1: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/21(木) 16:28:16.68 ID:R1rfnTuFo

高木が事務所を設立した時から調査部を派遣し

何人のアイドルが所属し、どのようなアイドルがいるか

そして、どこからならば崩れるのかを調べさせ

その中の中心となりやすいアイドルも容易に調べがついた

私としては、その調査結果にはあまり期待はできんが

なぁに、失敗なら調査部も合わせて切り捨てればいいだけのこと。

最近になって男のプロデューサーを雇い

多少は名も知られるようになってきたところだし、頃合だろうと考えた私は

図に乗り始めた765プロを罠に嵌め

一人のアイドルを奪い取った

調査部が彼女こそ中心になり得ると名指ししたアイドル

考えに耽る私の邪魔をするように扉をノックし

そいつは自分の名前を言った

「天海、春香です」

「……ふん。入れ」

765プロの弱小事務所の中心になり得るアイドル

どれほどのものか、見せてもらおうではないか

SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1385018896

2: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/21(木) 16:33:55.54 ID:R1rfnTuFo

写真を見た時点で弱小とはいえ、こんなやつが

アイドル事務所の中心人物になることなど不可能だと

私は思っていた

「えっと……よろしくお願いします」

「……………」

だが、それは少々見直すべきだったのかもしれない

アイドル、天海春香は笑っているのだ

緊張で強張っているのかもしれないが

この女は、自分の大好きだといった事務所から引き剥がした私に対して

笑顔でよろしくと言い放った

その他者となった者を即座に切り捨てられる精神は

賞賛に値すると言えるだろう

3: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/21(木) 16:44:36.89 ID:R1rfnTuFo

「あの、黒井社長?」

「ふん。お前はどうしてここに来ることになったのかを理解していないのか?」

「理解はしてます。前から961プロには気をつけろと話は聞いていましたから」

「……なら、なぜそうも平然としていられる?」

私に対して

怒りや憎しみや恨みなどの感情は一切感じられない

天海春香は一体何を考えている……?

「事務所は違っても、みんなとは仲間だからです」

「くっくっく……何を言うかと思えば」

所詮、弱小プロの人間

仲良しこよし、切り捨てたわけでもなく

切り捨てられずに、信頼やら友情やらとのたまう訳か

まぁいい

「天海春香。お前にはこのオーディションを受けて貰う」

そう告げて差し出した資料を見た天海春香は

やはり、顔を顰めた

4: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/21(木) 17:02:40.82 ID:R1rfnTuFo

「………………」

「どうした? さっきまでの笑顔はどこへ消えたのだ?」

「……私に、765プロを潰せってことですか?」

「当然だ。お前を引き抜いたのだってそのためなのだからな」

天海春香の苦悶の表情こそ、私が期待していたものだ

こいつはただ765プロを潰すためだけの存在

それ以上でも以下でもない

「まずは765プロのアイドル如月千早と同じオーディションを受け、如月千早を蹴落とせ」

「っ……私が不合格になったら?」

「ふん。そうなった時はそうなった時だ。だが、手を抜いてもすぐに判る。その場合は……」

天海春香は私の顔を見るだけの気力はあるらしい

いや、見るだけじゃなく睨んでいるな……くっくっく。だが所詮小娘だ

「765プロ側に問題が行くだろうなぁ? なにせ、お前は元765プロなのだからな」

「……解りました。千早ちゃんと真剣勝負します」

5: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/21(木) 17:13:08.06 ID:R1rfnTuFo

「ほう?」

「これは歌番組だから。千早ちゃんだって本気で来ます。たとえ私が相手でも」

「……………」

「黒井社長、私頑張りますね!」

天海春香は、笑った

なぜ笑えた?

切り捨てられない仲間を蹴落とせと指示したはずだ

それに苦しみ、悩んだはずだ

なのになぜ、お前は笑ったのだ!

「黒井社長、私が765プロからいなくなっても、765プロは潰れたりしませんから」

「……そんなことはついでだ。お前が潰すのだ」

「いえ、それも無理です。みんなはそんなに弱くないですから」

天海春香の目はなんだ

私を憐れんでいるとでも言うのか?

ふざけるなよ、凡人アイドルの分際で

「もういい、さっさと出て行け」

「失礼します」

6: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/21(木) 17:20:25.50 ID:R1rfnTuFo

「なぜだ、なぜこんなにも苛立たせる!」

振り払った腕に当たった資料が飛散し

部屋が散らかっていく

だが、知ったことではない

あの天海春香の目

気に入らん、気に食わん!

「真剣勝負などさせるものかッ」

天海春香の手で無理矢理にでも

如月千早だけでなく、765プロの全員を突き落とさせてやるッ

突き落とさせる……?

「クックック……そうだ。突き落とさせればいい」

本人の意思など無視していいのだ

本人がどうあろうと知ったことではない

あいつは私の駒でしかないのだから

どう扱おうと……私の勝手ではないか

7: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/21(木) 17:29:38.18 ID:R1rfnTuFo

移籍させてから数日

レッスン担当者によれば

天海春香は一生懸命すぎるほどにレッスンをしているとのことだった

「……意外でもなんでもない」

移籍当日から

私に対して何の恨み言もなく

それどころか笑顔さえ見せるようなアイドルだからだ

しかし、それよりも驚くべきは

調査報告にあった通り、何もない所で転ぶというのが現実だったことだ

何をふざけたことをとは思ったが

「今日はすでに2回……か」

壊れるのは構わないが

勝手に転んで怪我で終了などという無様な終わりだけは許せない

しかし、これもまた驚くことだが

天海春香は幾度となく転んでも、怪我はしなかった

8: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/21(木) 17:36:52.80 ID:R1rfnTuFo

「あっ、黒井社長。お疲れ様です?」

「なぜそこで疑問になったのだ」

「いえ、高木社長はあまり見なかったけど、黒井社長はよく見るから……えへへっ」

「……………」

つまり、

高木よりも私が暇だと言いたいのか?

やつは弱小事務所の社長

一方で私は大企業の社長

ならば、事務所を守ることに必死な高木が忙しく

そんなことを気にする必要もない私が空いた時間を多く持つのは当然だ

しかし、それは気に食わん

「お前には如月千早を潰して貰わなければいけないのでな。実力の程を知らねばいけないのだよ」

「あはは……千早ちゃんにはちょっと敵わないと思いますよ?」

相も変わらず、天海春香は笑った

9: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/21(木) 17:47:12.79 ID:R1rfnTuFo

同じオーディションで競い合えること

それが嬉しいのだと天海春香はレッスンの担当に話したらしい

競い合えなどとは言っていない

蹴落とせといったはずだ

なのになぜか、天海春香は好意的に解釈する

忌々しいことだが

これに関しては私が何を言っても無駄なのかもしれない

なにせ調査部曰く

【春香ちゃんには皮肉とかは無意味かと思います】

らしいからな

……何が春香ちゃんだ。あの馬鹿め

いつの間にそんな呼び方をする仲になりおったのだ

「黒井社長?」

「なんだ、まだ用があるのか?」

10: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/21(木) 17:57:48.54 ID:R1rfnTuFo

私の問いに答えを返すよりも先に

天海春香は自分のカバンを漁り、小包を取り出した

「なんなのだ。懐柔するつもりか? 生憎だが、私は――」

「違いますよ。クッキーです。黒井社長にはまだあげてなかったなーって」

「……なんだと?」

「えへへっ、手作りです」

そういう問題ではない

いや、別に問題ではないが。

それで他の部所の奴らは天海春香に懐柔されたわけか

「要らないんですか?」

「私は甘いものは好かん」

「微糖ですよ?」

「……ふん。貰っておいてやる」

どうあっても渡されるとすぐに理解した私は

とりあえず受け取り、社長室へと戻った

14: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/21(木) 20:12:03.71 ID:R1rfnTuFo

正直に評価をするなら

実に好みの味わいだ

大方、私を最後に回したのはわざとで

周りから色々と情報を集めたのだろうな

小賢しい真似をするアイドルだな……全くもって理解ができん

しかし、なるほど

「弱小プロでも餌付けをしていたのならば……不可能ではないか」

調査部が中心になり得るといったのは

恐らくそういうことだろう

仲間だなんだと言いながら

蓋を開けてみれば

金をばら撒いた富豪のそばに貧民共が群がるごとく

天海春香のクッキーという餌に、虫が集っていただけなのだろうな

「……まぁ良い。今は天海春香は我が961の人間だ」

さぁ、集って来るがいい虫ども

全て叩き潰してやろうではないか!

15: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/21(木) 20:26:23.70 ID:R1rfnTuFo

しばらくしてから改めて天海春香のプロフィールを見た私は

階下の経理課にいる責任者を呼び出した

「し、失礼します」

「ふむ、楽にして構わん」

別にこの女が不正をしたわけでもなければ

他の職員が不正をしたわけでもない

それ以前に、私の会社で不正をしたならば

わざわざ呼び出したりせず、全職員の前で

その勇気を称えてやってもいいくらいだ

もちろん……全額返済をさせるが。

「呼び出したのは他でもない、天海春香についてだ」

「春香ちゃ……天海さんですか?」

……やはりここも抑えられているか

いや、不正がないなら別に構わん

あとあと駒に出来るかもしれんしな

16: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/21(木) 20:39:32.61 ID:R1rfnTuFo

「天海春香の地元からここまでの定期券を発行しろ」

「え?」

「学割だとかどうとかは無視でかまわん」

「良いんですか?」

「元765プロとはいえ、我が961の一員になったのだ。それ相応のもてなしをしてやらねばなるまい」

私の言葉に対して

経理責任者は嬉しそうに笑うが

そんなもの方便に決まっているではないか

向こうが私に対し、クッキーなどというちっぽけな餌を撒くなら

私は金をばら撒いてやろう。というだけだ

そこに恩義を感じ従順になるなら良し

そうならなくとも、自分の手が届かない金額での返しをされれば

二度と、あんな真似はしないはずだ

「最大期間のものでいい、やっておけ」

「は、はい」

経理責任者は駆け足で去っていく

これで、天海春香への牽制は完了だ

17: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/21(木) 20:45:23.01 ID:R1rfnTuFo

そう思ったのは私の思い過ごしだったらしい

翌朝、ノックもせずに天海春香は社長室に駆け込んできた

「黒井社長!」

「朝から騒々しいとは思わないか? 天海春香」

「とぼけないでください、なんですかこれ!」

机を叩くようにして置かれたのは

昨日手配させた通勤用定期券だった

「何か不満でもあるのかね?」

「大アリですよ。こんなの受け取れません!」

「なるほど、そう来るのか」

「え?」

ここで受け取らずに

自分が常にあんな小賢しい真似をできる立場にしておきたいというわけか

だが、最初に仕掛けたお前の負けなのだよ

21: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/21(木) 20:52:12.26 ID:R1rfnTuFo

「昨日、クッキーを貰ったお礼だ。ぜひ受け取ってくれたまえ」

「え、でも」

「それ以前に、有望な社員の援助は惜しまないのが私なのだよ。天海春香」

「えへへっ、有望ですか~?」

……おい待て

こいつは馬鹿なのか?

私が言うのだから

当然、765プロを潰すためのコマとしてという意味に決まっているではないか

なのに何故照れる、何故喜ぶ

そうか、そういえば、お前に皮肉は無意味だったな

「ごほん。とにかくそれは受け取れ。作った以上は使って貰わなければ逆に迷惑なのだ」

「うっ……ずるいじゃないですか。予め言ってくれないなんて卑怯ですよ!」

22: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/21(木) 21:01:19.50 ID:R1rfnTuFo

やはり馬鹿か

馬鹿だから皮肉さえ無意味なのか

「お前だって言わなかったのではなかったか?」

「そ、それは……ほら。女の子からのプレゼントってサプライズが良くないですか?」

「……知るわけないだろう。そんなこと」

ちょっと照れくさそうにもじもじと

思春期の女子学生……だったかそういえば

くそっ、乱される

「あ、それでどうでした? 美味しかったですか?」

「食べられたものではない」

「えっ……ど、どんなとこがダメでした?」

面倒くさい

なんだこいつは

なんなのだ高木ぃっ!

「知らん。定期の話が終わったのならさっさとレッスンに行け!」

「っ……次は美味しいって言わせますからね!」

捨て台詞を吐いて、天海春香は去っていく

……待て

待て、天海春香

今なんと言った!?

くそっ、乗せられたのかっ!?

23: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/21(木) 21:11:30.73 ID:R1rfnTuFo

結局、私は天海春香を追うのは止めた

追ったら追ったで絶対に面倒なことになるだろう

それに、触らぬ神に祟りなしとも言うからな

「しかし……」

なんなのだ天海春香というアイドルは

怒りも恨みも憎しみもない

常に笑っているし、765プロを潰すためのレッスンにでさえ積極的だ

思わずデスクに肘をつき頭を抱えてしまう

予想外だ

いや、そもそも予想できるような人間ではなかったということか

「如月千早を負けにせず、勝たせるべきなのか?」

自分の考えに穴があるようで不安しかない

もしも少しでも穴があれば、天海春香はそこを突き破って逃げていく

そんな気がしてならなかった

27: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/21(木) 21:25:52.79 ID:R1rfnTuFo

気分転換をするために、外へと出かける

やはり、天海春香ではなく、星井美希にするべきだったのでは? と

街中を黄金色に見せる太陽光を見て、後悔してしまう

天海春香を奪うまでは

別に失敗でも良い。次があるなどと考えていたが

どうやら、ことはそう簡単ではなかったようだ

計画は早くも修正が必要になりそうで

それをすると、奴らを付け上がらせることになる

本当ならば天海春香を今すぐ解雇したいが

表向きでは資金提供と人員提供という合法な手段をとったばかりに

そんなことも出来はしない……?

ベンチに座る私に降り注ぐ太陽を遮る男の影

「貴方は……黒井社長。ですね」

「……誰かと思えば、765プロのプロデューサーではないか」

29: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/21(木) 21:38:10.72 ID:R1rfnTuFo

「聞きましたよ。千早がでるオーディションに春香を出すそうですね」

「これはこれは、耳が早いではないか」

「……いや、春香からメールが」

くそっ!

天海春香ぁっ!

天海春香のふざけた態度ですっかり抜けてしまっていたのか……

外部との連絡は絶つよう命じねばならんな

「勝てると思ってるんですか?」

「おやぁ? 天海春香の力を信じたりはしないのかね?」

「信じてますよ。当然、千早の力も。だから無理だと言ってるんです」

「………………」

「春香は確かに伸びます。でも、基礎に差がある以上、今回のオーディションでは勝てません」

30: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/21(木) 22:00:57.19 ID:R1rfnTuFo

「ほう、では天海春香が勝ったらどうする?」

「どうもしませんよ。俺達は――」

「プロデューサーがそうでも、はたして地力の差を認識していた如月千早はどうなるのかねぇ?」

「……それが納得いく判定であれば、千早も受け入れるはずです」

この男……

私に不正をするな。そう言っているつもりなのか

「天海春香はお前たちを潰すつもりらしいぞ」

「そうでしょうか」

「なに?」

「春香は貴方が思うほど、簡単に捕まえられる子じゃないですよ」

プロデューサーは私を見つめ、私はプロデューサーを見つめる睨み合い

だがこの男は動じることなく、言い放つ

「春香を甘く見てると痛い目を見ますよ。春香にとって、事務所の壁なんていうものは存在してないですからね」

プロデューサーは意味のありそうな笑みを浮かべると

営業があるので。と、去っていく

甘く見ていると痛い目を見るだと? なぜ引き渡す際に言わんのだ

それよりも。天海春香に勝たせるか、負けさせるか

どちらにすべきか決めなければいかんのだが……見逃すか。それとも……

41: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/22(金) 19:12:49.55 ID:dKJW8+uwo

……如月千早は歌に関してはかなり真剣。むしろ

歌のみにしか興味がないといっても良いだろう

で、あるならば。

如月千早を潰すには

やはり、天海春香に勝たせるべきだろう。が

上へ上へと上がって行き

図に乗らせて、自分の力が通用するのだと思い込んだところで――蹴落とす

その方が、如月千早だけでなく

プロデューサーどもだって……いや、待て

そんなことをすれば

天海春香が図に乗るのではないか?

「くっ……なぜあの女のことを気にしなければならんのだ!」

忌々しい!

あの女がもっとまともであるなら

これほど悩む必要など……くそっ、くそっ!

天海春香め!

高木と同じくらいに目障りなやつだ!

42: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/22(金) 19:21:19.63 ID:dKJW8+uwo

結局、気分転換に出たはずが

天海春香に苛立つだけだったという始末

なんだ、あいつは疫病神なのか?

「……ふざけおって」

「何がふざけてるんですかー?」

「ぬおっ!?」

突然かけられた声に驚き

振り向けば、疫病神がそこにいた。笑顔で

「あははっ、ビックリしました? 天海春香です!」

「お前、なぜここにいる!」

天海春香はレッスンに行っているはずで

たとえレッスンを終えたあとだとしても

広い街中で私のもとに来るなど普通はあり得んぞ

「プロデュー……ぁ、765プロの人がここで黄昏てたーって」

「あの男ッ!」

私が天海春香に対して嫌悪感を抱いていると見抜いていたのか?

それとも、ただ偶然教えただけなのか?

どちらにしても余計なことをッ

43: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/22(金) 19:26:39.91 ID:dKJW8+uwo

「そんなことより、暇なんですか?」

「そんなわけがないだろう」

「えー」

「なんだその顔は!」

「だって、見るからに暇そうっていうかですね……」

ジトっとした目で天海春香は私を睨む

その表情に思わず懐かしさを感じ

頭を軽く振った

「黒井社長? 熱中症ですか? 新しく買った水ありますよ?」

「要らん!」

差し出されたペットボトルが地面に落ち

僅かに跳ねただけで、転がっていく

天海春香は呆然とその様子を見ていた

44: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/22(金) 19:35:36.65 ID:dKJW8+uwo

「何を勘違いしているのだ」

「………………」

「お前と慣れ親しむつもりなど、私にはない」

天海春香を置いて歩き出す

やつが追ってくることはなく

流し目で様子を伺えば

落ちたペットボトルを拾い、土を払うだけだった

これでいい。

天海春香にこれ以上乱されるわけにはいかん

如月千早との勝負は予定通り勝って貰う

天海春香がおかしな奴だろうと

765プロ、そして高木は潰す

その目的を変えることはないのだからな

45: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/22(金) 19:41:34.18 ID:dKJW8+uwo

その日の夕方

天海春香は社長室に現れた

「……何しに来た」

「その、なんていうか……黒井社長は寂しくないのかなって」

「何が言いたい」

「そうやって、周り全部切り離して、切り捨てて……楽しいですか?」

天海春香は笑わない

その笑わない天海春香こそ

私が求めていたものであるはずなのに

それは何かが違うような気がした

「……私には、楽しそうになんて見えません」

「だからなんだと言うんだ。お前に何がわかる。お前に何ができる。お前には何もできまい!」

46: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/22(金) 19:55:08.67 ID:dKJW8+uwo

「何も解るわけ無いじゃないですか。会って数日ですし」

天海春香は悲しそうに言う

憐れむような瞳で、私を見る

「解らないからきっと、黒井社長に対しては何も出来ません」

「ふん。ならば――」

「でも」

天海春香は胸元に手を当てた

言うか言わぬか迷っているような

小娘ゆえの迷い……だが、開いた瞳は強かった

「私、歌は歌えますよ。ダンスだって踊れるし、演技だって……だから」

「…………………」

「教えてください。好きな歌。好きなダンス、好きな劇。私が黒井社長に無料で見せてあげますよ」

天海春香は、笑った

平凡すぎる実力

それどころか並以下と言えるほどのスキルで

天海春香は自信たっぷりにそう言ったのだ

47: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/22(金) 20:05:27.60 ID:dKJW8+uwo

「ククククッ、ハハハハッ」

そんな姿を見せられたら

笑うしかないではないか

「ありえん、お前に教えたところで作品が穢れるだけだ!」

「そ、そんなこと解らないじゃないですか!」

「ならなぜ未だに底辺なのだ? ろくに歌えず踊れず演技できずだからではないのか?」

「それは……」

天海春香は言い返せず、目を伏せた

当然だ。言い返せるわけが――

「が、頑張ればもっと上手くなれます!」

――なに?

「歌もダンスも演技も! 頑張って上手くなるんです!」

――なぜ、折れない

「黒井社長、千早ちゃんとのオーディションで勝ってみせますからね!」

――なぜ、そんなにも自信を持てるッ

「そしたら、好きな歌も、ダンスも、演技も。全部教えて貰いますから!」

――なぜだ、なぜだ。なぜだ


なんなのだ、天海春香という人間は


48: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/22(金) 20:08:42.58 ID:dKJW8+uwo
すみません中断します

51: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/22(金) 21:29:09.46 ID:dKJW8+uwo

「約束ですからね!」

天海春香は勢い任せだったのか

少しだけ呼吸を乱しながらも

私を見る目だけは変わらなかった

「……だが、それでは私に利がないではないか」

「じゃぁ、私の好きな」

「そんな事に興味はない」

「むぅ」

正直言ってこの女の利用価値など

765プロにダメージを与えられるかもしれないというものでしかない

……引退させるか?

自分から引退すると言わせれば、表で余計なことにはならん

いや、今すぐ決めることでもないだろう

「負けたら私の指示に従え。絶対の命令だ」

「でも、私基本的に黒井社長の指示に従ってません?」

52: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/22(金) 21:38:58.74 ID:dKJW8+uwo

「そうではない。たとえお前が嫌なことであろうと、絶対に実行しろということだ」

「……あの、私まだ付き合ったこととか」

「変な方向に想像をするな! そんなことさせるわけがないだろう!」

「えへへっ、冗談です」

冗談……だと?

真面目な話をしていたのではないのか?

いや、確かに真面目な話だったはずだ

なのにわざわざ自分で空気を壊したのかこの馬鹿は

「えっと、黒井社長」

「なんだ?」

「良いですよ。受けて立ちます」

「ほう?」

天海春香は笑う

まるで勝利を確信したかのように、笑う

53: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/22(金) 21:48:16.17 ID:dKJW8+uwo

「相手が千早ちゃんだからって、負けるつもりはありません」

「その自信はどこからくる」

「どこから……なんですかね。えへへっ」

天海春香は笑う

ただただ、楽しそうに笑う

勝負事など眼中にはないかのように、笑う

「ただ、私は敵わないかもしれないとは思っても、負けるとは思いたくないだけです」

「…………………」

「勝負は負けと言われるまで勝てる可能性があるものだって、私はそう思ってますから」

天海春香は、笑った

私は、笑うことができなかった

この女の到底叶えられそうもない理想論のようなものを

私は笑い飛ばすことができなかった

天海春香の笑顔と強い瞳が。私を止めたのだ

54: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/22(金) 21:52:59.36 ID:dKJW8+uwo

……方針は決めた

天海春香と如月千早の戦いに水は差さない

勝たせることに利益がない

勝たせなければ天海春香は負ける

天海春香が負ければ、私に利がある

ゆえに、水を差す必要性などない

「じゃぁ、その。私は――」

「待て」

「はい?」

「今後、765プロとの接触は電話、メール含め禁止だ」

「え、嫌です」

な、なんだと?

今、この女は嫌だといったか?

息をつかせないほどに早く……拒絶したのか?

55: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/22(金) 22:10:24.35 ID:dKJW8+uwo

「もう一度言う。接触は禁止だ」

「嫌ですって言ったじゃないですか……」

天海春香はあからさまに不服そうに言うと

私のことを睨んだ

「みんな友達なので。お断りします」

「だが、情報をリークしたではないか」

「あれはその……いずれバレることですし?」

「ほう、ならばお前はまだ発表されていない楽曲が外に漏れてもいいのだな?」

「それで興味持ってもらえるなら良いかなぁ」

……。

……聞いた私が馬鹿だったようだ

「まぁ良い。だが、負ければそれさえも聞かざるを得ないことを忘れるなよ?」

「……黒井社長の意地悪」

「どうとでも言うがいい。せいぜい、オーディションで負けを宣告されるまでに別れを済ませておくのだな」

「ま、負けないもん!」

天海春香は怒鳴ると、乱暴に扉を閉めて出て行く

……天海春香は勝つ気のようだぞ、如月千早

まぁ、プロデューサーの言う通り、勝つことなどできないだろうがな

56: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/22(金) 22:32:07.16 ID:dKJW8+uwo

それからというもの、天海春香は今まで以上に熱心にレッスンに取り組んでいた

だが、如月千早には勝てないことは明白だ

言うまでもない

如月千早には2時間もの移動時間もなければ

ダンスや演技などのレッスンなど如月千早はほとんどせず歌にのみ全てを込めているからだ

だが、そんな中

オーディション2日前になって、天海春香に異変が訪れた

「……………………」

レッスンスタジオの中で天海春香は黙々とレッスンを続ける

傍から見れば真面目にやっているようにしか見えないが

それは天海春香だからこその違和感

「どう思いますか?」

「……確かに、おかしいな」

天海春香はいつだって笑顔。そう思っていた

しかし、今日はまだ一度も笑顔を見せてはいなかったのだ

57: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/22(金) 22:40:17.78 ID:dKJW8+uwo

少し気になった私は

休憩中の天海春香に声をかけてみることにした

「おい」

「………………」

天海春香は座って俯いたまま

返事も反応もすることはない

「おい、天海春香!」

もう一度強く呼ぶと

天海春香は顔を上げ、私をじぃっと見つめた

「……? 黒井社長!?」

無視していたのではなく、

本当に気づいていなかったのはその反応で分かった

もし、それが演技なら

今すぐにでもアイドルから女優に転向させるべきというほど、素の反応だったのだ

「いつものヘラヘラした態度はどうした」

「ヘラヘラって……別にそんなつもりはないです」

普段の天海春香なら笑ったりなんだりするところだが

今回は普段の3分の1くらいの明るさの声で、静かに返してきただけだった

58: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/22(金) 22:44:05.55 ID:dKJW8+uwo

「なんだ、何があった」

「……別に、黒井社長には関係ないですよ」

天海春香の態度的に

私が何かをした可能性もありえたのだが

如月千早との対決に水を差すことはしないと決めたし

それ以外では今のところ何かをするつもりはない

ゆえに、私ではないのだ

いや、そもそもの話

なぜ私がこの女を気にしなければいけないのだ

天海春香の元気がなかろうが、暗かろうが

私にとってはむしろありがたいことではないか

59: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/22(金) 22:49:00.78 ID:dKJW8+uwo

天海春香とは、実に不愉快なアイドルだ

事あるごとに私のもとに現れる上に

「コーヒー淹れてきまぁっわわわっ!」

と、社長室でコーヒーをぶちまけたり

「えへへっ、今日は三種類ですよ! 三種類!」

などと、わざわざ3種類のクッキーを作ってきたり

正直、物凄く目障りな存在だ

だからこそ、静かになっている今の天海春香は私に都合のいいものであるはずで

私がそうあって欲しいと思った姿であるはずなのだ。だが、

なぜか。

なぜか、物足りない

いつもの風景の一つが欠けてしまったような違和感が拭えないのだ

60: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/22(金) 22:59:55.13 ID:dKJW8+uwo

「私には関係ない。だが、そうされていると目障りなのだ」

「……千早ちゃん、なんだか黒井社長みたいでした」

「……なに?」

不意に漏れてきた天海春香の言葉は

予想どころか

天海春香の前言すら覆す言葉だった

「楽しむなんて何馬鹿なことを言ってるのって」

「…………………」

「私と貴女はオーディションでは敵なのに、一緒に頑張ろうなんてどうかしてるわって」

「如月千早の言葉は何も間違っていない」

オーディションは競い合う場だ

楽しむなんてもってのほか、相手よりもいかにして自分をアピールできるかのみに集中し

元同じ事務所であれ、一緒に頑張ろうだなどと宣うような能天気な奴はどうかしていると言えるだろう

「……そうかも、しれませんけど」

「何が不服なのだ。何が気に入らない。如月千早は正しく、お前が間違っていただけの話ではないのか?」

61: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/22(金) 23:11:02.50 ID:dKJW8+uwo

「真剣に勝負する事だって私も解ってます。でも、楽しむことが間違いなのかなって」

「普通、オーディションを楽しもうとは思わないと思うのだがな」

「……ほら。千早ちゃんだ」

「なんだと?」

天海春香は私を一瞥すると

小さくため息をついた

如月千早の言葉が、そんなにダメージあるものだとは思えないのだが。

「オーディションで周りを敵だって見て目を光らせてたら、きっと審査員の人たちまで睨んじゃうと思うんです」

「ほう?」

「アイドルの歌や、ダンスは相手を威嚇したり、挑発したりするものじゃなくて、相手を楽しませるもののはずなのに」

「…………………」

「楽しむこと、一緒に頑張ろうとすること。それが間違いだなんて思ってる千早ちゃんはなんだか……悲しいなって」

こいつは自分のことで落ち込んでいるとかではない

如月千早に対して可哀想だなんだと思っているから、自分まで暗い面持ちになっているだけなのか……

やはり、天海春香はただの馬鹿だ

68: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/23(土) 09:53:44.39 ID:TPboUuGso

そんなことは悩むことなどではない。

自分を間違っていると言うだと?

そんな相手が可哀想だと?

他人のことを気にできるほどの実力もない小娘が

何を調子に乗っているのだ

「ならば、勝てばよかろう」

「え?」

「勝者こそ絶対。勝者こそが正解なのだ」

「…………………」

敗者の言葉など戯言だ

可哀想だなんだと、言っても

「お前が勝てねば、お前が間違いなのだよ!」

「っ……」

「負けるつもりはないのだろう? ならば勝て。勝って自分が正しいと如月千早に教えてやれば良い!」

69: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/23(土) 10:31:14.16 ID:TPboUuGso

「くだらないことで悩む暇があるのなら、少しでも強くなれ。でなければ所詮戯言だ」

「黒井社長……」

「……………………」

なぜ、語った

この女を鼓舞する必要など無かったではないか

負けてくれた方が私には利があるはず……なのになぜだ

【「……ごめんなさい」】

唯一、敗者に許された言葉が蘇る

いや、あれは逃げたのだ

圧倒的な実力者の前にあの女は。高木は。私は……

「黒井社長?」

「……天海、春香?」

天海春香が顔を覗く

さっきまでの暗さをかき消した明るさのある、強い瞳

「私、頑張ります。えへへっ、ありがとうございました。黒井社長」

レッスンに戻る彼女の後ろ姿を目で追う

私は期待しているのか?

地力の違う、元担当プロデューサーでさえ無理だという力量の差を

天海春香が乗り越え、如月千早を倒すという奇跡に

「……………………」

……馬鹿馬鹿しい。何が期待だ

そんなことは不可能に決まっている……私の人脈、そして金がなければ。不可能だ

70: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/23(土) 10:53:49.60 ID:TPboUuGso

天海春香

能力は平々凡々

人間性は特別。悪い方向に

騒がしい、お節介、何もない場所で転ぶ

無駄に元気、無駄に明るい、無駄に前向き

他人のことで無駄に悩む

クッキーは……中々いける味だ

コーヒーを入れるのは下手だ

なのに、届く確率は10回に4回と低めだ

「…………………」

天海春香は特殊だ

何も持っていない。なのに、なぜか狂わせる

何もできない。なのに、何かをしようと努力する

今回の私との賭けだってそうだ

天海春香に利はない

私の為に何かをする。その為であり、天海春香自身に何か得があるわけではない

71: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/23(土) 11:12:19.12 ID:TPboUuGso

滅茶苦茶なのだ、天海春香は

甘く見ようが、見まいが関係なく

私の予想を遥かに超えたことをしでかす

「……くそっ!」

力強く叩いた机

振動が腕を伝って頭を揺らし、響いた音が脳を揺らす

「何を思っているッ」

なぜ期待する。

なぜ、天海春香のことを考える!

如月千早が潰れるか否かを考えればいいではないか

なぜ、天海春香が勝つか負けるかを考え

予測不可能なあの女にもしかしたらの未来を見るのだ……

「私の目的は如月千早を含めた765プロの崩壊。高木を蹴落とすことだ」

認識を改めるために言葉を口にする

「天海春香はその道具。やつには何も、思わない」

天海春香の情報をリセットし、ただの道具と改める

もう乱されない、もう悩まない、もう期待しない

もう大丈夫だ、私は……今まで通りにやるだけだ

72: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/23(土) 11:33:31.52 ID:TPboUuGso

オーディション当日

私は会場へと向かった

前日に小うるさく

【「明日ですよ! 明日!」】

などと言われたからではなく

私の賭け事も含め

結果はすぐに知るべきだからだ

そんな私の耳に入る、騒々しい声

「どっちを応援すれば良いんだろう?」

「何言ってるのよ。雪歩。春香は今は961プロでしょ」

「伊織ちゃん、そんな言い方はダメだよっ!」

「少し落ち着きましょう。春香も千早も仲間であることには変わりないのですから」

765プロのアイドル共だった

仕事がなく暇だからか

どうやら全員でオーディション会場に来たらしい

目障りなやつらだ

73: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/23(土) 11:45:18.09 ID:TPboUuGso

「……関わりを持たない方が」

面倒なことは避けるべきだ

直感し、身を翻した瞬間

がしっと何かが腰の辺りを掴んだ

「悪者確保ーっ!」

「なっ、貴様」

「てやぁああぁぁぁ!」

「ま、待て貴様ら!」

双子の片割れ双海亜美が私を抑え、

正面からは全力疾走の双海真美

衝撃に備えようと目をつぶる

目障りだ、邪魔だ、煩わしい!

あとで倍にして返してやる

そう決め、頭の中で策を練る中

「ストーップ!」

ひときわ大きな声が響いた

74: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/23(土) 12:16:51.88 ID:TPboUuGso

私と双海真美の間に割り込んだのは

他でもない、天海春香だった

「は、はるるん!」

「なんで止めるのさ!」

「なんでって、私の社長だからだよ」

天海春香と双海真美が見つめ合い

騒ぎを聞きつけた765プロの面々が集まってきてしまった

面倒くさい奴らだ

「なんなのさっ! 私の社長って!」

「……真美。あまり騒がないで」

「あっ……」

野次馬をかき分け、双海真美の背後に現れた、如月千早

私には天海春香の表情は見えない――だが、きっと

「来たね、千早ちゃん」

「春香、私は貴女がどうであろうと関係ないわ」

「うん。解ってる。だから、真剣勝負だよ千早ちゃん」

――天海春香は、笑っている

75: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/23(土) 12:35:00.25 ID:TPboUuGso

オーディションが始まるということもあり

私たちはすぐに解放され、控え室へと戻ることが出来た

「……ふん。気合は十分のようだな」

「もちろんですよ。負けられない戦いですからね」

私との賭け事もあるのだろう

しかし、それはもう最優先事項ではない

「千早ちゃんには間違いは間違い。正しいことは正しいって気づいて欲しい」

「………………」

「だから、私は負けられません」

天海春香は、震えない

天海春香は、後ろを見ない

天海春香は、笑う

「勝ってきます、黒井社長」

私の権力も、地位も、金も、何も使わずに

天海春香は絶対的な自信だけで、口にする

「勝てるものなら、勝ってみせろ」

「はい!」


――新人アイドルを対象とした歌番組オーディションが始まった

76: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/23(土) 12:39:47.90 ID:TPboUuGso

「春香、すごい自信ですね」

「……また貴様か」

会場から少し離れたところで休んでいると

やはりいたらしい。765プロデューサーが現れた

なぜ私の居場所が判ったのかは聞くまでもない

どうせ、こっそりと後をつけて来たのだろうからな

「何かしたんですか?」

「ふん。何もしておらん」

「本当ですか?」

「天海春香に勝たれたらプライベートを話さねばならんのだ!」

思わず怒鳴ってしまった

77: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/23(土) 12:47:36.66 ID:TPboUuGso

そのことに気づいたのは昨日

思えば、それは私の不正を封じ

如月千早との真剣勝負をするためであったのではと気づき、訊ねた結果

【「えへへっ、バレちゃいました?」】

「あのずる賢い小娘めが、この私を馬鹿にしおって!」

「春香を甘く見るからですよ」

「知らん! あいつはわけが解らん。なんなのだ天海春香という女は!」

「優しくて、気が利いて、誰からでも慕われ、親しまれるような女の子ですよ」

プロデューサーは静かに答える

冗談にしか思えないが

冗談を言っているような様子ではなかった

「確かに、貴方みたいな人には煩わしいかもしれませんが、でも。全部貴方を思っての事なんですよ」

「……熱いコーヒーをスーツにぶちまけるのもか?」

「それは……ご愁傷様です」

78: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/23(土) 12:53:21.98 ID:TPboUuGso

「でも、寂しくはないでしょう?」

「私は静かな方が好みだ」

「いえ、そうではなく。少なくとも、今までよりは……楽しい日々だったんじゃないですか?」

楽しい日々。だと?

そんなわけがない

邪魔だ、目障りだ、騒々しい

人の計画を全部練り直させるような面倒なやつで

そのくせ、口だけは立派で

そのせいで、毎回毎回

天海春香のことで悩まされ、頭を痛め

スーツを傷めては買い替え

様子を見に行ってやれば暇なのかとッ

「ふざけるな! 天海春香など煩わしいだけだ!」

79: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/23(土) 12:58:52.38 ID:TPboUuGso

「そうですか」

「なんだ、何か言いたそうな顔をしているな」

プロデューサーは会場を一瞥し

再び、私へと視線を向けた

「何味のクッキーが好みでした?」

「ふむ、ココアだな。仄かな苦味と甘味が……」

「くくっ、春香には随分と頂いているようで」

「き、貴様!」

油断した

天海春香からの問いではないからと……

いや、聞き方がずるかったのだ

「すみません、春香がどうしても聞いて欲しいってメールを」

「天海春香には言うな。これ以上つけあがられたら面倒だ」

「でも、ちょっと期待してませんか? 春香が社長室に来て、新しいクッキーを持ってくること」

80: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/23(土) 13:13:14.57 ID:TPboUuGso

「そんなことあるわけがないだろう」

「そうですか……美味しいんですけどね」

「それだけか?」

「あとは、みんなから一言」

みんなとは、765プロのアイドルどもか

罵倒するか、怒りか、恨みか、憎しみか

そのいずれかを期待した天海春香は笑顔だった

だから、私は765プロの面々からのそれに

僅かなものを期待していたのかもしれない

「春香に手を出したらぜったいに許さない」

ゆえに、それを聞いたとき

私は言葉を失ってしまった

罵倒ではない。恨みでもなければ憎しみでもない

「……ふざけてるのか、貴様らは」

「やっぱり、春香を指名したからにはそういう意図もあるんじゃないかと。事務員が」

「そんな戯言を言う事務員は即刻クビにしろ!」

81: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/23(土) 13:17:47.36 ID:TPboUuGso

「貴様と話していると不愉快だ!」

「すみません」

静かな場所に行こうと外に出たはずなのに

気分を害しただけとは……くそっ

高木の犬どもめ

「私は戻る、ついてくるな、見えなくなるまでそのまま立っていろ!」

怒鳴りつけ、足早に立ち去っていく

天海春香と如月千早の対決

勝ち目はない

ゆえに、天海春香は敗北する

負けた暁には絶対命令をできるのだったな

さて……考えておかねばなるまい

82: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/23(土) 13:48:45.69 ID:TPboUuGso

しかし、結果は衝撃的なものだった

如月千早が負け、天海春香が勝ったのだ

「どういうことだ!」

「そ、そう言われましても……」

ディレクターは私の言葉に戸惑う

ふざけるな、戸惑っているのは私だ

「なぜ天海春香を合格させた! 如月千早の方が歌は上手いはずだ!」

「それはそうですが……私達が求めたのはアイドルであって歌手じゃないんですよ」

「なに……?」

「如月さんは確かに歌が上手でした。しかし、それだけでしたから」

如月千早は歌のみに集中していた

歌だけを練習してきた……それはつまり、ダンスは欠けていてあの様子なら笑顔もない

一方で、歌は拙くともダンスは平凡、笑顔は苛つくほどに足りている天海春香が勝ち残るのは、当然?

「くそっ……」

「で、ですが、如月さんは他の歌番組……」

「そのようなことはどうでもいい!」

如月千早が負け、天海春香が勝った

その事実は……変わらん!

83: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/23(土) 14:06:36.60 ID:TPboUuGso

アイドルでのオーディションだった。ということが敗因か

もしも真っ当な歌番組ならば

アイドルらしさが欠けていようと、如月千早を合格させたはず

新人アイドルに求めるのは

歌ではなく、アイドルらしさ……か

控え室の扉を叩くと

天海春香の忌々しい声が聞こえた

「えへへっ、合格ですよ! ご・う・か・く!」

「くっ……」

「後でちゃんと、お話聞かせてくださいね?」

天海春香の笑顔がこれほどまでにイラついたのは初めてだ

「仕方……あるまい」

賭けは賭けだ

負けをごまかして逃げるほど、私とて腐ってはいない

「それじゃ、その。私は千早ちゃんのところに行ってきます」

天海春香はそう言い残し、部屋から出ていった

95: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/23(土) 21:35:26.81 ID:TPboUuGso

私は天海春香への認識を改めたはずだった

765プロを潰すための道具である。と

しかし、それは改めることなど出来ていなかったのかもしれない

思考の表面上では天海春香を消し去ることができたとしても

それは消えろ、消えろと。

そう思っているからこそで、結局のところ

私は天海春香を765潰しの道具ではなく

一種の忌むべき人間として捉えていた

「ゆえに、私は天海春香に期待していたのだろうな……」

勝利することではなく、敗北することを。

……私は、あの女の自信に怯えていたのだ

自分の考えも予測も。何もかもを無意味に帰す可能性のあるあの女に

以前の私が求めていた、不可能も可能にしてしまえるようなアイドルに

だから……やつのオーディションを見ることさえ出来なかった

「そして、天海春香は勝利した……私の期待を裏切って」

96: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/23(土) 21:51:25.58 ID:TPboUuGso

それは、番組側がアイドルらしさを求めたからかもしれない

しかし、それも。

如月千早が、アイドルらしさまでをも歌にかけたことも

いいや、そもそも。

11人もいるアイドルの中で

私が如月千早を相手に指定したことさえも。

全ては運だ

天海春香というアイドルに、運は味方した

「……忌々しい!」

近くにあったペットボトルを壁に叩きつけ、天海春香の衣装を睨む

目障りなほどに煌めいた衣装

どいつも、こいつも……邪魔だ。邪魔だ。邪魔だ!

ガチャッと、扉が開く

「な……」

「……なに、してるんですか?」

憎たらしい衣装を引き裂き、ゴミに変えようとしたところに、やつは来た

つまり、私は怒りにより息を荒げ、天海春香の衣装を手にしているというわけだ

「それ……私が着てた衣装。ですよね……?」

天海春香が一歩退く

怒りによる熱などどこかへと消え

今は血が抜けたかのように、冷静だった

98: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/23(土) 22:06:31.64 ID:TPboUuGso

「待て……待て、天海春香」

「ま、待てません……待てないですよっ!」

天海春香はあからさまな嫌悪感を露わにし

首を横に振る

「私はただこの衣装を引き裂こうとしていただけだ!」

「し、信じられるわけないじゃないですか!」

「くっ……」

それは当たり前だ。

あんな状態だったのだからな……

しかし、そんな状態であっても、コイツが現れただけで

空気も、感情の昂ぶりでさえも、壊されてしまった

「黒井社長、やっぱり私に変なお願いを……」

「違うと言っているだろうが!」

「ど、怒鳴ったってダメですからね!」

99: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/23(土) 22:28:49.80 ID:TPboUuGso

くそっ面倒くさい

煩わしい、目障りだ、騒々しい

「いい加減にしろ! 私はお前なんかに興味はない!」

「むっ! 人の衣装持って危なそうな雰囲気だったくせに!」

「それは誤解だと言っているだろう!」

「へーそうですか。それを信じてくれる人なんているのかな~」

――だが、嫌いではない

【「少なくとも、今までよりは……楽しい日々だったんじゃないですか?」 】

ああ、そうだとも。認めよう

天海春香の出鱈目で奇想天外で、予想もなにも無駄にしてしまうような言動に

私は少しだけ魅せられている。

だからこそ、この女がアイドルとして合格したことには

異議を唱えるつもりは全くなく

むしろ、認めることができたのだ

「ならば、どうすれば信じる」

「……とりあえず、衣装を手放しません?」

「……そうだな」

100: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/23(土) 22:46:19.11 ID:TPboUuGso

「…………………」

「…………………」

沈黙。

私が求めるような

私が好むような静寂

それを、天海春香は破った

「……本当に、危ないやつじゃないんですね?」

「何度言わせるつもりだ」

「じゃぁ、なんでですか?」

「……お前が私を苛立たせたのだ」

私の言葉に、

天海春香は何かを察したかのように息を飲んだ

「圧倒的力量差を運なんぞで覆した、お前がな」

「……なら」

天海春香は、笑う

「黒井社長は運が悪いみたいですね」

「……………………」

「そんな私を、引き抜いちゃったんですから」

101: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/23(土) 23:11:34.84 ID:TPboUuGso

「ふん。お前を社長室に招いた日からそのことを後悔してるのだよ。忌々しい」

「じゃぁ、手放しますか?」

「……馬鹿なこと言うな。お前には765プロを潰すための手助けをしてもらわねばならん」

敗北しろと願った身ではあるが

それを覆し、勝利したとしても私の計画を進めてくれていることに変わりはない

「あははっ、ですよねー……勝手にしろーとか言ってくれるかなって期待したのに」

「………………」

私は天海春香が嫌いではない

ならなぜ、天海春香に対して忌々しいと思うのか

いや、そもそも。

私は【天海春香】に対して、そう感じているのか?

……いずれ、判ることか

「じゃぁ帰りましょう。黒井社長」

「私に指図をするな」

能天気な小娘を引き連れ、私はテレビ局を後にした

102: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/23(土) 23:37:44.27 ID:TPboUuGso

「それじゃぁ、教えてください」

社長室に戻って早々

天海春香はやはり、聞いてきた

他の人間がいる車の中では聞かなかったことには

例を述べるつもりはないが、良い判断だと言っておこう

決して口にはしないがな

「……負けは負けだ。教えてやろう」

「はいっ」

「お前の歌う歌以外が好きだ。お前のダンス以外が好きだ。お前が出ない映像が好きだ。以上」

「……………………」

私の言葉を聞き、天海春香は黙り込む

驚いているとかどうとかではなく

理解ができていないというような様子で、実に愉快な表情だった

「そ、それはちょっとずるくないですか!?」

「ククククッ! 知ったことかぁ! 私は正直に答えるとは言っておらんのだよ。馬鹿め。ハハハッ!」

103: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/23(土) 23:49:50.32 ID:TPboUuGso

「あーもう! 変 !」

「な、なんだと!?」

「人が着てた衣装持って危ない雰囲気出してた変 社長のばーか! 通報してやる!」

「お、おい待て! それはもう終わった話だろう!?」

天海春香はにこっと笑う

何かを企んでいるような悪い笑みだった

「通報しちゃおうかなー指名されたのが響きそうだなー」

「ぐっ……」

「黒井社長が本当のことを教えてくれないのが悲しすぎて、1番を二回押しちゃったー」

「あ、天海春香ぁっ!」

確かに、通報されて一番ダメージがあるのは私だ

いや、私にしかダメージはない

戯言だ、出任せだと言おうと

報道陣は確実に食いつく……くそっ。

なぜこんな女に優位に立たれなければならんのだ!

105: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/24(日) 00:01:51.79 ID:0Cp8u8uoo

「分かった! 言えばいいのだろう!?」

「はいっ、教えてください!」

天海春香は嬉しそうに笑うと

携帯をカバンの中にしまった

「現金な女だ。お前は」

「あと……もう一つ」

天海春香は一本指を立て

打って変わって真面目な言い放った

「もう、フルネームも、女とか、お前とかも止めて欲しいんです」

「なんだと?」

「天海でもいいし、春香でも良いです。もう少しだけ……親しい呼び方に変えてくれませんか?」

何を考えているのだ、こいつは。

その心の中の問いに応えるように、天海春香は微笑む

「じゃないとなんか……寂しくないですか?」

「……言わねば、通報するか?」

「いえ、これはお願いですから……本当は、言われる前に変えて欲しかったんですけどね」

108: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/24(日) 00:30:38.61 ID:0Cp8u8uoo

強制はしない。と?

ならば、呼ばなくても良いではないか

………………。

だが、ならばなぜ。この女は悲しそうにする

寂しそうな、表情する……

聞くまでもない。

それは、私に対するものだ

勝手に解釈しおって……煩わしい

「……黒井社長。嫌ですか?」

「……………………」

天海春香は不安そうに声を出す

……仕方あるまい

「勘違いをするなよ。ただ、その方が楽なだけだからな、天海春香!」

「え?」

「約束通り、私の好きな音楽などを答えてやろうではないか。心して聞くのだぞぉ? 春香……ちゃん」

「……思春期男子?」

「う、うるさい黙れ! 呼び捨てにするほど親身になるつもりなどない!」

改める必要があるのだろうな

この……いや、春香ちゃんについての理解を

119: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/24(日) 17:35:10.25 ID:0Cp8u8uoo

「へぇ、意外と壮大な曲が好きなんですね。こう、ば、ば、ば、ばーん。みたいな」

「いちいち口に出すな、騒々しい」

人に自分のことを話すのはいつ以来だったか……

話せば意外とすんなり出てきてしまうものらしい

いや、あれからずっと押し込めてしまっていたからこそ

私はこうも容易に話せたのかもしれないが。

「……さて。私のことはもう話した。次は春香ちゃんだ」

「?」

「わざとらしく首を傾げるな、あま……春香ちゃん。如月千早との話は上手く行かなかったのだろう?」

「そんなことはないですよ」

春香ちゃんは誤魔化すためだろう、飲み物を口に含んだ

解りやすいものだ

あれだけ如月千早に関して気を入れておきながら

ここまで一度も、【如月千早】の名を出してこないのだからな

解りにくいくせに、解り易いやつだ

120: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/24(日) 17:48:54.47 ID:0Cp8u8uoo

「ふん、如月千早は一筋縄ではいかん」

「……黒井社長は千早ちゃんのことも調べてるんですか?」

「さぁなぁ? いずれにせよ。春香ちゃんに教えるようなことは何もない」

「…………………」

反応的に、やはり上手くはいかなかったのだな

如月千早の人生が普通からは少し外れているのは事実だ

今、春香ちゃんが知ったところで何もできまい

それどころか、当人を置いて知ることになったのであれば

関係が崩壊する可能性もある。

それは好ましいことではあるが、得策ではない

「他人とはそういうものなのだよ。容易に正すことができるのであれば、戦争という過去などあるわけがないのだ」

「勝者こそ正しいって言ったのに?」

「それはそうだろう。死人に口無しというように、敗者の言葉に力はないのだからな」

121: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/24(日) 17:57:22.33 ID:0Cp8u8uoo

「千早ちゃんは歌うことに楽しさなんて感じてなかったんです」

「待て……私に話してどうする。悪用するかもしれんぞ?」

「……大人として、聞いてくれないんですか?」

「…………………」

春香ちゃんの目は子供だった

大人に縋る子供の……弱者の目

今目の前にいるのは、アイドルではない

天海春香という………子供だ

では、その目に映る私は何だ

961プロダクション社長、黒井崇男か

それとも……ただの大人か

「……良かろう。運とはいえ如月千早に勝利した褒美だ。聞いてやる」

「えへへ………ごめんなさい」

「良いから気が変わらんうちに話せ」

123: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/24(日) 18:29:12.60 ID:0Cp8u8uoo

「千早ちゃんに言われたんです。貴女は何がそんなに楽しいのって」

「……それは私も気になるんだが」

「歌うこと。踊れること。みんなと居られること……生きてること。全部楽しいです」

「……そんな言葉が如月千早に通用するわけがなかろう」

春香ちゃんとは根本的に違うとは言えん

しかし、真っ直ぐな天海春香とは違い

如月千早は捻じ曲がっているのだからな

「えへへっ、通用しませんでした」

「一々笑うな。嘘の笑いなど不愉快になるだけだ」

「……だって、笑ってなきゃ泣きたくなるじゃないですか」

「………………」

「生きることを楽しいと思えないなんて。そんなの、悲しいよ……悲しすぎるよ……」

124: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/24(日) 18:41:48.69 ID:0Cp8u8uoo

また勝手な解釈をしおって……

「如月千早が自分の人生をどう思おうが本人の勝手ではないか」

「それは……」

なぜ、苦しんでまで相手を思う

なぜ、そうまでして抱えようとする

なぜだ……天海春香

「お前がしようとしているのは余計な世話でしかない。今すぐやめろ」

「っ……」

「如月千早には関わるな。それが春香ちゃん達にとっての最良の選択だ」

「関わらないなんて嫌です」

天海春香は首を振る

苦しんでまで、辛い思いをしてまで

如月千早との関係を断ち切らないつもりなのか……?

「なぜ最良の手段を拒絶する。泣きたくなるほど辛いのだろう?」

「辛くても、苦しくても。私は千早ちゃんを笑顔にしてあげたいんです……だって私は、アイドルだから!」

125: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/24(日) 19:01:55.09 ID:0Cp8u8uoo

「アイドルだから……だと?」

戯言だ

子供であるがゆえの、理想でしかない言葉だ

如月千早は拒絶している

つまり、春香ちゃんは如月千早にとって

目障りで、邪魔で、煩わしく、忌々しい、障害でしかない

「馬鹿言うな、子供の分際で他人の道を正そうなどと、出来るワケがないだろう!?」

「私は子供だけどアイドルだもん!」

「アイドルも子供も何も変わらん! 不可能なことはある」

「っ…………」

「少し頭を冷やせ」

俯いた春香ちゃんを残し、席を立つ

そのまま放っておいて良い

実力不足のくせに図に乗った馬鹿が落ち込んでいるだけなのだからな

126: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/24(日) 19:16:27.41 ID:0Cp8u8uoo

「……………」

「……………」

沈黙。静寂

……だが、私が好むものではない

ドアノブに手をかけたまま、私は振り向かない

今の春香ちゃんは見る価値もないのだ

「……春香ちゃん。1つだけ言っておいてやる」

「………………」

「たかだか合格一つではアイドルとも呼べん」

「っ………」

その程度でアイドルと呼べるなら

誰だってアイドルになることはできるだろう

まだアイドルの卵でしかないのだ

「アイドルでは不可能でも、トップアイドルに到れる者ならば可能かもしれんぞ」

「!」

何をするにも、

まずは実力を身につけてからなのだよ

「……春香ちゃんにそれだけの実力があるかどうかは、知らんがな」

そして

私はそのまま春香ちゃんを残し、部屋を後にした

127: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/24(日) 19:20:22.84 ID:0Cp8u8uoo

すみません、中断します
「友達だから」か「アイドルだから」で迷った

131: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/24(日) 21:42:12.95 ID:0Cp8u8uoo

翌日の昼頃

静かに優雅なひと時を過ごしていた私を邪魔するように

社長室の扉が勢いよく開け放たれた

「どういうことだよあれ!」

「……ふっ」

怒鳴り込んできたのは天ヶ瀬冬馬

今朝、地方に営業に出ていたユニットが戻ってきたのだが

そのユニット、ジュピターの一人が冬馬なのだ

実は戻ってきた際に春香ちゃんのことを聞かれ

ボイスレッスンの最中だと教えてやったのだが……それが不味かったか?

「なんなんだよあいつ……あいつが本当に如月千早に歌番組で勝てたってのか?」

「クククッ、ああ事実だ。春香ちゃんはあの実力で如月千早を下した」

「黒井のおっさんがなにか根回ししたんじゃないだろうな?」

「ハッ! したわけがなかろう」

最初こそするつもりではあったがな

最終的に私の権力ではなく

運を味方につけて合格した。それは変わりようのない事実だ

133: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/24(日) 21:59:29.84 ID:0Cp8u8uoo

「くそっ、あんな奴、俺は認めねぇぞ」

「そうだろうなぁ。春香ちゃんは歌だけを見れば平均を下回る」

「ならなんであいつだったんだ。もっとマシな奴がいただろ」

……なんで。か

正直に答えるならば

調査部に騙されたからだな

まさかあんな低レベルのアイドルを中核をなすような奴だと言うとは思わなんだ

しかし……アイドルとしてのスキルはともかく

自己犠牲で他人を守るような馬鹿げた方法ではあるが

春香ちゃんは確かに、中核をなすことができるような人間であることは昨日で良く解った

「なんとなくだ。目に入ったからそいつでいい。私とてそのような無作為な選択をすることもあるのだ」

「黒井のおっさんも無能を選んじまうことがあるんだな」

「ふむ……そうかもしれんな」

「ちっ」

冬馬は舌打ちを残して去っていく

まぁ、初見では春香ちゃんの特異性は見抜けんか

134: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/24(日) 22:15:32.51 ID:0Cp8u8uoo

冬馬との話に邪魔され

わずかに冷めたコーヒーを一口飲む

「ふむ……自分で淹れるほうがやはり美味い」

冬馬はやはり強気だ

春香ちゃんと同じく自信に満ち溢れているし、それに匹敵するほどの実力もある

だが……物足りん

ジュピターでなくとも、冬馬一人で圧倒できるほど

春香ちゃんのスキルは低い

「だが……【まだ低い】だけなのだよ」

春香ちゃんは特殊だ

自分のためでは並の実力でしかないくせに

他人のためであればどこまででも強くなれるだろう

「……ぶつけてみるか。春香ちゃんと、ジュピターを」

765プロを潰す必要もあるが

如月千早の敗北によってわずかながら影響が出ているのは事実

次の大物を相手にするために、春香ちゃんにはスキルアップして貰わねばならんからな

136: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/24(日) 22:36:15.56 ID:0Cp8u8uoo

「黒井社長、お話ってなんですかー?」

「もう少し社長相手の態度はできないのか?」

「えへへ……頑張ります」

頑張らなければいけないようなことなのか?

いや、まぁ仕方あるまい

今更春香ちゃんに堅苦しい言葉などを使われても困る

「今度のオーディションでは、ジュピターと一緒に出てもらう」

「え、ユニットに入るんですか?」

「そうではない。どちらが上かを競ってもらうのだ」

「で、でも同じ事務所なのになんで……」

やはりそこが気になるか

冬馬の方は喜んで受けてくれたのだがな

「冬馬が春香ちゃんの実力を知りたいらしいのだ。如月千早を凌ぐその力をな」

139: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/24(日) 22:50:34.02 ID:0Cp8u8uoo

「……冬馬って誰ですか?」

「天ヶ瀬冬馬だ。春香ちゃんがボイスレッスンしている時に来たのではないか?」

「……あ、あぁ。あの人ですか」

明らかに嫌そうな顔したな今

どうせ、怒鳴ったりなんだりしたのだろう?

馬鹿なことをしおって

「音程外れてるだのなんだのってレッスン中に乗り込んできたんですよ? 酷くないですか?」

「事実なのだから仕方があるまい。私からすれば平均以下だ」

「それは黒井社長の基準が高いんじゃないですか?」

「つまり、春香ちゃんはあんなことがなければ私の眼中にはなかったわけだ」

わざとらしく挑発してみたのだが

気に障ったらしい、頬を膨らませ睨んできた

「そーですか。じゃぁそんな眼中にない私からココアクッキーもらっても嬉しくないですよねー」

「なっ、あいつめ……プロデューサーから聞いたのか!?」

「えへへっ」

黙っていろと言ったではないか!

これだから弱小プロダクションの無能プロデューサーは嫌いなのだ!

141: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/24(日) 23:02:50.22 ID:0Cp8u8uoo

「……と、とにかく。だ。ジュピターと勝負して貰う」

「良いですよ。散々言われましたからね。倍返しですよ! 倍返し!」

気合は十分。

だが、今回は自分のための勝負

実力と同等の力しか出せなければ

春香ちゃんがジュピターに勝つことは出来ない

「…………………」

「黒井社長?」

どうする?

765プロの奴らを引き出すか?

いや、やつらが素直に誘いに乗るとは思えん

それに、前回は如月千早に正しさを教えるという明確な理由があった

だが今回は違う。ランダムに引き出したところでそんな明確な理由など作れはしないだろうな

142: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/24(日) 23:29:45.76 ID:0Cp8u8uoo

それでは意味がない

ゆえに、実力勝負になるか?

「春香ちゃんは今回の対決、自分の実力を冬馬に知らしめるためにやるのか?」

「? だって、天ヶ瀬くんが私の実力を知りたいんですよね?」

「それだけか……」

……しまった

戦わせるための理由付けを失敗したか

春香ちゃん自身に誰かと戦うという意思はない

なにせ、オーディションは楽しみ、みんなで頑張るものと言うくらいなのだからな

「……それだけじゃないですよ」

143: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/24(日) 23:31:21.35 ID:0Cp8u8uoo

「なに?」

「天ヶ瀬くんは私の実力を笑った。千早ちゃんも所詮低レベルだったんだなって言った」

あの馬鹿、そんな余計なことまで言ったのか

私に対しては如月千早に勝てた事を疑ってきたくせに

「だから、千早ちゃんのためにも負けられない。天ヶ瀬くんに勝って、千早ちゃんを笑った事を謝らせるんです!」

笑われたのは確実に春香ちゃんだけだ……とは言わないでおくか

私の採点はともかく

アイドルを求めたとはいえ歌番組オーディションに合格するだけの実力はあるのだ

「ならば勝て。勝って証明してみせろ」

「はい!」

良い返事だ

冬馬め、私を無能を選ぶようなやつと言った事を後悔するがいい!

フハハハハハハハハハッ!

145: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/24(日) 23:36:58.56 ID:0Cp8u8uoo

「それじゃ、私はこれで」

「待て。手元にあるクッキーはレッスンに邪魔だろう? 置いていっても良いぞ?」

「いえ、小腹がすいた時に食べるので大丈夫です」

「……そうか。ふむ。そうか」

春香ちゃんはそのまま部屋を出ていく

…………。

あまり余計なこと言うと

女というものは物凄く面倒な奴になると解っていたのだがな……

天海春香ならば平気だとでも思ったのか?

そんな思考を遮るノック音

入って来たのは秘書だった

「社長、失礼します」

「なんだ、何か用か?」

「春香ちゃんがコーヒーがなかったと言っていたので」

146: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/24(日) 23:48:22.14 ID:0Cp8u8uoo

またあいつか

余計なことに気を……おい、待て

「……コーヒーのつぎ足しだけではないではないか」

「転んで砕け散ったから要らないだそうです」

「社長というものを舐めているのかあの小娘は」

「それでは、これで」

秘書はさり際に小さく笑うと

私に何かを言われると思ったのか足早に去っていく

転んで砕け散ったクッキーの入った小袋

中を開けてみれば、なかなかに面白いものだった

「……随分と固い作りなのだな。転んだにしては、しっかりと丸型ではないか」

天海春香という人間はよく解らん

熱いコーヒーはほろ苦く

薄茶色のクッキーはいつもより甘い

普通は紅茶と合わせるものなのだろうが、

……なかなかに美味いではないか。コーヒーの苦さにはちょうどいい

161: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/25(月) 20:28:33.19 ID:nK6KnGqEo

夕方、新しく届いた調査報告書によれば

如月千早は765プロ内部でさらに孤立しているらしい

春香ちゃんに敗北したとはいえ

当人が望んでいた歌番組からのオファー

当然、如月千早は請け負った

その結果、今日は一度も事務所に顔を出さず。

ほかのメンバーが激励だのなんだのとボイスレッスンに立ち寄れば

邪魔をしないでと一蹴してしまったとのこと。

「大方、アイドルとしての敗北とはいえ、歌番組オーディションで春香ちゃんに負けたことが気に食わんのだろうな」

春香ちゃんの様子を見るに

それは春香ちゃんの知るところではないらしい

162: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/25(月) 20:32:31.12 ID:nK6KnGqEo

それはそうだろう

春香ちゃんが原因ゆえに、春香ちゃんではどうしようもないのだからな

まぁ良い……少しずつ。

少しずつ、進めていけばいい

「そして、確実に崩壊させてやる。首を洗って待っているのだ。高木」

危うく忘れるところだったが

これこそ、私が成し遂げたいことなのだ

【「……私には、楽しそうになんて見えません」】

………なぜ、ここでその言葉を思い出す

つまらないのか? 私は

くだらないと思っているのか? 私は

……いや、それこそ私の目的なのだ

くだらなくなどない、つまらなくもない。

私は、私のやりたいことをやっているだけなのだからな

163: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/25(月) 20:44:26.90 ID:nK6KnGqEo

「くろ~い社長!」

「黒井だ!」

もうすぐ夜だというのに

社長室に騒々しく入ってくるのは奴しか居ない

当然、春香ちゃんだ

「なんなのだ。もう帰るべき時間ではないのか?」

「明日は土曜日だから、こっちに残ろうかなって思ったんです」

「……なに?」

「黒井社長さえ良いなら、久しぶりに765プロの人の家で――」

「ダメだ。許可できん」

765プロの誰かと接触などあまり許されたものではない

第一、向こうが受け入れるとは限らん

如月千早が厳しくなったのは、春香ちゃんのせいなのだからな

「ホテルを用意してやる。こっちに残っていたいのならだが」

「スイートですか!? 高級ですか!?」

「公園のテントだ」

「……………………」

「冗談だ。少し待て」

164: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/25(月) 20:51:38.39 ID:nK6KnGqEo

春香ちゃんの急な申し出だったのは

この時間からならホテルの部屋を取れず

765プロのアイドルの家にいけると思ったからだろう

だが、甘いのだ

「ホテルの部屋を用意して貰ったぞ。連れて行ってやる」

「むぅっ、やよいの家に行きたかったのに」

「ふんっ。あんなもやし一家の家に好んでいく人間などいるのだな」

「……黒井社長」

春香ちゃんの声が

温かいものからひんやりとした冷たいものに変わった

視線は鋭く尖っていて痛い

なぜだ、事実を言ったまでではないか

「やよいのこと……付け回させたりしてます?」

「……何を言っているのかわからんな」

165: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/25(月) 21:02:39.79 ID:nK6KnGqEo

「黒井社長、実は聞いちゃったんです」

「なにをだ?」

「調査部の人達に、765プロのみんなのこと調べさせてるって」

……き、機密も何もないではないか

馬鹿なのか調査部の人間は!

「クッキーで買収されたわけではあるまいな?」

「……仲良くなったので、色々と」

クッキーで仲良くなって

それで色々と話しているうちに……か

ふざけおって

「さっき、やよいのこともやし一家って言いましたよね?」

「だからどうした」

「つまり、やよいがもやしを良く買っていることを知ってるんですね!?」

「当たり前だ。調査部が調べたのだからな」

隠したところでどうにもならん

如月千早について調べてるかどうかを聞いてきた時点で

【「……黒井社長は千早ちゃんのことも調べてるんですか?」】

だったのだからな……如月千早について話さなかった判断は認めてやろう

166: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/25(月) 21:14:46.03 ID:nK6KnGqEo

「若い女の子をつけ回すなんて……」

「調査をしただけだ」

「むむっ、言い逃れはできませんよ! ボイスレコーダーがあるんですからね!」

「なんだと!?」

「嘘ですけど」

なんだ、なんなのだこの茶番は!

面倒くさい女だ! くそっ

「何のために聞いてきたのだ」

「いや、まさか認めてくるとは思わなくて……黒井社長がそういうことするっていうのは知ってましたけど」

「……それで、なにか脅しでもかけるか?」

真面目に聞いたのだが

春香ちゃんは呆れたため息をつき、首を振った

「もやしだけしかなくても、やよい達は幸せですよって言いたかっただけです」

「ふん。そんなものは底辺しか知らないから底辺で満足しているだけではないか」

167: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/25(月) 21:21:24.98 ID:nK6KnGqEo

それは間違った言葉だったらしい

春香ちゃんはにこっと笑うと

私の腕を掴んだ

「本当にそうかどうか確かめに行きましょう!」

「な、なにぃ!?」

「やよいにはもう連絡してありますから。早く、早く!」

初めからそのつもりだったのか!?

冗談ではない!

あんなもやしまみれの貧乏家族の相手などしたくはない!

「ふざけるな、私はいかんぞ!」

「女の子からのお誘い……断るんですか?」

「黙れ、行かんと言っただろう!」

「やよいの家に泊まっちゃいますよ!? 良いんですか!?」

169: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/25(月) 21:26:57.80 ID:nK6KnGqEo

「なんだと……?」

「黒井社長が来てくれないなら、やよいと一緒に寝ちゃいますからね」

「くっ……」

そこから如月千早の件が伝わり

春香ちゃんの調子が落ち、オーディションで無様に負け

冬馬にやっぱり黒井のおっさんも無能だったのかと言われる……

それだけは許さん!

「少しだ! 長居はせん!」

「えへへっ、それだけで十分ですよー」

春香ちゃんは嬉しそうに笑う

私が高槻やよいの家に付き添うことで何か利益があるのか?

……春香ちゃんの脳内については考えるだけ無駄か

「決まったらさっさと行くぞ」

「住所知ってるんですか?」

「当たり前だ」

私用の車へと乗り込み、私たちは高槻やよいの家へと向かうことになった

171: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/25(月) 21:38:27.51 ID:nK6KnGqEo

調査資料通りのボロい家

いや、資料以上にボロい家だった

「馬鹿な……こんな場所に住めるのか? 人間が……」

「うわぁっ、それはみんなの前では絶対に言わないでくださいね?」

高槻父、高槻母

高槻やよい、高槻かすみ

高槻長介、高槻浩太郎、高槻浩司、高槻浩三

の8人家族……にもかかわらず

両親の収入は不安定。母親とともに働きに出ていて夜も家にいることは多くはなく

基本的な家事はほとんど長女であり765プロの高槻やよいが担当している……か

「子供のつくりすぎだろう。馬鹿め」

「あははっ……私に言われても」

インターホンはきちんと作動しているらしく、春香ちゃんが押してからすぐに

高槻やよいが出てきた

173: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/25(月) 21:48:37.41 ID:nK6KnGqEo

「春香さん、お久しぶりですーっ」

「久しぶりー元気にしてた?」

「はいっ!」

高槻やよいは……知らないのか?

如月千早が疎遠になって言っていることを

この位の子供には伝えないのは普通か

いや、まだ解らん

高槻やよいがありえないほどの演技力を秘めている可能性はある

春香ちゃんだってそうだったのだからな

「えっと、黒い社長さんですよね?」

「黒いのではなく、黒井だ。高槻やよい」

「ごめんなさいっえっと、食べて行きますか? 今日はもやしパーティーなんですよーっ!」

もやしパーティー……

それはもやしに調味料を振りかけただけのものをつつき合うだけのものである

……と、調査資料にはある

そんなことで喜ぶなどありえんっ!

どこまで落ちぶれているのだ……高槻家というものはっ!

176: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/25(月) 21:59:42.39 ID:nK6KnGqEo

「黒井社長がね? やよいのもやしパーティーに一度参加してみたかったんだって!」

「なんだと?」

「えぇーっ!? ほんとーですか!?」

「うん、ホントホント。もやしを買う量でむぐっ」

春香ちゃんの口に手を押し当て、黙らせる

そうか、そういうことか

ここでそれを使うわけだな……くそっ

「春香ちゃんから少し聞いて興味があったのだよ、無論、迷惑ならば去るが」

「そんなことないですよーっ! 大歓迎です!」

そこは普通拒絶するべきだろう!?

一人一人の取り分が減るだけだというのに

「そ、そうか……ならば。少しお邪魔するとしよう」

「えへへっ、楽しんでいきましょうね。黒井社長」

笑っていられるのも今のうちだ

あとで覚えておいて貰うからな、天海春香!

186: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/26(火) 19:49:11.12 ID:6sPmNCsGo

「………………」

「「「「いただきまーす!!」」」」

高槻やよいたちが一斉に声を上げる

待て、おかしいだろう

もっとこう……工夫はしないのか?

鉄板を使っているんだろう?

肉はどうした。いや、せめてそばくらい追加して焼きそばにするべきではないのか?

「黒井社長、食べないんですか?」

「……おかしいとは思わんのか?」

「いえ、全然」

春香ちゃんはそう返すやいなや

鉄板の上からもやしを掻っ攫っていく

子供たちの勢いも春香ちゃんに負けじと馬鹿みたいに早かった

……だが、もやしだ

188: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/26(火) 20:06:45.88 ID:6sPmNCsGo

肉がなければ麺もなく

ご飯ともやしのみの食事

こんなものが、パーティーだと?

パーティーと呼ぶにはあまりにも貧小かつ貧弱で

哀れみさえ抱いてしまいそうなほど下等すぎる……。

「あっ、長介くん私の取ったなー!」

「ぅえっ!? 春香姉ちゃんのなんかどこにあるんだよ!?」

「鉄板の上は私のものなのだ!」

「はぁ!?」

だが、こいつらは実に楽しそうだ

子供だからだろう

超とつければ凄く感じ、大とつければ大きいと感じ、パーティーと言えば大喜び

これだってその類のものでしかなく

そんなものだから、私にとってはつまらない催しでしかない

189: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/26(火) 20:16:22.83 ID:6sPmNCsGo

「えっと、黒井……さん?」

「なんだ?」

「食べないとなくなっちゃいますよー?」

高槻やよいは不安そうに私を見つめる

そもそも、こいつが私を家に入れられたこと自体不思議でならない

自分たちの大切な仲間であるはずの春香ちゃんを

強引な手段で引き抜いたのだ

双海姉妹程でないにせよ、何らかの意思表示があってもいいはずだ

私に対しての、怨み屋憎しみ、怒りのようなものがな

「黒井さんっ! どうぞっ」

「……………………」

だが、どうしたことだ

無くならないように

皿にもやしを取り分けて私へと手渡そうとしてくるだけだ

……単なる馬鹿なのか?

191: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/26(火) 20:25:21.60 ID:6sPmNCsGo

「こんなものを客人に出すとは失礼なパーテ」

「なんだよ。おっさんが勝手に来たんじゃないか」

「こ、こら長介!」

「べー!」

餓鬼の挑発になどいちいち乗っていられるわけがなく

高槻長介を視野の外に追いやり

手渡された皿を見つめる

「美味しいですよ?」

春香ちゃんは笑う

高槻やよいも微笑む

「……そこまで言うのなら、食べてやる」

一摘みのもやしから調味料と水気が滴る

ただのもやしに調味料をかけただけの簡易料理

どれほどのものか、味わわせて貰おうか

194: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/26(火) 20:47:20.36 ID:6sPmNCsGo

芯がしっかりとしているのはもやし本来の持ち味だ

そのおかげで噛みしめるたびにシャキッと良い音が鳴るが

それは評価の対象外としておこう

本題の味だが、もやし自身には大した味などなく

味付けをしなければ無味といっても良いくらいだ

つまり、味付けこそ重要なのだ

「どうですか?」

「美味しくないですかー?」

「…………………………」

味をそのまま言えばほとんど調味料の味だ

だが、そのシンプルな味付けでも決して不味いと一蹴できるものではない

調味料が偏った場所に溜まるのではなく、絶妙なバランスで絡められている

火加減も手馴れているのだろう。熱すぎず、かと言って生焼けの不快なものになっていない

そしてなにより、調味料の濃さだ

それは高槻やよいの技量なのかどうかは判断しかねるが

一口では少し物足りないという程度の濃さであり

それが次へ次へと欲を確実に刺激しようとしてくる

196: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/26(火) 21:04:25.79 ID:6sPmNCsGo

「私の普段食べているものには劣るな」

「えぇ……そういうのと比べちゃいます?」

「煩い黙れ。まぁ……悪くはないぞ」

春香ちゃんの余計な言葉が入ったが

つまりはこういうことだ

普段高級なものを食べなれているからこそ

こういうシンプルな味わいのものは新鮮で

だからこそ、美味いと感じたわけだ

そうでなければ評価は普通でしかないだろう

ゆえに、美味いとは言わなかったのだが。

高槻やよいは嬉しそうに笑った

「えへへっ、ありがとうございますーっ!」

「……ふん」

褒めたわけではないのだがな

馬鹿みたいに喜びおって

198: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/26(火) 21:17:05.86 ID:6sPmNCsGo

「悪くはない程度なら食べちゃっていいかもしれないよー!」

「なにっ!?」

「やったー! おっちゃんありがと!」

「あ、私も食べる!」

鉄板の上に残っていたもやしがあっという間に消え去ってしまった

いや、構わんが

別に構わんが……。

【「あっ、黒井さん食べないんですか? じゃぁ私が食べちゃおっかなー!」】

記憶の中の誰かが、声を上げる

嬉しそうに、楽しそうに――。

くそっ……要らん記憶だ

これだから庶民に混じるのは好かんのだ

「黒井さん、ごめんなさい。無くなっちゃいました」

「構わん……元々ここで食べる予定などなかったのだからな」

199: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/26(火) 21:29:48.10 ID:6sPmNCsGo

「黒井社長、それじゃぁまた明日――」

「春香ちゃん、あまり我侭を言われても困るのだよ」

「ぅ……ごめんなさい」

少しだけ睨みを聞かせるだけで春香ちゃんは押し黙り

私から逃げるように玄関へと向かった

普段の春香ちゃんなら跳ね除けたりもしそうだが

今回は我侭尽くしだったからな

ちゃんと聞いてくれたということか

いや、そうでなければ困る

「高槻やよい、ひとつだけ聞くぞ」

「はい?」

「私が天海春香を765プロから奪った件をどう思っているのだ?」

「えっと……凄く残念ですけど。でも、春香さんはどこに行っても春香さんですから」

200: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/26(火) 21:35:37.82 ID:6sPmNCsGo

高槻やよいは困ったように笑う

だが、そこに怒りや憎しみ、恨みなどは感じない

「私は春香さんが笑顔でいてくれるなら。黒井さんに文句言ったりするつもりはないかなーって」

「……………」

「黒井さん、また。来てくださいね。今度はたくさん用意しますから」

……765プロの連中は馬鹿ばかりなのか?

私は敵であるはずだ

怒るべきなのだ

恨むべきなのだ

憎むべきなのだ

「なぜ……そんなことが言える。私はお前にとって悪い人間ではないのか?」

「悪い人って、思われたいんですか?」

「そういうわけではない。だが……」

「じゃぁ、そんな事は聞く必要はないと思いますよー」

201: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/26(火) 21:50:55.23 ID:6sPmNCsGo

高槻やよいは首を振ると

玄関の方から聞こえてくる春香ちゃんの声に小さく笑うと口を開いた

「ずるい方法で移籍させられちゃったけど。今の春香さんは幸せそうです」

「………………」

「だからきっと、黒井さんは良い人なんじゃないかなーって」

高槻やよいは、笑う

天海春香の姿から想像した黒井崇男という人間を見て

信用できるとでも、思ったかのように。

「ふん。勝手な想像だな」

言い捨て、玄関へと向かうと

高槻長介らと戯れる春香ちゃんは私に気づき、笑う

202: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/26(火) 22:04:09.07 ID:6sPmNCsGo

「やよいと何話してたんですか?」

「春香ちゃんには関係ないことだ」

ぶっきらぼうに答えると、不服だったのか

春香ちゃんは頬を膨らませたが

特に文句を言うことはなかった

「さっさと行くぞ」

「はーい」

「春香さん、黒井さん! また、きっと来てくださーいっ!」

「うん、きっとね」

春香ちゃんと高槻やよいの別れ言葉を聞いてから

車を動かし、ホテルへと向かった

207: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/27(水) 16:20:44.16 ID:XITriFBho

赤信号で車を止め

助手席に座る春香ちゃんを横目で睨んだ

「どういうつもりなのだ。今日は」

「……楽しくなかったですか?」

春香ちゃんはそう答えるだろうと

なんとなく解っていた

楽しみましょう。とか言っていたわけだしな

「あんなもので楽しませられるとでも思ったのか?」

「えへへ……私は楽しいし、みんなだって楽しい。だから黒井社長もいけるかなって」

「そんな子供じみた考えで強引にされても迷惑なだけだ」

「ぁぅ」

周りが勝手に騒いでいただけで

私自身はその場の空気に馴染めないまま無駄に過ごし

それどころか余計なことを思い出させられただけだったわけなのだからな

……いや、それだけではないか

208: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/27(水) 16:41:54.55 ID:XITriFBho

「パーティーはともかく、高槻やよいという人間は実に面白い人間だったぞ」

「く、黒井社長、それはダメだと思います!」

「……くだらんこと言うと車から蹴り下ろすぞ」

「あはは……冗談です」

自身の境遇を嘆くこともなく

大切な仲間である天海春香に関してのことで責めることすらしない

「高槻やよいはあれで中学生とは……面白い」

常に起こる事すべてを運命と受け入れている……わけではないだろう

愚かなほどに前向きであるだけなのかもしれん

だが、些細な問題で砕けず

常に変わらぬ姿で入れることは、上に立つ者にとっては重要なものだ

「春香ちゃんではなく高槻やよいにしておけばよかったと思ったのだが……入れ替わるか?」

「まさかの相談ですか!?」

209: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/27(水) 17:10:32.35 ID:XITriFBho

「私の何が不満なんですか!?」

「言われたいのか? たくさんあるのだが」

「うぐっ……や、やよいはクッキー作ってきませんよ!」

「言っていて悲しくならないのならば、その精神は評価しよう」

交換など、今更無理な話だから冗談だったのだが……

「い、良いもん! 勝手にしちゃえ!」

春香ちゃんはそう怒鳴ると、そっぽを向いてしまった

ふむ、春香ちゃんはからかう相手として実に面白い相手ではないか

高槻やよい相手では……いささか気が引けるしな

「冗談だ、強引に付き合わされたのだ、少しくらい構わんだろう?」

「ふんっだ」

「…………………」

どう宥めたものか

このまま放っておいても

明日には元通りなのだろうが……さて

210: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/27(水) 17:30:18.13 ID:XITriFBho

「スイートルームから一般部屋に変えることも出来るのだが」

「普通逆だと思うんですけど」

「……ふむ。では、スイートルームの一つ上。VIPの部屋ならどうだ?」

「一人でそういう部屋は寂しいから嫌です」

女というものは、誰しも変わらず注文が多いものだな

……退屈しないな

天海春香は煩わしいと思うほどにお節介である

今日だってそうだ

自分のためでもあったのかもしれないが

何割かは私のためだったのだ

「……春香ちゃん、欲しいモノがあるならば買ってやろう」

「お金で釣れるほど安くはないつもりなんですけどね」

「なら――」

「そうですね……黒井社長、クッキー作ってみません?」

なん……だと?

211: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/27(水) 17:46:37.16 ID:XITriFBho

今なんと言ったのだ?

クッキーを作ってみません……だと?

「何を馬鹿げたことを」

「黒井社長が作ったクッキーが美味しかったら許してあげますよ?」

「馬鹿馬鹿しい、それならば許されなくても良い」

一緒にいることで退屈しない

そして、手放し難いものではあるが、

ずっと春香ちゃんの良いようにされるつもりはない

「そうですか……結構楽しいんですよ? お菓子作り」

「そう思う者がいるということは、そうではない者がいるということだ」

「解ってますよ~ぅ」

つまらなそうな言葉遣い

しかし、許さなくて良いという事についての返答を考えるに

春香ちゃんは冗談でからかったことに関してはあまり気にしていないらしい

それすらも利用して、私を自分の方に引きずり込もうとしただけのようだ

ふん……やはり油断できない女だな。天海春香は

212: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/27(水) 17:49:49.71 ID:XITriFBho

すみません、中断します

215: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/27(水) 20:17:44.78 ID:XITriFBho

「受付に961プロの天海春香とでも言えば通じるはずだ」

「はい」

「明日どうするにせよ、移動はタクシーでも使え。金は後払いでこちらが払う」

手短に用件を伝え

車から降ろそうとしたのだが

春香ちゃんはシートベルトを外しただけで留まった

「そういえば、連絡用のアドレスとか教えてくれないんですか?」

「なぜそんなものが必要なのだ」

「だって、社長だし」

「プロデューサーなら解らなくもないが、春香ちゃんの言う通り社長なのだ。そのようなことをする必要はない」

216: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/27(水) 20:35:52.60 ID:XITriFBho

「そこなんですよ! そこ!」

「急に声を上げるな、騒々しい」

「私にはプロデューサーさんがいないし、ユニットの仲間もいないじゃないですか!」

とか言いながら

各部署の奴らと仲良くしているではないか

それでは不満だというのか?

「諜報部や、営業部のやつらだけじゃ不満なのか?」

「そういうことじゃなくてですね? アイドルとしてのパートナーが欲しいなって思うわけなんです」

「アイドルとしてのパートナーだと?」

つまり、なんだ

プロデューサーがいない

ユニットを組んでいるわけでもない

だから、私にその代わりをやれ。と?

そう言いたいのか?

217: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/27(水) 20:53:03.85 ID:XITriFBho

「ふん。社長という職を春香ちゃんは何か勘違いしているのではないか?」

「社長はみんなのために、みんなは社長のために。ですよね?」

誰がそんなことを教えたのだ

いや、どこから引用したのだそれは

「社長は金を払って雇ってやっているのだよ。社員を。それ以上に何かする必要はない」

「じゃぁ、オーディションへの根回しは何なんですか?」

「……それは961プロの名を上げるために必要なだけだ」

「名を上げるため……そうですか」

春香ちゃんは何かを言いたそうにしていた

しかし、何も言わない

「なんだ、言いたいことがあるならはっきりと言え」

「……その名前が足場にしてるのはなんなのかなって」

天海春香は車を降りて去っていく

私にとって要らない言葉を残して

219: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/27(水) 21:00:45.28 ID:XITriFBho

「名前が足場にしているもの……だと?」

金を使い

権力を振るい

弱者を踏みにじり

駆け上がってきた961プロ

その名が足場にしているものは、その過去の経験

だが、春香ちゃんが言いたかったのはそれではないのか?

あの目は

あの声は

あの姿は

そんな生易しいものを思っていたものではない

「……天海春香。お前は、何を見て言ったのだ」

220: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/27(水) 21:17:46.51 ID:XITriFBho

結局、

春香ちゃんが思う名前の足場は解らなかった


「天海春香……解りにくく、扱いづらい奴だ」

だが、それでこそやりがいがあるというもの

天海春香に常に優位に立たれているわけには行かん

寝首を掻くとは言わないが

そろそろ、黒井崇男という男がどういうものかを教えてやらねばなるまい

………。

……………。

いや待て、何かを忘れていないか?

天海春香に対してどうのこうのというよりも優先することがあるではないか

なぜ、忘れようとするのだ。私は

「やりたいことなのだろう? 黒井崇男」

それは確かに自分の声だった

しかし、【私】のものであるのかどうかは、解らなかった

221: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/27(水) 21:24:32.92 ID:XITriFBho

翌日、天海春香が移籍をしてから初めて

一度も天海春香と会うことはなかった

別に病気などで休んだわけではなく

朝からずっとレッスンをし続けていただけだというのは

レッスンの担当者から聞き、解っている

……解っている。か

報告の義務を与えたわけではない

【「天海春香は、レッスンに行っているのだな」】

私が聞いてしまったのだ、担当者に

練習をサボり、冬馬達に遅れをとることを心配した。と

私は思っている

222: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/27(水) 21:47:30.87 ID:XITriFBho

しかし、なんなのだろうな

そうではないような気がするのだ

天海春香の存在感は

想像以上に大きいものだったのかもしれない

あの騒々しさのない空気はなだらかで静か過ぎたのだ

かつては好んでいたはずなのに

静まり返る社長室は物足りなかった

「……天海春香、か」

ただの少女かと思えば、笑顔しか見せない少女

笑顔しか見せないと思えば、他人を思う気持ちが人一倍以上に強い少女

そして、お節介、騒々しい、煩わしい、面倒くさい少女

半月程度の付き合いの中で

私はたくさんの天海春香を知った。いや、知らされた

ゆえに……その情報量の多さに、天海春香という存在に毒されてしまったのかもしれんな

223: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/27(水) 22:03:50.66 ID:XITriFBho

天海春香を甘く見るなと高木の犬は言った

だが言われるよりも前

調査部の調査の時点ですでに甘く見ていたのだ

中核を担うとかいう話ではない

そこに存在していなければ

どこか物足りなく感じてしまう程に

日常の中に溶け込んでくるような人間なのだと気づくことはできなかった

迷惑で強引なことばかりしてくるが

それがまた天海春香という存在を強く印象づけてくる

「……なんなのだ。天海春香は」

いつか抱いた疑問が言葉となる

その答えは【――】だと解っている

だが、認めたくはないのだ

認めてしまえば、私という存在は……。

ゆえに、認めるわけにはいかないのだ

 
225: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/27(水) 22:37:47.27 ID:XITriFBho
 


「くそっ……天海春香はやはり失敗だ!」

天海春香を選ばなければこんなに悩むことなどなかった

天海春香でさえなければこんなにわけの解らないことを考える必要もなかった

天海春香を利用して765プロを潰すだと……?

ふざけるな

天海春香に利用されているではないか

天海春香に潰されようとしているのは私ではないかッ

「……………」

乱されるな、冷静になれ

天海春香に安らぎを覚えるな

天海春香に与えられるな

ただただ、天海春香を利用するのだ

如月千早との対決だってしっかりと利用したではないか

ジュピターとの勝負は私を侮辱した冬馬を蹴落とさせるという利用ではないか

「クククッ簡単だろう?」

それと同じことを、続けていけばいいだけなのだからな

231: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/28(木) 19:05:08.28 ID:4eqXAxNFo

「ふざけないで下さい!」

翌日、社長室に大きな怒鳴り声が響く

それはやはり、天海春香のものだった

「どういうつもりですか!」

「吠えるな、天海春香」

「っ…………」

天海春香と呼ぶことが気に食わないらしい

しかし、天海春香と呼ぶのが正しいのだ

私と天海春香は今までも、これからも。敵だ

そう、歪められただけだ。乱されただけだ

「……私はただ、歪められたものを正しただけだ」

そう告げ、天海春香を見つめる

暗く、沈んだ表情

それに対して同情など――しない

234: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/28(木) 19:27:16.67 ID:4eqXAxNFo

「春香ちゃんって呼んでくれなきゃ通報しますよ」

「勝手にすればいい。お前一人の通報など、容易にかき消せる」

そう。

金に糸目をつけなければ簡単だ

天海春香が私の優位に立つ術を消すことだってな

「黒井社長……なんで急に」

「急ではない。元から私はそうだったではないか。貴様の茶番に付き合ってやっていただけだ」

「……私が余計なこと、言ったからですか?」

「そんなことは関係ない。言っただろう? 歪んだものを、正したと」

天海春香は悲しそうに私を見る

悲しいのは、誰だ

私か、天海春香か

「私はっ……私は……っ」

なぜ泣くのだ。天海春香

お前の涙は誰のために流しているのだ

235: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/28(木) 19:48:42.99 ID:4eqXAxNFo

「天海春香、お前は私に何を望むのだ」

私に対して散々と尽くしながら

最後には天海春香に対して得となる何かがあるのだろう?

「私はっ……」

「なんだ、言ってみろ」

「私は……ただ、黒井社長が本当の黒井社長になってくれたらって」

何を言っている

何が本当の黒井社長だ

「私は私だ!」

「じゃぁ教えてください! 今、楽しいことはありますか!? 今までしたことを、心から誇れますか!?」

「っ……」

楽しいこと……だと?

誇れるか……だと?

「貴様にそれを話してなんになる!」

「もし、納得できるものなら……私はもう、黒井社長には何もしない。それを約束します」

天海春香の悲しみの中には、強い意思が見えた

嫌いなのだ……そのような目は!

236: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/28(木) 20:49:48.84 ID:4eqXAxNFo

「765プロが狼狽え、もがき苦しむ姿が実に愉快だ」

「……………………」

「過去がなければ今のこの裕福な私は存在しない。ゆえに誇ってやろう!」

「……………………」

私は嘘をついていない

事実だ、それは、私の言葉だ

……心からの、言葉であるはずだ

天海春香は黙った

涙を消し、悲しみを消し……冷徹な瞳で私を見つめていた

――はずだった

「……馬鹿」

――何かが、滴る

「なに?」

――天海春香が、顔をグシャグシャにしながら涙をこぼす

「裕福であることしか誇れないなら……何も言わないでください」

――天海春香は悲しんでいた、憐れんでいた

自分のことではなく、私のことを思って……

238: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/28(木) 21:05:19.95 ID:4eqXAxNFo

「止めろ!お前は――」

言葉を飲み込む

あの時と同じだ

これは繰り返しだ

やはり――油断できない女狐だ!

「ふん。お前は演技力だけは抜群だな」

「……え?」

天海春香は驚き、涙を止めることなく私を見つめた

どうせ、それさえも演技なのだろう?

「如月千早との勝負の時同様、意味のない賭けをさせるつもりなのだろう?」

「違う、違うよ……」

「だが残念だったな! お前の策は見やぶ」

言葉が強引に閉じ込められた

視界が右へとそれていく

遅れた痛みが脳を刺激して、混乱を招く

現状を理解できない私に与えられたのは――怒り

「黒井社長の馬鹿!」

天海春香の怒鳴り声だった

その体勢からでは横目でしか見れなかった天海春香の姿は後ろ姿で

そして扉が閉じ、彼女は消えた

徐々に冷静になっていく私が感じることができたのは

ヒリヒリと痛む、頬の感触だけだった

239: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/28(木) 21:27:18.65 ID:4eqXAxNFo

「社長に、手を上げるなど……」

なぜか声が震える

怒りか、痛みか?

私には解らない

「……くそっ」

痛みが引かない

そこまで痛いものではないはずなのに

「裕福であることしか誇れないなら……だと?」

小娘が調子に乗りおって

まだ何も知らないからそう言えるのだ

……現実を知らないから、言えるのだ

「だが、知ったところで……」

歪んだものを正した。か

歪められたのか、歪んでいたのか

正されたのか、正したのか……。


そんなこと、考えても何の得にもならん

冷静になれ、乱されるな

このままでいいのだ……このままで

240: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/28(木) 21:45:00.88 ID:4eqXAxNFo

「――社長。黒井社長」

「なんだ騒々しい」

「いえ、報告の最中だったのですが……やっぱり、春香ちゃ」

「その名を口に出すな!」

その怒鳴り声に、秘書はびくついて黙り込む

それを、あの女ならばなどと考える頭を強く振った

「……報告を続けろ」

「は、はい……」

あれから1週間が経った

会社には顔を出しているらしいが

あれ以降、天海春香が私の前に現れることは無くなり

社長室だけでなく私自身も静かな日々を送ることが出来ていた

……物足りないとは思わん

これでいいのだ、何も問題はない……問題は、ない

241: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/28(木) 22:10:32.12 ID:4eqXAxNFo

「えっとジュピターとあの子の出るオーディションですが、四条貴音も出るそうです」

「そうか、やはり天海春香とジュピターが出ることは奴らにとっては旨い話か」

出てくる可能性があるとも思っていたが

本当に出てくるとは思わなかったぞ

馬鹿め、私についてくる事も出来ない愚か者が

天海春香やジュピターの勝てるわけがない

「良かろう、叩き潰して貰おうではないか」

「指示はどうしますか?」

「根回しは不要だ。冬馬たちには四条貴音をねじ伏せろ。と伝えておけ」

「はい」

指示を聞き、秘書が社長室から下がると再び静寂が訪れた

242: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/28(木) 22:27:46.35 ID:4eqXAxNFo

「……………………」

カチャッとコーヒーの注がれたカップが音を立てる

それが嫌にうるさく聞こえるほど静かな部屋

冷めたコーヒーの苦味は強く

カップの傍で、左指が空気を掴む

「……馬鹿者め」

私はそれでいいと思っているはずだ

私は元からそうするはずだったのだ

にもかかわらず

呪縛のようにこの行為は無意識に行われる

【「えへへっ、クッキーですよ。クッキー!」】

大嫌いな声が頭に響く

忌々しい笑顔が、目の前に現れる

「なぜそこまで私の邪魔をするのだ!」

コーヒーカップが倒れ、中身が溢れ、カップは床へ落ちて砕け

コーヒーは、あの涙のように滴っていく

あの日から――世界が私を苛んでいるのだ

私がそう感じているだけなのかもしれないが……

250: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/29(金) 23:03:33.00 ID:v9WAOHFOo

天海春香の幻影を振り払い

涙の真似事をするコーヒーの後片付けを終える頃

丁度、やつはやってきた

天海春香ではない

あの女は明後日に控えたオーディションに向けて

朝から晩までをレッスンに費やしているし

そうでなくとも、大嫌いな私に時間を割くような真似はしないだろう

「おい、おっさん」

「……社長と呼べ」

そう、社長室に訪れたのは天ヶ瀬冬馬

天海春香と戦う者の一人だった

251: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/29(金) 23:23:48.50 ID:v9WAOHFOo

「天海春香に何か指示出したりしてるのか?」

「なぜそんなことを聞く」

「……あいつ壊れるぞ。いくらなんでもレッスンのしすぎだ」

「ふん。そんなことは知ったことか。自分自身で選んでいることなのだからな」

あいつが潰れようと

ジュピターさえ残れば構わん

もう天海春香に固執する理由などないのだ

むしろ潰れてくれた方が助かる

天海春香を使い潰すことができたのであれば

765プロが暴走し、自滅する可能性が高くなるのだからな

「あいつ自身が死ぬつもりでレッスンしてるっていうのか?」

「ああ、お前に馬鹿にされたことを如月千早まで馬鹿にされたと思ったらしい」

「なんだそりゃ……」

「良いのか? そんな馬鹿の事など気にしていて。勝てる自信はあるのか?」

253: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/29(金) 23:41:51.32 ID:v9WAOHFOo

「気にしてるわけじゃねぇ……だけどよ。不戦勝なんてつまらない結果は嫌なんだよ」

「……不戦勝」

【「不戦勝なんて、つまらないわ」】

あの女の言葉が浮かぶ

みなが汗水たらして力をつけ、その誰もが夢見たトップアイドルという座

その場所をかけた争いに忽然と現れ、圧倒的実力を見せつけたあの女に怯えたみなが

諦め、逃げ去った

なにせ、今までの努力全てを否定されてしまうほどの強さだったのだからな

逃げ出すのも無理はなかった

「……だが、天海春香は不戦敗にはならん」

「なんでそう言えるんだよ、今日も当然レッスン漬け。明日だってな。そうすりゃ――」

「潰れてくれると助かるとは思うが……残念ながら否定しよう」

「なんでそう言えるんだよ……」

「自分以外の誰かの名誉が、天海春香の勝敗にはかかっているからだ」

254: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/29(金) 23:52:56.90 ID:v9WAOHFOo

天海春香はそういう女だ

自分のことは疎かにするし、犠牲にだってしてしまう

だが仲間に関しては疎かにはしない

「死んででも出るぞ。天海春香は」

「……社長。あいつのこと信用してるんだな」

「なんだと……?」

この馬鹿は何を言っている

天海春香を信用しているだと?

この私がか?

「馬鹿なことを言うな、私は今までの天海春香の調査結果から推測しただけだ!」

「でもよ。調査結果から、不戦敗にはならないって断言できるのは信用って言うんじゃねーのか?」

255: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/30(土) 00:07:02.87 ID:RN5Dffr0o

冬馬は良く解らないといった感じで首をかしげていた

舐めた口をきいてくれる……っ

調査結果から断言したのは

90%以上の確率でそうする人間だと解っているからだ

信用していようがいまいが

それほどまでに可能性があることならば断言しても何も不思議ではないだろう

「断言できるほど、調査が済んでいるというだけのことだ」

「そういうもんか。まぁ別に良いけど……一応伝えたぜ。天海春香のことは」

冬馬はそう言い残して去っていく

天海春香が倒れるかもしれないと気にしているのだな、冬馬

馬鹿め、放っておけばいいのだ

社長に対して手をあげ、暴言を吐くような女に対し

手を差し出すような真似をする理由はない

むしろ、突き飛ばしてもおかしくはない

256: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/30(土) 00:22:31.00 ID:RN5Dffr0o

だが、天海春香は突き飛ばしても

突き落としても……きっと

きっと、天海春香は――

「くっ!」

机に力強く頭をぶつけ

乱れていく思考を制御する

「……冬馬が余計なことを言うからだ」

何が信用だ

何が、何を信用しているというのだ

【「ならば勝て。勝って証明してみせろ」】

……私が。

【「はい!」 】

……天海春香を。

「ありえん!」

天海春香など……私にとってはただの駒だ!

心の中でそう怒鳴った

怒りを、鎮めるために………しかし、

その苛立ちは、オーディションが行われる日になっても

私の中から消えることはなかった

273: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/30(土) 20:44:04.12 ID:RN5Dffr0o

翌朝、社長室に届けられたいくつもの手紙の中で

唯一企業名の書かれていない白い封筒があった

「……天海春香」

差出人はあの女

中に入っていた一枚の紙には

『私を見てください』

その一言だけしか書かれていなかったが

見ろということはつまり、オーディションを見に来いということ

直接接触することを避けながら

なぜこんな手紙を寄越したのか

私には理解ができないが、そんなことはどうでもいい

見に来いと言えるほど自信があるということが重要なのだ

「……良かろう。見せて貰おうではないか」

ただひたすらレッスンに明け暮れたボロボロのお前が

ジュピター相手にどれほど戦えるのかを……な

274: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/30(土) 21:04:29.47 ID:RN5Dffr0o

「……おや、黒井殿」

会場で出会ったのは

天海春香ではなく、四条貴音だった

「何の用だ」

「いえ、視界に貴方が入っただけですよ」

「……いや、違うな」

四条貴音は何かを言うためにここに来た

絶対ということは出来ないが

私はなんとなく、そうではないかと感じていた

「四条貴音、天海春香に会ったな?」

「会ってないと言ったら。黒井殿は信じてくれますか?」

含みのある言い方をするのは四条貴音らしい

だが、おそらく四条貴音は試しているのだ

私が、天海春香にどれだけ侵されているのかを

277: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/30(土) 21:25:52.93 ID:RN5Dffr0o

「……お前が否定するのならば、そうだと認めてやろう」

天海春香と四条貴音が会ったと確証は持てない

ゆえに、否定されればそれまで。

様子を伺うと四条貴音は不敵に笑い、頷いた

「ええ、確かにお会い致しました」

「そうか」

「何故、お会いしたと解ったのですか?」

「お前も天海春香も765プロの人間。団結団結と煩いお前たちならば会いに行くことは必然だ」

四条貴音は納得してくれたのだろう

それについて何かを言うことはなく

天海春香がいるであろう控え室の方を見つめた

「今の春香はオーディションに出るべきではありません」

「だからどうした」

「今すぐ、連れ帰ってください」

明確な敵意をむき出しにして

四条貴音は私を睨んだ

278: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/30(土) 21:48:26.05 ID:RN5Dffr0o

「足取りは危うく、声をかけても反応は遅い。今の春香は満身創痍なのです」

「それはあいつ自身が選んだことだ」

「ですが、間違いならば止めるのが貴方の勤めのはずです!」

「勘違いをするな、私は社長であってプロデューサーではない」

無理をしたいというのならばさせてやる

それで壊れるというのならば自業自得

私にはなんの損害もなければ

関係などないことなのだ

「っ……しかし、貴方は961プロにおける春香の唯一のぱぁとなぁではないのですか!?」

「騒々しいぞ四条貴音。売り出しているキャラとは全く違うではないか」

「どのようなアイドルとて身も心も人間です。私も、春香も」

四条貴音は荒れ狂う怒りを静かなものとして止め

その強い瞳一つにして私を貫く

「だからこそ、私は許しません。春香が自らを追い詰める理由を作った貴方を。絶対に」

279: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/30(土) 22:14:58.00 ID:RN5Dffr0o

不思議系などといったキャラを捨て

四条貴音は人間臭い怒りを私へとぶつけてくる

「公の場で売り名を捨てることが人間か。馬鹿め」

「人間を捨てることが天才ならば、馬鹿で構いません」

「ふん。やはり切り捨てて正解だな」

四条貴音は私を睨み

私は四条貴音を見つめる

そんな沈黙を破ったのは私でも、四条貴音でもない

「貴音さん。オーディションが始まりますよ」

「ええ、今行きます」

天海春香は私に何かを言うことも、視線を移すこともなく

四条貴音とともに去っていった

「天海……春香」

今までのように明るくも元気でもないあの女の姿に

私は何にも感じないはずだった

しかし……どこかが痛みに悲鳴をあげていた

280: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/30(土) 22:47:00.19 ID:RN5Dffr0o

オーディションの場所へと行くと

丁度、1番目のアイドルが舞台に上がったところだった

【「えへへっ」】

あの女の笑い声が聞こえた

【「私、頑張ります。えへへっ、ありがとうございました。黒井社長 」】

あの女の姿が見えた

明るい声、元気な姿

さっきの女と同じはずなのに

別人としか思えないほどの差があった

その原因は私なのか?

冬馬とのやり取りではないのか?

「……私を見てください。お前はそう言ったな」

天ヶ瀬冬馬が限界だと言い

四条貴音が満身創痍だと言い

私自身が、天海春香とは思えないと思うほどの疲労を蓄積していた

「……それで歌えるのか? 踊れるのか? 天海春香」

その言葉をかき消すように

ディレクターの開始の声が響く

オーディションが――始まった

281: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/30(土) 22:59:39.83 ID:RN5Dffr0o

ジュピターは完璧なものを見せてくれた

絶対に勝つという強い意思をひしひしと感じさせる歌とダンスは

その力強さと迫力は

そこまでのアイドルたちよりも飛び抜けていて

評価はもう決めてしまって良いと言えるほどの高得点だった

「……やはり、ジュピターの方が上か?」

如月千早には

評価においてはアイドルらしさのみで勝っただけだ

アイドルらしさの欠けていないジュピターには

天海春香では勝つことなどできない……か?

勝ちが決まった

ならもう見る必要はない。と、いつもなら思う

しかし、私は動かなかった

「7番、四条貴音と申します」

四条貴音の番だからではない

【「勝負は負けと言われるまで勝てる可能性があるものだって、私はそう思ってますから」】

まだ、天海春香が――負けを宣告されていないからだ

282: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/11/30(土) 23:17:47.45 ID:RN5Dffr0o

四条貴音の歌は大人びていて美しく

それに合わせたダンスは妖美で

それに見合った容姿と、雰囲気が周りを強く引き込む

歌は上手く、ダンスも上手い

容姿も文句の付け所はない

「なるほど……冬馬達にぶつけてくるだけのことはある」

切り捨てたとは言え

トップアイドルになれる可能性があった人間だ

手強くないわけがなかった

そしてさらに、

新人としての期待値がその得点を手助けしたのだろう

得点はほぼ満点に近かったジュピターと並び暫定1位だった

「8番、天海春香です!」

彼女は、笑う。

それだけを見れば満身創痍だとは到底思わない

だが、天海春香が疲労を溜め込んでいるのは事実

さて……合格枠は2つ

暫定1位の2組

ジュピターか、四条貴音か。

どちらが落ちるのだろうな

流れるような思考

ゆえに私は、その違和感に気づくことは出来なかった

312: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/12/02(月) 21:26:14.81 ID:8RXe0w9qo

天海春香の歌は

今までのオーディション参加者から逸脱していた

いや、逸脱しすぎていた

上手いとか、下手とか

そういう次元の話ではない

天海春香の歌は求め

天海春香のダンスは与える

「……………………」

その表現力は異常としか言えない

まるで現実であるかのように

私達の心身に染み渡っていく

呼吸さえ躊躇してしまうほど

天海春香の歌とダンスに、私達は魅せられていたのだ

313: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/12/02(月) 21:43:30.39 ID:8RXe0w9qo

天海春香の歌が終わってからしばらく

私だけでなく審査員たちまでもが止まっていた

それも仕方がない

あれは、いつか見たあの女のような強烈な印象を与えたからだ

喜怒哀楽全ての感情が入り乱れた歌と踊り

楽しいかと思えば哀しく

哀しければ喜び、そして怒り

また楽しくなる

あれは歌としてのストーリーなのか?

あれは、ただのフィクションなのか?

「――天海君の歌だったな。黒井」

答えたのは私ではなく

忌まわしき765プロダクション社長、高木だった

314: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/12/02(月) 22:12:24.98 ID:8RXe0w9qo

「どういうことだ」

「黒井、天海君はお前に見て貰いたいという気持ちを歌にしたのだ」

「……なんだと?」

天海春香が私に見て貰いたい。だと?

確かにあの女は【「私を見てください」】と手紙を送りつけてきた

「なぜそんなものを歌にした」

「それは、天海君だけでなくお前も解っていることではないのかね?」

「………………」

天海春香は私のためにそんな歌を歌ったのか?

だが……私にとってはそんなこと意味はない

「私には、天海春香は不要だ」

高木は私のことを一瞥すると

既に審査員も、誰もいない会場を見つめ、告げた

「いや、天海君は必要だ。お前だけでなく私達全員に」
 

331: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/12/04(水) 17:45:10.93 ID:HnxjDBR4o
 



私に必要だと?

全員に必要だと?

あの女がそこまで重要な人間には――……

思考が、消え去った

「ふん。戯言を抜かすな」

「……気づいていないふりをしているのか。それとも気づいていないのか」

高木は残念そうに言いながら

私のそばから離れていく

「黒井、天海君は大切に扱ってくれたまえ。765プロの大切な仲間なのだから」

去り際の一言に

私は何も言わなかった

言う必要もないと思ったのだ

あの女は今やわが961プロの物

どう扱おうと、私の勝手なのだからな

319: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/12/02(月) 22:50:40.00 ID:8RXe0w9qo

一人、会場のあったビルから出ようと歩く

前は誰かが隣にいたような……いや、い今はそんなことを考える必要はない

なぜ私に対しての歌などを歌ったのか

なぜ私のためなんかに歌ったのか

それが重要だ

可能性があるとすれば

【「黒井社長が本当の黒井社長になってくれたらって」】

そんなあの女の言葉だが……くだらん

そんな馬鹿げたことを

今でも続けているなどありえん

なにせ、私は――

「黒井殿!」

思考を遮ったのは天海春香ではなく四条貴音

怒り、悲しみ、焦り、

それらの感情を含んだ彼女が駆けてくる

その腕に抱かれているのは、天海春香

「至急、車をお出しください!」

「なに……?」

「春香を助けてください! 病院に、病院に早く!」

その必死な姿に私は仕方がなく従い、

四条貴音と共に天海春香を病院へと送り届けた

321: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/12/02(月) 23:09:32.90 ID:8RXe0w9qo

思えば、いや思う必要すらなく

それは、至極当然の出来事だった

一日中レッスン漬けの日々を過ごし、

オーディションを受けられるかどうかでさえ怪しかったのだ

でも、あの女は踊りきった。歌いきった

それは並々ならぬ精神力の賜物であるが

大事な一戦を終えたあとならば

崩れ去ってしまうのは当たり前だ

過労だと、医者には言われた

「貴方の管理責任です、黒井崇男!」

「………………」

天海春香がしたいことさせただけなのだがな……だが

一度も確認することなかったのは問題だったか

「何か仰って下さい、黒井殿!」

「黙れ、天海春香の病室の前だ」

その一言で四条貴音は押し黙った

天海春香……救いようのない大馬鹿だ

322: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/12/02(月) 23:18:51.02 ID:8RXe0w9qo

「……………」

正直なところ

まともな女の寝顔というものは

これが初めてだった

なにせ、青春と呼べるような時代は無かったようなものだし

下積み時代に最も近かったあの女は

寝顔は筆舌し難く、寝言に至っては放送禁止レベルだからだ

「乙女の寝顔はあまり見るものではありませんよ」

「傍に居ろと言ったのは四条貴音。お前だろう」

「しかし、春香を眺めていてくださいとは言っていませんよ」

ならどうしていろというのだ

一々面倒くさいやつだな

女という生き物は

323: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/12/02(月) 23:31:47.44 ID:8RXe0w9qo

「……春香には勝てないと思いました」

「……………………」

「込められた想いは力強いものでしたが……それは一体誰に向けられたものなのでしょうか」

四条貴音は解っていることだろう

だからというわけではないが

私は何も答えず、四条貴音はそれでも続けた

「春香は心から貴方の為になりたいと思っているのです」

「……………………」

「……………………」

四条貴音は天海春香の髪に触れ

頬を優しく撫でると、小さく首を振った

「たとえ世界が敵になったとしても。春香だけは……味方でいてくれるでしょう」

「何を言っている……?」

「ふふっ。それほど、春香は心優しい少女だということです」

四条貴音のそんな言葉は必要なかった

だってそれは――解りきっていることなのだから

332: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/12/04(水) 19:16:36.86 ID:HnxjDBR4o
 


天海春香が優しい人間だということは解っている

いや、優しすぎる人間だと解っている

だが……いや、

だからこそ私には不要なのだ

「……心優しい女が人に手を上げることはあるか?」

「叩かれたのですか? 春香に」

四条貴音は厳しい目つきになりながらも

天海春香が眠っているおかげか

声を上げたりすることはなく

「そうだと言ったら?」

私のその問に四条貴音は静かに答えた

天海春香が怒ったその理由を

「黒井殿が春香……いえ、天海春香という少女を理解していなかったからでしょう」

333: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/12/04(水) 19:34:36.00 ID:HnxjDBR4o

私が天海春香を理解していない。だと?

嫌なほどに理解させられたぞ

「お節介、頑固、馬鹿、自己犠牲、無駄に優しい、無駄に笑顔、無駄に前向き」

「おやおや……なんとも酷い評価で」

「事実を述べたまでだ」

それ以外ならば

クッキーが美味いというくらいしかない

それは別に言う必要はないだろう

「ですが、そうではありません」

「なに?」

「春香の優しさの理由です」

四条貴音は天海春香を一瞥すると

小さく首を振った

334: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/12/04(水) 20:59:10.54 ID:HnxjDBR4o

天海春香の優しさの理由

誰かの為に頑張るただの馬鹿ではなく

最終的には自分の為になるような

ずる賢い策を練った上で必要だと判断した偽善の理由か

「なんなのだ。それは」

「ふむ……黒井殿は邪推していますね」

「なんだと?」

「誰かの為に何かをするのは偽善かもしれません」

では。と、

四条貴音は言葉を区切り、私を見つめた

「自分の為に誰かに何かをすることは……なんなのでしょうか?」

335: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/12/04(水) 21:51:12.81 ID:HnxjDBR4o

「ただの偽善だろう」

「偽善ではないとは思わないのですか?」

「なぜそう思うことができる?」

本当の善人というものは

この世界には存在していないとも言えるだろう

なぜなら

人間は欲というものを持っていて

その欲を押しのけて相手に尽くすなどありえないのだ

「自分のためという時点で偽善だ」

「……偽善というのは自分の為に相手の得になってしまうようなことを嫌々やるものでは?」

四条貴音は本当に言いたいことを言おうとしない

一々面倒な言い方をして

私の口から言わせようとでもしているのか?

「面倒な遠回りをするな。何が言いたい」

336: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/12/04(水) 22:17:37.82 ID:HnxjDBR4o

「春香は貴方が思っているような、狡猾な方ではありませんよ」

「ふん。結局はそれか」

「もう少し人に頼ったらどうなのですか? 春香は裏切ったりはしません」

「お前に何がわかる」

四条貴音は何も知らない

天海春香以上に私に関しては無知なはずだ

それなのに人に頼れなどと……いや

無知だからこそなんでも言うことができるのだろうな

「……春香が怒ったのはきっと、貴方が信頼してくれないからでしょう」

「実力に関しては信頼しているつもりだが?」

今回だって

倒れるほどの努力の賜物とはいえ

ジュピターを抜いて1位になることができたのだからな

「いえ、そうではなく」

四条貴音はさも当然のように否定し、告げた

「秘密を打ち明けられるような信頼のことです」

337: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/12/04(水) 22:40:35.10 ID:HnxjDBR4o

「…………………」

「…………………」

「…………………」

「――んぅ」

私達の沈黙を打ち破る暢気な声

それは言うまでもなく天海春香

今回ばかりは

空気が読めたといっても良いだろう

「春香、春香……私のことが分かりますか?」

「……貴音さん?」

「ええ、そうですよ。四条貴音です」

四条貴音とは絶対に分かり合うことなどできん

ゆえに、あのまま話していても無駄に時間を過ごすだけだったからな

「天海春香」

「ぁ……黒井、社長」

天海春香は名前を呼んだだけで

枯れていく花のように顔を伏せてしまった

338: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/12/04(水) 22:48:39.44 ID:HnxjDBR4o

「願い通り、見てやったぞ」

「……知ってます」

それはそうだろう

あの時、目が合ったのだからな

私の為の歌とダンス

なぜあんなものをオーディションに使ったのかを聞きたいが……

「四条貴音、私達の会話だ。出て行け」

「言われなくとも、春香の無事を確認次第去る予定でした」

四条貴音は言うやいなや去ろうとしたが

扉の前で立ち止まり、振り返った

「黒井殿は言葉は厳しくとも、態度は正直ですね」

「なに?」

「春香が目覚めるまでここにいなければいけない理由など、貴方には無かったはずなのですから」

余計な言葉を残して四条貴音は去っていく

何を勘違いしているのだあの女は。

四条貴音と話していたからたまたま残っていた

……ただ、それだけだというのに

339: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/12/04(水) 23:22:45.92 ID:HnxjDBR4o

「ごめんなさい、迷惑かけちゃって……」

「まったくだ」

「えっと……それで、私」

「なぜあんなものを歌い踊った」

その問いに対し

天海春香は俯いたまま布団を握り締めた

「黒井社長に見て欲しかったんです」

「それは知っている。なぜ、見て欲しいなどと」

「だって……黒井社長に認めて貰いたかったんだもん」

認めて貰いたかっただと?

「実力なら――」

「そうじゃなくて!」

天海春香は言わせずに怒鳴ると

勢いよく首を振り、私を睨んだ

「私が見る価値のあるアイドルだって! 貴方のことも笑顔にできるアイドルだって!」

「……………………………」

「演技なんかじゃなく、本当に黒井社長のことを思ってるって……信じて、貰いたかったんだもん」

勢いのなくなっていく天海春香の言葉

だが、その意思の篭った瞳だけは弱まることはなかった

340: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2013/12/04(水) 23:44:39.89 ID:HnxjDBR4o

そんな馬鹿みたいな理由で

この女は過労で倒れるほどに頑張ったというのか?

誰かの為と言いながら

最終的に自分の利益になるようなものだ

しかし、それではあまりにも無駄すぎるではないか

私が認めないといえば、

それだけで無駄な努力と化するのだぞ?

「それで、その……私のこと、信じてくれますか?」

「……ここで信じないと言ったら、お前の努力は報われないのか?」

「報われますよ。千早ちゃんの名誉は守れたし、トップアイドルに近づくこともできましたから」

でも。と続く

「一番の目的は……未達成かなぁ」

天海春香は笑う

それは少し、悲しそうな笑みだった

373: ◆Uj66a4ANfQ 2013/12/24(火) 10:30:08.07 ID:ITcD0ahKo

天海春香の一番の目的

それはさっきから言ってる

私に信じて貰うというものなのだろうが

全くもって理解できん

なぜそんな馬鹿げた理由なんぞが一番の目的なのだ

ジュピターや四条貴音というライバルに負けたくないだとか

如月千早の名誉を守るためだとか

もっとそれらしい理由があるはずなのに

「私がお前を信じたとして、何の得がある」

「黒井社長に信じて貰えることが得ですかね?」

「信じてもらえることで、どんな得があるのかと聞いたはずなのだがな」

374: ◆Uj66a4ANfQ 2013/12/24(火) 10:32:20.03 ID:ITcD0ahKo

「あっ、そっちですか」

「ああ、そっちだ」

天海春香は大して深くもない言葉の意味に気づき

なぜか表情を暗くした

「私が嬉しい。じゃ、不十分ですか?」

「……くだらない理由だな」

なんの利益にもならない無駄なもの

そんなものが嬉しいなどとこの女は言う

「なぜ、嬉しいと思う」

「なんででしょうね。解りません」

そういった彼女は笑う

ただ、笑うだけ

馬鹿だから解らないのか

それとも、解るようなものではないのか

「でも、信じてるって言われると嬉しくなるんです」

「…………………」

その笑顔は本当に嬉しそうなものだった

だからこそ、

そのあとの天海春香の悲しげな瞳を、私は見ることができなかった

375: ◆Uj66a4ANfQ 2013/12/24(火) 10:33:01.96 ID:ITcD0ahKo

「……黒井さん」

天海春香の静かで優しく、落ち着いた声が響く

いつかも聞いたような音

その時に続いたのは……

【ごめんなさい、もう……もう。私は貴方にはついていけません】

という別れの言葉

天海春香はなんというのだろうか

信じないと言えば、天海春香は私の元から去っていくのだろうか

しかしやはり、天海春香には私の予想など通じないらしい

「私は信じてますから」

「なんだと?」

「黒井社長がたとえ私を信じてくれなくても、私は黒井社長を信じてます」

この女は何を言っている

この女は私を信じてるなどといったのか?

突き放した私を信じてる……と?

376: ◆Uj66a4ANfQ 2013/12/24(火) 10:34:07.45 ID:ITcD0ahKo

「なぜだ、なぜ信じられる!」

「文句を言いながらも、私に付き合ってくれるくらいには優しいから……ですかね」

天海春香はそう言い、困ったように笑った

私が、優しい?

こいつはやはり馬鹿だ

「優しくしていたのではない。お前の機嫌を損ねないために付き合ってやっていただけだ」

思えば。

かなり馬鹿らしい理由で従っていたものだ

あんな馬鹿げた理由の通報など容易にもみ消すことができるというのに

377: ◆Uj66a4ANfQ 2013/12/24(火) 10:35:28.79 ID:ITcD0ahKo

「そういえば変な脅ししてましたね」

「それのせいだな」

「……でも」

天海春香は窓の外を眺めて笑う

それだけを見ていれば、惹かれる奴も多いのではないだろうか

そんな考えが浮かび、勢いよく頭を振った

……何を考えているのだ。私は

「黒井社長はやっぱり優しいですよ」

「……解らないな。そう思う理由が」

「私を励ましてくれたからですよ。あの時の言葉……凄く、嬉しかったです」

その光にさえ見えそうな笑顔に

私は反論するための言葉を失ってしまった

378: ◆Uj66a4ANfQ 2013/12/24(火) 10:37:25.02 ID:ITcD0ahKo

純粋な瞳で天海春香は私を見つめてくる

突き放されたことを忘れたわけでもないのに

天海春香は私を優しいと言い、信じると言う

馬鹿だ、大馬鹿者だ

私には理解できない理由で動く

この女に理屈など無意味なんだろうな……

怒鳴られ、突き放され

それでも結局、私のためにと努力して戻ってくるのだから

いや、戻ってきたわけではなく

もとより離れてなどいなかったのかもしれないが

379: ◆Uj66a4ANfQ 2013/12/24(火) 10:41:37.21 ID:ITcD0ahKo

「……天海春香」

「なんですか?」

「努力は認めてやる。だが、その人格は認めん」

「人格否定は酷くないですか!? 天海春香全否定じゃないですか!」

病室に天海春香の騒々しい声が響く

だが、不愉快にはならなかった

むしろ……いや、それはないな

「仕方がないだろう。全くもって理解しがたいのだよ。お前は」

「あ、解らないから認めないだけなんですね?」

「まぁ、そうだが……」

「良かったぁ……えへへ、なら良いです。それなら理解して貰えるように頑張れば良いんですもん」

380: ◆Uj66a4ANfQ 2013/12/24(火) 10:43:12.77 ID:ITcD0ahKo

認めないと言ったのに

天海春香は嬉しそうに笑う

やはり、良く解らないやつだ

「まぁ良い、今日はここでゆっくりしていろ」

「え、でも」

「費用なら私が全負担してやる。気にするな」

「え?」

「勘違いするなよ? 過労は我社の責任だと思っただけだ」

言い捨て、扉へと手をかけると

天海春香の声が追いかけてきた

381: ◆Uj66a4ANfQ 2013/12/24(火) 10:43:53.93 ID:ITcD0ahKo

「黒井さん、私頑張りますから。これからも、見ててくださいね」

「…………………」

何が頑張るだ

なぜ自分が病室にいるのかを忘れたのか?

「頑張るのは構わん。だが、無茶はするな。親や765プロに口うるさく言われるのは面倒だ」

「なら、私のパートナーになってくれませんか?」

「ふん。寝言は寝てから言うのだな」

「むぅ……まぁ、仕方ないかなぁ」

寂しそうな呟きに続き

天海春香の頭が落ちたせいで、膨らんでいた枕が空気を吐き出す

それを終わりの合図にし、私は病室を後にした

410: ◆Uj66a4ANfQ 2014/01/20(月) 11:12:53.09 ID:7EOZpyVno

「……パートナーか」

考えるまでもなく

天海春香のパートナーなど面倒なことこの上ない

だが、

ジュピターや、一度は認めた四条貴音を

努力のみで上回ったその力は四条貴音に言った通り認めてはいるのだ

ゆえに、それ以上の力を発揮し

765プロを蹴散らしてくれるのであれば

面倒臭いプロデューサーの真似事をするのも吝かではない

と……思わないわけではない

411: ◆Uj66a4ANfQ 2014/01/20(月) 11:15:16.90 ID:7EOZpyVno

天海春香は765プロが潰れることなどないと言っていたが

既に如月千早は孤立し

四条貴音はメンタル面に問題はなさそうだが

仕事を獲得することはできず、無駄骨に終わったわけだ

そして、潰れないと信じていた仲間が

自分のせいで弱っていき潰れたとなれば

天海春香のあの生意気な笑顔も叩き潰せるだろう

「…………………」

……何を思うのだ。私は

天海春香は今でこそ961プロのアイドルではあるが

あくまで一時的なものに過ぎず

奴もまた765プロのアイドルではあるのだ

ゆえに、天海春香もまた潰さねばならないはずだ

412: ◆Uj66a4ANfQ 2014/01/20(月) 11:17:02.36 ID:7EOZpyVno

あの突き落としても這い上がってくるような女を

立ち上がることすらできないほどに打ちのめすには

私自身が多少の譲歩をしなければいけないだろう

例えば……望み通りパートナーとかいう面倒事を請負い

今以上に信頼を勝ち取り

ほかの765アイドルを再起不能にさせ、

それをお前のせいだと突きつければ……あの女のことだ

如月千早の時のように落ち込むだろう

そこでさらに私が突き放せば終わる……はずだ

多少面倒ではあるが

天海春香を再起不能にするにはこれが一番簡単な方法だ

そう自分に言い聞かせ、軽く頷いた

413: ◆Uj66a4ANfQ 2014/01/20(月) 11:18:39.51 ID:7EOZpyVno

「……そうと決まれば、明日からでも対応しておいてやろう」

問題は次のオーディションで誰を叩くかだ

孤立した如月千早については悪徳を回し

叩けそうなら叩くことにするとして……

星井美希を叩くべきか?

未だ本気を見せていないが、見せていないからこそ後の脅威になる

天海春香も基本的な能力面は平々凡々

そこらのFランクアイドルと変わらないと言っても良い

しかし、他人の為という良く解らない理由で実力以上の力を発揮し

如月千早、ジュピター、四条貴音を抜いてトップに立ったのだ

星井美希は元々やる気のない奴だ

天海春香に大敗すれば、更にやる気を損ない

アイドルを辞めることはほぼ確実だと見ても良いだろうからな

414: ◆Uj66a4ANfQ 2014/01/20(月) 11:20:40.11 ID:7EOZpyVno

「さて……」

携帯を取り出し、業務課へと繋げた

『はい。こちら961プロダクション業務課です』

「……黒井だ」

『お疲れ様です、どうでしたか?』

諜報部の人間でもありながら

どうでしたか? などとは白々しい女だ

「天海春香のオーディション結果は知っているだろうが」

『ええ、まぁ……そうではなく』

「なんだ?」

『いえ、なんでも。それよりご用件を』

小さく咳払いをし

業務課の女は平然と話を戻した

415: ◆Uj66a4ANfQ 2014/01/20(月) 11:21:23.31 ID:7EOZpyVno

何が言いたかったのかは知らんが

オーディション結果以外で聞いたのならば

どうせ天海春香に接触した感想とかのくだらない事だろうな

「星井美希のスケジュールは把握しているか?」

『星井美希……ですか? 暫くレッスン漬けみたいですね』

「オーディションに出る予定はないのか?」

『いえ、全くなさそうです』

オーディションに出ないのなら

星井美希と戦わせることはできないか……いや

こちら側で主催したオーディションに誘うか?

だが、それでは向こうが乗らない可能性がある

ならば、局の人間を買収して765プロを誘わせればいい

416: ◆Uj66a4ANfQ 2014/01/20(月) 11:23:13.65 ID:7EOZpyVno

「近いうちにあるオーディションを行う底辺局を調べておけ」

『底辺……ですか?』

「そうだ。底辺でなければ誘ってもこない可能性が高いのでな」

星井美希は無名中の無名

オーディションの誘いが来るなどほぼありえない

ましてや、大手のオーディションなど

如月千早などならともかく、やつに来ることはありえない

ゆえに、底辺でなければならないのだ

いささか面倒なことではあるが

大手の局からの誘いよりは

底辺のほうが、プロデューサー共も疑うことはないだろうし

力試しにもなるからと受けさせるはずだからな

417: ◆Uj66a4ANfQ 2014/01/20(月) 11:24:25.01 ID:7EOZpyVno

そこに天海春香をぶつけ

完全に叩き潰す

もしも天海春香が救おうとでもするのなら

私が直々に言葉をくれてやればいい

甘やかされ、欲しいものは与えられる

自分から努力して得ようとする必要さえない

そんな不抜けた奴だ

軽く言葉を作るだけで

もう嫌だと簡単に逃げ出すことだろう

もしも、それでも逃げないようであれば……

さらに何らかの策を講じればいいだけの話だ

418: ◆Uj66a4ANfQ 2014/01/20(月) 11:25:09.97 ID:7EOZpyVno

『解りました、調べておきます。いつ頃がいいでしょうか?』

「そうだな……」

近いうちにとはいえ

あまりにも近いのは少し不自然だ

いや、数合わせで急遽必要になったと、

適当なことを言わせれば合わせてくるか?

だがそんな理由での誘いにあの男が乗るとも思えん

「……2週間程度だな」

『了解しました。では、2週間+1週間の3週間でよろしいですか?』

「ふん。良く分かっているな」

『黒井社長に仕えてもう何ヶ月も経っていますので。ですが……』

419: ◆Uj66a4ANfQ 2014/01/20(月) 11:30:00.62 ID:7EOZpyVno

業務課の女は

またしても不自然なかたちで言葉を止め

暫くしてから続けた

『黒井社長はお怒りになるかもしれませんが、この1週間は無くして欲しいです』

「……お前には関係ないことだろう」

『何をおっしゃいますか。私達は社員で黒井社長は社長です』

「……天海春香に何か言われたのか?」

『ふふっ』

なんの笑う要素もないはずなのに

女は笑い、そして答えた

『春香ちゃんは切っ掛けを与えてくれただけですよ。黒井社長だって、きっかけは頂いていませんか?』

「きっかけ、だと?」

『仕事もありますので、失礼します』

そう言い切ると

女は一方的に電話を切ってしまった

……ふん

バカバカしい。あんな馬鹿に毒されおって

悪態をつき、私は車に乗りこんだ

490: ◆Uj66a4ANfQ 2014/03/18(火) 21:11:22.04 ID:ft0iHtLxo

翌朝、社長兼天海春香のプロデューサーとして

病院の前に車を止める

まだ私がプロデューサーになってやるとは言っていないが

いつもいつも迷惑をかけられているのだ

この程度の意地悪くらいで怒られはしないだろう

「………………」

……怒られはしない。だと?

なんの心配しているのだ私は……

あの女に怒られるのが怖いのか?

いや……普段怒りを見せない人間こそ恐ろしいという話を聞いたことがある

あそこまで感情豊かに表現できる女だからこそ

その内に秘めた怒りの迫力は凄まじいものであるに違いない

と……思わざるを得ないのだ

決して、あの女に忌み嫌われることを警戒しているわけではない

491: ◆Uj66a4ANfQ 2014/03/18(火) 21:13:00.17 ID:ft0iHtLxo

暫くしてから

天海春香と見送りの看護師など数人が

病院から現れ、天海春香は深く頭を下げ、言い放つ

「お世話になりましたー」

「プロデューサーさんのお迎えとかはないの?」

「あはは……忙しいんですよ。きっと」

窓から入り込む天海春香の声

窓を通して見える天海春香

それらは私に気づかずに、私の車へと近づいてくる

「迎えに来てとは言わないけどおめでとうくらい……まぁ、期待するだけ無駄なのかもしれないけど」

天海春香はため息をつき、携帯を取り出す

相手が誰なのかと考える間もなく私の携帯から着信音が鳴り響く

相手はもちろん……天海春香で

本人はかけると同時に着信音が鳴り始めた車を細めで見つめ、黙り込んでいた

492: ◆Uj66a4ANfQ 2014/03/18(火) 21:13:35.93 ID:ft0iHtLxo

電話に出るか出ないか

他にも色々とあるのだがとりあえず電話に出てみると

天海春香は何も言わない

「どうした。いま仕事で忙しいんだが」

『私今日退院したんですけど』

「それがどうした」

『そしたらですね、病院の前に不審な車が止まってるじゃないですか』

天海春香は何かを企んでいるような笑みを浮かべながら

見えないはずの私を見つめる

「それが?」

『……いえ、警察に通報した方が良いかなと思いまして』

「……そうだな。しない方が良いと思うぞ。面倒事になりたくないだろう?」

『黒井社長……なんだか脅しみたいですよ。それ』

493: ◆Uj66a4ANfQ 2014/03/18(火) 21:16:13.19 ID:ft0iHtLxo

会話は苦笑する天海春香の勝ちだ

いやそもそも、勝ち負けなどなかったのだが

諦めて電話を切り、車を降りると

天海春香は憎たらしいほどに勝ち誇った笑みを浮かべた

「えへへっ、おはようございます。黒井社長!」

「ふんっ、寝ていた時の方が小煩くなくて良かったのだがな」

「ん~……あっ病弱系アイドル……いけそうじゃないですか!?」

「ほう。病弱なアイドルが激しく踊り、歌うのか。素晴らしいな」

「それは……が、頑張ってるっていう感動的な何かをですね!」

慌てて取り繕う天海春香を一瞥し

ボンネットを軽くたたく

「乗れ」

「どこか行くんですか?」

「会社だ。お前には始末書等、書いて貰わねばいけないものがあるのでな」

494: ◆Uj66a4ANfQ 2014/03/18(火) 21:16:42.56 ID:ft0iHtLxo

「退院して早速仕事……」

ぼそっとつぶやく天海春香は

懇願するような瞳で私を見つめ、言う

「退院祝いとかないんですかっ!?」

「あるわけないだろう、馬鹿め。自己管理できなかっただけではないか」

「それはそうですけど……」

「なにより、たった1日で入院も退院も無い。あんなのは仕事が休みだったようなものなのだよ」

「えー……また過労で倒れちゃいますよー」

そんな馬鹿げた宣言をする小娘は見ずに前を見る

495: ◆Uj66a4ANfQ 2014/03/18(火) 21:19:25.22 ID:ft0iHtLxo

信号機の赤い光が赤いリボンを連想させ

緑色の光は、あの瞳を連想させる

考えれば考えるほど

天海春香という女に思考は行き着く

「………………」

「黒井社長?」

「……私が管理するのだ。過労なんぞにするわけがないだろう」

「え?」

しまった。と

思うよりも早く天海春香は瞳を輝かせ

祈るように手を組み、私の方へと身を乗り出す

「それって、プロデューサーしてくれるってことですよね!」

「ぐっ……」

「そうですよね! そうなんですよね!? 黒井さん!」

騒々しさの戻った天海春香は

確かに目障りではあるが……しかし

車の中で流す音楽のように

あるいは、店で流れるBGMのように

必要なものである……ような気がした

気がしただけだ

絶対に必要だとは思っていない

496: ◆Uj66a4ANfQ 2014/03/18(火) 21:20:11.45 ID:ft0iHtLxo

誰かに弁明をしながら喚く小娘を睨む

「ええい、黙れ! ねてろ!」

「嬉しくて目が冴えちゃってるから無理ですよ」

恥ずかしげもなくそう言いながら

天海春香は笑う

眠っている時とはまた違う、天海春香の顔

どちらかといえば

「……眠っている時の方が――」

言いかけ、言葉を飲み込んでみれば

「え? 何ですか?」

天海春香は不思議そうに首をかしげる

どうやら、聞かれてはいなかったようだ

「何も言ってなどおらん! 良いから静かにしてろ!」

「むーっ、は~い」

つまらなそうにため息をついた天海春香を乗せたまま

車はまっすぐ会社へと向かった

505: ◆Uj66a4ANfQ 2014/03/24(月) 14:21:43.08 ID:1l85SSL7o

「ファ、ファッションモデル!?」

「あぁ、そうだ」

調べさせた結果、いくつものオーディションがある中で

ファッションモデルのオーディションがあった

もちろん、努力でどうこうできるものではあるが

それはやはり、基礎が伴っていなければいけない

だからこそ……

「星井美希もこれを受ける。お前は、その出鼻を挫け」

「み、美希……? 無理ですよっ! これはさすがにっ」

天海春香は全力で否定する

私では星井美希には勝ち目がないと

勝つことなんてできないって

「歌や踊りなら努力すれば……でもっ、スタイルじゃ……」

「確かに。天海春香が星井美希に比べれば劣っているのはまず間違いない」

509: ◆Uj66a4ANfQ 2014/03/25(火) 14:46:38.02 ID:Sljm/N6Wo

「ぇっ……そこはそんなことあるわけないって否定してくれるんじゃ」

「否定する? はっ、そんなことあるわけないだろう」

「酷くないですかそれ!?」

天海春香を茶化して一息

机の資料を差し出すと

天海春香は少し不機嫌な表情をしながらも

素直に受け取った

「見てみれば解るだろうが、全員お前とは程遠い抜群のスタイルだ」

「……なんですか? もしかして、私のこと貶す為に見せたんですか?」

むっとする天海春香は

小煩い時よりも良い顔だ……負の感情が混ざっていて。だぞ?

そんなことを思いつつ、言葉を返す

「そうではない。抜群のスタイルを持っているやつばかりがファッションに興味を持つと思うか?」

「それは……まぁ、こんなひんそーでちんちくりんなわ・た・しで・も? 興味はありますからね!」

不器用な怒りを見せる天海春香を見て

思わず笑ってしまった

510: ◆Uj66a4ANfQ 2014/03/25(火) 16:04:36.89 ID:HIP88TF4o

「もぅっ! 黒井さん!」

「クククッあまりにも面白い顔だったのでな。気にするな」

「気にしますよ……」

天海春香は落ち込み、ため息をこぼす

別にそこまで落ち込む必要はない気もするのだがな……

と、米粒ほどの罪悪感を打ち砕き

机を軽くたたく

「話を続けるぞ」

「はい」

「お前は自分が到底かなわない人間が着こなす服と、自分と同程度の奴が着こなす服。どぅちを選ぶ?」

「う~ん……綺麗に。とか可愛く。とか魅せたくはあるけど、自分が適わない人が着てる服なんて着こなせないって……後者でしょうか?」

「必ずしもそうではないが、少なからずいる。天海春香。お前はそいつらのモデルになるのだ」

511: ◆Uj66a4ANfQ 2014/03/25(火) 16:11:12.66 ID:HIP88TF4o

「私がその人たちのモデル……ですか?」

「そうだ。お前は悪く言えば没個性だが、よく言えば一般人代表だ」

「ぐぬぬっ……反論したいけどできなそうな付け足し……」

「だからこそ、お前は星井美希達では得られないファンを得ることができる。それがお前の強みだ」

などと最もらしいことを言ってみるが

それで天海春香がオーディションに合格するとは限らないのが現実だ

だが

「えへへっ、そうですか~?」

などと能天気でいろとまではいかないが

少なくともやる気などが見られなければ不可能だ

……アイドルとしては馬鹿にしているようなものなのだが

それで喜んでくれるあたり単純なやつだ

「……………………」

……普段からこれくらいに扱いやすければ

少しは、まともに見てやってもいいのだがな

そう思い、何かを言おうとした頭を振り

天海春香へと指示を飛ばした

543: ◆Uj66a4ANfQ 2014/04/21(月) 18:55:00.24 ID:4M1VO4d0o

「黒井さん、このあと時間ありますか?」

「ない」

「えっ、何かあるんですか?」

仕事の話を終えた天海春香の言葉に

むしろ何もないと思っているのか、と聞きたいくらいだが

それはため息と視線に変えて天海春香を睨んだ

「良いからお前は始末書を書け。過労ごときでどれだけの迷惑を被ったか……」

「それは悪かったと思ってますけど……」

「悪かったと思うならさっさと仕上げろ。机はどこ使っても構わん」

「ん?」

私の言葉にぴくっと反応した天海春香は

野獣のような……というと語弊があるかもしれんが

嫌な目つきで私の方を見つめた

「どこ使っても?」

「なんだ。なにg――」

天海春香は私の言葉を聞かずに

過労で倒れたとは思えない速さで社長椅子へと座り込んだ

544: ◆Uj66a4ANfQ 2014/04/21(月) 19:03:56.26 ID:4M1VO4d0o

「えっへん」

「おまえは私を馬鹿にしているのか?」

「どこ使っても良いって言われましたし、ふかふかしてそうで座りたいなって」

屈託のない笑顔で笑う天海春香は

ダメならちゃんとどきますけど。と

あからさまに不服そうに続けた

「……………………」

「……………………」

「……………………」

「……え、ぇーっと、黒井さん?」

天海春香は気恥かしそうに頬を掻きながら

少しだけ目をそらした

「あ、あの……」

「……構わん。勝手にしろ」

545: ◆Uj66a4ANfQ 2014/04/21(月) 19:17:28.47 ID:4M1VO4d0o

「良いんですか?」

「如月千早、ジュピター、四条貴音に勝ち進んだ祝勝会をしてやろうと思っていたのだが」

「え?」

「わがままを聞いてやったわけだし、無くすとしよう」

「えぇっ! ちょ、ちょっと黒井さん!」

ガタッと慌てて立ち上がった天海春香は

すがるように私のもとへと駆け寄ってきた

「ど、退きましたよ! 黒井さん!」

「……知らんな。一度座った以上はもう終わりだ」

「うぐぐぐっ」

悔しそうな天海春香に背を向け、部屋を出る

ふんっ……私を馬鹿にするからだ

などと心の中で勝ち誇りながらも携帯電話を取り出し、電話をかける

「黒井で頼む。人数は……そうだな。2人で構わん」

変にへそを曲げられても困るし

朝のドッキリは失敗に終わったわけだしな

「クックックッ、天海春香の驚く顔が目に浮かぶぞ」

……何してるんだ。と

どこかで思う自分なぞいない……と頭を振った

555: ◆Uj66a4ANfQ 2014/04/23(水) 18:43:52.49 ID:5ZzzcJAyo

天海春香に時間はないといったが

私の時間がないとは一言も言っていない

そんな馬鹿らしい言葉を思い浮かべながら

数多の人が行き交う街を散歩する

当然、私だとバレないように……だ

雑誌だのなんだの面倒事は嫌い――

「黒井社長じゃないですか」

「………………」

「先日の春香は凄かったですよ」

「……貴様」

765プロの犬

もとい天海春香の元プロデューサーは

柔かな笑みを浮かべながら近づいてきた

556: ◆Uj66a4ANfQ 2014/04/23(水) 18:51:15.02 ID:5ZzzcJAyo

「なぜ私だと解る」

「大事なアイドルを奪った相手ですよ? 変装していようが整形してようが見抜いてみせますよ」

「………………」

「………………」

「……ふんっ、貴様の見る目は確かなようだな」

「黒井社長に褒められるとなると否定できないですね」

ヘラヘラと笑いながら頭を掻き

刹那の間を空けて

プロデューサーはまっすぐ私を見つめる

その瞳に油断も隙も見えない

全てを見抜こうとするような観察の目

あるいは、対敵する者の警戒の瞳

それを持って、彼は問う

「春香の傍に居なくて良いんですか?」

「……貴様にそれを言われる覚えはないな」

557: ◆Uj66a4ANfQ 2014/04/23(水) 19:01:04.69 ID:5ZzzcJAyo

「あっれ……おかしいな」

「ん?」

プロデューサーは頭上のクエスチョンを払うように携帯を取り出し

何かを開いて頷く……が

何かを言われる前に、口を開く

「天海春香のプロデューサーという件なら事実だが、常にいる理由もあるまい」

「あははっ、まさか言う前に言われるとは」

「……………………」

……なんとなく察しがついた自分が憎い

私は明らかにおかしくなっている

おかしくなって、正したはずなのに

またおかしくなろうとしていて

それを私は自分が納得のいく理屈を捏ねて享受しようとしている

そう……例えばやつの機嫌を損ねると面倒だ。というようにな……

「納得いきませんか?」

悩む私に対して

プロデューサーは静かに訊ねてきた

558: ◆Uj66a4ANfQ 2014/04/23(水) 19:16:23.60 ID:5ZzzcJAyo

「……何がだ?」

「自分が変わろうとしていることが」

「……貴様に分かるのか?」

「毒気がない……いや、ある意味では毒に冒されている」

にやっと調子に乗った笑みを浮かべ

プロデューサーは話を続けた

「貴音も言ってましたよ。黒井殿はわたくしの知る黒井殿では無くなりつつある。されど、良き事です。って」

「……………………」

「黒井社長。春香の才能に、もう気づいているんじゃないんですか?」

笑みをかき消した真剣な眼差し

とぼける事を良しとしないその空気に

私はなんとなく空を見上げた

「……天海春香は努力家だ。天才ではないが秀才だ。他に何がある」

「努力家って言い回しは上手いと思いますよ」

「……………………」

「人は努力家に心奪われる。それは自分でも何か出来るかもしれないという可能性を見出してくれるからです」

「……………………」

黙り込む私を見て

プロデューサーが何を察したのかはわからない

でも、奴は小さく笑って告げた

「黒井社長はもう春香のファンだ。天海春香という存在を無視できなくなった春香のファン」

559: ◆Uj66a4ANfQ 2014/04/23(水) 19:25:33.79 ID:5ZzzcJAyo

そのあまりにも唐突で理解のし難い言葉に

対峙し、見つめ合う私達を包み込む空気は消え去り

周りの喧騒が息を吹き返して空気を揺らす

「……くっ、クククッ……はははははっ!」

「……………………」

「何を言うかと思えばファンだと? 私が、あの女なんかのファンだと? 馬鹿馬鹿しい!」

私があの女の歌に惚れ

踊りに惚れ、演技に惚れ、容姿に惚れ

一挙一動に歓喜するような下賎な存在だと?

「ふざけているのか? 貴様は」

「まさか。そんなわけないですよ」

私の言葉を否定し

笑みを浮かべながら、プロデューサーは続けた

560: ◆Uj66a4ANfQ 2014/04/23(水) 19:33:38.07 ID:5ZzzcJAyo

「でも、俺たちと同じような気がするんですよ」

「……なに?」

「心のどこかで春香に期待しているんですよ。夢を……見ているんですよ」

プロデューサーは子供をあやすかのような

静かで、滑らかで、繊細な声で告げる

周りの音でかき消されかねないようなものであるにも関わらず

私にははっきりと聞こえた

「俺達は春香なら貴方を変えてくれると期待をしてます」

「………………………」

「そして貴方も春香に何かを見てるはずだ。何かをかけているはずだ」

「ふんっ、だとしたら何なのだ」

「……それなら貴方は立派なファンってことですよ」

何故か嬉しそうに笑ってそう言ったプロデューサーは

私の返答も待たずに去っていった

561: ◆Uj66a4ANfQ 2014/04/23(水) 19:40:35.88 ID:5ZzzcJAyo

「……私は、天海春香に」

期待しているのか?

夢を見ているのか?

………………

解らんな

知ろうとも思えん

「下らないことを言うやつだ。765プロのプロデューサーは」

ぼやきながら

来た道を戻り、社長室へと向かう

本当は解っていた

本当は知っていた

でも……私はそれを認めたくはなかった

それは完全に変わってしまうことを……いや

変わってしまうことで繰り返されるかもしれない悪夢を

私が恐れていたからかもしれない

569: ◆Uj66a4ANfQ 2014/04/24(木) 21:39:57.68 ID:zlh9xm5Xo

その夜、

駅まで送るという名目で天海春香を車に乗せた

「まさか黒井さんが送ってくれるなんて……」

「珍しくはないだろう。朝だって送ったではないか」

「それもそうですね」

助手席から聞こえる明るい笑い声は

意識したくなくても意識してしまうほどに

心を震わせる……いや、揺らす

「……天海春香」

「なんですか?」

「………………」

「黒井さん?」

天海春香の不思議そうな声に

赤信号に向いていた視線を向けた

570: ◆Uj66a4ANfQ 2014/04/24(木) 21:58:09.06 ID:zlh9xm5Xo

天海春香の緑色の瞳が私を見つめる

穢れのない澄んだ瞳だ

「……黒井さん?」

「……お前は私が見えているな?」

「そ、それは当たり前だと思うんですけど」

理解できないのは当たり前だが

それを体現するように首を傾げながら

天海春香は瞬きをして……また見つめてくる

まるで餌を待つ犬みたいだな。と

見たままの感想にくすりとも笑えず車を動かし

目的地へと向かう

「……………………」

「あの、意味が解らないんですけど」

「……………………」

「黒井さん? 黒井社長?」

「……………………」

天海春香の執拗な呼びかけを無視していた

怒ったりしてもいいはずだ

でも、天海春香は

「……なにかあったなら言ってくれても良いのに」

そう――心配そうに呟いただけだった

571: ◆Uj66a4ANfQ 2014/04/24(木) 22:14:21.45 ID:zlh9xm5Xo

天海春香の優しさに触れながらも

溺れることを拒絶し

私は自分の目的だけを進め、車を止める

「……ついたぞ」

「着いたって……あの、ここお店なんですけど。しかも超高そうな」

「言っただろう。祝ってやると」

「え……えっ? 無くしたんじゃなかったんですか!?」

天海春香の驚く表情

驚きつつ嬉しそうな声に思わず笑みが溢れて……

「笑った」

「……なに?」

「黒井さん、嬉しそうですよ」

「貴様があまりにも間抜けな顔をするからだ」

そんな意地悪な言葉に

天海春香はプクッと頬を膨らませて子供じみた怒りを表す

それに背中を向け、店の中へ向かいながら

狂い始めた自分を押さえ込むように顔に手を当てる

……私は何を喜んでいるッ!

天海春香を驚かす。ただそれが目的だったはずなのに

なのになぜ……笑顔に喜びを感じるのだ

間抜けな顔を晒す馬鹿なアイドルを嘲笑うはずだったろうに……馬鹿め

天海春香に向けていたその言葉を

私は自分に向けて言い捨てた

572: ◆Uj66a4ANfQ 2014/04/24(木) 22:24:52.61 ID:zlh9xm5Xo

「うわ……一つ一つが私のお小遣いの何倍もする……」

「当たり前だ。庶民が来れるような店ではないのだからな」

「なんか引っかかるんですけど」

「ふんっ、勝手に引っかかっておけ」

突き放しても、突き放しても

天海春香は笑顔を向けてくる

私の言葉の本質を見抜いているかのように……

「黒井さん」

「なんだ。さっさと頼め」

「いや、その……どれがどんなのか全然解らないっていうか……」

「貴様は料理が得意だろう? なら解るだろう」

「解るのは庶民的なものですよ……こんなトリュフとか金箔とかフォアグラとか高級品は想像できません」

身分格差にむくれる天海春香は

メニュー表とにらめっこしながら、チラチラと挑発するように視線を向けてきた

573: ◆Uj66a4ANfQ 2014/04/24(木) 22:44:43.50 ID:zlh9xm5Xo

「……なんだ。さっきから鬱陶しい」

「だ、だって……」

困ったように声を漏らし

視線が泳ぐ天海春香を見ながら

自分の手元のメニューを見つめた

大雑把に分ければ、肉か魚かだ

「……肉と魚はどちらが好きだ?」

「え、えっと……お肉?」

「疑問形なのはさておいて牛か豚か鳥……どれだ?」

「う~ん……鳥? でも、この松阪牛のA-5等級っていうのも……」

「なら牛だな。すき焼き、しゃぶしゃぶ、焼肉、ステーキ……いろいろあるが」

「ステーキ……かな?」

「なら一番高いA5等級のステーキだな。私はこっちの伊勢海老の――」

「ちょ、ちょっとそれは高……」

私の注文にケチをつけようとした小娘を押さえ込み

強引に注文を済ませて店員を遠ざけた

574: ◆Uj66a4ANfQ 2014/04/24(木) 23:09:07.00 ID:zlh9xm5Xo

「黒井さんっ! 流石に悪いですよっ」

「気にすることはない。私の金だ」

「で、でも……」

「貴様が悪いとは言え責任の一端は私にもあるのだ。飯ぐらい奢らせろ」

私の言葉に

天海春香はほんの少し納得いかないというような表情を浮かべたが

すぐに諦めて微笑んだ

「……割り勘しましょう。とも言えない金額ですからね。えへへっ、甘えちゃおっかな~」

「………………」

無邪気な笑みを少しだけ見つめ

気づかれる前に、目を逸らす

「ご馳走になりますね。黒井さんっ」

「ふんっ、せいぜい噛み締めるんだな」

「むぅっ!」

「ククッ、流石の間抜け面だ」

天海春香の多彩な表情に和みながら

心の内に隠した行動の真実を握り締める

私はただ

天海春香のプライベートな時間を金で買うという行為を

お詫びをするという行動の裏に隠して

正当化しているだけで

天海春香はそのことに気づいてはいなかった

583: ◆Uj66a4ANfQ 2014/04/25(金) 23:10:10.36 ID:js789zk+o

「美味しかったです、黒井さん」

「満足したか?」

「それはもう、大満足ですっ」

天海春香の満面の笑み

それを見れただけで満足――なんてことはなく

しかしながら何かを要求するなんてつもりは毛頭なかった

それはまるで

満たされていないはずなのに満たされているかのような感覚

その不自然さに体が鈍り

目の前でデザートを平らげたばかりの天海春香と目が合ってしまった

「………………」

「………………」

「……な、なんですか?」

沈黙のあとの一言の後

天海春香はそっと口元を拭った……が

別に何かついていた訳ではなかった

584: ◆Uj66a4ANfQ 2014/04/25(金) 23:39:46.11 ID:js789zk+o

「もうっ! なにかついてるのかもって焦ったじゃないですか!」

「私がいつそんなことを言った?」

「言ってなくても見てたじゃないですか……」

納得いかなそうに私を見つめ

天海春香はすぐにくすっと笑う

「なんだ。何かおかしいことでもあるのか?」

「ほらっ、気になる」

「ぐっ……」

どうやら引っ掛けだったらしい

まさかこんな稚拙な罠に引っかかるとはな

「一応黒井さんだって男の人で、私は女の子ですもん。見つめられたらちょっとは気を使いますよ」

「ふんっ、小娘に興味はない」

「いや、それは分かってますけど……というか、聞かれてもないのに言うということは……」

「払わせるぞ」

「ごめんなさい」

585: ◆Uj66a4ANfQ 2014/04/26(土) 00:08:23.29 ID:rNs2maoMo

「……そういえば、なんですけど」

「なんだ?」

「春香ちゃんって呼んでくれないんですか?」

「………………」

なんの脈略もない天海春香の言葉に

私は少しだけ狼狽えて

手の止まった私に申し訳なさを感じたのか

「あははっ……いや、その……別にちゃんじゃなくても良いんですけどね」

天海春香は僅かばかりの譲歩をした

ちゃん付けじゃなくていいとかいう

あってもなくてもどうでも良いような部分だが

「……ならばちゃん無しの天海春香でどうだ?」

「却下です」

「却下を却下させて貰うぞ」

「じゃ、じゃぁ却下の却下を却下!」

「ふんっ、却下の却下の却下を却下だ!」

……言い争いは10分程度続いた