梨子「人魚姫の噂」 前編

106: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 13:10:20.31 ID:vQ6qZL/R0

梨子「か、果南ちゃんのパジャマ……着てる……///」


なんだか、果南ちゃんに包まれている気がして──って、私何考えてるの……!?

しかも、考えてみれば私が寝かしつけられていたこの場所も、果南ちゃんのベッドだ。

意識してしまったらもうダメで、ベッドからもパジャマからも果南ちゃんの匂いがする気がして、頭がぐるぐるしてくる。

いや、でも脱ぐわけにいかないし……。


梨子「うぅ……///」


赤面しながら、ベッドの上で身を縮こまらせていると、


果南「タオル持ってきたよ……って、梨子ちゃん!? 大丈夫!?」


戻ってきた果南ちゃんが心配そうな声で駆け寄ってくる。


梨子「あ、いや……/// 大丈夫……///」

果南「いやでも、顔真っ赤だよ!? まだやっぱり、熱が引いてないんだね……今冷やすから……」


そう言って、私の首筋に新しい濡れタオルを当ててくれる。……あ、気持ちいいかも。


果南「よしよし……そのまま、しばらくじっとしてるんだよ?」
 果南『落ち着いたらタオルは外さないとかな……冬だし、体が冷えちゃってもいけないから』

梨子「う、うん……///」


横になったままの私の頭を、ぽんぽんと撫でたあと、果南ちゃんは床に腰を下ろす。

……いや、正確には床に敷かれた布団にだけど。

気付けば、勉強に使っていた机は片づけられていて、そこには敷布団が敷かれていた。

お客様用の布団だと思う。


梨子「あ、あの……果南ちゃん……」

果南「ん?」

梨子「私、お布団で寝るよ……? ベッドは果南ちゃんが……」

果南「ダメ。梨子ちゃんはお客さんなんだし」

梨子「でも……」

果南「それに、ただでさえのぼせて調子も悪いんだから、ベッドでゆっくり休んで欲しいな」

梨子「……わ、わかった……」


果南ちゃんが普段ここで寝ているって考えたら、恥ずかしくて寝付けそうにないんだけど……。

まあ……そんなこと果南ちゃんに言えるわけもないからしょうがないか……。

ぼんやりとベッドに転がったまま、壁に掛けてある時計に目をやると──時刻はそろそろ午後9時になろうとしている。

横になったまま、じっとしていると、目が合った果南ちゃんがニコっと笑顔を向けてくる。


梨子「……///」

果南「大丈夫だよ、ちゃんとここにいるから」

梨子「う、うん……///」

引用元: 梨子「人魚姫の噂」 



107: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 13:11:37.49 ID:vQ6qZL/R0

まるで小さい子を落ち着かせるときのような、優しい口調。

まだ熱に浮かされているのか、果南ちゃんの優しい声を聞いていると、また頭がくらくらしてくる。

……恥ずかしいのに、目が逸らせない。

私……最近ずっとこんな調子だ。この間からずっと、果南ちゃんを意識して──


梨子「…………っ///」


考えを振り払うように、ぎゅっと目を瞑った。


果南「ん……もう寝ちゃう?」

梨子「…………///」


何度も自分に言い聞かせているけど、果南ちゃんに他意はないんだ。

それに、私の気持ちだって……──きっと、これはただの憧れ。

恋人が出来た二人の親友を見て、私も同じように素敵な恋がしたいと、そんな想いが生んだ憧れから、変な期待をしてしまっているだけだ。


果南「ふふ……おやすみ、梨子ちゃん」

梨子「…………///」


だから、私はぎゅっと目を瞑る。

周りが恋をしているから、私も身近な果南ちゃんを好きになるなんて……果南ちゃんに失礼だよ。

だから、目を瞑る。

少しでも意識をしないように。果南ちゃんとの距離感を、壊さないように──





    *    *    *





「──ん……」


真夜中に何かが動く気配を感じて、少しだけ意識が覚醒する。

目を瞑ったまま、ぼんやりと思考を巡らしていると、その気配は、布団から這い出る音のあと、部屋から静かに出て行った。

──恐らく果南ちゃんがお手洗いに行っただけだとわかると、私の意識は再び混濁を始める。

ぼんやりとする意識の中、息をしていると、果南ちゃんの匂いがする……。

果南ちゃんのお部屋と果南ちゃんのベッド……。

……この匂い……落ち着く……な……。

……………………。

………………。

……。

──ガチャ。


「……んー……」


…………。

もぞもぞ。

──……何かがベッドに入ってくる気配がした。

108: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 13:12:33.49 ID:vQ6qZL/R0

「……はぐぅ……」


………………。……はぐぅ……?


梨子「…………え……?」

果南「…………んぅ…………」

梨子「……………………。………………!?///」


一気に意識が覚醒する。それと同時に、認識した。

背中側から、果南ちゃんに──ハグされてる。


梨子「え、あ……?/// ま、ちょっと……え……!?///」

果南「……んぅ……」
 果南『……はぐぅ……』


いや、はぐぅ……じゃなくて!!


梨子「か、かなんちゃ……!!///」


寝ぼけた果南ちゃんが間違ってベッドに侵入してきていた。

私は身をよじるものの、


果南「……んー…………ダメ……」


思った以上に強くハグされていて、こんな弱い抵抗じゃ、全く逃げ出せない。


 果南『いい……匂い……する……』

梨子「!?///」


テレパスで余計な情報が飛んできて、一気に顔が熱くなる。


梨子「か、果南……ちゃん……///」


逃げることも敵わず。


梨子「ぅぅ……///」


抱きしめられたまま、為すすべもなく、ただただ顔を熱くする。心臓がうるさい。ドキドキドキドキ。このまま、破裂してしまいそうだ。


果南「………………ん……ぅ……」

梨子「…………///」


これは事故。事故なの、それだけ。落ち着いて、私。そう落ち着いて。

自分に言い聞かせれば言い聞かせるほど、


果南「…………すぅ……すぅ……」


首筋に当たる果南ちゃんの寝息を嫌でも意識してしまう。


梨子「うぅ……///」


どんどん強く速くなっていく心臓の鼓動は、それだけで果南ちゃんを起こしてしまうんじゃないかという気さえしてきた、そのときだった──

109: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 13:15:15.39 ID:vQ6qZL/R0

 果南『…………ま……り……』

梨子「……え」


果南ちゃんが心の中で呼んだのは、私じゃなくて──鞠莉ちゃんだった。


梨子「………………」


私、何ドギマギしてるんだろう。果南ちゃんに他意がないことは、ずっと自分に言い聞かせていたはずなのに。

急激にクールダウンする頭の中で、次に響いてきたのは、


 果南『…………まり……ごめん……』


謝罪の言葉だった。

果南ちゃんは、夢現の中、鞠莉ちゃんに謝罪をしていた。

どうして、私を鞠莉ちゃんと間違えているか……少し考えてみて、そういえば果南ちゃん、鞠莉ちゃんが泊まりに来てくれることも多かったと言っていた気がする。

曜ちゃんと付き合い始めて、今でこそそういう機会はなくなってしまったんだろうけど……寝ぼけたままだったから、勘違いしてしまったのかもしれない。

お陰で少し冷静になれたけど……正直、複雑な気分……。

……でも、どうして果南ちゃんは謝ってるんだろう……? それを疑問に思っていると、


 『──ゆーあーざわんふーずうぃーど──』


エコーの掛かったような、ぼやけた英語が頭の中に響いてくる。


 果南『……おこらせて……ごめん……ね……』

梨子「…………」

 『──……集中できないから、話しかけないで』

 果南『…………。……ごめん』

梨子「…………これ……もしかして……果南ちゃんの、夢……?」


思わず呟く。

寝ているときの果南ちゃんに触れたことはなかったけど……もしテレパスが頭の中に浮かんだものを伝達しているのであれば、寝ているときは夢で見ている音や思ったことが伝わってきていても、変なことではないのかもしれない。

どっちかというと、テレパス自体が変なことなわけだし……。


 果南『今の鞠莉……怖いよ……──』

 『──果南には、関係ない』


冷たいトーンの言葉が頭に響く。


 『果南には、関係ない』


私は心の声を聞いているだけのはずなのに、胸が締め付けられるような気持ちになる。それくらい冷たい、敵意さえ感じる声。

10月頭くらいに、鞠莉ちゃんが酷く調子を崩していたときのことを、夢に見ているのかな……。

結局、あれから数日して、鞠莉ちゃんはAqoursメンバー全員に頭を下げて謝罪をし……それで一件落着だったと記憶はしてる。

だけど、どうして鞠莉ちゃんがあんな態度を取っていたのかは結局わからず仕舞いだった。


 果南『鞠莉……ごめん。鞠莉が何考えてるのか……わからないよ……』

梨子「…………」


果南ちゃんは気丈に振舞ってこそいたものの……もしかしたら、あのときのこと、ずっと悩んでいたのかもしれない。

110: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 13:16:55.05 ID:vQ6qZL/R0

 果南『でも、鞠莉……私は、鞠莉の味方だよ』
果南「……ま、り……」

 『果南には、関係ない』

梨子「……っ」


頭の中に響き続ける、鞠莉ちゃんの冷たい声。

思わず、私を抱きしめて胸の辺りに回されている果南ちゃんの手をぎゅっと握る。


 果南『ねぇ……鞠莉……私は、鞠莉の味方だよ……鞠莉の気持ちを教えてよ……』

 『果南には、関係ない』

 果南『……っ……どうして……どうして、伝わらないのかな……』

梨子「……果南ちゃん……」

 果南『…………いつもそうだ……。……私の気持ちは……伝わらない……』

 『果南には、関係ない』

 果南『……………………私の気持ちは……いつも……──』

梨子「伝わってるよ……!」

 果南『…………え……』

梨子「果南ちゃ……果南の気持ち……マリーには伝わってるよ」

 果南『鞠莉……ホント……?』

梨子「もちろんだよ。……果南が私のこと大切に思ってくれてることくらい、わかってるんだから」

 果南『そっか……。……そっか……良かった……』
果南「……よか……った…………。……まり…………。…………すぅ……すぅ……」

梨子「…………」


小さく鞠莉ちゃんの名前を呼んだのを最後に、果南ちゃんは再び穏やかな寝息を立て始めた。テレパスもそれを最後に聞こえなくなったことから、恐らく深い眠りに移行したんだと思う。

私は、


梨子「……果南ちゃん……大丈夫だよ、私は……果南ちゃんの気持ち、ちゃんとわかるから……」


果南ちゃんの手をぎゅっと握りしめながら、そう言葉にする。

テレパス。正直得体の知れない現象だと今でも思っている。だけど、今はこの力があってよかったと、私はそんなことを思った。

果南ちゃんは上手く自分の気持ちを言葉に出来ないから、なら……それなら、


梨子「私が……果南ちゃんの心に、耳を傾けるよ……」


ぎゅっと、手を握って、私は目を瞑った。果南ちゃんの気持ちを感じられるように、ぎゅっと……ぎゅーっと、手を握ったまま……。





    *    *    *





「……ん……ぅ……?」
 『……あれ…………なんだろう……………………?』

「……わ、わぁ!?///」

「え、なんで梨子ちゃんが一緒に……!? ……も、もしかして私……トイレから戻ってきたあと、入る布団間違えて……///」

「あーもー……!/// 恥ずかしいなぁ……/// り、梨子ちゃんにはバレてないかな……?」

111: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 13:18:46.51 ID:vQ6qZL/R0

「……すぅ…………すぅ…………」


「……気持ちよさそうに寝てる……。……これだけ寝入ってるなら、大丈夫……かな……?」

「……ふふ、それにしても、可愛い寝顔だなぁ……。……朝の仕事してくるから、梨子ちゃんはゆっくり寝ててね」


「……ん、ぅ……かなん……ちゃん………………」


「ふふ、名前呼んじゃって……千歌みたい。……行ってくるね」


「…………すぅ…………すぅ…………」


「……いたっ……。……また、足が……もう、なんなんだろう……これ……」





    *    *    *





梨子「……ん……」


──ぼんやりと目を開けると、自分の部屋ではない天井が見える。

果南ちゃんの家に泊まったこと思い出して、


梨子「……はっ!?///」


バッと跳ね起きて、隣を確認すると、そこはすでにもぬけの殻だった。

どうやら、果南ちゃんは先に起きて部屋を出て行ったらしい。

週末は忙しいって言っていたし……今日も朝早くから仕事をしているんだと思う。

部屋にある時計に目をやると、そろそろ朝の7時になろうという頃合。

昨日はかなり早い時間に眠ってしまったけど、夜中に目が覚めてからはいろいろ考えてしまって、全然寝付けなかったので、その分と考えればちょうどいいくらいかもしれない。

ベッドから出ようとしたときに、枕元に私の服が綺麗に畳まれているのに気付く。

恐らく先に起きた果南ちゃんが用意しておいてくれたのだろう。

着替える前に一旦部屋から出て、洗面所を借りて顔を洗う。

顔だけ洗ったら、戻ってきて手早くパジャマから着替え、借りたパジャマは畳んでベッドに置いておく。

出来れば自分で洗濯してから返したいとは思うけど……そこは果南ちゃんに確認を取ってからかな。

あまり人様の家であちこちうろちょろも出来ないので、とりあえずリビングに行くと──おじいちゃんが新聞を読んでいるところだった。


梨子「お、おはようございます」


おじいちゃんは私が挨拶をすると、こっちを見てから、


おじい「……ん」


軽く相槌を打つように声をあげたあと、また新聞に視線を戻す。

相変わらず反応は淡泊なものの、一応認識はしてもらったからいいとして……これから、どうしようかな。

部屋に戻るか、リビングでおじいちゃんと一緒に果南ちゃんを待つか……と、考えたものの、ふと前に果南ちゃんが、朝仕事をしてからおじいちゃんと自分の二人分の朝食を作っているという話をしていたことを思い出す。

112: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 13:20:32.61 ID:vQ6qZL/R0

梨子「あの……果南ちゃんはお仕事ですよね……?」

おじい「……ああ」

梨子「えっと……キッチン、借りてもいいですか?」

おじい「……ああ」

梨子「あ、あと食材も……」

おじい「……好きにしろ」

梨子「あ、ありがとうございます」


おじいちゃんに許可を貰ってから、冷蔵庫を開ける。


梨子「卵と……ベーコン。あとはレタスとプチトマトか……」


その日その日でお魚を調達して食べているせいなのか、松浦家の冷蔵庫に入っているものは少なかった。

まあ、二人しか住んでないしね……。


梨子「あとは……昨日のご飯が炊飯器に余ってるよね……」


ついでにコンロの上にあるお鍋を確認したら、中にお味噌汁が結構な量残っていた。これなら三人分は十分足りるだろう。

最初から今日の朝ごはんで食べるために、少し多めに作っていたのかもしれない。


梨子「……この食材だと……簡単なサラダと、卵料理……目玉焼きでいいかな」


たまご焼きも考えたけど、我が家は甘いたまご焼きなのに対して、松浦家は出汁巻き卵だ。

果南ちゃんはともかく、おじいちゃんは出汁の方が好きな気がするし、その上で果南ちゃんの作るあの出汁巻き卵には敵わないので、卵は目玉焼きにする。

……まあ、目玉焼きは料理って言うほどじゃないけど……。

フライパンに油を引きながら、私は三人分の朝ごはんの準備を始めるのだった。





    *    *    *






果南「ただいま、おじい」

おじい「……ああ」


その後、果南ちゃんが戻ってきたのは、目玉焼きを完成させて、サラダをお皿に盛り合わせているときだった。


果南「梨子ちゃん、おはよう」

梨子「おはよう、果南ちゃん」

果南「もしかして、朝ごはん用意してくれてた?」

梨子「うん、簡単なものしか作れなかったけど……」

果南「いやいや、助かるよ……朝の仕事のあと作るのって結構めんどくさいからさ」

梨子「ふふ、ならよかった。運ぶから、座って待ってて?」

果南「いいよ、手伝う」


果南ちゃんは、そう言いながら、食器棚からお茶碗とお椀を取り出す。

113: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 13:22:26.83 ID:vQ6qZL/R0

梨子「あ、お味噌汁はさっき温めなおしたよ」

果南「お、ありがと~。じゃあ、よそっちゃうね」


二人でテキパキと、朝食をリビングの机に運ぶ。

その間、おじいちゃんはずっと新聞を読んだままだったので、恐らく普段から朝食は果南ちゃんの担当でおじいちゃんは手を出していないということなんだろう。

──朝食の準備が整って、果南ちゃんと一緒に席につくと、おじいちゃんも新聞を畳む。


梨子・果南「「いただきます」」


果南ちゃんと声を揃えて、いただきます。

おじいちゃんも両手をあわせてから、小さな声でいただきますと呟いてから、目玉焼きに塩を振り始める。


果南「おじい、私も塩」

おじい「……ん」


おじいちゃんから塩を受け取って、果南ちゃんも目玉焼きに塩を振る。


梨子「果南ちゃんはお塩派なんだね」

果南「うん、これが一番シンプルで好きかなーって。梨子ちゃんは目玉焼きって何で食べてるの?」

梨子「あ、えーっと……普段はケチャップで食べてるかな」

果南「ケチャップかー。珍しいね」

梨子「よく言われる……」


そんなにケチャップって珍しいのかなって思うけど……。


梨子「いろいろ試してみて……ケチャップが一番好きだったから」


塩でも醤油でもソースでも、目玉焼きならおいしく食べることが出来るけど……いろいろ試した結果、私にはケチャップが一番しっくりきた、というだけの話だ。


果南「まあ、ケチャップくらいじゃ珍しくても驚かないけどね……もっと少数派の人が身近にいるし」

梨子「少数派……? 身近にってことはAqoursメンバー?」

果南「うん、千歌がね、白だし派なんだよ」

梨子「白だし……? そんな人いるんだ……」


そんな派閥初めて聞いたというくらい珍しい気がする。


梨子「そもそも家に白だしを常備してないし……」

果南「あはは、確かにね。うちにも白だしはあんまり置いてないからなぁ。千歌はよくお父さんに分けてもらってるって言ってたよ」

梨子「お父さん……そっか、板前さんだから」

果南「常備してる調味料の数や種類は、間違いなく普通のご家庭の比じゃないだろうね」


家柄的に、千歌ちゃんって意外とグルメなのかも……。

そんなことを考えながら、塩の入った小瓶を手に取ると、


果南「あ、ケチャップあるよ? 取ってくるね」

梨子「え、あ……そんな、いいよ。食べてる途中に……」

果南「むしろ、そんなところで遠慮しなくてもいいって、ちょっと待っててね」

梨子「う、うん……ありがとう」

114: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 13:25:17.67 ID:vQ6qZL/R0

もちろん、キッチンはすぐそこなので、果南ちゃんはすぐにケチャップを片手に戻ってくる。


果南「はい、ケチャップ」

梨子「ありがとう」


早速、受け取ったケチャップをかけて、目玉焼きを食べる。

……うん、やっぱり私はこの味が好きだな。


果南「あ、そうだ……おじい」

おじい「なんだ」

果南「朝の機材チェック、お願いしていい? 梨子ちゃんと勉強するからさ。今日もお客さん午後からだったよね?」

おじい「わかった」

果南「ありがと」


朝食を食べ終わったら、また二人で勉強。

……今日こそは、他の科目も勉強しないとね。そして、果南ちゃんにもしっかり勉強してもらわないと……。

そんなことを考えながら、私はお味噌汁を啜るのだった。

──あ、昨日よりも出汁が出ていて、美味しい……。





    *    *    *





──さて、勉強会二日目。


果南「…………むぅ……」


果南ちゃんが、英語の教科書を睨みながら、眉をハの字にしている。

しきりにこちらをちらちらと確認しているし……もう集中力が切れてきたんだと思う。

仕方ない……物理の教科書をパタンと閉じて、


梨子「……少し、休憩にしようか」


そう提案する。


果南「! う、うん! 梨子ちゃんもそろそろ集中力切れた頃かなって思ってたところだったんだよね!」

梨子「ふふ……そうかも」


見栄っ張りだなぁと感じながらも、なんだかそんな果南ちゃんも可愛く思えてきた。


果南「お茶と……何か軽く食べられそうなもの取ってくるね!」


嬉しそうにパタパタと部屋から飛び出していく果南ちゃん。

こういうところは千歌ちゃんとよく似ているかもしれない。さすが物心ついたときからの幼馴染だと言うだけはある。

──ほどなくして戻ってきた果南ちゃんは、お茶と……みかんの乗ったお盆を持ってきていた。


果南「……あはは、みかんくらいしかなかった」


恐らく、昨日曜ちゃんが持ってきてくれた回覧板と一緒に入っていたみかんかな。

115: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 13:27:09.63 ID:vQ6qZL/R0

果南「もうちょっと気の利いたお茶請けがあればよかったんだけど……」

梨子「うぅん、みかんも好きだから大丈夫だよ」


果南ちゃんから、みかんを受け取って、皮を剥く。

確か、みかんはヘタの付いていない方から剥いた方が綺麗に剥けるんだよね……。


果南「お、梨子ちゃん、みかんの剥き方がわかってるね」

梨子「千歌ちゃんに、こっちの方が綺麗に剥けるって教わったんだ」

果南「さすが千歌だね。みかんに関してはうるさいから……」

梨子「あはは、それは本当に」


普段から勉強嫌いなのに、みかんのことは普通の人が知らないような知識もたくさん知っている。その情熱が勉強にも向けられれば、ダイヤさんも苦労しないんだろうけどなぁ……。


果南「千歌も……ダイヤとみかん食べてるのかな」

梨子「……トマト食べてるかも」

果南「そっか……今はトマトよく食べてるもんね。昔はみかんだけ食べて生きてく、なんて言ってたのになぁ……」


果南ちゃんはみかんを口に運びながら、懐かしむように、


果南「……気付いたら……私の知らないところで、千歌が変わってく……」

梨子「…………」

果南「……あはは、ごめん。……私、最近こんなことばっかり言ってるね」

梨子「うぅん……」

果南「……千歌も……曜ちゃんも、鞠莉も、ダイヤも……皆変わってく……気付いたら、私の知らない皆が居て……」


果南ちゃんの表情が陰る。


果南「……あーダメダメ。これは良いことなんだから……もう、ダメだね私、昔のことばっかりで」

梨子「……果南ちゃん、無理しなくていいよ」

果南「……無理なんてしてないよ」

梨子「…………」

果南「だって、皆、今幸せそうだしさ……これでいいんだよ」

梨子「……。果南ちゃん、隣行っていい?」

果南「ん……いいけど」


私は食べかけのみかんを置き、果南ちゃんのすぐ隣に腰を下ろして、


梨子「果南ちゃん……寂しい?」


そう訊ねる。


果南「もう……だから、大丈夫だって」


嘘を吐くから、手を握る。


 果南『……本当は、寂しい』


知ってる。

116: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 13:28:49.06 ID:vQ6qZL/R0

梨子「大丈夫だよ、誰かに言ったりしないから」

果南「……い、いや、だから……平気だよ、私は」
 果南『……寂しいよ』

梨子「……いつもそばに居てくれた幼馴染だもんね。仕方ないよ」

果南「だ、だから……」
 果南『……そんなに寂しそうに見えるかな……』

梨子「……寂しそうだよ」

果南「……………………そっか」
 果南『……なんか、梨子ちゃんにはお見通しみたい……』

梨子「……口にするだけでも、気持ちが落ち着くかもしれないから……」

果南「………………。…………寂しい、な」
 果南『……寂しい』

梨子「……うん」

果南「皆……私の知らないところで変わってっちゃう……。それが、たまらなく……寂しい」
 果南『寂しい……寂しい……』

梨子「……うん」


何度も何度も、心が寂しいと呟いている。

そんな声を聞きながら、ぎゅっと手を握る。


梨子「……代わりにはならないかもしれないけど」

果南「……え」

梨子「……私がそばにいるね。えへへ……」

果南「…………梨子ちゃん──」


──不意に、果南ちゃんに抱きしめられる。


梨子「あ……っと……///」

果南「……ありがと……」
 果南『…………優しいな、梨子ちゃん』

梨子「うぅん……」

果南「なんでだろ……梨子ちゃんは、私の気持ち……わかってくれるんだね」
 果南『……なんか、安心する……』

梨子「……うん、わかるよ。果南ちゃんの気持ち……わかるよ」

果南「…………うん、ありがとう……梨子ちゃん」
 果南『…………温かいな……』


私は幼馴染にはなれないけど……せめて、少しでも寂しい気持ちを埋めてあげられるなら、それでいいと思った。

今の私には、それが出来るから。

今の私には──果南ちゃんの心が聴こえるから。

ぎゅっと抱きしめあっていると──くぅぅぅ~という情けない音がお腹の辺りから鳴る。しかも同時に二つ。


梨子「……///」

果南「あはは……気が合うね」
 果南『我ながら、よく鳴るお腹だなぁ』

梨子「もう……締まらないなぁ……///」

果南「お互い育ち盛りだからね。仕方ない。……みかんじゃ足りないから、お昼ごはんにしよっか」


そう言いながら、果南ちゃんは立ち上がる。釣られるように、私も立ち上がって──

117: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 13:29:41.08 ID:vQ6qZL/R0

果南「……いっづ……っ!!」


その瞬間、果南ちゃんが苦悶の表情を浮かべた。

そのまま、足を庇うように体勢を崩して、後ろに向かって倒れそうに──


梨子「果南ちゃん……!?」


私は咄嗟に手を伸ばして、果南ちゃんの腕を引いた。そのまま、勢い余って──……ドサッ。


 果南『いてて……』
果南「ごめん、梨子ちゃん……だいじょう……ぶ……」

梨子「え……っと……///」


気付いたときには、果南ちゃんの顔がすぐそこにあった。そしてその先にはピントの合わない部屋の天井がぼんやりと見える。

つまり──カーペットの上に押し倒されているような、そんな状態。


果南「!?///」


普段からスキンシップの多い果南ちゃんも流石に面食らったのか、珍しく顔が朱色に染まる。


梨子「か、かなん……ちゃん……///」


名前を呼ぶと、至近で、目が、逢った。


果南「りこ……ちゃん……///」
 果南『うわ……は、早く……どかなきゃ……』


あまりに距離が近くて、果南ちゃんの髪が顔にかかる。

果南ちゃんの匂いがして、頭がくらくらしてきた。


 果南『……やっぱり……梨子ちゃん……美人、だな……』

梨子「……果南、ちゃん……///」

果南『わ、私……何考えてるんだ……』
果南「梨子ちゃん……い、痛いところ……ない……?///」

梨子「うん……///」


私は身動ぎ一つ出来なかった。だけど、何故か果南ちゃんから目が離せない。

ただ、うるさいくらいの心臓の鼓動が、酷く心地いい。

果南ちゃんも──ドキドキしてるのかな……。


 果南『ドキドキしてる場合じゃない……早く、どかなきゃ……』


あ……。

同じだ。

心の声を聞いて、私は──


果南「!?///」


本能に突き動かされるまま、覆いかぶさる果南ちゃんの首に、腕を回した。

118: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 13:30:42.89 ID:vQ6qZL/R0

果南「りこ、ちゃ……!?///」
 果南『なにして……え……!?』

梨子「……かなん……ちゃん……わたし……果南ちゃんとなら……いい、よ……」

 果南『!? なにが!?』


そのまま、目を、瞑った……。


果南「あ……///」
 果南『……い、いいの……?』


少しずつ、果南ちゃんの気配が近づいてくる。


 果南『…………ダメだ……もう、わけわかんなくなってきた……』

梨子「……かなん……ちゃん……」

 果南『……いい匂いするし……頭……くらくらする……』


私もだよ……同じだね。


 果南『ホントに……しちゃう……よ……?』


いいよ。


 果南『………………梨子ちゃん』


気配でわかる。吐息を感じる。唇同士はあと……数センチ……。

──ガチャ。


おじい「果南、梨子、飯……だ、ぞ」

果南「………………」

梨子「………………」

おじい「すまん……」


──バタン。


果南「……………………」

梨子「……………………」

果南「………………………………」

梨子「………………………………」


果南ちゃんが、覆いかぶさった状態から、起き上がって、カーペットの上に座る。

私も、そろそろと起き上がって、カーペットの上にペタンと座った状態になる。


果南・梨子「「………………!?//////」」


頭がやっと状況を呑み込んだのか、二人してさっきの比じゃないレベルで顔が真っ赤に染まる。


果南「あ、あは、あははは……っ……///」


果南ちゃんが乾いた笑い声をあげる。無理もない。家族に見られて──ましてや祖父に見られて耐えられる羞恥じゃない。少なくとも私なら無理。自分が同じ立場だったら泣くかもしれない。

おじいちゃんにとんでもない瞬間を目撃されて、恥ずかしいのは私も同じはずなのに、果南ちゃんの気持ちを考えたら、妙に冷静になってしまう。

119: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 13:34:27.52 ID:vQ6qZL/R0

梨子「あ、あの……」

果南「梨子ちゃん」

梨子「は、はいっ!?」

果南「今の、事故」

梨子「は、はいっ!!」

果南「おじいに説明する」

梨子「う、うん」


果南ちゃんは混乱しすぎているのか、カタコト気味だけど、有無を言わせない迫力があって、思わず頷いてしまう。


果南「誤解、絶対、解く」

梨子「う、うん!」


果南ちゃんは壊れたロボットのように変な動きをしながら、部屋から出て行く。

私もそろそろとその後ろについて、リビングへ……。

どう説明するのか、全く見当も付かないけど……。……というか、


梨子「私も……どうか、してた……///」


小声で改めて、先ほどの自分の醜態を恥じる。

完全に雰囲気に流されて、おかしくなっていた。


果南「私、おじい、誤解、解く」


壊れたロボット果南ちゃんの後ろで、私は自分の唇を軽く指で押さえてみる。結局、まだ誰も触れたことのない唇のまま。でも──……果南ちゃんとなら……よかった……かも……。

何故かそんなことを考えていた。





    *    *    *





果南「だからね、おじい! さっきのは誤解で」

おじい「……ああ」

果南「いや、ああじゃなくて……ホントにそういうんじゃなくて……」

おじい「果南」

果南「な、何……?」

おじい「悪かった」

果南「だから、違うんだってばーーー!! ほら、梨子ちゃんも!」

梨子「えーっと……その……。さっきのは誤解で……」

おじい「すまん」

梨子「……」

120: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 13:36:51.20 ID:vQ6qZL/R0

おじいちゃん、もう完全に謝ってやり過ごすモードになってないかな……。触らぬ神になんとやらって感じ……。

頭を抱えながら、必死に誤解を解こうとする果南ちゃんを横目に見ながら、お昼ごはんの貝を口に運ぶ。

……美味しい。

ちなみに今日のお昼は牡蠣。お昼から、こんな高いモノ食べさせてもらっていいのかなと思いながらも、有難くいただいている。

明日からテストということもあり、さすがに生は控えてくれたらしく、焼き牡蠣だけど。


果南「おじい……」

おじい「すまん」

果南「……はぁ……もう、いいや」


果南ちゃんは肩を落としながら、焼き牡蠣を半ばやけ食い気味にパクパクと食べて、


果南「ごちそうさま……」


そのまま、席を立ってしまった。


果南「部屋、戻る……」


肩を落としたまま、ふらふらと自室に戻っていく果南ちゃん。

相変わらず、食べるのが速い……。いや、今回はあえてさっさと食べて食事を切り上げただけだろうけど。

私も早く食べちゃわないと……。気持ちペースをあげながら、牡蠣を口に運んでいると、


おじい「梨子」


先ほどまでノータッチを貫いていたおじいちゃんの方から、話しかけてきた。


梨子「え、は、はい……なんですか?」

おじい「果南を頼む」

梨子「……」


なんか、頼まれちゃった……。


梨子「あの、おじいちゃん……本当にあれは誤解というか、事故というか……」

おじい「それはどっちでもいい」

梨子「?」

おじい「……ああ見えて、あいつは寂しがり屋だ。その癖、それを口に出さん」

梨子「……」

おじい「しばらく傍に居てやってくれ」

梨子「……はい、わかりました」


今更だけど、おじいちゃんの言葉を聞いて、ああこの人はやっぱり果南ちゃんのおじいちゃんなんだ……と思う。

可愛い孫娘のことだもんね。心配なんだ。

そんなおじいちゃんに頼まれちゃったら──いや、頼まれなくてもだけど──ちゃんと果南ちゃんのそばに居てあげないとね……。

珍しく自分から口を開いたおじいちゃんだったけど、その後はまた無口に戻ってしまったので、二人して無言で牡蠣を黙々と食べながらも──私は改めて、果南ちゃんのそばに居たいという気持ちを再確認するのだった。





    *    *    *



121: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 14:07:36.51 ID:vQ6qZL/R0


果南「──さて……忘れ物はないかな?」


廊下で果南ちゃんにそう訊ねられて、改めて自分の持ち物を確認する。


梨子「……うん、大丈夫」

果南「よし、それじゃ行こうか」

梨子「ちょっと待って、果南ちゃん。その前に……」


私はリビングの方で相変わらず火の無い煙草を咥えているおじいちゃんに向かって、


梨子「お世話になりました」


頭を下げた。

おじいちゃんは声にこそ出さなかったものの、背中越しにひらひらと手を振ってくれた。


果南「それじゃ、行こっか」

梨子「うん」


──二人でダイビングショップを後にする。

外は冬ということもあり、すでに薄暗くなり始めている。

果南ちゃんの部屋を出る前に確認した時計は、午後の4時半くらいだったかな……。

今日は絶対に帰りの便を逃すわけにいかないので、最終便の午後5時に余裕をもって船着き場に向かっている。


果南「なんだかんだ、二日間みっちり勉強したねぇ……」

梨子「ふふ、そうだね」

果南「これでテストも良い点取れそうだよ」

梨子「うん。お互い頑張ろうね」


是非ともこの機会に良い点を取って、果南ちゃんには自信をつけてもらいたいし。

濃密だったこの二日間を反芻しながら、


梨子「……そういえば、パジャマ……本当に洗って返さなくていいの?」


訊ねる。パジャマは結局、洗って返すと申し出たものの、果南ちゃんにそんなことしなくていいよと言われてしまった。


果南「いいっていいって、むしろここまで返しに来るのも大変でしょ? わざわざ学校にパジャマ持ってくるのはお互い気まずいしさ……」

梨子「まあ……それもそうだね」


確かに学校でパジャマのやり取りをしているところを誰かに見られたら、変な噂になっちゃいそうだし……。

そんな話をしていたら、すぐに船着き場が見えてくる。家からそこまで距離もないしね。

ついでに、船着き場の向こう側には船の姿が見える。


果南「タイミングいいね。冬に船着き場で待つのって結構辛いから……」

梨子「あはは、確かに……」


桟橋の先だから、常に冷たい海風に晒されるしね……。

連絡船乗り場についたところで、


果南「それじゃ……気を付けて帰ってね」

122: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 14:09:11.53 ID:vQ6qZL/R0

果南ちゃんとの時間はここまで。


梨子「うん、またね。送ってくれてありがとう」

果南「送るってほどの距離じゃないけどね。……ねぇ、梨子ちゃん」

梨子「ん?」

果南「ハグ……していい……?」

梨子「……うん」


自分でも驚くほど素直に、果南ちゃんからのハグを受け入れる。

もしかしたら……ハグして欲しかったのかもしれない。


果南「……ハグ……っ」


ぎゅーっと抱きしめられて、私も自然と抱き返す。


 果南『梨子ちゃん……身体、冷えちゃってる……』


連絡船がそろそろ岸に着く。


 果南『なんか……離したくないな……』


それは、嬉しいけど……困っちゃうな……。


梨子「……果南ちゃん」

果南「……ん」

梨子「……また来るね」

果南「……うん」


そう伝えると、果南ちゃんは意外とすんなり離してくれた。

夕闇迫る船着き場に、連絡船が到着する。

これ以上、何かを喋るとなんだか離れられなくなっちゃいそうだから……そう思って、船の方へと歩を進める。


梨子「お願いします」


乗船券を見せて、船に乗り込んで──船内の窓から船着き場に目を向けると、上着のポケットに手を突っ込んだまま立っている果南ちゃんと目が合った。

すると、果南ちゃんはニコっと笑って手を振ってくれる。

だから、私も控えめに振り返す。

二人で手を振り合っていると、私しか乗船客の居ない連絡船は静かに動き始めた。


梨子「また……来るからね」


今まで何度も足を運んでいるはずなのに、今までで一番淡島から離れるのが名残惜しいと感じる船だった。

それくらい、この二日間。果南ちゃんと一緒に過ごした時間は楽しくて……なんだか、ドキドキした。

──そう、ドキドキしたんだ。


梨子「……」

123: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 14:11:42.96 ID:vQ6qZL/R0

もう喉元まで出かけているこの気持ちの正体。

でも、どうにかそれを呑み込んで、私は家に帰ります。

……また、明日からも残された二人としての時間を過ごすために──。





    *    *    *





──12月9日月曜日。

週が明けて、期末テストが始まる。本日から三日間、即ち水曜日までがテスト期間ということになる。

それぞれ一日四教科ずつ。本日二年生の試験科目は、英語、現社、国語、古文の四科目。

私としては二日目に数学、物理、化学と苦手な科目が固まっているので、問題は今日よりも明日だ。ちなみに二日目の残りの一つは保健体育。

三日目の科目は日本史、世界史、音楽、美術となっている。

期末テストは中間テストと違って、技術科目にもペーパーテストがあるため、対策しなくちゃいけないことが多い。……とは言っても、技術科目のペーパーは簡単なことが多いけど。

試験直前に軽く教科書を覚えておこうかな、などと考えながら教室に入ると──


千歌「──────」


千歌ちゃんが席に座って、何やらぶつぶつと呟いている。


梨子「千歌ちゃん、おはよう……?」

千歌「……ひっ、あ、ああ……だ、だめ……今話しかけないで……た、単語が消えちゃう……」

梨子「はい……?」

千歌「ああ……! 今絶対床に単語落ちた、英単語落ちた……ちゃんと、ちゃんと拾わなきゃ……」

梨子「…………」


千歌ちゃんはついに、勉強のしすぎでおかしくなってしまったようだ。


曜「週末はダイヤさんにきっちり絞られたみたいだね……」

梨子「曜ちゃん……おはよう」

曜「おはよう。千歌ちゃんたぶん、ギリギリになって詰め込んだ英単語が飛んでかないようにしてるんだと思うよ」

梨子「……なるほど」


だとしても単語は床に落ちないと思うんだけど……。あんな調子で大丈夫なのかな。


曜「それよりも、千歌ちゃん……」

千歌「んあぁ!! ダメだって、今話しかけないでよ!!」

曜「いや、私の席そこだからさ……」

千歌「席!? “席”はSeatだよ!?」

曜「……ダメだ、日本語が通じてない」

梨子「あ、そっか……試験のときは出席番号順だから……」


渡辺曜は出席番号順が最後だから、一番左後ろの千歌ちゃんの席が試験中の曜ちゃんの席になるということ。

124: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 14:13:22.57 ID:vQ6qZL/R0

曜「千歌ちゃーん……席替わって欲しいなー……」

千歌「か、“替わる”……Change!」

曜「いや、そうじゃなくて……」

千歌「“そうじゃない”──That's not the way!」

曜「それテストに出るかな!? 千歌ちゃーん……いい加減席に座らせてよー……」

梨子「曜ちゃん……ファイト……」

曜「あはは……予鈴までにどうにかして、どいてもらわないと……」

千歌「“予鈴”……First bell.」


とりあえず、二人の漫才に付き合っていたら、私も準備が出来ない。

曜ちゃんにはどうにか自分で解決してもらうとして、私も席に着いて、最後の勉強にと英語の教科書を開く。

──英語、か。……果南ちゃんは大丈夫かな……?

果南ちゃんも英語はやばいって言っていた──というか思っていた──から……心配だな。

まあ……今更私が心配しても、どうにもならないんだけど……。


梨子「今は、自分のテストに集中しよう……」


テストが始まるまであと十数分ほど、私は私なりに自分の出来ることをこなそう。


千歌「“時間がない”……I don't have any time.」

曜「──千歌ちゃーーん!! いい加減、席替わってーーー!!」





    *    *    *





……さて。

英語、現社、国語……そして古文と、本日の試験科目が全て終わり。


千歌「……ありをりはべり、いまそかり……」


千歌ちゃんは机の上で脱力したまま、呪文のようにラ行変格活用を唱えている。


梨子「千歌ちゃーん……試験終わったよー……?」

千歌「……試験、終わった……? じゃあ、試験休み……!」

梨子「試験休みは木曜だよ……今日の試験が終わっただけで、明日も試験あるから」

千歌「…………拷問じゃん」

曜「拷問ではないと思うけど……」


荷物をまとめた曜ちゃんが、軽く呆れながら千歌ちゃんの席に近寄ってくる。


梨子「曜ちゃんは試験、どうだった?」

曜「うん、手ごたえはあったかな。特に今回、英語は鞠莉ちゃんにみっちり教えてもらったから自信あるよ!」


それは確かに手ごたえを感じていてもおかしくないかも……。

125: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 14:17:44.08 ID:vQ6qZL/R0

曜「梨子ちゃんは?」

梨子「うーん……どれもそこそこ出来たって感じかな」

千歌「勉強出来る人のそこそこって信用出来ないんだよっ!! どうせ80点くらい取ってるんでしょ!? 怒るよ!?」

梨子「なんでキレてるの……」

曜「あはは……」


二人で呆れていると、


 「千歌さーん?」


廊下から、千歌ちゃんを呼ぶ声。もちろん、声の主は言うまでもない。


千歌「……ひっ」

梨子「あ……ダイヤさん。お疲れ様です」

曜「ダイヤさん、お疲れ様ー!」

ダイヤ「ええ、お二人とも。お疲れ様です。さあ、千歌さん。帰って理系科目をやりますわよ」

千歌「……ぅ、ぅぇぇ……」

ダイヤ「はい、荷物まとめて」


そう言いながら、ダイヤさんはテキパキと千歌ちゃんの文房具を筆箱に詰め始める。


ダイヤ「試験、頑張るんでしょ? ほら、あと二日だから、頑張って?」

千歌「……ぅ、ぐ……うん……」


千歌ちゃんは辛そうな顔をしながらも、結局頷いてバッグに荷物をしまい始める。

なんだかんだで、試験当日も千歌ちゃんの世話を焼きに来る辺り、この二人は相変わらずだ。

千歌ちゃんが荷物をまとめているのを傍目に、せっかくだからと、ダイヤさんに小声で話しかける。


梨子「……ダイヤさん」

ダイヤ「なんでしょうか?」

梨子「果南ちゃん……どうでした?」

ダイヤ「果南さん……まあ、会心の出来と言うほどではなさそうでしたけれど、そこまで酷い結果でもなさそうでしたわ」


どうやら、可もなく不可もなくという感じだったようだ。


梨子「そっか……ならよかった」

ダイヤ「それより、鞠莉さんから聞きましたわよ。果南さん、梨子さんと一緒に勉強をされていたそうではないですか」

梨子「あ……はい」


そういえば、果南ちゃんの家で鞠莉ちゃんに目撃されてるんだった……。


ダイヤ「どうでしたか? 勉強は捗りましたか?」

梨子「はい、なんだかんだで二日間、しっかり勉強出来ました」

ダイヤ「それは何よりですわ。……して、果南さんはちゃんと勉強していましたか?」


聞き方からして、ダイヤさんもたぶん、果南ちゃんが勉強が苦手なことは知っているんだと思う。


梨子「えっと……ちゃんとやってたと思います」

ダイヤ「そうですか……果南さんの勉強を見張る人が居なくなってどうしようかと鞠莉さんと話していたのですが……梨子さんが居てくれれば一安心ですわ」

126: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 14:21:01.08 ID:vQ6qZL/R0

果南ちゃん、見張られてたんだ……。


千歌「……ダイヤさん、帰ろ?」


気付けば、千歌ちゃんの帰りの準備が整ったようだ。


ダイヤ「ええ、そうしましょう。それでは、お二人とも、ごきげんよう」

梨子「あ、はい、お疲れ様です。千歌ちゃんもまたね」

曜「二人ともお疲れ様~」

千歌「うん……またねー……」


千歌ちゃんはややテンション低めなものの、今日は大人しくダイヤさんと一緒に下校していった。


梨子「曜ちゃんは、鞠莉ちゃんと一緒に帰るの?」

曜「うぅん、試験中はすぐ帰るように言われてるから」

梨子「そうなの?」

曜「理事長は試験中も仕事があるみたいだから……『曜は早く帰って勉強しなさい』って」

梨子「なるほど……」


生徒会長はあくまで生徒の一人だから、その辺り気を回してもらえるんだろうけど、理事長はそうもいかないもんね……。まあ、鞠莉ちゃんの学力なら心配ないんだろうけど。


梨子「それじゃ、私たちも帰ろっか」

曜「ヨーソロー! そうだね~」


一瞬果南ちゃんを探そうかなとも思ったけど……さすがに試験中は果南ちゃんも真っ直ぐ家に帰るだろうし、私も真っ直ぐ家に帰ることにしよう。

約束していたわけでもないしね。次果南ちゃんに会えるのは……たぶん試験最終日の放課後かな……?





    *    *    *





──キーンコーンカーンコーン。


先生「はい、終わりです。全員ペンを置いてください」

梨子「ふぅ……」

先生「それじゃ、後ろから答案を回収してー」


最後の試験科目である美術の答案を、後ろから回収しにきた人に渡し、これにて期末試験も終了だ。

そんなこんなで三日間の試験工程をこなした今日は12月11日水曜日。


先生「これで期末試験は終わりで、明日一日試験休みだから間違えて学校に来ないように」


それだけ言って先生が教室から出ていくと、生徒たちがガヤガヤとし始める。

テストも終わったし、どこに遊びに行くかなど、クラスメイト達が話している中、


曜「梨子ちゃん、お疲れ様」


最初に私に話しかけてきたのは曜ちゃんだった。

127: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 14:23:39.93 ID:vQ6qZL/R0

梨子「お疲れ様。曜ちゃんはこのあと、鞠莉ちゃんのところ?」

曜「うん! 理事長の仕事はちょっとあるみたいだけど……今日は理事長室で終わるまで待ってていいって言われてるから!」

梨子「ふふ、そっか。よかったね、曜ちゃん」

曜「えへへ……うん」


待ってていいと言われただけなのに、嬉しそうな曜ちゃんを見るとなんだかほっこりしてしまう。

……そういえば、試験の終わりを今か今かと待ち望んでいたもう一人は──


千歌「…………」


机に突っ伏したまま、抜け殻になっていた。


梨子「燃え尽きてる……」

曜「まあ千歌ちゃん、なんだかんだで今回の試験は頑張ってたからね……。おーい、千歌ちゃーん? 大丈夫ー?」


曜ちゃんと二人で声を掛けながら、千歌ちゃんの席の方へ行く。すると、


千歌「…………だいじょばない」


千歌ちゃんは心底疲れた声で応答する。


梨子「ほら、試験終わったよ? 待ちに待った、お休みだよ?」

千歌「……休み」


千歌ちゃんは休みという単語に反応し、むくっと起き上がって、荷物をまとめ始める。


千歌「……生徒会室行く」


どうやら、千歌ちゃんもダイヤさんに会いに行くらしい。試験期間中も毎日一緒に勉強していたのに、飽きることはないらしい。本当に羨ましい限りだ。


曜「それじゃ、私も……」

梨子「うん、またね」

曜「うん。千歌ちゃんも梨子ちゃんも、また金曜日ね」

千歌「おつかれさまぁ~……ばいば~い……」


二人で曜ちゃんを見送って。


梨子「じゃあ、私も帰ろうかな……」


その前に果南ちゃんを探すけど……そんなことを考えながら荷物をまとめていると、


千歌「あ、そういえば、ダイヤさんが梨子ちゃんに用があるって言ってたよ」


ダイヤさんからの言付けを伝えられる。


梨子「用? ダイヤさんが?」

千歌「うん、渡すものがあるって言ってた」

梨子「……わかった。じゃあ、一緒に行こっか」

千歌「うん」


ダイヤさんからの用事……なんだろ?


128: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 14:28:45.41 ID:vQ6qZL/R0



    *    *    *





──生徒会室。


千歌「……きたよー」

ダイヤ「お疲れ様です、千歌さん」

梨子「失礼しまーす……」

ダイヤ「あら、梨子さん……伝えてくれたのね? ありがとう、千歌さん」

千歌「どういたしましてー……」


千歌ちゃんはそのままふらふらと応接用のソファーに突っ伏す。


ダイヤ「……はしたないですわよ」

千歌「今日は、勘弁してぇ……」

ダイヤ「全く……今日だけですわよ」


ダイヤさんは呆れながら肩を竦めるものの、いつものように厳しく咎めはしなかった。

千歌ちゃんの頑張りを認めて、大目に見てあげているのかもしれない。


梨子「それで、私に渡したい物って、なんですか?」

ダイヤ「ああ、作詞と簡単な作曲が出来たので、これを渡しておこうかと思いまして……」


そう言いながら、ダイヤさんは歌詞の書かれた紙と、曲を録音したであろうポータブルレコーダーを手渡してくる。


梨子「え……もしかして、この期間中に作ったんですか……?」

ダイヤ「ええ。早いに越したことはないと思ったので。これから、あそこで伸びている人の作詞作曲も手伝わないといけないですし」

千歌「おかまいなくぅ~……」

ダイヤ「貴女はもう少し、気にしなさい」


有難いけど、正直このタイミングで渡されるとは思っていなかったので、少し面食らってしまった。

ダイヤさん……千歌ちゃんの勉強を見ながらテスト勉強もして、更に作詞作曲まで進めていたなんて……改めて、優秀な人だったことを思い知る。


梨子「そんなに焦らなくても、大丈夫だったのに……」

ダイヤ「いえ、少しでも早く終わらせることが、梨子さんの負担を一番軽減出来ると思いましたので」

梨子「ダイヤさん……ありがとうございます」

ダイヤ「曲……確認していただけますか?」

梨子「……はい! もちろん!」


バッグから、イヤホンを取り出して。歌詞に目を通しながら、曲を確認する。

──歌詞は、流し見しただけでも、切ない恋の歌を綴ったものだというのが一目でわかる。

それと同時に流れてきた音楽は、お琴の演奏を録音した雅なものだった。

129: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 14:30:54.09 ID:vQ6qZL/R0

梨子「これ……ダイヤさん一人で作ったんですか……?」

ダイヤ「ええ、どうでしょうか?」

梨子「素敵な曲だと思います……!」

ダイヤ「ありがとうございます。久しぶりの曲作りだったので、緊張していましたが……梨子さんにそう言っていただけたなら、一安心ですわね」


切ない恋の詩と、お琴の上品な音色が合わさって、ダイヤさんの雰囲気によく合う一曲に仕上がっていた。

鞠莉ちゃんに続いて、ここまでしっかり作曲をしてくれるのはすごく助かる。何より、私一人では作れない色が出ていて、ソロ曲にふさわしいものだと思える出来栄えだった。


ダイヤ「ただ、主旋律こそ作ったものの……お琴だけだと、少し音が足りない気がして……編曲はお任せしてもいいでしょうか?」

梨子「はい、任せてください!」


そして、ここからは私の仕事。いかにダイヤさんの作った音色を殺さず、ブラッシュアップさせるか……Aqoursの作曲担当としての、腕が試される。


梨子「頑張らないと……!」


思わず、気合いが入ってしまう。


ダイヤ「ふふ、よろしくお願いしますわ」

梨子「はい!」

千歌「梨子ちゃん、がんばってね~……」


千歌ちゃんがソファに転がったまま、他人事っぽく言ってくる。


ダイヤ「千歌さん、せめてソファでは座りなさい……」

千歌「えー……」

梨子「あはは……。それじゃ……私はお先に失礼します」


二人の時間を邪魔しちゃ悪いので、早めにお暇することにする。


ダイヤ「はい、お疲れ様です」

千歌「梨子ちゃん、このまま家に帰るの?」


やっと起き上がって、ソファに腰掛けた千歌ちゃんが訊ねてくる。


梨子「うぅん、部室に顔出すつもりだよ」

ダイヤ「あら……今日も部活はお休みですけれど」

梨子「え、えっと……もしかしたら、誰かいるかもしれないですし……」


そんな私の言葉を聞いて、


千歌「……ふっふーん、もしかして」


千歌ちゃんがきらりと目を輝かせた。


千歌「果南ちゃんに会いに行くんでしょ!」

梨子「!?/// い、いや……その……///」

千歌「青春してるね~うんうん」

130: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 14:36:02.52 ID:vQ6qZL/R0

千歌ちゃんは楽しそうにコロコロと笑いながら、私のことをからかってくる。

一方で図星を指された私も、顔が熱くなるのを感じる。

たぶん、今少し顔が赤いかも……。こんな顔を見せたら千歌ちゃんをますます増長させちゃうと思い、プイっと顔を逸らす。


千歌「果南ちゃんも梨子ちゃんが来てくれたら喜ぶよ、きっと~」

梨子「……///」


よ、喜んでくれるかな果南ちゃん……。幼馴染の千歌ちゃんが言うなら間違いないのかな……?

そんな淡い期待を抱いている私に対して、


ダイヤ「果南さんですか……?」


恐らく事情がよくわかっていないダイヤさんが不思議そうな声をあげる。


千歌「んふふ~ダイヤさんはにぶちんだからね~」

ダイヤ「なんですか……急に」

千歌「乙女の秘密だよ~。ね、梨子ちゃん?」

梨子「し、知らない……!/// もう、行くから……!///」


これ以上ここに居たら、千歌ちゃんのいいおもちゃにされると思い生徒会室を出ようとすると、


ダイヤ「ちょっと待ってください、梨子さん」


ダイヤさんに呼び止められる。


ダイヤ「今日、果南さんは、試験が終わったらすぐに帰られましたわ」

梨子「え」

ダイヤ「なんでも用事があると言っていましたので……」

梨子「そ、そうなんですか……」


やっと果南ちゃんに会えると思っていたせいか、ダイヤさんの言葉を聞いて、内心かなりがっかりしている自分が居た。

約束していたわけじゃないから、仕方ないけど……。

まあ……実際部室に行って、いつまで待っても来ることのない果南ちゃんを待っているよりはよかったかな……。


千歌「果南ちゃんの用事……? なんだろ……? 潮干狩り……?」

ダイヤ「真冬に……? 貴女は果南さんのことをなんだと思っているのですか……。……普通に用事くらいあるでしょうに。家の手伝いかもしれませんし」


確かに、ダイヤさんの言うとおりだ。

何か用事や仕事があったのかもしれない。


梨子「……ありがとうございます、ダイヤさん。それなら、今日はもう帰ろうかな……」

ダイヤ「よろしければ、果南さんに伝えておきましょうか? 梨子さんが探していたと……」

梨子「いえ、大丈夫です。急ぎの用事があるわけでもないので……」


本当に用があったわけではなく──ただ、会いたかっただけ……とは、恥ずかしくて言えないので言葉を濁す。


梨子「それじゃ今度こそ……お疲れ様です。また金曜日に」

千歌「あ、うん。またね~」

ダイヤ「道中お気を付けて、お帰りくださいね」

131: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 14:39:00.97 ID:vQ6qZL/R0

私は二人に手を振りながら、改めて生徒会室を後にしたのだった。





    *    *    *





梨子「──はぁ……」


無意識に溜め息が漏れていた。


梨子「今日は……果南ちゃんに会えると思ってたんだけどな……」


さっきから「約束をしていたわけじゃないんだから、しょうがない」と自分に言い聞かせているはずなのに、なんとも言えない虚しさが渦巻いている。

きっと果南ちゃんも会いたいと思って待っていてくれているんじゃないか、勝手にそんな期待をしていたのかもしれない。


梨子「用事があったんだから、仕方ないって……」


再び自分に言い聞かせるように呟きながら、歩いていると、


 「──梨子ちゃん?」

梨子「……ん?」


突然、名前を呼ばれた。

振り返ると、そこに居たのは、


花丸「試験お疲れ様ずら」


花丸ちゃんだった。


梨子「花丸ちゃんも、試験お疲れ様」

花丸「それより、どうしたの? これからお休みなのに、溜め息なんか吐いて……?」


……溜め息、聞かれていたようだ。


梨子「う、うぅん、なんでもないよ。ちょっと疲れただけ、かな……あはは」


果南ちゃんと会えなかったから溜め息を吐いていたとは言えないので、適当に誤魔化す。


花丸「……もしかして、まだ運が悪い……とか?」

梨子「あ、いや……そういうわけじゃないんだけど……」

花丸「清め塩は試してみたずら?」

梨子「あ……」


そういえば、せっかく教えてもらっていたのに、ばたばたしているうちにすっかり忘れていた。


花丸「梨子ちゃん?」

梨子「あ、えーと……」

花丸「忘れてたずら?」

梨子「ご、ごめんなさい……」

132: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 14:41:43.21 ID:vQ6qZL/R0

自分から頼った手前少し罰が悪かったけど、


花丸「うぅん、謝るようなことじゃないよ。忘れられるくらいなら、きっと必要がなかったってことだから、むしろそれは良いことずら」


花丸ちゃんの言葉に、少し心が軽くなる。


花丸「それに本来、仏教では御払いって考え方はあんまりしないしね」

梨子「そうなの……?」

花丸「仏教では、ありのままを受け入れることが基本だからね。厄除けとかはあるけど、そういううまくいかないことも含めて、受け入れていくことが人生ずら」

梨子「ありのまま……」

花丸「人生は因縁生起。全て繋がっているから」

梨子「いんねん……しょうき……?」

花丸「縁起とも言うずら」

梨子「縁起って……縁起が良いとか悪いとかの縁起?」

花丸「うん。物事は因縁──すなわち原因があって、それが縁に作用して生起──結果が起こるっていう考え方だよ。人との出会いのみならず、自分の身に起こる一つ一つのことも、無数の事象が複雑に絡み合って関係し、その結果自分の目の前に現れる。それを“ご縁”というずら」

梨子「“ご縁”……」

花丸「その無数の事象のうち、一つでも欠けていれば、今の結果にはなりえなかったかもしれない。だから、今直面している現状は、無限に広がる生起の重なり合いによって成り立っている不可思議と言えるずら」

梨子「えっと……どんなことも奇跡のようなもの、ってことかな……?」

花丸「うーん、仏教では奇跡って考え方はあんまりしないけど……今風に言うならそんな感じかも。マルたち人間は、当たり前のように日常を享受しているけど、これも当たり前じゃなくて……無数の事象が重なり合った不可思議の先にある、有難い“ご縁”ずら。だからこれは、そんな“ご縁”にしっかり目を向け、感謝を忘れないように生きていかないといけないよって言う教訓かな」

梨子「……どんな物事にも……意味や理由がある……ってこと、なのかな」

花丸「そうかもね。些細なことでも、それを見出して感謝の心を持つことは、きっと善い行いずら」


意味……理由……。……私に果南ちゃんの心の声が聞こえる理由があるんだとしたら……。それって──


梨子「ありがとう花丸ちゃん……!」

花丸「なんだか、迷いが晴れたような顔になったね、梨子ちゃん」

梨子「うん……! 花丸ちゃんの今の言葉で、なんだか気持ちが軽くなった気分だよ……!」

花丸「それはなによりずら」


──やっと、わかった。

私に果南ちゃんの心の声が聞こえる──テレパス現象。この現象に、もし理由があるとするなら、それは──私が果南ちゃんを支えるためじゃないだろうか。

伝わらない気持ちに苦しむ果南ちゃんを、私が支えるために、なんの因果か、私に廻ってきた力なんだ。

今まで、なんで突然こんな現象が、なんて思っていたけど……たまたま果南ちゃんの心が読めることに気付いて、そして果南ちゃんの悩みを、心のつっかえを知って──

そんな度重なる無数の事象が──私が果南ちゃんを支えるために廻ってきた“ご縁”だったんだとしたら、私がやることは一つだ。

……誰かが、何かが、私に果南ちゃんを支えろと言っている。その意味がわかって、自分がこれから何をすればいいのかがわかって、私はすごくすっきりした気分だった。



133: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 14:42:11.56 ID:vQ6qZL/R0


    *    *    *





──もちろん、これが自分にとって都合のいい解釈をしている、とんでもない勘違いだったというのは……言うまでもないけど──





    *    *    *


134: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 14:47:55.97 ID:vQ6qZL/R0



帰宅後、鍵盤に向かって、ダイヤさんのソロ曲の編曲を進めている真っ最中。


梨子「……うーん……そろそろ休憩しようかな」


それなりの時間、集中して作業を続けていたので、一旦休憩にする。

楽曲そのものは今日ダイヤさんの前で称賛したとおり、創作意欲を掻き立てられる出来栄えだったためか、編曲のアイディアがしっかり浮かんでくる。

あとはそのイメージ一つ一つをしっかり音に落とし込む作業に時間を掛けるだけだ。

ピアノから離れた私は、一直線に机の上のスマホに手を伸ばして、通知を確認する。


梨子「……何も来てない……よね」


特に約束していたわけでもないけど、なんとなく手持無沙汰になるとスマホを確認してしまう。

──果南ちゃんから何か連絡がないかな、と。


梨子「…………果南ちゃんと、お話したいな……」


気付けば、もう丸三日間、話していないし、顔も見ていない。

……そんなに話がしたいなら、もうこっちから連絡しちゃえばいっか。

緊張するけど、来る宛てのない連絡を待ち続けて、スマホと睨めっこしていてもしょうがないし。


梨子「……よし」


果南ちゃんとのトーク画面を開いて、いざ何を書き込もうと、考えていると──


梨子「……ん?」


前回のLINEでの会話の後に、見覚えのないメッセージ。

 『KANAN:梨子ちゃん、今時間大丈夫?』

時間を確認すると──


梨子「い、今!? か、果南ちゃんから連絡……!」


ちょうどスマホを点けたタイミングで、果南ちゃんからのメッセージを受信したところだった。


梨子「は、早く返信……!」


果南ちゃんからしたら、一瞬で既読が付いたはずだし、早く返信しないと……!

 『梨子:今ちょうどスマホ触ってたところだよ』

 『KANAN:みたいだね。送ったそばから既読がついてちょっとびっくりしたよ』


梨子「私もびっくりしたよ……でも……」


なんだか、顔がにやけている。たまたまスマホを点けたタイミングで果南ちゃんから連絡が来るなんて──相性がいいのかな? なんて、考えてしまう。

……もちろん、偶然だろうけど。

それはそうと、返信だ。

 『梨子:それより、どうかしたの?』

 『KANAN:今日何も言わずに先に帰っちゃったからさ』


梨子「あ……」

135: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 14:49:34.16 ID:vQ6qZL/R0

果南ちゃん、気にしてくれていたんだ……。

なんでもない、私のことを気にかけて、連絡してくれて……。

そのメッセージだけで、心臓がまたトクントクンと心地よい早鐘を打ち始める。

自分のことを考えてくれていたことが、無性に嬉しいのか、なんだか頭がぽわぽわする。


梨子「……声が聴きたい……」


勝手に言葉が漏れていた。


梨子「果南ちゃんの声が聴きたい……」


気付けば、突き動かされるように、通話のボタンを押していた。

アプリの通話発信音が数秒鳴ったのち、


果南『──もしもし、梨子ちゃん?』


果南ちゃんの声が、聞こえてくる。


梨子「果南ちゃん……! こんばんは」

果南『こんばんは。いきなり通話が来て、ちょっとびっくりしたよ』

梨子「え、あ……ご、ごめんなさい、いきなり……迷惑だったかな……?」


少し気持ちが先走り過ぎてしまったかもしれない。


果南『うぅん、大丈夫だよ』

梨子「なら、よかった……」

果南『それより、今日はごめんね。何も言わずに帰っちゃって』

梨子「果南ちゃんが謝るようなことじゃないよ……約束してたわけでもないし」

果南『あはは、ありがと。私も最初は部室に寄るつもりだったんだけど……試験が終わったあと、思ったより診察まで時間がなくて……』


診察……?


梨子「診察って……果南ちゃん、病院に行ってたの?」

果南『うん、ちょっとね』

梨子「もしかして……どこか、悪いの……?」


普段から健康そうな果南ちゃんから、診察というワードが出てきて少し不安になる。


果南『悪いというか……ここ数日、足が痛むことがあってね。一度病院で見てもらおうと思って』

梨子「足……」


言われてみれば、確かに足を庇うように振舞うところを何度か見ている。そういえば、それで足をもつれさせて転んじゃったこともあったっけ……。そのとき、一緒に私も転んじゃって、事故で押し倒されたみたいになっちゃって……。

──『……かなん……ちゃん……わたし……果南ちゃんとなら……いい、よ……』──


梨子「……/// そ、そういえばそうだったね……///」


思い出して赤面する。それはともかく、


梨子「それで、診察結果はどうだったの……?」


重要な部分はこっちだ。

136: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 14:52:57.88 ID:vQ6qZL/R0

果南『あーうん……異常は全く見つからないって言われたよ』

梨子「そうなの?」

果南『触診もしてもらったし、レントゲンも撮ったけど……肌も、筋肉も、骨にも全く異常はないって。むしろ、よく鍛えてるねって褒められちゃったよ』


さすが、アスリート気質なだけはある。私もスクールアイドルを始める前と後では、身体の引き締まり方も少し変わった気がするけど……さすがに、果南ちゃんや曜ちゃんほどではない。


梨子「でも、よかった……何もないなら」

果南『そうだね。エイにでも刺されたのかと思ったけど……そういう痕もないって言われたし』

梨子「……? エイって刺すの……?」

果南『尻尾に長くて鋭い毒針がついててね……。うっかり踏んづけたりすると、マリンブーツとか長靴でも貫かれるから、かなり危ないんだよ』

梨子「そうなんだ……」

果南『梨子ちゃんも海に入るときは気を付けるんだよ?』

梨子「はーい」


海のインストラクターが言うと、少し重みがある。

果南ちゃんが危ないって言うくらいだから、本当に危ないんだろう。

そんなに頻繁に海に入るわけじゃないけど……言われたとおり、気を付けよう。

閑話休題──


梨子「でも……結局なんだったんだろう……?」


果南ちゃんの足が痛む原因は結局よくわからないままだ。


果南『うーん……なんだろうね。結局お医者さんにはハードワークで疲れてるんじゃないかって言われたけど……』

梨子「そっか……あんまり無理しないでね……?」

果南『うん、ありがと。明日は平日だからお客さんも居ないし、試験休みを家でゆっくり満喫するよ』

梨子「うん、ゆっくり休んでね」

果南『まあ、試験中は痛むこととか全然なかったし……たぶん、大丈夫だと思うけどね』

梨子「それなら、いいんだけど……」

果南『梨子ちゃんこそ、ゆっくり休むんだよ? 試験も終わったことだし』

梨子「うん、そうするね。それじゃ、果南ちゃんにはゆっくり体を休めて欲しいから……今日はもう切るね?」


名残惜しいけど、本当に無理はして欲しくないからと思い、そう提案する。


果南『私はもうちょっと梨子ちゃんとお話しててもいいんだけど……。……まあ、健康第一だし、お言葉に甘えようかな』

梨子「うん。おやすみなさい、果南ちゃん。またお昼休みに」

果南『ふふ、おやすみ。またお昼休みに部室で』


果南ちゃんとの通話を終了して、一息。


梨子「……えへへ」


お話が終わったところで改めて、果南ちゃんが私のことを考えてくれていたことが嬉しくて、自然と顔がほころぶ。

明日は会えないけど、心がぽかぽかと満たされている気がした。


梨子「……なんか、今ならいい編曲が出来そう」

137: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 14:56:10.02 ID:vQ6qZL/R0

なんだか、力が漲ってくる感じがする。

私は果南ちゃんに力を貰っているのかも。


梨子「よーし、休憩終わり! もうちょっと、編曲作業頑張ろう……!」


果南ちゃんとの時間を過ごせて、リフレッシュが出来た私は、再びピアノに向かって作業に没頭するのだった。





    *    *    *






──12月13日金曜日。

一日試験休みを挟んで、今日の学校が終われば再び週末がやってくる。

特に週末に予定はないけど……お昼休みは果南ちゃんに会える。

その事実があるだけで、足が少しだけ軽くなるのを感じる。


梨子「……私、単純なのかな」


そんな自分に対して内心呆れてしまうけど、楽しみなものはしょうがない。とにかく、このまま今日の授業をこなして、お昼休みまで頑張ろう。

少し機嫌の良いまま、教室へと入ると、


千歌「あ、梨子ちゃん♪ おっはよー!!」


これまた、一段とご機嫌な千歌ちゃんに出迎えられる。


梨子「おはよう、千歌ちゃん。ご機嫌だね」

千歌「うんっ! だって、今日が終わればお休みがやってくるんだもん!」


そういえば、明日は遊園地にデートに行くって、ルビィちゃんが言ってたっけ。

ちょっと気が早いものの、ご機嫌になるのも頷ける。


曜「二人とも、おはヨーソロー!」

梨子「おはよう、曜ちゃん」

千歌「おはヨーソローーー!!!」

曜「あはは、千歌ちゃんテンション高いね♪」

千歌「うん! もう、元気全開って感じだよー!!」


テスト期間中、ダウナー状態だった千歌ちゃんも、すっかり調子を取り戻し、元気いっぱい。

声を聞いているだけで、明日のダイヤさんとのデートが楽しみで楽しみで仕方がないのが伝わってくる。

辛いテストを乗り越えてのイベントだから、そんな気持ちもひとしおなんだろう。

なんだか、ここまで元気な千歌ちゃんを見ていると、私まで嬉しくなってしまう。

ただ、それと同時に──私にも、千歌ちゃんみたいに、素敵な恋人が居たら、こんな風に舞い上がっていたのかなと考えてしまう。


梨子「……」


やっぱり、私の中には羨ましいという感情が強く渦巻いていることを自覚する。

千歌ちゃんに対しても……そして、

138: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 14:58:45.60 ID:vQ6qZL/R0

曜「……ん? 梨子ちゃん、どうかしたの?」


曜ちゃんに対しても。


梨子「うぅん。曜ちゃんも、週末は鞠莉ちゃんと何か予定があるのかなって」

曜「ん……ま、まあ、うん……」

梨子「一緒にデート?」

曜「そ、そんなところかな、あははー」

梨子「そっか……いいなぁ……」


思わず漏れ出てしまう、羨望の言葉。


千歌「大丈夫だよ、梨子ちゃん!」

梨子「?」

千歌「梨子ちゃんも、最近いい感じなんでしょ~?」

梨子「……へ!?///」


急にそんな話を振られて変な声が出た。


梨子「も、もうっ!!/// だから、違うって言ってるでしょ!?///」

曜「え、なになに?」

千歌「聞いてよ曜ちゃん、実はね~」

梨子「千歌ちゃんっ!!///」

千歌「あはは~冗談だってば~乙女の秘密だもんね~♪」

梨子「だ、だから……/// ああ、もう……/// 知らない……///」

千歌「ごめんってば~」

曜「?」


千歌ちゃんは私の反応を見て楽しそうに笑う。

最近、千歌ちゃんには、からかわれてばっかりだ。

思わず、むーっとした顔をしていると、


千歌「でも、応援してるのは本当だからね?」


千歌ちゃんはそう耳打ちしてきた。


梨子「……///」


もしかしたら、こうして私をからかってくるのは、千歌ちゃんなりに背中を押そうとしてくれている、ということなのかもしれない。

ここまで、どうにかこうにか、自分の中で気持ちに答えが出ないように目を逸らしてきたけど……いい加減、自分がどうしたいのか、自分がどう思っているのか、その答えを出した方がいいのかな……。

でも、この気持ちを明確な感情として捉えてしまうと──やっぱり、何かが変わってしまう気がして、少しだけ怖い。

千歌ちゃんの応援してくれる気持ちは有難い……だけど、私はまだあと一歩が先に踏み出せないままだ。

考え込んでいると──始業のチャイムが鳴り響いて、先生が教室に入ってくる。


先生「ホームルーム始めるから、席に着いてー」

139: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 15:00:26.85 ID:vQ6qZL/R0

ホームルームが始まり、担任の先生が連絡事項を伝えている中──

私はぼんやりと窓の外を眺める。

──私は、どうしたいのかな……? 私は……私は、果南ちゃんと……どう、なりたいのかな……?

そう考える。それと同時に思ったのは──果南ちゃんは……私のこと、どう思っているのかな。

そんな疑問。


梨子「……」


ぼんやりと自分の手のひらを見つめる。

この手で触れたら……それも、わかるのかな……?

そんなことを考えながら、朝の時間は流れていく──。





    *    *    *





──お昼休み。


果南「梨子ちゃん、いらっしゃい」

梨子「ふふ、お邪魔します」


先に部室で待っていた果南ちゃんに出迎えられる。

今日も二人でお昼を食べる時間だ。私は自然と果南ちゃんの隣の席へと腰を下ろす。

二人でお弁当箱の蓋を開けると、相変わらずの女子高生のお弁当の中に黄色いたまご焼きが色鮮やかに主張している。


梨子「今日のお出汁は、何を使ったの?」

果南「今日はユメカサゴだよ。はい、一口どうぞ♪」


早速、果南ちゃんのお箸は、出汁巻き卵を半分に切ってから摘んで、私の口元に運ばれてくる。


梨子「い、いただきます……///」


何度やっても、こればっかりは恥ずかしい。それでも、だんだん慣れてきたかもしれない。

有難く、果南ちゃんの出汁巻き卵を口に含む。


梨子「……えへへ、今日もおいしいね」

果南「ふふ、よかった」


私もお返しにと、自分で作った甘いたまご焼きを果南ちゃんのお弁当箱に入れてあげる。


果南「いつもありがとね♪ いただきまーす!」


果南ちゃんは、私のあげたたまご焼きを頬張ると、


果南「梨子ちゃんのたまご焼きは、やっぱり絶品だね……先週のよりもおいしいかも!」


そう言いながら、顔をほころばせる。


梨子「も、もう……大袈裟だって……///」

140: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 15:02:02.34 ID:vQ6qZL/R0

なんだかお昼の時間は自然とたまご焼きを交換する時間になりつつある。

今日も、なんとなくそうなるんじゃないかと思って、ちゃんと自分で作ってきた甘いたまご焼きだ。

こうして果南ちゃんとお弁当の中身を交換し合いながら食べていると、言葉に出来ない幸せな気持ちが胸に溢れてくる。


果南「そういえば今日さ、登校したら鞠莉がすごいご機嫌だったんだよね」

梨子「そうなの?」

果南「なんでも明日は曜ちゃんとデートなんだってさ」

梨子「あ、確かに曜ちゃんもそう言ってたかも」

果南「気になって聞いてみたら、明日は遊園地に行くんだってさ。いいよねぇ、カップルは……」

梨子「え?」


遊園地……?


梨子「曜ちゃんと鞠莉ちゃん……遊園地に行くの?」

果南「え? うん……そう、言ってたけど」

梨子「…………」

果南「梨子ちゃん?」

梨子「……千歌ちゃんとダイヤさんも、明日は遊園地に行くって……」

果南「え?」

梨子・果南「「…………」」


たぶんだけど……今、私と果南ちゃんは同じことを考えている気がする。


梨子「ねぇ、果南ちゃん」

果南「ん、なにかな」

梨子「この辺りって遊園地……いくつかあるの?」

果南「いや……あんまりないかな。沼津の女子高生にとって遊園地と言えば、基本県外まで行く一大イベントだから……」

梨子「……そうだよね」


千歌ちゃんのあのはしゃぎようは、確かにただのデートというだけではなかった気がする。

遊園地という場所に行くこと自体も、すごく楽しみにしていたということだ。

そんな沼津は内浦の学校で、同じ部活に所属している二組のカップルが同じ日に、たまたま遊園地に行く……なんてことがあり得るのだろうか。


果南「……どうりで鞠莉が話してる間、ダイヤがやたら無口だったわけだ」

梨子「考えてみれば、曜ちゃんもデートの内容はぼかしてたかも……」


まあ、千歌ちゃんも遊園地に行くとは言ってなかったっけ……この情報自体はルビィちゃんからこっそり教えてもらったものだ。

とにもかくにも、恐らく、十中八九、これは──


梨子「ダブルデート……」

果南「だよね……」


二組のカップルによるダブルデートの計画だったということ。


果南「……ふーん、そっか……ダブルデートか」

梨子「……そうだね」

141: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 15:03:17.07 ID:vQ6qZL/R0

別にダブルデートでもなんでもすればいいけど、内緒にされていたことがなんだか釈然としない。

なんとなく、果南ちゃんはどう思っているのかが気になって、こっそり控えめに垂れているポニーテールの毛先に軽く手を伸ばすと、


 果南『別にダブルデートでもなんでも、すればいいけど……なんで内緒にするかなー』


同じようなことを考えていた。


梨子「言ってくれればいいのにね」

果南「ホントに」


二人で少しむっとなっていると──


 果南『……こっそり付いてっちゃおうかな』


そんな心の声が響いてきた。


 果南『鞠莉には散々付け回されてるし、たまに仕返ししても罰は当たらないよね?』


……私もスクールアイドル部の勧誘の際には、千歌ちゃんにかなりしつこく追い回された記憶がある。


果南『でも、梨子ちゃんは嫌かな、こういうの……?』


という心配をしているようだけど……。……あの二組のダブルデートは、私も少し気になるし、秘密にされて釈然としていないのは私も同じ。なら、そんな心配は不要だ。

だから、こちらから提案することにした。


梨子「ねぇ、果南ちゃん」

果南「ん?」

梨子「ダブルデート……こっそり付いていっちゃおうか?」





    *    *    *





──翌日。12月14日土曜日。


果南「おはよう、梨子ちゃん。決まってるね」

梨子「おはよう。果南ちゃんこそ」


時刻は朝8時。場所は沼津駅前。空は快晴で絶好の行楽日和だ。

12月も半ばだというのに、降り注ぐ朝の陽ざしがこれでもかと主張していて、冬にしては暖かい気がする。日中はかなり活動しやすい気温になりそうだ。

そんな日和の中、私たちはお互いの姿を見て、思わず笑ってしまう。

二人して、長い髪をキャスケットの中にまとめて、服はカジュアルなパンツスタイル。

そして、顔には伊達眼鏡。

コーディネートの色こそ違うものの、お互い尾行と言われて考えることは同じらしい。


果南「これなら遠目に見たら私たちだって、なかなか気付かれないと思うよ」

梨子「うん、変装は完璧だね」


近くで顔を凝視されたら、さすがに怪しいけど……髪型も全然違うし、眼鏡も掛けているから、印象がだいぶ変わっているはずだ。

142: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 15:07:15.07 ID:vQ6qZL/R0

梨子「それで、千歌ちゃんたちは……」

果南「必ずここに来るはずだよ。バスにしろ、電車にしろ、絶対に沼津は経由するはずだから」


というわけで、沼津の駅前で張り込みをしている真っ最中というわけだ。

昨日の今日で行き先を聞き出す余裕はなかったとは言え……果南ちゃん曰く遊園地の選択肢はそんなに多くないし、ここで張っていれば十中八九、向こうから現れるとのこと。


梨子「……あ」


──と、考えている間に、目的の人物の一人が姿を現した。


曜「~♪」


曜ちゃんだ……!


果南「……梨子ちゃん」

梨子「うん」


曜ちゃんの姿を確認したので、一旦近くの物陰に姿を隠して、観察する。


果南「……気合い満々だね。これからデートでもしに行きそうだ」

梨子「果南ちゃん、これからデートに行く人だよ……」


曜ちゃんの出で立ちは、赤地に青いリボンのついたパーカーの上に白いジャケットを羽織り、下はチェックのミニスカート。

ベージュのワラビーブーツにソックスはハイクルー丈でパーカーと同じ赤色をしている。カバンは動きやすさを考えてか、琥珀色のリュックサック。

そして、普段のボーイッシュな印象をガラッとガーリーに寄せているのは髪型だ。

パーカーやソックスと同じ色の真っ赤なリボンで髪を結って、ポニーテールにしている。


果南「……曜ちゃんったら、普段使わないようなリップグロスなんかしてるじゃん……」

梨子「果南ちゃん、目いいね……」


遠目で見えづらいけど、言われてみればお化粧もいつもより気合いが入っている気がする。

何かとかっこよさの目立つ曜ちゃんだけど、こうしてオシャレをしている姿を見ると、やっぱり恋する女の子だなと再認識。


梨子「曜ちゃん……駅の方に行くみたい」

果南「内浦組と待ち合わせってことだろうね」


二人でこそこそ隠れながら、曜ちゃんを追いかけると、案の定駅舎の入口のところで立ち止まって、スマホをいじり始めた。


果南「電車で行くのはほぼ間違いなさそうだね……。梨子ちゃん、TOICA忘れてないよね?」

梨子「うん、大丈夫」


移動が始まっても、いつでも追いかける準備は万端。

そのまま、果南ちゃんと待っていると──


曜「……!」


曜ちゃんがスマホを見ながら、何かに反応し、きょろきょろと辺りを見回し始める。


果南「……! 来るね」

梨子「うん」

143: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 15:08:59.41 ID:vQ6qZL/R0

恐らく到着の連絡があったんだろう。少し周囲を警戒しながら、待っていると、


曜「おーい! こっちこっち~!」


曜ちゃんがロータリーの方に向かって、手を振りながら声をあげる。

手の振り先に、視線を向けると、


鞠莉「Good morning. 曜~♪」


鞠莉ちゃんは曜ちゃんに駆け寄ってくる。

鞠莉ちゃんはそのまま、


曜「──わぷっ!?」


曜ちゃんをハグ。


曜「ま、鞠莉ちゃん……!/// ひ、人が居るから……!///」

鞠莉「いいじゃない~♪ 今日は待ちに待ったデートの日なのよ?♪ それに、こんなにCuteにオシャレをしてきた、恋人、抱きしめたくなっちゃうヨ~♪」

曜「ぅ……///」

鞠莉「曜……今日の洋服、すっごく可愛いわ。よく似合ってる」

曜「う、うん……/// ありがとう……/// 鞠莉ちゃんも、大人っぽくて綺麗だよ……///」

鞠莉「Thank you. 曜♪」


曜ちゃんったら、真っ赤な顔をしたまま、鞠莉ちゃんの抱擁を受け入れてるし……。

曜ちゃんが大人っぽいと褒める鞠莉ちゃんは、小豆色のパンツに真っ白なフリルのブラウス。

全体的にシンプルだけど、右手首にはブレスレット、首には銀の三日月のネックレス。

そして、何より大人っぽさを際立たせているのは肩掛けの黒いエンベロープ・バッグだろう。

服自体はシンプルな構成だけど、鞠莉ちゃんのプロポーションがいいせいか、すごく大人っぽく見える。大学生と言われても納得してしまいそうだ。

二人が、お互いの容姿を褒め合いながら、抱擁をしていると──


 「──往来で破廉恥なことはおやめなさい」


梨子・果南「「!」」


そんな鞠莉ちゃんたちを制止する、黒髪の女性の姿。


ダイヤ「全く……今日はわたくしたちも居るのですよ?」

千歌「んー、私は気にしないけどな~。むしろ、ダイヤさんからの熱烈なハグを所望してるというかっ!」

ダイヤ「ただでさえ世話の掛かる人がいるのですから、せめて鞠莉さんにはしっかりしていただかないと」

千歌「私の扱い酷くないっ!?」


果南「ダイヤと千歌……!」

梨子「やっぱり、ダブルデートだったね……」

144: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 15:11:09.94 ID:vQ6qZL/R0

私たちの予想はずばり的中だったようだ。

千歌ちゃんは緑地に細い白のボーダーの入ったボートネックのシャツの上から、オレンジ──えぇと……たぶん本人的にはみかん色のカーディガンを羽織っている。

胸元にはみかんっぽいマークの刺繍──毎回思うけど、ああいうのって、どこに売ってるんだろう……? とはいえ、千歌ちゃんにみかんだ。たぶん気合いが入っている証拠だろう。たぶん。

下はウエストリボンのついた白いフレアスカート。白いハイクルーソックスに緑地のスニーカー。肩には赤を基調としたショルダーバッグを提げている。

トレードマークのリボンは今日は白色。ヘアピンはいつだかダイヤさんから貰ったと言っていたダイヤマークの形をしたヘアピンだ。

そして、ダイヤさんは紺のタートルネックの上から、朱色地の裾にフリルのついたノースリーブのアウターを着て、首にはネックレス。

ボトムスは白いハイウエストパンツでとても動きやすそうな服装だ。腕に提げているのは鈴のついた紅色のオモニエールバッグ。

いつも以上に気合いを入れているのはヘアアレンジで長い漆黒の髪を後ろで編み込み、黒いリボンで編み込みの先を結んでいる。そして、千歌ちゃん同様ヘアピンは恋人から貰ったものを使っているようだ。

二人とも、曜ちゃんや鞠莉ちゃんに負けず劣らず、しっかりオシャレをしてきている。

全員オシャレかつ動きやすさを考えた、遊園地デートにもってこいの服装で決めているようだ。

さて、これからデートに臨むカップルたちのファッションチェックもそこそこに、ダイヤさんから窘められた鞠莉ちゃんは肩を竦めながら、曜ちゃんを解放する。


鞠莉「もう、仕方ないなー」

曜「っほ……///」

千歌「ねぇ、ダイヤさん、チカにもハグ……」

ダイヤ「それでは行きますわよ。皆さん、遅れないように」

千歌「……ぅー……いいもんいいもん……」

ダイヤ「…………千歌さん。はぐれないように、わたくしの手、握っていてくださいますか?」

千歌「! えへへ~? うん?」

鞠莉「あら~、いきなり見せつけてくれるんだから♪」

ダイヤ「コ、コホン……/// い、行きますわよ!」

曜「あはは……」


いきなり、両カップルのいちゃいちゃを見せつけられているのは私たちだと思う。

……まあ、勝手に尾行しているわけだし、仕方ないんだけど。


果南「……梨子ちゃん、私たちも行こう」

梨子「うん」


改札をくぐる千歌ちゃんたちのあとを、バレないように少し距離を取りながら追いかける──。





    *    *    *





──カタンカタンと音を立てながら揺れる電車の中、私たちは千歌ちゃんたちがいる座席前のつり革から、少し離れたドアの前で待機している。

東京のような超満員電車だとこうはいかないけど、幸い今乗っている電車の中は座席こそ埋まっているものの、かなり視界は開けているため、見失う心配はほとんどなさそうだ。

ただ、逆に言うなら、見つかるリスクもあるため、出来るだけ千歌ちゃんたちの方に顔を向けないようにする。


 『次は下土狩──』

果南「御殿場方面……ということは、行き先はあそこだな……」


果南ちゃんは路線図を見ながら、皆の行き先を考えている様子。一方カップルたちは、

145: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 15:12:42.52 ID:vQ6qZL/R0

鞠莉「きゃー♡ 電車が揺れてバランスがー♡」

曜「わとと……鞠莉ちゃん、大丈夫?」

鞠莉「うん♡ 曜が受け止めてくれたから♡」

ダイヤ「鞠莉さん、静かにしてください……公共の場ですわよ」

千歌「……なるほど」

ダイヤ「……何がなるほどなのですか」

千歌「き、きゃー電車が揺れてバランスがー」

ダイヤ「足腰を鍛えるために、練習メニューにスクワットでも増やそうかしら……100セットくらい……」

千歌「はい、すいません。しっかり立ちます」


なんだか楽しそうだ。わざとよろけた振りをして、相手に寄りかかるなんて、私には恥ずかしくて真似出来なさそう……と思った矢先──ガタン、と電車が大きく揺れて。


梨子「きゃっ……!?」

果南「おっと……」


果南ちゃんにもたれかかってしまう。


果南「大丈夫?」

梨子「えっ、あ、えっと/// ご、ごめんなさい……///」

果南「ふふ、気を付けるんだよ?」
 果南『梨子ちゃんって意外とおっちょこちょいなんだよね』

梨子「う、うん……///」


おっちょこちょいとか思われてる……。恥ずかしい……。

出来そうにないなんて考えてるそばから、こんな……。いやでも、これはわざとじゃない、わざとじゃないの……。ああ、もう……。

必死に自分の醜態に言い訳をしながら、


 『次は長泉なめり──』


電車は目的地に向かって、進んでいく。





    *    *    *





 『次は御殿場──』

果南「梨子ちゃん、次たぶん降りるよ」

梨子「う、うん」


耳打ちされて頷く。

駅に近付き、電車が少しずつ速度を落とす。


ダイヤ「皆さん、次で降りますわよ」

千歌「はーい」

鞠莉「OK.」

曜「了解であります!」

146: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 15:14:14.28 ID:vQ6qZL/R0

果南ちゃんの言うとおり、千歌ちゃんたちもここで降りるようだ。


果南「準備はいい?」

梨子「うん、大丈夫」

果南「皆が下りたのを確認したら、追いかけよう」

梨子「うん」


完全に止まった電車から、4人が向こうの扉から下車し──


ダイヤ「千歌さん? 降車口はこっちで……」

千歌「改札行くならこっちから降りた方が近いよー♪」

梨子・果南「「!?」」


突然、千歌ちゃんが近くの扉を無視して、こっちに向かってくる。

──ホームの階段が近いのは確かに私たちがいる方ではあるんだけど……!?


鞠莉「あら、さすがチカッチ♪ ヌケメナイわね~♪」

曜「千歌ちゃん、調べてたの?」

千歌「んーん。あっちに階段が見えたからー」


──千歌ちゃんの気まぐれ……!

まずい、こっちに来る……!? いくら変装してても、4人全員が真っ直ぐこっちにきたら、誰かに気付かれる可能性が高い。どうする!? 先に降りる……!?


果南「くっ……梨子ちゃん、ごめん」

梨子「……!?」


謝罪の言葉と共に、急に何かに引き寄せられた。

いや、何かって……そんなの──


梨子「か、か、か、かな……!?///」

果南「静かに……!」


降車口の前で、私は果南ちゃんに抱きしめられていた。


 果南『恋人の振りしてやり過ごす……!』
果南「……まだ離れたくない。行かないで」

梨子「へ、はゃ!?/// ふぁ、ぁぁぅぇ!?///」


耳元で作り気味のハスキーボイスを囁かれて、全身が一気に熱くなる。


曜「わ、わぁ……///」

鞠莉「あら、ここにもオアツイカップルが……♪」

千歌「いいなぁ……」

ダイヤ「ジ、ジロジロ見てはいけませんわ/// 行きますわよ!!///」


私たちの横を、千歌ちゃんたちが素通りしていく。


 果南『……セ、セーフ……』


果南ちゃんが機転を利かせたようだったけど……。

147: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 15:15:22.06 ID:vQ6qZL/R0

梨子「ぁ、ぁ、ぁ、ぁ……///」


私は思考がショートしかけていた。

でも、千歌ちゃんたちは待ってくれない。


果南「梨子ちゃん、行こう」
 果南『鞠莉たちが行っちゃう……!』

梨子「は、はぃぃぃ……///」


果南ちゃんに手を引かれて、フラフラになりながらもどうにか歩き出した……そのとき、


 果南『……っ゛……!』

梨子「……!?」


急に脳内に、声にならない声が響く。まるで、痛みに耐えるような、そんな声だ。


梨子「か、果南ちゃん……?」

果南「ちょっと離れちゃったな……気持ち早歩きで行くよ!」
 果南『…………こ、これくらいなら、我慢出来る……』

梨子「……う、うん……」


もしかして……足、痛むのかな……?

確かに気付けば千歌ちゃんたちは、この駅で下車した人の波の、少し向こう側にいるけど……痛むなら無理しない方が──


果南「梨子ちゃん! 急いで!」
 果南『このままじゃ、見失っちゃう……!』

梨子「う、うん……」


結局、果南ちゃんの勢いに気圧されて、従ってしまう。

大丈夫かな……。でも、果南ちゃんはあくまで我慢して追いかけようとしているし……。

……本当に無理そうなら、止めよう。


 果南『──……っ゛……ホントに、なんなの……この痛み……』





    *    *    *





──階段を上り、改札を出ると、人込みから解放され視界が開ける。

そこから出口が左右にわかれている。


 果南『鞠莉たちは……!?』

梨子「果南ちゃん、あそこ……!」


改札を出て、左手側の方に歩いている4人の後ろ姿を見つける。


果南「よし、行こ──……っ゛……!」

梨子「果南ちゃん……!?」

果南「へ、平気……! 行こう」

梨子「う、うん……」

148: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 15:17:14.62 ID:vQ6qZL/R0

果南ちゃんに手を引かれながら、駅舎を抜けると、すぐにバスロータリーが見えてくる。


果南「……っ……」
 果南『痛み……強くなってきた、かも……』

梨子「……!」


もうダメだ。これ以上無理はさせたくない。そう思った矢先、


果南「梨子ちゃん、私の後ろに隠れて」

梨子「え……?」

果南「いいから」

梨子「う、うん……」


手を離し、果南ちゃんの影に隠れるようにして後ろに回る。


梨子「果南ちゃん……足、痛むなら無理しない方が……」

果南「平気。それより、見て」

梨子「ん……」


促されて、見た先はバス乗り場。そして、そのバス乗り場に千歌ちゃんたち4人の姿が見える。

どうやら、あそこからバスに乗るらしい。


果南「ここまで来ればほぼ間違いないね……富士急に行くバスだ」

梨子「じゃあ、今度はあれに乗り込んで……」


……あれ? 私はふと、気付く。


梨子「ああいうバスって……路線バスと違って、座席の予約が必要なんじゃ……」


予約なしでも乗れるのかな……?


果南「ふっふっふ……」

梨子「?」

果南「こんなこともあろうかと、バスの予約はしてきたんだよ」

梨子「え!?」


言いながら、果南ちゃんはバッグからチケットを2枚取り出す。

受け取って確認してみると、確かにこのあと、あの乗り場から出るバスで間違いない。


梨子「す、すごい……! よく、あのバスだってわかったね……?」

果南「沼津から行くなら富士急だって、ほぼアタリはついてたからね。それに千歌が居るなら絶対一番早い時間のバスで行こうとするだろうから、そのバスを決め打ちで取っておいたよ」

梨子「さ、さすが幼馴染……!」


幼馴染たちの──特に千歌ちゃんの行動パターンを完全に先読みしている。とはいえ、ここに辿り着くまで、確信は得られなかったと思うんだけど……。


梨子「でも、もし時間や行き先が違ってたらどうするつもりだったの……?」

果南「……え?」

梨子「……」


あ、たぶん考えてないな……。

149: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 15:19:07.74 ID:vQ6qZL/R0

果南「と、とにかく、あってたんだから問題なし!」

梨子「あはは……そうだね」


逆に言うなら、バスのチケットまで買ってしまったのなら、もう引くに引けないか……。

足のことは少し気を付けながら見張っていようかな……。


果南「あ、バス来た」


果南ちゃんの声でバス停の方に目を向けると、件のバスがロータリーに到着したところだった。

ここからだと、何を話しているかは聞こえないけど、千歌ちゃんたちもバスが到着したのを確認すると、順番に乗車していく。

4人全員がしっかり乗り込んだのを確認してから、


果南「梨子ちゃん! 行くよ!」

梨子「う、うん!」


私たちも、バスへと乗り込む──





    *    *    *





果南「……梨子ちゃん、窓際に座っていいよ。私、乗り物には酔わない方だから」

梨子「うん、ありがとう」


バスの座席は一番前の運転席のすぐ後ろの席だった。

たまたま空いていた席だとは思うけど、ある意味ここが一番発見される可能性は低いか。

私が座席に着席するまでの間、果南ちゃんは横目でバスの奥の方を確認していたのか──席に着くなり、


果南「……鞠莉たちは一番後ろの席みたいだよ」


そう耳打ちしてくる。


梨子「それなら、バレる心配は少なそうだね」

果南「まあ……ダイヤが居たら、どこの席でも取れるタイミングで予約してただろうし、千歌はたぶん後ろに座りたがると思うから」

梨子「確かに……」


この辺りは幼馴染としての勘が冴えわたっているようだ。

まあ、それはいいんだけど……。


梨子「果南ちゃん」

果南「ん?」

梨子「足……大丈夫?」

果南「え?」


言われて思い出したかのように、果南ちゃんは座ったまま、足を床に付けたり離したりする。


果南「あれ……痛くない」

梨子「……?」

150: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 15:21:11.10 ID:vQ6qZL/R0

まるで、いつの間にか痛みがなくなっていることに驚いているような反応。


梨子「本当に……?」


心配する振りをしながら、果南ちゃんの手に握ってみる。


果南「うん、ホントに痛くないよ」
 果南『今はホントに痛くないんだよね……なんなんだろ……』


嘘は吐いてない……。本当に痛くないんだ。


梨子「なら、いいんだけど……無理しちゃダメだよ……?」

果南「あはは、大丈夫だってば」


握っていた手を離し、席に居直ったものの……心の中で、かなり痛みを堪えているのを私は聞いてしまっている。

やっぱり、心配だな……。私があまりに心配そうな顔をしていたのか、


果南「もう、ホントに平気だって」


果南ちゃんは、私の顔を見たまま、苦笑いする。

……果南ちゃんは絶対無理してることを、口にしない。

──いや、だからこそ私が居るんだ。私がそばで果南ちゃんが無理しないように、寄り添うんだ。

私にはその力が、あるんだから……!


梨子「うん、わかった」


だから、ここは素直に頷いて納得した振りをして、話を終わりにする。

私が口を噤むと、果南ちゃんも口を閉じる。

席が離れているとは言え、千歌ちゃんたちは同じ空間内に居る。

さっきみたいに声色を変えれば少しは誤魔化しが利くかもしれないけど、普通に喋っていたら声でバレる可能性は十分ある。

そのまま、大人しく待っていると──バスはほどなくして発車し始めた。


梨子「……ふぁ」


発車後、すぐに欠伸が出てくる。


果南「眠い?」

梨子「ん……ちょっと……」

果南「朝早かったもんね。1時間くらい掛かると思うから、寝てていいよ」

梨子「ん……うん……」


確かに朝の8時前には沼津に準備万端でスタンバっていたせいか、今朝はかなり早起きだった。

これからハードな一日が予想されるし、ここはお言葉に甘えて休ませてもらおうかな……。

──目を瞑ると、バス特有の定期的な揺れもあってか、すぐに意識は睡魔に負けて、混濁していった。


果南「おやすみ──」





    *    *    *



151: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 15:24:40.35 ID:vQ6qZL/R0


──夢を見た。

青い海を泳ぐ、紺碧の髪をした、人魚姫の夢……。

優雅に揺蕩う尾ひれを捨て、心を寄せた王子様のため、人間の足を手に入れた海色の人魚姫は、今日も痛みに耐えながら、王子のそばに付き添っている。

何も言えない、伝える声を持っていない人魚姫は、今日もその美しい髪を棚引かせながら、王子のそばで笑顔を作って、寄り添っている。

最後は泡となって、消えていく運命だなんて知らずに──





    *    *    *





 「──こちゃん……梨子ちゃん」

梨子「ん……ぅ……」

果南「あ、やっと起きた」

梨子「果南ちゃん……?」


目を開けながら、ぼんやりと辺りを見回すと──そこはバスの中だった。

……ああ、そっか。遊園地に向かうバスの中で寝ていたんだっけ。

バスはすでに停車しており、乗客たちが荷物をまとめて、順に降り始めている。


果南「私たちも早く降りよう──」


果南ちゃんが私をそう促した瞬間、


千歌「──到着だーーー!!」

梨子・果南「「!?」」


千歌ちゃんが、風のようにバスを駆け抜けて出ていく。

つまり、私たちのすぐ真横を過ぎったということだ。


ダイヤ「ち、千歌さん!? 他のお客様もいるのですわよ!? す、すみません……よく言って聞かせますので……!」


ダイヤさんがバス内の中央通路を進みながら、まだ残っている他の乗客に頭を下げながらこっちに向かってくる。


果南「や、やば……! バレる……!」


果南ちゃんは咄嗟に──


梨子「……!?」


──私をハグした。


梨子「ゎ、ゎ、ゎ……///」

 果南『これなら、私たちの顔は見えない……!!』


咄嗟に隠す方法これしかないのかな!?

思わずそう叫びたくなる。

そんな中、ついに私たちの席まで、辿り着いたダイヤさんは──

152: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 15:26:05.94 ID:vQ6qZL/R0

ダイヤ「すみません……。すみま、せ──」


ダイヤさんはハグしている私たちを見て、言葉を詰まらせたあと、


ダイヤ「……し、失礼しました……/// お幸せに……///」


そう残して、そそくさとバスを降りて行った。


 果南『……セーフ? いや、鞠莉たちがまだ残ってる……もうちょっと』


──このままだと、私の心臓が無事じゃ済まなさそうです。


曜「わ、わー……///」

鞠莉「ここにもオアツイカップ──……ん? あれ、さっき電車の中で……?」

曜「鞠莉ちゃん、じろじろ見ちゃ失礼だよ……!/// 早く行こ……!」

鞠莉「ん……まあ、いっか」


鞠莉ちゃんたちもすぐに私たちの背後を通り抜けていく。


果南「…………」

梨子「………………///」

 果南『……行ったかな』

果南「セーフ……」

梨子「…………///」

果南「いや、危なかったね……」

梨子「……ぅん……///」

果南「それじゃ、私たちも早く降りて──……あれ、梨子ちゃん大丈夫?」

梨子「……ぅん……///」

果南「首筋まで真っ赤だけど……」


──お陰様で。


梨子「……いいから、行こう……/// 平気だから……///」


果南ちゃんの肩を押し返すようにして、ハグから脱出する。

言われたとおり、顔全体が熱く火照って、耳どころか、首筋まで熱い。もう鏡を見なくても今自分が茹でダコのように真っ赤っかなのが、わかってしまうのが却って恥ずかしい。


梨子「千歌ちゃんたち、追いかけないと……///」

果南「……大丈夫ならいいけど……無理しちゃダメだよ?」

梨子「うん……///」


原因は果南ちゃんのせいなんだけど……と、何度目かわからない同じ感想を抱きながら、二人で立ち上がると──


果南「…………ん」


突然、果南ちゃんが手で目をこする。


梨子「果南ちゃん……?」

果南「……いや、なんでもない。行こう」

梨子「う、うん……?」

153: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 15:27:50.25 ID:vQ6qZL/R0

私たちは尾行のために、バスを降りて遊園地に向かいます──。





    *    *    *





──入場ゲートから少し離れた木陰で待っていると、


果南「──梨子ちゃん、お待たせ。はい、これチケット」


2枚の入場チケットを持った果南ちゃんが駆け寄ってくる。


梨子「ありがとう、果南ちゃん」

果南「鞠莉たちは?」

梨子「今ちょうど入場ゲートの辺りだよ」


私たちは二手に別れて、入場用のチケットを買う役と、千歌ちゃんたちを見失わないように追いかけ、見張っている役に別れ、無事チケットを入手して合流したところだ。


果南「よかった。急いで追いかけよう」

梨子「うん」


近付きすぎないように、でも離れすぎないように、千歌ちゃんたちを追って入場ゲートをくぐると──


梨子「わぁ……!」


園内中に縦横無尽に広がる、たくさんのコースターのレールが目を引き、開園からまだ1時間も経っていないはずなのに、絶叫マシンから乗車客の悲鳴が聞こえてくる。

だけど、恐怖の声のはずなのに、その絶叫は遊園地特有の楽しさを孕んでいて、その空気に自然とテンションがあがってしまう。

──って、いけないいけない……。私たちは遊びに来たんじゃないわけで……こんなところ果南ちゃんに見られたら……。


果南「見て、梨子ちゃん! あんなジェットコースター見たことある!? なんでも、この富士急にはいろんな世界一のジェットコースターがたくさんあるんだって!」


……むしろ、果南ちゃんの方がテンションが高い。

いやでも、遊園地に来たんだし……そうなるのも仕方ないか。レジャー特有の空気感に当てられながらも、千歌ちゃんたち一行を目で追う。


ダイヤ「えーと……まずは何に乗りましょうか」

千歌「わーーーい!! 待望の遊園地だーーーー!!」

ダイヤ「勝手に走り出さない……。迷子になっても知りませんわよ?」

千歌「だって遊園地だよ!? むしろ、走り出さないでどうするの!?」

鞠莉「そうよ! わたしたち4人で、アトラクション全制覇するって約束したじゃない!」

ダイヤ「してません」

曜「あはは……でも、テンションあがっちゃうのはわかるな! 私も今日のこと考えて家で『このアトラクションは絶対乗る!』って、何度も予習しちゃったもん!」

千歌「だよね! だよね! さっすが、曜ちゃん! 私も絶対乗りたいって思ってたのがあるんだよー!!」

曜「千歌ちゃんも? やっぱり、富士急に来たらアレは絶対乗らないとだよね!」

千歌「うん! あれはマストだよね!」

千歌「『FUJIYAMA』!」 曜「『ド・ドドンパ!』」

千歌・曜「「……え?」」


千歌ちゃんと曜ちゃんが顔を見合わせる。

154: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 15:28:48.96 ID:vQ6qZL/R0

果南「早速意見食い違ってるし……」

梨子「あはは……」


千歌「曜ちゃん? 『FUJIYAMA』だよ? 高さ、速さ、ぐるぐるする距離、最大落差、どれをとっても富士山級のあのコースターを差し置いて、なんで『ド・ドドンパ!』なの?」

曜「千歌ちゃん……速度では『ド・ドドンパ!』の方が上なんだよ? やっぱり、せっかくジェットコースターに乗るんだったら速い方がいいじゃん!」

千歌「落差も重要だよ! ひゅーんって落っこちるときの感覚が楽しいのに……わかんないかなぁ」

曜「だって、私普段から飛び込みでそれは体感してるし……」

千歌「私はしてないからね!? とにかく『FUJIYAMA』!!」

曜「『ド・ドドンパ!』!!」

鞠莉「あらあら、二人とも元気ね~」

ダイヤ「ケンカはおやめなさい!! どっちも乗ればいいでしょう!?」

千歌「そうだよ、だから早く『FUJIYAMA』行こう?」

曜「なら、先に『ド・ドドンパ!』でもいいと思うんだけどなー」

ダイヤ「あーもう!! このやり取りが時間の無駄ですわ!! 一番はアレに乗りますわよ!!」


言いながら、ダイヤさんは入場口の近くに聳え立っているタワーを指さし──


梨子「……?」


タワー……? じゃない……?

よくみたら、あれ……垂直に伸びてる……レール……?

ちょうどいいタイミングで、その垂直のレールの頂点に達したコースターが──落ちた。


梨子「……嘘」

果南「うわ……あれ、やば……」


響く絶叫。いや、あれはもうジェットコースターというか……ただの落下物じゃ……。


ダイヤ「…………」


ダイヤさんも私たちと同じように、落下したコースターを見て絶句している。

たぶん、ケンカを収めるために、目立つものをとりあえず指差したんだと思うけど……。

155: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 15:31:20.18 ID:vQ6qZL/R0

鞠莉「あら、『高飛車』? ダイヤにぴったりじゃない!」

ダイヤ「だ、誰が高飛車ですか!? コホン……それより、最初はもう少し落ち着いたものから始めませんか?」

鞠莉「あら~? ダイヤったら怖いの~?」

ダイヤ「……なんですって?」

鞠莉「だって、自分からあれに乗ろうって言いだしたのに、それを取り消すなんて……もしかして、今目の前で見た光景にオジケヅイちゃったのかな~って?」

ダイヤ「馬鹿も休み休み言いなさい。わたくしが絶叫マシン程度に怖気付くとお思いなのですか?」

鞠莉「なら、勝負しましょう?」

千歌「勝負?」

鞠莉「せっかくこうしてダブルデートなんだから、カップル対抗戦ってことで。『高飛車』に乗って、より平常心を保てたカップルが勝ちってことにするのはどうかしら」

千歌「勝敗を付けてどうするの?」

鞠莉「勝ったカップルが次に行きたいアトラクションを決めるってことで。わたしと曜が勝ったら、次は『ド・ドドンパ!』で。ダイヤと千歌が勝ったら、次は『FUJIYAMA』でどうかしら?」

曜「なるほど! ナイスアイディアだよ、鞠莉ちゃん!」

千歌「………………絶対、私たちが不利なんだけど……」

ダイヤ「いいでしょう。その勝負、乗りましたわ!!」

千歌「ダイヤさん!! ホントに大丈夫!? びっくりして泣いちゃダメだよ!?」

ダイヤ「誰に向かってモノを言っているのですか? わたくしがあのようなモノに臆するわけないでしょう。さ、行きますわよ!」

千歌「いや、さっき臆してたじゃん! ああ、もう……!」


先陣を切って歩き出すダイヤさんの後ろを、千歌ちゃんが頭を抱えながら追う。

そして、その後ろでは鞠莉ちゃんが得意気な顔をしていた。


果南「鞠莉の作戦勝ちだね……」

梨子「なんだかんだで曜ちゃんの行きたいアトラクションを優先する流れに……」

果南「それより、梨子ちゃん。私たちも行くよ」

梨子「あ、うん。……え?」


果南ちゃんが千歌ちゃんたちの後ろを追って列に並ぼうとしている。


梨子「え……?」


再び、頭上を見上げると、コースターが垂直のレールを──落ちていく。


梨子「……え…………??」

果南「ほら、早くっ!!」

梨子「…………えっ!? ……あれ、乗るの……!?」

果南「乗らないと、見失っちゃうって!」

梨子「う、うん……まあ、そう……かもしれないけど……」

果南「ほら、行くよ!!」

梨子「きゃっ!?」


果南ちゃんは私の手を掴んで走り出す。


 果南『早く行かないと見失っちゃう……!』

梨子「え、ええええーーーー……!」


絶叫マシンに乗る前から、口から出てくる悲痛な叫びは皮肉にも、今から乗ることになるらしい絶叫マシンの方から聞こえてくる大きな悲鳴にかき消されて、消えていくのだった。


156: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 15:32:43.86 ID:vQ6qZL/R0



    *    *    *





梨子「…………」

果南「そろそろだね」


果南ちゃんに耳打ちされて顔をあげると、恐らく次の組で通されることになるだろうという場所まで進んできたことに気付く。

この『高飛車』はどうやら8人乗りらしく、前方にいる尾行中のダブルデートカップル4人と、そのすぐ後ろに関係のない他のカップルが一組。

そして、その後ろに私と果南ちゃんという並びになっている。

距離が近いため、バレないように極力発言を控えている他に──すでに胃がキリキリしていて、喋る気があまり起きない今現在。

今すぐ逃げ出したい。

──いや、無理でしょ? ほぼ垂直落下だよ?


果南「あ、ほら、次だよ。行こう」

梨子「え、あ、まっ……! こ、心の準備が……!」


再び果南ちゃんに手を引かれて、コースター乗り場へ──


 果南『いやー楽しみだなー』


──私は楽しみじゃないです。

後ろ側の席に着くと、すぐ目の前にカップルたちの姿。


曜「いやーこの始まる前のわくわく感! たまらないなぁ!」

鞠莉「このスリルは遊園地のダイゴミデースからネ!」


臨戦態勢の曜ちゃん鞠莉ちゃん、そして……。


ダイヤ「……………………」


一言も喋らないダイヤさん。


千歌「……ダイヤさん」

ダイヤ「話しかけないでください。集中しているので」

千歌「手、繋ごっか」

ダイヤ「え……? だ、大丈夫ですわ! わたくし、こ、怖くなんか……!」

千歌「チカが怖いから……手繋いで?」

ダイヤ「…………そ、そういうことでしたら……」


──千歌ちゃん、優しいな。

もう勝負よりも、ダイヤさんを安心させることだけ考えているようだった。

一方で私はというと……。


果南「……大丈夫……?」

梨子「……………………」

157: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 15:35:02.46 ID:vQ6qZL/R0

涙目で発車を待っているところだった。

膝も手も震えている。私、もうダメかも……そう思ったときだった──


果南「大丈夫だよ」


声を掛けられて、涙目のまま果南ちゃんの方に顔を向けると、


果南「私が居るから」


果南ちゃんはそう言ってニコっと笑う。


梨子「…………うん」


その声を聞いて、少しだけだけど……落ち着いてきた。

間もなくして──


スタッフ『それでは、行ってらっしゃいー!』


スタッフのアナウンスと共に、コースターはレールを進みだした。

スタートと共に、灯りのほとんどない空間を走り出したコースターはキュルキュルと音を立てながら、少しずつ前に進んでいく。


梨子「………………」


心拍数がどんどんあがっていく。──怖い。

でも、隣に果南ちゃんが居てくれる。そう自分に言い聞かせて、歯を食いしばる。

闇の中を進んでいくと、トンネルの出口の光が差し込んでくる。

それと同時に──ガコンという音と共にコースターが揺れた。


梨子「……きゃっ!?」

ダイヤ「きゃぁっ!?」

千歌「ダイヤさん、大丈夫だよ」

ダイヤ「は、はい……っ」


その音を皮切りに──コースターが音を立てて、

加速を始めた。


梨子「……っ!!」


スピードを上げ、トンネルから外に飛び出したコースターはすぐにループゾーンに入り、一瞬で世界が180°ひっくり返る。


梨子「きゃぁぁぁぁーーーー!!!?」

ダイヤ「ピギャアアアアーーーーー!!!!?」

曜「やっほーぅ♪」

鞠莉「いきなり飛ばしマースね♪」


そのまま、捻りながら、気付けば次のループ。

すぐに上下左右の感覚が麻痺してわけがわからなくなってくる。

風を切りながら進むコースターの上で、悲鳴をあげていると──コースターは速度を落として建物の中へと入っていく。

158: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 15:36:38.90 ID:vQ6qZL/R0

梨子「はっ……はっ……はっ……」

ダイヤ「……はぁ……はぁ……っ……お、終わり……ですか……? た、大したこと……ありませんわね……」

千歌「…………あー……たぶん、こっからのやつだね、これ」

ダイヤ「……え?」

梨子「…………ぇ」


思わず、果南ちゃんの方に目を向けると、


果南「…………」


果南ちゃんは無言のまま、首を縦に振る。

小さな建物の中を進むレールを曲がりながら、ゆっくりと進むコースターは、すぐに二度目の屋外へ。

そして、外に出たコースターの目の前には──


梨子「…………うそだよね」

ダイヤ「………………無理ですわ」


ほぼ直角になった上昇レール。

垂直のレールの目の前で、コースターがゆっくり減速しながら──止まる。

そして、少し間を置いてから──キュラキュラと音を立てて、コースターが鉛直方向に姿勢を変えていく。


梨子「………………は、はは……」


背中がシートに押し付けられているのがわかる。普段だったら、絶対に感じることのない方向への重力に乾いた笑いが口から漏れ出てくる。

そのまま、静かに音を立てながらぐんぐん上昇していくコースター。

ドクンドクンと心臓の鼓動がどんどん速くなっていくなか、


果南「……大丈夫だよ」


果南ちゃんの声が横から聞こえてきた。


梨子「…………ぅん……っ」


息を整える。もうここまで来たら逃げられない。覚悟を決めよう。

キュラキュラと音を立てながら上昇していくコースターの先にレールが見えなくなり──背中に感じていた重力が正常な方向に戻った。

そして、その先には──空中があった。

この先にあるらしいレールは、視界には認められない。

あまりに角度がきつすぎてコースターマシンの上からではレールを捉えられないんだ。


ダイヤ「…………無理、無理ですわ……無理……」

千歌「ダイヤさん、大丈夫」

ダイヤ「…………無理」

千歌「私たち、空も飛べたんだよ?」

ダイヤ「……!」

千歌「大丈夫」

ダイヤ「………はい……!」

159: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 15:38:24.53 ID:vQ6qZL/R0

千歌ちゃんの言葉で、泣き言を口にしていたダイヤさんが少し落ち着いたのが分かった──と、同時に、キュルキュルと音を立ててコースターが前方の断崖絶壁に向かって、滑るように進む。

まるで、半身の乗り出した車体が、自重に耐えられず少しずつ崖の方に向かって滑り落ちていくような、そんな演出。


梨子「…………ひっ」


私の短い悲鳴の直後。

ガコンと音を立てて───

───落ちた。


梨子「────」


全身が一気に浮遊感に包まれ、ありえない慣性に内臓が持ち上がるような感覚が全身を走り抜ける。

自由落下で一気にトップスピードに達したコースターは一瞬で地面スレスレまで落ち──


鞠莉「きゃぁぁ~~~♪」

曜「さいっこうーーー♪」


その速度を維持したまま、コースターは二転三転ループしながら、突き進む──


梨子「きゃぁぁぁぁぁぁあああああーーーーーーッッ────」





    *    *    *





梨子「ぅぅ……酷い目に遭った……」

果南「大丈夫……?」


椅子に腰を下ろしたままうなだれていると、果南ちゃんが心配そうに声を掛けてくる。


梨子「あはは……ちょっと休憩すれば、大丈夫……だと思う……」


『高飛車』から降りてから、ずっと世界が揺れている気がする。

三半規管が完全に混乱している状態だ。……そして、そんな状態なのは私だけではなく──


ダイヤ「………………」

千歌「ダイヤさん……大丈夫?」


──少し離れたテーブル席に座っているダイヤさんもグロッキー状態だった。


鞠莉「あらー……ちょっとやりすぎちゃったかしら?」

曜「一発目から飛ばしすぎたかな……」

千歌「あはは……まあ、アレだもんね……」


千歌ちゃんの声に釣られるように、私も先ほどまで乗っていた“アレ”を見上げる。

よく見たら垂直どころか、途中でレールが反り返ってるし……。よくあんなものに乗っておいてなお、こうして生きていることに思わず感謝してしまう。本当に死ぬかと思ったよ……。

160: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 15:39:56.05 ID:vQ6qZL/R0

ダイヤ「……今回の勝負……悔しいですが……わたくしの負けですわ……」

千歌「ああもう……勝負とかもうどうでもいいから……」

ダイヤ「いえ……勝負は勝負……次は『ド・ドドンパ!』に……」

千歌「……ってことらしいから、曜ちゃんと鞠莉ちゃん、二人で『ド・ドドンパ!』に乗ってきて?」

ダイヤ「え」

鞠莉「あら……チカッチはいいの?」

千歌「うん、私はダイヤさんと一緒に休憩してるから」

ダイヤ「だ、ダメです! 千歌さんまで、わたくしに付き合わせるなんて……」

千歌「いいから」

ダイヤ「ですが……」

曜「えっと……どうする、鞠莉ちゃん……?」

鞠莉「……まあ、ここはチカッチにおまかせしちゃいましょう?」

ダイヤ「へ、平気ですわ……! わたくし、これくらいの絶叫マシンごときで……!」


ダイヤさんが椅子から立ち上がろうとするも、すぐにふらついてしまって、うまく立てないようだ。


千歌「ああほら……無理しちゃダメだって」


そんなダイヤさんを千歌ちゃんが支える。


千歌「ね? 今は一緒に休憩しよ?」

ダイヤ「わ、わたくしは一人で平気ですから……」

千歌「ダメ」

ダイヤ「どうして……」

千歌「私はダイヤさんの恋人だから」

ダイヤ「…………」

鞠莉「このままじゃダイヤ、這ってでもついて来ちゃうから、さっさと行っちゃいましょうか」

曜「そうだね……」


そう言って、二人は千歌ちゃんとダイヤさんを残して、次のアトラクションへの移動を始める。


梨子「え、あ、どうしよ……」


とりあえず、見失わないように移動を始めた曜ちゃんたちをつけようと、椅子から立ち上がろうとして──


梨子「……ぅ……」


私もダイヤさん同様ふらついてしまう。


果南「ああ、ダメだって……座ってて?」


そんな私を支えるようにして、肩を掴んだ果南ちゃんが、すぐに私を椅子に座らせる。

まるで今さっき見た千歌ちゃんとダイヤさんのやり取りみたいだ。


梨子「でも……このままじゃ見失っちゃうし……」

果南「向こうも二手に分かれたし……こっちも二手に分かれよう」

梨子「二手に……?」

果南「うん、私は鞠莉たちを追いかけるから、梨子ちゃんはダイヤたちを見張ってて?」

161: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 15:41:04.89 ID:vQ6qZL/R0

確かに、こっちもせっかく二人いるんだし、それが合理的──そして、それ以上に今動き回るのは辛いから、その方がいいかもしれない。


梨子「……わかった」

果南「ん。それじゃ、行ってくるね」


それだけ残して、果南ちゃんは千歌ちゃんやダイヤさんの視界には入らないように、迂回しながら曜ちゃんたちを追いかけて移動を始めた。

……さて、任された以上はしっかり千歌ちゃんたちを見ていないと……。……とは言っても、向こうも休憩中だから、私は変わらずここで休憩してるだけだけど……。


ダイヤ「千歌さん……」

千歌「んー?」

ダイヤ「ごめんなさい……貴女が遊園地を楽しみにしていたこと、ちゃんと知っていたのに……わたくしが不甲斐ないばっかりに……」

千歌「そんな大袈裟だってー」

ダイヤ「でも……全アトラクション制覇するって……」

千歌「あはは、気持ちの上ではね。でも、いいんだ」

ダイヤ「……どうして?」

千歌「チカにとって、一番大切なのは、ダイヤさんだから」

ダイヤ「千歌さん……」

千歌「ダイヤさんと、今こうして一緒に遊園地に来られたことが……チカにとっては何より幸せなことなんだよ?」

ダイヤ「……ふふ、ありがとう。わたくし貴女と一緒に来ることが出来て……幸せですわ」

千歌「うん、知ってるよ」


千歌ちゃんは頷きながらはにかむ。

二人のやり取りは、今まで見たことのないような、すごく柔らかい優しい雰囲気の会話だった。

ダイヤさんが少し弱っているということもあるのかもしれないけど……周りに知り合いが居ない今、あれが素の二人の会話なのかもしれない。


千歌「『FUJIYAMA』も、苦手ならやめよっか? ダイヤさんが乗りたいものに乗ろう?」

ダイヤ「いえ……千歌さんが乗ってみたいモノでしたら、わたくしも乗ってみたいですわ。わたくしは、いつだって……貴女と同じ景色を見ていたい」

千歌「それは嬉しいけど……大丈夫?」

ダイヤ「わたくしたち、空を飛んだこともありますのよ? 大丈夫に決まっていますわ」

千歌「ふふ……そっか♪ じゃあ、曜ちゃんたちが帰ってきたら一緒に乗ろうね」

ダイヤ「ええ」


空を飛んだことというのは、さすがに比喩だとは思うけど……。

こうして聞いていると、本当にこの二人はお互いのことが大切で、大好きなんだと言うことが嫌でもわかる。

私も……そんな風になりたいな──


梨子「…………///」


また脳裏に、誰かの顔が浮かびかけて、一人で顔を赤くする。


梨子「早く……戻ってこないかな……」


私は千歌ちゃんたちを観察しながら、そうひとりごちるのだった。



162: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 15:45:35.48 ID:vQ6qZL/R0


    🐬    🐬    🐬





果南「……悪いことしちゃったな」


まさか梨子ちゃんが、あんなに絶叫マシンが苦手だったとは考えていなかった。

幸いダイヤがあんな状態だから、それにかこつけて、休憩させてあげられたのはよかったけど……。

鞠莉と曜ちゃんは、言うまでもなく絶叫マシン巡りをするだろうし、出来るだけ無理をさせないようにしてあげたい。

そんなわけで梨子ちゃんと分かれて、鞠莉たちを一人で追ってきた私は、曜ちゃんが絶対乗りたいと息巻いていた『ド・ドドンパ!』の列に並んでいるところだ。

鞠莉たちは私との間に2人ほど他のお客さんを挟んで前に並んでいる。


曜「ああもう、今から楽しみすぎて、うずうずしちゃってるよ!!」

鞠莉「曜、ホントにジェットコースター好きなのね」

曜「日常生活じゃ絶対に体感出来ないことだからね!」

鞠莉「怖くはないの?」

曜「全然! 一日中でも乗ってられるよ!」

鞠莉「毎日飛び込んでるからかしら……?」

曜「鞠莉ちゃんは怖くないの?」

鞠莉「んー……わたしは車運転するしなぁ」

曜「……あー……まぁ……鞠莉ちゃんの運転は……あはは」

鞠莉「……なんデスか? その笑いは?」

曜「あははー……」


曜ちゃんって、鞠莉の運転する車に乗ったことあるんだ……。

鞠莉が免許を持ってることを知ってるのは、私とダイヤくらいだと思ってたのに。

やっぱり、鞠莉にとって曜ちゃんは一際特別だということがよくわかる。


 『次の方どうぞー』

鞠莉「順番が来たみたいね」

曜「やったぁ! ついに、世界最速を体感出来るんだね!」


曜ちゃんが先陣を切って、入場ゲートをくぐっていく。そんなはしゃぐ曜ちゃんを見守るようについていく鞠莉。

そして、私も──


 『荷物は必ずここで、置いて行ってくださーい』


係員のお姉さんの説明に従い、出来るだけ目立たず鞠莉たちの関心を引かないように注意しながら、手荷物をロッカーに預ける。

尾行相手は完全に遊園地で舞い上がってるカップルだ。人間そんなときに、そうそう周りの一般人になんて目はいかないはず。

その証拠に、


曜「早く、早く!」

鞠莉「もう、子供じゃないんだから……でも、そんなところもSo cuteなんだけど……♡」


曜ちゃんは珍しくテンションMAXだし、鞠莉もそんな曜ちゃんを見つめながら、微笑んでいる。まさか、私が梨子ちゃんと一緒についてきているなんて考えてもいないだろう。

──ほどなくして、荷物を預けた私たちの元に、8人掛けのコースターが到着する。

163: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 15:48:01.45 ID:vQ6qZL/R0

曜「乗り込めヨーソロー!」


曜ちゃんが声をあげながら先頭の座席に腰を下ろす。


鞠莉「また、先頭。ラッキーだネ♪」


ホントにね。お陰で、私も距離を取りながら同じ組に入ることが出来て助かる。

私は鞠莉たちから2つ離れた、前から三番目のマシンの席に腰を下ろす。

──安全装置をしっかり下ろして、係員の人が乗車の確認を済ませたのち、コースターが所定の位置に向かってゆっくりと前進を始める。

前進したコースターは、まるで大砲の発射口かなにかのような、筒状の空間で一旦静止。


曜「『ド・ドドンパ!』は一瞬で、時速180㎞で発進するんだって! 掛け声はヨーソローね!」

鞠莉「ふふ、わかったわ♪」


時速180㎞ってどんなもんだろう……あまり想像が出来ない。

水上バイクが時速90~100㎞くらいだから……それの倍くらい?

考えていると──


 『3!』


カウントダウンが始まる。


 『2!』


身構える。


 『1!』

曜・鞠莉「「──ヨーソロー!!」」


──ギュオオオオオオオオオン!!!


果南「……っ!?」


聞いたことのないような加速音と共に、発射された。

発車じゃない。

これは発射だ。


果南「ちょ」


一瞬で最高速に達するコースター。

大砲から撃ち出されて、屋外に出る。

前方の空気の塊が顔にぶつかり、自然と顔が引き釣る。

軽く痛い。

──と思った次の瞬間には、トンネルに突入。

虹色のイルミネーションがピカピカ光るトンネルを一瞬で潜り抜ける。

視界が開けると共に、大きく曲がりながら、富士山を一瞬視界に捉えたと思ったら、再びトンネルへ。


果南「……っ……!!」

164: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 15:51:18.17 ID:vQ6qZL/R0

あまりに速過ぎて、声すらあげられない。

周りの乗客からも、悲鳴一つ聞こえてこない。

いや、もしかしたら、悲鳴はあげているかもしれないけど、速過ぎて私の耳に届いてないのかも。

トンネルを一瞬で潜り抜けたら、気付けば大きなループをぐるっと回って、気付けばまたトンネルの中。

──は、速過ぎ……!?

視界に入ってくる情報がどんどん更新されていくのに、目を回しながら──

気付けば、コースターは減速を始める。

一周して、発車した場所に戻ってきたようだ。


果南「……い、一瞬だった……」


さっき乗った『高飛車』と比べると、本当に一瞬──1分も乗ってなかったんじゃないかな……?


 『おかえりなさーい!』


係員の人たちに出迎えられながら、下車しようとする。


果南「お、おとと……」


──さすがに私でも、少しだけ地面が揺れている感覚がして、ふらふらしていた。

一方で、


曜「さいっっっこうだったね!!!」

鞠莉「そうデスね! 普段じゃなかなか味わえないスリルだったわ!」


二人は相当お気に召したようで、最初からテンション最高潮だった曜ちゃんだけでなく、鞠莉ともども非常に上機嫌になっていた。


曜「ねぇ、鞠莉ちゃん! もう一回! もう一回乗ろ!?」

鞠莉「いいネ! ……と、言いたいところだけど、ダイヤたちも待たせてるから」

曜「あ、そうだった……」

鞠莉「またあとで時間があったらもう一度乗りましょう?♪」

曜「うん!」


二人は上機嫌なまま、預けていた荷物を回収し、退場する。

私もさっさと荷物を回収して、


果南「……っとと」


まだ、完全に戻りきっていない平衡感覚と戦いながら、二人を追いかける。

……それにしても、


果南「梨子ちゃん、休憩中でよかった……」


こんなのに乗ったら、今度こそ気絶しちゃうんじゃないかな……。

『高飛車』のときと違って、全然鞠莉や曜ちゃんの反応を確かめる余裕もなかったし……ここは私一人でよかった。

一人安堵しながら、二人を追いかけようとしていると──バッグの中で、バイブ音がする。


果南「ん?」


鞠莉たちを目の端で追いながら、スマホを取り出すと──梨子ちゃんからLINEのメッセージを受信したところだった。

165: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 15:53:06.64 ID:vQ6qZL/R0

 『梨子:千歌ちゃんたち、移動するみたい。追いかけるね』


とのこと。


 『KANAN:了解。こっちもドドンパが終わったところだよ。予定どおりなら、このあとはFUJIYAMAに行くと思うからそこで合流しよう』

 『梨子:わかった』


こういうとき二手に分かれたことが、功を為していると言える。

私は、スマホをバッグにしまいながら、再び鞠莉たちを見失わないように追いかけるのだった。





    *    *    *





──さて、私は千歌ちゃんたちを近くの物陰から監視中。

件の千歌ちゃんは、


千歌「迷う……迷う~~~……!」


フードの屋台の前で頭を抱えているところだった。

──あのあと、ダイヤさんの体調が落ち着いてきたので、二人は待っている間に軽く何かを食べようという話になり、フードの屋台に移動してきたところ。


ダイヤ「どれを迷っていますの?」

千歌「『みかんディップのシナモンチュリトス』か『みかん丸ごとクレープ』……ここ来たら絶対食べようと思ってたんだけど……どっちにしよう……」


やっぱりみかんか……。さすが千歌ちゃん。

ここはいくつかのフードの屋台が並んでいるコーナーで、千歌ちゃんの言うシナモンチュリトスもみかんクレープもすぐ近くに配置されている。すぐそこで食べたい物が一度に二つ視界に入ってくるから、千歌ちゃんも悩んでいるんだと思う。

確かにこうして屋台のフードメニューを見ていると、どれもおいしそうで迷ってしまう気持ちはわかる。私だったら……そうだな、たまごが好きだし──『クラッシュタマゴケバブ』とかおいしそうかも……。

ケバブだと軽食って感じにはならないかもしれないけど……。


ダイヤ「ふふ、そうですか。では、両方買って、二人で半分こしましょう」

千歌「い、いいの!?」

ダイヤ「ええ、もちろん」


ダイヤさんは優しく微笑みながら頷く。


ダイヤ「すいません、『みかんディップのシナモンチュリトス』を一つください」

店員「ありがとうございまーす!」

千歌「じゃあ、チカはクレープ買ってくるね!」

ダイヤ「ええ、お願いね」


千歌ちゃんはててて、とクレープの屋台に駆けていき、


千歌「みかんクレープください!」


と元気よく屋台の人に伝える。


店員「ふふ、少々お待ちくださいね」

166: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 15:55:09.51 ID:vQ6qZL/R0

店員さんも先ほどのやり取りを見ていたからなのか、すごく微笑ましそうに千歌ちゃんに注文されたクレープを作り始める。


千歌「みかんっ! みかんっ!」

ダイヤ「ふふ、そんなに楽しみだったのですか?」


チュリトスを手に持ったダイヤさんが、クレープ屋の前に居る千歌ちゃんに向かって、くすくす笑いながら話しかける。


千歌「うん! あのね、すごいんだよ、ここのみかんクレープ!」

店員「お待たせしました~」

千歌「あ、はーい!」


千歌ちゃんは出来たてほやほやのクレープを受け取って、


千歌「見て! ダイヤさん!」


嬉しそうにクレープをダイヤさんに見せる。


ダイヤ「まあ……!」


千歌ちゃんが手に持ったクレープ──なんでここまで、千歌ちゃんが執着しているのかが、一目でわかる見た目をしていた。

なんと、クレープの頂点にみかんが丸ごと一個乗っかっている。


ダイヤ「これは確かにすごいですわね」

千歌「でしょでしょ!」

ダイヤ「ふふ、それでは、せっかく作り立てですから、早く頂きましょうか?」

千歌「うん!」

ダイヤ「どちらから食べたいですか?」

千歌「え、えっと……悩むけど……やっぱり、この丸ごとみかん!」

ダイヤ「ふふ、そうですか」

千歌「いただきまーす! あむっ!」


千歌ちゃんが早速クレープの上にある、丸ごとのみかんにかぶりつく。


千歌「……んむ、んむ……」

ダイヤ「おいしい?」

千歌「……えへへ……おいひぃ……♪」

ダイヤ「ふふ、よかったわね」

千歌「うん……♪ しあわせ……♪ ダイヤさんも一口どーぞ♪」

ダイヤ「ええ、頂きますわね」


千歌ちゃんが、一旦クレープをダイヤさんに手渡す──のかと思ったら、


梨子「……!?」


ダイヤさんは、千歌ちゃんが手に持っているクレープにそのまま、口を付け始める。

あのダイヤさんが、ナチュラルにあんなことを……!?

167: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 15:57:10.21 ID:vQ6qZL/R0

ダイヤ「あむ……。……まあ♪ 蜜柑と生クリームとチョコが、見事にマッチしてますわね♪」

千歌「でしょでしょ! きっと、このみかん甘い味付けしてるんだよ! そのおかげでチョコとか生クリームの甘さに負けない味になってるんだと思う!」

ダイヤ「でも、蜜柑の甘酸っぱさも残っていて……絶妙な味付けですわね」

千歌「それに上に乗ってるみかんだけじゃなくて、中までみかんたっぷり……幸せ~♡」

ダイヤ「ふふ、それでは次はチュリトスを食べてみますか?」

千歌「あ、うん! みかんディップいっぱい付けてね?」

ダイヤ「わかっていますわ。……はい、どうぞ♪」

千歌「あーん♪」


今度は千歌ちゃんが、ダイヤさんからのあーんでチュリトスにかじりつく。

す、すごい……二人ともあんなに自然にお互いで食べさせ合ってる……。


ダイヤ「おいしい?」

千歌「うんっ! こっちもおいしい!! ダイヤさんも食べて食べて!」

ダイヤ「ふふ、では」

千歌「みかんディップたっぷりの方がいいよ!」

ダイヤ「わかりましたわ♪」


ニコニコ笑って頷きながら、ダイヤさんもチュリトスを食べると──


ダイヤ「──こちらも、シナモンの甘さとみかんディップの甘酸っぱさが絶妙ですわね」

千歌「うん! もう一口頂戴!」

ダイヤ「はーい。みかんディップいっぱい付けますわね。……はい、あーん♪」

千歌「あーん♪ あむっ……もぐもぐ……うぇへへ……ぉぃしぃ……」

ダイヤ「千歌さん、わたくしにも、もう一口クレープをくださる?」

千歌「うん♪ あーん♪」

ダイヤ「あーん♪」


なんだろう、あまりに空気が甘すぎて、私は何も食べていないはずなのにお腹がいっぱいになってきた気がする……。

特にダイヤさんだ。

普段とのギャップがすごすぎて、より破壊力があるというか……。

二人のあまあまなおやつタイムを眺めていると──


鞠莉「あら、こんなところにもラブラブカップル発見デースね♪」

曜「うわぁ……/// ダイヤさんって、思ったより大胆だったんだね……///」

ダイヤ「んなっ!?///」

千歌「あ、曜ちゃんたちもこっち来たの?」

ダイヤ「な、ななな、なんで貴方たちがここに居るのですか!?/// 『FUJIYAMA』はもっと向こうのはずでしょ!?///」


突然、鞠莉ちゃんと曜ちゃんに声を掛けられて、ダイヤさんは顔を真っ赤にして抗議する。

……やっぱり、知り合いに見られるのはさすがに恥ずかしいんだ。


鞠莉「んーそうなんだけど、曜がかき氷食べたいって言うから」

曜「すいませーん! 『ブルーオーシャンかき氷』くださーい!」


屋台に走っていく曜ちゃんの背中を見ながら──ここに曜ちゃんたちが居るってことは……と辺りを伺うと、

168: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 15:58:18.62 ID:vQ6qZL/R0

果南「──梨子ちゃん、お待たせ」


ちょうどいいタイミングで果南ちゃんが私の隠れている物陰に合流してくる。


果南「どうだった……って聞きたいところだけど……」


ダイヤ「ふ、冬なのに、なんでかき氷なんか……///」

鞠莉「まあ、今日は冬って言う割には、暖かいからね~。それより、見てたわよ~? 『はい、千歌さん、あ~ん♪』ね~♪」

ダイヤ「や、やってませんっ!!///」

鞠莉「照れなくてもいいのよ~? ラブラブカップルさん♪」

千歌「えへへ~♪」

ダイヤ「ち、千歌さんも否定してくださいっ!!///」

千歌「ダイヤさんがあーんしてくれると、おいしさ100万倍なんだよね~♪」

ダイヤ「ち、千歌さぁんっ///」


果南「聞くまでもなさそうだね……」

梨子「うん……ちょっと胸焼けしそうなくらい、千歌ちゃんとダイヤさんがラブラブだったよ……」


そういう意味ではいいタイミングで戻ってきてくれたのかもしれない。


曜「かき氷買ってきたよ~♪」

千歌「おかえり~……おお、結構大きいねそのかき氷……」


曜ちゃんが手に持っているかき氷は、確かにちょっと大きめのカップに入ったかき氷だった。

ブルーハワイベースなのか、青い色をしたかき氷に、トッピングとしてフルーツが飾られているようだ。


鞠莉「それが、曜が食べたかったかき氷?」

曜「うん! なんか、ブルーオーシャンなんて言うから興味沸いちゃって!」

鞠莉「ふふ……曜の大好きな海の青だもんね」

曜「えへへ、うん。それじゃ、頂きまーす!」


曜ちゃんは早速、かき氷をかきこむように食べ──


曜「……くぅぅぅ!! キーンってきたぁ……!!」


頭を押さえる。


曜「やっぱり、かき氷食べるときはこれやらないとね……!」

ダイヤ「そうなのですか……?」

鞠莉「ちなみにこの頭がキーンってなるのは『アイスクリーム頭痛』って言う名前がついていマース♪」

千歌「へー……名前あったんだ」

曜「鞠莉ちゃんも食べる?」

鞠莉「うん、頂戴♪ あーんでね♪」


鞠莉ちゃんがダイヤさんに視線を流しながら、いたずらっぽく言う。


ダイヤ「う……///」

曜「あはは……はい、鞠莉ちゃん、あーん」

鞠莉「あ~ん♡」

169: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 16:00:18.80 ID:vQ6qZL/R0

……それにしても、皆恥ずかしくないのかな……?

こういう場所だから、テンションがあがって出来ちゃうっていうのはありそうだけど……。

もしかして、恋人が出来ると案外平気になっちゃうとか……?

私が怪訝な顔をしているのに、気付いたのか、


果南「なんか大袈裟だよねぇ」


果南ちゃんも私に同意するように肩を竦め──


果南「ダイヤも、あれくらいで恥ずかしがることないのに」

梨子「…………」


前言撤回。逆だった。


果南「ん……? どうかした……?」

梨子「いや……なんでもない……」


考えてみれば、果南ちゃんはこういうことをナチュラルに仕掛けてくる人だった……。

それで何度恥ずかしい目に遭ったか……。

──しばらくすると、おやつタイムも終わり、


ダイヤ「……さて、それでは次に行きましょうか」


と、ダイヤさん。


鞠莉「そうだネ~。ダイヤもチカッチとのラブラブエネルギーを補給出来て準備万端みたいだし♪」

ダイヤ「鞠莉さんっ!///」

千歌「それじゃ、いざ『FUJIYAMA』へレッツゴー!」

曜「ヨーソロー!」


一行は移動を始める。


梨子「果南ちゃん、行こう」

果南「あ、うん。それはいいんだけどさ」

梨子「?」

果南「梨子ちゃん、『FUJIYAMA』は大丈夫……? あれも結構すごいやつっぽいけど……」

梨子「ん……」

果南「無理なら、また待機してても……私がついていけば、あとは出口で待っててもらうっていうのも……」

梨子「……大丈夫、乗る」

果南「……そう?」

梨子「……うん。私も……見たい、から……///」

果南「……? 景色?」

梨子「う、うん……///」

果南「そっか……?」

170: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 16:01:38.46 ID:vQ6qZL/R0

私は果南ちゃんに顔を見られないように、千歌ちゃんたちのあとを追いかけ始める。

私の脳裏に浮かんでいたのは、さっきダイヤさんの台詞──『わたくしは、いつだって……貴女と同じ景色を見ていたい』──

私も……私も同じ景色を知りたい。……今隣に居てくれる、果南ちゃんと同じ景色を……見ていたいな、と……。

私ももしかしたら、皆の雰囲気に当てられてしまっているだけなのかもしれないけど……今、私の心の中には、そういう感情が確かに浮かんできているのだった。

──打倒『FUJIYAMA』……!





    *    *    *





──キュラキュラキュラ。


ダイヤ「あの、千歌さん……」

千歌「ん?」


──キュラキュラキュラ。


ダイヤ「……ど、どこまで……昇るのでしょうか……」

千歌「えっと……地上79mだったかな」


──キュラキュラキュラ。


ダイヤ「な、ななじゅう……きゅう……めーとる……?? そんなところから落ちたら……死んでしまいますわ」

鞠莉「落ちるのは70mだからー安心してー♪」

曜「……何も安心できないような……」


──キュラキュラキュラ。

長い。とにかく上昇の時間が長い。それが恐怖をより一層助長させる。


梨子「……こ、この高さから……落ちるの……?」

果南「えっと……大丈夫……?」

梨子「……あ、あはは……」


やっぱり、下で待っていればよかったかも……。


ダイヤ「……は、はは……こ、こわくなんか、あ、ありませんわ……」

千歌「大丈夫だよ、ダイヤさん! 私たち1万mから落ちたことあるんだから!」


千歌ちゃんがまたよくわかんないこと言ってるけど……。


果南「……スカイダイビングでもしてたのかな……?」


確かにそれなら、さっき言っていた空を飛んでたっていうのも説明できる……かも……?

──キュラキュラキュラ。


梨子「も、もう……無理……」


もう上昇はいいから、下って欲しい。

上昇の恐怖だけで心が折れそうな中──ポンポンと肩を叩かれる。

171: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 16:02:53.91 ID:vQ6qZL/R0

梨子「な、なに……?」


もちろん相手は隣に座っている果南ちゃん。果南ちゃんの方に目を向けると、


果南「……見て」


果南ちゃんは左側の虚空を指差した。指差す方向に目を向けると──


梨子「……ぁ」


大きな大きな、フジヤマが見える。『FUJIYAMA』ではない。富士山が……真っ白に冠雪した富士山が、快晴の空の下で、存在感を放って鎮座していた。


果南「こんな高いところから、富士山を見たのって初めてかも」

梨子「……うん」


その雄々しい山の存在感に言葉を失う。それと同時に──果南ちゃんと景色を共有できたという実感が湧いてくる。

気付けば、上昇が終わったのか──


鞠莉「こちら地上79mデース!!」

曜「いぇーい!!」


テンションの高いアナウンスが3個ほど前の席から響いてくる。レール右手には79mと書かれた看板が現れる。


千歌「ダイヤさん、富士山だよ」

ダイヤ「え……? あ……」


鞠莉ちゃんたちのすぐ後ろに座っている千歌ちゃんたちもどうやら富士山に気付いたようだ。

そして、富士山の感動も束の間──コースターは一気に下降を始めた、


梨子「……っ……!!」


重力に従い一気に加速していくコースター。

加速して、加速して、加速して、

加速して、


ダイヤ「長いぃぃ!!! 落下が長いですわああああ!!!!」


ダイヤさんの絶叫が響く。


曜「ひゃっほぉぉぉーーーー!!!」

鞠莉「このスピード感、最高デーーーース!!!!」


──あ、死んだ。

恐怖が一周し、軽く死を悟った瞬間、コースターは下降をやめ、上昇を──


梨子「もう、あがらなくていいからぁーーー!!?」


落下で得たエネルギーをそのまま使って、猛スピードで上昇したあと、頂点でカーブし──再び前方に下り坂が見えてくる。


梨子「いやぁぁぁぁーーーーーーー!!?」

ダイヤ「おろして!!! おろしてくださいいいぃぃぃ!!!!」

千歌「ダイヤさん、暴れないでーーー!?」

172: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 16:07:29.44 ID:vQ6qZL/R0

私とダイヤさんの絶叫は虚しく、コースターは猛スピードで下り始める。


梨子「きゃああああああああああーーーーーーーーー!!!!!」

ダイヤ「ピギャアアアアアアアアアアアアーーーーーー!!!!!!!」


落下し、そして次に上昇、また落下、また上昇。

目まぐるしく変わるGに内臓が引っ張られるような感覚がして気持ち悪い。

追いつかない思考のまま、今度は捻りながら高速で下り降りていく。

文字通り目を回しながら、恐怖に耐える。

もう、終わりだよね……!? 終わりだよね!?

上昇して、落下、上昇、落下、上昇──


梨子「いつになったら終わるのーーーーー!!!?」

 ダイヤ「いつになったら終わるんですのーーーーー!!!!!?」

果南「長いのが有名なジェットコースターだからーー『FUJIYAMA』ーーー」

 千歌「長いのが有名なジェットコースターなんだよーー『FUJIYAMA』ってーーーー」

梨子「聞いてないいいーーーーーー!!!!!」

 ダイヤ「聞いていませんわーーーーー!!!!」


いつまで経っても終わらないアップダウン。

──あ、これ無理だ。

頭の中に浮かんできたそんな言葉を最後に……その後の記憶は曖昧で……──


 『おかえりなさーい!!』


──パチパチパチと拍手と共に、帰りを迎えられて、やっと終わったことに気付く。


果南「……さすが長いって評判なだけあったね……」

梨子「……」

果南「……梨子ちゃん?」

梨子「…………ぅぇ……?」

果南「大丈夫……?」

梨子「……………………?」

果南「もう終わったよ」

梨子「………………生きてる」


生きた心地がしなかった。ふらつきながら、立ち上がろうとすると、果南ちゃんが支えてくれる。


果南「頑張ったね」

梨子「……あはは」


もはや、自分の中でいろんなものが一周してしまったのか、乾いた笑いが出てくる。

一方、


ダイヤ「…………………………ああ、御婆様が……川の向こうで手招きを……」

千歌「ダイヤさーん!! しっかりしてーー!! その川渡っちゃダメだからーーー!!」

173: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 16:08:39.50 ID:vQ6qZL/R0

ダイヤさんも負けず劣らずグロッキーだったのは言うまでもない。





    *    *    *





過酷な富士登山後。


鞠莉「ダイヤ、ダメそう?」

ダイヤ「…………ぅぅ……」

千歌「あはは、だいぶ参っちゃってるね……」

曜「今度は落ち着いたアトラクションを選んだほういいかな?」

鞠莉「なら……『メリーゴーラウンド』乗りたい……」


鞠莉ちゃんはそう言いながら、近くでくるくると回っている『メリーゴーラウンド』を目で示す。


千歌「いいね。それならダイヤさんも……」

ダイヤ「い、いやですわ……! あの馬も高速で動くのでしょう!?」

千歌「動かないよー」

ダイヤ「も、もうわたくしは自分の足以外で動くものは信じませんわっ!!」

千歌「それじゃ、帰れないじゃん……」

鞠莉「『メリーゴーラウンド』……やめとく……?」

千歌「んー……これじゃ、ちょっとダメそうかも」

鞠莉「……そっか」


鞠莉ちゃんが露骨にシュンとする。


曜「鞠莉ちゃん、もしかして乗りたかった?」

鞠莉「えっ!?/// ま、まさか~マリーはこんな子供っぽいアトラクション……」


そう言いながらも、鞠莉ちゃんは回っているお馬さんたちをずっと目で追いかけている。


果南「鞠莉、昔から『メリーゴーラウンド』好きだったからなぁ」

梨子「そうなの?」

果南「馬が好きだからね。子供の頃から遊園地に行くと、その日の間に何度も何度も乗るくらいには好きだったと思うよ」

梨子「へー……」


鞠莉ちゃんの趣味にしては確かにちょっとメルヘンすぎるかなとは思うけど……馬が好きというのも確かにイメージ通りではある。


曜「じゃ、鞠莉ちゃん一緒に乗ろうか」

鞠莉「え、い、いや、別に乗りたいわけじゃ……///」

曜「私はアトラクション全制覇したいからさ! それなら『メリーゴーラウンド』も乗らないと!」

鞠莉「……そ、そういうことなら、付き合ってあげマース……///」

曜「えへへ、よろしくね! それじゃ、行ってくるであります!」


曜ちゃんはそう言いながら、千歌ちゃんたちに向かって敬礼する。

174: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 16:09:41.75 ID:vQ6qZL/R0

千歌「ごめんね、曜ちゃん」

曜「んー?」

千歌「なんか、チカたち……休憩ばっかになっちゃって」

曜「いいっていいって。……その、さ」

千歌「ん……?」

曜「……千歌ちゃんにとって、一番大事な人はダイヤさんなんだから」

千歌「……。…………うん」


梨子「……?」

果南「……ん」


なんか今、不自然な間があったような……?


千歌「…………」

曜「…………」


いや、たぶん気のせいじゃない。これは、何かの意味がある間だ。


曜「千歌ちゃん」

千歌「……なぁに?」

曜「私、鞠莉ちゃんのこと好きなんだ」

千歌「……うん」

曜「今は鞠莉ちゃんが、一番大切なんだ」

千歌「……うん」

曜「もう、平気だよ」

千歌「……うん」


突然、曜ちゃんが鞠莉ちゃんへの告白のようなことを口にしだしたけど、


鞠莉「…………」

ダイヤ「…………」


鞠莉ちゃんもダイヤさんも、そんな会話をしている千歌ちゃんと曜ちゃんを黙って見守っていた。

そして、二人のやり取りには……何故だか、いろんな言外の意味が込められている、そんな会話であることが自然とわかる空気を纏っていた。

その後、ひと呼吸おいてから曜ちゃんは、


曜「それじゃ、行ってくるであります!」

千歌「うん、行ってらっしゃい!」


敬礼をしながら、鞠莉ちゃんの手を引いて、『メリーゴーラウンド』の方へと、走り去って行った──。

175: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 16:10:54.77 ID:vQ6qZL/R0

千歌「…………」

ダイヤ「千歌さん」

千歌「ん」

ダイヤ「気は済みましたか?」

千歌「…………あはは、私ずるいね」

ダイヤ「……ずるい?」

千歌「曜ちゃんのこと、傷つけちゃったのは私なのに……きっと、ずっと……曜ちゃんがああいう風に言ってくれるの……待ってた気がする」

ダイヤ「千歌さん……」

千歌「ホントに許してくれてたのか……友達に戻れるか、ずっとわかんないままで……怖くて……っ……」

ダイヤ「……曜さんは、貴女が最初にこのダブルデートを企画した時点で、なんとなくわかっていたのではないでしょうか」

千歌「……」

ダイヤ「貴女の真意に。それと同時に、曜さんも千歌さんと同じように、昔の関係に戻りたいと思っていた。だから、ああして言葉にして伝えてくれたのではないでしょうか」

千歌「……うん」

ダイヤ「そして、千歌さんも。曜さんならきっと、貴女の真意を見抜いて、ちゃんと伝えてくれると信じていたのでしょう? お互いのことをよくわかっている、良い友達ではないですか」

千歌「……うん……っ」

ダイヤ「……ほら、泣かないの。戻ってきて貴女が泣いていたら、また曜さんが不安になってしまうでしょう?」

千歌「うん……っ……な、泣か……ない……っ……」

ダイヤ「よしよし、偉いですわね」


ダイヤさんは千歌ちゃんの頭を撫でながら抱きしめる。千歌ちゃんはダイヤさんの胸に顔を埋めて、肩を震わせていた。

──私たちは、


梨子「……果南ちゃん」

果南「……ん」

梨子「……尾行、終わりにしよっか」

果南「……そうだね」


もはや心を読む必要もないくらいに、きっとこれは私たちが知るべきことじゃなかったんだ……そんな気持ちを二人で共有して、今日のダブルデートの尾行を終わりにするのでした。





    *    *    *





──ゆったりと、音楽に合わせてくるくると回る視界。


果南「……なんかさ」

梨子「うん」

果南「……皆知ってるようで、知らないことばっかりなんだなって」

梨子「……そうだね」


『コーヒーカップ』に腰掛けながら、ぼんやりと言葉を交わす。

176: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 16:12:53.65 ID:vQ6qZL/R0

果南「……千歌と曜ちゃんの間に、何があったのかはわかんないけどさ……でも、千歌も、曜ちゃんも必死にいろんなこと考えてたんだって……」

梨子「…………」

果南「……勝手に置いてけぼりにされたなんて感じて……尾行なんてして……ちょっと自分が恥ずかしい」

梨子「……私も共犯だよ」


最初から、このダブルデートには目的があった。

千歌ちゃんは、曜ちゃんの気持ちを確かめようとしていた。

断片的な情報のせいで、具体的にそれがどういう内容だったのかまではわからないけど……。

ただ、そんな断片的な情報の中でも、なんでこのダブルデートの計画を、他の人に伝えなかったのかはわかる気がした。

恐らく、千歌ちゃんと、曜ちゃんと、ダイヤさんと、鞠莉ちゃんの4人じゃなくちゃいけなかったんだ。


果南「考えてみれば……どうやって、千歌がダイヤと付き合うことになったのかも、鞠莉が曜ちゃんと付き合うことになったのかも……私、知らないや」

梨子「私も……」


二人して、天を見上げると、天井がぐるぐると回転している。まるで、勝手に迷走していた私たちの心でも表しているかのようだ。


果南「……幼馴染だからって、勝手に知った気になってた……いや、知ってることが当然だと思ってた……知っていいんだと思ってた……」

梨子「果南ちゃん……」

果南「……そりゃ、幼馴染相手でも……知られたくないことも……知らせたくないことも……あるよね」

梨子「…………」


私たちは、そんな当然のことも見落としてしまっていたのかもしれない。


果南「……でも、まあ、やっちゃったことは……もう言っても仕方ないね」

梨子「……それは……。……そうだね」

果南「……なかったことにはならないし」

梨子「……うん」


好奇心は猫をも殺すじゃないけど……知らせないようにしてくれたことに、自分たちから首を突っ込んでしまった以上、私たちが落ち込むのは筋違いだと思う。

もちろん、このことを第三者や本人たちに言うのも。

知らされないはずのことだったんだ。もうこんなことはしないと心に誓って、罪悪感と一緒に胸にしまって終わりにしよう。


果南「……ただ、まあ……それとは別に……来てよかったなって思うことはあるよ」

梨子「え……?」

果南「梨子ちゃんと一緒だったし」

梨子「き、急にどうしたの……?///」

果南「梨子ちゃんが一緒に居てくれて、やっぱ楽しかったなって。……私、あの4人のことばっかに目が行ってたけどさ。最近は気付けばいつも梨子ちゃんが隣に居てくれてて……今日も気付けば梨子ちゃんが隣に居てさ」

梨子「……///」


くるくると回っている。景色が回り続ける中、果南ちゃんは気持ちを吐露し続ける。


果南「今日は……いろんな梨子ちゃんの表情が見れて、なんかうまく言葉に出来ないけど……嬉しかったんだよね」

梨子「…………///」


何故だか、無性に恥ずかしくなって言葉に窮していると、くるくると回っていた視界がゆっくり減速し──止まった。

177: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 16:14:52.01 ID:vQ6qZL/R0

 『お疲れ様でした。お帰りの際は、忘れ物をしないように──』

果南「なんちゃって。ちょっと気取り過ぎちゃったかな? 今日はもう、帰ろうか」

梨子「うん……///」


先に降りて、『コーヒーカップ』から出ていく果南ちゃんの背中を追いながら、私は──


梨子「私も……嬉しかったよ……///」

果南「ん……? 何か言った……?」

梨子「うぅん、なんでもない……///」


同じ気持ちを共有している事実にまた少しだけ、ドキドキとしていた。





    *    *    *





──まだ日の高い時間、こんな早い時間に遊園地から撤退する人なんてそんなに居ないのか、空席の目立つバスに揺られながら私たちは来た道を戻っていく。

私が窓の外をぼんやりと眺めていると、


果南「ねぇ、梨子ちゃん」


声を掛けられる。


梨子「なぁに?」

果南「……私さ、思ったんだけど」

梨子「?」

果南「梨子ちゃんがこうしてそばに居てくれてるのに……私、梨子ちゃんのこと、あんまりよく知らないなって」

梨子「……どうしたの、急に……?」

果南「……今日もさ、梨子ちゃんが絶叫マシンが苦手だって知らなくって……許可も取らずに『高飛車』に乗せちゃって……悪いことしたなって」

梨子「そんな……ちゃんと言わなかった私も悪いし……」


それに、当初の目的が尾行だった以上、どっちにしろ選択肢はなかったと思うし……。


果南「うぅん……今日の尾行自体も、私が千歌たちのこと、ちゃんと考えてなかったことが原因だと思うし……もう、自分がちゃんとわかってなくてする失敗は繰り返したくなくてさ」

梨子「果南ちゃん……」

果南「……バスに乗ってる時間も結構あるしさ、もし嫌じゃなかったら、梨子ちゃんのこと……教えてくれないかな?」

梨子「え、えっと……」


果南ちゃんの言いたいことはわかった。だけど、突然自分のことと言われても……何を話せばいいんだろう。


梨子「自分のこと……例えばどういうの?」

果南「ちっちゃい頃の話とか……?」

梨子「ちっちゃい頃?」

果南「ほら私、Aqoursメンバーの中に幼馴染が多いからさ。皆のちっちゃい頃はよく知ってるけど……梨子ちゃんの子供の頃は全く知らないし」

梨子「……なるほど」

178: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 16:21:57.26 ID:vQ6qZL/R0

確かに、果南ちゃんどころか、私の小さい頃のことをAqoursメンバーはほとんど知らないかもしれない。

別に言いたくないなんてことはないけど……特に言う機会もなかったから、こっちに来てからあまり話したことがなかった。

──いい機会かもしれない。そう思い、私は果南ちゃんに自分の生い立ちを話し始める。


梨子「ちっちゃい頃って言っても、そんなに特別なことはないけど……普通に東京で生まれて東京で育って──」

果南「まず東京生まれ東京育ちっていうのが、特殊だよ……」

梨子「親がたまたま東京に住んでたってだけだよ」


確かに内浦の人からしてみれば、そう言いたくもなるのかもしれないけど。


果南「子供の頃はどんなことしてたの?」

梨子「ピアノを弾いたり、お絵かきをしてたことが多かったかな。特にピアノは本当に小さい頃からやってたから……」

果南「やっぱり昔からピアノをやってたんだね」

梨子「うん。あと、ビオラも弾けるよ」

果南「……ビオラ?」

梨子「一回り大きいヴァイオリンみたいな楽器かな」

果南「へー」

梨子「って口で言われても、ピンと来ないと思うから、今度見せてあげるね」


そうは言うものの、ビオラだけ見せられても知らない人には、ヴァイオリンとの区別は付かないかもしれないけど……。


梨子「小さい頃からずっと続けていたピアノは、中学に上がる頃にはそれなりに上達して、全国大会に行けるくらいになって……。そんな成績があったからかな、両親も先生も期待してくれて……だから、高校は音楽に強い学校に入った」


音楽に強い高校──音ノ木坂学院だ。


梨子「でも、高校に入ってからは、中学のときみたいに弾けなくなっちゃって……」

果南「……周りの期待がプレッシャーだった?」

梨子「……そういうのもあったのかもしれない。義務感みたいなものが自分の中に出来ちゃってたのかな。皆の期待に応えなくちゃって……そんな風に思ってたら、あんなに好きだったピアノも、だんだん楽しくもなくなってきちゃって……」


──そして、私はついにコンクールで大失敗をした。コンクールの本番で……弾くことが、出来なかった。


梨子「でも、弾けなくなっても、私にはピアノしかない。結局そう思って、必死にピアノと向き合おうとしたけど……全然ダメで……。そんな私を見たお母さんに、こう提案されたの。──『環境を変えてみない?』って」

果南「それで内浦に?」

梨子「うん。ずっと海の曲を作ってたから……海が近くにある町に引っ越せば、何かが変わるんじゃないかって……。あとは果南ちゃんの知ってるとおりだよ」


──千歌ちゃんと出会って、曜ちゃんを含めて三人で海の音を聴いて。千歌ちゃんが伸ばしてくれた手を、握って、スクールアイドルになった。


梨子「……今はあのときのスランプからは考えられないくらい、伸び伸びとピアノと向き合えてる。音楽とも……スクールアイドルとも」


何をしてもうまく行かない気がして、つまらなかった毎日が、スクールアイドルを始めてからは輝いている気がする。

あのとき、手を伸ばして、飛び込んでよかった。──内浦に……来てよかった。


梨子「私の生い立ちは、こんな感じかな……これで大丈夫だった?」

果南「……一つ気になることが残ってるんだけど」

梨子「? 気になることって……?」

果南「どうして、内浦だったの?」

梨子「……え?」

果南「海のある場所って、たくさんあるでしょ? でも、その中から、なんで内浦に来たの?」

179: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 16:24:40.63 ID:vQ6qZL/R0

言われてみればそうだ。島国である日本には、海の町はきっとたくさんある。そんな中でも、あえて内浦を選んだ理由──


果南「親の仕事の都合が付く場所とか……梨子ちゃんには決められない理由だったのかもしれないけど……」

梨子「あはは……確かに、私が内浦が良いって言って、引っ越してきたわけじゃないかな」

果南「……まあ、それもそっか。偶然内浦に──」

梨子「でもね」


納得しかけた果南ちゃんの言葉を遮る。


果南「……? でも?」

梨子「内浦を選んだのは……偶然だけじゃないと思う」

果南「どういうこと?」


紫色の二つの瞳が、興味深そうに私に視線を注いでいる。

──ああ、そういえばこの話……千歌ちゃんや曜ちゃんにも、したことがなかったかもしれない。

果南ちゃんに話すのが、初めてだ……。


梨子「──私、実はね。小さい頃に内浦に来たことがあったの」

果南「え」


果南ちゃんはそんな私の言葉に目を丸くする。


果南「ホントに……?」

梨子「うん。小さい頃──小学生低学年くらいのときに、家族と内浦に旅行に来たことがあったの」


実のところ、内浦に旅行に来て、具体的に何をしていたのかまでは思い出せない、だけど──すごくすごく、鮮明に記憶に残っていることが一つだけあった。


梨子「……私、そのとき……内浦の海でね」

果南「うん」

梨子「……人魚姫を見たの」

果南「人魚……姫……?」

梨子「……うん」


果南ちゃんの顔を見ると、ポカンとした顔をしていた。

まあ、そりゃそうだよね。こんな子供の妄想みたいな話……。


梨子「今考えてみれば、子供の勘違いでしかないんだけどね……。でも、当時の私は人魚姫を見たって話を、何度も何度もお母さんやお父さんにしてたから……。きっと、二人にとっても、それがすごく印象深かったんだと思う」


子供の勘違いとはいえ、その勘違いが巡り巡って、今に繋がっているんだとしたら、あのとき見た人魚姫には感謝しなくちゃいけないけどね。

そう思いながら、話を締め括ろうとしたところで、


果南「ねぇ、梨子ちゃん……! その人魚姫って、どんな感じだった!?」

梨子「え?」


果南ちゃんは予想外にも、そんな子供の妄想の話に食いついてきた。


梨子「どんな……えっと……」


何分昔のことだ。詳しい容姿までは覚えていないというか──いや、この間夢に見たのは……。

180: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 16:26:13.53 ID:vQ6qZL/R0

梨子「……深い海みたいな色の髪をした……綺麗な人魚姫……」


──尤も、果南ちゃんを意識しすぎて、記憶の中で容姿を重ねてしまっている可能性が十分あるんだけど。


果南「……! もう一個聞いていい?」

梨子「う、うん」

果南「どうして人魚じゃなくて、人魚姫だと思ったの?」

梨子「え、えっと……」


そう問われて口籠る。これは果南ちゃんに言うには少し恥ずかしい理由だからだ。


果南「? 梨子ちゃん……?」

梨子「その……わ、笑わない?」

果南「笑う……? なんで?」

梨子「なんというか……その……」

果南「……?」


果南ちゃんは歯切れの悪い私を見て、不思議そうな顔をしていたけど、


果南「……わかった。笑わない。約束するよ」


このままでは、話が進まないと思ったのか、そう約束してくれる。


梨子「……う、うん。それじゃ、えっと……。その……ね」

果南「うん」

梨子「ちっちゃい頃ね……実は……」

果南「うん」

梨子「私、人魚は……──全部、人魚姫だと思ってたの……///」

果南「……え?」


果南ちゃんは再びポカンとした顔をする。


梨子「……あ、あのね! これには理由があって……! 『人魚姫』ってあるでしょ、アンデルセンの童話の」

果南「う、うん。あるね」

梨子「それのイメージがあまりに強すぎて……だから、その……ちっちゃい頃の私は……人魚は全部人魚姫なんだって、勘違いしちゃってて……///」

果南「あー……なるほど」


だから、当時内浦で見たと勘違いした人魚も、人魚姫なんだと思い込んでしまったわけで……。

──今考えてみると、私の話を聞いてお母さんが笑っていたのは、人魚が居たというのが荒唐無稽だったからではなく、もしかしたら人魚=人魚姫だと勘違いしている私が可笑しかったのかもしれない。

そんな、恥ずかしエピソードを披露してしまったわけだけど……。


果南「でも、梨子ちゃん。それ、あながち勘違いじゃないかもしれないよ」

梨子「……え?」


果南ちゃんの反応は、予想外のモノで、

181: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 16:29:54.17 ID:vQ6qZL/R0

果南「内浦にはね……あったんだよ」

梨子「……? 何が……?」

果南「──人魚姫の噂が」

梨子「人魚姫の……噂……?」


今度は逆に私がポカンとする番だった。


果南「内浦には人魚姫が居るって噂があったんだよ」

梨子「本当に……?」

果南「うん。それも、梨子ちゃんの言うとおり、深い海のような髪色をした人魚姫の噂が……!」

梨子「うそ……」

果南「ホントだよ」

梨子「でもそんな話、誰にも聞いたことなかったよ……?」


内浦は海の町だ。人魚姫の噂自体はあったとしても、そこまでおかしいというほどではない気もする。でも、そんな海の町で──しかも噂話とかが好きそうな千歌ちゃんからも、そんな話は一度だって聞いたことがなかった。


果南「うん。私も今の今まで、人魚姫の噂……あんまり考えないようにしてたんだよね」

梨子「……? どういうこと……?」


噂を考えないようにしていた……?


果南「不思議なことにね、ある日を境に、誰もその人魚姫の噂の話をしなくなっちゃったんだよ」

梨子「……?」


余計に意味がわからず、首を傾げる。


果南「私もその噂は、人から聞いて知ったものだったはずなのに……ある日を境に誰に聞いても、皆『知らない』って言うようになったんだよ」

梨子「そんなことあるの……?」

果南「私も最初は信じられなかったけど……千歌ですら、気付いたら『知らない』って言いだして……」

梨子「…………果南ちゃん、ちょっといい?」


私は、不意に果南ちゃんの手を握ってみる。


果南「梨子ちゃん……?」
 果南『どうしたんだろ……?』

梨子「千歌ちゃんも、前は人魚姫の噂を知ってたの?」

果南「うん、知ってたよ。私も千歌と話したことがあったし」
 果南『むしろ、千歌が人魚姫を探すって言いだして、一緒に探したことがあったくらいだし』


どうやら、本当のことだというのは、間違いないようだ。それだけ確認出来ればいいと思って、私はゆっくりと手を離す。


果南「でもある日、千歌に聞いたら『人魚姫なんて知らない』って言いだしたんだ」

梨子「……それっていつごろだったの?」

果南「えーっと……私が中学に上がるくらいのときだったかな。そのときから、急に皆、人魚姫のことを『知らない』って言いだしたんだよね……。最初は何かの悪ふざけかと思ったんだけど……身近な人たちに聞いても、皆『知らない』って言うから、だんだん気味が悪くなってきてさ……」


確かにそれは軽くホラーかもしれない。


果南「ちょうど母さんたちが、沖縄に行っちゃったところで心細かったのもあったんだろうけど……それ以上、触れるのが怖くなっちゃって……以来、口にしないでいたんだ。でも──」


果南ちゃんの視線が私に注がれる。

182: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 16:32:07.02 ID:vQ6qZL/R0

梨子「皆が『知らない』はずの人魚姫の噂を……私は知っていた……」

果南「うん」


だから今、私から話を聞いて、極力触れずに考えないようにしていた、人魚姫の噂を思い出したということだ。


果南「私一人がおかしくなっちゃったんだって、ずっと思ってたから……なんか、数年越しに安心した気分だよ」


果南ちゃんはそう言って、安堵したあと──


果南「ねぇ、梨子ちゃん。このあと、私の家に来てくれないかな」


突然、私を家へと誘ってくる。


梨子「いいけど……どうして?」

果南「見せたい物があるんだ」

梨子「見せたい物……。……わかった」


それが何かはわからなかったけど、果南ちゃんが真剣な目で、私を見つめていたから……私は素直にお誘いを受け入れることにした。

そのとき、私に視線を注ぐ、紫色の瞳は──何故だか、少しだけ赤みを帯びている気がした。





    *    *    *





遊園地から帰宅し、ここは果南ちゃんの部屋。


果南「見せたかったものは、これなんだけど……」


そう言って、部屋の中央のテーブルに出されたのは──


梨子「『人魚姫』……」


いつぞやのときに見た、ボロボロの『人魚姫』の絵本だった。


果南「この絵本ね、小さい頃、母さんがくれたものなんだ」

梨子「果南ちゃんのお母さんが?」

果南「母さんも子供の頃から、おばあに読み聞かせて貰ってた絵本みたいでね。お陰でこんなにボロボロなんだけど……」

梨子「どうりで……随分年季が入ってるもんね」

果南「私も母さんに何度も何度も読み聞かせて貰った、思い出の絵本なんだ」

梨子「大切な絵本なんだね……。でも、どうしてそれを私に?」

果南「今日、梨子ちゃんから人魚姫の話が出たから……私ね、不安なときはいつもこの本を読んでたんだ。皆が人魚姫のことを『知らない』って言いだしたときも……それに──」


そこまで言いかけて、果南ちゃんはハッとしたように、口を噤む。


梨子「どうかしたの?」


訊ねながら、果南ちゃんの手に自分の手を軽く添える。

183: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 16:34:42.51 ID:vQ6qZL/R0

果南「うぅん、なんでもない」
 果南『危うく、鞠莉とのこと話すところだった……』

梨子「そう……?」


鞠莉とのことって……。……そっか、鞠莉ちゃんから拒絶されたときのことか。

確認だけして、手を離す。果南ちゃんは基本的に、スキンシップをあまり気にしないことがわかってきたので、こうして短時間のテレパスを発動するのにもだいぶ慣れてきた。


果南「えっと、話戻すね。……もし、これから先、梨子ちゃんまで人魚姫の噂を『知らない』って言いだしたりしたら嫌だなって……。でも、もし忘れちゃっても、この絵本を見たら思い出してくれるんじゃないかって思って」

梨子「果南ちゃん……」

果南「今確かに梨子ちゃんと一緒に見て、『人魚姫』の話を……人魚姫の噂の話をした。それに梨子ちゃんなら……もし忘れちゃっても、私の言ってること、信じてくれる気がするから……」

梨子「果南ちゃん……うん。もちろんだよ」


私は果南ちゃんの言葉に頷く。

こうして鮮明に話をしたということは、事実として刻まれるはず。

そして──私にはテレパスがある。もし、超常的な力で忘れてしまう何かなんだとしても、果南ちゃんの心を読めば、果南ちゃんとの間にあった事実を認識することが出来るはずだ。

だから、私にとってこの役割は適任としか言いようがない。また、この力のお陰で果南ちゃんの力になれるんだ……!


果南「そういえば、梨子ちゃんも『人魚姫』好きなのかな?」

梨子「え?」

果南「ほら、人魚は全部人魚姫だって勘違いしちゃうくらいには、『人魚姫』を読んでたんでしょ?」

梨子「……/// ま、まあ……/// ……でも、実は『人魚姫』のお話自体は実はそんなに好きではないんだね……」

果南「……そうなの? あんな勘違いするくらいなのに……?」

梨子「その……小さい頃から何度もお母さんに読み聞かせて貰った……らしいんだけど」

果南「覚えてない感じ?」

梨子「あんまり、記憶はないかな……ただ、本当に何度も何度も読み聞かせて貰ったみたいで、物心付いた頃には『人魚姫』の物語は知ってたんだよね」

果南「でも、好きじゃないの……?」

梨子「えっとね、『人魚姫』のストーリーって、人間の王子様に恋をした人魚姫が、自分の声と引き換えに、人間になって王子様に会いに行くけど……結局は恋は実らず、人魚姫は泡になって消えてしまう……ってお話でしょ?」

果南「うん」

梨子「小さい頃はね、その結末が悲しくてすごく嫌で……毎回泣いちゃってたらしいの。……そして、最後は泣き疲れて寝ちゃうの」

果南「ああ……なるほどね」


そこまで、言うと果南ちゃんはピンと来たようだ。


梨子「そう、寝かしつけるのに便利だったから、よく読んでくれてたみたいなの……」

果南「あはは……確かにそれじゃ、好きにはならないかもね」

梨子「ただ……今読めば少しは印象は変わるのかな……」


もう小さい頃の私と違って、いろんなものを見て、価値観も変わって──きっと、昔とは違った物語が見えてくるかもしれない。


果南「ならさ。今、一緒に読んでみる?」

梨子「今?」

果南「さすがに嫌で泣きだしちゃうって言うなら、私も困るから止めておくけど……」

梨子「さ、さすがに今は泣かないよ……!? ……ただ、うん。今読むとどういう風に感じるのかは興味あるかな」

果南「じゃあ、読んでみようか」

梨子「うん」


私は果南ちゃんと一緒に、机に置いた絵本の表紙に手を掛け……ゆっくりと、そのページを開いた──

184: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 16:36:44.51 ID:vQ6qZL/R0



    *    *    *





──数年振りに果南ちゃんと一緒に読む、『人魚姫』。

有名な話だから、今更かもしれないけど……思い出しながら、目を通す。


とある深い海の底にあるお城に、6人の人魚の姫の姉妹が暮らしていました。

そんな6人の人魚のお姫様の中の末っ子──6人姉妹の一番下の姫君が、物語『人魚姫』の主人公です。

6人の人魚のお姫様たちは好奇心旺盛で、海の外がどうなっているのかに大変興味がありました。その中でも末っ子の人魚姫は皇太后である祖母の話してくれる人間の世界の話に強く関心を持っていました。

姫たちが15歳を迎え、海の外の世界を見ることを許され、ついに年子の6姉妹の末っ子の人魚姫も海の外の世界を見ること許された日、姫は船上で誕生日の宴を行っている美しい王子様を目にします。

人魚姫が美しい王子様に目を奪われていると、気付けば穏やかだった海が次第にうねり始め、急な大シケに襲われました。

稲妻が轟く海の上で、うねる波によってバラバラになった船から投げ出されてしまった王子。人魚姫はこのままでは王子が溺れ死んでしまうと思い、王子を助け一晩中、彼を海面に持ち上げて待ち続けましたが、彼は意識を取り戻しません。

なので、温かい浜辺の方が良いと考え、王子を岸辺に置いて様子を見ていたところ、近くの修道院から出てきた女性が王子に気が付き、連れて行ったことを確認し、人魚姫は海の底へ戻っていきました。

このことをきっかけに、人間に更に強い興味を持った人魚姫は、祖母に人間について質問をします。

そして祖母の答えから、300年生きられる自分たちと違って人間は短命。だけど、死ねば泡となって消える自分たちと違って、人間は魂を持って天国に行けるらしい、ということを知ります。

どうすればその魂を手に入れることが出来るのかを尋ねると──「人間が自分たちを愛して結婚してくれれば可能」だけど「人間たちが異形の人魚たちを愛することはない」と告げられます。

そこで人魚姫は海の魔女の家を訪れ、自身の美しい声と引き換えに自分の尻尾を人間の足に変える飲み薬を貰い、それと同時に「王子に愛を貰うことが出来なければ、姫は海の泡となって消えてしまう」という警告を受けることになります。

加えて、人間の足だと歩く度にナイフで抉られるような痛みを感じるとも言われたけど、それでも人魚姫は王子に会いたい一心で薬を飲みました。

薬を飲んだ人魚姫は魔女の言うとおり、刺すような痛みに気を失ってしまったけど……人間の姿で気を失っていた人魚姫を見つけたのは、他の誰でもない、あの王子様でした。

その後、保護された人魚姫は王子と一緒に宮殿暮らすことになるんだけど……歩くたびに足に激痛が走るうえ、声を失った人魚姫は王子を救った出来事を話すことも出来ず、王子も人魚姫が自分の命の恩人だと気付かない。

それでも王子は人魚姫を大層可愛がり、彼女のことを「溺れていたところを助けてくれた人」に似ているとも言うけど、それは自分を浜辺で見つけて保護してくれた修道院の女性のことだと思っている。

ただ、王子もその女性は修道院の人だから結婚は出来ないだろうと諦め気味で「僕を助けてくれた女性は修道院からは出てこないだろうし、どうしても結婚しなければならないとしたら彼女に瓜二つなお前と結婚するよ」と人魚姫に告げるのでした。

ある日、隣国の姫君との縁談が持ち上がります。乗り気ではないものの、王子がその姫君の許を訪ねると──なんと、彼女が王子を助けた修道院の女性でした。

予想だにしなかった想い人が縁談の相手の姫君だと知り、喜んで婚姻を受け入れて彼女をお妃に迎え入れてしまいます。

──悲嘆に暮れる人魚姫の前に、5人の姉たちが現れて、魔女から貰った短剣を人魚姫に差し出します。そして、王子の流した返り血を浴びることで人魚の姿に戻れるという魔女からの伝言を伝えます。

人魚姫は眠っている王子に短剣を構えましたが、隣で眠る姫君の名前を呟く王子の寝言を聞き──手を震わせた後、ナイフを遠くの波間へ投げ捨てました。

人魚姫は愛する王子を殺すことと、彼の幸福を壊すことが出来なくて……自ら死を選び、海に身を投げて、泡となって消えてしまったのでした……。





    *    *    *



185: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 16:37:49.03 ID:vQ6qZL/R0


──パタンと絵本を閉じる。

ボロボロでところどころ、ページをセロハンテープで貼りなおしていたり、完全に糊が取れてしまって分解しかけているページもたくさんあったけど……本として読む分には一応差し支えはなかった。


果南「……どうだった?」

梨子「……やっぱり、今読んでも……悲しいお話だね」

果南「……そうだね」

梨子「……最後まで王子様のことを想っていたのに……結局最後は泡になって、消えちゃうなんて……」

果南「……うん」


あまりに報われない最後に、目元が潤んでいる──……い、いけないいけない。泣かないって言ったのに。

目元を拭っていると──急に果南ちゃんが頭を撫でてくる。


 果南『ふふ、やっぱり泣いちゃってる』

梨子「……///」


悔しいけど、悲しいものは悲しいんだもん……。そう自分で開き直りながらも、涙一つ流さない果南ちゃんは逆にすごいと思う。


梨子「か、果南ちゃん……///」

果南「んー?」

梨子「も、もう……平気だから……///」

果南「ふふ、そっか」


果南ちゃんは軽く笑って、やっと撫でるのをやめてくれる。

いや、その……撫でられるのは嬉しいけど……これ以上は恥ずかしいから……。


果南「っと……気付いたら、もう随分遅くなっちゃったね」


言われて時計を見ると──時刻は気付けば午後6時。


果南「泊まっていく? ……って、言いたいところだけど、2週連続だと親御さんも心配するだろうから、船出すね」

梨子「いいの?」

果南「今回は私が急に呼んじゃっただけだし……それに、あの時間に淡島に来たら確実に帰りの便はなくなっちゃうってわかってたからね。最初から船で送るつもりだったからさ」

梨子「そういうことなら、お言葉に甘えて……」

果南「それじゃ、行こうか」

梨子「うん」


果南ちゃんのあとを追って、部屋を出て行こうとしたとき、何気なく振り返ると、


梨子「……?」


何故か先ほど果南ちゃんと読んだ絵本が──なんとも形容しがたい不思議な存在感を放っている気がした。


梨子「……何?」


思わず足を止めてしまったけど、


果南「梨子ちゃーん! 早くー! 遅くなっちゃうからー!」

梨子「あ……はーい!」

186: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 16:38:46.34 ID:vQ6qZL/R0

……片付いた部屋の中で、ボロボロな様相が目立っているだけかな?

そう自分の中で結論付けて、私は果南ちゃんの部屋を後にしたのだった。






    *    *    *





果南「──到着……っと!」


あのあと、果南ちゃんの操舵する小型船舶で本島に戻ってきた。


果南「梨子ちゃん、今日は一日ありがとね」

梨子「こちらこそ、ありがとう。……今日は濃密な一日だったね」

果南「……そうだね」


尾行から始まって、結局その尾行したことを後悔したりもしたけど……。


梨子「『人魚姫』……久しぶりにしっかり読んだ気がするよ。……また家に帰って読み返してみようかな……」


果南ちゃんの家の文字多めの絵本と違って、私の家にあるのは子供向けの絵が多めで短いやつだけど……。


果南「ふふ、泣いちゃったら電話してくれてもいいからね?」

梨子「も、もう、からかわないでよ……!///」

果南「あはは、ごめんごめん」


果南ちゃんはカラカラと笑う。


果南「……でも、さ」

梨子「?」

果南「どうすれば、あの物語は、あんな悲しい結末にならなかったんだろうって……今でも思うよ」

梨子「……」


どうすれば……か……。


果南「……もし、人魚姫の気持ちが……王子様に伝わっていたら……変わってたのかな」

梨子「人魚姫の……気持ち……」

果南「王子様が……人魚姫の考えてることがわかれば……結末は変わってたのかな……」

梨子「……そう……かもね」


相槌を打ちながら、顔をあげると──寒空の下、白い息の向こう側に、ゆっくりと波打つ黒い海が広がっていた。

人魚姫が泡となって消えてしまった、異国の海を思い浮かべながら……私たちはしばらくの間、少し感傷的な気分のまま、揺れる夜の水面を見つめていたのでした。





    *    *    *



187: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 16:40:03.08 ID:vQ6qZL/R0


──12月16日月曜日。

期末試験が終わり、二学期の登校日も残すところ7日ほど。

木曜からは授業も午前授業だけで終わるので、今学期でいつもどおり授業を行うのはあと3日。

教室の雰囲気もすっかり、二学期のロスタイムのような感じだ。


梨子「ふぁ……」


かくいう私も少し気が抜けている気がする。

欠伸を噛み殺しながら、バッグの中身を整理していると、


千歌「りーこちゃん♪ おはよ♪」


すぐ後ろの席から、千歌ちゃんの声。


梨子「おはよう、千歌ちゃん。ご機嫌だね」

千歌「うん! 週末は良いことがいっぱいあったから!」

梨子「そうなんだ?」

千歌「そうなんだよ~! 昨日も一日中、ダイヤさんと一緒で……えへへ~♪」

梨子「ふふ、よかったね」

千歌「うんっ!」


幸せオーラを全身から放ちながら、朗らかに笑う千歌ちゃんを見ていると、なんだか微笑ましくて笑ってしまう。

──きっと、千歌ちゃんの言う“良いこと”の中には、私たちが知るはずのなかった例のこともあるんだと思うと、少しだけ良心が痛むけど……それでも、千歌ちゃんが幸せそうに笑っているのは一人の友人として純粋に嬉しい。


千歌「梨子ちゃんにも、良いことのおすそ分け!」

梨子「?」


そう言いながら、千歌ちゃんが1枚の紙を差し出してくる。

受け取って、見てみると……。


梨子「あ……歌詞」


それは、歌詞の綴られたルーズリーフだった。千歌ちゃんのソロ曲の歌詞だ。


千歌「なんか、いいこといっぱいあったから筆が乗っちゃって……」


それは何よりだ。私も、幸せいっぱいの千歌ちゃんに、無理やり歌詞の催促はしづらいからね。

今しがた受け取ったばかりの歌詞に目を通すと、そこには未来へのたくさんの期待や希望がこれでもかと散りばめられた、いかにも千歌ちゃんらしい前向きでキラキラとした詩が綴られていた。


千歌「どうかな?」

梨子「うん、素敵な歌詞だと思うよ」

千歌「やった! 一発OK!」

梨子「曲調のイメージは希望とかある?」

千歌「うんとね、とびっきり楽しいやつ! ミュージカルみたいなのがいい!」

梨子「ミュージカルだね。わかった、考えてみる」

千歌「ありがとう、梨子ちゃん! 一応ダイヤさんにも、そうお願いしたんだけど……難易度が高いって言われちゃって」

梨子「あはは……確かに、お琴でミュージカルはちょっと難しいかもね……」

188: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 16:42:15.43 ID:vQ6qZL/R0

どうしても、楽器には得手不得手がある。

お琴をメインに作曲をするダイヤさんには、ミュージカル調の曲とは相性が悪いと思うので、それは出来なくても仕方ないかな。

どっちにしろ、作曲や編曲は私の仕事だから、それ自体はそこまで問題ではないし。


梨子「それじゃ、持ち帰って作曲するね」

千歌「うん! お願いね!」


──さて、これで歌詞を提出してくれたのは、ルビィちゃん、曜ちゃん、鞠莉ちゃん、善子ちゃん、ダイヤさん、千歌ちゃんの6人。

加えて、私も少しずつ進めていた自分の曲の作詞と作曲がほぼ完成している。

残りは花丸ちゃんと──果南ちゃんだ。


梨子「…………」


そういえば、果南ちゃん……作詞は平気かな……?

以前見てしまった歌詞ノートには苦戦しているのが見て取れたけど……。

今日もお昼休みに会うから、そのとき聞いてみようかな……?





    *    *    *





お昼休み、いつもどおり教室を弾丸のように飛び出していった千歌ちゃんに苦笑しながら、同じように恋人の所へと行く、曜ちゃんを見送ってから、私も部室へと向かおうと荷物をまとめて教室を出ると、


花丸「梨子ちゃん!」

梨子「花丸ちゃん?」


ちょうど、教室を出たところで花丸ちゃんに声を掛けられた。


梨子「どうかしたの?」

花丸「うん、歌詞が完成したから渡しに来たずら」


そう言いながら、花丸ちゃんは歌詞の書かれた紙を手渡してくる。


花丸「歌詞自体はもうちょっと前に完成してたんだけど……作曲の方がなかなか進まなくて、ちょっと遅くなっちゃったずら……ごめんなさい」

梨子「うぅん、大丈夫だよ。むしろ、作曲までしてくれて助かるよ」

花丸「ただ、あいしーれこーだー? の使い方がよくわかんなくて……曲のでーたみたいなものは手元にないんだけど……」

梨子「わかった。それじゃ、放課後に一緒に音楽室で確認しよっか」

花丸「お願いするずら。それじゃあ、また放課後に」


花丸ちゃんはそれだけ言うと、踵を返して帰って行く。用事は歌詞を渡しに来ただけだったようだ。

今しがた受け取った歌詞に軽く目を通す。

何気ない日常を少し俯瞰して見つめながら、そんな中に溢れる、ほんわかとした言葉選びと雰囲気が、絶妙に花丸ちゃんらしさを醸し出している歌詞だった。

──これで歌詞は8人分。


梨子「あとは果南ちゃんの歌詞だけか……」


一人呟きながら、私はその果南ちゃんと一緒にお昼を食べるために部室へ向かう──



189: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 16:43:22.25 ID:vQ6qZL/R0


    *    *    *





果南「お、きたきた」


部室を訪れると、果南ちゃんは先に席に着いて待っているところだった。


梨子「遅くなって、ごめんね」

果南「大丈夫だよ、私も今きたところだから」


自然と果南ちゃんの隣の席に腰を下ろす。

この位置も自分の定位置になりつつある。もう随分慣れてきた。

いそいそとお弁当箱を取り出して、食べる準備を整える。


梨子・果南「「いただきます」」


二人で手を合わせて、いただきます。


梨子「今日のお出汁はなんですか?♪」

果南「今日は真イワシだよー」


そう言いながら果南ちゃんは出汁巻き卵を半分に切ってから、私の口元に差し出してくる。


梨子「……あむ」


我ながら、本当によく慣れたものだと褒めてあげたくなるくらい、自然と食べさせてもらう。

出汁巻き卵を口に含むと、コクのある出汁の味と香りが口いっぱいに広がる。


果南「おいしい?」

梨子「うん、おいしい……」


また初めて食べる出汁を味わいながら、私もお返しにと自分で作った、たまご焼きを果南ちゃんのお弁当箱を入れてあげる。


果南「いつもありがとう、それじゃ遠慮なく……」


果南ちゃんは渡したたまご焼きをすぐに口に放り込み、


果南「んー……! やっぱ、梨子ちゃんの作るたまご焼きの甘さ加減、絶妙だよ~!」


嬉しそうに舌鼓を打つ。

もはや、こうしてたまご焼きを交換し合うのがお決まりになりつつあるお昼休み。

すっかり毎朝たまご焼きを作るのが習慣になってきてしまったけど……こうして果南ちゃんが喜んでくれるのが嬉しくて、朝の忙しい時間の中でもあまり大変と感じない。

190: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 16:45:31.68 ID:vQ6qZL/R0

果南「梨子ちゃんのたまご焼きが食べられて幸せだなぁ……」

梨子「えへへ……/// 私のでよかったら、これからも作ってくるから……///」

果南「お陰で毎日お昼休みが楽しみだよ。……あ、でも二学期のお昼休みって明後日で終わりなんだっけ」

梨子「そうだね。木曜からは午前授業で終わりだから……」

果南「残念だなぁ……今年はあと2回しか食べられないのかぁ」

梨子「ふふ……そんなに食べたいなら、冬休みの間、果南ちゃんのお家に作りに行っちゃおうかな?」

果南「ホントに!? 梨子ちゃんが来てくれたら、おじいも喜ぶよ!」

梨子「あ、でも……おじいちゃん、甘いたまご焼き食べられる?」

果南「平気平気、おじいあれで甘い物、結構好きだからさ」

梨子「そうなの? 意外かも……」

果南「でしょ? ただ、それ指摘されると機嫌悪くなるから、言わないようにしてるけどねー」

梨子「ふふ、おじいちゃんも意外と可愛いところあるんだね」


会話も最初の頃に比べると随分弾むようになってきて、お互い冗談も言い合える仲になった気がする。

──あ、でも果南ちゃんのお家に行こうかって言うのは、半分くらい本気だけどね?


果南「そういえば、今日は来るのがゆっくりだったけど、二年生って四時間目移動教室だったの?」

梨子「あ、うぅん。部室に行く前に、花丸ちゃんと話してて……」

果南「マルと?」

梨子「うん、歌詞を渡されて……」

果南「……歌詞」


果南ちゃんのお箸が止まる。


梨子「……やっぱり、歌詞苦戦してる……?」

果南「え? あーいや、もうちょっとでできそうだよ、大丈夫! せめて、千歌よりは早く完成させないとかなーあはは」

梨子「あ、えっと……千歌ちゃんの歌詞も今朝完成したものを受け取ったよ」

果南「え、そうなんだ……。となると、もしかして私が最後……?」

梨子「うん、一応そうなるのかな……」


もちろん、これから譜割りとかで、調整とかもするだろうから、千歌ちゃんと花丸ちゃんの歌詞も正確には完成ではないけど……。


果南「あちゃー……ごめんね。すぐに完成させて持ってくるから」

梨子「うん。でも、焦らなくても大丈夫だからね?」

果南「ありがとう。ちゃっちゃと終わらせちゃうよ」


いつものように雑談をしながらお弁当を食べる果南ちゃんだけど──話に受け答えをしながらも、僅かに目が泳いでいたのを私は見逃さなかった。


梨子「果南ちゃん、本当に大丈夫?」


言いながら、果南ちゃんの手にさりげなく自分の手を添える。


果南「平気だよ、心配しないで」
 果南『……ホントはまだ全然出来てないけど……どうにかしなくちゃ』


案の定、果南ちゃんの歌詞進捗は煮詰まっているようでした……。



191: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 16:48:57.43 ID:vQ6qZL/R0


    *    *    *





──放課後。


ダイヤ「さて、皆さん。今年の登校日も残すところ数日です。年末年始は何かと忙しいメンバーも多いと思うので、冬休みまでのあと数日、しっかり活動をしましょう」

千歌「なんか最近、部長としてのお株を奪われてる気がする……」

ダイヤ「なら、何か言いますか? 部長さん?」

千歌「え? ……んー……皆とにかく楽しく元気に頑張ろう!」

ダイヤ「だそうです」

善子「……今のいる?」

曜「あはは……」


千歌ちゃんの気の抜ける挨拶もそこそこに、私は遠慮気味に手をあげる。


梨子「あのー……果南ちゃんは……?」


ダイヤさんが部活の前の一言を言った時点で、部室に居たのは8人。

果南ちゃんの姿が見えない。


鞠莉「果南は今日は先に帰ったわ。やることがあるって言ってた」

梨子「……そうなんだ」


やること──恐らく歌詞作りだと思う。

歌詞の作業のために、部活を休むというのは、だいぶ逼迫してきているのかもしれない。

果南ちゃん……心配だな。

とはいえ、私にもやることはある。


ダイヤ「それでは本日もソロ曲の作業を進めましょう」

曜「ルビィちゃんと私は衣装作りだね」

ルビィ「うん!」

曜「今日は、善子ちゃんの衣装案まとめちゃおう」

善子「くっくっく……苦しゅうないぞ、リトルデーモンたち」

ダイヤ「では、わたくしと鞠莉さんは、皆さんから貰った案を見ながら、どれが可能なステージ演出なのかを考えましょうか」

鞠莉「そうデースね」


それぞれが、それぞれの仕事に散っていく。


梨子「それじゃ、千歌ちゃんと花丸ちゃんは私と音楽室に行こっか」

千歌「わかったー!」

花丸「よろしくお願いするずら」


果南ちゃんは心配だけど……今は私も私の仕事をしよう。



192: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 16:50:33.50 ID:vQ6qZL/R0


    *    *    *





花丸「ららら~~♪」

梨子「……そこでストップ」

花丸「ずら」


花丸ちゃんのフレーズごとにリズムを口ずさんでもらって、それをピアノで弾きなおす。

そして、五線譜に簡易的なおたまじゃくしと作曲用のメモを書く。


梨子「次のフレーズお願いしていい?」

花丸「了解ずら~。……らーららら~~♪」


そんな作業の繰り返しで曲を起こしていく。

その過程で違和感のある部分を花丸ちゃんと擦り合わせながら修正していく作業なんだけど──


花丸「らららららら~♪ ……これで終わりずら。どうかな……?」

梨子「すごくいいと思うよ……! 私が手を加える部分なんて、ほとんどないと思う」

花丸「本当に? よかったずら~……」


鞠莉ちゃんもダイヤさんも花丸ちゃんも作曲組は文句のつけようがない作曲をしてきてくれていて、本当に助かる。


梨子「あとはこっちで預かって、編曲が出来たらまた聴いてもらうね」

花丸「了解ずら!」

千歌「花丸ちゃん、お疲れ様!」


音楽室の椅子に座って、楽譜起こしを見ていた千歌ちゃんが駆け寄ってくる。


千歌「すっごいいい曲だったよー! 完成が楽しみだね!」

花丸「ありがとう千歌ちゃん。そう言って貰えると肩の荷が下りた気がするずら……」

千歌「梨子ちゃんもすごいね! 一回花丸ちゃんが口ずさんでるの聴いただけで、ピアノで弾けちゃうんだもん!」

梨子「これでも、Aqoursの作曲担当だからね」

千歌「頼もしい! やっぱ梨子ちゃんさまさまだよ~」


もちろん、編曲するに伴って、今弾きながら書いていた簡易的な楽譜も、あとで軽く浄書しなくちゃいけないから、まだ完成ではないけどね。


梨子「どういたしまして。それじゃ、次は千歌ちゃんの作曲だね」

千歌「はーい! お願いしますっ!」

花丸「マルもここで聴いていてもいい?」

梨子「もちろん。……えーと、千歌ちゃんの楽曲イメージはミュージカル調だったよね」

千歌「うん! とびっきり楽しいやつ!」

梨子「わかった。とりあえず、何パターンか知ってる曲を弾いてみるから、近いイメージのやつを選んでくれる? そこからイメージを固めてこう」

千歌「了解!」


──作曲の作業はかなりスムーズに進行していた。

花丸ちゃんの曲は、そもそも完成度が高い状態で聴かせて貰えたし、千歌ちゃんも思ったより、自分の中でイメージが固まっていたらしく、

193: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 16:52:18.64 ID:vQ6qZL/R0

千歌「……もうちょっと、テンポが速いのがいいかな」

梨子「じゃあ、2番目の曲?」

千歌「うぅん、4番目の曲のテンポが少し速い感じで──」


と言った具合に、必要以上に遠慮をせずにイメージの意見を出してくれるので、こちらも千歌ちゃんがどういう曲調を求めているのかがわかりやすくて、早い段階で曲の大まかな骨組みが決まっていく。

何曲も作詞作曲を二人でやってきて、野球で言うバッテリーのような信頼関係を築いてきた証拠なのかもしれない。

一応今日の予定では大まかなイメージ決めだけのつもりだったけど……気付けば、あれよあれよと言う間に主旋律の作曲に差し掛かっていた。


花丸「あっという間に曲が完成していくずら……」

梨子「千歌ちゃんのイメージが明確だからね」


そうは言っても、私自身の中でも十分早い作曲ペースだと思うけど。

何より、千歌ちゃんがガンガン口ずさむなり、こういう風にしたいという具体的な案を言ってくれるからこそだ。


梨子「……じゃあ、ここの旋律を繰り返して……」

千歌「ねぇねぇ、梨子ちゃん」

梨子「ん?」

千歌「今思い付いたんだけど、もっと聴いてる人が『あっ!』と驚くような感じに出来ないかな!!」

梨子「驚くような……か」

千歌「急に曲調が変わるような感じとか!」


千歌ちゃんの話を聞きながら、軽くメモをしていく。

そうなると、変調……いや、千歌ちゃんの言ってるニュアンスだと変拍子した方がいいかな……。


千歌「楽しい気持ちの中にね、驚きとか発見があったらいいなって!」

梨子「……なるほど。でも、それだと譜割りが大変になるかもよ?」


今見た歌詞の譜割りを頭の中で考えながら作曲をしていたから、その旋律リピートを考慮していそうなこの歌詞の並びだと、少し言葉を調整しないといけない気がする。


千歌「なら、書き直す! ちょっと歌詞借りるね!」

梨子「え、今!?」


私が見ながら弾いていた歌詞の書いてある紙を、ひったくるようにして回収した千歌ちゃんは、取り出したペンで歌詞をどんどん修正していく。


花丸「千歌ちゃん、今から修正するずら!?」

千歌「…………」

花丸「あ、あれ? 千歌ちゃーん?」

梨子「たぶん、聞こえてないっぽいね」

花丸「す、すごい集中力ずら……」


千歌ちゃんは作詞をしているとたまにこうなる。

こうなると周りの声が全く聞こえないくらいに集中して、そこまでの詰まり具合が嘘のように、歌詞を書き始める。

ただ、経験上これはすごくいい傾向だ。


梨子「こうなったら、千歌ちゃんはすごいから。きっといい曲になると思うよ」

花丸「千歌ちゃんのこと、信頼してるんだね」

梨子「ふふ……これでも、一緒にたくさん曲を作ってるからね」

千歌「…………ここ、こう」

194: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 16:53:30.52 ID:vQ6qZL/R0

千歌ちゃんの曲は予想以上に早く完成しそうだ。曲が出来るまであと一歩かな──





    *    *    *





──翌日。お昼休みに部室へ行くと、


果南「…………」


果南ちゃんがノートと睨めっこをしているところに出くわす。


梨子「果南ちゃん?」

果南「え、あ、梨子ちゃん」


声を掛けると、果南ちゃんはパタンとノートを閉じる。


梨子「歌詞、考えてたの?」

果南「う、うん、まあ、ちょっとね、あはは」

梨子「順調?」

果南「う、うん、そこそこかな」

梨子「本当に?」


また、さりげなく果南ちゃんの手に自分の手を添えながら訊ねてみる。


果南「ぅ……も、もちろん」
 果南『昨日から一文字も進んでないなんて……言えない』

梨子「そっか……」


私は添えていた手を離しながら、果南ちゃんの隣に腰を下ろす。


梨子「お昼ごはん、食べようか」

果南「そ、そうだね」


私がお弁当を取り出していると──


果南「あ」

梨子「? どうかしたの?」

果南「お弁当……忘れちゃった……」


果南ちゃんはそう言って、項垂れる。

こんなこと今までなかったし……相当切羽詰まっているようだ。


果南「ちょっと、近くのコンビニになんか買ってくる……」

梨子「近くのコンビニって……学校から往復で5㎞くらいあるよ……?」

果南「走れば20分くらいで帰って来られるよ」


速っ! ……じゃなくて……。

195: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 16:54:25.86 ID:vQ6qZL/R0

果南「ちょっと行ってくるね」

梨子「あ、か、果南ちゃん……!」


有無を言わさず猛スピードで果南ちゃんは飛び出して行ってしまった。


梨子「…………」


一瞬追いかけて引き留めようかと、迷いはしたものの……どうせ私の足じゃ、走っても追いつけっこないし……。

少しの間、果南ちゃんを待つことにする。

ふと──件の歌詞ノートが置かれたままなことに気付く。


梨子「…………」


一応、果南ちゃんが戻ってきていないかを確認してから、開いてみると──

そこには大きな文字で『私のイメージ』と書かれている。

それ以外は前回見たときから増えている情報もほとんどないので、どうやらそこから先に進めていないようだった。


梨子「……イメージ、か」


どうやら、果南ちゃんは自分が周りの人からどういう風に見られているのかを必死に考えているようだ。


梨子「…………」


果南ちゃんなりにソロ曲を作るのはどういうことかを考えた結果なんだろうけど……私は果南ちゃんのソロ曲作りの考え方に少し困ってしまう。

大事なのは周りのイメージじゃないと思うけど……ただ、どうやってそれを伝えればいいんだろう……。

私はノートを前に、悩みながら果南ちゃんの帰りを待っていたけど……結局、果南ちゃんが戻ってくるまで、うまく伝える言葉が出てこないまま頭を抱えていることしか出来なかった。

──ちなみに果南ちゃんが本当に20分程で部室に戻ってきたというのは、余談かな……。





    *    *    *





放課後になり、部活の時間。

だけど、今日も部室内に果南ちゃんの姿はなかった。


曜「千歌ちゃん、花丸ちゃん、衣装案って出来てる?」

千歌「あ、うん!」

花丸「マルも出来てるずら」

ルビィ「それなら、今日は二人の衣装案を確認するね」

千歌「はーい!」

花丸「お願いね、ルビィちゃん」

ダイヤ「……善子さん」

善子「善子じゃなくて、ヨハネよ。何かしら?」

ダイヤ「このいかつい感じの……なんですか、これは……? 墓石ですか?」

善子「椅子よ! 椅子! 見ればわかるでしょ!?」

ダイヤ「こんなデザインの椅子、あると思っていますの……? せめてもう少し現実的なデザインにしてくれないと……」

196: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 16:55:44.01 ID:vQ6qZL/R0

各々は作業に入っている。私にも編曲作業はいくつかあるけど……。


梨子「…………」


果南ちゃんが気になる。

完全に煮詰まってしまっている果南ちゃんをこのまま放っておいていいんだろうか……。

でも、自分の仕事を放り出して、抜けるわけにも……。一人で悶々としていると、


鞠莉「梨子、ちょっといいかしら」


鞠莉ちゃんに声を掛けられる。


梨子「ん、何かな……?」

鞠莉「ちょっと、曲について聞きたいことがあって」

梨子「曲について……?」


なんだろう……? 鞠莉ちゃんの曲はもう完成してるし、他に鞠莉ちゃんが気にしそうな曜ちゃんの曲も、すでに完成済みだ。


鞠莉「音楽室で確認したいから、付いてきてくれる? あ、荷物は持ってきてね」

梨子「……わかった」


内容はよくわからないけど、曲関連のことで私が話を聞かないわけにもいかない。


梨子「鞠莉ちゃんと音楽室に行ってくるね」

千歌「いってらっしゃーい」


──鞠莉ちゃんと一緒に部室を出ると、鞠莉ちゃんはすたすたと先を歩いていく。

私はその後ろを付いていく。……行くんだけど……。


梨子「……? 鞠莉ちゃん、音楽室の方向そっちじゃないよ……?」


鞠莉ちゃんは何故か昇降口の方を目指していた。


鞠莉「行きたいんでしょ?」

梨子「……え?」

鞠莉「果南のところ」

梨子「え!? い、いや……えっと……」

鞠莉「顔に書いてあるよ」


どうやら、果南ちゃんの進捗を心配しているのが、バレてしまっていたらしい。


梨子「でも……私だけ部活を抜けて行くのは……」

鞠莉「梨子が行かなくて誰が行くの?」

梨子「そ、そりゃ、鞠莉ちゃんとか……ダイヤさんとか……果南ちゃんが一番素直に悩みを話せる人が行った方が」

鞠莉「違うよ、梨子」

梨子「?」


何が違うんだろう……? 私が首を傾げていると、鞠莉ちゃんはニコっと笑って、


鞠莉「果南が今、一番素直に悩みを打ち明けられるのは──梨子だヨ」

197: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 16:56:55.14 ID:vQ6qZL/R0

そんな風に言う。


梨子「え……な、なんで、そう思うの……?」


まさか……テレパスもバレた……? どうやって……?

急に別のベクトルの不安が胸中を渦巻いたけど……さすがにそれは杞憂だった。


鞠莉「だって……休日にペアルックで、尾行デートしちゃうくらいの仲なんでしょ?♪」

梨子「!?」


ただ、これまた別のベクトルでバレたくないことがバレていた。


梨子「え、あ、いや……えっと……」

鞠莉「確かに変装は上手だったけどネ。ずっと同じカップルがわたしたちの後ろに付いて回ってるんだもん。さすがに気付くでしょ」

梨子「…………」


言われてみれば無理があったかもしれない……。


梨子「……あの……ごめんなさい……」

鞠莉「そうね。あんまり、おイタしちゃダメよ?」

梨子「はい……。……あの、このこと曜ちゃんたちは……?」

鞠莉「曜と千歌は気付いてないわ。いろいろ考え事してたと思うから。あと、ダイヤも余裕がなかったから、気付いてないっぽいネ。だから、気付いていたのはわたしだけだヨ」

梨子「そっか……。……その、本当にごめんなさい……」

鞠莉「……ま、わたしはそんなに気にしてないし、果南や梨子の立場だったら尾行しちゃいたくなる気持ちもわからなくもないからネ。ただ……」

梨子「ただ……?」

鞠莉「曜と千歌のことは見なかったことにしてくれると嬉しいかな……。千歌の方はわかんないけど……少なくとも曜は、梨子を巻き込まないように意識してたから」


曜ちゃん……そんな風に思ってたんだ……。それを聞いて、きっと千歌ちゃんも同じような気遣いをしてくれていたんじゃないかなと思う。


梨子「うん……わかった」

鞠莉「代わりに……ってわけじゃないけど」

梨子「……?」

鞠莉「果南のこと、お願いしていい?」

梨子「……。……私で、いいのかな」

鞠莉「さっきも言ったけど、今果南が一番素直に本音を打ち明けられるのは梨子だと思うヨ」

梨子「…………」


──いや、ここまで来て、何怖気付いてるんだ私。

私は、果南ちゃんを支えるんだって、決めたじゃないか。

私にしか出来ないから、この“ご縁”は回ってきたんだ。


梨子「わかった」

鞠莉「Thank you. 梨子。お願いね」

梨子「うん……!」


私は力強く頷いて、学校をあとにするのでした。



198: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 16:57:52.86 ID:vQ6qZL/R0


    🐬    🐬    🐬





今日も部活を休んで、帰宅し机に向かう。


果南「………………」


ペンを握ったまま、ノートと睨めっこを始めて、もう1時間が経過しようとしていた。

なのに──


果南「全く思い浮かばない……」


さっきから開いているページは依然でかでかと書かれた『私のイメージ』という文字以降これっぽっちも進んでいない。


果南「鞠莉とダイヤと、三人でやってたときはこんなことなかったのに……」


もちろん、全く歌詞に悩んだことがないわけじゃないけど……逆に言うなら全く何も思い浮かばないということもなかった。

なんとなく、こういう歌詞にしたいなーという着想が最初からあって、そのアイディアを二人に話しているうちに、完成に近付いていく……いつもそんな感じだった。

──でも、今回はダメだ。まず最初のとっかかりすら湧いてこない。


果南「…………私の曲……」


自分のAqoursでの立ち位置をもう一度考えてみる。

たぶんだけど……可愛いタイプの千歌やルビィちゃんとは違う。

どっちかといえばクール寄りだとは思う……だけど、ダイヤや善子ちゃんとも違う。

鞠莉なんかは真逆だし……物事に対して、一歩引いてるマルは少し近い……のかな……?

でも、マルと私を隣に並べて考えると……なんか、雰囲気が全然違うな……。

スポーティな曜ちゃんなら近い……?

でも、曜ちゃんの場合は、私よりもアグレッシブな感じがする……。

私はどっちかというと黙々と一人でこなすタイプで……。

じゃあ──


果南「梨子ちゃん……」


最後に残った一人を思い浮かべて、


果南「いや……それこそ、真逆だよ……」


かぶりを振る。

梨子ちゃんは私とは全然違う。すごく女の子らしくて、可愛らしい子。

私とは真逆の女の子だからこそなのかな……そばに居てくれるだけで何故か安心出来て──


果南「……って何考えてんだ。真面目に作詞……作詞……」


再び、ノートに視線を落とす。

だけど、ペンは一向に動きそうもない。


果南「……うぅーん……」

199: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 16:58:55.71 ID:vQ6qZL/R0

いくら頭を抱えても、何も浮かんでこない。


果南「……はぁ、ダメだ……。ちょっと気分転換に散歩してこようかな……」


私は上着を羽織って、休憩がてら、散歩に行くことにする。





    🐬    🐬    🐬





果南「はぁー……」


吐いた溜め息は、白く立ち昇り冬の淡島の空に消えていく。

先週末はたまたま暖かかったけど、今週に入ってから、思い出したかのように冬本来の寒さを取り戻してきた。

もしかしたら、あの暖かい日和は、試験を頑張った千歌たちへのご褒美だったのかもしれない。

そんなことを考えながら見上げる空は、高く澄んでいる。

淡島をぐるっと回りながら、空を見上げ、ときおり海に視線を落とす。


果南「今日も綺麗だなぁ……」


景色を見ながらぼんやりと呟く。

私はこの景色が好きだ。

だから、もやもやしたときはこの景色をゆっくり見ながら散歩をする。

そうすれば大体の場合は気分がすっきりしていい考えが浮かぶんだけど……。


果南「なんにも……浮かんでこない……」


悲しいことに、考えども考えども、いい歌詞は一向に浮かんでこない。


果南「はぁ……」


再び白い溜め息を吐く。気付けば淡島もそろそろ一周してしまう。

伏し目がちのまま、歩いていると──


 「──果南ちゃん」


急に声を掛けられた。


果南「え……?」


思わず顔をあげた私は、その声の主を見て、ポカンとしてしまった。


梨子「こんにちは、お昼休みぶりだね」

果南「梨子ちゃん……?」


そこに居たのは──梨子ちゃんだった。


梨子「歌詞……順調?」

果南「…………」

200: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 17:00:07.10 ID:vQ6qZL/R0

ああ、そうか……。歌詞が出来ていないと、一番困るのは、この後に作曲作業が控えている梨子ちゃんだ。


果南「ご、ごめん……! あとちょっとでできるから……!」


梨子ちゃんに迷惑は掛けたくない。そんな一心で口走る。

無理でもなんでも、今すぐにでも歌詞を完成させないと……!


果南「すぐに完成させて持ってくるから……!」


そう思って、焦って家に戻ろうとする私。


梨子「待って、果南ちゃん」


そんな私の手を、梨子ちゃんが引き留めるように両手で包み込む。

そのまま、私の目を覗き込むようにして、


梨子「本当に……順調?」


梨子ちゃんは、そう問いかけてきた。


果南「…………順調だよ」


嘘だ。

こんな見栄を張っても、歌詞は出来上がらない。

ふと、なんでこんな嘘吐くんだろう……? と思ったけど──目の前にある、この二つの円らな瞳が……理由だと思う。


梨子「……」


私は梨子ちゃんの前では、かっこつけていたいんだ。


梨子「…………」


梨子ちゃんは私の手を握りしめたまま、少しの間、考え込むように目を瞑っていた。

そのまま、数呼吸ほど置いたのち──


梨子「……ねぇ、果南ちゃん」


ゆっくりと目を開けて、私の名前を呼ぶ。


果南「何かな……?」

梨子「果南ちゃんは、どんなソロ曲にしたい?」

果南「どんな……」

梨子「うぅん、どんなソロ曲を今作ってる?」

果南「……わ、私らしい……曲を……」

梨子「果南ちゃんらしい……どういう曲?」

果南「…………」


それがわからない。

私らしい曲が、どんなものかが、わからない……。私がAqoursの一メンバーとして、作れる曲ってどんなものだろう……。

また頭の中がぐるぐるしてきた。私は何が……どんな歌詞を書きたいんだろう……。

だんだん頭が痛くなってきた。──それに呼応でもするかのように、最近発作的に痛む足が、痛みを訴え始める。

201: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 17:03:06.17 ID:vQ6qZL/R0

梨子「……! 果南ちゃん、ちょっと座ろうか」

果南「え、いや……」

梨子「いいから」


梨子ちゃんに手を引かれて、近くのベンチに二人で腰掛ける。

そのお陰か、足の痛みは少しマシになる。


梨子「ねぇ、果南ちゃん」


梨子ちゃんは手を繋いだまま、再び私の瞳を覗き込むようにして、語りかけてくる。


梨子「そんなに難しく考えなくていいんだよ」

果南「え……?」

梨子「Aqoursの一メンバーとか、自分のイメージとか、そういうことに拘らなくてもいいんじゃないかな」

果南「…………」


梨子ちゃんはまた見透かしたようなことを口にする。

でも……そんなこと言われても……。


果南「……じゃあ、どうすれば……」


手掛かりもなく、闇雲に曲なんて作れない。

これは最低限のテーマのつもりだ。なのに、それに拘るなと言われても……。

再び言葉に詰まる私を見て、梨子ちゃんは、


梨子「……ちょっと待ってね」


ごそごそと自分のバッグを漁り──


梨子「これ……」


私の手にあるものを握らせる。


果南「……? 音楽プレイヤー……?」


それは、イヤホンの付いた小型の音楽プレイヤー。


梨子「この中に、皆の曲が入ってるから」


皆の──つまり、もう完成した他のメンバーのソロ楽曲が入っているということだ。

……聴け、ということだろうか……?

私は、イヤホンを耳にはめて、プレイヤーの画面を点ける。

すると、曲のリストが表示される。


梨子「まだ、歌まで入ってるのが、全員分あるわけじゃないけど……」

果南「『Ruby's song:RED GEM WINK』……」


一番上にあったのはタイトルからして、ルビィちゃんのソロ曲。

私は、再生ボタンを押して──ルビィちゃんの曲の試聴を開始する。

──爽やかな調子のイントロから始まる楽曲。

202: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 17:07:50.44 ID:vQ6qZL/R0

果南「え……?」


その歌詞を聴いて、私は目を丸くした。

これって……。歌詞に集中しながら曲を聴くこと数分。

楽曲が終わって、イヤホンを外す。


梨子「どうだった?」

果南「……これ、ホントにルビィちゃんが……?」

梨子「ふふ、驚くよね。私も最初、歌詞と曲のイメージを貰ったときは驚いたよ」

果南「うん……ルビィちゃんが……恋の歌……恋の歌詞を……」


──そう、ルビィちゃんのソロ曲は恋の歌だった。

恋に憧れる、女の子の気持ちを歌った、そんな曲。


梨子「ルビィちゃんね、誰よりも早く歌詞を完成させて持ってきたんだよ」


歌詞の提出がとにかく早かったことは、なんとなく聞いていたけど……。


梨子「ルビィちゃん、恋に憧れてるんだって」

果南「恋に……?」

梨子「うん。身近な人が恋をして、変わったから……恋ってどういうものなんだろうって」

果南「それって……」

梨子「うん──ダイヤさんが恋をして、千歌ちゃんと過ごしている姿を間近で見て、思ったんだって──『ルビィもいつか……お姉ちゃんたちみたいな素敵な恋が、出来るのかなぁって。……してみたいなって……』──その気持ちを詩にして、持ってきてくれたんだよ」

果南「……あのルビィちゃんが……恋の歌……」

梨子「果南ちゃん、この曲は果南ちゃんのイメージどおりのルビィちゃんだった?」

果南「…………それは」


──イメージどおりではない。ルビィちゃんがまさか自分のソロ曲で、恋の詩を書いてくるなんて思っていなかった。


梨子「訊き方、変えるね。この曲を聴いて、どう思った?」

果南「……ルビィちゃん、こんなこと考えてたんだって……思った」


誰よりも早く歌詞を書き上げたというルビィちゃん。きっと、あの小さな胸の中に、たくさんの恋を憧れをいつも抱いていて、それが溢れてきたような、そんな歌だった。


果南「でも……」

梨子「でも?」

果南「すごく、ルビィちゃんらしい曲だとも……思った」

梨子「……そっか」


自分でも矛盾していると思う。でも、なんでかわからないけど、紛れもなくルビィちゃんの言葉や気持ちが伝わってくる、そんな一曲だと思えるものだった。


梨子「確かに自分に求められてるイメージみたいなものってあるのかもしれないけど……そこに執着する必要はないんじゃないかな。心から思った言葉なら、伝えたい気持ちなら、それはどんな形になっても、果南ちゃんの言葉として、歌として、皆に伝わると思うから……」

果南「梨子ちゃん……」


──ああ、そうか。梨子ちゃんは、私にそれを伝えるためにここまで来てくれたんだ。

だけど……ここまで、してくれたのに──私の中に……歌詞が浮かんでこない。


果南「…………」

203: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 17:08:52.18 ID:vQ6qZL/R0

私が伝えたい気持ちってなんだろう。今度はそんなことが頭の中をぐるぐるとし始める。

これ以上、迷惑掛けられないのに──そう思った時だった。梨子ちゃんが握ったままの手をより強く握りしめるようにして、私の手を包み込む。


果南「梨子ちゃん……?」

梨子「……ねぇ、果南ちゃん」

果南「なにかな……?」

梨子「……一つ、お願いがあるの」


梨子ちゃんは再び私の瞳を覗き込むようにしながら、そう口にする。


果南「お願い……?」

梨子「うん、あのね──」





    🐬    🐬    🐬





──翌日の放課後。


果南「──これでよし……! 苦しくない?」

梨子「……ちょっと圧迫される感じがして、苦しい……」

果南「ならOKだね」

梨子「OKなの……?」

果南「水が入ってこないようにするためのドライスーツだからね。水に入っちゃえば水圧との関係でスーツ内部の空気が圧縮されるから、苦しくなくなると思うよ」

梨子「わかった……ちょっと我慢する」


ドライスーツを身に纏った梨子ちゃんがペタンと船上の椅子に腰を下ろす。


果南「それにしても意外だったよ──梨子ちゃんがダイビングしたいなんて言うとは」


──梨子ちゃんのお願いは、一緒にダイビングがしたいという内容だった。


梨子「うん。……きっと、今の果南ちゃんに必要なことだから」

果南「……昨日もそう言ってたけど、どういうこと?」

梨子「潜ってみれば、きっとわかると思う」

果南「……わかった。そこまで言うなら梨子ちゃんを信じるよ。何か気を付けることとかある?」

梨子「えっと……出来るだけ自然に、いつもどおりダイビングをして欲しい……かな」

果南「いつもどおり……わかった」


私は頷いてから、ダイビンググローブを着けて、船の縁に立つ。


果南「それじゃ、行こうか」

梨子「うん」

204: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 17:09:36.34 ID:vQ6qZL/R0

レギュレーターを装着し、梨子ちゃんの手を取って、海へと飛び込む。

──海へと入ったら、頭だけ出した状態で梨子ちゃんの方を確認する。

すると、梨子ちゃんはすぐに指でOKサインを作る。準備OK。

私は手を繋いだまま、潜航を開始した。





    🐬    🐬    🐬





──海中に潜ると、すぐに視界が青に包まれる。

梨子ちゃんも無事ついて来られていることを確認して、私はフィンを使って泳ぎ出す。

冬の海は澄んでいて、見通しがいい。

私は梨子ちゃんに見えるように、真っ直ぐ指で前を示す。


梨子「──!」


近くに見える岩礁に、魚たちの群れが早速見えてきた。

それと同時に繋がれた手に少し力が入ったのがわかる。

──わかるよ。こんな景色、普段じゃ絶対見られないもんね。

そのまま手を引いて、海中をゆっくりと進んでいく。

岩礁へ近づくと、その周辺を泳いでいた魚たちが、私たちのすぐ近くを泳いですり抜けていく。


梨子「──! ──!!」


色とりどりの魚たちが近くを通り過ぎるたびに、梨子ちゃんの手がぎゅっぎゅっと私の手を握りしめる。

言葉が出せなくても、感激していることが伝わってくるようだ。

そのまま、岩礁に沿いながら、更に奥へとゆっくり泳いでいく。しばらく海底を進みながら、梨子ちゃんと一緒に魚たちの遊泳を観察する。

──この辺りかな。

私はあるポイントについたところで、ストップし──人差し指で天を指し示す。

梨子ちゃんが釣られるように、見上げると──


梨子「────!!」


数えきれないほどの魚たちが、海面から差し込んでくる光の中を踊っている。

ぎゅーーーっと強い力で梨子ちゃんが私の手を握りしめてくる。

──嬉しいな。この景色を見て、喜んでくれているんだ。

私が大好きなこの景色を、今、梨子ちゃんと共有しているんだ。

──ああ、やっぱり好きだな。この景色。

何度見ても、この海の底から見るこの景色が、何よりも美しいと感じる。

頭を空っぽにして、ほとんど音の聞こえない海の中で、泳いでいると──自分まで魚になったような気分になれて。

難しいことなんて何もない、この世界にいつまでも浸っていたくて──


梨子「──!?」

果南「──?」

205: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 17:10:18.91 ID:vQ6qZL/R0

急にくいっと手を引っ張られた。

梨子ちゃんの方に顔を向けると、少し遠くを指さしていて──


果南「────!」


梨子ちゃんの指さす先には──魚とは違う、丸いシルエットの生き物がゆったりと泳いでいた。

──ウミガメだ。

ゆったりと泳ぐウミガメは、何故だか私たちの方へと近づいてくる。


梨子「──! ──!」


梨子ちゃんが興奮しているのがわかる。

──正直、私も興奮していた。

ウミガメ自体なかなかお目に掛かれるものじゃないし、何よりこの季節にウミガメを見たのは私も初めてだった。

なんて運がいいんだろうか……。

──近付いてきたウミガメは、近くで止まって私たちのことを、じーっと確認している。

人懐っこい子だ……。私は梨子ちゃんの手を引いて、ゆっくりと泳ぎ出す。すると──


梨子「──!」


ウミガメは私たちと並泳するように、付いてくる。


梨子「────! ──!」


──うん、わかるよ。私も感動してる。

こんな感動が、出会いが、喜びがあるのが──私の大好きな海なんだよ。

私は梨子ちゃんと感動を噛みしめながら、ただ深い青の中を泳ぎ続ける──





    🐬    🐬    🐬





──顔を出したのは、あれから30分ほど、ウミガメとの遊泳を楽しんだ後のことだった。

レギュレーターを外すと──


梨子「果南ちゃんっ!!」


梨子ちゃんが抱き着いてきた。


果南「おとと……」

梨子「すごかった! すごかったよ!!」

果南「うん、そうだね」

梨子「あの……ごめんなさい……感動しすぎて、それ以外の言葉がうまく出てこなくて……」

果南「ふふ、わかるよ。私も初めて潜ったときはそうだったもん」

梨子「うん……! もっと、潜っていたかったなぁ……」


感慨に浸る梨子ちゃん。

206: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 17:11:37.18 ID:vQ6qZL/R0

果南「こんなに喜んでくれて嬉しいよ。エアの問題もあるから、今日はここまでだけど……梨子ちゃんがよかったら、また一緒に潜ろう?」

梨子「本当に? 約束だよ?」


そう言って、梨子ちゃんは私に満面の笑みを向けてくれる。

本当に、本当に、あの景色を見て、感動してくれたんだ……。


果南「ありがとう、梨子ちゃん」

梨子「お礼を言うのはこっちの方だよ……!」

果南「うぅん、そうじゃなくて」

梨子「?」

果南「私と同じ景色を見て、同じように感動してくれたことが嬉しくて……」

梨子「ふふ……そっか」

果南「こんな風に、自分の好きなモノを誰かと一緒に分かち合えるのって……幸せだなって……──あ」


──そっか……そういうことだったんだ。


果南「……私、こんな単純なこと、見落としてたんだ……」


もし、今私が誰かに伝えたいことがあるとしたら──


果南「この景色を……気持ちを……歌にして伝えればいいんだ。大好きなこの海の歌を……」

梨子「ふふ……いい歌詞、書けそう?」

果南「……うん、きっと。……いや、絶対……!」


私は力強く頷いた。気付けば、昨日までの葛藤が嘘のように、吹き飛んでいた。

今ならいいものが書けそう、そんな自信がふつふつと自分の中に漲っていくのを感じているのだった。





    *    *    *





──それからの果南ちゃんの集中力はすごかった。

家に戻るなり、机にかじりつく勢いでノートに歌詞を綴り始めた。


梨子「果南ちゃん、お茶淹れてきたけど……」

果南「…………」


声を掛けるも、集中して聞こえていないのか、ノートに歌詞を書き続けている。

私は大きな音を立てないように、テーブルの上にお茶を置いて、果南ちゃんを見守ることにした。


果南「………………」


一心不乱に筆を走らせる姿を見て、やっと吹っ切れたんだと言うことを悟る。

夢中で歌詞を書き綴る、その姿は──千歌ちゃんそっくりで、


梨子「……ふふ」


私は少し笑ってしまった。

207: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 17:12:28.94 ID:vQ6qZL/R0

梨子「……やっぱり、幼馴染だね」


そんな果南ちゃんを、幼馴染ではない私が、一番そばで見守っているという事実が、なんだか嬉しかった。

私は私で──目を瞑って、曲をイメージする。

一緒に見て感じた海の音を想起しながら。


果南「……ああ、このまま……青い、水に……溶けてしまおう……──」





    *    *    *





果南「……出来た」


そんな呟き声が聞こえてきたのは、もうすっかり日も暮れてから久しい頃合だった。

途中おじいちゃんがご飯に呼びに来たけど──


────
──


おじい「果南、飯だぞ」

果南「…………」

梨子「おじいちゃん、しー……」

おじい「…………後で二人で食え」


──
────


という短いやりとりがあっただけだった。


梨子「果南ちゃん、お疲れ様」


私が果南ちゃんに声を掛けると、


果南「梨子ちゃん……!」


果南ちゃんは、椅子から勢いよく立ち上がり、そのまま──


果南「ハグーーーッ!!!」

梨子「!!?///」


私をハグしてきた。


果南「梨子ちゃん! ありがとう!! 出来たよ! 完成したよ!!」
 果南『ああ、ホントに……梨子ちゃんが居てくれたから……書けたよ……』

梨子「……/// うぅん、果南ちゃんの中から出てきた言葉だから……/// 私はちょっときっかけを作っただけで……///」

果南「そんなことないよ……! 全部梨子ちゃんのお陰だよ……!」
 果南『梨子ちゃんのお陰で、大切なことを思い出せた……私の好きなもの、伝えたい気持ちも……全部……!』

梨子「……ふふ/// もし、お手伝いが出来たなら……嬉しいよ///」

果南「うん! ……そんな出来たて歌詞、見てくれるかな……?」

梨子「もちろん」

208: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 17:13:30.33 ID:vQ6qZL/R0

喜びのハグから解放されて、嬉しいような寂しいような気持ちになりながら、私は果南ちゃんから手渡された歌詞に目を通す。

──そこに綴られていた詩は、果南ちゃんの海への愛をこれでもかと詰め込んだ、優しい雰囲気の歌詞に仕上がっていた。


果南「どうかな……?」

梨子「……うん、すごくいいと思う」

果南「よかった……」


大好きな海に、浮かびながら、泳ぎながら……最後はそんな海に溶けていく。

その歌詞一つ一つが、果南ちゃんらしさを持っている、素敵な歌詞……。


梨子「歌詞、確かに受け取りました。あとは任せて」


ここからは作曲、私の仕事だ。


果南「私に何か出来ることってある……?」

梨子「出来ること……うーん、そうだなぁ……」


私は少し悩んでから──あることを思い付く。


梨子「手、出してもらっていい?」

果南「? うん」


果南ちゃんが出した手を──両の手で包むように握り込む。


梨子「……頭の中で、この曲のイメージっていうのかな……音楽を考えてみて?」

果南「……? いいけど……これで、何かわかるの?」

梨子「……出来るかわからないけど……こうやって手を繋いでると……果南ちゃんの音を私も感じられる気がするから」


嘘は吐いていない。心の中で響いている音楽が聴けるのかは、わからない。でも、テレパスは頭の中に響くように聞こえる。もしかしたら、心の中に流れている音楽も同様に聞き取れるかもしれない。ならやってみる価値はある。


果南「……わかった。梨子ちゃんがそう言うならそうなんだね」
 果南『梨子ちゃんを信じよう』


果南ちゃんは目を瞑る。

嬉しいな。果南ちゃんは、心の底から私を信じてくれているんだ。

私も目を瞑る。

意識を集中させていると──僅かに……僅かだけど、小さな音のようなものが──音の欠片が聴こえた気がした。

落ち着く音。どこかで聴いた、音楽、旋律、イメージ……。

ジャズのような、優しくて落ち着く音色の中に、魚たちが踊る舞踏会のような、優雅さを覚えて──

私は目を開ける。


梨子「……ありがとう、果南ちゃん」

果南「ん……もう、平気?」

梨子「うん。きっと……うぅん、絶対素敵な曲を作ってくるよ」

果南「じゃあ……期待して待ってるね!」
 果南『梨子ちゃんなら、絶対素敵な曲を作って来てくれる』


心からの信頼に応えなくては、私はそう胸に誓いながら、手を放す。その直後、

209: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 17:14:26.27 ID:vQ6qZL/R0

果南「……いつ……っ!!」

梨子「!? 果南ちゃん!?」


果南ちゃんは足を庇うようにして膝を折る。


梨子「大丈夫!? また、足……」

果南「ん……大丈夫、ちょっとだけだから……」

梨子「……」


まただ……長引く足の痛み……。

今のところ、Aqoursの練習とかに不都合は出ていないものの……最初に痛みを訴え出してから随分経つ気がする。


果南「平気だから、そんな不安そうな顔しないで」

梨子「う、うん……」

果南「それより、晩御飯食べよう? 気付いたら、もう随分遅くなっちゃったし……」

梨子「……そうだね」


おじいちゃんにも、後で二人で食べるように言われてるし……。

私は歌詞の完成した喜びと同時に、得も言われぬ不安を感じながらも、果南ちゃんと一緒に食卓へと向かうのでした。





    *    *    *





──さて、私が本島に戻ってきた頃には時刻は夜9時を回っていました。


梨子「送ってもらって、ありがとうございます」

おじい「構わん」


頭を下げると、おじいちゃんはぶっきらぼうに言葉を返す。

ちなみに最初は果南ちゃんが本島まで送ると言ってくれていたんだけど──


 おじい『ガキが夜に外をうろつくな』


と一蹴されて、おじいちゃんに船で送ってもらったわけです。

……そうだ、おじいちゃんと二人きりのうちに聞いてみようかな。


梨子「あの、おじいちゃん」

おじい「なんだ」

梨子「果南ちゃんの足のことなんですけど……」

おじい「足?」

梨子「え?」


あれ……? 果南ちゃん、おじいちゃんには言ってないのかな……?

あれだけ痛そうにしているのに……。

210: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 17:15:46.40 ID:vQ6qZL/R0

梨子「果南ちゃん、ときどき足が痛むらしくて……痛みが強いときは立ってるのも辛いみたいで……普段そういうこと、ありませんか……?」

おじい「……見た覚えはないな」

梨子「そ、そうですか……」


わざわざおじいちゃんが嘘を吐くとは思えないし……。

たまたま、おじいちゃんの居る場所では、痛みが出たことないってことなのかな……?

もしかして、おじいちゃんに心配掛けないように内緒にしていたとか……? だとしたら、余計なことしちゃったかな……。


おじい「……無理するなとは言っておく」

梨子「お、お願いします……」


とはいえ、家族が注意深く見てくれている方が安心は出来るだろうし……。

そう自分に言い聞かせ、私は再度おじいちゃんに頭を下げてから、帰路に就いたのでした。





    *    *    *





──12月19日木曜日。

冬が本気を出し始めたのか、一気に気温が下がってきた今日この頃。

本日からは、授業も午前中だけで終わり、いよいよもって二学期もラストスパート。

だと言うのに──


先生「それでは、今日の授業はここまでにします」

千歌「──ありがとうございました!」

梨子「あ……」


いつものように、颯爽と教室を飛び出していく千歌ちゃん。


梨子「今日、お昼休みないけど……」

曜「千歌ちゃん、絶対忘れてるね……」

梨子「あはは……」


曜ちゃんと二人で苦笑いしながら、荷物をまとめて部室に向かう。

──部室に辿り着くと、すでに一年生組の姿。


曜「皆、お疲れ様~」

花丸「あ、曜ちゃんに梨子ちゃん。お疲れ様ずら~」

梨子「まだ一年生だけ?」

善子「ええ、まだ私たちだけよ」

ルビィ「ルビィたちが一番教室が近いから……」


世間話もそこそこに、


鞠莉「チャオ~♪みんな、お待たせ~♪」

果南「今日は三年生が最後みたいだね」

ダイヤ「皆さん、お疲れ様です」

211: ◆tdNJrUZxQg 2020/08/23(日) 17:16:40.89 ID:vQ6qZL/R0

三年生も集まってくる。


ダイヤ「それでは、部活を……?」


ダイヤさんが教室内を見回して、怪訝な顔をする。


ダイヤ「あの……千歌さんは?」

梨子「たぶん、今がお昼休みだと勘違いしてて……」

ダイヤ「はぁ……全くあの子は……ちょっと、生徒会室に行ってきますわ……」


呆れ気味に肩を竦めながら、ダイヤさんは部室を出て行く。


曜「あはは……」

鞠莉「チカッチとダイヤが不在だけど、わたしたちは部活を始めましょう? お昼は作業中に各自でとるように」

曜「それじゃ、ルビィちゃん」

ルビィ「うん! 衣装の続き!」

善子「クックック……ヨハネは罪深き地獄の椅子でも作ろうかしら……」

鞠莉「花丸はわたしと編曲作業ね」

花丸「お願いするずら~」


それぞれが散っていく中、私は鞠莉ちゃんに耳打ちをする。


梨子「鞠莉ちゃん、ごめんね……アレンジお願いしちゃって」

鞠莉「問題Nothingデース。最後のチェックはどうしても梨子任せになっちゃうけど……」

梨子「うぅん、それでも十分助かってるよ」

鞠莉「完成したら持っていくから、ここはマリーに任せて!」

梨子「うん、わかった。ありがとう、鞠莉ちゃん」

鞠莉「……そ・れ・よ・り・も♪ 愛しのKnghit様とは順調?♪」

梨子「へ!?/// い、愛しのナイトってそんな、ちが……!!///」

果南「梨子ちゃん? 音楽室行かないの?」

鞠莉「あら~、やっぱり順調だったみたいね、さ・く・し♪」

梨子「…………」


そこでやっと鞠莉ちゃんにからかわれていたことに気付く。ややこしい、言い回ししないでよ……。


果南「そうだね。梨子ちゃんが手伝ってくれたお陰でいい歌詞が書けたよ」

鞠莉「そっか♪ それじゃ、二人ともその調子で頑張ってね~♪」

果南「ありがと、鞠莉。それじゃ、梨子ちゃん、行こっか」

梨子「うん……」


果南ちゃんと一緒に部室を出ていく際、


鞠莉「♪」


鞠莉ちゃんが私に向かってウインクを飛ばしてきたのが見えた。

うまくやれとでも言いたいのかな……。

からかわれるのは少し困ってしまうけど、こっちにも負い目がある分、言い返しづらいし……しばらくはからかわれ続けるかも……。