2: 名無しさん@おーぷん 20/05/07(木)01:37:47 ID:19i
【空白】



 浅倉透にとってその数年間が如何なる意味を為しているかについて語ることはできない。
 点と点。
 その間を結ぶ線分は無く。
 原点から小さい座標を持つ点に向けて伸びる線分と、そして大きな座標を持つ点から伸びる半直線だけが存在する。
 彼女にとって前者の線分は始まりであり、後者の半直線は未来であった。
 その空隙にあたるぽっかり空いた空間が今の彼女を構成しているというのに、しかしすぐ先の未来においてそれは意味をなさない。
 マルコフ連鎖的に積み重なっていく日々の漸化式の、その初項が遠く過去にある。
 だからこの漸化式を解くのは不可能で──仮に無理やり解いたとしても──その解の振る舞いに意味はない。
 ゼロではない。でも、意味もない。
 孤立した時間幅に名前をつけるとしたら、きっと無色という名前になるのだろう。
 色がついていない──すなわち、透明。
 真白とも真黒とも違う、虹色などとは似ても似つかない色──透明色。
 


 ────その色の解像度が少し濁った、初夏の入り口の頃だった。

引用元: 【シャニマス・モバマスss】透明を盗んで【浅倉透・辻野あかり】 



3: 名無しさん@おーぷん 20/05/07(木)01:38:01 ID:19i
【夜色】
 


「……まだ少し、あるか……。」
 目を閉じて身体ごと後ろに倒れる。
 倒れ込んだ頭が投げ出された位置は、枕の座標とは少しずれたようだが、それでも柔らかな感触が全身を包んだ。
 大きく息を吸う。そのまま数秒腹にため込んで、小さく吐く。
 酸素の収支は合わないような気がするけど、体の力が抜けた気がする。
「透、どうー?」
 階下から声が聞こえる。母親の声は妙に張りがあるように感じられた。
「んー、あるのかな……?」
 先ほどの自らの感想を少し加工して述べる。
 透は、自分の感覚が周囲と少しずれていることをおぼろげながら理解している。
 だからこの体温だって、本当は大して騒ぐようなことでもないのかもしれない。
 単に季節の変わり目だから、その移行に心も連れ立っていくだけ。それだけのことだと透は理解している。
 しかし透自身の理解の仕方が一般に理解されているものと少しばかり乖離していることに、彼女はまだ気付いていない。
 何それ、という声がまた響く。今度は階段でより強く吸収を受けたのか、耳に届く音は粒が見えなくなるくらいまで細やかなものになった。
 ────首はそのまま、視線だけ左に傾ける。
 窓からはあたやかな光が差しこみ、部屋の一部、机から数十センチ離れたところからクローゼットの半分くらいまでを照らしている。途中、クローゼットの壁面に光が侵入したときに、大きく角度が変わって長方形は歪な図形へと変化している。
 ────だがその領域は閉じていて。なんの言葉もかけていないのに、ゆらゆら揺れている。

4: 名無しさん@おーぷん 20/05/07(木)01:38:12 ID:19i
 透がぼうとしていると、階段を上がってくる音が聞こえた。
 足音の数にわずかな違和感があったが、その正体に気づいた時には、元凶はすでに透の部屋の前までたどり着いていた。
 扉が二度ノックされる。
 少し間があいて、「透」という、低く通りが良い声が聞こえた。
「え、なんでいるの。」
 その声の主に名乗られるまでもなく、透はそこに誰がいるかは理解した。しかし「なぜ」かはすぐには把握できず、鈍い頭をできるだけ高速で回転させているうちに、解答が部屋の向こうから提示された。
「体調が悪いって聞いてな。近くまで来たし、少し大事な話もあるから、寄らせてもらった。」
 不思議なくらい理解が速かった。
 彼が次の言葉を継ぐ前に、「ちょっと待って」と時間をもらってから、せめてと思い上だけ適当なアウターを羽織った。
「もういいか」と問われれば、いつまでだって時間が欲しいけど。そのいつかを待っていたら日が暮れてしまうな、と諦めにも似た感情を透は咀嚼し、「いいよ」と声をかけた。

5: 名無しさん@おーぷん 20/05/07(木)01:38:29 ID:19i
「元気そう……でもないな。」
「ま、寝れば治るよ。」
「うん、そうか。じゃあ、なるべく寝なきゃいけないな。」
「起こしたの、プロデューサーだよ。」
「でも、起きてたろ?」
「そうだけど。」
 何かをその会話で意図していたわけでもない。
 水が流れるように自然に交わされた会話。
 彼──プロデューサーは「心配した」とか「顔を見れてよかった」なんて言葉は口にせず、ただ透の顔をみている。
 心地よさとはまた違う、寂温(じゃくぬく)とした感情が何もない井戸から湧き上がったかのように、透の心を濡らしていった。
 その湿度にあてられて、右手の人差し指を右頬にくっつける。さらに中指だけを残したまま、他の指を軽く握る。
 ばか、と息を多く含んだ笑い声が小さく彼の口からこぼれた。

6: 名無しさん@おーぷん 20/05/07(木)01:38:41 ID:19i
 ……部屋には一瞬の沈黙が降りてくる。
 相変わらず柔らかな表情を携えた彼は、用件だけ手短にな、と震えのない声で口にした。
「さっき、お母さんにも話したんだけどさ。今度他事務所との合同合宿があるんだ。それに出てみないかって話。」
「合宿……?」
「うん。で、透次第なんだけど、俺としては、参加してほしいんだ。」
「いいけど、なんで。ていうかそれ、なに。」
 咳払いにも似た笑い声を押し殺すように軽く握られた左手が彼の口元を隠す。
 くしゃりとゆるく刻まれた皺は、彼の心に迫り上がるおかしさを表していた。
「理由の後に、なんなのかを聞くんだな」と、こみ上げる笑いの勢いは小さいけど、しかしそれは止まらないようだ。
 そんな彼の姿に感じ入って透も少し笑ってしまう。誘い笑い、というやつだろう。
「……ま、詳しい話は後でするよ。なんでの方は、先に言っといたほうがいいか?」
 透はこくりとうなずく。
 彼は一瞬優しく微笑んだのち、その微笑みを今度は快活な太陽へと変えた。
「透に、いろんな世界を見て欲しいからかな。」
「────。」
 いろんな世界。
 それは星の数ほどある銀河の、私の手が届く接近した未来のこと。
 陽光が弱く絞られていくこの部屋の、そのわずか先にある時間のこと。

7: 名無しさん@おーぷん 20/05/07(木)01:38:56 ID:19i
 返事をする前に、じゃ、と短く言い残し、彼は部屋から出て行った。
 部屋の外で、母親と彼が話している声が聞こえる。
 透にはその内容までを察することはできなかったが、時たま大きく聞こえる母親の高い笑い声がとうとう聞こえなくなった時に、日の光がずいぶんと落ちていることに気づいた。
 光はクローゼットの壁面のみを照らしている。
 薄い橙色の壁が、少しだけ灰色で補正をかけたかのようにおもやかに物言わずたたずんでいる。
 今の光の色は、灰色だ。
 先ほどは、強度は相変わらず弱かったけど、あんなに眩しかったのに────。
 少し時間をおいて、母親が入ってくる。部屋の電気をつけると、外の光はもう見えなくなった。
「これ、プロデューサーさんからだよ」と母親から渡されたスポーツドリンクのペットボトルは透き通るような透明で。
 何も通さない、映らないほど透明だった。

8: 名無しさん@おーぷん 20/05/07(木)01:39:11 ID:19i
「少し寝るわ」と透が声をかけると、透の額に、大きくて小さい手が当たった。
 その優しさに微笑む。ありがと、と小さくこぼした言葉が届いているかもわからないけど、最後に頭を一撫でされる。おそらく、それが今日透が感じた最後の明るさだった。

9: 名無しさん@おーぷん 20/05/07(木)01:39:23 ID:19i
 やがて部屋には独りを残して何もいなくなった。
 聞こえる音も変化している。
 鳥の鳴き声は艶やかさを潜め、街の音はしずんでいく。
 聞こえるはずもない誰かの足音が、余計寂しく響いた気がした。
 遠く、ピアノの音が聞こえる。
 耳をすまさないと聞こえないそれは、ようやく曲としての体を成したと思ったら、ぴりりといかないうちに消え去って、今日はもう二度と奏でられることはない。


 時計の針の音が強調されて聞こえるこの部屋はこそが、まさしく夜だった。
 透はペットボトルの蓋を開け、ほんのわずかだけ水分を口に含む。
 夜に掲げられたペットボトルは、やはり薄い黒色に染まっていた。

10: 名無しさん@おーぷん 20/05/07(木)01:39:40 ID:19i
【紅色】



「みんな、集まっているな。……よし。私が今回のアイドルプロダクション合同レッスンのトレーナーを担当する、青木だ。普段は346プロダクションを中心に指導しているが、今回の指導は分け隔てなく行うつもりだ。
 体力。技術。精神力。そう言った基礎基本を充実させることが、実践へと繋がる。
 たかがレッスンと思うかもしれない。確かにその通りだ。レッスンはレッスン。本番は本番。その間にあるギャップは、この中にも体感した者が何人かいるかもしれないが、驚くほどに大きい。
 しかし、ステージ上での魅せる振る舞いは、一朝一夕には身につかない。振り付けを間違えない。音程を外さない。笑顔を絶やさない。それは当たり前のことだ。当たり前をこなせるものだけが、その当たり前を超えることができる。
 よく守・破・離と言うが、守るものがなければそれを破ることも離れることもできない。すべては土台があってこその話だ。
 いずれ君たちは自らの中にあるアイドル像に従って輝いていくのだろうが──まずは、その守るべき基本を充実させて欲しい。
 合同合宿が開かれるのは今回で六回目になる。各事務所にいる君たちの先輩も、ここで多くのものを学んで、その後大きく羽ばたいた。
 何か、質問がある者はいるか? 質問は気兼ねなくすることだ。我々は必ずその質問に向き合い、適切な答えが見つけられるように手助けをする。
 ────ないか? まあ、質問が湧いたらその都度してくれればいい。遠慮は無用だぞ。
 それでは各自────健闘を祈る。」

11: 名無しさん@おーぷん 20/05/07(木)01:40:25 ID:19i


 海の見える坂を登ったところにある古い旅館が、透たちの目的地だった。
 幾ばくかの緑が生い茂っている。風は少し潮を運んできているようだ。
 周りには幾台もの車の列。
 痺れを切らし、道中で停車し荷物を下ろす車もあった。
 その車の後部座席から少女が二人降りてきて、後ろのトランクを開ける時にもう一人が車の影から現れた。
 透と彼女のプロデューサーは、その始終を眺めていた。
 
 助手席に座る透が、着込んでいる制服の胸ポケットからスマートフォンを取り出し、一枚、写真を撮る。
 おそらく『四人』のグループチャットにでも投稿したのであろう。ぽこん、ぽこんと会話が更新される音が聞こえた。
 透はそれを確認したが特に返事を返さず、スマートフォンを胸ポケットにしまってから、大きく欠伸をした。
「ね、プロデューサー。」
 透がフロントガラスの向こうを見つめながら彼に話しかける。
「……なんだ?」
 彼もやはり透と同じ景色を共有しながら応える。
「私だけなの、なんで。」
 彼女たちの乗る車の後部座席には、人の影がなかった。
 彼と彼女、ただ二人だけが、その空間を共有していた。
「定員だよ。六十四分の、六十二。透の番号だろ?」
「うん。」
「最初は、四人とも参加させてやりたかったんだ。果穂たちみたいにな。でも、ちょっと親御さんから許可が出るのに手間取ってな……」
「────ああ。まあ小糸、勉強あるし。」
「────まあ、最終的にはちゃんと許可してもらったんだけどな。
 でも、四人を申込もうとしたら枠が足りないって言われちゃってさ。交渉したんだけど、部屋数の関係とかもあって人数は増やせないって。」
「まあ、それはいいんだけど。」
「でな、それだったら申し込まなくていいかもなって思ったんだけど……でも、やっぱりそれでも透には参加して欲しくてさ。」
「……なんで?」
「……リーダーだからさ。透が。」
「……そうだった。」
「うん。だから、ここでいっぱい学んで、みんなに教えてやってくれ。
 円香は自分一人で抱え込んじゃうし。
 小糸はみんなが見えない時こそ、みんなのことを求めちゃうし。
 雛菜も、雛菜の幸せの中に、みんなが含まれているしさ。
 ────四人は、四人一緒に進むのが向いてると思うんだ。
 もちろん透もいっぱいいっぱいな時があるかもしれないけどさ。その時は俺とか社長とかはづきさんがいるから。」
 あ、それと今のは特に円香には内緒な、なんて言った彼の視線は、今度は運転席の右側の景色へと移っていた。
 透はやはり同じ方向を見ながら──でお、彼女が見ているのは景色ではなかった。
「ん。ま、わかった。」
「頼むよ、リーダー。」
「……その呼ばれ方は、いやかも。」
 ははは、と笑うのが早いか遅いか、目の前の道が空き、ようやく車輪が回る時がきた。
 
 駐車場は多くの車で賑わっていたが、奥から三番目のスペースに空きがあった。
 慣れた手つきで、彼が車を停める。
「さあ」なんて言って、車から手際良く荷物を下ろし始めたかと思えば、隣の男性から親しげに声をかけられ、彼も笑顔でそれに応対している。
 透は一歩遅れて車から出た。
 宿舎の周りよりも緑の匂いが強い。その奥には、白い砂浜と青い海が煌めいていた。
 きらりとひかる媒質がなんなのか、まるで見当もつかない。
 でも、海だからそんなこともあるかもしれないなんて透が思っている時に、ふと自分の名前が呼ばれた気がした。
 ──そこには、彼と、彼と親しげに話していた男性と。
 頭頂部にぴょこんと二つ、林檎の枝葉のような癖毛を構えた少女の姿があった。

12: 名無しさん@おーぷん 20/05/07(木)01:40:43 ID:19i


 合同レッスンとは言っても、レッスンはレッスンだ。
 やることは普段と変わらない。
 変わるのはその密度。それは部屋の人数が多いという物理的な密度のことであり、トレーニングメニューの厳しさという身体的な密度であり、見ず知らずの人間と長時間過ごさねばならないという、精神的な密度のことでもあった。

 濃密なレッスンが終わると、透の人生でも類を見ないほどの美味な食事を宴会場で頬張った。
 この時の席分けは、同部屋の四人が横一列に並ぶように配慮されていた。

 部屋は、四人一組の相部屋。
 高校生になってからは相部屋なんてなかったな、なんてことを思いながら、同部屋で数日を過ごすことになる少女たちに挨拶をしたが、一人を除いて他の二人の反応はずいぶんとあっさりしていたように思える。
 それもまあ当然か、などと透は自身と会話しながら、山菜の天ぷらを口に運ぶ。
 衣がざくりと音を立てる。たけのこの歯応えが心地よかった。
 何しろ、まだ出会って数時間──話すにも情報が足りなすぎるのだ。
 せいぜい、名前くらいしかわかる情報がない。部屋全体を見回すと、ちらほらと同じオーディションを受けた顔も見受けられるが、少数派だった。むしろ、そちらのほうが話しかけるハードルは高い。

 しかしそんな中にも例外はいるもので──同部屋で唯一と言ってもいい、初対面から全力で笑顔を振りまける少女が今、透の横に座っている。

「透ちゃん────。」
 同じ部屋に荷物を置いた瞬間から──いや、その前。駐車場で軽い挨拶をした時から──妙に懐いてきたその少女が、うるうると瞳を揺らしている。
「どしたの、あかり────。」

 辻野あかりという少女が、透の食器に置かれた天ぷらを眺めている。
「透ちゃん、もし天ぷら嫌いなら、私が食べるんご……」
「え、天ぷら好きだけど、私。」
「……そうなの?」
「うん。……なんで?」
「だって────────
 もうみんな片付けてるのに、透ちゃん、ずっと天ぷらを見てるから────。」
 あかりの言葉を聞き、辺りを見渡す。
 なるほど周りのアイドルは皆後片付けをしていて、数人残った他事務所のプロデューサーやそれに準ずるスタッフは、トレーナーさんたちに囲まれてお酒を飲む方向へとシフトしている。
 透はもう一度注意深く周りを眺めた後、瞳が尚のこと潤んでいる──きっと、純然たる気遣いをしてくれているのだろう──あかりに向かって笑いかけた。
「────ごめん。私、食べるの遅いんだわ。」

13: 名無しさん@おーぷん 20/05/07(木)01:41:01 ID:19i


 合同レッスンは、計五日間。
 最初の四日は、午前中は全体の基礎レッスン。午後は部屋ごとに別れたグループ──この日程中で個人が所属する ”ユニット” ──でレッスンをするというもの。
 一応、各プロダクションのプロデューサーから、重点的に鍛えて欲しい要素が事前に提出されているようだ。透は自分のことを省みるまでもなく、何を重点的に鍛えられることになっているのかを察することができた。
 ────ダンスレッスン。
 確かに透もそれほど得意ではない──むしろ苦手な部類に入るが、しかし初日の午後、レッスンを共にしたあかりの様子を見ると、比較の上でだが、なるほど。世界的なダンサーにでもなったかのような気持ちになれた。

 『習ったことがある。』
 その言葉で表現される程度のことが、辻野あかりのダンスの全てと言えた。
 基本のステップのリズムは一分もたてば一拍分ずれる。
 足上げの高さは数回もしないうちに乱れてくる。
 静止が持つのは数秒間。
 ここまでくれば、流石に何回ものレッスンをこなしている透には理解することができた。
 この少女は、アイドルを目指し上京してきたばかりなのだと。
 ……上京、というのは彼女と一回でも話せばわかることだとして。
 積み上げた時間に絶対的な不足があることは、誰の目からしても明らかだった。

14: 名無しさん@おーぷん 20/05/07(木)01:41:27 ID:19i


 三日目のレッスンが終わった。
 同部屋の二人とも数回会話をこなしたが、それだけだ。
 それでも、食事どきはみんなで並んで食べようと、彼女たちが提案した。
 透は特に断る必要もなかったので肯(うなず)いたが、しかしあかりの表情は食事をこなすごとに曇っていった。

 そして今日の予定が全て終わり、部屋に戻って消灯してしばらくがたった頃。
 寝息が二つと、そして光っている呼吸が二つ、部屋には分類されていた。

「……透ちゃん、ごめんね……私が足引っ張ってばっかで……」
「……大丈夫。私も、ダンス苦手だし。」
「んご……でも、みんなできてるのに、私だけができないせいで、先に進めないから……」
「……そんなこと、ない。」
 透は、なぜかこの田舎臭さを残した少女のことが嫌いになれなかった。
 他の二人があかりについて口をこぼすのを何回か聞いたことがあるが、透は決してそれを口にしなかった。
 愚痴をいう彼女たちの気持ちはわからないけど、でも立場としては理解はできる。

 この合宿の最終日。
 五日目には、全ユニットが同じ演目を一組ずつ、全体の前で披露するのだ。
 しかもその発表に、点数と順位がつく。
 この合宿には六十四人のアイドルが参加しているから、全部で十六ユニット。
 別に最下位になったからと言って罰則があるわけでもない──しかし最下位だけにはなりたくない、というのは全てのユニットが共通して持つ想いであった。
 だから必然、午後のユニット練習は、課題曲のレッスンが中心になる。
 ステップ、足上げ、声出しを繰り返しても、その具体性ははるか彼方だ。だからなるべく長く深く、課題曲の練習に取り組まねばならなかった。
 しかし、課題曲の練習以前の技術が身についていなければ元の木網である。
 それこそ、最初にトレーナーが言っていたことに違いあるまい。
 だからその練習の時点でつまづいているあかりに不満が溜まるのは、悲しいことだがある意味必然と言えた。

 しかし不思議なことに、透はあかりに対し不満を抱かなかった。愚痴るべき感情を彼女に持たなかった。
 それが何故なのか、透にはわからない。
 でも、こも少女の爛漫さを消してはいけないと思ったのだ。この少女はそうでなくてはいけないと、透は感じたのだ。

 それは絆されたと言えば簡単であって。
 でもそうではない、言語化できない感情が、確かに透の中に生まれていた。

15: 名無しさん@おーぷん 20/05/07(木)01:41:41 ID:19i
「嫌なこととか、思い出したくないこととか。
 いっぱいあるけど、でも寝てる時は幸せにいようよ。そしたらみんな、幸せになってくるから。……って、雛菜っていう、私の後輩が言ってた。」
「……うん……。」
「それに、別に私は迷惑だと思ってないしさ。何度も言ってるけど、信じてよ。」
「うん……ありがとう透ちゃん……でも……明後日には、みんなの前で……。」
「まあ、なるようになるよ。あかりはすごく歌上手いしさ。」
「だ、ダンスは諦められているんご!?!?」
「いや、そうじゃなくて──ちゃんと、自分の色があるから大丈夫ってこと。」
「私の、色────?」
「うん。紅。りんごの色。」
「そ、そうかな……!? え、えへへ、そうならいいなぁ……!」
 ……透には、あかりが喜ぶ理由がいまいち掴みきれなかった。
 でも、りんごの色に似てると言われたのがそんなに嬉しいなら、明日からも何度か言ってあげようとほのかに思った。
「じゃ、寝るね──おやすみ。」
「うん、おやすみ透ちゃん────。」

 ありがとう。

 ……最後の言葉は、誰の耳にも届かなかった。
 でも、透は張り詰めた心にわずかに隙間ができたかのように──いつもより大きく息を吸って、眠りについた。
 布団は、いつもよりずっと暖かかった。

16: 名無しさん@おーぷん 20/05/07(木)01:42:06 ID:19i
【水色】



 ……ずいぶんと早く目が覚めた。しかも二度寝など望むべくもない、それは気持ちの良い目覚めだった。
 透がスマートフォンで時間を確認すると、短針は五の文字に大部分が重なっていた。
 なんでこんな早い時間にと思わないではなかったが、身体の疲れは不思議なほどなかった。
 ずいぶんと布団が暖かだったことが関係しているのだろうと思案したところで────隣に、あかりの姿がなかったことに気づいた。

「あかり──?」
 部屋中どこを見ても彼女の影がない。
 スマートフォンが枕元に置きっぱなしであったことから、そう遠くにいないと判断する。
 ……もしかして、と。
 透はある場所が一箇所だけ思いつく。そして、彼女が何故そこにいるのかその理由も。
 透は静かに部屋を出る。靴を履いて、まだ太陽が登りきっていない海に向かって、ゆっくりと歩き出す。

17: 名無しさん@おーぷん 20/05/07(木)01:42:30 ID:19i


「わん、つー……、わん、つー……!」
 駐車場では、宿舎よりも強く太陽の光を感じることができた。
 ほぼ黒色だった海は、朝日に照らされて蒼さを増す。
 その蒼は木の色とも空の色とも違う──紅く燃えるような蒼さだった。

「……あかり。」
「……わんごおおおおおおおおおおおっっっっっっっ!?!?!? と、透ちゃん……!?」
「わんごって。」

 あかりは、子犬でも見ているかのようにわかりやすく慌てふためく。
 その額に、汗が光っている。
 瑞々しいとしか形容できない彼女の腕の先、手首から指先にかけてが、一際照っている。
 それは時間を濃縮した証に他ならなかった。

「……毎日、やってるんだ。」
「……うん。私、みんなより、下手だから……迷惑、かけないようにって。」
「迷惑じゃないって、言ったじゃん。」
「でも……」
「でも、そうだね。あかりならきっと、やるよね。」
「……うん。」

 にへっと、あかりが笑う。
 その笑顔は、透が見た今までのどんなアイドルよりも眩しく輝いていた。

18: 名無しさん@おーぷん 20/05/07(木)01:42:57 ID:19i
「透ちゃんがね。」
 ん、と自分の名前が呼ばれて無言になる。
 あかりの言葉を、待つ。
「透ちゃんが、昨日言ってくれたこと。私、すっごく嬉しかった……!」
「え、私、なんか言ったけ? りんご?」
「それもだけど! ……そうじゃなくて、色って。」
「色……?」


「私の色があるって、言ってくれた。
 ────りんごって、紅く色づかないと、おいしくないの。
 でも、色付く前にね。
 病気になったり、台風に遭ったり、虫に食べられちゃったりして、死んじゃうりんごもたくさんあるの。
 だからね、父ちゃんも母ちゃんも、みんな紅くなったりんごを採るとき、こう言うんだ……『ありがとう』って。」


 ……これ以上はないほどだと思っていたあかりの笑顔はしかし、さらにその深みを増していく。
 透は、この時初めて理解した。
 顔が笑っているだけが笑顔なのではないと。
 心が笑ったときに、それは初めて完成するのだと────。

 だからね、と言ってあかりは言葉を継ぐ。
 弱った枝葉を生き返らせるように、希望を込めて言う。

「だからね、透ちゃんが私の色を『紅い』って言ってくれた時、認められた気がしたの。
 大丈夫だって。
 アイドルなんだって、言ってくれた気がしたんだ。
 だから私は、今日もアイドルになるために頑張るの──あ、頑張るんご!」

「────。」

19: 名無しさん@おーぷん 20/05/07(木)01:43:10 ID:19i
 なんだ、りんごの色に似てるって言われたのが嬉しいんじゃなかったのかなどと言う記憶が思い出される。
 決してそんなつもりではなかったことは確かだ。
 ちゃんと話は聞いていたが、勇気付けようとか、あかりのことを認めるとか、そんなたいそうなことは思っていなかった────。

 でも、そうかと。
 透は得心がいった。
 何故、透は彼女のことが嫌いになれなかったのか。
 それどころか、礼儀は守っているけども、初対面からずいぶんと懐いてくる彼女のことを、どうにも好ましく思っていた、その理由を。

20: 名無しさん@おーぷん 20/05/07(木)01:43:22 ID:19i
 ────その色に憧れていたのだ。
 自分が何者かを主張する、個性という名の色に。
 自分の存在を確固たるものにする、その宣言に。

21: 名無しさん@おーぷん 20/05/07(木)01:43:33 ID:19i
 ────空隙など意に介さず前に進み続ける、自分の色を持つ人間に、強く憧れたのだ。

22: 名無しさん@おーぷん 20/05/07(木)01:43:47 ID:19i
「────あかり。」
「ふぇ、な、なに? 透ちゃん。」
「────アイドル、ファイト。」
「え、え? 」
「────私も。アイドル、ファイト。」
「ファ、ファイト……?」
「ふふっ……ファイト。」
「あ、アイドル……ファイトんご……!」
「ふふ、何それ。ファイトんごって。」
「え、えへへ……。」
「……うん。ファイト、んご。」
「! ファイト、んごー!」
「ふふっ、あははっ……! ファイト、んごー……!」

 遠見の火球は、その全ての線を見せるようになった。
 放射状に伸びる帯の一つ一つが、ベールに包まれている。
 砂浜に打ち上がる波は砂浜の白よりもずっと輝いていて、絶えず光子を留めかせていた。
 空の色が、海に映る。
 その青はやや重みを増して黒みがかっているけど──それが、海色(みいろ)だ。
 透明だった水に、太陽を映すキャンバスが映っている。
 透にはその色こそが──水の色だと思えた。

 鳥の鳴き声が響き渡る。
 しかしその声よりもはるかに高く、今日の足音が、高く澄んで響いていた。 

23: 名無しさん@おーぷん 20/05/07(木)01:44:05 ID:19i
【空色】



「お疲れさま、透。」
「うん。」
「どうだった?」
「よかったよ。」
「うん、そうみたいだな──わかるよ。」
「そんなのわかるんだ。プロデューサー、さすが。」
「プロデューサーだからな。……さよならは済ませたか?」
「────うん。それに、また会えるし。」
「そうか……それはずいぶん、よかったんだな。」

24: 名無しさん@おーぷん 20/05/07(木)01:44:17 ID:19i


 最終的に、透たちのユニットは、十六組中十位と言う結果で幕を閉じた。
 最初の頃を思えばずいぶんと進歩したが、それでも結果が出たときは悔しさを覚えた。
 結果そのものももちろんだけど、何より、彼女と心から笑顔でハイタッチをすることが叶わなかったのが心残りだった。
 同組だった二人とはそのまま特に会話もなく、またどこかで出会ったら、なんて漠然とした叶うことを願わない約束をして別れた。
 あかりは、結果が出た後。
 全員でレッスンルームに集まり、最後の挨拶を交わすその瞬間まで、ずっと泣いていた。
 ミスがあったのは事実だ。取り返そうとして、さらにドツボにハマっていったのも事実だ。
 ────だが、あの場で誰よりもアイドルとして、見るものを笑顔にしようと振る舞っていたのも彼女だった。審査員のトレーナー陣がどう言う評価を下したかは知る由もないが、少なくとも透は確信を持ってそう判断していた。

 だから、別れる前。
 透はあかりに、ありがとうと言った。
 手を握り。強く手を握り、そう言った。
 あかりはそれでさらに泣いてしまったけど、代わりに彼女のプロデューサーに腰が抜けそうになる程お礼を述べられた。

 ……本当に最後。彼女が車に乗り込む直前。
 透は自分の連絡先を、彼女に手渡した。グループチャットの id を、なんとか判別できるような汚い字だけど、それをどうしても彼女に渡したかった。もっと早くやっておけばよかった、なんて後悔は後の祭りだ。

 彼女は車の窓から少し身を乗り出し、何度も手をふった。
 透も、大きく手を振った。やがて車が坂を降り、その姿が見えなくなっていく。
 それでも透は、手を振っていた。
 坂の向こうには、海が広がっている。
 いつしか透の視線がそれに奪われた頃、スマートフォンがぽろんと振動した。
 風は初夏だと言うのに潮の香りを強く含んでいる。
 画面には、新しい名前が表示されていた。
 陽の光が、空も風も海も道も、全ての輪郭を鮮やかに塗り染めていた。

25: 名無しさん@おーぷん 20/05/07(木)01:44:31 ID:19i


「ね、プロデューサー。海、行きたい。」
「ん……? 帰らなくていいのか?」
「うん。少し、海を見たいな。」
「……海岸にはまだ入れないけど、そうだな。海に近いところで、降りようか。」
「やった。お願い。」

 それっきり、プロデューサーは何もしゃべらなくなった。
 透も、何も喋らなかった。たまに画面を見ては、まるで果実を愛でるかのように優しく微笑みを浮かべている。
 後ろを振り返らず、坂を下る。
 その先には必ず、今日があって。明日があると信じながら、車は音も静かに、その宿舎を離れていった。

26: 名無しさん@おーぷん 20/05/07(木)01:44:55 ID:19i


「────海って、青いよね。」
「────空に負けないようにな。必死なんだよ、多分。」
「何それ。勝負してるんだ、空と海。」
「きっとな。」

 途中、はたと車を休ませられる場所があった。
 来るときは気づかなかったな、などと透は思いながら、プロデューサーがエンジンを止めるより前に、車を降りる。

 ────今、この色は青く見える。
 あのとき紅く燃えて見えた海とは違う、落ち着いた静かな海。
 だけど、水平線の向こういっぱいまで、蒼く白く光が散らばり、反射し、突き抜けていた。
 突き抜けた光の色が見えているのか、それとも反射した光の色が見えているのか、はたまたそうではない何を見ているのかはわからないけど────たしかに、海が広がっていた。

「プロデューサー。私がトップアイドルになりたいって言ったら、笑う?」
「……笑わないよ。」
「その目的がさ、いつかあなたに思い出して欲しいからだって言ったら、笑う?」
「──……笑わないよ。」
「それでさ」といい、海からプロデューサーの方へ身体ごと振り向き、顎を上げて、目を開ける。口角を上げて、最後に喉から言葉を絞り出す。


「自分の色を見せたいって友達ができたの、喜んでくれる?」
「……ああ。」

 彼はそう言ったっきり、何も言葉を発してくれない。
 その優しさが少し気障っぽいと思うこともあるけど、でも今はそれが何より心地よかった。
 
 車が何台も通り過ぎていく。
 体重を預けている柵から、陽の熱が伝わってくる。


「塗りつぶしたいんだ。」


 海の音が聞こえる。
 貝殻に耳を当てるわけではなく、波の音でもない、海そのものの音が聞こえる。
 その音の色こそが、きっと────
 

「自分なりの色でさ。」