妹「なぜ触ったし」 前編

456: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/14(木) 01:40:23.03 ID:mIB6jAMCo

 リビングに降りると妹がコタツで眠っていた。俺はテレビの電源を入れて、平然とその隣に腰を下ろす。 
 テレビの中の声を聞きながら、ぼんやり妹の寝顔を眺めた。なんだかなぁ、という気分になる。

 俺は今まで見当違いのことをやっていた気がする。
 ていうかやっていた。間違いなく。うーむ。

 じっと見ていると変になりそうだったので、俺は妹の寝顔から目を逸らす。
 それからテレビの電源を消す。家の中が静まり返った。

 ぬくぬくとしたコタツに足を突っ込んで、蜜柑を食べる。
 そのままずっとぼんやりとしていた。ぼんやり。
 その間、俺は何も考えなかった。何も考えずにじっとしていた。そういうことは久し振りだった。

 六時を回った頃、俺はコタツから抜け出して夕食の準備を始める。
 冷蔵庫の中にはさまざまなものが入っていたので、たいした手間はかからなかった。
 
 俺は準備が終わる頃に妹を起こして、一緒にテーブルについた。

 気分がいつになく落ち着いている。どうしてだろう。
 夕食のあとに風呂に入って、いつもより早めに眠った。いつもこうありたいものだ。


463: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/14(木) 15:08:48.59 ID:mIB6jAMCo

「まぁ、分かっちゃいたんだが」

 と、タカヤは言った。朝の教室で、俺とモスは彼の声に耳を傾けている。

「なんというか、言わずにはいられなかったんだ」

 まぁたしかに彼とて、たかだか一週間ちょっとの付き合いしかない女の人に好意を抱かれるなどと自惚れてはいなかっただろう。
 相手の答えなど百も承知で、それでも言わずにはいられなかったとタカヤは言う。
 
 それをどういう風に呼べばいいのか、俺には分からない。若さゆえの衝動とでもいえばいいのか。

 タカヤは、なんというか、一生懸命だった。自分自身の感情をもてあましながらも、一直線だった。
 そういう姿を見ると、なんとなく、自分が歪であることを自覚してしまう。そういう要素がある。


464: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/14(木) 15:09:20.45 ID:mIB6jAMCo

 先輩はおそらく、昼休みに俺たちを迎えに来ないだろう。今日からは彼女を除いて昼食を取ることになるだろう。
 そういう意味では、タカヤの行動がもたらした結果は大きい。

 モスはなんとも言い難いような表情で、口を一文字に結んでいる。俺はぼんやりと窓の外を眺めた。

「なんで黙ってるんだよ」

 とタカヤは笑う。なんでこいつは笑えるんだろう。
 好いた好かれたの話は、聞いてるだけでも疲れる。

「俺が言うのもなんだけど、お前って馬鹿だな」

 不意に、モスが言う。タカヤはからりと笑った。

「そんで、いい馬鹿だ」

 モスの言葉を聞いて、タカヤはまた笑う。俺とモスも、付き合うように笑った。
 空は妙に透き通っている。拍子抜けしたような雲。


465: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/14(木) 15:09:46.25 ID:mIB6jAMCo

 幼馴染は昼休みになると俺を呼びに来た。
 天気がよかったので、中庭で昼食を取ることにした。
 多少は寒かったが、十二月ということを考えれば暖かすぎるくらいだった。

「タカヤくん、どんな様子でした?」

「妙な具合だった」

「妙?」

「一皮むけた感じ?」

 俺は適当なことを言った。

 幼馴染はふーっと長い溜め息をつく。

「なんだか、本当に、今月はこんなことばっかりです」

「だな」

 頷く。彼女は考え込むように俯いた。


466: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/14(木) 15:10:39.64 ID:mIB6jAMCo

「来週から冬休みですね」

「だね」

 俺は先輩の様子を幼馴染に訊こうとして、やめた。
 そのあたりのことに、積極的にかかわりたくない。
 面倒だというのではなく、また引っ掻き回してしまうだけという気がした。

「でも、なんていいますか、わたしたちって」

「なに?」

「あほですね」

 まさしく。俺は弁当をつつく。彼女がまた溜め息をついた。

「何がしたいんだろうね」

 俺は言った。自分が何をしたかったのか、思い出せない。
 何かを埋め合わせようとしたことは分かるのだが。


467: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/14(木) 15:11:06.48 ID:mIB6jAMCo

「いいかげん、自分のことに決着をつける時期が来てるのかもしれませんね」

「自分のこと?」

「です」

 決着。不思議な言葉だ。まず日常では使わない。 
 どれだけの人間が「決着」をつけなければならないものを持っているだろう。

 俺がつけるべき決着。自暴自棄。現実逃避。なんだかうんざりとしそうな話だ。

 めんどくさい。そういう絵的に地味な話って、好みじゃない。

「でも、そうだなぁ。冬休みだしね。曖昧にごまかしてきたものに向き合ってもいい頃か」

 幼馴染はぼんやり頷く。


468: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/14(木) 15:11:34.01 ID:mIB6jAMCo

 弁当を食べ終えたとき、不意にうしろから声を掛けられた。
 振り向くと、タカヤの姉がいる。

「やー」

 と彼女は気安く言った。俺は小さく頭を下げる。

「うちの弟、どうしたん、あれ?」

「なにがです?」

 と俺は知らないふりをした。タカヤが言っていないなら、俺から言う必要もない。

「何か様子が変なんだよねえ」

「どんなふうに?」

「妙ーに落ち着いてる。んで、なんだか物静かになった。頭よさそうに見えるよ、あれだと」

 普段は見えないとでも言いたげだ。いや、見えないけど。


469: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/14(木) 15:12:00.40 ID:mIB6jAMCo

 俺は、別に放っておけばいいじゃないですか、と言おうとして、結局やめた。
 俺が実際に口にした言葉は、

「本人に訊いてみたらいいんじゃないですか」

 だった。彼女は拍子抜けしたような表情で、

「いや、まぁ、そりゃそうなんだけどね」

 と言った。俺は溜め息をつく。安堵した。

「なんだかなぁ。冬だからかなぁ。さいきん、みんな素っ気ないなぁ」

 タカヤ姉はしばらくぼやいてから、校舎の中に戻っていった。
 その後ろ姿を眺めていると、隣に座る幼馴染がひとつくしゃみをした。
 
 比較的暖かいとはいえ、冬は冬だ。

「戻ろうか」と俺は言った。「はい」と彼女は頷く。

 俺はぼんやりと「みー」について考える。彼女は本当にタカヤを諦めているのだろうか?
 いずれにせよ、それはやはり本人の問題でしかなくなっているのだが。


470: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/14(木) 15:12:33.66 ID:mIB6jAMCo

 幼馴染と別れて教室に戻ろうとした途中で、茶髪と遭遇する。
 彼は特に何の感慨もなさそうに、こちらを見た。

 なんだ、またこいつか、とでも言いたげな表情で。こちらにちょっかいを出そうとするふうでもなく。

 すれ違って、彼はそのまま去っていこうとした。俺は不意に、自分がつけなければいけない決着について考えた。

「なあ」

 と声を掛ける。茶髪はすぐに立ち止まった。

「お前はどうして俺が嫌いなんだ?」

 彼は肩越しに振り向くと、さして面白くもなさそうに言った。

「逆恨み」

 彼はつまらなそうな表情で言った。


471: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/14(木) 15:13:05.95 ID:mIB6jAMCo

「お前はさ」

 と茶髪は言って、

「自分がアキにしたことを、もう少し考えるべきだ」

 それを口にした。俺は、なぜ彼の口から彼女の名前が出たのかまったくわからなかった。

「本当はこんなこと、俺が言うことじゃないし、あいつ自身だってもう気にしてない。少なくともそういう風に振る舞ってる」

 茶髪は続ける。俺は眩暈がしそうだった。

「でも、俺はそのことがどうしても気に食わない。それはお前を嫌いになるのに十分すぎる理由だと思う」

 俺は混乱した。彼の口から出た言葉は、俺を強く動揺させた。
 こんなふうに、彼女とのことが自分の現在に姿をあらわすとは思っていなかった。

 最後に見たアキの泣き顔を思い出す。その表情を眺めながら、妙にしらけていた自分のことを思い出す。
 

472: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/14(木) 15:13:32.60 ID:mIB6jAMCo

「どうして」

 と俺は言った。

「お前にそんなことを言われなきゃならないんだ。あいつのことは、俺とあいつの問題だろ。お前はぜんぜん関係ない」

「だから、言っただろ。俺が言うべきことじゃない。でも、気に入らない。ごく個人的に。だから逆恨みだ」

「……わけがわからない」

「なあ。お前はアキを傷つけた」

 心臓が針で突き刺されたような気持ちだった。どうしてこいつがこんなことを知っているんだ。

「お前みたいに神様気取りで人の気持ちを弄ぶ奴が、俺は嫌いだ」

 ひどい頭痛がした。俺はつとめて何も考えないようにした。一、二、三、四、五、六、七、八、九、十。

「仮にどんな事情があったとしてもな」

 茶髪はそういうと、こちらをじっと睨んでから、顔を背けて去っていく。俺はその後ろ姿を見送る。
 何も言えない。俺は立ち尽くす。物事は通り過ぎたりしない。結局、俺の身の回りを付きまとって離れない。
 自分がしたこと。言い逃れのしようもなく、自分の意思で傷つけた相手。
  
 たしかに、「仮にどんな事情があったとしても」、許されるようなことではない。
 俺はアキのことに関しては、誰に対しても決して言い訳できない。
 
 俺は苦笑する。たしかに、見ず知らずの他人に嫌われても仕方ないような人間性ではあるようだ。


485: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/15(金) 17:18:27.62 ID:5bdoEDiwo

 アキとのことを具体的に思い出すのはひどく難しい。
 彼女と最後に話したときから、まだ一年も経っていないというのに、奇妙な話だ。
 
 それだけ彼女の存在が俺にとってどうでもいいものだったのか、それとも、重要だったからこそ忘れようとしたのかは分からない。
 いずれにせよ、俺は彼女とのやりとりの大半を具体的には覚えていない。

 確実に思い出せることと言えば、彼女は俺にとって、中学三年のときに話すことのできた数少ない相手のひとりだったということだけだ。
  
 初めて話したときのことはろくに覚えていないし、どうせ大した話もしなかったはずだ。
 俺は彼女についてほとんど何も知らなかったし、知ろうともしなかった。

 ただその時期、アキはどうしてか休み時間にひとりでいることが多かったのを覚えている。
 三年の秋頃に、俺はきまぐれに彼女に話しかけた。そうだったと思う。大した理由もなく。


486: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/15(金) 17:18:58.56 ID:5bdoEDiwo

 彼女は俺のことを「不幸な」子供だと思っていたようだった。
 複雑な家庭に育ち、ため込んだフラストレーションを部活動で発散していた男子。
 それすらも怪我で不可能になってしまい、行き場のない思いを抱えている、と。

 そういう誤解はかなり都合がよかった。悲劇の主人公を気取りたい気分でもあったのだ。すぐに飽きたけれど。
 彼女はそう言った「不幸な」境遇の人間と知り合うことが、自分の価値を釣り上げるものだと考えている節があった。
 
 というのは邪推かもしれない。けれど、そういうふうに感じた。
 
 そして俺も、彼女の期待通りに「不幸」であるように振る舞った。それは楽しいことだった。
 だから根本的に、俺は彼女に対して「正直」だったことはない。常に「演技」をしていた。
 そういう意味では、たしかに俺はアキの気持ちを弄んだとも言えるのだ。

 それでも俺は彼女のことが嫌いではなかった。むしろ、かなり好きだった。
 だから彼女に付き合おうと言われたときも断ることは考えなかった。
 ひょっとしたら彼女ならば、俺の『気の迷い』を振り払ってくれるかもしれないと期待もした。

 実際、それはかなりのところまで上手くいったのだ。


487: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/15(金) 17:19:26.31 ID:5bdoEDiwo

 モスはそんな俺の様子を見て眉をひそめていた。
 アキの友人(決していないわけではなかったらしい)も、俺との付き合いを決してよいものとは思っていなかったようだ。
 その時期、俺は、幼馴染とも、妹とも、まったく話さなかった。
 
 アキは帰り道で手を繋ぐのが好きだった。俺は毎日、かなり遠回りして彼女を家まで送った。
 雪の降る冬の日もずっとそうした。それは安らぐ時間だったが、結局破綻した。

「わたしのこと、好き?」

 と、アキは何度も聞いた。そう確認しないと落ち着かないとでもいうように。 
 実際、彼女は些細なことで不安になった。俺が誰かと話したり、目を合わせたりしたことに気付くだけで、何度も何度も追及した。
 
 おそらくは彼女にも、そうなるだけの理由はあったのだと思う。不安になってしまうだけの。
 けれど俺は、その質問を向けられるたびに忘れていた棘が痛むような気持ちになった。
 

488: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/15(金) 17:19:52.66 ID:5bdoEDiwo

「好きだよ」

 と、そう答えるたびに、俺はだんだんと自分の中の熱が冷めていくのを感じた。
 その言葉を放つ自分が、見知らぬ他人のように思えた。何度も繰り返されるたびに。
 俺は彼女が好きだったけれど、それは特別な「好き」ではなかったからだ。

 アキは俺の答えを聞くと愛らしく笑った。自惚れでなく、幸せそうな顔をしていたと思う。
 俺もそれに応えるように笑った。作り笑いだ。でも彼女は、俺の笑顔を見て更に幸せが深まったような顔になる。
 
 そういうことに気付いたときには、俺はもうアキを好きだとは思えなくなっていった。
 ただ彼女の一挙一動にいら立つようになっていった。
 
 俺は自分自身の「気の迷い」の大きさを見誤っていたのだ。
 だから破綻は必然だった。俺はアキと話すのが嫌になって、口をきかなくなった。
 最後は無惨だった。放課後の教室に俺を呼びだして、アキは必死になって言った。
 何か悪いところがあったならなおすから言ってほしい。何がまずかったのか教えてほしい。

 俺はかなりひどいことを言った。言ったと思う。よく覚えていないし思い出したくもない。
 
 俺はアキを可哀想だと思った。他人事のように。そして、アキに背を向けて教室を去る時、ひとつの感慨が胸に湧くのを感じた。

 やっぱり駄目だったか。

 それだけだった。


489: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/15(金) 17:20:30.40 ID:5bdoEDiwo

 茶髪がどうしてアキのことを知っているのかは分からないが、他校の人間と交流でもあるのだろう。
 そういう経緯で彼らが仲良くなったところで、意外ではあるが不思議ではない。

 そしてアキから、あるいは彼女の友人から、俺のことを訊いていたのなら、彼の言動も理解はできる。

 まさか最初に会ったあのコンビニのときは、気付いてもいなかっただろうが。
 けれど、やっぱり茶髪には関係のない話だし、彼に指摘されたと思うとバカらしい気持ちになる。
 
 なんであいつにあんなことを言われなきゃいけないんだ。

 そう思っても、腹の奥に重い何かがわだかまっているような気分はおさまらない。
 アキは、俺が生きてきた中でもっとも強く傷つけた相手だ。まちがいなく。
 それも俺自身が、自分の感情と折り合えなかったからというだけの理由で。

 何もあんなふうにひどい別れ方をしなくてもよかった。他にやりようはいくらでもあった。
 そういうふうに考えだすと際限がない。俺はアキのことは考えたくなかった。


490: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/15(金) 17:20:58.55 ID:5bdoEDiwo

 それでも茶髪は「アキにしたことをもっと考えるべきだ」と言う。どうして?
 俺がアキにしたことは、あくまでも俺がアキにしたことだ。それをどうして今になって掘り返さなきゃいけないんだ。
 
 ぐるぐるとまわり続ける方位磁針。

 俺は放課後の教室にひとりで残った。モスとタカヤは先に帰ってしまった。
 そういえばもう、今週末には終業式なのだ。俺は不意に思う。

 重苦しい気分で溜め息をつく。

 俺は立ち上がって、教室を出た。新聞部の部室に向かう。
 茶髪も先輩もそこにいた。最初に俺に気付いたのは先輩の方で、彼女は気まずそうにこちらを見た。
 俺は頭を下げて、茶髪のいる方へと向かった。

「話があるんだけど、いい?」

 彼は怪訝そうに目を細めた。


491: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/15(金) 17:21:24.14 ID:5bdoEDiwo

 俺と茶髪は適当な空き教室に入った。茶髪は教室の後ろに積まれていた椅子のひとつをとって腰かける。
 俺は単刀直入に話をすることにした。

「どうしてお前がアキのことを知ってるんだ?」

 俺が訊ねると、彼はそんなことかと溜め息をついた。

「友達だから」

「そう。それで、俺が嫌いなのか」

「ああ」

「じゃあ、なんで俺に構うんだ」

 俺は苛立っていた。彼の言葉は身勝手にしか聞こえなかったのだ。

「嫌いなら構わなきゃいいだろうが。どうして俺に何かを言ったりする?」

 彼は呆れきったように溜め息をついた。


492: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/15(金) 17:21:58.52 ID:5bdoEDiwo

「わかんねえのかよ」

 と彼は言う。俺は目を細める。

「なにが」

「お前が今やってること。アキのときとおんなじじゃねえか」

「……何の話?」

「別に好きでもない相手と付き合って、友達になんていらないくせに友達を作って」

 俺はぎくりとした。

「俺は誰とも付き合ってなんかない」

「だろうな。知ってる。でも、大差ねえよ」

 茶髪は嫌味っぽく笑った。


493: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/15(金) 17:22:39.81 ID:5bdoEDiwo

「お前が本当のところ、何を欲しがってるのかはしらない」

 彼の話が続く。俺は頭を抱えたい気分だった。

「でも、お前はそれが手に入らないから、いらないもんをとっかえひっかえしてるわけだ」

 別に欲しくもないくせに手を伸ばして、本当に欲しいものは手に入らないからと掴もうともしない。
 けれど完全には諦めきれなくて、やっぱり代わりのものじゃ満足できなくて、結局手に入ったものも捨ててしまう。
『ああ、やっぱりこれでも駄目か』と。

 どうしてこいつは、こんなに俺のことを見抜いているんだろう。

「お前がどんなふうに生きようとお前の勝手だけど」

 と、彼は言う。

「お前は間違いなく、またアキのような人間を生むぞ。お前は今のままじゃずっと誰かを傷つけ続ける」

 俺は俯く。茶髪は疲れ切ったように溜め息をついた。


494: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/15(金) 17:23:05.70 ID:5bdoEDiwo

「それに、何の関係があるんだよ」

 俺は言った。自分でも驚くことに、声が震えていた。

「お前にはやっぱり関係ないじゃないか。お前は全然無関係の人間じゃないか。なんでお前にそんなことを言われなきゃならないんだ」

 鈍い衝撃が走った。俺の身体は壁に押し付けられる。茶髪が俺の胸ぐらをつかんでいた。

「わかんねえのか」

 茶髪は言う。

「いいかげん悲劇の主人公を気取るのはやめろって言ってるんだよ。お前の陶酔に他人を巻き込むな」

「三流のドラマみたいな台詞だな」

 俺は負け惜しみのように笑う。茶髪の顔がさっと赤くなった。

 頬に衝撃が走る。殴られた。痛みに目が潤む。じんじんという痛みが宿った。
 怯まずに、言い返す。

「お前こそ、何様のつもりだよ。俺の汚さを指摘してヒーロー気取りか? 陶酔してんのはお互い様だろうが」

 茶髪は二度目の拳を振り上げた。俺の身体が勢いのまま弾き飛ばされる。


495: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/15(金) 17:23:39.10 ID:5bdoEDiwo

「気に入らない」

 茶髪は吐き捨てるように言った。うるせえよ、と俺は思う。
 
「なんなの」

 俺は言った。

「お前、なんなの。アキのことでも好きなの?」

 茶髪は俺の身体を蹴り上げた。
 視界が回転しているような気がした。ぐるぐる回る方位磁針。

「お前みたいに他人の気持ちを弄ぶ奴が大嫌いだ」

 と茶髪は言う。俺だって好きじゃない。
 でも、うるせえよ、と俺は思う。立ち上がった。物音に気付いてか、いつのまにかギャラリーができている。
 巣から蟻の列が出るように、新聞部の部室からやってきた部員たち。


496: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/15(金) 17:24:07.86 ID:5bdoEDiwo

 遠巻きに俺たち二人を眺め、止めようともしない人間たち。茶髪はそういえば、学校でも浮いているらしい。
 それは俺だっておんなじだ。だから誰も止めない。先輩が、こっちを見ている。

 俺は茶髪に殴り掛かった。喧嘩なんて一度もしたことがなかったけれど仕方なかった。
 ギャラリーがあっと声をあげる。一度茶髪の顔を殴る。彼はそれを受けた直後に、俺を殴り返した。
 俺の脚はとっくにふらふらだった。足に力が入らない。身体が投げ出される。

 鋭い音がして、俺の背中で窓が割れた。
 ギャラリーが声をあげる。先生呼んで来い、先生。誰かが言う。白々しい、と俺は思う。
 こういうところが大嫌いなのだ。

 俺はそのまま座り込む。というより、立ったままでいられず尻もちをついた。
 茶髪がこちらを見下ろしている。瞳に強い光が宿っている。

 俺はゴミのように生きてゴミのように死ぬしかない。


509: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/16(土) 08:43:21.61 ID:lYp+dXcSo

「何があった」

 と担任の高田は言った。奇妙な顔だった。怒っているようにも困っているようにも見える。
 生徒指導室のそっけない机に向かって、俺と茶髪は並んで座っている。
 その向こうには三人の教師。俺の担任、茶髪の担任、学年主任。

 俺は答えなかった。

「なんとか言わないか」

 言ってどうなると言うのだ。窓ガラスが直るのか。もちろん、彼だってそんなことを期待してはいないだろう。
 でも、言ってどうなる問題ではないのだ。こんなものは。

「黙ってたら分からない」

 当たり前だ。分からせようとしてない。伝えようとしていないんだから、伝わらないのは当たり前だ。
 口を動かそうとすると頬が痛む。横目で茶髪を見ると、視線だけを机に落としていた。


510: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/16(土) 08:44:05.00 ID:lYp+dXcSo

「どうしてあんな騒ぎを起こしたりした?」

 別に騒ぎを起こしたかったわけじゃない。周りが勝手に騒いだだけだ。

「答えろ!」

 俺が答えずにいると、高田は声を荒げた。うるせえよ、と俺は思う。どいつもこいつも。

 学年主任が、俺に飛びかかりそうな高田を「まぁまぁ」と制する。
 俺はどうでもいい。頭が痛いのは窓ガラス代くらいか。

 夏にバイトしていた分の残りがあるから、払えないことはないだろう。
 けれど、この流れだと親にも連絡がいってしまうかもしれない。
 それを考えると、憂鬱だ。憂鬱だが、仕方ない。

 俺は押し黙ったまま答えない。
 思う。たかだか窓ガラス一枚割れただけじゃないか。大騒ぎする方がどうかしてる。
 

511: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/16(土) 08:44:32.18 ID:lYp+dXcSo

 高田は溜め息をついた。学年主任は額を掻く。茶髪の担任が口を開いた。

「お前が何かちょっかい出したんだろう」

 彼は茶髪に向かっていった。茶髪は答えない。俺は胃が痛みそうだった。
 高田は戸惑ったように言葉を返す。

「でも、呼び出したのはこいつの方だって話じゃないですか。こいつから殴り掛かるのを見たって奴も大勢いる」

 高田はそこで俺を示した。話をまとめてから来いよ。

「挑発されでもしたんでしょう。この生徒が関わることはすべて、この生徒を原因にしているとみていい」

 ずいぶんな教師だ。俺はちらりと茶髪を見る。彼は俺の視線に気付いてこっちを見返した。

 おい、これどう思う? そんな目で、彼は俺を見た。今までになく親しげな目だった。
 俺は苦笑した。

「何を笑ってる」

 と高田がまた声を荒げる。ああ、うるさい。


512: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/16(土) 08:46:01.15 ID:lYp+dXcSo

 俺たちが口を割らないものだから、教師たちも困り果ててしまったようだった。
 結局話の進展はないまま、今日はとりあえず帰れ、という向きになる。後日連絡する。まぁそんなものか。
 窓ガラスに関しても弁償はしてもらう。折半。と高田は言った。

 お前らが払えばいいのに。別にどうだっていいのだが。

 教室に戻ると三人の生徒が残っていた。モス、タカヤ、それから幼馴染。
 彼らは俺の顔を見ると心配そうな顔をした。

「大丈夫か?」

 と、はれ上がった頬を見て、タカヤがまず口を開く。タカヤはいい奴だ。

 大丈夫、と頷いて、俺は鞄に向かう。

「何があったんです?」

「別に、なんにも」

 幼馴染の問いを適当にごまかそうとする。いや、ごまかそうとするつもりすらなかった。
 答えることがただただ面倒だったし、疲れてもいた。何かを訊かれることにはうんざりしていた。


513: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/16(土) 08:46:34.89 ID:lYp+dXcSo

 モスだけが、ただ黙っている。
 俺は不意に思い出した。

「なあ、モスさ」

 彼は意外そうに怪訝な表情になった。

「いつだったか言ったよな。『根はいい奴なのに損してる』って」

 モスは頷く。

「今だってそう思ってる」

 彼はいい奴だ。どんな人間にも、必ず一個くらいはいいところがあると思っている。

「あれさ、完璧な誤解だな」

 俺は言う。馬鹿げた気分だ。ぐるぐる回る方位磁針。


514: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/16(土) 08:47:07.20 ID:lYp+dXcSo

「そりゃ、くだらないことで他人に軽蔑されることはない。でも、俺は軽蔑されて当たり前なんだよ」

「……何があったの?」

 幼馴染が不審そうな顔で言う。俺は答えない。

「嫌われて当然の人間性なんだよ。俺みたいな人間はそれが当然なんだ」

 彼らは唖然としたような表情でこちらを見ている。

「何言ってるんだ、お前」

 モスは不服そうに言う。俺は頭を振る。
 俺は焦っている。

「いや、俺にもよくわからない。別に何か言いたいことがあるわけじゃないんだ」

 ひどく混乱している。俺の頭は上手く回っていない。

「ごめん」
 
 と俺は謝る。悲しい気分だった。誰も何も言わなかった。

 なんていえばいいんだろう。この感覚は。
 別に、伝わらなくたっていいんだけど。
 
 疲れたのだ。


515: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/16(土) 08:47:42.24 ID:lYp+dXcSo

 まあいい。
 全部俺のせいってことでいい。実際、そんなようなもんだろう。
 
 俺は三人を教室に残して家路についた。モスは俺を引きとめたけど、追いかけてこなかった。

 東の空が青い。俺は歩く。どこにも行き場がなかったし、居場所がなかった。
 どこにいっても馴染めなかった。所詮、誰にとっても厄介者でしかなかった。

 俺は家に帰る気がどうしてもしなかった。
 もちろん、理性の面では、帰るしかないことは分かっている。
 ここで帰らなかったら、また更なる迷惑を掛けるだけにしかならない。 

 それでも、自分に、あの家に入る資格はないような気がした。

 資格と言えば、今までだってないようなものだったのだが。

 俺は街をぼんやりと歩く。人ごみの中をただ歩いた。
 日が沈んで空は真っ暗だった。


516: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/16(土) 08:48:09.51 ID:lYp+dXcSo

 俺はいまも、アキにしたようなことを繰り返しているのだろうか。
 モス、タカヤ、幼馴染。俺は彼らのことも、やっぱりどうでもいいと思っているのだろうか。

 どうなんだろう。分からない。まったく分からない。
 俺は自分という人間が信頼できない。

 うろうろと彷徨っているうちに、具合が悪くなってくる。不意の吐き気。
 
 茶髪ならきっとこう言う。
「自己陶酔の次は、自己憐憫か」
 たぶん、それは間違っていない。

 それで。

 どうすればいいんだ、俺は。なんだ。どうなるんだ。
 俺はいったい何が不満でこんなところを歩いているんだろう。 
 

517: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/16(土) 08:48:40.85 ID:lYp+dXcSo

 考えてみれば、考えたって仕方ないのだ。
 俺がアキにしてしまったことは、既に終わったことだ。
 いまさら掘り返して謝ったって、俺の気分が少しマシになる程度が関の山で、アキには身勝手にしか映らないだろう。
 
 だから俺は、アキにしたことをそのまま受け入れるしかない。自分がしたこと。
 それを思えば、誰かに嫌われたって仕方ない。

 相応じゃないか。見ず知らずの人間に嫌われるくらいが。そういう人間だ。その程度の。

 で、それで。そこからが問題なのだ。
 俺は本当に同じことを繰り返しているだけなのか。
 
 ……違う、と思う。
 茶髪はああ言ったけれど、違う。俺はモスやタカヤを、何かの代わりになんてしていない。
 自分自身の考えは疑わしいけれど、でも本当にそう思う。

 俺はモスを信頼しているし、タカヤに好意を抱いている。
 それは分かっているのだ。


518: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/16(土) 08:49:18.93 ID:lYp+dXcSo

 茶髪は俺の大部分を的確に理解しているけれど、ひとつだけ大きな誤解をしている。
 俺にはたしかに欲しいものがあって、それが手に入らないから嘆いている。
 八つ当たりしたり自己憐憫したり馬鹿なことをやったりもした。

 でも、それは別に、俺はたとえば、友達がいらないなんて思っているわけじゃないのだ。
 比重で言えば軽いかもしれないが、それは俺にとって不可欠なものなのだ。

「どっちも」欲しいからこそ、困り果てているのだ。

 俺は今の家族が好きだし、モスやタカヤや幼馴染が好きだ。
 だからこそ、俺は今の生活を壊さないためにも、手を伸ばしてはならない。
 そして手を伸ばしたところで、軽蔑されるのがいいところなのだから。

 同情心で拾った犬が子供に噛み付いたとしたら、両親はどんな気持ちになるか。
 だから俺は諦めなきゃいけない。
 本当なら、もう諦めていなければならない。
 
 今の生活を壊さないためにも。
 でも、そんなことが可能なんだろうか。

 俺は、どうしてこの執着を捨てられないんだろう。
 どうしてこんなにひとつのものに執着してしまうんだろう。


519: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/16(土) 08:49:48.82 ID:lYp+dXcSo

 家に帰ると、いつものようにコタツで妹が眠っていた。
 ずっとそこにいるとどうにかなってしまいそうだったので、部屋に戻る。
 でもだめだった。鼻の奥がつんとして涙が出そうになる。馬鹿らしい自己憐憫。

 ベッドに倒れ込む。枕は俺の友だちだが、彼にもし意思があったら、俺のことが嫌いだったに違いない。
 いっそ何もかも投げ出して遠くに逃げ出してしまおうか。それもいい。凍え死ぬのもそう悪くない。
 
 起き上がり、制服から着替えた。家を抜け出す。
 外に出ると、息が白く立ち上った。溜め息。

 俺はどうするんだ? いい加減ガタがきているのだ。
 もう余裕がない。素知らぬふり、平気なふりなんてできない。

 モラトリアムの終わり。選択の時。かっこいい。馬鹿みたい。
 どこに行くんだ。
 どうすんだ。

 一歩でも間違ったら死ぬしかなくなりそうなのに、踏み出すなんてできるもんなんだろうか。
 臆病者にも卑怯者にも、相応の生き方がある気がする。
 悪人にだってなったっていい。

 家の前で立ち止まっていると、後ろで玄関の扉が開いた。
 俺は振りむかなかった。


520: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/16(土) 08:50:37.56 ID:lYp+dXcSo

「寒くないの?」と妹は言った。
「そんなには」と俺は答える。

 俺は彼女が本当の妹だったらよかったのにと思った。
 それだったら諦めもついたかもしれない。
 
 結局俺は兄にはなりきれなかった。

 でも、本当に“そう”なんだろうか。
 単に異常な 欲が、身近な異性である彼女に向かっているだけだとか。
 ロマンス的な境遇に酔っているだけだとか。

 本当のところ、ただの気の迷いなんじゃないのか。
 いずれにせよ俺の気持ちは誰も幸せにしない。

 あっ、と妹が声をあげて、空を指差す。

「見て、あれ」

 俺は彼女の指が示した方を見上げる。
 ああ、と声が出た。

 雪が降っている。


529: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/17(日) 14:45:19.53 ID:pEUc62klo

 学校から連絡を受けた両親に、説教とも呼べないような静かな説教を受けて、部屋に戻る。 
 ガラス代は自分で払うと言い張ったが、彼らは認めてくれなかった。

 ストーブのスイッチを入れて毛布にくるまる。

 しばらくぼんやりとしていると、部屋の扉がノックされた。
 
 妹が顔を出す。

 彼女は俺の顔を見て目を丸くした。

「すごい顔してるよ」

「どんな顔?」

「ひどい顔」

 だからあんまり、親たちからも怒られなかったのだろうか。俺って、そんなに考えていることが顔に出るんだろうか。


530: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/17(日) 14:45:47.71 ID:pEUc62klo

「わたしのせい?」

 と妹は言った。どうしてそう思うんだろう。

「なんで?」

 俺は思うままに訊き返す。

「なんとなく」

 案の定抽象的で、理由になっていない。
 なんだか肩が疲れている。

 妹はベッドの上に座った。俺は毛布にくるまったままベッドに横になる。

「なにがあったの?」


531: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/17(日) 14:46:13.55 ID:pEUc62klo

「さあ?」

「ごまかさないで」

「実のところ、自分でもよく分かっていない」

「喧嘩したの?」

「あれを喧嘩と呼ぶのかどうか」

「じゃあなに?」

「糾弾と弁解?」

「なにそれ」

 彼女はあきれたように溜め息をついた。俺はなんだか笑えてくる。


532: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/17(日) 14:46:42.28 ID:pEUc62klo

「部屋でぼーっとして、何してたの?」

「考えごとしてた」

「どんな?」

「将来のこととか」

「なんか、いきなり大人チックだね」

「なんともね」

「なんか、悩んでるの?」

 妹は、困ったような顔で言った。
「この質問に答えてくれなかったらどうしよう」、と言うような顔。
 こいつは、初めて会った時も、こんな顔をしていたんじゃなかったっけ。


533: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/17(日) 14:47:11.93 ID:pEUc62klo

「いろいろね。そういう時期なんだよ、たぶん。知らないけど」

「なにそれ」

「どーしたもんか、とね」

「今日の喧嘩と関係あるの?」

「あんまりない」

「ないの?」

「ないと思う」

「何を考えてるんだか」

 彼女はまた溜め息をついた。


534: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/17(日) 14:47:43.71 ID:pEUc62klo

「どうしてここに来たの」

 と俺は訊ねた。こいつの行動だって、じゅうぶん訳が分からない。
 発端があったにせよ、突然俺を避け始めて、それをあっさりやめたかと思えば、「気にしてない」と言い放つ。
 そして、今、こんなふうに近くにいる。

 嬉しくないわけがない。
 けれど、でも、こんなことばかりだから、なんだかどうしても、逃れようがなくなってしまう。

 彼女はいくらか迷ったような表情を見せた。「どこまで言っていいもんかなぁ」という顔だった。

「ほっとけないから」

「何を」

「兄さんを」

「どうして?」

 俺はいくらか卑怯な聞き方をした。


535: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/17(日) 14:48:31.31 ID:pEUc62klo

「わかんないけど。つらそうだし、心細そうだから」

「心細そう?」

「迷子の子供みたいな」

 思春期少年の自尊心をもうちょっと慮ってほしい。迷子って。
 
「そんな顔されると、ほっとけない」

 なんて奴だろう。こいつは俺の自制心とか、そういうのを根こそぎ奪い取るつもりなんじゃないだろうか。
 不意に彼女を抱きしめてしまいたい衝動に駆られ、体を起こす。
 俺は手を伸ばし、押さえ、彼女の頭にぽんと手を置いた。

「……なに?」

「良い子だ」

 俺は偉そうなことを言う。


536: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/17(日) 14:49:03.03 ID:pEUc62klo

 俺はさっきまで考えていたことを思い出す。
 法的に禁じられていなかったとしても、社会的には異端であって、異常であること。
 両親のこと。友達のこと。あといろいろなしがらみ。

 そして馬鹿らしい気持ちになる。ひとりで何をぐだぐだ考えているんだろう。妄想みたいなもんだ。
 俺がこんなことを考えていると知ったら、彼女はきっと俺のことを軽蔑する。

 妹は、頭の上におかれたままの俺の手のひらに、居心地悪そうにみじろぎした。

「兄さんはさ」

 と、拗ねたような声音で声をあげる。

「なんか、勘違いしてるよ」

「何を?」

「いつも、本当に考えてることを教えてくれない」

 言えるわけがないだろう、と俺は思う。言って取り返しのつく問題じゃない。
 

537: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/17(日) 14:49:50.34 ID:pEUc62klo

「うわべではさんざん甘ったれたり拗ねたりしてもさ、結局本音は誰にも見せてないんだよね」

「そんなことはない」

 こともない。俺は寝転がる。

「それとも、あの人には見せるの?」

「あの人?」

「兄さんの彼女」

「彼女じゃないって」

 また幼馴染のことか。どうしてか、こいつの口から幼馴染の話が出ると、気持ちが揺さぶられる。
 なぜだろう。


538: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/17(日) 14:50:16.92 ID:pEUc62klo

 妹は気まずそうに顔をしかめた。

「自分のことを話さないのはお前もだろう。俺だって、お前が何を考えているのかさっぱり分からない」

「わたしが考えてることは、いつも単純だよ」

「どう単純なんだよ」

「わかんないけど」

 ほら、やっぱり分からない。俺は苦笑する。

 どうなんだろう。
 いっそ何も考えずに、思うままに本音をぶつけてみればいいのだろうか?
 その結果彼女に嫌われたとしても、家を出てしまえばそれで済むかもしれない、というのは楽観的か。

 それでも、今のままの生活を続けるよりは、きっとずっとましだろう。
 それとも何もかもを忘れたふりをして、普通を気取って生きればいいのか。
 いつかきっと、こんな気持ちは消えて、まともになれるもんだと思っていたのに。

 俺は、自分がまったくアキのことを思い出していないことに気付いて愕然とした。


539: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/17(日) 14:50:53.67 ID:pEUc62klo

 不意に、インターホンのチャイムが鳴るのが聞こえた。俺は怪訝に思って時計を見る。 
 もう夜だ。今時間に、いったい誰が来たんだろう。

 寝転がったままでいると、いくつかの足音が聞こえた。俺の部屋の前で止まる。

 ノックの音。
 嫌な予感がする。

「誰?」

 と俺は訊ねる。

 ドアが開く。妹が不安そうな顔になった。
 俺は動揺する。扉を開けたのは幼馴染で、彼女の後ろにはモスとタカヤがいた。

 幼馴染が、不満げな表情で口を開く。

「喧嘩しにきました」

 俺は唖然とした。


540: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/17(日) 14:51:31.70 ID:pEUc62klo

「待て待て」
 
 と俺は言う。

「いきなり何のつもりだ。どうした。何があった」

「それを説明してもらうためにきたんです」

 話が別の位相で行われている気がする。

「対話は大事です。思うに、きみは自分の頭の中だけで考えすぎてるんです」

 幼馴染は不遜に言い切った。俺は戸惑う。

「何の話?」

「きみの話をしてるんです。きみ以外の話なんて一度だってしてません」

 いや、意味が分からない。


541: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/17(日) 14:52:20.06 ID:pEUc62klo

 モスとタカヤをうかがう。モスは目を逸らして苦笑している。タカヤは興味深げに俺の部屋を見回した。観察するな。

「今日は具体的な話をしましょう」

 幼馴染は大真面目な顔で言った。

「聞きます。思ってることを話してください。全部。隠してもごまかしてもいいから」

「意味が分からない」

 俺は額を押さえる。

「相変わらず、お前の思考回路はわけが分からない」

「常にショート寸前ですから。いえ、まぁわたしの話はどうでもいいんです」

 本当にわけがわからない。


542: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/17(日) 14:53:09.93 ID:pEUc62klo

「いいかげん、怒ってもいい頃だと思うんです。いっつも勝手に考え込んで勝手に落ち込んで。もうちょっとこっちに分かるように話してください」

「お前、がんがん踏み込んでくるね」

「今日はそういう日なんです。ときどきはそういう日がないとダメなんです」

 俺は黙り込む。

「こっちに分かるように伝える気がないなら、最初から何もないみたいに振る舞ってください。心配かけさせないでください」

 どういう理屈だ。
 
「心配したのか」

「はあっ?」

 と、彼女は激昂する。こんなふうに苛立たしげな幼馴染をみたのは初めてかもしれない。俺はかなり驚いた。

「しますよ、そりゃ。あんなこと言われたら。どうしてしないと思うんですか? 逆に訊きたいんですけど」

 本当にこいつは何を言ってるんだ、という顔を彼女はする。
 俺は困る。


543: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/17(日) 14:53:35.86 ID:pEUc62klo

 とにかく、と半ば怒鳴るような声を張り上げて、幼馴染はこちらを睨んだ。

「今日は腹割って話してもらいます。自分ひとりで勝手に完結されても困るんです。置いてけぼりなんです」

 敬語のくせに「腹割って」なんていうもんだから、奇妙な迫力がある。
 俺は妹に目を向けた。居心地の悪そうな顔をしている。
 俺の視線の先を追いかけて、幼馴染はようやく妹が部屋にいることに気付いたらしい。

 俺は無言で促して、妹を立ち上がらせた。彼女は後ろ髪をひかれるようにしていたが、やがて部屋の扉をくぐって出て行った。

 ドアが閉じられる瞬間、目が合って、俺はなんだか奇妙な感慨に陥った。
 これはなんなんだろう。

 まあいいか。
 
 俺は三人の様子を眺める。てんでばらばらの表情をしている。 
 タカヤは気まずそうに、モスは苦笑い、幼馴染は憤慨している。

 なんだかなぁ、と思った。
 どこからどう説明すればいいんだろう。いつになく、素直な気分だった。


554: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/18(月) 22:11:58.19 ID:dbwfJx5Ro

「さて、まずはどこから説明してもらいましょうか」

 幼馴染は平然と口を開く。両親も帰ってきているわけで、あんまり長話もできそうにないが、彼女が自重するとは思えない。
 ときどき周囲が見えなくなる奴だ。

「そうだ! まず喧嘩! 喧嘩したんですよね?」

 言ってから、彼女は俺の頬が腫れていることに気付いた。

「うわあ、痛そう」

 興味深そうにしげしげと頬を見つめている。心配はどこへいった。

「なんで喧嘩なんてしたんですか」

「俺は悪くねえよ。あの茶髪野郎がいきなり……」

「そういうごまかしはいいです」

 人のせいにして説明を省こうとしたら、あっさり見破られた。
 さっきごまかしてもいいって言ってたのに。


555: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/18(月) 22:12:30.08 ID:dbwfJx5Ro

「説明すんのいやだなぁ」

「どうして?」

「だって、恥ずかしいし」

「思春期の乙女ですかきみは」

「似たようなもんだと思うんだ」

 だいぶ違う、と幼馴染は溜め息をつく。

「なんで喧嘩なんてしたんですか」

 彼女はもう一度同じ疑問を呟いた。

「まぁ、ちょっと」

「ちょっと」

「むしゃくしゃして」

「……ちょっと、むしゃくしゃして?」

 幼馴染は心底呆れきったような表情でこちらを見た。
 俺はなんだか居心地が悪い。


556: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/18(月) 22:12:58.01 ID:dbwfJx5Ro

「え、ちょっと待ってください。じゃあ、なんですか、最近様子が変だったのも」

「様子、変だった?」

「変じゃないと思ってたんですか」

 俺は口籠る。正気かこいつは、という目で彼女は俺を見た。

「ここ二、三日はずっと仏頂面でしたよ。それも全部、まさかとは思うんですけど」

「むしゃくしゃしてたから、かな」

「あほですか」

 自覚はないでもない。

「じゃあ、むしゃくしゃしてたのはどうしてなんですか」

「……ええと」

 俺は答えない。


557: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/18(月) 22:13:26.67 ID:dbwfJx5Ro

「今は平気なんですか?」

 幼馴染は訊ねる。俺は考え込んだ。どうだろう。大丈夫だろうか?

「まぁ、さっきまでよりは」

「そうですか」

 そこで彼女は溜め息をついた。

「じゃあ、いいです。今日は帰ります」

 えっ、と声が出る。なんなんだ、こいつは。

「とりあえずは、です。明日からも様子が変なら、また問いただしますからね」

「なんていうか」

「なんです?」

「お前と話していると、自分がとんでもないバカだったような気分になる」

「似たようなもんじゃないですか」

 そうかもしれない。


558: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/18(月) 22:13:53.25 ID:dbwfJx5Ro

「それじゃ、帰ります」

 幼馴染はこちらに背を向けた。迷わずに扉を開けてから、モスとタカヤが動き出さないことに気付く。

「どうしたんです?」

 モスは妙な顔つきで首を振って、

「先に帰ってくれ。話したいことがあるから。タカヤも外に」

 幼馴染は一瞬だけ怪訝そうな表情を浮かべたが、結局頷いて、部屋を出て行った。
 タカヤは特に思うところもなさそうに部屋を出た。俺はなんだか緊張した。

 二人きりになると、途端に部屋に沈黙が下りた。俺は何を言えばいいのか分からない。


559: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/18(月) 22:14:21.22 ID:dbwfJx5Ro

 モスはしばらく押し黙っていたが、やがて口を開いた。表情は少しこわばっている。

「お前はさ、やっぱり、好きなのか」

「へあ?」

 と妙な声が出た。何を言い出すのかと思っていたら、いきなり変な話になった。

「好きって、何を」

「妹さん」

 モスは気まずそうな顔をしていた。おいおい、と俺は思う。なんてことを訊きやがるんだ。


560: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/18(月) 22:14:49.92 ID:dbwfJx5Ro

「なんですかその質問は。ていうか『やっぱり』ってなんですか」

 俺はなぜか敬語だった。モスの表情は読みづらい。

「中学のときからずっとこの家に遊びに来てたけどさ。やっぱり、分かるんだよね」

「分かるって、何が」

「この兄妹、普通と違うよな、っていうのが」

「……なにそれ」

「暗がりにふたりっきりでほっといたら何をしでかすか分からない雰囲気っていうの?」

「あなたちょっと何言ってるんですか」

「まぁそんな感じの雰囲気がね。昔からね」

「いつから」

「ほとんど最初から」

 彼を初めてこの家に招いた頃、うちの妹は小学生だったわけなのだが。
 ……なのだが、あんまり否定もしきれない気がした。自分でもどうかと思う。


561: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/18(月) 22:15:23.38 ID:dbwfJx5Ro

「血、繋がってないんだよな?」

「……お前も今日はぐいぐい来るね」

「そういう日がときどきは必要なんだって。さっきも言われてただろ」

 もうちょっと分散させてほしいものだ。

「繋がってないよ」

 俺は一応答える。モスはなんとも言い難いという表情になった。
 腕を組んで真剣に考え込んでいる。なんだかコミカルに見えるのはなぜだろう。

「なんかの本で読んだんだけどさ、義理の兄妹って結婚できるらしいぜ」

 こいつは話をどこに持っていきたいんだろう。

「知ってる」

「へえ」

 できないって話もあるけど、少なくともうちの場合は可能だ。だからどうしたという話なのだが。


562: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/18(月) 22:15:56.95 ID:dbwfJx5Ro


「でもさ、ないだろ。そんなん。一緒に暮らしてるんだぜ? そういう対象として見ないよ」

 俺は一般論を言った。モスは「まあたしかに」と頷く。

「でも、そういう対象として見れない奴が多いってだけで、見れる奴がいないってわけじゃないだろ」

 そりゃそうなのだけれど。……そうなのだけれど。

「一緒に暮らしてるだけで相手を好きになれなくなるなら、結婚ってシステムはやっぱり非効率的だよなぁ」

 なんでもかんでも巨視的な話に持っていきたがる奴だ。それとこれとは話が違う。

「つまりさ、大勢の人間がきょうだいをそういう対象として見られないとしても、お前がそうかって話と、そのことは別の話なんだよ」

「……いや、まぁ。そのあたりはいいんだけどさ、別に」

 モスの話は、なんだかさっきからおかしい。


563: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/18(月) 22:16:38.72 ID:dbwfJx5Ro

「つまり、何が言いたいの?」

「いや、なんていうかさ」

 モスは頭を掻いた。

「それでもいいんじゃねえの。と、俺は思うよ」

「……ん?」

「うん」

「……え、なにが?」

「だから、別にいいんじゃねえの。そういうのも」

「……ん?」

 こいつは何を言っているんだ?


564: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/18(月) 22:17:05.33 ID:dbwfJx5Ro

「無責任なこと言うようだけどさ、そんなにつらいんだったら、自分の気持ちに素直になっちゃえよ」

「いやいやいや。その発言本当に無責任だよ」

 自分の気持ちなんかよりよっぽど優先すべきものがあると思うのです。

「こないだおみくじ引いたんだよ、神社で」

「いきなり何の話ですか」

「そしたら、小吉だった。恋愛のとこにね、「用心深さと臆病さは似て非なるもの」って書いてあったよ」

 モスは髪を掻きあげる。

「今思えば、アレお前のことが書いてあったんじゃないかな」

 どういう発想だ。なんでお前が引いたおみくじに俺のことが書いてあるんだ。


565: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/18(月) 22:17:52.10 ID:dbwfJx5Ro


「いや、いろいろと問題とか、障害があるだろうっていうのは分かるけどさ」

 モスはあっさりと言う。

「でもお前、好きなんだろ?」

 俺には返す言葉がない。溜め息すら出てこない。 
 自分が呆れているのか、感心しているのかすら判然としなかった。

「だったらいいじゃないか」

 モスは言葉を重ねる。本当に、こいつは無責任なことを言っている。
 俺はやっとの思いで口を開き、絞り出すように言葉を返した。

「あのさぁ、普通、引くだろ。義理だろうとなんだろうと。なんでお前、そんな平然としてんの?」

「お前こそ、何をいまさらなことを言い出してるんだよ」

「普通の人はそうかもしれないけど、俺はそうじゃないってだけだ」

 俺はようやく溜め息をついた。
 俺は今までいったい何をやっていたんだろうか。


575: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/19(火) 14:03:05.03 ID:UPeH3H9no

 モスと一緒にリビングに降りると、幼馴染とタカヤがコーヒーを飲んで妹と話をしていた。

 妹の態度がおかしかったので、てっきり幼馴染とは折り合いが悪いのかと思っていたのだが、ごく普通に会話している。
 タカヤは特に気まずそうでもなく、黙って窓の外を眺めていた。

 もう雪はやんだようだった。
 両親は部屋に戻っているらしい。なんとも。

「終わりましたか」

「まぁね」

 モスが答える。俺はなんだか気分が落ち着かない。 
 妹に視線を向けると、目が合う。逸らす。なんなのだ。

 客人たちは動き出す気配がない。というのも、いつも先頭に立つ幼馴染が動き出さないからだろうが。
 幼馴染はふと声をあげた。

「ゲームしません?」

「……いきなりなんですか」

 溜め息。


576: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/19(火) 14:03:31.07 ID:UPeH3H9no

「スマブラしましょう、スマブラ」

「いや、帰ろうよ。明日も学校だよ」

「やろうよ」

 と言ったのはタカヤだった。

「なんかさ、お前ら忘れてるみたいだけど」

 彼は不服げに言う。子犬系の顔が相まってちょっとかわいい。かわいいけど、そう思ってはいけない気がする。

「俺、昨日先輩に振られたばっかりだぞ! もっと慰めろよ!」

「あー」

 すっかり忘れていた。


577: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/19(火) 14:04:00.10 ID:UPeH3H9no

「いや、そうだな。スマブラしようか、タカヤ。俺はお前にもっと優しくするべきだったかもしれない」

「そうだな。今日はお前がやりたいだけ付き合おう。コンビニ行って飲み物買ってくるか。タカヤ、おごってやるよ」

「……あからさまに同情するなよ、悲しくなるから」

 俺とモスの言葉に、タカヤはうなだれる。難しい奴だ。

「じゃあじゃんけんで負けた奴がジュース買いに行くか」

「みんなで行けばいいじゃないですか」

「絶対寒いよ」

「いいじゃないですか、別に」

 まぁ、いいと言われてしまえばいいんだけど。
 

578: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/19(火) 14:04:25.86 ID:UPeH3H9no

「お前も行くか?」

 と妹に訊ねると、彼女は首を横に振った。

「もう部屋に戻ってるから」

 俺が返事をするより先に、幼馴染が声をあげた。

「なんでですか。一緒にスマブラしましょう、スマブラ」

 幼馴染は心底そうしてほしいような表情で言った。こいつには誰もかなわないのではないか。

「一緒にいきましょう、コンビニ。肉まんおごりますから」

「何かを買ってあげるからついておいで、って人にはついていかないようにって、兄に言われてるんです」

「おそるべきお兄ちゃんですね。いったいどんな人ですか」

 いつの話をしているのだ、妹は。小学生の頃のことじゃないか。


579: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/19(火) 14:05:59.25 ID:UPeH3H9no

「そういうのは、知らない人のときだけ気をつければいいんです。お兄ちゃんも一緒なんだからいいじゃないですか」

 妹はしばらく「めんどくさい」と「ちょっと行きたい」の表情を行ったり来たりさせていたが、やがて小さく頷いた。

「じゃあ、行きましょうか。お兄ちゃん」

「その呼び方やめてくんない」

 幼馴染の辞書に反省という文字はない。……こともないはずなのだが。
 
 夜道を歩いて、コンビニに向かう。持っているのは財布と携帯だけ。
 みんなほとんど手ぶらだ。なんだかすっきりしている。

 空を見上げると星が綺麗だったけれど、それを口に出すのは面映ゆいのでやめておいた。

 妙な気分だ。高揚しているようにも、静まり返っているようにも思える。
 
 ひそめた声で世間話を続けながら、俺たちはコンビニを目指した。


580: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/19(火) 14:06:26.06 ID:UPeH3H9no

 店内ではクリスマスケーキの予約受付の看板が飾られていた。コンビニでケーキを買う人なんているのだろうか。
 いるから売ってるんだろうけど。

 ジュースとお菓子類を適当に選んで、レジに向かう。
 タカヤの分は俺がおごった。

 レジで会計を済ませていると、入口から見覚えのある女の子が入ってきた。
 目が合う。

 少しして、彼女の方が目を逸らした。様子をうかがうと、どうやら同い年くらいの男と一緒らしい。
 平気そうに知らんぷりをされる。うーん、と俺は思う。なんとも言い難い。
 釣銭を受け取って、店を出た。微妙な気分だ。これでいいわけではないし、これでだめなわけでもない。

「どうかしたの?」

 と、幼馴染に買ってもらった肉まんを頬張りながら、妹が言った。

「特には」

 答えると、息が白く染まった。


581: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/19(火) 14:06:56.25 ID:UPeH3H9no

「さて、戻ってゲームするとしますか」

 幼馴染が声をあげて先頭に立つ。
 タカヤとモスが、それを追いかけた。俺と妹は最後列につく。

 家に帰ってゲームするって、なんとも色気のない話である。
 あったって困るけど。

 結局その日、三人は結構な時間居座って、ゲームをして帰って行った。
 
 玄関で彼らを見送るときには遅い時間で、リビングは結構な具合に散らかっていた。
 片付けることを思うと頭が痛いが、まぁ仕方のないことだ。

 三人を玄関で見送って、部屋の片づけを始める。
 俺と妹しかいなくなると、家の中は突然静かになったように感じた。
 
 片づけを終えてから、両親の部屋を覗いた。
 どちらも、もう眠っているらしい。結構騒いでしまったのだが、大丈夫だったのだろうか。

 しかし、説教を受けたその日のうちにバカ騒ぎって、いくらなんでもアホかという話ではある。
 幸いあんまり騒がしい性格の奴はいないし、盛り上がるにしても静かだったので良かったが。


582: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/19(火) 14:07:24.91 ID:UPeH3H9no

 もうすぐ冬休みなんだ、とふと思った。
 そしてクリスマスがきて大晦日がきて、正月がきて、あとそれからいろいろある。

 さて、と俺は考え込む。
 明日のことを考えると、少し気が重い。

 問題はなにひとつ転じていない。明日も説教はあるだろう。
 窓ガラス代のこともあるし。

 とはいえ、なんだか昨日までよりも、気分が優れている。

 これは何のどんな効用なのか。
 いずれにしても、もうすぐ休みだ。
 心配事はそんなに多くない。


588: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/20(水) 14:29:01.04 ID:ug7JTQkno

 ベッドで眠っていると、なんだか揺れている。
 これは地震か。そう思いながらも、まぁ家がつぶれるならそれもよかろうと眠ったままでいる。

 すると、声がした。

「起きて」

 と言われて、起きる。妹がいた。

「……なぜ起こした?」

 と俺は問う。

「ねぼけてるの?」

 妹は呆れ顔だった。

「そうではなくて。近頃は起こしてくれなかったような気がするのだが」

「こないだも起こしたでしょう」

 そうだったっけ。


589: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/20(水) 14:29:57.56 ID:ug7JTQkno

「わたしではご不満でしょうけれども」

「何のお話ですか」

「べつに」

 なんだか嫌な感じの態度である。

「まだ寝てたっていいよ。今日も起こしにくると思うから」

「あ、そう?」

 何の話か分からないが、俺は一分一秒でも長く惰眠を貪っていたい。
 俺の答えを聞いて、妹はすねたような顔でそっぽを向いた。

 こいつも何を考えているのやら、と少し考えたが、眠かった。
 
「おやすみ」

 と俺は言った。目をつぶる。眠気はすぐにやってくる。二度寝は至福だ。冬の朝は寒い。
 なんだか頭がぼんやりする。


590: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/20(水) 14:30:29.44 ID:ug7JTQkno

 少しすると、また揺れる。またか、と俺は思う。もう時間なのか。
 いいから寝かせておいてくれ。どうせ休みになるんだし。
 
 でもだめ。今度はさっきより激しい。どうやら時間らしい。

 体を起こすと、幼馴染がいた。

「おはようございます」

「……おはよう」

 彼女は俺の寝癖をぽんぽんと叩いた。

「今日も一日がんばりましょう」

 からりとした笑顔で言う。こいつが言うとなんとも空々しい。
 さて、と俺は思う。
 それでもやっぱり学校なのだ。今日も今日とて。


591: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/20(水) 14:31:02.05 ID:ug7JTQkno

 教室につくと、窓際の俺の席で、タカヤが何か思い悩んでいるようだった。

「どうした?」と声を掛ける。

「いや」

 彼は首を横に振る。何が「いや」なのか。

「なんだか、すっきりしないなと思って」

「何が?」

「なんだか、よく分からないんだけど……」

 何の話をしているんだろう。

「このままでいいのかな。何か忘れてる気がする」

 そうは言われても、俺にはなんとも答えられない。


592: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/20(水) 14:31:40.33 ID:ug7JTQkno

 タカヤの表情をよそにモスはひとりで練けしを作っていた。
 こいつはこいつで何をやっているのやら。

 俺たちが教室で世間話をしているうちに、教師が俺を呼びに来た。
 嫌な話だ。俺は職員室に連行される。曳かれ者の小唄。

 なんだか月並みな話を聞かされる。
 ついでに反省文という言葉の上でしか知らなかった存在にまで直面し、俺のテンションは下降した。
 
 でも仕方ない。それが俺のしたことなのだ。

 教室に戻って、平然と話の輪に戻る。

 なんだか気分が冴えなかった。


593: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/20(水) 14:32:07.43 ID:ug7JTQkno

 昼休み、幼馴染に呼び出される。

「お弁当は?」

「今日はありませんよ」

「なぜ」

 当てにしていた自分を棚に上げ、幼馴染の行動の意図を問いただす。

「いつまでもわたしをあてにしないでください」

 スパルタめ。

「ところで、俺たちはどこに向かっているのでしょうか」

 俺たちは廊下を歩いている。何度も通った廊下。なんだかこのままだと、知っている場所にたどり着いてしまいそう。

「新聞部の部室です」

 なぜ。


594: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/20(水) 14:33:11.37 ID:ug7JTQkno

 部室では先輩が待っていた。彼女は俺の姿を見て、なんだか微妙な顔をする。そりゃ、そうもなるだろう。
 彼女自身のことも彼女の弟のことも、どちらも俺と関わっている。

「あのさ、ほっぺた、平気?」

 彼女はまず、気まずげにそう言った。

「平気ですよ。弟さんの方は平気そうですか?」

「うん。いや、ごめんね」

 どうして謝るんだろう。口には出さなかったが、なんとなく納得がいかなかった。

「なんというか、ね」

 彼女は気まずげに溜め息をついた。なんとも言えない。
 
「まぁ、いろいろ。思うところとか、そういうあれがあって」

「すみません、何が言いたいのかまったくわかりません」
 
 失礼だとは思ったが言わずにはいられない。
 先輩は歯噛みした。


595: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/20(水) 14:34:10.90 ID:ug7JTQkno

「わたしも、混乱してるみたい」

 先輩は溜め息をつく。そうは言われましても。
 ところで。

 先ほどから先輩の弟君が、窓際からこちらを睨んでいる。幼馴染も先輩も、もうちょっと考慮してくれてもよいのではないか。

「こら!」

 と先輩がうしろを振り向いた。

「何睨んでんの!」

 ……お姉ちゃんがいる。すげえ。お姉ちゃんだ。実物初めて見た。

「うっせえばーか」

 そしてあっちはあっちで弟だ。なんだこの姉弟。

「あんたちゃんと謝ったの!?」

「知らねえよ。謝るかよ。黙ってろ」

 俺は気まずい。


596: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/20(水) 14:34:53.36 ID:ug7JTQkno

「謝んなさい、今すぐ!」

「やだね」

 やだね、って。なんだそれは。言ってはなんだが見ていて面白い。

「ったく。ごめんね、ホントに」

「あ、いえ。こちらこそいろいろ申し訳ないことを」

 したような、しなかったような。
 まぁいいか。人間なんて誰だって悪でも善でもないのです。まる。

 どうでもいい。

 ふう、と溜め息をついて、先輩は苦笑した。

「何話すか忘れちゃった」

 おもしろい人だ。


597: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/20(水) 14:35:27.77 ID:ug7JTQkno

 もうすぐ冬休みなのだと思うと、不意になんだか走りたくなった。なんでか分からない。
 グラウンドは運動部が使っていた。うーん、と思う。気持ちが落ち着かない。

 そこに、茶髪が来た。

「何やってんの」

 と彼は平然と俺に声を掛ける。なかば呆れながらも、特に思うところもなく返事をする。

「別に。走りたいなぁと思って」

「走れば?」

「なんともね」

「走れよ」

 なんだこいつ。俺は怪訝に思う。いったい何が言いたいんだ。考えてることが分からない奴ばかりだ。
 当たり前のことだけど。


598: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/20(水) 14:35:55.30 ID:ug7JTQkno

「なあ、じゃあ走るか」

 茶髪は言った。

「お前も走るの?」

「それでもいい」

 唐突な奴だ。

 校舎には夕陽が差している。冬なのだ。空気は冷たい。

「俺はさ」

 と茶髪は言う。

「お前には謝んねえ。謝んねえけど」

「けど?」

「悪かった」

 謝ってんじゃん。


599: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/20(水) 14:36:22.12 ID:ug7JTQkno

「じゃあ、俺もだ」

「何が?」

「俺もお前には謝んねえけど、悪かった」

「なんだそりゃ」

 お前が言ったんだよ。
 でも、まぁ、そうなのだ。

 謝れる部分と謝れない部分がある。悪い部分と悪くない部分がある。どんな人にも。
 そういう違いだ。


600: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/20(水) 14:36:49.13 ID:ug7JTQkno

「外周走ろう。どっちが早いか、競争な」

 茶髪が言った。俺は頷く。

「先に五周した方が勝ち。勝った方が負けた方に一個だけ命令できる」

「五周?」

「三周がいいか」

「十周の間違いだろ」

 茶髪は笑った。俺は肩をすくめる。


601: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/20(水) 14:37:15.62 ID:ug7JTQkno

 立っていた場所をスタートラインにして走り始めた。コースは裏門から出て外を大回り。 
 校門の方に回ってそのまま学校の敷地を走る。それを十周。最後にスタートに戻る。
 
 当然だけれど全力疾走を続けて走り抜ける距離じゃない。かといってペースを乱さずに走るなんてできる気分でもなかった。
 俺もそうだったし茶髪もそうだったと思う。

 なんだか知らないけど、俺は茶髪という人間を嫌いになれない。いや、嫌いなのだけれど。
 どうも、彼に対して妙な親近感といおうか、そういうものを感じてしまう。なぜかは分からない。

 一周二周なんて楽勝だろうと思っていたら、半周ほど走る頃には息が乱れていた。運動不足。怖い話だ。

 制服のままだから動きにくいし、冬だから体を動かしていても指先が冷たい。
 呼吸が乱れる。俺は長距離ランナーじゃなかった。

 でもどうでもよかった。膝もまったく痛まなかった。二周目あたりで、茶髪が俺を引き離した。
 俺はそれでも普通に走る。

 なんで走ってるんだっけ。正直、疲れている。体力も体調も芳しくない。
 第一寒い。よくもまぁ走る気になれたものだ。走りたかったのだけれど。


602: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/20(水) 14:37:41.52 ID:ug7JTQkno

 俺はいろんな問題から宙ぶらりんにされている気がする。なんだか浮かび上がっているような気がした。
 別に負けたくないなんて思わなかった。ただ思い切り走りたくなった。なんとなく。休みになるし。

 でも上手に走れなかった。手足が思うように動かない。
 嫌になる。なんで俺の身体はいつだって俺の言うことをきかないのか。

 でも仕方ない。俺は俺の身体で上手いこと走っていくしかない。

 脇腹が痛んで、額に汗が滲んだ。まだ大した量を走ったわけでもない。
 運動不足。

 冗談のような話だ。

 茶髪は俺のずっと先を走っていたが、視界からは決して外れなかった。

 なんだって俺は走っているんだろうか。


603: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/20(水) 14:38:07.20 ID:ug7JTQkno

 俺は気付けば夕陽に向かって走っていた。今日の太陽はでかい。そう見えるだけかもしれない。
 五周を越えたあたりでばてそうになる。もう歩いたっていいじゃないかという気分。
 なんで五周にしておかなかったかな、俺の馬鹿。自分の能力をもっと把握しておけ。

 でも、走ると決めた以上はやっぱり仕方ない。

 ……そうか? 別にやめたっていいじゃないか。逃げたって。

 それはそれでありだろ。なんだってこんなに疲れるのに走り続けなきゃならないんだ。
 走り終えたところでどうなるんだ? 仮に茶髪に勝ったって、奴にひとつ命令できるだけだ。
 たかだかそんなもんのために走ってどうなるっていうんだ。

 走り続ける理由と走るのをやめる理由だったら、どう考えても後者の方が多い。

 下校を始めたうちの学校の生徒たちに遭遇する。俺のことを奇異なものを見るような目で見ていた。
 実際、奇異なものなのだが。
 
 それ以外の人にもたくさん出会った。
 主婦っぽい人に犬の散歩をしている老人、それから付近の中学生。
 

604: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/20(水) 14:38:33.59 ID:ug7JTQkno

 俺はかなり無様に走った。できるものなら軽快に走りたかったが、できないのだから仕方ない。
 こんなに走ったってどうなるんだ。別に走るのをやめたってかまわないのに。
 
 でも、なんか知らないけど走っている。ペースが落ちてきた。でもまあ、走っている。
 茶髪の背中が徐々に近づいてきたような気がする。街は黄昏。時間の流れが異様に遅く感じる。

 途中で妹とすれ違った。俺は一瞬だけ目を丸くして、「よう」と言った。

「何やってんの?」

「不毛な戦い」

「なにそれ」

 彼女は笑った。


605: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/20(水) 14:39:02.40 ID:ug7JTQkno

 十周を終えてスタート地点に戻ると、妹がいた。敷地内なのに。それから幼馴染。タカヤ、モス。
 先輩と、「みー」。タカヤ姉。

 こいつら暇なんだろうか。

「何やってるんです?」

 と幼馴染は言った。

「特には」

 言って、荒い息を整える。立ち止まると、途端に膝が痛みだした。

「そっちこそ、何をやっているのか。勢揃いで」

「別に、何も」

 と、皆が顔を見合わせる。俺は疲れたので、地べたに座り込みたかった。


606: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/20(水) 14:39:28.52 ID:ug7JTQkno

 足がうまく動かない。折り曲げることすら難しい。

「五周にしとけばよかった」

「いらない見栄を張るからだ」

 茶髪もまた、ぜえぜえと息をしながら乱れた髪を直している。

「なんだかなぁ」

 と言いつつ、俺は「みー」に視線を向けた。この子はここにいて大丈夫なのだろうか。
 なぜここにいるのだろう。何かあったのだろうか。そう思ったけれど、上手に問いかけることはできない。
 いて悪いわけでもない。俺は疲れていた。達成感も爽快感もなかった。


607: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/20(水) 14:39:54.21 ID:ug7JTQkno

「はい」

 と、妹が飲み物を差し出す。レモンウォーター。俺は受け取る。

「どうも」

 俺は何をやっているのやら。
 不意に、モスがこらえきれないというように笑った。 

「なんで急に走ったんだよ」

「知らねえ。なんかこいつが」

 と俺は指差す。

「いや、お前だろ?」
 
「……そうだっけ?」

 よく思い出せない。幼馴染は笑った。

「あほですか、きみらは」

 たぶんその通りだ。としか答えようがない。


616: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/21(木) 14:44:33.12 ID:/ODgI8HQo

 俺と茶髪の不毛な争いが、勝者なしという不毛な結果に終わった翌日の土曜日。
 幼馴染は平然と俺の家にやってきた。

 前日の消耗が残って全身を疲弊させていた俺に対して、彼女はごく普通の態度で接した。
 あたかも何も起こらなかったように。まぁ何も起こっていないようなもんなんだけど。

「なんていうか」

「なんていうか?」

「昨日、みーがいたじゃないですか」

「ああ、うん」

「わたし、知らなかったんですけど、タカヤくんに声を掛けてみたらしいんです」

「……掛けてみたって、なぜ」

 彼女は首をかしげた。

「さあ? 機会があったのかもしれませんし。詳しいことは分かりませんけど」


617: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/21(木) 14:44:59.15 ID:/ODgI8HQo

 俺は何を言おうか迷った。

「つまり、昨日の「みー」は、お前と一緒にいたんじゃなくて、タカヤと一緒にいたの?」

「そうなりますね」

 なんだそれは。

「まぁ、あのふたりがどういう話をしたのかは知りませんけど、なんというか」

 なんというか。と幼馴染は首をかしげる。うーん。

「いいんじゃない?」

「なにがです?」

「いや、よく分からんけど」

 俺たちが変に首を突っ込むよりは。


618: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/21(木) 14:45:26.54 ID:/ODgI8HQo

 幼馴染は用事があるといって早々に帰って行った。来週からは起こしにきませんよと言葉を添えて。
 どうせ来週をやり過ごせば冬休みだ。好きなだけ眠りたい。

 ベッドを這い出てリビングに向かう。もうすぐ休みになるのだ。

 妹はコタツにもぐって本を読んでいた。

「なあ」

 と声を掛ける。

「なに?」

「出かけない?」

「……どこに?」

「どこでもいいんだけど」

 なんとなく気分が落ち着かないのだ。妹は少し迷ったような顔をしていたが、やがて頷いた。

「……うん」


619: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/21(木) 14:46:26.23 ID:/ODgI8HQo

 外は寒い。息は白い。このあいだ初雪も降って、街はいよいよ冬めいている。

「どこに行こうか」

「決めてから出掛ければいいのに」

「なんだか、据わりが悪いんだ」

「なにそれ」

「落ち着かない」

「そんなの知らない」

 妹は拗ねたようにそっぽを向く。俺はふと疑問を口にした。

「……なんか、近頃、態度が変じゃない?」

「どこが?」

「昨日から、冷たい」

 妹は呆れたように溜め息をつく。まぁ、冷たくされても仕方ないのだが。

「べつに」


620: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/21(木) 14:48:12.45 ID:/ODgI8HQo

 とりあえず街に出る。何の目的もなくぶらつく。そういう日がある。
 何もこんな寒い日に、とも思うのだが、夏は暑いし冬は寒い。春は花粉、秋だって十分寒い。
 
 出かけない理由なんて、いつだって山ほどある。
 筋肉痛だって体調不良だって。まぁ、さすがにそこをおしてまで出かけようとは思わないのだが。

「なんで、急に出かけようなんて言うの?」

「なんで、って?」

「今まで、こんなことなかったのに」

「そうだったっけ?」

「そうだよ、兄さん、中学入ってから、ずっとわたしと距離置いてた」

「そんなことは」

 あったかもしれないが、無意識だ。実際、コタツでの距離とか異様だし、あんまり理屈で考えてはいなかった気がする。

「兄さん、最近おかしいよ」

「そんなことはない」

 おかしいといえば、まぁ、最初からおかしかったのだろうと思う。
 

621: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/21(木) 14:48:40.46 ID:/ODgI8HQo

「なんていうか、悪かったな」

「なにが?」

「いろいろ、迷惑かけたような気がする」

「……何の話?」

「情緒不安定なもんで」

「いいよ、それは別に。いつものことだし」

 彼女は本当に気にしていないように言う。
 しばらく出かけたりしなかったので気付かなかったが、街中はクリスマスに染まっている。

「でも、なんていうか、嫌われても仕方ないっていうか」

 こういうことを口に出してしまうあたり、なおさら鬱陶しい部分なのだが。

「……アホだからさ」

 いつもぐだぐだ言い訳をならべて、話をぐしゃぐしゃにして、誰かを傷つけたりして。
 当たり前といえば当たり前のことなのだけれど。
 当たり前と割り切るのは身勝手すぎる。


622: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/21(木) 14:49:25.39 ID:/ODgI8HQo

「別にいいよ。アホでも」

 妹はマフラーに口元を埋める。

「兄さんにはいいところなんて一個もないかもしれないけど、それでもわたしの兄さんだから」

「さらっと傷つくことを言うなぁ」

「でも、仕方ないんだよ。なんか、そういうふうにできてるんだよ」

 いつのまにか、彼女の声音は真剣なものになっていた。
 俺は不意に黙り込む。何を言えるだろう。

「たとえばさ、兄さんより頭が良くて、性格ももっとしっかりしてて、運動ができて、誰も傷つけずにいられる人がいるとしてさ」

 嫌な想像だ。自分より出来のいい人間のことを想像と気分が暗くなる。小者だから。

「その人がわたしの兄貴になってくれるっていっても、別にいらないんだよ、そんな人」

 照れくさそうでもなく、ごまかすふうでもなく、ごく当たり前の口調で、妹は言った。


623: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/21(木) 14:49:56.96 ID:/ODgI8HQo

「だってその人は兄さんじゃないから。当たり前だけど」

 どうして、こんな話をしているんだろうと、不意に思った。

「そこまで言ってもらえると、何ともむずがゆいんだが」

 でも、

「俺はそこまで良い兄だったか? 代わりがいらないくらいの」

「……良い兄では、なかったかもしれないけど」
 
 だったら、疎んじたり、嫌ったりしたってよさそうなものなのに。
 どうして彼女は、こんなふうな言葉を向けてくれるんだろう。

 後ろめたさが募る。

「でも、わたしが寂しかった時に傍に居てくれたのは兄さんだから」

「……それって、いつの話?」

「分かんないなら、別にいいよ」

 と、ほんとうに、そのことは重要ではないというふうに、彼女は言った。
 

624: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/21(木) 14:51:01.26 ID:/ODgI8HQo

「でも、だから、兄さんが寂しいときは、傍にいてあげたいって思うよ」

 不意に、強い感情が胸を衝いた。
 俺は何を言えばいいんだろう。なんだか涙が出そうな感覚。

「兄さんは、別にわたしがいなくても平気みたいだけど」

 ――と、沸きかけたところに、水を差される。

「……その心は?」

「彼女にご執心のようだから」

「……しつこいね、お前も。彼女じゃないって」

「でも、わたしが傍にいたって落ち込んだままだったのに、あの人がきたら元気になったじゃん」

「……え、それは」

「一昨日の話」

「そんなことはなかった」

 と、思うのだけれど。


625: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/21(木) 14:51:29.29 ID:/ODgI8HQo

「いいけどね、別に」

 妹は言う。

「付き合っちゃいなよ。その方がわたしも、気が楽だから」

 拗ねたような声で言う。こいつがこんなにもはっきりと感情をあらわすのは、初めてかもしれない。
 
「気が楽って、どういうこと」

「べつに」

 俺は深く考えないようにした。

「どこかに入るか」

 誤魔化すように提案する。妹は頷いた。


626: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/21(木) 14:51:55.37 ID:/ODgI8HQo

 どこにも入る気が起きなかったので、適当に町はずれの喫茶店のドアをくぐった。
 前々から気になっていたのだけれど、入る機会がなくて、ずっと素通りしていた。

 喫茶店に入るなんて、なんだかきざったらしいような気がしたのだ。
 席についてコーヒーを頼む。よくわからなかったので適当に。

「あいつとは」

 と俺は言う。

「本当に、なんでもないよ。いや、なんでもないって言ったらおかしいけど」

「けど?」

「あいつだって、俺のことをそんなふうに考えていない気がする。母親っつーか姉っつーか、そういう立ち位置なんじゃないか」

「兄さんがそう思ってるだけかもしれないよ」

「仮にそうだとしても、おんなじだよ」

「なにが?」

「いや……」

 きっと、アキのことの反復になるだけだ。
 このままじゃずっとそうだ。


627: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/21(木) 14:52:22.09 ID:/ODgI8HQo

「ふうん」

 妹は、さして思うところもなさそうに頷く。
 納得したようではないが、なんだか、気まずそうな顔をしている。
 叱られる前の子供のような。

「俺は」

 と言い掛けて口籠る。さすがに、これを言ったら、まずいような気がした。

「……なに?」

 妹は不可解そうに目を細める。
 視線を逸らさない。何があっても追及する目をしている。俺は溜め息をつく。

「俺は、お前がいないと困るよ」

 彼女は、面食らった顔をした。目をあちこちに泳がせて、やがて拗ねたように窓の外へ顔を向ける。
 
「なにそれ」

 口癖のように妹は言う。俺は妙に気分が高揚している。言わなくていいことを言ったのはそのせいだ。
 たしかに、こんなふうに過ごすのは久し振りだったかもしれない。
 

634: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/22(金) 18:15:48.34 ID:wS5cp47fo

 夢の中で俺は走っている。なんでかは分からない。
 とにかく走ることが必要だったのかも知れない。

 そうしないと俺の中の何かが狂ってしまいそうだったのかも知れない。
 とにかく俺は走ることで安定を得ることができた。走ることでようやくまともだった。
 あくまでも夢の中では。病的だ。
 
 そういう夢を、近頃頻繁に見る。最近では、走りつかれて頭が朦朧としているのが、夢の中の俺は幻聴さえ聴く。

 声はひたすらに「どうしてお前は走っているんだ」と問い続ける。
 なんでだったかなぁと俺は考える。でも、いつも上手に答えられない。特に理由はなかったのだ。


635: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/22(金) 18:16:14.59 ID:wS5cp47fo

 そんな夢ばかりみていたので、近頃の朝は寝覚めが悪かった。のだが、今日のそれはもっとひどかった。
 ほとんど悪夢だ。

「判決を言い渡す」

 裁判長が木槌を叩く。俺はその様を見上げている。裁判長は俺の顔をしている。
 天井は高く声は響く。巨大な建物。法廷だ。俺は被告人だった。

「有罪」

「待ってくれ、納得がいかない」

 俺は必死に言いつのる。第一、何の罪で俺はこんな場所に立っているんだ。

「分からんと言うか。分からんというのか。自分が何の罪でここに立っているのか」

「まったく分からない。説明がほしい」

 裁判長は溜め息をつく。俺がいつもそうするように。


636: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/22(金) 18:16:41.72 ID:wS5cp47fo

「まったく分からん。説明しろ」

 俺は声を荒げる。なんでかは分からないけど、そういうことがある。

「血の繋がりはないと言ったな」

 裁判長は、嘲るように言った。

「だから許されるとでも思っているのか」

「別に、許されると思っているわけでは」

「ならば、有罪ではないか」

 ……そう、なるのか?


637: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/22(金) 18:17:07.55 ID:wS5cp47fo

「第一、お前の妹はまだ子供ではないか。子供に手を出すのは犯罪だ。一般常識だ」

 裁判長は自らの言葉に深々と頷いて続ける。

「そして、お前も子供だ。経済的に自立していない。精神的にも幼稚だ」

「その通りだが」

「だが、なんだ?」

 俺は押し黙る。

「分かるか。そこが貴様の思い違いなのだ。もし赤の他人ならば、経済的自立など視野に入れんでもよい。どうせ長くは続かんのだから」

 裁判長は厳かな声で告げる。声は法廷に響く。真黒な傍聴席がざわめく。

「だがお前たちは家族ではないか。その場の勢いでどうこうしていい立場か。上手くいかなかったとやめられる関係か」

「……いや、待て。俺は何もそこまで、現実的に考えているわけでは」

「考えていないのか。それはそうだろう。お前は子供だ。将来にまで責任は持てない。それはそうだ」


638: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/22(金) 18:17:51.53 ID:wS5cp47fo

 声には憤りがこもっている。

「赤の他人なら簡単に捨てられる。気分の悪い話だが。だが、妹ならどうだ? 飽きたといってお互い綺麗に捨てられるのか?」

「捨てるなんて」

「しないとどうして言い切れる? 単なる一時の気の迷いではないのか。単に 欲の対象として見ているだけではないのか」

「下種が」

「下種は貴様だ。恥を知れ」

 俺はまたも押し黙る。

「貴様は今までだってそうだったじゃないか。手に入らないから欲しがるだけで、手に入ってしまえば見向きもしない」


639: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/22(金) 18:18:17.16 ID:wS5cp47fo

 裁判長は言う。

 両親はどう思う。仮にそんなことになってしまったら。
 第一、血の繋がりがなかったところで、お前たちは世間から見れば兄妹なのだ。風当たりは強い。
 ならばどうする。誰も知らない街にでも引っ越すか。二人きりで。それもよかろう。金さえあれば。
 巨大な屋敷でも立てて、そこに引きこもるのもよかろう。金さえあれば。だがない。

 それに、お前の友人たちはどうだ? ひとりはああ言ったが、他のものまでああ言ってくれる保証はない。
 
 お前はどうやら今すぐにでも妹を手に入れたくて仕方ない様子だ。だがその先のことを何も考えていない。
 一切何も。物欲しそうにしていれば手に入るものだと勘違いしている。

 第一血の繋がりがないことなど、何の免罪符になる?
 お前は仮に血の繋がりがあったとしたら、あの子を好きにならなかったのか。

 どうなのだ。仮に血の繋がりがあったとして、お前は同じなんじゃないか。
 近   によって出来る子供に障害が起こる可能性は高齢出産のそれと大差ない。
 であるなら遺伝的問題は後でつけられた理屈にすぎない。
 高齢出産が禁忌とされていない以上、近   がタブー視されるのは文化的な、倫理的な問題だと。
 現に近   が禁忌とみなされなかった社会だって歴史の上には世界中に見ることができると。
 第一優生学的な視点を理由とするのはあまりに時代錯誤に過ぎると。
 単に大衆の感情が問題になっているにすぎないと。
 そんなふうに屁理屈を並べたのではないか。結果生まれてくる子供の気持ちなんて考えもしないだろう。

 要するに自分に都合の良い言葉だけしか聞く気がないのだ。
 吊るされた餌に飛びつくのと変わらない。
 

640: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/22(金) 18:18:43.46 ID:wS5cp47fo

 お前はどんな境遇だろうと適当に言い訳を並べるだけだ。
 だがそんな言い訳が、現実に社会で何の役に立つというのだ。 
 現に社会に認められることがないという事実がその後の人生では最大の障害となるのに!

 そもそもお前は、彼女の側の気持ちを一度だって考えたことがあるのか。

 俺は何も答えられない。

「そらみろ!」

 裁判長が叫ぶ。傍聴席から飛ぶ怒号。投げつけられるゴミ。ポップコーンとジュースの容器。
 出来の悪い脚本に、観客が怒っている。
 俺の頭にコーラがかかる。べとべとと服を汚していく。容器が頬をかすめて裂いていく。

「お前は何も考えていない! 分かるか! それがお前の罪だ! 今さえよければいいと思っている! 下種が! 恥を知れ!」

 怒号はいつしか耳鳴りのように鼓膜に馴染んでいく。俺の世界から音が消えていく。
 傍聴席から真黒な人々が身を乗り出す。俺に向かって親指を下に向ける。
 さまざまな声が俺を罵っているらしい。その声はもはや俺には聞こえない。
 
 どろどろどろと、傍聴人が溶けて俺の視界を覆っていく。
 俺はどうして走っていたんだったか。


641: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/22(金) 18:19:09.32 ID:wS5cp47fo

 ふと目を覚ます。
 部屋の中は赤く染まっている。夕方なのだ。俺は息を整える。ひどい夢だった。
  
 汗を掻いていた。ひどく寒い。ベッドから抜け出す。喉が渇いている。
 頭が痛い。夢見はいつも悪い。

 日曜の夕方。休みを寝て過ごしてしまったが、後悔はない。もうすぐ、どうせ休みなのだ。
 キッチンで冷蔵庫を漁る。飲み物はなかった。俺は財布を持って散歩に出ることにする。

 公園の自動販売機でスポーツドリンクを買う。アクエリアス。そういう気分だった。
 ベンチに座って喉を潤していると、なんだか時間の流れから取り残されているような気分になった。

 このまま取り残されてしまいたいもんだ。俺は自棄になったように思う。

 そうして誰も彼も俺を忘れてくれればいいのに。大真面目に考える。
 いつまでこんなことをぐだぐだ考えてるつもりなんだか。

 この公園も、なんだか小さくなったなぁ。いや俺が大きくなったんだけど。
 昔は何もかもが巨大だったのに。


642: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/22(金) 18:19:35.23 ID:wS5cp47fo

 自分でも、気味が悪い。
 どうしてあんな夢を見るほど真剣な想像を膨らませているんだろう。

 不意に、声を掛けられる。

「なにしてるんです?」

 肉まんをかじりながら、幼馴染がやってきた。

「寒くないんですか、そんな薄着で」

「そんなには」

 と答えかけて、空気が冷たいことに気付いた。

「あほですか」

 言いながら幼馴染は俺の隣に腰を下ろし、肉まんをひとつ差し出した。
 俺は受け取る。


643: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/22(金) 18:20:28.39 ID:wS5cp47fo

「何考えてたんですか?」

「別に、何も」

「妹ちゃんのこと?」

「……だから、別に何も考えてないって」

「昔から」

 と、幼馴染は特に思うこともなさそうに言う。

「きみはずっと、妹ちゃんのことばっかりしか考えてませんからね」

「なんすか、それ」

 俺は溜め息をつく。


644: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/22(金) 18:20:55.81 ID:wS5cp47fo

「だって、ずっとそうじゃないですか。わたしが知る限りではずっと」

「お前が知る限りって、それさ」

 俺の人生のほとんど全てなんですが。

「状況によっては、違う形で発露されたりもしますけど、結局向いてるベクトルはおんなじなんですよね」

「……なんつーか。お前もお前で、物おじせずにがんがん言うね」

「アキとのことも、そうですけど」
 
 幼馴染は平然と言う。俺の表情にどんな変化があったのか、自分では分からないけれど、彼女はさとすように言った。

「言ったらなんですけど、きみだけじゃなくてあの子だって悪かったんですよ。相手の気持ちとか、まったく考えない子だった」

「やめろよ」

「目の前の相手がどんな表情をしているかとか、どうでもよかったんです。あの子は。だから……」

「やめろって」

 幼馴染は押し黙った。俺はなんだか頭が痛い。


645: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/22(金) 18:21:21.78 ID:wS5cp47fo

「ごめんなさい。わたしも、きみの気持ちとか、あんまり考えてないかもしれない」

 幼馴染は言う。
 俺は溜め息をつく。それを言ったら、俺だってこいつの気持ちなんてまったく考えていないのだが。

「なんか、疲れたな」

 不意に、幼馴染は言った。

「どうして?」

「時間切れまで持ちそうにないって話です」

「何の話?」

「べつに、いいです」

 ふてくされたような口調だった。


646: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/22(金) 18:21:51.53 ID:wS5cp47fo

「だめだったかあ」

 そう言って、彼女はおおきく伸びをする。西日のさす公園で、その影は長く伸びた。

「何が」

「そのうち、どうにかなって、上手いところかっさらえるんじゃないかなぁと、ちょっとだけ、期待してたんですけどね」

 からりとした声で、彼女は言う。

「別に良いんですけどね。分かってましたし」

「何の話? 自己完結されてもわかんないんだけど」

「こればっかりは、言えませんね」

 最後は、ささやくような小さな声だった。

「言えませんよ、ぜったい」


656: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/23(土) 17:45:34.35 ID:3VZorDbio

 学校に登校する。モスもタカヤもいなかった。幼馴染も、今朝は起こしに来なかったし、教室には来ないらしい。
 誰も傍にいないままで、教室に人が増えていく。うーん、と俺は考え込む。

 せっかく暇だったので、将来のことを考えることにした。
 先のことなんてさっぱりわかんねえよなぁと俺は思う。 
 何かの保証があるわけでもなければ、誰かが教えてくれるわけでもない。

 要するに自分で考えていくしかないのだが。 
 めんどくさい。

 ぶっちゃけめんどくさい。

 とはいえ働かざる者食うべからずが世の習わし。
 俺は芸人じゃないし(ぱくり)。

 やがてモスがやってくる。眠たげな顔。朝見るには少し辛気臭い。

「怠いな」

 こいつがぼやくのは、珍しい。


657: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/23(土) 17:46:03.50 ID:3VZorDbio

「どうせすぐ休みだろ」

「だから怠いんだよ」

 分かるけど。
 モスは溜め息をつく。俺たちの間にほとんど会話らしい会話はない。

「あのさぁ」

 ふと思い出して、モスに話を振る。

「なに?」

「こないださ、俺んち来たとき、お前言ったじゃん」

「何を?」

「引かないって」

「何の話?」

「言わせんのか」

「……ああ、あれか」


658: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/23(土) 17:46:29.77 ID:3VZorDbio

 うーん、とモスは言う。

「まあ、そうな。だって、つまるところお前らってさ」

 モスは口籠る。俺は頷いて続きを促した。

「……言ってしまえば、赤の他人同士が同じ家で暮らしてるってだけだろ?」

「……バッサリ言うねえ」

 俺は割と傷つく。
 モスは気まずげな顔になった。

「じゃあさ、仮に俺とあいつの間に血の繋がりがあったら?」

 モスは眉を寄せる。しばらく考え込んでいるようだった。やがて、首をかしげて口を開く。


659: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/23(土) 17:47:00.01 ID:3VZorDbio

「分からん。どうだろ。そうなってみないと。でも、そんなに変わらんような気がする」

 モスの言葉は曖昧だ。

「でも、実際、最初は義理って知らなかったしなぁ。大差なかったんじゃないか」

「お前、変わってるね」

「かもね」

 溜め息をついて、モスは窓の外に目を向けた。
 教室のざわめきは、俺たち二人の会話なんて意にも介さずに続いている。誰もこちらを見ていない。
 
 教室の扉が開いて、タカヤがやってくる。
 一日が始まるのだなぁと俺は思った。


660: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/23(土) 17:47:26.34 ID:3VZorDbio

「デートに誘われた?」

 と、タカヤから聞かされたのは昼休みのことで、俺たち三人は教室で食事をとっていたところだった。
 重々しく頷くタカヤは、どこからどう説明したらいいかと考え込んでいるようにも見えた。

「それって、あの子だよな。ちょくちょく一緒に昼飯食った」

「「みー」だ」

 俺が言うと、タカヤは驚いたように目を見開いた。

「お前はそう呼んでるのか」

「いや、俺じゃなくて」

 少し軽率だったかもしれない、と考えて、幼馴染が呼んでいるのがうつっただけだと訂正する。
 でも、あの「みー」が?

「え、それはどういうやりとりの末に?」

 モスが混乱しきった表情で訊ねる。俺にしてもそうだが、こういう話はまったくの未知なので反応に困る。

661: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/23(土) 17:47:56.84 ID:3VZorDbio

「いや、それが、このあいだ突然告白されて」

「告白!」

 俺とモスの声が重なる。

「……え、それはあの、いわゆる、告白だよな?」

「うん」

「好きですっていう?」

「……うん」

 俺とモスは沈黙する。


662: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/23(土) 17:48:24.02 ID:3VZorDbio

 率直に言って驚いた。あの子にそんな行動力があるようには見えなかったし、実際なかったのではないか。
 幼馴染からも何もきかされていないから――彼女が俺に話す義理はないのだが――たぶん、みーの独断なのだろう。

 それもこの時期に。なんともいいがたい話だ。

 信じがたい、と言ってもいい。

「人生って不平等だよな」

 モスがぼそりと呟いた。妙に真に迫った声だ。俺は反応に困る。
 いまさらのことだ。


663: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/23(土) 17:48:49.99 ID:3VZorDbio

「で、どうするの」

 俺が訊ねると、タカヤは首をかしげた。

「どうしよう?」

 おいおい、と思ったが、口には出さないでおく。もう首をつっこまない。

「デートって、どこで?」

「映画?」
 
 そういえば、それ以外ないんだった、娯楽が。
 
「受けるべきだと思う?」

「それは、誘いをって意味?」

「うん」

「断りたいの?」
  
 タカヤはうーんと考え込んだ。


664: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/23(土) 17:49:25.67 ID:3VZorDbio

「断りたいっていうか、引き受けても仕方ないというか……」

 だって別に彼女のこと好きじゃないし、というかよく知らないし、という顔をしている。
 まぁ、そりゃそうなのだ。好きでもないのに期待を持たせたってしょうがない。
 
「でもお前、女の子と普通に話せるようになりたいって言ってたじゃん」

「……正直、今となっては別にいいかなぁ、と」

 先輩とのことがあったばかりだし、タカヤとしてもあまり乗り気になれないのだろう。
 
「じゃあ、断れば?」

 というと、タカヤは「うーん」と再び唸った。なんなのだ。

「それも惜しいような」

「惜しい」

 思わず反芻する。タカヤとは思えない発言である。


665: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/23(土) 17:50:11.71 ID:3VZorDbio

「いけめんってこわい」

「世の中って不平等だよなぁ」

「……待て待て。そんなに不思議なことを言ったか、俺は」

 不思議というか、勝手に聖人君子的印象を持っていただけなのだが。
 告白以来タカヤはオーラに包まれている。余裕というオーラ。それだけでこうも変わるのか。君子豹変す。

「というより、せっかくの機会なんだし」

「せっかくの機会」

「お近付きになりたいというか」

「お近付きに」

「……俺へんなこと言ってる?」

「やや、滅相もござらん」

 ナンパ男の常套句にしか聞こえない俺の耳がおかしいのだ。


666: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/23(土) 17:50:37.58 ID:3VZorDbio

「なんか、お前らひょっとして、俺の話どうでもいい?」

 タカヤが拗ねたようにこちらを見る。やめろよ、そんな子犬系のまなざしでこっちを見るなよ。
 中身は猛犬になってしまったのに。……より一層たちが悪い。

「人様の恋愛ごとでぎゃーぎゃー盛り上がるような時期でもないでしょう、俺らは」

 自分にそんな時期があったのかははなはだ疑問だが。

「好きにしろよ、タカヤ。お前が遠い国の住人になったって、俺たちは友達だゼ?」

「なにその良い笑顔」

 その場のノリです。

 疲れているのかもしれない。妙にハイテンションな自分を発見せずにはいられない。
 ……いや、逆か? 俺が勢いに任せて暴走するのはどんなときだって話だったっけ。
 誰かがそんなことを言っていたような気がする。


667: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/23(土) 17:51:08.01 ID:3VZorDbio

「受けてみようかな」

 とタカヤは言った。

「会うだけ会ってみても、別に」

 彼は同意を求めるように俺たち二人の様子をうかがった。肩をすくめる。

「先輩に振られて自棄になってるんじゃなけりゃ、いいんじゃねえの」

「そういうのとは、違うけど」

 じゃあいったい、なんなのか。

「もうちょっと、目の前に振りかかった出来事に対して、積極的になってもいいかなって思うんだよ」

 タカヤも良いことを言う。良いことを言うが、もし芳しくない結果に終わったときの「みー」の気持ちは考えているのだろうか。
 ……いや、考えたところで、芳しくない結果なら、どうしたって傷つけてしまうのだろうが。

 アキとのことを思えば、俺が彼にできる助言なんてひとつだってない。彼は俺のようなことはしないはずだ。
 ……たぶん。そんな具合に昼休みを過ごした。


668: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/23(土) 17:51:34.47 ID:3VZorDbio

 放課後、俺が中庭のベンチで暇を潰していると、茶髪がやってきた。

 冷戦状態からは解放されたものの、お互いなんだか距離がある。
 当たり前と言えば当たり前だ。彼は俺が嫌いだとはっきりと言ったし、俺も彼が嫌いだとはっきりと言った。
 
 でも、今となってしまえばそんなことはどうでもよかった。
 アキとのことは俺にとってアキとのことでしかなく、茶髪とのことは、それとはまったく違う話なのだ。

 だから、もうちょっと仲良くなれてもいい。俺は彼を嫌いだと言ったが、実際そこまで嫌いじゃない。

 でも、普通に話しかけても、

「うぜえ。死ね」

「あ? なんだお前」

 という二言しか返ってこない気がする。そしてあまり傷つく気もしない。不思議な話だ。


669: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/23(土) 17:52:03.04 ID:3VZorDbio

 それでも、彼は俺のもとにやってきた。不思議なことだ。
 彼は何も言わなかった。うーん、と俺は考え込む。何かを言えばいいのだろうか。

 謝ればいいのか。いや、それはもうした。
 じゃあ何なのだ。いったい何を話せばいいのか。
 そういえば俺は、見ず知らずの他人と上手にコミュニケーションをとれない類の人間だった。

 茶髪はベンチに腰を下ろして、きざっぽく溜め息をついて長い前髪を揺らした。

「ねえ、そういえばお前って、友達いないの?」

 ふと思い出して口に出す。
 出してから、自分の無神経さに呆れかえった。

「ああ?」

 案の定、彼はどすのきいた声をあげてこちらを睨む。ごめんなさい。

 そりゃ、真面目な奴らばかりのこの学校じゃ、彼みたいな人は浮く。
 じゃあ、なんでこの学校に来たんだろう。そのあたりには、俺の知らない彼なりの話がある。
 そういうもんだ、と俺は悟ったふりをする。


670: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/23(土) 17:52:35.36 ID:3VZorDbio

 茶髪は気だるげに溜め息をついてから、それでもしっかりと答えてくれた。

「この学校にはな」

「へえ」

「友達なんていらねえよ」

 彼には、こういう言葉を吐く人間特有の突っ張った雰囲気が微塵も存在しなかった。心の底からそう思っているようだった。

「いなくても困らん。困ったように感じたときも、寝れば治る」

「参考になる話だ」

「お前は無理だろ」
 
 茶髪はまんざら冗談でもなさそうに言う。

「お前には無理だよ、そういうやり方は」

 やけに知ったようなことを言う。


671: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/23(土) 17:53:11.02 ID:3VZorDbio

「もうすぐ冬休みだねえ」

 俺は話をずらした。都合の悪いは受け流すに限る。
 茶髪は頷きすら返さなかった。

「ご予定は?」

「寝る」

「……あ、そう」

 会話の膨らませ方って奴を理解しない奴だ。
 いや、単に膨らませる必要を感じていないだけか。

 俺にはこういう要素が足りていなかったのかもしれない。うーん。
 自分とまったく違う人種に出会うと、学ぶものが多いと言うけれど。
 
 あるいはそもそも、俺は「他人」と対話しようとしたことがなかったのかもしれない。
 

672: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/23(土) 17:53:37.29 ID:3VZorDbio

「あのさあ」
 
 不意に思いついて、俺は茶髪に訊ねる。

「俺ってどんな人間?」

「さあね」

 と茶髪は言った。俺は肩をすくめる。

「やっぱ、あれか。男の風上にも置けない系?」

「さあね」

 彼の反応はつれない。
 じゃあ彼は、どうしてここに来て、こんなふうに俺の近くのベンチに座っているんだろう。
 俺には分からないことがたくさんある。

 まぁいいか、別にどうだって。
 何もかも、俺の手にはあまりすぎる問題。考えるだけ無駄なのだ。
 よきにはからえ、めぐり合わせ。禍福はあざなえるなんとやら。
 
 困ったときの神頼み。


679: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/25(月) 21:16:41.23 ID:abHs6vdFo

 学校が終わって、冬休みになった。
 俺は誰とも会わずに休みを過ごすつもりだった。というより、順当に考えてそれがあたりまえだ。
 今までそうだったし、今回だってそうに違いない。そんなふうに考えていた。

 のだが、初日にいきなり予定が入った。タカヤだ。

 タカヤは「一人じゃ不安だから遠くから様子を見ていてほしい」と言った。デートのことだ。
 そんな奴がいるもんだと思っていなかった。
 
 普通は恥ずかしくていやだと思う。見られるなんて。
 でもタカヤは違った。よくよく考えると彼の行動は普通じゃない。すべて。

 おかげで俺は休みの初日の朝を寝て過ごすことができなかった。



680: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/25(月) 21:17:08.19 ID:abHs6vdFo

 駅前の映画館は学生が多かった。休みに入ったところが多いというのもあるだろう。
 もともと最近できたばかりで盛況な場所だった。近くに食事や買い物ができる店が多い。

 おかげで、俺とモスは人ごみに紛れてタカヤの様子をうかがうことができた。

「うーん」

 モスが唸る。

「俺たちは何をやってるんだろう」

「デバガメ」

「せつない」

 俺とモスはふたりでタカヤの様子を見る。遠巻きに眺めていると、本当にいい顔をしている。 
 そこらへんじゃ、ちょっと見かけない。

 さて、と俺は思う。タカヤに頼まれたといっても、どうせ映画を観てちょっと話をするくらいのことしかしないだろう。
 なんでこんなもんを見なきゃならんのだ、と思っているところに「みー」がやってくる。

 俺たちは身を隠す。


681: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/25(月) 21:17:36.90 ID:abHs6vdFo

 当然だが、距離があるので会話は聞こえない。どうもお互い緊張しているようには見える。

「こんな寒い日にこんなに人がいるなんて」

「インドア派だから世情には疎いよなあ」

「今やってる映画って何?」

「知らない」

 なんとも微妙な話だ。

「券買いにいったな」

「俺らもちょっとしたら並ぶか」

「ポップコーン食う?」

「歯に挟まるからいらない」
 
「嫌な話だ」

 俺は溜め息をつく。


682: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/25(月) 21:18:12.66 ID:abHs6vdFo

「あいつらジュース買ってるな」
 
 タカヤにあらかじめ聞いていた映画のチケットを購入し、俺とモスはふたりの様子を遠巻きに眺める。
 と、不意にうしろに衝撃があった。何かがぶつかってきたらしい。

「あ、すみません」

 と過失ゼロパーセントの俺は謝った。なぜか。

「すみません」

 と返ってきた声に聞き覚えがあり、視線を向ける。

「ん?」

「あっ」

「お、おう?」

 両手にジュースのカップを持った妹の姿があった。


683: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/25(月) 21:18:38.31 ID:abHs6vdFo

「なにやってんの?」

 と問いかけると、「いや、べつに……」と返される。

「デート?」

 軽めのジョーク(牽制)。

「誰とですか」

 彼女はなぜか敬語で返した。苦笑する。
 そのとき、彼女のうしろから、もう一人女が出てきた。
 
 幼馴染。
 なぜこのふたりが、と思ってすぐに勘付く。

「……どうやら目的が重なっているようだ」

 幼馴染は気まずげに苦笑した。

「ごめんなさい。一人だとなんだったので、妹ちゃん借りてます」

 ……さすがにそこで妹を誘うのはどうかと思うんだが。


684: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/25(月) 21:19:04.34 ID:abHs6vdFo

「そろそろ始まるよ」

 と妹が幼馴染に声を掛ける。 
 ということは、俺たちも時間なわけだ。見れば、例のふたりは入場している。

「追いますか」

 一応、席は後ろの方を取ったので、見られないと思うのだが、入るときは気をつけなければならないだろう。
 俺は何かを忘れている気がしたが、考えないことにした。

 スクリーンにしばらくの間諸注意の映像が流れ、やがて新作映画の予告が始まる。
 予告映像ってなぜ面白そうなんだ? って面白そうにしなきゃまずいのだろうが。
 
 映画がはじまる。ここ最近のドラマでよく見かける俳優が山ほど出てくる邦画。
 うーん、と俺は思う。映画なんてよく知らないしなぁ。

 そもそも今日の目的は、タカヤの付添みたいなもんであって、あんまりいる意味がない。


685: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/25(月) 21:19:32.80 ID:abHs6vdFo


 どうせ映画を観ている最中は声も言葉も交わさないわけであって。
 俺は今朝は眠かった。だから寝たい。寝よう。

 俺は寝た。
 
 ふと目を覚ましてスクリーンを見ると、女が泣いている。夜の部屋だ。二人きり。画面はやたらと暗い。
 蛍光灯の灯りが寒々しい、フローリングの床で食器が割れている。

 女はうずくまって泣いている。台詞がないまま男は静かに部屋を出た。
 夜の繁華街に向かい、ひとりで歩いている。携帯電話が鳴った。どうやら友人かららしい。
 突然呼び出され高架下に行く。

 二人の関係性はよく分からないが、友人の方はさっきの女と主人公の関係に対して思うところがあるらしい。
 真剣に、心配そうな言葉をだらだらと並べ立てる友人に、うんざりとした表情で主人公は言う。

「うるせえな、俺の勝手だろう」

 友人は激昂して主人公に掴みかかる。主人公は抵抗すらしない。友人は殴らずに手を放した。

「分かったよ、勝手にしろ」

 友人はそう言って背を向けて、足早に去っていく。ひとり高架下に残された主人公は、疲れ切ったような表情でその場に座り込んだ。
 胸ポケットから煙草とライターを取り出す。口にくわえて火をつけようとするが、ライターの調子が悪くなかなか火が付かない。
 
 彼はライターを近くの草むらに向かって投げ捨てる。しばらく火のついていない煙草をくわえたまま、じっと夜の闇を睨んでいる。

 なにこの映画。


686: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/25(月) 21:20:01.10 ID:abHs6vdFo

 隣の席のモスを見ると、どうやら熱心に見入っているらしい。
 タカヤと「みー」はというと、ここからは後ろ姿なのでよくわからないが黙ってみているようだ。

 妹と幼馴染を探そうとしたが、振り返らなければ見えない位置だったので自重した。

 スクリーンの中には朝が来る。狭い部屋。シングルベッドでさっきの男と女が起きる。
 二人とも裸だ。窓の外から朝日が差し込んでいる。

 男が煙草をくわえて、ライターを探す。でもない。当たり前だ。さっき捨ててたんだから。
 舌打ちをして、男は仰向けに寝転がる。女が起きて、「おはよう」と掠れたような声で言った。

 なんなのこの映画。

 俺は疲れたような気分だった。
 

687: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/25(月) 21:20:27.35 ID:abHs6vdFo

 なんやかんやあった末に、結局主人公は友人と分かり合うこともなく、女とだらだらとした生活を続ける。 
 しかも周囲から認められるわけでもない。鬱屈とした生活態度。

 最後、堤防の上を、手を繋いで二人は歩く。薄曇りの空の下、犬の散歩をしているおじいさんとすれ違う。

 女は何かを言いかけて、結局何も言わなかった。主人公は苦笑する。
 たぶん彼が笑ったのはその映画で初めてだっただろう。見ていないけれど、そういう気がした。

 で、なんなのだ、この映画は。

 エンドロールに入って早々に、俺とモスは立ち上がった。
 あの二人はしばらく動き出さないようだったし、何より俺の喉が渇いていた。
 
 映画館を出て自販機でコーヒーを買う。ひどく眠くて、頭がはっきりしなかった。

 すると幼馴染と妹がやってくる。

「どうやら移動するらしいですよ」

「ここらへんで、やめとかない?」

 俺が提案すると、幼馴染は目を丸くする。


688: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/25(月) 21:20:56.72 ID:abHs6vdFo

「どうしてです?」

「これ以上つけまわす必要、なさそうだよ。ふたりとも普通にリラックスしてるように見える」

 実際には見えなかったが、それでも俺たちがわざわざ監視する必要はないように思えた。

「うーん」と彼女は唸って、結局頷いた。

「かもですね」

 そして、なんだか寂しそうな目で「みー」の後ろ姿を眺める。

「なんていうか」

「なに?」

「わたしとあの子、何が違うんでしょうね」

「何の話?」

「いえ。境遇的な?」

「何もかも」

 俺が言うと、彼女は切り傷に消毒液がしみたような顔をした。


689: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/25(月) 21:21:22.56 ID:abHs6vdFo

「なんか、羨ましいところでもあるの?」

「まぁ、そうですね」

 彼女はちらりと妹を見た。見られた方は首をかしげている。

「なんか知らないけど、羨ましいなら真似してみたら?」

 幼馴染は苦笑した。

「きみが言うことじゃありませんね」

 何の話だろう。


700: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/26(火) 12:33:24.62 ID:WtNDZQ1po

 タカヤとみーが映画館を出るのを確認してから、念のため時間を置いて四人で外に出る。

「さて、どこに行きましょうか」

 少なくともあの二人が行きそうな場所は候補から外さなくてはならない。
 
「大丈夫ですかね」

 幼馴染が心配そうに言う。大丈夫だとしても大丈夫じゃないとしても、放っておくべきだ。
 それよりも俺は、さっきの幼馴染の態度の方がずっと気になっていた。

 いったいどういうことなんだろう。
 
 ――いや、深く考える必要はない。こいつが思わせぶりなのは今に始まったことじゃない。


701: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/26(火) 12:33:50.94 ID:WtNDZQ1po

 ちょうどいい時間だったし、昼食を取ることにして、どこか適当な店に入ることにした。
 タカヤとみーの行動圏を気にしつつ、あまり遠くなく、財布に優しい場所。
 すべてにおいて適当な場所はなかったが、少し移動して近場のファミレスに向かうことにした。
 
 道を歩きながら、俺の意識は微妙に揺れ動いている。中途半端に寝たせいで、頭がぼんやりしてるんだろうか。

 なんだか嫌な感じがした。身体のどこかで何かが渦巻いているような違和感。
 俺は何か思い違いをしていないだろうか。

 ……今更、何を考えることがあるんだろう。
 それでも、なんだか不安を感じずにはいられない。

 四人で街を歩いていると、奇妙な感覚に陥る。
 俺たちはどうしてこんな場所を歩いているんだろうか。

 いや、移動しているからだ。そりゃそうなのだけれど、何がどうなって、このメンツで歩いているんだろう。
 去年の今頃だったら想像もできなかったことだ。


702: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/26(火) 12:34:18.80 ID:WtNDZQ1po

 ――去年の今頃。
 
 不意に、視界の端に見知った顔を見つけた気がした。俺以外の人間は誰も気付かない。
 すれ違った相手。立ち止まって後ろを振り向く。モスは足早に歩いていく。
 幼馴染は、俺が立ち止まったことに気付いて、自分も足を止めた。

 振り向いた先で、目が合う。

 声が出そうになって、抑える。
 彼女はひとりで歩いていた。だからどうというのではない。同じ町に住んでいるのだから、会ったところで不思議はない。
 ついこのあいだ会ったばかりの顔。以前と変わっているようで、やはり面影を残している顔。

 彼女はこちらを面食らったように眺めてから、後ろに立ち止まった幼馴染にも意味ありげな視線を向ける。
 その口元が、微笑のかたちに歪んだ。


703: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/26(火) 12:34:50.96 ID:WtNDZQ1po

 混乱する。
 いったいなぜ、彼女が俺たちを見て微笑んだりするんだ?

 その笑顔はひどく暗示的だった。 
「分かるでしょう?」と彼女が言っている気がした。
「なにひとつ終わってなんかいないんだよ」と。
 
 アキ、と俺は口だけを動かした。その様子を見て、なぜか満足そうな笑みを浮かべ、彼女は去っていく。
 
 分かるかな、なにひとつ終わってなんかいないんだよ。
 そう語る彼女の声が、耳元に聞こえた気さえした。


704: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/26(火) 12:35:16.85 ID:WtNDZQ1po

 幼馴染の態度は、アキとすれ違って以来奇妙なものになった。
 どうにも挙動不審で、ときどき機嫌をうかがうような目で俺の方を見る。
 
 その態度はいつになくおどおどとして自信なさそうだった。俺は彼女のこんな姿を見たことがない。

 何が原因かと言ったら、間違いなくアキとの接触が理由だろう。
 
 だが、どうしてアキの顔を見ることで、幼馴染の態度が変わったりするんだ?

 ファミレスで食事をとる間も、幼馴染はほとんど喋らなかった。
 ときどき目が合うと、彼女はすぐに逸らして、取り繕うような笑みを浮かべる。

 顔はいつになく青白く見えた。
 嫌な感じが消えない。なぜだろう。
 終わったはずのことだ。自分がどれだけ悪くても、結局は過ぎたことだったはずだ。

 アキはアキなりに上手くやっているのだろうと――勝手に、希望的な見方をしていたけれど。
 それでも、そうなるはずだと、思っていた。

 なぜ、彼女が俺たちに向けてあんな顔をしたりするんだろう? なぜ、知らないふりをして通り過ぎなかったんだろう?


705: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/26(火) 12:35:42.88 ID:WtNDZQ1po

「ごめんなさい」

 と幼馴染は口を開いた。

「ちょっと体調が悪いので、先に帰りますね」

 本当に具合が悪そうな顔をしている。
 俺とモスは顔を見合わせて、頷き合った。

「じゃあ、ここで解散にしよう。送っていく」

「いえ、大丈夫ですから」

「そういうふうに見えない」

 はっきりと告げると、幼馴染は苦しそうな顔をした。
 本当に具合が悪いようだ。

「分かりました」

 しぶしぶと言った調子で、彼女は返事をする。
 その声も、普段に比べて力がない。


706: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/26(火) 12:36:14.64 ID:WtNDZQ1po

 途中までは四人一緒の帰り道だった。最初にモスと別れ、次に俺の家について、妹を先に帰す。
 最後に幼馴染を家まで送る。道順的に、彼女の家が一番遠かった。

「……ごめんなさい」

 と彼女は謝る。なぜ謝るのか、まったく分からない。

 家の前につくまで、俺たちはほとんど言葉を交わさなかった。
 幼馴染は凍えているようにすら見える。俺は何をしてやればいいのか分からずに黙っていた。

 アキの顔が脳裏をちらつく。
 
「それじゃあ」

 玄関まで送り届けて、幼馴染に背を向ける。なんだか俺も、ひどく疲れていた。
 ……当たり前と言えば、当たり前、なのだろうか。


707: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/26(火) 12:36:40.83 ID:WtNDZQ1po

 立ち去ろうとすると、後ろから引っ張られる。
 上着の裾を幼馴染が掴んでいた。

 何のつもりかたしかめようとして振り向くが、彼女は俯いていて、表情が良く見えない。

 本当に、こんな姿を見るのは初めてだった。

「あの」

 切迫した雰囲気の声だった。必死そうな、と言い換えてもいい。
 
「……きみは」

 背丈の違いのせいもあって、俯かれてしまうと表情が見えない。
 不安とか、心配とか、そういう感情が綯い交ぜになっている。

「俺は別に、平気だぞ」

 心配をかけたのかと思って言ってみると、どうやら違ったらしく、彼女は意外そうな顔をした。
 それから、何かを後悔しているような顔で、こちらを見た。胸のつかえがとれないような、息苦しそうな表情。

「……そう、ですよね。これだと、立場が逆ですね。本当ならわたしが心配してなきゃなのに」

 幼馴染があんまりつらそうに言うものだから、俺は苦笑しそうになった。


708: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/26(火) 12:37:18.74 ID:WtNDZQ1po

「無理せずに寝てろよ」

「……うん」

 珍しく、彼女は敬語を使わずに素直に頷いた。
 俺は言いようもなく落ち着かない気持ちになる。

「ごめんなさい」

 最後にもう一度彼女は謝った。
 なぜ、謝るのだろう。俺にはその理由がまったく分からない。

 彼女はなかなか家の中に入ろうとしなかった。早く入るように促すと、早く帰るようにと言われる。
 このままだとしばらく話が動きそうにないと感じて、俺は仕方なく歩きはじめた。
 
 振り向くと、幼馴染はこちらをじっと眺めている。
 俺は溜め息をついて歩き続ける。またしばらく経ってから振り向く。目が合う。
 彼女は手を振った。俺は肩をすくめる。

 数歩歩いてまた振り向いていると、ちょうど彼女が玄関の扉をくぐるところだった。


709: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/26(火) 12:37:44.83 ID:WtNDZQ1po

 家についてすぐ、疲労感に襲われる。特に何をしていたわけでもないのになぜだろう。
 理由は分からなかったが、気分がまったく落ち着かなかった。

 なぜだろう? 何かが起こっている気がする。本来ならすべて終わっているはずなのに。
 厄介ごとはぜんぶ、身の回りから離れたように感じていた。
 タカヤのこともみーのことも、俺の手から離れた。茶髪とも、まぁ曖昧ではあるが、片が付いた。
 
 それで、いまさらいったい、何が起こるっていうんだ?
 幼馴染の蒼白な表情と、アキのあの微笑が、頭に焼け付いて離れない。

 妹に幼馴染を送ってきたことを告げて、自室に戻る。
 ベッドに倒れ込むと、全身が鈍く痛んだ。

 しばらく休んでいると、ポケットの中に入れっぱなしだった携帯が鳴る。
 いったいなんだよ、と思いながらディスプレイを見る。
 
 息を呑んだ。

『電話してもいい?』

 素っ気ない文面。見覚えのあるメールアドレス。
 アキからのメールだった。


720: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/28(木) 12:46:11.07 ID:AasgcWJTo

「アドレス、変えてなかったんだね」

 甘ったるい、鼻にかかったような声が、電話越しに聞こえた。
 俺はなんだか奇妙な錯覚に陥る。アキがいる、と思った。この電話の向こうに。

「ああ」

 頷くと、彼女はくすぐったいように笑った。奇妙に安らいだ声だ。
 アドレスを変えていなかったことに、たいした意味はない。
 もし彼女がしつこく連絡をとろうとしたなら、すぐにでも変えていただろう。
 でも、そうはなかなかった。彼女は意外なほどすぐに事実を受け入れて、俺に対してどのような接触も試みなかった。
 
 だから、変える理由がなかった。そうでなければ、疎遠になっていた幼馴染から、俺の携帯にメールが届くわけもない。

「いま、何してた?」

 本題に入る前に、軽い世間話でもするつもりなのだろうか。いやそもそも、『本題』などあるのだろうか?
 彼女はそういう人間だった。特に理由もなく、人を混乱させるのが好きだった。人を困らせるのが好きだった。

 ……あるいは、それは俺に対してだけだったか。


721: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/28(木) 12:46:37.34 ID:AasgcWJTo

「別に。寝てた」

 答えてから、そういえばこんな言葉を以前もアキに向けて言ったことがあると思って、妙に据わりの悪い気分になる。
 いったい、何が起こっているんだ。

 どういうつもりか、俺の答えに彼女はおかしそうに笑う。その静かで甘ったるい声音は、以前とまったく変わらない。
 なぜ、以前とまったく変わらないなんてことがあり得るんだ?

「どうして――」

 どうしていまさら、連絡をよこしたんだと、聞いていいものか悩んだ。
 俺は、彼女に対してどんな言葉を掛ければいいのか分からない。
 どんな言葉を掛けることが許されるのか分からない。

「どうしたの?」

 こいつはなぜこんなにも平然としているんだ?
 なぜ、何事もなかったような態度で話ができるんだ?


722: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/28(木) 12:47:05.69 ID:AasgcWJTo

「どうしたのって、そっちが連絡してきたんだろう」

 俺はやっとの思いで答える。用件を早く言ってくれ。

「べつに、ただなんとなく」

 ただなんとなく、なんてあるわけがない。
 何か意図があるはずなのだ。そう感じるのは、俺が後ろめたさを感じているからか?
 
 彼女が俺と言う人間に恨みを抱いていて、何かの復讐をするつもりなのではないかと、そう考えるのは自意識過剰なのか?

 疑問が頭の中で膨らんでいく。
 何よりもタチの悪いことに……俺は昔から、アキという人間を、けっして嫌いではなかったのだ。

 もちろん恋愛ごとは抜きにしてだが――もういちど話せるようになったなら、どれだけいいだろうとは、思っていた。
 

723: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/28(木) 12:47:34.80 ID:AasgcWJTo

「ねえ」

 とアキは言った。普通の、声音だった。何も特別なことのなさそうな。
 気まぐれに隣の席のクラスメイトに話しかけるような、気安げな声だった。

「本当に、なんとなくだよ。別に何かを考えてるわけじゃない。不安になった?」

「少しね」

「そっか」

 彼女は嬉しそうに笑う。なぜ嬉しそうなのかは、俺には分からない。そういうことが、彼女にはある。

 時間をおいたせいか、以前とは関係性が違うからか、俺はアキに対して以前のような鬱陶しさを感じなくなっていた。
 そのことがより一層俺を不安にさせる。俺の気持ちを知らずに――あるいはすべて見透かしてか――アキは話を続ける。

「会いたいって言ったら、笑う?」

「どうして?」

 と俺は問い返した。


724: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/28(木) 12:48:00.94 ID:AasgcWJTo

「分からないけど、もういちど会ってみたい」

「なぜ」

「だから、分からないんだって」

 彼女はくすくすと笑う。アキは怒ったり苛立ったりすることがない人間だった。
 俺は今、彼女を恐れている。

「このあいだの……」

 俺は話題を変えた。

「コンビニでも、会っただろう」

「やっぱりあのときの人、あなただったんだ。そうかなって思ったんだけど」

「あのときの男、彼氏?」

「そうだよ」

 アキはなんでもないことのように言う。俺は少しほっとした。


725: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/28(木) 12:48:30.62 ID:AasgcWJTo

「いつから付き合ってるの?」

「先月からかな。ちょうど一ヵ月になるくらい」

 よかったね、と言おうとして、さすがに思いとどまった。
 そして、こんな電話はさっさと切ってしまうべきなのだと考える。
 なぜ俺たちは今更こんな話をしているんだ? もう終わったこととして扱うべきなのだ。

 ――いや、扱ってほしいのだ。俺は。それは逃げだろうか? 俺は彼女と向かい合うべきなのか?
 正解が分からない。どう接するのが正しいんだろう。

「あのね、ずっと考えてたんだけど」

 アキは言う。

「……あのころは、ごめんね。わたし、自分のことばっかりで、あなたのこととか、何も考えてなかったのかもしれない」

 俺は黙って聞いていた。


726: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/28(木) 12:48:56.31 ID:AasgcWJTo

「わたしが一方的に甘えてただけなんだよね。怒っちゃうのも、当然だと思う」

 俺は息苦しくなる。

「今なら分かるけど、あなたにだって不安とか、悩みとかあったんだよね」

 心臓を直接揺さぶられているような気分だった。これは本当に現実なのだろうか、と俺は思う。
 
「だから、ごめんなさい」

 俺は言葉を失った。どうして彼女がこんなことを言ったりするんだ。
 いったい何があったんだろう。

「……なにか言ってよ」

 アキは、照れくさそうな声で言った。
 この言いようもなく落ち着かない気分はなんなんだろう。ひどく、不安になる。
 自分の存在が揺らいでいる気がした。


727: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/28(木) 12:49:46.30 ID:AasgcWJTo

「……ああ」

 と、やっと漏れ出した頷きは、溜め息のようにかすかだった。
 それでもアキは声を安堵の色に変えた。

「ありがとう」と彼女は言った。どうして彼女が「ありがとう」と言ったりするんだ?
 俺の頭では彼女の言葉はいちいち理解できなかった。なにひとつ分からない。

「ねえ、もう一度会えないかな。もちろん、いまさらもう一度付き合ってなんて言わないから」

 当たり前だ、と俺は思う。そんなのは当たり前のことだ。
 彼女はなぜ謝ったのだ? 本当なら俺が謝らなくてはならないのに。

 そして、俺は謝ってはならないのだ。本当に悪いことをした人間はそのことを謝罪するべきではない。
 そうすることで許されようとしてはならない。謝ったら、きっと彼女は俺を赦すだろうから。

 なのになぜ、彼女は俺を最初から赦していたような態度でいるんだ。

 不可解なことが多すぎて、俺の頭は上手に働いていない。


728: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/28(木) 12:50:14.80 ID:AasgcWJTo

「わたしはさ、あなたと話したいこととか、いっぱいあるよ」

「悪いけど」

 と俺は答えた。

「……そっか。うん」

 平気そうな声音だった。アキは努めてそういう声を出す人間だった。
 何を思っていても平気そうな顔をする人間だった。それなのに、頭の中も胸の内も傷ついてばかりいる。
 ひどく傷つきやすい人間だった。

 俺は罪悪感に駆られる。ひょっとして俺は自分勝手な恐怖で彼女を蔑ろにしているのではないだろうか。
 本当に、彼女は言葉以上のことを考えていないのではないか。

 何が俺をこんなに不安にさせているんだ?
 
「ねえ、でもさ、また連絡してもいい?」

 俺には、どう断ればいいのか分からなかった。自分に断る資格があるのかどうかも分からなかった。
 アキが以前と変わらぬ口調で話を続けている間、俺の頭をよぎっていたのは、あの蒼白な幼馴染の表情だけだった。


729: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/28(木) 12:50:41.59 ID:AasgcWJTo

 電話を切ると、部屋は耳鳴りがしそうな静寂に支配されていた。
 俺の頭は混乱している。努めて何も考えないようにしたが、どうしても暗い気分になる。

 なぜ?

 と、さまざまな疑問が頭の中で回り続けている。
 なぜ、いまさら連絡をよこしたのか。なぜ、平然とした態度で俺と話すのか。なぜ、俺と会いたいというのか。

 だが、しばらく経つと気分が落ち着いて、なんとか冷静に自分なりの説明をつけることができた。

 彼女は今や恋人をつくり、普通に生活をできるほど回復している――少なくともそう見える。
 そして、昔ひどいケンカ別れをした人と偶然会って、なんとか過去のことを清算したがっているのかもしれない。
 ひどい思い出を、もうすこしマシな話に変えてしまいたいのかもしれない。

 だから話したいのだ。対話。そうだろう、たぶん。いまさら彼女が俺になんらかの執着を抱えていると思うのは、自意識過剰だ。
 そんなふうに感じるのはきっと、俺が彼女になんらかの形で執着しているからなのだろう。
 
 どうせ連絡なんてしてこないに違いない。これで、この話は終わりだ。


737: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/29(金) 15:17:01.81 ID:M4GDL18io

 冬休みの二日目を、俺は眠って過ごした。怠惰であることはとても大切なことだ。
 ときどきみんな忘れてしまうけれど、一生懸命であることは別に素晴らしいことじゃない。
 素晴らしいことは大抵、一生懸命にならなければ手に入らないというだけで、一生懸命それ自体が重要なのではない。
 
 つまり、頑張らずに素晴らしいものが手に入るならそれに越したことがないのだ。
 こんなことをいうと、努力をせずに得たものなんてむなしい、とかしたり顔で語る奴がいる。

 金持ちは精神的に豊かでない、と貧乏人が言いたがるのと同じ理屈だ。
 実際には金持ちの方が精神的なゆとりと余裕を持っている。欲にまみれているのは貧乏人も大差ない。余裕もないから怒りっぽい。

 貧乏でも幸せな家庭もあるのは確かだが、だからといって金持ちが不幸だという理屈にもならない。
 貧乏人は哀れだ。腕っぷしの強い奴は正義だ。そう言い切ってしまえばいい。
 それなのになぜか、そうした動物的価値に即して優れた人間は、人間性を貶められやすい。

 現実には、金持ちの心は別に荒んでいない。腕っぷしが強い奴にも優しい気持ちくらいある。むしろ強者であるぶん余裕がある。
 貧乏人の心は金持ちの心を見下したくなる程度には荒んでいて、腕っぷしの弱い奴は強い奴を非難したくなる程度にひがんでいる。

 神はちょっと前に死んだ。

 などと、黴の生えたようなどうでもいいことを考えて現実逃避したくなる程度には、憂鬱な朝だった。


738: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/29(金) 15:17:33.99 ID:M4GDL18io

 俺の頭は前日のアキからの電話に支配されていた。
 だから、タカヤと「みー」のその後の顛末のことは、モスからの電話があるまですっかり頭から抜け落ちていたのだ。

 モスから電話が来たのは一時半。俺が二度寝から覚めて、ベッドでごろごろとし始めて一時間近く経った頃だった。

「タカヤから連絡来たか?」

「来てないよ」

 そっか、とモスは言う。そういえば、映画館に行ったのは昨日のことだったか。既にずっとまえのことのように思える。

「上手く行ったの?」

 と俺は訊ねた。

「さあ」

 とモスは答える。

「結論を急がないことにしたらしい」

 ずいぶんな立場だ。


739: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/29(金) 15:19:06.84 ID:M4GDL18io
 タカヤの話が一区切りしたあと、不意にモスが深刻そうな口調になった。

「……なあ、なにかあったのか」

「なにかってなんだよ」

 と俺は笑う。なにかってなんだ? なにがあるっていうんだ。気にするようなことは何もない。
 本当に、何もない。全部終わったことだ。

 なぜいまさらアキのことなんて考えなくちゃいけないんだ?
 俺は自棄になったような気分で思う。
 そうだよ、何も善人を気取る必要なんてない。俺はもともと馬鹿で身勝手だった。

 気にする必要はない。あいつのことなんて、これっぽっちも。ぜんぜん考えなくていい。俺は目を瞑る。
 モスは何か言いたげに口籠ったが、結局押し黙ったあと、適当な言葉で話を終わらせて電話を切った。


740: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/29(金) 15:20:22.66 ID:M4GDL18io

 階下のリビングに降りると妹がこたつで眠っていた。よく寝る奴だ。一時を過ぎているのに。
 俺はコーヒーメーカーを動作させた。こぽこぽこぽ、とよく分からない音がリビングに響いて、独特の香りが部屋に広がった。
 
 できあがるまで、椅子に座って目を閉じていた。すると不思議な気持ちになる。
 何も考えないことができる。それはとても心地よい時間だ。
 
 けれど少しすると、何かを忘れているような気分に陥る。それも、致命的なものを。

 何かを考えなくてはならないような焦燥。けれど実際には、考えなければならないことなんて冬休みの課題くらいしかない。
 目を瞑る。

 幼馴染の顔を思い出す。ふと、俺はアキが嘘をついているような気がした。そのこともあまり考えないようにする。

 コーヒーの香りにくすぐられてか、妹が目をさましたようだった。

「飲むか?」

「……うん」

 寝惚け眼をこすりながら、妹が椅子にすわる。彼女が起き出したおかげで、俺は余計な考えをやめることができた。


741: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/29(金) 15:20:51.02 ID:M4GDL18io

 出かけようか、と俺は言った。どこに? と妹は訊き返す。俺は言葉に詰まった。行きたい場所なんてどこにもなかったのだ。

「なにかあったの?」

 妹にまで訊ねられる。俺は溜め息をつく。それ以外にできることがなかった。
 妹は呆れたような顔をした。俺はどんな態度で彼女に接すればいいのか分からない。

 このところずっとだ。

 でも、考えてみればずっと前からこうだったのかもしれない。
 近頃、俺を取り巻く環境が大幅に変わった――ような気がした――から、気付かなかっただけで。

 本当のところ、俺を取り巻く問題はなにひとつ変わっていないのかもしれない。
 ずっと前からなにひとつ。

「出かけよっか」

 妹が、不意に言った。

「どこに」

「わかんないけど」

 なるほど、と俺は思った。


742: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/29(金) 15:21:17.13 ID:M4GDL18io

 で、出かけることになった。特に目的もなく。このあいだもこんなことをした気がする。
 いつものように街に出る。人通りの多い道。その中で、言葉も交わさずに二人で歩く。

 外は寒い。クリスマスシーズン。冬休み。なんとなく落ち着かないような気配。

「なんか、兄さん、ねえ」

「なに?」

「さむい」

 冬だから、そりゃそうだ。

「カイロないの? カイロ」

「あるよ」

「貸して」

 俺がポケットからカイロを取り出すと、妹はかすめ取るように受け取って、手のひらでこねまわしはじめる。


743: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/29(金) 15:21:45.23 ID:M4GDL18io

「ねえ、なにか考え事?」

 妹は、妙にはしゃいだ口調で言った。

「まあね」

 俺は答える。なんだかひどく疲れていて、外面を保とうと思う気力さえなかった。

「疲れてる?」

「とっても」

「そっか」

 彼女は満足げに頷いた。
 なぜ頷くんだろう。分からないけれど、すこし心が晴れた気がした。


744: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/29(金) 15:22:11.43 ID:M4GDL18io

「なんか、どこにも入りにくいね」

「そうかもね」

 俺は適当に相槌を打つ。入ろうと思えばどこにだって行けた。ファーストフードも喫茶店も。
 街角の寂れたブティック、昔からあるゲームショップ、ちょっと前にできた眼鏡屋。
 用事がなくたって、いつだって入れる。でも、どこにいたってなんとなく、俺は場違いになってしまう。

「公園にでもいく?」

「なんで?」

「犬がいるかもしれない」

「未来予知の?」

「の」

 妹は頷いた。俺は肩をすくめる。


745: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/29(金) 15:23:08.95 ID:M4GDL18io

 けれど公園に未来予知の犬はいなかった。人一人いなかった。
 この寒さでは当然だろう、と、俺は白い息を吐き出しながら思う。

 俺はベンチに座る。妹は背の高い鉄棒を掴んで体を浮かせた。

「休みって、暇だね」

「だね」

 俺は溜め息交じりに答える。もし毎日がこんなふうに過ぎていくなら、俺はなにひとつ考えずに済むのに。
 ……いや。

 そこで気付く。俺は何を問題視しているんだろう。
 俺が考えている問題とはなんなんだろう? 普通に生活するだけで、俺は満足できないのだろうか、やはり。

 あたかも切迫した問題が目の前に迫っているかのように、俺の生活は不安定で歪だ。
 俺は何を考えているんだろう? 何を考えなければならないんだろう。


746: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/29(金) 15:23:35.63 ID:M4GDL18io

 失われた俺の中の指向性。俺は何をこんなに悩んでいるんだろう。
 たぶんそれは、いま、俺の目の前で、冬の寒さに少しだけはしゃいでいる妹の姿と、無関係ではないのだろう。

 このままでは、やっぱりだめなんだろうか。
 俺は自問自答する。なんとかやり過ごせば、上手いこと時間切れが来て、そのうち何もかもが上手くいったり、しないんだろうか。

 幼馴染の顔を思い出す。
 彼女はいったい、どうして俺にちょっかいを掛けるんだろう。
 
 モスが言う通り、俺は本当に妹のことが好きなのだろう、きっと。
 ――それで。
 それで、俺はいったい彼女とどうなりたいんだろう?

 そのことがさっぱり分からない。だから迷っている。
 というよりは。
 俺は彼女と、どうなれると思っているんだろう?


747: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/29(金) 15:25:22.85 ID:M4GDL18io

 家に帰って、久しぶりに妹とゲームで遊んだ。
 しばらくすると妹は眠ってしまい、俺は家にひとりになった。すると途端に寂しくなる。
 眠ってしまおうと思って部屋に戻る。ベッドに倒れ込んだ。

 なぜだか幼馴染の顔が頭をよぎる。
 妹と一緒にいると、ときどき幼馴染を思い出すことがある。

 すると決まって悲しくなる。なぜなのかは分からない。

 幼馴染のあの蒼白な表情。

 俺は考える。彼女はどうして、俺と一緒にいてくれるのだろう?
 彼女は、俺のことなんて世話のかかる昔馴染みという程度にしか思っていないはずなのに。

 ――思っていない“はず”?

 なんとなく、自分の思考に引っ掛かりを感じる。どうしてそんなふうに思うんだっけ?

 考えごとをしていると、いつのまにかうたたねしていた。

 目がさめると窓の外は赤く染まっていた。夕方なのだ。
 俺はベッドの中で体をじっと動かさずにいる。

 不意に携帯が震えた。
 アキからの二度目の連絡だった。
 

757: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/30(土) 22:05:50.62 ID:yIyBOkhco

「何の用?」

 と訊ねると、アキは少し気まずそうに呻いた。

「だめだった?」

「そうじゃないけど」

「そっか」

 ならよかった、と彼女は溜め息をつく。俺はなんだか嫌な気分になった。

「何の用?」

「別に、用とかはないの。ダメかな」

 駄目だとは言わない。


758: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/30(土) 22:06:33.80 ID:yIyBOkhco

 彼女は適当な世間話を始めたかと思うと、不意に幼馴染の話を始めた。

「また仲良くなったの?」

「べつに」

 俺はことさら素っ気なく答えた。どうしてそうしたのかは分からない。
 俺はアキを警戒している。なぜなのかは分からないけど、そうしている自覚はある。
 
 なんとなく、彼女と話していると不安になる。

「あの子とは、子供の頃からの付き合いなんだっけ?」

「まあね」

「ふうん」
 
 どうでもよさそうに、アキは頷いた。


759: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/30(土) 22:07:13.19 ID:yIyBOkhco

「ね、彼女はできた?」

「べつに」

 俺は正直に答える。

「そっか」

 アキはほくそ笑むような声で相槌を打つ。
 そして彼女は、

「そうだよね」

 と笑った。
 当たり前のことをきいてしまったと、自嘲するような笑みだった。

 俺は胸の奥でじくじくと何かが疼くのを感じた。
 そうなのだ。
 ずっと不安を感じていた理由に、いまさらのように気付く。
 
 明るすぎるのだ。アキが。彼女はそういう人間じゃなかった。
 嘲笑と自己憐憫と憧憬。以前のアキを構成していたのは、せいぜいそんなものだ。
 アキは、以前に比べてマトモすぎる。そのことが、強烈な違和感という形をとって、俺を不安にさせているのだ。


760: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/30(土) 22:07:51.04 ID:yIyBOkhco

“あなたみたいな人を好きになる女の子なんて、どこにもいないよ”

 アキは呪いでも掛けるように、ことあるごとに俺にそういう言葉を向けた。
 大抵の場合は人間性や生活態度について貶められた。
 次に多かったのは容姿に関するそれで、あとはこまごまとしたどうでもいいいようなことについてだった。

“だってあなたは人間としてまったく魅力的じゃないから”

 そして彼女は、最後に必ずこう言った。
 でも、わたしはそんなあなたのことを愛しているし、あなたと一緒にいてあげる。

 他の誰かが言ったなら、俺はその相手に病院に行くことを勧めただろう。
 
 けれどアキには、そういった言葉を信じてしまうだけの説得力があった。
 彼女の持つある種の性質が、おそらくはその言葉を信じさせたのだろう。

 絶望的な気分にとらわれていたその頃の俺には、アキの言葉が、ときどき救いめいてすら聞こえたのだ。


761: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/30(土) 22:08:16.86 ID:yIyBOkhco

 それに比べて――この“アキ”はなんだ?

 けっして以前のような歪さが損なわれているわけではない。
 むしろ影にひそんでいる分、その歪みは以前よりも強まっているように感じられる。

 あるいは、単純な話、関係性が変わった今となっては、俺にそういった自分を見せるのをやめたのか。
 何かを教訓にして、人に暗い自分を見せるのをやめたのか。

 いずれにせよ、俺とアキの関係は、今思えば恋人同士などという生易しいものではなかった。
 手を繋ぎながらお互いの傷を抉り合うような不自然な関係だった。

「会って話をしてみたいな」

 とアキは言った。
 なぜそうなるんだと俺は思った。
 
 いいかげん、俺も疑いたくなってくる。
 こいつは、俺が嫌がっていることを分からずに無神経に電話を掛けてきたり会いたいと言ったりしているではないのではないか。
 俺が嫌に思うことなど分かったうえで、そんなものはとっくに理解したうえで、それをかえりみずにいるのではないか。


762: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/30(土) 22:08:42.91 ID:yIyBOkhco

 そう考えて、俺はたまらない罪悪感に駆られる。
 俺に、そんなことを考える資格はあるのだろうか。

 だが、なぜそんなことを思うのか、まったくわからなくなる。
 俺はアキに対して強烈な後ろめたさを持っているが、それはどうしてだろう。

 ひどい別れ方をしたのはあくまでも結果であって、俺だってアキを傷つけたくて行動していたわけではない。
 くわえて、アキだってさんざん、俺を傷つけたり蔑ろにしたりしていたのだ。
 
 もちろんだから許されると思うわけではないが――俺が抱える罪悪感は、いったい何に由来するものなのだろう。

 アキは電話の向こうでくすくすと笑う。
 眩暈がする。


763: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/30(土) 22:09:10.73 ID:yIyBOkhco

「だめ?」とアキは言った。

「だめ」と俺は答える。
 
 一瞬の沈黙が生まれ、空気が張りつめた気がした。

 俺はひどく怯えている。

「うん、分かった」

 アキは笑う。
 俺は、自分が今、たしかにあの冬の地続きに存在しているのだと、ふと思った。

 俺は適当な理由をつけて通話を終わらせた。

 彼女との電話が終わると、俺は疲れ切っている。
 ともあれ、今日はやりすごした。
 
 明日も連絡を寄越すようなことはないだろうと、思いたいのだが。
 

764: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/30(土) 22:09:39.45 ID:yIyBOkhco

 翌日の朝、モスとタカヤから連絡があり、どこかで会わないかという話になった。
 俺たちは駅前のマックに集まった。モスが言うので幼馴染にも電話を掛けた。

 彼女はまだ以前どおりという雰囲気ではなく、少なからず暗い気分を引きずっているように見える。

 とはいえ、表面上は平気そうに振る舞っていたし、彼女がそうしている以上、こちらとしても問いただす理由はないように思えた。

 タカヤとモスが話をしている間も、俺はなんだか会話に混ざれずにぼーっとしていた。

 考えなければならないことがたくさんある気がしたけれど、よくよく考えてみればそうでもない。

 妹のことなら、何もいますぐにどうこうしようとしなくてもいい。
 幼馴染に関しても、問題があるようなら何かを言ってくるはずだし、言ってこないにしても、あまり様子がおかしいなら訊ねればいい。
 アキのことは本来ならもっとも簡単だ。連絡するなと一言言ってしまえばいい。

 けれど現実には、俺はそれらの問題にかなり思考をかき乱されていた。


765: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/30(土) 22:10:08.80 ID:yIyBOkhco

 特に、目の前にいる幼馴染に関してはどうしても気になってしまう。
 一度アキについての話をしたとき、彼女は平然としていたのに。

 それなのに、じっさいにアキと会い、目が合っただけで、ひどく憔悴しているようにみえる。
 何の会話もなかったにもかかわらず。 
 
 いったい彼女とアキとの間に何があったというのか。それは俺と関係のあることなのか。

 タカヤたちは彼女の友人である「みー」についての話をしているが、幼馴染にそれを集中して聞く余裕はないらしい。
 本当に珍しい姿だ。

 その様子が気になって、俺はタカヤが説明する話をほとんど理解できなかった。


766: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/06/30(土) 22:10:35.27 ID:yIyBOkhco

 幼馴染はまったく口を開かなかった。やはり何かを訊ねるべきなんだろうか。

 俺にはいつだって、彼女の考えていることがさっぱりわからない。
 だから、どこまで訊いていい話なのか、まったくわからない。それは俺に関係のあることなのか?

 俺はアキから電話がかかってきたことを彼女に話そうかどうか悩んだ。
 俺ひとりで抱えておくにはひどく息苦しい事実だったけれど、その結果彼女がまた沈んでしまうのではないかという危惧もある。
 それはさすがに、自意識過剰だとは思うのだが。

 結局、何も言わずに俺たちは別れる。
 幼馴染はずっと、何かを言いよどんでいるような表情をしていた。
 
 別れ際、俺は努めて明るい表情を見せたつもりだったが、たぶん彼女には見抜かれていただろう。


776: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/01(日) 17:13:47.98 ID:3WNZ2/ouo

 翌日の朝はモスからの電話で七時半に目をさました。常識を知らない奴だ。
 こんな朝っぱらから電話を寄越す奴があるか。俺は寝たい。

「眠いので、折り返し電話します」

「大事な話だよ」

 俺は溜め息をついた。

「深刻そうになんなんですか、愛の告白ですか」

 モスは俺の冗談を取り合わず、用件に入った。
 俺はなんとなく悔しい。


777: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/01(日) 17:14:14.22 ID:3WNZ2/ouo

 彼の話は幼馴染の様子についてだった。

「近頃、明らかにおかしいよな。何かあったのか?」

「あったといえば、まぁ」

 あった。原因は分からないけれど。

「ずいぶん落ち込んでるみたいだ」

「そうだね」

「そうだね?」

 とモスが訊き返した。

「他人事みたいな言い方するなよ」

「気に障ったなら謝るけど、他人事みたいな言い方になるのは癖みたいなものなんだ。俺なりにあいつのことは気にしてるよ」

「……ああ、そうだな」

 悪かった、とモスは言った。たしかにお前は、口の上では他人事みたいな言い方をする奴だったっけ。
 モスはモスで、少し落ち込んでいるように思える。何かあったのかもしれないし、もっと他の要因からかもしれない。
 いつものような冷静さが、どこかにいってしまっている。


778: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/01(日) 17:15:00.38 ID:3WNZ2/ouo

 実際、俺は幼馴染のことを気にしてはいるが、どう対応すべきか判断しかねている。
 俺が関わっている問題なのか、俺が関わっていい問題なのか、そのことが分からない。

 あの何かに怯えたような態度が、ひどく気にかかる。

「とにかく、一度話をしてみたらどうだ」

「って、言っても」

 どうすればいいというのか。「ところで、あなた最近何か悩みでもあるんですか?」と直接聞いてもいいもんなのか。
 俺はそういうのが苦手だ。……そういうのじゃなくても、人と話すのは得意ではないのだが。

「何か悩んでるのは明白だろ」

 モスが言う。それはそうなのだけれど。


779: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/01(日) 17:15:29.67 ID:3WNZ2/ouo

「俺に話してくれると思う?」

「内容によるだろうな。とにかく、頼むよ」

「そんなに気になるなら、お前が直接きいたっていいんじゃないか」

「俺が? どうして?」

 どうしても何も、モスと幼馴染だって、一応友人関係と言っていいものだと思うのだが。
 付き合いの長さでいえば俺の方が長いが、相談に乗るならモスの方が適任だろう。
 それでもモスは、自分が話してみるとは言い出さなかった。仕方ないのだろうか。

「……まぁ、分かったよ」
 
 少し納得がいかない気分だったが、頷く。

「これから電話して、会えるか訊いてみるよ」

「ああ。……今日か?」

「今日。早い方がいいんじゃないのか、こういうのは」


780: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/01(日) 17:15:56.05 ID:3WNZ2/ouo

「でも、今日と明日は……」

「……なに?」

 訊き返してもモスは言いよどむだけだった。

「とにかく、任せるよ」

「……お前に頼まれると、変な感じだな」

「俺も頼む側として変な気持ちだ」

 モスとの通話を終えてすぐに幼馴染に電話を掛ける。
 彼女は十コール目に出た。

「ふぁい」

 と眠そうな声が聞こえる。

「おはよう。良い朝だな」

 俺は外の曇り空を見ながら言った。

「……ねむたいので、あとでかけ直しますね」

「悪いけど大事な話があるんだ」

「へあ?」

 幼馴染が相槌のように変な声を出した。なんだ「へあ?」って。


781: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/01(日) 17:16:23.81 ID:3WNZ2/ouo

「告白ですか」

「今日暇?」

「……否定してもらえないと、妙な期待をしてしまいそうです」

「なんだ、いつも通りに冗談言えるくらいには回復したのか」

「うう?」

 寝起きだからか、幼馴染の返事はいつものしっかりした具合ではなく、とろけたようなふわふわした声だった。
 少し間があいて、彼女があくびしたのが電話越しに分かった。
 
 気を取り直したような声音で、幼馴染が言う。

「あのですね、いまは冬休みなのです」

「知ってる」

「休みなんですから、朝八時に電話を寄越すのはマナー違反です」

「……俺は朝七時半に起こされたんだよ」

「何の話です?」

「なんでもない」


782: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/01(日) 17:16:52.23 ID:3WNZ2/ouo

「で、なんでしたっけ?」

「今日暇?」

「……唐突ですね」

「そうでもない」

「まあ、暇、ですけど」

 何かを言いかけたように、彼女は言葉を止める。
 なんなのだ、こいつもモスも。

「……えっと、なにか用事でも?」

「まあ、そんなようなもん。ちょっと話があって」

「……あ、はい」

 なんなのだ、その返事は。
 俺は溜め息をつく。やっぱり本調子ではないのだろうか。


783: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/01(日) 17:17:35.85 ID:3WNZ2/ouo

「えっと、それじゃあ」

「会える?」

「……うん」

「じゃあ、午後からでいい?」

「はい」

「どこで会おうか」

「どこかに行くんですか?」

「いや、まぁ、適当にぶらつくだけかな」

「はあ」

 と彼女は奇妙な返事をした。


784: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/01(日) 17:18:20.40 ID:3WNZ2/ouo

 本当ならどちらかの家で話をするのが簡単なのだが、こっちには妹がいて、あっちには家族がいる。 
 不意にこのあいだ入った喫茶店のことを思い出して、まぁあそこなら静かだし、話をするのにちょうどいいだろうと思った。
 
 だが、彼女があの店の位置を知っているかどうか分からなかった。

「じゃあ、一時半過ぎに迎えに行くから」

「あ、はい」

 ねぼけたような声で、幼馴染は返事をした。俺は怪訝に思う。

 電話を切って、さて二度寝でもするか、と思った。眠くて頭が働いていない。
 なるべく早めに起きて準備をすればいいだろう。なぜだか近頃睡眠不足だった。

 なぜならも何も、原因はいくつもなさそうなものだが。

 アキのことを考えると目が冴えてきて、俺は眠ろうとするのを諦めた。


785: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/01(日) 17:18:49.41 ID:3WNZ2/ouo

 昼前に準備を始めてリビングに降りると、珍しく妹が起き出していた。
 休みの日は昼過ぎまで眠っていることが多いのに、なぜだろう。

 彼女は俺の様子を見て、驚いたような顔をした。

「出かけるの?」

「ああ」

「……そっか」

 何か言いたげな表情で、妹は押し黙る。なんなのだ、どいつもこいつも。

 不意に何かに気付いたように、妹は顔をあげる。

「あの人と?」

「その“あの人”っていうの、やめろよ。まぁそうだけど」

「ふたりきりで?」

「……そうなるな」

 なぜそんなことを気にするんだ。


786: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/01(日) 17:19:18.27 ID:3WNZ2/ouo


「そっか」

 と彼女は、承服しがたい何かを受け入れようとするような顔で頷いた。
 
「なにかまずかった?」

「ううん、べつに」

 いつもより明るい表情で妹は答えた。俺は怪訝に思う。
 どいつもこいつも、何を言いよどんでいるんだ。

 結局妹はそれ以降何も言わなかった。気になったが、今日の用事が終わってからでもいいだろう。
 幼馴染の様子が変わった理由を、とりあえず確認してみなくては。


787: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/01(日) 17:19:48.04 ID:3WNZ2/ouo

 家の前まで迎えに行くと、彼女は落ち着かない様子で玄関に立っていた。
 俺はその様子に、なんだか戸惑う。
 昨日までとは様子がまったく違った。

 うわついているようにも警戒しているようにも見える。

「……きましたね」

 と彼女は言った。

「だまされませんよ」

「何の話?」

 俺は笑った。彼女は目を逸らす。
 
「それで、話があるって言ってましたよね」

「とりあえず、移動しようか」
 

788: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/01(日) 17:20:15.27 ID:3WNZ2/ouo

 街の方に移動している最中、幼馴染は周囲の目を気にするように視線をあちこちに泳がせていた。
 表情は緊張している。本当に昨日までとはまったく違う態度だ。

 街中は静かだった。人が少ないと言う意味じゃない。たくさんの人が歩いている。
 その大半は冬休み中らしい学生だった。男女の組み合わせが多い。

「……うう」

 幼馴染がこらえきれないように呻いた。

「どうした?」

「なんでもありません。……騙されませんよ、わたしは」

「……だから、何の話?」

 風邪でもひいてるのか。それとも酔っ払っているのか?



789: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/01(日) 17:20:51.27 ID:3WNZ2/ouo

 喫茶店に入る。普段から寂れているが、今日はとくに人気がない。
 天気のせいもあって中は薄暗く、俺はなんとなく気分がよかった。静かで薄暗い空間は、妙に落ち着く。
 窓辺の席に腰を下ろして、幼馴染と向き合う。

「なんか食べてきた?」

「いえ」

「じゃあ頼むか」

 軽食の値段は馬鹿げていたが、静かな空間を提供してもらった分だと思って払うことにする。
 注文を済ませると、沈黙が下りた。

 幼馴染の様子はもぞもぞと落ち着かない。ずっとこちらと目を合わせようとせず、店内のあちこちに視線を泳がせていた。

「どうしたの?」と訊ねると、

「いえ、特には」とすぐに返事が返ってくる。
 即答するということは、自分の態度が変だということに気付いてはいるのだろう。


790: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/01(日) 17:21:17.88 ID:3WNZ2/ouo

「それで」

 ようやく視線をこちらに向けたかと思うと、真面目な表情をつくって幼馴染は言った。

「なんですか、大事な話って」

 妙に警戒した表情だった。俺は彼女がこんな態度になる理由がわからない。
 ……いや、そういえばふたりきりでどこかに行ったりするのは、久し振り、ということになるんだっけ。
 
 出かけるにしてもタカヤや「みー」に関することばかりだったし、それ以外の時間は他の人間が一緒だったような。

 ……さんざんふたりきりで昼食をとったりしていたし、その程度のことで警戒されるとも思えない。

「んー、いや、まぁ」

 俺はどう切り出そうか迷ったが、単調直入に話を始めるのがよさそうだと口を開いた。

「近頃様子がおかしいよなぁ、と思って」

 幼馴染は一瞬、忘れていた傷口が痛んだような顔をした。

「そうですか?」


791: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/01(日) 17:21:49.59 ID:3WNZ2/ouo

「うん。目に見えて沈んでた。から、なにか悩みでもあるのかと思って」

 こういう言い方をするのは得意じゃない。
 彼女は戸惑ったような顔をする。

「べつに、悩みがあるわけでは」

「じゃ、どうして落ち込んでたんだ?」

 訊き返すと、幼馴染は口籠った。

「べつに、言いたくないならいいんだけどさ」

「……言いたくない、というのとは、違うんですけど」


792: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/01(日) 17:22:20.12 ID:3WNZ2/ouo

 言いかけて、結局彼女は口籠った。
 
「……アキと関係があるの?」

 彼女は顔をしかめた。何かの痛みをこらえているようにも見える。 

「べつに、彼女に直接の関係があるわけでは」

 間接的にはあるという意味だろうか。

 また、幼馴染は押し黙る。俺は溜め息をついた。

「さっきも言ったけど、言いたくないなら別にいいんだ。本当に」

 彼女は躊躇したような、安堵したような表情になる。
 
「……ごめんなさい」
 
 と彼女は謝った。ここでこの話はうちきりだ、と俺は思う。


793: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/01(日) 17:22:53.38 ID:3WNZ2/ouo

「いいよ。でも言いたくなったら言えよ。あんまり心配かけるな」

「……心配したんですか?」

「しないと思ったのか?」

「……あ、いえ」

 まだ落ち込んだ様子だったが、表情はてれくさそうな微笑に動いた。
 俺はすこしほっとする。

 それから俺たちは、特になんでもない世間話をした。幼馴染の様子は、時間が経つにつれて自然になっていった。
 話す内容はなくならなかった。こんなにも話すことがあったっけか、と不思議に思うほどだった。

 喫茶店を出る頃には時刻は三時半を過ぎていた。

「どこかに行く?」と俺が訊ねると、彼女は何かを思い悩んだ様子だった。

「……えっと」


794: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/01(日) 17:23:19.52 ID:3WNZ2/ouo

 どこか行きたい場所があるのだろうか。それとも、何か思うところがあるのか。

「……いえ。いいです」

 彼女の表情は少しこわばっていた。何かの落胆を隠そうとするような、強がりめいた微笑。
 その表情は「しかたない」と自分に言い聞かせているようにも見えた。

 気になったが、結局俺たちはそのまま帰ることにした。

 さっきまでの反動のように、俺たちの間から会話というものが消え去ってしまった。
 ただ沈黙があった。街から外れて、より静かな方へと戻っていく。街は少しずつ暗くなり始めている。

 幼馴染の表情は、家に近付くにつれて重々しくなっていった。
 黙っている間、ずっと何かを考えていて、それが徐々に暗い考えに傾いてきたというふうに。


795: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/01(日) 17:23:47.46 ID:3WNZ2/ouo

 ぽつりと、幼馴染が声を漏らした。

「どうせ……」

 独り言のように言う。その言葉には何かが続いていたが、俺には聞き取れなかった。

「なに?」

「いえ、べつに」

 拗ねたような、諦めたような顔だった。妙に気にかかる。
 俺は空気を変えようと思い、場違いに明るい声を出した。

「喉乾いたな」

「……そうですか?」

 俺は溜め息をつく。


796: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/01(日) 17:24:16.49 ID:3WNZ2/ouo

「乾いたの。俺は。コンビニ寄ろうぜ」

「じゃあわたし、先に帰ってます」

「……なんなの、お前は。言いたいことがあるなら言えよ」

「……べつに」

「何拗ねてんだ。いいから行くぞ」

 肩に触れると、彼女は体を捩じって俺の手を振り払った。
 空気が静かに変化した。

 彼女は泣き出す直前の子供のような顔をしている。
 俺は少しだけ傷ついたけれど、腕を振り払ったことで彼女自身の方がよっぽど傷ついたような顔をしていたので、何も言えなかった。

「ほら、行くぞ」

 俺は少しためらったが、少し強引に彼女の腕をとった。


797: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/01(日) 17:24:42.27 ID:3WNZ2/ouo

 最初、幼馴染は抵抗とも言えないような抵抗をしたが、やがてそれもなくなり、連れられるがままになった。
 こいつの考えていることはさっぱり分からない。

 俺は本当はこいつの腕をとるべきじゃないのかもしれない。
 それでも、ここで腕をとらなかったら、俺は彼女に対して普段通りに接することができなくなる気がした。
 
 彼女は離してくれとは言わなかった。

「何飲む? おごってやるよ」

「……コーラがいいです」

「珍しいね」

「そういう気分だから」

 なんとか答えを返してくれるようにはなったが、態度はまだ冷たい。
 さっきのやりとりの結果、いつも通りに振る舞うのが気まずいだけなのかもしれない。


798: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/01(日) 17:25:09.27 ID:3WNZ2/ouo

 コンビニで飲み物を買って、帰路につく。
 彼女は軒先で500mlのコーラのキャップを開けて飲んだ。一口で半分ほど減った。
 自棄になったような飲みっぷりだった。

「……帰るか」

 と俺が言うと、彼女は黙ってうなずく。俺は飲み物を袋に入れたまま口をつけなかった。

 家がだんだん近づいてくる。俺は自宅を通り過ぎて、彼女を家まで送るつもりだった。

 幼馴染との空気は、さっきまでよりはいくらかマシになった。
 話しかけると、普段よりはそっけないが、返事を返してくれる。

 少し安堵したが、何か変化があったわけではない。
 咄嗟にさっきのような態度になってしまうほど、幼馴染の悩みは深刻らしいと分かっただけだ。

 次の角を曲がると、俺の家が見える。幼馴染をちらりと見る。彼女もこちらをうかがっていた。
 互いに何も言わずに目を逸らす。

 角を曲がる。


799: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/01(日) 17:26:01.72 ID:3WNZ2/ouo

 最初に、幼馴染がそれに気付いて、立ち止まった。
 俺は立ち止まった幼馴染を怪訝に思い、振り向く。
 
 それから彼女の視線の先を追いかける。

 背筋が粟立った。
 おおよそ日常的な感覚とはかけ離れた、恐怖のようなものを感じる。

 日が沈むにつれて伸びていく影のように、振り払いようもなくつきまとう。
 おいおい、と俺は思った。どうしてこいつがこんなところに立っているのだ。

 アキはこちらに気付くとからかうように笑った。


815: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/03(火) 15:51:27.99 ID:B/yKFTgZo

 俺が何かを言う隙もなく、アキはこちらを見て目を細めて笑った。

「へえ」

 獲物を見つけた蛇のような顔。
“まだいたんだ”、と彼女が言ったように見えた。
 俺に対してじゃない。

 彼女は幼馴染に向かって笑いかけたのだ。

 様子を見遣ると、彼女は一瞬で青ざめたように見えた。
 あるいは冬の寒さがそうさせたのか。
 俺はなんだか、不安になる。


816: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/03(火) 15:52:22.23 ID:B/yKFTgZo

 幼馴染とアキの視線が絡み合う。
 そこには何かの感情の応酬めいたやりとりがあるようにも見えた。

 視線だけでお互いの考えを見抜き、そして見透かされたような。

 見ただけの印象なのだが。

 先に目を逸らしたのは幼馴染だった。彼女は打ちひしがれたような顔で視線を落とし、俯く。
 アキは満足そうな微笑をたたえる。この二人には何か圧倒的な上下関係とでもいうものがあるのか。

 それとももっと心的な要因で、幼馴染はアキに対して強く出られないのか。

「……おいおい」

 と俺は言った。

「どうしてお前がそんなところに立ってるんだ?」

 幼馴染のこの様子を見て、俺は一刻も早くこいつをこの場から追いやるべきだと強く感じた。
 こいつと幼馴染を一緒にいさせてはならない。――理由は分からないけれど。


817: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/03(火) 15:52:48.45 ID:B/yKFTgZo

 けれど俺は、アキに声を掛けるべきじゃなかったのだ。

「会いたかったんだって。電話でも言ったでしょ?」

 電話でも、というところをアキは強調した。
 幼馴染の身体がゆらめく。俺の顔を見て、彼女は怯えるように後ずさった。

 何のつもりだと問いただしたかったが、それよりも幼馴染の様子の方が気になる。
 さっきまで、少しましになっていたのだ。
 それが、アキと会うだけで、どうしてこんなふうになるのだ。

「でも、そうなんだ。まだ一緒にいたんだね、その子」

「……お前には関係ない」

「そう?」

 とアキは言う。

「本当にそう?」


818: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/03(火) 15:53:14.58 ID:B/yKFTgZo

「何の話を、してるわけ、お前は」

「べつに。でも……」

 と、彼女はそこで間を置いて、

「いいかげん、限度があるよね」

 と意味ありげに言った。
 幼馴染はその言葉に顔をあげ、羞恥か憤りか、顔を真っ赤に染めあげた。

 俺は混乱する。 
 今の会話の中に、幼馴染を強く揺さぶる何かがあったのか?

「わたしは……」

 震える声で幼馴染は何かを言いかけたが、結局何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。
 その様子を見て、アキはやはり満足げに笑う。

 俺は気分が悪い。


819: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/03(火) 15:53:42.49 ID:B/yKFTgZo

「おんなじなんだよね、結局」

 何が、と言おうとしたとき、幼馴染が振り絞るように声を出した。

「なにが、おんなじなんですか」

「わたしと、あなた」

 アキは笑う。
 幼馴染は表情を歪めた。たぶん恐怖だろう。
 俺は、幼馴染とアキの間に立った。
 アキへの怒りが先立ったのか、幼馴染を庇いたかったのか、どちらが強かったかは自分でも分からなかった。

「お前の話、むかしっからわけわかんねえんだよ」


820: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/03(火) 15:54:09.18 ID:B/yKFTgZo

 アキは面食らったような顔をしたが、やがておかしそうに笑い始める。
 こういう奴だった。俺は思い出す。こういう奴だったのだ。
 相手が怒れば笑い、泣けば笑い、相手が笑えば怒る。

 そういう人間だったのだ。あのころは気にならなかったが、今になってみれば、異様だ。

 歪だ。

「悪いけど」
 
 と俺は言う。

「これ以上つきまとうの、やめてくれない? 負い目があるから強く出てなかったけど、正直鬱陶しいんだ」

「ひどいこと言うね」

「ひどくないよ。お前がいると、状況が混乱するんだ。お前がいるってだけで、割と迷惑なんだ。ひどいことを言うようだけど」

「……ふうん」
 
 とアキは笑う。全然こたえているようにはみえない。


821: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/03(火) 15:55:03.10 ID:B/yKFTgZo

「わたしはあなたと、話したいんだけどな」

「自分の気持ちが相手の迷惑になるなら、自分が我慢するべきだって思わない?」

「わたしは別に思わないよ。相手の気持ちはあくまでもわたしの気持ちじゃないから」

 話の通じない奴だ。

「でも――ねえ、そんなことを言っていいの?」

 俺は怪訝に思う。
 どういう意味だ?

 俺が言葉の意味を訊きかえそうとするよりも先に、動いたのは幼馴染だった。
 音に気付き俺が振りかえると、幼馴染はこちらに背を向けて走っていた。

 どこか切迫した後ろ姿だった。


822: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/03(火) 15:55:29.94 ID:B/yKFTgZo

「ああ?」

 と俺は間抜けな声を出す。どうしてそうなる?

 だが、アキのもとから離れるなら幸いだ。追いかけよう、と俺が足を踏み出すと、

「やめた方がいいよ」

 と、真剣な声音でアキが言った。

「……本当に、これはいやがらせとかじゃなくてね。彼女のことを考えるなら、やめたほうがいいよ」

「どうしてお前にそんなことを言われなきゃなんないんだ」

「こっちも、見てて痛いんだよね。そういうことされるとさ。いいかげん可哀想になってくるの」

 電話越しとはまったく違う口調。かぶっていた猫の皮をはいだのだ。


823: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/03(火) 15:56:02.37 ID:B/yKFTgZo

「だってさ、あなた、あの子のこと好きじゃないでしょ?」

「……何言ってんの、お前は」

「そこでそういうふうに言っちゃうあたりが、あなたのダメなところだよね。そういうところも好きだけど」

「……ああ?」

 と、さっきよりもいっそう強まった混乱を、喉から吐き出す。

「なに、それ。お前、彼氏できたって言ってただろ」

「いるよ。でも別に好きじゃない。どうでもいい。相手もなんか、わたしのこと好きじゃないみたいだし」

「……はあ?」

「言わなきゃ分からない? 分からないよね」

 小馬鹿にするように、彼女は笑う。


824: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/03(火) 15:56:52.04 ID:B/yKFTgZo


「教えてあげる。わたしだってこの一年、努力はしてきたんだよ。たくさん」

 彼女の息は白い煙を伝って音となり、俺の鼓膜を揺する。
 その感覚は一年前のものとはまったく違って思える。

 ひどく、白々しい。

「でも、あの日コンビニであなたを見て、あなたの表情を見て、やっぱりなにひとつ終わっていないんだって思った」

「……だから、何の話?」

「ある種の感情には折り合いのつけようがないんだって、分かる? どんなに抵抗したって無駄なの」

 痛いほど分かるが、それがこの話とどう繋がるというのか。

「どうやっても無理なの。代わりじゃどうにもならない。だから、いまさらあなたに連絡したわけ」

 アキの声はどことなく高揚しているように聞こえた。

「あなたが好きだよ」

 と彼女は言った。


825: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/03(火) 15:57:18.73 ID:B/yKFTgZo

 殴られたような衝撃を覚える。
 強く認識する。
 なにひとつ終わってなんかいないのだ。

 あの日の地続きに俺は立っているのだ。

「……たかだか数ヵ月一緒にいただけだろ。一年以上会っていないのにひきずるなんて、どうかしてる」

 俺は強がりのように言った。

「本当にそう思う?」

 アキは言う。俺は答えられなかった。

「あの冬に」

 お気に入りの詩でもそらんじるような声だった。
 俺はその声が、白く染まって冬の空に溶けていくさまを見る。
 その光景が、かつての俺は好きだったのだと思った。

「あの冬にね、わたしに話しかけてくれたのは、あなただけだったよ。それはわたしにとってとても重要なことだったの」

 大袈裟な言い方じゃなくてね、とアキは言った。


826: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/03(火) 15:58:01.33 ID:B/yKFTgZo

 だから、と彼女は続ける。

「悪いけど、わたしはあなたに気を遣ったりするつもりはないよ」

 まるで宣戦布告でもするように。

「あなたの側の事情も心境もまったく考えるつもりはない。覚悟しておいてね」

 俺は彼女のその言葉が、俺自身にとってもひどく致命的なものであることに気付いていた。
 その言葉を否定することは、そのまま俺の感情を否定することになる。
 でも、

「知らねえよ」

 と俺は言う。


827: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/03(火) 15:58:32.57 ID:B/yKFTgZo

「いまさらそんなこと言われたって、どうしようもないよ。お前は俺のことなんてちらりとも考えてなかったじゃないか」

「そうかもね」

 まったく平気そうな顔でアキは続ける。

 それにしても、と。

「あの子、可哀想だよね、本当に」

「……何の話?」

「本当に気付いていないなら、気付かないふりをしているよりもよっぽどひどいと思う」

 俺は口籠る。その言い方じゃ、まるであいつが――。
 考えかけて、否定する。


828: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/03(火) 15:59:10.89 ID:B/yKFTgZo

 溜め息をついた。肩をすくめた。頭を振った。もうどうしようもねえな、と言いたい気分だった。

「悪いけど、追いかけなきゃならない」

「追いかけない方がいいよ。責任をとれないなら」

 だから、その言い方じゃあ、まるで――
 ――ふと、思い出す。

 俺は今まで、そのことについて“そんなはずがない”とずっと否定し続けてきた。
 あいつと再び話すようになって、何度もそういう考えがよぎりかけた。
 でも、その考えを否定してきた。なぜだったか。

 アキの唇が、三日月のように裂ける。

「まさか、まだ信じてたとか?」


829: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/03(火) 15:59:45.08 ID:B/yKFTgZo

 怖気が走る。
 自分の愚かさと、この女の賢しさに。
 十五やそこらの子供が、なぜそんなことをできたのだ。
 
 アキは本当に歪なのだ、と俺は思った。

「あなたのことをなんとも思っていない、付き合いが長いから世話を見ていただけで、わたしに代わってもらえてよかった」

 アキはうたうように言う。

「――って、あの子がそんなことをわたしに言ったなんて、そんな嘘を、今の今まで信じてたの?」

 今の今まで、まったく思い出さなかったその嘘が、俺の思考の前提にあったというのか。
 誰が語った言葉だったかも忘れて、それを無意識に信じ続けていたのか、俺は。

 けれど俺の頭を支配したのは、そのことに対する衝撃や驚愕ではなく、むしろ、怒りだった。

「お前、あいつにも言ったのか」

 アキは笑みを止める。

「俺に言ったのと同じようなことを、あいつにも言ったのか」


830: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/03(火) 16:00:49.67 ID:B/yKFTgZo

「言ったよ。もちろん、あなたと付き合うようになったあとに」

 アキは平然と言う。

「走れなくなって落ち込んでいて、人と話しても明るい気分になれそうにないみたいなんだって」

 俺は自分の呼吸が荒くなるのを感じた。

「特に、あなたには昔から付き合いがあるとかいう理由だけでつきまとわれてうんざりしているって言っていたって」

 対話は重要だ。あらゆる問題の解決の糸口になる。

「落ち込んでいるからそんな言い方をしていただけだと思うけど、しばらく距離を置いてやってくれないかって」

 けれど、


831: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/03(火) 16:01:16.56 ID:B/yKFTgZo

「あの子、意外と人を疑うってことを知らないよね」

 ある種の問題は対話によっては決して解決できない。そしてそういった問題ほど、暴力によって解決できる場合が多い。
 そして更に多くの場合、それはどうやったところで、暴力以外の手段では解決できない。
 だからときどき、暴力が絶対に必要なタイミングというものがある。俺は拳に力を込めた。

「だから、あの子、さっき逃げ出したんじゃないの? まだ付きまとってるのか、って言われてる気になったんだろうね」

 アキは楽しそうに笑う。俺は自分の感情を必死に落ち着かせた。
 それでも、暴力をふるうわけにはいかない。

「うっとうしがられているのに、まだ隣に居座ってるんだね、って言われた気になったんじゃない?」

 なにもかも、地続きになっているのだ。



845: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/05(木) 17:01:37.12 ID:5zJPOgVlo

 俺はアキに背を向けて駆け出した。彼女は何も言わなかった。

 頭が混乱して、うまく回らない。
 おいおい、と俺は思った。俺はまた、アキの言葉を信じるのか?
 本当は適当なことを言っているだけで、そんなことは言っていないのかもしれない。
 
 そういう奴なのだ。そういうふうにどうでもいいような嘘で誰かを傷つける奴なのだ。
 
 でも俺は走った。けれど、走り出してしまって本当によかったのか?
 
 アキは言っていた。

 ――だってさ、あなた、あの子のこと好きじゃないでしょ?


846: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/05(木) 17:02:07.21 ID:5zJPOgVlo

 アキにしては珍しく、たしかにマトモな発言だ。
 もし彼女の言葉をすべて信用するなら。

 そうだ、嘘っぱちなのかもしれない。
 単に俺とは無関係なところで幼馴染はアキに傷つけられたのかもしれない。 
 さっきの会話は、実はそっちの事件に影響されたのかも。

 俺なんかとは本当は無関係なのではないか。

 だって、その話を信じるなら、彼女は俺のことを好きだということにはならないのか。
 そう考えてしまうのは短絡的なのか。

 仮にそうだとしたら、俺はやっぱり彼女を追いかけるべきではないのだ。
 俺は彼女を好きだけれど、それは結局そういう"好き"ではないのだから。


847: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/05(木) 17:02:39.86 ID:5zJPOgVlo

 けれど、俺は走っている。とにかく走っている。足は自然とある方向へと動いていった。
 彼女がどこに逃げたのか、俺には分かっていた。
 いや、俺は彼女が逃げる場所を知っていたのだ。

 でも、俺は本当にそこに向かって良いのだろうか。

 姿を見つけるのは困難じゃなかった。

 昔から何かあると、彼女が逃げ込むのはいつも同じ場所。
 
 住宅地から離れ、街からも外れ、寂れていく道の向こうの、無人の神社。
 木々の陰りが、街中から内側の空間を切り離したような場所。
 実際、彼女はそこにいた。


848: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/05(木) 17:03:27.94 ID:5zJPOgVlo

 俺が足音を立てても、彼女は俯けた顔をあげようとはしなかった。
 鳥居をくぐって少し進んだ右手に、大きな樹がある。その枝が、上空を暗く覆っているのだ。
 夏になると葉陰が心地よく、風のざわめきが心地よい。そういう場所だ。

 けれど今は冬だったし、風景はとても寂しげだった。
 実際、寂しいんだろうなぁと思った。そういう場所だ。

 膝を抱えて俯いたまま、幼馴染はぽつりとつぶやく。

「こないでください」


849: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/05(木) 17:03:55.64 ID:5zJPOgVlo

 小さな声だった。俺は戸惑う。
 初めて見る態度だった。こんなことを言われたことは一度もなかった。いままで一度も。

 だから俺は一瞬立ち止まっておきながら、また一歩踏み出した。

「こないで」

 と、さっきより鋭い声が飛ぶ。弱々しい響きながらも、その声を孕んで聞こえる。

「こないでください。ほうっておいてください」

 と言われて、放っておくわけにもいかない、わけでもない。
 こいつに今背を向けて帰ったところで、別に間違ってはいない気がした。

 いや、人間としても男としても友人としても間違っている気はするが、それでも。
 そんな間違いよりも、今ここに来てしまったことの間違いの方が、ずっと大きい気がする。

「……もう、やめましょう。疲れました」


850: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/05(木) 17:04:28.35 ID:5zJPOgVlo

 泣き疲れたような声だった。彼女の目に涙は浮かんでいなかったし、表情は眠たげなだけで、寂しそうにも見えない。
 それでも彼女は泣いていたのかもしれない。あるいは俺の自意識過剰なのかもしれない。

 俺はこいつの考えていることが分からない。ずっと前からなにひとつ。
 いつだって想像するのが怖かったから、分からないように、考えないようにしていたという方が近いかもしれない。

「わたしは」

 と幼馴染は言う。

「別にあの子の言うことを信じてたわけじゃないですよ。きみがあんなこと言うはずないって思ってた」

 本当のところ、俺は彼女の気持ちなんて知りたくないのだ。
 それをはっきりさせてしまったら、俺は彼女と一緒にいることができなくなるかもしれない。
 
 だって俺は、たしかにアキの言う通り、彼女を好きじゃないのだ。
 好きだけど、それは特別な好きではないのだ。
 俺の気持ちはいつだってある方向に傾いて引き離せない。
 強力な磁力で引っ張られている。逃れようがないのだ。いつからかそうなったのか、思い出せないけれど。


851: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/05(木) 17:04:54.77 ID:5zJPOgVlo

「だからあの子の言ってることが嘘だなんて知ってる。でも、きみの気持ちまでは分からないから」

 彼女の声は曇天の下の神社に透明に溶けていった。何もかもを透き通ってしまいそうな声だった。

「怖くなったんです。本当にわたしを嫌いになっても、きみはそう言わないだろうって思ったから」

 怖い、と俺は思った。何を怖がっているのかはわからない。
 でもたしかにそうなのだ。続きを聞くのが怖かった。

「だから不安で、話しかけられなかったんです、ずっと。それでも諦めきれなくて、話せなくてもせめて近くにはいようって」

 不意に、空気が変わるのを感じた。俺の怖さは消えていく。かわりに透明だった彼女の声に、しずかに色がつきはじめた。
 俺はここに来るべきじゃなかったのだと思った。彼女を追いかけるべきではなかったのだと。
 
「同じ高校に入って、あたりをうろちょろして、遠巻きに眺めながら、それでも話しかけられなくて」

 そして俺は、自分がこの期に及んで自分のことしか考えていないことに気付かざるを得なかった。


852: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/05(木) 17:05:20.66 ID:5zJPOgVlo

 彼女は自嘲するように笑った。

「ストーカーみたい。気味悪がってくれて、いいですよ」

 ふて腐れたような声で幼馴染は言う。ここに来て彼女が笑ったのは初めてだった。

「もう行ってください。わたし、疲れました」

 俺は何も言えない。

「どうして」

 と俺は言った。彼女の言葉に向けていったわけではない。幼馴染もそのことに気付いただろうとすぐに分かった。
 自分でも驚くほど無神経で、マヌケな声だった。その言葉はその空間の雰囲気と言えるものを切り裂いた。

 風が吹き抜ける。

「"どうして"?」

 と彼女は繰り返した。


853: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/05(木) 17:05:55.67 ID:5zJPOgVlo

「それ、どういう意味です?」

 俺は言えなかった。その言葉を自分で言うのは、ひどく白々しいことだと思えたからだ。
 彼女は呆れたように言う。

「わたし、きみのことが好きですよ。たぶん、とっくに気付いてるでしょうけど」

 体のどこかがずきりと痛んだ気がした。どこなのかは分からない。胸でもないし頭でもない。
 それでもたしかに、どこかが痛んだような気がしたのだ。

「でも分かってます。きみは、あの子が好きなんですよね」

「アキとは……」

「そっちじゃない。あの子なんて」

 他人のことを吐き捨てるような、幼馴染にしては珍しい声だった。
 あるいは。
 その態度は、伏せていただけで、彼女の中では自然にあったものなのか。
 俺が勝手に、彼女は「そういう言い方をしない」と思い込んでいただけか。


854: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/05(木) 17:06:27.47 ID:5zJPOgVlo

「あの子なんて、放っておいたって害はないですよ。どうせ口先だけで、何もできやしないんです。そういう子です。よく分かります」

「……どうして?」

「さあ? あの子が言う通り、おんなじだからかもしれません」

 ただ、と彼女は続ける。

「あの子の方がよっぽど潔いのかもしれない」

 俺は何も言えない。
 幼馴染についても、アキについても、彼女たちの俺に対する態度は、すべて、俺に帰ってきてしまうものなのだ。
 彼女たちについて何かを言うことは、そのまま、俺の妹に対する態度について何かを言うことになってしまうのだ。

「わたしは、ずっと、卑怯ですよ。黙ってみてることなんてできなかった。友達の相談まで利用して、もう一度きみに近付こうとしたんです」


855: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/05(木) 17:07:03.40 ID:5zJPOgVlo

 ともだちの相談をうまく使って、もういちど距離を縮められないかとか、なんとかして近づけないかとか。
 そんなことばかりずっと考えてたんです。
 どうせきみはわたしのことなんて好きにならないって分かってたのに、それでも諦めきれなくて、未練がましくつきまとってたんです。

 そのうち何かの拍子で、きみが、きみ自身の気持ちと折り合いをつけて、こっちを向いてくれるんじゃないかなぁとか。
 そういう、都合のいいことばっかり考えてたんです。そういう人間なんです、わたしは。

 自分でもいやになるくらい、自分のことしか考えてないんです。

 そのくせわたしは、あの子みたいに、きみの気持ちを無視してまで付きまとうことなんてできない。
 だってわたしがわがままを言えば、――これは自惚れかもしれないけど――きみが悲しむことになるかもしれないと思ったから。
 でも結局、そっちだって中途半端なんです。けっきょく、言わずにはいられなかった。今みたいに。

「好きですよ」

 と彼女は言った。

「……“どうして”かは、分からないです。自分でもおかしいって思うけど。理由がどうしても必要だったら、今度考えてみます」

 彼女は顔をあげた。視線はこちらを向かなかった。俺は彼女の表情を見る。
 何ひとつ、彼女の考えていることが分からなかった。言葉にすべてを押し付けて、表情はからっぽになってしまったようだった。


856: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/05(木) 17:07:58.87 ID:5zJPOgVlo

「でも、これでおしまいです」

 と彼女は言った。影をひそめていた恐れが、俺の心を支配する。
 
“おしまい”なのだ。

「ごめんなさい。ずっと黙っていられたら、平気な顔をして、応援できたらよかったんだけど」

 ごめんなさい、と彼女は言った。
 
「もう行きますね。今日はごめんなさい」

 彼女は立ち上がった。俺は立ち尽くす。ゆっくりと、彼女が俺の横を通り過ぎていく。
 俺は振りむこうとした。でも振り向けなかった。
 
 虫が良すぎたのだ。
 何もかも失わないままでいたいなんて。


857: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/05(木) 17:08:31.13 ID:5zJPOgVlo

 ふと、頬にふれた雪の冷たさに、はっとした。
 気付けばあたりは暗くなっている。夜が来た。もうそんなにも時間が経っていたのだ。

 どうしよう、と俺は考える。
 でも、よく考えずともどうしようもないことがわかった。

 幼馴染には何も言えない。何を言えるだろう。実際、彼女の言う通りなのだ。
 俺には彼女より好きな人物がいる。

 それだけで俺は彼女に対して何も言えなくなってしまう。
 
 家に帰ろう、と俺は思った。とにかく今日は眠ってしまいたかった。
 アキがいるのではないかと危惧したが、家の傍までもどっても気配はない。今日は帰ったのだろう。
 どうして今日、家に来たりしたのだろう。連絡も寄越さずに。唐突に。
 
 俺は疲れ切った。家に帰って、妹の顔が見たかった。
 たぶんそれは現実逃避だ。俺は何も考えたくない。

 将来のこととか、自分のこととか、自分が何を望んでいるかとか、ぜんぶ考えたくない。
 保留にしたまま過ごしていたいのだ。保留のままでは満足できなかったくせに。


858: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/05(木) 17:08:57.48 ID:5zJPOgVlo

 家の扉には鍵がかかっていた。持ち歩いていた鍵をつかって扉を開ける。
 玄関に妹の靴はない。出かけているのだと俺は思った。

 リビングのテーブルの上に書置きがある。
 友達と会う。遅くなるかもしれない。そのようなことが書かれている。

 俺はカレンダーを見て今日の日付を確認してから、ああ、イブだったのかと思った。

 それから冷蔵庫をあけて飲み物を探した。でも、何もなかった。
 仕方ないので水を飲むことにする。いまの俺には相応だろう。この程度のものが。

 俺はいまひとりぼっちだった。誰も傍にはいない。それもやはり相応だ。
 どうせゴミのように生きてゴミのように死ぬしかない。

 知らないふりをして、なんともないふりをして、普通のふりをして、まともなふりをして、過ごすことはもうできない。
 俺は妹に何も言えない。彼女のことを考えるなら何も言うべきじゃない。

 俺の気持ちは彼女を不幸にしかしない。少なくともそう思える。
 たしかに義理だが、それがいったい何の慰めになるというのだ。モスの言葉は気休めにしかならない。


859: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/05(木) 17:09:51.25 ID:5zJPOgVlo

 彼女は俺を好きになったりしないだろう。こんな馬鹿でマヌケでゴミみたいな人間を。
 どうしようもなく逃げてばかりの人間を。

 そのことを期待するのは愚かだ。だから口を噤んでいた。

 俺はどうしようもなく恐れている。現状が壊れてしまうことをとにかく恐れている。
 それと同時に、壊れることを望んでもいる。アンビバレンスな感情。

 もうおしまいだ。時間切れだ。
 俺もまた、疲れたのだ。これから先は機械のように生きればいい。

 呼吸をするだけだ。難しいことは何も考えなくていい。

 さっきから自分のことばかり考えている、とふと思った。
 ――いや、最初からずっとそうだったのかも知れない。

 だってそうじゃないか? と俺は自問した。
 他にどうしようがあるっていうんだ? たとえば誰もが納得できるような話になりえるのか?
 
 ありえない。誰にとっても爽快な終わりなんて。最初からそういう類の話なのだ。
 最初から、そういう種類の人間なのだ、俺は。


860: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/05(木) 17:10:19.15 ID:5zJPOgVlo

 階段を昇って自室に戻る。ベッドに体を投げ出す。身体が熱い。それとも空気が冷たいのか。
 俺は枕に顔を押し付ける。枕は俺の友だちだ。何も考えないようにしてくれる。

 そして俺はばかばかしいような気持ちになった。枕はものだ。

 妹が出かけるなんて話は聞いてなかった。突然予定が入ったのだろうか。
 ……イブの日に?
 まさか。じゃあ、あのあと予定を入れたのか。
 
 なぜ? 

 そして俺は考えるのをやめた。もう妹のことを考えるのはやめよう。忘れよう。諦めよう。
 受け入れよう。この現実を。相応だ。こんなもんだ。これが俺という人間だ。


861: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/05(木) 17:10:46.19 ID:5zJPOgVlo

 ――不意に、部屋の空気が切り替わった気がした。

 怪訝に思う。何が起こったのだろう。突然、さっきまでとはまったく違う空気になった。
 静寂に耳鳴りが起こる。予兆のような気配。
 
 いまさら何が起こるっていうんだろう?

 不意に、携帯電話が鳴り響いた。着信音。アキか、と俺は思う。違う、と直感が言う。

 俺は電話に出る。

「もしもし?」と俺は言う。

「どうだった?」とモスが言った。


872: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/06(金) 16:35:37.19 ID:EKbxSuz2o

「どうだった、って、何の話?」

 俺の言葉に、モスは面食らったような声をあげた。

「何の、って、会ってみなかったのか?」

「……えっと」

「……何かあったのか?」

 ああ、そうだ。今朝、彼からの電話で俺は幼馴染と会うことにしたのだっけ。 
 すっかり頭から抜け落ちていた。今日という一日が長すぎた。

「うまく説明できない」

 言って、溜め息をつく。なんだかなぁ、という気持ちだった。
 どうしてモスは、俺と普通に会話してくれるんだろう。


873: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/06(金) 16:36:03.78 ID:EKbxSuz2o

「そっか」

 と彼は頷く。

「もう駄目かもしれない」

 俺は言った。泣き出したいような気持だった。
 なんだかすごく疲れているし、心細いし、不安だった。
 どれもこれも身から出た錆なのだけれど、それでも俺は怖かった。

「なにもかも上手くいかない。なんとなく、ぜんぶ、折り合えない。もう無理だ」

「また落ち込んでるのか」

 彼は呆れた声を出す。
 俺は聞こえない振りをして言った。

「みんな俺から離れていくんだ」


874: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/06(金) 16:36:29.52 ID:EKbxSuz2o

「そんなことはねーよ」

 とモスは言った。

「そんなことはない」

 染み入るような声だった。モスがそういうんなら、そうなのかもしれない。
 彼の言葉にはそういうところがいる。
 
 誰とでも自然と話ができて、素直に笑えて、素直に怒る。
 モスの人間性。俺とは真逆の。

「で、何があったんだよ」

 彼は言った。肝心なところで、彼は話を曖昧にごまかそうとはしない。
 それは責任感なのかもしれない。
 
 よりにもよって今朝、俺をけしかけてしまったことに対する。

 クリスマスイブ。
 幼馴染は俺の電話をどんな気持ちで受け取ったのだろう。
 

875: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/06(金) 16:36:55.89 ID:EKbxSuz2o

 俺はゆっくりと説明を始めた。今日起こったことのすべて。
 でも話してみれば話してみるほど、起こったことは実に単純なことばかりに思えた。

 モスは黙って俺の話を聞いていた。聞けば聞くほど黙り込んでいった。

 そして俺の話を聞き終えると、

「で、お前はどうしたいんだ?」

 と言った。

 俺は戸惑う。

「どうしたいって、俺にどうできるって言うんだよ」

 俺は拗ねたように言う。まさか、中学の時にアキにしたことを、幼馴染に対して繰り返せと言いたいわけではないだろう。

「どうできるかなんてどうでもいいだろ。まず、お前がどうしたいかだ」

 俺にはそのことがどうでもいいこととは思えなかったけれど、仕方なく考えた。


876: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/06(金) 16:37:31.76 ID:EKbxSuz2o

 俺がしたいこと。
 俺が望むこと。

 それを考えるのはとても難しいことだ。宇宙の外側を考えるのと似ている。  

「妹さんと、どうにかなりたいのか」

 それもある。

「それとも、昔馴染みの女の子と、曖昧な関係のままでいたいのか」

 それもある。

 ……あほか。と俺は思う。
 実に単純な話だ。宇宙の外側なんて大規模なもんでもない。

 ただの我がままだ。


877: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/06(金) 16:38:18.40 ID:EKbxSuz2o

 都合の良すぎる話だ。
 幼馴染は俺が好きだとはっきり言った。そして俺には他に好きな相手がいる。
 にもかかわらず、「ごめんなさい、これからも仲の良い友人同士でいましょう」だなんて。
 そんな都合のいい話があるわけがない。

 彼女が言った通り、幼馴染と俺の関係はもう「おしまい」なのだ。

「彼女は、諦めてないんだと思うぞ」

 モスは不意に言った。俺は怪訝に思う。

「何の話?」

「本当に諦めるんなら、いまさらお前に本心を告げたりするか?」

「……けじめをつけたかっただけじゃないのか」

「気持ちなんて、自分のなかでどうにでも折り合いをつけられるもんだろ」

「人によるんじゃない?」

「そうかもしれないけど」

 俺は溜め息をつく。モスの言葉”憶測”だ。

878: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/06(金) 16:39:39.74 ID:EKbxSuz2o

「じゃあ、どうしてお前に見つかるような場所に逃げたんだ?」

 そりゃ、あいつだって、あんなところに逃げたら、俺が居場所をつきとめられると知っていただろうけど。

「……だから、話をしたかったのかもしれない」

「じゃあ、どうして逃げたりするんだよ」

 それは、そうだけど。でも、そもそもそういう状況じゃなかった。
 冷静で論理的な判断ができるような状況じゃなかったのだ、俺も彼女も。

 多少おかしな行動をしても、不思議はない。
 
「そういう、混乱した、咄嗟の状況で、お前に見つけられるような場所に逃げたってことはさ」

 モスの言葉は、あくまでも推測だったけれど、

「本当は、見つけてほしかったんじゃないのか」

 俺は、なんだか悲しい気持ちになった。


879: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/06(金) 16:40:42.63 ID:EKbxSuz2o

「追いかけてほしくて逃げたって言いたいの? 見つけてほしくて隠れたって?」

「あるだろ、そういう気分のとき。誰にだって」

 こいつにもあるんだろうか。俺はあるけど。

「これでお前が何も言わなかったら、彼女はきっと本当に諦めるだろうけど、まだ期待してるんじゃないか」

「期待?」

「期待」

 どんな期待がありえるんだ? 彼女は、俺の抱いている気持ちにとっくに気付いているのだろう。 その相手にも。
 だからひとりで勝手に完結して、ひとりで勝手に諦めたのだ。

 ……いや、そうか?

 彼女にとって問題だったのは、むしろ、彼女自身の言葉を信じるなら、

"嫌われているかもしれない"という部分ではなかったっけ?
 

880: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/06(金) 16:41:58.78 ID:EKbxSuz2o

 ……何を混乱しているのだ、俺は。だからといって、彼女の言葉に対して俺が何も言い返せないのは変わりない。
 でも、どうなんだ。

 これは身勝手な感情だろう。無神経だし、自分本位だ。
 でも、腹が立つ。
 
 アキという人間がバカなことを言ったことも、たしかにあるだろう。俺の態度だって一因にはなったはずだ。
 だからといって。

 嫌われているかもとか、勝手な推測で避けはじめて、今だって勝手に自己完結して、勝手に納得した顔をして。

 そりゃ、俺だって上手に話せていないとは思っていた。あの頃、話すたびに彼女の態度がこわばっていったのは、よく分かっていた。
 だからといって。

 怖くて話せなかったとか。
 それでも諦めきれなかったとか。
 
 彼女が問題にしている部分がそこなのだとしたら、俺ははっきりと言ってやりたい。
 それを今になって言うことはすごく身勝手で自己満足的なのだけれど。

 俺はお前のことを嫌ってなんかいないんだと。
 怖がったり不安になったりして避ける必要なんてぜんぜんないんだと。

881: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/06(金) 16:42:24.84 ID:EKbxSuz2o

「……いずれにしても、今が正念場だよ、少年」

 モスは言う。お前も少年だろ、という言葉は飲み込んだ。
 ……いや、少年という歳でもないか、もう。

「ここで一個でも間違うと、アキのことみたいに、いつまでも鬱々と引きずることになるぞ。お前はそういう人間だ」

「……そうかもしれない」

 誰かに対して後ろめたさを抱いたうえで手に入る幸福は、結局のところ後ろめたいものでしかなくなる。
 だから俺はずっと躊躇っていたのだ。

 今だって一歩も進めなくなってしまいそうになってしまったのだ。

 本当の幸福は、周囲に認められたうえでしかありえない。たぶん。あるいはそうじゃないかもしれない。今ふと思っただけだ。


882: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/06(金) 16:42:52.23 ID:EKbxSuz2o

「モス、俺は」

 ふと、考えたことが口から出た。

「今まで逃げてたと思う?」

「思うよ。自覚なかった?」

「あったけど」

 あったんだけど。
 難しいのだ、逃げないことは。逃げていないと自分を騙すことはすごく簡単だから。

「ぜんぶにぜんぶ、納得のいく答えなんて出せない気がするんだ。だめかな?」

「いいんじゃねえの」とモスは言う。

「俺たち、まだ十代だぜ。結論を出すには早すぎるよ」

 彼の言葉は十代とは思えないほど老成している。
 俺は笑った。


901: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/08(日) 20:14:43.13 ID:EPAdG/kto

 少しだけ前向きな気分になる。気分は重たかったけれど、本当に少しだけ明るい。

 いいかげん覚悟を決めるときが来たのだろうと思う。
 自暴自棄に身を任せるのはなく、自分自身の判断と感情で、しっかりと進む方向を決める時期が。
 いつまでも壊れたコンパスをあてにしているわけにはいかない。

 諦めきれないから、ここまで俺はゴミみたいな生き方をする羽目になったのだ。
 諦めきれないくせに、諦めたふりをして自棄になったから、状況が一層混乱したのだ。

 いいかげん、それも終わりにしなければならない。

「モス、俺さ」

「なに?」

「お前がいてくれてよかったよ」

「はっ」

 と彼は笑い飛ばした。
 

902: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/08(日) 20:15:17.66 ID:EPAdG/kto

 とはいえ、すぐに何か行動を起こすのは困難だった。

 本当に幼馴染ともう一度話をしてみるべきなのか、それとももう口をきかないべきなのか、その判断はつかない。

 モスとの電話を切って、ベッドに転がり込む。
 そして少しだけ考え込んだ。

 考えることなんて、何かあるだろうか。
 俺にできることはいつだって同じだ。

 自分がどのような状況を望んでいるのかを認識して、そこをめざし行動すること。
 自分の現状が望ましいものならそれを維持できるよう苦心し、そうでないなら望ましいものに変化させようと努力すること。

 いつだって仕組みはおんなじだ。

 ときどき自分の望んでいることが分からなくなってしまったりするだけで、根本はやっぱり変わらない。

 当たり前のことだ。


903: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/08(日) 20:15:47.03 ID:EPAdG/kto

 瞼を閉じる。どうにも溜め息が出る。俺はこれまでに何人の人間を悲しませてきたのだろうかと考えた。
 どれだけの人間を苛立たせ、苦しませ、呆れさせ、軽蔑させ、失望させ、嫌われてきたのか。

 次に、どれだけの人間を楽しませ、喜ばせ、どれだけの人間に好かれてきたのかを考えてきた。
 どちらが多いかは自明のことだった。

 そして、自分にとって、そのどちらが重要であるかを考えた。

 俺はたくさんの人に軽蔑されるような人格をしている。たくさんの人間を失望させてきた。
 大勢の人間に嫌われてきたし、嫌われても仕方ないような人格だ。

 さんざん身近な人間を苦しませてきて、いまなお自分のことしか考えていない。
 
 世界中の人間に俺という人間についての評価を求めよう。お手元に○ボタンと×ボタンがある。
 好きな方を押してほしい。さあ、結果はどうなるか。

 大半の人間は押さない。彼らは俺という人間について何かを知りたがるほど暇ではない。
 押されるボタンは八割が×ボタンだ。俺は誰からも嫌われている。
 人気者には混じれなくて、嫌われ者にも混じれない。そういう人間性。


904: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/08(日) 20:16:13.48 ID:EPAdG/kto

 でもときどき、奇特なことに○ボタンを押してくれる人がいる。
 俺がどれだけ無神経で怠惰でアホでマヌケなことをやっても許してくれる人がいる。
 俺がどれだけ努力して結果を出しても認めてくれない人がいるように。

 ×を押した人間と○を押した人間の、どちらが俺にとって望ましいか。
 どちらが俺にとって優先すべきものであるか。

 自明なことだ。
 だからとっくに答えは決まっていた。

 俺は少し悩む。そして携帯を開いた。幼馴染に電話を掛ける。
 奴は出ない。何コールしても出る気配を見せない。
 十五分ほど経ってから、もう一度かけ直してみたが、出ない。ので、諦めた。

 着信履歴に俺の名前が残るだけでも十分だ。
 言葉が届かなくても、その事実はそれだけで意味を持つ。


905: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/08(日) 20:17:40.07 ID:EPAdG/kto

 さて、と俺は考える。頭は上手く回らない。

 こんなふうになってしまうだけの理由は、いくらでもある。幼馴染のことも妹のことも。
 ふたりとも、俺から離れてしまってもまったくおかしくない。
 俺のことを見はなして、嫌いになっても仕方ない。
 
 それはモスだってそうだし、タカヤだってそうだ。みんなそうだ。

 離れていく。
 で、だ。

 俺は離れたいのか、離れたくないのか。

 たぶんそこが重要なのだ。

 離れたいなら、都合がいい。みんないなくなってしまえばいい。誰とも会わずに生きればいい。
 そうやって日々を消化する。当たり前の日々を当たり前にこなす。それでもいい。別に。
 たぶんそうだ。別に不可能じゃない。前は失敗したけれど――本当に割り切ってしまえば、それはそうできる程度のものだ。


906: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/08(日) 20:18:14.54 ID:EPAdG/kto

 離れたくないなら、どうするのか。
 都合よく自分の周囲の人たちに、囲まれていたいと望むなら、結局、どうするのか。

 それはもう、未練がましくすがりつくしかないのだ。
 相手の心を弄んだり、相手の意思を誘導したりすることはできない。

 単に相手に伝えるしかない。伝達。対話。そうすることでしか不可能だ。

 相手に嫌がられても、結局そうするしかない。
 でも、どうしても無理で、修正不可能で、あきらかに手遅れだという話になったら、そのときはじめて諦めればいい。

 意思の尊重と言うのは沈黙によって遂行されるわけではない。
 自分と相手の両方が、自身の意思を互いに率直に伝えることでしか達成できない。


907: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/08(日) 20:18:40.35 ID:EPAdG/kto

 けれど、自分の意思をはっきりと表明することは困難だ。
 いつだってさまざまなしがらみが、言葉を縛り付けてくる。
 いつのまにかさまざまなものが、口を縫い付けている。

 だから混乱する。エラーが起こる。頻発する。
 
 ときどき回路が途切れるのだ。誰にも本音を言えなくなる。それでもなんとかなってしまう。
 それでときどき人が死ぬ。

 そういうふうに思う。考えただけ。思いつき。ホントかどうかは知らない。
 ところで俺はどうしてこんなことを考えているんだっけ? たぶん疲れているのだ。
 疲れているとどうでもいいことを考える。誰だってそうだ。
 
 リビングに降りてコーヒーを淹れ、椅子に座る。家中が静かだった。
 昔のことを思い出す。子供の時のこと。安らげなかった場所のこと。
 でもそれは昔の話なのだ。それも数字にすればごく短い期間の。
 
 だからどうというわけではなく、ただそれは過ぎてしまったことなのだ。

 問題は常に"今"のことだ。


908: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/08(日) 20:19:35.41 ID:EPAdG/kto

 急に眠気が襲ってくる。だからどうでもいいことを考えるのだ。
 でもしょうがない。うとうとしていると、頭の内側のスクリーンで奇妙な映像が流れ始める。夢だ。
 どうやら夢らしい。でも、細かなディティールが分からない。なぜだろう。

 たぶんまだ眠っていないからだ。そうか、なら寝ればいいんだ。俺は眠ろうとする。

 夢の中に入り込む。俺は子供だった俺を見下ろしている。
 今よりも暗い顔をしている。貧相なチビだなぁと俺は思った。今と大差ない。
 
 そばに小さな女の子がいる。どうやら手を引かれているらしい。女に手を引かれるなんてみっともないガキだ。
 そのチビにとって、目に映る大半のものは巨大だった。
 
 雲もポストも、ガラス製の灰皿も母親の手のひらも、坂道もアジサイも、家の扉も少女の手も、巨大だった。

 赤いマニキュア、煙草の火。

 チビは少女に手を引かれ、公園に入っていった。さびれた公園。なんにもない。
 ベンチと滑り台、雲梯とブランコ。シーソーにばね仕掛けの動物の乗り物。砂場に埋もれた瓶コーラの王冠。


909: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/08(日) 20:20:01.68 ID:EPAdG/kto

 そこに女の子がいる。ふたりめだ。

「今日も来たね」

 と彼女は言う。
 返事をしたのは、手を引いてきた女の子。

「うん」

 と彼女は元気に返事をする。チビの方は返事もやらない。

「今日は何して遊ぶ?」

 待っていた方が言う。

「なんでもいいよ」

 と、本当になんでもよさそうに、手を引いてきた方が言った。


910: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/08(日) 20:20:46.95 ID:EPAdG/kto

 待っていた方はしばらく考え込む。うーん。今日はどうしようか。ブランコはふたつしかない。シーソーはふたりのり。
 滑り台は……もう飽きた。動物の乗り物も。遊具はぜんぶだめ。ぜんめつだ。
 
 砂場で何かをつくって遊ぼうか。いや、うーん。……まぁ、いいか。なんでもいい。

「じゃあ、おままごとにしよう」

 と待っていた方が言う。

 手を引いてきた方は首をかしげた。チビは何にも興味がなさそう。

「おままごと?」

「おままごと?」

 女同士だけで、会話が成立している。彼女たちは意味もなく笑いあう。チビはアジサイの上を舞うモンシロチョウを目で追っていた。

「じゃあ、わたしがお嫁さん」

 と、待っていた方が言う。

「きみが、だんなさま」


911: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/08(日) 20:21:18.38 ID:EPAdG/kto

 指をさされたチビは、面食らってのけぞる。
 手を引いてきた方が、つないだままの手をぶらぶら揺すって不平をあらわにした。

「じゃあわたしは?」

「……赤ちゃん」

「いや!」

 と首を振る。つないだままの手をぶんぶん振り回した。チビは痛かったが、何も言わなかった。

「じゃあ、だんなさま?」

「……いや! お嫁さんがいい」

「うーん」

 待っていた方は腕を組んで考え込む。
 やがて名案が浮かんだとばかりに手を打ち鳴らし、満面の笑みでこう言った。


912: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/08(日) 20:21:58.57 ID:EPAdG/kto

「じゃあ、ふたりともお嫁さんでいいね」

「……ふたりとも、お嫁さん?」

「うん」

 手を引いていた方は、「どうなのかなぁ」という顔をしていたが、結局頷いた。
 ふたりはチビに目を向ける。

 チビはここに来てようやく口を開いた。

「そんなの、おかしいよ」

 と彼は言う。待っていた方が怒ったように言う。

「おかしくないよ!」

 黙っておけばいいものを、チビは反論した。

「おかしいよ。そんなの。お嫁さんは、ひとりだけだよ」

「誰が決めたの?」

 女の子は駄々をこねる。


913: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/08(日) 20:22:30.14 ID:EPAdG/kto

「誰って、そうなってるんだよ」

「だから、そうなってるって、誰が決めたの?」

 チビは黙る。そんなのは彼だって知らなかった。でもそうなってるのだ。そういうことになってる。

「じゃあ、わたしも決める。ふたりともお嫁さんでいいって。それでいいよね?」

 待っていた方が手を引いた方に同意を求める。気圧されたように。手を引いた方が頷いた。
 待っていた方は頷き返す。

「ほら、いいって。じゃあ、きまり!」

 決まったようだった。チビは呆れて溜め息をつく。
 でも、だって、そんなの“いびつ”だ。上手く行きっこない。
 たかだか遊びで、何をそんなに真剣になっているんだろうとチビは思う。
 それでも考えてしまう。

 そのことが原因で自分の身に起こったことを、曖昧ながらも理解していたからだろう。 
 蛙の子は蛙。
 

914: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/08(日) 20:23:34.07 ID:EPAdG/kto

 とはいえ。

「それじゃ、だんなさま。ごはんにしますか? それともお風呂になさいますか?」

「……どうして“けいご”なの?」

「お嫁さんは、だんなさまには“けいご”なんです」

 女の子たちは楽しそうにしていたので、まあいいのかもしれないとチビは思った。
 そしてたぶん、俺たちは過去の地続きに生きている。

 待っていた方のうさんくさい敬語を聞き流しながら、手を引いてきた方の顔を覗き見る。

 モンシロチョウが彼女の周囲を舞う。
 楽しそうに笑っている。
 
 でも、これは所詮夢なのだ。あくまでも。
 夢が終わる。 
 俺の意識は真っ暗で無時間的な場所に沈んでいく。
 夢の余韻に浸ったまま、静かに眠りたい。



924: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/10(火) 15:28:21.90 ID:frJK78Ono

 目がさめる。
 
 背中に何かが乗せられる。振り向いた。

「わ」

 妹がいる。
 急に振り返ったせいか、面食らった顔をしていた。

「おと」

 彼女は驚いて手に持っていた毛布を床に落とした。
 何かを言うより先に、まず安堵した。なぜか。
 
 黙ったままでいると、彼女は気まずげに視線を落とした。


925: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/10(火) 15:28:49.41 ID:frJK78Ono

「おかえり」

「……ただいま」

「どこ行ってたの?」

「友達と会ってきた」

「あ、そう」

 俺はなんと答えるべきか迷って、結局何も言わなかった。
 妹はぽつりと言う。

「今日は帰ってこないと思ってた」

「なんで?」

「……なんとなく」


926: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/10(火) 15:29:15.92 ID:frJK78Ono

 ……いや、「なんで」も何も。
 イブの日にふたりで会うって言ったら、そういう話になる、のか?
 少し突飛と言う気もするが、詳しい説明は省いていたような気がするし。

 いや、やっぱり突飛だろう。

「なにかあった?」

 と妹は言う。

「お前こそ、いきなり出かけて何かあったのか」

「……べつに。こんな日にひとりで家にいたくなかっただけ」

 俺はもうちょっとこいつのことを考えてやるべきなのだろう。
 

927: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/10(火) 15:29:42.49 ID:frJK78Ono

「……落ち込んでる?」

 どうして分かってしまうのか。
 言うまでもなく、俺が分かりやすいのだろうけど。
 さんざんこれまで取り繕ってきて、疲れ切って、隠すのをやめたせいもあるのだろうけど。

 折れそうになる。

「ビビってんの」

 と俺は答えた。妹は首をかしげる。

「何の話?」

「べつに。なんというかね、どうにかしなきゃと思っても、どうすればいいか分からないんだよ」

 妹は「ふうん」という顔をした。



928: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/10(火) 15:30:16.44 ID:frJK78Ono

 俺は少し気まずい。

「ねえ、不誠実なのと無責任なのだったら、どっちがマシだと思う?」

「……さあ?」

 俺はダイニングテーブルに置きっぱなしにされていたマグカップの中を覗く。
 すっかり冷え切ったコーヒー。時計を見るが、そんなに時間は経っていなかった。

「コーヒー飲む?」

「ケーキ食べたい」
 
 会話が成立していない。

「買いに行くか」

 と俺は立ち上がる。とはいえ近場にケーキ屋なんてないし、あっても閉まっているだろう。
 だからコンビニだ。売れ残ってるかどうか、微妙に不安はあるのだが。


929: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/10(火) 15:31:06.92 ID:frJK78Ono

 上着を羽織って家を出る。妹は何も言わずについてきた。
 
 夜道を歩く。ぼんやり。ふたりで。なんだかひどく現実味がない。

 こんなことをしていていいのだろうか。
 俺にはもっと考えなければならないことや、やらなければならないことがある気がする。
 それもたくさん。具体的には思い出せないけれど、そういうものが確かにあった気がするのだ。

 コンビニには先輩がいた。彼女のうしろには茶髪がいる。
 俺は隠れようかと思ったが、その前に先輩に見つかった。

「どうしたの、デート?」

 彼女のからかいに俺は、

「まさか」

 と返す。その返事は、少し真剣すぎたかもしれない。

「ていうか、先輩、イブに弟と一緒って」

「そっちだって妹と一緒じゃん」

 まぁそうなのだが。


930: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/10(火) 15:31:33.10 ID:frJK78Ono

 茶髪は俺に何も言ってこなかった。アキから何も聞いていないのかもしれない。
 というより、聞いていないだろう。おそらく。

 コンビニの店内は、時間のせいもあるのだろうが、結構混み合っていた。
 男女の客は少しだけで、同性同士の集まりの方が多いらしい。

「なんか考え事してんの?」

 先輩にまで言われる。そんなに分かりやすいのか。それとも疲れてるのか。
 正直言って、もともとこういう人間なのだけれど。誰かと一緒に居ても、ずっと何か別のことを考えているような。
 最近、やたら見透かされる。

 良い傾向なのか、悪い傾向なのか。

「ま、あんまり悩みない方がいいよ」
 
 そこで彼女はにやりと笑って、

「イブなんだからね」

 からかうようにささやいた。


931: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/10(火) 15:32:10.17 ID:frJK78Ono

 デザート用の棚には二個入りのショートケーキがおいてあった。
 チョコレートケーキとチーズケーキもあったのだが、こういうのは雰囲気先行だろう。

 他にも何かを買おうかと思ったが、気分が乗らなかったし、妹も何も言わなかった。
 店を早々に出て、家路につく。

 妹は俺の左隣を歩いている。ぼんやり空を見上げると、妙に星がくっきり見えた。

 今日あたり世界が終わるのかもしれない。
 そういうことを大真面目に考える。

「兄さん」

 と妹が言う。

「荷物、右手で持って」

「はあ?」

「いいから」

 従う。

「んしょ」

 と、彼女が俺の手を取った。

「……ああ?」

 混乱した。


932: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/10(火) 15:33:16.01 ID:frJK78Ono

「……なぜ手を繋ぐ」

「気にしないで。別に理由はないから」

 と、彼女はいつもより弾んだ声で言う。
 俺は戸惑う。

 こんなことをしていていいのだろうか。
 俺はもっと考えなければならないことがあるのだ。
 幼馴染のことだって、ちゃんと話をして、何かの結論を出したいと思っている。
 
 それなのに、こんなことをしていていいのか?

 ……思いつつも、悪い気はそんなにしなかったので、振りほどく気にはなれない。
 結局俺は不誠実な人間なのだ。

 手の感触は冷たかった。それは徐々に俺の体温を奪っていく。
 静かに温度が均されていく。こわばっていた手のひらの感触が、溶けるように変化していく。

 何をやっているんだ。俺は。


933: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/10(火) 15:34:02.37 ID:frJK78Ono

「兄さん」
 
 と彼女は言う。
 不安そうな顔をしている。何故そんな顔をするのか、俺には分からない。

「あの人と、付き合うの?」

「……お前な」

 俺は溜め息をつく。
 ついてから、考える。

 どうなんだ?
 俺はあいつとどうなりたいんだ?

「付き合うといいよ。きっと、普通にうまくいくと思うよ」

「そうかい」

 俺は自棄になったような気持ちで返事をした。俺は不快そうな顔をしているだろうか。
 今日だってまったくと言っていいほど意思疎通がままならなかったのだが。あれで上手くいくというのか。
 よりにもよってこいつに、そんなことを言われたくはない。

934: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/10(火) 15:34:33.31 ID:frJK78Ono

 不意に妹の手のひらから力が抜けて、離れていきそうになった。俺は咄嗟にそれを握る。
 妹は驚いたようにこちらを見上げた。俺は視線を逸らす。

 何をやってるんだ。

「なんで握るの?」

「なんで離すんだ?」

 堂々巡り。

「繋いでる方が変だよ」

「そうだけど」

 そうなんだけど。
 

935: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/10(火) 15:35:00.62 ID:frJK78Ono

 言葉が途切れる。俺は手を放した。
 妹は何かを言いたげにしていたが、そのまま手を下ろしてぶらぶらと揺する。

 公園を通り過ぎるとき、不意に何かの気配を感じた。物音。
 
 妙に気になって、追いかける。
 よくよく考えたら、こんな日のこんな時間に、変な場所に入り込むべきではなかったのだけれど。
 まぁ、気になったもんはしょうがない。

 ベンチの近くに動く影があった。最初はなんだか分からなかったが、よく見ると犬らしい。
 犬。

「……あれ、この犬」

「予知犬だ、予知犬」

 変な呼び方だった。よちいぬ。

「飼い主はどうしたんだろう」

「近くにいるんじゃない?」

 こんな時間に?


936: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/10(火) 15:35:33.84 ID:frJK78Ono

 俺はしゃがみこんで犬の頭を撫でた。いったいどうしてこんなところにいるのか知らないが、寒くはないのか。

 犬は俺の頬をぺろりと舐めた。ざらついた舌の感触。

「なんだ、こいつは」

「また占ってもらう?」

「何を?」

「なんか」

 なんだそれは。

 どうでもいいや、未来とか。
 俺は立ち上がって、服の肩で頬をぬぐった。

 犬は俺の足に頭をこすりつけてくる。

「なつかれてるね」

「なんでだろう」

 動物に好かれるタイプではないのだが。


937: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/10(火) 15:36:00.07 ID:frJK78Ono

 しばらくすると飽きてしまったのか、犬は公園を走り去ってしまった。
 俺は溜め息をついてベンチに腰を下ろす。

「なんだったんだろう」

 妹が呟く。俺は肩をすくめた。
 今日はいろいろなことがあって疲れた。一日で三日分くらい動いた。
 もう眠い。

 ぼんやり空を見上げると、やっぱり星がきれいだ。異様に。なんでだろう。
 なんでだろうもなにも、別に何か理由があるわけではないんだろうけど。

 俺は立ち上がろうとして、妹が俺の目の前に立っていることに気付いた。

「なに?」

 訊ねると、彼女は息苦しいような顔をする。

「……なに?」

 その表情に切迫したものを感じて、俺はもう一度訊ねる。


938: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/10(火) 15:36:44.31 ID:frJK78Ono

「ごめんね」

 と彼女は謝った。

「なにが」

 と訊ねようとしたが、できなかった。
 塞がれた。

 口。

 俺の頭は一瞬で機能停止したけれど、不思議と何が起こったのかははっきりとわかった。
 ゼロ距離にある顔だとか、咄嗟に吸い込んだ鼻からの息にまぎれこんだ匂いとか、そういうものは後から気付いたもので。
 まず最初に、状況を理解していた。

 ふたたび正常な距離感を取り戻す。俺は自分の呼吸が止まっていたことに気付いた。
 妹は視線を下ろしている。叱られる前の子供みたいな顔。 
 泣き出しそうな目をしていた。

「……なんでキスした」

 何を言えばいいかわからず、まぬけなことを言ってしまう。


939: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/10(火) 15:37:12.02 ID:frJK78Ono

 妹は取り繕うように言った。

「だから、ごめんねって言ったでしょ」

「いや、そういう話じゃない」

 ていうかあれは予告だったのか。
 本当に、何の言い訳にもなってない。

「いいでしょべつに!」

 と妹は怒鳴った。

 俺は気圧される。
 気圧されて、思う。

 逆ギレだよこれ。
 よくねーよ。ぜんぜんよくねーよ。



940: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/10(火) 15:37:47.22 ID:frJK78Ono

「兄さんが悪い!」

「……なぜ俺」

「兄さんが、えっと……なんだろう」

 考えてから喋りましょう。

「兄さんが胸をさわったりするから悪い!」

 それは確かに悪かったけど。
 なんなのだこの状況は。
 唐突すぎて意味が分からない。

 意味が分からない。


941: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/10(火) 15:38:14.41 ID:frJK78Ono

「わたしを混乱させてばっかりの兄さんが悪い!」

「……待て。心当たりがない」

 本当にない。

「思わせぶりなことばっかりいって、期待させたり、そのくせ妙なところで距離をおきたがったり」

 それはそのまんま、俺が彼女に感じていた印象と同じだった。
 が、なぜ今、ここでこうなる?

「意味がわかんない」

 俺にも分からない。

「……何言ってるの、わたし」

 俺にも分からない。
  
「なんかもうやだ。泣きそう」

 だから、なんで。
 もう意味が分からない。本当に。なにこの状況。


942: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/10(火) 15:38:40.34 ID:frJK78Ono

「もうやだ! 帰る!」

 なかば叫ぶようにして、妹は公園から出て行った。その姿がさっきの犬にダブる。
 ……まさかこの姿を予知していたわけではないだろうと思いたい。

「おい、ケーキどうするんだよ!」

 俺が状況にあっていない疑問を投げかけると、妹は少し悩んだように唸って、

「冷蔵庫いれといて!」

 大声で返事をした。
 公園にひとり残された俺は、とりあえずベンチから立ち上がる。

 なんていう日だ。
 不意に出た溜め息が、白く染まって立ちのぼる。
 
 どうすりゃいいんだ、これは。


957: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/12(木) 16:01:11.40 ID:00tcio17o

 家に戻ると、妹は自分の部屋に閉じこもっているようだった。
 
「おーい」

 と声を掛けると、

「ほっといて!」

 と声が帰ってくる。無視されない分、いつかよりはマシだと言えるのだが。

 仕方ないので放っておく。俺はケーキを冷蔵庫に突っ込んで自室に戻った。
 机に置きっぱなしだった携帯を開くと着信があった。

 アキ。
 無視する。かけ直す理由がない。


958: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/12(木) 16:01:49.62 ID:00tcio17o

 俺は何かを考えようとして、やめた。
 妹の考えていることはさっぱり分からない。……などと言っていられる状況ではない。
 考えなくても分かる。というと自惚れめいて聞こえるが。

 どうも、奴は俺のことを好きなのではないか。
 という想像をして赤面。なんだその発想は。薄ら寒い。

 よくよく考えるのだ、どうせからかわれているだけだ。
 ……からかうだけであんなことをするような妹だとは思いたくないわけだが。
 
 いやしかし、あの年のおなごは何をしでかすか分からないことがある(おなごて)。

「うーむ」

 結局考えている自分自身に気付き、溜め息をつく。


959: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/12(木) 16:02:15.81 ID:00tcio17o

 さて、と俺は考える。
 ここにきて、気付かざるを得ない。
 どうも俺が問題にしていたのは、彼女の意思なんかじゃなかったらしい。

 たとえばここで、俺が妹の部屋のドアを叩いて。
「お前が好きだ!」と叫んだら、それで話が終わるのか。

 なんとも言い難い話だ。
 それじゃ足りない。どう考えても。
 
 何が、かは分からないけれど、それじゃ全然足りないのだ。

 それにしても、どうしてこのタイミングで、幼馴染の顔が頭をよぎったりするんだろう?


960: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/12(木) 16:02:54.95 ID:00tcio17o

 少なくとも、幼馴染との関係をどうにかしてからでないと、他のことをどうこうする気にはなれない。 
 でも、幼馴染との関係を修復したうえで他のこと――妹とのことをどうこうするなんて、できるのか。
 もっと言えば、いいかげん、自覚してもいい頃だろう。自分の不誠実さを。

 考えているとわけがわからなくなってきたので、もう一度妹の部屋のドアを叩いた。

「もしもし」

「ほっといてってば!」

「ほっとけるかよ!」

 と俺は口先だけで聞こえのいいことを言った。妹は息を呑んだようだった。
 ……その場の勢いだけの言葉だったのだが。

「さっきまで、ほっといたくせに」

 どうやら感心されたわけではないらしい。


961: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/12(木) 16:03:23.54 ID:00tcio17o

「何の話か分からないな」

「あなたの耳は飾りですか」

「高性能なんだよ。都合の悪いことは勝手に聞き流してくれんの」

 扉越しに、妹の溜め息が聞こえた。

「なんでこんな人を好きになったんだろう」

「聞こえるように言うなよ、二重の意味で」

 俺は割と戸惑う。

「……なあ、俺のこと好きなの?」

 と俺は言った。我ながらアホみたいな台詞だった。


962: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/12(木) 16:04:03.28 ID:00tcio17o

 妹は今度こそ息を呑んだようだった。

「……いや」

「あ、違うんだ」

「というわけでもなく」

「え、どっち?」

「……うるさいばーか!」

 ……えー。

「仮に好きだとしたらなんだっていうの! なんか迷惑でも掛かるの! ほっといて!」

 支離滅裂という言葉は、おそらくこういう状況に向けて使われるのだろう。


963: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/12(木) 16:04:33.57 ID:00tcio17o

「……迷惑は、掛かるかもしれないけど」

 妹はつぶやく。
 ヒートアップしたと思うと、急に落着きを取り戻したり、妙に不安そうな声を出したり。
 こんなに極端な感情の変化を見せる奴だったか。

 ……いや、そういう奴だったけど。
 最近じゃ、珍しい。

「でも、ほっといて。もう、あとは大丈夫だから。もう知らないふり、できるから」

「……どういう意味?」

「今日が終わったらいつも通りにするから。もう動揺したりしないから」


964: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/12(木) 16:04:59.35 ID:00tcio17o

 どうせ、と妹はつぶやく。

「どうやったって、上手くいきっこないんだから」

 俺は戸惑う。何をどういえばいいのか分からない。
 問題は、当人同士の意思なんかじゃない。らしい。

 その言葉に、じくりと胸が痛んだ。

“あなたはね、どうせ――”

“あんたなんて、どうせ――”

 頭に響いたアキの声が、誰かのものとダブる。
 気付かないふりをした。

“どうせ……”

 今日の夕方きいた、幼馴染の声。
 
 どうせ、どうせ、どうせ。

“どうせ俺は嫌われものだよ”

 ――耳鳴り。


965: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/12(木) 16:05:25.77 ID:00tcio17o

 俺は、根本的に、自分という人間に対して信頼を置いていないのではないか。
 
 だからこんなふうになるのではないか。

 どんなことだって、上手くいかない可能性なんてある。
 条件の悪さを、努力をしない理由にすることはできない。
 
 でも、俺は諦めている。あらかじめ諦めている。
 それこそあらゆることを。

 軽蔑を恐れて口を噤んだ。
 でも、もうやめるべきなのかもしれない。
 いいかげん。

「俺はさ」


966: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/12(木) 16:05:51.56 ID:00tcio17o

 口を開く。震えている。でもそんなのは当たり前のことなのだ。
 当たり前のことを恐れて、逃げていると、そのうちいろいろなしっぺ返しを食らう。
 今日のように。

「お前が好きだよ」

 と言った。
 それを聴いて、妹が何を思うのかは知らない。

「でも」と続ける。
 この言葉も、彼女の感情に何かの変化をくわえるだろう。

「お前と今すぐどうこうなろうとは、思えないんだ。ぜんぜん、思えない」

「それは、わたしを女として見れないってこと?」

 妹の声も、震えている。俺の声の震えは反対にとれていく。


967: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/12(木) 16:06:23.10 ID:00tcio17o

「違う。そうじゃない。俺にとってお前は妹であると同時に女だから、見れないとか、どっちが先とか、ないんだ」

「どういう意味?」

「聞かない方がいい。けっこうすごいこと考えてるから」

「……なにそれ」

「とにかく感情の問題じゃないんだ。俺はさ」

「……うん」

「経済的に自立できてないから」

「……」

 妹は一拍おいて、

「はあ?」

 と声を裏返した。


968: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/12(木) 16:06:59.38 ID:00tcio17o

 
「今のままじゃお前と一緒になったところで、ダメになるだけだって思う」

「一緒になるって」

 妹は戸惑うように言った。

「準備ができてない。まったく」

「準備って……ねえ、兄さん。兄さんの頭の中はいったいどうなってるの?」
 
 その言い方だと、俺の頭がおかしいみたいだ。
 ……いや、おかしいのか。うん。おかしいのだ。

「だからだ。俺が大人になって、経済的に自立して、妹ひとりくらい抱え込んでも大丈夫なくらい成長するまで待ってくれ」

「……あのさ、本当に、何を言っているの。というか、そういう台詞って絶対、立場が逆」

「逆?」

「こっちが、わたしが大人になるまで待っててって言う方でしょう」

「少女マンガでもあるまいし」

「……腹立つ、この人」


969: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/12(木) 16:07:27.43 ID:00tcio17o

 妹は少し苛立ったような声をあげた。

「ていうか、誰も兄さんに甲斐性なんて期待してない!」

「……ひどいこと言うなよ。心が折れたらどうするんだよ」

「とっくに屈折しきってるじゃん」

 そりゃそうなんだけど。

「意味わかんない。好きだっていったり、今は駄目だって言ったり」

「結構シンプルだと思うんだけど」

「……どこか?」

 妹は鼻白んだように言う。


970: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/12(木) 16:08:08.01 ID:00tcio17o

「……いや、シンプルだったんだよ。で、だ」

「……“で”、って、なに?」

「ずっとこれまで、そんなことを考えていてだ。だからってそんなもん待ってられるかという気持ちもあってだな」

「……うん」

「何も言わずに大人になって、誰かのものになるくらいだったら、いっそ今のうちに押し倒してしまおうかとか」

「……なにいってんの」

 さすがに呆れた様子だった。

「そんなふうに考えていたわけだ、俺は」
 
 これで軽蔑されたところで仕方ない。妹は何も言わなかった。

「……のだが」

「“だが”? だがって、なに。まだ何かあるの?」

 妹は疲れ切ったように言う。


971: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/12(木) 16:08:33.74 ID:00tcio17o

「まともに生きることに対してのあこがれも、ないではない」

「まとも、って?」

「普通に生きること」

「……それは、たとえば、あの人と付き合って、ごく平凡な恋愛をしたり、ということ?」

「ということ」

 俺は正直に言った。

「世間と折り合いなんてつけてたまるか、という気持ちもあるし、どうにか折り合ってやっていきたい、という気持ちもある」

 妹は返事をしない。結局、そのあたりは俺の感情の問題でしかない。
 誰かに無条件で嫌われるような選択を取るのが怖い。
 見ず知らずの人間に軽蔑されるような生き方を選ぶのが怖い。

 ……もちろん、そんなのは被害妄想なのかもしれないけど。


972: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/12(木) 16:08:59.95 ID:00tcio17o

「で、だ」

「まだあるの?」

「まだある。ここから先が、割と大事な話」

 俺は覚悟を決める。

「あいついるじゃん、あいつ」

「……あいつって、あの」

「そう、あいつ」

「内縁の妻気取りでいつも敬語の人?」

「……いや、まあ敬語であってるけど」

 内縁の妻気取りって。

「俺な、あいつのことも好きかもしれん」

「……」

 世界が静止した。


973: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/12(木) 16:09:44.19 ID:00tcio17o

 一瞬後、

「は」

 妹は息を漏らし、
 
「は、あああ?」

 と心底信じられないことを訊いたような声をあげた。

「え、ちょっとまって。意味が分からない」

「うん。まぁそうな」

 そりゃそうなるんだけど。

「待って。“も”って何? ちょっと予想外だった。“も”ってなに?」

「だから、お前も、あいつも」

「意味が分からない」

 俺もよく分かっていない。


974: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/12(木) 16:10:13.49 ID:00tcio17o

「……意味が分からない」

 二回言った。

「怒ってる?」

「呆れてる。逆の立場ならどういう気持ち?」

「死にたくなるね」

「……考えてよ、ちょっとは」

 拗ねたように妹は言った。

「仕方ないんだ。お前と一緒になるためなら、世間体なんてどうでもいいやって思ってたから」

「……すごいこと言ってるけど、それで?」

「世の中になんて折り合わなくてもいいやって思ってたら、二股もありかなって」

「最っ低」

「うん」

 自覚は割とあるが、何の救いにもならない。


975: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/12(木) 16:10:59.70 ID:00tcio17o

「なにそれ」

 ……いや、うん。
 しかたない。とりあえず今は、それが正直な気持ちなのだ。
 それを踏まえた上でどうにかしないと、俺はまた沈んでしまう。

「だから、今は無理なんだって」

「……なにそれ」

 また二回言った。

「だって、お前嫌だろ、そんなの」

「それ、どういう意味?」

「だから、そういう無茶苦茶で曖昧なのは」

「……うーん」
 
 俺は、幼馴染にあんな顔をさせたまま、自分の願望をどうこうしたいなんて思わない。
 何をしても彼女の顔が頭をよぎるようになってしまうだろう。

 そんなことじゃダメなのだ。


976: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/12(木) 16:11:25.94 ID:00tcio17o

「別に嫌じゃないかも」

「……ああ?」

「いや、うん。もともと、そういう関係だったような、気がする」

「……何の話?」

「だって、あの人でしょ?」

 あの人、と他人事のような言葉で言いつつも、妹の言葉は幼馴染に心を許しているように聞こえる。

「もともとわたしとあの人は、兄さんを共有してたところがあるから」

「共有って、なんすか」

 いつの間に俺をシェアしていたというのか。


977: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/12(木) 16:12:00.75 ID:00tcio17o

「そりゃ、兄さんが他の女の人にも手を出すって言うならいやだけど」

 すっかり恋人みたいな言い草だ。……俺が言うことじゃないか。

「でも、べつにあの人なら……仕方ない」

「仕方ないって何?」

「というか、納得もいくというか」

 話が想定外の方向に転がり始めた。

「ていうか、あのさ」

「なに?」

「いいかげん、部屋に入ってもいい?」

「……恥ずかしいからだめ」

 なんとも。


978: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/12(木) 16:13:00.34 ID:00tcio17o

「まぁ、あの人の方の気持ちもあるけど」

『わたしとしては一向にかまわないんだけどね』とでも言いたげだった。
 
「お前、ホントにそれでいいの?」

「……だって、折り合わないんでしょ?」

「……いや、ううん。もうちょっとがんばれば、あるいは」

「嫌だよ。折り合いすぎてわたしが兄さんと一緒にいられなくなるかもしれないし」

「だからって、無理だろ、さすがに」

 将来的なことも考えて。あるいは現実問題として。
 二股なんて。……現実にしている奴は結構いそうだけど。



979: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/12(木) 16:13:28.90 ID:00tcio17o

「じゃあ、今は保留でいいじゃん」

 と妹は言った。

「……なにが」

「今すぐじゃなくても、いいじゃん。別に。兄さんはじっくり選ぶといいよ。上から目線で」

「……なにそれ」

「だってわたしは妹だもん」

 妹は少し拗ねたように言った。

「その気になれば、一生だって付きまとえるんだ」

 怖いことを言う奴だ。
 引き伸ばしていいのか。そんな都合のいい話でいいのか。
 
「だって、兄さんにはまだ甲斐性がないから。どうせ今すぐにどうこうになんてなれないよ」

「……割と傷つくことを言うね」

 また『どうせ』って言った。正しいけど。
 俺は溜め息をつく。



980: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/12(木) 16:14:10.63 ID:00tcio17o

「ねえ、兄さん。わたしは兄さんがどんな選択をしようと受け入れてあげる。わたしを選ばないとき以外は」

 ……それ、受け入れてないじゃん。「どんな選択でも」じゃないじゃん。
 つまり、仮に二股しようが許す、って言ってるのか?
 どうなんだそれ。俺が反対の立場だったら、絶対に受け入れられないだろう。
 こんなに、俺にとって都合がよく話が進んでいいのか?

 世間になんて折り合わない。
 他人の目なんて気にしない。
 そこはそれでいい。迷いはあるけど、そうすることが許されるなら。

 俺が優先するのは常に、世間体なんかより、笑顔でいてほしい人の気持ちだけなのだ。
 それ以外なんて別になくたってかまわないのだ。
 だからこそ、よく考えなくてはならないんだけれど。


981: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/07/12(木) 16:14:50.78 ID:00tcio17o

 彼女の言葉を訊いていると、考えるのをやめてしまいたくなる。
 もう甘えていいんじゃないかという気がする。

 世間体なんて、守った方が生きていくために便利というだけだ。世間体のために生きているわけじゃない。

「……じゃあ、今は保留だ」

 と俺は言った。

「うん」

 と妹は頷く。心なし嬉しそうに聞こえるのはどうしてなのだろう。結論は、ひどく曖昧なものだと思うんだけれど。
 気分が高揚しているのは、相手の気持ちがわかったからか?
 
 いずれにせよ、俺にはまだ話さなくてはならない相手がいる。
 妹はああいったけれど、そんなにうまく話が運ぶわけがないのだ。
 幼馴染と話さないと、俺は他のことをどうにも動かせない。
 
 それは間違いなく俺のエゴなんだろう。



引用元: 妹「なぜ触ったし」