怪しい女性が三つに分かれたのをみて、京太郎は姿勢を整えた。かかとをわずかに上げて爪先立ちになりひざを軽く曲げて腰をわずかに落とした。

両腕をだらりとリラックスさせて、自由に動かせる状況にもっていく。いつでも最高速で動ける姿勢である。

 すでに京太郎の頭の中に無駄なものはない。目の前の強敵に一泡吹かせてやるという闘志と、全身全霊でぶつかる喜びだけで動いている。

 退屈だった心はどこにもない。自分の退屈を殺す方法を京太郎は見つけたのだ。

「手抜きで手に入る勝利より全身全霊で敗北するほうがずっといい、ずっと価値がある。

 往くか、修羅道」


 まだ攻撃らしい攻撃もない立ち会う前といっていい状況。しかしすでに結果は見えていた。分身を呼び出せる余力のある怪しい女性と、相手のステージに近づいていくだけで自らの死に近づいていく京太郎。

どちらが勝利するのかなど誰の目から見ても明らかだ。

 しかし、京太郎に恐れはない。格下の京太郎が吠えた。

「来い!」

 京太郎の願いを聞き入れた心臓が激しく脈を打つ。無茶に無茶を重ねたことで鼻の中の血管が大きく裂けて、血が流れ出し、京太郎の口元が赤く染まる。

しかしそれでも、京太郎は吠えた。ただこのときを待っていたとばかりに吠えた。

 大馬鹿であった。


 京太郎の叫びを合図にして怪しい女性が動き始めた。三つ同時である。三つに分かれた怪しい女性は、京太郎を囲みにかかった。ちょうど京太郎を中心にして三角形を作っている。そして合図もなしに一斉に京太郎に飛び掛った。

 真正面の一人は京太郎の頭めがけて飛び込んだ。京太郎の右斜め後ろは、京太郎の背中を取るために飛び掛った。斜め後ろの一人は京太郎の足をめがけて飛び込んだ。

三人とも大きく手を広げている。抱きしめようとしているようだった。しかしその勢いはすさまじく、普通の人間ならば、真っ二つになるだろうことは間違いなかった。

 怪しい女性の準備から攻撃までが一瞬のうちに行われた。以前の京太郎なら、あっという間に捕まっていただろう。目で追う事もできなかったはずだ。

 しかし京太郎はこれに応じて見せた。真正面から飛び掛ってきた怪しい女性めがけて、飛び込んでいったのだ。

 京太郎は取り囲まれたのを把握できていた。前回の失敗から学んだのだ。一つのものばかりに集中していると、周りが見えなくなりつかまると。

 京太郎はしっかり五感を使い状況を理解している。

「怪しい女性は三つに分身した。そして三角形の形で自分を取り囲んでいる。そして取り囲んだ形から自分めがけてタックルを仕掛けてきた」

 タックルは三つすべて同時のタイミングだ。芸術的といっていいほど飛び掛るタイミングが同じだった。

 ならば、やることはひとつだろう。迎撃するだけだ。京太郎にあるのはそれだけである。怪しい女性が何を考えているのかとか、自分がどういう代償を受けるのかといった事柄はどうでもいい。ただ、一泡吹かせたかった。

 音速のステージに足を踏み入れ迎撃を始めた京太郎を前にして、怪しい女性は微笑を浮かべていた。しかしそれは京太郎の成長を喜んでいるものではない。京太郎の体から流れ出ている血液の甘い匂いに酔っているのでもない。

 迎撃に動いた京太郎をこのように解釈したのだ。

「うれしい! 宝物が自分から飛び込んできてくれた!」

 京太郎に攻撃を仕掛けられているなどとは少しも考えていないのだ。少なくとも怪しい女性は嫌われているとは思っていなかった。

 しかしすぐに間違いだったと知るだろう。

180: ◆hSU3iHKACOC4 2015/04/28(火) 02:33:40.58 ID:Z22ZBlJ80
 京太郎と怪しい女性のやり取りが始まって、あと少しで一秒が過ぎるというところ。怪しい女性は天と地がひっくり返る体験をした。視界が百八十度回転したのだ。そして怪しい女性は背中に大きな衝撃を受けた。

 京太郎が飛び込んできてくれたと喜んだ次の瞬間、怪しい女性は自分の分身二体とぶつかってひっくり返っていたのだった。

 怪しい女性は何がおきたのかがわからない。当然である。柔道の技、「肩車」からの「背負い投げ」を怪しい女性にかける人間など、今までいなかったからだ。

 ポテンシャルならば圧倒的に勝っている怪しい女性であるが、戦いに関しては初心者なのだ。とくに油断したのがまずかった。油断とは、飛び込んできた京太郎を見て喜んでしまったこと。この隙を京太郎は見逃さなかった。

 そしてわずかな隙に滑り込み、京太郎はやってのけたのだ。頭めがけて飛んでくる正面の怪しい女性の首に左手をかけ、股下に右腕を通し担ぎ上げ、勢いに任せて体をひねり思い切り投げた。投げた場所は今まで京太郎が立っていた場所である。

 三つに分かれた怪しい女性が京太郎を狙っているのは明らかである。当然、見えないところから襲い掛かられたとしても攻撃の軌跡は予想がつけられる。今まで自分が立っていた場所が怪しい女性の目的地なのだ簡単だろう。

 だから京太郎は今まで自分がいた場所めがけて、怪しい女性を投げ込んだのだ。きっとぶつかるだろうと予想して。

 これが全てのやり取りだった。理解できているのは京太郎だけだ。怪しい女性も虎城も何が起きたのかわかっていなかった。怪しい女性は京太郎の行動内容と理由がわからず、虎城は上級悪魔のステージをとらえる力がなかった。

 ひっくり返された怪しい女性は京太郎を見つめていた。ひっくり返されて裸体が丸見えになっているのもまったく気にしていなかった。というのが非常に不思議に思ったのだ。

 「肩車からの背負い投げ」自体が不思議だったが、どうして自分を拒絶するのかわからなかった。

 そして、不思議に思うのと同時に、投げられたときに体についた匂いに鼻を震わせていた。京太郎の体からあふれ続けている血液の匂いがあまりにもいい匂い過ぎたのだ。

 短い戦いだった。実質的な戦闘時間は一秒未満。使われた技術は柔道の「変形肩車からの、背負い投げ」お互いに精妙な技は一切使っていない。京太郎の背負い投げなど、形だけが背負い投げになっているだけで、ほぼ力任せである。

 投げられた怪しい女性も分身して、飛び掛っただけ。遊びのようなものだった。少しだけ普通の遊びと違うのは、音速のステージで行われたという事と、遊び相手を家に帰さないと心に決めているものがいることだろう。

 やり取りの結果は明らかだ。誰が見ても勝利したのは怪しい女性だ。京太郎になげられたままの格好で、ひっくり返っている怪しい女性が京太郎との勝負に勝った。これは間違いないことだ。怪しい女性はまだ力を一パーセントも使っていない。

マグネタイトは現在進行形で日本の領域から補充されている。魔力も高まり続けている。まったく問題ない。今から京太郎に近づいて抱きしめて連れ去ればいい。それで終わりだ。怪しい女性にはそれができる。

 なぜ連れ去れるのか。京太郎は抵抗しないのか。

 理由は簡単だ。

 一瞬の立会いのあと、わずかに笑みを浮かべた京太郎がひざから崩れ落ちたのだ。立ち続けることもできなかった。京太郎の目からは血の涙がとめどなく流れ落ちている。また、鼻血も止まっていない。京太郎の肉体はひどい状態である。

骨が砕け間接が悲鳴を上げていた。神経はしびれていうことを聞かない。今の京太郎がまともに動かせるものなど一つもない。思考さえ痛みに犯されて止まっていた。

 これが京太郎の代償である。もともと感覚強化の代償はあったのだ。京太郎が感じていたひどい頭痛。体の痛み。これらは分不相応な力量しか持たない京太郎が音速のステージで動き回るための代償、肉体からの警告だった。

もともと分不相応なステージなのだ。音速の世界では空気の壁が体を傷つけ邪魔をする。また、物理法則を超えた力を発揮する肉体は限界を迎えて壊れていく。見えないはずの音速の世界を見る力は脳みその神経を激しく刺激し危険だと痛みを発していた。

 それらを全てねじ伏せて、超強化を行った京太郎がつぶれるのは自然だ。限界を超えた風船は破裂する。

 しかし疑問も残る。なぜ今なのか。なぜ今代償を支払うことになってしまったのか。戦っている間は痛みさえ感じていなかったのに、なぜこんなときに。

 支払いを立会いの後に強制されたのではない。超強化を行ったときから代償は支払っていたのだ。魔力を限界まで高め、閉じ込めて、立ち会ったときからすでに始まっていた。

京太郎は痛みを感じていなかったのではなく、加速した感覚が痛みを置き去りにしていたのだ。強化をやめてしまえば痛みが追いついてくるのは当然のことである。

一泡吹かせたと気を緩めた隙に、痛みが追いついたのだ。

181: ◆hSU3iHKACOC4 2015/04/28(火) 02:37:01.17 ID:Z22ZBlJ80
 地面に伏せっている京太郎の姿は芋虫のように見えた。どうすることもできずにただもがくだけの哀れな虫けらである。しかし格上に一泡吹かせた虫けらだった。

 これが暴走の代償である。身の程を知らずに上級悪魔の領域に足を踏み込んだものの末路である。本来なら手が届かない相手のステージに立つために無理をしたのだ。この程度で済んでいると見るほうがいいのかもしれない。

 たとえ、死にかけているとしても、ましだったと思わなくてはならない。神経がしびれ、筋肉は千切れていても。毛細血管が裂けてだめになっていても。また無理に働かせたために領域ごとの仕事に混乱が起きている脳みそであってもましだったと思わなければならない。

 京太郎の無様な姿を見つめていた怪しい女性は立ち上がった。そして分身を消した。分身たちは霞のように薄くなり消えていった。

立ち上がった怪しい女性は今まで以上に京太郎を見つめていた。怪しい女性は興味を持ったのだ。興味深いマグネタイトもそうだが、このよくわからない京太郎自体をもっと知りたいと思った。

 京太郎の考えていることがさっぱり怪しい女性にはわからなかった。

 まず一番に、京太郎の行動は理にかなっていないにもほどがあった。なぜ勝てないとわかっているのに攻撃を仕掛けてきたのか。

これがどう考えてみても怪しい女性はわからない。マグネタイトと魔力を比較すれば勝てないのは誰にでもわかる。

京太郎の全エネルギーが一般家庭の浴槽並みとたとえれば、怪しい女性は海である。勝てるわけがない。頭のいい行動というのは逃げるか、身を潜めるか、ヤタガラスのように交渉することであろう。

 またどうして勝手に死に掛けているのかもわからない。確かに怪しい女性は投げ飛ばされて一本取られていたが、それだけだ。肉体に損傷はない。本体にも影響がない。

さっぱり何の意図があって京太郎が自分を投げ飛ばしたのかわからなかった。支払う代償に対して京太郎の手に入るものが見出せなかった。骨折り損のくたびれもうけではないかという気持ちである。

 そして肉体の変化というのも不思議だった。怪しい女性を投げ飛ばした直後からだ。京太郎から漂ってくる匂いが、いっそう良いものへと変化したのだ。体から染み出している血液など、芳醇な香りが過ぎて、ほかのマグネタイトを摂取できなくなりそうだった。

 わからないことばかりだ。だから興味を持った。今の怪しい女性に退屈という言葉はない。

「もっと知りたい。その心と体の中身を」

そしてこうも思うのだ。

「絶対に自分のものにする。誰にも渡さない。私の宝物だ」と。

 怪しい女性は京太郎に近づいていった。今度は少しも急いでいなかった。急がなくとも宝物は逃げないとわかっているからだ。京太郎はもう動けない。ゆっくり移動しても問題ないだろう。

 油断しているとしか言いようがない。怪しい女性は退屈が消えたことで冷静さを失っているのだ。冷静であれば、勝負の相手は京太郎ではなく時間なのだと思い出せただろう。


 京太郎がひざから崩れ落ちると、スポーツカーの中でやり取りを見ていた虎城はいてもたってもいられなくなっていた。

 虎城から恐怖の色が消えていた。京太郎から渡されたヤタガラスの帽子をしっかりとかぶりなおして、スポーツカーから虎城は出て行こうとしていた。

 地に伏せた京太郎の顔を虎城は見てしまったのだ。それがいけなかった。血を流して死に掛けている京太郎をこのままにしていられないと強い気持ちがわいてきたのである。

 彼女は助けたいと思ってしまったのだ。衝動的な感情だ。助けなくてはならないと理由なしに思える本質を彼女は持っていた。

 そんな虎城だから、無茶をやって死に掛けている京太郎を助けたいと思ったのである。それだけだ。まったく利益など考えずに、動いていた。虎城もまた馬鹿だった。

 怪しい女性の指先が京太郎の目に近づいていった。怪しい女性の指先には恐ろしいほどとがった爪が生えている。しかしこの爪で京太郎を傷つけようとは思っていなかった。

すでに出来上がっている自分と京太郎のラインをもう少し強くしようとしているのだった。より深くつながれば、理解も深まるだろう。そして強くつながれば、害虫も寄ってこなくなる。害するつもりなどないのだ。京太郎を思っての行動である。

 しかし、怪しい女性は京太郎に触れられなかった。

 京太郎に触れようとしていた怪しい女性の腕をディーがつかんだからだ。ディーの体からは魔力がほとばしっていた。また、二つの目に激しい怒りが宿っていた。怪しい女性の腕をつかむ力はすさまじく、怪しい女性はピクリとも動けなくなっていた。

 怪しい女性の襲来をディーはしっかりと感じ取っていたのだ。ちょうどハギヨシに連絡を取り、帰還の手はずを整えたところであった。

 ディーの目に怒りが宿っているのは、自分への怒りだ。自分の読みの甘さに怒っていた。

182: ◆hSU3iHKACOC4 2015/04/28(火) 02:41:15.28 ID:Z22ZBlJ80
 何にしても怪しい女性の指先はあと少しのところで京太郎に届かなかった。

 京太郎が稼いだ一分足らずの時間が、ディーに帰還を遂げさせたのである。京太郎の不思議に気を取られ、考え事をして、そして生まれた一分足らずの時間。京太郎の無茶は怪しい女性にほんの少しだけ時間の無駄づかいをさせた。

 一分未満の時間でできることなどほとんどない。しかし音速のステージで戦うものたちにとって、一分未満は長すぎる。

 腕をつかまれた怪しい女性は、真っ赤に燃える目をディーに向けた。邪魔をするなと真っ赤な目が語る。

「この宝物は、私のものだ。邪魔をするな。私を傷つけられる相手と戦うのは恐ろしいことだが、手を出すというのならやってやろう」

 怪しい女性の心は今まで以上に京太郎をほしがっていた。仮にディーが恐ろしくとも奪ってやると決心するほどには欲しがっていた。真っ赤に燃える目には殺意が宿っている。弱い存在ならば、その視線だけで消えてしまうほどの威力があった。

 怪しい女性の腕をつかんでいるディーはためらうことなく怪しい女性を殴りつけた。つかんでいる腕を放してそのまま殴ったのだ。殴られた怪しい女性は地面を転がっていった。

殴った衝撃で、空気が震えていた。とんでもない威力だった。しかし腰も入っていなければ、技術を使っているようにも見えない攻撃だった。冷静ならば、もう少しまともな攻撃ができただろう。

 ディーは怒りのために技を満足に使えていなかった。自分自身への怒りである。保護者として京太郎を連れ出したのに、この始末。冷静さを忘れさせるには十分だった。


 ディーの攻撃を受けた怪しい女性が吼えた。ディーに殴られてゴロゴロと地面を転がったのだが、すぐに立ち上がって吼えたのだ。

大きな声だった。世界全体が震えているようだった。また女性の絶叫に合わせてオロチの世界に現れた大きな山の全てが、同調して震えていた。怪しい女性はディーに怒っていた。怪しい女性はこう思うのだ。

 「なぜ邪魔をするのか。私の宝物を大切に扱おうとしているだけだ」

 これが怪しい女性の全てだ。ディーは宝物を奪おうとする悪いやつとしか見えていない。だから怒る。さらに、怪しい女性はこう思う。

「すでに契約はなされている。

 人の子と私は何度もマグネタイトのやり取りをかわしている。対価も支払った。

 お前も何度も見ていただろう。道を問われて、教えてやった。そして私が人の子に求め、人の子は応じてくれた。

 これは契約だ。神聖な約束事だ。人の子が私に求め。私が応じる。私が求めて、人の子が応じてくれている。 これを契約といわずになんという。

 お互いにお互いを所有すればいい。私はそうするつもりだ。お前に邪魔されるいわれはない」

 つまり、怪しい女性の中で京太郎はすでに女性のものになっているのだ。そんな考えなので、邪魔をするディーを見て怒るのだった。

 しかし、怪しい女性が世界を震わせて怒ってみてもディーが引くわけもない。まっすぐに怪しい女性を見据えて、魔力をディーは高めていった。

 ディーにしてみれば目の前にいるのはただの悪魔である。確かにそこそこ強い。しかしそれだけだ。ディーはすでに見抜いている。怪しい女性は戦闘に特化したタイプの悪魔ではない。

怪しい女性はスナミナを生かした後方支援特化タイプの悪魔であると。近接戦闘と中距離を得意としているディーにとってはたいした脅威ではなかった。そして今、生かして返す理由がディーにない。ならば、ここで終わらせるべきだろう。この追いかけっこは。


 怪しい女性とディーがにらみ合い始めた。そして一戦交えようとしている間に、京太郎に虎城が手を触れた。ディーが現れたことで行動の余地が虎城に生まれたのだ。この隙間を虎城は見事について行動していた。

ディーが現れたのを確認するとスポーツカーから這い出してきて、あっという間に京太郎に近づいていったのだった。

 血まみれになっている京太郎は、ひどい有様だった。目に見えている部分はまだたいしたことがないけれども、肉体の中身がまずいことになっている。骨も間接も、神経も筋肉も、内臓もどれもこれも壊れかけていた。

 近づいてきた虎城を京太郎は目にうつす事もできていなかった。あふれ出る血涙が、邪魔をしていた。

 京太郎に回復魔法をかける虎城は渋い顔をしていた。回復魔法をかければ、肉体の損傷は簡単に回復していく。仮に手足が吹っ飛んでいたとしても生きてさえいれば、何とかなるのだ。それが悪魔の領域の技術。魔法の力である。

 しかし、後遺症が残ることはある。後に残る傷跡というのがあるのだ。それは魂に刻まれる傷である。これはなかなか消えてくれない。虎城は無茶なまねをした京太郎に、後遺症が現れるのではないかと心配しているのだ。

 特に京太郎がおこなった感覚の強化技術、あれはまずいものだった。暴走状態を更に加速させて音速のステージに立つ。まったく格が足りていないのを無茶で通したのだ。こんなことをすれば、何か変化が起きるのは間違いなかった。

しかし、どういう変化がおきるのかはわからない。それが彼女を不安にさせるのだった。

 虎城が京太郎に手を触れたとき、怪しい女性が

「あっ!」

といった。虎城の耳にもしっかりと「あっ!」と聞こえている。もちろんディーの耳にも聞こえていた。怪しい女性が間抜けな声を出したのは、虎城が京太郎に触ったからである。

怪しい女性にしてみれば京太郎は自分の宝物である。その宝物に、勝手に触られたわけだから気を悪くしたのだ。自分の邪魔をするディーよりも気に入らなかった。

 声を上げた怪しい女性だが動かなかった。その場で足踏みをするだけだった。また、足踏みの最中に真っ赤に輝く目が、激しい点滅を繰り返していた。

 そして頭を左右にふって、京太郎の様子を確認しようとしていた。すでに戦おうという緊張感はまったくなかった。できるのならば京太郎を連れ去りたいというのが怪しい女性の思うところである。なんとしても手に入れたい宝物だ。

 しかし彼女の目の前にとんでもない邪魔者がいる。ディーだ。ディーがいなければすぐにでも虎城を排除しただろう。しかし京太郎と虎城をかばうようにディーが構えているのだ。

この忌々しい存在がいる限り、京太郎を連れ去るのは不可能に近い。しかし自分の宝物に触れているものがいて、気に入らない。で、葛藤しているのだった。

183: ◆hSU3iHKACOC4 2015/04/28(火) 02:45:12.90 ID:Z22ZBlJ80
 そうこうしている間に京太郎の回復が完了した。虎城はずいぶん消耗していた。京太郎の肉体の損傷が、激しいものだったからだ。

しかし虎城は見事にやりきった。虎城も消耗していたのを考えると、ずいぶんがんばっていた。流れる汗がその証拠である。しかし彼女は満足げに微笑んでいた。

 そして虎城は京太郎に声をかけた。

「大丈夫? 私の顔は見えている?」

 京太郎は体を起こして、地面に座り込んだ。そして虎城の質問にうなずいて見せていた。先ほどまでの芋虫のような状態からは抜け出せていた。しかし京太郎の顔色は悪かった。虎城はその様子を見て、自分の考えが正しいと確信した。

「無茶をした結果、後遺症が京太郎に出たのではないか」

という予想が現実になった、という確信である。

 そして予想をより確かにするために、彼女はできるだけやさしく聞いた。

「何か、おかしなところがある?」

 その問いかけに対して地面に座り込んでいる京太郎が答えた。

「目が、見えにくいです。景色が重なって見える。虎城さんと、ディーさんと俺が見えている」

 実に不思議な話である。京太郎の視界には二つの景色が重なって見えていた。ひとつは京太郎の視界である。頭蓋骨に収まっている眼球が見せる景色だ。これは普通の視界である。

 もうひとつは別の誰かが見ている景色である。この景色は京太郎の見ている景色ではない。なぜ言い切れるのか。

 座り込んでいる京太郎の姿が、京太郎の視界に入っているからだ。自分と他人の視界が混じっている視界は脳みそが混乱してしょうがない。

どちらが自分の景色なのかがわからなくなる。今は自分の姿が自分で見えているので、他人の見ている景色なのだと理解できるけれども、なくなれば完全に混乱を起こすだろう。それほど二つの視界は溶け合っていた。


 京太郎の答えを聞いた虎城は小さな声でつぶやいた。

「目の霊的なラインが混じったのかしら」

 すぐに京太郎の頭をつかんで虎城は目を診はじめた。自分の考えが正しいかどうかを確認しようとしたのである。一度京太郎の目を見たときに霊的なラインがつながっていたのは確認していた。彼女はそれが無茶と重なって、京太郎に混乱を与えているのだろうと予想をつけたのだった。そして確かめようとした。

 虎城が診察を始めてすぐ、京太郎が虎城を突き飛ばした。京太郎に突き飛ばされた虎城は、少し地面を転がった。しかし怪我らしい怪我はしていなかった。

 何事かと京太郎を虎城が見た。怒ってはいない。虎城は冷静だった。状況を確認しようと努めている。

 京太郎に混乱が起きているのではないかと彼女は考えているのだ。恐ろしい出来事の後、心が乱れるのはよくあることだ。京太郎もそうではないかと、虎城は考えたのだ。

 しかし実際のところは違う。京太郎は混乱などしていなかった。虎城は京太郎が何を思い自分を突き飛ばしたのか、すぐに理解する。

 怪しい女性の分身体が京太郎を背後から捕まえていた。溶け合った視界の中に虎城を狙うものがあるのに京太郎は気がついたのだ、だから突き飛ばした。

 ひとつの視界に視点が三つ。自分のものと、ディーと向かい合っているもの、そして自分の背後から狙うもの。そしてその三つ目の視界が虎城を狙っていると察して、彼女を突き飛ばしたのだった。

 怪しい女性に背後から抱きしめられている京太郎が震え始めた。視界の中に更に視点が増え始めたからだ。増えていく視点はディーを囲い始めている。京太郎の脳みそが処理できないほどの視点の多さだった。

 怪しい女性の分身体は京太郎を背後から抱きしめていた。両腕が京太郎の体をしっかりと締め上げている。この両腕が京太郎を抱くまでに描いた軌跡は虎城を巻き込む道筋だった。京太郎が虎城を突き飛ばさなければ、虎城は胸から上部分と下部分に分かれていただろう。

 怪しい女性の願いはただひとつ、自分のものだと思っている宝物を危険な世界から切り離して守ることである。怪しい女性にとって、虎城も危険な世界の一部分だった。

 背後から京太郎を抱きしめている女性は、そのまま京太郎に頬ずりをした。一見かわいらしいしぐさである。

 その様子を見た虎城は鳥肌を立てていた。獲物を捕食する前のヘビが舌をちらつかせているようにしか見えなかったからである。

 怪しい女性が自分のほほに顔を寄せてくるのを京太郎は無抵抗に受け入れていた。京太郎の顔色は悪い。怪しい女性が気持ち悪いのではない。そんなことはもうどうでもよくなっている。目だ。目が京太郎の動きを制限していた。

 というのが京太郎はひとつの視界の中に数え切れないほどの視点を抱え込まされていた。そしてこの視点が現在進行形で増えていく。すでに数え切れない視点が、京太郎の視界の中に存在していた。京太郎は自分自身の視点がどこにあるのかを見失い、ここがどこなのかさえ思い出せない有様だった。大量の情報に押しつぶされていた。

 そして大量の情報の奔流の中で、怪しい女性がどのような世界を見ているのか、京太郎は体験することになった。

 京太郎の目は地上を見下ろしていた。ありえない体験だ。地にあしがついているはずなのに、視点ははるか上空にあった。視界が増えていくという以上に、奇妙な体験過ぎて処理が追いつかず吐き気がする。

 そして、延々と道が広がっている世界を、見下ろす羽目になった。あまりの情報の多さに発狂しそうになった。しかし

「終わってたまるか」

と京太郎が生への執着を思い出しくいしばった。

184: ◆hSU3iHKACOC4 2015/04/28(火) 02:49:10.19 ID:Z22ZBlJ80
 完全につながった京太郎は情報の奔流の中で、女性の正体に行き着いた。推理の必要はない。空から見下ろしているものが女性の本当の目であるとわかれば、その正体はすぐに明らかになる。

 京太郎の目につながってる怪しい女性の本当の眼球は、蒸気機関がつくる雲のはるか彼方にある。京太郎は、雲のはるか向こう側にあるものを知っている。空を占拠する、超巨大な光の塊。太陽ではない奇妙な光。これだ。これが怪しい女性の本当の眼球なのだ。

 ならば、その正体とは、たった一つである。オロチだ。怪しい女性とはつまりこの世界そのものなのだ。葦原の中つ国の塞の神と呼ばれている道の九十九神、この神が京太郎を狙っていた。

 大きすぎるオロチという存在が生み出す、小さなものたちと触れ合うための触覚が怪しい女性なのだ。京太郎たちは怪しい女性を見てとんでもないマグネタイトを持つ悪魔であると考えていたが、オロチからするとマグネタイトで武器を作るのとそれほど変わらない作業なのだ。

それこそ、龍門渕で沢村智紀の呼び出したヨモツイクサたちがマグネタイトを操り、槍を作り出したような調子で、強力な触覚を作っている。

 巨大な神が自分の世界を見下ろすために生み出した巨大な光の塊と、触覚を通じて京太郎の目がつながってしまっていた。

 この現象が起きた理由はみっつ。

 ひとつはオロチと京太郎の間にマグネタイトのやり取りが何度も成立していたこと。京太郎はオロチの石碑に何度も触れている。そして何度も願いを伝えて、叶えてもらっている。このやり取りでマグネタイトの繋がりが出来上がってしまっていた。

縁が結ばれたのだ。虎城のいうところの霊的なラインである。

 二つ目の理由は、暴走状態を更に進めたことでできた霊的な傷である。京太郎の超強化の代償は、京太郎の魂に傷をつけていた。この傷は自然回復できるものだったのだが、オロチの力が滑り込むことで埋め合わせができてしまった。

それこそ欠けてしまった部分に粘土を埋め込むような調子である。別物だが、かみあわせようと思えば、できることがある。京太郎とオロチはかみ合っていた。

 最後の理由はオロチが京太郎の内面に興味を持ってしまったこと。オロチの興味が京太郎の肉体から内面に向いてしまったため、より深くつながることになった。

オロチが狙ってこのような状況を作ったわけではないのだ。ただ、もっとよく知りたいという気持ちが京太郎との縁をより強いものにしていたのである。

 このようなものがかみ合うことで、オロチの本当の目とつながることになってしまったのだ。

 そして圧倒的な情報量による酔いが京太郎に発生していた。ひとつの頭では理解できない大量の視点が、京太郎の精神を追い込んだ。

 だから、自分に頬ずりする怪しい女性、オロチの触覚ともいえる存在に好きなようにさせるしかなかったのだ。抵抗する気力がわいてこないのである。暴走の代償でもだえ苦しみ、その後に大量の情報による酔いを受けたのだ。気力はすでに最低のところまで落ち込んでいた。

 京太郎たちの状況は悪かった。怪しい女性改めオロチの触覚たちはディーを囲み始めた。すでに二十を超える触角が集まっている。マグネタイトに物を言わせた持久戦を行うつもりなのだ。

 この戦法は正しい。いくらディーの戦闘能力が高くとも、限界はある。個人のスタミナをつくのだ。

 オロチが行おうとしているのは数にものを言わせた持久戦である。これはディーに対しても京太郎に対しても有効な戦法で、龍門渕で出会ったサマナー沢村智紀が得意とする戦法でもある。

 確かにディーは強い。戦えば一瞬でオロチの触覚を消し飛ばせるだろう。しかし何十分戦えるだろうか。何時間本気で戦えるのだろうか。休みなしで一日戦えるだろうか。

 戦闘というのはとんでもなくスタミナを使う。マグネタイトも魔力もあっという間に消耗するのだ。京太郎を見ればわかる。京太郎など全力を出して戦えば一時間も動き回れないだろう。

ではディーはどうだろうか。わからない。答えてもくれないだろう。教えることが自分の敗北につながるからだ。

 しかしオロチは答えられる。

 「いつまででも」

 もともと日本の領土全体からマグネタイトを供給されているオロチである。無尽蔵といっていいスタミナがある。たった一人の悪魔などにスタミナで敗北することはない。

オロチの戦い方は非常に簡単だ。触覚を大量に作り、スタミナが切れるまで襲い続ける。それだけだ。それだけしかできないともいえるが、オロチであるからこそできる戦い方だった。

 オロチも本気なのだ。逃がすつもりなどない。

 そして京太郎はいまや捕食寸前であった。オロチから送られてくる大量の情報でパンク寸前で動けない。

 また虎城だが、彼女が一番動けない状況だった。武力がないうえに、オロチの触覚たちに一番敵視されていた。どうしようもなかった。

 京太郎を抱きしめていたオロチの触覚が京太郎を連れ去ろうとしたときであった。オロチの触覚たちが悲鳴を上げた。大きな悲鳴だった。激痛にもだえていた。そして次々に姿を消して、残ったのは京太郎を抱きしめていた一体だけになっていた。

 触覚たちが姿を消したのは、力が制限され始めたからである。流れ込んでいた大量のマグネタイトが一気に制限され始めたのだ。

 オロチの触覚たちが消えていく中でがほっと一息ついてディーが自分の相棒をほめた。

「流石ハギちゃん。仕事が速い」

 相棒をほめてはいたけれど、冷や汗がひどかった。京太郎が粘っていなければ、きっと間に合っていなかっただろう。それくらいにはぎりぎりだった。この一発逆転劇が出来上がったのは、京太郎と虎城から離れたわずかな時間の間にディーがきっちりと連絡を取ったからである。

 オロチが目覚めて動き出したこと、オロチの世界が非常に混乱していること。そして松常久がオロチを目覚めさせた下手人であること。また京太郎を狙う怪しい女性がいるということ。これらを全て、相棒のハギヨシに伝えていた。

ディーが説明をするとハギヨシはあっというまに怪しい女性がオロチの触覚であると見抜いた。

 そして混乱するオロチの世界を鎮めるためという目的と、京太郎にちょっかいをかけられないようにするという二つの目的を達成するため、速やかにヤタガラスと十四代目に連絡を取りオロチに供給されているマグネタイトを制限した。

 その結果、オロチの触覚が一体しか残らないという圧倒的有利な状況が出来上がった。後は弱ったオロチの触角をディーが消滅させるだけだ。ディーの武力なら、あっという間に片付けることができるだろう。

185: ◆hSU3iHKACOC4 2015/04/28(火) 02:54:34.97 ID:Z22ZBlJ80
「修羅場は終わりだ」

 ディーが一息ついたところだった。京太郎を抱きしめていたオロチの触覚が京太郎から手を離した。そして立ち上がった。体が薄くなり消えかけてきた。しかしまだ輝く赤い目があきらめていなかった。

 奇妙な行動をとりはじめたオロチの触覚にディーが攻撃を仕掛けるよりも早く、オロチの触覚は京太郎に頭突きを行った。頭突きである。自分の額を京太郎の額に思い切りぶつけたのだ。ものすごく深くお辞儀をする格好で行われていた。

座っている人間の顔を背後から覗き込む形で頭突きを行ったということになる。結構な勢いで行われたために長い髪の毛がムチのようにしなっていた。

 そのときの頭突きの衝撃で京太郎の額が大きく切れた。オロチの触覚の頭に傷はできていなかった。それはそのはずで、頭突きをかまし、目的を達した瞬間に触覚ははじけて消えた。散り際のマグネタイトの爆発が、花火のようできれいだった。

 散り際に攻撃された京太郎を見て、すぐに虎城が京太郎の手当てに向かった。京太郎の額は大きく裂けていて、血が流れていた。しかし虎城の回復魔法が唱えられて、あっという間にふさがった。

 一体オロチは何がしたかったのか。

 京太郎は気がついていいないが、オロチの真意を虎城とディーはすぐに見抜いた。

 オロチの真意に虎城が気がついたのは京太郎の顔の血をぬぐっているときだった。ディーが気がついたのは、京太郎が虎城に手をひかれて立ち上がり、京太郎と目が合ったときだった。

 京太郎の目が真っ赤に輝いているのをみたのだ。二人はこの輝く赤い目をよく知っていた。先ほどまで自分たちを困らせていた存在オロチの目、そのものだった。二人はこの目を見てオロチの考えを察する。

「撤退を余儀なくされたオロチだが、京太郎をまだあきらめていない。あきらめていなかったから、自分の力をほんの少しだけ京太郎に分けた」

そして言葉にはしないけれども、二人は京太郎の目をこのように解釈した。

「この輝く赤い目、燃える目は京太郎を逃さないための呪い。オロチのつけた目印だ」と。

 京太郎の目を見たディーは頭を抱えた。そしてこういった。

「虎城さん、須賀ちゃんは無事なんですかね」

 京太郎から少し離れたところで、ディーは肩を落としていた。京太郎に駆け寄らなかった。駆け寄れなかったのだ。京太郎の目の様子と、自分の失敗が足を止めさせている。ずいぶん、へまをやった。その気持ちがどうしても京太郎に近づいていけなくさせている。

 京太郎の顔の血をハンカチで拭きながら、虎城は答えた。

「たぶん、大丈夫だと思います。調べてみない限りははっきりとしたことはいえません。でも今までつながっていた霊的なラインは完全に閉じてます。今すぐに、影響が出るということはないでしょう」

 虎城は渋い顔をしていた。虎城は少しも嘘を言っていなかった。虎城の眼から見て京太郎は健康そのものである。オロチとつながっていた霊的なラインは閉じている。またマグネタイトの消耗と魔力の消耗があるけれども、肉体は万全だった。

 目に見えている限りおかしなところは真っ赤に燃える目が二つあるだけである。しかし、万全なのが恐ろしかった。何もかもがぴたりとおさまりすぎていた。

 京太郎が暴走状態を加速させたのを虎城はみている。そして、暴走状態の代償を受けていたのも知っている。しかしそれが、今この瞬間にまったく何も見当たらないのだ。代償がないのはいいことだ。いいことなのだけれども、回復までが早すぎる。だからこんなことを思ってしまうのだ。

「支払った代償の部分に、オロチの力がピタリとはまったようではないか。まるでもともと一つだったかのような自然さで」

 それがどうしても虎城を不安にさせた。

 虎城とディーががっくりと気持ちを落としているとき、能天気なことを考えているものが一人いた。

虎城にハンカチで顔を拭かれていた京太郎である。虎城とディーがどうして肩を落としているのかさっぱりわからないという調子で能天気な笑顔を浮かべている。おそらくこの場にいる中で、オロチを含めても一番無茶をしたはずなのだけれども、笑っていた。

 先ほどのオロチの触覚とのやり取りがなかなか満足のいくものであったと京太郎は喜んでいるのだ。とんでもない痛みを受けて、もだえ苦しむことになり、頭突きをもらうことになったけれども、それでも一泡吹かせたのは間違いなかった。

 オロチの触覚を背負い投げなどしたときには本当にやってやったぞという気持ちでいっぱいだった。柔道の試合なら間違いなく一本勝ちである。よくある表現なら勝負に負けて、試合に勝ったという言い方ができるだろう。

 落ち着いてきた今、そのときの気持ちを思い出して、笑ったのだった。

 一応、全体を理解している。自分の前に現れた怪しい女性が巨大な悪魔の一部分であるということも理解しているし、そこそこ無茶なことをやったとも理解している。それでもあの一瞬が楽しくてしょうがなかった。無事に現世へ戻れたら自分の仲魔に話を聞いてもらおうなどとも考えていた。

 京太郎が能天気なことを考えて笑顔を作っているのに虎城とディーが気がついた。そのとき、ディーは実に困ったような笑みを浮かべて、こういった。

「まぁ、悩んでもしょうがねぇ。今は、オロチの世界から脱出して松常久に対処するのが先だな」

 そういうとディーはスポーツカーに向けて歩いていった。スポーツカーのフロントガラスにひびが入っているのをみて悲鳴を上げるのはこれから三秒ほど後のことである。



186: ◆hSU3iHKACOC4 2015/04/28(火) 02:58:55.09 ID:Z22ZBlJ80

 ディーの胸の奥にあった失敗と後悔の感情は少しだけ薄まっている。無茶なことをやって死に掛けた京太郎が能天気な笑顔を浮かべているのを見て、ここで悩んでもしょうがないと頭を切り替えたのである。

場違いな笑顔が、頭を冷やすきっかけになったのだ。今は、悩むようなときではない。それを理解できたから、龍門渕へ帰るために動き出したのだった。

 ディーがスポーツカーに向けて歩き始めたとき京太郎も動き出そうとしていた。能天気な笑顔を浮かべていた京太郎だったが、今は少し落ち着いていた。

口元がもごもごとしているだけだ。もう少し余韻に浸っていたいところだけれども、龍門渕に戻らなければならないのだから、いつまでもここにいるわけにはいかない。

それにディーにおいていかれたら走ってかえることになる。それは困る。

 京太郎が歩き出そうとしたとき、虎城が京太郎の腰に手を回した。歩き出した京太郎が少しだけふらついたからである。大量の情報を頭に叩き込まれたことで、精神的に疲れてしまっていた。この精神的な痺れが、肉体の操作をしくじらせていた。

 そして虎城はふらつく京太郎の手助けをしたのだ。回復魔法は肉体を復元するけれども、それだけだと虎城はよく知っている。

 体の中に異物が入ったままでも元通りの肉体を創ってしまうのだ。あの戦いの後、副作用がほとんど見えなくとも、この位のことはあるだろうと算段をつけて、すぐに動いたのだった。しかし冷静に動けたのは、きっと京太郎の能天気な顔を見て、心が切り替わったからであろう。


 オロチの襲撃から数分後。京太郎はスポーツカーの助手席に座っていた。スポーツカーの不思議な空間には虎城が乗り込んでいて、運転席にはディーが座っている。顔面が血だらけだった京太郎だが、虎城がハンカチで拭いてくれたのでいくらか見れる顔に戻っていた。

しかし、いまだに京太郎の二つの目はオロチの触覚と同じ真っ赤な目をしたままだった。

 また、音速の世界を体験したことで京太郎の服がぼろぼろになっていた。ジャンパーはずたずたに、ウエストポーチはどこかに吹っ飛んでしまっていた。一番ひどいのは靴である。靴底がなくなっていた。

 一応布が体を包んでいる状態であるから、裸ではない。しかし流れ出した血液がしみこんでしまっていて、シャツもズボンも使い物にならないだろう。

 しかし、一番気を落としたのは服がだめになったことではなかった。サイドミラーで自分の目を確認したときだ。そのとき一番京太郎はがっくりとしていた。

 理由としては次のようなものであった。

「灰色の髪の毛でも怪しいのに、この目は言い訳がきかねぇ。

何だよこれ光ってんじゃん。目玉の中に蛍でも入れられたのか俺は?
 
『真っ暗闇でも便利!』

とでもいうと思ったか、オロチは? 俺はトナカイか?」

 また、運転席に座っているディーもがっくりと肩を落としている。ディーが落ち込んでしまっているのは、スポーツカーのフロントガラスにひびが入っていたからである。

自慢のスポーツカーが簡単に壊されてしまったことが、プライドを傷つけたというのもある。それもあるがフロントガラスの修理代をどうやって捻出すればいいのかというところで、頭を悩ませているのだった。

 ディーのスポーツカーはまともな品物ではない。車の形をした呪物といったほうがいいくらいにおかしな品物である。普通なら壊れた部品を交換することで修理ができる。しかし、呪物はそうはいかない。

 一つ一つのパーツをよく選ばなくてはならないのだ。そのためよく似たパーツを持ってきてはめ込んでもまともに動いてくれない。人間の体と同じで、たとえば目玉とよく似ているからといってガラスだまをはめ込んでも意味がないように、特殊な調整が必要なのだ。

 それこそフロントガラスのような運転にあまり関係のない部品であっても完璧なパフォーマンスを発揮できない。

 できるとしても、普通の車並みの性能である。今までのような頭のおかしな速度は出せなくなるし、強度も弱まる。

 そして何とか万全にしようとすれば、適正部品が必要になるわけで、取り寄せることになるのだから非常に時間がかかる。普段の仕事だとか戦いには問題がないのだが、自慢の一品であるため修理しないという発想自体がない。

そうなればとやはり修理をすることになるわけで、そうなると、時間がかかる上に、金もかかるわけで、そのあたりを考えると頭が痛くなるのだった。

187: ◆hSU3iHKACOC4 2015/04/28(火) 03:03:12.03 ID:Z22ZBlJ80
 男二人ががっくり落ち込んでいるところで、虎城が大きな声でこういった。

「さぁ、オロチの動きも落ち着いたことだし龍門渕に向かいましょう。ディーさんも須賀くんも元気出して。ね?」

 虎城はずいぶん無理をしていた。顔色が悪くなっていて、覇気がない。もともと虎城は無茶な逃亡手段をとって、体力も気力も消耗している状態だった。

その状態に加えて、悪意を持った松常久たちに追い回されるという修羅場、オロチの触覚に囲まれるという修羅場を加えて、いよいよ限界が近づいていた。

 それでも大きな声を出して、二人を励ましたのは二人を思いやったからである。京太郎の目のことも、ディーの仕事のこともよくわかっていた。

だから、二人の落ち込む気持ちを、少しでも晴らしたかったのだ。何もできていない自分だから、少しでも助けになりたい。そんな気持ちである。だから少し無理をして声を出していた。気分を変えて先に進もうと、がんばったのだ。

 虎城が二人を励ますと、ディーがこういった。

「ずいぶん長いドライブになった。

 まぁ、虎城さんの言うとおりだな、へこんでいてもしょうがない。マグネタイトを制限されてオロチが落ち着いた今、道の変化は起きないだろう。

後はしっかりと龍門渕へつながる門をくぐればいいだけだ。

 パーティーには完璧に遅れたし、出席できるかどうかも怪しい。だが、任せておいてくれ。きっちり送り届けよう」

 ディーはそういうとアクセルを踏み込んだ。いろいろな問題がある。松常久の始末、京太郎のストーカー、特注のフロントガラスの手配。ひとつも解決していない。

しかし、ここで悩んでいてもしょうがないのだ。前に進み一つ一つつぶしていかなければ終わらない。だから前に進むのだ。

 ディーがアクセルを踏み込んだとき、スポーツカーが変な音を立てた。車のパーツから出てきた音ではなかった。もっと別の場所から、ガラスのすれるような音が聞こえてきたのである。

事実、エンジンも車のシステムも間違いなく動いている。しかし、スポーツカー全体として完全にかみ合っているのかというと違う、というのがガラスのすれるような音を聞いているとわかってしまう。

 妙に不調和な、キシキシという音がスポーツカー全体から聞こえ始めるとディーはアクセルを踏む力を弱めた。この音を聞いて、表情に出さなかったがディーはあせった。

この音がスポーツカーの内部に張っている結界が崩れる前兆と察っせられたのだ。そして、仮に結界が崩れるようなことになれば、面倒が起きるとすぐに予想がつけられた。下手を打てばオロチからの脱出は徒歩で行うことになるだろう。

 徒歩の状態で、しかも結界の中にある荷物を背負った状態で松常久に見つかるようなことがあれば間違いなく追いつかれる。そして追いつかれれば囲まれる。

 そして、戦いが始まるだろう。それも持久戦だ。それは困る。一対一の戦いならば、問題はないのだ。京太郎もディーも勝利するだろう。しかし延々と一対一を繰り返すことになると負ける可能性が高い。特に、遠くから魔法でちくちくやられるのは最悪だ。

 持久戦をやりたくないのだ。マグネタイトの限界というのはディーにもあるのだから。ならば、無理をしない速度で走るしかないだろう。安全運転を心がけて、いくしかない。

 急いで帰りたい。しかしできない。それでもスポーツカーは走り出した。この世界に来たときよりもずっと速度を落としていた。百キロは出ていた。ただ、この速度を出していてもディーはまったく安心などしていなかった。

それは助手席に座る京太郎も同じである。京太郎は運転席に座るディーの様子から、何かまずいことになっていると察したのだ。そしてディーが桁違いの運転を選ばないのをその証拠と考えていた。

 スポーツカーは道をどんどん進んでいく。今まで自分たちが登っていた高い山から下りていき、龍門渕に向かう道へ向かうだけだ。

 それだけのことなのだけれども、この簡単なことが京太郎たちにはできそうになかった。邪魔が入ったのだ。

 またもやである。大きな山から下りていく道、そこから龍門渕に戻るための道に入ったところである。京太郎たちの背後から、次々と、装甲車が現れたのだ。

 このとき、装甲車以外の異変がおきていた。この異変に気がついたものが一人いた。虎城である。彼女はフロントガラスの向こう側の景色を見たり、背後の景色を急いで確認していた。確認し終えた虎城はこういった。

「おかしい。山の数がどんどん増えてきている。私たちに気がつかれないように追い詰めようとしているみたい」

 彼女は視界のなかにどんどん山が増えていくことに気がついていた。松常久たちの乗る装甲車に気をとられていたディーと、集中力の切れている京太郎は気がつかなかった。

 そして彼女は青ざめた。この現象を彼女は何度か見たことがあったからだ。前回、前々回は山ではなく岩で行われていた。規模が違っているが、間違いなく犯人は同じだろう。

オロチだ。彼女は山が次次と増えていく状況を、オロチが自分たちを誘導していた現象と重ねていた。視界に現れてくる山たちから彼女はオロチの目的を予想できたのである。

 虎城は青ざめながらつぶやいた。

「須賀くんを逃がさないつもりだ」
 

188: ◆hSU3iHKACOC4 2015/04/28(火) 03:07:42.24 ID:Z22ZBlJ80
来てくれるなと思ったところで現れた松常久の装甲車の群れ。そして道を変化させて松常久を誘導しているだろうオロチ。

現状を確認したディーがイラつきながらつぶやいた。

「さて、どうしてくれようか。もういっそオロチの本体ごとやっちまうか?」

 ディーがイラついている原因は二つ。自分たちの後ろを追いかけてきている邪魔ものどもに対しての怒り。

 もうひとつはこの無限に道が広がっている世界を創っているオロチに対しての怒りである。特に、証拠らしい証拠はないがオロチの執着振りからして松常久を誘導していると予想はつく。

 おそらくそうだろうと直感がささやくのだ。京太郎にあれだけ執着していたのだ。世界の形を変えるくらいならば、するだろう。オロチにはオロチなりの考えがあるのだろうけれど、タイミングが悪すぎた。

ディー自身そこそこ頭にきている状況である。松常久の邪魔も、オロチのダイナミックストーキングもおなかいっぱいなのだ。そうなってくると、いよいよ思い切り暴れてもいいのではないかなと思ってしまう。
 
 ディーがイラつきながらこのような呟きをはくと、京太郎は背後を振り返った。助手席で体をひねり、窓の外に顔を出して背後の様子を見た。百キロ程度しか出ていないので少しも恐ろしいということはなかった。

背後を確認したのは装甲車に乗って追いかけてくる空気の読めないやつらを、始末してしまおうと考えたからである。そろそろ京太郎は現世に戻りたいのだ。

 なにせ京太郎はオロチの世界に興味がない。京太郎は、やることをやってしまった。ぼろぼろになり勝利したとはいえないけれども軽く一泡吹かせることはできた。非常に満足している。やられっぱなしで悔しいという気持ちは消えている。

これ以上ないといえるほど楽しませてもらった。楽しく遊んだら、後は帰るだけだろう。オロチの世界は京太郎の生きる世界ではないのだから、帰るのは当然である。

 引き止められても困るだけ。追いかけてこられても困る。そして松常久たちの装甲車は邪魔だ。ハエのようにうっとうしい。だから追いかけてこれないようにしてやろうと考えたわけである。

 そのためジャンパーのポケットの中のデリンジャーに京太郎はすでに手をかけている。脳みその調子が悪かったり、真っ赤に燃える目をどうにかしなければならないという問題は抱えてはいたけれども、襲ってくる相手を丁寧に返してやろうとか、手抜きをして相手をしようなどとは考えていなかった。

 さて、京太郎たちをおいかけてくる装甲車だけれども、はじめてみたときよりも、ずっと数を減らしていた。はじめは、いっぺんに数え切れないほどの装甲車が追いかけていた。そして悪魔の軍勢を率いて黙示録のような景色を作っていた。

しかし、今ではもう十台ほどしか追いかけて来ていなかった。そして、追いかけてくる悪魔というのがいなくなっている。装甲車だけが追いかけてきている状況だった。少し寂しい感じもする。

 これは京太郎に邪魔をされたというのももちろんであるけれど、オロチの目覚めによって道が変化したことで、装甲車の数を減らしてしまったのだ。オロチがうねり踊ると道が大きく変化する。その変化というのに巻き込まれてどこかに消えてしまったのだ。

 消えたというのは京太郎たちが走り回った世界に飛ばされたかもしれないということである。運が悪ければ、平べったくなっているかもしれない。どのような結末を迎えているにしても一番の理由は間違いなくオロチの変化であろう。

 二番目の理由は京太郎の銃撃による行動不能である。修理不能になった装甲車も、もちろんいたのだ。

 結果として、十台ほどしか生き残れなかった。そして運よく生き残れた十台のなかに松常久が含まれていた。

 しかし数を減らしても松常久たちとその部下たちは一生懸命に追いかけていた。松常久とその部下たちは運命共同体なのだ。ここで虎城を逃せば、間違いなくヤタガラスに処刑される。たとえ逃げたとしても賞金首になるだろう。表の世界からも裏の世界からも指名手配されるのだ。

 表の世界なら殺人犯として裏なら賞金首としてである。そうなれば、並の実力しか持たないものたちはあっという間につかまる。それも警察にではない。人権など頭にない裏の世界のハンターにつかまるだろう。

そうなれば死ぬよりも恐ろしい目に合わされる。それはなんとしても避けたかった。だから必死だ。必死で追いかけて、虎城を殺すつもりである。当然京太郎もディーも始末したい。

 わらわらと追いかけてくる十台の装甲車を見た京太郎が、提案した。

「魔法でも撃ちましょうか。足止めくらいならできるかも」

 京太郎がこのように提案したのは、装甲車に追いつかれると予想がついたからだ。京太郎はディーができるだけ無理をしないようにスポーツカーを運転しているのに気がついている。

その原因が、オロチの触覚による攻撃とも気がついていた。壊れないようにぎりぎりのスピードで移動している。一応百キロは出ている。結構なスピードである。しかし、風の後押しを受けている装甲車は今のスポーツカーよりもすばやく動けるだろう。

ならば、きっと追いつかれる。そうなったとき、きっと戦うことになるだろう。

 戦うかもしれないのなら、一台でも多く行動不能にしているのがいい。拳銃での攻撃もありだったが、京太郎は自分の稲妻の魔法のほうがより多く簡単に始末できると踏んでいた。

人間だろうと悪魔だろうと命の価値は同じだという感覚の京太郎にとって、追いかけてくるものたちをいたわる理由がない。ためらいなどない。

 そして、オロチが目覚めたことで道にはほとんど人影がない。少なくとも今、京太郎と松常久の間には巻き込んではいけない誰かというのはいない。そのため、稲妻を使うという選択肢も簡単に選べたのだ。

 京太郎は提案をしながら、すでに魔力の集中を始めていた。真っ赤な目が魔力の集中にともないより一層輝きはじめた。輝く赤い目はしっかりと装甲車を狙っていた。
 

189: ◆hSU3iHKACOC4 2015/04/28(火) 03:12:46.58 ID:Z22ZBlJ80
 とんでもない勢いで魔力を集中させている京太郎を見てディーがとめた。

「いや、やめておいたほうがいい。

虎城さんがかぶってる帽子の発信機が壊れちまう。虎城さんの帽子を目印にしてハギちゃんは門を操っているはず。これが壊れるのはまずい。

 近すぎるんだ。稲妻なんて発動した瞬間に機能停止だろうな。見つけてもらえなくなると、いよいよやばいからな。それに、もしものときは車に篭城って言う手もある。

ヤタガラスのエンブレムは生命線さ」

 ディーはもしものときのことを考えていた。もしも装甲車に囲まれて、動けなくなったらどうするかというもしもである。もしも囲まれたのならばディーはこのスポーツカーに閉じこもって救助を待つつもりである。

オロチの触覚によって結界が崩されかけたが、それでも凡百のサマナーなどには壊されない強度がスポーツカーにはあるのだ。

 内側にディーがいれば、強度も飛躍的に高まるのだからオロチからも逃れられるかもしれない。

 篭城して後はヤタガラスのエンブレムについている発信機をたよりにして救助に来るだろうハギヨシを待てばいい。しかし篭城といっても一日とか、一ヶ月という単位ではない。長くとも一時間、短ければ三十分くらいでハギヨシは門を届けてくれると信じている。

 時間としては短いけれども、無理は禁物だ。無茶して命が飛んでいくのはまずい。すでに消耗している京太郎と虎城を抱えて戦うよりもずっといい方法だった。オロチも世界をじわじわと変化させて、追い込もうとしているのだから、余計に冷静であるべきだった。

 だから、京太郎を止めたのだ。京太郎の稲妻の魔法はジオダイン。稲妻の上級魔法である。その威力は余波であっても電子機器を一発で使えなくさせる威力がある。精密機械ならなおさらだ。だから京太郎に撃たせるわけにはいかなかった。

 口には出していないけれども、オロチの世界自体が脱出の妨害をしてきているのだ。怒りはあるが、それ以上に不安があった。


 ディーがこういうと京太郎は高めていた魔力を散らした。ディーの作戦がよく理解できたからである。京太郎も、ディーがそういうつもりならば、それに乗るつもりだ。非常に安心ができる作戦ではないか。

オロチの触覚というとんでもない存在以外なら、おそらく守りきれる強固な結界、その中で篭城して救助隊を待つ。安全なやり方だった。格好は悪いけれども虎城もいるのだ。無駄な危険は避けたかった。

 ならばということで京太郎は、別の提案をした。

「なら、銃撃で直接サマナーを狙います。それならオッケーですか?」

 魔法も銃撃も使うつもりだったのだ。魔法が却下されても、まだもうひとつがある。ポケットの中の小さな拳銃、オリハルコン製のデリンジャー。妙に手になじむこの不思議な拳銃で足を止めてしまえばいい。

稲妻の魔法のようにきれいさっぱり消し飛ばせないだけで、便利なのは間違いなかった。

 ディーがうなずいた。そしてこういった。

「当てられそうなら」

 ディーがうなずいたのを見て、京太郎は上半身を車の外に出した。京太郎はそのとき、ほんの少しだけ顔をしかめた。窓から体を外に出したとき、全身がピリピリとしびれたのだ。この痺れは動けなくなるようなものではなかった。

ただ、妙にくすぐったかった。これは超強化の代償だ。神経がささくれているのだ。回復魔法ではどうしようもない症状、痛みの残像が残っている。

 痺れを感じながら、京太郎はデリンジャーを構えた。上半身を窓から出してしっかりとデリンジャーを握って狙いをつけている。このとき京太郎はデリンジャーがもだえているのに気がついた。手の中のデリンジャーが生き物のように動いていた。生きた魚をつかんでいるような感覚だった。

 そして京太郎が握っている部分から、赤くなり発熱しはじめた。

 この赤い発光は京太郎の集中させていた魔力が、デリンジャーに流れ込んでしまった結果である。オリハルコンが京太郎と特に相性がよかったために必要のない魔力の移動がおきてしまったのだ。

 しかし京太郎は、銃撃を行った。おかしいとは思った。銃撃を中止するべきとの余地もあった。しかし壊れたのなら壊れたでいいと京太郎は割り切っていた。道具よりも逃げ切ることが大切だったからだ。

 引き金を引いたとき、銃弾はまっすぐ飛んでいった。装甲車を一台も傷つけていない。装甲車が一台一台が距離をとって移動しているためあたらないのだ。今までは的が密集していたので、当てられたのだ。今は離れてしまっている。流石に銃撃の訓練をしていない京太郎には上手く当てられなかった。

 
 京太郎はあきらめずに何度も引き金を引いた。しかしあたらない。まったく追いかけてくる相手の数が減らない。京太郎があせり始めたところで運転席のディーがこういった。

「あたったらラッキーくらいの気持ちでいいよ。もしものときは篭城するだけだから、後、射撃のコツはリラックス」

 ディーの顔色は悪かった。いやなものを見たからだ。ディーの視界のなかに徐々に大きな山が増え始めていた。

非常に遠いところから、山が生まれてくるのだ。そしてそれが、時間がたつにつれて、自分たちを取り囲むように増えてくる。間違いなくオロチの仕業である。ディーはオロチの執念を嫌がった。自分の世界を無理やり変化させても連れ去ろうとする執念が恐ろしかったのだ。
 

190: ◆hSU3iHKACOC4 2015/04/28(火) 03:17:58.07 ID:Z22ZBlJ80
 ディーの助言の後、少し間を空けてから京太郎は集中を始めた。銃撃をいったん切り上げて、助手席に上半身を引っ込めた。京太郎は体をひねり後ろを向いていた形だったので、元に戻ると目の前に虎城の顔が見えるようになる。京太郎の目に映る虎城は不安そうな顔だった。

 京太郎と虎城が見つめあう形になった。しかし京太郎は気にせずに、目を閉じた。そこから深呼吸を始めた。

 三回深呼吸を繰り返して、京太郎は目を開けた。スポーツをやっていたときに京太郎が身に着けた心を落ち着ける方法である。

 そして、心が決まったところで、京太郎は目を見開いた。今まで以上に爛々と赤い目が輝いていた。かつてオロチが見せた燃え上がっているような目とよく似ていた。

しかしオロチのようにただ燃え上がっているだけの目ではない。いくつもの色が重なって見えていた。赤色の奥に金色が見え、オレンジ色、緑色が続いて、青色と現れてくる。

それも一つの色が常に出ているわけではなく次々と入れ替わり立ち代り色が現れるので、たくさんの虹の粒が火に舞い上げられているようだった。不思議な輝く目である。

 集中が済むと、追いかけてくる装甲車を輝く目で京太郎は見た。上半身を再び窓の外に出して、銃を構えた。銃を構えたとき京太郎は静かな世界の中にいた。完全に世界が止まっている。このとき他人事のように京太郎は思う。

「この目のおかげかな」

 そして引き金を引いた。弾丸の軌跡が京太郎にはよく見えた。


 京太郎が精神統一の作業を終えて目を開けたとき、スポーツカーの不思議な空間の中にいた虎城は小さな悲鳴を上げた。悲鳴を上げた虎城は自分の口をあわてて手で抑えた。

これ以上悲鳴を上げないようにするためだ。彼女が悲鳴を上げたのは、京太郎の目を見たからである。

 このとき虎城はオロチの心を少しだけ理解できた。

虎城は思う。

「オロチはまだ子供だ。体がということではなく心が子供なのだ。純真とか、無垢という表現が近い。

 あの輝いていた真っ赤な目にはその心が表れていた。素直な子供っぽい輝きだった。

 ほしいからほしいという。好きだから好きだという。自分の大切なものに触れようとするから嫌いだと思う。そして好きだから返したくない。

 それだけなのだ。それだけのシンプルな気持ちが目に表れていた」

 わかってしまったからオロチの目よりもずっと、京太郎の目のほうが恐ろしくみえた。自分を排除しようとしていた怪物よりも、恐ろしいと虎城は心底思ったのだ。

 彼女は理解できなかったのだ。彼女は京太郎の目にいろいろなものを見た。善意と悪意、暴力と平和。刹那と永遠。天国と地獄。白と黒が見事に並び立っていた。灰色ではなく混じっていない、どれも損なわずに並び立っている混沌である。

 彼女が悲鳴を上げたのは、理解できなかったからだ。相反するものがまったく矛盾なく並び立っている京太郎が理解できなかった。ひとつの面だけならば理解できる。心優しく、少し馬鹿な少年だと。しかしそれ以上にいろいろなものが混じりすぎていた。

 彼女がここまで理解できたのは、単純一本道のオロチに出会っていたからである。だから、混沌として、深淵としかいいようのない京太郎の魂に気がつけた。

 しかし、気がついたところで彼女はどうすることもできない。何せこれはオロチのしでかした祝福の結果ではないからだ。これはもともとの京太郎の素質。オロチの祝福によって目に見えるようになっただけのもの。治療できるものではない。病ではないのだ。


 精神集中を終えた京太郎が引き金を引いた一秒後、装甲車の一台が動かなくなった。見事、装甲車を銃弾が打ち抜いたのだ。そして装甲車は爆発した。どうやら燃料に引火したらしかった。派手に車が燃え始めている。京太郎の精神集中は見事に功を奏したのだった。

 そして爆発から、背後で何が起きているのかを察したディーが叫んだ。

「当てたのか!?」

 ずいぶん驚いていた。昨日の今日で銃の腕前が上がるわけがないからだ。京太郎は一般人として生きてきたというのはすでに知っている。当然だが拳銃の訓練を受けていたとは思っていないし、そういう情報はなかった。だから不思議でしょうがなかったのだ。

 ディーが驚いている間に京太郎は助手席に体を引っ込めた。京太郎の顔色が悪くなっていた。京太郎は集中を切っている。頭が痛くてしょうがないのだ。目玉を収めている部分がずきずきと傷んでまともに集中できるような状況でなかった。

 上半身を引っ込めた京太郎の顔を、虎城はちらりと見た。直接京太郎の目を見ないように努めているようだった。しかし見なければ、何が起きたのか確認できないので、彼女は意を決して京太郎の目を見た。

 そのとき虎城は息を呑んだ。

 京太郎の目から血の涙が流れ落ちていたのだ。そして少しだけほっとしていた。輝いていた真っ赤な目がもともとの京太郎の目に、一般的な人間の目に戻っていたからである。

 京太郎が自分の目から流れ出しているものに気がついたところで、京太郎の頭を虎城がつかんだ。両手で頭を思い切りつかんでいる。そうしてそのまま、回復魔法をかけた。

「ディア」

回復魔法をかけると血涙が止まった。そして京太郎の頭をつかんだままで京太郎の目をじっと虎城は見つめた。診察しているのだ。そして虎城は京太郎にこういった。

「目が元に戻ってる。一時的なものだったのかしら?」


191: ◆hSU3iHKACOC4 2015/04/28(火) 03:21:57.02 ID:Z22ZBlJ80

 虎城がどうして目が戻ってしまったのかと考えているときに京太郎がぼそっとつぶやいた。

「マジですか。ものすごくものが見えたのに」

 世界が止まって見えるほどの目が使えなくなってしまったかもしれないのだ。惜しいと思っていた。代償はもちろん理解している。間違いなく学校に通うのが難しくなるだろう。

目の中に蛍でも入っているような輝く目なのだ。日常生活さえ怪しくなるだろう。しかし京太郎の趣味にはかっちりとかみ合うものだった。利点を考えると、あってもよかったように思ってしまう。副作用だろう血涙については少しも考えていなかった。

 京太郎の言い方にカチンと来た虎城が説教でもしようかと構えた。しかしできなかった。運転していたディーが二人に注意を促したからだ。

「ちょっと悪いけど二人とも、気をつけてくれ。やばいのがきた」

 ディーはずいぶん困っていた。冷や汗がほほを伝っている。

 道のど真ん中に陣取る人影を見つけたのだ。その人影は人一人簡単に入れるほど大きな木箱を担いでいた。その人影は背後から追いかけてくるものたちよりも、スポーツカーの結界を崩しかけたオロチの触覚よりもまずい人物だった。

 道のど真ん中に仁王立ちする影の正体はベンケイ、十四代目葛葉ライドウの一番弟子にしてハギヨシの兄弟子である。ティーシャツにジーパン、スニーカーという格好のおっさん。背が高く、鍛えられているので威圧感が半端ではないが、気の抜けた表情が日曜日のお父さん風の印象を与えてくれる。

 しかしその実力は総合評価でハギヨシをやや上回っている。これはハギヨシとディーが力を合わせて戦ったとしても、敗北する可能性が高いということで、当然だがディー単体なら間違いなく敗北する。

 ベンケイが何を思って行動しているのかわからないディーにとって、この状況はいやな感じしかしないものだった。

 万が一、何らかの事情によってベンケイが自分たちの足を止めようと思っているのなら、それだけで帰還は不可能だろう。ディーよりもベンケイのほうがずっと強いのだ。力で押し切ることができないのだから、襲われたら終わりである。

 ただ、完全な敵対者ではないだろうともディーは考えていた。というのも、道のど真ん中に陣取って自分たちを待ち構えている。ということは足を止めさせて済ませたい用事があるということだろう。始末するのなら問答無用で遠距離から狙撃すればいいのに攻撃していないのが証拠である。

 ではいったい何の用事だろうか。さっぱりわからない。ディーには答えられない。冷や汗もかくというものだ。いやな感じに心臓がはね続ける。胃がもやもやとし始めていた。

 スポーツカーを運転しながらディーがこういった。

「ベンケイさん、追いかけてきたのか。勘弁してくれよ」

 冷や汗が止まらないディーに京太郎が聞いた。

「あの人は知り合いでは?」

 ベンケイとの出会いを京太郎はよく覚えていた。そしてディーの話というのもよく覚えていた。そうなると、ベンケイは知り合いである。もっといえば、味方だろうというのが京太郎の考えだった。

 特に、冷や汗をかくような関係ではないというのは、異界物流センターでのやり取りで把握しているのだ。冷や汗をかくような関係であれば、あのときのディーはずいぶんおかしなことになる。

 京太郎の質問にディーが答えた。

 「確かに知り合いだ。でもな、何を思って行動しているのかわからない。仮に松常久の味方をするつもりならここで俺たちは終わりだ」

 ディーは苦笑いを浮かべていた。はじめてベンケイとであったときのことを思い出しているのだ。

 ベンケイに仕事の依頼をしたことがディーにはある。それが知り合うきっかけだった。ディーがまだ一般人だったころ、六年前の話だ。そのときは天江教授と、その家族と自分を守ってもらえるように頼んだ。

 依頼を出してすぐだった。逃げていた自分たちを追ってヤタガラスから派遣された十四代目葛葉ライドウと次期ライドウ候補だったハギヨシが現れた。

 ベンケイに天江教授とその家族、そしてディーを引き渡すように十四代目とハギヨシが話を持ちかけた。十四代目とハギヨシは悪いようにはしないともいっていた。

「天江教授たちを九頭竜の生贄にするつもりなどない。神の手に人の世を任せるつもりなどないのだ」

そして

「きっとヤタガラスの幹部たちを説得して話をつぶして見せる。裏で手を引いているものにも見当がついている」

ともいった。

 しかしベンケイは断った。

「申し訳ないが師匠、すでに依頼を受けた後だ。連れて行きたいのなら俺を倒して連れて行ってくれ」

 そのときまったく手加減もせずに師匠と弟弟子を相手取って戦い、退かせた。ベンケイはやると決めたら師匠だろうが弟弟子であろうと、関係ないのだ。

当然だがディーも同じ扱いを受けるだろう。消さなくてはならないと決断されていたら、終わりだ。

192: ◆hSU3iHKACOC4 2015/04/28(火) 03:26:16.31 ID:Z22ZBlJ80
 冷や汗がひどいディーに京太郎はこういった。

「勝てそうにないんですか?」

 京太郎も少しだけ顔色が悪かった。京太郎よりもはるかに強いだろうディーにここまで冷や汗を流させるというのだから、京太郎は自分の死を予想した。今の京太郎なら目で追うことはできるけれども、同じ舞台で戦えないのだ。戦うといって無茶をしてもいいが、動けても一瞬だ。

 攻撃が通るかも怪しい。運転席にいるディーですら、赤子の手をひねるように京太郎をたおせるのだ。そのディーがだめだというのならどうしようもないだろう。

 アクセルを踏み込みながら、ディーが答えた。

「俺と須賀ちゃんが自滅覚悟で突っ込んでも無理。万が一なんてのもない。あの人はバリバリの退魔士、それも十四代目が葛葉の人材から選りすぐった天才。いくら頭をひねってもつぶしてくる。

 だが、最高速と最高速の持続力ならば話は変わる。

 さぁ、はねるぞ! 一気に振り切って龍門渕に向かう!」

 ディーは思い切りアクセルを踏み込んだ。スポーツカーの結界は崩れかけている。本気でアクセルを踏み込み続けたら、結界自体が壊れてしまうだろう。しかしそれでもかまわなかった。生き残るためには必要だったからだ。たとえ結界が壊れて、封じられている荷物が放り出されるようなことになったとしても、それでもかまわなかった。

 悪魔的な加速を行ったスポーツカーがベンケイを弾き飛ばしにかかった。デジタルスピードメーターがありえない速度で上昇を続けて、あっという間に四桁に乗った。そして音速の壁を突破して、ベンケイに迫る。

衝突すれば間違いなく死ぬ速度である。しかしディーの表情は暗い。この程度で死んでくれる相手ではないと知っているからだ。

 スポーツカーがベンケイがぶつかる瞬間、京太郎はベンケイの困り顔をみた。

「やっぱ勘違いされたか」

とでも言いたげだった。そしてあとすこしでぶつかるというところで、木箱を担いだままベンケイは横に飛んだ。スポーツカーは何も弾き飛ばさなかった。そのまま道を駆け抜けていった。

 ベンケイとすれ違ったとき、京太郎はこういった。

「目で追う事もできなかった……」

 悔しいという気持ちよりも、すごいものを見たという気持ちが多かった。京太郎が目で追えたのはベンケイが困り顔を浮かべたところまでだ。ぶつからないようによけたのも、ディーに対してハンドサインを送っていたこともわからなかった。ただ、そのすさまじさだけが心の中に残っていた。


 交通の邪魔にならないところにディーに無視されたベンケイがたっていた。すぐそばには大きな木箱がおいてある。ものすごく困っていた。右手で頭をかきながら、ため息を吐いている。そして愚痴をつぶやいた。

「龍門渕までこいつを運ばせるつもりか?

 勘弁してくれよ、松常久にキャンセル料も請求しないといけないのに携帯電話もつながらないし。

 会社に戻ったら怒られるだろうなぁ」

 どうしてこんな場所にベンケイがいるのか。それはベンケイが落し物を拾ったからである。ベンケイが肩に担いでいた木箱が落し物なのだ。異界物流センターで置いてけぼりにされたとき、この落し物の始末をベンケイが行わなければならなくなった。

 物流センターの職員にいったんは任せようとしたのだが

「弟弟子の荷物なのだから、自分で持っていけ」

といって突っぱねられた。

 そして異界物流センターから猛スピードで逃げ出していったディーに落し物を渡そうとベンケイは動いていたのだ。

長時間のマラソンは難しいが、短い距離ならば追いつくのはそれほど難しいことではなかった。

 しかしオロチが動き出してできなくなってしまった。それどころかオロチ全体が妙な動きをはじめたので、一般のサマナーに被害が出ないように動き回る羽目になった。

 そしてひと段落したところでまたオロチが動き出した。温厚なベンケイでも流石に頭にきた。しかし、目の前で被害が出るというのは気持ちのいいものではないので、久しぶりに本気で動き回っていた。

 そうなってやっと今なのだ。巨大なマグネタイトと魔力の奔流を感じ取り、その後ディーの魔力を感じ取り、急いで走ってやってきた。そしてスポーツカーの進路をふさぐように立ちふさがった。

 「やっと帰れる」

とベンケイは頭をいっぱいにしていた。

 が、失敗した。理由はすぐに予想ができた。

「もしかして松常久の護衛が続いていると思われたか?」

 回避の瞬間にハンドサインを送ったのは

「敵ではない」

という意思を伝えるためだ。これだけで、納得してもらえたらうれしいが、駄目ならいよいよ龍門渕まで走らなくてはならないだろう。

 荷物など知らないと捨てて置けばいいのだが、それができないのがベンケイの性格だった。
 

193: ◆hSU3iHKACOC4 2015/04/28(火) 03:29:48.11 ID:Z22ZBlJ80

 荷物を肩から下ろしたベンケイは今もため息を吐いている。面倒がまだまだ待っているからだ。

 もともと仕事で松常久の護衛をしていたのだ。松常久の護衛が終われば、会社に帰って書類を仕上げて帰れたはずだった。

 しかし完全にできなくなった。それどころか会社に戻れば口うるさい部下たちに説明を要求されるだろう。勘弁してほしかった。何もかも、本当に勘弁してほしい。

 しかし投げ出すようなことはなかった。ここまで時間をかけてしまったのだ。最後までやって帰ってやるとやけになっていた。

 そして部下たちの説教を上手くかわすことができたら家に帰って家族とゲームでもして遊びたいと現実逃避をはじめていた。ため息しか出てこない。

 ベンケイが追いかけようとしたとき、九台の装甲車が道を走っていった。装甲車は風の魔法で勢いをつけていた。装甲車に乗っているものたちは死に物狂いで虎城を追いかけていた。

まだあきらめていないのだ。道の邪魔にならないところで突っ立っていたベンケイになど少しも興味を持っていなかった。

 追い抜いていった九台の装甲車を見てベンケイはこういった。

「面倒なことになっているな。松常久と戦争でもやってんの?

 いまからでもこいつを運ぶのはやめようかな……でもなぁ、ここで帰ったら絶対にハギにどやされるよな。

 あいつ結構根にもつからなぁ。

 本当に厄日だわ」

 死んだ目になっていた。ただの護衛任務だったはずなのに、いつの間にか落し物を背負うことになり、オロチの被害を抑える仕事をやらされて、明らかにやる気満々の装甲車に追いかけられているディーの元にいかなくてはならない状況になっていた。

 そして会社に戻れば間違いなく事情を説明しなくてはならないという面倒がまっている。悪いことに悪いことが重なったとしか言いようがなかった。しかしそれでも落し物は返そうとしているのは、人がいいからである。

 愚痴をいくらかはいた後、ベンケイは一瞬で姿を消した。本当にベンケイがそこにいたのかも疑ってしまいそうになるほど鮮やかな移動だった。後に残ったのは踏み込まれたときにつけられたベンケイの足跡と、マグネタイトと魔力の残滓だけである。


 スポーツカーはどんどんスピードを落としていた。デジタルスピードメーターは百キロあたりをうろうろとしていた。

 運転するディーは苦しそうに顔をゆがめていた。ディーはスポーツカーの結界が壊れたとしても逃げ切ることを選んだが、スポーツカーが応えられそうにないのである。

 ベンケイのハンドサインから敵ではないとわかったのは幸いだったがそれ以降がまずかった。いくら踏み込んでも上手くスポーツカーが反応しなくなっていたのだ。このおかしさがどうしておきているのかディーは察している。

 スポーツカーのフロントガラスのひび割れから、結界が壊れ始めたことで、マグネタイトの流れも乱れ始めているのだ。マグネタイトがスポーツカーのエネルギーなのだから、乱れていると非常にまずい。

エネルギーのない車は自力では動けないものだが、スポーツカーもこの宿命を負っていた。

 当然のように常識はずれの勢いを出すこともできない。壊れ始めているというのはわかっていたが、ここまで早く壊れるとは思っていなかった。アクセルを踏めば踏むだけ、マグネタイトが無駄に消費されていくのがわかるのだ。

車が壊れるのが先かディーのマグネタイトが切れるのが先かという状況になってしまっていた。

 どちらにしてもジリ貧だった。京太郎と虎城を無事に連れ帰ると心に決めているディーにとってはよくない状態である。

 そして、今までにないくらいディーは周囲を確認していた。目をきょろきょろとさせて、道というよりも世界全体を把握しようと努めている。

 というのも頭に引っかかっていることがあるのだ。気になっているのは視界に徐々に増えている山がぴたりと動くのをやめたことである。蒸気機関と道の世界に現れていた巨大な山はオロチの仕業であるというのがディーの予想である。

そして巨大な山を持って進路を操作して京太郎を帰さないようにしているのだろうというのもディーは予想していた。なぜなら、すでに何度か体験したことであったからだ。

 しかしここに来て、まったく動きがなくなっていた。視界のはるか遠くに大きな山が次々と現れたときには、自分たちは山に取り囲まれるのかと思ったのだが、それからまったく動きがない。

ベンケイとすれ違ってからというものまったく何もないのだ。これはおかしかった。京太郎へのオロチの執着振りからするとあきらめるようには思えなかった。もちろん、ヤタガラスがマグネタイトを制限して無駄な動きを取れないようにしたとも考えられるが、安心できなかった。

194: ◆hSU3iHKACOC4 2015/04/28(火) 03:37:53.51 ID:Z22ZBlJ80

そんなときだ。背後から追いかけてくる装甲車たちに追いつかれた。ついに、そのときが来たのだ。

 助手席の京太郎は装甲車を認めると、すぐにデリンジャーを構えた。集中力が高まると、京太郎の目が赤く輝き始めた。そして集中力が高まると同じくして京太郎の目から血涙が流れ出してきたのだった。

 京太郎は追いつかれることを良しとはしない。スポーツカーの状況が篭城に耐えられるものではないと運転席のディーの様子からわかっている。ならば、追いつかれる前に、いくらかを始末しなければならないだろう。できるのならば全てつぶすのもいい。だからデリンジャーに手を伸ばしたのだ。

 しかし京太郎は攻撃を行えなかった。京太郎が助手席から身を乗り出そうとしたとき、スポーツカーが急停止したのだ。理由は簡単だ。道がなくなったからである。

今まで龍門渕に向かって道が続いていたのに、今はもうない。目の前には大きな壁がある。左右を見ても壁である。そして、恐るべきことがおきていた。というのが、空にも壁が出来上がっていたのである。

 しかもこの壁たちは非常におかしかった。透明なのだ。ガラスのようにではなく、カメレオンの肌のようにである。壁に、景色が出来上がりうごめいていた。壁に気がつけたのは、至近距離まで近づいて壁の変化を読み取れたからだ。

 しかしディーの感覚でも壁に気がつくのは衝突ぎりぎりだった。もう少し判断が遅れていたら壁にぶつかっていただろう。

 当然帰り道はない。松常久の装甲車と大きな壁でふさがれている。四方八方、完全に壁で閉じ込められていた。

 この状況で、ディーがこういった。

「悪い夢を見ているようだ。オロチめ、やりやがった。腹の中に追い込まれた! ここまで須賀ちゃんに執着してんのか!」

 ディーはすっかり理解していた。というのがこのオロチの世界とはオロチそのものである。空も地面も空気さえオロチのものである。そんなオロチが京太郎をほしがったのだ。世界をわずかに改変するくらいはたやすい。

 ほんの少し道を操作して、ほんの少しだけ松常久たちのすすむ道を操作する。そして、獲物を蛇の腹の中に追い込んでいけばいい。たとえマグネタイトを制限されていたとしても、この程度なら蓄えてあるマグネタイトで問題なく行えるのだ。

 視界にポツポツと現れていた大きな山たちは、この仕掛けのための引っかけ。意識を前回、前々回の繰り返しだと思わせるための引っ掛けである。

ディーの感じていたいやな気持ちはこのわざとらしさに気がつきはじめていたからなのだ。

「前に岩を使い道を操作したのだから、今回もそうだろう。今回は規模が大きくなっているけれどもきっと考えていることは同じだろう」

 そういう考えをオロチは見抜き罠にかけた。

 あまりにも大きな流れは、つかみにくいものだ。小さな目では見えないものもある。釈迦の手のひらで喜んでいたサルの気持ちが、ディーは痛いほど理解できた。

 オロチの腹の中、完全に停止したスポーツカーは装甲車に囲まれてしまった。九台の装甲車がスポーツカーを囲む。引き返すことはできない。装甲車に乗っている者たちの狙いはたった一つ。破滅の芽を摘むこと。

破滅の芽とは虎城の命、そして京太郎とディーの命である。自分たちの未来のために証拠を消すのだ。

 また、命を狙う松常久たち以上に恐ろしいことがおき始めていた。装甲車とスポーツカーのある場所が、徐々に沈み始めたのである。装甲車とスポーツカーのある場所というのはオロチの腹の中である。

四方八方がカメレオンのように肌の色を変える壁に囲まれた場所である。この場所が音もなく沈み始めていた。オロチは強硬手段に打って出ていた。

「帰さない」

 オロチの思うところはこれだけだ。捕まえたのなら、後は隠すだけ。誰にも見つけられない真っ暗闇の中に京太郎を連れて行くつもりなのだ。邪魔者がついてきているけれどもそれでもかまわなかった。まずは帰さないこと、これが一番だったのだ。
  

195: ◆hSU3iHKACOC4 2015/04/28(火) 03:41:37.33 ID:Z22ZBlJ80
 オロチの腹の中。道はもうない。ここが終点だ。

 装甲車の中から松 常久が姿を現した。松常久は汗でびしょびしょになっていた。また、ゆがんだ笑顔浮かべている。よほどつらいことでもあったのだろう、初老の男性という風貌だったのだが、今はもう老人に見えた。

松常久の視線はスポーツカーの中にいる虎城に向かっていた。現在の異常な状況、かなり広い範囲が徐々に奈落に沈んでいるのにまったくそのことに気を回していなかった。

 松常久はやっと自分の願いが達せられると信じている。目の前の虎城に集中しきっているのだ。

 だから、装甲車から降りてきた。

「始末されたくない」

この気持ちだけで頭がいっぱいなのだ。

 松常久にしてみれば、間違いなく後一歩なのだ。後一歩で京太郎も始末できる。虎城も始末できる。ディーも始末できる。武力でどうにかできるかはわからないが、手が届くところに獲物がいる。

そしてやり遂げられたのならば、ライドウの魔の手から逃れることができる。そう信じている。そう信じているから装甲車から何も考えずに降りてきた。

 無防備に装甲車から降りてきた松常久を見て京太郎がこういった。

「ずいぶん、余裕がありますね。撃ちましょうか?」

 実に剣呑なセリフだった。しかしまったくふざけている様子がない。京太郎の正直な気持ちが現れていた。

 それはそのはず、ここで何の護衛もつけずに一人で行動しているのだ。始末されても文句は言わないだろう。

 松常久を裁判にかけたいわけでもなければ、世間に公表したいなどとも京太郎は思っていない。目の前に自分の命を狙う人間がいるというだけの話で、そういう場合に京太郎が考える方法というのは、穏便ではない方法である。

 都合がいいことでオロチの世界なら大きなごみを作っても騒ぎにならない。ヤタガラスの構成員を害し、虎城を消そうとしている相手に温情などわくわけもなかった。

 京太郎の剣呑なセリフを聞いたディーがこういった。

「それもいいかも知れないな」

 ディーは軽く返事をしていた。しかし、口調とは裏腹にいよいよ困っていた。スポーツカーの結界があと少しで壊れてしまいそうだったからだ。結界が壊れること自体は問題ないのだ。壊れたところでスポーツカーは一般的な車と同じ速度でなら動く。

 問題は封じ込めているものである。この封じ込めている荷物が外に漏れ出してきたとき、ディーはかなりがんばって制御しなくてはならなくなる。その隙をオロチに狙われたとしたら、京太郎を失うことになる。

ならば、制御せずにいればいいということにもなるが、制御しなければ、発狂するものが出る。虎城だ。

 強い力を持つというのは結構なことである。素晴らしいことだ。すさまじい身体能力、自然界の力を自在に操れる魔法。どれもが夢のようである。しかし弱いものたちからすると恐ろしいばかりであることが非常に多い。

拳銃だとかナイフのような凶器を目の前にちらつかされると誰でもおびえると思うのだが、それである。これはもう本能的なものだ。生きるための本能だ。

 特に悪魔の力というのは強くなればなるほど弱いものを叩きのめしてしまう。オロチの眼光、気配のようなものだけで虎城が震え上がっていたのだがあれをひどくすると命が吹っ飛ぶ。

京太郎も無意識にだが、やってしまっている。気を抜いていた京太郎を見た麻雀部の部員たちが近寄れなかったことがあるが、これも強くなってしまった副作用だ。

 ディーも上級悪魔相当の力を持っている。その力はすさまじいが、弱いものに配慮できる力ではない。存在しているだけで弱いものを殺してしまう力である。

 京太郎は問題ないだろう。オロチの前に出て、普通に振舞っていた。しかし、虎城が耐えられるかわからないのだ。オロチの触角を見て震え上がっていた虎城であるから、おそらくだめだろうなというのがディーの思うところだった。

それでどうにもならなくなりつつある状況にあせっていた。ディーは京太郎も虎城もつれて帰りたいのだ。

196: ◆hSU3iHKACOC4 2015/04/28(火) 03:46:09.21 ID:Z22ZBlJ80

 京太郎が攻撃を始めようとしたときである。京太郎は眉間にしわを寄せた。妙にいやな気配がし始めたからだ。そして、妙にいやな気配が松常久から漂っているのに京太郎は気がついた。

 そしていやな気配を感じてすぐ京太郎は鼻を手で覆った。耐えられない悪臭を感じたのである。この悪臭について京太郎はさっぱ原因がわからなかった。

 どうして悪臭がするのかという疑問に状況は待ってくれない。状況はどんどん変わっていく。

 装甲車の中からぞろぞろと黒服たちが現れてきた。黒服たちは松常久の周囲を守るように陣を組み始めた。黒服たちもやる気に満ちていた。スポーツカーの中にいるものたちを全滅させることができれば、もしかするとヤタガラスの追跡を受けなくてすむかもしれないのだ。

 何せここはオロチの世界。何が起きても現世には届かない。そして、ここで虎城たちを完全に始末して自分たちの都合のいい話をヤタガラスに届けることができれば、結末は変わるだろう。

普通ならハギヨシに連絡を取られた以上詰んだのと同じである。内偵を進めていた十四代目に連絡を取られたらそれで終わりである。

 しかしハギヨシには傷がある。六年前にヤタガラスの決定に反逆したという傷だ。その傷があるからこそ、簡単にヤタガラスはハギヨシの情報を信じない。それどころか疑うだろう。

「かつてヤタガラスの決定を良しとせず、ヤタガラスの利益となる九頭竜を始末した次期ライドウ候補。

 もしかすると今回も同じなのではないか。準幹部の松常久を追い込むために嘘をついたのではないか。さらなるヤタガラスの権力を狙って」と。

 松常久と黒服たちはその可能性にかけているのだ。ヤタガラスの幹部たちとハギヨシの確執は大きかった。
 
 京太郎とディーの話を聞いていた虎城は震えていた。とても普通とはいえない顔色だった。

血の気が引き、涙があふれそうになっていた。

 虎城は恐れているのだ。殺されてしまうことを恐れている。自分がではなく、京太郎とディーが殺されてしまうという可能性を頭に浮かべてしまったのだ。

それがとんでもなく恐ろしかった。自分ひとりが死ぬのならばまだいい。そういう覚悟でここまで来ている。氷詰めになっても立ち向かったのは強い覚悟があったからだ。その覚悟はまだ折れていない。

 しかし、京太郎とディーを巻き込んでしまう覚悟はなかった。

「二人がここで死んでしまうかもしれない」

 もしかしたらあるかもしれない。スポーツカーの調子が悪く、京太郎も本調子ではない。あるかもしれないだろう。可能性はゼロではない。そう考えてしまうと、いやな気持ちになってくる。

 冷静な虎城もいるのだ。泣き出してしまいそうなほど弱っている虎城を励ましている。

「今までの京太郎とディーの活躍を忘れたか? オロチを相手にして戦える存在だ。この二人がいてくれれば、きっとお前は無事にやり遂げられるだろう。安心していればいい」

 しかし心が弱っていて悪いほうに考えが転がるのだ。そしてついに彼女の心は悪い予感でつぶれかけていた。

 タイミングがずれて銃撃を行えなかった京太郎とディーがどうしたものかと頭を悩ませていると、京太郎たちを取り囲んだ松常久と黒服たち、その中の一人が大きな声でこういった。

「ヤタガラスを裏切った構成員の身柄を渡してもらおう! われわれには事件の証拠がある!」

 これで虎城が引き渡されるのならばラッキーくらいの気持ちで黒服はハッタリをかけていた。というのも証拠がないと知っているからだ。

 内偵を行っていたヤタガラスが襲撃された事件はヤタガラスの内部でおきた事件である。世間に公になっていない事件だ。内偵のサマナーも虎城の班員たちも何について動いていたのかヤタガラスの内部でも知っているものはほとんどいない。

 それこそ知っているのは命令を出したライドウくらいのものである。それに襲撃の現場はきっちりと処分している。証拠らしい証拠というのはまったくない。

 虎城から事件のあらましを聞いているだろうが、それも証拠があるわけではない。虎城が勝手に話をしているだけで嘘かもしれないのだ。当事者に深く読心術をかけるまでははっきりしない。

グレーのままだ。だから、虎城を連れて逃げたものたちが、そのあたりに疑いを持っているのならば、この揺さぶりで引き渡してくれるのではないかと試したのだった。

197: ◆hSU3iHKACOC4 2015/04/28(火) 03:50:20.00 ID:Z22ZBlJ80

 揺さぶってきた黒服を無視してスポーツカーの助手席で京太郎がこういった。

「一応確認なんですけど、サマナーの世界で物証って証拠になるんですか? あの黒服さんは証拠があるといってますけど。

 悪魔の力を使えば、アリバイでも何でも作れますよね?
 
 俺でも思いつきますもん、密室殺人とかやり放題」

 京太郎は黒服たちを冷たい目で見つめていた。まったく取り合うつもりがないのだ。そして当たりまえだが虎城を引き渡すつもりもない。

 万が一、虎城が裏切り者であったとしても龍門渕に自分たちが連れて行けばいいだけのことだ。いちいち引き渡す理由がない。ハギヨシに引き渡せばそれでおしまいだ。松常久たちにあえて引き渡す理由がない。黒服の呼びかけなど、ゆさぶりにすらなっていなかった。

 呆れ顔の京太郎の質問を受けたディーは少し間を置いて答えた。

「ならないね。たとえ殺人の瞬間が映っている映像があったとしても疑ってかかるべきだ。

 物証だとか、映像なんて楽勝で偽造できる。悪魔の中には手先の器用なものから、姿を変える技術を持つものまでバリエーション豊富でね、まともな裁判は期待できないよ。

 だからこそのヤタガラス、だからこそのサイコメトリー、読心術だったりするわけだけど。

 ヤタガラスのまともな構成員は、こんな交渉の前にほいほいうなずくことはない。複数の幹部立会いの下で、読心術をかけて真偽を問う。これだろうな、やるのならば」

 ディーも少しあきれていた。悪魔たちの技術を持ってすれば、証拠などいくらでも偽造できる。それこそアリバイ工作などお手の物だ。別人そっくりに変化するなど簡単すぎる技だ。

朝飯前にやるものなど星の数ほどいる。凶器が見つかったとか、指紋が出たとか、そういうありきたりな証拠はサマナーたちの証拠にならないのだ。

 京太郎とディーが話をしていると、痺れを切らした黒服の一人が車に近寄ってきた。ずいぶん怒っているらしく真っ赤になっている。この黒服は自分たちが脅せば、どうにかなると思っていたのだ。

 緊張が彼をおかしくさせている。ヤタガラスに狙われるかもしれない。十四代目に追い込まれるかもしれない。その緊張のために、頭がいまいち上手く動かなくなっている。

そしてオロチの世界がうねり非常に苦労したことで参っているのだ。だから自分たちの言いなりにならない京太郎とディーを見て怒った。まだ、苦労をかけるつもりなのかと怒ったのだ。そして一人で近づいていくなどと無謀なことをやった。

 不用意に近づいてくる黒服を見て、京太郎がこういった。

「どうしましょう」

 ディーに指示をあおいだ京太郎の目が真っ赤に輝き始めた。口元がゆがんでいる。どうするのかといって京太郎は聞いていた。しかし京太郎の選択肢はとっくに決まっている。

自分からのこのこやってきた黒服に対して京太郎の選択肢はたった一つにしかない。群れから離れた羊は狩られるのが運命。黒服もすぐにそうなるだろう。京太郎は、黒服を刈るつもりだ。
 
 明らかに一戦交えるつもりの京太郎に、運転席のディーは答えた。

「やるしかないだろうな。車の結界が壊れかけている状態では篭城は難しいし。

 俺も本気でやるよ。加減はしない。

 後、ひとつ注意なんだけど、もしも車の結界がぶっ壊れたら俺を見ないでくれ。壊れたらすぐにわかるから、そのときは俺の姿を見ないでほしい。

できるなら目を閉じていてほしい。須賀ちゃんはたぶん大丈夫だろうけど、虎城さんはやばいと思うから」

 運転席に座っているディーは実にいやそうにしていた。両手の人差し指を使ってハンドルを太鼓を叩くようにこつこつとやっている。

 ディーは目の前の面倒ごとと、京太郎を帰したくないオロチという問題に頭が痛くなっているのだ。それに加えて、スポーツカーの結界も壊れかけている。心労はどんどんたまっていくばかりである。

しかしスポーツカーがいよいよ動かなくなれば、虎城と京太郎をつれて帰れなくなる可能性が高くなるわけで、それはどうしても避けたかった。ならば、戦うしかあるまい。

 松常久と黒服たちを始末するとディーが決定を下すとすぐ、京太郎は動き出していた。京太郎の気力が高まっていく。同時に輝く真っ赤な目から血涙が流れ始めた。ほんの少しだけ頭痛もする。
 
 しかしそれでも京太郎はシートベルトをはずして、外に出て行こうと動いていた。自分たちを襲おうとしているものが、目の前にいるのだ。黒服たち、松常久、装甲車が九台。ずっと自分たちを追いかけてきていた面倒くさいやつらである。

やっとその面倒にけりをつけることができるのだ。高ぶるだろう。

 京太郎においていかれないようにディーもまた動き出していた。さっさとシートベルトをはずして、運転席から降りていこうとしている。ディーも決着を望んでいるのだ。問題は少ないほうがいい。

今このときに裏切り者を始末できるというのならば、やってしまおう。真実は後で明らかにすればいい。松常久が生きていなくとも、虎城一人いれば決着はつく。決めてしまえば、後は動くだけだ。

戦わずに逃げ切るのが一番で、二番目が篭城するという方法だった。しかし、オロチが邪魔をしてどれもできなかった。ならば、最後の手段をとるだけだ。力で押し通る。被害も気にせずに暴れてしまえばいい。

 特に、配慮して手加減をしていたオロチが帰還の邪魔をしているのだ。

 ディーは思う。

「かまわないだろう。少しくらい削っても」

198: ◆hSU3iHKACOC4 2015/04/28(火) 03:54:43.68 ID:Z22ZBlJ80
 車の外に出て行こうとする京太郎とディーに虎城がこういった。

「ごめんなさい。巻き込んで、本当にごめんなさい」

 鼻声になっていた。振り向かなかったけれど、泣いているのだろうと京太郎は察した。

 虎城は、ずいぶん悪い方向に考えてしまっている。体力の低下が悪いように考えさせてしまっているのだ。そして、悲観的なものの見方をしてしまう。戦いに向かわせているのは自分のせいだとか、京太郎とディーが死んでしまうのではないかだとか、考えてしまう。そして、自分を責める。

 悪いのは虎城ではない。悪いのは裏切り者の松常久だ。追い回したのも松常久である。数にものを言わせて脅しているのも松常久。虎城ではない。しかし、虎城の気持ちは違ったのだ。この状況がすべて自分に責任があると思ってしまった。

そして無関係だったはずの京太郎とディーを悪い運命に引き入れたと思い、泣いてしまった。

 ズビズビと鼻をすすっている虎城の謝罪からほんの少しだけ間を空けて京太郎はこういった。

「気にしないでください。俺、戦うの好きみたいですから」

 京太郎は笑っていた。しかし京太郎は近寄ってこようとする黒服から目線をきっていない。これから一戦交えるのだ。修羅場だ。間違いなくどちらかの命が消えるだろう。しかし笑っていた。楽しそうだった。表情に曇りはない。

京太郎の言葉に嘘はない。意地を張っているのでもない。京太郎はしっかりと理解できている。自分というのは戦いが好きな人間なのだと。むちゃくちゃに強い存在と戦うときに、充実していると感じてしまう駄目な人間なのだと、わかっている。

 このドライブではっきりわかったのだ。オロチとのやり取りが楽しかった。一瞬の出来事だったが自分を偽れないほど充実していた。思い出すだけで胸が熱くなるほど、良い経験をオロチにはさせてもらった。

 だから泣く必要などないと京太郎は笑うのだ。自分が選んだ道だ。虎城が悲しむ必要などどこにもない。いっそ、損得を理解できない馬鹿だと笑ってくれてもいいくらいだった。

 虎城に応えると京太郎は車から出て行った。もう、少しも笑っていない。ただ、虎城が混沌と評する輝く赤い目を、松常久と黒服たちに向けていた。

 虎城が見たときよりもずっと、恐ろしい輝きを赤い目は放っていた。始末してやると意気込んでいた松常久と黒服たちが一歩引くほどの迫力があった。修羅場に向かう京太郎の気力は今までにないほど高まっていた。

 しかし京太郎は気がついていない。京太郎の足を進ませているのは戦いの喜びではない。怒りだ。

 目の前の松常久と、黒服たちを倒す。

 京太郎が車から降りてすぐ、ディーが後を追った。京太郎一人に任せるわけにはいかないからだ。目の前にいる松常久と黒服たちは確かに邪魔だ。しかしそれよりも面倒くさいやつが、京太郎を狙っているのをディーは知っている。

オロチの世界そのものが京太郎に執着している。このオロチの腹の中とでも言える空間に追い込んできたというのならば、ここで仕掛けてくるに違いない。
  
 ディーはオロチに対応するつもりなのだ。京太郎を一人になどしない。現在マグネタイトを制限されているとしても蓄えているマグネタイトは無尽蔵ともいえる葦原中つ国の塞の神「オロチ」と戦うのだ。

ここはディーにとっても修羅場だった。


 スポーツカーから降りた京太郎と黒服が向かい合っていた。京太郎の前に立つ黒服は、完全に逃げ腰になっている。それもそのはず京太郎の様子というのはあまりにも恐ろしかった。輝く赤い目もそうだが、ほほを伝う血涙がよくない。

そしてぴりぴりとした空気は、京太郎が口を開くまでもなく何をしようとしているのか、わかりやすく教えてくれていた。

 「殺してやる。神にでも悪魔にでも好きなように祈れ、悪党ども」

 そんなわかりやすい京太郎だったから、京太郎の前に立った黒服は、逃げ腰になったのだった。相手は人数が少なく、力も弱い。そんな勝手な思い込みがあった。スポーツカーは逃げ回るだけだったからだ。しかし完全に崩れた。

 これからどういう結末が待っているのか、戦う前にわかってしまう。集団では勝利できるかもしれない。しかし一人先走った自分はどうなる。考えなくともわかる。だから逃げたくなる。

 しかし勇気を振り絞って京太郎に黒服はこういった。

「私たちが求めているのは車の中にいる女だけだ。お前たちはおとなしくここから消えろ」

 精一杯声を張り上げていた。大きな声だったのでよく聞き取れた。京太郎の目をしっかり見て、京太郎と戦わなくていい方法を一生懸命に考えていた。考えた結果が、虎城を引き渡すことでここは見逃してやろうという数の優位を背景にしたはったりだった。

 京太郎は威圧しているだけで戦いたくないのではないかと予想したのである。数で劣っているのは間違いないのだから、相手も戦いたくないのではないか、おびえているのではないかと考えて話を切り出したのだ。

 ぱっと見の戦力は黒服たちが多いのだから、間違いではない。これはなかなかいい線をいっていた。何せサマナーの数だけなら圧倒的に黒服有利である。悪魔たちを呼び出せば、あっという間に取り囲むことができる。持久戦に持ち込めば、京太郎をたおせるかもしれない。

 普通の相手なら、これで折れるはずだ。つまり目の前の黒服を一人たおしても、まだほかのサマナーがいる。持久戦になる。だから

「持久戦になれば、お前たちはスナミナ切れをおこして終わりだ。死にたくないだろう。だからおとなしく女を渡せ。そうすれば見逃してやろう」

とそういう理屈である。

199: ◆hSU3iHKACOC4 2015/04/28(火) 04:02:50.26 ID:Z22ZBlJ80

 黒服の提案を京太郎は蹴った。

「お断りします。構成員襲撃事件の真相を明らかにするというのならば、このような場所ではなく第三者を立ち合わせた場所で行うのが道理でしょう。

 たとえあなたたちに正義があったとしても受け入れられない要求です。それにあなたたちは自分たちが白である証拠をまったく示していない。

この状況ではあなたたちもヤタガラスの女性構成員もグレーだ。

 あなた方は冷静になるべきだ」

 輝く赤い目から滴り落ちてくる血涙をぬぐいながら京太郎は話をしていた。手についた血涙を軽く手を振って散らしている。

交渉をしようという態度ではない。口調こそ丁寧で、理屈も通っていたが、わかりやすい方法で決めようという気持ちが透けて見えていた。それは京太郎と交渉している黒服にも、背後の黒服たちにもすぐにわかった。

 京太郎が提案を蹴ると交渉に当たっている黒服が笑った。

「ヤタガラスに喧嘩を売るつもりか小僧?」

 なんとも複雑な笑顔だった。自分たちが数の上では優勢であるという自信から来る余裕。これに理屈がわかった上で戦いを選ぼうとしている京太郎の愚かさを笑う気持ち。

ここまでだけならにこやかな表情なのだが、ここに死の恐怖を加えるといびつな笑顔になる。

 普通なら虎城を渡すのが賢いやり方だろう。何せ、追い込んでいるのが黒服たちなのだから、数の暴力で押し通せるはず。しかし、輝く赤い目の京太郎はやるつもりだ。

その結果どのような被害が出たとしてもかまわないと京太郎が全身から発しているぴりぴりとした空気が教えてくれている。
 
 となると、最終的に松常久の陣営がこの修羅場で勝利できたとしても交渉に当たっている人物は、どうなる。おそらく、いの一番で、殺されるだろう。笑ってはいたけれども、黒服は泣きたかった。できるならさっさと引っ込んでしまいたかった。

 ヤタガラスに喧嘩を売るのかという一言の後、あごに手を当てて考えた後で、京太郎が答えた。

「一応俺も、ヤタガラスの構成員なんですけど見えませんか?」

 自分の着ているジャンパーを京太郎は指でつまんだ。ずいぶんぼろぼろになっているけれども、間違いなくヤタガラスのジャンパーである。

 京太郎の交渉をまともにやるつもりがない姿勢を見ていよいよ黒服が告げた。

「ふん! 交渉決裂だな。どうやら戦力もまともに測れないらしい。おとなしく女を渡せば、死ぬこともなかっただろうに」

 そして交渉決裂を告げた黒服は、右手を上げた。背後にいる黒服たちに戦いを始めろという合図だ。そして右手を上げた交渉に当たっていた黒服は一気に後ろに飛んでいた。バックステップである。

戦いが始まれば自分が一番に狙われると黒服はわかっていたのだ。幸い戦いのタイミングは黒服が選べたので、右手を上げはじめたときにはすでに後ろに飛んでいた。非常いい逃げっぷりだった。


 交渉していたの黒服の合図を受けたサマナーたちが動き始めた。四十人のサマナーが一気に大量の仲魔を呼び始めた。どのサマナーも機械に頼った召喚を行っていた。管を使うものは一人もいなかった。

何せ管での召喚など時代遅れもはなはだしいのだから、使うものは非常に少ない。今はコンピューターの時代だ。これを使えば、大魔術と呼ばれる儀式でも、難しい契約も簡単に結べるのだ。

誰が命がけの修行などするものか。たとえ修行したとしても使える悪魔は一つか二つ。極めてみても十がいいところ。

 割に合わない努力などナンセンス。安心で安全。そして完璧なコンピュータこそ新時代の道具と信じていた。

 しかし、召喚に失敗するものもいた。召喚に失敗したどころか、うめき声を上げている。理由は簡単である。邪魔が入ったからだ。

邪魔をしたのは京太郎である。召喚しようとしていたサマナーに向けて人を投げ込んだのだ。人とは京太郎と交渉していた黒服である。バックステップを使い、距離を離そうとしていたところを、そのままつかまれて投げられた。バックステップが遅すぎたのだ。

 そしてそのまま召喚しようとしていたサマナーたちに向けて京太郎が投げつけた。そしてぶつかったサマナーと投げられた黒服が動かなくなった。まだ呼吸はしている。しかしまともに動きだすには時間が必要だろう。投げられた衝撃で体がしびれてしまっているのだ。

 何体か仲魔が呼び出されたところで、京太郎が集中し始めた。黒服を思い切り投げ飛ばしてから、一秒とたっていなかった。しかしこれでもまだ、京太郎は自分が遅いと考えていた。

音速のステージを体験した京太郎にとって、今の自分の動きはあまりにも遅かった。そして自分の相手をする黒服たちの動きは論ずるに値しないものであった。

 その遅すぎる連中を尻目に集中を始めた京太郎の目から、だらだらと血涙が流れ出していた。神経がささくれ始めていた。目の奥が痛む。

 京太郎の二つの目がいっそう赤く輝いたとき、オロチの腹の中で稲妻が炸裂した。京太郎が使えるただひとつの魔法。

「ジオダイン」

である。

200: ◆hSU3iHKACOC4 2015/04/28(火) 04:08:19.17 ID:Z22ZBlJ80

 松常久と黒服たちに向けて打ち出された稲妻は、何の手加減もなくオロチの腹の中を駆け抜けていった。その威力、範囲、迫力ともにすさまじかった。

二十メートルほどある道を丸々飲み込む一本の稲妻。進路上にある装甲車のほとんどは蒸発してしまっている。かろうじて残った装甲車は別の装甲車が盾になっていたためにかろうじて生きのこったものだ。生き残っただけで動くかどうかは怪しい有様であった。

 稲妻はそのまま走っていった。そしてオロチが作り出した壁のひとつに思い切りぶち当たり、ヒビを入れた。とんでもない貫通力、そして範囲攻撃だった。事実、ジオダインという稲妻の魔法を見たことがあるディーが

「ジオダインなのか?」

と疑うような威力であった。

 まったく迷うこともなくジオダインを撃ち込んだのは、サマナーたちが機械を使っていたからである。ジオダインのみでサマナーたちがたおせるとは考えていない。きっとまだ立ち上がってくると京太郎は思っている。本当に命を奪うのならば、自分の手で取りにいったほうが確実である。

しかし、あえて稲妻を放った。

 それは、邪魔をされるのがいやだったからだ。邪魔とは悪魔を呼ばれることである。数の暴力で襲ってくるのはすでにわかっている。そして自分にスタミナがないことも京太郎は理解できている。ならば、まず仲魔を呼ばせないように動くのが正解だろう。

 すでにサマナーたちが機械に頼って悪魔を呼び出しているというのは話に聞いているし、実際に龍門渕で体験している。ということは、悪魔たちを始末するよりも、機械を始末したほうがずっと早い。幸い、京太郎には機械に対して優位に立てる属性の魔法がある。

 ただ、自分の稲妻の威力に京太郎も驚いていた。何度か稲妻の魔法を使ったことがあるのだけれども、万全とはいいがたい状況で使うことばかりだったからだ。

前回使ったときはほとんど死に掛けの状態だった。何度も意識を失った後で調子も悪かった。魔力もほとんどからだった。しかし今は違う。魔力はそこそこある。体力もいくらか残っている。マグネタイトも二割は残っている。余裕があるのだ。前回とは少し違う。

ただ、余裕を残して本気の稲妻を打ち込むのは初めてだった。そもそも気軽に発動できる呪文のタイプではない。実験などできるわけもなくぶっつけ本番だった。そして、やってみて、驚いたのだった。

 何にしても、これで黒服のサマナーたちは機械に頼った召喚ができなくなった。電気に対しての対策はもちろんしているだろう。しかし、京太郎が集中に集中を重ねたジオダインは精密機械を狂わすには十分すぎる威力があった。精密だからこそ、壊れやすいという弱点が前に出たのだ。

 しかし、召喚できないという戦況の変化以上に、京太郎の稲妻はもっとシンプルな結末を予感させる。

 戦いの終わりだ。なにせ装甲車の半分以上が蒸発し、魔法の射線上にいたサマナーたちをほとんど黒焦げにしたのだ。形が残っているだけ流石ヤタガラスのサマナーという感じである。動けているものもいるけれど、戦える状況ではなかった。

 この状況でもなおディーは緊張を保っていた。ディーが恐れているのは戦力を測れない松常久と黒服たちではないのだ。オロチである。オロチの触覚の出現を恐れているのだ。


 しかしディーが恐れるオロチよりも先に表れたものがいた。ベンケイだ。大きな木箱を肩に担いでベンケイは京太郎とディーの前に現れた。京太郎とディーから三メートルほど離れたところに、当たり前のようにたっていたのだ。それも京太郎とディーが気がつかないうちに。

黒焦げになったサマナーたちとぼろぼろになった装甲車を冷静にベンケイは眺めていた。そしてベンケイは京太郎にこういった。

「戦いを少し覗かせてもらった。特殊な体質を省いても、いい素質を持っている。状況の判断から、行動までが非常に早い。肉体操作のセンスもいい。

鍛えれば間違いなくいい退魔士になる」

 ここまで話をして、ベンケイは大きな木箱を地面に下ろした。そして、このように続けた。

「しかし、退魔士になるのはやめておいたほうがいい。君は長生きできないタイプだ」

 ベンケイは京太郎の目をじっと見つめていた。輝く赤い目からは、血涙が流れ続けていた。ベンケイはそんな京太郎を少しも恐れていない。それどころか、哀れなものを見るような目で見つめていた。

 戦いから身を引けというベンケイを前にして京太郎が一歩引いた。そしてすぐにオロチの触覚と音速のステージで戦ったときと同じように構えを取った。すぐに動ける姿勢だ。全身から汗が噴出していた。

 口元はしっかりと結ばれていて、真剣そのものだった。しかし怒っているのではない。ベンケイの話している内容が理解できないということでもない。一応は頭の中に入ってきている。問題なのはベンケイに声をかけられるまでまったく気がつかなかったことだ。

目で追うとか、気配を感じるということが少しもなかった。

 それが恐ろしかった。オロチという規格外の悪魔と比べてもベンケイという存在のほうが恐ろしかった。しかしそれでも体が反応してしまうのだ。

体が、あきらめてくれていない。謝りへりくだるとか、命乞いをするなどという発想が出てこない。賢くないにもほどがある。この自分の馬鹿さもまた恐ろしかった。

201: ◆hSU3iHKACOC4 2015/04/28(火) 04:15:00.85 ID:Z22ZBlJ80
 戦いの姿勢を作った京太郎を見て、ベンケイが話しかけてきた。自然体だった。まったく緊張の色がない。

「その勇気が命取りになる。自分でもわかるよな? 自分の性格を。

 勝てそうにない相手が現れたとしても抗う姿勢。あきらめない気持ち。それは美徳かもしれない。あきらめないことで壁を突破できるかもしれない。

 しかし、運が悪ければ、あっさり死ぬ。そうだろ? 今、君が黒焦げにしたサマナーたちのように呆気なくやられるかもしれない。

 まだ間に合う、と思う。面倒だが師匠にも話をするし、ハギヨシにも口を利こう。

 だから、退魔士にはならないほうがいい。きっぱりとサマナー連中から離れるべきだ」

 ベンケイの声色はとても優しかった。京太郎のことを本当に心配してくれていた。京太郎の肉体的な素質、そして肉体を動かす才能。それを認めていた。そして京太郎の内面すら見抜いて理解している。

 そしてこの肉体的な才能と精神的な特性が混じったときどうなるのかという結論が、ベンケイには出せている。だから進むなと忠告するのだ。

 京太郎はきっと強くなる。才能と情熱を持ったものが、かみ合った道を行くのだ。きっととんでもないものになる。しかし、京太郎が歩こうとしているのは修羅の道だ。命を賭けて戦う道だ。それも弱いものをいたぶる道ではなく、格上を狙い戦う武人の道。

運悪くすれば、あっという間に死んでしまう。それこそベンケイのような格上とであえば、そこで終わりなのだ。よくないことだ。悲しいことだ。自分の娘と同じ年代の子供が、そんな目に会うのは心苦しくてしょうがない。だから、ベンケイはやめたほうがいいとやさしく諭すのだった。

 ベンケイに諭された京太郎は、目線を下げた。輝く赤い目が力を失っていく。京太郎はベンケイのいうことがよく理解できていた。見事に見抜かれて、痛いところをつかれていた。

 実際ベンケイの見立ては正しい。京太郎を諭すベンケイは圧倒的に格上だ。京太郎の感覚は、ではオロチの触覚よりも強いと判断している。となればここでベンケイに挑むということは、つまり死ぬということ。

 しかしわかっていても京太郎は戦う姿勢を作ってしまった。交渉のひとつでもしたほうがいいはず。または頭を下げるのもよかっただろう。そうやって戦わずにすむのなら、ずっといいだろう。

賢いというのは最後まで生き残ったもののことを言うのなら、京太郎は間違いなく馬鹿だ。自分がそういう馬鹿なのだと理解できている。だからまっすぐに見れなかった。


 大きな木箱を肩に担いでベンケイが近寄ってきた。少しも攻撃する気配が見えない。普通に歩いているだけである。そもそも落し物を渡すためだけにオロチの世界をベンケイは走り回っていたのだ。京太郎を討ち取りに来たわけではない。

 京太郎と後二メートルほどというところまで来たときに、ベンケイが後ろに飛んだ。十メートルほど一気に離れた。すばやい動きだった。しかしこの動きは京太郎にも目で追えた。ベンケイが後ろに飛んだのは、京太郎とベンケイの間に邪魔者が現れたからだ。

邪魔者はオロチの触覚である。マグネタイトが一気に集まり人の形を作り、ベンケイに殴りかかったのだ。しかしこの攻撃は空を切った。武術らしい武術をオロチの触角は身につけていない。たとえ上級悪魔であっても、ベンケイには小さな女の子が右腕を振り回しているようにしか見えなかった。

 ベンケイが京太郎からいったん距離をとったところで、オロチの触覚は両手を横に広げて、ベンケイを睨みつけた。真っ赤な目がギラギラと輝いていた。オロチの触覚が立ちふさがったのを見て、ベンケイは頭をかいた。

 両手を広げて、立ちふさがるオロチの触覚を見ていると、自分が悪いような気持ちになってくるからである。ベンケイは京太郎を害するつもりはない。ただ、荷物を届けにきたらオロチの追い込み漁に巻き込まれただけである。

それだけのだ。しかしどうも少女にしか見えないオロチに睨まれると、自分が悪者のような気分になってしまう。

 困っているベンケイそして何が起きているのかいまいちわかっていない京太郎、やはり出てきたかと構えるディー。

 男三人を尻目に京太郎を必死にオロチは守ろうとしていた。ピリピリした雰囲気のまま、両手を広げて、ベンケイを通さないようにがんばっている。鼻息が荒かった。オロチの頭の中では京太郎はすでに自分のものである。

京太郎に何度もマグネタイトをささげられた。そして京太郎のマグネタイトを気に入り姿まで見せた。今までまともに姿を見せたこともなかったのに。

 そして京太郎と遊び、京太郎自体に興味を持った。だから大盤振る舞いをして京太郎の目に、自分の祝福を与えている。相手が求め、自分が応えている。ならば、すでに京太郎は自分のものだろう。

たとえベンケイとディーが恐ろしい力を持っていたとしても宝物は渡せるわけもない。しかもせっかく追い込み漁までして追い込んだのだ、ここで返すわけにはいかなかった。

 割り込んできたオロチの触覚にベンケイが話しかけた。

「勘違いしないでほしい。別に悪いことをしようと思っているわけじゃない。ただ、落し物を渡すためにここにいるだけだ。これだよ、これ。見えるだろ? 大きな木箱がさ。こいつをわたしに来ただけだ」

 ベンケイがこのように話しかけて、担いでいた大きな木箱を地面に下ろした。そしてこつこつと拳を作って叩いて見せた。ベンケイはいきなり現れた怪しい風貌の女性をどうにかしようとは思っていないのだ。

京太郎に執着しているのはわかるが、それだけだ。ベンケイに対して何か害があるわけでもない。女性問題に首を突っ込むつもりなどベンケイにはない。それに、怪しい女性の必死な様子を見ているとどうにも戦闘意欲が萎える。

 ベンケイが話しかけるとオロチの触覚は、ほんの少しだけ両手を下げた。しかしまだ、信じきっていない。前髪に隠れた輝く赤い目が、チカチカと点滅して右を見たり左を見たりして迷っていた。言葉だけで信じられるわけもない。

自分がかばっている京太郎はとんでもなくおいしいマグネタイトを供給してくれる宝物なのだ。

 もしかしたら、嘘をついてひったくろうとしているのかもと、オロチの触覚は考えてしまう。しかしベンケイのやる気のなさは嘘ではない。だからほんの少しだけ警戒心を解いた。ただ、京太郎のすぐそばにいるディーに対しては少しも気を許していなかった。


202: ◆hSU3iHKACOC4 2015/04/28(火) 04:19:02.48 ID:Z22ZBlJ80

 オロチの触覚が警戒心を薄めたのを察してベンケイが京太郎に近づいていった。地面に下ろしていた箱をもう一度肩に担いで、スタスタと歩いてくる。そしてオロチの触覚を素通りして、京太郎に箱を突き出した。そしてこういった。

「じゃあ、これ。落し物」

 京太郎に大きな木箱を突き出すベンケイは満足していた。別にベンケイがやらなければならないことではなかったけれども、最後までやりきることができたので満足したのだ。

 突き出された大きな木箱を京太郎は受け取った。特に重たいという様子はなかった。いったん両手で受け取り肩に担いだ。そのときに京太郎とベンケイの目がしっかりと合った。

 仕事は終わりだといって、ベンケイが帰ろうとした。そのときだった。京太郎はベンケイに話しかけた。

 「荷物、ありがとうございます……忠告も。

 でも俺は、馬鹿みたいで賢くなれないみたいです。すみません」

 京太郎はまっすぐベンケイを見ていた。輝く赤い目ではなく普通の京太郎の目で見ていた。まったく偽らない京太郎の気持ちである。

 京太郎の返事を聞いたベンケイは非常に困ったようで、頭をかいていた。そして、鋭い目になり、黒焦げになっている松常久と黒服だったサマナーたちを指さした。そして京太郎に忠告した。

 「あの馬鹿どもを見てくれ。君が歩く道はああいうものを相手にしなくてはならないということだ。

 とてもつらい道で、苦しいことしかないだろう。

 楽な道ではない。修行は長く終わりが見えず、いくら功績を挙げても社会的な地位が上がるわけでもない。報われる可能性は限りなく低いのに、命の危険は常に付きまとってくる。

 この道を歩いてきたからわかる。おせっかいだろうが、言わせてもらう。

 普通に生きていたほうがずっとましな人生だったと思う時が来る。退屈でも普通がよかったと思うときがくるだろう。これ以上首を突っ込むとどうやっても戻れなくなる」

 ベンケイの指差すところにはひどい有様の装甲車と黒焦げの残骸が転がっている。ベンケイは京太郎に意地悪をしたいわけではないのだ。自分自身が経験してきた修行、理不尽な命令、そして外道たちとの戦いを思い返して良かれと思いとめている。

 外道とはベンケイが指差している松常久とサマナーたちのような者たちのことだ。ベンケイは気がついている。松常久たちがまだ生きていることを。そして、まだ、京太郎とディーと車の中にいる誰かを殺してやろうとしていることに。こういうやからを相手にする以上悲しみはいつも付きまとってくる。

怒りもわくだろう。いいことなんてひとつもない。

 じっと京太郎の目を見つめていたベンケイはそれ以上言葉を続けなかった。しかめ面をして、首を横に振った。そして大きく息を吐いて力を抜いた。説得をあきらめたのだ。

 というのがまっすぐに自分を見つめる京太郎の目が、よく似ていたからである。六年前のハギヨシ。そしてハギヨシの相棒になった一般人。ディーの目である。だからわかるのだ。ベンケイははっきり理解した。京太郎は馬鹿だと。世間の理屈はわかっていてもそれでもやると決めている本物の馬鹿だと。

こういう目をした人間はどうやっても道を譲ることがないとベンケイは知っている。かつて無茶をした弟弟子とその相棒はそうだったから、きっとそうだろう。だからもう何もいわなかった。

 説得をあきらめたベンケイが立ち去るときである。いい忘れたことがあったらしく黒焦げになっているサマナーたちに向けてベンケイはこういった。

 「松常久、お前の所業はすでに十四代目に伝わっている。ヤタガラスがお前の処遇について検討しているころだろう。何をたくらんでいるかは知らないが、おとなしく縄につくんだな。全てのヤタガラスがお前の敵になった」

 そして、京太郎とディーに向かって、こういった。

「それじゃあ、帰る。ディーがいれば、どうにかなるだろ。またどこかで」

 京太郎が反応するよりも早く、ベンケイは姿を消していた。もうどこにもいない。すばやく移動したというよりも瞬間移動の類だった。ベンケイの用事はもうしっかりと済ませたのだ。

忘れ物を届けるために動いていたらいつの間にかオロチの被害で困っている人たちを助けることになり、その流れでオロチの腹の中にまで侵入することになっただけなのだ。やることを済ませたら帰るだけである。

 ベンケイが姿を消すと状況が動き出した。まず一番に動き出したのはディーだった。ディーの注意はオロチの触覚と京太郎に向かっている。ベンケイいわく死んだふりをしている松常久とその部下たちについてはそれほど注意を払っていなかった。

雑魚だと思っているからだ。上級悪魔の舞台で戦えるディーにとって、黒服たちはまったく相手にならないのだから。

 次に動いたのは、オロチの触覚である。ベンケイとディーに気を配っていたのが、ディーのみでよくなったことで、ずいぶん気を緩めていた。広げていた両手を下ろして、京太郎に振り返り、微笑を浮かべていた。

203: ◆hSU3iHKACOC4 2015/04/28(火) 04:23:16.00 ID:Z22ZBlJ80
 オロチの考えることはただひとつである。自分の世界から京太郎を帰さないこと。

ディーよりも厄介な相手が消えた今、目的を達成できる可能性が非常に高くなっていた。動かないわけにはいかないのだ。生ごみのように悪いにおいがする邪魔ものが大量に腹の中にいるけれども、そんなものはどうでもよかった。

 三番目に動いたのが、京太郎だった。京太郎は特に何も考えずに、荷物をスポーツカーに運び込もうとしていた。普通なら巨大な木箱はスポーツカーには入らない。何せ後部座席がないのだから、入るわけがないのだ。

しかしディーのスポーツカーは違うのだ。結界によって不思議な空間が広がっていて、らくらく物を運べるようになっている。今は虎城が引っ込んでいるけれども、十分荷物を放り込んでいられる。

 京太郎はこの木箱の中身がクロマグロだということに察しがついている。

 そのため、運よくお使いが達成できると喜んでいた。オロチが自分を引き止めているということに気がついているけれどそれほど注意を払っていなかった。また、松常久たちが生きているという話も、ライドウに話が通じているとベンケイがいっていたので、特に追い討ちをかけるつもりはなかった。

 さて、三番目に動き出した京太郎だが、一番大きく動いたのは間違いなく京太郎だった。京太郎よりも早く動き出したオロチの触覚とディーだがにらみ合って動けなくなっていたのだ。

分身を使えないほどマグネタイトを制限されているらしく、ずいぶんいらだっていた。また、ディーも相手がどういう動きをするのかと考えているため、動きが取れなくなっていた。

 そんな中でまったく空気を読まずに京太郎が箱を抱えて動き出したのが悪かった。オロチの触覚とディーは呆気にとられて、見送ってしまった。

 京太郎が動き出して何とか反応したオロチの触覚とディーだったが、またもや反応が遅れた。二人が京太郎に視線を向けたときに、松常久とサマナーたちから気持ちの悪いマグネタイトと魔力が流れ始めたからである。この気持ちの悪いマグネタイトを感じたとき、オロチの触覚が明らかにいやな顔をした。

 とてもおいしいマグネタイトを味わった後に、ドブ臭いマグネタイトが流れ出すのだから、気分が悪くなってもしょうがないことだ。また、ディーも非常に鋭い目で、松常久たちをにらんでいた。この気分の悪いマグネタイトと魔力が、何を示しているのか察しがついたからである。

 ディーがつぶやいた。

「悪魔に堕ちたか、松常久」

 この二人の変化を気にしないで、京太郎はさっさとやることをやった。荷物をスポーツカーに運び入れてしまったのだ。

 京太郎もなんとなくいやなムードだなと感じてはいた。しかしだからどうしたという話である。松常久が悪魔に変化したところで特にどうとも思わない。相手が向かってくるというのなら、始末するだけだからだ。

 それに戦うにしても今は荷物を運び込むのが先であると、そんなのんきなことを考えていた。そんな空気を読めなかったり、読まなかったりする京太郎だったから、一足先にスポーツカーに戻り大きな木箱をスポーツカーの不思議な空間にしまいこむことができたのだった。
 
 京太郎が戻ってくるとスポーツカーの不思議な空間で虎城が大泣きしていた。どうやらずいぶん泣いたらしく目が赤くなっていた。今も泣いていてズビズビと鼻をすする音がする。

体力も、精神力も消耗しているところで京太郎が修羅の道をいっているという話を聞いたものだから、また悪い妄想をしていたのだ。自分のせいだと。

 そして大きな木箱を担いで戻ってきて不思議な空間にしまいこむ京太郎を見てほっとしてまた泣いてしまったのだった。

 荷物を積み込んだ京太郎は大泣きしている虎城を見てこういった。

「どうしたんです?」

一人で小さくなって泣いている虎城が心配だったのだ。

 京太郎の質問に虎城は行動で示した。これはかなりすばやかった。京太郎に顔を見られたと知ると、自分のかぶっていたヤタガラスのエンブレム付きの帽子を脱いで、京太郎に深くかぶせた。

思い切り深くかぶせたので帽子のつばが邪魔をして京太郎は虎城が見えなくなっていた。

つまり

「見ないで……」

ということである。鼻声過ぎて聞き取りにくかった。

 と、京太郎が虎城に帽子をかぶらされているときに、事情が悪くなり始めていた。ディーは問題ない。普通だ。問題なのはオロチの触覚である。

ひざを地面について震えていた。前髪で隠れている輝く赤い目も点滅を繰り返している。

 オロチの触覚が消耗しているのは松常久たちのせいだ。

204: ◆hSU3iHKACOC4 2015/04/28(火) 04:27:53.30 ID:Z22ZBlJ80

 オロチの不調の原因である松常久たちは悪魔に変身していた。これから戦うつもりらしい。やる気満々である。雄たけびを上げて牙と爪を打ち鳴らしているものもいた。

 彼らが、悪魔に変化したときに垂れ流しになったマグネタイトがオロチの体調を悪くさせてしまっていた。食あたりに近い現象である。特にここはオロチの腹の中。しかも触覚がすぐそばにいる。普段ならば、問題ないのだ。

 しかし今はまずい。触覚が近くにあるためごまかしきれない。鼻のそばでヘドロをかがされて口に入れられたような気分である。いいにおいと味がするマグネタイトを楽しんだ後に、ヘドロだ。気分が上がってから思い切り下げられたのが余計にきつかったのだ。

 オロチの触覚が気分を悪くしている間に、どんどん戦況が変わっていった。オロチの触覚が動けなくなると、悪魔に変化した松常久が大きな声でこういった。

「計画が台無しだ! お前たちのせいで何もかもが駄目になった! 絶対に許さん。お前たちだけは絶対に許さんからな!」

 小さな男性だったはずの松常久はいまや百九十センチ程の大きさになっている。筋骨粒々で、非常に強そうである。人間のように二本足で立っているけれども、人間ではないのがすぐにわかるだろう。顔の部分が石膏像そのものだった。

男性の顔で芸術品のように美しかった。ただ、目の部分にひび割れが入っていてその部分が口のように上下に開いて声が出ていた。非常に気持ちが悪かった。

 しかも生きているかのように動くのだから余計に気持ちが悪い。

 この変化こそ松常久の秘策である。この姿になれば、どんな修羅場でも越えられると信じていた。そして台無しになってしまった全てに対して償いを要求しているのだ。

償わせる相手はディーと京太郎と虎城だ。ひどい目にあわせなければ怒りがおさまりそうになかった。

 松常久の部下たちも悪魔に変化していた。いろいろな姿があった。ライオンのような四足獣に変化するものもいれば、鳥のようになるものもいて、非常にバリエーション豊富である。ただ、共通しているのは、彼らがみな殺意でみなぎっているというところである。

特に、京太郎を見る目はひどかった。稲妻で殺されかけたのを覚えているのだ。

 非常な修羅場が始まる、そう思われたときスポーツカーから離れて自分から京太郎は修羅場に赴いていった。

 虎城からかぶらされたヤタガラスのエンブレム付きの帽子を深くかぶっているために見えにくくなっているが、輝く赤い目がまたもや復活していた。輝く赤い目には激しい怒りが宿っていた。それも今までにないほどのわかりやすい怒りだった。

 虎城のこともあるが、京太郎は気がついてしまったのだ。

 悪魔に変化した松常久の体におかしなところがあるのに気がついたのである。京太郎が注目したのは松常久の腹の部分だ。人間のものとは違う、マグネタイトで補強された彫刻のような胴体。

その腹の部分に人形のようなものが五体、張り付いている。人形は手のひらサイズで、細かい飾りはついていない。人らしいシルエットをしているだけだ。それがほとんど松常久の腹に埋め込まれている形であった。

 京太郎はこの奇妙な人形を見たことがあった。

「あの人形はさらわれた人間を人形にしたものではないのか? 松常久が人攫いの黒幕であるというのなら不思議ではない」

 すぐに京太郎はこの可能性に思い至った。その考えに思い至った京太郎は激しい怒りに襲われていた。

 刻々と修羅場が近づいている。そんな中で、ディーに近づいていった京太郎はこういった。

「ディーさん、松常久は人間を人形に変えて、エネルギータンク代わりにしているようです。ほかのやつらも同じことをしていますか?」

 京太郎の目からは血涙が流れ落ちていた。ヤタガラスのエンブレム付きの帽子を京太郎は深くかぶっていた。そのため、松常久たちもディーも京太郎の目をまっすぐに見ることはなかった。

 京太郎はずいぶん頭を冷たくしていた。松常久の体に呪いによって人形に変えられた人間が埋め込まれているというのならば、ほかにも被害者がいるのではないかと予想を立てたのだ。

しかし予想を立ててみても、京太郎には判断する方法がない。

「できるのならば被害者たちを助けたい」

そう思う京太郎はディーに希望を託したのだ。もしかしてわかるのではないかと。

205: ◆hSU3iHKACOC4 2015/04/28(火) 04:32:44.91 ID:Z22ZBlJ80

 京太郎がディーに話しかけたとき、悪魔に変化した松常久たちが、京太郎、ディー、オロチの三人に襲い掛かった。生身の肉体を持った四十近い数の悪魔がみなそれぞれに一番殺しやすい方法をもって襲い掛かっている。

魔法を唱えているものもいれば、牙で噛み付きにかかっているものもいる。刀のような武器を構えているものもいれば、拳で挑んでくるものもいる。

 このさまざまな四十近い悪魔たちだが狙う獲物もまたそれぞれにあった。ディーを狙うもの、京太郎を狙うもの、そしてオロチの触角を狙うものである。ディーをまず始末しに向かったのはディーが一番の戦力だと判断した冷静なものたちだ。まずは一番強いものを始末するべき、それが彼らの考えだった。

 京太郎を狙ったのは、京太郎を恨んでいるものたちだ。京太郎の稲妻での攻撃を根に持っている。だから一番に始末してやろうと考えた。

 オロチの触角を狙ったのは、弱いものを一番に殺してしまったほうがいいと考えるものたちだ。オロチの触覚は誰の目から見ても弱っている。ならば、一番弱いものから殺してしまえばいい。誰が何を思い、襲い掛かるのかはそのものの自由だ。最終的に京太郎とディーと虎城を始末できればそれでいいのだから。
 
 松常久たちが襲い掛かってきたわずか一秒後のことである。オロチの腹の中が血霞でよどんでいた。風船が破裂するような音が何度も聞こえてきて、空気が真っ赤に染まったのだ。そしてヘドロのように臭うマグネタイトが散らばった。

これには京太郎も鼻を覆った。強烈な悪臭に耐えかねたのだ。

 そんな地獄絵図の中で、世間話をするような穏やかな調子で京太郎の質問にディーが答えた。

「いや、松常久だけだ。マグネタイトの保有量が一人だけ圧倒的に多い。

 そうか、こうやって使うつもりだったのか、人身売買に使うとばかり思っていたが、悪魔に堕ちた自分の予備バッテリーにするつもりで……外道め」

 京太郎の指摘を受けたディーはすぐにマグネタイトの量を調べたのだ。そうすると一人だけ極端に高いものがいた。それが松常久だった。

 ディーが非常に落ち着いて答えられたのは、戦い自体がすでに終結しているからである。音速のステージで戦うディーにとって百キロ二百キロのスピードで戦うものたちなど、ハエが止まるほど鈍い。

ディーは自分に襲い掛かってくるもの、そして京太郎に襲い掛かるもの、またオロチに襲い掛かるものをあっという間に、排除したのだった。特にこれといった技術は使っていない。普通に殴り、普通に蹴り、血霞に変えた。

 残ったのは、襲い掛からずに逃げようとしていたサマナーと松常久だけである。四十名のサマナーはいまや三人しか残っていない。それも戦う気力のないものである。

 かろうじて松常久は生きている。しかし両足を吹っ飛ばされていた。

 松常久が生きていられるのはディーが仕損じたためでもなければ、上級悪魔相当の潜在能力が助けてくれたわけでもない。松常久の腹に埋め込まれている生き人形を回収するためである。

ディーの攻撃の余波で生き人形が壊れてしまわないように、手加減をしたのだ。

 松常久から生き人形を回収しようと京太郎が動き出した。そのときに、オロチが叫ぶ。悲鳴だった。うずくまっていたオロチは震えていた。

そしてオロチが創った世界が大きく揺れる。四方を囲っていた壁が溶けはじめた。ヘドロのような不味いマグネタイトにオロチは耐え切れなくなったのだ。気持ちが悪くてしょうがない。

ほんの少しだけ垂れ流されたマグネタイトだけでも気分が悪くなったのだ。それが大量に放出された。悪魔になったサマナーたちを始末したときに血霞になったのが決定打になったのだ。オロチは完全に腹を壊していた。

 オロチの世界がぐらぐらと揺れ始めた。ディーが叫んだ。

「不味い、引きずり込まれる!」

 オロチの絶叫と同時に今いる場所が、いっそう深いところに沈もうとしているのがわかったのだ。

 ほんのわずかなディーの迷い、一瞬だった。京太郎にオロチの触覚がしがみついていた。オロチの触覚は必死だった。なんとしても京太郎を逃すまいと必死に両手両足を京太郎に絡みつかせている。

 ヘビが獲物を絞め殺しているようだった。しかしこれはオロチにしてみれば大切な宝物を守ろうとしているのであって、悪意はない。人間でも同じようなことをする。大切なものはしっかりとしまっておきたい。誰にも渡さないために安心安全な場所に保管するのだ。

オロチも同じ考えなのだ。ただ、保管する場所が物置だとか金庫ではなく、巨大なヘビの腹の中であるというだけの違いである。

 オロチの触覚に絡みつかれている京太郎だったが少しもオロチを見ていなかった。まったく見ていない。ただ、奈落へ落ちていこうとする世界の中で、悪魔に堕ちた松常久を睨んでいる。輝く赤い目は、京太郎がまだあきらめていないと教えてくれていた。

 確かに、とんでもなく大きな範囲が深く深く沈みこんでいる状況は悪いだろう。しかし、それに何の問題があるのだろうか。

 また、オロチの触覚がしがみついてくるからといって何の問題があるのだろうか。まだ、沈みきってはいないし、弱っているオロチの触覚の力は動きを妨げるほどのものでもない。右腕だけなら万全に動かせる。なら、やることはひとつだ。松常久の腹に埋め込まれている誰かを奪い取る。

 京太郎は、激しい頭痛も血涙もどうでもよくなっていた。ただ、目の前の松常久を始末したかった。激しい怒りが一歩踏み出す力になっていた。


206: ◆hSU3iHKACOC4 2015/04/28(火) 04:37:14.37 ID:Z22ZBlJ80
 オロチにしがみつかれたまま戦いを続行しようとした京太郎を見てディーが一歩引いた。ディーの表情は完全に引きつっていた。まさか、この状況で更に一歩前に出るような馬鹿な真似をするとは思ってもいなかったからである。

 もしもこのままオロチに引きずり込まれる形で真っ暗闇の世界に落ちれば、間違いなく京太郎はオロチにとらわれるだろう。なぜなら、スポーツカーの調子が悪いうえ、オロチの触覚はすでに京太郎に巻きついている。

 道を教えてくれたときとはすでに事情が違うのだ。京太郎をほしがっている自分をオロチは抑えていない。そしてすでに牙は京太郎にかかっている。

 深い深い暗黒の世界まで引き込めたのならば、絶対に帰さないだろう。京太郎もオロチの執着の深さはわかっているはず。戻らなくてはならないはずだ。そうしなければ何もなくなる。

それなのに、京太郎は松常久を睨んでいる。輝く赤い目から、血涙を流しながらまだ進もうとしている。馬鹿すぎる。松常久など後でどうにでもできるのだ。後で始末すればいい。脱出してからゆっくりとやればいいのに、奪おうとする。まったくディーには京太郎が理解できなかった。

 京太郎が一歩踏み出したとき、ほくそ笑んだものがいた。松常久である。石膏像のような顔面が奇妙にゆがんだ。人間らしくない笑みだった。松常久は、京太郎が獲物に見えたのだ。

そして、獲物に見えたものだから、ここで恨みを少しだけでも晴らそうとした。オロチが深い場所にもぐろうとしていることにも、気がついていないらしかった。

 そして悪魔に変化した生き残りのサマナーたちが逃げようと一生懸命になっているのに、京太郎に向かって松常久は駆け出した。両足はすでに回復している。マグネタイトに物を言わせて作り直したのだ。

 松常久は勝利できると信じている。自分のほうがマグネタイトをたくさん抱えているからだ。五つのマグネタイト製造機が腹に埋め込まれている。マグネタイトが多ければ強いというのがサマナーの常識。ならば、勝つのは自分だろう。

目の前の血涙を流す不気味な小僧のマグネタイトは非常に少ないのだから、楽勝だ。松常久はうぬぼれ油断したのだ。

 京太郎と松常久がぶつかった。松常久が力に任せた攻撃を仕掛けてくる。思い切り右腕を振りかぶっている。振りかぶる右腕にはマグネタイトをふんだんに使われている。補強されているのだ。あまりにもふんだんに使うものだから、マグネタイトが漏れ出して火花を散らしていた。

 一方で、京太郎はまっすぐに松常久を睨むだけであった。一歩踏み出した形のまま動かない。踏み出す必要がないと知っているからだ。

 ぶつかり合った次の瞬間、松常久が後ろに吹き飛んでいた。野球のボールが場外に吹っ飛ぶような気持ちのいい吹っ飛び方だった。また、吹っ飛んでいく松常久の頭部は三分の一ほど吹っ飛んでいた。綺麗にえぐれている状態だった。

なくなっている部分からはマグネタイトが噴出している。吹っ飛ばされた松常久だが生きているらしく立ち上がろうともがいていた。

 松常久はさっぱり何が起きたのか理解できていない。しかし松常久を吹っ飛ばした京太郎と、京太郎に絡み付いているオロチ、そばで見ていたディーは理解できていた。特に難しいことは行われていない。殴りかかってきた松常久を京太郎が殴り返しただけである。

 松常久は力とはマグネタイトであると思っている。たくさん持っていれば、強いのだという考え方だ。間違いではない。マグネタイトは悪魔の肉体そのものである。マグネタイトがたくさんあれば、悪魔の体は大きく強くなる。雪だるまみたいなものだ。雪を大量に使って大きな塊を創れば、小さな塊よりもずっと重たく硬くなる。ぶつかり合えば、大きなものが勝つだろう。それこそ小手先の技術などまったく関係ない。力で押しつぶせる。

 わかりやすいのはオロチだ。日本の領域に生きているものたち全てからマグネタイトを受け取っている巨大な悪魔は世界を生み出せるほどの力を持っている。また音速で戦う分身を大量に生み出し壊れないはずの結界をらくらく壊せる腕力を持っていた。

 しかし、マグネタイトが絶対なのかといえばそうではない。戦うものがあきらめなければ、状況はいくらでもひっくり返る。戦いとは大きさを競うものではないからだ。

 だから必死になる。攻撃をよけて、カウンターを打つ。相手のマグネタイトを制限して、弱点をつく。一番簡単なのは、相手が動き出す前に始末してしまうこと。

あきらめずに戦えば、勝てるのだ。京太郎も松常久相手にそうしたのだ。相手の弱点が戦いになれていないことによるセンスのなさにあると見抜き、自在に動かせる右腕でカウンターを思い切り打ち込んだ。

 まともな武術を使わない相手の攻撃などカウンターの餌食だ。音速で攻撃を仕掛けてきたオロチにすらカウンターをかけた京太郎が、松常久の攻撃など見逃すわけもない。

 二人がぶつかり合ったとき、帽子のつばの部分が千切れてしまった。京太郎のかぶっていたヤタガラスのエンブレム付きの帽子である。これがだめになっていた。松常久の攻撃は力をこめすぎていたために攻撃をかわしたのにもかかわらず、帽子を傷つけたのである。


207: ◆hSU3iHKACOC4 2015/04/28(火) 04:40:59.86 ID:Z22ZBlJ80
 吹っ飛ばされた松常久を尻目にディーが

「ナイス! ハギちゃん!」

と叫んだ。すでにディーの興味は松常久にない。今思うのはどうやってオロチの腹の中から逃れるのかだけだ。松常久とその部下たちなどどうでもよかった。

 そんなときに、頼れる相棒が、見事に手を打ってくれたのがわかったのだ。叫びたくなる。

 二十メートルほどの大きな門がオロチの腹の中に現れたのだ。そしてこの門がハギヨシが手配してくれたものだというのもわかっていた。この門のすぐそばでハギヨシの式神たちが警備に当たっていた。警備に当たっている式神は八体で、槍を片手にたずさえた武人の姿で現れていた。

 高さ二十メートルの巨大な鋼の門。これが現れると京太郎にしがみついていたオロチが激しく舌打ちをした。忌々しげに鋼の門を睨んでいる。そして今まで以上に京太郎を締め付け始めた。しがみついている京太郎の肉体がきしむほどの強さであった。

オロチの触覚は何が起きようとしているのかを察したのだ。巨大な鋼の門は現世と自分の世界をつなぐためのもの。この門が現れたということは誰かが現世への道をつないだということである。誰が現世への道を開いたのかはわからない。しかし、オロチにわかることがひとつある。

「鋼の門の向こう側には自分に敵意を持っているものがいる」

そしてこう思うのだ。

「きっと、私の宝物を奪うつもりなのだ」

 忌々しげに鋼の門を睨むオロチはいまだ京太郎にしがみついたままだ。すぐにでも鋼の門を壊してしまいたい。自分の世界に現れた異物を排除したいと願っている。しかしできない。契約が縛っているのだ。葦原の中つ国の塞の神として存在する以上、道を使わせる契約がある。

その支払いは大量のマグネタイトですでに受け取っている。この契約を破るわけにはいかなかった。契約を破れば、マグネタイトはあっという間に失われる。そして名前を失い力を失い、考えることもできなくなるだろう。

 また、破ろうとしても、門を守る巨大な力を持った式神たちが防いでしまうだろう。だから睨むしかできなかったのだ。そして最後の手段としてしがみつく以外の行動を取れなかった。

 ディーの叫びを聞いた京太郎が唇をかみ締めた。非常に悔しがっていた。輝く目はもうない。血涙ではない涙が、ほほを伝っていた。

 頭ではわかっているのだ。今は脱出するべき。真っ暗な世界まで落ちていけば今度こそ脱出は難しくなるだろう。逃げるべきだ。そして松常久も、ほとんど詰んだ状態なのだ。後で捕まえればいい。ヤタガラスに任せればいい。

 しかしここで松常久を逃すのは非常に悔しかった。なにせ、松常久の腹には五体の生き人形が埋め込まれたままなのだ。

 助けることができない、これが悔しかった。生き人形にされている人たちの名前も顔も京太郎は知らない。どんな性格なのかもわからない。悪魔に堕ちた怪物と戦ってまで助けたとして、利益があるわけでもない。

 しかし脳裏にちらつく光景がある。魔人になるきっかけになった思い出だ。

「理不尽に泣くものがいる」

そう思ってしまうと、悔しくてしょうがなかった。

 ただ、京太郎にはチャンスが残されていた。激怒している松常久が再び襲いかかってきたのだ。松常久はマグネタイトをこれでもかといって使い、攻撃を仕掛けてきた。万全といっていい状態だった。

京太郎に対する怒りでもって更に凶暴になっていた。マグネタイトを吹き上げて、突進してきた。なにせ五つのマグネタイト製造機が腹に埋め込まれているのだ。多少の傷ならばあっという間に回復できる。

三分の一ほど消滅していた頭はきれいに元通りだ。へたくそなマグネタイトの操作術であってもまったく問題なかった。物量に物を言わせた力押しである。今の松常久にあるのは怒りだけだ。

自分にカウンターを仕掛けた不気味な小僧に対する怒りである。

「偉大な神そのものとなった自分を殴るなど、万死に値する」

ただひたすらに自分。ただそれだけしかなかった。

208: ◆hSU3iHKACOC4 2015/04/28(火) 04:45:54.48 ID:Z22ZBlJ80
 松常久が京太郎に向けて突進を行ってくる中で、オロチが動き出した。しがみついていたのに、京太郎から手足を離したのだ。そして京太郎の邪魔にならないところに移動した。透明な涙を流す京太郎をオロチの触覚はじっと見つめていた。

 京太郎のことがいよいよ理解できなくなったのである。京太郎の目を通して涙した理由をオロチは見たのだ。霊的なラインを応用して、過去の光景も見た。しかしそれでもわからなかった。

 はじめは掃除をしてくれるやさしい少年という印象しかなかった。石碑を掃除してくれるものなどいなかったから、うれしかった。

 次に感じたのはおいしいマグネタイトを持っているのだな、だった。始めて感じる幸福感があった。

 その次には自分の宝物にしたいと思った。京太郎から受け取ったマグネタイトは最高の美味だった。誰にも渡したくないと初めて思った。

 そして隠して大切にしまっておこうと思った。しかしできなかった。自分よりもはるか格下の京太郎に一本とられてあしらわれた。そのときに興味がわいた。肉体ではなく魂を見たいと思った。

 そして今いよいよ理解できなくなった。なぜ、この瞬間に涙するのかさっぱりオロチには理解できなかった。悲しいのはわかる。悔しいのもわかる。しかし理由に納得できない。京太郎の脳裏にちらついている光景を輝く赤い目から覗き込んでもわからなかった。

 理解したいと思うようになった。わからないから、わかるようになりたい。そのためにあえて離れたのである。現世で京太郎が何を見て何を思うのかを覗き見すれば、理解できるようになるのではないかと考えたのだ。だからあえて宝物から手を離した。

 ハギヨシが用意した大きな鋼の門が光を放ち始めた。深い場所に沈もうとしていたオロチの腹の中が光で照らされていく。視界が白くなっていく。

 光であたりが白くなっていく中で、松常久が京太郎に衝突した。流石に悪魔に堕ちただけあってなかなかのスピードだった。すくなくとも時速百キロは出ていた。マグネタイトを吹き上げながら突進して来る姿はイノシシそのものだった。

 視界がなくなっていく一瞬をチャンスだと捉えたのだ。

「このときならば油断しているはず。視界が白くなっている今ならば不意打ちが決まるだろう」

 しかし松常久は呆気なく吹き飛ばされることになった。

 たしかに鋼の門の向こう側からあふれてくる光で、ほとんど視界はなくなっている。ただ、光だけしかない。影がなくなり形を探すこともできない。しかし、松常久の体が地面に叩きつけられる音と、激痛からくる悲鳴はよく聞こえていた。

 真っ白になっていく視界の中で、京太郎が松常久を迎え撃ったのをオロチだけが見ていた。目が見えなくとも腕は動くし、タイミングを計れるのだ。自分に向かって突撃しているのがわかっていれば、後は攻撃を仕掛けるだけでいい。難しいことではない。

 突進してきていた松常久の頭部を京太郎の右拳は打ち抜いていた。この一撃で松常久の突進を止めた。

 前回と少し違っていることがある。今回は二発打ち込んでいる。右手の一撃で動きを止めて、左手で一発、クサビを打ち込んだ。このときに帽子がぼろぼろになり、ただの布切れになった。

 一瞬の中で行える命を奪うのに充分な攻撃だった。松常久はもう立ち上がれないだろう。ただ、それでも京太郎は悔しかった。

 巨大な鋼の門が完全に開ききった。すると光は消えうせて、後にはぼろぼろの松常久と、逃げようとしていた裏切り者のサマナーが三名。そしてオロチの触角だけが残された。京太郎と虎城とディーは無事に脱出できたのだ。

 開ききった巨大な鋼の門は、そのまま薄れて消えうせた。用が済んだためハギヨシが術を解除したのだ。そして門を守っていたハギヨシの式神たちもあっという間に姿を消した。もう鋼の門も京太郎たちも守る必要がなくなったからである。

 京太郎たちがいなくなると、深い闇に落ちようとしていたオロチの触覚は全ての結界を解き、霞のように薄れて消えた。オロチの触覚は残された松常久たちを無視していた。

ただ、片目をつぶり微笑んでいた。しっかりと自分と宝物がつながっていることを確認したのだ。繋がりがあるとわかれば触角を作っている意味はない。マグネタイトを絞られているのだ。無駄遣いは控えなくてはならない。いらない結界も解いたほうがいい。

 最後の最後まで残ったのは自己再生している松常久と、その部下の三名のサマナーだけだった。彼らはいつの間にか赤レンガで舗装された道の上にいた。

周りには鉄くずと装甲車が何台か残っているだけである。オロチの触覚が全ての結界を解いたため、もともとの場所に吐き出されたのだ。 自己再生を終えた松常久は人間の姿に戻った。

そして大きな声で叫び始めた。絶望の叫びである。京太郎たちが現世へと帰還したのだ。自分はこれで終わりだと理解したのである。しかし、急に静かになり、笑い始めた。

 そしてこういった。

「ある! まだあるじゃないか生き延びれる道が! そうだ、これでどうにかなるかもしれない。まだチャンスはある! 神よ、感謝します!

 たとえヤタガラスに危険視されることになったとしても私はあきらめない!」

 更に続けてこういった

「お前たち博打に出るぞ!」

 松常久は部下たちに命令を出して動き始めた。すでに松常久は終わっているはず。十四代目に連絡が通り、ベンケイにもハギヨシにも情報が回っている。となれば当然ヤタガラスにも情報が届いているはずだ。どうやっても生き延びれるはずがない。しかしそれでもまだ、もがいていた。

 チャンスは龍門渕のパーティーにある。松常久はこの一点に全てをかけるつもりなのだ。たとえヤタガラスに危険視されるようになったとしてもそれでも生き延びたいのだ。

224: ◆hSU3iHKACOC4 2015/05/04(月) 23:43:34.94 ID:QqIqU/St0
 ハギヨシの手助けで現世へと帰還した京太郎は龍門渕の中庭に立っていた。京太郎から少し離れたところにはディーがたっている。

そしてずいぶんぼろぼろになったスポーツカーが京太郎から離れたところにあった。スポーツカーの中には虎城もいて全員無事に戻ってくることができていた。
 
 無事とはいっても京太郎の格好はひどいものだった。ヤタガラスのジャンパーはぼろぼろ。ヤタガラスのエンブレムがついていた帽子は役目を果たし布切れになっている。またズボンもぼろぼろ、靴もほとんど原形をとどめていなかった。

 そして京太郎の顔は血で汚れてひどいことになっていた。しかし、一応は無事だった。

 龍門渕透華のお使いも一応は達成できている。スポーツカーの中にはベンケイが拾っておいてくれた大きな木箱がある。その中身は冷凍クロマグロだ。

 現世に戻ってこれたのだなと目元をこすりながら京太郎が周りの様子を確認していると、ハギヨシたちが駆け寄ってきた。ハギヨシの後ろからはジャージ姿の三人が続く。

京太郎の仲魔アンヘルとソックの二人と、なぜだかアンヘルに肩車されている天江衣である。ジャージ姿の三人は泥だらけになっていた。

 そしてハギヨシたちの後から、パーティー用のドレスを来た龍門渕透華とメイド服を着た国広一の二人が続いていた。

 一番早く京太郎たちの下にたどり着いたハギヨシは軽く京太郎に挨拶をして、ディーに詳しい説明を求めていた。

 その間に龍門渕透華が追いついてきて、ハギヨシとディーの会話を邪魔にならないところで聞いていた。ずいぶん真剣な表情だった。口元がしっかりと結ばれている。一見しっかりとしているように見える。しかし、透華の目は不安一色である。ハギヨシとディーの会話に割り込むような気配は少しもなかった。

 なにせ彼女は初心者である。ヤタガラスの使者として表に出始めたばかりで経験が少ないのだ。情報こそハギヨシから受け取っているけれど、実際に動いているのは龍門渕の当主である彼女の父親だ。

 しかし情けないことではない。経験をつまなくてはならない立場であるから、できないことがあるのは当たり前である。問題は表に出始めたばかりの透華にとってかかわる事件が大きすぎたということ。

 松常久は人攫いの事件に関係していた。そして関係を白黒はっきりとさせるための内偵を行っていたヤタガラスを襲撃して口封じをたくらんだ。

 人攫いの事件に関する処断。そしてヤタガラスの構成員を襲撃したという裏切り行為への対応。初心者がどうにかできる事件ではなかった。龍門渕透華が不安に思うのもしょうがない。


 ハギヨシとディーの二人は情報の交換を行いながら、スポーツカーの中にいる虎城に会いに行った。ハギヨシとディーの仕事は、ここからなのだ。ヤタガラスを裏切った準幹部の松常久を二人は追い込んでいかなくてはならない。そのためにはスポーツカーの中にいる虎城の協力が必要不可欠であった。

 なぜなら松常久が捕まらなければ、虎城に読心術をかける必要がある。松常久がおとなしく読心術を受けない、もしくは逃げ続けるという可能性もあるのだ。

 読心術をかけるためには本人がいなければいけない。正しくは肉体がなければ術がかからない。そして読心術を使わなければ、まともな判断を下すのは難しい。

 処分するための、ほかの幹部を説得できる根拠が必要なのだ。虎城か、松常久の肉体。できれば松常久がほしい。虎城でもかまわないができるのなら一番怪しい松常久にかけたい。

 なににしてもここからが忙しいところである。松常久を捕まえて読心術にかけて、処分までもっていく必要がある。


 忙しく動き出したハギヨシとディーを京太郎はぼんやりと眺めていた。京太郎は自分のできることはすでにやり終わっているとわかっていた。京太郎にできることといえば鉄砲玉くらいのもので、それ以上のことはどうしていいのかわからない。ハギヨシとディーが一生懸命に動いているのならば、それに任せればいい。そんなことを考えているわけだけれども、そうなるとやることがなくなるわけで、気が抜けてしまったのだ。


 京太郎が気の抜けた顔をしていると、駆け寄ってきたアンヘルがこういった。
「マスター、ご無事ですか? 回復魔法を唱えますね」

 ずいぶんあわてていた。アンヘルがあわてるたびに肩車されている天江衣がぐらぐらとゆれて、ひどいことになっていた。

 アンヘルのあせりというのは京太郎の格好から来ている。あまりにも京太郎の格好は悪いものだった。血液でジャンパーはドロドロ、顔面も血液で汚れてひどい。元気なのは間違いないのだけれども、妙な雰囲気が京太郎から漂ってきている。

何か悪いことでもあったのではないかとあせるのはしょうがないことである。

 アンヘルが呪文を唱えている間に、ソックが京太郎の体に手を触れた。ずいぶん思い切り体を撫で回していた。目を大きく見開いて、京太郎の体を見つめている。まったく遠慮がなかった。

はじめは服の上から触っていたのだが、あっという間にぼろぼろのジャンパーの下にある京太郎の体を許可なくなでまわしていた。

 京太郎の体におかしなところがないか、確かめているのだ。よこしまな気持ちは少しもない。アンヘルと同じように京太郎から妙な気配をソックは感じていたのだ。肉体におかしなところはないけれども、何かがまとわりついているような気配がする。

そのまとわりついているものが何なのか、ソックは確かめようとしているのだ。

 アンヘルの呪文「ディアラマ」が発動したところで、ソックがこういった。

「特に問題はないようだ。マグネタイトがずいぶんと少なくなっていることと、悪魔の匂いがするくらいか。

 あれ? おかしいな」

 京太郎の体から手を離してソックは眉間にしわを寄せた。京太郎にまとわりついている気配についていろいろと調べてみたのだけれども、いまいち納得がいかなかった。匂いがするだけというのなら、それでかまわないのだ。

匂いがするくらいならたいしたことではない。悪魔の匂い以外にも人間の女の匂いがすることもわかっている。しかしそれはいい。問題なのは、自己主張している匂いだ。

 たとえるならば動物のマーキングだ。

「これは自分のものだから、誰も手を出さないように」

と、そんな気持ちをこめた匂いが京太郎から漂ってきている。アンヘルとソックからすれば、いい気持ちはしない。


225: ◆hSU3iHKACOC4 2015/05/04(月) 23:47:33.81 ID:QqIqU/St0

 ソックが京太郎の状況をつぶやくと、アンヘルが京太郎にたずねた。

「面倒ごとに巻き込まれたとはきいていますが、どういうことです? 私たち以外と契約を結べたのですか?」

 京太郎にまとわりついている気配についてアンヘルも気がついている。しかしいよいよ考えてもわからないので、京太郎に直接疑問をぶつけたのである。

 京太郎のマグネタイトの特性上、まともに契約を結べるわけがないという考えはあるが、万が一という可能性もあった。


 アンヘルとソックが困っていると京太郎は答えた。

「いや、思い当たるところは……もしかしてこれか?」
 
 京太郎は、自分の目を指差した。そして目に魔力をこめた。すると輝く赤い目が現れた。匂いがどうのこうのという話になったときに、オロチから無理やり押し付けられた輝く赤い目のことを京太郎は思い出したのだった。

常に目が光るわけではないというのに気がついているので、特に気にしている様子は京太郎にない。ただ、感情を制御できていないと、血涙が流れ出したり輝きだすという面倒くさい特性があるだけだ。がんばればどうにか生活できるだろう。


 京太郎の目を見たアンヘルが引きつった笑顔を浮かべた。そして少し姿勢を崩した。

 そのため肩車をされている天江衣がアンヘルの頭にしがみつくことになった。バランスが大きく崩れて、振り落とされそうになったのだ。

 アンヘルの顔色はずいぶん悪くなっていた。自分のマスターに悪い虫がついてしまったのがわかったのだ。

 京太郎とは違い、悪魔の常識をアンヘルは知っている。そのため、輝く赤い目の気配がどういう種族の特性を持ったものなのかというのをすぐに察することができた。京太郎に付きまとっているのは龍だ。それも桁違いに力を持った龍。

 そして、この種族というのは基本的に執念深い。ほしいと思えばずっとほしいと思ったまま。憎いと思えば憎いと思ったまま、ずっとそのまま生きている。京太郎の輝く赤い目から感じられる執着は並みのものではない。百年でも二百年でも、手に入るまで待ち続けるだろう。そういう執着がある。

もしかすると輪廻の果てまで追いかけてくるかもしれない。

 普通の悪魔なら、これだけで身を引くだろう。相手が悪すぎるからだ。しかしアンヘルは違った。どうにか対処して見せようと心を決めていた。この輝く目を京太郎に渡したオロチは京太郎を宝物だと思っているけれどもアンヘルもまた京太郎のことを大切に思っていたのだ。

 自分のマスターに執念深いストーカーがついてショックを受けているアンヘルを尻目にソックはこういった。

「龍の目だな。匂いの名残があったのはこいつを与えられたからだろう。しかし、ずいぶんと運がいいな、俺のマスターは。

 龍に出会うこと自体が難しいのに、契約まがいのことができるなんて。どうやったんだ?」

 口調こそ冗談でも言い出しそうなところがある。しかし、ソックの目は少しも笑っていなかった。アンヘルよりもソックは呪術に関して知識がある。そのため京太郎の輝く赤い目を通して、京太郎に目を与えた龍が、今この瞬間も現世を覗き見ていると気がついている。

 目を手に入れたきっかけについて聞き出そうとしているのは、きっかけから呪術を説く方法を探ろうとしているからである。一見して龍の目であるとわかるほどの力があるのだ。

よほど正式な手続きを踏まなければ手に入らない。マグネタイトで肉体を作っている悪魔であってもほいほいと目玉をくれてやれるわけではないのだ。物質的な損傷なら簡単に回復できるが、魂的なものは回復に非常に時間がかかる。

目というのは特に霊的な属性が多くあるものなので、これを他人に渡すというのは人間が自分の目玉を他人に渡すのと同じ重さがある。取り返しがつかないということだ。

 そして仮に

「ぜひ自分の目を与えたい」

と思うようなことがあったとしても、力が強いものを、人間に渡そうとすると流石に許可が必要になる。 許可がないとはじかれるのだ。臓器移植と同じで、かみ合っていないと拒否反応が出てはじかれる。強いからこそ反応も大きいのだ。

 しかし京太郎は適合している。ならば、契約か契約に近いものがあったということだろう。

 ただ、完全とはいえない。ソックから見ると中途半端に結ばれているように見えた。強引に手をつないでいるような格好、片方にしがみついているような契約とはいえない契約。そんな雑な契約だった。となれば、手順さえわかれば、解いていくのはそれほど難しくはない。京太郎の側から縁を切っていけばいい。

そうすればストーカーから離れられるだろう。当然、時間はかかるだろうけれど、常に生活をのぞかれるよりはましである。

 生活をのぞかれるという問題というのもあるが、一等気に入らないことがある。これはアンヘルもソックも同じ気持ちだ。二人とも、京太郎を所有していると主張する臭いが気に入らない。これだけはどうにも受け付けなかった。

226: ◆hSU3iHKACOC4 2015/05/04(月) 23:52:52.47 ID:QqIqU/St0
 普通の目に戻った京太郎が、少し考えてからソックの質問に答えた。

「組み手かな? そのくらいしかしてないと思う」

 嘘はついていない。京太郎にしてみれば、格上相手に遊んでもらったというくらいの感覚しかない。オロチの触覚がどのあたりから京太郎を見つめていたのかもわからないし、京太郎にどういう感覚で接しているのかというのもわからない。

 京太郎にしてみれば、会話さえまともにできていないのだ。契約も何もない。輝く赤い目は無理やり渡されたものであって、京太郎が求めたものではない。しかし輝く赤い目を渡された。

思い当たるのは、組み手をして一本背負いをかましたくらいのもの。だから思い当たったところを素直に答えたのだ。

 京太郎が「組み手」と答えるとアンヘルとソックは大きく笑った。完全に冗談だと思ったからだ。人間と龍が、どうやって組み手をするのか。無理な話である。

 アンヘルとソックが笑っているところで、肩車をされている天江衣が京太郎の目の感想をつぶやいた。

「ルビーのような目だな。美しい」

 泥だらけのジャージを着たまま肩車をされていなければ、いくらか格好がついたかもしれない。天江衣のつぶやきはアンヘルとソックには届いていたけれども京太郎には届いていなかった。

 アンヘルとソックに輝く目を手に入れた話をするために、それなりに楽しかったドライブの話をしていこうかと京太郎が構えたときである。メイド服を着た国広一がこのような提案をしてきた。

「とりあえず、みんな汚れを落とそうか。須賀くんは血だらけだし、ジャージ組は泥だらけ。お話はきれいになってからでいいんじゃない?」

メイド服を着た国広一の提案はもっともなものだった。京太郎の服装はひどいもの。ジャンパーはぼろぼろで、ズボンは擦り切れている。靴は靴としての形が残っているだけだ。京太郎よりもずっとましだが、ジャージ三人組も泥でずいぶん汚れていた。髪の毛に泥がついているし、汗臭い。これはよくなかった。

 そして京太郎たちはすぐにうなずいた。
 京太郎たちがうなずくのを見て、国広一は歩き出した。お風呂場に案内するためである。
 
 
 それから五分ほど後のこと。京太郎は脱衣所で困っていた。京太郎が着ていた服がなくなっていたからである。何もなかった。シャツはもちろんズボンもない。当然だがトランクスもなくなっていた。そうなったとき、京太郎は非常に困った。

このままでは素っ裸のままではないか。タオルを腰に巻いているけれども、流石にこの格好では家に帰ることができない。

 そうして困っていると、脱衣所の外から声をかけられた。声は国広一のものだった。

「あれ、早かったね。着替えを用意したからこれに着替えてね。須賀くんが着ていた服は処分させてもらうよ。あれじゃあ、うちに帰れないでしょ? 靴も須賀くんがはいていたのものと同じものを用意しておいたから、それをはいてね」

 京太郎の服を処分したのは国広一だった。意地悪がしたかったわけではなく、京太郎の世間体を考えた行動だった。本当ならば、京太郎がゆっくりと風呂に入っている間に着替えを用意しておくはずだったのだが、カラスの行水並みの早風呂だったために失敗してしまったのだ。

 国広一が着替えを用意してくれたという話しを聞いて、京太郎はお礼を言った。

「ありがとうございます。助かります」

 京太郎もドライブから帰ってきたままの格好でうちに帰れないのはわかっていた。とんでもない勢いで体を動かしたために服もくつもぼろぼろだった。両親に、何かあったのかと心配されるのは目に見えていた。

 そうして京太郎がお礼を言うと、脱衣所の向こう側から、国広一がこういった。

「それじゃあ、扉のところにおいておくからね。着替えたら声をかけて。僕が客室に案内するよ。
 それとジャンパーのポケットにあったデリンジャーだけど一応こっちで預からせてもらうね。見つかったらまずいでしょ?」

このように話をすると国広一は着替えを扉の前において、風呂場からいったん離れた。

 京太郎は国広一が離れたことを察すると、さっさと扉を開いて着替えを手に入れ、服を身に着けた。普通のワイシャツとスラックスとただの靴である。
 
そして、ジャージ三人組よりもかなり早く客室に通され暇になるのだった。


 ゆだっているアンヘル、ソック、天江衣が客室に現れたのは十分ほどたってからだった。三人ともよく似たワンピースを着ていた。湯気が出ている三人と、メイド服を着た国広一がイスに座った。それぞれ、話を聞く姿勢になっていた。

 そうして話し始められる状況になったので、京太郎は話をはじめた。普通の話をするように輝く赤い目を受け取るまでの話をし始めた。というのも京太郎自身はオロチの祝福をそれほど重たいものだとは思っていない。

目玉が光るようになっただけのことで、注意しておけばどうにかなるという感覚である。しかし、信頼できる仲魔二人が、ずいぶん心配しているので、話をすることにしたのだ。アンヘルとソックが悪いというのなら、呪術を知らない自分よりも確かな答えなのだろうという考えである。

 ディーとのドライブ中におきたことを京太郎が話していると、合間合間に天江衣が

「また真白は無茶な運転をしたのか! 昔、あれでひどい目にあったのだ!」

とか

「京太郎はもう少し気をつけたほうがいいぞ。知らない人にほいほい近づいたらだめだ。

 そもそもオロチの異界で単独で行動できるものなど実力者以外にいないのだ。苦しそうにしていても少し離れておくのがいいぞ」

と相槌を打ってくれていた。京太郎の輝く赤い目を天江衣はよいものだと考えている。美しかったからだ。そのため、純粋に京太郎の話を楽しめていた。
 

227: ◆hSU3iHKACOC4 2015/05/04(月) 23:56:36.09 ID:QqIqU/St0

 そしていよいよ氷詰めの虎城を見つけ、ベンケイと出会い、松常久と逃走劇をはじめた話を京太郎は聞かせた。そうすると天江衣は

「花田のおじ様か! きっと面倒だとかいいながら動いてくれたのだろう。私のときもそうだったからな」

などといってはしゃいでいた。

 そして松常久の策略で、オロチの世界の一番底まで落ちてしまった話をして、そこで怪しい女性とであった話をした。話をする京太郎は実に普通に話をしている。怖いものを見たのだとか、不安だったとか、そういう様子はなかった。京太郎にしてみれば、終わった話だ。なにも恐れる話ではないとわかっている。

そして脅かそうという気持ちもないのでさらっと話して進めた。

 ただ、怪しい女性とであったときの話をすると、話を聞いていた四人が引いていた。アンヘルは両手で顔を隠し、ソックは引きつった笑みを浮かべている。天江衣は国広一に手を握ってもらっていた。天江衣の手を握っている国広一は遠いところを見つめていた。

 京太郎の話を聞いていた四人は祝福した存在の正体に一発で気がついたのだ。すでに龍の目だとソックが判断を下しているのと、オロチの世界で出会った奇妙な女性の話でいちいち推理する必要がなかったというのが本当のところである。

京太郎を祝福したのは葦原の中つ国の塞の神。日本国が使役する超ド級霊的国防兵器である。この場で一発で気がついたものたちでも真っ暗闇の中で出会ったとしたらきっと気がつかないだろう。まさか触覚まで作って接触してくるわけがないと考えるからだ。

 アンヘルとソックが引いてしまったのは、祝福を解くのがおよそ不可能であると理解したからである。もしも、祝福を解いたとしてもあっという間に同じような祝福をかけられるのが目に見えていた。

葦原の中つ国の塞の神というのは日本国の「道」の化身である。ということは日本にいる間はどこにも逃げ場がないということになる。その気になれば、この瞬間にでも触覚を現世に送り込めるのだ。祝福をとくことは不可能ではないが逃げ切るのは無理だろう。

 天江衣と国広一が引いているのは明らかに恐ろしい存在を前にして普通に振舞ったというところである。京太郎の輝く目からでもわかるほど力が強い存在なのだ。

 引きずるほど長い真っ黒な髪の毛に、ぼろ布をまとっただけの女の姿で現れたのならば、間違いなく恐ろしい。近づこうとも思わないだろう。しかもそんな恐ろしい相手に握手を求められたらどうするか。天江衣なら腰を抜かすだろうし、国広一なら、戦いを放棄して逃げの一手を打っていただろう。


 四人が引いている間にも京太郎はドライブの内容を話していった。その間に何度も怪しい女性とであったことを話し、怪しい女性とどうにか渡り合うために頭をひねったという話をした。

特にこのとき、渡り合うために行った工夫について京太郎は力を入れて話をしていた。京太郎にとって、怪しい女性と渡り合うのはとても大切なことだった。そして心躍るものがあったから、力も入る。虎城の妄想推理と同じ理屈である。

 そしていよいよ、ディーが離れている間に怪しい女性が現れたことを語り始めた。スポーツカーのフロントガラスに怪しい女性がヒビを入れた話をした。そのときずいぶん、天江衣と国広一は驚いた。

 特に天江衣はこのようにつぶやいて、青ざめていた。

「ハギヨシの結界を壊せるとは流石オロチといったところか。黒い神父の攻撃でも壊れなかったのだがな。

 ん? ということは真白は大変なことになったな。修理代で貯金が吹っ飛ぶな、間違いなく。

 まぁ、これをきっかけに考え直してほしいところだな。自分の仮面を車に組み込むような阿呆なことをするから、いざというときに困るのだ」

 青ざめている天江衣を見ながら、輝く赤い目を渡されるまでの話を京太郎は語った。そのときに詳しく話したのは、音速のステージに無理やり上った場面だった。しかしそれは、京太郎が自慢をしたかったわけではない。

 それ以降の動きを京太郎が知らないので、知っているところだけを詳しくしたのだ。なぜなら不相応なステージに無理やり上った代償で、京太郎の脳みそは動いていなかった。生きてはいたけれども激痛でパンクしていた。思い出せるのは虎城に助けてもらえるまで激痛にもだえていたということだけである。

そうなると、話せるところに力を注ぐしかない。京太郎が話せるところとは音速のステージに乗るために自分の内側にありえないほどの負荷をかけた話と、かろうじて一本とって一泡吹かせたというところだけだ。

 そして話せるところを話し終わると、痛みから回復してあっという間に輝く赤い目を押し付けられた、と京太郎は話を締めた。

 話し終わった京太郎は居心地が悪そうにしている。
 それもそのはず、自分の仲魔二人がずいぶん冷えた目で京太郎を見つめていたからである。そして天江衣も国広一もなんともいえない表情を浮かべて京太郎を見ているのだ。

彼女らの目をみると何が言いたいのかよくわかった。一回自分の行動を客観的に見たこともあって、余計に彼女たちの言いたいことがわかった。

 ずいぶん間をおいてから、天江衣がこういった。

「もしかして京太郎は馬鹿なのか?」

かなり配慮された表現だった。

 京太郎が答えた。

「そう、なんだとおもいます」

 京太郎があいまいな笑みを浮かた。話が終わった後、アンヘルとソックが説教をはじめるために動き出した。

228: ◆hSU3iHKACOC4 2015/05/04(月) 23:59:53.45 ID:QqIqU/St0
 京太郎たちが汚れを落としに向かった後の話だ。中庭でハギヨシたちが会話をしていた。きしんでいるスポーツカーの近くにたっているハギヨシがこういった。

「ヤタガラス東京支部虎城班班長、虎城ゆたかさん。十四代目葛葉ライドウの指令を受け、松常久の内偵にあなたたちが参加していたのは確認しています。

 そして、内偵を担当していた構成員ひとりと、あなたの部下四名が行方不明になっているのも、同じく確認しています。

 何が起きたのか、今回の内偵の結果も含めて、全てを明らかにするため、協力してもらえますね?」

 ハギヨシはできるだけ丁寧に虎城に話しかけていた。ディーから連絡を受けたハギヨシはすぐに動き出せるように準備を整えていたのだ。後はディーが無事に虎城をつれて戻れば松常久の処刑が決定するところまで整えていた。

虎城に同意を求めているのは、一応の手続きのためである。無理やり読心術をかけることもいざとなればできるけれど、虎城がうなずいて話をしてくれるのが一番当たり障りがないのだ。

 ハギヨシのこの問いかけに、虎城はうなずいた。虎城はすでにスポーツカーの不思議な空間から出てきている。スポーツカーにもたれかかるようにしてなんとか立っていた。そして久しぶりに現世の空気を吸ってほっとしている。

 顔色は悪かったが、これで望みが果たせるという喜びがみえる。読心術を受ける覚悟はとっくの昔にできているのだ。当然協力するつもりである。

 ハギヨシが言い出さなければ、自分から切り出していた。自分の情報をヤタガラスに提供することで松常久を追い込めるのならば、それだけで十分だった。そして、そうすることが自分の部下たちに報いることと信じていた。

 虎城がうなずくと、ハギヨシは微笑んだ。

「ご苦労様でした。これで、松常久を追い込めます。幸いといっていいのか協力してくれる友好的な幹部もパーティーに参加してくれていますから、手を借りましょう」

 ハギヨシが伝えると、虎城は何度もうなずいた。本当ならば、声を出して喜びたいところだ。しかし、無茶な逃走劇があったために彼女の体力はなくなっているのだ。報われた。そう思うだけで意識が切れてしまいそうだった。


 このときに、虎城にディーが教えた。

「虎城さん、あなたに伝えておきたいことがある。もしかするとあなたの班員たちは生きているかもしれない」

 虎城に話しかける前にハギヨシに目で合図を送っていた。教えてもいいだろうかという合図である。そうするとハギヨシは軽くうなずいた。教えてもかまわないという合図である。

 ディーはオロチの腹の中で起きたことをハギヨシに伝えている。おきたこととはオロチの腹の中で松常久の腹に奇妙な人形が埋め込まれていると京太郎に指摘されたこと。

 そして人形が生きた人間であるという事実に行き当たったことだ。ハギヨシとディーはこの埋め込まれていた人形たちこそ、行方不明になった班員たちではないのかと考えていた。

 根拠もある。

 ヤタガラスの構成員のイタコ能力に班員たちが引っかからなかったのだ。

 ヤタガラスの構成員には特殊な能力を持ったものが多い。虎城の回復魔法、ディーの風の能力、京太郎のような高い戦闘能力。話に出ている読心術。

 異能力というのが実にさまざまなのだ。京太郎は戦いに特化しているけれども、まったく戦いに関係のない能力を持っているものもいる。

 魔法の道具を作るものだとか、治療に特化しているとか、瞬間移動ができるとか。悪魔を見る、悪魔の言葉を理解するというのもひとつの能力で、今のように技術が発達していなかった時代は悪魔に出会うのにも話しかけるのにも修行が必要だった。

また尋常ではないマグネタイトの保有能力というのも異能力である。天江衣のことだ。

 そして異能力の中にはイタコのような能力もある。死者の言葉を届ける力である。いかにもうそ臭い能力だが、当たり前のように本物がヤタガラスに在籍している。

 この能力を持ったものたちは、死んでしまった者たちの声を届けてくれる。それこそ熟練のイタコならば輪廻でもしていない限りは霊魂を呼び出せるのだ。

 松常久の裏切りという話を聞いたハギヨシはすぐにイタコの手配をした。なぜなら、死んでしまっているのならばここから情報が手に入るからである。

 しかしヤタガラスのイタコは行方不明になった構成員の魂を口寄せできていない。さっぱり呼び出せないのだ。内偵を行っていた構成員も虎城の部下たちもまったく応答がなかった。

 となれば、可能性は二つ。ひとつは魂が輪廻している可能性。すでに次の命として、生まれ変わっている。別の命として生まれ変わっているのならば、呼び出すことはできない。

 もうひとつの可能性はまだ死んでいないという可能性。死んでいなければ口寄せすることはできないのだから、生きているのだろうという発想である。流石に昨日の今日で輪廻するということはまずありえないので、ヤタガラスは生存していると考えていた。

 ディーがこの事実を伝えたいと思ったのは、少しくらい虎城の心の重たさを軽くしてやりたいと考えたからである。ただ、もしかしたら間違えているかもしれないのでハギヨシの許可を求めたのだった。そうするとハギヨシは問題ないとうなずいたので、ディーは教えたのだった。


229: ◆hSU3iHKACOC4 2015/05/05(火) 00:03:04.96 ID:py78Qnqv0
 ディーが構成員の生存を告げると虎城が顔を上げた。

「どういうことです?」

 やっと声を出している状況だった。虎城は自分の班員が生き残っているとは思っていなかったのだ。もちろん、生きていてくれるのならそれが一番である。しかし、油断しているところを強襲されたという事実が彼女の頭を悪い方向に考えさせている。

何せ、彼女たちは後方支援が専門で戦う力がない。

 虎城はそれなりに戦える。しかし虎城の班員たちは虎城よりもはるかに武力が低い。護身術程度の動きは身につけさせたけれども、普通の人間が拳銃でも構えていたらおそらく敗北するだろう。その程度の武力なのだ。

 上級になりかけの松常久たちの襲撃で生き残っていられるわけがない。どうしてもそう思ってしまう。だから、ディーの希望を持たせるような話が信じられなかった。

 倒れそうな虎城にディーが答えた。

「松常久は生き人形を体に埋め込んでいた。俺が確認した限りでは五つ。須賀ちゃんが見抜いてくれたんだ。

『松常久は生き人形をエネルギー源にしているのではないか』ってね。

 虎城さんの班員たちが見つかっていないのは、もしかしたら人形にされているからかもしれない。ただ、もしかすると、まったく関係のない誰かなのかもしれない。

 しかし松常久の心情と、今の状況から考えると一番可能性が高いだろう。

 もしも俺たちの推測が正しければ、あなたたちの班員はひどい状況にある。生き人形にされてマグネタイトを絞られているわけだからな。

 ただ、まだ可能性はある。それもいい方向に。少なくとも俺はそう思いたい。ハギちゃんも同じ気持ちだと思うぜ。そうだろ、ハギちゃん?」

 スポーツカーの近くに立っているハギヨシにディーは同意を求めていた。ディーに同意を求められたハギヨシは軽く微笑んでうなずいた。


 ディーの話を聞いて虎城は何度も何度もうなずいていた。ただ、顔を見せないように下を向いている。また声は出さなかった。そしてうなずいている間、何度も鼻をすすっていた。

いろいろな感情が心の中にわいていた。冷静な自分と喜ぶ自分の狭間で彼女は揺れているのだ。そうなってくると、自分の心がよくわからなくなってくる。
 どうしたらいいのかわからない心のなか、ひとつだけはっきりとしているものがあった。ただ無性に灰色の少年に虎城は礼を言いたくなっていた。


 やっとこれでどうにかなったという雰囲気が流れてきた。そうしていると背の高いメイドがハギヨシのところにあわてて走ってきた。メイド服のロングスカートが翻っている。

 井上純だ。彼女はずいぶん顔色が悪かった。彼女が走ってきたのは、急いで伝えなくてはならないことがあるからだ。非常に無作法なのはわかっていたけれども作法よりも情報を伝えることが大切だった。

 息を切らせている井上純にハギヨシが聞いた。

「どうしました?」

ハギヨシは少し驚いていた。井上純がここまであわてて無作法にしているのを見たことがなかったからである。

 井上純はこのように答えた。

「松常久がパーティーに現れた。あのおっさん、虎城さんが裏切り者だと演説を始めやがった!」

 井上純は一気に言葉を吐き出した。ずいぶん怒っていた。それはそのはずで、松常久が行っている演説がずいぶん腹の立つ内容だったのだ。それにパーティー会場にいきなり現れて、パーティーを台無しにしてしまったというのも怒りの原因になっている。

 井上純の話を聞いたとき、ディーが鼻で笑った。そしてこういった。

「馬鹿が。自分から殺されにきたのか?

 それにどうして虎城さんがヤタガラスの構成員を殺さなくちゃならないんだよ。俺たちに罪をおっかぶせるにしても、いくらなんでも話が通らない」

 ディーが笑うのも無理はない。もうすでに松常久の結末は決まっている。処刑だ。松常久の悪行はすでにヤタガラスの幹部達に報告している。そして十四代目にもハギヨシが直接連絡を取って伝えている。

 しかも虎城がぜひ読心術を自分にかけてくれと願い出てくれている。いまさら何を演説したところで結末が変わることはない。だからディーは松常久を笑うのだ。演説をひとつ打ったところで結末は変わらない。

むしろ、追いかける手間が省けたと笑うのだった。オロチを目覚めさせて一般のサマナーを危険にさらした罪についても追い込まなくてはならないのだから、ちょうどいい。

 またディーと同じように虎城がこういった。

「ふざけないでよ。何で私が裏切りなんて……あの子達を私が殺すわけがないないじゃない」

 怒りももちろんある。しかし悲しさでいっぱいといった様子だった。虎城はもう激しく怒るだけの力がないのだ。氷詰めになっての逃亡。命を奪われるかもしれないという不安。無関係の京太郎とディーを巻き込んでしまった罪悪感。それに加えて見るものを発狂させかねないオロチの触覚との遭遇。

今の虎城はどうにか立っているだけの状態だ。少し押せば完全に折れるだろう。松常久の謀略に反応できるわけもなかった。

230: ◆hSU3iHKACOC4 2015/05/05(火) 00:06:24.77 ID:py78Qnqv0
 井上純の報告を聞いたハギヨシは十秒ほど黙っていた。そして冷えた声でこういった。

「あぁ、そういうつもりですか。はっきりとした証拠がないのと、先輩と私の立場が悪いのを利用しているわけですね。

 かつてヤタガラスの利益の幾つかをつぶした私たちが共謀して松常久を貶めようとしていると、そういうストーリーを作ろうとしているわけですか。

なるほど、先輩を護衛にしていたのはただの偶然でしょうが、利用してきましたね。

 そこまで賢い人には見えませんでしたけど……助言されたか?」

ハギヨシが非常に冷静だったのは

「こういうこともあるかもしれない」

と考えていたからだ。もちろん、可能性があったというだけで、本当にこの手段を選ぶとは考えていなかった。それこそ一パーセント未満の可能性だとハギヨシは見ていた。

 ハギヨシの考えだと、一目散に逃げるのが一番で八割、二番目はスケープゴートを用意して自分は関係ないのだといって逃れる方法が一割と少し。

 虎城に全ての罪を着せるというのも、なくはない方法だった。しかしこの方法というのは虎城どころか京太郎とディーを始末して、かつ情報を外に漏らさなかったときにだけ有効な方法だ。

なぜなら一人でも生き残れば、生き残りに読心術を使い情報を手に入れることができるからだ。そうすれば十四代目は松常久を始末しに動く。

 十四代目からすれば内偵をしなければならないほど黒い相手なのだ。そんなところで内偵を行っていた構成員が行方不明になる事件が起きれば問答無用で始末しに来る。

 何にしても松常久の行動予測が頭にあったハギヨシは当事者である虎城とディーよりも余裕を持って事情を把握できた。

 ざっくりいってしまえば、殺人事件の加害者が証拠のないのをいいことに、被害者と、その関係者に罪をかぶせてしまおうとしているのだ。

「自分ははめられたのだ。証拠もないのに私が犯人だとみなが証言する。おかしいではないか。証拠もないのにどうして私が犯人にされるのか。

 被害者を語るものたちの証言などまったく信用できない。彼らは私をはめようと手を組んでいるのだ。

 確実な証拠を要求する! なければ私を裁くことはできない! 私は白だ!」

このようなものだ。加害者のところを松常久に、被害者の部分をヤタガラスの構成員たちに変えておけば、大体正解である。


 冷えたハギヨシの独り言を聞いたディーがこういった。

「ハギちゃん、証拠なら虎城さんがいる。須賀ちゃんと俺がここまで連れてきた虎城さんがここにいる。彼女は読心術を受ける覚悟がある。証拠になるだろ?」

 ディーは困っていた。額に手を当てて、考え込んでいる。松常久の考えがさっぱりわからないからだ。たしかに松常久のやり方は通らなくもないやり方だ。

普通の裁判ならば、それでどうにか通るかもしれない。完全に黒と言い切れないのなら、処罰するのは難しい。権力もそこそこにもっている松常久であるから逃げ切れるかもしれない、普通の裁判なら。

 しかし、松常久が事件を起こしたのはサマナーたちの領域だ。裏の世界といっていい領域である。悪魔がはびこり、超能力が飛び交う世界だ。普通の証拠などまったく意味を持たないのは常識である。

常識だからこそ、読心術を使うという必殺技があるのだ。当然今回も読心術を使うだろうし、使って当然と誰もが言う。そうすることで簡単に真実がわかるからだ。ならば、逃げ切るのは無理だろう。

 ディーもサマナーの常識がわかっているので、松常久のやり方がさっぱりわからなかった。

 うろたえているディーにハギヨシがこういった。

「力押しでくるでしょう。おそらく松常久はこういいますよ。

『虎城は共犯者なのだ。ハギヨシたちと手を組んで私をはめようとしている』と。

 もしかしたら、こういうかもしれませんね

『十四代目は弟子たちを使って自分を落としいれようとしている。ライドウは信用できない』と。

 もう少し突っ込んでくるかもしれませんね。たとえば

『龍門渕も協力しているに違いない。六年前の事件で株を上げたことに味を占めているのだ。今回は私をつぶすことで利益を得ようとしているに違いない。
 私に読心術をかけて有益な情報を奪おうとしているのだ! 口座番号、裏金のありか、特殊な技術。私にはそれがある!』

などという感じで。

 まぁ、ケチを付けられるところにつけまくり延命しようとしている、というところでしょうか」

 ハギヨシは目を細めていた。松常久がどのような行動をとろうとしているのかを話すハギヨシの口調からは余裕が感じられた。それもそのはずで、いくら松常久がもがいたところで結末は変わらないという確信があるからだ。

 まずすでに、十四代目には全てを報告している。そうなれば十四代目はヤタガラスに働きかけるに違いない。内偵を進めていたのだから、当然十四代目は動く。十四代目が動けば、これだけでヤタガラスは松常久を切りにかかるだろう。長きにわたり帝都を守り続けたライドウの影響力、カリスマというのは非常に大きいのだ。

 何なら、ディーからの報告から手に入れた松常久が悪魔に堕ちたという情報を使い始末してもいいのだ。いくら小ざかしく立ち振る舞ったところで、結末は揺るぎようがない。

231: ◆hSU3iHKACOC4 2015/05/05(火) 00:10:24.50 ID:py78Qnqv0
 松常久の延命についてハギヨシが推測をすると、虎城はこういった。

「十四代目は松常久を怪しいと思っていたはずです。内偵を進めたのもそのため。今回の一件で黒が確定したとみていい。逃げられるわけがない。無駄な足掻きのはず」

 虎城の指摘にハギヨシが答えた。

「無駄でしょうね。しかしあがき続けるでしょう。ここであきらめたら処刑ですからね。潔くあきらめたりはしないでしょう。

 松常久にはいいギャンブルに見えているのでしょうね。

 師匠がこのパーティーに出席していたら一発アウトですけど、今日はひ孫さんのところにお見舞いらしいので、松常久は一つ延命できています。

 師匠がいないとわかって調子に乗った松常久はこんなことを考えているのではないでしょうか。

『なんの確証もない松常久を裁くのは不利益が多いと、ヤタガラスの幹部達に思わせたい』

 今日のパーティーにはヤタガラスの関係者しかいませんからね、演説をするにはいい状況でしょう。

 灰色の状況で松常久を切るためには、確固たる証拠が必要になります。そうしなければほかの下部構成員たちが疑心暗鬼になる。

 六年前に私たちが幹部達を始末したのを知らないものはいませんからね。

『幹部でも切り捨てるのだから、下部の構成員などゴミのように捨てられるのではないか』

 構成員から大量の疑心暗鬼を生みたくないのならば、自分を見逃せと暗に伝えているのですよ。

 松常久は、なかなかのギャンブラーですね。即始末されるかもしれない恐怖を乗り越えて演説をしているはずですよ」

 そして更に続けてこういった。

「まぁ、このパーティーを乗り切れたらスケープゴートでも用意するつもりでしょう。記憶をいじったスケープゴートをね」

 ここまで言い切るとハギヨシは歩き始めた。歩きながらハギヨシはこういった。

「パーティー会場に向かいましょうか。さっさと始末してしまいましょう」

パーティー会場に向かうハギヨシはすでに結論を出していた。

「松常久の賭けは負けだ」

 なぜ松常久の敗北だといえるのか。それはヤタガラスの幹部達は松常久のゆさぶり程度で揺らぐことはないと確信しているからだ。仮にこの程度の揺さぶりで揺れる幹部がいたとしたら、六年前のハギヨシとディーは楽に天江一家を助けることができただろう。

六年前のハギヨシとディーの所業からすれば、まったく松常久の演説など比較に値しない。今のハギヨシにあるのは、好き勝手に演説をぶちまけている松常久をどういう方法で始末するかというひとつだけだ。


 ハギヨシに続いて、ディーと虎城が歩き出した。二人はハギヨシの少し後ろを歩いていた。

 そしてハギヨシの話を黙って話を聞いていた龍門渕透華と井上純がそろって歩き始めた。

 ハギヨシを追うディーは冷静になっていた。ハギヨシがずいぶん怒っているのに気がついているからだ。もしものときは自分が止めなければならないとディーは冷静さを取り戻していた。

 ディーの後に続いたのは虎城である。何とか彼女は自分の足で歩けていた。やることがまだあるとわかっているからだ。気力を振り絞っていた。

 大人三人の後を追いかけるのは龍門渕透華と井上純である。見知ったハギヨシとディーから漂ってくる修羅場の気配に彼女たちは萎縮していた。話に聞く修羅場と実際に体験する修羅場とでは精神的にかかる圧力というのが違うのだ。彼女たちはこういう体験は初めてだった。




 パーティー会場では、松常久がわめいていた。ずいぶん顔色が悪かった。汗もかいている。それに足元がふらついていた。マラソンでも走ってきたのかというような調子である。さらに眼球が左右に激しく揺れているのは病院に行ったほうがいいのではないかと思わせる不気味さがあった。

しかしそれでもわめいている。

 わめいている内容は、たいしたものではなかった。

「ライドウが自分をはめようとしている」

とか、

「ライドウの弟子たちが自分をはめるために動いている」

とか、

「ライドウの弟子たちはヤタガラスに敵対するようなまねをしたではないか。今回もそうだ。十四代目の一番弟子のベンケイも二番弟子のハギヨシも私をはめるために口裏を合わせているのだ。
 私に読心術をかけて情報を奪い取ろうとしている。私の頭の中には貴重な知識が山ほど詰まっているから、それを欲しているのだ!」

などのようなものである。およそハギヨシが予想したとおりの演説だった。ただ、龍門渕とライドウを罵倒する言葉が予想よりも多く見られた。

232: ◆hSU3iHKACOC4 2015/05/05(火) 00:13:56.41 ID:py78Qnqv0
 パーティー会場に招待されているものたちの反応はいろいろだった。しかしほとんどの人は黙って聞いていた。わずかに鼻で笑っている人たちがいて、ほんの数人だけまったく違った行動をとっていた。

 会場のほとんどは、黙って聞いている人たちである。黙って聞いている人たちは同意しているから黙っているのではない。何がおきたのかさっぱりわからないから、話を聞いているのだ。いきなり始まった演説である。どういう流れの事件が起きているのか理解するために話を聞いていた。

 虎城やディーのように実際に襲われた人ならばすぐに嘘だとわかるだろう。特に松常久は悪魔に堕ちてしまっている。この事実だけでも、十分処刑される罪なのだ。

しかし、パーティー会場にいる人たちのほとんどは、そういう事実を知らないし、今はじめて構成員が行方不明になったのを知ったのだ。当然判断を行うために情報が必要で、そうなると黙って聞くしかない。

 鼻で笑っている人たちというのもわずかにいる。松常久の話を聞いて鼻で笑ったのは、完全にライドウ側の人間だからである。よくライドウと交流して、ライドウが何を考えて動いているのかを知っている人たちだ。

そのためライドウが松常久のような小物をいちいち罠にはめるわけがないとわかっている。始末しなければならないと判断すれば、すぐに始末しに来るのがライドウである。

 そして笑っている人たちが一番おかしいと思っているのは、ライドウの馬鹿弟子二人、ベンケイとハギヨシがいちいち師匠のために動くというところだ。これが一番ありえない。

ベンケイなら面倒くさいからいやだといって断るだろう。そういうタイプである。

 ハギヨシならば動いてくれなくはない。しかしお願いの内容によってはライドウに牙をむく。だから鼻で笑った。

「扱いにくい二人が都合よく動いてくれるものか」と

 そして会場の中のほんの数人だけが、パーティー会場の様子をじっくりと観察していた。この人たちは演説している松常久ではなく、パーティー会場の出席者たちを観察していた。

 この数人とは龍門渕透華の父親と祖父のことだ。二人とも冷え切った目でパーティー会場全体を見渡していた。透華の父親と祖父がパーティー会場全体を観察しているのは、内通者がいるのではないかと考えたからである。

 というのが、松常久は非常に無茶な賭けに打って出ている。自殺行為だといってもいい。今この瞬間に討伐されてもおかしくないのだ。しかしあえてここに出てきているというのなら、勝てるかもしれない可能性があるからだろう。

 仮に、ここで勝つことができるとしたら、それは会場にいる数名の幹部を完全に自分の思惑通りに動かしヤタガラスの決定を覆すところまで持っていく奇跡を起こすことだけである。

 奇跡を起こすために、演説ひとつだけでどうにかなるわけがない。しかし、松常久はここに来ている。ということは、自分ひとりではないという可能性があるだろう。

 つまりパーティー会場に松常久の仲間がいるかもしれないのだ。幹部を扇動する誰かがいるかもしれない。

 龍門渕透華の父親と祖父が冷えた目で会場を観察しているのは、もしかしたらを考えた結果だ。すでに人攫いの事件についてはよくわかっている。わかっているからこそ、明らかになっていない仲間の存在を疑ってしまう。

退魔の家系を狙った人攫いの仕事は、準幹部松常久程度の力で出来る仕事ではなかった。ただ、松常久はヤタガラスだった。ならばヤタガラスの身内を疑ってしかるべき。当然幹部も疑うべき。そういう頭になっているのだ。


 パーティー会場にたどり着いた龍門渕透華は一瞬立ちすくんだ。異様な熱気を感じたからだ。松常久の怒声とその迫力、そしてパーティー会場の出席者からただよう黒い念を感じ取ったのだ。

自分に向けられたものではないにしても、いい空気ではなかった。特に異能力者のパーティーであるから、渦巻く空気は地獄のようである。

 しかし松常久の聞くに堪えない演説を見せ付けられて、ひるんでいた龍門渕透華が魔力を練り始めた。

 今までの萎縮振りが嘘のように、一気にいつもどおりの龍門渕透華に戻っていた。ドレスの長いスカートをつまみ、一発食らわしてやろうと意気込み始めている。肌が白いため怒りで赤くなっているのがすぐにわかる。

 彼女が殴りかかろうとするのはしょうがないことだ。自分の一族とヤタガラスを侮辱する内容が耳に入ってきている。それも聞くに堪えない言葉ばかりで飾られている。彼女には許せないことだった。

自分たちは不正などしていない。ヤタガラスの幹部として使者として真面目にやっている。恐ろしいと思うことも山ほどあるのに、必死でやっている。そんな一生懸命なところに、侮辱などされれば、火もつく。

 さて殴りにいくかと意気込んでいる龍門渕透華を井上純が止めた。必死だった。ここで殴りに出て行けば、間違いなく別の問題が起きるからだ。特に龍門渕のお嬢様が殴りにいくのはまずかった。

今は龍門渕とヤタガラス、そしてライドウに罪をかぶせようとしている最中なのだ。しかも非常にあいまいな状況で不安定だ。ハギヨシは大丈夫だといっているけれども、万が一ひっくり返されたとき、どんな面倒が起きるのかはわからない。

なら、不用意な行動をとるのは控えるべき。井上純はすぐにそれに思い当たり、おもいきり龍門渕透華にしがみついたのだ。そして

「落ち着いてくれ! 手を出したら不利になる!」

となだめるのだった。

233: ◆hSU3iHKACOC4 2015/05/05(火) 00:17:55.60 ID:py78Qnqv0
 龍門渕透華と井上純が騒がしくしていると、パーティー会場が静まり返った。会場の出席者たちがハギヨシの出現に気がついたのだ。

 パーティー会場にハギヨシが姿を現したところで、空気ががらりと変わった。会場にいた者たちは動きを止めて、言葉を吐き出せるものはいなくなった。演説を行っていた松常久も生き残りの黒服三人も黙り込んで動けなくなっていた。

 それもそのはず、会場に現れたハギヨシから漂う空気があまりにも剣呑だった。今まで汗だくになって騒いでいた松常久の汗が一気に引いて、青ざめるほどである。ハギヨシから発せられている空気は非常にわかりやすい主張がこもっていた。

「何を語ろうとも、始末する」

 黙るしかないだろう。衆人環視の状況と、読心術の結果が出ていないためハギヨシは手を下していないだけだ。人目がなくなるか、読心術の結果のどちらかが達成されれば、すぐに松常久と三人の黒服は始末されるだろう。

口に出さずともわかる揺らがぬ決定。そして流れ出す禍々しい気配は、パーティー会場にいる百戦錬磨のサマナーたちでさえ怯えさせていた。


 そんな状況で、やっと声を出したのが松常久だった。

「やっと現れたな。さぁ、ヤタガラスにはむかったその女をこちらに引き渡せ。そうすれば無念のうちに消えていったものたちも救われるだろう!」

 何とかハギヨシに体を向けていた。声は震えていたが、言いたいことは言えている。松常久は今すぐにでも逃げたい。真正面から見るハギヨシがあまりにも恐ろしかったのだ。

殺気という見えないはずの気配が、刃になって自分を狙っているような錯覚さえ起きていた。悪魔に堕ちていなければ、恐怖でショック死していたかもしれない。

 しかしそれでも演技をしなければならなかった。なぜなら、松常久は正義の味方という役を演じていたからである。少なくともパーティー会場に入ってからの松常久はそうだった。

「ヤタガラスの構成員を始末したのは虎城で自分は虎城を追い詰めるために動いていた。そして犯人である虎城の背後にはハギヨシがいて十四代目葛葉ライドウがいる。

 このままでは人攫い事件とヤタガラスの構成員が行方不明になっている件について罪を押し付けられるかもしれない。

 そうなれば自分は貴重な情報を抜き取られて、つぶされるかもしれないので、無茶をしても正義をなそうとした」

 そういう体裁で、演説をしていたのだ。ならば、ハギヨシに出会ったのならば、正義と道理の下にひれ伏すがいいという形をとらなくてはいけない。だから恐ろしくともハギヨシに堂々と立ち向かい、犯人である虎城を引き渡すように叫ぶのだった。
 

 ただ、一番に松常久に反応したのは虎城だった。力を振り絞って虎城が叫んだ。

「ふざけないで! 部下をそろえて襲い掛かってきたくせに! 口封じのために、部下を差し向けてきたのを忘れたのか! それにあんたは悪魔に姿を変えた!」

 虎城の声が震えていた。しかしそれは恐れのためではない。怒りと悲しみのためである。なぜこのような侮辱を受けなくてはならないのか。だから彼女は叫んだのだ。叫ばずにいられなかった。

 虎城がこのように叫ぶと、松常久がすぐに返してきた。

「知らないな。私はこのパーティーにまっすぐ来たのだ。君たちを襲う? 部下を差し向ける? 悪魔に変身? いったい誰と勘違いしているのかな?」

 松常久は自信満々に言い切った。なぜならば証拠などないからである。松常久の思うところからすれば、読心術さえなければどうにか逃げ切れるはずなのだ。龍門渕で演説を行っているのも読心術を受けたくないという一念のためである。

 ライドウが不正を行っているから、読心術を受けたくない。間違いなくヤタガラスやライドウの信奉者から睨まれるだろうが、それでも読心術はいやなのだ。読心術をかけられるかどうかに松常久の全てがかかっている。

 実際のところ松常久と虎城が出会ったという証拠はどこにもない。少なくとも現世に証拠はないだろう。現世で襲われたのは間違いないことだが、すでに悪魔の力を使い証拠は消されている。

次に出会ったのはオロチの創る異界だ。異界に証拠があるのか。ない。ないのだ。まったく何もない。京太郎とディーを証拠としてみても、もちろんベンケイも、松常久は共犯なのだろうといって終わらせるつもりだ。

六年前の九頭竜事件を背景にしたパワープレイである。ほかの誰かが現れても同じように切り抜けるつもりだ。お前も共犯なのだろうと突っぱね続ける。

 だから松常久は思うのだ。読心術さえ乗り切ればどうにかなる。読心術さえかけられなければ、情報は外に漏れない。読心術が自分を破滅させるが、読心術自体を疑わしいものにすれば逃げられる。そう信じて、自信満々に出会っていないというのだった。

 
 結末がわかっているのか、いないのか松常久はパーティー会場の出席者に向けてこういった。

「皆さん、お分かりでしょう! 彼女たちは私を落としいれようとしている。彼女らはこういうわけですよ

『身の潔白を証明したいのなら、読心術を受けろ』とね!

 そうやって情報を引き出して私たちを支配しようとするのですよ、このライドウの一派は! 護国を胸に生きている私を、食い物にしようとしている!」

 今までにないほど声を張り上げて松常久は主張し始めた。松常久のテンションは最高潮だった。読心術をなんとしても避けるために無謀な行動に打って出たのだ。ここで、ヤタガラスの読心術には裏があると会場の関係者たちに思わせることができさえすれば、どうにかなる可能性があると思っている。

命がけの大博打だ。引き込むためには何だってする。たとえそれが茶番であっても。

 

234: ◆hSU3iHKACOC4 2015/05/05(火) 00:21:26.46 ID:py78Qnqv0

 演技を続ける松常久に虎城が叫んだ。

「嘘だ! あんたたちはオロチにいた! 私たちを殺すために追いかけてきた! オロチを目覚めさせて混乱を招いたのを忘れたか!」

 叫んでいたけれどまったく覇気がない。弱弱しくて今にも泣き出しそうだった。虎城にはもう体力が残されていないのだ。気力もいよいよ失われている。それでも言い返しているのは、自分の部下たちに対する気持ちがあったからだ。

 虎城の叫びに松常久がこういった。

「証拠はどこにある? ないだろう? もしかして君の記憶が証拠にでもなると思っているのか?
 
 君もライドウの一派なのだろう? 君の記憶は証拠にならない! いじくった記憶かもしれないからな!
 
 わかっているとも、そうやって私の頭の中にある情報を引き出そうとするわけだ、犯人でないのならば、読心術を受けられるだろうと!

 その手には乗らないぞ! そうやって掠め取ろうとしているのだろう私の情報を!

 ひゃははははは!」

 松常久は笑っていた。叫ぶ虎城のうろたえようが、自分自身の主張を高めてくれたからである。彼女が弱まり、自信なさげにしているのが、松常久の追い風になると信じている。松常久は会場の空気が自分に味方しているのを感じ、そして、わずかでも延命できることを喜んだ。

 松常久の指摘を受けると、虎城はうつむいた。唇をかみ締めて、握りこぶしを作り震えた。彼女は自分では松常久を追い込めないと理解したのだ。

限りなく黒に近い罪人を追い詰める方法が無いのが悔しくてしょうがない。

 場の空気をがらりと変えるほどの、根拠を持っていない。彼女は自分の記憶をヤタガラスに提供することで松常久を追い詰めようとした。読心術によって提供できる記憶が彼女の必殺技だったのだ。

しかし場の空気が、ヤタガラスの読心術を許してくれそうにない。そのとき、いったい何が証拠として採用されるのか。物証だ。しっかりとした物証が必要になる。悪魔の力を使えばなんでも偽造できるサマナーの世界でさえ揺らがない証拠が必要なのだ。

 彼女は何も持っていない。さっぱりこの場で松常久を打ち倒す証拠がない。虎城は自分ではもうどうすることもできないと悟った。そして、敗北したということも。しかしこの敗北は個人的な敗北で、心情的なものだ。ただ、口げんかに負けただけ。それだけだ。

 結末は変わらない。パーティー会場の空気をいくら乱そうと、ヤタガラスの幹部達が決定を翻すという話になるわけではない。また、仮に翻ったとして龍門渕から無事に帰れるという保障はどこにもない。

松常久の行った演説はただ虎城の心をへし折っただけである。むしろ生き残りたいというのなら、逆効果だったとさえいえる。

 なぜなら松常久の前にはいよいよ爆発寸前のハギヨシが待ち構えているのだから。ディーが必死に止めていなければ、この瞬間にでも三人の黒服もろとも消し飛んでいただろう。


 
 このやり取りを見ていたパーティーの出席者たちは同じような振る舞いをした。気の毒そうに虎城を見つめるばかりである。そして内心このように考えている。およそ、このようなもの。

「おそらく松常久は黒だろう。振る舞いに余裕がないのも、この場でライドウに喧嘩を売るようなまねをするのも、その証拠。

 しかしヤタガラスの準幹部を完全に切り捨てられる証拠を持って現れなかったのが彼女の失敗だった。

 法律が役に立たないこの世界で、そしてこの場で、衆人環視の中で正義を立てられるほどの根拠が彼女にない。それなのに声を上げ、松常久の前に出たことで言い負かされた。

 実際、無理やりに始末すれば、それこそ松常久の言葉通りにライドウの一派が私利私欲のために動いていると邪推されることになる。下手をすれば、いやな噂を立てられるかもしれない。

ただでさえ敵の多い十四代目葛葉ライドウだ。足を引っ張りたいと思うものは山ほどいる。これ幸いと騒ぐものもいるだろう。

 ヤタガラスの幹部達はこのパーティーのやり取りを気にして彼女に読心術をかけないかもしれない。どこかから証拠になる人物を探してくるかもしれないが、その間に記憶をいじられたスケープゴートが用意されるだろう。

 だからといってライドウとその弟子たちはこの男を許しはしない。あの男たちは悪評など気にも留めない。必要とあらばカラスもキツネも殺す信念を持っているのだから。

 結果だけ見れば松常久の断末魔は女性の心をひとつ折っただけだ。その代わりに龍の逆鱗に触れる失敗をした」

 会場の出席者たちは誰もが松常久を黒と確信していた。

 しかし松常久の演説が必殺の読心術を封じつつあった。虎城自体が疑惑の対象になり、処罰が難しくなりはじめていた。根拠もないのに読心術を使えば、松常久の言うとおりライドウが私利私欲に走ったと思われるからだ。

それは困る。ヤタガラスの看板になっているライドウが傷つく。そしてヤタガラスの構成員たちもいつ自分たちの利益を奪われるかもしれないと不安に思うようになるだろう。
 
 「なら、いっそ今回の件は」

となるかもしれない。あるかもしれない。龍門渕の当主たちが心配している幹部級の裏切り者がいるとすれば、それも複数いればありうる結末だろう。今回の演説にいるかもしれない幹部級の裏切り者が乗ればいいのだ。


235: ◆hSU3iHKACOC4 2015/05/05(火) 00:25:33.29 ID:py78Qnqv0

 この複数の幹部級の裏切り者というもしもがなければ、結末は松常久の処刑で終わるだろう。確実に誰かが始末する。

 ただ、始末されればそれでいいのだろうか。少なくとも傷つけられたもの、馬鹿にされたものが救われない。

 虎城はうつむいて涙を流した。

 静まり返った会場。松常久が勝利を確信したとき、会場の扉が開いた。扉は大きな音を立てて開かれた。力加減がわからなかった京太郎が、思い切り扉を押したからだ。あまりにも強く扉を押したために、扉が壁にぶつかっていた。高価な金具がガタついた。


 虎城の心がへし折れる少し前の話だ。客室で国広一が京太郎を勧誘していた。

「もしよかったらさ、このままヤタガラスに入らない? 龍門渕所属でさ」

 ドライブでおきた一部始終を話した京太郎はアンヘルとソックから長い説教を受けることになっていた。説教中の京太郎はただ黙って聞いていた。京太郎も頭の悪いことをやったとわかっていたからだ。もしも他人が自分と同じことをしたとしたらもう少し賢くなれと注意していただろう。

 アンヘルとソックの説教の間に、国広一は少し頭を働かせたのだ。彼女が考えたのは、

「京太郎を自分たちの戦力にできないだろうか」

ということだった。

 もともと龍門渕にはサマナーが多い。長い間ヤタガラスの幹部をやっているのでネームバリューもある。それに資金に余裕があるためほかの支部よりも人材を集めやすかった。

 龍門渕は総合的に強い。とくに情報操作、情報収集、資産運用、魔法道具の創作に力がある。京太郎についての情報操作を行い、スムーズに日常に戻したのも龍門渕である。

 しかし龍門渕は総合して見ると評価が高いのだけれども兵力が低い。ハギヨシのような前線で戦える退魔士というのがほとんどいなかった。人数こそ集められるが、武将がいないのだ。前線専門で戦えるタイプというのはハギヨシとディーくらいのものである。これはまずかった。

 時代の流れからほとんどのサマナーが機械に頼った召喚術を使うのだ。便利なのはわかる。退魔士というつらい修行を積まなければたどりつけない境地を目指すものは少ないだろう。

マグネタイトを増やして、上級悪魔を呼べば修行など積む必要がなくなるのだ。素質が全てだったはずのマグネタイトは資金と資材さえあればいくらでも用意できる。時間と金さえあれば上級悪魔を凡人が呼び出せるのだ。そうなると便利なものを使わないわけがない。

 しかし退魔士というのも必要なのだ。全て機械頼りだとバランスが悪い。それこそ京太郎のような稲妻を使うタイプが戦う相手であればあっという間に召喚不可能になる。

いくら対策をしても精密機械は魔法の種類によっては一発で動かなくなる。稲妻など食らった日にはいうまでもないだろう。直撃を受ければ確実に壊れるだろうし、近くにいるだけでも強烈な磁界に巻き込まれてまともに動かなくなる。

 国広一からするとこれからの二十年、三十年は龍門渕透華の時代だ。龍門渕は透華が引っ張っていくのだ。そのときに純粋な武力がないのは恐ろしい。策士ではなく武人がほしいのだ。

 不安が多いのはよろしくない。国広一は「龍門渕透華の戦力」を増やしておきたい。ハギヨシもディーも正式な龍門渕の戦力ではないのだから、このときにでも増やせるのならば増やしておくべきだった。

 そしてこのタイミングならアンヘルとソックも簡単に自分の味方をしてくれると判断した。簡単に修羅場におどり出て、はるか格上と戦うような無茶をするマスターを持っているのならば間違いないだろう。

 なにせ日本国内でならば公権力と連携して動けるヤタガラス。そして資金の援助も多い龍門渕とのコネクション。マスターのことを心配している二人ならばうなずいてくれるだろうと予想した。また、アンヘルとソックさえ味方につけさえすれば、京太郎を説得するのは非常に簡単だと国広一は見抜いていた。

 そのあたりをついて説教中に、勧誘を差し込こんだのだ。

 国広一が京太郎を誘うと説教をしていたアンヘルがうなずいた。そして国広一の思惑通り、京太郎にヤタガラスへの所属を進めた。

「いいかもしれません。面倒なストーカーも抑えられるかも。

 それにメシア教会とガイア教団がちょっかいをかけてくるかもしれませんから、今のうちに手を打っておくほうがいいかもしれませんね。

 鬱陶しいだけですから」

 説教をしていたアンヘルは実に切り替えが早かった。すでにアンヘルの中では京太郎がヤタガラスに所属することは決定事項のようだった。国広一が何を思っているのかというのは少しも考えていない。

アンヘルからすれば、国広一がなぜ勧誘しているのかなどという瑣末な問題よりも、超ド級のストーカーからどうやって自分のマスターを守るのかという問題のほうがはるかに大切だった。

ヤタガラスに所属すればいくらかましな状況になるだろう。運よくすれば十四代目葛葉ライドウに話をつけてストーカーを黙らせることができるかもしれない。国広一の提案というのはアンヘルの目的とかみ合っていた。だから簡単に乗ってきたのだ。

 アンヘルが国広一の勧誘に乗るような話をして、少し間をおいてからソックが笑った。そしてこんなことを話した。

「天使ならメシア教会を薦めておくべきじゃないのか? というか、鬱陶しいって」

 国広一の提案にアンヘルが乗ったことをソックは何も追求しなかった。アンヘルが考えているような内容をソックも考えていたからだ。国広一に思惑があるというのはわかっていたけれど、たいした問題でないと判断していた。

それよりも、もともと天使だったはずのアンヘルがメシア教会を薦めないのが面白かった。出会った当初からおかしな天使であったが、鬱陶しいなどと言うとは思っていなかったのだ。


236: ◆hSU3iHKACOC4 2015/05/05(火) 00:29:24.88 ID:py78Qnqv0
 アンヘルは気の抜けた返事をした。

「へ?」

 まったく何がおかしいのかわかっていないようだった。アンヘルにしてみればまったく嘘などないからだ。

メシア教会もガイア教団もただ鬱陶しいだけなのだから、嘘はない。特にメシア教会辺りは彼女のもともとの気風からするとどうしても好きになれないのだ。

アンヘルが地上に降りてきたのは、自分の楽しみのためだ。唯一神をなのる新参者にも、その配下の理想にもそれにすがる人間たちにも興味がない。そのため、メシア教会を薦めないのかといわれてもさっぱりソックのいいたいことがわからないのだ。

 気の抜けた返事をしたアンヘルに天江衣が突っ込みを入れた。

「何だその反応は?」

天江衣も笑っていた。気の抜けたアンヘルがおかしかったのだ。

 
 気の抜けたやり取りをしていると客室の扉をノックするものがいた。ノックは三回だった。

 国広一が返事をすると少年が二人入ってきた。男子高校生だった。二人とも学生服を着ている。一人は京太郎と同じ学生服。もう一人は龍門渕の学生服を着ていた。

二人とも京太郎とそれほど変わらない背格好だった。この二人は京太郎の友達である。一人は京太郎に人探しを頼んだ友人。もう一人は京太郎が探して連れ戻した友人である。

 人探しを頼んだ友人の名前は淡河 鯨(おうご くじら)。京太郎と同じくらいの身長で、ワイルドな印象がある。肉体的に恵まれているけれども、雰囲気に角がなかった。動物でたとえると、大きな牛である。それも小動物が背中に乗れそうな穏やかな牛だ。

 京太郎が連れ戻した友人の名前は龍門渕 硯(すずり)である。京太郎と鯨よりも身長が少しだけ低かった。ずいぶん静かな印象があった。龍門渕透華のように派手なタイプではない。髪の毛も父親から受け継いだ黒色だ。母親の金色は受け継いでいない。

しかし人の中にいても目立ってしまうタイプだった。じっくりと観察せずとも、猫の中に虎が混じっているような違和感があるだろう。

 客室に入ってきた鯨が京太郎に挨拶をした。

「よう、京太郎」

軽く手を上げて、軽く微笑んでいた。鯨の横ではスズリが軽く会釈をしていた。

 客室に友人二人が入ってきたところで、京太郎はこういった。

「あれ? どうしたの二人とも」

なぜ龍門渕に二人がいるのかさっぱりわからなかったのだ。

 京太郎の質問に鯨が答えた。

「俺も招待されたんだよ。もともとはスズリがもどってこれたパーティーだからな」

 鯨は右手で頭をかいていた。少し気まずそうにしていた。というのが、鯨には負い目がある。スズリがさらわれたのは自分が遊びに誘ったからだと鯨は思っているのだ。

自分がスズリを誘わなければ京太郎も京太郎の両親も、スズリも、スズリの家族もつらい目にあわずに済んだのではないのかと気に病んでいた。

 鯨の答えを聞いた京太郎は質問をした。

「パーティー? あぁ、それでどうしたの? 何か用事?」

 京太郎は何度もうなずいていた。目が泳いでいた。パーティーのことをすっかり忘れていたのだ。

 京太郎の質問にスズリが答えた。

「透華姉ちゃんとハギさんの堪忍袋の緒が切れそうで、国広さんにとめてもらおうかと」

 スズリは冷や汗をかいていた。ものすごく恐ろしいものを見たからである。従姉弟が暴れだそうとしている姿を見てではない。ハギヨシの目があまりにも恐ろしかったのを覚えているためである。目が合ったときにはあまりの恐ろしさに笑ってしまうところだった。

ただスズリと鯨はずいぶん冷静だった。松常久の演説など二人にとってはどうでもいいことだったからだ。そのためいちいち龍門渕が正しいのか、それとも松常久が正しいのかと悩むことはなかった。いきなり現れた小男を信じるなどありえない話だった。

 さっさと決断を下した二人はハギヨシと透華を止めるために動いていた。衆人環視の中で、しかもそこそこの権力者たちの前で安易な暴力が面倒を呼ぶのは二人にも簡単に察せられたのだ。



237: ◆hSU3iHKACOC4 2015/05/05(火) 00:32:45.79 ID:py78Qnqv0
 
パーティー会場で面倒が起きているとスズリが話をすると、国広一はこういった。ずいぶん驚いていた。

「ハギヨシさんまで?」

 ハギヨシの沸点が非常に高いのを国広一は知っているのだ。よほどのことがなければ暴力には打って出ないはず。しかしスズリと鯨にでもわかるほど怒っていたというのならば、それは結構な出来事があったということである。

それが不思議だったのだ。透華だけならそれほど驚かないのだけれども。

 スズリが答えた。

「松、何たらって言う小さなおっさんが、騒ぎ始めたんですよ。それがハギヨシさんを怒らせる内容で」

 スズリは冷えた目で語っていた。ただ、スズリは具体的な演説の内容について語らなかった。語れなかったのだ。スズリにとって松常久の名前も演説の内容もどうでもよかったからだ。スズリの頭の中からはさっぱり消えうせている。

 スズリの答えを聞くと国広一はすぐに理解して動き出した。

「なるほどわかった。すぐに向かうよ」

 こういうと準備をして、客室から出て行った。


 国広一が姿を消したところで、京太郎がこういった。

「松常久か……パーティー会場って、どこよ?」

 松常久の名前を聞いた京太郎の目がほんの少しだけ赤く輝いた。京太郎は松常久を逃すつもりはないのだ。オロチの腹の中で逃してしまったけれども、本当ならば始末しておきたい相手である。そしてできるのならば、生き人形にされている人たちを取り戻したかった。

 京太郎がたずねると鯨がこういった。

「何だ、知り合いか? 今いくのはやめておいたほうがいいぜ、あのおっさん完全に目がいかれてたからな」

 鯨の正直な感想である。松常久の鬼気迫る演説を冷静に見ていた鯨には、少しおかしい人間にしか見えていなかったのだ。特に、眼球の動きが激しすぎて気味がわるかった。まともに話し合いなどできるタイプではない。それが鯨の印象だった。

 鯨にスズリがこういった。

「悪口はあまり言わないほうがいいよ。あのおっさん一応ヤタガラスの準幹部みたいだから聞かれていたらまずい」

と、鯨を注意してはいたけれども、まったく注意になっていなかった。注意をしているはずのスズリの口調が松常久を小ばかにしたものだったからだ。しかし一応は注意をしておいた。どこに耳があるのかわからないのだ。

 スズリと鯨に京太郎はお願いした。

「知り合い……まぁ、そうだ、知り合いかな。

 少し挨拶がしたくて。だめ?」

 京太郎は二人に手を合わせていた。特別京太郎は何をするつもりはない。ただ、挨拶をするためだけに顔を合わせておきたいと思っているだけだ。

 それ以上のことを京太郎からするつもりはない。松常久が罵倒してこようとも手を出すつもりはない。それをしたら龍門渕に迷惑がかかるとわかっているからだ。流石にいきなり攻撃を仕掛けるほど京太郎は馬鹿ではない。ただ、挨拶をして、確かめたいだけだ。そのためには顔を合わせる必要があった。

 だから案内のお願いをした。自分で会場を探すよりもずっと手間が省ける。

 京太郎がお願いするとスズリはうなずいた。

「わかりました。案内しますけど、状況が悪くなっていたら、引いてくださいよ。あと僕は手助けできるような立場ではないですからね。無茶しても助けられませんよ」

 スズリは非常にもやっとしていた。京太郎を松常久の前に出すことがよくないことにつながるような気がしているからだ。しかし京太郎のお願いを聞いた。それは京太郎に助けてもらった借りがあるからだ。

この程度で返せたとは思ってもいないが、利子程度にはなると考えたのだった。だから、案内することに決めた。

 スズリがうなずくと京太郎はイスから立ち上がった。そうして、スズリを先頭にして京太郎と鯨が客室から出て行った。客室から出て行くときに、鯨が京太郎にこういっていた。

「やばいと思ったらすぐに逃げろよ。本当にあれは目を合わせたらだめな人の目だったぞ」

 男三人が出て行くと、アンヘルとソック、そして天江衣も後をついて出て行った。ソックが立ち上がり、当たり前のように京太郎の後を追った。そして天江衣をアンヘルが肩に担いで歩き出したのだ。天江衣はどうすることもできずに運ばれるばかりだった。

 移動中、アンヘルとソックは微笑んでいた。何か面白いことが起きると予感したのである。一方肩に担がれている天江衣はニヤニヤしているアンヘルとソックに引いていた。テレビゲームで自分をはめたときの表情とそっくりだったからだ。

238: ◆hSU3iHKACOC4 2015/05/05(火) 00:36:31.84 ID:py78Qnqv0

 スズリに案内されて京太郎はパーティー会場に到着した。京太郎が会場の扉を開いたとき、すべての視線が、京太郎に注がれた。静まり返った会場だったのだ。そんなところで扉が壁にぶち当たっている。普通でもうるさい音なのに、静まり返っていたためにとんでもない騒音になっていた。

 扉を思い切り開いた京太郎は、扉を開いた格好のままでほんの少しだけ固まった。自分がいまいち加減ができていないのを忘れていたのだ。そしてお値段の高い扉をおそらく壊しただろうという予感で青ざめたのだった。

 パーティー会場に現れた京太郎を確認した松常久の顔色が非常に悪くなった。口げんかに勝ったという喜びは消え去っている。真っ青になり目が泳いだ。京太郎に殺されかけた恐怖を思い出したのだ。

 しかしすぐに持ち直して見せた。ここであわてたら今までの積み重ねが何もなくなるからだ。今の状況でさえ真っ黒に近い状態なのだ。かろうじて読心術を防いでいるだけで、少しのぼろで確実な黒になり始末される。

それはいやだ。松常久は死にたくない。だからここでもがんばって正義のヤタガラスを演じ続けていた。茶番でもやり通せれば命がつながる。今の松常久は世界中の誰よりも演技に真剣である。

 京太郎が動き出したのは扉を開いてから五秒ほどたってからである。動き出してからは早かった。松常久に目もくれず、ずんずんとうつむいている虎城に近づいていった。虎城に近づいていく京太郎の目は赤く輝いている。

今まであった京太郎の表情はなくなっていた。何もない。京太郎の目にはうつむいている虎城の涙がよく見えていた。

 うつむいている虎城の正面に立った京太郎は聞いた。

「大丈夫ですか?」

松常久だとか、怒りに震えているハギヨシだとか、必死になってハギヨシをとめているディーなどまったく目に入っていない。会場中の視線が集中するのも、どうでもよかった。

 京太郎の問いかけに虎城はうつむいたままうなずいた。

 京太郎は虎城の姿を見て、「そうですか」といった。

京太郎は納得したのだ。ずいぶん鼻をすすっているようだけれども、うなずいているのだから大丈夫なのだろうと。そして大丈夫なのだから京太郎はそれ以上は突っ込まなかった。虎城の性格はなんとなくだけれどわかっているのだ。

 そして大丈夫だというのを確認して京太郎は振り返った。松常久と挨拶をするためだ。挨拶をするときには、真正面に立って、相手の目を見なければならない。うつむいている虎城を見たままで挨拶をするのは失礼に当たる。だから京太郎は振り返ったのだ。きっちり挨拶をして、終わらせるためである。
 
 京太郎が振り返って、二秒ほど間を空けてから松常久はこういった。

「君が噂の魔人か。何の御用かな?」

 松常久の声は震えていた。歯がカスタネットのように打ち合っていた。京太郎の輝く赤い目を見てしまったからである。

 かろうじて声を出せているのは死の恐怖から逃れるためである。死の恐怖というのは二つある。処刑の恐怖と、魔人の恐怖である。松常久は早くこの場から立ち去りたかった。

 パーティー会場がざわついた。松常久が魔人という言葉を吐いたからだ。会場の反応は、大体が恐ろしいという反応だった。

 ほんの少しだけ違う反応をする出席者がいた。龍門渕透華の父親と祖父だ。彼らは出席者の数名を睨んでいた。松常久の失言に一瞬だけ対応を間違えたものがいたのを見逃さなかった。

 パーティー会場が騒がしくなった。しかしそんな中でも京太郎は変わらなかった。ただ、自分の目的を成し遂げようと動いていた。京太郎は目的どおりに挨拶をした。

「お久しぶりです松常久さん。先ほどはどうも、死ぬかと思いました」

 京太郎は頭を下げて挨拶をしていた。実に丁寧な振る舞いだった。京太郎はそもそも挨拶をするためにここに来たのだ。戦いに来たわけではない。だからこれでいい。


 京太郎が挨拶をすると松常久はこう答えた。

「始めましての間違いだろう? 私たちは初対面だ」

 震えていた松常久だったが、鼻で笑いながら京太郎に対応していた。松常久はこう考えたのだ。京太郎は自分を脅かして

「久しぶりだな」

といわせようとしたのだと。

 京太郎と松常久がであったのはオロチの世界だ。松常久の作り話では、寄り道をせずに龍門渕に参上したことになっている。裏切り者である虎城を追い詰めて、ハギヨシたちの悪巧みをつぶすために演説をしているのだという体裁でやっているのだ。

ということはオロチの世界に松常久はいなかったはずなのだから、久しぶりだといってはいけない。松常久の話を通すのならば京太郎とは初対面だ。

 つまりこういうことだと結論を出していた。

「輝く赤い目で自分を驚かして、萎縮させ、躓かせようとしたのだな。

 『お前は! あのときの』とか何度か出会ったような一言を引き出そうとしたのだな」

 しかしその思惑は簡単に見破られた。そして京太郎の愚かさを馬鹿にしたのだった。ここまで読みきった松常久は正しく答えたのだ。

「はじめまして」と。

239: ◆hSU3iHKACOC4 2015/05/05(火) 00:40:03.94 ID:py78Qnqv0
 松常久が「はじめまして」と答えたところで京太郎のワイシャツを虎城が引っ張った。京太郎の背中でうつむいている虎城も京太郎のたくらみを見破っていたのだ。

 そして虎城はすぐに京太郎が何をしようとしているのかも理解した。京太郎は自分の変わりに松常久を言い負かそうとしているのだと。だから止めようとした。松常久は無茶なことをやっているけれども、それなりに頭が回るのだ。

ここで印象を悪くして京太郎が不利益をこうむるのは虎城の望むところではない。

 虎城はこう思うのだ。

「私が泣くのはかまわない。ただ、須賀くんが巻き込まれてはだめ」

 しかし、声は出せなかった。うれしいやら悲しいやらと感情が混じり、思考が統一できず、体力の消耗も加わっていよいよのどが動かないのだ。
 自分のワイシャツを引っ張っている虎城を無視して京太郎はこういった。

「そうでしょうか。俺たちはオロチの腹の中で殺しあいました。初対面とはいわないはずです」

嘘を言う理由がない。本当のことだ。オロチの腹の中で出会い、命の取り合いをした。忘れられない体験だった。

 すぐさま松常久は返してきた。

「病院にいったほうがいい。それも大病院だ。君は妄想と現実の区別がつかないらしい。頭の調子を見てもらったらどうかな」

 松常久の話では二人は出会っていてはいけないのだ。だから京太郎の話は全て妄想だと切り捨てた。そうしなければ自分の話の筋が通らない。

 少し考えてから京太郎はこういった。

「悪魔に変身したあなたの姿をよく覚えているのですが」

 なぜ、松常久が嘘をつくのかがわからないのだ。自分と出会い、一戦を交えた。悪魔に変身した松常久の姿はよく覚えている。石膏像のような顔、二メートル近い身長。胴体部分に五体の生き人形がはめ込まれていた。頭を砕いたときの感触もしっかりと覚えている。京太郎はただ、認めてもらいたいだけだ。

そうしなければ久しぶりという挨拶が間違いになってしまう。

 松常久の返しは非常に早かった。ほとんど間を空けずに言葉を打ち込んできた。

「人間が悪魔に変身するわけがないだろう。それに悪魔に変身する術は、禁術だ。

 君は知らないかもしれないが、生物の肉体を持った悪魔というのは大変危険なんだ。特に人間の肉体を持った悪魔なんてとんでもない。サマナーの常識だよ、君。

 私がそんなマネをすると思うのか。ヤタガラスの準幹部である私が。

 もしかすれば、幹部に昇格できる立場にいる私が、そんな馬鹿をやるとでも?失礼にもほどがあるぞ」

 間を空けずに答えられるのはこのやり取りを予想していたからである。どんな玉が飛んできたとしてもしっかりと返せるように予想を立てていた。そしてしっかりと、演じていた。京太郎の、その場で考えた質問などまったく松常久を揺らがせなかった。


 京太郎の質問を完璧に叩き返した松常久は、急に頭をおさえ苦しみ始めた。顔色が悪くなり、脂汗を浮かべている。今にも倒れてしまいそうである。松常久は気分が悪くなっているのだ。そして頭が非常に痛い。体が鉛のように重くなり、手足を動かすのが難しくなってきている。

 京太郎と松常久のやり取りが済んだ所で京太郎の背中を虎城が叩いた。うつむいたまま京太郎の背中をパシパシと平手で叩いていた。

 これは虎城の「もういいから」という気持ちを形にしたものだった。彼女はもう、この場所で松常久をとらえるのをあきらめたのだ。言い逃れする松常久を自分たちが捕まえきれないのはもうわかった。だから、京太郎にもうがんばらなくてもいいと伝えたのだ。

 次の京太郎の行動が虎城には予想できている。このままやり取りを続けていたら京太郎はきっと暴力に走るだろう。目的は簡単にわかる。暴力に走れば松常久は悪魔に変身するかもしれないからだ。

 しかし暴力に走った瞬間、京太郎は凶暴な魔人だと認められることになる。松常久はこれも読んでいるだろう。きっと変身せずに耐えるに違いない。結果起きるのは京太郎の終わりである。虎城には認められないことだった。だからもういいと彼女は背中を叩いたのだ。


240: ◆hSU3iHKACOC4 2015/05/05(火) 00:43:02.71 ID:py78Qnqv0

 虎城が京太郎の背中を叩いたところで、松常久はこういった。

「申し訳ないが、失礼させてもらう。気分が悪い。その女の処遇は後で決めようじゃないか。正々堂々とね。そして君の処分も、そうだろ? 魔人くん」

 吐き捨てるようにという言葉が適切な口調だった。あっという間に京太郎との視線をきりパーティー会場の出口を目指して歩き出した。

そのときにずいぶん足元が怪しくなっていた。今にも倒れそうだった。そうしていると三人の黒服が松常久を支えに向かった。松常久も黒服も、龍門渕からすぐに逃げ出したいのだ。

ハギヨシももちろんだが、急激に高まっている京太郎の圧力から逃れたかった。

 立ち去ろうとしている松常久に京太郎は謝った。

「もしかしたら、俺のせいで気分を悪くされたのかもしれませんね。すみません」

 頭を軽く下げて、謝っていた。松常久を不快な気持ちにするために挨拶をしたわけではないのだ。不愉快にさせたというのならば、悲しいことだ。

 出口に向かって歩いていた松常久は、立ち止まってこういった。

「そうかもしれないな。君の失礼な発言がなければ、ここまで気を悪くしなかっただろう!」

 松常久は京太郎にも勝利したと感じたのだ。考えの浅い京太郎が思慮深い自分に敗北した。そう思うとたまらない気持ちになった。恐ろしい魔人を退けるのは知恵だ。そんな風にも感じていた。

 松常久のいやみから間を空けて京太郎が続けた。

「お詫びといってはおかしいですが、病院で脳を調べてもらうのがいいでしょう。そうすれば、悪さをしているものがすぐに見つかるはずです」

 京太郎の輝く赤い目はしっかりと松常久を見つめていた。松常久の気分が悪い原因を京太郎はよくわかっているのだ。だから気分が悪いのならば、原因を取り除いてもらえばいいと教えて差し上げるわけである。

 京太郎の指摘に松常久が笑った。

「君は医者かね? どうしてそんなことがわかる。いい加減なことをいってはいけないよ」

松常久から見れば、京太郎は頭の悪い子供だ。医者には到底見えなかった。頭の病気を疑えなどといわれても信じられるわけがなかった。


 笑う松常久に京太郎はこういった。

「わかりますよ。だって、あなたの頭の中にはヤタガラスのエンブレムが埋め込まれているのですから。

 あんなものが頭の中にあれば、気分も悪くなるでしょう。頭の血管が詰まってそのうち倒れてしまいますよ」


 京太郎は淡々と松常久に説明をした。京太郎は知っているのだ。松常久の頭蓋骨の中には特大のクサビが打ち込まれていると。

 打ち込んだものが誰なのかも知っている。京太郎だ。奈落に沈もうとしていたオロチの腹の中で、ヤタガラスのエンブレムを松常久の頭の中に叩き込んだ。

 松常久の様子がおかしいのは、埋め込まれたヤタガラスのエンブレムが脳みその働きを邪魔しているからに他ならない。悪魔の力があるために普通に歩き回れているが、悪魔の力があるからこそ異物を埋め込まれたことに気がつけなかった。

 逃げ出そうとしていた松常久の動きが完全に止まった。京太郎の話を受け止め切れなかったのだ。

 自分の頭の中にヤタガラスのエンブレムが埋め込まれている。そんなたわごとを理解したくなかったというのが正しいだろう。

 松常久には覚えがあるのだ。京太郎と立ち会ったときに打ち込まれた拳。光の中で視界が失われていたところを狙われて、二発攻撃を受けた。松常久はすぐに理解できていた。ただ、理解したら、自分の終わりもまた理解する羽目になる。

 茶番は終わったのだ。

 固まっている松常久に京太郎はこういった。

「オロチの腹の中で悪魔に変身したあなたの頭の中に俺がぶち込んだ。 光の中で視界が制限されていたから気がつかなかったか? それとも怒りでまともな判断ができなかったのか?

 異物が中に入ったまま自己再生をした様だな。何にしても、悪あがきはここで終わりだ。
 
 ヤタガラスのエンブレムには構成員の居場所を把握するための仕掛けがある。そうでしょ、ハギヨシさん?」

 輝く赤い目は松常久を睨み続けていた。はじめから京太郎は逃がすつもりなどなかったのだ。そして、松常久がなんとしても逃げようとするだろうと見越して、光の中で手を打った。それも言い逃れできない手段で行った。

 蛇のように執念深く京太郎は獲物を狙い続けていたのだ。

241: ◆hSU3iHKACOC4 2015/05/05(火) 00:46:34.47 ID:py78Qnqv0
 京太郎に声をかけられたハギヨシがあわてて携帯電話を操作し始めた。今までの怒りは引っ込んでいた。京太郎の切り返しに頭が冷えたのだ。そして今、自分は何をするべきなのかを理解した。

いまするべきなのはエンブレムがどこにあるのかをはっきりさせること。ハギヨシならばエンブレムがどこにあるのかを調べられるのだ。だから急いで確認した。

 ハギヨシが調べている間、松常久は、自分の頭に手をあてていた。顔色は青を通り過ぎて白くなっている。絶望からか、目に光がない。松常久は終わりが近づいてきたのを感じているのだ。

 会場がざわつき始めたところでハギヨシはこういった。

「確認しました。エンブレムは今、この場所にあります。松さん、あなたの頭の中にある異物、それが何なのか確かめなくてはならないですね」

 携帯電話に示されている座標をハギヨシは会場全体に示した。龍門渕だ。これで松常久の黒が確定した。

 ハギヨシの宣言を受けて、京太郎が再び挨拶をした。

「お久しぶりです。松常久さん」

 松常久は始めましてと返してはいけなかった。しかしお久しぶりですと答えるのもいけなかった。京太郎が目の前に現れ挨拶をしたとき松常久の終わりは決定していた。もう言い訳はできない。処刑はここで行われる。延命はない。


 松常久は黒で終わりとはっきりした。しかし彼はあきらめなかった。マグネタイトが吹き上がり松常久の姿が変わる。そして三人の黒服たちもまた、姿を変えていった。

松常久が悪魔に姿を変えたのは京太郎を始末するためだ。京太郎だけは生かしておけなかった。

 三人の黒服たちが悪魔に変身したのは、逃げるためだ。彼らは松常久と心中するつもりはなかった。


 叫びながら松常久は京太郎に襲い掛かった。

「貴様が! 貴様さえいなければ!」

 叫びながら振りかぶられた右腕は京太郎もろとも虎城を始末する軌道を描いていた。いよいよ何もかもがだめになったのだ。京太郎と虎城を道連れにでもしなければ死に切れなかった。

 全ては一瞬の出来事だった。襲い掛かる松常久にあわせて、京太郎の攻撃が打ち込まれた。たしかに松常久の動きは非常にすばやかった。野生動物ならばたやすく刈る力もあった。ただ、京太郎には遅すぎた。

 松常久の拳が振り下ろされるよりも早く、京太郎の拳が松常久に届いた。京太郎の拳は五発打ち込まれた。場所は全て、松常久の胴体である。

 あっという間に松常久はぼろぼろになりパーティー会場の床に崩れ落ちた。しかしまだ生きている。自己再生を行っていたが、非常に遅かった。マグネタイト製造機五つ全てが失われたからである。

 松常久が生きているのは京太郎が完全に破壊しなかったからである。しかしこれは松常久を見逃したということではない。松常久の「魔人」という言葉を聞き逃さなかった京太郎がわざと生かしているのだ。

 京太郎はわからなかった。松常久がどうして自分が魔人であると知っているのか、わからなかったのだ。 確かに京太郎は魔人である。それを知っている人もいる。ただ、誰もが知っていることではない。

 ドライブ中に虎城とした話から推測すれば、十四代目葛葉ライドウが情報制限をしかけているのは明らかだ。内偵を行う者たちの班長たる虎城が教えられていないのに、どうして内偵をかけられる相手が自分の情報を知っているのか。

確かに京太郎が魔人だと知る方法はある。魔人警戒アプリを使い京太郎に近寄ればいい。そうすれば警告音が鳴り響き正体がわかる。龍門渕のメイド、沢村智紀がしたように。

 ただ、オロチの腹の中で出会ったとき、また異界物流センターで出会ったときに誰も警告音を響かせなかった。となれば、どこで情報を知ったのかという話になる。

 いろいろな可能性はあるだろう。たまたま誰かが漏らしたという可能性。なくはないだろう。偶然たまたま、耳にして魔人だとわかった。パーティー会場にいる人たちのようなパターンだ。もしかすると姿を確認するだけで魔人とわかる異能力があるのかもしれない。

 しかし京太郎はこう思うのだ。

 「誰かが、松常久に情報を流したのかもしれない。この誰かとはライドウ経由ではなく、たとえば俺が魔人になった瞬間を離れたところから見ていたとかで情報を手に入れた何者か。

 ならば、その人物を探らなくてはならないだろう。なぜならその人物は松常久と連携して罪を犯していたのかもしれないから」

 龍門渕透華の父親と祖父が冷えた目で会場を監視していた理由でもある。京太郎は情報の先に誰がいるのかわからなかったが、生かしておくことが尻尾をつかむきっかけになるとわかっていたのだ。だから、生かしておいた。

後は龍門渕に任せるつもりだ。何もかも読心術でさらけ出すことになるのだから、松常久と仲良くしている誰かも見つけられると踏んでいた。

 松常久を叩きのめした京太郎は自分の手の中にあるものをじっと見つめていた。京太郎の手の中には五つの人形があった。少しひび割れているものもあったけれど、どれもしっかりと人形の形を保っていた。

 人形を見つめていた京太郎が微笑んでいた。ほっとして、大きく息を吐いている。自分の手の中にある五つの生き人形からマグネタイトの鼓動を感じられたからだ。自分の両手が松常久の血液で汚れているのは少しも気にならなかった。ただ、取り返せたことがうれしかった。


242: ◆hSU3iHKACOC4 2015/05/05(火) 00:50:05.46 ID:py78Qnqv0
 会場にいた者たちは京太郎の姿から全てが終わったと察した。

京太郎の手の中にある五体の生き人形。ぼろぼろになってしまった京太郎の服。そして輝く赤い目から流れている血涙。赤く染まった京太郎の両手。京太郎の姿は尋常なものではない。明らかに怪しい。しかし京太郎の浮かべる表情が終わりを教えてくれていた。もう、戦いに向かうものの空気ではなかった。

 京太郎の姿を見た出席者の何名かは、鼻を鳴らしていた。泣いているわけではない。京太郎の血の匂いをかいで、鼻を鳴らしたのだ。この何名かの気持ちというのはオロチと同じ気持ちである。
 
 松常久の三人部下、黒服だったものはハギヨシとディーによって始末されていた。すさまじい早業だった。京太郎が始末した松常久とは違い、抵抗しなかった。ぼこぼこにされるとすぐに人の姿に戻っていた。そして三人の部下たちは、事件の真相を話すから命だけは助けてくれと叫んでいた。

 騒然とするパーティー会場の中でハギヨシが京太郎にこういった。

「松常久は黒です。悪魔に変ずる技術を使い、構成員たちを襲った。そして人形化の呪いを使いマグネタイトを吸い上げていたようですね。構成員たちの遺体がなかったのは人形にされて連れ去られていたからでしょう」

 ハギヨシの声は会場全体によく響いていた。京太郎に向けての言葉だったけれども、会場に事情を説明するための言葉でもあったのだ。全体にわかるように話をすることで会場の沈静化を狙ったのである。そして、龍門渕と虎城にかけられた疑いを晴らし、名誉を回復するように動いたのだった。

 両手を赤く染めている京太郎にハギヨシがこういった。

「後は私に任せてください」

 ハギヨシは軽く両手を叩いた。すると龍門渕のヤタガラスたちが現れた。京太郎が龍門渕に来たときにすれ違った人たちである。彼らはあっという間に三人の黒服を黙らせて、松常久を動けないように縛り上げていった。

 龍門渕のすばやい対応を見て京太郎はうなずいた。松常久たちがこれからどういう扱いを受けるのか京太郎はまったく興味がわかなかった。専門家に任せればいいのだ。京太郎はやることをやった。口を出すことも手を出すことも、もうない。

 龍門渕のヤタガラスたちが松常久の口をふさごうと動いていた。松常久はいよいよ人の姿に戻っていた。今はただの小さな中年男性である。自害を防ぐための拘束をほどこされていくなかで松常久は叫んだ。

「悪魔め! 呪われろ! 万物に凶事をもたらす汚らわしい魔人め! いつか正義の刃がお前を貫くだろう!」

 間違いなく松常久の断末魔だった。パーティー会場によく響きわたった。叫んでいる間、龍門渕のヤタガラスが拳で殴り黙らせようとしたが、それでも止まらなかった。メイドのお手本のような格好をしているヤタガラスの女性に猿轡をかまされてやっとだまった。

 断末魔を聞いたハギヨシがこういった。

「黙れ。悪魔はお前だろうが」

 両手を血で染めた京太郎は松常久を見下ろしていた。目と鼻の先にいる松常久を見る京太郎は静かだった。京太郎の胸に痛みもなく断末魔は突き刺さっている。

 誰もが一発殴るだろうと思っていると、松常久に背を向けて京太郎は歩き出した。そのときに小さくつぶやいた。

「自分でもそう思っているよ」

 京太郎が歩き出したのは、アンヘルとソックの下に行くためである。京太郎の両手にはまだ生き人形が五体あるのだ。これを元の人間に戻す必要がある。京太郎にはできないけれど、アンヘルとソックならばできるかもしれない。松常久にかまっている余裕などなかった。


 少し離れたところで全てを見ていたアンヘルとソックのところに京太郎は歩いていった。京太郎の姿を見て、鯨とスズリが少し引いていた。血涙を流している京太郎の姿というのが不気味だったのだ。普段の姿を知っているため、よけいに不気味だった。気分はホラー映画である。

 アンヘルの前に立った京太郎はお願いをした。

「この人たちに回復の呪文をかけてもらえないか? 人形のままだと効果はないか?」

 京太郎はずいぶん不安そうにしていた。京太郎は呪術の知識がさっぱりない。そのため生き人形というのを上手く直せるのかというのもわからないのだ。アンヘルとソックがだめならば、忙しそうにしているハギヨシに頼まなくてはならないだろう。京太郎はできるだけ早く、被害者を元に戻したかったのだ。

 京太郎がお願いをするとアンヘルはうなずいた。

「大丈夫ですよ、私のマスター。人形の呪いは回復の呪文では解けませんが、壊れている部分を治すことはできます。人形のままでも生きていますから」

 アンヘルは話しながら回復魔法をかけていた。誰の目から見てもわかる勢いで機嫌がよかった。京太郎に頼りにされているのがうれしいというのもあるが、京太郎が実に面白いものを見せてくれたので、機嫌がよくなっているのだ。

輝く赤い目を超ド級のストーカーから押し付けられたのは悲しいことだったが、目の前で京太郎が見せたパフォーマンスは十分楽しめた。それだけでここに来たかいがあるというものだった。

 回復魔法をアンヘルがかけている間に京太郎にソックがこういった。

「人形の呪いは任せてくれ、我がマスター。 一度、解いたことがあるからな楽勝さ。

 しかしよかったのか? これでヤタガラス入門は避けられないぞ。ここまで目立ったら一般人には戻れない。龍門渕に所属しなければ、ほかの支部から誘いが来るだけだ。

 いつかは入らなくてはならなくなる。あの女を見捨てていれば平穏な暮らしに戻れたかもしれないのに」

 背の低いソックは京太郎を見上げながら笑っていた。ソックもまた上機嫌だった。茶番を綺麗さっぱり消し飛ばした京太郎の行動がソックの趣味に合っていたのだ。

 京太郎は自分の手の中にあった人形たちをソックに渡した。

そのときにこういった。

「かまわないさ、大したことじゃない。それよりも、呪いをしっかりといてくれ。頼むぞ、ソック」

 京太郎は政治的なやり取りの一切に興味がないのだ。だから実にどうでもいいという表情を浮かべて、そういう振る舞いをしていた。


243: ◆hSU3iHKACOC4 2015/05/05(火) 00:54:10.52 ID:py78Qnqv0

 茶番劇に決着がつくと、パーティ会場が騒がしくなった。出席者たちがそれぞれに口を開いている。いいたいことがいろいろとあるのだ。ただ、出席者たちの会話の内容には大体「魔人」という単語と「松常久の悪魔化」という単語が含まれていた。

しかしあまりいい雰囲気ではなかった。冷たい空気ではなく、妙な熱さが感じられる。熱に浮かされて頭がまともに動いていないように見えるものが多い。酒に飲まれた状態だった。

 今まで感じていた悲しい気持ちや冷たい気持ちはどこかに吹っ飛んでいる。この変化がおきたのは京太郎と松常久の戦いが出席者のための余興になったためである。もちろんそんなつもりは京太郎にも松常久にもない。ただ結果的にそうなってしまっていた。

万物に凶事をもたらす魔人と悪魔に堕ちた罪人の戦いだ。見たくても見れるものではなかった。大金を支払っても再現できないだろう。

 熱に浮かされ始めたパーティー会場中で虎城は呆然と立ち尽くしていた。涙はもう引いている。ただ、ぽかんとしていた。あまり格好のいいものではなかった。京太郎と松常久のやり取りに虎城は追いつけていないのだ。

虎城の中では勝負はもうついていて、どうやってもひっくり返せないと思い込んでいた。だから、一発で状況をひっくり返した京太郎が信じられなかったのだ。そもそもどのタイミングでヤタガラスのエンブレムを埋め込んだのか、というのもわからないのだ。理解が追いつかないのもしょうがないことである。


 長い長いドライブを終えた京太郎は、パーティー会場でほっと一息ついていた。すでに京太郎の気配はただの人間のものに戻っている。

輝く赤い目も普通の目に戻っていた。オロチの腹の中で出会った松常久は始末できたのだ。これで、京太郎の悩みの種はなくなった。いつまでも気を張っておく必要はない。ただ、京太郎の姿というのはまったくよくなかった。

 音速とはいわないけれどもその一歩手前で拳を放ったのだ。踏み込んだ靴も、動きに合わせて動いたシャツとスボンもひどいことになっている。また、両手など真っ赤に染まっているのだ。警察に見つかれば間違いなくしょっ引かれるだろう。

 そんな京太郎のところに、ソックが近づいてきて、こういった。

「マスター、マスター。人形の呪いを解いておいたぞ」

 呪いを解いたソックはにこっと笑って見せていた。実にすばやい仕事だった。つい数分前に人形を渡したのだから、とんでもない勢いでやり遂げていた。しかしソックからしてみれば、人形の呪いは恐ろしいものではないのだ。

 何せ自分が一度かかった呪いである。そしてそれを一度解くことができている。同じ呪術がかけられているのなら、同じように解いてしまえばいい。呪術に長けているソックにしてみればお茶の子さいさい。天江衣をテレビゲームではめるよりも簡単だった。

 会場の目立たないところに男性が一名女性が四名、合計五名が寝転がっていた。五人とも、もともとは服を着ていたのだろうが、いまは素っ裸である。人形にされたときに服が脱げてしまったのだ。そしてそのまま人間の状態に戻ったので素っ裸なのだ。

 元に戻った男性は四十代あたりで、かなり鍛えられた体をしていた。身長は平均的なところである。ただ、不思議なことがあった。この男性、ずいぶん印象が薄いのだ。気配が薄いといったらいいだろうか。写真に写っても映像として残っていてもこの男性に注目するのはなかなか難しそうだった。

この男性を見つけるのだと意識しておかなければ、間違いなく見落とすだろう。この男性を見て、すぐにこの人が内偵を進めていた構成員だなと京太郎は察せられた。

 女性四名は虎城よりも若かった。虎城は二十代前半であるから、ふけているわけではない。ただ、全体として若かったのだ。女性四名は十代後半か、京太郎と同じくらいだった。

 特別いやらしい気持ちはないのだけれども、なんとなく京太郎の視線が女性四名に向かっていた。なんとなく、顔を見てみたいなという気持ちになったのだ。なんとなくである。

 そうして京太郎が観察しようとすると、肩に飛び乗ってきたソックによって防がれた。あっという間に京太郎の肩に飛び乗って肩車の形になり、両手で京太郎の目を隠してしまった。

「覗きはだめだぞ」

京太郎はまったく抵抗しなかった。ソックの言葉は正論だった。

 幸いなことで、五名の裸はほとんど晒される事はなかった。アンヘルが翼を広げて五人の体を隠したのだ。マグネタイトを練り上げて翼を作るまで一秒もかかっていなかった。右の翼と左の翼を足した長さは大体六メートルほどである。大きくて真っ白い翼を広げれば被害者を隠すのは簡単だった。

 アンヘルが隠している間に、ハギヨシと国広一が動いて毛布をかけた。毛布を持ってきたのはハギヨシで、アンヘルの羽の中に入って毛布をかけたのは国広一である。

 隠し終わると、翼を消したアンヘルが眠っている五人に栄養ドリンクを飲ませていった。ただ、京太郎が虎城にしたような方法ではない。無理に口を開いてドリンクを注いでいった。五人に飲ませて回っている栄養ドリンクはアンヘルとソックが京太郎に持たせたものと同じものだ。

 ソックの呪術の知識とアンヘルの祝福によって強化されたドリンクである。死んでいない限りは活力がみなぎってくるようになっている。副作用はもちろんある。

しかしたいしたものではない。肉体の活性化のためにマグネタイトが使われるだけだ。無理やりにたとえると、蓄えている脂肪を強制的にエネルギーに換えているようなものである。

脂肪のところをマグネタイトに置き換えるとこのドリンクの効果になる。エネルギーの前借、代償は前借したエネルギー分ゆっくり休まなくてはならないことである。

 五人がいい感じに回復してきたのを見て、仲魔二人に京太郎は礼を言った。

「ありがとう。助かったよ」

 京太郎がお礼を言うと、アンヘルは軽く微笑んで見せた。ソックは肩車の格好のまま、京太郎の頭をパシパシと叩いていた。京太郎の頭をパシパシと叩くソックも微笑むアンヘルも機嫌がいいのだ。

244: ◆hSU3iHKACOC4 2015/05/05(火) 00:58:12.85 ID:py78Qnqv0

 寝かされている五名が龍門渕のヤタガラスによって運ばれていった。それに付き添って虎城も一緒に消えていった。会場から出て行く途中で京太郎に虎城は深くお辞儀をした。京太郎はそれにあわせて頭を下げた。お辞儀をされたから自分もお辞儀をしなければならないと、反射的にお辞儀をしてしまったのだ。

 そうするとソックは肩からずり落ちそうになった。そうして京太郎の頭にしがみつくことになった。京太郎の頭にしがみついているソックは鼻息が荒くなっている。急に京太郎がお辞儀をしたからだ。まさか、肩車をしている状態から深いお辞儀をするとは思っていなかったのである。

 京太郎がお辞儀から普通の姿勢に戻ると、ソックはこういった。

「なぁマスター。ちょっと話は変わるけど、いいか? 聞きたいことがある。

 あのさ、朝に話していた買い物って……どこにあるの?」

 ソックの口調は甘い響きがあった。ソックが京太郎にたずねているのは、京太郎が異界物流センターに向かう目的だったものの在りかだ。

 ソックは実にそわそわとしている。なにせ京太郎はそれほど興味がなくなっているけれども、ソックは京太郎が買いに出ていたマンガ本の続きが非常に気になっていたのだ。もちろん空気を呼んで、今まで抑えていたけれども、それも必要ない。

だから聞いたのだ。どこにあるのかと。できるのならばさっさと自分に読ませてくれと。もちろん京太郎が先に読めばいいが、その後は自分に読ませてくれ、とそんな調子なのだ。

 ソックがたずねると、京太郎はこういった。

「マンガのことか? たぶんディーさんの車の中にあるはず。ディーさんに鍵を開けてもらわないとだめだな」

 京太郎は口元に手をやった。少し不安そうだった。というのが、いまいちどこにおいたのか覚えていないのだ。

 マグネタイトと交換して初回限定版のマンガを手に入れたのは間違いない。しかし、その後がわからないのだ。書店のおばあさんと店番の造魔ハナコに迷惑をかけたのを覚えている。しっかりと手に持って車に乗ったのも覚えている。

その後がわからないのだ。実にいろいろなことがあったので、いちいちどこに漫画本があるのかと考えてもいなかった。もしかするとどこかで落としたかもしれないので、はっきりとどこにあると答えられなかった。

 京太郎の様子を見て、ソックがきいた。

「買ったんだよね? 買い忘れたとかないよね?」

 肩車されているソックは京太郎の頭を指でつついていた。ほんの少しだけあせっていた。家庭菜園を作っている間も楽しみにしていたのだ。もしもここで買い忘れていたということになれば、本屋に買いに行かなくてはならないだろう。

それくらいに楽しみにしていたのだ。読みたい気持ちがおさまりそうになかった。

 すぐに京太郎はうなずいた。そしてこういった。

「大丈夫だと思うぞ。車の中には入れたからな。おそらくディーさんの車にあるはず」

 京太郎がこういうと、ソックはこういった。

「なら、取りに行こう。いや、買い忘れたのかと思ったぞ。楽しみにしてたからな」

 京太郎とソックが話をしているとアンヘルが駆け寄ってきた。アンヘルは国広一から受け取ったタオルを京太郎に渡した。京太郎は「ありがとう」といってタオルで手を拭いた。

「何の相談です?」
とアンヘルがたずねると、京太郎が答えた。

「マンガだよ。買いにいったマンガの話。ディーさんの車の中に置き忘れたから取りに行かなくちゃってな」

 京太郎がそういうとアンヘルが二人にこういった。

「なら、とりにいきましょうか。用事も済みましたしね」


 アンヘルが合流したところで、京太郎はディーに話しかけた。ディーはやることがないらしく暇そうにしていた。京太郎はディーにお願いをした。

「ディーさん、車の鍵を開けてもらいたいんですけどお願いできますか。荷物を車の中に置いたままにしているはずなんです」

 京太郎のお願いを聞いたディーは答えた。

「あぁ、鍵なら開いているから、好きにしていいよ。俺は会場から離れられないからね」

 ディーはくたびれた笑みを浮かべている。松常久が面倒を起こしてくれたことで仕事が増えたのだ。パーティー会場の警備の仕事である。本当ならハギヨシか龍門渕のヤタガラスたちが行うのだけれども、松常久と救助された構成員のために人員を割く必要が生まれてしまった。

結果ディーが会場の警備を任されたのだ。ディーの実力なら警備はたやすい。らくらくできる。

 しかし、上流階級社会というのがディーの性格に会わない。パーティーの出席者に愛想笑いを浮かべるのがつらいのだ。しかし無愛想にするわけにもいかない。結果、くたびれてしまっていた。

 ディーが好きなようにしていいというので、京太郎は

「わかりました」

といった。そして京太郎は軽く頭を下げて、パーティー会場の出口を目指して歩き出した。やはり頭を下げたときに肩車されているソックがひどいことになっていたが京太郎は気にしていなかった。


245: ◆hSU3iHKACOC4 2015/05/05(火) 01:00:54.43 ID:py78Qnqv0

 出口に向かって歩いていく京太郎に、ディーがこういった。

「サンキューな須賀ちゃん。スカッとした」

 少し恥ずかしそうにディーは笑っていた。なんとなく柄じゃないことをやっているような気持ちがしているのだ。しかし、お礼をいいたかった。ここでお礼を言わなければタイミングを失っていつになってもお礼をいえないような気がしたのだ。

 軽く振り返って京太郎は笑って見せた。いたずらが成功して笑っている子供そのものだった。

 パーティー会場はまだ騒がしい。まったく落ち着いていないけれども京太郎は仲魔二人をつれて出て行った。


 オロチの世界につながる門を開いた中庭にディーのスポーツカーが残されていた。

 スポーツカーに京太郎が近づいていった。京太郎の推測が正しければ、スポーツカーの中に京太郎の荷物が残されているはずだからだ。もしかするとどこかに落としている可能性もあるけれども、無事ならばスポーツカーの中にあるはずなのだ。

 ソックを肩車したまま近づくとスポーツカーの扉がガチャリという音を立てた。誰が聞いても鍵が閉まった音だった。京太郎はこのガチャリという音を聞いて誤作動でも起こしたかと思った。ディーの話だと鍵はかけていなかったはずだからだ。

 しかしスポーツカーの扉は京太郎が手を触れると開いた。少しだけ不思議だと思った。しかし鍵が開いているという話だったので、それ以上は考えなかった。

 ただ、肩車されているソックは何か珍しいものを見るような目で、スポーツカーの中を見つめていた。

 肩車していたソックを京太郎は地面に下ろした。両手でソックの胴体をつかみ、少し無理な体勢のままでやってのけた。これから荷物を探すのだ。ソックを肩車したままでやるのは難しかった。ソックを地面に降ろした京太郎は、さっさとスポーツカーの中に入っていった。

 京太郎がスポーツカーの中の不思議な空間の中に入っていくと、スポーツカーの扉がひとりでにしまった。アンヘルもソックも何もしていない。そして扉は勝手に鍵をかけてしまった。その様子を見てアンヘルがこういった。

「私たちは駄目みたいですね。嫌われるようなこと、しましたっけ?」

 ソックが答えた。

「違うと思うぞ。許可されたものだけが中に入れるタイプの結界だな」

 アンヘルがあごに手を当てた。そしてこういった。

「ディーさん器用なことをしますね。呪術方面には疎いように見えましたけど」

 ソックが笑った。

「ハギヨシさんのほうだろうなシステムを作ったのは。それにこの結界は敵をはじく結界じゃない。外に出さないための結界だ。許可制にするのは当然だろうよ。

 よほど厄介なものを封じ込めているらしい。調子はずれのオーケストラが聞こえてきやがる。制限なしで現れたら下級あたりは音を聞いただけで発狂するかもな。

 たぶん風と、火だな」

 アンヘルが笑ってこういった。

「龍門渕は怖いところですね」

 ソックがうなずいた。ソックもまた笑った。


 アンヘルとソックが話をしている間に、京太郎が荷物を持って現れた。しっかりとビニール袋を持っていた。ただ、ビニール袋の手に持つ部分がダルンダルンに伸びていた。誰かがいじっていたのだ。

 荷物が見つかったことにほっとしている京太郎は、扉が閉まっていることに気がついた。しかしたいした問題ではなかった。外に出るために京太郎が扉に手を触れると簡単に開いたからだ。

 そして京太郎が荷物を持って現れたのを見て、喜んでソックが飛び跳ねた。京太郎の下げているビニール袋のふくらみから限定版であると見破ったのだ。

 スポーツカーから出てきた京太郎はビニール袋をソックに渡した。これから風呂を借りようと思っているのだ。京太郎は買ってきた漫画を一番に読まなければ気がすまないタイプではない。

それにタオルで手を拭いてはいるけれど、まだ血液で汚れている部分があるのだ。それをどうにかしないことには落ち着いて楽しめそうになかった。
 

246: ◆hSU3iHKACOC4 2015/05/05(火) 01:06:26.53 ID:py78Qnqv0

 京太郎からビニール袋を受け取ったソックはずいぶんはしゃいでいた。そしてこんなことをいった。

「よし、衣ちゃんに頼もう! 確かブルーレイのプレイヤーがあったはず!」

 アンヘルとソックの住処にブルーレイのプレイヤーはない。そのうち買いにいこうとソックは考えているのだけれども、まだ拠点を手に入れたばかりでさらなる娯楽に力を入れられるほど余力がなかったのだ。そこでなかなかいいプレイヤーを持っている天江衣の力を借りようという発想になったのだった。

 ソックがはしゃいでいると龍門渕透華が歩いてきた。龍門渕透華に続いて、国広一、天江衣が続いている。はしゃいでいるソックを見て天江衣は首をかしげていた。彼女たちが中庭に来たのは用事があったからである。

 彼女たちがここに来たのは、京太郎と相談する必要があったからである。相談とは報酬の相談である。龍門渕透華は父親と祖父にヤタガラスの使者として須賀京太郎の働きにふさわしい報酬を渡すようにと命じられていた。

報酬を正しく与えられることが、ヤタガラスの使者の一番と彼らは考えているのだ。

 国広一と天江衣は付き添いである。もしも何か問題が起きるようなら、国広一と天江衣が仕切りなおすつもりなのだ。アンヘルとソックと、二人は仲がよい。そのためもしも龍門渕透華が交渉に失敗したとしても、無理にひっくり返せるように備えているのだ。

 機嫌がすこぶるいいソックはおいておいて、龍門渕透華は京太郎に話しかけた。

「須賀くん、お礼を言わせてもらいます。ありがとうございました。あなたのおかげでさまざまなものを守ることができましたわ。

 ヤタガラスとしての龍門渕の立場。構成員の命。そして秩序。どれも尊く守りがたいものです。

 あなたの働きで守ることができました。本当に、ありがとうございます」

 龍門渕透華の礼を受けて京太郎は返事をした。

「あっ、はい。こちらこそ」

 大分、京太郎の挙動はおかしかった。ずいぶんあせっている。目が泳いでいた。龍門渕透華の上流階級ぶりに圧倒されているのだ。京太郎はこういうタイプの人間とかかわったことがまったくない。

そのため、どういう風に対応していけばいいのかわからないのだ。牙を向いてくる相手をどうにかするのはわかりやすくていいのだけれども、龍門渕透華のように上品なタイプは難しかった。

 京太郎のおかしな返事を受けて透華は続けた。

「私たち龍門渕のヤタガラスはあなたに報いたいと思っていますの。

 生々しい話ですが、きっちりと行わなくてはなりません。それが信頼関係を生むのですから。

 あなたの働きに対して、私たちは二つの報酬を考えています。ひとつはわかりやすい報酬。もうひとつは、わかりにくい報酬です。二つの報酬のどちらかをあなたに選んでもらおうと思っています。

 わかりやすい報酬とはお金です。あなたのためにお金を用意しましょう。紙幣、望むのならば宝石、形は問いませんわ。土地がほしいというのなら、働きに見合った分を用意しましょう。ただ、私たちから報酬を正式に受け取ると、縁が結ばれます。

 もうひとつの報酬。わかりにくい報酬とは情報操作です。あなたは今回の一件で、ヤタガラスの闇の部分に触れました。サマナーの世界にあなたが嫌気をさしたのではないかと私たちは考えているのです。

 ですから、あなたが望みさえすれば、情報を操作してあなたを一般人として隠しましょう」

 龍門渕透華が報酬の説明をすると、京太郎は首をかしげた。京太郎の表情を見れば、京太郎がどういう状況なのかがすぐにわかる。龍門渕透華の話にどういう意図が隠れているのかさっぱり京太郎はわかっていなかった。

 ものすごく困っている京太郎に国広一が教えてくれた。

「僕が説明するよ。

 わかりやすい報酬は賃金さ。仕事をするとお金が発生する。それはヤタガラスでも同じなんだ。
 もしかしたら正式な構成員ではないから、もらえないと思っているかもしれないけど、今回は別だよ。何せ、龍門渕所属を示すエンブレムをつけて、戦ったわけだからね。

 たとえ須賀くんが正式な構成員ではないにしてもヤタガラスのエンブレムをつけて行動したのなら、それは龍門渕の成果になる。なら支払わなくてはならないわけ。

 でも、学生の須賀くんが大金を持つというのは非常に難しいことだよね。銀行口座もおかしなことになるし、書類だとかも面倒。下手に大金を持つと税金がかかる。ご家族に説明するのも難しいでしょ?

 そういう面倒を龍門渕が担当することになるけれど、そうなってくると離れられなくなるんだ。報酬が振り込まれたり、手渡された瞬間から、龍門渕関係者。周りからはサマナーだと見られるようになる。そうなると二度と表の世界には戻れない。

 これが、わかりやすい報酬のメリットとデメリット。

 ついでにわかりにくい報酬のメリットとデメリットも説明するね。

 須賀くんはね、裏の世界の面倒くさい人たちに顔が売れている状態なんだ。さっきの戦いはかなり派手だったからね。

 ヤタガラスといっても完全にまとまっているわけじゃないのはなんとなくわかってくれているよね? それで、やっぱり勢力争いってのがあるんだよ。そうなってきて、今の須賀くんはフリーだよね。どこにも所属していない状態の人材なわけだ。

 ほしくならない? このご時勢に珍しい武人タイプのサマナーで、機転も利いている。少し調べれば十四代目葛葉ライドウとつながりがあるのもわかる。となると、欲しくなるでしょ? 僕だったら、すぐに声をかけるね。実際誘ったし。

 でも、そういう声をかけられる行為ってのは面倒じゃない? 断るのも面倒で、ちょっかいをかけられるのも面倒。そこで龍門渕は君に提案するわけさ。もしも面倒ごとに巻き込まれたくない。一般人として生きていたいのならば、私たちの名前を使ってもかまいませんよと。

 これがわかりにくい報酬。すでに龍門渕に所属しているのなら、ちょっかいはかけにくいからね、ハギヨシさんもいるし。

 直接十四代目が引き抜きにきたら流石に無理だろうけど」

247: ◆hSU3iHKACOC4 2015/05/05(火) 01:10:34.79 ID:py78Qnqv0

 主人を差し置いてメイドが説明をするのはどうなのか。しかししょうがないことだ。龍門渕透華はこれからの龍門渕の顔役になる。そうなってくるとやはり立場に縛られるようになる。となると、立場に見合った発言が求められるようになる。

そんな彼女である。軽々しく事情を話すわけにはいかなかった。しかも京太郎はまだ正式な構成員ではない。正式な関係者ではないのだ。そんな相手に内部の力関係を匂わすのはまずかった。建前があるのだ。

 そういう建前を守るため国広一が気を利かせて説明をした。もしも国広一が説明をしていなければ、天江衣が、天江衣がしていなければソックが説明していただろう。

 国広一の説明が終わったところで、アンヘルが京太郎に聞いた。

「どうします? 私たちはどちらでもかまいませんよ。

龍門渕でも別の支部でも、ヤタガラスでなくとも。マスターが善しと思うほうへ私はついていきましょう」

 アンヘルはどうでもよさそうだった。興味なさそうにしていた。ヤタガラスに入ればメリットが大きいとはアンヘルも思っている。しかし、ぜひヤタガラスに入りたいとは思っていなかった。

 アンヘルがこういうと、ソックが続いた。

「まぁ、俺も同じような感じかな。善しと思うところにいけばいい」

 アンヘルよりもソックのほうがずっとどうでもよさそうだった。話をさっさと切り上げて、天江衣にブルーレイプレイヤーを使わせてくれと話しかけたそうにしていた。ソックの注意はビニール袋の中の品物に注がれている。

 京太郎の仲魔二人の軽い口調を聞いた国広一の表情が悪くなった。アンヘルとソックは京太郎にヤタガラス所属を薦めるというのが国広一の予想だったからだ。数十分前に客室で行ったやり取りの感じからして、断られるような空気はかけらもなかった。

京太郎がいやだといっても追い風になってくれるだろうと思っていた。それがここに来て、完全に放り出されていた。龍門渕透華の武力をそろえたい彼女にとってこれは困ったことだった。

 顔色が悪くなった国広一をみて天江衣が目を細めていた。天江衣は国広一が何を考えているのか見抜いたのだ。

 そして天江衣は心の中でつぶやいた。

「透華の戦力にしたいと思っているのだな、かわいらしい忠義者。ただ、今回は失敗だったな。こんな面倒なことをせずとも頼めばいいのだ。

思考を誘導する手間が無駄だ。

 相手は魔人だぞ? いきなり現れてヴァイオリンを弾いて立ち去る奴とか、説教をいきなり初めて立ち去る奴とかの同類だ。

 下手に頭を働かせると失敗する。もう遅いがな。

 というか、ソックは何で鼻息を荒くしているのだ? ちょっと怖いぞ」

 
 さてどうすると、静かになったところで京太郎は答えた。

「なら、俺をヤタガラスのメンバーにしてください。今後ともよろしくお願いします龍門渕さん」

 これといった力をこめることなく淡々としていた。京太郎はすでに自分が何を求めているのかを知っている。京太郎が求めているのは全身全霊で行われる戦いだ。オロチとの戦いで、それがよくわかった。死にかけたけれども楽しい時間だったと心底思っている。

しかし、この願いが普通に生きていたらかなわない願いだともわかっていた。

 あまりにも野蛮だ。大きな声で話せることではない。しかし、それでも体験してしまったら、自覚してしまったらもう戻れない。だから、京太郎はこのチャンスを逃さなかった。

ヤタガラスに入れば、楽しめるかもしれない。きっと普通に生きているよりはずっとチャンスがあるだろう。ならば、入るべきだ。京太郎はそう考えて、飛びついたのだ。もう、退屈することはないだろう。


 京太郎の答えを聞いて国広一がガッツポーズをとった。しかし小さなガッツポーズだ。あっという間にもとの姿勢に戻っている。ガッツポーズをとったことに気がついているのは天江衣だけである。

 国広一は心配していたのだ。京太郎がサマナーの世界から離れたいと思っているのではないかと。

 なぜなら、松常久というヤタガラスの黒い部分を見てしまっている。見ただけならまだどうにかなるかもしれない。しかし、巻き込まれて襲われている。二度と戦いたくないと思う人のほうがはるかに多いだろう。

 そして話を聞けば、オロチに気に入られてしまったということもある。不気味だといって震え上がってもおかしくない。そんな京太郎の状況だったのだ。アンヘルとソックの後押しが期待できなくなった時には、京太郎という人材が確保できなくなったと絶望したのだった。

しかし、京太郎はヤタガラスに入るといった。しかも龍門渕に入るのだ。国広一の望み通りだった。龍門渕透華の貧弱な兵力が増強されたのだ。喜ぶべきことだった。


248: ◆hSU3iHKACOC4 2015/05/05(火) 01:15:37.01 ID:py78Qnqv0
 京太郎の答えから少し間を空けてから、龍門渕透華はこういった。

「わかりました。ではヤタガラス龍門渕支部所属の正式なサマナーとしてあなたを迎え入れましょう。

あと、報酬はアンヘルさんとソックさんが使っている口座に振り込んでおけばいいですか? それとも別? 日本円以外での支払いでもいいですよ?」

 龍門渕透華は無表情を装っていたけれど口元が笑っていた。龍門渕透華も国広一と同じような考えなのだ。

 これから十年、二十年とヤタガラスの幹部としてヤタガラスの使者として働く気持ちが彼女にある。彼女はこれからこの地域のサマナーたちの元締めになるのだ。しかしそうなるためには力が必要だった。

 力というのはいろいろと種類がある。権力。財力。知力。支配者としてふさわしい度量。人の上に建つためにはいろいろな力が必要だ。ここではあがらなかったが、もっといろいろとあるかもしれない。

彼女は必要最低限は持っていた。権力も財力も知力も彼女は持っている。そういう環境と血統に生れ落ちた。

 ただ、もっとも大切なものを彼女は持っていなかった。暴力だ。彼女は暴力だけ持っていなかった。彼女自身も、彼女が見つけてきた数人の少女も、暴力だけは持っていなかった。そしてこの暴力だけは祖父も、父親も与えてくれなかった。

「次の龍門渕を名乗るのならば自分で見出さなければならない」

これは彼女の試練だった。

 龍門渕透華はやっとひとつ前に進めたと思ったのだ。これでやっとヤタガラスの使者として格好がつく。そして自分の祖父と父親に認められると。

 
 微笑を隠しながら龍門渕透華が報酬の話をすると、京太郎はこういった。

「そうっすね、よくわからないんでアンヘルとソックの口座でお願いします」

 本当に何がどうなっているのかわかっていなかった。とりあえず波風が立たないようにしてくれたらいいという気持ちが、表情に浮かんでいた。面倒くさい手続きだとか、印鑑を持ってくるとかいう話しにならなければいいなというのが京太郎の思うところである。

どのくらいの金額が振り込まれているのかだとか、ヤタガラスに入ることで受けられるメリットだとかは頭になかった。

 気の抜けた京太郎の答えのあと、龍門渕透華は京太郎に腕章を差し出した。腕章にはヤタガラスのエンブレムと同じ紋章と龍門渕の紋章が大きく刺繍されている。

 そしてこのように説明をした。

「わかりました。では同じ口座に振り込んでおきます。

 あと、これをあなたに渡しておきます。ヤタガラスと龍門渕の紋章が入った腕章です。いつも身に着けておいてください。

うらやましいことにあなたはずいぶん目立ちました。ですから、こうでもしておかないといけません。そうしないと悪いハイエナがよってきてしまいます」

 龍門渕透華が差し出した腕章は龍門渕所属のヤタガラスだという証明書のようなものだ。

彼女がすぐに腕章を差し出したのはどちらの報酬を選んだとしても渡すつもりだったからだ。この腕章は、スポーツ選手のユニフォームのようなものである。この腕章を見ればどこの所属なのかが一発でわかるようになっている。

 たいしたものではないかもしれない。実際、一般人が見てもただのおしゃれな腕章だ。しかしサマナーの関係者がこれを見ると、まったく違った印象を受ける。ヤタガラス龍門渕支部に所属していると一発で判断がつくのだ。

 一発で判断がつくということが、よその勢力のスカウト行為の障害になる。京太郎に話をつけるだけではだめになるのだ。、所属している龍門渕の許可が必要になる。スポーツ選手の移籍でもめるのと同じである。

 かなり豪華な腕章を京太郎は受け取った。龍門渕透華が腕章を差し出したとき、京太郎は数秒間動きを止めていた。何せずいぶん高級品のように見えたからだ。高級品だと一発でわかるような素材と刺繍の見事さである。

京太郎のお小遣い何年分になるのかもわからない。そんなものをいきなり手渡されたりすると、京太郎からするとおびえてしまうのだ。しかも、両手が血で少し汚れているので、余計に気を使ってしまう。

 何にしても京太郎は腕章を受け取った。そうすると国広一がうれしそうにこんなことを話した。

「須賀くんの教育係はハギヨシさんがしてくれると思うよ。いやぁ、退魔士系の新人が三人も入ってくれるなんてうれしいよ。

 あっそうだ、またお風呂に入らないとだめだよね須賀くん。ものすごく汚れちゃってるし服もぼろぼろ。すぐに用意するよ」

 国広一の口はよく回っていた。非常に機嫌がいいのがわかる。両手の指を絡ませて、何か不思議な動きをしていた。京太郎を引っ張りこめたことで龍門渕透華の問題が減ってうれしいのだ。

 何せ京太郎は魔人である。普通なら魔人というのはあまり好かれる人材ではない。松常久のように迷信を信じている人は多い。

 しかし、魔人という存在はほとんどの場合、非常に強い。暴力だけが足りていない龍門渕透華にとっては最高の人材だったのだ。そして、デジタル系サマナー全盛期の時代に退魔士系の新人が三人も追加される。国広一にしてみれば、龍門渕透華の進む道はとても明るく見えていた。

 国広一がニコニコしている間に、アンヘルとソックは天江衣を拉致して姿をくらました。ソックがハンドサインをアンヘルに送ったのだ。ハンドサインの内容は、天江衣を拉致して、自分についてくるようにだった。ハンドサインを受けたアンヘルは軽く微笑んでうなずいた。

249: ◆hSU3iHKACOC4 2015/05/05(火) 01:18:03.21 ID:py78Qnqv0

 アンヘルとソックが何かたくらんでいるのに天江衣は気がついていたけれども、文句を言う前に連れ去られていた。

天江衣を連れ去ったのは、これから天江衣の別館に向かいそこで京太郎から受け取った限定版の漫画を楽しむためである。アンヘルがソックのハンドサインに従ったのは、そろそろ暇だったからである。

 連れ去られている天江衣は

「真白の運転よりはずっとましだな」

と心の中でつぶやいていた。

 自分の仲魔二人が天江衣を連れ去ったあと、京太郎は青ざめていた。完全に血の気がひいていた。自分の仲魔が天江衣を連れ去る現場をばっちり見ていたのだ。どう見ても犯罪の瞬間だった。

 いくらなんでも問題になるだろうと京太郎は龍門渕透華と、国広一に視線を向けた。

 そこには平然としている龍門渕透華と国広一がいた。彼女たちにしてみると、アンヘルとソックの行動はそれほど珍しいものではないのだ。

というのが、京太郎が眠っている間にアンヘルとソックは龍門渕で事情聴取を受けていた。

そのときアンヘルとソックはあまりにも退屈だったので十四代目葛葉ライドウ付き添いの下で天江衣と遊びたおしていた。

 天江衣が暇だったというのとアンヘルとソックが温厚だったこと、そして十四代目葛葉ライドウが見守ってくれているというので、簡単に顔あわせができたのだ。

 そのときの様子を龍門渕の関係者は知っているので、アンヘルとソックが天江衣を連れ去るのはそれほど驚くことではなかった。

 平然としている二人を見たとき、余計に京太郎の顔色は悪くなった。平然としているということは、普通の光景であるということだろう。つまり自分の仲魔はよその家でいつも無茶をやっていたということになる。京太郎は胃が痛くなった。
 

 顔色の悪い京太郎が

「新人三人ってのはアンヘルとソックと俺ですか?」

と聞いた。自分と同じようにヤタガラスに入ってきた新人が入るという話を国広一がしているのを聞いて、少しばかり気になったのだ。

 特に詮索しているわけではない。何か問題があるわけでもない。話の種として拾っただけのことである。気分をすこしでもまぎらわせたかった。

 京太郎の質問に、龍門渕透華が答えた。

「違いますわ。須賀京太郎、淡河鯨(おうご くじら)、龍門渕硯(すずり)の三人です。あなたはこれからほかの二人と班を組み、沢村智紀を班長として行動してもらいます。

実際に動いてもらうのは訓練が終わってからですから、心配は要りませんよ」

 疑問に答えている龍門渕透華は苦い顔をしていた。何か気に入らないところがあるようだった。

 一方で京太郎は、答えを聞いて笑った。大きな声で笑ったのではなく、本当に小さく笑っていた。特に何がおかしくて笑っているわけではない。

ただ、自分の友達が自分と同じようにヤタガラスに入るだけだ。たいしたことではない。しかしなんとなく愉快に感じたのだ。

それで思わず笑ってしまった。それだけだ。のんきな男だった。

250: ◆hSU3iHKACOC4 2015/05/05(火) 01:21:37.86 ID:py78Qnqv0
エピローグ



 ほんのすこし時が進みインターハイ長野県大会当日。

 その会場で、京太郎は宮永咲を探していた。京太郎の学生服には腕章がつけられている。腕章にはヤタガラスの紋章と龍門渕の紋章が刺繍されていた。豪華な腕章だった。

宮永咲を探しているのは、いつになっても戻ってこないのを部員たちが心配したからだ。二十分前にお手洗いに言ってくるといって出て行ったきり戻ってこない。宮永咲の試合までに戻ってこれなければ、当然だけれどもまずいことになる。そこで京太郎が探しに行くことになった。

 ほかの部員たちが動いてもよかったのだけれども、京太郎が

「探してくるよ。イスに座りっぱなしはつらい」

といって自分から動いたのだった。

 そして、京太郎は会場を探し回っていた。灰色の髪の毛で、身長も体格もいい京太郎はなかなか目立つ存在であった。その証拠に、京太郎と廊下ですれ違った女子生徒など、携帯電話の警告音を聞いて真っ青になっていた。

 女子生徒だとか男子生徒とすれ違いながら、京太郎は人気のない廊下を進んでいった。控え室から一番近いトイレとはまったく違う道である。

普通なら、一番近いトイレあたりを探すのが正解だろう。しかし人気のないまったく関係なさそうな道を京太郎は進んでいった。

 人気のないところを進んでいるのは、道をたずねられないところに宮永咲がいると予想したからだ。

 道に迷ったとしても人がいるのならば、教えてもらえばいい。案内掲示板があるのなら、参考にすればいい。しかしそれがないところも、もちろんある。京太郎はそのように考えて、人がいないような道、それも案内掲示板もないような地味な場所を探して回っていた。

仮に、その間に宮永咲が普通に戻ってこれたのならば、それでまったく問題なかった。

 そうしてまったく人気のない寂しい行き止まりに京太郎はたどり着いた。会場のメンテナンスをする人たちしか通らないような道だった。

 一応まだ道はあるのだ。行き止まりには立ち入り禁止といって書いてある金属の扉がある。しかしここまで来ても宮永咲の気配はなかった。

研ぎ澄まされている感覚が匂いを嗅ぎ取っているけれど、本人は見つからなかった。


 行き止まりにたどり着いた京太郎の前に、奇妙な影が現れた。京太郎が歩いてきた道を戻ろうとしたときである。どこからともなく、影が現れたのだ。

言葉通りの影であった。物体ではなく、ただの影だ。道を戻ろうとする京太郎の前に立ちふさがっている。しかし影であるためにとても頼りない。まったく京太郎の歩みを止められそうになかった。

ただ、この影のおかしいのは、顔があるのだ。影に顔はおかしいが、顔のような隙間があったのだ。そしてその顔はどう見ても憎しみに満ちていた。

 たよりない影をみた京太郎はすぐに構えを取った。京太郎の構えは数日前のものとはずいぶん違っていた。戦うための構えである。空手の構えとよく似ていた。この構えはハギヨシから教わったものである。

 京太郎が戦うための構えを取ったのは、明らかに悪魔だったからだ。そしてどう見ても自分に対して攻撃を加える意思が感じられた。ならば戦わなくてはならないだろう。しかしずいぶん京太郎は冷静だった。楽しさというのは少しも感じていなかった。

 構えを取った京太郎はすぐに攻撃を仕掛けた。相手の攻撃をいちいち待つようなことはしなかった。また、会話をするということもなかった。お互いに敵だと思い、牙をむいているのなら言葉は必要ないのだ。

 そうして攻撃を仕掛けたのだけれども京太郎の拳は空を切った。京太郎の正拳突きはお手本そのままの攻撃だった。まっすぐ打ち込んだ。非常にすばやかった。無駄のない攻撃で、センスに頼った攻撃よりもずっとよくなっていた。しかしそれでも攻撃は失敗した。

 おそらく京太郎が完全に武術を身に着けていたとしても、もっと経験をつんでいても攻撃は失敗していただろう。

なぜならば、この頼りない影は京太郎の影にへばりついているのだから。自分が動けば影もまた動く。二人の距離は永遠に変わらない。拳があたることも永遠にない。

 京太郎は構えをといた。すぐに頼りない影の理屈を理解したからである。そして、影を消し飛ばすために魔法を使おうとした。京太郎の得意な魔法は稲妻だ。

光を放つ稲妻を打ち込める。多少の被害は出るだろうが、消し飛ばせるだろうと考えたのだ。

 そうして京太郎が魔力をこめ始めると、頼りない影が大きく震え始めた。ブルブルと震えていた。そして頼りない影の胴体の部分に大きな穴が開いた。

 頼りない影の腹に大きな穴が開いたのを見て京太郎は呆然とした。さっぱり何がおきているのかわからなかった。

 また、影にあいた大きな穴から京太郎は目を離せなかった。影の腹にあいた大きな穴がとんでもない技術で打ち込まれた攻撃の痕跡だと察っせた。

少なくとも今の京太郎には打ち込めない一発である。いったいどんな存在が、この穴を開けたのだろう。どれほどの高みにいるのだろう。そう思うと目が離れなかった。

251: ◆hSU3iHKACOC4 2015/05/05(火) 01:24:35.15 ID:py78Qnqv0

 京太郎が影に開いた穴を見つめていると頼りない影は口を開いた。

そして声を発した。この声というのが実に不気味だった。ささやく声なのだが、一人の人間のものではない。

何十人、何百人の人間の声が重なっていた。そしてこういっていた。

「わ、私は…私は…」

 口を開き始めた頼りない影に向けて、京太郎が稲妻の魔法を発動させ始めた。頼りない影を京太郎は確実に消し飛ばすつもりである。影の存在を許せなかったのだ。京太郎はこの頼りない影の声を聞いたとき、

「生理的に受け付けない」

という言葉の意味がはっきりと理解できた。こういうもののことをそう呼ぶのだろう。もともと消し飛ばすつもりだったのが、いっそうはっきりとした。

 しかしできなかった。後一歩のところで頼りない影が、こういったからだ。

「私は、魔人になり、ました」
 
 京太郎の集中していた魔力が一気にうせた。頼りない影が誰の話をしているのかわかったのだ。

そして、理解したとき京太郎は吐き気を覚えた。この吐き気がどこから来ているのかは、わからない。

しかしこの吐き気を覚えた瞬間、集中が乱れ、魔法は不発に終わった。

 更に頼りない影は続けた。

「死へいざなう闇の中で見つけた稲妻。ヒヒイロカネとヤドリギよ私とともに生まれたまえ。

 歩き始めた操り人形に幸あれ。幸運をもたらす妖精たちに幸あれ。畜生の道を歩いた者よ冒険の始まりを思い出し、操り人形の糸を切れ。

 囚われたアムシャ・スプンタの分霊。命の理(ことわり)を知る泣かない巨人。激流に飛び込んだ私と結び、賭けに出るがいい。

 さらば、灰色の日々。しるべなく生きる日々よ。悲しみに沈むものよ、泣いてくれるな。

 私は人になったのだ」

 頼りない影の声はやはり気味が悪かった。

大量の人の声が重なって聞こえてくる。頼りない影はひとつ言葉を吐き出すたびに、ひび割れて崩れていった。

最後のあたりになると、ほとんど消えかけていた。しかし崩れて消えかけているのに延々と言葉を吐いているのは、そうしなければならない理由があるからである。

 頼りない影は最後に

「呪われろ悪魔め」

とはき捨てて消滅した。

252: ◆hSU3iHKACOC4 2015/05/05(火) 01:27:25.75 ID:py78Qnqv0

 京太郎は、自分の口を手で押さえていた。京太郎は青ざめている。

吐き気がまったくおさまらなかった。この吐き気は恐怖なのか。それとも生理的な嫌悪感のために生まれたものなのか、さっぱりわからない。

ただ、まったく言葉にできないけれども恐ろしいものが自分に降りかかってきたのだという実感が京太郎にあった。

 京太郎が、立ち尽くしていると声をかけられた。声をかけてきたのは宮永咲だった。彼女はこういった。

「京ちゃん? どうしたの」

どうやら京太郎の推理というのは正しかったらしい。京太郎が戻ろうとした道に宮永咲が立っていた。

ずいぶん不安そうな目で京太郎を見ていた。声も震えている。

 宮永咲に京太郎は答えた。

「あぁ、大丈夫。大丈夫だ」

 京太郎は少しだけ吐き気から逃れることができていた。顔色はかなり悪い。しかし、つい先ほどよりはましだった。宮永咲の声と、その存在が京太郎の心を少しだけ軽くしてくれたのだ。

 顔色の悪い京太郎は、宮永咲に近づいて、肩をポンとたたいた。そして宮永咲にこういった。

「みんなのところに戻るぞ。遅刻して敗退なんて笑えないぜ」

 京太郎は無理やりに笑って見せた。まだ顔色が悪いので無理をしているのはすぐにわかった。

京太郎もへたくそな笑顔だとは思っている。しかし必要だったのだ。そうすることで自分の元気を呼び込もうとしていた。

そして京太郎は宮永咲の前を歩き始めた。

 宮永咲は京太郎の横についてきた。

 宮永咲は京太郎の横顔じっと見つめていた。本当にじっと見つめているので何もない平坦な道でこけそうになっていた。

京太郎の横顔が見知らぬ人のように彼女には感じられたのだ。

 一週間か、二週間前の京太郎と今の京太郎を見比べてみれば、きっと別人のようだと誰もが思うだろう。

髪の色が変わっているということもある。しかしそれよりも雰囲気がずっと大人びていた。

 何かが京太郎に起きているのは明らかだった。そして先ほどの青ざめた顔も何かが起きた結果なのだろうと宮永咲は予想がついた。

 しかし問い詰めることはなかった。口を割らないとわかっていたからだ。だからせめて見つめるのだった。

 この灰色に何がおきようとしているのか知るために。
 




 「限りなく黒に近い灰色」 おしまい。



 

引用元: 京太郎「限りなく黒に近い灰色」