2: 名無しさん@おーぷん 20/07/13(月)01:30:54 ID:OBk
【それもまた、時と場合には】



P「あっつい……ほっっっっんとあっっっっっっっっっっつい…………」

円香「…………」

P「溶ける…………水になる…………うそ、お湯…………お湯の方…………」

円香「……ッ……」

P「フットーしちゃうんだおれぁ……知ってんだ、俺はもうダメだぁ……」

円香「…………」

P「そうか、アイス…………! ない…………。アイス、ない…………!! そうか、買いに行けば…………! でも外はもっと熱い…………」

円香「…………」

P「アイス…………もしくは麦茶…………アイスコーヒーでもいい…………冷コーでもいい…………」

円香「……ッ……」

P「あっっっっっつい………よぉ……ッ…………あつい…………」

円香「……いちいちうるさい……暑いっていくら言っても涼しくなるわけじゃないでしょ。それとアイスコーヒーと冷コーは同じもの」

引用元: 【シャニマスss】海底月光【樋口円香】 


3: 名無しさん@おーぷん 20/07/13(月)01:31:22 ID:OBk
P「ようやく話に乗ってくれたか。でも弱音くらい吐かせてくれよぅ……」

円香「……はぁ。というか、なんで事務所のクーラー壊れてるんですか」

P「わかんない……熱くて壊れたんじゃね?」

円香「なんのためのクーラーなの……?」

P「いやだって、花の日曜日に全力で働かされてる身になってみろよ。クーラーからしてみれば『俺ばっかりこんな猛暑で働かされて、なんでだよ』って思ってるかもしれないぞ? 俺なら泣く」

円香「そんな擬人法はいいんですよ、ミスター・ドリーマー? このまま夢の世界へトリップするのがお好みですか?」

P「それ熱中症で倒れちゃってるやつでは!?……てかまどまどはこの後トレーナーさんとこでレッスンだよな? クーラー効いてていいだろうなぁ……俺も見学行こっかなぁ」

円香「やめてください。あなたに見られているというだけで身につくものも身に付かなくなるというものです」

P「それは俺に見られて緊張しちゃうってこと? 乙女回路全開?」

円香「出るとこ出ますよ」

P「たとえば?」

円香「警察とか」

P「知り合いいるから大丈夫」

円香「弁護士」

P「大人の財力を舐めるな、俺も負けずに弁護士つけるぞ」

円香「はづきさん」

P「それだけはご勘弁を」

4: 名無しさん@おーぷん 20/07/13(月)01:31:50 ID:OBk
円香「……どうでもいいけど、はづきさんをそんなに恐れているのはなんでなの?」

P「お、興味持っちゃった?」

円香「うざ……興味ないし」

P「それはだね、仕事をしてお金をもらうようになるとよくわかるんだよ、『自分の仕事を肩代わりしてくれる同僚のありがたみ』に……」

円香「興味ないしろくな話じゃないことはわかりました。それじゃあ私はレッスンに行ってきますので……って電話……小糸からか……はい。うん、私だけど。どうしたの? ……ああ、忘れてた。うん。うん。わかった。」

P「あれ、俺の方にも……はいはいもしもし? あっトレーナーさん、お世話になっております……えっ……はい、はい。ご連絡ありがとうございます、また代わりのスケジュールはこちらからお伝えします……はい、よろしくお願いします」

P「円香。レッスンルームの空調が故障したとかで──」

円香「小糸から聞きました。今日のレッスンは中止、ですね。まぁ、熱中症にでもなったら一大事ですし」

P「ああ、小糸は直接トレーナーさんのとこ行ったんだな。悪いことしたな……」

円香「あなたは関係ないでしょ。ただ単に、運が悪かっただけ」

P「まぁ、そうなんだけど……まどまどは優しいな」

円香「……さっきスルーしたんですけど、それもしかして私のことですか? だとしたら不快ですやめてください」

P「可愛いと思うんだけどなぁ……」

円香「……バカみたい」

P「みたい、は余計だよ」

円香「……ッ……」

P「あ、笑った」

円香「笑ってないです」

P「笑ったじゃん」

円香「笑ってない」

P「いや絶対笑ったって」

円香「……うざ。」

P「それは心にくる」

5: 名無しさん@おーぷん 20/07/13(月)01:32:22 ID:OBk
円香「……いいから、もう早くいきましょう。あなたと二人でいるなんて、誰かに見られたくないし」

P「……? 行くって、どこに……?」

円香「察しの悪い……そんなんでプロデューサーとしてやっていけるんですか?」

P「ま、まあそれなりに……それでえっと……どこに……」

円香「決まってるでしょう。こんな暑い場所になんていられませんし、家電量販店でクーラーの修理でも取り付けてくるんですよ」

P「えっ。い、いや、そんなんいいって。俺が後で業者さんに電話しておくから……」

円香「私、今日ずっと暑い事務所にいろってことですか」

P「えっいや……そうはいってないけど……」

円香「なら、早く」

P「えっ……ま、まぁ……そう、なのか……? わかった、支度するから……」

円香「急いでくださいね──」





 ────誰か来ちゃうと、ダメだから。

6: 名無しさん@おーぷん 20/07/13(月)01:32:54 ID:OBk
【わかってよダーリン】



P「──はい」

円香「──はい」

P「いや、はいじゃないが」

円香「なんですか。修理の予約は取り付けられたんですし、十分じゃないですか」

P「いやだって、今日は修理できないって話だったから」

円香「そうですね」

P「そうですね!? あれ、だって事務所が暑くて仕方ないから手早く修理しようって話じゃなかったっけ?」

円香「はぁ……この真夏に、空調が壊れて即日修理できるくらい業者が暇してると思ったんですか?」

P「いやだって、それじゃあここまで出張ってきた意味ってなんなんだって……」

円香「……別に、いいじゃないですか。あんな蒸し風呂みたいな場所にずっと座ってる方が健康によくないです」

P「円香が俺の体調を心配してくれている……!?」

円香「は?」

P「うそです調子乗りましたごめんなさい」

7: 名無しさん@おーぷん 20/07/13(月)01:33:26 ID:OBk
円香「……別に。心配しちゃいけないってわけじゃないでしょ。言わせないで、こんなこと」

P「え──……」

円香「…………とにかく。このまま事務所に帰る意味はないですが、どうしますか?」

P「んー……そうか」

円香「そうです」

P「じゃあ──ここでお別れだな。円香は家に帰って休むといい。今日は本当にありがとな、こんな雑務にも付き合ってもらっちゃって」

円香「は?」



円香「は?」

P「めちゃ怖……な、何か怒ってますか円香さん?」

円香「怒ってない」

P「いやでもだって」

円香「強いて言うなら薄っぺらい敬語を使って話しかけてきた浅ましさにです」

P「左様で」

円香「……ッ……」

P「あ、舌打ちはやめてごめんごめん冗談です。……ま、冗談もこれくらいにしときますか。どこか行きたいとこあるか?」

8: 名無しさん@おーぷん 20/07/13(月)01:34:06 ID:OBk
円香「別に、特に。」

P「じゃあ、涼しいとこに行かないか」

円香「……別に」

P「よし、決まりだな」

円香「……どこ、なんですか」

P「はは……ついてからのお楽しみってやつさ」

円香「…………」

P「大丈夫大丈夫! さすがにここではふざけないって。大学の先輩から教えてもらった場所なんだけど──きっと気に入ってくれると思うよ。ここから少し電車乗って歩くけど、いいか?」

円香「……まぁ」

P「はは、よかった。それじゃ、行こうか──」




P「水族館へ!」




円香「……着いてからのお楽しみ、じゃなかったんですか?」

9: 名無しさん@おーぷん 20/07/13(月)01:34:27 ID:OBk
【街海】



P「大人一人、学生一人で……はい、ありがとうございます」

円香「チケット、私の分は自分で払います」

P「まさか! そんなことさせるわけないだろう! はいこれ。円香の分。」

円香「……あなたにやられっぱなしってのが、癇に障る」

P「はは。そこはまぁ、カッコつけさせてくれってことさ」

円香「このネタで私にゆすりかけないでくださいね」

P「そんなことしないって……俺どんな印象なの……」

円香「……冗談です」

P「……──冗談、か。」

円香「いけませんか」

P「すごくいい」

円香「……その返しも気持ち悪い。いちいち回りくどい返ししなきゃ気が済まないんですか」

P「実はそうなんだ。生まれてから死ぬまできっと変わらない」

円香「難儀な人生ですね」

P「それなりに楽しいよ。……さ、じゃあ行こうか……──おお。」

円香「……──ん」

10: 名無しさん@おーぷん 20/07/13(月)01:35:25 ID:OBk
P「おお、これは──いや、これは驚いたな。まさか街のど真ん中に、こんなでかい水槽があるなんて」

円香「……はい」

P「ん──おお、見ろ見ろ円香! サメだよサメ!」

円香「ちょっと、騒がないでください。他の人だっているんですよ」

P「おっと──すまんすまん。何しろ生きているサメを見るのは人生で二回目なもんだから、驚いちゃって」

円香「二回目って……ちなみに、一回目はいつだったんですか?」

P「小学生の頃さ、家族で旅行に行ったんだ。その時行った水族館で見たのが最後かな」

円香「……そこから、一度も?」

P「うん。あまり自分で水族館に行くモチベーションがなくてさ。不思議だよな、大学の近くには水族館もあったんだけど」

円香「……あなたの大学時代には興味ありませんが、そうですか……二回目……」

P「円香はどうだ?」

円香「私は──三回目かな。小さい頃、家族だけで一回。浅倉たちと一緒にもう一回。もちろん、家族も一緒でしたけど」

P「そっか──じゃあ、先輩だな」

円香「水族館に来た回数で先輩呼ばわりなんて、浅はかここに極まれりって感じ。……あ、マンボウ……」

P「お、本当だ……あの死にやすいっていう?」

円香「実際は、言われているほどではないらしいですけど……」

P「うわ……! 結構、でかいのな……! すげぇ……!」

円香「…………私よりずっと、あなたの方が楽しんでいますね」

P「え? あ、ああ、すまん……一人で盛り上がっちゃって……」

11: 名無しさん@おーぷん 20/07/13(月)01:36:46 ID:OBk
円香「……──お好きなんですか?」

P「ん? マンボウは別に好きでも嫌いでもなかったけど……実際見てみると、うん。好きかな」

円香「……水族館が、です」

P「ん、ああ──そうだな。……自分でも気づかなかったんだけど、円香の言う通りみたいだ。空間(そこ)に足を一歩踏み入れると、外界とは断絶された世界──光も音も、時間の流れ方まで変わっちゃうような気がしないか?」

円香「……あなたの言葉にしては、的を射ていますね。そうだと思います」

P「だろ? ……なかなか日常から離れてゆっくり休める時間なんてそうないじゃないか。意識的に作ろうとしない限り──それだって、すごく労力が要る話だろう? でもここでは、ただ歩いているだけでそんな経験ができる。ははっ、考えてみればすごいことだよな、これ」

円香「…………────うん」

P「え、あ、あれ……?」

円香「……なんですか」

P「いや、またなんか、『一人で喋りすぎです、ミスター・スピーカー』とかなんとか言われるとばかり……」

円香「それ私の真似のつもりですか? 全然似てないですし、不快なのでやめてください。そして二度としないで」

P「すみません……」

円香「……──別に、私もあなたのやることなすこと全部を否定するわけじゃありません。違うと思ったなら違うって言うし、そうだと思ったなら、何も言わない」

P「そこは『私もそう思う』的な言葉を言ってくれると心が軽くなるんですが……」

円香「言わない、絶対」

P「さいで」

円香「……でも、『異空間』ってことは、私も少しだけそう思います」

P「(早速言ってくれた……!?)」

円香「なに……まあいいです。あまりべらべらあなたと話しているのも、この場の雰囲気にそぐわないし」

P「……静かだもんな、ここ」

円香「……本当の海は、きっともっとずっと、静かなんでしょうけど」

P「……そうかな。意外に、うるさいかもしれないぞ。」

円香「それでも、ここよりずっと静かでしょ?」

P「……そうだな」

12: 名無しさん@おーぷん 20/07/13(月)01:38:01 ID:OBk
円香「──海の底では、音もない。光もない。そこでは、自分と、自分以外しかない」

P「気楽ではあるかもしれないな」

円香「ええ。誰かと比べる必要もないし、そもそも比べることすらできないから──ただ、自分のあり方だけを見ていればいい。『そこ』は、『ここ』で弱いものにはとことん優しい世界です」

P「強いものには、じゃなくて?」

円香「どうして? 強ければ、どこでも好き勝手に生きていけばいい。それができるんだから、何にも阿(おもね)ることなく、心のままに生きればいい。……弱ければ、そうはいかない。だから群れて、顔色を伺って、心を砕いて、疲れて消えていく」

P「……それで、強いものにも負けないようになろうとはしてるんだけどな」

円香「でも、できるのは自分を守ることだけ。いや、守ってるのはもう自分ですらなくて……影法師のような、何かですらない自分(だれか)──」

円香「海の底では強いものも弱いものもない。……強さって、誰かと比較して初めて生まれるものだから。自分しかいなければ、自分がすることは全部、自分のため」

円香「だから何も悩まなくていい。何も苦しまなくていい。誰かと比較して劣っていること、足りないことを求める必要もない。自分にあるのは自分だけで、ダメだったらすぐに消えてしまえばおしまい。……弔う必要もないから、その意味でも気楽」

円香「──そうだったら良かったのにって。思うことは一度や二度じゃなくて。目を閉じるたびに、似たようなことを思っていたこともあった。最近は、それも少なくなってきたけど──」

P「円香────。」

13: 名無しさん@おーぷん 20/07/13(月)01:38:32 ID:OBk
円香「……すいません。私も少し、喋りすぎたみたい」

P「……──そうだね。でも、よかった」

円香「は?」

P「今ここにいて、円香からそんな話を聞けたのがよかった」

円香「……意味不明。気持ちの良い話でもないのに」

P「そうだな……なんて言うか、安心したんだ」

円香「安心? 私がくだらない考えを持ってるってことに?」


P「いや────いや、でも、うん。そうかな。そうかも」


円香「────?」


P「だから、ここにいてよかったって」


円香「────。」



P「海の中じゃなくてよかったって、そう思うよ」



円香「────────そう。」


P「うん。そうだ」


円香「……あ」

P「あっ円香、あっちにピラルクいるピラルク! うわあでっけぇ……!こんなん自然で泳いでるとこに遭遇したら確実にショック死するな……」

円香「……はい。見てますから、もう少し落ち着いてください」


円香「ほんと────ばか。」

14: 名無しさん@おーぷん 20/07/13(月)01:39:44 ID:OBk
【月光り】



P「円香、今日は付き合ってもらっちゃってありがとな。良いリフレッシュになったよ」

円香「……まぁ、悪くはなかったです」

P「そりゃあよかった……ってうわっ!? はづきさんから留守電……!?」

円香「出た方がいいですよ。後回しにしてもいいことないから」

P「まぁそうだよな……ちょっとごめん……あっはづきさん、お疲れ様です。
 今? 今は……今はちょっと出先でして。はい、はい。はい、いや、もちろん仕事ですよ、はい。当たり前じゃないですか。えっイルカのぬいぐるみ? いやー、サメしかないですけど……あ。はい、すぐ戻ります、すいません……」

円香「……そんな漫画みたいに綺麗に誘導尋問に引っかかる人、いるんですね」

P「気を抜いていた……ってかなんで水族館に行ったことまでバレてんだ……」

円香「まあ、はづきさんですから」

P「そうね……じゃあ円香、俺は事務所戻るから。円香はこのまま家か?」

円香「はい。電車の乗り換えもないですし、ここでいいです」

P「そっか。じゃあ逆方向だから、ここで。改めて、今日はありがとな」

円香「……私も」

P「ん?」

円香「……なんでもありません。早く行ったら?」

P「どういたしまして」

円香「……ッ……うるさい! 早く行け!」

P「はは。わかったわかった。……じゃ、また明日。明日来たらエアコン直ってると思うぞ」

円香「──そうでないと、困ります」

P「はは、それもそうだ」

15: 名無しさん@おーぷん 20/07/13(月)01:40:32 ID:OBk


 ────別れの会話に明確な終わりをつけられないまま、日が沈む速度と同じ速さで、私たちは話し続けた。一歩ずつ、離れていって。一言ずつ、遠くなっていって。
 最後にあなたが笑顔で手を振る。思わず左手が上がりそうになった。それを抑え込み、ぺこりと頭をさげて振り向く。あなたが見えなくなってしまったら、それまで私たちの間に働いていたはずの引力は嘘みたいに解けてしまって、私の足は次から次へと新しい一歩を生み出す。

 あの日屋上から見た夕日はもっと明るく、熱を溜め込んでいた。光の粒子の一つ一つが心を溶かしていくようで──境界線がなくなっていくような感覚が怖かった。昨日のことのように、その記憶が心を包む。

 でも今日はそうじゃない。
 今日は、そうじゃなくて。

 あなたがいて、私がいて。どこまでも平行線で、交わらなくて──だから、「同じになることはない」。それを嬉しいと思って良いのだとあなたが肯定してくれたとき、本当に気に触るけど、心が少し軽くなった。

「ありがとう」は、それに対して。今日一日楽しかったとか、そんなことにじゃ決してない。そんなことあるもんか。そんなことにお礼なんて言ってやるものか。

 それはまたいつか──いつか、さらに月が巡った時に。

16: 名無しさん@おーぷん 20/07/13(月)01:40:58 ID:OBk


 日はもう落ちているのに、空にはまだ薄く白さが残っている。月は雲の障子を破ったように顔を出し、その縁が紅く光っている。
 歩く先に映る自分の影を踏みながら歩く。家の近くの公園にたどり着いた時、なんの気無しに顔をあげた。誰もいない公園で、ブランコがきいきいと音を出して揺れている。風もないのに、どうしてだろう──でもブランコにも、そんな気分の時があるのかもしれない。

「円香ちゃん!」

 呼ばれて、声の主を探した。もう一度、「円香ちゃん」と、私の名前を呼ぶ声がする。公園の向こう側に、小さく忙しなく動く彼女の姿を見つけた。

17: 名無しさん@おーぷん 20/07/13(月)01:41:14 ID:OBk
「小糸、いたんだ。何してたの?」
「え……う、うん。今日はレッスンが中止になっちゃったから、ここでちょっとだけステップの確認を……」
「……そっか。えらいね、小糸」
「ぴ、ぴゃあ! あ、頭撫でないで……! 私もう、子供じゃないんだよ!」
「……嘘。小糸はまだ、子供でしょ」
「も、もう! 円香ちゃんと一つしか変わらないじゃん!」
「じゃ、子供でしょ」
「も、もう! ……あ、そうだ。円香ちゃん、何かあったの? 珍しいなって」
「……? 何が?」
「だ、だって……昨日の夜レッスンルームのクーラー壊れちゃった時「私が連絡しとくからいい」って言ってたのに、今日……」
「ああ、それ、ごめん。忘れてた」
「それと、いつもレッスンルームくるの一番乗りなのに、今日私がついた時いなかったから……だから、具合悪かったのかなって」
「……大丈夫。今日はちょっと用事で、事務所に先に行ってただけ」
「あ、事務所のエアコン、直ってた……?」
「……ううん、暑かったよ。……ところで小糸、飴食べる?」
「ぴ……!? い、いいの?」
「うん。それ食べながら、一緒に帰ろ」
「うん……! あ、あれ……なんか話題をずらされたような……」
「そんなことないよ。……ほら、これ」

18: 名無しさん@おーぷん 20/07/13(月)01:42:13 ID:OBk
 飴を小糸に手渡す。彼女は喜んでそれを口に放り込み、にまりと顔いっぱいに笑顔を浮かべている。その姿が保護欲を刺激し、私は彼女の頭をぽんぽんと撫で回す。
 確かに、小糸には悪いことをしてしまった。これだけで許してもらおうと言うのは不誠実なので、今度彼女の自主練習には差し入れを持っていくことにしよう。

 自分のズルさを自覚しながら、私は月を見上げる。
 輝く月は私を見て笑っているのだろうか、それとも──でも、どうでもいいことだ。
 
 私はここにいる。あの人も、同じ場所にいる。透も小糸も雛菜も、やっぱりここにいる。それを重荷に思うこともあるけれど、今日は特にその重さが心地よく感じる。

 終わっていく今日をどうしたって嫌いに思うことができないのなら、今日をいい日だと思って眠りにつこう。
 目が覚めるのはまた明日──月が一つだけ、過ぎた後に。