12: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/02/09(土) 03:10:05.06 ID:yc00Gswb0
**********

 昼下がりのまったりと流れる時間の中を、私は一人ゆううつな気分で歩いていた。

 いや、正確には「ゆううつ」というのは間違いかもしれない。だって、今まで何度も夢

見ていた舞台の、しかも主役のお仕事のお話を、今しがたプロデューサーから紹介された

ばかりなのだから。以前オーディションでお世話になった演出家の方が私を推薦してくれ

たということで、それはとてもとても有難く、それだけなら小躍りしたくなるくらい嬉し

いことなのだ。

 でも。


13: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/02/09(土) 03:13:07.10 ID:yc00Gswb0
*****

 「キスシーン、ですか・・・?」

 プロデューサーの口からその単語が出てきたとき、思わず、私は聞き返してしまった。

 「ああそうだ。舞台の起承転結でいえばちょうど転のクライマックスのところ、愛する

男が戦地に向かう列車に乗り込むシーン、発車の合図が響くホームの片隅で抱き合う2人、

愛しているの言葉とともに男がそっと優しく口付けを──!」

 「ちょ、ちょっと待ってください!」

 プロデューサーがまるで台本をなぞるように(当然だが今手元に台本はない)、さっき

説明をくれたストーリーを反芻するのを、私はより強い口調で遮った。

 「その、えっと、口付け、というのは──」

 「多分、美穂が思ってる通りのやつだよ。」

 あっさりと返すプロデューサー。

 「まあ、そのシーンが入るかどうかは確定ではないし、そのあたりは今後の先方との

折衝次第だな。先方としても、美穂が舞台初主演ってことは判ってるから、ある程度の

融通は利かせてくれるとは思うし。」

 「そ、それじゃ」

 「でも、原作の脚本ではしっかりとそういうシーンがあった筈だし、今回の舞台監督は

結構原作に忠実な舞台設計を心掛ける人だから、もしかしたらその辺り強く言ってくるかも

しれないなあ。」

 「ぷ、プロデューサーさん!」

 段々と声が大きく、上ずってきているのが辛うじて分る。私の頭はもう完全に沸騰しきっていた。


16: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/02/09(土) 03:16:38.64 ID:yc00Gswb0
 「わ、私、でも、その、き、キス、なんて、したこと、ない、です・・・!」

 「だろうなあ。」

 相対するプロデューサーは至って平常運転だ。

 私がそういった方面で殊に奥手なことは、言わずもがな、私を長く担当するプロデューサーは

よく知っているはずだ。もちろん、それと同じくらい、私が舞台でのお仕事に憧れ、舞台の上の

ヒロインという役柄に恋い焦がれていたこともこの人はよく知っている。だからこそ、

このお仕事を私のために取ってきてくれたのだ。

 嬉しさと困惑の気持ちとがないまぜになり、しどろもどろになりながら私は言葉を続ける。

 「その、あの、でも、これって、つまり、このお話を受けたら、そういった演技をすることも、

えっと、覚悟をしなきゃあ、いけないってこと、ですか・・・?」

 「さっきも言ったとおり、今の段階ではどういった演出になるかは未確定だし、いくらでも

交渉の余地はある。だが、先方の監督さんがそこんところ強く言ってきたような場合は、こっちも

その路線で色々と考えなきゃいけない。もちろん、そういうことになるんだったらこの話はお断り、

ってことで、先方に予め伝えるんでも──」

 「ま、待ってください!」

 お断り、というという言葉で、反射的に続く言葉を遮っていた。

 この話が自分にとってまたとないチャンスということは、数多くのオーディションを

受けてきた身として、嫌というほど判っている。だからこそ、自分の夢を叶えるためには、

是が非でも受けるべき話なのだ。そう理解しているからこそ、簡単にこの機会を手放すなどと

いう言葉は聞きたくなかった。


25: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/02/09(土) 03:23:21.04 ID:yc00Gswb0
 「あ、あの、すいません、プロデューサーさん、少し、考える時間を下さい。その、

すごく有難いお話で、私、とっても嬉しいです。でも、まだ頭の整理がついてなくて・・・」



 「判った。まあ、そうなるだろうと思って、先方には返事が少し掛かるって言ってあるから、

じっくり考えて、そんで結論を出してくれ。どうしても行き詰ったら、俺なり何なりに相談してくれな。」



 そういって話を切り上げたプロデューサーは、明日以降のスケジュール確認をすると、

机の上に広げた資料を片付け始めた。跳ね回る心臓を少しでも落ち着けようと、プロデューサーの

資料をまとめる手に目をやる。いつもなら、その、熊のぬいぐるみのような体に似合わない細々とした

作業を見ていると心が落ち着くのだ。けれども、その時はなぜか、プロデューサーの左手の薬指が

蛍光灯を反射してちらちら光るのに妙に目が行ってしまい、それがまた妙に生々しい連想を呼んで、

私の鼓動は更に高まっていくのだった。


27: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/02/09(土) 03:26:51.59 ID:yc00Gswb0
*****

 テレビ局の廊下を、午後のあたたかな陽射しが包んでいる。いつもなら、このまま陽射しの

中でお昼寝できたら気持ちいいだろうなぁ、などということを考えたり、或いは、実際に

そのまま次の控え室や帰りの電車でうたた寝をしてしまったりするのだが(この間プロデューサーに、

アイドルとして流石に電車の中はマズいと怒られた。)、今日は目がすっかり冴えてしまって、

一向に眠気がやってくる気配はない。



 今日の午後はスケジュールが空いていて、そのまま家に帰ることもできたのだが、何となく

そんな気分にはなれなかった。結局、私は、所在なくテレビ局の廊下をふらふら歩いていた。



 役者として、舞台の上に立つことが夢だった。女優として舞台の上に立つということは、その、

恋愛だとか、男女の機微にかかわるシーンも演じることだということも、頭では理解している

つもりだった。でも、それに向き合うのはまだまだ先のことだと思っていた。



 ──覚悟が、足らなかったのかな。


29: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/02/09(土) 03:29:18.04 ID:yc00Gswb0
 そう思って、すぐにそんなことはないと、かぶりを振ってその考えを打ち消す。ラブロマンス

ものの映画を一度でも見たことがあれば、女優の仕事というのがそういったものを含んでいることは

当然に判るはずのことだったし、私だってもちろんそれを理解して、それでもなお、その場所に

立つことを夢見たのだ。この道を志すことを本気で決めた時、丸一晩、布団の中で顔を真っ赤にしながら

悶えたことを覚えている。それでも夢を叶えたいという思いの方が私の中で強かったから、今私は

この場所にいるのだ。



 でも、そうやって自分を納得させようとしても、いざ舞台での「その場面」を思い浮かべると、

心の奥から恥ずかしさが溢れ出し、顔がまたにわかに熱を帯びていく。



 とめど流る清か水。

 消せど燃ゆる魔性の火。



 とある歌詞の一節がふいに脳裏をよぎった。身を焦がすような恋の歌が、なぜか今の私に

しっくりくるように思えた。今の私に流れるこの気持ちが、果たして清か水か。この胸の

高鳴りは魔性の火だろうか。


30: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/02/09(土) 03:31:59.79 ID:yc00Gswb0
 「君!」



 と、ふいに横から男の人の少し大きな呼び声がして、私の思考は強引に妨げられた。

はっとして辺りを見ると、どうやら撮影中のスタジオに紛れ込んでしまったらしい。



 「だめだよ、収録中なんだから。関係ない人が入ってきちゃあ。」



 「す、すいません!あの、ちょっと考え事をしていて・・・」



 部外者の立入りは、基本的にテレビ局ではものすごく厳しい。私に声を掛けてくれた人は

そこまできつい口調ではなかったが、その態度が私を強く諌めるものであることはすぐに判った。

どう考えても悪いのは私のほうなので、平身低頭、ひととおり謝罪を述べて、さっと踵を返して

その場を離れようとした。けれど、



 「何だ、美穂じゃないか」



 私の退出を、澄んだ、それでいてよく通る声が遮った。振り返ると、見慣れた顔がそこにあった。



 「真奈美さん・・・」



 「どうした、急にこんな所に顔を出して。ん、少し顔が赤いようだが、熱か?どこか

具合でも悪いのか?」



 「あ、あの、真奈美さん、どうして・・・。」


31: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/02/09(土) 03:34:41.63 ID:yc00Gswb0
 「私か?私は、ここのスタジオで深夜番組の収録だよ。瑞樹くんも一緒だ。」



 ミズキくん?みずき君、水木君・・・あ、瑞樹さんか。スタジオの奥に目をやると、確かに

瑞樹さんが、出演者らしい人影と話をしているのが見えた。



 真奈美さんがスタッフの方に、この子は私の同僚でね、私たちの様子を見に来てくれただけ

だからと釈明をしてくれて、なりゆきで私はそのままスタジオに居させてもらえることになった。

暫くして、向こうで喋っていた瑞樹さんが私に気づいて、駆け寄ってきてくれた。



 「あらぁ、美穂ちゃんじゃない!どうしたの、私たちの活躍でも見に来てくれたのかしら?

もう少し早く来てくれたら面白いものが見れたのに。凄かったのよ、真奈美ちゃんがMCの・・・、

えっと、見れば判るわよね、そう、あそこにいる彼。ダンス万能説の。彼とダンス対決して、

真奈美ちゃん本職じゃないのに、かなりイイ線で張り合ってたんだから!」



 「やめてくれ、気恥ずかしい。何十年も踊りで身を立てている彼みたいな人間からすれば、

私なんてひよっ子同然だよ。」


32: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/02/09(土) 03:38:07.72 ID:yc00Gswb0
 そう言って真奈美さんは少しはにかんだ。それでも少しも気後れした様子が見えないのは、

成熟し自信に満ちたそのキャラクターの故だろうか。横ではしゃいでいる瑞樹さんも、

子供のような無邪気さを見せつつ、それでいてどこか大人びた落ち着いた感じが見える。



 大人の余裕。成熟したオンナのヒト。



 彼女たちなら、私の今の気持ちに何かヒントをくれるだろうか。



 「あ、あの!」



 ふっと言葉を発したのが、私が思ったより唐突だったのだろう。2人が少し驚いて私を見る。



 何の解決にならなくてもいい。ただ、自分だけでいつまでもうじうじと悩んでいるよりは、

誰かに話を聞いてもらったほうが、ずっとましな気がした。



 「お仕事の最中すいません!でも、少し、ちょっとだけ、私の悩みを、聞いては貰えないでしょうか?」


34: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/02/09(土) 03:41:44.90 ID:yc00Gswb0
***

 「んん、難しいわねぇ。」



 私の話を聞き終えて、最初に言葉を発したのは瑞樹さんだった。



 「17の女の子だもの、悩んで当たり前だと思うわ。その位の子で、そういう方面に完全に

免疫ができてる子なんてそうそう・・・あっ、最近はそうでもないのかしらね。」



 「いや、流石にああいうのはゴシップみたいなもんだろう。しかしまあ、彼もまた酷な

ハードルを持ってきたものだな。いざ千尋の谷へ、とでもいうつもりなんだろうが・・・。」



 「真奈美ちゃんはその頃ってどうだったのかしら?男の子とのことであたふたしてる姿が

全然想像できないけれど。」



 「近寄り難かったのか、私に近づく男が滅多に居なかったのでな、そういった妄念に思い悩む

機会というのが殆どなかったよ。私の方から見ても、そういった気持ちを抱かせる男子はそうそう

現れなかったしな。ああ、でも、あの時の彼はなかなか面白い・・・いや、話がだいぶ逸れるな。

これ以上は止めておこう。」



 「何よう!もったいぶっちゃって。話しなさいよ!」



 「嫌だね。そういう君の方こそどうなんだい。」



 「私の話なんてどうだっていいじゃない。そんなことより、今は美穂ちゃんの話よ!」



 君の方で話を振っておいて調子のいい、と漏らして、真奈美さんが軽く肩をすくめる。

しかし、話が弾みすぎたという自覚はあったようで、それ以上瑞樹さんを追及することなく、

私のほうに向き直った。


35: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/02/09(土) 03:45:27.79 ID:yc00Gswb0
 「私はその仕事に関係する人間ではないし、ましてや当事者でもないからな。私の口から

軽々しく、どうすればいいなんていうことは言えない。ただ、一つだけ言えるのは、君の

舞台に立ちたいという思いも、女の子としての、男の子とのそういった「コト」に対して

夢見、憧れ、恥じらう気持ちも、どちらも簡単に譲ることができない、大事なものだと

いうことだ。決してどちらかを選ぶ為に、もう一方を簡単に蔑ろにしていいものではない。

だから、今の君みたいに、延々と思い悩むのは、決してこの仕事に対する覚悟が足りないとか

いうことではない。むしろ、女の子として至極真っ当なことだと思う。そこの所は安心していい。」



 「で、でも、プロデューサーさんはじっくり考えろって言ってくれたけど、そういつまでも

悩んでいるわけには・・・!」



 「そう。いつかは決着を付けなければいけない。そして、それを決められるのは、他でもない

君だけだ。相反する2つの気持ちが、どちらがどれだけ大事で、価値があるものなのかを

判断できるのは、君以外にはいないんだよ。」



 真奈美さんはそう言って私の頭を強く撫でた。わずかばかり、何かしらの答えを指し示して

くれることを期待していた私だったが、案の定というか、真奈美さんはそういった甘い言葉を

吐いてはくれなかった。


36: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/02/09(土) 03:49:30.48 ID:yc00Gswb0
 私が俯いて黙りこくっていると、瑞樹さんが言葉を継いだ。



 「厳しいかもしれないけれど、真奈美ちゃんの言うとおりね。でもね美穂ちゃん、

世の中に出ると、そういう、どうやっても簡単に落ちがつかなくて、それでいて切実な

問題ばっかりよ。政治でも、経済でも、子育てなんかでも、とにかくいろんな所でね。」



 私の気を紛らそうとしたのか、瑞樹さんが、やけに小難しい話を挟んできた。そういえば、

瑞樹さんは昔、テレビ局でアナウンサーをしていたんだっけ。



 「物語でもよくあるじゃない。『世界を選ぶか、一人の女を選ぶか』とか、『友情を取るか、

自らの使命を取るか』とか。そうやって、切羽詰って何かを選ぼうとするときに人間がよく

やっちゃうのは、自分が選ぼうとする反対の側の選択肢を、自分を納得させるために無理やり

低く見ちゃうことなのよね。今の美穂ちゃんの話を聞いてると、正にそれで悩んでるんじゃ

ないかって思う。役者になりたい気持ちは嘘だったのか、とか、役者になる以上女の子の気持ちなんて

封印しなきゃいけないんじゃないか、とかね。でもね、それは違う。美穂ちゃんの目の前にある

その2つは、どっちも大事なもの。だから、簡単に結論が出なくて当たり前なのよ。

・・・そういう時はね、ひたすら考えて、考えて、どうしても考えがつかなくなったら一旦

考えるのを止めて、お風呂に入ってぐっすり寝て、それでまた明日になったらもう一度考えるの。

そうやって考え抜いて結論を出すのが、何よりも一番いい解決策よ。」


37: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/02/09(土) 03:51:46.72 ID:yc00Gswb0
 瑞樹さんの答えも、悩め、ということだった。大人らしい、きっぱりとした意見。

逃げ道はない、ただただ向き合うしかない。そう私に諭してくれたのだった。



 「・・・世界も救えて、愛する人も救えるなんて、虫のいいお話にはならない、って

ことですよね。」



 「あら、そうでもないわよ。」



 「?」



 私は首をかしげる。



 「B級のアクション映画とか少年誌なんかを見て御覧なさいよ。秘めたる力に目覚めたり

何なりして、世界と愛する人の両方を救っちゃった、なんて話は山のようにあるじゃない。

案外、今回の美穂ちゃんの悩みだって、そんなウルトラCが見つかるかもしれないわよ?」



 「そ、そんな、無理です!」



 「分らないわよ?そうね、例えば・・・」



 瑞樹さんは少し思案して、



 「舞台までの間にボーイフレンドを作っちゃうとか!」



 とんでもないことを口にした。


38: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/02/09(土) 03:53:51.89 ID:yc00Gswb0
 「み、瑞樹さん!そんな、それこそ、だって・・・・・・!」



 困惑して横にいる真奈美さんを見やる。真奈美さんも、額に手をやって困り顔だ。



 「瑞樹君。つい今しがた、女の子の気持ちも劣らず大切だと宣っておいて、軽々しく

そういうことを言うもんじゃあ・・・。」



 「あら、いいじゃない。あくまで可能性の話なんだから。人間、いつ本気で人を好きに

なるかなんて判ったものじゃないわよ?」



 「しかしなあ、ここでそういう例を持ち出すのは──」



 いつのまにか、2人の間で恋愛観の大論争が始まっていた。片や情熱的な恋愛賛歌を

そらんじるかと思えば、片や後先を考えない恋愛を諌めにかかる。さっきまでの大人びた

雰囲気はどこへやら、何というか、子供のケンカみたい。


39: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/02/09(土) 03:55:43.62 ID:yc00Gswb0
 「ぷっ、くく、あはははは・・・!」



 気がつくと、私は思いきり笑い出していた。



 私が笑うのを見て、自分たちがどんな様子だったか自覚したらしく、言葉の応酬を

止めると、2人ともばつが悪そうな顔になって私のほうを見た。



 何だ、大人だって、案外私みたいな女の子と大差なかったりもするんだ。そう思うと、

妙に気が楽になった。



 ひとしきり笑って、2人に言葉を向ける。



 「すいません、何か、その、可笑しくて。でも、有難うございました。お陰で、何とか

自分で頑張ってみようって気になりました。とりあえず、瑞樹さんのいうように、考えて、

お風呂入って、寝て、それでまた考えてみます。それで、必ず自分で決着をつけてみせます!」


41: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/02/09(土) 03:59:08.15 ID:yc00Gswb0
*****

 私は、ベッドの上でひとり寝転がっていた。



 あのあと、私はまっすぐ家に向かって、それからひたすら自分の部屋にこもっている。

本当は、もう少し2人とお喋りをしていたかったのだが、あいにく次の撮影が始まる時間に

なってしまい、2人と、スタッフの皆さんに挨拶を済ませてスタジオを後にしたのだった。

・・・真奈美さんが、あの黒タイツ、次に出てきたら本気で蹴り上げてやるとかぶつぶつ

言っていたけれど、何のことだったんだろう?



 あれからずっと、瑞樹さんの言うように、どうすればいいかをただひたすら考えている。

でも、やっぱり簡単に結論は出ない。



 夢にまで見た舞台の主役。それが、あと少し勇気を出すだけで手が届くところにまで

近づいてきている。何としても、この、きらきら輝くお星様を自分の手で抱きしめたい。



 でも、女の子として、男の子とのラブロマンスに憧れ、そういったことを恥ずかしがる

気持ちも変わらない。出来ることなら、この気持ちは、本当にそういう人が現れるまで、

大事に大事に、この胸の内に残しておきたい。



 瑞樹さん曰く、女の子は恋するために生きているのだそうだ。真奈美さんは、その意見には

真っ向から異を唱えていたが。


44: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/02/09(土) 04:02:39.59 ID:yc00Gswb0
 うんうんと唸りながらベッドの上をごろごろと転がりまわって、何度も何度も考えて、

それでもやっぱり思考は同じところをぐるぐると回っている。だめだ。今の私では収拾が

つきそうにない。こういう時は、お風呂に入って、寝る。瑞樹さんの言葉を思い出して、

私は、ベッドから起き上がって、入浴の準備にとりかかった。



 髪をまとめていたヘアピンを外し、着替えを引出しから取り出しているところで、ふと、

途中で手を止めて、少し考えてから机の上に手を伸ばした。お風呂に入って寝たところで、

それで結局明日また同じことを考えることになるのだ。だったら、少しでも、明日悩むときの

ヒントになるものを今のうちに作っておきたかった。



 勉強ノートの上に置いてあった携帯電話を取り上げると、履歴から目当ての番号を選んだ。



 「・・・・・・もしもし、あの、私です。美穂です。小日向・・・ええ、そうです。あの、

プロデューサーさん、明日のお仕事の前に、事務所で少しお時間を頂くことはできませんか?」


45: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/02/09(土) 04:05:38.90 ID:yc00Gswb0
>>43

済まない

少しスピード上げる



*****

 「で、どうした。昨日の話についてということだったが。」



 翌日、私は事務所のソファーに座って、プロデューサーと向かい合っていた。



 相変わらず、熊のぬいぐるみみたいなその体を見ていると、妙に安心する。今日は、

昨日みたいに左手の薬指が気になるということもない。



 「昨日、真奈美さんと瑞樹さんに、お話を聞いてもらってきました。」



 「ああ、あの2人か。うん、いい相談相手だと思う。それで、何て言ってた?」



 「当事者ではないから、軽々しくどういう結論が良いかを言うことはできない、結局は

自分で悩むしかないと言って、それから、どう悩めばいいかをじっくりと教えてくれました。」



 「で、その通りに一晩悩んでみた。」

 「はい。でも、昨日の一番最初よりはだいぶ考えがまとまってきたんですが、それでも

やっぱり、まだ結論を出すには何か足りなくて。それで、プロデューサーさんにお話を

伺ってみようと思ったんです。」


46: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/02/09(土) 04:07:54.12 ID:yc00Gswb0
 プロデューサーは、そうか~と若干気の抜けた返事をして、すっと立ち上がると冷蔵庫に

向かっていった。



 2人分のお茶を冷蔵庫から取り出しながら、



 「で、俺にはどんなことを聞きたい?」



 そう問いを投げかけてきた。



 昨日、プロデューサーに電話を掛けたあとは、そのことをひたすら考えていた。私の

悩みに決着をつけるため、プロデューサーからどんなヒントを貰えばいいかを。



 出た結論は、これだ。



 「プロデューサーさんは、どうして私にこの役をやらせようと思ったんですか?」



 ある意味で当然の疑問だった。そもそも、私のような、まだまだ駆け出しの新人にそう

簡単に主役の推薦の話が来るなんてことは、こちらからの働きかけなしでは、よっぽどの

幸運か実力がない限り、まずないことなのだ。だから、多かれ少なかれ、プロデューサーが、

こういうお仕事を貰うために色々とアプローチをしていたことは想像に難くない。そうで

あるならば、プロデューサーさんがどういうつもりで私をこういった役に売り込んでいたのか、

その意図が知りたかった。



 「私がお芝居に凄く憧れていたから、それをただ叶えたくて、ですか?それとも、何か

もっと別の・・・」



 その先の言葉は続かなかった。プロデューサーの頭にある「別の何か」が思い浮かばなかったからだ。


48: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/02/09(土) 04:09:44.37 ID:yc00Gswb0
 私が言葉に詰まっていると、プロデューサーがゆっくりと口を開いた。



 「俺はな、」



 そして、ドキッとすることをさらりと言ってのける。



 「美穂に『悪女』になって欲しいんだ。」



 「ふぇっ!!?」



 驚きのあまり、二の句が全く継げない。



 「あぅ、あの、それは、どう・・・えっ??」



 私がしどろもどろになっていると、プロデューサーが自分で言葉を継いだ。もっとも、

今の言葉で私がこうなることくらい、この人はすっかり判ってて言ったのだろうから、

当然といえば当然だった。



 「俺はな、アイドルのプロデュースっていうのは、極端に言って2通りのやり方があると

思ってる。1つは、アイドルの希望にただただ従って、ひたすらその夢を叶えてあげようと

するやり方。もう1つは、プロデューサーの思う理想のアイドル像を、ひたすら自分の

担当の子に詰め込んでいくやり方。実際にこんな両極に立って仕事をやることはそうそう

ないだろうけど、それでも、この両側のどっちに近いところでプロデュースするかは、

相手の子によって、あるいはプロデューサーの性格によって、大分変わってくるんだと思う。」


49: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/02/09(土) 04:12:34.22 ID:yc00Gswb0
 プロデューサーは静かに、それでいてよく伝わる声で言葉を続ける。



 何だろう、プロデューサーの言おうとしていることが全く見えない。プロデューサーは、

私に一体何を求めているのだろうか。



 「たとえば、木場さんや川島さんなんかは、比較的自分でどういったものになりたいかって

いうイメージを持っていたし、それが上手くしっくりと嵌る感じだったから、最初の道筋だけ

つけて、あとはお任せみたいなところがあった。でも、美穂の場合は、どうすれば自分が

輝けるかっていうのを、まだはっきりとした自覚として持てていない。」



 「そう・・・かも、しれません。」



 いや、実際そうなのだろう。こと仕事に関しては、誰よりも私のことを見てくれている人が

言うのだ。そういえば、女優になりたいという思いは強くあっても、具体的にどんな?と

聞かれると、言葉に詰まりそうな気がした。



 「そういうときに、自分でイメージを作り上げるまでひたすら待って、それを応援し続ける

っていうのも、1つのプロデュースのあり方だとは思う。でも、それはどうも、自分で

どうにかしろよ、俺は知らんぞ、っていう無責任な態度に思えてな、俺はあんまり

好きじゃあないんだ。それに、」


50: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/02/09(土) 04:15:08.63 ID:yc00Gswb0
 そう言うと、プロデューサーは一拍置いて、私を赤面させる言葉を、はっきりと言った。



 「俺はな、美穂を初めて見たときに、まず何よりも『可愛い』って思ったんだ。年相応の

可愛さじゃなくて、ほんものの可愛さだ。姿かたちもそうだが、何よりもその仕種、立ち

居振る舞い、これでクラッと来ない男はいないんじゃあないかとさえ思った。」



 体温がどんどん上がっていくのが判る。涙か、それとも焦点が合わないのか、目の前の

視界がぼやける。



 「それと同時に、この子をただ可愛いだけで終わらせるのは勿体無いと思った。もっと、

可愛さだけじゃなく、色んな人を引き付ける魅力を身につけて欲しい。そういうのが、

この子の可愛さを最大限に引き出せる最高の方法だと思った。この子は、やり方次第では、

可愛さやそういう魅力を武器にして、人をどんどん魅了して骨抜きにして、並み居る敵を

ばっさばっさと切り伏せる位のことをやってのけられるし、そうなればもっと輝ける。

そういったイメージが段々と強く見えてきて、はっきりと形になったとき、俺は何としても、

この子をそういうアイドルに育て上げて、めいっぱい輝かせようと心に決めた。」



 頭がくらくらする。それでも、プロデューサーの言葉は、はっきりとした形をもって

一語一語しっかりと私の頭に届いてきていた。


52: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/02/09(土) 04:17:45.22 ID:yc00Gswb0
 「あの、それで、その、それが、プロデューサーさんの言う『悪女』・・・ですか?」



 「そう。自分の魅力を武器に人間を殺せるような、そんな魔性の女性すら、美穂は充分すぎる

くらい演れるようになる。俺が望むのは、そういうアイドルに、美穂がなることだ。



 但し、これはあくまで俺自身のエゴだ。美穂はモノじゃあない。ひとりの自立した女の子だ。

だから、俺の立てた道筋がこの子にとって良いものになるのか、美穂が果たしてそういう道を

良しとしてくれるのかを見ておきたかった。そんな時に、ちょうど、少し刺激が強めの仕事を

紹介されたんで、これ幸いと乗っからせてもらったんだ。もちろん、美穂の望む芝居の仕事だった

っていうのも、それ以上に大きかったけれどな。これで美穂がダメだというようであれば、

俺の見た未来図は今の美穂には合わなかったんだってことで、いったん保留して

また新しい絵を描き始めればいいと思った。」



 「・・・もし、私がOKと言ったら?」



 「他人の人生に干渉するってことは、同時に、その干渉から相手に起こる全てのことに

対する責任が生まれるってことだと思ってる。だから、」



 プロデューサーは、語気を強めて言った。


53: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/02/09(土) 04:19:44.56 ID:yc00Gswb0
 「そういう道を選ばせたという範囲に限っては、俺は美穂に対して全ての責任を取る。

美穂がそうやって活躍できる場所を死に物狂いで取ってくるし、美穂が困難に直面したら

全力で支えてやる。」



 私はただ、あうあうあうあう、と唸るだけだった。私が予想していたより遥かに強く、

率直に思いをぶつけてくれたプロデューサーに対して、何か一言でいいから言葉を返したい。

でも、どうしても上手く台詞が結べない。



 プロデューサーは少し口元を緩めて、



 「・・・ま、若干飛ばしすぎたかな。だから、さっきの質問に簡単に答えるとすれば、

この役が今の美穂を輝かせる、一番いい舞台だと思ったから、っていう所だな。回りくどい

ことを色々言ったけれど、結局は、ただそれだけのことだ。」



 そう言葉を締めた。


54: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/02/09(土) 04:22:15.05 ID:yc00Gswb0
 プロデューサーの言葉を心の中でじっくりと反芻しながら、私は、昨日の真奈美さんの言葉を思い

出していた。舞台に立ちたいという気持ちと、女の子としての気持ち。どちらがどれだけ

大切なのかを決められるのは、私以外にはいない。



 女の子としてのドキドキは、誰に言われるまでもなく、私の中でとても大事なものだった。

いざその時が来るまで、心の中に鍵を掛けてしっかりとしまっておきたい。でも、今の私には、

それよりも、役者としてお芝居をすることに対する気持ちが、遥かに大きなものに感じられる

ようになっていた。私が舞台に立つことは、私一人だけの夢じゃない。こんなにも大事に、

私の夢のことを真剣になって考えてくれる人がいる。そのことを思うと、今までぐちゃぐちゃして

いた気持ちが、すーっと落ち着いていくような感じがした。女の子の気持ちを大事にしたいという

思いを、蔑ろにするわけでは決してない。ただ、相対するもう一方の気持ちが、それ以上に

抑えられなくなっていた。


55: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/02/09(土) 04:24:10.11 ID:yc00Gswb0
 「・・・プロデューサーさん。」



 心臓はまだドキドキしている。私は、心の中で1回大きく深呼吸をして、プロデューサーに

向き直った。



 「判りました。他でもない、私のことを一番よく見てくれているプロデューサーさんが、

こうすれば輝けると言ってくれたんです。その言葉を、信じてみようと思います。・・・私に、

今度の舞台の役を、是非やらせて下さい!」



 プロデューサーが破顔した。



 「そうか、引き受けてくれるか!・・・いや、素直に嬉しい。有難う。」



 そういうと、プロデューサーは嬉々として、書棚にあるお仕事の資料を取りに立ち上がった。

書類を取り出しながら、嬉しそうに、今度のお仕事についてのお話を色々と喋っている。

そのプロデューサの背中に向けて、しかし私は、もう一言、付け加えておきたいことがあった。


56: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/02/09(土) 04:25:32.71 ID:yc00Gswb0
 「あの、プロデューサーさん。」



 「ん、何だ?」



 プロデューサーが今さっきしてくれた約束を、もう一度念を押して確認しておきたかったのだ。



 「私、めいっぱい頑張ります!・・・だから、」



 少し体を縮めながら、ちらっと窺うようにプロデューサーを見上げる。



 「その、私のことについて、・・・責任、取ってくださいね?」



 プロデューサーが手元に積んでいた資料を床に落っことした。慌てて、落としたファイルやら

何やらを拾い集める。



 ひととおり落ち着きを取り戻して、プロデューサーが私に言った。



 「それだよ。」



 「?」



 何のことだろうか。



 「そういう所。俺が、美穂には『悪い女』が相応しい、って思うようになったのは。

ちらちらと、そういう魔性の炎がときどき見え隠れする。自覚してないんだろうけどな。」



 プロデューサーが何を言っているのか判らなかった。だから、私はとりあえず、首を

かしげてプロデューサーにはにかんでおいた。


58: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/02/09(土) 04:28:16.12 ID:yc00Gswb0
*****

 後日。



 舞台のお仕事の初めての打ち合わせが終わると、私は早足で、プロデューサーの待つ

控え室へと飛び込んでいた。



 「・・・っプロデューサーさんっ!!!」



 「ん、どうした。」



 「どうしたじゃないですよ!もう、判ってるんでしょう!?」



 舞台監督との最初の挨拶を済ませたあと、私は監督に、件のシーンのことについて尋ねて

みたのだ。



 「監督さんの話だと、そのシーンの演出について、一番最初のときにプロデューサーさんから、

抱き合う位までで留めるようにってお願いがあって、それで大体話が決まってたっていうじゃ

ないですか!そもそも、一番最初に言ってた原作の脚本って何ですか。監督さんが言うには、

今回の脚本はこの舞台のための書き下ろしだっていう話じゃないですか!」


59: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/02/09(土) 04:30:16.62 ID:yc00Gswb0
 「いやまぁ、でも、あの段階では演出が確定してなかったっていうのは本当で──」



 「それについても、初めのお話の段階で、こちら側の意向を最大限尊重するっていう話に

なってたんですよね?それに、最近は世間の目が厳しいから、必要だっていうよっぽどの

動機がない限り、未成年にあえてそういう演技をさせることはないって風にも言われました。

・・・プロデューサーさん。私に嘘を言いましたね?」



 最初はのらりくらり非難をかわそうと試みていたプロデューサーだったが、私がきっと

睨みつけて離さないので、ついには観念して白状した。



 「悪かった。いや、本当のことを言うとな。最初は抱き合うとこまで行くのさえ、今の

美穂には刺激が強すぎるのかなと思って、色々と悩んでいたんだ。けど、流石に劇のあの

シーンで、2人が抱き合うことすらしないってのは情緒的に無いなぁってことで、そこはまあ

役者になる以上止むを得ないと思ったんだ。で、美穂のことだから、抱擁シーンがあるよって

だけで赤くなるだろうなって思って、この役を引き受けるにはそこは乗り越えてもらわなきゃ

ならないなって考えたら、だったらこの際、もっと大きな壁も乗り越えられればいいなと。」


60: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/02/09(土) 04:31:59.40 ID:yc00Gswb0
 「それで、キスシーン、ですか。」



 「いや、本当に済まなかった。」



 「済まなかった、じゃないですよ!私がこのことで、どれだけ悩んだか!」



 確かに、プロデューサーの言うとおりではあった。役柄の中で抱き合うシーンがあると

いうことを聞いただけでも、結局私は、似たような煩悶をぐるぐるとやっていたのだろう。

そう考えれば、いっそのこと、いつかは越えなければならない似たような壁を、一緒に

飛んでしまおうというプロデューサーの考えに、頷けないところがないではなかった。



 でも、役者としての私がそう感じる一方で、私の女の子としての心は、そう簡単に

プロデューサーのことを許す気にはなれなかった。



 「プロデューサーさん!いいからとにかく、そこに座ってください!今からみっちり、

私の文句を聞いて貰いますからね!」



 プロデューサーは少し困った顔をしたが、負い目もあったのだろう、仕方ないという風で、

すごすごと背中を丸めてソファに腰掛けた。そして、じっと私のほうを見つめる。



 「・・・っ、少し目も閉じていてくださいっ!」



 何というか、その優しい目を見てしまうと、途端に全てを許してしまいそうに思ったのだ。

言われたとおり、プロデューサーは目を瞑った。


61: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/02/09(土) 04:34:26.14 ID:yc00Gswb0
 さて、ひととおり体勢を整えて、どんな文句をぶつけてやろうかと考える。



 さっきみたいにキツい言葉をひたすらぶつける?でも、今までので激しい言葉はあらかた

使ってしまったように思った。



 女の子の気持ちの大切さについて、延々とお説教をする?それも1つ有りかなとも思った

けれど、それじゃああんまりプロデューサーにガツンとやることは出来ないかな。だって、

私にこんな仕打ちをするような人だし、何よりプロデューサーは女の子じゃないもの。

うわべではうんうんと頷いても、本質的な所は理解してくれないに違いない。



 ・・・ふと、プロデューサーの左手に目が行った。そこで、私の中で、いたずら心とも

何ともつかない、奇妙な感覚が沸き起こった。



 そうだ、私があれだけ悶えたことの責任を、プロデューサーに取ってもらおう。私が

ぐるぐると思い悩んだみたいに、プロデューサーにも、目一杯悶えて悩んでもらおう。

ひたすら悶々として、夜も眠れないくらいになっちゃえばいいんだ。



 そう思うと、「女の子の私」の中にあった怒りはすうっと小さくなり、代わりに

何ともいえない高揚が心を覆った。


63: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/02/09(土) 04:36:02.11 ID:yc00Gswb0
 「まだか?美穂ー?」



 「ちょっと待ってて下さい!」



 プロデューサーが急かすのを強く遮って、大きく一呼吸を置く。



 そして、プロデューサーの顔をきっと見つめた。



 私の女の子としての、とてもとても大事なコトにかかわることだったが、なぜだろう、

不思議と抵抗はなかった。ただ、鼓動だけはどんどん早くなっていく。瑞樹さんに言わせれば、

こういうのも、ウルトラCの解決策ってやつになるのだろうか。これも1つの恋ってことに

なるのだろうか。



 ・・・本当に思ったような効果が出てくれるのかな。判らないけれど、そうならなかったら、

ちょっと悲しい。でも、上手く行ってくれたら嬉しいな。


64: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/02/09(土) 04:37:54.17 ID:yc00Gswb0
 心臓がますます跳ね上がってくる。今にも口から飛び出してきてしまいそうだ。両手を

強く唇に当てる。



 ──私をあんなに悩ませたこと、許さないんだから。



 プロデューサーの座る前に膝立ちになって、互いの顔が同じくらいの高さになるように

向かい合う。心が少し落ち着くまでそのままの体勢でいて、それから、右手をゆっくりと

伸ばして、左手の指の根元を包み隠すように、その手を握る。体を少し前に出して、

左手は右の肩に軽く添えるように。



 そして────









                                      Fin


引用元: 【モバマスSS】小日向「いたずらなキス」