魔王「わたし、もうやめた」 前編

455: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/06(金) 03:51:11.22 ID:jXkgTSPNo

長兄「……」

 玉座の上で体が震え上がる。
 情けないことに、魔王の魔力に当てられてしまった。

魔王「良い景色になった」

 魔王の心情とは裏腹な台詞がこぼれ出る。
 地獄に囲まれた長兄の城。

 未だに雷降り注ぎ、焔立ち込める城外は轟音でいっぱいだった。
 



456: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/06(金) 03:51:48.25 ID:jXkgTSPNo

魔王「さて長兄よ。どうする」

 最終勧告だった。

魔王「今一度、命令を下そう。世界征服は中止する。貴様は賛同するや、否や」

長兄「……」

魔王「無言は賛同すると受け取るが」
 

457: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/06(金) 03:52:50.42 ID:jXkgTSPNo

 長兄は無言で首を縦に振るった。

 始めてみる、恐らくは全力の一撃。
 末妹は魔王選定の戦いでもこれほどの攻撃は繰り出さなかった。

 確かに強い。
 桁外れに強いと認識していたが、これほどまでの大魔法を容易に使えるとは思っても見なかった。

 それはかつて、大魔王と呼ばれ全ての魔族がひれ伏した偉大なる父の力だった。
 

458: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/06(金) 03:53:36.21 ID:jXkgTSPNo

魔王「そうか、それは良かった」

長兄「……」

 玉座から動けなくなった長兄を他所に、魔王は纏っていた魔力を発散させた。
 連動するように天変地異は収まり、地獄がその形相を弱めていく。

魔王「やはり兄妹で争いたくはなかったのでね」

 気落ちするような魔王の声色。
 その色は普段どおりの末妹の声だった。
 

459: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/06(金) 03:54:44.64 ID:jXkgTSPNo

魔王「兄様。わたしの仕事はどうやら終わったようです」

長兄「……」

魔王「お騒がせしました」

長兄「あ、ああ……」

 なんとか振り絞る返答。
 それが精一杯だった。

460: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/06(金) 03:55:11.47 ID:jXkgTSPNo

魔王「ああ、それと……できれば兄様の方から姉様へと今回のことを伝えて欲しいのですが」

長兄「……」


 ──また同じようなことをするのも、面倒なので。


 そう言い放ち、魔王は謁見の間を後にした。

 

461: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/06(金) 03:55:55.24 ID:jXkgTSPNo

 魔王と大臣が去ったあと、城は静寂に包まれた。
 直ぐに城回りの焼け野原やマグマを処理しろと命令したため、動く石像を含む全ての魔物が城外へと出向いたためである。

 玉座に一人。
 長兄が頭を力なく垂らし、俯いていた。

長兄「なんと言う力だ……」

 自身が親に見た、比類なき力を妹に感じた。
 あれを越える魔族など、数千年は生まれることはないだろうと。

 謀叛など不可能だとむざむざと見せ付けられてしまった。
 

462: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/06(金) 03:56:58.46 ID:jXkgTSPNo

長兄「なぜだ……なぜあの力がありながら、魔族を導こうとしないのだ……」

 長兄の心情は、奇妙なことに後悔の念で溢れていた。
 憎しみや嫉妬の感情はない。

 自身に妹を説得出来るほどの話術があればと酷く悔やんでいた。
 人間と魔族についてだけではなく、もっと他の話を妹に聞かせるべきだったのだと。

 アレはまだ20年も生きていない。
 超長寿の魔王族にすれば生まれたても良いところである。
 もっと良く聞かせ、納得させるべきだった。
 

463: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/06(金) 03:57:29.85 ID:jXkgTSPNo

長兄「あの力があれば、人間界だけではない……」

 末妹はまだ子供だ。
 時間をかけてゆっくりと考え方を変えさせればあるいは──。

長兄「妖精界も、天界すらも魔族が統治すること叶うやもしれん……」

 そう小さく呟いた台詞を聞いた者は、当人を除き誰一人として存在しなかった。 
 

475: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/06(金) 15:09:13.36 ID:jXkgTSPNo
 

 ◇

 大甲竜の乗り心地は決して良いものではない。
 魔王城から兄様の城は大した距離ではないものの、お尻が痛くなってきた。

 座席が硬いのだ。
 肉体的なダメージがどうこうではなく、気分的なものに左右されているのだろう。

 城を出てから時間はそれほど経っていないのに、もう帰りたくなってきた。
 

476: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/06(金) 15:09:45.00 ID:jXkgTSPNo

魔王「……」

 わたしがそんなことを考えているとは思ってもいないであろうガーゴイルは、神妙な面持ちだった。
 恐らく、この後に行われる兄妹間のやり取りがどう言ったものになるのかを考えているのだろう。

 そしてソレは十中八九、間違っている。
 わたしは兄様を消すつもりなど毛頭ないのだ。

 ただ、ちょっと脅そうとは思っている。
 どうやって脅すかは今朝決めた。
 

477: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/06(金) 15:10:11.77 ID:jXkgTSPNo

 そのために今は“魔王モード”を維持して頑張っているのだ。
 正直ちょっとイライラしてきた。

 この微妙な魔力の匙加減は疲れるし面倒だ。
 魔王を演出するのも楽じゃない。

 これはあれだな、兄様にはこのような面倒事を対処するわたしの気持ちを受け止めて貰わねばならない。
 少しばかり強めに脅しを効かそうじゃないか。

 そんなことを思いながらわたしは兄様の城へと向かった。
 

478: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/06(金) 15:10:56.01 ID:jXkgTSPNo


 ─長兄の城─


 城の前に大甲竜を止め、城内へと足を運ぶ。
 城門には動く石像の群れが理路整然と並んでおり、一斉に頭を下げてきた。

 止めて欲しい。
 そんなことをされても、わたしはどう対処して良いのかわからない。

 早足で城門を抜けて城内へと入って行った。
 

479: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/06(金) 15:11:22.62 ID:jXkgTSPNo

 この城の作りは魔王城と似ていた。
 それもそのはずで、父である大魔王の別荘だったのだからそれも納得出来る。

 吹き抜けが多いこの城は、魔王城よりも辺りの景観を眺めることが出来る。
 これは良い演出が期待できそうだとわたしは思った。

魔王「やあ兄様。随分と久しい気もするけれど、お互い息災でなによりです」

 色々と迷った結果、わたしは妹としての口調を選択した。
 “魔王モード”ではあるけれど、最初から口調をそれらしくするよりも後を考えると効果的だと考えたからだ。

長兄「お……お久しぶりです、魔王様」
 

480: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/06(金) 15:11:50.57 ID:jXkgTSPNo

 ふふ。
 さっそく動揺している。

 兄様のことだから、敬語など使わず兄弟のそれを用いてくるかと思ったが違ったようだ。
 わたしの普段とは違った様子に怯えている様子がありありと見て取れる。

 兄様はガーゴイルと同じく、わたしに粛清されると思っているのだ。
 どうにもおかしい。

 わたしは回りの者たちからそんなに暴君だと思われているのだろうか。
 確かにデュラハン将軍は消し去ったけども。

 魔王になって1年。
 それこそわたしの手で葬った者などデュラハン将軍いがいにいないのだけれど……。
 

481: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/06(金) 15:12:23.79 ID:jXkgTSPNo

長兄「石像。椅子をもってこい」

石像「ハッ」

 絨毯の上で挨拶を交わしていると、兄様が石像へと注文した。
 わたしはそれを要らないと跳ね除けその場に腰を下ろす。

 この行為に意味は特になかった。
 ただ、兄様を動揺させるのが目的だったのだ。
 

482: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/06(金) 15:12:49.98 ID:jXkgTSPNo

魔王「わたしはここで良い」

 腰を下ろした後に気付く。
 わたしは下着を穿いていないのだ。

 しまった。と心の中で絶叫する。
 ここまで培ってきた魔王っぽさと、不気味さが一瞬で瓦解してしまう。
 

483: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/06(金) 15:13:16.52 ID:jXkgTSPNo

長兄「……」

 見えただろうか。
 座るときに方膝を立てて胡坐をかいてしまったものだから、もしかしたら見えてしまったかもしれない。

 さり気なく足を崩し、完全に胡坐をかいて見えなくしたつもりなのだが見えてしまっていたら不味い。
 どうだろう……見えなかっただろうか。

 兄様はそのことについて一切なにも口出しをしてこなかった。
 つまり、セーフ。

 大丈夫だった。
 見えなかったようだ。

 安堵の溜息を内心で吐く。
 この緊張感をたかが下着を穿いているいないでぶち壊されたらたまらない。
 

484: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/06(金) 15:13:42.71 ID:jXkgTSPNo

長兄「此度は一体どのようなご用件で……?」

 兄様が口を開いた。
 声はどこか上擦っていて、落ち着きがない。

 緊張しているようだった。

 わたしはどう返答したら良いものかな、と思考を巡らせ、

魔王「いきなり本題か……兄様らしいと言えば、らしい」

 と適当に答えた。
 てっきり適当な世間話からするものだと思っていたから、少しばかり驚いた。

 兄様の性格を考えれば寄り道などせずに、本題へ斬りかかってくることは想像できた。
 けれど、緊張しているようだしそれをほぐすためにも世間話を……と思っていたわたしはどうやらまだまだ甘いらしい。

 まあ、話しが直ぐに進むのならこっちとしては大助かりだ。
 内心としちゃさっさと終わらせて魔王城に帰りたいのだから。

485: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/06(金) 15:14:12.77 ID:jXkgTSPNo

魔王「では……兄様。あなたの意見が聞きたい」

長兄「意見、とは?」

魔王「書状では目を通しているけれど、やはり生の声を聞いておいた方が良いと思って」

長兄「具体的にお伺いしても?」

魔王「腹の探り合いはよそう。わたしは「世界征服をやめる」と言った」

長兄「……」

魔王「兄様と、それから一番上の姉様はこれに反対だと何回か書状を送ってきてどうしようかと頭を悩ませていた」

 会話が進む。
 ここでちょっとしたアクションを取り入れてみた。

 懐に用意していた手紙を取り出す。
 数は五通。

 全て、兄様がよこしたものだった。
 

486: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/06(金) 15:14:39.31 ID:jXkgTSPNo

魔王「発令してからそれほど時間も経っていないと言うのに5通も」

長兄「それは──」

魔王「──こんな物は意味がない」

 兄様が弁明する余地も与えず、手紙を燃やし尽くした。
 黒炎は一瞬で手紙を飲み込み消し炭へと変化する。

 さて、この行動を兄様はどう捉えるだろうか。
 ちゃんとわたしの意図している脅迫を汲み取ってくれただろうか。

 そうだとこの先も話しが進みやすいのだけれど。
 早いところ用件を済ませて城へ、部屋へと帰りたい。

 わたしの頭の中は大半がそれで占められていた。
 

487: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/06(金) 15:15:07.58 ID:jXkgTSPNo

長兄「……」

 黙る兄様。
 うんうん。ちゃんと汲み取ってくれたらしい。

 頭が悪いわけじゃないから助かる。
 ここで力の差も、こちらの意図も全く読めず掴みかかられたら大変だ。

 本当に面倒なことになる。
 城主を消さなければならないし、兄を殺すと言うのも後味が悪い。
 

488: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/06(金) 15:15:34.02 ID:jXkgTSPNo

魔王「さあ、兄様。理由をお聞かせ願おう」

長兄「……」

 わたしはプレッシャーを強めた。
 早く早く早く。

 どうせなら心根の奥になる、わたしの真意も汲み取って欲しい。
 さっさとこの茶番を済ませてしまいたいと言う気持ちを。
 

489: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/06(金) 15:16:12.24 ID:jXkgTSPNo

長兄「お……私は、魔界のことを思って……」

 けれど真意など汲み取ってくれようはずもなく、兄様は真面目な口調で語り始めた。
 しかしまあ、なれない敬語を使ってるものだからスラスラと言葉が出てこない。

魔王「“俺”で良いですよ」

 そう促して、意見陳述を続けさせた。
 これでもうちょっとスピーディーになるだろう。
 

490: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/06(金) 15:16:38.78 ID:jXkgTSPNo

長兄「世界征服とは……魔族にとってやらねばならぬこと……」

 兄様はわたしの顔を見ようとはしない。
 目を合わせようとしない。

 わたしが発散する圧力、魔力に屈してしまうのを恐れているのだろう。
 賢明な判断だと思った。

 おどおどされて会話が進まないのじゃ面倒だ。
 本来であれば、魔王と会話するにあたって俯いているなど言語道断だろうとガーゴイル辺が言うかもしれない。

 けれど、わたしはそれを咎めずに会話を進めることを優先した。
 

491: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/06(金) 15:17:04.68 ID:jXkgTSPNo

魔王「それは種として?」

長兄「無論……」

魔王「わたしにはそれが理解できない」

 本音をこぼす。
 やはり、それが理解できなかった。
 

492: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/06(金) 15:17:38.51 ID:jXkgTSPNo

 魔族を代表する魔王。それはわたしだ。
 そのわたしが、世界征服を必要としていない。

 なのに長兄は魔族にとって世界征服が必要不可欠と信じて疑わない。
 わたしの意見が魔族の総意だ、と言い張るつもりは毛頭ない。

 しかし、この魔界の棟梁はわたしだ。
 であるのならば、少なくともわたしが納得しなければいけないはずだろう。

 さあ兄さま。
 わたしを納得させたいのなら、どうぞ頑張って下さい。

 時間はもうあまりない。
 わたしは虎視眈々と、脅迫するタイミングを伺っているのだから。
 

517: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/08(日) 03:29:40.52 ID:GjMue7G7o
 

 段々と我が長兄。兄様らしい口調へと戻っていく。
 なにもかもを決め付けたような物言い。

 色々と思うことはあるけれど、まずは全てを聞こうと努力した。

長兄「魔族の本能とは闘争。我々の種の根幹にはそういったものがある……」  

長兄「そして種によっては人間と言う動物を主食。エネルギーとしている者もいる」

魔王「例えば?」
 

518: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/08(日) 03:30:11.46 ID:GjMue7G7o

 前述の闘争うんぬんは置いておこう。
 それよりも気になったのは後述の方だった。

 わたしは博識ではない。
 魔族全ての種族生態を網羅してはいない。

 人間しか食べられない種族がいると言うのなら是非とも聞いておきたかった。
 少なくとも、わたしは知らないし大臣であるガーゴイルからも聞いた事はなかった。
 

519: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/08(日) 03:30:47.70 ID:GjMue7G7o

長兄「吸血鬼どもがそれに当るだろう……。やつらは人の血や精を糧としている」

魔王「人間の血液じゃなければダメなのだろうか。例えば、牛や豚や鳥。そう言った種類の血では活動が出来ぬと?」

長兄「出来るだろう。が、味はよろしくない」

 おいおい、兄様。簡便してくれ。
 そのような回答をわたしが望んでいないこと位、あなたならわかるだろうに。

 やはり冷静ではないのだろうか?
 緊張。もしくは恐怖で頭が回らないのか。

 なんにせよ、その回答ではダメだ。
 

520: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/08(日) 03:31:18.46 ID:GjMue7G7o

魔王「出来るのならば問題外だ。彼等を旗本にして反対とする理由にはならない」

 わたしはハッキリとその主張を斬って捨てた。
 論外だよ、兄様。

長兄「生活のレベルを落としてまで人間を断つ理由はない。やつらは幾らでも増える」

 内心で目を瞑った。
 溜息まで吐きたくなる。

 つまり、それが本音ではないか。
 途端にわたしの胸のうちは残念な気持ちで満たされてしまった。
 

521: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/08(日) 03:31:50.19 ID:GjMue7G7o

魔王「そうか……やはり、そう言った考えなのでしょうね。兄様も、姉様も」

長兄「……」

 兄様も姉様も人間を食す。
 血や肉や臓物を。

 わたしからすれば考えただけで食欲が失せてしまう。
 理解できない。

 理解出来ない事象を全て排他するつもりはない。
 けれど、この問題は別だ。まったくの別問題だ。

 到底、許容できない。
 

522: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/08(日) 03:32:23.54 ID:GjMue7G7o

 そうだな……例えば、人間たちが我々魔族を“食料”と認識し、進軍してきたのであればわたしも動こう。
 しかし彼等はそう言ったことをしてこないだろう。

 長い歴史がそれを物語っている。
 結局は魔族側から人間側へちょっかいを出し続けているのだ。今も、昔も。

 くだらない。くだらないよ兄様。
 わたしには、あなたたちの思考が理解できないのだ。

 わたしが魔王でなければ良かったのだろうと心から思う。
 けれど、わたしは魔王になってしまった。

 魔王城の城主になり、玉座に君臨してしまった。
 この紛れもない事実は誰にも曲げられない。

 わたし自身にも。
 

523: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/08(日) 03:32:49.94 ID:GjMue7G7o

魔王「……ふう」

 色々と思考してみたりもしたけれど、ここまでとしよう。
 この取り止めのない会話を終わりにしようじゃないか。

長兄「魔……いや、妹よ」

 わたしの溜息に合わせて兄様が喋りを再会した。
 口調は完全に戻っている。

 未だに顔は上げないけれど、実に兄様らしい上から目線な声色だった。
 

524: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/08(日) 03:33:16.72 ID:GjMue7G7o

長兄「考え直すのだ。魔族にとって人間界の征服は絶対だ、なくてはならない」

魔王「……」

 くつくつ。
 思わず笑みが毀れそうになる。

 演説が始まってしまった。
 拝聴者はわたしだけ。

 石像どもはその名の通り、石と化している。
 ガーゴイルであれば耳だけは生きているか。まあどうでも良い。
 

525: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/08(日) 03:33:43.74 ID:GjMue7G7o

長兄「そうだ、これからは俺も手伝おうじゃないか。正直に言って妹に魔王の座を奪われ、俺も色々と考えるものがあった」

 良いぞ、良い。
 実に良いじゃないか兄様。

 やれば出来るじゃないか。
 わたしは最初からそうあって欲しかったのだ。

 自信満々に、傲慢に、上から目線で、自らを信じて止まない。そう言った口ぶりで話して欲しかったのだ。

 先ほどまでうな垂れていた城主はどこへやら。
 今でははっきりとわたしの目を見て語りかけている。
 

526: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/08(日) 03:34:12.30 ID:GjMue7G7o

長兄「けれど我々は兄妹だ。家族だ。手を取り合おうではないか」

 さて。
 そろそろタイミングを見計らう時期が来たようだ。

 兄様のお陰で良い感じにストレスも溜まっている。
 演技は必要ないかもしれないなと思った。
 

527: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/08(日) 03:34:38.92 ID:GjMue7G7o

長兄「長女も俺と同じような考えを持っているはずだ。アレにも手伝わせよう」

魔王「……」

長兄「だから妹よ。世界征服をするのだ、父の成し得なかった業を子の我々が果たす──」

 ──ここだ。

魔王「──わたしは、魔王である」
 

528: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/08(日) 03:35:09.51 ID:GjMue7G7o

 気持ちよく喋くり倒している兄様の鼻を砕く。
 しっかりと、重く発言した。

 兄様にかける圧力と、魔力を増大させることで喋りを止める。
 ほんの少しだけ言葉に怒気が含まれているが、これは演技ではない。

 兄様の上から目線トークにイラッと来てしまったのだ。
 我ながら子どもだとは思うけれど、この場合に限り上手く作用したから結果オーライとしよう。
 

529: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/08(日) 03:35:48.16 ID:GjMue7G7o

長兄「の……だ……」 

 兄様の表情が固まった。
 良い顔だ。

 さあ、兄妹の間柄はここまでだよ。
 今からは魔王と、その配下だ。
 

530: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/08(日) 03:36:44.44 ID:GjMue7G7o

魔王「長兄よ。魔王であるわたしは命令を下した」

長兄「な……」

魔王「世界征服はやめる、と」

長兄「……」

 兄様の口は完全に塞がった。
 ここからはわたしのターン。

 もうずっとわたしのターン。
 

531: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/08(日) 03:37:11.63 ID:GjMue7G7o

魔王「魔王であるわたしはそう命令したのだが……」

 いかん。
 気分が高揚……いや、興奮してきた。

 両目が熱い。
 きっと瞳の色は真っ赤なことだろう。

 ゆっくりと立ち上がる。
 下着を穿いていないことなど、どうでも良くなっていた。

 立ち上がる際に見えた? そんなものはもう関係ない。
 その程度の失態でこの雰囲気を壊せるのならやってみろ。
 

532: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/08(日) 03:37:52.34 ID:GjMue7G7o

魔王「これ以上の話し合いは平行線だろう。了承できないのであれば仕方が無い」

長兄「……」

魔王「貴様の好きな“種としての根幹”に根付く“闘争”とやらで話しを決めようではないか」

長兄「……」

 ああ、これは後で自己嫌悪に陥るパターンだ。
 自分で吐いた言葉を反芻して、なんたることだと。

 魔王。魔王。魔王。
 やはり、わたしは魔王であり、魔族なのだろうな。
 

533: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/08(日) 03:38:51.01 ID:GjMue7G7o

魔王「どうした。座ったままが趣味なのか?」

 演技ではなかった。
 この時の心境として、かかって来るのならかかって来いと思っている。

 興奮状態だった。
 兄様が玉座から立ち上がらなかったのはお互いにとって幸せな結果をもたらしている。

 もし立ち上がっていたら……。
 いや、もしもの話しはよしておこう。
 

534: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/08(日) 03:39:20.63 ID:GjMue7G7o

長兄「……」

 長兄は動けない。
 言葉を失っている。

魔王「……カカッ」

 喉元から笑いが毀れた。
 おそらく、誰にも聞き取れないほどの小さな笑みだった。

 わたしの小さな体に充満した魔力を解き放つ。
 気持ちよかった。

 天と地。
 それが魔力に呼応して変動する。

 産まれて初めて、極大魔法を発動した。
 魔界は魔王たるわたしの魔力に答え、それに相応しい結果をもたらす。
 

535: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/08(日) 03:39:48.67 ID:GjMue7G7o

 全てが終わったあと、兄様の顔面は蒼白になり体は震えていた。

 わたしは全身が火傷したような熱さを覚え、魔力を存分に振るった快感が体を駆け巡っている。
 疼く。

 もっと力を使いたいと思ってしまう。

 ──嗚呼、嗚呼。

 これだから嫌なんだ。
 魔力を開放するのは、これだから……。

 吹き抜けから見渡せる地獄のような風景を目にして我に帰る。
 いけない。

 気分が落ち込みそうになるのを堪えて、演技を始めた。
 

536: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/08(日) 03:40:21.04 ID:GjMue7G7o

魔王「良い景色になった」

 声が上擦ってないか、少しだけドキドキした。
 普段の兄様であれば見抜いたかもしれないが、今の彼は完全に怯えきった子犬だった。

 気付かれていない。

魔王「さて長兄よ。どうする」

 押し切ろうと思った。
 さっさと話をまとめて帰りたかった。
 

537: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/08(日) 03:40:52.82 ID:GjMue7G7o

魔王「今一度、命令を下そう。世界征服は中止する。貴様は賛同するや、否や」

長兄「……」

 なんで黙ってるの。
 早く答えてよ、もう。

 “魔王モード”はもうとっくに解除されていて、今のわたしは自身への恥ずかしさでいっぱいなのだから。
 

538: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/08(日) 03:41:38.17 ID:GjMue7G7o

魔王「無言は賛同すると受け取るが」

 無理矢理に話を進めてしまおう。

 そう言うと兄様は首を小さく縦に振った。
 よしよしよし。

 理解してくれたようだ。
 良かった。これで帰れる。
 

539: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/08(日) 03:42:34.07 ID:GjMue7G7o

魔王「そうか、それは良かった」

 心からの声だった。
 我に返り“魔王モード”が解除された今となっては魔力を発散させ続けているのもキツい。
 
 風船の空気を抜くように、纏っていた魔力を発散させた。
 連動するように城外の地獄も納まっていく。

 うわあ……酷いな、この力。
 

540: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/08(日) 03:43:14.25 ID:GjMue7G7o

魔王「やはり兄妹で争いたくはなかったのでね」

 台詞は一応出てくるけれど、だめだ。
 なんかもう、だめだった。

 気落ちが収まらない。

魔王「兄様。わたしの仕事はどうやら終わったようです」

長兄「……」

魔王「お騒がせしました」

長兄「あ、ああ……」
 

541: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/08(日) 03:44:14.60 ID:GjMue7G7o

 挨拶を済ませてさっさと退場しよう。

 ……あー、しまった。
 まだ一つだけ仕事が残っている。

 畜生と呟きたくなる。
 後詰を疎かにしたら、また同じようなことをしなきゃならないじゃないか。

 わたしの馬鹿。

 頑張れ、頑張れわたし。
 最後の気力を振り絞って魔王っぽさを演出した。
 

542: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/08(日) 03:45:34.42 ID:GjMue7G7o

魔王「ああ、それと……できれば兄様の方から姉様へと今回のことを伝えて欲しいのですが」

長兄「……」

 ──また同じようなことをするのも、面倒なので。

魔王「では」

 そう挨拶して城を出る。
 歩く速度は早かった。走り出したい気持ちを抑えるので精一杯だった。

 そそくさと大甲竜に乗り込み、我が根城へと進路を向けさせる。
 

543: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/08(日) 03:46:34.16 ID:GjMue7G7o

魔王「……」

 疲れた。
 疲れたよう。

 こんなのは、わたしらしくない。
 多分、魔王になってから一番働いたと思う。
 

544: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/08(日) 03:47:57.17 ID:GjMue7G7o

大臣「魔王様」

魔王「言うな……」

 ガーゴイルがなにを言いたかったのかは察しが付く。
 今日のわたしの振る舞いは実に魔王をしていたと思う。

 兄様の教育係であったガーゴイルからすれば複雑な心境かもしれないが、大臣としては満足いく態度だったのだろう。
 魔王が指し示す方向性はともかくとして。

 ガーゴイルとはそういったやつだった。
 

545: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/08(日) 03:48:23.75 ID:GjMue7G7o

魔王「(お風呂に浸かりたい……)」

 恥ずかしさでいっぱいだった。
 ちょっとノリノリになっていた自分が恥ずかしくて仕方がない。

 多分、自分の発散した魔力に酔ってしまったのだろう。
 馬鹿すぎる。

 そして恥ずかしいのと、もう一つ。

 兄様の言っていた“種族としての根幹”。
 それを今日、自分で体感してしまった。

 それがちょっとだけ、悔しかった。

 わたしはどこまで言っても、魔族であり魔王なのかな……と。
 

546: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/08(日) 03:49:18.41 ID:GjMue7G7o


……。
…………。
………………。


 

547: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/08(日) 03:49:46.04 ID:GjMue7G7o

魔王「くか……」

 昨日は兄様の城から帰った後、すぐに入浴して就寝した。
 魔力の行使により疲れてしまったのだ。

 消費した魔力量は大したものじゃなかったけれど、なんかもう行為そのもので疲れてしまった。

魔王「むうん……」

 ベッドの中でまどろみの中、意識がゆっくりと覚醒していく。

魔王「ん。朝か……」

 昨日のことが一瞬脳裏を過ぎり、気持ち悪くなった。
 もう少し寝れば忘れられるだろうか。

 さて……今日はどうしようかな。
 

548: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/08(日) 03:50:41.79 ID:GjMue7G7o

1:魔王城内で部下と話すか。わたしはあまり部下と話してこなかったからな、こう言った活動も必要だろう。


┠─ ×:兄様のことがあった手前、今日はガーゴイルと真面目に話す気分にはなれない。

┠─ 2:素直になってスキュラに料理を教えて貰おう。

┠─ 3:アラクネがパンツを献上すると言っていたな。

┗─ 4:スライム娘たちと話してみるか。労働環境で不満などあるかもしれない。


2:今日は“四王”について真面目に考えよう。


┠─ ×:二日続けての外出とか無理。

┠─ 2:獣王・ベヒモスについて考えるか。

┠─ 3:龍王・ヨルムンガンドについて考えるか。

┗─ 4:魔人王・アルカードについて考えるか。


3:魔王一族

┗─ ×:今は考えたくない。


4:今のわたしには心のケアが必要だよ……。

┗─ 1:☆ ガーゴイル! わたしは休む、休むぞお!


魔王「今日は……>>550にしよう」

550: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(千葉県) 2012/04/08(日) 04:01:47.18 ID:M7ImcZ/4o
4

551: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/08(日) 04:09:30.69 ID:GjMue7G7o
ありがとうございます。

以下登場人物ですが、絶対ではありませんので参考程度に。
登場人(魔)物


魔王:主人公(ヒロイン) 16歳の小柄な娘。
   魔王1年生で基本的にはやる気がない。油断すると口調が素に戻る。
   人間界の文化に憧れていて、世界征服を中止する。

大臣:ガーゴイル 動く石像。
   大臣と言うだけあって偉い。硬い。岩石族のトップであるが“王”と言う呼称はない。
   石化していても耳は聞こえる。

●魔:サキュバス 魔王の教育係だった。
   基本的に人間界にいる。
   魔人族。

スキュラ:従者長。
     タコのお化け的なモンスター。
     喋るのが苦手。家事全般担当。獣族。

アラクネ:副従者長。
     蜘蛛のモンスター。
     リネン担当。スキュラの通訳。獣族。

スライム娘たち:いっぱいいる。
        色によって個性がわかれている。スライム族。
        配膳、ベッドメイキング等。

デュラハン(故):頭がなくて、頭が悪い。
         アンデッド族。

デュラハン(新):レベル上げ中。
         アンデッド族。

死王:リッチ。悪趣味な人。
   キセルを吹かしていて色々な穴から煙が出る。
   アンデッド族の頭目。

ワイト:幾らでも替えが効くリッチの駒。アンデッド族。

グール:      ↑同文↑

死霊騎兵:発言無し。デュラハンが引き連れた騎兵たち。アンデッド族。

長兄:魔王の兄姉の一番上の人。兄様(にいさま)。
   魔王からすると悪い意味で古い考えの魔族。
   上から物を言う癖がある。

動く石像:日本の大仏みたいな石像。
     ガーゴイルほど強くなく、頭も悪い。気も利くほうではない。岩石族。

大甲竜:ダイコウリュウ。大型の竜。
    かなりの巨体で、背に甲を背負っておりその防御力は堅牢。
    代々魔王の移動手段として用いられている。


また書けたらきます。

559: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/09(月) 21:00:52.29 ID:l7AuGO77o
 

魔王「起きる……」

 思いのほかバチッと目が醒めた。
 頭まですっぽりと被っていた布団を剥いで、むくりと起き上がる。

魔王「……」

 わたしは決意した。


 ──本日は、休業いたします。

 
 

560: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/09(月) 21:01:41.20 ID:l7AuGO77o

 そうと決まったら決行あるのみだった。
 わたしは昨日、頑張った。

 おそらくは魔王と言う役職(?)に就いてから一番頑張ったと思う。
 魔界のために頑張ったかと問われれば、限りなくちがうけども。

 わたしはわたしのために頑張っただけなのだけども。
 それでも、まあ頑張った。

 思い出すだけで赤面しそうなほど、恥ずかしい思いもした。
 恥ずかしい台詞を吐いた。

 今のわたしには、休養こそが必要だと判断した。
 

561: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/09(月) 21:02:20.23 ID:l7AuGO77o

魔王「よし……」

 前回の失敗は教訓となっていた。
 まずは、休養するために邪魔になる要因を除去しなければならない。

 わたしは寝巻きを脱ぎ捨てて、魔王の衣装に袖を通した。
 誠に恥ずかしながら、わたしは寝巻きの他にはこの衣装しか持っていないのだ。

 その代わりと言ってはなんだが、寝巻きの種類は色々とある。
 早く人間界へと足を踏み込み“私服”と言うものが欲しい。

 思考が剃れてしまったが、やることは決まっている。
 わたしの休養を妨げる不安要因。

 大臣であるガーゴイルをなんとかせねばならない。
 

562: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/09(月) 21:02:44.75 ID:l7AuGO77o

魔王「……」

 時計の針はまだまだ午前中を指し示している。
 具体的な数字で言うのであれば6。

 本来のわたしであれば考えられないほどの早起きだった。

スラ娘A「まっ、まおーさま!?」
スラ娘B「お、おはようございますっ」
 

563: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/09(月) 21:03:12.35 ID:l7AuGO77o

 廊下ですれ違う従者部隊のスライム娘たち。
 この時間にわたしの姿を見るのは珍しいためか、随分と戸惑っていた。

魔王「おはよう」

 手短に挨拶を済ませ、歩を進めていく。
 目的地は魔王城内にあるガーゴイルの自室だった。

魔王「……ガーゴイルの部屋を訪ねるなど、どれ位ぶりだろう」

564: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/09(月) 21:03:38.93 ID:l7AuGO77o

 魔王城は基本的に石造りだ。
 廊下もそうだし、壁もそう。

 部分的に木材も使っているけれど、基本的には石材を使っている。
 そしてガーゴイルの部屋は石材100%で出来ていた。

 扉も、なにもかもが石。
 岩石族である彼等は食事も石なのだけど、石で出来たベッドなどどう見えるのだろう。
 

565: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/09(月) 21:04:11.01 ID:l7AuGO77o

 食料の上で寝ている気分に……まるで、童話に出てくるお菓子の城に住んでるように感じるのだろうか。
 少しだけ羨ましい気分になった。

 と、同時にわたしが今からすることに対してほんのちょっとだけ罪悪感を感じてしまった。
 いやいや。大丈夫だ、魔王よ。

 これは、当然の権利を貰うためにやるのだから。
 

566: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/09(月) 21:04:35.38 ID:l7AuGO77o

魔王「よし」

 意識を静めて集中する。
 両目がほんの少し熱くなった。

 ──コンコン。

 手に力が入りそうになったが、努めて弱く石の扉をノックした。
 まるで従者が主に気を使って行うような、弱々しいノック。

 束の間の静寂が流れる。

 ──ギゴゴ……。

 独特な、石と石が擦れる音が響いた。
 石扉が開く。
 

567: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/09(月) 21:05:07.42 ID:l7AuGO77o

大臣「なにかな。従者を呼んだ覚えは──」


魔王『深く、眠れ』


大臣「────」

 朝も早い。眠っていたのだろう。
 目を擦りながら出てきたガーゴイルと目を合わせる。

 それと同時に“魔眼”を発動した。
 命令は単純なもの。

 ただ、深く眠れと命じた。
 

568: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/09(月) 21:05:35.34 ID:l7AuGO77o

 不意打ちを喰らったガーゴイルは抗う術もなく命令を受け入れる。

大臣「……」

 さすが石像だった。
 立ちながら眠っている。

魔王「ガーゴイル……?」

大臣「……」

魔王「おーい」

大臣「……」

魔王「もしもし?」

大臣「……」

魔王「わたし、今日休むね?」

大臣「……」

魔王「よし」

 

569: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/09(月) 21:06:04.77 ID:l7AuGO77o

 両目から熱さが引いていく。
 これで準備完了だった。

 ほんの少しだけ頭の隅にあった罪悪感が膨れ上がりそうになったけれど、これで今日は休みだと思うとそんなものは霧散してしまった。
 邪魔者は消えた。少なくとも、明日のこの時間まで丸々24時間は目を醒まさない。

魔王「……」

 思わずスキップしてしまいたくなる衝動を堪えて、自室へと向かう。
 表情を抑えたくとも抑えられない。

 思わず笑顔になってしまう。
 魔王として、破顔するのは良くないとわかっていても抑えられなかった。

 ガーゴイルの部屋から自室に戻る前までの数分間、部下の誰とも遭遇しなかったのは幸いだ。
 こんなわたしを見られたら威厳がなくなってしまう。
 

570: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/09(月) 21:06:31.82 ID:l7AuGO77o

魔王「ふう……」

 部屋に戻る。
 脱ぎ散らかされた寝巻きが目に入り、再び寝巻きに着替えようかと思ったけれどそれは後だ。

 わたしは盛大にベッドへと寝転んだ。

魔王「ふおおおおおおおおおおおおお」

 ベッドの上で寝転げまわる。
 気分の高揚が抑え切れなかった。
 

571: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/09(月) 21:07:10.28 ID:l7AuGO77o

魔王「休み! 休み休み休み!」

 枕を抱きかかえて天井を見やる。
 時刻は未だ早朝と表現するに相応しく、時間はいくらでもあった。

魔王「なっ、なにをしよう!?」

 誰に喋るともなく声がこぼれる。
 可能性は無限大だなと思った。

572: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/09(月) 21:07:51.78 ID:l7AuGO77o

魔王「なーにーをーしーよーおーか……な……っと」


休日・午前中
  ┃
  ┠─ 1:人間は休みの日に掃除をするらしい。いい加減、部屋が汚れてきたし掃除をしよう。
  ┃
  ┠─ 2:早朝は気持ちが良い。散歩でもしてみようか。
  ┃
  ┠─ 3:思い切って完全に読書に当ててみるのはどうだろう? 今から人間界の知識を頭にいれておくのだ。
  ┃
  ┗─ 4:風呂に入ってから二度寝をしよう! わたしは疲れているのだ。


魔王「>>573に決めたっ!」

573: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/04/09(月) 21:13:24.31 ID:SIdLOqFuo
2

577: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/10(火) 00:06:09.23 ID:O24vJSz6o
 

魔王「そうだ、散歩なんてどうだろう」

 魔王になってからと言うのも、自由なんてほとんどなかった。
 元首たるもの常にどっしりと。

 聞こえは良いかもしれないけれど、要するにずっと座ってろ。
 魔王城から出るな。

 それが魔王の仕事だと言われてきた。
 

578: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/10(火) 00:06:37.10 ID:O24vJSz6o

 まあ、確かにと思う部分はある。
 全てが例え話になってしまうけど、もし仮に人間界から魔界へ勇者が来るとしよう。

 標的はもちろん、魔王である私だろう。
 魔王たるわたしは魔王城の玉座に座っている。

 勇者が魔王を討つために魔界を闊歩している中、散歩している魔王……わたしと遭遇したら。
 ううん。シュールだ。

 護衛もなしにいきなり勇者との戦闘になるのだろうか。
 それを考えると、簡単に魔王城を出るなと言って来る配下たちの言い分はわかる。
 

579: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/10(火) 00:07:03.48 ID:O24vJSz6o

 わかるけども!
 わたしにだって、やりたいことはある。

 自由に動いて良い日があったって良いじゃないか。
 今日は、そんな日と決めたのだ。

 邪魔なガーゴイルは起きてこない。
 魔王城には他にも配下がいる。けれども、その者たちは全てをガーゴイルに任せてしまっている。

 実質的なわたしの敵となるのはガーゴイルだけなのだ。
 

580: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/10(火) 00:07:33.91 ID:O24vJSz6o

魔王「くふふ……」

 そんなガーゴイルが今日は眠ってしまっている。
 だから、なにをしても大丈夫。

 勇者どうこうのニュースも耳に入ってこないので万が一もない。
 問題ない。

魔王「散歩なんて久しぶりだな」

 ほんの少しだけ、二度寝行為に後ろ髪を引かれつつもわたしは自室を後にした。
 

581: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/10(火) 00:08:09.60 ID:O24vJSz6o


 ─ 魔王城 周辺 ─


魔王「ありがとう」

飛竜「ピュイ」

 魔王城で飼われている飛竜を一匹借りて、魔王領南側の雑木林に降り立った。

魔王「少しばかりここで待っててくれ」

飛竜「ピュイ」
 

582: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/10(火) 00:08:36.80 ID:O24vJSz6o

 優しく喉をさすってやると目を細めて声をもらした。
 可愛いやつだ。

 魔王城には基本的に獣族に属するモンスターと、竜族に属するモンスターが従事している。
 それは昔から“四王”である“獣王”と“龍王”が親王派。

 魔王に強く忠誠を誓っているから自然とその種族が魔王城で従事するようになったと言う。
 

583: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/10(火) 00:09:03.54 ID:O24vJSz6o
 
魔王「この辺りを歩くのも久々だ」

 魔王城の周辺は大平原が広がっている。
 それを抜けると森や林や山脈、大河など大自然が顔を揃えている。

 南に行けば行くほど自然は豊かになり、それを統治している“獣王”の領地が近くなる。
 わたしは、魔王城領内でも南側にちかい雑木林を歩いていた。

 さすがに他の魔物と顔を合わせるのは良くない。
 この雑木林なら出くわすこともないだろうと、この地を選択した。
 

584: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/10(火) 00:09:33.08 ID:O24vJSz6o

魔王「ふふ」

 自分の足で気ままに歩く。
 良いじゃないか。

 木は枯れ気味だし、風は冷たい。
 冷たい香りが鼻の奥を刺激する不思議な感じ。

 けれど、不快ではない。
 むしろ清々しい気持ちになった。

 パリパリと枯葉を踏む音と、木々の囀りだけが雑木林内にはある。
 

585: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/10(火) 00:10:05.38 ID:O24vJSz6o

魔王「なんとも人間的じゃないか」

 目的なんてない。
 ただただ、歩きたいからこの雑木林を歩いている。

 それだけで気分が晴やかなものになっていく。

 昨日は大変な思いをした。
 慣れない言葉遣いを多用したし、魔力も放出した。

 大変に恥ずかしい思いもした。
 そう言ったあれやこれが、流されていく気分になる。
 

586: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/10(火) 00:10:33.19 ID:O24vJSz6o

魔王「んんっ……」

 大きく背伸びをする。

 城内ではない。
 それだけで、気持ち良くなってしまう。

魔王「子どもの頃はこの辺りを良く歩いたものだけど」

 子ども。
 わたしのそんな台詞を聞けば、大抵の魔物は鼻で笑うだろう。
 

587: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/10(火) 00:11:14.53 ID:O24vJSz6o

魔王「仕方ないじゃないか。まだ16年しか生きてないのだから」

 年齢。
 わたしに足りないのは、当分の間はこれだろう。

 しかし、これが一番厄介だ。
 なにをしようとも、月日と言うものは人間にとっても魔族にとっても平等に流れている。

魔王「人間は魔族よりも時間系の魔法に優れていると聞くが……」

 それはやはり、魔族よりも寿命が短いからなのだろう。
 なんとかして長く、少しでも長く生きたいと願った結果。

 時間に関する魔法が発達したのだと思う。
 

588: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/10(火) 00:11:41.13 ID:O24vJSz6o

魔王「寿命を延ばす魔法があるのなら、容姿だけ時間を経過させる魔法もあるかな」

 ううん。どうだろう。
 あったとして、それはわたしが扱える類のものなのだろうか。

魔王「いや、無駄か」

 例え容姿だけ大人になろうとも、中身が伴なわなければ意味がないこと位はわたしにもわかる。
 わたしは自身でも納得してしまうほど、内面が子どもなのだ。
 

589: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/10(火) 00:12:08.76 ID:O24vJSz6o

魔王「大人と言うのはなんだろう……今度、サキュバスにでも聞いてみようかな」

 そうこぼしておきながら、きっと明確な答えは貰えないだろうなと思った。
 サキュバスのことだ「それは魔王様が大人になればわかりますよ」とでも言うだろう。

 ああ、嫌だ嫌だ。
 大人と言うのは答えを濁す生き物だと言うことだけは知っている。
 

590: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/10(火) 00:12:48.90 ID:O24vJSz6o

魔王「んっと。気分転換も済んだしそろそろ帰るか。飛竜を待たせているし──ん?」

 時間を気にして、そろそろ帰るかと身体を翻した時。
 視線の端っこになにかが映った。

 咄嗟に身体を木に隠す。
 魔王であるわたしが魔物に見つかるのは宜しくない。

 けれど、誰だろう。
 この雑木林に魔物は生息していないはずなのだ。
 

591: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/10(火) 00:13:19.94 ID:O24vJSz6o

グールA「あー……」
グールB「あー……」

魔王「あれは……」

 グール。
 アンデッド族の、最下層に位置する魔物だった。
 

592: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/10(火) 00:13:59.00 ID:O24vJSz6o

魔王「なぜ、こんなところにアンデッドが……」

 アンデッドの領域は西側である。
 南側に近いこの領域にいても不思議じゃ……いや、おかしい。

 アンデッドたちは獣族に嫌われている。
 それは埋葬された同胞を掘り起こし、貪り、アンデッド化させることがあるためだった。

 そのため、西と南とでは境界と言うものが強く認識されている。
 少なくとも、獣族側にとっては。
 

593: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/10(火) 00:14:26.09 ID:O24vJSz6o

魔王「魔王領にアンデッド……? しかも、グールだと」

 たった2匹のグール。
 なにをするでもなく、ただ徘徊しているだけのようだった。

魔王「気に入らないな。住み分けはしっかりとしているはずなのに」

 竜族は東側に。
 アンデッド族は西側に。

 獣族は南側に。
 魔人族は北側に。

 そして魔王領は、従事する魔物たちが住んでいる。

 アンデッド族は魔王領にただの一匹も従事していない。
 その理由として、殆どの個体が体が腐っていたり、思考が鈍かったりするせいだった。

 逆に言えば、知性ある者は従者になどなりたがらない。
 

594: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/10(火) 00:15:03.46 ID:O24vJSz6o

魔王「やつら、なにをしている……」

グールA「あー……」
グールB「あー……」

 道にでも迷ったのか。
 それとも、この辺りを自分たちの縄張りにでもしようと言うのか。

 どちらにせよ処理をしなければならないと思った。
 今日のわたしは御忍びである。
 

595: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/10(火) 00:15:27.02 ID:O24vJSz6o

 この問題を後々にガーゴイルへ報告して、処理させるのも難しい。
 彼は今日一日を忘却しているはずだ。

 つまり、ガーゴイルにとって今日は存在しない日になっている。
 だから今日あったことは報告出来ない。

 わたしが独断で処理をせねばならなかった。
 

596: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/10(火) 00:15:56.98 ID:O24vJSz6o

魔王「どうしようかな」

 相手はグールだ。
 思考能力などほとんどない。自我もない。

 ん? だったら──。

魔王「消してしまっても良いか」

 なんとも魔族的な考えかなと一瞬思ったが、それならそれでも良いと思った。
 残念なことに、わたしは魔族なのだから。
 

597: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/10(火) 00:16:25.64 ID:O24vJSz6o

魔王「こっちにも気付いてないみたいだし……」

 こそこそと木の後ろに隠れながら、右手だけをグールに向けた。
 照準を合わせる。

 ──パチンッ。

 中指と親指を擦り合わせ、小気味良い音が鳴った。

 二匹のグールの間で小規模の爆発が起きる。
 その爆発はその後に収束し、グールの肉片共々を引き連れて消え去った。
 

598: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/10(火) 00:17:05.00 ID:O24vJSz6o

魔王「掃除完了」

 周りの木々が傷ついてないか確認する。
 なんとなしに、自然を傷つけるのは嫌な気分がした。

魔王「大丈夫みたいだ」

 アンデッドの肉片も綺麗に爆発に飲み込まれ、消えてなくなっていた。
 あれらの肉は残ると毒を吐き出し、その場を汚染する。

 そうなると大地を削ってその部分を消滅させるしかなくなる。
 なんとも厄介な魔物だ。

 魔界の西側はそれこそ地獄のような環境だろうなと思った。
 

599: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/10(火) 00:17:45.44 ID:O24vJSz6o

魔王「念のため、飛竜で辺りを見回ってから帰ろう」

 律儀に雑木林の前で待っていてくれた飛竜にまたがり、雑木林を空から一周する。
 上空の風は少しだけ冷たかった。

飛竜「ピュイ?」

魔王「ああ。大丈夫、用は済んだよ。城へ帰ろうか」

飛竜「ピュイ」
 

600: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/10(火) 00:18:16.61 ID:O24vJSz6o

 あのグールは一体なんだったのだろう……。
 問題視するべきなのか、それともたまたまなのか。

 ううん……。
 ああ、でもでも。

 今日はお休みだったんだ。
 そう言った贅沢な悩みは玉座に座っている合間だけ楽しめば良い。

 帰ったら熱いシャワーを浴びよう。
 色々と洗い流してから、午後からなにをするか決めようじゃないか。
 

601: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/10(火) 00:18:43.12 ID:O24vJSz6o


……。
…………。
………………。

 

602: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/10(火) 00:19:09.74 ID:O24vJSz6o

魔王「ふう」

 魔王城に帰ったらその足で浴場へと赴いた。
 熱いシャワーを頭から浴びて、スッキリする。

 時計に目をやるとまだまだ時間は午前中を指していた。

魔王「朝食をとろう」

 パンを手に取り、はてと頭を傾げる。
 

603: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/10(火) 00:19:47.97 ID:O24vJSz6o

魔王「今日は、魔王様お休みの日だった……」

 本来ならば、こう言った日にこそ料理とかをするべきなのだろう。
 だけどね? だけれどもさ。

魔王「今日くらいは……いっかなあ……」

 部屋の隅においてある、スライム娘を呼び出す装置に自然と目が行く。
 わたしはその欲求に抗うことが出来ず、ボタンを押し、魔王城に住む者であれば当然の如く頂ける権利を貪ることに決めた。
 

604: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/10(火) 00:20:15.33 ID:O24vJSz6o

スラ娘C「おっ、お呼びでしょーかっ!」

 ボタンを押してから数分と立たぬうちにスライム娘が顔を出す。
 実に迅速だ。

 やはり従者の質が良い。

魔王「あー、スラ娘。君に重要なことを頼みたい」

スラ娘C「はっ、はひ!」

 重要と聞いて実を竦ませるスライム娘。
 ごめん。ごめんね、とても私的なことなんだけれど、一応わたしにもその……恥じらいと言うものがあるのだよ。
 

605: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/10(火) 00:20:50.56 ID:O24vJSz6o

魔王「食事をこの部屋へ持ってきて欲しいのだ。出来れば内密に」

スラ娘C「ないみつ……? あっ! 秘密ってことですね!」

魔王「うむ。特に、スキュラやアラクネに漏らしてはいけないよ」

スラ娘C「それは何故でしょう?」

 首を傾げるスラ娘。
 当然の疑問だろう。

 従者を従えているのはスキュラとアラクネだ。
 食事の配膳を頼まれたらその二人に話を通すのが常だろう。

 だがしかし、それをされたらわたしが困るのだ。
 恥ずかしいじゃないか。
 

606: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/10(火) 00:21:14.54 ID:O24vJSz6o

魔王「理由は言えない。知らなくても良いことだ。そうだな、城の重役にそう言われたと伝えてくれれば良い」

スラ娘「わっ、わかりました!」

魔王「うむ。では頼んだよ」

 脱兎の如く飛び出していくスラ娘。
 これで食事の心配はしなくて済む。

魔王「もうちょっと休みがあれば、自分でも凝った料理をしたいのだけど」

 ベッドに腰を下ろしてから、ゆっくりと体を横に倒す。
 なんだか少し眠かった。
 

607: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/10(火) 00:21:48.62 ID:O24vJSz6o

魔王「朝ごはん来るまで、少し寝ようかな……」

 早起きに、散歩にシャワー。
 なんだか目がトロンとしてきて、眠くなってきてしまった。

魔王「むうん……食べたら……なに……しよっかなあ……」

 うつらうつらと意識が飛びそうになる。
 むうん……。
 

608: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/10(火) 00:22:21.78 ID:O24vJSz6o

休日・午後
  ┃
  ┠─ 1:人間は休みの日に掃除をするらしい。いい加減、部屋が汚れてきたし掃除をしよう。
  ┃
  ┠─ 2:午後も散歩しちゃおうかな。今度は渓谷だ!
  ┃
  ┠─ 3:人間界の書物を読み漁ろう!
  ┃
  ┗─ 4:そう言えば魔王城ってどんな魔族が住んでいたかな……たまには練り歩いてみようか。


魔王「ううん……ご飯を食べたら……>>610しようっと……」

610: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/04/10(火) 00:27:24.68 ID:IiVuobAVo
4

634: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/15(日) 14:20:43.54 ID:bbyBa2Rco

魔王「参ったなあ……」

 誰に言うでもなく、一人でそう呟いた。
 少しだけ体がだるい。

 これはきっと、二度寝してしまったせいだろう。
 時計に目をやるとすでに正午を示していた
 

635: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/15(日) 14:21:07.73 ID:bbyBa2Rco

魔王「……」

 しばし、ベッドの上で呆然とする。
 酷くお腹が減っていた。

 それもそのはず。最後にご飯を食べたのは昨日の晩御飯。
 今日は早起きしたのに朝ごはんを食べずに二度寝してしまった。

 もう、お昼ご飯の時間だった。
 

636: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/15(日) 14:21:34.73 ID:bbyBa2Rco
魔王「アラクネめ……」

 ぽつりと言葉がこぼれた。
 部屋の入り口にはどう見ても朝食とは思えない献立の配膳が済まされている。

 配膳のされ方を見ると、スライム娘が行ったものとは思えなかった。
 決して彼女等を貶めているわけではない。

 ただ、その……気配りと言うやつだろうか。
 わたしは朝食を注文したのだ。
 

637: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/15(日) 14:22:09.91 ID:bbyBa2Rco

 であるのならば、朝方に配膳された朝食が今もなおその場にあるべくはず。
 しかし、配膳された食事内容は昼用。ランチそのものである。

 スライム娘であれば、なにも気にせずに朝食だけを置いといたはずだ。
 なぜなら、わたしが食べるとは一言も言っていないから。

 恐らくはスライム娘の口から出た注文の出方にピーンと来たのだろう。
 朝食を届けに来たのはアラクネなのだ。
 

638: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/15(日) 14:22:38.91 ID:bbyBa2Rco

 そしてその時分にわたしは寝ていた。
 だから、朝食を下げて昼食用を置いて行ったのだろう。

 配膳からまだ温かな湯気が昇っているのが見える。
 届けられたのはつい先ほどのことなのだろう。

 それにしても、なぜアラクネと決め付けたのか。
 スキュラの可能性だってあるし、スラ娘の可能性も僅かだがあるはずだ。
 

639: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/15(日) 14:23:09.67 ID:bbyBa2Rco

 それなのにアラクネと決め付けた理由。
 それは──。

魔王「パンツ……」

 配膳の横には、三角形の布地。
 下着と呼ばれるそれが積まれていたからだった。
 

646: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/17(火) 00:37:05.11 ID:mPER6L9co
 

 ベッドからよたよたと立ち上がり、食事の横に置かれたパンツを手に取る。

魔王「ふむ……」

 一番上にあった物を摘まんで見た。
 白地に水色のストライプ……縞模様が入ったものだった。

 形状としてはいたってノーマル。
 わたし個人としては、こう……フリフリが装飾してあるようなタイプが良かったのだけれど。
 

647: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/17(火) 00:37:47.52 ID:mPER6L9co

魔王「文句は言えない、か」

 何枚か置いてあったので全ての柄を確認してみた。
 柄はどれもこれも一緒で、違うのは縞の色が桃色だったり薄い黄色だったりの違いだった。

魔王「全てがストライプ模様か。しかし、なんだ……子どもっぽすぎやしないか」

 用意してくれたアラクネの気持ちは嬉しい。
 けれど、どうにも女児用   と言う気がするこの下着はわたしの心を震わせる代物ではない。
 

648: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/17(火) 00:38:14.25 ID:mPER6L9co

魔王「しかし袖……もとい、股を通さないと言うのも失礼か」

 いつまでも下着を身につけていないのも問題だろう。
 趣味ではないが、わたしはそのパンツに足を通した。

魔王「むッ!」

 なんと言うフィット感。
 下半身を包み込むこの布の感触。

 久々に味わったそれは、なんとも心地良く心を落ちるかせるものだった。
 簡単に言い表すのであれば、気持ちが良い。
 

649: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/17(火) 00:39:21.57 ID:mPER6L9co

 サラサラでいて、ふわふわ。
 それでいて、やわやわ。

 思わず、

魔王「ふぉお……」

 などと情けない声を漏らしてしまうほどに、その下着の完成度は高かった。
 あまり可愛いとは思わなかったがこれは良い。

 実に良いパンツだ。
 

650: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/17(火) 00:39:58.54 ID:mPER6L9co

魔王「ううむ……さすがアラクネだ」

 そう言えば聞いたことがある。
 アラクネ一族の蜘蛛糸は最高級品質で、それらの糸を紡いで作られる衣類は最上の肌触りと心地良さをもたらすと。

 まさに一級品と言うに違わぬ出来栄えだった。

魔王「今まで気にしてこなかったが、わたしの部屋の布団などもアラクネが作ったのだろうか……」

 魔王城のリネン……要するに、ベッドシーツだとか布団だとかを一手に担っているのが副従者長のアラクネだ。
 だとすれば、わたしの使っている布団のふわふわさも頷ける。
 

651: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/17(火) 00:40:23.64 ID:mPER6L9co

魔王「ああ、いや。でもどうなんだ……?」

 布団の外側? 布地を作るのはアラクネかもしれないが、中に詰まっている物。
 鳥の羽のようなものはさすがに違うだろう。

 ううむ……。

魔王「っと」

 いけない。
 また思考が横道を辿ってしまった。

 下着の穿き心地に感動を覚えたのは良いけれど、余計なことまで色々と考えてしまった。
 悪い癖だ。
 

652: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/17(火) 00:40:50.58 ID:mPER6L9co

 ──グウ。

 腹の虫が鳴る。
 そうだ。わたしはお腹が減っていたんだった。

 下着に意識を持っていかれたせいですっかりと忘れていた。

魔王「……アラクネに食事のことがばれてしまったな」

 なんとなくバツの悪い表情になる。
 ちょっとだけ恥ずかしさもあった。

 出来ることならば、スキュラやアラクネにはわたしが料理を所望した事実を伏せていたかった。
 自分のことは自分でやると言った手前、恥ずかしいじゃないか。
 

653: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/17(火) 00:41:30.93 ID:mPER6L9co

魔王「ま、良いか」

 考えてもしょうがない。
 バレてしまったのなら、それで良い。

 今日は魔王様の休日だ。
 そういうことなのだ。

 わたし自身がそれで納得しているのなら、それで良い。
 うんうん。
 

654: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/17(火) 00:41:57.76 ID:mPER6L9co

魔王「さて。それでは頂くとしよう」

 未だに湯気が立ち上っている食事。
 とても美味しそうだった。

 まずは、バスケットに詰められたパンを一つとりそのまま齧る。

魔王「ふもっ……」

 ──美味しい。

 焼きたてだからだろうか?
 バターがふんだんに使われているのか、口の中でなにかが“ジュッ”と音を立てた気がした。

 ああ、これだこれ。
 わたしが今までずっと食べてきたパンの味だった。

 身の回りのことを一人でやると決めた日から、食べられなくなった物の一つ。
 スキュラお手製の焼きたてパンの味だ。
 

655: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/17(火) 00:42:33.73 ID:mPER6L9co

魔王「わたしもこうやって作れれば良いのだけど……」

 パンを齧りながらフォークを手に取りサラダに突き刺す。
 真っ赤に熟れた赤い果肉は宝石のようだ。

 新鮮な生野菜を食べるのも久々だった。
 口の中で弾ける果汁が心地良い。
 

656: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/17(火) 00:43:01.03 ID:mPER6L9co

魔王「はあ~……美味しい」

 不思議だ。
 食べれば食べるほどお腹が空くような気がする。

 パンにサラダ。
 スープにメインの肉。

 肉は厚く切られたものを炭火で焼いたらしく、実に香ばしい匂いを放っている。
 それに絡まるソースもまた絶品だった。
 
 この城には竜族と獣族が多く住まっているから、肉料理は拘っているのだろう。
 ううむ。美味い。
 

657: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/17(火) 00:43:31.75 ID:mPER6L9co

魔王「ご馳走様でした……」

 手を合わせて感謝する。
 久々に人らしい……いや。魔王らしい食事を摂ることが出来た。

 とても美味しかった。
 今度、スキュラ頼んで真面目に料理を教えて貰おう。

 自分であれだけ美味しいものが作れたら、さぞ楽しいことだろうな。
 わたしの当面の目標は料理……あ、いや。

 人間界へ買い物……は、ちょっとハードルが高すぎるか。
 うん。料理、料理の上達を目標に掲げて置こうじゃないか。
 
 どうせなら食材を自分で狩りにいくところから始めたい。
 ガーゴイルがうるさいだろうか? また眠らせて……も、面倒だ。

 そんなことを考えながら、わたしのモーニングランチは終了した。
 

658: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/17(火) 00:44:02.75 ID:mPER6L9co


……。
…………。
………………。

 

659: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/17(火) 00:44:37.56 ID:mPER6L9co

魔王「ふむ……」

 食事を終え、下着をしまい取り出したるは魔王城の地図。
 ようするに魔王城の部屋割り図だった。

 魔王城にはそれなりの数の魔物が住んでいる。
 魔界の要とも呼べる城に住まう者たち。

 その殆どは、有体に言えば御爺ちゃんたちであった。
 

660: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/17(火) 00:45:17.92 ID:mPER6L9co

魔王「竜族は“グランドタートル”の亀爺。獣族は“ケルベロス”……もうよぼよぼで歯がないと言っていたな」

 若い者たちは皆、各々の領域で暮らしている。
 城に引き篭もって暮らすのは性に合わないのだろう。

魔王「魔人族の“ランプの魔人”。あれは爺様ではないが、ただの引き篭もりだしな」

 彼等は城内を練り歩くような行為を殆どしない。
 好きな時間に食い、眠る。

 “ランプの魔人”を除けば、ほとんどが現役を退いた者たちだ。
 もう働きたくはないのだろう。
 

661: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/17(火) 00:45:48.66 ID:mPER6L9co

魔王「実に羨ましい」

 もし、働く時が来るとすれば勇者が城に攻め入った時くらいだろう。
 その時は彼らも老体に鞭打ち戦闘に、勇者撃退に駆り出る手筈になっている。

 まあ、そんな事態は起きたことがないんだけども。

魔王「む。この部屋は確か……」
 

662: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/17(火) 00:46:16.80 ID:mPER6L9co

 ベッドで寝転がりながら暇つぶしに見ていた魔王城の地図。
 その端の方に目がいった。

 ガーゴイルが住まう地下室のさらに地下。
 最奥にある部屋。

 特別室。

魔王「ここは確か──」

 堕天した天使。

 “堕天使アスモデウス”に割り振られた部屋だった。
 

669: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/19(木) 21:33:23.47 ID:AlnwSyXuo
 
魔王「アスモデウス……」

 今は亡き大魔王。
 つまり、わたしの父が客人として向かえた魔物だった。

 “魔物”と形容して良いのかすら定かではない、わたしの知らないなにか。
 魔王として拝命された時ですら、アスモデウスとの会合をガーゴイルは望まなかった。

 当時のわたしは別段興味もなかったし、どうして? とも思わなかった。
 今もまあ、対して興味はない。
 

670: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/19(木) 21:33:51.42 ID:AlnwSyXuo

 けれど、このちょっとした暇。
 ぽっかりと空いた時間を埋めるには丁度良い興味対象だった。

 掃除をしようかとも思ったけれど……いやあ、それはちょっと気分が進まない。
 散らかし放題に見えなくもないが、実は全て目につくところに物があるし。

 うん。
 掃除するほどでもない、大丈夫。

 そんなことよりも──。
 

671: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/19(木) 21:34:41.36 ID:AlnwSyXuo

魔王「堕天した天使か」

 天使。
 天界に住まう者ども。

 人間界にも行ったことがないわたしにとっては、想像も出来ない世界だ。

魔王「魔界に人間界。それに、天界に妖精界」

 ううん。
 世の中は広い。

 一体どれほど広いのか想像もつかない。
 わたしは魔王であるらしいけれど、実は魔界ってとってもちっぽけなものなんじゃないか? と思う時がある。
 

672: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/19(木) 21:35:07.56 ID:AlnwSyXuo

魔界「天界かあ……どんな場所なんだろ」

 ごろん、と楽な体勢でベッドに寝転ぶ。
 見慣れた天井が広がっていた。

 この城には沢山の本がある。
 けれど、その書物の殆どが魔界にまつわるものだ。

 人間界の資料すらないのに、妖精界や天界のことなどを記している本などある訳がない。
 あまりにもわたしは世の中を知らないのだ。

 おいおい、大丈夫か魔界は。
 こんなのが元首をやっていて問題はないのかと問いたくなる気分だ。
 

673: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/19(木) 21:35:29.98 ID:AlnwSyXuo

魔界「妖精界はちょっとだけ小耳に挟んだことはあるんだけどな……」

 花は一年中咲き乱れ、小鳥は心地良い囀りを止め処なく唄う。
 風は春のそれが吹き、妖精は踊りエルフは詩を読むと言う。

 人間からは楽園と呼ばれている世界。
 なんともそそるじゃないか。

魔王「まあ、わたしとしては人間界の文明の方が興味はあるけど……」

 それでも一度位は見てみたいと思える景色だ。
 いつか、行けるのだろうか。
 

674: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/19(木) 21:36:04.83 ID:AlnwSyXuo

魔王「行って見たいな……」

 ぼんやりとした時間が流れる。
 それから決断するのにあまり時間はかからなかった。

魔王「よし」

 “堕天使アスモデウス”に会おう。
 そう思ったのは、食事の消化も未だに終わっていない正午過ぎのことだった。
 

675: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/19(木) 21:36:29.32 ID:AlnwSyXuo


……。
…………。
………………。
 
 

676: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/19(木) 21:36:55.63 ID:AlnwSyXuo

 足取り軽く、魔王城の最地下へと向かう。
 少しばかり楽しくなってきた。

 アスモデウスとは一体どのような人物なのだろうか。
 堕天と言うことは堕ちる前は天使として天界にいたのだろう。

 それが一体どれほど前のことなのかは想像も出来ないが、記憶にある限りを教えて欲しいと思った。
 わたしの知らない世界。
 

677: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/19(木) 21:37:58.61 ID:AlnwSyXuo

 膨れ上がったこの知的好奇心を満たして欲しい。
 天界。天界か、ううん。想像出来ない。

 あることは知っているけれど、それだけ。
 回りの者たちも妖精界や天界のことになると口を塞ぐ。

 魔王として知らなくても良いのか? と以前にガーゴイルへ問うたこともあったけど「まだ時ではありません」と一蹴されてしまった。
 あれは一体どう言う意味だったのだろう。

 その辺もちょっと気になってきた。
 

678: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/19(木) 21:38:31.36 ID:AlnwSyXuo

魔王「ああ、それにしても」

 どうしたことだろう。
 常であればどうでも良いやと思えることも、休日だと思うと食指が伸びてしまうのは。

 これが休日効果と言うものなのだろうか。
 アスモデウスに会うだなんて、今日一日をフリーにでもしなければ絶対に思いつかなかっただろう。

 そう思うとなんだか楽しい気分になってくる。
 さあ、もう直ぐだ。

 この階段を下りれば、地図通り魔王城最下層に辿り着く。
 長い長い階段を下へ下へ降る。
 

679: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/19(木) 21:38:53.72 ID:AlnwSyXuo

魔王「これは……」

 最後の階段。
 それを降り切ると、ぽっかりと空いた空間へ出た。

 広い。
 謁見の間がそのまま地下にも作られたような大きさだった。

 光源は蝋燭が幾つか灯っただけの薄明かりだけ。
 空気も驚くほど重かった。
 

680: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/19(木) 21:39:20.27 ID:AlnwSyXuo

 そんな部屋の中心部は蒼く発光していた。 
 魔王としてどうかと思ったけど、おっかなびっくりその光へと近づく。

 魔方陣だった。


 ──誰ぞ。


魔王「……ッ!?」

 声が聞こえる。
 威圧感のある声だった。

 力のないものであれば、その声だけで体がすくんでしまいそうなほどの圧力。

 ──ああん? 見ない顔だな。
 

681: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/19(木) 21:39:49.54 ID:AlnwSyXuo

魔王「……お前、は」

 いつの間にか魔方陣の上に現れた玉座。
 竜を模したような玉座に腰を下ろす人物。

 真っ黒に塗りたくられた天使の羽。
 流れるような白髪の長い髪。

 わたしの第一印象としては「なんだこの優男は」だった。
 

682: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/19(木) 21:40:17.06 ID:AlnwSyXuo

アスモ「答えよ。汝は誰ぞ?」

魔王「わたしは──」

 答えようと口を開いたが、

アスモ「──ん? いやいや、待て。この魔力……そうか、主は魔王だな」

魔王「む……」

アスモ「しかしまあ、随分と可愛らしく……おお、主はアレの娘か」
 

683: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/19(木) 21:40:43.77 ID:AlnwSyXuo

 “アレ”とはきっと父のことを指しているのだろう。
 大魔王だった父を指し、アレとはまたなんとも。

 それにしても一人でペラペラと良く喋るヤツだ。
 わたしに言葉を入れる隙を与えてくれない。

 困った。
 なんと言えば良いのやら。
 

684: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/19(木) 21:41:12.78 ID:AlnwSyXuo

アスモ「そうか。ヤツにも寿命がきおったか、難儀なことよな」

魔王「……」

アスモ「最後にヤツと会うたのは如何ほど前だったかの……」

 あー……。
 なんだろう、この感じ。

 とってもやりにくい。
 まるで父と話してるようだった。

 なんとも身勝手な自己完結型の会話。
 言葉のキャッチボールになってない。
 

685: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/19(木) 21:42:04.08 ID:AlnwSyXuo

アスモ「ああ、すまんすまん。一人で思い耽っておったわ。余の悪い癖でな、許せ」

魔王「い、や……」

 目が合う。
 ゴクリ、と思わず喉が鳴った。
 
 前身の毛が逆立ちそうだった。
 こいつは、強い。

 わたしと同等。もしくはそれ以上……。

 今まででこんな感覚を味わったのは一度だけ。
 一度目。一人目はわたしの父であり、前代の魔王だった。
 

686: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/19(木) 21:42:40.11 ID:AlnwSyXuo

アスモ「ふむ……暇潰し、であるな」

魔王「な──」

アスモ「なぜわかる、か。それはな、余が余だからよ」

 意味がわからない。
 なんなんだ、こいつは……。

アスモ「にしても、暇潰しで余に会おうとは……無知故か。ガーゴイルの堅物はなにも言っておらなんだか」

魔王「……」

 ガーゴイル? なんで今、ガーゴイルの名前が出てくるのだろう。
 こいつの正体。何者かをわたしに告げていないからだろうか。

687: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/19(木) 21:43:02.30 ID:AlnwSyXuo

アスモ「しかし、ヤツに似ている。正しく娘よな、力も十二分に引き継いでおるわ……顔は、ふん。似ないで助かったものよ」

魔王「む」

 顔? 顔と言ったか。
 わたしと父の顔は似ても似つかないはずだ、比べる時点でおかしい。

アスモ「余と相対しても心屈せぬとは、雛鳥とは言えやりよる」

魔王「なにが言いたい」

 確かに強大な圧力を感じる。
 だがしかし、心折れるとはどういうことだ。

 仮にもわたしは魔王だ。
 プレッシャーに気圧されるほど、柔な肉体も精神も持ち合わせてはいない。
 

688: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/19(木) 21:43:31.11 ID:AlnwSyXuo

アスモ「いやいや、感心しておるのよ。ガーゴイルの余計な浅知恵が入っていたならば、主の態度もまた違っておったであろうからな」

魔王「?」

アスモ「いい、気にするな。主のような態度を余は好ましくさえ思っておるのだからの」

 一体なんなのだ。
 確かに物凄く強い。それはわかる。

 けれど、ちょっとイライラしてきたぞ。
 結局こいつはなにが言いたいんだ。

 少しばかり楽しみにしていたわたしの気分はいつのまにやら萎んでいた。
 うーん……帰ろうかな……どうでも良くなってきちゃった。

 嫌いなんだ。こうやって勝手に喋くり倒すやつって。
 

689: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/19(木) 21:44:15.16 ID:AlnwSyXuo

アスモ「そう嫌な顔を作るでない。近頃は余を召喚しようとする人間も減って退屈していたところよ」

魔王「人間……?」

アスモ「人間と聞いて目を輝かせるか。なにからなにまで、似ておる」

 似てる。とはなんのことだろう。
 言葉から察するに父か。

 しかし、父が人間好きだったとは聞いたことが……む。もしや食事としての人間か?
 だとしたら、似ているとは見当違いも甚だしい。

 わたしは人間を食事として好いてるわけではない。
 純粋に、彼等の文化に興味を抱いているのだ。
 

690: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/19(木) 21:44:48.44 ID:AlnwSyXuo

アスモ「さてさてさて。先ずは腰を下ろせい」

 相変わらず立ちつくすわたしと、玉座に腰を下ろす堕天使。
 魔王よりも魔王らしい彼は指をクイと上にあげた。

 浮かび上がる竜を模した玉座。
 それは彼が腰を下ろすそれと全く同じ物だった。

 わたしは趣味が悪いな、と少しばかり思ったが文句を言わずに腰を下ろした。
 

691: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/19(木) 21:45:26.90 ID:AlnwSyXuo

アスモ「城主である魔王殿に、ケチな椅子を勧められはすまいよ」

魔王「……」

 馬鹿にされたような言い回し、ちょっとだけムッとした。
 初対面だと言うのになんだか馬鹿にされっぱなしのような気さえする。

 むうう……。

アスモ「なんとも心地良き魔力よな。その憤りは閉じ込めておけ、余に向けてもなんら意味はない」

魔王「む」

 いけない。
 カッとなって、少しだけ力んでしまった。

 しかしコイツ……本当に強そうだ。
 なんでこんなのが魔王城の地下に。そして城主であり魔王であるわたしは今まで知らなかったのだろう。
 

692: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/19(木) 21:45:51.16 ID:AlnwSyXuo

アスモ「さて、主はなんぞ知りたいことがあってここへ来たのであろ?」

魔王「む……そう言えば、そうだったな」

アスモ「余は久方ぶりの話し相手が現れて機嫌が良い。そうさな……三つだけ、質問に答えてやろう」

魔王「三つ?」

アスモ「うむ。三つだ、それ位が丁度良い」
 

693: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/19(木) 21:46:18.19 ID:AlnwSyXuo

 三つ。
 三つか。

 なんか完全にペースを握られてしまったし、会話も覚束無いのだけれど。
 どうしよう……。

 せっかくここまで来たのだから、色々と聞くべきなのはわかる。
 と言うか話しが聞きたくてここまで来たのだ。

 しかし、こんな厄介な性格だったとは。
 魔王より偉そうで、魔王よりも強そう。

 ううん。なんだよ、こいつ。
 ガーゴイルってば本当はもっとわたしに教えることが色々とあるんじゃないか?

 サボってるのか、あいつは。
 それともわたしがダメなのか?
 

694: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/19(木) 21:46:53.34 ID:AlnwSyXuo

アスモ「ほれほれ、早よう決めい」

魔王「わかっている。そう急かすな」

アスモ「余に対してそのような振る舞い……悪くない、悪くないぞ魔王よ」

 ああもう、気色が悪い。
 さっさと質問して帰ろう。

 質問は三つだったな。
 ええと……なにを聞こう。
 

695: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/19(木) 21:47:57.94 ID:AlnwSyXuo

1:アスモデウスのこと。

2:父。前代魔王のこと。

3:母親のこと。

4:人間界について。

5:妖精界について。

6:天界について。

7:この先の、未来のことを教えてくれ。

8:わたしの知らないことを教えてくれ。

9:人間になることは可能か。



アスモ「──さあ。選べい」
 
 

*順不同で消化されます。

>>697 >>698 >>699

697: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/04/19(木) 21:48:33.38 ID:4F9+mAm4o
8ィ

698: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(チベット自治区) 2012/04/19(木) 21:48:39.40 ID:FEJuIhlzo
8

699: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都) 2012/04/19(木) 21:50:30.51 ID:hhIT/uBNo

6

706: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/22(日) 14:15:38.31 ID:/35OQwEwo
 
アスモ「──さあ。選べい」

 面白くない。
 面白くないな。

 自分はなんでも知っているぞと言う、その態度が。
 むうん。

 なにか、なにか良い質問はないだろうか。
 答えに詰まるような、答え難いような。
 

707: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/22(日) 14:16:30.64 ID:/35OQwEwo

 ああ、そうだ。
 良い質問があった。

 わたしは知らないことがあまりにも多すぎる。
 自覚している程に、多すぎるのだ。

 で、あればだ。
 それを聞いてしまおう。

 さて。この堕天使はなんと答えるのだろう。
 わたしの知らないことを教えて貰おうじゃないか。
 

708: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/22(日) 14:16:49.74 ID:/35OQwEwo

魔王「決まったぞ、堕天使」

アスモ「なんぞ言うてみよ、魔王」


 ──わたしの知らないことを教えてくれ。


 さあ言ったぞ。
 教えてもらおうじゃないか、堕天使よ。
 

709: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/22(日) 14:17:20.85 ID:/35OQwEwo

アスモ「クハハッ、存外に賢しいな。魔王よ」

魔王「質問には答えて貰えるのかな」

アスモ「無論よ。いやなに、思いのほか良き質問だったのでな。なるほど、と思っていたところよ」

魔王「では答えてもらおうか。わたしの知らないことを」

アスモ「うむ。……そうさな、魔王よ。主の知る“世”とはどれほどある。答えてみよ」

 “世”? よ? なんだ、よって。
 世界のことだろうか。
 

710: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/22(日) 14:17:54.74 ID:/35OQwEwo

魔王「人間界。魔界。妖精界。天界」

アスモ「で、あるな」

 正解だったらしい。
 少しだけほっとした。

魔王「なにが言いたい」

アスモ「魔王よ。主はなにも知らぬ、知らされておらぬ」

 回りくどい言い回しだ。
 なにを伝えたいのかさっぱり伝わってこない。

 強いてあげるのであれば、お前は無知だと馬鹿にされているくらいか。
 

711: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/22(日) 14:18:17.64 ID:/35OQwEwo

魔王「なにも知らないのでな、馬鹿でもわかりやすく教えてくれると助かるんだが」

アスモ「そう拗ねるな。主はまだ若い、若すぎる。今はまだ、齢を重ねる時期だと回りが判断しているのだろうよ」

魔王「……」

アスモ「──が、質問に答えてやると余は言った。答えてやろう」

 そうだ、さっさと答えろ。
 よもや答えられないから時間稼ぎをしている訳じゃあるまいな。
 

712: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/22(日) 14:18:45.14 ID:/35OQwEwo

アスモ「世界とは人間界を軸に出来ておる。上に妖精界、下に魔界と考えればわかりやすいやもな」

魔王「続けてくれ」

アスモ「そしてさらにその上に天界。ここまでは主も知っておろ?」

魔王「ある、と言うことだけは」

アスモ「うむ。で、あるのならば不思議に思うたことはないかの」

魔王「?」

アスモ「妖精界を上と比喩しておきながら、その天上に天界なる世が存在しておる」

 わたしは黙った。
 一々言葉を挟むのは疲れるし、自身の思考の妨げにもなる。
 

713: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/22(日) 14:19:15.37 ID:/35OQwEwo

アスモ「人間界の上に妖精界。さらに上に天界。では視線を下に向けてみようかい」

アスモ「人間界の下には魔界。主が君主とした地よな」

魔王「……」

アスモ「はて……。妖精界の上にさらなる世が広がっておると言うに、下の魔界はそこで打ち止めなのかの?」

魔王「おい……」

 まさか。
 いや、そんな。

 そんな馬鹿げた話しがあるのか。
 

714: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/22(日) 14:19:55.04 ID:/35OQwEwo

アスモ「主が知らんでも無理なきことよ。魔界からあの地へ行ける者など数少ない」

魔王「……」

アスモ「地の獄。堕天者や悪魔が住まう世。“地獄界”が更なる下層で広がっておるのよ」

魔王「……」

 地獄界? 悪魔? なんだそれは。
 確かに知らない。わたしの知らないことだ。

 けれど、だけれど……突拍子も無さ過ぎて俄には信じられなかった。
 

715: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/22(日) 14:20:27.31 ID:/35OQwEwo

アスモ「魔族と悪魔では根本的に種が違う。例えばガーゴイル。ヤツは岩石族よな? 思考は違えど、同じ姿形の類族がひしめいておるわ」

魔王「……」

アスモ「だが悪魔は違う。常に一種。種族と言う者はおらんのよ」

 理解し難い言葉の羅列が続いている。
 参った。

 どう返答したら良いのかさっぱりわからない。
 まるで狐に化かされているようだ。
 

716: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/22(日) 14:20:49.07 ID:/35OQwEwo

アスモ「そうそう、魔界の何処ぞに居る“ヨルムンガンド”な。やつも元々は地獄界の者よ」

 ヨルムンガンド……って、あの“龍王”のことか。
 へえ、知らなかった。

 と言うよりもどんな反応をすれば良いのかがわからなかった。

アスモ「さてさてさて。となれば、説明するまでもなく余も地獄界の者だが……その説明は次の質問次第よ」
 
魔王「む」
 

717: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/22(日) 14:21:15.94 ID:/35OQwEwo

 どうやら一つ目の質問に対する回答は終わったようだった。
 わたしの知らないこと。

 それは……“人間界”“妖精界”“天界”“魔界”。そしてその他に“地獄界”と言う世界が存在していることだった。

 やっぱり、世界はとてつもなく広かった。
 魔界なんてとてもちっぽけだ。

 ああ、ちくしょう。
 回りの者たちはその事実を知っているのだろうか。
 

718: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/22(日) 14:21:42.61 ID:/35OQwEwo

 少なくとも、ガーゴイルのやつは知っているはずだ。
 だとすれば他の者は? “四王”は知っているのだろうか。

 “龍王”であるヨルムンガンドは知っているだろうな。元々はその世界に住んでいたと言うのなら。
 では“死王”リッチは? やつは知っているのか。

 くそう。
 なんだか置いてけぼりにされた気分だ。

 のけ者にされていたような感じすらする。
 早く部屋に帰って一人で情報を整理したい。
 

719: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/22(日) 14:22:09.39 ID:/35OQwEwo

 けれど──。

アスモ「──さあ。質問は残り二つぞ。良く考えて問うてみよ」

 あと、二つ。
 あと二つだけ、この堕天使は質問に答えてくれる。

 聞こうじゃないか。
 どうせ今日は休日と決め付けた日だ。

 とことん付き合ってやろうじゃないか。
 わたしは重くなった口を無理矢理こじあけ、


 ──天界について教えてくれ。


 そう言い放った。
 

728: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/24(火) 02:01:46.25 ID:wY7ptc5Vo
 

魔王「“天界”について教えてくれ」

アスモ「……ほう?」

 意外そうな表情を作るアスモデウス。
 なんだろう。

 なにか腑に落ちないのだろうか。
 

729: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/24(火) 02:02:13.80 ID:wY7ptc5Vo

魔王「……なにか都合が悪いのか?」

アスモ「いや。少し不思議に思うての」

魔王「?」

アスモ「余は今しがた、主の知らぬ世の話しをした」

魔王「“地獄界”」

アスモ「うむ。にも関わらず、主は“天界”の話しが聞きたいと申した。少しばかり意外での」
 

730: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/24(火) 02:02:40.22 ID:wY7ptc5Vo

 って言われても。
 わたしが聞きたいのは“天界”のことであって“地獄界”のことじゃない。

 それとも、ダメなのだろうか。
 話しの続き的に空気を読んで“地獄界”と言うべきだったのだろうか。

 でもその言い分だとアスモデウスのことを知りたい。
 と尋ねる流れになるし、正直そこは興味ない。

 もう、面倒だなあ。
 答えてくれるって言ったんだから、聞かれたことにだけをちゃっちゃと答えれば良いのに。
 

731: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/24(火) 02:03:29.61 ID:wY7ptc5Vo

アスモ「何故、主は“地獄界”ではなく“天界”のことを知りたいのかの。余の疑問に答えてくれても良かろ?」

魔王「質問に質問で返すのか。堕天使は」

アスモ「ほんの気紛れよ。それとも聞かれて不都合なことでもあるのかの」

魔王「……“地獄界”だったな」

 重々しく口を開く。
 興味がない理由を説明しなければならないとは、なんとも。
 

732: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/24(火) 02:03:56.95 ID:wY7ptc5Vo

魔王「確かにびっくりした。驚いた」

アスモ「で、あろうな」

魔王「だけれど、興味がない」

アスモ「ほう……」

魔王「“地獄界”? 読んで字の如く、地の獄。字面からして気に入らないよ」

アスモ「ふむ」

魔王「わたしの知らない新しい世界がある。それを知れただけで充分だとわたしは判断した」
 

733: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/24(火) 02:04:41.10 ID:wY7ptc5Vo

 ──そう。
 それで充分。

 知っているのと、知らないのとでは大きな違いがある。
 今日、わたしは“地獄界”を知った。

 この堕天使の言い方からすると、随分と屈強な者たちが住んでる世界なのだろう。
 危ない世界なのだろう。

 きっと、とても強い者たちがひしめいているのだろう。
 魔王なんて、ちっぽけな存在に思えるほど強大な力を持っているのかもしれない。
 

734: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/24(火) 02:05:13.81 ID:wY7ptc5Vo

 ガーゴイル辺りは、その辺を危惧しているのかも。
 わたしが興味を示して“地獄界”に攻め込むぞ、とか言い出したらどうしよう、とか?

 だとすれば、安心しろ。ガーゴイル。
 お前も既に知っているだろうが、わたしはそんな性格じゃない。

 知ろうが知るまいが、他の領域に手を出す癖はないのだよ。
 しかも“地獄界”。なんと気色の悪い響きだ。

 くれると言われても、欲しくない。
 いらない。興味ない。
 

735: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/24(火) 02:05:46.83 ID:wY7ptc5Vo

魔王「──よって、それ以上の知識を必要としない。それだけだ」

アスモ「……うむ。うむうむ」

 これで納得して貰えただろうか。
 なんだか飽きてきたし、さっさと“天界”のことを聞いて帰りたいのだけど。

アスモ「天晴れであるな。うむ、魔王よ。その気持ちを忘れるでないぞ」

魔王「……?」

アスモ「“魔界”から“地獄界”へ行くのは“人間界”へ行くよりも容易い。領域が近いと表現すれば良いかの」

魔王「……それで?」

アスモ「興味本位で“地獄界”へ足を踏み入れるのは余からすれば自殺行為よ。魔王、主の力を持ってしてもな」
 

736: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/24(火) 02:06:13.61 ID:wY7ptc5Vo

 要するに“地獄界”は“魔界”より凄いんだぞ、ってことを言いたいのだろう。
 はいはい、わかったよ。

 強い、弱いに興味がないんだわたしは。
 そう言う力自慢に無頓着な魔王で申し訳ないと思う気持ちがあるほどに。

アスモ「あちらの住人は“魔界”に興味がない。お互いがなにも干渉せねば、永年と不干渉の関係が続くだろうよ」

魔王「そうか。それはこちらとしてもありがたいよ」

アスモ「で、あるな」

魔王「さあ堕天使よ。そちらの疑問が解消されたのであれば、そろそろこちらの質問に答えて欲しいのだが」

アスモ「うむ。質問は“天界”について……だったの」

魔王「ああ」
 

737: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/24(火) 02:06:39.94 ID:wY7ptc5Vo

 やっと本題に入れる。
 質問をしてから、その話題に入るのに時間が掛かりすぎじゃないか?

 なんだか喉も渇いてきた……。

アスモ「む。そう言えば、客人が来たと言うに余としたことが碌なもてなしもせなんだな」

魔王「いや……」

 もう良い。
 もう良いから。

 これ以上、横道にそれないでくれ。
 

738: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/24(火) 02:07:07.41 ID:wY7ptc5Vo

アスモ「軽く喉を湿らせる程度よ」

 ──パチン。

 と、アスモデウスが指を鳴らす。
 突然に台座が現れ、液体が満ちた瓶とグラスが2脚。

 まるで透明人間がいるかのように、瓶とグラスが持ち上がり液体が注がれる。
 色は……紫だった。

 なんだろう、これは。
 

739: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/24(火) 02:07:46.68 ID:wY7ptc5Vo

アスモ「主も適当に飲むが良い。質は悪いどころか、中々のものよ」

魔王「……」

 ふわふわと空中を浮いて手元に運ばれるグラス。
 葡萄ジュースだろうか。

アスモ「せっかくだ。乾杯といこうかの……我等が会合に、」

魔王「む、う?」

アスモ「乾杯」

魔王「う、うむ」
 

740: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/24(火) 02:08:26.86 ID:wY7ptc5Vo

 グラスを前に突き出してくるアスモデウス。
 わたしは流されるままに、見よう見まねでそれに付き合った。

 ぐい。と紫色の液体を飲み干すアスモデウスに習い、わたしもグラスに口をつけた。
 少し喉が渇いていたし、正直うれしかった。

魔王「……ん?」

 なんだ、この味。
 甘く……ない。

 苦い? いや、少し違うな。
 なんだろう。
 

741: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/24(火) 02:09:19.17 ID:wY7ptc5Vo

アスモ「……」

 不味くはないんだけれど……ううん。
 不思議な味だ。

魔王「……んくっ」

 まあ喉も渇いていたし、毒でもないようだ。
 好意は好意として受け取り、飲みならら話をきこう。

742: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/24(火) 02:09:57.07 ID:wY7ptc5Vo

アスモ「で、“天界”であったな」

魔王「えっ、ああ……うむ」

 なんだか、飲み進めるほどに美味しく感じてきた。
 やっぱり葡萄ジュースじゃないのか、これ。

 あんまし甘くないけど。
 風味はする。気がする。
 

743: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/24(火) 02:10:43.97 ID:wY7ptc5Vo

アスモ「端的に言えば、なにもない。と言うのが正しかろうの」

魔王「……」

アスモ「“人間界”そして“妖精界”を見下ろす形で遥か天空に位置する異界。高慢な天使どもが住まっておるわ」

 グラスの中を飲み干すと、勝手に瓶が宙を浮きおかわりを注いでくれる。
 べんりだな。
 

744: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/24(火) 02:11:22.01 ID:wY7ptc5Vo

アスモ「ふむ。こうして説明すると特筆すべきこともないのよな……」

魔王「景観は?」

アスモ「む?」

魔王「どんな景色なの?」

 空にあるってことは、良い景色なんだろうな。
 良いなあ、羨ましいなあ。
 

745: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/24(火) 02:11:43.30 ID:wY7ptc5Vo

アスモ「ククッ……。そうさな、空に浮かぶ石庭と言えば想像しやすかろ」

魔王「せきてー?」

アスモ「石造りの庭よ。天空にある故な、全てが浮いておるのよ」

魔王「おお……」

アスモ「その領域はの、偉そうにいつも後光が差し掛かり黄金に光り輝いておるわ」

魔王「おお……っ」

 ひっく。
 

746: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/24(火) 02:12:52.32 ID:wY7ptc5Vo

アスモ「娯楽もなにもない……天使の奴等ばと来たら、余からすれば面白味の欠片もない連中よ」

魔王「へえ」

アスモ「よって、堕天してしもうたわ」

 ふうん。
 天界も、あんまし面白そうなところじゃなさそうだなあ。

 あ……グラスが空になっちゃった。
 どもども、自動的に注がれるこれ良いなあ。

 んくんくっ。
 はあ……なんだろ、気持ち良くなってきた。

 ふわふわする?
 

747: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/24(火) 02:13:26.46 ID:wY7ptc5Vo

アスモ「……」

魔王「へえ」

アスモ「クハハッ」

 アスモデウスが笑ってる。
 なにか可笑しなことでもあったんだろうか。

 自身が堕天したことがそんなに面白かったのかな。
 ううん。

 どうでも良いや。
 あー、なんか気持ち良いなあ。

 この玉座の座りごこひも悪かないし。
 

748: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/24(火) 02:14:01.30 ID:wY7ptc5Vo

アスモ「そうか、主は酒が始めてであったか」

魔王「うん?」

アスモ「いやいや、気にするでないよ」

魔王「うん」

アスモ「さてさてさて。“天界”のことなぞ、語ることなど殆どなかったの」

魔王「そうだね……うん、まったくだ」

アスモ「一つだけ言えるのは“天使”も“悪魔”も人間に惹かれとる、と言うことよ」

魔王「……お?」

 人間? いま、人間って言った?
 なんで急に人間が出てきたんだろ。

 ああ、なんだなんだ。
 瞼が重くなってきたよ。
 

749: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/24(火) 02:15:01.70 ID:wY7ptc5Vo

アスモ「生きても100年のか弱き生物。けれど、人間は我等の持たぬ進化の可能性を秘めているのよ」

魔王「お?」

アスモ「故に“天使”も“悪魔”も“妖精”も人間に惹かれておる。“魔族”はどちらかと言えば自らの欲求を満たす道具と見ておるようだがの」

魔王「むう」

 なんかちょっとよくわからないけど、それはちがうとおもう。
 わたしも、人間に惹かれてるるしね。

 あーでもなー、リッチとか悪いやつもいるからなー。
 兄様もどっちかと言えば悪いやつかもなあ。

 ……ひっく。
 

750: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/24(火) 02:15:37.45 ID:wY7ptc5Vo

アスモ「主の発した、人間世界への侵略を中止する旨は良きことと思う。万が一、征服が達成された暁には“天界”も“地獄界”も黙ってはおらなんだしな」

魔王「へー」

アスモ「主の父。前代の魔王はそのあたりの匙加減が上手かったものよ、身内である魔族を抑えこみ、程よく暴れさせておったわ」

魔王「ほー」

 ごくごく。
 やっぱこれ美味しいかもしれない。

 “こーひーぎうにう”とはまた違った美味しさだな。
 うん。これなんだろう。

 あとでなにか聞いておこう。
 

751: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/24(火) 02:16:10.83 ID:wY7ptc5Vo

アスモ「クック……もはや聞いておらなんだな」

魔王「うん?」

アスモ「いやいや。魔王よ、これにて“天界”の話しは仕舞いよ」

魔王「おー」

 やっと終わったか。
 アスモデウスの話しは長いなー。

 このジュースが美味しいから、べつに良いけろ。
 ハッハッハ。

 なんだか面白くなってきた。
 

752: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/24(火) 02:16:42.84 ID:wY7ptc5Vo

魔王「くっくっく……」

アスモ「どうかしたかえ?」

魔王「お?」

アスモ「……ふむ。ちょいとばかり、回りすぎているようだの」

 うーん。
 なんだか眠気がどんどこ強くなってきた気がする。

 今日は二度寝もしたし、大丈夫なはずなんだけれど。
 いかんいかん。

 気をしっかりもたないと!
 

753: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/24(火) 02:17:28.19 ID:wY7ptc5Vo

アスモ「さて、魔王よ。最後の質問が残っておるのだがの」

魔王「大丈夫。わかってる」

 わかってるから大丈夫。
 次の質問ね、うんうん。

アスモ「これで最後、なにが聞きたいか言うてみよ」

 な、にが……良いかなあ。
 そうだなあ。

 知りたいこと、知らないこと。
 ええと、えーっと。
 

754: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/24(火) 02:18:02.61 ID:wY7ptc5Vo

魔王「──さん」

アスモ「む?」

魔王「お母さんって、誰だろう」

 ぼんやりと頭に浮かんだ。
 お母さん。母親。

 ──はて。

 わたしにそんなの、いたっけな。
 

755: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/24(火) 02:18:38.74 ID:wY7ptc5Vo

アスモ「母親か……」

魔王「うん」

アスモ「良かろ。その問い、答えて進ぜようぞ」

 なんだか良くわからないけれど。
 教えてくれるらしい。

 あれっ……なにを?
 お? 頭がふわふわして、よく……わかんないや。
 
 まあ、教えてくれるって言うなら素直に教えてもらおう。
 そーしよう。
 

761: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/26(木) 14:55:11.81 ID:QnUr7Xyto
 

 おほー。
 なんだろう、なんかもう良くわからない。

 世界がぐらぐらする。
 気持ちが良い。

 意味もなく腹のそこから笑いが込み上げてくるような、そんな感じ。
 愉快だ。
 

762: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/26(木) 14:55:34.36 ID:QnUr7Xyto

 それと同時に、なにか哀しい感じもする。
 涙が出そうになる。

 それを抑えてるのが多分、魔王としての理性。
 相対している相手が堕天使と言うわけのわからない存在でなければ、泣き崩れていたかもしれない。

 わたしの精神は、わたしが思っているより柔だったのかもしれない。
 うう……。

 うう……。
 この気分の浮き沈みはいったいなんだろう……。
 

763: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/26(木) 14:56:07.37 ID:QnUr7Xyto

アスモ「母親……のう」

魔王「……」

アスモ「さてさて、どこから話したものか」

魔王「ひっく」

アスモ「ククッ……長くはもたんの」

 ……ふう、ふう。
 なんだろう、息苦しくなってきた。

 水分が必要な気がする。
 空になったグラスに注がれる紫色の液体。

 対面でアスモデウスが話しているけれど、わたしは気にせずにそれを飲み干した。
 不思議だ。

 飲んでも飲んでも喉が渇く。
 

764: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/26(木) 14:57:11.52 ID:QnUr7Xyto

アスモ「母親。母親……さてさて、誰の母のことなのか……」

魔王「ひっく」

アスモ「まあ、良い。ここは一つ、前代魔王の子らを産み落とした母について語るとしようかい」

 ぐにゃぐにゃする。
 アスモデウスが分身し始めた。

 なにが始まるんだろう。
 

765: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/26(木) 14:57:40.27 ID:QnUr7Xyto

アスモ「やつは13人の子どもを作った。主が13番目よな」

アスモ「子らの母は1人ではない。それぞれの母を持つ異母兄妹と言うやつよ」

魔王「へえ」

 耳がジンジンする。
 なにを言ってるかは聞こえるけど、わかららい。

 わから、ないよ。

 眠い。
 

766: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/26(木) 14:58:15.84 ID:QnUr7Xyto

アスモ「確か、長兄は“吸血鬼”の母親だったかの。ほれ、先日に主が大きな魔力を放って脅かした者よ」

魔王「うん」

 うん。
 兄様の話しか。

アスモ「そう言えばついこの間も大きな魔力を感じた。“魔王剣”を使ったな?」

魔王「たぶん」

 なんだか、気持ち悪くなってきた。
 ……うっぷ。
 

767: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/26(木) 14:59:07.58 ID:QnUr7Xyto

アスモ「くくっ。……ああ、長兄の話しであったな。あれは随分と小物よ。魔王の力も引き継げず、吸血鬼としても三流よな」

 なんで、アスモデウスは兄様の話しなどしているのだろう。
 と言うかなんの話しをしてたんだっけ。

 ふらふらする。
 もしかして、これって風邪ってやつかな。

 気持ち悪いよ……。
 

768: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/26(木) 14:59:46.40 ID:QnUr7Xyto

アスモ「魔人族の長は“アルカード”であったな。同じ吸血鬼とて格が違う訳だが……くくっ、長兄からしたら面白くないものよな」

魔王「……」

アスモ「前代魔王。最初の御子でありながら魔王にもなれず、四方を守る王にもなれず。“アルカード”に絡まねば良いがの」

魔王「あるかーど……?」

アスモ「うむ。飄々としておるが、切れ者よ。主も気を張っておいて損はないからの」

 はあはあ。
 うう……。

 なんだろう、この込み上げてくるなにか。
 応答するのも億劫になってきたよ。
 

769: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/26(木) 15:00:14.71 ID:QnUr7Xyto

アスモ「そして次に生まれたるが長女。それの母親は竜族であったな」

魔王「……ふうふう」

アスモ「長兄ほど弱くもなかったが、特筆すべき点もなくただただ勝気な娘っ子に……」

魔王「……うっ」


 ──オロロロロロロロロ。


アスモ「……」

魔王「げほっ……おうふ……」
 

770: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/26(木) 15:01:04.31 ID:QnUr7Xyto

 胃と、食道が熱くなった。
 喉が痛い。

 焼けるような痛みだった。


 ──オロロロロロロロロ。

 
 激流のように自分の体から水分が出て行く。
 自らの意思じゃ止められなかった。

 せき止められなかったそれは、びちゃびちゃと気持ち悪い音を立てながら床と服を汚していく。 
 

771: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/26(木) 15:01:29.99 ID:QnUr7Xyto

アスモ「ふむ……」

魔王「はあ、はあ……うっぷ……」

アスモ「気が着けば、この短時間に一瓶空けておったか」

魔王「きもちわるい……」

アスモ「話しも途中であるが、今日はここまでかの」

 口から涎が止まらなかった。
 空いた口が塞がらない。

 瞼も重いし、肩も胃も重い。
 もう全部が重かった。

 風邪か? わたしは急に風邪を引いたのだろうか。
 風邪ってこんなに突然と引くものなのか。

 知らなかった……。
 

772: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/26(木) 15:02:12.70 ID:QnUr7Xyto

アスモ「手ぶらで帰すのも気が引けると言うもの。ほれ、土産よ」

魔王「……」

 アスモデウスがなにを言ってるのかわからなかった。
 わたしはなんだか色々と手一杯で、どうしたら良いか身動きが取れずにいる。

 これって“吐いた”ってやつだよね。
 初めて経験した……気持ち悪い。
 

773: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/26(木) 15:02:45.02 ID:QnUr7Xyto

アスモ「ガチョウの肉と、この指輪をくれてやろうぞ」

魔王「……」

 白い布袋に入った肉と、指輪がふわふわと浮かんでわたしの元へと漂ってきた。

アスモ「その指輪は気配を殺す能力がある。次、この部屋を訪ねてくるときに付けるが良い」

魔王「……」

アスモ「ガーゴイルに見つかると煩いだろうからの」
 

774: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/26(木) 15:03:25.37 ID:QnUr7Xyto

 ああ、だめだ。
 なんだかとても良い物を貰った気がするのに、口が開かないよ。

 部屋に帰らないと。
 すぐにでも帰って眠らなければいけない気がする。

 腰が、足が、体が重い。
 玉座から立ち上がるのにかなりの時間を費やしてしまった。
 

775: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/26(木) 15:04:24.72 ID:QnUr7Xyto

魔王「……くさい」

アスモ「くくっ、吐瀉物とはそういう物よ」

魔王「かえる……」

アスモ「うむ。次、来る時はそうさの……なにかしらの土産が欲しいものよな」

魔王「かんがえとく……」

 吐き出したものはこのままで良いかな、と思ったけれどそれを拭く元気もない。
 まあ大丈夫だろう。

 申し訳ないが、このまま失礼することにした。
 

776: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/26(木) 15:05:18.13 ID:QnUr7Xyto

アスモ「──ああ、玉座にはちゃんと座るようにの」

魔王「……?」

アスモ「ほれ、さっさと帰って休めい」

 足元がよたつく。
 来るときに下ってきた階段を登るのかと思うと、気が遠くなった。

 ぜえ、はあ。
 ぜえ、はあ。

 わたしって体力なかったっけ……。

 

777: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/26(木) 15:06:08.89 ID:QnUr7Xyto

 遠い。
 部屋が凄く、遠い。

 誰だよ。こんなに広く城を設計したのは。
 呼吸するのが辛い。

 口を開いたら、また出てしまいそうだった。
 気持ち悪い気持ち悪い。
 

778: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/26(木) 15:06:51.07 ID:QnUr7Xyto


……。
…………。
………………。

 

779: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/26(木) 15:07:17.21 ID:QnUr7Xyto

 どうやって部屋に戻ったかは記憶にない。
 きっと頑張ったのだろう。

 魔王城最地下にある、堕天使が座すあの間からどうにかしてわたしは自室へと戻ったらしい。

 気付いたら、裸でベッドに横たわっていた。
 服がベッド脇に投げ捨てられている。

 拾い上げるとそれは、臭くって濡れていて、汚れていた。
 スカートの上に吐かれた吐瀉物は貫通して下着も穢していたようだ。

 さっそく一枚、パンツをダメにしてしまったらしい。
 

780: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/26(木) 15:08:12.76 ID:QnUr7Xyto

魔王「……」

 頭がガンガンする。
 殴られているような痛みだ。

魔王「これって……風邪?」

 それと同時に気持ち悪さも平行して続いてる。
 間違いなく風邪だった。

 体中が気だるい。
 こんなの初めてだ。

 時計に目をやると、そろそろガーゴイルが目覚める時間になりつつあった。
 どうしよう。

 わたし、風邪引いてるよねこれ。

 今日も休んだ方が良いんじゃないのかな……。
 

781: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/26(木) 15:08:39.77 ID:QnUr7Xyto

魔王「どうしよ……」

 服を着るのも億劫なほど、色々と面倒だった。 
 昨日一日の記憶は霞が掛かったようで、なんだかとても勿体無いことをした気がする。

 ああ……終わった。
 休日が終わってしまった。

 今日は、今日も……いやいや。

 ……どうしようかな。
 
 

793: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/28(土) 00:02:44.12 ID:0IyvONcWo
 

魔王「……」

 気持ちが悪くて仕方がなったけれど、無理矢理に体を起こして熱いシャワーを浴びた。
 髪先にも少しばかり……その、あれがかかっていたらしく臭っていたからだ。

魔王「うう……」

 ぞんざいに体と髪の毛を拭いて、衣服に袖を通す。
 昨日着ていた服は下着共々ダメだな……洗っても着る気になれない。
 

794: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/28(土) 00:03:27.40 ID:0IyvONcWo

魔王「まだ気持ち悪い……」

 髪の毛を乾かす気にもなれず、ベッドの上に腰をかけた。
 だめだ。なにもする気になれない。

 気持ち悪い。
 お腹が減った気もするけれど、気分の悪さが先行している。

 なにかしら胃に入れた方が良い気はする。
 するけども、なにを食べたら良いのかがわからない。

 水分? なにか塩っぽいものが欲しい気はしてるんだけど。
 ああ、無理。座ってるのもきつい。横になってしまおう。
 

795: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/28(土) 00:04:19.40 ID:0IyvONcWo

魔王「うぷっ……うう……」

 嘔吐感があっても吐くものが胃にないようで、気持ち悪さだけが残っていた。
 うう……なんでこんな目に合わなければならないのだろう。

 これが風邪と言うものなんだろうか。
 辛い。辛すぎる……。

 ──コンコン。

 扉からノックの音が響いた。
 音に気付いても身体を起こすことが出来ない。

 億劫だ。
 勝手に開けて入ってきて良いよ。と心の中で思った。
 

796: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/28(土) 00:05:07.16 ID:0IyvONcWo

大臣「失礼します」

魔王「……」

 入室して来たのは予想通り、ガーゴイルだった。
 ベッドに横たわったままのわたしは声もあげず、ただ手だけを振って起きているという合図を送る。

大臣「魔王様……?」

 常であれば、渋々と立ち上がるわたしが立ち上がらない。
 ガーゴイルが不思議に思ったらしく、近づいてきた。
 

797: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/28(土) 00:05:42.30 ID:0IyvONcWo

大臣「……魔王様っ!?」

 わたしの顔色を見て、ガーゴイルの表情が一遍した。
 そうか。そんなにわたしの顔色は良くないか。

 そりゃそうだ。風邪だもの。

大臣「魔王様っ!? どうなされました!?」

魔王「む……」

大臣「むっ!?」

魔王「無理……」

大臣「魔王様っ!?」
 

798: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/28(土) 00:06:29.33 ID:0IyvONcWo

 昨日、ガーゴイルに対して“魔眼”を使用したのだけれど当人は気付いてないのだろうか。
 正直に言って内心では怒られるかと冷や冷やしていたのだけど。

 この様子を見る限りでは大丈夫らしい。
 魔界には人間界のように“日付”の概念もないし、完全に一人で生活してる者からすれば丸一日寝て吹き飛んでも気付かないのだろう。

 そりゃうん百年と生きる種族からしたら、一日なんてなんのことはないか。

魔王「……風邪、多分」

大臣「風邪!? 風邪を召されたのですか!?」

魔王「……無理」

大臣「魔王様がお風邪を召されるなど……なにか重大な呪詛かもしれませんな……」
 

799: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/28(土) 00:06:53.63 ID:0IyvONcWo

 呪詛? 呪いだって? そんなに大それたものなのだろうか。
 確かに気持ちが悪い。破滅的に最悪な気分だ。

 内臓が全て口から出て行きそうなくらい、気分が悪い。
 けれども、命に関わるのかと問われれば首を捻ってしまう。

大臣「これは念入りに調べた方が良いかもしれません」

魔王「い、いあ……多分、寝てれば大丈夫な気が……」 

大臣「いけません。魔王様のお体はお一人のものではないのです、御身になにかが起きてからでは遅いのです」
 

800: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/28(土) 00:07:42.80 ID:0IyvONcWo

 “なにかが起きてから~”ってもう起きてるよ。
 って言うのは置いといて。

 静かに眠らせて貰えれば治りそうな気がするんだけど。
 大事にしないんで欲しいんだけど。

大臣「呪いに詳しい者を選別して……」

魔王「……」
 

801: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/28(土) 00:08:11.68 ID:0IyvONcWo

 ああ、もう勝手にして。
 口を開くのも、瞼を開けているのも限界だ。

 少しだけ眠らせて貰うよ。
 今日もお休みだね、これは。

 連休。

 とっても良い響きだけれど、なんか違う気がする。
 全然、嬉しくない。

 うう、うう。
 気持ち……悪いなあ。


 * 魔王 二日酔いのため 一回休み *


 

802: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/28(土) 00:08:43.26 ID:0IyvONcWo

Extra
 ┃
 ┠─ 1:デュラハンの剣
 ┃
 ┠─ 2:***による堕天使謁見
 ┃
 ┗─ 3:東方の門


>>805

805: ◆a36IBHPVSk 2012/04/28(土) 00:23:34.21 ID:MrQ4byzTo
2

808: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/29(日) 04:55:11.98 ID:jmvVVAQ4o
 

 時刻は丑三つ時。
 魔王が千鳥足で部屋を出てから随分と時間が経っていた。

 薄ぼんやりと光を放つ魔方陣の上で、堕天使は一人グラスを握る。
 器を満たす紫色の液体を一口だけ口に含み、視線を部屋の隅へとやった。

アスモ「そこな吸血鬼。出て来やれ」

???「……」

アスモ「隠れる気もないのなら、最初から堂々と顔を見せれば良いものよ」

???「失礼。どうお声をかければ良いものかと思案していたところなのですよ」

アスモ「よう言う」
 

809: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/29(日) 04:55:44.57 ID:jmvVVAQ4o

 部屋の隅から姿を現したのは黒い外套を纏った男であった。
 黒い髪は中途半端に伸び、整えられていない。

 丁寧な口調とは裏腹に、男が身嗜みに気を使っている類の人物でないことが伺い知れる。

アスモ「“アルカード”。今日は貴様一人かえ?」

 堕天使はその男を“アルカード”と呼んだ。
 “魔人王 アルカード”。魔界北方を預かり守る領主。“四王”が一角であった。
 

810: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/29(日) 04:56:16.94 ID:jmvVVAQ4o

アルカ「ええ。知己と会話を交わすのに、お供を付ける必要もないでしょう」

アスモ「くっく……」

 アルカードは堕天使アスモデウスの力量を知っていた。
 魔界の四方を任されている領主であり“魔人王”の肩書きを持つ自身をして、太刀打ち出来ない相手。

 そう認識している。
 それを理解した上で敬意を払い、けれども畏まりすぎもせぬ態度で接していた。

 アスモデウスがそう言った態度を好むことも知っていたからだった。 
 

811: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/29(日) 04:56:47.40 ID:jmvVVAQ4o

アスモ「さてさて。魔人王殿は如何な用でこちらに参られたのであろうな」

アルカ「いきなり本題ですか。せっかく美酒を持参したのですから、ゆっくりと酒を酌み交わしたいと思ったのですがね」

 そう言って懐から酒瓶を取り出す吸血鬼。
 瓶の中身はワインだった。

 人間界の代物で、吸い込まれそうなルビー色をしている。
 正真正銘、極上の一品であった。

アスモ「……まあ良い。座れ」

 酒に釣られたのもあったが、アルカードがどのような話題を切り出すのかにも少しだけ興味があった。
 アスモデウスは魔王に座らせたように玉座を用意し、アルカードに腰を下ろさせた。

 数時間前、その場所で魔王が嘔吐したことなど露とも知らぬアルカードはそのまま腰を下ろす。
 アスモデウスはそれが少しだけ面白かった。
 

812: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/29(日) 04:57:19.31 ID:jmvVVAQ4o

アルカ「失礼」

アスモ「ほう……言うだけのことはあるわ。なんとも良い酒を持ってきたものよな」

アルカ「並大抵の酒では満足できぬと思いましてね。少しばかり奮発しましたよ」

 グラスに注がれる真紅の液体。
 濃い色のそれは、先だって魔王が口をつけた物とは比べ物にならないほど馥郁たる芳香だった。

 静かにグラスを掲げ、乾杯する男二人。
 会話も他所に酒の香りと味を楽しんだ。
 

813: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/29(日) 04:58:09.15 ID:jmvVVAQ4o

アスモ「貴様が来ると夜が暗ろうて仕方がないわ」

アルカ「それは申し訳ない。何分、そう言った質ですので我慢して頂けると幸いなのですが」

 この男には呼び名が幾つもあった。吸血鬼。魔人王。アルカード。
 そして、夜を引き連れる者。

 この男が訪れる場所は総じて夜になる。
 その場所が夜であれば、さらに暗く闇に照らされる。

 アルカードが常駐している魔界の北側は常に日が翳り、夜が滞在していた。
 

814: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/29(日) 04:58:42.27 ID:jmvVVAQ4o

アスモ「……」

アルカ「……」

 会話が途切れる。
 酒の美味さもさることながら、お互いがお互いにどう会話を切り出すかを考えていた。

 そしてその思考を楽しんですらいる。
 魔王からすれば“面倒くさい”質の男達であった。

アルカ「──我が親愛なる魔王様」

 口を開いたのはアルカードだった。
 思ってもいないことをすらすらと口にする。
 

815: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/29(日) 04:59:09.76 ID:jmvVVAQ4o

アルカ「近頃は忙しく、ご尊顔を賜る機会もなかったもので。お元気でしたか?」

アスモ「よう言う。であれば、今からでも遅くはない。直接に部屋を訪ねてみてはどうよ」

アルカ「恐れ多くも魔王様は婦女子にあられます。私のような男がこのような時間に寝室のドアを叩くなど、とてもとても……」

 アルカードからすれば、二十歳にも満たない小娘である魔王にそのような思いを抱く訳もない。
 遠まわしに、会いたいと思わないと表現していた。
 

816: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/29(日) 04:59:56.92 ID:jmvVVAQ4o

アスモ「あれはあれで、先が楽しみな女子よ」

アルカ「……さすがは色欲を司る大悪魔。中々に広い趣味をお持ちで」

アスモ「茶化すでない。余は少女に手を出さぬ」

アルカ「これは失礼」

 お互いに軽口を叩き合う。
 頃合であった。

 酒も程よく回ってきている。
 アルカードは続いて口を開いた。
 

817: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/29(日) 05:00:49.96 ID:jmvVVAQ4o

アルカ「正直に申し上げれば、魔王様と御大の会合は色々と考えさせられるものなのですよ」

アスモ「ほう」

アルカ「意図的であるのか、偶然なのか。私にわかるのは、この間に誰が足を踏み入れたか程度のことです」

 言葉のあとに、視線を周囲に散らす。
 この部屋のあらゆる場所に入場者を感知する魔方陣を描いている。そう伝えていた。

 それを伝えてアスモデウスが対処するのであれば仕方がない。
 けれど、この大悪魔と呼ばれる人物がそのような狭量の持ち主でないこともアルカードは知っている。

 第一に、この部屋の主がこのような小細工……魔方陣に気付かぬはずがない。
 見て見ぬ振りをしている以上、許されている行為なのであった。
 

818: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/29(日) 05:01:32.93 ID:jmvVVAQ4o

アスモ「これは偶然よ。魔王が興味本位の暇つぶしでこの部屋を見つけ、訪れたに過ぎぬ」

アルカ「なんとも……」

 呆れたような声を発した。
 魔王は自身が誰と謁見したのかを理解していないのだろうと、アルカードは瞬時に理解する。

アルカ「御大と魔王城、そして前代魔王様との間柄は知っているつもりです」

アスモ「ほう」

アルカ「私が知りたいのは、現魔王様と御大のご関係……個人的な支援に繋がるかどうか……」

アスモ「……」
 

819: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/29(日) 05:02:22.46 ID:jmvVVAQ4o

 話しの核心。
 アルカードはこの話しをする為だけに“四王”と言う立場でありながら、単身で魔王城最地下にあるアスモデウスの間へとやって来た。

 通常であれば、アルカードのような地位を持つ者は気軽に行動出来ない。
 他の“四王”もそのような真似はしない。

 けれど、アルカードは違った。
 必要であれば、体裁や格式など全てを無視して行動する。

 “四王”の中でも最も自由で、身軽に動ける人物だった。
 

820: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/29(日) 05:02:48.71 ID:jmvVVAQ4o

アスモ「魔王が気に入らぬか」

アルカ「……ええ」

 渋々と首を縦に振り質問に対して肯定する。
 ここでアスモデウスに対して虚言を吐くメリットはなかった。

アルカ「私は、縛られるのが嫌いです」

アスモ「……」

アルカ「自由を奪われるのが嫌いです」

 淡々と言葉を吐く。
 その声色に、感情は含まれていない。
 

821: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/29(日) 05:03:36.98 ID:jmvVVAQ4o

アルカ「今回の魔王様の命令は、私の自由を著しく奪うものですので……」

アスモ「誅するのかの」

アルカ「滅相もない。そのようなこと、考えてはおりませんよ」

アスモ「……」

 全ての言葉に感情がない。
 表情も変わらず、どこまでが真実かも定かではなかった。
 

822: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/29(日) 05:04:15.15 ID:jmvVVAQ4o

アスモ「余は魔王が誰であれ、傷が癒えるまではこの玉座に座すと約定を交わしておる」

アルカ「傷の具合は如何なものですかな?」

アスモ「“明けの明星”から受けた傷ぞ。数千年程度で癒える訳がなかろ」

アルカ「……」

 つまり、魔王が誰に入れ替わろうと堕天使アスモデウスはこの地下の間に居続ける。
 そう言った意味だった。

 更に言葉を読み解くのであれば、現魔王に肩入れするつもりもない。
 そうも言ってる。
 

823: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/29(日) 05:04:43.48 ID:jmvVVAQ4o

 アルカードはアスモデウスの言葉をそう捕らえた。
 そしてそれは間違いではない。

 アスモデウスは誰に肩入れするつもりもなかった。
 ただただ、この間の玉座に座り続ける。

 来客があれば対応するし、相手を気に入れば質問に答え土産も持たせる。
 けれどそれまで。

 力を直接に貸すような真似はしなかった。
 

824: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/29(日) 05:05:14.75 ID:jmvVVAQ4o

アルカ「結構。そのお言葉を聴けただけで足を運んだ甲斐がありました」

アスモ「……魔王と言うのは伊達ではない。貴様と、その軍勢だけでも100%とは言い切れぬがの」

アルカ「御大はなにか勘違いをなされていますな」

 玉座から腰をあげ、グラスに注がれていた液体を飲み干した。
 美酒が胃を満たす。

 気分が良かった。
 その気分のままに、吸血鬼は今宵最後の言葉を発した。


 ──魔王を打ち滅ぼすのは、いつの世も“人間”と相場が決まっているのですよ。


アスモ「……」
 

825: ◆H7NlgNe7hg 2012/04/29(日) 05:06:15.52 ID:jmvVVAQ4o

 そう言い放ち、アルカードは姿を消した。
 再び魔王城最地下。堕天使アスモデウスの間は彼だけの空間となる。

 魔王城近辺を覆っていた暗い夜も少しだけ開け、星明りが見えるほどになった。

アスモ「くっく……誰も彼も、ほんに面白き者たちよ。誰が最後に玉座へ腰を下ろすのか……楽しみだわえ」


 瓶を満たしていたルビー色の液体はすっかりなくなっていた。
 

 Extra-終
 

836: ◆H7NlgNe7hg 2012/05/05(土) 02:17:37.55 ID:mcbX4T9+o
 


 ─ 魔界 東方領 荒野 ─


 うろうろ。

 うろうろ。

???「ない……ない……」

 魔界の東側。
 荒野を歩く一つの人影があった。

 その人影はよたよたと力を感じない歩き方をしている。
 ぶつぶつと呟きながら、下を向き歩いていた。
 

837: ◆H7NlgNe7hg 2012/05/05(土) 02:18:03.07 ID:mcbX4T9+o

???「ない……剣……私の……」

 ない。ない。
 と口にしながら、地面を見て歩く。

 その姿は人間の女そのものだった。
 服はぼろぼろで、長く伸びた黒髪は手入れがされていないのか艶もなくボロボロ。

 目の下はクマで真っ黒になり、瞳も黒。
 身にまとうボロキレも黒く、彼女の身なりは完全に黒一色。

 遠目から見れば人型の影が彷徨ってるようでしかない。
 その顔立ちは本来であれば美しいものであるのかもしれないが、汚れが酷く本来の顔がわからないほどだった。
 

838: ◆H7NlgNe7hg 2012/05/05(土) 02:18:30.41 ID:mcbX4T9+o

???「どこ……落としたのかな……」

 うろうろ。

 うろうろ。

 一人、魔界の荒野を歩く。
 手荷物もなく、完全に素手だった。

 こんな魔界のはずれを人間の女性が一人彷徨うはずもない。
 であれば、彼女は人間以外の何者かであった。
 

839: ◆H7NlgNe7hg 2012/05/05(土) 02:19:12.93 ID:mcbX4T9+o

???「うう……思い、だせない……」

 荒野を歩く。
 靴も穿いてない彼女の足跡は、血に濡れていた。

 大地に足型の血糊が彼女の痕跡を残している。

???「どこ……どこ……」

 ふらふら。

 うろうろ。

 探し物が見つからない。
 どこで無くしてしまったのか、どうしても思い出せなかった。
 

840: ◆H7NlgNe7hg 2012/05/05(土) 02:20:13.44 ID:mcbX4T9+o

???「もしかして……アッチ……かな……」

 ふらふらと歩みをさらに東へと進める。
 その方角は、東方を守護する“四王”が一人。

 “龍王”ヨルムンガンドが座すと言われている“龍の塒”だった。 

???「……」

 よたよた。

 ふらふら。

 覚束無い足取りで、進路をさらに東へと取る。
 目指す魔界の最果てへと。
 

841: ◆H7NlgNe7hg 2012/05/05(土) 02:22:35.08 ID:mcbX4T9+o


 ──ポタ、ポタ。


???「あ……血……」

 自分の両手から滴る血に気付く。
 それをベロリと舐め取ると、竜族特有の味がした。

???「そっか……私、戦ってたんだっけ……」

 戦闘をした記憶もない。
 ただ、両手両足がべったりと血に濡れている。

 体はどこも痛くなかった。
 とすれば、その血は全て返り血である。
 

842: ◆H7NlgNe7hg 2012/05/05(土) 02:23:07.58 ID:mcbX4T9+o

???「……剣がないと……汚れちゃう……」

 気付けば服も返り血で汚れている。
 彼女はほんの少しだけ、汚れた身なりに嫌悪感を抱いた。

 けれど、それもすぐにどうでも良くなった。

???「……あー…………」

 荒野を抜け、渓谷へと入る。
 完全に囲まれていた。

 竜族の兵たち。
 大型の飛竜や、甲冑を纏った竜人騎兵。

 かなりの数が彼女を敵と認識し、敵意を発している。
 

843: ◆H7NlgNe7hg 2012/05/05(土) 02:24:12.00 ID:mcbX4T9+o

???「あー……もう……」

 気だるそうな声をあげる。
 私はただ、探し物をしているだけなの。そう言葉に出そうとしたが、声に出来ない。

 ざわざわ。
 ざわざわ。

 心がざわつく感じを覚える。
 全身の血が躍動したくて、たまらない。

 完全に包囲されているにも関わらず、彼女はそれを危機と捕らえていなかった。
 

844: ◆H7NlgNe7hg 2012/05/05(土) 02:24:38.31 ID:mcbX4T9+o

???「あ゛ー……」

 避けがたい戦闘が始まる。
 大群で包囲され、どうやっても逃げれそうにない。


 けれど────彼女の顔は歓喜に震えていた。


 体中の毛が逆立つ。
 体が徐々に、本来の姿を取り戻してゆく。

???「…………」

 一人。
 竜族の大群へと突進する、黒い獣。

 その姿は“狼”そのものだった。
 

845: ◆H7NlgNe7hg 2012/05/05(土) 02:25:28.79 ID:mcbX4T9+o


……。
…………。
………………。

 

846: ◆H7NlgNe7hg 2012/05/05(土) 02:26:30.28 ID:mcbX4T9+o


 ─ 魔界 北方領 ─


 魔界の北側。
 北方領を預かり守る領主の性質上、その周辺は常に闇夜に照らされていた。

 崖の上にそびえ立つ、古城。
 人間がイメージを起こす“吸血鬼の住まう城”をそのまま建てたような建築物に、彼は住まっている。

アルカ「……」

 魔方陣からまるで影のようにぬらりと姿を現した吸血鬼。
 そこは城の中枢。

 彼が“四王”の一角として腰を下ろす謁見の間であった。
 

847: ◆H7NlgNe7hg 2012/05/05(土) 02:26:58.75 ID:mcbX4T9+o

アルカ「……お前か」

???「……」

 視線だけを隅にやる。
 そこに居たのは、全身の毛がほんのりと金色に輝く“人狼”だった。

 “人狼”。“吸血鬼”と双璧を成す魔人族筆頭の種族。
 この魔人族の中で“四王”たる“アルカード”に対抗しうる力を持つ人物でもあった。
 

848: ◆H7NlgNe7hg 2012/05/05(土) 02:27:51.23 ID:mcbX4T9+o

???「御大はどうだった」

アルカ「いつも通りだよ」

 親しげな口調でお互いが言葉を交わす。
 事実、彼等は親友でもあった。

 幼い頃からお互いに研鑽を重ね、実力をあげてきている。

???「そうか」

アルカ「あの御大が敵に回らなければ、どうとでもなるさ」
 

849: ◆H7NlgNe7hg 2012/05/05(土) 02:28:18.04 ID:mcbX4T9+o

 軽口をたたきながら玉座へ腰を下ろす。
 人狼はそのまま壁に背中を預け、アルカードの言葉を待った。

アルカ「“王狼大牙”。お前の危惧したことにはなりそうもないよ」

 “王狼大牙”-おうろうたいが-
 それは、人狼の長に与えられる魔人族内の呼称だった。

 稀に生まれる金色の体毛を生やし、巨大な牙を携えた狼。
 一族を束ねる長の宿命を背負った者。

 “魔人王”アルカードの唯一、友人と呼べる存在。
 魔人族の実質No.2の男であった。
 

854: ◆H7NlgNe7hg 2012/05/06(日) 14:41:31.51 ID:dUYPe2Cpo
 

 暗がりの城内。
 謁見の間には二つの影があった。

 片方は影そのものと見紛うほどに暗く、もう片一方は金色の光を発している。
 奇妙と言えば奇妙であった。

 “王狼大牙”と呼ばれる“人狼”。
 常は人型をしていて、髪は金髪。瞳は興奮状態でもないのに、燃えるような緋色をしている。

 陰をイメージさせるアルカードとは対極を感じさせる風体の持ち主だった。
 

855: ◆H7NlgNe7hg 2012/05/06(日) 14:42:00.46 ID:dUYPe2Cpo

王狼「どうする」

アルカ「どうする、とは?」

 茶化したようにアルカードが答えた。
 事実、王狼の台詞には言葉が足りていない。

 けれどそれは、最低限の言葉で友が意図を汲み取ってくれると言う自信の表れでもあった。
 王狼はその体質上明るめな風体とは裏腹に口数の少ない人物だった。
 

856: ◆H7NlgNe7hg 2012/05/06(日) 14:42:26.75 ID:dUYPe2Cpo

王狼「……」

アルカ「黙るなよ。悪かった」

 アルカードが、ふうと溜息を吐く。
 堕天使との謁見で少しばかり疲労が溜まっていた。

 相手方に敵意がなくとも、相対するだけで圧力がかかり少なからず体力を持っていかれる。
 堕天使アスモデウスはそれだけの相手だった。
 

857: ◆H7NlgNe7hg 2012/05/06(日) 14:43:01.43 ID:dUYPe2Cpo

王狼「魔王をどうする」

 簡潔に意思を述べる。
 彼にとって、魔王は敬い畏まるべく対象ではない。

 その短い言葉の中には、魔王の生殺に関わる何某が含まれていた。

アルカ「さて。どうしようかね」

王狼「お前が命を下すのであれば、俺が行く」

アルカ「それは無理だな。賭けにすらならない」

王狼「……」

アルカ「アレに対して、暗殺は不可能に近い」
 

858: ◆H7NlgNe7hg 2012/05/06(日) 14:43:36.72 ID:dUYPe2Cpo

 ついこの間のことであった。
 魔王領内で凄まじい魔力の放出を観測した。

 デタラメな攻撃力。魔力量。
 その発生源は魔界を統べる小さな娘だった。

 その日、初めて魔界の住人たちは現代魔王の力を目の当たりにしたことになる。
 “魔王剣”を使った攻撃ではなく、純粋なる自己の魔力行使。

 その力を感じ取ったアルカードは一部始終を“千里眼”で覗いていた。
 恐らくは魔界の実力者たちは全てその光景を目にしていたはずだ。

 魔力行使中の魔王には、一部の隙も見当たらなかった。
 

859: ◆H7NlgNe7hg 2012/05/06(日) 14:44:14.75 ID:dUYPe2Cpo

アルカ「お前も見ていただろう」

王狼「……」

アルカ「アレは、おいそれと手を出せる存在じゃあない」

王狼「では、黙っているのか」

アルカ「黙るのは性に合わない」

 アルカードは悪戯に表情を歪めた。
 まるで、子どものような顔付きだった。
 

860: ◆H7NlgNe7hg 2012/05/06(日) 14:44:47.83 ID:dUYPe2Cpo

アルカ「いつも言ってるだろう? 魔王を倒すのは、人間だと」

王狼「……」

 会話が途切れる。
 吸血鬼と人狼は一瞥し合うと、お互いに謁見の間を後にした。

 前者は安息を求め、棺の中へ。
 後者はなにも語らず、城の外へと歩みを進めた。
 

861: ◆H7NlgNe7hg 2012/05/06(日) 14:45:19.56 ID:dUYPe2Cpo


……。
…………。
………………。

 

862: ◆H7NlgNe7hg 2012/05/06(日) 14:46:07.65 ID:dUYPe2Cpo


 ──オロ……オ、ロ……オゥ。


魔王「っく……」

 熱い。痛い。苦い。
 なんだこれ……なんだこれ……。

 ガーゴイルが「呪いに詳しい者を」と部屋を後にして数十秒後。
 また、波が来た。

 わたしは今、トイレの住人だ。
 便座を抱きかかえ、地べたに腰を下ろしてしまっている。

 涙と嗚咽が止まらない。
 

863: ◆H7NlgNe7hg 2012/05/06(日) 14:47:38.07 ID:dUYPe2Cpo

魔王「うう……」

 内腑から色々なものが込み上げてくる。
 苦しい……。

 もう吐くものなんてないはずなのに、まだ出てくる。
 黒っぽい、黄色っぽいなにか。

 喉の奥が熱くて焼けるようだ。
 なんだよこれ。なんだよう。
 

864: ◆H7NlgNe7hg 2012/05/06(日) 14:48:50.88 ID:dUYPe2Cpo

魔王「頭も痛いし……うっぷっ」

 ──オロロ。

 吐き出される液体。
 まるで自分の体じゃないみたいだった。

 ガーゴイルが言うような呪いでは絶対にないと思う。
 だって魔王のわたしに効くような呪いがあるなんて到底思えないから。

 だとしたら、やっぱりこれは風邪なんだろう。
 

865: ◆H7NlgNe7hg 2012/05/06(日) 14:49:31.62 ID:dUYPe2Cpo

魔王「む、むり……」

 動けない。動きたくない。
 吐くものがないのに、動けばまた胃はなにかを押し出そうとしてくる。

 嫌だ。
 吐きたくない。

 うう……辛い。
 

866: ◆H7NlgNe7hg 2012/05/06(日) 14:50:17.28 ID:dUYPe2Cpo

ガーゴイル「魔王様! 城内で一番呪いに詳しい者をお連れしました!」

 ガーゴイルが大声を発しながら、部屋へと入り込んできた。
 頼むから声のボリュームを落として……。

ガーゴイル「“グランドタートル”です」

 わたしは便座にしがみ付いたまま、頭をゆっくりと後方へ向けた。
 石像に抱えられた老齢の“亀竜”。わたしが亀爺と呼んでいる魔物だった。
 

867: ◆H7NlgNe7hg 2012/05/06(日) 14:50:55.15 ID:dUYPe2Cpo

亀爺「これは……これは……お姫しゃま……おひさし……ぶりでぇ……ございます……」

 ガーゴイルに抱えられたままプルプルと震えている亀爺。
 わたしも限界だが、亀爺も色々と限界だと思った。

ガーゴイル「ではグランドタートル。後は任せた。謁見の間を空ける訳にもいかぬ故、私はこれで失礼する」

亀爺「あー……い……」

ガーゴイル「魔王様、あとはこのグランドタートルに任せますのでどうかご安心を」

 全然安心出来ないのだけど、ガーゴイルが隣で大声を出すよりはマシだ。
 

868: ◆H7NlgNe7hg 2012/05/06(日) 14:51:36.16 ID:dUYPe2Cpo

魔王「うん……わかっ……うっぷ」

 会話をするのも苦しかった。
 体のどこかを動かせば吐き気が襲ってくる。

 苦しい。
 助けて。

亀爺「ええとぉ……」

 のそり、のそり。
 ゆっくりとわたしの方へと歩いてくる亀爺。

 歩みは鈍い。
 大丈夫なのか、本当に……。

 こうして、亀爺によるわたしの診察が始まった。 
 
 

875: ◆H7NlgNe7hg 2012/05/09(水) 01:33:37.58 ID:oOP1CItwo
 

 わたしの体調は相変わらず最低で最悪で、便器から離れられなかった。
 ゆっくりと歩を進めトイレへと侵入してくる亀爺。

 もうなんでも良いから、治して欲しい。

亀爺「ひい……ひい……」

 たった数メートルの距離を歩いただけでもう息が荒い。
 わたしより自身の心配をした方が良いんじゃないかと思うほどだった。

 こう言った余計な心配が出来るのだから、わたしの体調もさほど悪くは──。
 
 

876: ◆H7NlgNe7hg 2012/05/09(水) 01:34:12.42 ID:oOP1CItwo

魔王「うっ……」

 ──オロロ。

 再び胃から、からく、にがく、焼けるような液体が込み上げて体外へとこぼれ出ていった。
 痛い……。

 口の中も変な感じがして、情けないけれど死んでしまうんじゃないかと思うほど辛い。

亀爺「姫しゃま、わ……わ……ワシの甲羅に手を置いてくだしゃれ……」

 くい、くい、と甲羅から首を伸ばし自身の背を触れと亀爺が言ってきた。
 一体なんの意図があるのかさっぱりわからなかったけれど、便座を抱えていた手をほどいてそのまま亀爺の甲羅へと手を乗せた。
 

877: ◆H7NlgNe7hg 2012/05/09(水) 01:36:27.99 ID:oOP1CItwo

亀爺「──────」

 低い、声にならない声を亀爺が発した。
 甲羅が紫色に発光し、文様が浮かび上がってくる。

亀爺「にょ……ううん……」

魔王「……?」

 文様は直ぐに消え、発光も数秒と立たずに消えた。
 甲羅に乗せた手をすぐにどかして良いものかわからず、そのまま待機することにした。
 

878: ◆H7NlgNe7hg 2012/05/09(水) 01:37:14.34 ID:oOP1CItwo

亀爺「……?」

 首を傾げる亀爺。
 ちょっと。

 首を傾げたいのはわたしの方だよ。
 いつまでこの体勢を維持しなければならないんだろう、便座を抱えたまま後ろに手をやるのはちょっと辛い。

魔王「亀……爺……?」

亀爺「むう……」

 唸るばかりで返事が帰ってこない。
 考え込んでるようだった。

 そんなにわたしの様態は悪いのだろうか。
 確かに今もなお気持ち悪いけれど。

 そこまで深刻なの……?
 

879: ◆H7NlgNe7hg 2012/05/09(水) 01:38:15.42 ID:oOP1CItwo

亀爺「わかりませんなあ……」

魔王「……」

 どうやら、亀爺の甲羅に乗せた掌。
 そこから呪術的な、呪い的ななにかを検知しようとしたらしい。

 けれど、わたしの体からそう言った類のものは一切出てこなかった。
 つまり……この体調不良は“呪い”等の効果によるものではない。

 それがわかっただけだった。
 

880: ◆H7NlgNe7hg 2012/05/09(水) 01:38:48.02 ID:oOP1CItwo

亀爺「姫しゃま……お顔の色が優れませんなあ……」

 そりゃあ、体調が悪いんだから顔色が良いはずないよ。
 きっと鏡を見たら相当酷い顔をしているんだと思う。

 それにしても、今さら顔色のことを言って来るなんて亀爺はいよいよじゃないだろうか。
 わたしも、だけれど。

魔王「ありがとう……もう良いから、下がって……」

亀爺「はいー……お役に立てずにい」

魔王「呪いじゃないとわかっただけで、充分だよ」
 

881: ◆H7NlgNe7hg 2012/05/09(水) 01:39:40.24 ID:oOP1CItwo

 未だに止まらぬ吐き気を抑え、亀爺と会話する。
 呪いもなにも、わたしは最初から“風邪”だと思っていたんだ。

 それをガーゴイルの石頭が勘違いするから、亀爺が出張る羽目になった。
 迷惑な……ああ、いや。

 体調管理ができなかったわたしにこそ非があるか。
 うう……気持ち悪いなあ、もう。

 ──オロ、ロ。

 思い出したかのように定期的に吐かれる液体。
 喉がイガイガする。

 心なしか声もカスれてきた気がした。
 

882: ◆H7NlgNe7hg 2012/05/09(水) 01:40:37.11 ID:oOP1CItwo

亀爺「姫しゃま……」

 心配そうに声をかけてくれる気持ちはありがたい。
 ありがたいんだけど、亀爺の仕事は終わった。

 ならば、さっさと退室して一人にして貰えないだろうか。
 なんとなく情けない気持ちで一杯になってしまう。

魔王「うっ……ぷ、亀爺……ありがとう、わたしはもう一人で平気だから……」

亀爺「お役に立てずう……」

 わたしの気持ちを察してくれてか、亀爺はすぐに反転してくれた。
 ありがたい。

 ここで心配だから付き添います、だとかそう言った気遣いは逆に困ってしまう。
 

883: ◆H7NlgNe7hg 2012/05/09(水) 01:41:32.92 ID:oOP1CItwo

亀爺「ひい……」

魔王「……」

亀爺「ふう……」

魔王「……」

亀爺「はあ……ちょっと休憩……」

魔王「……」

 なにせ、亀だから。
 竜とは言え、亀爺は亀だから。

 歩みが遅いのは仕方ない。歳も相当だし。
 だけど、だけれど。
 

884: ◆H7NlgNe7hg 2012/05/09(水) 01:42:18.16 ID:oOP1CItwo

亀爺「ふうふう」

魔王「……」

 どうしようもなく、うざい。
 人がゲーゲーしてるのに、なにをふうふうしているんだろうか。

 頭ではわかっているのだけど……。
 最悪の体調が寛容な心を濁ったものにしている。

亀爺「よっこらしょ……」

魔王「……」

亀爺「ひい、はあ……」
 

885: ◆H7NlgNe7hg 2012/05/09(水) 01:42:49.81 ID:oOP1CItwo


 ──もう、いい。


 便器から手をはなし、床から腰をあげる。
 口からはだらしなく涎が垂れているけれど、そんなのは無視をする。

 体を動かしたことにより、絶え間なく吐き気が襲って来ているけどこれも無視。
 思い切り口を閉じて部屋の隅にあるスライム娘呼び出し機を思い切り叩いた。
 

886: ◆H7NlgNe7hg 2012/05/09(水) 01:43:22.85 ID:oOP1CItwo

亀爺「……?」

 駆け足で便器へと戻る。
 口の中で液体が暴れ、歯がギシギシして気持ちが悪い。

 ──オロッ。

 口腔内に溜まっていた液体を便器に吐き出す。
 少量のくせにこのダメージ。

 攻撃力が高すぎる……。
 

887: ◆H7NlgNe7hg 2012/05/09(水) 01:44:02.58 ID:oOP1CItwo

スラ娘「お、およびでしょーか! まおーさまっ!」

 ほどなくしてスライム娘が部屋へとやってきた。
 良い速度だ。やはり教育が行き届いている。

魔王「亀爺を部屋まで送ってあげて……」

 声を振り絞り用件を伝える。
 気持ち悪いのと、口の中がギシギシしているせいで喋るのも億劫だった。
 

888: ◆H7NlgNe7hg 2012/05/09(水) 01:44:24.91 ID:oOP1CItwo

亀爺「お心使い……ありがとうごじゃいますう……」
 
スラ娘「りょ、りょーかいしました!」

 ハキハキと答えるスライム娘。
 少しだけ戸惑ったように思えたのが、すこし不安だったけれど……。

スラ娘「しつれいします!」

亀爺「頼むよう……」

スラ娘「うんしょ! うんしょ!」

亀爺「……」

魔王「……」

スラ娘「ううん! ううん!」

亀爺「……」

魔王「……」

スラ娘「ううっ……も、もちあがりません……」
 

889: ◆H7NlgNe7hg 2012/05/09(水) 01:44:57.91 ID:oOP1CItwo

 必死で亀爺を持ち上げようとするスラ娘なのだけど、如何せん非力な種族。
 抱きかかえて移動させるどころか、ほんの少しずらすことも出来なかった。

亀爺「すまんのう……」

スラ娘「ごめんなさい……ううっ……わたしがひりきなばっかりに……」

魔王「……アラクネを呼んでくれ」

スラ娘「ふ、ふくじゅうしゃちょーですか?」
 

890: ◆H7NlgNe7hg 2012/05/09(水) 01:46:06.21 ID:oOP1CItwo

 アラクネであれば亀爺を持ち上げることは容易いはずだ。
 あれはあれで、力がある。

 スキュラを回避したのは、余計な説明の手間を省くため。
 アラクネであれば状況を見て察してくれると思ったから。

 我ながら良い判断だと思った。

 なんにせよ、早く一人にしてくれないかな。
 今さらだけど便器にしがみ付く魔王の姿はみっともなくていけないよ……。
 

899: ◆H7NlgNe7hg 2012/05/14(月) 14:50:08.12 ID:dmKrlyEYo
 

 数多いるスライム娘の一匹。
 薄紫色の体をした、やる気はあるけれど空回りする典型的なスライム娘の一人からその報告を受けた私は足早に魔王様のお部屋へと足を運んだ。

 ──コンコン。

 ノックをしても反応がない。
 後ろにいるスライム娘は相変わらず慌てているだけだった。

アラクネ「……?」

 私が首を捻ると、

スラ娘「あっ、あの……」

 遠慮がちにスライム娘が声をかけてきた。

スラ娘「まおーさまはたいへんおからだのぐあいがわるいようなので……」
 

900: ◆H7NlgNe7hg 2012/05/14(月) 14:50:45.58 ID:dmKrlyEYo

 なるほど。
 そう言った訳だったか。

 なぜ、私が魔王様の自室に“グランドタートル”の爺様を回収しに行かねばならぬのか。
 その理由もわからぬままここまで来ていた。

 スライム娘の説明は簡素。
 「まおーさまのおへやまできてくださいっ!」だけだった。

 理由を尋ねてもスライム娘から事情を聞いていたのでは日が暮れてしまう。
 そのため、私は訳も聴かずこの部屋へと足を運んだんだけど……。
 

901: ◆H7NlgNe7hg 2012/05/14(月) 14:51:32.87 ID:dmKrlyEYo

アラクネ「失礼しまーすよー?」

 扉を開ける。

 室内にいる住人。
 そして漂う匂いで全てを把握できた自分が我ながら憎かった。

アラクネ「……」

 はあ。と溜息を吐いて、懐から紙とペンを取り出す。
 サラサラと走り書きをしたためてスラ娘に手渡した。
 

902: ◆H7NlgNe7hg 2012/05/14(月) 14:52:31.41 ID:dmKrlyEYo

アラクネ「これを急いでスキュラへ渡してきてちょうだいな」

スラ娘「はっ、はい!」

 さて……。
 スラ娘を走らせてもう一度部屋を見渡す。

 開け放たれた扉の向こう。便器にしがみ付く我等が君主の魔王様。
 動きの鈍い、亀の御爺ちゃん。

 ──オロ、ロ、ロ。

 うん。
 魔王様はお吐きになっておられる、と。 
 

903: ◆H7NlgNe7hg 2012/05/14(月) 14:53:46.40 ID:dmKrlyEYo

アラクネ「さて、と」

 一旦、魔王様は放置。
 先に御爺ちゃんをこの部屋から退去させるのが第一目標だと私は判断した。

 全ては、魔王様のために。
 これこそが従者たる自身の務めだとそう思っているからね。ほんっっと、難儀なことだよ。

亀爺「おお……女郎蜘蛛か……」

アラクネ「はいはい、そーでーすよー」

 御爺ちゃんとは話し合わない方が良い。
 付き合うと疲れてしまうからね。
 

904: ◆H7NlgNe7hg 2012/05/14(月) 14:54:23.78 ID:dmKrlyEYo

アラクネ「お部屋までお連れしますねー」

亀爺「おうおう、悪いねえ……でも、魔王さまが……のう……」

 ちらりと背後にいる魔王様に目を配る御爺ちゃん。
 相変わらず規則的にゲーゲーと魔王様は便器に……うん。

アラクネ「後は私に任せ下さい、大丈夫ですからね」

亀爺「おうおう……すまんねえ……」

アラクネ「いえいえ」

 ヒョイ、と亀爺の思い体を持ち上げる。
 こりゃスライム娘じゃ持ち上がらないわ……。

アラクネ「よっこいせっ……とお」

亀爺「すまんねえ……」

 よっし。
 さっさと御爺ちゃんをお部屋まで運んで従者たる勤めを真っ当しなきゃねっと。
 

905: ◆H7NlgNe7hg 2012/05/14(月) 14:55:25.67 ID:dmKrlyEYo


……。
…………。
………………。

 

906: ◆H7NlgNe7hg 2012/05/14(月) 14:55:52.56 ID:dmKrlyEYo

アラクネ「……ふう」

 亀の御爺ちゃんを部屋に運んでから再び魔王様の部屋へ。
 魔王様は相変わらず顔色最悪で最愛の恋人である便器を抱きかかえていた。

アラクネ「すんすん」

 鼻を鳴らす。
 酒臭い。

 魔王様の体調不良……って言うか、これは二日酔いね。
 完全にお酒の飲みすぎでしょう。
 

907: ◆H7NlgNe7hg 2012/05/14(月) 14:56:23.77 ID:dmKrlyEYo

 どうしてそれが、亀の御爺ちゃん。“グランドタートル”の出番と相成ったのか。
 その想像も容易だった。

 まず、我等が魔族の大臣であるガーゴイル。
 あの方は石像な訳よ。

 食事もなにもかもが石尽くしな人に、嗅覚とかある訳ないよね。
 御爺ちゃんは歳で匂いもわからなかったんでしょう。

アラクネ「魔王様、お加減の程は?」 

魔王「…………最悪」
 

908: ◆H7NlgNe7hg 2012/05/14(月) 14:57:40.45 ID:dmKrlyEYo

 端的なお答え。
 実にわかりやすい。

 オロオロと吐き気は止まらないし、実際に吐き出してもいる。
 けれど、胃に内容物はもうなにもなくて胃液ばかりが出てくる。

 そのせいで喉は爛れて、声は枯れる。
 気分も体調も全てが最悪なのだろう。

 なんでここまでお酒を飲んだのか……いや、それは私が考えることじゃないか。
 

909: ◆H7NlgNe7hg 2012/05/14(月) 14:58:59.97 ID:dmKrlyEYo

アラクネ「取り合えず、横になりましょう」

魔王「い、や……ここの方が……」

アラクネ「いえいえ。横になった方が良いのですよ」

魔王「でも、でも……」

アラクネ「だーいじょうぶ。吐きたくなったらいつでもこの箱に吐いて下さいまし」

 魔王様の体を無理矢理に持ち上げてベッドへと運ぶ。
 その隣へゴミ箱を置いてあげる。

 不思議なもので、いつでも吐けると思うと気分って楽になるものよね。
 

910: ◆H7NlgNe7hg 2012/05/14(月) 14:59:42.12 ID:dmKrlyEYo

魔王「……ふう、ふう」

アラクネ「さ、て」

 魔王様の胃は空っぽのすっからかん。
 吐き気が止まらないから、なにも食べたくないし胃に入れたいとも思ってないだろうなあ。

 体に吸収されやすい飲み物は飲んだ方が良いんだけど。

アラクネ「ちょっと貯蔵庫を拝見しますよー」

 魔王様の返事をまたずに貯蔵庫を空ける。
 小さめな長方形の箱。

 箱下には永遠に冷気を発し続ける氷が設置されていて、貯蔵庫内を冷やす役割を担っている。
 なにか飲み物でも……と思って扉を開くと、お? これは。
 

911: ◆H7NlgNe7hg 2012/05/14(月) 15:00:27.88 ID:dmKrlyEYo

アラクネ「?」

 閑散としている貯蔵庫内にちょこんと1本。
 透明な瓶に詰められている茶色い液体。これは……?

魔王「そ、それ……は……」

 “こおひい牛乳”と魔王様は死にそうな声で言った。
 なんと人間界の飲み物で、とても甘くて美味しいらしい。最後の1本なんだとか。

 説明不足すぎる説明ではあるけれど、なるほど。
 魔王様はこの飲み物をいたく気に入ってるのね。
 

912: ◆H7NlgNe7hg 2012/05/14(月) 15:00:57.68 ID:dmKrlyEYo

アラクネ「じゃあ、魔王様。とりあえずコレを飲みましょうか?」

 冷えた瓶を持ってベッド横へと移動する。
 甘いってことは糖分が入ってるんだろうし、吸収も良いでしょう。

魔王「え……」

 しかし顔を濁す主様。
 ぬう、最後の1本と強調していたから名残惜しいのでしょうな。

アラクネ「魔王様が飲まないのであれば、後学のために私が飲んじゃいますけど……」

魔王「や、ちがっ」
 

913: ◆H7NlgNe7hg 2012/05/14(月) 15:01:47.07 ID:dmKrlyEYo

 あらあら。
 なにこの魔王様。

 弱っているせいかちょっと可愛いんですけど。
 いつもは背伸びしている感じがするちょっと小生意気な……じゃなくて。

 うん。
 歳相応って感じで可愛さを感じてしまう。

アラクネ「飲めばきっと楽になりますから。ね?」

魔王「……うん」

 しょぼん、とした顔付きを作って瓶を受け取る。
 吐いてしまうんじゃないかと言う恐怖と戦いながら、その液体をコクコクと可愛らしく飲み始めた。
 

914: ◆H7NlgNe7hg 2012/05/14(月) 15:02:13.75 ID:dmKrlyEYo

魔王「ふう、ふう……はあ……」

 あれだけ苦しそうにしていたのに、飲んだ瞬間にちょっとだけ笑顔を覗かせる。
 ふふっ。普段からそうしていればとても可愛らしいのに。

 魔王職って言うのも、大変なのね。

アラクネ「ささ、ゆっくりとで良いので飲み干して下さいな」

魔王「うん」

アラクネ「飲み終わったらまた横になって下さいね。その方が楽ですから」

魔王「うん」

 時間をかけてゆっくりと“こおひい牛乳”を飲み干した魔王様。
 未だに吐き気が襲ってくるのか、体を時々びくつかせながらベッドに横たわる。
 

915: ◆H7NlgNe7hg 2012/05/14(月) 15:02:50.64 ID:dmKrlyEYo

アラクネ「では魔王様。しばらく目を瞑ってしまいましょう」

魔王「で、でも……ベッドの中で吐きたくは……」

 無意識に吐いてしまうことを恐れている。
 そりゃあ、誰だって自分の寝床を汚くしたいなんて思わない。

アラクネ「私がそばにいるから大丈夫ですよ」

魔王「でも……」

 冷たく絞った手ぬぐいを魔王様のおでこにペタリ。
 貯蔵庫内で冷えていた水で絞っておいたのが役にたった。
 

916: ◆H7NlgNe7hg 2012/05/14(月) 15:03:23.08 ID:dmKrlyEYo

魔王「ひゃっ」

アラクネ「冷たくて、気持ち良いでしょう?」

魔王「……冷たくて、気持ち良い」

アラクネ「苦しいかもしれませんが、少しだけ眠って。そして起きたら少しだけご飯を食べるんです」

魔王「……」

アラクネ「そうすれば様態はすっかり良くなりますから」

魔王「うん……」

 落ち着いたのだろう。
 魔王様はそれから数分と立たぬ間に、すうすうと寝息を立て始めた。

 さて、さて、さて。
 微笑ましい主様の寝顔を見納めしたところで、部屋中を見渡す。

 なんとも……。
 

917: ◆H7NlgNe7hg 2012/05/14(月) 15:04:30.19 ID:dmKrlyEYo

アラクネ「凄い散らかりようね」

 服は脱ぎっぱなし。
 本は出しっぱなし。

 ほこりも端に溜まっているし、本棚の上にもほこりが積もっている。
 小さなテーブルの上は食べ散らかした後がそのままだった。

アラクネ「これが、魔界の王が住まう部屋……ねえ」

 時間はまだもうちょっとあるし。

アラクネ「お掃除、しますか」

 私は従者としての仕事を真っ当することにした。
 可愛らしい主様のためにも、ね。 
 

948: ◆H7NlgNe7hg 2012/06/01(金) 06:44:06.02 ID:NWsbYAFGo
 

 わたしが便器とよろしくやっていると、アラクネが後ろから声をかけてきた。
 体調は今さら言うまでもなく最悪。

 世界は未だにぐらぐらと揺れているし、胃の中は溶鉱炉のように熱く煮えたぎっている。

アラクネ「魔王様、お加減の程は?」 

魔王「…………最悪」

 

949: ◆H7NlgNe7hg 2012/06/01(金) 06:44:39.59 ID:NWsbYAFGo

 アラクネの質問になんとか言葉を返す。
 体が強制的に半眼にしてくるせいで、視界もぼやけている。

 目を上手にあけられないよ……。

 うう、うう。
 胃も喉も熱い。痛い。なんなの、これ……。
 

950: ◆H7NlgNe7hg 2012/06/01(金) 06:45:39.00 ID:NWsbYAFGo

アラクネ「取り合えず、横になりましょう」

 横になる? それは無理……と言うよりとってもキツい。
 なんと言っても常時襲ってくるこの吐き気。

 これが厄介で隣に便器がないと落ち着かないみっともない身体に。

 しかし、まあ。
 なんと言うか拒んだのだけれど、アラクネの押しには勝てず結局わたしはベッドへと体を移動させられてしまった。
 

951: ◆H7NlgNe7hg 2012/06/01(金) 06:49:32.35 ID:NWsbYAFGo

アラクネ「吐きたくなったらいつでもこの箱に吐いて下さいまし」

 そう言って、横にゴミ箱を置いてくれた。
 そうか。最悪の時はここに吐けば良いのか……。

 だったら、横になっても大丈夫かもしれない。

魔王「……ふう、ふう」

アラクネ「さ、て」

 不思議と少しだけ楽になった。
 けれど、気分が楽になっただけで体調だとかそう言うのが楽になったわけじゃない。

 未だに胃はごうごうと音を立てて、燃えているような痛みを発している。
 

952: ◆H7NlgNe7hg 2012/06/01(金) 06:50:00.06 ID:NWsbYAFGo

アラクネ「ちょっと貯蔵庫を拝見しますよー」

 貯蔵庫?
 こんな時に貯蔵庫を見てどうなるんだろう。

 ああ、だめだ。
 思考がまとまらないや。

 どうぞご勝手に。
 大したものは入ってないけれど、好きなだけ見て良いし、なにか食べたかったり飲みたかったりすれば構わないよ。

 楽しみにしていた最後の“こおひい牛乳”さえ飲まなければ。
 

953: ◆H7NlgNe7hg 2012/06/01(金) 06:50:28.85 ID:NWsbYAFGo

アラクネ「?」

 はう!
 思ったそばから、アラクネが掲げた“こおひい牛乳”の瓶。

 だめ、止めて。
 それだけは飲まないで、お願いだから。

 はあはあ、と死にそうになりならがらも“こおひい牛乳”の説明をした。
 意図は伝わってないかも知れないが必死さは伝わったはずだ。
 

954: ◆H7NlgNe7hg 2012/06/01(金) 06:50:55.01 ID:NWsbYAFGo

 よもや、空気を読むスキルに長けたアラクネが勘違いを起こし“こおひい牛乳”を飲み干すような暴挙にでることはあるまい。
 そう思っていると、

アラクネ「じゃあ、魔王様。とりあえずコレを飲みましょうか?」

 なんてことを言いながら、ベッド脇へと移動してきた。
 わたしはなにを言ってるのか一瞬理解できなくて、

魔王「え……」

 と、間抜けな声をあげてしまった。
 だって、それは最後の一本だし……。

 もっとさ、なんて言うか大事に飲みたいし。
 こんな体調が悪いときに飲むだなんて“こおひい牛乳”に失礼じゃないかって、そう思うんだけれど。
 

955: ◆H7NlgNe7hg 2012/06/01(金) 06:51:52.81 ID:NWsbYAFGo

アラクネ「魔王様が飲まないのであれば、後学のために私が飲んじゃいますけど……」

 はっ? ええ?
 ちょっ、まって。

 意味がわからない。
 なんでそうなるの。

 わかるでしょう? アラクネならわかるでしょう?
 今のわたしじゃ上手く説明できないけどさ、それが大事なものだってわかるでしょう?
 

956: ◆H7NlgNe7hg 2012/06/01(金) 06:56:37.92 ID:NWsbYAFGo

魔王「や、ちがっ」

 あうあう、と力の入らない両手を掲げて抗議する。
 だめ、やめて、飲まないで。

 飲まないでよう……。

アラクネ「飲めばきっと楽になりますから。ね?」
 

957: ◆H7NlgNe7hg 2012/06/01(金) 06:57:04.14 ID:NWsbYAFGo
 そう言ったアラクネの顔に、意地悪なものは含まれてなかった。
 わたしの身を案じてそう言っているのだろうと理解できた。

 少しだけ。
 いやかなり勿体ないとは思ったけれど、ほんの少しの沈黙の後に、うんと頷いた。

 ──きゅぽんっ。

 小気味良い音を立てて、瓶から蓋が外れる。
 アラクネがそっと瓶を手渡してくれた。
 

958: ◆H7NlgNe7hg 2012/06/01(金) 06:57:31.30 ID:NWsbYAFGo

 ゴクリと喉が鳴る。
 正直に言って喉は渇いてる。

 が、胃は痛い。燃えるような痛みを発し続けているし吐き気は尚も現在進行形で襲ってきている。
 吐いてしまったらどうしよう。
 
 ああ、ほのかに香る良い匂い。
 “こおひい”の匂いがわたしを誘惑してくる。

 嘔吐と言う恐怖と戦いながら、恐る恐る瓶の口に唇をつけた。
 ゆっくりと、ゆっくりと液体を口に含み胃に流す。
 

959: ◆H7NlgNe7hg 2012/06/01(金) 06:58:08.44 ID:NWsbYAFGo

 冷たくって、ほろ苦くって、でもとっても甘い。
 じいん、と身体に染み渡るような感覚を覚えた。

 ──美味しい。

アラクネ「ささ、ゆっくりとで良いので飲み干して下さいな」

魔王「うん」

 美味しい。美味しい。
 やっぱり“こおひい牛乳”は別格だ。
 

960: ◆H7NlgNe7hg 2012/06/01(金) 06:58:35.01 ID:NWsbYAFGo

アラクネ「飲み終わったらまた横になって下さいね。その方が楽ですから」

魔王「うん」

 勿体ないからゆっくりと。
 吐き出さないようにしっかりと。

 時折り胃の奥から襲ってくる衝動と戦いながら、わたしは茶褐色の液体を飲み干した。

アラクネ「では魔王様。しばらく目を瞑ってしまいましょう」

魔王「で、でも……ベッドの中で吐きたくは……」
 

961: ◆H7NlgNe7hg 2012/06/01(金) 06:59:36.03 ID:NWsbYAFGo

 ゆっくりと体を倒してベッドへと横たわる。
 確かにこの体勢は楽だ。

 けれど、もし眠ってしまって吐き気が来たら……と思うと怖くて眠れない。
 ベッドで吐きたくないし、なによりも先ほど飲み干した“こおひい牛乳”を吐き出すなんて論外だ。

アラクネ「私がそばにいるから大丈夫ですよ」

魔王「でも……」

 抗議しようとした瞬間、なにかが額の上に落ちてきた。
 

962: ◆H7NlgNe7hg 2012/06/01(金) 07:01:00.69 ID:NWsbYAFGo

魔王「ひゃっ」

 びっくりした。
 それはとても冷たくて、

アラクネ「冷たくて、気持ち良いでしょう?」

 気持ちが良かった。
 ほんのりと湿り気が残っていて冷たいそれは、おでこから熱を取ってくれている。
 

963: ◆H7NlgNe7hg 2012/06/01(金) 07:02:06.44 ID:NWsbYAFGo

アラクネ「苦しいかもしれませんが、少しだけ眠って。そして起きたら少しだけご飯を食べるんです」 

 なんとなく、言い返せなかった。
 アラクネの言う通りにした方が良い気がした。

 未だに吐き気は来るけれど“こおひい牛乳”を飲んでから楽になった。
 額に乗った濡れタオルも気持ちが良い。

アラクネ「そうすれば様態はすっかり良くなりますから」

魔王「うん……」
 

964: ◆H7NlgNe7hg 2012/06/01(金) 07:02:34.60 ID:NWsbYAFGo

 そう返事をして目を閉じる。
 意識はすぐにまどろみ、わたしは眠りについた。

 良かった。
 良かった。

 わたし一人だったら、きっともっと大変な目にあっていたはずだ。
 心底思う。

 わたしは良い魔王ではないけれど、良い配下を持っているなあって。

 そう言えばパンツのお礼もしていなかったっけ?
 起きたら、それもちゃんと言わなくっちゃ。
 

976: ◆H7NlgNe7hg 2012/06/05(火) 06:30:55.76 ID:7iu+BaMYo
 

 あれから、どれだけの時間が経ったのだろう。
 アラクネに寝かしつけられて、気持ちが悪いままわたしは目を瞑った。

 そして気付けばゴミ箱を布団の中で抱いている。
 どうやら眠れたようだった。

魔王「……ん」
 

977: ◆H7NlgNe7hg 2012/06/05(火) 06:31:23.26 ID:7iu+BaMYo

 目は瞑ったまま。
 鼻だけがソレに反応した。

 部屋の何処からか香るそれは、なんだろう。
 嗅いだことのない匂い。

 不快感はない。
 とても良い匂い。どちらかと言えば、食欲をそそるソレだった。
 

978: ◆H7NlgNe7hg 2012/06/05(火) 06:31:50.67 ID:7iu+BaMYo

魔王「んんっ……」

 ゴミ箱を抱いたまま寝返りをうつ。
 断っておくけれど、体調が全快しているわけじゃない。

 頭はガンガンと殴られているような鈍痛に襲われているし、胃は未だに悲鳴をあげている。
 でも、さっきよりは幾分か楽になっていた。

魔王「あらくねー?」

アラクネ「はいはい、お目覚めになられましたか?」
 

979: ◆H7NlgNe7hg 2012/06/05(火) 06:32:18.31 ID:7iu+BaMYo

 部屋にアラクネがまだいるのかと思って声をかける。
 当然のように返って来る返答。

 どうやらわたしが眠っている間もずっと部屋にいてくれたらしい。
 未だにひんやりと頭を冷やしているタオルがその証拠だった。

 なんどか取り替えてくれたのだろう。
 本当に良いやつだ。
 

980: ◆H7NlgNe7hg 2012/06/05(火) 06:32:44.91 ID:7iu+BaMYo

魔王「うんー」

アラクネ「お加減は?」

魔王「微妙……頭痛い、ノドとか胃も……」

アラクネ「ですよねえ」

 布団に入ったまま、部屋を見渡す。
 綺麗になっていた。
 

981: ◆H7NlgNe7hg 2012/06/05(火) 06:33:19.25 ID:7iu+BaMYo

 わたしがまだ世界征服をやめると宣言する前は、こうしてアラクネが毎日掃除をしてくれていたんだったな。
 服は綺麗に畳まれているし、本棚もちゃんと巻数が見えるように綺麗に並べられている。

 机の上も整頓されているし。
 はあ……わたしって本当にどうしようもない魔王な気がしてきたよ。

 ──っと、思考がそれてしまった。

 気になっていた匂いの元を辿る。
 部屋の中央。食事が用意されていた。
 

982: ◆H7NlgNe7hg 2012/06/05(火) 06:33:45.90 ID:7iu+BaMYo

魔王「アラクネ、あれは?」

アラクネ「あら。気付かれました?」

 うふふ。と口をあげて笑うアラクネはなにか嬉しそうだった。
 どうしたんだろうか。

アラクネ「魔王様ったらとっても運が良いんですよー」

魔王「?」

アラクネ「珍しく人間界の食材が入荷していたんですよ」

魔王「人間界の……」
 

983: ◆H7NlgNe7hg 2012/06/05(火) 06:34:23.11 ID:7iu+BaMYo

 人間界。
 そのワードを聞いただけで、自分の体調を忘れてワクワクしてしまう。

 人間界の食材だって?
 だったら美味しいに決まってるじゃないか。

 しかも、アラクネが用意したってことはスキュラが調理したのだろう。
 間違いがない。

 完全に美味しいやつだ。
 

984: ◆H7NlgNe7hg 2012/06/05(火) 06:34:52.16 ID:7iu+BaMYo

魔王「あ……」

 不意に声が漏れた。
 そう、思い出す。

 今の自分の体調を。
 頭が痛いし、胃が荒れ狂っている。

 こんな状態で食事を摂る? 無理だ。無理に決まっている。
 無理して食べてもオロオロと戻してしまうだろう。

 そんな勿体ないこと、わたしには出来ない。
 

985: ◆H7NlgNe7hg 2012/06/05(火) 06:35:21.62 ID:7iu+BaMYo

アラクネ「ふっふー」

魔王「……?」

 わたしがしょんぼりしていると、アラクネがニコニコと笑顔を近づけてやってきた。
 確かにわたしが大の人間界贔屓であることはみな知っている。

 それ関係の食べ物や品物を渡されたら大喜びすることも知っているだろう。
 だけれど、今の体調で食べ物を食べるのはちょっとな……。
 

986: ◆H7NlgNe7hg 2012/06/05(火) 06:35:47.70 ID:7iu+BaMYo

アラクネ「魔王様は体調を心配しておいででしょう?」

魔王「あ、うん……この調子じゃ食べても……」

 吐いてしまう。

アラクネ「それがですね、大丈夫なんですよ」

魔王「?」

アラクネ「魔王様はとっても運が良いと、先ほど申し上げたでしょう?」

魔王「あ、ああ」

アラクネ「我々が仕入れた食材は“味噌”と“しじみ”ですっ」

魔王「みそ? しじみ?」

 なんだそれ。
 聞いた事もない単語だった。
 

987: ◆H7NlgNe7hg 2012/06/05(火) 06:36:16.79 ID:7iu+BaMYo

アラクネ「えーっとですね、これらの材料を使って作るものがですね、二日酔……えーっと、魔王様の今の体調を回復する効力があるんですよ」

魔王「……」

 二日? うん? 今なにか言いかけた気がしたのだけれど……まあ、良いか。
 と言うことはだ。

 それを食べても吐き出すことはないし、体調も回復する?
 凄い。良いこと尽くめじゃないか。
 

988: ◆H7NlgNe7hg 2012/06/05(火) 06:36:43.03 ID:7iu+BaMYo

アラクネ「“味噌汁”と言うものなんですがね、いやー美味しいのなんの。私も先ほど味見をしたのですが、魔界にはない味わいでしたよ」

魔王「ゴクッ……」

アラクネ「刻んだ青ネギがまた良いアクセントで──」

 もうだめだ。
 抱えていたゴミ箱をベッドから叩き落す。

 先ほどまでは恋人と言えよう箱も、今は邪魔なだけだった。
 身体が重たい。

 無理矢理に身体をお越し、匂いの発信源まで這い寄る。
 

989: ◆H7NlgNe7hg 2012/06/05(火) 06:37:09.62 ID:7iu+BaMYo

魔王「はあ、はあ」

アラクネ「ふふ」

 配膳された卓に辿り着く。
 テーブルには椀が一つ置いてあるだけだった。

魔王「これか……」

アラクネ「ええ。フタを取って下さいな」

 椀に手を伸ばして、フタを取る。
 一気に匂いが散乱した。
 

990: ◆H7NlgNe7hg 2012/06/05(火) 06:37:36.00 ID:7iu+BaMYo

魔王「おお……」

 嗅いだことのない、良い匂い。
 食欲なんてまったくなかったわたしの胃が、びっくりしている。

 早く欲しい。飲みたいと抗議しているようだった。

魔王「いっ、いただきます」

アラクネ「はい。召し上がれ」

 ──ごくっ。

魔王「ぷぁっ……美味しいー……」

 なんだこの味! なんだ!
 美味しい。凄く美味しい。

 説明出来ない味だった。
 

991: ◆H7NlgNe7hg 2012/06/05(火) 06:38:23.89 ID:7iu+BaMYo

アラクネ「その具も食べれますからね?」

魔王「こ、これか」

アラクネ「“しじみ”と言われている貝です。こぶりですけど、それも美味しいですよー」

魔王「はむ……かたい……」

アラクネ「あっ、殻は食べれませんよ! 中身だけを食べるんです」

魔王「そ、そうか……」 

 それを先に言ってくれ。
 堅くてびっくりしちゃったよ。

 では、気を取り直して。
 

992: ◆H7NlgNe7hg 2012/06/05(火) 06:38:50.10 ID:7iu+BaMYo

魔王「はむはむ……」

 おっ。柔らかい。
 殻と違って、とても柔らかくて、でも弾力があって、ぐにぐにしてて。

 歯ざわりも良いし、美味しい。

魔王「コクコク……」

 そしてまた汁を飲む。
 時たま現れるネギの食感も絶妙だった。

 匂い、味、歯ざわり。
 全てが美味しい。

 幸せな気分だった。
 

993: ◆H7NlgNe7hg 2012/06/05(火) 06:39:16.38 ID:7iu+BaMYo

魔王「ぷはー……ご馳走様でした」

アラクネ「お粗末様でした。どうです? 体調の方は」

魔王「ん。頭はまだちょっと痛い」

アラクネ「ですか。でもまあ、結構よくなったみたいですね」

魔王「だいぶマシになったよ。ありがとう」

アラクネ「いえいえ」

 かなり楽になった。

 あれだけオロオロと吐き続けていたのに、コーヒー牛乳からのベッド、仮眠。
 そして味噌汁? のコンボで体調は良い方向に激変した。
 

994: ◆H7NlgNe7hg 2012/06/05(火) 06:39:46.83 ID:7iu+BaMYo

アラクネ「あとは、水分を摂りつつ眠れば明日にはケロっと治ってますよ」

魔王「風邪と言うのはそんなに簡単に治るのか?」

アラクネ「えっ、えーっと……まぁそんなもんです。はい」

魔王「ふーむ」

アラクネ「(お酒云々は黙っておいた方が良さそうね……)」

 楽になったとは言え油断は禁物だろう。
 風邪がどう言ったものなのかは未だに良くわからないけれど、ぶり返すものかもしれない。

 ここはアラクネの指示にしたがって眠ることにしよう。

アラクネ「はい。枕元に水差しを置いておくので、飲んでくださいね」

魔王「ありがとう」

 ベッドに上がりこむと、アラクネにすっぽりと肩まで布団をかけられた。
 本当にこいつは世話好きで良いやつだなあ。
 

995: ◆H7NlgNe7hg 2012/06/05(火) 06:40:13.65 ID:7iu+BaMYo

魔王「情けないところを見せてしまったな」

アラクネ「なんのなんの。魔王様のおしめも換えたことがあるんですよ? これ位──」

魔王「なっ!?」

アラクネ「ほらほら。騒がないで下さいな、まだ頭痛が残っているのでしょう?」

魔王「うぐう……」

 起こしかけた上半身をベッドに押し付けられてしまった。
 おしめだとう……?

アラクネ「小さい時分は誰もがそう言った経験をしてるんですから、恥ずかしいことじゃないですよ?」

魔王「で、でも……」

アラクネ「はいはい。おやすみなさい」

魔王「むう……」
 

996: ◆H7NlgNe7hg 2012/06/05(火) 06:41:33.20 ID:7iu+BaMYo

 有無を言わさず、また額に冷たいタオルを置いてくる。
 くそう。

 最後の最後で、知りたくもない事実を知ってしまった。
 しかしそうか……。

 この魔王城で一番の若輩者はわたし。
 であれば、そう言った……その、おしめ云々も……くう。

 恥ずかしい。
 わたしに記憶がない分、余計に恥ずかしいじゃないか。

 忘れよう。
 寝ちゃおう。

 寝ちゃおう、寝ちゃおう、寝ちゃおう。
 明日からまた、いつも通りの生活を送る為に。

 今は、寝ちゃおう。