1: 名無しさん@おーぷん 20/10/09(金)01:09:02 ID:r6q
※恋愛要素は特に無いです
※透とシャニPが出ます


【すっぱい】

「はい」

 ある日の放課後。浅倉の部屋で発売されたばかりの雑誌を眺めていると、唐突に当の部屋の主が目の前に手を伸ばしてきた。視界にふたつの丸いまだらなオレンジ色が飛び込む。

「……何、急に」
「ん? みかん。どっちがいい?」
「そうじゃなくて……はぁ。……右」
「了解」

 皮にはまだ所々に青さが残る。熟し切っていないのだろうか。どちらも似たような色合いだったから、味も大差は無いだろうが。

「これ、貰い物?」
「正解。お母さんが貰ったらしい」

 あくまで他人事のように、浅倉は淡々とみかんの皮を剥いでいく。私がいつものように白い繊維の太いやつを取り除いている頃には、浅倉はもうひとかけらを口に入れていた。

「……酸っぱ」
「まだこの時期だし、そんなもんでしょ」

 概ね綺麗に剥けた。ふと視線を感じて目をやると、先ほど口を窄めていただろう浅倉が、こちらのみかんを見ている。

引用元: 【シャニマスSS】蝋の腕の半径【樋口円香】 



2: 名無しさん@おーぷん 20/10/09(金)01:10:01 ID:r6q

「1個」
「何で」
「そっちの、甘いかもしれないじゃん」
「同じでしょ」
「こっちのも1個あげるから。交換」
「酸っぱいって分かってるのに、わざわざ貰う意味無い」
「えー」

 浅倉は何故かなかなか引き下がらない。面倒になって、半分に割ったみかんからひとつをちぎって渡した。

「やった」
「知らないから」
「じゃ、せーので」
「ちょっと」

 せーの。
 浅倉の強引な音頭に合わせて、慌てて私もひとつ食べる。

「ほら、甘い」
「偶然」

 口に広がったのは柑橘類特有の爽やかな酸味と甘味。冬の真ん中に食べるものと比べれば甘さは控えめ、でも普通に食べられる。浅倉はキメ顔だった。

3: 名無しさん@おーぷん 20/10/09(金)01:10:42 ID:r6q

「ん、じゃ1個」
「だからいらない。押し付けたいだけでしょ」

 農家じゃない人が育てて、完熟じゃなくて、浅倉がわざわざこんなことをするくらい酸っぱいのなら、食べたいと思う理由がない。どうせ酸っぱいのだから。

「1個でいいから」
「しつこい。……もう」
「やった」

 今回は根負けだ。無駄に良い顔で微笑む浅倉から受け取ったひと切れを、恐る恐る口に含む。

「……っ」
「ね、酸っぱいでしょ」

 レモン果汁の原液みたいな酸味と、ちょっとの渋み。思わず少し咽せてしまう。

「だから……っ。言っ、たのに……」
「ふふっ、ごめんごめん」
「……っ、んん……。許さない。今度奢り」
「うん」

4: 名無しさん@おーぷん 20/10/09(金)01:11:23 ID:r6q

 全く反省の色が見えない浅倉は置いておいて、ひとまず息を整える。自分の方のみかんをもう1度食べれば、月とすっぽんという言葉が脳裏を[[rb:過 > よ]]ぎる。一見同じに見えても、差は歴然だった。

「なんかこんな話無かったっけ」
「は?」

 そんな風に切り出してくるのもまた、例によって突然だった。

「ほら、酸っぱいやつ」
「何が」
「えっと……あ、ブドウ」

 酸っぱいぶどう。幼い頃に聞いた記憶はある。
 ……あまり、好きではない。

「はぁ……それ、酸っぱいってとこしか被ってない」
「それはそう」
「で、それが何?」
「いや、思い出しただけ」
「……それ、ちゃんと食べなよ」
「はーい」

5: 名無しさん@おーぷん 20/10/09(金)01:12:36 ID:r6q

 それ以上中身は無いだろう。そう判断して、さっきから全く食べ進んでいない浅倉のみかんを指さした。外れを引いたのは不運だったかもしれないが、諦めてもらうしかない。

「樋口」
「食べないから」
「ちぇー」

 あんな酸っぱいみかん、例え手が届いたって、件の狐でも取らないだろう。自分の口に合わないものを、分かっているのにわざわざ食べるなんて、余程の馬鹿か、倒錯者のすることだ。
 特に、既に手元に食べられるものがあって、空腹でもないのであれば尚更。

6: 名無しさん@おーぷん 20/10/09(金)01:13:05 ID:r6q




『笑っておけばなんとかなる。アイドルって、楽な商売』


 ほら、だから嫌いなんだ。
 見透かされているような気がして。


7: 名無しさん@おーぷん 20/10/09(金)01:13:36 ID:r6q

 別に、敢えて手を伸ばさなくたって、生きるのに困ったことなんてない。程々に、そこそこに、ある程度のことなら、なんだって。
 わざわざ足を伸ばさなくたって、一緒にいるくらいは出来た。出来たのに。

 熱意なんて、そんなものは持ってない。ミスしたくらいで、楽屋で泣き出すような、そんな想いは。私に出来たのならその程度のことで、私に出来なかったのならその程度のことなのだから。

 なのに。

8: 名無しさん@おーぷん 20/10/09(金)01:14:00 ID:r6q

『円香なら、出来るよ』

 上の枝に手を伸ばす人がいる。伸ばしてみろと、声をかけてくる人が。

『円香が望めば、叶うんだ』
 
 耳触りの良い、耳障りなエールが、頭の中で反響する。

 本当に、分からない。
 どうして、届くかも分からない枝に手を伸ばすのか。
 どうして、食べられるかも分からない実に手を伸ばすのか。

 どうして、私なら届くと信じて疑わないのか。

9: 名無しさん@おーぷん 20/10/09(金)01:14:32 ID:r6q

 あの曇りひとつない真っ直ぐな目が、本当に分からなくて、嫌いだ。出来るなんて言われてしまったら、出来ない方がおかしいと言われているようで。出来る筈なのにと……出来ると思っていたのにと、そう思われるのが、怖くて。
 だから、無様に手を伸ばす。
 届かないかもしれないのに。
 その実は、酸っぱいのかもしれないのに。


 ああ、更に、タチの悪いのは。

『優勝は──ノクチルの皆さんです!』

 伸ばした手を、絶対に見捨てないところ。
 甘い甘い果実を取らせて、良い気にさせようとするところ。

 あの人の……プロデューサーの、そういうところが、大嫌い。

10: 名無しさん@おーぷん 20/10/09(金)01:15:06 ID:r6q





「おーい」

「……何」
「ぼーっとしてたから」

 呼び声で、意識が外に戻る。
 手元のみかんは、もう無くなってしまっていた。

「おいしかった?」
「……まぁまぁ」
「うらやま」

 そういえば、浅倉も浅倉で、欲しいと思ったら何も考えずに手を伸ばすタイプだ。後先考えずに、こんな世界に飛び込むくらい。

「……なに?」
「別に」

 付き合わされる方の、気持ちにもなってほしい。きっと、無理な話なのだろうけど。

11: 名無しさん@おーぷん 20/10/09(金)01:15:34 ID:r6q


「そういや樋口、明日仕事だっけ」
「CMの撮影」
「へー。なんの?」
「コーヒー」

12: 名無しさん@おーぷん 20/10/09(金)01:15:56 ID:r6q

【あまい】


「樋口円香です。よろしくお願いします」
「はーい! 改めてよろしくね、樋口さん。僕が今日の監督の──」

 テキパキと動き回るスタッフたち。
 今挨拶をしている監督も、人好きのしそうな温和な表情で、西陽の差し込む海沿いの無人駅は、穏やかな空気に包まれていた。

13: 名無しさん@おーぷん 20/10/09(金)01:16:33 ID:r6q


『──コーヒーのCM?』

 今回の仕事について教えられたのは、1週間ほど前のこと。例の「大炎上」から暫くは本当に仕事が無かったが、W.I.N.Gを優勝したこともあって最近はそれなりに仕事が多い。
 喜ばしいこと、なのだろう。
 少なくとも、この人にとっては。

「ああ。それも、誰もが知ってるような大手さんだ!」

 コーヒーと言えば、というくらいこの事務所ではコーヒー好きで通っているのだから、今回の仕事が入ったことが嬉しいのだろう。顔に書いてある。

「正気ですか? 私でなくとも、もっと適任なアイドルは283にはいるでしょうに」

 例えば、白瀬咲耶を筆頭にした、アンティーカの面々とか。
 そんな風に言うと、プロデューサーはなんだか嬉しそうな、誇らしげな顔をした。

「まぁそう言うな。実は今回はな、先方から円香にってオファーが来たんだよ」
「……私に?」
「ああ」

14: 名無しさん@おーぷん 20/10/09(金)01:17:09 ID:r6q

 尚更訳が分からない。
 私はどちらかと言えば紅茶派、それも強いて言えばいつもそうだ、程度のものだ。コーヒーは……少なくとも、目の前のミスター・カフェインのように飲むことはしないし、恐らく出来ない。
 単純に、あの苦味が得意ではないから。

「……ん、ああ、安心してくれ。ブラックのやつじゃなくて、新商品のカフェオレだから。ほら」

 受け取った資料に載せられていたのは、『優しさ』なるものを売りにしたらしい、ミルクと砂糖たっぷりのカフェオレ。これくらいなら、まぁ、私でも飲めるかもしれない。

「CMのコンセプトに、円香の落ち着いた雰囲気……それと、ノクチルのモラトリアム感が、合うと思ってもらったらしい。それで、ぜひお願いしたいと」
「モラトリアム感、ですか。それは……つまり、私がブラックも飲めないお子様だと?」
「こら。そう言うことじゃないし、そんなことを言うもんじゃない」
「どうだか」

 ブラックのコーヒーを飲めれば大人だとか、ミルクと砂糖が要るのは子供だとか、そんな言説も幻想も腐るほどある。いつまでも子供気分だとか、大人の自覚がどうとか、私たちは何度も言われてきた。モラトリアム感なんてものを理由に挙げるなら、どうせ意図には含まれているはずだ。

15: 名無しさん@おーぷん 20/10/09(金)01:17:40 ID:r6q

「またそうやって……」
「はいはい。あなたはブラックの飲める大人ですものね」
「円香……。よし、少し待っててくれ」
「はい?」

 何をするつもりなのか、彼は事務所のキッチンに向かうと、冷蔵庫の音と、電子レンジの動く音がする。戻ってきた彼の手には、ほんのりと湯気の立つマグカップが握られていた。

「……それは?」
「お試しに、って試供品……って言えばいいのかな、送ってもらってたからさ。折角だから、円香に飲んでもらって、それから仕事を受けるかどうか決めようかな、と」
「はぁ……」

 テーブルに置かれたマグを覗き込む。黒には程遠いベージュ。暖かくて、穏やかな香り。

16: 名無しさん@おーぷん 20/10/09(金)01:18:24 ID:r6q

「どうぞ?」
「……いただき、ます」

 仕方なく。まずは、ひと口。

「……甘い」
「うん」

 想定通りといえば、そうだ。でも、思っていたのとは少し違った。ただ砂糖を山のように入れたのとは違う、これはミルクの甘味なのだろうか、飲みやすい。
 なるほど、優しさを売りにしただけのことはある。

「どうだった」
「…………悪くはないですね」
「はは、そっか、なら良かった」

 飲み干したマグを見て、彼は安心したような顔をした。相変わらず、どうにも分かったようなことを言う。

17: 名無しさん@おーぷん 20/10/09(金)01:18:55 ID:r6q

「……別にさ、円香の言うようなことを、訴えたい訳じゃないと思うんだ」

 わずかな静けさが部屋に流れた後、彼はそっとそう切り出した。

「大人だって甘えたい時はあるだろうし、子供だからって悩みがないなんてことはない。このコーヒーは、よりたくさんの人に、ほっと一息をつける時間のためにあるんだ……そう言ってたよ」
「メーカーの人がですか」
「ああ。だから俺も、それなら円香にやってもらいたいと思った」
「それは──」

 何故。
 ああ、また私は、足を引いた。

「……いえ」
「……そうか。それで、円香」
「はい」

18: 名無しさん@おーぷん 20/10/09(金)01:19:16 ID:r6q





『この仕事、受けてくれるか?』



19: 名無しさん@おーぷん 20/10/09(金)01:20:02 ID:r6q


 台本は、頭に入っている。
 そんなに長いムービーではない。役としても、それほど過度に演技を必要とするものではない。役者ではなくアイドルなのだから、という配慮でもあるのだろうか。

「準備OKでーす!」
「よし、始められるみたいだね。樋口さん、どう?」
「……はい。大丈夫です」
「うん、それじゃ位置についてね~」
「はい」


「いってらっしゃい。円香なら、出来るよ」

 ほら、また、そうやって。

20: 名無しさん@おーぷん 20/10/09(金)01:20:27 ID:r6q



 指定通りに、駅のホームのベンチに腰掛ける。
 沈みゆく夕陽が、少しだけ眩しい。

「よし。よーい……」

 両手で握るカフェオレの缶は、小さな生き物のように暖かい。


「アクション!」

21: 名無しさん@おーぷん 20/10/09(金)01:20:54 ID:r6q




 先生に叱られた。

 友達と喧嘩した。


 でも、

「……はぁ」

 苦いだけじゃない、世の中に。

「…………ふふ」


 染み渡るミルクの甘味。

 安らぎのカフェオレ、発売。

22: 名無しさん@おーぷん 20/10/09(金)01:21:40 ID:r6q

【にがい】


「何を見ていたんですか。ひどいにやけ面」

 撮影から暫く経って、また他の仕事をこなす日々。私は夜の事務所でカフェオレを──まだ発売前だから同じものではないけど──を飲みながら、打ち合わせの時間を待っていた。
 デスクでパソコンと睨み合いながらいつものように仕事をしていたプロデューサーは、何故か、あの時仕事を告げた時よりも満足気な顔をしていた。

「あぁ、お待たせ。確認も一通り終わってるから、円香にも見てもらおうかな」

 そう言ってプロデューサーが開いたノートパソコンの画面には、西陽の当たる無人駅のホームが映っていた。

「……ああ、完成版ですか」
「そういうことだ。何か気になることがあったら教えてくれ」

 再生ボタンが押される。
 スチール缶を握りながら、海を眺める少女。たっぷりと間を取って、波の音で縫うように綴られるナレーション。ため息を吐きながら飲むカフェオレの、優しい甘さ。遠くに見える水平線。そして、友人から届いた他愛もないチェインのメッセージ。お返しに送った夕景の写真。
 予定通りの仕上がり。

23: 名無しさん@おーぷん 20/10/09(金)01:22:12 ID:r6q

「……特には」
「よし、なら良かった。……放映が始まったら、円香のともうひとつ、『大人の悩みバージョン』ってのも流れるらしいから、楽しみにしておいてくれってさ」
「…………そうですか。それで、今日の打ち合わせというのは?」
「まずはCMの映像の確認だから、ひとつは終わりだな。次は前にも出させてもらった雑誌からオファーが来たから、それについて──」

 いくつかの業務連絡。どの仕事を受けるかの確認。数ヶ月前からは考えられないくらいの、オファーの数。
 6ユニット、23人ものアイドルをプロデュースするこの人の仕事量は、コーヒーなんかよりも余程ブラックなのではないだろうかと、下らないことを考えてしまう。

「と、まぁ、こんな感じだな。最後に何か質問あるか?」
「いえ、何も」
「それなら、今日はこれでおしまいだ。お疲れ様、円香」
「……はい」

24: 名無しさん@おーぷん 20/10/09(金)01:22:41 ID:r6q

「……そうだ、今日はもうだいぶ遅いし、最近は暗くなるのも早い。送ってこうか?」

 私が荷物をまとめていると、彼はそんなことを言い出した。どうせまだ仕事が有るはずなのに、それが当然であるかのように振る舞う。これはそういう人間だ。しかも、誰かさんみたいに、言い出したら聞かないところもある。

「では、お言葉に甘えて」
「了解。じゃ、すぐ支度するから車の前で待っててくれ」
「はい」

 だから、諦めさせるのも面倒で、最近はこうしてこちらが諦めることも多い。こうして彼の運転する車に乗せられるのも、随分と慣れてしまったものだ。事務所から出ると、空にはすっかり大きな月が登っていた。

25: 名無しさん@おーぷん 20/10/09(金)01:23:11 ID:r6q

「そういえばさ」

 夜のラジオが流れる車内、彼は唐突に思い出したように呟いた。

「何ですか」
「コーヒー、飲むようになったんだな」

 飲みかけのカフェオレの缶は、鞄に入れてある。もう、すっかり冷めてしまっていることだろう。

「どうせ、カフェオレですけどね。それで、それが何か?」
「いや、なんとなく、さ。俺は基本コーヒー派だから、ちょっとだけ嬉しいというか何というか」

 ハンドルから離した左手で頬を掻く。後部座席からでは、彼の表情までは窺えない。

「あなたと一緒にしないでください」
「まぁ、そうかもしれないな。俺カフェオレはそこまでだし……」
「何故そんなにブラックばかり飲むんですか」
「んー、なんて言うんだろうなぁ。よし、頑張るぞって時のスイッチと言うか……」
「……やっぱり、高燃費」
「ははっ、そうかもな」

26: 名無しさん@おーぷん 20/10/09(金)01:23:33 ID:r6q

 聞いたところで、結局分かるはずもない。
 彼と私とでは、ものの見方がまるで違う。
 いっそ、面白いくらいに。

「円香と一緒にブラックが飲めたらいいんだけどなー」
「遠慮しておきます」
「そうか。まぁ、無理強いするものでもないしな」
「当然でしょ」

 言うまでもないことだ。
 プロデューサーと同じコーヒーなんて、飲めるとは思っていないし、飲みたいとも思っていない。

27: 名無しさん@おーぷん 20/10/09(金)01:24:02 ID:r6q


 だって、あなたの好むコーヒーが苦いことを、
 私はもう、知っているのだから。

28: 名無しさん@おーぷん 20/10/09(金)01:24:56 ID:r6q
以上です。
途中一箇所だけルビのコマンド消し忘れてるのは見逃してください……普通に見落としてた……