◇
翌日の日曜、俺は朝四時半に目をさました。
少し体を動かしただけで疲れてしまって、日が暮れてからすぐに眠ってしまったのだ。
せっかくの休みだし寝直そうと思ったけど、せっかくの休みなんだから寝て過ごしたらいつものように後悔するに決まっている。
昨日森里と交わした会話を思い出して、ジョギングでもしてみるか、と思った。
ちょっとしか体を動かしていないのに疲れて眠ってしまうなんて、いくらなんでも情けない。
俺ももうちょっと根気強い努力というものを覚えるべきかもしれない。
体を動かすのは別に嫌いじゃないし、昨日一日自転車で駆けまわっても、膝はほとんど痛まなかったんだから。
クローゼットの中に仕舞いこんでいた中学のときのジャージを取り出す。
どこにでもあるような青い体操服。近隣の人間が見ればそれだとわかるけど、ぱっと見なら市販のものとそう変わらない。
今部屋にあるもので運動に使えそうなのはそれくらいだったから、俺はそれに着替えて、携帯だけを持って部屋を出た。
玄関を出ると、吐く息が白かった。十一月の空は高くて遠い。
冬の足音なんて聞こえはしなかったが、気温の変化だけで季節の変化をまざまざと感じる。
こうして空を見上げて息を吐いていると、人間というのは地の底で生きている生き物なのだと感じる。
這いずりまわってうごめくだけの、翼のない動物。
大昔にどこかで生きていた誰かが、「人間とは、翼を持たない二本足の動物だ」と言った。
それを聞いた他の誰かが、鶏の羽根をもぎ取って、「これが奴の言う人間だ」と言って否定した。
だからなにって話。
227: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/09(土) 23:53:57.43 ID:Tdep/JAso
羽根がない以上は二本の足で歩くしかなくて、よちよち歩きのペンギンよろしく(奴らには翼があるが)、俺は慣れない足取りで朝の街へと繰り出した。
サイモン&ガーファンクルでも聴いたら気分が良くなりそうな、澄んだ朝の空気。
きしきしという引き締まった寒さは体をわずかに刺したけど、体を動かしているうちに気にならなくなった。
走っている間というのは、携帯をいじることも本を読むこともできなくて、だからぼんやりと考えごとにふけることしかできない。
こういう時間っていうのは部屋にこもっていてもなかなか作れない。俺の生活は物質が身近にあることに慣れすぎている。
暇さえあればネットを見たり、もしくは本を読んだりテレビを見たり。
そういえばペンギンは、どうして飛べないんだっけ。なにかで読んだような気がする。
ペンギンは飛ぶことができない。なんでだっけ。
外敵がいないから、飛んで逃げる必要がなかったんだっけ。だからいつも水の上でぷかぷか浮かんでいた。
そのうち水の中で餌を探すようになった。そうしてもっと飛ぶ必要がなくなった。
やがて翼は飛ぶためのものではなくて、泳いで餌を探すためのものになった。だから奴らはすいすい泳ぐ。
必要がないから、飛ばない。
そんなペンギンも、ときどき空を見上げて飛びたくなったりするんだろうか。
飛べない我が身を嘆きたくなったりするんだろうか。
そんなことはないんじゃないかなあと俺は思った。
はやく泳げるなら、べつにそれだけだってかまわないんじゃないか。そう思って大半の奴は満足してるに違いない。
そんななかでもやっぱり空を飛びたいペンギンというのはいるのかもしれない。
先祖は空を飛べたそうだから、そういう記憶が体のずっと奥の方に引き継がれて、衝動みたいに沸き起こるかもしれない。
228: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/09(土) 23:54:30.87 ID:Tdep/JAso
海を探せば餌があるのに、あいつは空を飛ぼうとしてる、と群れの中のペンギンはせせら笑う。
うるせえ奴らだ、とペンギンは言う。それでも俺は空を飛んでみたいんだ。
重いだけで羽毛もろくにない翼を震わせて、彼は空へと向かおうとして海に落ちる。
きっと、何回墜ちたって懲りないのだ。
……やばい、妄想の中のペンギンに感情移入してしまった。ちょっと応援したい。
がんばれペンギン。おまえもいつか飛べるさ。
そんな馬鹿なことを考えながら走る朝の街は静かで、人の気配がしなくて、まさしく「眠ってる」って感じだ。
電線に集まった数十羽のカラスが、白んだ空を背景にカーカー騒ぎながら、地を這う俺を見下ろしていた。
まあせいぜい見下しているといいさ、と俺はぼんやり思った。いつかペンギンに足元をすくわれるといい。
……鳥の場合も「足元をすくわれる」って言うのか?
そんなことを思いながらも、明け方の電線に集うカラスの群れはなんとなく俺の気分をよくさせた。
新鮮な景色だからかもしれない。
で、息が切れてきて、頭がぼーっとしてきた。
まだ走り始めて十数分なのに。
まだ十代だぞ、と俺は思った。意地と見栄だけでひいひい言いながら走った。
脇腹は痛んだけど、膝は痛まなかった。
229: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/09(土) 23:55:56.81 ID:Tdep/JAso
◇
家に帰ってシャワーを浴びていると、ふくらはぎのあたりがじくじくと痛んだ。
運動不足ここに極まれり。
それでも体を動かした後の気分は爽快で、汗を流して服を着替えたあと、ひそめた声で鼻歌を歌いながらコーヒーを入れた。
コーヒーメーカーのことことという音をきいているといっそう気分がよくなってきて、退屈なんてまるで感じなかった。
そうこうしているうちに階段から足音が聞こえてきて、
「……おはよう」
と寝ぼけ眼をこすりながら妹がリビングに姿を表した。
「悪い。起こした?」
「ううん。いつもこのくらいの時間には起きてるし……」
うそだろ、と俺は思った。まだ五時ちょっと過ぎだぞ。
一緒に暮らしていても、それだけじゃわからないことがあるものなんだなあと俺は感心しつつ、なんとなくいたたまれない気持ちになった。
「わたし、早寝早起き」
妹は得意げにすまし顔をつくったが、パジャマ姿のままの彼女の髪には、寝癖がちょこんと跳ねていた。
そのまま寝ぼけたように近づいてきて、何かを待つようにこちらを見上げてきたので、
「えらいえらい」
と頭をぽんぽん撫でてやると、一瞬だけほわほわ表情を緩めた後、ふと意識がはっきりしたみたいにハッとなった。
数秒の沈黙の後、気まずそうに距離を作られる。……寝ぼけたときに昔の癖が出るっていうのも、まあない話ではない。
230: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/09(土) 23:56:22.97 ID:Tdep/JAso
沈黙の中に、コーヒーメーカーが作動する音だけが響く。
結局、妹は大人になりすぎた、というより、大人になろうとしすぎた、のかもしれない。
それはたぶん、いろんなことでガタガタになったこの家を、彼女なりに守ろうとした結果なんだろう。
だから俺は、そんな彼女の姿を見ていると、後ろめたくて、自分が嫌になるんだけど。
そんなことを考えてたって過去が覆るわけではないし、自分がマシになるわけでもない。
「……コーヒー、飲む?」
「……甘くしてくれたら」
俺にできることがあるとしたら、彼女が守ろうとしたものを、俺も一緒に守っていこうとすること。
きっとそれがいちばん大事なことなんだろう。
それにとっとと気付けていれば、こいつだってもう少し、子供らしく笑ったり泣いたりできたかもしれない。
後悔はなくならない。ひとりよがりな思い込みかもしれない。いまさらだと笑われるかもしれない。
でも、自己嫌悪や自己否定の海に沈んでいても、自分が変わるわけじゃない。
必要なのは実際的な努力だ。
出来上がったコーヒーをそれぞれのマグカップに注ぐ。妹の分だけカフェオレにしておいた。
……でも、とときどき考える。
俺はちゃんと努力できているんだろうか。ちゃんと行動に移せているんだろうか。
努力している、ふりをしているだけじゃないのか、なんて。
そんなことを考え始めたら、またきりのない思弁の渦に巻き込まれてしまうだろうから、俺はその思いつきを努めて振り払っていた。
231: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/09(土) 23:57:19.23 ID:Tdep/JAso
◇
「つまりね、反射なんだよ」
また、ひなた先輩の言葉を思い出した。
ずっと前、そんなことを言っていた。俺がまだ一年の頃。彼女がまだ部長じゃなかった頃。
「反射?」
「何かを怖いって、思うとするでしょ。暗いところとか、幽霊とか。なんでもいいんだけど」
「……はあ」
「その"怖さ"に対して、逃げ出したり、目を閉じてみないふりをしたりするのは、反射みたいなものなんだよ」
熱いものを触った時に、手が思わず引っ込んじゃったりするでしょう、と、彼女は言った。
「……はあ」
どうしてそんな話になったんだろう? べつに、俺や先輩についての話をしていたんじゃないはずだ。
何かの小説の登場人物についてでも、話をしていたのかもしれない。
記憶はおぼろげなのに、彼女の話には、印象的なものがいくつもあって。
知らず知らずのうちに、俺は影響を受けているような気がする。
「たとえば、何かを"怖い"と思うことを、ひとつの問題として見るとさ。
それを解決するためには、ただ"怖い"って言って足を竦ませているだけじゃ何も変わらない。
怖いからって、背を向けて逃げ出したって何も変わらない」
必要なのは、努力と行動、意思と覚悟。
232: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/09(土) 23:58:21.44 ID:Tdep/JAso
「熱いものを持ち上げようとするとき、"熱い"って思って、手を放してしまう。
体を守るために、脳が勝手に判断するわけだよね。でも、それでも持ちあげなきゃいけないときは……?」
「……意思で強引に手を押しとどめるんですか?」
「それじゃ火傷しちゃうよー」
先輩はおかしな冗談でも聞いたみたいに笑った。真面目に答えたつもりだったから、俺は恥ずかしくなった。
「ミトンを用意したり、もっと他の道具をつかったり。ふさわしいものがなかったら、道具を発明したり。
そういうのを、きっと、"実際的な努力"っていうんだよ」
「……」
「重いものを持とうとするなら、腕力を鍛えたり、やっぱり道具をつかったり……あとは、誰かの手を借りたりして」
「……反射だけでは、熱いものには触れられない。反射を無理に押さえつけても、火傷をする」
「うん」
「……必要なのは、問題を観察すること。何が問題なのかをちゃんと理解すること。
そもそもどうすれば、その問題が解決したことになるのかを考えること。
そして、その問題を解決するために、どのような手段を取りうるのか、考えること」
「そう、反射だけではなく。反射の先の、対策」
……対策。
「なんて、偉そうなこと言ってるけど、わたしだってよくわかんないんだけどね」
先輩はいつもそんなふうに、自分を卑下することでバランスを取ろうとするみたいにして、話を終わらせた。
233: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/09(土) 23:58:58.77 ID:Tdep/JAso
◇
十時を回った頃、家の電話が鳴り出した。
俺と妹はリビングでぼんやりテレビを眺めていたところだった。
日曜十時の番組はいつだって退屈で、その退屈さはなんとなく俺を安らいだ気持ちにさせていた。
俺が出ようとする前に妹が立ち上がって、とたとたと親機へと向かっていく。
電話に出るときの妹の声は、普段よりいくらか高くて、その分いくらか硬くなっている。
そんなことを思いながら、何の電話だろう、とぼんやり視線を向けていると、
「お兄ちゃん、電話」
と彼女は受話器の口を抑えながら言った。
「だれ?」
「えっと……」
「うん」
「ふじみ? さん」
不死身?
「……だれ?」
「さあ?」
とりあえず電話を変わると、電話口から聞こえたのはおどおどとした女の子の声だった。
234: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/09(土) 23:59:43.54 ID:Tdep/JAso
「あっ……せんぱい?」
「はい……。はい?」
「藤見です」
「……ふじみ……」
「……藤見千歳です」
「……あ、うん。フジミな。フジミね。うん」
「すみません、あの、まだ、苗字覚えてくれてなかったんですね……」
「……あー、いや」
「……」
「……面目ない」
「いえ。すみません。休みの日に突然電話しちゃって」
「あー、いえ、こちらこそ本当に申し訳ないと……」
「それに関しては諦めてました」
と彼女は真剣な声で言ったが、いくらか落胆の調子が含まれているように聞こえて、俺の気分は少し落ち込んだ。
235: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/10(日) 00:00:14.44 ID:a5/M/A87o
「よくうちの番号知ってたね」
「いえ、知らなかったんですけど、四月にもらった部の連絡網に書いてあったなと思って」
「ああ、そんなのあったっけ」
……たぶんもらってすぐに捨てた。もしくは鞄の底でぐしゃぐしゃになっているかもしれない。
「で、なにか用事?」
「あ、えっと……今日、何か用事ありますか?」
「……特にはないけど」
俺は少し警戒した。
「ちょっと、相談したいことがあるんです」
「金ならないぞ」
「……せんぱいの中で、わたしどういう扱いなんですか」
「いや、ごめん。冗談だから」
「わかってますよ。……ちょっと、小説のことで」
236: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/10(日) 00:01:56.78 ID:a5/M/A87o
「……はあ。小説」
「はい」
「……え、なんで俺?」
「……消去法です」
千歳があまりにもあっさりと言ったので、俺が余計な口を挟む暇はなかった。
消去法って。
「とにかく、何も用事がないんだったら、ちょっと相談に乗ってもらいたいんですけど……」
「はあ。それはまあ、かまわないですけど」
俺はなぜか敬語だった。
「ありがとうございます。えっと、じゃあ、どこかで会えますか?」
「ああ、うん。今から?」
「……できれば十一時頃に」
「了解。場所はどこがいい?」
「"かっこう"がいいです」
「あー……そんな急に褒められると、照れる」
「褒めてません。……せんぱい、意外と図々しいですね。"かっこう"です」
図々しいって言われた……。
237: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/10(日) 00:02:34.26 ID:a5/M/A87o
"かっこう"は、ここらへんの学生の間で人気の喫茶店だ。
値段も安いしコーヒーも美味い。雰囲気も悪くない。そして学校の近くにある。
ので、学生たちがたまり場にして、雰囲気をぶち壊しにしてしまう。とはいえ同じ穴のムジナ。
森里いわく、ホットケーキが美味いらしい。
「じゃあ、"かっこう"に十一時」
「はい。お願いします」
受話器を置いてから、俺は深く深く息をついた。
緊張のあまり変なことを言い過ぎた気がする。不測の事態すぎて心が追いつかなかった。
「"かっこう"に十一時」。俺は自分の言葉をもう一度頭の中で繰り返した。
そのまま映画のタイトルにでもできそうな響きだが、いかんせん字面がよくなかった。
などとどうでもいいことを考えて現実逃避をしようと試みたけれど、緊張はぜんぜん晴れなかった。
ふと顔を向けると、妹は変なものを眺めるような目でこちらを見ていたが、すぐにさっと顔を逸らしてしまった。
242: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/14(木) 01:55:17.40 ID:YVTFTib/o
◇
日曜日の"かっこう"は、名前の通り人気が少なかった。
不思議な店だ。決して客が少ないわけでもないのに、店の中はいつも静けさに包まれている。
満席になっているところは、一度も見たことがない。
学生の間で人気といっても、少し足を伸ばせばファミレスやハンバーガーショップなんかもそこそこあるし、そっちを利用する奴らも多い。
こういう「静けさ」の中よりも、騒ぎやすいファミレスなんかの「賑やかさ」に居心地の良さを感じる奴らもいる。
人それぞれ気質というものがあるわけだ。
それで俺はどっちの気質なのかと考えたら、まあ別にどっちでも一緒かもしれない。
賑やかな場所で騒ぐのも平気だし、静かな場所で黙っているのも嫌いじゃない。
自分がする分にはどうだっていい。誰かと一緒なら気にならない。
店に入ったのは十一時を回る五分前くらいだったけど、千歳は既に奥のテーブル席に座っていた。
カウンター客と世間話をしていた中年の女の人――たぶん経営者夫婦の妻の方だと思うけど――は、俺に顔を向けていらっしゃいと親しげに言った。
俺が指先で千歳の座っている席を示すと、彼女は黙って頷いて二秒くらい俺を目で追ったあと、世間話に戻ったようだった。
黒いエプロンをつけた女の人と話をしているのはボサボサの白髪頭にスポーツキャップを被った男の人だった。
たぶん、五十歳くらいだろう。どうやら両親の金がどうこうとか、兄弟との折り合いがどうこうとか、そういう話をしていらしい。
女の人が俺に注意を向けている間も、彼はまるで聞いている相手の態度より自分の話したいことの方が重大だというふうに声をあげていた。
俺は注意をよそに向けることで、千歳の方をあまり見ないようにしている自分に気付いたが、席に近づくとそういうわけにもいかない。
「おはよう」と俺が声をかけると、「おはようございます」と彼女も合わせて頭をさげてくれた。
「すみません、急に」
「いいよ、べつに。相談あるんだったら。参考になるかは自信ないけど」
243: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/14(木) 01:55:46.79 ID:YVTFTib/o
「はい……」
すぐに本題に入るのかと思ったけど、彼女は手元にあるコーヒーをスプーンでかき混ぜているだけで話し出そうとはしない。
俺は先輩らしくどうでもいい世間話でも振るべきかと思ったけど、今日の天気のことくらいしか思い浮かばなかった。
「最近冷えるね」
「はい。今朝も寒くて起きるの大変でした」
「あー、そうだよな。俺も最近起きるのつらくて……」
と適当なことを言ったあと、今朝のことを思い出した。
「……いや、そういえば今日は早起きした」
「どうしてですか?」
「昨日早めに寝たから目がさめた。せっかくだからジョギングしようと思って、三十分くらい走った」
「えっ」
と彼女は心底意外そうな声をあげた。たしかに自分でも意外なことだが、驚かれると微妙にすねた気分になる。
244: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/14(木) 01:56:17.90 ID:YVTFTib/o
話しているうちにエプロンをつけた大学生くらいの男の人が水を持ってきてくれたので、そのままアメリカンを頼んだ。
メニュー表のいちばん上に載っていて、しかもいちばん安いのがそれだからという理由で、いつも同じものを頼んでいる。
「どうしてジョギングなんか?」
「そんなに意外?」
「だってせんぱい……運動とか嫌いそう」
「……俺、バスケ部だったじゃん」
「好きでやってたんですか?」
「違うけど」
父親が「せめて中学のときくらいは運動部に入ってくれ」とよくわからない要望を出してきたので、それに従った記憶がある。
べつに嫌いでもなかったけど。
「運動不足だからなあと思って。まあ、体を動かせば気分も晴れるかもしれないし」
「落ち込むことでもあったんですか?」
「いや。べつにそういうわけでもないけど」
千歳は少し考えこむような間を置いてから、
「まあせんぱいは恒常的に落ち込んでますもんね」
と失礼なのかどうなのかよくわからない発言をした。
245: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/14(木) 01:57:24.34 ID:YVTFTib/o
そういえば彼女の私服を見るのは、初めて……ではないけど、けっこう珍しいことだった。
俺はぶしつけにならないように注意しながら彼女の服装に注意を向けてみた。
が、彼女がこちらに視線を向けていることに気付き、すぐに目を逸らしたせいで、漠然とした色調の印象しか得られなかった。
そうして俺が目を逸らすと、彼女はかえって意識が服装に向いたらしくて、自分の服を見下ろして眺めたあと、こちらをみて、
「なんかオソロみたいですね」と言って指先で互いの服を交互に示した。
俺は使い古してダボついた灰色のパーカーと色褪せた青いジーンズを履いていて、見てみると彼女も似たような恰好をしていた。
それでも見比べてみると、明らかに彼女の服は小奇麗で、一昨年あたりから使いまわしている俺の服とは醸しだす印象からして違っていた。
俺はその言葉にいくらか戸惑ったけど、彼女があまりに何でもないことのように笑うので、気にしているこっちがバカみたいだった。
「それで、相談って?」
なんだか気恥ずかしくなって、俺はさっさと本題に入ってもらうことにした。
「あ、はい」
彼女の笑みが少しだけこわばった気がしたけど、俺はそれをあまり気にしないようにした。
247: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/14(木) 01:58:54.52 ID:YVTFTib/o
「えっと……これ、読んでもらえますか」
彼女は膝の上の鞄から大学ノートを取り出して、こちらに差し出した。
「いいの?」
「はい」
前は嫌がられたような気がしたけど、まあ、状況が違えば態度も違うものだろう。
俺はノートを受け取って、ぱらぱらと広げてみた。
それを見て、彼女はハッとしたみたいに俺の手からノートをとって、自分でページをめくった。
「すみません、ここです」
「ああ、うん……」
広げられたページに視線を落とす。
男の人がコーヒーを持ってきて、「ごゆっくり」と微笑ましそうな表情で去っていく。
年だってそう変わらないはずなのに、彼の落ち着き払った態度は俺とあまりに違い過ぎて、少し落ち込みそうになった。
248: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/14(木) 01:59:20.94 ID:YVTFTib/o
◆
けれど、声はどこからもかえってきませんでした。
それはそのはずです。この穴はあまりに深いから、音でさえも地上にたどり着くまでに、か細く、消え入ってしまうのでしょう。
決意をかためたばかりのわたしの心は、また、挫けそうになってしまいました。
だからといって、そこでやめてしまうわけにはいきません。
わたしはもう、この穴から這い出ることを決めたのです。
土を削りとって、それを足場にする。その思いつきは無謀かもしれませんが、だからといって他に取りうる手段もないのです。
わたしはここまで掘り進めたのです。掘る方向が変わっただけで、やることは変わらない。だったら不可能ではないはずです。
泥が詰まって汚れた爪で、わたしは壁を削り取ろうとしましたが、すぐにそのむずかしさに気付きました。
土は硬く、えぐり取られそうなのは、むしろわたしの皮膚の方だったのです。
指先には血が滲んでいて、骨はじんじんという熱のこもった痛みを訴えています。
わたしは自分自身の指をしばらく眺めていました。
それはきっと、滑稽な姿だったと思います。このありさまが滑稽と言わず、なんだというんでしょう。
けれど、笑ってくれる相手もいませんでした。
「助けて」
とわたしはもう一度声を張り上げました。
その声もきっと、どこにも届かなかったのでしょう。
わたしの耳の他には、どこにも。
249: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/14(木) 01:59:47.96 ID:YVTFTib/o
◇
「……どうしたの、これ」
「……えっと。ダメですか?」
「ダメってことはないけど、あれ……こないだ、続き書くって言ってなかった?」
千歳が俺に見せたのは、例の庭と穴の話の続きではなかった。
ごくごく普通のショートショート。綺麗にまとまっていて、ところどころクスリと笑えるようなところもあって、面白い。
オチのつけかたまでピシっとハマっていて、非の打ちどころはない。たぶん。俺の目では。
「やめにしたの?」
と俺は聞いてみた。千歳は困ったみたいに首をかしげて笑った。
「おもしろくなかったですか?」
「おもしろいよ」
「……人に楽しんでもらえるものを書こうと思ったんです」
「はあ」
意外な言葉が出てきたぞ、と俺は思った。
250: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/14(木) 02:00:28.70 ID:YVTFTib/o
「やっぱり、読んでもらう以上は楽しいものがいいかなって、そう思って」
「……はあ。まあ、そりゃ、そうかもしれないけど」
なんとなく、俺はうなじのあたりを指先で掻いた。
「いや、でも、部活だし、金取るわけじゃないんだから、べつに読む人のことなんてそんなに意識しなくてもいいんじゃない?
そういうのが書きたいっていうんならむしろよくできてるって思うし、大澤だってそういうの書いてるけど」
「読む人を意識してるっていうのとは、少し違うんですけど……」
「……怖くなった?」
千歳は答えなかった。俺はコーヒーに口をつけてから、小さく溜め息をついた。
「書きたいものがそれなら、かまわないと思うよ。そういうのの書き方についてだったら、俺より大澤に相談すればいいし。
あいつだって部誌つくるって言ったんだから、相談くらい乗ってくれると思う。
わかりづらいけど、あれで人に頼られるのは嫌いじゃないやつだし」
251: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/14(木) 02:01:05.95 ID:YVTFTib/o
「……せんぱいは、書くのが怖くなるときって、ないですか?」
「あるよ。いつもだよ」
「それはどうして?」
どうしてだろう。
「だって、自分が好きに書いてて、それを書いて満足するだけなら、べつにそれだけでいいじゃないですか。
前にせんぱい、そんなこと言ってましたよね。自分の書いてるものは個人的なものだって」
「……あんまり深く考えたことなかったな」
「せんぱいは、どうして書くんですか?」
少し前まで、そんなことばかり考えていた。どうして俺は書くんだろう、なんの為に書くんだろう、って。
誰かを楽しませたいなんて思ったことはない。それでも誰かに読んでもらうことで、俺は何を期待していたんだろう。
「……たぶん、自分の中にハードルみたいなものがあるんだと思う」
「ハードル?」
「つまり、俺には、全然具体的じゃないんだけど、良いものを書きたいって気持ちがあるんだよな。
前書いたものより良いもの。それがどんなものなのかわからないけど……。
でも、書いてるうちに不安になるんだ。俺が書いてるものはずっと同じで、俺は自分の目標にずっと辿りつけないんじゃないかって」
252: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/14(木) 02:02:13.17 ID:YVTFTib/o
「……」
「ハードルを超えられないままなんじゃないかって。そういうふうに思う日は今でもあるし、そうすると書くのが嫌になる」
「それって、どうすれば"ハードルを超えた"ことになるんですか?」
「自分でそう思えたら、かなあ」
「……」
「もしくは、けっきょく、他人に褒めてもらえたらじゃないか」
「……せんぱいも、褒められると嬉しいですか?」
「それはね。まあ、そうだよ。あんまり的外れな褒め方でもないかぎりは。
でも、書いた結果、褒められるに越したことがないって話であって、褒められるために書いてるわけではない」
「せんぱいは、続き、書けましたか?」
「……前から思ってたけど、俺の小説、そんなに気になる?」
「……正直言うと、今は、そんなでもないです。自分ので頭がいっぱいなので。
でも、やっぱり、せんぱいの書いたものに影響を受けたところがあると思うんです。わたしの場合」
「それ、俺、不思議なんだよな」
「不思議?」
「だって、きみが読んだのって、たしか……去年の文化祭のときのだろ。中三のときに文化祭で見たって」
253: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/14(木) 02:02:45.27 ID:YVTFTib/o
「はい」
「あれ、そんなに良かった? ……じゃないな。印象に残るようなものだった?」
「せんぱい的には、そんなによくなかったんですか?」
「……というより、結局同じことをしてるだけなんじゃないかって感じがしてた」
「……そこかもしれません」
千歳は俺と目を合わせて、真剣な顔で言った。
「堂々巡りの袋小路。部屋から出ても、すぐにまた部屋の中から話が始まる。
その感じがなんとなく、印象深かったのかもしれません」
「……『また同じことやってるよ』って感じじゃない?」
「でも、せんぱいの話は、発展してるじゃないですか」
254: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/14(木) 02:03:42.97 ID:YVTFTib/o
「……発展?」
「ひとつひとつとしてみると、そうでもないかもしれませんけど、並べてみると。
なんかこう、ひとつ前の話で書いた部分を否定するところから始まって、次のステップに進んでる、みたいな。
見た目や構造だけみると同じなんですけど、中身を見てみると、別々のことがらを扱ってるような……」
そうだっけ? と俺は思った。
「まあ、続きは、まだ書けてない。何も思いついてない。まっさらだ」
「……せんぱいの、モノマネを、しようとしたんです、わたし」
「え?」
「部屋の中から外に出るだけの話があるなら、穴の底から這い上がるだけの話があってもいいって。
でも、穴の底で話が終わっちゃいましたから。堂々巡りどころか、わたしは外に出られてないんです」
「……うーん」
俺はちょっと申し訳なくなった。どうせ真似をするなら大澤のを真似すればよかったのに。
それなら、どうにでもなるはずだ。あいつはストーリーに合わせて人物を動かす。
でも俺の書き方だと、ストーリーと呼べるものを生み出すのが難しい。
登場人物の行動に内容が支配されるからだ。
もし『彼女』が椅子の上で物思いにふけっているだけの場面から始まるなら、『彼女』が何かをしようとしないかぎりずっと物思いにふけっていることになる。
そこに動きを付け加えようとして、人物が不自然な心境の変化を見せたりしたら、それは「イカサマ」なのだ。
だからこそ毎回、書くのに苦労しているわけなんだけど。
255: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/14(木) 02:04:29.86 ID:YVTFTib/o
でも……穴の話。
「千歳が前に書いた穴の話。あれ、俺はよくできてたって思う。
でも、もし俺が同じものを書いたとしても、穴を出る話にするのは難しかったと思う」
「……どうしてですか?」
「たぶん、きみも気付いてるだろうけど、穴が深すぎるんだよ」
「……」
「俺の話は、結局部屋の中だから。外に出るには気持ちが変わるだけでいいんだ。
でも、穴は深すぎる。物理的に深すぎる。心理的なものだけじゃない。実際的な問題がある」
「……そう、なんですよね」
「大澤ならきっと、それでもどうにか穴を出る話にする。あいつの場合は、最初に出られるようにしてから、穴の中に放り込むんだよ」
「でも、それは……」
「……なに?」
「それは、穴じゃないです。出られるなら、穴である意味がないんです」
本当に困ったことに。
俺みたいな考え方をするやつだ、と思った。
256: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/14(木) 02:05:00.47 ID:YVTFTib/o
「いつかは出られるかもしれないよな」
俺がそういうと、千歳は怪訝そうな顔をした。
「誰かが偶然穴をみつけて、そこに気まぐれに石を放り投げたりして。
穴は深いけど、声をあげれば、いつかは誰かに届くかもしれない。声がかすれてしまわないうちは。
そして誰かがロープを垂らしてくれるかもしれない。長い長いロープ。『蜘蛛の糸』みたいなやつ」
「あの穴を掘ったあと……」
と千歳は言った。
「庭にいた子どもたちは、みんなあの場所を去ってしまってるんです。みんな他の場所に行ってしまってるんです」
「……え、そうなの」
「はい。『わたし』からは見えないことなので、書きませんでしたけど」
「……ふうん」
書かれてないなら、まだ真実じゃない。彼女がそれで納得するなら、『誰か』がいることにもできる。
でも、まあ、俺でもそういう書き方はしないなあ、と、また妙な共感を抱いてしまった。ときどきはやるけど。
257: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/14(木) 02:05:35.80 ID:YVTFTib/o
「でも、じゃあ、本当に奇跡を待つしかないね」
「……奇跡、ですか」
「コップ一杯分の水の中に、チェレンコフ光を見出そうとするみたいにさ。何かの奇跡が起こるのを待つしかない」
「……奇跡」と彼女は繰り返した。表情はどことなく苦しげに見えた。
「べつに、無理に続きを書く必要はないんじゃない? これだって、いいと思うよ」
俺はノートを示したけど、彼女は首を振った。
「でも、わたしがどうにかしたいんです」
「……だったら、とりあえず書くしかないね」
千歳は俯いてしまった。言葉の選び方を間違ったかもしれない。
でも、俺がここで何かのアイディアを思いついたところで、それは意味のないことだと思った。
258: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/14(木) 02:06:21.82 ID:YVTFTib/o
ふと、疑問に思うことがあった。
「……訊いてもいい?」
「なんですか?」
「相談って、その話?」
「……え?」
「いや。だって、このくらいのことだったら、たぶん自分で考えてただろ?」
「……意外と鋭いですね、せんぱい」
冗談めかした調子で彼女は笑った。
「さっき、せんぱい、書くのが怖いかって訊きましたよね」
「……ああ、うん」
「怖いんですよ、わたし。……書くのが」
259: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/14(木) 02:06:48.32 ID:YVTFTib/o
◇
「書くのが怖い?」
ひなた先輩は、俺の言葉を鸚鵡返しした。
去年の秋頃だったかもしれない。そのときは文化祭の直前で、文芸部員はみんな原稿に向かって四苦八苦していた。
そのときも、俺はひなた先輩に相談していた。
「怖いって、どんなふうに?」
「べつに、書くこと自体が怖いわけじゃないんです」
俺はそう言い直した。彼女はちょっと困った顔で笑っていた。
「ただ、人に見せるのが、なんだか、怖くて」
「今まで、人に見せたことなかったっけ?」
「あんまり。部誌も今回が初めてですし」
「でも、何度か見せてくれたよね?」
「それは、まあ、べつによかったんです。ただ、部誌は形に残るから……」
「いろんな人の目に触れるのが怖いってこと?」
「……はい」
260: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/14(木) 02:07:19.15 ID:YVTFTib/o
「深く考えなくても、部活なんだし、出来の良し悪しなんて誰も気にしないと思うよ。
こういうのって、本人たちが楽しむのがいちばんだからさ」
「……」
「……そういえばきみ、書くのが好きじゃないんだっけ?」
「……自分でも、変だと思うんですけど」
書きたくないのに、何かを書く部活に入っているなんて、改めて言うまでもなくおかしな話だ。
「誰かに見せるんだと思うと、いつもみたいに書けないんです。なんだか、自分が書いてるものがおかしいような気がして」
ひなた先輩は「ふむ」と視線を天井に向けた。
「自分でも、ひとりよがりなものを書いてるって思うんです。誰かが読んで楽しいって思えるようなものじゃないから。
だから、ひと目につくようなところに出して、本当にいいのかと思って。でも、ふさわしいものは、書こうと思っても書けないから……」
「……うーん」
彼女は俺の言葉をきいて、しばらく何かを考えこんでいる様子だった。
何かを思い出しているようにも見えた。
「でも、きみの話、言うほどひとりよがりって感じもしないよ。たしかに変わった感じかもしれないし、整ってない印象もあるけど」
「……」
「ひょっとして、読まれることじゃなくて、落胆されるのが嫌だとか?」
「……そう、かもしれないです」
261: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/14(木) 02:08:06.46 ID:YVTFTib/o
「それは、まあ……宿命っちゃ、宿命だよねー。わたしだって、それはちょっと怖いもん。
でも、お金もらうわけでもないし、本職の人ってわけでもないし、あんまり気にすることもないと思うけど」
「……」
「……って言うだけで気にしないで済むなら、楽な話なんだけどね」
「先輩も、怖いですか?」
「うん。わたしの場合は、好きでやってることだから、怖さより楽しさの方が勝つけど、評価はやっぱり気になるよ。
怖くない人はきっといないよ。自覚してなかったり、他の気持ちが勝って怖さを意識しない人もいるだろうけど」
「……」
「きみがどうしても嫌だったら、部誌には載せないって選択も、アリだとは思う。
わたしとしては、誰かに見てもらうっていうのも、いいことだと思うけど」
「……どうして?」
「褒めてもらえたときとか、分かってもらえたときとか、嬉しかったから、かなあ」
「……」
「わたしも、べつに誰かを楽しませようと思って書いてるわけじゃなくて、書きたいものを書いてるから。
それでも、面白がってくれる人はいたんだよ。そんな人いないかもしれないって思ってたけど」
「先輩の話、良いと思いますよ」
「……ありがとう」
それから、彼女は何かを言った。
何を言ったんだっけ?
262: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/14(木) 02:08:41.50 ID:YVTFTib/o
◇
「せんぱい?」
怪訝そうに、千歳が俺の顔を覗きこんでいた。
俺は慌ててのけぞる。視線が合って、奇妙な沈黙がテーブルの上に落ちた。
「……えっと、書くのが怖いって?」
「……というより、書いていいんだろうか、って気持ちがあって」
「どういう意味?」
「つまり、わたしは……」
彼女は視線をあちこちに泳がせたあと、コーヒーに口をつけてから話し始めた。
「わたしは、書きたいものなんてない人間なんです。書きたい気持ちはあるんですけど。
でも、それってどこか間違ってるような気がするんです。目的と手段を取り違えてるっていうか……」
俺は黙って彼女の話を聞いた。他人事とは思えないような内容だ。
「だから、自分に何が書けるんだろうって思って。あの穴の話だって、意味なんてないんだと思うんです。
自分でもよく分かってなくて。それをどうすればいいのか、全然わからないんです。
そう思うと、なんだか、自分の書いているものが、取るに足らない、くだらないものみたいに思えてきて……」
「……書くの、好きじゃない?」
彼女は考えこむような沈黙を置いたあと、わからないというふうに首をかしげた。
263: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/14(木) 02:09:43.69 ID:YVTFTib/o
「……書きたいっていう気持ちがあるなら、書きたいものがないなんてことはないよ」
「……」
「名誉心とか、そういうものがあるなら別だけど、きみはどうみてもそういうタチじゃないし。
だから、自分で書きたいものがなんなのか、まだ分かってないだけなんだと思う」
「……せんぱいは、自分で分かるんですか?」
「俺は、どうだろう。なんとなく、こういうのは書きたくないって意識はあるけど」
「……」
そうだ。
ずっとまえに、ひなた先輩が言ってた。
――そこから見えるのは、どんな景色ですか?
「……え?」
俺の呟きは小さくて、だからきっと、彼女は俺がなんていったのかわからなかっただろう。
そうだ。俺は一年前も、他人の反応に怯えていた。今も、書くことに恐れを抱いているのと同じように。
自分が書こうとしているものが、くだらないものに思えて。
つまらなくて、取るに足らなくて、見る価値がない。物書きでもないくせに、そんなふうに思われるのが怖くて。
文章は正直だから、書く人間の性質をとても正直に伝えてしまう。
だから、もし俺が、俺の考えたことを文章にしようとして、それを誰かに見せた時。
それを取るに足らないと思われることは、それは、俺自身が取るに足らないと言われているように感じて。
264: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/14(木) 02:10:48.73 ID:YVTFTib/o
「……こんなこと言っても、慰めにはならないかもしれないけど、べつに、取るに足らないものでもいいんだよ」
千歳は視線をあげて、こちらを見た。俺は彼女をまっすぐに見た。
「蛇の目は、夜の暗闇の中でも景色をつかまえられるし、魚の視界は、まさしく魚眼レンズみたいに歪んでる。
同じものを見ていても、見え方はそれぞれ違うんだよ。それはたとえば、俺ときみだってそう。
同じコーヒーを飲んだとしても、飲んだときにどんなふうに感じるかはそれぞれ違う」
「……はい」
「だから、『自分には世界がどんなふうに見えているか』を書くだけでも、それぞれ別のものが出来上がる。
そこでは、取るに足らないとか、くだらないとか、そんな基準はいらないんだよ。
自分が何を書きたいか、どんなふうに書きたいかっていうのは、自分の内側にあるものだから。
それが稚拙でうまく表現できないっていうなら、結局もっと上手くなろうとするしかない」
「……」
「もし、自分の目に映る世界を、可能なかぎり丁寧に叙述したら、それはきっと、人によっては新鮮なものになる。
もしくは、他人事とは思えないようなものになる。人によっては、すごく退屈に感じるかもしれない。
でも、それを読んだ誰かが、何人ものうちのたった一人でも、ひょっとしたら何かを感じ取ってくれるかもしれない」
……そうだ。そんなことを、彼女は言っていた。
「……まあ、受け売りだし、俺だって、そんなに実践できてないんだけどさ」
千歳は少し、言葉の内容について考えていたようだったけど、やがてほっという溜め息をついてから、
「せんぱい……なんか今日は、先輩っぽいこと言いますね」
と言って笑った。
「まあ、結局……書きたいものを書けばいいんだよ」
俺はそう言ってから、なんだか違うような気がして、言い直した。
「……書こうと思ったものを書くしかないんだよ」
268: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/16(土) 22:50:03.14 ID:uYzvbfI2o
◇
「枝野は?」と顧問は言った。
「来てません」と大澤が答えた。
「サボりか?」
「……体調でも悪いのかもしれません」
庇ったのは「みさと」だった。顧問は呆れたような溜め息をついてから俺たちを見回した。
「それで、部誌を作りたいってことだったよな?」
月曜日の放課後までには、大澤が顧問に話を通してくれていたらしかった。
だからその日の部活は顧問主導のミーティングになり、部誌作りの詳細について話し合われることになった。
「あかね」……枝野以外の部員は全員顔を出していた。
269: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/16(土) 22:51:06.29 ID:uYzvbfI2o
「おまえたちが作りたいって言うなら反対する理由はないから、俺としては別にかまわない。
というか、大いに賛成だ。遊んでいるだけよりはちゃんと活動してくれた方が嬉しい。
顧問を一応やってはいるけど、俺は何も書いたことがないから、アドバイスはできないけどな」
顧問を中心に円形を作って椅子に座った俺たちを、彼はいちど見回して、言葉を続けた。
「発行日はいつくらいの想定だ?」
「……」
大澤は口ごもってこちらを見た。俺は困ってしまった。
「いつくらいならいいでしょう?」
顧問は溜め息をついた。
「自分たちで締め切りを決めたほうがやりやすいと思うけどな、俺は。部長が便宜的にでも決めておくといい。
……枝野は参加するのか?」
わかりません、と俺が答えようとしたところで、「みさと」が声をあげた。
「書きます」
と「みさと」は言った。
「そうか。だったら全員で集まったときに相談して決めてくれ」
今学期か来学期なのかくらいは最初に決めてくれよ、と顧問は言い残して、部室を去った。
案外いい顧問なのかもしれないなと俺は思った。少なくとも邪魔にはならない。
270: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/16(土) 22:52:12.94 ID:uYzvbfI2o
彼が去ったあとの部室は沈黙で覆われていた。
幽霊部員たちも何かを書くだろうか。……何も書かないかもしれない。そのうち、会いにいくのもいいかもしれない。
俺が「みさと」に視線を向けると、彼女は俯いていた。
「……どうしよう、勝手なこと言っちゃった」
大澤に目を向けると、彼は気まずそうに「みさと」を視線から外そうとしていた。
まだ喧嘩してるのか、こいつら。
「枝野のこと?」
俺が訊ねると、「みさと」はこちらを見ないで頷いた。
「書くって、あいつ、言ってたの?」
「……何も話してない。部誌つくることになったことも」
なんで、あいつが書くなんて言ったんだろう。「みさと」の考えは読めなかったけど、だからといって俺が何かを言うことではない。
「まあ、あいつが書かないって言ったら、書けなかったって言っとけば、先生も納得するでしょ」
「……そうかもしれないけど」
俺の無責任に慰めても、「みさと」は落ち込んだ様子を隠そうともせずに黙り込んだままだった。
彼女たちの関係というのは、傍で見ているよりずっとわかりにくいのかもしれない。
271: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/16(土) 22:52:48.04 ID:uYzvbfI2o
「でも、一応、枝野にも話を通しとかなきゃな。……頼める?」
「みさと」はしばらく黙り込んだ後、小さく頷いた。
「じゃあ、頼んだ。べつに書かないっていうならそれでもいいだろうし。あとは……」
ちらりと大澤の方に視線を向けると、彼は戸惑ったように目を泳がせた。
「部長」と俺は呼んだ。
「……なに」
大澤は警戒したように眉をひそめる。
「詳細。詰めとかないと。締め切りくらいは決めとかないと」
「……みんなはどう思う? どのくらいあれば書ける?」
大澤の問いに、俺たち三人は考え込んだ。
「……俺は、まあ、二週間あれば書けると思う」
「……ホントですか?」となぜか千歳が怪訝そうに訊ねてきた。
俺は頷いた。文化祭で長いものを書いたばかりだったから、そんなに量を書く気にはなれなかったし、規模を考えれば妥当なところだろう。
「藤見は?」と、今度は千歳に向けて、大澤は訊ねる。
「わたしは……どのくらいかかるか、正直、わからないです。でも、締め切りが決まったら、それに間に合わせるようにはしますけど」
「……西村は?」
誰のことだろうと思って大澤の視線の先を見ると、どうやら「みさと」のことらしかった。俺は忘れないように頭の奥の方にその名前を刻むことにした。
さすがに彼女のことを下の名前で呼ぶ勇気はない。
272: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/16(土) 22:53:31.32 ID:uYzvbfI2o
「……わからないけど、一月あれば、たぶん」
「……そっか」
ふたりの雰囲気はあきらかにとんがっていて、俺と千歳は目を合わせて気まずい思いを視線だけで共有した。
あー、部内の恋愛ってこういうことがあるから控えるべきなんだなー、なんて思いつつ。
「俺はできれば二学期中に出したいと思ってる」
「……来月中にってこと?」
「うん。文化祭みたいに明確なイベントがあるわけじゃないから、時間かけるとグダグダになっちゃうと思うんだよ」
それは、たしかにそうかもしれない。
来学期となれば、休みを挟んでしまうわけで、そうなったときにモチベーションが続いているとは限らない。
やる気になっている間に作ってしまえるのが理想なのだろう。
……ここにいる奴らにやる気といえるほどのやる気があるのかは、微妙なところかもしれないけど。
273: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/16(土) 22:54:13.37 ID:uYzvbfI2o
「今日、何日だっけ?」
「十一日」
俺の返事に、大澤はぽかんと口をあけた。
「ポッキーの日だ」
沈黙。
「……そうですね」
と千歳が気をつかったみたいに言った。大澤は気まずそうに頭をかいた。
「じゃあ、来月の……十六日に発行ってことでどう?」
冬休みの直前だな、と俺は思った。俺は他のふたりの様子を見てから返事をした。
「それでいいと思うよ」
大澤は戸棚の中にしまってあった卓上カレンダーを見ながら唸り声をあげて、
「となると、締め切りは……十二日かな」
そう言った。十二月第二週の木曜日。金曜日を制作にあてるとしたら、まあ、土日も挟むし妥当なところかもしれない。
……いやいや。
「……期末直前じゃない?」
「あっ」
「べつにいいんじゃないですか?」
戸惑った声をあげた大澤とは真逆に、たいした問題でもないだろう、と言いたげに千歳は口を挟んだ。
274: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/16(土) 22:55:11.75 ID:uYzvbfI2o
「多少余裕はある日程ですし、土日もありますから、なんとかなるんじゃないでしょうか」
「みさと」……西村の方も、何が問題なのかわからない、というふうに頷いた。
「……優等生がいる」
「一夜漬けとかしないんだろうな……」
俺は大澤とひさしぶりに分かり合えた気分になったが、どう考えても分かり合えない方が幸せだった。
「まあ、ほら。せんぱいたちは二年分の経験があるわけですから、余裕を持って完成させればいいんじゃないでしょうか」
いかにも他人事という口調で、千歳はニッコリと笑う。
つーか、期末直前ってことは、部活動休止期間だと思うんだけど……まあそこらへんは曖昧な部だし、いいのだろうか。
とはいえ、一月という作業期間が必要と考えると、最低でも十一日がラインとなってしまうわけで、最短でもテスト前には変わらない。
「……まあ、勉強と並行してやれば、なんとかなるか」
大澤はいかにも器用そうな言い分で納得していた様子だった。
不安が残るのは俺だけなのか。
275: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/16(土) 22:55:59.18 ID:uYzvbfI2o
◇
そんなふうに思っていたら、翌日の部活には枝野がやってきて、
「期末の直前が締め切りって、何考えてんの!」
と俺に向かって怒鳴りかかってきた。
「なんで俺に言うんだよ。部長の決定だよ」
戸惑いながら返事をすると、彼女はちらりと大澤の方を見てからふたたび俺をキッと睨んで、
「ていうか、そんな大事な話を、なんでわたしなしで決めちゃったの?」
「千歳が声掛けたんだろ。部室に顔出さなかったのはきみでしょう」
というか、今までだって部誌についての話し合いに顔を出したことなんてなかったじゃないか、と俺は思った。
「部誌の話だなんて聞いてなかった」
そりゃ、千歳が招集を掛けた時には、まだ本決まりじゃなかったし。
「ていうか、作るならなんでもっと早く言ってくれないの?」
「いや、決まったのが先週だし。期限と発行日を決めたのは昨日だし」
「聞いてない」
「だから、いなかっただろ」
困り果てて西村の方を見ると、彼女はちょっと面食らった様子で苦笑いしていた。
たぶん、今日枝野に話をしてみたのだろうが、ここまで際立った反応を見せるとは想像していなかったにちがいない。
少なくとも俺はしてなかった。
276: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/16(土) 22:56:51.65 ID:uYzvbfI2o
「なんとかなるだろ」
口を挟んだのは大澤で、奴は今日、部室に顔を出してからすぐにノートを広げてペンを握っていた。
「つーか、俺はもう一本完成させた」
大澤は当たり前みたいな口調でそう言った。今度ばかりは西村も苦笑いとはいかなかった。
「……完成させた?」
西村の真剣な声音に、枝野すらも口を挟めなくなってしまった。
千歳の方を見ると、彼女は成り行きを眺めながらはらはらした表情をしていた。
「書けないって言ってなかった?」
「……いや、書けないっちゃ、書けないままだけど」
しどろもどろに言い訳をする大澤の姿は、普段俺と話しているときの彼とは別人のようにも見えた。
「意味わかんない。完成させたんでしょ?」
「一本な」
「なにそれ。……なにそれ。意味わかんない」
西村の声はかすかに震えていて、怒っているのか悲しんでいるのか、その両方なのか、よくわからなかった。
それもそのはずだ。俺は彼女とコミュニケーションらしいコミュニケーションをとったことがないんだから。
277: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/16(土) 22:58:27.29 ID:uYzvbfI2o
「ばかみたい」
と一言つぶやくと、西村は部室の隅のパイプ椅子に腰掛けたまま俯いてしまった。
大澤はなにか声をかけようとしていたみたいに見えたが、なんと言えばいいのかわからないのか、途方に暮れたような顔をした。
痴話喧嘩(と言っていいのかわからないが)に毒気を抜かれたのか、枝野は口を閉ざして、最後に俺の方を不満気に見つめた。
俺のせいじゃない、と俺は思った。俺のせいじゃないよな?
助けを求めるように千歳の方を見ると、彼女は困ったみたいに声を出さずに笑った。
消去法、と千歳は言った。
たしかにこの部内に助けを求める相手がいるとしたら、俺たちにはそれぞれ互いにしかいないのかもしれない。
気を取り直すつもりで、俺は枝野に声を掛けた。
「でも、枝野は川柳だろ。だったら、なんとかなるんじゃないか」
「なにそれ。川柳だったらすぐにできるとでも思ってるの?」
小説よりは時間がかからないんじゃないかなあと思ったけど、俺は川柳を書いたことがないので、ちょっと無責任な物言いだったかもしれない。
「……まあ、今までのは五分くらいで書いてたけど」
反省しかかった俺の心が微妙に揺らいだ。言い返そうか迷ったけど、結局何も言わなかった。
「……締め切り、いつだっけ?」
少しの沈黙のあと、枝野は俺に向けて問いかけてきた。これもきっと消去法なんだろう。
「来月の十二日」
俺の答えに、彼女は少し苦しそうな顔をした。どうしてだろう。今までの彼女とは様子が違う気がする。
「……そう」
とだけ言ってしまうと、彼女は鞄も持たずに部室を出て行った。
278: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/16(土) 22:58:58.76 ID:uYzvbfI2o
追いかけようかどうか、一瞬だけ迷ったけど、よく考えてみれば追いかける理由もないのかもしれない。
それでも、なんとなく放っておけない雰囲気はあった。だからといって、俺が追いかけてもどうにもならない。
「せんぱい?」
さっきまで座っていた千歳が立ち上がって、俺のことを呼んだ。
そういえば彼女は、他の奴らには苗字や名前をつけて呼ぶくせに、俺のことは「せんぱい」としか呼ばない。
名前を覚えていなかったことに対するあてつけなのかもしれない、と思うのはさすがに卑屈すぎるかもしれない。
「なに?」
「追いかけないんですか?」
「……俺が? どうして」
「枝野先輩、様子が変でしたよ」
「……それは、わかるけど」
それはわかるけど、あいつは結局何も言わないで出て行った。
そんなやつを追いかけて、いったい何をしろっていうんだろう。……この考え方がダメなのか?
「……わたし、少し気になります」
「それは、俺も、そうだけど……」
でも、枝野と俺の関係は少し面倒だ。あいつが未だに気にしているとは、さすがに思っていないけど。
「じゃあ、わたし、行ってきますね」
と言って、千歳は部室を出て行った。なんだか自分が悪者になったみたいな気分がした。
結果的に部室に残ったのは大澤と西村、そして俺だけで、空気は刺さりそうに鋭かった。
仕方なく俺は立ち上がって部室を出て千歳の後を追うことにした。
こいつらもふたりにすればちゃんと話ができるかもしれない、という思いつきは後付で、とにかくその場を離れたかったというのが正直なところだ。
我ながら情けない。
281: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/20(水) 00:44:15.89 ID:HSf2wubGo
◇
枝野も千歳も、屋上にいた。
後ろ姿を見たわけじゃなかったからどこにいたのかはわからなかったけど、なんとなく屋上に向かったら、そこにいた。
本当に。
そこしかないのかと言いたくなるくらいに。当たり前みたいに。
彼女たちは屋上に向かう。
「あんたなら、わかるのかな」
鉄扉を開いた直後、そんな声が聞こえた。
フェンスのすぐそばには枝野が立っていて、彼女はそこから街を見下ろしている。
千歳は枝野のすぐ後ろに立っていた。
俺が来るまでの短い間に、どんな会話があったのかはわからない。
だから、その言葉の意味もよくつかめなかった。
そして彼女たちは、扉のきしむ音に気付いてこちらを振り返ると、すぐに話すのをやめてしまった。
すこし気まずそうな顔をして。
「直接、聞いてみたらいいんじゃないですか?」
千歳は、枝野に向けてそう言ったみたいだった。千歳の目はこちらを向いていた。
状況が、うまくつかめなかった。
282: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/20(水) 00:45:57.20 ID:HSf2wubGo
「そんなことをして言葉のうえだけで理解しても、意味なんてない気がする」
枝野もまた、俺の方を振り返った。いったいどんなやりとりがあったというんだろう。
「せんぱい」
戸惑ったまま屋上に足を踏み入れられない俺に向けて、千歳はそう呼びかけた。
俺は少しためらったけど、結局ふたりのもとに近付いていく。
「枝野先輩、小説を書きたいんだそうです」
「……小説?」
「……そうでしたよね、先輩」
千歳の問いかけに、少し緊張した面持ちで、枝野は頷いた。
「どんな心境の変化?」
「いろんな、心境の変化」
枝野の答えは漠然としていたけれど、まあ、彼女の心理状況を俺が把握している理由もない。
「いいんじゃない?」
俺は無責任に答えた。
283: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/20(水) 00:46:52.68 ID:HSf2wubGo
「だから、締め切り怒ってたのか」
「……ごめん」と枝野は謝った。
「いや。来なかったとはいえ、勝手に決めたのは俺たちだし。でも、きみがそこまで怒るのは意外だった」
「べつに、怒ったわけじゃなくて……」
枝野は、言葉の続きを言わなかった。いつもそうだ。
伝えることを諦めるみたいに、伝わらないことを怖がるみたいに、思ったことを最後まで言ってくれない。
言いたいことはたしかにあるはずなのに、それを上手く言葉にできないみたいに。
その気持ちは、分かる、と思った。錯覚かもしれない。勝手な感情移入かもしれない。
「……いいや、べつに」
と枝野は言った。
「……いいって、何が」
俺の問いかけに、枝野は首を振った。
「なんでもない。そう。わたしも、せっかく部室に顔出すようになったから、ちょっと文芸部らしいことをしたかっただけ。
次に何かやるときは、わたしも何かしてみようって、そう思ってただけ。……わたしが勝手に、思ってただけだから」
それで。
何がいいんだよ、と俺は思った。
「でも、べつにいいや。書こうと思えば、部誌なんかに載せなくたって、いくらだって書けるもんね」
284: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/20(水) 00:47:47.10 ID:HSf2wubGo
「……いや、書けよ」
「……え?」
意外な言葉を聞いたみたいに、枝野は目を丸くした。
「書こう。枝野も、千歳も、俺も、みんな書くんだ」
「……なに、急に」
戸惑ったみたいに彼女は視線をあちこちにさまよわせた。
「書くんだよ。今までみたいな、閉じこもった奴じゃない。開けたものを書くんだ」
「……せんぱい?」
押し付けかもしれない。
でももういやだった。
言いたいことを飲み込んで、自分には関わる視覚がないとか、俺が口を出す問題じゃないとか。
そんなふうにして言葉を飲み込んでいるうちに、誰とも関われなくなるのは。
そうした先に立ち上る問題なんて、結局、自分自身のものでしかなくて。
そんなのはいくら続けたって、結局袋小路にしか繋がっていない。
285: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/20(水) 00:48:21.71 ID:HSf2wubGo
無責任かもしれないし不誠実かもしれない。
でも、口出ししたい。
俺は誰かと関わりたい。これはエゴだ。
「そのために何かが必要だっていうなら、俺にできることなら協力してやる」
上から目線で、断言する。枝野は呆れたみたいに笑って溜め息をついた。
「あんたが? ……どういう風の吹き回し?」
「俺は、枝野が書いたものを読んでみたい」
「……」
「千歳が書いたものをもっと読んでみたい。いろんな人が、どんなものを書くのか、どんなものを書きたいのか、知りたい」
「……」
「だってそれは、俺が書きたいものとは違うはずなんだ」
そこには、俺が知らない景色があるはずだ。
俺が見過ごしてきたもの、見失ってしまったもの、取り戻そうともがいているもの。
彼女たちの目には、ひょっとしたらそれが映っているのかもしれない。
286: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/20(水) 00:49:10.15 ID:HSf2wubGo
俺の腹の内側には、その奥の奥の方には、今でもドロドロとした澱みが熱を持ったままうずくまっている。
決してなくなってくれない。目を逸らしたってふとした瞬間に喉元までせり上がってくる。
ごまかしたって、どこか騙しきれていない。だから俺の日常は上っ面の響きばかりで、中身がない。
“そいつ”は言う。
何をしたって無駄だって。結局くりかえすだけだって。おまえはなにひとつ手に入れられないんだって。
くだらない夢は見るなって。所詮おまえには無理なことだったんだって。
その暗闇の中で横たえるのはきっと心地よいことで、だから俺は、今だってそこに逃げ出したくてたまらない。
吐き出すのは怖い。受け止めてもらえないのは悲しい。分かってもらえないのは苦しい。
バカにされるのは悔しい。吐き捨てられれば虚しい。優しさなんかに甘えられない。リスクばかりでリターンが期待できない。
全部が全部無駄なんだ。おまえはなにも成し遂げてこなかったんだ。
なにひとつ変えられなかったんだ。もう諦めろよ、と“そいつ”は言う。もがいたって苦しいだけだよ。
ばかばかしい考え。子供っぽい、安い悩み。連続ドラマでも一話で消化されるようなちっぽけな思い悩み。
“そいつ”にとらわれたまま、今だって自由に身動きできやしない。
俺は、それでも、こんな感傷を、自己否定を、懐疑を、胸の内側から、ぜんぶ、ぜんぶ弾き飛ばせる日を待っていた。
何かを決定的に変えてくれる、そんな瞬間がいつか訪れるんじゃないかって期待してた。
287: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/20(水) 00:49:43.60 ID:HSf2wubGo
でも……そんなのは全部俺の都合で。
だから、説得力なんてあるわけもなかった。
「人が書いた話を読みたいなら、本でも読みなよ」
枝野は、ずっと前、文化祭の前までにしていたみたいに、俺に向かってさめた目を向けた。
「どうしてわたしが、あんたに読ませるために何かを書かなきゃいけないの? あんたの期待通りのものを書かなきゃいけないの?
あんたに頼まれて、仕方なく何かを書かなきゃいけないの?
あんたはバカで、ひとりよがりで、当たり前のことにケチをつけて生きてるみたいな人間だけど……
――それでもわたしは、あんただけは、誰かに何かを強制するような奴じゃないって、そう思ってたのに」
彼女の言葉に、足がすくんだ。
「人に、縋らないでよ」
290: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/23(土) 00:21:05.96 ID:xVQcaVS0o
◇
部活を終えて校門を出たとき、ふと空を見上げると、雪が降っていた。
溜め息をつくと、白く染まって空へとのぼっていく。
雪だよ、と俺は頭の中で誰かに話しかけた。
もう冬だ。
もちろん返事は帰ってこなかった。
あのあと、枝野は屋上を去っていった。腹を立てたというよりは、むしろ、何かを見ないようにしたみたいな態度で。
ふたりきりで取り残されたあと、千歳はこんなことを俺に向けて言った。
「せんぱい、閉じたとか、開けたとか、なんの話ですか?」
俺は返事をできなかった。
「なにか、ちゃんとした意味があるんですか?」
「……」
「わたしには、よくわからなかったです。でも、言葉にはきっと、ちゃんとした意味があるんですよね?」
「……」
「だったら、ちゃんと伝わるようにしないと、伝わらないと思う。伝えたいなら、ですけど」
「……そうだね」と俺は頷いた。それからしばらく黙り込んでいたけど、結局千歳の方が先に屋上を後にした。
扉の閉まる音。
ほらな、と俺は思った。繰り返している。
291: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/23(土) 00:21:37.95 ID:xVQcaVS0o
――人に、縋らないでよ。
枝野の言葉は、たぶん、近頃の俺が抱いていた不安や怯えの原因を、的確に突いている。
結局俺がしていることは、枝野があっさりと看破したとおり、一方的な押し付けなのかもしれない。
でも、他にどうできるっていうんだ。
いったいどうなれば、変わったことになるんだ?
俺はずっと同じところをぐるぐる回っているだけじゃないのか。
結局今も、何も変わらず、居てもいなくても変わらない、そんな存在のままなんじゃないのか。
「……やめよ」
考え事をそこで打ち切る。ぐだぐだと考えることで得られるものなんて、きっと何もない。
ただでさえ俺は、そんなことで今まで時間を無駄にしすぎていたんだ。
「本当にそう?」
「え……」
声に、振り返る。でも、そこには誰も立っていなかった。
「……なんだよ」
無性に悲しいような気持ちで空を見る。雪が降っている。
立ち止まったままの俺を追い越して、何組もの生徒たちが空を見ながら歩いていく。
「寒いね」
「うん。寒い」
そんなやりとりを、なんでもないようなやりとりを、楽しそうに。
俺は何も考えないことにした。
一度や二度の失敗で全部やめてしまうわけにはいかない。
292: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/23(土) 00:22:18.07 ID:xVQcaVS0o
「……なあ」
後ろから、追いかけるような足音。関係のないものとして聞き逃していたら、不意に声を掛けられた。
「今、平気か?」
振り返ると、立っていたのは大澤だった。
「……ああ、うん」
これから、帰るところだし。俺の返事はそんな曖昧なものだった。
「ちょっと、話したいことがあるんだけど」
「……なに?」
「歩きながら話せる?」
「いいよ」
そして俺たちは並んで歩き始めた。彼とふたりで帰るのは、そういえばめったにないことかもしれない。
293: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/23(土) 00:24:14.70 ID:xVQcaVS0o
「寒いな」と大澤は言った。
「冬だからね」
「そうだよな。冬だもんな」
不意に立ち止まって、彼は空を見上げる。
雪が降っている。
「振られた」
しばらくの沈黙の後、彼は呟くようにそう言った。
「え……」
俺は驚いたけれど、考えてみれば、それほど驚くようなことではなかったかもしれない。
なかば予測していたことだったかもしれない。
「どうして?」
それでもそう訊ねたのは、大澤が言葉を続けなかったからかもしれない。
「……まあ、ここ数週間、連絡にろくに返事もしてなかったし。会っても会話もしなかったし」
「どうしてそうなったんだろう」
本当に素朴な疑問として、俺は訊ねた。
294: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/23(土) 00:24:44.83 ID:xVQcaVS0o
「どうしてって?」
「どうして、連絡に返事もしなくて、会っても会話をしなかったのかって話」
「……」
「書けなかったから?」
「……よくわからない」
本当によくわからないのかもしれない。そう思ったけど、俺は彼じゃないから、本当のところはわからなかった。
「好きじゃないなら、付き合ってる意味が無いって」
「……」
「そう言われた」
「……好きじゃなかったの?」
彼は首を横に振った。
「好きだったよ。……好きだと思う。今も」
「じゃあ……」
「信じてもらえなかった」
俺は何も言えなかった。
295: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/23(土) 00:26:49.11 ID:xVQcaVS0o
「それはそうなんだよな。結局、ずいぶん長い間無視してたのと変わらないわけだし。
たしかに、それで今更好きだなんていっても、空々しいっつーか、どの面さげてって感じだし」
「……」
「でも好きなんだよ」
「……でも、信じてもらえなかった」
「そう。まあ、そりゃそうだ」
「……」
「……別れるの?」
「振られたから」
「……そのまま?」
「他にどうしろっていうんだよ」
そんなのは俺にもわからなかった。
296: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/23(土) 00:27:45.62 ID:xVQcaVS0o
◇
「訊いてもいい?」
大澤は気だるげにこちらを振り向いた。
「なに?」
怪訝そうな顔。俺はそのまま問いを重ねる。
「なんで、書けなかったの?」
「……」
「それと、なんで、書けるようになったの?」
「……二番目の質問に対する答えはシンプルだけどな」
「なに?」
「締め切りができたからだよ」
「……なるほど。一番目は?」
大澤はすぐには答えてくれなかった。
297: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/23(土) 00:28:11.83 ID:xVQcaVS0o
しばらくしてから、
「ラーメン屋ってあるだろ」
とよくわからないことをいう。
「はあ」
そりゃあるよね、と俺は思った。
「おまえ、初めて行くラーメン屋で何食う?」
「……いや、場合と気分によるけど」
「俺はどんな店に入っても最初は必ず基本っぽいものを頼む。
いちばん基本っぽい奴。ただの味噌ラーメンとかただの醤油ラーメンとか。
店名がついてるような奴だ」
「はあ」
298: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/23(土) 00:28:46.35 ID:xVQcaVS0o
「で、こないだ、ひとりでラーメン屋に行ったんだよ。国道沿いに新しくできた店あるだろ。チャリでパパっと行ってきたわけだ」
「うん。え、俺も食べてみたい」
「じゃあ今度一緒に行くか。そんで、俺はまあいつもどおりのベーシックスタイルで臨んだわけだよ。
店の名前がついた味噌ラーメンと餃子頼んで。まあそれがなかなかにうまかった」
「……はあ」
「話は変わるけど、部誌に載せた俺の話、あれどうだった?」
「……ほんとに急に話が変わるな。……良かったと思うけど」
「七本載せた。どれがいちばん良かった?」
「『骨と猫の夢』」
「……評判がよかったのは『目抜き通りの花屋』だった」
……話のテンポを無駄に悪くしてしまった。
「……そうなんだ」
気を取り直して、俺は続きを促した。
「けっこういろんな奴に褒めてもらったよ。自分でいうのもなんだけど、俺もけっこう満足してるし。
まあ思い返すと、微妙かなってところもあるけど、そこそこね。気に入らないって言ってた奴もいたけど。
それはいいんだ。でも、なんていうかさ……」
「うん?」
「よくわからなくなってきたんだ」
「なにが?」
299: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/23(土) 00:29:12.39 ID:xVQcaVS0o
「褒められても、そこで満足するわけにはいかない。貶されても、耳を貸す必要はあまりない。
だったら、俺は何をやってるんだろうって思うんだ。いったい何をしたくて文章を書いてるんだろうって」
「……自分を追い込んでるなあ」
「そういう気分のとき、ない?」
いつもだよ、と答えようかどうか迷った。
たかだか部活なのに。誰が褒めてくれるわけでもないのに。誰かが褒めてくれたとしても、そこで満足するわけにはいかない。
それでも書かなきゃいけない。
……どうして?
「……西村が言ってた」
大澤は、忘れていた棘がちくりと痛んだような顔をした。
「なんて?」
「おまえは、書くことに呪われてるって」
「……」
会話がそのまま途切れてしまった。いつも通る道の角のコンビニが見えてくる。
大澤は大真面目な顔で面をあげると、
「……おでん食べたい」
とポツリと呟いた。
……ラーメン屋の話はどこにいったんだ?
300: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/23(土) 00:30:02.44 ID:xVQcaVS0o
◇
夕方過ぎのコンビニは混みあう予兆みたいなものを見せていた。
大澤は迷わずにレジに向かっておでんを買った。玉子と大根としらたきと厚揚げ。ほんとにベーシックな攻め方をするやつだ。
せっかくなので俺も肉まんを買って店を出た。
軒先に立ち並んでもそもそと食にふけっていると、ふと、
「あー、薄情者ー!」
そんな声が飛んできた。
声の元にはひなた先輩が立っていた。格子柄の茶色いマフラーで口元を隠している。
少し距離を置いたまま、こちらを見上げて白い息を吐いている。
俺は大澤を肘でつついた。
「呼ばれてるぞ」
大澤は大根を一口かじって悠々と飲み込んでから答えた。
「おまえだろ?」
「どっちもだよ! 薄情者共ー!」
「心当たりある?」
「……あるような、ないような」
301: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/23(土) 00:30:41.16 ID:xVQcaVS0o
呆れたような目で俺たちを見上げたまま、ひなた先輩は不満そうに声をあげる。
「部誌作るんでしょ? なんで教えてくれなかったの?」
「……あー」
「千歳さんが教えてくれなかったら、今でもわたし、知らなかったよ」
「あ」
「え?」
「……勘違いの原因が分かった気がする」
俺のつぶやきに、ふたりは目を合わせてきょとんとした。
「いや、千歳の名前のこと。俺が苗字と名前勘違いしてたやつ」
「……え、まだ覚えてなかったの?」
ひなた先輩は呆れた口調でつぶやいたけど、そのやりとりは繰り返しすぎてもう食傷気味だ。
「先輩が、さん付けで呼んでたからかも。下ならきっと、ちゃん付けなのかなって」
「……あー」
分からんでもない、という顔を大澤はした。
302: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/23(土) 00:31:09.20 ID:xVQcaVS0o
「……よくわからないけど、わたしのせいにされてる?」
「いえ。まあ、俺が悪いんですけどね」
そうだよ、俺が悪いんだ。
全部。
――人に、縋らないでよ。
当たり前の努力を怠った奴が、他人を当てにするなんて間違ってる。
「でも、千歳さんは、わたしから見たら、こう、さん、って感じなんだよ」
それもまあ、分からんでもない、という顔で、大澤はうんうん頷いた。
俺もなんとなく分かる。
彼女はふーと溜め息をついてから、寒そうに両手のひらをすりあわせて、俺たちのまんなかに並んだ。
それから彼女は大澤の持っていたおでんの器を覗きこんで、
「それ、おいしそうだねー」
と笑った。大澤は事も無げに返事をする。
「食べます?」
……さっきまで彼女がいた奴のすることかよ、と思ったけど、まあこのくらいは普通なのかもしれない。
どうなんだろう。なんだか最近の俺にはよくわからなくなってきた。
303: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/23(土) 00:32:03.75 ID:xVQcaVS0o
「いいの? ほんとに? いやー、なんか悪いねー、要求しちゃったみたいで。
ホントそんなつもりなかったんだけどね。ホント。でもほら据え膳食わぬはっていうしね」
「最後のは違うと思いますけど」
「ありがとう、それじゃ、いただきます」
といって部長は箸と器を大澤から受け取る。俺はなんだか無性にもぞもぞと落ち着かない気持ちになってその様子を眺める。
なんだろう。
彼女の握った箸が厚揚げを持ち上げたとき、ふと気づくと俺の手(肉まんを握ってなかった方)は勝手に動いていた。
俺は箸を握る先輩の腕を引き寄せて、箸の先の厚揚げに顔を寄せてかじりついてた。
「あっ」
「え」
「……」
咀嚼(舌をやけどした)。
「……えっ」
「……」
嚥下(喉が熱かった)。
「……え、ええー!」
「おまえ……何やってんの」
信じられないようなものを見るような二対の視線を向けられて、俺は自分のしたことを遅れて認識した。
304: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/23(土) 00:32:31.91 ID:xVQcaVS0o
「……え、俺、いま……」
「な、なにをする! なにをする!」
「あ、いや、すみません、すみません」
よくわからないなじりかたで、ひなた先輩は俺の背中をばしばし叩いた。
「うわー、わたしの厚揚げ……」
「……ほんと、すみません」
「謝って済む問題じゃないよ! 戦争だよ、報復だよ、民族紛争だよ……」
混乱のせいか、先輩の語彙の選択はいつもよりずっと意味がわからなかった。
俺はとりあえず平謝りして先輩の怒りを鎮めたあと、二人のために新しくおでんを買った。
器は三つに分けてもらった(店の中はけっこう混んでいたから、けっこう面倒な客だったかもしれない)。
先輩はレジまでついてきて、俺の横に立ってうれしそうにおでんを注文した。
「玉子ふたつと、さつま揚げと、こんにゃくと、あと牛すじもください」
……夕飯前じゃないのか、と俺は思った。
ひょっとして俺が払うことになるんだろうかと思っていたのに、先輩は自分の分は自分で払った。
なんだか申し訳なかったけど、全部払うのはそれはそれで図々しい気がして、仕方なく厚揚げの分の百円だけを先輩に渡した。
先輩はちょっと困ったような顔をしていたけど、結局はそれを受け取ってくれた。
305: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/23(土) 00:33:09.75 ID:xVQcaVS0o
「ほんと、すみません」
何度目かの謝罪のあと、先輩はどうでもよさそうに「いいよいいよー」と笑った。
「つーか、もともと俺の金ですけどね」
大澤は、俺が代わりに買ってきた厚揚げをもさもさ頬張りながらぽつりと呟く。
「……ほんと、すまん」
「いや、いいけどさ、べつに。ちょっとびっくりしたけど」
「ほんとにね。そんなに厚揚げ好きだったの?」
べつにそんなことはなかったような気がするのだが、それ以外に理由が浮かばなかったので、俺は否定しなかった。
三人で並んだままおでんを食べきったあと、先輩は満足げな溜め息をついた。
「それにしても、雪だねえ」
ちらちらという雪は、軒先にまで舞い込んで俺たちの肌に冷たさを押し付けてきた。
「初雪ですかね」
「ううん。違うよ。このあいだの朝降ってたもん。でもきっと、この雪はすぐに止むと思う」
「……はあ。勘ですか?」
「なんとなくね。止む雪と止まない雪って、感覚で分かるでしょ?」
そうだろうか。俺にはよくわからない。どんな雪も、いつまでも降り続けてしまうような気がしてしまう。
いつも、気付くのは止んだあとだ。
306: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/23(土) 00:34:11.58 ID:xVQcaVS0o
「それじゃ、わたしはもういくね」
先輩はゴミを捨てて手ぶらになってから、背負った鞄を揺らしながら背中を向けて歩いて行った。
それから不意に振り返り、
「部誌、進んだら教えてね。できあがったら、読ませてね」
「はい」と答えたのは大澤だった。俺は返事もできなかった。
最後に彼女はこちらを見て笑った。俺は黙ったまま頭を下げた。
先輩の姿が見えなくなってから、「できあがったら」という言葉を頭の中でくりかえす。
俺は枝野を怒らせてしまった。
大澤は西村を怒らせてしまった。
……先行きは、不安かもしれない。
307: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/23(土) 00:35:05.44 ID:xVQcaVS0o
つづく
309: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/26(火) 00:37:52.11 ID:Iz5eP0eko
◇
そして俺は家に帰った。
大澤はいつもみたいな調子で「じゃあな」と言った。俺も「じゃあな」と言った。
彼は西村との間に何もないみたいな調子で「じゃあな」と言った。
俺も枝野に言われた言葉なんて忘れているふりをして「じゃあな」と言った。
みんな隠してるんだと思った。それなりのもの。そこそこのもの。
なんでもないように振る舞ってる。
見てほしいものもあれば見てもらいたくないものもある。
誰にも明かさないものもあれば誰かにだけ話すものもある。
――世界が、ひとつだったら、よかったよね。
誰かのそんな声を、ふと思い出す。
誰が言ったんだっけ? どこで聞いたんだっけ? もう思い出せない。
まだ雪が降っていた。積もりそうにもないけど、まだ止みそうにも見えない。
すぐ止むと思う、と先輩は言っていた。
でも、本当に止むんだろうか。
そんなことが妙に心配になったのはどうしてだろう。
310: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/26(火) 00:38:18.23 ID:Iz5eP0eko
枝野のことを思い出す。
俺はどうするべきだったんだろう、と少しだけ考える。
今は雪が降っていて、だから考え事はスムーズに進んだ。
それに俺は今ひとりだったから、取り繕ったり気をつかったりする相手もいなかった。
おかげで甘えた気持ちが湧き出してくる。
べつにひとりのときくらい落ち込んだっていいじゃないか、と。
でも、その考え方は明らかに間違っていた。
ひとりだからといって甘ったれているわけにはいかない。組み立てられた思考はすぐに外側に溢れ出る。
だから俺は考えるべきじゃなかった。
でもどうして考えるべきじゃないんだろう。どうして外側に溢れ出てはいけないんだろう。
何かがおかしいと思った。
枝野。
俺は謝るべきだったのかもしれない。たしかに強引だった、と。でもそんなのは言い方の問題だ。
俺は思った通りのことを言って、そうしたら枝野は怒った。ごく平凡な結末だ。
説得すればよかったんだろうか。
でも、それすらも、やっぱり縋っていることになるんだろうか。
――それでもわたしは、あんただけは、誰かに何かを強制するような奴じゃないって、そう思ってたのに。
思い出しているうちに、むかむかとしてくる。何か悪いものでも食べたときのように。
耳鳴りがして、頭がうまく働かない。
苛立っているんだと気付く。あのときはただ、呆然としてしまったけど。
枝野の言葉を思い出すと、腹が立つ。
311: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/26(火) 00:38:51.75 ID:Iz5eP0eko
なぜ腹が立つのか、わからない。
わからないというより、考えたくなかったのかもしれない。
考えるべきではない、と考えていたのかもしれない。
だって悪いのは明らかに俺なんだ。
家に帰るとリビングで妹がしくしくと泣いていた。まただ、と俺は思った。
シャボン玉を吹こうにも雪が止んでいない。
なんなんだよ、と俺は思う。
千歳は、俺が変わったと言った。でも俺は何も変わってない。
なにひとつ変わってなんかいない。なにも変わりやしない。
俺は黙ったままリビングを抜けてキッチンに入りお湯を沸かし、コーヒーを入れた。
「ココア飲む?」
訊ねると、妹はこくりと頷いた。何をどうできるというんだろう。
マグカップをふたつ持って妹の前に並べ、俺も隣に座る。
床は冷たかった。
「雪が降ってるな」と俺はどうだっていいようなことを言った。
妹は相槌すら打たずに曖昧に頷く。どうだっていいようなことなのだ。返事だってどんなものだってかまわない。
312: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/26(火) 00:39:32.49 ID:Iz5eP0eko
何ができるんだよ、と俺は思う。
こういうとき、良い方法がある。心情を一言でまとめてしまうのだ。
ああ、なんだかやるせないな、と。
それひとつだけに留めて、それ以上を考えないようにしてしまえばいい。
俺はこれまで、しばらくの間、なるべく、そうやって押しとどめてきた。
でも無駄だった。なくなるわけじゃない。隠されるだけなんだ。表に出てこなくてもそれはちゃんとある。
分かっていたはずだ。言葉が意味を矮小化させるとしても、事実までは縮小してくれない。そんなのは気分の問題でしかない。
「……なにかあった?」
そう、俺は訊ねてみた。答えは何もなかった。しばらく経ってから妹は手のひらで目元を拭う。
そして、
「なんでもない」
そんな言葉を吐いた。なんでもないわけがない。そんなのは分かってる。こいつだって信じてもらえるなんて思っちゃいないだろう。
でもそれ以上どんな言葉がありうる? こいつは話してくれないし、話してもらえたところで俺に何かができるわけじゃないのだ、きっと。
313: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/26(火) 00:40:24.34 ID:Iz5eP0eko
いたたまれなくなって、俺はコーヒーを一気に飲み干した(火傷が悪化した)。
それから立ち上がって、妹の頭の上に一度手を乗せた。彼女は曖昧に笑いながら俺を見上げた。
いたたまれなさが増すだけだった。
財布と携帯だけを持って玄関を出た。べつに何かを考えたわけじゃない。何かがしたかったわけじゃない。
でもここにはいたくなかった。もうこんなところは嫌だった。だから抜け出そうとしたはずだ。
抜け出そうとしていたはずだ、いつだって。
本当に、世界がひとつだったら、どれだけよかっただろう、と俺は思う。
――人に、縋らないでよ。
やめちまえよ、と俺は思う。自転車に乗ってあてもなく出かけたくなる。
もう日暮れなのに。
だからといって行き先がないんじゃ話にならない。体を動かしてれば頭だって冷えてくる。
行き場がないことなんて最初から分かっていた。
結局俺は近所のコンビニに行ってジュースを買って店先で飲んでゴミを捨てて帰った。
すれ違った客たちも店員も誰も彼も、俺がこんな気分だってことには気づかなかっただろう。
逆だって同じだ。
見えている世界はみんな違う。
俺はコンビニの入り口に貼ってあったバイト募集のチラシを携帯で撮影して家に帰った。
まだ何かに縋ろうとしている。
でも、ほかにどうできるというんだろう。
314: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/26(火) 00:41:04.80 ID:Iz5eP0eko
◇
家に帰ると妹はいつもみたいな顔で料理を始めていた。俺も彼女もさっきのことについては何も言わなかった。
部屋に戻り、夕飯までの間にノートを開いて小説を書こうとしてみた。
ぐだぐだとくだらないことを考えているときは、いつだって簡単に何かを書くことができる。
ぐだぐだとくだらないものばかりだけど。
でも俺は、そんなものじゃない、もっとべつの、何か他のものを、書こうとしていたはずだ。
何ができるというんだろう、と俺はもう一度考えてみた。
あるはずだ。
きっと何か、取りうる手段が。
ノートを三ページほど埋めた。一ページ一編。でもどれもこれもが何でもなかった。
どこにもたどり着かなかった。
315: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/26(火) 00:41:47.90 ID:Iz5eP0eko
◇
夕飯を食べてから部屋に戻り、またノートに向かおうとしたとき、携帯にメールが来ていたことに気付く。
送信者はひなた先輩。
「なんかようす変だったけど、だいじょうぶ?(クマ)
相談したいことがあったらいつでもいってねー(クマ)」
メールの内容とは無関係に、奇妙な納得を覚えた。
そうだよな、と俺は思う。
俺たちは兄妹だ。だからきっと、とてもよく似ている。
「べつに何もありませんよ。
部誌、楽しみにしててください」
いつものように取り繕った返事を出したあと、何もかもやめにしてしまえたらどれだけいいだろうと考える。
でもそんな考えはすぐに打ち切ることにした。今日はダメだ。たぶん寝不足なんだ。
明日になったら、これまでのように、維持する努力を続けていかなければならない。
枝野のことも、謝って、ちゃんと話して……。大澤だってきっと、きちんと話をしさえすれば、西村と元通りになれるかもしれない。
そんな努力を、続けていかなきゃいけない。
――いったい、いつまで?
319: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/27(水) 02:13:43.65 ID:yrCve2JFo
◇
「まだ続けるの?」
部屋の隅からそんな声が聞こえた。
まどろんだような気分で声の方に視線をやると、女の子がひとり、立っている。
見覚えがあるような女の子。見たこともないような女の子。
「何を?」
「書くの?」
「書くよ、きっと」
「どうして?」
「……どうしてだろう」
「縋るものがそれしかないから?」
「……」
「ねえ、いったい、どうなれれば、満足するの?」
320: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/27(水) 02:14:11.16 ID:yrCve2JFo
◆
イメージをする。
怪物がいる。
黄昏を背負う怪物がいる。
巨大な影のような姿をしている。真っ黒に澱んだ影。
夕暮れに伸びた影のような姿で、巨体が空に伸びている。
身じろぎもせず、脚を地に置き、佇んでいる。
今にも、暴れ出しそうに見える。
足元には、街がある。
街。人々が暮らし、眠る街がある。
怪物を、貶める声がある。
怪物を、蔑む声がある。
怪物は、身じろぎもしない。
今にも、暴れ出しそうに見える。
街は夕焼けに塗りたくられて、姿を赤く染めている。
染め上げられた赤の後ろに、黒い、黒い影がある。
影は長く伸びている。
赤と黒との境界は、線のようにくっきりと、けれど、幾重にもねじれている。
321: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/27(水) 02:14:44.53 ID:yrCve2JFo
怪物は、明らかな、危険因子だ。
今は、身じろぎもしていない。けれど、ひとたびその腕を振るえば、街はすぐにでも崩れ落ちてしまう。
世界が揺らいでしまう。
だから、怪物は打ち倒されなければならない。
どんな犠牲を払ってでも、怪物は、打ち倒されなければいけない。
そこに存在するだけで有害な存在。
危険の予兆。間隙。罅。
だから、抑えこまなきゃいけない。
なかったことにしなきゃいけない。
隠さなければならない。
打ち倒すことができなかったとしても。
誰の目にも見えないようにしないといけない。
誰もこの街を恐れないように。誰もこの街を嫌わないように。
怪物を、なかったことにしないといけない。
そうしないと、街から誰もいなくなってしまう。
――また、置いていかれてしまう。
322: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/27(水) 02:15:15.79 ID:yrCve2JFo
◇
だから俺は、怪物を殺す話を書いた。
けれどそれは間違いだった。
怪物は殺せなかった。
木々が根に依って地に立つように。
光が影を生むように。
実体は影から離れられない。
殺しきることができない。
切り離せない。
呪われている。
323: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/27(水) 02:15:41.71 ID:yrCve2JFo
◆
怪物はまだ立っている。
身じろぎもしない。
きっと怪物に害意はない。
誰のことも傷つけようとは思っていない。
それなのに怪物は、そこにいるというだけで危険なのだ。
不発弾。
いつ、どんなきっかけで、暴れだすか分からない。
だから、みんな怪物を恐れた。みんな、怪物を憎んでいた。怪物によって不安にさらされていた。
誰もが、怪物が消えることを望んでいた。
そう知っていたから、だから怪物は、暴れたくなってしまった。
大きく膨らんだ風船が、耐えられないと破裂するように。
怪物は、消えることを望まれたからこそ、暴れたくなった。
何もかもを壊してしまいたくなった。
物を詰め込み過ぎた鞄が、ついには圧力に耐えかねて荷物を吐き出すように。
抑えこむ力が強ければ強いほど、それに反発しようという力は強まる。
強すぎる光に、影は濃さを増す。
影が腕を振るえば、光は影に飲み込まれる。
黒は白よりも強い。
何もかもが黒く染まって、何もかもが何でもなくなってしまう。
そして、電話のベルが鳴る。
324: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/27(水) 02:16:08.55 ID:yrCve2JFo
◇
電話のベル?
イメージが霧消する。霧のように消えて、霧のように残る。
電話のベルは明らかに現実で鳴っていた。
だから俺は引き戻された。さっきまで別の場所にいた。だから『引き戻された』。
どうでもいいやと思った。とにかくベルが鳴っているんだ。
電話に出ないといけない。
「……どうして?」
と彼女は言った。
「どうしてもなにもないだろ」
「そう?」
「……」
「呑まれちゃえばいいのに」
「うるさい」
俺は声を振り払って部屋を出た。電話。……電話。どこだ。リビングだ。リビングの電話台。
325: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/27(水) 02:16:53.04 ID:yrCve2JFo
鳴っている。コール。妹は、いない。どこにいったんだ? どこにいったんだろう。
置いていかれてしまったのかもしれない。
受話器を取る。
「もしもし」
「あ、夜分にすみません、佐伯さんのお宅ですか?」
「はい」
「……せんぱい?」
「……千歳? どうしたの」
「はい。あ、えっと……。先輩の連絡先、教えてもらってなかったと思って」
「……そうだっけ」
「はい。……せんぱい、何かありましたか?」
「ちょっと、風邪気味みたいなんだ」
「……あ、そうでしたか。すみません、タイミング悪かったですね」
「いいよ。……なんだっけ、番号だっけ?」
俺は口頭で番号を伝えた。覚えるつもりもなかったのに、なぜか覚えてしまった番号。
「アドレスは……」
「あ、せんぱいって、ラインやってましたっけ?」
「ああ、うん」
326: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/27(水) 02:17:20.03 ID:yrCve2JFo
「じゃあ、番号だけで……」
「でも、俺ガラケーだから、メッセージ来ても気付かないかも」
「ああ、なんかめんどくさいんでしたっけ、ガラケーだと」
「うん。まあ、なかなかに」
かといって、アドレスを口頭で伝えるのはちょっと面倒だ。千歳もそれは思ったらしい。
「えっと……」
「ひなた先輩が、俺のアドレス知ってるから、メールして聞いてみて」
「……え?」
「ん?」
反応が、なんだか微妙だった。
327: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/27(水) 02:18:26.29 ID:yrCve2JFo
「……わたし、ひなた先輩のアドレス知らないです」
「あれ、そうなの」
なんでかわからないけど、みんな知ってるものだと思ってた。
「……じゃあ、明日でいい?」
「はい。……なんかすみません。急ぐ理由も、ホントはなかったんですけど」
「ほんとに?」
「……はい?」
「急ぐ理由がなかったなら、明日学校で会ったときでもよかったような気がしたから」
「……そうですよね。うん。実は、口実です」
「……」
「せんぱい、えっと、ほんとに、風邪ですか?」
「……どういう意味?」
「落ち込んでるんじゃないかと思って。枝野先輩のこと」
「……」
「気にしてない感じだったけど、ちょっと気になったっていうか、心配で……」
「心配?」
「……いけませんか」と千歳は少しむっとした声で言った。
328: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/27(水) 02:18:57.25 ID:yrCve2JFo
「いや、ありがたいよ」
「……すみません、なんだか、押し付けがましくて」
「そんなことはない。でも、べつに気にしてないよ。ちょっと体調が悪いだけだから」
「……それならいいです」
千歳は俺の言葉を真に受けているふうではなかったけど、俺がそれ以上話すとも思わなかったのだろう。
「それじゃ、明日、学校で」
電話を切る。家の中に静寂が戻る。
さっきまでの遊離した思考が途絶えて、俺は地に足をつけた思考を取り戻す。
離陸から着陸まで。
……眠ろう、と思った。きっと、疲れている。
小説は書ける。不思議なくらい、書ける。いろんなものを、思った通りに。
だから、俺にはもう、何が問題なのか分からない。
俺が何に躓いているのか、分からない。
329: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/27(水) 02:19:26.03 ID:yrCve2JFo
脱衣所に行くと、妹が下着をつけているところだった。
「あっ」と声をあげたのは妹で、俺は一瞬だけ視界に入った彼女の体を見ないようにして、洗面台に向かった。
「……あの、平然と入ってこないでほしいんだけど」
「鍵、開いてたから」
「……へんたい」
彼女は少し距離をとって着替えを再開した。
俺は顔を洗って溜め息をつき、それから歯を磨くことにした。
妹は寝間着に着替えてしまったあとも、しばらくこちらを黙ったまま見ていた。
「なに?」
「……髪、乾かしたいから」
俺は歯磨きを終えて洗面台の前から離れた。脱衣所から出ようとしたところで、後ろから声が掛けられる。
「お兄ちゃん」
「……なに?」
「今日のこと。……本当に、なんでもないから」
「……うん」
信じるなんて、きっと思ってない。俺は少し考えてから、答えた。
「でも、なにかあったって、別に話さなくたっていいんだ。ただ、俺が気にしてるだけだから」
330: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/08/27(水) 02:20:14.75 ID:yrCve2JFo
「……ありがとう。お兄ちゃんは、いつもわたしを気にかけてくれてる」
「……そうでもない」
「ううん。ちゃんと、分かってる。心配かけて、ごめんね」
「……」
「それだけ、言っておきたかったから」
「俺は……」
「……なに?」
「……なんでもない」
なんだろう。
俺は何を言おうとしたんだろう。
わからない。
気にかけている? 嘘だ。
置いていかれるのが怖いだけだ。
縋りついている。
みじめなくらいに。
何も変わってなんかいない。
――人に、縋らないでよ。
だったら、何に縋ればいいんだ?
340: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/07(日) 01:03:15.98 ID:8gfTwsQNo
◇
柔らかな朝の光が薄いカーテンを透きとおり、
冬の明け方の冷たい空気の中に舞う埃を、かすかに照らしていて、
その光景は遠い昔の記憶を俺に思い出させたような気がしたのだけど、
それがいったいどんなものなのかはすぐに分からなくなってしまった。ただ埃が舞っていただけだった。
朝が来たら起きて、学校にいかなきゃいけない。
ずっと前から繰り返している、今はもう当たり前になってしまった決まり事。
準備を済ませて、リビングでいつものように妹と朝食をとった。
当たり前のように通学路を歩いている。雨も降っていない、透き通った冬の朝。
「よう」
道の途中で、森里が待ち構えていた。
341: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/07(日) 01:03:52.33 ID:8gfTwsQNo
「おはよ」
「おう」
彼は当たり前みたいな顔で俺の隣に並んで歩き出した。
「どうしたの、珍しいじゃん」
「ああ、うん。最近なかなか話す機会ないから」
なんだそれ、と俺は思った。
教室も一緒だし、話そうと思えばいつだって話せるのに。
「つーか、ほら、あれ。海の話。結局いけてないじゃん」
「本気なのかよ、あれ」
「俺が本気じゃなかったことがあるか?」
けっこうあると思ったけど、俺は何も言わずにおいた。
「どうしちゃったんだよ、おまえもさ」
思わずそんなことを言うと、森里はちょっと眉をひそめてこちらを見た。
「ちょっと前まで出掛けるのなんて嫌がってただろ。ゲームやってる方楽しいとか言って」
「いや、今だってゲームやってるほうが楽しいけど」
あ、そう、と俺は思う。
342: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/07(日) 01:04:22.25 ID:8gfTwsQNo
「でも、海なんて好きじゃないだろ」
「夏の海はな。うざいから。でも秋と冬と春の海はね、いいと思うんだよ」
ひねくれ者。なんとなく、分からないでもないけど。
「そっちは、どうなの。部活。順調?」
世間話のような話題の振り方なのに、俺はちょっと口ごもってしまった。
「……あんま良くない、かも」
「書けないの?」
「……ていうわけじゃ、ないんだけどね」
「他の奴らのやる気がないとか?」
「そういうわけでも……」
森里はわけがわからないという顔をした。
「何が問題なわけ?」
「……」
答えようとして、答えがないことに気付く。
問題なんてひとつもない。本当のところ。
343: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/07(日) 01:05:50.82 ID:8gfTwsQNo
◇
てっきり西村も枝野も来ないと思ったのに、その日の部活にはふたりとも姿を見せた。
俺は狐につままれたような気分だった。
「なんで立ってるの?」
入り口に立ち尽くしていた俺に向けて、枝野は言う。
「座れば?」
当たり前みたいな顔で。
なんでかわからないけど、怖くなった。
大澤は俺より遅れて部室にやってくると、西村の姿を見て、話があるからと言って連れ出していった。
残されたのは俺と枝野だけだった。千歳は、まだ来ていないようだった。
「わたしはさ」
と、枝野は俺の目を見ないで言う。
「書くよ。でも、それはあんたに言われたからじゃない。
あんたのための何かを書くわけじゃない。……それでいいでしょ?」
344: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/07(日) 01:06:26.67 ID:8gfTwsQNo
「……ああ」
「……何?」
「いや。……ごめん。ありがとう」
「なにそれ」
枝野は呆れたような笑みをもらしてから俺の表情を見て、「何笑ってんの」とむっとした顔になる。
「いや。ごめん」
「……もう」
やってらんない、というふうに背もたれに体を預けて、彼女は短く溜め息をついた。
ちょっとの間、互いに黙りこむ。
「あんたはさ、すごく混乱してるみたいに見える」
「……なに、急に」
「わたしには、そういうの、わからないから」
「どういう意味?」
「ううん。ちょっと、昨日はキツイこと言ったかなって思って。だから、ごめん」
「……いや、そんなのは、べつにいいんだけど」
そんなことを言ったところで千歳がやってきて、慌てた様子で部室を見回してから「大澤先輩たちは?」と訊ねた。
345: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/07(日) 01:07:43.17 ID:8gfTwsQNo
「話があるって言って、出てったよ」
答えたのは枝野だった。彼女の態度はいつもよりとても柔らかで落ち着いていた。
原因がわからない。なぜ、こんな態度になるのか。
「そうでしたか」
千歳はほっとしたような溜め息をついてから、自分の定位置へと向かう。
「ねえ」
腰をおろしかけた千歳に声をかけると、彼女はそのままの姿勢でこちらを見た。
それから、戸惑ったような顔をする。
「はい?」
「もしかしてさ……」
言いかけて、俺は言葉をとめた。もしそうだったとして、そんなことを確かめてどうなるんだろう。
結局、ここに生きているのは俺だけじゃない。
みんな、いろんな事情がある。気分にだって左右される。だから全部は見通せない。
みんな、自由に振る舞う。
俺の事情と完全に無関係ではないかもしれないけど、それでも、俺の事情だけが行動の理由ってわけじゃない。
俺とみんなは、基本的に無関係に存在しているから。
346: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/07(日) 01:08:16.41 ID:8gfTwsQNo
「……いや、なんでもない」
根拠のない思いつきを仕舞いこんでそう言うと、千歳は取り持つみたいに笑った。
「どうしたの?」
不審そうな枝野の問いに、俺は首を横に振る。
「なんでもない。……部誌、完成させなきゃな」
俺の呟きに、今度はちゃんと腰をおろしてから、千歳は大きく頷いた。
「はい!」
千歳らしいような、千歳らしくないような、くっきりとした笑みを見ながら、俺はまだ自分のことを考えている。
これ以上、いったい何を望んでいるんだろう、なんてことを。
347: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/07(日) 01:09:07.79 ID:8gfTwsQNo
◇
大澤と西村が戻ってきたとき、部室には少しだけ緊張した空気が流れた。
俺たちはなるべく気にしていないように振る舞いながら、ふたりの方をあんまり見ないようにした。
西村は当たり前みたいな顔で枝野の隣に座った。
枝野の方が西村をしばらく見つめていたものだから、西村は不思議そうな顔で笑って、
「なに?」
と訊ねた。枝野はなんでもないような顔で目を逸らして、
「ううん」
と首を振る。
大澤はホワイトボードの前に立った。
「定岡と山田から――」
と、大澤は幽霊部員ふたりの名前をあげた。
「……川柳、預かってきた。あいつらが原稿提出者第一号と第二号だ」
幽霊部員がいちばん早く提出する部活って、なんとなくやだ、と俺は思う。
「まあ、これで引っ込みはつかなくなったな」
「最初からつかないよ」
俺の言葉に、大澤は目も合わせないで頷いた。
「……うん、そうかもしれない」
でも、誰が幽霊部員ふたりに声を掛けたんだろう。
348: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/07(日) 01:09:41.49 ID:8gfTwsQNo
ちょっとした思いつきだった。疑念というほど確かじゃないけど、直感というほど曖昧じゃない。
ここ最近でついた癖のようなものなのかもしれない。それでもとにかく、俺はそのとき、千歳に視線を向けた。
彼女は当たり前のような顔で大澤の方を見ていたけど、視線に気付いたのか、俺と目を合わせる。
すると、得意気に笑った。
ああ、なんなんだろう、この子は。
近頃、俺は千歳のことばかり気にしてる。その理由が、今、なんとなくわかった気がした。
彼女は彼女に似ている。
何も知らないようなふりをして、いろんなことに気を回している。
何も考えていないようなふりをして、たくさんのものに目を向けている。
俺は、彼女のようになりたかった。
349: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/07(日) 01:10:21.55 ID:8gfTwsQNo
◇
幽霊部員ふたりが原稿を提出したことで、なんとなく、俺たちの中で部誌に対する取り組みかたが変わった気がする。
今まではぼんやりとしていて、現実的じゃなかった。
いざとなったらふいになるかもしれない、というくらいの気持ちもあった。
でも、ふたり、現実に原稿を提出してしまった。
だからもう、俺たちは書かないわけにはいかない。少なくとも俺はそう考えた。
みんなノートを開いて、何かを書こうとしたり、誰かと書いているものの話をしたりし始めた。
すごくまっとうな文芸部の活動。
以前だったら俺は、そこに自分がいることに、名状しがたい不安を覚えていた。
据わりの悪さ、居心地の悪さ。
「あの、せんぱい」
千歳は俺のそばにやってきて、そんなふうに声をかけてきた。
何を言うんだろうと思っていたら、彼女が口に出したのは、よくわからない言葉だった。
「努力すれば不可能なんてない、ですかね?」
「それ、信じてる?」
「わたしはべつに。そういうこと、言う人がいたから」
「嘘だよ」
「……ですかね?」
「そんなことをもし得意気に言う奴がいたら」、と俺は言う。
「内角の和が180度じゃない三角形を平面上に作ってもらえばいいと思う」
千歳は少しだけ考えたような表情をしたあと、小さく頷いて、自分の席へと戻っていった。
350: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/07(日) 01:10:51.24 ID:8gfTwsQNo
「そういえばさ」と俺は大澤に声を掛けた。
「なに?」
「森里が海に行きたいって」
「海?」
この季節に? と、大澤は眉を寄せた。
「この季節だからだって」
「……まあ、そうか」
仕方なさそうな溜め息。森里がそういう奴だってことは、お互い分かってる。
実際、俺たちだって似た者同士だ。
「じゃあ、今度詳しい話してみるか」
「たぶんあいつ、今週の土日とか言い出すと思う」
「……まあ、それもありだろ」
「まあね」
会話が途切れてから、俺はもう一度枝野の言葉を思い出した。
人に縋るな、と枝野は言った。俺は、その言葉に打ちのめされた。
でも、違うのかもしれない。俺は人に縋っているわけじゃなかったのかもしれない。
351: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/07(日) 01:11:49.65 ID:8gfTwsQNo
たとえば、用事もないのに海に行くこと。
やるせない気持ちで自転車を乗り回すこと。
行ったことのない場所に行くこと。
全部が、全部、俺にとっては、縋りつくような気持ちだったのかもしれない。
何かを持ち帰ろうとしていたのかもしれない。
不意に、枝野が窓の外を見ていることに気付いた。
視線を追うと、ちらちらと舞う雪が、外の景色を塗りつぶし始めていることに気付く。
開き直るような気持ちになる。
縋りついている。
それでなにがいけないんだ?
不意に、自分が部室という空間にいることを意識する。そこに、俺以外の人間がいることを実感する。
352: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/07(日) 01:12:20.26 ID:8gfTwsQNo
◇
そうだ。
こんな景色だ。
353: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/07(日) 01:13:09.40 ID:8gfTwsQNo
◇
これ以上、何を望むっていうんだろう。
何かを付け加えようとするから、おかしくなる。
蛇に加えられた足みたいにいびつになる。
これで、いいんじゃないのか。
ここにはもう、俺が求めていたものが全部あるんじゃないのか。
俺はそれを見ていなかっただけで。
ぜんぶ、ぜんぶ、最初からここにあったんじゃないのか。
そんなふうに思った途端、自分の中から、何か暗いものが掻き消えて行くような気がした。
黒い霧が晴れたような、視界に光が差すような。
でも、声が
354: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/07(日) 01:14:13.18 ID:8gfTwsQNo
◆
「本当に?」
声が
聞こえた。
一瞬、この部屋の中にいる人達の影が、消えてなくなった気がした。
影がなくなると、質量までなくなったように感じる。
絵の中の景色のように、よそよそしくなる。
「本当に、これで満足なの?」
どこから響くとも知れない、遠い声。穴の底から、ひそやかにうそぶくような声。
女の声。……知っているような、知らないような、そんな声。
「そうだとしたら」、と声は言う。
「何かを書こうとする意味なんて、もうどこにもなくなってしまうね」
俺は、その声に答えられなかった。
358: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/07(日) 23:16:46.37 ID:8gfTwsQNo
◇
「せんぱい?」
「……え?」
「みんな、帰っちゃいましたよ」
気が付くと、部室には千歳と俺しか残っていなかった。
窓の外は暗くなりはじめている。
「どうかしましたか?」
どうしたっていうんだろう。自分が今まで何をしていたのか、まったく思い出せない。
俺はとりあえず立ち上がった。でも、立ち上がって何をするべきなのか、よくわからなかった。
千歳は不思議そうな顔でこちらを見ている。
何をやってるんだ。
わけがわからない。
混乱する理由がわからない。
「……せんぱい、帰りませんか?」
「ああ、うん……」
俺は当たり前のように頷いている。他人事のように。
359: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/07(日) 23:17:24.43 ID:8gfTwsQNo
部室を出ると、廊下の空気はしんと冷えきっていた。
息を吐けば白く染まりそうな気さえしたけど、そうはならなかった。
千歳はマフラーを巻いて口元を隠している。
「もう冬だな」
「雪、降ってますもんね」
「うん」
それ以上何を言えばいいのかわからなくて、黙りこむ。
戸締まりを終えて、俺たちは歩き始める。
「調子、どう?」
「小説ですか?」
「うん」
「地震が起きちゃいました」
……。
「ん?」
「地震」
生き埋めですね、と千歳は言う。
360: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/07(日) 23:17:53.06 ID:8gfTwsQNo
「どうなるの?」
「どうなるんでしょう?」
どうでもよさそうな口調で、窓の外の雪を見ながら、千歳は持ち直すみたいに笑った。
「どうにか、なるといいですよね」
彼女の言葉に、俺は頷く。本当に、祈るようにそう思う。
でも、どうなんだろう。どうにもならないのかもしれない。
「まあ、何をやったって、結局無駄なんですけどね」
「……え?」
「はい?」
「……今、なんて言った?」
「……何も言ってないですよ?」
きしむような頭痛。
膨れ上がっていく。
蓋を嵌めた壺の底から這い上がってくる。
361: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/07(日) 23:18:30.87 ID:8gfTwsQNo
「せんぱいは、どんな感じですか?」
「なにが?」
「小説ですよ」
「……ああ、うん。まあ、そこそこ」
「扉を出たら、どこかに向かわなきゃいけない」
「……え?」
「……せんぱい?」
声。
声が聞こえる。
「今、何か言ったよね?」
「……何も、言ってませんよ。大丈夫ですか?」
「いや、でも……」
「どこに向かったとしても」
声が
「すべて、なくなってしまいますけどね」
聞こえる。
気がかりなことなんてひとつもないはずなのに。
消えてくれない。
362: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/07(日) 23:19:05.85 ID:8gfTwsQNo
なんなんだろう、これは。
消えろよ。うるさい。聞きたくない。そんな話はもううんざりだ。
何の役にも立たない。必要なのは実際的な努力だ。不毛な考え事なんて何の役にも立たない。
消えろよ、と、俺は頭の中で唱える。
扉を出たらどこかに向かわなきゃいけない。何かを求めなきゃいけない。
なくなってしまうことなんて、ぜんぶ分かっていたうえで、俺は扉を出ると決めた。
だからどこかに向かわなきゃいけない。何かを求めないといけない。
何もかもが通りすぎていくだけのものだとしても、その中に居続けようと決めた。
そのはずなのに。
「……聞こえませんか?」
「……なにが?」
「扉が、閉まる音」
せんぱい? と心配そうな声。どちらが現実の千歳の声なのか、俺にはよくわからなかった。
363: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/07(日) 23:19:47.34 ID:8gfTwsQNo
◆
あの、大きな揺れが起こってから、わたしの視界には、光さえ差さなくなってしまいました。
おぼろげな遠い光ですら、今のわたしには、遠い過去に存在したかもしれない絵画のように抽象的に思えます。
「世界はおかまいなしなんだよ」
どこかから、そんな声が聞こえました。
「あなたが何を望んでも、望まなくても、あなたが何をしても、何もしなくても、世界は回る」
わたしは、その声に頷いて、膝を抱えて、瞼を閉じました。
開いても閉じても暗い闇。
居心地の良い暗闇。
これでよかったのかもしれない、とわたしは思いました。
だって、どこにも行けなくなってしまったのなら、どこかに行こうとする努力だって、必要ではないのです。
もう、がんばらなくてもいい。
抜け出そうと試みなくてもいい。
だって、抜け出せないんだから。
「何もかもがすべて、なくなってしまうんだよ」
そう、声は言います。
「いつかは、ぜんぶ、消えてなくなるんだよ。だから、しなくちゃいけないことなんて、ひとつもないんだよ」
優しい響きに乗せられた、優しい言葉は、わたしの心を甘く溶かしていきました。
光がまだここにあった頃、ここから見える景色は、とてもつらくて、苦しくて、悲しいものでした。
でも、今、光が目に見えなくなってしまった今、視界から暖かな熱が消えてしまった今、わたしの目に見える景色は――
――底から見えるのは、とても甘やかで、鈍くて、とてものどかで、穏やかな景色でした。
364: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/07(日) 23:20:35.89 ID:8gfTwsQNo
◇
俺の状況なんておかまいなしに、部誌は完成へと近づきつつあった。
幽霊部員の次に提出したのは西村だった。一本の掌編を書き上げてしまうと、彼女は部室を訪れなくなった。
次に完成させたのは大澤だった。大澤の書いた十本の小説は、やはり以前のようなものだった。
書けなかった、と彼は言っていた。そして書けるようになった。そこに俺が関わる余地はなかった。彼だけの問題だったのだ。
俺も、何本かの小説――小説とも呼べないような――を完成させた。
怪物の話。
影の話。
噴水の話。
でも、扉を出たあとの話は、どうしても書けなかった。
千歳は何も言わなかった。期待すらしていなかったのかもしれない。
俺は結果的に嘘をついてしまった。でも、彼女だって分かっている。嘘になりうる言葉というものを知っている。
だからいいのかもしれない、というのはごまかしなのかもしれない。
でも、俺には何も書けなかった。
365: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/07(日) 23:21:20.32 ID:8gfTwsQNo
大澤と西村は、どんな話し合いをしたのかわからないけど、以前のような穏やかなふたりに戻った。
ふたりで穏やかに笑い合ったり、何かの冗談を言い合ったり、当たり前に一緒に帰ったり、どこかに寄り道したり。
大澤はそのことについて俺に何も言わなかった。俺には関係のない話なんだから当然だ。
翌週の土曜日に、俺と森里と大澤は、三人で海へと向かった。
自転車で駅まで走って、そこから電車を乗り継いで、観光地めいた海沿いの通りをあてもなく歩いた。
人気の少ない道を歩きながら、森里は「遠くに来たみたいな気分がするな」とたよりなく呟いた。
俺は適当に笑いながら頷いた。
何も失ってなんかいないし、何もほしいものなんてない。
だってここにあるんだから。だから、手放さないようにしていればいい。
「本当に?」と、聞き覚えのない男の声がしたけど、俺はその声にもう慣れきっていた。
いつかはなくなるんだよ、と俺は頭の中で答える。
でも、そのいつかは今じゃない。それだけで十分じゃないか。
「それが本当なら、いいんだけどね」
声は聞こえなくなる。
366: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/07(日) 23:21:57.80 ID:8gfTwsQNo
海には島が点在している。俺たちはその景色をぼんやりと立ち止まって眺める。
船が汽笛をあげて港を出て行く。黙ったまま、その姿を見送る。
二十分もかけずに通りを歩ききってしまうと、俺たちは来た道を戻って帰ることにした。
「何をしに来たんだろう」と、言い出しっぺの森里が言うものだから、俺は少し呆れてしまった。
「まあ、理由もなくこういうふうに遠出をするのも、たまにはいいだろ。気分転換みたいなもんでさ」
以前みたいな穏やかな調子で、大澤はなんだか良いことを言って話を終わらせた。
そんなところで、
「あ」
と、誰かの声がして、俺はあっさり揺らいでしまった。
「やー、元気?」
ひなた先輩だった。
大澤が笑顔を見せて、「お久しぶりです」なんて挨拶をした。
「言うほど久々じゃないでしょ」と彼女は言ったけど、俺はとても長い時間、彼女と会えていなかったような気がした。
367: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/07(日) 23:22:25.14 ID:8gfTwsQNo
「何食べてるんですか?」
大澤は当たり前みたいな顔で訊ねる。
「牡蠣カレーパン」とひなた先輩は言った。
「おいしいよ。おすすめ」
少し間を置いてから、ひなた先輩は話を続けた。
「部誌の調子はどう?」
「俺はもう出しました。こいつも、いくつか」
大澤だけが喋っていた。俺は適当な愛想笑いを浮かべていた。
どんなふうに話していたのか忘れてしまった。
少し前までの俺は、何をそんなに、この人と話すことがあったんだろう。
「……修司くんも?」
不安そうな声よりも、何よりも、俺は彼女に名前を呼ばれたということに戸惑った。
彼女以外の誰が、そんなふうに俺のことを呼んだだろう。
368: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/07(日) 23:23:14.65 ID:8gfTwsQNo
「……はい、一応」
話の流れで頷くと、彼女はちょっと怪訝そうな顔をした。
「本当に?」
「意外ですか?」
「だって、書けてないときの顔してる」
大澤と森里が、顔を見合わせて目を丸くした。
「……」
「無理、したんじゃない?」
「……」
いつか、ぜんぶなくなる。
この人に限っては、いつかなんて遠い話じゃなくて、春には、いなくなってしまう。
縋り付けない。邪魔なんてできない。
汚せない。
369: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/07(日) 23:23:52.01 ID:8gfTwsQNo
それなのに。
「……どうして、分かるんですか」
縋り付いてしまう。惨めなくらい。
「それは、見れば分かるよ」
書けない理由が、分かってしまった。
扉を出てから、どこにも向かえなかったのは、どこにも行きたくなかったからじゃない。
現状に満足してたからじゃない。
求めて、拒まれること。
受け入れられても、いつかは去ってしまうこと。
置き去りにされてしまうこと。放り投げられてしまうこと。
それが怖くて、足が竦んでしまっていたんだ。
何も変わってなんかいない。みじめなほど、俺は、変われていない。
どうして、なんて問いが成立するほど、わけのわからない心の動きじゃない。
どうせいつかは、全部なくなる。子供にだって分かるような単純な理屈。
そんな理屈を、いつまでも消化できないでいるのは、きっと、失いたくないものがあるからだ。
いつまでも、なんて不可能を望んでしまうからだ。
それでも不可能だと知っているから、足が竦んでしまうんだ。
373: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/10(水) 00:52:11.16 ID:70Kl1iaGo
◇
「修司くん、なにか悩みでもあるの?」
海を見ながら、ひなた先輩は俺にそんな問いかけを向けた。
ひなた先輩が勧めてくれた牡蠣カレーパンを食べながら、俺たちは四人で海沿いの道を意味もなく歩いた。
建物には水の痕がまだくっきりと残っている。
「まあ、それなりに」と俺は答えた。
それ以上何かを言うのかと思ったけど、彼女はやっぱり何も言わなかった。
そういう人だと分かっていた。
もどかしいようでもあるし、だからこそ、という気持ちもある。
線がある。
彼女は踏み越えない。踏み越えることが押し付けになりうると知っているからだ。
「海は広いねえ」
気分を晴らそうとするみたいな、やさしい声。気を使われたのかもしれない。
沈黙が気詰まりだっただけかもしれない。
「たしかに」
「それに、大きいねえ」
童謡みたいですね、と隣に立っていた大澤は笑った。
「知ってた?」
「何がですか?」
「海が大きいってこと」
さあ、と俺は首をかしげた。知っていたと言えばもちろん知っていたけど……。
知らないといえば、今だって何も知らない。
374: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/10(水) 00:52:42.12 ID:70Kl1iaGo
「ねえ、修司くん」
彼女があんまりにも俺の名前を連呼するものだから、森里は何かを気にした様子でしきりに俺の顔色をうかがった。
「きみみたいな人がいることは、わたしにはとても嬉しいことなんだよ」
「……何の話ですか?」
「うん。きみにはわからないかもしれない。でも……」
先輩は何かを言おうとしている。自分でもうまくまとまっていない言葉を、強引に紡ぎだすみたいに、口が動いている。
「わたしはマザー・テレサが好きじゃないんだ。あそこまで貫き通したら、それはすごいことだって思うけど」
「……はあ」
「でも、たとえばわたしは、あの人みたいに生きようとしている人が身近にいたら、まちがいなく止めると思う」
「……俺は、マザー・テレサじゃないんですけど」
「そりゃ、そうなんだけどね」
彼女はまた言葉を止めた。そしてすぐに、また話し始める。
375: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/10(水) 00:53:45.05 ID:70Kl1iaGo
「きみは、悲しんでる人に弱いよね」
「……なんですか、それは」
「手遅れになってしまったものとか、惨めなほどみすぼらしいものとか、誰もが打ち捨てるような悲しみとか」
「……」
「どうして?」
「……どうしてもなにも、心当たりがないんですけど」
「本当に?」
「本当に」
彼女はまだ納得がいかないというふうに眉間に皺を寄せた。
こんなふうに苦しげな顔をしている彼女を見るのは、ひょっとしたら初めてかもしれない。気のせいかもしれない。
「きみが苦しむのは、誰のため?」
「……その言い方だと、俺が誰かのために苦しんでるみたいですね」
「うん。ちょっと違うかもしれない」
376: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/10(水) 00:54:15.09 ID:70Kl1iaGo
「ひなた先輩は、猫を殺したことがありますか?」
「……なに、それ」
「ありますか?」
「ないよ」
「俺もないです。でも、死にそうな猫を、死にそうだと分かっていて何もしなかったことならあります」
「……」
「一昨年、あっちの方にも行ったんですよ」
俺が遠くを指さすと、彼女はそれにあわせて視線を揺らした。
「すごかったですよ。本当にすごかったです」
大澤と森里は、気をきかせたつもりなのか、俺たちのずっと前を歩いていた。
「……室戸台風。阪神大水害。昭和三陸地震」
「……え?」
「言ってみただけです。いったいどのくらいの人が、今更、そのときの死者のために祈るんでしょうね」
「……」
どこかの偉い哲学者は、第二次大戦中に生きた。彼はフランス軍の招集に応じ、ドイツ軍の捕虜となった。
ユダヤ人だったが、彼はフランス軍の兵士として扱われ、強制収容所に送られることを免れた。
けれど彼が抑留されている間に、彼の家族はアウシュビッツで死んだ。
近親者や同胞が苦しんでいる間、彼はそんなことを知るはずもなく、捕虜収容所での余暇を読書と著書の執筆にあてていた。
どこかの本で読んだだけの、ただそれだけの、俺の人生には何の関わりもない事実を、なぜだろう、いま思い出している。
377: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/10(水) 00:55:00.71 ID:70Kl1iaGo
「唐突に生きることを奪われた人間が、すべて等しく悼まれるべきなら、祈りに時効はないはずだし……。
だとしたら、死者の為に祈ろうとする人間はもっと多くの死を悼まなければいけないはずだと思います」
「難しいこと、考えてるんだね」
俺は首を横に振った。
「俺は、ものを考えない人間なんですよね。普段は何も考えずに生きてるんです。
みんなといれば楽しいし、家族は大事だし、自分勝手な悩みに振り回されることだってあるし。
でも、ときどき思うんですよね。どうして俺は生きてるんだろうって」
「……生きてる意味がわからないってこと?」
俺はまた首を横に振る。
「どうして俺が生きてて、他の人が死んだんだろうって。
べつに自分が死ぬべき人間だって思ってるわけじゃないです。でも、そこに境なんてなかったはずで……。
だとしたら、俺は"たまたま"生き残って、死んだ奴はみんな、"たまたま"死んだわけじゃないですか」
「……」
「だから、俺は……」
俺は、なんだというんだろう。俺と関わりのない人間が大勢死んだ。それだけだ。
俺には関係のない話。別の世界の出来事。「運良く」、俺には関係なかった。
「……俺は、運が良かったって思うんですよ。でも、だからって、ああよかったなって気分が晴れるわけないじゃないですか」
「……うん」
「でも、俺は関係のない人間だから。できることなんて何もない」
「……」
「……まあ、それだけの話です。現実に何もない人間だから、遠いことを考えて、やたらむしゃくしゃしようとしてるだけの」
何の話をしようとしたんだっけ? もう思い出せなかった。
378: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/10(水) 00:55:51.10 ID:70Kl1iaGo
「できることが何もないんだったら、考えるだけ無駄だ」
俺のつぶやきに、ひなた先輩は黙り込んだ。
「俺には俺の問題があって、そいつをひとつひとつ解決していかなきゃいけない。実際的に。
みんながみんな各々の家の前を毎日掃除すれば、街は綺麗になるはずなんです」
「……ああ、そっか。だからか」
ふと、ひなた先輩は、納得したような溜め息をもらした。
「何がですか?」
「きみが悩んでる理由。分かっちゃった」
「……なんでですか」
「だから、きみはきっとさ……」
「そうじゃなくて」
「……ん?」
「……なんで、分かるんですか」
彼女はあっけにとられたような顔をした。
379: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/10(水) 00:58:42.55 ID:70Kl1iaGo
「……それは、えっと……なんでだろう」
「ひなた先輩」
「うん?」
「俺にとっても、あなたみたいな人がいてくれることは、すごく嬉しいことですよ」
「……」
また、目を丸くする。
それから、照れたみたいに笑う。
その仕草だけで、俺はきっと、頭の中のごたごたした考えを放り投げて喜んでしまう。
そんな自分が嫌で嫌で仕方ない。
それでも、「ありがとう」と彼女は言った。
「わたしはずっと、誰かにそんなふうに言ってもらいたかったのかもしれない」
だからね、と彼女は言葉を続けた。
「きみはたぶん、いろんな考え事をごちゃごちゃにかき混ぜて考えているんだろうけど、それはきみ一人で抱え込む必要のないものなんだよ。
誰かのことを考え続けるために自分をないがしろにする必要はないと思う。きみがそんなふうで、わたしは救われた部分もある。
でも、わたしのような人間に、仲間がいることを教えるためだけに、必要のない苦しみの中に居続けることはないと思う。
だって、きみはもう抜け出せたはずなんだよ。……ぜんぶ、わたしの思い違いかもしれないけど……」
そうかもしれない。そうじゃないかもしれない。
俺にはよくわからない。
380: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/10(水) 00:59:14.47 ID:70Kl1iaGo
◇
「ねえ、お兄ちゃん。ずっと聞きたかったんだけど」
海に行った日の夕方、妹はいつものようにソファの上で膝を抱えたまま、何かを思いあぐねるような素振りで口を開いた。
「なに?」
「庭にね、お墓を作ったでしょう?」
「……墓?」
「ずっと前に」
「ああ、うん」
墓? 墓なんて呼べるようなものじゃない。俺は穴を掘って、埋め直した。それだけだ。
「あれって……誰のお墓?」
「……」
「なにが埋まってるの?」
「べつに、これといって何も」
「……でも、掘ってた」
「うん。掘って……蝉の抜け殻を埋めた」
「蝉の抜け殻?」
「ああ」
「どうして?」
381: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/10(水) 01:00:27.60 ID:70Kl1iaGo
「猫のかわりだよ」
「……じゃあ、あれは、猫のためのお墓?」
「違うよ」
「……意味わかんない」
本当にわけがわからない、というふうに妹は膝に額をこすりつけた。
「俺のための墓」
「お兄ちゃんが、死んだとき用?」
「それとは別」
「……どういうこと?」
全部を説明してしまえば、きっと彼女は呆れてしまう。だから俺はそれ以上何も付け加えなかった。
ひとつたりとも嘘はついていない。俺は俺のために猫の墓を作った。
べつにかわいがっていたわけでもない猫の墓。
みすぼらしい猫。石を投げられた猫。野垂れ死んだ猫。
死んだところで誰にも気にかけられなかった猫。
墓を作った。だからなんだっていうんだろう。死ぬ前に何もしなかった人間が、死んだ猫に何ができるっていうんだろう。
何もできやしない。
385: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/11(木) 00:32:27.27 ID:zPvBuAYzo
◇
父親と相談して、学校にも届けを出して、俺はバイトを始めることにした。
なぜ今のタイミングなんだといろんな人に聞かれたけど、最近は少しいろんなことに余裕が出来てきたから、と俺は答えた。
勉強だってそこそこやってるし、部活のことだってもともとサボり部みたいなもので、多少は融通が聞くから、と。
だからといって都合のいいバイトがすぐに見つかるとは思っていなかった。
それでも履歴書を買って、このあいだのコンビニに面接希望の電話を掛けたら、すぐに来るように言われた。
希望時間は土日の昼間。何かを考えたわけじゃない。
土曜の午後二時半に面接に行くと、何人かの女の人がいた。四十代くらいの人がふたりと二十代くらいの人がひとり。
その人たちに面接に来たことを話すと、すぐにバックルームに通してもらえた。
バックルームには四十代くらいのひょろっとした男の人がいた。たぶん責任者なんだろう。よく知らないけど。
面長で眼鏡を掛けていたが、瞳だけが子供のようにつぶらに見えた。彼は「ああ、どうぞ」と言って俺に椅子を勧めてくれた。
失礼しますとか、よろしくおねがいします、とか、そういう適当な言葉を掛けながら、俺は愛想笑いをしていた。
「履歴書持ってきた?」
彼は名乗りもせずにぶっきらぼうな調子でそう訊ねてきた。
俺は鞄から履歴書を出して手渡した。彼は封筒を開けると履歴書を広げ、額に眼鏡をずらしてからざっくりと目を通し始めた。
「土日の昼間希望ってことだったよね?」
「はい」
386: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/11(木) 00:32:53.64 ID:zPvBuAYzo
「バイトの経験とかある?」
「ないです。でも、経験しておきたいと思って」
「そうなんだ」
と言ってから彼は少し黙り込んだ。おかげで俺は数秒の間、ずっと自分の発言を吟味し直すはめになった。
「どうしてここに応募しようと思ったの?」
「家から近かったので」
「ああ、そうなんだ。家、どのあたり?」
「ここから自転車で五分かからないくらいです。すぐそこですね」
「ふうん……」
彼はずっと無愛想な表情のまま履歴書に目を落としていた。なんだか不思議な感じがした。
「えっと、学生だっけ?」
履歴書見てるんじゃねえのかよと俺は思った。俺は通っている高校の名前を挙げた。
「そこの卒業生、この店にも何人かいるな。二年生……」
「はい」
「じゃあユウと同じ学校の同学年だ」
「……はあ」
387: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/11(木) 00:33:21.88 ID:zPvBuAYzo
「土日働いてる子なんだけど、知ってる?」
「……いえ。たぶん話したことないと思います」
「そっか。部活なんかはしてるの?」
「一応、文芸部に入ってます」
「文芸部」
と彼はオウム返しした。
「どんなことするの?」
「いろいろ書いたり……。でも、基本的にはみんなで喋ってるだけだったりしますね」
「へえ」
どうでもよさそうな相槌。あんまり興味を惹かれなかったのかもしれない。それはそれで別にかまわないんだけど。
「土日、部活で出れなくなったりってことはない?」
「土日は基本的に活動してないので、ないと思います」
「……そっか。じゃあ毎週土日とかになっても大丈夫?」
「はい」
「……えっと、土日だけってなると、時給も低いし、そんなに金にはならないと思うけど、大丈夫?」
「はい。そこは気にしてないです」
彼は胡散臭そうな目で俺を見たが、俺はまっすぐに彼の目を見返した。
388: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/11(木) 00:33:50.34 ID:zPvBuAYzo
「そっか。……えっと、あとなんかあったかな……」
彼は場の空気を和らげようとするように苦笑した。俺も合わせて少し笑った。
「何か質問とかある?」
「……」
俺は少し考えたけど、たいしたことは思い浮かばなかった。
「ここって、何人くらいの人が働いてるんですか?」
「……え、何人だろう」
「……」
「……十七人くらいかな。たぶん」
「そうなんですか」
「あとはなにかある?」
「……特には」
「……そっか。じゃあ、えっと。結果はあとで連絡するね。いつ頃なら電話平気?」
「土日ならいつでも平気ですけど、十一時以降なら確実に出れると思います。平日は学校なので、四時過ぎ頃なら平気だと思います」
「了解。じゃあ……」
彼は何か言いたげにちらちらと俺の方を見た。
「はい。ありがとうございました。よろしくお願いします」
そして俺は部屋を出た。
389: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/11(木) 00:34:16.23 ID:zPvBuAYzo
◇
電話は翌日の昼すぎに掛かってきた。
「じゃあ、とりあえず来週の土曜から入れる?」
と男の声は言った。挨拶を交わしてすぐにそんなことを言われたものだから、俺は面食らった。
「はい。大丈夫です」
「じゃあ、来週、土曜の……二時。十四時から」
「十四時からですね。分かりました」
「じゃあ、お願いします」
「はい。お願いします」
電話はそこで切れた。てっきり落ちたもんだと思ってたから、俺はちょっとだけ嫌になった。
390: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/11(木) 00:34:42.70 ID:zPvBuAYzo
◇
「で、バイト始めることになったから」
「何で急に?」
妹には事後報告だった。べつに反対されると思ってたわけでもないけど、ちゃんと決まるまで伝えたくなかった。
「まあ、思うところあって」
「ほしいものでもあるとか?」
「まさか」
と俺は言ったけど、なにが「まさか」なのかは自分でもよくわからなかった。
「じゃあ、なんで?」
「人生経験が必要かと思って」
「……」
「若いうちにはなんでもやってみろって叔母さんが言ってたし」
「……」
「疑ってる?」
「べつに」
妹はふてくされたような様子だった。
391: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/11(木) 00:35:35.76 ID:zPvBuAYzo
◇
「で、バイト始めることになったんだよ」
「何で急に?」
部室にみんなが揃っている時、そう報告すると、大澤たちは揃って呆れ顔を作った。
「まあ、思うところがあって」
「でも、部誌づくりの最中に?」
そう問いかけてきたのは枝野で、俺はなんとなく意外な気がした。
「あんたが巻き込んだくせに」
「でも、ほら、俺は何本か完成させたし」
「……そりゃ、そうかもしんないけど」
「一応部活には出るし」
「でも、せんぱい、本当にどうして急に?」
うーん、と俺は考え込んだ。千歳に対しては、できるかぎり正直でいたいような気もする。
いや、他の誰に対しても、嘘をつくつもりはないんだけど。適度にごまかすだけで。
「まあ、何かの足しになるかと思って」
「……それは」
「うん」
誰もそれ以上何も言おうとしなかった。西村は最初からどうでもよさそうだったし、大澤も気にした様子はなかった。
千歳も、勝手に納得したみたいな顔をしている。
枝野だけはちょっと尖った視線をこちらに向けてきたけど、いつものことと言えばそれまでだ。
392: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/11(木) 00:36:14.39 ID:zPvBuAYzo
◇
「で、バイト始めることになったんだよ」
「おー、いいんじゃない?」
月曜の夜に従妹から電話が掛かってきて、近況報告ついでにそんなことをいうと、彼女はどうでもよさそうに笑った。
「おにいちゃんも何かを始めてみるべきだよ。わたしはずっとそう思ってた」
電話口で偉そうにうんうん頷く従妹の得意げな表情を想像して、俺は少しだけ頬を緩ませた。
「そっちはどう?」
「これといって特に。ねえ、冬休み、そっちに行ってもいい?」
「いいけど。……おまえ、予定とかないの」
「うるさいな。おにいちゃんこそ、そろそろ彼女できた?」
「……うるせーよ」
「……お互い、触れられたくない部分があるってことで、ここはひとつ」
「ああ、うん……」
それから彼女は「わたしもバイトしなきゃなー」みたいなことを言った。
話は学校のこととか部活のこととか、最近買ったCDのこととかにどんどん移っていって、それは案外悪くない感じがした。
393: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/11(木) 00:36:42.77 ID:zPvBuAYzo
◇
「それで、バイトすることにしたんですよ」
と、べつに報告する理由もないのにひなた先輩にメールを送ると、彼女からの返信にはクマが乱舞していた。
「おー、いいんじゃない?(クマクマクマクマ)
がんばって!(クマ)
でも、急にどうしたの?」
「何かの足しになるかと思って。時間が有り余ってるし、前から考えてたので、ちょうどいいと思ったんです」
「小説はー?」
「小説の足しにもなるかと思って」
「どこで働くの? いけるとこなら遊びにいくねー」
「こないでください(ほんとに)」
「わかったー(クマ)
でも、本当に急だね?」
「前から考えてたんですけど、いい機会だと思って」
そこまで打ってから、俺は少し迷ったが、結局続きを書き足した。
「それに、素材は多い方がいいと思ったんです」
本当はもっと違った言い方をしようと思ったけど、やっぱりやめておいた。
きっと面倒な話になる。
「応援してるねー(クマ)」
「先輩も勉強がんばってください」
「ありがとうー(クマクマ)」
そして俺は小説を書き始めた。
394: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/11(木) 00:37:16.42 ID:zPvBuAYzo
◇
「それで本当にいいの?」
「じゃあおまえは、このままでいいっていうのか?」
395: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/11(木) 00:37:51.64 ID:zPvBuAYzo
◇
土曜日に店に行くと、「いらっしゃいませ」と言われたので、俺は今日から入ることになってる佐伯ですと名乗って裏に入れてもらった。
バックルームには面接のときの男の人はいなかった。居たのは四十代くらいの女の人だった。彼女は店長だと名乗った。
制服と仮の名札、それから研修中の札を渡される。荷物をロッカーにしまうように言われたあと、俺は着替えをはじめた。
「とりあえず今日は仕事の流れの説明をしますね。レジの経験とかはないんだよね?」
「はい」
それから店内にいた従業員と挨拶をして(片方は四十代くらいの女性、もう片方は二十代くらいの女性だった)、売り場に出る。
レジの中に立つと店内の様子が違って見えた。
こういうことだよ、と俺は自分の中の誰かに言った。見える景色は立つ場所で変わる。
たとえそれがどれだけ些細なことであろうと。
偉そうなことを考えて緊張を和らげようとしたが、あっさり見透かされたみたいで、店長は「緊張しなくていいよ」と言ってくれた。
俺はメモ帳とペンを取り出して起きることに備えた。
396: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/11(木) 00:38:36.61 ID:zPvBuAYzo
◇
「これで何が変わるっていうの?」
「まあ、何も変わらないかもしれないけどね」
397: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/11(木) 00:39:12.81 ID:zPvBuAYzo
◇
声は止まなかった。
何が原因なのかわからない。
その声がいったいなんなのかすら、俺は知らない。よくわからない。
でも、声は明らかに俺に向けて放たれていた。それに対して何ができるのかはわからない。
何かの決着をつけなければいけないのかもしれない。
口を塞ぐなり、和議を結ぶなりして。
たぶん、そのふたつしか残されていない。
俺は何度か、声について考えて、言葉の内容を思い出した。
――世界が、ひとつだったら、よかったのにね。
そうかもしれない。そうじゃないかもしれない。
でも、レジ打ちを教わってる間は、そんなことを思い返しもしなかった。
だからといって、そんなふうに他のことにかかずらって何かを忘れようとするのは、俺の嫌いなやり方だった。
こんなふうだから、何も変わらないのかもしれない。
でも、まだわからない。まだ何も始まっていない。まだ何も確かめていない。
399: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/12(金) 23:49:57.26 ID:sbmdXpWBo
◇
「結局、逃げてるんだよな」
「……誰が?」
400: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/12(金) 23:50:26.41 ID:sbmdXpWBo
◇
「せんぱい、今日の帰り、少し時間ありますか?」
千歳がそんなふうなことを言ってきたのは、俺がバイトを始めた翌週の月曜のことだった。
何か相談事があるふうには見えなかったが、とにかく話があると言われて、俺は彼女と一緒に帰ることになった。
「どこかに行くの?」
「ちょっと話がしたいので……"かっこう"でかまいませんか?」
「いいけど……」
話ってなんだよ、という言葉は、店につくまで引っ込めておくことにした。
夕方の街には雪が降り始めていて、だから俺はなんだか不安な気持ちになった。
天気に気分が左右されるなんて馬鹿げた話だ。
でも、影響されてしまう。
401: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/12(金) 23:51:01.68 ID:sbmdXpWBo
"かっこう"にはあまり人の姿がなかった。
いつもみたいに経営者夫婦はカウンターの中でひそやかなやりとりを続けている。
俺たちはテーブル席に腰掛けてからコーヒーを注文した。
「外、寒いね」と俺は世間話を始めた。
「本当に。これからもっと冷えるようになるんでしょうね」
「ストーブ出した?」
「……うち、エアコンあるんで」
「え、自室に?」
「はい」
「……そっか」
俺はなぜか落ち込んだ。
402: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/12(金) 23:51:31.97 ID:sbmdXpWBo
「それで、話って?」
「……はい。それなんですけど」
そう言ったきり、千歳は黙りこんでしまった。
掛け時計のチクタクという音は、なんとなく俺を不安にさせた。時間は流れている。
「……せんぱい、バイト始めたんですよね」
「うん」
「調子、どうですか?」
俺は肩をすくめた。
「まだ二日しかいってないし。なにもわからないよ」
「そうですか」
それからまた、千歳は黙り込んだ。
「どうかした?」
「……いえ。また、もとに戻っちゃったと思って」
「なにが?」
「せんぱいが」
403: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/12(金) 23:51:59.10 ID:sbmdXpWBo
彼女の言葉の意味が、俺にはよくわからなかった。
「戻った?」
「はい。部誌をつくろうとする前までのせんぱいに」
「……それって、どんな?」
「一人で、部室の隅っこで、本を読んでたときみたいに」
「そう、かな」
「はい。……違うのかもしれないですけど、わたしには」
わたしには、そう見えました、と千歳は言う。そうである以上、それはひとつの真実なんだろう。
猫には猫の、鮫には鮫の、蛇には蛇の、蝿には蝿の。
「俺としては、がんばってるつもりなんだけどね」
「また、逃げてます」
「……どんなふうに?」
「せんぱいは、寂しい、って言ってました」
404: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/12(金) 23:52:35.06 ID:sbmdXpWBo
「……うん」
「みんながいなくなるのは寂しいって。だから、みんなを集めようとしたんじゃないですか。
でも、みんながまた集まるようになったら、せんぱいが、自分から離れてく」
「……」
「違ったら、怒ってくれていいです。でも、せんぱい、結局、逃げてるんじゃないですか?」
俺は少し考えてから、「そうかも」と頷いた。千歳はほっとしたような呆れたような、微妙な顔をした。
「よくわからないんだよな。どうすれば、逃げてないことになるんだろう」
「……」
「俺は何から逃げてるんだろう」
何かから、逃げているのは、間違いないかもしれない。
バイトを始めたのもそうなんだろうか。そういう部分もあるかもしれない。
でも……いや……。
「……ひなた先輩が言ってたのを、聞いたことがあるんです」
「何?」
「せんぱいは、書くのを怖がってる人だって。書くことも、書いたものを誰かに見せることも、怖がってる人だって」
「……うん」
そんなことを、いったい何度、先輩に相談しただろう。思い出せないくらいに繰り返したような気がする。
彼女は、よくも呆れずに俺の話を真面目に取り合ってくれたものだ。
405: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/12(金) 23:53:04.65 ID:sbmdXpWBo
「まだ、怖いんですか?」
俺は少しだけ考えた。
「どうしてきみはいつも、俺のことを気にしてくれるんだ? ありがたいとは思うけど、少し不思議だよ」
「……べつに。最初はただ、気になっただけです」
「最初は?」
「その話は、いいじゃないですか」
俺は頷いてから、彼女の質問に答えた。
「俺は器用な人間じゃないからさ。俺がどれだけ言い訳したって、俺が書いたものには俺のある部分を不必要なほど投影されてるんだよな」
「……それは、わたしも、そうかもしれないです」
「うん。でも、それって怖くないか? 自分の書いたものが分かちがたく自分と結びついているなら、読んだ人間には俺のことが分かってしまう」
もしくは、分かったと錯覚できてしまう。
「だから……うん。怖いのかもしれない」
千歳はしばらく考え込んだ様子だったけど、やがて溜め息をついてからコーヒーに口をつけた。
406: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/12(金) 23:53:31.10 ID:sbmdXpWBo
「本当に、そうですかね?」
「……」
「せんぱいの小説は、本当に、せんぱいと、分かちがたいほど結びついているんですかね?」
「どうだろう。……なんとなく、そういう気がしてたけど」
「わたしは、そんなの嘘だと思います。書いたものは手を離れてくって思ってます。
そうじゃない小説なんて、ぜんぶ、ぜんぶ、無意味だとは言わないけど、くだんないです。そんなのは小説じゃなくて、自伝です」
「たしかに」と俺は頷く。
「入り口がそうでも、たどり着く先は他人事かもしれない」
千歳はそう言ってから、俺の目を数秒じっと眺めた。何かを期待するみたいに。俺はもう一度頷いた。
「だから、せんぱいは小説を書ける人なんです。せんぱいは小説を書いてきた人間なんです」
「どうだろう。そうかもしれないけど」
「そうなんです」と千歳は強い調子で言った。まあ、俺の歪んだ色眼鏡よりは、信用できる観察なのかもしれない。
407: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/12(金) 23:53:58.82 ID:sbmdXpWBo
「だから、せんぱいが怖がってるのは、書くことじゃないと思います」
「……じゃあ、何が怖いんだろう」
書くこと。書けないこと。伝えること。伝わってしまうこと。伝わらないこと。非難されること。
軽蔑されること。拒まれること。
「……それは、わたしにはわからないです。ひなた先輩なら、わかるかもしれませんけど」
「どうしてそこで、あの人が出てくるわけ?」
「せんぱいが一番信頼してるのは、あの人じゃないですか」
「……どうして、そう思うの?」
「見てればわかります」と、千歳はひなた先輩みたいなことを言った。
「……まあ、そうかもしれないけどね」
信頼、と俺は考える。尊敬、と彼女は言い換えるかもしれない。どっちも似てるようで違う。
なんだよ、と俺は呆れた気持ちになる。自分でわかってるんじゃないか。
408: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/12(金) 23:54:33.18 ID:sbmdXpWBo
扉を開けた先には何もないかもしれない。誰も俺のことなんて待っていないかもしれない。
そう思って、それでも俺は扉を開けた。その先に何があるのかを確かめようとした。
でも、そこにあったのは何も変わらない日々。
劇的でもなければ鬱屈としているわけでもない、ただ平凡なだけの当たり前の世界。
その当たり前の世界は、とても流動的で、変幻自在で、だから、すぐに何もかもが変わってしまう。
そんなのは、分かっていたことだった。
それが悲しいなら、俺が怖がってるのは、きっと、変わっていくこと。
「誰かに、何かを伝えようとするだろ」
「……はい」
「でも、一生懸命がんばっても、伝わらないかもしれない」
「はい」
「がんばっても伝わらないのはつらい。じゃあ、どうすればいいと思う?」
「……」
「伝えようとしなければいいんだよ。大きな声を出しても相手の耳に届かなかったらがっかりする。
でも、小さな声で話してるなら、伝わらなくたって仕方ない。諦めがつくし、覚悟だってできる」
「せんぱいは、いつも、矛盾してます」
「うん」
409: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/12(金) 23:55:20.08 ID:sbmdXpWBo
「じゃあ、せんぱいは、伝わらないことが怖かったんですか?」
「たぶん、それだけじゃないよ。全部が怖いんだ。伝わらないこと、伝えること、伝わってしまうこと。
だってみんな、俺のことを知ったら嫌いになるに決まってるんだ。俺はそういう人間なんだって、ずっと前から……」
ずっと前から、分かっていた。
だから、俺のことを理解してしまえば、みんな離れていく。
去っていく。置いていく。
「……ほら、みっともない」
自嘲して笑うと、千歳は一瞬だけ合わせて笑った後、真剣な表情で、
「バカみたい」
と、そんなことを、俺の目をまっすぐに見つめて、言った。
「それで、ひとりでも平気みたいなふりをして、みんなの輪の中に入ろうとしないんですか?
それなのに、ひとりになった途端、寂しいからって誰かに縋り付こうとするんですか?
せんぱいは、いったいどうなりたいんですか?」
そんなの、俺が知るもんか。
「誰にも、本当の自分なんて見せたくないんですよね。だったら、平気なふりをしてればいいのに。
上っ面だけでも誰かとつながりあってればいいのに。それだけじゃ満足できないくせに、それ以上は怖いから嫌だなんて、そんなの……」
そんなの、矛盾してますよ。千歳の声は、明らかに震えていた。
410: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/12(金) 23:55:46.51 ID:sbmdXpWBo
「……信じてもらえないかもしれないけど、それでも俺は今、正直に話してるつもりなんだよ」
「……」
「怖いんだ、たしかに、全部。でも、だからって、震えて、うずくまるのは、ただの反射だ。
熱いものに触れたとき、手を引っ込めるみたいに。俺はそれでも、何かを変えたいって思ってるんだよ。
足の竦みを抑えこまないと、どこかに向かえないことなんて、とっくに分かってたんだ。やりかたは、間違えたかもしれないけど」
「……ごめんなさい。わたし、変なこと、言いました」
「……」
「本当は、わかってるんです。わたしがどうこう言うようなことじゃないんです。
せんぱいのことは、せんぱいのことで、だから、わたしとは関係ないんです。
それなのに、わたしは……勝手に、せんぱいに苛立ったりして……」
「たぶんだけど」
「……」
「俺ときみは似てる」
「……たぶん、そうなんでしょうね」
411: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/12(金) 23:57:21.40 ID:sbmdXpWBo
「なんだか、わかったような気がする」
「……なにが、ですか」
「俺がどうすればいいのか。というか、本当は分かってたのかもしれない。
恐さにやられて震えてるだけじゃダメだって、俺は教わっていたはずなんだ。
恐くて、足が竦んで、震えて、行動に移せなかっただけで、俺は知っていたのかもしれない」
「……」
「怖くても、書きたいなら書くしかないんだよな。当たり前のことだよ。
こんな当たり前のことに……いつまでも躓いていられない」
千歳は泣いているようにも見えた。でも、実際に泣いているわけではないようだった。
「バイトを始めたのは、べつに逃げるつもりじゃなかった。ちょっと、考えてることがあったんだよ。
でも、そういうふうに見えたってことは、やっぱり俺は逃げたのかもしれない。
……だってさ、西村も枝野も怖いんだもん」
「……先輩たち、聞いたら怒りますよ」
「べつに、怖いから逃げるってのも、それはそれでいいんだろうけど。でも、たぶん、それだけじゃなかったんだろうな、結局」
「……」
「俺はいつも不安定でさ。寄る辺がなくて、足元が覚束なくて、だから、誰かに縋りたくてたまらないんだよ。
でも、そんなふうに誰かに縋り付いたりなんて、できるわけないって思ってた。そんなの、みんな軽蔑するって」
窓の外の雪はいつまで降り続くんだろう。俺たちはいつまでこんな場所に居続けるつもりだったんだろう。
「だから、俺は俺なりに、自分の足で立ってみなくちゃって。そこからだって、思った。
どうすれば、そうしたことになるのか、わからないけど。なんでも試してみようって思った。
要するに俺は、誰かに縋りつくことすら、怖かったんだろうな。未熟な自分のまま誰かと触れ合うのが怖かったんだ」
412: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/12(金) 23:58:37.49 ID:sbmdXpWBo
「……」
「でも、成熟してから人間関係を築くなんて無理な話なんだよな。
みんな、関わり合いながら、上手いこと学んでいくんだ。知ってるはずなのにな。そんなこと」
「……せんぱい」
「……なに?」
「わたし、言いそびれていたことがあったんです」
「なに、それ」
「……というか、本当の用事が、今日は、あったんです」
彼女は自分の鞄の中を探って、中から小さな紙袋を取り出して、こちらに差し出してきた。
「なに、これ」
俺は紙袋を受け取って、彼女の反応をうかがってから、中身を取り出した。
中から出てきたのは、見覚えのあるハンドタオルだった。
「……これ」
413: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/12(金) 23:59:17.03 ID:sbmdXpWBo
「雨の日に、借りたやつです。ずっと、返しそびれてたの、忘れてたんです、わたし。ごめんなさい」
「……」
「ありがとうございました、せんぱい。せんぱいは、自分のことを知ればみんな嫌いになるって、そんなことを言いましたけど。
わたしは、そんなことないと思います。せんぱいは、自分で思ってるよりずっと、まともな人だと思いますよ」
「……」
「ごめんなさい。好き勝手言って。わたしはたぶん、自分をせんぱいに投影して、それで責めてたんです。
だから、せんぱいはきっと、悪くないのかもしれない。せんぱいはずっと、がんばってたのかもしれない」
「……きみはさ」
「……はい」
「俺を買いかぶりすぎてるよ」
千歳は、伏せていた目をこちらに向けて、くすりと笑った。
「それは、わたしの勝手です」
416: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/14(日) 00:02:00.09 ID:0hdGdTKHo
◇
「結局、俺は無駄なことをしてるんじゃないかって気がするんですよ」
「たとえば?」
そうだ。あのときも、俺はひなた先輩に相談したんだった。
「無駄なことをぐるぐる考えて、身動きがとれなくなって……。そんなのって、明らかに間違ってるじゃないですか。
俺はもっと、地に足をつけて、難しいことを考えるのなんて諦めてしまうべきなんじゃないかって」
「……」
「そうすればもっと、世界が鮮やかに見えるんじゃないかって。そんなことを、いつも、考えるんです」
「……」
「考えないことが、一番賢いのかもって」
「……どうだろうね?」
ひなた先輩は大真面目な顔で首をかしげた。
417: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/14(日) 00:02:36.09 ID:0hdGdTKHo
「わたしは、どうかな。どっちだって、生きていけると思うよ。
どっちだってそこそこしんどいし、どっちがだけが楽ってわけでもないし。
でも、結局、そういうのって選べないものなのかもしれないよね。そういうふうに出来上がっちゃったっていうかさ」
「……」
「きみは、どうなりたいの?」
「俺はずっと、憧れていたことがあるんです」
と、そんなことを、そのときの俺は本当に言ったのだろうか。
言っていないのかもしれない。記憶は捻じ曲げられて、勝手に作り替えられているのかもしれない。
「自分がもっとマシな人間になって、誰かと一緒に、街のどこかをわけもなく歩けるような、そんなことに。
誰の目を気にすることもなく、変な劣等感に悩まされることもなく……そんなことを、真剣に思ってるんです」
「……」
「でも、このままじゃそんなの無理だって、そう思ってます。俺は明らかにくだらない人間だし、バカだし、考えが足りない」
そうかもしれないね、とひなた先輩は言った。彼女は否定してくれないし、俺だってそれを期待していたわけじゃない。
気休めを投げかけて話を終わらせるような人だったら、俺はきっと、彼女に惹かれていなかった。
「樹が、ね」
「……樹?」
「うん。樹が、あるでしょう。植物の。あれって、ゆっくりと成長するよね。わたしたちよりもずっと長く生きるし」
「はあ」
「樹が高く伸びていると、わたしたちはつい見上げてしまうけど、でも、本当はそれだけじゃないんだよね。
高く枝を伸ばすためには、より深く地中に根を伸ばさなきゃいけない。どっちがだけじゃダメなんだって、わたしは思う」
「……」
「きみがしていることも、考えていることも、わたしは無駄じゃないって思うんだ。
誰にだってある思春期特有のペシミズムだって言う人もいるかもしれないけど、本当はそうなのかもしれないけど、でもね。
そうならないと見えないものだって、きっとあるって思うんだよ。そうなってしまったら見えないものも、あるのかもしれないけど」
418: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/14(日) 00:03:16.50 ID:0hdGdTKHo
ひなた先輩はきっと、いつだって、俺の意思を尊重してくれていた。
俺がどうありたいかを一番に考えて、俺の相談に乗ってくれていた。いつも。
そして、いつだって、俺がいちばん欲しかった言葉を、いちばん欲しいタイミングで、投げかけてくれた。
「地中深くに根を伸ばして、光のない地の底まで行き当たって、そうやって初めて、高く枝を伸ばすことができるんだって思う。
だからわたしは、きみの書いているものも、嫌いじゃないんだよ。だってそれは、わたしにも覚えのあるものだから」
「……」
「暗闇の中にとどまっていても何も見えないかもしれない。
でも、ふたたび何かを見るつもりがあるなら、暗闇の中にまどろむことは無駄じゃないって、わたしはそう思うんだ。他の人がどう思うかは知らないけど」
「……でも、俺がしているのは、そんなにマトモなことじゃないような気がします」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
「……」
「ペンギンは空を飛ぶことはできないけど、海を泳ぐことはできるし、ツバメは空を飛べるけど、海を泳ぐことはできない」
「……」
「みんながみんな、同じような生き方をすることはないし、それでどっちが正しいってことでもない。
ただ、やり方が違うだけで、みんな生きようとしているし、それは誰かに責められるようなことではないと思うんだ」
「それでも、飛びたいペンギンがいたら?」
「きっと飛べない。でも、飛ぼうとすることはできるし、それは誰かに止められることじゃない」
「……」
419: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/14(日) 00:03:43.96 ID:0hdGdTKHo
「ねえ、きみは、きみなりに、たくさんのことを考えて生きているんだと思う。他の誰もがそうであるように。
そして、きみに似ている誰かが、どこかにいるかもしれない。その人たちは、きみのことを分かってくれるかもしれない」
「……そうでしょうか?」
「うん。きっとね」
わたしがそうだったように。ひなた先輩はそう言った。
深く穴を掘ること。高い空を見上げること。吸って吐くことを呼吸と呼ぶように。
ふたつの動作は一対であるべきなのだと彼女は言った。
「たくさんの人が死んでも、地球は相変わらず回っているし、だからきみが死んでも、やっぱり世界は変わらず回り続ける。
そこに残せるものなんて、きっと何もない。きみがいつか言ったように、何もかもぜんぶ過ぎ去っていく。でも、それはきっと、重要なことじゃないんだよ」
この世界にはたくさんの世界があって、それぞれの世界があって、わたしたちの無関係の世界が、増えたり減ったりし続けている。
世界がひとつだったら、きっと、わたしたちは悲しみと喜びの矛盾でパンクしてしまう。
だから世界がひとつじゃなくてよかった、なんていいたくないけど。
理解できない苦しみや、理解されない苦しみが、伝わり合えない歯痒さから、世界がひとつだったなら、なんて考えてしまうけど。
それでもこの世界は、そういうふうにできているんだと思う。
家の庭に、ひとつの世界の終わりが埋まっているのと同じように、今日もどこかで誰かが死んでいる。
俺はその誰かのために、何かのために、なにひとつできない。……そういうふうにできている。
「わたしはね、少しだけでいいんだ」
彼女は、そんなことを言った。
「たとえば、わたしの書いたものや、わたしの言葉や表情や、わたしの存在が、誰かにとって、何かになれたら。
ただの気休めでも、暇つぶしでも、なんでもいいから、笑って思い出せるような何かになれたらって思うんだ。
落ち込んでいる人が、少しだけ笑えるようになるような。そのあとすぐに、忘れられてしまってもかまわない。
それでも、誰かの、ただ少しの気休めにでもなれたら、それだけで、わたしがここにいることは、無駄じゃないって思うんだよ」
「……部長は、既にそうなっていると思います」
「うん。……それが本当なら、わたしもわたしを、今より少しだけ、好きになれるかもしれない」
420: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/14(日) 00:04:11.58 ID:0hdGdTKHo
◇
世界には平衡感覚が欠けている。
苦しんだ者が必ず報われるわけではないし、幸せの絶頂にいる者に苦しみが与えられるわけではない。
人生はプラスマイナスゼロなんかじゃない。
苦しい人に更なる苦しみが訪れることもあるし、その先に幸福があることなんて誰も保証してくれない。
喜びの中に生まれて、喜びの中に死んでいく者もいる。
誰もが、苦しみと喜びの両方を経験するから、そういうふうにも言えてしまうというだけで。
計算なんてできていない。
「もし、神様がいて、苦しんでいる人に喜びを、喜んでいる人に苦しみを与えるような、そんなバランスの取り方をするとしたらさ」
ひなた先輩の言葉が、俺の頭の中で、ずっと、響いてる。
「もし本当にそうだったら、わたしたちは、苦しんでいる人たちに対して、何もしなくてもいいはずだよね。
たとえば、飢えて、渇いて、今に死んでしまいそうな人がいたとき、その人を素通りして、見殺ししてもかまわないってことだよね」
その人の苦しみが、喜びに見合わないものなら、自分が何かしなくても、神様の采配で、喜びが与えられる。
「だから、バランスのとれた世界には、優しさは必要ない」
完璧な人間が他人の助けを必要としないように、完成された世界は優しさを必要としない。
「だから、わたしたちは――」
421: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/14(日) 00:04:46.41 ID:0hdGdTKHo
◇
「初めまして」
翌週のバイトの日、初めて顔を合わせた"ユウ"とか言う人に対して、俺がそう声を掛けると、
「じゃ、ないよね?」
そう、彼女は言った。てっきり男だと思ってたのに、女の子だったらしい。
「話したこと、あるよ」
「……ホント?」
「うん。一年のとき同じクラスだったじゃん」
「…・そうだっけ?」
「……うわ、ひど」
「ごめん」
「いや、いいけどさ。話したことあるっていっても、ちょっとだし。まあ、よろしくね」
迷惑掛けると思うけど、よろしく。俺がそんなことを言うと、
「わたしも迷惑掛けると思うから、お互いさまだよ」
と、当たり前みたいに笑った。
それでいいんだと思った。
今まで見逃してきたもの、見過ごしてきたこと、少し動きを加えただけで、いろんなものが、変化を伴って襲い掛かってくる。
422: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/14(日) 00:05:22.52 ID:0hdGdTKHo
◇
「せんぱい!」
部室に入った途端、千歳が大声で俺を呼んだ。
「……なに?」
「書けました!」
「……なにが?」
間抜けな問いかけに、彼女は満面の笑みで答えてくれた。
「小説!」
「……おー。やったじゃん」
「やりました!」
勝手な充実感か、達成感か、千歳は俺の適当な祝福なんて気にした素振りもなく、ひとりで喜んでいた。
「どうなったの?」
「読んでみますか?」
俺は原稿を受け取って、目を通し始めた。
423: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/14(日) 00:05:48.42 ID:0hdGdTKHo
それは突拍子もない話だった。
穴の底にいた少女は、身動きもとれないまま、光を見上げ続けていた。
やがて、大きな地震が起きて、彼女はけれど死ぬこともなく、生き埋めになってしまった。
誰からも忘れ去られた、穴の底のひとつの生。
けれど、そこに、不意に光が差した。
光は、光というよりもむしろ、鮮烈な痛みとして、少女の身に起こった。
彼女にその痛みを与えたのは、ひとりの少女だった。
「大丈夫?」と少女は言う。
彼女は答えられずに沈黙する。
「こんなところにいるなんて、あんた、変なやつね」
少女はそう言ってから、また空を見上げた。
「なんとなく、ここまで掘り進めてみたけど……」
それから彼女は、穴の底の少女に目を向けて、
「ねえ、どうすれば、ここから抜け出せると思う?」
そんなことを問いかけた。
424: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/14(日) 00:06:15.51 ID:0hdGdTKHo
◇
「これで、全員分だな」
大澤は部員たちを見回して、そう呟いた。
枝野も、俺の知らないうちに、原稿を提出していたらしい。
西村も、大澤も、枝野も、千歳も、俺も、みんな原稿を提出した。
「じゃあ、これから作業に入るか。意外と、まだ余裕あるし」
「それなんだけど」
俺が口を挟むと、大澤は少し警戒した様子を見せた。
「少し、待ってもらえないかな」
「……どういう意味?」
「もう一本、書き上げたいんだ」
「……それは、かまわないけど。でも、テストもあるし、早めに完成させたいよ」
「うん。分かってる」
頷いてから、言葉を続ける。
「明日までに、書き上げてくるから」
俺の言葉に、みんなは揃って顔を見合わせてから、それぞれのタイミングで頷いた。
425: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/14(日) 00:06:42.77 ID:0hdGdTKHo
◇
「わたしの言った通りだったでしょう?」
俺はそのとき屋上にいた。彼女もまた、屋上にいた。
「結局、同じことを繰り返すだけだって、わたしはちゃんと言った。
きっと、いつか後悔するって。今は忘れられても、いつか、幻肢痛みたいに体を焦がすんだって。
あなただって、それを忘れたわけじゃないでしょう?」
知っているような、知らないような、変な女。彼女の声は、どこか懐かしい感じがした。
「昔はさ、俺は、この世界はろくでもない、とんでもない場所だって、そう思ってた」
「何を言い出すの、急に」
「でも、すぐに気付いたんだよな。そうでもないって。世界はけっこう、よくできてて……。
でも、ろくでもないのは俺だったんだ。たとえば綺麗なものがあったとしても、それは俺の手の届かない場所にあるんだって、そう思ってた」
彼女は空を見上げていた。
「だから、諦めてた。でも、そんなのは、諦めだよな。自転車に乗る前から、乗れないって諦めてたって、乗れるようにはならなかった」
「……」
「きみの言う通り、繰り返しなんだ。できないことを、少しずつ、できるようにしていくしかない。
俺がいろんなことをできるようになるまで、誰も待ってなんかくれない。覚束ない足取りでも、歩いていくしかないんだよ」
「……」
「そうやって、いろんな景色を知っていって、少しずつ、世界を拡張して……。
諦めるのは、そのあとでもいいだろ?」
「結果が、同じだったとしても?」
「そうかもしれないけど……それはまだ、分からない」
426: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/14(日) 00:07:09.12 ID:0hdGdTKHo
「……うそつき」
「うん。俺は、嘘つきだった。でも、これから、嘘をつかないようにしたい」
「……」
「結局俺は、きみの言葉を封じ込めて、忘れたふりをしていただけだった。
でも、それは間違いだった。どれだけ強く縛りつけたって、そんなんじゃ、ふとした瞬間に溢れ出てしまう。だってそれは俺の内側にあるものだから。
俺は、きみの言っていることがわかる。そんなのは無駄だなんて、切り捨てられない。
だから、連れて行こうと思うんだ」
「どういうこと?」
「この世界が、本当に、ろくでもないものなのか。俺が、ずっと、ろくでもない人間のままなのか。
今は、まだわからない。だってまだ、何も確かめてないんだ。だから、確かめにいこう」
「……」
「もう、平気なふりなんてしないし、まともなふりなんてしない。
封じ込めて、見ないふりなんてしない。影を実体から切り離そうなんて、無理な試みだったんだ」
「バカみたい」と、彼女は誰かみたいに笑った。
もう、怪物を殺そうとはしない。
その声は、俺自身だった。
427: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/14(日) 00:08:02.13 ID:0hdGdTKHo
◇
足音が聞こえて、鳥のはばたきが、追うように続いて、だから俺は、なんとなく、なんとなく……わかってしまった。
振り返ると、当たり前みたいに、ひなた先輩が立っていた。
制服の上に、黒いカーディガンを羽織って、彼女は、扉の向こうから屋上に現れた。
「……や」
どこか、うかがうような、おもねるような調子で、声を掛けられる。
「……どうも」
戸惑いながら、とってつけたような返事を口に出すと、先輩はくすくす笑った。何がおかしいのか、自分でもわかってない感じで。
「ねえ、小説は?」
「書きましたよ」
「……うん。見れば分かる。書けたときの顔してる」
「なんですか、それ」
「きみは、わかりやすいから」
「みんなには、正反対のことを言われますけどね」
「うん。そうなのかもしれない」
428: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/14(日) 00:08:28.46 ID:0hdGdTKHo
ひなた先輩は、何も言わずに俺のすぐうしろまでやってきて、空を見上げた。
「雪、降らないかな?」
「どうでしょうね。降るかもしれない」
「降らないかもしれない」
「天気予報、見逃しました」
「わたしも」
言葉はすぐに途切れて、だから俺はわからなくなった。
彼女がなぜ、こんな場所に来たのか。
「ねえ、まだ、書くのが怖い?」
「……はい」
彼女は、仕方なさそうに笑った。小さな子供のわがままに付き合うみたいな顔で。
「いつまで経っても、怖さはなくならないと思う。引きずって、飼いならしていくしかないと、今はそう思ってます。
……きっと、それでいいんですよね?」
「……それは、わたしが決めることじゃないから」
俺は頷いた。
429: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/14(日) 00:08:54.62 ID:0hdGdTKHo
「ねえ」
ひなた先輩は、いつもよりずっと、頼りない声で、心細そうな声で、そう呼びかけてきた。
俺はそんな声が、心配になるよりも先に、なんだか嬉しくて、そんな自分の心の動きを、奇妙に思った。
「そこから見えるのは、どんな景色ですか?」
彼女の問いは、すごくシンプルで。
だから俺は、曇り空を見上げて、こう答えた。
「なんでもない、曇り空ですよ」
「綺麗に見えたり、しない?」
「何も。いつもと同じ、焼き増ししたみたいな、灰色の、冬の空です」
「そっか。そうだよね」
「でも、これが、俺の見ている、嘘のない景色だから」
「……うん。それでいいって、わたしはずっと、言ってたつもりなんだ」
「きっと、そうなんでしょうね」
「うん」
430: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/14(日) 00:09:25.09 ID:0hdGdTKHo
「……ひなた先輩は、俺の話を、黙って聞いてくれますよね。
他のみんなみたいに、ごまかしたり、適当な慰めをかけたりせずに。
真正面から、俺の話を聞いてくれた。それ、けっこう嬉しかったんです」
「……きみは、軽蔑するかもしれないけど、もともとこうだったわけじゃないんだよ。
でも、わたしもそうしてもらって、嬉しかったから。そうしようと思ったんだ」
「それはもう、先輩自身のものだって、俺は、そう思いますよ」
「そうなのかもね」
と、彼女はちょっと苦しそうに笑った。
「だからってわけじゃないんです」
だからってわけじゃ、ないんですけど、と、俺の声は、やっぱり震えていて。
みっともなくて、かっこわるくて、たぶん、変だ。
でも、そこで逃げたら、これまでと同じだから。
「俺、先輩のこと、好きみたいです」
振り向いて、彼女の顔を見ながら、そう呟いた俺の声は、さっきよりも上手に震えを抑えられていた気がする。
声だって、ちゃんと、伝わるくらいの大きさで、出せた気がする。
「……え?」
それでも先輩は、うまく聞き取れなかったみたいに、ちょっと表情をこわばらせて、首をかしげた。
いつもみたいな、取り繕った笑顔じゃない、本当に、戸惑いだけの表情で。
431: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/14(日) 00:09:51.18 ID:0hdGdTKHo
言い方が悪かったのかもしれない。そう思って、言葉を選びなおす。
「みたいです、っていうか。好きです」
「……えっと、それは」
先輩は、後ろを振り返った。ちらちらとあたりに視線をさまよわせて、何かを探しているみたいに見える。
「……べつに、誰も隠れてませんけど」
「……あ、や」
先輩がここに来たのだって偶然なはずだし、俺が何かの準備をできるわけない。
「え、でも……え?」
「……」
「ほ、本気で?」
そう聞かれると、ちょっと自信がないんですけど、なんて言うわけにはいかない。
こういう場面では、自分の言葉と自分の気持ちに、責任を持たなきゃいけないんだろう。
きっと、枝野がそうしたように。
「本気で」
432: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/14(日) 00:10:24.91 ID:0hdGdTKHo
「人違い、とかじゃなくて?」
「……目の前にいる人を、どうやって間違うんですか」
「でも、でも……」
俺はだんだん居たたまれなくなってきた。
「先輩がいないと、俺は寂しいです」
「……あ」
「このまま会えなくなるのは、嫌です。子供みたいなこと言ってるって、分かってます」
「……」
「どう答えくれてもかまいません。俺は、先輩のことが好きです。
俺と、付き合ってください。俺、先輩と一緒にいたいです」
それらしい言葉と、正直な気持ちを、ないまぜに言葉にする。
小説を書くときにそうするように。
書くことは伝達の手段だ。
伝えることには恐怖が伴う。
それでも、先を望むなら、言葉にするしかない。
433: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/14(日) 00:10:51.10 ID:0hdGdTKHo
「……ちょっと、考えさせて」
先輩は、そう言ってから、あっというまに俺に背を向けて、屋上を去っていった。
扉が閉まりきるより先に、彼女の後ろ姿は見えなくなった。
逃げられた。
ふられたかな、と俺は思う。気持ちが暗くなるのを感じる。
それを強引にごまかそうとして――やめた。
落ち込んだり、悩んだりしていいタイミングだ。
俺は深く息を吸って、空を見た。
相変わらずの空。何が起こっても、こちらのことなんて気にかけてはくれない。
深く息を吐く。
光に憧れた。だから、手を伸ばす。
単純な話だ。いつだって、きっとそうだった。
434: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/14(日) 00:11:20.61 ID:0hdGdTKHo
◇
その日のうちに、俺は小説を書き上げた。
すらすらと、とはいかなかった。
何度も手直しを必要としたし、書き上げた文をまるまる消してしまうような事態に何度も陥った。
そんなことを繰り返しているうちに、俺は何度もよくわからない感情の波に襲われた。
海や、猫や、千歳の小説のことを思い出した。泣いている妹のことを思い出した。
最後に思い出したのは、不思議と、枝野が文化祭のときに書いた、ひとつの川柳だった。
何度も、振り回されたり、かき回したりしながら、やっとの思いで書き上げたあと、本当にこれでいいのかと、俺は何度も読み返した。
これでいいのか? と俺は問いかける。でも、それに答えてくれる相手なんて俺しかいない。
だから俺は、これでいい、と自分に言った。
とにかくこれが、今の俺なんだ。
435: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/14(日) 00:12:09.54 ID:0hdGdTKHo
◇
予定よりも早く完成された部誌は、予定よりも早く図書室に置かれることになった。
顧問は完成した部誌を見て、満足そうに何度も頷いていたけど、彼が内容に目を通しているとは思えなかった。
大澤は「書けない」と言っていたのが嘘だったみたいに、何本もの掌編を載せていた。
どうして書けなかったのかと訪ねてみたら、奴はこんなふうに答えてくれた。
「結局さ、褒められすぎたんだよな、俺は。だから不安になったんだ。
評判が良かったから、次書いたのも読むよなんて言ってもらえたけどさ。
でも、そいつらが俺の次の話を気にいるとは限らない。だって俺が次に書くのは、それとはちがう、別の、新しい話なんだから」
たしかに、と俺は頷いた。
「でも、結局書くしかない」
いつもみたいに、これ以上ない結論で、大澤は話を終わらせた。
「そういえば、ラーメン屋ってなんだったの?」
「ああ、いや、だからさ。ラーメンが美味い店だからって、餃子まで美味いとは限らないだろ」
「……」
「それでも、餃子はまずいって落胆されたら、なんとなく嫌な感じじゃん」
そんなたとえをされたら、どんな悩みも形無しだなあ、と俺は思った。それでいいのかもしれない。
436: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/14(日) 00:12:57.48 ID:0hdGdTKHo
◇
十一月の半ばを過ぎた頃から、森里は俺に何枚かの写真を見せてくれた。
路地裏の写真、街並みの写真、海の写真。つまり、風景の写真だ。
「最近、カメラが手に入ったから、適当に歩きまわって撮ってたんだよ」
「ふうん。なんで急に?」
「なんでもいいから、何かをしてみたい気分だったんだよな。
いろいろ歩いてみると、俺ってけっこう、この街のこと知らなかったな、って思って。
見たことのない店とか、路地とか。見て回りたくなった。そこには、何かすごいもんがあるかもしんないし」
「そうかもな」
照れくさそうに話す森里の表情はいつもよりなんだかいきいきして見えて、楽しそうだった。
カメラを手に町中を歩くっていうのも、なかなか楽しそうな趣味だ。そのうち真似でもしてみたいもんだなあと俺は思った。
437: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/14(日) 00:13:33.04 ID:0hdGdTKHo
◇
枝野の書いた小説は、枝野の川柳をそのまま小説にしたような話だった。
ふてくされて眠り込んでいる熊、それでも熊の気持ちなんておかまいなしに、風が吹いて、熊は目をさます。
それだけと言ってしまえばそれだけの。けれど、そこには何かが含まれている。少なくとも俺はそう感じた。
「なんだか、うまく書けたって気がしないなあ」
枝野はそんなふうに、髪をかきあげながら、不満気に呟いた。
「最初はそんなもんかもしれないよ」
「あんたも?」
「俺は、今でもだよ」
「それでも書くんだ?」
「呪われてるから」
「……呪われてるの?」
「何かを好きでいるっていうのは、呪いみたいなもんだろ」
「……たしかにね」と、枝野はちょっと複雑そうな顔をした。
そんな枝野に対しても、それから、大澤に対しても、西村は以前みたいな穏やかな接し方をしていた。
彼女のことはよくわからない。でも、きっと彼女は、彼らのことが好きなんだろうと思う。
438: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/14(日) 00:13:59.40 ID:0hdGdTKHo
◇
「部誌なんて作ったの? 文芸部」
「まあ、うん。普段は文化祭のときだけだけど、今回のは、ちょっと例外的に」
「ふうん。読んでみたい」
土曜日、バイトの日に、"ユウ"はそんなことを言った。
「どんなの書いたの? ミステリー?」
「いや。ミステリーではない」
「じゃあ、恋愛モノとか、ホラーとか?」
「……うーん」
「それとも、教科書に載ってるような奴?」
「どうなんだろ。俺も、よくわからない」
「変なの」と彼女は言って、補充が必要な煙草を持ってくるためにバックルームへと向かった。
439: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/14(日) 00:14:42.92 ID:0hdGdTKHo
売り場に戻ってきたかと思えば、彼女は思い出したみたいな調子で俺に質問を投げかけてきた。
「そういえばさ、佐伯はなんで、今のタイミングでバイト始めたの?」
「なんでって?」
「いや。珍しいじゃん。春からとか、夏休みからとかなら分かるけど」
「一応、今だって長期休暇前じゃん」
「でも、テスト前だし」
「俺、テスト勉強ほとんどしないし」
「あ、わたしも」
「俺は成績悪くないし」
「……今、わたしは成績悪いって決めつけたでしょ」
「違うの?」
「……黙秘」
といって、ユウはむっとした顔をした。
440: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/14(日) 00:15:09.70 ID:0hdGdTKHo
「で、どうして?」
「じゃあ、俺も黙秘」
なにそれ、と言って、彼女はまた笑う。
「そういえば、"ユウ"って、どんな字書くの?」
「字? 名前の?」
うん、と頷くと、彼女はすぐに説明してくれた。
「優しいって字」
「……ふうん」
「あ、いま、似合わないって思ったでしょ」
「いや、べつに」
「またまた。本人もそう思ってるし」
「いや、ほんとに、そうは思わなかったけど」
彼女は面食らったみたいな顔で俺を見返した。
「……そう?」
「うん。ただ、いい名前だなあって」
「……へんなやつ」
と彼女は言った。
441: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/14(日) 00:15:36.27 ID:0hdGdTKHo
◇
ある日の放課後、千歳は部室に、ひとりきりでいた。
俺は軽く声をかけてから、また自分の定位置に座る。
そのうち、他の奴も来るだろう。
「……なんか」
と、どこか不満気に、千歳は口を開いた。
「また、手持ち無沙汰ですね」
「そうだな」
「……繰り返してるなあ」
「気分の問題かもしれない」
「……え?」
「一本書き上げたら、また次のを書けばいいんだよ」
「……」
「部誌なんか作らなくても書けるし、作りたくなったらまた作りたいって言えばいいんだ。
次は何をどんなふうに書いてやろうって、次こそあっと言わせてやるって、そんなふうに思えばいい」
「せんぱい、大人みたいなこと言ってる」
「……そうか?」
本気の疑問だったのに、千歳はなんだか納得いかないふうな顔をして、しばらく机に顔をつけてうなっていた。
なんとなく、ひなた先輩のことを思い出して、それから、今自分がいる場所のことを考えた。
彼女が俺にしてくれたようなことを、俺も、彼女にできるだろうか。
そんなことを、ものすごく真剣に、俺は考えていた。
442: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/14(日) 00:16:04.22 ID:0hdGdTKHo
◇
あっというまにテストが終わって、冬休みが来た。
休み中の部活のスケジュールはだいたい平日で、バイトには問題なく出られそうだった。
毎日のように雪が降って、寒さで目をさますようになって、朝起きるたびに床が冷たかった。
休み中のある日の朝、リビングに降りると、また妹がしくしくと泣いていた。
何がそんなに悲しいのか、俺にはよくわからない。きっと、教えてもらうこともできない。
その日は雪が降っていなかった。俺は庭に出て、シャボン玉を吹き始めた。
すると、妹もまた、パジャマ姿のままで外に出てきた。
「寒くない?」と訊ねると、「寒い」と返事がやってくる。俺は何も言わないことにした。
「……しゃぼんだま、とんだ」、と妹が歌う。
「しゃぼんだま とんだ
やねまで とんだ
やねまで とんで
こわれて きえた」
かぜ、かぜ、ふくな。
しゃぼんだま、とばそ。
白い空の向こうに、シャボン玉は吸い込まれていく。
443: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/14(日) 00:17:12.26 ID:0hdGdTKHo
◇
一応大丈夫な計算だったけど、初任給はちゃんと間に合った。
だから俺は駅前の花屋にいって、カスミソウの花束を買って、妹に贈った。
「誕生日おめでとう」と言ったら、「今どき花なんて……」と妹は難しい顔をした。俺もそう思った。
「どうせなら食べられるものがよかったかな」と、照れ隠しのつもりか、珍しいわがままを彼女は言った。
だから俺たちはふたりでケーキを買いに出かけた。
だからどうって話じゃない。
それでも妹は、「ありがとう」と言ってくれた。
翌朝にはカスミソウは花瓶に入れられて、リビングの出窓に飾られていた。
444: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/14(日) 00:18:27.36 ID:0hdGdTKHo
◇
森里と一緒に、男だけのクリスマスや大晦日や初詣を楽しんだ後、学校が始まった。
大澤の方は、西村と上手いことやってるらしかった。
「久々に来ると、なんとなく新鮮な感じがするけどさ」
通学路を歩きながら、森里はそんなことを言い始めた。
「でも、すぐに嫌になるんだろうな。五回学校にいって、二回休んで、また学校にいって……そんな繰り返し」
「まあ、だろうね」
「……ま、仕方ないか」
仕方ない、と俺たちは割り切った。だってそれが俺たちの生きている世界なんだから。
そして、俺たちは道を歩く。いつもの見慣れた街。歩き慣れた道。代わり映えのしない景色。
そこに、その日はひとつだけ変化があった。
445: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/14(日) 00:20:18.56 ID:0hdGdTKHo
「や」
マフラーで口元を隠して、カーディガンを羽織った、ひなた先輩がそこに立っていた。
「あけましておめでとう」と、彼女は、いつもよりずっと静かな、どこか不安そうな声で言った。
俺は少し唖然としながら、それでも、あけましておめでとうございます、と、どこか間抜けな返事をした。
「ねえ、少し、話せるかな?」
彼女は俺の目を見て、そう言った。
森里は、気を利かせたのかなんなのか、俺の隣から離れて、走り始めた。
その背中を見送ることもせず、俺はひなた先輩を見る。
「いつでもどうぞ」
俺が笑うと、彼女は少しだけ笑った。
「なに、それ」
彼女は、覚束ないような足取りで、俺の隣にやってきた。
「あのね、わたし――」
彼女の声は小さかったけど、それでも何かを伝えようとしていて、だから俺は、その声に耳を傾けた。
とても熱心に。自分でもバカじゃないかと思うくらいに。
彼女は、照れくさそうに、ごまかすみたいに笑って、それから――いつもみたいに、俺が一番ほしい言葉をくれた。
嘘みたいに綺麗に笑いながら。
だから俺は、不意に泣きそうになった。
彼女はそんな俺を見ながら、また笑った。少しだけ、嬉しそうに。
446: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2014/09/14(日) 00:21:19.53 ID:0hdGdTKHo
◇
十二月に俺たちが作った部誌の編集の担当は大澤だった。
あんまり乗り気ではないようだったけど、奴は結局、うまいことやった。
奴は部誌の冒頭の一ページに、どこかの何かから引用したらしい、こんなエピグラフを載せた。
「 警告
この物語に主題を見出さんとする者は告訴さるべし。
そこに教訓を見出さんとする者は追放さるべし。
そこに筋書を見出さんとする者は射殺さるべし。 」
俺たちは小説を書いた。それがどんな出来だったかなんてどうでもいい。
きっと、俺たちはまた何かを書く。今分かるのはそれだけだ。
その先に何があるかなんて俺には分からない。
何かあればいい、と俺は願っている。
447: ◆1t9LRTPWKRYF 2014/09/14(日) 00:21:59.16 ID:0hdGdTKHo
おしまい
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