1: ◆uw4OnhNu4k 2018/10/03(水)12:53:15 ID:u2t
女「治療の大いなる第一歩は、病名を告げられることなんです」

女「自分にのしかかる正体不明の呪いは既に分類されているものだったと知ることで、さっそく救われるんです」

男「古傷に対して『それは古傷です』と言われたところで何も変わらない。もう、治っているんだし、これ以上は治せないんだから」

女「青春コンプレックスです」

男「何だって?」

女「あなたの診断結果が出ました。症状、青春コンプレックスです」

女「過去に付き合った人数を聞かれて苦しむのも。街中の恋人同士を見て苦しむのも。女子高校生のスカートを見て苦しむのも」

女「青空の下のアスファルトや、プールの消毒液のにおいや、花火やクリスマスツリーに苦しめられるのも、恋愛ソングを唾棄すべきものとみなしながら縋るのも。全部青春ゾンビの特徴です」

引用元: 平成最後の夏、レンタル彼女と一緒に過ごした。 



彼女、お借りします(6) (講談社コミックス)
宮島 礼吏
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215: 名無しさん@おーぷん 2018/10/03(水)21:26:52 ID:u2t

男「なあ、これからもあの男にお金を払い続けるの?」

女「さて、どうしましょうかね」

男「やめるべきだよ」

女「そうでしょうね」

男「レンタル彼女もやり続けるの?」

女「さて、どうしましょうかね」

男「極めるべきだよ」

女「そこはとめないんですね」

男「君には、男の子を現実で幸せにさせようという意思を感じたから」

女「危険な目はもう懲り懲りですけどね」

男「君と出会った男の人は、君以外の女性の人と、人生をやり直す意思を得られるから」

女「へえー、そうですか」

男「そうだよ」

216: 名無しさん@おーぷん 2018/10/03(水)21:27:10 ID:u2t

女「男さん」

男「はい」

女「明日、告白してきます」

男「お金を払ってデートしてる男に?」

女「いいえ。本物の人です」

男「そっか」

女「彼は、婚約者です」

男「うん」

女「昔ずっと好きだったって伝えます」

男「うん」

女「でも、幸せになってくださいって伝えます」

男「そうか」

女「私も頑張るから。男さんも頑張ってくださいね」

217: 名無しさん@おーぷん 2018/10/03(水)21:27:35 ID:u2t

男「女、一ついいかな。大事な話があるんだ」

女「はい」

男「好きでもない人から言われても、何の価値もない言葉かもしれないけど」

男「俺は、君のことが好きだ。俺と、付き合ってください」

女「……そうですか」

男「…………」

女「ごめんなさい」

女「好きな人がいるんです」

男「うん。知ってる」

女「…………」

男「あのさ」

女「はい」

男「今まで、好きでいさせてくれてありがとう」

男「幸せになってください」

男は女に微笑んだ。

夕焼け小焼けのメロディーが流れた。

防災行政無線のチャイムが、平成最後の夏に、別れを告げた。

218: 名無しさん@おーぷん 2018/10/03(水)21:27:57 ID:u2t

黒塗りの車が迎えに来た。

女「それじゃあ、さよならです」

男「ちょっとまってて」

男は財布を取り出そうとした。

しかし、女がその手を抑えた。

女「今日は、あなたの彼女じゃありませんでしたから」

男「……つい。悪いくせだな」

女「次会う女の子にも、貢ぎ過ぎちゃ駄目ですよ」

男「はいはい」

女「それでは、さようなら」

男「ああ。さよなら」

女が車に乗り込んだ。

一つ気になる事を思い出して、男は問いかけた。

男「あのさ!」

窓から顔を出して、女はこちらを振り返った。

男「あの黒いノート、何が書かれてたの?」

女はニッコリと笑って答えた。

女「なーんにも!」

男「はぁ?」

女「ばいばい!」

219: 名無しさん@おーぷん 2018/10/03(水)21:28:41 ID:u2t

廃校に、男は1人取り残された。

秋も近くなり、肌寒さを感じた。

誰もいなくなった校庭で、男は叫んだ。



男「何が平成最後の夏だ、うるせーばか!!」



夏だけが、青春の季節かもしれない。

学生だけが、青春の時代かもしれない。

けれど。

好きな人が隣にいる時間に、勝る時間などないのだろう。

過去がそうであったように。

未来においても。

男「このままの自分じゃ、このままなんだな」

男「変わらなくちゃ」

あるがままの自分には、あるがままの鳥しか来ない。

カラスと結ばれてもいいのならゴミのままでもよいけれど、青い鳥と結ばれたければ逞しい樹になるしかない。

努力に見合った人生ではなく、魅力に見合った人生があるから。

男「純愛主義者のふりをしてたけど。5人も好きになってたんだもんな」

男「運命の人はいる。ただし、多数」

男「失恋したって。いくらでも、やり直せるよ」

220: 名無しさん@おーぷん 2018/10/03(水)21:29:04 ID:u2t


・・・

自分を救ってくれるもの。

それはきっと、現実的な手段。

今笑っている人達は、こんな段階を踏んでいた。

①好きな人に告白し、振られる。
②仲良くなった人に告白し、付き合うが、別れる。
③好きな人に告白し、付き合って、結ばれる。

法則の踏み方の真似をするならば。
・①と②を、出来るだけ短期間で済ませる。
・②の後から③までの期間、好きな分野に浪費をしていると、お互い惹かれ合う人と出会うので、ちゃんと好意を伝え続ける。

たとえその人に、恋人がいようとも。

第6章 『社会人:Boy meets many girls.』

何度でも立ち上がれるよ。

だって、僕らは、ゾンビだもの。

221: 名無しさん@おーぷん 2018/10/03(水)21:29:17 ID:u2t

それでも、○○○○をお金で買うことを拒み続けた、全ての新社会人へ。

222: 名無しさん@おーぷん 2018/10/03(水)21:29:44 ID:u2t

ボーイミーツガールが、5千円で買える時代になった。

『私の服装は黒のニット、スカートに、茶色のバッグです!銀座線で来ます!』

秋は夕暮れ。

平成最後の夏から一年が経った。

転職をして、僕は電機メーカーの営業の仕事に着いていた(親は僕が公務員になることを期待していたので残念そうだった)。

今日は仕事帰りに、出会系アプリで知り合った女の子と会う約束をしていた。

「男さんですか?」

女性が少し緊張の表情を浮かべながら尋ねてきた。

男「はい。今日は忙しいのに来てくれてありがとうございました」

「いえいえ、こちらこそ」

男「近くによく友達と行く居酒屋があるんです。そこでご飯食べましょっか」

「わかりました!」

223: 名無しさん@おーぷん 2018/10/03(水)21:30:54 ID:u2t

この子が初めての相手、ではなかった。

この一年間で、無数の女の子と会った。

合コンをする伝手などないから、初めは友達と街コンによく行った。

恋愛ゲームなんかでは、主人公が普通に女の子と会話をしているが。

そもそも、そういった恋愛を目的とした場で話しかけること自体、ゲロを吐きそうなくらいきつかった。

短い時間でテーブルを回らされて多数の女の子と話すこのシステムは、見た目に冴えない自分には不利にも感じた。

緊張疲れも激しく自分には向いてないと思い、SNSの広告でよく出てくる出会い系アプリに手を出した。

心の病んだ女の子に大勢の体目当ての男が群がる場所、という先入観は誤っていたと認識した。

今どきの出会い系サイトは大手のシステム会社が運営しており、SNSアカウントとの連結認証や年齢確認のための身分証明写真データの提示などを必要とするアプリに限って言えば、サクラやネカマなどがかなり撲滅されている。

レイアウトも洗練されていて、普通の女子大生やOLが無数に利用しており、お見合いサイトをかなり柔らかくしたような印象だった。

1対1でじっくりメッセージでトークを交わしたあとに二人きりで会えるので、相性さえ合えば自分を気に入ってくれる女の子と結ばれやすかった。

自分が始めようと思った大きなきっかけは、実は友が交際している女性がアプリで知り合った相手だと打ち明けられたからだった。

純愛信者の僕には最初こそ抵抗があったが、やってみて、それでも嫌だと思うならやめればいいと思った。

お金持ちは、大金をはたいて20代の女性との交際を求める。

僕たち貧しい20代は、20代の女性とは大金を出さずともデートすることを許される。

20代の特権は、20代の異性と、対等な立場で出会えることだ。

だから、今の自分の年齢でしかできないことはやっておくに越したことはないと思った。

何より、もう過去を振り返るのが嫌だったから。

224: 名無しさん@おーぷん 2018/10/03(水)21:32:22 ID:u2t

僕は変わろうとした。

理容室に行くようになった。
おしゃれな友達にファッションを教えてもらった。
今まで散々馬鹿にしていた、モテルための自己啓発本を20冊近く読んだ。
店員に愛想よく振る舞うようになった。
一番苦手な、女性の目を見て話すということを心がけた。
誰かといる時は、今やっている作業に過集中せずに会話を同時並行するよう心がけた(携帯で地図を見ながら歩いている時なんかはよく方向を間違えたが)。
花屋の前を通り過ぎると、一つは花の名前を覚えるように心がけた。
浄水器の営業の電話にも丁寧に応えるようになった。
怒りの葡萄の映画もDVDで二回見た。
天気予報を確認する頻度を増やした。
ウォシュレットを使うようになった。
ラーメンの汁を最後まで飲むようになった。
折り紙で鶴を折れるようになった。



意味があるのかわからないこと、むしろ害になるんじゃないかと思うこともたくさん試みた。

どれも、これも、人生を変える決定打にはならなかった。

どれも、これも、けれど今までの僕を変える1歩になってくれた。

恋愛優勝者がこの世界にいるとしたら、ナルシストだろう。

自分で自分にする恋ほど、完全な恋はない。

自分も好きになれない人がどうして他人から好きになってもらえるのか、なんていうけれど。

ぼくらは、自分で自分を好きになることなんてなかなかできないから。

自分が好きな人に、自分を好きになってもらうことで、自分を好きになろうとするのだろう。

自分を救ってくれるのは自分しかいない、なんてことはないけれど。

自分を救ってくれる女の子に話しかけるのは、自分しかいないんだ。

そんな自分になるために、僕は日常の中で、新しい自分探しの旅を続けた。

225: 名無しさん@おーぷん 2018/10/03(水)21:32:56 ID:u2t

地に足の着いた青春。

お金で買った出会いの場。

それで、いいと思った。

きらめくような出会いを忘れず、好きな人を好きでい続けた、過去の自分に、今の自分を見せてやりたい。

呆れた顔、失望した顔、激怒した顔をするだろうか。

今の僕は言い返す。

君は何もしなかったじゃないかと。

誰からも否定されない、成仏できない純愛よりも。

誰からも批判される、成就した恋愛が自分を幸せにしてくれる。

出会い方はお金で買おうが、結局、結ばれるかどうかは人と人との問題なんだ。

いつも幸せそうにしていたやつらを思い出してみろ。

どうしてあんなやつが幸せになっているんだろうという"あんなやつ"になれる方法はただ一つ。

あんなやつが実はそうしていたように、勇気を振り絞ることだ。

振り絞った勇気が散っても、言葉を飲み込むことだ。

ごちゃごちゃ言わずに、踏み出してみろよ。

226: 名無しさん@おーぷん 2018/10/03(水)21:33:41 ID:u2t

「あの、今日は本当にありがとう」

男「こちらこそ。凄い楽しかった」

「私も。凄い話やすかったです。私、どうして小学生の頃の思い出まで語っちゃったんだろう。男さんといると、なんだか懐かしい気持ちになっちゃいました」

女の子は照れ笑いを浮かべた。

「よかったら、また誘ってください」

男「うん。すぐ誘うと思う」

「本当にありがとう」

男「気をつけて帰ってね」

男は手を振った。

しばらく歩き、プラットフォームのベンチを見つけると、座った。

帰りの電車がいくつも通り過ぎるが、全て見過ごした。

227: 名無しさん@おーぷん 2018/10/03(水)21:34:22 ID:u2t

当初は18時集合の20時30分解散の約束だった。

しかし、22時30分まで話していた。

そろそろ解散したほうがいいと思って男が時間を告げると、相手は驚いていた。

会った女の子は、見た目も可愛くて、頭も良く、有名な企業についていた。

男「今日も、上手くいってよかった」

男はベンチに座り続けた。

別に、無理をして疲れたわけじゃない。

男も女の子との時間を心の底から楽しんだ。

ただ、この“一年間”の惨敗続きの恋愛を思うと、よくぞ成長したものだと噛みしめずにはいられないのだった。

228: 名無しさん@おーぷん 2018/10/03(水)21:35:15 ID:u2t

女は星の数ほどいる。

出会い系アプリをやっているときこそ、その言葉を実感する。

だが、その星の数ほどいる女の子から振られ続ける一年だった。

二十七年も避けてきただけのことはある、と思うほど恋愛はうまくいかなかった。

今まで苦手を感じて避けてきたわけだから、いざ踏み込んだところで、うまくいくわけもなかった。

ある女の子にとって絶対しなければならなかった行動が、ある女の子にとってはタブーだったりした。

何が正解で、何が不正解なのか、てんでわからなかった。

見た目が冴えないにしても、あまりにも尽く振られ続け、出家でもしようかと本気で悩み始めた頃。

大して自分からは好きにならなかったものの、好意を示してくれた女の子がいた。

水族館でデートをして、夕食をとって、帰りの道端で告白をした。

そして、よろしくおねがいしますと言葉を返してもらえた。

初めて彼女ができたことに、喜びがとまらなかった。

2日間くらい、上の空だった。

この子を一生大切にしていこうと思った。

しかし、1月後には別れてしまった。

もっと、心の底から好きだと思える相手と出会いたいと思った。

男「中学生、高校生、大学生でも真似しづらいような、人工的な出会いの場を利用した20代後半の恋愛」

男「いつかこの恋愛期間にも期限は訪れるのだろう。それが、35才とか、36才とか、いつの年齢かはわからないけれど」

男「今しかできないことは、今やらなくちゃ」

男「生き急ぐよ。生きてるんだから」

229: 名無しさん@おーぷん 2018/10/03(水)21:36:08 ID:u2t

男はLINEの画面を開いた。

今日会った女の子だけでなく、6人近い女の子とメッセージのやりとりをしていた。

出会い系アプリを4つも同時進行していたら当然だ。

オンリーワン中毒の自分は、別に不特定多数の子と遊びたいわけじゃない。

浮気したいとも、いたづらに交際人数を増やしたいとも思っていない。

いつか結婚式を迎えた日にも、相手の親御さんにも自分を祝ってくれる友人にも全く後ろめたくないような、真っ当な恋愛に極力近づけたい気持ちが強かった。

ただ、女の子に不慣れな自分は、とにかく量をこなすという過程が、第一志望の女の子と巡り合う上で何より大切だと思ったのだ。

男「今の人達は頑張ることに疲れてしまったなんてよく言うよ。苦痛に耐えてるだけで全然がんばってないよ。昔の俺だってそうだ」

男「頑張ってまで欲しいものを探しても見つけられなかったから疲れてるだけで」

男「そのために生きると誓うものが現れたら、徹夜でも土下座でも決闘でも望んで何でもできるんだ」

男「人から嫌われてもいいなんて言ってる場合じゃない。人から好かれるために死ぬほどがんばるときなんだ」

230: 名無しさん@おーぷん 2018/10/03(水)21:37:08 ID:u2t

乙女の柔肌に触れることを、許されるということ。

それは男として認められた瞬間と言ってもよかった。

そして、月日が経過するにつれて、男は女性に許されることが増えていった。

レンタル彼女をしていた女の気持ちが,今更にわかった気がした。

僕にはこの子しかいない、と男子に思わせる罪な女の子には、無数の男性が他にいる。

レンタル彼女があらゆる話題に対応できることの答えは単純だった。

あらゆる男性から、あらゆる話題を振られるからだった。

男は、出会っては次に繋げることもできず、初対面の無数の子と食事をともにしてきた巧妙か。

あらゆる話題に対応できるようになっていた。

流行りのYouTuberも、御朱印集めも、医療事務員の悩みも、痴漢の多い路線も、フィットネスクラブについても、男は一通り自然と知識を身に着けていた。

あの時ああしておけば、と長年引きずるほどのエピソード記憶力を持つ男にとって、一週間前の失敗を翌週改善することは容易だった。

毎週が恋愛のPDCAサイクルをまわす連続だった。

さらに、男は女の子に容易に惚れやすかった。

小学時代から大学時代までに5人の女の子に対して思った「俺にはこの子しかいない」と思う感情を、この1年間で6人ほどに抱いた。

短期間で今まで以上の恋愛を高速にサイクルさせていた。

話題も、喜怒哀楽の表情も、本音も建前も、あらゆる女の子のパターンを頭に叩き込んだ男は、相手の女の子を満足させる振る舞いで応えられるようになった。

理想の男を演じることができるようになっていた。

男「ノイローゼになりながら、よくここまで女性に向き合い続けてきたよ。レンタル彼氏でもないのにさ」

男「むしろ、レンタルゾンビかな」

男は自分の独り言に苦笑しつつ、帰りの電車に乗った。

231: 名無しさん@おーぷん 2018/10/03(水)21:37:35 ID:u2t

この世にスマートフォンがあっても。

東京スカイツリーがあっても。

人工衛星があっても。

核兵器があっても。

結局、好きな人と結ばれるには。

男「自分が、勇気を出して、声をかけるしかないんだ」

232: 名無しさん@おーぷん 2018/10/03(水)21:38:09 ID:u2t

女の子なんて、みんな青春を謳歌してきたものだと勝手に思い込んでいた。

これは、喜ぶべきことなのか、それとも憂いてあげるべきことなのかはわからないけれど。

今まで出会ったたくさんの、見た目の可愛い社会人の女の子でも、恋愛経験のほとんどない子は多かった。

女子一貫校育ちだったり、引っ込み思案であったり、単に理想が高かったりと様々だが。

どうして私が青春できなかったのか、わからなかった私達はたくさんいた。

青春ゾンビにもメスという性別はあって
『手に入れるべきであった青春』
『異なる選択をした自分が過ごしていたであろう時間』
を思っては、23才頃から取り戻そうとする子も多かった。

もちろん、わがままな子、欲張りな子、否定しがちな子、など、こんな人に恋人が出来ない世界でよかったと思うほどひねくれた女の子もいたけれど。

どの子といた時間も、どれも大切な思い出だった。

233: 名無しさん@おーぷん 2018/10/03(水)21:38:19 ID:u2t

そして、好きな人の、好きな人になれた日は訪れる。

234: 名無しさん@おーぷん 2018/10/03(水)21:39:46 ID:u2t

「……行きたくない」

個室の漫画喫茶でアニメの青春映画を観終わると、彼女は僕の膝に頭を乗せてずっと動かなくなってしまった。

男「時間だけど、延長する?」

「泊まる」

男「泊まる?明日会社だよ?」

「……言ってみただけじゃん」

彼女は不機嫌そうに答えた。

偏差値70位上の中高一貫の女子校を出て、中堅の私立大学に行き、東証一部上場のメーカーの総合職に就職を果たした努力家だ。

そんな彼女の知性は、男と二人きりの時だけ著しく落ちた。

そして男もそれを愛おしく思った。

髪の毛の色は茶髪で、爪は赤いマニキュアが塗られていて、初めて待ち合わせ場所で会ったときはこんな子が自分を好きになる可能性などあるのだろうかと疑問に思ったほどだった。

人を見かけで判断してはいけないというのは本当だった。誰が自分を好きになってくれるかなど検討もつかない。

一回目は居酒屋でご飯を食べた。二回目は美術館に行った。三回目は食べ歩きをして、ゲームセンターで遊んだ帰りに告白をした。

どんな恋愛本にも恋愛指南サイトにも書かれていないようなコースだった。でも男は、この子とは良い関係を築けるのだろうなと、1日目の帰り道に感じていた。

もしも、何かの選択が違っていて。

この子と小学校、中学校、高校、大学で出会っていたとしたら、きっと結ばれなかったであろうことを思うと。

この子と会ったのが今でよかったと、心底思った。

今まで想いを寄せていた小中高大の人と付き合えていたら、この子と出会うことさえなかったのかと思うと。

何もなかっただけの過去に、感謝せずにはいられなかった。

「男くん」

男「何?」

「親の愛情に浸されて育ったホルマリン漬けの10代に、恋人なんてできるはずもないんだね」

それがさっき観た映画の感想なのかどうかはわからなかった。

235: 名無しさん@おーぷん 2018/10/03(水)21:42:39 ID:u2t

二人は外を出て、渋谷駅へと向かった。

「もうすぐハロウィンだね。男くんはどんな仮装するの?」

男「ハロウィンの渋谷だけには行かないよ」

「マジレスはいいから。ねえ、どんな格好するの?」

男「ええ、じゃあ、青春ゾンビ」

「なにそれ。こわそう」

男「学生服をいつまでも脱げないゾンビだよ」

「ちょっと爽やか味あるじゃん」

男「そっちは何の格好するの?」

「じゃあ、青春ヴァンパイア」

男「なにそれ」

「こんなのだよ」

ガブリ、と女は男の肩を噛んだ。

男「いててて」

何もなかった日常は、何でもない日常に変わり、何にも替えられない日々となった。

236: 名無しさん@おーぷん 2018/10/03(水)21:43:14 ID:u2t


・・・

過去がズタズダのボロボロでも。

人々に髪の毛から足の爪先まで否定されてても。

死ねと言われても。

死ねと言いたくなっても。

この憎たらしい世界に対して。

好きな人が隣にいるならば、もう何も言うまい。

最終章 『今、隣にいる女の子』

タイムマシンの電源を切って、過去改変の内容を書いた手紙を男性は破り捨てた。

君は、そのままで大丈夫。

未来は、未来の僕が変えるから。

237: 名無しさん@おーぷん 2018/10/03(水)21:43:32 ID:u2t

Every Jack has his Jill.(全てのジャックにジルはいる。)

238: 名無しさん@おーぷん 2018/10/03(水)21:44:25 ID:u2t

後輩「モテ期を小中高時代に使いきり、大学生になってからは付き合っても長続きせず、自分が社会不適合者であることを悟った僕は何を糧に生きていけばいいんでしょうかね」

後輩は飲んでいたビールを飲み干すと、ドンとテーブルに置いた。

いつぞやの誰かを見ている気がして心配だった。



仕事を終えた帰り道、後輩と居酒屋で二人で飲んでいた。

素直な人柄で、文章もいつも丁寧に書くような新卒の青年で、年上からかわいがられるタイプだった。

ただ、プライベートで何かあったのか、どうも荒れた様子だった。

後輩「教えてくださいよ。人生の先輩でしょ。僕は何を信じて生きていけばいいんですか?」

男「……言えることは1つだけだよ」

後輩「なんですか」

男「がんばろいっしょに」

後輩「…………」

239: 名無しさん@おーぷん 2018/10/03(水)21:46:00 ID:u2t

男「俺と一緒にがんばるんだよ。がんばるっきゃない」

後輩「…………ええー。ええー」

男「今、頭の中に100人のヲタクが並んでいるのを想像してみてくれ」

後輩「なかなか嫌な想像をさせますね」

男「このうちの9割が、小学・中学・高校・大学時代のいずれかに、美少女といい感じになったことがあるって言ってるところを想像してくれ」

後輩「僕と一緒にしないでくださいよ。それはさすがに勘違いでしょう」

男「いや、それが違うんだ。彼らは本当に、美少女と結ばれる寸前かと思うような、いい雰囲気の時間を過ごしていたんだよ」

男「でも、みんな、何も起きなかった。そこで何かが足りなかったと後悔する」

男「『あの時ああしていれば』『告白してさえいれば』。みんな過去に目を向ける」

後輩「そういう過去に足元を救われた人はどうすればいいんですか」

男「今を、幸せにするんだよ」

後輩「……はぁー」

男「違うと思う?」

後輩「過去が不満だから今を幸せに感じられないんですよ。あの時手に入れたかったものを、今手に入れても駄目なんです。あの時手に入れたかったものは、あの時手に入れなければいけなかったんです」

後輩「そんな自分だから、今何も手に入れられないんです。仮に今何かを手にしても、過去に手に入れられなかったものを嘆くに決まってます」

男「嘘なんだ、それ全部。びっくりするだろうけど、それ全部嘘なんだよ」

後輩「何を根拠に」

男は思考を整理した。

240: 名無しさん@おーぷん 2018/10/03(水)21:47:28 ID:u2t

後輩は、最近まで付き合っていた人と別れることになり、そのことで悩んでいるだけに見えた。

本人も今一時的に沸いている感情の愚痴をちょっと聞いてほしかっただけなのだろうとも想像した。

でも男は、平成最後の夏にレンタル彼女から教わった、今までの自分に起きた経験で学んだことを話したいと思った。

今は、支離滅裂な、的を射てない回答に思えても。

これから話すことは、きっと今後、心の支えになると信じて。

男「100%の異性なんていないんだ」

男「過去から現在まで満たしてくれるような、完全な女の子なんていない。運命の人なんていなくて、運命を思わせる容姿を持つ女の子がいるだけだ」

男「それに、限りなく完璧に近い女の子がいたとしても、結ばれるには自分が過去から現在まで異性を満たしてあげられるような、完全な男の子でなければならないんだ」

男「だから、せめて、今、自分が100%を目指す男の子になるんだよ。運命の人を探すんじゃない。自分が誰かの、運命の人にふさわしい人になるように努力するんだよ」

男「それは決して、自己犠牲を意味するんじゃない。自分が見下すような異性に尽くすことじゃない。自分自身を尊敬している自分と、自分自身を尊敬している異性と出会うことだ」

男「『自分を救ってくれる運命の人なんていない。だから、自分が誰かにとっての運命の人になろう』。そう思ってひたすら自己を磨き続けた二人の男女が出会った時に、始めて運命の出会いになるんだ」

後輩「お互い磨きあっていく関係なんて嫌ですよ。疲れてしまいそうで」

男「そんなことはないよ。出会うまで自分を磨いたお互いは、もう相手に要求することはないから、一緒にいて疲れないんだ。満たした状態で出会うんだから」

後輩「筋肉フェチの女の子と結ばれてしまったら、一生筋トレしなくちゃいけないんじゃないですか」

男「自分が一度でも達成できたことは、女の子にもてる云々関係なしに、自分を好きになり続けるために一生やっていくことだと思うよ」

男「それにさ、いやいや受験勉強を乗り越えた人、いやいや運動を乗り越えた人、いやいや恋愛を乗り越えた人は、それでも身体の中にそれを乗り越えた痕跡が一生残り続けるものだよ」

男「過去の100%の異性を求めて生きるんじゃない。未来の100%の自分を求めるんだよ」

241: 名無しさん@おーぷん 2018/10/03(水)21:49:06 ID:u2t

男「この会社に転職した頃さ。一時期休日にボランティア活動をしていたんだ」

男「そこで俺のことを好きになった女子大生がいた。華道や書道に通じていて、やさしい性格だ。おまけに顔もスタイルもよかった。過去に男の子から2回告白されたことがあるけど断ってた。まだ誰とも付き合ったことがないって言ってた」

後輩「その子のこと、好きになったんですか」

男「逆だった。好きになられた。俺がその当時付き合ってた彼女と別れたことを知ってからは、一層激しく好意を示された」

男「その子は一人で美術館に行くような子だった。美術館からの帰り道、俺を思い出すだけで泣いてしまったと言っていた。ボランティアの予定も全部俺にあわせた。読書を好まない子だったけど、俺が勧めた分厚い本を全部読んだ」

男「俺はその子と何回かデートをした。他のメンバーの女の子も俺らを見てからかってきた。その子も、俺に告白されるのは間近だと思っていたと思う」

男「でも、俺は仕事や他のプライベートが忙しくなったこともあって、そのボランティアをやめた。それきり連絡さえ取らなくなった」

後輩「なんで、付き合わなかったんですか?」

男「運命じゃないと思ったからだ。会話に惹かれるものがなかった」

後輩「さっきの先輩の話と矛盾してるじゃないですか。その子は努力家なのに、先輩と結ばれなかった」

男「努力に見合った出会いがあるんじゃない。魅力に見合った出会いがあるんだ。努力は魅力をあげるための手段にしか過ぎない。そして俺は、その子を魅力的には思わなかった」

男「俺みたいに全然モテなかった男でさえ。顔もスタイルも育ちもいい女の子が相手でも、付き合うのはなんか違うと思ったんだ」

後輩「どこが不満だったんですか」

男「会話に満足がなかったんだ。この子が俺を腹を抱えて笑わせたり、俺を感動させる言葉を吐くことは一年に一回もないと思ったんだ」

242: 名無しさん@おーぷん 2018/10/03(水)21:50:24 ID:u2t

男「一年ほどして、偶然ボランティアの人達と出会った。みんなで飲むことになったけど、その子は全然俺の顔を見ようともしなかった。とてもつらそうだった」

男「でも俺は、罪悪感とか、同情心とかわかなかった。だって、運命の子じゃないからだ」

男「その時思ったよ。俺が過去に特別な感情を抱いていた女の子たちも、きっと同じだったんだって」

男「女の子にとってはたったそれだけのことが、男の子にとってはすべてだったりする。男の子にとってすべてだったことは、女の子にとってはたったそれだけのことにしか過ぎなかったりする」

男「彼女にとっては訳がわからないだろう。美しくて、育ちも良いその子と一緒にいるときの俺は笑顔だったんだから。俺からデートに誘ったこともあった。俺が弱音を少し吐いて、頭をその子の肩にもたれかからせたこともあった」

男「プレゼントもした。手はつないだけど、胸や尻は安易に触ろうとはしなかった。バレンタインのチョコを満面の笑みで受け取った」

男「人は人から嫌われるのを恐れる。人は人から好意を受け取るのを喜ぶ。俺もその当たり前の本能に従ったにすぎないんだ」

男「過去が100%足り得るのは、それが100%自分の所有物だからだ。誰かと分かち合っているものじゃない。試しに、本人に答え合わせをすればいい。あの時君はどう思っていたかって」

後輩「……救われないですよ。仮に、当時好意があったことを否定されようが。仮に、肯定されようが」

男「でも俺はこう思うんだ。今、俺が当時いい感じの雰囲気になっていた子に当時のことを聞いても、そんな特別に思っていなかったって否定するだろうけどさ」

男「でも、当時のその子は、本当に自分を特別に思ってくれたんだって。こんなのストーカーの思考みたいかもしれないけどさ。でも、やっぱり結ばれていた可能性は0ではなかったと思う」

男「女の子は、今を生きるために思い出を修正するんだ。その才能があるんだ。当時好きだったことをさっぱり忘れて、今となりにいる人を好きになることを考えるんだ」

男「だから、俺たち男もがんばるんだよ」

後輩「何を?」

男「今をだよ。俺もいっしょにがんばるからさ」

後輩「先輩は彼女いるじゃないですか。付き合って3年目でしたよね」

男「先月振られたよ」

「ええー!?」

243: 名無しさん@おーぷん 2018/10/03(水)21:51:39 ID:u2t

これだけは譲れないってことを譲ろうとすることは、絶望だって思われがちで。

自分より高学歴なのが気になるだとか。

○○じゃないと嫌だとか。

他人にとっては些細なことでも、本人にとっては致命的に重要なことはたくさんあって。

やっと出会えたと思った人が、その基準を満たしていないばっかりに、ストレスの頭痛で駅のプラットホームで倒れるくらいに苦しむこともあるかもしれないけど。

でも、これだけたくさんの異性がいる世界で。

それでも、この人じゃなきゃ嫌だと思える人と出会って。

そして、そこまで愛しく思った人と別れる日なんかも訪れて。

数年前に自分が抱えていた不幸の尺度なんか、この世界を覆うもっと巨大な不幸から極一部を切り取ったものに過ぎなかったっていう絶望だと気付くことがある一方で。

ここからここまでが全部だって勝手に決めつけていた幸福の尺度が、この世界に隠れているもっと巨大な幸福の極一部を切り取ったものに過ぎなかったっていう希望に気付くこともある。

毎日頭を掻きむしるほどに恋人に対して悩んでいることが、3年後にはなんともなくなっていることもあれば。

あの頃は当たり前だと思っていた恋人のやさしさが、3年後にはどんなに有り難いことだったか悔やむこともある。

人生だ。

僕らが生きてるのは、ハッピーエンドかバッドエンドの決まった物語ではなくて。

1秒1秒、自分に感情の降り注ぐ、誰かと繋がっている命の時間だ。

10代の青春を救うなんてこと、不可能だったのかもしれない。

だけど、20代後半になってから、10代の不幸にまるごと感謝できるような、大好きな異性や、自分と出会えるかもしれない。

素直に幸福に憧れを抱いて、ちゃんと求め続けていれば。

高い木から、いつか葡萄は落ちてくる。

244: 名無しさん@おーぷん 2018/10/03(水)21:52:14 ID:u2t

男「電車止まっちゃったみたいですね」

電光掲示板を見て、男と、協力会社の女性は困った表情を浮かべた。

「動き出すまでまだ時間がかかりそうですね。男さんは確か、東京駅方面でしたよね」

男「ええ。しょうがないですから、近くのカフェで休憩でもしませんか」

「カフェですか?」

男「ええ。あっ、でも奢りませんよ」

「別に期待してないですよ。そうしましょっか」

男は混雑する駅から出て、女性と会話しながら喫茶店を探した。

女性にこういった提案をすることにもはや何の抵抗もなくなっていた。

本気の恋心を数多の女性にぶつけては拒絶されてきた男にとって、女性をお茶に誘うくらい大した意味を持つ行動ではなかった。

下心の積み重ねの結果、下心無しにこういう文句を言えるようになったのはなんとも皮肉なことだった。

245: 名無しさん@おーぷん 2018/10/03(水)21:53:16 ID:u2t

男「江川海岸に行ってきたんですか。聞いたことあります。確か、時期が合えば南米のウユニ塩湖みたいな景色が見られる場所でしたよね」

「はい、そうなんです!男さん、本当に観光名所にお詳しいんですね。旅行がお好きなんですか?」

男「ええーっと、友達が旅行好きで、よく話を聞いてたりしたので……」

「男さんは、休日は何をされているんですか?」

男「休日は」

美術館に行ったり、映画館に行ったり、展示会に行ったり、割とどこにでも行きますよ。

という、何十回も使い古したルーティンのセリフを思わず言いかけて、男は飲み込んだ。

男「何もしていないんです。土曜日も日曜日も、家でごろごろしています」

「そうなんですか。私も少なくとも1日は家でゆったりしないと疲れちゃいます。でも、ずっと家に閉じこもってると煮詰まっちゃいませんか?」

男「一時期、土曜日も日曜日も、平日の夜もほとんど、社外の人と会っていた時期があったんです」

「まあ、熱心ですね。社外交流会ってやつですか」

男「あはは。そんな感じかもしれないです」

女「でもそれって疲れちゃいませんでしたか?」

男「正直疲れちゃいました。色々壁にもぶつかって、頭痛がやまない時期もありました」

女「そこまでなるくらいなら、早くやめちゃえばよかったのに」

男「ええ。きっとそれが正解なんですよね。頑張るのをやめること。手に入れる気持ちを手放すこと。今の時代は、こういう価値観を肯定してくれる風潮もあるように思います」

「あら、なんだか大きな話ですね」

男「でも僕は、今までないがしろにしてきたものを大切にしようと思ったんです」

246: 名無しさん@おーぷん 2018/10/03(水)21:55:16 ID:u2t

男「ずっと欲しかったものって、実は大してほしくなかったものなんじゃないかと思います」

男「だって、本当に欲しかったら、多分僕はそれをとっくに手に入れていたんです」

男「努力をしてまでは手に入れたくなかったり、世間体を乗り越えてまでは手に入れたくなかったり、プライドを傷つけてまでは手に入れたくなかったものなんです」

男「でも僕は、本当に欲しかった人間関係があったんです。だから、それが本当に手に入るという希望があることを自分に示してあげるためにも、ちゃんと一度は手に入れようと頑張っていたんです」

「苦労されたんですね。その人間関係は手に入れられたんですか?」

男「はい、手に入れました。そしてそれは、自分が思い描いていたものより、素晴らしいものでした」

男「理想はこの辺で、現実はこの程度なんだろうなと予想していたのですが、理想の予想を上回るくらいに素晴らしい日々だったんです」

「今は続いていないんですか?」

男「終わってしまったんです。輝かしい日々を当たり前のものだと思うようになった頃、僕の浮気が」

「うわき?」

男「あっ、僕の気分が浮ついて、だめにしてしまったんです」

「もったいないですね」

男「本当に愚かです。どうかしていました。今は心底反省して、休日は引きこもりになったくらいです。欲望を求め続けた僕のバブル時代の話でした」

「平成も終わったのに、昭和に戻ったみたいですね」

247: 名無しさん@おーぷん 2018/10/03(水)21:56:16 ID:u2t

しばらく男と女は会話をし続けた。

女は楽しそうに過去の出来事を語っていた。

男は携帯電話を開いた。

男「電車の運転再開しているみたいですね」

女も携帯を開いて、驚いた。

「嘘っ、もうこんな時間。あはは、私、なんで小学生時代の思い出まで語っちゃったんですかね」

男は会計を多めに支払い、カフェを出た。

駅まで近いルートを通ろうと、行きとは異なる道を歩いていった。

狭い道路を歩いていると、信号にある交差点についた。

青信号が点滅していたが、男は立ち止まった。

それに合わせて女性も立ち止まった。

車が通る気配はなく、他のサラリーマンは左右を見てはどんどん渡っていった。

「男さん、急いでますか?」

男「急いでます。あなたは?」

「急いでます」

と、お互い会話をしたものの、二人は青信号に変わるまで待ち続けた。

248: 名無しさん@おーぷん 2018/10/03(水)21:56:59 ID:u2t

「赤信号で止まる人なんですね。珍しい」

男「赤信号は立ちどまるものですから。みんな忘れていますけど」

「私は母親が信号無視で引かれたことがあったそうで。信号については厳しい教育を施されてきたんです」

男「僕は逆でした。新卒時代まで信号無視魔でした」

「何か変わるきっかけでもあったんですか?」

男は女性の質問には答えず、周囲のサラリーマンを見渡した。

男「急ぎ足で渡っている人達、みんな必死の形相だ。時間に間に合わないと、客か上司から殺害されるとでも言わんばかりに。急がないと生命がおびやかされるから、みんな赤信号でも渡るんだ」

女「とんだ皮肉ですね。赤信号を待つほうが危険だなんて」

男「赤信号で立ち止まるために、人間は生まれてきたというのに」

「そうなんですか?」

男「会社の中で落ち込んだ人がトイレで泣くのと一緒です。会社の外で落ち込んだ人は、赤信号で一休みするんです」

「うちの母が聞いたら喜びそうなセリフ」

信号は青に変わった。

男は、右を見て、左を見て、右を見た。

男「さ、急ぎましょ」

「ええ」

赤信号、二人で待てば、怖くない。

249: 名無しさん@おーぷん 2018/10/03(水)21:57:46 ID:u2t

男「…………」

「…………」

次の信号も赤だった。

「ここで無視したら負けですからね」

男「わかってますよ。来た時のルートの方が信号にかからずに済みましたね」

「責任を持って何かお話してください」

男「ええーっと。じゃあ、大学時代の卒業旅行はどちらに行かれましたか?」

「行ってないんです。サークルメンバーと行く予定だったんですが、インフルエンザにかかってしまって」

男「そうなんですか」

「嘘です」

男「えっ、嘘なんですか」

「インフルエンザが嘘です。仮病で休んだんです」

男「どうして?」

「今となってはわかりません。みんなのこと普通に大好きだったのに」

男「病気は身体からのSOSだって言いますから」

「仮病ですよ」

男「仮病は、本物の風邪なんかよりも、よっぽど重い症状の病気なんです」

「初耳です」

男「仮病で休むのは仕方ないんです。元気な身体にも関わらず、動きたくないってことなんですから」

「仮病は心からのSOSですか」

男「はい。それは唯一、医者が見抜いてはいけない病気なんです」

「見抜くとどうなっちゃうんですか」

男「僕は見抜いて色々言った後に死ねって言われたことがあります」

「あら、怖い」

250: 名無しさん@おーぷん 2018/10/03(水)21:58:12 ID:u2t

「それで私は。結局、九州に一人旅に行ったんです。ろくに計画も立てずに、行き当たりばったりで」

男「そうなんですか。どこらへんに行ったんですか」

「場所は……」

女性は訪れた場所を淡々と述べた。

信号が青に変わった。

男は立ち止まったままだった

「男さん、渡らないんですか?」

女性に言われ、男も歩き出した。

男「僕もそこ、行ったことがあります。祖父母の実家があるところなので」

「凄い偶然ですね。学生時代にですか?」

男「無職の時代にです」

「えっ、無職?」

男「はい。新卒で勤めた信用金庫をやめて、貯金を食いつぶしながらぷらぷらしていた時期があったんです」

「嘘、意外過ぎます。」

男「今の僕を見たら誰も信じないと思います。その前に、誰にも話してもいませんが」

251: 名無しさん@おーぷん 2018/10/03(水)21:59:01 ID:u2t

男「あそこでは、何もすることなかったでしょう?」

「そうですね。観光地域でもなかったものですから。旅行プランでも申し込んで観光名所を旅しておけばよかったと正直思いました」

男「大きなショッピングモールはありましたか?」

「はい。そこで時間を潰したり、近くの図書館で読書したり。都内でもできるようなことばかりしてました」

男「他には何かしましたか」

「ええーと。映画を観てました」

駅前に着いた。

横断歩道が一つあったが、信号は青色を示していた。

信号の先はもう改札で、すぐにでも別れてしまいそうだった。

女性の歩く速度が少し緩んだ気がした。

しかし、信号はなかなか赤にならなかった。

男「もしかして」

男は何か言わなければと思って、次のセリフを探した。

「はい、なんでしょう」

男「その映画って、怒りの葡萄って映画でしたか?」

口に出した直後、最新の映画館でやってる訳もないと気付いた。

「ええーと、違いますが」

男「……そうですよね」

「違うのですが」

「それは私の一番大切な映画です」

二人は青信号の前で立ち止まった。

252: 名無しさん@おーぷん 2018/10/03(水)22:00:37 ID:u2t

一瞬の沈黙が流れた。

信号は赤になった。

堰を切ったように、二人の言葉は溢れ出した。

お互いは自らを語ろうとし、お互いの話を引き出そうと夢中になった。

お互いの会話を貪るように求めあった。

次に青信号になるまでの、たった1分間の会話で、お互いは深く惹かれ合った。

赤い糸の存在など信じていないはずだったが。

赤い信号によって、二人は確かに結ばれることになった。

男「あの、よかったら」
「あの、よろしければ」

253: 名無しさん@おーぷん 2018/10/03(水)22:01:21 ID:u2t

「今晩ですか!?」

男「うん」

「会社に寄らなければいけないんですけど」

男「僕もだよ」

「その後だと遅くなっちゃいませんか。平日は突然の残業入ることがあるので難しいのですが、週末は空いていますよ」

男「今晩行きたいんだ。こうすればいいよ」

男は会社に電話をかけた。

「何を……」

男「ごほっ、ごほっ……もしもし、男です」

男「あの……電車の運行待ってる間に体調を崩しちゃって……」

男「はい……すいません。このまま自宅に帰ります」

男「……ええ、ありがとうございます。失礼します」

男は携帯をきって、女性を見た。

男「簡単でしょ?」

「……うわっ、信じられない。仮病を使うなんて」

男「そっちだって卒業旅行の時に使ってたじゃないですか」

「今は社会人です。仮にも、協力会社の相手にそういう姿を見せてもいいんですか?」

男「いいよ、普段は休日にも仕事を持ち帰ってるくらいに頑張ってるし。それにさ」

男はカバンから黒いノートを取り出し、ぱらぱらとめくり始めた。

「それに?」

男「今の会社、辞めるつもりなんでしょ」

女性は口を開けていた。

「どうして……」

男「治療の大いなる第一歩は、病名を告げられることなんですよ」

男「辞めたいけど頑張らなくちゃいけない病も、これで、楽になったでしょ?」

254: 名無しさん@おーぷん 2018/10/03(水)22:02:34 ID:u2t

「あの、そこに私の会社の企業秘密でも書いてあるんですか?」

男「個人情報なのでお答えできません」

「その前に私の情報でしょ……」

男「いいから。ほら、はやくして」

女はしぶしぶ携帯電話を取り出した。

255: 名無しさん@おーぷん 2018/10/03(水)22:03:31 ID:u2t

女性はぎこちない演技で通話をしたあと、携帯電話をしまった。

「やってしまいました……」

男「やっちゃいましたね」

「仮病をあなたにうつされたんです」

男「簡単だったでしょ」

「どうしてくれるんですか」

男「ごちそうするよ」

「割り勘でいいです」

男「早く行こうよ。ご飯食べて体力つけなくちゃ、来週からのお仕事に支障をきたすからさ」

「よくいいますよ」

男「どうも」

「男さん、いじわるで、悪い人ですね」

夕焼け小焼けのメロディが流れた。

小学生が帰路につく中、二人は一緒に食事へと向かった。

256: 名無しさん@おーぷん 2018/10/03(水)22:03:58 ID:u2t

このままだと思っていた人生が。

ある日、全て、オセロのようにひっくり返った。

隣に誰もいないことを憂いては
「あの時ああしておけばよかった」
「こう言っていればよかった」
と後悔していた青春時代。

今、隣にいる女の子を見ては
「あのときああしておいてよかった」
「こう言っておいてよかった」
と安堵している今。

何もかもが叶わなかった10代は、その後生きていく70年間を全て否定してしまうのだろうか。

いや、そんなことはなかった。

たった一つを叶えた30才近い自分が、自分を救ってくれた。

自分が自分のヒーロになってくれた。

257: 名無しさん@おーぷん 2018/10/03(水)22:04:35 ID:u2t

付き合ってから2年ほど経った夏。

二人は九州の旅行先に来ていた。

図書館と、映画館と、公園と、スーパーと、およそ旅行にふさわしくない場所を二人でまわった。

今や老人福祉施設となった、かつての廃校も訪れた。

夜になって、二人で屋台を食べ歩きして、花火を見た。

旅館へと帰った男は、ばたりと布団に倒れ込んだ。

彼女「どうしたの?」

男「……疲れちゃった」

彼女「たくさん歩いたもんね」

男「…………」

彼女「こっちも暑くてしょうがないね」

男「…………」

彼女「……男?」

男「自分がこんなに弱い男だと思わなかった」

男は顔を彼女からそむけたまま言った。

彼女「どうしたの?泣いてるの?」

故郷の懐かしい匂いにやられ、男の心はすっかり参ってしまっていた。

男「やさしくしてほしい」

彼女「やさしくするよ?」

男「好きでいてほしい」

彼女「ずっと好きだよ?」

男「そばにいてほしい。だきしめてほしい」

男「……見捨てないで欲しい」

男は胸中をそのまま口に出した。

彼女は何も言わなかった。

258: 名無しさん@おーぷん 2018/10/03(水)22:04:59 ID:u2t

沈黙が続いて、しまった、と思った。

必死で自分を取り繕って、修正して。

やっと好かれるような男になったというのに。

2年付き合っているとはいえ、年下の女の子に、どうしようもないほどの弱音を吐いてしまった。

男「ご、ごめん……何でも……」

男が起き上がろうとすると、上からそっと、柔らかく押し返された。

彼女「大丈夫だよ」

彼女はぎゅっと男の背中に抱きついた。

彼女「弱くないよ。大丈夫だよ」

男「……ううん、駄目かもしれない」

彼女「駄目でも、私がそばにいてあげる」

彼女「それなら、大丈夫でしょ?」

ヒロインが、手を握ってくれた。

259: 名無しさん@おーぷん 2018/10/03(水)22:06:01 ID:u2t

男「彼女できたよ」

「嘘!?見せて!!」

男「はい」

「えっ、かわいい!!」

たった、これだけの会話をするためだけに。

何体の自分が倒れてきたことだろう。

倒れてきただけの日々の価値は未来に確かに存在した。



夏祭りを誰かと歩けなくても。

花火を見れなくても。

クリスマスも、初詣も、お花見も、なくても。

そんなことは問題じゃなかった。

大切なのは、今となりにいてくれる人と、ここで一緒に笑うことだ。

幸せにしたい人と幸せを分かち合うために、人生にあがいて今を一生懸命に生きていくことだ。




男はもう、他の女の子に恋をすることはなくなった。

過去にも今にも、理想の女の子はただ1人だけとなった。

理想的な、隣に現実にいる恋人。

その恋人もまた、男を代わりのいない人だと言った。


今という時間に導いた仄暗い過去を、愛おしく思ってしまう時は訪れる。

男の子の過去は。

今、隣にいる女の子に、一生救われ続けるのだった。

260: 名無しさん@おーぷん 2018/10/03(水)22:07:25 ID:u2t

また異なる季節。

春も終わりかけた頃のこと。

二人は、旅先で見つけた果樹園を歩いていた。

早熟の葡萄が実っているみたいで、害虫よけの紙のカバーが取られていた。

彼女「わあー。高いところにも実がなってるね。色もマスカットみたいで綺麗だよ」

女は手が届かない高さにある葡萄を指さして言った、

男「あれは色がまだ薄いだけだよ。まだ熟してないんだ」

彼女「肩車したら取れるかな」

男「届くと思うけど」

彼女「取ってって言ったら取ってくれる?」

男「うん」

彼女「本当に?」

男「本当に取ろうと頑張り始めたら止めてくるくせに」

彼女「よくご存知で」

男「まあね」

彼女「別にいいよ。綺麗だけど、どうせ、酸っぱいよ」

彼女は笑うと、高所の葡萄を見上げるのをやめて、手の届く高さにある葡萄を見始めた。

その時、風が強く吹いた。

二人が先程見上げていた葡萄の粒が、ふさりと落ちた。

男は思わずそれを掴んだ。

261: 名無しさん@おーぷん 2018/10/03(水)22:08:17 ID:u2t

彼女「ねえ」

男「うん」

彼女「食べてみよっか」

男「いいのかな?」

彼女「踏まれちゃうよりいいよ。あとでお土産用のも買お」

彼女はそうして、粒を半分噛んだ。

左手で顔を覆って表情を隠し、残り半分を男に渡した。

男は彼女の差し出した葡萄を口に入れた。

男「…………」

彼女「どう、甘い?」

男「ううん。すっぱい」

彼女「ねっ。すっぱいね」

男「なんだ。やっぱりすっぱかったのか」

僕らは小さな声で笑った。





~fin~

262: 踏切交差点◆uw4OnhNu4k 2018/10/03(水)22:09:45 ID:u2t

おしまいです。

読んでくださりありがとうございました。
年齢やデートの曜日に不自然な箇所があるのは確認ミスです。ごめんなさい。

以前のお知らせでは「青春ゾンビと廃墟の少女」という題の予定でしたが、改題して今回のタイトルと致しました。

下記は紹介です。

[ツイッター]
踏切交差点
@humikiri5310

[他作品]
女「人様のお墓に立ちションですか」

女「また混浴に来たんですか!!」

男「仮面浪人の道」

※勇者「遊び人と大罪の勇者達」という長編を書きましたが、内容に後悔があり書き直しを検討しています。

SSにあるまじき長さですが、最後まで読んでくださって本当にありがとうございました。

冗長化しないよう3万字ほど削ったので、流れがわかりづらいところがあったら申し訳ありません。

最後に次作予告で終わりたいと思います。

263: 踏切交差点◆uw4OnhNu4k 2018/10/03(水)22:10:51 ID:u2t

【日照雨(そばえ)】
日が照っているのに降る雨。

【戯へ(そばへ)】
たわむれること。あまえること。 

大辞林 第三版より



「ストーカーを手伝ってほしい。好きな人がいるんだ」

全裸の男子大学生が、自分は透明人間であると主張しながら私に頼み事をしてきたのは、雨の日のことだった。

盗まれた透明傘を見つけてくれたお礼に、しぶしぶ彼のストーカーを先導している時に、一つの忠告をされた。

「お前、つけられてるぞ」

「全裸の男子大学生にね」

「違う。衣服を身にまとった輩だ」



恋に落ちた女性は、好きになった男性の顔を、思い出せないことがある。

まことしやかな噂では、それは、記憶の出力に問題があるのではなくて。

一緒にいる時に瞳孔が、正しく相手を捉えられないからだという。

恋は盲目。

1人の人しか見えなくなる人もいれば、1人の人だけは見えなくなる人もいる。

「幸せの妖精は、概してお父さんとお母さんの目に届かないところに隠れているんだ」

次作【女「雨の日に笑うの、透明人間」】

思い出し笑いをした時に限って、いつも好きな人が後ろにいたものだ。