菫「見つけた。貴方が私の王だ」咲「えっ」 前編

273: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(SSL) 2014/08/22(金) 00:05:10.02 ID:7kcfjkgB0
一区切りの会話を終えると、それを見計らったように智美が口を開く。

智美「内宰殿…こうしていらっしゃったという事は、今まで以上に台輔を助けて下さると。そう解釈してもよろしいので?」

思ったよりも真っ直ぐな智美の言い様に菫としては驚いたが、対する塞は迷う事なく頷いた。

塞「立場があった私を貴方が訝ったのも分かります。力が足りなかったのも事実。だからこそ、ここで正したいと思うのです」

塞「国を纏めるべき役目にある宮中を正常に戻したい。それが本来の私の役目。主上が坐した今ならば、それが可能だと」

塞「……台輔からすれば今更とお思いでしょうが、どうか。私の愛国心を今一度信じて頂けないでしょうか?」

一言一言に迷いは見えなかった。

菫が向ける視線を真正面から反らしもしない。

誠実な態度に、声が伴っていると菫は感じた。

これがもし塞の偽りの姿だとすれば、菫は人間不信に陥るかもしれないが。

でもきっとこの女性は信じていいと思う。

「言い分は、よく分かった」と塞に言葉を返す。

元々、菫自身ならば彼女に含むところはない。

だから後の判断は、菫の背後に控えている智美に委ねる事になる。

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274: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(SSL) 2014/08/22(金) 00:09:41.50 ID:7kcfjkgB0
まぁここに塞を招き入れたのも智美だから、菫が答えを出す前にとっくにこの話の道筋は付けていたのだろう。

時に智美は本当に良く頭が回る。

ここまで深い話を交わして止めもしなかったのは智美なりに、塞をある程度信頼していたからだと思う。

情報を共有しても大丈夫な人間だと判断した。

事実、智美は塞の意見に対してすぐに言葉を返す。

智美「でしたら、以前に私が伝えた事案を覚えておいでか?」

塞「“信頼”が欲しいという話でしたか」

智美「ええ。今の内宰殿の話を聞いた限り、目指すところは同じだと思います。主上のために宮中の不安要素を取り除きたい」

智美「ならば、私の頼み事も叶えて頂けたのでしょう」

頼み事?菫がその疑問を口にする前に、塞は迷いなく言葉を返してくる。 

塞「貴方が教えてくれた話。呆れた話ではあるけど、右往左往する官吏の中には無謀に走る輩もいるという事なのかと」

塞「普通の精神ならば、主上に対する狼藉を恐れ多いと恥じなければいけないのに」

智美は呆れたように口元を緩めると頷く。

智美「王に対する畏怖よりも、今まで吸ってきた蜜の欲が勝ったのでしょう」

塞「やはり今までの私が力不足でした。以前の私は周囲からの圧力がありましたから…」

塞「人事の調和を計るためにも、打診を受ける要望全てを無理だと跳ね除ける事はできませんでした」

菫「どこの管轄からの口出しが一番酷かったか?」

塞「夏官です。元々、内宮の警備のために夏官の兵士は迎え入れなければなりません」

塞「その際に私が一人一人、人物をきちんと見定める事ができればよかったのですが…向こうの言い成りになっていた時もありました」

塞「ですから先日貴方が私に頼んだ事……天官が二人、城下で事件に巻き込まれ死んだという話を私なりに調べてきたんです」

275: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(SSL) 2014/08/22(金) 00:15:09.19 ID:7kcfjkgB0
それを聞いた時点で菫はぎょっとする。

と同時に胸を締め付ける痛みを苛まれた。

なぜなら菫は人の生き死を無条件に憐れんでしまう。そういう生き物だ。

抱いた痛みを唇を噛み締めて堪えると、菫は目付きを鋭くし、背後に佇む智美を睨んだ。

だって今、塞が言った話は菫にしてみれば初めて耳にする。

しかし彼女は智美から聞いていたと言っていた。つまり智美は自分には伏せていたのだ。

菫の非難するような視線を受けると智美は「仕方ないだろー」と言って硬い表情を崩す。

智美「ただの事件かもしれないから、余計な心配をさせたくなかったんだよ。主上にも、菫ちんにも」

智美「見知らぬ他人でも自分に関係した何かで命を落としたと思えば心を痛めるだろう」

智美「台輔は神獣として特に顕著だ。それが限りなく黒だと分かっていても、死んだ人間に同情してしまう」

智美「今みたいに中途半端な情報の時に、そうなって欲しくなかったから言わなかったんだ」

菫「………っ」

心の締め付けは続いてるが、それと一緒に智美に抱いた怒りをどうにか飲み込んだ。

智美の言っている事が正しいと判断して、その意見を言い返せないからだ。

事実、自分がその話を聞いていれば…きっと死んだ人間に同情していただろう。

調べたいと智美に言われたら、死人に鞭打つなと言っていたかもしれない。

噛み締めた唇を解くと浅く息を吐き出す。菫は塞へ視線を戻す。

菫「…今は中途半端な情報ではないのだろう。主上に許可なく近付こうとした輩を手引きしたのが、死んだそいつだと言うのなら」

菫「こちらがそれを辿ろうとしたから消されたと智美は思っている。だから、塞殿に頼んだ」

塞「正しい見解だと思います。確かに死んだ天官は、夏官の兵士を迎い入れる際に強く打診を受けて招き入れた官吏達です」

276: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(SSL) 2014/08/22(金) 00:21:31.73 ID:7kcfjkgB0
塞「形式上は私の部下にはなりますが、私の息の掛かった者達ではなかった」

塞「だから、死んだ時もすぐに私の耳にまで入ってこなくて。話を聞いた時は驚きました」

智美「死因は調べる事ができましたか?」

そう智美が問うと「ええ」と塞は頷く。

塞「形式上とはいえ彼らは私の部下です。報告書に目を通す事は出来ますし、手の内の者を現地に遣わせて確認する事もできる」

塞「はっきり言えば、作成された報告書はでたらめも言い所。死因は些細な喧嘩に巻き込まれて刺されたという話ですが」

塞「酒場の名前も場所も架空で……実際の死因は刺死ではなくて、溺死だったようです」

さすがにその答えには智美も驚いたようだった。

塞「現地で聞き込みをして、川より死体を揚げた町人達にも確認したので間違いないでしょう。やはり、口封じされたと見ていいかと」

塞「官吏が二人も溺死したのであれば不自然だし事件性を調べられますが、喧嘩に巻き込まれた事にしてしまえば事故で片付けられる」

智美「……ほんと、汚ないことを」

保身のために仲間を殺す、そんな理不尽が通る世界なのだ……まだ、この国は。

ふと声を聞いた気がした。この国に降りてからずっと、事ある毎に菫を苛み続けている怨嗟の声だ。

と同時に、必然のように主である少女の姿が脳裏に浮かぶ。

智美は儚いと言っていた姿だが、菫からすれば、思い浮かべる姿は眩しくて目を細めたくなる。

暗い世界の中で、あの姿だけが菫にしてみれば希望に思えた。

277: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(SSL) 2014/08/22(金) 00:28:45.57 ID:7kcfjkgB0
こうして負の連鎖を繰り返そうとする世界を唯一、変える事ができるはずの人。

誰でもなく王としての資質を、麒麟の本能が感じ取っている菫だからそれがよく分かっている。

助けて欲しいと願うのも自然な流れで、それが国に対してなのか、民に対してなのか…

それとも自分自身に対してなのかはよく分からなかった。

ただ心の内側で落ち込みそうになる自分に触れてくれる手の平を想像した。

いつかの日に、鬣を柔く撫でてくれ温かさをまだ忘れてはいない。

顔を俯かせ、菫は自嘲気味に口角を吊り上げた。

こんな些細な瞬間にも自分はあの人に縋ろうとしている。


菫(……?)

と。思案に沈もうとする意識が引かれた。

俯き加減だった顔を上げて、菫は何もない宙を見上げる。

どこかで咲が移動し始めようとする気配を敏感に感じ取った。

今の今まで、その存在を思い浮かべていたからいつもより鮮明に感じ取っていると思う。

菫(…主上)

心の中で呼び、菫はふらりと席を立ちあがる。そして思案した。

今日の執務は自分が手伝い終わっているから、自室に送り届けて菫はこうやって智美らと自室で話し込んでいたのだ。

だから今日はあの人が外に出る用事はないはず。外出する旨も聞いていない。

278: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(SSL) 2014/08/22(金) 00:33:00.27 ID:7kcfjkgB0
しかし感じる王気はもはや移動を始めていた。

確かに自室から出て続く廊下を歩いている。

ゾワリと心が波立った。

智美「台輔?」

不自然に立ち上がったまま停止していた自分を不思議に思った智美が呼びかける。

宙を見上げていた顔を降ろし、智美と塞とを交互に見渡してから言った。

菫「…塞殿の話も理解した。先日、主上を助けたと言って私に不意打ちにも面通ししてきた奴も夏官だったな」

智美を見れば彼女は頷いた。菫は短く舌打ちする。

菫「思い通りに事が運ばなくて、裏からでは無く正面より取り入ろうとしているのかもしれん」

菫「私は今までの態度があるから期待していないだろうが…主上なら、本当に優しいから。その隙に付け入ろうと…」

智美「十分考えられるな。あわよくばこの先、主上の一番近くで守ることになる大僕、小臣の役目を掌握したいのかも」

智美「射人だったか奴は…そうなれば外宮でも、内宮でも主上に対する影響力が強まってしまう」

智美がそこまで言うと、側で話を聞いていた塞は「そうだったのですか」と言ってきた。

何か得心した表情を見返すと塞は答える。

塞「この頃、夏官より打診を受けていました。おっしゃった通り、主上が即位したので内宮の大撲と小臣の役目をくれと」

菫「!!塞殿」

塞「ご安心を、断っています。以前ならどうかは分かりませんが、今の状態なら私に大声を出して圧力は掛けられない」

塞「それに、それらの役目を任す人材は私の信の置ける者と決めています。もちろん台輔にもお目通りさせますし……」

塞「この国の王を守るのですから、不確定な輩は許せない」

意外にも強い塞の言い様に菫は少しだけ驚いた。

279: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(SSL) 2014/08/22(金) 00:37:26.52 ID:7kcfjkgB0
終始物腰の穏やかな官吏に見えたが、譲れない芯があるのだと気付く。

塞「それに、その役目を任そうと思う者は私なりにきちんと見つけていますので」

菫「え?」

塞「落ち着いたら、お目通りさせます。…一人、少々口が悪すぎるかもしれませんが、根は良い人ですので」

そう言って塞はにこりと穏やかに笑った。

智美「何となく話は通ったかな。取りあえずはこの案を落ち着かせないと塞殿の話も詳しく聞けない。まずは煩い外野をどうにかしないと」

塞「同感です。しかも台輔にまで近づこうとしているのでしたら、もう形振り構ってられない状態なのかもしれません」

智美「そうやって尻尾を出してくれればいいんですが」

しみじみと智美が呟くと「そうだな」と菫は相槌を打った。次いで塞に向き直る。

菫「ここまで折り入って話をしたのだから。もはや貴方に対して信頼した、と言っておく」

ちらりと背後を向けば智美が薄ら目を細めて笑っていた。反対しないという態度。

そうでなくても、今まで会話を交わして菫も肌で感じている。塞は誠実な人格者だ。

塞「勿体無いお言葉です。今まで力になれなかった分、お役に立てるよう勤めます」

菫は頷いた。そして徐に歩き出すと、そのまま部屋を横切ろうとする。

智美「台輔?」

智美の呼ぶ声に、辿り着いた部屋の扉を押しながら菫は振り返った。

菫「すまないが、確かめたい事ができた。智美、後は任せてもいいか?」

280: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(SSL) 2014/08/22(金) 00:41:44.05 ID:7kcfjkgB0
そう言いながら菫は一瞬だけ宙を見上げる仕草をした。

それだけで、不思議そうにこちらを眺めていた智美も気付いたようだった。

智美「分かった。今の話をもう一度、塞殿と確認してみます。報告は後日でよろしいですか?台輔」

本当に、こんな時の智美の物分りの良さは有難いと感じる。

菫「ああ、それでいい。途中だが失礼する。…塞殿もこれから、宜しく頼む」

すぐに「御意」と一礼を返す塞を見届けてから、菫は押した扉の向こうへ体を滑らせた。

背後でパタン、と扉を閉めて……再び何もない宙を見上げた。

けれど菫には辿る気配がはっきりと見えている。

どこに?

不安が胸中を掠める。

あの人は自分の立場が分かっているのかと、腹立だしくも思えた。

今まで心配してしまうような話をしていたから尚更だ。

一歩を踏み出す。辿ろうとする気配は移動していた。

それを追いかけるように……菫も人気の無い通路を歩き始めた。



■  ■  ■


287: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(SSL) 2014/08/28(木) 22:05:05.59 ID:FtyvC5bj0
純「意外だな」


その短い言葉が何に対して言ったのか咲は分からなかった。

だから何の事ですかと反応しようとしたが、その前に伸びてきた純の腕に自らの手を掴まれる。

そのまま軽く持ち上げられ、手のひらを無遠慮にまじまと眺められている。

咲「純さん?」

じっと手のひらを見下ろしていた純がもう一度「やっぱ、意外だ」と同じ言葉を繰り返す。

咲「何がですか?」

純「いや、苦労してきた手だなって思ったんだよ」

純「咲は官吏だろう?官吏なんて、苦労も知らず部屋の中で勉強ばっかやってきた奴らだと思ってたから……」

そう言いながら、何気に手の平上を純の指が擦った。

古傷だろうか。ピリ、とした懐かしい痛みを咲も思い出す。

咲「ああ、」

得心して頷いた。

純の指摘通りだ。咲の手は少し前まで商家の下働きとして酷使されていたものだ。

体に不釣り合いな重いものを持ったり、冷たい水で作業したり。

288: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(SSL) 2014/08/28(木) 22:08:11.55 ID:FtyvC5bj0
あの頃に手に無理をさせてできた古傷や凍傷の痕のせいで、本来の手の形よりも若干歪に見えた。

ふと咲は考え込む。

純に指摘されるまで気付かなかったけれど。

数刻前にこの手を彼女と同じように取ってくれた、この身の半身である彼女も気付いていたのだろうか。

彼女の真っ直ぐな姿勢、それと真面目な態度とが咲の脳裏に浮かぶ。

堅い声質はいつもと変わりなかったように思うけれど。

あの時は、自分も陶器を割ってしまって焦っていたので菫の反応を気に掛ける事はできなかった。

けれど今の純と同じく気付いていたのかもしれない。

彼女の白磁のような綺麗な手とは違う。

こんな歪な手を取って、何か思ったのかもしれない。

咲「………」

また、いらぬ事を考え込んでしまいそうだな、と咲は思った。

純「咲?」

上から降ってきた声で現実に帰る。

289: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(SSL) 2014/08/28(木) 22:11:01.69 ID:FtyvC5bj0
咲「すみません。ちょっと自分の行動を振り返っちゃってました」

純「自分の行動を振り返る?…咲、お前ほんとここの妖怪みたいな官吏共とは違ってんな」

純「あ~…大丈夫か?真面目過ぎると周りからいらん面倒事押し付けられてそうだ」

歯に着せぬ純の言い様に咲は苦笑いを浮かべる。

すぐに首を左右に振ると、咲は大丈夫ですと伝える。

咲「面倒事ぐらいは別に。これでも打たれ強さには自信があるんです」

咲「でも、反対に私を助けようとしてくれる人達には……どうしていいか分からなくなる時があります」

純「なんだ、それ?」

純の怪訝な声を聞いて、咲は苦笑を浮かべたままに答える。

咲「恥ずかしい話ですけど、私は今までそんな経験が本当に無くて。助けてくれるのなら報いたいとは思います」

咲「せめて力になりたいのですが…どうにも空回りしちゃって。…謝ってばかりです」

純「………」

先ほどまでの気安い純の雰囲気はいつの間にか消えている。

じっと咲の話を聞いていてくれた彼女は、まだ手に取ったままの咲の荒れた指先を見下ろしながら言った。

純「まぁ細かくは聞かねぇけど。やっぱり苦労してきたんだな、お前は」

290: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(SSL) 2014/08/28(木) 22:14:06.32 ID:FtyvC5bj0
純「俺もここに来るまでは色んな辛い事があったけど。きっとお前がここに来るまでも色んな事があったんだろうな」

純「この手を見るだけでも分かるしな。金とコネだけで入ってくる奴らとは違うんだって」

咲「いえ、私は…」

だが咲は続く言葉は言えない。

自分の立場を、何も知らぬ純に上手く伝える自信もなかった。

純「……ま、お前みたいな奴がいるだけでここもまだ捨てたもんじゃないなって思えるからな」

咲は目を見開く。

咲「純さん、それは違うと思います」

身に余る評価に、困惑で声が硬くなった。

咲「私は何もしていないんです」

むしろ何も出来なくて悩んでいる。助けてもらってばかりだ。

だが、咲の言葉を聞いた純は余裕を滲ませながら「馬鹿だな」と笑う。

純「これから何かをするために、ここにいて、お前は頑張ってんだろう?」

咲「………」

純「その姿勢が大事だと思うぜ。こんなご時世だからな」

291: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(SSL) 2014/08/28(木) 22:17:35.65 ID:FtyvC5bj0
純「ここで、一人でもそんな姿勢の奴がいる事が分かっただけでも、この国はやり直せるんじゃねぇかって」

純「きっとようやく起って下さった主上にも届く。変わっていけるって。そう思うぜ」
 
その言葉通りなのか、伝わってくる純の言葉に咲の心が震える。

彼女はきっと何気なく言っている。

だからこそ本心であると思うし、咲も気付かされる。

無意識に呟いていた。

咲「貴方も……私を、助けようとしてくれる?」

純は咲が王である事を知らない。

けれど純の言葉は、王の立場にいる自分に向かって言われているような気がした。

途端、咲の胸が窮屈に締め付けられる。

ここにやって来るまでは知らなかった、誰かに必要とされる空気。

純の姿が一瞬、自らの半身に見えた。

例え必要以上に堅い態度で接していても、

その実いつもこの身を支えようとしてくれているのを知っている。

292: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(SSL) 2014/08/28(木) 22:21:14.04 ID:FtyvC5bj0
咲「でも…すみません。私は」

何も、返せない。

果たしてその言葉が、隣に座る純に言ったのか、今まで自分を支えてくれた人たちに向かって言ったのか。

……それとも、この身をいつでも支えようとしてくれる半身に向かって言いたかったのか。

多分、全て同じ想いではあった。


ふと、そのまま続くはずだった咲の言葉は途中で途切れる。 

なぜなら不意にまだ掴まれたままだった指に力が籠ったからだ。

不思議に思った咲が掴まれた先を自然に見上げれば、

純は少しだけ困ったような顔をしていた。

んー、と。言葉を探しているような彼女の気配は数秒。

純「咲はさ、真面目過ぎだな。そんな難しく考えなくてもいい、もちろん俺に謝る必要も無い」

純「俺は軍にいて酷い奴らを随分と見てきた。だから成り行きで辿り着いたここも、同じような奴らばかりなんだろうなって思ってた」

純「そのせいで、この国は駄目なんだってな。救いようがねぇって。でも違った」

咲「……」

293: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(SSL) 2014/08/28(木) 22:24:47.89 ID:FtyvC5bj0
純「ここに俺を呼び寄せた…上司になるのか。あの人は」

純「偉いんだけど、俺なんかより何倍も悩んでて、必死にここを変えようとしてる」

純「このままじゃ駄目なんだって…咲も同じで、悩んでんだろう?なら捨てたもんじゃねぇ」

純「この国のために悩んでいるお前らだからこそ、俺にできることがあるなら助けてやりたい」

咲「純さん…」

呼ぶと、彼女は照れ臭そうに笑う。

純「俺の勝手だよ、気にすんな。一度はさ、どうでもいいと思っていた時もあった」

純「軍からも切られて、腐れ縁と一緒に根無し草になっても別にいいか、とかな」

純「……でも、あの人や咲のお陰でもう一度、俺ができる事があるのなら、ま、やってみようかって」

けど俺のできる事といったら剣を振り回す事ぐらいだがな、と。

後腐れを匂わせない、気持ちの良い純の言い様だった。

咲はふっと肩の力が抜ける心地がした。

純が言っていた事。

自分ができる事があるのならやってみようと彼女は言っていた。

もしかして、自分もそれでいいのではないか。
 
ふと脳裏に菫の端正な顔が浮かぶ。

身が引き締まる心地は変わらない。

294: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(SSL) 2014/08/28(木) 22:27:51.66 ID:FtyvC5bj0
そうか、と咲は思う。

自分は何も知らぬ癖に。能力もない癖に。

あの高潔な人の姿勢に無理に合わせようとし過ぎていたのではないか。

緊張して、それで失敗して後悔して…

何もできない自分を恥じて、王としての重圧に潰されそうになっていた。

身動きがとれないと思い込み、勝手に苦しんで、盲目になっていた。

でも今、そんな自分に気付く事ができた。

違うのではないかと純が教えてくれた。

ならば何もできない自分を受け入れて、その姿勢のままに半身に向き合えばいいのではないか?

もしかしたら、彼女は今以上に呆れてしまうかもしれないけれど。

それでも咲は菫と正面から向き合いたい。

今までは自信が無いと伏せていた頭を上げて、彼女の瞳をしっかり見上げて。

この気持ちの変化を伝えてみたい。

咲は初めてそう思う事ができた。

295: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(SSL) 2014/08/28(木) 22:30:03.20 ID:FtyvC5bj0
何もできないかもしれないけれど。

それでも今自分にできる事を探してみたいと咲は思った。

ジンと胸の内が熱くなった。

何か霧掛かっていた目の前がやっとで開けたような心地。

純「咲?」

突然物思いに耽ってしまった咲を、純が不思議そうに見下ろしている。

彼女に視線を返しながら、咲は改めて純の事を不思議な人だな、と思った。

純はこの宮中においては稀有な気質の人間だ。

矜持が高い官吏達のように凝り固まったものを感じない。

気安く話し合える空気は、よく咲を助けてくれる智美に近い気がした。

彼女に励まされたな、と思う。

きっと自分よりも遥かに世間を知っていて、思考の溝に嵌っていた咲を掬い上げてくれたから。

296: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(SSL) 2014/08/28(木) 22:33:46.06 ID:FtyvC5bj0
咲「すみません、心配してくれて」

素直に伝えると、純は今まで掴んでいた咲の手のひらを開放する。

と、自由になったその腕を伸ばして不意打ちにコツン、と咲の頭部を軽く叩いた。

揺れる視界。全然痛くはなかったけれど意味が分からず、

小突かれた箇所を手の平で覆いながら咲は首をかしげた。

見返す先の純は目を細くすると「言っただろう」と突っ込んでくる。

咲「???」

彼女に教えてもらった事がたくさんありすぎて、今の指摘が何を指示しているのか咲には思いつけなかった。

すると苦笑しながらも彼女は素直に教えてくれる。

純「俺に謝るなって言っただろう?」

お前のそれは、むしろ癖のような気がする、と。

純から鋭い指摘を受けて、咲はまたもや純に気付かされてしまった。

確かに今まで自分は反射的に謝罪を口にしていた気がする。

純「心配はした、少しな。お前、会う度に落ち込んでいるように見えたから」

純「でも、話しができて少しでも気は晴れただろう?」

咲「………純さんは、すごいですね」

純「はん、伊達に性悪達に揉まれてきてねぇからな」

彼女は簡単な事のように言い切る。

すっきりした物言いは本当に気持ちがいい。

297: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(SSL) 2014/08/28(木) 22:36:50.78 ID:FtyvC5bj0
そうか…時には純のようにはっきりと意見を伝える事も必要なのだ。

下働きをしていた頃は横暴な主人より叱られないため下ばかり見て、誰とも向き合おうとせずに生きてきた。

変わらなければ。

相手の機嫌を窺うためにすぐに謝罪を口にするのではなくて。

素直な気持ちを声にして吐き出してもいいのだ。

咲は改めて純を見上げる。

たった数回彼女と会話を交わしただけでも沢山の事に気付かせてくれた。

咲「ありがとうございます。純さん」

自分でも驚くぐらい、はっきりとした口調で咲は言った。

相手の顔色を窺うでも無く、自然に心の内に沸いた気持ちを相手の目を見て伝える事ができたと思う。

言われた純は面食らった表情をした。

が、余韻をたっぷりと享受した後、彼女らしく軽い仕草で「ああ」と笑った。

そして咲は立ち上がる。

まだ隣で座っていた純へと、心に決めた事を伝えた。

彼女は感慨深く押し黙っていたけれど。

そうか、とやはり彼女らしく受けいれてくれた。

303: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(SSL) 2014/09/04(木) 20:17:33.58 ID:VShx3KRb0
純「残念だが、決めたんだろう?」

咲「はい。純さんのお陰です。自分にできる事を探して、少しでもやってみようと思います」

純「………」

咲「今まで下を向いてきた分、今度は上を向いて」

咲「必死になってやってみようと思います。だから……暫くはお会いできません」

純「なら俺がどうこう言えるはずもない。それにな、今生の別れって訳でもないよな」

純「出世しろよ、咲。ここで互いに生きていくのならいつかまた会える日がくるだろうから」

咲「…ええ、必ず。すぐには無理だと思いますが、それでも……」

咲「絶対に、またお会いしましょう」

咲が言い終えると、純も立ち上がる。

見下ろした視線が自然上を向く。

咲は見下ろしてくる彼女の視線を逸らさない。

304: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(SSL) 2014/09/04(木) 20:20:32.33 ID:VShx3KRb0
純はどこか楽しそうに笑うと、徐に片腕を差し出してきた。

こんな事をされたのは初めてだったけれど、

彼女が何をしたいのかは分かった。

差し出された腕に向かい自然に咲も腕を差し出す。

純「頑張れよ」

言われ、手の平をぎゅっと握られる。

咲「純さんも」

声に迷いは無い。

握られた手の平を、咲もしっかりと握り返してから。

深く頷いて見せた。


■  ■  ■



305: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(SSL) 2014/09/04(木) 20:23:56.43 ID:VShx3KRb0
神獣である麒麟の特権だ、唯一の王である存在の気配を辿れるのは。

駆け付けた先に立つ主の姿を見つけた瞬間、驚いて自然に足が止まった。

咲は一人ではなかった。

隣に立つ長身の女性の姿が見えた。

菫の記憶の中には無い。

自慢ではないけれど、菫は一度見た人間の顔を忘れる事は無い。

その記憶の中にあの女性がいないという事に不信感が募った。

なぜ咲と一緒にいるのか分からない。

菫は素直に混乱を覚えた。

だから変に途中で立ち止まってしまったのがいけなかったのだと思う。

本来なら主に所在が分からぬ怪しい人物が近づいているのだから、

僕としてすぐに助け出さなければいけなかった。

使令に命じなければいけなかったのに、あの方を守れ、と。

だけど菫が使令に命じようとした瞬間見えた光景に、そんな思考は綺麗に止まってしまった。

306: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(SSL) 2014/09/04(木) 20:27:56.14 ID:VShx3KRb0
見つめる先の主は、隣に立つ女性を見上げながら笑っていたから。

それも会話を交わし、長身の姿をしっかりと見上げていて。

菫の気のせいでなければあの人は本当に楽しそうに笑っているように見えた。

だから気付かされる。

ここへと無理に連れてきて、咲が菫の前であんなに砕けて笑ってくれた瞬間があっただろうかと。

多分笑いかけてくれた事はある……けれど。

それはいつだって俯き加減で、どこかこちらを窺うような張り付いた笑顔だった。

今、菫が見つめる先のように。

心の底から楽しそうに笑う咲の姿など、菫は見たことがないのだと気付いてしまった。

途端言い知れぬ痛みを胸に感じる。

思わず両腕を胸の前で交差させて、そのまま体を抱きしめる。

沸々と湧き上る衝動を抑え込もうとする。

慈悲の獣には大凡似つかわしくない感情。

矜持の高い官吏達に罵られても抱いたことがない痛み。

無意識に薄ら開いたままだった唇を噛みしめていた。

307: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(SSL) 2014/09/04(木) 20:32:49.88 ID:VShx3KRb0
目の前では相変わらず笑いながら一言、二言、言葉を交わしている姿がある。

それが一段落したのか、咲の隣に立つ女性が咲に向かって何気なく腕を差し出した。

王に向かって礼儀も何も感じられない。

不敬罪で処断されても文句は言えないだろう。

なのに差し出された側の主は、気を悪くした風もなくそれを快く受けて女性の手のひらをしっかりと握り返した。

そこに何か自分が羨むものが見えたような気がして、菫は眩暈を覚える。

彼女らが近い距離だと感じたのはきっと嘘じゃない。

あの人は、天が定めた半身であるこの身を見上げてもくれなかった癖に。

どこの馬の骨とも分からぬ女性をしっかりと見上げて、

心からの笑顔を浮かべているのだと菫は分かってしまった。

悲しいのか、悔しいのか。

もはや菫にも良くわからない。

湧き上がる衝動を抑え込むのに精一杯だった。

こんな激情が胸中に巣食っていたのだと今、気付く。

308: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(SSL) 2014/09/04(木) 20:38:41.17 ID:VShx3KRb0
命じた訳でもないのに、背後に伸びる影より這い出てくる気配を感じた。

それは完全に姿を現すと、固まって動けない菫の傍らへと寄ってくる。

『台輔、お心を鎮めて下さい。そのままでは御身を損ないかねません』

どうか、と心配する女怪の声に一瞬、正気が戻る。

噛みしめていた唇を解くと、見つめる先の姿達が動くのに気付いた。

彼女らは手堅い握手を交わすと、また短い会話を交わす。

そして、何かを得たように頷き合うと、互いに背を向けて歩き始めた。

見知らぬ女性は外宮のどこかに戻っていくのだろう、更に奥へと消えていく背を見送る。

対して咲は踵を返し、内宮へと続く道を歩き始めた。

つまり立ち止まっていた自分がいる方向に、だ。

思わず片足が後ろに下がった。

菫はここであの人に鉢合わせするのは嫌だと思った。

だって無様にも盗み見していたようではないか。

そんなの菫の矜持が許さないし、この動揺が酷い顔を見られたくもなかった。

309: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(SSL) 2014/09/04(木) 20:42:49.08 ID:VShx3KRb0
少しの時間でいい、あの人と向き合う気持ちを落ち着かせたい。

だから菫も同じように踵を返すと、先に内宮に向かい駆け出そうとした。

その際、寄り添う女怪へと小声で命じる。

菫「あの女を追え、素性を突き止めるんだ。主上への礼を欠いた態度、見過ごす事はできん」

『仰せのままに。ですが、台輔はどうなさいます?』

菫「………」

一拍、置いた間は不自然だったかもしれない。

だけど女怪は他にいらぬ事も言わず、菫から返ってくる言葉をじっと待っている。

観念して菫は早口に言葉を返した。

菫「……主上と話をする。言って訊かせねばならぬだろう、ご自分の立場を分かっていらっしゃるのかと」

それは菫というよりは、臣下として、僕として。

半身としての責務だ。

間違ってはいない。正当な役目だ。

310: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(SSL) 2014/09/04(木) 20:47:56.83 ID:VShx3KRb0
女怪は頷いた、けれど控えめではあるが言ってくる。

『どうか余り強くお言いにならぬよう。主上も、台輔も辛いことになりましょう』

菫「お前……」

菫の言葉が濁る。

なにか、この内の衝動を見透かされたような心地がした。

バツが悪くなって顔を顰めるが、それでも心配してくれる女怪に向かって頷いて見せた。

菫「分かった……落ち着いて話すから」

頼む、と短く言うと、女怪は頭を深く垂れると地の底へ消えて行く。

それを見届けてから菫は早足で駆け出す。

巡る通路の光景の中、落ち着けと波打つ胸中を叱咤する。

女怪とも約束した。…冷静になって向き合おう。

内宮であの人を迎えるための心構えが必要だ。そして言わねばならぬ。

絶対に、分かってもらわねばならぬのだと思った。


■  ■  ■



320: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(SSL) 2014/09/11(木) 19:49:46.23 ID:DA/NbZu80
純と別れた咲は内殿を過ぎ内宮へと急ぐ。

そのまま王の居宮である路寝へと辿り着いた。

今日の咲の執務は終わっているから、みんなは咲がずっと正寝にいたと思っているだろう。

いなかった事が分かれば、また智美なんかは酷く心配してくれるに違いない。

それはとても心苦しいので早く居室へと戻らねばと思った。 

ここには菫や智美が信頼する者達だけを置いているから人は少ない。

事実、路寝に入ってからここまで咲は誰一人会う事は無かった。

戻ろうとしている自分にしてみれば好都合ではあったが。

だけど進む先の壁際にある扉が一つ、まるで咲が通るのを待っていたかのように開く。

その前を通り過ぎようとしていた咲が思わず立ち止まったのは、開いた扉から不意に現れた姿に驚いたから。

路寝に彼女がいるのは可笑しい事ではない。

路寝には王の居宮である正寝とは別に、台輔である菫の居宮である仁重殿もあるのだから。

ただ咲にしてみれば内緒で戻ろうとしていた時だったから、

不意打ちに出会ってしまってあからさまに動揺してしまった。

咲「……っ」

自然に挨拶でもすればよかったのかもしれない。

けれど扉から出てきた菫が、なぜか射るように見つめてきたものだから開いた口は委縮して閉じてしまう。

321: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(SSL) 2014/09/11(木) 19:54:54.15 ID:DA/NbZu80
変だ。何か菫はいつもとは違う感じがした。

姿勢を正して佇む姿、真面目な雰囲気は見慣れたものだ。

が、それに輪をかけて、今咲の目の前にいる彼女からはピリピリした緊張が伝わってくる。

思わず顔が下を向きそうになるのを必死に耐えた。

先ほど変わろうと決意した心を忘れてはいない。

このまま人気のない通路の途中で、無言で向き合っている訳にもいかないと思った。

菫だってたまたま用事があって仁重殿から出てきた所に、

咲と鉢合わせしてしまっただけなのかもしれない。

なら下手に真実を彼女に告げていらぬ心配をさせたくないと思った。

行動は決まった。咲から挨拶を交わして、今は彼女をこの空気から解放すればいい。

咲は半身の名前を呼ぼうと口を開いた。が、
 
菫「どこに行っていた」

咲が喋ろうとした気配は伝わっていたと思う。

けれどそれを断ち切るみたいに鋭く言われたから。

一瞬、何を言われたのか分からなかった。

咲「………」

薄ら唇を開いたまま、本来伝えようとしていた言葉は綺麗に脳裏から消えてしまう。

そんな動揺を見せた咲を眼前に立つ菫はどう思ったのか。

更に畳み掛けるように彼女は言ってくる。

菫「今までどこに行っていたのかと、聞いているのだが?」

ぞわり、と心臓が竦んだ気がした。無意識に口角が引き攣る。

この瞬間に的確に指摘してきた菫の、その意図をどう推し量ればいいのか。

322: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(SSL) 2014/09/11(木) 19:59:23.33 ID:DA/NbZu80
まさか、咲が誰にも言わず内宮を抜け出していたことを彼女は知っている?

その可能性に行き当り、素直に肝が冷えた。ぶわりと額に冷たい汗が浮く。

咄嗟に言い繕わねばと思った。

なによりこれ以上、菫に嫌われるのを恐れた。

咲「私は…」

菫「主上。その前に一つ、聞き知って頂かねばならぬ事がある」

また被せるように言葉を遮られたから咲は口を噤むしかない。

淡々とした菫の声は続く。

菫「改めて伝えた事はなかったが。王と麒麟とは天が定めた特別な繋がりなんだ」

菫「麒麟はな、唯一主人である王の居場所を、その王気でもって辿ることができる」

咲「え?」

思わず間抜けな声が出た。対して菫はそんな咲の動揺など見越していたかのように冷静だ。

菫「覚えはないか?貴方がどこにいようとも私は会いに行っていた」

菫「その際、私は第三者に主上の居場所を尋ねたことは一度もない」

何故ならそんな事をせずとも麒麟である菫には主の居場所を自力で探し出す能力があるからだ、と。

今度こそ本当の意味で咲の心臓は竦んだ。

そういえば、そうだったかもしれない、と…間抜けな話だが、今頃咲も思い出している。

初めてここへと連れて来られた時に、自分は不思議に思ったではないか。

誰にも見つからず逃げ出したはずのこの身を、菫はすぐに追いかけてきた。

323: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(SSL) 2014/09/11(木) 20:03:55.55 ID:DA/NbZu80
目の前の半身のいつも以上に堅い態度。

むしろその瞳には苛立ちと怒りとが混ざっているような気がした。

確定的だ、だから今この瞬間菫が絶妙なタイミングで咲の前に姿を現したのも麒麟としては当たり前なのだ。

彼女は事実、ここで咲を待っていた。

咲「…じゃあ……」

震える咲の声を受け菫は浅く頷いた。そうだ、と首を縦に振る。 

菫「もう分かっている。貴方が軽薄にも供の者も連れずに、勝手に内宮より抜け出していた事はな」

咲「………」

咲は返す言葉が無い。菫の指摘は間違っていなかった。

主に滲む動揺は、菫の意見に対する肯定と考えてもいいだろう。

だから改めて、菫は咲に向かって言う。 

菫「主上。私はもとより智美からも幾重に渡って言われていたはずだ」

菫「貴方はこの才州国の王だ。長く不在だった玉座をようやく埋めてくれた」

菫「その事がどんなに重要な事なのか、本当に分かっているのか?」

その両肩には、もはやこの国の民の命運が掛かっているのだ、と。

咲「わ、私は……」

叱責されて、その声に動揺が滲むのは彼女が責める菫に対して後ろめたさを感じているからだろう。

でも菫は畳み掛ける言葉を緩めない。

菫「宮中といえど、王朝の始まりは即位したばかりの王にしてみればまだ安全とは言えん」

菫「だからこそ私達も貴方を守るために慎重に事を運んできたつもりだ。ついこの前も襲われかけた事件があったはずだ」

324: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(SSL) 2014/09/11(木) 20:07:46.36 ID:DA/NbZu80
菫「なのに何故こんな時に、不用心にも誰にも告げずに外宮へと出て行った?」

朱色の瞳には動揺が滲んでいる。それが菫を見上げながら苦しげに細められる。

と、咲は何かを耐えるように下を向いてしまった。

つまり今、咲は菫を見ていない。…そんな現状にじわりと胸中に抑え込んでいた衝動が蠢いた。
 
咲「……じっと、してはいられなかったんです」

細い声で、ぽつりと咲が呟く。

咲「みんな、私を助けてくれます。もちろん菫さんも」

咲「でも、私は?王だと言われても……私は他の誰よりも、世界の条理も人の情理も知らない」

咲「……どうしても、自信が持てなかったんです」

菫「……………」

咲「焦りは日々募っていきました。でも貴重な時間を削ってまで私を助けようとしてくれる貴方達に、これ以上無理を言えるはずがない」

咲「何よりの急務は、この国を立て直すことなのだと。それぐらいは私にも分っていましたから」

咲「だから……自分で動くしかない、と思ったんです」

苦悶に満ちた主の言葉。でも、だからこそ菫の内なる衝動も大きくなる。

一瞬、脳裏に心配して言ってくれた女怪の言葉が掠めたけれど。

抑え切れない。菫の返す言葉に怒気が混じった。

菫「それで貴方は秘密にしていたのか?周りにも、智美や……私にさえも」

咲「……すみませんでした」

菫は頭を振る。違う、謝って欲しいんじゃない。

菫「私が許せないと思うのは、その癖どこの誰かも知らぬ奴に対して貴方が……心を許していたから」

あの時。菫が遠くから見ていても、笑い合う彼女らの雰囲気が伝わってきて。

その距離の近さを痛感させられた。

325: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(SSL) 2014/09/11(木) 20:13:41.09 ID:DA/NbZu80
思わず縋るように腕が伸びた。主の両腕へと掴み掛かる。

腕を掴まれた衝撃で吃驚したのだろう、俯いていた咲の顔が再び上がる。

朱色の瞳を再び見下ろしながら、菫は胸中に渦巻く衝動を吐き出す。

菫「そこまで悩んでいたというのなら、なぜ貴方は私ではなく、あんな知らぬ奴を」

咲「す、菫さん、何を」

動揺は消え、濃い困惑がその瞳に宿った。だが菫の言葉は止まらない。

菫「あいつは誰だ?」

咲「……っ!」

ようやく咲も菫が誰の事を尋ねているのか気付いたようだった。

菫「見慣れない顔だ、つい最近やってきたのだろう。そんな素性も分からぬ奴をなぜ貴方は警戒しない!?」

咲「違います、菫さん。あの人は、そんな人じゃないんです」

焦って言い返してくる咲の姿に菫は更に苛ついた。腕を掴む力が無意識に強くなる。

菫「なぜ断言できる?もしかしたら王である貴方の正体を知っていて、本心を隠し取り込もうと近付いてきたのかもしれない!」

咲「あり得ません!あの人は私が王だなんて知らない…私を新米の官吏だと思っていて、心配してくれて…」

それだけなんです、と咲は必死に言い募るがそれを素直に受け入れられるはずもない。
 
菫は王であるこの人を守らなければならない。

それはこの人が起つまで長く苦しんできた民のためであり、この国の麒麟としての菫の責務だ。

326: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(SSL) 2014/09/11(木) 20:21:05.01 ID:DA/NbZu80
王が玉座にいるだけでも、妖魔の出現を抑え、死んだ大地は生き返る。

もはや王が不在だった混沌とした時代に舞い戻る訳にはいかない。

故に、今まで細心の注意を払ってきた。

前王から続く奸臣はまだこの宮中には多い。

思い通りにならないと分かれば王がいない時代に戻ってもいいのだと言い切る下種もいるはずだ。

だから菫も智美も、せめて内宮の路寝だけでも人事を綺麗にしようとした。

信に足る者だけを招き入れたのは、この人を危険から遠ざけるためだ。

なのに、その守ろうとしていた本人が安全な場所から一人抜け出していたとう事実に憤りを覚える。

…………いや、それは建前だ。

もちろんそれも大事だけれど。

菫の中に生まれてくる衝動は、その憤りだけで済まされるものではない。

分かっている、菫は麒麟としての建前より何より悔しくて悔しくて堪らないのだ。

こうして詰め寄って、主の口から直に聞いてしまった。

責め立てても、この人は見知らぬ女を悪くないのだと必死に庇っている。

そこにはあの時遠くから垣間見た、彼女らの信頼の成せるものなのだろう。

互いに笑い合っていた姿。

悔しいが菫が咲と出会ってから今まで、あの時のようにこの人が心から楽しそうに笑っている顔を一度も見た事がない。

あの女なら良くて、自分では駄目な理由はなんだ?

327: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(SSL) 2014/09/11(木) 20:27:03.47 ID:DA/NbZu80
王と麒麟は一心同体だ、けれど……今の菫はそんな自信が無い。

麒麟なのに、この人の一番近くにいないのでないかと疑ってしまった。

その事実に気付いてから胸の内の痛みが酷くて、菫は衝動に突き動かされそうになる。

主の細い腕を掴む二の腕が小刻みに震える。

その動揺は、振動となって繋ぐ腕より咲にも伝わっている。

咲「!!……震えて……菫さん、大丈夫ですか!?」

心配そうに見上げてくる顔を、目を細めて菫は見下ろす。

眉間には皺が寄っていて、きっと今の自分は酷く苦い表情を浮かべているだろう。

その癖こうして自分に少しでも心を砕いてくれる咲の姿に歓喜を覚える。

様々に生まれてくる感情が胸中で渦巻いていて……慣れない菫はもはや対応しきれない。

菫は咲を掴んでいた腕を解き放つ。

それから瞼を閉じ、呻くように、本心を吐き出した。


菫「もう、いやだ」


咲「―――…」

328: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(SSL) 2014/09/11(木) 20:42:54.68 ID:DA/NbZu80
ただこの痛みより解放される術を知りたい。

唯一この人だけだ。こんなにも自分の感情を良くも悪くも揺さ振ってくれるのは。

咲と出会う前の自分からは想像もできない程の激情を胸の内に抱えている。

それが時として、酷い痛みを伴って菫を苦しめてくれるから。


瞼を閉じた暗い世界はただ静かだった。

それからどれくらいの時間が過ぎたのか、多分数秒のものだろうけれど。

菫にしてみれば何時間にも何十時間にも感じた。
 
ふと、目の前の気配が動いた。

流れる空気の変化を肌が感じ取っている。

そして菫は、感情を欠いた、瞼の裏側の暗闇と同じぐらい静かな声を聞いた。


咲「 ごめんなさい 」


重い瞼を上げる。

菫の目の前は開かれていた。

今まで確かにいたはずなのに。

咲の姿は、そこから綺麗に消えてしまっていた。


■  ■  ■


338: ◆CU9nDGdStM 2014/09/18(木) 19:58:25.15 ID:xLbMrHmM0
葉が水面に落ちて、そこに波紋が静かに走った。

幾重にも続くそれは次第に小さくなっていき…

時間が経つと、水面の上には落ちた葉だけが水流に浮いている。

微かにゆらゆら揺れるそれを、咲は何を思うでもなくぼうっと眺めていた。

取りあえず、人のいない所に行きたかった。

それで走り続けて辿り着いたのは宮中から続くどこかの中庭だ。

更に人が来ない場所を探して中庭の生い茂る木々を突き抜けていく。

すると、開けた場所に出た。

今まで駆けていた足が緩み、ついには立ち止まる。

そこは誰の気配もない静かな所だった。

多分、昔には使われていたのだろう小さく古びた東屋のような建物があり

その近くには水を湛えた池があった。

きっと使われなくなっても庭師が手入れだけはしていたのだと思う。

東屋も池の周囲も荒れているようには思わない。

339: ◆CU9nDGdStM 2014/09/18(木) 20:01:52.77 ID:xLbMrHmM0
走った事で乱れていた息を整えながら、東屋を過ぎ小さな池の縁へと辿り着く。

そこを囲むように置かれている手頃な岩の一つを見繕い、腰を降ろした。

芝生の上の爪先を暫く眺め、次に、背後に広がる池を眺めた。

近くに生える背の高い木から時に落ちてくる葉が池の水面を揺らす。

それを、どれくらい眺めていたのだろうか。

ただここから動く気にはなれなかった。

しかし思っていたよりも心は落ち着いている。

いや、色々な想いを突き抜けてしまっているといった方が正しいのかもしれない。

ただこれ以上、何かを考える気にもなれなかった。

だって、今更何をしても結果は変わらないだろう。

咲「………」

波紋が走る水面を眺めながらも……それだけは理解していた。

恐れていた瞬間だったが、迎えてみればあっけないものだ。

340: ◆CU9nDGdStM 2014/09/18(木) 20:06:06.14 ID:xLbMrHmM0
菫は咲に向かってしっかりと拒絶の言葉を吐き出した。

いやだ、と。

忘れたいが、あの言葉もそれを言った姿も咲の胸の内に焼き付いてしまっている。

顔を上げて向き合おうと…そう決心した矢先の事だったが。

もう全てがどうでもよくなってきた。

だって、自分は遅すぎたのだ。

悩むのも、気付くのも、決めるのも、全て。

それでどれ程あの半身を苦しめてきたか、思い知らされたような気がする。

あんな苦しげに言葉を吐き出す程に、自分は菫を追い詰めてしまっていた。

咲は小さく息を吐き出す。

これからどうするべきだろうか?

今更、今までのように上辺だけでも付き合う事はできない。

だって咲はそんなに強くはないのだ。

いやだと存在を拒絶されてまでここに居座る図太さも無い。

むしろ、解き放ってあげたい。

341: ◆CU9nDGdStM 2014/09/18(木) 20:11:04.55 ID:xLbMrHmM0
ふと数日前に書房にて眺めた書物の内容を思い出す。

国の成り立ち、構成、国が運営されていく過程が書かれていたその書物には、

王と麒麟の関係も記されていた。

麒麟が王を選び、治世が正しい限りはいつまでも栄える。

反面、悪政を敷けば半身である麒麟は失道し、王が改心せねば麒麟は死に王も死んでしまう。

そして、こうなのだという。

王は、王を神にした麒麟を失えば必ず死ぬ。だが、麒麟はそうではない。

麒麟は王が死んでも死にはしない。

王が悪政を敷いて改心せねば、失道で死んでしまうだろうが。

その前に、王が位を天に返上して死ぬか、または弑されれば麒麟は生き残る。

そして麒麟はまた次の王を探せる。

健全ではない考えが頭を過ぎる。

むしろそれが一番いいのではないかと思えてきた。

咲「私が…王をおりれば…」

ぽつりと呟いた瞬間。

342: ◆CU9nDGdStM 2014/09/18(木) 20:21:58.70 ID:xLbMrHmM0

『早まった考えはお止め下さい。台輔が悲しみます』

水面に走る波紋を眺めていた視界を見開く。

感情を含まない、淡々とした声だった。

が、咲にしてみれば聞き覚えのない声だ。

思わず水面より視線を上げ、そのままぐるりと周囲を見渡してみた。

咲「……?」

そこは、相変わらず咲しかいない。

こじんまりとした静かな空間に、他者の気配は感じられない。

けれど確かに声は聞こえた。

しかも、すぐ側から聞こえたような気がした。

でも視界の先には誰もいないのだ。

一体、どこから?

不安な心地になった頃に、もう一度近くから鮮明に声が聞こえた。

『どうか、主上』

思わず肩がビクリと揺れる。

再び周囲を見渡して誰もいない事を確認する。

こくりと唾を飲み込んでから、咲は唇を開いた。

343: ◆CU9nDGdStM 2014/09/18(木) 20:28:13.31 ID:xLbMrHmM0
咲「誰…ですか?」

反応を待つが、その問いに対しての応えは無い。咲は続けて言う。

咲「近くにいるのなら、姿を見せてくれませんか。どこかにいるんですよね?」

すると、相変わらず淡々とした声が返ってくる。

『御前に参じるのはお許しください。醜い姿故、以前に主上を酷く驚かせてしまった事がございます』

その声が、自分が爪先を地に付ける先より聞こえてくる事に咲は気付く。

そんなの人間には無理だ。だから閃くように思い出した。

過去に一度だけ見た出来事。

菫が何も知らぬ自分を迎えに来た時に、地面を水面のように変えて這い出てきた異形の姿達。

つまり、この声は……妖魔。

咲「!…もしかして、菫さんの」

無意識に呟けば「御意」と短い声が肯定する。

咲の半身は麒麟として、人が恐れる妖魔をも使役するはずだから。

その姿達を過去に垣間見たのを咲も覚えていた。

初めて菫と会った時に、確か虎のような大きな妖魔が地面から這い出てきて、自分は驚いてしまった。

そのまま意識を失ってしまったはず。

きっと、妖魔はその事を言っている。

だが今にしてみれば咲とて理解している。

一般に人を襲う妖魔とは違い、麒麟に使役される妖魔は、主人に忠実で人を襲わない。

ならば、こうして声が聞こえてくる妖魔はひょっとして。

咲「ずっと、私の側にいたんですか?」

『台輔に命じられて』

間髪入れずに返ってきた声に咲が閉口してしまう。

様々な思惑が脳裏を駆け巡った。

咲を心配してか、それとも見張るためなのか。

しかし今更、全て同じ事のようにも思えた。

344: ◆CU9nDGdStM 2014/09/18(木) 20:33:52.29 ID:xLbMrHmM0
『本来ならばご負担を感じぬよう、影ながら御身をお守りするよう命じられていました。…ですがあえて主命に背きました』

咲「え?」

淡々とした声は変わらないが、それが最後の一文だけ更に声が潜められた気がする。

よくよく脳裏でその言葉を復唱して考えてみれば…

もしや妖魔は主人である菫の命を背いて、守っていた自分に声を掛けてきたという事なのだろうか。

咲「…どうして?」

『私は主上について廻り全てを見ていましたから』

『台輔が誤解からああ言ってしまった事も、その誤解から生まれたものを、貴方が素直に受け取ってしまった事も』

咲は目を見開く。

爪先を見つめる視界が僅かに振れた。…体が小刻みに震えているからだ。

同じように震える唇をどうにか動かして返す言葉を吐き出す。

咲「誤解だと言ってくれるんですか、あれは……菫さんの本心ではないんですか?」

『違います。誤解なさいますな』

咲の問いかけに対して、妖魔は迷いもせずに否定してくれた。

現金にもからっぽだった胸中に少しの希望が灯る。

咲はいつの間にか張っていた肩の力をゆっくりと抜いた。

そして、爪先の向こうに広がる地面を一瞥し、咲はそこに向かって声をかけた。

咲「姿を見せてくれませんか?」

『…もはや主命には背いておりますが。また私のせいで主上がお倒れになられたら、今度こそ台輔に対して申し開きができません』

咲「そんなこと…あの時は私も、その、妖魔というのを話に聞くだけで初めて見てしまったから驚いてしまったんです」

咲「でも今は大丈夫です。こうして驚かせないようにあなたは気遣ってくれている」

345: ◆CU9nDGdStM 2014/09/18(木) 20:38:29.05 ID:xLbMrHmM0
咲「それに菫さんに仕えているのだから、あなた達が怖いはずなんてありませんよね」

咲から姿は見えないが、安心させるように小さく笑う。

咲「今度は絶対に驚いたりしません。姿を見せてくれませんか?」

もう一度、地面に向かって問いかける。

すると一拍の後、「御意」という声と共に地面が不自然に波打った。

堅いはずの地質も、生い茂る芝生も一緒になって地面の上に水面の如く波紋が走る。

と、その中心から獣が豊かな毛並みを揺らしてゆっくりと這い上がってきた。

咲は妖魔も見た事はなかったけれど、猛獣と呼ばれる獣ももちろん見た事が無い。

だが、これは虎と恐れられる猛獣に近い姿なのだと聞き知った話から想像できた。

ただその虎と違う所……目の前に姿を現した妖魔は、異様ともいえる六つの目を持っていた。

それが一斉に瞬きする様は何か壮観だ。

咲は妖魔に伝えた通り、以前のようには驚かない。

ただ、やはりあの時の妖魔だったかと納得した。

虎の姿をした妖魔は完全に這い上がってくると 、腰を堅い地面に落とし咲に向かって頭を深く下げる。

『再び、御前を失礼致します』

咲は妖魔に向かって首を左右に振る。

咲「私こそ、以前必要以上に驚いてしまってすみませんでした」

『人には馴染み難い姿です。そう言って下さるだけで、以前の無作法だった我が身が僅かでも救われます』

そう言った妖魔の大きな尻尾が、向こうの方で大きくうねった。それを眺める咲は薄く笑う。

346: ◆CU9nDGdStM 2014/09/18(木) 20:43:43.76 ID:xLbMrHmM0
咲「菫さんも礼儀正しいですが、あなたも同じなんですね」

『私は兎も角、台輔は清廉な方です。自分にも厳しく周りに対してもそうです』

『そうしてこなければいけないのだと…随分前から気付いて、あの方はそれを実践してこられましたから』

咲「…すごいですね、やっぱり私とは違う」

声の質を落として、呟くように咲が言う。

と、何かに気付いた妖魔が深く垂れていた頭を上げた。

『主上、誤解されませんよう』

咲「え?」

見上げる六つ目と視線とが合う。咲が頭を傾げると、妖魔は言った。

『主上と台輔では、今までの過程が違います』

『あの方は生まれた瞬間よりご自身が担う国の責任を自覚し、憂い続けてこなければいけなかった』

『台輔は人一倍責任感も強い方です。私が使令としてお仕えするようになってから、その姿勢は更に堅固なものになっていきました』

咲「………」

『あの方と一緒に、荒廃が進む国土を幾度となく見て廻りました。その都度、何もできないご自分の無力さを酷く嘆いておられた』

『そんな日々を過ごす中で、あの方の表情は更に硬く態度も堅固なものになっていきました。どうしてか分かりますか?』

妖魔に問われ、咲は素直に首を左右に振る。

『麒麟は善なる神獣です。台輔は麒麟の性として人を信じたかった、けれど、それがままならないのが今のこの国です』

『人に裏切られる度に、あの方は感情を表に出すのを厭うようになりました』

『でもそれは人のせいと言うよりは、そんな人らに対して無力であるご自分を許せないようでした』

347: ◆CU9nDGdStM 2014/09/18(木) 20:50:31.27 ID:xLbMrHmM0
淡々とした声で続く話は咲に衝撃を与える。

妖魔に対して挟む言葉も思い浮かばなかった。

ただ、自分を迎えにきてくれた菫の姿だけが鮮明に脳裏に浮かぶ。

あの姿の裏にどれ程の葛藤があったのかを、彼女の妖魔から咲は教えられている。

『そんな台輔が、徐々にですが変わって来られた。嘆く以外の感情をお見せになるようになりました』

『怒ったり、女怪はまだぎこちないと言いますが、笑いもします。……主上が来られてからだ』

咲「………」

『私は貴方の葛藤も見て来たつもりです。立場と環境が全く違うここでは戸惑う事も数多いのも分かります』

『でも、どうかご自身を必要以上に卑下して考えるのはおやめ下さい』

『何もできないと幾ら仰っても、御身がここにいらしてから、確実にこの国は蘇っています』

咲「………」

『荒れた大地は生き返り、蹂躙を繰り返してきた同胞達はいずこかに消えました』

『民達も貴方という希望を糧に少しずつ生きていく気力を取り戻しています』

『…そして、それは台輔が無力に嘆きながらも長く待ち望んでいた、この国本来の姿だ』

無言で話を聞いていた咲の視界がぼやけた。

見下ろす形にある六つ目が一斉に細められる。

妖魔であるはずだが、咲にしてみれば人よりも人らしく労わってくれているように感じた。

更に、目頭が熱くなる。

350: ◆CU9nDGdStM 2014/09/18(木) 21:37:44.32 ID:xLbMrHmM0
『貴方は、ここにいるだけでこの国だけではなく、この国の麒麟という良心も救っている』

『主上、どうかあの方だけは信じて下さい』

その言葉が心に沁みた。

目尻の堤防を越えて涙がそこから溢れ出した。

ぽろぽろと頬を伝うそれを拭う事も忘れて、ぼやけた視界の向こうにいる妖魔に咲は言葉を吐き出す。

咲「私は……」

いやだ、と言われてしまった。それは確かに咲を拒絶する言葉だったから。

一度は向き合おうとしたけれど、結局最後の最後にまた逃げだしてしまった自分が

今一度半身に正面から立ち向かっていけるだろうか。

どうして嘆かれます?、そう案じられ咲は浅く首を左右に振る。

咲「嘆いてるんじゃないんです…ただ私は今あなたから聞いた話を、きっと菫さん本人から聞かなければいけなかった」

咲「そして私自身の事も、彼女に知ってもらわなければいけなかったんです。彼女に嫌われるのを恐れないで」

『主上』

咲「あなたも、智美さんも純さんも…皆こうして教えてくれていたのに。…本当に、私は愚かです…」

そこで不自然に言葉が途切れる。感情の高ぶりに逆らい切れずに喉の奥が震える。

それでも唇を一文字に引き衝動を堪えると、掠れた声で言った。

351: ◆CU9nDGdStM 2014/09/18(木) 21:43:20.25 ID:xLbMrHmM0
咲「まだ、間に合うでしょうか?」 

『間に合います』

妖魔の声は淡々としているけれど、まるで背中を押されるように迷いがない。

『むしろ、貴方だけがあの方を救えるのですから。どうか』

咲「……本当に、こんな遠回りばかりして、私は……」

『それが私達妖魔と人とが違う所です。感情に振り回されるのは効率的ではないですが……どこか、羨ましいとも感じます』

咲「後手後手で、しかも菫さんを失望させているのに?」

『予想できないのがいいのでは?私には分からない感覚です』

『台輔は獣ですが、同時に人でもあります。だから迷いますし、勘違いもしてしまいます』

咲「………私も、同じです」

菫は真っ直ぐな姿勢を崩さず弱みを見せない、完璧な人だと思っていた。

その姿に無理に合わせようとして、できなくて自信を無くして。本当に咲も迷ってばかりだった。

『羨ましい限りです』

淡々とした声に、僅かにだが初めて笑む気配がした。

思わず釣られるように咲も笑う。

そして色々と堪え切れなくなると、腕を上げて顔を覆った。

352: ◆CU9nDGdStM 2014/09/18(木) 21:47:17.63 ID:xLbMrHmM0
感情の昂ぶりのせいか止まらない涙を、指先で何度も何度も拭う。

その途中で、途切れ途切れではあるけれど妖魔に向かって咲は伝える。

咲「もう一度、菫さんに話をしに行こうと思います」

『それを聞いて安堵しました』

咲「これが収まったら、必ず。でももう少し…止まらないから…こんな顔じゃ、更に可笑しく思われてしまう」

『ならば私が台輔に取り次いで参りましょう』

『主上は私が戻るまでここにいて下さい。絶対にここより動いてはいけません』

咲「……この顔じゃ、動きたくても動けないですけどね」

咲が涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま苦笑いを浮かべると、妖魔も納得したようだった。

心を決めて「お願いします」と咲が伝えれば、妖魔は六つ目を細めて頭を深く垂れた。

そのままゆっくりと地面の下に消えて行く。

毛並みの先すら地の底へ吸い込まれていったのを見届けると。

咲は今までの全てを洗い流すかのように、思い切り泣いた。


■  ■  ■



353: ◆CU9nDGdStM 2014/09/18(木) 21:51:08.68 ID:xLbMrHmM0
入室を促す声が聞こえ、純は扉を開き中へと足を踏み入れた。

純からすればもはや見慣れた室内には、部屋主である塞と同僚である誠子、

それに見知らぬ官吏の女性が一人立っていた。

入ってきた純に気付いたのだろう、官吏は振り返り視線が合うとニコリと柔和そうに微笑む。

純は反応に逡巡した。

取りあえず、初見でもあるし部屋主である塞の顔に泥を塗る訳にはいかない。

姿勢を正すと会釈をする。すると向こうも微笑んだままに頭を垂れた。

塞「そこまででいいよ」

顔を上げると塞が苦笑いを浮かべながら純に向かって手招きする。

素直に彼女らの元に近付いて行った。

塞「彼女が残りの一人。貴方も手を貸したのだから気にはなっていたでしょう?」

純を指しながら塞が官吏に問う。

すると、官吏は緩慢な動作で頷いた。

憧「私は書類上で、だけど。でも嘆願書が上がってきた時点でかなりの異例だったから気にはしていたわ」

憧「冤罪なのは明白でしょ?まぁ、塞の目に叶うようならよかった」

ね、と気安く話を振られて純は思わず面喰らった。

354: ◆CU9nDGdStM 2014/09/18(木) 21:59:03.28 ID:xLbMrHmM0
彼女らの会話の内容が分からない。

思わず助けを求めるように、隣に並ぶ形になった誠子へと視線を向ける。

しかし彼女は絶対に純よりも現状を把握している癖に、肩を竦めるだけで何も言ってくれない。

純は思わず舌打ちしそうになった。

が、その前にすべてを察したように塞が口を挟んでくる。

塞「なら直に会った事はないんだね。彼女は憧。前に話の中で言ったでしょう」

塞「貴方たちを見つけて、私に引き合わせてくれたのが秋官だった憧なの」

純「あ、」

誠子はやっぱり分かっていたようで頷くだけだが。

純は驚いたせいか間抜けな声が出てしまう。

塞に指摘された事はもちろん覚えている。

権力を傘に牢にぶち込まれていた自分達を、塞が懇意にしている秋官が気にしていたのだと。

それが、この聡明そうな官吏なのだと言う。

お礼を言っときなさい、という塞の言葉に対して憧は必要ないと言う。

憧「さっきも言ったけど。元々あれは貴方たちの元部下達が嘆願書を出した事で明るみにでた事例だから」

憧「つまり私のお陰というより、かつての部下達に好かれていた貴方たちの人徳のお陰でしょ?」

憧「なら、私に礼を言う必要はないわ。貴方たちが今まで積み重ねてきた行いを誇るべきよ」

純「…………」

355: ◆CU9nDGdStM 2014/09/18(木) 22:03:20.19 ID:xLbMrHmM0
誠子「………あ~っと、でも助かったのは本当ですし。ありがとう、ございます」

自分達を誇るべきだ、と言われても、すぐにはいそうだったんですかと頷けるはずもない。

純は思わず閉口した。そんな自分の心境をくみ取った誠子がぎこちなくではあるが礼を述べた。

塞はそんな彼女らを眺めて笑っている。

塞「憧はね、いつでもこんな感じで物事の上辺を探る事をしないの」

塞「直球だから、秋官の中でも特に異質だよ。褒められても貶されてもまるで動じないし、何をしても無駄だと先に周囲が悟る」

塞「しかも事実尻尾を出すようなヘマも絶対にしないし」

憧「尻尾とは随分な言いようね」

そう言いながら憧は先ほどから笑みを少しも崩さない。

その秋官がわざわざこうして塞の執務室を訪れている事を不思議に思う。

憧を探るように一瞥してから、塞に向き直る。そして確信を持って尋ねた。

誠子「何か、あったんですか?」

塞「それは憧から聞いた方が理解しやすいでしょう」

塞が視線を促すと、純達も同じように彼女へ注視する。

憧は相変わらず腹の内が読めない微笑を湛えながら話し始めた。

356: ◆CU9nDGdStM 2014/09/18(木) 22:08:16.53 ID:xLbMrHmM0
憧「一週間程前に、ある官吏から内密に話したい事があると言われたのよ」

憧「秋官に打診するのだから、つまりは……密告ね」

誠子「密告、」

硬い言葉で誠子が呟けば、憧は頷く。

憧「言葉から変に勘繰ってしまうけど、今回に限っては悪い意味じゃないわ」

憧「その官吏の密告は、良心の呵責によるものだったから」

憧「最近は多いのよ。やっぱり主上が存在するのとしないのでは、国に対する姿勢の温度が違う」

憧「忘れかけていた本来の責任を思い出して心を入れ替えた、なんて話もよく聞くし。大層都合のいい話ではあるけどね」

憧の最後の言葉には多少の呆れが含まれている。

その気持ちは純もだが、誠子も塞も身に染みているだろう。

純は憧に釣られるよう苦笑を浮かべた。

憧「それで、ま、内密にね。話を聞いたのよ。小心な男で、絶えず周囲の目を気にしてた」

憧「だからこそ罪悪感も捨て切れなかったんだと思う」

憧「ずっと上官に言われるがままに不正に手を貸していたらしいけど、これ以上は我慢できなくなったそうよ」

誠子「今まで手を貸していたのに、心変わりすると決めた……?余程の切っ掛けがあったんじゃないですか?」

誠子が気付いたように突っ込むと、純もなるほどとその疑問に同調する。

357: ◆CU9nDGdStM 2014/09/18(木) 22:13:04.49 ID:xLbMrHmM0
確かに罪悪感をずっと抱いていたとしても、所詮小心者だ。

長いものに巻かれていた人間が、その庇護を投げ捨ててまで正道に帰ろうとするのはかなりの決意が必要だろう。

憧「その答えは先ほど一度答えているようなものよ」

憧「つまりは主上に害を及ぼすかどうかという選択に、抱えてきた罪悪感の針が振り切れてしまったらしいわ」

憧の答えを聞き、純は瞬時に血の気が引くような心地になった。

純「まさか、」

憧「あくまでも予定通り事が進まなかった場合だそうだけど」

憧「……内密に、冬官府より冬器を集める手伝いもさせられたそうよ」

純「………」

返す言葉が何も浮かばない。驚く程に衝撃を受けている。

なんて畏れ多い事を。

この感覚が多分、一番言葉として正しい。

憧「冬器を運ばされながら体の震えが止まらなかったそうよ」

憧「それがどう使われるかを想像して、やっとで自分が今までどんな非道に手を貸していたのか痛感したと」

憧「その上、王まで手にかける側に加担すれば今世は元より来世永劫、天から見放されてしまうと酷く怯えていたわ」

純「………下衆が」

唸るように吐き捨てていた。

塞達の前だとしても、体裁を繕う事すらできなかった。

358: ◆CU9nDGdStM 2014/09/18(木) 22:17:34.38 ID:xLbMrHmM0
本当に、救いようのない馬鹿というのは軍にもどこにもいるのだ。

なぜそこまで思い切れる?

この国が長く待ち望んでいた末に起った王だ。

まだ愚王かどうかも判断できないというのに……

こんな初期の段階で王を弑し奉る算段を企てる事ができるのか?

苦しむ周囲を省みず、そこまで自分達の利だけを追える畜生がここにはいるのか?

塞の声が遠くから聞こえる。

塞「…下衆ではあったけど、その人は最後の“王を害する”という一線だけは越えられなかったんでしょう」

憧「だね。で、まあ彼の良心の呵責が軽くなるように、知っている限りの首謀者達の名と立場は吐かせてやったわ」

憧「でも私とてそれをすぐに鵜呑みにする訳にもいかない」

憧「一週間、事実かどうか裏取りに費やして、官吏には何事もない振りをして過ごせと命じて持ち場に帰したんだけど…」

憧は、突然歯切れが悪くなる。

憧「数日前から、その彼と連絡不通になってね…」

誠子「…やっぱり裏切りきれなかった、とかですか?」

憧「それはないわ。あそこまで天と王に叛く事を畏れていたのなら、今更元鞘に収まろうとはしないでしょ」

憧「ただ、小心者だから耐えきれなくなって暴走はするかもしれない、とは思ったけど」

純「?」

誠子「暴走?」

359: ◆CU9nDGdStM 2014/09/18(木) 22:23:33.07 ID:xLbMrHmM0
純は怪訝な表情になり、誠子は鸚鵡返しに呟く。

すると一緒に聞いていた塞が補足するように言った。

塞「その官吏の所属先は夏官だよ。それともう一つ、実は数日前に内殿で一騒ぎあったの」

塞「許可なく主上に嘆願しようとして、錯乱した夏官が御前で取り押さえられたというものよ」

純「!!」

誠子「それって……」

まさか、その小心者の官吏の事なのか?

半分確信をもって尋ねれば憧は頷いた。

憧「私もまさかそこまで追い詰められているとは気付かなかったわ。直に主上に告発しようとするとは…」

誠子「…その官吏は、結局どうなったんですか?」

誠子が尋ねれば、今度は塞が答えた。

塞「最悪な展開だけど、同じ夏官達に取り押さえられて連れていかれたそうなの」

塞「後日、事件に気付いた憧が秋官の立場をもってその官吏の身柄を引き取ろうとしたけど…」

塞「どうにも向こうが無理に理由をつけて引き渡すのを渋っているらしいの」

誠子「……まぁ、そうでしょうね。裏切ろうとした奴を司法に引き渡すはずがない」

誠子「でも渋っているのなら、そいつはまだ生きている?」

塞「どうかな。…酷だけど、もはや口封じされてしまっているから理由をつけて引き渡すのを渋っている振りをしている」

塞「そう考える方が無難でしょう。だからこそ、向こうも追い詰められてはいるだろうけど……」

誠子「…………」

360: ◆CU9nDGdStM 2014/09/18(木) 22:41:26.87 ID:xLbMrHmM0
塞「だから憧は助言しに来たんだよ」

塞「追い詰められた馬鹿な奴らが、馬鹿な行動にでるかもしれないから」

塞「主上がおられる内宮も十二分に警戒しろと、ね」

純「馬鹿な行動…」

純は呆然と呟いた。

それは先ほど言った畏れ多い事をだろうか……本当に?

信じられない心地の中で、憧の声が聞こえる。

憧「ま、私なりに一週間の間で首謀者が事実、そんな大それた事を企んでいるのかどうかの裏は取ったわ」

憧「出る事に出れば、幾ら金を積んでも言い逃れできないぐらいには証拠も集めてね」

憧「だから、その首謀者達に捕えられた官吏の身柄を引渡せと言いながら揺さ振りは掛けさせてもらった。もはや全て筒抜けだとね」

塞「私も数刻前に台輔に謁見して帰ってきたら、憧が待っていて…今の話を聞いた所だったの」

塞「お陰で腑に落ちなかった幾つかの点が繋がったわ。誠子には少し前に……」

塞が言葉を続けようとした途中だった。

不意に、ゴポリと水が跳ねた音が聞こえた。

361: ◆CU9nDGdStM 2014/09/18(木) 22:46:05.40 ID:xLbMrHmM0
しかもその音はすぐ背後から聞こえたような気がする。

でも、そんなの可笑しな話だ。

ここは宮中の奥にある一室で、その室内に水溜りがある訳がない。

気も昂ぶっているし空耳だろうか、と思った瞬間。

今度は突如、何かに足首を掴まれた。

純は反射的に掴まれた片足を上げて、掴まれた感触を振り切ろうとする。

が、足はピクリとも動かず、更に掴まれた箇所がギリギリと締め付けられてしまった。

その痛みに顔を顰めながら原因を探ろうとする。

下だ。視線が床を泳ぐ。

それが自分の足元まで辿り着くと……有り得ない光景を目の当たりにして驚いた。

自分の足首は、水面のように揺れた床の中から突き出している手に掴まれていたのだから。

思わず、声を上げる。

純「っうあ!」

だが狼狽したのはそこまでだ。

純は腰に差していた剣の柄を握り瞬時に引き出すと、

素早い動作でそれを足首を掴む手首に突き刺そうとする。

362: ◆CU9nDGdStM 2014/09/18(木) 22:51:01.37 ID:xLbMrHmM0
ガツと鈍い音と腕に必要以上に響く手応え。

剣は目当てのものでなく、上司の部屋の床を突き刺していた。

寸前で手首は掴む足首から離れていくのも見えていた。

それは床に出来た水面へと一度、音を立てて戻っていく。

純は慌てて突き刺した剣を抜き取ると、その場所から2、3歩程後退する。

周囲からは、なんだ?とか、どうしたの、と訝しむ声が聞こえてきたが

純とて答えられる訳がない。

しかし、視線だけは鋭く波打つ床を睨みつける。

そこは再び大きく波打つと、中より何かが這い出てきた。

白い腕に羽毛を生やした、半分鳥のような女の姿。

人間ではないのは明らかで、それが何かを純は理解した。

種族は違うだろうが、以前、軍にて要請を受け討伐した事はあった。

純「……妖魔」

背に走る悪寒を受け、もう一度剣を構える。

近くにいた誠子も状況を理解したようだった。

同じく鞘から刀身を抜く音が響く。

なぜこんな所に妖魔が?

完全に這い出てきた妖魔が羽を揺らし、硬い床の上に立ち上がった。

387: ◆CU9nDGdStM 2014/09/25(木) 00:43:59.82 ID:A3iTKDwJ0
妖魔は十二国の王の権威が及ばない黄海か、王が不在の混沌とした国に出没する。

少し前までの、王が不在だったこの国で目にする事はあったが今は違うのだ。

しかも最も王の権威が及ぶ宮中に出没するとは考え難い。

困惑したのは確かだ、でも純はすぐにそれを取り払った。

いつの時も得物を手にして迷うのは危険だ。

今は隣の誠子と協力して背後の官吏達を守らねばなるまい。

柄を握り締め、刀身を支える。

と、緊張を滾らせた自分らの前に、意外な姿が躍り出てきた。

つい今し方、守らねばと心に決めた塞がなぜか背後から駆けつけてきて

剣を構える純と、対峙する妖魔の間とに立ち塞がる。

焦った純は思わず口調も素になる。

純「おい!ふざけんなっ!塞、そこをどけ!」

尖った刀身を苛つきながら降ろし、純は利き手を繰り出して眼前に立ち塞がる塞を横にどかそうとする。

だけど焦る純とは対照的に、なぜか塞の声は冷静そのものだ。

その肩を掴んでも彼女は岩のようにそこから動かない。

むしろ怒る純を宥めるように「待って」と言う。

388: ◆CU9nDGdStM 2014/09/25(木) 00:48:13.50 ID:A3iTKDwJ0
純「なんでだ!?」

塞「敵ではないからだよ」

純「あれは妖魔だろうが!」

塞「妖魔だよ。でもここにいる時点で貴方が想像しているような、人を無意味に襲う妖魔じゃない」

純「…なに、言って」

再び純は困惑した。

すると背後より憧の淡々とした声が聞こえる。

憧「この宮中に妖魔は出ないわよ。出るとすれば……それは神獣に仕える妖魔だけ」

純は目を見開いた。

やっとで彼女らが何を言っているのかを理解する。

神獣と言えば、その存在は一つしかないだろう。

思わず塞の向こうに佇む妖魔を凝視する。

確かにあの妖魔は、初めこそ不意打ちに純の足を掴んできたが。

完全に姿を現してからは、こちらを襲う素振りを見せない。

むしろ佇むその表情はこちらを注意深く探っているように見えた。


■  ■  ■


389: ◆CU9nDGdStM 2014/09/25(木) 00:51:27.84 ID:A3iTKDwJ0
事実、女怪は迷っていた。

菫に命じられて、彼女の望みの通り件の女性を追いかけてきたわけだが。

ここで追い付いたのはいい。対峙したのも予想の範囲内だ。

が、突如として自分とその女性との間に立ち塞がった官吏の姿を見て、どうすればいいのか迷いが生じた。

なぜならその官吏の顔を女怪は知っていた。

先刻前まで主と顔を合わせていた官吏の一人だ。

いつの時も大事な麒麟の側に影ながら寄り添っている自分が見間違うはずもない。

ならば菫とも近しい立場なはずだと思うが……その官吏がなぜ件の女性と一緒にいるのか分からない。

するとそんな迷いを悟られたのか、目の前の官吏が冷静な口調で問う。

塞「台輔の使令ですか?」

的確な指摘。事実だ、ここにいる限りそれを隠す理由も無い。

『はい』

淡々と言葉を返す。

すると目の前の官吏は、安堵したかのように表情を緩める。

その背後にいる件の女性は、自分と同じく状況がつかめないようで怪訝な表情を浮かべていた。

390: ◆CU9nDGdStM 2014/09/25(木) 00:55:00.91 ID:A3iTKDwJ0
塞「先ほどまでお会いしておりました。…もしや、何か私に伝えに来られたのでしょうか?」

官吏に言われ、一拍置いてから首を左右に振る。

『いいえ。私が用があるのは、貴方の背後に立つ……彼女に、です』

指し示すと官吏の背後の女性が驚いて目を丸くする。

誤魔化すというよりは、本当に驚いている風に見えた。

それは眼前の官吏も同じだったようで、僅かに背後を一瞥すると再びこちらに向き直って尋ねる。

塞「この者は私の部下です、が……もしや知らぬ間に何か失礼な事を仕出かしたのでしょうか?」

『……部下』

思わず言い返す。

その声が官吏にも聞こえたのか、彼女はもう一度「そうです」と言い切る。

ならば、これは………と。

女怪は眼前の官吏の背後へと直接顔を向けると、そこに立つ女性に問いかけた。

『貴方は、なぜあの方と親しいのですか?』

純「………あの方?」

問い掛けた先の女性が訝しげに聞き返してくる。女怪は頷いた。

『貴方が先ほどまで会っていた方です。それを、台輔は気にしていらっしゃいます』

純「先ほどまで……って」

391: ◆CU9nDGdStM 2014/09/25(木) 00:58:46.45 ID:A3iTKDwJ0
困惑する声。

どうやら突如現れた妖魔が問い掛ける内容と、すぐに結びつくものがないのだろう。

すると挟まれた形で聞いていた官吏が女性に向かって問い掛ける。

塞「純。先ほどまで誰かと会っていたの?」

純「あ、…いえ、まぁ。会っていたと言えば、あいつぐらいですけど」

純「でも麒麟の台輔の使いがわざわざ訪ねてきて確認するほどの事でもない、と」

塞「…………」

純「俺と同じで、最近やってきた奴で気が合ったんですよ」

純「新人の官吏だと言ってた、あいつ。まだ自分の仕事に対して自信がないみたいで…」

聞いていた官吏の顔付きが険しくなる。

同じように聞いていた女怪も一つの結論にようやく達した。

ある意味で、菫の心配は杞憂に過ぎない。

女性はあの方の本来の立場を知らないで付き合っていた。

塞「…まずいね」

ふと聞こえて来た声は険しい顔付きに変わっていた官吏のものだ。

彼女は何かに思い至ったようで、背後の女性に向き直ると言う。

392: ◆CU9nDGdStM 2014/09/25(木) 01:02:27.48 ID:A3iTKDwJ0
塞「純は本当に、当たりを引く人というか…」

純「??意味がわかんねぇよ」

塞「詳細は聞かないよ、時間も無いし。ねえ、純」

塞「先ほどその方と会っていたと言ってたけど、別れた時の事は覚えている?」

純「あ、ああ。普通にさっきの事だからな。なんか暫くは仕事に打ち込みたいらしいから会えないって言われて」

純「じゃあ、俺も頑張れって言って。それで……そのまま別れ、ましたけど」

純「俺は真っ直ぐにここに来ましたし、あいつは自分の持ち場に帰っていった、と思います」

塞「お一人で?」

純「……別れた時は一人でしたけど。そういえば俺、あいつの同僚とかは見た事ないので」

女性からそこまで聞くと官吏は再びこちらを仰ぎ見る。迷わずに女怪に言った。

塞「単独で動いているのですか?」

官吏が何を尋ねたいのか、女怪は悟った。

彼女は、まだ気付かない長身の女性とは対照的に、先ほどの話の内容からあの方の正体に気付いている。

だから官吏の問い掛けに対して女怪は首を左右に振った。

400: ◆CU9nDGdStM 2014/09/25(木) 22:13:05.68 ID:A3iTKDwJ0
『台輔は預かり知らぬことでした。だから、とても心配していらっしゃいます』

塞「……なるほど。お一人で戻られたと純は言っていますが、それを見届けましたか?」

女怪は考えるまでもなく、首を左右に振る。

『私は台輔に命じられて彼女を追いかけてきましたから』

『…でも、あの方には台輔が向かわれたと思います』

塞「確認はしていませんよね?」

『ここにいる以上、できません』

官吏の指摘に対して、女怪は素直に頷いた。



純は塞が何を言いたのか、さっぱりだった。

むしろ突然現れた妖魔の言い分とて不明瞭で苛立つ。

それに、なぜあいつの……咲の話題がここで上がるのだろう?

あいつはただの新米の官吏なだけのはずだ。

そんな純の困惑を背に、塞はまた踵を返すと今度は少し離れた所に立ち、

こちらの話を興味深く聞いていた憧へと向き直る。

402: ◆CU9nDGdStM 2014/09/25(木) 22:18:08.51 ID:A3iTKDwJ0
塞「憧、先ほどの話。貴方が裏を取ったという首謀者達の人数はいかほどなの?」

突然話を振られた形になったが、物事に動じないと有名な秋官は余裕をもって答える。

憧「多いわよ。内宮に配備された夏官の三割と思っていい」

憧「ほんと塞の今までの苦労が手に取るように分かるわ、抑えようとしてもこれだから」

塞「……なら、20人弱程か」

確かに多いな、と塞は呟く。

そして彼女は次に踵を返して再び純に向き直る。

と、その隣に立つ誠子へと尋ねた。

塞「ここに来る前に、貴方に頼んでいた事は調べた?」

きっと誠子も純と同じ心地だろう。

突然塞に話を振られ、誠子は確かに困惑していた。

が、それも一瞬で、思い出した誠子はたどたどしい口調で答える。

誠子「あの事ですか?確認してきましたけど、確かに変でした」

誠子「今日、内宮の警備はいつも通りの配置のはずなんですが」

誠子「何ヶ所か見て廻ってきたけど、持ち場を勝手に離れている奴が多かった。軍じゃ絶対に考えられないですよ」

塞「………内宮でも絶対に考えられないよ。だからこそ、許せない」

今までで一番剣呑な塞の声。

吃驚して、思わず純は目を丸くしてしまった。

403: ◆CU9nDGdStM 2014/09/25(木) 22:22:35.08 ID:A3iTKDwJ0
広くなった視界の向こうで、塞はまた女の妖魔に向き直る。

塞「使令殿。手を貸して頂きたい、事は一刻を争います」

『………それがあの方と、台輔のためになるのでしたら』

塞「必ずなりましょう。いえ、ならなければいけない」

塞「そのために私共は動いていますから。……純、誠子」

純「な、何だ」

突如呼ばれて純は慌てて返事をする。

塞は順番に視線を滑らせると、堅い口調で命じてくる。

塞「すぐに働いてもらうよ、けど相手は多い。ここにいる使令殿のお力も貸して頂くから、失礼のないようにね」

塞「私の権限で応援も掛け合ってみるけど、すぐには無理かもしれない。だから貴方たちが頼みだよ」

力強く言われた。まだ困惑から抜け出せない純の言葉が掠れる。

純「……一体、俺達に何をしろって?」

尋ねながらも自分たちにできることなど、この剣の腕ぐらいしかない事は分かっていた。

塞「本来、貴方たちに頼もうとしていた仕事をやってもらうだけだよ」

純「………」

塞「純」

改まって塞より名を呼ばれた。

まだ混乱している思考だったが、それでも彼女に意識を向ける。

404: ◆CU9nDGdStM 2014/09/25(木) 22:29:16.96 ID:A3iTKDwJ0
彼女の鮮明な声が聞こえてくる。

塞「聞いたことはない?貴方たちは確かに直に拝見した事はないだろうけど」

塞「それでも、噂であれこの国の新たな王がどのような人か…少しは聞いた事があるんじゃない?」

純「………」

指摘された純は記憶を掘り起こしている。

そして、閃いた。

あれはいつだったか。……確かまだここに来る前に、そう。

理不尽に誠子と共に牢に繋がれたいた時に。

そこの牢番と交わした何気ない会話の中で聞いたような気がした。

ようやく立った王の話を。

あの時牢番はなんと言っていた?

確か―――年頃の少女であるらしい、と。


純「………!!」


純の脳裏に、茶色の髪の小柄な少女の姿が浮かびあがる。

符号が繋がっていく。

それに、咲は純に言っていた。自分もつい最近ここに来たのだと……

それはもしや、即位したから新たにここへとやってきたのだと、そう考えられないか?

405: ◆CU9nDGdStM 2014/09/25(木) 22:34:19.81 ID:A3iTKDwJ0
まさか、と。

すぐには信じられず、純は塞を見返す。

塞「それを確かめるためにも純と誠子は行って」

塞「その方が真実そうだとしても、違うとしても…馬鹿な考えの奴らが内宮をうろついているのならば」

塞「私は内宰として、そいつらを処断しないといけない」

純「………っ」

返事をする前に、勝手に体が動いた。

純は握り締めていた剣を鞘に収め、踵を返そうとしている。

なぜなら軍にいた頃のピリピリとした空気を、肌が思い出しているからだ。

上官に命じられたのならば、純はそれを遂行せねばならない。

後ろに誠子が続く気配を捉え、前方には先導する妖魔が待ち構えている。

純は突き進みながら、短く答えた。

純「分かった」

406: ◆CU9nDGdStM 2014/09/25(木) 22:41:03.29 ID:A3iTKDwJ0
思考が急激に冷えて、五感が研ぎ澄まされていく。

先程の話。

もはや相手も塞や憧に追い詰められて後がないのであれば捨て身だろう。

そしてその件にもしや……いや、もう確信に違いが。

純の知り合いである咲が関わっているというのなら。


塞「決して失う訳にはいかない」

塞「この疲弊した国がまたあの混沌とした時代に戻る事だけは…」

塞「なんとしても、阻止しなくては」


背中越しに聞こえた塞の声。

分かっている、そんなの………

純も絶対に御免だと思った。


■  ■  ■


407: ◆CU9nDGdStM 2014/09/25(木) 22:45:35.60 ID:A3iTKDwJ0
一通り泣き切るとすっきりした。

頬に出来た跡を拭い、咲は軽くそこを手の平で叩く。

衝動も収まり、泣いて昂ぶっていた気持ちも落ち着いた。

これならきっと大丈夫だろう。

気遣ってくれた使令がここに戻ってきたら、立ち上がって菫の元に行く。

遅すぎるのは分かっている、今更だけど。

それでも腹を決めて話をしに行こうと思っていた。

それが、ここまで自分を…咲を支えてくれた半身に対するせめてもの礼儀だ。

罵られても、何を言われても受け止める覚悟はできている。

散々泣いて色々と吹っ切れた。


そんな時、ガサリと音がした。

不自然な葉同士が揺れる音だから、もしや使令が戻ってきたのだろうかと思った。

頬を覆っていた手のひらを離し、音がした方に顔を向ける。
 
そこに想像した使令の姿は無く、人が佇んでいた。

408: ◆CU9nDGdStM 2014/09/25(木) 22:49:19.70 ID:A3iTKDwJ0
官吏「こんな所にいらっしゃいましたか。随分とお探ししました」

咲「………?」

ニコニコと人がよさそうに笑う、恰幅のいい官吏の姿だった。

咲があれ、と思ったのはその姿に見覚えがあったからだ。

咲「貴方は…」

確か、この前宮中で人に襲われそうになった自分を助けてくれた官吏ではなかったか?

声が届いたのだろう、反応を返すように官吏は目を細めると、恭しく一礼をした。

官吏「先日は、ご無事でようございました」

ニコニコ笑う顔が、本当に人の良さそうな雰囲気を醸し出している。

咲は「いえ、こちらこそ」と言葉を返したが……

何かが引っ掛かった。

まず不思議に思う。

なぜ彼は今、そこに立っているのだろうか?

咲ですらここが中庭のどこかも分からず辿り着いた場所なのに。

もしや、わざわざ自分を探していたのだろうか?


官吏「…お嘆きでいらっしゃたか。ご苦労されているのではありませんか?」

咲「あ、いえ…」

指摘されて、咲は慌ててもう一度目元の辺りを擦った。

409: ◆CU9nDGdStM 2014/09/25(木) 22:56:06.03 ID:A3iTKDwJ0
大分涙の跡は引いたと思ったが、それでも見る人によっては気付いてしまうようだ。

僅かに頬を赤くして、何でもないと伝えようとした。

が、その前に官吏は続けて言ってきた。

官吏「しかし、これからはご安心下さい。私共めがお側でお力添えさせて頂きますので」

官吏「涙を流させるような事は金輪際ございません」

咲「え?」

思わず咲はぽかんとしてしまった。

何か、変な物言いではなかったか?


咲がそう思った瞬間。

突如、官吏の背後より複数人の足音が聞こえた。

それはすぐに木々を掻き分け、芝生を踏み締めながら姿を現す。

新たにやってきたのは10人程だろうか。

その誰もが体格が良く、着ている物も文官系の眼前の官吏とは違い厳つい印象を受けた。

尚且つ、彼らはなぜか全員、帯剣している。

官吏というよりは、宮中を守る守備兵なのではないかと思った。

やっぱり変だ。

そう咲が結論付けた瞬間、官吏の自信に満ちた声がした。

440: ◆CU9nDGdStM 2014/10/02(木) 20:54:03.49 ID:mLIJsx1q0
官吏「私共は、お迎えに上がったのです」

言い切る声。それは反論を許さない圧力を感じさせた。

だからこそ先ほどの疑惑が蘇ってくる。

咲は従うべきではないと判断した。

何よりここを動くなと言われている。

使令が迎えに来るまで、他の誰とも咲は一緒に行きはしない。

そのための意思表示をする。

咲「結構です。私はここで供の者を待っているので、動くつもりはありません」

すると何故か官吏はうん、うんと頷く。

官吏「ええ、ええ。分かっております、あの恐ろしい台輔の妖魔の事でございましょう」

官吏「本当にいつの時も貴方の側に控えていて、邪魔で仕方無かった」

咲「…………」

官吏「こうして、僅かでも離れてくれる瞬間を待っていたんです」

官吏「折角顔を覚えて頂いたのに、貴方にはいつの時もあの小憎たらしい、融通の利かぬ台輔が」

官吏「またはその手の妖魔が付いていましたから。こうしてお一人になられる瞬間をずっと待っていたのです」

ニコニコ笑いながら言い続けているが、それは笑って言う内容ではない。

鈍い咲とて、これで気付けた。

徐に座っていた岩より腰を上げる。

441: ◆CU9nDGdStM 2014/10/02(木) 20:57:32.47 ID:mLIJsx1q0
自分でも不思議だが、驚く程鮮明にこの状況を把握し、官吏達と対峙する決意をしていた。

だって許せないだろう。

咲「随分な言い様ですが……私からすれば、彼女達にはたくさん助けてもらってます。感謝もしています」

咲「彼女達の事を貶す言葉、訂正して下さい」
 
はっきりと言い返す。

と、ようやく官吏の顔から笑顔が消えた。

変わりに随分と哀れんだ表情をされる。

官吏「騙されているのです、貴方様は」

官吏「だってあの者達のせいで、辛い思いをしていらしたのでしょう、ここで泣いていらっしゃったのでしょう?」

咲は変な所を見られたと恥じる。

だが気を取り直すと官吏に向かって、首を左右に振り否定した。

咲「違います。これは私の不甲斐無さが許せずに泣いていただけです」

官吏「そんな………王である貴方様が、そう畏まること事態がすでに可笑しいのです」

官吏「悩む必要はございません、何かに手を煩わす事も無い。貴方はこの国では誰よりも高い地位におられるのですから」

官吏「そのためのお手伝いをさせて頂きたいのです」

咲「必要ありません。私は、私を支えてくれる人達と一緒にこの国の事を考えていきたい」

咲「貴方の言っている方法では、まるで私は真綿に包まれて何も考える必要がない、虚像の王ではありませんか?」

官吏「…………」

442: ◆CU9nDGdStM 2014/10/02(木) 21:02:06.89 ID:mLIJsx1q0
咲の言い分は真っ当だ。

だからこそ、それを聞いた官吏の表情からは哀れむものすら立ち消える。

後に残ったのは無表情なそれ。

そして、その声も感情が抜け落ちたようだった。

官吏「やはりあの綺麗ごとばかりぬかす麒麟が選んだ王だ」

官吏「見た目もか弱いから、煽てていればこちらの意のままになると期待したが……もはや手遅れだったか」

先ほどとは正反対の態度。

おそらくこれが官吏の本性なのだろう。

咲「貴方達はなぜそこまで菫さんを、台輔の事を厭うのですか?彼女はいつだって誰よりもこの国の事を想って…」

官吏「それが綺麗事だというのです!」

官吏「正論を掲げて、その通り物事が進むのなら主上がおらずともこの国はここまで荒廃する事はなかったでしょう」

官吏「そして、それは私共にも同じ事が言える」

咲「……そんな。今からでも、心を入れ替えて」

官吏「できるはずがない。正規の王がいて、正道を進もうとする国でどう生きていくかも分からない。資格もないでしょう」

官吏「……様々に手を染めてきましたから。だから我々に逃げ道はないんですよ」

官吏「反抗的ではあったが今まで大人しかった内宰も扱い辛くなってきた。それにあの裏切り者のせいで司刑を担う秋官にも感付かれている」

官吏「こうなったら、もう最高権威である貴方を手中に収めるしか、私達には生き残る道がない」

咲「………」

443: ◆CU9nDGdStM 2014/10/02(木) 21:05:51.36 ID:mLIJsx1q0
咲は絶句する。

自分たちの保身だけに走る官吏の姿勢、それは身勝手と言い切っていい。

官吏「本当は、懐柔したかったのですが。……無理ならば」

そう言って官吏は背後の兵士から鞘に包まれた刀身を受け取る。

鈍い輝きが目に刺さった。

官吏が抜き取ると、背後の守備兵達も得物を手に取る。

普通の剣ではなくて、なにか細かな細工が施されたものだった。

官吏「王はもはや神と同等です。ただの武具では御身に傷一つ負わせられないでしょう」

官吏「でも、これはそんな不死者に対峙するための武具です」

咲「……冬器、ですか」

官吏「よく学んでいらっしゃる。それならば話が早い」

咲「私を脅すのですか?」

官吏「脅すだけにさせて頂きたいものです」

官吏「貴方が私共に組して頂けるなら………気に入らぬ台輔とて、いずれはこちらに従うしかないでしょうから」

麒麟は王にだけは逆らえないから、と官吏は笑う。

咲は眩暈を覚えた。

と、同時に今までの様々な出来事が鮮明に脳裏によみがえってくる。

444: ◆CU9nDGdStM 2014/10/02(木) 21:11:31.83 ID:mLIJsx1q0
こうして眼前の官吏と対峙した今、咲の胸中は悲しみに満ち溢れていた。

だって、話していて官吏の口からただの一度もこの国に対する憂いを聞くことはなかった。

ただその保身のためだけに彼らは動いている。

咲が脅しに屈して彼らに従ってもこの国は変わるのだろうか?

いいや、変わらないだろう。

むしろ天は咲を見放すと思う。

きっと、それでは咲が願った世界は永遠に訪れないだろう。

かつて陰の如く生きていた自分のような境遇の人を生み出さないためにも、

この国は彼らが捨てられない悪習を捨てて生まれ変わらなければならない。

そのために智美達や、半身である菫はこの身を支えてきてくれたのだから。

ならば彼女らのためにも咲が今、眼前の官吏達に言い返す言葉は決まっているだろう。

官吏「主上、どうかご一緒に」

冬器をちらつかせて、官吏が咲へと言い寄ってくる。

もはや脅しに違いない。

445: ◆CU9nDGdStM 2014/10/02(木) 21:16:08.01 ID:mLIJsx1q0
自然と咲の腹に力が籠った。

そして考えるよりも早く、反射的に唇が開く。


咲「お断りします」


多分咲はこんなにも明確に、相手に向かって意思表示をしようとしたことはないだろう。

それでも彼らに屈しないために、今言い切らねばならないのだと分かっていた。

身勝手な官吏達に組しろと脅されて。

それに対して「断る」と。

はっきりと力強い声で咲は言い返した。

 
官吏「………」


咲の言葉を聞いて、官吏は笑った。

もしかしたら彼は咲がそう答えるのを分かっていたのかもしれない。

そして咲が答えた事が次の場面へと移り変わる合図の一つでもあった。


官吏らが、目の前で冬器を構えるのを咲は見ていた。


■  ■  ■




446: ◆CU9nDGdStM 2014/10/02(木) 21:22:29.26 ID:mLIJsx1q0
塞との話し合いも随分前に終わり、今までその内容を自分の部屋で纏めていた。

それが出来上がったから携えて、のこのこやってきた訳だが。

あれから時間も経ってるし、報告するべき人物はきっといるだろう。

と、智美は内宮にある台輔の居室へと続く通路を歩いていた。

奥まったそこはまだ行き来する人の数は少ない。

正寝だけは、台輔である菫の権限で信頼の置ける者しか入れないようにしているからだ。

だから本心では守備の点でかなり不安は抱いていた。

信頼できる者だけになると、どうしても人手が足りないのだ。

まぁ、そんな心配は内宰の塞との調整が済めば今より安心できる環境にはなるだろう。

塞の言動と姿勢から分かるが、あの官吏は信用しても良いと思う。

そのための努力もしてくれている。

なにより信頼できる仲間ができるのは本当に有難いのだ。

一人で色々な事を考え続けるのには限度がある。

智美とてそのための努力を怠る気はないが、所詮、生身の体だ。

仙籍にいるとはいえ、疲れない訳もない。

それに今はまだいいがこの状態が長く続けば、いつかは判断に躓く時が来るかもしれない。

智美(それまでに、もう少し内宮自体を綺麗にできればいいんだが)

安堵してぐっすり眠れるぐらいになってくれれば尚良い。

447: ◆CU9nDGdStM 2014/10/02(木) 21:27:34.54 ID:mLIJsx1q0
うんうん、と一人頷きながら何度目かの通路の角を曲がる。

ふと視線の先に違和感を覚えた。

遠目だったが、それが何なのかすぐに分かった。

今までの思考が一気に吹っ飛んでしまう。

慌てて人気のない通路を横切り、違和感の正体元へと辿り着いた。

智美「ちょっ……!?菫ちん、どうしたんだ!!」

人気のない通路の途中で蹲っている菫の姿が見えた。

智美は手に持っていた荷物を足元に置くと、蹲る菫を助け起こそうとする。

そして気付く。菫を支えるために触れたその肩が小刻みに揺れている事に。

智美「…菫ちん」

一体何があった?

智美が問いかけた瞬間、支えようと伸ばした腕を反対に掴まれた。

そして今まで俯き加減だったその顔が僅かに上がった。

額や米神に脂汗が浮いていて、どこか朧気に智美を見上げる紫色の瞳は必要以上に潤んでいる。

菫「見つけ出せない……駄目だ、どこに……」

智美「え?」

聞こえてきた声は、断片的過ぎて智美はすぐに理解できなかった。

そんな智美の困惑などお構い無しに菫は言い募ってくる。

菫「さっきまで確かに目の前にいたのに。でも、消えた………」

菫「私は、探したいのに、胸が苦しくて……集中できない」

智美「……菫ちん?」


菫「――――王気を、辿れない」


454: ◆CU9nDGdStM 2014/10/09(木) 20:28:32.72 ID:vLZI3mTE0
待て。今何と言ったか。

ぶわりと額に冷や汗が噴き出る。

智美は顔を上げて周囲をぐるりと見渡す。

人気のない通路は先ほどと変わらない。

他者の気配も感じ取れなかった。

智美「………」

所詮人の感覚ではあるが足音一つ、物音一つ聞き取れないのなら近くに人はいないだろう。

果たして菫がこの状態になってからどれくらいの時間が経ったのか。

自分が菫と別れてから、今までの時間を考えるとかなり経っている。

動かなくては。

決意すると同時に、智美は今だ自分の腕をギリギリと掴んだままの菫に目を向けた。

智美「菫ちん、分かった。すぐに探す」

智美「必ず見つけるから、私の腕を離してくれ。手配してくる」

菫「………」

強めの言葉で言うと分かってくれたようで、

掴んでいた彼女の腕がゆっくりと離れていく。

そのまま再びそこに蹲るように顔を伏せてしまった菫に

「ごめん、もうちょっとここで待ってて」と言い置くと、

智美は屈み気味だった体躯を起こして踵を返す。

455: ◆CU9nDGdStM 2014/10/09(木) 20:34:54.60 ID:vLZI3mTE0
再び人気の無い通路を智美は急いで引き返した。

ここから一番近い詰所に駆け込み、そこにいた守備兵に事情を掻い摘んで話し指示する。

守備兵から官吏を含め、この正寝で働いている人々は信頼できる人間だ。

が、いかんせん数が少な過ぎる。

念のため自室に戻っていないかを調べさせたが、無人だったと言う。

探す範囲が広がった。

だが圧倒的に人手が足りない。

だからと言って外部に助けを求めるか?

いや、それこそ本末転倒だ。

以前の襲撃未遂事件の真相もはっきりと解明していないから、

むしろ更なる愚行を助長させてしまうのではと智美は危惧する。

それに、もしも今回も未遂で終わったしても

こちらの足元を見られてしまうかもしれない。

信頼の置けない奴に貸しを作るなどもっての他だ。

後に何を要求されるか分かったもんじゃない。

智美は指示を出し続けながら必死に考える。

せめて内宮から出ていないと思いたいが……

456: ◆CU9nDGdStM 2014/10/09(木) 20:38:14.72 ID:vLZI3mTE0
考えている間に、使いに出していた一人が戻ってきた。

智美「内宮の守備兵が、何人か消えている?」

所詮王と台輔の居住空間であるこの場所の話ではなかったが、同じ内宮での話だ。

守備面で落ち度があってはならないだろう。

なのに要所要所を守護するはずの兵士が数人、

持ち場を離れてしまって騒ぎになっているという。

智美「………?」

時機が悪い、というか。

こんな時に他の不安要素など抱えたくもなかったが。

内宮の大事であれば……と、ある人物が脳裏に浮かんだ。

内宰である塞ならば、その騒ぎの何かしらを知っているのではないか?

元々彼女は内宮の不安要素に頭を痛めていた。

手の内に余る事案があると言っていたから、協力し合えるかもしれない。

ついでに人手も貸してくれると大変有難い。

他を頼るよりかは、まだ信頼できる人柄でもある塞を頼りたかった。

先程戻ってきたばかりの使いの者を労ってから

すまないが、と今一度の使いを頼む。

快く引き受けてくれた姿に多少は励まされながら塞との取次ぎを頼んだ。

内宮で起こっている混乱の訳と、人手を貸して欲しいという旨だ。

それが済んでから、一度菫の元に戻る事にした。

457: ◆CU9nDGdStM 2014/10/09(木) 20:41:27.01 ID:vLZI3mTE0
本当は智美とて主である王の捜索に参加したかったが。

同様に麒麟の少女の事も心配だった。

なによりあの菫の状態を支え元に戻してやることこそ、

王を探し出す一番の近道にも思えたからだ。

その場の指揮を他の官吏に任せ、菫の元へと急いで戻る。

先に菫の世話をする女御を向かわせてはいたから、どうにか居室までは移動したらしい。

先ほどまで菫が蹲っていて、今は無人になった通路を突っ切り智美は彼女の居室へと辿り着く。

そのまま奥に進んでいくと……いた。

菫は用意された椅子に座ってはいたが、先ほどと状態は同じに見える。

蹲っていて両手で顔を覆い俯いてしまっていた。

その側には心配そうに女御が寄り添っている。

彼女は近付いてくる智美の気配に気付いたのだろう。

顔を上げてこちらを認識すると、少しだけ安堵したように表情を緩めた。

智美は視線で彼女に相槌を打つと、蹲るその姿の傍らに膝を落とした。

内なる衝動を抑え込むように顔を伏せるその姿、菫の肩は小刻みに震えていた。

智美「………」

458: ◆CU9nDGdStM 2014/10/09(木) 20:43:31.14 ID:vLZI3mTE0
智美は側に控える女御に、菫を落ち着かせるために温かい飲み物を持ってきてくれないかと頼んだ。

本当は彼女だって心配しているだろう。

でも聡い彼女は余計な事を言わずに頷く。

「用意してきます」と一言だけ告げて、女御は静かに部屋を後にする。

遠ざかって行く足音を背に、智美は穏やかな声を心掛けて菫に伝える。

こうも動揺が酷い菫に更なる負担を掛けたくはなかった。

けれど現状を変えるためにはどうしても彼女に伝えねばなるまい。

智美「主上を探すよう、皆に頼んできた」

菫「……っ」

顔を伏せたままの菫の体が大きく揺れた。

そんな彼女の様子を見つめながら智美は思う。

あの菫が、こんな気弱な姿を他者に晒してしまう程の決定的な行き違いが王と麒麟の間にあったのだと。

彼女にしてみれば、本来の麒麟としての能力を阻害してしまえるほどの事。

しかし第三者である智美にしてみれば、彼女らの行き違いは些細なものだった。

互いの事を尋ねても、互いを大事に想っているのは聞いていたし。

ただどっちも奥手で距離感を計りかねているのは少し気にしていた。

それでも歩み寄ろうとしている姿勢を知り、それをニヤニヤしながら見送っていたものだから。

きっと彼女らの誤解なんてすぐになくなるだろうと智美なりに楽観していたのだ。

459: ◆CU9nDGdStM 2014/10/09(木) 20:47:06.60 ID:vLZI3mTE0
自分は他に考えなければいけない心配事もあったし、溜まっていた仕事に忙殺されてもいた。

……なんて、この姿を前にしてみれば言い訳にしかならない。

少し自己嫌悪を覚えた。

が、頭を軽く左右に振ってそれを振り払う。

後悔するのは後だ 、彼女らを支えると心に決めたのだから。

今できる事をしなければいけない。

そして今、優先しなくてはいけないのは消えてしまった王を探し出して保護する事だ。

この国のためにも、それは急務だった。

故にこんな状態の菫には酷だとは思うけれど、智美は彼女に言わなければいけない。

立ち直ってもらわなければいけない。

仲間達は必死に王を探してくれている。

だけどそれよりも確実に辿り着く方法をこの麒麟の少女だけが知っている。

智美「必死に主上を探している。けど今の宮中は不安定だ、この前の事件の全容だって分かっていない」

智美「そんな中で探すのにも限度がある。私達はまだ人手が足りないんだ」

智美「なぁ、菫ちん。私が何を言いたいのかわかるよな?」

顔を覆う菫の手の中より、すぐに苦しげに声が聞こえてくる。

菫「……駄目だ、だってあの方の意志で……いなくなったんだ。私は……」

智美「それでも探さなきゃいけないんだ。…何があったのか聞かない。王と麒麟の問題だ」

智美「だけど何があったにせよ主上だけは守らなくちゃいけない。この国のためでもあるけど」

智美「なによりこうして苦しんでいる菫ちん自身のためにも、もう一度会って話さなきゃ駄目だ」

460: ◆CU9nDGdStM 2014/10/09(木) 20:51:38.28 ID:vLZI3mTE0
言い聞かせるように智美は言う。

けれど目の前の頭が左右に振れる。

できない、という仕草。

彼女は途切れ途切れに呟いた。

菫「………私はきっとまた間違ってしまう。いつも、こうだ」

菫「望んでいても、何もできない。麒麟だと持て囃されていても、私に誰かを救えた事があったか?」

菫「だからあの人も、あんな声を残して……私の前から消えていってしまった」

その詳細までは分かるまい、今の菫の状態ならば説明もできまい。

彼女は酷く混乱している。

けれど菫が言った情景が鮮明に智美の脳裏には浮かんだ。

やっぱり行き違いがあったのだろう、彼女の不器用さは折り紙付だ。

だから智美は素直に相槌を打つ。

智美「そうだな、菫ちん。私も今まで何回も言ってきたよな。どうしても菫ちんは相手に伝える言葉が足りないって」

智美「尚且つその無愛想も相成ったんじゃあ相手が誤解してしまっても仕方ない、委縮だってしてしまうかもしれない」

菫「………」

智美「でもさ。菫ちんがそうやって相手に言葉を伝えるのを諦めるようにしてしまったのは、きっと私達のせいなんだろう」

智美「私を含めたこの国も民も今まで随分病んでいたから。ずっと正しい事を言う菫ちんの言葉を聞こうともしなかった」

智美「だから……菫ちんは表情を失い、口数も少なくなっていった」

何をしても、言っても、無駄だと思わせてしまった。

461: ◆CU9nDGdStM 2014/10/09(木) 20:55:29.52 ID:vLZI3mTE0
智美は初めて菫を見た時の事を思い出す。

鋭い眼差しを周囲に向け、他者を寄せ付けないようにして佇む姿が鮮明に浮かぶ。

麒麟の癖にあんな冷たい姿勢へと追い詰めてしまったのは、紛れもないこの国だ。

智美「王と台輔の行き違いを生んでしまったのなら、それは菫ちん一人の責任じゃない」

智美「私を含め、この国全てに責任がある」

一人で抱え込まないでくれ、と智美は言う。

すると見つめる先の顔を覆う白い手が浮こうとする。

智美はそれを更に促すために彼女へと伝える。

智美「顔を上げてくれ、菫ちん」

智美「菫ちんが周囲に絶望して何もできないと嘆いても…それでも私達に、王という希望を与えてくれたじゃないか」

少なくともそのお陰で智美はこの国は未来を描けると知った。

生まれてこのかた、近場の役所の末端まで不正に塗れた国の姿しか知らなかった。

それが当たり前だと思っていた。

けれど違うと教えてくれたのは、紛れもない、それを正そうとしてきた菫の姿を見たからだ。

そんな彼女が、天意を得た王をこの国に与えてくれた。

見た目はか弱いが、菫と同じぐらい誠実で、努力を知る人だ。

そんな王を支えていくことができれば、智美の故郷にいる両親のように

真っ当に生きる人達が真っ当に評価される国へと変えていく事だってできるはず。

それは本当にすごい事なのだと智美は思う。

462: ◆CU9nDGdStM 2014/10/09(木) 20:59:14.94 ID:vLZI3mTE0
菫「…………」

目の前の俯いていた体躯が揺れた。

その顔を覆っていた手がゆっくりとした動作で降ろされる。

そして菫は伏せていた顔を上げた。

顔を向き合わせる形になったから見えた表情に、智美は思わず苦笑を浮かべてしまった。

泣きそうな一歩手前の弱々しい顔。

こんな姿も、他者を寄せ付けなかった菫の本来の姿なのだろう。

元来、麒麟とは優しい生き物だ。

この姿をどうか王であるあの人にも分かって欲しい。

孤高で、他人を寄せ付けない姿勢だけではないから。

所詮、彼女も神獣ではあるが、こんなにも人と変わりない。

きっと支え合わなければ生きていけない。

それはこの国も同じだったから……それができなかったから、今まで酷く歪んでいた。

智美「折角宿った希望を、希望だけで終わらせないでくれ。この国も、未来があるのだと信じさせて欲しいんだ」

智美「菫ちんにしてみれば、私らの言葉なんて今更虫が良過ぎるかもしれないけど」

見つめる先の、紫の瞳が細められる。

菫「………………いや」

掠れた声、続けて「そんなことは、ない」と。

首を左右に振ってくれた。

463: ◆CU9nDGdStM 2014/10/09(木) 21:02:32.84 ID:vLZI3mTE0
やはり麒麟だなと思う。

そんな姿に感謝を抱く一方で、このまま悠長に会話を続けていられない現実があるのも忘れていない。

彼女を気遣いながらも、今一度改めて頼んだ。

智美「なら、やってくれるか?」

菫「………」

いなくなってしまったという王の、その王気を麒麟だけが感じ取る事ができる。

確かに人手を上げて王を探してはいるが、もっと早く確実なのはやはり麒麟の導きだろう。

智美に言われ、意を決したように菫は赤くなった瞼を閉じた。

そのまま黙り込んで数秒、神妙な顔付きなっていたそれが、途中で不自然にぐにゃりと歪んだ。

智美「菫ちん」

思わず智美は彼女の名前を呼ぶ。

菫は片腕を上げると、自分の胸の上の辺りを搔き毟るように掴む。

智美「大丈夫か?」

心配して問い掛ければ菫は胸を抑えながらも浅く頷いた。

再び薄ら開いた瞼の向こうに、苦しみからか揺れる紫の瞳が見える。

菫「……怖いんだ、私は」

表情と同じぐらい苦しげな菫の声。

智美「?なにが」

問えば、菫はそのままに苦く笑う。自嘲気味と言っていい。

464: ◆CU9nDGdStM 2014/10/09(木) 21:05:43.32 ID:vLZI3mTE0
菫「お前は私をそんなにも買って言ってくれるが。そんなに褒められたものでもないんだ」

菫「見ろ……たかが一人に拒絶される瞬間が怖くて、この様だ」

智美「………」

菫「気高くも無い、むしろ浅ましい」

菫「……私はな。お前とあの方との遣り取り一つすら妬んでいた」

菫「だってお前は身構えたりされないだろう?あんなに気安く言い合えるのに…なぜそれが私にはできないのかと」

智美「菫ちん……」

菫「王と麒麟だ、誰よりも近いはずだ。誓約を交わした時に、私はそれが真実だと確信した」

菫「でも今は分からない…自信が無い。だってあの方は、お前やあの女のように…」

菫「私に、笑いかけてはくれなかったから」

羨ましかったのだ。無性に。

そう思った瞬間、胸の内が苦しくなったと言う。

今まで辛い事があっても氷のような心を確立させ、遣り過ごしてきたのに。

今回に限って、王であるあの人が絡む限り、それができないのだと菫は吐き捨てる。

智美にしてみればそんな彼女の姿は、麒麟と言う神獣ではなくむしろとても人間味に溢れている。

思わず感慨深く言ってしまった。

465: ◆CU9nDGdStM 2014/10/09(木) 21:09:58.33 ID:vLZI3mTE0
智美「菫ちんも、可愛い所があるんだな」

菫「……お前な」

気弱な声の中に、瞬時に剣呑なものが混じる。

智美は慌てて冗談、冗談!と誤魔化した。

少々落差が激しすぎやしないか?と智美はため息を吐く。

どうやらあくまでも菫を混乱させてしまうのは、良いも悪いも主である王なのだという言う話。

ならば智美は何をするべきなのか明白に分かった気がした。

気安い空気のまま、智美はあえて笑って彼女に言う。

智美「ならさ、今の菫ちんの本心を一度でも主上に言った事はあるのか?」

菫「……こんな情けない話、言えるはずが無い」

にべもない。ある意味今までの菫らしい態度ではあるが。

智美は首を左右に振って言い返す。

智美「情けなくない。それにさっき言ったよな」

智美「菫ちんはさ、相手に気持ちを伝える事に消極的になっていたんだろうって」

菫「…………」

神妙な顔付きになった菫は数秒の無言の後、短く「わからん」とだけ言う。

ならば智美は更に補足してやるまでだ。

智美「私は今までの菫ちんを見てきてそう思うよ。どうせ言っても無駄だろうって態度」

智美「でもさ、あの人は今まで菫ちんが見て、言葉が届かなかった人達とは違うから」

466: ◆CU9nDGdStM 2014/10/09(木) 21:13:13.87 ID:vLZI3mTE0
智美「麒麟に選ばれて、それに驕るでも無く、むしろ恥じないよう努力を続けていた」

智美「確かにまだ頼りないけど、いい人だ。まぁそんなの一番に見てきた菫ちんなら分かってるよな」

菫「私は……」

ぎこちない声。もしまだ否定する言葉を吐き出すようなら、と。

先手を打って智美は言った。

智美「諦めないでくれよ。今までは無駄だったかもしれないけど、これからは違う」

智美「言わないと伝わらない事はたくさんある。…今みたいに、たとえ行き違いがあったって」

智美「またその気持ちを伝えればいいんだからな」

菫「…………」

目の前で完全に菫は押し黙ってしまった。

だがその胸の上を抑え込むようにしていた腕が解かれ、降ろされる。

淡々とした仕草に智美は心配になって問い掛ける。

智美「……やっぱり言いたくないか?」

すると菫は確かに首を左右に振る。

菫「……お前の通りになったらいいな、とは思う。けれど私は、あの方に逃げられてしまったんだ」

智美「なら尚更追いかけて本心を伝えなきゃだめだろ?」

間髪入れずに智美が言い返す。

菫は僅かに目を見開いた。

467: ◆CU9nDGdStM 2014/10/09(木) 21:15:27.33 ID:vLZI3mTE0
そして今度は瞼を開けたまま、何もない宙を見上げた。

智美はその仕草に見覚えがあった。

王気を探す仕草だ。

今度は胸の痛みに苦しまずに集中できているようだ。

暫くの後、菫は徐に座っていた椅子より立ち上がった。

智美も彼女に倣って、床に付けていた膝を延ばして立ち上がる。

我慢できずに「どうだ?」と問い掛ければ。

菫は宙を見上げていた瞼を閉じて頷いた。

智美からは大丈夫、という仕草に見えた。

事実、彼女は言う。

菫「………行ってくる。伝えに」

そっか、と智美は破顔した。

つまり彼女は王の居場所を掴んだと言う事だろう。
 
と同時にどこからともなく声がする。


『その言葉を聞いて、安堵いたしました』

468: ◆CU9nDGdStM 2014/10/09(木) 21:19:06.01 ID:vLZI3mTE0
智美は慌てて周囲を見渡す。

先ほど退室した女御が帰ってきたのかと思ったが、彼女の声でもなかった。

しかし周囲には誰の姿も無い。

智美「……?」

頭を捻るがそれでも危機感を抱かなかったのは、

同じように声を耳にした菫が全く動じてなかったからだ。

彼女はむしろ聞こえてきた声の存在を把握しているようだった。

少し離れた床に視線を落としそこへと言い放つ。

菫「お前……戻ってきたのか」

『むしろ、お迎えに上がったと言った方が正しいかと思います』

その瞬間、菫が見下ろしている床の辺りが不自然に波打つ。

ぐにゃりと水面のように揺れると、そこから大きな獣の体躯が這い上がってきた。

さすがにその姿を見れば智美とて理解する。

聞こえてきた声は、妖魔だ。

しかも神獣である麒麟に仕える菫の使令に違いない。

完全に床の上へと這い上がってきた使令は頭を下げながら言う。

『台輔、まずはお詫びを』

『姿を見せず陰ながら主上をお守りするように命じられていたのに、その主命に背きました』

智美には意味が分からなかったが、聞いていた菫はハッとしたように蒼褪める。

469: ◆CU9nDGdStM 2014/10/09(木) 21:22:36.83 ID:vLZI3mTE0
菫「あの方の前に姿を現したのか?お前は以前…!」

『はい、伝えたのですが主上は構わないと仰って下さいました。以前の無礼もお許し下さいました』

『ですから、こうしてあの方の願いを台輔にお伝えしに戻ってきたのです』

菫「…願い?いや、あの方は今…中庭の方にいるのは分かっているが」

『ええ、ご安心下さい。今は長く使われていない奥の東屋にいらっしゃいます』

『あの場所なら庭師ぐらいしか知らないので安全です』

『無理にお連れしなかったのは、今まで涙を流しておられたので…』

菫「…っ」

菫が息を呑む気配が伝わってくる。

確かに動揺しても仕方がない。

不意打ちだったせいか智美とて胸が締め付けられる感覚を覚えた。

王である少女の姿が脳裏に浮かぶ。

あの朱色の瞳いっぱいに涙を溜めた姿を想像すると心がざわついた。

智美でもこうなのだから、案の定、菫の必要以上に堅い声が聞こえる。

菫「……私のせいか」

涙を流すほどに、あの方を傷つけてしまったのか。

だが対して使令は「誤解なされませんように」と言う。

『主上は今までのご自分を嘆き、ただ台輔の事を案じておられた。まだ間に合うのかと』

菫「……間に合う?」

『今まで言えなかった事を伝えて、聞けなかった事を聞きたいのだと』

『まだ間に合うのならば、台輔ともう一度話をしたいのだと主上は仰っておいででした』

菫「………」

470: ◆CU9nDGdStM 2014/10/09(木) 21:26:03.88 ID:vLZI3mTE0
菫は押し黙った。

が、今まで纏っていた緊張が薄れていくのはよく分かる。

思わず智美は笑いながら彼女に目を向けた。

智美「やっぱり主上と菫ちんとはどこか似てるな。同じ事考えてる」

智美「なぁ、行こう」

菫「……………ああ」

促す言葉に対して、素直に菫は頷く。

頷いて俯いてしまったからその表情までは見えなかったが、

髪からのぞく耳朶が赤くなっていた事には気付いていた。

さすがにそれには突っ込まないでいてやったけれど。

数秒の後、気持ちの整理がつき俯いていた顔を上げた菫は。

落ち着いた表情で「迎えに行こう」と告げた。


■  ■  ■


471: ◆CU9nDGdStM 2014/10/09(木) 21:29:24.55 ID:vLZI3mTE0
鞘の先を地面に押し当てて、誠子はそこに簡単な地図を書く。

大雑把な内宮を示したものだ。

出来上がりそうな頃に、誠子は傍らで憮然とした面持ちでそれを見守っていた純に言った。

誠子「本当に動くのか?台輔の使令をここで待ってた方が確実じゃないのか?」

誠子「あの妖魔も言ってたじゃないか。麒麟は王の居場所が分かるんだって」

純「…で、どのくらいで麒麟に確認して帰ってくんだよ、わからねーだろ。んな悠長な事してられっかよ」

純「第一、お前塞に言われて内宮の守備兵の配置確認したろ?」

純に言われて、地面に地図を引き終えた誠子は頷く。

誠子「まぁ、把握はしたな」

純「なら俺が言いたい事も分かるはずだ。…目星つけて、動いた方が速い」

吐き捨てるように言う純の姿に苛立ちが浮かぶ。

それを一瞥した誠子は諦めたように肩を竦めた。まぁいつもの事だ。

軍で卒長を務めるようになってからは分別を覚え、無謀は控えていたが。

元来純は喧嘩っ早いし、堪え性も無い。

だが勘はいいし判断力と行動力も優れている。

それで戦場において誠子は何度か命拾いもしていた。

こいつなら、本当に王の命すら救うかもしれない。

所詮、誠子とてここにやってきた時点で覚悟は決めている。

だから口では嫌々「仕方ない」と言いながらも、

喜々として手に持っていた鞘で再び地面を指し示した。

472: ◆CU9nDGdStM 2014/10/09(木) 21:33:13.59 ID:vLZI3mTE0
誠子「憧だっけ、あの官吏が言っていた人数とは多少の誤差はあるな」

誠子「ここと、ここと、こっちもだな。2~3人ずつ消えているのはなんでだと思う?」

純「……少人数で行動してんなら、何か探してるんだろ」  

純は言い切り、誠子も頷いた。

索敵の際、敵に見つかる可能性も考えて3人が限度だ。

誠子「何を探しているのかは…明白だな。で、次に考えるのは奴らが動いている経路だ」

誠子「例え少人数で移動していても、最後に落ち合う場所が必要になるだろうし、それはどこなのか?」

誠子「なんて話だが、事は単純だ。こんなの全体の地図と兵士の配置さえ頭に入っていれば、おのずと予想は付く」

地面に架かれた地図の一か所に鞘の先を当てる。

誠子「まずは兵士が消えた場所は除外すべきだな。戻って来た報告もなかったようだし、何より周囲が異変に気付いて騒ぎ出した」

誠子「ここまで騒ぎが大きくなったんなら、奴らももはや目的を果たして奴らなりの保険を手にしなきゃ姿は現さんだろう」

純「…………」

誠子「王と台輔がいる正寝も除外だ。きっと他よりも王や台輔に対する警備の目は厳しいし、注目もされる」

誠子「そんなとこにわざわざ出向いて行く馬鹿はいない」

言いながら地図の要所、要所を鞘の先で潰していく。

すると、おのずと地図の空白の部分は限られてくる。

それを見ていた純は呟いた。

純「…守備兵も、意外と万遍無く配置してたんだな」

誠子「ほんと、長く干渉され続けた結果だな。“塞の苦労が手に取るように分かる”とあの官吏が言っていた通りだ」

473: ◆CU9nDGdStM 2014/10/09(木) 21:37:08.81 ID:vLZI3mTE0
誠子「まぁ軍も散々だったが、ここも似たようなもんだな」

誠子「主上がいなければ、きっと守備兵の失踪とて有耶無耶にされていたかもしれねぇ」

純「ヒデェ話」

誠子「違いない。しかし…塞の読みだが、奴らの目的」

誠子「肝心な主上が、本当に安全な場所を抜け出してわざわざ単独で行動していると…お前も思うのか?」

そっちの方が信憑性が薄いのでは?と、誠子は思う。

だって信じ難いだろう、一国の王が一人で歩くなどと。

軍にいた頃だって、将軍などは身辺を守護するために必要以上に兵を侍らせていた。

その光景が頭にあるから、誠子はどうにもしっくりこないのだ。

けれどそんな話をじっと聞いていた純は言う。

純「王って言っても、麒麟に選ばれるまでは普通の奴と何ら変わらねぇだろ」

純「ここでも軍でも、他人の苦労の上で踏ん反り返ってるようなツラの皮の厚い奴らとは…多分違う」

純「今の自分に対して失望もするし、これからの未来に不安だって持つ。それが一国を支える王となれば、尚更だ」

純「だってよ、悩んでて、できる事を探したいって言ってた。…ああ。だからあいつ、自信がないって言ってたのか…」

誠子「…?」

純の殊勝な言い様にも驚いているが何より、彼女の言葉の最後が気になった。

誠子に伝えるというよりは、まるで純自身に言い聞かせているように聞こえたからだ。

474: ◆CU9nDGdStM 2014/10/09(木) 21:41:46.74 ID:vLZI3mTE0
そういえば、誠子からすれば起こっている事件に対して断片的な情報しか入ってこない。

さっきの塞の執務室での出来事だって、なぜ妖魔は純を追って来たのだろう?

彼女らは何か言っていた。塞も純も、妖魔との話の筋は通っているようだった。

その妖魔は台輔の使いでもある。

誠子「……まぁ、いいさ。主上でも台輔でも恩を売れるのなら、私らの未来も安泰だからな」

軽い気持ちで言うと、純は顔を顰めた。

多分誠子の言い方が気にいらないという事だろうが、

結局彼女はその事に対してそれ以上突っ込んでこなかった。

ただ舌打ちだけすると、足元の地図を見ながら言う。

純「……万遍なく送り込んでいたとしたら、可笑しいな」

誠子が鞘の先で消して行った箇所を追っていくと、それが無い空白の部分がある。

不自然に見えた。誠子も同感だ。

誠子「きっと相手も死にもの狂いだろう。自分らの安泰を守るか、破滅するか」

誠子「主上の一挙一動、つぶさに誰かしらが監視していたのかもしれない」

誠子「なら守備兵が消えた箇所は、主上がそこにはいないのだと…奴らは分かっているからだ」

言い切ると、聞いていた純は地図を足の裏で消した。

そのまま誠子に走り出す合図を送る。

地図を描くために外していた剣の鞘を腰に差し直すと、誠子は頷いた。

地を蹴ると同時に、純が言う。

475: ◆CU9nDGdStM 2014/10/09(木) 21:44:09.49 ID:vLZI3mTE0
純「消えていない箇所の守備兵は、見張りだな。近くにそいつらが集まってると見るべきだ」

誠子は前を走り出した背を追い掛けながら、ふと思う。

短気ではあるが、やはり純は肝心な所では冷静に考えて行動する。

見えてはいないだろうが、誠子は頷いた。

誠子「ああ。それであの官吏が言っていた人数とだいたい合う。しかし、誰かはわからんぞ?」

守備兵の数も多い。その中から敵側である見張り2~3人にどうやって目星を付けるのかと問えば、

走る速度を上げながら純は当たり前の事のように言い放った。

純「ンなの、聞いて一瞬でも目を反らした奴に決まってんだろ!!」

誠子「…………」

王に剣を向ける奴らだから、叩けば後ろめたい反応があるはずだ、と。

迷いもなく純は言い返してくれた。

それを聞いた誠子は走りながらも唖然とする。

冷静だと思っていたんだが。まぁでも、言われてみればそれは正しいかもしれない。

ここに来る前までは考えた事もなかったが……先ほどの、塞の執務室での話。

もしも、だ。誠子自身が主上に剣を向ける立場になったら?と考えたら…

ゾワゾワと胸中が意味も無く騒いだ。

476: ◆CU9nDGdStM 2014/10/09(木) 21:46:30.43 ID:vLZI3mTE0
多分、戦場とはまた違った“怖い”という感覚。

だから自分ならできないだろうと思った。

する必要もないし、そんな気持ちになってまで無謀をしたくも無い。

なるほど、純の言った通りだ。

まだ愚王かも分からないと言うのに。

余程後ろめたい事をしてきた奴とか、追い詰められた奴じゃなきゃできないだろう。

思わず誠子は苦笑した。

誠子「それでいこう、ただし力み過ぎるなよ。すぐに切れるのも無しだ」

背中しか見えないのに、自分の小言に対する純の苛立ちが伝わってくる。

こういうのは長年の付き合いの賜物だろう。

ただ、返事が無い。

「純」ともう一度念を押すと彼女は観念したのか、

分かった!と乱暴な声を上げたのだった。


■  ■  ■


482: ◆CU9nDGdStM 2014/10/17(金) 00:33:14.14 ID:Sv2ze5Xf0
使令が先に扉を出て行く。

その後を追って、菫も部屋の外へと出た。

背後には付き従う智美の気配もある。

向かうべき所は決まっていた。そのための導も感じ取っている。

だが出てから数歩進んだ所で、目の前を歩く使令の足が突然止まった。

菫は何事かと思い先の通路を見る。

と同時に床の底から見知った姿が現れた。

人間の姿に酷似しているが、腕に羽毛を生やした半分は鳥のような女性。

自分に仕える妖魔だ。

そういえば彼女には数刻前に一人の女の素性を調べるよう命じていたはず。

少しだけ胸の痛みを思い出した。

それは自分がまだあの女の事を気にしている証拠だろう。

ならばこのまま歩きながらでも彼女の話を聞こうかと思ったが。

菫が迎える前に、彼女はなぜか性急な態度で近付いてくると口速く告げた。

『台輔、大事が起こったようです。今は急ぎ主上の安全を確保しなければなりません』

どうか、いらっしゃる場所をお教え下さい、と彼女は言った。

だが菫にしてみればまるで寝耳に水だ。

菫「何…だと?」

そうぎこちなく言い返してしまったのも、

菫なりに彼女の言った内容を正確に飲み込んでいなかったからだ。

483: ◆CU9nDGdStM 2014/10/17(金) 00:36:52.82 ID:Sv2ze5Xf0
そんな動揺は声と態度からも彼女に伝わったのだろう、すぐに簡潔に教えてくれる。

後を追った女は内宰である塞の手の者だった事。

内宰と知り合いの秋官から、夏官の一部に不穏な動きがあった事。

密告もあり、その裏付けを終えた今、夏官より内宮に配備されていた守備兵の一部が消えてしまった事。
 
同じように聞いていた智美が背後から声を上げる。

智美「!!……守備兵の異変は報告が来ていた、まさか、あれか」

続いて苦々しく呻く声がする。

そして意を決したように菫に向かって告げる。

智美「台輔、これは私達が思っているよりも悪い方向に事が動いている」

智美「主上を監視していた目はどこにでもあったんだ。それが今動き出したのは様々な要因が重なったから」

智美「わざわざ台輔である菫ちんに挨拶しにきていたから、本当なら長期的に私らを懐柔する事も考えていたかもしれない」

智美「でも予定外に起きた密告とそれに伴う塞殿側の重圧が悠長な選択を諦めさせた。奴ら、もう後がないと分かったんだ」

菫「……!!」

智美「そして何より……王と麒麟との仲違いにも気付いてしまった」

智美「だからまだ経験も浅い主上を抱き込む事に懸けたんだ。あいつら、何としてでもそうするつもりだ」

智美の語尾の強さにゾワリと悪寒が背を走るのを感じた。

484: ◆CU9nDGdStM 2014/10/17(金) 00:41:54.77 ID:Sv2ze5Xf0
『申し訳ありません。私が離れたばかりに』

話を聞いていたのだろう、傍らの獣の使令が自分に向かって頭を下げる。

が、それに対して菫は動揺に震えながらも頭を振った。

菫「お前だけのせいではない。私の浅はかさがお前にそうさせた」

言った言葉に痛感した。が、その動揺を飲み込むと菫は強い口調で使令達に命じる。

菫「お前たちはすぐに向かって、主上を守れ。中庭の奥だ、場所は分かっているな」

獣の毛並みを揺らした使令はすぐに了承する。

それに続くはずの女怪が、塞側の手練が途中で待機している事を告げるとそれに対して智美が対処すると言った。

智美「その者達には私の手の者を向かわせます、他にも応援も集めなくては。使令殿らは行ってください」

智美が言い終えると同時に、異形の姿達は地の底に消えていく。

菫の命じた通り、主を守りに行ったのだ。

見届けると、無意識に頭が上がった。

抱いた危機感より神経が研ぎ澄まされたのか、続いていく王気はすぐに掴んだ。

思わずそこに向かって菫は足を踏み出そうとする。

だが、一歩足を踏み出した所で後ろから伸びて来た腕に掴まれから歩みを止められてしまった。

智美「駄目だ、菫ちん」

どうして、そう思い後ろを向く。

視線が合った瞬間、智美は首を左右に振って言う。

485: ◆CU9nDGdStM 2014/10/17(金) 00:45:32.67 ID:Sv2ze5Xf0
智美「状況が変わった。今貴方が行ってもどうにもならないだろう」

智美「最悪血を見るかもしれないし……麒麟には辛い」

菫「……お前っ!!」

無意識に考えないようにしていた事を直に言われた。

怒りを抱いて相手を睨み付けると、智美は冷静な口調を崩さずにただ言葉を続ける。

智美「私になら幾ら怒ってもいい、でもこうなった原因も考えてくれ。要因はたくさんあるって言ったよな?」

智美「もちろん騒ぎを起こした奴らが一番許せない、自己中もいい所だ。そいつらは排除する、必ずだ」

智美「…けどな、主上と麒麟とがもっと分かりあっていたら、そいつらに付け入る隙を与える事も無かったかもしれない」

そう言い切った言葉にドクリと胸の内が波打つ。

まるで頭から冷水を浴びせられた気がした。

抱いたはずの怒りが急激に萎んでいく。

智美の言い分が正しいのだと分かっているからだ。

その動揺は顔に浮かんでいたのだと思う。

だから、智美は掴んでいた菫の腕を離した。

そのまま早足で立ち止まったまま動かない菫の前を横切ると、去る際にもう一度振り返って言う。

智美「さっき言った話の続きになるな、菫ちん。……素直になれよ。その言葉も気持ちも絶対に届くから」

菫「………」

智美「 大丈夫だ。必ず、無事にお連れする」

言い切ると、智美は再び背を向けて去っていく。

486: ◆CU9nDGdStM 2014/10/17(金) 00:48:24.40 ID:Sv2ze5Xf0
遠ざかっていく足音を聞きながら、菫はそこから動くこともできずに静かに瞼を閉じた。

集中すれば、今でもこうして感じ取れる王気に安堵を覚える。

確かに、そこにいる。

大丈夫。まだあの人は無事だから、こうして自分は感じ取る事ができている。

だから菫は一心に願う。

――――戻ってきてくれ

智美に言われた事を思い出している。

……そうだな、と今なら素直に頷ける。

脳裏にはぎこちなく笑う儚い姿が浮かんだ。

到底まだ王らしくない頼りない姿だが

菫にしてみれば自分の意義に対する許しをくれた、唯一無二の存在だから。

あの人の他に代わりなどいない。

だから必ず、自分の元へ戻ってきてほしい。

自分が本心を伝えるのが不慣れなのは分かっている。

上手くできないかもしれないが……それでも智美に指摘された事。

今度は諦めずにあの人に伝えたいと言葉と気持ちがあるのだ。

そのためにも絶対に、私の元に。

ただ、王である少女の帰還だけを一心に願った。


■  ■  ■


487: ◆CU9nDGdStM 2014/10/17(金) 00:52:20.65 ID:Sv2ze5Xf0
誠子は前方より聞こえる悲鳴の声を耳にしながら、たった十数分前の出来事を思い出している。

確か自分はこうなる事を心配して腐れ縁に忠告したはずだ。

力み過ぎるなよ。すぐに切れるのも無しだ、と。
 
全く、純の性格を考えれば的確な忠告だったと思う。

半分呆れた表情を浮かべ事の成り行きを見守っていた。

正直な話、もう奴を止める切欠を逃したと誠子は自覚している。

事の初めはまだ、純なりに抑えていたと思う。

だが勘だけは長けた女なのだ。

軍で変に揉まれたせいか相手に嘘をつかれたり、後ろめたい気持ちを持ってると嗅ぎつけるのだ。

だから何組目かの守備兵に声を掛け、2~3言交わした次の瞬間。

誠子が止める間も無く、純は目の前の屈強な兵士を問答無用で蹴り倒した。

誠子は唖然と見ていた。多分相手も一瞬の事で避ける暇も無かったと思う。

そのまま無駄の無い動きで倒れ込んだ兵士の胸の甲冑の上辺りに片足を載せると

純は体重を掛けて身動きを取れないようにした。

すぐ近くにもう二人の守備兵がいたのだが、急な展開に驚いてか彼らの反応は鈍かった。

純はその内の一人の胸元を瞬時に掴むと引き寄せて締め上げる。

くぐもった声が足元の悲鳴と一緒に周囲に響く。

488: ◆CU9nDGdStM 2014/10/17(金) 00:56:13.75 ID:Sv2ze5Xf0
誠子が手を出すでもなく、数秒の内に二人の兵士の身動きを封じてしまったものだから

残った一人が弾かれたように逃げ出そうとした。

すると、それまで蚊帳の外だった誠子にも鋭い声が飛んでくる。

純「オイ、逃がすなよ」

言われるまでも無い。

都合良く兵士達の背後は行き止まりだったから、逃げ出そうとした姿は自分の横を通らないといけない。

仕方ない、と誠子は緩慢な動作で脇を通り抜けようとした兵士に足払いをしてやる。

無様な悲鳴を上げて倒れ込んだ奴から見るに、体格は立派だが場数は踏んでいない兵士のようだ。

うつ伏せに倒れ込んだ兵士の首元を抑え込むと、

誠子「大人しくしてた方が良い、あいつは怖いぞ」

と親切心から忠告してやった。

案の定、目の前からは凄んだ声がする。

純「言い淀みやがったなテメェ。目も反らした。決定だ」

純「3秒だけ時間をやる、さっさと吐け。テメェらの仲間はどこだ?」

誠子「…………」

3秒か、奴が言い終わった瞬間、猶予は終わるな。

と哀れみを込めて誠子が眺めていると、殊更高い悲鳴が響き渡った。

ついでに鈍い音もしたから、多分あばら骨が数本圧迫され逝ったんじゃないかと想像する。

489: ◆CU9nDGdStM 2014/10/17(金) 00:59:53.06 ID:Sv2ze5Xf0
純は有言実行で、尚且つ今はとてもキレている。

手加減はしないだろう。

純が片腕で締め上げている兵士の呻き声はいつの間にか消え、泡を吹いていた。

これでもし人違いだったら笑えないが……責任は塞に取ってもらう予定だし深く考えない事にする。

それに、純は本当に勘はいいのだ。

瞬時に絞め上げたせいかもしれないが、彼らが逃げ出そうとした行動も怪しい。

誠子が抑え込む体躯がこうも震えているのは果たして純の暴挙を恐れてか。

それとも痛い所を突かれて動揺したせいか。

五分五分かな、と思った。

だから聞こえてくる悲鳴を背に、誠子は下に抑え込んだ兵士に向かってあえて軽い口調で言う。

誠子「なぁ、ああはなりたくないだろう?私はまだこうして優しいお伺いを立てているが……」

誠子「あっちの女は相手に情けを掛けないからな。きっと今締上げている二人が、吐く前に落ちれば次はあんたの番だ」

すると狙ったかのように純に床へと踏み付けられた兵士が苦痛の声を上げた。

追い込むのには丁度いい。事実、誠子の下の体躯は怯えるように震えが大きくなった。

誠子「もしあんたが関係ないというのなら、なんで言い訳もしないでそんなに震えてんだ?」

誠子「仮にも腰に得物差しといて、怖いとか情けない事言うなよ。まさか誰かに義理立てでもしてんのなら、もっとやめとけ」

誠子「どうせ、そいつは今日限りで終わる」

490: ◆CU9nDGdStM 2014/10/17(金) 01:03:08.58 ID:Sv2ze5Xf0
誠子「尚且つ私達は暴漢でも無いぞ。正規の、内宰の指示に従って動いてんだから」

兵士「……!!」

誠子「後に都合が悪くなるのはどっちかわかるだろ?」

誠子「あんたが僅かでもこの国に対して、主上に対してすまないという気持ちを抱いているのなら、すぐに全てを吐くべきだ」

誠子「よく良心に聞けよ。あんたに対する親切心で言ってるんだが、なぁ、どうだ?」

出来る限り情緒たっぷりに言い聞かせてやる。

すると、ぐしゃりと前方で床に何かが落ちた音がした。

確かめるまでもない。首を締め上げられ、泡を吹いていた男が床に沈んだ音だった。

白目まで剥いてる姿が見えたから、間に合ったら蘇生してやろうと思う。

全ては誠子が抑えつけている男次第だ。

純の踏み付けている男すら、多分こいつが吐かないと最悪死ぬかもしれない。

痺れを切らした純が踏み付けていた足を上げると、

倒れ込んだ男の顎を容赦なく蹴り上げるのが見えた。

……合掌しておこう。あれじゃ、暫くは何も言えまい。

だがそんな光景は誠子が抑え込む兵士を改心させる切欠にはなったようだ。 

すぐに訪れる純という厄災に絶望してか、または良心が疼いたのか下から掠れ声が上がる。

兵士「俺だって嫌だったんだ!…だけど今更、逆らえるはずもない、だから……!」

誠子「………ほぉ」

意外と呆気なかった。

やはり軍で叩き上げた奴らとは違い、ここに送られてくる兵士なんぞは少し柔い気がする。

491: ◆CU9nDGdStM 2014/10/17(金) 01:05:28.85 ID:Sv2ze5Xf0
純に落とされた奴らは不可抗力だが、誠子が抑えつけた奴なんかは指一本失っていない。

こいつら体格は見劣りしないが、いかんせん根を上げるのが早すぎる。

王を守るべき輩がこうでは有事の際は不安を覚えるだろう。

なるほど。塞の不安はもっともだ。

これを機にこうした不安な輩は一掃してしまった方がいい。

感慨深く誠子が思っていると、カツンと足音が響いた。
 
意識がそちらに向かう。

床に倒れ込んでいる兵士らはピクリとも動かない。

それらを背に、怒気を纏った純が近づいてくる。

自然と、誠子は下に抑え込んでいた男を解放した。

だが自由になったはずの男は倒れ込んだまま何事かを一生懸命に呟いている。

自分は悪くない、だとか。仕方なかったんだ、とか。

そんな男のすぐ側に辿り着いた純は、徐に片足を上げた。

一瞬止めようかなと思ったのは、純が切れているのが分かっていたからだ。

冷静な思考ではない、だから折角の手掛かりまで潰されちゃ本末転倒だと誠子は危惧した。

しかし誠子が制止の腕を延ばす前に純は動いた。
 
ダン!

上がった足が勢いよく降ろされてしまう。

その衝撃で床が揺れたのを感じた。

492: ◆CU9nDGdStM 2014/10/17(金) 01:09:08.33 ID:Sv2ze5Xf0
この一撃を喰らったとしたら無事では済まないだろう。

事実、先ほどまで聞こえていた男の錯乱した声がピタリと消えてしまっていた。

やっちまったか……そう思いながら誠子は衝撃の発生源に目をやる。

すると意外にも男の五体満足な姿があった。

だがその目を極限まで開いた顔は恐怖に染まっている。

それもそのはず、男の顔面擦れ擦れに純の足首が覗いている。

少しでも狙いがずれれば男の頭部の骨は粉々になっていただろう。

男も想像しているのか、顔面に冷や汗が噴き出している。

そんな男に向かって冷たい声が降った。

純「いらん事をぺちゃくちゃと耳障りったらありゃしねぇ。誰がテメェの情けねぇ言い訳なんぞ聞きたいと言ったかよ、あ?」

純「ただ、尋ねた事だけを簡潔に吐け。もう一度だけ聞いてやる、テメェらの馬鹿な仲間はどこだ?」

また場違いなことを抜かしたらその顔面、轢き殺してやる。

と最大級のドスをきかせた声に男は震えあがった。

誠子にしてみれば、そんな純の暴挙に対して突っ込みどころが満載だ。

相変わらず卒長までいったくせにガラが悪いな、とか。

意外にも相手から情報を引き出すための理性は残っていたのな、とか。

轢き殺すとか言ってるけど、わざわざ馬でも引っ張ってくんの、とか。

背後の兵士二人、まだ生きてんのかよ、とか。

ただそんな脳内に駆け巡った突っ込みを吹き飛ばすかのように、純に脅された男は泣きながら叫んだ。

493: ◆CU9nDGdStM 2014/10/17(金) 01:12:31.04 ID:Sv2ze5Xf0
兵士「言うから!……奥だ、今は使われていない中庭の、奥!」

誠子は口笛を吹く。

対して純は屈むと、倒れ込む男の首元を掴んで有無を言わさず持ち上げた。

足元が震えているせいか、立たせた男はよろめいたがそれを睨みつけて純は檄を飛ばす。

純「手を離すが、倒れんなよ。喜べ、手前のなけなしの良心を救ってやる」

純「主上に対して申し訳ないと思う心が残ってンなら、お前が死に物狂いで走って、俺をそこまで案内しろ」

今すぐにだ、と押し殺した声を受け、震えていた男の足がピンと伸びた。

誠子「………」

ただブチ切れているだけかと思ったが、男一人の口を割らせた手並みは賞賛できる。

そんな純の行動を端から見守っていた誠子も徐に立ち上がった。

取りあえず自分の行動は背後の倒れた兵士達の蘇生からだろう。

宮中を騒がせた敵ではあるが、後ほど今回の騒動について証言もしてもらわねばなるまい。

ただ、純は先に行くだろうとは思った。

言葉が無くとも互いの役目は理解している。

眼前で脅された男はハイッ!と上擦った声を上げると、

純を案内するために一目散に駆け出したのだった。


■  ■  ■


494: ◆CU9nDGdStM 2014/10/17(金) 01:14:41.76 ID:Sv2ze5Xf0
すぐに茂みを利用して逃げ出したのは正解だったと思う。

だけど多勢に無勢だ。

案の定、逃げ込んだ茂みの向こうから木々を掻き分ける音と衝撃とが伝わってくる。

ここで息を潜めていてもいつかは見つかってしまうだろう。

咲は腰を低くしたままに地面を這って移動し始めた。

仙籍に入ってから自分がどう変わったのか余り自覚はなかったが。

こうして動き廻ってみて以前とは違い、疲れ易さからは遠ざかったような気がする。

息は切れているが、走れる余力はある。

これが不老不死の一環かもしれないが、背後から迫ってくる凶器に好き好んで挑もうとは思わなかった。

口にして脅されただけだが、彼らは冬器という特殊な武器を持っている。

学習した限りでは、不老不死である仙籍さえ滅する呪具だ。王も例外では無い。

それを持った彼らに捕まったらどうなるだろうか。

彼らの前から逃げる直前に、はっきり断ると叫んだ手前。

もはや向こうも穏便な対応はしてくれないだろう。

事実、背後から迫ってくる気配には殺気が滲んでいる。

脅されるか……最悪、屠られるか。

527: ◆CU9nDGdStM 2014/10/23(木) 00:10:30.69 ID:Trl7ogEH0
一瞬想像してしまったが、眼前の茂みが途切れる現実に気付いて余計な事を考えるのをやめた。

意を決して途切れた茂みから飛び出すと、向こうに見えた石の土台の影に身を滑らせた。

背後から喧騒は聞こえていたが、どうやら一瞬姿を現した自分には気付かなかったようだ。

土台の影の周囲より死角になった場所で身を屈んで腰を落とすと一息付く。

どうやらここは今は使われていない東屋の石の土台部分で、

咲はその裏側にできていた窪みに上手い具合に収まっている。

聞こえてくる声に緊張しながらも頭を少しだけ出して辺りを見渡す。

先ほどまで咲がいた茂みの向こうに複数の人の気配を感じた。

反対側に逃げられないか探るが、この場所から建物へと続く道筋に新たに数人の人影が見えた。

多分自分がここに来てしまったのは相手側にしてみれば幸運だったのだと思う。

今は使われていない、人気の無い庭の奥地だ。

逃げようとすれば建物を目指すしかなく、そこまでの要所要所にうろつく人の影が見えている。

自分を探しているのは明白だ。

咲は自身の危機管理の無さを呪う。

菫の使令である妖魔の事を思い出す。

あの場所を動かないでと言われていたのに咲は破る形になってしまった。

不可抗力ではあるが、約束を破ってしまった事には変わりない。

528: ◆CU9nDGdStM 2014/10/23(木) 00:15:02.21 ID:Trl7ogEH0
ふと緊張からか額を伝う汗に気付いた。

片腕を上げてそれを拭った後に、腕を降ろした過程で咲は気付く。

地を這うように移動してきたせいか手の平は酷く汚れてしまっていた。

土気色の両手を見比べ、今こうして息を殺し、周囲に気付かれないよう身を潜めている自分に気付く。

こんな時に。……場違いではあるが、咲は懐かしいと思った。

ここに来る前までは、こんな風に商家の主人に怯え、息を潜めていた頃があった。

そのまま汚れた両手をゆっくり握り締める。
 
だが握り締めた拳を額に当てるように蹲った瞬間、

ふと何かを感じて咲は閉じていた瞼を開けた。

少し向こうからは相変わらず自分を探す喧騒が聞こえる。

だから、その声らに反応してしまったかと思ったが……違う。

蹲りそうになっていた上体を起こすと、

感じ取った何かを確かめるために顔を上げた。

529: ◆CU9nDGdStM 2014/10/23(木) 00:18:54.39 ID:Trl7ogEH0
咲「…………」

多分、呼ばれた。

誰に?……今まで必要とされた事もなかった自分を。

そう思った瞬間、また呼ばれたと思った。

怪訝に思う……が、すぐにその声が誰のものなのかを悟った。

不思議だが絶対にそうだと確信した。

無意識に咲は呼び返す。

咲「……菫さん?」

頼りない声になった、だけどきっと当たっている。

脳裏に咲が出会ってから今まで見てきた、あの毅然と佇む姿が浮かぶ。

だから、咲は気付くのだ。

家族のいない自分は、ずっと誰にも必要とされていなかったかもしれない。

自分の声など届かないのだと信じていた。

それを寂しいなと思った過去は確かにあった。

だけど、それは違うのだと……脳裏に浮かんだ姿が咲に教えてくれる。

だって彼女は咲を見つけてくれたではないか。

必要だと言ってくれた。

今もこうして、自分の事を呼んでくれている。

その事がどんなにか折れそうになる自分を支えてくれているか、きっと菫は知らないだろう。

530: ◆CU9nDGdStM 2014/10/23(木) 00:23:17.59 ID:Trl7ogEH0
そうだ、今の咲は自分自身しか無かった頃とは違う。

必要だといってくれる人がいる。

不思議な感覚だった。

自分を呼んでくれる声に応えるように、蹲りそうになっていた背が伸びる。

怯えて俯きそうになっていた頭が上を向く。

咲は行かなければいけない、自分を必要だと言ってくれた半身の元へ。

あの姿に伝えたい事がある、聞きたい事もたくさんあるのだ。

その事に、先ほどやっとで気付けたのに。

折っていた膝をグイと伸ばす。

こんな所で蹲ってはいられない。戻らなければ。

立ち上がった瞬間、周囲に広がる茂みが激しく揺れた。

葉が落ち、木々が折れる音と共に荒々しい足音が複数、雪崩れ込んでくる。

殺気立った男達が取り囲むように立ち塞がる。

その各々が握る刃の鈍い輝きが見えた。

ただ、咲は自分が思う以上にこうして対峙する暴漢達を目の前に取り乱さずにいる。

ぐるりと殺気立った顔らを見渡すとその中の一人が言った。

官吏「ここまでですな」

恰幅の良い官吏の姿だ。

自然、彼へと視線を向けた。

531: ◆CU9nDGdStM 2014/10/23(木) 00:26:26.63 ID:Trl7ogEH0
官吏「もはや後はございませんぞ」

確かに咲の背後には石の土台があって後ろには逃げられない。

また周囲には凶器を持った男達が立ち塞がっているから四方八方、逃げ場はない。

それを冷静に理解した頃に、また官吏の声がする。

官吏「主上の事を今まで誤解していたようです。……もっと、か弱い方かと思っておりました」

こうして取り囲まれても取り乱さない咲を見ての感想だろう。

だから咲も自然と頷く。

咲「私も、そうだと思っていました」

官吏「ならば私共が怖くはございませんか?御身を損なう武具で、こうして迫っているのですよ」

咲「そうですね。以前の私なら、きっと蹲って震えていたでしょう」

咲「嵐を理不尽だと決めつけて、それが通り過ぎるのをひたすらに待っていたと思います」

官吏「……諦めて自暴自棄にでも成られたか?それならば先ほどの私共めの案を呑んでは頂けないでしょうか?」

官吏「なに、決して御身を悪いようには致しません。むしろ外の嵐が怖いと言うのであれば…」

官吏「主上には安全な場所にいて頂いて、御身を煩わせる雑務などは私共が責任を持って変わりを果たしましょう」

咲「………」

官吏「主上」

催促する声は焦りに満ちている。だから咲は彼に尋ねた。

咲「それで、今までと何かが変わるのでしょうか?」

官吏「変わりません。変わらせないために、こうして主上にお願い上がっているのです」

532: ◆CU9nDGdStM 2014/10/23(木) 00:30:20.51 ID:Trl7ogEH0
官吏の言葉を受け、咲は深く理解した。

理解したから、その提案に対して咲は首を左右に振るのだ。

そしてはっきりと宣言する。

咲「貴方達が望むのは以前と同じ、王がいなくてもいい…貴方達にとって都合の良い国を続けていく事」

咲「なら例え貴方達に付いて行っても、私は前の無力な自分と変わらないでしょう」

官吏「………」

咲「それでは意味がありません。だから私は、ここで私を必要としてくれる人達の所に行きます」

咲「その人達が苦しみながらもずっと目指してきた国をつくる為に……」

咲「私はこれから、王としての役目を果たします」


言い切った。尚且つ言い終えた瞬間に咲自身も自覚した。

だからこうして凶器を向けられた中であっても怯まずに顔を上げている。

咲が迷いも無く言い返した事に少なからず彼らは驚いたようだ。

首謀者であろう官吏は真っ向から反論されたからか顔が蒼褪め、体躯は小刻みに震えている。

周囲に広がる兵士達は、咲に剣を向けながらもその切っ先は生まれた迷いからか揺れていた。

彼らは今までの咲の見た目や控え目な態度上、此度の王はか弱いと侮っていた。

だが咲は凶器を向けられても取り乱さず真っ向から反論した。

その姿勢に、彼らは動揺したのだ。

533: ◆CU9nDGdStM 2014/10/23(木) 00:33:58.99 ID:Trl7ogEH0
取り囲む周囲をゆっくりと見渡すと、咲は歩き始める。

できた人の壁の薄い箇所に目星を向けてそこへと突き進む。

向けられる切っ先、それを構える兵士に向かって咲は言う。

咲「通して下さい。私は行きます、私を呼んでくれる人の所へ」

切っ先は向けられたままだ。

それでも咲は前へと歩みを止めない。

だから必然的に、それは突き刺さる事になるだろうが……直前で兵士側の声が上がった。

怯えた声。突き刺さるはずの凶器が地面に落ちた。

当の兵士本人は咲を前に仰け反って倒れ込んでいる。

異様な光景だった。

武器も何も持たない儚い様相の少女を前に、屈強な兵士一人が怯えて地に倒れ伏している。

周囲を取り囲む兵士にもその異様な空気が広がっていく。

誰一人、凶器を握りながらもその場から動こうとしない。

咲からすれば自分の進むべき先を阻んでいた壁は崩れた。

なら、宣言通りそこを通って行くだけだ。

倒れ込んだ兵士の横を、咲は静かな足取りで通り過ぎて行く。

官吏「……ま、待てっ!!」

この場を包む異様な空気に逆らうように、裏返った声が響く。

咲が確かめるまでも無い、蒼褪めた官吏の声だ。

534: ◆CU9nDGdStM 2014/10/23(木) 00:36:52.22 ID:Trl7ogEH0
が、その声に反応する義理は無い。

咲は前へと突き進む足を決して止めない。

去ろうとする咲の背後から声が続く。

官吏「お前達!何をしているっ…丸腰相手に、早く捕えろ!はやく、はやくっ!!」
 
背後を振り向かない咲でも、その官吏の声に反応しようとする他の兵士の気配は感じ取れない。

動揺に震える官吏の声は要領を得なくなっていく。

官吏「どうして、なぜ従わない」

官吏「あの方をここで逃がせば、私たちは破滅だ」

官吏「こんな騒動も起こしてしまった、もはやいくら金を積んでも無理だ、揉み消せない」

官吏「ハハハ、破滅か……私が、私が」

動揺が困惑へと変わり、聞こえてきたその声の質が突然変わった。


官吏「………ならば、いっその事」


さすがの咲も異変に気付く。

前を進む足を止めると同時に、急激に背後に迫る気配を感じた。

ゾワリと背中に悪寒が走った。

地面を駆けてくる音、背を向ける咲に接近する気配は風圧を伴って襲い掛かる。

思わず振り向いた。

恰幅の良い体躯が剣を振り上げる光景を、咲はゆっくり見上げていた。

感情が突き抜けどこか壊れてしまった表情。その官吏の声がする。

535: ◆CU9nDGdStM 2014/10/23(木) 00:40:24.64 ID:Trl7ogEH0
官吏「主上…貴方のいない国に戻ればいいのです。そうすれば何もかも元通りだ」

振り下ろされる刃は一瞬で咲を襲った。

首の付け根から胸部にかけて走る一筋の線。

え、と思う間も無く、続けて目の前に赤い何かが散った。

咲「………ぅっ!!」
 
くぐもった声が勝手に口から出た。

そのまま唇を噛みしめて耐えると咲は腕を上げ、

体躯を庇うように抱きしめる。

遅れて痛みがやってきた。

地面へと仰向けに倒れようとしていた体躯をどうにか押し留める。

だけど腕で庇うようにした体躯の内側からジワジワとした熱と痛みとが咲を苛み始めた。

顔を顰めながら、半分狂ったように宣言する官吏を咲は見上げる。

彼は間合いの向こうで、切っ先が血で濡れた剣を掲げながら声高々に叫んでいる。
 
官吏「見たか!!怯える必要などない、私達には冬器がある!王とて、絶対ではない…!!」

その声と、傷を庇う咲の姿を見て、今まで怯んでいた周囲の兵士たちの空気が微妙に変化する。

官吏の狂気に引き摺られているのか、それとも王が絶対ではないというその言葉に賛同したのか。

536: ◆CU9nDGdStM 2014/10/23(木) 00:45:15.75 ID:Trl7ogEH0
先ほどまで王を前に怯んで下げていた兵士達の切っ先がまた上がり始めた。

官吏「貴方さえ、いなければ。王さえいなければ、以前のように」

もはやそれが使命のように官吏は謡う。

そして、血で赤く濡れた切っ先を再び咲に向けた。

苛む痛みと熱とで乱れそうになる呼吸を整え、咲は逃げ道を探す。

絶望的な状況ではあったが、それでも最後まで諦めたくは無いから。

ここで倒れる訳にはいかない。

折角自覚した事を、咲は何一つ、大切な人に伝えていないのだから。

官吏「残念です、主上。私達は分かり合えなかった」

声に導かれるように周囲の兵士も凶器を手に迫ってくる。

目の前の官吏が再び血に濡れた冬器を振り上げようとしていた。

咲は意を決して地面を蹴り、避けようとした。


その行動らが一斉に動き出す直前。

突然、咲の視界が不自然に翳った。

咲「……?」

気のせいでなければ、何か人の悲鳴のようなものも聞こえていたかもしれない。

ただ咲の視界一杯に大きなものが飛んできて……

今まさに、目の前で冬器を振り上げようとした官吏に直撃したのだ。

537: ◆CU9nDGdStM 2014/10/23(木) 00:48:32.31 ID:Trl7ogEH0
官吏が上げた短い悲鳴と一緒に、ドスン、と重い物が落ちた鈍い音が響く。

その衝撃で周囲の地面も微かに揺れた。
 
咲「………え?」

咲にしてみれば肩透かしを喰らったようなものだ。

迫ろうとしていた強行は狂気の官吏の姿共々、突然消えてしまった。

思わず咲は追うように地面を見下ろす。

そこには、恰幅の良い官吏を下敷きにしている体格の良い兵士の姿がある。

なぜ、兵士が突然空を飛んでくるのか?

咲の脳裏に当たり前の疑問が浮かんだ。

だがそんな疑問を浮かべる咲の視界がまた不自然に翳った。

地面を見下ろしていた顔が自然に上がる。

すると、今度こそ咲には見えた。

先ほどまで咲が隠れていた石の土台の上……そこから飛び降りてくる人影が。

丁度咲と迫ってくる兵士たちの間に飛び降りた軽快な姿は、その余韻を残す事なく俊敏に動き出す。

腰に差していた鞘から刀身を抜くと、地を蹴って一番近くにいる兵士の一人を躊躇いもなく切り捨てた。

倒れた兵士は悲鳴を上げる暇も無かった。

故に周囲にいる兵士達は凶器を手にしたまま気付いていない者も多く、反応が遅れていた。

指揮系統だった官吏が地面に沈んだことも助けになっていたのだろう。

突如現れた人影は二人、三人と兵士を切り捨てていくと、真っ直ぐに咲の元へと走ってくる。

538: ◆CU9nDGdStM 2014/10/23(木) 00:52:41.06 ID:Trl7ogEH0
その頃には周囲の兵士達も異変に気付いたようだ。

現れた人影に殺到するか、または咲へと兵士らは迫ろうとしている。

だがそれよりも何よりもまず、咲は真っ直ぐに自分の元へと走ってくる姿を見て驚いていた。

あの女性の姿を咲が見間違えるはずもない。

駆けてくる彼女との距離がどんどん縮まる。

思わず、咲は口を開けた。

咲「どうして、純さ……っ!!」

その言葉は途中で途切れた。

とうとう距離がなくなって咲の元に辿り着いた純は、一瞬屈むと有無も言わさずその肩に咲を担いだ。

咲にしてみれば体が折り曲げる形になるから負った傷に響いて、思わず痛みで顔を顰めた。

すると聞き知った声ではあったが、そのどの時よりも真剣な声が返ってくる。

純「少しの間、だ。ここを切り抜けるためにも両腕は使えねぇ」

そう言いながら彼女が利き腕に振る刀身が見えた。

咲「……純さん」

間違いない、だけど返事の代わりに彼女は言う。

純「喋るな、揺れるから」

強い口調で言われ、咲はぐっと息を呑み込んだ。

その動作が伝わったようで、純は咲を担いだまま、迫る兵士達を背にし再び走り出した。


■  ■  ■




547: ◆CU9nDGdStM 2014/10/30(木) 20:49:45.87 ID:rbJeXhC60
一瞬、剣の柄を持ち直して、それを強く握り締める。

純にしてみれば程よく手に馴染んた刀剣の重さだ。

誠子程マメではないが、手入れは人並みにしている。

思い返せばこいつとも随分長い付き合いになった。

こんなご時世だが、たまたま新調した時の刀匠が優れていたお陰で

散々血糊を浴び、骨を断ってきたが刀身は刃毀れ一つ起こした事がない。

だから軍に在籍していた頃であれ、出奔した後であれ有事の際に純は一番に握り締めてきた。

今回も同じ。大丈夫だ、いける。

地面を蹴って駆ける。

背後から罵声が聞こえた。

今し方2~3人を切り捨てたが、あれは不意打ちだったから苦もせずやれたのだ。

軍よりも柔い奴らだとは思うが、それでもあの体格と残っている人数を考えれば純一人で対峙するべきではない。

短気ではあるが、純はそれで無謀に走ったりはしない。

冷静に状況を把握する。

最優先は、今この包囲網より抜け出す事だ。

人がいる所へ辿り着けばいい。

建物の中へ逃げ込めれば、こいつらとは関係ない守備兵とも合流できるだろう。

548: ◆CU9nDGdStM 2014/10/30(木) 20:53:04.97 ID:rbJeXhC60
時間も余り掛けたくはない。

そう思った瞬間。進む先に段差があったせいで純は地面を殊更強く蹴った。

反動で飛び上がり着地はしたが、そのせいで体が大きく揺れた。

すると噛み殺した声が至近距離からする。

純は人一人を担いで走っている。

しかも彼女は怪我も負っているから、きっと今の声は振動で響いた痛みを噛み殺した声だ。

無理をさせていると分かっている。

本来ならば怪我をしているのだしこんな窮屈な姿勢を強いるべきではない。

それでも、彼女を死なせたくないから純は無理に担いででもここを抜け出すために走っているのだ。

だが、それを阻むかのように背後から殺気が迫ってくる。

荒々しい複数の足音も、先程、距離は稼いだ。

本来の身軽さがあれば逃げ切れる。

だが今の純は人を担いで走っているから、追い付かれるかどうかは微妙だと思った。

すると新たな問題に気付く。

向かう前方から敏感に人の気配を感じ取った。

立ち塞がる茂みが突っ切り、開けた視界を純は見渡す。

神経は尖っていたから一瞬で障害物を把握した。

纏まってはいないが、建物へと続く距離がてら幾人かの兵士の姿がある。

549: ◆CU9nDGdStM 2014/10/30(木) 20:55:42.82 ID:rbJeXhC60
向こうも突然飛び出してきた純達に驚いたようだが、すぐに剣を抜いて構えた。

なるほど……逃げられそうな所には残った兵士を配置していたという事か。

存外、考えている。

だが現状に対して純が気後れする必要は無い。

阻む相手がいるのならば切り捨てればいい、そのために片腕は刀身の柄を握っている。

判断を下すのと加速するのとは同時だった。

立ち止まりもしない純の姿に対して、剣を構え向かってくる兵士の姿。

距離が縮まり振り下ろされた太刀筋を、最小限の動作で避けてみせる。

体越しに伝わってしまう振動だけが気になった。

しかし、続く行動だけは粛々と行う。

空振った姿勢の兵士に、純は横薙ぎの一閃を喰らわせてやった。

赤い線が目の前で飛び散り、それが振り下ろした刀身へと続く。

目の前で呻き地面に倒れる姿を見届けはしない。

先を急ぐ事に集中する。

しかし、呻き声と人が倒れた振動が響いたせいか向かう先の兵士らも純達の存在に気付いた。

鞘から刀剣を引き抜く音が幾重にも聞こえる。

舌打ちした。背後に迫っている殺気も気になっているのだ。

前方の兵士をいちいち相手していれば、いずれ挟撃されてしまう。

550: ◆CU9nDGdStM 2014/10/30(木) 20:58:21.56 ID:rbJeXhC60
ならば、最小限の相手だけを退けるべきだ。

純は地面へと赤い線を垂らす刀身を振り上げた。

多分、ここからは気遣ってやれない。

純「我慢しろよ」

地を蹴り上げながら言い放つ。

伺う訳じゃない、だから反応は期待していなかった。

が、担ぐ体躯を支えるために廻していた片腕を、震える指先でぎゅっと掴まれた。

その感覚が鮮明に伝わってくる。

正直、振り落とされないようにしてくれるのは有難い。

刀身を振る腕に余力を廻せる。

純の、兵士としての現実的な話はそこまでだ。

純「………」

でも、それ以外の琴線に何かが触れた。

何だろう。余計な事を考えている暇はないけれど、

いま形としては一人を守って走っている自分の姿に気付いたから。

そんな現状に、一瞬戸惑いを覚えた。

今まで純がこの刀身を振り上げてきたのは、必要にせまられていたからだ。

軍という性質上やむを得なかったのかもしれない。

軍属の兵士にとって上から命令は絶対だ。

命じられれば反乱分子の排除も、妖魔の討伐も粛々とこなしてきた。

まぁ最終的にはその筋が通らない、軍の濁った水が合わなくなってしまい反発したのだが。

551: ◆CU9nDGdStM 2014/10/30(木) 21:01:03.03 ID:rbJeXhC60
それでも刀身を構えるための姿勢は変わらなかったと思う。

敵を排除するために戦う、それが不動の姿勢だったから。

でも今の自分は少しだけ違う。

戦うべき相手はいる、それは変わりない。

けれど……もう一つ目的が増えた。

今の純には、相手と対峙する以外に、こうやって何かを守るために刀身を構えている。

先ほど自分を頼って掴まれた感覚が新鮮だった。

だからなのか。命令を完遂するために黙々と刀身を振り上げてきた過去とは違って、

純ははじめて自分を頼ってくれる存在を自分の意志で守ろうとしている。

明確な目的だ。切り捨てるだけだった過去と比べ、余程意義のある行為に思えた。

なるほど、こんな立場も悪くないのかもしれない。

無意識に片方の口角が吊り上がった。

見る人が見れば、刀身を構えての表情は凶悪に見えただろう。


と、純は前方より新たに迫る気配を感じ取る。

ちらりと視線を一直線に走らせた。

建物までの道筋に目星は付けた。

今向かってくる兵士を含め、4人は退けねばならない。

怒号と共に迫ってくる兵士を迎え討つために、純は刀身を軽く振る。

553: ◆CU9nDGdStM 2014/10/30(木) 21:04:32.31 ID:rbJeXhC60
ふと、純達をここに連れて来た塞の言葉が蘇ってくる。

彼女は自分と誠子にここでやってもらいたい事があるのだと言っていた。

それが何なのか……今、純は正確に理解した。

この瞬間が仕事始めだろうという事も。


殺気を乗せて繰り出された刃を弾くために、純は躊躇いもなく前へと踏み込んだ。

刃同士が交差して起こる鈍い音。

人を担いでいるから力が分散している事は分かっている。

相手の息の根は止めなくてもいい、最低限、動けなくすればそれでいいのだ。

駆け抜けながら1人、2人、3人と順調に対峙する相手を切り伏せ、進むべき前方より退けていく。

庇う事になるから大小の傷は負ったが、それでも走る分には支障はない。

建物はすぐそこだ。前方には兵士が1人立ち向かうように剣を構えている。

だがその後ろからもう一人の兵士が出てくる姿が見えた。

身軽であれば関係ないが、今は守らなければいけない存在がいる。

複数を同時に相手するのは厄介だが、それでも退く訳にはいかない。

後ろの兵士も剣を構え向かってこようとするのが見えた。

純は覚悟を決めて、踏み込む地面の堅さを確かめる。

初動が肝心だ。勢いをつけて、まずは前方にいる兵士を切り捨てる。

地を蹴って刀身を繰り出そうとした。

554: ◆CU9nDGdStM 2014/10/30(木) 21:06:45.07 ID:rbJeXhC60
が、突如呻き声が響いた。

微かに目を見開く。なぜなら純はまだ刃を交えてさえいなかった。

けれど聞こえてきた声は確かに前からだ。

向かってくる兵士に変化は無かった。

だから流れとして近付いてきた兵士から振り下ろされる刀身を、自分のそれで受け止める。

衝撃で体が揺れた。

その鬩ぎ合う視界の向こうで、新たに現れたはずの兵士が不自然に地面へと倒れ込むのが見えた。

あれ?と思うのと同時に、純にしてれみば馴染み深い声がした。

地面に倒れ込んだ兵士の背に突き刺さった刃を、緩慢な動作で抜き取る姿。

誠子「あ~、やっちまった。まぁ、いいか」

純「いいに決まってんだろうが!」

こいつらみんな自業自得だと、鬩ぎ合う刀身を万全では無い力で支えながら純は怒鳴り声を上げる。

純「誠子ぉ!感慨深く呟いてんじゃねぇ!さっさとこいつもどうにかしろ!!」

その声にへいへい、と呟きながらも誠子は俊敏な動きで倒れた兵士を飛び越えてきて残りの兵士を切り倒した。

呻き声を上げて眼前より兵士の姿が消えると、純の力んでいた腕もやっとで解放された。

555: ◆CU9nDGdStM 2014/10/30(木) 21:09:40.92 ID:rbJeXhC60
今更ながら、ぜいぜいと肩を大きく揺らして呼吸を整えようとする自分の現状にも気付く。

がむしゃらに行動している時は気にはならないが、純の姿はそれなりに満身創痍に見えるだろう。

兵士を切り捨ててやってきた誠子も珍しい姿の純を眺めながら言う。

誠子「なんだよ純、一人で戦争にでも行ってきたのか?水臭いな」

純「……テメェが遅ぇから、こんな様になったんだよ。ふざけんな」

純「何が悲しくてたった一人で十数人を相手する羽目になったと思ってんだ、あ?」

純は怒気を滾らせて吐き捨てる。

その尋常じゃない様子が誠子にも伝わったのか。

一転、彼女は口早に言い返してきた。

誠子「待て待て、元はと言えば純がブチ切れて相手を半殺しにしてしまったから私がその後始末をしてたんだろうが」

誠子「可哀想に、一人は肋骨逝ってしまってるし、一人は顎の骨が砕けてる。あれじゃあ一人で飯も食えないぞ」

純「チッ、なら息の根を止めておくべきだったか」

誠子「お前の場合、冗談に聞こえないぞ。……で、その子が塞が言ってた子か?」

誠子との気安い会話の過程で、当然の如く指摘をされて純は端と気付く。

慌てて身を屈ませると誠子に向かって「手伝え」と言った。

556: ◆CU9nDGdStM 2014/10/30(木) 21:13:04.72 ID:rbJeXhC60
随分と無理をさせていたと思う。

純は担いでいた体躯を肩から降ろした。

と、彼女は一人で地面に立つ事ができなかったようで、ぐらりと揺れた。

必然的に反対側にいた誠子が抱き留めてくれたお陰で大事には至らなかったが。

誠子は少女を見下ろしながら「随分と、線が細い子だな」と言う。

初見ならばそう感じるだろう、純もそう思う。

でも、その言葉に賛同する以前に純からは血の気が引いて青白くなったその顔がありありと見えた。

朱色の瞳も閉じた瞼の奥に消えていて、額には脂汗が浮いている。

…どう見ても、苦しそうでしかない。

誠子「止血する暇もなかったのか?」

肩から胸の当りまで走る赤い筋を見て、誠子が聞いてくる。

純は顔を歪めながらも頷いた。

いかんせん多勢に無勢だ。

純「担いで逃げるのが精一杯だった」

そう苦々しく純が吐き捨てると、見計らったかのように背後が再び騒がしくなった。

複数の足音に、武具が無骨に鳴り響く音。

身軽になった体躯を延ばし、純は振り向き様に言う。

純「丁寧に扱えよ。テメェが言ってた安泰が欲しいってんなら……そいつ次第だからな」

純のその言葉を受けても誠子はまだ理解できていないという感じだったが、

それでも向かってくる殺気からは逃げるべきだと判断できたようだ。

557: ◆CU9nDGdStM 2014/10/30(木) 21:15:12.89 ID:rbJeXhC60
誠子は片手に握っていた剣を器用に鞘へと仕舞う。

と、両腕で支えていた少女の体躯を抱き上げた。

そのまま走る体勢で純へと言う。

誠子「しんがりは任せた。取りあえず安全な所まで行って、この子の手当てをしないと」

その提案に異論は無い。

応、と返事をして純は手に握る刀身を振る。

先程まで乱れていた息は大分落ち着いてきた。

怒声が響く、振り向いた先に血走った目をした顔が幾つも見えた。

待てとか、貴様らどういうつもりだとか、その方を渡せ、とか。

純「こいつら何トチ狂った事言ってんだ」

あんなに殺気立っている奴らに、知り合いの少女を渡すほど人間捨てていないつもりだ。

ただ向かってくる奴らの中で、特に狂気染みた奴がいるのに気付く。

周りの兵士の姿とも違う、何かに押し潰されてよれよれになった官吏服の男の顔が憤怒で歪んでいた。

誠子「おお、怖い。ありゃもう半分イッちまってるな」

駆け出しながら誠子が言う。その後ろを追い掛けながら純も付け加えた。

純「奴らからすれば破滅だ。いい気味じゃねぇか、どうせ今まで散々美味しい思いしてきたんだろうし」

背後から執拗に追い掛けてくる奴らに向かって吐き捨てる。

せいぜい、苦しんで破滅しろ、と。

558: ◆CU9nDGdStM 2014/10/30(木) 21:17:47.82 ID:rbJeXhC60
誠子「……?」

走りながら誠子は違和感を覚える。

建物の中に引き返し、突き進む先の通路に人影は見当たらない。

可笑しい、純の助太刀に向かう途中で見かけた守備兵や官吏に騒ぎ事を伝えてきたはずなのだが。

走りながら首を傾げると、丁度眼下から咳き込む声が聞こえた。

下を向くと誠子が成り行きとして抱えていた少女が薄ら瞼を開いている。

彼女は揺れる周囲を見渡すと、抱えている誠子に気付いたのか見上げてきた。

朱色の瞳と視線が合う。

大きな瞳は潤んでいる。傷のせいで熱が出てきたのかもしれない。

ただその姿を見て、誠子はやはり線の細い子だなという印象を再認識した。

なぜこんな騒動に巻き込まれているのか知らないが、不憫だなと思う。

少女は初対面の誠子を見やって微かに怯えた表情を浮かべた。

その反応にああ、そうだろうなと納得したから誠子は気安く声を掛ける。

誠子「心配しなくていい。私は純の仲間みたいなものだ。君、傷は大丈夫?」

純の名前を出すと、その表情に浮かんでいた怯えが消えた。

ほっと息を吐き、狭い中でもぎこちなく腕を上げると誠子が指摘した箇所を覆う。

頷いて「はい」と返ってきた声が意外にもしっかりしていて誠子は少しだけ驚いた。

もっとか弱く、震えているかと想像していたのだが。

返ってくるその声は明確で、彼女は傷の痛みも言わない。

少しだけ少女に対する見方が変わった。

559: ◆CU9nDGdStM 2014/10/30(木) 21:20:33.07 ID:rbJeXhC60
咲「純さんは?……私のせいで、彼女に無理をさせてしまいました」

誠子は軽く目を見開く。

少女に言われて、先ほどの純の満身創痍の姿を思い出したからだ。

なるほど、彼女には肩から走る太刀筋以外、目立った他の外傷は見当たらない。

それはつまり、純なりに必死にこの少女を庇って来たのだろう事は誠子にも想像できた。

らしくないな、と思ったが誠子は心配そうな少女に正直に教えてやる。

誠子「奴なら後ろでピンピンしてるよ。今に怒鳴り声も聞こえてくると思う」

誠子「でな、一応、まだこうして逃げてんだ。君の傷の手当はもう少し我慢してくれ」

そう言うと、すぐに理解したようで少女は頷く。

そして見た目の儚さとは対照的に、はっきりとした口調で言った。

咲「私は大丈夫です。でも、心配してくれてありがとうございます」

誠子「………いや」

少女の言葉に対して、返す言葉が鈍った。

それだけを言って口籠る。

自分らしくもない、ただ少女の言葉を聞いて面食らった気はしたのだ。

なんでだろう?そう暫し考えて気付く。

多分、自分たちが起こした行動に対して、こんな素直に礼なんて言われたからだ。

馴染みのない空気を肌も感じ取っている。むず痒い気がした。

以前まで在籍していた軍なんかでは、命令なのだから完遂した事に対して礼なんぞ言われるはずもない。

だからか言われ慣れていないし、誠子とて言われたくて走っている訳でもなかったから。

不意打ちみたいなものだ。

でも……不思議と悪い気はしなかった。

560: ◆CU9nDGdStM 2014/10/30(木) 21:22:38.03 ID:rbJeXhC60
こんな怪我人に見返りを求めている訳ではないが。

感謝してくれているのなら、こうして身を挺して守ってやってもいいと思える。

軍の義務的な流れではなく人間的な話になるだろう。

なるほど、と誠子は思う。

純が満身創痍になってまでこの少女を担いできた気持ちが少しだけ分かったような気がした。

だから、いつもの調子に戻って誠子は気安く言う。

誠子「気にしなくてもいいさ、これは仕事みたいなもんだから」

純は知らないが、誠子の立場としては間違っていない。

内宰の塞がここへと呼び寄せなければ、誠子はこうして感謝される事もなかっただろうし

きっとどこかで日雇いの用心棒でもやっていただろう。

そう考えれば、今は張り合いがある。

咲「仕事……ですか?」

不思議そうに呟かれた。

だがその事を詳しく説明する場面でも無い。

話せば長い、きっと。

誠子でさえ把握してない部分もあるから。

だから「まあ、心配するな」ともう一度言ってから会話を切ると誠子は顔を上げた。

569: ◆CU9nDGdStM 2014/11/06(木) 21:54:12.27 ID:2fxPh3OB0

■  ■  ■


突き進む先の通路は相変わらず人気が無い。

本格的に可笑しいと思い始めた頃に、チラリと薄暗い通路の先に何かが見えた。

目を細めて視界を鮮明にすると鈍く光る物が見えた。

慌てて誠子は駆け抜けていた足を地面へと縫い付ける。

急停止した事になるから前のめりになりそうな体躯を、踏ん張ってどうにか耐えた。

抱える少女も落とさない。よくやった、自分。

だがそれよりも、誠子は前方になにがあるのか把握した瞬間の焦りの方が酷い。

鈍い輝き………あれは鞘より抜き出された刀身のそれしかない。

しかも一つじゃない、いや、一人じゃないというべきなのか。

その頃には、もう鮮明に認識していた。

前方の通路を塞ぐように武具を纏った兵士達の姿がある。

誠子の脳裏に最悪の事態が浮かんだ。

……もしや、計り間違えていたのか?

奴らの仲間はもっと広範囲に散らばっていて、

誠子が助けを求めた兵士らも奴らの仲間だったのかもしれないという事実。

思わず立ち止まりながら言い訳染みた声を上げた。

誠子「くそ、あの秋官!検討違いもいい所じゃないか!」

570: ◆CU9nDGdStM 2014/11/06(木) 21:59:38.75 ID:2fxPh3OB0
裏切りの兵士の人数を言っていた官吏、憧の姿が脳裏に浮かぶ。

先ほど純からの話を照らし合わせた結果、中庭にいた奴らで数は大体合っていたと思っていた。

だからこれ以上裏切る馬鹿がいないと勝手に判断してしまっていた。

全くもって誠子の当て付けだ、分かっている。

時間がないからと確認を怠った自分の落ち度だ。

それでも何かを吐き出さなければ誠子は混乱してしまいそうだったから。

どうする、どうする?

前方に見える兵士の数から考えても純と二人でも対峙するのには無理がある。

尚且つ、背後からは追ってきている奴らもいるからいずれ挟撃される。

通路は一直線で逃げ道も見当たらない。

抱える少女を床に置いて、自分も武器を構えるべきかと誠子は迷った。

すると立ち止まった自分の背後に追いついてきた純がそのまま横を通り過ぎようとする。

過程で、彼女は言った。

純「ビビってんじゃねぇよ。仕方ねぇ、俺が道を作ってやる。お前はさっさと行け」

誠子はそのまま通り過ぎようとする純の背に思わず叫んだ。

誠子「やめろ、純!数が違い過ぎる、お前ひとりで相手できる状況じゃない!」

純「なら大人しくして殺されるのを待ってろってか?冗談じゃねぇ、絶対に御免だ」

純「だったらせめて、お前らを逃がす」

誠子「…なっ!?」

571: ◆CU9nDGdStM 2014/11/06(木) 22:04:29.54 ID:2fxPh3OB0
馬鹿か!馬鹿だったなお前は、そういえば!

迷いもせずに言い切った純の言葉に対して誠子は心の中で突っ込む。

現実では言葉を失ってしまった。

口籠った誠子の代わりに、抱える少女が腕の中から純を呼ぶ。

咲「純さん!待って」

その腕は走って行こうとする純に向かって伸びる。

だけど純は振り返らない。

肩慣らしのように刀身を大きく振って走り出す。

その背にもう一度、少女が呼び止めるために声を上げた。


咲「待って……あれは、違うんです!敵じゃないんです!」


……全く予想もしていなかった言葉。

言われた純よりも、ただ聞いていた誠子の方が先に反応した。

誠子「…………え?」

間抜けな声になってしまったと思う。

走り出そうとした純もぎこちなくその場で止まる。

そのまま顔だけを振り返ると、神妙な顔つきで誠子が抱える少女を見た。

だから誠子も釣られるように少女を眼下に見下ろす。

二人分の意味が分からない、という視線を受けながらも少女はしっかりと頷いた。

咲「あれは違います。だって彼女がいるから」

大丈夫なんです、と少女はしっかりと言い切ったのだった。

■  ■  ■

572: ◆CU9nDGdStM 2014/11/06(木) 22:07:45.07 ID:2fxPh3OB0
ゼィゼィと荒い息を上げながら、脂肪の溜まった体躯をどうにか走らせる。

手に持つ冬器が重い。忌々しい。

だがどうしても逃がす訳には行かないのだ。

こんな事ならば少しの迷いも無く切り殺せばよかった。

なぜ躊躇ったのか、冬器を掴む腕に完全に力が入らなかった。
 
見た目からも只のか弱い王なのだと思っていた。

それなのに、屈強な兵士を引き連れて脅したのにも関わらず、王は脅しに最後まで屈しなかった。

武器を何一つ持っていない、仲間もいない、何もできないはずなのに……何故。

そう思ったら、急激に目の前の少女の姿が怖くなった。

今まで荒れた国で生きてきたから、天意なんてものは信じていなかった。

そんなものがあったら、もっと早くにこの国は良くなっていただろう?

不正など裁かれて、自分のような官吏はいなくなっていたはずだから。

それができなった天であったから、自分も、周囲の官吏も更なる深みに嵌っていったのだ。

罪悪感などとうの昔に忘れてしまった。

民が苦しもうとも宮中にてそれが見えなければ心も傷つかない。

簡単な事だった。自分が幸せならばそれでいいのだ。

だって、今まで天は自分の存在を許してきたではないか。

……そう思っていたのに。

あの儚くも朱い色の瞳に真っ直ぐに見つめ返された瞬間。

忘れていた罪悪感を思い出しそうになった。だから自分は酷く恐れたのだ。

573: ◆CU9nDGdStM 2014/11/06(木) 22:11:19.50 ID:2fxPh3OB0
この世には無いのだと見縊っていたはずの天意を、何の力も無いはずの王の向こうに確かに感じた。

怖くなった、本当に。

天意はあるのだと、故にとうとうこの身が裁かれる時が来たのだと容赦ない宣告を受けた気がした。

冬器を持つ手が震える。

そんな馬鹿な、と思った。

脅しているはずの自分達がなぜか脅されているように震えているのだから。

周囲を見渡しても、誰彼の冬器の切っ先も王を向きながらも小刻みに震えていた。

自分が感じている恐れを皆が感じ取っている。

そんな馬鹿な、有り得ない。

だから半狂乱になって斬り掛かった。

今更、天意を背負った王などいらぬ。

元々王などいなくとも宮中は廻っていたのだ。

眼下の国土や民など知った事ではない。

どうにか自分らが満足して生きてこられたのだから、それでいいのだ。

それ以外の生き方などもはや知らぬ。

天意などに左右される訳にはいかないのだ……だから。

王がいなかった時代に戻ればいい。

王がいなくなれば、王を選ぶ麒麟もいらないだろう。

口煩いあの存在もいなくなればもっと自分達は満足して生きていけるだろう。

だから、絶対に逃がさない。

574: ◆CU9nDGdStM 2014/11/06(木) 22:16:39.23 ID:2fxPh3OB0
突如邪魔が入ったが、どうやら少数のようだった。

ならば数で押せばまだ間に合う。  

血走った眼で薄暗い廊下の向こうを見つめる。

するとおぼろ気ではあるが人の後ろ姿が見えた。

思わず狂気の笑みが浮かぶ。締まりの無い口から笑い声が漏れる。

なぜか、見えた人影は通路の途中で止まっていた。

その姿が抱える王の姿も確認できたが故、更に走る足に力を込めた。

今更、天意など必要ない。

冬器の柄を持つ手にぐっと力を込める。

今度は躊躇わない。

周囲を鼓舞するために声を上げようとした。

冬器を持つ腕を振り上げる。

今に追いつく、そう思った瞬間。


突き進む先の床が不自然に揺れた。

堅いはずのそれが、まるで水面に走る波紋のように波打つ。

ぎくりとした。その光景には見覚えがあった。

普通では有り得ない光景。……それは妖魔が出現する前触れだ。

ヒクリと恐怖で片方の口角が震えた。

案の定、水面から勢いよく飛び出してきたのは大きな獣の姿だった。

唸り声を上げて襲い掛かってくる。

無我夢中で手にする冬器を構えようとしたが容易く弾かれた。

575: ◆CU9nDGdStM 2014/11/06(木) 22:23:43.86 ID:2fxPh3OB0
そのまま肩口を鋭い歯で噛みつかれる。

官吏「ぐわぁっ!」

痛みを覚え、無様に悲鳴を上げた。

目の前に赤いものが散る。

獣は自分を床に倒して無力化するとすぐに周囲の他の兵士へと飛び掛かっていく。

たくさんの怯えに満ちた悲鳴、背後の兵士からも声が上げる。

床に倒れ込んで動けなくなってしまっていたから、眼球だけを動かして周囲を探る。

半分女の姿をした妖魔が狼狽える兵士を容赦なく薙ぎ払っていくのが見えた。

そんな光景を目のあたりにしながら酷い無力感に襲われた。

官吏「く、くそっ」

それでもまだ自由の利く腕を伸ばして、弾かれた冬器を探そうとする。

官吏「諦めるか、こんな所で、武器を手にして…」

王が、あの儚い風情の少女が近くにきてくれさえすれば……だから。

探る手。その指先が何かに触れた。

反射的にそれを掴もうとして指を伸ばすが、触れたものの感触が消えて。

――――次の瞬間、指先が強い力で潰された。

官吏「ぎゃっ!」

思わず短い悲鳴を上げる。

痛みが麻痺してきた頃に、どうにか顔を動かして伸ばした指先を見つめると。

それは誰かの靴の先でギリギリと踏みつけられていた。

気付いた瞬間、遥か頭上より冷たい声が降ってくる。

智美「先日、折角台輔共々ご挨拶頂きましたのに……本当に残念です」

577: ◆CU9nDGdStM 2014/11/06(木) 22:29:39.96 ID:2fxPh3OB0
智美「若輩者の私も、貴殿にお見知り頂き仲良くできると喜んでおりましたのに」

慇懃な言葉の内容と、声の冷たさが一致していない。

震えながら見上げると、見覚えのある若い官吏が目を細め、床の上に転がる自分に冷やかな眼差しを向けていた。

その姿を知っている。

いつ頃からか、台輔に付随するようになって自分らからは悪目立ちするようになった官吏だ。

先日も台輔の執務室を訪れた際に、彼女は台輔の背後で静かに侍っていた。

が、今彼女は冷たい笑みを浮かべ、その足は容赦無く自分の指先を踏みつけている。

視線が交差すると、踏みつける力が更に増した。

思わずまた痛みから呻き声を上げる。

智美「ああ、でも貴殿と物を知らぬ私では物事を処理する方法に絶対的な相違があるようです。勉強になりました」

智美「貴殿のような反面教師がいてくれたお陰で、私は身が引き締まる思いですよ」

智美「…………本当に、反吐が出る」

官吏の女の顔に浮かんでいた冷たい笑みが消え、無表情に怒気が滲むのを肌が感じ取っている。

思わず背に悪寒が走った。若い官吏の冷たい声が続く。

先ほどまでの慇懃な態度すら剥がれ、その言葉にも怒気を感じた。

智美「手前勝手な願望を満たすために、あんたらは王が不在で長く苦しんできたこの国を更に苦しめようとした」

智美「あの方がいなくなれば、また国土は荒れるだろう。きっと人心も荒れる」

578: ◆CU9nDGdStM 2014/11/06(木) 22:34:59.44 ID:2fxPh3OB0
智美「それは復興もままならない内に、国土に犇めく民に再びかつての混沌を味わえと言ってんのと同じだろう」

智美「それで、あんたらの良心は少しも痛まないのか?」

官吏「………」

指先を踏まれる痛みに呻きながらも、口角が自然と吊り上った。

馬鹿な質問だと思った。

あの朱色の瞳を持つ王と同じ事を言っている。

ならば自分が返す言葉も決まっていた。

官吏「良心が残っていたのなら、初めからこんな無謀を起こさない」

官吏「今更……今更、天意を持った王が存在する国で生きていけるか?」

智美「…………」

官吏「自分が今までどんな事をしてきたのか、誰を陥れてきたのか分かっているから……恐れたのだ」

王を。そして、ついには裁かれるのかと怖くなった。

だから信じていなかった天意が本当にあったのだと、絶対に自分は気付きたくなかったのだ。

震える声で途切れ途切れ言い返す。

智美「聞くだけ無駄だったな。所詮あんたらの我を押し通そうとしただけの話だ。同情もしない」

智美「ただ安心してくれ。あんたらのその願いはこれからの国には不要だ」

智美「こうして騒ぎを大きくしてくれたお陰で、あんたらの仲間も一掃できるだろうさ。言い逃れも無理だ、賄賂も効かない」

官吏「……私を、殺すのか?」

聞けば、若い官吏は鼻で嗤った。

智美「あんたの臭いものには蓋なやり方と一緒にしないでくれ」

智美「王を弑し奉ろうとした罪、宮中を騒がせた罪。あんたが思っていた通り罪人は裁かれるだろうさ」

智美「だがそれは私の役目じゃなく、秋官の役目だ」

579: ◆CU9nDGdStM 2014/11/06(木) 22:40:58.10 ID:2fxPh3OB0
そう言って若い官吏は踏み付けていた足を上げた。

指先の痛みと圧迫感が取れて、思わず息を吐く。

と、複数の足音が周囲に響き渡る。

見上げる官吏の背後を何人もの兵士が慌ただしく駆けて行く。

それらは周囲で妖魔に襲われ倒れた仲間を次々と捕縛していく。

その光景の向こうに、見覚えのある女の官吏の姿が現れた。

いつぞや、自分らに揺さぶりを掛けてきた秋官の姿だ。

彼女は裏切り者から情報を得たようで、遠回しにではあるが幾度も接触しようとしてきた。

だから元々目障りな内宰の反発と共に追い詰められていったのだ。

後がないのだと思い、こうして最後の賭けに出た。

そして今、周囲の光景を見て、聞こえてくる呻き声を聞いて……終わったのだと思った。

賭けに自分は負けた。

智美「本当は殺してやりたいが。まぁ、あんたの先は決まったようなもんだよな?」

智美「精々裁かれるまで短い残りの人生、暗い穴倉の中で今までやってきた愚行を恥じて過ごすがいいさ」

そう言い捨てて、見上げる若い官吏の姿が視界から消えた。

次に違う足音が近づいてくると、自分はすぐに屈強な兵士に無理に上半身を起こされ捕縛されたのだった。

食い込む縄の感触を受け、項垂れた。

本当に、終わったのだと思った。


■  ■  ■


591: ◆CU9nDGdStM 2014/11/13(木) 19:55:38.50 ID:jBUM+DAe0
智美「うわ」

純「うえ」

誠子「あれ」

顔を合わせると三者三様の言葉が重なった。

咲は床に腰を降ろしながら、その反応を興味深く見上げている。


通路の奥で待ち構えていた兵団は、結局は味方だった。

咲はその中に智美の姿を見つけたから、あの時あれは違うと叫んだのだ。

事実、刀身を握った何人もの兵士は自分を抱えた誠子や純を通り過ぎて、

真っ直ぐに背後に迫っているはずの賊を討伐しに駆けて行った。

智美もまずはそれに随行していったようだが、粗方役目は終えたのだろう。

駆け足で床に降ろされ誠子より簡単な手当てを受けていた自分の元へ駆けつけてきたのだが。

その過程で必然的に側にいた純と誠子と顔を合わせると、先ほどの三者三様の反応を示したのだ。

592: ◆CU9nDGdStM 2014/11/13(木) 19:59:42.96 ID:jBUM+DAe0
何か初対面という反応でもなかったような気がした。

すると案の定、まずは衝撃から立ち直った智美が言う。

智美「純ちんに誠子ちん?……え?何でここにいるんだ?」

純「いや、むしろ何でお前がここにいんだよ」

智美「え?なんでって、そりゃあ私はここで官吏やってるからな」

純「は?官吏?…おい誠子、官吏って頭いい奴がやるもんだろ?」

誠子「そりゃ科挙受からんと無理だろうな。へぇ、あの親の畑仕事手伝ってたお前が一丁前に科挙を受かったのか」

智美「ワハハ。まぁ、あの頃は色々と手も廻したからなー」

智美「それより純ちんも誠子ちんも軍にいったんじゃなかったのか?性に合いそうって言って、村総出で送り出した記憶が…」

誠子「ああ、そうそう懐かしいなー。お前密かにこれで純に絡まれなくて済む!って喜んでただろ?」

純「あ゛?」

智美「ちょ、誠子ちんそれ昔の話!もう時効だから、そんなに凄まないでくれよ純ちん」

気安い会話を続けようとする彼女らを見渡して、咲は不思議そうに問いかける。

咲「皆さん、お知り合いなんですか?」

すると一番冷静に物事を受け止めていたと思われる誠子が手当する手を休ませることなく頷く。

593: ◆CU9nDGdStM 2014/11/13(木) 20:04:15.90 ID:jBUM+DAe0
誠子「同郷だよ、畑ぐらいしかない地方にある農村の。昔よく一緒に遊んでやったよな」

智美「……ワハハ。私が一方的に絡まれていたって言った方が正しいと思うけど」

誠子「なんだよ、それは純の話だろ?私はいい姉貴分だったと思うぞ。畑仕事のイロハも色々教えてやったし」

純「……あ゛?」

智美「だから純ちんは一々凄まないでくれ!しかも満身創痍な格好だから余計怖いんだ!」

智美が叫ぶと咲も改めて気付いた。

純の姿を見上げ、絞り出すような声で言った。

咲「すみません、純さん達は私を庇ってくれたから」

純「気にすんなよ。…それに、俺はお前の立場上だけで必死こいて助けたわけじゃねえ」

咲「え…?」

純「お人好しでクソ真面目で、いつも国のことを真剣に考えてた。そんな咲だからこそ助けたんだ」

そう言って純はくしゃりと咲の髪を撫でた。

咲「純さん……ありがとうございます」

温かな手で頭を撫でてくる純と視線を交わし、咲は淡く微笑んだ。

二人の話を聞いていた智美が正気に戻って駆け寄ってくる。

咲の手当をする誠子の横に膝を突き、咲を伺うようにして言った。

智美「傷は痛みますか?」

咲は首を左右に振る。大丈夫ですと言って顔を上げた。

言わなければならない事は、きちん目を見て伝えなければいけないのだと気付いたから。

だから、視線が合うと智美も納得したようだ。

安堵して表情を緩めると、そのまま横の誠子を見て、背後に立つ純へと顔を巡らせていく。

智美「偶然なのかもしれないけど。それでも……主上を守ってくれてありがとう、二人とも」

智美「ほんと、こうして無事な姿を確認するまで私も気が気じゃなかった」

594: ◆CU9nDGdStM 2014/11/13(木) 20:09:19.88 ID:jBUM+DAe0
心底ホッとしたような声。

その智美の言葉を受けて、今まで一番物事を冷静に受け止めていた誠子が突然変な声を上げた。

誠子「うあっ……主上っ!?」

黙々と止血していた手を勢いよく離すと、そのまま俊敏に後退してしまう。

ちなみにそれを見つめる事になった咲も智美もぽかんとした表情を浮かべている。

唯一、状況を理解している純が、後退してしまった誠子を呆れた目で見やる。

純「やっぱりお前、まだ気付いてなかったのか。道理で気安い態度が抜けねぇなって思ってたんだよ」

誠子「い、いやだって!お前だって同じような態度だったろう!何度か会話には出てたけどまさか、本当だと思わないって!」

誠子「この子、いやこの方は何かの事件に巻き込まれて、それで命を狙われてしまった官吏なんだろうなって思っていて」

純「それだけで塞があんなに急かすか?しかも、台輔の使いが来た時点で気付くべきだ」

純「……まぁ、俺は確かに身に覚えあったし。それに今さら態度変えられる程、器用でもねぇよ」

どこかぶっきらぼうに吐き捨てる様が純らしいと思う。

だから、咲も頷いた。

純の意見には全面的に賛成だ。

王だからと言って、命掛けで助けてくれた彼女らに今更畏まって欲しくは無い。

咲「純さんの言う通りです。確かに私は王という立場ですが、その前に貴方がたが助けてくれた一人の人間です」

咲「恩人に改まって欲しいとは思いません。どうか、今までの態度のままでいて下さい」

誠子「う、いや……でも」

595: ◆CU9nDGdStM 2014/11/13(木) 20:13:27.99 ID:jBUM+DAe0
純「……往生気が悪ぃな。お前、物事に対して柔軟な癖に変な所で線を引くからな」

純「でもこれでお前が言っていた安泰が手に入ったじゃねぇか。よかったな」

誠子「……いや、これ想像してたのと違くね?まさか王様と直にお目に掛かるとは」

今だもごもごしている誠子を尻目に、純は改まって咲と智美の方を向いた。

純「と、以上が内々の話だ。正規に俺達がここにいる理由は塞から聞け」

すると智美が敏感に反応した。

智美「塞……内宰の?」

純「ああ、奴の指示で動いていたからな。これで少しは安心したろ?」

純が言うと、智美は苦笑を浮かべる。

智美「まぁ。でもそんな姿をしてまで主上を守ってくれたんだから疑う余地はないかと」

智美「塞殿には一応、後ほど連絡を入れておくよ」

そして再び智美は咲へと向き直る。

視線が交差する。咲は顔を伏せない。

真っ直ぐに智美を見返している。だから智美はニコリと笑んだ。

智美「少しの間に、随分と御変わりになられたようだ」

鋭い指摘に思わず咲も苦笑を浮かべる。

咲「沢山泣いて、後悔して、落ち込んだら吹っ切れたんです」

咲「…そうしたら、自分が何をしたいのか分かったような気がしました」

596: ◆CU9nDGdStM 2014/11/13(木) 20:17:24.74 ID:jBUM+DAe0
真っ直ぐ前を見て言う。本心を伝える。

咲「私は菫さんに会いたい。嫌だと言われたけれど……それでももう一度会って、話がしたいんです」

できるでしょうか?と問えば、当たり前のように智美は頷く。

智美「お喜びになります。実はここだけの話なんですが………」

思わせ振りに声を潜めて智美は語ろうとする。

思わず咲は聞き耳を立てた。

智美「あの鉄面皮が泣きそうなってましたから。貴方がいなくなってしまって、胸が痛いと言っていた」

咲「…………」

智美「想像できないでしょう?でも事実ですから。麒麟と言っても、気高いと言われていても、あの方にも感情はあります」

智美「貴方の事であれば尚更だ。でも人一倍不器用だから、それがどうしても上手く貴方に伝えられなくて悩んでいました」

咲は目を見開く。

智美が教えてくれる話は、余りにも自分が想像していたものと違っていたから。

だから、無意識に呟いた。

咲「彼女も……私と同じで、悩んでいた?」

問えば、智美はやはり肯定する。

こんな事を言うのもなんですが、と教えてくれる。

智美「主上と台輔は良く似ていらっしゃると思います」

咲「私と菫さんが……?」

597: ◆CU9nDGdStM 2014/11/13(木) 20:21:09.93 ID:jBUM+DAe0
智美「もちろん、姿形の事を言っているのではありません。相手を想う姿勢が、とても似ていると私は思います」

智美「深いですが、それを表に出すのは苦手な所とか」

咲は智美の言葉をゆっくり噛み締める。

途端恥ずかしくなってきてしまった。赤くなった顔を誤魔化すように俯くと言う。

咲「……私と同じなら。沢山、沢山話をしなければいけませんね」

智美「ええ、是非とも分からせてやって下さい。私達が今まで台輔にできなかった分、主上には頑張って頂かないと」

智美「あ、でも2、3日は残念ながら台輔にお会いする事はできません」

咲「え?」

予想外に言われて咲は目を見開く。そして顔を上げた。

見上げる先の智美は仕方ないのだと言う。

智美「麒麟は神獣ですので、台輔は流れる血にはどうしても弱いのです」

智美「主上の負った傷が不可抗力なのは分かっています」

智美「が、せめてその傷が完全に止血するまでは、お会いするのを控えて頂かなければいけません」

そう指摘されて、咲は改めて自分が負った傷の痛みを思い出す。

誠子に手当してもらって傷は押し当てられた布の奥に隠れてしまっているが、

多分感じる痛みからもまだ血は滲んでいるだろう。

なるほど、と咲は頷く。

598: ◆CU9nDGdStM 2014/11/13(木) 20:25:15.34 ID:jBUM+DAe0
咲「分かりました。なら私はその間に考えておかないと。…言いたい事も聞きたい事も、本当に沢山あるから」

智美「ええ、主上の状況は私から台輔に伝えておきます」

咲「お願いします、智美さん」

智美「…随分と、心配していました。本当はすぐにでも駆け付けようとしていたんですよ?さすがに私が止めたんですが」

智美「だから主上が無事である事を早く伝えないと、痺れを切らして飛び出してきてしまうかもしれない」

智美「ああ、でもまずは主上を安全な部屋までご案内致します。傷の手当ても医者を呼んできて改めて見て頂かないと」

智美「……どうか。貴方はもはや、貴方だけの存在ではないのだとご理解下さい」

軽い口調だった智美の声が、最後に向かうにつれ真剣味を帯びて言った。

今の咲にはこの年若い官吏が何を言いたいのよく理解していた。

だから、素直に頷く。

咲「智美さんにも、心配を掛けました。……肝に命じます」

すると、いつもの気安い雰囲気に戻った智美は。

満足そうな声で「はい」と頷いたのだった。


■  ■  ■


599: ◆CU9nDGdStM 2014/11/13(木) 20:28:13.54 ID:jBUM+DAe0
それからは、咲は特に何もしていない。

騒ぎの事後処理は智美らの官吏が行うそうだから、

咲は自室へと戻るとやってきた医者に傷を改めて見てもらった。

元々、神籍にあるから大事には至らないだろうと言われたが

それでも思ったより深い太刀筋だったようだ。

痛み止めと薬湯を飲んで今日は早めにお休み下さい、と医者に言われて素直に頷く。

実際、色々あって疲れてしまっていた。

体は素直に休息を求めていた。

痛み止めを飲み込み、湯気の立った薬湯をちびちび喉に流し込む。

その程よい暖かさが、じわりと疲れていた体中に沁み込むようだった。

せめてこれを飲んでから寝台に横になろうと長椅子に腰掛けて、

ゆっくりと薬湯を喉の奥に流し込む作業を繰り返す。

途中で意識がうとうとしてきた。

きっと薬湯の暖かさが思う以上に心地よかったのだ。

もしかしたら痛み止めに多少の睡眠を促進する薬も入っていたのかもしれない。

瞼が重くなってくる、が薬湯はまだ残っていた。

それを最後まで飲まなきゃと思いながら、なけなしの意識は夢現に変わっていった。

600: ◆CU9nDGdStM 2014/11/13(木) 20:32:52.51 ID:jBUM+DAe0
つまり、そのまま寝てしまった。綺麗に。

長椅子に背凭れに顔を預けてどのくらい経ったのか。

ふと息苦しさを感じる。

今まで薬湯の暖かさに包まれていた体躯がぶるりと不自然に震えた。

そして肩から走る傷口の痛みを思い出した。

そこから薬湯の暖かさではない、苛む程の熱に焼かれるようで額に汗が浮いてきた。

自然と顔が歪む。

ジンジンと夢現の中でも負った傷の痛みに咲は苛まれる。

そういえば見てくれた医者が言っていた。

数日は夜に傷が熱を持つかもしれないと。

痛み止めは飲んだはずだが、いつの間にか暗くなった周囲を計るに薬は切れてしまったのかもしれない。

痛い、熱い、と。

額に浮いた汗が頬を伝う感触に震えた瞬間だった。

突如ひやりと冷たい物が頬に触れて、流れ落ちていく汗を拭った。

それはすぐに離れていったが、今度はびっしり汗が浮いた額にそっと何かが触れる。

苛む熱と対照的に触れてくる冷たさは心地良かった。

思わず咲は安堵の息を吐く。

でも一体何だろう、と歪んでいた表情を解くと、閉じていた瞼をゆっくり開けた。

601: ◆CU9nDGdStM 2014/11/13(木) 20:36:35.00 ID:jBUM+DAe0
薄暗い室内は相変わらずだ。

だけどその暗さに慣れてくると、見つめる先の視界に誰かがいる事に気付く。

思ったよりも至近距離だった。

当たり前か。その距離にいるから伸ばした指先が咲の額に浮いた汗を拭ってくれているのだから。

ああ、でもこれはもしかしたら苛む熱が見せる夢なのかもしれない。

だって暗さに慣れてきた視界が捉えた人はここにいるはずがない。

それでも咲は半信半疑の心地で、その人の名前を呼んでみた。

咲「……菫さん」

すると暗闇の中でも反応を返すように、綺麗な紫の瞳が見開く様を咲は見ていた。

夢にしては鮮明だ、だからこそ夢なのだとも思えた。

躊躇ったのは一瞬だったが、それでも顔に触れる指先を離す事無く探るように問いかけてくる。

菫「……苦しいのか?」

心配気なのが声からも伝わってくる。

咲が最後に菫を見たのが拒絶された瞬間だったから。

夢のせいなのか、咲の願望のように本当に自分を心配して言ってくれる姿に心が揺れた。

嬉しかった。だから浮かんだ笑顔のまま「大丈夫です」と告げた。

602: ◆CU9nDGdStM 2014/11/13(木) 20:42:42.09 ID:jBUM+DAe0
菫「………」

そんな反応の咲を前に菫はなぜか息を呑み込む。

吃驚した態度、そして戸惑っている様子が咲にも伝わってきた。

彼女はそのまま触れていた指先を引っ込めると、表情を隠すように俯いてしまった。

そんな菫へと咲は不安げに問いかける。

咲「菫さん、私はまた貴方の気に障る事を言ってしまったんでしょうか?」

言葉にまるで力が籠らない。

すると不思議に傷の痛みが増していくような気がした。

気落ちは咲に苛む熱をも呼び戻している。

だが、目の前で菫は相変わらず俯いたままであったが首を左右に振った。

「違う」と堅い言葉が返ってきた。

菫「それは違う。……むしろ貴方が笑ってくれたから、私は……」

咲「菫さん……」

呼ぶと、俯いていた顔が少しだけ上がった。

暗闇の中でも至近距離であったから、咲もその表情が想像していたものと違う事に気付く。

想像していた嫌悪感は見えず、白いはずの菫の頬が少し赤く染まっている気さえした。

608: ◆CU9nDGdStM 2014/11/20(木) 21:06:45.52 ID:EViw3pJ30
それを指摘する前に、菫は「聞いてくれるか?」と咲に問う。

反応が遅れたのは熱のせいなのか、らしくない菫の態度のせいなのか分からなかった。

それでも咲はゆっくりと頷く。

ほっとした表情を浮かべた菫の、ぎこちないその声が続いた。

菫「私はいつも言葉が足りない。それは本心を言ってしまって相手に裏切られるのが怖いからだ」

菫「願って言っても、届かないのを知っていたから。救いたいのに何もできない自分が情けなくて嫌だった…」

菫「…だから。智美が言っていた通り、私はどこかで諦めていたのだと思う」

咲「………」

菫「何も言わないのに、相手は自分を分かってくれているはずなんて」

菫「天意があるから、半身だから一番なはずだなんて……馬鹿な考えだ」

菫「だから貴方に嫌と言ってしまったのも、本当に嫌で言った訳ではないんだ。こんな事、言うのも情けないが…」

そう言って、菫は俯いていた顔を上げる。

彼女の紫の瞳がゆっくりと細められる。

どこか言いにくそうな表情、だけど菫は無理に吐き出すように言った。

609: ◆CU9nDGdStM 2014/11/20(木) 21:11:47.98 ID:EViw3pJ30
菫「私に心から笑いかけてくれた事がないのに、貴方が他の奴らに笑いかけている瞬間を見るのが嫌だった」

菫「悔しかった、胸が痛くなった……だから嫌だと言ったんだ。貴方が、私を見てくれないから」

ぎこちない言葉だけど真っ直ぐに伝わってくるそれが鼓膜から体の中へ浸透してくると、

驚きで咲の目が見開かれた。

咲「私は菫さんに好かれていないのかと。何もできないから、ずっと呆れられているのではないかと思っていました」

菫「そんなことは有り得ない。王は私にとって貴方だけだ」

菫「天意を辿り、初めて見た時から……私はずっと、貴方を慕っていた」

迷いもない、真っ直ぐな菫の言葉。

それを聞いた咲はぎょっとした。慌てて言い返す。

咲「慕って…!?い、いえ。そういう意味でないのはわかってますけど…」

流そうとする咲の態度を感じ取ったのか、菫は畳みかけるように言う。

菫「私は確かに言葉が足りないが。語彙を言い違える程無知でもない」

菫「…間違っていない。執務などでは仕方ないが、こうした時には私の他を見て欲しくない」

菫「そう思うぐらいには、貴方の事が好きだ」

咲「…………」 

絶句した。追い打ちだ。

咲は顔に集まってくる熱を隠すように、腕を上げ覆うと背後の背凭れへと倒れ込む。

そのまま、どうにかこの衝撃の余波を収めよう試みるのだが。

様子がおかしい自分を覗き込むようにして近づく気配がそれを許してはくれそうもなかった。

610: ◆CU9nDGdStM 2014/11/20(木) 21:16:00.75 ID:EViw3pJ30
むしろ咲の真っ赤になった顔を見て菫は心配そうに気遣う。

菫「やはり苦しいのだろう?医者を呼ぶか?」

咲「…………………いえ」

多分これは医者の知識で抑え込むのは無理だ。

必要ない、という咲の言葉を受けて菫は不服そうに唸ったが、徐にその腕がまた伸びてくる。

顔を覆う咲の手のひらの合間を縫って、一層熱が溜まった額をひやりと覆った。

思わず顔を覆っていた腕を下しながら咲は満足の息を吐いた。

咲「…菫さんの体温は低いから、気持ちいいです」

菫「それは熱のせいだ。やはり医者を呼んできた方がいいと思う」

そう言いながらも額から頬へと移動した掌は離れない。

心地のよい冷たさを甘受しながら咲は首を軽く左右に振る。

咲「大丈夫です」

そう言って、そのままぽつりぽつりと話し始める。

咲「私を守ってくれていた菫さんの使令から、菫さんの事を色々聞きました」

咲「今まで貴方がどんな想いで生きてきたのか。だから、さっき言ってくれた告白も素直に受け取る事ができたんです」

菫「…………そうか」

ぎごちない菫の声。

咲は「はい」と相槌を打って更に言葉を続ける。

611: ◆CU9nDGdStM 2014/11/20(木) 21:23:27.29 ID:EViw3pJ30
咲「でも私はもう一度貴方の口から聞きたい」

咲「さっきみたいな菫さんの本当の気持ちを、いっぱい私に言って欲しいんです」

咲「私も同じです。今までの惨めで恥ずかしいと思って言えなかった生き方だけど、貴方には聞いて欲しいから」

あ、もちろん嫌じゃなかったらですけど。

一方的なのはよくないかな、と思って咲が言葉を付け足すと間髪入れずに声が返ってくる。

しかも今までのどこか密やかな会話ではなく多少大きな声で。

菫「嫌じゃない!……嫌じゃ」

冷たさが気持ちよくて思わず閉じていた咲の瞼がぱちりと開く。

眼前にはこちらを窺うようにしていた菫の顔がよく見えたから。

相変わらず秀麗な造作ではあったが、気のせいでなければ彼女の瞳は潤んでいるように見えた。

咲「………」

だから咲は智美が教えてくれた言葉を思い出している。

あの鉄面皮が泣きそうになってたんですよ、とこっそり教えてくれた言葉。

あの時は半信半疑だったけれど、今なら信じられる。

それに菫は言ってくれた。

咲の願いに対して拒絶しなかった、嫌じゃないと言ってくれたから。

嬉しくなった。自然に安堵の息を吐き「よかった」と咲は笑った。

612: ◆CU9nDGdStM 2014/11/20(木) 21:27:28.76 ID:EViw3pJ30
頬に触れていた掌が不自然に揺れた。

咲が不思議に思う間もなく、それは触れていたか箇所から離れていく。

そして代わるように近づいてくる気配を肌が感じ取り、視界が捉えていた。

背凭れに背中を預ける咲の肩口に不自然な重さが載った。

負担にならないよう柔く覆い被さってくる。

ああ、やっぱり。

傷のせいなのかもしれないが、咲の全身はいらぬ熱が籠り過ぎている。

だからこうして低い体温の菫に柔く抱き締められるのは酷く心地がよい。

熱の痛みが引いていくような気がする。

肩口に顔を埋めてしまったからその表情までは分からなかったけれど。

ぽつりと菫の声が聞こえてくる。

菫「貴方でよかった、……貴方でなければ嫌だ」

咲はうっすらと笑む。

こんなにも必要としてくれる人が在る幸せをどう伝えようか。

咲は菫の名を呼ぶ。

返ってくる反応は待たない。ただ、これだけは伝えようと思った。
 
咲「……貴方は自分自身を無力だと嘆く過去があるのだと聞きました。誰も助けられなかったと」

咲「でも、そんな事はありません。貴方は無力なんかでもありません。だって……」

613: ◆CU9nDGdStM 2014/11/20(木) 21:31:45.64 ID:EViw3pJ30
咲「ただ淡々と日々を生きていくだけだった私を必要なのだと言って、こうして想ってまでくれた」

咲「無力なはずがない。貴方は間違いなく、この国で苦しんでいた一人である私を、あの瞬間に救ってくれたんです」

力が余り入らない片腕を上げて、抱き締めてくれる大きな背に廻して軽くそこを叩く。

合図のような仕草。菫からの反応はまだ無い。

構わずに咲は言う。


咲「ありがとう、菫さん」


本当に本心から思う。

返ってくる声はなかったが、咲の背に回っていた腕に力が籠る。

密度が増す。冷たくて傷の熱が籠った体躯には心地良い。

痛みすら薄れてきて、咲は忘れかけていた睡魔を思い出そうとしている。

薄暗い室内をぼんやり見つめる視界が霞む。

吐き出しそうな欠伸をかみ殺すが、体を覆う冷たさが心地良すぎるのだ。

本当はもっと言いたことがあったのに。

ふと、これは夢なのではないかと思った。

そういえば今の自分は熱で浮かされていて、今までの場面も朦朧とした咲の願望が見せたものなのではないか?

614: ◆CU9nDGdStM 2014/11/20(木) 21:35:15.28 ID:EViw3pJ30
智美も言っていたではないか。

ここに半身がいるはずがない。

彼女は麒麟だ。神獣であるから血の穢れを厭う。

こうして負った傷の熱に苦しむ咲の元へ来るはずが無い。

そう確信した瞬間、とても残念な気分になった。

耐えようとしていた睡魔に意識が負けそうになる。

夢現の中、落ちてくる瞼の向こうにまだ菫がいる錯覚を覚えていた。

そうだ、と思う。 

願望であれ気分はいい。

本当の菫に会う時の予行練習にもなった、伝えたいこともはっきりと分かった。

だから傷が塞がったら会いに行こう。

願望の世界で見た彼女のように、せめて必要とされるよう頑張ろうと思う。

そう考えると残念な気分が多少は薄れる。

もう瞼を押し上げておくことはできない。

咲はとうとう瞼を閉じた。

そして、辛うじて保っていた意識はすぐに暗闇の底へと落ちていったのだった。


615: ◆CU9nDGdStM 2014/11/20(木) 21:38:36.53 ID:EViw3pJ30


窓から差し込む光が、閉じていた瞼を刺激する。

薄ら瞼を開くと室内が明るい事に気付く。

咲「………」

朝の明るさが部屋に満ちている。

ようやく目覚めた咲は、意識が覚醒するまで暫しの時間を要する。

横になっていない姿勢に呆れて息を吐き出す。

どうやら自分は体に悪い事に寝台にいかずにこんな所で眠ってしまったらしい。

これは体を痛めたかもしれないな、と息を付く。


ようやく意識が鮮明になってきた頃。

背凭れに預けたままになっていた体躯をようやく起こそうという気になった。

ピキピキするだろうか、不安を覚えながらも背凭れより背中を離そうとする。

体躯に力を込める。だが体が上手く動かない。

咲「…?」

そして、今更ながら気付いた。

現状を把握する。体が無理な恰好をして動かないというよりは……

何かが自分の上に寄り掛かっていて動かないのだと。

吃驚して眼下を見下ろす。

そして、ピキリと不自然に固まった。

衝撃は大きい。

自分の肩の上に頭を載せたまま、寄り掛かるようにして瞼を閉じている菫の顔がはっきりと見えたから。

616: ◆CU9nDGdStM 2014/11/20(木) 21:41:40.11 ID:EViw3pJ30
咲はとっさに悲鳴を上げそうになる。

そして同時に昨夜の咲の願望の夢を思い出した。

いや、肩が感じる重みから……あれは夢ではない?

菫は本当に咲の元へやってきて、あんな赤裸々な事を言ってくれたのか。

自覚した瞬間、また咲は変な声を上げそうになった。

ぶわりと顔に集まってくる熱をどうにか霧散させようとする。

意味も無く首を左右に振る。

ああ、でも菫にも確認してみるべきではないか?

もしかしたら夢半分、現実半分かもしれないし。

余計な藪を突きたくはない。

だから震える腕を伸ばして、咲は自分の肩口に顔を埋める菫の掴み、軽く揺らす。

咲「す、菫さん」

すると呻き声が聞こえた。だが菫の瞼はまだ開かない。

だから、もう少し強く咲は彼女を揺らした。

咲「菫さん、あ、朝ですけれど。起きてくれませんか?」

なぜか菫は呻きもするし、顔を歪めもするのだが……瞼を開こうとしない。

そうして、やっとで咲は彼女の異変に気付いた。

元々肌の白い菫ではあったが、今は白を通り越して青い顔色と言っていい。

しかもその額には昨晩の咲のように脂汗が浮いているように見えた。

そして、何かを耐えるように眉間に皺を刻み、苦しげに歪む表情。

617: ◆CU9nDGdStM 2014/11/20(木) 21:44:55.52 ID:EViw3pJ30
咲「……………っ!!」
 
咲は閃いた。

菫は麒麟だ。神獣だ。……流れる血を嫌う。

けれどこうして朝になるまで菫が顔を押し付けていたのは、咲が負った傷口の上ではなかったか?

つまり神獣である彼女は、血の穢れに苛まれて苦しんでいるのではないか?

咲「す、す、菫さん……っ!!」

助けを呼ばないと。

けれど寄り添うようにして伸し掛かる菫の体躯が壁になって咲は椅子から起き上がれない。

そうしている内にも菫は苦しげな表情を濃くしていくものだから。

咲にしては精一杯の気合いを入れて、叫んだ。

朝から、王の部屋よりこんな叫び声が聞こえるのは事件かと思われるかもしれないが。

実際、事件だ。しかも急務の。


咲「だ、誰か、来てください!!菫さんが大変なんです……!!」


その日、宮中は前日にも勝るとも劣らない騒ぎになった。

後に菫が智美と女御からきつく説教を喰らったのは余談である。



■  ■  ■


618: ◆CU9nDGdStM 2014/11/20(木) 21:48:52.53 ID:EViw3pJ30


■  ■  ■


霞「最近の采王は、ちょっと大人っぽくなった気がするわね」

咲「え?」

目の前で静かに茶を啜る咲に延王はそう告げる。

言われた言葉に、咲はきょとんとして霞を見上げた。

哩「私もそう思うとね。何というか、王としての貫禄が出てきた感じもするばい」

霞の隣りに寄り添うように座っている哩も、主人の言葉に深く頷いた。

霞「ふふ。この数年の間に国も落ち着いてきたようだしね」

咲「…そうですね。本当に、色々とありましたが……」



あれからどのくらいの月日が経ったのだろうか。

国土に天変地異が起こる事は無くなり、人を襲う妖魔も姿を消した。

他国へ逃げていた自国民も徐々に戻ってきて町には賑わいが戻りつつある。

きっと、たった数年の事だが。

それでもこの国の先には希望が見えてきたと世間より言われ初めてきた頃。

咲にしてみれば駆け足のような日々だった。

まぁ、こんな日々はまだまだ続く予定なのだが。

619: ◆CU9nDGdStM 2014/11/20(木) 21:53:40.38 ID:EViw3pJ30


菫「延州国の王と麒麟はもう帰られたのか」

咲「はい、先ほど。菫さんにもよろしく伝えてくれと言ってました」

菫「そうか。挨拶できなくて申し訳ない。…ちょっと仕事が立て込んでいてな」

咲「菫さんは仕事に決して手を抜けない性格ですからね」

くすりと咲が微笑むと、菫もつられるように淡く笑んだ。

菫「生真面目なのは主上も同じだろう」

咲「ふふ、そうですね。お互い様ですね」

菫「ああ。お互い様だな」

2人して顔を合わせ、笑みを交わし合う。

その時扉が数回叩かれた。

「どうぞ」と入室を促すと、智美と憧が部屋へと入ってくる。

智美「主上。治水工事の採決書類を受け取りに参りました」

咲「あ、はい。机の上に置いてあります」

憧「さすがは主上。明日までの書類をもう終わらせてるなんてね」

智美「何せうちの国は王と麒麟は揃って生真面目だからなぁ」

憧「2人とも手を抜けない性格ってやつね」

先ほど自分たちが話していた内容を他人の口から聞かされ、咲も菫も思わず頬を染める。

620: ◆CU9nDGdStM 2014/11/20(木) 21:57:42.50 ID:EViw3pJ30
智美「ワハハ。いわゆる似た者夫婦ってやつだな」

咲「ふ……夫婦っ!?」

菫「と、智美!からかうんじゃない!主上が困っているだろう!」

智美の言葉に頬を更に赤く染める王と麒麟。

堪らず菫が吠えるが、智美は何処吹く風で飄々と机の上の書類を弄んでいる。

智美「あ、そうそう。先日塞殿が地上より面白い遊具を持ち帰ってきたんですよ」

咲「面白い…遊具?」

憧「ああ、あれのことね。私も誘われてやってみたけど中々楽しめたわ」

菫「一体何のことだ?」

咲も菫も何のことか分からず二人して顔を見合わせる。

智美「何でも、麻雀という遊戯らしいですよ」

咲「麻雀?」

菫「何だかよく分からんが…面白いのか?」

智美「ええ。塞殿なんてすっかりハマってしまって、連日純ちんや誠子ちんを相手に楽しんでますから」

憧「今度は主上と台輔も誘うって、塞が息巻いてたわよ」

咲「そうなんですか。それは楽しみです」


智美「ワハハ。何となく主上は物凄く素質がありそうな気がします」

咲「へっ??」


カン!!