奴だなぁ」
 僕はしみじみと言ったけれど、アスカは欠伸をした。

「こんなのはごっこ遊びよ」
 彼女は言った。

「いずれにしても、これでアンタは助かった訳じゃない」

 僕たちはNERVから抜け出して、屋台ラーメンを食べに行った。
 もちろん、僕のおごりだった。

 こうして僕は<NERV>から足を洗い、バラ色のスクールライフに向けて船出したはずだった。
 しかし、不毛に過ぎた半年間の遅れをやすやすとは取り戻せない。
 僕はコンフォート17にこもりがちになった。

21: アスカ「私なりの愛ってやつよ」 2011/04/13(水) 23:44:17.43 ID:nYXsbXrS0
 アスカのような恐ろしい人間とは早く袂を分かとうと思っていたけれど、それもうまくいかなかった。
 自室にこもる僕を訪ねてくるのは、アスカだけだったからさ。

 ○

 僕は痛々しい行軍を続けた。

 その日泊まった部屋には見覚えの無い写真があった。
 加持師匠とアスカと僕と葛城二佐が、鍋をつついている写真だった。
 四人で鍋をつついた記憶は無い。

 その瞬間僕はこの部屋の仕組みを把握した。

 かつて買いそびれた本が並ぶ本棚、僕が入っていないはずの英会話教室。

 そうなんだ、ここは僕のパラレルワールドなんだ。
 これまでの何十日の間、僕は様々な選択の中であり得た別の並行世界を横切って来たんだ。

 ほんの些細な決断で僕の運命は変わる。

 日々僕は無数の決断を繰り返すのだから、無数の異なる運命が生まれる。
 無数の僕が生まれる。
 無数の部屋が生まれる。
 したがってこの世界には、果ては無かったんだ。

 これは、70日目の出来事だった。

 ○

 果てしなく広がる自室との戦い。その中で、色々と分かった事がある。

 各々の部屋には各々の人生を歩んでいる自分がいる。
 しかしその誰もが、不毛なスクールライフを謳歌しているように思えた。

 そこで、各部屋に痕跡を残す写真や手紙などを手掛かりに、僕を取り巻く人物たちを
調べてみることにした。

 赤木博士という女性は技術部の女部長だった。
 明晰な頭脳と毒舌っぷりに、意外とファンの多い女性だ。

 加持師匠という男はがけっぷちの不良職員だけれども、その態度はあくまで傲然としていた。

 葛城二佐もNERVの職員であり、二人と同期であることが分かった。
 頻繁に葛城二佐は加持師匠の部屋を訪ねており、数人の弟子まで取っていたようだ。

 かくいう僕の一人も弟子になっているようだった。

 碇司令はユイさんという恋人がありながら、赤木博士を気にかけているようで、葛城二佐は
加持師匠と付き合っているようでもあり、そうでもなさそうでもあり、なおかつ今度は加持師匠が
世界一周の旅に出るという。

 加持師匠が葛城二佐に気があるのなら、葛城二佐を放置しているのは何とももどかしい。
 道端に落ちているダイヤモンドに気付かないふりをしているようなものじゃないか。

 しかし、これだけの面々に囲まれた僕のスクールライフははち切れんばかりに
充実していたはずだよ。

 それに気付かなかった僕は馬鹿だ。
 大馬鹿だったんだ。

 ○

 アスカ。

 ほとんど全ての僕の部屋にカステラを運ぶ女。
 たくさんの組織に属し、その全容は把握しきれない。

 情報通で、人の恋路を邪魔し、日常的に修羅場の炎があちこちに燃え盛るようにけしかけ、
加持師匠の弟子として碇司令の暴露映画を製作しながら、碇司令に取り入り、二重スパイとして
加持師匠の愛車をピンク色に塗り替えた。

 やがて冬月副司令の手先となりながら、碇司令をNERVから追い出し、今度は冬月副司令をはめて
自分がNERVのトップへ躍り出た。

 八面六臂の大活躍で己のスクールライフを謳歌しながら、全ての僕にちょっかいを出し続ける。

 再びこの女の子に出会えるならば。
 今度こそ充実したスクールライフを送ってみせる。

22: アスカ「私なりの愛ってやつよ」 2011/04/13(水) 23:44:45.98 ID:nYXsbXrS0
「そうだ……」
 僕は思わずつぶやいた。

 アスカは、たったひとりの僕の親友だったんだ。

「アスカに、逢いたいなあ」

 ○

 僕はそれからも壁を壊し、外の世界を求めてさ迷い歩いた。
 そしてとうとう、ある部屋へたどり着いた。

 ここは僕がもともと住んでいた部屋だ。

 どうやら80日も掛けて僕は出発点となる部屋に戻ってきてしまったらしい。
 恐らくこの無限に広がる並行世界を、小さく一回りしただけだったようだ。

 サードインパクトが起こって、世界が死んだのか。
 それとも僕が死んだのか。

 皆元気に暮らしているのかな?

 僕は畳にうずくまって、大粒の涙を流した。
 胃液が出るまで泣きじゃくり、親しい人たちの名前を呼び続けた。

「アスカァ、ミサトさん、うう……、父さん」

「う、ううう……。うぇ、げぇ……」

 不毛と思われた日常は、なんて華やいでいた事だろう。
 ありもしないものばっかり夢見て、自分の足元に転がっている大切なものにさえ気付けなかった。

 これは僕が選んだ人生。僕が望んだ一つの結果。
 僕が望んだ世界だったんだ。

「わかったよぉ、もうわかったよぉ!」

「僕が悪かったんだ。僕のせいさ。もうしない、しないよ!」

「もう二度と自分の境遇に不満なんて言わない!だからここから出して、出してよぉ……」

 二度と戻らない日々を悔やみ、誰に頼むでもなく泣き喚いた。
 すると、部屋の隅から一人の女の声がした。

「良かったわ。やっと素直になってくれたのね」

 ○

 僕は幻聴が聞こえたのかと思った。
 だってこの80日間、他人の声など聞いていなかったんだもの。

 声の聞こえる方を恐る恐る見ると、イスに女性が腰かけているのがわかる。
 しかし、涙でかすんで顔がよく見えない。

 僕は自分の腕で目をこすり、もう一度女性を見た。

23: アスカ「私なりの愛ってやつよ」 2011/04/13(水) 23:45:12.82 ID:nYXsbXrS0
 その人物をはっきり認識した瞬間、心臓が止まりかけた。
 何か言おうとしても、ぱくぱくと魚のように口が動くだけで、声が出てこない。

 僕は何とか最初の一言を絞り出した。

「ユイさん?」

 ○

 僕のイスに座っていたのは、紛う事無きユイさんだった。
 父さんが愛情を注ぎ過ぎた結果、魂を持って動き出したのかと思った。
 しかしひとつだけ、大きく違っている点がある。

 生きて、喋っているという事だ。

 彼女は僕を見てニコニコと微笑んでいた。
 しかし、呼びかけた瞬間あからさまに不機嫌になってしまった。

「なあに?実の母親に向かって、ずいぶん他人行儀じゃない」

 ほっぺたを膨らましながら、ムスっと答える。年齢に似合わぬ可愛らしい仕草だった。

「え、え、母親?何を言ってるんです?」

 僕は訳が分からず、目を白黒するばかりだった。
 ユイさん、もとい母親と名乗る女性は、目をまん丸に見開き呆れ顔で僕を見た。

「あなた、ゲンドウさんから私の事聞いてなかったの?」

「そりゃ、聞いてますよ。数年前からあなたを愛でる様になったって。職員たちの噂になってたから」

「えっ?」

「えっ?」

「数年前って、どういう事?私が取り込まれたのって、10年以上前の事なんだけど」

 何を言っているのか分からない。
 僕の母さんは10年以上前に、ヱヴァの実験によって死んだと聞かされている。
 父さんは写真を全部処分してしまったらしく、僕は母さんの顔を知らなかった。

 そこへ突然、自分が母親だと名乗る女性が現れた。しかもラブドールと全く同じ顔をして。

「なんだか、話が食い違っているようね。本当に私が誰だかわからないの?」

「うーん、知ってるはずなんですけどね。知り合いというか、なんというか、
ある人と瓜二つなんです。名前も一緒だし」

 それを聞いたユイさんは、眉を歪ませ思案顔で尋ねてきた。

「その人って、ゲンドウさんの知り合いなのかしら?」

 僕は説明する事を放棄した。早くこのヘンテコな世界から脱出したいと思っているのに、
余計な問題が増えただけのような気がする。

 父さんとユイさんの関係は、はっきり言って世間体の良いものではない。
 目の前にいる女性の正体は分からないが、あのラブドールのある場所へ連れて行って、
彼女自身に判断させようと思った。

24: アスカ「私なりの愛ってやつよ」 2011/04/13(水) 23:45:44.16 ID:nYXsbXrS0
「言葉で説明するよりも、見てみる方が早いんじゃないかなぁ。ちょっとついて来て下さい」

 そう言って、彼女と一緒にユイさんのいる部屋へと歩いて行った。

 ○

 ラブドールのユイさんを紹介したところ、彼女はあっけにとられて見ていたが、やがて笑いだした。

「どうしたんです?」

「ウフフ、だって可笑しいんですもの。あの人ってばやっぱり可愛いわあ。」

 何を言っているんだろう、この人は。確かに自分とそっくりの人間がいれば可笑しいかもしれないが、
どっちかと言うと気味が悪いと思う。
 そう問うと、彼女はゆでダコのように顔を真っ赤にして目を伏せる。

「だって、嬉しくって……」
 モジモジしながらそんなことを呟いた。

 やがて落ち着いたのか、彼女は色々な事を説明してくれた。

「厳密に言えば、私は死んだわけじゃないの。あの日、ヱヴァの起動実験で事故を起こして
取り込まれてしまっただけ。」

「だからね、14歳を迎えたあなたに出会ったのは、今日が初めてじゃないの。いつだと思う?」

「まさか……」

「そう、あなたが第三新東京市に来たあの日。あの日からずっと、あなたの事を見ていたわ。大きくなったわね」

「そんな。でも、父さんが母さんは死んだって言った!」

「あの人なりの優しさだったのかもね。今の私は身体もないし、声も出せない。ヱヴァに縛られたまま。
今日あなたに逢えたのも、いろんな偶然が重なったからよ。こんな機会は、恐らく二度とないわ」

「じゃあ、どうして今日は逢えたの?無限に広がるこの世界ってなんなのさ?知ってるんでしょう?」

 彼女は申し訳なさそうに目を伏せた。

「実はね、私が作ったのよ、この世界」

 ○

 彼女は言った。

「あなたが今置かれている境遇に、とても強い不満を感じているのは分かっていたわ」

「あなたいつも言っていたわね。"出来る事ならこの街に来る前からやり直したい"って」

「だから私はヱヴァの力を使って、あなたに見せたのよ。他の選択肢を選んだあなたの人生を」

 彼女は哀愁を込めた目で僕を見て、問いかけてきた。

「それぞれの部屋のあなたを見て、どう思った?」

「どう思ったかだって?情けなくなったよ。ほかの僕にも人生が楽しくなるきっかけが沢山あった。
それなのに、そのきっかけを掴むことなく言い訳をして生きていく奴ばっかりだったんだ。」

「ねえ、母さん。どんな境遇だろうと、もう文句なんて言わないよ。結局僕は、人との関わりに
臆病になっていただけなんだ。これからは、もっとうまくやれる気がする」

 彼女は頷き、優しい目をして僕を見た。

25: アスカ「私なりの愛ってやつよ」 2011/04/13(水) 23:46:22.85 ID:nYXsbXrS0
「ちょっと荒療治だったわね。80日間も部屋をさ迷わせる事になっちゃったから。
でもあなたはきちんと気付いたわ。自分自身で殻を破った」

 僕は母を誤解していたのかもしれない。こんなにも深い愛情に包まれたのは初めてだった。

 ○

 僕たちは色々な話をした。

 学校の事。アスカという悪友の事。葛城二佐にお世話になっている事。
父さんが相変わらずである事。

 初めての母との会話は、とても楽しいものだった。でも、そんな楽しい時間にも終わりが来る。

「名残惜しいけど、そろそろ帰る時間よ」

「……」

「大丈夫、もう分かったでしょう。あなたは外の世界でも、ちゃんとやっていける。
私が現れたのは、その証拠よ」

「どういう事?」
 僕が問うと、母はポケットからあるものを取りだした。

「私の役目はもう一つ。これをあなたに渡す事」

 そう言って差し出されたのは、何の変哲もない黒ぶち眼鏡だった。いや、まてよ。
僕はこの眼鏡に見覚えがある。
 恐る恐る眼鏡を受け取った僕の頭に、まるで走馬灯のように思い出が溢れた。

「綾波さんのだ」
 僕は呟いた。

 ○

 メガネ。綾波さん。約束。

 越して来た夏。
 青い正八面体をした使徒を殲滅すべく、徹夜の準備をしていた時だった。
 僕はこの使途に一度殺されかけている。
 死への恐怖におびえながらも、プラグスーツに着替えていた。

 その時一緒に作戦に参加したのが綾波さんだった。
 彼女は青い髪を涼しげに短くして、理知的な顔をしていた。
 冷やかな目が印象的な、美人だと思った。

 彼女は作戦の決行までの間、じっと座って空を眺めていた。
 胸に、茶色い革製のケースを抱えている。

26: アスカ「私なりの愛ってやつよ」 2011/04/13(水) 23:46:51.14 ID:nYXsbXrS0
 良く見るとメガネケースのように見える。
 彼女は別段、目は悪くないはずだ。
 誰かの持ち物なのかな。
 僕は単純な好奇心から、彼女に訊ねた。

「それ、なんだい?」

 彼女は眉を緩めて、ほんの一瞬だけ微笑んだ。

「これは、ある人のメガネケース。中身をなくしてしまったの」
 と言った。

 彼女はある人からもらった大切な眼鏡を持っていたが、ロッカーにしまい忘れて
どこかへ行ってしまったという。

 なぜ眼鏡を大切に思っているのかという理由も気になったが、彼女が微笑んだときの顔は、
よりいっそう印象に残った。

 ようするに、率直に書いてしまえば、大方の予想通り、僕は惚れたんだ。

 幾度かの試練を乗り越え、数ヵ月後の事。
 僕がパイロット用ロッカールームで着替えをしていると、荷物に紛れて黒ぶち眼鏡が出てきた。

 ひょっとしたら、これが彼女の探しものだったのかもしれない。
 次に会う時に渡してあげようと思って僕はそれを持ち帰ったけれど、彼女とはすれ違う毎日が
続いてしまった。

 それ以来、僕は綾波さんにいつか返さねばならないと考えて、メガネを大切にしていた。
 しかし、返す機会もついに無く、眼鏡は机の中にしまい込んだままだった。

 ○

 僕は繁華街で出会った、占い師の言葉を思い出した。

「メガネが好機の印ということさ。好機がやってきたら逃さない事だよ。その好機がやってきたら、
漫然と同じことをしていては駄目なんだ。思い切って、今までと全く違うやり方で、それを捕まえてごらん」

 思い出した。約束って、そうか……。

「ありがとう母さん。今度こそ、好機を掴むよ」

 母はドアを指差し言った。
「眼鏡を持って、ドアをくぐりなさい。サヨナラよ」

 僕は母さんと握手をし、また必ず会おうと約束した。
 今度は父さんも引きずって来ると言うと、母さんはクスクスと笑った。

「でもさ、母さん。どうしてユイさんの事を知らなかったの?母さんが作った世界なんでしょ?」
 僕は尋ねた。

「私は、あなたの無数にある可能性を具現化しただけなのよ。実際に起こりうる未来を見せただけだから、
私の知らない事だってたくさんあるわ。流石に、ラブドールに手を出すとは思わなかったけどね」

「そうだったのか」

「でも、私に黙ってそっくりの人形を作るなんて、ちょっと趣味が悪いわよね。あの人にはオシオキが必要だわ」
 そう言って、母は妖しい笑みを浮かべた。

27: アスカ「私なりの愛ってやつよ」 2011/04/13(水) 23:48:29.24 ID:nYXsbXrS0
 元の世界に戻ってから、父に言って欲しい事があると、伝言を預かる事になった。
 母は僕の耳に手を当て、ぼそぼそと伝言を伝える。

 それを聞いた僕も、ニヤリと笑みを浮かべた。

 ○

 目が覚めた。
 回りを見回すと、どうやらエントリープラグの中にいるらしい。

 僕はシートの上で毒虫のようにもぞもぞとしてから、のっそりと起き上がった。
 ふいに、頭上から声が聞こえて来た。

「ああ、良かった。戻ってきてくれたのね」

 モニターを通じて呼びかけて来たのは、伊吹二尉だった。

「あなた、80日間もヱヴァに取り込まれてたのよ。急にシンクロ率が上がったから、
もしやと思ってたんだけど。本当に良かった」

 伊吹二尉は目に涙を浮かべながら、そう言った。

「マヤ、ちょっとマイク貸して」

 赤木博士の声も聞こえてきた。うしろから慌ただしい雑音が聞こえてくる。
 どうやら僕の居ない間に、何かあったらしい。

「詳しく説明している時間は無いんだけど、そのまま出撃してほしいの。
二号機が原因不明の暴走中なのよ。地上に出て止めて頂戴」

「はあ、分かりました」
 僕はいきなりの出撃命令に、曖昧に答えた。

 身体に強力なGがかかり、初号機は地上に射出された。

 ○

 地上に射出された僕は、芦ノ湖に向かって走り出した。
 街は藍色の夕闇が垂れこめている。
 向こうには繁華街のネオンがきらめいている。

 僕は家々を一足で跨ぎ、第三東京市を駆け抜けていった。
 やがて芦ノ湖のほとりにある、箱根神社が見えて来た。

 箱根神社の回りにうっそうと生い茂る松林を抜けると、美しい銀色の波にゆれる芦ノ湖が見えた。
 向こう岸からは、暴走した二号機が湖にざぶざぶと入って来るところだった。

 湖のたもとには欄干があり、二号機から逃げまどう人々の姿が見える。
 右往左往している人々の中に、見覚えのある顔がいた。

 アスカだ。
 アスカは欄干に立って、今にも飛び降りそうなしぐさを見せたりしている。
 よく見ると、周りに人が詰め掛け、彼女を責め立てているようだ。
 また阿呆なことでもやったんだろうか。

 アスカだけじゃない。父も加持師匠も綾波さんもいる。
 僕は懐かしさに万感の思いがこみ上げ、涙が止まらなかった。


 ○

 僕は湖に入り、二号機を止めた。
 必死に押さえつけていると二号機は電源が切れたのか、そのまま湖深くに沈んでいった。
 その視界の端に映ったのは、欄干に立っていた人影が湖に落ちる所だった。

 ようやく事態が収束し、欄干では先ほどの恐怖体験を声高に語り合う人々の声に満ちたけれど、
 僕は黙然とし対岸を見つめていた。

28: アスカ「私なりの愛ってやつよ」 2011/04/13(水) 23:49:01.21 ID:nYXsbXrS0
 対岸の壁面に、赤くて汚いスルメのようにわだかまっているものがある。
 あれはアスカじゃないか。
 彼女は手足をばたつかせ、水に流されまいと溺れていた。

 欄干を人々がびっしりと埋め尽くし、
「あいつ本当に落ちた」

「やばいやばい」

「助けてやれ」

「救急車はまだか」
などと口々にわめいている。

 僕はエントリープラグのハッチを開け、初号機の外に出た。
 そのまま勢いよく湖に飛び込み、対岸に向かって泳いでいく。

 たとえようもなく良い匂いがした。
 それは何か一つの匂いと言うわけじゃない。
 外の匂い。
 世界の匂いだ。

 匂いだけじゃない。
 世界の音が聞こえる。
 森のざわめきや、小川のせせらぎ。
 夕闇の中を飛び交うヒグラシの鳴き声。

 幾度か足をつりそうになり、水に流されかけながらもアスカのもとへ急いだ。

 アスカ、アスカ、アスカ!

 ようやく壁面までたどり着いて、
「大丈夫?」
と尋ねた。

 アスカは僕の顔をまじまじと見て、
「アンタ、生きてたの?初号機に取り込まれたんでしょう」
と言った。

「大変だったんだ」

「まあ、こっちもなかなか大変よ」

「助けるよ」

「あ、いたたた。駄目よ、これは絶対折れてるわ」

「ともかく浅瀬へ向かおう」

「いたい、いたい。動かしちゃダメだってば。なんで私に構うのよ」

「僕と君はどす黒い糸で結ばれているんだろ?」

「そんなの知らないわよ、イヤだってば~」

 欄干で蠢いていた群衆のうちの一部が駆け下りてきて、助太刀してくれた。

「運ぶぞ」

「おまえはそっち」

「おれはそっち」
 と頼りがいのある声を出し、手際が良い。

「痛い痛い、もうちょっと丁寧に運びなさいよ!」
 とぜいたくな事を要求するアスカは岸まで運ばれた。

29: アスカ「私なりの愛ってやつよ」 2011/04/13(水) 23:49:56.77 ID:nYXsbXrS0
 芦ノ湖のほとりには、大勢の人がウロウロしている。
 二号機が暴走したのも相まって、相当の騒ぎになった。

 人混みの中に冬月副司令の姿を見たような気がして僕は怯えたけれど、
もはや怯える理由は何もない。
 群れに集まった人々は、河原に丸太のように転がされているアスカを取り囲んだ。

 加持師匠が悠然と表れて、
「アスカは逃げないから安心しろ。俺が責任を持つ」
と言い放った。

「師匠!かっこいい~」
 アスカは喚いた。

 人混みから碇司令も現れた。

「救急車はレイが呼んだ。直に来る」
 と言った。

 加持師匠の傍らには葛城二佐もいて、呻くアスカを眺めていた。

「自業自得と言えば自業自得なんだけどねん」
 と彼女は言っていた。

 ほとりへ横になりながら、アスカは呻いた。

「痛い、痛い。とっても痛いわ。なんとかして」

 加持師匠がアスカの傍らに跪いた。

「失脚しちゃったわ」
 アスカが小さな声で言った。

「アスカ、君はなかなか見所があるな」
 師匠が言った。

「師匠、ありがとう」

「しかし骨まで折る事は無いだろう。君は救いがたい阿呆だな」
 アスカはしくしく泣いた。

 冬月副司令が土手を駆け上がって、救急隊員と一緒に降りて来た。
 救急隊員たちはプロの名に恥じない手際でアスカをくるくると毛布に包んで担架に乗せた。

 そのまま芦ノ湖に放りこんでくれれば愉快千万だったけれど、
 救急隊員は怪我をした人間には分け隔てなく哀憐の情を注いでくれる立派な方々だ。
 アスカは、彼女の悪行には見合わないほどうやうやしく救急車へ運び上げられた。

「アスカには私がついて行くわ」
 葛城二佐が言い、冬月副司令と一緒に救急車に乗り込んだ。

 ○

 僕が知らない所で何が起こっていたのか。
 アスカが芦ノ湖の欄干で追い詰められた経緯はとてつもなく入り組んでいるので、
事細かに説明しているとそれだけで一つのお話になってしまう。

30: アスカ「私なりの愛ってやつよ」 2011/04/13(水) 23:50:34.88 ID:nYXsbXrS0
 だから手短に済ませるよ。

 碇司令と加持師匠は昔から小競り合いを続けていた。
 今年の一月、愛車を桃色に染められた加持師匠は手下のアスカに報復を命じた。
 そこでアスカは碇司令に一矢報いるために、ユイさんを盗み出した。
 車を染めた報復だ。

 ユイさんを預けようと当てにしていた僕が不在だったために、
アスカは彼女を<戦術作戦部>の幹部Aに預けた。

 ところが、そのAがいともやすやすとユイさんとの禁じられた恋に落ち、
ひそかに第三新東京市から逃亡を図ったことから話しは大きくなる。

 アスカは配下の<技術開発部>を私的に動かし、MAGIを使ってAの居場所を突き止めた。
 レンタカーで逃亡しようとしたAを拘束、ユイさんを一旦は奪い返した。

 ところが、アスカが組織を私的に動かしたことが明らかになるや、<NERV>を牛耳って来た
アスカに対し不満を抱いてきた職員がここぞとばかりに動き出し、彼らに買収された<特殊監査部>が、
<技術開発部>および<戦術作戦部>を占拠した。

 さらにその過程で<技術開発部>の研究結果の一部をアスカが外部に持ち出していたことが判明、
彼らはアスカを確保して研究資料を取り戻そうと企てた。

 アスカへの復讐の機会を狙っていた冬月副司令も、アスカ失脚の気配を察知すると、
彼女の身柄と引き換えに<NERV>へと復帰を果たそうと企てたらしい。

 事件当夜、帰宅途中にあったアスカは敏感に危険を察知、マンションには戻らずに箱根神社の境内に潜伏し、
携帯電話を用いて葛城二佐に連絡、彼女を介して加持師匠に救援を求めた。

 かくして、加持師匠から「アスカ救出」の命を受けた綾波さんがただちに箱根神社へ潜入したという訳さ。

 加持師匠の家で息をひそめていたものの、ユイさんを盗まれて逆上した碇司令が間の悪い事に加持師匠の家へ乱入、
往来へ蹴りだされたアスカは巡回監視中の<保安部>関係者らに発見された。

31: アスカ「私なりの愛ってやつよ」 2011/04/13(水) 23:51:08.85 ID:nYXsbXrS0
 続々と集まる関係者たちの手から持ち前の逃げ足の速さで辛くも逃れつつも、ついにアスカは芦ノ湖へ
追い詰められ、行き場を失って欄干へ飛び乗った。

 その挙げ句、彼女は欄干から湖に落ちて骨折した。

 ○

 気になるのは二号機の暴走事故の事だ。

 なにより不可解なのは、あんなに怠惰な性格のアスカが、何故あれほど精力的に活動し
NERV掌握を目論んだのかという、動機の部分だ。

 ここからは僕の推測になる。

 僕は初号機に取り込まれ、母に出会った。
 これにより、ヱヴァという乗り物には、人間の魂が宿っている事になる。

 そこで問題になるのは、二号機や零号機にも、同じように魂が宿っているのではないかということだ。

 アスカの母親も、僕の母と同じように、ヱヴァ起動実験中の事故で死んだと聞いた事がある。
 アスカは、ドイツ支部に所属していた頃に、その事実に気付いたのかもしれない。
 そして日本へ異動となってから、自ら二号機に取り込まれるチャンスを待っていたのではないだろうか?

 アスカはパイロットの仕事を掛け持ちしてでも、<技術開発部>への異動を希望していた。
 研究資料を持ち出すなんて危険な行為にもためらいは無かった。

 これも二号機へ取り込まれる可能性を少しでも高めることが目的だとしたら、辻褄が合う。

 アスカはあの日、<技術開発部>の人間を使って、二号機の軌道実験をわざと失敗させたんだろう。
 二号機暴走は、彼女にとっての規定事項だったんだ。

 そんな事を企んでいるなんておくびにも出さずに、悪戯をして回って、道化を演じるアスカ。
 最後にはNERV職員全員を敵に回してまで、不敵に立ちまわったアスカ。

 全ては、母に逢うため。

 彼女は言っていたっけ。
「私なりの愛ってやつよ」

 あれは僕にじゃなく、僕の後ろに見え隠れする、母に対して言った言葉だったんだ。

32: アスカ「私なりの愛ってやつよ」 2011/04/13(水) 23:51:40.89 ID:nYXsbXrS0
 僕とアスカは境遇が似ていた。
 同じように母をヱヴァに奪われた僕に対して、親近感が湧いたのかもしれない。
 やたらと僕に構うのも、そのせいだったのかな。

 意識のない僕をエントリープラグへ沈めて、わざと起動を失敗させた人物がいる。
 一つ一つを照らし合わせて考えると、犯人は自ずと浮かび上がる。

 全ては僕の憶測に過ぎないから、真偽は定かじゃない。
 でも、僕はこの事で犯人を問い詰める事はしなかった。

 ○

 アスカが運ばれてしまうと、まるで潮が引くように人影が無くなった。
 80日の一人ぼっち生活を経て、急にこんな大騒ぎに巻き込まれたので、
僕はしばらく呆然として、しきりに髪を撫でていた。

 すると、加持師匠が僕に歩み寄り、言った。

「今回の事で、君には迷惑をかけたな。アスカに代わって礼を言うよ。ありがとう」

「そんな事は良いんです。加地さん、旅に出るんでしょう?一人で行っちゃいけません。
ミサトさんは待ってます」

 僕は説得した。
 加持師匠は、何故知っているんだろうと驚いた顔をしたけれど、
一瞬のうちに平静を取り戻した。

「ああ、分かってるよ。でも、彼女を危険な目にはあわせられない」
 と言った。

「駄目です。男気を見せてください、ついてこいって!」
 僕は叫んだ。

 加持師匠はにっこりと微笑んで、僕を見た。

「君も面白いなぁ」

 ○

 師匠が去って、ぼんやりと湖畔を見回していた僕は、ベンチに腰かけている綾波さんを見つけた。
眉をひそめ、青い頬に両手を当てている。僕は彼女へ近づいた。

33: アスカ「私なりの愛ってやつよ」 2011/04/13(水) 23:52:38.18 ID:nYXsbXrS0
「やあ、大丈夫?」
 僕が声をかけると、彼女は弱々しい笑みを浮かべた。

「人ごみに揉まれて、ふらついてしまったの」
 なるほどそういうことかと思った。

「二号機パイロットは、無事?」

「さっき救急車で運ばれていったよ。大した事は無いと思う。お茶でも飲んで落ち着くかい?」

僕は手近な自動販売機でジュースを買ってきて、彼女と二人で飲んだ。

「ところで、メガネケースはまだ持ってる?」
 僕は尋ねた。

「ええ、でも、肝心の眼鏡が見つからなくて……」
 と言ってから、僕がさし出す黒ぶち眼鏡を見て、口をつぐんだ。

 それから僕の目をまじまじと見た後、ようやく納得が言ったという顔をした。

「以前、探す約束を、してくれたんだったわね。本当にありがとう」
 彼女は僕の顔を見つめて言った。

 もはやこの感情について、今さらつらつら説明してもしょうがない。
 ともかくその場を何とか持たせようと四苦八苦して、僕は一つのセリフを吐いた。

「綾波さん、屋台ラーメンを食べに行かない?」

 ○

 僕と綾波さんの関係がその後いかなる進展を見せたか。
 それはこの記録の趣旨から外れる。
 だから、そのうれしはずかしな出来事を逐一書いたりはしないよ。

 読者の皆さんも、そんな唾棄すべきものを読んで、
 貴重な時間を溝に捨てたくはないだろうしね。
 成就した恋ほど語るに値しないものもないさ。

 ○

 僕は加持師匠のもとへ半ば強制的に弟子入りさせられ、当の師匠は世界一周(逃亡)の旅へと消えた。
 加持師匠は男気を見せたらしい。
 先日届いた国際郵便には、葛城二佐と仲良く並んでいるツーショットの写真が入っていた。
 二人とも元気でやってほしい。

 父と冬月氏は元の鞘に収まり、司令と副司令を続投する。
 そう言えば無言の美女、ユイさんはどうなったか、それを述べてなかったね。

 ○

 二号機暴走事故から3日後、僕は司令の執務室へ呼び出された。
 部屋には父しか居ない。

 父は落ち着きのない様子で、僕の答えを待っている。

34: アスカ「私なりの愛ってやつよ」 2011/04/13(水) 23:53:19.68 ID:nYXsbXrS0
「それで!」
 父は叫んだ。

「それで?さっき伝えた通りだよ、父さん。母さんは戻って来るんだ。サードインパクトを防げれば」

「確かなのか?」

「直接聞いたよ、初号機の中で。母さんからの伝言。"プロポーズのセリフを世界中に言いふらすわよ"」

 僕の答えを聞いたとたん、父は頭を抱えて唸り始めた。
 父があらゆる言い訳を考えているのが、手に取るように分かる。

 そもそもユイさんを愛でる様になったのは、妻が戻ってこないと踏んだ父が、
 自分を慰めるために制作を命じたためだ。

 しかし妻は帰ってくる。
 妻には会いたい。
 しかし会えば死より恐ろしい折檻が待っている。

 ならば人類補完計画は中止したい。しかし、中止すればゼーレが煩い。

 それどころではない。
 赤木博士との不倫がばれれば、どんなに恐ろしい修羅場になるかは、
火を見るより明らかだ。

「まあ、自分のまいた種だもの。自分で何とかしてね」
 僕はそう言い残し、出口へと歩いて行った。

「分かった、ドールは手放す!ユイには気の過ちだったと口裏を合わせてくれ!」
 父は立ちあがり喚いた。

「うん、それが賢明だよ、父さん」
 僕はにっこりと笑った。

「みんなメデタシさ」

 父へのささやかな反撃の成功を味わい、僕はそっとほくそ笑んだ。

35: アスカ「私なりの愛ってやつよ」 2011/04/13(水) 23:53:54.51 ID:nYXsbXrS0
 ユイさんとは、母さんをそっくりそのまま蘇らせたような姿だ。
 僕は知らなかったとはいえ、魂こそ無いものの、母さんと数日間同居したことになる。
 なんだか複雑な気分だった。

 ○

 アスカはNERVの病院に少しの間入院していた。

 彼女が真っ白なベッドに縛り付けられているのを見るのは、なかなか痛快な見ものだった。
 もともと顔色が悪いので、まるで不治の病にかかっているように見えるけれど、
その実は単なる骨折だ。

 病院の表には<保安部>の人間が常に張りこんでいて、アスカが逃亡しないように見張っていた。

 ある日、僕と綾波さんがアスカの傍らで話をしていると、銀髪の美少年が見舞いの花を
携えて入ってきた。
 アスカが異様に慌て、僕たちに出て行ってくれと言った。

 病室の外に出た綾波さんは、フフと笑みを漏らした。

「あの男の子、見覚えがあるんだよ。駅前で占い師のまねごとやってた。綾波の知り合いかい?」
 僕は尋ねた。

「渚カヲル君て言うの。別の中学に通っているのだけれど、半年前から
二号機パイロットと付き合っているそうよ」

「聞き捨てならないなあ。アスカに恋人がいたなんて」

「渚君、彼女にいろんなものプレゼントするからお金がないって嘆いてたわ。
占いの仕事はアルバイトの一環じゃないかしら」
 綾波さんは面白そうに言った。

「あれだけ悪事を働いているのに、よく男と付き合う時間があるなあ」

「二号機パイロットはほかの人と渚君を会わせるのをとても嫌がるの。
多分渚くんの前では良い子でいるんだわ」

36: アスカ「私なりの愛ってやつよ」 2011/04/13(水) 23:54:28.63 ID:nYXsbXrS0
 僕はため息をついた。

「ねえ綾波。アスカは敵が多いから、しばらく身を隠した方がいいと思うんだ」

「そう」
 綾波さんはクスっと笑った。

「私も手伝う」

 ○

 僕はこの半年間、ただ一人の親友であったアスカの苦境に際し、惜しみない援助をすると申し出た。

「君は退院しても酷い目にあうんだろう?」

「火を見るより明らかだわ」

「じゃあ、ほとぼりが冷めるまで匿ってあげるよ。費用は僕が持つから」
 アスカは疑るような目で僕を見た。

「どういう魂胆?私は騙されないわよ!」

「君も少しは人間を信じる心を持った方がいいよ」

「アンタに言われたくない」

「いいから僕に任せてよ」

「何でそんなに助けたがるのよ?」

 ○

 僕はにやりと笑みを浮かべた。

「僕なりの愛だよ」

「そんな汚いもん、いらないわ」

「バカシンジ!」
 彼女は答えた。

終わり