1: ◆2DegdJBwqI 2013/01/20(日) 22:34:53.15 ID:REujk/CF0
※とりあえず暫定的な諸注意

1これはアニメ「魔法少女まどか☆マギカ」と漫画「寄生獣」のクロスオーバーです。

そういった物が苦手な方は読まない方がいいです。


2寄生獣側の人間は登場しません。まどかマギカ主体です。

あくまでまどマギ世界にパラサイトが飛来してきたらという設定です。


3タイトル通り魔法少女ともえ☆マギカと言えるくらいマミさん中心です。

主人公はあくまでまどかじゃなきゃ嫌だという方も読まない方がいいです。


4かなり多くの本編で描写されてない所に関しての独自解釈を含みます。

(特にまどマギについて)

SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1358688893

3: ◆2DegdJBwqI 2013/01/20(日) 22:37:32.42 ID:REujk/CF0
~☆

ある日の夜の事だ。

「ソレ」は世界中に降り注いだ。

「ソレ」は生き物であった。

「ソレ」は明らかに異質な物であった。

当然「ソレ」についての疑問が生じる。

しかし我々は神ではないので、

どれほどたくさんの事を見聞きし知った所で必ず認識の範囲外となる未知の領域が存在する。

「ソレ」がどこから来たのか、

「ソレ」はどうしてやって来たのか、

そして「ソレ」はいったい何なのかという疑問もまたそれに当たるのかもしれない。

4: ◆2DegdJBwqI 2013/01/20(日) 22:41:07.69 ID:REujk/CF0
~☆

「ソレ」はさながら毛の生えたテニスボールのような形をしていた。

「ソレ」が地に落ちて暫くの後、ひとりでにパクンと割れ、

中から日常生活で見たことも聞いた事もないような姿をした生物が生まれ落ちた。

「それ」に我々が馴染みのある地球上の生物の中で

最も容貌が似ているのはミミズやヒルであろうが、

上半身の突起や頭部の先細り具合などは明らかに、

「それ」が全く別の構造を持つ生物である事を予感させるし、事実その通りだった。

「それ」が地べたをウネウネ這いずり回る様子には、

なんだかまるで猛毒を持った蛇を見かけてしまった時の様な不吉さがある。

5: ◆2DegdJBwqI 2013/01/20(日) 22:41:46.52 ID:REujk/CF0
全長約十五センチくらいと思われる「それ」は本能の赴くままに

あちこちを動き回り自分の「家」を探していた。

世界中に散らばった「それら」がそれぞれ現時点で理解している事は3つ。

このまま「家」が見つからないままだと自分は死んでしまう事。

死にたくないという自身の生物として自然な欲求。

それと自分がこれから住むべき「家」について。

「それら」は皆同じ行動原理に従い行動している。

しかし「それら」にも個体差、

そして時の運という物があり、次第にイレギュラーな事態が各地で発生した。

その中でも日本で起きた一つのイレギュラーは他に類を見ないほど特異であると言える。
 

305: ◆2DegdJBwqI 2013/03/04(月) 13:10:06.47 ID:Nxv0HKth0
 

~☆

世界各地に散らばっている「それ」の一つを日本で偶然見かけたのはなんと宇宙人であった。

ほとんどの地球人に知られる事なく潜伏している彼らはインキュベーターと総称される者達で、

地球ではキュゥべえと名乗り活動している。

キュゥべえの外見は一見するとまるで白い猫の珍種の様だ。

けれどもその両目は紅く大きなガラス玉の様で、全体的にその姿はどこか浮世離れしていて、

左右の耳から金色の輪がついたイカの触腕みたいな物が生えている事も考慮すると、

イメージとしてはむしろ動くぬいぐるみと表現した方がより適切だろう。

インキュベーターは人間がまだ洞穴の中で生活していた頃から人類に関わってきており、

人類の繁栄は彼らの起こす奇跡と共にあった。

彼らが起こす奇跡だってタダではない。そこにはきちんとした彼らの利益、目的がある。

彼らの目的は人間の持つ感情エネルギーである。

人類は彼らにとってあくまで自分たちには生成出来ないエネルギーを生産してくれる

便利なエネルギー源に過ぎなかった。

7: ◆2DegdJBwqI 2013/01/20(日) 22:44:29.32 ID:REujk/CF0
何かがエネルギー源としてより良い物とされるのは

それが生み出すエネルギー量とそれを生み出すまでにかかるエネルギー量の差故である。

となると必然感情エネルギーを採取するのにより適しているのは

様々なエネルギーを消費する前である子供という事になる。

インキュベーターはさらにその中で感情の起伏が激しく、

魂が不安定な思春期の少女をそのエネルギー源として選んだ。

彼女達は子供を作るという事にこれから関わる。

子供を作るという事はすなわちその際に胎内で子供の肉体と共に新たな魂を創造する事である。

思春期は女性のこの機能が身体的に成熟を迎える頃であり、

魂にとっても重要で最も不安定な時期となる。

つまりこの時期の女子は他のどんな人間より「作業」が簡単に済むのである。
 

246: ◆2DegdJBwqI 2013/02/05(火) 10:47:13.18 ID:WeZ607pF0
 

インキュベーターは彼女たちの願い事を一つ、

魂の変換の際にかかる感情エネルギーのロスを利用して叶え、

魂という実体として存在しない物を「ソウルジェム」と彼らが呼ぶ宝石に具現化させる。

魂が物質された事によりその振れ幅を示す感情は

現実に作用するエネルギーとして扱う事が出来るようになった。

新たに感情から産み出されるエネルギーが最も大きくなるのは、

定形化された魂が願いが叶ったという最高の希望の状態から深い絶望の底に突き落とされた場合だ。

インキュベーターは「契約」を交わし魂を固定化させた者の事を「魔法少女」、

その成れの果てを「魔女」と呼ぶ。

9: ◆2DegdJBwqI 2013/01/20(日) 22:49:07.53 ID:REujk/CF0
魔法少女という存在は願いという希望によって自身を固定化させる事で生まれた。

魔法少女が感情の動きなどにより生じる絶望エネルギーを

ゼロの状態からそのまま取り除く事なく溜めこんでいくと、

最後は「ジェム」がエネルギーに耐え切れなくなり、

魂の内に秘めたエネルギーを全て開放する。

その時に生まれたエネルギーを回収するのがインキュベーターであり、

その副産物が有り余るエネルギーの影響により彼女達の魂が変貌を遂げた魔女という化け物である。

これが地球でインキュベーターという宇宙人が行っている事のほぼ全容だ。

10: ◆2DegdJBwqI 2013/01/20(日) 22:52:24.58 ID:REujk/CF0
しかしそんな恐ろしい技術を用いる人間にとって未知の領域にいるインキュベーターですら、

「それ」が何なのかはわからなかった。

これは普通に考えてありえない事態であった。

何故ならインキュベーターはずっとずっと昔から全個体で記憶と意識の共有と保存を行っている。

いつも絶えず記憶共有を行っている訳ではないとはいえ、

一日で突然彼らの預かり知らぬこのような完全新種の生物が生まれるとは考えにくかった。

「それ」を見つめている一個体、

キュゥべえの頭の中にあるのは「これはいったい何だろう?」という疑問と関心だけである。

キュゥべえは地球上の生物が「それ」を見ることで感じるであろう

恐怖の前身である不快感の様な物を「それ」に対して感じていなかった。

11: ◆2DegdJBwqI 2013/01/20(日) 22:54:25.14 ID:REujk/CF0
このキュゥべえが何も特別なのではない。

彼らには感情が無かった。そして危機察知能力もなかった。

何故なら彼が死んだ所でスペアは幾らでもある。

そもそも死はキュゥべえ達それぞれにとって危機ではない。

あくまで彼らにとっては自分の命よりインキュベーター全体の利益が大切なのだ。

キュゥべえは考える。今はとりあえずこれが何なのかを把握しなければ。

もしこれが危険な生物でボクが殺されたとして、

他のキュゥべえが僕が死んだ事に気づいて僕の死体を回収。

それでこの生物の何らかのデータが取れればいい。

12: ◆2DegdJBwqI 2013/01/20(日) 22:54:52.38 ID:REujk/CF0
そう思いそれの存在を星に報告するために

まずはサンプルとして目の前の「それ」を殺すことにした。

キュゥべえはのそりのそりと「それ」に近づく。

すると「それ」はいち早くキュウべえの動きから本能的に命の危機を察知し、

素早くキュゥべえの懐に飛び込みキュゥべえの額めがけて跳ね上がった。

至近距離で唐突に予想外の素早い動きを見せられては対処の仕様がない。

「それ」の細長い先端からいきなりニョキッと伸びたドリル状の物が

キュゥべえの額に突き刺さった。

18: ◆2DegdJBwqI 2013/01/21(月) 05:24:00.53 ID:E3GcEf2U0
~☆

「そんなにずっと同じ景色ばかり見ていて面白いかい?」

キュゥべえがキュゥべえに問いかけをしている。ちょっと珍しい光景であった。

「ああ、とても興味深いよ」

彼は先ほどからずっと道端で朝の街並みを眺め続けている。

そこにはせわしくなく通勤するサラリーマンに朝の学生といった毎日よく見られる騒がしい光景があるだけであった。

「そうかい。お楽しみの所を邪魔して悪いけどキミをこれから処分させて貰うよ。ボク達としては当然の判断だけどね」

彼にはその判断の理由が掴みかねた。

何故なら彼はもう本物のキュゥべえではないのだ。

「それはいったいどうしてだい?」

首をかしげる「キュゥべえ」であったがその動作はどこか白々しい。

それも当然のことである。なにしろまだ生まれて一日たっていないのだ。

19: ◆2DegdJBwqI 2013/01/21(月) 05:28:54.75 ID:E3GcEf2U0
「日付が変わるたびに行われている記憶と意識の交換にキミは参加しなかった。

それで様子を見に来て見れば

この至近距離でもボクの出している問いかけの信号にキミは答えようとしない。

つまりキミはどこかがおかしくなっているわけだ。

なら治すより処分したほうが早いし効率がいい」

その言葉と同時に今までどこにいたのか周りの物陰から何十匹ものキュゥべえが現れる。

しかし道行く人達は誰もその異常な光景に目を止めようとしない。いや、気付いてすらいない。

「なるほどあの信号はそういう意味だったんだね。ボクの勉強不足だ。……しかし困ったな」

キュゥべえ達が「キュゥべえ」に飛びかかる。

「初めての食事が一度にこんなにたくさんだと

いくら燃費のいい高性能な体だといっても壊れてしまうかもしれない」

「キュゥべえ」の顔がその中心から花の蕾が咲くように裂けた。

花の花弁に当たる部分には猛獣にすらついていないであろう鋭利な歯が付いている。

飛びかかって来た一匹のキュゥべえの頭をその「花」を閉じることで食いちぎった。

20: ◆2DegdJBwqI 2013/01/21(月) 05:35:20.90 ID:E3GcEf2U0
~☆

世界各地で何百人どころではない人間達がキュゥべえと同じように

「それ」に乗っ取られ本能のまま人を食らった。

しかし今のところ誰もその事実には気づいていない。

「キュゥべえ」はあくまで特殊なパターンであって、

「それ」の本能が「家」として指定していたのは人間であった。

そんな中、日本には「キュゥべえ」程ではないがまた別な形のイレギュラーがあった。

脳に寄生される事なく他の部位に寄生された人間が同じ市になんと二人。

見滝原市の「巴マミ」と「上条恭介」である。

41: ◆2DegdJBwqI 2013/01/22(火) 16:02:54.61 ID:2nwwcvPr0
~☆

巴マミは中学三年生の女の子、より正確に表現するなら魔法少女である。

現在彼女は親戚が所有しているマンションの一室で一人暮らしている。

彼女がその年頃の女の子としては明らかに不自然である一人暮らしをしている理由は、

細かい紆余曲折を省き単純に一言で言ってしまえば両親と死に別れた為だった。

数年前の事だ。

家族全員三人で車に乗っていた幸せなマミ達に無慈悲にも襲いかかったのは交通事故。

マミはその恐ろしい記憶をどうにか忘れようと必死で目をそ向け続けてきたので、

今となってはその事故が誰のせいで起きた物だったのかもう覚えていない。

もしかすると両親のどちらかがいい加減な運転をしていたのかもしれない。

あるいは他の車の不注意のせいかもしれないし違うかもしれない。

42: ◆2DegdJBwqI 2013/01/22(火) 16:13:02.78 ID:2nwwcvPr0
けれども今のマミにとって重要なのは、

それで両親が死んでしまった事とそれにより自分が魔法少女となった事だ。

マミの両親はその事故でどちらも即死していた。

しかしマミは一時だけでもしっかり意識を保つ事が出来る程度の怪我で済んでいた。

最もマミも明らかな致命傷を負っていたのでそれだけで幸運だったとは全く言えないが。

だがマミに突如過酷で不条理な試練を課した神様は、

その一方で彼女を完全に見捨ててはいなかった。

彼女はその時生まれて初めて感じた死への恐怖にただただ戦慄し、

どうにか自分の命を生き永らえさせてくれと神様に一心に願い続ける。

そこに偶然キュゥべえが通りかかった。

43: ◆2DegdJBwqI 2013/01/22(火) 16:13:37.50 ID:2nwwcvPr0
元々マミは生まれつき並の人よりかなり多い因果を背負っている。

キュゥべえが彼女に契約を持ちかけたのは至極当然の事であった。

因果はその人がどれだけ世界に影響し得るかの指標であり、

また同時に世界がその人にどれだけ干渉したがるかを示す。

因果を簡単に説明するなら

その人が生涯で起こせる事象の限界、可能性、才能という表現が最も適切かもしれない。

魔法少女の強さは魂をソウルジェム化する前の

因果量、願いの強さ、経験で培われた戦闘の勘とどれだけ上手く魔力をやりくり出来るかで決まる。

44: ◆2DegdJBwqI 2013/01/22(火) 16:16:55.41 ID:2nwwcvPr0
マミは自身の延命を心の底から願い契約する事で見滝原付近では敵なしの魔法少女となった。

そのためこの数年間を魔法少女という絶望に向かう事を求められ造られた

過酷な環境の中でどうにか生き延びる事が出来た。

しかし一方で契約時に両親を生き返らせる事を願わなかった事が

マミの人格形成に両親の死以上に深い影を落とした。

その時のマミには既に起きてしまった死を覆そうなどという発想はなく、

自分がそうなる事を回避しようとしていただけでまさに不可抗力と言わざる負えない。

だがそれは生きていく支えを突如失った

善良なマミの不安定になった自我を打ちのめすには十分過ぎた。

 
247: ◆2DegdJBwqI 2013/02/05(火) 10:49:15.70 ID:WeZ607pF0
 

人格的基盤を喪失した彼女は、思春期に求められるアイデンティティの確立に際して、

他者の承認を得る前にまずは自分の存在を容認する事が必要となった。

マミは自分の命の為だけに願い事を使ってしまった事を 

いくら悔やんでも悔やみきれない程後悔していたので、

自身が出来るだけ正しい存在になる事で

自分だけがおめおめ生き延びた事を正当化しようとした。

46: ◆2DegdJBwqI 2013/01/22(火) 16:19:37.56 ID:2nwwcvPr0
魔法少女は魔女という化け物、予定通りいけば彼女たちもいずれそうなるであろう存在を倒し、

彼らが落とす「グリーフシード」でソウルジェムを浄化しなくては生きていけない。

それは魔法少女達の無意識の領域にも否応なく刻みつけられている避ける事の叶わぬ現実だ。

しかしマミは魔女達が他の一般人に与える悪影響を少しでも減らすために、

狩る必要のない魔女それぞれ固有の手下である「使い魔」も見つけ次第殲滅し、

なおかつ無力な一般人達の為に学校から帰宅した後は毎日欠かさずパトロールをしている。

自分の事だけ考えるなら魔女だけを狙う方が効率が良いし、

それ以外に労力を注ぎ過ぎるといざ魔女との戦いの際に魔力不足に陥りやすくなる。

しかもたとえ使い魔との戦闘であっても、

それは万全の状態にも関わらず殺されてしまう魔法少女が時には居るほど危険なものなのだ。

しかしそのぎりぎりの状況こそがマミに自分が生きていてもいいんだという自信を与えた。

彼女は全ての人々が少しでも幸せになれる事を祈って毎日戦っている。

それは心からの思いでありそこに嘘偽りは無い。

47: ◆2DegdJBwqI 2013/01/22(火) 16:20:38.52 ID:2nwwcvPr0
だがたとえそうだとして、人間は自分という存在を介さずに他人を思いやる事は出来ない。

マミは誰かを助ける為に戦うのと同じくらい、

いやそれ以上に自らの為にいつも死に物狂いで戦っていた。

彼女が善をなすのはそれが自分にとって正しいと思われる行為であるからだし、

それは結局自分が自分として生きるために必要な事であった。

彼女は善い事をするために生きているのではない。

自分が生きるために善い事をしているのだ。

他人の幸せが自分の幸せ。

これを力強く感じる事の出来る才能を幸か不幸かマミは備えている。

たったこれだけのすぐれた魂の気質が彼女の血塗られた日常を支えていた。

48: ◆2DegdJBwqI 2013/01/22(火) 16:23:52.72 ID:2nwwcvPr0
~☆

マミが日課のパトロールを終えて帰宅した。

時刻は午後十時。疲れ切った体に鞭打ちしばし入浴。

お風呂上がりにこだわりの茶葉を使った紅茶とケーキを嗜む。

マミは家に帰るとどんな時間であってもすぐそれらの習慣を欠かさず行い、

その順番は変わる事がない。

入浴は自分の体にこびり付いている気がする「嫌な物」を清める為の物で、

ケーキと紅茶は学校から帰ると母親が欠かさず出してくれたという

状況を再現する事を目的としている。いわばこれらの二つの行為はマミにとって、

魔女の蔓延る異常空間から日常空間への復帰の儀式、あるいは験担ぎであった。

49: ◆2DegdJBwqI 2013/01/22(火) 16:25:18.83 ID:2nwwcvPr0
最も紅茶とケーキに関しては純粋に彼女がそう言った物が大好きで、

日頃のストレスの発散も兼ね一日のご褒美として食べているという面もある。

彼女はいつもこれから食べるケーキのカロりーを計算しては悩み、

結局紅茶に入れる砂糖の量を減らす事に落ち着く。

マミは砂糖の量すら楽しかったあの頃と出来るだけ変わらぬ様に心がけ、

自分からはそれを決して変えようとしない。

マミが一人で黙々とケーキを口に運んでいる。

フォークを扱うカチャカチャという音がやけに喧しく部屋に響いた。

50: ◆2DegdJBwqI 2013/01/22(火) 16:29:55.33 ID:2nwwcvPr0
~☆

マミが寝静まってからしばらく経った頃、部屋の外のベランダに「ソレ」は飛来した。

暫くしたら「それ」が這い出して来るだろう。

「それ」は蛇やミミズのような体の特性を生かし、

非常に狭い隙間からでも室内などに侵入する事が出来るが、

本日マミの家に侵入するのにそんな能力は何ら必要なかった。

窓が少し開いているのだ。マミは時折自分の部屋の夜の静けさに耐えられなくなる事がある。

そんな日は幾ら黙って目を瞑っていた所で眠りはやって来ない。

そういう時は部屋の窓をほんの少しだけ開けておく。

すると街の音が微かにだがマミの耳に届く様になる。

51: ◆2DegdJBwqI 2013/01/22(火) 16:33:55.00 ID:2nwwcvPr0
見滝原市は現在急速に発展を遂げている町だ。

夜が多少更けた所で、人々が出す何らかの音が自然とどこかから聞こえてくる。

たとえ朝が近づき町がひっそり静まり返ってしまったとしても問題はない。

この窓を開けるという行為はあくまでマミにとって所詮ある種の儀式に過ぎないのだ。

つまりマミは誰かと何らかの形で繋がっているという形が欲しくてたまらない。

閉じられた空間は彼女に嫌でも孤独という物を感じさせる。

それが彼女にとっては死ぬ事を除けば何よりも恐ろしい。

ふと突然風に揺られベランダの「ソレ」が少し動いた。

中から「それ」が顔を見せる様子はまだない。

しかし夜はまだまだこれからである。

61: ◆2DegdJBwqI 2013/01/23(水) 16:39:09.88 ID:9NuvTaCD0
~☆

「それ」が部屋への侵入を果たした。ズルリ、ズルリと「それ」が這う。

マミが目を覚ました。部屋の何らかしらの物音で思わず目を覚ましてしまうほど、

こういう眠れなかった日のマミの神経は張り詰めている。マミは咄嗟に泥棒が入って来たのだと思い、

素早い動きで侵入者の正体を確認しようと部屋の電気を付けに向かった。

電気をつけ辺りを見回すと目に映ったのはミミズの様な蛇の様な「それ」。

両者は互いをじっと観察している。

「それ」は鼻や耳から密かにマミの中に侵入する事を諦め、

堂々とマミの体に穴を開け直接侵入することにした。

62: ◆2DegdJBwqI 2013/01/23(水) 16:40:23.88 ID:9NuvTaCD0
「それ」が何の予備動作もなくマミの額を目がけて跳び上がる。

マミは自分に向かってくる「それ」を手などで払いのけようとする事なく、

「それ」が向かってきた方とは別方向に倒れるようにして身をかわした。

というよりは寝起き且つ突然の事態で頭がまだ上手く働いておらず、

慌てて避けようとして転んでしまった。

「それ」の方も壁にドリル状の先端が突き刺さってしまい、

マミに素早く追撃を仕掛ける事が出来ない。

マミは倒れる勢いそのままに顔をしこたま強く床に打ちつけた。

しかしそのまま動きを止める事なく、

出来るだけ「それ」のいるであろう場所から離れようと横にコロコロと転がる。

背中が壁にぶつかった。痛い。
 

63: ◆2DegdJBwqI 2013/01/23(水) 16:41:54.61 ID:9NuvTaCD0
マミの鼻から血が垂れている。目の前も多少チカチカしている。

だがマミはそんな些細な事は全く気にしていなかった。

マミの頭の中にあったのは「それ」の次の一撃である。

別にマミは先程の「それ」の一撃を予測していた訳でも運良くまぐれで避けられた訳でもない。

そこに動かぬまま居たら危険だと魔法少女として培ってきた戦闘の勘と経験が告げていた。

だからマミは素直にそれに従ったのである。

そしてその「本能」がマミに告げている。アレは危険な生物だと。

壁に背中を付け辺りを何度見回しても異常は「それ」が壁にあけた小さな穴しかない。

「それ」は部屋のどこかの物陰に潜んでいるのだ。

64: ◆2DegdJBwqI 2013/01/23(水) 16:43:49.28 ID:9NuvTaCD0
マミは眠る時はソウルジェムを指輪の形態ですら身につけようとしない。

理由は単純にアクセサリーを付けたまま眠るのが気持ち悪いというマミの嗜好であった。

しかし普段はそれ位の我儘をしても問題ない程度の実力をマミは備えている。

魔力に関連した物が近づいてくれば、

どんな微弱な物であれ事前に絶対に気づくのは明らかだったし、

一般人の強盗くらいなら変身しなくても組み伏せる程度の膂力を備えていた。

むしろ下手に変身してしまった方が後々面倒になる。

マミの体は、本人は気付いていないが魂と肉体の関係上

その動きにかなり多くの割合で魔力が関係している。

常日頃から魂の命令を身体に伝達する為に魔力がある一定以上身体をめぐっているのだ。

65: ◆2DegdJBwqI 2013/01/23(水) 16:45:20.94 ID:9NuvTaCD0
だが今日ばかりはその我儘が致命的と言えるほど裏目に出た。

つい自宅にいるという状況に気を抜いてしまっていたマミは、

寝る前にテーブルにソウルジェムを置きっぱなしでそのまま床に就いてしまっている。

運悪く今マミが背中を付けている壁はテーブルから一番離れた玄関に近い方の壁だ。

ソウルジェムがなくては変身も魔法を使う事も出来ない。

アレに武器無しで対処するのは絶対にまずい。

今すぐにこの状況をどうにかしなくては。マミのこの性急な判断が実に良くなかった。

壁から離れテーブルへ向かって歩を進めあと一歩という所までたどり着く。

しかしそれによって今まで考慮する必要のなかった死角が背後に出来あがる。

ズルッという不吉な音がした。音のした方に首を向けるがそこには何もない。

ようやくマミも事態の深刻さに気付いた。

66: ◆2DegdJBwqI 2013/01/23(水) 16:46:33.23 ID:9NuvTaCD0
これでは相手がどの角度から襲ってきてもおかしくない。

戦う為の武器がないという恐怖に冷静さを失ったマミは、

必死でソウルジェムを掴もうと最後の一歩を踏み出す。

「それ」も本能から、

テーブルの上に置いてある宝石をマミに触らせてはいけないという事を理解していた。

不意打ちは基本仕掛ける方が有利。

簡単にマミの右下側から懐に潜り込み顔めがけて跳ぶ。

マミの反応が一瞬遅れる。

体を左に捻りつつ後ろに仰け反りどうにか無理やりにでもその一撃をマミは避けようとした。

しかし無慈悲にもズブリとマミの身体に「それ」の先端が突き立つ。

「それ」が侵入した部位はマミの右胸部であった。

 

248: ◆2DegdJBwqI 2013/02/05(火) 10:54:06.38 ID:WeZ607pF0
 

~☆

胸の中を進み「それ」が頭を目指す。何者かに体内に侵入されたと理解したマミの行動は迅速だった。

ソウルジェムを掴み、変身はせずにリボンを出現させる。

そして自分の右胸部の根元をリボンでぎりぎりと痛みに構わず全力で締め上げた。

暫くすると徐々に痛みが無くなっていき、

胸の中で「それ」が蠢く感触も薄れていった。

それでもマミは少しも緊張を和らげる事なく縛り上げたリボンはそのままに魔法少女姿に変身する。

しかし何故か手が小刻みに震えてまともに武器を握れそうにない。

仕方がないのでマスケット銃を頭上に出現させ、

魔法により自身の右胸部に照準がきちんと合うよう空中で静止させた。

「はっ……。はっ……。は……」部屋中にマミの荒い息遣いが滲みる様に伝っていく。

マミはこのまま自分の胸を打ち抜いて良いものか悩んでいた。

この距離から発砲すればいくら威力を調整した所でただでは済まない。

マミはこれまで魔法少女としての戦闘で大きな怪我をした事がなかった。

89: ◆2DegdJBwqI 2013/01/25(金) 06:50:51.07 ID:uRCqeTNA0
一人で狩りをする者にとって、

たとえ後で治療可能であったとしても、

戦闘中に動きを鈍らせるほどの傷を負う事は時として死に直結する。

マミは優秀な魔法少女であった。

だがそれ故に自分の魔法がどこまで自身の怪我を治す事が出来るのかわからない。

マミは魔法少女の肉体が魂と分離されていて理論上いくらでも修復可能な事を知らなかった。

また、当たり前の事だがマミは人に向けて発砲した経験がない。

自身の魔法がどれほど人を破壊できる物なのかは直観的にわかる。

人体をどこまで傷つけずに済むのかがわからない。想像もつかない。

90: ◆2DegdJBwqI 2013/01/25(金) 06:53:23.42 ID:uRCqeTNA0
今はもう体の内に先程までの「それ」が上へ上へ登ろうとする恐ろしい感触はなかった。

それでもマミにはどうしても「それ」が今も自分の中を這いずり回っている様な気がしてしまう。

やはり「それ」に侵入された胸をこのままにしておく訳にいかない事に変わりはない。

でももう手遅れなのかもしれない。そんな考えがマミの脳裏を掠める。

「それ」の所在がわからぬ以上「それ」が人体の別の場所に移動していてもおかしくはない。

撃っても撃たなくても死ぬかもしれない。

必死で解決策を探るマミに単純な、しかし画期的な天啓が下る。

侵入された傷口から手を入れて探せばいい。

急いで自分の右胸部の下部分をまさぐるが異常が見当たらない。

そんな馬鹿な。あれは全て夢だったのだろうか?いや、そんなはずはない。

91: ◆2DegdJBwqI 2013/01/25(金) 06:53:53.02 ID:uRCqeTNA0
もうどうしたらいいのかどころか何が起きているのかすら判別がつかない。

マミに数年前の事故の時の恐怖が再び襲いかかる。

数々の死線を潜り抜けてきた今となってはその輪郭はかなりはっきりしていた。

軽いパニック状態に陥る。

「キュゥべえ……。パパ……。ママ……。佐倉さん……」

涙を流しながら親しい人の名前を呼び助けを求めようとする彼女の声に答える者は誰もいない。

92: ◆2DegdJBwqI 2013/01/25(金) 06:56:16.51 ID:uRCqeTNA0
~☆

彼女のソウルジェムが完全に絶望で黒く染まらずに済んだのは、

皮肉にも「それ」のおかげであった。

「それ」は生き物の体内に侵入する際に乗っ取りをスムーズに行う為に

強烈な痛み止めと睡眠作用のある物質を体内から分泌する。

マミの魂は体と分離されているが、どちらも完全に互いから独立して存在する訳ではない。

現在マミはぐっすり穏やかに眠っている。

部屋でしている物音はマミの規則正しい寝息のみ。

しかしこの室内で独自の自我を持ち思索に黙々と耽る者が居た。マミの『胸』である。

『胸』は自分の失敗を悔やんでいた。

まだ言語を獲得していない為その思考はわれわれより感覚的で抽象的だ。

しかし内容をわかりやすく要約してしまうと概ね次のようになる。

93: ◆2DegdJBwqI 2013/01/25(金) 06:59:02.27 ID:uRCqeTNA0
「失敗した……。

ここに定着してしまっては二度と体全体の動かし方を理解する事はできない。

口惜しい……。

口惜しい……。

しかも間違えて寄生してしまったのがよりによってこの部位だ。

腕や足ならまだ日常生活で必ず使う必要性がある以上、

宿主に私との共存を認めて貰う為の交渉材料に成り得る。

だがこんな生活する際に何の役にも立たない箇所に寄生してしまっては、

危険だと判断されればきっと即座にこの部位ごと取り除いてしまおうと宿主は考えるだろう。

その上この宿主の精神は今が彼女にとって異常な状況であるという事を差し引いても

どうも普段から多少不安定であるらしい。

94: ◆2DegdJBwqI 2013/01/25(金) 07:00:32.74 ID:uRCqeTNA0
私が宿主を殺す事は簡単だ。ここから心臓を一突きしてやればいい。

だがそれでは無意味だ。私は何が何でも生きていたい。まだ知らぬ様々な物を知りたい。

このまま互いの利益を衝突させてしまえばおそらく我々は長生き出来ない。

私が長い期間安定して生き延びる為に必要な事はなんだ?宿主と交渉する事だ。

その為には宿主の為に何をしてやれるのか、

この宿主と生きる事で私にどのようなメリットがあるのかをより明確にしなくてはならない。

最低明日一日は気付かれる事のないよう大人しくして居よう。

そして宿主の用いる情報伝達手段、周囲の環境、宿主の願望を観察し学習するのだ」




着々と夜が明けようとしていた。

110: ◆2DegdJBwqI 2013/01/26(土) 10:56:09.78 ID:KC1cgIKT0
~☆

上条恭介は絶望していた。上条は裕福な家庭で生まれ育った普通の中学二年生の男の子であった。

最もそれは魔法少女と比べての普通であって、

彼はいくつものコンクールで賞を貰い、

プロの音楽家としての将来を皆に期待されている天才ヴァイオリニスト、金の卵である。

しかし上条のヴァイオリニストとしての人生は奇跡でも起こらない限りもう期待できそうにない。

彼は左腕を自力で動かせなくなってしまったのだ。

その原因は交通事故。彼が交通事故に遭ったのは丁度数日前の事だ。両足を骨折し全身を強く打ち体全身にひびが入っている。

それだけで全治数カ月以上の大怪我であるが、左腕の方は二度とヴァイオリンが弾けるレベルにまで回復する事はない。

医者も十中八九上条の腕が治る事はないだろうと考えている。

けれど精神がまだ不安定な状態にある彼にその事を伝えるつもりはない。

111: ◆2DegdJBwqI 2013/01/26(土) 10:57:20.55 ID:KC1cgIKT0
上条がその事を知らないで居られるのはきっと幸せな事だろう。

ヴァイオリンは彼が自身の全てを注ぎ込んできた物だ。

だけれどそれを失う事は上条にとって

自分の才能を発揮できなくなるという事のみを意味するのではなかった。

今でこそ上条にとってかけがえの無いほど大切なヴァイオリンだが、

上条がヴァイオリンを弾き始めたのは親が弾かせたがったからでも

自分で弾いてみたいと思ったからでもない。

ただその音色でたった一人の心を動かしたかったのだ。

「恭介ー。今日も元気にしてたー?」

「やあさやか。今日は遅かったね」

彼の思い人、美樹さやかが病室の扉を開け入ってきた。

112: ◆2DegdJBwqI 2013/01/26(土) 10:58:57.31 ID:KC1cgIKT0
~☆

上条とさやかは俗に言う幼馴染という間柄である。

上条は小さい頃自分という存在に何ら価値を見いだせずにいた。

周囲の望めばなんでも与えられる贅沢な環境は彼にとって苦痛でしかなく、

両親の愛情、自身の肉体すらも当時の上条には煩わしい物でしかない。

物心つく前から彼の周囲にはあらゆる方面に優れた人達が居た。

そういった人達は彼の為に自ら何でもしようとしてくれたが、

それが上条の苦しみの始まりだった。

113: ◆2DegdJBwqI 2013/01/26(土) 11:00:24.09 ID:KC1cgIKT0
物心が付き始めた頃に一つの事件が起こる。

上条はふとした拍子に彼らの胸の底に自分に気に入られようとする醜い利己的な愛を見たのだ。

彼はその年の幼子としては不幸なほど他人の気持ちに対して聡明だった。

他者からの施しは親からの物ですら上条に将来彼が一角の人物になる事を期待していた。

上条には周囲の人がそこまで目をかけるほど自分が大した人物だと思えなかったし、

それに応えられる様になれるとも思えない。

彼には自分自身の存在そのものが既に不正であり恥ずべき物だった。

そしてそんな「紛い物」の区別も碌につかぬ周囲の者たちも哀れで取るに足らない物に思われた。

そんな自己卑下、他者卑下の意識は自然と彼に「外」への興味を喪失させていき、

彼を臆病で内向的に成長させていく。

いつまで経っても友人の一人すら作ろうとしない我が子の姿に見かねた両親が

古くからの友人の娘をなんとなく息子の友達にあてがった。それがさやかである。

114: ◆2DegdJBwqI 2013/01/26(土) 11:02:59.37 ID:KC1cgIKT0
~☆

選ばれた理由は何であれ、

確かにさやかは上条の心の病を取り除くには最も適したタイプの人間であったと言える。

初めて上条とさやかが出会った日の事だ。

さやかは上条を一発殴りつけた。

上条の厭世的で全ての物事を始める前からいちいち否定しようとする態度。

その年頃の子としては不快なほど理屈っぽい言い回しと、

まるで上から全てを俯瞰しているかの様なその態度。

他者は全て馬鹿者であるとでも言いたげな相手をせせら笑うそのうすら寒い態度。

その全てがさやかの癪に障った。

115: ◆2DegdJBwqI 2013/01/26(土) 11:03:39.46 ID:KC1cgIKT0
さやかは激怒した。

必ずかの無知蒙昧な馬鹿の目を覚ましてやらねばならぬと決意した。

さやかに理屈はわからぬ。さやかはただの元気な子供である。

毎日外で遊んでは服を汚して、すぐに服を駄目にしては親に叱られた。

けれども「楽しみ」については人一倍敏感であった。

彼女はこれ程「楽しみ」に充ち溢れている世界をはなから否定してかかる上条を許せなかった。

さやかの内にささやかながらも築かれていた哲学と言える物は、

世界は生きており、それはきっと面白い物だという彼女なりの経験に基づいた確信である。


116: ◆2DegdJBwqI 2013/01/26(土) 11:04:30.84 ID:KC1cgIKT0
上条はそれを侮辱する敵で、それは倒されなければならぬ悪だった。

だから殴った。間違いを犯しても痛くなければそれは治らぬ。

これも毎日の様に擦り傷をこさえる彼女なりの知恵だった。

その場で激怒したのはさやかだけではない。

目の前で息子を殴られた上条の両親達もであった。

さやかがそのまま詫びもせず黙って家に帰った後、彼らはさやかの両親に文句を言おうと考えた。

しかし上条がそれを止めさせた。上条はさやかが何か間違った事をしたとは微塵も思わなかった。

自分におべっかを使う周囲の連中に比べればさやかに殴られた事などてんで不快ではない。

むしろ自分が碌でもない存在だとはっきり且つすっきりした形で面と向かい言ってくれた気がした。自分の在り方を初めて別の誰かが否定してくれた。

何もかもが息苦しかった今までとは異なりどこか救われた心持ちがする。

機会があればまた彼女と会ってみたいな。その上条の願いは図らずもすぐ叶う事となった。

130: ◆2DegdJBwqI 2013/01/28(月) 20:02:46.11 ID:8calq0Oh0
~☆

次の日さやかが上条の家に一人訪ねて来た。

「家に何の御用ですか?」

冷やかに尋ねる上条の母親にさやかはただ一言こう答える。

「山」

131: ◆2DegdJBwqI 2013/01/28(月) 20:03:56.35 ID:8calq0Oh0
~☆

さやかが上条を連れ出し向かった先は山というよりは

どちらかというと丘と表現するのがふさわしい所だ。

そこは当時、後の急速な発展の兆しを既に見せつつあった見滝原に残された、

自然と直に触れ合える数少ないその近辺に住む子供達皆共有の遊び場であった。

そこでさやかは上条に色々な物を見せた。魚釣りに虫捕り、秘密基地に木登り、落とし穴などなど。

これを一日でやられては元々運動など大してしてこなかった上条にはたまったものではない。

それに見せられた内容も上条にとって別段興味引かれる物ではなかった。

しかしそういった活動を通じて彼の目を釘付けにさせた物が一つだけある。

美樹さやかだ。彼女はまず自らその何かで遊んで見せた。そして上条にやってみろと促す。

132: ◆2DegdJBwqI 2013/01/28(月) 20:06:27.48 ID:8calq0Oh0
上条は不思議で仕方がなかった。先日さやかが見せた敵意は紛れもなく本物だったはずだ。

それが今ではその相手と二人きりでしかもその状況を心から楽しんでいる。

さやかは遊びの達人であった。遊びに関するあらゆる技能もさることながら、

何もかもを貪欲に楽しもうとするその態度。

上条はさやかの人としての在り方に非常に強い関心を抱いた。

また上条にとってさやかと過ごす時間は信じ難いほど居心地が良かった。

さやかは上条にこうあれといった具体的なビジョンを要求しない。

ただ自然体で己に正直でいる事だけを求める。

上条がこれは余りにも面白くないと素直に言うとすぐさま別の遊びを提案するのだ。

彼女の前でだけは上条は無価値な自分であることを無条件に容認された。

ただ全てを自由にさやかと一緒に楽しみさえすればいい。

結局その日は上条にとって生涯この日の事を決して忘れはしないだろうと思わせるほど

面白い一日となった。

141: ◆2DegdJBwqI 2013/01/30(水) 12:20:45.30 ID:IgWQXZd20
~☆

それからほぼ毎日上条はさやかに連れられ色々な所で様々な遊びをした。

その中で多くのさやかの友達と接する機会もあったが、

上条が誰かに対して興味を示したのはあくまでもさやかにのみであった。

そんな有様な物だから一部の男の子達等からは上条の腰巾着などとからかわれる始末だ。

最も本人もさやかも彼らの言う事などこれっぽっちも気にしてはいなかったのだが。

ただしさやかがその様な誹りを受ける事は一度たりともなかった。

彼女はその近辺の子供達皆から一目置かれる存在だったのだ。

彼女は自分の気に食わない物に対しては誰であれ何であれ決して屈服する事なく向かって行った。

142: ◆2DegdJBwqI 2013/01/30(水) 12:24:10.40 ID:IgWQXZd20
上条と出会ってから数年の後、

「山」に数日出没した不審な男に猛然と向かっていった小学生時代のさやかの姿は、

それを見ていなかった子供たちの間ですら伝説に、

見滝原の母親達の間では

今も決して真似してはいけない良き反面教師として子供たちに話す小噺として浸透している。

当時彼女を暴れ馬やじゃじゃ馬などといった言葉で明らかな意図を持って侮辱すれば、

その者は後々自分の頬をさやかに殴り飛ばされる事を覚悟しなくてはならなかった。

むしろ上条が侮辱された際もおそらく上条本人が毎回止めに入らなければ、

言い出した者はその右頬を差し出さなくてはならなかっただろう。

それほどあちこちでお転婆としか言いようのない活動をしていた

幼いさやかがほとんどの子供達から疎まれる事なく、

むしろ積極的に受け入れられていたのには、

彼女が外交的で人と仲良くなる能力に優れていた事以外にも大きな理由があった。

143: ◆2DegdJBwqI 2013/01/30(水) 12:28:37.01 ID:IgWQXZd20
さやかがその拳を振るったのは自らの名誉を守る為の場合を除けば、

何時如何なる時も弱い者を守ろうとした時だけだったからである。

上条はさやかに強い憧れと共に、

決して上条が到達する事のないであろう境地に彼女が居る事に嫉妬していた。

さやかは誰か一人でも楽しんでいない者が居ると

自分も楽しくないという純粋なただそれだけの理由で困っている人達に手を差し伸べた。

上条にはそう易々と誰かの為に何か行動を起こす事はどうしても出来ない。

この人を助ける事にはどういう意味があるのか、

自分にそれは可能であるのかとつい考えてしまう。

もちろん幼い頃のさやかにだってそこまで厳格な正義感があった訳ではないし、

誰であっても助けようとするのはそれが結果自分にとって楽しい事に繋がっている事を

どこかで理解していた故の平等さだった。

144: ◆2DegdJBwqI 2013/01/30(水) 12:29:02.24 ID:IgWQXZd20
しかし周りの人間が何か見返りを求めて

自分に奉仕する姿をさんざん見せつけられていた上条にとっては、

さやかの見返りを求めぬ平等な奉仕の姿は一段と輝いて見えた。

この年代もしくはもう少し上の年齢の子供達は

よくカッコいい戦隊物などのヒーローに憧れるものだが、

上条は結局一度もそう言ったテレビなどから映し出されるヒーローなどには関心を示さなかった。

なにしろ上条にとってのヒーローは彼のすぐ傍にずっと居たのだ。

上条はさやかと日々接していくにつれ、

だんだんと彼女の施しを受けるばかりで

何も彼女に与える事の出来ない自分自身が恥ずかしくなっていった。

145: ◆2DegdJBwqI 2013/01/30(水) 12:33:15.32 ID:IgWQXZd20
けれどその感情は彼が他の者に今まで抱いた物とは質的な面で決定的に異なっている。

上条はさやかと釣り合う人間になりたかった。

さやかに自分の事を一人の人間として意識して貰いたかったのだ。

彼が自身のさやかへの思いが恋心であると気づくのはそう遠くない未来の話である。

それならばさやかにとっての上条はどういう存在だっただろうか?

さやかも上条の事を大切に思っていた。

さやかはロボットではない。

彼女が他者から見て毎日どれほど満ち足りた毎日を送っていたとして、

その生活に完全に満足しきっていなくともそれは仕方のない事だ。

人間の欲望は突き詰めればどこまでも際限がない。

146: ◆2DegdJBwqI 2013/01/30(水) 12:33:45.56 ID:IgWQXZd20
さやかにとって欠けていたピースはほんの些細な物で、

おそらく普通の人ならもっと早くに見切りをつけ諦めてしまうものだった。

さやかは常日頃自分自身に「正直」であることを己に要求し、

それを他者にも態度として求めた。

しかしそれを皆は平気で破っていく。

本当は楽しいと思っていないのに楽しいと口に出す者。

みんな仲良くなどと言いながら実は自分が集団の中で占めている位置を気にかけて居る者。

皆で遊んで居るはずなのに蓋を開けてみればそれぞれが自分勝手に自分なりの遊びを楽しんでいる。

147: ◆2DegdJBwqI 2013/01/30(水) 12:40:53.73 ID:IgWQXZd20
それには色々なタイプがあるが当時のさやかにはこれが全く理解できなかった。

わざと嘘をつく者ならまだ理解はできる。それは欺瞞だからだ。

明確な悪であり事実他の者達もそれには眉をひそめ顔をしかめる。

しかし彼らもまた同じように嘘をついて居るはずなのにそれには疑問を持たず

しかもそれを楽しんでいる。

これは悪ではないのかな?楽しみの中に陰る淀みの様なもの。

遊びは一人でしても面白くない。

こういった違和感を時々感じつつもさやかにはどうする事も出来ず、

頭のどこかに疑問符を浮かべながらもいつも通り遊ぶしかなかった。

そんなさやかの悩みを解決したのが上条との出会いだ。

148: ◆2DegdJBwqI 2013/01/30(水) 12:41:41.63 ID:IgWQXZd20
上条は面白くないと思う物に対してはきちんと面白くないと意見を述べたし、

何よりもさやかの目線で、さやかと「一緒に」遊ぼうとしてくれた。

さやかに対して何時でも「正直」に接してくれた。

本当はさやかも上条が彼女の提示する遊びをそれほど好むような性格でない事はわかっている。

それでもさやかは上条と遊びたいと思った。

彼が何を楽しんでくれているかはわからないが、

彼が自分と居る事を楽しんでくれているのは確かに感じられるし、

さやかも上条が楽しんでくれている姿を見るのが大好きだった。

二人で一緒に居る事さえ出来ればさやかは周りの全てを遊びに変える事が出来た。

さやかにとっての上条は、最初はただの「治すべき患者」で、

「楽しみ」という感情を忘れた彼にそれを思い出させる事さえ出来ればそれで十分。

それがまるっきり変わってしまったのはいったい何時の頃からだっただろうか?

149: ◆2DegdJBwqI 2013/01/30(水) 12:45:50.93 ID:IgWQXZd20
~☆

さやかと上条が初めて出会ってまだ一年目の事だ。

上条は日頃の感謝も込めてさやかの誕生日を祝う計画を彼女に知られぬようこっそり立てていた。

その頃の上条がさやかのおかげで少なくとも人並みに活発に、

言葉の節々の嫌みたらしさも抜け普通の子供らしくなった事もあり、

上条の両親もさやかに対して最初の険悪な態度はどこへやらひどく好意的で、

その企画にも喜んで協力した。

それはともかく重要なのはその日のプログラムは上条が全て考えた物で、

上条もさやかの事は既に熟知しているつもりで居るから彼女を心から喜ばせる自信があった事だ。

いつも通り上条の家を訪れたさやかは

心の底でプレゼントの一つや二つくらい貰えるかもしれないとちょっと期待していた。

150: ◆2DegdJBwqI 2013/01/30(水) 12:47:08.64 ID:IgWQXZd20
しかし実際上条に連れられ向かった先にあったのは

まるで豪華なパーティー会場と化したかの様な室内であった。

家の中に居るメンバーはいつもさやかが上条の家を訪れる時に見る物とほとんど変化はない。

明らかに一芸に秀でていますよと言わんばかりのが数人いるだけだ。

だが部屋の装飾と料理に関しては事情が違った。

割と見滝原内では庶民階級のさやかが見てもわかるくらいに

どう見ても一日で使う量ではない金額がかかっているのである。

それも当然の事であった。計画を立てたのは上条自身だったが、

心を込めて用意したのはあくまで彼の両親だ。

どう言い繕った所で余所の子供の為に用意するパーティーとしてはやり過ぎである。

彼らも又上条に初めての友達が出来て、

しかもその友達の誕生日を自分達の家で祝うという事態に舞い上がっていたのだ。

151: ◆2DegdJBwqI 2013/01/30(水) 12:48:05.43 ID:IgWQXZd20
誰が悪いか?と問われれば、

おそらく今まで友達も作らず親に心配させてきた上条が悪いという事になるだろう。

さやかは本当に自分の心臓が止まってしまったのではないかと疑問に思う程度にはびっくりした。

ここまでは上条の思惑通りである。

ただびっくりはしたのだが、

残念な事に彼女はこのサプライズを喜ぶより先に恐縮してしまった。

そして上条にこれはさやかの為に全て用意したのだと言われてしまった暁には

もう顔を強張らせるしかない。

せっかく今日の為に用意したのにさやかはあまり喜んでいないようだ。

上条のこの困惑とさやかへの申し訳なさが後の事件の印象を彼の内でさらに強める事となった。

161: ◆2DegdJBwqI 2013/01/31(木) 13:19:45.23 ID:C3RVk5n90
~☆

上条にはそれまで自分からこれが趣味と言える趣味は無かった。

何故なら上条の周りの物は全て誰かに与えられた物で自分で選んだ物ではなかったからだ。

しかしそういった物の中でも彼を格段と惹き付けた物が一つだけあった。音楽である。

幼い上条は音楽を他人から与えられた物の一つとして

特に他との感じの差を意識していなかった。

それでも上条には自分で聞こうとしなくても

家族に連れられコンサートに出向いたりと、素晴らしい音楽を聞く機会がいくらでもある。

そして今日この日の為に上条は色々聞いてきた中で

特に自身の琴線に触れた音楽をさやかに聞かせてあげようと、

両親に頼み込んでその演奏者に来て貰っていた。

162: ◆2DegdJBwqI 2013/01/31(木) 13:21:24.06 ID:C3RVk5n90
豊かな感受性を持つのは上条に限った事ではない。さやかも一緒である。

それまでは縮こまり細々と食事を摘まんでいたさやかであったが、

「彼」の演奏が始まると、

生まれてこの方聞いた事のない美しい音の調べに我を忘れじっと耳を傾けた。

この日最初にさやかを本当に楽しませたのは僕のサプライズじゃなくてこの演奏という訳か。

上条が今日初めて見たさやかの楽しげな表情を見て感じたのは、

さやかがやっと楽しんでくれた事への喜びでも

「彼」を選んだ自分の目利きへの誇らしさでも無い。

今日という特別な日にさやかにこれほど一個人として意識されている

「彼」への強烈な嫉妬であった。

163: ◆2DegdJBwqI 2013/01/31(木) 13:24:44.82 ID:C3RVk5n90
~☆

このさやかの誕生日に起きたちょっとした事件以来上条の生活は一変した。

丁度何か習い事を始めさせたがっていた両親を説得し、

ヴァイオリンを習い出した上条は毎日毎日一心不乱にヴァイオリンを弾き続けた。

どれほど長い時間弾き続けたとして苦ではなかった。

耳を澄まさなくたってじっとしているだけで頭の内に聞こえてくる「彼」のヴァイオリンの音色、

さやかの「彼」を見るあの呆けた馬鹿みたいな顔。

これらが上条が何もせずに居ると遮二無二演奏へと駆り立てる。

音楽に関して天賦の才能があった上条にはもう頭の中に

「彼」の奏でた音以上の音のビジョンがあった。

ただその為の技術がまるで足りない。体がついていかない。だから一日中弾き続けた。

164: ◆2DegdJBwqI 2013/01/31(木) 13:26:50.42 ID:C3RVk5n90
さやかに「彼」の様に認めて貰いたかった。

さやかには僕だけを見て居て欲しい。これが上条を突き動かした原動力だ。

上条にとって己が最も素晴らしいと感じる物、

己が最も高みへと上り詰める事が出来るであろう物、それが音楽でありヴァイオリンだった。

ただ当然の事ながら上条がヴァイオリンにのめり込めばのめり込むほど、

さやかと一緒に遊べる時間は激減して行く。

しかしさやかは周りの誰よりも全身全霊で一つの物に取り組む上条の姿に憧れ、

格好良いと感じた。

さやかは上条と遊べなくなると自然に他の同年代の女の子達と遊ぶようになっていった。

けれども二人の距離が離れれば離れるほど、かえって互いが互いを想い合い、

二人の絆をより強固な物へと作り変えて行ったのである。

165: ◆2DegdJBwqI 2013/01/31(木) 13:33:42.48 ID:C3RVk5n90
~☆

そして時は現在に戻る。上条は絶望していた。

さやかも上条もとっくにかつての彼らではなくなっている。

さやかは昔ほど無鉄砲でお転婆ではない活発で正義感溢れる普通の女の子だし、

上条もヴァイオリンを通じて自分に一定の価値を見出していた。

さやかの変化。それは他の皆と同じ様に物事の正しさだけではなく、

自分の利害も意識する存在になったという事である。

しかしいったいそれが上条の想いに何の影響を与え得るだろうか?

どれほどさやかが昔と変わってしまっていても、

彼女が依然優しさに満ちた素晴らしい勇敢な人間である事にはなんら変わりはないし、

かえって彼女が普通の人間に近づけば近づくほど、

上条にはさやかの優れた魂の気質がより眩しく見えた。

166: ◆2DegdJBwqI 2013/01/31(木) 13:34:45.74 ID:C3RVk5n90
上条にとって今やさやかは誰よりも何よりも自分よりも大切な存在である。

しかしだからこそ上条は彼女と対等で居なくてはならなかった。

彼がさやかと対等で居る為には絶対に欠かす事の出来ない物があった。ヴァイオリンだ。

さやかはきっとヴァイオリンを弾けなくなった上条も肯定するであろう。

しかしそれでは駄目なのだ。

さやかにだけは無様な生き恥を晒す訳にはいかない。

上条は連日祈り続ける。神でも悪魔でも何だって良い、どうか僕を助けてくれ。

ヴァイオリンが弾けなくなった僕は何を持ってさやかの隣を歩けばいいのだろう。

さやかだけは。さやかにだけは……。

そんなある日の夜の事だった。「ソレ」が飛来したのは。

175: ◆2DegdJBwqI 2013/02/01(金) 12:37:07.15 ID:nufPyhPk0
~☆

窓の隙間から侵入した「それ」は病室の床を這う。

そして難なく上条の耳から頭の中へ侵入する。

「それ」がいざ身体を乗っ取ろうとした時、深刻な問題が判明した。

「それ」は人間の身体を乗っとる際に一度体全体に「信号」を流して、

その反応によりこれから動かす身体の情報を得る。

しかし「それ」がいくら上条の身体に「信号」を流しても全く左手が反応しない。

「それ」の人間への寄生は完璧である。

宿主の身体が生命を維持するのに困難な状態に陥った際、

それから逃れるため違う安全な身体に移る必要に迫られれば、

違う人間の頭を切り落としてそこにすげ変わることも、

身体一つ丸ごと環境を変えた拒絶反応などが起こるにしても不可能な事ではない。

176: ◆2DegdJBwqI 2013/02/01(金) 12:42:16.42 ID:nufPyhPk0
ただそれは寄生が完全に成功した場合の話だ。

最初に人間の頭を掌握してしまえばそこから他の部位に移ることは容易である。

でも例えば他の部位で成熟してしまえばその他の複雑な部位の操り方は一生理解できない。

せいぜいそこより単純な部位に安全に移動できるくらいだ。

これと似た問題が上条の中で今まさに乗っ取ろうとしている「それ」と上条の間に起こっていた。

「それ」は身体に何か欠損を抱えた人間を動かすようには出来ていない。

このまま頭を掌握してしまえば必ず後々実際に身体を動かす時に

「それ」の意識と上条の肉体にどうしても齟齬が生じ上手く身体を動かせないだろう。

これは「それ」の生物的構造からくる問題で、

身体の操作が不慣れな為に起こる問題とは決定的に異なり

いくら訓練などを積んでも改善される事はない。

177: ◆2DegdJBwqI 2013/02/01(金) 12:46:13.08 ID:nufPyhPk0
まず上条を乗っ取ってから誰かほかの人間の身体に移るという選択肢もない。

一度ここで成熟してしまえば二度と左手を動かす感覚は理解できず、

結局問題は何一つ解決されないからだ。

今から他の人間を探しに行くという選択肢も駄目だ。

既に「信号」は出されてしまった。「信号」はあくまでそれが生まれて一度限りの物だ。

この身体をどうにかするしかない。そうなると「それ」に残された道は、

まずどれほど損傷しているかもわからぬ左腕に出向いてそこに定着してしまう前に全てを治療する。

そして脳まで戻りそこから脳を再度乗っ取る算段を整えるしかない。

「それ」が上条の腕を目指し、もぞもぞと上条の身体の中へ潜り込んで行く。

178: ◆2DegdJBwqI 2013/02/01(金) 12:48:37.07 ID:nufPyhPk0
~☆

翌日。上条は普段通り何の違和感もなく目を覚ました。

いつもと変わらない朝。変わってくれるはずもない朝。

上条は何とはなしに左腕を動かそうとして溜息をついた。

上条は左腕を足ほど重症ではないが骨折しギプスで固めていた状態だった。

この骨折のおかげで上条は自分の腕が治るという希望にすがって居られたのだ。

まさか指を動かす神経すらも駄目になっているとどうして上条が想像する事が出来ようか。

しかし少なくとも一日で動かせるようになるはずはない。

上条は自分が病人の身の上だという事を寝起きの極僅かな時間であれ忘れていた。

今日も憂鬱で何の変わり映えもしない一日が始まるに違いない。

朝の時点では上条にはそう思えたし、そう思わない理由がなかった。

179: ◆2DegdJBwqI 2013/02/01(金) 12:52:20.08 ID:nufPyhPk0
~☆

昼食を終え暫くが経った頃の事、

上条は自分の病室のベッドという安らぎの為に用意されたはずの場所に

腰かけながら精神的に荒れに荒れていた。

リハビリが全く上手くいかないのだ。今日も夕方になれば学校を終えたさやかが来るだろう。

今この状態で毎日さやかに会う事は上条にとってひたすら苦痛であった。

さやかの立場からしたら当然であったが彼女は上条をどうにか元気づけようと必死だった。

さやかは心の弱り切った上条を自らの手で寄り添い支えようとしていたが、

それは彼にとってさやかに自分がどこか下に見られているという事に他ならなかった。

誰かを助けようという発想は完全に自分より優れているか

それとも対等な関係にある人間に対しては起こるはずもない。

前者なら助けて貰う必要がないし、後者ならそれは助け合いという形で表れるはずだ。

180: ◆2DegdJBwqI 2013/02/01(金) 12:55:48.58 ID:nufPyhPk0
本来なら辛い時ほど支えとなってしかるべきはずのさやかの存在が、

心も身体も傷ついた上条をますます厳しく責め立てていた。

お前は価値の無い存在だと上条に告げていた。

状況はヴァイオリンを引き始める前よりなお悪い。

あの頃の上条はさやかを見上げていたにしても、決して憐れまれる様な事はなかったのだから。

ヴァイオリンを弾く事で今まで積み上げてきた上条のプライドはもうズタズタだ。

眼を閉じれば浮かんでくる。無理をして明るく振る舞うさやかの姿。

さやかのこちらを見る憐れむ様な表情が。

その表情が他の誰かの物なら誰であろうと気にはならなかった。

たとえゴミ虫を見るような視線を向けられ蔑まれ、

唾を吐きかけられたって構わない。だがさやかがこちらを見ている。

無価値な僕を肯定し優しく手を差し伸べようとする。それだけは絶対に許せない。

さやかだけは。

さやかにだけは……。

181: ◆2DegdJBwqI 2013/02/01(金) 12:59:00.73 ID:nufPyhPk0
「はっ……。はっ……。は……」

上条の荒い息遣いが病室に染み通る。上条は極度の興奮状態にあった。

脈拍、心拍数、血圧、上条のそういった身体の状態に関する物を今計測したとしたら

何もかもが異常な数値を示すだろう。

「動けよ……。僕の左腕……。動けよ…!」

なんだか念力で動かそうとでもしているが如き形相で目をぎゅっと瞑り、

動かし方も忘れてしまった左腕に力を込めようとする。

その時上条の身体全身にビリビリと電気が通ったような刺激が走った。

痛みともまた異なる感覚。おそらく痺れと表現するのが適切だろう。

思わず呻き声を上げ、感覚の出所はどこだと見遣るとそこは左腕であった。

182: ◆2DegdJBwqI 2013/02/01(金) 13:00:16.66 ID:nufPyhPk0
左腕には何の異常も見受けられない。まさにそれこそが異常であった。

上条にはどうも左腕が怪我をする前の状態に完全に戻っているようにしか思えない。

確かめるべく無我夢中でギプスを外そうとするが、

普通に考えてギプスがそう簡単に外れる訳がない。

だがギプスは力を込めるとポキッと可愛らしい音がしそうなくらい簡単に壊れた。

無理やりギプスを外し左手を試しに肩の高さにベッドに平行になるよう上げてみる。

なんともない。骨折していた事が嘘みたいだ。

手をグーパーグーパー開いたり閉じたりを繰り返す。異常はない。

指を親指から順番に折り曲げ今度は小指から開いていく。異常はない。

なんだか今まで大怪我をしていた事の方が嘘みたいだった。

183: ◆2DegdJBwqI 2013/02/01(金) 13:02:34.98 ID:nufPyhPk0
「はは……。ははは!やった!やったぞ!奇跡だ!」

肩をぐるぐる回したり肘の折り曲げを繰り返したり「日常」の動作を何度も行ってみる。

神様は本当に居たんだ。

そう上条が無邪気に幸せに浸っていると左手が徐々に上条の意図しない動きを見せ始める。

必死で制御しようとするが先程まであった腕の感覚がない。

いったい僕の左腕に何が起こっているんだ?

その疑問は上条にとって予想外の形で付きつけられる事になる。

突然左手の人差し指と中指の合間が裂けた。

驚愕する上条を余所に、ぐにゃりぐにゃりと手首から上の部位が変形していく。

184: ◆2DegdJBwqI 2013/02/01(金) 13:04:20.90 ID:nufPyhPk0
勝手に自分から裂け始めた箇所はそのまま手のひらの中央部分まで広がっていき、

変形の末どう見ても人間の口にあたる器官を形成した。

ご丁寧にもちゃんと唇があるし健康的な歯並びをしている。

中指と薬指の先端はカタツムリをデフォルメしたような大きくつぶらな丸い眼に。

人差し指と小指の先端はそれぞれちゃんと五本ずつ指のついた小さな人間の右手と左手に。

変形を最後まで終えた「それ」の姿をどう表現するかについては

色々と言い方が存在するだろうが、

「それ」の容貌が尋常ならざる異形のそれであったというのは疑いようがない。

上条は驚きと恐怖で声も出せない。

185: ◆2DegdJBwqI 2013/02/01(金) 13:06:19.15 ID:nufPyhPk0
それまで手だったと思わしき「それ」が口を開く。

「カミジョ……。失敗…。腕……。悔しい……。頭……。カミジョ……」

口の中から覗く白い歯と真っ赤な口内と舌。

およそ現実的ではないグロテスクなその光景はいよいよ上条を震え上がらせた。

「僕の腕はどうなってしまったんだい…?」

上ずった声で上条が尋ねる。なぜ言葉が通じるのだろう?

そんな疑問はこの異常事態の前には何の意味も持たない。

186: ◆2DegdJBwqI 2013/02/01(金) 13:07:31.30 ID:nufPyhPk0
「喰っちまった……」

両足を骨折し現在一人きりで病室のベッドに腰掛けている上条に自衛の手段はない。

それにギプスを壊したのは間違いなく「それ」の仕業だ。

素直に大人しく問答を続けるしかなかった。

「お前はいったい何なんだ?」

「わからない……。言葉も……。上手くわからない……。教えて……。カミジョ…。カミジョ……」

チロチロと赤い舌が左手だった物からとびだす。

その時上条はふと思い至った。これはきっと神の施しなどではない。

ならばこれは悪魔の所業なのではないかと。

235: ◆2DegdJBwqI 2013/02/04(月) 10:44:28.73 ID:FlYZPEqx0
~☆

多少の時間をおき冷静になった上条がまず最初に考えた事は

自分の命に関しての心配などではなく、ヴァイオリンに関する事だった。

この化け物を取り除き元の左腕に戻すことは可能だろうか?多分不可能だろう。

「それ」はどう見ても悪霊の類ではなかった。

上条の血と肉で生きる現実に存在する得体のしれない生物だった。

それならばこいつと協力してヴァイオリンを弾くことは可能だろうか?多分可能だろう。

先ほど左腕が勝手に動き出すまで短い時間だが「それ」の意志を微塵も感じる事なく

上条自身の意志だけで左腕を動かす事が出来ていた。

 
249: ◆2DegdJBwqI 2013/02/05(火) 10:58:34.42 ID:WeZ607pF0
 

必要なのはこいつと協力する事だ。僕がヴァイオリンを弾く時には主導権を譲ってもらう。

今更こいつに恨み言を言った所でヴァイオリンがまた弾けるようになる訳じゃない。

上条にとっては正体のわからぬ「それ」への恐怖以上に

現在のヴァイオリンが弾けないという事実の方が恐ろしかった。

もし、上条が連日神や悪魔などに自身の腕に関して祈りを捧げていなかったなら

これ程簡単に「それ」を受け入れはしなかっただろう。

だが上条には覚悟があった。

ヴァイオリンをすぐに再び弾けるようになるなら

悪魔に魂を売り渡しても構わないと願うほどだった。

「それ」は僕と共存する事に決めているらしい。なら僕もその道を選ぶ事にしよう。

 
250: ◆2DegdJBwqI 2013/02/05(火) 11:01:10.01 ID:WeZ607pF0
 

だがそれには重大な問題があった。

突然左腕が動くようになったと他の者達に知られたらどう思われるだろう?

その情報が医者に伝わってしまったら最悪だ。

「それ」の存在が暴き出され左腕を切り取られてしまうかもしれない。

医者がそうするであろう理由ならいくつもある。

そうなってしまえば上条の

「満足出来る音色をヴァイオリンで奏でさやかに聞かせる」という夢は儚く潰えるだろう。

「それ」の存在が誰かにばれる訳にはいかない。

その為には上条と「それ」は早く解決策について話し合わなくちゃいけない。

自分から碌に動く事も出来ない絶望的な状況の中で

一つだけ上条にとって有利となる事柄があった。

238: ◆2DegdJBwqI 2013/02/04(月) 10:53:16.54 ID:FlYZPEqx0
非常に裕福な家に生まれたという事である。

上条の病室にはそれは本当に必要なのかと思えるような物までいくつも備えてあったし、

一個人の患者としては不自然に感じられるほど完全なプライバシーが保証されていた。

ばれる心配があるのは看護師や医師が病室に入ってくる時、

両親やさやかが入ってくる時、

どちらも時間帯は決まっているし他の人達の面会は今のところお断りしている。

その時をやり過ごしさえすれば時間は最低何日か稼げる。

事故に遭ってからこれまで上条の精神が酷く不安定な状態だった事もあり

皆は上条を出来るだけ刺激しないように動いていた。

239: ◆2DegdJBwqI 2013/02/04(月) 10:56:15.19 ID:FlYZPEqx0
しかし今の上条の精神は「それ」に対して抱いた恐怖より、

ヴァイオリンを弾ける目処が立った事による安堵が上回りかえって安定している。

とはいえ周囲にはもう少しの間不安定な様子を見せる必要がありそうだ。

精神が不安定な患者の言動ならば、何かあっても多少の不自然は見過ごされるに違いない。

さて、次の問題は破壊されたギプスである。

これは明らかに片腕と両足を骨折した人間の出来る事じゃない。

少しでも疑念を抱かせるような事があってはならない。

 

251: ◆2DegdJBwqI 2013/02/05(火) 11:04:34.81 ID:WeZ607pF0
 

「それ」も何らかの生物だ。

この状況下ではまだ断定的な事は言えなかったが

検査などされてはその存在がばれてしまう危険性があった。

間が悪い事に今日はこの後上条の体調を確認する検診がある。

何かおかしな様子を見せたら急遽検査という事になるかもしれない。

ひとまずこの絶体絶命の状況をどうにか凌がなくては駄目だ。

けれど上条が解決の為に行動する事は事実上不可能だった。

その為「それ」と拙い会話を繰り返してどうにか最低限の意志疎通を行い

何としても上条は「それ」を自分に協力させなくてならない。

実際「それ」の知能は並はずれて高く、

上条の意図するところを理解させるのにそう時間はかからなかった。

241: ◆2DegdJBwqI 2013/02/04(月) 11:08:39.19 ID:FlYZPEqx0
~☆

医師がトントンと上条の病室の扉をノックし、しばしの間を開け入室する。

室内はさっと一瞥しただけでは何らおかしな所はない様に見受けられる。

だが実際は見つからないであろう場所に壊れたギプスが隠してあるし、

上条の左手のギプスは「それ」が擬態した物なのだ。

上条は「それ」がぐにゃりぐにゃりと自由に変形する事から

せめてギプスの見た目だけでも再現して貰おうとしたのだが、

「それ」はギプスの質感、硬さまで再現した。

なので上条は医師に見たり触ったりされた程度では

ばれる心配はないとすっかり安心しきっていた。

そのおかげで上条の医師に対する態度はいつも通り平坦な物で、

最後まで医師に疑問を一つも抱かせる事なく検診をやり過ごす事に成功したのである。

253: ◆2DegdJBwqI 2013/02/05(火) 11:08:31.31 ID:WeZ607pF0
~☆

それから数日上条は「それ」をギプスに擬態させる事で人目をやり過ごしながら

「それ」に色々な知識を身につけさせる事に時間を費やした。

病室には「それ」が知識を得る事が出来る物として、

上条が復学した時に困らないよう用意された各教科の教科書や参考書、

音楽関連の本たくさんに著名な小説少々、小型のラジオなどがあった。

「それ」の知識欲は驚くほど旺盛でそれら様々の本を何冊も何冊も飽きることなく読み耽る。

そして約一日ほどでもう人間の言葉をほとんど学習してしまった。

しかし上条はそれだけでは満足せず、

とにかく一通り「それ」が満足のいく学習を終えるまで待ち続けた。

あくまで二人が行わなくてならないのはこれからの話し合いだ。

254: ◆2DegdJBwqI 2013/02/05(火) 11:09:55.38 ID:WeZ607pF0
「それ」が知識を得れば得るだけ解決策はより具体的かつ現実的な物になる事だろう。

「それ」の知識欲と学習の成果は上条の期待に十二分に応える物だった。

彼らの時間はそれほど悠長に事を構えて居られるほど無制限にはない。

これからの方向性決めと現在の状況把握に時間をかければかけるだけ

イレギュラーな事態が発生する確率は高まり、

彼らにとってイレギュラーな事態などという物はそのまま自分達の破滅を意味していた。

そんな訳で「それ」のひとまずの学習が済むと彼らは急いで話し合いを始めた。

「それ」はどこから来たのか、

「それ」はいったい何者なのか、上条自身の腕はどうなってしまったのか、

「それ」にはどのような事が出来るのかといった根本的な問題の認識から。

255: ◆2DegdJBwqI 2013/02/05(火) 11:14:22.44 ID:WeZ607pF0
そういった問いかけの応答により、

上条は自身の左腕が本来もう二度と完治する見込みのない物であった事と、

「それ」が自由自在にその形を変えられる事、伸縮性も抜群でゴムの様に伸び縮みする事、

硬質化し例えば刃物の形状になり気軽に人間を真っ二つに出来る事などの

「それ」の基本的な性質を知った。

上条に再びヴァイオリンへの道へ進む手段を与えてはくれたが

やはり「それ」は悪魔の産物に違いない。

そう確信した上条であったが、「それ」はあくまで寄生生物なので、

上条の身体から養分をもらわないと生きていけず、

「それ」が上条に危害を加える事はないし、

周りの人間に対しても上条が望むか自身が危険だと判断しなければ

攻撃しない知ってとりあえずはほっと胸をなでおろした。

256: ◆2DegdJBwqI 2013/02/05(火) 11:16:51.16 ID:WeZ607pF0
ただし上条の左腕に寄生している「それ」には他の「それ」の仲間達とは違う特徴がある。

まず疲れやすく他の個体と比べ長時間あるいは深く眠らないと活動できないという事だ。

「それ」が寄生しその間を仲介するまで上条の左腕の神経は完全に断裂し、

いうなれば「血の通った肉」とでも表現するのがふさわしい状態であった。

「それ」はあくまで正常に機能している身体の部位でないと

まともに操縦できないしそこに寄生する事も出来ない。

左手に見られる異常のどれが深刻な欠陥をもたらしているのか

事前に把握できていなかったので、

「それ」は片っぱしから定着していく事で怪我を治療していく。

257: ◆2DegdJBwqI 2013/02/05(火) 11:19:58.76 ID:WeZ607pF0
その結果として「それ」が左腕の骨折を完全に修復し

ようやく神経にたどり着いた時にはもう脳に戻るのは

事実不可能なレベルで上条の肉体でほぼ成熟していた。

「それ」は頭部への帰還を諦め

その神経の断裂を自身が仲介する事で繋げ直した。

その大がかりな手術が終わり疲労回復の為睡眠をとっていた「それ」を目覚めさせたのが、

寄生された初日に上条が左腕を無理やりにでも動かそうと念じた時の異常な興奮だ。

ここでもう一つ大きな問題がある事がわかる。

「上条は朝起床してからそれまで全く腕を動かせなかった」。

もしこれが正常な腕で成熟した「それ」が上条の左腕を切り落とし

そこに居座ったという事なら話は全く別だっただろう。

258: ◆2DegdJBwqI 2013/02/05(火) 11:21:41.89 ID:WeZ607pF0
けれども神経の断裂は生憎「それ」が間を仲介しそこに定着する事で繋ぎ直された。

そのせいで上条は「それ」に依存する形でしか左腕をきちんと動かす事は出来ないし、

「それ」も本来腕が正常であったなら腕に任せてさえ居ればばいい事を

絶えず代わりに行わなくてはならない為満足に眠る事が出来ず疲れを取り切る事が出来ない。

「それ」は上条も腕が動かせなくなるほど深く眠るのなら計5時間、

上条が動かせる程度に意識を残して浅く眠るなら計12時間ほどの睡眠が必要とし、

「それ」が浅い睡眠状態にある間は上条が左腕を動かそうとしても反応はいくらか鈍る。

ヴァイオリンを満足に弾く為には一日の「それ」の睡眠予定を厳格に決めておく必要があった、

彼らの関係は世界中の「それ」の同胞達と見比べてもかなり特異だったが、

「それ」の別個体に出くわした事のない彼らにはそんな事は分かるはずもない。

同胞が近付けばいくら深く眠っていたとしても「それ」は眼を覚ましたであろうが、

幸運にも病院に「それら」が近付いて来た事は今の所一度もなかった。

259: ◆2DegdJBwqI 2013/02/05(火) 11:24:13.70 ID:WeZ607pF0
彼らの関係について両者ともに一定の理解に達した後次に問題にされたのはこれからの事だ。

目下の問題としてあったのはギプスを取り外す時の事である。

検診の間はギプスに擬態する事でいくらでも誤魔化せるであろう。

しかしギプスを取り除く時に何が起きるかはちょっと想像したくない。

中を開かれては十中八九「それ」が何か得体のしれない物だという事がばれるだろう。

新しいギプスを手に入れるのもかなり困難だった。

そもそもギプスがどこに行けば手に入るのかどころか、

この病院の中がどうなっているのかさえ自力で外に出られない上条はほとんど知らなかった。

医師や看護師などは精神が不安定な上条を出来るだけ刺激しない為に

この病室に必要最低限の物しか持ち込まないから部屋から出ずにこっそり盗む事も期待できない。

260: ◆2DegdJBwqI 2013/02/05(火) 11:25:43.31 ID:WeZ607pF0
そして検査そのものについての問題だ。

繋がらないはずだった神経が何故か繋がったなどという奇跡が起きた時に

はたして検査はX線検査だけで済むだろうか?

精密な検査を断るなら多少強引でも周囲が違和感を持つ事のないよう

断れる理由がなくてはならない。

X線検査については問題なかった。

「それ」は身体を乗っ取る際に右腕の情報を入手しているし、

左腕の治療の際に左腕を存分に扱った。

「私が完璧に硬さや質感といった物の外観を自身を変形させる事で

コピーする事が出来るのはキョウスケも理解しているだろう。

いつレントゲンで撮られるかさえわかって居たら

腕の中身も再現し人間の目をごまかす事など造作もないよ」

と「それ」は自信満々に豪語している。

261: ◆2DegdJBwqI 2013/02/05(火) 11:29:59.13 ID:WeZ607pF0
X線以上に詳しく検査されると大丈夫かどうかは正直怪しい。

「それ」がどう見た目を繕った所で人間とは別次元の能力を備えているのは明らかだった。

きっと細胞とかを調べられたらぼろが出るに違いない。

上条の直感は正しい。だがわかっていた所で解決策が思いつかなければどうしようもない。

しかも上条達には長く事を構えて居られない理由があった。

上条自身のメンタルとフィジカルである。

上条は身体が弾ける状態にあるのに

ヴァイオリンに触れない事へのストレスで既にどうにかなりそうだった。

いくら優れた音楽を音楽再生プレーヤーで聴いても駄目だ。

ヴァイオリンから離れれば離れるだけ上条の中にある「自分の音」のイメージが薄れていく。

焦れば焦るだけ事態は悪化する事がわかっていてももうどうする事も出来なかった。

262: ◆2DegdJBwqI 2013/02/05(火) 11:31:06.51 ID:WeZ607pF0
しかも毎日訪ねてくるさやかがまた鋭い。

寄生初日病室に入って来たと思ったら第一声が

「何か変わった事あった?え?なんでわかるかって?そりゃわかるよ恭介の事だもん」である。

秘密のある後ろめたさとばれるかもという不安から

自然さやかをなおざりに扱わざる負えなくなり、

それが上条の気分をより落ち込ませる。

さやかは上条がさやかと居る事に居心地の悪さを感じているのに完全に気づいている。

さやかが傷ついているのは明らかだ。

最近は病室に居るさやかまで居心地が悪そうに見える。

その歯がゆさはせっかく安定した上条の精神を激しく揺さぶる。

263: ◆2DegdJBwqI 2013/02/05(火) 11:32:24.22 ID:WeZ607pF0
悠長に両足が全快するまで待って居たら

上条が体調を崩すか錯乱しそこから何かぼろが出るのは明らかである。

時間をかける事無く、ギプスを新しく調達せずに、

精密な検査を受けなくても病院から退院出来るだろう方法、

そんな都合のいい事神様にしか出来ないじゃないか。

「神様」、その時突然上条は一つの計略を思いついた。

しかしそれでも外に連れて行ってくれる協力者がどうしても必要となる。

誰か一人絶対に僕を裏切らないと、人間として信用に足る人物に全て話すしか……。

どれほど考えても上条の頭の中にその条件に合致する人間はただ一人しか思いつかなかった。

264: ◆2DegdJBwqI 2013/02/05(火) 11:34:39.01 ID:WeZ607pF0
~☆

さやかが上条の病室の前で深呼吸を繰り返している。

さやかはこのまま上条と面会せず帰ってしまいたいという気持ちと必死で闘っていた。

さやかは上条の事がかなり好きだ。知的な眼差し、

同年代にはあまり見られない大人びた雰囲気、もちろんそういった物も好きだが、

そんな物はあくまで上条の表象に過ぎない。

さやかが一番好きなのは上条がヴァイオリンに真摯に向かっている姿だ。

さやかは普段上条が一人でヴァイオリン弾いているのを

近くで聴いている時間が一番幸せに感じた。

時々ヴァイオリンを弾いてる上条は

己が出している音の事のみを考えていて他の事は全て忘れているのではないかとすら思える。

265: ◆2DegdJBwqI 2013/02/05(火) 11:35:25.00 ID:WeZ607pF0
さやかは一見何も考えずヴァイオリンを弾いて居そうな上条が

実は心の中ではどんな事を考えているのか想像するのが好きだった。

月日が経つにつれみるみる洗練されていく音が好きだった。

自分の人生をそこまで賭けるほどヴァイオリンに打ち込める上条が

なんだか誇らしくそして少し妬ましい。

だからこそ左腕の動かなくなった上条を見るのは忍びなかった。

代われる物なら自分がその怪我を背負ってあげたかった、

さやかは上条の為に何も出来ない自分の無力さに一人苦悩したが、

上条が彼女以上に苦しんでいるであろうことも当然理解していた。

266: ◆2DegdJBwqI 2013/02/05(火) 11:39:18.28 ID:WeZ607pF0
だからさやかは傷ついた上条に寄り添い支える事で彼を助けようと思った。

しかし現実はそう甘いものではない。

毎日上条のもとに通えば通うほど

自分が彼に厄介者として扱われている事がわかる。理解してしまう。

今日このままこの扉を開けずに帰ればきっとあんな思いはせずに済むだろう。

あんな思いはもう二度としたくない。

でも、それでも、私は闘うと決めたんだ。

恭介だって自分の怪我と、自分自身と闘ってる。私が先に負けてどうするんだ。馬鹿。

さやかは勇気を奮い立たせ病室の扉を開く。

中ではベッドの上で上条が当たり前のように

左手をゆっくり開いたり閉じたりと「普通」に動かしていた。

267: ◆2DegdJBwqI 2013/02/05(火) 11:39:55.38 ID:WeZ607pF0
扉が開いた事に気づき上条が左手に向けていた視線をさやかの方に向ける。

上条がいつもと何も変わらぬ調子で喋り出した。

「やあ、さやか。そろそろ来る頃だと思ったよ。

扉をちゃんと閉めてすぐ部屋に入って来てくれ。大事な話があるんだ」

さやかは言われるがまま扉を確認しながらきちんと閉め、

上条のベッドの隣に置いてある椅子に座る。

恭介が普通に左腕を動かしてる。どういう事なんだろう。

そんな急に骨折って治るのかな。私は夢を見てるのかも。

さやかはまだ知らない。

上条の口からこれから語られ実際に示される現実がもっと夢物語じみた物である事を。

275: ◆2DegdJBwqI 2013/02/07(木) 12:42:23.64 ID:HnfQFs+g0
さやかが上条の乗った車椅子を押しながら坂を上っている。

ここは彼らが小さい頃良く遊んだ「山」の中だ。

上条の外出許可はさやかが付き添うという条件の元で

気分転換にと一日だけ病院側に承諾された。

さやかが足を止める。

目の前にあったのは彼女ら二人がかつて遊んだ二人以外は誰も知らない秘密基地だった。

さやかに手伝ってもらいながらも上条は服が汚れたりしないよう

地面に敷かれたマットの上に腰を下ろす。

「大丈夫?身体は痛くない?」

「うん、大丈夫だよ」

276: ◆2DegdJBwqI 2013/02/07(木) 12:43:45.22 ID:HnfQFs+g0
子供が二人でそれっぽく作った物なので秘密基地の中はそれほど大きくない。

だけどそれだけ誰かから見つかる心配を減らしてくれる。

上条が立てた計画はこうだ。

まずさやかに病院や上条の両親の様子を見て貰いながら数日失踪する。

折を見て病院に戻りいざ検査という段階になったら

「天狗だ!天狗に攫われたんだ!」

と訳のわからない事を云いながら適当に暴れる。

そして検査をX線だけにどうにか留めて

自宅療養という形に持っていくという非常に強引な物だ。

277: ◆2DegdJBwqI 2013/02/07(木) 12:46:27.45 ID:HnfQFs+g0
一見無謀に思える計画だが上条はそれほど成功確率が低いとは思っていない。

この計画の肝を握っているのは上条の両親の存在だ。上条は知っている。

彼らが自分を愛しているのと同じくらい世間体という物を気にしている事を。

おそらく彼らは息子が失踪したと警察に届け出る事さえなるべく避けようとするだろうし、

息子が「天狗だ!」などとのたまう事態を最も嫌うだろう。

これがただ息子が失踪しただけなら子供の戯言で済む。

しかし現に息子の左腕は完璧にこの短期間で完治している。そこには明らかな謎がある。

とはいえ調査を進めていく内に周囲の者達に

「あの家の息子さんは天狗に攫われてたんですって」

などと噂をされてしまっては「家」の評判に傷がつく。

278: ◆2DegdJBwqI 2013/02/07(木) 12:47:11.91 ID:HnfQFs+g0
彼らは上条から見れば病的に思えるほどの事無かれ主義者だ。

大事な上条が無事に戻って来た事さえわかれば、

対応に詰まった彼らは今回の事件を封殺しようと躍起になるだろう。

もちろんこれは上条の推測であって

どこかに綻びが出来てしまえば全て崩れてしまう脆い計画だ。

それでも上条は失敗を恐れていなかった。

ずっと彼らを見ていたのだ。生まれた時からずっと。ずっと。

いまさら何を読み違える事があろうか。

むしろ問題だったのはこの計画を左手の「それ」に納得させる事であった。

結局納得させるのに一週間以上かかった。

279: ◆2DegdJBwqI 2013/02/07(木) 12:47:55.99 ID:HnfQFs+g0
上条はこのまま何もせずに居たら自分がどうにかなってしまう事、

解決策を探ろうにも自分が動けない以上行動が限られてしまう事などで説得しようとした。

けれど「それ」が問題にしたのは別の事であった。

協力を求めるにはどうしてもさやかに「それ」の存在をばらさなくてはならない事だ。

完全に事情を明かせていない協力者などこの場合不安定要素になるだけである。

だが打ち明ける相手としてさやかを信用する理由が「それ」には全くない。

上条は必死でさやかの魅力、彼女の人間としての素晴らしさを数日かけ「それ」に伝え続けた。

今回の計画を「それ」が承諾したのは、

彼?がさやかという人間に対して興味を抱いたのも大きな要因の一つだ。

280: ◆2DegdJBwqI 2013/02/07(木) 12:51:06.93 ID:HnfQFs+g0
「なんか懐かしいね……昔も二人でこうして座っていたっけ……」

腰を下ろした上条の左隣にさやかが密着するように座る。

上条を支える為に腰に回されていた手はそのままに。

上条の肩にさやかがもたれかかる。

昔は絶対こんなおいしいイベントは無かった。

上条はそんな事を考えながら鼻息を荒くする。

「ねえ……恭介?」

さやかが上条の方を向く。

何か間違えが起きてしまえば唇と唇が接触してしまってもおかしくない距離だ。

心なしかさやかの顔がほんのり赤くなっているように見える。

目も潤んでいるかもしれない。口元をもごもごさせ何かを伝えようとしている。

281: ◆2DegdJBwqI 2013/02/07(木) 12:54:07.89 ID:HnfQFs+g0
上条は思う。これはキスくらいなやっちゃってもいいのかもしれない。

正直上条は今までさやかとのファーストキスはロマンチックな場所で

高校生くらいになってから遂げたいなどと夢想していた。

だが思い出の場所で秘密を共有した二人が愛の口付けを交わす。

良いんじゃないかな?

それ以上の事は結婚してからだ。上条は身持ちの固い男であった

上条が今日はここに来る前に歯磨きをちゃんとしてきたしいける、

いけるぞなどと心の中で確認を行っているのを余所にさやかが口を開く。

「コレ何?」

282: ◆2DegdJBwqI 2013/02/07(木) 12:55:02.57 ID:HnfQFs+g0
コレ?


顔を真っ赤にしたさやかが右手で何かを指さしている。



眼をそちらに向けるとあったのは聳え立つ  。




怒張する  。





さっきまでは上条の左腕の形をしていたモノ。



有体に言ってしまえば●●●があった。
 

308: ◆2DegdJBwqI 2013/03/04(月) 13:22:19.61 ID:Nxv0HKth0
~☆

泣き出してしまったさやかをどうにかなだめて帰宅させる。

事前に左手の異変について話し「それ」と対面させておいたから良かったものの、

もし対面させていなかったらと考えると上条は背筋が凍る思いがした。

さやかが居なくなって必然上条と「それ」は二人?きりになる。

二人の間に重い空気が流れた。上条がまず口を開く。

「どうしてあんな事をしたんだい?」

あれさえなければ今頃上条とさやかはキスをしていたに違いない。

思いを伝えるのにはまさに一世一代のチャンスだった。

309: ◆2DegdJBwqI 2013/03/04(月) 13:22:47.69 ID:Nxv0HKth0
けれどキスをせずに済んで却って良かったのかもしれないと上条は思う。

相手の同意を得ずにキスなどしてしまえばそれは冗談では済まされない。

いくら親しい幼馴染とはいえやって良い事と悪い事があるのだ。

つい場の雰囲気と己の欲望に惑わされてしまったが

さやかがそれを受け入れてくれるかは分からない。

むしろ手酷く嫌われてしまっても何らおかしくない。危ない危ない。

いくらさやかが普段からおかしいくらい僕に優しくしてくれるからといって、

僕の事をそういう目で見てるとは限らないしきっとそんなはずはない。

今の情けない自分にさやかに好かれる要素があるなんて思うのは

ちょっと自惚れが過ぎるんじゃないか?

悲しいかな上条は今だ過剰な自己卑下の意識から完全に脱却していなかった。

310: ◆2DegdJBwqI 2013/03/04(月) 13:25:55.05 ID:Nxv0HKth0
上条の内心の葛藤もどこ吹く風と言わんばかりに「それ」が落ち着いた様子で理由を語り始める。

「人間の生殖行動に興味があった。

キョウスケはサヤカと 尾したい気持ちがありながら

アピールの仕方がやたら遠回しなのだ。だから……」

「僕は今日キス以上の事までさやかとするつもりはなかったんだけど……」

「それ」は宿主の血液の微妙な変化で宿主が

 欲、眠気、驚き、困惑、空腹、興奮、恐怖心

などを感じた時にそれを大雑把に把握できる。

311: ◆2DegdJBwqI 2013/03/04(月) 13:26:57.34 ID:Nxv0HKth0
しかし今回はその能力が裏目に出て双方にとって余計な事態をもたらしてしまった。

その場の勢いでキスをせずに済んだのは確かに僥倖かもしれないが、

今後どうするかを改めて確認するさやかとの話し合いが阻害されてしまったのは明らかに痛手だ。

「それ」もまだ人間あるいは人間社会に関する認識が不十分であった。

しかし「それ」はいまだ成長である。

知識に関して、殊更自身の生命活動に必要と思われる知識についてはどこまでも貪欲だった。

例えば人間そのものの一般的な性質や、その行為の持つ意味についてだ。

「キョウスケがどうしてそこまでキスという行為自体に深い意味を見出すのかも良くわからん。

なぜ唇と唇を合わせるだけの行為をそこまで重視するのか。

せいぜい生殖活動の為の前 という類のものだろう」

312: ◆2DegdJBwqI 2013/03/04(月) 13:31:41.64 ID:Nxv0HKth0
「それ」の余りにも露骨に性的な表現に上条は顔をしかめる。

彼はそういった諸事の純粋さあるいは理想を重視するタイプの人間だった。

「知らないよそんな事。

ただそういう君達にとっては無意味に見えるだろう細かい事は人間にとって凄く重要なんだ。

これからは少なくともそれだけでも理解して行動して欲しいね」

「なるほど努力しよう。私もキョウスケとの間に無駄ないざこざは起こしたくない」

上条の左腕に住み付いた「それ」は他の個体に比べ好奇心が旺盛という個性があった。

上条にさやかがどれほど優れた人間であるかを何度も力説され、

彼女に興味を抱き危険を承知で対面してみたのがそれの最も顕著な例だ。

313: ◆2DegdJBwqI 2013/03/04(月) 13:32:35.00 ID:Nxv0HKth0
「それ」はほかの色々な面でも他の個体と異なる。

脳を奪う事に失敗した為全身の操り方がわからないし、

上条の血液から養分を摂取しているので人間を食べたいと思うどころか食欲を感じた事が無い。

睡眠時間をより多く取らなければならないという生物として明らかに劣っている面もある。

しかし「それ」にも当然他の個体と共通した性質がある。

冷徹にどこまでも自己保存に努めようとする生物としての本能だ。

上条と安定して共存していける関係を築く事、

これが彼?のとりあえずの当面の目標であった。

314: ◆2DegdJBwqI 2013/03/04(月) 13:35:15.15 ID:Nxv0HKth0
「そういった人間一般の模範的な行動や考え方などについては

追々学んでいくとして私が今すべきことはまずはこれだな」

「それ」が傍らに置かれたおもちゃのヴァイオリンを掴み、

口頭による上条の指導の元、ヴァイオリニストが演奏する際の一般的な構えを真似る。

ぱっと見上条の左腕から得体のしれない何かの上半身らしきものが生え、

それがヴァイオリンを弾こうとしているようで実に気味が悪い。

別に音を出す事が目的という訳ではない。

ただ「それ」が書物のみで学べる事にも限度があるので、

せめて形だけでも先に触れさせておこうという試みだ。

315: ◆2DegdJBwqI 2013/03/04(月) 13:36:42.77 ID:Nxv0HKth0
「ふむ、さすがにこれだけではいまいち上条の片腕として

どう演奏をサポートしていけば良いのかわからん。

やはり実際やってみないとどうとも言えないという事か」

「ちょっとした事でも良いから何かしらの収穫みたいな物は……?」

「ない」

「そ、そっか……」

「それ」がヴァイオリンを構える姿に何かしらの収穫を得たのはむしろ上条の方であった。

こうやって「それ」が所詮おもちゃに過ぎなくともヴァイオリンを構えている姿を見ると、

いよいよ自分はこいつとこれから協力して演奏していくんだと実感が湧いてくる。

316: ◆2DegdJBwqI 2013/03/04(月) 13:38:23.09 ID:Nxv0HKth0
すると上条は自分の中から「それ」に対する強い親近感、

同類意識の様なものまでが急に湧き上がって来たのを感じた。

突然の感覚に上条は戸惑ったがそれは決して不愉快な類の戸惑いではない。

むしろ積極的で曖昧な未来への期待感に溢れた物だった。

今は「それ」の得体の知れなさが上条をまだ見ぬ音楽の境地へと連れてって行ってくれる

未知なる切符の様にすら感じられる。

もしかしたらこいつとだったら今までの代わり映えのしない自分を変えられるかもしれない。

こいつなら僕を変えてくれるかもしれない。

……パートナーに対してこいつとか君って呼び続けるのも

なんだかずいぶんと味気無いなぁ。

317: ◆2DegdJBwqI 2013/03/04(月) 13:39:51.14 ID:Nxv0HKth0
「君の名前どうしようか?」

「名前?」

「うん、いつまで経ってもお前とかこいつとかそういう風に呼んでたら

いざという時紛らわしいしね」

「……では『ヒダリー』と呼んでくれ」

「え?ヒダリー?」

「左腕を喰って育ったからヒダリー」

「……まあ本人がそういうならそれでいいか」

上条はヒダリーから視線を外し、目を瞑って聞こえるはずのない演奏の音に耳を澄ます。

自分の中に嫌というほど刻みつけられた音のイメージ。

それはもうだいぶ薄れてしまっているけれど、それでも美しく上条の中でその音は響いていた。

323: ◆2DegdJBwqI 2013/03/05(火) 12:22:52.18 ID:amcDHMq00
~☆

上条がさやかの手を借りて病院から抜け出した翌日の昼下がり、さやかが上条の元を訪れた。

「思ったより来るのがすいぶん遅かったね」

「いやー、昨日家帰ったら大変だったんだよ。警察の人達が来ててさー」

「え?」

「上条恭介はどうしたんだ、って聞かれたから

私も今まであちこち探していたんですって咄嗟に。

これ恭介が居ないのと帰るのが遅くなった

言い訳に使おうと始めから思ってたんだけど、

恭介が警察の人は来ないって言ってたからてんぱっちゃってね。

咄嗟に口から出てきて本当によかったよ」

324: ◆2DegdJBwqI 2013/03/05(火) 12:24:36.44 ID:amcDHMq00
「……それで?」

「それからはひたすら事情聴取の嵐だったなー。

警察の人達凄く怖かったんだからね。

少し後になってから来た恭介のご両親が助け船を出してくれてなかったら

今も個室に隔離されて色々尋問されてたかも。

……あそこまで信頼されているのにそれを完璧に裏切ってると思うと

正直罪悪感で今にも胸がつぶれそう」

「……うーん、困ったな」

325: ◆2DegdJBwqI 2013/03/05(火) 12:27:42.14 ID:amcDHMq00
上条はいきなり計画が頓挫するかしないかの瀬戸際に立たされた。

まさかあの両親が自分達の家の評判の事も顧みずに即座に警察に相談するなんて。

このままでは否応なく捜査という形で上条に関する話は周囲に広まってしまい、

そうなってしまえば成り行き上もうとことんまで調べない訳にはいかなくなる。

上条達に残された時間は少ない。

事情を詳しく知らない周囲の人達に、

上条の失踪はちょっとした悪戯の類だったに違いない

と思わせる程度の軽い事件にしておかなくてはならない。

しかしそれでは事件の異常性が薄れ、

これからの上条のとんちきな行動の説得力が薄れてしまう。

326: ◆2DegdJBwqI 2013/03/05(火) 12:28:34.73 ID:amcDHMq00
ならば他の所で異常性を演出するしかない。

上条は自らの恥を捨て、道化になる覚悟を決めた。

「これ以上事件を大きな物にする訳にはいかない。

ごめんさやか、今日……いや、明日の深夜に病院に戻らなくちゃ駄目みたいだ。手伝ってくれ」

自分がどれほど身勝手な事を頼んでるかは上条も理解している。

ただの女子中学生に過ぎないさやかに深夜ここに一人で来いと言っているのだ。

しかも上条の両親のとりなしがあったとはいえ

今だ疑いの目を向けられているさやかに家をどうにかして抜け出せと言っている。

これ程困難な任務にも関わらずそれに見合った特別な報酬を上条は用意する事が出来ない。

出来る事と言ったら一生をかけてさやかに恩返しをしていくくらいだ。

どう考えても割に合わない。結局さやかの親切心にすがるしかなかった。

上条は俯き、自分の命運を別けるであろう返事を待つ。

327: ◆2DegdJBwqI 2013/03/05(火) 12:31:48.50 ID:amcDHMq00
「いいよ、恭介の為なら私頑張れるから」

さやかは上条の頼みに即座に返答した。

上条が顔を上げるとそこには優しく包み込むような笑みを浮かべたさやかが居た。

「ご、ごめん、この埋め合わせはいずれ必ず……」

力を込めて自分に恩を返す意思がある事をさやかに示そうとする上条だったが、

さやかはゆっくり首を横に振りそれを遮った。

「いいよそんなの。私がやりたくてやるんだから。

私は恭介の手助けがしたい。恭介は私の力を借りたい。対等な取引だと思うけど」

「で、でも……」

なおも食い下がろうとする上条だったがさやかは首を激しく横に振りそれも拒絶する。

328: ◆2DegdJBwqI 2013/03/05(火) 12:33:27.10 ID:amcDHMq00
「だからいいんだって。家を抜け出して日付が変わるくらいの頃に

ここに又来ればいいんだよね?じゃあ私一度帰るから」

「あっ!ま、待って!」

珍しく上条が大きな声を出した。さやかの肩がビクリと震える。

「な、なによ?」

「そ、そのそれとは別にお願いがあるんだけど……」

上条が何やらモジモジしている。

さやかはそれを見ながらいやはや中々様になってるなーなどとぼんやり思った。

329: ◆2DegdJBwqI 2013/03/05(火) 12:35:27.31 ID:amcDHMq00
さやかは考える。もしかしたらこれは

『僕には君にあげられる物が一つしかない。……僕自身を受け取ってくれないかな?』

とか言ってキスしてくる流れなんじゃないかと?

さやかは上条にはそういうちょっと気取った所があり、

しかも一般人と感覚が微妙にずれている事を知っている。

こいつならそれくらいの事をやりかねん。

そんな事を考え上条を見つめながら、いやいや恭介が私なんかの事好きな訳無いじゃん!

と一人悶えるさやかを余所に、ちょっと涙目の上条が重い口を開き喋り出した。

330: ◆2DegdJBwqI 2013/03/05(火) 12:41:19.14 ID:amcDHMq00
「今から僕のオムツ取り換えるの手伝って欲しいんだ。

あ、それと帰る途中に中身をどうにか処理して欲しい。

本当は僕もこんな事をさやかに頼みたくないんだけどさ。本当に申し訳ないと思う」

「は?」

上条が何を言ってるのか純粋に理解できなかったさやかはごく単純な疑問の言葉を返す。

しかしそれを非難の言葉と受け取った上条は機関銃のごとく理由を語り始めた。

331: ◆2DegdJBwqI 2013/03/05(火) 12:42:01.51 ID:amcDHMq00
「ちょ、長期戦になりそうだったからオムツは用意してあるんだ。

でも排泄物の処理はナースさんがしてくれてたし、

今はヒダリー……あっ、この左腕に居る奴のことなんだけど、

こいつが熟睡してて左腕が動かせないんだ。それに加えて両足骨折してる状態で、

自分一人で取り換えをやると多分地面が大変な事になると思う。

でもやらないと今お尻がむずむずすして凄く辛いし放っておくと臭うし、

仮に後々ヒダリーに手伝って貰って取り換えたとして

その中身をそこらへんに捨てておく訳にもいかないだろ?

だから今帰る直前のさやかに手伝ってもらうのが一番合理的っていうか……、

あっ!もちろんやましい気持ちは無いよ!本当だよ!」

332: ◆2DegdJBwqI 2013/03/05(火) 12:44:27.18 ID:amcDHMq00
わざわざ自分からそれを言ったら疑われるだけでしょ……。

呆れ顔のさやかはそう心の中で呟いて溜息をついた。

そしておそらく今の上条にはやましい気持ちは本当に無い。

こういう重要な時に意味のない嘘をつくような奴ではない事は

付き合いの長いさやかはちゃんと理解していた。

でもだからこそ自分が異性として認識されていない様で余計に腹が立った。

もっともこの場面でやましい気持ちからオムツを換えてと要求するような奴を

助けてやるつもりには絶対ならなかっただろうからそこは難しい所だ。

「……良いよ。恭介の手助けがしたいってさっき自分で言ってたもん私」

「……まことに申し訳ありません」

ふぅ。気分を切り替えようと深呼吸したさやかだったが、

結果として辺りに漂う異臭を今日初めて感じてしまう結果となった。

333: ◆2DegdJBwqI 2013/03/05(火) 12:48:57.13 ID:amcDHMq00
~☆

時刻は深夜、さやかが上条の乗った車椅子を押して病院の前にたどり着いた。

上条の膝元には昼間ヒダリーに集めてもらった木の葉が一杯に詰まったゴミ袋が入っている。

「じゃあ車椅子についてはよろしくねさやか」

上条はヒダリーとさやかの手により無事に地面に下ろされた。

後は病院の入り口まで這うなり発見されるまで待つなり

とにかくさやかなしでどうにかするつもりだった。

「なぁ、キョウスケ。本当にこの作戦で大丈夫なのかい?」

「今更計画の変更なんて無理だよ。運を天に任せよう」

「……予想外に私との共生をあっさり認めてくれたからと言って

キミを無批判に信頼し過ぎたのかもしれないな。

キョウスケ、今確信したが君は間違い無く大馬鹿者だよ」

334: ◆2DegdJBwqI 2013/03/05(火) 12:50:07.56 ID:amcDHMq00
「はは、つき合わせて悪いね」

「いざとなったら私は私の正体を目撃した人間を

全員殺すつもりで居るからそこは事前にきちんと覚悟しておいてくれ」

一瞬で場の空気が凍りついた。一気に場の空気が張り詰めていく。

「さ、さやかは……?」

「彼女は協力者だからね。我々に敵対する行動をとりさえしなければ殺すつもりはない」

「そ、そうか」

上条は少し緊張した表情を和らげた。

336: ◆2DegdJBwqI 2013/03/05(火) 12:54:16.52 ID:amcDHMq00
「いやいやいやいやダメでしょ!恭介なに良かったって顔してんの!」

「とはいっても僕にはヒダリーが誰かを殺すのを止める術がない。

せめてどうにかそうならない様に事態を運ぶしかないんだ。

残念だけど今の僕とヒダリーに誰かを気遣っている余裕なんてほとんどないんだよ」

「安心しろ、サヤカ。

私もキョウスケの両足の状態からして騒ぎを起こせば十中八九逃げられない事は理解している。

あくまでこれは最終手段だ。計画が無事成功しさえすればそれでいい」

ヒダリーと一緒に一見冷酷な事を述べて居る様に聞こえる上条の発言だったが、

その声は酷く震えていた。

337: ◆2DegdJBwqI 2013/03/05(火) 12:55:43.76 ID:amcDHMq00
さやかはひとまずほっとする。

ヒダリーはどこからどう見ても人間じゃない。

恭介の味方ではあるらしいけどそれでも私達人類全体の味方ではない。

だけどヒダリーがどんなに冷血な生物であったしても、

上条は歴とした血の通った人間だと今改めてはっきりした。

強気の態度をとっていないと自分が背負っている重圧に押しつぶされてしまいそうなのだろう。

さやかには上条がどう行動するのが一番正しかったのか、

又は正しいのかなんて事はさっぱりわからない。

彼女に出来るのは計画が無事に成功するように祈る事だけだ。

338: ◆2DegdJBwqI 2013/03/05(火) 13:00:56.10 ID:amcDHMq00
「……じゃあね。私はこれで帰るけど全て上手くいくよう家で祈ってるから」

「あっ、待ってよさやか。ちょっとの間僕に背を向けててくれるかな?」

言われるがまま待っていると何やらゴソゴソ物音が背後から聞こえてくる。

恭介は何をしているんだろう?そう思っても口には出さず黙って待ち続ける。

「よし、OKだ。これを帰る途中で車椅子と一緒にあの秘密基地に隠しといてくれ」

ヒダリーが自身の身体を伸ばし『それ』をさやかの目の前に運んでくる。

それは先程まで木の葉が入っていたゴミ袋。

ただし今は上条が先程身につけて居たらしき衣類が入っている。

え?いったいどういう事?半ば無意識でさやかは上条の方へと振り返った。

「あっ!振り返っちゃダメじゃないか!」

339: ◆2DegdJBwqI 2013/03/05(火) 13:04:33.81 ID:amcDHMq00
上条の言葉も時既に遅くさやかの目には一糸纏わぬ上条の裸体、

ただし身体全体に木の葉が振りかけられている様子が映し出された。

「……何してんの?」

「キョウスケ曰くこれは天狗に攫われた被害者はこうなるであろうという様子の再現なのだそうだ」

「……バッカじゃないの?」

「私もそう思う」

「……」

その時上条の身体一面にやけに冷たい風がサワサワと吹きつけた。

345: ◆2DegdJBwqI 2013/03/06(水) 13:52:54.01 ID:xuqPzHbc0
~☆

「天狗だー!天狗の仕業なんだー!」

上条が叫ぶ。

どうにか病院の玄関先までヒダリーの力を借りつつ、

自力で移動して無事発見されることに成功した上条は、

まず大げさに両腕を動かして左手が普通に動くという事をアピールする。

そして急遽行われたX線検査を終えた上条はさらなる検査に移ろうとする医者に向かって再び叫ぶ。

「天狗だー!天狗の仕業なんだー!」

医者はどうにか上条を落ち着かせようとするが上条も必死である。

何しろ周囲の人間皆の首がかかっているのだ。

抵抗の意志と精神が現在極度に不安定な状態にあるのだという事を印象付ける為、

周りに置いてある物をなりふり構わず、それで居て人に当たる事のないよう投げる。

346: ◆2DegdJBwqI 2013/03/06(水) 13:55:03.29 ID:xuqPzHbc0
たとえ怪我をしていなかったとしても

上条の細い身体つきから考えて本来投げられるはずのない物まで投げる。

その姿は周囲の人達には極度の興奮状態に陥った上条が

火事場の馬鹿力を発揮しているように見えたことだろう。

だが実際はヒダリーの力による物であった。

「僕はもう大丈夫だから放っておいてくれ!僕は正常なんだ!

僕を実験動物にでもする気か!?そんな事絶対に許さないぞ!」

「恭介」

347: ◆2DegdJBwqI 2013/03/06(水) 13:56:24.25 ID:xuqPzHbc0
声を張り上げる上条にそれほど大きくない声で、

だがはっきりと病院から連絡を受け急いでやって来た上条の父が呼びかけをする。

上条は何もかもの動作をつい一度止めてしまった。

「父さん……」

「皆さんすみませんが暫く二人きりで息子と話をさせていただけませんか?」

上条の父が医師達に向かって頭を下げる。

その言葉を受け上条の周りの人達は皆大人しく退室していった。

348: ◆2DegdJBwqI 2013/03/06(水) 13:59:07.62 ID:xuqPzHbc0
~☆

「と、父さん……。僕はもう大丈夫なんだ。ほら、左腕も普通に動くでしょ?」

「……」

上条がいくら父に話しかけても応えるそぶりはない。

しかし上条をじっと見据えるその目つきは話し続けろと上条に告げていた。

「ええっと……、X線検査でも何も異常がないって出たよね。

後は両足だけどこれは自力で治せるはずなんだ。

だから自宅療養に切り替えて欲しいかなー……」

同じ話のループが三周目を終えた頃、初めて上条の父は口を開いた。

「『両足だけどこれは自力で治せるはず』というのはどういう事だ?

何だかまるで左腕は自力で治る見込みがほとんどなかったみたいじゃないか」

349: ◆2DegdJBwqI 2013/03/06(水) 14:00:15.76 ID:xuqPzHbc0
そうだ、僕がその事実を知っていた訳がない。

上条は自分の血の気がさっと引いて行くのを感じた。

落ち着け。父さんは僕に揺さぶりをかけに来てるだけだ。

「左腕は絶対に完璧な状態で治さなくっちゃならないから。

家で勝手に治そうとして万が一が起きたら目も当てられないでしょ?」

「……」

しばしの沈黙の後、父は再び口を開いた。

「どうして恭介はそこまで精密な検査をされる事を嫌がるんだ」

「どうしてって……もう左腕がちゃんと治ってるのはX線検査でわかってるし

これ以上余計な事されたくないんだ。

得体のしれない実験動物みたいに扱われるのは嫌だし……」

350: ◆2DegdJBwqI 2013/03/06(水) 14:03:18.10 ID:xuqPzHbc0
「本当にそれだけか?」

上条の全身から汗が噴き出る。激しく心臓が鼓動する。

落ち着け、落ち着け。まだ大丈夫だ。ヒダリーもまだ動くそぶりを見せて居ない。落ち着け。

「うん、それだけだよ」

上条は精一杯父と目を合わせなるべくいつも通りに聞こえるよう返事をする。父は溜息をついた。

「大丈夫なんだな?何かどうしようもない事に巻き込まれてたりしないか?」

「大丈夫だよ父さん」

上条はこの質問にだけははっきりと答える事が出来た。

確かにどうしようもない事には巻き込まれているのかもしれないけど、それは僕の意思でもある。

ヒダリーとなら大丈夫なはずだ。きっと良い演奏が出来るし僕も変わっていける。

なぜだかそんな気がしていた。

351: ◆2DegdJBwqI 2013/03/06(水) 14:06:25.66 ID:xuqPzHbc0
「……わかった。退院の手続きやら

お前の身辺を世話してくれる人などについての手配などは済ませておく」

そう言い残して病室を立ち去ろうとする父に思わず上条は声をかけてしまった。

「い、良いのかい?」

上条は疑問を口に出してしまってからそれを非常に後悔した。

これではやましい何かがあると自白しているようなものではないか。

一人焦る上条を知ってか知らずか父は振り返らずポツリポツリと語り始めた。

「お前が初めて私に自分の意思でまともに反抗らしい反抗をしたからな。

人の親として正しい事なのかはわからんが私が出来る限りの尻拭いはしてやるから好きにやれ。

ただし何かあったら手遅れになる前に私あるいは母さんにちゃんと相談するんだぞ。

……それと帰ったら母さんに謝っておけ。

さやかさんからお前が居なくなったと聞いた後の母さんの様子には

私も彼女の気が違ってしまったのかと思ってしまったくらいだ」

352: ◆2DegdJBwqI 2013/03/06(水) 14:09:10.96 ID:xuqPzHbc0
言いたい事が言い終わったらしい彼はそのまま退室した。

そして病室の外で医師達と何やら話しているらしい。

「一時はどうなるかと思ったが意外とどうにかなったな」

ヒダリーが小声で上条に囁く。

「うん、そうだね」

上条は上の空で返事をする。父さんと母さんはどうも僕を真剣に愛してくれているらしい。

それを僕が勝手に壁を造り滑稽にも一人でいじけていた訳だ。

なんて馬鹿な子供。自分が情けなくて恥ずかしさのあまり顔から火が出てしまいそうだった。

「やけに嬉しそうだなキョウスケ。だがまだ安心するのは早い。気を抜くなよ」

「わかってるってそんなことくらい」

僕が喜んでいる?確かにそうだ。

計画と微妙にずれた気もするが何事も無く今日という日を潜り抜ける事が出来た。

だがそれ以上に何だか今まで背負っていた肩の荷がどっと取り払われた気分でもあった。

353: ◆2DegdJBwqI 2013/03/06(水) 14:11:19.89 ID:xuqPzHbc0
~☆

恭介とヒダリー共同によるヴァイオリン演奏は思ったよりスムーズにはいかなかった。

ヴァイオリン演奏の手順はこうだ。まず本来なら脳から左腕に命令がいく。

しかしヒダリーが寄生する前に左腕の神経が断裂されていた事が原因で、

ヒダリーが左腕を形と中身だけ再現して上条に主導権を渡しても上条は動かす事が出来ない。

おそらく上条の左腕である事をやめ誰かあるいは上条の右腕を切り落とし

そこに移動したならヒダリーは眠ったままでも腕の役割を果たすだろう。

ヒダリーは頭と左腕以外の機能は問題無く果たす事が出来る。

だがヒダリーが左腕を再現できるのは中身の構造までであって

その機能に関しては上手く「理解」出来ていなかった。

そこで演奏の際にはヒダリーが脳の信号を自分から「読み取り」

その動きのイメージをそっくりそのまま自分で動いて再現する。

354: ◆2DegdJBwqI 2013/03/06(水) 14:14:34.17 ID:xuqPzHbc0
ヒダリーが主体になって腕の操作は行われる為、

ヒダリーが完全に目を覚ましていないとどうしてもその動きは阻害されてしまう訳だ。

そしてそれはただ左腕を再現または自分で自由に動くより体力を使う。そして繊細な作業だった。

初めてヒダリーと共にヴァイオリンに触ってみた時上条は愕然とした。

日常動作に関しては何も問題は無い。しかし演奏となると何か違うのだ。

まだヒダリーが脳の「信号」に合わせ自ら動く事に慣れていなかった為である。

こんな演奏をさやかに聞かせる訳には断じていかない。

さやかに頼み込んで演奏を聴かせるまで一週間の練習時間を貰った上条は、

一度だけ両親に久しぶりの演奏を聞かせた後一日中ヴァイオリンを弾き続けた。

上条も最初は一週間だけで果たして間に合うか不安だったが

、三日目でその悩みは解決され事故前の演奏が戻って来た。

ひとまず安心した上条だったがそれでも満足する事無く

一日中ヴァイオリンを弾き続ける。明らかな変化が確認されたのはその二日後、

練習を始めて五日後だった。

355: ◆2DegdJBwqI 2013/03/06(水) 14:15:31.16 ID:xuqPzHbc0
今までこれ程上手く左手を扱えた事は演奏中に一度も無かった。

ついにヒダリーがその動作に慣れたのである。

左手が頭の中でイメージした通り、いや、それ以上に動く。

するとそれに釣られて右手、演奏そのものが良くなっていく。

これほど劇的な成長を見せる事はもう二度とないだろう。

何故ならヒダリーは既にその運動における完成系に至っておりこれ以上成長する事は無いからだ。

しかし、ヴァイオリンは左腕だけで演奏する訳ではない。

ヒダリーと演奏出来るという事は上条に自信と明確な目標を与えた。

やっぱりヒダリーとならいつか最高の演奏が出来るだろう。

自分で一週間と決めたはずなのに

上条はさやかに現時点の演奏を今すぐにでも聴かせたくてたまらなくなった。

356: ◆2DegdJBwqI 2013/03/06(水) 14:18:57.21 ID:xuqPzHbc0
~☆

「それで今日恭介はどの曲を私に聞かせてくれるの?」

「色々考えたんだけどね、さやかが好きで、

なおかつ僕にとっても思い出深い

僕がヴァイオリンを始めるきっかけになった曲にしようと思う」

「へー。それで曲名は?」

「アヴェ・マリアさ」

上条が目を瞑り演奏を始める。

それを部屋の中、一人だけの観客として耳を傾けるさやか。

さやかには音楽の良さなんて

耳で聞いてそれを良いと思うかどうかといった主観的な面でしかわからない。

それでもその演奏はとても美しく繊細で、

上条に連れられ時折聞いたプロの演奏と比べても決して遜色がないように聞こえた。

357: ◆2DegdJBwqI 2013/03/06(水) 14:19:30.99 ID:xuqPzHbc0
しかしさやかの心に一抹の不安が浮かぶ。

上条が事故に遭う前の演奏と何かが違う。違和感がどうしても拭いきれない。

何だか上条が演奏しているというよりは演奏の歯車として上条が動かされているみたいだ。

まるでそのまま上条がどこか遠くに行ってしまう様な……。

けれどさやかのそんな曖昧な不安は一瞬にして彼女の頭から吹き飛んだ。

上条が本当に楽しそうに笑っていたのだ。

さやかはこれ程楽しそうに笑う彼を今まで一度も見た事が無かった。

彼女の心を幸せな気持ちが満たす。

良かったね、恭介。

気付けばさやかも心から楽しい気持ちになって彼と一緒に笑っていた。

【第一部 パラサイト飛来編 終わり】

364: ◆2DegdJBwqI 2013/03/08(金) 10:30:08.30 ID:TcJWEJwx0
~☆

各地にパラサイトが飛来した翌日の朝、いつも通りの時間にマミが目を覚ました。

目を覚ました彼女はいつもの習慣でソウルジェムの汚れ具合を確認しようとする。

しかしいつもなら置いてあるはずのテーブルの上には見当たらなかった。

少しの間テーブルの周りを捜索し予想外の場所にそれを見つける。

どうも昨日は指輪として身につけたまま寝てしまったらしい。

ソウルジェムを指輪の形から宝石状の形に変化させ具合をチェックすると、

ジェムの中はかなり濁っておりかなり危険な状態であることを示している。

慌ててマミはストックのグリーフシードを用意した。

マミの手によりソウルジェムの傍に寄せられたグリーフシードがその穢れを吸い始める。

365: ◆2DegdJBwqI 2013/03/08(金) 10:34:46.69 ID:TcJWEJwx0
「グリーフシード」、魔女の卵。グリーフシードは一言で表すなら空の器だ。

感情エネルギーを溜めこみ過ぎて限界を超えたソウルジェムが

そのエネルギーと魂を完全に放出した後残るソウルジェムの「殻」の様な物。

魔法少女の魂が変質を遂げ魔女になるようにグリーフシードもソウルジェムとはまた別物である。

事実それを魂の器として使う事は出来ない。

しかし魔法の使用などによりソウルジェムに溜まってしまったエネルギーを、

その空になった器に移す事くらいなら出来る。

けれどもそれもいつまでも使えるという代物ではない。

グリーフシードにも限界があって、

それを超えるエネルギーを注いでしまえばやはり魔女が生まれる。

しかもその魔女は言うなれば「二回」変質を遂げたという事になり、

最初の魔女よりも強くそれが落とすグリーフシードは最初の物より品質が悪い。

366: ◆2DegdJBwqI 2013/03/08(金) 10:47:17.04 ID:TcJWEJwx0
グリーフシードの元となるソウルジェムの本来の役割は

物質化された魂を保護する外殻となる事であるが、

変質する度にその機能は損なわれてしまい

結果として感情エネルギーを最初より内に含む事が困難になる為だ。

多くの新米魔法少女がグリーフシードの再利用を企み痛い目を見る。

そして使用済みのグリーフシードは大人しくインキュベーターに渡されるようになり、

そこから溜まった感情エネルギーが回収される。

結局魔法少女には新しい魔女を倒し続けるしか生き延びる術は残されていない。

戦う事の出来なくなった魔法少女に残される道は自分の命を断つか、

魔女となり周囲に災いをふりまきそして他の魔法少女の「餌」になるかを選ぶ事だけ。

367: ◆2DegdJBwqI 2013/03/08(金) 10:49:39.51 ID:TcJWEJwx0
戦う事しか許されない。だから皆戦い続ける。

そして誰もが最後には絶望に足をとられて破滅する。

もしもその宿命に少しでも多くあらがう事が出来る者が居るならそれは強者しかいない。

果たしてマミにその資格があるだろうか?

マミのソウルジェムが無事に元の山吹色の美しい輝きを取り戻した。

マミは汚れを吸わせたグリーフシードがもう使用出来るぎりぎりであることを確認すると、

インキュベーターの名を呼んだ。

「キュゥべえ!」

キュゥべえがどこからともなく現れる。

彼らは常日頃から魔法少女のそばにいるという訳ではなく、

例えばこういうグリーフシードを使い終わった時などを敏感に察知して現れる。

368: ◆2DegdJBwqI 2013/03/08(金) 10:57:21.53 ID:TcJWEJwx0
「やあ、マミ。今回はいつもよりやけに消費が早いね。何かあったのかい?」

「……ちょっと、ね」

マミが言い淀む。正直に話した所でキュゥべえに信じて貰えるかわからないからだ。

それにマミ本人も昨日のアレが実際何だったのかあまりよくわかっていないというのもある。

キュゥべえはマミの煮え切らぬ態度に首をかしげたがそれ以上深く追及する事は無かった。

キュゥべえが使用済みのグリーフシードを回収して立ち去ろうとする。

「あ、ま、待って!」

「どうしたんだいマミ?」

「きょ、今日泊まっていって欲しいんだけど……」

これはキュゥべえとマミの間で交わされる毎度毎度の決まったパターンの様なものであった。

キュゥべえが自分からマミの家に泊まりに来てくれた事は一度だって無い。

しかし今まで泊まっていってと言われ断った事も一度も無かった。

369: ◆2DegdJBwqI 2013/03/08(金) 11:02:16.84 ID:TcJWEJwx0
自然キュゥべえに自分の家で暮らして貰いたいなんて事まで考えているマミが、

キュゥべえと顔を合わせるごとに泊まっていってと誘うという奇妙な関係が出来あがっていた。

「ごめんマミ。今日は忙しくてその頼みは引き受けられそうにないんだ」

だけど今日はいつもと少し様子が違っていた。

「そう……」

思わぬ拒絶に露骨に落胆するマミ。しかし健気にも気持ちをすぐに切り替えようとする。

泊まっていってくれないという事ならどうせしばらく会えなくなるでしょうし、

今の内に私の身体に何かおかしな事が起きていないか聞いておかないと。

「ねえキュゥべえ、私の身体に何か異変とか見当たらないかしら?」

「異変?ボクの目には君が健康で何もおかしな所は無い様に見えるよ」

370: ◆2DegdJBwqI 2013/03/08(金) 11:06:32.77 ID:TcJWEJwx0
キュゥべえが言うなら大丈夫に違いない。マミは少し安堵した。

きっとアレは私の体内に入って魔法少女としての免疫か何かにやられたのでしょう。

それに治療魔法も掛けておいたもの。異常なんてあるはずないわよね。

マミは自分を襲う不安と危機感からわざと目を逸らした。でも一応最後に念を押しておく。

「特に右胸なんだけどね、何だかちょっと痺れちゃって……」

「それは不思議だね。ボクの目にはどこにも異常は見当たらないよ。

何かおかしな所があったらボクにはわかるはずなのに。

まあ少なくともボクの目が正しければいつも通りの君の胸だ。

もしかしたら痺れの原因は何か精神的な物かもしれないね」

371: ◆2DegdJBwqI 2013/03/08(金) 11:07:05.08 ID:TcJWEJwx0
精神的……やっぱりあれは夢だったのかしら?

そんなはずはないのにマミの思考は徐々に自分にとって都合の良い方へと流れていく。

「ありがとうキュゥべえ。じゃあまたね」

「またねマミ」

キュゥべえが現れた時と同じように唐突にその場から居なくなった。

372: ◆2DegdJBwqI 2013/03/08(金) 11:09:22.58 ID:TcJWEJwx0
~☆

「さあ今日のマミのお弁当は何かなー?」

「アンタまたマミにおかず分けて貰う気でしょー」

「ええー、良いじゃんちゃんと交換してるし。自分だっておかずのわけっこに参加してる癖に」

「アンタは明らかに取り過ぎなの!」

「ふ、二人とも落ち着いて……」

クラスメイトとの昼食。マミにとって学校での時間はとても大切な物だった。

自分がいったい何を守る為に戦っているのかを再認識できるし、

同年代の子達とこうやって仲睦まじく話す事が出来るのもこういう時だけだからだ。

マミが鞄からお弁当を出して机の上に置く。

「え……?ちょ、ちょっとそれ多くない?おかずのわけっこ前提って事?」

「うわ……凄いね。これ一人で食べるの?」

二人が同時にほぼ同じ内容の言葉を口にする。

373: ◆2DegdJBwqI 2013/03/08(金) 11:11:12.81 ID:TcJWEJwx0
「え?」

言われてみれば確かにいつもよりだいぶ量が多い。マミも不思議だった。

毎日朝の時点でだいたいお昼にはこれくらいお腹が空くだろうと見当をつけてお弁当を詰める。

事実今この量を一人で食べる事に何の抵抗も湧いてこなかった。

いつもだったらいくら魔法少女として体力を使うからと言ってこんなに食べれる訳はないのに。

「い、いつもマミの食べる量は人よりちょっと多いなーとは思ってたけど

ついにフードファイター目指し始めたって事?」

「そんな訳無いじゃない!」

つい大きな声を出して言われた事を否定してしまう。

何だか遠回しにそんなに食べると太ると言われたようでマミは少し傷ついた。

ただでさえ毎日の紅茶とケーキのせいで体重には人一倍気を使っているというのに。

しかし相手はそういうつもりで言った訳ではなかったらしい。

374: ◆2DegdJBwqI 2013/03/08(金) 11:16:31.05 ID:TcJWEJwx0
「いいなー食べた分の養分が全部胸に行くんだろーなー良いなー」

「素直に大きな胸が羨ましいって言いなよ」

「それはなんか自分に負けた気がするからやだ」

「なにその訳わかんない理屈」

妙な方向にずれ始めた二人の会話に耳を傾けながら、

マミは黙々と弁当を食べ進めて居た。

食事をしている時は黙って今日一日の恵みに感謝して食べる。

マミは行儀のいい娘であった。

マミがこの二人から食いしん坊マミのあだ名?

で呼ばれる様になる未来はそう先のことではない。

375: ◆2DegdJBwqI 2013/03/08(金) 11:18:33.16 ID:TcJWEJwx0
~☆

放課後、マミは町中をパトロールしていた。

本当はマミも一日くらい友達と放課後思い切り遊んでみたいと思う事がある。

というより実際しょっちゅうそう思っている。

しかしそれは叶うはずのない夢、願望の話だ。

魔女や使い魔は残念ながらマミの都合では動いてくれない。

魔女達は普段「結界」という俗世から隔離された空間に籠っているので

人間達の前に自分から直接出てくる事は無く、

健全に毎日を送っている人に対しては基本無害な存在である。

けれど不安や苦しみといった負の感情によって

心に何かしらの「傷」がついた人達に対しては事情が違う。

376: ◆2DegdJBwqI 2013/03/08(金) 11:23:05.34 ID:TcJWEJwx0
魔女達はそういった心が不安定になった人間に

「魔女の口付け」と魔法少女達の間で呼ばれる物を施す。

そしてそれを受けた者は心の不安定さを極端に増幅され、

その魔女それぞれによって様々の悲惨な最期を迎える事になる。

建物の屋上から飛び降りて自殺したり、

集団自殺を図ったり、

魔女の結界内に招かれ使い魔達に喰い殺されたりなどなど。

基本魔女や使い魔の結界の中もしくはその近くで殺されるという共通点があり、

「魔女の口付け」を受けた本人が自力でそれを解くことは出来ない。

それを未然に防ぐ事の出来る唯一の手段は、

魔法少女が「魔女の口付け」を施した大元の魔女や使い魔を先に殺す事だけだ。

377: ◆2DegdJBwqI 2013/03/08(金) 11:28:53.88 ID:TcJWEJwx0
つまりマミが友達と一日中遊ぶような事があれば、

それだけ見滝原市内で本来起きるはずの無かった

人が死んだり失踪したりする事件が起こる可能性がぐんと高まる。

戦わなくてはならない。休んでなどいられない。

今日もマミは使い魔が張った結界を見つけた。

ここ数日は魔女の結界を見かけていない。

魔女とはそういう物だ。

短期間に何匹も対処に困るほど発生する事もあればずいぶん長い事見かけない事もある。

378: ◆2DegdJBwqI 2013/03/08(金) 11:31:10.10 ID:TcJWEJwx0
それでも使い魔すら全く見かけない日というのはそれほど長く続くものではないし、

ここ見滝原はたくさんの人間、思いが溢れているので彼らも餌に事欠かない。

魔女たちの数も周囲の地域に比べれば圧倒的に多い。

自然全く戦わずに済む日はそれほど多くなかった。

マミが結界を潜る。結界の中には一般人は普通立ち入る事が出来ない。

入れるのは「魔女の口付け」を受け招かれた者、

魔法少女の資質を持ち運悪くその結界に巻き込まれてしまった者、

そして魔法少女だけだ。

結界の中で使い魔を発見したマミが華麗にステップを踏み変身する。

それを見ていたのは使い魔を除けばたったの「一人」。

379: ◆2DegdJBwqI 2013/03/08(金) 11:33:43.27 ID:TcJWEJwx0
~☆

一日のパトロールを終え帰宅して、

いつも通り入浴しようとしたマミは脱いだ制服に小さな穴が空いてるのを見つけた。

右脇腹のあたりに一つ。

おそらく普通に生活している分には周囲の人は誰も気づかないだろう。

そんな小さな何の変哲もない穴。

マミはそれを虫食いの穴だと判断した。

予備の制服を使えばいいし次の休みに穴を縫ってしまおう。

今日も疲れた。早く寝てしまいたい。

マミはそう考え頭の中からすぐにその穴の存在を放り出してしまった。

しかしそれは虫食いの穴などでは決して無い。それは「覗き穴」であった。

380: ◆2DegdJBwqI 2013/03/08(金) 11:39:56.42 ID:TcJWEJwx0
~☆

真夜中、マミの持ち帰った教科書やノートなどを使い

マミの右胸の「それ」がどうにか学習をしようと苦戦している。

今日は不思議な事がいっぱいあった。

朝の見えも聞こえもしない誰かとマミとの間の謎の会話。

夕方頃のどういう方法を用いたのかわからない一瞬の早着替え。

そして戦闘。計三度同じ様な早着替えと戦闘があった。

「それ」は制服だけではなく、

マミの魔法少女の衣装にも穴を空けこっそり外を覗いていた。

「それ」はマミが先程戦っていた相手について暫く思いを巡らせ、そして思考を放棄した。

アレについてはここにある情報では何であるかの判別は出来ない。

詳しい事は本人に直接聞いてみるしかないだろう。

381: ◆2DegdJBwqI 2013/03/08(金) 11:45:51.41 ID:TcJWEJwx0
しかしその為にはまず私の存在をマミに認めて貰わなければ。

今はどうやってマミと安全に交渉するかを考えるのが一番大切な課題だ。

早着替えの際のマミの動き、

戦闘後のマミの振る舞い、

それと一日中観察したマミの色々な行動などを考慮すると、

マミの不可思議な力にはあの宝石が重要な役割を果たしているに違いない。

指輪状から宝石の形へ、

そして戦闘時には髪飾りに変形する不思議な物質、

それが今マミの枕元に置かれていた。

昨日の失態に懲りたマミが

今日からはソウルジェムをテーブルではなく枕元に置くようにしたのだった。

387: ◆2DegdJBwqI 2013/03/10(日) 08:42:18.03 ID:Bf5gAXmR0
~☆

翌日、昼食時にマミはクラスメイトからちょっとショッキングな話を耳にした。

『ひき肉ミンチ殺人事件』。

昨日見滝原市に暮らすごく普通の家庭で起きた凄惨な事件だ。

その内容は四人家族の妻、娘、息子が何者かに殺害され、

家の中に手足がバラバラの身体の大半がグチャグチャ、

「ひき肉」の状態で散らかされていたという物だ。

現在姿をくらましている夫が

犯行に何らかの形で関わっているのではないかと警察の手により捜索されている。

マミはそのニュースを聞いてまず真っ先に魔女の存在を疑った。

388: ◆2DegdJBwqI 2013/03/10(日) 08:42:55.52 ID:Bf5gAXmR0
彼女としてはごく当然の思考の経過である。

世の中で起こる原因不明の自殺や殺人事件は、

かなりの確率で魔女や使い魔達の仕業なのだ。

だがここまで残虐な事件は魔法少女生活が長いマミにもちょっと記憶に無かった。

これが魔女の仕業なのだとすればよほど手ごわい相手に違いない。

自分という者がありながらこれ程までに惨い事件を事前に防げなかった事をマミは悔やんだ。

とりあえず今日はもっと入念にパトロールをして、

周囲の地域の魔法少女にも注意を促し情報交換をしておこう。

そう考えひとまずは意識を日常へと戻した。

389: ◆2DegdJBwqI 2013/03/10(日) 08:45:45.74 ID:Bf5gAXmR0
~☆

パトロールを終えマミが帰宅した。

疲れからお風呂場に向かう間何度も倒れそうになりながら身体を引きずる。

今日は魔女を二匹倒した。グリーフシードも手に入った。

しかしいくら歩きまわり何人もの魔法少女に話を聞いても、

肝心の『ひき肉ミンチ殺人事件』に関わっていそうな

凶悪な魔女や使い魔についての情報は何一つ手に入らなかった。

家に帰る途中疲労困憊の身体が言う事を聞かなくなって

道端で眠ってしまわなかっただけ幸運という物だ。

どうにか入浴を済ませ、ケーキを食して紅茶を飲み、

ちょっとした日常のてんやわんやを済ませてから

やっとの思いでベッドに仰向けの状態で身体をうずめた。

390: ◆2DegdJBwqI 2013/03/10(日) 08:47:25.85 ID:Bf5gAXmR0
さあ眠ろうとソウルジェムを指輪から宝石の形に変化させ枕元に置く。

その時首元から何か細長い物が伸びた。

「それ」はソウルジェムに巻き付き、

さらにその長さを伸ばし天井に届かんばかりの位置まで

ソウルジェムを掴んだまま上昇し停止する。

マミがどう手を伸ばしても届くはずのない高さだ。

いったい私の身の上に今何が起きたというの?

疲れと混乱でマミの思考は一時完全に停止する。

しかしそんな生ぬるい時間は一瞬にして終わりを告げた。

首元にナイフを突き付けられているような冷たい感触を感じたからだ。

391: ◆2DegdJBwqI 2013/03/10(日) 08:52:38.29 ID:Bf5gAXmR0
マミの脳内も既に手遅れぎみではありながらようやく覚醒し、

事態の把握に努めようと自らの首元を見やる。

すると右の胸元が盛り上がり服の中から目玉が覗いていた。

一昨日の「ヤツ」だ!

マミは「それ」を見た瞬間にそう直感し自分の判断の甘さを嘆いた。

けれどそんな事を今更してみた所でもはや後の祭りでしかない。

「それ」が生まれて初めて肉声を外界に向かって発した。

392: ◆2DegdJBwqI 2013/03/10(日) 08:53:20.89 ID:Bf5gAXmR0
「マミ……これから私はキミと私にとって有益な提案をしたいと思う。

ただし残念ながら君に拒否権は無い。何が何でも聞いてもらう」

首筋に突き付けられた刃物状に変化した「それ」は微動だにしない。

それがかえってマミの恐怖を誘う。

下手な事をすれば容易く首を切り落とされかねない。

マミにはその事が十二分に理解できた。

マミの額を汗が一筋滴り落ちる。

「話し合い」は完全に「それ」のペースの元行われる事となった。

394: ◆2DegdJBwqI 2013/03/10(日) 10:07:56.11 ID:Bf5gAXmR0
~☆

数日後、パトロールを終えてマミが帰宅した。

そのままマミがベッドに倒れ込むと右胸がもぞもぞ蠢き、

服の中から顔を見せた「それ」がマミの身辺を色々世話していく。

風呂を沸かし、食事の支度をし、

明日の時間割を確認しながら鞄の中に明日学校に必要な物を詰め込んでいく。

最後に軽く掃除を済ませてからマミの元に戻ると、

マミはすやすや寝息をたてていた。「それ」がマミの頬を優しく数度叩く。

「マミ、食事だぞ」

「……んあぅ」

マミがまどろみから目を覚まし、自分が呑気に眠っていたという事実を恥じた。

いくら疲れているからといってこんな奴に気を許してしまうなんて。

395: ◆2DegdJBwqI 2013/03/10(日) 10:10:56.81 ID:Bf5gAXmR0
マミは「それ」をまだ信用した訳ではなかった。

「それ」がマミと初めて対面した日から数日しか経っていないのだからそれも当然の事だ。

初めて対面した日、「それ」がまずマミに告げたのは、

私はマミの血液から与えられる養分が無いと生きていけない。

だからマミには私とこれから共生してもらうしかないという内容の話であった。

もしマミが「それ」の要求を拒否するという事ならば、

マミは当然どうにかして「それ」を取り除かなくてはならなくなる。

「それ」はマミに向かって言う。

396: ◆2DegdJBwqI 2013/03/10(日) 10:14:37.50 ID:Bf5gAXmR0
確かに私は君の右胸に寄生している儚くか弱い一生物に過ぎない。

しかし私はマミの右胸部に寄生しているのだから、

マミが行動を起こす前にいとも容易くマミの心臓を貫ける。

となればマミの命は実質私が握っている様な物だ。

私を殺すつもりなら一緒に道連れになるくらいは最低限覚悟して欲しい。

「それ」は明らかにマミを脅迫していた。

「それ」はマミの血液の流れからマミがどういう感情を抱いているか、

例えば「それ」に対しての敵意などを、大体大雑把に把握できる。

「それ」に対してマミが奇襲を仕掛ける事はほぼ不可能であるといってもいい。

397: ◆2DegdJBwqI 2013/03/10(日) 10:23:54.86 ID:Bf5gAXmR0
それでももし、自分の身体は魔力でかなりの場合において再生可能な事をマミが知っていて、

勝負を一瞬で決める覚悟さえあったならば

「それ」を取り除く事はさほど難しい事ではなかっただろう。

けれどマミはその事を知らなかったし、

知っていたとして

自分が僅かでも死ぬ可能性のある賭けをする踏ん切りは中々付かなかったはずだ。

死にたくない。生きていたい。

この強い思いが今までマミを支えてきた原動力の一つなのだから。

そしてそれは皮肉にもマミにとって『敵』であるはずの

「それ」の行動理念と一致していた。

398: ◆2DegdJBwqI 2013/03/10(日) 10:26:41.27 ID:Bf5gAXmR0
「死にたくない」

そう一貫して主張し続ける生き物を殺そうと考える事は、

たとえ相手が得体のしれない何かであってもマミにとって余り気持ちのいい話ではない。

もっとも当然そんな得体のしれない何かを

身体の内に潜ませたまま毎日の生活を送りたくもない。

マミの「それ」に対するどっちつかずの気持ちは

「それ」に対する態度もどっちつかずの物にしていた。

「それ」はマミにとって自分がただの邪魔な闖入者でしかないのを十分に理解していたので、

これからマミが毎日快適に暮らしていくのをなるべくサポートしていくつもりだと表明していた。

そしてそれが一層マミを悩ませた。

399: ◆2DegdJBwqI 2013/03/10(日) 10:30:59.71 ID:Bf5gAXmR0
そんな訳でここ数日はマミの代わりに

「それ」がどれだけ家事などを行えるのかを実験している状態だった。

「マミ、急がないとご飯が冷めてしまう。後片付けもあるし」

とはいえいきなりこう完璧に身の回りの雑用を

気に食わない相手にこなされるとそれはそれで不思議と腹が立ってくる物で、

マミは精一杯のろのろとベッドから立ち上がり、

食事の用意されたテーブルの元へとゆっくり向かう。

ただの無意味な当てつけにしかならない反抗である。

ある意味マミはここ数年魔法少女になってから一番年相応に子供らしい行為をしていた。

400: ◆2DegdJBwqI 2013/03/10(日) 10:31:33.66 ID:Bf5gAXmR0
マミが「それ」の作った食事を無言で口に運ぶ。

「それ」には味覚は無いし、

養分はマミの血液から摂取しているので食欲という欲求そのものが無い。

なのでマミも最初の内は「それ」に料理など作れる訳はないと思っていたのだが、

存外レシピなど一から教えてみた所それが出来てしまった。

結局マミのしたことを真似ているだけなので予想外の事態には弱いし

まだレパートリーも少ないが、

それでも「それ」は確かにマミが作ったのと同じ味の料理を提供している。

マミは悔しく思いながらも「それ」のスペックの高さにはただただ感心するしかなかった。

401: ◆2DegdJBwqI 2013/03/10(日) 10:34:45.49 ID:Bf5gAXmR0
だけどそれだけに「それ」をこのまま野放しにして

大丈夫なのかという疑問が浮かんでくる。

「それ」が色々な知識を身につけ

成長し手がつけられなくなる前に今の内にどうにかするべきではないのか?

でも「それ」が特別誰かにとって害になるような行動をとった訳ではまだないはずだ。

ところが実際そうでもない。

マミが「それ」にどうして私の右胸部に居るのかという旨の質問をした際、

「それ」は、本当は最初はマミの脳を目指して進んでいたけれど

それに失敗したと回答している。

402: ◆2DegdJBwqI 2013/03/10(日) 10:35:33.28 ID:Bf5gAXmR0
「それ」の記憶は脳にたどり着けなかったという

後悔の気持を抱いた所から始まっているので、

どこからやって来たのか、

どうして人間の脳を奪おうとしたのかについてはわからなかった。

しかし「それ」の話した内容だけを考慮しても

マミにとって状況はかなり危険な物であった事がわかる。

もしあの時眠りから目を覚まさないままだったとしたら……。

マミの「それ」への色々な物が入り混じった複雑な恐怖は

二人の間に明確な「壁」を形作っていた。

403: ◆2DegdJBwqI 2013/03/10(日) 10:39:58.73 ID:Bf5gAXmR0
「マミ、そろそろお風呂にしよう。身体は自分で洗うかい?」

「当たり前でしょ!」

マミは憤慨した。

せっかく人が湿っぽい気分で物想いにふけっていたというのに全て台無しだ。

場を和まそうと冗談で言っている訳ではないらしい。

いくら「それ」に性別が無いからといって

この年で誰かに身体を洗われるなんて恥ずかしすぎる。

全く常識という物が無いんだから。

デリカシーが無くて時々大真面目で冗談じゃないのかと思わず疑ってしまう事を言う。

なんだかまるでキュゥべえみたいじゃない。

マミは自分の頭の中に浮かんだ考えを慌てて打ち消す。

404: ◆2DegdJBwqI 2013/03/10(日) 10:49:36.59 ID:Bf5gAXmR0
こいつとキュゥべえは全然違う。キュゥべえは私のお友達なんだから。

こいつのペースに乗せられてはダメ。

私にはこいつが人類にとって危険な存在であるか警戒し確認する義務がある。

こいつは友達なんかじゃない。だから今の所は情も何も湧いていないはず。

冷静に判断し、もしもの時は解決策を模索しなくてはならない。

大丈夫、私は何も乱されてなんかいないわ。今日も日常通りな一日だったはずよ。

しかしマミは気づいていなかった。

その日既にマミは自分がうとうと寝てしまったせいではあるとはいえ、

帰宅後入浴しその後にケーキと紅茶を飲む毎日の習慣と食事の順番を入れ替えていた事に。

409: ◆2DegdJBwqI 2013/03/12(火) 14:31:30.35 ID:cqpJJqti0
~☆

マミがぐっすり眠りに就いた後、

「それ」は一人物想いにふけっていた。マミの不思議な力についてだ。

マミからの証言、それと「それ」が自分でも本を読んだりなどして調べた結果、

マミの『力』は一般的な常識の埒外にある力の類だという事がわかった。

これは彼自分の身を守るのに大いに役立つ力だ。

何しろ寄生している「それ」にとって人間部分は普通弱点にしかならない。

しかしマミは傷ついた身体を自分の『力』で再生できて、

しかも自衛の手段まで備えている。

まだ現時点で一人も出会った事はないが、

おそらく世界のどこかに居るであろうと「それ」が考え、

実際世界中に散らばっている同胞達のほとんどはこの『力』を知らないはずだ。

410: ◆2DegdJBwqI 2013/03/12(火) 14:33:04.79 ID:cqpJJqti0
もし彼らの誰かと万が一何らかの原因でいざこざを起こしてしまっても、

「それ」は一対一なら負ける気がしなかった。

先手をとれさえすれば負ける可能性はほぼ無い。

相手の知らない攻撃や回復の手段を有しているというのはかなりの強みだ。

脳を奪えなかったという失敗に目をつむり、

自身の生命の保存という点だけ考慮すれば、

マミの右胸に寄生したのは「それ」にとってかなり幸運な出来事だった。

一人暮らしであるが故に、誰かに自分の存在がばれにくい自由な生活が確保されているし、

マミが学生なおかげで自然色々な事について学べる機会が多い。

そして便利な『力』がある。

411: ◆2DegdJBwqI 2013/03/12(火) 14:41:03.91 ID:cqpJJqti0
さらに例えば仮にマミの脳を奪ってしまって居たら、

「それ」はほぼ間違いなくそれほど遠くない未来に生命を落としていただろう。

ソウルジェムはあくまで魂の在りかであって、

普通、人間が外界からの刺激を知覚し思考するのは脳である。

脳を奪った「それ」は一般人と同じでキュゥべえを認識できない。

ソウルジェムの有効範囲外に出ればそこで人間部分が死ぬ。

浄化されず放置されたソウルジェムが汚れを溜め切ってしまえば、

ソウルジェムから魔女が生まれ抜け殻となった身体に残された「それ」は死ぬ。

たとえ何らかの要因で真実にたどり着き、

グリーフシードを集めようとしても、

結界の入り口を知覚する事が出来ない。

「それ」は死ぬ。

412: ◆2DegdJBwqI 2013/03/12(火) 14:42:16.26 ID:cqpJJqti0
魔法少女に寄生して生き延びる唯一の術は脳を食らわずどこかに寄生するしかない。

最も魔法少女に寄生するデメリットが無い訳ではないし、

現時点で明らかになっている事実からして既に事態は深刻だった。

「それ」やマミにとって魔法少女の『力』がいくら便利であっても、

結局それは彼らにとって原理のわからぬ未知の力である。

現実で普通起こり得ない事象を引き起こす魔法という『力』。

ならばその力の源は何なのだろう。

マミはそれを魔法だからと無批判に受け入れたが、

「それ」は魔法をそのまま曖昧なままにして済ますのをよしとしなかった。

413: ◆2DegdJBwqI 2013/03/12(火) 14:46:04.80 ID:cqpJJqti0
「それ」は考えた。魔法を使うとソウルジェムが濁る。

つまり魔法の源はソウルジェムのはずだ。

でもそうなると普通に日常生活を送るだけでも

ソウルジェムは徐々に濁っていくというのが問題になってくる。

マミによれば何か辛かったり悲しかった事があるとより濁りやすくなるらしい。

どうして魔法を使わなくてもソウルジェムは濁ってしまうのか?

わからない。情報が不足している。

マミはキュゥべえという存在に願い事を一度叶えて貰うという

『契約』を交わし魔法少女になったと言っていた。

この契約の内容がはっきりしない。

414: ◆2DegdJBwqI 2013/03/12(火) 14:50:10.61 ID:cqpJJqti0
ソウルジェムが完全に濁ってしまえばどうなるのかとマミに聞いてみると、

彼女は二度と魔法が使えなくなると答えた。

キュゥべえがそう言っていたらしい。

ならばマミは普段の生活で無意識にどんな魔法を使っているというのだろう?

それにただ魔法が使えなくなるだけだとしたら、

かつて魔法少女だった女性が世の中に相当数居るはずなのだ。

彼女達は今何をしている?この問題はこれに限った話ではない。

どうして魔法少女に関する情報が色々調べてもここまで綺麗さっぱり見つからないのか。

皆自分の命は大切なはずだ。なるべく自分の生命を長らえさせようと努めるだろう。

魔法が使えなくなった魔法少女がそのまま生き残るとしたら、

かなりの数の元魔法少女と魔法少女が現在世の中に居るに違いない。

415: ◆2DegdJBwqI 2013/03/12(火) 14:53:05.62 ID:cqpJJqti0
そしてその全員が揃いも揃って口を噤む?

そんな都合の良い話が本当に現実で起こり得るのだろうか。

魔法が使えなくなると魔法に関する記憶もすべて消去される?

わからない。

ただ一つわかるのは、

そのキュゥべえという存在が明らかに情報を小出しにしているという事実だけ。

普通に生きているだけでも絶対に消費せざる負えない物とは何だ?

マミ自身のエネルギー、生命力ではないだろうか。

もしかしたら魔法の元になっているのはマミの生命力なのかもしれない。

つまりソウルジェムが濁り切ってしまえば……。

416: ◆2DegdJBwqI 2013/03/12(火) 14:54:25.20 ID:cqpJJqti0
魔法少女で居られなくなった者が皆死んでしまうという事なら

世の中に魔法少女についての存在が全く知られていないという事にも少しは納得がいく。

記憶の消去か、死か、はたまた別の何かか。

真実は別の所にあるが「それ」にとって重要なのはそこではなかった。

重要なのはソウルジェムが実際に濁りきる、

もしくはそれを近くで目撃するまで

どうなるのかいくら考えてもそれは所詮推測の域を出ないという事だ。

マミのソウルジェムを必要以上に濁らせる訳にはいかない。

そしてそれこそが「それ」にとって困難な今後の最重要課題だった。

417: ◆2DegdJBwqI 2013/03/12(火) 15:00:53.65 ID:cqpJJqti0
「それ」はまだここ数日その様を観察しただけだが、

マミの戦い方には重大な欠陥がある。『燃費』の悪さだ。

おそらくマミは見滝原の様な魔女が豊富な場所以外で今の様に暮らしていたとしたら、

とっくにグリーフシード不足のせいでソウルジェムを完全に濁らせていただろう。

不足を解決する最も簡単な方法は使い魔を倒さずに育てればいい。

そうすればやがてグリーフシードを孕む魔女となる。

しかし「それ」は使い魔を倒す現在のマミの方針に反対するつもりはなく、

むしろ賛成する立場であった。

これ以上一日における魔女との死闘の回数が増えれば

マミは疲弊するばかりで却って肉体的、精神的によくない。

418: ◆2DegdJBwqI 2013/03/12(火) 15:06:34.78 ID:cqpJJqti0
時には間引くことも必要だ。十分にグリーフシードはある。

問題となるのは手に入れたグリーフシードの使用量をどう節約するか。

例えばマミは一匹の魔女を倒すのに15の力で倒せるとして、

それにたどり着くまでの間に1から3で倒せる使い魔達に3から7の力を使ってしまう。

これでは無事に倒せるにしても非常に魔力がもったいない。

けれども「それ」が忠告した所で無意味だ。

マミは「それ」を信頼していない。

自分の戦い方について何か言われたとして気分を害すだけだろう。

「それ」は眼前の『資料』のページをめくった。

その資料はマミが魔法少女になってからずっと書き続けてきた戦いに関する記録だ。

そこから読み取れるのはいかに発生した魔女や使い魔を迅速に見つけて倒すかへの苦心、

そして「戦い方」への執念。

419: ◆2DegdJBwqI 2013/03/12(火) 15:17:50.80 ID:cqpJJqti0
自身の魔法の性質についての研究、

戦った魔女の記録、

魔女や使い魔が居た場所と時間帯、

全てのページから魔女や使い魔を根絶しようとする彼女の意識が感じられる。

それはまさに彼女の『正義』の軌跡そのものだった。

一見そこには何も悪い所は見当たらないように見えるがそうでもない。

そこにはただ「現れる魔女や使い魔を倒すという意識しか」ないのだ。

その『正義』は一般人達の目に留まる事は無い。

だからこそマミは余計その形に執着する。より完璧を目指す。

自身の身を削れば削るほど、

自分がどれだけ『正義』に身を捧げているかが実感出来る。

420: ◆2DegdJBwqI 2013/03/12(火) 15:19:49.88 ID:cqpJJqti0
それはマミにとって大きな満足を生むのと同時にとても危険な事だ。

自分を大切にする意識が足りない。

生き延びようと足掻く意志が薄弱である。

それはただでさえ死と隣り合わせであるマミを死へとより近付ける。

大ベテランであるマミを脅かす魔女は資料を見る限りここ最近ほとんど現れていないらしい。

けれどそういう魔女がマミの前にいつ現れるかなんてわかったものじゃない。

現れてしまえばその時マミの命運を決めるのは対応力、そして魔力の残量だ。

他にも例えば、魔女を近辺でしばしの間見かけなくなり、

使い魔ばかりが出現するようになったとして、

どうしてもグリーフシードが足りなくなってしまえば、

使い魔を養殖するか隣町などの魔法少女から借りる、又は奪うしかなくなる。

マミはその事をよしとしないだろう。

421: ◆2DegdJBwqI 2013/03/12(火) 15:24:41.93 ID:cqpJJqti0
なるべくそうならないように努めたからといって

絶対そうならないという訳ではもちろんないが、

出来るだけそういう事態は避けられるように行動していかなくてはならない。

となるとやはり、より安全に長生きしようと思うなら

限界まで魔力を節約していく必要があった。

予想外の事態が起きてしまってからでは遅い。対策は事前に建てておくべきだ。

そうは言っても「それ」が強引にマミに自身の意見を押しつけることは出来ない。

下手に刺激してマミの精神を動揺させたり、

マミと敵対してしまうような事があれば本末転倒だ。

どうやったらマミに自然と戦い方の改善を要請できるほど

マミとの間に信頼関係を築く事が出来るだろうか。

「それ」は頭を悩ませたが

その問題が一日二日で解決するような物ではない事だけは確かだった。

428: ◆2DegdJBwqI 2013/03/15(金) 14:06:15.17 ID:k48EVrjK0
~☆

数日後、マミは「それ」と共に街中をパトロールをしていた。

ここ暫くずっとマミの頭を悩ませている問題がある。

近頃世間を騒がせている『ひき肉ミンチ殺人事件』についてだ。

その波は国内どころか国外にまで広がっており、

被害者は増加するばかりだというのに犯人の影も形も見当たらない。

確実に魔女一匹が起こす事件としてはその規模が大き過ぎた。

しかしたとえ魔女が関係していなかったとしても、

町の平和を脅かす存在を野放しにしておく訳にはいかない。

けれど解決しようにもその事件に関する手掛かりがどこにあるのか皆目見当がつかない。

429: ◆2DegdJBwqI 2013/03/15(金) 14:07:19.66 ID:k48EVrjK0
ならばキュゥべえに聞けば何か情報をくれるかもとマミは考えてみたが、

キュゥべえは何やら曖昧な言葉を返すばかりだった。

今日も事件の手掛かりは見つかりそうにないわね、

そんな事を考えながらマミが足を止める。

人気のない場所に使い魔の結界を発見したマミであったが、

『ひき肉』の事で頭が一杯な彼女は多少注意力散漫といった様子であった。

それだけに胸元で突然「それ」があげた大声に酷く驚かされた。

「マミ!同種だ!同種が近くに居る!」

「えっ!?何!?同種!!?」

「初めてだがわかるぞ。脳波の様なものを感じる。ここから直線にして約300メートルだ」

430: ◆2DegdJBwqI 2013/03/15(金) 14:08:51.92 ID:k48EVrjK0
同種、その言葉はマミをひどく動揺させた。

「それ」はマミの脳を奪おうとして失敗したからこそ右胸にいる。

だったら脳を奪うのに成功したであろう「それ」の仲間は……?

「ま、まずは近くの使い魔をどうにかしましょう。人命を優先すべきだわ」

マミがそそくさと結界を潜ろうとする。

しかし袖から顔を出した「それ」が近くの電信柱に巻きついて動こうとしない。

「ちょ、ちょっと何してるのよ!行くわよ!」

「駄目だ。ここで同種との対面を逃がせば次いつ遭遇出来るかわからない。

私も君も、私という存在がいったい何なのかより正確に把握する必要がある」

急遽行われた話し合いの末、

こっそり使い魔に気づかれぬよう結界の中を覗いて、

一般人が巻き込まれていない事が確認出来たら

ひとまず「それ」の同類の元へ向かう事で二人は合意した。

431: ◆2DegdJBwqI 2013/03/15(金) 14:11:47.02 ID:k48EVrjK0
~☆

「それ」の同種は普段人が立ち入らないであろう廃墟にいた。

発展目覚ましい見滝原市だったが、

開発ばかりが進んでいて町のはずれにはこういう寂れた光景が珍しくない。

「ふー。ふー。ふー」

マミは何度も深呼吸を繰り返す。

この建物に足を踏み入れればすぐに「それ」の同種の姿が視界に入ってくるはずだ。

大丈夫、だって私は日々魔女っていう怪物と戦ってるじゃない。

怖がってちゃダメ。怖がる必要なんてない。マミは必死で自分を鼓舞していた。

そしてマミが目を瞑りながらではあるが

意を決して建物に足を踏み入れた瞬間「それ」が呟いた。

「どうやら食事中らしいな」

432: ◆2DegdJBwqI 2013/03/15(金) 14:12:38.47 ID:k48EVrjK0
「え?」


嫌な音がマミの耳をざわりざわりとくすぐる。




ぐじゅる……。ぐじゅる……。




ボリボリ、ガリ、ガリガリガリガリ。




その音がつい気になって、マミは不用意に目を開けてしまった。


無防備なマミの目に「食事」の様子がしっかりと映し出される。

433: ◆2DegdJBwqI 2013/03/15(金) 14:15:08.90 ID:k48EVrjK0
「あっ……。あ……。ああっ……あぁ……」

マミは自分の目に映る光景に小さなうめき声を上げる事しか出来ない。

一瞬マミは地獄に足を踏み入れたのかと思った。

間違い無い。あれが本来の「それ」の完成系。私がなっていたかもしれない姿なんだ。

あの化け物の首から下は人間だなんて信じたくなかった。

「かれ」の人間の顔、頭にあたる部位は大きく前方へと引き伸ばされていて、

顔面の中心にあたる部分からそれぞれ八つに裂け、

その裂け目は側頭部にまで広がっている。

別れた八つの部分の内側には鋭利な牙が生えており、

それらで包み込むように獲物である人間の身体にかじりつき肉だけでなく骨ごと咀嚼する。

434: ◆2DegdJBwqI 2013/03/15(金) 14:15:58.73 ID:k48EVrjK0
現在食事は上半身の四割方まで進んでいて、

いまだ食べ残され身体とかろうじて繋がっている右腕がだらりと下向きに垂れていた。

「かれ」と捕食されている人間どちらも血まみれである。

その血は彼らの足元を赤く濡らしていた。

「かれ」の長い舌が獲物の身体を滴る血を舐めとる。

「かれ」の口の中、といってもそれは頭部のほぼ全体であるが、

そこは一面人間の口の中と同じ綺麗な赤色をしていた。

そこに今新しく血の赤が混じる。



ぺちゃぺちゃ……。ぺちゃぺちゃ……。

435: ◆2DegdJBwqI 2013/03/15(金) 14:18:38.40 ID:k48EVrjK0
「おっ、おっ、おええええええぇ」

たまらずマミが胃の内容物を地面に吐きだした。

食事に夢中だったらしい「かれ」もマミに気づいてマミの方に顔を向ける。

「……人間だと?」

「かれ」はおどろおどろしい「赤い花」が咲いている様に見えなくもない

食事用の形態をとるのをやめ、広げた「口」を一度閉じた。

完全に人間の顔の形に戻した訳ではないが、

それは「かれ」が黙ってそのまま食事を続けるという意思を無くした事を意味する。

436: ◆2DegdJBwqI 2013/03/15(金) 14:19:33.53 ID:k48EVrjK0
「かれ」が食べかけの「肉」を地面に放り捨てた。

ドサリと音を立てて地面に転がる肉。

マミはその一部始終から目を離す事が出来ない。

ソウルジェムがじわりじわりと濁る。

そうこうしている内に「かれ」の顔に今度は縦の切れ目が数本走る。

攻撃態勢に移行するのだ。

変形の末「かれ」は左右に一本ずつ触手を伸ばす形態を選んだ。

触手の先端は人間の身体など容易く一瞬で両断可能なほど鋭く尖らせている。

437: ◆2DegdJBwqI 2013/03/15(金) 14:23:30.86 ID:k48EVrjK0
「なるほど脳を乗っ取るのに失敗したのか、

無様だな。……しかしこいつは危険、危険だ」

「マミ!逃げろ!こいつはきみを殺す気だ!」

マミを促す「それ」の叫びがしっかり耳に届いているのに、

マミは足をガタガタ震わせ、目をカッと見開くばかりでその場から動こうとしない。

完全にパニック状態に陥っている。

当然「かれ」はマミの都合など考慮してくれない。

ゴムのように伸縮自在で強靭な触手の性能をフルに生かし、

刃物状の先端を二本それぞれ別角度から目にもとまらぬ速さでマミに向かって突き出した。

438: ◆2DegdJBwqI 2013/03/15(金) 14:24:25.67 ID:k48EVrjK0
しかしその一撃を予測していた「それ」が

マミの右腕の袖から二股に分かれながら自身を伸ばし、

先端を硬化させて左右両方の攻撃を防ぐ。

ガキィンと金属音とは異なる衝突音が建物の中に響いた。

「マミ!何をしている急げ!死にたいのか!走れ!走るんだ!」

死にたいのか。その一言にマミはびくりと体を震わせ、

無我夢中で「かれ」に背を向け走り出した。

今彼女の脳内には死にたくないという本能と、

「かれ」に背を向け逃げる為に全力で走るという意識しかない。

けれどこの状況下においてはそれで十分だったしそれ以上はかえって余計だった。

439: ◆2DegdJBwqI 2013/03/15(金) 14:27:50.39 ID:k48EVrjK0
「かれ」も戦闘形態をとるのをやめて

誰かに目撃されても大丈夫なよう人間の顔に戻し、

廃墟の外へ向かって駆け出しマミを追跡する。

普通だったら人間の身体的な潜在能力をぎりぎりまで引き出せる

「かれ」あるいは「それ」の同種に追いかけられ、

無事に人間が逃げ切るなんて事が起こるはずがない。

けれどマミは魔法少女である。

無意識のうちに自分に身体強化の魔法をかけその脚力を強化していた。

魔法少女だったおかげでマミはこの場を無事に生き延びる事が出来た。

もしマミがただの人間だったならば

戦う「それ」の足を引っ張りあっけなくここで死んでいただろう。

ただしその魔法の当然の代償として、

走れば走るだけ徐々にではあるがマミのソウルジェムが濁ってゆくのだった。

440: ◆2DegdJBwqI 2013/03/15(金) 14:30:51.20 ID:k48EVrjK0
~☆

「うぅっ……、うっ……、はぁ、はぁ、はぁ、うえぇええええぇ」

本日二度目の嘔吐。

一旦「かれ」と距離をとり状況が落ち着いてくると、

ただでさえ良くなかったマミの精神状態がさらに悪化した。

逃げている間は走る事だけを意識していればよかったが

状況が落ち着いてくればそうもいかない。

どうしても何か考えてしまう。

あの「食事」風景が目の裏にこびり付いて離れない。

赤、肉、血、口、赤、赤。

441: ◆2DegdJBwqI 2013/03/15(金) 14:32:07.30 ID:k48EVrjK0
自分と同じ人間が何者かに捕食されている

その生々しい光景はマミにはとても耐えがたい物だった。

それにあそこまで露骨に見せられたら馬鹿にだってわかる。

あれが各地で起こっている『ひき肉ミンチ殺人事件』の真実なのだと。





つまりミンチにされた被害者は皆食べ……。

442: ◆2DegdJBwqI 2013/03/15(金) 14:35:26.08 ID:k48EVrjK0
「げほっ、ごほっ、あぇ、うぁ、あぁ」

吐き気は幾らでもこみ上げるのにマミの口からは何も出てこない。

既に胃の中身を全て吐きだしてしまったのだ。

これ以上何かを吐き出すとしたらそれは胃液だろう。

無理もない。マミは今日これまで生きてきた中で一番恐ろしい状況を目にしてしまった。

確かにマミは今までに何度も散々な目にあってきている。

家族を事故で失い心が裂けるのではないかと思うほど悲しんだし、

それからずっと魔女という恐ろしい存在と命がけで闘ってきた。

だが結局の所マミは人間の「平凡な」死に様を多少見慣れているに過ぎない。

443: ◆2DegdJBwqI 2013/03/15(金) 14:36:58.53 ID:k48EVrjK0
それに彼女は家族の死を受け入れた訳ではない。

目を背け続けているだけだ。

しかもマミは魔女や使い魔によって引き起こされる

どうしようもない現実からも意図的に目を背けていた。

マミが魔法少女として優秀であればあるだけ人々の被る被害は最小限となる。

しかしマミがどれだけ優秀だったとしても全ての人を救う事は出来ない。

多くの人の命を救い続ける事によって、

救う事が叶わず失われていった数少ない命の事を無理矢理にでも頭の片隅に追いやった。

そうするしかなかった。

そうしなければ次は自分が壊れてしまう。

444: ◆2DegdJBwqI 2013/03/15(金) 14:38:51.99 ID:k48EVrjK0
見知らぬ誰かを守る為に必死で戦う事で、

今も誰かが必ずどこかで悲惨な目にあっている、

そういった現実、それに伴う無力感から目を背けていた。

その現実が今突然彼女の眼前に魔女とは別の最悪な形で突き付けられた。

私の知らない所で人がこんな風に無残に殺されていて、

それに対して私は何も出来なかったのだと。

そして成り行きとはいえマミはその場から背を向け逃げ出してしまった。

正義の魔法少女としては絶対にあってはならない行為。

その時点でマミは自分が唯一誇っていた自分自身の価値をどこかに無くしてしまった。

ならばマミはこれからどんな自分の価値にすがって生きていけばいいのだろう?

445: ◆2DegdJBwqI 2013/03/15(金) 14:40:49.91 ID:k48EVrjK0
しかもマミにとって恐ろしいのはそれだけではない。

魔女は人の弱い心に付け入る。

そこには絶望を振り撒く明確な悪意がある。

だがあそこにあったのはただの食事。食うか食われるか、ただそれだけ。

悪意ですらない生存に必須な食欲という暴力に曝され無情にも食い散らかされる人間。

それをするのはかつて同じ人間であったはずの何かなのだ。

首から下はおそらく普通の人間と同じ。

パラサイトが飛来した日マミも一歩間違えればああなっていた。

となると自然マミの頭の中にはこういう考えが浮かんでくる。





もしあの時目を覚ましていなければ正義の魔法少女であるはずの私が人を食べ……?

446: ◆2DegdJBwqI 2013/03/15(金) 14:44:53.72 ID:k48EVrjK0
「マミ、魔法少女の変身を一度解け」

マミは「それ」の言葉に大人しく従う。

こういう非常時の為にグリーフシードを必ず一個は持ち歩いている。

「マミ、ソウルジェムを宝石の形にしてくれないと浄化出来ないのだが」

これにもマミは素直に従う。

マミのソウルジェムの状態は手遅れになるぎりぎり手前といった所だった。

グリーフシードが汚れを吸う。

「どうして……。私はどうしていつも何も……」

マミのソウルジェムは一時ピカピカの状態にまで輝きを取り戻したが、又徐々に濁り始める。

これではきりが無いな。

「それ」はひとまず乱れたマミの精神をどうにかして落ち着かせることにした。

447: ◆2DegdJBwqI 2013/03/15(金) 14:52:24.91 ID:k48EVrjK0
「先程の事はマミにはどうしようもなかった。

今は自分を責め落ち込んでいる場合ではない。

それより今は自分が生き延びる事を考えてくれ。

ヤツは脳が残っていて人間のままのきみに対して異常に敵意を抱いていた。

ヤツは必ず我々を追ってくるぞ」

生き延びる……ですって?

マミにはその言葉がひどく滑稽に聞こえた。

私が今まで努力してきた事は無意味だった。

私がどんなに頑張っても周りには苦しくて辛くて逃げ出したくなる事ばかりだ。

どうして私がこんな目に遭わなくてはならないの?

448: ◆2DegdJBwqI 2013/03/15(金) 14:52:54.95 ID:k48EVrjK0
何者かに貪り食われる。

いったいどれ程の悪事を犯していたとしたら

あんな惨い結末が人としてふさわしい物だと言えるの?

もう疲れてしまった。

私なんてどうせ誰も必要としてくれない。

所詮私ごときには何も出来はしない。

いつまで経っても苦しかったり辛かったりする事は決してこの世界からなくならない。

449: ◆2DegdJBwqI 2013/03/15(金) 14:54:11.73 ID:k48EVrjK0
私もあの時事故で家族と一緒に死んでしまえばよかったんだ。

そうすれば私は一人ぼっちが寂しくて何度も夜に枕を濡らさずに済んだ。

あの時何も出来なかった過去の自分を何度も嘆かずに済んだ。

誰にも心から必要とされない虚しさを意識せずに済んだ。

今こうして己の正義すらまともに果たせぬ自分自身の不甲斐なさに苦しまずに済んだ。

マミのソウルジェムがドロリと濁る。

450: ◆2DegdJBwqI 2013/03/15(金) 14:55:50.94 ID:k48EVrjK0
「もう、良いのよ。私なんかどうせいなくなったって……放っておいてよ」

「マミ、そういう訳には……」

「何よ!あいつの首から下は全部人間なんでしょ!

だったら私があいつを殺したとしたらそれは人殺しと同じような物じゃない!嫌!嫌!嫌!」

「ヤツは人間ではない。私の同種だ。ヤツの首から下も人間ではない。

人間の形をしたただの生きた肉の塊だ」

「うるさいうるさい!どうせ私なんていなくても何も変わらないのよ!

だったらこのままあいつに殺されちゃえばいっそ楽になれて清々するわ!」

451: ◆2DegdJBwqI 2013/03/15(金) 14:57:46.59 ID:k48EVrjK0
死への恐怖。マミをこれまで突き動かしてきた原動力の一つだが、

今それが麻痺してしまうほど

マミを怯えさせる恐怖がマミの心の中に渦巻いていた。

このまま生き続けることへの恐怖。

今を生き延びた所で誰からも必要とされないなら、

自分ですら生きる意味を見いだせないなら

それは無意味に苦しみを長引かせるだけではないのか?

その時「それ」がマミに簡潔に語りかけた。

「自暴自棄になるのはやめてくれ。マミに死なれては私が困る」

「え……?」

452: ◆2DegdJBwqI 2013/03/15(金) 14:59:34.45 ID:k48EVrjK0
マミに死なれては私が困る。

その言葉は精神がボロボロになりもはや擦り切れる寸前だったマミを強く揺さぶった。

私が誰かに必要とされている?

マミは声を震わせながら「それ」に尋ねた。

「私が必要なの……?」

「当然だ。きみから供給される血液が無くては私は死んでしまう。

……きみと短い間だが共に暮らしてきて、

マミが人間を助けるという事に並々ならぬ思いを注いでいるのは良くわかった。

だがそれが可能なのはきみが生きていればこその話だ。

ここで全てを諦めてしまえばきみがこれ以上他の人間を助ける事はもう叶わなくなる。

それはマミにとっても不本意な事だろう?」

453: ◆2DegdJBwqI 2013/03/15(金) 15:02:12.33 ID:k48EVrjK0
「それ」の言葉そのものにマミを説得する力は無かった。

けれど自分の存在が誰かの生命を支えているという事実はマミの胸を強く打った。

元から死にたい訳ではなかった。

ただ自分が生きていても良い理由が見つからなくなってしまった。

誰でもいいから自分を無条件に肯定して欲しかった。

それさえあればそれにしがみついてでも生きていたかった。

死にたくない。

それがマミの心からの願いだったのだから。

454: ◆2DegdJBwqI 2013/03/15(金) 15:03:57.36 ID:k48EVrjK0
「私は生きていても良いの?」

藁にもすがる思いだった。

自分の存在を肯定できる要因は何一つ無かった。

だからすがった。

すがるしかなかった。

たとえ肯定してくれる相手が同じ人間でなかったとしても。

「繰り返すようだがマミが生きていてくれないと私は困る。

今現在きみの命はきみの為だけの命ではない。私の為の命でもあるのだから」

その言葉はマミを踏み止まらせるのに十分足る物であった。

462: ◆2DegdJBwqI 2013/03/17(日) 12:56:33.13 ID:KMolbWvi0
~☆

マミと「それ」は使い魔の結界の前に戻って来ていた。

「本当にここにいればあいつは来るの?」

訝しげに尋ねるマミに「それ」は答える。

「絶対とは言い切れないがかなり高い確率だと思う。

あの廃墟からここまでは約300メートル、

私とヤツが互いを探知出来る範囲にある。

ヤツはおそらく一度あそこに戻るはずだ。

遠くを捜索するほど我々に関する手掛かりはないし

あそこにはまだ食べ残しがある」

「それ」の食べ残しという言い草にマミは顔をしかめた。

しかし今はそれどころではない。

463: ◆2DegdJBwqI 2013/03/17(日) 12:59:01.85 ID:KMolbWvi0
「戦わなくちゃ……駄目なのよね」

「きみが戦わなくては我々が殺されるだけだ」

「……あいつと戦わなくちゃいけないっていうのは私にも頭ではわかってる。

でもそれでもやっぱり私には人間だった者を殺すのは無理かもしれない」

「大丈夫。きみが人の死、人を殺すという事について

非常に強い嫌悪感を抱いているのは私も理解している。

だから直接手を下すのは私がやるから心配いらない。

君は奴の足元に銃弾を撃ち込み、

銃痕からのリボンで敵の両足を引っ張りバランスを崩してくれさえすればいい」

「……ごめんなさい」

いったい何に対しての謝罪であるのか。

それはマミ本人にも良くわからなかった。

464: ◆2DegdJBwqI 2013/03/17(日) 13:02:00.81 ID:KMolbWvi0
~☆

「かれ」がマミ達を見つけ出すのを諦め廃墟に戻ると、

直線距離で約300メートル先に同種の出す信号を感知した。

「かれら」にとって信号の差異で

相手が「誰」なのか個別に識別するのは至難の業である。

それでも今この状況で付近をうろついている

同種の存在など「一人」しか思いつかなかった。

「かれ」が町を駆ける。

たどり着いたのはまるで人気がなく、

視界の開けたまっすぐ長い路地裏。

465: ◆2DegdJBwqI 2013/03/17(日) 13:04:11.24 ID:KMolbWvi0
誘われていたという訳か。

冷静に「かれ」はそう状況を判断したが駆ける足を止める事はない。

ここで奴を殺す。

人間の脳が残った存在、奴は敵だ。危険な存在だ。

「かれ」の目にマミの姿が映る。

先程とは何故か服装が違う。

だがそれ以上に「かれ」を驚かせたのはその手に握られていたマスケット銃だった。

そんな馬鹿な、

日本であの年齢の子供が本物の銃を入手できる機会などどこにある?

はったりか?一瞬足を止めそうになるがそれでも足を止めない。

466: ◆2DegdJBwqI 2013/03/17(日) 13:05:23.28 ID:KMolbWvi0
どちらにせよ叩き落とす。

銃口の照準がこちらの心臓を向いていない。

さしずめ狙っているのは肩先といったところか。

肩に一発何かを当てて怯ませようという魂胆なのだろう。

「かれ」はそう決めつけた。

両者の距離が近づく。

何故この距離で撃たない。

奴の技量が酷いという事だろうか?銃の性能が悪いのか?

それとも私を殺す事を躊躇っているのか?

もしそうだとしたらこの期に及んで相手を殺す事を躊躇うなど愚かにも程がある。

467: ◆2DegdJBwqI 2013/03/17(日) 13:08:52.01 ID:KMolbWvi0
それにたとえ仮にあの銃が本物だとしても

一発くらいなら受けてそのまま押し通れるはずだ。

「かれ」は走りながら戦闘形態に移行する。

するとそれとほぼ同時にマミも「かれ」の方へと向かい走り出した。

マミと「かれ」の距離が急速に縮まる。

「かれ」の触手の射程圏内にマミが入リかけたその瞬間「それ」が叫んだ。

「撃て!」

バァン!

弾丸が打ち出された音と共に「かれ」の足元に穴が開く。

走りながら撃った為に手元が狂ったのだろう、「かれ」はそう思った。

それよりも今は前だ。

468: ◆2DegdJBwqI 2013/03/17(日) 13:09:19.39 ID:KMolbWvi0
触手の射程内にマミが入る。

「かれ」が触手を伸ばした瞬間、

「かれ」の頭の中には

もう通り過ぎた地面に空けられた穴の存在の事など残ってはいない。

あったのは前に居る敵の事だけ。

あの銃をマミの手から叩き落とす事、

「それ」の防御を掻い潜る事、

そしてマミに致命傷を負わせる事。

その時「かれ」の後方、

マミのマスケット銃が地に穿った穴から不意にリボンが伸びる。

469: ◆2DegdJBwqI 2013/03/17(日) 13:12:50.07 ID:KMolbWvi0
リボンは勢いよく「かれ」の両足を絡めとり

そのまま強い力で「かれ」を穴の方へと引きずった。

この状況下で突然後ろから足をとられ引っ張られるなんて夢にも思っていなかった

「かれ」は見事に転倒しズルズルとリボンに引かれていく。

「かれ」が突然の事態に対処できずじたばたもがくが

その間もマミは走るのを止めない。

「かれ」がうろたえ引きずられたのはそれほど長い時間ではなかったが、

この戦いにおいてそれは致命的な時間の浪費だった。

「それ」の一刀が「かれ」を肉体ごと縦に両断する。

美しい切断面から体内の臓器がボトリとこぼれ、露出し外気に触れた。

咄嗟にマミはその惨状から目を背ける。

「かれ」はその後も決死の抵抗を続けたが、

結局何も出来ぬまま数分も経たぬ内にうめき声をあげ「かれ」は絶命した。

470: ◆2DegdJBwqI 2013/03/17(日) 13:22:50.18 ID:KMolbWvi0
~☆

マミが「かれ」の遺体に近づく。

「終わったわね……」

そうポツリとつぶやくマミ。

「終わってなどいない。私が何のために戦いの場にここを選んだと思っている」

え?という顔をしてマミが胸元の「それ」の方へと顔を向けた。

「後始末さ。このままでは死体が残る。

ヤツの死骸から私という生物の存在が人間側にばれるのは看過できない。

使い魔の結界に死体を放り込んで、

使い魔を全て倒し結界を閉じる。こうすれば今日起きた事は全て闇の中だ。

それを知る者はマミと私しか残らない」

471: ◆2DegdJBwqI 2013/03/17(日) 13:24:22.03 ID:KMolbWvi0
「そ、そんな……で、でも」

ぞっとした。

これが生まれて初めて出会えた

同種を殺したばかりの者が真っ先に言う言葉なのだろうか?

マミは急に自分が今血も涙も無い昆虫の類と話をしているような気がした。

「いいか、マミ。これはもう既にただの肉だ。

きみが死についてどのような考えを抱いているかは知らないが、

我々は現在、

両者の生存という明確な目的の為共に行動している。

それを目指す中で、

見知らぬ誰かに私という生き物の情報を握られるのはデメリットしかないのだ。

敵の死んだ後までわざわざ配慮してやれるほどのゆとりは今ない。わかってくれ」

472: ◆2DegdJBwqI 2013/03/17(日) 13:25:42.01 ID:KMolbWvi0
敵。その言葉はマミを少し安堵させた。

何故ならその言葉は「それ」はマミの味方であるという事も同時に示しているのだから。

「もう一仕事だ。帰ったら家事やらの雑事は私がしてやるから元気を出せ」

「はぁ……」

容赦なく「それ」が結界の中にブツを放り込んでいくのを余所に、

そちらを見ないで済むよう全く別の方角に目を凝らしながら、

これから「それ」の事を理解し打ち解けていくのは中々骨が折れそうだとマミは思った。

473: ◆2DegdJBwqI 2013/03/17(日) 13:27:13.87 ID:KMolbWvi0
~☆

マミが帰宅した。結界内の使い魔を無事に全て倒した後、

きちんと一日分のパトロールを終わらせてきたが、

あの後他に使い魔や魔女が見当たらなかったのは

心身ともに疲れ切っていたマミにとって幸いだった。

ようやく家に帰って来られたと意識すると、

それまでマミの精神力によって抑えつけられていた疲れがどっと噴出した。

玄関先でふらふら倒れそうになる。

「疲労、特に精神的な物が酷い。

私が家事などを済ませている間一度眠った方がいい」

「そう……させて、もらっちゃおうかな」

家に入り、そのまま靴を適当に脱ぎ捨てた所までしかマミには確かな記憶がない。

ほとんど夢遊病者の様な有様でベッドに倒れ込んだ。

474: ◆2DegdJBwqI 2013/03/17(日) 13:28:04.72 ID:KMolbWvi0
~☆

マミは夢を見ていた。

長い長い道を歩く夢。

最初は両親が隣を歩いていた。

手を繋ぎ三人仲良く歩く。

真ん中にマミがいる。

そんな時間がいつまでも続くと思っていた。

しかしふとした拍子に両親はマミの手を離し脇道に逸れてしまった。

駄目よ。そっちに行っちゃ。

キキィ、ドン。

「誰か……。誰でもいいから……。私を助けて……」

475: ◆2DegdJBwqI 2013/03/17(日) 13:28:55.84 ID:KMolbWvi0
それでもマミは一人泣きながら歩き続けた。

それからは白い妖精さんが周りをうろうろする様になった。

私を心配してくれるのかな?

一人で心細かったマミは何度もその妖精を捕まえようと試みた。

しかしいつも妖精はマミの手をすり抜ける。

いつしかマミは妖精を捕まえる事を半ば諦める様になった。

色々な人達がマミが道を歩くのを遠く離れた道の外側から眺めている。

時には道の中に入ってこようとする物好きな人達もいた。

けれどそれをマミは拒んだ。

私の歩く道に無関係な人達を巻き込む訳にはいかない。

476: ◆2DegdJBwqI 2013/03/17(日) 13:30:11.23 ID:KMolbWvi0
ある時マミは赤毛の少女が後ろを歩いている事に気付いた。

二人は手を繋いで歩きだした。

もう絶対にこの手を離すものか。

一人は怖い。

語りかけても帰ってくるのは静寂だけ。

あんな寂しい思いをするのは二度とごめんだ。

それにマミには自信があった。

今の私は昔の何も出来なかった私とは違う。

今の私は正しい。

今の私には力がある。

きっと私の事を彼女はわかってくれる。

きっと私の事を彼女は必要としてくれる。

きっと私達ならワルプルギスの夜だって……。

477: ◆2DegdJBwqI 2013/03/17(日) 13:30:48.79 ID:KMolbWvi0
突如赤毛の少女が燃え上がった。

絶叫をあげマミの手を振り払い、脇道へ逸れようとする赤毛の子。

駄目よ。そっちに行っちゃ。

マミは彼女を無理やりリボンで拘束しようとする。

しかし少女は手に持っていた槍で迫り来るリボンを切り裂きどこか遠くへ去って行った。

また一人ぼっちになった。

478: ◆2DegdJBwqI 2013/03/17(日) 13:32:58.83 ID:KMolbWvi0
それでもマミは歩みを止める訳にはいかなかった。

ここで足を止めてしまえばもう二度と歩き出せなくなる。

私がここで歩くのをやめれば両親の一生は結局何も生み出さなかったという事になる。

そんなのはごめんだ。

二人の命は私という存在を通して現世とまだ繋がっている。

すべてを投げ出す事は二人をもう一度見殺しにする事と同じだ。

それにマミ本人が一番必要としていた。

全ての悪を薙ぎ払う正義を。

全ての弱者を救済する正義を。

全ての正義すらも屈服させる真実の正義を。

479: ◆2DegdJBwqI 2013/03/17(日) 13:33:49.70 ID:KMolbWvi0
そんな存在はこの世に一人だっていない。

そんなこと誰にも出来はしない。

そんなのおかしい。

そんなの絶対間違ってる。

ならば私がならなくちゃ。

だから歩いた。

泣きながら、

躓きながら、

挫けながら、

喚きながら、

足を引きずってでも、

たとえ這いつくばってでも。

480: ◆2DegdJBwqI 2013/03/17(日) 13:35:12.20 ID:KMolbWvi0
けれど悪戦苦闘の末ついにその道は断たれた。

すべてを投げ出してしまった。

絶望した。

歩くのをやめてしまった。

もう駄目だ。

怖いのも辛いのも苦しいのももうたくさんだ。

「誰か……。誰でもいいから……。私を助けて……」

一人その場にうずくまるマミ。

全てが終わろうとしていた。

そして絶望がマミの足を掴み取ろうとしたまさにその瞬間、誰かがマミに語りかけた。

481: ◆2DegdJBwqI 2013/03/17(日) 13:39:32.07 ID:KMolbWvi0




      「自暴自棄になるのはやめてくれ。マミに死なれては私が困る」




前方から差し伸ばされる手。

マミは半ば無意識にその手をとった。

マミが顔をあげる。




      「あなたのお名前は……?」



482: ◆2DegdJBwqI 2013/03/17(日) 13:42:03.84 ID:KMolbWvi0
~☆

マミが目を覚ました。

お腹がぐぅと鳴る。

顔を赤く染めながら周囲の状況の把握に努めると、

部屋中にいい匂いが漂っていた。

空腹で目が覚めたらしい。

マミはその事を非常に恥じた。

「マミ、目を覚ましたか。

きみの体調を考慮して今日はたまご粥を作ってみたぞ」

たまご粥……?

マミは首をかしげた。

そんなレシピを「それ」に教えた覚えはない。

483: ◆2DegdJBwqI 2013/03/17(日) 13:42:38.27 ID:KMolbWvi0
「どうやって作ったの?私あなたにたまご粥なんて教えてないわよね?」

「料理本に消化に良い食べ物としてのっていたからその通りに作ってみた。

口に合わなかったら残してくれて構わない」

家事スキルを「それ」に追い抜かれるのも

そう遠い未来ではないのかもしれない。

マミはそう思った。

身体をベッドから起こしテーブルの前に座る。

さて、食事にしようか、そんな中マミがポツリと呟いた。

「……あなたの名前、どうしましょうか?」

484: ◆2DegdJBwqI 2013/03/17(日) 13:44:06.99 ID:KMolbWvi0
「名前?」

「ええ、いつまでも名前が無いままだと呼ぶ時に不便だわ」

とびっきりカッコいい名前を考えなくちゃ、

内心そう息巻くマミだったが「それ」は簡潔にこう返した。

「ならミギーで」

「え?」

「右胸を食って育ったからミギー」

「そ、そう……」

そんな名前で本当にいいのだろうか?

マミは少し悩んだが本人がそう言うならそう呼ぶのが一番だろう、

そう考え納得した。

「じゃあミギー、いただきます」

「めしあがれ」

マミがたまご粥を口に運ぶ。

なんというか何の変哲もないたまご粥だった。

485: ◆2DegdJBwqI 2013/03/17(日) 13:46:24.15 ID:KMolbWvi0
~☆

約一ヶ月後、マミは学校でクラスメイトと会話していた。

今は朝のホームルーム前だ。

これぞ日常の一風景、そんな穏やかで平和な時間。

その時右の脇腹がトントントンと三度叩かれた。

マミとミギーの間で決められた有事の際のサインだ。

マミがクラスメイトとの会話を打ち切り、一時廊下に出る。

そしてこっそり小さく首元まで顔を出したミギーと小声で会話する。

「どうしたの?」

「今、私の仲間が校舎の中に入って来た」

「なんですって?」

486: ◆2DegdJBwqI 2013/03/17(日) 13:48:34.45 ID:KMolbWvi0
マミの声のボリュームは変わらない。

それでもその声には冷徹な調子が籠った。

あれからマミとミギーは何匹か『ミギーの仲間』を倒している。

倒したくはない。

しかしそれらは町の人々の平和を脅かす存在、

絶対に許す訳にはいかなかった。

「どうする?相手はまだ我々に敵意を抱いていない。

おそらくマミが脳を残した人間のままである事に気づいていないのだろう。

倒すなら先手必勝だぞ」

「休み時間に一度様子を見に行きましょう。

いくらなんでもこんな人目だらけの場所で騒ぎを起こすほど相手も馬鹿ではないはずよ」

487: ◆2DegdJBwqI 2013/03/17(日) 13:49:26.53 ID:KMolbWvi0
「放課後まで待つのは?」

「どうせどっちでも一緒よ。

私が魔法少女である事さえ知られていなければやりようはいくらでもあるわ。

それより相手がどういう奴なのかが気になる」

「マミは中々好奇心旺盛で好戦的だな」

「放っておいてちょうだい」

痛い所を突かれマミは顔をしかめた。

ミギーに任せれば敵の捜索は可能な事はわかっていても、

それでも自分の目で敵を先に視認しなければどうにも落ちつかなかった。

マミが教室に戻る。

そして真剣に授業を受ける為、頭の中を切り替えた。

494: ◆2DegdJBwqI 2013/03/19(火) 12:07:50.38 ID:D4IGOKXf0
~☆

「あの車椅子に座っている奴がそうだ」

休み時間、

ミギーに案内されるまま「仲間」の居る場所へ向かうとそこは二年生の教室だった。

教室内にミギーの言う条件に当てはまる人間を探すと確かに居た。

というより一人だけが普通の椅子ではなく

移動可能な車椅子に座っているせいでとても目立っている。

「あの男の子が……」

普通の人と比べ外見において変わった所はどこにも見受けられない。

隣に座っている少女と何やら話をしている。

それは日常的なごく当たり前の一風景だった。

マミはかつて人間だっただろう頃の彼を想い胸を痛めた。

しかしミギーがマミの予想に反する事を口にする。

495: ◆2DegdJBwqI 2013/03/19(火) 12:09:57.11 ID:D4IGOKXf0
「あいつ人間としての脳が残っているな」

「え?」

「我々と同じ境遇という訳だ。あちらの場合は失敗して左腕に寄生したようだが」

「え、ええ?」

混乱するマミだったがミギーは冷静なままだった。

二人だけの話を終えたらしく、

問題の少年の車椅子を押しながら

彼の話相手だった少女がマミの方に歩いてくる。

そして廊下に立ち教室を覗き込んでいたマミと

少年を向かい合わせる形になる位置に立つ。

「初めまして、僕の名前は上条恭介です」

そういって椅子の上からにこやかに右手を差し出す上条、

ぎこちないながらもマミはその手をとった。

「え、ええっと……、と、巴マミですはじめまして」

496: ◆2DegdJBwqI 2013/03/19(火) 12:12:25.90 ID:D4IGOKXf0
その時車椅子をここまで押してきた少女が上条の隣に立った。

「そしてこっちが美樹さやか、僕の協力者です」

「は、はじめまして」

緊張した面持ちでマミを見つめるさやか。

「は、はじめまして」

マミが挨拶を返す。

一学年上なはずなのにマミもさやかと同じくらい緊張している。

しばし三人の間に気まずい無言の時間が流れた。

そんな沈黙をまず破ったのは上条だった。

「こんな所で話すには色々と内容がアレですから、放課後どこか別の場所で話しませんか?」

「ええ、わかりました。じゃあそういう事なら放課後私の家に来て貰えますか?」

上条の言葉にマミは即座にそう提案する。

どうやら脳を乗っ取られていないらしい事はわかった。

けれど上条がどういう人間かはまだわからない。

497: ◆2DegdJBwqI 2013/03/19(火) 12:15:30.82 ID:D4IGOKXf0
どうせこうやって顔を合わせた以上身元は嫌でもばれる。

ならばせめて話をするのは自分が勝手を知っている場所でありたい。

マミの提案にはそういう魂胆があった。

上条が頷く。

「わかりました。でも当然巴さんの家の場所がわからないので、

放課後家まで連れて行って貰って良いですよね?」

「じゃあ車椅子を私が押すって事……」

「ああ、それは大丈夫です。さやかに押してもらいますので」

「で、でもこの話を他の人に聞かせる訳には……」

チラチラとマミがさやかの方に顔を向ける。

さやかも何故かその視線から自分の目線を外し下や上ばかり見ている。

「ああ、大丈夫です。さやかは僕の左腕について全部知っています。

さっきも言いましたが彼女は僕の協力者なんです」

全部知っている?ミギーの仲間が誰かに存在を知られる様な危険を冒したというの?

もしそうだとしたらきっとこの「二人」は相当の変わり種ね。

自分達の事を棚にあげマミはそう思った。

498: ◆2DegdJBwqI 2013/03/19(火) 12:18:06.91 ID:D4IGOKXf0
~☆

放課後、

マミの家に着くまでの間に三人は当たり障りのない会話のキャッチボールを繰り返し、

そして結構打ち解けるのに成功していた。

例えば交通事故が原因の怪我で上条はしばらく学校を休んでいて、

今日復学した為マミとこうして接触する事になった話などをした。

そして何事もなく無事マミの家に到着した後、

せっかくのお客様なのでマミが紅茶とケーキを振る舞う。

「ひゃー。マミさんこのケーキめちゃうまっすね!」

「さやか、行儀が悪いよ」

マミの家で出されたケーキの思いがけないおいしさに感激するさやかをたしなめる上条。

それを受け目に見えてシュンとしてしまったさやかを見てマミはつい笑ってしまった。

499: ◆2DegdJBwqI 2013/03/19(火) 12:19:32.07 ID:D4IGOKXf0
「あー!なに笑ってるんですかマミさん!」

「ご、ごめんね、ちょっとおかしくって」

声のボリュームを多少大にするさやかだったが

もちろんその声に怒りの感情は込められていない。

ただのちょっとしたコミュニケーションだ。

その時マミの右胸がもぞもぞうごめいた。さやかがビクリとのけぞる。

「うわっ!」

「ちょ、ちょっとミギー!」

ニョロリとマミの首元からミギーが首?を伸ばす。

「十分に待った。そろそろ話とやらを始めてくれ」

500: ◆2DegdJBwqI 2013/03/19(火) 12:21:22.52 ID:D4IGOKXf0
すると今度は上条の左腕の手の甲に目玉と口が浮き上がった。

「全くだ。交流を深めるのは後にしてさっさと情報交換しようじゃないか」

「マ、マミさんは右胸なんですね」

さやかの顔が若干引きつっている。自然マミの顔も引きつった。

「ええ、ちょっと色々あってね……」

ミギーとヒダリーが今後の話の段取りについて話している。

「まずは両方の今までの経緯からといこうか。どちらから先に話す?」

「そちらからお願いして良いだろうか?

ただしこちらは右胸に寄生した後の経緯はあまり詳しく話せないが」

「……わかった」

501: ◆2DegdJBwqI 2013/03/19(火) 12:24:50.71 ID:D4IGOKXf0
そんな二人の会話をよそにマミ達も勝手に別の話をしていた。

「そういえばさっき巴さんと初めて会った時

どうしてさやかはあんなに萎縮していたんだい?

誰とでもすぐ仲良くなれるのはさやかの特技じゃないか」

「いや、だって、マミさんってボン、キュッ、ボーンって感じでしょ?

見るからに大人の女性の雰囲気があって、

美人でしかも先輩だったからどういう風に接していいのか分からなくなっちゃって……」

「や、やめて!恥ずかしいからやめて!」

顔を真っ赤にしながら手で覆うマミ。

頭をポリポリと掻くさやか。

何を考えてるのかわからない表情を浮かべ座る上条。

二人だけで話を進めようとするミギーとヒダリー。

まさにカオスとしか言いようのない空間がそこに形成されていた。

502: ◆2DegdJBwqI 2013/03/19(火) 12:30:08.17 ID:D4IGOKXf0
~☆

互いに色々な話をした。

上条達は自分達の寄生の経緯とそれからを大雑把に説明した。

ただしどうやって病院を退院したかなどのごたごたについては大半を省いた。

マミ達も寄生の経緯などを話したが、魔法少女の事に触れない様に話をした為、

どうしても上条達より話が曖昧になってしまう。

その代わり、上条達の知らなかった巷を騒がせている

『ひき肉ミンチ殺人事件』についての真相を明かした。

そしてさやかに注意を促す。

絶対に一人で人気のない所を出歩いたりしないようにと。

マミは自分が全てを包み隠さず話せない事から

二人がそれをどう思うかを気にしたが、

二人は別にその事を重要視しなかった。

503: ◆2DegdJBwqI 2013/03/19(火) 12:31:07.22 ID:D4IGOKXf0
事情を全部話せない私の事信じてくれるの?

そう問いかけるマミに二人は口を揃え答えた。

全部聞かなくても、今まで短い時間ではあるけど

一緒に話をしてマミさんが悪い人じゃない事は

わかりますから気にしないでください。

悪い人じゃない。

その評価はマミにとってニコリとしてしまうくらい嬉しい物だったが

同時に苦々しい言葉でもあった。

かつての弟子、

己の願いから全てを失いこれからは自分の為に生きるとマミの元を去った彼女、

佐倉杏子。

人としての道を踏み外した彼女の話は今でもマミの耳に時々入る。

504: ◆2DegdJBwqI 2013/03/19(火) 12:38:22.60 ID:D4IGOKXf0
使い魔にわざと人を襲わせるようなことはしてないようだが、

魔女以外を積極的に倒しはせず使い魔達が育ち魔女になるのを待つ良くいるタイプの魔法少女。

それだけではなく銀行のATMを破壊したりなど数々の悪事、

人を直接傷つけない様々な事に魔法の力を利用し今日もたくましく生きているらしい。

マミの弟子であった頃とは違い、

今となっては彼女もベテランと呼ばれる程長い間魔法少女をやっている。

彼女の姿はもう長らく見ていない、

それでもマミは断言できた、彼女は絶対に悪い子ではない。

それだけにマミは知っていた。

悪い人ばかりが悪い事をする訳ではない。

505: ◆2DegdJBwqI 2013/03/19(火) 12:39:05.30 ID:D4IGOKXf0
人柄だけで相手を判断するのは愚かだ。

力、それをどう用いるかでその人の立ち位置は目まぐるしく変わる。

だからこそマミは最初上条の事を警戒した。

彼が良い人かどうかわからなかったし、

たとえ良い人だったとしても突然手に入れた力は人を誤った方向に進めてしまいがちだ。

色々話をした今ではある程度までは彼らを信頼できていたが、

それでも完全に信じきることはできない。人は時間と共に変わる物だからだ。

そしてこの心構えこそが上条やさやか一般人と

自分との間にある越えられない「壁」なのだとわかっていた。

506: ◆2DegdJBwqI 2013/03/19(火) 12:42:20.76 ID:D4IGOKXf0
もし私が誰かを本当に信じられるなんて事があるとするなら

その相手はきっと『魔法少女』だ。何故なら私もまた魔法少女だから。

誰かを完璧に理解し身を任せる事ができるとしたら

それはその相手と自分が完全に同じ境遇にいる時だけ。

それも契約前から魔法少女について教えてあげられるような事があるともっと良い。

マミは魔法少女という物についてこう考える。

人間誰しも奇跡にすがりたくなる事はある。

そして魔法少女になれば奇跡が一つその人の元へもたらされる。

まるで魔法少女になる事にはメリットしかないみたいだ。

だけど現実の魔法少女はそんなに甘い物じゃない。

507: ◆2DegdJBwqI 2013/03/19(火) 12:44:24.55 ID:D4IGOKXf0
魔法少女になるというのは恋や友達に勉強、

そんな当たり前の物と決別し、恐ろしい戦いに自ら身を捧げる事なのだ。

本当だったら魔法少女になるなんて百害あって一利なし、

願い事が一つ叶う事を考慮しても割に合わない事なのかもしれない。

絶対にその場の勢いでなって良い類の物ではない。

けれどマミは知っていた。魂を揺さぶる渇望を。

生きていたい。自分の正義を成し遂げたい、

一人ではいたくない、誰か私を見て、

どれもマミの心からの望みだ。

自分を焼き尽くさんばかりに己が身を熱く恋い焦す滾る思い。

本当に心の底から叶えたい願い。

それが叶わない事がどれほど恐ろしい事なのかをマミは知っていた。

508: ◆2DegdJBwqI 2013/03/19(火) 12:46:50.75 ID:D4IGOKXf0
それは自分の全てを賭けるに値するものだ。

自分の全てを賭けてもなお後悔しない望みを叶えたならば、

きっとどんなに辛い事があっても歩いて行ける。

何故ならマミ自身があの時仕方なかったとはいえ、

魔法少女として契約し今をきちんと生きていけているのだから。

自分が今この瞬間にたとえどんなに辛く苦しくても立って居られる事、

これがマミにとっては証明だった。

人の思いが未来を切り開く。

もしそうでなかったとしたらそんなの間違ってる。

何年も魔法少女を続けてきた巴マミだからこその矜持、

譲れない思いがそこにあった。

509: ◆2DegdJBwqI 2013/03/19(火) 12:48:39.36 ID:D4IGOKXf0
だからこそ願い事を空費して欲しくない。

未来の後輩には何が自分の本当の望みなのかしっかりと見極めて欲しい。

もう一度願いを叶えるチャンスがあるとしたらマミは両親を生き返らせる事を祈るだろう。

だけどそのチャンスはもうない。

後戻りはできない。

今ある物でどうにかするしかないのだ。

マミの魔法少女についての考え方はこのように、

一見とても厳しい目で見つめている様で、ちょっとした希望の射す隙間がある。

丁度人一人、あるいはマミ自身が通れる程度の隙間。

しかしその隙間を絶えず塞ぐ者がいる。

510: ◆2DegdJBwqI 2013/03/19(火) 12:49:05.39 ID:D4IGOKXf0
『赤い幽霊』がそこに立っている。

彼女は自身の心からの望みを叶えた。

ならばどうしてあんな目に遭ってしまったというの?

それに対してマミはこう考える。

それは道を踏み間違えたからだ。

どこで踏み違えたのかは私にもわからない。

けれど正しい道を歩んでさえいれば大丈夫。

今度は私も間違えない。

あんな事はもう二度と……。

もう二度と……。

511: ◆2DegdJBwqI 2013/03/19(火) 12:51:14.07 ID:D4IGOKXf0
~☆

「何故このさやかという少女に自分の存在をばらす事を承諾したのか、

どういう経緯があったにせよ私にはそれが理解できない」

物想いに耽るマミの意識をミギーの声が突然現実に引き戻した。

ミギーとヒダリーが依然話し合いを続けていた。

「キョウスケがさやかを素晴らしい人間だとあまりにしつこく述べるものだから、

果たしてどんな奴なのか気になったのだ。たいした心酔具合だったよ。

話だけ聞いていたら歴史上の聖人でも出てくるのかと勘違いするくらいだ。

まあ実際会ってみたらさやかだったわけだが」

「ちょっとどういう意味よ」

さやかが抗議の声をあげる。

しかしそれを気にも留めず釈然としない様子でミギーが問いを続ける。

512: ◆2DegdJBwqI 2013/03/19(火) 12:53:35.89 ID:D4IGOKXf0
「興味が湧いた?なおさら納得できないな。

我々の存在を誰かに知られるのというのは、

自分の生命を脅かすリスクがあまりに高すぎる。

他に何か方法は模索できなかったのか?」

ヒダリーは少し考え込むそぶりを見せたがそれでもしっかりとした口調で返答した。

「なるほど、あったかもわからない。

だがキョウスケの足の状態から出来る行動が限られていたのは事実だ。

それに興味関心という物が

キミには自己の生存という目的以上の行動の理由にはならないのだろうが

私にはなりうる。

キミは人間らしく考えてみた事はあるか?

我々、いや、私はなぜ生まれてきたのか。

あるいは自分はどこから来てどこへ行くのかという事をだ」

513: ◆2DegdJBwqI 2013/03/19(火) 12:56:38.20 ID:D4IGOKXf0
「ふーむ」

このヒダリーの返事にミギーは口を閉ざし何かを深く考え込んでしまった。

ヒダリーの言葉を受け考えに耽ったのは人間側である他の三人も同じだった。

何故彼らは生まれてきた?

何故これ程の超生物が人に寄生しなければ生きていけない?

何故人を食らう?

いつまでも続くかと思われた長いその静寂を全く別の切り口で破ったのはさやかだった。

「……ヒダリーはいろんな物の外見、質感をカンペキに真似るよね。

だったら普段のミギーってマミさんの    そのものの柔らかさなの?」

514: ◆2DegdJBwqI 2013/03/19(火) 13:01:33.36 ID:D4IGOKXf0
「そうだが」

肯定するミギー。今更当然の事実だった。

もちろんさやかにとってもそれは確かにわかりきった事実ではあったが、

一度意識してしまうとその事はさやかを悩みの坩堝へと放り込んだ。

マミの中学三年生としてはどう考えても規格外なあのバストサイズ。

なのに右胸と左胸ではそれは事実上別物なのだ。

片方は本物、正真正銘のマミの胸。純国産的な何か。いわゆる未加工物。

もう片方はミギーが完璧に擬態した胸。

職人技が光る食品サンプルという訳ではないが、

少なくともカニといまだかつてない技術で完璧にカニの風味を再現した

カニカマくらいの違いはある。

515: ◆2DegdJBwqI 2013/03/19(火) 13:05:46.44 ID:D4IGOKXf0
昨今色々と整形の是非などが騒がれる中でこれは凄く重要な事なのではないか、

贋作が本物に追いついた場合それはどう扱えばいいのか。

大体こんな感じの事がさやかの興味を著しくそそった。

一度気になってしまうととことん追求しなければ止まれないのがさやかの性分である。

どう扱えば良いかわからないどころか、

実際のミギーが擬態した胸がどういう感じなのかよくわからない。

ならば触ってみるしかないじゃないか。

さやかはそう決断した。

「マミさん!普段の右胸、いえ、ミギーを触らせてください!」

「ええっ!?」

さやかのしょうもない要求に最初は渋っていたマミだったが

さやかのしつこさについに根負けして、

直接私が触らせて貰うのはマミさんの胸じゃなくてミギーだし、

という微妙にわけのわからない理屈に押し切られる形で結局ミギーを触られるのを承諾した。

516: ◆2DegdJBwqI 2013/03/19(火) 13:08:28.62 ID:D4IGOKXf0
「そ、それでは失礼します」

特に断る理由のないミギーは

いつも通りの普段の胸の姿に自身を変形させる。

さやかがマミの前にかがみ込む体勢になり左手をそっと伸ばす。

ゆったりとしてなおかつ断固とした意思を感じさせる

その動きにマミと上条はゴクリと喉を鳴らした。

いざミギーにさやかの手が触れようとしたその瞬間、

さやかの脳裏に稲妻が走った様な衝撃が走る。

私、マミさんの本物の    の感触を知らない……。

これではミギーを触っても本物がどういうものかわかっていない以上、

ミギーを触る事に何の意味もない。

517: ◆2DegdJBwqI 2013/03/19(火) 13:52:57.73 ID:D4IGOKXf0
考えろ、考えるんだ。左胸を今から  せてくださいなんて言う事は不可能だ。

一回だけ、一回だけと辛抱強く頼み込んでの泣きの一回。

今この瞬間の勢いを逃したらマミさんは恥ずかしがってもう触らせてくれないはずだ。

自分のを後から触ってみた所でそれでは大きさが足りない。

それじゃせっかく頼み込んだ意味がない。

考えろ……。考えろ……。

その時、さやかに天啓が下る。

そうか!私にあるのは左手だけじゃない!両手を使えば良いのか!

先程、私が触らせて貰うのはマミさんの胸じゃなくてミギーだし、

と口にした事を都合よく忘れさやかが

優しい手つきで両手をマミの左右の胸にのせ   だく。

「きゃああああああああああああああああああ!」

マミの悲痛な叫びが

幸いきちんとした防音対策が施されている室中に響き渡った。

523: ◆2DegdJBwqI 2013/03/21(木) 13:38:48.28 ID:+TGAmSdv0
~☆

その後皆でなんやかんや時間を過ごして日が傾きかけた頃、

本日の集まりはこれでお開きにする事にした。

マミが上条とさやかを玄関まで見送りに行く。

「お邪魔しました」

「お邪魔しましたー」

二人がマミを見つめる。

当然マミからも別れのあいさつがあるはずだと思ったからだ。

しかしマミの口から出てきた言葉は全く別の物だった。

その言葉はマミが結局今の今まで何だか恐ろしくて言いだせなかった言葉だ。

「ねえ上条君、あなたはヒダリーが怖くないの?」

524: ◆2DegdJBwqI 2013/03/21(木) 13:43:27.02 ID:+TGAmSdv0
「え?」

上条がキョトンとした表情をする。

「だって……、

ミギーやヒダリーの仲間が今この瞬間も

どこかで人間を食べてるのかもしれないのよ?

怖くないの?」

マミは不思議だった。

上条は自分とは違う、ただの一般人だ。

私のように常日頃から死の恐怖に曝されたりはしていないはず。

それなのに今日初めて

ヒダリーの仲間が人間を食っているという話を聞いて

どうしてここまで冷静でいられるのだろう?

何故自分の身体に

そんな生き物を住まわせておいて

そこまで堂々としていられるのだろうか?

上条はマミの突然の質問に困った顔を見せたが

ちょっと間を置き普通に質問に答えた。

525: ◆2DegdJBwqI 2013/03/21(木) 13:45:07.50 ID:+TGAmSdv0
「そりゃ僕もそいつらは怖いですよ。

さやかが万が一巻き込まれでもしたらと思ったら不安でしょうがないです。

でもそいつらとヒダリーは違います。

まずヒダリーには食欲がない。しかも彼は僕の左手で生きている。

わざわざ人間に危害を加えて僕との関係を悪化させる事なんてしないはずです」

そんな事はマミにもわかっていた。

マミを悩ませていたのはそんな些末な問題ではない。

何メートルも離れた人間の身体を視認できないスピードで容易く両断できる、

そんな生物を人間である自分がこっそり体内に飼っている恐ろしさ。

彼が自分の中にいる事を意識すると、

マミは魔法少女である事以上に、自分が普通の人間から遠ざかってしまった実感を覚えた。

526: ◆2DegdJBwqI 2013/03/21(木) 13:48:03.11 ID:+TGAmSdv0
それにマミとミギーは体内で繋がっている。

それがどんな影響をこれからマミにもたらすかわからないし、

その変化は自分では気付けない可能性も高い。

マミが上条に言った

ミギー達の仲間が人を食っている

というのは恐ろしさの理由としてあくまで方便。

マミが本当に恐ろしかったのは自分自身の

「人間らしさ」がミギーの存在によって不安定になっている事だ。

私はミギーの冷めた心情を理解できない。

しかし私もいつかミギーと同じような心の冷めた存在にならないとどうして言い切れる?

彼の冷徹な心が血から脳へと徐々に伝い私の心にもうつるかもしれない。

自分がいつ「人間」でなくなるかわからない恐怖、これがマミを支配していた。

焦れたマミが違う言葉で上条に質問しようとした時、上条が再び口を開く。

527: ◆2DegdJBwqI 2013/03/21(木) 13:50:29.15 ID:+TGAmSdv0
「でもやっぱり、一番重要なのはヒダリーが僕の大切なパートナーだって事ですかね」

「パートナー?」

「ええ、僕の左腕はヒダリーがいなかったら

ヴァイオリンが満足に演奏ができるほど回復しなかった。

彼という存在に凄く感謝してるんです。

それにヒダリーと一緒なら僕は変わって行ける気がする、

だからヒダリーに感謝こそすれ怖いなんて絶対に思いませんよ」

一緒にいる事で自分が変わって行ける。

その発想はマミにとって衝撃的な物だった。

何しろミギーの影響を受け、

変わってしまいたくないとマミはそれまで思い続けていたのだから。

528: ◆2DegdJBwqI 2013/03/21(木) 13:55:34.49 ID:+TGAmSdv0
マミはそれまでミギーを尊重すべき同じ立場にいる一存在として見た事がなかった。

ミギーとの関係は生きていく為に

協力していかざるおえない必要性から生まれた物としか思っていなかった。

確かにマミはミギーに対して最初に比べだいぶ打ち解けた。

ミギーの仲間に人が食われていたあの事件のおかげだ。

ミギーは自分が生きている事を無条件に肯定してくれる。

それに利害関係がはっきりしているのでその点では結構彼の事を信頼もしている。

けれど味方、友達、どのような言葉で装飾した所で、

マミにとってミギーは、関わりを持つ際にはこちらから特別の理解を示す事が必要な、

例えばキュゥべえと同じ存在、異なる価値観を持った人間と別種の生命体に過ぎなかった。

マミは今まで自分がミギーとの間にわざと分厚く大きい

「壁」を築いていたのだという事に初めて気づいた。

529: ◆2DegdJBwqI 2013/03/21(木) 13:58:01.11 ID:+TGAmSdv0
今、相手を中々上手い事理解出来ないなんてのはきっとたいして重要じゃない。

ミギーを信じる事、

そしてマミが信頼を勝ち得る為には

まずマミが精一杯ミギーを理解しようとする事、

理解したいと望む事、

相手と共に生きていきたいと思えるかどうかが重要なのではないか。

自暴自棄になるのはやめてくれ。マミに死なれては私が困る。

あの時のミギーの言葉がマミの脳裏に再び甦った。

今私が生きていられるのは絶望していた私をミギーが繋ぎとめてくれたからだ。

自然と感謝の気持ちがマミの内から湧き上がってくる。

530: ◆2DegdJBwqI 2013/03/21(木) 13:58:33.35 ID:+TGAmSdv0
「ありがとう……」

「ええ?」

不思議そうな顔をする上条。

至極当然の反応だ。

気恥ずかしくなったマミは咳払いをしてごまかす。

「ゴホン、何でも無いの、変な事聞いてごめんなさい。

じゃあまたね、上条君、美樹さん」

「じゃあねマミさん!」

「それではまた」

上条達が歩き去り見えなくなるまで、

マミはにこやかにほほ笑みながらその場でずっと手を振り続けた。