1: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 08:10:00.85 ID:7ngzqpX+0






 落ちてゆく夕日。



 水面に映える、その淋しげな光を見下ろす土手。

 川のそばで、きゃっきゃと走り回っている二つの影。

それをすぐ傍らで見守っている影が一つ。



 時おり左腕をさすりながら、それは無意識の仕草なのだろうか。

土手沿いに座りこんだ柏葉巴は、ぼんやりと、川辺で遊ぶ人影を見つめていた。



 腕をさする手を止め、天を仰ぐ。

 夕方の風が、ひんやりと巴を駆け抜けていく。



 その感覚に、巴はゆっくりと瞳を閉じた。











3: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 08:11:07.03 ID:7ngzqpX+0
 ずだだだだっと、階段を駆け降りる音が響く。

「トーモエー!!」

 ぴょーんとジャンプし、玄関口の巴の胸に飛び込む雛苺。

「あらあら」

「うふふふ」

 何度も頬をすり寄せ、嬉しそうに笑う。

「雛苺、少しは落ち着きなさい」

 真紅が呆れたように呟く。

「はは」

 ジュンが苦笑する。

「あら、そんな事ないわ。私も嬉しいもの」

 頭を撫でながら巴も笑う。鞄を肩にかけ、

手いっぱいに見えるが、特に気にもとめていないようだ。

「まあいいや、ちょっと上がってくか?」

 言いながらスリッパを用意するジュン。

「…ええ、そうね、そうするわ」

 両手が塞がった状態で、巴が答えた。



6: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 08:13:17.68 ID:7ngzqpX+0
「ふいーっ」

 らしくなく、だらしのない声を漏らす。

 ギッと音を立てて、背もたれを思い切り反らせる。

「…お父様…」

 汗を拭うエンジュの傍らで、薔薇水晶が心配そうに見つめている。

いつもの眼帯はつけていない。

「今、何時だい?薔薇水晶」

「え……」

 時計を見る。針は丁度4時を指している。

「4時……」

「そうか」

 近づき、エンジュの左腕を撫でる薔薇水晶。

「…お茶を淹れてきます。少し休憩なさって…お父様」

「ん、いや、別にいいよ」

「いいから…」

 そう言うと、薔薇水晶は奥へと消える。

 その後ろ姿を見終え、エンジュはもう一度伸びをした。

「ん~~~~っ」

 途端、ズギッ、と腰に痛みを覚える。

「いたたた」

 さするエンジュ。

「…ずっと机に向かってたからなぁ……やれやれ」

 もう一度時計を見るエンジュ。



8: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 08:16:09.83 ID:7ngzqpX+0
「…はい、紅茶でよろしかったですか?」

 かちゃかちゃと音を立てながら、脇の机にお盆を置く。

「ああ、うん、ありがとう、薔薇水晶」

「んん」

 背伸びをして、カップを一所懸命に渡そうとする薔薇水晶。

「ありがとう」

 受け取り、頭を撫でるエンジュ。

「…お父様」

「うん?」

「…いいんです、私は別に…」

 うつむく薔薇水晶。

「何が?」

「…私の不注意で壊してしまっただけで、別に…その…」

 エンジュの膝に手を乗せる薔薇水晶。

「同じ眼帯を作っていただけるのは嬉しいです…でも…」

 ズボンをいじり始める。

「それで、こんなにお父様に疲れる思いをさせるのは…私は…」

 いじった部分をなでる。うつむいたままの薔薇水晶。

「………」

 エンジュは黙っている。



10: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 08:22:17.95 ID:7ngzqpX+0
「薔薇水晶」

 呼ばれて顔を上げる。

「少し、休憩しようか」

「え」

 ぽんぽんと頭をたたき、エプロンを外すエンジュ。

「近くに林のある公園があるんだ。散歩に行こう」

「散歩…?」

「どうしたんだい?嫌かい?」

 かがみこみ、薔薇水晶を優しく見つめる。

「ん?」

「いいえ」

 そう答え、薔薇水晶の口元が微笑む。

「お父様となら、どこへでも」

「そうか」

 エンジュはにっこりと笑うと、薔薇水晶を抱きあげる。

そんなエンジュの胸元に身体を預けた薔薇水晶は、嬉しそうに眼を閉じた。



13: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 08:28:49.94 ID:7ngzqpX+0
「はい、これ今週のプリント」

 20枚ほどの紙を机に出す巴。

「…何だコレ、この数学の量…」

「今二次関数やってるから。先生が熱心なのよ、今年の先生」

 ふぅっと息を吐く。

「そうなのか…。あんまり数学はやりたくないんだけどなぁ」

「そうね、私もよ」

 二人でははは、と笑う。

「…っと、お茶淹れてくるよ。ごめんな、気づかなくて」

「あら、いいのに。気にしないで、もう帰るから」

「あっ、ヒナが淹れるの」

 がたっと立ち上がる。

「いいわよ、気持ちだけで」

「いいから座っててなの。美味しいのよ。真紅が選んだやつだから」

 言いながら台所へ走る雛苺。

「あっ、ちょっと待ちなさい。貴女やり方知ってるの?」

 追いかける真紅。

「ごめんなさいね、ちょっとだけ待ってて、巴」

 こちらを振り向き、真紅が言った。

少しの後、がちゃがちゃと音が鳴り始める台所。

「…二人とも、優しいのね」

「…ああ、そうだな」

 ジュンと巴は、その音の方を見て、少し笑った。



14: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 08:34:35.33 ID:7ngzqpX+0
「う~~~~」

 水を入れたやかんを、震えながらコンロの上へ乗せる雛苺。

「ちょっと、大丈夫なの?無茶はしないで」

 踏み台の下から、真紅が声を掛ける。

「出来たのー」

 踏み台から飛び降りる。

「じゃあ、次は……上の引き出しからダージリンを」

「上の引き出しなのね。わかったなの……あっ」

 見上げる雛苺の視界に、傾くやかんが目に入った。次の瞬間、それは真紅目がけて

まっさかさまに落ちてきた。

「危ないの!」

「きゃっ」

 どん、と真紅を突き飛ばす雛苺。バランスを崩したその背に、ごしゃっと

やかんがぶつかった。



15: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 08:42:55.79 ID:7ngzqpX+0
「お、おい!!」

 ばしゃああという音と同時に、ジュンと巴が声を上げた。

「雛苺!!真紅!!」

 駆けつける二人。

「ひ、雛苺!」

 真紅が、倒れ込んだ雛苺に駆け寄る。

「う……」

 雛苺がうめいた。

「大丈夫!?」

 助け起こす真紅。その後ろで、巴が不安そうに覗き込む。

「だ…大丈夫なの…へいき」

「私をかばって…あなた…」

 うっすらと目を開ける雛苺。そんな妹を、ぎゅっと抱きしめる真紅。

「無茶はしないでと言ったでしょう?私は」

 濡れた髪を撫でる。

「真紅は」

「えっ」

「真紅は…大丈夫だった?」

 左手をゆっくりと上げ、真紅の頬を撫でる雛苺。

「大丈夫よ、大丈夫に決まってるじゃない…」

 もう一度、ぎゅうっと抱きしめる。

「そう、なら…良かったの」

 雛苺は微笑んだ。



16: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 08:46:00.59 ID:7ngzqpX+0
「それじゃあ、私はこれで…」

 玄関口の巴が、お辞儀をする。

「じゃあね、また来て頂戴」

 右手を上げ、手を振る真紅。

「バイバイなの………う?」

 雛苺が自らの右手を見やる。

「?…どうしたの」

 それには答えず、今度は左手を上げる雛苺。

「変なの……」

 もう一度、右手に視線を戻す。動かない。

「……」

 雛苺の顔。左手、そして次に右手。

「雛苺、ちょっと服を脱いでみなさい」」

 視線を順番に移した真紅が声を上げた。



21: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 08:56:36.91 ID:7ngzqpX+0
「これは……」

 下着姿の雛苺の右肩。

「さっきのやかんだわ!」

 丁度球体関節の部分にひびが入り、それが背中にかけて走っている。

「水が入ってたから、余計に…」

「雛苺、右手が上がらないのね?」

 真紅が尋ねる。

「う……うん……」

 戸惑った表情。

「どうする?直せる?」

 巴がジュンを見やる。

「いや、これはさすがに……」

 ぽりぽりと頭をかくジュン。

「………」

 しばらく沈黙が流れる。



22: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 09:05:30.15 ID:7ngzqpX+0
「そうだわ」

 次に口を開いたのは巴だった。

「桜田くん」

「え」

「エンジュ先生のところ」

 それを聞き、ジュンは目を丸くした。





 チリン、チリンと音が鳴る。

「いらっしゃいませー」

 棚を掃除していた白崎がこちらを見る。

「あれ、確か君は…」

「柏葉です。桜田くんの友だちの」

「ああ、ようこそ!…今日は、どうしたの?…そ、その子は?」

 抱かれている雛苺を、覗きこむようにして見つめる。

「実は……」

 事情を話し終えると、白崎は腕組みをした。

「う~~ん、先生が今ね、いないんだよ」

「いつ頃戻って来られますか?」

「うーん、そうだねぇ」

 ちらっと時計を見る。

「…さっき、あ、コレ言っちゃっていいのかな?」

「プライバシーに関わる事でなければ、私は特に気にしないですよ」

「『休憩してくる』って、近くの公園に行ったんだよ」

「近く?」

 巴が尋ねる。

「うん、あの、林のある」

「はい、わかります」



23: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 09:09:23.88 ID:7ngzqpX+0
「どうする?待っててもらうのもアレだしなぁ……」

 考え込む様子の白崎。

「いいですよ、私たちもそこの公園で時間潰してきますから」

「そう?」

「ええ、大丈夫?雛苺」

 雛苺が巴を見上げる。

「ヒナは大丈夫なの」

「ごめんなさいね。もうすぐ直るからね」

 そう言って、巴は頭を撫でた。



29: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 10:43:46.08 ID:7ngzqpX+0
 噴水の周辺にハトが集まり、エサをついばんでいる。

「ふう、ちょっと休もうか」

 ベンチに座り、抱いていた薔薇水晶を横に座らせる。

「……お父様、あれは?」

 目の前のハトを指差し、何だかわからない、という風に首をかしげる薔薇水晶。

「ん、ああ、あれはね、ハトだよ。鳥さ」

「ハト……」

「あんまり外に出掛けた事ないからなぁ。結構新鮮な感じがするかい?」

「…ええ…」

 そう呟き、きょろきょろと辺りを見回す薔薇水晶。

 眼帯をしていた頃とは違い、何だか世界が開けてみえる。

「……」

 空を見上げると、今度は黒い鳥が2、3羽ほど転回しているよのが見える。

「お父様、あれは…?」

「うん?」

 背中を反らせ、見上げるエンジュ。

「うっ……いててて」

 腰に痛みを覚え、さするエンジュ。

「大丈夫?お父様……無理を…しないで下さい…」

 不安そうに、背中をさする薔薇水晶。

「あ、ああ、大丈夫だよ」

 再び見上げる。

「あれはカラスさ。結構頭のいい奴らでね。人間が捨てるゴミを見て、いつ、どこに行けば

人間たちに見つからないエサ場があるか、とか、何かされた時の報復まで

やってくれる奴らなんだよ」

「はあ」

「ああ見えて贅沢でね。光りモノなんか見つけたら、それを巣に持って帰る習性があったりもする」

「………」

 ふと、左目を押さえている自分に気づく。



30: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 10:51:58.44 ID:7ngzqpX+0
「どうしたんだい」

 言われて我に返る薔薇水晶。

「えっ…いえ」

「眼帯がないと、やっぱり変な感じかい?」

「………」

 しばらく目を押さえていたが、やがてその手を放す。

「違和感はあるけど……でも…」

「でも?」

 旋回し続けるカラスを見上げる。

「こんなのも、いいかも……なんて」

 そう言うと、エンジュに視線を向ける。

「………」

 エンジュは一瞬目を丸くしたが、やがて小さく微笑んだ。

「そうか」

「もっと色々見てみたい…かも…」

 うつむき、両手をもじもじとさせる。

「…」

 そんな薔薇水晶に、エンジュは少し誇らしげな気分になる。

「薔薇水晶」

「…はい?」

「ちょっと待っててくれ。何か飲みたいものはあるかい?」

 言いながら、ごそごそとポケットから財布を取り出す。

「飲みたい…もの…?」

 首をかしげる。

「そうだよ、なんか甘いものとか、スカッとするものとか」



32: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 11:01:25.01 ID:7ngzqpX+0
「いえ、私は…何でも…」

 きょとんとしたままの薔薇水晶。

「そうか、じゃ、ちょっと適当に買ってこよう。ちょっと待っ……うぎっ!」

 立ち上がろうとしたエンジュを、激しい痛みが襲う。バランスを崩し、地面に倒れこむ。

その衝撃で、ポケットから鍵やハンカチがこぼれ出た。

「おっ、お父様!」

「いたたたたた…」

 苦痛に起き上がれない。

「こ…これは……」

「腰が痛いのですか…?」

 顔を覗きこむ。

「あ、ああ、いや、大丈夫」

「無理なさらないで…」

「いや、大丈夫…」

 言葉が途切れる。

「お父様…私が行ってきます…」

 肩に手を置く。

「えっ、き、君が?」

「ええ…腰を痛めたのは、私の眼帯を作っていたためでしょう…?それなら、せめて恩返しを…」

 心配そうな表情に、エンジュは少し考えこむ。

「……分かった。ここは、君の好意に甘えるとしよう」

 そう言って、財布から500円玉を取り出す。

「お願いするよ、薔薇水晶」

「はい、お父様」

 500円玉をぎゅっと握りしめ、薔薇水晶は駆け出した。



34: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 11:16:08.50 ID:7ngzqpX+0
「あっ」

 薔薇水晶の姿が見えなくなった瞬間、エンジュは声を上げた。

「自販機の場所、教えてないな……」

 よろよろと立ちあがるエンジュ。

「ま、いいか、そのうち戻ってくるだろう」

 ベンチに座り込む。

「無理しなきゃ良かったかな……イテテテ」

 再び腰をさすった。

「そうだ、鍵とハンカチ…」

 言い終わらないうち、伸ばした手の先を、黒い影がかすめていった。

「あっ」

 カラスだった。

「しまった」

 カラスが、鍵を咥えていったのだ。

「うわああああああ」

 

 その叫び声は、巴と雛苺にも聴こえた。

「な、何?」

「向こうの方からなの」

 巴は急ぎ足で噴水の方に向かう。



36: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 11:27:11.65 ID:7ngzqpX+0


 たどり着いた時目にしたのは、ベンチのそばで倒れこんでいるエンジュの姿だった。

「せ、先生!?」

「えっ……あっ、き、君は…」

 苦痛に顔を歪ませながら、エンジュが巴を確認する。

「どうしたんですか、何が?」

 駆け寄る巴。

「じ、実は情けない事に………カラスに鍵を盗られてしまって……」

 上を指差すエンジュ。

 上空を見上げた巴と雛苺の目に、旋回するカラスが2羽。

その一方の顔付近で、キラキラ輝くものが見えた。



37: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 11:27:34.00 ID:7ngzqpX+0


「…………」

 林の中。

 薔薇水晶は、困惑した表情で歩き回っていた。

「自販機が…ない……」

 自販機どころか、帰り道が分からなくなってしまった。

「………」

 きょろきょろと周囲を見回す。

 木々の隙間から太陽が見えるものの、上空には出られそうもない。

無理に出れば、枝で自らを損傷してしまうのは目に見えていた。

「…」

 吹き抜ける風。

 ぶるっと震えながら、薔薇水晶は歩き続ける。

 昼間だというのに、何かうす暗い。ブーツの先から伝わる、地面のひんやりとした感覚。

「………」

 分からない。どこから自分がどうやって来たのか、思い出せない。

 何も知らないというのがどういう事か、薔薇水晶はようやく理解し始めていた。



39: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 11:36:52.88 ID:7ngzqpX+0
「あれなの?」

 雛苺が上空を見上げる。

「あ、ああ………」

 エンジュが答えると、雛苺はおもむろに左手をカラスに向けた。

「あっ」

 瞬間、苺わだちが左手から発現し、旋回するカラスを見事に捕らえる。

 バサバサバサッという音、黒い羽根が舞う中心に、2羽のカラスが落下する。

ギャア、ギャア、と鳴くカラスが、鍵を吐きだす。

「おおっ」

 よろめきながら、エンジュは素早くそれを回収した。



「ごめんなさいなの」

 わだちを引っ込めると、カラスは逃げるようにその場を離れていった。

 その後ろ姿に謝る雛苺。

「あ、ありがとう…」

 腰をさすりながらお礼を言うエンジュ。

「い、いいえ……」

 巴が戸惑っている。

「?どうしたんだい…?」

 尋ねながら、エンジュはしまった、と思った。



40: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 11:44:09.97 ID:7ngzqpX+0
「あの…びっくり、しないんですか?」

 巴からの質問。

 そうだった、自分がどうして雛苺を見て驚かないのか、それに対しての質問があるのは

当然だった。

「あ、いや…その……」



 エンジュは正直に話す事にした。ただしそれは、自分のもとに薔薇水晶がいる、という事に

ついてのみである。

「えっ………」

 雛苺の顔が怯えに変わる。

「薔薇…水晶…?」

 巴が首をかしげる。

「ヒナの妹なの」

「えっ、妹って…」

 うつむいたままの雛苺に、巴は怪訝そうな顔をする。

「第7ドール」

「そうなの」

「その子は、今どこに?」

 巴が尋ねる。

「あ」

 それについてもしまった、と思った。



42: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 11:48:29.33 ID:7ngzqpX+0
「じゃあ、私、探してきますから」

 捜索を巴に頼み、エンジュと雛苺は噴水前に残る事になった。

「……」

 沈黙が流れる。

「あ、あの」

 エンジュが口を開く。

「ありがとう、さっきは」

「……」

 雛苺は答えない。無理もないか、とエンジュは思った。

薔薇水晶といえば、今の彼女たちにとって姉妹というより、脅威というほかない。

「…巴は、先生って、呼んでたの」

 雛苺がうつむいたまま、口を開いた。



43: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 11:54:22.15 ID:7ngzqpX+0
 エンジュが雛苺の方を向く。

「うぐっ」

 瞬間の痛み。

「いててて」

「ど、どうしたの…?」

 驚く雛苺。

「じ、実は腰を痛めてて、ね…」

 あまりの苦痛に、顔を伏せる。

「ぐうううう」

「お、落ち着いてなの、ヒナがさすってあげるの」

 しばらくさすっていると、エンジュが少し顔を上げた。

「あ、ありがとう…」

 その視線の先で、心配そうに雛苺が左手でさすっている。

 対する右手が、ぴくりとも動かない事に、エンジュは疑問を持った。

「…ど、どうしたんだい?」

「えっ」

 手が止まる。

「右手、どうかしたの?」



44: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 12:01:53.73 ID:7ngzqpX+0
 雛苺はしばらくエンジュを見つめていたが、やがて再びさすり始める。

「壊れてるの」

 ぽつりと呟く。

「……そうかい…」

 視線を噴水に向ける。

「ごめんよ、変な事訊いて」

「いいの、ヒナのせいだから」

「………」

 再びの沈黙。

「…よく、ここには来るの?」

「うん?」

 再び雛苺を見つめるエンジュ。

「ううん、ただ…」

「ただ?」

「ヒナは、薔薇水晶が怖いの。真紅たちが、それでいつも悩んでるの」

 うつむいたまま。

「でも」

 手が止まる。

「あなたは、なんだか優しいの。お父様みたいなの」

 そう言って、エンジュを見上げる雛苺。



47: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 12:11:17.02 ID:7ngzqpX+0
「ヒナね、前、トモエにものすごく迷惑をかけちゃった事があったの」

 黙って聞いているエンジュ。

「その時、真紅にケガさせちゃったの。ヒナがケガさせようと思って、そうしたの」

「……」

「でも、今は真紅はすごく優しいし、ヒナも、真紅の事が大好きなの」

「……」

「水銀燈もなの」

「……」

「前はほっぺたに傷つけられたり、羽根で攻撃されたりしてたの」

「……」

「すごく怖かったし、水銀燈には会いたくなかったの」

「……」

「でも……今は水銀燈の事が、大好きになったの」

「……」

 はっとエンジュは気付いた。雛苺の眼に、涙が浮かんでいる。

「でも……」

「……」

「もう、水銀燈には会えないの…」

「……どうして?」

「真紅が言ってたわ」

「……」

「『水銀燈は、私の中に一緒にいる』って」

「……」

「真紅は泣いてたの」

「…」

「ヒナにはよく分からないけれど、その時、『ああ、もう水銀燈には会えない』って思ったの」



48: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 12:22:24.92 ID:7ngzqpX+0
「ヒナ、こう思うのよ」

「…」

「ヒナはいつか、この世界から消えないといけない」

「………」

「でも、それはヒナが選んだ事」

「…」

「皆選んでるのよ、きっと」

「………」

「水銀燈だって、真紅だって…」

「………」

「ヒナが怖がってる薔薇水晶だって」

「………」

「薔薇水晶は、あなたが優しいから、きっとここにいるのよ」

 微笑む雛苺。

 その笑顔に、エンジュは思わず視線を逸らす。

「きっと、薔薇水晶も、本当は優しいんだと思うの、ヒナ」

「………」

「ヒナに対してじゃなくて」

「………」

「あなたや、この公園に対して」

「……」

 再び視線を雛苺に向ける。





49: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 12:23:00.22 ID:7ngzqpX+0
「あの子はね、雛苺」

「どうしたの?」

「今まで、あまり外に出た事がないんだ」

「外に?」

「だから、この公園も初めて来たんだ、今日」

「…そうなの」

「ああ、だから、この噴水も知らないし」

「……」

「ハトも」

「…」

「自販機のある場所も」

「……」

「人は変わるという事も」

「……」

「何も知らないんだ」



51: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 12:46:46.21 ID:7ngzqpX+0
「そうなの…」

「ああ」

 しばらくさすり続ける。

「ありがとう、雛苺」

 雛苺がエンジュを見上げる。

「大分楽になったよ、ありがとう」

 一瞬きょとんとするが、すぐに笑顔に変わる。

「どういたしましてなの」

 雛苺は深々とお辞儀をした。

 



「紫色の…お人形さん…ねぇ…」

 林の中、注意深く、ゆっくりと巴は歩を進めていた。

「末の妹……」

 巴は彼女の身を案じた。

 真紅と再契約し、雛苺は桜田家へと戻った。それから、金糸雀もよく

遊びにくるようになり、翠星石、蒼星石がいなくなった空虚を埋めるかのように、

再び真紅たちに笑顔が戻りつつあった。

 まだ幼さの残る雛苺だが、あれから一回り成長したように、巴には思えた。

そんな雛苺の、唯一の妹。

 純粋に、その存在に興味があったし、また、そんな子が迷子になってしまって、

大丈夫なのだろうかとも考えた。



52: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 12:54:25.57 ID:7ngzqpX+0
「あら?」

 巴が薔薇水晶を見つけたのは、探し始めてから10分ほど経った頃だった。

木の陰にうずくまっている、紫色の影。

 たたたっと駆け寄る。

 薔薇水晶は音に反応したのか、顔を上げ、近づいてくる巴をぼんやり見つめていた。



「………」

 疲れてしまったのか、薔薇水晶は一言も喋ろうとしなかった。

 巴が事情を簡単に説明しても、一向に立ち上がろうとしない。

「………」

 巴は困り果ててしまった。

「ね、貴女のマスターが待ってるわよ」

 しゃがみこみ、頭を撫でようとする巴。



54: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 13:13:33.29 ID:7ngzqpX+0
 さらさらな髪が巴の手に触れる。

「………」

 顔を伏せたままの薔薇水晶から、ぐすっ、という音が聞こえた。

 それでようやく、泣いているのだと巴は気付いた。

 ごそごそとハンカチを取りだす巴。

「泣いてちゃ、美人が台無しよ」

 伏せたままの顔。その頬を、ハンカチで優しく撫でると、薔薇水晶がようやく

顔を上げた。

 巴の拭くままに、目を閉じて任せている。

「(甘えんぼなのね、この子…)」

 一通り拭き終えると、泣き腫らした目で、薔薇水晶がこちらを見つめていた。

「落ち着いた?」

 巴が尋ねる。

「……」

 薔薇水晶は答えない。

「歩ける?」

「……」

 答えず、うつむく薔薇水晶。

 巴は少し考え、口を開いた。

「抱っこさせて。貴女の大切な人が待ってるから。ね?」

 ゆっくりと抱き上げる巴。

 薔薇水晶は何も抵抗せず、巴が抱き上げたところで、その肩をぎゅっとつかんだ。



56: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 13:23:11.39 ID:7ngzqpX+0
「あっ」

 二人で並んでベンチに座っているところ、エンジュが声を上げる。

「薔薇水晶」

 雛苺はびくっとして、そちらを見やる。

 巴に抱かれている薔薇水晶がこちらを向き、視線が合った。



 薔薇水晶は雛苺の姿を視認し、両目を大きく見開く。

それを見た巴は、無意識のうちにギュッと薔薇水晶を抱き締める。

 エンジュが一瞬雛苺に視線を送る。

そしてその雛苺の表情には、警戒と恐怖が浮かんでいた。

「薔薇水晶!」

 思わず立ち上がり、駆け寄るエンジュ。

薔薇水晶はエンジュの方に手を伸ばした。泣き腫らした目。

何度も頭を撫でるエンジュ。

「ごめんよ、薔薇水晶」

 抱き締めると、薔薇水晶も肩をぎゅっとつかんだ。



59: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 13:50:45.44 ID:7ngzqpX+0
「ああ、それでウチに来たんだね」

 巴の話を聞き、腕組みをするエンジュ。

応接室。エンジュが座っている向かいに、巴と雛苺が座っている。

「ええ、修理ってどのくらい期間かかりますか?」

「そうだな…大体、2日くらい見ててくれれば」

「その間、雛苺は?」

「ウチで預かろう」

 エンジュが即答した。

 





「ねえ、ヒナ、別に…」

 服を脱ぎ、下半身には布を巻いている雛苺。

「何だい?」

 問いかけるエンジュ。

 雛苺は、ちらっと奥の部屋を見やる。入口で薔薇水晶が体育座りをし、壁を見つめている。

こちらの視線に気づいたようだ。おもむろに視線を向ける薔薇水晶。

それに反応し、雛苺は思わず視線を逸らす。

「ヒナ、家にいるのがいいの」

「家に?」

「うん」

「それは仕方がないだろう」

「仕方が?」

 手を休めるエンジュ。

「誰だって、病気になったり怪我をすれば、病院に行く」

「……」

「行かないと治らないからね」

「……」



60: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 13:51:06.76 ID:7ngzqpX+0
「勿論、皆、進んでそんなところに行きたくはない。でも」

「……」

「行かなきゃ、ずっと治らず、ずっと皆が心配する」

「……」

「分かるだろう?彼女の気持ちは」

「……」

 こくりと頷く雛苺。

「分かったの」

「ん、いい子だ」

 エンジュは、再び作業を開始した。







「ちょっと出てくるから、二人でいい子にしててね」

 エンジュと白崎が買い物に出掛け、雛苺は出ていったドアを

見つめ続ける。

 怖かった。やはり、薔薇水晶は怖かった。

「……」

 なるべく視線を合わさないようにする雛苺。しかし、

コツ、コツ、と音がして、薔薇水晶はこちらに近づいてきた。



63: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 14:21:53.67 ID:7ngzqpX+0
「な……」

 足音が止まる。

「なに…?」

 顔を上げられないまま、雛苺が尋ねる。

「……別に……」

 恐る恐る薔薇水晶を見やる雛苺。

「お父様が…お礼を言ってた…」

 相変わらずの無表情。

「私も……」

 目を伏せる。

「お礼を言っておいて…貴女の…マスターに」

「…マスター?」

「あの…女の人に」

「……」

 それだけ言うと、薔薇水晶は踵を返し、隣の部屋へと戻ってゆく。

「……」

 雛苺は、その後ろ姿をしばらく見つめていた。

なんだか少しだけ、恐怖がやわらいだ気がする。



64: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 14:28:23.42 ID:7ngzqpX+0
「えっ」

 真紅が声を上げた。

 巴が一部始終を話したところで、ジュンと真紅の表情が変わったのだ。

「薔薇水晶が……」

「知ってるの?」

 首をかしげる巴。

「ん、あ、ちょっとな」

 誤魔化すジュン。

「そう」

 巴は息をふうっと吐き、鞄を肩にかけ直す。

「じゃ、また何かあったら連絡頂戴、桜田くん」

「ん、ああ、わかったよ」

 

 巴を見送り、真紅はすぐに納戸へと向かった。

「お、おい真紅」

「何?」

「どこ行くんだよ」

 足を止める真紅。

「決まってるじゃない、雛苺のいるところよ」

「そ、それなら僕も――」

 振り向く真紅。

「貴方が来ると、不法侵入になるのではなくて?」

「う…ま、まあ」

「いいから、貴方は上にいて。指輪が熱くなった時にだけ、来て頂戴」

 それだけ言うと、真紅は鏡の向こうへ消えていった。



65: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 14:36:52.74 ID:7ngzqpX+0
 その来訪に気づいたのは、雛苺の方だった。

「あっ、真紅」

 未だ動かぬ右手のせいで、顔しか向けられない雛苺。

「雛苺!大丈夫なの!?」

 声を聞き、薔薇水晶が奥から出てくる。

「……真紅」

 ドアに手をやり、こちらを見据える。

「薔薇水晶」

 視線に向き直り、対峙する二人。

「………」

 沈黙。

 雛苺は、おろおろと交互に二人を見つめる。

「…何しに、来たの?」

 先に口を開いたのは、薔薇水晶だった。



67: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 14:46:13.79 ID:7ngzqpX+0
「何って」

「………」

「そっちこそ、何を企んでるの」

「………」

「雛苺のローザミスティカでも奪おうって魂胆?」

「やめてなの、真紅」

 雛苺が咎める。

「黙ってて」

「黙らないの!薔薇水晶は何にも、してないよ?」

 振り返る真紅。

「……雛苺…」

 薔薇水晶が口を開く。

「ヒナはただ…手を直してもらいに来たの。それ以外は何にもないの」

「………」

 真紅は黙っていたが、やがてほうっと息を深く吐いた。

「そう」

 薔薇水晶に向き直る真紅。

「悪かったわ、薔薇水晶。忘れて頂戴」

 ぺこりと頭を下げる。

 それを受けて、薔薇水晶がこちらに歩み寄ってくる。



68: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 14:57:41.83 ID:7ngzqpX+0
「…別に、気にしてないから…」

 真紅を通り過ぎ、そこで止まる。

「真紅」

 頭を上げる。

「お茶でも飲んでいかない…?」

 振り返らずに、薔薇水晶は続けた。





「まあ!」

 真紅が感嘆の声を上げた。

「美味しいのー」

「ば…薔薇水晶…貴女、こんな才があったなんて……」

 カップを持ったまま、驚愕する真紅。

「…え」

「美味しいわ。薔薇水晶、貴女の淹れた紅茶は」

 そこで真紅が、初めて笑った。

「……」

 薔薇水晶は少し驚いたような顔をしたが、安心したように、口元をほころばせた。



69: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 15:00:35.66 ID:7ngzqpX+0
「眼帯はどうしたの?」

 真紅が問いかける。

「私が…壊してしまって…」

 左目を押さえる薔薇水晶。

「そう。ちょっと新鮮ね」

「新鮮…?」

「ええ、美人よ、とても」

 ふふっと笑う真紅。

「そういえば、どうして眼帯なんてつけてたの?」

 雛苺が尋ねる。

「…それは」

「……」

「…涙を隠して…」

「涙?」

 目を伏せる薔薇水晶。

「それ以上は…言えない…」

「………」

 沈黙。

「何だか湿っぽい質問をしてしまったわね。許して頂戴」

「ごめんなの…」



70: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 15:04:20.60 ID:7ngzqpX+0
 そう言って、鏡に手を当てる真紅。

「帰ってきたようね」

「……」

「私はこれでおいとまするわ。悪かったわ、本当に」

 そう言って、鏡に手を当てる真紅。

「薔薇水晶」

「…なに?」

「涙は隠すものじゃないのよ。流した涙が、私たちに大切な事を教えてくれるのだから」

 振り返る真紅。

「ね」

 そう言うと、真紅は鏡の向こうに消えた。



72: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 15:12:06.46 ID:7ngzqpX+0
「お帰りーなのー」

 エンジュと白崎に声をかける雛苺。

「ああ、ただいま」

「どこ行ってたの?」

「君を直す材料を買いにね、別のお店へ行ってたんだよ」

「ふうん」

「さ、夕食の前に、作業の続きをしようか」

「了解なの」

 じっと見つめていた薔薇水晶は、その場を離れる。

「ねー、薔薇水晶の淹れる紅茶、すっごく美味しいのよ」

「本当かい?そりゃ良かった」

 ははは、と笑う二人。

「ね、薔薇……あれ、薔薇水晶?」

「他の部屋にでも行ってるんじゃないかな」

「えー?でもさっきまでいたのに…」

「そのうち戻ってくるさ」

 気にも留めていないエンジュ。

 部屋の中のエアコンが、なんだか雛苺には寒々しく感じられた。



83: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 17:37:12.41 ID:7ngzqpX+0
 ぷうんと鼻をつくカビのにおい。



 地下の倉庫の片隅。

 段ボールの上で、薔薇水晶がうずくまっている。



 妙な感覚があった。

 エンジュのために真紅たちと闘っていた自分。だが、そのエンジュは、

特に雛苺に対して嫌悪を示していない。

 最初こそ、雛苺や真紅から警戒を感じ取っていたが、特に向こうから

何か仕掛けてくる事はせず、むしろ何か、距離が近づいたような気さえした。

「………」

 自分がどうあるべきなのか。

「………」

 それが、今の薔薇水晶にはよく分からない。

「…そうだ…お父様に…聞いてみよう…」

 そう呟くと、膝に顔をうずめる。

 今、結論は出たのではないのか?

 違うのだろうか?

「………」

 何かが、薔薇水晶の心の中に引っ掛かっていた。

 目を閉じる。

 雛苺が、エンジュと楽しそうに話している。

「………」

 心の中のつっかえが、もやもやしたものに変わり始めたのは、そこからだった。



84: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 17:44:54.97 ID:7ngzqpX+0
「あーん」

 右手が使えない雛苺に、エンジュが食べさせる。

「美味しいの」

「そうかい?そう言ってくれると作りがいがあるよ」

「センセイが作ったの?」

「そうだよ、少しは自信があるんだ」

「へえ、すごいなの」

「………」

 3人での食事。

 薔薇水晶は、ちらっとエンジュを見やる。

 時おり、ははは、と笑うエンジュ。



『どうだい?美味しいかい?』

『……はい、お父様』



 いつもは、そんな会話だけ。優しくこちらに微笑むだけ。

「………」

 こんなに楽しそうに見えるのは、きっと雛苺がいるから。

「………」

 自分も、もっと何か話すべきなのだろうか。

「どうしたんだい?薔薇水晶。美味しく、ないのかい?」

 はっと我に返る。

「い、いえ…美味しい、です……」

「そうか。何だか元気がないなぁ」

「いえ、そんな事……」

「……」

 しばらく沈黙が流れる。



86: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 17:51:18.80 ID:7ngzqpX+0
「………」

「どうしたの、薔薇水晶?」

 雛苺が心配そうにこちらを見つめる。

「…っ」

 途端、ぱくぱくと詰め込み始める薔薇水晶。

「ははっ、そんなに詰め込まなくても、まだ時間はあるよ、薔薇水晶」

「んぐっ、ごほっ、ごほっ」

 むせながらも強引に飲み込む。

「ば、薔薇水晶」

 雛苺が椅子を降り、背中をさする。

「どうしたんだい、らしくないなぁ」

 ははっと笑うエンジュ。

「…い、いえ…ご、御馳走様…でした」

 そう言うと椅子を降り、薔薇水晶は足早に二階へ上がっていった。

「薔薇水晶って、早食いなの?」

「ん」

 かちゃ、とスプーンを置くエンジュ。

「いつもは僕に合わせて食事するよ」

「何かあったのかなぁ?」

「まあ、大丈夫だよ、気にしないでくれ、雛苺」

 食事を続けるエンジュに対し、雛苺は、少しの不安を抱いた。



87: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 18:03:21.77 ID:7ngzqpX+0
次の日。

 





「そうかい?ははは」

 エンジュはよく笑うようになった。

 雛苺が来てからである。来てからと言っても昨日からだが、

作業場で黙々と仕事をする姿はない。

「………」

 物陰から、雛苺とエンジュを見つめる薔薇水晶。

 そして、こうして薔薇水晶が部屋に閉じこもるようになったのも、

昨日からだった。

「………」

 自分はどこにいればいいのだろうか。

 作業場にいても邪魔になるだけだし、店先をうろつくわけにもいかない。

 けれど、部屋で孤独に過ごしたくはない。お父様と一緒にいたい。

「………」

 考え始めると胸が苦しくなる。

 朝が来て、もう何時間も、作業場をこっそり見たり、

部屋で膝を抱えたりするのを繰り返している。

「お父様…」

 部屋に戻り、プラスチックのケースの中に、修理中の眼帯があるのに気づく。

そうだ、あれから、この眼帯の時間も止まったままなのだ。

 エンジュは雛苺にかまけて、自分の事を忘れているかのようだ。

「……お父様」

 涙を止めるはずの眼帯を見つめ、薔薇水晶は涙を流していた。



88: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 18:09:53.13 ID:7ngzqpX+0
「どうも、ありがとうございました」

 入口で、柏葉巴がお礼を言っている。

「ありがとうなの!また来るの!」

 その腕に抱かれている雛苺が、右手で手を振っている。

「ああ、一週間くらいしてから、一応具合だけ確かめさせてくれ」

「わかりました。また、こちらからご連絡させていただきます」

 そう言って、巴はぺこりと頭を下げた。



「ふうーっ」

 大きく伸びをし、エンジュがこちらに戻ってくる。

「お父様」

 薔薇水晶が駆け寄る。

「ん?どうしたい、薔薇水晶」

「………」

 何も言わず、エプロンの端をつかむ。

「淋しかったのかい?」

「………!」

「ごめんね、相手してやれなくて」

 薔薇水晶はいつの間にか泣いていた。

「よいしょっと」

 抱きあげるエンジュ。

「久し振りだろう?」

 その首に腕を回し、薔薇水晶は声を上げて泣いた。



90: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 18:29:28.10 ID:7ngzqpX+0
 桜田家。

 真紅とジュンが、背中合わせに本を読んでいる。その部屋の隅には、以前はなかった

スペースが設けてある。

 アンティークショップで買ったチーク材の本棚に、黒い布が掛けられている。

棚の周囲四隅には花瓶が置いてあり、棚の中にシルクが敷き詰めてある。

 棚の前にはカップに注いだ紅茶。毎日真紅が入れ替えているものだ。

その紅茶の奥、白いシルクの上で、水銀燈が静かに眠り続けていた。



「大丈夫かしら」

 ぱたんと本を閉じ、窓の外を見やる。

「大丈夫だろ、心配しすぎだよ」

 本から目を離さずに答えるジュン。

「…薄情なのね」

「え」

 ぱたんと本を閉じ、窓の外を見やる。

「ジュン」

 窓から道路を見下ろす真紅。

「ん?」

「私はもう、誰も失いたくないの」

「………」

 ジュンを見つめる真紅。その瞳は、悲しげで、今にも泣きそうである。



91: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 18:30:06.23 ID:7ngzqpX+0
「いつ、どこで、誰がどうなるか」

「……」

「そんなの分からないのよ」

「……」

「お願いだから、そんな事言わないで、貴方が」

 うつむくジュン。

「…ごめん」

 言いながら、ちらっと水銀燈を見やる。

 ぼふっとベッドに倒れこむ真紅。

「…いいえ、私が言いすぎたのだわ」

「……」

「大丈夫よ…きっと」

 真紅も、ちらっと水銀燈を見やった。



92: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 18:41:24.59 ID:7ngzqpX+0
 ピンポーン



 インターホンが鳴る。

「!!」

 弾かれたように真紅が飛び出し、一階へと降りていく。

「ただいまーなのー」

 巴に抱かれた雛苺が、右手で手を振っている。

「雛苺…!」

 ほっと一息つく真紅。

「無事でよかった…!」

「ごめんね、真紅、迷惑かけちゃったの…」

 飛び降り、真紅のもとへ駆け寄る雛苺。

「もう、どこにも行かないわよね?」

 雛苺をぎゅっと抱き締める真紅。

 遅れて、ジュンが降りてくる。

「柏葉、ありがとな」

「いいえ」

「もう、オッケーだって?」

 ふるふると首を横に振る。

「一週間後に、具合だけ見させてくれって」

「じゃあ、もう一回行くようになるんだな」

「ええ」



93: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 18:41:50.01 ID:7ngzqpX+0
 真紅が見上げる。

「え、もういいじゃない。普通に動くんでしょう?」

「いやまあ、そうだけどさ、真紅」

 しゃがむジュン。

「点検っていう言葉があるだろう」

「そうだけど」

 雛苺の髪を撫でる。

「大丈夫だよ、何もないって」

「でも!」

「お前も言ってたじゃないか、似たような感じの事」

「え」

「『貴方が直したものは、貴方がキチンと確認する。常識でしょう』」

「あ、あら…そんな昔の事を……」

「まあ責任ってあるし。大丈夫だよ。何もないって」



94: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 18:45:48.72 ID:7ngzqpX+0
 ジュンの言葉に、真紅は渋々納得した。



「ふんふふんふふ~ん♪」

 リビングに寝そべる雛苺。

「あら、何描いてるの?」

 リモコンを動かしながら、真紅が尋ねる。

「えっとねぇ、先生と薔薇水晶なの」

「へえ」

「何だか、薔薇水晶淋しそうだったの……だから、元気になってもらうの」

 ため息をつく真紅。

「あの子が淋しそうなのはいつもの事でしょう。ああいうキャラなんじゃないのかしら」

「いいの、お礼なの」

 そう言って、色えんぴつを動かし続けた。



96: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 18:52:51.68 ID:7ngzqpX+0
「出来たのー!」

 一時間ほど経って、雛苺が歓声を上げた。

「ねぇねぇ、ジュン、見てなの」

 ソファに座っているジュンに見せる。

「どれどれ…



………

 

うわぁ……なんだこれは……」



引きつり笑いを浮かべるジュン。



「ぶー!ジュン、酷いなの!いいもん、真紅に見てもらうんだから!」

 むくれる雛苺。

「何…これは…ぶどうとパイナップルにしか見えないわ」

 笑いをこらえながら、真紅が評価する。

「んもぅ、二人とも何なの!ゼッタイ薔薇水晶と先生だって分かるんだからぁ!」

 雛苺は憤慨しながら、二階に上がっていった。

「全く…相変わらずだな、あいつ…」

 やれやれ、といった風にジュンが息を吐く。

「ええ、でも…」

 ちらっと、先ほど出ていったドアを見つめる真紅。

「あの子が誰よりも優しい、証拠なのよ」

 ふふっと、真紅は笑った。



97: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 19:05:57.00 ID:7ngzqpX+0
一週間後。





「こんにちはーなのー」

 その声が、薔薇水晶の胸に、突き刺さるように聞こえた。

「おっ、来たな」

 がたっと立ち上がり、入口へと向かうエンジュ。

「あ……」

 薔薇水晶は何も云えず、ただ、隅の椅子に座っている事しか出来なかった。

 入口で、ジュンや雛苺がエンジュと話している。

「や…」

 鼓動が速くなるのを感じる。

「…戻ってきて…」

 呟く薔薇水晶。その声は届くはずもなく、彼女はうつむいた。





98: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 19:06:16.56 ID:7ngzqpX+0
「少し出掛けてくるから、雛苺、薔薇水晶の相手をしてやっててくれ」

「わかったなの」

 ジュンたちが帰り、エンジュは出ていってしまった。夕方にはもう一度迎えに来る

事になっている。

「………」

「ねぇねぇ、薔薇水晶」

 雛苺の明るい声が、今の自分にはとても痛い。

「………なに」

「あのねぇ、ヒナねぇ、今日、プレゼント持ってきたのよ」

 懐から、ごそごそと紙を取り出す。

「はい、コレ」

「……なに、これ?」

 開けてみるが、薔薇水晶にはよくわからない。

「…プレゼント?」

「うん、ヒナ、先生の事だーい好きだから」

 えへへ、と笑う雛苺。

 そこで自分の両目が吊り上がるのを、薔薇水晶は感じた。



108: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 20:32:11.74 ID:7ngzqpX+0
「…やめて」

「え」

 紙を握りしめたまま、薔薇水晶が呟く。

「どうしてこんな事するの」

 かたかたと震え始める。

「私のお父様なの」

「ば…」

「お願いだから、もう来ないで」

 薔薇水晶は、鋭い目で睨みつけた。

 その目に、雛苺は思わずぞくっとする。

「ち…違うの…」

「……」

「ヒナはただ……」

「やめて!」

「ひぐっ」

 薔薇水晶の右手が、雛苺の首をつかむ。



113: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 20:46:01.32 ID:7ngzqpX+0
「うぅ…」

 雛苺が小さくうめく。震えながらも、必死にいやいやと首を振る。

 がしゃあんと音を立て、そのまま床に押し倒す。

「あぅっ」

 薔薇水晶は、自分が何をしているのか、よく分からなかった。

「や…」

 雛苺が涙を浮かべて首を振る。

 ふらふらと、手を伸ばしてくる雛苺。

「……」

 薔薇水晶は落ち着いていた。

 空いた左手に、水晶の剣を出現させる。



114: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 20:50:42.05 ID:7ngzqpX+0
 緑色の両の瞳に、恐怖が宿る。

「!!」

 苺わだちが発現し、剣を拘束する。

 ぎゅっと目を瞑る雛苺。

「お願……やめ……」

 薔薇水晶が力いっぱいに左手を振り、わだちをネジ切る。

 そしてそのまま、雛苺の胸に左手を振り下ろした。



118: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 20:57:13.61 ID:7ngzqpX+0
 水銀燈の髪をとかし終えると、真紅は懐中時計をぱくっと開ける。

「3時40分」

 おもむろに立ち上がり、今度は一階へと降りていく。

「ジュン」

「ん」

 ダイニングで、ジュンが紅茶を淹れている。

「いつ出発するの?」

「ん~~~」

 時計をちらっと見る。

「先生から連絡あってからでいいんじゃないのか?」

「嫌よ、何言ってるのよ」

 真紅が口を尖らせる。

「何が嫌なの?」

「5時からくんくん観ないといけないのよ。それくらい、分かってて言ってるの?」

「録画すりゃいいだろ…別に…」

「いいから、とりあえず連絡して頂戴。こちらの都合に合わせられるのなら、

そうした方が、いいでしょう?」

 腰に手を当て、真紅が不満そうに言う。



121: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 21:11:26.92 ID:7ngzqpX+0
「こんにちはーかしらー」

 玄関から元気な声が響く。

「あら」

 真紅が玄関に向かうと、金糸雀が立っていた。

「こんにちは」

「遊びにきたかしら」

「本当?嬉しいけれど…今日はちょっと忙しいのよ」

 リビングに視線を送る真紅。

「忙しい?」

「ええ、実はね」

 話を聞き終え、金糸雀が少し残念そうな顔をする。

「そうなの…」

「ええ、まあ、もうじき巴も来るし、それから行くようにはしてるの」

 時計を見やる。

「それまで、少しの間なら家にいるけど、休んでく?」

「ええ、そうさせてもらえるなら。カナもやっぱり、一人は淋しいし」

「そう、決まりね。上がって頂戴」

 真紅が促し、二人はリビングに戻った。



122: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 21:18:50.40 ID:7ngzqpX+0
 リビングで、ジュンが電話を掛けている。

「あれ…おかしいな…誰も出ないぞ」

 電話を切り、ジュンがソファに座り込む。

「出掛けてるんじゃないの?」

 真紅が答える。

「そうなるとやる事がないな……」

「巴を呼んで、一緒に遊びに行くとかどうかしら」

「金糸雀…巴は学校でしょう」

 ジュンがその言葉に、ちらっと真紅を見やる。

「あ…」

「くんくんのDVDでも観ましょう。Vol.3の、うさみちゃんとくんくんで、

クマ吉の犯罪行為を暴くのが楽しいのだわ」

 そう言って、脇のDVDを取りに行く真紅。

「うっ」

 ジュンが低くうめいた。



128: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 21:37:36.70 ID:7ngzqpX+0
 真紅が振り向く。

「熱っ……」

 指を押さえるジュン。

「どうしたの?」

「い、いや、何でもない。ちょっと指が熱くなっただけで…」

「指?」

「?」

 金糸雀がジュンを見やる。

「指輪が熱くなったの?」

「ああ」

 少しの間。

 視線を泳がせていた真紅の目が見開かれる。

「!!」

 バァンと音を立てて、真紅が駆け出した。

「お、おい」

「真紅!」



132: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 21:43:35.16 ID:7ngzqpX+0
 ジュンが後を追う。

「真紅!!どこ行くんだ!」

 真紅は外ではなく、納戸の方へ駆けていく。

「ジュン君!真紅!」

 遅れて金糸雀も走ってくる。

「どうしたんだ、真紅」

 鏡に手を当て、じっとしている真紅。

「何でもないわ」

 振り返らずに呟く。

「何でもないって…お前…」

「ねえ、ジュン」

「ん?」

 振り返る。

「私、これから出掛けてくるわ」

「そ、そうか」

「心配しないで頂戴、ちょっと気になる事があっただけだから。ただ」

「ただ?」

「10分経って戻ってこなかったら、ホーリエをこちらに向かわせるから、来て頂戴」

「…あ、ああ」

「お願いね」

 そう言って、真紅は鏡の向こうに消えた。



136: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 22:02:27.48 ID:7ngzqpX+0
 雛苺のローザミスティカが体内に入り込んだ後で、

薔薇水晶はようやく平静を取り戻した。

 天を見つめたまま、雛苺は事切れていた。

「………」

 薔薇水晶は彼女を見下ろしたまましばらく立ち尽くしていたが、

やがて、力なく項垂れた。

「……」

 緑色の、両の瞳を閉じる薔薇水晶。

「…わ……」

 自らの肩の震えが止まらない。

「…私…何て事を……」

 よろよろ、と後ずさり、どん、と壁にぶつかた後、ずるずると崩れ落ちる。



144: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 22:12:10.95 ID:7ngzqpX+0
 もう顔を上げる事は出来なかった。

膝を抱え、何かにすがるように、ぎゅうっと自らを抱く腕に力をこめる。

「どうして……」

 首を何度も振る。振り続ける。

「違うの。違うの…」

 涙がとめどなく溢れてくる。

「そんなつもりじゃなかった…私は…」

 わぁぁぁと、薔薇水晶は声を上げて泣き始めた。



 鏡から真紅が現れるのと、泣き始めたのは、殆ど同時だった。



146: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 22:20:25.89 ID:7ngzqpX+0
 聴きなれない泣き声に、真紅は用心深く歩を進める。

「この声は……薔薇水晶?…薔薇水晶が…泣いているの?」

 ステッキでドアを開ける。

「ホーリエ」

 人工精霊に導かれ、真紅はそっと、ドアの向こうを見た。



 机の上。電気スタンドの明かりの下。

 壁を背に、膝を抱えて泣いているのは薔薇水晶。

 そしてそこから少し左に目を転じると、倒れた椅子。

 その脇に、ぴくりとも動かない、大切な妹が転がっていた。



149: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 22:31:15.76 ID:7ngzqpX+0
 何も聞こえなくなった。

 視界は灰色になり、ステッキがからん、からんと音を立てて床に落ちるのも、

真紅は認識出来なかった。



 雛苺の服は、レースが沢山ついてて可愛いわね。

 どうして目を閉じているのかしら。眠っているのかしら。

 涙の跡が見えるわ。あの白いのは何かしら。

 ここはお人形の部屋なのね。作りかけの人形が沢山あるわ。

 私も、こうやってお父様に作られたのね。

 あの電気スタンド、電気がついているのね。

 薔薇水晶?下ばかり向いてちゃ、美人が台無しよ。

 何よ、薔薇水晶も泣いてるの。

 あのチューリップの髪飾り、可愛いわね。

 凝った細工、私は好きよ。



 虚空を見つめる真紅。視線がゆっくりと、雛苺に向けられてゆく。



150: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 22:36:12.66 ID:7ngzqpX+0
 胸に、穴が開いている。いや、正確には、刺し傷。

受け入れがたいその現実を、真紅が頭の中で認めた時、何かがぷつんと切れた。



「うっ………うあぁ……」



 頭を抱える真紅。



「いやああああああああああああああああああああ!!!!!!」



 真紅が絶叫する。

 それに反応し、びくっとする薔薇水晶。



「いやああっ!雛苺っ!雛苺ぉっ!!どうしてぇっ!!」

 半狂乱になりながら、がくがくと雛苺を揺さぶる真紅。



160: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 22:52:41.25 ID:7ngzqpX+0
「………」

 真紅は雛苺を抱いたまま、小刻みに震え続ける。

「………」

 自分が何をしてしまったのか。

 育んだものがどうなってしまったのか。

 薔薇水晶はそれだけは、はっきりと理解出来ていた。

 だからこそ、目の前の第5ドールへの恐怖が

増大し、動く事も、喋る事も、抑えられていた。

「………」

 自分はこれから何をされるのだろう。

どうなってしまうのだろう。

 その恐怖が、薔薇水晶を支配する。

「……薔薇水晶」

 真紅が口を開いた。



165: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 23:07:15.92 ID:7ngzqpX+0
 雛苺をもう一度床に寝かせ、真紅がおもむろに立ち上がった。

「ひっ」

 コツ、コツ、と響く靴音。

 がたがたと震え続ける薔薇水晶。

 当然の事ながら、その足音は自分の目の前で止まる。

「……」

 薔薇水晶は思わず顔を押さえる。

「貴女が、やったの?」

 驚くほどの冷静な声。

「………」

 薔薇水晶はそれには答えず、ただ小さく震えている。

 その場にしゃがみ込む真紅。

「お願い、薔薇水晶」

 両肩をつかむ。



「お願い、雛苺を返して」

 声が震える。

「私の妹なの」

 薔薇水晶が顔から手を離す。

「彼女は優しい子なの」

 涙を流している真紅。

「純真で、純粋で、貴女があの人を一途に思っているのと同じように」

「……」

「ね、お願い、お願いだから、返して」



167: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 23:15:20.64 ID:7ngzqpX+0
「ねえ薔薇水晶、答えて、お願いだから」

 ゆさゆさと揺する。

「返して…あの子を…返してよ……」

 両手を落とす。

「お願い…雛苺を返して……!!」

 そのまま泣き崩れる真紅。

「ごめんなさい…」

 薔薇水晶は雛苺を見つめたまま、涙を流し続けている。

「ごめんなさい…ごめんなさい…」

「あの子は」

 傍らにある、くしゃくしゃになった紙を取る真紅。

「貴女たちの事が大好きなのよ」

 薔薇水晶はそれに描かれたものが何であるか、ようやく

理解した。

 自分と、エンジュ。二人の。

「それなのに……」

「……わ…私…」

「どうして……」

 再び、嗚咽が漏れ始めた。



170: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 23:31:52.76 ID:7ngzqpX+0
 日が完全に落ち、薔薇水晶は放心したように、倉庫の片隅で

虚空を見つめていた。

 「………」

 あの後、真紅は何もしなかった。

憎しみを爆発させる事はなかったし、怒りに任せて攻撃して

くる事もなかった。

 ただ、大切そうに雛苺を抱きかかえ、一度も振り向く事なく、

鏡に消えていった姿が、薔薇水晶の目に焼き付いている。

 エンジュは驚き、ショックを受けた様子だった。

だが、彼も真紅にかける言葉もなく、また、薔薇水晶に

何を言ってよいか、分からない風だった。



 全てを自分が壊してしまったのだ。自分の幼稚な感情が、

周りの世界を灰色に変えてしまった。

 そして、薔薇水晶自身、気づいた事があった。

雛苺は、エンジュを『先生』として慕っていただけで、特別な

感情など持っていなかった。



 持っていたのは、他でもない、自分自身だった。

それは普段気付かない、小さな小さな、心の奥に

隠れた想い。

 『一緒にいたい』という、純粋な欲求だった。



174: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2008/05/07(水) 23:42:10.25 ID:7ngzqpX+0
 ガチャ、と音がして、倉庫のドアが開いた。

 薔薇水晶がそちらに視線を向けると、エンジュが立っていた。

「…薔薇水晶」

「………」

 しばらくエンジュを見つめていたが、やがて再び虚空に視線を戻す。

「落ち着いたかい?」

 エンジュが声を掛ける。

「…」

「……お父様」

 かすれた声で、薔薇水晶が呟いた。

「…彼女はどうすれば戻ってくるの」

「え」

「…私、彼女に謝らないといけないの」

「薔薇水晶」

「……ごめんなさいって……」

「……」

「私がどうかしていたのって……」

 膝を抱え直す。

「別にアリスゲームをしたいわけじゃなくて……」

 エンジュは黙っている。

「……私は……ただ……」



179: ◆JtU6Ps3/ps 2008/05/07(水) 23:55:47.08 ID:7ngzqpX+0
 エンジュには、ひとつしか方法が見当たらない。

「………」

 けれど、それをこの少女に伝えてしまう事は、とても出来ない。

「ねえ、お父様」

「…うん?」

 ぎゅっと拳を握る。

「……私が」

「うん」

「…一度、壊れてしまうしかないんでしょう」

 エンジュは目を見開く。

「分かるの。私には……」

「……」

「私が、彼女のローザミスティカを奪ったのと同じように」

 うつむくエンジュ。

「……誰かに、奪われてしまうしか、ないんでしょう」

 そこまで言うと、薔薇水晶はエンジュを見上げ、

いやいやと首を振りながら、顔をくしゃくしゃにする。



180: ◆JtU6Ps3/ps 2008/05/07(水) 23:56:23.40 ID:7ngzqpX+0
「薔薇水晶……!」

 思わず駆け寄る。

 それを待っていたかのように、まるで子どものように

抱きつく。

「いや、怖い」

 首を振る。

「壊れてしまいたくない」

 涙を流す。

「闇の中になんて行きたくない」

 ぎゅっと肩をつかむ薔薇水晶。

「私はどうしたらいいの…」

「……」

「助けて、お父様……」

 薔薇水晶はしばらく泣き続けた。

そんな彼女を、エンジュは、強く抱き締めた。



195: ◆JtU6Ps3/ps 2008/05/08(木) 00:41:03.85 ID:0ydVy5mw0
 薔薇水晶が次に目覚めた時、傍らに人影が座っていた。

「起きた?」

「ん……」

「うなされていたわよ」

 黒い翼を、時おり撫でる。

 美しい銀色の髪が、風になびく。

「貴女は……」

 菜の花の甘い香り。

 第1ドール、水銀燈が、春の日差しの中で、微笑んでいた。



「こんな所で寝ちゃってどうするのぉ」

「ご…ごめんなさい…」

 しょぼくれる薔薇水晶。そんな薔薇水晶を、水銀燈が

優しく見つめた。

「ところで……」

「なぁに」

「どうして、貴女が?」

「ん?」

「確か……」

「頭カタイわねぇ。何だっていいじゃないのよぉ。別に」



196: ◆JtU6Ps3/ps 2008/05/08(木) 00:41:38.24 ID:0ydVy5mw0
 立ち上がる水銀燈。

「こういう所にも、来た事ないんでしょう?」

「……ええ」

「いいこと、薔薇水晶」

「はい」

「せっかく、お父様が特別に与えてくれた命なのだから」

「…はい」

「動けるうちに、色んなものを見て、楽しく過ごしなさい」

「………」

「菜の花の香りはとても甘いし」

「………」

「春の日差しはとても暖かい。」

 膝を抱える水銀燈。

「テレビアニメだって、面白いものばかりよぉ。」

「………」

「この時代なら美味しいものが沢山食べられるし」

「……」

「公園に行けば、綺麗な噴水が見られる」

「……」



199: ◆JtU6Ps3/ps 2008/05/08(木) 00:42:22.27 ID:0ydVy5mw0
「私たちは、生まれた命じゃない。作られた命なの」

「……」

「どれだけ綺麗事を云ったって、その事実には抗えない」

「……」

「だから、私たちには、いつかは絶望が待っている」

「………」

「せめてそれまで、楽しく、幸せに暮らす事」

「………」

「それを手に入れるには、恐怖や、怯え、苦しみ」

「………」

「痛み、悲しみ、涙、我慢、屈辱」

「…………」

「色んなものを、何度も何度も、乗り越えないといけないけれど」

「………」

「それでも、逃げたり、後悔するよりは、幾分かマシな生活が出来るわ」

 薔薇水晶はうつむく。

「だから」

「はい」

「自分が決して後悔しないだろう道を、選びなさい」

「……はい」

「貴女はまだ、この世界にいられるだから、ね」

「わかりました」

 薔薇水晶は水銀燈を見据え、そう答えた。

 水銀燈は微笑み、やがて、消えていった。





207: ◆JtU6Ps3/ps 2008/05/08(木) 00:58:40.18 ID:0ydVy5mw0
 少し気が遠くなったかと思うと、薔薇水晶は公園のベンチに

座っていた。

「…ここは……」

 足音が聞こえる。

「…薔薇水晶」

 先ほどとはうって変わって、優しい声。

 振り向く薔薇水晶。

「あっ」

 薔薇水晶は声を上げた。

「雛苺!!」

 うす暗い林の中から現れたのは、自分が命を奪ってしまった雛苺だった。

「………雛苺!…ごめんなさい…私…私は…」

「…薔薇水晶?」

 どこか透き通るような声。

「泣いているの?」

 その言葉で、いつの間にか涙を流しているのに気づく。

「あ…の…」

「気にしないで」

 雛苺が悲しげに微笑む。

「ヒナはアリスゲームに負けていたの」

「え」

「ずっと前に、真紅と闘って…」

 うつむく雛苺。



208: ◆JtU6Ps3/ps 2008/05/08(木) 00:59:04.14 ID:0ydVy5mw0
「トモエや真紅や」

「……」

「ジュンにもう会えないのは淋しいけど」

 薔薇水晶は項垂れる。

「ヒナのせいで、誰かが傷つくのは、もうイヤだから」

 そう言うと、雛苺は微笑む。

「……うっ……あ…ひ…雛苺……うぅっ…」

「どうしたの、泣かないで」

 しゃくり上げる薔薇水晶。

「ごめんね、ヒナのせいで」

 その場に倒れこみ、薔薇水晶は泣き続ける。

雛苺は、そんな薔薇水晶を優しく撫でた。





215: ◆JtU6Ps3/ps 2008/05/08(木) 01:19:24.76 ID:0ydVy5mw0
「はっ!!」

 薔薇水晶が飛び起きた時には、窓から日差しが入ってきていた。

「………」

 いつもの部屋だ。

「夢…だったの……?それとも……」

 胸を押さえる。

「…………」

 じっと眼を閉じていた薔薇水晶は、5分ほどしてから再び眼を開ける。

 その瞳に、いつもの鋭さが戻っていた。



「お父様」

 台所にいるエンジュ。

「…あ、ああ、おはよう!」

 何やら目の下にクマが出来ている。

「話があります」

 静かな口調。

 エンジュはこちらを見つめていたが、やがてコンロの火を消し、こくりと頷いた。



218: ◆JtU6Ps3/ps 2008/05/08(木) 01:28:05.38 ID:0ydVy5mw0
「………認めるわけにはいかないな」

 話を聞き終えたエンジュは、強い口調で言い放った。

「どうして」

「僕は君を一時的にしろ、失いたくはない。だから、そんな相談をされても、首を縦には振らない」

「…でも」

「『自刃するので後で直して下さい』なんて、それは勝手だ。君の身勝手だ」

 首を横に振る。

「そう……」

 薔薇水晶はうつむいた。





 部屋の中。

 薔薇水晶が、『責』という字を丁寧に書いている。

「……うーん」

 漢字をよく知らない薔薇水晶は、自分の名前もまともに書けない。

「……でも、やらなきゃ」

 頭がパンクしそうになりながらも、薔薇水晶は筆を走らせた。



365: ◆JtU6Ps3/ps 2008/05/09(金) 00:30:12.96 ID:4x0DCqkW0
 ペンを置き、薔薇水晶は深呼吸する。

「ふうーっ」

 しばらく、机の上の紙を見つめ、もう一度息を吐く。

「………」

 胸に手を当てる。ほんの少し、あたたかい。

「………」

 やがて立ち上がり、薔薇水晶は鏡の向こうへ消えた。



 真紅が窓の外を見つめている。

「……」

 呆けたように、視線を動かす事もなく、ぼんやりとしている。

 部屋の隅、鞄の中で、雛苺が眠っている。

「………」

 真紅はため息をついた。

「くんくんでも観ようかしら…」

 ふぅ、と、もう一度ため息をつく真紅。

 トン、トン、と階段を降り、一階に着いた時、視界の隅に

何かが映る。

「真紅」

 目を見開く。

 薔薇水晶が、立っていた。



370: ◆JtU6Ps3/ps 2008/05/09(金) 00:37:36.66 ID:4x0DCqkW0
「………」

 真紅は何かを言おうとするが、うまく言葉が出てこない。

「真紅………」

 悲しそうな表情になる。

「ば、薔薇水晶……」

「ごめんなさい…」

 そう言って、薔薇水晶は頭を下げた。

「……」

「私のした事は、許される事ではないと思うわ……」

「……」

 その場に座り込み、うつむく薔薇水晶。

 真紅は、そんな彼女をじっと見つめる。

「……どうしてここへ?」

 見つめたまま、真紅が口を開いた。



373: ◆JtU6Ps3/ps 2008/05/09(金) 00:44:56.99 ID:4x0DCqkW0
「………」

 一瞬視線が泳ぐ。

「…実は」

 ぎゅっと、両の拳を握り直す。

「お願いがあって…」

「…お願い?」

 表情ひとつ変えない真紅。いや、変えられない、というべきか。

「貴女にお願いしたいの」

「………」

 近づいていく真紅。

「私に何の用があるの?」

「……」

 その声は無機質で、無頓着で、何か抜けがらのような空虚を感じさせる。

「………」

 薔薇水晶は言葉をつぐんだ。

 うつむき、少し鼓動が早まる。



382: ◆JtU6Ps3/ps 2008/05/09(金) 01:00:47.71 ID:4x0DCqkW0
 言わなくてはいけない。

 あの言葉を。

「……今から」

 声が震える。

「何?」

 薔薇水晶は目を閉じた。

 

 迷いは消えない。

 正解のない二択。

 夢の中で、水銀燈が言っていた事。

 ローザミスティカを奪われてなお、自らを慰めてくれた雛苺。

 彼女たちが伝えてくれた事を、今一度思い返す。



 けれど、彼女たちも知らない事実を、薔薇水晶は今、痛いほど自覚している。

薔薇水晶は、ローゼンメイデンではない。

 当然、ローザミスティカも持ち得ない。

 

 

「…………」



 長い、長い沈黙が過ぎた。



385: ◆JtU6Ps3/ps 2008/05/09(金) 01:06:19.47 ID:4x0DCqkW0
 真紅の目にも、薔薇水晶が震えているのがよくわかった。

 そんなに強い子ではない。

 きっと、何かに怯えていて、その恐怖に、必死に向き合おうとしているのだろう。

「………」

 それでも、今の真紅に、彼女の肩を抱く事は出来ない。

 だから、真紅は何も云わなかった。



「ね、真紅……」

 絞り出すような声。

「…ホーリエを」

 こちらを見つめる薔薇水晶。

 真紅が、少し首を傾げた。



389: ◆JtU6Ps3/ps 2008/05/09(金) 01:14:26.07 ID:4x0DCqkW0
「どうして?」

「……私」

 握っていた両手で、自らの肘を抱きかかえる。

「貴女と雛苺に謝らなきゃいけないの」

「………」

「…怖いけれど」

「………」

「正直」

 ぶんぶんと首を振る薔薇水晶。

「…自分がどうなってしまうのか、怖い…考えたくない」

「……」

「でも」

 震えは止まらない。

「…後悔しない道を選ぶわ、私は」

「……」

「だから貴女にお願いがあるの」

 おもむろに、髪飾りの水晶を手に取る。

 真紅は彼女が何をしようとしているか、そこで何となく理解出来た。



392: ◆JtU6Ps3/ps 2008/05/09(金) 01:24:00.70 ID:4x0DCqkW0
 次の瞬間、ドッ、という鈍い音と共に、薔薇水晶はそれを

自らの胸に突き立てる。

「う……」

「薔薇水晶!」

 薔薇水晶の顔が苦痛に歪む。

 駆け寄る真紅。

 身体が揺れ、真紅がそれを支える。

「何てことを……」

「いいの、それより」

 薔薇水晶の身体が光り始め、ピンク色のローザミスティカが出現した。

「これは……雛苺の…これを、彼女に……」

「え?」

「私のお願いはそ……れだけ……ホーリエに……」

 真紅は反射的にホーリエを呼び出し、守らせる。

 薔薇水晶は目を閉じ、ぐったりと真紅に身体を預けていた。

「しっかりして」

「…………」

 薔薇水晶の身体から力が抜け、床に崩れ落ちた。



399: ◆JtU6Ps3/ps 2008/05/09(金) 01:34:01.88 ID:4x0DCqkW0
 ドンドン、とドアを叩く音がする。

ほどなくして、エンジュが飛び込んできた。

「薔薇水晶!!」

 玄関を開けたエンジュの目に映ったのは、真紅と雛苺、金糸雀、巴、ジュン、

そしてその中央に横たわる、薔薇水晶。

「先生!」

「薔薇……」

 がくんと膝をつくエンジュ。右手に持った紙が、床へ落ちる。

「う……」

 頭を抱える。

「うおおおおおおあああああ!!!!」

 光を失った最愛の人形を前に、エンジュが絶叫した。



402: ◆JtU6Ps3/ps 2008/05/09(金) 01:42:14.59 ID:4x0DCqkW0
――――ごめんなさい、お父様



――――私は、今回だけ、あなたに逆らうことにしました



――――別に、お父様がキライなわけじゃないのです



――――私自身が、そうする事を選んだのです



――――私の幼ちな心が招いたことだから



――――私のワガママで締めくくらせてほしいのです



――――読みづらかったら、ごめんなさい



――――辞典で調べながら、書いてるので



――――この国の文字は、どうしてこんなにむずかしいのかしら



405: ◆JtU6Ps3/ps 2008/05/09(金) 01:46:24.56 ID:4x0DCqkW0
――――ここから先は、真紅たちには読まれないように





――――して下さい。恥ずかしいので





――――お父様





――――私はあの時、公園に行って





――――良かったと思っています





――――色んなものが見れて





――――それから色んな体験をしたからなのです





――――私はローゼンメイデンじゃない





――――だけど



409: ◆JtU6Ps3/ps 2008/05/09(金) 01:51:29.69 ID:4x0DCqkW0
――――お父様に愛されたい





――――それだけが私の全てだった





――――いつの間にか、それだけが当たり前だと





――――世界の全てだと





――――でもちがった





――――お父様





――――私のいれるお茶は、美味しいらしいです





――――真紅たちが、いえ、お姉さまたちが、そう言ってくれたのです





――――その時、私はなんだかうれしかった



411: ◆JtU6Ps3/ps 2008/05/09(金) 01:56:23.23 ID:4x0DCqkW0
――――正直、私には、何が何だか





――――倒してローザミスティカを集めて……





――――それが一気にどうでもよくなった





――――ごめんなさい 私は少しおかしくなったのかもしれません





――――何を大切にしていいか、よくわからなくなりました





――――でも





――――真紅も、雛苺も、優しくて





――――その優しさの中に、私も一緒にいたいと思った



413: ◆JtU6Ps3/ps 2008/05/09(金) 02:00:39.24 ID:4x0DCqkW0
――――怒ったでしょうか?もし怒ってたら





――――きっと、私には、お父様と、もう一緒にいる資かくはないのだと思います





――――お父様に怒られてもいいから





――――お姉さまたちの優しさに触れていたい 私はそうしたい





――――だから





――――どうか彼女たちを責めないで





――――私が選んだ事だし





――――私は、6番めのお姉さまに





――――あやまりたい だけなので



415: ◆JtU6Ps3/ps 2008/05/09(金) 02:04:02.60 ID:4x0DCqkW0
――――最後に





――――私は、やっぱり怖いです





――――皆と





――――何より





――――お父様と、一緒にいたいけど





――――私はこれから、一人でどこか別のところに





――――行かなくてはいけない





――――どうやって戻ってきたらいいのかも、ろくに考えていないし



416: ◆JtU6Ps3/ps 2008/05/09(金) 02:07:44.80 ID:4x0DCqkW0
――――だから、もし許されるのであれば





――――どうか私を、見つけてほしいのです





――――こないだ林で迷子になってしまったように





――――私はすぐに迷子になってしまうから





――――でも、腰の痛みがあれば





――――それは治療してからにして下さいね





――――世界で一番大好きな





――――私のお父様へ





                     薔薇水晶



420: ◆JtU6Ps3/ps 2008/05/09(金) 02:19:31.90 ID:4x0DCqkW0
















「ふわ~あ、…あれ、真紅」

 リビングのドアを開けるジュン。

「あら、起きたの?もう夕方よ」

 音量を下げる真紅。

「えっ、ホントか?」

 意外そうな返事をする。

「ええ、もうくんくんが始まってるもの」

「そうかぁ」

「そうかぁ、じゃないでしょう。のりに洗濯物頼まれてたんじゃないの?」

 ふうっとため息をつく。

 ジュンの顔が、一気に青ざめた。

「やっ、やっべぇ!!」

 ドタドタと走りまわる。

「全く………使えない下僕ね。ジュン、ちょっと」

 だだだ、とリビングに入ってくる。

「な、なんだ」

「雛苺たちが戻ってきたら、あの子の服も洗濯しておくのよ」

「なんでだよ」

 やれやれ、という風に両手を上げる真紅。

「汚れるでしょう。皆で土手に行ってるのだから」



423: ◆JtU6Ps3/ps 2008/05/09(金) 02:27:03.32 ID:4x0DCqkW0
「あーん、待ってなの金糸雀ー」

「早くくるかしらー」

 土手で、金糸雀と雛苺が、追いかけっこをしている。

「……ふう」

 夕日を浴びながら、巴がぼんやりと二人を見つめている。

 ヒュウッと風が抜け、そのひんやりとした感覚に、巴は

思わず腕をさする。

「わっぷ」

 べしゃっとつまずく雛苺。

「あ、雛苺」

 立ち上がる巴。

「大丈夫か?」

 傍らで見ていたエンジュが声をかける。

「平気なの!」

「やれやれ……」

 再び走り出す雛苺に、エンジュは苦笑する。

 その腕の中で、薔薇水晶が静かに眠っている。



425: ◆JtU6Ps3/ps 2008/05/09(金) 02:34:02.48 ID:4x0DCqkW0
「よっこいしょ」

 薔薇水晶を抱き直すエンジュ。

 髪を撫で、眼帯のない穏やかな寝顔に、少し笑みをこぼす。





「…………」

 ゆっくりと、その両の瞳が開かれる。

「起きたかい?」

「………」

 寝ぼけ眼でエンジュを見上げ、ぽふっと、その胸に頬を沈ませる。

「あ、薔薇水晶が起きたのー」

 雛苺がこちらに近づいてくる。

「おはよう、お姉さま……」

 薔薇水晶は、そう言って、優しく微笑んだ。





 エンジュの腕から飛び降り、追いかけっこに加わる薔薇水晶。



その髪飾りの水晶に、夕日のオレンジが、鮮やかに反射し続けていた。









    【完】



引用元: ローゼンメイデンの話「小さな恋の物語」