2: にゃんこ 2011/05/08(日) 03:06:57.04 ID:cflo9fRe0
「りっちゃんが着たがってたあの高校の制服、お友達から借りられる事になったのー」

ほんの少しの楽器の練習の後、お茶の準備をしながら、いつもと変わらないほんわかとした柔らかい表情でムギが微笑んだ。

「えっ? マジで? ホントに?」

少し大袈裟に私はムギに尋ねてみる。
勿論、疑ってるわけじゃない。
三日前に何となく「あの高校の制服、着てみたいよなー」と雑談のついでに出した話題を、しっかりとムギが覚えていた事に少し驚いたからだ。
その私の驚きを分かっているのかどうなのか、それでもムギはいつもの優しい笑顔で続けてくれた。

「うん。中学の頃のお友達があの高校に通ってて、休日でよければ貸してくれるんだって」

中学の友達から借りられるとか、流石は相変わらずのムギの人脈の広さには驚いてしまう。
あの高校はかなりの進学校で、私なんかじゃ背伸びしても足下にも及ばない偏差値の進学校だ。
しかも、ついでに言うと県外だ。
それなのに、そんな進学校に通う友達が居るとか、どんな人脈だよ……。

「ムギちゃん、すごーい」

そう無邪気に感心した声を上げたのは唯だった。
もっとも、唯の場合はムギの人脈の広さに驚いているのか、何でも出来るムギ自体に驚いているのか、どちらなのかは微妙なところだけど。

引用元: 律「終末の過ごし方」 



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3: にゃんこ 2011/05/08(日) 03:26:22.31 ID:cflo9fRe0
「あの高校の制服か。私も着てみたかったんだよな」

普段、さわちゃんの衣装を着る時には、ほぼ確実に無駄な抵抗する澪も意外に乗り気な様子で呟いた。
まあ、あの高校の制服は流石に進学校の制服だけあって、別に露出度とか高くないしな。
最近では際限なく露出度の限界を極めようとしているさわちゃんの衣装を考えれば、あの高校の制服なら内気な澪でも百倍は気楽に着れるだろうし。
不意に視線をやると、何かを言いたそうにしながらも、言い出す機会を見失っている様子の私の後輩を見付けた。
悪戯に微笑み、私は座っていた自分の席から少しだけ身を乗り出して、ツインテールの後輩の頭を撫でてやる。

「大丈夫、大丈夫。成長の様子の見られない梓にもぴったりな制服があるって。なあ、ムギ?」
「なっ……! だから、律先輩には言われたくないです!」

ムギが応じるよりも先に、梓が自分の胸を押さえて赤面した。
胸の事は一言も触れてないのに、相変わらず可愛らしい反応を見せる後輩だ。
まあ、さっきの言葉は胸を見ながら言ったんだけどね。
その私達の伝統となりつつあるやり取りを見守った後、ムギがフォローの言葉を入れてくれた。

「大丈夫よ、梓ちゃん。私の友達にも、梓ちゃんくらいの身長の子がいるもの」
「そうですか……。安心しました。ありがとうございます、ムギ先輩」

本気で自分のサイズの制服があるか心配だったんだろう。
梓は本当に胸を撫で下ろすような表情をしていた。

10: にゃんこ 2011/05/09(月) 15:35:20.67 ID:m9tD4tO90
「でも、ありがとな、ムギ。あの高校の服、女子高生のうちに着ておきたかったんだ」

私が言うと、ムギは給仕しながら、いえいえ、と微笑んだ。
学園祭が終わり、少し秋が深まり始めたこの頃、私達軽音部は受験シーズン真っ直中にも関わらず、ほとんど毎日部室に集合していた。
部室ではお茶をしたり、少し練習したり、やっぱりお茶したり、まあ、大体がそんなところ。
いやいや、勿論受験勉強だってしてるぞ?
私達は高校三年生で、やらなきゃいけない事とやるべき事があって、当然今やるべき事は受験勉強なわけで。
でも、私が、私達が大切にしたいのは、それだけじゃなくて。
こう言うのも照れるけど、放課後に部室に集まって、お茶をしたり、他愛もない事を話したり、
そんな時間が本当に楽しくて、とても大切な時間で、手放したくないくらい素敵な時間なんだと思う。
皆がそう考えているからこそ、こんな受験シーズンにも皆で集まっていられるんだろう。
自分で言うのも何だけど、本当にいい部だなって思う。
これも部長の人望の賜物だな。なんて自慢するわけじゃないけどさ。

11: にゃんこ 2011/05/09(月) 15:36:05.54 ID:m9tD4tO90
「どしたの、りっちゃん?」

私が少しだけ黙っていたのが気になったのか、いつも隣の席に陣取っている唯が私の顔を覗き込んで首を傾げた。
何となく考えていた事を察された気がして、私は軽口を叩く事で誤魔化す事にした。

「いやー、梓くらいの身長の子はいるんだろうけどさ。
梓くらいのスタイルの子がムギの友達にいたらいいよなー、って部長として心配してあげてたんだよ」

そう言うと、やっぱり梓が胸元を押さえて、だから律先輩には言われたくありません、と頬を膨らませた。
ははっ、お約束お約束。
まあ、確かに私も梓の事を言えた立場じゃないのが、悲しいところなんだけど。

12: にゃんこ 2011/05/09(月) 16:01:36.81 ID:m9tD4tO90
「おいおい、後輩をあんまりいじめるなよ、律」

幼馴染のくせに一人だけ嫌味なくらい成長した澪が、諌めるように言いながら肩を竦める。
何だよー、富裕層め。
持つ者には持たざる者の苦しみは分かるまい。
この私と梓のやり取りは、持たざる者同士の魂の触れ合いなのだ。
梓……、おまえだけはずっとこちら側の人間だと信じているぞ……。
そういう思いを込めて視線を移してみると、私の思いには一切気付いていないらしい梓が自分のポケットを探っていた。
こちら側の人間……だよな?
そんな願いも込めつつ、私は梓に訊ねてみる。

13: にゃんこ 2011/05/09(月) 16:05:58.64 ID:m9tD4tO90
「どうした、梓? 忘れ物?」
「あ、いえ、すみません。忘れ物じゃないです。どうも携帯が鳴ってるみたいで……」
「あー、マナーモードにして、制服のポケットとかに入れとくと結構気付かないよねー」

私の質問に答えた梓の言葉に唯があるある的な表情で腕を組んで頷いていたが、
着信音が鳴る状態にしておいても、休日は寝てて着信に気付かない事が多い唯が言っても説得力は無かった。
いや、そんな事は今はどうでもいいか。
ポケットの中から携帯電話を取り出した梓が液晶を見ると、あ、純だ、と小さく呟く。

「すみません、ちょっと電話に出させて頂きますね」

そう丁寧に断ると、梓は席から立って、私達の鞄を置いている長椅子まで歩いて行った。
純ちゃんか……。今度の日曜に遊ぶ約束でもするのかな?
そう軽く考えていた私の耳に、それを打ち崩す非日常的な梓の会話が届いた。

14: にゃんこ 2011/05/09(月) 16:08:03.83 ID:m9tD4tO90
「急にどうしたの、純。え? やっと繋がったって、何? 電波が悪いの?
え? そうじゃないって? うん、今軽音部だけど……。え? 変な冗談やめてよ。
冗談じゃないって……。嘘でしょ?
そんな……、世界が終わっちゃうなんて、急にそんな事言われても……」

世界が終わる?
映画かゲームの話か?
だけど、梓の様子を見る限りとても冗談には……。
突然過ぎる会話の流れに、あまり出来が良いとは言えない私の思考回路ではついていけない。
と。
不意に私の携帯電話のバイブレーターが震え始めた。
いや、私のだけじゃない。
周囲を見渡すと、唯の携帯電話のバイブも震えているようだった。
唯と二人で携帯電話を取り出して、突然過ぎる不自然な着信に不安な面持ちでお互いの顔を見合わせる。
何だ……? 何が起こってるんだ……?
更に数秒後。
その携帯電話の着信を取るより先に、私達の日常を完全に壊す無慈悲な音が響いた。
それは聞き慣れた校内放送のチャイム。
だけど、その内容はあまりにも私達の日常とはかけ離れていて……。
それが私達の……、いや、人類の終わりの始まり。
そして、終末までの長くて短い最後の日常の始まりだった。

18: にゃんこ 2011/05/12(木) 00:57:23.46 ID:zY479YXo0


――月曜日

19: にゃんこ 2011/05/12(木) 00:57:53.53 ID:zY479YXo0
自宅でドラムの練習をしていた私は手を止め、ラジカセの電源を入れる。
少し遅れたかと思っていたけど、ちょうど時間はぴったりみたいだった。
軽快な音楽が流れる。

20: にゃんこ 2011/05/12(木) 00:58:21.52 ID:zY479YXo0
「胸に残る音楽をお前らに。本当の意味でも、ある意味でも、とにかく名曲をお前らに。
今日もラジオ『DEATH DEVIL』の時間がやって来た。
まあ、時間がやって来たって言っても、休憩時間以外は適当に喋ってんのはお前らも知っての通りだけどね。
こんな人類滅亡の寸前で死の悪魔なんて縁起の悪い事この上ないけど、聴いてくれてる物好きなお前らに感謝。
そんな物好きなお前らには今更だけど、一応毎度の番組紹介から入らせてもらうよ。
日曜休みで一日空いたし、もしかしたら初めてこの番組を聴いてくれてる新顔もいるかもしんないしね。
知ってるお前らはトイレにでも行って、スタンバイしといて。

21: にゃんこ 2011/05/12(木) 00:59:42.73 ID:zY479YXo0
この番組は人類の終わりまでとにかく色んな曲を紹介し続けようって、適当でご機嫌なソウルフルラジオ。
それで、メインパーソナリティーのこのアタシがクリスティーナってわけ。
新顔のお前らがいたらよろしく。
クリスティーナって言っても、本当はガチで日本人なんだけど、その辺りは触れないのがお約束。オーケー?
さてさて、前回の放送から、日曜挟んで遂に訪れちゃった人類最後の一週間。
日本政府が国家非常事態宣言……、誰が言ったか通称『終末宣言』を宣言して一ヵ月半。
宣言されての一週間は暴動やら何やらで、今思い出しても相当に騒がしかったよね。

22: にゃんこ 2011/05/12(木) 01:00:17.42 ID:zY479YXo0
変な宗教は出てくるし、自暴自棄に適当な暴動を起こす奴等もいるし、そりゃ騒がしかった。
芸能人なんかも海外に逃げ出す奴がいるかと思ったら、急に自分はロリコンだとか、同性愛者だとかってカミングアウトする奴までいる始末。
まあ、海外に逃げ出す奴より、カミングアウトする奴等の方がよっぽど信用出来るけど。
ただあの大御所がロリコンでショタコンでバイセクシャルだってカミングアウトしたのは、流石のアタシでも驚いたけどね。
でも、それだけ皆、最後くらいは偽らざる本当の自分を誰かに知っていて欲しいって事なのかもしれないね。

23: にゃんこ 2011/05/12(木) 01:01:12.13 ID:zY479YXo0
あ、期待しても駄目だぞ、お前ら。
残念だけど、アタシにはカミングアウトする様な秘密なんか持ってないからね。
強いて言えば、本当は日本人だってことくらい?
それはさっき聞いたって?
こりゃまた失礼。

24: にゃんこ 2011/05/12(木) 01:01:43.84 ID:zY479YXo0
とにかく『終末宣言』から約一ヵ月半、悟ったのか、飽きたのか、
最近は各地の暴動も沈静化してきたみたいで、ひとまずは一安心ってところだよね。
暴動なんかよりやるべき事が見つかったんならいいけどさ。
ただ最低限の警戒だけは忘れないでよ。
意味不明の暴動に巻き込まれて、終末より先に死んじゃうとかそれこそ馬鹿らしいってもんだ。
願わくば、お前らがこの番組を最後まで無事に聴き終えられますように。

25: にゃんこ 2011/05/12(木) 01:02:20.43 ID:zY479YXo0
週末まではお前らと一緒!
それがこの番組の最後のキャッチコピーってね。

26: にゃんこ 2011/05/12(木) 01:02:46.92 ID:zY479YXo0
似合わないって?
ほっといて。
さて、ラジオとは言え、アタシだけずっと喋ってても仕方がない。

27: にゃんこ 2011/05/12(木) 01:03:15.81 ID:zY479YXo0
そろそろお前らからのリクエストの一曲目といってみようか。
メールだけど、こんな状況でも届くもんだね。
さて、それじゃ今週の記念すべき一曲目、岐阜県のガンレックスからのリクエストで、
L'Arc~en~cielの『Driver's High』――」

31: にゃんこ 2011/05/13(金) 22:48:35.82 ID:O4OQsKgL0
放課後、と言うべきなのかどうなのか、とにかく普通だったら全ての授業が終わっている放課後の時間。
私は一人、部室で軽くドラムを叩いていた。
『終末宣言』から約一ヵ月半、多くの同級生が学校に来なくなる中、私はといえばほとんど毎日学校に足を向けている。
勿論、勉強が好きなわけじゃないし、高校生なら学校に登校しなきゃって使命感に燃えてるわけでもない。
人類の終末が近付いているらしいけど、焦って何かをする気にはなれなかったし、この状況で何処かに旅行するのも危険だった。
それにもうすぐ世界が終わるとしても、終わりまではいつも通りの日常が続くわけで、下手に特別な行動を取れるわけでもないわけで。

32: にゃんこ 2011/05/13(金) 22:49:05.42 ID:O4OQsKgL0
だからというわけじゃないけど、私は平日休日を問わず登校している。
飽きっぽい私にしては、これは快挙なのかもしれない。
でも……、

33: にゃんこ 2011/05/13(金) 22:49:33.42 ID:O4OQsKgL0
「日常に逃げ込んでんのかなあ、私……」

ドラムを叩く手を止め、自分に言い聞かせるように呟いてみる。
世界の終わりが一週間後に迫ったらしい今になっても、私は未だにその実感が湧いて来てなかった。

34: にゃんこ 2011/05/13(金) 22:50:02.17 ID:O4OQsKgL0
そりゃあそうだ。
もうすぐ死ぬと言われても、私の身体に異変が起こっているわけでもなし、私自身は健康体そのものだし。
病気にかかっているわけでもないし、大怪我を負っているわけでもない。
これで死の実感を持てと言われても、誰にとっても無理な話だろう。

35: にゃんこ 2011/05/13(金) 22:51:07.58 ID:O4OQsKgL0
だけど、思う。
それを実感しないように、私は『終末宣言』前の生活を繰り返してるんじゃないんだろうか。
いつも通りに過ごしていたら、一週間後の世界の終わりなんて夢みたいに消えて無くなって、何事もなくいつも通りの生活に戻れる。
澪をからかって、唯とふざけて、ムギとお茶をして、梓をいじってやる。
そんな変わらない日常が戻って来る。戻れる。

36: にゃんこ 2011/05/13(金) 22:51:41.27 ID:O4OQsKgL0
心の何処かでそれを期待してるんじゃないか。
だから、こんな時期になってもしつこく登校し続けてるんじゃないかって、そう思えてしまう。
けれど、そう思えたところで、今更私には他にどうする事も出来ないんだけど。
少しだけ溜息を吐いて、ドラムの練習に戻ろうかと思った瞬間、部室の扉がゆっくりと開いた。

37: にゃんこ 2011/05/13(金) 22:53:15.05 ID:O4OQsKgL0
「りっちゃん、おいっす」

扉を開いたのは唯だった。
『終末宣言』以来、私に次いで登校数の多い唯は、やっぱりいつも通りの唯に見えた。
こいつも私と同じように、一週間後に世界が終わるなんて、そんな実感は無いんだろうか。
そんな考えを顔に出さないように、おいっす、と軽く私が返すと、長椅子に鞄を置いて唯が続けた。

38: にゃんこ 2011/05/13(金) 22:53:41.06 ID:O4OQsKgL0
「相変わらず早いね、りっちゃん」
「まあなー。家に居てもやる事無いしなー」
「駄目だよ、りっちゃん。時間はちゃんと使わないと青春の無駄遣いだよ」
「家に居ても大体ゴロゴロ転がってるだけのお前が言うな」
「甘いね、りっちゃん。それが私の充実した青春なのです!」
「うわっ、言い切りやがった……」

39: にゃんこ 2011/05/13(金) 22:54:07.84 ID:O4OQsKgL0
苦い顔で私が言ってやると、唯はいつもの、してやったり、といった感じの表情を浮かべる。
ホント、こいつはいつでも何処でも変わらんなー。
それが唯の持ち味であり、唯の強さでもあるんだろうな。
『終末宣言』直後、私は軽音部の活動は以降自由参加という形式に変更する事を提案した。
そもそもが自由参加に近い軽音部だけど、あえて言葉にする事で皆の自由意思を尊重する事を伝えたかった。
勿論、誰も欠席するつもりなんてないだろう。

40: にゃんこ 2011/05/13(金) 22:54:35.77 ID:O4OQsKgL0
それでも、こんな状況だし、家庭や色んな事情で仕方なく欠席する事も多くなるだろうと思ったからだ。
幸いなのか我が田井中家は放任主義で、
数日家族で過ごすだけで家族の時間は終わって、後は家族各々が自由に過ごすという形になっていた。
少しクール過ぎやしないかと思わなくもないけど、それがうちの家族だし、聡もそれで不満はないみたいだった。
とにかくそれ以来、軽音部の活動に参加する頻度は多い順に私、唯、梓、澪、ムギという順番になっている。

41: にゃんこ 2011/05/13(金) 22:55:02.81 ID:O4OQsKgL0
「それより、りっちゃん」

急に真剣な顔になって、唯が言った。
何を言い出すのかと思って身構えたが、次の唯の言葉は本当にいつもと何も変わらない普段通りの唯の言葉だった。

「今日は久々にムギちゃんに会える日だねー。
美味しいお菓子いっぱい持って来てくれるって言ってたし、すっごく楽しみだよねー」

47: にゃんこ 2011/05/17(火) 18:31:43.00 ID:M7ASOsG90
まったく……、こいつは何にしろお茶とお菓子が行動の基準なんだな。
そう思いながらも、私は微笑んでしまっていた。
ムギに会えるのが楽しみなのは私も同じだし、久々のムギのお菓子が楽しみなのも確かだった。

「うん、そうだな……。楽しみだよな、やっぱり。うん……」
「ん? どしたの、りっちゃん?」

48: にゃんこ 2011/05/17(火) 18:34:22.03 ID:M7ASOsG90
つい何度も頷いてしまう私の様子を、唯が不思議そうに眺めながら訊ねる。
自分でも上手くは説明できないけれど、何故だかとても嬉しかった。
多分だけど、こんな状況でも顔馴染みと変わらず顔を合わせられるという事は、きっと幸せな事なんだ。
勿論、そんな恥ずかしい事を私が口に出来るはずもない。
その代わりに私は立ち上がって、唯の近くにまで歩いてからその腕を軽く取った。

49: にゃんこ 2011/05/17(火) 18:37:32.49 ID:M7ASOsG90
「よっしゃ、行こうぜ」
「行くって……、何処に?」
「校門だよ、校門。そろそろムギも来る時間だし、紬お嬢様をお迎えにあがろうぜ!」
「おっ、いいねー。私達で紬お嬢様をお迎えしちゃおう! あ、そうだ!」
「お、どした? 何か面白いアイディアでもあるのか?」

50: にゃんこ 2011/05/17(火) 18:41:17.02 ID:M7ASOsG90
「メイド服を着てお迎えするのはどうかな? ちょうどさわちゃんの服があるし!」
「いや、そこまではせんでいい……。軽音部の負の遺産については触れてくれるな……」
「えー……」

51: にゃんこ 2011/05/17(火) 18:44:03.16 ID:M7ASOsG90
不満そうに唯が頬を膨らませたが、それでもその表情は少し笑っているようにも見えた。
そして、それは私も同じ。
いつもの唯のボケに呆れた表情を浮かべるように演じながらも、こみ上げてくる笑顔を抑え切れない。
馬鹿みたいだけど、本当に心地良い二人の距離。
良くも悪くも、これが私と唯の関係なんだろう。
それは変わらず続くはずだと思う。

52: にゃんこ 2011/05/17(火) 18:45:09.06 ID:M7ASOsG90
世界の終わりまで。
きっと。
ずっと。

53: にゃんこ 2011/05/17(火) 19:14:46.34 ID:M7ASOsG90
「とにかく行こうぜ。お嬢様をお待たせしては、執事の名折れ。遅れるわけにはいかん!」
「あ、メイドじゃなくて、執事って設定だったんだ。じゃあ、さわちゃんの執事服を着るとか?」

少し深呼吸をしてから唯に向けて宣言すると、
途端に笑顔になった唯が、嬉しそうにまた天然なのか本気なのかよく分からない発言をしてくれた。
やれやれ。
まあ、執事とか言っちゃってる私も、唯の事は言えないんだけどさ。

54: にゃんこ 2011/05/17(火) 19:17:08.12 ID:M7ASOsG90
「いや、服に関してはもういい。とにかく行くぞ」
「ラジャー!」

そうして二人で部室から出て、私達はゆっくりと校舎の中を歩く。
お待たせするのは執事の名折れとは言ってみたけれど、実のところムギが来る予定の時間まではまだ三十分近くある。
校舎を二人でゆっくり歩く時間くらいはあった。

55: にゃんこ 2011/05/17(火) 19:20:25.80 ID:M7ASOsG90
さっきまでの騒ぎぶりは何処へやら、私の隣に居る唯は珍しく静かに歩いていた。
私もその珍しい唯の様子を横目に、何となく口を噤んでゆっくりと校舎を見回しながら歩いてみる。
世界の終わりまであと一週間。もう一週間。
来週の月曜日は来ない……かもしれない。
かもしれない、と思うのは私の弱さなんだろうけど、とにかく今週で世界は終わるらしい。

56: にゃんこ 2011/05/17(火) 19:23:46.28 ID:M7ASOsG90
そう考えると三年間過ごした何の変哲もない校舎が、何処となく特別に見えた。
今現在、登校する生徒が全校生徒の三割くらいになってしまった、我らが桜が丘女子高等学校。
登校してくる同級生達も目に見えて少なくなってきていた。
ほとんどの同級生の顔は、よくて数日に一度しか見ない。
逆によく目にするのは和に清水さん、それに意外といちごくらいかな。

57: にゃんこ 2011/05/17(火) 19:25:25.95 ID:M7ASOsG90
関係ないけど、いちごをよく見かけるのは本当に意外だ。
いや、いちごの真似をしているわけじゃないんだけど。
とにかく、そんな生徒の少なくなった私達の校舎を見ながら、私は思う。
勿体ないなあ、って、そう思うんだ。
この光景を見られるのは、あとほんの少しかもしれないのに。

58: にゃんこ 2011/05/17(火) 19:32:10.21 ID:M7ASOsG90
多分、そう思ってるから、私はずっと学校に来てるし、唯もよく来てくれているんだろう。
だから、私と唯は目に焼き付ける。
例え世界が終わらなくて、何事もなく卒業する事になったとしても、それでも。
私達の校舎を大切に思い出せるように。

59: にゃんこ 2011/05/17(火) 19:33:17.83 ID:M7ASOsG90
「あれ、唯に……律?」

玄関の靴箱まであと数歩という距離にまで近付いた時、急に後ろから声を掛けられた。
聞き覚えのある声だった。
って、私と唯を知ってる人なんだから、その声に聞き覚えがあるのも当然なんだけど。

60: にゃんこ 2011/05/17(火) 19:37:33.53 ID:M7ASOsG90
自分で自分に突っ込みながら振り返ってみると、そこに立っていたのは信代だった。

「あ、信代ちゃんだ! おひさー!」

久しぶりの同級生との再会が嬉しかったのか、唯が信代に駆け寄っていく。
唯が軽く手を上げると、信代も手を上げてお互いに軽く叩き合う。

61: にゃんこ 2011/05/17(火) 19:44:08.13 ID:M7ASOsG90
当然、私も信代と久々に会えて嬉しかったんだけど、
それよりも信代が学校に居る事の方が意外で唯に一歩出遅れる形になってしまった。
それも仕方がないと言えば仕方ないと思う。
『終末宣言』の直後、誰よりも先に学校に来なくなったのは、この信代だった。
見る限りでは学校が嫌いなわけでもなさそうだったし、
友達を大切にする面倒見のいいタイプの信代が真っ先に学校に来なくなったのは、私としても気になるところだった。

62: にゃんこ 2011/05/17(火) 19:51:16.93 ID:M7ASOsG90
もしかしたら、何かの暴動に巻き込まれて……、なんて嫌な想像もしていたくらいだったし。
携帯電話で連絡を取ろうかとも思ったんだけど、
もし繋がらなかったら、って思うと、情けないけどその一歩を踏み出せずにいた。
でも、とりあえずは元気そうな信代を見て、私は心の底から安心した。
親友と呼べるほど親しいわけじゃないけど、それでも同じクラスで友達なんだ。
無事でいてくれて、本当に嬉しかった。
唯と違い、その場で黙ったままの私の様子を不思議に思ったのか、信代が首を傾げながら言った。

63: にゃんこ 2011/05/17(火) 19:53:41.48 ID:M7ASOsG90
「どうしたの、律? ひょっとして私と会えなくて寂しかったとか?」

心情を見透かされた気がして、私は目を逸らしながら、違うやい、と返してやった。
くそー、信代のくせに生意気な……。
悔しいからこのまま信代と唯を置いてムギを迎えに行こうかとちょっとだけ思ったけど、
やっぱり信代が今まで何をしていたのか気になって、私はその場から立ち去る事が出来なかった。
悔しがっている事が分からないよう声のトーンを少し変えて、結局、私は信代に訊ねてみる事にした。

64: にゃんこ 2011/05/17(火) 20:08:15.15 ID:M7ASOsG90
「そんな事より本当にどうしたんだよ、信代。
急に学校に来なくなったと思ったら、いきなりそんな私服で学校に登校してきて。
色気づいて指輪なんかもしちゃってさ。校則違反だぞ、校則違反ー!」

65: にゃんこ 2011/05/17(火) 20:14:32.59 ID:M7ASOsG90
学校外で会う事が少ないから、私は信代の私服姿をそんなに見た事がないからはっきりとは言えない。
だけど、今日の信代の私服姿は、妙に色っぽいというか艶っぽいというか、とにかく色気があった。
服自体はしまむらで見かけるような普通の服装なのに、どうにも輝いてる感じがする。
普段は私と同じく、可愛いのとか興味ない感じだったのにさ。
何だよー。さわちゃんにキラキラ輝く方法でも教えてもらってたのか?

66: にゃんこ 2011/05/17(火) 20:18:10.55 ID:M7ASOsG90
ひょっとしたら、この見慣れない信代の指輪の魔力とかだったりして。
この指輪をはめただけで志望校に合格、宝くじにも当たり、身長も伸びてお肌もツヤッツヤー!
ホントもう次々と幸運が舞い込んで来て、今ではあの頃の悩みが嘘のように! なんてな。
特に左手の薬指にはめる事で幸運が舞い込む確率が更に倍とか?
……って、あれ? 左手? そんでもって、薬指……?
えっ……?

67: にゃんこ 2011/05/17(火) 20:19:02.59 ID:M7ASOsG90
「まあまあ、指輪くらいいいじゃん、りっちゃん。
いいなー。その指輪可愛いなー。その指輪、信代ちゃんが自分で買ったの?」

何も気付いていない唯が、羨ましそうに信代の指輪を見つめる。
私はと言えば固唾を呑んで、信代の次の言葉を待つ事しか出来なかった。
まさか……だよな?
ラブリングとかそういうの……だよな?
それはそれで、結構衝撃的ではあるんだけど。
そして、しばらく後、信代は照れた顔で頭を掻きながら、ある意味私の予想通りの言葉を言った。

68: にゃんこ 2011/05/17(火) 20:19:42.67 ID:M7ASOsG90
「ははっ。校則違反は勘弁してよ。これ旦那から貰ったもんなんだからさ」
「えっ……? 信代……ちゃん……? 旦……那……?」

流石の唯でも事態が呑み込めてきたらしく、静かに深刻に信代に訊ねていた。
唯の質問に答えるために、ゆっくりと信代が口を開く。

69: にゃんこ 2011/05/17(火) 20:20:15.07 ID:M7ASOsG90
その瞬間、もう確定している、と私は思った。
これから信代はもう確定している事を口にするだけだ。
それを私は分かっている。何を言うかも分かっている。分かり切っている。
だから、私は驚かないようにしよう。
これから多分叫ぶ唯を、大声で叫ぶな、と説教する役に徹しよう。
大丈夫。私は冷静だ。今更、信代の言葉なんかに驚かない。
私はクールに定評のあるりっちゃんだ。

70: にゃんこ 2011/05/17(火) 20:20:42.73 ID:M7ASOsG90
そうして、
信代が、
私達の疑問に答える、
言葉を発した。

「うん、結婚したんだよ、私」
「ええええええええええええええええっ!」

73: にゃんこ 2011/05/19(木) 22:30:37.22 ID:re1EXFoM0
しまった。
唯を説教するつもりが私も唯と一緒に一緒に叫んでしまった。
でも、それも仕方が事だった。
会話の流れからある程度予想してはいたけど、実際本人の口から聞くとやっぱり衝撃的だ。
これまでそんな素振りを全然見せなかった信代が結婚なんていきなり過ぎだろ。

74: にゃんこ 2011/05/19(木) 22:31:06.25 ID:re1EXFoM0
「何? 私が結婚した事がそんなに意外?」

怒ってる様子じゃなく、普段見せる豪快な笑顔で冗談交じりに信代が言った。
さっきの私達の反応は失礼だったかもしれないけど、信代はそんな事なんか全然気にしていないみたいだった。
凄い余裕だ。
まさかこれが主婦の余裕ってやつか?

75: にゃんこ 2011/05/19(木) 22:31:42.47 ID:re1EXFoM0
「いや、意外っつーか……。何つーかさ……」

私は頬を掻きながら言葉を探してみたけど、中々いい言葉が見つからなかった。
何て言うべきなんだろう。
友達が結婚した事自体が初体験なんだ。
この様子を見る限り、信代の結婚は嘘とか冗談じゃないみたいだし。
やっぱりこういう時は笑顔で祝福するのが正しい反応なんだろうか。
いや、それだと普通過ぎるから、少し冗談交じりに反応するべきなのか?

76: にゃんこ 2011/05/19(木) 22:32:11.69 ID:re1EXFoM0
あー、分からん!
そうして私が悩んでいると、私が何を言うより先に唯が信代の両手を握って微笑んだ。

「凄いね、信代ちゃん! おめでとう!」
「ははっ、ありがとう、唯」

77: にゃんこ 2011/05/19(木) 22:32:40.88 ID:re1EXFoM0
そう言って、いつも豪快な信代が照れた表情ではにかむ。
そうか。唯の反応が正解だったのか。
私はつい一人で感心して頷いてしまう。
前から思ってるんだけど、こういういざという時の唯の行動は間違いがない。
物怖じもしなくて、感じるままに行動してるだけなんだけど、
そんな風に単純だからこそ、正解までの最短距離を見つけられてるって感じだ。
私もそんな唯の単純さを見習う事にした。

78: にゃんこ 2011/05/19(木) 22:33:06.68 ID:re1EXFoM0
「うん、そうだな。結婚おめでとう、信代。
先を越しやがってー。こいつめー!」

言いながら、信代に駆け寄って肩を軽く叩いてやる。
本当はチョークスリーパーを仕掛けてやりたかったんだけど、
私と信代の身長差じゃ信代にチョーキングを仕掛けるのは無理があった。

79: にゃんこ 2011/05/19(木) 22:39:24.31 ID:re1EXFoM0
「律もありがとう。
私なんかあんた達みたいに可愛くないから、先に結婚しちゃって申し訳ないね」
「お、言うようになったな、こいつー!」

私が笑いながら何度も肩を叩くと、信代は更に気持ちいいくらいはにかんだ。

80: にゃんこ 2011/05/19(木) 22:39:52.92 ID:re1EXFoM0
その笑顔は本当に眩しくて、信代だって十分可愛いよ、と私は思った。
確かに信代は体格もよくて、女子高生って言うより肝っ玉母さんみたいだけど、
それでもその笑顔や照れた仕種は女の私から見ても本当に魅力的だった。
会った事もない人だけど、信代の旦那さんも信代のそんなところに惹かれたんじゃないかな、と何となく思う。

81: にゃんこ 2011/05/19(木) 22:40:25.70 ID:re1EXFoM0
「ねえねえ」

信代の手を取ったままの唯が、聞きたくて仕方がないといった素振りで信代に訊ねた。

「信代ちゃんの旦那さんって一体誰なの?
私達の知ってる人? 年上? 年下? ねえねえ、教えてよー」

82: にゃんこ 2011/05/19(木) 22:40:59.20 ID:re1EXFoM0
信代より年下だと日本の法律では結婚出来ないんだが……。
突っ込もうかと思ったけど、今それを言うのも何だか無粋な気がした。
私はその唯の言葉をスルーして、信代の返事を待つ事にする。

85: にゃんこ 2011/05/23(月) 21:11:18.30 ID:EGGW5WVl0
「三歳年上だよ。幼馴染みの腐れ縁でさ。
元々、旦那が大学を卒業したら結婚するつもりだったんだけど、こんな状況だしね。
今の内にって事で、一ヶ月前に婚姻届けを出したんだ。
受け付けしてないんじゃないかと思ってたけど、意外と役所も開いてて律儀なおじさんが受理してくれたんだよ。
ちゃんと戸籍にまで反映されてるかは分かんないけど、でも、受け取って貰えただけでも気分的に嬉しかったな」

ほんの少し顔を赤くして、信代が語ってくれた。
本当に嬉しそうに。

86: にゃんこ 2011/05/23(月) 21:39:42.00 ID:EGGW5WVl0
幼馴染みか……。
一瞬、私の頭の中に澪の顔が浮かんだ。
他に幼馴染みがいないわけじゃないけど、私にとって一番近い幼馴染みはやっぱり澪だった。
傍に居なくちゃいけない。居て当たり前の私の幼馴染み。
勿論、そんな事を本人に伝える事はないだろうけど。
と言うか、伝えたらあいつの中の感情が一周回って「恥ずかしい事を言うな!」と逆に殴られそうな気がする。
あいつに殴られ慣れているせいか、どうしてもそんな気がする。
非常にそんな気がする。
私の思い過ごしならいいんだけど……。

87: にゃんこ 2011/05/23(月) 22:07:08.92 ID:EGGW5WVl0
「おー! 幼馴染み!
いいなー! 私も幼馴染み欲しいなー」

そうやって声を上げたのは、勿論唯だった。
私と違って、唯の方は自分の幼馴染みを思い浮かべなかったらしい。
おいおい。この事を知ったら、和泣くぞ。
いや、泣く……かな?
どうにも和には何かで泣くイメージが無いな。
和の事だから、冷静に何も聞かなかった事にするだけのような気がするし。
それはそれで長い付き合いの幼馴染みの姿ではあるんだろうけど。

88: にゃんこ 2011/05/24(火) 00:53:45.00 ID:q+DyXaNG0
「だけど、水臭いぞ、信代ー。
幼馴染みと付き合ってるなんて、一言も言ってなかったじゃんかよー」

私が頬を膨らませて言ってやったけど、それでも信代は穏やかな表情のままで続ける。

「ごめんって。聞かれなかったし、自分から言うのも何か恥ずかしくってさ。
大体、嫌じゃん? 聞いてもないのに自分から彼氏が居るって言い出す奴って」

それは確かに嫌だな……。

89: にゃんこ 2011/05/24(火) 01:01:27.51 ID:q+DyXaNG0
信代から見ても嫌そうな顔をしていたんだろう。
苦笑しながら、信代は話題を変えた。

「でも、こんな時期だからって、本当はこんなに急いで結婚するつもりじゃなかったんだ」
「え? そうなのか?」

私が信代の顔を覗き込みながら訊ねると、軽く信代は頷いた。
頷いたその信代はこれまでの照れ臭そうな笑顔じゃなくて、
そうだな……、何て言うんだろう……、
何かを懐かしそうに考えているみたいな……、『郷愁』……だっけ?
とにかくそんな静かで優しい表情をしていた。

90: にゃんこ 2011/05/24(火) 01:10:52.80 ID:q+DyXaNG0
「卒業したら進路はどうするつもりか、確か唯には話した事あったよね?」
「うん、覚えてるよ。酒屋さんのお手伝いだよね?」

信代が訊ねると、間髪入れずに唯が自信満々で応える。
てっきり「そうだっけ?」と首を捻るもんだと思ってたんだけど、
意外に覚えてる事は覚えてるんだな、と私は唯の記憶力に感心した。
と言うか、普段から私と唯自身の言った事も覚えておいてくれると助かるんだけどさ。
とにかく、その信代の進路については私も知っていた。
信代自身から直接聞いた事はないけど、
信代の家が酒屋だって事は聞いた事があるし、
卒業後はそこを手伝うらしいという話も、又聞き程度で聞いた事はあった。

91: にゃんこ 2011/05/24(火) 01:21:57.33 ID:q+DyXaNG0
「先月に『終末宣言』があったじゃん。
それでさ、私はこれからどうしたいのか考えたんだよ。
これからどうなるか分からないし、
テレビで言ってる通りなら一ヶ月半後には死んじゃうわけだし」

死んじゃう。
何気なく言ったんだろうその信代の言葉に、少しだけ私の心臓が高鳴る。
だけど、それを顔に出さないように、黙って信代の言葉の続きを私は待つ。
今はまだ、誰かが死ぬとか自分が死ぬとか、そういう事を考えたくなかったから。

92: にゃんこ 2011/05/24(火) 01:33:54.31 ID:q+DyXaNG0
「それで単純だけど、私はやっぱりうちの酒屋を手伝いたいって思ったんだ。
欲を言うと日本一の酒屋になりたかったんだけど、流石にこんな短期間じゃね……。
でもさ、だったらせめて少しでも日本一の酒屋に近付いてやりたくってさ。
それで長いこと、学校に来てなかったんだよ。
ずっと家で酒屋の仕事をやっててさ。大変だけど、とてもやりがいがある仕事なんだ。
こんな時期でも、うちの常連の飲んだくれのおっちゃんとかが毎日来るしね。
どんだけ飲むんだよー、って感じだけどね」
「信代ちゃん、カッコイイ!」

茶化すわけではなく、本気の表情で唯が拍手していた。
釣られて私も拍手してしまう。
唯の言うとおり、そう語った信代の姿は本当にかっこよかったから。
少なくとも、色んな事を考えないようにしてる私より数十倍は。

93: にゃんこ 2011/05/24(火) 01:43:46.35 ID:q+DyXaNG0
……って、そんな卑屈になってる場合でもないか。
私は頭を振って気を取り直して、信代に話の続きを催促する事にした。
卑屈になる事はいつだって出来るからな。そういうのは一人ぼっちの時にするべきだ。

「それで信代?
酒屋さんの手伝いをしてたのは分かったけど、
結婚するつもりはなかったってのはどういう事なんだ?
何か旦那さんに不満でもあったのか?」

そう私が訊ねると、また顔を赤くして信代が笑った。

94: にゃんこ 2011/05/24(火) 01:51:39.23 ID:q+DyXaNG0
「いやいや、旦那に不満なんてないよ。
そもそも私を嫁に貰ってくれるだけで感謝ですよ。
小さい頃から、嫁の貰い手があるかお父さんにはよく心配されてたからね」
「じゃあ何で?」
「まだ結婚する前の旦那にさ、
学校を辞めてうちの酒屋を手伝いたいって伝えたんだ。
少しでも酒屋って仕事を経験しておきたいって。
そうしたら、あいつ、言ってくれたんだよ。
『俺もお前と酒屋をやる。お前のやりたい事が俺のやりたい事だ』ってさ。
気障だよね。言ってて自分で恥ずかしいよ」

95: にゃんこ 2011/05/24(火) 01:57:15.06 ID:q+DyXaNG0
確かに気障だった。
気障で気恥ずかしいけど、素敵な話だった。
信代はそういう最後の時まで一緒に居られる相手を見つけられたって事なんだ。
それはとても素敵な話だ……、けど、つい私の背中が痒くなってしまっていたのは内緒だ。
いや、分かってはいる。
分かってはいるんだけど、そういう気障な話とかメルヘンな話とかはどうにも痒くなる。
それは私の持って生まれた性格で、どうにも変えようがないんだよなー。
申し訳ないけど、この辺は本当に勘弁して頂きたい。

96: にゃんこ 2011/05/24(火) 02:08:39.88 ID:q+DyXaNG0
だけど、羨ましかったのも確かかな。
私にも最後の瞬間まで一緒に居たい誰か、居てくれる誰かは出来るんだろうか。
その時、またも一瞬浮かんだのは澪の顔だった。
我ながら色気無いな、と思いながらも、澪だったらどうだろうと私は考える。
澪なら最後まで居てくれる……とは思うけど……、いや、多分……。
腐れ縁の関係ではあるけど、あいつも私と一緒に居たいとは思ってくれているはず。
それが世界の最後までかどうかは分かんないけど、少なくとも私の方はまだあいつと離れたくなかった。
でも、もし……。
もしもあいつが誰か違う人と一緒に居たいと言い出したら、
私は気持ち良くあいつを送り出してやる事が出来るだろうか……?

97: にゃんこ 2011/05/24(火) 02:20:22.57 ID:q+DyXaNG0
それはまだ、考えても仕方がない事だけどさ。
と。

「信代ちゃん、いいなー。私も結婚したいなー」

そんな私の思いに完全に気づいてないだろう唯が信代に向けて憧れの眼差しを向けていた。
やっぱりこいつの方はずっと変わらないんだな。

「はいはい。
唯ちゃんは結婚するよりも先に彼氏を作りまちょうねー」

からかう感じで私が言ってやると、
唯はまた頬を膨らませて「りっちゃんだってそうじゃん」と呟いた。
それはそれとして、そんな変わらない唯の姿にとても安心している私が居た。
色んな事が変わっていく。
世界も、人も、終わりに向けて変わっていく。
それは多分、必要な事なんだろうけど……。
でも、変わらない誰かが居てくれるってのは、何だかとても嬉しかった。

99: にゃんこ 2011/05/28(土) 20:55:46.21 ID:REPpvMfk0
「それでさ」

急にまた信代が続ける。
私は苦笑して唯を見ながら、信代の言葉に耳を傾けた。

「そんな感じであいつがうちを手伝ってくれる事になったんだ、それも住み込みでさ。
もうこの際だから、入籍して夫婦で酒屋を盛り上げようって事になってね。
それでずっとうちを手伝ってて忙しくてさ、つい皆に連絡を取り忘れてたんだよ。
律も唯もごめんね」

私は軽く頭を振って、いいよ、とまた信代の肩を叩く。
そういう事情なら怒るに怒れないじゃないか。
そもそも怒ってたわけでもないけどさ。

100: にゃんこ 2011/05/28(土) 20:57:44.18 ID:REPpvMfk0
「でも、今日はどうにか時間が出来たから、学校に来てみる事にしたんだ。
しばらく皆と会えてなかったし、それに……」
「それに……?」

私が先の言葉を催促すると、何処か寂しそうな顔で、でも、何かを決心した顔で、信代は言った。
あくまで明るく、いつも通りの肝っ玉の太い信代の声色で。

「今日はお別れの言葉を伝えに来たんだよ。
友達とか、先生とかにさ。もう皆と会えるのも最後かもしれないからね」

101: にゃんこ 2011/05/28(土) 20:59:54.04 ID:REPpvMfk0
そんな今生の別れでもあるまいし、と私は明るく軽口を叩こうと一瞬考えたけど、やめた。
そうだったな。
本気で今生の別れになるかもしれないんだよな。
もう、そんな時期なんだよな……。
ほんの少しの沈黙。
唯も少し視線を落として、何となく寂しそうに見える。

119: にゃんこ 2011/05/29(日) 01:56:36.48 ID:oaeVjkUw0
私も何を言えばいいのか分からなくて、どうしようかと少し迷ったけど……。
それでも私は信代の背中側に周って、背中から飛び付いてチョーキングの体勢を取っていた。
信代もちょっと驚いたみたいだったけど、私を振り落としたりはしなかった。
やっぱりと言うべきなのか、その体勢はチョーキングと言うより、
私が信代におんぶされてるみたいになってて、それを見てた唯が軽く笑った。

102: にゃんこ 2011/05/28(土) 21:00:54.68 ID:REPpvMfk0
「あはは。二人とも何やってんのー?」
「いやいや、私は何もやってないし。律が勝手に飛びついて来ただけだよ」
「うるへー。考えてみりゃ、信代にチョークスリーパー掛けた事無かったからな。
折角だから、存分に味わっとけい!」
「うわ、無茶苦茶だ」

103: にゃんこ 2011/05/28(土) 21:01:23.20 ID:REPpvMfk0
顔は見えないけど信代が苦笑したらしく、
信代の背中越しに見えた唯もそれに釣られてまた笑っていた。
私も多分笑っていた。
その顔は三人とも寂しさを含んではいただろうけど、今出来る最高の顔だったと思う。
そうして一分くらい信代の背中におんぶされて、
私は存分に信代をチョーキングしてから身体を離した。
唯の隣に戻って、信代の表情をうかがってみる。
ずっと私をおんぶしていたのに、信代は疲れた様子を全然見せずに笑っていた。
流石は信代。桜高最強の女(多分)。

104: にゃんこ 2011/05/28(土) 21:03:06.53 ID:REPpvMfk0
「さてと……」

名残惜しそうに信代が呟く。
私も、多分唯も、次に信代が何を言おうとしているのか分かっていた。
その言葉は出来れば聞きたくなかったけど、それを止めるわけにもいかなかった。
私達は私達で、信代は信代で、しなきゃいけない事は違ってるんだから。

105: にゃんこ 2011/05/28(土) 21:03:54.98 ID:REPpvMfk0
「そろそろ行かないと。まだ挨拶したい人は多いし、約束もあるしさ」
「そっか……」
「でも、律達に会えて本当によかったよ。
一応、軽音部の部室にも顔を出そうかとは思ってたんだけど、時間が取れるか分からなかったし……」
「もうすぐムギも来るから、会っとけよ」
「いや……、でも行くよ。春子とか待たせてるしさ。流石にもう行かないと」
「だったらさ、信代ちゃん。よかったらなんだけど……」

106: にゃんこ 2011/05/28(土) 21:05:10.94 ID:REPpvMfk0
珍しく遠慮がちに唯が言った。
私は口を噤んで、唯の言葉を待つ事にする。
こいつが口ごもりながら何かを言う時は、本当に真剣に何かを考えてる時だから。

107: にゃんこ 2011/05/28(土) 21:05:38.29 ID:REPpvMfk0
「どうしたの、唯?」
「今度、軽音部でライブやる予定なんだけど、よかったら信代ちゃんも見に来てよ。
部室でやる小さなライブなんだけど、本当にすごいよ!
歴史に残るくらいのすっごいライブだから!」
「おいおい……」

108: にゃんこ 2011/05/28(土) 21:08:11.03 ID:REPpvMfk0
呆れた表情で軽く唯の頭をチョップしてやる。
唯の発案自体が悪いわけじゃないんだけど……。
私はチョップを唯の頭に置いたままノコギリみたいに動かしながら、言葉を続けた。

「歴史に残るライブって、まだ日にちも決まってないだろ。
大体、身内で、ライブやれたらいいな、って話してるだけじゃんか」
「えー……。でも、きっとすごいライブになるよ!
絶対歴史に残るし! て言うか歴史に残すし!」
「何だよ、その自信は……」

109: にゃんこ 2011/05/28(土) 21:09:29.99 ID:REPpvMfk0
普段と変わらない私と唯の馬鹿なやり取り。
自分でも馬鹿みたいだな、とつくづく思う。
でも、それを見てる信代は笑ってくれた。

「いいね。時間は出来るだけ……、ううん、絶対空ける。
澪達にも会いたいし、放課後ティータイム……だったよね?
私、実は結構あんた達のバンドのファンだし、楽しみに待ってる。
ライブの日程が決まったら、すぐに教えてよ」
「おー、流石は信代ちゃん!」

110: にゃんこ 2011/05/28(土) 21:13:11.18 ID:REPpvMfk0
何が流石なのかは分からなかったが、信代の言葉に唯は満面の笑顔で喜んでいた。
私も、オッケー、と言いながら、信代とハイタッチを交わした。
ありがとう、信代。
心の中でだけそう言って、そうして私達はまずは春子と会うという信代を見送った。
三人とも笑顔で、とりあえずの別れを交わせた。
完全に信代の姿が見えなくなった頃、唯が何かに感心している様子で呟いた。

111: にゃんこ 2011/05/28(土) 21:13:43.73 ID:REPpvMfk0
「何か……カッコよかったよね、信代ちゃん……。
女の『みりき』に溢れてるって言うか……」
「『魅力』な」
「むー……。分かってるよ。ついだよ」
「どっちだよ。
でも、分かるよ。
人妻の艶めかしさっつーか、セクシーさっつーか、とにかく余裕があったよな」
「あれが人妻のみりきなのか……」
「魅力な。まあ、いいや。とりあえずムギを迎えに行こうぜ」

112: にゃんこ 2011/05/28(土) 21:14:44.86 ID:REPpvMfk0
私がそう言った瞬間。
背筋に何らかのどす黒いオーラ的な何かを感じた。
そのオーラ的な何かは本当に何の前触れも無く、私達の背後に現れていた。
瞬間移動でもしているかのようだった。
な、何を言ってるか分からねーと思うが、私も何をされたのか分からなかった。
催眠術とか超スピードとか、そんなチャチなもんじゃ断じてねえ。
もっと恐ろしい物の片鱗を……。

113: にゃんこ 2011/05/28(土) 21:15:11.77 ID:REPpvMfk0
って、よく考えなくても私の知っている人の中には、そういう神出鬼没な人が居たんだった。
若干呆れつつ振り返ってみると、予想通り私達の顧問の先生が何故かその場に崩れ落ちていた。

「何やってんだよ、さわちゃん……」

小さく訊ねてみたけど、
さわちゃんは私の言葉に反応せずに何かを呟いていた。

114: にゃんこ 2011/05/28(土) 21:15:39.43 ID:REPpvMfk0
「……された」
「何?」
「先を越された……」
「だから何?」
「中島さんに先を越された……。
生徒に……、よりにもよって生徒に……」
「あー……」

115: にゃんこ 2011/05/28(土) 21:17:39.36 ID:REPpvMfk0
それ以上、私は何を言う事も出来なかった。
とても残念ではあるんだけど、
それに関して私がさわちゃんに言ってあげられる言葉はありそうにない。
と言うか、ずっと聞いてたのかよ。
いや、確かに信代が結婚したって話を聞いたら、そりゃ顔を出しにくかっただろうけど。
どうしたものか、と首を捻っていると、唯が事もなさげに軽く言い出した。

「大丈夫だよ、さわちゃん!
さわちゃんはまだ結婚してないかもしれないけど、私達だってまだ結婚してないから!」
「いや、それ何の慰めにもなってないから……」

120: にゃんこ 2011/05/30(月) 23:09:14.12 ID:Qb/2+Hqe0
私は唯の頭を掴んで軽く揺らしながら突っ込む。
それでも、唯は自分の発言の何が問題だったのか分かってないみたいで、きょとんとしていた。
そうなんだ。
こいつはこれでも本気でさわちゃんを慰めてるつもりなんだ。
私はそれをよく分かっているし、さわちゃんもそれだけは長い付き合いでよく分かってるみたいだった。
その場に崩れ落ちた体勢のままだったけど、さわちゃんは軽く苦笑を浮かべて私達を見つめた。

121: にゃんこ 2011/05/30(月) 23:10:33.18 ID:Qb/2+Hqe0
「そうね……。私はまだ結婚してないけど、貴方達も結婚してないものね……。
特に貴方達は彼氏が出来た事すらないものね……。
それに比べれば私なんてまだまだ幸せな方よね! ファイトよ、さわ子!」

拳を握り締めて、さわちゃんは自分に言い聞かせるよう気合を入れる。
ちょっと心配してみたらこれだ……。
彼氏が出来た事がないのは本当だけど、それを人に言われるのはちょっと腹立つな。
私の隣に居る唯も微妙な顔でさわちゃんを見つめていた。
私の知る限り、唯にも彼氏が出来た事はなかったはずだし。
そもそも男に興味があるのかどうかも怪しいし……。

122: にゃんこ 2011/05/30(月) 23:11:43.98 ID:Qb/2+Hqe0
まあ、さわちゃんが元気になったのは何よりだ。
私は唯の手を取って、唯と顔を見合わせる。

「さて、もうすぐムギも来る事だし、幸せな人は置いといて急ごうぜ、唯」
「あいよ! そうだね、りっちゃん!」

そうして二人でさわちゃんに背中を向け、私達は校門への新たな一歩を踏み出そうとして……。

123: にゃんこ 2011/05/30(月) 23:12:14.37 ID:Qb/2+Hqe0
「ちょっと、二人ともぉ!」
「うわっ!」
「おっとと! 掴まって、りっちゃん!」

さわちゃんに私の脚を掴まれ、体勢を崩して倒れそうになってしまった。
唯が私の手を支えてくれたおかげで倒れずにすんだけど、正直、結構危なかった。
体勢を立て直し、ありがとな、唯、と軽く頭を下げた後、
私は出来るだけ嫌そうな顔でさわちゃんに言った。

124: にゃんこ 2011/05/30(月) 23:13:36.92 ID:Qb/2+Hqe0
「ちょっとさわちゃん……、危ないじゃんかよー」
「それはごめんなさい……。確かにやり過ぎちゃったわね……。
でも、一週間ぶりに会った先生を置いて、そんなに急いで行かなくてもいいじゃないの。
この一週間何やってたの? とか聞いてくれてもいいじゃない」

聞いて欲しいのか……。
確かにこの一週間、さわちゃんの姿を見かけなかったし、何をやってたのかは気になるけど……。
でも、その言葉通りに、ただ聞いてあげるのも面白くないな。
そこで私は一つ少し意地の悪い事を思い付いた。
信代の結婚にショックを受けてた姿から考えるに、この一週間彼氏と過ごしてたわけでもなさそうだ。
倒されそうになった仕返しにその辺を弄ってみる事にしよう。
私はニヤリと意地の悪い笑顔を浮かべ、さわちゃんの肩に手を置いた。

125: にゃんこ 2011/05/30(月) 23:14:25.53 ID:Qb/2+Hqe0
「この一週間何をやってたかなんて、聞かなくても分かるよ、さわちゃん。
彼氏とめくるめく愛へのハイウェイ的なアバンチュールを過ごしてたんだろ?」
「おー、アバンチュール!」

アバンチュールという言葉の響きが好きなのか、唯が大袈裟に強調してくれる。
相変わらずよく分からない所にツボがある奴だな。
それに対して、何故かさわちゃんはしばらく反応を見せなかった。
あれ、おかしいな。いつも通り顔を伏せて嘆いてくれると思ったんだけど……。
ちょっと意地悪過ぎたかな、と私が不安になりかけた時、急にさわちゃんが驚いた表情を浮かべた。

126: にゃんこ 2011/05/30(月) 23:16:00.17 ID:Qb/2+Hqe0
「ど……、どうして知ってるのっ?」
「えっ? マジでっ?」
「いや、マジで、って何よ。私だって彼氏とアバンチュールする事くらいあるわよ。
実はね、前の彼氏とやり直す事になったの……。
それでこの一週間、二人で温泉旅行に行ったりして、ずっとアバンチュールしてたのよ」
「すごいよ! 温泉でアバンチュールなんて大人の関係だよね、りっちゃん!」
「そうだな、唯……。まさか本当にさわちゃんにそんなアバンチュールが……」

127: にゃんこ 2011/05/30(月) 23:17:37.80 ID:Qb/2+Hqe0
唯と二人で意外なさわちゃんの大人の一面に感心してしまう。
彼氏と二人で温泉旅行のアバンチュールしてたなんて……。
つい私はタオルも巻かずに混浴に入るさわちゃんと彼氏を想像してしまう。
二人は見つめ合い、いつしか唇を重ねてそのまま……って、何考えてんだ私!
何だか顔が熱い。自分でも自分の顔が赤くなってしまっているのが分かるくらいだ。
知っている人のそんな姿を想像してしまうのは、どうにも気恥ずかしくてたまらない。

128: にゃんこ 2011/05/30(月) 23:19:37.66 ID:Qb/2+Hqe0
どうしても落ち着かなくて、私は唯の顔を気付かれないように覗いてみる。
唯も私と同じ様な事を考えているんだろう。唯の顔も少しだけ赤くなっているように見えた。
そういう情報に疎く見える唯だけど、普通の女子高生並みの知識はあるに違いない。
って、そういえば前に唯に聡の隠してたそういうビデオを貸したのは私だった。
いや、ほら、私達も女子高生なわけで。そういうビデオを観たくなる事もあるわけで。
あー、もう、だから、とにかく!
そんな感じで私と唯が黙り込んで悶えていると、急にさわちゃんが大きな笑い声を上げた。

129: にゃんこ 2011/05/30(月) 23:20:39.68 ID:Qb/2+Hqe0
「あっははは! 何、赤くなってんのよ、二人とも。
冗談よ、冗談。この一週間は実家の整理とか同級生と会ったりとかしてただけよ。
彼氏が居たとしても、流石に一週間も温泉旅行なんか行くわけないじゃない。
それにしてもそんなに赤くなるなんて、幼く見えるけどあんた達も年頃なのねえ」

一瞬、さわちゃんが何を言い出したのか、私には分からなかった。
それくらい状況が呑み込めなかった。

130: にゃんこ 2011/05/30(月) 23:21:19.97 ID:Qb/2+Hqe0
数秒経ってからようやく私は、ああ、そうか、と思った。
からかったつもりが、逆にからかわれてたんだ。
それが分かった瞬間、急に悔しさが込み上げてきた。

「くっそー、騙したな!」
「謀ったな、さわちゃん!」

唯と二人で頬を膨らませて文句を言ってやったけど、
さわちゃんは、てへっ、と舌を出して首を傾げるだけだった。

132: にゃんこ 2011/05/30(月) 23:23:33.35 ID:Qb/2+Hqe0
やられた……。
普段、彼氏ネタで弄ってるからお約束の鉄板だと思ってたのに、まさかそれに返しネタを用意してくるなんて……。
大体、信代の結婚にショックを受けてたんだから、
彼氏が居ない事は分かってたはずなのに、完全に予想外の返しに思考停止しちゃってた……。
さわちゃんめ。悔しいけど三年生のこんな時期になってお約束を崩すなんて、敵ながら天晴れ。

133: にゃんこ 2011/05/30(月) 23:24:03.40 ID:Qb/2+Hqe0
「でもね。一つ嘘じゃない所もあるのよ」

急にさわちゃんが遠い目になって語り始める。
まだ悔しくはあったけど、とりあえずさわちゃんの言葉を聞いてみる事にした。

「そう。あれは一週間前の事……」
「その語り口、好きだよな、さわちゃん」

134: にゃんこ 2011/05/30(月) 23:24:32.54 ID:Qb/2+Hqe0
「黙って聞きなさい。
それでね、さっき前の彼氏とやり直す事になったって言ったでしょ?
実は前の彼氏から「やり直そう」って言われた事だけは本当なのよ。
これだけは嘘じゃないわよ。
急に一週間前に呼び出されてね、何の用事かと思ったらそう言われたの」
「でも、やり直さなかったの?」

135: にゃんこ 2011/05/30(月) 23:25:17.15 ID:Qb/2+Hqe0
また聞きにくい事を平然と唯が聞いていた。
でも、聞かないわけにもいかない事でもあるか。
今も彼氏が居ない事を嘆いてるって事は、つまりその前の彼氏とはやり直さなかったって事なんだから。
さわちゃんもその辺はちゃんと話そうと思っていたのか、特に唯を怒るわけでもなく続けた。

136: にゃんこ 2011/05/30(月) 23:26:13.33 ID:Qb/2+Hqe0
「そりゃそうよ。もう終わっちゃった関係だもの。
大体、振られちゃったのは私の方なのに、
それをこんな時期だからって都合よくやり直したいって言われてもね。
そう言われてもね……」

137: にゃんこ 2011/05/30(月) 23:27:14.40 ID:Qb/2+Hqe0
そこまで言うと、急にさわちゃんの身体が痙攣するように震え始める。
冬の始まりと言っても、まだ寒いわけじゃない。
勿論、唯の発言に怒っているわけじゃない。
私達に対する怒りじゃない。
つまり……。
と。
さわちゃんが唐突に立ち上がって眼鏡を外してから叫んだ。

138: にゃんこ 2011/05/30(月) 23:28:03.43 ID:Qb/2+Hqe0
「大体なあっ!
もうすぐ死ぬからって昔の女に縋り付くって根性が気に入らねーんだよ!
死が何だっつーの! こちとら死の悪魔の『DEATH DEVIL』だっつーんだよ!
しかも、後で調べてみりゃ、いつの間にか結婚してて妻子持ちだっつーじゃねーか!
不倫させるつもりだったのかよ!
ざけんじゃねーッ!」

139: にゃんこ 2011/05/30(月) 23:28:46.44 ID:Qb/2+Hqe0
あーあ、やっぱり出たよ、『DEATH DEVIL』……。
でも、まあ、仕方ないか。
自分から振っておいて、しかも結婚してて、
それでこの際だからって感じで昔の彼女とやり直そうとするとか、さわちゃんじゃなくても怒るよ。
勿論、その前の彼氏の方に何か事情が無かったとは言い切れない。

140: にゃんこ 2011/05/30(月) 23:29:22.32 ID:Qb/2+Hqe0
ひょっとしたら、この時期になって、最後の時間を目前にして、
本当に傍に居たかったのはさわちゃんだって気付いたのかもしれない。
それで今更だけど、やり直そうとしたのかもしれない。
気持ちは分からないでもないけど……。
だけど、それは多分、やっちゃいけない事なんだ。
だから、さわちゃんは怒ってるんだろう。

141: にゃんこ 2011/05/30(月) 23:29:59.15 ID:Qb/2+Hqe0
「大体なあっ! 大体なあ……。
何よ、もう、今更……。
あーあ、もう……」

さわちゃんの『DEATH DEVIL』モードは結構短い。
これまで何回か見て来たけど、どの時も数分で元に戻っていた。
今回も同じ様に素に戻ったんだろう。
眼鏡を掛け直して、さわちゃんはまたその場に崩れ落ちた。

142: にゃんこ 2011/05/30(月) 23:30:52.61 ID:Qb/2+Hqe0
泣いているわけじゃなかったけど、そのさわちゃんの姿はとても寂しそうに見えた。
身勝手な前の彼氏の行動に怒っているのは確かなんだろう。
それでも、本当は少しだけやり直したい気持ちもあったんだろう。
だから、信代の結婚を羨ましく思っているわけだし。
残された時間も少ないし、本当はやり直すという選択もありなんだろうとは思う。
思い残しの無いように、最後に何もかも捨てて誰かに縋るのも一つの選択なんだ。
それを選んでも、誰もさわちゃんを責めないだろうけど……。
だけど、さわちゃんはそれを選ばなかった。
さわちゃんには悪いけど、私はそれがとても嬉しいと思う。
それは多分……。
私はしゃがみ込んで、またさわちゃんの両肩に手を置いて言った。

143: にゃんこ 2011/05/30(月) 23:31:30.48 ID:Qb/2+Hqe0
「さわちゃんは立派だよ。皆、そんなさわちゃんの事が好きだよ」
「りっちゃん……」
「私だってさわちゃんの事が大好きだよ!」
「唯ちゃん……」
「さあ、立って、さわちゃん。
もうすぐムギが美味しいお菓子を持って来るからさ。
部室で一緒に食べよう」
「ムギちゃんが……。ねえ、りっちゃん……」
「うん……」
「りっちゃんの分のお菓子も分けて貰っていい?」
「うん……。って、うおい!」

144: にゃんこ 2011/05/30(月) 23:32:12.52 ID:Qb/2+Hqe0
私が突っ込んで頭を軽く叩くと、その時のさわちゃんはもう笑顔だった。
悲しくないわけでもないし、後悔してないわけでもないと思う。
それでも、さわちゃんは……、私達の顧問の先生は笑顔だった。
きっとそういう風に生きて、そういう風に終わりを迎えてくれるんだ。

146: にゃんこ 2011/06/02(木) 01:18:53.66 ID:fzyJMlSn0







147: にゃんこ 2011/06/02(木) 01:19:39.13 ID:fzyJMlSn0







148: にゃんこ 2011/06/02(木) 01:25:51.59 ID:fzyJMlSn0
校門でムギと合流して部室に戻ると、澪と梓もいつの間にか部室に来ていた。
久しぶりに会うムギは少し疲れて見えたけれど、それでもとても楽しそうに振る舞ってくれた。
かなり久しぶりの軽音部の全員集合。
ムギはその事が嬉しかったんだと思う。
いつもよりも落ち着かず、はしゃいで見えた。
ムギが疲れている理由について、私は何も聞かなかった。
多分、それはムギが話したい時に話してもらえればいい事だと思う。

149: にゃんこ 2011/06/02(木) 01:31:17.61 ID:fzyJMlSn0
そうしてさわちゃんを含めた六人でお茶をして、
さわちゃんが吹奏楽部の活動を見に行った後で
(私は知らなかったけど、
午前中はさわちゃんの授業を受けたい有志の生徒達相手に授業をしていたらしい)、
私達軽音部の間に少し気まずい空気が流れた。

150: にゃんこ 2011/06/02(木) 01:40:19.26 ID:fzyJMlSn0
原因は練習でやった私達のセッションが妙に噛み合わなかった事だ。
勿論、その妙に噛み合わないセッションの原因は私……、
と言いたいところだけど今回はそうじゃなかった。
よくドラムが走り気味でリズムキープもバラバラと、
結構厳しい評価を受けがちな私だけど、今日の私のドラミングは悪くなかったと思う。
リズム隊の澪も何も言って来なかったし、唯とはアイコンタクトで難しいリフも何とかこなせた。
いや、普段の練習から考えると、出来過ぎなくらいに私の演奏は悪くなかったはずだ。

151: にゃんこ 2011/06/02(木) 01:46:56.26 ID:fzyJMlSn0
今回の噛み合わないセッションの原因は、
こう言うのも人のせいにするみたいで嫌なんだけど、梓のミスによるものが大きかったと思う。
これは本当に意外な事だった。
私のミスのせいならともかく(って自分で言うのも悲しいんだけど)、
普段真面目で、子供の頃から演奏を続けている努力家の梓が今日に限って凡ミスを繰り返していた。
しかも、普段なら本当にありえないミスばかりを。
いや、今日に限って……、じゃないか。
考えてみると、最近の梓は何だかどうもおかしかった。

152: にゃんこ 2011/06/02(木) 01:58:42.15 ID:fzyJMlSn0
最近とは言っても、『終末宣言』の日からじゃなかった。
あれはあれでとても衝撃的な宣言で、
あれ以来、恐怖とか諦めとかで学校に来れなくなった同級生も多かったけど、
少なくとも梓はそういう子じゃなかった。
あの日、純ちゃんの電話と校内放送で世界の終わりを知った梓だったけど、
その後の行動は私達三年生が見てもびっくりしてしまうくらい落ち着いていた。
静かに家族に連絡を取ったり、事の真偽をニュースとかで調べたり、
私達の横で呆然とする澪を気遣ったりするくらい、すごく落ち着いた行動だった。
本当のところは分からないけど、
きっと純ちゃんが梓が慌てないように、電話で何か言ってくれたんだろうって思う。
純ちゃんの事をよく知ってるわけじゃないけど、あの子は多分そういう子だった。
自由に見えて、いつも誰かの事を気遣ってる子なんだ。
だから、ちょっと固めで融通の利かない所もある梓が、あんなに心を開いているんだ。
私もそういう先輩になれたらよかったんだけど……、実際は梓にどう思われているんだろう?

153: にゃんこ 2011/06/02(木) 02:07:21.39 ID:fzyJMlSn0
いやいや、今は梓の私の評価はどうでもいい。
とにかく、そんな落ち着いた様子の梓なのに、ここ三日くらいどうにも様子がおかしかった。
一昨日なんてかなり挙動不審で、
私が指摘するまで自分の髪を結んでない事、鞄を持って来てない事にも気付いてないくらいだった。
それは最後の日まで一週間を切ったから、というわけでもないとは思う。
これは単なる私の勝手な考えなんだけど、
梓は世界が終わるとか、自分が死ぬとか、そんな事よりも恐い何かに怯えているように見えるんだ。
それが何なのかは分からないけど、部長としてそんな梓の力になりたいと思う。

154: にゃんこ 2011/06/02(木) 02:12:01.98 ID:fzyJMlSn0
だけど、梓はそんな私に何も言ってくれなかった。
悩み事があるのか、心配な何かがあるのか、
そんな感じで何度も聞いてみたんだけど、
梓は「何でもないです」の一点張りで私の質問に答えてくれなかった。
私じゃ駄目なのかと思って、唯やムギに頼んで聞いてもらった事もあったけど、
やっぱり梓は何も答えずに無理な笑顔で笑っただけみたいだった。

157: にゃんこ 2011/06/03(金) 23:24:30.58 ID:zgVV8sPg0
その何も言わない梓に一番苛立っていたのは澪だった。
セッション中、梓が凡ミスを繰り返す度に目に見えて不機嫌になっていく。
いや、苛立っていると言うより、焦っているんだろうな。
人一倍練習しているくせに、学園祭の時も自分の腕に自信が持てずに眠れてなかった澪だ。
最後になるかもしれない私達のライブを何としても成功させたいんだろう。
だからこそ気負ってしまって、普段ミスする事がない梓の今の様子に焦りを募らせているんだ。

158: にゃんこ 2011/06/03(金) 23:28:46.84 ID:zgVV8sPg0
いつもの澪なら梓を気遣って相談にも乗れていたはずだけど、
もうすぐ死ぬと言われて誰かの事を気遣えるほどの余裕はないんだ、あいつは。
あいつはそういう繊細な奴だった。
もし『終末宣言』より前に梓が悩んでいたのなら、きっと澪が梓を支えてやれていたんだろうな。
梓は澪に憧れているみたいだし、澪なら解決してやれたはずだった。
上手くいかないよな、色々と……。

159: にゃんこ 2011/06/03(金) 23:35:33.32 ID:zgVV8sPg0
勿論、焦ってしまうのは私も同じだった。
ただ澪には悪いけど、私が焦るのはライブの成功を願うからじゃなくて、
私達には話せない梓の中の問題が解決出来るかって事が気になるからだ。
もうすぐ終わるかもしれない世界。
そんな世界でも……、いや、そんな世界だからこそ、
せめて梓の問題だけは解決して、また五人で笑いたいんだ。

160: にゃんこ 2011/06/03(金) 23:38:40.88 ID:zgVV8sPg0
そうじゃないと……。
そうじゃないと、悲し過ぎるじゃないか……。

161: にゃんこ 2011/06/03(金) 23:41:38.17 ID:zgVV8sPg0
結局、今日どうにか練習出来たのは、『五月雨20ラブ』とムギの作曲してくれた新曲を少しだけ。
『五月雨』の方はもう完成してる曲だから大体完璧だったけど、ムギの新曲はまだ二割も演奏出来なかった。
そもそも新曲の方は曲名も歌詞も決まってない。
新曲の内容については澪に任せてるけど、今の状況じゃ完成したのかどうかあいつに聞く事も出来なかった。

162: にゃんこ 2011/06/03(金) 23:52:39.73 ID:zgVV8sPg0
梓の様子に澪が焦ってるからって事もあるけど、それよりも澪も澪で何かを抱えてるみたいだったから。
『終末宣言』後、軽音部の中で誰よりも取り乱したのはやっぱり澪だった。
最初の一週間はそれこそひどかった。
自宅に閉じ籠ってかなり情緒不安定で、怯えていたかと思えば突然泣き出したり、
かと思えば妙な現実逃避で周りを混乱させたり、一時期は手に負えないかと思ってしまったくらいに。

163: にゃんこ 2011/06/03(金) 23:57:07.32 ID:zgVV8sPg0
でも、本当はそれが人間の正しい反応なのかもしれなかった。
私達みたいに平然としてる方がおかしいのかもしれないって、自分でもそう思わなくはないけどさ。
それでも、自分勝手だけど、私は澪に怯え続けて欲しくなかった。
だから、私は何度も澪の家に行って、澪の部屋で何度も話し合った。
もうすぐ世界が終わるかもしれないからって、それで何もしない方が勿体ないって何度も話した。

164: にゃんこ 2011/06/04(土) 00:03:11.37 ID:9/KJvxcC0
勝手な言い分だと思う。
ずっと自分の家で家族と過ごすのも悪くなかったのに、私はそれを止めてしまった。
結局、それは多分、私が澪と一緒に居たかったから。
日常を無くしたくなかったから……。

165: にゃんこ 2011/06/04(土) 00:06:30.16 ID:9/KJvxcC0
私の説得に根負けしたのか、私の我儘に付き合ってくれる気になったのか、
澪は自宅に籠るのをやめて、二日に一回くらいは学校に来てくれるようになった。
それ以来、澪は『終末宣言』前みたいな様子を見せるようになったけど……。
でも、分かる。
普段の澪みたいに見えて、人には言わない何かを抱えているんだって。
たまに見せる澪の寂しそうな笑顔に、そう感じさせられてしまう。

166: にゃんこ 2011/06/04(土) 00:10:30.11 ID:9/KJvxcC0
最後のライブを目前に、私も含めてそんな風に沢山の問題を抱えてしまっている我が放課後ティータイム。
最後に悔いのないライブが出来るのか、それは私にも分からなかった。
こうして、最後の月曜日が終わる。

167: にゃんこ 2011/06/04(土) 00:15:53.60 ID:9/KJvxcC0







168: にゃんこ 2011/06/04(土) 00:23:48.14 ID:9/KJvxcC0



――火曜日



169: にゃんこ 2011/06/04(土) 00:25:05.15 ID:9/KJvxcC0
少し寝入っていた私はセットしていた携帯電話のアラームに起こされた。
急いでラジカセの電源を入れる。
軽快な音楽が流れる。

170: にゃんこ 2011/06/04(土) 00:25:39.88 ID:9/KJvxcC0
「胸に残る音楽をお前らに。本当の意味でも、ある意味でも、とにかく名曲をお前らに。
今日もラジオ『DEATH DEVIL』の時間がやって来た。
まあ、時間がやって来たって言っても、休憩時間以外は適当に喋ってんのはお前らも知っての通り。
その辺は気にせずノータッチで今日もお付き合いヨロシク。オーケー?

173: にゃんこ 2011/06/06(月) 02:10:27.85 ID:9bU9HsRO0
パーソナリティーは勿論、昨日と同じくクリスティーナ。
つまり、アタシ。
って、ここまで付き合ってくれたリスナーなら、言わなくても分かってるか。
さて、最後の月曜がさっき終わったんで、今日はとうとう最後の火曜日。
ノンストップで世界が終末に向かってるってわけね。
今週の週末には終末って、ホントに出来の悪い冗談だけど、そんな冗談にこの放送は止められない。
何度も言うけど、最後までヨロシク。

174: にゃんこ 2011/06/06(月) 02:18:44.28 ID:9bU9HsRO0
にしても、『終末宣言』で放送中止になっちゃったアニメのラジオ番組の枠を貰って、もう一ヶ月も経つんだね。
ラジオなんて聞いた事しかなかったアタシがいきなりパーソナリティーになっちゃって、
それでもここまでやって来れたのはリスナーのお前等と隠されてたアタシの潜在能力のおかげだね。
なんて冗談。
ほとんどリスナーのお前等のおかげだよ。本当に感謝してる。ありがとね。
大体さあ、番組の枠が空いたからって、
顔見知り程度でしかも未経験のアタシにパーソナリティーやらせるとか、
うちのディレクターってどうかしてると思わない?
しかも、いつの間にかどんどん放送時間が延びて、最近は一日中喋りっぱなしになっちゃってるし。
あの人本当にどうかしてるって。

175: にゃんこ 2011/06/06(月) 02:24:55.47 ID:9bU9HsRO0
それにさ、あの人ってここだけの話、ヅラなんよ。
これはアタシとお前等だけの秘密。
誰にも言っちゃダメだぞ。
……って、これラジオだった。失敬失敬。
あはっ、ディレクター睨んでる。
こりゃ、後が恐いねー。
……でもさ。
これでもディレクターには感謝してるんだ。
音楽関係の仕事で、これだけ大きな仕事をやれるなんて思ってなかった。
世界が終わる非常事態だからこそ、
暇なアタシがパーソナリティーやれてるって事は分かってるけど、それでも嬉しいもんよね。

176: にゃんこ 2011/06/06(月) 02:29:56.83 ID:9bU9HsRO0
音楽は好きだし、出来るだけ最後まで音楽と関わってたかったからさ。
そこんところはヅラのディレクターに感謝。
あ、また睨んでる。
いいじゃん、ディレクター。
アタシはカツラなんか被ってないありのままのディレクターが好きよ。
……被ってない姿は見た事ないけど、多分好きだから。
だーかーら、そんなに睨まないでよ。

177: にゃんこ 2011/06/06(月) 02:37:12.00 ID:9bU9HsRO0
さてさて、ディレクターの事はさておいて、
思い返せば最初の一週間はそりゃすごいもんだったのよ。
当時を知らない新参のお前らに説明しとくと、
この時間枠って当初は放送中止になったアニメのラジオの枠だったからさ、
そのアニメ好きの皆さんから心温まるお便りを沢山頂いたわけよ。
「ちゃんと前番組を完結させろ」とか、
「せめて引き続き声優に放送させろ」とか、
「貴方の子を身篭りました」とか、
「クリスティーナ、逝ってよし」とかね。
ごめん、最後のは嘘。「逝ってよし」は古かったね。

178: にゃんこ 2011/06/06(月) 02:46:50.10 ID:9bU9HsRO0
でも、その時はさ、アタシも若かったからさ、
本気でその心温まるお便りと口論したもんだったのよ。
お電話をくれた今は常連の島根の『ラジオネームなど無い』略して『ラジな』とも、
番組中にそりゃ大喧嘩しちゃったのよね、これが。
いや、新参のお前らは驚くかもしれないけど。
ディレクターも止めてくれりゃいいのに、面白そうにニヤニヤ見守ってくれちゃって。
今考えると、こんな状況だからこそ、普通は放送出来そうにない物を放送したかったみたいね。
……チッ、あのヅラめ。
ははっ、睨んでる睨んでる。

179: にゃんこ 2011/06/06(月) 02:56:51.68 ID:9bU9HsRO0
ま、確かにラジなの言う事も分からないでもないんだけどさ。
楽しみにしてたラジオ番組がアタシみたいな無名の新人に乗っ取られちゃ、そりゃ気に入らないよね。
アタシだって抗議の電話をしたくなるわ。
一応自己弁護させてもらうと、
ラジなの好きなアニメは会社に残ったスタッフ有志が超特急で製作してるらしい。
完全版は無理かもしれないけど、せめて台本だけは完璧な物を仕上げるって意気込んでた。
何作品かは無理みたいだけど、それでも出来る限りは頑張ってくれるってさ。
声優の皆さんも何人かはそっちの仕事に集中してるらしいし。
だから、新参者のアタシがその人達にアニメ製作に集中して貰えるように、
お前らにせめてもの暇潰しを提供してるってわけ。

180: にゃんこ 2011/06/06(月) 03:03:40.51 ID:9bU9HsRO0
それにしても、あれだけ大喧嘩したラジながうちの常連になるとは思わなかったね。
何か言いたい事を言い合ったら友情が芽生えてた感じ。
夕焼けの河原での殴り合いの決闘後、みたいな。
発想が古いって?
ほっといて。
あとはこう言うのも気障っぽいんだけど、音楽のおかげかもね。
正直言うと、アタシ実はアニメソングってなめてた。
アニメの付属品の安っぽい劇中曲だろ、なんて聴きもせずに馬鹿にしてた。
でも、喧嘩中にラジなが「この曲を聴いてみろ」って挙げてたアニソンを、
聴かないのも悔しいから何曲か聴いてみたら、悔しいけどいい曲もあるじゃない。

183: にゃんこ 2011/06/06(月) 03:12:31.46 ID:9bU9HsRO0
それにラジなの奴もアタシが勧めたロックを律儀に聴いてくれたみたいでさ。
あいつもアニソン以外は聴かない奴だったみたいだけど、アタシの好きなロックを悪くないと思ってくれたみたい。
まさかあの喧嘩の後にまた電話掛けてくるなんて、本当に律儀な奴だよ。
それが受けてこのラジオが今まで続いてるってんだから、世の中分かんないね。
まさに音楽は世界を救うってやつ?
いや、世界は救ってない……か。
もうすぐ終わっちゃうしなあ……。
だけど、少なくともアタシとラジなはそんな感じに音楽で分かり合えた。
少しだけかもしれないけど、確かに音楽はこれまでそんな風に世界を救ってたって、アタシはそう思う。

184: にゃんこ 2011/06/06(月) 03:18:19.09 ID:9bU9HsRO0
……さて、そろそろ一曲目のリクエストにいってみよう。
一曲目は今話題のラジオネームなど無いことラジなからのリクエスト。
って、終末が近いからって、いちいち世界の終わりっぽい曲を選ばないでよ……。
ま、いいや。
じゃあ今日の一曲目、島根県のラジオネームなど無いからのリクエストで、
FLOWの『WORLD END』――」

189: にゃんこ 2011/06/09(木) 20:39:53.73 ID:6lNkwtuG0





190: にゃんこ 2011/06/09(木) 20:40:54.84 ID:6lNkwtuG0
朝。
人通りの少なくなった通学路をゆっくりと歩く。
車の通りも少なくて、どこか別の街に来てしまったような気もする。
今となっては、遅刻を気にして、急いで学校に向かう必要もなくなった。
それはそれで大助かりではあるけど、
そういういつもの光景が無くなってしまったのは少し寂しいな。
ちょっと立ち止まって、周りを見渡してみる。

191: にゃんこ 2011/06/09(木) 20:43:02.62 ID:6lNkwtuG0
見慣れた建物、橋、線路、店、道路、公園……。
ずっと一緒にいてくれて、ずっと私達と育ってきた街並み。
話によると、世界が終わった後もこの街並みだけは残るらしい。
人が居なくなって、動物達も居なくなって、それでもずっと人の街は残り続けるそうだ。
どういう世界の終わりだよって思わなくもないけど、終末ってのはそういうものらしかった。

192: にゃんこ 2011/06/09(木) 20:44:19.13 ID:6lNkwtuG0
街だけ残る……か。
それはせめてもの救いなんだろうか。
それとも、この地球上には生物なんて必要なかったっていう皮肉なんだろうか。

193: にゃんこ 2011/06/09(木) 20:51:05.33 ID:6lNkwtuG0
「律? どうしたんだ? 行くぞ」

立ち止まっていた私に向けて、私の長い黒髪の幼馴染みが言った。
私が街並みを見渡しているうちに、澪はかなり先の方まで行ってしまっていた。

194: にゃんこ 2011/06/09(木) 20:53:43.54 ID:6lNkwtuG0
「何してんだよ、律。急に隣から居なくなったらびっくりするじゃないか」
「いやー、久しぶりに我が街を眺めてたら、ロマンティックが止まらなくなっちゃって」
「何だよ、それ……」

呆れた感じで澪が呟いて、私が悪戯っぽく微笑んでやる。

195: にゃんこ 2011/06/09(木) 21:04:21.78 ID:6lNkwtuG0
それがずっと続いてきた私と澪の関係。
もうすぐ終わりを迎えるのかもしれないけど、私の我儘で続けてもらっている私達の関係だ。
『終末宣言』から大体一ヶ月、
やっと澪の様子も落ち着いてきたけど、本当の澪の本心は分からない。
気弱で怖がりなくせに強がりがちな澪。
世界の終わりまで一週間も残ってなくて、そんな中でこいつは何を考えているんだろう。

196: にゃんこ 2011/06/09(木) 21:07:14.24 ID:6lNkwtuG0
いつもならそれをそれとなく聞けてたんだろう。
だけど、我ながら情けなくなるけど、今はそれを聞くのが恐い。
もしこいつの本心の中に、部活やライブ、私達よりも大切な何かがあって、
それを優先したいとこいつが考えていたら、私はそれを止める事が出来ない。止めていいわけない。
それが恐くて、私は澪の隣でわざとらしくても笑ってるしかない。
だけど、澪とは長い付き合いだ。
澪もそんな私の様子に気付いてるかもしれない。
それでも、私は笑って澪に話し掛けるだけだ。
このままでは駄目なんだと分かっていても。

197: にゃんこ 2011/06/09(木) 21:08:15.99 ID:6lNkwtuG0
「ところでさ、澪」
「ん」
「今日はどうするんだ? ずっと部室に居る? それか他に何かするのか?」
「そうだな……。とりあえず今日はさわ子先生の授業に出ようと思ってる。
一時間目から希望者に授業してくれるみたいだし、私も出てみようかなって」
「なんと。さわちゃんもいい先生だなー。
昨日だけじゃなくて、今日まで授業してくれるなんて」
「いやいや、昨日部室で言ってただろ。この一週間はずっと授業する予定だって」
「あれ? そうだっけ?」
「おいおい……」

198: にゃんこ 2011/06/09(木) 21:13:16.63 ID:6lNkwtuG0
そうだっけ? とは言ってみたけど、本当は私も知っていた。
昨日、さわちゃんが部室で、
「今週は音楽室でずっと授業してる予定だから、暇なら来てもいいわよ」
って、そう言ったさわちゃんの笑顔が眩しくて、忘れられるわけがない。
誤魔化したのはそのさわちゃんの笑顔が眩し過ぎて、照れ臭かったからだ。
私達の顧問の先生の山中さわ子先生。
半ば無理矢理に顧問になってもらったけど、私はさわちゃんが顧問で本当によかったと思う。
たまに○○親父的な発言に困らせられる事もあるけど、それも御愛嬌って事で。

199: にゃんこ 2011/06/09(木) 21:16:36.58 ID:6lNkwtuG0
「こんな状況で、自分の事より生徒の事を考えられるなんて、いい先生だよ」
「普段は変な衣装製作してくるけどなー」
「それもさわ子先生の魅力だろ? 変過ぎて困る事もあるけどさ」
「じゃあ、今度さわちゃんの作ったサンバカーニバルみたいな衣装着てあげたらいいじゃん?
さわちゃん喜ぶぞー」
「うっ……、それはちょっと……」
「冗談だよ。でも、確かにさわちゃんっていい先生だよな。
折角だし、今日は私も澪と一緒に、さわちゃんのいい先生ぶりを見物に行こうかな」
「うん。じゃあ、今日はとりあえず一緒にさわ子先生の授業を受けよう。
それから先の事は後で部室で考えればいいんじゃないかな」

200: にゃんこ 2011/06/09(木) 21:22:21.97 ID:6lNkwtuG0
「えっと……さ」

また急に澪が立ち止まって喋り始める。
私も足を止めて、澪の言葉に耳を傾けた。
目を少し伏せながらも、力のこもった言葉で澪は続けた。

201: にゃんこ 2011/06/09(木) 21:25:09.22 ID:6lNkwtuG0
「昨日の事……なんだけどさ」
「……梓の事か?」
「うん……。ごめん。私、先輩らしくなかったと思う」
「そうかもな……」
「頭では分かっててもさ、焦っちゃって自分じゃどうにもならなくて、苛立って……。
それで……」

202: にゃんこ 2011/06/09(木) 21:29:53.84 ID:6lNkwtuG0
澪が少し口ごもる。
私は黙って澪の次の言葉を待つ。
黙ってはいたけど、私は嬉しかった。
澪も澪で梓の事を考えてないわけじゃないって分かったから。
いや、むしろ梓の事を考えていたから、澪も苛立ってしまってたんだろう。
それを澪自身も分かっているんだ。
だから、口ごもりながらも言葉を続けてくれた。

203: にゃんこ 2011/06/09(木) 21:31:11.75 ID:6lNkwtuG0
「梓が何か悩んでるのは分かる。何とかしてあげたいと思う。
思う……んだけど、梓は何も言ってくれなくて、それ以上私には何も出来なくなって……。
梓に苛立っちゃってる私に一番苛立っちゃって……。
昨日……、ううん、ここ最近、先輩として最低だったと思う……」
「自分で分かってるんなら大丈夫だよ、澪。
後はそれを梓に伝えてあげればいいんだよ。
分かってても、難しい事だけどさ……」
「そうだよな……。そうなんだよな……」
「そうだよ」

204: にゃんこ 2011/06/09(木) 21:33:30.70 ID:6lNkwtuG0
そう言いながらも、私は次の言葉を言い出す事が出来なくなった。
自分の言っている事は正論だと思うし、間違ってないと思う。
澪も私の言葉に納得してくれてるだろうし、難しい事だけどそれを実行しようと思ってくれてるはずだ。
だけど。
私は考えてしまう。
自分で言っておいて、それを自分で実行出来ているのか、って考えてしまう。
既に澪に我儘を押し付けてしまってる私にそんな事を言えるのか。
言ってしまっていいんだろうか……。

205: にゃんこ 2011/06/09(木) 21:40:04.86 ID:6lNkwtuG0
と。
その沈黙は急に破られた。
耳を澄ませば聞こえるくらいの微かな声が校舎の廊下に響いたからだ。
普通に話してたら気付かなかっただろうけど、
黙っていたおかげと言うべきか、その呻くような声は妙に私達の耳に響いた。
しかもその呻き声は長く続いて、一度気にしてしまうともう耳から離れなくなってしまった。

206: にゃんこ 2011/06/09(木) 21:40:46.29 ID:6lNkwtuG0
「な……、何?」

さっきまでの様子とは一転、別の意味で不安そうな表情を浮かべて澪が呟く。
こんな時でも性格の本質的なところは変わらないらしい。
私はちょっと嬉しくなって、からかうように言ってやる。

207: にゃんこ 2011/06/09(木) 21:42:08.94 ID:6lNkwtuG0
「さあなー。お化けかもなー」
「お、お化けって……、そんな非科学的な……」
「世界の終わりの方が十分に非科学的じゃんか。
呻き声の正体、確かめに行ってみようぜ」
「いやいや、もしかしたら誰かが腹痛で苦しんでるだけかも……」
「そっちの方が大変じゃんか。
もしそうだったら、保健室に連れて行ってあげないといけないだろ」
「あっ……、しまった……」

208: にゃんこ 2011/06/09(木) 21:42:55.89 ID:6lNkwtuG0
自分の言葉が墓穴を掘ってしまった事に気付いた澪が、
不安一杯という感じの表情を見せる。
私はそれに苦笑して、多分、澪の言葉が当たりだろ、
とフォローしながら、呻き声の発生源を探してみる事にした。

209: にゃんこ 2011/06/09(木) 23:22:13.93 ID:6lNkwtuG0
周囲を見渡しただけで、発生源は案外に簡単に見つかった。
見つかった……んだけど、その発生源の場所が普通過ぎたから、
つい私はガッカリして呟いてしまっていた。

「何だ、オカルト研かよ……」

いや、別にオカルト研が悪いわけじゃないんだけど、もっと意外な展開を期待してた私的には拍子抜けだった。
オカルト研の部室からなら呻き声が聞こえてもおかしくないからなあ……。
うん、おかしくない……か?
まあ、いいや。

210: にゃんこ 2011/06/09(木) 23:34:28.84 ID:6lNkwtuG0
「ほら澪、何か大丈夫そうだぞ。
呻き声が聞こえるの、オカルト研の中からだし」
「何が大丈夫なんだよ!」
「いや、病人や怪我人が居なさそうって意味で。
一大事じゃなくて何よりじゃないか」
「その代わり、呻き声の正体がお化けの可能性がぐっと高くなったじゃないか…」
「私としてはそれでも全然オッケーだぜ?」
「私は嫌だ!」
「でもほら、もしかしたらお化けじゃなくて宇宙人の方かも……」
「どっちにしろ嫌だ!」

211: にゃんこ 2011/06/09(木) 23:41:53.45 ID:6lNkwtuG0
相変わらず我儘な幼馴染みである。
だけど、やっぱり安心した。
そういえば澪をこんな感じに弄るのは、すごく久しぶりな気がする。
何か落ち着くな。
こういうのが好きなんだよなあ、私って……。

212: にゃんこ 2011/06/09(木) 23:48:47.06 ID:6lNkwtuG0
私はその落ち着いた表情を澪に見せないよう、わざとらしく笑いながら言った。

「まあまあ。とりあえずオカルト研の様子だけ見てみようぜ?
チラッと見るだけにしとくから、澪も来いよ。
呻き声は何かの魔術っぽい儀式の声だよ、きっと。
ベントラーベントラーみたいな」
「儀式……ね……。それなら、まあ、ちょっと見るだけなら……。
もしかしたら腹痛とかの可能性も少しは残ってるわけだし……。
でも、儀式だったら邪魔しちゃ駄目だからな。ちょっと見て終わりだぞ。
あとベントラーは魔術の儀式じゃないけどな」
「わーってるって。……って、恐がるくせに詳しいな、おまえ」

213: にゃんこ 2011/06/10(金) 00:11:29.50 ID:Tp39Qv0Y0
突っ込んだ後、あれだけ騒いでおいて今更だけど、
オカルト研の子達に気配を悟られないように、私達は静かにオカルト研の部室に近付いていく。
勿論、その動機の半分はオカルト研の身を心配しての事だ。
学園祭をきっかけに折角仲良くなれたんだ。
あの子達にも何かあったら心配じゃないか。
いや、純粋な好奇心からって動機も半分あるけどさ。

214: にゃんこ 2011/06/10(金) 00:32:24.82 ID:Tp39Qv0Y0
だけど、お化けとか宇宙人とか、そんな贅沢は言わないから何か面白い儀式が見れればいいなあ。
その程度のほんの少しの不純な期待を持って、私はオカルト研の部室の扉をそっと開いた。
おはようございまーす、ってね。と、そんな本当に軽い気持ちで。
でも、そんな不純な思いを持っていたのが悪かったのかもしれない。
オカルト研の中では、私には思いも寄らなかった衝撃的な光景が広がってた。
死体が転がっていたとか、宇宙人が居たとか、チュパカブラが背びれを振動させて飛び回っていたとか、
そういう非常事態は幸いにと言うべきか起こってはいなかった。
それでも。
その時、私が目にした光景はそういうのを目撃するのと同じくらい、衝撃的なものだった。

215: にゃんこ 2011/06/10(金) 00:40:33.79 ID:Tp39Qv0Y0
「ぶふぉっ!」

オカルト研の部室の扉の間からその光景を目にした瞬間、私は思わずむせてしまっていた。
自分でも不細工だと思う酷い声が漏れてしまう。
それも仕方が無かった。
と言うか、これでむせない人間なんているか!
誰だって驚くよ! 私だけじゃなくて、絶対誰だって驚くって!
こんなの想像もしてなかったし!
普通なら自分の目を疑うし!
はっきり言って、おかしーし!

216: にゃんこ 2011/06/10(金) 00:50:13.85 ID:Tp39Qv0Y0
……とにかく。
オカルト研の部室の中には二人の女子が倒れていた。
一瞬、病気か怪我で倒れてるのかと思ったけど、そうじゃなかった。
勿論、事件に巻き込まれているようでもなくて、二人は元気そうに動いていた。
そうなんだよ。動いてるのが問題だったんだ。
何をしてるんだろうって少し不審に思ったけど、その疑問もすぐに解決した。
解決してしまった。
何でかって、その答えは簡単だ。
何故なら二人とも半裸だったからだ。
いやいや、半裸っていう表現は大人しかった。
正確に言うと、申し訳程度に下着を着けているっていうほぼ全裸の姿で、
二人の女子生徒が抱き合うような距離でお互いに動いてたんだ。

217: にゃんこ 2011/06/10(金) 00:54:55.29 ID:Tp39Qv0Y0
つまり……、その……、あれだ。
お互いに動くって言うのは……、
えっと、お互いにお互いを触り合ったり、お互いの唇を重ね合ったり、
何か舌とか出してお互いの舌に触れ合ってたり、つまりそういう事をしてたんだよ!
何だよ、もう!
しかも、よく見たらその女子ってオカルト研の子達じゃないし!
他人の部室で鍵も閉めずに誰だよ、ちくしょう!

218: にゃんこ 2011/06/10(金) 01:06:49.66 ID:Tp39Qv0Y0
ああ、もう……。
いいや、もう。
何か疲れた……。
こんな他人の、しかも女子同士のなんて見てられないよ。
そりゃ私だって女子高に通ってる身だし、そういう関係の女子がいるって噂を聞いた事もあった。
誰と誰がそれっぽいかって話題で盛り上がった事もある。
別に女同士でそういう関係になっても、いいんじゃないかなとは思う。
ほら、私ってロックな女のつもりだし。
だけど、聞くと見るとじゃ大違いだ。
何だか見ちゃいけないものを見てしまったって気になってしまう。

219: にゃんこ 2011/06/10(金) 01:17:48.66 ID:Tp39Qv0Y0
私は大きく溜息を吐いて、その場から去ろうとして……、その動きが止まった。
それは私の意思で止めたわけじゃなかった。
私の動きを止める誰かが居たからだ。
私の服を掴んで離さない誰かが居たからだ。
当然、その誰かが誰なのかは分かり切っていた。
澪だ。
澪は私の服を掴んで、食い入るみたいにオカルト研の中の女子二人を見つめていた。
その表情はとても……、その二人の姿をとても羨ましそうに見ているみたいだった。

224: にゃんこ 2011/06/11(土) 21:47:33.17 ID:+7DPB8Sg0
「ちよっと……、離せよ、澪……!」

オカルト研の部室の中の二人に気付かれないよう私は囁いたけど、
その言葉を聞いていないのか、聞いていて拒否しているのか、とにかく澪は私の制服を掴んだまま離さなかった。
何処までも澪は裸の二人をずっと見つめていて、
その表情は前に一度、澪以外の人間が浮かべた事のある表情によく似ている気がした。
それは一年の頃のムギの表情だ。
さわちゃんと唯が接近して、その二人の様子にうっとりしていたムギの表情。
多分、それは憧れだ。自分では手の届かない場所に居る人達への届かない想いだ。

225: にゃんこ 2011/06/11(土) 21:48:16.00 ID:+7DPB8Sg0
詳しく話した事はないんだけど、ムギはそういう女の子同士の関係が好きらしかった。
ムギ自身が女の子同士の関係を誰かと築き上げたいのかどうかは分からない。
単にそういう関係の女の子同士を見ているのが好きなだけなのかもしれないし、それはどっちでもいい事だ。
ムギが何を好きだろうと、何を望んでいようと、ムギは私の大切な親友なんだから。
だけど。
そう思っている私でも、今の自分の胸の鼓動は止められそうになかった。

226: にゃんこ 2011/06/11(土) 21:51:00.32 ID:+7DPB8Sg0
誰かの濡れ場を初めて目撃したからじゃない。
女同士の関係が現実にある事を知ってしまったからでもない。
勿論、それらが原因でもあるけど、それだけじゃなかった。
それ以上に胸が痛いほどに騒ぐ理由があった。
私は躊躇いながら、オカルト研の部室の中の二人に視線を戻す。

227: にゃんこ 2011/06/11(土) 22:02:52.64 ID:+7DPB8Sg0
「お姉さま……」
「ほら、タイが曲がっていてよ」

裸の二人(よく見ると一人は長い黒髪で、もう一人はショートヘアで眼鏡を掛けていた)は抱き締め合い、
お互いに愛おしそうな表情で囁き合って、お互いの肉体を弄り合っていた。
そんな格好でタイとかそういう問題じゃないだろ!
しかも、何だよ、その演技掛かった口調は……。『お姉さま』だし……。
まあ、部室に鍵が掛かってなかった事から考えても、
例え誰かに見つかっても見せつけてやろうというくらいの感覚なんだろうな。
それで多少演技臭くても、そういう自分達に酔ってるんだろう。

228: にゃんこ 2011/06/11(土) 22:07:04.33 ID:+7DPB8Sg0
……いやいや、そんな事は関係ない。
そんな事よりも重要なのは、その二人を澪がずっとムギに似た表情で見つめ続けている事だ。
幼馴染みだからって、澪の全てを知ってるわけじゃない。
私の知らない澪の姿だって、沢山あるんだろう。
だけど、こんな状況で澪がこんな行動を取るなんて、私の知らない澪にも程があった。
あんな甘々な歌詞を書くだけあって、澪は恋愛に対して人一倍敏感だ。
自分だけじゃなく、他人の恋愛にも敏感で、誰かの恋の話題が出るだけで赤面するくらいだった。
なのに、そんな澪が今、他人の、しかも女同士の濡れ場を目撃して、憧れる様にじっと見つめている。
違うだろ、澪。
そこは部室の中の二人の見物を続けようとする私を、
「失礼だろ!」ってお前が赤くなりながら殴るところだろ。
何だよ……。そんな私の知らないお前を見せないでくれよ……。

229: にゃんこ 2011/06/11(土) 22:11:21.38 ID:+7DPB8Sg0
でも、それだけならまだよかった。
それだけなら幼馴染みの知らない一面を見てしまって、私が少し寂しくなってしまうだけの事だった。
気付かれないように、もう一度私は澪の表情をうかがってみる。
ムギに似た表情。だけど、ムギとも少し違う澪の表情。
もしかして……、と思う。
胸の奥に秘めていた私の考えが浮かび上がってくる。
だから、私の胸は痛んでるんだ。

230: にゃんこ 2011/06/11(土) 22:14:31.13 ID:+7DPB8Sg0
「あっ……」

気付かれないようにしていたつもりが上手くいかなかったらしい。
視線に気付いた澪と私の目が合って、その一瞬後に澪は赤くなって視線を逸らした。
気が付けば私も視線を伏せていた。何だか顔が熱い。私も赤くなっちゃってるんだろうか。
正直に言うと、今までそれを考えてなかったわけじゃない。
でも、そんな事、誰にも言えるもんか。
澪が私の事を好きなんじゃないかって。
そんなの自意識過剰過ぎる。
こんな私が同性の幼馴染みに好かれてるって考えるなんて、それ自体恥ずかしくて口に出せるか。

231: にゃんこ 2011/06/11(土) 22:15:12.79 ID:+7DPB8Sg0
ただ、噂になった事は何度かあった。
いつも傍に居て、皆にコンビとして認められている私と澪。
悪気は無いんだろうけど、そんな関係を見て、私達二人の恋愛関係を想像する子は少なくなかった。
特に下級生かな。
曽我部さんから聞いた話によると、
澪ファンクラブの中には澪の恋人が誰なのかという派閥があって、
それには唯やムギ、梓に果てはさわちゃんや和まで候補が居て、誰が澪の恋人なのかで争ってるんだそうだ。
いや、勿論、極一部の話なんだろうけれども。
と言うか、女同士なんだが……。
そして、その派閥の中で一番大きいのが澪の恋人は田井中律派……、つまり私の勢力らしかった。
ちなみに曽我部さんも私の派閥なんだそうだ。
それは何と言うか……、ありがとうございます……?

233: にゃんこ 2011/06/11(土) 22:25:25.48 ID:+7DPB8Sg0
当然だけど、本来ならそれは笑い話の一つだ。
少し不謹慎だけど、何事もない生活の中で自分達で想像するだけなら何の問題も無い事だ。普段なら。
だけど、今は世界の終わりの直前っていう非常事態だった。
前にクリスティーナこと紀美さんがラジオで話してたけど、
『終末宣言』以来、自分の特殊な趣味や性格、○○を告白する有名人は増える一方だ。
勿論、それは有名人だけの話じゃなくて、私の周りの人達でもそうだった。
私の友達の中ではボーイズラブってのが好きだって告白した子が居たし(皆、知ってたけど)、
父さんも友達(男)が急に好きだって告白してきたから驚いたって言っていた(妻を愛しているからって断ったらしい)。
皆、最後くらいはありのままの自分で居たいんだ。
ひょっとすると、オカルト研の中の二人も『終末宣言』後にこういう関係になったのかもしれない。

234: にゃんこ 2011/06/11(土) 22:26:51.07 ID:+7DPB8Sg0
私にもその気持ちは分かる。
私には特に隠している○○とかはないけど、
あればきっと誰かに言っておきたいと考えてたと思う。
澪はどうなんだろう……って、私は思う。
澪は追い込まれないと本当の実力を出せないタイプだし、
追い込まれないと本音もあまり口にしない。
でも今は……、人類全体が追い込まれてる状況だ。
まさか、だよな。
澪は別に私の事を好きとかじゃないよな?
澪はただ初めての女同士の濡れ場に驚いて、目を離せなくなってるだけだよな?
あの『冬の日』の歌詞も私の事を書いてたわけじゃないよな……?

235: にゃんこ 2011/06/11(土) 22:28:10.14 ID:+7DPB8Sg0
そう考えてしまうから、私の胸は痛いほど鼓動しまっている。
澪に好かれるのが嫌なんじゃない。
澪の事は好きだ。
当然、恋愛対象としてじゃない。親友として、幼馴染みとして、大好きだ。
女同士の関係に抵抗があるわけでもない。
ムギの台詞じゃないけど、本人同士がよければいいと思う。
それが自分自身の事になると分からないけど、
もし誰かに告白されたりしたら本気で考えてみてもいいとも思う。
だけど、その誰かがもしも澪だったら……。
そう考えると、どうしても私の胸は痛くなる。
痛いんだ、とても。

236: にゃんこ 2011/06/11(土) 22:34:36.85 ID:+7DPB8Sg0


今回はここまでです。
細々としてる印象を与えちゃって、申し訳ないです。
ご指摘ありがとうございます。
今更ですが、次回からもう少し読み易い改行を目指します。
特に今回はりっちゃんの心の動きばかりだから、余計に読み難かったですね。
すみません。精進します。

237: にゃんこ 2011/06/14(火) 00:38:05.23 ID:toNYD3r30





オカルト研の部室の中の二人を十分くらい見てたと思う。
急に澪が私の手を引いて、「行こう」と小さく囁いた。
何処に行くのか私は少し不安になったけど、
澪に手を引かれて辿り着いた場所は軽音部でない方の音楽室だった。

そうだった。
そういえば私達はさわちゃんの授業を受けるんだった。
そんな事、すっかり頭の中から消え去っていた。
最初は部室に寄る予定だったけど、
オカルト研を覗いてたせいでそんな時間も無くなってしまっていた。
それで澪は直に私を音楽室に連れて来たんだろう。
さっきまで私の言葉も聞かずにオカルト研を覗いてたくせに、
急に妙に冷静になっている澪に私は何も言えなかった。
何を考えてるんだよ、澪は……。

238: にゃんこ 2011/06/14(火) 00:38:45.39 ID:toNYD3r30
さわちゃんの授業は面白かった……と思う。
授業にはムギと唯も参加していて、
久し振りに四人で受ける授業はとても嬉しかった。
だけど、そんな折角の授業なのに、どうしても私は授業に身を入れる事が出来なかった。
身を入れられるわけがない。
授業中、ずっと澪の視線を感じていたからだ。
実際に見られてるわけじゃないかもしれない。
単に私の自意識過剰な所が大きいんだろう。
でも、意識し始めるとどうしようもなかった。
澪に見られてると思うと、どうやっても授業に集中出来なかった。

授業の後、皆で部室に向かおうとした時、
そういや予定があったんだ、ってわざとらしい言い訳をして、私は皆の中から抜け出した。
居心地が悪くて、澪の傍には居られなかった。
本当はずっと傍に居たかった。
世界が終わるらしいって聞いてから、私は最後まで澪の傍に居たいと思ってた。
無理に家の中から連れ出してまで、澪には傍に居てほしかった。
澪に私が必要なんじゃなくて、私に澪が必要なんだ。
だけど、それはこんな意味でじゃない。
こんな居心地の悪さを求めてたわけじゃない。
だから、私は逃げ出したんだ。

239: にゃんこ 2011/06/14(火) 00:41:05.33 ID:toNYD3r30
「あー……。何やってんだ、私は……」

皆から抜け出した先、
軽音部から少し離れた廊下の窓から校庭を見下ろしながら、私はつい口にしていた。
どうしようもない自己嫌悪。
こんなんじゃ駄目だ。
このままじゃ駄目だ。
『終末宣言』以来、何度そう思ったんだろう。
何度そう思いながら、何も変えられなかったんだろう。

「ちくしょー……」

自分の情けなさが悔しくて、拳を握りながら吐き捨ててみる。
勿論、そんな事で何も変わるわけがなかった。
ただ悔しさが増しただけだった。
悔しさをずっと感じながら、それでもどうしようもない私は校庭を見回してみる。
校庭を見回したところで、何も解決するはずがないのに。
それでも、私は他に何も出来なかった。

240: にゃんこ 2011/06/14(火) 00:42:18.75 ID:toNYD3r30
見下ろしてみた校庭は『終末宣言』前と何も変わってないように見えた。
生徒の数こそ減ってるけど、それ以外はほとんど何も変わってない。
その何も変わってない校庭に、私はよく知っている長い黒髪を見つけた。
澪じゃない。
梓だ。
最近、様子のおかしい梓。
どうにか手助けをしてあげたい私の大切な後輩。
その梓は何かを探してるみたいに足下を見下ろしながら歩いていた。

「おーい、あず……」

反射的に手を上げて声を掛けようとして、その途中で私の言葉は止まった。
声を掛けて、どうする?
声を掛けて、どうなる?
こんな今の私が、何も言おうとしない梓の力になってやれるのか?
それとも、代わりにどうしようもない私の愚痴を聞かせるつもりか?
答えは出ない。

241: にゃんこ 2011/06/14(火) 00:43:24.66 ID:toNYD3r30
でも、途中までしか出なかった私の言葉は、梓の耳に届いていたらしい。
梓は顔を上げて、私の方に視線を向けた。
梓と私の目が合って、視線がぶつかる。
その一瞬、気付いた。
梓が泣きそうな顔をしている事に。
多分、今の私と同じような顔をしている事に。

梓の表情を見た私は、何とかしなきゃと思った。
小さくて弱々しい後輩の力にならなきゃと思った。
何も出来ない私だけど、何とかしてあげたかった。
今度こそ、私は梓の悩みを聞きだすべきだった。
だから、私はなけなしの勇気を振り絞って、喉の奥から言葉を絞り出そうとした。

242: にゃんこ 2011/06/14(火) 00:45:12.73 ID:toNYD3r30
「あず……」

だけど、その言葉はまた途中で止まる事になった。
私と目の合った梓が私から目を逸らして、すぐに校庭から走り去ってしまったから。
まるで私から逃げ出すみたいに。
それでも追い掛けるべきだったのかもしれない。
でも、なけなしの私の勇気は、逃げ出していく梓の姿に急に萎んでしまって……。
身体から力が抜けていくのを感じる。
脚に力が入らない。
私はその場に座り込んで、頭を抱えてとても大きな溜息を吐いた。

ひょっとして……、と思った。
私はずっと梓は何かに悩んでいるんだと思ってた。
私達に言えない何かを抱えて、ずっと無理に笑ってるんだと思ってた。
でも、ひょっとして……、それは違ったのか?
梓は私と関わりたくなくなっただけなのか?
私の近くに居たくなくて、それでするはずのないミスを連発していたのか?
そんなにまで、私の事が嫌いになったのか……?

243: にゃんこ 2011/06/14(火) 00:46:44.78 ID:toNYD3r30
ひどい被害妄想だ。
梓がそんな事を考える子だと思う事自体、梓に対して失礼だ。
でも、駄目だった。
澪の視線を感じると気になって仕方がなくなったのと同じに、
梓に嫌われてるんじゃないかと思い始めると、その考えが私の頭から離れなくなった。
それにそれは、ずっと思ってなくもなかった事でもあったんだ。
梓はずっと真面目な部活を望んでた。
練習をせずにお茶ばかりしている私に呆れてた。
その不満と呆れが今になって爆発したんじゃないか。
世界の終わりを間近にして、その嫌悪感を隠す事が出来なくなったんじゃないか。

「あいつの近くで何をやってたんだ、私は……」

また呟いた。
ほとほと自分が嫌になって来る。
被害妄想が頭から離れない自分が嫌だったし、
それ以上にその考えを被害妄想と言い切れない自分がとても嫌だった。

244: にゃんこ 2011/06/14(火) 00:47:25.01 ID:toNYD3r30
世界は終わる。もうすぐ終わる……らしい。
多分、それまでに皆、本当の自分を嫌でも見せ付けられる事になる。
私が今、見たくなかった自分の弱さを見せ付けられているみたいに。
こうして世界の終わりを目前にして、
隠していた本当の自分を曝け出して、ありのままで死んでいく事になるんだろう。
そこまで考えて、私はやっと気付いたんだ。
私達はもうすぐ死ぬんだって事に。
死ぬ……んだ。
来週を迎える事も出来ないんだ。
それまでの時間は、当然だけど止められない。
ずっと考えないようにしてきた事だった。
考えないようにして、普段通りの生活をしないと耐えられなかった。
世界の終末……。
その現実を分かっているつもりで、私は何も分かってなかったんだろう。

急に。
考えないようにしてた想いとか感情とか、
そんな色々な物が私の中で目眩がするくらいごちゃごちゃになって……。
それが吐き気になった。
私は近くにあった女子トイレに駆け込んで、思わず吐いた。
初めて心の底から感じる死の恐怖に、私は何度も吐く事になった。
死にたくない……。
死にたくないなあ……。

245: にゃんこ 2011/06/14(火) 00:49:13.95 ID:toNYD3r30





しばらく吐いた後。
酸素が行き渡らなくてふらふらする頭で女子トイレから出ると、
何の気配もなく後ろから近づいて来た誰かに優しく背中を撫でられた。
見られた……?
自分の情けない姿を見られたかもしれない事が恥ずかしくて、
私の心臓が少しだけ早く動いてしまっていた。
特に軽音部の部員の誰かに、こんな弱い自分なんて見られたくなかった。

緊張しながら振り返ってみて、私は驚いた。
本当に驚いて、しばらく声が出せなかった。
多分、そこに軽音部の誰かが居たとしても、そこまで驚かなかったかもしれない。
それくらいに意外な人が私の背中を撫でてくれていた。

246: にゃんこ 2011/06/14(火) 00:50:38.43 ID:toNYD3r30

「平気?」

その誰かは特徴的なクルクルした巻き毛を揺らして、私の表情を覗き込んでいた。
その顔は普段の無表情だったけど、
反対に背中を撫でる手付きはとても優しくて、それがまた意外で私は言葉を失っていた。
いや、普段のその人を知ってたら、そりゃ誰だって声が出せないよ。
だって、私の背中を撫でてくれていたのは、
私のクラスメイトの中でもクールで無表情な奴の代名詞こと、
いちごだったんだから。
あの若王子いちごだぞ?
無表情なままではあったけど、
いちごがこんな事をしてくれるなんて誰も想像もしないよ……。

ずっと黙ったままの私を変に思ったんだろう。
無表情に首を傾げながら、いちごがまたぼそりと私に訊ねる。

247: にゃんこ 2011/06/14(火) 00:52:23.89 ID:toNYD3r30
「平気?
私じゃ不満?
軽音部の方がよかった?」

ぶつ切りの言葉で分かりにくかったけど、
つまり私の背中を撫でてるのが軽音部の部員じゃなくて、
いちごだったのを不満に思ってるのかって事なんだろう。
いやいや、もし本当にそうだったら、何様なんだよ、私……。
私は誤解を解くために首を振った。
いちごとは特別に仲が良いわけじゃなかったけど、そんな誤解はされたくなかった。

「そんな事ないよ、いちご。
……ごめん、心配掛けたな」

「別に心配はしてない。
急に女子トイレに駆け込むから、何事かと思っただけ」

「さいですか……。
でも、ありがとうな」

「別に。お礼なんて要らない」

248: にゃんこ 2011/06/14(火) 00:54:04.33 ID:toNYD3r30
相変わらず無表情でぶっきら棒な奴だった。
普段なら取り付く島も無いと引き下がるところだったけど、
今日のところはそういうわけにもいかなかった。
私は背中を撫でてくれていたいちごの手を取って、軽く右手で握った。
バトンをやっているせいか少し豆があったけど、それでも小さくて柔らかい手だった。

「ありがと、いちご」

「だから……、そういうのはいいよ」

そう言っていちごは私から目を逸らしたけど、嫌がってるわけじゃないみたいだった。
無表情だから分かりにくいけど、もしかしたら照れているのかもしれない。
いつもクールないちごの意外な一面を見れた気がして、少し嬉しかった。
それで私の顔が少しにやけてしまっていたのかもしれない。
いちごが急に私と目を合わせると、無表情だけど神妙な声色になった。

「急に吐くなんてどうしたの?
妊娠?」

「そんなわけがあるか!」

「そう……」

「もしかしてからかってる……?」

「さあ……」

249: にゃんこ 2011/06/14(火) 00:54:36.72 ID:toNYD3r30
やっぱり分かりにくいなあ……。
でも、それは別に嫌じゃなかった。
長い付き合いじゃないけど、いちごはそういう分かりにくい奴なんだ。
分かりにくいけど、多分、それがいちごで、それでいいんだよな。
私はそうして一人で納得してから、いちごの手を取ったまま訊ねてみた。

「いちごの方こそどうしたんだよ。
最近、いつも学校で見るけど」

「そっちもね」

「私は高校生の鑑だから、どんな状況でも学校に来るのだよ、いちごくん」

「じゃあ、私もそれで」

「じゃあ、ってなんだよ。じゃあ、って……」

254: にゃんこ 2011/06/16(木) 22:44:51.05 ID:GDoU5EKg0
私は苦笑したけど、いちごは無表情のままだった。
だけど、その顔は単なる無表情とも違っていた。
本当に分かりにくいけど、
よく観察すると何となくいちごの心の動きが見える気がした。
もしかしたら、単にいちごは感情を顔に出さないタイプなだけなのかもしれない。
これまでも何となくそう思ってはいたけど、はっきりとは確信してなかった。
大体、こんなに長い間二人きりでいちごと話したのも、
考えてみれば初めてかもしれないな……。

不思議な感じだった。
さっき吐いたせいで身体はふらふらなのに、
思いも寄らなかったいちごとの会話のおかげで、自分の心がとても落ち着いてる気がする。
死ぬ事に対する恐怖が完全になくなったわけじゃないけど、それでも。

255: にゃんこ 2011/06/16(木) 22:47:51.02 ID:GDoU5EKg0
結局、それ以上、いちごは私が吐いた理由について訊ねなかった。
だから、私もそれ以上、いちごが学校に来ている理由を訊ねなかった。
どちらの理由も、お互いが言いたくなった時に言えばいいだけの事だった。
それに多分、深く詮索し合わないのが、
いちごが人と付き合う時に重視してる事なんだと思ったから。
いちごは決して冷たいわけじゃない。
またいちごに背中を撫でられながら、私はいちごに深く頭を下げた。

「落ち着いたよ、いちご。
ごめん、本当にありがとう」

すると、いちごは私の言葉に対して、またもやとても意外な事を言った。

「関係ない……」

「え?」

「関係ないわけ、ないから」

「ん……あ?」

256: にゃんこ 2011/06/16(木) 22:48:33.01 ID:GDoU5EKg0
また驚かされて、変な言葉が出てしまった。
口癖と言うわけじゃないけど、
いちごはこれまで何事に対しても「関係ないけど」とよく言っていた。
そんないちごが「関係ないわけない」って言ったんだ。
これは驚かされるよなあ……。
勿論、その言葉が私だけに向けられた物だと考えるのは、かなりの自意識過剰だった。

「関係ないわけない」ってのは、
自分と繋がる全てに対して……、って意味合いが強いんだと思う。
今までいちごは色んな事を「関係ない」と言っていた。
それは無関心が理由でもあったんだろうけど、
主にはそれ以上に他人の意思を尊重するって意味で使ってたんだろう。
自分の中の世界を大切にする代わりに、他人の中の世界も尊重する。
だから、お互いに必要以上干渉し合わないようにしよう。
そういう意味で、いちごは「関係ない」って言ってたんだと思う。
その考えは正しいと私も思う。
誰が何をしていても、それは個人の自由で、自分勝手に干渉する事でもない。
だから、他人のする事は自分には関係ない事なんだ。

257: にゃんこ 2011/06/16(木) 22:51:36.57 ID:GDoU5EKg0
でも、「関係ないわけない」というのも、正しい考えだと思った。
他人が何をしていても、自分自身にはほとんど影響がない。
その意味じゃ、他人のする事は自分には何も「関係ない」。
だけど、ほとんどないってだけで、完全に影響がないわけでもないんだ。
他人の、自分の何気ない行動が色んな事に影響を与えて、
何かが大きく変わっちゃう事もあるんだ。
何かと無関係でいられなく事もあるんだ。
私はちょうど今それを強く実感してるところなんだ。
世界が終わるって現状もそうだけど、それ以上に考えてしまうのは……。

「うん……。そうだな……。
関係ないわけ、ないよな……」

私は自分に言い聞かせるみたいに言った。
いちごはその私の言葉については何も言わなかった。
優しく背中を撫でてくれるだけだった。
ただ少し優しさを増したその手付きが、
私の言葉に頷いてくれているみたいには思えた。

258: にゃんこ 2011/06/16(木) 22:53:16.84 ID:GDoU5EKg0
何事にも無関係ではいられない。
いちごと私の関係にしてもそうだし、軽音部の皆と私の関係にしてもそうだ。
取り分け、梓と……澪だ。
特に澪と私はお互いに深過ぎるところにまで関わり合ってる。
小さい頃、私の好奇心から始まった私と澪の関係。
あの時、私がもし澪に声を掛けていなかったら、
澪の人生も、勿論、私の人生も今とは全く別の物になっていたんだろう。
澪がいなければ私はこの桜高には来てなかっただろうし、
私がいなければ澪は澪でそのメルヘンな性格を生かして、文学部か何処かで名を馳せていたのかもしれない。
当然それは仮定の話で、今現在の私が考えても仕方がない事だった。

だから、私は別の事を考えないといけない。
世界の終わりを目前にして、
私は澪との関係をどうするのか、どうしたいのかを考えなきゃいけない。
澪が私の事を好きかどうかは別としても、
少なくとも世界の終わりの日には何をしていたいのかを二人で話さないといけない。
それだけはこの残り少ない時間で私が解決しなきゃいけない事だ。

それで……。
それでもし、解決出来たのなら、その時は……。
まだ何も決まっていない状態で、こんな事を伝えるのは失礼かもしれない。
それでも伝えられるのは今しかなかったし、私達の結末をいちごにも知ってほしかった。
少し躊躇いながら、それでも私はゆっくりとそれを口にした。

「なあ、いちご。もしよかったらなんだけど……」

262: にゃんこ 2011/06/19(日) 02:48:17.55 ID:Hc43SAZ70





部室。
いちごと別れた私は、
逃げ出しそうになる脚を無理矢理動かして、軽音部の自分の席に座っていた。
部室の中には私以外誰も居なかった。
代わりと言っては何だけど、私の机の上には変な落書き付きのメモが置かれている。

『あずにゃんをさがしてくるよ!』

落書きといい、文字といい、間違いなく唯の書き置きだった。
いや、書き置きを残してくれるのはありがたいんだけど、相変わらずこの落書きは何なんだ?
猫みたいな生物の両耳の辺りから、
妙に長くて太い毛がにょろりと生えているんだが……。
ひょっとして、これが唯の『あずにゃん』のイメージなんだろうか。
この長くて太い毛をツインテールだと考えれば、
梓+猫のイメージで『あずにゃん』だと考えられなくもない……気もする。
と言うか、自分をこういうイメージで見られてると知ったら、多分梓怒るぞ。

でも、我ながら情けない事だけど、その現状に私はとりあえず安心していた。
別に落書きの正体が『あずにゃん』なんだろうって事とは関係ないぞ。
勿論、今の部室の中に誰も居ない現状の事だった。
色んな問題を解決しなきゃいけないのは分かってる。
それでも、今の私にはその解決の糸口すら見つけられていない。
無理矢理にやる気と使命感を湧き上がらせる事だけは出来ても、
解決のための具体的な方法が全然思い浮かんで来てなかった。

263: にゃんこ 2011/06/19(日) 03:09:45.95 ID:Hc43SAZ70
「いつもこうなんだよなあ、私……」

机に突っ伏しながら、つい呟いてしまう。
ドラムを叩いてる時もよく言われる事なんだけど、私は結構勢いだけで動いちゃうタイプだ。
よく考えて動くべきなんだろうって思う事も勿論あるけど、
それでもこれは私の持って生まれた性格って言うか、
変えたくない自分の中のこだわりって言うか、
とにかく勢いに乗っちゃうノリのいい自分でいたかった。
勢いに乗り過ぎて失敗する事も、誰かを傷付けちゃう事もいっぱいあったけど、
勢いだけでも動いていれば、何かが上手くいくはずだって、多分心の何処かで信じてた。
ううん、今だって、信じてる。
そうやって私は生きて来たんだから。
生きて来れたんだから。

だけど、今は勢いだけじゃどうにもならない。
そんな気もしてる。
何かをしなきゃとは思うし、
勢いで梓や澪の悩みに踏み込んでみるのもありだと思う。
そうすれば案外と簡単に、二人の悩みを晴らしてあげる事も出来るかもしれない。
そうだったらどんなにいいだろう。
でも、今勢いだけで動いたら、これまでの私の経験から考えて、
間違いなく私だけで空回っちゃって、余計に二人を傷付けてしまう気がする。
そんな……気がする。

思い出すのは、二年の時、澪と喧嘩をしてしまった時の事だ。
あの頃、私は自分の傍から澪が離れていく感じがして、凄く焦ってた。
今でも何故かは分からないけど、澪が離れていくのがとても嫌だった。
もしかしたら、ずっと傍に居てくれた澪が私の傍から居なくなったら、
それ以外の誰かもどんどん離れていって、
最後には独りぼっちになっちゃうなんて事を考えてたのかもしれない。
はっきりとは自分でも分からない事だけどさ……。

264: にゃんこ 2011/06/19(日) 03:26:38.52 ID:Hc43SAZ70
だから、私はどうにか澪の注意を自分に向けさせようって思ったんだと思う。
勢いに乗ってふざけたりしていれば、いつもどおり澪がこっちに向いてくれるって思った。
でも、それは失敗した。
私のした事は澪を怒らせ、困らせるだけだった。
分かってくれない澪に私は腹を立てて、
それ以上に澪を困らせてしまった私に腹を立てて、しばらく軽音部にも顔を出せなかった。
それどころか風邪までひいちゃって、顔を出したくても出せない状況にまでなった。
さっき吐いたのもそうなんだけど、
私って意外と繊細で、少しでも精神的に参るとすぐに身体の方にも影響が出るんだよな。
こんな繊細さなんて、何の自慢にもなりゃしないけど……。

あの時、私は澪を傷付けた。
傷付けてしまったと思った。
そう思うと自分のしてしまった事が恐くて、何も出来なくなって。
勢いで前に進みたい自分と、それを止めようとする自分で雁字搦めになって……。
本当に意外に繊細で、それが自分でも嫌になる。

そういう意味で考えると、澪以上に気になるのが今の梓だった。
私の姿を見て逃げ出した梓。
嫌われてしまったのかもしれないし、嫌われる原因はいくつも思い当たる。
でも、それは被害妄想として片付ける事は出来る。
それだけなら、私もどうにか梓のために動き出せると思う。
動けなくなるのは、自分が梓に好かれる要素が一つも思い当たらなかったからだ。

265: にゃんこ 2011/06/19(日) 03:48:59.08 ID:Hc43SAZ70
唯は梓を可愛がってるし、梓もかなり唯に懐いてると思う。
澪は梓の憧れの先輩で、澪の梓に対する指導は的確だ。
ムギも梓に優しいし、お互いに信頼し合っているみたいだ。
私……はどうなんだろう?
私は梓に対してどんな先輩だ?
可愛がっていたか?
いい先輩だったか?
優しくしてやれたのか?
……答えは出せない。
それでも、嫌われてると考える事よりも、
好かれてないのは間違いないと考えられる事の方が、私にはとても辛かった。

「なあ、お前は梓から何か聞いてないか?
私の事について……とかさ」

ちょっと思い立って、私は水槽に視線を向けてトンちゃんに呟いてみる。
トンちゃんは私の言葉を聞いているのかいないのか、
いつもと変わらず優雅に泳いでいた。
そりゃそうだ。
でも、思った。
梓は私だけじゃなく、軽音部の他の皆にも今の自分の悩みを話してくれなかった。
だけど、もしかしたらトンちゃんになら話しているかもしれない。
トンちゃんを一番世話しているのは梓だ。
『終末宣言』後も、梓はずっとトンちゃんの世話を欠かさなかった。
だから、梓もトンちゃんにだけは、自分の悩みを打ち明けているかもしれない。

勿論、それでどうなるわけでもない。
トンちゃんが私達の言葉を分かってるかどうかも分からないし、
もし分かってたとしても、私にもトンちゃんにもどうしようもない。
だって……。

「喋れないもんなあ、お前……」

266: にゃんこ 2011/06/19(日) 04:07:37.67 ID:Hc43SAZ70
私は呟きながら、つい苦笑してしまう。
トンちゃんは喋れないって当たり前の事をおかしく思ったからじゃない。
もしも喋れたとしても、
トンちゃんなら梓の悩みを人に言ったりしないんじゃないかと思えたからだ。
梓もそう思っているから、トンちゃんに悩みを打ち明けているんだろうか。

「トンちゃんより信頼されてない部長か……」

それは全部私の勝手な思い込みだけど、少し落ち込んだ。
駄目だ駄目だ。
弱気になってるばかりじゃ、本当に何も出来ないままに終わっちゃうじゃないか。

突然。
そうやって頭を振っている私の耳に予想外の声が響いた。

「ハーイ! アタイ、スッポンモドキのトンちゃん!
チェケラッチョイ!」
「喋ったあああああ!」

つい叫んでみたけど、勿論そんな事があるわけない。
乗っておいて何だけど、呆れた視線を部室のドアの方に向けてみる。
聞き覚えのある声だからその声の正体は分かっていたけど、
それでも、その人の顔を確認しない事には、ちょっと信じられなかったからだ。

「何やってんだよ、和……」

その声の正体を確認して、私はつい肩を落としてしまう。
私のせめてもの願いも空しく、そこに立っていたのは予想通り和だった。
いや、本当に何やってんだよ、和……。
せめて和だけはボケ担当になってほしくなかった……。

271: にゃんこ 2011/06/21(火) 01:28:38.77 ID:cHOTjrFR0
私がそうやって呆れた視線で見つめてみたけど、
和は何でもない様な顔で部室の中に入って来ながら言った。

「たまにはね」

「たまにはって和……」

「律がトンちゃんと話したいみたいだったから」

「……見てたのかよ」

「ええ」

「そっか……」

本当なら見られたくない自分の姿を、
人に見られてしまった私は焦るべきだったんだろう。
だけど、何故かそんな気は起きなかった。
見られた相手が和だからかもしれない。
「お母さんみたい」ってのが皆の和に対する評価だけど、私も何となくそう思ってる。
だから、私は不思議なくらい焦らなかったんだろうな。

272: にゃんこ 2011/06/21(火) 01:44:46.03 ID:cHOTjrFR0
和は私がトンちゃんに話しかけていた事について、とりあえずはそれ以上触れなかった。
ただ部室の中に入って来て、長椅子の辺りで軽く微笑んでるだけだった。
私も釣られて軽く笑ってしまう。
何だかとても落ち着く空気が流れてる気がした。
でも、二人して微笑んでるだけっていうのも、何となく気恥ずかしかった。
私は頭を掻きながら、微笑んでる和に訊ねてみる。

「ところでどうしたんだ、和?
唯ならいないぞ」

「いいのよ。唯がいないのは知ってるわ。見てたもの」

それもそうだった。
私がトンちゃんに話しかける姿を和が見てたって事は、
和が部室の外からドアの隙間越しに部室内の様子を伺ってたって事だ。
唯がいない事は分かり切ってる事だった。
でも、だったらどうして部室に?
その疑問を私が口にするより先に、私の考えを読み取ったのか、和がその答えを口にした。

「今日は律に用があって来たのよ」

「私に?」

少しだけ意外だった。
和とはいい友達だけど、二人きりで話をする事は少なかった。
特に和自身に私への用事があるなんて、滅多にない事だったからだ。
私は好奇心を抑え切れず、和にまた訊ねてみる。

「何? 私に何の用?」

273: にゃんこ 2011/06/21(火) 01:59:34.47 ID:cHOTjrFR0
すると和が少し激しい表情になって、
私達の間ではお決まりになっている台詞を口にした。

「ちょっと、律!
講堂の使用届がまだ提出されてないわよ!」

「忘れていたー!
……って、何の届けやねん!」

習慣でつい叫んじゃったけど、途中で思い直して和に突っ込んだ。
確かに私は書類を提出するのを忘れがちだけど、今は提出する書類なんてなかったはずだ。
疑いの眼差しで和を見つめたけど、
和はそれを気にせずにまた平然とした普段の表情に戻るだけだった。

怒った様子は演技だったみたいだけど、
書類の話自体は本当だったって事なのか?
何か出さなきゃいけない書類なんてあったっけ?
って、確か和は講堂の使用届って言ってたよな……。
まさか……。
そう思いながら、私はおずおずと和に訊ねる。

「講堂の使用届……?」

「そうよ」

「講堂を何のために使うの……?」

「放課後ティータイムのライブのため」

「使用届、必要なの……?」

「それはそうよ。
使いたがってる部も多いんだから」

「マジで?」

「マジよ」

「大マジ?」

「大マジよ」

274: にゃんこ 2011/06/21(火) 02:15:35.91 ID:cHOTjrFR0
知らなかった……。
と言うか、まだそんなシステムが生きてたとは思わなかった。
それに講堂を使いたがってる部が他にあったなんて、
世界が終わる直前って言っても……、
いや、直前だからこそ、考える事は皆同じなんだな……。
これは素直に自分の考えが甘かったって思った。
私は和に頭を下げる。

「ごめんな、和。
まさか私達以外に何かやりたがってる部があるなんて思わなくて……。
でも、何で和がライブの事を知ってるんだ?
それに私達が講堂を使うかどうかも、まだ決めてなかったんだけど……」

私の言葉に和が少し優しい顔になった。
でも、それは私に対して優しくなったわけじゃない。
それは和が唯の事を話す時にする顔だったし、
その後に和が話し始めたのはやっぱり唯の話だった。

「唯がね。
最後に大きなライブをやるって言ってたのよ」

「やっぱり唯だったか。
信代だけじゃないとは思ってたけど、
唯の奴、あっちこっちで宣伝してんな……」

「そうね。でも唯、楽しそうだったわよ。
「絶対、歴史に残すライブにする!」って言ってたしね」

「あいつ、そのフレーズ好きだな、オイ」

275: にゃんこ 2011/06/21(火) 02:30:32.77 ID:cHOTjrFR0
私が笑いながら言うと、和も「そうね」と優しく笑った。

「私とライブの事を話した時も五回くらい言ってたし、
今はそれが唯の好きなフレーズなのね。
でも、あの子、何処でライブをやるのかも決めてないみたいだったから、
それで律に講堂の使用届の事を話しておこうと思ったのよ」

「いや、別に私も部室でするか、
最悪グラウンドでやれればいいか、って思ってたんだけど……」

「駄目よ。
部室だと小さなライブになるし、グラウンドだと天候に左右されるじゃない。
「絶対、歴史に残すライブにする」んでしょ?
こういう準備はちゃんとしておかないとね」

「そうだな……。ありがとう、和。
「絶対、歴史に残す」んなら、会場もでっかいライブにしないとな……。
なあ和、講堂の使用届、まだ間に合いそうか?」

「深夜なら空いてなくはないけど、金曜日までは無理ね」

「もうそんなに予定が埋まってるのか?」

「ええ。どこの部も最後に何かを発表したいみたいだし、
桜高以外の団体からも申し込みがあるから、ほとんど埋まってるわね。
こんな時だけど、こんな時だからこそ、
そういう予定はきちんと組んでおかないと……。
それでまだ空いてる時間となると、金曜日か土曜日の夕方になるわ」

「金曜か、土曜か……」

280: にゃんこ 2011/06/23(木) 01:20:18.23 ID:74LZJUpb0
そう呟きながら、私は迷っていた。
本当なら考えるまでもなく、金曜日にライブをやるべきだ。
いや、どうしても金曜日が好きってわけじゃなくて、
消去法で考えると必然的に金曜日しかなくなるだけだ。
だって、そうじゃないか。
よりにもよって世界の終わりの日の前日の土曜日にライブをやるなんて、
演奏する私達はともかく、呼ばれた皆にとっては迷惑この上ないだろう。
馬鹿らしい例えだけど、
それこそ富士山頂でやる結婚式に招待されるくらい迷惑に違いない。
だから、考えるまでもない。
ライブは金曜日の夕方。
これで決まりだ。

でも……。
そこまで考えて私は不安になる。
本当に金曜日で間に合うのか、とても不安になってしまう。
新曲は完成してないし、
梓の問題も澪との関係もまだ解決してない。
こんな状態でまともに演奏なんて出来るんだろうか……。

そうやって私は唸っていたけど、
気になって目をやると、私の様子を和が静かに見てくれている事に気付いた。
唯の事を話す時みたいな優しい表情の和が私の瞳の中に映る。
見守ってくれてるんだな、和……。
思わずそう考えていたけど、その考えは少し気恥ずかしくて、
私は顔が熱くなるのを感じながら、その気恥ずかしさを誤魔化す事にした。

「和、悪いけどもう少し考えたいから、ちよっと待ってくれるか?
あと立たせたままってのも悪いし、何処か空いてる席に座ってくれよ」



次回 律「終末の過ごし方」 その2