魔王娘「さあ行こう、学者様!」 歴史学者「その呼び方はやめてよ姉さん」 前編

417: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/08/30(月) 17:51:55.68 ID:94qX20ko

     ・
     ・
     ・

 目を覚ましたのは気を失って数十分後といったところだった。薄く積もった埃を払い、痛む体を地面からはぎ取る。どこかかび臭い遺跡の中。あたりを見回すと、いくつも倒れた柱と壁に空いた大穴が目に入った。壁も柱もほとんどが崩れ落ちており、ここまで大規模だとまだ遺跡が崩落していないことが不思議に思えた。恐らく魔術文字の効果だろうが。そしてそれらのそばにてらてらと光るいくつかの塊。砕けて溶けたそれらは、推測するに人形の残骸だ。そしてそれらから一直線に結んだ場所に彼女はいた。

「姉さん……」

 魔王の娘はうつぶせに倒れて気を失っていた。ふらつきながらも近寄ってかがみこむ。服は幾分か汚れてしまっている。だが、致命的といえるほどの外傷はない。とりあえず安心してよさそうだった。ただ、腕をいくらかすりむいている。一応治療するために手を伸ばした。
 ――その手がぴたりと止まる。彼女の指輪がルイスの視界に入った。さきほど赤い光を放ったそれ。小さな真紅の宝石を戴いた指輪。

 それは彼女が、帰ってきたその父から押しつけられた物で、最初身につける時は嫌がったらしいのだが、その割になかなかはずそうとしない。確か名前は――≪愛想笑いの指輪≫。しかしそれはただの装飾品ではなかった。

「≪魔力増幅の指輪≫」

 指輪の機能は、その装備者の魔力を大幅に底上げし、増強するもの。その仕組みは分かっておらず、オーパーツ扱いだ。ただ、ひとつ言うとすれば――

「もう、機能は失っているはず……」

 そう、彼女の父が使用したのを最後に、魔力増幅の指輪はその機能を発揮しなくなった。彼女の手に渡ってからもそれは同じで、しかしつい先ほどの物を見るに確かに発動していたようだ。目を焼く赤色の光輝。あれは指輪から発していた。

 それに手を伸ばして触れる。と。

「あ……」

 ちいさな音をたてて、指輪が割れた。まっぷたつになったそれは、地面に落ちると、かすかな金属音をたてた。


引用元: 魔王娘「さあ行こう、学者様!」 歴史学者「その呼び方はやめてよ姉さん」 



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418: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/08/30(月) 17:53:02.99 ID:94qX20ko

「だーかーらー、違うって」

 目を覚ましたリオは、不機嫌に顔をしかめると同じ言葉を繰り返した。

「アレが守ってくれた? ちゃんちゃらおかしいよ」
「でも状況を見るに」
「違うったら違うって」

 リオはむきになって否定する。その声に合わせるように焚き火の炎が踊った。遺跡の前の例の広場である。外に出た時にはすでに日は暮れており、ここで野宿することになった。
 今は焚き火を前に話をしている。夜のただっぴろい闇が、静かにあたりを包んでいた。虫の鳴き声が聞こえる。聞いたことのあるようなないようなそれ。
 サンダーはいない。外で合流するはずだったのだが、こちらに勝ち目がないとみて逃げていたとしてもなにも不思議はなかった。

「でも、その指輪が発動したのだけは間違いないよ。もう力を発揮することがないこともね」

 ルイスは焚き火を見つめながら言った。
 リオは黙って手の中を見る。そこには二つに割れた指輪があった。ルイスの言葉通り、もう機能を発揮することはないだろう。

「それがなければ僕たちはやられていた。違うかな?」
「でも……あの駄目親父のおかげだなんて、あたしは認めないからね」

 焚き火の炎がぱちりとはぜた。
 リオは、父親が嫌いである。帰ってきた彼にリオは明確にノーを突きつけた。長い間父親というものを知らずに育ったのだから、急に帰ってこられても違和感しか覚えないのはまあ当然かもしれない。ルイスもそれほど詳しく知っているわけではない。だがそれはともかくとして、リオは父親を嫌っている。

419: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/08/30(月) 17:53:59.89 ID:94qX20ko

 ふと思う。

(僕は、どうだろう)

 ルイスにも父親がいない。随分前にいなくなってしまった。もしいきなり帰ってきたとして、ルイスはやはり父親を嫌うだろうか。

(分からないな)

 まあ、大抵のことというのは当の本人でないと分からないものだ。相手の身になって考えるなんてのははなはだ思いあがりで、だいたいにおいて勘違いだと相場が決まってる、とルイスは考えている。当事者になってこんなはずじゃなかった、と思うことも少なくない。そう、まあ、そんなものだ。
 ルイスはそのまま黙り込んだ。リオも何も言わない。焚き火の燃える音と虫の鳴き声だけがあたりを満たした。
 そのまま見上げる。暗闇の中に控えめな光がいくつか見えた。冷えた光を投げかけるそれらは、それこそルイスたちの気を知る様子もない。まったくもって無関心そのものの光だ。今日、死闘を繰り広げたことも、こうして物思いにふけっていることも知らんぷり。

 長いこと見上げた後、ルイスは苦笑した。苦笑して目をこすった。
 眠い。それに体の節々が痛む。各部が痣になってしまっているだろう。明日の朝になればもっと痛むはずだった。だが、今日はとりあえず寝よう。

 そう思って顔を戻したルイスの肩を、リオが勢いよくつかんだ。

(……?)

 その力の強さに面食らって見やる。リオの顔がこわばっていた。ある一点を見つめて硬直している。
 何故か、嫌な予感がした。背筋がひんやりと凍える。
 ルイスはゆっくりとリオの視線の先をたどった。

420: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/08/30(月) 17:54:48.63 ID:94qX20ko

 そして、それにたどり着く前に急激にリオに突き飛ばされ、地面に横倒しになる。土の味が口に広がった。その横を衝撃波が通り過ぎる。焚き火の炎がぱっと散った。
 ぞっとしながら視線を振った。いた。それは、そこに立っていた。
 節くれだった関節。わずかな明かりに反射するガラス光沢の体表、醜くつり上がった双眸。そして、その胸に輝く銀色の文字。

(馬鹿な……)
「現実、だよ」

 遺跡の入り口。つい数時間前に見たその姿のまま、人形はそこにいた。何も変わらず、どうということもなく、それはそこに存在していた。無傷。
 ルイスは混乱して口を開いた。

「な、なんで……間違いなく倒したはず!」
「ああ、そうだな」

 人形はなんの気負いもなく頷いて見せた。

「お前たちは、間違いなく、勝ったよ。だが――」

 人形はにやりと笑った。

「同時に負けてもいた」
「どういうこと?」

 離れた場所で起き上がったリオが、その言葉とともに手を振りおろした。声を呪文として短剣がその手に現れる。
 人形は笑みを浮かべたまその胸に手を置いた。

「我らは主命を受諾するのみ」
「『我ら』?」

 ルイスは聞き咎めて声をあげた。

421: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/08/30(月) 17:55:35.49 ID:94qX20ko

(まさか……)

 我、ではなく我ら。それらの意味するところは一つ。つまりは――

「我ら殺人人形は一体ではない。一体がその活動を停止すれば次の一体が活動を開始する。彼らもさすがに一体のみで全人類の駆逐など可能だとは思ってはいまいよ」

 人形は胸にあてた腕をゆっくりとわきに戻した。

「私はお前たちに死を運ぶ殺人人形、千体がうちの二体目。祈る時間は与えよう。祈る神がいればだが」

 絶句するルイスたちを前に、人形は笑みをさらに皮肉げなものに変えた。

「そうだな、祈る神がいれば。この世界に神がいないことを知っていてなお祈るつもりがあるのなら……」
「何を、言っている?」
「いや……大したことではない。忘れた方がいい。絶望を知りたくなければ」

 そして、人形はゆっくりと笑みをおさめた。同時に、空気がぴりぴりと張り詰めていくのを感じる。

「第二幕だ人間ども。長広舌をふるうつもりはない。ただ、命じよう」

 人形の目が鋭くなる。

「死ね」

 人形の胸に、文字が輝いた。

427: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/08/31(火) 15:02:26.47 ID:ls8yV0Ao

「光よ!」

 呪文の声に導かれ、光の渦が巻き起こる。それらは一瞬でまとまると、目標に到達し炎上した。夜の静寂をかき分けて、爆音がとどろく。同時に土を焦がす匂いがした。
 光威力のそれは、しかし標的を根絶するに至らない。
 魔術の炎をかき分けて、光の帯が噴出する。夜の帳を切り裂いて地面に突き刺さると、同じく大爆発を起こした。その爆風にもみくちゃにされてリオが転倒。追撃の衝撃波がさらにその体を打ちすえる。

(まずい……)

 衝撃波の圏外に逃れながら、ルイスは胸中でうめいた。相手は強力な魔術文字を体中に持っている。また、新たな人形で損傷は全く負っていない。反対にこちらは治療したとはいえ、つい先ほどまで手ひどく傷を負っていたのだ。魔術の治療では疲労まで癒すことはできない。
 さらに言えば。

「あれが、まだあれば……」

 ≪魔術増幅の指輪≫
 前回の戦闘の決定力はあの指輪だった。それがもうない。こちらから手出しするすべがなくなってしまった。
 いや、厳密にいえばないわけではない。こちらだって魔術があるのだ。リオの魔術の出力は傑出しているし、それが『まともに』当たれば人形とは言えただでは済むまい。
 だが――

「ひ、光よ……!」

 倒れ伏した姿勢でリオが声を上げる。傷だらけになりながらも、魔術は彼女の意思に従って発動する。うなりをあげて突進する光熱波は瞬時に人形の目前に迫った。
 そして、浮遊する銀色の文字に阻まれ唐突に消失する。轟音の余韻もなく、光輝の残滓すら残さず、さっぱりと消えうせる。

428: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/08/31(火) 15:04:31.25 ID:ls8yV0Ao

 人形の目の前に銀色の文字が一つ浮かんでいる。複雑な文様のそれは人形の周りを、守護するようにゆっくりと回りだした。
 防御の魔術文字、だろう。先の戦闘では見なかったそれを使っているということは、本気のようだ。本気で殺しにかかっている。
 これで、リオの魔術は封じられた。例の沈黙の魔術文字を使われていないだけマシといえばマシだが、それもいつ使われるかわからない。

 唐突に視界の光度が落ちる。ぞっとして見回す。ただ焚き火が燃え尽きて光源がなくなっただけのことだったが、ルイスはついに自分が死んだのかと思った。
 人形はどうということもなさそうに虚空に手を差し伸べると、文字を描いた。ほどなく完成したそれは、ふわりと浮かびあがると頭上で光を発し始める。あたりが明るく照らし出された。
 人形とリオとでちょうど正三角形を描く位置。ルイスは馬鹿みたいにそこに突っ立っていた。文字の明かりに白く照らされて、体が小刻みに震えている。

「怖いか」

 人形が無表情に訊く。ルイスは答えなかった。否、答えられなかった。
 体が動かない。足が震える、視界がぐらつく。握った手の中に汗がにじんだ。

(畜生、それでも勇者の孫かよ!)

 無理やり自分を奮い立たせる。固まった肺に空気を押しこむ。

(考えろ……考えろ考えろ!)
「あがくな。あがけばあがくほど苦しみが長引く」

 人形の目にわずかな同情の色が浮かんだ。

「抵抗しなければ痛みを感じる暇なく殺そう」

 ひどく傲慢な物言いだったが。その言葉に嘘はなさそうだった。

429: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/08/31(火) 15:09:07.83 ID:ls8yV0Ao

 死は。死は激痛を伴う永遠なる損失だという。ただ、別の者は死は甘美なる昇華過程だともいう。すべてをゆだねるに値する、やさしいゆりかごだと。
 科学が台頭し、神というものの否定が始まり、死後の世界もまた否定される時代にあって、それは拒絶される考え方であろう。しかしそれでも今、恐怖にさらされるルイスにとってはまぎれもない真実に思えた。
 真実ならばば甘受しなければならない。犬のようにそれに従順でなければならない。人は無力で、無知で、恥知らずなのだから。
 ――それでも。

 人形がこちらに差しのべた掌に文字が開花する。ふわりと音もなく展開すると、その中心に光が集まる。光の粒が集約し、大きな光の塊が生じる。それほどの時間はかからなかった。収束した光は、こちらに向かって一気に解き放たれた。
 それでも。

(それでも人は抗うしかないじゃないかッ!)

 胸中で叫ぶと、ルイスは思い切り横に飛んだ。その体を掠めて銀の光が飛び去っていった。
 着地を考えなかったため地面に体をしたたかに打ちつけて転がったが、それでも構わない。計算といえるほどたいしたものではないにしろ、意図通りだ。

 何か柔らかいものにぶつかって回転が止まる。

「姉さん!」

 そのまま縋りつく。

「姉さん、起きて。戦わなきゃ!」

 必死に呼びかける。

430: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/08/31(火) 15:11:06.58 ID:ls8yV0Ao

「う……」

 リオは意識を失いかけていたようだった。ルイスに揺さぶられて小さくうめいた。一応なんとか意識は保っている。
 それだけ確認すると、ルイスはリオの手をとった。そのままつぶす勢いで強く握りしめる。

「姉さん聞こえる!? いや、聞こえてくれ!」
「ルゥ君……」

 返事にほっとする暇はない。

「いいかい姉さん、そのままでいい聞いてて、僕たちには今決定力が一つしかない、姉さんの魔術だ、僕の魔力量じゃどうにもならないし直接傷つけようにも近づけない、だから姉さんの魔術に頼るしかないんだ!」

 矢継ぎ早に告げ、さらに息を吸う。

「もしくは逃げるしかない、でも……」

 人形の口ぶりからするに、人形はすべての人間をその標的としているらしい。ルイスたちが逃げれば――

「ニューサイトが危ない……!」

 そう、逃げれば人形はニューサイトに向かうだろう。相手はこちらの思考が読めるのだ。都市の場所はもう分かっているはずである。
 もう逃げられない。

431: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/08/31(火) 15:12:38.31 ID:ls8yV0Ao

「だから、戦うしかない! 僕と姉さんが!」

 攻撃をはずしたからといって、人形は焦る気配を見せなかった。当たり前だ。急ぐ必要などないのだから。ゆっくりとこちらに向き直り、こちらに手を掲げる。
 反対にルイスの心臓は早鐘のごとく鳴っている。

「勝つ方法はひとつ! あいつに攻撃を直撃させること!」

 数時間前に勝てたのは、指輪による大出力に加え相手の防御の隙間をつけたからだ。攻撃と防御は同時にできないからだ。

「だから、姉さんの魔術でも相手の意表をつけば勝てる! 僕たちでも勝てる! そのためには――」

 そのためには、ただ強力なだけではない、精密な魔術が必要なのだ。真正面からの超威力ではなく、自在の変化球が必要なのだ。

「姉さん、やるしかない! 姉さんの魔術に精緻さを求めるんだ。精密の極致を心がけるんだ!」

 頼む、通じてくれ! きりきりと引き延ばされる痛いほどの緊張の中、ルイスは夢中で叫んだ。頼む!
 人形の掌には、すでに文字が輝いていた。光は収束し、目がくらむほどの光量で闇を切り裂いた。
 そして。
 次の瞬間にはルイスとリオを、光が包み大炎上した。

436: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/09/01(水) 19:03:20.35 ID:Y0aN6EYo

 魔術の炎がごうごうと揺れる。夜の涼やかな風をその熱気が無粋にかき乱した。そしてその明かりが人形の体をあかあかと照らしだす。

「……」

 人形は無言で佇んでいた。その目には炎以外特に何も映っていない。殺人の快楽も苦痛もそこにはなかった。ただただ冷たい光がある。
 しばらくすると魔術の炎は弱まり、あたりに闇が押し寄せてきた。それらは魔術の明かりが照らし出すふちまで来るとそこにとどまった。
 夜の風がふわりと通り過ぎる。炎をやさしく切り取ると、もう後には何も残らない。ただ、もとより魔術の炎は燃え広がることはない。

 焼け焦げた土。魔術の衝撃で吹き飛ばされ、地面にくぼみができている。
 人形はそこにゆっくりと近づいた。見下ろす。
 人形の視線が静かに土の上をなでた。あるべきものを探して。
 だが――

「……ない?」

 人形は訝しげに声を洩らした。
 視線を上げてあたりを見回す。明かりと闇の境界線がくっきりと横たわっている以外は何もなかった。
 そう、何もない。あってしかるべき焼け焦げてただれた死体、それらから漂う焦げた肉の臭い、とか。

「……」

 人形はゆっくりとあたりを見回す。あくまでゆっくりと。ただ、その視線は先ほどよりやや鋭い。
 そして。その視線が一点で止まる。
 人形の足元。

「……?」

 そこにあるのは、魔術文字の明かりで白く照らされた地面。人形の影。
 先ほどまではそれしかなかった。
 しかし。

 ――影が一つ増えていた。

437: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/09/01(水) 19:06:02.59 ID:Y0aN6EYo

「……!」

 人形がすばやく天を振り仰ぐ。そこに二つ分の人影が――

「我は放つ光の白刃!」

 声が響いた。夜の静寂を鋭く切り裂く審判の声。。
 人形の頭上に光が展開する。すさまじい光量で夜空をまばゆく照らすと、一点に収束し人形に降り注ぐ。

「ぬ……!」

 人形が手を掲げた。その手の先に防御の魔術文字が移動する。それは空から飛来する光の柱を受け止め――

「……!?」

 人形の目が驚愕によって見開かれた。
 無理もない。降下してくる光熱波。それが文字に触れる直前に二つに分かれたのだから。
 分裂したうちの一つは魔術文字に受け止められ消滅するがしかし、もう片方は文字を迂回し人形に肉薄した。

 爆発。炎上し、土煙がぶわりと広がる。
 それらから少し離れて彼らは着地した。

「……」

 地面に降り立つと、手をつないだ二人はそっと息をつく。片方がよろめき、もう片方がそれを支えた。
 リオとルイス。

「生きて、いたか……」

 視界を遮る土煙りの向こうから声がする。驚きは過ぎ去り、それでも意外の感は隠せない、そんな乾いた声。

438: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/09/01(水) 19:09:56.52 ID:Y0aN6EYo

 夜風が吹く。やや強めのそれが立ち込める土煙りを押しのけ、人形が姿を現した。
 文字の明かりに照らし出され、やはり悠然と立っている。しかし、そのシルエットは完全なものではなくなっていた。右腕が肩からちぎれて吹き飛び、左手でその損傷部を押さえていた。
 それでも表情に苦痛はなさそうだ。代わりに薄い驚愕、そして不可解げな空気を漂わせている。

「いったい、どうやって……」

 どうやって、というが実のところそんなに複雑なことが起こったわけではなかった。空間転移の魔術によってルイスたちは少しばかり上空に転移、それと同時に重力制御の構成を編み、空中で制止。それから不意打ちを行ったに過ぎない。
 そう、多少複雑とはいえ、それだけだ。それだけだが――

「あり得ない」

 静かに――少なくとも表面上は静かに――人形が断じる。
 その通り、あり得ない。
 確かにリオの魔力はそれらを行うのに十分な量がある。とはいえ彼女の魔術構成は粗雑なもので、そんな精密な芸当をすることはできない。反対に、ルイスの魔術構成は緻密で精密なものを編むことができるが、先ほどのようなことを行うだけの魔力量を持っていない。短い戦闘の間に、人形もそれは見抜いていたようだ。
 だから、あり得ない。仮にあり得るとすれば――

「っ……馬鹿な。そんなことが……」

 人形は気づいたのだろう。うろたえたようだった。その表情を見て、ルイスは満足した。

「我は放つ光の白刃」

 だが、それにかまってやるだけの寛容さや余裕を、ルイスは持ち合わせていなかった。静かに呪文を放った。
 発生した一瞬に空気を激しく振動させ、光が人形に突き進む。人形はそれに合わせて手を差し伸べた。

439: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/09/01(水) 19:13:46.97 ID:Y0aN6EYo

 ――合成魔術の可能性。
 二人で一つの魔術を完成させる、そんな試みがあった。
 一人では行うことのできない、より高度で複雑な魔術を行使するための技術である。
 具体的には、二人でより精緻で膨大な構成を編んだり、二人分の魔力を総合してより大規模な魔術を展開したりする。

 世界をより自分の理想値に近づけるように改編するための人間の英知であり、悪あがきであった。
 そしてまた、人間の技術の限界でもあった。
 不可能だったのだ。そんな無茶は。

 もともと一人の人間が一つの魔術を行うのにも、大変な労力を要する。二人の人間が一つの魔術を行うのならばなおさらだ。人間など、生まれも育ちも性格も一致するわけがない。合成魔術にはそういった一致が必要となる。相性があるというわけだ。
 そしてそれは簡単には一致しない。簡単に一致するのならば、人間の技術レベルはさらなる高みにあっただろう。
 無茶なのだ。
 だから――

(だから、僕たちはその幸運に感謝しなければならない!)

 人形の目前に迫った熱衝撃波が再び分裂する。今度は三つに。
 だが、すべて魔術文字に受け止められる。魔術文字は五つに増えていた。

「片方が魔術構成を担当し、もう片方が魔力のリソースを担当している、といったところか」

 人形の目がすっと細くなる。その視線の先には二人がつないだ手があった。
 人形の言うとおりだった。リオのその膨大な魔力のリソースを提供し、ルイスがその繊細な魔術構成を編むことで先ほどの芸当が可能となった。

440: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/09/01(水) 19:14:57.91 ID:Y0aN6EYo

「僕たちはこの幸運に感謝しなければならない」

 ルイスは繰り返す。それはまごうことなき幸運であったから。
 リオとルイスの魔術の相性が良かったということだろう。どちらも極端な魔術の癖があったからなのか、それとも比較的一緒にいる時間が長かったからなのか、それは分からなかったが。だが、現実として、合成魔術は成功している。

「僕たちはお前に勝つための決定力を手に入れた……!」
「それがどうした!」

 人形が吼えた。その迫力に、人形の細い体躯が一回り大きくなったかのような錯覚に陥る。

「決定力? 笑わせるな。そのような児戯、この殺人人形の前には無力だ!」

 確かに、急場しのぎに手に入れたわずかな勝機だった。そのような付け焼刃、いつ剥がれるかなど分からない。次の瞬間に死んでいてもおかしくはない。しかし、だ。

「右腕だったよね」

 リオの声がする。ルイスに支えられ、やっとのことで立っている。だが、それでもなお彼女の声には力があった。

「音声消去文字は右腕だったよね……っ!」
「……」

 人形が黙り込む。
 人間の音声を選んでかき消す魔術文字。それは人形の右腕に輝いていた。ルイスの記憶だ。間違いない。
 そして、人形の右腕はすでに吹き飛んでいる。もう、沈黙の魔術文字は使えない。

(これで、イーブン!)
「……互角なものか」

 人形が再び口を開くが、その声に苦いものが混じっているのは隠しようがなかった。

「我は主命を受諾するのみ!」

 そう言い捨てると自らの脇腹に触れる。あれはたしか――

 ごうッ!

 衝撃波を一つ巻き起こし、無音の竜巻が出現した。本来不可視のそれは、魔術文字の明かりの中土を巻き上げ二人の方に突進した。

444: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/09/02(木) 17:00:33.27 ID:Vdg8fZYo

 急速に迫る大気のうねりを前に、ルイスは一歩を後ろに引いた。しかし心は退かずに前に残しておく。

「我は放つ光の白刃!」

 リオの魔力を基盤として、強力な光熱波が発生。同時に大気の渦に突き刺さる。爆発し、轟音をたて、その爆風が二人の髪をなびかせるが竜巻は減衰の兆しすら見せなかった。むしろ勢いを増したようにも見える。相変わらず音のない突風の塊だったが。
 ルイスはあきらめず、さらに呪文を叫んだ。

「我は砕く原始の静寂!」

 空間にひびが入り、爆砕し、突風を巻き起こす。光輝のない大爆発。しかしそれもまた空気の壁に傷一つつけられない。
 空気の渦――というかすでに巨大な空気の塊と化していたが――は勢いと規模を増し、もう鼻先に迫っていた。
 ルイスはもはや力のないリオを支えなおし、その手を握りしめる。その手から、何かが流れ込んでくる錯覚を覚える。暖かくやさしい何か。

「我は踊る天の楼閣!」

 五感が一時的に遮断される。視界がブラックアウトし、一瞬ののちに回復した。
 ルイスたちの立ち位置は五メートルほど後方に移っていた。まったくぶれのない滑らかさすら覚える転移。ルイスはその出来に満足する。
 しかし竜巻も移動した分を瞬時に詰めてきた。

445: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/09/02(木) 17:03:07.39 ID:Vdg8fZYo

 ルイスは冷静さを失わないよう、それだけを自己に命じた。頬を汗が伝い落ちる。

「我は放つ光の白刃!」

 呪文の声に呼応して熱衝撃波が発生する。呪文とのタイムラグなく飛び出したそれは、瞬きする間に高密度の空気にぶつかると、爆発もなくかき消えた。いや――
 竜巻の向こう側に目を凝らす。土を巻き上げ淀む視界の向こうに、人形の姿がかすかに見える。ルイスはほんの少しだけ待った。そのわずかな時間の間に、急速に大気の壁が迫ってきた。飛んできた砂の粒がピシピシと顔面を叩く。ルイスは目を細めた。
 そして。
 実際には待った時間は一秒に満たなかったろう。数瞬、それとも刹那の合間。そのわずかな時間の間に、ルイスは忍耐力のすべてをかけなければならなかった。しかしそのじりじりと針の先端が肌の表面をなでていくような緊張の果てに、ルイスはつかみ取ったのだ。勝利への鍵を。

 ごッ!

 突如として空気が膨張する音が聞こえる。それは人形と竜巻との間に発生した。まばゆい光が、渦巻く空気の向こうに見える。
 人形は狼狽したようだった。当たり前だろう。熱衝撃波がすぐ目の前に転移してきたのだ、うろたえるなという方が無茶だ。
 光が瞬き、鋭い爆発が生じた。瞬間、竜巻の勢いがわずかに弱まる。
 罵声くらいは聞こえたかもしれない。だが、それを無視したまま、ルイスは足を踏み出した。

 圧迫感が肌を圧す。無音とはいえその圧力は触覚で感じ取ることができた。空気が荒れ狂い、空間を切り裂く気配。
 ルイスはもう一歩を踏み出す。その足が、竜巻が巻き起こす風により後方に押し戻される。もう一歩。

「おおおおおおおおおおおお!」

 ルイスの喉を怒号が裂く。
 分厚い空気の向こうにはいまだ魔術の火炎が燃え盛っていた。人形の様子はそれに隠れて見ることができない。
 それを大気の壁を隔てて真正面から睨みながら、ルイスは渦の中に飛び込んだ。

446: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/09/02(木) 17:04:07.66 ID:Vdg8fZYo

 竜巻を起こす魔術文字に直撃したのだろう、渦の中の空気の密度はその凶暴性を弱めていたようだった。
 だがそれでも風は四肢を引きちぎらんと押し寄せる。圧の中でもみくちゃにされ視界が奪われた。前後左右が定まらない。さらに吹きあげる風に押されて足が地面に別れを告げる。
 その中でリオを抱きかかえるようにしながら、ルイスはただひたすらに集中に努めた。意思を一つにまとめ、それを虚空に解き放つ。

「我は紡ぐ光輪の鎧!」

 光の鎖で編んだような形態の防御壁がルイスたちを包んだ。暴風を押しのけて球状に展開する。その中でだけ烈風の支配がなくなった。
 虚空に浮かびながら、ルイスはさらに意識を絞った。防御壁の上を空気の槍が叩くのが聞こえる。
 ルイスは深く息を吸い込む。
 これが最後だ。
 裂帛の気合が喉を割った。

「尖れぇッ!」

 瞬間。防御壁の形が変化を遂げた。
 球体の一部が言葉の通りに引っ張られ、鋭利に尖る。それは突風の層をくりぬいて、ルイスの正面にまっすぐ進む。すなわち人形の方に。

447: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/09/02(木) 17:06:20.16 ID:Vdg8fZYo

 そして。防御壁の棘が竜巻を貫いた。膨らませた紙袋をたたき割るような音をたてて棘の先端が飛び出す。

(よし!)

 同時に防御壁が限界を迎えて金属音に似た音をあげて砕けた。烈風が四方八方から押し寄せる。だがその時には構成はすでに完成している。

「我掲げるは!」

 ルイスはリオの手を強く握った。その時――わずかだが握り返してくる感触があった。

「降魔の剣!」

 リオの手を握る手とは逆側。その手に重みが生じる。魔術によって生じた力場の重み。
 それはルイスの意思によって形を変えた。剣の形態。
 握りこむと、それはそのまま刀身を伸ばした。

「いけぇ!」

 先ほど開けた暴風の隙間がふさがりかけている。そこに僅差で刀身が滑り込む。
 そしてそのまま魔術の炎の燃え盛る中に突き立った。

448: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/09/02(木) 17:07:46.01 ID:Vdg8fZYo

「ぐっ!」

 苦悶の声が上がる。同時に竜巻が最初から何もなかったかのように消失する。ルイスとリオは虚空に投げ出されて地面に落ちた。
 すぐさま身を起こし、リオを抱き起こす。ついでに『それ』を拾い上げる。
 魔術の炎が消えていた。そしてそこに一人分の人影がある。人形。
 しかし、その立ち姿はすでに悠然としたものとは程遠くなってしまっていた。右腕はもうない。そして脇腹にも亀裂が生じている。ちょうど魔術文字があったところだ。ルイスの魔術の力場が貫いた傷。左手でそれを押さえ、前かがみに身を低くしていた。
 表情にはあくまで苦痛はないが、双眸を見開きこちらを険しく睨んでいる。

(……終わる)

 予感した。
 ふと、風が吹いたのに気づく。実際、そんなものを意識したわけはない。そんな余裕はなかったはずだ。しかし、確かに風が吹いた。間違いない。
 思う。それは予兆だったのではないかと。この戦いの終わりを告げる、何かの合図だったのではないかと。

 人形が手を掲げる。ルイスはリオをそこに残したまま走りだした。

449: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/09/02(木) 17:08:44.30 ID:Vdg8fZYo

 体は重い。戦闘のダメージが響いている。
 だが、祖父は言う。走るために必要なのは体力ではないと。彼の持論によれば、前に進むのに必要なのは意志の力らしい。前に進もうと思うことなしに人は前進しない。逆にいえば、前に進む気の力さえあれば、どんな苦痛や疲労がその足にまとわりつこうとも先に行ける。
 極論だと思う。どうにも暑苦しい精神論だと。
 だがそれでも。ルイスの体を今前に引っ張るのはその意志の力だ。
 竜巻はすでにない。それでも耳に聞こえるのは先ほどよりも強く荒れ狂う暴風の音だった。

 人形がすばやく左手を掲げる。掌に文字が輝く。
 ルイスの体を焼きつくさんと膨大な熱を伴う閃光がそこに輝いた。

「死ね!」

 リオはすでに戦える状態ではなくなった。だから、今度もルイスが決着をつけなければならない。
 それを自覚し、それでもルイスに気負いはなかった。
 心がけることさえない。後は運を天に任せ、やるべきことをやるだけだ。

450: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/09/02(木) 17:10:35.15 ID:Vdg8fZYo

 ルイスは渾身の力を込めて叫んだ。

「我は放つ光の白刃!」

 威力はない。リオと離れた今、もうそれは望めない。
 ただ、そのすばやさだけは変わらなかった。

 ぼんっ!

 小さな爆発音。さっきまでのものと比べるとどうにも貧相な音。
 ただ、それでもルイスの命を救うだけの効力はあった。
 人形の手から光が放たれる。それはルイスに当たらず、ほんの少しだけそれたところを飛んでいく。
 ルイスの魔術の小爆発が、人形の手を逸らしたのだ。
 身を掠めるそれを横目に見ながら、ルイスは止まらないことだけを体に命じた。

 人形の顔が絶叫の形に歪む。
 ルイスはその声を聞くことができなかった。
 人形の声が響くその直前。ルイスの持つ『それ』――リオの短刀が人形の眉間に突き込まれたから。

456: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/09/03(金) 17:27:46.06 ID:KePXG5.o

 手ごたえは見た目ほど硬質ではなかった。固まった粘土にヘラを突きたてるような感触が返ってくる。それは深く深く突き刺さって、どうやら活動に支障をきたすレベルに至ったらしい。人形がゆっくりと膝をついた。
 ぎこちなく身を引く。ずるりとこすれる手ごたえを残して短剣が引き抜かれる。
 人形は音を立ててうつぶせに倒れ、動かなくなった。
 それでも警戒は解かなかった。いや、解けなかった。緊張は長引く。弛緩と硬縮の狭間で、ルイスは身を震わせる。

「……」

 息を吐き、吸う。そのプロセスをゆっくり数十ほど繰り返し、ルイスは視界が揺れていることに気付いた。見下ろす。

「……」

 理由はすぐに知れた。膝ががたがたと震えている。
 気づいてしまうとあとは脆かった。ぺたりと尻もちをつき、それでも足の震えは止まらない。

「は……はは……」

 乾いた笑いが喉から漏れた。喉の奥にぐっと力を入れる。気を抜けば泣いてしまうだろうことは容易に知れた。
 そして自覚する。僕は、弱い。
 笑いは弱弱しくも止まらない。

457: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/09/03(金) 17:29:02.87 ID:KePXG5.o

 しばらくそうして情けなく震えていた。しかし、リオのうめき声で我に返る。ついでに短剣を握りっぱなしであることにも気づいた。持ち手が汗でじっとりと湿っていた。

「姉さん……!」

 駆け寄って抱き起こす。
 体中に裂傷が生じていた。髪は乱れて、健康そうなつやは見る影もない。だが、致命傷といえるような傷はとりあえずなかった。どちらかというと衝撃などのショックにより気を失っているといった様子だ。魔力の使い過ぎというのもあるだろう。
 大丈夫、魔物は頑健。そう自分に言い聞かせる。逆にいえばその魔物でも気絶するほどのダメージを受けているということだが。
 とりあえずほっと息をつく。それから手をまわしてリオをおぶった。治療は後だ。

(早くここを離れなければ……)

 次の人形が現れてしまう。対応は一刻を争う。
 もはやルイスたちだけではどうしようもなくなってしまった。二人で残り九百九十八体の相手などできない。気は進まないがニューサイト市長に応援を頼むしかない。人形より早くニューサイトに戻り、事情を説明し、自治軍――キエサルヒマ大陸より規模が劣るが、そういうものがある。人間と魔物の混成軍だ――を動かしてもらわなければならない。

 ルイスはふらつく足で歩きだした。歩みは遅い。じりじりと焦がされるような気分で前に進む。
 次の人形はいつ来る? 数十分後か、数分後か。もしくはもうすでにこちらを捕捉していて、瞬きした後には死んでしまっているのかもしれない。
 想像は恐怖を煽った。歩む足が崩れ落ちそうになる。
 それでもルイスは立ち止まらないことだけを必死に心がけた。立ち止まればもう進めなくなる。僕はきっと恐慌に陥る。

 夜の闇はしんしんとルイスの心を冷やした。どうしようもなく凍える。
 夜明けはまだ、遠い。

458: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/09/03(金) 17:30:07.13 ID:KePXG5.o

◆◇◆◇◆


 ルイスたちが歩み去った道の上。闇が小さく揺らいだ。男が一人、忽然と現れる。夜の帳から溶け出すかのように出現した彼は、その姿もまた、夜の闇のようだった。黒のマント、黒のグローブ、黒の靴。
 そして、彼を取り巻く空気もまた、重く淀んでいる。沈降し、浮かび上がることはない。循環はなく、ただただ沈殿するのみ。

 彼は肩越しに振り向いた。その視線の向こうには歩み去るルイスの背中があるはずだったが、夜明けはまだ遠く、視認することはできない。彼はそれには頓着しない様子で視線を正面に戻した。
 暗がりの中で彼の瞳が光る。いや。それを眼光というのは間違っているだろう。むしろ光を吸い込むその眼は、光の吸収によって周りからくっきりと際立っているのだ。
 闇より暗く、闇より重く。彼はそこに立っていた。

 ふわりと風が吹く。彼の髪とマントをかすかに揺らす。
 と、彼は歩きだした。ルイスたちの行く方向とは逆。その歩みの先には。

「……」

 こちらも無明に沈み、生者の気配のない建造物が潜んでいる。

459: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/09/03(金) 17:31:09.78 ID:KePXG5.o

     ・
     ・
     ・


 足音が通路内に響く。無味乾燥で死の訪れを予感させるそれは、長い通路をただひたすらに進んでいた。
 角をいくつか曲がり、崩れかけた広間を抜け、足音は鳴り続ける。
 そして。およそ数十分もあるいたところだろうか、足音が止まった。

「……」

 彼の目の前には崩れた通路の壁があった。大きな力で無理やりにこじ開けられたものではない。何か道具を使って丁寧に開けた穴だ。
 男はそれをくぐって中に入った。
 穴の向こうは別の通路が続いていた。光源不明の歩の明かりの中を同じように彼は進む。
 しかし、今度は数分もしないうちに足音が止まった。
 行き止まり、ではない。通路が終わって広間にぶつかったのだ。男はあたりを見回した。両脇から広がる壁は湾曲して伸びている。つまり、広間は縦に立つ円柱状になっているようだった。ちょっとしたホールほどの大きさ。そしてその広間には広間の形と同じように円柱状の太い柱が立っていた。
 いや、柱というには太すぎる。広間の空間の七割ほどをその柱が占めているのだから。

 さらに柱にはぐるりと足場が渡されていた。床から三メートルほどの高さに一段。さらに三メートルほど空けてもう一段。床を含めると計三段の足場があることになる。
 そして、それぞれの足場には、円柱を囲むようにずらりと人影が並んでいた。
 ガラス光沢の青白い体。病的なまでに細い四肢。人形――殺人人形。

460: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/09/03(金) 17:32:02.91 ID:KePXG5.o

 男はそこまで見て動きを止めた。じっと立ちつくす。静寂があたりを満たした。が。

 ――ごうん。

 それほど待つことなく低い音が響く。同時に、気配が一つ増える。

「――誰だ」

 声は男の正面から聞こえた。
 地面を踏み締める細い脚。殺人人形がうちの一体。起動したそれは一歩踏み出すと、男を冷たく睨んだ。男は答えなかった。
 しばらく観察し、人形は訝しげな光を瞳に浮かべた。

「わざわざ殺されにでも来たか? ここは我ら殺人人形の間。お前達人間の天敵の住み家だ」

 男はなおも沈黙を保っていた。人形はさらに不審の色を強めたようだ。

「……まあいい。我は主命を受諾するのみ」

 人形が右手を掲げた。その掌に文字が輝く。大気を揺るがし光を集め、膨大なエネルギーを集約する。人形の手の周りに放電の火花が飛び散った。

「死ね」

 光が男に向かって真っすぐに飛び――

 ぱん!

 破裂音だけを残して消えた。

461: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/09/03(金) 17:33:15.59 ID:KePXG5.o

「!?」

 人形の目が鋭くなった。

「今、何をした……?」

 男はやはり答えなかった。とはいえ人形にも分かっていただろう。魔術を防げるのは魔術のみ。だが――

「貴様、媒体はどうした……!」

 人間の音声魔術は音声を媒体とする必要がある。そして媒体なしに魔術は発動しない。しかし、男は確かに呪文なしで魔術を防御して見せた。あり得ない。
 人形の胸に文字が輝く。発生した衝撃波が男を襲うが、その体に触れる前に破裂音だけを残してまたしても消滅する。
 間髪入れずにさらに人形の掌に、肩に、脇腹に文字が輝く。熱波が光が高密度の空気が。男を目指して殺到する。
 そして、そのどれもが男の目の前で消滅した。

 人形の目が大きく見開かれる。
 男はそれを尻目にマントの下から手を出した。そしてそれを人形の方に向ける。
 瞬間――

 ばぎんッ!

 人形の腕が吹き飛んだ。

 ばきゃッ!

 人形の脚が歪んだ。

 ぼこんッ!

 人形の顔半分が潰れた。
 人形がゆっくりと崩れ落ちる。

「がっ……」

 声は遅れて飛び出した。

462: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/09/03(金) 17:34:19.24 ID:KePXG5.o

 人形が倒れるのを見て、男が手を下ろす。それを倒れた姿勢から人形が見上げた。

「なんだこれは……」

 人形の苦み走った声が響く。
 そしてその声は容易に悲鳴に化けた。

「なんなのだこれは!? お前は一体何だ、人間ではあるまい!?」

 そして気づいたようにまなじりを決する。

「そうか、先の殺人人形を妨害したのはお前だな!? 精神支配を妨害し、魔術文字を砕いた!」

 男は聞いていない様子だった。両手をマントの下から出し、胸の前で向かい合わせる。
 そして聞こえる、呪文の声。

「――何処からも来る。飄々と気配を刻む故郷に」

 ごッ……

 地面が一度揺れる。

「帰りきたる。傷跡の多き獣の檻。大にしてうねり、小にしてわめく」

 もう一度、地面が鳴動する。
 それを聞いて人形が半狂乱で叫んだ。

「分かった。分かったぞ、貴様の正体! こんなことができるのは一人しかいない!」

 男の呪文がなおも響く。

「肝にある蟲。腸にある蛇。南風に捧げられ埋め尽くす砂利」

 ごごんッ!

 地面が致命的に揺れた。
 そして人形の声。

「お前は、魔王!」

 それを合図にしたかのように、轟音がとどろいた。その凄まじい音は広間を満たし、揺らし、破壊する。
 円柱にひびが入る。かけらが飛ぶ。建材が崩れて剥離する。
 その中で魔王は唇の端を釣り上げ、うっすらと笑った。
 ――殺人人形が見た、最後の光景だった。

467: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/09/04(土) 21:43:55.00 ID:WceOMyso




 ~第三章 「超人」~




468: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/09/04(土) 21:46:23.97 ID:WceOMyso

あるとき、獣が森で歩いていると、囁きかける声があった。
「あなたはなぜ人間の奴隷なのですか」
魔物は答えていった。「神が私にそのように命じられたので」
声はさらに訊ねて、「しかし、あなたは人間より優れているではありませんか」と言った。
獣は驚いて訊ねた。「私はそのように考えたことはありませんでした。私のどこが優れていますか」
声は答えた。「あなたには人間を屈服させるだけの力と、人間を驚嘆させるだけの知恵があります」
魔物はそれを聞き、気分を良くした。
声は、「では、人間を打ち、従えますか」と訊ねた。
獣は頷いたが、「しかし、失敗すれば、私は殺されてしまいます」と躊躇った。
声はすぐに答えて言った。「ならば更なる力をあなたに与えましょう。私と契約しなさい。さすれば万事がうまくいくでしょう」
それを聞いて、獣は喜んだ。
「ただし」声は続けて言った。「あなたは永遠に神と人間に呪われるでしょう」
獣はその言葉を聞いたが深くは考えなかった。
そこで初めて声の主が姿を現した。
獣は言葉を失った。
それは獣と全く同じ姿をした者だったからである。
二匹は契約を交わし、獣は神に近しい力を得た。
すなわち、火を操り、雷を従え、世の決まりごとを捻じ曲げた。
こうして獣は人間を襲い、世界をその手から奪ったのである。
神はこれを見、怒り狂って言われた。「獣よ、あなたはどこでそのような力を得ましたか」
獣は答えて言った。「私とよく似た者から」
神はそれを聞き、天の上から地の底までその者を捜し歩いた。
程なくして見つかったそれは、悪魔を名乗った。
「私はかの獣を祝福します」
神は怒りのままに雷を彼らの上に下されたが、彼らは非常に狡猾で、二匹は世界のどこかに逃げ失せた。
神はかの獣を魔の物、魔物、かの獣が使う業を魔の術、魔術と名付け、これを呪った。

469: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/09/04(土) 21:47:26.43 ID:WceOMyso

それから時が流れた。
人間と魔物は世界を取り合い、争っていた。
人間の上に神の祝福があり、魔物の上に悪魔の祝福があった。
あるとき、一人の人間の男が突如苦しみ、床に伏し、火を吐いた。
他の人間は恐れ、戸惑った。
数日の後、男は力を得て床から起きあがった。
魔物と同じ力であった。
他の人間はそれを見て、魔の穢れが男の身にとりついたのだと噂した。
このような者がたびたび現れた。
彼らは力の使い方を知らず、ほとんどの者が身を滅ぼした。
神はそれらの者を寛大な心でもって許され、天使によって人間にその使い方を示された。
彼らはそれにより力の使い道を得て、魔物に敢然と立ち向かった。
戦いは苛烈を極め、人間と魔物とはいまだに争いを続けている。



 ――神話(続き)より抜粋――

473: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/09/06(月) 09:28:54.54 ID:tI3V57so

◆◇◆◇◆


 午後の日差しが、窓からやさしくさしこんでいる。外を覗き込むと往来を行きかう人々が見えた。それとレンガ造りの整然とした街並み。青く透明に晴れ渡った空。
 馬車がゆっくりと進み、人々の歩みもゆったりと交差する。昼下がりにふさわしい、どこかゆるんだ空気だ。何かにおびえたり、傷つけられたり、乱されたりすることはない。そう、平和そのもの。
 ニューサイト。石畳の歩道が続く、新しい都市。歴史は浅いが、都市自体の持つ意味は大きい。魔物と人間とが公式に同じところに住まう、前例のない場所だからだ。
 都市にはそれぞれ性格があるという。当然といえば当然だが、住民、行政、気候・風土など、様々な要素が都市を個性豊かなものにする。
 ニューサイトで言えば、明るい日差しのあう、まっさらな都市だ。住民はそれぞれ新しい生活を求めて海を渡った者たちで、好奇心が強い。新し物好きともいいかえられる。昔ながらのレンガ造りの家とは裏腹に、革新的で先鋭的な性格を有している。

 たとえば宿泊施設におけるサービスだ。よりクオリティを高め、満足度を増やすための工夫が随所にちりばめられている。
 まず、清潔だ。掃除は基本的に一日一回、全室を徹底的に行う。埃一つも残さない。ニューサイトの行政区により細かく規定されており、全宿泊施設において月に一回立ち入り調査も行われる。基準に満たない施設は最悪の場合営業停止に追い込まれることになる。
 次に、プライバシーの徹底だ。全室の扉には当然鍵が設けられているが、それらは複雑で、魔術でも開けられないものとなっている。
 他にもルームサービスという新システムなどがあったりする。最近開発され、実用化に至った電話なるものを使って、部屋にいながらにして食べ物などを取り寄せることができる。
 このように宿のこと一つとっても、ニューサイトは“新しい”都市だということができるのである。

474: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/09/06(月) 09:34:48.08 ID:tI3V57so

 ルイスはその清潔な部屋で、ルームサービスを利用して取り寄せたサンドイッチをかじりながら、窓の外を眺めていた。
 黒髪、黒目。十九歳にしてはやや幼さの残る、と言えばいいのだろうか、とりあえず他人に年相応に見られない顔立ちである。緋色のローブを纏っており、それはタフレム大学で教授相当の地位にあることの証だ。
 彼は疲れた顔で、頬杖をついていた。
 やや頭がぼーっとする。十日前にニューサイトに疲労困憊のていで辿りつき、倒れるように眠った影響がまだ残っている。

「……」

 あれから――あの戦闘から、二週間が経った。ルイスたちは途中、傷を癒し、空間転移を併用しながら街に到着した。夜中だったが、それにかまわず行政区の議事堂に駆け込み、市長に事情をまくしたてたことは覚えている。興奮と疲労でうまく説明できた自信はなかっが、それでも市長はすぐさま自治軍のいくらかを動かしてくれた。それから昏倒し、目が覚めたのはその二日後だ。
 だが、市民をいたずらに怯えさせないよう密かな警戒態勢の中、派遣された自治軍から届いた報告は不可解なものだった。

 『殺人人形と思しきものは全滅。遺跡の一部が崩落し、そこに九百体以上が埋まっているとみられる。回収されたそれらはみな損傷が激しい――』

 馬鹿な。ルイスの感想だ。あれはそんなやわなものではなかった。直接戦闘を繰り広げた者としてそう思う。現に殺人人形は埋めたぐらいでは傷一つなかったし、転移の魔術文字も持っていたではないか。

 とはいえ、現実はそうなのだからルイスの感想など益体もないものでしかなかったが。
 ともあれ、新しい発見としてその遺跡は再調査が行われ始めた。とりあえず危険はないということだ。

475: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/09/06(月) 09:38:52.21 ID:tI3V57so

 ルイスたちの荷物は回収され、送り届けられた。試料として接収されそうになったそれらを引き止めてくれたのは市長である。ほとんどは損傷していたが、いくつか使えるものは残っていた。
 これだけでもありがたかったが、ルイスはあつかましくもさらにある嘆願を市長に申し入れた。

「あの剣を調べさせてください」

 人形が持っていた剣のことである。これも自治軍によって回収されたらしい。すぐに調査チームや研究機関に送られる手はずになっていた。
 さすがに市長もいい顔をしなかった。いや、市長はむしろ譲ってくれるつもりですらあったらしい。だが、当たり前だが調査チームがそれに反発したようだ。

「君たちが頑張ったのだから、私としては報いてあげたいんだがね」

 と言いつつ期限付きの貸出までこぎつけてしまうのは、市長としての資質というやつだろう。
 というわけで、宿のルイスの部屋には例の剣が据え置かれている。

 サンドイッチを食べ終わった手を軽くふき、ルイスは席を立った。剣を手に取り、しげしげと眺める。
 革製の鞘に入った、長大な剣だった。ルイスの身長より少し短い程度。儀式用の剣のごとく装飾が施されている。目立つのは柄にある丸く、淡い月の色をした飾りと、その上に鎮座する何やら醜悪な化け物の彫刻だった。

476: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/09/06(月) 09:42:31.93 ID:tI3V57so

 無言で鞘から剣を引き抜く。現れた刀身が鈍く光を放った。一般的な剣とはどことなく雰囲気が異なる。それは装飾からくるものなのか、それとも剣の輝きからくるものなのか。いや――

(魔術、文字……)

 それはきっと、刀身に描かれた文字のせいなのだろうと思う。天から降り注ぐ雷のような形状。文字というよりは文様。どことなく怪しげな力を放っているようにも感じられる。
 そして、それらはただの文字ではない。魔術文字だ。少なくとも現在までの魔術文明で否定されているもの。
 人形との戦いを思い出す。人形は体にいくつもの魔術文字を持ち、さらに新しく文字を描くことができた。そしてそれは、リオの類稀なる強大な魔力と遜色ない、いやそれ以上の威力を発揮して見せた。それによりルイスたちはほとんど死の間際まで追いやられたし、実際死んでいてもおかしくはなかった。

 ルイスは紙を一枚取り出しながら記憶を探る。よみがえる男の悲鳴。懇願の目。砕けたそれら。永遠に取り戻されることのないそれら。
 気分が沈むのを自覚しながら、ルイスは一息に剣を突き出し、紙を貫いた。

「……」

 ワンテンポおいて剣を引き抜く。紙にはいびつに切り裂かれた穴が残った。だが、それだけだった。紙にはそれ以上のダメージはなく、ましてや石化することもない。

「――っかしいなぁ……」

 石化の剣。人形はこれを使い、調査チームの人々を虐殺して回った。遺跡の中からは十一人分の石化した死体――というのかどうなのか――が見つかったらしい。この剣は、物を石化させる性質を持つようだ。

477: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/09/06(月) 09:46:19.89 ID:tI3V57so

 いや。

(もしかして、生物限定なのかな?)

 可能性としてはあり得ないことではなかった。だが、まさか人間で試すわけにもいかない。動物で試すのもルイスには荷が重い。罪もない生物を殺すのは彼の苦手とするところだった。小さいころから故意には虫も殺したことがない。
 さて困った。このままでは、これ以上の調査はできない。もともと個人で進めるには限界がある。
 早くも行き詰まりを感じたその時。

 ずん……

 わりあい近くから地響きが聞こえてきた。爆発の振動。
 何かと思い、窓の外を見る。数区画離れた所から煙が上がっていた。
 緊張が走った。窓枠をつかむ手に力が入る。二週間前と同質の硬直。まさか……

 その時ドアが叩かれた。びくりと跳ね上がる。ドアにおそるおそる近づいて、開ける。

「失礼します」

 早口で言ったその男には見覚えがあった。秘書の男。

「……どうしました?」

 上ずった声は隠しようがなかった。男はそれは気にせず続けた。

「リオさんが――」

 男の言葉に、ルイスはいやな予感を覚えた。

481: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/09/06(月) 20:20:23.25 ID:tI3V57so

 現場にたどり着き最初に目に入ったのは、爆風でえぐられたと思しき地面だった。

「……」

 凄まじい爆発痕に絶句する。どんな力が働いたのやら、石畳が剥がれてその下の土肌が見えてしまっていた。
 中央区の広場の一角に空いたそれは、野次馬たちの関心を集め、遠巻きに人だかりができつつある。
 惨状といえば惨状だ。もとは大きなテントだったらしい物体が、はじけ飛んだ姿そのままで焦げ跡をさらしていた。

「こ、これはまさか……」

 うめく。と。

「そのとおりだ」

 涼やかな声が隣から聞こえてきた。
 見やると、腕を組んだ男の姿がそこにある。
 黒の長髪。ぴったりとしたスーツ。長身の体だが、筋肉はなくただ細長い。手足も長いので、どこかそういう昆虫じみた印象を覚える。
 半眼で確認する。ついさっきまでは絶対にそこにはいなかった。気配すらも感じなかった。声が上がるまで気付かなかったと断言できるし、声を上げなかったらいまだに気付いていなかっただろうとも断言できる。

「ミサンガさん」

482: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/09/06(月) 20:21:43.38 ID:tI3V57so

 彼の名はサンダ―・ストロンガー。行政区の職員だろうと思われる男で、二週間前の戦闘の直前までは一緒にいた人物だ。『職員だろうと思われる』というのは、ルイスがいまいちそれにピンとこないためである。

「ルイス君、これは非常事態だ」
「そうですね」
「対応が後手に回れば回るほど、悲惨なことになる」
「かもですね」
「だからもうちょっと泳がせよう」
「なんでですか」

 このように。
 ところで以前の殺人人形との戦闘のとき、彼はそれに参加しなかった。ただ、戦闘の意思もない一般人に、戦えというのも酷、というか理不尽だろう。彼には逃げてもらった。
 しかし、それで役に立つこともあった。自治軍の派遣の迅速化に寄与したのである。実のところ、ルイスたちがニューサイトに到着したときには、すでに市長への彼の報告が終わり、自治軍の出発準備が整っていた。
 ただ、やはりというか不可解な点はあった。彼の到着は空間転移を併用してきたルイスたちより、一日近くも早かったのである。ニューサイトへ向かいはじめるのに時間差はあまりなかったはずであるから、これは理解ができなかった。
 まあ彼の場合こういう男なのだ、という理解で十分な気もしたが。

483: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/09/06(月) 20:23:13.15 ID:tI3V57so

「それより、何があったんですか?」

 もやもやと膨らむ不安を抑えつけて、ルイスは訊いた。

「うむ、厄介なことになった」
「アレ、ですか?」
「ああ、アレだ」

 ひやり、と体が温度を下げた。どうしようもなく膝が震えてくる。自分の恐怖を静かに認める。
 だが、なんとか冷静に、冷静に思考するよう努める。

「じゃ、じゃあ、住民を避難させないと……」

 あたりをせわしなく見回しながらつぶやく。どこかにあのガラス光沢の体が見当たらないかと神経を尖らす。
 心臓の音がやけに大きく聞こえた。
 そして、サンダーの声。

「まあ、そこまで身構える必要はないぞ」

 同時に、潰れたテントの方から音がした。

484: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/09/06(月) 20:24:45.73 ID:tI3V57so

「ぷはー!」

 音を立ててテントの一部が崩れる。ぎょっとして見やると、栗色で肩までのポニーテールが目に飛び込んできた。

「あ、ルゥ君!」

 溌剌と輝く目、人好きのする笑顔。活発そうな彼女の装いは、Tシャツにジーンズとラフなものである。
 リオ。家名はない。というより魔物は基本的に家名を持たない。自由奔放に生き、定住しない輩が多かった時代の名残だ。
 彼女は、テントの残骸から抜け出すと、こちらに駆け寄ってきた。顔が少し赤い。

「やっほー、ルゥ君――って、わっ!」

 ルイスはリオの手をとって引き寄せると、あたりに意識を巡らした。

「姉さん、気をつけて。奴が……」
「奴?」

 リオはきょとんとしてルイスを見た。

485: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/09/06(月) 20:25:27.13 ID:tI3V57so

 あまりの緊張感のなさとあたりの静けさに、ルイスは違和感を覚えて彼女の目を見返した。

「あれ、殺人人形は?」
「いないよそんなの」
「え?」

 ルイスは拍子抜けして警戒を解いた。

「……じゃあ、この惨状は何さ」
「あ、いや、えーと」

 リオが急に歯切れが悪くなる。その様子を見つめるうち、ルイスはあることに気付いた。

「姉さん、お酒飲んだ?」
「……」

 リオがふいと顔を逸らす。その彼女から、かすかに酒臭さが漂ってくる。
 ルイスはようやく合点がいった。

486: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/09/06(月) 20:26:15.46 ID:tI3V57so

 リオは以前、酒場を一つ吹き飛ばしている。その酒場の弁償は、何故か市長がやってくれた。

『君たち――というか君たちの関係者には、ちょっと借りがあるのでね』

 とのことだが、ちょっと良く呑み込めない。まあとにかく、リオが吹き飛ばした酒場の方は、今建て直し中である。ただ、酒場の店員たちはその間も働かなくてはならない。そこで用意されたのが、広場に用意された大きいテントだった。

「姉さん、散歩に行くとか言って、飲みに来てたんだ」
「で、でも、あたしちょっとしか飲んでないよ!」

 しっかりと視線を合わせてリオが言う。少ししっかり過ぎるくらいに。
 ルイスは嘆息した。ついでに手を離す。

「で?」
「……うぅ」

 ルイスの視線に耐えきれずに、リオは白状した。
 いわく、ふらふら歩いていると酒場を見つけて入った。しばらく飲み続けて相当出来上がっていた。そこにこの前ルイスを殴った男が入ってきた。お互い腹にすえかねていたので喧嘩になった。

「というわけです」

487: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/09/06(月) 20:27:06.80 ID:tI3V57so

「ちょっと待った。何言ってるかちょっと分からない」
「……?」
「いや、本気で分からない顔されても」

 ルイスは半眼でうめいた。

「僕の常識だと、喧嘩でテントはこうならないんだけど」
「…………なんだろ。女の子の意地?」
「……はぁ」

 ルイスは次にサンダ―を見上げた。

「何であんなこと言ったんですか……びっくりするでしょう」
「む、ご指名かねルイス君」

 サンダ―は、こちらにゆったりと向き直った。若干横に傾きながらこちらを見やる。
 ルイスは緊張が解けてイライラしていた。そんな些細なことにもとげとげしさを覚える。

「さっき、殺人人形がいるようなことを言ってましたよね」
「いや?」
「言ってましたよ。僕がアレかって聞いたら、そうだって」

488: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/09/06(月) 20:28:59.46 ID:tI3V57so

「ああそのことか」

 サンダ―はぽんと手を打って見せた。

「私はてっきり猥談だと」
「ねえよ!」

 思わずつかみかかるが、襟首をひねりあげたところで何ができるわけでもなかった。身長差が激しい。
 その時だった。

「君は、ルイス君じゃないかい?」
「え?」

 サンダ―の襟首をつかんだまま、そちらを見る。
 野次馬たちは、そのころには二種類に分かれていた。こちらを遠巻きに見ている者、そしてとりあえずテントの残骸撤去や被害者救出を始めた者。声の主はそのどちらにも属していなかった。

「やっぱり、ルイス君だ」

 人影はルイスの顔を真正面から見ると、にっこりと笑った。

490: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/09/07(火) 20:09:37.43 ID:Y1G5wJYo

 次の日の朝、ルイスたちは馬車の心地よい振動に揺られていた。
 馬の蹄と馬車の車輪の音だけが聞こえている。いや、それと話し声もだ。

「ねえ、ロゼちゃんてさ」
「ん、なんだい?」
「ルゥ君とはどこまでいったの?」
「あはは、いいのかいそれを聞いて。きっと後悔するよ」
「……むぅ」

 やたらと元気のいい声と、落ち着いた穏やかな声がやり取りしている。ルイスはそれを聞きながらどうにも居心地の悪さを感じずにはいられなかった。そして頭痛もじわじわと忍び寄ってくる。ついでに胃もきりきりと痛みだした。
 だがそれでもひたすら無視するよう自分に命じる。できるだけ関わりたくなかった。

「……手はつないだ?」
「とっくに」
「き、キスは?」
「どう思う?」
「ま、まさかCまで!?」
「ああもう、うるさい!」

 最後はルイスの声だ。

491: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/09/07(火) 20:11:06.89 ID:Y1G5wJYo

 閉じていた目を開くと、こちらを見るポニーテールとロングヘアーが目に入った。
 ポニーテールは言わずもがな、リオである。ルイスの隣から、向かい側に身を乗り出した姿勢でこちらを振り向いていた。そして、その向き合って座っているのが黒髪ロングヘアーの人影だった。先ほどリオがロゼと呼んだ人物である。

「ああ、ちょっと騒がしかったね。ごめんよ」

 ロゼは言って、笑みを浮かべた。さっきの話題のアレさはまったくもって気にならない様子だった。

「声のトーンを下げるから、寝ててくれ」
「いや、音量の問題じゃなくてだね……」

 半眼で頭を掻く。それから顔をあげて視線を合わせた。
 理知的な笑み、一部編んだ黒髪、細身の身体。おおよそ歳に似つかわしくない落ち着きを纏っていた。そして冗談のような女顔。
 ロゼ。本名、ロゼイユ・ブルーベリー。キエサルヒマ大陸タフレムの大魔術士カシス・ブルーベリーの養子である。
 そして――

(本人も、生粋の魔術士)

492: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/09/07(火) 20:12:08.00 ID:Y1G5wJYo

 時間は前日にさかのぼる。潰れたテントの撤去作業が始まった広場で、ルイスはある人物と向かい合っていた。

「久しぶりだねルイス君」
「……」

 かけられた声に、ルイスはしかし返事を返さなかった。頭から血が引いていくのを感じる。
 必死でその優れた脳細胞を活性化させた。一瞬で思考をフル回転させ、急速に加速する意識のなか、彼は一つの答えに至った。
 すなわち。ルイスはくるりとその場で振り向き、できる限りの全力で一目散に駆けだしたのである。
 だが次の瞬間――

「はっ!」

 突如足を蹴飛ばされて、ルイスは無様にすっ転んだ。顔面を強打し、無言の悲鳴を上げる。

「な、何するんですか!」

 鼻を押さえてサンダ―を見上げた。

「うむ、なにやら面白そうな気配がしたのでな」
「何も面白いことなんてありませんよ!」

 怒声混じりに叫ぶ。

493: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/09/07(火) 20:13:22.22 ID:Y1G5wJYo

「傷つくね。いきなり逃げることはないじゃないか」

 と言いつつもその笑みを崩そうとしない人影をルイスは恐る恐る見上げた。

「ロゼイユ……」
「もう一回言うけど、久しぶり。会えてうれしいよ」

 言って差しのべた手は借りずに、ルイスは自分で起き上がる。ロゼイユはやはり気にした様子もなく手をひっこめた。
 知り合いである。もともとルイスはロゼイユの養父を頼ってタフレムに来た。ロゼイユとはその時からの付き合いだ。ちょうど二年前にロゼイユが新大陸に渡ってからは親交が途絶えていた。

(親交?)

 ルイスは顔をしかめた。冗談じゃない。

「ねえねえ」

 先ほどから蚊帳の外だったリオが口をはさんだ。

「ルゥ君の知り合い?」
「ああ、そうだよ」

 ロゼイユは首肯した。そして付け加える。

「まあ、正確に言うなら元恋人ってところかな」
「――!?」

 リオが音をたてて硬直した。ルイスはもう一度逃げたくなった。

497: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/09/08(水) 12:08:55.33 ID:6ci70iAo

 馬車が、何かに乗り上げたのか一度大きく揺れた。意識を現在に戻す。

「で、実際のところはどうなのさ?」
「それは僕の口からは」

 ついさっき怒鳴られたことなどどこ吹く風で会話が再開している。がんがん痛む頭を抱えてルイスは嘆息した。

「じゃ、じゃあルゥ君、どうなの?」
「何もないよ。せいぜいが手をつないだだけ」

 うんざりと言ってやると、こわばっていたリオの顔がいくらかほぐれた。

「で、でも二人は元恋人だったんでしょ? 本当にそれだけ?」
「それだけだってば」

 今度はこちらに身を乗り出すリオの頭を押さえてルイスは馬車の窓の外に目を移した。
 何本もの木々が目に入る。森林と呼べるほどに密度があるわけではないが、それでも林と呼ぶにはふさわしくない。今向かっているところは、ここを抜けて一時間ほど行ったところにある村だ。

「あー、目をそらした!」
「違うって」

498: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/09/08(水) 12:10:25.01 ID:6ci70iAo

 昨日、ロゼイユとの再会の後、簡単に近況報告をしあった。ルイスとしてはその場をすぐに離れたかったが、ロゼイユがどうしてもというので仕方なく付き合ったのだ。だが、それによって収穫もあるにはあった。
 新大陸に来た理由を説明し、遺跡の出土品――例の剣だ――を調べているが行き詰っていることを話すと、

『だったらいい人を紹介するよ』

 という風に話が運んだ。
 できればロゼイユと関わりあいになりたくないルイスにとって、その提案は軽いジレンマのもととなったのだが。
 まあとにかく、今はロゼイユが紹介するその人に三人で会いに行く道の途中なのである。

「ひどいよひどいよルゥ君、あたしに黙って恋愛なんて!」
「別に姉さんに許可取るもんじゃないでしょ」
「そうだけども!」

 それに、と胸中で付け加える。ルイスは付き合っていたというよりだまされていたのだ。
 しかし、それを言うのは気が重かった。とはいえ誤解は解かなくてはならない。

「姉さんは勘違いしているよ」
「なにがさ!」
「ごほん」

 ロゼイユがわざとらしく咳払いした。だが、それを無視してルイスは続ける。

499: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/09/08(水) 12:11:49.42 ID:6ci70iAo

「いいかい、姉さんはこう思ってるはずだ。僕――ルイス・フィンランディは、過去にロゼイユ・ブルーベリーという女の子と交際していた、と」
「……なにか違うの??」
「全然違う。まったくもって見当違いだ」
「……付き合ってなかったってこと?」
「いいや」

 これは認めなければならない。ルイスはロゼイユと付き合っていた。忌々しいことではあるが。

「じゃあ、勘違いじゃないじゃん!」
「いやそれでも勘違いさ」
「どこが!」
「姉さん。ロゼをもっとよく観察するんだ」

 言われてリオの視線がロゼイユを上から下までなでる。つられてルイスもロゼイユを見た。
 白いブラウスに黒のスカート、黒のソックスに茶色の靴。落ち着いた雰囲気、というか学校の制服のようにも見える服装である。だが、問題はそんなところにはない。

「気付いたことは?」
「……あたしよりかわいい」
「光栄だね」
「違くて」

 ルイスはかぶりを振った。頭痛が最大限まで高まっていた。どうしても言わなければならないことを、どうしても言いたくない。それでもルイスはそれを吐きだした。

「これ、男」
「……へ?」

500: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/09/08(水) 12:13:21.34 ID:6ci70iAo

 硬直したリオと向かい合って、ロゼイユは特にうろたえたようすは見せなかった。平然と笑っている。

(……はぁ)

 七年前、タフレムに遊学に来た時、初めて会った同年代がロゼイユだった。会ってすぐ心を奪われた。ロゼイユはその性格に似合った凛とした美しさを備えていたし、個性的で、何より頭が良かった。優れた頭脳により孤独を感じていたルイスにとって、最後のファクターは実に大きい意味を持っていたのだ。
 三年間片思いを続けた。その間、思いは弱まるどころか次第に強くなって抑えつけることができないまでになった。四年目、ルイスはついにロゼイユに告白する。ロゼイユはその気持ちを快く受けとめてくれた。それから交際が始まったのだ。
 清い関係だった。初めて手をつないだのが、付き合い始めてから一年後である。そこから一歩進んだ関係になろうという時に悲劇は起きた。
 ロゼイユの性別が発覚したのである。

 ルイスは自分の鈍さを呪った。ロゼイユは別に隠していたわけではなかった。言われてみれば骨格が女性のものと異なるし、言葉使いも男のものだったのだから。だから、ルイスの不注意、というか勘違いだったのだ。
 むろんのこと関係は破綻する。その数日後にロゼイユが新大陸に渡ったのが幸運といえば幸運ではあった。
 思い出しながら、気分がささくれ立つのを感じた。

「え? え? じゃあルゥ君、男と付き合ってたの!?」
「……そうなる。不本意だけど」
「ふ、不潔!」
「まあ、そう言ってやるな。僕の美貌じゃ仕方ない」

 どことなく自慢げに彼、ロゼイユが言った。

501: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/09/08(水) 12:14:11.08 ID:6ci70iAo

「君がだましてたんだろうが」

 ロゼイユを険悪に睨みつける。どうしようもなくどうしようもない心地のなか、ルイスは死にたくなってきていた。

「だましていたなんて人聞きの悪い。君が勘違いしていただけだろう。僕は全然普通さ」
「女装が趣味の男がどこにいる!」

 思わず立ち上がって怒鳴りつける。それでもロゼイユはひるまなかった。

「仕方ないだろう。引き取られた養父が悪かった。あの人がくれた服はみんな女物ばかりでね、それを良く分かってなかった僕に罪はない」
「判断力のある今は違うだろうが」
「長年の習慣というものはなかなか抜けきらないものさ」

 まだいいたいことはあったものの、なにやらどっと疲れた気がしてルイスは座りこんだ。がっくりと肩が落ちる。

「ルゥ君、元気出して。いい病院紹介するから」
「姉さん、僕は正常だ。できればロゼに紹介してやってくれ」

 そうしているうちに、前方に村が見えてきた。
 開拓民の村、ローグタウンだ。

508: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/09/09(木) 16:19:24.64 ID:fEe2Dpwo

 ローグタウン。新大陸の南端に位置するニューサイトから、北に行ったところにある開拓民の村。
 当たり前だが、ニューサイトとはかなり趣が異なっていた。
 まず、道がほとんど舗装されていない。土肌がむき出しのままで、ところどころでこぼこしている。平らな個所も、ところによっては若干傾斜がかかっていた。
 次に、建物が統一されていない。掘立小屋のような粗末なものから、木造の比較的しっかりしたものまでまちまちだ。見渡した限りでは、ニューサイトのレンガ造りのように手の込んだものは見当たらなかった。建物の並びも整然としているとは言い難い。
 洗練されたニューサイトと違って、ここはどうにも土臭い雰囲気が漂っている。

「でも」

 と、リオは言う。

「これぞ開拓民! って感じだよね」

 ルイスもそれには同意した。
 さらにルイスは、もともと田舎の祖父母のところに住んでいたので、なじみのある雰囲気に懐かしさすら覚えてもいた。
 穏やかで静かながら、どこか発展の前の鼓動を感じさせる空気。

509: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/09/09(木) 16:22:35.83 ID:fEe2Dpwo

 息を大きく吸い込んで、ルイスはあたりを見回した。馬車から降りたところはちょうど馬小屋の近くだった。中の馬が、外からやってきた自分たちにどこか珍しげな視線をよこしてくる。
 だが、あたりには人の気配はなかった。

「みんな今の時間は働きに出てるんだよ」
「開墾?」
「そうさ。ここからさらに北に行ったところに森がある。そこを焼いて畑にしてるんだ」

 ロゼイユは説明をしながら歩き出した。それに従ってルイスとリオも足を踏み出す。

「ここはまだ開拓民が入って日が浅い場所でね、今急ピッチで作業が進んでる」
「急ピッチ?」
「ああ、移民が増えているのは知っているだろう? ニューサイトは立派な都市だが何しろキエサルヒマのと比べると広さが足りない。これからさらに増えるであろう移民に対応するためにはさらに大きな都市を作っていかなきゃならないってわけさ」
「他にも開拓村はあるんだろ?」
「まあね。でも地盤の問題があったり、地理的な問題があったりしてどこもそんなに進みが良くない。で、結局今一番期待されているのがここ、ローグタウンというわけだ」

510: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/09/09(木) 16:24:57.24 ID:fEe2Dpwo

 解説を聞きながらしばらく歩くと、比較的大きく、しっかりした造りの木造建築が見えてきた。

「あれが村長殿の家さ」
「あれ、仕事に行ってるんじゃないの?」

 リオの質問にロゼイユが頷く。

「さすがに村をすっかり空っぽにするわけにはいかないだろう? 長が代表として残るのが筋というものだ。まあ他にも自警団が数人詰め所にいるんだけどね」

 家の前で立ち止まる。

「さて」
「どうかしたのか?」

 訊ねるルイスに、ロゼイユは苦笑して見せた。

「いや、ここの村長殿なんだが、ちょっとね」
「んー?」

 リオが、鞄から飴を取り出して口に放り込む。

511: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/09/09(木) 16:26:50.67 ID:fEe2Dpwo

「仕事はできる人なんだよ。本当にね」
「それが?」
「いや、仕事はできるんだが、その、素行が良くないというのかなんというのか」
「ヤなやつってこと?」
「まあ、当たりだ」

 ロゼイユが頭を掻く。

「汚職癖があってね、前に上から回ってきた予算を一部横領しようとした」
「それは酷い……」
「だろう? それに女癖も悪い。村の女性で彼に声をかけられなかった者はいないって話だ。かくいう僕もナンパされたクチ」
「げっ」

 リオが顔をしかめた。ルイスも苦笑する。それはなんとも趣味が悪い。

「で、だ。住民がリコールをしかけたんだが、上に取り入るのがうまいやつでね、仕事ができることを盾にいまだにその地位についているというわけだ」

512: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/09/09(木) 16:29:34.92 ID:fEe2Dpwo

「なんとも困った男だな」
「同感だ。みんなこの家には近付かないようにしている」

 手でその建物を示す。

「なにより始末が悪いことに、村長殿は自分に甘く他人に厳しい。家を訪問した相手には必ず罵声を浴びせるんだ」
「それはそれは」

 からころ、と飴を転がしながらリオが言う。

「怖い人なんだね」
「まあ、慣れてしまえばどうってことはないさ。最初に言ったように仕事はできる人なんだ。適度に泳がせとけばいい。罵声は聞き流してればいい。さ、長くなったね。入ろうか」

 ノックをして、返事を待たずにドアを開ける。

「村長殿ー、客人を連れてきた」

 それに呼応するように奥から大声が聞こえてくる。

「もう勘弁してください!」

 それは思っていたのとはずいぶん趣の異なるものだった。
 こちらを振り向いたロゼイユが変な顔をする。

「おかしいな。罵声のバリエーションでも変えたのか?」

 そう言って内部に踏み込んだ。ルイスたちもそれに続いた。

516: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/09/10(金) 18:41:51.17 ID:I4Bxz1ko

 玄関から入ると、右に二階に続く階段、そして目の前にもう一つ扉があった。ロゼイユは扉の方に進み、開けた。

「村長殿、失礼するよ」
「失礼します」
「たのもー」

 それぞれ声をあげて入室する。
 そこはどうやら応接間になっていたようだ。部屋は広く、革張りのソファが低いテーブルをはさんで互いに向かい合うように置かれていた。
 そして、

「お願いですからそれだけは!」

 だいぶ額の後退した、小太りの男がその一方に座っていた。年のころ五十といったところだろうか。年相応の貫録と白髪を持っている。いかにも不遜な感じの空気を纏っているが、今はその広い肩幅を、ただただもっとも収納効率がようなるように縮め、頭を低くしていた。
 向かいにも人影がある。

「うむ、苦しゅうない」

 ふんぞりかえることなく真顔でそんなことを言ってのけるその男には、見覚えがあった。

517: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/09/10(金) 18:45:22.25 ID:I4Bxz1ko

「ミサンガさん?」
「おや」

 こちらを顔を向けたのは、ニューサイトで別れたはずのサンダ―・ストロンガーだった。

「ストラッチャ・シュナイダーじゃないか」
「いえ、ルイスです」
「どうしてこんなところに?」
「こっちが聞きたいです。主に移動手段的な意味で」

 この村に来るまでの交通手段といえば、先ほどルイスたちが乗っていた馬車である。定期便のそれは、彼らが乗ってきたのが始発のものだった。とはいえ、サンダ―は役所の人間であるから公用で馬車を出せても不思議はない。

「ていうか、僕たちがこの村に来ることは知っていましたよね?」
「むろんだ。君たちの行動は逐一把握している」
「じゃあなんで聞いたんですか」
「深い意味はない」

 サンダ―は鷹揚に頷いて見せた。

518: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/09/10(金) 18:46:09.49 ID:I4Bxz1ko

「私の方は君たちが心配になってついてきた」
「はあ」
「初めのうちは念力で無事を祈っているだけだったのだが、そのうち、遠近自在エネルギー法でも追いつかなくなった」
「なんですかそれ」
「六千八百二十九通りある幸せを祈る方法のうち、もっともお勧めなやつだ。効き目はすごいぞ? 飛ぶ鳥をきりもみで落とす勢いだ」
「さいですか」
「あ、あの」

 最後のはサンダ―の向かいの男が上げた声だった。いかにも怯えた目でサンダ―を見つめている。

「彼がかの邪智暴虐の村長だよ」
「なるほど」

 ロゼイユが小声でルイスに告げる。聞こえなかったのか、気にせず村長はサンダ―に声をかけた。

「なんとかなりませんかね……」

519: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/09/10(金) 18:46:47.60 ID:I4Bxz1ko

 何の話かと思えば、なにやらテーブルに書類が並べられていた。

「なんとかなれば私はここに来ていない」
「それはそうですが……」
「なんの話?」

 リオが口をはさむ。サンダ―はこちらを向いて頷いた。

「愛の、話だ」
「絶対違うよねそれ」
「実を言うと、この男がまたも不正を働いたのだ」

 村長を指さす。彼はびくりと身体を震わせる。

「横領だ。上から出された資金をおいしくゲッチュと、そういうことだ」

 ちなみに真顔だ。

520: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/09/10(金) 18:47:28.20 ID:I4Bxz1ko

「わ、私は働きに見合った正当な報酬を……!」
「人々を困窮させるほどの取り分が正当かね?」
「そ、そんな事実はない!」

 ほう、とサンダ―は息を吐いた。

「先月のリコール騒ぎ。あれは人々の不満を如実に表しているのでは?」

 村長はその言葉にうめき声をあげて黙り込んだ。
 サンダ―はその様子に目もくれず、テーブルの上の書類を示した。

「とにかく、上からの処分はこの書類の通りだ。心当たりがないとは言わせん。甘んじて受けるんだな」
(す、凄い)

 とルイスは思わずにいられなかった。サンダーが仕事をしている。実に奇妙な光景に見えた。

「ひいては――」

 サンダ―は言葉を続ける。

521: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/09/10(金) 18:49:28.34 ID:I4Bxz1ko

「私もその横領のおこぼれにあずかりたい」

 べしゃ。

 とは、リオとルイスが転倒した音である。

「な、なんですかそれー!」
「ミサンガきたなーい!」

 二人のあげる抗議の声を、サンダ―はどこ吹く風と聞き流して見せた。
 村長もまた、同じようにぽかんとしていた。しかし、頭の回転が速いのだろう、すぐに表情が下卑た笑みに変わる。

「……なるほど。賄賂を請求しますか。それを渡せば、上に口利きしてくれると、そういうことですな」

 村長はすぐに懐から、なにやら重みのありそうな袋を取り出した。

「分かりました。これでいかがです?」
「その二倍だ」

 村長は顔をしかめたが、逆らう気はないようだった。すぐにもう一つ袋を取り出して、それらをサンダ―に手渡した。

522: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/09/10(金) 18:50:09.52 ID:I4Bxz1ko

「ふむ、これで良し」

 どことなく満足げなむっつり顔になると、サンダ―はこちらに顔を向けた。

「こちらの要件は終わった。そちらの用を済ませるといい」
「……」

 こちらの半眼を気にも留めないように、サンダ―は立ち上がると、こちらに席を譲った。
 気になることはあったが、ロゼイユに促されるままとりあえずソファに三人で腰掛ける。

「村長殿、客人を紹介しよう。こちら、ティー姉妹に用があって来訪したルイス・フィンランディ。そして、となりがリオだ」
「……よろしくお願いします」
「これはこれはようこそローグタウンへ。この村の代表として歓迎しますよ」

 にこにこと笑みを浮かべて挨拶をよこしてくるが、先ほどのこともありどうにも印象は良くない。しかも村長の視線はルイスを早々に通り過ぎ、リオにじっとりと注がれていた。

「リオさんですか。おきれいですな」
「ど、どうも……」

 リオが珍しくひるんでいた。

523: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/09/10(金) 18:51:31.93 ID:I4Bxz1ko

「とりあえず挨拶は済ませたから、これで失礼するよ」
「そんな急ぐことでもないだろうロゼ。ゆっくりしていってもらえ。リオさん、お菓子は好きですかな」
「いえ、甘いのはあんまり……」
「それはちょうど良かった! いまちょうどいいのがあるんですよ。食べていってください」

 リオに熱烈な視線を注ぎながら、時折ルイスを睨みつける。
 その視線いわく、男はいらんから出ていけ。ルイスの中で、さらに村長の印象が悪くなった。

「……姉さん、あんまり長居も失礼だし、行こうか」
「う、うん」

 さっさと立ちあがって部屋の扉までいく。

「そうだ! 今夜この家で歓迎会を開きましょう! いかがですかな?」
「いえ、結構です」
「村長殿、そういうことだ、失礼するよ」

 村長の苦々しげな視線を背中に感じながら扉をくぐった。

524: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/09/10(金) 18:52:44.90 ID:I4Bxz1ko

「そうだ、村長」

 ルイスたちに続いて部屋を出ようとしていたサンダ―が、ふいに声をあげた。

「は、はい、なんでしょうかな?」
「村長のお気持ち、感謝する」
「は?」

 あっけにとられる村長に、サンダ―は告げる。

「私は村長に金銭を要求した。だが、上に口利きするとは言っていない。そういうことだ」
「え? ちょ、ちょっと!」
「ではさらばだ」

 村長の罵声が響くが、思いのほか分厚い扉がその声を遮って、閉じた。

556: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/10/11(月) 22:49:25.95 ID:Vf6qyyMo

 村長は追いかけてまでは来なかった。下手に騒げば、また処罰の話が出ると分かっているのだろう。

「よかったの?」

 村長の家を出たところでリオが口を開いた。

「かまわん、少しぐらい痛い目を見た方が彼のためにもなる」
「そのためにミサンガさんが得をするのはどうかと思いますが……」

 半眼でうめくが、そちらは風に流された。
 ロゼイユが笑う。

「ミサンガさんは面白い人だ」
「そう、何を隠そう私が面白い人だ」

 何を言っているのだか。ルイスはあきれた。

「それで、ロゼ。ティー姉妹というのは?」
「ああ、例の紹介したい人たちさ」
「その人たちが僕を助けてくれるのか?」
「そういうこと。まあ、楽しみにしてるといい」

 そう言うとロゼイユはさわやかにほほ笑んだ。

557: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/10/11(月) 22:50:20.46 ID:Vf6qyyMo

 案内されたのは村のかなりはずれの方だった。森に半分突っ込んだところにこじんまりとした木造の家があった。雨も降っていないのに、地面はしっとりと水分を含んでいるようで、足音はどこかくぐもる。小鳥が頭上を飛び去った。

「ここが……」
「そう、ティー姉妹の家さ」

 ロゼイユは頷いてルイスの方を向いた。

「彼女らは古典、神話に精通している。きっと君を手助けしてくれるはずだよ」
「学者なのか?」

 驚いて訊ねると彼は首を振ってこたえた。

「いいや、彼女らは一般人だ。ただ、彼女の家は古くは語り部をやっていた血筋でね、そういう記録に残っていないことに関してとても詳しい」
「へえ」

 あれ、でも、とリオが声を上げる。

「そう言えば、この時間はみんな開墾に出ているはずじゃないの?」
「そうなんだけどね、ただ一番下の――」

 悲鳴が聞こえたのはその時だった。

558: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/10/11(月) 22:52:51.90 ID:Vf6qyyMo

 小さくか細いそれは、かすかながらもかろうじてルイスたちの耳に届いた。感覚に狂いがなければ、目の前の家の裏からだった。

「なんだ?」

 ルイスが訝しんだ時には既にリオとサンダ―が走り出していた。続いてロゼイユが、そのあとをあわててルイスが追った。
 家の裏は木がだいぶ侵略してきているもの、ちょっとした広場になっていた。
 そこに少女が一人、尻もちをついているのが目に入った。それに手を伸ばす二人分の人影。

「光よ!」

 躊躇なく放たれたリオの呪文の叫びは、魔術の効力を引き出し、光が視界を埋め尽くす。
 光熱波は離れたところにある木の一本に突き刺さると、大爆発を起こした。少女に伸びる手が止まった。
 リオの判断は常に早い。こうだと決めたことはすぐに実行する。対してルイスはいまだ、事態の認識ができずにいた。なんとか冷静になるように自分に言い聞かせ、じっくりと場を見渡す。
 人相の悪い男の二人組が、こちらに驚いた視線を寄こしていた。両方とも擦り切れた粗末な服装で、よく見るとそれぞれ武装している。それににじり寄られる格好で、十歳そこそこに見える少女が腰を抜かしていた。

559: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/10/11(月) 22:54:56.64 ID:Vf6qyyMo

 ルイスにもようやく状況が呑み込めた。構成を瞬時に編む。が。
 相手の判断もまた早かった。男ふたりは闖入者があるとみると、すぐにこちらを背にして走り去った。ルイスの魔術速度を持ってしても捉えられない、あっという間の撤退だった。
 茫然とそれを見送る。二人の背中はすぐに森の緑にまぎれた。

「大丈夫かい」

 見るとロゼイユが少女に手を差し伸べていた。少女は震えながらもその手を取ると、立ちあがって小さくうなずいた。

「今のは……」

 ルイスが声を上げると、ロゼイユがこちらに顔を向けた。

「多分、武装盗賊だ」
「武装盗賊?」
「ああ、こちらの大陸に渡ってきたものの、仕事にありつくことができなかったり、犯罪に手を染めたりしてドロップアウトした者たちのなれの果てだ。他の開拓村で襲撃があったとは聞いていたが、ついにこの近辺にも出た、か」

 彼はやれやれ、と首を振る。

「まあ、とりあえずは君に危害が及ばなくてよかった」
「……」

 ロゼイユのそばで、少女はぱちくりと瞬きをした。

「その子は?」
「ああ、そうだな紹介しよう」

 ロゼイユは少女の頭に手を乗せた。

「この子はティー姉妹の一番下の子、ミルク・ティーだ」

 少女はつぶらな瞳で、もう一度ぱちくりと瞬きを繰り返した。

563: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/10/23(土) 00:26:32.59 ID:wGpqbjwo

 ミルク・ティーは無口な子だった。他に二人いるという姉妹を待つ間、お茶を出す以外はもじもじと肩までの茶色い髪をいじりながら、こちらをちらちら見ては目をそらすを繰り返している。その様子にルイスも気後れのようなものを感じたが、リオはというと特に気にならないようで、早々にくつろぐ態勢に入ったようだった。

「中は結構広いねえ」

 リオの声に周りを見渡す。彼女の感想ももっともで、小さいと見えたのは外観だけのようだった。家具があまりないせいかもしれない。代わりに部屋の真ん中には八人ほどで囲むことのできるテーブルが置かれており、ルイスたちはそこについていたが、三人姉妹であることを考えるとこれは奇妙なことに思えた。

「ああ、それは」

 ロゼイユが口を開く。

「彼女らが語り部の家系であることに由来しているんだ」

 ルイスは少し考えて、それに応じた。

「つまり……人を招いて語り聞かせるため、か?」
「御名答」
「ふーん」

 リオが相槌を打ってお茶に口をつける。

「ってことはこの子――ミルクも何か語れるのか?」
「……」

 ミルクはこちらと視線が合うと、さっと目をそらしてうつむいた。

「この子も語れないことはないさ。でもなにぶん恥ずかしがり屋でね、一番上の姉を待つ方がいい」
「そうか」

 頷いてルイスもお茶に口をつけた。まだしばらくは待たなければならないらしい。懐中時計を取り出して確認する。時間は昼になるかならないかといったところだった。

564: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/10/23(土) 00:28:11.19 ID:wGpqbjwo

 それから三十分ほど経っただろうか。ロゼイユは、ティー姉妹の残り二人がどれくらいで戻ってくるのか確かめてくる、と言って家を出ていた。リオは無口なミルクに何やら話しかけている。ルイスはというと本を引っ張り出して読書を始め、サンダ―は茶柱がないかとお茶くみに無駄に熱をあげていた。
 外から足音と話し声が近づいてきて、扉が開く。振り向くと、三人分の人影がルイスの視界に入ってきた。

「待たせたね」

 と言った一人は言わずもがな、ロゼイユである。他の二人はどちらも茶色の髪をしていて、ミルクの姉たちであることがうかがえた。
 一人は十五、六ほどの少女で、肩甲骨あたりまで髪の毛を伸ばしていた。利発そうに瞳が輝いている。そしてもう一人はそれより少し背が高く、年のころ二十ほど。腰までの長髪をそよ風になびかせていた。

(若いな)

 というのが、ルイスの感想だった。

「どうも、お邪魔しております」

 席を立って頭を下げると、長女であろう女性は頭を下げて応じた。

「いらっしゃい、歓迎いたします」
「ゆっくりしていくといーよ」

 次女とおぼしき少女の方はにかっと笑って手をひらひらさせた。

565: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/10/23(土) 00:28:58.65 ID:wGpqbjwo

 三人は部屋に入ると、ルイス達と向かい合うようにテーブルに着いた。

「紹介しよう、こちらティー姉妹の長女、ハーブ・ティー。そしてこちらが次女のアップル・ティーだ」
「よろしくお願いします」
「よろしくね!」

 三姉妹はこちらから見て右側からちょうど年の順になるように並んで座っていた。そして長女の隣にロゼイユがいる。
 ロゼイユはいったん席を立つと、対面のこちら側にまわってきた。ルイスの横に立つと、

「そしてこちらがティー姉妹のご教示を受けに来た、歴史学者のルイス・フィンランディ。その随伴、リオ。そしてニューサイト行政区の職員、サンダ―・ストロンガーさんだ」
「よろしくお願いします」
「よろしくー」
「うむ、苦しゅうない」

566: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/10/23(土) 00:30:33.16 ID:wGpqbjwo

 サンダ―の挨拶は気になったが、とりあえず顔合わせが終わって、ルイスは早速口を開いた。

「まずは急に押しかけたご無礼をお許しください。僕はある研究のためにこちらの大陸に渡ってきました。ただ、お恥ずかしながら研究の進捗状況はいまひとつで。そんなときにロゼからあなた方の紹介をいただきまして、こうしてうかがった次第です」
「お聞きしてます。若いのになかなか高名な学者さんでいらっしゃるとか」

 ほほ笑むハーブの言葉に、ルイスは苦笑いする。

「いえ、そんなことはありませんよ。ただの助教授です」
「でも、頭はいいよね。歴史書の暗誦なんて余裕だし」

 リオがあっけらかんと言うが、ルイスとしてはそちらにも苦笑しかできない。

「まあ、力不足のところがありまして。研究内容はロゼから聞いてますか?」
「ええ。魔術の起源と魔法についてだとか」
「そうです」

567: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/10/23(土) 00:31:13.77 ID:wGpqbjwo

「うさんくさ」

 アップルがふき出した。

「こら、失礼ですよ」
「ごめん、でも魔法の研究ってちょっとアレでしょ」
「いえ、まあ、その通りなんですが。それでもテーマを与えられれば研究せざるを得ないというのが学者のつらいところで」
「うむ、魚は地上には住めんしな」

 サンダ―のそのたとえは正しいのかと胸中で首をひねりながら先を続ける。

「ということで力を貸していただけないでしょうか。どうかお願いいたします」
「ええ、かまいませんよ。そういうことならば、微力ながらお力添えいたしましょう。もっとも、お仕事の合間合間に、ということになりますが」
「かまいません、ありがとうございます」

 ルイスは頭を下げた。

568: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/10/23(土) 00:32:29.97 ID:wGpqbjwo

     ・
     ・
     ・

「というわけでこれなんですが……」

 長大な剣をハーブに手渡す。彼女には少し重かったようで、軽くよろめいた。
 例の石化の剣である。彼女らには殺人人形との邂逅を包み隠さず説明した。そして何か分かることはないかと実際に物を見てもらうことになったのである。

「……ずいぶん大きな長剣ですね」

 ハーブは剣をゆっくりと持ち直し、革の鞘からそれを抜いてみせた。くすんだ色の刀身が外気に触れる。そして目に入る紫電を模したような形の文字。

「これは……」
「ご存知ですか?」

 ハーブの声に問いを投げる。

「ええ、キエサルヒマ島でもかつて使われていた古代語の一つです」
「では?」
「はい、バルトアンデルス。そう読めます」
「バルト、アンデルス?」
「“いつでもほかのなにか”」

 アップルの声。そちらを見やると、どこか得意げな顔で彼女は笑っている。

「そういう意味よ。現代語ではね」
「いつでも、ほかのなにか?」
「どういう意味だろうね」

 リオがルイスに声をかけるが、考え込んでいたために応えられなかった。

569: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/10/23(土) 00:34:08.34 ID:wGpqbjwo

「古代語……」
「ええ。千年ほど前に使われていた言語です。今ではまったく使われてませんが。古代人と呼ばれる人々が主に使っていたとされています」
「古代語については僕も断片的には知っています。ただ、古代人というのは?」
「私の家では私たちの祖先として伝えられています。緑の髪と瞳が特徴的で、魔術的な素養が飛びぬけて高かったとか」

 どこか、記憶に引っかかることがあった。すぐに思いだせないのは記憶力の優れているルイスには珍しいことで、多少のいら立ちを感じたが、しばらく頭を探ったのちに諦めた。

「魔術文字を信じますか?」

 問いかけると、ハーブとアップルは難しい表情になった。

「先ほどのルイスさんの話を疑うわけではありませんが……」
「やっぱり信じがたいわよね」

 文字を媒体にする魔術。実際に見たルイスでもその存在をいまいち信じることができずにいる。
 ただ、古代語、そして古代人。それらと魔術文字は関係あるように思えた。

「私も気づいたことがある」

 唐突に声が上がった。今まで特に口をきかずに離れたところでこちらを見守っていたサンダ―だ。

「なんですか」

 多少驚いて問いかけると、彼は一言、

「空腹だ」

 とのたまった。

570: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/10/23(土) 00:35:35.81 ID:wGpqbjwo

 昼食を終えると、長女と次女はいったん仕事に戻っていった。
 残されたルイスたちは、とりあえずということでロゼイユとミルクに村の案内を頼んだ。
 とはいえ、何かめぼしいものがあるわけでもなく。適当にぶらぶらし、自警団の詰め所に挨拶するぐらいで、時間はあらかた潰れてくれた。

 夕方。食事を終え、七人は再びテーブルについていた。卓上にはバルトアンデルスが横たわっている。

「説明した通り、この剣は攻撃したものを石化させる性質を持っているようです。実際に目にした僕たちにも信じがたいことですが」

 ルイスが口を開くと、全員の視線が、剣からルイスの方に移ってきた。

「魔術文字が実際にあるとすれば、剣の性質はそれによるもので間違いないでしょうし、効果は人間が使うものとは比べ物になりません」
「そこで古代人と古代語ですか」

 ハーブの言葉にルイスは頷く。

「ええ。古代人について知っていることを教えてもらえませんか?」
「分かりました」

571: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/10/23(土) 00:37:39.92 ID:wGpqbjwo

「お昼に説明したとおり、古代人は私たちの祖先と言われています」

 それから続く一時間ほどの話の要点をまとめると、古代人はキエサルヒマ島に何かを求めて、もしくは何かから逃げるように移住してきたらしい。彼らの魔力は絶大で、運命すら改ざんし、疑似生命を生み出すことすら可能だったという。

「あくまで言い伝えにすぎません。書物に記載されたものではなく、私たち以外の語り部の伝承は古代人という共通点こそあれ、様々に異なっています」
「例えば?」

 とロゼイユ。

「古代人は私たちの祖先ではなく、祖先と一緒に海を渡っていったというものや、もともとキエサルヒマ島にいた祖先のところに、海の向こうから古代人が渡ってきたというものなど、いろいろです」
「なるほど」

 古代人。絶大な魔力。運命の改竄。疑似生物の製造。思い当たる節があった。
 だが、口を開きかけたルイスを、ハーブは手で制した。

「今日はここまでです」
「……?」
「語り部の掟で、一日に語る物語は一つか二つと決まっているのです。今日は古代文字と古代人について話しましたからこれでおしまい」
「はあ」
「……というのは建前で、本当のことを申し上げますと、私、仕事で疲れてしまいました。今日はここで休ませてください」

572: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/10/23(土) 00:38:48.23 ID:wGpqbjwo

「あ、それはかまいません。長く引きとめてしまって申し訳ありませんでした」
「ルイスさんたちは今夜はいかがなさいますか? すみませんがこの家にはあと二部屋しか空きがなくて」
「ああ、お気遣いなく。僕はテントで寝ます。近くの場所をお借りしてもかまいませんか?」
「ええ、どうぞ」

 遠慮するロゼイユと、テントで一緒に寝るとごねるリオを無理やり部屋に押し込み、ルイスはテントの中に寝転がった。ちなみにサンダ―はというと、

「私はあてがあるものでな」

 と言ってどこぞに出ていった。

「……」

 研究の成果、いまだ出ず。ルイスはため息をついて目を閉じた。

573: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/10/23(土) 00:40:02.72 ID:wGpqbjwo

 朝、目が覚めて家に入ると、アップルとハーブはすでに仕事に出発していた。ルイス、ロゼイユ、ミルクの三人で(リオはねぼすけだ)用意されていた朝食をありがたく平らげたころ、サンダ―が家を訪ねてきた。

「おはよう諸君」
「おはようございます、ミサンガさん」

 いつもと同じスーツ姿。ただ、いつもと違うのは、手に何やら小さな袋を持っていることだ。

「なんですかそれ」
「うむ、ある人からの心配りだ」

 そう言ってサンダ―が袋を掲げると、ちゃりんとかすかに音がした。

「……村長さんですか?」
「ほう、勘がいいな。昨日は村長のところに泊ったのだが、村長がくれるというのでもらったのだ」

 昨日金をせびっておいて堂々と泊りこみ、あまつさえさらにカツアゲできるなんてどういう神経だ。ルイスはあきれたが、サンダ―はどうということもなく彼の視線を受け流して見せた。

「またお金をせびったんですか」
「くれと言ったらくれた。それだけだ」

 まあ、いいか。ルイスは追及を諦めた。

574: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/10/23(土) 00:40:52.01 ID:wGpqbjwo

 リオが眠そうに起きてきた。彼女が朝食を食べ終わると、全員手持無沙汰になってしまった。やることがないのに時間だけが余っている。

「じゃあさじゃあさ、森の方へ行ってみようよ。昨日ミルクちゃんが教えてくれたところ、見てみたいな」

 ようやく眠気が抜けたらしいリオが元気よく声を上げた。

「昨日教えてくれたところ?」

 ルイスの言葉にリオが頷く。

「うん。昨日、ハーブさんとアップルちゃんが来る前に私、ミルクちゃんと話してたでしょ? その時にね」
「……」

 ミルクを見ると、彼女はどこか恥ずかしそうに首肯した。

「何があるの?」
「それは見てからのお楽しみ。ねー」
「……うん」

 はにかむように発せられたそれは、昨日の悲鳴以来初めて聞いたミルクの声だった。

575: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/10/23(土) 00:43:48.60 ID:wGpqbjwo

 平たい石が風を切って飛ぶ。それは水面に接すると、沈むどころか逆に跳ね上がった。それを繰り返し、川の向こう岸に乗り上げる。

「さっすがルゥ君」
「まあね」

 振り返ると、手をたたいて笑うリオが目に入った。その隣に目を見開くミルク。

「すごい……」
「あれはね、水切りっていうんだよー」
「水切り……」

 ルイスたち五人は森の中にある川に来ていた。ミルクのお気に入りの場所らしい。十メートルほどの幅の緩やかな川の流れが、小さな水の囁きを発していた。
 昨日の武装盗賊が気にならないでもなかったが、あまり深いところではなく、またこの人数ならば多少のことは大丈夫だろうと判断した。

「やってみるかい?」

 ロゼイユが、拾ってきた石をミルクに見せた。

「こういう風に平べったい石の方がうまくいくんだ」
「……」
「あたしもやろっと!」

 三人はそれぞれ石を手にすると、川べりに近づいた。

576: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/10/23(土) 00:45:15.22 ID:wGpqbjwo

「こうやって回転させるように投げるんだ。平べったい面が水面と平行になるようにね」
「分かった……」
「よし、じゃ、せーの!」

 石が三つ、それぞれの勢いで飛んで行った。
 ルイスと同じように向こう岸にたどり着くもの、一回跳ねて沈むもの、水に勢いよく突き刺さって無様に沈んでいくもの。

「……姉さんって相変わらずこういうの苦手だよね」
「うーん……」

 沈んだ石が、実はリオのだ。

「すごいねミルク、一回跳ねたよ」

 ロゼイユに撫でられ、ミルクがくすぐったそうにほほ笑む。

「すごい……?」
「ああ、すごいとも」

577: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/10/23(土) 00:46:06.41 ID:wGpqbjwo

 その時、水面にもう一つ石が跳ねた。その石はまるで意思があるかのように、跳ねるごとに円を書くように軌道を変えていき、ひときわ大きく跳ねたかと思うと男の掌に収まった。

「ふむ、悪くない」

 言わずもがな、サンダ―・ストロンガーである。

「いやおかしいでしょ」

 半眼で指摘する。

「なんで水切りで石がカーブするんですか」
「なに、君たちはカーブできないのか?」

 怪訝そうにサンダ―がこちらを見る。

「こんなもの三歳児でもできるぞ」
「わたし、できない……」
「あ、ミルク、泣かないで!」

 何やら感じるところがあったらしく、ミルクがべそをかきはじめ、ロゼイユが必死になだめていた。

578: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/10/23(土) 00:46:55.15 ID:wGpqbjwo

「あー、ミサンガ泣かせた!」
「心外だ。私は女性は泣かせても子供を泣かせる趣味はない」
「ミサンガさん、言っていいことと悪いことがありますよ。多分……」

 サンダーは変人であるため――という理由で納得できるかは人次第だが――あんなことができても不思議はないのだが、よく知らない子供は真に受けてしまうのだろう。

「ふむ……」

 サンダ―が髭の生えそうにない顎を撫でる。

「では小娘、こうしよう。私がお前にカーブの極意を授けてやる。ついてくるか?」

 大人と子供では背丈が違うのは当たり前だが、サンダ―の場合は一際長身である。見下ろされる形でミルクはひるんだ。しかし気丈にも歯を食いしばり頭を下げる。

「お願いします、師匠……」
「師匠て」
「うむ、よかろう、ついてこい」

 サンダ―は珍しく満足そうに笑った。

579: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/10/23(土) 00:48:34.37 ID:wGpqbjwo

「結局、夕方までやってたね……」

 リオの声に疲れがにじんでいた。
 あの後、サンダ―のカーブ講座に何故か全員が付き合わされた。

「なかなか見どころのある弟子だ」
「……」

 無言で照れくさそうに笑うミルクは、全員の中で一番頑張っていた。

「まさか、本当に曲がるとは思わなかったよ」

 ロゼイユが信じられないといった顔で神妙に言う。
 サンダ―の教えに付き合った四人のうち、カーブに成功したのはミルクとロゼイユだけだった。とは言っても、一度だけ、わずかに軌道変更する程度のものだったが。

(曲がったから何、って気もするけどね)

 ミルクが泣くかも知れないので、実際に口に出すことはしなかった。

580: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/10/23(土) 00:50:59.59 ID:wGpqbjwo

 ティー家に戻ると、すでにハーブとアップルは帰宅しており、夕食の準備は整っていた。

「今日は妹がお世話になったようで」

 食事の席でハーブがサンダ―に言う。

「いや、たわいもない児戯を教えていたにすぎない。気にしないでくれ」

 応えるサンダ―はどちらかというとスープを飲むのに夢中になっているようで、返事も上の空といった様子だった。

「わたし、カーブができたんだよ」
「カーブ?」

 ミルクの言葉にアップルが怪訝そうな顔をする。

「ああ、何と言ったらいいのやら」

 ロゼイユが複雑そうな表情で解説する。

「水切りでカーブする方法をサンダーさんに教わったんだ」
「水切りで、カーブ……?」

 アップルの眉間のしわが深まった。

591: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/10/29(金) 00:45:29.18 ID:v2yhHZ.o

 夕食を終え、全員でテーブルに着く。

「さて、昨日はどこまで話しましたでしょうか」
「古代人の魔術について、です」
「ああ、そうでしたね」

 ハーブは頷くと、あとを続けた。

「古代人は強大な魔力を持っていました。それこそ世界を改変しかねないほどの」

 古代人は運命を改竄し、疑似生命を作り出すことができた。それが昨日聞いたことだ。

「それについては僕にも心当たりがあります。人工的平和維持機構については知っていますか?」
「人工的、平和……?」
「人工的平和維持機構です。膨大な術式で、ある程度の紛争ならば除去してしまうといった効果があったそうです」
「紛争の除去、ですか?」
「ええ、『起こりうるものをなかったことにする』。そういうことです」
「……それがもし本当ならば、あり得ないほど強力な魔術ですね」
「そう、信じられないでしょうが、これが実際に使用されていた時代があったそうです」

592: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/10/29(金) 00:46:36.21 ID:v2yhHZ.o

 ハーブがそれを聞き、怪訝そうな顔になる。だが、そちらについては訊いてはこなかった。

「では、それが古代人の魔術と関係あると?」
「その通り」

 ルイスは鞄から一冊の本を取り出してテーブルの上に置いた。
 古びてくすんだ表紙に、剥がれかけの金色の文字でなにやら書かれている。

「“世界書”」

 アップルが読み取ってつぶやく。
 ルイスは頷いて表紙をめくった。

「これはニューサイトを発つ際に、市長から譲り受けたものです」

593: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/10/29(金) 00:47:20.21 ID:v2yhHZ.o

◆◇◆◇◆


「世界書?」
「そうだ」
「一体何の本ですか?」
「君の求める真実の一つ、とだけ言っておこう」

 手渡された本を見て、ルイスは片方の眉を上げた。
 かなり損傷の進んだ本だった。その重厚な雰囲気通り酷く分厚い。

「真実、ですか?」

 市長エリムはじっと、こちらを見つめていた。

「それをどう扱うかは君次第だ。私は君に――君たちに託そうと思う」

 その視線と言葉には妙に重みがあって、ルイスは少し戸惑った。

「君たちとの付き合いは短いが、私は君たちを信用している。君たちの一族を信じている。どうか道を誤ってその身を滅ぼすようなことだけはしないでほしい」
「あなたは、いったい……」

 市長の言っていることはいまいち分からなかった。
 が、その言葉に込められたひたすらな真摯さだけはひしひしと伝わってきた。

「……健闘を祈るよ」


◆◇◆◇◆

594: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/10/29(金) 00:48:06.04 ID:v2yhHZ.o

「多少読みにくいところはありますが、人工的平和維持機構や、疑似生物の製造方法などが記されていました」
「……」

 開いた頁をそのままに、ハーブが読めるように移動させた。そしてある一点を指で指し示す。

「ここ、見てください」

 皆の視線が集まる。そこには。

「古代文字……」

 バルトアンデルスに刻まれているものと同じような文様が記載されていた。
 古く、かさかさに干からびた紙の上を鮮やかに流れる文字。
 文字だという認識がなければ、それはこの手の書物によくあるただの装飾のようにも見えた。

「運命改竄と人工的平和維持機構。疑似生命の製造法。そして、古代文字。少なくとも、古代人と呼ばれる何者かが存在していたのは確かのようです。強大な魔術が実在していたことも。もちろんこの本に書いてあることが真実であると仮定しての話ですが」

 ルイスは紙の表面から指を離すと、ゆっくりと腕を組んだ。

595: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/10/29(金) 00:49:07.09 ID:v2yhHZ.o

「ざっと読んでみて分かったことがあります」

 そして目をつむる。深く思考の海に潜るために。暗く温かいそこは、ルイスをゆりかごのようにやさしく包み込む。

「それは?」
「人工的平和維持機構については最後の項に書かれていますが、その魔術は僕たちが使う魔術とは大きく異なっていること、です」

 息を吸い込み、脳に酸素を送る。そして活性化する脳をイメージする。

「音声魔術。これが僕たちの使う魔術の別名です。魔術文字や魔法陣が力を持つとまことしやかに語られていた時代の呼び方ですね。音声を媒体にして魔術を発動させる形式。僕たちが使える、実際には唯一の魔術手法です」

 ワンテンポ置いて、「ですが」と続けた。

「人工的平和維持機構に用いられるのは、契約に似た形式の魔術です」
「契約?」

 ハーブの言葉に目をつむったまま頷き返す。

「そう、音声魔術の効果が持続するのは短いものでほんの一瞬。長いものでもせいぜい一時間程度です。しかし、人工的平和維持機構の性質を考えてみれば分かるように、そんな超短時間のものではそれは意味を成しません。もっと別の形式を用いる必要があるわけです」

 目を開く。
 腕組みを解き、手を伸ばしてハーブの目の前の世界書をめくる。最終項。

「人工的平和維持機構においては神体を媒体に置くようです。そして――その神体に文字を刻むのです。細かく、いくつも」

596: VIPにかわりましてGEPPERがお送りします 2010/10/29(金) 00:49:49.77 ID:v2yhHZ.o

 理解したのだろう。ハーブの視線が、紙上からルイスの顔にさっと移動した。

「魔術文字……」
「ええ」

 人工的平和維持機構。今更繰り返すまでもなく大規模かつ強力な魔術である。以前、研究をするうえでルイスが疑問に思っていたのは、人間が用いる音声魔術ではそれだけの効力を引き出せるのか、ということだった。
 だが魔術文字を実際に目にし、その威力を経験した今なら、それが全くの不可能ではないことが分かる。
 古代人と魔術文字。おぼろげだったその二つの関係が、今はっきりとした。

「古代人について、もっと詳しく教えてください」

 ハーブは一度間を置き、静かに「分かりました」と応えた。

610: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/20(土) 00:28:12.04 ID:2ubMd0Io

◆◇◆◇◆


 夜の月は冷え冷えと薄蒼い光を地表に投げかけていた。昼の光と違って何かを温めることはない。ただ夜の底をひんやりと凍えさせている。その光を受けた木の葉は、凍りついたかのように動かなかった。
 夜の森は、だがその月によって思いのほか明るい。そのほの明るい中を、彼は歩いていた。
 外套のフードからのぞく外界は恐ろしいほどに静か。世の終わりまでずっとこのままなのではなかろうかという不安を居合わせた者に植えつける。そして植えつけられた者もまた、物言わぬ何かになり果てる。夜の一部として、この場にひっそりと凍えつく。そんな夢想を彼は抱いた。

「……」

 それでも歩く足は止めない。しかし急ぐわけでもない。夜の静寂を乱さぬように慎重に歩を進める。
 明確な目的地があるわけではなかった。あれば幾分かはよかったのではないかと思う。だがないものはないのだ。
 それに類する様々な何かは、千年前に失ったのだ。あの忌々しい災厄の具現によって、すべてが剥ぎ取られてしまった。

(女神め……)

 静かに毒づく。目の奥が――剥ぎ取られた運命が、夜の静謐さと同じ残酷さでじくじくと痛んだ。

611: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/20(土) 00:29:11.06 ID:2ubMd0Io

 しばらく歩いたのち、開けた場所に出た。切り立つ断崖。彼はそこに立ち止まって、しばらくじっと息を細くした。すでに呼吸の必要がない体なのだが、人間だった頃の習慣を忘れられるわけでもない。それがたとえ千年の隔絶をはさんでいようともだ。
 目を凝らす。別に何かが見えるわけでもない。眼下には今まで歩いてきたのと同じ、夜の沈黙が薄く立ち込めている。その中に動くものはいない。
 ――いや。

「……」

 さらに目に力を込める。森のある一部分。その木の陰で何かがうごめいた。
 それはちろちろと、まるで蛇の舌のように震え、そしてぬらりと影が揺れる。
 しかし、それはほんの一時のことだった。すぐにその何かは闇の中に溶け込んだ。

「……」

 それでも彼はしばらくは息を殺して物思いに沈んでいた。
 細く、自分の呼吸音が聞こえる。心音は聞こえない。かくわけもない汗が、背中を伝うのを感じる。
 夜の闇はまだまだ濃度を薄めない。ただただ月の光が地表を照らし、すべてを凍りつかせている。


◆◇◆◇◆

612: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/20(土) 00:30:09.36 ID:2ubMd0Io

 ぱしゃん――!

 水面の上を小石が跳ねる。それは二回ほどバウンドすると、小さな音を立てて水中に消えた。

「見た!? ねえ見た!? 今確かに跳ねたよね、ね?」

 興奮するリオに、ルイスは苦笑いして頷いて見せた。これで義務を果たしたと、手の中の分厚い書物に目を移す。ぞんざいな対応だったが、水切りの成功の方がよほどうれしかったのか、リオは文句は言わずに遊びに戻っていった。
 川から少し離れた木陰に座り、丁寧にページをめくっていく。今日も川遊びに来たのだが、ルイスは水切りには参加していなかった。

(――時間操作を深化させた常世界法則改竄による世界改変機構と、魔術の昇華可能性?)

 書物の文面を目で追う。他のものに比べるといくらか新しい文字。それは本の最終項に書かれていた。

(書き足されたものか?)

 ぱらぱらとめくっていくと、最後のページに署名がなされているのを見つけた。

≪シェロ・フィンランディ≫

(爺さん?)

 ルイスは片眉を持ち上げた。

613: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/20(土) 00:31:38.25 ID:2ubMd0Io

 しばらく考えた後、パタンとそれを閉じた。
 分厚い書物。名を世界書という。魔物の間に古くから伝わる、強大な魔術が記された禁書だ。
 とはいえ、記された魔術はすべてが魔物による産物というわけではなさそうである。中に記されていたのは古代人と呼ばれている人々が使っていた古代文字だ。少なくともその魔術のいくらかは古代人が生みだしたものだとして間違いない。

 古代人。いや、

(またの名を、≪天人≫)

 天の人。それは人間と区別した呼び方なのだろう。彼らはすくなくとも今のヒトとは異なる者たちであったようだ。
 昨夜のハーブによる説明を思い出す。彼女は語り部らしい涼やかな声でこう語った。

「前にも述べたように、古代人は緑の髪と目を持ち、かつて強大な魔力を誇った人々、そう言われています」

 古代人はその力の強さから天人、または天使と呼ばれ、現代人と区別される。らしい。少なくとも彼女らの間ではそのように伝えられていたようだ。

「彼らは何らかの理由で海を渡ってキエサルヒマ島に渡りました。この理由としては、私たちの家でもはっきりとは伝えられていません。何らかの災害によって渡らざるを得なかった、何かを探していた、はたまた単なる好奇心によるものだとも」

 ただ、と彼女は続けた。

「ほとんどお伽話ですが、理由を説明したものもあります。聞きますか?」

 ルイスが頼むと、ハーブは一度、深呼吸をしてから言葉を紡ぎ始めた。

614: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/20(土) 00:33:05.80 ID:2ubMd0Io

◆◇◆◇◆


 天人たちはかつては神の国で暮らしていた。神々は天人たちを愛し、そこに不足はなく、争いもまたなかった。
 何不自由なく暮らしていた天人だったが、それゆえに増長し、よこしまな心を育てることになった。
 そしてその増大した欲は天人たちをして神々の全知全能の業の秘儀を盗ませたのである。

 神々は怒り狂った。
 そして天人たちを打ち、大勢を殺した。
 天人たちは自分たちの過ちの大きさを知り、神々に許しを乞うたが、神々は決して許しはしなかった。

 まだ殺されていない天人たちは、追い詰められ、神の国を出る決意をした。
 神の国を捨て、海の向こうに逃げ出したのである。
 無事逃げおおせ海の向こうにたどり着いた天人たちを追って、神々は世界を駆け巡ったが、ついに見つけることは出来なかった。

 しかし、神々は天人たちに呪いをかけた。
 世界のどこにいようが届く、絶大な呪いである。
 天人たちは呪いに苦しみ、また大勢が死んでいった。


◆◇◆◇◆

615: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/20(土) 00:33:47.81 ID:2ubMd0Io

     ・
     ・
     ・


「はかどりますか?」

 穏やかな声に、ルイスははっと意識を現在に戻した。顔を上げると、茶の長髪が視界に入った。ティー家の長女、ハーブ・ティー。
 今日はアップルとともにいつもの仕事が休みらしく、ルイスたちの川遊びについてきていた。

「ええ、まあ、それなりに」

 言ってほほ笑むと、ハーブもまたほほ笑み返してきた。

「私たちのお話は役に立っていますでしょうか」
「ええ、それはもう」
「それは良かった。私たちにできることなら、なんでも言ってくださいね」

 その言葉に、ルイスはあわてて首を振った。

「いえいえ、これ以上ご迷惑をかけるわけには……お話をうかがうどころか、食事まで出していただいて」
「気にしないでください」

 ハーブはほほ笑むと、ルイスに許可を取って隣に腰を下ろした。

616: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/20(土) 00:34:28.06 ID:2ubMd0Io

「私たちこそ、末の子を危ない人たちから助けていただいて……本当に感謝しております。だから協力させていただきたいんですよ」
「こちらこそ気にしないでください。でも、ありがとうございます」

 ふと、ハーブはこちらの手元に視線を落とした。

「それ、世界書、というのですね」
「? ええ。それが何か」

 ハーブは、いえ、と言葉をはさんで先を続けた。

「似たような名前に見覚えがあったもので」
「似たような名前?」

 ええ、と彼女は頷く。

「≪世界図塔≫、というのですけれど」
「≪世界図塔≫?」

 聞き覚えのない名前だった。

617: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/20(土) 00:35:29.41 ID:2ubMd0Io

「≪牙の塔≫はご存知ですか?」
「ええ」
「森の奥に、あれとそっくりの塔が建っているんです」
「それが、≪世界図塔≫?」
「ええ」

 川の方から歓声が聞こえてきた。どうやらサンダ―の水切りカーブが炸裂したらしい。それを見て笑いながらハーブは後を続ける。

「よく探さないと見つからないのですが、壁面に古代文字が書かれています」
「≪世界図塔≫と?」
「そう」

 やや強めの風が吹いて、ハーブは髪をおさえた。風が吹き去って、彼女は言葉を続ける。

「天人が関わっている可能性がある、ということですね」
「なるほど、ありがとうございます」
「いえ」

 彼女はこちらを向いて一度笑ったが、すぐに表情を戻した。

618: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/20(土) 00:36:08.80 ID:2ubMd0Io

「それより、ルイスさんに聞きたいことがあります」
「なんですか? 僕に答えられることならなんでもどうぞ」
「ルイスさんは、それをどうするんです?」

 言って、こちらの手元を示す。手元の、世界書を。

「……どうする、とは?」

 質問の意味を知っていて、ルイスはわざと回答を避けた。だが、ハーブはさらに言葉を続けた。

「世界書には、それこそ世界を変えてしまいかねないほどの強大な力が秘められています。……勘違いしないでくださいね、別にルイスさんがそれを悪用するとか考えているわけではないんです。ただ――」

 彼女はじっ、とルイスの目を見つめた。

「ただ、あなたはそれを全世界に公開するつもりですね?」
「……」

 ルイスは答えなかった。

623: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/20(土) 14:01:56.49 ID:2ubMd0Io

 しばらくの間沈黙が落ちた。川の方で歓声が上がる。そちらの方を見ながら、ルイスはじっと黙考していた。
 そして、何度目かの水音の後、ルイスは口を開いた。

「なぜそう思われます?」
「ルイスさんは優秀な学者さんですから」

 特に茶化すような風でもなく、真面目な声でハーブが告げる。

「あなたならそうするんじゃないかと」
「……」

 ルイスは今度こそ、黙ってやり過ごそうとしたが、ハーブがそれを許してはくれなかった。

「ルイスさんは言っていましたね。世界書に記されている人工的平和維持機構。それが実際に行われていた時期があったと。私たち一般人はそんなこと知りませんでした。秘密にされていたのでしょう? ならば何か不都合なことがあって隠されていたということに他なりません」

 ハーブのしゃべるその声は、神話を吟じている時のそれとそう変わりがなかった。凛として芯がある。

「それなのに実施するのは偉い方々のただの横暴というものです。そして、あなたが手にしているのは人工的平和維持機構の存在を証明する確たる証拠。ならばルイスさんはみんなにその秘密を明かすのでしょう。そうすれば自分の身に何かしらの危険が及ぶと分かっていても」
「僕は――」

 ルイスはそこでようやく口を開いた。

624: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/20(土) 14:03:03.62 ID:2ubMd0Io

「僕はそんな大した正義感の持ち主ではありません」
「そうでしょうか」
「ええ。僕はただ証明したいだけです。自分の正しさを」

 彼女の言うことを暗に認めて、ルイスは空を見上げた。

「僕は学者ですから、真実からは逃れられません。つまり、常に自分の正しさを証明し続けなければならないということです。僕は僕の研究をみんなに認めてもらいたい。ただ、それだけです。たとえ、自分が危険にさらされようともね」
「それは、ルイスさんが学者だからでしょうか」

 不意を突く言葉に上空をさまよう視線を彼女に落とす。

「え?」

 彼女は静かな目でルイスをじっと見ていた。

「真実から逃げられない。それはきっとルイスさんが学者だから、ということではありませんよ」
「……どういうことです?」
「多分ルイスさんがルイスさんだから……」

 彼女の言葉は少しばかり不可解な空気をはらんでいた。

625: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/20(土) 14:03:49.74 ID:2ubMd0Io

「僕が、僕だから?」
「ええ」

 ハーブはそっと頷く。

「きっとルイスさんは真実に愛されたいのですね」

 そのとき、何かは分からなかった。それは断言できる。ただルイスは、胸の奥をぽん、と叩かれたような心地になった。ああ、そうなのか、と。どこかでそう思ってしまった。そういう気配があった。

(……?)

 だが、それも一瞬ののちには風にさらわれてどこかに消えていってしまっている。

「ルイスさんは恐らくさびしいのでしょう。どこかに欠落が生じてしまっている。だからそれを埋め合わせるものを探さざるを得ないのですよ」
「あなたに……」

 ぴくり、とルイスの胸の奥が震える。
 それは吐きだすと、瞬時に怒りの声に化けた。

626: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/20(土) 14:04:33.76 ID:2ubMd0Io

「あなたに何が分かる……」
「……」

 しかし、ハーブは目をそらさなかった。ルイスの出所不明の怒りを前にして、彼女は少しもひるんだところを見せなかった。ただ静かに口を開く。

「私たちは幼いころに両親を亡くしました。ミルクは彼らの顔を知りません。欠落は私たちとて同じです。心に空隙を生じてしまっているのです。私たちはそれでも見つけ出しましたが、あなたはきっとまだそうではないから。まだ暗闇を探っているところなのでしょう」
「……」

 ルイスは黙り込んだ。視線が落ち、世界書の上で跳ねる。
 何かを言うべきだと思った。何か反論すべきだと。それでも言葉は出てこなかった。

「私はルイスさんみたいな真面目な人は好きですよ」
「……なんですかいきなり」

 視線を落したまま返す。ふふ、と笑う気配だけが隣から伝わってくる。

627: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/20(土) 14:05:31.09 ID:2ubMd0Io

「だからこそ、ルイスさんには危険な目に会ってほしくないんです」
「……」
「こんな話があります」
「……?」

 唐突にハーブは話の方向を変えた。視線を彼女の方に戻す。

「これも昨日したのと同じようなお伽話なんですけどね」

 川の方から一つ二つ、小さな水音が聞こえる。

「どこかに神様の国があるそうです。そこにはもちろん神様がいて、六匹の獣と暮らしていました」

 伝承を語るときとは違って、物語を語る時の彼女の声はどこかやさしい響きがあった。

「神様と六匹の獣はお互い仲良しで、何不自由のない生活をしていました」

628: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/20(土) 14:09:21.47 ID:2ubMd0Io

「ところで神様は、とても大事な宝物を持っていました。それは持っていると世界のすべてのことが分かるきれいな宝玉でした。神様はこれには絶対に触らないように獣たちには言ってありましたが、獣たちはそれが気になって気になって仕方ありませんでした」
「……」
「ある時、神様がお出かけしなければならなくなりました。今までそんなことはなかったのですが、どうしても行かなくてはならない用事でした。神様が出発した後、動物たちは我慢できずに宝玉に触ってしまいました。すると、獣たちはとても頭がよくなり、身体は力に満ち溢れました。獣達は喜びました。帰ってきた神様は、獣たちを見て言いました。あなた方は私の言いつけを破ったな、と」
「どうして分かったんですか?」
「それは、獣たちの瞳が全員緑色になってしまっていたからです。宝玉に触るとそうなってしまうのでした。神様は大層怒り、獣たちを神の国から追い出しました。それだけではありません。神様は動物たちに呪いをかけました。動物たちは今も苦しみながら生きているそうです」

 緑色の瞳。神の国からの追放。そして呪い。聞き覚えがあった。

「ええ、その通り。この話に出てくる六匹の獣のうちの一匹は、天人を示しているのではないかと私も考えています。ですが、大事なのはそこではありません」

 ハーブはそこで一拍置いた。

629: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/20(土) 14:12:19.05 ID:2ubMd0Io

「本当に大事なのは、宝玉を手に入れても幸せにはなれない、ということです。宝玉は『真実』の比喩です。真実をその手におさめたところで神の愛を得ることはできない。だから私たちも気をつけなければなりません」
「真実に価値がないと?」
「いいえ。ただ、真実というものに盲目的になりすぎるのはよくない、ということです。私たちは本当に大事なものを、自分の目で見極めないといけないということなんです」
「本当に、大事なもの……」
「ええ」

 ハーブは頷いて、ようやくルイスから視線を外した。そして立ち上がる。

「なんでもいいんです、なんでも。心から大事と思えるものを探してください。それから、人工的平和維持機構の秘密公開はもっとよく考えること。じゃないときっと後悔します」
「後悔なんて」
「気を付けてください。人生において落とし穴は数限りなくあります。そしてそれは現在だけのものも限らない。過去から開く大穴が、あなたを呑み込むかもしれない。気を付けてください」

 そう言って彼女は川の方に歩きだす。ルイスは声を上げた。

「待ってください。では、両親を失ったあなた方を救ったのは一体何なのですか?」

 ハーブは立ち止まって肩越しに振り返った。迷いのない視線がルイスを包む。

「難しいものではありません。私たちを救ったのは、人の愛ですよ」

 そういい残して、彼女は歩みを再開した。ルイスはじっと黙って世界書に視線を落とした。

(……)

631: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/20(土) 14:13:44.72 ID:2ubMd0Io

 と、その時だった。

「あれはなんだ?」

 サンダ―の訝しげな声がした。

「どうしたの、ミサンガ?」
「あそこに何か見えるな」

 言って指差した指先は、川の上流の方を向いていた。その先には――

「なに、あれ……?」

 川岸に薄汚れた何かがあった。ちょうど人間がうずくまったような大きさと形で、服のようにも見えて、

(いや……)

 ルイスはあわてて立ち上がった。

「人だ!」

 アップルの声。全員の間に緊張に似たものが走った。

632: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/20(土) 14:17:20.85 ID:2ubMd0Io

 駆け寄った先に倒れていたのは、一人の男だった。粗末な服が川を流れてきたせいだろう、べったりと濡れそぼち、無残にあちこち傷み汚れている。
 同じくぐっしょりと濡れた金の短髪、彫りの深い顔立ち。しかしその精悍な顔も今は憔悴し、青ざめている。
 ルイスはその口元に耳を寄せた。呼吸はかろうじて感じ取れた。

「生きてる」

 簡単に調べたが、特に大きな傷はないようだった。止血の必要はなさそうだ。

「じゃあ、早く手当てしないと」

 雰囲気の質を普段のそれから戦闘時のそれに変えて、鋭い声音でリオは言う。頷き、男を背負う態勢に入った。
 ティー家に運ぶ間、背中から染み透ってくる水の感触に辟易としながら、ルイスは疑問を禁じえなかった。

(いったい、この人はどこから流れてきたって言うんだ?)

 川の上流は、森の奥へと続いている。閉ざされた深緑の覆いの奥。そこから流されてきたということか。

(まさか……)

633: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/20(土) 14:17:58.23 ID:2ubMd0Io

「武装盗賊でしょうね」

 家に着き、男を寝かせ、看病がひと段落したところでハーブが言った。
 男の世話は二階でアップルとミルクに任せ、ルイスたち五人は一階のテーブルについていた。

「だろうね」

 とロゼイユも頷く。

「彼は森の奥の方から流れてきた。服も汚れる前から粗末なものだったように見えるし、武装はしていないけれど、体つきが妙に屈強だ。それに……」
「それに?」

 リオが問うと、ロゼイユはにやりと笑って見せた。

「女の勘が、彼が犯罪者だって言ってる」
(女の勘ね……)

 ルイスはげんなりと胸中でつぶやく。

634: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/20(土) 14:19:27.68 ID:2ubMd0Io

「いや、他の可能性も否定できない」

 サンダ―がゆったりと腕を組んで、言う。

「……ってどういうことですか?」
「うむ」

 無駄に間をとってから、サンダ―は続けた。

「実はあれは人間ではないのだ」
「いやいいです」

 頭に手を当てて、ルイスがとどめる。が、サンダ―は無理やり言葉をつなげた。

「実はあれは太古からこの森に住むジャングルヒトモドキという種族で、群れでのリーダー争いに敗れて川に突き落とされたのだ」
「もういいですって」

 無理やり彼を遮って、ルイスは口を開いた。

635: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/20(土) 14:20:16.90 ID:2ubMd0Io

「彼が武装盗賊だという推測は、僕もそう思います。あんなところに倒れているなんて不自然です」

 言葉を切ってハーブを見やる。

「じゃあ、彼を自警団に突き出しますか?」
「流れで言えばそういうことになりますね。ですが」
「何かまずいことでもあるのかい?」

 ハーブはちらりとロゼイユを見て続けた。

「あんなに弱っている人を自警団に引き渡すのは気が進みません」
「とは言っても……」
「ええ、住民の義務です。でも弱っている人をあちこち動かしまわるのは酷と思いませんか? せめて明日まで待ってから……」
「それでも医者には見せた方がいいね」

 ロゼイユの声にルイスは頷いた。

「ああ、そうだな」

639: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/20(土) 23:37:25.71 ID:2ubMd0Io

「駄目!」

 部屋の前でアップルが両腕を広げて立ちはだかった。ミルクはその隣でぱちくりと見上げている。

「アップル?」

 戸惑うハーブに、アップルは続けた。

「姉さん、私聞こえたんだから。あの人を自警団に引き渡すんでしょ」
「そうじゃないわ、お医者様にお見せするって言っているのよ」
「同じことだよ!」

 アップルの目が険しくつり上がる。

「医者に見せれば、あの人が何なのか絶対怪しまれるじゃん!」
「それは……」
「だったらそれは自警団に引き渡すのと同じくらい酷いよ!」

 アップルの怒声は、譲るところなど一つもないと暗に告げていた。

640: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/20(土) 23:38:20.17 ID:2ubMd0Io

「でもねアップル、お医者様にお見せしなければ大変なことになるかも知れないのよ?」
「っ……」

 それはアップルも理解していただろう。しかし、言葉に詰まった彼女はそれでも折れる気配はなかった。

「でも、それでも、駄目だよ……!」
「そんなこと言っても……」
「ねえ」

 こわばった空気の中、口を開いたのはミルクだった。

「よく分からないけど、あの人捕まっちゃうの……?」
「それは……」
「あたし、あの人が嫌な思いするの、ヤだな……」

 そう言って、泣きそうな顔になる。

「二体一」

 ぽつりと、アップルがつぶやいた。

641: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/20(土) 23:39:07.76 ID:2ubMd0Io

「? なんです?」
「うちの決まりごとなんです」

 ルイスに振り向いて、眉をしかめながらハーブが言う。

「大事なことは、三人の多数決で決めようって……」

 彼女は困った顔のままアップルに視線を戻し、しばらく考え込んだようだった。

「姉さん、お願い……」

 数秒、間をおいて、

「……ああ、もう、分かったわよ」

 ハーブの方が仕方ないといった声でついに折れた。

「ホントっ?」

 アップルの表情がぱっと明るくなった。

「でも、あの人の容体が少しでも悪くなるようだったらすぐにお医者様をお呼びするわ。いいわね?」
「うん、わかった!」
「それと、あの人の世話はあなたが責任もってすること」
「もちろん!」

642: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/20(土) 23:40:50.50 ID:2ubMd0Io

「ルイスさんたちも、それでよろしいですか?」

 ルイスとしては、本当にあの男のことを思うならば無理にでも医者に診せるべきだとも思ったが、

「まあ……かまわないんじゃないでしょうか」
「でも、容体が悪化しないか細心の注意を払わなければならないね」
「分かってるよ、ロゼ」

 アップルが頷く。さっきとは打って変わってうれしそうだ。

「私は心配ないと思うぞ、何しろジャングルヒトモドキだしな」
「そ、そう」

 サンダ―とリオも何か言っていたが、特に異論はないようだった。

「それじゃあ、ちょっと早いけど、夕食にしましょうか」

643: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/20(土) 23:42:28.89 ID:2ubMd0Io

     ・
     ・
     ・


 結果から言うと。男の容体は悪化しなかった。二日後の現在も特に変わったこともなく、しかしいまだ昏睡したままベッドに寝かされている。いまだ目を覚まさない。一度も。
 奇妙なことに思えた。少しも食事をとっていないものの、男がさらに衰弱する様子はなかった。それどころか顔色は二日前に比べるといくらか回復していたし、素人目から見ても安定しているように感じられた。
 ルイスたちは首をかしげたが、アップルの献身的な看病が功をそうしているとして特に騒いだりといったことはしなかった。


     ・
     ・
     ・

644: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/20(土) 23:44:00.77 ID:2ubMd0Io

「……」

 雨が屋根を叩く音がしていた。しっかりした家だが、それはずいぶんはっきりと聞こえていた。雨の音は人を物思いに沈ませる。しとしとと深みに潜る思考。その中で、ルイスはテーブルに頬杖をつきながら母のことを思い出していた。

 雨に濡れた窓のガラス。そこに母の顔が映る。もちろんルイスにしか見えないそれ。
 細面の彼女の視線は、いつもずっと遠くを見ていた。ルイスとは交わらない視線。その先にあるものをルイスは知っている。彼女が待ち焦がれるその人を。

(……母さん)

「お茶、入りましたよ」

 台所からハーブが姿を現す。ルイスの前にティーカップを置くと、向かいの席に腰かけた。

「ありがとうございます」
「ふふ、どういたしまして。……何か考え事ですか?」
「ええ、まあ」

645: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/20(土) 23:45:22.34 ID:2ubMd0Io

「何を考えてました?」

 ルイスはちらりと階段の方を見上げた。時刻は午前九時過ぎ。二階ではアップルがいまだに彼につきっきりで看病している。少しくらい休めばいいと思うのだが、彼女はひどく熱心だった。
 リオとロゼイユの方はというと、ミルクの部屋で彼女の遊び相手になってやっている。サンダ―はまだ家に来ていなかった。

「いえ、別に。取りとめもないことを」
「……もしかしてホームシックとか」

 彼女には珍しく、いたずらっぽく笑って言ってきた。
 当たらずとも遠からずといったところか。ルイスもつられて笑った。

「そう言われれば家が恋しい気もします」
「どちらのご出身?」
「生まれは最接近領ですが、ここに来る直前まではタフレムにいました」
「そういえばタフレム大の助教授なんですよね。凄いです」

646: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/20(土) 23:46:19.78 ID:2ubMd0Io

 それほどでも。笑ってルイスは手をひらひらさせた。

「何歳ぐらいのときにタフレムに?」
「十二歳の時ですね」
「そんなに若い……いや幼い時に? 両親と離れて寂しくはありませんでしたか?」

 ぴくり、と身体がこわばるのを感じた。

「……いや、その時はまだロゼイユの養父のところにお世話になってましたから」

 すぐに答えたが、不自然に一拍空いたことには気付かれただろう。案の定、ハーブは訝しげに眉を寄せていた。

「……そうですか?」
「それより」

 ルイスは心もち強引に話の方向を変えた。

「昨日、一昨日は忙しくて話をうかがうことができませんでした。今日は何か話していただけませんか?」
「あ、ええ、かまいませんよ。今日は――そうですね、魔術の話でもしましょうか」

 すっ、と。息を吸って、ハーブは言葉を続けた。

652: アナウンス 2010/11/21(日) 08:06:35.55 ID:/fJl5Nso

「ルイスさんは魔術の起源についてどう思いますか?」
「起源ですか……そうですね、まず、僕は魔術は世界の物理法則――個人的に常世界法則と呼んでいますが――に干渉しそれを利用する技術だと考えています。魔物がそれを何らかの手段によって体得し、それが伝播・遺伝していったのではないかと」
「なるほど。では、私は語り部の視点から魔術の起源について考察してみたいと思います。これは私が独自に考えたことで、伝承の類ではありません。そのあたりを理解して聞いてください」

 ルイスは同意の印として頷いて見せた。ハーブは続ける。

「伝承されている神話においては、亜人が悪魔と契約して魔の力を得たのだといわれています。もしかしたらご存知かもしれませんね。人間にも魔の汚染が及んだというあれです」
「ええ、知ってます。でも」
「そうですね、所詮は神話です。ですが、神話にはもととなった実話があるものです。語り部にとって神話というのは、真実を含んだ大事な訓話なのですよ」

 にこり、とハーブはほほ笑んだ。そして人差し指をつい、と立てる。

653: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/21(日) 08:09:41.34 ID:/fJl5Nso

「ルイスさんの、魔術というものは世界を決定する法則に干渉し引き起こされるもの、という見方には私も賛成です。しかし、それが伝播・遺伝によるもの、という考えには少しばかり疑問を感じます。初めて魔術を得た者が――亜人か人かは分かりませんが――どれほどそれを理解したかは知りません。ですが、簡単に教え伝えられるものではなかったのではないかと思います」

 釘の打ち方というものがあるでしょう? とハーブは言った。

「村の大工さんに教わったことがあるんですが、私は上手く打つコツがついにつかめませんでした。技術というのはそういうものです。時間をかけて伝え、広まるもので、そう簡単に全員が全員使えるようにはなりません。なのに、亜人は多くの者がそれを行使することができる」

 次に、とハーブは二本目の指を立てた。

「遺伝、という可能性ですが、これも私は懐疑的です。確かに人間においては魔術士の子は魔術の才能を受け継ぐことが多いようです。しかし例外もいますし、後天的に得た能力というのは遺伝しないというのが普通です。それに、遺伝によるものでは伝播のスピードがあまりに遅すぎます」
「伝播も遺伝も、広まるのに十分な時間が経過したのでは?」
「それもあり得ますね」

654: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/21(日) 08:10:22.61 ID:/fJl5Nso

 そこでハーブは三本目の指を立てて見せた。

「ですが、私が提示するのは別の可能性です」
「というと?」
「≪始祖の楔≫、という考え方です」

 ≪始祖の楔≫? ルイスはその単語を口の中で転がした。

「なんです、それは?」

 訊ねると、ハーブは手を下ろした。

「一枚のぴんと張った布を考えてください。それを指で押します。するとどうなりますか?」
「どうって……」

 思い浮かべて、しばし黙考する。

「押された部分が山のようになりますよね?」
「その通り。指で押した部分以外も引っ張られてついてきます」

 そうですね、と同意する。まだ彼女の言いたいことが見えてこない。

655: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/21(日) 08:11:40.38 ID:/fJl5Nso

「指で押した部分を楔、とします。そして打ちこむ先は世界を決定する法則。これで分かりませんか?」
「つまり……」

 手を顎に当てて、ルイスはしばし間を空けた。

「始祖と呼ばれるような者がいて、その者が常世界法則に接続され、周りの者――この場合は同種族ということになるんでしょうか、それにも影響を与えたと?」
「凄い……その通りです」

 心底感心した顔をルイスに向け、ハーブが頷く。
 ルイスはカップを持ち上げ、一口喉に通した。

「でも、そうなると人間と魔物両方に魔術が発生した理由が説明できませんよ?」
「確かにその通りです。ではもうひとつ要素を足してみましょう」
「……?」
「天人です」

656: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/21(日) 08:12:33.35 ID:/fJl5Nso

 天人。古代人の別名。強力な魔術を行使した人々。

「そして、魔術文字を用いる者たち」

 雨の音がしている。さらさらと水が流れる音も。

「伝承では、天人は神々から全知全能の業の秘儀を盗んだとされています。また、別の伝承では、神の宝玉に触れた獣の一匹としても推測できます」
「つまり、天人も同じようにして魔術を手に入れた?」

 カップをテーブルに戻す。ことりと小さな音を立てる。

「分かりません。でも、可能性はゼロではありません」
「でも彼らは……」
「魔術文字という魔術体系ですね。音声による魔術も使えたのかもしれませんが」
(と、するなら……)

 もし仮に≪始祖の楔≫という考えが正しかったと仮定して、天人と魔物・人間とは別のタイプの魔術を得たことになる。それは始祖となる者が別であったためではないのか。

657: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/21(日) 08:13:08.19 ID:/fJl5Nso

(いや待て、まさか……)
「ルイスさんも気づきましたか?」
「いや、でもそんな」
「そう、亜人と人間は同じグループに属することになります」
「それはつまり……」
「亜人と人間は、大本を同じくしている。こう考えることもできますね」
「っ……」

 ルイスは愕然として背もたれに寄りかかった。何やら得体の知れない寒気が背中をよじ登ってくるのを感じる。だが不快ではない。それは昂揚と同じだった。
 自分が、一つ真実に近いところにいるのを感じてルイスは興奮を禁じえなかったのだ。

「魔物と人間の起源が、同じ?」
「ええ。私の仮定が正しければ、という条件付きですが」

 真剣な顔つきで、ハーブは言う。ルイスは頷くことも忘れてその発見をかみしめた。

658: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/21(日) 08:14:23.32 ID:/fJl5Nso

「そしてまた、天人が私たちとは別の種族だという考え方もできます。もっとも、これは天人と魔術文字の関係がルイスさんによって明確にされたことによってやっと分かったことですが」
「……」

 雨音が、一定の大きさで絶えることなく空気にしみこんでいる。沈黙はそれによって縁取られる。雨音が音の空隙を際立たせる。
 少し考えてルイスは口を開いた。

「……では、魔術の根源をたどるにはその始祖を探せばいい、ということですね」
「ええ。くどいようですが、私の仮定が正鵠を射ているならば、です」
(始祖の魔術士……)

 ふと雨音が弱まった。窓から一時的なものだろうが日の光が差し込む。そちらを見ながらルイスはぬるくなった紅茶のカップに再び手を伸ばした。

 
662: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/21(日) 14:41:33.12 ID:/fJl5Nso

     ・
     ・
     ・

 それから数日が過ぎた。例の男はいまだ目を覚まさない。それでもアップルは献身的な看病をやめなかった。ルイスが部屋に顔を出すと、ベッドのそばの椅子でうたたねしていることもあった。
 男の容体は安定している。小さな怪我も治り、顔色も悪くなかったが、ただそれでも目は覚まさなかった。

 それを除けば、日々はつつがなく過ぎていった。昼は仕事で出かけるティー姉妹の留守を預かり、男の看病をし、ミルクの遊び相手をする。夜は集まってハーブの話す神話や伝承を聞く。毎日は平穏そのものだった。
 その日もいつも通り一日を終え、これから就寝しようかというところだった。

「ルゥ君、ちょっといいかな?」

 テントの入り口を空けると、夜の闇の中にリオが立っていた。

「? どうしたの姉さん」
「うん、ちょっとね。散歩に付き合ってほしいんだけど」
「こんな時間に?」
「あー、うん、もしよかったらだけど」

 ルイスは少し考え、了承した。最近は特に疲れるようなこともやっておらず、眠いわけではなかったのだ。

663: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/21(日) 14:42:16.19 ID:/fJl5Nso

 闇が落ちた森の中を歩きながら、たわいもないことを話した。とはいっても主にしゃべっているのはリオの方で、ルイスは相槌を打つ程度だったが。
 ミルクがどうした、ロゼイユがこう言った。そんな話を聞いているうちに、ややぼーっとしていた頭が徐々に冴えてきた。

「ルゥ君ってさ、ロゼちゃんには親しい話し方するよね」
「うん?」
「だから、ロゼちゃんには話し方が違うなあって」
「そうかな?」
「そうだよ」

 心もち唇を突き出すようにしながらリオは言う。

「ていうか、まだロゼ“ちゃん”なんだ」
「その方がしっくりくるんだもん」

 まあそれは分からないでもなかった。

664: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/21(日) 14:43:14.19 ID:/fJl5Nso

「……そうだなあ、僕自身は意識してないんだけど、確かにロゼは気楽に話せるかな。長い付き合いだったし」
「長い付き合い?」

 リオがこちらをじとっ、と見る。

「あたしたちだって長い付き合いじゃん」
「ああ、まあ、そうなんだけどね。それぞれ話しやすい話し方ってのがあるもんさ」
「ふーん」

 リオは少しばかり不満そうだったが、ルイスはあえて気付かないふりをした。
 今度はルイスの方が、口を開く。

「それよりさ」
「ん?」
「姉さん、僕に何か用事があるんじゃないの?」
「……そう思う?」

 ルイスは苦笑いして続ける。

「だって姉さん、僕を散歩に誘うのって何か落ち着かない時がほとんどじゃない」

665: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/21(日) 14:44:33.63 ID:/fJl5Nso

 んー、とリオはごまかすように言って、しかしすぐに観念した。

「用事ってほどの用事じゃないんだけどね」

 足元を蹴飛ばすようにしてから言葉をついだ。

「あの人覚えてる? 遺跡で石にされちゃった人」

 唐突に叫び声がルイスの胸中で蘇る。悲痛なその声は、今も夢で聞くことがある。

「……うん、覚えてる」
「……あたし、あの人を助けられなかった」

 リオがそんな力のない声を出すことは珍しかった。彼女は頭はよくないが、馬鹿ではないのだ。ずっと責任を感じていたのだろう。
 気にすることはない。そう言おうとして、しかし声が出てこなかった。何も言うことができないうちに、彼女は言葉を続けた。

「あの人、すっごく怖がってた。そしてあたしには助けてあげられるだけの力があった。そのはずだった……のに」
「……」

666: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/21(日) 14:45:27.93 ID:/fJl5Nso

 リオは、うつむいて歩をゆるめた。ルイスもそれに合わせて速度を落とす。相変わらず適切な言葉は出てこなかったが、それでも言わなければならなかった。

「姉さんは、悪くない」
「……」
「悪くないよ」

 こんなときには働いてくれない頭脳を、ルイスは心底憎んだ。それでもリオは弱弱しく笑ってくれた。

「ありがとう。……ごめん、最近になってあの人のことよく思い出すんだ。何でだろ」
「うん……」

 リオはこちらから視線を外すと、上を見上げた。つられてルイスも見上げる。木々に遮られ夜空は見えないが、暗く重い天蓋の隙間から、なんとか星は見えそうな気がした。
 力及ばず、または力があっても何かが足りず大事なことを逃してしまうことはままある。それが取り返しのつかないものであればどうしようもない。失ったものは返ってこない。だから落とした後の手は、固く握りしめるしかないのだ。
 リオの足が止まった。ルイスもそれに従って歩みを止める。

667: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/21(日) 14:46:00.85 ID:/fJl5Nso

「たしか」

 ぽつりとリオが言う。

「たしか、ニューサイトにあの人のお墓ができたんだよね」
「らしいね」
「そっか」

 リオは上向いた顔を元に戻すと、今度は俯き気味に歩きだした。ルイスもそれに続く。

「行こうか」
「え?」

 ルイスの声にリオがこちらを向く。

「行こう、あの人の、いや、あの人たちのお墓参り」

 さわり。木の葉が小さく音を立てる。かすかな風を頬に感じながら、ルイスは続けた。

668: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/21(日) 14:47:09.93 ID:/fJl5Nso

「もう、ハーブさんからの話は大体聞き終わった。今後の僕の方針も定まった。だから明日にでもニューサイトに戻ってお墓参りに行こうよ。ね?」
「……うん、そだね」

 こぼれおちた水は、もう二度とコップには戻らない。だから、やれることをやるしかない。たとえそれが自己満足の類だったとしてもだ。
 それからしばらく無言の散歩が続いた。数十分ほど歩いて、適当なところで折り返した。
 帰りの道で、ルイスは思うところがあって口を開いた。

「僕も、自分にできることをしないと」

 リオが顔に疑問符を浮かべてこちらを見る。ルイスは重い唇を持ち上げる。

「いや……姉さんは自分を責めてるけど、僕にだって責任はある。僕は姉さんほど強くはないけど、それでもできることがあったはずなんだ。だから僕も同罪」
「……」
「だから、僕もあの人に何かしてあげなくちゃいけない。たとえ自己満足だとしてもね」

 リオの栗色のポニーテールが揺れるのを見ながら、小さく息をつく。

「僕は、あの人が死ななきゃいけなかった理由をはっきりさせる」
「どういうこと?」

669: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/21(日) 14:47:47.08 ID:/fJl5Nso

「あの殺人人形が言っていたことは覚えてる? あいつは人間を根こそぎ殺すよう誰かに命令されていたんだ。だから、僕はあいつの裏にいる奴を引きずり出してやる」
「真実を、つきとめるってこと?」
「うん。僕にできる唯一の罪滅ぼしだ」

 リオは黙ってルイスの顔を見つめて歩いていたが、「うん、そっか」というと、顔を前に戻した。
 再び沈黙が落ちたが、今度はそう長くは続かなかった。

「ルゥ君はさ」
「ん?」
「ルゥ君は、真実に対していつだって真剣だよね。それ以外はまるで何も見えないみたい」
「……」
「あたし、たまに心配になるな。ルゥ君はそれで危ない目にあっちゃうんじゃないかって」

 『気を付けてください』
 ハーブの言葉がよみがえる。『落とし穴はあちこちに』と。

「ルゥ君、無茶だけはしないでね」

670: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/21(日) 14:48:44.41 ID:/fJl5Nso

 ルイスは真実からは逃げられない。そうやって生きてきたし、これからだってそう生きていく。そう決めていた。
 だが、それでも周りの人々を心配させるほどに猪突猛進するわけではない。
 だから、大丈夫だ、そう言おうとして――

「しっ――!」

 リオが唐突に人差し指を口に当てる。声を上げるな、のジェスチャー。

「え?」

 折り返してだいぶ歩いたため、ティー姉妹の家の背面が見えてきていた。そのそばの広場にルイスの入っていたテントが、半ば森の木々に突っ込むように立ててある。
 リオはルイスにここにいるように手振りで合図し、無音の足取りで家の壁に駆け寄った。そして表の方をさっと覗く。
 待たされたルイスは何が何だか分からなかった。だが、なにやらただ事でない気配を感じる。
 その時声が聞こえた。いや――ただの声ではなく、悲鳴。
 リオの手招きに従ってルイスも壁による。

「こっそり覗いてね」

 言われて覗き込んだその先には――

676: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/22(月) 19:00:00.23 ID:7crQRh6o

「放してよ!」

 月明かりの下で、屈強な男に腕を掴まれたアップルが抵抗しながら叫んでいた。いるのは彼女だけではない。他にもハーブとミルクが寝巻のまま、十人ほどの男たちに囲まれている。
 男たちはほとんどが擦り切れたりした粗末な服を身につけ、思い思いに武装しているようだった。

「武装盗賊……?」
「たぶんね」

 小声でリオが言う。

「一体なんでこんなところまで出てきてるのかは分かんないけど……」

 ルイスたちが散歩している間に武装盗賊がティー家に押し入った、ということだろうか。
 アップルの腕をつかんだ男が怒声を上げた。

「おい、大人しくしねえか! ぶんなぐるぞ!」

 だが、別の声がそれをとどめる。

「やめておけ」
(あ……!)

 そう言った男の顔には見覚えがあった。

677: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/22(月) 19:00:38.60 ID:7crQRh6o

 だいぶ後退した髪の薄い額。小太りの体型。年のころ五十ほど。顔にはいかにも傲岸そうな表情が浮かんでいる。

(村長!)
「なんかヤなやつだとは思ってたけど、まさか武装盗賊とつながってたの……!?」

 ルイスたちの驚きをよそに、屈強な男が反駁する。

「でもよ……」
「口答えするな。俺はこいつらに聞きたいことがあるからな」
「聞きたいこと、ですか……?」

 ハーブがこわばった表情で訊ねる。

「ああ、簡単な質問だよ」

 村長がにんまりと笑うのがここからでもよく見えた。

「……分かりました。ですがその前にアップルを放してやってください。痛がってるでしょう」
「おい」

 村長が言うと、アップルをつかんでいた男は乱暴に彼女をハーブの方に突き放した。アップルはよろめいてハーブに縋りつき、ハーブは彼女を抱き寄せた。。

678: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/22(月) 19:01:40.98 ID:7crQRh6o

「……それで、質問というのは?」

 ハーブは気丈にふるまっているようだったが、月の明かりの下でも彼女の顔が青ざめているのはよく分かった。

「あの役人の居場所だ」
「役人?」
「お前のところに毎日来ていただろうが。無駄に背の高い木偶の坊だ」

 いらいらとした口調で村長が言う。

「……サンダ―さんのことですか?」
「そうだそいつだ。あの野郎、俺から有り金すべて持っていきやがった」

 唾を吐く。

「返すもん返してもらって礼をしなけりゃならんからな。さあ言え、あいつはどこにいる」
「し、知りません。今夜ももあなたのところに泊っていたのではないのですか?」
「今日は来ていないから聞いてるんだ!」

679: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/22(月) 19:03:02.71 ID:7crQRh6o

「あいつら、ミサンガさんを探してるのか」
「なんか動機がちっちゃいね」

 リオが冷静に言うが、ハーブたちが危険な目にあってる以上それどころではなかった。

「どうする姉さん」
「下手に動くとまずいから、もうちょっと様子を見ないと――」

 さすがにリオはこんな状況には動じないようだった。しかし。

「早く言え!」
「知りませんと言っているでしょう!」

 村長が舌打ちする。明らかに苛立って、村長は傍らの武装盗賊の一人に命令した。。

「やれ」
「へい」

 その一人がハーブの前に立つ。ただならぬ気配にハーブが身体をこわばらせるのが分かった。

(まずい……)

 とんとん、とリオがルイスの肩をたたいた。
 振り向くと、彼女はにこりとほほ笑んだ。

「頼んだよ、ルゥ君」

 何を。そう聞く前にリオは地面を蹴り、勢いよく飛び出していった。

680: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/22(月) 19:05:32.98 ID:7crQRh6o

◆◇◆◇◆


 リオは躊躇しなかった。足音をたてないで出せる最高速度で集団の背後に迫る。

(十一人……)

 全員ハーブと、その眼前に立つ男に注目している。好機だった。
 ハーブに向かって男が拳を振り上げるのが見えた。ハーブは身を縮こまらせただろうか。そちらは見えなかった。
 リオは最も手前にいた男の後頭部に拳を叩きつけた。男がよろめいて前に出る。別の男にぶつかって、二人とも倒れ込んだ。

 全員の注意がそちらに移る。あっけにとられた視線。リオはさらにその死角に回り込んだ。
 別の男の背骨に拳を埋める。声もなく崩れる男の体を別の男に突き飛ばす。ぶつかられた方は、倒れはしなかったがよろめいた。リオは瞬時に肉薄し、隙間を縫って無傷の方の男の急所を殴りつけた。

 武装盗賊たちは、ようやく自分たちが攻撃を受けていることに気づいたらしい。罵声が上がる。だが、全員がリオに気付いたわけではなかった。見当違いの方に叫んでいる二人の男の脇腹にそれぞれ一撃を入れて昏倒させる。

681: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/22(月) 19:06:13.14 ID:7crQRh6o

 こちらを認めた一人がナイフを構えて飛び出してきた。が、リオはさがらず前に出た。
 胴を薙いでくるその手首をつかみ、関節を握りつぶす。悲鳴を上げてのけぞったその顎を殴り飛ばした。これで六人。だがそこまでだった。

「止まれ!」

 リオはその声の方をちらりと見、顔をしかめて足を止めた。ゆっくりと両手を肩の高さまで上げる。
 小さな悲鳴が上がる。武装盗賊の一人がミルクを抱え上げ、その喉元に刃物を突き付けていた。

「よりによって一番小さい子を人質に取ることはないんじゃない、村長さん」
「これはこれはリオさん、こんばんは」

 さすがに動揺は隠せない様子だが、それでも鷹揚に村長が言う。

「どうも見当たらないと思ったら、こんなところにいらっしゃいましたか」

 下卑た笑いを浮かべて彼はリオに近づいてきた。

682: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/22(月) 19:07:46.71 ID:7crQRh6o

「武装盗賊とお友達なんて、なかなか村長さんって交友の幅が広いね」
「はは、おほめにあずかり光栄です」

 リオの目の前で立ち止まると、村長は無遠慮にじろじろと彼女を眺めた。熱っぽい視線で一通り眺めた後口を開いた。

「リオさんはあの役人の居場所をご存じありませんかな?」
「さあね」
「そうですか」

 さほど追及するでもなく村長は口を閉じると、手をリオの太腿に触れさせた。リオは顔をしかめる。

「ちょっと、何するのさ」
「いえ、武器でも持ってられると怖いものでこうやって」

 そのままゆっくりと太腿をなでまわし始めた。

「身体検査をね」

 村長が好色な笑みを浮かべる。

683: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/22(月) 19:08:56.16 ID:7crQRh6o

(……)

 リオはぐっと奥歯をかみしめた。
 武装盗賊の一人が声を上げる。

「おい、ずるいぜ村長」
「何を言っている、俺はただの身体検査をだな……」

 すすす、と手がジーパンの尻に移動する。やわやわと揉んでくる感触に、リオは眉をしかめた。

「お前たちは黙って見てろ。後でいい思いをさせてやるから」
「本当だな、約束だぞ」

 下半身をなでまわす手が、ゆっくりと腰を通り過ぎ、脇腹を撫で上げる。手はただ撫で上げるだけでなく、Tシャツを一緒にずり上げる。リオの滑らかな肌が裾からのぞいた。
 リオがかすかに身をよじり、村長はごくりと唾を飲む。

「初めてお会いしたときからこうしたいと思ってました」

 村長の手がするりと裾から滑り込んだ。じかに肌に触れてくる手の感触。

「……変態」
「いえいえそれほどでも」

 手がさらに肌を撫で上げる。つつつと上り、いったん止まる。そして、ゆっくりとその丸い膨らみを――

690: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/23(火) 17:22:31.79 ID:xMiXqPIo

「我は放つ光の白刃!」

 にやけた村長の顔の前で小爆発が生じる。全く威力はないものの、驚かし後退させるだけの効果はあった。
 振り向くと、ルイスが家のわきに立ち、こちらに右手を掲げていた。

「そこまでだ!」

 武装盗賊たちが驚きの声を上げた。

「おい、今……」
「魔術……」

 ルイスはこちらに数歩近づくと、さらに叫んだ。

「そうだ、僕は魔術士だ。今すぐ四人を解放しろ。さもないと殺すぞ」
「学者か! 馬鹿め、こちらには人質がいるんだぞ!」

 村長が邪魔された怒りか、怒声を上げる。
 それを無視してルイスは叫んだ。

「我は呼ぶ破裂の姉妹!」

 とたん、武装盗賊と村長が一斉に目を押さえる。ルイスの魔術によって生じた衝撃波によるものだ。

「……今のはほんの挨拶だ。次は本気で撃つぞ。どうなるかわかるよな?」
「……」

 村長たちはしばらく黙りこんだ。しかし、ティー姉妹を放すことはしない。じりじりとした間が空いた。

(通じたかな、ルゥ君のハッタリ……)

 リオは固唾をのんで次の動きを見守った。

「……」

691: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/23(火) 17:23:23.71 ID:xMiXqPIo

◆◇◆◇◆


 冷や汗がぐっしょりとルイスの背中を濡らしていた。足が震えそうになるのを必死で押しとどめる。悟られてはいまいか、それだけが気がかりだった。心臓が大きく鼓動する。

(次どーしよ)

 リオが言っていた頼む、とはこういうことだろう。リオ一人ではどうしようもなかったから、ルイスに後のことは任せたのだ。ただ、これが精一杯で手詰まりなのは確かだった。
 武装盗賊と村長は何か考えているようだったが、早く決めてもらわなければ困る。時間がたてばたつほどハッタリの効果が薄くなる。

 しばらくしてようやく村長は口を開いた。

「お――」
「お前たちは何をやってるんだ?」
「へ?」

 武装盗賊たちの後方、村へと続く道の上に、男が立っていた。背の高いシルエットが月の光に照らされて、どこか不気味な雰囲気を醸し出している。

692: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/23(火) 17:24:36.62 ID:xMiXqPIo

「ミサンガ!」
「ああ」

 リオの声に頷いてサンダ―は無造作にこちらに近寄ってきた。

「貴様、今までどこに隠れていた!?」

 そして村長の声に立ち止まる。彼から一番近い武装盗賊との間にちょうど十メートルほどの距離があいている。

「ぬ、村長。よい月夜だな」
「俺の質問に答えろ!」
「そんなによそ様のプライベートが気になるか」

 ふう、とわざとらしくため息をつく。

「今日はルヒタニ様との交信日だからな、それに適した場所を探していた」
「ルヒタニ……? ええい、相変わらずわけのわからないことを!」
「リンパ腺で交信するのだ」
「もういいわ!」

693: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/23(火) 17:25:30.68 ID:xMiXqPIo

 心もち残念そうな空気を発して口を閉じたサンダ―に向かって、村長は続けた。

「やっと見つけたぞ。俺から奪った金、まだ持ってるんだろうな!?」
「ふむ、これか」

 先ほどから手にぶら提げた革袋をサンダ―は持ち上げて見せた。

「おい!」
「おうよ」

 村長の声に、武装盗賊の一人がサンダ―にゆっくりと近づく。サンダ―は特に身構えることはしなかった。ただ、武装盗賊との距離があと五歩ほどに近づいたところで急に動きを見せた。

「ふん!」
「あ」

 声とともに革袋を放り投げる。
 両手一杯ほどの革袋は、弧を描いて武装盗賊たちの中に飛んでいく。口を結ぶ紐が切れていたらしく中身を盛大にぶちまけながら。かすかな金属音を立てて硬貨があたりに散らばる。全員の目が地面に落ちた。それは明確な隙だった。

694: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/23(火) 17:27:13.04 ID:xMiXqPIo

「子犬さんのキャンプファイヤー!」

 その好機を狙って声が響いた。ティー家の二階の窓から飛来した抑えられた火炎は、ミルクを拘束した武装盗賊の顔に直撃した。悲鳴を上げる男の腕からミルクが落ちる。その時にはリオもまた動いていた。

「は!」

 顔が炎上した男を張り倒す。さらに転んだ男のみぞおちを踏みつけ意識を奪う。

「この!」

 気づいて二人の男がリオに襲いかかる。

「我は放つ光の白刃!」

 ルイスの呪文が炸裂し、男が二人とも転倒する。そして同時にリオに意識を閉じられる。

(後一人!)

 と思いサンダ―の方を見ると、どうやったのやら最後の一人はすでに叩き伏せられていた。

「ルヒタニ様を甘く見るな」

 何やら言っているが相変わらず意味は分からなかった。

695: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/23(火) 17:28:28.31 ID:xMiXqPIo

「くっ……」

 村長がうめく。残りは彼一人だった。逃げようにもちょうど逃げ道にはサンダ―が立ちふさがっている。

「そこまでだ村長」

 ティー家の二階から重力中和でロゼイユがゆっくりと空中を降りてくる。
 降り立った彼を見て村長が毒づく。

「見当たらないと思ったら隠れていたのか」
「武装盗賊との結託、村民への脅迫。今ちょうど役人さんもいるね。観念するといい」
「っ……」

 村長の顔が歪む。あたりを見回すが、目にはるのは倒れ伏した武装盗賊たちだけだろう。
 ――その時だった。
 がしゃぁん!
 ガラスの割れる音が響いた。

 軽い着地音。ロゼイユのそばに降り立つ黒い影。

「あ!」

 アップルの声が響く。
 それは今までずっと眠り続けていたはずの、例の男だった。

696: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/23(火) 17:30:10.05 ID:xMiXqPIo

「フレッディン……?」

 村長がつぶやく。男は着地後、うずくまったまま動かない。
 フレッディン。

(彼の名前?)

 だがしかし……村長が彼を知っているということは、やはり武装盗賊だったということか。

「まさか俺を助けに来てくれたのか?」

 男は答えない。
 ルイスはふと妙な胸騒ぎを覚えた。

「そ、そうか、ならこいつらを――ごぶっ!」

 ルイスは断言できる。それは他の全員も同じだったろうが、とにかく断言できる。
 “見えなかった”
 ルイスはそれを目視することができなかった。男が身を起こすところも移動するところも、そして――

「が――がふっ!」

 男の腕が、村長の胴体を貫くところも、だ。

701: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/23(火) 22:01:33.85 ID:xMiXqPIo

(な!?)

 ルイスは絶句した。そして誰の声も上がらなかった。状況を理解できる人物は、この場にいなかっただろうから。
 状況を理解できていないのは村長も同じらしく、目を見開いたまま、抵抗することも忘れているようだった。
 沈黙の中、男は掲げた腕に村長を串刺しにしている。

「な、んで……」

 口から何かの液体を垂れ流しながら村長が言う。男は答えない。代わりに腕をひと振りして村長を振り落とした。

「……」

 ふしゅー、と男の口から息が漏れる。ルイスの方から顔は見えないが、おぞましい表情をしている気配は感じ取れた。
 男が地面を蹴る音が響く。次の瞬間、村長の身体が跳ねる。

「がっ!」

 その浮いた身体を男がたたき落とす、蹴りつける、殴る、踏む、貫く、ぶち破る。
 みるみる内に村長がただの肉塊と化す。

702: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/23(火) 22:02:21.11 ID:xMiXqPIo

 凄絶な殺気の中、最初に動いたのはアップルだった。
 男に向かって一歩を踏み出し――

(まずい――!)

 男の目がアップルを捉えた。
 次の瞬間、アップルの身体が倒れ伏した。
 悲鳴が上がる。それはハーブのかそれともミルクのものか。

「アップル!」

 男の腕は空を切っていた。アップルの倒れた上に、覆いかぶさるようにリオがいる。

「光よ!」

 おそらくなんの手加減もしなかっただろう光熱波が、男を真正面から撃ち抜いた。

703: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/23(火) 22:03:02.98 ID:xMiXqPIo

 男は転がって、

「何!?」

 そのまま何事もなかったかの様に起き上がった。
 直撃だ。直撃だったはずだった。それなのに、なんの支障もなく起き上がって見せた。

(一体、何なんだ!?)

 そして、その時には事態はもう動き出している。
 気合の声が上がる。蹴りあげられた土くれが舞い上がる。リオの突進が、男の身体に突き刺さる。
 しかし、男は問題なくそれを受け止めた。

704: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/23(火) 22:03:44.10 ID:xMiXqPIo

 そのまま、二人はがっちりと組み合う形になる。膠着。静かな緊張があたりに満ちる。

(力勝負ならば、魔物の姉さんの方に分がある……)

 状況はいまだ全く理解できないが、とにかく男を止めなければならないことは分かる。
 だが、リオの勝つ姿が想像できないのは、一体どういうことだ。

 ぎち――っ!

 何かがきしむ音がする。それは筋肉の音なのか。

「ぐっ……」

 声を漏らしのは、リオの方だった。
 その声とともに彼女は徐々に押され始めた。じりじりとリオの足が地面を滑る。

 ばきゃ!

「あああああああ!」

 リオの悲鳴が上がった。寒気がルイスの背筋を冷やす。

705: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/23(火) 22:04:28.10 ID:xMiXqPIo

「ルゥ……君!」

 はっ、と遠くなりかけた意識をルイスは現実に戻した。リオが……リオがこちらに片方の手を伸ばしている。

(……!)

 それだけで理解する。ルイスは地を蹴り、そちらに駆けだし――
 だが、到達する前に男がリオを片手で打ちすえる。リオは地面にたたきつけられた。

「――まだまだぁっ!」

 それでもリオが男の足をつかむ。

「うおおおおお!」

 同時にルイスがリオの隣に滑り込んだ。リオの手を取り、

「我は踊る天の楼閣!」

 視界をはじめとするすべての感覚が閉じる。吐き気を誘うそれらの中、最後に見えたのは泣きそうなアップルの顔だった。

707: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/24(水) 00:48:13.87 ID:QzEVGxko

「はっ!」

 空間転移の終了と同時に、リオがルイスを抱えて飛び退る。男はすぐには追ってこなかった。
 鬱蒼とした草木が視界を酷く不鮮明にする。転移した先は暗闇に沈む森林の奥。月の光は緑の天蓋を突き破ることはできない。ルイスにはほとんど何も見えなかった。
 ただ、リオは夜目が利く。十分男と距離をとったところでルイスを地面に下ろした。

「我は癒す斜陽の傷痕」

 リオの砕けた手首を治癒する。リオは一二度その手を振ると、小さくつぶやいて短剣を異空間から取り出した。

「ルゥ君、これはいったいどういうこと?」
「僕にもわからない。ただ、あの人は僕たちを殺す気だ。……っ」

 リオがルイスを突き飛ばす。先ほどまで彼がいた場所を、高速の物体が駆け抜けた。

「速い……」

 突き飛ばした分を駆け寄ってリオがつぶやく。ルイスは起き上がるとリオの手を取った。

「じゃあ次、どうするルゥ君?」
「逃げるのがベストだろうけど、あまり長距離を転移できなかった。放置すれば村が危ない。それに――」
「あの人が一体何なのか突き止めないと?」
「そういうこと」

 真実からは、逃げられない。

708: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/24(水) 00:49:00.93 ID:QzEVGxko

「我は生む小さき精霊!」

 ルイスの手から光球が生まれ、勢いよく上方に飛ぶ。それは頭上十メートルほどで制止すると、あたりを明るく照らし出した。
 その光の範囲の中に、男の姿が浮かび上がる。それはちょうどうずくまるような突撃姿勢で――

「! 我は紡ぐ光輪の鎧!」

 ぎん――!

 男の突進を防御壁が受け止める。ルイスが念じると、防御壁は膨らんで男を弾き飛ばした。

「それにアップルが彼を待ってる!」

 それを呪文に魔術を発動させる。再び突撃の構えを見せた男が不自然に動きを止める。まるで右腕が丸ごと固定されたような、そんな様子だった。

709: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/24(水) 00:50:21.70 ID:QzEVGxko

 空間支配。その効果は目には見えない。男の右腕を包む空間をよじり、固定する。つまり不可視の完全な束縛。これで男は腕を切り落とさない限りは動くことができない。

「すみませんが、しばらくそうしていてください!」

 初めての術の出来にルイスは満足して声を上げた。

「あなたはなぜ僕たちを殺そうとするのですか!?」
「……」

 男は答えない。ただ動かない右腕を不思議そうに眺めている。

「僕たちはあなたと敵対する気はありません! どうか落ち着いてください!」

 だが。
 男は肩をねじると、“腕だけをその場に残して”再び突進してきた。引きちぎった傷口から血が噴き出すが気にした様子もない。

710: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/24(水) 00:51:13.03 ID:QzEVGxko

「我は放つ光の白刃!」

 手加減することなど忘れた。光が男を貫く。
 いや。その一瞬前に男の姿が掻き消える。

(速すぎる! どこに……)

 唐突にリオがルイスの腕を引く。よろけたルイスの鼻先を高速の何かが通り過ぎ、彼は無言の悲鳴を上げた。
 そのままリオはルイスを引きずって走る。いくつもの突風がその後を追いかけて空間をえぐる。怪我をしているとは思えないほどのスピードだ。
 魔術の光明もそれについて移動する。その明かりの範囲に見え隠れする男の顔は、醜く歪みルイスの背筋を粟立たせる。

「ルゥ君!」
「我が指先に琥珀の盾!」

 男とルイスたちの間に大気を圧縮させてできた防御壁が発生する。男はそれにまともにぶつかって一歩後退した。

「我は放つ光の白刃!」

711: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/24(水) 00:52:27.56 ID:QzEVGxko

 光が空に向かって撃ちあがる。次いで一気に分散し、男の周りに降り注ぐ。
 それでも男は動揺しない。光の柱の中で悠然と立ち、咆哮する。

(これじゃあ埒があかない……)
「ルゥ君」

 リオの声に振り向くと、彼女はいつの間にやら呼び出した長剣を、ルイスを放した手に持ちこちらを見つめていた。

「やるよ」
「でも、アップルは……彼女は彼のことが――」
「駄目だよ。話は聞いてもらえない、手加減するのも無理そう」

 ゆっくりと言う。

「ついでに言えば魔術も、発動する前にやられちゃうかも。だからあたしがやる。ルゥ君はさがってて」
「でも!」

 そこまでだった。ルイスは背後から地面を蹴る音が響くのを聞いた。
 リオはルイスを突き飛ばし、跳躍した男と激突した。

715: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/24(水) 05:47:22.28 ID:QzEVGxko

◆◇◆◇◆


 まだ、リオが幼いころ、師匠である元帥は言った。お前は力で相手を圧倒する戦術が得意のようだ、だから純粋な破壊力を磨きなさい。リオはそれに従って鍛錬を積んだ。実際時が経つにつれて、彼女のパワーに真っ向から対抗できる者はいなくなった。それは体術においても、魔術においても同じで、リオはおおむねそれに満足していたし、誇りでもあった。
 しかしもう一人の師匠は言った。君の力は強い。だが、いつか君よりも力の強い者が現れる。戦いの術を学ぶなら必ず、そういう日が来る。
 だから、リオは問うた。じゃあ、そんな時はどうすればいいんですか? 師は、くすりと笑うと、話をしようと言った。私の昔の話を、と。

716: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/24(水) 05:53:38.87 ID:QzEVGxko

     ※


 甲高い金属音が響く。相手の拳を受け止めた長剣が、わずかに歪むのを手の内側で感じる。それを無視して、左手の短剣で相手の手首を狙った。男はすばやく手を引いてかわすと、こちらの足を刈るように蹴りを放つ。リオは足の裏でそれをいなし、飛び退った。後ろにルイスがいるため、あまり大きな後退はできないが。
 長剣を振りかぶる。男が飛び出すのをそれで牽制し、一歩を踏みこむ。男はそれに応じて一歩退くと、片手だけで構えて見せた。

(……)

 ほぼ獣のようなものだと思っていたが、どうやら違うらしい。相手にはちゃんと知能があり、こちらに対応した攻撃を仕掛けてくる。
 そして、認めなければならない。自分は、片手を奪いなおかつ完全武装で挑まないとこの相手には敵わない。

「はっ!」

 すばやく一歩を踏みこみ、長剣を振り下ろす。相手は小さく横に避けるが、それを追って左の短剣がひらめく。それも避けた相手を、回転によって振るわれる長剣が襲う。

「ていやッ!」

 両手武器による連撃。無数の剣の閃きが男を襲う。

717: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/24(水) 05:55:14.29 ID:QzEVGxko

 だが、合計二十ほどの攻撃はいずれも彼に届かない。そして心に生まれる焦り。それが斬撃をわずかに鈍らせる。
 その隙を縫って男の姿が掻き消えた。

(どこに!?)

 考える前に前方に身体を投げ出す。少なくとも、そこにはいないことは分かっているから。
 背後を突風が吹きぬけるのを感じる。起き上がって構えた。その時にはもう懐に男がいる。

「くっ!」

 振り下ろされる手刀を体さばきでかわす。後ろに跳ぶと、ルイスの叫びが聞こえた。

「転べ!」

 呪文。その声に、というわけではないが、男の足がわずかに鈍る。

718: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/24(水) 05:58:02.36 ID:QzEVGxko

 その隙に、リオは長剣を大きく肩の上に担ぎあげた。剣先を相手に向けて。
 そのまま一気に突き出す!

 剣はまっすぐ男を目指して飛んだ。間違いない、当たる。これは必殺の距離。だが――
 男が考えられないほどの反射で後ろに跳んだため、それは必殺ではなくなる。
 それでも、長剣は男の右の大腿を大きくえぐって地面に突き刺さった。その時にはリオもすでに動いている。
 一気に駆けだし、着地する男のわきを駆け抜け、ルイスの隣に滑り込んだ。つながれる手と手。

「ルゥ君!」

 伝わっただろう。それでも彼は一瞬躊躇した。が、それ以上は迷わず叫ぶ

「我は歌う、破壊の聖音!」

719: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/24(水) 05:59:17.74 ID:QzEVGxko

 世界が鳴動する。いや、それは錯覚だろう。

 ばきゃ!

 唐突に周りの地面がひび割れる、めくれ上がる。木々が倒れる、粉砕される。そしてそれは際限なく広がり、轟音を響かせる。
 破壊の波は男まで到達し、土煙りが彼の姿を覆い隠した。
 スピードを無視する大規模破壊。連鎖する自壊。

(これでどう!?)

 勝利を確信してリオは胸中で叫ぶ。
 砂煙はしばらくあたりを漂い、ゆっくりと薄まった。
 見回すと、半径三十メートルほどの円が森の中に発生している。男は、その範囲の中にいなかった。

720: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/24(水) 06:00:35.28 ID:QzEVGxko

 咆哮の声が響く。聞くものすべてを恐怖させる、悪魔の声。

「まだ、生きてる!」
「どこに……」

 見回すがそれらしい影は目に入らない。男の声だけが聞こえる。それは急速に、そして確実に近づいてくる。リオは聴覚に集中力のすべてを注ぎ込んだ。近づいてくるその方向は――

(上!)

 見上げると、木々が無くなったことによって開けた夜空に満月がよく見えた。それに重なる黒い影。
 絶好のチャンスだったが、魔術は間に合わない。リオは舌打ちしてルイスとともに跳躍する。その残像を男が薙ぎ払った。

723: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/24(水) 12:03:39.23 ID:QzEVGxko

     ※


 実際、リオは師には勝てなかった。師はリオを凌駕する力の持ち主だというわけではなかったが、五回やれば、四本は師が取った。
 納得のいかない顔のリオに師は問うた。何故か分かるか、と。

「分かったら勝ってます」

 師は笑った。その通りだな。だが、それなら考えなければならないよ。
 必死に考えて考えて、さらに数えきれないほどの手合わせを経て、数年後、リオは少しだけ理解した。

 戦闘時、人は最高と最低の間を流動的に行き来する。それは体力的な意味であったり、集中力的な意味であったり何でも良いが、なんにしろ最高潮を維持したまま際限なく戦い続けることは不可能である。師は、彼我のそれの見極めに異常に長けているのだろう。師は常に相手の弱いところを突く。必ず生じる弱点。力には隙、反射神経にはフェイント、巨体には死角。だから師は勝つ。
 もっとも問題は、分かったところでそれに対抗する手段と真似する技量がないことで、相変わらず勝率は変わらなかったのだが。

724: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/24(水) 12:04:30.99 ID:QzEVGxko

     ※


(あたしがあいつに勝つには、お師様と同じことをするしかない)

 リオは男の正面に立った。というよりも、どう回り込もうと相手が正面から逃がしてくれないからだが……

(お師様、どうかお守りください……)

 胸中で祈る。
 数瞬の沈黙をはさみ――両者は同時に駆けだした。
 とは言ってもやはり男の方が数段速い。左腕を振り上げ、突進してくる。
 リオは、それに対し右に身体を振った。男が反応するのを見る前に、逆に飛び込む。

725: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/24(水) 12:06:24.01 ID:QzEVGxko

 フェイントによって男の振り下ろす腕すれすれに懐に飛び込むことに成功する。拳と肘を一発ずつ叩きこむがダメージを与えるには至らず、ただ相手の頑健さを思い知るにとどまった。
 下から打ち上げられる手をさらに左に回り込むことで避ける。相手には右腕がないため、比較的簡単に避けることができる。さらに短剣を突きたてようとするが、硬質な手ごたえを残して弾かれる。何故か驚きはなかった。
 ついで、横に薙いできた腕をしゃがんでかわす。そのまま相手の足を刈るように蹴りを放つ。

「!?」

 しかしそれを空を切る。同時に顔に激痛。飛び蹴りを食らって吹き飛んだ。

(痛ぅ……)

 だが痛みに毒づく暇もない。転がって追撃をかわす。転がった勢いのまま跳ね起きて必死に距離をとった。短剣は手からすっぽ抜けていた。

(この……)

 もう一度地を蹴り、距離を詰める。何度目かの交錯に向かって。

726: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/24(水) 12:07:31.06 ID:QzEVGxko

 相手は強靭で強力で、なおかつすばやさも尋常ではないがそれでも勝機はないことはない。どんなに化け物じみていようともおそらくはまだ人間である以上、弱点は必ずある。ならばそれを見極めて、そこを攻めればよい。
 考えているうちに距離は詰まる。相手の攻撃に合わせて、それにカウンターを――

「がっ――!」

 そのとき、何が起こったのか彼女には分からなかった。一気に視界が白み、身体が崩れ落ちる。真っ白の世界の底に叩き落とされ、許容量を超えた激痛が全身をさいなんだ。
 “当てられた”。それだけを悟る。身体の中心がじんじんと痛む。猛烈な吐き気が口へと殺到する。
 負けた? ぞっとした。急速に諦めに向かう気持ちに鞭を打つ。
 あたしが負けたらルゥ君はどうなるんだ!

(……この!)

 意志の力だけで身体を引き起こす。起きろ! 戦え! 命じると視覚が瞬時に回復する。

727: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/24(水) 12:08:17.83 ID:QzEVGxko

 思い通りにならない身体に鞭打って必死に後退する。

「姉さん!」

 ルイスの声が聞こえたと思うと同時に後退の勢い以上の力で吹き飛ばされる。なんとか両足で着地するものの、ふらつくのは隠しようがない。
 息が不規則に乱れる。視界が揺れる。
 身体はその場にうずくまって転がりまわることを要求していた。もう意識を閉じて何も考えないようにしたい。倒れたい。

 それでもそれらを意志の力で抑えつける。まだ……まだやれる!

「はあああああああああ!」

 気合いの力など信じない。戦いにおいて勝敗を分けるのは純粋に技能とパワーだ。それでも力の限り叫ぶ。
 男は気にも留めずにこちらに向かって駆けだした。

728: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/24(水) 12:08:59.52 ID:QzEVGxko

     ※


 師の昔話は、予想にたがわず彼が強敵と戦った時のものだった。相手は体術も魔術も、力も技能もすべてにおいて師を上回っていたらしい。
 それでも勝てたよ。師はほほ笑む。
 守りたいと思うものがあれば、それだけで人は力を得られる。どんな奴にだって負けない。必ず勝てる。
 そんなのくだらない精神論だ。リオが言うと、師はあっさりと認めた。その通りだね。

 でも、と続ける。大事なことだ。どんなに陳腐だろうと安っぽかろうと。
 さあ。師は言った。訓練を続けよう。守るために必要な技・力を君に授けよう。

 リオは――

729: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/24(水) 12:12:41.59 ID:QzEVGxko

     ※


 リオはそこにただ、静かに構えた。左の足を前、右の足を後ろ、相手と自分を結ぶ一直線上に置く。身体もそれに合わせて完全に半身を切る。
 これは力の道筋だ。ただただまっすぐ相手へと届く威力の経路。相手の攻撃を真っ向から迎え撃つ態勢。
 後はタイミングの問題だった。右の拳を振りかぶる。

 半呼吸、男の踏み込み、猛烈な勢いでつきこまれる攻撃、切り裂かれる風の音。
 刹那、リオの目がかっと見開かれた。同時に全身の筋肉が爆発的に始動する。

 放たれた拳は、一直線に伸び、男のそれとぶつかり、凄絶な音をたててエネルギーを解放した。

(ぐっ!)

 激痛を超えた激痛が神経を駆け巡る。どうしようもなく脳を焼くそれを、リオは完璧に無視した。
 男の悲鳴が上がる。拳を打ち返され、態勢を大きく崩している。
 リオは言うことの聞かない身体に最後の命令を下した。
 すなわち、ほんの半歩の踏み込み。

730: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/24(水) 12:16:37.31 ID:QzEVGxko

 それだけだ。それだけで事足りる。男の懐に入り込み、潰れた拳とは反対の拳を胸部に突きつける。喰らえ――!

(寸打による――心臓打ち!)

 一瞬は数秒に、数秒は数時間に。時が引き延ばされる感覚を経て、筋肉が躍動する。

 ずだんッッ!!

 男の身体が、はじけ飛んだ。ゆっくり小さな弧を描いて地面に倒れ伏す。そして始まる痙攣。
 だが、リオは手を抜かない。

「光よ!」

 鋭く放たれた光熱波が、男の首を刎ね飛ばした。それはがらごろと地面を転がり、数秒後、ゆっくりと停止する。

 それで最後だった。しかし、リオは勝利を見届けることはなかった。彼女は昏倒し、地面に倒れ伏したから。
 ルイスが駆け寄ってくるのを目の端に見ながら、リオの意識は闇の中に消えた。

734: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/24(水) 21:51:34.31 ID:QzEVGxko

     ・
     ・
     ・


 ルイスはリオの応急処置を終えると、彼女を背負って立ちあがった。お世辞にも軽いとは言えない。が、文句も言ってられない。彼女は命がけで戦ってくれたのだから。

「……お疲れ、姉さん」

 肩越しに、戦闘の疲労によって青ざめた顔へ告げる。
 身体の心配はないはず。例によって魔物は頑健だ。ただ、今日の敵の強さは異常なものだった。ちらりと最悪の事態が頭をかすめる。
 もしも姉さんに万が一のことがあったら……
 頭を振ってそれをかき消した。と、視界の端に倒れ伏した彼の姿が映る。

「……」

 一体、何者だったのだろう。魔物と真っ向から戦って、同等以上の力を発揮して見せた。彼に直接聞ければ一番だったのだが、それも今は叶わない。
 それよりもっと重要なことが頭をかすめ、ルイスは気を重くした。

「アップルになんて説明しよう……」

 彼女はきっと傷ついて泣くだろう。あんなに彼のことを思っていたのだから。
 どうしようもない気分のまま、ルイスはとぼとぼと歩きだした。

735: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/24(水) 21:52:39.37 ID:QzEVGxko

◆◇◆◇◆


 誰もいなくなった森の片隅。そこは木々が根こそぎ粉砕され、開けた場所になっている。邪魔するものが無くなったことにせいせいしているかのように月の光が明るく降り注いでいた。
 静かだ。動くものは何もない。月の光がいつものようにすべてをひんやりと凍りつかせている。すべてを――いや。

 かさ……

 地面に落ちた木の葉を揺らす音がする。月に照らされて青く静まった地面をうごめくものがある。
 線のような、紐のようなそれ。月の光の中を黒々と地面を這っている。
 蛇? そうかもしれない。幾筋も幾筋も束になって地面を進む。進む先にあるのは、もう物言わぬ肉の塊だった。そして“蛇”の這ってきた大本には――

「……」

 やはり物言わぬ生首が転がっている。切断された首の断面から“蛇”は伸びていた。

736: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/24(水) 21:55:35.97 ID:QzEVGxko

 やがて、“蛇”は胴体にたどり着き、切断された首の断面に集まった。そして一本一本がつぷつぷと断面に突き刺さる。
 同時、ずるりと音が響く。静かな夜の底で、その音はやけに大きく響いた。
 ずるり、ずるり。

 ゆっくり、ゆっくりと胴体に首が近づいていく。
 二分ほどかけて、生首は胴体に到達した。じゅぶじゅぶと嫌な音を立てて切断面が密着する。
 そして沈黙。

「……」

 怪物は何事もなかったかのようにゆっくりと起き上がった。あたりを見回す。
 その首には、傷の痕跡はほとんど残っていない。紅く、かすかに筋が見えるのみだ。

「……」

 無表情の顔がある一点を見つめて止まる。そこに何かがいた。

「……」

 真っ黒なその何かも、同じく沈黙に沈んでいる。

737: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/24(水) 21:57:57.04 ID:QzEVGxko

 怪物は静かにそちらに向かって歩き出した。それとの距離がゆっくり縮まる。
 その黒い何かは縦に細長く、近づいていくとどうやら人影であることが分かった。黒ずくめの男。

「シッ――!」

 それに向かって怪物が跳ぶ。一気に距離が縮まった。高速で振り下ろされる左腕。黒ずくめの男に強烈な一撃が叩きつけられる。しかし。

「っ……」

 怪物の一撃は男の頭部で完全に静止した。なんの音もならない、手ごたえもない。ただ厚さ数ミリの空間を隔てて怪物の手が止まっている。
 怪物の蹴りが男の胴を襲った。だがこれも静止する。まるで怪物が自ら寸止めしているかのように。
 続いて、さらに怪物の左腕が男のみぞおちを貫こうとする。止まる。下段蹴り。とまる。頸動脈への手刀。止まる。

 怪物が跳び退る。黒ずくめの男は一歩も動いていない。
 ただ、一言だけつぶやく。

「飛べ」

 その一言と同時に怪物の身体が予兆も見せず唐突に吹き飛ぶ。空気を切り裂いてすっ飛んで行き、広場の向こうの木に轟音を立てて激突した。

「っ!」

 怪物の口から声にならない悲鳴が漏れる。

738: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/24(水) 21:58:43.42 ID:QzEVGxko

 ずるずると滑り落ちた怪物は、必死で立ちあがり、逃げの態勢に入った。しかし踏み出した先には黒い影。
 怪物の顔が引きつった。
 黒ずくめの男が口を開く。

「無駄だよ」

 その声と同時に、怪物の身体が浮きあがる。必死でもがくが、抵抗むなしく地上二メートルほどの空中に固定されてしまう。

「ついに出たかね、ヴァンパイア」

 黒ずくめの男は言う。

「ということは神も近場にいるな」

 単に事実を確認する以上の何ものでもない口調。その内容の重さに反して、至極軽い。

「では彼らの探究の終わりも近い、か」

 頷く。男は顔を上げるとまっすぐに怪物を見据えた。怪物の身体が、本能によるものか、震える。

739: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/24(水) 22:03:01.02 ID:QzEVGxko

 次の瞬間、男は命令の声を上げた。

「消えろ」

 同時、空中の怪物が掻き消える。その痕跡も残さず、完璧に。最初から何もなかったかのように。
 風が吹く。男のマントをそよそよと揺らして、いずこかへと去っていく。
 ……しばらく間をおいて、男は空を見上げた。円形に切り取られた空が、月を真ん中に抱えている。静止した光が降り注ぐ。その光はすべてのものを凍えさせる。

 だが、今は男の存在がそれ以上に冷気を放っていた。周りのものが急速に凍りつき、永遠に停止する、そんな雰囲気。
 さっきまでは凍えさせる主体であった月の方が逆に凍えて震えているように見えた。

「もうすぐだ」

 男は――魔王は言う。

「もうすぐ――」

 月の光が降り落ちる場所で、彼はいつまでもいつまでも立ち尽くしていた。

740: アナウンス 2010/11/24(水) 22:03:55.91 ID:QzEVGxko
第三章、了

742: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/24(水) 22:37:58.05 ID:QzEVGxko




 ~第四章 「始祖、そして神」~




743: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/24(水) 22:39:13.05 ID:QzEVGxko

 気の遠くなるような昔。我ら“二本の足で立つもの”は草木と共に生き、風と共に暮らしていた。世界は穏やかで、足りないものはなかった。
 あるとき、一人の“二本の足で立つもの”が倒れ、床に伏せた。
 三日三晩うなされ続け、たびたび嘔吐し、死の淵をさまよった。その後、床から立ち上がった彼は、虚空から火を生み、雷を呼んだ。そのようなものが相次いで現れた。
 時は過ぎ、その力は“二本の足で立つもの”の間では、ありふれたものとなった。誰もがその不可思議な業を行った。

 めまいのするようなほどの昔。“二本の足で立つもの”に似て非なるものが現れた。
 彼らもまた、二本の足で立っていたが、彼らに角や翼はなく、またその腕に力はなかった。そして、彼らは不可思議な業を行使することもできなかった。
 “非力なるもの”。“二本の足で立つもの”は彼らをそう呼んだ。しかし、彼らには別の力があった。
 彼らは“輝く光”を持ち、“剣”を持ち、“長い筒”を持っていた。彼らはそれらを用いて“二本の足で立つもの”を打ち、追いやった。
 “二本の足で立つもの”は争いを嫌い、和平の使いを送ったが、“非力なるもの”らは聞き入れず、和平の使いを打ち殺してしまった。“二本の足で立つもの”らは怒り、大きな争いになった。


 ――魔物の口伝より抜粋――

755: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/28(日) 18:46:08.48 ID:TohlBsoo

 水面を鳥が突き破る。しばらくして、鳥は同じように水面を割って飛び去った。その足に小さな魚をぶら下げて。ルイスは歩きながらそれを見送った。
 川のせせらぎが聞こえる。ルイスは荷物の肩ひもをひっかけなおす。
 少し後ろをリオが歩いていた。荷物は彼女の方が多い。着替えなどのこまごましたものをはじめとして、携帯毛布、テント用具、そしていまだ持ち続けている中身不明の細長い包み。

 川岸には涼しい風が吹いていた。二人の髪をなびかせて次々に通り過ぎていく。昼下がりの日の光と相まって、どこか眠たい空気を醸し出していた。
 だが、足を止めることはしない。急いでいるわけでもないが、だからと言って休むわけにもいかない。上流へ向かってひたすら足を動かす。
 耳を澄ますが森は静かだった。たまに鳥の鳴き声が聞こえるぐらいでこれといった異変はない。
 ――異変。たとえばただの犯罪者を超人に変えてしまうような何か、とか。

「……」

 魔物と、それを圧倒する異常な人間。あの戦闘からおおよそ一週間が経過した。それはリオが回復するまでの時間とちょうど一緒で、その間に開拓村ではそれなりの変化があった。

756: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/28(日) 18:48:36.93 ID:TohlBsoo

     ※


「村長は武装盗賊に襲われて死んだ。そういうことになった」

 村の診療所。リオがいるベッド傍らの椅子に腰かけて、ルイスはロゼイユの説明を聞いていた。

「わざわざ村長が彼らと通じていたとか村の評判や評価を落とす必要はないから、まあ妥当なところだな」

 リオにリンゴを剥いてやりながら返す。
 それに、と胸中で付け加える。村長が村人を裏切っていたことはともかく魔物以上に化け物じみた男が彼を殺したなどとは誰も信じまい。

「そうだね。ただ、開拓村はちょっとした騒ぎだ。武装盗賊が本格的な襲撃をしたってことはもちろんだけど、それを叩きのめしたのが女の子だってこともね」
「あたし?」
「そう」

 実際はルイスとロゼイユも戦っていたのだが、噂というのはより突飛な方が好まれるものだ。なんとなくリオが魔物であることは伏せていたので、驚きが大きかったのだろう。

「ついては何かしら礼がしたいとみんな言ってるんだが……」
「パス。恥ずかしいし」
「そうか」

 酒場で暴れたりする割には彼女は結構照れ屋である。
 ロゼイユはあっさり引き下がると、寄りかかっていた壁から背中を離し腕組みを解いた。

757: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/28(日) 18:49:08.39 ID:TohlBsoo

「まあ、とにかくこれで君たちに面倒事は降りかからない。世はなべてこともなし――あ、いや」

 そこまで言って彼は言い淀む。その意味はルイスにも知れた。

「……アップルは?」
「……元気だよ。表面上はね」

 ロゼイユは表情を曇らせた。

「元気すぎるくらいだ」

 彼女は、やさしい子だ。身元不明の男でさえ受け入れ守るくらいに。だから、周りに心配をかけることはもちろろん良しとしないだろう。
 だが、アップルは彼のことを……

「そうか……」
「君たちが気に病むことはない、当然のことだが」
「……」

758: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/28(日) 18:49:40.76 ID:TohlBsoo

「仕方なかった。十人に聞けば九人がそう答えるはずだ。残り一人はただの馬鹿。それくらいあれは異常だった」
「でも」
「上手くやれば彼を止められていた、かい?」
「それは……」

 ルイスは言葉に詰まって俯いた。ロゼイユの言うことは間違っていない。酷く正論で、しかしそれゆえに簡単に頷いてはいけない気がした。
 ふと袖を引かれて振り向く。

「やったのはあたし。だから、ルゥ君は悩まないで」
「……」

 こちらにも何も答えられずにいるうちに、リオはリンゴを食べる作業に戻っていった。
 無茶を言う、と思う。子供扱いするな、とも。ルイスだってあの場にいた。ならば何か打つ手があったはずで、それを見つけられなかったのはルイスの責任でもある。少なくともルイスはそう思う。

759: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/28(日) 18:50:23.81 ID:TohlBsoo

(これで二度目だ)

 胸中で噛みしめる。

(僕は二人、見殺しにした)

 真実を求める旅路の上、犠牲は、無念は少しずつ積み重なる。
 また、同じ思いをすることはあるだろうか。諦念は繰り返すか?

(そんなの願い下げだ。僕はこれ以上……)
「それで、君たちはこれからどうするんだい?」

 ロゼイユの言葉に意識を現実に戻す。彼はその涼やかな目をこちらに向けていた。
 これから? 決まっている。

「川上へ行ってみる」
「彼の異常の原因を探しに?」
「ああ」

 ルイスは頷いた。

760: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/28(日) 18:51:03.54 ID:TohlBsoo

「そうか……何か見つかるといいね」

 ただし、と彼は続ける。

「人間があんなになってしまうのはとてもおかしなことだ。危険を感じたら無理せずに逃げること。僕は君に、君たちに怪我なんてしてほしくない。無事に帰ってくるんだ、分かったね?」
「言われるまでもないな」
「じゃああたしが回復したら出発?」
「そういうことになるね、姉さん」
「僕も行けたらいいんだけどね」

 ロゼイユが言うが、彼には大事な役目がある。アップルと同じ年代の人間は、村にはロゼイユしかいないのだ。

「彼女のこと、頼む」
「ああ、任せてくれ。必ず元気にしてみせるよ」

 ロゼイユは笑って、それじゃ、と部屋の出口に向かった。
 が、そこで振り向く。

761: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/11/28(日) 18:51:44.77 ID:TohlBsoo

「そういえば、ミサンガさんは?」
「? 見てないけど?」

 言われて思い出す。サンダ―は例のあの夜から見かけていない。リオの手当てや武装盗賊の襲撃の後始末でばたばたしていたせいもあるが、どこか無意識にあれはそういう人だからと思っていたせいで、特に気にもしなかった。

「またどこかふらふらしてるんじゃないか? もしくは勝手にニューサイトに戻ったとか」
「そう。そうか」

 ロゼイユの言い方に違和感を覚えた。なにが、というわけでもないが。ロゼイユはこちらの視線に気づくと、ひらひらと手を振って見せた。

「いや、なんでもない。ちょっと女の勘に引っかかるところがね」
「前も思ったが君は男だろうが」

 渋い顔でルイスが言うと、ロゼイユは笑って部屋を出ていった。

765: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/01(水) 19:09:14.29 ID:wZc1dP.o

     ※


 リオの回復を待って出発したのが今日の朝。それからそれなりの時間を歩き続けている。
 歩きながら懐中時計を取り出した。午後三時。空を見上げると日が先ほどよりやや傾いているのが分かる。
 川はまだまだ上流へと続いているようだ。注意して川の周りも見ながら進んでいるが、特にこれといったものは見つからなかった。
 その時までは。

「ねえルゥ君」

 リオの声に振り向く。

「アレ、なんだろ」

 彼女の指はルイスを追い越して、はるか前方を示している。視線を前に戻すと、蛇行した川の向こうに確かに何かが見えた。
 それは森の木々の中からにょっきりと突き出している。

(なんだ? ……塔?)

766: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/01(水) 19:09:55.40 ID:wZc1dP.o

 川をそれてそちらに行くと、予想にたがわずそれは円柱状の形をしていた。森の木々の中に悠然と、だがひっそりとそびえたっている。
 見上げると先端が木々の葉のベールの中に消えているのが見えた。先に行くにしたがってわずかに細く、そしてある一方向に傾いていくその形状には見覚えがある。

「≪牙の塔≫?」

 リオの声に数カ月前のタフレム市での散策を思い出す。街の中に同じく悠然とそびえる白亜の塔。
 塔に近寄る。壁面に触れてみると、滑らかな感触が返ってきた。

(遺跡と同じだ……)

 そのままぐるりと外周を回る。しばらく歩いたところにそれはあった。
 入口と思しき扉。そしてその傍らに書かれた、奇妙な文字。読むことはできないが、予想はできる。

「≪世界図塔≫」

767: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/01(水) 19:11:26.16 ID:wZc1dP.o

「世界図……何それ?」

 リオが訝しげな声を上げる。

「僕も分からない。でもハーブさんが言ってたんだ。森の奥に≪牙の塔≫に似た塔があるって」
「それがこれ?」
「たぶんね」

 扉の取っ手に手をかける。特に抵抗もなく、扉は奥に開いた。
 そっと覗く。しかし。

「何も、ない?」

 中は明かり取りの窓もないにも関わらず、やはり数々の遺跡と同じくほの明るかった。ただ、真っ白な壁面が上方に延々と続くだけで何も見当たらない。階段すら存在しない。
 なんとなく中に入る気にならずに入口の前に立って腕を組む。
 キエサルヒマの≪牙の塔≫。あれは大昔の魔術士が建造したと言われている。が、ティー家で仕入れた情報を考慮に入れるとまた違った見方ができる。

「天人、だっけ? その人たちが造ったってことだよね?」

 そういうことだ。

(これらは天人の遺物?)
 
 天人。古代人。しかしハーブの考察では人間とは異なる種族。彼らの建造物。遺跡。……砦。

(何かと戦っていた? ……何と?)

768: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/01(水) 19:12:31.62 ID:wZc1dP.o

 例えば魔物よりも強靭・強力なる者。人間に似て非なる強大な化け物。
 いかに天人が強大な魔力を持っていても、それらは非常に大きな脅威になりうるのではないか。
 彼らは、あの化け物と戦っていた?

(…………いや)

 ハーブが語る神話を思い出す。彼らは運命を捻じ曲げ、疑似生物を生み出すほどの力を持っていた。それほどの能力を持ちながら、たかが力が強いだけの怪物に脅かされる? 断言はできないが違和感はある。

(たしか、彼らは……)

 彼らは、その強大な力の秘儀を神々から盗むことで手に入れた。そして、それによって神々の怒りを買い、天の国を追われ、。呪われることとなった。
 ならば彼らの敵――彼らを打ち、根絶しようとする敵というのは……

「……」

 ……馬鹿馬鹿しい。科学が台頭し始め、神の存在が否定されるこの時代に、神が死にかけているこの時代に。

769: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/01(水) 19:13:40.52 ID:wZc1dP.o

 ただ、可能性として考えられることがあった。
 あの化け物は天人の敵ではなく、むしろ天人の側だったのではないか、と。
 天人は何らかの敵と戦い、そのために砦を築いたが、それ以外にも手を打っていたのではないか。すなわち。

「人体強化?」

 口からぽつりと言葉が漏れた。

「何それ?」

 リオが塔の中を興味津津に覗き込みながら言う。ルイスはいくつか頭の中でモノを整理した。化け物、天人、そして敵。

「姉さんは精神士って知ってる?」
「せいしんし?」
「そう、精神士。魔術士の中でも特別な訓練を経て、肉体を捨て、精神体となった人々のことだ」

 リオは少し考える顔をしてつぶやく。

「肉体を捨てて……って、幽霊?」
「ああ、まあ似たようなものかな」

770: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/01(水) 19:15:24.51 ID:wZc1dP.o

「そんなこと可能なの?」
「噂だけだけどね、そういう人たちがいる、もしくはいたらしい。キエサルヒマ大陸のどこかにある≪霧の滝≫が彼らの根城とか言われてる」
「ふーん?」

 リオはもの問いたげな表情を崩さなかった。ルイスは後を続ける。

「彼らは“精神化”というプロセスを通って精神体に達する。その結果、肉体にとどまっていては望めないほどの力を得ることになる。ただ、肉体がない分、制御や維持が大変で、ほとんどの場合消滅してしまうようだけれど」
「それと人体強化? がなんの関係があるの?」

 風が吹く。木々の葉が静かに揺れた。

「精神化の真逆のプロセスがある……ってことはもちろん知らないよね?」
「逆?」
「これはさらに信頼度のさがる噂になるんだけど」

 ルイスはそこでいったん言葉を切った。頭上の木の枝で鳥が鳴いている。甲高いそれは、遠くまで響く。

771: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/01(水) 19:17:24.07 ID:wZc1dP.o

「“肉体化”。それはそう呼ばれている」

 リオがきょとんと眼を瞬かせた。

「変な言葉だよね。精神化と正反対の性質のプロセスということで仮に名付けられた呼称なんだ」
「それは一体どういうものなの?」
「精神化が肉体を捨てて精神体となるのに対し、肉体化というのは肉体の密度を大幅に増加させる過程だ。それによって身体能力は飛躍的に上昇するとか何とか」
「それが人体強化? あの人みたいに?」

 ルイスは頷いてそれにこたえた。

「天人は何かと戦っていたことが考えられる。砦を築いたのはそのためだ。だったらこの世界図塔というのも戦闘のための何らかの建造物ではないかと僕は考える。けれどどう見ても砦の類じゃない。僕が予想するに、これは何らかの装置だ」

 鳥はいまだ鳴き続ける。耳をつくその声。

「あの男の人は川を流れてきた。そしてその上流にこの塔がある。何かしらの関係性はあるんじゃないかな」
「つまり、ルゥ君が言いたいのは……」

 リオはゆっくりと塔の内部を示す。

772: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/01(水) 19:18:22.92 ID:wZc1dP.o

「この塔が、人体強化のための大掛かりな仕掛けで、あの人はこれによって化け物になったった。そういうこと?」
「その通り。これは天人が自らの身体を強化するための――」

 その時、鳥の鳴き声が止んだ。風もぴたりと動きを止める。森に瞬時に静けさが満ちた。

(……なんだ?)

 ぴんと張り詰めるような静寂。振り向くルイスの足が小さく大きな音を立てる。
 その中で、低い笑い声が響いた。

「く……はは」
「……誰?」

 リオが見回す視線を一点に落とす。声はその視線の先から響く。

「なかなか、興味深い考察、ではあるな」

 ここから離れた一本の木。なんの変哲もないその木の陰から声はしている。

「ヴァンパイア化のための、装置か、いやはやどうして、面白い」

773: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/01(水) 19:19:14.36 ID:wZc1dP.o

 すっ、と木の陰から人影が姿を現す。

「だがそれは、ただの転移装置だ。ものを移動させる以上のことは、できん」
「……転移装置?」

 人影は外套ですっぽりと身体を包んでいる。フードで頭を覆っているため、顔も見えない。

「そう、多少大がかりなだけ、のな」

 ルイスはその声に違和感を覚えた。男の声であることは分かる。しかし、若いようにも、老いているようにも聞こえ、抑揚はなく、どこかたどたどしい。

(何者?)

 どこか怪しい雰囲気に警戒して構えるが、その人影は距離を置いたまま近づいては来ない。

「もともとは、補給物資を大量同時移動させるために造られた、ものだ。それ以上でも以下でもなかった。高いポテンシャルを有しているのも確か、だが」

 ざわざわと体中の毛が逆立つのを感じる。これはまがうことなき脅威だ。本能が告げていた。
 ルイスはちらりと横を見る。リオが小声で呪文をつぶやき、後ろ手に短剣を出現させたのが見えた。

774: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/01(水) 19:20:33.35 ID:wZc1dP.o

「お前たちは、天人種族を、知っているのだな、ルイス・フィンランディ、リオ」
「な!?」

 ルイスはぎょっとして目をむいた。なぜ名前を知っている?
 しかしその人影はルイスの驚愕を無視して先を続けた。

「千年は経過しているはずだが……しかし、実際に相対したことはなく、そしてドラゴンのことも知らない、か」
(ドラゴン?)

 聞きなれない単語。いや創作世界にはしばしば登場するトカゲの化け物。

「違うな。お前の想像しているそれとは、だいぶ性質が異なるぞ」

 ……思考が読まれている?
 フードの奥からこちらを見つめる視線を感じる。平坦でのっぺりとしたそれ。それにすべてを見透かされているような気がして、背筋に冷たいものが流れるのをルイスは感じた。

「かつてこの大陸において栄華を極めた、六の獣王たちの総称だ。この世界のすべてを司るシステムにアクセスする方法を開発し、強大な力を手に入れた、聡明にして愚昧なる者ども。世の理をわきまえず、その結果として咎をおった罪深き彼ら」
「罪?」
「そうだ。結果、彼らは神々に、呪われた」

775: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/01(水) 19:22:28.89 ID:wZc1dP.o

 呪い。神々の全知全能の力の秘儀を盗み、怒りを買った天人たち。

「天人――ウィールド・ドラゴン=ノルニルは、六のドラゴンがうちの一に、すぎん。責めはドラゴン全体が負った。災厄が彼らを打った」
「何の、話だ?」
「彼らは最初のうちは抵抗したが、力の差は歴然としていた。彼らは負け、地の果てまで逃げた。いや、それでもまだ足りぬ。ついに海を越え、広大な障壁を張ることで彼らは逃げおおせた。アイルマンカー結界。彼らの悲しき抵抗だ」

 何のことを言っているのか、ルイスの頭脳を持ってしても全く理解できなかった。ただ、何か重要なことを言っている、それだけはおぼろげながら呑み込めた。

「アイルマンカー。それは始祖たる魔術士の、別称だ。ドラゴンは、世界システムに組み込まれた彼らを通して、魔術を行使することができる」
「……」
「ドラゴンとは最初の魔術士。お前が求める魔術の起源とは、それだよ」

 ぞくり、と背筋が粟立った。

「お前は何者なんだ?」

 だが、人影はやはり無視したようだった。

「そして災厄。魔術の発生とともにこの世に生まれた、それ。魔術に対する半存在。魔術士が存在する限り、世界の矛盾の結果として在り続け、魔術士を駆逐する」

776: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/01(水) 19:23:17.25 ID:wZc1dP.o

「災厄と、矛盾?」
「システムに御されるべき立場の者が、システムを御する力を得てしまったことによる、論理矛盾。災厄はその代弁者、だ」

 ふと、彼とルイスたちとの間にどこか剣呑な空気が漂い始めるのを感じる。

(なんだ?)
「そして災厄は、人間種族をも見逃すことは、ない。種族の中に魔術士が存在する限り」

 すっ、と彼は外套の中から片手を伸ばす。手の平を上に向けて、こちらを諭すようなしぐさ。
 だがルイスとリオはその動作よりも腕自体に目を奪われた。
 妙に細く、見覚えのあるガラス光沢のそれ。関節が妙に節くれだっており……

「まだ、目をつけられては、おらぬ。が時間の問題であることを、私は知っている。だから――」

 人影は唐突に機敏な動きを見せた。むしるようにフードを取り去り、外套の前を割る。

「私は、魔術とともにあるお前たちを、排除しなければならない……!」

 つり上がった緑の双眸と目があった。蘇る忌まわしい記憶。

「っ……」
「我が名はラモニロック。人間種族のアイルマンカー、だ」

 殺人人形が、そこにいた。

784: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/04(土) 19:28:05.13 ID:k9GkytAo

「“我は放つ光の白刃”!」

 その瞬間、ルイスはためらわなかった。リオの手を取り、手加減など一切ない魔術を解き放つ。
 膨れ上がった強烈な光輝は、一瞬の内に人形を呑み込み爆砕した。地響きがあたりに轟き渡る。
 巻き込まれた木々の焦げるにおいを感じながら、ルイスは油断なく次の魔術を用意した。

「殺人人形! なんでこんなところに!」

 リオの叫び声がわずかに震えを含んで響き渡る。ルイスは考えないようにした。彼女が怯えていることなど、認めないほうがいい。
 魔術の火炎は、いまだ荒れ狂って熱風を撒き散らしている。空気が熱気に歪む、その奥に人影がぼんやりと浮かび上がった。

「“我描くは光刃の軌跡”!」

 ルイスの眼前に、一瞬直径一メートルほどの光球がまたたく。だが、一瞬以上は輝かずに消えた。そしてそれは炎の奥の人影の目前に忽然と現れる。
 じゃ――っ!
 熱された鉄板に油をぶちまけたような音が響きわたった。

785: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/04(土) 19:28:46.95 ID:k9GkytAo

 疑似球電。魔術によって生みだしたそれを、術者によって任意の地点に空間転移させる魔術。もちろん転移は一瞬で、人間の反射神経ではどうあがこうとも防御することはできない。いや、それどころか認識するできるかどうかすら怪しい。人間レベルでは対応できない術。理論的には。
 だが。

「なかなか、面白い術を、使う」
「!?」

 魔術の火炎が風に吹き消されて、光球とそれを片手で受け止める人影が目視できるようになる。爛々と緑の瞳を輝かせる殺人人形。

(そんな馬鹿な……)

 これと似た不意打ちは先の殺人人形には有効な攻撃だった。そういった反射神経は人間とそう大きく変わらないはずなのだ。全く通じないなど考えられないはず……

(ただの殺人人形とは違うとでもいうのか!?)
「言ったはずだ」

 疑似球電の効果が切れ、遮るものが無くなった視界で、人形はゆったりと腕を下ろした。見ると外套すら損傷していない。

「私は人間種族の、アイルマンカー。女神に見出されることで常世界法則に組み込まれ、運命を剥ぎ取られし者。人間種族の魔術士、その始祖たる者。殺人人形などという模造品と、一緒にするな」

786: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/04(土) 19:29:16.45 ID:k9GkytAo

「女神……? 模造品……?」
「そうだ。私こそが、オリジナル。私こそが全殺人人形の、原初」

 唐突に。人形の姿が消えた。前兆すらなくさっぱりと。
 呆気にとられて前に出る。どんなに目を凝らそうとも、そこには何も残っていない。

「なん……?」
「後ろ!」

 リオの声と同時か一瞬後、二人は不可視の力に吹き飛ばされ、前方に投げ出された。
 あわてて起き上がると、塔の中から人形が悠然と歩み出てくるところだった。

「ふむ。何も知らぬまま、殺すのも哀れという、ものか。ならば少しばかりの温情を、与えよう」

 人形が何か言っているが、ルイスは聞いていなかった。それよりも重要なことに気がついていたから。

(今どうやって転移した!?)

 ぞっとする。人形は文字を描くことはしなかった。もちろんこれといった呪文の声を上げることも。一体どういうことだ?

787: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/04(土) 19:32:17.97 ID:k9GkytAo

「およそ千年前、私は、ただの人間だった。お前たちとなんら変わることのない、取り立てて特徴もない、そんな者だった」

 人形は一泊おいて、だが、と続けた。表情がわずかに険しいものに変わる。

「私は邂逅した。女神――あの災厄と。そして運命を剥ぎ取られた。この緑の瞳がその証だよ。ドラゴン種族もすべてこの瞳をもっている」

 ルイスは唐突に気づく。あれは苦悶の表情だ。

「我らアイルマンカーは死ぬことが、できない。呪われた。私は醜いこの姿に、堕とされた。天人たちは、私を見て人間から殺人人形を製造するためのヒントとした……」

 俯きかけた顔を持ち上げ、人形は言う。

「人間種族は私をもとに魔術を行使する術を得た。だが、それによって同じように呪いも受けた。いや、お前たちを見る限りまだ、その兆候はない、か。だが、いずれ人間種族にも緑の瞳が現れる。そうなれば女神に滅される運命は、逃れられまい。だから――」

 ぶわり、と風が吹く。それは人形の外套を膨らませ、ルイスたちに圧迫感を与える。

「私は、今こそお前たち呪われた魔術士の血を、根絶やしにしなければならない……!」
(……!)

788: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/04(土) 19:32:58.41 ID:k9GkytAo

 今度もまた、ルイスはためらわなかった。瞬時に離脱の構成を編み上げる。

「“我踊るは――”」

 しかし。

「“逃げるな”」

 人形の声が、鋭くルイスの根幹に突き刺さった。

(!?)

 魔術は――発動しなかった。力を発揮する予兆すらなく構成がはかなく霧散していく。

「ルゥ君……?」
(馬鹿な……)

 もう一度空間転移の構成を編む。だが、どんなに集中力を注ぎ込もうともそれらは完成することなく、掌を滑り落ちていく。

「構成が、編めない」

 必死にあがいた後、愕然と認める。

789: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/04(土) 19:34:01.81 ID:k9GkytAo

「ふ……はははははは!」

 人形の笑い声が響き渡る。先ほどまでのたどたどしい言葉繰りとは対照的に、それは滑らかに森に響いた。

「くっ」

 リオが構える。ルイスの手を振り払い一歩を踏み出し、しかしそこで彼女の足が止まる。
 人形は動いていない。間合いは変わらない。それでも、リオはそれ以上進まない。不自然な体勢のまま動きを止めている。
 ルイスには分かった。動かないんじゃない、“動けない”のだ。なぜなら、

(身体が、動かない……!?)

 ルイスもそれは同じだったから。

「はは、ははははははは!」

 人形の声が響き続ける。その目が二人を凝視する。まるでそのせいで動けないとでもいうように。
 ゆっくりと……ゆっくりと意識に靄が掛かっていくのをルイスは感じた。人形の緑色の目がやけに大きく見える。次第にそれしか見えなくなる。視界がぼんやりと閉じていく。

790: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/04(土) 19:37:16.87 ID:k9GkytAo

(これは、一体?)
「≪精神支配≫」

 ぴたりと笑い声が止む。

「これは≪白魔術≫というものだ、ルイス・フィンランディ」

 その声は、耳とは別のところで聞こえていた。もうほとんど働かない視覚の代わりに、他の感覚はかえって研ぎ澄まされている。

「聞いたことはないか? 従来の物質とエネルギーを操る魔術を、仮に黒魔術と呼ぶとするなら、精神と時間を操るものを白魔術と呼ぶ。白魔術は黒魔術のさらに上にある高度な音声魔術だよ。お前たちが話していた精神士。あれは白魔術の応用形だ」

 もう目の前は真っ暗だった。何も見えない。何も聞こえない。ただ、人形の存在だけをおぼろげに感じる。

「白魔術はさらに高度化させることができるが、それはまあ置いておこう。ところで……」

 つい、と人形の気配が移動する。

「う……」

 声が上がった。リオだ。

791: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/04(土) 19:38:38.37 ID:k9GkytAo

「こちらの――魔物というのか、興味深い。特殊ヴァンパイアと、いったところか?」

 特殊ヴァンパイア。聞き覚えがある。たしか……先の殺人人形がリオに対して発した単語だ。

(なんなんだよそれは!)

 それはおおよそこの状況すべてに対して出した言葉だったが。

「ヴァンパイア。それは、人間の持つ可能性の名、だよ。肉体化と、言ったな。あれは正しい。人間種族にはそういうものが、ある。ドラゴン種族の力は強大だが、それを超える可能性を、人間は有しているのだ。」
「が……っ」

 人形の言葉の合間にリオの苦悶の声が上がる。

(姉さん……)

「人間は通常ある条件を経てヴァンパイアとなるが、魔物、これは別の形で肉体化が進み、固着した例のようだな」
(ある条件?)
「そう、その条件とは……うん?」

792: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/04(土) 19:39:19.03 ID:k9GkytAo

 人形の声によどみが生じた。そして生じるわずかの間。
 その隙にルイスはあがいた。渾身の力を込めて、がむしゃらに四肢を振り回そうと試みる。もっとも、手足の感触などとうに消え去ってしまっていて、なんの手ごたえもなかったが。
 それでも。

(姉さんが……!)

 その時、ふっと視界が晴れた。その他の感覚も順次回復していく。
 日の光が遮られ、わずかに薄暗い光景、耳が痛くなるほどの静けさ、植物特有の青臭いにおい、ひんやりとした空気……そして広がる苦い味。

「姉さん!」

 リオが地に倒れ伏していた。駆け寄ろうとして踏みとどまる。リオのわきには人形が何をするでもなく立ち、こちらを見ている。

「……?」

 いや、その視線はルイスを通り過ぎ、こちらの背後を――
 ざわり……
 空気が不穏に戦慄いた。

793: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/04(土) 19:40:38.91 ID:k9GkytAo

「ちょうど、よかったな」
「……何がだ?」

 人形との距離をはかり、そしてその隙を探しながらルイスは油断なく訊いた。

「人間種族がヴァンパイアとなる条件。それは神と邂逅することだよ。そしてそれを受け入れることだ」
「神? 戯言を……」

 人形は何気なく立っているようで、しかし隙はなかった。リオを助けたいが、それができない。

「信じられなくとも無理はない。だが、信じざるを得ない。それを見たならば。だから、邂逅せよ、神と」

 人形がふっと消えた。あわてて周りを見渡すが、どこにもその姿はなかった。
 リオのもとに駆け寄る。抱き起こすが外傷はないようだった。ただ、意識がない。

「姉さん……姉さん!」
「う……ん……」

 目を開けたリオは、一瞬で起き上がり身構えた。短剣を構え、隙なくあたりを見渡しながら鋭く囁く。

「あいつは?」
「分からない……」

794: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/04(土) 19:41:32.38 ID:k9GkytAo

「逃げた?」
「違うと思う。でも神がなんとか……」

 ざわり――……
 再び空気が動く。何かが這いまわるような不気味な気配。

「なに、これ……?」

 リオが身を震わせてあたりを再度見回した。

「なに、って……」

 突然、先ほどの静けさが嘘のように木々がざわめき始めた。
 ルイスは塔を背後に、リオの手を握った。
 木々の囁きは収まることなく、いや、かえって不吉に大きくなり、まわりに広がっていく。
 出どころの分からない不安感を前に、ルイスは身を固くして“何か”に備えた。

 ずるり――……

 今度は何かが地を擦る音がした。近い。

795: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/04(土) 19:42:28.17 ID:k9GkytAo

「……?」

 そのとき、ぴたりと木々のざわめきが止んだ。何かが這いまわる気配も消える。
 無音。全くの無音。耳が痛くなるほどの静けさがあたりに落ちる。その静寂の底で、ルイスは慎重に呼吸した。ゆっくりと、恐る恐る思い出す。

(あの人形はなんと言っていた?)

 言うことすべてが理解できなかったが、それでも最後の言葉を思い出す。

(神と出会い、受け入れることでヴァンパイア? となる?)

『邂逅せよ、神と』

 次の瞬間、ルイスには何が起こったのか分からなかった。地に投げ出され、悲鳴を上げる。顔を上げて理解した、リオが彼を抱えて飛び退いたのだ。
 そして目の奥に残る残像。茂みの中から何か黒い影が飛び出し、ルイスたちの方へ――
 そこまで思い出して、ルイスは叫んだ。

「“我は紡ぐ光輪の鎧”!」

 二人を包んで広がる魔術障壁。無音で広がったそれの表面に、何かが勢いよくぶつかってきた。
 べちゃり……
 粘着質の音を立てて張り付く何か。それは腐った肉のようなくすんだ色をしていた。茂みの方から長く伸びる何かの塊。

796: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/04(土) 19:43:55.49 ID:k9GkytAo

「なんだ!?」

 ルイスの叫び声に反応して、というわけではなかろうが、茂みから次々に“それ”が飛来する。障壁の表面にぶつかって張り付く気色悪い物体。
 悲鳴を上げてルイスは魔術障壁を振動させた。弾き飛ばされて塊達は地面に落ちた。
 障壁が消える。
 リオとともに立ちあがって後ずさりしながら慎重にそれらを観察する。地面の上でそれらはぶるぶると震えている。

(触手?)

 確かにそれは何かの太い触手のようにも見えた。となれば。

(本体は茂みの中!)
「“我は放つ光の白刃”!」

 光の奔流が茂みに突き刺さって爆発する。威力だけを優先し、総力をそのままぶつける構成。だが――

(手応えがない!?)

 魔術はするりと茂みを抜け、予想地点から距離を空けて爆発した。

797: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/04(土) 19:45:39.86 ID:k9GkytAo

 同時にぬろりと触手たちがうごめく。二人はびくりと後ずさる。だが、それらはこちらを襲うことはなく、ゆっくりと茂みの方に引いていった。
 触手たちが見えなくなっても油断はできない。ルイスは冷や汗の感触に身震いしながらいつでも防御の構成を展開できるように準備した。

「一体なんなの……!?」

 リオが毒づき気味に囁く。ルイスはそれには答えなかった。分からないのはもちろん、今声を出したらまた呪文のための息を吸うのに隙が生じる。
 ずるり……
 再び粘着質の音がした。リオがルイスの手を強く握る。
 そして茂みからゆっくりと“それ”が――

「――っ!」

 目視した瞬間、ルイスはすばやく身を翻した。対抗することなど頭から捨て、逃げるために地面を蹴る。
 敵わない。ルイスの脳裏に浮かんだのはその言葉だった。敵わない。

(なんだあれは!?)

 二人が目にしたもの。それは、二人の身長をゆうに超す無形の肉塊だった。

798: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/04(土) 19:50:06.14 ID:k9GkytAo

 あんな得体の知れないものに敵うはずがない、逃げなければ。だが、右に向けた足がぴたりと止まる。
 ずるり……

「っ!?」

 目の前の茂みから、同じように腐った色の肉塊が姿を現す。
 胸中で悲鳴を上げながらさらに別の方向へ足を向ける。しかし。
 ずるり……ずるり……
 そちらの方向からも、また別の方向からも、次々に肉塊が現れる。それらは不気味に触手を伸ばしながら、こちらをゆっくりと囲み始めた。

「う……うあ! うわあ!」

 理解不能の状況を前に、理性は簡単に砕け散った。ルイスの喉を悲鳴が割る。
 逃げ道はなかった。肉塊はルイスたちを塔ごと囲むように次々と周りから現れる。森へと続く道は断たれた。ルイスたちはだから、逃げ道でない道を選ぶしかなかった。

「こっちだ!」

 リオの手を引く。もっとも、リオも同じ方向に走り始めていたが。
 ばたん!
 塔に駆け込む。扉を閉じる際に、リオがそのわきにあった荷物の内いくつかを取りこむのを見ながら呪文を叫ぶ。

「“我は閉ざす境界の縁”!」

 不可視の何かが震える音を立てて扉に集約した。封鎖の魔術。これでちょっとやそっとのことでは扉は開かない。

799: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/04(土) 19:52:00.02 ID:k9GkytAo

 心臓が早鐘を打つのを感じながら、ルイスは扉から後ずさった。
 扉の向こうから、粘り気のある何かが激しくぶつかる音が響く。気色悪いその音に怖気が走った。

(これは――この状況は一体何なんだ……?)

 人間種族の始祖魔術士を名乗る人形。それが神と示唆する肉塊。そして神と邂逅し、受け入れることで変異した人間、ヴァンパイア。
 ルイスはなるたけ冷静になることを自分に命じた。
 始祖魔術士――アイルマンカー。確かにあの人形は魔術文字とは別の魔術を用いていたようだった。だが、あれは音声魔術なのか?

(白魔術?)

 従来の魔術の上位形と言っていたが……。
 そして、なぜその人間種族のアイルマンカーが人間種族の魔術士の命を狙うのだ?

(矛盾……災厄、そして女神……)

 魔術士の存在により論理矛盾が生じる? そして災厄が発生した?

(駄目だ……何の事だか……)

800: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/04(土) 19:52:45.60 ID:k9GkytAo

 ただ、今おぼろげにわかることは、ただの人間が化け物になる原因があの肉塊にあるらしいということ。そして逆にはっきりとわかるのは自分たちがその肉塊に襲われているということだ。

「ルゥ君……」

 短剣をしまったリオが、例の細長い荷物を抱くようにしてこわごわと言う。

「どうしよう追い込まれた……」
「……」

 ルイスは周りを見渡した。白い壁面が延々と上方に続くだけの単調な構造。扉は目の前の一つきり。逃げ場はなかった。無言で構成を編む。

「……駄目だ」

 空間転移の構成は、いまだ頭の中で形をなしてはくれなかった。逃げ道は、ない。

「……」

 その時。

801: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/04(土) 19:53:45.75 ID:k9GkytAo

 にちゃ……

「……?」

 扉の方から異常を感じ、ルイスは視線をそちらに移した。
 にちゃり……
 その音を最後にしばし扉が沈黙する。先ほどまで響いていた激突音も一時止んだ。
 次に響いたのは扉の悲鳴だった。
 ぴし――っ
 鉄製のそれにひびが入る。ルイスの背筋に嫌な汗が伝った。

(まさか……)

 扉は気づかぬうちに本の少し変色していた。わずかにくすんだ色になっている。そしてそこに細かいひびが――
 めきょ!
 腐食した扉が音を立てて変形した。封鎖の魔術も関係ない、

(扉を丸ごと壊す気か!?)

802: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/04(土) 19:54:34.58 ID:k9GkytAo

 くたくたに歪んだ扉の残骸が、音を立てて内部に倒れた。そしてその向こうに、腐った肉の色。
 二人はゆっくりとさらに後退した。肉の塊は入り口から緩慢な動きで、まるでチューブから絵具をひり出すように流れ込んでくる。
 ルイスは上方を見上げた。目測で五十メートルほどのまがった円柱形。他に空気口のようなものはない。つまり考えなしに強力な魔術は撃てない。下手をすればきついバックファイアが自分たちを襲うだろう。

「っ……」

 後退する先を壁に阻まれる。限界を定められている中で、永遠に後退できないことは必然だった。
 肉塊は、それを知っているかのごとく、恐怖を煽るようにゆっくりと近づいてくる。

「あれに捕まったら、どうなるんだろうね……」

 汗を垂らしながらリオがつぶやく。

「あたしたち食べられちゃうのかな……?」

 ルイスの手が、逃げ道を求めて背後の壁を撫でる。相変わらずなんの抵抗もなく滑る壁面――いや。

803: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/04(土) 19:55:30.89 ID:k9GkytAo

(……?)

 わずかにざらつくそれに、ルイスは違和感を覚えた。
 二人と肉塊の距離が五メートルほどに縮まる。肉塊は膨大な質量でもって塔になだれ込んでくる。外にいた個々の肉塊の量ではありえない。ちょうどすべてが混ざり合わさったぐらいの体積に思えた。
 ただ、目の前に迫るそれらの恐怖を、ルイスは一時忘れていた。

(なんだ?)

 それは、指先に伝わる熱の気配。
 壁面のざらつきにそわせた指から伝わる力の経路。

(力?)

 ルイスははっとして見下ろした。手をついた壁が、発光している。光は徐々に広がり、それほどたたずに文様の形をなした。

(これは……魔術文字!)

 胸中で叫んだ瞬間、塔内部の壁面すべてから光があふれた。

「なん……?」

 目を眩ませる光の奔流。その一つ一つが文様を形作っている。肉塊も一時動きを止めていた。

804: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/04(土) 19:57:03.72 ID:k9GkytAo

 必死に見開く視界の中、光の文字が、壁から剥離した。そしてそれは一つではない。次々と、次々と文字は壁から離れ、空中で光の流れを作る、渦を巻く。その中に魔術構成が見え隠れするが、あまりに複雑、巨大なために、ルイスには把握することができない。ただ、どこか似ている構成はあった気がする。

(空間転移……?)

 光の渦の動きが加速する。光量もまた増加し、網膜を激しく焼く。その中でルイスは思い出していた。

『それは、ただの――』

 転移装置。もともとは補給物資を大量移動させるための。つまり……

「発動した!? どこへ行くんだ!?」

 ルイスは叫んだが、それはほとんど言葉にならなかった。その時には突風があたりに吹き荒れ、それ以外の音は何も聞こえなかったから。
 あたりは強烈な光ですでに白一色に染まっていた。空間の感覚が無くなっていく。それは視覚を奪われたからだけでない。踏みしめる床の感触は消え、接していた壁の抵抗もなくなり、まるで浮遊しているかのように――

 その思索を最後に、ルイスの意識は白い混濁の中に溶けて、消えた。

811: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/05(日) 22:33:10.29 ID:6o0iz5Io

     ※


 世界図塔から一条の光が昇るのを小高い丘から見届け、ラモニロックは苦笑いを浮かべた。

「発動させたか……運のいいことだ」

 どこに転移したのかは想像もつかない。機能は単純とはいえ、天人が作成した規模の大きい装置だ。だが、あの神も一緒に転移したのは間違いない。どちらにしろ転移先で始末されることになるだろう。

「さて……」

 ラモニロックは踵を返した。彼らの記憶を読んで、現在の人間種族が集中している場所は把握した。次はそこの浄化を行わなければならない。
 どこか重い足を踏み出し、森の中へ――

「……」

 その先に人影を認めてラモニロックは足を止めた。

「……」

 おおよそ黒以外の色を見つけることが難しい人物だった。黒のマント、黒の手袋、黒のブーツ。しいて言えばその顔だけが白い。夕刻が徐々に近づくうす暗い木の影に、その白だけが浮かび上がり、どこか幽霊のような印象を周りに与える。

812: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/05(日) 22:34:10.93 ID:6o0iz5Io

(幽霊か……違いない)

 胸の内で笑って、ラモニロックはその白を見つめた。
 人影は何も言わない、動かない。まるで森の中に置かれた人形のように。

「私に、何の用だ」

 問いかけが無駄であることは口に出す前から承知していた。儀式のようなものだ。または日常の下らぬ験担ぎ。意味がないと知ってはいてもやらずにはいられないそれら。自分からは日常などというものが剥ぎ取られていることは十分に分かってはいたが。

「私には、やることがある。失礼させてもらおう」

 踵を返し、足を踏み出す。
 ――恐怖だ。唐突に気づく。意味がないと知っていても自分にそれを強いるもの。それは恐怖だ。

「……」

 踏み出した先に、やはり人影が立つ。移動のそぶりすら見せず、まるで最初からそこにいたかのように立っている。

813: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/05(日) 22:35:26.51 ID:6o0iz5Io

 訝しい思いと、わずかな胸のざわつき。それらを同時に感じながら、ラモニロックはかすかに身を固くした。

「……」

 ラモニロックの無言に対し、人影も無言。
 空気が硬化した。張り詰めるのではなく、ただただ重く凝縮していく。空気の分子が次第に停止する。音が消える。その中で光だけが徐々に弱まっていく。夕刻が近い。
 空気が再び動き出したのは、数秒後だった。

 小さな小さな音がした。

「がっ……」

 その音を聞きながら、ラモニロックは膝をついた。

「……」

 それ以外に動きはなかった。ただ、片方が跪いただけ。その結果をラモニロックはむしろ静かな思いで見下ろした。

「なぜ……」

 それでも声の震えは隠せなかった。

「なぜ、私の邪魔をする、≪神殺しの神≫よ!」

814: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/05(日) 22:36:40.12 ID:6o0iz5Io

「義理だ。友人たちへの」

 言葉は、目の前から聞こえた。信じられない思いで顔を上げる。そんな動作すらも億劫だった。

「何、を……」
「“――何処からも来る。飄々と気配を刻む故郷に”」

 ぶぅん――
 空気が微細に振動する。

「く……」

 音声魔術には、上級の術として白魔術と呼ばれるものがある。物質世界に作用する従来の黒魔術の上位形で、目に見えない精神世界に作用する。それは文字通り精神であったり、はたまた時間であったりするのだが、音声魔術の最終形と呼ばれるそれにも、さらに上の術が存在する。
 通常の魔術では常世界法則の枠内でしか効果を発揮しない。しかし、その常世界法則そのものを捻じ曲げる術というのがある。はずだった。
 ただ、それはもう魔術と呼べるのか怪しいところではあったが。
 無理に名付けるとするならば……

「……魔王、術」

 確かにそれならば自分を殺せるのかもしれなかった。

815: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/05(日) 22:40:14.57 ID:6o0iz5Io

「“帰りきたる。痕の多い獣の檻。大にしてうねり、小にしてわめく”」

 千年の呪縛をも断ち切って、この自分をも抹消できる可能性。
 ならば。ならば拒むことはない。むしろそれは待ち焦がれたことであり、自分の望みであったはずだ。

「よかろう……私を殺すがいい! それこそ私が希求していたことだ!」

 望まずしてアイルマンカーに堕とされた自分には、これはまたとないチャンスだった。
 殺すことでは自分に絶望を植えつけることができない。その事実に、どこか相手をあざける心境になりながら、ラモニロックは哄笑した。
 ふっ、と身を包む底なしの喪失感と解放感。そして生じる快感のなかで、しかしラモニロックは魔王の声を聞いた。

「何か勘違いしているようだが」

 呪文を唱えるのを一時中断し、魔王がこちらを見据えていた。その目に映るものに、ラモニロックは違和感を覚えた。
 魔王が言う。

「お前は人間種族のアイルマンカーではない」

 魔王の目に映る感情。それは、同情。またはそれに似た何か。

「……何?」

816: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/05(日) 22:41:23.04 ID:6o0iz5Io

「お前は、女神と邂逅し、運命を剥ぎ取られた。それは確かだ。だが、人間種族のアイルマンカーなどではない」

 自分の存在が、ゆっくりと世界から剥離していくのを感じる。その感覚の中で、ラモニロックは必死に声を絞り出した。

「それは、どういうことだ!?」

 魔王はため息をついて首を振った。

「やはり思い違いをしていたか、気の毒に思う。おおかた天人種族にでもふきこまれたのだろう。お前はただの」

 ……酷く嫌な予感がした。

「……やめろ!」
「お前はただの、一ヴァンパイアだよ」

 ラモニロックは絶句した。
 風が吹いた。うす暗い森のなかを吹き渡り、木の葉を寂しげに揺らす。

「なん、だと……?」

 何か、別のことを言おうとしていたことは記憶している。だが、口から出てきたのはそんなろくに意味をなさないただのうめき声だった。
 自分の信じてきたものが、ゆっくりと瓦解していく音がした。それはかすかなものでしかないが、しかし決定的な破壊音だった。

817: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/05(日) 22:43:06.42 ID:6o0iz5Io

「根拠……」
「うん?」
「そんな戯言に根拠などあるか!」

 その反論に対し、しかし魔王の口調は淀むことはなかった。

「そもそも、人間種族にアイルマンカーは必要ないのだ」

 彼は淡々とつぶやくように言う。

「そん……そんな馬鹿なこと、あるはずが――」
「あるのだよ」

 そっけなく、本当に何でもないことを言うような軽い口調で、だがはっきりと彼は断言した。

「なぜなら人間種族は――」

 そして告げられた真実を、ラモニロックは信じることができなかった。ただただ目を見開くことしかできない。もはや言葉は出てきてくれない。

「“肝にある蟲。腸にある蛇。南風に捧げられ埋め尽くす砂利――”」

 茫然自失のラモニロックに対し、魔王は慈悲を見せなかった。いやある意味において、その断固とした処刑は最も慈悲深い行為であったのかもしれないが。
 ラモニロックの視界は、静かに閉じていった。
 深く、深く。遠く、遠く。

818: アナウンス 2010/12/05(日) 22:44:05.49 ID:6o0iz5Io
第四章、了

824: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/11(土) 17:40:03.58 ID:6Y0M2bwo




 ~第五章 「ドラゴン」~




825: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/11(土) 17:41:30.74 ID:6Y0M2bwo



 男は多くを望んではいなかった。ただ、その平穏な日々が長く続けばいいと願っていた。



 やさしい風の中、女が揺り椅子で本を読んでいる。穏やかな視線で紙の上を撫で、時折静かに頁をめくる。
 風が彼女の髪を乱し、女はゆっくりとそれを直す。
 女は一日の大半をそうして過ごすのが好きで、男はそんな彼女を少し離れたところから眺めるのが好きだった。
 少し離れたところ。近くて遠い距離。彼と彼女の間に横たわる隔たり。
 それでも彼は満たされていた。

 彼女はこの世の何よりも美しかった。
 彼女の仕草はこの世の何よりもやさしかった。
 彼はそのそばにいるだけで幸せだったし、それ以上を望みはしなかった。
 彼女が彼の手には入らないことを知っていたが、それでも彼は満足していた。



 男は多くを望んではいなかった。ただ、その平穏な日々が長く続けばいいと、それだけを願っていた。



 ある日のことだった。彼女は揺り椅子にいなかった。
 あちこち探し回り、うす暗い部屋にその姿を見つけた。
 「見ないで」
 彼女はそれだけをつぶやいた。
 彼には意味が分からなかったが、それでも彼女の異変には気付いていた。
 彼女は特にその姿を変じたわけではなかった。しかし、ゆっくりと人をやめていった。
 彼は見ていた。彼女の言葉に従わず、すべてを目に焼き付けた。
 その時も彼女はやはり美しかった。残酷なくらいに。

 そして彼女は姿を消した。彼の前から姿を消した。
 男は茫然と立ち尽くした。
 彼女もまた彼のことが好きだったと知ったのは、だいぶ後のことだった。
 彼は今度こそ彼女を手に入れると誓った。
 人間をやめてでも、彼女を追うと誓ったのだった。



 ――ある男女のこと――

831: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/12(日) 22:56:47.04 ID:hHVdBdko

 父親がいないことは苦痛ではなかった。彼女は、少なくとも父親が実際に帰還するまではそう思っていた。父親の不在に特に疑問を持つことはなかったし、それによって傷つくような出来事もなかったから。
 本当は違ったのだと気付いたのは彼の帰還後のこと。武術にのめり込んだのは、父親がいない不満や寂しさを紛らわすためだったことを自覚した。

 彼女は父親を嫌った。何故かといえば、彼女は今まで会いたくても会えなかった運命を憎んでいたからだ。それがそのまま父親への怒りへとつながっていた。それについては彼女に自覚はなかったが。
 ついでに言えば、父親というものへの幻想もあった。会えないがゆえに期待が大きくなりすぎてしまったのだ。実際の彼は言ってしまえば俗物であったから、失望が大きかった、ということである。

 武術は彼女にとって救いだった。身体を動かしていれば余計なことは忘れられる。
 そして力は真実と呼ぶに足る何かであり、その純粋さは彼女の心の空隙を埋めてくれた。
 その真実は自分を救ってくれる。彼女はそう信じた。

832: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/12(日) 22:57:47.03 ID:hHVdBdko

◆◇◆◇◆


 冷たい。夢うつつの境目で感じ取れたのはその感覚だけだった。湿った冷たさ。凍えさせるほどではないが、不快ではある。
 うめきながら、目を開いた。
 どうやら自分はうつぶせに寝ているらしい、と悟る。冷たいのは地面。土の地面のようだ。

「……?」

 奇妙な思いにとらわれたまま上体を起こして座り、あたりを見回す。
 立ち並ぶ木々。黒々と茂る植物の葉。森のようだった。だが、どこか先ほどまでいた場所とは雰囲気が異なる。静謐で、人の存在を拒むような空気があった。

「あたしは……」

 記憶の混濁を感じて頭を振る。

「あたしは、確か……」

 何かに追われていたのを覚えている。追い詰められて、そして、光が自分ともう一人を包んで――

「……ルゥ君?」

 はっとして立ちあがった。ルイスはどこだ? そしてあの敵……肉塊は?

833: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/12(日) 22:58:31.01 ID:hHVdBdko

 森の中、しかも薄く靄がかかっているせいで視界ははっきりとしない。少なくともその中には求める人物の姿はなかった。
 ただ、代わりに記憶が徐々にはっきりしてくる。

(あの塔が、作動したんだ……転移した?)

 とすれば、ここがもといた場所と異なるのは間違いない。
 体感覚によれば今は夕刻で、星が出ていればだいたいの位置は分かるはずだったが、あいにく頭上は木々の葉がふさいでしまっていた。
 とりあえず視認できる範囲内にあの肉塊がいないことと自分の体に怪我がないことを確認し、足を踏み出す。
 自分の位置がわからない以上、むやみに動き回るのはいい考えではないと分かってはいた。しかし脅威の存在が分かっている今、悠長なことは言っていられない。

「ルゥ君」

 恐る恐る声を上げる。それは響かずにすぐに消える。

「ルゥ君!」

 先ほどより大きな声で名前を呼ぶ。返事はない。
 森の静寂だけがそれに無言の返答を寄こしてくる。
 茂みをかき分け、木々の乱立する中を彷徨い、いつしかあたりは暗闇に沈んでいた。

834: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/12(日) 22:59:22.67 ID:hHVdBdko

 それを見つけたのは、歩き始めてからだいぶ時間がたった頃だった。

「……?」

 木々の向こうにぽつんと光るものが見えた。
 それは光り輝くというには小さく、はかないというにはしっかりした光だった。ちょうど二つ、虚空に浮いていてまるで、

(目?)

 そう、何かの目に見えた。
 リオの身体に緊張が走る。

「“明かりよ”」

 差しのべた手から球形の光が生じた。それはふわりと浮きあがり、数メートルの上方で動きを止めた。
 白い光明。それによってあたりは照らし出され、目の持ち主の姿もあらわになった。そこにいたのは――

「……」

 無音で佇む黒い影だった。

835: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/12(日) 23:00:11.51 ID:hHVdBdko

(何……?)

 油断なく身構えて目を凝らす。黒い影……いや、獣。
 それは狼のように見えた。
 ……しかしそれにしては大きい。離れているので判然としないが、見上げるほどに巨大。
 それがなんの気配もさせずに、ただこちらを見つめている。あまりの「無臭さ」に、本当にそこにいるのかも疑わしいほどだった。

 無言で見つめあう。
 リオの首筋を汗が伝った。その嫌な感触に、しかし、動くことができない。進むことも、退くことも。
 と。

「……!」

 獣が動いた。
 ゆっくりと、だがしっかりとこちらに足を踏み出す。やはり音はなかった。まるで病人にひたひたと迫る死の影のように。
 巨体と、それに反する無音の接近。どこか現実味がないその光景を前に、リオは戦慄を覚えた。

「“光よ”!」

 差しのべた手の先から光がほとばしる。幾条にも分かれたそれは、一瞬後には一つにまとまりその黒い獣に殺到した。
 轟音。夜の静寂を引き裂き、地を揺らす。

836: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/12(日) 23:01:06.49 ID:hHVdBdko

 立ち上る魔術の白い炎。その向こうにいまだ黒い獣が見え隠れするような錯覚にとらわれ、リオは次の魔術を用意した。ルイスがいない今、単純な総力をぶつけるような構成しか編むことはできないが。
 魔術によって生じた炎は通常延焼しない。少しすると炎が弱まり、光の残像を網膜に刻んで跡形もなく消える。
 その向こうには、夜の闇が広がっているだけだった。

「……?」

 静かに冷たい風が吹く。その風だけだ。魔術を放つ前と後との違いは、その風が吹いているか否かだけだった。
 目を凝らす。しかし夜の闇の中に、あの静かな眼光は見つけられなかった。
 すべて幻覚だった。そう言われても彼女はあるいは信じたかもしれない。それほど夜は相変わらず静謐で、そして冷たかった。
 何も変わらず、何も乱さず。彼女の記憶にだけ、その残像を置き忘れている。

「……」

 振り返ったのは偶然だった。そこにいると確信したわけでもないし、なぜそうしたのか自分でもわからなかった。
 だが、確かにそこにいた。ほんの鼻先、すぐ目の前。
 だからその大きさがよくわかった。
 黒い狼。
 そこに悠然と立ち、リオを見下ろしていた。

837: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/12(日) 23:01:54.46 ID:hHVdBdko

(あ……)

 美しい。
 場違いにも彼女が抱いた感想はそれだった。
 ひっそりと、だが力強く地面を踏み締める前足。流れるような艶消しの黒い毛並み。それに包まれたしなやかな体躯。冷たく光る瞳。

(瞳?)

 緑色の、瞳。
 その輝きには見覚えがあった。昔ではない。つい最近。確か……

『人間種族のアイルマンカー、だ』

 そう、あの人形。奇妙な魔術を使い、彼女らを翻弄した不可解な術士。
 緑。緑の瞳。こちらを見下ろす二つの瞳。
 それしか見えない。それしか分からない。

(あ、れ……?)

 この感覚には覚えがあった。あの、人形……なんと言ったか。精神支配? それだ。それが……

(えっと、それが……?)

838: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/12(日) 23:03:15.70 ID:hHVdBdko

 視界がゆっくりと暗く、夜の闇に溶けていく。
 ぞっとしたのは一瞬だった。まるで眠りに落ちる瞬間のように何も考えられなくなる。恐怖は遠くにかすんでいく。

(…………)

 危機感、というよりも本能が知っていた。これはよくない、逃げなければならない、と。
 だが、それに反して身体はゆっくりと感覚を失っていく。意識は暗闇に浮いている。それでも見上げているのは分かる。緑の瞳。
 ふと、にじみ出るように、いくつか思いだしたことがあった。ここまで一緒だった青年のこと。真実という呪縛にとらわれ、もがいている彼。彼のそばに行かなければ。
 そしてもう一つ。嫌っている父親のこと。もう一生顔を合わせるのは嫌で、だがそれは本音だったか分からないままで、それは確かめなければならないもので。
 師のことも思いだした。彼に習っていないことがまだあった気がする。もっといろいろ学びたかった。そう思う。

 それら断片的に浮かんでくるいくつかの記憶に囲まれて、リオは意識にひびが入るのを感じた。
 暗闇に浮かぶ緑の瞳。その視線が強さを増す。締め付けられるような苦しさを覚える。
 物理的な苦痛ではない。だがそれゆえに致命的。ぎしぎしと悲鳴を上げる何か。

『あ……』

 声は実際に喉から出たわけではなかった。暗闇に無意味に拡散していくそれ。
 唐突に鋭い痛みを覚えた。やはり物理的なものではないが、確かに感じる。
 意識にさらに大きなひびが入った。

『ああ……!』

 そして無数に生じる痛み、苦痛、喪失感。そう、失っていく感覚。

『ああああああああああああああああ――――!』

 父、師、青年、真実、真実真実真実!
 リオの意識は激しい渦の中、粉々になり、ばらばらになり、散り散りになり、そして――消えた。

841: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/14(火) 00:15:17.73 ID:6at9Csso

◆◇◆◇◆


 父親がいないことは苦痛ではなかった。物心ついたころから父のいない生活というのが当たり前で、彼はそれを疑問に思うことはなかったから。そして、それよりもつらいことを知っていたから。

 父はひとところにとどまることのできない人間だった、とは母の弁である。彼にはよくわからないこと。彼は母が大好きで、それは父も同じだったはずで、ならば絶対に母から離れることなど考えもつかなかった。
 父から母に宛てられた手紙を数通見せてもらったことがある。今どこにいて、いつ帰るとしか書かれていないそっけないものがほとんどだったが、日付を見るとかなりこまめに出されていることが分かった。だから、なんとなく父は悪い人間ではないのだな、ということだけは理解した。
 ……ついでに言えば、それが一年前のものであることも理解してはいた。
 ただ、父のことを話す母は、その時だけは心なしか顔に生気が戻っているように見えた。

 母は遠くを見ていることが多かった。その目には何も映っていないように見えた。自分の姿さえも映っていないのではないか、と常々彼は危惧していた。
 そしてそれは恐らく間違ってはいなかった。母は彼の世話を怠ることはなかったが、そこに愛情の類はないように思えた。
 作業。それだけだ。賢い彼は気付いていた。

 彼は真実を求めた。絶対に揺るぐことのない、世界の唯一の真実を。
 彼は希求した。切実に願った。

 なぜ、彼は求めたか。それはきっと――

842: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/14(火) 00:16:20.41 ID:6at9Csso

◆◇◆◇◆


 目を開いて最初に見えたのは白い天井だった。
 あまりに白くて、まだ夢の中にいるのではないかと錯覚した。

「……」

 あまりにけだるく、あまりに遠い。しばらくぼうっと天井を見つめる。
 何も思い出せなかった。何か、夢を見ていたような気もする。だが何も思い出せなかった。

(それでいい……)

 何も思い出したくなかった。そんな、泣きそうな心地になって目をつむる。何も思い出したくない。

(それでも……)

 それでも起きなければならない。自分は追われていた。
 そして、追われていたのは自分だけではない。
 上体を起こすと同時、声がした。

「目が覚めたか」

 ルイスはゆっくり振り向いた。

843: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/14(火) 00:17:58.57 ID:6at9Csso

 まず、思い出したことがある。それは自分が手がけていた研究で、先代魔王を討伐した勇者のことだった。
 およそ百七十年ほど昔の話だ。正式勇者ミハイル・フィールは、対魔王戦力≪十三使徒≫の長として当時の王直々に魔王討伐を拝命する。その命を、彼は驚くほど速やかに完遂し、世界を仰天させた。
 その期間、およそ四週間弱。あり得ないことだった。魔王城へ最短コースで突入し、その日のうちに討伐してしてしまった計算になる。それもほとんど休養を取らずに行軍した場合の話だ。

 勇者本人はそれについては特に言葉を残していない。ただ、真正面から堂々と一騎打ちを申し込んだとだけ申告している。
 当然様々な噂が人間界・魔界問わずに飛び交った。これは何かの陰謀が動いていたのだと。人間界と魔界との間で魔王の首を引き渡す取り決めがなされていただの、勇者が魔王を策謀によって暗殺しただの。
 魔物と人間とでは根本の作りが違っていて、一対一ではどうあがいても本気の魔物に敵わないというのが定説、というか常識なので無理からぬことではあったが。
 もちろん歴史関連の学界でもそれについてはいくつかの見解が出されたが、結局はっきりしないまま結果は結果としてうやむやになった。

 ルイスはその出来事について、きわめてシンプルに考察した。
 すなわち、勇者ミハイル・フィールは申告通り真正面から魔王と対決し、これを下したのだと。勇者は最上級の魔物と肩を並べる、いやそれを圧倒するほどの力を持っていたのだと。
 言うまでもなくその説は支持されなかった。

 だがルイスはさらに考察する。もしその仮定が正しいならば、彼の強さには何らかの理由があるはずだ。それはなんだ?
 ≪鋼の後継≫ その二つ名に彼は注目した。勇者は誰から何を受け継いだのだ?
 “何”は力だとして、“誰”からだ?
 それは、魔物からか。いやもっと別の何者からか。
 別の何者。それは――

844: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/14(火) 00:20:33.54 ID:6at9Csso

「天人……」

 目の前に立つ緑色の髪と瞳を持つ女――天人は、小さく頷き返してきた。

 聞いたことがある。ミハイル・フィールの母親はきれいな碧眼の持ち主だったと。
 それは確かに珍しい特徴だが、珍しい以上のものではないとして今まで忘れていた。
 “勇者ミハイル・フィールの親は天人種族だった”のだ。

 言葉を失うルイスに対し、女が口を開いた。

「確かにそういう呼び方もあるな。だが、我らにはウィールド・ドラゴン=ノルニルという正式な名がある」

 立方体の、白い部屋だった。ただただ白い。ルイスの寝ているベッドも白い。部屋全体が白に沈んでいる。
 そんな部屋の中、彼女の緑はひどく鮮やかだった。緑の髪、緑の瞳、緑のローブ。
 その鮮明さに何も言えないうちに、天人の女がさらに声を上げる。

「汝の記憶、読ませてもらった。アイルマンカー結界の外より来訪せし者、人間種族。ひどく久しいな」

 彼女の声はひどく平坦だった。内容に対応する感慨深さの片鱗すらのぞかせない。
 ただ、それは冷静というよりは擦り切れた疲労にも感じられたが。

845: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/14(火) 00:24:11.39 ID:6at9Csso

「あなたは……一体……」

 ようやく出せた声は、酷くかすれていた。

「我か。そうだな、名乗り忘れていた。イスターシバ。ウィールド・ドラゴン司祭、シスター・イスターシバ」

 シスター・イスターシバ。天人種族の司祭。ウィールド・ドラゴン。ドラゴン?

「ドラゴン。それは常世界法則を解析し、アイルマンカーをそれに組み込むことで魔術という強大な力を得た六つの種族のことだ」

 イスターシバはまるでこちらの思考を読んだかのように言葉を続けた。とはいえさきほどの記憶を読んだというのが本当ならば、それもあり得ることだった。

「力の体現、ウォー・ドラゴン=スレイプニル。暗殺者、レッド・ドラゴン=バーサーカー。影、ディープ・ドラゴン=フェンリル。美の追及者、フェアリー・ドラゴン=ヴァルキリー。強者、ミスト・ドラゴン=トロール。天なる人類、そして魔女、我らウィールド・ドラゴン=ノルニル」

 混乱に反して。理解はすんなりと追いついた。

「かつての、支配者……」

 ルイスがつぶやくと、イスターシバは怪訝そうにこちらを見た。

「その通りだ。かつての……もはや昔の話だがな」

 彼女はそう言うと、酷く疲れた顔で、苦笑した。

851: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/15(水) 00:36:55.90 ID:hXCMzEso

「生きて、いたなんて」

 ルイスの言葉はあまりにそのまま過ぎて、イスターシバの苦笑をさらに深いものにした。

「生きて、か。本当に我らは生きているのだろうか。怪しいところではあるが……まあ死にかけているのは間違いない。千年前、大陸において興隆を極めた我らも、今や孤島に追いやられ、アイルマンカー結界によってかろうじて生きているにすぎない」

 孤島? ルイスは聞き咎めて眉をしかめた。

「ここは聖域だ。大陸の北西にある孤島、その中心に位置する最後の拠点」

 イスターシバは、大きくため息をついてさらに続けた。

「そう、弱り果てた我らの、最後のよりどころ」

 その表情に映るのは、諦め。いや、それよりももっと深い。絶望。
 間違いない。彼女は絶望している。

「そうだな。絶望しているやもしれん。だが」

 いつの間にか俯いていた顔を持ち上げて、司祭イスターシバは言う。この時だけは目に力が宿っているように見えた。

「それでも我らは戦っているのだ」

852: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/15(水) 00:38:37.58 ID:hXCMzEso

「戦っている? 何と?」
「災厄」

 その言葉には聞き覚えがあった。

『災厄が彼らを打った』

「神々の、呪い」
「……そうだ」

 彼女は頷く。

「世界の矛盾により現出した神々。我々はそれと戦っているのだ。いや、戦っているというのはおこがましいやもしれん。我らは彼らの侵入を、アイルマンカー結界によって危ういところで防いでいるにすぎないのだから」
「アイルマンカー、結界?」
「アイルマンカーたちがこの孤島に張り巡らした最終防壁の名だ。絶対的な遮断能力を有してはいるが、彼らの前では絶対ではあり得ない。いつか……いや、明日にでも破られることも考えられないではない」

 天人種族は。神々から全知全能の業の秘儀を盗み出し、神の怒りをその身に受けた。そして逃げ出し、海を越えていまだに隠れ続けている。

「伝承は……本当だったのか」

853: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/15(水) 00:44:34.99 ID:hXCMzEso

 だが、神とはなんだ? 何かの比喩なのか?

「神。それは魔術の半存在。魔術による世界の矛盾によってこの世に現出したものだ。まだ汝の認識の外にある。だが、ここにいればじき分かるだろう。その恐ろしさが」

 彼女はその瞳に、なにがしかの感情の光を浮かべた。それは恐怖か、それとも怒りか。やはり絶望か。

「現在最も差し迫った脅威は女神ヴェルザンディだ。結界を一部突破し、ウィールド・ドラゴンアイルマンカー、オーリオウルがそれをとどめている。破滅は目前。だが、嘆いてばかりもおれん。我らに求められるのは迅速な対処だ」

 そして、瞳の光がその意味を大きく変える。意志の光。

「我らは今再び人間種族との接触に成功した。これは困窮した我らに与えられた、最後の好機なのかもしれん」
「……」

 ルイスにはその意味が分からなかった。ただ、彼女がなにがしかの希望を見出していることは確かだった。

「人間種族の持つ可能性。それを使えば……あるいは……」

 彼女はすでにこちらを見てはいなかった。どこか遠くに何かを見出しているように思えた。
 だが、ルイスにはそんなことはどうでもいい。それよりも重要なことを思い出していたから。

「姉さんは――」

 こちらに焦点を戻すイスターシバに、どこか胸騒ぎを覚えながら問う。

「リオ姉さんは、どこだ」

 彼女の顔が、曇った。

858: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/15(水) 19:01:00.56 ID:hXCMzEso

     ※


 白い部屋。天井も壁も白く、境目がはっきりとしない。そのため白い世界が延々と続いているようにも見える。それはさきほどルイスが寝ていた部屋とほとんど変わりがないということだったが。
 白がその部屋の大部分を占めていた。しかし白ではないものもそこにはあった。
 部屋の隅に土に汚れたいくつかの荷物。それは見覚えがある。バルトアンデルスの剣。中身の分からない細長い包み。
 そして、部屋の中心に揺り椅子。木製のそれ。今、わずかに、ほんのわずかに揺れている。
 その前に膝をついて、ルイスは言葉を失っていた。

「我の手の者が保護した時には……手遅れだった」

 何か聞こえる。いや聞こえない。

「すでに、壊れてしまっていたのだ」

 聞こえない。

「……気の毒に思う」

 聞こえない聞こえない聞こえない。聞こえてたまるか!
 それは、目の前の現実を直視できないが故の逃避だったのだろう。だが、それ自体はどうでもいいことだった。

「姉さん……」

859: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/15(水) 19:02:14.71 ID:hXCMzEso

 揺り椅子には、少女が一人、腰かけていた。深く、柔らかい背もたれに身体をうずめるようにして。
 白いネグリジェは、いかにも彼女に似合わない。彼女はもっと活動的な恰好が合っている。ほどいた髪もそうだ。彼女にはポニーテールがよく似合う。
 もっと言えば、彼女の浮かべる表情もそれらしくなかった。彼女には、もっと明るい表情が似合っているのだ。

「――」

 ルイスの呼びかけに対し、彼女はなんの反応も示さなかった。
 うつむいた顔には、ただただむなしい空虚だけが浮かんでいる。ぽかんと口を開けたまま、目はいずこともしれないはるかな遠くを見つめていた。瞳には光がない。瞳には、力がない。
 まるで糸の切れた人形のように。彼女は力なく、椅子に沈んでいた。
 
「姉、さん……」

 彼女には笑顔が似合っているのに……
 彼女に縋りつく格好のまま、ルイスはたまらず俯いた。

「何が、あったって言うんだ……」

 ゆすっても叫んでも、彼女はなんの反応も示してくれなかった。

860: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/15(水) 19:05:04.33 ID:hXCMzEso

「≪精神破壊≫……心が壊されてしまったのだ」

 遠くから声が聞こえる。

「彼女は根幹の部分に亀裂を生じている」

 それはあまりに遠くて、遠すぎて……

「だが、心配するな。我らの力をもってすれば治癒は……」
「誰だ」

 むしろ、静かな心地でルイスはつぶやいた。
 訝しげにこちらを見るイスターシバの視線を背中に感じながら、続ける。

「誰がこんなことしたんだ。そう聞いてるんだ」

 声はふるえなかった。肩は揺るがなかった。
 ただ、激情だけは胸の奥に渦巻いている。

「……」

 イスターシバは、答えなかった。

861: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/15(水) 19:06:05.61 ID:hXCMzEso

 ルイスは、辛抱強く繰り返した。

「教えろ」
「そうは、いかんな」

 気を使うようにゆっくりと彼女は言う。

「教えれば、汝は無茶をするであろう?」

 その言葉に、というわけではないが、ルイスは勢いよく立ちあがり、叫んだ。

「“いいから教えろ”ッ!」

 その声は呪文だった。悲鳴が上がる。
 ただ、魔術の効果としては弱いものだ。ルイス一人でできることは限られている。たとえば、人一人を転ばせる程度。
 その転倒したイスターシバに、ルイスは歩み寄り、彼女の首を踏みつけた。

「教えろっていってるんだ……!」

 静かに、なるたけ静かに恫喝する。

「じゃなきゃ今すぐその首、踏み砕くぞ。ドラゴンだろうがなんだろうが、首をやられりゃ死ぬだろ?」

862: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/15(水) 19:06:52.77 ID:hXCMzEso

「……」

 彼女の無言は、酷くルイスを苛立たせた。今すぐ踏みぬいてやりたかったが、ぎりぎりのところで自制する。

「教えろ……!」
「…………ディープ・ドラゴン。その長、アスラリエルだ」

 答える声に、特に怯えはなかった。酷く平静な声に、冷や水を浴びせられるような思いになりながら足をどける。
 立ちあがったイスターシバは、首をさすりながらこちらをちらりと見た。

「報復は勧めん。やれば必ず汝は負ける。何があろうともだ」
「殺す」
「……この娘は必ず回復するのだぞ?」

 こちらを見る目を、それこそ殺す気で睨み返しながら、ルイスは低くうめいた。

「知ったことか、僕はやる。姉さんに手を出したこと、絶対に後悔させる」
「だが負ける」
「それこそ知ったことかっつってんだ!」

 壁を殴りつけながら叫ぶ。

863: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/15(水) 19:08:42.85 ID:hXCMzEso

 予感はしていたのだ。
 真実を求める旅路の上、今までだって犠牲は出ていた。もう取り返しのつかないそれら。“それが親しいものに及ばないなんてことはあり得ない” 分かってはいたのに!
 自分を殴り飛ばしてやりたい衝動を無理やり抑えつけ、ルイスは振り向いた。
 そこには彼女は、リオはいない。壊されてしまって、その残骸しか残っていない。

「……っ」

 砕けるほどに奥歯を噛み締める。

「必ず僕が……」

 その時、目の端に映る物があった。

「……?」

 そこにあるのは土に汚れた細長い包み。だが、いつの間にかそれを止めていた紐がほどけている。

「……」

 包みの中にある物、それは――

867: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/16(木) 01:25:38.51 ID:Ag.NhKMo

     ※


 漆黒の雄大な狼。それは文句なしに美しかった。ディープ・ドラゴン=フェンリル。影に息する者。
 孤島の中心、聖域と呼ばれる地下砦の守護者であり、普段はその周辺に広がる森林に散ってその任を果たしている。

「……」

 用いる魔術は音声魔術でも、魔術文字――沈黙魔術というらしい――でもない。人間種族が音声、ウィールド・ドラゴンが文字を魔術の媒体に用いるのに対し、ディープ・ドラゴンはその視線を媒体とする。暗黒魔術、そう呼ぶそうだ。
 その効果は暗示。生物の精神支配を得意とする。ただし無生物にも暗示をかけることができ、空間を支配して爆発させたり空間転移したりといったことも可能だ。
 ドラゴン種族の戦士。人間では超えられない相手。イスターシバはそう言った。

「……」

 単眼鏡から目を離し、ルイスは小さく息をついた。
 森の中の小高い丘。その地面にうつぶせになったまま、遠く目を凝らす。
 裸眼では木々に阻まれよく見えないが、およそ三百メートル。そこに目標はいるはずだった。
 アスラリエル。一際大きい身体を持つディープ・ドラゴンの頭。

868: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/16(木) 01:26:48.06 ID:Ag.NhKMo

「……」

 殺す。
 冷え冷えとした心の底そのままの目で、ルイスは再び単眼鏡を覗き込んだ。
 そして構える。うつぶせのまま抱え込むそれ。細長い筒のように見えるもの。ルイスの破壊の意志を最もたやすく形にしてくれる。

 施条銃。リオが今まで大切に持っていた包みの中身だ。
 銃器の一種。狙撃拳銃のコンセプトをさらに発展させるとこうなる。、
 一メートル近い銃身。中には狙撃拳銃と同じく弾丸に螺旋回転を加えるためのライフリング機構が施されており、さらに高い精度と威力を導き出すことができる。

 ただ、それらは歴史関連の書物により頭の片隅に蓄えられていた知識にすぎなかった。本物を扱うことはもちろん、見るのも初めてだ。歴史のかなたに追いやられた架空の武器だったはずだった。
 そう、伝説にすぎないはずだったのだ。

 かつて人間がキエサルヒマ大陸に渡ってきた時、彼らは長い銃器などを持っていたらしい。それにより人間は、はるかに力の強い魔物と渡り合うことができた。だが戦争が続くにしたがって人間は疲労し、それらの技術を失っていく。
 おかしな話だった。戦争が続いていたならば、むしろ技術は進歩するのが普通だ。
 その方面の学界では、無難な考察としてあまりに戦争が激しかったことと不慣れな土地による資源調達の困難さがあげられた。当初はルイスもそれに賛成だった。

869: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/16(木) 01:35:35.78 ID:Ag.NhKMo

 だが、あの後イスターシバから得た情報を合わせて分かったことがある。
 いわく、人間種族は原大陸においてドラゴン種族とともに暮らしていた。七つの種は時にぶつかり、時に交流の場を持った。
 人間種族は、姿かたちが似ているウィールド・ドラゴンと最も親しく交流したらしい。ウィールド・ドラゴンは人間種族より賢く、人間種族にとってはどのようにウィールド・ドラゴンと手を結ぶかが栄光をつかむ鍵だった。高度な武器技術もウィールド・ドラゴンによってもたらされたものである。

 それから災厄が現出し――災厄というものについてはまだよくわからない――キエサルヒマ大陸にウィールド・ドラゴンの一部と人間種族が移住したのだが、ウィールド・ドラゴンは災厄との戦いと呪いによって弱っていた。
 ここからはルイスの推測。きっと人間種族は支配的であったウィールド・ドラゴンに反旗を翻したのだろう。かくして人間とウィールド・ドラゴンの地位は逆転するが、おそらく人間種族の誤算は彼らの持つ武器技術の模倣が予想より上手くいかなかったことだった。そしてその技術の産物であった施条銃も姿を消したのだ。

 だが現実として今、手の中に施条銃がある。特に劣化や損傷もないところを見ると過去の遺物というわけではない。れっきとした現代の武器だ。
 魔界側が銃器の研究をしているというのは公然の秘密だった。魔界側は施条銃を再現することに成功したのだろう。そしてきっとリオは無断でその成果を持ち出したのである。
 思わず苦笑する。リオのいたずらが、結果として彼女の復讐に一役買っている。

「……やるよ、姉さん」

 単眼鏡の向こうに黒い影が映る。ルイスの目が鋭くなる。
 超長距離をはさんで狙撃を完遂するには酷く細かい計算が必要のはずだった。風の流れ、気温、湿度、その他もろもろ。
 だが、そんなのは関係ない。必ず奴を殺す。
 息を止め――

「……」

 引き金を、絞った。

873: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/16(木) 23:31:47.69 ID:Ag.NhKMo

 銃声と硝煙の香り。
 時刻は昼だが、森はうす暗い。弾丸がその中を風を貫いて飛び、一瞬にして目標地点に到達する。もちろんそれが実際に見えたわけではないが。
 耳の中で反響する破裂音を聞きながら。手の中ではじける施条銃を押さえつけ、単眼鏡を覗き込んだ。
 初めての狙撃。だが手応えはあった。銃はルイスの殺意をこれ以上なく正確にトレースしてくれていた。
 が。

「……!」

 こちらを向いた緑色の瞳と目があう。
 仕留め損ねたことを悟った。弾丸は当たっていない。
 急いで単眼鏡から目を離し“それ”をつかんで立ちあがった。
 脈絡も前兆もなく。気付いたらいつの間にか、というていで黒い影が眼前に出現する。空間転移
 ディープ・ドラゴン=フェンリル、アスラリエル。目の前にいるのに全く気配がない。代わりに無音の圧迫感。

「っ……」

 こいつが……こいつが姉さんの心を殺したのか!
 緑の瞳を凶悪ににらみ返しながら、ルイスは叫んだ。

「“舞え”!」

 ぼふ!

 瞬間、音を立てて土煙が舞い上がる。アスラリエルとルイスの間の空間に茶色のベールが張られた。
 狙撃の訓練も経験もなく、もともと弾丸が外れることは織り込み済みだった。あれは罠、おびき寄せるための布石にすぎない。

(もらった!)

 胸中で暗い喜悦の声を上げながら、ルイスは“それ”を構え、土煙の中に突きこんだ。

874: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/16(木) 23:32:37.11 ID:Ag.NhKMo

 “いつでもほかのなにか”
 魔剣バルトアンデルス。
 殺人人形が携えていたもの。刺された男を石に変えてしまった不可解な剣だ。

 古代人、いやウィールド・ドラゴン=ノルニルの手によって鍛えられたそれ。
 ルイスの手にあっては効果を発揮しなかった。当たり前だ。それはウィールド・ドラゴンが持つ知識なしには使用できないものだったから。

 バルトアンデルスの正体は、分かってしまえばそれ自体はなんてことはない、斬りつけたものを“いつでもほかのなにか”に変えてしまう剣であった。
 斬りつけられたものは魔術文字によって最小単位まで分解され、使用者の意思により任意に構築し直される。殺人人形は、その機能を石化に利用していたのだ。
 イスターシバよりその情報を得たルイスは、もちろんこれを復讐に使うことにした。

「“知っていれば”勝手に機能は発動する」

 イスターシバは言った。

「使用しているという自覚さえあれば、バルトアンデルスの機能はそのまま使えるのだ」

 これを使えば殺せる。ルイスは確信した。
 だがイスターシバは断言する。

「こんなもので勝てるならば、ディープ・ドラゴンはとうに滅びていただろうな」

875: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/16(木) 23:34:11.09 ID:Ag.NhKMo

 突きこんだバルトアンデルスが、何かを貫いた。刀身の魔術文字が輝く。
 あとは変化させたいものを思い浮かべ、念じるだけでいいはずだった。

 グリーンピースがいい。彼は思った。大嫌いなそれ。
 みじめな小さい豆粒にして、思い切り踏みにじってやりたい。
 そうだ、何がドラゴン種族の戦士だ。何が影に息する者だ。

「僕はお前を殺してみせるぞ! 殺してやる!」

 魔術文字が一際大きく輝き――

「……!?」

 そして、何も起こらなかった。
 そこにはまだいる。強大な獣が。死を運ぶ狼が。絶大な圧迫感を放っている。
 ルイスが愕然としている内に、土煙が薄らいだ。こちらを見下ろす緑の双眸が姿を現す。

「……っ」

 ルイスは絶句したまま後ろに下がった、バルトアンデルスがディープ・ドラゴンの身体から離れた。

876: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/16(木) 23:35:22.75 ID:Ag.NhKMo

 刀身全体が目に入る。そこでルイスは理解した。
 魔剣バルトアンデルスの刀身は、折れていた。断面が鏡のように見えるくらいきれいに切断されていた。

「あ……」

 いつの間に。気付かなかった。全くもって分からなかった。
 ルイスは折れた剣の断面をただ押しあてていただけだったのだ。

「そ、そん……」

 ふらふらと後ろにさがる。だがすぐに木にぶつかって止まる。ゆっくりと見上げると、緑の瞳と目があった。
 きん――と頭の奥が痛くなる。すぐにそれは頭部全体に広がった。

(こ、これが――)

 そして、ゆっくりと崩壊が始まるのを感じる。

(これが、≪精神破壊≫……!)

 不思議と苦しみはなかった。ただ、どこまでも果てしない喪失感が身体全体を支配するのを感じる。
 視界が暗闇に包まれていく。

877: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/16(木) 23:36:08.43 ID:Ag.NhKMo

(ああ、姉さん……)

 諦めを自覚する。

(僕、駄目だった……ごめん……)

 とても、悔しかった。悔しくて悔しくてたまらなかった。
 だが、それと同じくらいさびしかった。自分はもう姉さんに会うことはないのか、と。

(……)

 もう何も見えなかった。暗闇の中で、ルイスは少しずつ分解されていく。
 終わりだった。もうどこにも行けない。どこにも帰れない。

(……?)

 暗闇に包まれた視界の中、文字が一つ瞬いた。それを視認したのを最後に、ルイスの意識は闇に溶けた。

878: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/16(木) 23:37:12.36 ID:Ag.NhKMo

     ※


「もう、無茶はするな」

 再び、白い天井。それをぼうっと見上げながら、ルイスは聞いていた。

「これで分かったろう。ディープ・ドラゴンは人間が勝てる相手ではないのだ」

 反論もなく。ルイスはベッドに横になったままうつろな瞳で天井を見つめていた。
 あれから――あの戦闘から――二日がたったらしい。あのとき瞬いた文字は、イスターシバがルイスを救出するためのものだったようだ。
 だが、精神を一部破壊されてしまったルイスは、その間ずっと意識を失っていた。ついさっき目が覚めたところだった。

「……」

 意識がはっきりとしない。虚脱感だけが身体を支配している。

「……なんで助けた?」

 問う。イスターシバは淀みなく答えてきた。

「言わなかったか? 女神に対抗するため、我らには人間種族が必要なのだ。仙人スウェーデンボリ―が召喚できない以上、我らに残された手はそれしかない」
「仙人……?」
「≪神殺しの神≫ 災厄の現出の際、同じく現れた神の一人だ。神でありながら神を殺す者として知られている。女神であろうと殺せるはずだ」

879: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/16(木) 23:38:35.41 ID:Ag.NhKMo

 だが、と彼女は続ける。

「その召喚は困難を極める。何しろ居場所も正体も分からない。さらに言えば素直に我らを助けてくれるとも限らんからな。となれば我らに残された手は人間種族しかないのだ」
「……」

 相変わらず、何の事だかわからない。
 だがどうでもいい。自分は、負けたのだ。

「勝手に脱落されても困る。汝にはまだやってもらわねばならぬことがあるのだから」
「そうかよ」

 ぼそっと言ってシーツに潜った。泣きたい気分だが、それもできそうにない。

「……まだしばらく休んでいろ。ただし、この部屋から出歩くな。聖域内はいくつかの派閥に分かれている。我はまだ汝らの来訪を公にはしてないが、来訪を快く思わない輩も少なくないのだ」

 ルイスは何も答えなかったが、イスターシバはこちらが聞いたのを確認すると部屋を出ていった。

880: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/16(木) 23:40:18.98 ID:Ag.NhKMo

 それからまた数日がたった。
 時間はむなしく過ぎていった。
 ルイスの一日は白い部屋の中で始まり、終わる。
 特にやることはない。やりたいこともない。ただただ、眠っていたい。
 一度精神を壊されたせいだろうか。感覚が変わってしまったような気がした。

「……」

 何度かイスターシバの訪問があった。その時にいくつか聖域のことについて説明してもらっていたが、どうにも頭に残っていない。
 聖域内派閥があり、人間種族の協力を得ようという側とそれに反対する側とで対立しているのだそうだ。それぐらいしか覚えていない。
 確か、危険なのだ。

(危険?)

 シーツをかぶったまま皮肉に苦笑する。自分など、もう死んでしまっても構わないというのに。

881: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/16(木) 23:40:56.31 ID:Ag.NhKMo

『お前たち二人を失うわけにはいかん』

 イスターシバは言った。

『我らに残された最後の可能性なのだ』

 可能性。自分たち二人。自分と姉さん。

(……姉さん)

 変わり果てた姿を見て以来、彼女には会っていない。
 あの姿を見るのはつらい。だから、会いたくない。

「……」

 それに、どんな顔をして会えばいいというのだ。無様に負けた自分が。
 会いたくない。

「……」

882: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/16(木) 23:41:48.82 ID:Ag.NhKMo

 リオは、どう思うだろう。

(姉さんは、やさしいから……)

 自分が負けたと知っても、怒らないだろう。ただ、危ない目にあったことは悲しむかもしれない。
 リオはやさしいから。
 でもちょっぴり頭が悪くて、ついでに言えば寂しがりやで……

「……」

 今もあの部屋に一人でいるのだろうか。
 白い部屋で、一人で揺り椅子に座っているのだろうか。
 それではきっと、彼女は寂しがるだろう。
 でも、会いたくない。

「……」

 白い部屋。一人。

「……」

 ルイスは上体を起こした。

887: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/17(金) 20:18:18.30 ID:3vP7FoYo

 白い部屋の、白い少女。
 部屋の中心の揺り椅子で、静かに静かに息をしている。

「……」

 部屋の入口から見るその風景は、それだけならば酷く平穏だった。だが、見ようによってはこれ以上ないほどに残酷だった。
 しばしためらった後、静かに近寄って、彼女の目の前にゆっくり腰を下ろす。

「姉さん……」

 膝を抱えて呼びかける。
 彼女は相変わらずぴくりとも反応しなかったが。
 言葉は続かずに、そのまま口をつぐんだ。再び無音が部屋を包んだ。

 静寂は長く続いた。耳がきんと痛くなる。何も動かない、何も聞こえない。
 目をつぶって息を吸う。はく。再び目を開けても見える光景は変わっていない。
 相変わらず、寂しい。
 胸を刺す静かさに耐えられなくなって、ルイスは口を開いた。

「……姉さんはさ」

 そこでいったん言葉を止める。

888: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/17(金) 20:19:14.99 ID:3vP7FoYo

 自分が何を言おうとしたのかしばし見失い、そしてそもそも考えて発した言葉ではないことを思い出す。
 苦笑して続ける。

「やっぱりちょっとやかましいくらいが似合うよ」

 言うほど今までかしましかったわけではないが、なんとなくそんなことを言っていた。
 とはいえ、今と比べればなんだってうるさくは感じるだろう。

「……お菓子を食べながらしゃべるのはどうかと思うけど」

 彼女はあまり行儀がよくなかった。
 思えば昔からそうだ。リオは魔界の姫でありながら、全くそういう風にふるまわなかった。
 いつも自分の思うままに突っ走り、周りに流されるより流すことを好んだ。
 静寂の中、記憶はつらつらと過去にさかのぼる。

「いっつも姉さんに引っ張られてた」

 笑う。そうだ、いつだってそうだった。
 ルイスは我を張ることは少なかったから、常にリオに手を引かれていた。

889: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/17(金) 20:20:01.30 ID:3vP7FoYo

 どこかに行くときも行かないときも。何をしているときもしていないときも。いつだって一緒だった。
 実際にはリオは稽古事でそんなに頻繁にルイスのところに来ていたはずはないのだが、それでも古い記憶は、リオと一緒にいたときのものばかりだ。

「最近は僕が手を引いてた気もするけどね」

 ふっ、と鼻から息が漏れる。

「そうだ、勇者ごっこは覚えてる?」

 リオはよくその遊びをしたがった。

「姉さんは勇者役をやりたがったよね。僕はそれでもかまわなかったけど、でもお姫様役は勘弁だったなあ」

 再び苦笑。
 今でも「助けに参りました、姫」と笑って言う当時の彼女の顔が思い出せる。
 記憶は次から次へとあふれてくる。ルイスは思いつくままゆっくりしゃべった。
 彼女の父の書斎に勝手に入って遊んだこと。彼女がルイスにつけた首輪が取れなくなって大騒ぎになったこと。そのあとルフに怒られたこと。ついでに反省の色のない彼女にルフの容赦ない膝が炸裂したこと。
 まだまだある。一緒にルイスの祖父の訓練を受けたこともそうだ。彼女の方が呑み込みがよくて、ルイスはその当時はなんとも思っていなかったが、今思い返すと彼女の武の才に嫉妬していたような気もする。ルイスが知の道に傾倒したのも、彼女への対抗心があったのかもしれない。

890: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/17(金) 20:21:02.24 ID:3vP7FoYo

「――僕たちは一緒に成長した。でも、姉さんは魔物だったから成長が穏やかだった。僕は当時はそんこと知らなかったから、それがとても不思議だった」

 だから、ルイスは訊いたのだ。姉さんはどうして大きくなるのがゆっくりなの、と。
 彼女は笑って言った。

『あたしは待ってるんだ』

 何を?

『ルゥ君があたしに追いつくのをだよ』

 ふーん?

『あたし、待ってるから』

 そして彼女はこうも言ったのだ。

『もしルゥ君がもたもたしてたら、その時はあたしの方から迎えに行くからね』

891: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/17(金) 20:22:33.12 ID:3vP7FoYo

「……」

 部屋は静かだった。何も聞こえなかった。
 唐突にこみあげてくるものを感じて、ルイスは膝に顔をうずめる。

(姉さん……)

 暗い視界。必死にこらえる。泣くな。姉さんの前では泣くな。彼女を心配させてしまう。
 歯を食いしばる。膝を強く抱える。そして自分を抑えつける。
 ……その時、声が聞こえた。

「ルゥ君」

 はっとして顔を上げた。
 だが、何も変わっていなかった。部屋は白く、彼女も白く。目はうつろでどこか遠く、自分の視線とは交わらず。
 ただ、彼女の揺り椅子だけが、わずかにそっと揺れている。

895: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/18(土) 01:08:12.74 ID:.hkTX.oo

     ※


「そうか。回復がだいぶ進んだのだろうな」

 リオの部屋に姿を現したイスターシバは、ルイスが勝手に出歩いたことに関しては特に言及しなかった。
 今はルイスを連れて、延々と続く白い廊下を歩いている。

「もう少しすれば、完治するはずだ」

 もう十分近く歩いている気がする。その割に目に見えるものは相変わらずどこまでも続く同じ風景だけだった。

「どこへ向かってるんだ」

 ルイスの問いに対し、イスターシバの回答はそっけないものだった。

「着けばわかる」
「……」

 先導するイスターシバの緑色の髪を見つめる。
 聞けばそれは、生来のものではないらしい。緑の瞳――こちらはすべてのドラゴン種族に共通の特徴だそうだが、それも同様という話だ。以前された説明が徐々に記憶によみがえってくる。
 それらはおよそ千年前、彼らドラゴン種族が魔術を手に入れたときに現れた。運命を剥ぎ取られた印とイスターシバは言う。

896: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/18(土) 01:09:12.97 ID:.hkTX.oo

「千年前……そんな昔からあなたは生きていたというのか」
「そうだ。我は起こったことのすべてを目にしてきた」

 ルイスの、唐突といえば唐突な問いに、彼女は振り向きもせずに答えた。

「ドラゴンはひどく長命なんだな」
「それは確かだが、我は特別だ。アイルマンカー、オーリオウル様の使い魔であるからな」

 使い魔。それは精神を強固にリンクさせ、感覚を共有するものだ。主の力も一部借りることができ、それにより寿命を延ばしているということらしい。
 そうして得た時間を、彼女は全て戦いに費やしてきたという。
 それはきっととても――

「凄絶であった」

 内容に反して淡々と言った。

「……」

 白い廊下は、どこまでも続いている。

897: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/18(土) 01:11:01.32 ID:.hkTX.oo

 着いた広間はやはり白かった。他の部屋と違うのは、柱が壁に沿って数本立ち並んでいることぐらいだ。
 だが、相変わらず何もない。と思いきや……

「なんだ?」

 妙なものを見つけて足を止めた。
 それは、一言でいえば鳥に見えた。ただ、普通の鳥ではない。一抱えほどもある大きさをしている。それが壁際で眠りこんでいた。

「ああ、それには近付くな。すこぶる危険だ」

 前を歩くイスターシバが、振り向いて忠告してくる。

「カゲスズミ……なんとか言って、鳩の一種だ」

 それを聞いて思い出す名がある。カゲスズミノコギリコバト。

「……こんなに大きいのに鳩?」
「千年より前は腐るほどいた。だが神々と我らの戦いに巻き込まれ大陸にいた分はその時に全滅した。今いるのは孤島にもともといたもののみだ」

898: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/18(土) 01:12:06.32 ID:.hkTX.oo

 頭に引っかかることがあった。何か忘れている気がする。
 だが、それを思い出す前にイスターシバに呼ばれた。

「ここだ」

 見上げるほど大きな、格子の門だった。広間のつきあたりに悠然とそびえている。

「……?」

 ルイスは、なにか底知れない圧迫感が扉から漂ってくるのを感じた。重苦しく、息を詰まらせる。

「ここは……?」
「≪詩聖の間≫だ」
「≪詩聖の間≫?」

 イスターシバを見ると、彼女は頷いて続けた。

「この向こうにいる」
「何が」
「……女神だ」

 女神。ドラゴンたちが長年戦ってきた敵。この圧迫感の正体はそれなのか。

899: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/18(土) 01:16:19.01 ID:.hkTX.oo

「汝を連れてきたのは、女神と対面させるためだ」

 彼女は格子の門に近寄った。

「≪最終拝謁≫」

 そして、門に軽く触れる。

「それは“過去”との邂逅。そして女神との対面によって、汝は一つ高次の存在に押し上げられるであろう。……開けるぞ」

 ルイスの返事を待たず、門がゆっくりと動き出した。
 途端、開いた隙間から圧倒的な気配が噴き出してくる。

(なんだ……!?)

 思わず身構えながら目を凝らす。
 門はたっぷり時間をかけて開き切り、その向こうの光景をあらわにした。
 そこにいたのは――

「……」

 広大な暗闇に佇む、物言わぬ一人の女だった。

903: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/18(土) 22:44:35.01 ID:.hkTX.oo

 緑の髪と緑の瞳、緑のローブ。女はイスターシバとそっくりな格好をしていた。同じように端正な顔立ち、のびやかな四肢。だが違う女だ。
 門の向こうに広がる暗闇。入口からかなり奥に入ったところに浮いていた。
 浮いている? なぜ?
 答えは簡単に分かった。その女の首は虚空から唐突に伸びる手によってつかまれていた。それが女を空中にぶら下げている。
 そして――間違いなくその首は折れていた。手に掴まれたところから完璧に。生命に支障が出る角度で。

「中には入るな、危険だ」

 イスターシバの声はどこか遠くに聞こえた。

「女神……」

 ルイスはつぶやく。ドラゴン種族を孤島に追いやった神々。あれが、そうなのか?
 だがイスターシバは首を振る。

「違う。あの方は我らウィールド・ドラゴン=ノルニルがアイルマンカー、オーリオウル様だ」
「……?」

 だが彼女は言ったではないか。門の向こうには女神がいると。

「それより前にこうも言ったはずだ。女神の侵入を、オーリオウル様がとどめているとな」

 ……では、女神はどこにいる。詩聖の間とやらの中には一人分の人影しか――

(――! いや)

 ルイスは気付いた。

「その通り」

 イスターシバが頷く。

「オーリオウル様の首をつかんでいるのが女神ヴェルザンディだ」

 ルイスは絶句して、その光景をみつめた。

904: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/18(土) 22:45:27.21 ID:.hkTX.oo

 と。ふと気付いた。オーリオウルと呼ばれた女。始祖魔術士。それがこちらを見ている。その目にかすかながら意志の光が見えた気がした。

(まさか……生きているのか?)

 あり得ないことに思えた。首は完全に折れている。見えたものが夢でないならば、彼女は死んでいなければならない。
 オーリオウルと視線が交わる。同時に、視界がゆっくりと歪んだ。

(なんだ……!?)

 焦って視線を外そうとするが、もう視界は動かせない。それは徐々に暗く沈んでいく。
 似た感覚は知っていた。精神支配。だが、今までとはわずかに違う。何かとつながる感触。
 しばらくすると、視界は完全に闇に沈んだ。

「……」

 何も見えない。暗闇に浮くようにして、ただルイスはそこにいた。
 困惑してあたりを見回すが、あるのは暗闇ばかりだった。
 いや。
 唐突に緑色の瞳と目が合って、ルイスは息をのんだ。

905: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/18(土) 22:48:05.59 ID:.hkTX.oo

 暗闇の中、緑のローブがさらりと揺れる。

「オーリ、オウル……」

 目の前にいるのは、確かに首をつかみ折られていたはずの女だった。暗闇だというのにその姿はくっきり見える。ルイスと彼女は、数歩の間をおいて向かい合っていた。

『……』

 しばらくの沈黙があった。が、オーリオウルが突如唇を動かした。
 何かを言おうとしている。悟って、ルイスは思わず身体をこわばらせた。

『神とは』

 どこまでも澄んだ、透明な声だった。その声がゆっくりと語る。ルイスは思わず聞き入った。

『神とは、世界そのものであった。広大無辺、無限の力。全知全能の力、“魔法”とも呼ばれるものだ』

 突如暗闇が光で満たされる。ルイスはあまりの眩しさに目を覆った。そして、こわごわと目を開く。

「……?」

 周りの風景は一変していた。

906: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/18(土) 22:49:26.63 ID:.hkTX.oo

 広大な、どこまでも続く石造りの道。周りに立つ高い建造物。全体の大きさの把握すらできないほどの壮麗な都。ルイスと女の二人は、そこで向かい合っていた。
 周りを見渡し言葉を失う。

(これは……)
『千年より前。我ら六種のドラゴンと人間はそれぞれに壮大な文明を築き、時に争い時に寄り添った』

 道には歩いている人影があった。いくつもいくつも。
 彼らはゆったりとした服を着ていて、黒髪が多い。一目では全て人間のように見えた。だが、どことなく雰囲気が異なる者もいる。

「ウィールド・ドラゴン……」
『全ての種が手を取り合った記念すべき時代があった。我らはその時代を祝福した。それが歪みの始まりとも気付かずに』

 周りの風景が歪み、遠くに消える。後には元通りの暗闇が残った。

『あるとき、我らの文明をより高次な次元に押し上げようという計画が立てられた。そのために力と知恵に恵まれた六種、ドラゴンは一人ずつ知恵物を送り出した。マシュマフラ。ガリアニ。レンハスニーヌ。プリシラ。パフ。そして我、オーリオウル。我らは≪賢者会議≫と呼ばれ、その名に恥じぬ壮大な目標を設定した』

 アイルマンカー、オーリオウルが目を閉じる。

『世界を制御する方法を、開発しようとしたのだ』

911: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/19(日) 13:23:48.69 ID:qKMJ5VMo

     ※


「彼らが見つけたもの。それは世界を統べる法則……いや、原則とも言えるもの。それが神の正体。常世界法則」

 ≪最終拝謁≫――始祖魔術士オーリオウルとの精神交感を終えて、ルイスは目をつむったままつぶやいた。

「それはシステム。世界を構成するシステムだ。絶対だけど、不変じゃない。そこに目をつけた賢者会議は、それに介入し操る術を見出した」

 やはり目をつむったまま続ける。掲げた手に抵抗を感じたが、それはどうでもよかった。

「だが、問題が起こった」

 目を開ける。ルイスの手に首をつかみ上げられ暴れるイスターシバが目に入る。

「世界の法則を支配する魔術は、その法則である“魔法”に矛盾を引き起こした。システムに制御される者が、システムを制御するという矛盾だ。かごの中にいる者がかごを持つことはできない。そして、矛盾は災厄を引き起こす」

 イスターシバは爪を立てて激しく抵抗しているが、ルイスの右腕は微動だにしない。腕一本だけで、がっちりと彼女を固定している。

「世界の法則にじかに触れたことで、アイルマンカーたちは絶大な魔力を手に入れた。ドラゴン種族は強力だけど、それよりさらに強大な力を手に入れたんだ。そして、不老不死となった。運命を剥ぎ取られ、緑色の瞳という烙印を押されて。彼らはどう思ったんだろうな。でも、そんなことはどうでもいいんだ。大事なのは世界に起きてしまった災いだ」

 彼女の首をつかむ手にほんの少し、さらに力を加える。

「世界は、狂ってしまった」

912: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/19(日) 13:24:51.65 ID:qKMJ5VMo

「神というのは広大無辺、世界そのもの。ゆえに全知全能。だが、それが矛盾によって崩壊してしまったんだ。神は全知全能から一つ存在のレベルを落とした。そして起こったもの。それは――」

 イスターシバのうめき声。それに重ねるようにして言う。

「“現出”――神々の現出。それまで法則としてしか存在していなかったものが、生物としてこの世にあらわれてしまったんだ」

 だけど、と彼は続ける。

「ただ、現出しただけじゃない。」

 手にさらに力がこもる。

「人間が、神化する現象が起きたんだ……!」

 身体が熱かった。

「人間は賢人会議に代表者を送り出さなかった。それはドラゴンたちに認められなかったのか、それとも人間自身が拒否したのか。僕は知らない。だけど、結果として人間はユニットとして常世界法則に組み込まれることはなかった。そのせいもあるんだろう。唯一残った種族に、現出は起こった。常世界法則が、人間に憑依して――この言い方が近いだろう――それを変異させた」

913: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/19(日) 13:27:17.15 ID:qKMJ5VMo

「……人間には始祖魔術士はいない。あのラモニロックというのは偽りのアイルマンカーだ。なぜなら人間はアイルマンカーを必要とせずに魔術を用いることができるから。いや、魔術とは違う。それは魔法の片鱗だ。神化の前兆なんだ。人間が神になることの証明でもある」

 熱が先ほどから身体全体に広がって、ルイスの怒りをより強いものにしている。

「神化し、化け物となった人間は残されたわずかな思考で判断した。世界を元に戻さねばならないと。そのためにドラゴン種族を駆逐せねばならないと。魔術が行使されることがなくなれば、結果として魔術による矛盾もなくなる。人間に戻ることができる」

 イスターシバの首が、そろそろみしみしと音を立て始めていた。それでも力は緩めない。

「ところで人間には肉体化――ヴァンパイア化という可能性が存在する。肉体強度が大幅に強化される過程だ。今女神の影響によって僕に起こっているこれだな。人間が神に出会い、その影響を受け入れることで引き起こされる。でも実はそれは、神化の一過程にすぎない。神になった人間が、別の人間に影響を与えることで同じく神に引き上げる現象なんだ」

 ドラゴン種族は丈夫だった。女神ヴェルザンディの影響により変異したルイス・フィンランディ・ヴァンパイアの力に対し拮抗している。今のところは。

「全知全能から一つレベルを落としたとはいえ、神の力はドラゴンに輪をかけた強力さだ。神人には神人でしか対抗できない。だからあなたは僕を神化させようとした。それは失敗だよ。僕はあなた方に協力なんてしたくない。あなた方の運命? くそくらえだ」

 ルイスは彼女を睨みつけた。
 彼の腕は先ほどからイスターシバの首をつかんでぶら下げたままだ。右腕一本だが、疲労は感じなかった。むしろさらに力があふれてくるように感じる。

914: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/19(日) 13:28:53.79 ID:qKMJ5VMo

「こ……の……」

 イスターシバが苦しげにうめく。だが、そんなことどうでもいい。

「自業自得だ、あなた方は。自分から運命を投げ捨てた。だが人間はどうだ? あなた方のとばっちりを食らっただけじゃないか。望まずして運命を剥ぎ取られた人間の思いが、あなた方には分かるか? ヴェルザンディも、あの肉塊ももともとは人間だったんだ。それぞれの生活と人生があったはずなんだ。あなた方はそれを奪った!」

 イスターシバは魔術文字を描こうとしたのだろうが、首をつかむ力を調節して苦痛によって阻害する。

「それだけじゃないな。あなたがたは殺人人形を作り、人間の根絶に動いた。何故か。それは人間さえいなくなれば神が現出することはないと考えたからだ。人間がキエサルヒマ大陸に移ったのは、それを逃れるためだ」

 怒りに我を忘れて彼女の首を握りつぶしそうになり、なんとか自制だけはする。

「実際にはキエサルヒマにも現出によって独自にヴァンパイア化した人間種族――魔物がいたわけだが、それはいいだろう。とにかく、あなたがたは自分たちの都合だけで、人間を追いやった」
「我らとて……必死だったのだ……」

 イスターシバが苦しげに言う。

915: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/19(日) 13:29:52.05 ID:qKMJ5VMo

「それに……お前の知らぬ、昔のことだ……お前に、何が分かる……」

 その一言を言い終わる前に、ルイスはイスターシバを適当に放り投げた。
 床にたたきつけられ、彼女が悲鳴を上げる。

「何が分かる、か? もうすでに僕の前で二人死んでるんだ! 殺人人形に殺されてしまった人! そして、ヴァンパイアになってしまって、殺さなければならなかった人だ!」

 イスターシバが激しくせき込んでいる。そのせきの合間合間に、声が聞こえた。

「それ、でも……守り、たかった……のだ……」

 ルイスの身体から、すっと熱が引いた。

「そうかよ」

 ヴァンパイア化が、止まった。自分の身体が化け物のそれから人間のものに戻っていくのを感じる。

「だがな、僕は神になってお前たちに協力するなんてまっぴらごめんだ。自分たちで何とかするんだな」
「お前も……あの少女も、巻き込まれるのだぞ……?」
「……」

 ルイスは答えなかった。

918: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/20(月) 23:04:56.80 ID:WOsdalMo

「イスターシバ様!?」

 唐突に、広間の入口から声がした。見るとイスターシバと同じく緑のローブを着た女が駆け寄ってくるところだった。イスターシバの手の者だろう。

「大丈夫ですか、イスターシバ様!」

 彼女は数歩離れたところで足を止め、ルイスに向かって虚空に魔術文字を描き始めた。攻撃の文字。
 抵抗の意思もなく、ルイスは肩をすくめて両手を上げる。イスターシバにかなり乱暴なまねをしたのだ。ここで消されてもおかしくない。自分を生かしておいても彼らの益にはならないどころかむしろ危険でもある。

「……」

 こちらもこの世に未練はなかった。こんなめちゃくちゃにされてしまった世界になど。そして、ルイスの欲しかった真実はつかんだ。繰り返すが未練はない。いや……

(姉さんに会えなくなるのは……未練といえば未練か)

 苦笑して、目を閉じた。

919: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/20(月) 23:05:43.73 ID:WOsdalMo

「やめろ……」

 うめくようにして出される声。目を開く。

「その者を殺すな……」
「イスターシバさま、しかし……」

 文字を途中まで描いたまま、女が言う。しかし、イスターシバは言葉を変えることはなかった。
 起き上がりながら続ける。

「殺すな……それよりも、我に用があるのであろう……?」
「……」

 女はそれでもいくらか迷ったようだが、よほど急ぎの用だったのだろう、魔術文字を消すとイスターシバの下に駆け寄った。耳打ちする。

「……なに?」

 沈黙をはさんでイスターシバの眉間にしわが寄る。

「それは真か?」
「ええ」

 頷く女の顔も、苦渋に満ちていた。

「……?」

 ようやく両手を下ろして訝しい思いに片眉を上げたルイスに、イスターシバの視線が刺さった。、

920: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/20(月) 23:08:01.24 ID:WOsdalMo

◆◇◆◇◆


 夜の森には闇が満ちていた。月は出ておらず、頼りになる光はない。風もなく、無音。湿っぽい空気があたりに漂う。
 ここは孤島の中心に広がる森。“フェンリルの森”という名もあるにはあるが、呼ぶ者は少ない。森は森だからだ。そして、その森の闇の一角。そこに一頭の獣が立っていた。

「……」

 静寂の獣、ディープ・ドラゴン=フェンリル。名の通り、音も気配もさせず。その輪郭を闇に溶かし、ある一点を睨みつけたまま動かない。
 見つめる方向にはやはり森が広がっている。そこにはそれしか存在しない。
 いや――
 ざわり。
 闇が唐突にうごめいた。

 同時にディープ・ドラゴンの目が鋭くなる。白い光が瞬いた。遅れて轟音。森の土を舞い上げて、突風が荒れ狂う。しかし。
 土煙を割って、鋭いものが飛び出した。ディープ・ドラゴンが反応するより早く、その身体に突き刺さる。
 ディープ・ドラゴンの声にならない悲鳴が夜の闇に響いた。

 だが、獣への攻撃はそれだけにとどまらなかった。続いて飛び出した幾本もの“針”が次々にディープ・ドラゴンの身体を貫く。
 それは夜の闇の下では分かりにくいが腐った肉の色をしていた。肉の針はとどまることをしらず、ついにディープ・ドラゴンの身体を埋め尽くす。
 そして、森の茂みの中からのそりと出てくる大きな塊。おぞましく身体を震わせながらもう動かない獣に近付き、その身体をゆっくりと呑み込んだ。
 数秒ほどで“吸収”を終えた肉塊は、あたりをうかがうような気配を見せると、再び森の闇に姿を消した。


◆◇◆◇◆

921: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/20(月) 23:09:02.97 ID:WOsdalMo

「どういうことか説明してもらおうか、イスターシバ殿!」
「……」

 あまり大きくない議場内は殺伐とした空気に満たされていた。
 その部屋の中央には大きなテーブルが置かれ、そこにウィールド・ドラゴンが数名、向かい合って座っている。不思議なことに、その誰もが女性だった。数は多くない。だが、それはウィールド・ドラゴンのほぼすべてらしい。

「神、デグラジウスの侵入。イスターシバ殿はこの事態を予測していたという。それは何故なのだ!?」

 険悪な表情で問い詰める女性は、イスターシバの対面に座っていた。その両隣にも、従者と思しきウィールド・ドラゴンが二、三人座っている。彼女はイスターシバに並ぶ実力者なのだろうと、ルイスは推測した。

「……人間種族が、アイルマンカー結界内に現れたのだ」

 イスターシバの言葉に、一瞬議事堂内が静まる。

「それは、どういうことです?」

 先ほどとは別のウィールド・ドラゴンが彼女に問う。

922: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/20(月) 23:11:11.18 ID:WOsdalMo

「大陸にある世界図塔。それを使って、アイルマンカー結界内に転移してきた。そういうことらしい」
「あなたが呼び寄せたのではないのか?」

 実力者の女が再び口を開く。その目には不審の光があった。

「あなたは前々から人間種族および仙人スウェーデンボリ―の召喚を主張していた。それを実行に移したのでは?」
「誓って言う。それはない」
「そうでしょうか。人間の召喚を独断で行い、その際不注意によりデグラジウスをも呼び寄せてしまったのでは?」
「違う」

 イスターシバが女を睨みつける。だが、女も引きさがる様子はない。

(デグラジウス?)

 ルイスは、議場のテーブルから離れたところに立っていた。誰も彼の方を見ようともしない。まるでそこにいないかのように。ルイスの目の前には魔術文字が輝いている。それは彼を隠蔽するためのものであり、声を出したりしない限りは誰も気付くことはできないらしい。イスターシバによる術だ。

923: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/20(月) 23:11:51.86 ID:WOsdalMo

「来訪した人間種族の記憶を読んだ。彼らは転移する際デグラジウスに襲われていたようだ。ちょうどその時に世界図塔が起動したらしい。それで――」
「では成功したのでしょうね」

 女はイスターシバが言い終わる前に口をはさんだ。

「人間種族を神化させ女神を撃退する計画は、成功したのでしょう?」
「それは……」

 イスターシバの視線が落ちた。

「まさか、デグラジウスの侵入という失態を犯して、なんの成果もなかったとでも?」
「デグラジウスの侵入は、我らの失態ではない」

 だが、女の言葉は止まらない。

「あなたはいつだってそうだ。無謀な計画を立てるだけ立て、その現実性を考えもしない」
「では汝らはどうなのだ!」

 今度はイスターシバが激昂し、声を張り上げた。

924: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/20(月) 23:12:33.68 ID:WOsdalMo

「汝らは絶望するだけでなんの手立ても考えてはこなかったではないか!」
「……」
「我は、戦っていたのだ……!」

 議場内が沈黙する。

(……)

 彼女ら、いや彼女は戦っていた。千年より前から戦っていたのだ。
 とはいえ、それらは彼女らの自業自得で、ルイスの知ったことではない。

「だが今は……口論よりも、デグラジウスをどうにかしなければならない」

 イスターシバが、いくらか落ち着いた声で、ため息交じりにつぶやいた。そして議論が再開する。が、ルイスはそれを聞いてはいなかった。
 そう、彼らは自業自得だ。自分の知ったことではない。何もすべきことはない。
 だから。

「僕に考えがある」

 ルイスは自分の声を、信じられない思いで聞いた。

925: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/20(月) 23:13:03.49 ID:WOsdalMo

 ルイスの声に、議場がざわつく。今まで何もいなかった場所に当の人間種族が現れたのだから当然といえば当然だろう。

「おい……!」

 イスターシバが声を上げるがそれを無視してルイスは続けた。

「この中で助かりたい奴は何人いる?」

 ウィールド・ドラゴンたちは呆気にとられるばかりで声を発する者などいなかったが。

「僕があなた方に、手を貸そう」

 ルイスは、頷いた。

928: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/21(火) 20:43:16.86 ID:LyV28s6o

◆◇◆◇◆


 レッド・ドラゴン=バーサーカー。
 強靭な肉体を誇るドラゴン種族の中でも飛びぬけて身体能力が高い彼らは、行使する魔術の性質と相まってドラゴン種族の暗殺者と称される。
 ≪獣化魔術≫
 それは、自らの体液と肉体を媒体とし、それを変化させるものだ。普段は人型をしていることが多いが、別の生き物に完全に変身することや変化させた身体を武器とすることも可能である。
 知能は極めて高く、状況に応じて即興で新しい言語体系を創造することもできる。本来ならばウィールド・ドラゴンの下にいるような器ではない。
 少なくともレッド・ドラゴン、ヘルパートはそう考えていた。

「……」

 彼の目の前には始末するべき目標がいる。シスター・イスターシバが匿っていた人間種族の内の一人だ。部屋の中心で、力なく揺り椅子に揺られている少女。
 楽な仕事だった。ウィールド・ドラゴン同士の抗争に自分たちが駆り出されるのは気に入らなかったが、それでもまあ簡単な仕事ではあった。なんの抵抗もしない獲物の首一本をそっと折ってくるだけの。
 彼は無言で指の一本を獣化魔術で長く紐のように伸ばすと、獲物の首に巻きつけた。

929: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/21(火) 20:47:12.63 ID:LyV28s6o

 獲物は反応らしい反応も示さなかった。ただ、俯き気味にうつろな視線をいずこかへと注いでいるのみだ。
 繰り返すが簡単な仕事だった。魂の抜けた人形を一体壊すだけの。
 やはり無言のまま、彼は目標を無に還すべく一握の意志の力を――

「ルゥ君……?」

 レッド・ドラゴンは訝しい思いに片眉を上げた。少女を見る。
 ……先ほどと何も変わったところはない。気のせいかと思い……だが。

「ルゥ君」

 うつろな目が、こちらを向いていた。

「……」

 この少女はディープ・ドラゴンに精神を破壊されたらしい。ウィールド・ドラゴンにより治療されていると聞くが、この様子だとまだ全快には遠いだろう。
 その夢うつつの境で、自分に他の何者かを重ねているようだ。
 思わず苦笑する。その者は彼女の親しい誰かなのだろうか、それとも全く仲のよくない誰かなのだろうか。わからないが、誰にしろ彼女を殺す者ではないはずだった。
 しかし、自分は殺す。

「悪く思うな」

 抵抗はできまい。巻きつけた指に、軽く力を入れた。

930: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/21(火) 20:47:41.00 ID:LyV28s6o

◆◇◆◇◆


『あたしは待ってるんだ』

『何を?』

『ルゥ君があたしに追いつくのをだよ』

『ふーん?』

『あたし、待ってるから。もしルゥ君がもたもたしてたら、その時はあたしの方から迎えに行くからね』


◆◇◆◇◆

931: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/21(火) 20:49:49.91 ID:LyV28s6o

 リオは深く息を吸い、それから長く吐いた。

「……」

 閉じていた目を、ゆっくり開く。
 まず目に入ったのは、驚いた男の顔だった。見覚えはない。
 次に目に入ったのは、その首に突き刺さったナイフ。そのグリップを、彼女の手がしっかりとつかんでいる。
 特に驚きはなかった。目が覚めたばかりだが、目の前の男が乗り越えなければならない敵であることは、本能に近い部分が知っていた。

「……っ」

 男が飛び退る。傷は特に致命傷ではないらしい。すぐに傷は埋まって見えなくなった。

「……」

 そして、彼女は知っていた。自分のやるべきこと。
 ナイフを握りなおし、構える。

「迎えに行くよ、ルゥ君」

 目の前の敵に向かって。彼女の足が、力強く床を蹴り離した。

932: アナウンス 2010/12/21(火) 20:50:41.23 ID:LyV28s6o
あともう一息

934: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/21(火) 23:51:47.02 ID:LyV28s6o

◆◇◆◇◆


 ウィールド・ドラゴンに男性の姿がないのは、女神との戦いで死に絶えてしまったかららしい。彼女らは子孫を残す術を失った。もともと長命な種族だが、それでも未来は閉ざされてしまったのだ。
 それは緩やかな絶望だろう。彼女らは、ずっとそれに蝕まれてきた。

「……」

 白い壁面を見上げながら、ルイスは物思いにふけっていた。
 ≪第二世界図塔≫――今までに見た世界図塔の数倍ほどの広さ、巨大な白い円柱状の内部。大がかりなそれは、転送のためではなく召喚のために造られたものらしい。

「本当に、我らは助かるのか……?」

 背後からの声に振り向く。イスターシバがそこにいる。
 彼女はいや、と続けた。

「それよりも、なぜ我らを助ける気になったのだ?」

935: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/21(火) 23:54:46.72 ID:LyV28s6o

「大したことじゃない」

 ルイスは彼女から視線をはずして答えた。再び別の白い壁面に視線を這わす。その壁面は、先ほどと何が変わるわけでもないが。

「デグラジウス――あの肉塊がここに侵入してくれば、逃げ道がない以上僕と姉さんも巻き込まれてしまう。それに……」
「それに?」
「あなたは、姉さんの治療をやめるぞ、と僕を脅すこともできた。それをしなかったから、かな?」

 イスターシバが黙り込む。ルイスはかまわず壁に近寄ると、それに触れた。

「助かるかどうか。その質問に対しては、多分、としか答えられないな」
「仙人スウェーデンボリ―の召喚は困難を極める。当然だろう」
「僕は無理とは言ってないよ」
「……? できるのか?」

 ルイスは肩をすくめた。

「できるとも言ってない」

 イスターシバが怪訝そうな視線でルイスを見る。

「ところで、召喚には――」
「ああ、呼び寄せたいその者を強く思い浮かべればよい。後は我が手助けする」
「ん。分かった」

 ルイスは第二世界図塔の中心に歩み寄り、そこに立つと、目を閉じた。

「じゃあ、始めようか」

936: 以下、三日目金曜東Rブロック59Aがお送りします 2010/12/21(火) 23:56:35.34 ID:LyV28s6o

     ※


 ぽっ、と。閉じた瞼の向こうに光を感じた。それは壁面一体に広がり、さらにその光量を上げたようだった。

「……」

 だが、ルイスはそちらには意識をやらずに、ただただ集中に努めた。
 光がちらりちらりと動き始める。それは渦を巻き、中心に立つルイスの目の前に集まってくる。

(来い……)

 ルイスは集中に、さらに集中を加えた。
 瞼の向こうの光がさらに強くなる。そして音が聞こえる。荒れ狂う風の音。
 光は凝縮し、大きな球形になったようだった。

(仙人スウェーデンボリーを召喚することは、僕にはできない)

 目を開く。さらに凝縮し、縮んでいく光が網膜を焼く。

(だから、僕に呼べる人を、僕は呼ぶ)

 光は一点にまとまると、しばらく沈黙した。風の音も止む。

(――かつて世界を救ったあの二人を!)

 点になった光が、ついに耐えきれず爆発した。無音の閃光。
 目を押さえかがみ込んだルイス。そして目の激痛の中で、彼はひどく懐かしい声を聞いた。

「……ん、あれ?」
「……ふむ?」

 それは、どこかこの切迫した雰囲気に合わず、どこか間が抜けていた。
 それがかつて世界を救った、英雄たちの第一声だった。

937: アナウンス 2010/12/21(火) 23:57:34.80 ID:LyV28s6o
第五章、了


次回 魔王娘「繋いだ手と手」 歴史学者「優しい真実」