店を出た私達は
車に乗り込み、駅へと向かう
今から行ってこ娘の地元の終電に間に合うかは疑問だがな
「黒井さん」
「なんだ」
「余計なこと……しなくて良いですからね」
「余計なこと?」
「根回しですよ。根回し」
つまらなそうに言い捨てて
天海春香は暇を持て余した手で自分の髪に触れた
「私は黒井さんとならトップアイドルになれるんじゃないかなって思ってます」
「………………」
「でも、それはお金があるからとか、そういうことじゃなくて……その」
言葉が見つからないらしく少しだけ唸って、頭を振る
傍から見たらおかしな……見なくてもおかしい奴だな
と、勝手に納得しているあいだに言葉を見つけたのか
再び口を開いた
「黒井さんも私と一緒で夢を見てる気がするからなんです」
「私が夢を見ている……と?」
「そうなんですよ。なんて言ったら良いのかな……外はカリッ中はじゅわぁな唐揚げのような」
「理解できる例えを使え」
「理解できると思ったんだけど……ん~っとですね。濁った色をしているけど、それは表面だけで中身は綺麗。みたいな?」
そんな感じです。と
天海春香は小さく笑って続けると
私のことをじっと見つめた
587: ◆Uj66a4ANfQ 2014/04/26(土) 00:36:34.60 ID:rNs2maoMo
理屈というかなんというか
言いたいことは分かったが
それが私に対して当てはまるとは思えず
鼻で笑うと
不服だったのか、天海春香はちょっとだけ睨んできた
「私がせっかく黒井さんのイメージを話してあげたのに」
「だからどうした。変われとでも言うつもりか?」
765プロの連中が期待している通りになど歩んでやるものか
その強い意志に基づく反抗に対して
天海春香は嬉しそうに笑った
「出来たら……こんなふうに優しい黒井さんが公になって欲しいです」
「…………バカを言うな。どこが優しい」
「えへへっ、お話に付き合ってくれたり、奢ってくれたり、気遣ってくれるところとか、色々です」
588: ◆Uj66a4ANfQ 2014/04/26(土) 00:48:39.15 ID:rNs2maoMo
車が揺れて、動きが止まる
目の前には駅があって
あと少ししたら電車は来るだろうといった時間
天海春香は
残念だなぁと、寂しげに呟いたかと思えば
一転してにこやかな笑みを浮かべた
「今日はありがとうございました、黒井さん」
「あぁ」
「ありがとうございました。黒井さん」
「ん? なんだ?」
一向に車を降りようとしない天海春香にその言葉をぶつけると
こ娘はなぜわからないのか? というように顔をしかめた
「……名前」
「………………」
「な、ま、えっ!」
「……さようなら春香ちゃん。これで満足か?」
「えへへっ、はいっ!」
「気をつけるんだな。帰りも、体も」
「……え?」
驚く天海春香から目をそらし、ため息をつく
面倒くさい小娘が降りた車内に広がるであろう沈黙に負けたわけでも
ましてや心配をしたわけでもない
「ただサポートするにあたって必要だと思ったから言っただけだ。気にするな」
自分に言い聞かせるためか、それとも
天海春香に言うためだけの言葉か
そのよくわからない裏のある言葉に対して
天海春香は困ったよう笑いながら、「ありがとうございます」と、微笑んだ
595: ◆Uj66a4ANfQ 2014/04/27(日) 20:06:54.77 ID:gPHOKmkPo
天海春香が去ってもなお
車内には天海春香の存在感が残り
私に向かって微笑みかけてくる
幻覚だと解ってはいるが
その鮮明さには自分の記憶力
あるいは心をある意味で疑わずにはいられない
なにせ
さっきまで同じ姿を見ていたとは言えど
そこにはない姿を幻視しているのだからな
「ククッ……馬鹿馬鹿しい」
嘲笑とともに幾度目かの言葉をつぶやく
幻覚が消え、車内には私だけが残り
静まり返る空気が嫌にまとわりついてくる中
携帯が震えた
596: ◆Uj66a4ANfQ 2014/04/27(日) 20:59:25.85 ID:gPHOKmkPo
『今日は本当にありがとうございました。楽しかったです!』
という天海春香からのメールだった
「毒されているとプロデューサーは言っていたが……たしかに、毒されてしまっているようだな」
と言うのもたった一文
無機質な文字列でしかないというのに
やはり、笑う天海春香が見えてしまうからだ
「………………」
天海春香の存在は
目に焼き付く強い光のように強力なものなのかもしれないし
もしもそれが強い光なんかではなく
太陽のようなものなのだとしたら
あの時は否定したが
今はもう高木の言葉を否定出来ないかもしれん
「……侮れるものではないな、天海春香の才能は」
既に暗い闇に包まれた街道を
光で照らしながら車は駆けていく
黒い車とともに進む白く強い光
それはまるで……
「……ふんっ」
徐に視界に入れたバックミラーに映る私は――笑っていた
597: ◆Uj66a4ANfQ 2014/04/27(日) 21:10:26.29 ID:gPHOKmkPo
天海春香との食事から1週間ほど経ち
モデルオーディションの2週間前に差し掛かっていたが
俗に言う買収行為は未だに行っていなかった
「良いんですか? 黒井社長」
「何がだ?」
「オーディションの件ですよ。春香ちゃんを勝たせるために――」
「必要ないと言っていたからな」
秘書には目もくれず
投げやりに答えてため息をつく
「信頼しているんですね」
「……そうかもしれんな」
「否定しないんですね」
「………………………」
ここぞと言わんばかりに攻めてくる秘書に対して
少しだけ厳しい目を向けたが
怯むどころか小さな笑みを浮かべるだけだった
598: ◆Uj66a4ANfQ 2014/04/27(日) 21:19:50.83 ID:gPHOKmkPo
「変わられましたね」
「面倒だからな。暫くは付き合ってやらないといけないのだよ」
「春香ちゃんが用済みになることはあるんですか?」
「……時期が来たらそれもあるだろうな」
にやっと笑った私に対して
秘書は少しだけ困ったように笑う
「なんだ。言いたいことがあるなら言ったらどうだ」
「時期っていつなんです?」
「お前に言う必要はないだろう。用が済んだならさっさと戻れ。仕事の邪魔だ」
「失礼しました」
秘書が出て行って静かになったかと思えば
すぐさま天海春香――ではなく
天ヶ瀬冬馬が入り込んできた
599: ◆Uj66a4ANfQ 2014/04/27(日) 21:32:37.80 ID:gPHOKmkPo
「如月千早の変わりようは何なんだよあれ。聞いてないぞ!」
「ふんっ、言ってないからな。それでどうだったのだ」
「……まるで機械みたいだった。歌を歌う以外には興味ないって感じだぜ」
孤立しかけていると聞いてはいたが
まさかそこまでいっているとはな
多方、負ける要素を直すつもりなんてない
むしろ完全に切り捨ててしまおうっていう考えなのだろうな
「プロデューサーは居たか?」
「いたけど揉めてる感じだったな。如月千早が完全に突き放してるっぽかった」
「やはりか……で、お前たちは負けたのか? 勝ったのか?」
「引き分け。同率一位で合格だった……ッ」
「………………」
冬馬は悔しそうに拳を握り締め、俯く
天海春香との勝負に負けたことが悔しいらしく
がむしゃらに頑張っているようだが……勝てなければ意味はない
600: ◆Uj66a4ANfQ 2014/04/27(日) 21:44:14.99 ID:gPHOKmkPo
「冬馬、ダンスとボイスレッスンは良い。表現力を集中的に鍛えろ」
「は?」
「お前達が天海春香に負けたのは表現力の差だ」
「ッ……それは」
「表現力が高ければ歌も踊りもさらに魅力的になるということを、お前は身をもって経験しただろう?」
あのオーディション
天海春香は確かに歌も踊りも上達していたが
一番はやはり表現力だった。それがすべてを凌駕して
より引き込ませる魅力的なものとなっていたのだ。ゆえに――
「天海春香に勝てるほどの表現力を手に入れろ」
「それは命令か? おっさん」
軽く睨んでくる冬馬に対して微笑を向ける
「アドバイスだ。高みに至るためのな」
「……りょーかい。それならおっさんの度肝を抜くもの見せてやるよ!」
嬉しそうに言い捨てていく冬馬は身を翻し、社長室を出ていく
……アドバイス。か
命令でもそんなことは言わなかったが
まさかアドバイスなんてしてしまうとはな……
本当に変わってしまったのかもしれないな
その事実に鼻を鳴らし、仕事へと戻った
605: ◆Uj66a4ANfQ 2014/04/28(月) 22:44:28.26 ID:+4v5flZ2o
冬馬が出て行ってから暫く経った昼頃
奴はやってきた
「黒井社長、ご無沙汰しておりますなぁ……へへっ」
悪徳又一
すっかり忘れていたが
如月千早について追わせていたのだったな
「何かあったのか?」
「旦那は既に知ってるでしょうが、如月千早はだいぶ孤立しているんですよ」
「ほう、それで?」
「心身ともに削りに削っている今、弟の件を突き出せば一発で潰せますぜ」
弟――如月優
如月千早はその弟を数年前の交通事故において
目の前で失っていて
確かに、削りに削っている今
今でも引きずっているであろうその件を突き出せば
潰せるのは確実だろうな
今の如月千早には歌しかない
そしてその歌は弟である如月優の為のもの
そこをぶり返されたら歌でさえも失う。か……
606: ◆Uj66a4ANfQ 2014/04/28(月) 22:55:44.74 ID:+4v5flZ2o
今一番輝いている。というのもおかしな話ではあるが
前線に出ているのは間違いなく如月千早だ
天海春香とのオーディションに負けはしたが
そこで手に入れた歌番組でその才能を発揮し
アイドルとしてではなく、歌手としては有名になりつつあるからな
その出っ張った鼻を叩き折れるのは良い事だ
良い事だが……
【「余計なこと……しなくて良いですからね」】
「…………」
「どうかしたんですかい? 旦那らしくもない」
「……貴様には私がどう見える」
「勝つためなら手段は選ばない、クールなお方ですぜ」
そうだ。
それこそ、今までの黒井崇男だ
その私ならば
如月千早を叩く件は即刻ゴーサインを出していたに違いない
607: ◆Uj66a4ANfQ 2014/04/28(月) 23:01:44.45 ID:+4v5flZ2o
しかし、今の私は躊躇っている
躊躇ってしまっている
如月千早に情が移ったわけではない
だが……判断を曇らせる靄はより大きく広く広がっていく
如月千早を芸能界から消し去ることで
メリットはある。だが、デメリットはない
そのはずなのに、メリットと思える要素が流れていく、消えていく
力強い印象を放つデメリットが怪しく影を落とし
私のことを見下ろす
本当にそれで良いのかと
後悔することはないのかと……語りかけてくる
「……如月千早に関しては無視していい」
「旦那!」
「二度も言わせるな」
608: ◆Uj66a4ANfQ 2014/04/28(月) 23:15:38.73 ID:+4v5flZ2o
ありえないという表情の悪徳に対し
恫喝するかのように低く、冷徹な感情を含めて言い放つ
「絶好の機会なんじゃないんですかい?」
「いや、今は天海春香に余計な負担をかけるわけにはいかんのだよ」
「捨て駒ひとつのためにでかい魚見逃すってことですかねぇ……旦那」
悪徳の負けず劣らずの侮蔑を含んだ瞳
貶す事しかできない腐った記者の分際で私にそんな目を向けるか
「天海春香と無駄に接しすぎたんじゃないですかねぇ? 以前のような強さがありゃしませんぜ」
「だったらどうだというのだ」
「否定しないってところがまた落ちたことを示してますぜ。旦那」
にやりと嫌味な笑みを浮かべる悪徳
今までは何とも感じなかったが
これは確かに気に入らんな……目も、口調も、何もかもが
609: ◆Uj66a4ANfQ 2014/04/28(月) 23:21:38.08 ID:+4v5flZ2o
「旦那と天海春香ができてるってぇ記事を書いてもいいんですぜ?」
「ふんっ、そんなデタラメをどうやって書く」
「書く事なんて些細で良いでしょう? 写真一枚でっかく貼って、熱愛発覚!」
バンッと悪徳は机を叩く
脅しのつもりなのだろうが
肝心の写真とやらを見せては来ていない
……ただのハッタリだな
「くだらんな。天海春香以上に、貴様の方が役立たずだ」
「あっしを捨てますかい?」
「765プロは記事ごときでは鼬ごっこのように延々と続くだけだ」
「……捨てるってことって受け取りますぜ?」
ギラリと光る眼差しに対して私は微笑を返す
「貴様がいなくとも天海春香がいる。あいつなら、奴らに言い訳の余地もない屈服をさせることができる。貴様などもう不要だ」
610: ◆Uj66a4ANfQ 2014/04/28(月) 23:31:39.87 ID:+4v5flZ2o
「後悔しますぜ、旦那」
「悪いが、私に脅迫は無意味だ」
「天海春香に毒されてますぜ、体の芯まで」
「私は最も屈辱的な敗北をさせられるものを選んでいるに過ぎん」
私のその答えに対し
悪徳は微笑を返して部屋を去っていく
悪徳又一など不要
下手を打てば天海春香が余計なことをするに違いないからな
なにより、ゴシップで潰すなんぞつまらん
何のために天海春香を奪ったのか解からんではないか
「……………ふんっ」
決して天海春香のためなんかではない
奴が如月千早の友人であることなど関係はない
そんなことをすれば天海春香にどんな影響を及ぼすか気にしているわけでもない
私はただ、純粋に
如月千早をもう一度天海春香に潰させ
ゴシップなんぞでは不可能なほどの真の屈辱を与えたいだけだ
ただ、それだけだ
意味のない言い聞かせを頭に響かせながら、私は仕事を進めていった
616: ◆Uj66a4ANfQ 2014/04/30(水) 16:56:45.66 ID:cMza0yPRo
「……ふむ」
天海春香がこっちに来てから
気づけば1ヶ月半も経とうとしている
その中で
ダンスのレベルも上がった
歌のレベルも上がった
表現のレベルも上がった
完璧な設備があり、完璧なサポートがついていたこともある
だが、それでも
当人しだいで結果は変わる
本来できるであろう成長予想よりも成長しない者
部分的に成長するが、部分的には成長しない者
「天海春香は……」
それらには含まれない、珍しいタイプ
これくらい成長すればベストだというラインも
これくらい成長できれば大したものだというラインも
天海春香は飛び越えていた
617: ◆Uj66a4ANfQ 2014/04/30(水) 17:36:25.37 ID:cMza0yPRo
過労で倒れるほど無理したということも含まれるかもしれないが
無理は成長には繋がりにくい
ならばなぜ、こんな結果に至ったのか……
それは天海春香が努力家だったからかもしれない
だが、何よりもまず
天海春香には成し遂げなければならない目標が常にあったからだ
如月千早との対決の際には、思いの丈をぶつける為に
ジュピター・四条貴音の時には、自分の実力を認めさせる為に
元々努力家だった天海春香を、その想いが手助けしてさらなる躍進へと変わる
「思い返せば馬鹿馬鹿しい話だ……だが……」
歌うことにおいて天才と言える如月千早に勝ち
歌もダンスも秀でていたジュピターと四条貴音にも勝った
そんな確かな結果を出し、成長を見せている以上
非の打ち所などなかった
618: ◆Uj66a4ANfQ 2014/04/30(水) 17:48:51.68 ID:cMza0yPRo
「っ……」
これならあの女にも勝てるかもしれない
そんな夢物語を想像しかけて頭を振り、馬鹿な考えを振り払う
あれは努力でどうにかできるレベルの相手ではない
戦う戦わないの前に
対峙し、その実力を見せられただけで心が折れてしまう可能性だってある
そんな相手だ
勝つことを目標としてきたなら
トップアイドルになることを目標としてきたなら
あの女のパフォーマンス一つで全てを失う
そんな相手だ
「……春香ちゃんはどうなるのだろうな」
勝てるとは思えない
だが、あの女と対峙した際の反応を見てみたくはある
まぁ、あの女は既に引退し
芸能活動において対峙するなどありえんだろうがな
619: ◆Uj66a4ANfQ 2014/04/30(水) 17:55:53.39 ID:cMza0yPRo
そんなことを考えていると携帯が震え
天海春香という少女の名前を表示した
「どうした」
『えへへ、どうかしたってわけじゃ――ブツッ』
こっちが仕事をしているというのに
まさかお遊びで――プルルルルッ、プルルルルッ
「………………」
二度目の電話もやはり相手は天海春香だった
「なんだ」
『いきなり切るなんて酷いじゃないですか!』
「電波が悪かったのだ。仕方ないだろう?」
実際は私が切っただけなのだが
天海春香は疑うこともなく
それなら仕方ないですね。と、小さく笑った
620: ◆Uj66a4ANfQ 2014/04/30(水) 18:09:20.64 ID:cMza0yPRo
「それで、なんの用なのだ」
『た、大した用事もないんですけど……その、なんというか……』
しどろもどろな答えを返してくる天海春香
当然、私はそれに対して答えることなどできず
黙り込んだままでいると
周りに子供でもいるのか
少し騒がしくなり、聞いたことある声が「しぃーっ」と周りを沈めるのが聞こえた
『……やよいの家、行っても良いですか?』
「高槻やよいか? なぜ行く必要がある」
『それは……そのぉ~……えへへ』
困ったように笑うのが容易に想像できてしまう自分にため息をつきながら
出先で遭遇して誘われたのだろう。と、聞くよりも前に出てきた答えを叩く
よそのプロダクション
それも765プロの人間ともなれば
正直許したくないが……
621: ◆Uj66a4ANfQ 2014/04/30(水) 18:29:49.28 ID:cMza0yPRo
「高槻やよいに代われ」
しばらく考えた後の答えはそれだった
天海春香がそうしたいというのであれば
許してやる他ない
変に不貞腐れても面倒だしな
『お電話代わりましたーっ、お久しぶりです。黒井社長!』
「あんまり大声で話すな。騒々しい!」
『はわっ、ごめんなさいー』
聞くだけなら元気そうではあるが
如月千早の件は伝わっていないのか?
それとも……知りつつも気丈に振舞っているのか?
『あの、黒井社長?』
「……またもやしパーティーとやらをやるのか?」
『そうですけど……あっ、もしかして参加したいんですかー?』
なぜそんな結論に達したのかは解らないが……
そうか、その手があるのか
高槻やよいには不本意とは言え一飯の礼があるし
聞きたいこともあるからな
「そうだな。邪魔でなければ私も行こう。だが、他言無用だ」
『なんでですかー?』
「無用と言ったら無用だ。理由はない」
そう言い残して電話を切る
行けば解ることだが、こないと思って不抜けている所を突くのは中々面白いからな
不抜けて驚く天海春香を想像し
その馬鹿さ加減に苦笑しながら、高槻家――ではなく
精肉店へと向かい、一番高級な牛肉と豚肉を買ってから高槻家へと向かった
623: ◆Uj66a4ANfQ 2014/04/30(水) 19:06:39.91 ID:cMza0yPRo
「………………」
「………………」
「……あはは」
天海春香の笑い声が
俺と765アイドルの菊地真との間を裂く
「貴様がいるとはな」
「やよいはボクの友達ですからね。いる時だってありますよ」
私達の間に流れる空気は
何者の介入も許さない張り詰めたものだったはずだ
高槻やよいの弟や妹でさえ割り込むことのないものだったはずだ
なのに――
「えっ、真は私の事友達だって思ってくれてなかったの!?」
「え?」
「やよいはって……やよいは友達だけど春香は違うみたいな」
「そ、そんなことないよ! 今のはやよいの家にいるからそういう言い方だっただけで……」
「今日は黒井さんのおかげでお肉が一杯ですーっ! みんなーちゃんとお礼しましょー!」
「「「「はーい!」」」」
624: ◆Uj66a4ANfQ 2014/04/30(水) 19:19:01.66 ID:cMza0yPRo
話が有耶無耶に霧散して消えていく
私が961プロの社長であり
765プロの敵であるという事実は残っているはずなのに
「……なんだ、これは」
あまりにも日和見過ぎる光景に唖然としていると
その元凶とも言える天海春香は笑い、
菊地真は私に対して文句をつけることもなく
高槻やよいの家族の間に馴染んでいた
「菊地真。良いのか?」
「今は別に仕事関係ないですし」
「……なに?」
「それに――」
私が持参した肉を一口食べて、私を見つめる
その瞳は怒りや憎しみなど感じず
「やよいと春香が許してるんだから、ボクから言うことなんてありませんよ。食事は楽しく食べたいし」
敵意もまた――一切感じられなかった
629: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/01(木) 00:05:18.15 ID:TDhmRjSfo
「ほら、真もこう言ってるんですから。ね?」
「高槻やよい……には無駄だな」
「ご飯は皆で仲良くですーっ!」
天海春香らの誘いは拒絶することもできたが
聞きたいことのためにそれもできず、流れに甘んじて食事を共にする
765プロのアイドルとその家族が住む家
ならばここも敵地であるといえるはずなのに
言えそうもない。そんな空間
長居すれば飲み込まれてしまうかもしれんな
食事は肉があるからと暴走気味だった高槻家の子供達と
その波に飛び込んだ天海春香と菊地真のおかげで予想よりも早く
10分足らずで終わり、子供達は早々と休むために部屋へ向かい
天海春香と菊地真は子供達に半分誘拐されるような形でその後についていく
そして居間に残されたのは、何の仕業か私と高槻やよいだった
630: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/01(木) 00:31:30.72 ID:TDhmRjSfo
「今日は本当にありがとうござました」
「ふんっ礼など要らん。一度は世話になったのだからな」
「で、でもでもっ、その……とっても美味しいお肉を頂いちゃって!」
高槻やよいは洗い物による濡れ手をタオルで拭いつつ
申し訳なさそうに振り向く
……これほどまでに家庭的な姿が似合う中学生もそうそういないだろうな
なぜアイドルなどやっているのか……と疑問に思うが
調査資料の生活費を稼ぐため。という言葉が直ぐに返って来た
「……………………」
「……黒井さん?」
「高槻やよい、私の問に答えろ」
「はいっ、私でよければ!」
私が肉を持参したことへの礼になると思ったのか
高槻やよいは元気よく答えを返してきた
631: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/01(木) 00:40:22.74 ID:TDhmRjSfo
「如月千早の現状について、どの程度知っているのだ?」
「千早さん……ですか……?」
高槻やよいの言葉はたったそれだけだったが
醸し出された暗い雰囲気と
悲しげな表情から付き合いが悪く、関係までも悪くなっているということは瞬時に解ってしまった
「ふむ、相当悪い状態ということか」
「はわっ!? ど、どうして」
「貴様の表情を見れば一目瞭然だ馬鹿め。演技力というものを少しは養ったらどうだ」
「ご、ごめんなさい……」
別に謝る必要はないのだが
しかし、こんなヤツにまで知れ渡っているとはな
如月千早は思っていた以上に脆い存在だったということか……
632: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/01(木) 00:52:08.03 ID:TDhmRjSfo
「如月千早について、プロデューサーは何かしているのか?」
「プロデューサーは大丈夫だって……でも……」
「ん?」
「プロデューサーはなんだか辛そうで、だから私は力になってあげたいって……でも」
高槻やよいは
調査結果などからは想像もつかないほど
落ち込み、俯き、悲しげに続けた
「私、なんにもできなくてっ、オーディションも、レッスンも全然上手くいかなくてっ、迷惑ばっかりかけてっ」
「……………………」
「プロデューサーの負担にしかなってないのかなーって……」
6人兄弟姉妹の一番上だから
弱小事務所ゆえに周りが必死にもがいているから
頼ることも、相談することも出来ず
子供のくせに積もり積もっているものがあるのだろう
いや、積もり積もっていたものがあったのだろう
高槻やよいは泣き崩れるとまではいかないが
笑顔はなく、代わりのように涙を零した
633: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/01(木) 01:02:07.59 ID:TDhmRjSfo
自分達の無力さ、無能さに絶望し
765プロが崩壊していくこと
それこそ私が望んでいたことで
高槻やよいの今の状態は願ってもない状態だった
だが……なんだ
この悲愴感は
まるで過去の自分を
それと共に歩んだ一人のアイドルを見せられているかのような不快感は
「くっ……」
高笑いの一つでもして、無能だとか足手纏いだとか
そう思うなら辞めてしまえとか、以前の私なら迷わず言えていたはずなのに
「…………………………」
目の前で打ち拉がれている高槻やよいを前に
私は躊躇ってしまっていた
638: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/01(木) 01:19:35.73 ID:TDhmRjSfo
「なにも……」
「………………」
「なにも出来ないわけではない」
やっとのことで出てきた言葉がそれだった
765プロを崩壊させ
高木に目にものを見せてやるのが私の最終的な目標だ
そしてそのためならどんな手でも使うのが私だ
如月千早はただ単に天海春香に競り負けただけだが
ここまでの状況に陥っているのであれば……むしろ利用しないわけには行かない
だが、
このまま高槻やよいを放置したり、罵倒して……というのは
私の中の何かが嫌悪し、不快感を際立たせ拒絶する
ゆえに私は崩壊させ、尚且つそれらに阻まれない選択を口にした
「961プロに来い、高槻やよい。貴様には天海春香とユニットを組むという大事な役割をくれてやる!」
651: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/01(木) 20:43:00.10 ID:TDhmRjSfo
「……私が、春香さんと?」
「天海春香はソロでも問題はない。だが……仲間がいればさらに高みを目指せるはずだ」
天海春香は誰かの為により強く輝くアイドルだ
高槻やよいでなくとも足手纏いは
普通ならば邪魔だと罵られ、突き放され、腫れ物のように扱われる
しかし天海春香はそれをしない
むしろ、足手纏いに駆け寄り手を差し伸べるようなやつだ
「でも、私……」
「天海春香には必要なのだよ。高みを目指すための目的が」
如月千早に楽しさを教えるためにトップアイドルを目指す天海春香だが
その如月千早が不安定な今、どうなるかは解らない
だからこそ、もしもの為の保険として高槻やよいが必要なのだ
「わ、私が役に立てるんですか……? 春香さんの足を引っ張ったりしませんか?」
652: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/01(木) 21:14:34.70 ID:TDhmRjSfo
高槻やよいは私の話に興味を持ち、惹かれながらも
不安と恐れを口にする
その悩みを抱くのは当然で
それを選んだ末の結果を恐るのも当然
――しかし
「恐れているだけでは何も変わらん」
「え?」
私は何を言おうとしているのだろうな
ただ利用するだけの足手纏いに対して
適当に理由を作り、要らなくなるまでこき使えばいいだけの話なのに……
「良いか高槻やよい」
「……はい」
純粋無垢な高槻やよいの瞳が
挫けそうで、儚く散ってしまいそうな危うさを感じさせ
私に言葉を引き出させる
「上に立つ者と、下に立つ者。その差は恐れに平伏したか、立ち向かったかの違いだ」
653: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/01(木) 21:51:59.61 ID:TDhmRjSfo
「君は今膝をついている。あとは手をつき、頭を下げるだけで終わりだ」
「………………」
「夢も、何もかもが……な」
「っ!」
高槻やよいは力強く服の裾を握り締め、私のことを見つめる
その瞳には恐怖がある
しかし、それ以上の意思が見て取れた
「まだ立つのか? 怖いのだろう? 逃げ出したいのだろう? 泣くほどに辛いのだろう? だったら――」
「嫌です!」
「……………………」
「辛いし、悲しいし、怖いけど……でも、でも……」
恐怖が言葉を押さえ込む
あと一歩が踏み出せない
子供というのは無鉄砲で無謀なくせに、
現実に直面するととたんに活力を失う面倒なやつだ
………………
「前に進みたい。そう言いたいのだな?」
「!」
高槻やよいは私の言葉に対して勢いよく頷く
その予想通りだが予想以上の反応に
苦笑しつつ、言葉を続けた
「ふんっ、ならば1週間後765プロから私の下に来い。周りには秘密にしてな」
「……はいっ!」
目元をぬぐい、元気な返事を高槻やよいは返す
足手纏い一人引き入れるのに真っ当な説得など私らしくないな……
「料理に使ったアルコールはちゃんと抜くのだな」
「えっと……私はお酒とかは使ってないですけど……」
「……そうか」
なら気の迷いか……まったく、馬鹿なやつだ
自分に対して吐き捨てて
勝手に寝ていたアイドル2名を高槻やよいに任せ
私は逃げるように――車へと乗り込んだ
654: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/01(木) 22:13:35.61 ID:TDhmRjSfo
そして1週間が経ち
天海春香のオーディションまで1週間となった頃
「あの、私レッスンの予定があるんですけど……」
「解っている。だが、これは春香ちゃんにとっても大事なことなのだ」
「私にとっても?」
何も知らない天海春香は
不思議そうに首をかしげて私を見つめる
そして
――コンコンッ
「あっ、誰か来――」
天海春香が振り向くと同時に
扉が開き、新たな961プロアイドルが姿を現す
「こんにちはーっ!」
「や、やよい!?」
「えへへっ、春香さん。よろしくお願いします!」
「ど、どういうことですか!」
「どうもこうもない。高槻やよいが役割を欲しがったから与えたというだけの話だ」
あまりにも衝撃的だったのか
天海春香は聞いておきながら答えを返さず、呆然と高槻やよいを見つめる
「みんなの足を引っ張ってばかりで、それが嫌で相談したら……来ないかって」
「や、やよい……本当に良いの? 後悔しない?」
「春香さんと一緒だし、たとえ事務所が違っても仲間だって春香さんは言ってくれたから……だから後悔はしてません!」
「……そっか」
高槻やよいの強い瞳を目の当たりにして
天海春香は拒絶したりすることはできず、受け入れる
765プロは四条貴音と我那覇響を引き抜いた
私は天海春香と高槻やよいを引き抜いた
高木ィ、貴様もやったのだ。文句は言えまい!
ククク……ハハハハハッ!
665: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/02(金) 23:10:58.28 ID:EhCxAlPro
高槻やよいと天海春香がレッスンへと向かい
私だけが残った社長室
そこに電話が繋がってきた
『社長宛にお電話です』
「相手は?」
『それが……765プロダクションのプロデューサー。と』
ククッ
あまりにも突然な移籍宣言には
焦りを隠せないようだな
「繋げ」
『了解しました』
電話番の女の声が途切れ
点滅しだしたボタンを押し、受話器を取る
『言いたいことがある』
「ふんっ、高槻やよいの件だろう?」
『解ってるなら話は早いですよね』
666: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/02(金) 23:18:38.79 ID:EhCxAlPro
『やよいは765プロの大事な仲間なんですよ。もちろん、春香もですけど……』
「だからどぉした?」
『っ……やよいを返してください。春香は表向きには正式に移籍してます。でも、やよいは……違うじゃないですか』
挑発するように言ってみれば
プロデューサーは怒りと悔しさと焦りを混ぜ込んだ
少し複雑な感情をぶつけてきた
私が同じ人格、同じ立場なのであれば
同じような行動に出ていた可能性も無きにしもあらずだが
――だが。
「断る」
『なっ……』
「高槻やよいは自分の意志で961プロを選んだのだぞ? 貴様にとやかく言われる筋合いなどない!」
『そんなはず……』
「あるのだよ。そんなことがな」
668: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/02(金) 23:27:21.47 ID:EhCxAlPro
「喜べ765プロ。今の私は実に気分がいい。だから結果に至る過程を理解できない貴様にも解りやすく説明してやろう」
苦笑混じりの挑発じみた声で刺激してみるが
プロデューサーは堪えているのか
お願いします。と、小さく答える
確かに如月千早の件が大きくなったことが一番の要因かもしれない
だが、私は如月千早を敗北させただけに過ぎない
しかも、八百長などを一切使わずにだ
「もちろん、それでも私が種を蒔いたと言えるだろう。だが――それだけだ」
『……………………』
「律儀に水をやり、芽吹かせ、育て上げたのはほかでもない貴様らだ」
『っ……俺たちが、ですか?』
「如月千早以外を疎かにした。不安にさせまいと触れさせなかった。だから不安になった! だから無能であると思い知らされた!」
『それは……っ』
「だから求めた! 求めてくれる人間を! だから私は言った! 貴様にもやれることがあると!」
669: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/02(金) 23:36:51.04 ID:EhCxAlPro
『……………………』
プロデューサーは何も返してこない
迫力に息を飲んでいるのか
それとも、自分の行いを悔いているのか
いずれにしろ、自分のしてきたことを理解しているはずだ
それが正しくはなかったのだと
「解っただろう。無能プロデューサー」
『…………っ』
「むしろ感謝したらどうだ? 貴様が潰しかけたものをすくい取ってやったのだからな」
『そうですね……』
軽いジョークのつもりだったが
プロデューサーは沈んだ声でそう返し、続けた
『やよいは……』
「天海春香とレッスンだ。当然、貴様と話をさせるつもりはない」
『……………………』
670: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/02(金) 23:48:05.11 ID:EhCxAlPro
「私と話す余裕があるのか?」
『……千早の件も知っているんですよね』
「答える義理はない」
『それもそうですね……っ』
悔しそうにプロデューサーは小さく唸る
仲間だの団結だのと宣っておきながら
こうもあっさりと仲間を奪われたのだ
悔しくないわけがないか……
「高槻やよいは自主的に移籍を志願した。貴様らに止める権利はない」
『否定できませんし、反論もできません……失礼しました』
プロデューサーはそう言い残して潔く身を引く
そして電話が終わり
私は安堵ではなく、複雑なため息をついた
671: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/02(金) 23:57:34.01 ID:EhCxAlPro
確かに気分が良かった
生意気な765プロに一泡吹かせてやれただろうし
まっとうな手段で仲間を奪い取ることが出来たのだからな
だが……納得がいかない
挑発するというよりも
無能な奴らに憤りを感じていたような
そんな気がしてならない
「……なぜバカみたいに力説などしたのだ。私は」
高槻やよいの思いを知っているからか?
高槻やよいの涙を見てしまったからか?
情に流されるなど馬鹿馬鹿しい……
そんなものは弱者の傷の舐め合いにしかならない
しかし、現に私は高槻やよいのためにプロデューサーに怒鳴った
「……挑発するためだ。煽るためだ。そうだろう? 黒井崇男」
窓に映る自分に自問する
しかしそれは何も言わず、私を見つめ返して嫌味な笑みを浮かべただけだった
672: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/02(金) 23:59:58.58 ID:EhCxAlPro
ここまで
……終わりは見えてる
でも、終わりにたどり着くまでにあとどれだけの改変が行われるのだろう?
まずは美希との話を終わらせないと……
675: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/03(土) 11:02:27.38 ID:VZl0KtgOo
「………………」
「………………」
レッスンを終えた天海春香と高槻やよいを社長室に呼び出し
レッスンの成果を問う
曲がりなりにもプロデューサーのような業務を引き受けたのだからな
面倒だがやるしかあるまい
「……で、どうだったのだ?」
「あー……その……」
「なんだ?」
「あはは……」
誤魔化すように笑う天海春香と
俯き気味な高槻やよい
それだけで大体察せるわけだが
「上手くいかなかったのだな?」
「っ……」
「や、やよいは一生懸命頑張ったんですよ! 頑張ったけどダメだったっていうか、新しい環境で戸惑ったっていうか!」
676: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/03(土) 11:07:58.23 ID:VZl0KtgOo
高槻やよいではなく
天海春香が無意味な弁解をする
怒られるのは可哀想だ。と
フォローのつもりなのだろうが
新しい環境に戸惑ってなどいたら
その都度変化するライブやフェス、TVなどの舞台には到底出れまい
「頑張っても無駄なら意味などない」
「そ、それは……」
「ゎ、私……」
「だ、大丈夫だよやよい! 私――」
「春香ちゃんはちょっと席を外せ、私と高槻やよいで話す」
その言葉にビクつく高槻やよい
一方で、心配そうに仲間を見つめる天海春香は
退室する他ないと解ったのか
「廊下で待ってるからね」
そう言い残し、部屋を出ていった
677: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/03(土) 11:15:15.96 ID:VZl0KtgOo
小煩いのが消えた今
室内を沈黙が漂い
俯いたままの高槻やよいは
べろちょろとかいう謎の財布らしき何かを握り締めた
「……何か言いたかったのだろう?」
「っ…………」
「春香ちゃんがいないと言う勇気もないか?」
「わ、私……私……」
べろちょろに走る皺がより細かくなっていき
声が一段と暗くなって震えだす
「私……やっぱり足手纏いにしかならないのかなーって……」
「レッスンを何度も中断させたそうだな。レッスンしただけ無駄だった。と、担当者からも言われたぞ」
「ごめんなさい……」
678: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/03(土) 11:22:53.66 ID:VZl0KtgOo
新しい環境で戸惑ったなんていう言い訳は認めない
新しい講師が合わなかったという言い訳も認めない
「……高槻やよい。なぜ失敗を重ねた」
「失敗しないように頑張ろうって……次はちゃんと出来るように頑張ろうって。でも……上手くいかなくてっ」
ぐすっと鼻を啜る音が響く
失敗しないように頑張ろう
そう思うのは確かに必要なことだが……
高槻やよいは明るく元気というのが売りだったようだし
そのポジティブさも武器ではある。が
それが逆に枷になっているか
「失敗は成功の元という言葉くらいは聞いたことがあるだろう?」
「あります……」
「だが、高槻やよい。君は全く成功しない。失敗ばかりを積み重ね、足を引っ張り周りの成長さえ阻害する」
「ごめんなさい……」
「謝罪など要らん。黙って聞け」
679: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/03(土) 11:28:06.12 ID:VZl0KtgOo
「……………………」
影の指す暗い瞳を私へと向け
高槻やよいは言葉を待つ
失敗ばかりで悲しくて、悔しくて、辛くて
なにより天海春香と担当者に申し訳がなくて
結局無力で無能だった自分が情けなくて……絶望する
流石のポジティブ少女も
そこまでこればこうなるのも当然だな
全く……悪い買い物をしてしまったではないか
こんな不良品を買った私も馬鹿だったのかもしれないがな
「……………………」
不本意ではあるが
足を引っ張りすぎて、天海春香が成長するどころか退化しては元も子もない
680: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/03(土) 11:40:16.02 ID:VZl0KtgOo
……だから
だから仕方がなく
高槻やよいも成長させるしかない
「次頑張ろうと思うのが間違いだとは言わん。だが、それだけでは失敗しかしないのだよ」
「………………」
「失敗した。次頑張ろう。それで何か解決しているか?」
「して……ないです……」
高槻やよいの元気のない答えに
私は静かに頷く
天海春香がそこらへんを教えられれば私がこんな話をしなくて済むのだが
似たような前向き思考のあいつには任せられん
「そうだ。解決などしていない。だが、お前はそれしか考えていなかった。だから失敗だけを積み重ねたのだ」
「……………………」
「失敗を成功につなぐために必要なのは、なぜ失敗したかを考え、どうすれば失敗しなくて済むかを考えることだ」
それを飛ばしても問題ないのは天才くらいだ
……天才はそもそも失敗をしないかもしれんが
バカでも一時は問題なく通過するだろうが、繰り返した時にまた失敗も繰り返す
「上手くいかない時にならこうしてみようと変えるのではなく、なぜ上手くいかないのかを考えろ」
「考える……」
「上手くいかない理由も知らずに方法を変えたところで、成功など滅多にしないのだからな」
681: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/03(土) 11:49:38.75 ID:VZl0KtgOo
「そうすれば、流石の足手纏いも失敗はしなくなるはずだ」
「成功……出来るようになるんですか?」
「成功できるのではない、失敗をしなくなるのだ。成功は当たり前なのだぞ?」
「うぅっ……」
自分のやるべきことを知り
元気を取り戻したのか
高槻やよいの表情はさっきよりも柔らかい
「まずは普通を求めろ。失敗・普通・成功の中の普通。普通ができて初めて成功に手を伸ばせるのだからな」
「はいっ!」
「良い返事だ。明日から実践できるな?」
「頑張ります!」
高槻やよいは元気よく返事を返す
これなら、明日は失敗ゼロとはいかないかもしれんが
少なくとも、進歩のないレッスンになどならないはずだ
682: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/03(土) 12:01:07.17 ID:VZl0KtgOo
「話は終わりだ。春香ちゃんが待っているのだろう?」
「そうなんですけど……一つだけ良いですか?」
「なんだ?」
「私のことも、春香さんみたいに呼んで欲しいかなーって」
「………………」
なんだそんなことか。と
言いかけて言葉を止める
天海春香をそう呼んでいる以上
そこまで抵抗があるわけでもない
だが……ふむ
「良いだろう。ただし、明日のレッスンがパーフェクトだったらだ。ダメならもやしと呼ぶ」
「もやし……ですか?」
「嫌ならば完璧にこなせばいい」
「うっうー! 頑張りますーっ!」
些細なことでも利用する
これがプロデュースする上での重要な――……ふんっ
「……話は終わりだ。さっさと出て行け」
高槻やよいは言葉の中に隠れた感情など気づかずに
ありがとうございました。と、笑顔で言い残し、去っていく
……私は何を馬鹿な
プロデューサーなどとうの昔に辞めた
今はただ利用するために仕方がなく肩書きを持っているだけに過ぎないというのに……
「くそっ……」
やり場のないその感情を
その一言にもみたない言葉に収め、投げ捨てた
690: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/03(土) 21:52:20.53 ID:VZl0KtgOo
そして翌日のレッスンが終了すると同時に
「どうでしたかーっ!」
高槻やよいは元気良く駆け寄ってきた
「そうだな……」
「イマイチでしたか……?」
「………………」
高槻やよいは残念そうに言うが
別にそんなことはない
完璧とは言わないが
言われた通り、普通の領域にはしっかりと到達していたのだからな
「……次は成功を目指すのだぞ。やよいちゃん」
「ぁ……はいっ!」
嬉しそうに笑う高槻やよいを一瞥し
天海春香へと目を向けると
少しばかり怪訝そうに私を見つめていた
691: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/03(土) 22:04:34.18 ID:VZl0KtgOo
「言いたいことがあるなら言ったらどうだね?」
「じゃぁ言いますけど。やよいに甘くないですか?」
「そんなことはない。やよいちゃんからの申し出に条件を出し、しっかりとクリアしたから受けただけのことだ」
「いや、そういうことじゃなくてですね……」
言いたいことはあるが
言葉が見つからないのか
困ったように頭に手を当てたが
「まぁいいです。ちゃんとプロデュースしてくれてますからね」
「なんだその上から目線は」
「えへへっ、嬉しくてつい」
「言っておくが、今回はたまたま仕事がなかっただけだ。見に来ることなどないぞ」
「え……もう見に来てくれないんですかー?」
天海春香ではなく、高槻やよいが残念そうに言葉を漏らす
私は一応
765プロの敵のはずなのだがな……
「……たまになら来てやろう。一応はプロデューサーだからな」
「うっうーっ! ありがとうございますーっ!」
「ふんっ、簡単に浮かれおって」
あそこまで沈んでいたのが嘘のように
高槻やよいは元気な姿を見せる
もう心配はいらなそうだ
692: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/03(土) 22:12:20.75 ID:VZl0KtgOo
モチベーションが低ければ基本ですらできなくなる
だが、モチベーションが高ければ基本以上のことだって可能にする
まぁ、まだまだひよっこの高槻やよいに基本以上は求めないが
「むぅ……」
「どうした?」
「なんでもないですよー」
含み笑いを私へと向けて
天海春香は高槻やよいと共に更衣室へと消えていく
なんだ
私になにかおかしな点でもあったのか?
「おい、そこの」
「は、はい」
「お前をレッスンのコーチに雇ってやっているのは誰だ?」
「く、黒井社長です」
「よろしい。ならば天海春香が今考えていたことを言ってみろ」
693: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/03(土) 22:20:42.77 ID:VZl0KtgOo
唐突な無茶ぶりだということは私だって解っている
だから解雇したりとかするつもりはなかったが
コーチは恐る恐るといった感じで
多分ですけど……と前置きをして答えた
「黒井社長がやよいちゃんに優しかったから……その……」
「高槻やよいを特別扱いしたつもりはないぞ」
「でもその、なんと言えば良いのか解りませんが……」
天海春香のように言葉につまり
申し訳なさそうに私を見つめる
言葉はあるが言えない。といった感じだ
「率直に言え。なんであろうと貴様に処罰は与えん」
「っ…… 」
「 ?」
「 、 コンなのかもって!」
コーチは言いにくかった言葉を勢いよく吐き出す
その衝撃的な意味合いを持つ言葉に
私はしばらく固まり、そして言い放つ
「……天海春香ぁ!」
『うひゃぁ!?』
更衣室から響く天海春香の悲鳴
出てきたらしっかりと黒井崇男という人間について話してやらねばいけないようだ
694: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/03(土) 22:34:20.78 ID:VZl0KtgOo
10分程度の説教の後
2人を後部座席へと乗せて車を走らせる
「うぅっ……私は言わないでおいたのにぃ」
「思った時点で罪なのだよ」
「そんなの理不尽だよぅ」
まだ少し文句は言うが
私がそんな人間ではないことは理解したらしい
まったく……少しばかり甘く見てやっただけでこうなるのだからな
天海春香なんて大嫌いだ
こんなやつのファンなんぞ、断固否定、断固拒否だ
「やよいちゃん」
「なんですかー?」
天海春香を宥める高槻やよいに対し
今朝契約してきたばかりの携帯電話を差し出す
「携帯電話を支給しておく。壊したり失くしたりするんじゃないぞ」
「で、でも……」
「使用料は会社が持つから心配はしなくていい。持っていて貰わなければ連絡がしづらくてかなわんのだよ」
695: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/03(土) 22:43:01.78 ID:VZl0KtgOo
絶対に持っていなければいけないと言うわけではないが
自分でスケジュールを把握したり
何らかのトラブルがあった際に連絡をしたり
色々と必要な事があるかもしれないからな
「本当に借りちゃっても良いんですかー?」
「そのために契約した携帯だ」
「あ、ありがとうございますーっ!」
その元気な返しに鼻を鳴らす
別に コンとかいう変な人間ではないが
暗く塞ぎ込まれているよりは
こういう方が聞く側、見る側としては気分がいい
「……黒井さん」
「なんだ?」
「やよいのこれ……最新機種なんですけど」
「だからどうした。目の前にあったから適当に選んだだけだ。他意はない」
「とか言いつつオレンジ色なんですけど!?」
696: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/03(土) 22:54:38.47 ID:VZl0KtgOo
「ふんっ、イメージを壊さないようにしただけだ」
「嘘ですね。絶対にやよいのこと甘やかしてる!」
「そんなつもりはない!」
「私のことは渋ったくせにやよいだけすぐにちゃん付けだったし!」
「なんでそれが今出てくる!」
天海春香は反省していた空気を蹴り飛ばし
私の言葉に食らいつく
何が気に入らないのかしらんが
私はもっと気に入らん
「もうクッキー作ってあげないんだから!」
「ならば定期の更新はしない。プロデューサーも辞めだ!」
「職務放棄するんですか!? いーけないんだー」
「やよいちゃんの方は続投、春香ちゃんだけ放置。職務放棄には――」
「えへへっ」
無駄な言い争いにも思える会話を
高槻やよいの嬉しそうな笑い声が遮り言葉が途切れる
私はミラーを通し、天海春香は直接高槻やよいを見つめた
697: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/03(土) 23:02:52.75 ID:VZl0KtgOo
「やよい?」
「何がおかしい」
「黒井さんと春香さん、仲が良いんですねーっ。なんだか楽しいですーっ!」
「………………」
「………………」
私達の仲がいいだと?
高槻やよいは何馬鹿なことを言っているのだ
「そんなわけがないだろう」
「そうだよ!」
「礼儀も遠慮も知らないヤツなんぞ知らん!」
「礼儀も遠慮も知らないのはそっちじゃないですか!」
「「くっ……!」」
「……? 十分仲がいいような――」
「「良くない!」」
言い争いは駅に送り届けるまで終わらず、
この日は
高槻やよいと天海春香のせいで
無駄に体力と気力を使わされてしまった
699: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/03(土) 23:20:34.12 ID:VZl0KtgOo
――だが
正直なことを言えば
今とは違って女一人、男二人だったが
言い争うように話し合った過去の記憶が蘇ってきて
少し……懐かしい気分にもなった
「………………ふんっ」
余計なことばかりする奴だ
本当に忌々しい
気に食わないことばかりだ
――しかし
「……………………」
手放そうとは思えない
高槻やよいを手に入れたのだから
メインを切り替えるという選択肢もあるのに……そうしようとも思えない
大嫌いだと思うことはある
だが、それがずっと続いたことはない
気づけば許している、気づけばまた傍に置いている
――認めない
そんなことは認めない
天海春香という存在に魅せられているなど――私は認めない
相反する二つの心がぶつかり合う
その衝撃が私を苦しくさせ、悩ませる
それをかき消すために強い酒をいくつも飲み、私はそれを混濁する意識の奥へと追いやった
706: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/04(日) 16:24:33.97 ID:Jy3BJsDqo
ファッションモデルのオーディション当日
元々参加予定だった天海春香と
オーディション慣れさせるという目的の元
飛び入り参加させた高槻やよいと共に私は会場に来ていた
必ず受かるという保証はないが
オーディション結果に不安はない
天海春香の体型は割と平均的なものだが
人気が上がりつつある今、その知名度を利用しようとするのが一般的だ
ゆえに受かる可能性は十分に高い
運がよければ表紙を飾れる可能性だってある
一方で、高槻やよいは
年齢及び見た目的にも成長途中
むしろ家庭環境のせいか平均よりは下回っているとも言える
だが、活き活きしていない被写体よりも、活き活きしている被写体を好むはずだ
撮る側も、見る側も。な
だから恐らく……脇役程度になるかもしれんが
高槻やよいも合格できる可能性は十分にある
707: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/04(日) 16:39:25.76 ID:Jy3BJsDqo
とはいえ
それが事実とは限らない
モデルになるにはスタイルが重要だからな
「レッスンが意味をなさない以上、本当の意味で素の実力勝負と言える。いつも通りでいってこい」
「いつも通り……」
「うぅっ……緊張しますー」
「春香ちゃん、やよいちゃん。撮られると思うな。見られると思うな。それではいつもとはかけ離れているのだ」
緊張し、
不安そうに私を見つめる2人に告げる言葉
それは961プロの活動方針としても
私のオーディションというものの捉え方を
根本的に覆すようなものだ
だが――私と2人は違うだからこそ、言う
「頑張るのではなく、楽しんでこい。君達にはそれで十分だろう?」
「楽しむ……そうですね。ぎこちなかったり、笑えなかったり。そんな写真なんて撮りたくないですもんね!」
「頑張らずにいつも通りに楽しむ。えへへっ、私なんとなくわかった気がしますーっ!」
708: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/04(日) 16:47:31.11 ID:Jy3BJsDqo
元気に明るくが売りである2人にとって
レッスンなどの補正もない
ありのままの自分を求められるであろうこのオーディションは
向かうところ敵なしと言えるかもしれない
だが――
「……あふぅ」
「………………」
敵はいる
765プロの星井美希
レッスンは怠ける、オーディションには落選ばかり
そんなやつだが敵は敵だ
「そこの君ィ、765プロの星井美希だろう?」
「……………………」
「……………………」
「…………君じゃないの。ミキなの」
反応が遅すぎるッ
私を誰だと思っているのだ!
舐めているのか? こいつは!
709: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/04(日) 16:52:44.03 ID:Jy3BJsDqo
「プロデューサーはいないのかね?」
「いないの。千早さんもオーディションだからそっちに行っちゃったの」
「ふんっ、使えないアイドルを放置するとは中々優秀なプロデューサーのようだな」
八つ当たり……ではなく
あまりにもやる気のない星井美希に対し
挑発のつもりで言ったのだが
「……どうせミキはまた落ちるの。やるだけ無駄なの」
「……………………」
元から重症だったらしい
私の一言でかなり落ち込み
壁際まで行くと、そのまま座り込んでしまった
713: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/04(日) 17:24:46.94 ID:Jy3BJsDqo
やる前から諦める……か
今までいくつかのオーディションは受けたらしいが
受けても全て不合格だったと聞いている
もっとも、それらは全部レッスンを怠った
いわば、何の目的も意味もないオーディションだったのだろうし
仮にレッスンを必要としない天才だとしても
目的もなにもなければ受かるはずがない
そんなやつを審査員が認めるわけがないからだ
「ならばアイドルを辞めたらどうだ? アイドルが楽ではないことは解ったはずだ」
「………………」
「ふんっ……どうせ無能な連中の次は、次こそはという言葉に止められているのだろう?」
この手の人間は自分から行動しようとしたりはしない
誘われたから、頼まれたから、期待されてるから……と
他人から自分は必要とされているという幻想に溺れていく
715: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/04(日) 17:37:53.50 ID:Jy3BJsDqo
「聞けば、四条貴音や萩原雪歩などの他のメンバーはちゃんと進んでいるそうではないか」
もちろん、進んでいるといってもまだまだ底辺
気にする必要などないレベルだが
しかし、底辺の中でも進まない底辺と進む底辺では差ができる
たとえ天才でも進まないのなら無能以下だ
「いずれ貴様は何も言われなくなるぞ」
「そんなことない……はずなの」
「プロデューサーはお前を見限る。いいや、もう見限ったのかもしれんなぁ? 現に貴様は独りだろう?」
「っ……千早さんの方が危なっかしいから仕方ないの!」
星井美希は私を睨む
如月千早ばかりにかまけているというのは事実で
高槻やよいの件でもそれは明らかだ
もっとも、放っておけば壊れかねない如月千早を優先するのは仕方のないことで
それを責めることは出来ないのかもしれんが
716: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/04(日) 17:50:06.95 ID:Jy3BJsDqo
「だが、ほかの連中だってそれは同じはずだ。貴様と同じように独りの可能性だってある」
「………………」
「……訂正しよう。貴様はまだ期待されている。だからここに独りでいるのだ」
それが事実かどうかは知らんが
少なくともなんの期待もしていないやつなんかを
オーディション何かに行かせるわけがないからな
もっとも、普通という言葉がなさそうな765プロには利かない理屈かもしれんが
「だが、このままではオーディションに出しては貰えなくなり、レッスンだって時間を割いては貰えなくなるぞ?」
オーディションにだしては不合格
そんな恥さらしなど出したくはないだろうし
やる気のないやつよりやる気のあるやつを優先させるのが普通
ゆえに、レッスンだってその時間を与えられなくなる
「……それならそれで仕方がないって思うな! ミキは別に本気でアイドル目指してるわけじゃないし!」
717: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/04(日) 18:02:02.36 ID:Jy3BJsDqo
そんなことは知っていたが
まさかそれを口にするとはな……
黙り込む私を気にすることなく星井美希は続ける
「それにミキは学校で人気者だし。このままでも全然平気なの!」
「……………………」
「だから、無理して目指す必要なんてないの」
星井美希は笑う
だがそれは、天海春香や高槻やよいとは違う
不愉快な笑みだった
「その人気はいずれ消えるぞ。高校生になれば貴様ほどのスタイルは出てくる。大学生なら子供のような貴様などうざいだけだ」
「っ!」
「その点、見習い時代にいた周りの連中はテレビに出るようになり、人気を保つ」
「………………」
「ククッ喜べ! 貴様は天海春香や如月千早の友人として周りから中継役程度になら扱われるかもしれんぞ!」
718: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/04(日) 18:14:07.87 ID:Jy3BJsDqo
嘲笑を交えて星井美希を見下す
睨んできていた瞳は
私の言葉が否定できるものではないという現実に怯え出し
頭はだんだんと下を向く
「どうした? それでも構わないのだろう? 楽だけがしたいのだろう?」
「……………………」
「周りの人気を借りて自分の人気を保つ。実に楽ではないか」
星井美希の行動理念を貶し、挑発し
その結果に見える人生を褒め称える
「…………………」
「今すぐ周りの下っ端でもやったらどうだ? 天海春香様お疲れ様ですとでも言ってみろ」
「……………の」
星井美希が俯いたまま言葉を漏らす
最初は聞き取れないような小さな声
だがそれはだんだんと大きく、確かな意志として言葉となる
「そんなのヤなの!」
いきり立ち、私を睨む
怒りの宿る瞳には微かな涙が浮かんでいた
719: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/04(日) 18:25:19.19 ID:Jy3BJsDqo
「ミキはミキじゃなきゃヤ!」
「何を言う。貴様が楽をしたいと言ったのだろうが」
「言ったけど……でもヤなの!」
楽をしたいというから
その結果どうなるかを話してやっただけだ
なのにいきなり嫌だとか言い出すとは
どこまで面倒くさいヤツなのだこいつは
「春香達のおかげで人気になるなんてヤ!」
「ならば努力しろ。楽して得られるものなどないのだからな」
「するの! ミキ……春香達には負けたくない!」
星井美希は声を大きくして言い放ち、オーディションの準備に向かって行く
やる気も意思もなかったくせに、こんな単純なことでやる気を出す。か
負けたくないという理由は競争社会の中では重要なものだ
かなり手ごわい相手になるかもしれんな
720: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/04(日) 18:33:01.77 ID:Jy3BJsDqo
……しかし
星井美希を奮い立たせてよかったのか?
いやそもそも、なぜあんな説教じみたことなどしたのだ?
所属アイドルであった高槻やよいは仕方ないにせよ
星井美希はする必要など……いや
やる気もなにもないやつなど
天海春香に潰させる価値もない
それどころか、余計な負担をかけるだけになるかもしれなかったのだ
「……そんな理由をつければ満足か? 馬鹿め」
見ていられなかった
逃げようとしているアイドルを
戦う前から諦めているアイドルを
そのまま放置するなど、許せなかった
それは過去に経験したことあるからかもしれない
そんな不愉快な結論に
私はため息を漏らさずにはいられなかった
731: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/04(日) 22:18:33.64 ID:Jy3BJsDqo
結果から言うと
天海春香も高槻やよいも
そして、星井美希もオーディションに合格し
雑誌に載ることができるようになった
雑誌のモデルオーディションということもあって
合格枠は意外と多かったからな
表紙を飾るのも同時選考となっていたが
それは天海春香……ではなく
天海春香と星井美希、高槻やよいの3人セットとなった
というのも
その3人が衣装を着たまま談笑しているのが凄い絵になったらしく
なんとなく撮った写真をそのまま採用という形になり
別に断る理由もなく、許可を出したからだ
それは3人揃って笑顔で、楽しそうで、嬉しそうで、何よりも幸せそうな1枚だった
732: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/04(日) 22:28:11.74 ID:Jy3BJsDqo
オーディションが終わり
それぞれ解散する頃
星井美希は私達の前に立ちふさがった
「美希?」
「どうかしたんですかー?」
「………………」
星井美希は少し躊躇いながら
天海春香と高槻やよいを見つめる
戻ってきて欲しいと願うか?
そう考える私に反して
星井美希は来た時とは打って変わった笑みを浮かべた
「ミキ、絶対に負けないから。春香にも、やよいにも。絶対に負けないの!」
「……美希」
天海春香はその言葉を受け止めて
少し意地悪そうな悪い笑みを返し、言い返す
「もしあれならこっちにおいでって言おうと思ったけど……必要なかったみたいだね」
733: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/04(日) 22:36:43.02 ID:Jy3BJsDqo
「うん。もう必要ないの。ミキは頑張るって決めたから」
「そっか。美希が頑張るなら、私は超頑張らないとね」
「……春香」
「うん?」
ほんの少し不安な表情で
星井美希は天海春香を見つめる
そして……何かを言ったわけではない
何かをしたわけでもない
けれど、天海春香は笑った
「大丈夫だよ」
「え?」
「美希や真や雪歩、伊織とかあずささんとか貴音さんとか、響ちゃんとか、真美に亜美、律子さんに小鳥さん」
「春香?」
「社長にプロデューサーさん。そして……千早ちゃん。みんなバラバラかもしれない。でも、みんな一緒だから」
なんの解決にもなっていないような言葉とともに
天海春香は微笑みを送る
734: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/04(日) 22:49:45.15 ID:Jy3BJsDqo
私には理解ができないそれを
星井美希は理解し、首を横に振る
「春香とやよいもなの!」
「私もですかー?」
「うん」
高槻やよいに対し天海春香は小さく笑って頷く
765プロにしか解らない謎の暗号?
だが、それなら高槻やよいに分からないはずがない
4人の中で私だけが戸惑う中
星井美希が口を開いた
「春香のおかげでするべきことが解った気がするの。だから、ありがとうなの!」
「あははっ、それなら良かったよ。私はこっち側だからこれ以上は何もできないからね」
「……あと」
星井美希の瞳が私を見つめる
少し前までの敵意のない幸せそうな瞳
「おじさんもありがとうなの! おじさんのおかげで春香達と向かい合うことができたの!」
星井美希は嬉しそうにそう言い残し、去っていった
735: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/04(日) 22:57:08.12 ID:Jy3BJsDqo
おじさん……だと?
なんだ?
まさか私が961プロダクション社長の黒井崇男だと気づいていなかったのか?
確かに名乗った記憶はない
だが、天海春香と高槻やよいを従えているのだぞ?
普通気づくだろう!?
「……ぶふっ」
クスクスクスッと
隣のリボンが笑い声を漏らす
その一方で高槻やよいは笑うリボンを不思議そうに見つめていた
「やよいちゃん、帰ろうか」
「え、あ、はい。春香さ――」
「それは知らない人だぞ? やよいちゃん。知らない人には話しかけちゃダメだ。解ったかね?」
「え?」
「え、でも……」
「ノンノンノン。それは知らない人だぞ~?」
「ごめんなさい、私が悪かったです!」
結局、天海春香も送ることになった
736: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/04(日) 23:07:27.10 ID:Jy3BJsDqo
「でも、黒井さん何したんですか?」
「何がだ?」
「美希ですよ。美希。お礼言われてたじゃないですか」
「私も気になりますーっ」
後部座席の2人は
星井美希とのことが気になるらしい
特に何かしたわけでもないのだがな……
「少し話をしただけだ。やる気を出せるようにな」
「そうだったんですねーっ」
「えへへっ、ありがとうございます!」
「……なぜ春香ちゃんが礼を言う」
「だって美希は友達であり、仲間でもあるから」
737: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/04(日) 23:16:52.39 ID:Jy3BJsDqo
【「事務所は違っても、みんなとは仲間だからです」】
最初に言われた言葉を思い出す
あの時は何を馬鹿なことをと思いながら
それをどこまで保てるか試そうとしていたのだったか……
今ではすっかり忘れていた
「ふんっアイドルはそう甘くはないぞ。ほかの事務所と仲良しこよしなど出来ん」
「解ってます。だからやよいと美希で色々と話あったんですよ」
「話し合った……?」
「えへへっ、実はですねー。961プロと765プロで一緒に仕事したりできないかなーって」
「……………………」
高木とまた一緒に……か
ふんっ、ありえんな
「765プロが倒産し、アイドルが全員フリーになったなら、アイドルぐらいは拾ってやらんこともない」
「もうっ、黒井さんはすぐにそういうこと言うんだもん」
「春香さんの言ったとおりですー」
「解っていたなら言うな」
739: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/04(日) 23:25:18.10 ID:Jy3BJsDqo
「解ってても言いたくなるじゃないですか」
「……負けを宣言されていないから。か?」
「え?」
「なんでもない。気にするな」
断られる可能性はある
でも、0.1%でも可能性があるなら挑戦する
それが天海春香……なんだったな
不本意ではあるが
天海春香が私のことを理解しているように
私もまた、天海春香という人間を理解し始めているのかもしれん
気に食わんな……そういうのは
「黒井さん。そういえば何ですけどー」
「なんだ?」
「オーディション合格出来たの初めてですーっ。ありがとうございました」
740: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/04(日) 23:33:30.76 ID:Jy3BJsDqo
「私は何もしてないぞ。あれはやよいちゃん自身で勝ち得たものだ」
「私自身……ですかー?」
「やよいちゃん自身の持ち味ということだ」
「えへへっ、良く解らないけど嬉しいですーっ!」
高槻やよいの無邪気な笑顔
あれだけの極貧生活の中にいながら
未だにこんなものを保てているというのは
精神力は思っていた以上に高いのかもしれんな
だが
子供ゆえに器が広くてもそこが浅く
あの時のように漏れてしまうこともある……か
「やよいちゃん」
「なんですかー?」
「今は幸せなのかね? あの家で、あの生活で」
「いろいろ大変ですけど、でも。十分幸せですーっ!」
742: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/04(日) 23:42:22.44 ID:Jy3BJsDqo
元気良く返ってきた返事は嘘も偽りもない言葉
天海春香はそれにたいして嬉しそうに微笑み、
バックミラーに映る私に向かって微笑んだ
だから言ったじゃないですか。というような
勝ち誇った笑みにはイラっときたがたしかにそうだったようだ
以前、底辺しかしらない人間だから
底辺で満足しているだけだといったが
それは満足できていない人間よりはずっとマシで
ずっと……幸せなものだったらしい
「……そうか」
「はい!」
「私には聞かないんですか?」
「……なぜ聞く必要があるのだ」
「それって酷くないですか!?」
騒がしい帰路となったが
不思議と……不快にはならなかった
760: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/06(火) 21:44:16.53 ID:+jo9gZ0yo
モデルオーディションから3日ほど経った日の朝
やよいちゃんと春香ちゃんの2人とともに
とある企画の話をしていると、彼らはやってきた
「おっさん!」
「話し中だ。あとにしろ」
まぁ……言うまでもなく冬馬達だ
やよいちゃんがこっちに来るのに合わせて
わざと地方ロケに飛ばしたのだが
残念ながら戻ってきてしまったらしい
「あっ、えっと……」
「ん?」
やよいちゃんが3人を見て少し困惑する
思えば、ジュピターに関してはまだ話していなかったような――
「……お客様ですかー?」
「は?」
冬馬の怒りのスイッチが押されたらしく
少しばかり威圧を込めた瞳でやよいちゃんを睨んだ
761: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/06(火) 21:51:31.87 ID:+jo9gZ0yo
「おいおい、冬馬。相手はまだ小さい女の子だぞ?」
「そうだよ冬馬くん。結構大人気ないよ」
「こいつが俺達のことをお客様なんて言うから悪いんだよ」
冬馬は北斗達に言われようとも
そんな厳しい目を止めようとはしない
話していなかった私が悪いような気もするが……
「ふんっ、知られたいならもっと名を上げれば良かろう」
「なんだよ。おっさんはそっちの味方か?」
「社長も女の子に優しい一面なんてあるんだね」
「何を言っているのか解らんな」
762: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/06(火) 22:03:24.71 ID:+jo9gZ0yo
私は至極当然なことを言ったまでだ
名を上げれば業界で知らない者などいないという領域に達することだって可能で
そうすれば説明などなくとも
ああ、あのプロダクションのあのユニットか。と
瞬時に解って貰えるはずなのだからな
「私はただ、貴様らがまだ【お客様】と思われるようなレベルだと言っているだけだぞ?」
「もー、そんな照れなくたって良いじゃないですか」
「……………………」
春香ちゃんの余計な一言から目をそらし、冬馬へと目を向ける
「……あれ?」
「で、なんのようだ? 簡潔に言え」
「あ、あぁ……いや、俺達の知らない間に新しい奴が961プロに入ったって人伝で聞いたんだよ」
763: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/06(火) 22:07:58.83 ID:+jo9gZ0yo
「無視しないで欲しいなー……ほんの冗談だったのにー」
「それはやよいちゃんのことだな。それがなにか問題でもあるのか?」
「問題っていうか……」
冬馬は言い淀み
寂しそうにする春香ちゃんを困ったように一瞥し
私に対して何か言いたげに眉をひそめた
「……い、良いのかよ。おっさん」
「なんのことだか解らんな」
「どうしようやよい……私の存在が……」
「黒井さん!」
「ん?」
勝手に落ち込む春香ちゃんの隣で
少し怒ったように頬を膨らませるやよいちゃんの瞳が私と並ぶ
席に座ってようやく並ぶかどうかといった低身長はやはり問題か……? と
余計な事を考える私に対し、やよいちゃんは人差し指を向けた
764: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/06(火) 22:18:24.01 ID:+jo9gZ0yo
「春香さんを虐めちゃメッ! ですよー」
「………………」
「………………」
「………………」
「………………」
「……社長、なんか言えよ」
しばらくの沈黙の後
冬馬は気まずそうにそう切り出す
なんだ。私が悪いのか?
冬馬を責める流れから何故こうなった……わけがわからん!
765: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/06(火) 22:22:05.24 ID:+jo9gZ0yo
「黒井さん!」
やよいちゃんの二度目の声に
仕方がなく言葉を返す
「……春香ちゃんが余計なことを言うからだ。謝るべきは春香ちゃんだろう」
「なっ」
「なんだ。なにか言い訳があるのか? 自分の余計な一言が招いたことだろうが」
「むぅ……余計なこと言ってごめんなさい」
春香ちゃんは思いのほか素直に謝罪し
初めからそうしていれば良い
そう思いながら溜息とともに微笑を浮かべると
やよいちゃんの顔が少し近づいてきた
凝視しているというより……睨んでいるような目だ
766: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/06(火) 22:31:05.38 ID:+jo9gZ0yo
「な、なんだというのだ一体」
「まだ謝ってないですっ」
「………………」
申し訳なさそうに俯く春香ちゃん
呆れた顔の北斗
笑いを堪えているような翔太
困っているというか
若干引き目の冬馬
そして……年上であり、上司でもある私に対して
親が子を叱る時のような表情のやよいちゃん
767: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/06(火) 22:36:33.07 ID:+jo9gZ0yo
流れるように目を移し
最終的にまた春香ちゃんへと目が行く
「………………」
「………………」
「……わ、悪いことしたとは思わんぞ! だが、なんだ……悪かったな」
「なんですかその前置き……」
ほんの少し赤く染まった表情の中の
じとっとした目で私を見つめながら
春香ちゃんは不満を漏らす
「まぁ、良いですけど……私も悪かったわけですし」
なんなのだろうな
この言葉にし難い空気は……
私と春香ちゃんが見合い、
それを周りが見ているという不自然な空間
それを裂いたのはやよいちゃんの手を叩く音だった
768: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/06(火) 22:46:30.92 ID:+jo9gZ0yo
「悪いことしたらちゃんと謝らないとダメですよーっ」
「ふんっ……悪かったな」
やよいちゃんに対してそう返し
企画会議の障害となっている冬馬へと目を移す
「で……話はやよいちゃんの事だけか?」
「いや……もう一つあったんだけどよ……」
「なんか、それを聞くのもなぁって感じだよね」
冬馬達はなにか気になることがあったのだろうが
逡巡した結果、言わないことに決めたらしい
春香ちゃんに対してなのか
やよいちゃんに対してなのか
それとも……私に対してなのか
聞いても答えないような冬馬には聞けず
そのままジュピターが去っていったことで
その何かは有耶無耶に消えていった
769: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/06(火) 22:56:51.93 ID:+jo9gZ0yo
「話を戻すぞ」
「はいっ!」
気にしても仕方がない
そう考えて話を戻そうとしたが
やよいちゃんの返事はあったものの
春香ちゃんの返事がなかった
「春香ちゃん、聞いてるのか?」
「あ、はい」
「無視を嫌がった癖に呆けてどうする」
「ごめんなさい」
……何か違和感がある
さっきまでの会話の流れは
天海春香が絡むと大抵ああなるから良しとするにしても
いつもよりも相手のしがいがなかったというか
張りあいがないというか……いや、別に
そういうのを望んで相手しているわけではないし
どうでもいいことなのだが……
「……春香ちゃん。具合でも悪いのか?」
「あー……いえ、平気です。多分」
のんびりとした返事で
呼吸もどこか熱を帯びていた
770: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/06(火) 23:09:07.23 ID:+jo9gZ0yo
「春香さん、ちょっと良いですかー?」
「ん?」
「んー……」
やよいちゃんの小さな手が
春香ちゃんの前髪を避けて額に触れる
ちょっと心配そうなやよいちゃんの表情
高槻家長女であり、弟たちの世話をほぼ任されている身からすれば
そういうのは容易に判ってしまうのか
春香ちゃんから私へと目を移し、首を振った
「春香さんはちょっとお熱みたいですー」
「やはりか。全く……体調管理ができない奴だな。お前は」
771: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/06(火) 23:16:06.96 ID:+jo9gZ0yo
「やだなぁ……そんなことないですよ? ちゃんと管理できてます」
そう言いながら
苦し紛れの笑顔を見せる
私だけだったならそうか。じゃぁ頑張れとでも言って適当にあしらったかもしれないが――
「ダメですからね。春香さんは今日のレッスンはお休みですっ!」
「ぇっそれは」
「熱出してるんだから当然です! ねっ? 黒井さん」
否定して欲しいというような春香ちゃんの瞳
それとは真逆に、
肯定して欲しいという表情のやよいちゃん
772: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/06(火) 23:26:10.34 ID:+jo9gZ0yo
「くっ……」
どっちの味方をしようと
片方からは恨まれる……とまではいかないにしても
悪い目で見られることになりそうだ
本当なら春香ちゃんが例え熱を出していようと
こき使ってやりたいところだが
一度過労で倒れた大馬鹿者を酷使するなんて真似は私には出来ん
そんなことをして親から苦情が来たりなんかしたら面倒なことこの上ないからな
――ゆえに
非常に心苦しくはあるが
春香ちゃんにはレッスンを休んで貰うしかない
「やよいちゃんの言う通りだ。今日は休め」
「でも、私……」
「また倒れられても困ると言ってるのだ。忘れたとは言わせんぞ」
「……はい」
少しでも上手くなりたい
少しでも成長したい
そういう心がけは確かに重要だが
それで無理して、無茶して、最後に体を壊したりしては意味がない
773: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/06(火) 23:33:10.53 ID:+jo9gZ0yo
「やよいちゃん、レッスンは一人でもできるな?」
「大丈夫ですっ」
「よし、ならば春香ちゃんは病院だ。送ってやるから付いてこい」
「だ、大丈夫ですよ。流石にそこまでして貰わなくたって」
春香ちゃんは困ったように笑いながら
踵を返し、僅かに覚束無い足取りでドアへと向かう
「良いから言うことを聞け」
「むーっ」
私が積極的に手助けしようとしていることに関して
裏があるのでは……と、疑っているのかもしれない
そんな考えと、春香ちゃん自身の読めない思考に対して苦笑を返す
「私が春香ちゃんを助けようとする事がそんなにも怪しいことなのか?」
「そういうことじゃ……ないんですけどね」
「文句は検査が終わってから聞いてやる。今は黙って指示に従え。馬鹿者め」
774: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/06(火) 23:37:05.86 ID:+jo9gZ0yo
春香ちゃんは少しだけ驚きながらも
僅かに辛そうに歪んだ表情を無理に笑顔へと変え笑う
「黒井さんってば……ほんと、優しい人ですよね……」
「……ふんっ。騙してるだけだ」
「あはは。そういうことにしときますよー」
楽しげに笑う春香ちゃんから
心配そうに見つめるやよいちゃんへと目を移す
「何かあったら連絡するのだぞ?」
「はいっ!」
「やよいちゃんも無茶はしなくていいぞ。君がいなければ成り立たないものがあるのだからな」
「えへへっ、解ってます!」
元気な返事を背中に受けて
私は春香ちゃんと共に病院へと向かった
789: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/07(水) 22:46:07.63 ID:LR8sfJUdo
検査した結果
インフルエンザなどの特に悪いものではなく
ただの熱だった
だが……まぁ、レッスンに参加させることは出来なさそうだ
気遣っているわけではなく
これから酷くなって――という展開を避けるためにな
「昨日の今日で何をしたのだ……全く」
「いや……特にこれといってしたわけじゃないんですけど……強いて言うなら気絶、ですかね?」
「気絶だと?」
「あはは……恥ずかしい話なんですけどね。いろいろ考えたり、なんだりしてたらいつの間にか寝ちゃってたんです」
助手席に座る春香ちゃんは
いつもよりも力なく笑いながらそんなことを言う
体調管理のたの字も出来てないではないか……馬鹿め
790: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/07(水) 23:05:27.49 ID:LR8sfJUdo
「まったく……アイドルとしての自覚が無いのかね? 君は」
「あはは……ごめんなさい」
また無理してレッスンしていたとか
最悪のパターンではないことだけは救いだな
私がそんな指示を出したなどと思われてはかなわんしな
しかし……また余計な悩み事なのか?
未だに続ける765プロの仲間内でのやり取り
その中で何らかの問題が起きた
そう考えるのが妥当だ
しかし、調査部からの報告では
ユニットを組む準備をしている……という程度のことくらいしか
如月千早の問題以外に気に止めるようなことなどないが……
791: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/07(水) 23:21:45.79 ID:LR8sfJUdo
「……黒井さん」
「なんだ?」
「いえ……具合悪いとなんか弱気になっちゃうなーって思って」
「………………」
「………………」
都合良く赤信号へと変わり
止まった車がわずかに揺れる
それでも動かない空気の中で
私の目に映る春香ちゃんが少しだけ体を動かし、私を見つめた
だからどうした。とか
そうか。とか
適当に流すこともできる多過ぎる選択肢の中から
私はなぜかその一言を選んでしまった
「……なんだ?」
「……聞いてくれるんですか?」
792: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/07(水) 23:35:00.11 ID:LR8sfJUdo
血迷った……わけではない
冷静に考えればそれでよかった
春香ちゃんが悩みを抱えている……なんていうことはどうでも良い
だが
私に伝わらない範囲での765プロの動きを無視はできんからな
危険な芽は早めに摘んでおくべきだ
「別にお前の為ではない」
「じゃぁ……別に聞いて欲しいわけじゃないけど聞いて貰おうかな」
「手短にな」
そう返し、また車を動かす
横目に映る春香ちゃんは
小さく息を吐き、自分の胸元に手を当てる
よほど……深い悩みなのか?
そう考える私に、春香ちゃんの答えが響いた
794: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/07(水) 23:53:56.09 ID:LR8sfJUdo
「千早ちゃんに……怒られちゃったんです」
「連絡したのか」
「その……歌番に出てるの見て……いや、聞いて? その……」
やはり如月千早の件か
春香ちゃんほどの感受性の強さなら
あれを聞いて理解することも容易いか
曲とそこに乗せている心
完璧に一致している以上
その魅力は跳ね上げられ、テレビ局などは十分に美味しいと感じるだろうが
人によっては、いや、春香ちゃんにとっては受け入れがたい。か
「悲しさしか感じなかったのだろう?」
「………………」
「気に食わないか? 自分とは対照的に悲しみだけで歌う歌姫は」
795: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/08(木) 00:06:19.70 ID:r7tnyN8ro
「そういうわけじゃないんです……でも、なんていうか……」
「解らないか?」
「はい……」
確かに、楽しむことができている
今を幸せに生きている春香ちゃんには到底理解できないことだろうな
そもそも、如月千早がなぜあんな風になったのかも
春香ちゃんは知らない
知っていても同情しかできない
本当に傷ついている人間には
同情なんぞ、傷に塩を塗るようなものだ……だが
「知りたいか?」
「え?」
「如月千早がなぜ、悲しみだけしか持たないのかを」
796: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/08(木) 00:10:21.00 ID:r7tnyN8ro
「知ってるんですか?」
「私は765プロのアイドルについては隅々まで調べているのだよ。誰が相手でも消せるようにな」
まぁ、そんな姑息な手を使う必要は
春香ちゃんを奪ったことで必要はなくなったが
まだ調査だけは続けている
敵を知るのはどんなことでだって重要だからな
「そんなこと……しませんよね?」
「ふんっ、消すのは春香ちゃんの役目だ。私ではない」
「えへへっ……それを聞いてちょっと安心。かな」
自分の悩みがあるにも関わらず
そうやって他のことに気を回す
損な女だよ……お前は
それは思うだけに留め、小さく笑いを返した
797: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/08(木) 00:18:08.79 ID:r7tnyN8ro
「如月千早についてだが、教えてやらないこともない」
「本当ですか?」
「だが、これは春香ちゃんの嫌う姑息な手だぞ?」
「あっ……」
気づいたように声を上げ
春香ちゃんは自分の口元を手で覆う
「本人から聞くべきだとは思わんのか?」
「それは……でも……」
「普通は言わないだろうねえ。自分の知られたくない過去の話なんかは特にな」
目の前で弟を失った苦しみと悲しみ
それが引き金となって崩壊した家庭
自分から話すなんて相当な関係でない限りは不可能だろう
それに……
「知ったところでどうする。同情するくらいしかできないぞ?」
798: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/08(木) 00:28:09.24 ID:r7tnyN8ro
「………………」
「可哀想だとか、悲しいだとか、辛いだとか、苦しいだとか、彼女に対し色々思うのは解るが……」
「どうしようもない……ですよね」
「ん?」
「実はその……同情なんて止めて! 貴女のそんな態度が私は気に入らない! って」
怒られたと言っていたが
なるほど、そういう言い方をされたのか……
「それで?」
「私……なんていうか……無力なんだなぁって……」
春香ちゃんは心の底から
残念そうに声を漏らす
何かしてあげたい
でも、何もしてあげられない
笑顔にしてあげるためにいくら努力しても
自分では何も変えられないのかもしれない
春香ちゃんはそんな状態に陥ってるのかもしれんな
熱など出すからそうなる……馬鹿め
799: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/08(木) 00:33:17.21 ID:r7tnyN8ro
「……気にするな」
「え?」
「そんなこと気にするなと言ったのだ」
運転中ゆえに
春香ちゃんの方に目を向けることはできないが
今はなんとなく……それに救われているような気がした
「それで何かが変わるのか?」
「………………」
「春香ちゃんの元気良さ、明るさ、ポジティブさ。そしてそのお節介と紙一重の優しさ……」
「………………」
「私も確かに気に入らない。苛立つことだってある」
騒々しいやつだと思う
無駄に明るく前向きで、馬鹿だ。と、頭を痛めることもある
お節介過ぎる優しさに苛立つことも……当然ある
「だが、それが天海春香という人間だろう?」
801: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/08(木) 00:41:22.85 ID:r7tnyN8ro
「何かが変わるのか? と私は言ったな」
「はい……」
「それは当然変わる。当たり前だ。お前が馬鹿みたいにしおらしくなったりするのだからな」
世界が変わったかのように
様々なものが変わっていくはずだ
それは私や春香ちゃんにとって
不都合なことかもしれない、好都合なことかもしれない
それはわからない
――しかし
「私はそういうのは好かん」
「………………」
「しおらしく、明るすぎず、暗すぎない。前も向くが後ろも向く。人を見捨てることだって出来る」
それは人間らしいと言えるのかもしれん
それこそ普通であり、本来のあり方なのかもしれん
私としても、好都合なことなのかもしれん
802: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/08(木) 00:53:58.61 ID:r7tnyN8ro
――だが
「そんな天海春香など、私が認めん」
「黒井さん……でも、私――」
「私が認めてやる!」
――馬鹿だ
春香ちゃんの声を遮って
私の言葉を投げつける
言い出した以上は止まらない
もはや自棄になり、春香ちゃんには目もくれずに言い放つ
「馬鹿みたいに前向きで、明るくて、ポジティブで、お節介と紙一重な優しさの天海春香を認めてやる!」
「え?」
「そうじゃない天海春香など、今更受け入れられるものか!」
805: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/08(木) 01:05:35.14 ID:r7tnyN8ro
人の心を散々踏み荒らして
その度に余計な何かを残していって
切り捨ててやると
忘れ去ってやると
消し去ってやると
そう思っても、願っても
消えないような、捨てられないような、忘れられないような
ふざけた存在なんぞに成り代わっておきながら
「今更、勝手に消えるなど許すわけがない」
「黒井さん……」
「期待させた分はしっかり返せ」
「良いんですか? 私……今のままで頑張っても」
「それが春香ちゃんにできること。春香ちゃんにしかできないことだ」
806: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/08(木) 01:11:56.78 ID:r7tnyN8ro
「私にしか……できないこと……」
「そう。春香ちゃんだけだ」
ほかにもできる人間がいないとは言えん
だが、少なくとも私が知る限りでは
こんな人間など存在していない
……いや、この子以外に、存在はしていない
「春香ちゃんは自分が思っているよりもずっと強力なのだから」
「……えへへっ、なんか、そう言われると凄く嬉しい」
春香ちゃんはそう言いながら
悲しみではなく、嬉しそうに涙をこぼす
「やっと……認めて貰えたんだなぁって。ちゃんと、言葉にして貰えたんだなぁって」
「………………」
「えへへ……それなら、変わるわけにもいかないですよね。この天海春香をなくすわけには、いかないですよねっ」
808: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/08(木) 01:32:50.97 ID:r7tnyN8ro
「私、このまま頑張ってみます」
「ふんっ、ここまで言わせておいて渋っていたら絶対に許さなかったぞ」
「流石にそれはないですよ。黒井さんの下で働く上での夢みたいなものでしたし」
春香ちゃんの嬉しそうな笑み
それをみるとやはり……安心感があるというかなんというか
さっきまでは勢い任せだったものの
冷静になって考える今、口を滑らせたりはしない
「……如月千早は手強いぞ」
「認めさせてみせます。だって私は元気で明るく無駄にポジティブでお節介と紙一重の優しさを持つ――天海春香だから!」
春香ちゃんは熱など忘れて元気よく声を上げる
そこには自信があって、想いがあって、強い意志があって
「………………」
私はそれに対する言葉を言うことはなく
ただ黙って肯定の意を示した
818: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/08(木) 16:27:03.02 ID:r7tnyN8ro
春香ちゃんを家に帰した私は
そのままやよいちゃんと合流し、レッスンに付き合った
付き合ったといっても
私も一緒にやったのではなく
ただ指示を出しただけだが……
「今日はありがとうございましたーっ!」
「気にするな。お前一人では不安だっただけだ」
「いつもは春香さんが一緒だから安心できますか?」
「なぜそこで春香ちゃんが出てくるのだ……関係などないぞ」
だが、確かにそうなのかもしれない
実力面でリーダーとしての力がなかったとしても
人間性の面で見るなら、春香ちゃんほど適した奴はそうそういない
まぁ……色眼鏡で見てしまっているのかもしれんが
819: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/08(木) 16:39:49.94 ID:r7tnyN8ro
「えへへっそうですねっ!」
「ふむ……家まで送ってやろう」
「良いんですか?」
「一応はプロデューサーの肩書きを持っているからな」
思えばこの肩書きを再び手にする前から
春香ちゃんとはプロデューサーとアイドルのような関係だった気がしなくもない
染めていると思ったら染められていたとは
なんとも情けない話だが……
特に不快な気分にはならなかった
「そういえば……やよいちゃん」
「なんですかー?」
「私が初めてやよいちゃんの家に行き、春香ちゃんの事を訊ねた時のことを覚えているか?」
820: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/08(木) 16:50:20.18 ID:r7tnyN8ro
「えーっと……はいっ! あの時はまだ、黒井さんは春香さんのことあまり信頼してませんでした!」
「そうだな……だが、今はなんとなく、あの時のやよいちゃんの言葉が解るのだ」
【「今の春香さんは幸せそうです」】
【「だからきっと、黒井さんは良い人なんじゃないかなーって」】
やよいちゃんのあの時の言葉
それが解るというのはやはり
毒されてしまったのかもしれんが……まぁいい
すでに本人に言った以上は偽る理由もないからな
「春香ちゃんのアレは安心感があるのだろう?」
「えへへっ、春香さんが笑顔で、元気で、幸せそうだと大丈夫なんだろうなって、思えるんです!」
「その点では、やよいちゃんにもリーダーの素質があるのかもしれんな」
「はわっ!?」
「元気で明るい。気遣いもできる。それだけで十分リーダーとして務まるのだ。あとはどれだけ努力ができるか。だ」
821: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/08(木) 16:58:09.23 ID:r7tnyN8ro
「私がリーダー……」
「春香ちゃんよりも先に奪っていれば、リーダーだったかもしれないぞ?」
「でも、これで良いんじゃないかなーって思いますっ!」
やよいちゃんは幸せそうに笑う
春香ちゃんと似て
見る側に負担をかけない
むしろ、負担を和らげるような笑顔だ
「春香さんが初めに出会って、春香さんが頑張って来て、だから今があるって思いますから!」
「そうかもしれんな」
やよいちゃんと最初に出会っていたらどうなっていたのか解らんな
今でこそ成長しているが足手纏い同然だった初期では
心をへし折って道具のように扱っていたかもしれないからな
「黒井さんっ!」
822: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/08(木) 17:07:05.50 ID:r7tnyN8ro
「ん?」
「えへへっ」
何かを期待しているのか
やよいちゃんが手を掲げて
私からの反応を待つ
「……なんだ?」
「ハイタッチです!」
「ハイタッチ……だと?」
なぜそんなことをする必要がある
などと聞いても、やよいちゃんからの返事は期待した答えにはならんのだろうな
「……春香ちゃんには余計なことを言うなよ?」
「はいっ!」
やよいちゃんの元気な返事に続いて
レッスンルームに手と手を合わせた小さくも大きい音が響いた
825: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/08(木) 18:04:42.48 ID:r7tnyN8ro
それから1週間ほど経ち
春香ちゃんとやよいちゃんのユニット名は
本人たちの希望を踏まえて『Grant fairyS』となった
交互に大文字小文字にするだとか、全部大文字にするだとか
最後だけ大文字にするだとか
沢山の案があった
その中でこうなったのは
運命を変える大きな何かがあって
様々な辛い経験、苦しい経験、悲しい経験があって
でも最後には
大きな幸せを手にすることができる。という意味が持たせられるから……らしい
それにgrantは与える、授ける、叶える、応える。など……いろんな意味を持つみたいだからな
春香ちゃんにしては、なかなか面白いユニット名を考えたものだ
ただ、絶望のdで始まり、希望のhで終わる単語なんてどうですか? と、言われた時には呆れるしかなかった
……そのほとんどが悪い意味しか持たないからな
826: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/08(木) 18:08:55.69 ID:r7tnyN8ro
「頑張れば、幸せになれる! ですね!」
「あっ、そういうのもありかも」
「……考えてなかったのか?」
「あはは……ローマ字読みっていうのは盲点でした」
そんな誰でも考えつくような部分を
忘れているとはな
基礎のレッスンをもう少し強化したほうがいいかもしれん
「とにかく、お前達……いや、春香ちゃんとやよいちゃんのユニット名はこれで発表する。異論はないな?」
「「はい!」」
春香ちゃん達の元気な返事に頷く
とはいえ
自分たちで決めておいて、やっぱりなし。なんてされても
困るだけなのだがな
827: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/08(木) 18:19:39.99 ID:r7tnyN8ro
「で……ここからはユニットの初仕事の話だ」
「もうですか?」
「そうだ。で、だが……如月千早とフェスで直接やり合って貰う」
「えぇっ!?」
正直
如月千早に関してはオーディションなどではどうしようもない
ゆえに、歌い合っての直接対決でどうにかするしかなかった
「私としても、もう少し良い方法を模索したい所だが……結構切迫しているみたいなのでな」
「千早さんの歌、悲しくなりますー……」
「やよい……っ」
765の他のアイドル達も
ユニットを組み、それぞれのリーダーが自分達のスケジュールを把握したり
自分達で動いたりすることでプロデューサーの負担を軽減し、如月千早に専念できるようにはしていたみたいだが
やはり、プロデューサーでは根本的なことを変えることは出来ないらしい
828: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/08(木) 18:27:28.52 ID:r7tnyN8ro
「プロデューサーももう、完全に突き放され、別ユニットのプロデュースに回るしかない状況だ」
「それは聞いてます……もう、千早ちゃんはダメかもしれないって」
「ただ、エンペラーレコードが如月千早に話を持ちかけているらしいのだよ」
「え?」
歌姫としてなら彼女の右に出るアイドルはいないと言っても過言ではない
歌を歌いたいという如月千早の
表面上の願いだけを受けるなら、それは祝福してやるようなことで
如月千早のことなど
私としては勝手に自滅でもしてくれ。と、突き放しても問題ないことだが
春香ちゃんからしてはそうもいくまい
「春香ちゃんも解っているだろうが……それでは如月千早として誤りなのだ」
「だから……止める」
「……できるな?」
「出来る出来ないじゃないですよ……黒井さん。やらなくちゃいけないんです!」
830: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/08(木) 18:41:10.23 ID:r7tnyN8ro
春香ちゃんは威勢良く言い放つ
自信はそこまでないのかもしれない
だが、やらなければならないこと
力強い決意だけのその言葉は
不安を感じさせたが……期待できないわけではない
「負けは許されんぞ」
微笑とともに
春香ちゃんとやよいちゃんを見つめ、言い放つ
「あははっ、勝つって信じてるから千早ちゃんを相手にしてくれたんじゃないんですか?」
「ふんっ、私はそこまで優しい人間ではない」
「そういうことにしとこうかな……やよい、頑張ろう!」
「はいっ! 春香さん、頑張りましょうっ!」
「フェスは2週間後に開催する予定だ。やれるだけやれ。だが、無茶はするな。私からは以上だ」
私の言葉に二人は頷き
早速レッスンへと駆けていく
自分で破壊しながら、自分で治すなんて馬鹿馬鹿しいとは思うが
過去の自分の犯した罪を自分で何とかするのは当たり前だからな……仕方があるまい
変わることを受け入れると決めた以上
たとえ過去の自分だとしても立ち向かう
それが――私のやり方だ!
831: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/08(木) 18:45:55.06 ID:r7tnyN8ro
ここまで
ユニット名は……公募しようと思ったけど決めてしまった
そして最後はやっぱりフェスですよ。フェス!
黒井も変わった。周りも変わった。765プロだって変わった
あとはちーちゃんが変われば――ん? 何か忘れ……
835: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/08(木) 22:00:54.45 ID:r7tnyN8ro
ユニット名を決め、発表を決めた翌日
私は密かに……というか
まるで必然のように、プロデューサーと会っていた
「流石ですよ。黒井社長は」
「ふんっ、貴様に言われても何の有り難みもないな」
「そうですか……そうかもしれませんね」
765プロのプロデューサーは苦笑する
その姿にはやはり疲れを感じるが
やよいちゃんの時の電話の声よりはだいぶマシになっていた
「最近は楽になったようだな」
「美希が言ったんですよ。バラバラじゃダメだって。大事なのは団結だって」
「………………」
「面倒臭がりだった美希が自分からユニット提案して、リーダー立候補して……ほんと、驚きました」
私が奮い立たせたからでもある
――が、やはり
そこまで動いたのは天海春香の言葉と、成長したその姿だろうな
837: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/08(木) 22:15:28.78 ID:r7tnyN8ro
「貴様としても、それは良かったことではないのか?」
「確かにそうなんですけど……悔しいですよ。黒井社長達にそれをやられるなんて」
「……ほう」
プロデューサーは私に対して対抗心を抱いているらしい
まるで対等の存在であるかのように言う
……気に食わないな
「私は貴様よりも遥かに先輩だぞ? おいそれと先を越されるわけにはいかんよ」
「そうですよね……千早の件も任せるような形になってしまいましたし」
「あれは私が招いたことだからな。それに……やるのは私ではない、春香ちゃんだ」
「春香が? でも、確かに春香が適役かもしれません」
プロデューサーは懐かしむように遠くを見る
まだ春香ちゃんが765プロだった頃のことでも思い出しているのか
それとも、春香ちゃんが765プロのままだったら……というものを考えているのか
少し残念そうにため息をついた
838: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/08(木) 22:23:43.25 ID:r7tnyN8ro
「春香ちゃんが765プロのままだったらきっと、問題なく進んでいただろうな」
「……情けないですよ。アイドル一人欠けたくらいでダメになるプロデューサーで」
「意外と脆いものなのかもしれん。プロデューサーなんていうものは」
「え?」
「アイドルのためにプロデューサーがいる。確かにそうかもしれんが……」
失ったアイドルを思う
得たアイドルを思う
そのアイドルから得たものを思う
ふと、複雑な感情の笑みが溢れたが
気にせずに話を続ける
「プロデューサーの為にもアイドルがいるのだ」
「……そうですよね。全部プロデューサーがなんとかしようって思ってちゃアイドルがいないのと変わらない」
「それを私に気づかされているレベルなら、まだまだ私は遠いぞ?」
842: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/08(木) 22:48:21.08 ID:r7tnyN8ro
「くっ……」
「とはいえ、私も春香ちゃんに気付かされたからな。まったく……忌々しい女だよ」
「とか言いながら結構嬉しそうじゃないですか」
「ふんっ、うるさい!」
今までの自分のやり方が間違いだったと
そう思うわけではない
トップアイドルを作るならあれほどまでにベストなものはなかったはずだからな
「……君は恵まれているのだ。それを忘れるなよ?」
「美希、雪歩、伊織、貴音、響、真、律子、亜美、真美、あずささん、小鳥さん、社長……やよい、千早、そして春香」
「私が見習いの頃とは段違いだな。あと何人か寄越せ。別に困らんだろう」
「い、嫌ですよ! やよいと春香を奪っておいてこれ以上とか絶対嫌です!」
「冗談だ。そこまで熱くなるんじゃない」
「貴方の場合、それが冗談にならないから怖いんですよ」
843: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/08(木) 22:57:35.39 ID:r7tnyN8ro
まぁ……やよいちゃんと春香ちゃんを奪えただけマシだな
だが、それも過去の私がしたこと……
「………………」
「黒井社長?」
「……如月千早は春香ちゃんに任せて、貴様は今まで放ったらかした分アイドルを相手してやれ」
「解ってますよ」
それはいつかだ
いつかでいい
今はまだ、まだ……ダメだ
あの女はもう業界にはいない
だからやつに勝つまでとは言わん
だが……せめてIA大賞が終わるまでは借りていても良いだろう?
「じゃぁ、俺はこれで」
そう言い残して去っていくプロデューサーを一瞥し
私も会社へと向かった
844: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/08(木) 23:12:28.97 ID:r7tnyN8ro
その日の夜、
やよいちゃんを家に送り届けたあとのこと
私は春香ちゃんを駅に送るべく、車を運転していた
「えへへっ、今日もレッスンも撮影も完璧でしたよ!」
「当たり前だ。そんなことで失敗などして貰っては困る」
「もうっ……変わってくれたと思ったのに、あんまり喜んでくれないなんて」
春香ちゃんは残念そうに不満を漏らす
それでいちいち喜んでいては
もっと特別なことで成功した時はどうなるのか
少し……不安になる
テンション的な意味でだが
「……春香ちゃん」
「なんですかー?」
不貞腐れた返事
だが、話をちゃんと聞く気があるあたり春香ちゃんらしい
いつもならそこでクスリとでも笑えるが
今はそんな気分じゃなかった
846: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/08(木) 23:20:57.14 ID:r7tnyN8ro
「……呼んだだけだ」
「なんですかそれ……なんかアレですよ?」
「………………」
765プロに戻りたいとは思わないか? とか
IA大賞が終わったら
春香ちゃんたちは765プロに返すつもりだ……とか
そんな簡単なことが言えなかった
「黒井さん?」
「……レッスンを頑張れ。春香ちゃんたちなら問題などないはずだ」
「……あの、黒井さん」
駅に着き、車が止まる
いつもなら、ありがとうございました。と
その一言と笑顔を残し出て行くはずなのに、
春香ちゃんはシートベルトを外しはしたものの
車を降りることはなく私を見つめ、名前を呼んだ
847: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/08(木) 23:29:39.55 ID:r7tnyN8ro
「なんかこれが最後みたいで嫌な感じがするんですけど……」
「そんなつもりはないのだがな」
今すぐ手放すつもりは毛頭ない
IA大賞と部門賞
それらが終わってから……そのつもりだ
「……それならまぁ。良いですけど」
「まぁ、お前達よりジュピターが優秀だったら早めに切るかもしれんがな」
「むっ! それは聞き捨てならないですよ! 確かに冬馬くん達も上手いですけど……」
一度勝った
だから慢心する……なんてことはないらしい
「IA大賞も部門賞も、今年は961プロで総取りするつもりだ。期待してるぞ」
「そんな大きいこと望まれても……でも、精一杯頑張ります」
春香ちゃんは小さく笑う
不安も恐れもある
それでも無理とは言わないのが春香ちゃんだ
だが――
「「その前にフェス」」
二人同時に同じことを口にする
思っていることが解った
言いたいことが解った
だが、合わせようとは思っていなかったのだが……な
848: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/08(木) 23:35:35.97 ID:r7tnyN8ro
「クククッ」
「あははっ」
二人して笑う
前の私なら考えられないことだが
こういうバカみたいな空気も悪くはない
「もうっ、黒井さんってば」
「ふんっ、貴様が単純すぎるのだ」
「でもそれで私のこと解って貰えるなら悪くないかなーって」
春香ちゃんはやよいちゃんの真似をしながら
小さく笑ってドアに手をかけた
「それじゃ、おやすみなさい。黒井さん」
「ああ、また熱出したりはするなよ?」
「解ってますよー、えへへっ。じゃぁ……ありがとうございました」
春香ちゃんが車を降り、駅へと向かって
その背中を見送り、駅の中に入るのを確認してから車を動かす
850: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/08(木) 23:47:51.86 ID:r7tnyN8ro
それがいつもの別れ
そんないつもの平々凡々がいつまでも続かないことは解っていた
時期が来たらしっかりと春香ちゃん達を手放すつもりだったからだ
だが……
フェスの1週間前になってそれはやってきた
朝の突然の呼び出しに急いで会社へ向かう
受けて切ればまたかかる電話
受け付け全てが電話対応していて
その中の一人、春香ちゃんと一番親しいであろう受付が一冊の雑誌を私へと向けた
「……不味いですよ」
「……………………」
開かれた雑誌の見出しに大きく載る写真と言葉
『961プロダクション、急進の真実! 裏では黒井社長の取引か!?』
悪徳……だろうな
怒りはなかった。何もなかった
ただただ
過去のしわ寄せが来たんだな。と
すべてを失いかけない今のこの状態を受け入れようとしていた
867: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/09(金) 21:16:34.10 ID:AiFPZQpTo
「黒井さん!」
春香ちゃんの声が社長室に響く
声と一緒に駆け込んできた春香ちゃんと
そのあとに続くやよいちゃんもまた
あの雑誌を見たのだろう
かなり慌てていた
「どういうことですか……? これ」
「見たままだ」
春香ちゃんの悲しげな声に静かに返す
否定はできない
嘘も付けない
それが現実なのだから
「……じゃぁ、黒井さんは本当にこんなことしたんですか?」
868: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/09(金) 21:34:17.99 ID:AiFPZQpTo
やよいちゃんのその言葉は
覚悟をしていた私にも
深く、強く、突き刺さる
「……………………」
「私、信じられないです。黒井さんがこんなことしてたなんて」
「……私のことを細部まで知っていたわけではあるまい」
やよいちゃんの沈んだ姿を見たくはなくて
どこか別の場所へと目を向け
これほどまでに回転椅子というものの存在を喜んだことはないだろうな……なんて
現実逃避する私の視界に
春香ちゃんは割り込んできた
869: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/09(金) 21:53:44.13 ID:AiFPZQpTo
「なんだ?」
「私が聞きたいのはそれじゃないですよ。どうしてこんなことが載ってるかって事です」
春香ちゃんはまるで
私がそういうことをしたことは関係ないとでも言うかのように言う
春香ちゃんにはいつも驚かされてきた
しかしこれは流石に……おかしいだろう
高木達から
色々と話を聞いていたことは知っている
だが、自分達もまたそんな不正の上に立っていると知ったら
普通はもっと驚くはずだ
もちろん、春香ちゃん達にはまだそんな手を使ってはいないが
それでも……
「お前は自分がどんな状況にいるのか解っているのか?」
「解ってますよ?」
870: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/09(金) 21:59:01.75 ID:AiFPZQpTo
春香ちゃんはいつもの調子で微笑みながら
不安そうなやよいちゃんの頭を撫でる
「私達は不正の上で、今の立場にいる」
「ああ」
「春香さん! 私はそんなこと――」
やよいちゃんの声を遮るように
春香ちゃんはやよいちゃんを抱きしめて
私を見つめる
「信じなくて良いんじゃない?」
「え?」
「……なに?」
「私達は私達の実力で今の位置にいる。それを証明すればいいだけの話ですよね? 黒井さん」
871: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/09(金) 22:10:42.88 ID:AiFPZQpTo
不正をしていた
そんな最悪のレッテルを
自分の実力で覆すだと……?
「ば、馬鹿なこと言うな! それはそんな簡単な話ではない!」
「解ってます。でも、そうしなければ、私のことを認めてくれた黒井さんの言葉が、気持ちが。嘘になっちゃうから」
「お前は……」
馬鹿か?
そう言おうとして、言葉が詰まる
春香ちゃんの目は本気だ
春香ちゃんの言葉は
嘘偽りのない、本心からの言葉だ
「それに、私の今までの努力も無駄だったことになりますし?」
苦笑しつつ
春香ちゃんは私に気を使わせまいとそんなことを言い出す
873: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/09(金) 22:28:27.05 ID:AiFPZQpTo
「けどよ。その不正で潰された奴らはそれで納得してくれんのか?」
不意に割り込んできた声は
ジュピターの一人、天ヶ瀬冬馬だった
「それは……解らない……ですけど」
「僕もその考えはいいなって思うけど、ちょっと難しいと思うよ?」
「……………………」
そう……だったな
立場の証明ならできるだろう
だが、それで潰れてしまったアイドルや事務所
その関係者たちが許してくれるはずがない
「それでも、私達が不正で……えっと……」
「成り立つ?」
やよいちゃんの言葉に助け舟を出すと
嬉しそうに微笑んで、言葉を続けた
「不正で成り立つアイドルじゃないっていうことを証明しましょうっ!」
「やらないよりはやったほうがいいよね。冬馬」
「こいつらに言われてっていうのは癪だけど、確かにやらないよりはやるべきかもしれないな」
874: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/09(金) 23:04:02.73 ID:AiFPZQpTo
やよいちゃんの言葉に北斗達も賛同していく
プロデューサーに恵まれていると言ったが
私も恵まれているのかもしれんな……
「……黒井さん」
「なんだ?」
「今はもう、961プロの名前は私達が背負ってますから」
春香ちゃんは微笑む
大した自信だな
その名前は重すぎるほどに重いというのに
まったく……まったく……
「馬鹿なやつだ。お前達は」
「社長も大概だぜ? こんなことしやがって……ま、名を上げるには良い燃料かもな」
「そうだね。悪いことでも利用しちゃおっ!」
「下手打つんじゃねーぞ。天海春香」
「冬馬くんこそ、頑張ってよね」
ジュピターとフェアリーが向かい合う
私が諦めて受け入れようとしたことを
春香ちゃん達がかっさらっていく
まだ、私は春香ちゃん達といられるのだな……
それは、春香ちゃん達が頑張ってくれるから……なのだろう
ならば私も、諦めるのではなく
手を尽くさないわけにはいかんな
それぞれが――動き出した
897: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/10(土) 23:48:52.23 ID:M28gOxTjo
思い立ってからなんとか連絡先を調べ
2日目
なんとか集めた被害者達との会談の場に怒号が轟く
「だからなんだって言うんだ!」
「くっ……」
ガンッと
強い衝撃が体の後ろ側に伝わり
一番響いた頭が揺れる
「ふざけるなよ? 許すわけがないだろう!」
「ぐっ…………」
961プロダクションの被害者の一人は
怒り、憎しみ、恨み……そんな感情だけで私を睨み
背中と密着する壁に沿って襟首を持ち上げていく
「貴様の行いがどれだけの人間の人生を狂わせたのか解っているのか!?」
「……………………」
「謝っただけで……潰された夢が、想いが、心が、人々が返ってくるのか!?」
「……………………」
「なんとか言ったらどうだ! この卑怯者め!」
「……すまなかった」
898: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/11(日) 00:03:24.98 ID:xSUeevAco
「ッ――ふざけるな!」
体が壁から離れ、
今度は床へと打ち付けられる
鈍い痛みがじわじわと押し寄せてくる……が
私に抵抗は許されない
反論も許されない
謝罪も決して許されるものではない
――しかし
「……私には謝る以外にできることなど解らんのだ」
「それがふざけていると言ってるんだ!」
「……ならば教えてくれ。私に何が出来る。私のせいで潰れた者達に何が出来るのだ」
「貴様という人間は!」
力強い拳が頬を打つ
春香ちゃんの時に受けた痛みと同じく
思いの乗ったそれはやはり痛かった
899: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/11(日) 00:13:04.98 ID:xSUeevAco
「それを私たちに言わせるのか!? それで償うことができると……本気で思うのか!?」
「本気で思ってるんじゃないの? だからそういうことが言えるんでしょ」
「許すとかありえない話だわ。まずはこの業界から消えて貰って、ちゃんと賠償金も払って貰わなきゃ」
「そうっすね。俺も961プロのせいで職を失った身だし」
「今のアイドル……なんだっけ? ジュピターとかフェアリーとか」
「フェアリーなんてふざけた名前つけちゃって……凄くいらつくわ」
「そいつらにも――」
被害者たちが話始める
私が罪を償う方法を……
金ならいくらでも出そう
961プロを消すことだって了承しよう
――だが
「それは無しだ」
「文句言える立場なのか? 黒井崇男」
「罪は過去の961プロ、この私に全ての責任がある! 今のアイドルに罪はない!」
「知らないわよそんなこと! あいつらって961プロでしょ!? あたしは961プロが憎いのよ! だったらあいつらだって消えて貰うわ!」
900: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/11(日) 00:29:32.97 ID:xSUeevAco
「それは出来ん!」
「出来る出来ないの話してると思ってるの? するのよ! 消えんのよ! 961プロの関係者は全員!」
元アイドルだった女が喚く
たしかにそうかもしれない
本来ならそうするべきなのかもしれない
しかし、それは許可したくない
「アイドルだけは続けさせて欲しい」
「……そんなにアイドルが大事なのか?」
被害者の中の一人が
静かに口を出す
床に押さえ込まれている私を見下ろすその男は
私が圧力をかけ、仕事が消え
やむなく潰れてしまった事務所の社長だった
901: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/11(日) 00:43:31.27 ID:xSUeevAco
「大事だ」
「何が変えたのかはなんとなく解る……時期的にも、fairySの天海さんだろう?」
「………………」
「ふっ、あれだけ怯えさせられた男もこうなってはただの男だな」
元社長は苦笑しつつ
私の横にしゃがみ込む
「だが、許そうとは思えん」
「………………」
「961プロのせいで沢山のアイドルが泣いた。沢山のプロデューサーが消えた。沢山の会社が消えた」
「………………」
「その者達にとって、961プロダクションというものはトラウマなのだ。忌むべき存在なのだ」
元社長はあまり本意ではない
そう言うかのように眉をひそめ、言い放つ
「だから許されん。961プロダクションという存在が残ることは……決して」
903: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/11(日) 01:08:42.23 ID:xSUeevAco
「なら、プロダクションを変えることは許されるのか?」
男の言葉に空いた隙間に言葉を投げ込む
今までの私なら聞かなかったことだ
その隙を利用し
相手の言い分に沿った上で自分のやりたいことができてしまうからな
言葉の隙は最大の武器になる
だが、それではだめなのだ
今はしっかりと……問わねばならん
「……それでも、彼女達は元961プロ所属だ」
「辞めろと言うのか? 私に引き抜かれたというだけの理由で」
「それが961プロがしたことの責任だ」
「っ………………」
どれだけの謝罪を積み重ねても
どれだけの金を積んでも
それは決定事項……なのか?
904: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/11(日) 01:26:43.21 ID:xSUeevAco
「……………………」
過去の罪から逃げるのではなく
それをしっかりと償った上で続けていきたいと思った
もしも私が続けることを許されなくても
せめて春香ちゃん達の活動に支障がないようにしたいと思った
だが……何も許されはしないのか
私だけでなく、春香ちゃん達も許されないのか
私が765プロへの妨害として
引き抜いたばかりに……
新たな障害として用意していたジュピターもその例外ではないだろうな……
全て……ダメなのだろうな
「いっとくけど、悪徳さんはあたし達の味方だから。消えないなら消えるしかなくなるようにするから」
「…………………」
「961プロだけじゃなくて、961の名前借りてアイドルやってる子達も纏めて!」
907: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/11(日) 01:37:02.38 ID:xSUeevAco
「お金の力でもみ消す? 良いよ別に。消されたらまた生み出すから」
「そこまで酷い事を私はしてしまったのだな……」
「当たり前じゃない……あたし達の夢も希望も関係も何もかもを壊されたんだから!」
元アイドルは怒鳴る
過去を思い起こし
それと今との差に涙を零し、私を睨む
「あんたのせいなの! あんたのせいで全部……全部消えたのよ!」
「……………………」
「なのにあの子達は関係ないから許せ? 出来るわけないじゃない!」
「……………………」
「潰れなさいよ……あんた達の全ても! じゃなきゃ理不尽だわ……理不尽よ……不公平なのよッ!」
908: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/11(日) 01:50:42.77 ID:xSUeevAco
何を言えば良いのだろうな
なにをしたら良いのだろうな
高木、貴様には解るか?
プロデューサー、貴様にでも解ることか?
冬馬、北斗、翔太
ジュピターであるお前たちには解るか?
やよいちゃん
君には答えが解るか?
春香ちゃんならなんて言う? 何をする?
……連れてくるべきだったか?
いや、連れてきたら何されていたか解らん
様々な考えが巡る私の頭に、その室内に
「被害者の会と聞いてきたのだが……どうやらここで合っているみたいだな。黒井」
招いていない客の声が響いた
921: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/11(日) 13:45:56.91 ID:xSUeevAco
「呼んだ覚えはないぞ、高木」
「私も一応は被害者側だからな。来てもおかしくはないだろう?」
「………………」
高木は私を見下ろす
この逆の立場を望んでいた過去の私にとっては
これほどに屈辱的なことはない
だが……だからこそ、笑う
「……惨めだと笑うか? 愚かだと罵るか? ククッ、アイドルのために這い蹲る私を見下すといい」
「………………」
高木は何も言わず
周りの被害者を見回す
アイドル、事務員、プロデューサー、社長
様々な肩書きを持っていた被害者達
彼らの目もまた、突然の来訪者に向かって行く
923: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/11(日) 14:31:02.26 ID:xSUeevAco
「君達はこの男に何をされたのかね?」
「あたしは仕事を取られたのよ。いくつも、いくつも!」
「それだけじゃないわね。フェスも、オーディションも961プロのアイドルが出るものは全て負けだった」
「どう足掻いても勝てない。当時は実力不足だと思ってたけど、不正なら勝てなくて当たり前だったってわけだ」
アイドルや事務員
プロデューサーだった者たちが口々に漏らす
全てのフェスやオーディションに手を出したわけではない
仕事を横取りは……765プロ相手以外ではしたことなどない
しかし、予定していた相手から切り替えて――というのは何度かあった
それもまた、不正による名売れによるものであることはある
だからこそ……否定はできない、全部ではないと、文句が言えない
「ふむ……本当かね?」
「記事を読んだのだろう? 事実だ。私は確かに不正をした」
「全てか? 私はともかく、ほかのプロダクションにそこまで手を出す理由はないと思うのだがね」
「……………………」
「なんなのよあんた! あたし達が実力不足、努力不足、想い不足だって言いたいの!?」
「お、落ち着き給え……私はただ黒井が潰れるほど追い詰めたとは思えないだけなのだよ」
924: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/11(日) 14:52:03.54 ID:xSUeevAco
「だからそれがそう言ってるんでしょ!」
「う、うむ……」
「なによ!」
「私は君達にも問題があると思っている。それを認めよう」
高木はそれを言う事に少し不満があったようだが
女の迫力に負けたのか、言葉を漏らす
「ふざけないで! 問題? あたし達に? なんなのよそれ! 言ってみなさいよ!」
「なにが。とは言えんのだが……続けられなかったことに問題があると思うのだ」
「続けられなかったことに問題……?」
「私の事務所も様々な妨害を受けた。それはおそらく、君達よりも執拗なものだ」
高木は私を一瞥し、困ったように口元を歪める
……事実だな
アイドルを引き抜いたりなんだり、紛れもない事実にほかならん
925: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/11(日) 15:10:00.13 ID:xSUeevAco
「なんでそう言えるのよ」
「いやはや、審査不正に加え、仕事の横取り、アイドルの強制奪取、各TV局に変な噂を流したり……」
「アイドル……って、あんたもしかして765プロ?」
「いかにも、私は765プロダ――」
「じゃぁあんたも敵だわ! 資金援助受けたんでしょ!?」
……春香ちゃんの件か
あれは表向きには資金援助の代わりに
不足するアイドル人員の援助という形だからな
それが仇となったか
「あんな有望なアイドルを資金援助なんていうもので手放すわけないではないか」
「解らないじゃない。お金に困ってて、それで条件出されて……そんな話ありえなくないでしょ」
「大切なアイドルを売ってまで続ける事務所に意味はあるのかね?」
高木は女に対し悲しげに問う
「私ではなく、君がその立場だったとして、本当にそこまでして延命させたいのかね?」
926: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/11(日) 15:26:44.09 ID:xSUeevAco
「それは……」
「君もユニットがあったはずだ。仲間や友人がいたはずだ。彼女達の仲をお金なんかで裂いて……続けられるのかね?」
「……………………」
春香ちゃんは私が強引に奪った
資金援助など1円たりともしていない
それだけでもアイドルは厳しい状況になったはずだ
なのに、自分の意志で
お金と引き換えに……そんなことをして
周りが黙っているはずがない
「天海君もやよい君も961プロに盗られてしまったのだ……非常に悲しい話だがね」
「それでなんで続いてんのよあんたの事務所」
「アイドルとプロデューサー、事務員……みなが一致団結しているからだよ。一時期は本当に危うい場面もあったがね」
春香ちゃんが抜けたことで如月千早を繋ぐものがいなくなり
如月千早が離れ、皆の心が離れ、やよいちゃんまでもが去って
ギリギリに追い詰められた。もはや団結のだの字さえないほどに
それもまた私の罪だが……
927: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/11(日) 15:41:19.41 ID:xSUeevAco
「支え合うことが大事だと一人が言った。絶望的な状況下だからこそ、自分だけでなく周りを見るんだってね」
「……そんなの、認めない人だっているはずだわ」
「認めない人も確かにいたよ。彼女には困ったものでね、団結なんていらない。一人でやるといって聞かないのだよ」
高木は笑う
だが、周りの誰も笑うことはなく
気に入らないといった表情で高木を睨んでいた
「だが、私達の事務所はそういうのを無視するアイドルがいたのだよ。今でこそ欠けてしまっているが……」
「……………………」
「その存在がみんなを動かした。彼女なら絶対に見捨てない。はいそうですかと諦めない。だから絶対に振り向かせる。とね」
もっとも
如月千早はそれでは変えることは出来なかったが
変えられなかったからこそさらに強く団結しだした
ピンチをチャンスに変える……末恐ろしやつらだな。まったく
928: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/11(日) 16:24:47.84 ID:xSUeevAco
「足りなかったのはそういうアイドルあるいは事務員、あるいはプロデューサーあるいは社長なのかもしれない」
「あたしだって周りのことくらい……でも……」
なにか思うところがあるのだろう
女は俯き、そのまま黙り込む
「……………………」
「……………………」
「……けど、961プロがその絶望の原因だ。引き金になったんだ。それは変わることじゃないだろ」
プロデューサーだった男が沈黙を断ち切る
結果に繋がったものがなんであれ
それを引き起こした原因は変わらない
「そうだな……私が原因だ」
「不正して、勝ち残って、みんなの夢を、希望を奪って……アイドルを苦しめた」
「…………………………」
「俺はそれを謝罪や金で誤魔化させるつもりなんてない!」
929: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/11(日) 16:51:15.19 ID:xSUeevAco
「だったらどうすればいい」
「黒井、なぜみんながこんなにも怒っているかを考えるんだ」
「……………………」
被害者が怒る理由
それは私が謝罪したからか?
私が不正をしたからか?
「あんたが不正を認めてるからだよ!」
「ぐっ!?」
床に倒れる私を
さらに強く床へと押し付け
男は怒鳴る
「俺達は実力不足を認めてた! 仕方ないことだって! それをお前が嘘にしたんだよ!」
「……………………」
「一緒に頑張れた。それだけで嬉しい。選んでくれてありがとう。そう言って去ったアイドル達の気持ちを……あんたは!」
悪徳の記事を認めること
今までの勝利、今までの栄光
それらを支える不正という罪を認めること
それが被害者の一番許せないことだというのか?
931: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/11(日) 17:00:17.65 ID:xSUeevAco
「償えるものじゃないんだよ! あんたのそれは」
「……………………」
「一生背負って生きろ! それができないなら消えちまえ!」
不正していたことを認め
その罪を償い、新しい黒井崇男として生きていく
それが許されない
穢れた栄光を抱え
脆くて醜く、薄汚い足場を歩いていけ
被害者が望むのはそういうものなのだな……
「記事を嘘にしろ。そういうのか?」
「ああ、961プロダクションはアイドル業界の最大にして最強になるんだよ」
「敗北は許されない。中途半端も許されない。トップだけしか許されない。出来ないアイドルは不正で押し上げていく」
「そんなのは――」
「あんたの気持ちなんか知るかよ。アイドルを続けさせてやりたいんだろ? だったら不正し続けろよ! 被害者を後悔させないように!」
932: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/11(日) 17:12:56.64 ID:xSUeevAco
私が言うのもなんだが
最低最悪のやり方だ……屑といっても良い
良心なんて投げ捨てたくなる
そんなやり方以外では続けることを許されない
アイドル達の勝利は偽りで
アイドル達の栄光は偽りで
アイドル達の笑顔だけが偽りなく
私はそれを見続けていかなければならないというのだな
負けたら今までの勝利、栄光が不正によるものではないか。と
みんなに思われる
そう思わせないために、961プロダクションは不正を続けさせられる
不正を認めることは許されない。だが、不正をやめることも許されない
これが絶望……なのだろうな
933: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/11(日) 17:35:59.17 ID:xSUeevAco
被害者の会は
春香ちゃん達を続けさせたいならその腐りきったプロダクションになる
それが嫌なら芸能界から消える
そのどちらかを私が選ぶという形で解散となった
「……黒井」
「憐れむな……それよりも自分達の心配をしろ」
「天海君達に話さないのか?」
「話す必要などない。あいつらは何も知らずアイドルでいればいい」
「……………………」
考えてみれば
前者はいつもの私と何も変わらんではないか
アイドル達を騙し、不正を重ねていく
「くくくっははっははははっ!」
「黒井、お前は」
「そうだ、何も変わらない黒井崇男でいれば良いだけではないか! そうだろう高木」
「……強がりはやめるんだ。今の黒井にその生き方は合わん」
934: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/11(日) 17:55:49.96 ID:xSUeevAco
「ハッ! 何を言っているのだ高木ィ。怖いのか? ん? 逃げる奴を追う気はないぞ?」
「………………」
「なんだねその顔は。気に入らんな」
「……黒井、天海君達に話すつもりはないか? その上で先を考える気はないのか?」
「黙れ! 話して何になるというのだ!」
私のためにアイドルの夢を諦めてくれと頼むのか?
私のために穢れ切ったアイドルを続けてくれと頼むのか?
「立場の違う貴様に従う理由などないのだよ!」
そう言い捨て、その場から立ち去っていく
高木は私を救いたいと思っているのだろう
だが……そんな心配などいらん
するだけ無駄だ
春香ちゃん達のことを考えた場合
選べるものなど何も知らせずに続けさせること一択だからな
935: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/11(日) 18:06:52.19 ID:xSUeevAco
コーチから連絡を受けた受付からの連絡を受けて
その帰りにレッスン場に向かってみれば
話通り、春香ちゃんはたった一人でレッスンを続けていた
「はぁっはぁっはぁっ……ふぅ……ちょっと休憩」
私が選んだ道は
アイドルの努力さえあざ笑う
どんなに努力をしても評価はされない
961プロというだけで満点評価なのだ
だが「もうレッスンはいらない」なんて
そんなことは言えない
言えば理由を聞かれ、理由を言えば全てが終わるからだ
「……あれ? 黒井さん?」
考えている間に見つかってしまったらしい
春香ちゃんが声をかけてきた
936: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/11(日) 18:19:19.38 ID:xSUeevAco
「……まさか、また無理をしているわけではないな」
「や、やだなぁ。そんなことないですよ~えへへ」
あからさま過ぎて
すぐに嘘だと解った
だから叱るべきだと思った
しかし……それよりも先に申し訳ないという
感情が湧き上がり、言葉をせき止める
「………………」
「黒井さん?」
「……また過労で倒れたらどうする」
「そ、そうならないように考えてますし」
「考えていたってお前は無理をするだろう!」
「っ!」
その声のあまりの大きさに
私も驚いたが、春香ちゃんもかなり驚いていた
937: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/11(日) 18:31:59.56 ID:xSUeevAco
「ご、ごめんなさい……」
「保護者や765プロとの面倒な話は避けたいのだ。無理はするな」
「は、はい……」
無駄な努力をして
苦しむ姿を見たくない
辛そうな姿を見たくない
でも、努力をするなとは言えない
「……くっ」
「……何かあったんですか?」
「なにもない」
「でも」
「如月千早を優先しろ。余計なことに気を回していたら、救えるものも救えまい」
悲しげな春香ちゃんに背中を向ける
顔を見ていたくなかった
バレてしまうのが怖かった
そうか
こんな女に……私は怯えているのか
「……私、ちゃんと961プロも助けるつもりですから」
938: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/11(日) 18:53:45.04 ID:xSUeevAco
――なに?
思考を遮った言葉
その引力に引かれて振り向く
「あはは、私じゃなくて私たちです」
「……………………」
「言ったじゃないですか。不正なんてしなくても認められるほどの実力を示すって」
春香ちゃんは笑いながら言う
知らないからこその笑顔
勝利が約束されていることを知らないがゆえの笑顔
「だから千早ちゃんだけで961プロは良い。みたいな言い方ダメですよ? みんなも本気なんですから」
「……あぁ、そうだったな」
これからの私を苦しめるであろう春香ちゃんの純粋な笑顔
なのに……私はそれを失おうとは思えないのか
守りたいなどと……思うのか
「実に……愚かで馬鹿だな。救いようがまるでない」
私自身に対するその言葉に対して
「それだけ皆が961プロの事、黒井さんの事。考えてるってことなんですからね? 諦めちゃダメですよ」
春香ちゃんは笑顔でそう言った
944: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/11(日) 21:39:51.06 ID:xSUeevAco
如月千早とのフェスバトルまであと1日
私は全スタッフ、全審査員に
審査を不公平なモノにして貰う為に動かなければいけなかった
にも関わらず……私は動けずにいた
「………………」
如月千早のため
961プロダクションのため
そして私のために行われる努力が無駄になる
そう思うと、どうしても抵抗があったのだ
明日でいい、明日でいい
そう先延ばしにして明日がフェスという追い詰まれた状況になってしまった
裏取引をするならチャンスは今日しかない
その状況下で選ぶべきは
審査員たちのはずだった
しかし……私が選んだのは審査員でも、スタッフでも、如月千早でも
ジュピターでも、やよいちゃんでも、プロデューサーでもなく
「なんなんですか? レッスンをするよりも大事なことって」
春香ちゃんだった
945: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/11(日) 22:05:46.29 ID:xSUeevAco
「……今日はレッスンはしなくて良い」
「でもラストスパート――」
「しなくて良いと言ったらしなくて良い。従え」
「…………もうっ、何なんですか一体」
春香ちゃんは悪態を付きながらも
興味があるのか
部屋を見渡し、所々の家具を眺める
「珍しいかね? 春香ちゃんでは絶対に買えないようなセレブの超高級な家具だからね」
「そういう意地悪なこと言うために私を家に呼んだんですか?」
「……………………」
「言いたいことあるなら言えば良いのに」
春香ちゃんは何かを察したかのように
不機嫌な感情を払って苦笑した
946: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/11(日) 22:25:42.79 ID:xSUeevAco
「黒井さん、何か隠してるでしょ?」
「なぜそう思う」
「ん~女の勘?」
「ふざけるな」
「あははっ……本当の事なんですけどね。黒井さんが最近送り迎えしてくれないから何かあるのかなって」
頑張りを見たくなかった
無駄になる努力で疲れきっていても
笑顔を見せる春香ちゃん達に会いたくなかった
「そんな理由でか」
「……じゃぁあと一つ」
「ん?」
「この前レッスン場に来た時、怪我してたじゃないですか」
「……………………」
「だから言ったんですよ。何かあったんですかって……なのに、何もないなんて嘘ついちゃって」
947: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/11(日) 22:35:39.61 ID:xSUeevAco
「だから私、ちゃんと助けるって言ったんです」
「意外と考えているのだな」
「当たり前じゃないですか」
「人のこと……結構見ているのだな」
「当たり前じゃないですか」
「転んでいることも、計算だったのだな」
「あた……って、それは違いますよ! なんでそれ今聞くかなぁ!」
春香ちゃんはムッとして私を見つめ
私の言葉に文句をつける
ああ……これだ
これなのだ……私が望むのは
「くくくっ、ははははっ……」
「もうっ! 何笑ってるんですか!」
「久しぶりだったからな……ついからかいたくなったのだ。見逃せ」
「なんだか見逃しにくいんですけど!」
948: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/11(日) 22:56:00.83 ID:xSUeevAco
「ユニットリーダーの……」
「はい?」
言葉を止めて、首を振る
今この場では余計な言葉などいらない
嘘や偽りなんて使わず
そのままの言葉を使う
「いや、他でもない春香ちゃんだからこそ言っておく」
「私だから……?」
「ああ、だから他には言うなよ?」
春香ちゃんにしっかりと前置きをして
私が抱える大きすぎる問題を告げる
「春香ちゃん達がアイドルを続けるためには、不正をし続けて絶対王者にならなければいけない」
「……………………」
「それが嫌なら芸能界から消える。私はこの2択から選ばなければならないのだ」
「……………………」
「それが私が犯した罪の代価だ……すまない。春香ちゃん」
949: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/11(日) 23:10:48.58 ID:xSUeevAco
一気に話されたそのふざけた選択肢
春香ちゃんは戸惑っているのか
私ではなくどこか別の場所へと目を向けていた
「……アイドル、続けたいのだろう?」
「……………………」
「だから、もう無茶はするな。楽に生きろ。961プロというだけで勝利は約束され――」
「するよ」
――天海春香は言う
私の言葉を拒絶して
私の目をそらさずに見つめて言う
「努力する。しないわけにはいかないよ」
「なにを……言っている」
「なにって……」
――天海春香は笑う
私がおかしいことを言っていると
笑うかのように……笑う
「信じてくれないんですか? 私……えへへっ、私達の力を」
「………………」
「大丈夫ですよ。私達は負けません。だって言ったじゃないですか。不正だという話を覆すって!」
950: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/11(日) 23:22:33.37 ID:xSUeevAco
春香ちゃんは大きく両手を開き
右手だけを自分の胸元に掲げる
「信じてください。貴方が認めた天海春香と、その仲間達の力を」
「……簡単な話ではないんだぞ? IA大賞どうのの話なんかではない」
「何言ってるんですか。IAも部門も何もかも、全部取る約束したくせに」
「………………」
「ね?」
春香ちゃんは小さくそう言って微笑み
空いた手を私へと向ける
「……なんなのだ。お前は」
「えへへっ、無駄に前向きなごく普通の女の子です」
「ふんっ、思いつめていた私がバカみたいではないか」
「ほんとっ、大馬鹿ですよ。さっさと話せばいいのに見え見えの嘘なんか付いちゃって」
951: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/11(日) 23:35:29.26 ID:xSUeevAco
「くっ……」
「あははっ、照れてます? 照れちゃってます?」
「ええい五月蝿い! お前は能天気なだけだ!」
「いいじゃないですか能天気。変に思い詰めるよりマシですよ?」
「ぐっ……」
春香ちゃんはそう言いながら笑う
あれほどの事実を知ってもなお
緊張している素振りはなく
焦っている様子もなく
私が犯した罪を責めるような素振りもない
「……黒井さんは前に私を選んで後悔してるって言ってたけど、今はどうですか?」
「…………そうだな」
不意に振られた真面目な話
悩みを打ち明けたりなんだりしている時点で分かっているだろうに
そんなに聞きたいのか……まったく
面倒な女だな……相変わらず
いつかのように悪態を付きながらも
私の口元は悪い意味ではなく、いい意味で曲がっていた
952: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/11(日) 23:42:47.15 ID:xSUeevAco
「良かったと思っている。春香ちゃんで良かったと……な」
「えへへっ……期待は裏切りませんし、夢も叶えます。頑張れば勝利できる。それが私達だから!」
「そうだな」
春香ちゃんの嬉しそうな顔にそう答える
本当に……良かった
やよいちゃんと話した通り
良い意味でも、悪い意味でも
春香ちゃんでなければこうはならなかった
だが、これで良かったと思っている
高木……お前は本当に見る目があるぞ
春香ちゃんを見出したことだけは、そう評価してやる
「春香ちゃん」
「なんですか?」
「……信じるぞ。春香ちゃんを」
「もちろん! お任せあ――ってわわわっ!」
嬉しそうに飛び跳ねて
春香ちゃんは勢いよく転ぶ
「あぁ……やっぱり不安だ……」
思わず漏らしたその一言に
春香ちゃんが反応していつものが起きる
大事なフェスの一日前であるということなんかを忘れ
私達はその口論を――楽しんだ
965: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/12(月) 23:20:35.77 ID:PGVm3RTdo
そして当日
私は春香ちゃんとやよいちゃんを車で拾い
会場へと向かった
「良いか? 当人だとばれるんじゃないぞ?」
「隠れないといけないんですかー?」
「見つかったらもみくちゃにされるぞ」
「あー……それは嫌かも」
春香ちゃんとやよいちゃんは各々納得し
春香ちゃんは深々と帽子を被り
やよいちゃんは髪を隠し、服装を高級なブランドものへと変えさせた
「……正直違和感がすごい」
「これ全部でいくら位なんですかー?」
「……18万円程度だ」
「はわっ! じゅ、18万円ですかっ!? それだけあったらもやしが……」
「ひと袋36円だとしても、単純計算で5000袋だね」
「そ、そんな凄いお洋服を着てていいんですか……? 汚しちゃったりしたら……」
「気にするな。会社の貸出だからいくら汚そうと、解れさせようと会社負担だ」
そう宥めたものの
やよいちゃんはやはり不安そうに頷く
会社負担だとしても……というより
会社にも負担はかけたくない。というものなのだろうな
……私のせいでかなりの負担がかかっているというのに
966: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/12(月) 23:21:47.38 ID:PGVm3RTdo
「ククッ、やよいちゃんはブランドに疎いな」
「え?」
「それは全部偽ブランド。実際は18000円程度だ」
偽ブランドだという嘘
18万を1万8000円という嘘
それはやよいちゃんの為だったのだが……
「それでも高いですよ。それを安く言える黒井さんは凄いなーって」
「いずれやよいちゃん達もそうなれるはずだ。そのためにも、今日は勝て」
「はいっ!」
やよいちゃんが嬉しそうに答えた時だった――
「楽しそうね高槻さん……まぁ、どうでも良いですけれど」
春香ちゃんの親友であり
やよいちゃんの良き仲間であり
私の罪が生み出した悲哀の歌姫であり
今日戦う相手でもある
如月千早が私たちの前に立ち塞がった
967: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/12(月) 23:23:17.29 ID:PGVm3RTdo
「わ、私のことが分かるんですか?」
「容姿を変えても貴女の独特な声は変わっていないのよ。貴女でも判るわよね」
「あははっ、たしかにそうかも。やよいの元気な声って特別だもんね」
如月千早の冷徹な瞳に対し
春香ちゃんは微笑みと共に言葉を返したが
如月千早は一切表情を変えずに口を開く
「貴女が否定した私の歌はここまで来たわ」
「知ってるよ。いっつも聴いてるから。ラジオでも、テレビでも……CDでも聴いてるから」
「否定していたのに?」
「聴いてるからこそ否定できるんだよ。聴いてなかったら千早ちゃんの歌が悲しいなんて言わないよ」
「……それもそうね」
「千早ちゃんの質問に1つ答えたから私の質問にも答えてよ」
「…………………」
「私達のこと……好き? 嫌い?」
「…………それを聞いてどうするの?」
如月千早が無表情に質問を重ねる中で
春香ちゃんはいつもの笑顔を振りまき
やよいちゃんを一瞥してから答えた
「返答しだいでは嬉し――」
「大嫌いよ。春香も、高槻さんも、貴女達の歌も……大嫌い」
968: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/12(月) 23:24:24.96 ID:PGVm3RTdo
春香ちゃんの言葉を遮ったのは
拒絶のような言葉だった……にも関わらず――
「――そっか」
「っ!」
如月千早の返答への囁き程度の言葉
それに引き出された表情は予想していなかったのだろう
流石に驚きを隠しきれず、表情を歪めた
「春香さん……?」
「ありがと。名前で呼んでくれて」
「……………………」
――春香ちゃんは笑う
大嫌いと言われた事なんて気にも止めず
名前で呼ばれたというたったそれだけのことで
春香ちゃんは嬉しそうに、幸せそうに、笑っていた
969: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/12(月) 23:24:54.80 ID:PGVm3RTdo
「それだけ聞ければ十分だよ。千早ちゃんはまだ私が知ってる千早ちゃんだって解ったから」
「……………………」
「……………………」
春香ちゃんと如月千早が見つめ合い
やがて春香ちゃんが口を開いた
「あとは歌で話そう」
「……言うようになったわね。貴女」
如月千早は呆れたかのようにそう言って
私達に背を向ける
「歌を歌ってる時に厳しいかもしれないですけど……聴いて下さいね!」
「千早ちゃん、アイドルがどれだけ大切なことかってことを教えてあげるよ!」
その背中に春香ちゃんたちは言い放つ……が
如月千早の反応はなく
そのまま去っていってしまった
970: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/12(月) 23:25:52.76 ID:PGVm3RTdo
それから暫くして
ファンなども会場に集まってくる中
出場する予定のないジュピター含めて
私達は会場の裏方に集まってきていた
「わぁっ……私が最後に経験したライブの10割以上増し増しの来場者数ですよ!」
「はわっ! こんな一杯のお客さんの前で歌うのは緊張します……」
「だらしねぇぞ。天海」
「そう言われてもなぁ……ほら、こんな人数だとは思ってなかったわけだし」
春香ちゃんはそう言って笑いながら
自分の頭を撫でる
元々春香ちゃん達にはファンが多かったが
それに如月千早のファンが合わさった挙句
今回の不正騒動で記者やらなんやらの数も増え
別にファンではないけど面白そうだから……という
野次馬に近い人も加わって、過去最高の来場者数となっていた
971: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/12(月) 23:26:26.55 ID:PGVm3RTdo
「……後悔だけはするなよ?」
「うん。解ってる。勝ちに行く、でも私達のやり方は絶対に損なわない」
「春香さんやる気に満ち溢れてるね」
「おそらくなにか聞かれると思うけどそこらへんの考えはあるのかい?」
「一応考えてあります。ここで言っちゃうとなんかダメになっちゃいそうなので言えませんけど。きっと大丈夫」
春香ちゃんはそう言って笑いながら
冬馬、北斗、翔太、やよいちゃん、そして私の順に見渡し、口を開いた
「ねぇ……円陣組もうよ」
「うっうーっ! 賛成ですー!」
「はぁ?」
「いーんじゃない?」
「冬馬。大事な一戦の前なんだから協力してあげても良いんじゃないか?」
「ったく……能天気なやつらだな」
冬馬は悪態を付きながらも
春香ちゃん達が手を出す場所へと手を伸ばす
なんだかんだ言いながらも付き合う辺り、悪く思っているわけではないようだな
972: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/12(月) 23:27:02.50 ID:PGVm3RTdo
「おいおっさん」
「社長」
「黒ちゃん」
「黒井さん」
冬馬達が私のことを呼び
春香ちゃんとやよいちゃんの間が一人分の隙間を生む
「ほらっ、円陣ですよ。円陣!」
「…………………」
なぜこんなことをしなければいけないのか
いつもなら思うその疑問はなく
私は素直にその流れに従い、一番上に手を置く
「ファイトーッ」
「「「「「オーッ!」」」」」
春香ちゃんに続いて皆が声を上げる
まぁ……流石にそこまでは私はやらなかったが
春香ちゃんは満足そうに微笑んだ
973: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/12(月) 23:29:39.43 ID:PGVm3RTdo
961プロに関わるすべての人の命運を背負う春香ちゃんは
緊張している様子はない
強がっているのかもしれないが
その笑みはこわばっている感じもない
つまり……春香ちゃんは重圧を重圧としていなかった
「……緊張しないのか?」
「しないわけないじゃないですか」
気になって訊ねた私への答えは
言葉とは裏腹に全く緊張を感じ取れなかった
「じゃぁなぜ平然としていられる」
「信じてくれる人がいるからですよ」
春香ちゃんは私のことを見つめて微笑む
974: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/12(月) 23:30:43.46 ID:PGVm3RTdo
「信じて貰えると嬉しいんですよ。だから、信じてくれる人には信じて良かったって喜びをあげたいんです」
「……………………」
「その為なら……私は緊張なんて投げ飛ばしちゃいますよ」
えっへんっと
得意げに笑いながら、春香ちゃんは私の横を通り過ぎて
戦いの幕を上げるための道を、春香ちゃんは進んでいく
その背中に対し、
本来言おうと思っていた言葉を心の中にしまいこみ、代わりの言葉を言い放つ
「春香ちゃん、不正を疑われるほどの圧倒的実力差を見せつけてこい!」
「はいっ!」
その強気な声は春香ちゃん達の登場による入場者たちの声によって
すぐに掻き消える
「――信じているぞ。春香ちゃん」
かすかな言葉を残し、私はその場を後にした
975: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/12(月) 23:37:57.76 ID:PGVm3RTdo
人々がひしめき合う観客席
その中の一角に……奴はいた
「ご無沙汰してますなぁ。旦那」
「……恩を仇で返されるとは思わなかったぞ」
「へっへっへ、あっしは悪徳。相手の評価を下げる記事しか書けないもんでねぇ?」
「だが、今回はどうだろうな」
余裕綽々といった感じの悪徳又一に対し
私も余裕を見せつつ、舞台に上がった春香ちゃんを眺めた
「それじゃぁ見せて貰うとしましょうかねぇ? その自信が崩れるところを」
「歌が始まる前に一つだけよろしいですか!」
あらかじめ決まっていたのだろう
記者の一人が大きく手を挙げ、春香ちゃんへと質問を投げかけた
「不正しているというのは本当ですか!? 今回のフェスも不正しているんじゃないんですか!?」
976: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/12(月) 23:46:57.77 ID:PGVm3RTdo
不正記事が本当か嘘かを聞いておきながら
今回も不正しているのでは? なんて……ふざけた質問だ
「中々いい質問いたしますねぇ? 旦那」
「………………」
春香ちゃんは質問されても大丈夫と言っていた
だから今はそれを信じる
そう強く決めた私は
ざわつく観客、答えを待つ報道陣、挑発してくる悪徳
その何ものにも何も言わず、ただ春香ちゃんのアクションを待つ――そして
『私達は実力でここまで来たと思っています』
春香ちゃんの声がスピーカーから響く
『だから、私は歌を歌います。ダンスを見せます……だから――』
春香ちゃんの言葉に興味を示す全ての瞳に
その満面の笑みが映る
窮地に立たされているということを全く悟らせない
不正しているのかどうかという嫌な質問への怒りなども一切感じさせない
そんな表情で――言い放つ
『歌を聴いて、ダンスを見て……今までが不正だったかどうか。みんなが決めてください!』
977: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/12(月) 23:54:37.09 ID:PGVm3RTdo
『聞いてくれる。見てくれる。全ての人が審査員だって私は思うから!』
ざわついていた会場が静まり返り
春香ちゃんの声がやまびこのように響き
そしてさらに……続けた
『記者さんも、不正を疑う全ての人達も、不正を信じずに私を信じてくれる人達も。それで良いよね?』
「……あ、ありがとうございました」
失礼な質問をぶつけた記者は小さく答えを返す
あの言葉に反論なんてできるはずがない
ふざけるな、意味がわからない
そんな野次さえ……あれには不可能だ
「旦那も凄いことを言わせますなぁ……流石のあっしも――」
「あれは春香ちゃん自身で考えた答えだ」
「じ、自分であんな馬鹿げたこと言ったって言うんですかい!?」
978: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/12(月) 23:59:39.36 ID:PGVm3RTdo
「とんでもねぇ……あんなのは自分で自分の首を絞めてるようなものですぜ?」
「………………」
それは春香ちゃんも解っているはずだ
解った上で……あんなこと言ったんだ
だったら私は……
「黙って聞け」
「はい?」
「春香ちゃんの歌を聞けば全部わかる。ダンスを見れば全部わかる……この問題に言葉は要らん」
「……そうですねぇ。どれだけ素晴らしいものか見せて貰いましょうかねぇ」
悪徳は嫌な笑いを浮かべるが
それは無視して春香ちゃんを見つめる
流れ始めるメロディーに合わせて春香ちゃんとやよいちゃんが動き出す
それとほとんど同じくして、如月千早のステージの方からも音楽が流れ始めた
980: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/13(火) 00:20:50.10 ID:M1uLj7Cko
如月千早の感情のこもった曲は
かなり素晴らしいものだったし
如月千早の歌の表現力はかなり高かった
しかし……
みんなの目は、耳は、足は
すべてが春香ちゃん達へと向いていた
春香ちゃん達の楽しそうな表情、嬉しそうで、幸せそうな笑顔
それに合わせているかのように曲は明るく、元気に響き
ダンスや歌が、春香ちゃん達が思い、感じる楽しさや嬉しさを
会場のみんな――
不正している汚いアイドルというレッテルを貼っていた人達
不正しているか否かにしか興味がないような報道陣
不正なんかしていないと信じてくれている人達へと送り届けていき
それはいつしか
春香ちゃん達の歌、春香ちゃん達のダンスではなく
その場にいる全ての人の歌。すべての人のダンスとなっていく
981: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/13(火) 00:33:20.85 ID:M1uLj7Cko
「っ……こりゃぁ一体――」
曲が終わったあとの
大勢の観客――いや、参加者たちの熱狂が
悪徳の声をかき消す
「……………………」
『みんなーありがとー!! 遠くの人も、近くの人もちゃんと見えてるよー! ちゃんと聞こえてるよー!』
いつだったか
春香ちゃんは審査員も楽しませるべきというようなことを言っていた
それは
審査員を審査員としてではなく
いち観客として見ているからだったのだな……
見る人聞く人すべてが審査員であり、それはつまり観客でもある
「……不正を覆す実力。か」
この場にいるすべての人々に不正を働くことなど不可能で
その全ての人が春香ちゃんの歌とダンスに魅了されていた……ともなれば
認めざるを得ない
圧倒的な実力というものを……な
982: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/13(火) 00:40:56.80 ID:M1uLj7Cko
アンコールの声が鳴り響くステージの裏手で
私はまた、春香ちゃんと話していた
「……勝利は確実だった。だと?」
「えへへ……まぁ、千早ちゃんの歌があの歌である以上、ファンを盛り上がらせることは出来ませんから」
「それを利用したというのか……おまえは」
「私はこういう楽しい曲しかなくて、千早ちゃんは悲しい曲しかなかった。それだけのことだったと思いますよ」
春香ちゃんは少し悲しそうに笑うと
気づいてました? と、切り出した
「なにを?」
「途中から千早ちゃんの歌が止まっていたことですよ」
「……ああ」
「……伝わったのかな。歌は誰かを笑顔にするためのものだってこと」
983: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/13(火) 00:53:56.99 ID:M1uLj7Cko
「失恋ソングだって、あれは前を向かせるためのものであって俯かせるためのもじゃないんですし」
「……そうだな」
「だから、千早ちゃんの歌と千早ちゃんの感情は一番合わさっちゃいけないものだったんですよ」
悲しい曲に悲しい気持ちを合わせれば
悲しさだけが溢れるばかりで
一向に前向きになどなれない
だが、最初こそ悲しく歌えど
次第に元気良さを取り入れていけば
前を向かせるための曲へと変わる
「春香さーん! そろそろ行かないとダメだって」
「解ったー! ……それじゃぁ行ってきますね。アンコール」
「ああ、行ってこい」
春香ちゃん達のアンコールはやはり大盛況で
不正疑惑なんていうものを軽々しく吹き飛ばして終わりを迎えた。が
765プロと961プロの話はまだ終わってはいなかった
984: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/13(火) 00:55:59.96 ID:M1uLj7Cko
ここまで
申し訳ないけど、次スレいっても10レス程度になりそうだから
このスレで終わらせたいのでレスはなしでお願いします
……こう言いつつ終わらずに次スレ行ったらごめん
985: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/13(火) 23:01:15.61 ID:M1uLj7Cko
「春香ちゃん! やよいちゃん!」
「雪歩……それにみんなも。わざわざ残っててくれたの?」
「春香達を生で見るのは久しぶりだったし……まぁ、話があるからなんだけどな」
「話?」
「とりあえずおめでとう。凄かったわ。まさかあんた達があそこまで成長するなんて思ってなかった」
「伊織に褒めて貰えるなんて……結構嬉しいかも」
春香ちゃんと765プロのアイドルたちが
他愛もない話で笑い合う
この場にいるのは我那覇響、水瀬伊織、菊地真、萩原雪歩
四条貴音、双海真美、双海亜美、三浦あずさ、秋月律子の9人で
プロデューサー、星井美希、如月千早、高木の4人の姿はなかった
「そういえば千早ちゃんは?」
「そのことで色々とあってね。今は美希達が千早と話してるのよ」
「千早さん……大丈夫なんですか?」
「そうねぇ……きっと大丈夫よ。美希ちゃんの千早ちゃんを思う気持ちは今ならきっと伝わるはずだもの」
三浦あずさはのんびりとした口調で答えながら
不安そうなやよいちゃんの頭を撫でる
986: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/13(火) 23:04:25.42 ID:M1uLj7Cko
「そだねー、きっと大丈夫っしょ」
「はるるんの歌、千早お姉ちゃんに大ダメージぽかったけどね」
「だ、大ダメージ?」
「ええ、千早は見失っていた道を見つけたのです。それと今との差に少し……罪悪感を感じてしまったようですが」
四条貴音は嬉しそうに微笑む
私のことはいいのか……?
不正疑惑についていうことはないのか?
そう訊ねようとしたのに気づいたのか
四条貴音は私の方を見て微笑んだ
「黒井殿。わたくしはあの記事について言うことはありません。春香の実力を見せて戴きましたからね」
「自分もだぞ。黒井社長のアイドルの方向性とは合わなくて辞めちゃったけど……今の黒井社長なら着いていけそうだしな」
「……そうか」
元961プロダクション
四条貴音、我那覇響は笑顔で言う
私の指示は厳しく、辛く、苦しいものであっただろうに……
987: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/13(火) 23:05:09.22 ID:M1uLj7Cko
「え? 響961プロに戻るの?」
「ひびきんまた移籍しちゃうのー!?」
「歓迎しますよー? 響さん!」
「そ、そうじゃなくて! 今の黒井社長なら移籍してなかったってだけだぞ」
765プロアイドルたちの緊張感のない会話は
如月千早の件が確実に上手く行くという信頼の表れのようにも感じたりして……やがて
彼女達がやってきた
星井美希と並んで如月千早が俯きながらも歩き
その後ろをプロデューサーと高木が歩く
「来たか」
「……千早ちゃん」
春香ちゃんは珍しく不安そうに呟く
でも、如月千早から目を離すことはない
段々と近づく傷つけた親友の姿を見据えて
自分の手をぎゅっと握り締めた
「……不安か?」
「……ちょっとだけ、ですけどね」
春香ちゃんは私を一瞥して苦笑し
如月千早と正面から向かい合った
988: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/13(火) 23:06:04.22 ID:M1uLj7Cko
「……千早ちゃん。私の気持ち、伝わった?」
「……春香」
如月千早はスケッチブックのようなものを大事そうに抱き抱えながら
春香ちゃんのことを見上げる
その瞳にはフェスの前の強い色はなく
表情も……感情を露わにしていた
「千早ちゃんはなんで歌を歌うことが好きになったの? 大事なことに、なったの?」
「……弟が泣いていても私が歌えば笑ってくれた。笑顔を見せてくれた……っ」
如月千早が涙をこぼす
弟を失ったということの涙か
その弟への申し訳無さの涙か
春香ちゃんは何かを察して黙り込む
「だから私は……歌を歌っていたはずなのに……」
「……仕方ないよ。千早ちゃんだって苦しかったんだから、悲しかったんだから、辛かったんだから」
「春――!」
如月千早が何かを言う前に
その体を春香ちゃんは抱きしめた
989: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/13(火) 23:07:31.12 ID:M1uLj7Cko
「私じゃ力不足だったかな……弟くんにとっての千早ちゃんという役割は」
「そんなことっ……」
「そっか……じゃぁ、笑おう? 泣かないで、笑顔を見せてよ」
春香ちゃんはそう言いながら如月千早の体を離し
その顔を目の前で合わせて……笑う
「春香……」
「ね? それでまた……歌おう? 今度はまた、誰かを笑顔にするために」
「っ……良いの? 私、みんなに酷いこと……貴女にだって酷いこと……」
「春香ちゃんは少なくとも気にはしない。それは私が絶対だと言わせて貰おう」
「ミキ達だって気にしないよ? だって……仲間だもん!」
私の言葉に続いて星井美希が声高に言い放ち
ほかのアイドルたちは、口々に思いを述べる
「喧嘩もするし、悪戯だってするけど亜美達は仲良いもんねー」
「そうよ。あんなの反抗期みたいなものだわ」
「だから遠慮なく戻ってきなさいよ」
「みな……貴女の帰りを待ってるのですよ。千早」
990: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/13(火) 23:09:43.60 ID:M1uLj7Cko
「っ……ごめ」
「違うだろ。千早、ボク達は謝って欲しいわけじゃないんだから」
「……そう、ね」
如月千早はそう言って大きく深呼吸をして
意を決したのか目を閉じて――
「ありがとう、みんな……ただいま」
如月千早の涙が混じる笑顔にみんなが笑顔を向ける
765プロの問題はこれで解決……だろうな
まぁ、まだまだ活躍をしていかなければいけないわけだが
「ふんっ……私達は誰が相手だろうと捻り潰す。浮かれていると危ないぞ。765プロ」
「黒井……」
「プライベートではあれだけど、アイドルとしては敵だから……頑張ってなんて言わないからね」
「もちろんなの!」
「プライベートでならいつでも私のおうちに来てくださーい! 私のおうちでは敵も味方もありませんから!」
やよいちゃんの言葉を別れとして
私に対する罵倒……ではなく、私達への765プロの声援を背中に受けながら
私達はその場から立ち去った
991: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/13(火) 23:11:05.44 ID:M1uLj7Cko
その帰りの車内
やよいちゃんやジュピターとも別れ
あとは春香ちゃんを送るだけとなっていて
それももう、駅に着きありがとうございましたで終わるはずだったのだが……
「帰らないのか?」
「帰りますよ。でも、まだ時間はありますし」
春香ちゃんはそう言いながら
座席に深々と座り込み、体を伸ばして口を開く
「……黒井さん」
「なんだ?」
「信じた心は……報われました?」
「ふっ……そんなこと聞くまでもないだろう」
「えへへ……そうですね。それじゃ、また明日!」
「ああ」
素っ気無くそう返した私の目の前で
春香ちゃんはドアを開け、車から降りて――
「春香ちゃん」
行く前に、私は春香ちゃんを呼び止めた
992: ◆Uj66a4ANfQ 2014/05/13(火) 23:14:57.67 ID:M1uLj7Cko
「はい?」
「そのだな……一度しか言わんぞ」
「なんですか? 改まって」
今まで別の表現などでは言いつつも
一度も言うことはなかった言葉があった
それは、春香ちゃんに対して一番言うべき言葉
「――ありがとう」
「!」
春香ちゃんは驚いていたが、いつものように茶化してくるのかと思ったが
予想を裏切って照れくさそうに頬を掻きながら、春香ちゃんははにかむと
「えへへっ……ど、どういたしまして!」
春香ちゃんはそう言って逃げるように駅へと走っていく
これからもずっと……私は春香ちゃん達と共にあれるのかどうか
それはわからない……だが
そうありたいと思う。思うからこそ、手を尽くす
もちろん
不正という脆い足場ではなく、努力という強靭な足場を積み重ねて行くために手を尽くす
そう固く決意して――私は車を走らせた
~黒井更正編END~
引用元: ・黒井「961プロの天海春香だ」
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