屋上に昇って その1

340: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/12/19(土) 21:48:01.01 ID:XkCBA1VCo



 雨と呼ぶにはあまりに弱々しい霧雨だった。
 
 煙るように白んだ街並みを、俺とよだかは傘もなく歩いた。
 薄く広がった灰色の雲が太陽の光を濾して鈍く散らばらせ、街は水中のように景色を曖昧に、けれど静謐に見せている。

 風はぬるい。
 
「夢の中を歩いてるみたいじゃない?」とよだかは言った。
 俺は適当にそれに頷く。

「さて、どこに行こうか?」

 よだかの問いに、俺はとっさに言葉に詰まる。
 どこ? どこに行こうにも、よだかがどこに行きたいのかわからないのだ。
  
 俺が暮らしている街、とよだかは言った。
 でも本当のところ、俺はこの街で暮らしているという実感が、未だに築けていない。

 他人のための空間に、忍び込んでいるような据わりの悪さ。
 誰かに「受け入れてもらっている」かのような居心地の悪さ。

 そしてそれは本当にそうなのだ。

 この街に自分が"住んでいる"のだという実感は、俺には未だに沸かない。
 それはちょうど、家のことと重なって思える。


341: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/12/19(土) 21:48:36.56 ID:XkCBA1VCo

「たくみ、バイトしてるんでしょ?」

「ああ」

「どこ?」

 そういう流れで、俺たちは静かに濡れながら街を歩いた。
 六月の雨降りの土曜は人気が少ない。

 よだかが俺の生活している場所を見たがることについて、俺は何も訊かなかったし、文句も言わなかった。
 そういうことだってあるだろうと思う。

 よだかは濡れることを厭わなかった。
 これが土砂降りだったら俺だって止めた。

 俺ひとりなら、土砂降りの中だって平気だ。
 今は人の部屋を間借りして暮らしている身だから、服や部屋のことを考えると濡れないようにしてしまうけど。

 でも、ふたりで居て、片方は女の子で、それなのに雨に濡れながら歩くというのはあからさまに馬鹿げていた。
 霧雨はけれど、服の表面に粉のように貼り付くだけで、水分というよりは塵のように思える。

「雨だね」とよだかは言った。彼女にしては静かな言い方だった。

「雨だ」と俺も繰り返した。互いの顔も見なかった。話すことだって何もなかった。


342: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/12/19(土) 21:49:23.15 ID:XkCBA1VCo

 バイトをしているコンビニに辿り着くと、よだかは駐車場の入口からその景色を携帯で撮影した。

「なにをしてるの」と訊くと、記録、と言う。

「今日の景色」と彼女は笑う。それに何の意味があるのかはよくわからなかったけど、たぶん彼女は意味の有無なんて気にしていない。

 店の中に入ると、専門学生の女の人と高校生の男の子が俺に気付いて声を掛けてきた。
 
「浅月さん、バイトサボってデートですか?」

 そう声を掛けてきたのは高校生の方だった。

「隅に置けませんなあ」と専門学生の方が言った。

 そんなんじゃないですよ、と答えて、俺は傘を買った。

「嫌な雨だね」とレジを打ってくれた専門学生は言った。

「そうですか?」と俺は本心から尋ね返す。

「雨好き?」

「まあ」

「変わってるね」

 彼女が本当に変なものを見る目で俺を見たから、俺は自分が本当に変な人間なんだという気さえした。


343: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/12/19(土) 21:49:51.24 ID:XkCBA1VCo

 それから俺とよだかは一本の傘に入って街を歩いた。

 粉のように軽い霧雨は、傘の下から潜り込むように俺たちに近付いてきた。
 傘は傘である意義を失っているような気さえする。
 それでもないよりはマシだという気がした。

 景色は薄明のような透明感をたたえている。

 よだかは感想を何も言わなかった。

 俺たちは黙ったまま地下鉄駅に向かった。
 切符を買って改札を抜け、ホームで電車を待つまでの間、俺たちは何も話さなかった。

 地下鉄は、それでも空いてはいなかった。
 
 人々はどこか憂鬱そうで、話し声さえどこかひそやかだ。
 そういうことになんとなく安心する。雨が好きなのはそういう理由だ。

 学校に辿り着くと、よだかは当然のように中に入りたがった。

 校内には誰もいないような気がしたけど、たぶんそれはただの錯覚で、今日だってどこかしらの部活が活動しているはずだろう。

「駄目だよ」と俺は言った。

「どうして?」

「ここはおまえの居場所じゃないから」

 よだかは少し傷ついたような顔になった。

 昼近くになって、俺たちは近くのファミレスに寄って昼食を済ませた。


344: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/12/19(土) 21:50:17.43 ID:XkCBA1VCo

 何か話すことがあるような気がして、長居をしようとドリンクバーを頼んだけど、やっぱり話すことはなかった。
 
「どうして今日、こっちに来たの」と、俺は仕方なくそう訊ねた。
 でも、本当はどうでもよかった。

「理由はないよ」とよだかは俺と目を合わせないで笑った。
 
 そうだろうと思った。ただなんとなく、そうしたかっただけなのだろう。

 それから俺たちは何もすることを思いつけずに、ぼんやりと窓の外の雨を眺めながら時間を過ごした。
 それはべつに悪い時間じゃない。でもきっと、他の人に言っても信じてもらえないんだろう。

 本当にこういう時間なのだ。

 長い時間が過ぎて懐かしく思うのは、きっとこういう時間なのだと思う。
 少なくとも今まではそうだった。

 遊園地に行ったことを思い出すとき、俺が思い出すのはアトラクションの最中のことじゃない。
 食事やアトラクションの列に並んでいる時間、トイレを探して迷っている時間、そういう時間だ。


345: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/12/19(土) 21:50:49.04 ID:XkCBA1VCo

 午後三時を過ぎた頃、静奈姉から連絡が返ってきた。

 俺はとりあえず電話をかけて、今例の友達と一緒にいる、と言った。
 連れて行ってもいいか、と訊ねると、どうぞ、と静奈姉は言っていた。

 俺はよだかが女であることを言い出せないまま、とりあえず部屋に戻ることにした。

 そして実際戻ると、静奈姉は明らかに戸惑った顔をした。

「えっと、彼女?」

 あきらかに強張った表情で、彼女はよだかの顔を見た。

「初めまして、秋津よだかです」とよだかは名乗る。

「彼女じゃないよ」と俺は言った。よだかはなぜかつまらなそうな顔をした。

「友達?」

 静奈姉はいっそう戸惑ったみたいだった。

「あっちの友達。遊びに来たんだけど、どうやら宿がないみたいなんだ」

「……」

 いろいろと、静奈姉は想像をたくましくしているらしかった。
 そりゃ、俺が逆の立場でもそうなる。


346: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/12/19(土) 21:51:17.75 ID:XkCBA1VCo

「泊めてあげたいんだけど……」

「えっと。待ってね」

 静奈姉はいろいろと考えるような顔をした。
「まずいような気もするけど、宿がないなら泊めざるを得ない。でも、そもそもそれならこういうタイミングでその話になるのはおかしい」みたいな。

 実際それはそのとおりだろう。

 俺はよだかに、とりあえず俺の部屋に言って、濡れた服を着替えてくるように言った。
  
 ふたりきりになった途端、静奈姉は珍しく大人ぶった顔をした。

「彼女じゃないんだよね?」

「もちろん」

 というか、彼女ならこんな状況にはしない。

「どういう関係?」

 俺は答えに窮する。

「友達」と、仕方なく俺はさっきと同じ嘘をついた。本当のところ、赤の他人だ。

「ただの?」

「……とは、言えないかもしれない。でも、あんまり、説明したくない」

「あのね、タクミくん。ここはわたしの家だし、タクミくんをここで預かってるのはわたしなんだ。
 だから、ここで何かあったら、わたしとしては責任を感じるし、困るんだ。
 もしタクミくんが自分の家に住んでるなら、何をしてもいいと思うけど……」

「迷惑だって分かるよ。でも、急だったし、俺だってこういうつもりじゃなかったんだ。困ったことにはならないって誓う」

 静奈姉は、でも、既に困った顔をしていた。


347: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/12/19(土) 21:51:54.63 ID:XkCBA1VCo

 でも、俺だって本当にこんなつもりじゃなかった。
 静奈姉を困らせるようなことなんて、本当はしたくない。
 
 ……でも、実際困らせるようなことをしているのだ。
 
 よだかの言うとおりだ。
 そもそも、俺がここにいることだって、周囲に迷惑をかけることにしかなっていない。

 いまさら迷惑をかけたくないなんて、世迷い言だ。

「……静奈姉。ごめん」

「ごめんじゃなくて。できたら話してくれると嬉しいんだ。家出か何かなら、おうちに連絡しなきゃでしょ?」

「……」

 俺はちょっときょとんとしたけど、まあたしかに、そういうふうにも見える。
 というか、普通に考えたら、そう見えるのか。

「ほんとにそういうんじゃないんだよ。普通に友達として、遊びに来たんだ。急だったけど、俺も知らなかったんだ」

 静奈姉は、まだ考えるような素振りを見せていた。


348: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/12/19(土) 21:52:21.13 ID:XkCBA1VCo

 そこで、ドアが開く音がした。

「姉です」と、よだかは言った。

 俺と静奈姉は、よだかの方を見る。
 薄手のパーカーとジーンズに着替えたよだかは、まだ少し湿ったままの髪を指で梳かしながら、こっちを見ている。

「姉って……誰の?」

「わたしは、たくみの姉です」
 
「よだか」と俺は咎める。彼女は俺を睨むようにしてから、それでも話を途中でやめてくれた。

 静奈姉に話すことじゃない。
 他の誰にも話すことじゃない。

 いや、でも……。
 
 よだかが話したいなら、俺には止める資格なんてないのかもしれない。
 彼女には、その権利があるのかもしれない。ひょっとしたら。

 もし彼女がそう主張するなら、俺はそれを受け入れることもできる。
 

349: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/12/19(土) 21:53:09.78 ID:XkCBA1VCo

「……タクミくんにお姉ちゃんなんていないでしょ? わたし、親戚だよ?」

 静奈姉は、あきらかに咎めるような目でよだかを見た。
 静奈姉のなかでよだかは、もう、嘘つきになってしまった。

 けれどよだかは、そんな目には慣れてる、というふうに、気にした素振りも見せなかった。
 でも、本当のところ、よだかがそういうふうに見られることに慣れていないことだって、俺は知っている。

 静奈姉が、そんな目をしたくなる理由はわかるつもりだ。
 でも俺は、よだかがそういう目で見られることが耐えられない。

 なんなんだろう、これは?

 大好きな人達なのに、優しい人たちなのに。
 その優しさはきっと、よだかだって受けられるはずだったものなのに。

「よだかは、俺の姉だよ」

 俺はそう言った。でも、そう答えるのは間違っているような気もした。
 本当にそうなんだろうか……? よだかは、俺の姉なんだろうか、本当に?

 でも、そんなのはもう関係ないことだ。

 俺はよだかを、姉だと認めた。本当のことは分からない。でも、もう認めた。だから俺はこの街に来た。逃げてきた。

「……それなら、おじさんたちに確かめてもいい?」

 静奈姉の言葉に、よだかは、

「やめておいた方がいいと思いますよ」と、きっと本心からの忠告をした。

 それを静奈姉は、嘘がばれないための方便だと解釈したのだろう。電話をする、と言った。

350: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/12/19(土) 21:53:42.50 ID:XkCBA1VCo

 仕方なく、俺は言葉を重ねた。

「してもいいけど、できたら、母さんじゃなくて父さんに話して」

 その言葉には、さすがに彼女も戸惑ったみたいだった。いいかげん、嫌気がさしてくる。
 人に囲まれて生きることはむずかしい。

 人に助けられずに生きるのはむずかしい。
 それにもかかわらず、自分のことを自分だけで考えたいと思うのは、もっとむずかしい。

「……静奈姉、そういえば、俺も訊きたいことがあったんだ」

「なに?」

「遊馬兄とは、もう会わないの?」

 静奈姉は、ちょっと傷ついたみたいな顔をした。 
 その表情に、俺は少しの後悔と、少しの嗜虐心が芽生えるのを感じた。

「あんなに仲が良かったのに、今はもう会ってないの?」

 静奈姉はしばらく黙りこんでから、よだかの方をちらりと見て、諦めたようにため息をついて、

「振られたんだよ」

 と苦笑した。

「いつまでもつきまとってもいられないでしょう?」

 ああ、そうだったんだ、と思った。
 そういうふうにバラバラになっていくんだ。


351: ◆1t9LRTPWKRYF 2015/12/19(土) 21:54:08.13 ID:XkCBA1VCo
つづく

355: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/12/21(月) 22:56:37.29 ID:w1snt7Rbo



 結局、静奈姉は俺の家に連絡をしなかったみたいだった。
 どうしてかは分からない。

 結局、よだかのことは見逃してくれたらしい。

 一晩だけという俺の言葉を信用してくれたのかもしれないし、面倒事を避けたのかもしれない。

 とにかくそうなってしまったらすぐに割りきれてしまえるのが彼女の美点なのかもしれない。

 突然の来客であるよだかと一緒に夕食をとることにも、彼女が風呂場を使うことにも何の抵抗もないようだった。
 夕食を食べ終える頃には、ふたりはすっかり馴染んで、会ったときのギスギスとした雰囲気はなりを潜めていた。

 とはいえ、よだかが俺の部屋に泊まることには反対されてしまったので、結局俺がリビングで眠ることになった。

 静奈姉はしばらくよだかと話をしたあと、なにかやらなければならないことがあるとかで自分の部屋にこもってしまった。

 俺が自分の部屋に戻ると、よだかも当然のようについてくる。ほかに居場所もない。それはそうなるだろう。


356: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/12/21(月) 22:57:03.48 ID:w1snt7Rbo

 俺は机の上にノートを広げて勉強を始めた。何かすることがあると、気が紛れる。

「静奈さん、いいひとだね」とよだかは言った。
 彼女は当たり前みたいに俺のベッドの上に横になっていた。

 そう。静奈姉はいいひとだ。

「ねえ、たくみ、訊いてもいい?」

「なに」

 どうせ、駄目って言ったって訊くくせに、と俺は思った。

「たくみがこの街に来たのって、わたしのせい?」

「そうだよ」
 
 俺は間髪おかずに答えた。

「やっぱり?」

「うん」

「わたしと会わないほうが、たくみは幸せだったね」

 本当に真剣な声で、よだかはそう言った。
 自分が誰にとっても余計ものだと信じているみたいに。

 俺はそれを否定できない。

「たしかにね」と俺は答えた。


357: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/12/21(月) 22:57:50.62 ID:w1snt7Rbo

 中学二年のあの春の日に、ひとりの女の子が母親の遺書を握りしめて俺の家に来ていなかったら、俺は今でも幸せでいられた、かもしれない。

 ひとりの男がいた。
 男には恋人がいた。長年連れ添った相手だった。女が妊娠すると、ふたりは籍を入れた。
 ちょうどいいタイミングではあった、と後に語っていた。
 
 そしてふたりは幸せな家庭を築きましたとさ、めでたしめでたし。

 ――反転。

 けれど女の妊娠が発覚する少し前まで、たった数ヶ月の間だけ、男は浮気をしていました。
 浮気相手は職場の後輩、男より五、六年下の、社会人になったばかりの女の子。

 男は恋人がいることを彼女に隠して、数ヶ月の間騙し通したのです。

 さて、男が浮気をやめた途端、見計らったように恋人の妊娠がわかり、彼はびっくりしました。
 まるで運命のようなタイミングだと彼は感じ、自分が浮気相手を捨てたことを間違っていなかったと感じました。

 彼にはそれが、自分が誠実さを取り戻したことに対する福音のように感じられたのです。

 生まれた子供は、仲の良い両親に見守られ、すくすくと育ちました。

 ――ここで終われば、まだ幸せな物語だった。


358: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/12/21(月) 22:58:41.12 ID:w1snt7Rbo

 そして中学二年の春の日、同じ中学に通うひとりの少女が、彼らのもとを訪れました。
 
 聞けば彼女は、父が結婚するまえに恋人関係にあった女の子供だと言います。
 彼女は妊娠していたのです。
 
 それも、母が彼を身ごもるより先に。

 少女は彼の腹違いの姉だったのです。
 
 父の認知がない以上、戸籍上は赤の他人だったとしても。

 同じ中学に通う同級生の女の子が、学校で何度か顔を見たこともある少女が、自分の腹違いの姉であった事実。
 その根本となった父の不誠実。

 この場合、どっちが『不貞の子』ってことになるんだ?

 彼はそう思いましたとさ。

 なんでも彼女の母親は、もともと体が弱かったうえ、女手一つで子を育てるのに相当無理をしたらしく。
 体を壊して、しまったらしく。
 あっさり死んで、しまったらしく。
 
 娘は母の遺書に書いてあったとおりに、「実の父親」を頼りにしてみましたが、
「俺の子かどうかなんてわからない」と、あっさりつっぱねられましたとさ。

 めでたくなしめでたくなし。


359: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/12/21(月) 22:59:23.93 ID:w1snt7Rbo

 中学二年生までに得たすべてのもの。
 両親の愛情(らしきもの)。友人たちとの時間。気のいい親戚たちとのふれあい。
 楽しかったこと、嬉しかったもの、それを幸せと呼んだ。

 その裏側には、常に『よだか』がいる。光に炙りだされる影のように、俺の幸福の裏側にはよだかが張り付いていた。

 俺が両親に抱かれていたとき、よだかは母親とふたりきりだった。
 俺が友達と遊んでいるとき、よだかは家事の手伝いをしていた。
 俺がるーと遊んでいたとき、よだかは学校の友達にいじめられていた。  

 光と影は反転しうる。
 俺はよだかだったかもしれない。
 俺は、たまたま拓海だった。『こっち』だった。

 胸をなでおろして、はあやれやれ、どうやら俺の人生は、「父に選ばれた方」だった、一安心だ、なんてことにはならない。

 知らなければ幸福でいられた? ……たしかに。
 でも、知ってしまったことを知らなかったことにはできない。

 知らないこと。目を瞑ること、耳を塞ぐこと、口を噤むこと。それを幸福と呼べるだろうか?
 
 それを幸福と呼ぶのなら俺は誰に対してだって断言してやれる。

 幸福は、感受性の麻痺と想像力の欠如と思考の怠慢がもたらす錯覚だ。

 幸福と真実を秤にかけたとき、ためらわずに幸福を受け取れる奴になんてなりたくない。
 だったら俺は、幸福になんてならなくていい。
 

360: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/12/21(月) 23:00:07.24 ID:w1snt7Rbo

 よだかはいつか言っていた。

 ――人生はプラスマイナスゼロって言うじゃない?
 
 悪いことがあったら、そのうち良いこともある、とか。
 でも、ねえ、本当にそうなの? 本当にプラスマイナスの収支がつくって信じて、そんなことを言ってるのかな。

 そうだとしたら、彼らの頭のなかでは、アンネ・フランクの短い人生にはその理不尽な不幸に見合うだけの幸福があったことになるのかな。
 そうだとしたら、そこで収支がプラスマイナスになっているんだとしたら、彼女の死はありふれたものでしかないのかな。

 そうだとしたら、わたしたちは、その死からなにひとつ学ぶことはないってことにならない?
 どこにでもある、誰もと同じ、プラスマイナスゼロの生でしかないってことにならない?

 アンネ・フランクの生と死は、悲しむにも嘆くにも悼むにもたらない、ただ当たり前のものでしかないのかな。

 誰かがそれを、屁理屈だと言った。
 俺はそうは思わなかった。

 生きることは理不尽だし、良いことと悪いことの収支なんてつくはずがない。
 数字のようには割り切れやしない。

 都合のいい気休めなんて、聞き流すのに体力を使う分むしろ有害だ。
 欺瞞を欺瞞と呼べば、ひねくれていると後ろ指をさされる。

 話の通じない相手に耳を貸すのは、疲れる。


361: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/12/21(月) 23:00:46.96 ID:w1snt7Rbo

「ごめんね」とよだかは言った。

「なにが」

「なにか、考えてる?」

「なにも。変な感じがすると思って」

 姉であり、元同級生であり、同い年の女の子である少女。 
 よだかと俺は、けれどいつのまにか、仲良くなっていた。

 友達でもなく、姉弟でもなく、なんでもないはずなのに、近くにいた。

 結婚しようよ、とよだかはよく言う。
 それが俺には、彼女を認知しなかった父へのあてつけのためのように思えてしまう。
 もしくはそれは単に俺が穿った見方をしているだけで、彼女は誰かとの繋がりを求めているのかもしれないけど。

「ごめんね」とよだかはまた言った。

「わたし、居なければよかったね」

 それはきっと、今、この場に限定された、なんでもない言葉。選び方が少し不穏なだけの言葉。

 それは、けれど、中学のとき、彼女の口から発せられた言葉を思い出させた。

 ――ごめんね。
 ――わたしがいなければ、きみは幸せな子供でいられたね。
 ――わたしがいなければ、お母さんも、ほかのひとと幸せになれたかもしれないよね。
 ――わたしがいなければ、きみも、お父さんのこと、素直に尊敬できてたよね。
 ――わたし、生まれなければよかったね。

 そんなことを泣きながら言った女の子。

 彼女のことを、俺がどうして無碍にできるだろう。
 

362: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/12/21(月) 23:01:29.37 ID:w1snt7Rbo

「どした?」とよだかは俺を見て笑った。

「なんでもない」と俺は目をそらす。

 すると彼女は、ベッドを下りて、俺の真後ろまでとたとた歩み寄ってきて、

「どーん」とうしろから抱きついてきた。

 俺たちは姉弟で、でも、中学のときに初めて顔を合わせた、無関係の男女でもある。
 そのいびつさが、俺たちの振る舞いに、不思議なほどの違和感を与えてくれる。

「なんだよ」

「お姉ちゃんが恋しいのかと思って」

「誰がお姉ちゃんだ」

「たまには素直に甘えてごらん、弟よ」

「調子乗んな」

 ああ、でも、とふと思い出した。


363: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/12/21(月) 23:02:10.38 ID:w1snt7Rbo

「そういえばさ、よだか」

「なに?」

「俺、子供の頃、お姉ちゃんがほしかったんだよな」

「そうなの?」

「うん」

「わたし、弟がほしかった」

「そう?」

「うん」

 俺は少し笑った。

「ばかみたいだな」

「ほんとにね」

 よだかも笑った。
 ばかみたいに。


369: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/12/23(水) 20:01:11.77 ID:UwKLbSxUo



 翌日の朝、リビングのソファのうえで目を覚ました。
 朝の五時半をまわったばかりだったが、普段と違う場所で眠ったせいか、寝直す気にはなれない。

 六月の日曜の朝、五時。窓の外は少しずつ明るくなっているようだったけど、雲はやはり空を覆っている。
 
 ぼんやりする頭で少し考えごとをしてから、キッチンに立ってお湯を沸かしてコーヒーを入れる。
 それからまたソファに座り込んで、コーヒーから立ち上る湯気を見つめながら掛け時計の針の音を聴き続けていた。

 いくつかのことを思い出したり、忘れようとしたりした。

 俺の部屋の俺のベッドにはよだかが眠っているはずだ。

 静奈姉は遊馬兄に振られたという。るーはそのことを知っていたんだろうか。

 結局、第二文芸部……現、第一文芸部の部誌が焼却炉で燃やされていたのは、いったいなんだったのか。

 嵯峨野先輩から借りたDVDを、そういえばまだ返していない。

 近頃の高森は、表面上は元気を取り戻したみたいに見えるけど、それだってどうなのか分からない。

 俺たちの部誌は、結局、不完全燃焼のまま、完成ということにしてしまった。

 この憂鬱はなんだろう。何もかもが行き詰まっているような、そんな感覚。


370: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/12/23(水) 20:01:38.76 ID:UwKLbSxUo

 落ち着けよ、と俺は自分に言い聞かせる。
 
 部誌は完成させた。思い通りではなかったかもしれないけど、完成したんだ。
 静奈姉のことだって、静奈姉のことだ。よだかのことだって、いまさらの話だ。

 べつに俺は、何かをする必要なんてない。
 すべきことなんてひとつもない。
 
 今日は夕方からバイトだ。よだかは昼過ぎに新幹線で帰るらしい。課題はもう終わらせてしまっている。

 それだけだ。
 俺がすべきことなんて、ない。だから、この妙な焦燥も、憂鬱も、出処が分からない。

 何かに追われているような気さえする。

 わけがわからない。

 コーヒーを飲んで、頬を軽く両手で叩く。目がさめた気がしない。
 
 服を寝巻きから動きやすいものに着替えて、外に出た。

 玄関を出るとき、扉を開ける音がやけに大きく響いた気がした。

 外に出ると、空気はなんとなくそっけない気がした。梅雨時とはいえ、薄着だと少し肌寒く感じる。
  
 雨が降っていたことに気付いて、一度玄関に戻り、傘を持ちだした。昨日買ったものだ。

 傘をさして、街を歩く。当然だけど、日曜の早朝だ。人気はない。
 
 沈黙を埋め合わせるみたいに、雨粒がそこらじゅうを撫でるように打つ音が聞こえる。
 何かを考えたくて歩きはじめたのに、何を考えたらいいのか分からなくなってしまった。


371: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/12/23(水) 20:02:12.90 ID:UwKLbSxUo

 俺は、何がしたくて、この街に来たんだろう。
 
 逃げてきた。それだけは分かってる。
 向かい合うことができなかった。何と?

 父のこと? よだかのこと? 俺自身のこと?

 ゴローとの賭けを思い出す。あやふやになってしまった、「きらきら」のこと。

 俺は、それを求めていた、ような気がする。こがれていたような気がする。
 たとえば、るーと再会して、話ができたり。
 誰かと一緒に過ごしたり、なにかを分かちあったり、成し遂げたりするようなことを。

 散歩の道順は適当だった。別に目的地はなかった。

 駅近くにある、自然公園まで足を伸ばす。
 杉や檜や松が生い茂る丘に沿うように、人の手で整えられた散歩路がいくつも伸びている。
 大きな池には魚だっている。水面は光を浴びればきらきらと光る。

 広さがちょうどいいのだろう。朝早くからジョギングや犬の散歩をしている人の姿が見えた。

 入り口近くにある広場ではときどきなにかのイベントが行われたりするが、普段は親子連れがキャッチボールをしていたりする。
 昼過ぎにでもなれば、今日もそういう景色が見えるのだろう。
  
 けれど早朝のこの場所は、そんな景色が嘘くさく思えるくらい、静かであたたかみに欠ける。


372: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/12/23(水) 20:02:44.74 ID:UwKLbSxUo

 見方を変えれば、どんなに明るい場所も、こんなふうに寂しげになる。
 
 それが嫌だってわけじゃない。あたたかい時間だって、嘘になるわけじゃない。
 けれど……。

 「暇なのかい?」

 顔をあげると、散歩路の脇のベンチに、鷹島スクイが座っていた。
 紙パックのオレンジジュースをストローですすりながら、彼はこっちを見ている。
 たぶん、見ているのだと思う。相変わらず、前髪で隠れていて表情は覗けない。

「……お互い様だろ、その台詞は」

「俺はただの散歩さ。日課なんだ」

「嘘だろ?」

「嘘だよ」

 悪びれるふうでもなく、鷹島スクイは笑う。どうでもよさそうな、雑な反応だった。

「何しにこんなところに来た?」


373: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/12/23(水) 20:03:13.61 ID:UwKLbSxUo

「気紛れだよ。深い意味はない」

「……姉貴は元気だったかい?」

 俺は答えない。
 
「おまえは何がしたいんだ?」

 唐突な問いかけに、戸惑う。スクイは、やっぱりどうでもよさそうに笑っている。

「死んだ猫の話を書くために、楽しむことを放棄した奴」

 俺には、言葉の意味がうまくつかめない。

「うまく楽しむために、死んだ猫の話を書くのをやめた奴」

 つかめない。

「おまえはどっちだ?」

 わからない。
 スクイが何を言わんとしているのか、俺には理解できない。

「どっちもか?」

 答えられない俺を、スクイは笑った。


374: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/12/23(水) 20:03:55.42 ID:UwKLbSxUo

「姉貴に、おまえは何かをしてやれるつもりでいるのか?」

「……」

「なにかできると思ってるのか?」

「……」

「おまえは、あいつの人生までは引き受けられないだろ」

「……」

「――なあ、藤宮ちはるのことはいいのかい?」

 雨音が、少し、強まった。
 天秤を思い浮かべる。
 

375: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/12/23(水) 20:04:56.21 ID:UwKLbSxUo



 それからどうやって帰ったのか、覚えていない。
 部屋に戻る頃には六時を回っていたが、日曜の朝だ。まだふたりとも眠っているらしい。
 
 まだ、頭がぼんやりする。
 顔でも洗おうと洗面所に向かい、ドアを半ばあけたところで、衣擦れの音が聞こえた。
 途中まで脳の命令に従っていた俺の腕は、その引っ掛かりを保留してそのまま指示を達成する。

「なあ!」

 と膨らむような声がして、視界に見慣れない肌色がうつって、俺はあわててドアを閉めた。

「びっ、くりしたあ!」

 とドアの向こうから声が聞こえる。よだかだ。図らずも、目が冴えてしまった。

「あー、ごめん」

「っとにもう! ノックくらいしてよ!」

「まだ寝てるもんだと思ってた。鍵、かかってなかったし」

「あ、それは、まあ……そっか」

 血縁上の姉弟とはいえ、一緒に暮らしたことすらない、事実上は他人。
 そんな女の子の着替えを覗いてしまって、反応に困る。

 正直、血縁関係についてはともかく家族という意識はない。
 よだかを異性として見れない、なんてことは、少なくとも俺にはない。

 とはいえ、こういう状況っていうのは、誰が相手でも気まずいだけなんだけど。


376: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/12/23(水) 20:05:38.69 ID:UwKLbSxUo

 カチャ、と鍵の閉まる音がして、しばらくしてから、よだかはゆっくりと扉を開けた。

「たくみのへん  」

 じとっとした目で見てくる。
 俺はさすがに仕返ししたくなった。

「誰かさん、昨日は  ホテル行こうとか言ってたくせにな」

 よだかは「う」と悔しそうに口をもごもごさせた。

「宿泊施設として利用しようとしただけだもん」

「そうですか」

 苦しい言い訳を流してやると、よだかはむっとした顔のまま俺の顔を睨んできた。

「……今日帰るんだろ?」

 話を変えるついでに質問をすると、よだかはすぐに頭を切り替えて、返事をしてくれた。


377: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/12/23(水) 20:06:05.39 ID:UwKLbSxUo

「うん。昼前には、駅にいかなきゃかな」

「じゃあ、ちょっとゆっくりしてから向かうか」

「おばあちゃんにおみやげ買ってかないと」

「……なんて言ってこっちに来たんだ?」

「『ともだちに会ってくる』って」

 ……まあ、そうとしか言えないか。
 よだかの祖母から見れば、俺は『娘を弄んだ男の子供』だ。

 憎むとまではいかなくとも、心穏やかではないだろう。

「今日も雨だね」

 そう言って、彼女は窓の外を見た。
 俺も釣られて、外の景色を見る。

「……そうだな。雨だ」


378: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/12/23(水) 20:06:31.63 ID:UwKLbSxUo

 静奈姉が目を覚ますまで、俺とよだかは俺の部屋で休むことにした。

「一晩過ごした感想だけど、たくみの部屋、生活感ないね」

「……ほっとけよ」

「褒めてるんだよ。たくみらしい。それに、たくみの匂いはする」

「昨日も言ってたけど……」

「なに?」

「そっちの方が変 みたいだ」

 よだかはまた、むっとした顔になった。
 そのまま会話が途切れる。

 少し強くなった雨音が、部屋のなかに静かに響く。

 ベッドに腰掛けたまま、よだかはトントンとつま先を揺らした。
 それから不意にこっちを見上げる。

「たくみ、あれして」

 当たり前みたいな顔で、そう言った。
 俺は、どう反応したものか、迷う。


379: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/12/23(水) 20:07:02.25 ID:UwKLbSxUo

「だめ?」

 例の目で、彼女は俺を見た。

 俺がベッドの上に腰掛けると、彼女は手足で這って傍によってきて、体を反対に向けて、俺の膝の上に座った。
 それから俺の腕を勝手に掴んで、自分の膝を抱えさせる。

 この行為に何の意味があるのか、俺には分からない。

 わからないというか、わかるような気もするけど、でもこれは、俺とよだかの関係性には明らかにふさわしくない。

「匂い」

 とよだかは言って、くすくす笑う。同じ方向を向いているせいで、彼女の表情は俺にはわからない。
 俺は可能なかぎり背中を逸らして、よだかとの接点を減らそうとする。
 それをいやがるみたいに、よだかは俺の両手を掴んで離さない。

 よくわからない。


380: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/12/23(水) 20:07:42.06 ID:UwKLbSxUo

 よだかは、こういう、抱きついたり、くっついたり、手を繋いだり、そういう身体的な接触を好む。

 弟だからなのか、それとも、単に親しい男子だからなのか、そのどちらでもないのか。
 いずれにせよ、欠けた何かを埋め合わせるみたいに、よだかは擦り寄ってくる。
 温度か、匂いか、感触か、触れ合っているという実感か。

 そうしないと自分の形がわからなくなってしまうみたいに。
 彼女は、こういうふうにそばにいると、すごく安心したような吐息を漏らす。

 姉というより、妹みたいだ、とときどき思う。

 対する俺は、同い年の女の子と接触することで気分が落ち着かないわけだけど。
 それを役得と思う気持ちも必ずしもないとは言えないし、その一方で、罪悪感もある。
 複雑だ。
 
 よだかを、無碍にはできない。けれど、よだかを引き受けることもできない。

 だとしたら、俺は、結局父と同じことをしているのかもしれない。

 そんなことをぼんやり思う。

 そうだとしたら、この子にやさしくしたいと思う気持ちも、やっぱり欺瞞にすぎないのだろうか。


383: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/12/26(土) 16:10:22.42 ID:q3hFP/O0o



 よだかは最後に、俺が通う学校をもう一度見たいと言い始めた。
 
 別に逆らう理由も思いつかなかったから向かったが、だからといって何かがあるというわけでもない。

 雨は止んだけれど、分厚い雲が空を覆い隠している。
 
 暗い並木道を歩きながらよだかは、

「どうしてなんだろう」

 とポツリと呟いた。

 太陽の光は薄ぼんやりと、けれどたしかに地上まで届いている。
 学校までの道を歩く途中でよだかは不意に俺の手の甲に触れてきた。

 そっと指先で撫でるように触れてきて、そのまま指だけで俺の手を掴んだ。

 俺はその手を拒めずにいた。


384: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/12/26(土) 16:11:46.30 ID:q3hFP/O0o

 見通しのいい並木道には、かすかな人の気配しかない。

 鳥の鳴き声が聞こえる。
 風がかすかに空気を運んでいる。
 木々は雨粒に濡れてしっとりと艶めいている。
 
 何かを覆い隠すような曇り空もどこか遠くで、薄いカーテンのように心地が良い。

 今は六月で、雨はあがって、埃を洗い落とした空気を吸い込むと体が内側から透き通っていくような気さえする。

 よだかは不意に鼻歌を歌い始めた。

 古いアニメのオープニング。その響きはなんとなくこの場には似つかわしくない感じがして、おかしかった。
「すいみん不足」だ。

 よだかのささやくみたいな歌声は、雨上がりの並木道の静けさに溶けるみたいに広がっていった。
 
 それは悪くない感じだった。


385: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/12/26(土) 16:12:27.58 ID:q3hFP/O0o

 正面から、誰かがふたり、並んで歩いてくる。
 よだかの鼻歌はまだ続いている。

 俺は目を凝らして、近付いてくる誰かの姿を見る。

 俺は、
 よだかの手を振り払った。

 俺は、よだかの方を見る。彼女は一瞬、かすかな驚きを表情に浮かべた。
 歌は止んでいた。

 そうなってからはじめて、俺は自分が手を振り払ってしまったことを意識する。

「浅月?」

 そう呼びかけられても、俺はとっさに反応できなかった。
 自分の手がそういうふうに動いたことを、なぜか認めたくなかった。

「やっぱり浅月だった。デート?」

 正面から歩いてきたのは、佐伯とるーのふたりだった。
 日曜なのに、なぜか制服を着ている。
 
「違う」と俺は答えた。
 
 ふたりはちらりとよだかの方を見た。俺も釣られてよだかを見た。
 よだかは一瞬、俺を見上げたあと、さっと視線を逸らしてから、何も言わずに頭を下げた。


386: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/12/26(土) 16:13:02.79 ID:q3hFP/O0o

「……姉」

 と、俺は答えた。よだかのことについては、上手い答えが見つからない。

「タクミくん、お姉さんいたんですか」

 るーは、何の疑問も覚えずに、俺の言葉を信じたみたいだった。

「ああ」

 頷きながら、俺はよだかの方を見ないようにした。
 
「昨日からこっちに来てたんだよ。今日、帰るけど」

「そうでしたか」とるーはにっこり笑って、よだかに向き直る。

「はじめまして」と挨拶してから、るーはよだかに自己紹介をした。

 よだかは戸惑いつつ、「はじめまして」と返事をして、思い出したように自分の名前を付け加える。
「秋津よだか」と名乗ったことに引っかかりを覚えなかったわけもない。
 
 それでもるーは、そんなことはなんでもないことだというように笑う。

「……ふたりは、学校に行ってきたの?」

 なんとなく据わりが悪くて、話を変えると、頷いたのは佐伯だった。


387: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/12/26(土) 16:13:37.90 ID:q3hFP/O0o

「そう。ちょっといろいろ、確認したいことがあったから」

「確認したいこと、ですか」

「例の、焼却炉の話。なんとなく、気になって」

 佐伯は、いつもみたいにちょっと遠くを見るような目をした。
 気になる。それは、分かる。俺だって気になる。

「……犯人探し?」

「みたいなもの、かな。部長とか林田は興味ないみたいだし、マキはちょっと怖がってるし。
 とりあえずちはるちゃんに協力してもらって、いろいろ話を聞きに行こうと思ったんだ。
 第二……今は第一か。顧問の先生と及川さん、今日は学校にいるみたいだったから」

「第一の顧問か。……ヒデは何か言ってた?」

「タチの悪い悪戯だけど、何かの損害があったわけでもないから、犯人を見つけても穏便に済ませたいって、それだけ。
 先生たちとしては、特に犯人探しをしてる感じじゃないかな。暴力事件とか、窃盗事件ってわけでもないしね。あっちの顧問も同じ感じ」

「……及川さんは?」

「あっちの部員たちの一部は、やっぱりわたしたちの仕業だって疑ってるみたい」

 わたしたち、というより。
 
「疑われるなら、俺だよな」

「まあ、そうなるかな。わたしたちが口裏合わせてると思われてる可能性もあるけど」


388: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/12/26(土) 16:14:04.73 ID:q3hFP/O0o


 俺が佐伯と話している間、るーはよだかと話していた。
 この場に居づらそうにしているよだかに気を使ったのか、それとも意識せずに、そういうことをしたのか。
 よくわからない。

 るーは、よだかが住んでいる街のこととか、俺のこととか、そういう話をしているみたいだった。 
 どうしてそういうふうに、今日会ったばかりの他人と親しげにできるのか、不思議になる。

 でも、どうなんだろう。親しげ、ではないのかもしれない。それがなんなのか、よくわからないけど。

「調べてみて、何か分かった?」

 横目でふたりのやり取りを眺めながら訊ねると、佐伯は曖昧に首を傾げた。

「しいて言うなら……燃やされてた部誌は、『部誌』だと分かるように燃やされてたってことかな」

「まあ、そうじゃないと、何が燃やされてたかなんてわからないもんな。全部燃やさないなら尚の事だ」

「つまり、犯人……とりあえず今はそう呼ぶけど……は、燃やしたと分からせるためにそうしたってことだろうね」

「ああ」

 それについては、単純に思いつく可能性がひとつ。

「……愉快犯って可能性が高いよな」

 佐伯は、俺の目を見て頷いた。


389: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/12/26(土) 16:14:48.97 ID:q3hFP/O0o

「誰かを陥れたり、邪魔をしたりする目的なら、燃やせるものは全部燃やしてるはずだ。
 部誌は同じところにしまってあったのに、ひとつだけが燃やされてた。
 しかも、わざわざ焼却炉を使う理由はない。処分するだけなら、原稿なんて全部持ち帰って捨ててしまえば、証拠も残らないし騒ぎにもならない。
 なのにわざわざ、騒ぎになってほしいみたいに、焼却炉まで使って、しかもわざと、燃え残りで部誌だと分かるようにしてあった」

 でも、そうだとしたら打ち止めだ。
 はっきりした目的があったなら、特定はできるかもしれない。
 でも、腹いせや嫌がらせ、八つ当たりが目的だったとしたら、特定なんてできやしない。

 第二……第一文芸部の部員に恨みを持つ誰か、部員内のいざこざ、まったく関係のない誰かの、意味のない嫌がらせ。
 範囲は広がっていく。

「……そうかも、しれないけどね」

 佐伯のつぶやきは、「そうともかぎらない」と言いたげだった。

「燃やされてた原稿は、第一稿だったんだって」

「……第一稿。部誌の、ってこと?」

「そう。それで、顧問の先生が調べたら、第一が使ってるパソコンから、一稿目のデータが消されてたんだって」

「……」

「どう思う?」

390: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/12/26(土) 16:15:16.35 ID:q3hFP/O0o

 ……第一稿が燃やされてた。第一稿に何かまずいことが書かれていて、それを誰かが人目につかないようにした?
 それが動機だとしたら、容疑者はぐっと絞られる。第一文芸部の部員以外に、部誌の中身を知っていた奴はいないはずだから。

「……いや、でも、それはそれでおかしいだろ。だったら燃やす意味がない。隠れて処分すればいいだけだろ」

「うん。わたしもそう思う」

「それに、パソコンに原稿データが残ってるんだとしたら、第一稿目だけを処分する理由がない。
 データがあるってわかってるなら、全部処分した方が話が早いだろ? だってそうしないと……」

 そうしないと、第一稿目を処分するのが目的だと、特定されてしまう。

「……なんだ、それ」

 混乱する。
 矛盾してる。

 第一稿を処分したのは、そこに見られたくない何かがあったから。
 にもかかわらず第一稿だけを処分したのも、わざわざ焼却炉で燃やして騒ぎにしたのも、第一稿が目的だったと誰かに気付かせるため?
 
「わけわかんないでしょ?」

 佐伯は困ったみたいに溜め息をつく。

「でも少なくとも、パソコンからもデータが消されてたってことは、単なる腹いせとか嫌がらせではなさそうだって思う。
 もちろん、手の込んだ悪戯って可能性も否定はしきれないけど……」
 
 俺は最初から、これがただの嫌がらせだと思い込んでいたし、だから特定なんて不可能だと思っていた。
 それなのに佐伯は、実際にそれを確認して、そうじゃないかもしれないという可能性を引っ張り出してきた。

 なんとなく俺は、それを怖いと思った。


391: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/12/26(土) 16:15:55.92 ID:q3hFP/O0o

「とにかく、第一稿と第二稿以降に差があるなら、その差が、第一稿が処分された理由だよね。
 だとすれば、手直しをした部員に話をしらみつぶしにきいていけば、特定できるかもしれない」

 でも、と彼女は言う。

「もしこれが悪戯だったら犯人探しはためらわないけど、何かの理由があってそうしたんだったら、
 わたしが首を突っ込むことじゃないのかも。そんな感じもするよね」

「……たしかに、わけがわからないけどな」

「そもそも、手直しした生徒って、ほぼ全員なんだけどね。誤字脱字の修正とか、ページの見切れとか」

「……気合入ってたんだな、あいつらも」

「だからこそ、あんなに怒ったんだろうしね」

 聞けば聞くほど、面倒な話だと思う。
 すっきりしない話になりそうな気がしてきた。

392: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/12/26(土) 16:16:41.36 ID:q3hFP/O0o



 話を終えたあとふたりと別れて、よだかを見送りに駅まで向かった。
 
 よだかは歩きながら、何か不思議そうな顔をしていた。
 ずっとるーと話していた。てっきり、そういうのは苦手だと思っていたんだけど、べつに疲れてもいないようだ。

「たくみ、あの子のこと、好き?」

 不意に彼女は、そう問いかけてきた。
 俺は迷って、
 
「どっちのこと?」

 と問い返す。

「わたしと話してた方」

 ……どうして分かってしまうのか、俺にはよくわからない。
 それでも結局、嘘をつくことに意味はないから、

「好きだよ」
 
 と答えてしまった。答えたことに、少しほっとした自分もいた。

「そっか」

 よだかはそれから、ほとんど喋らなかった。


393: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/12/26(土) 16:17:08.95 ID:q3hFP/O0o

「……夏祭り」

「え?」

「夏休みになったら夏祭りがあるから、また遊びにきてくださいって、言ってた」

「……」

「ともだち、みたい」

 俺はいつものように答えに迷う。
 よだかにどんな声をかければいいのか、俺はいつも分からない。
 本当はわかりたくないのかもしれない。彼女への態度を、俺はずっと保留しておきたいのかもしれない。

「帰るね」とよだかは最後にそう言った。

「静奈さんと、あのふたりによろしく」

 俺は彼女のために何かを言ってあげたかったけど、さっき手を振り払ったことをなぜか思い出して、何も言えなかった。
 よだかはもう、甘えた素振りさえ見せない。何かを隠すみたいな無表情だ。

 よだかを見送って駅を出ると、雲の切れ目から太陽の光がそそぎこんできた。
 
 天使の梯子だ、と誰かが言っていた。
 灰色雲の隙間から差し込む光は、わずかな青空を裂け目から連れてきた。

 少し眩しかった。
 るーのことが好きか、と俺は自分に問いかける。
 好きだ、と俺は答える。
 
 でも、それをどうしたらいい?
 その気持ちで、いったい何をすればいいんだろう。
 俺にはきっと、何かを素直に楽しもうという意思が欠けているのだ。


394: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/12/26(土) 16:17:41.14 ID:q3hFP/O0o
つづく

399: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/12/28(月) 23:04:48.19 ID:xLhcaIFOo



「浅月、聞いてる?」

 そんな声で、意識がふっと浮上した。
 声の方を向くと、隣に佐伯が座っていた。どうやら、東校舎の屋上。空を見るに、まだ昼休みだろう。

「……今、どっかトンでたよね、完全に」

 呆れた顔でこちらを見上げてくる佐伯に、俺は戸惑う。 
 
 それから冷静に、思考をまとめる。
 いまは月曜の昼休み。俺は佐伯に呼び出されて、話をきくついでに、一緒に昼食をとっていた。
 
 うん、大丈夫だ。ちゃんと分かってる。

「……えっと、ごめん。何の話だっけ?」

 佐伯は、変なものを見る顔をした。さっきの、呆れた感じの顔とは違う。
 なんだか本当に、変なものを見る目。
 
「……浅月、大丈夫?」

 彼女はそう訊ねてきてから、視線を落として弁当箱の中の卵焼きを自分の口に運んだ。
 自分で作っていると、前に聞いた。それどころか、家事のほとんどは自分でこなしているとか。
 そういう話を聞くと、自分がどれだけ甘ったれているのかを意識させられて、嫌になる。


400: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/12/28(月) 23:05:15.30 ID:xLhcaIFOo

「大丈夫って、なにが?」

「ついさっきまで話してたでしょ。なんで急にわかんなくなるの?」

「いや、それは俺に訊かれてもな……」

「上の空って感じじゃなかったし……まあ、いいんだけど」

「……さっきまで、何話してたっけ?」

 こんなふうに急に、状況がわからなくなるようなこと、今まであったっけ?
 なんとなく、不安になる。
 
 佐伯はまだ、俺が冗談を言っている可能性でも疑っているのか、訝しげな視線を向けてきた。
 俺の顔を見てそれも邪推と気付いたか、彼女はすぐに話してくれた。

「部のこと。けっきょく、投票は大敗だったでしょ。みんな気にしてるだろうな、って」

「……投票」

 ああ、そうだ。そういえば、今日、嵯峨野先輩に借りたDVDを返すつもりで持ってきたんだっけ。
 そういえば俺は……彼のクラスを知らない。部長に確認でもすれば、どうにかなるだろうけど。

「浅月?」

「あ、うん。聞いてる。投票のことな」


401: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/12/28(月) 23:06:28.88 ID:xLhcaIFOo


 投票。第一の座を賭けた、文芸部部誌対決。妙な騒動のせいで、すっかり興がさめて、みんな乗り気じゃなかった。

 結局、俺たちは負けた。

 言い訳は並べられる。
 あっちのほうがこっちよりたくさん部員がいて、層が厚いから、とか。
 あっちは交友関係が広い奴が多いから、友人票がたくさん入ったのかもしれない、とか。

 でも、自分に都合よく考え始めたらきりがない。
 いくら友達が部誌を出して、それで投票があるからって、わざわざ手間をかけて票を入れる奴なんて、そうそういやしない。
 だからこの負けはなんでもない当たり前の結論を出す。

 あっちより、こっちの部誌がつまらなかった、ってことだ。

 気にする、か。
 まあ、気にするよな。

 とはいえそもそも、負ける以前から、こっちの部員は部誌づくりに集中できていなかった気がするけど。
 普段通りならもっとマシなものを書けたはずだ、と負け惜しみのようなことを言うつもりはない。
 でも、みんな変だった。

 ……いろんなことがいっきに起こりすぎて、よく分からなくなってきた。

 ――読むかもしれない『誰か』を意識すると、文章は弱くなる。
 
 そう言っていたのは、誰だっけ。


402: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/12/28(月) 23:07:04.53 ID:xLhcaIFOo


「気分転換とか、したいよね。動物園いったりさ」

「行けばいいんじゃない?」

「そうじゃなくて。みんなで」

「みんなで、ねえ……」

「そう。何かない?」

 佐伯がこんなことを言い出すのは、珍しい。
 というか、佐伯は本来、そういうキャラじゃない。

 いつも周囲と距離を置いて、壁を張って、他人に踏み込もうとしない。誰にも踏み込ませない。
 他人の気分の上がり下がりなんて、自分とは無関係の対岸の火事みたいに考えているんだと思っていた。

「そういえば……」

「ん?」

「水族館、あたらしくできるらしいよな」

「……あ、うん。そういえば。七月に、オープンするらしいね」

「オープンしたら、みんなで行く? 来月になったらテストもあるし、タイミング見計らわなきゃならないけど」

「混みそうだけど、それもいいかもね」

「ま、テストが終わったら夏休みだけどな」

「……浅月」

「なに?」

「……なにかあった?」

“なにか”?


403: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/12/28(月) 23:07:39.39 ID:xLhcaIFOo

 佐伯は首を横に振ってから、思い直すみたいに溜め息をついて、食べ終えた弁当箱を包み直した。
 それから傍に置いてあったビニール袋からシャボン玉を取り出して吹き始める。 

「好きだね、それ」

「べつに好きじゃないよ」

 真剣な顔で、シャボン玉を吹いている。こんな顔でシャボン玉を吹く女の子というのは、そこらにはちょっといない。
 シャボン玉というのは、もっと楽しみながら吹くべきものなのだ。そういうことを想定してつくられた遊びなのだ。

 梅雨の雲は、今日は少し薄い。それでも天気が良いとはお世辞にも言えなかった。

 曇天の下で真面目な顔でシャボン玉を吹く佐伯は、真相を探り当てようと思案する探偵みたいにシリアスだった。

「そういや、例の焼却炉の話。進展はあった?」

「特にないよ。調べるべきかどうかも迷ってる」

「……ふうん?」

「藪をつついて蛇が出てきたとき、責任をとれるとは限らないからね」

「……どういう意味?」


404: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/12/28(月) 23:08:07.58 ID:xLhcaIFOo

 ふー、と、シャボン玉が吹き出て、風に乗って周囲に舞う。

「誰かに愛されたくて、苦しんでる人が、目の前にいるとするでしょう?」

 突然の話題の転換に、俺は戸惑いつつ頷く。
 佐伯の目は、シャボン玉を追いかけている。その目は俺を見てはいない。

「その人に対して、他人が絶対にやっちゃいけないことって、何だと思う?」

「……見て見ぬ振り?」

 佐伯は首を横に振った。

「その人のことを、受け入れようとすること、だよ」

 俺は、戸惑う。

「たとえばね、深い悲しみや苦しみのなかでもがいている人がいるとする。
 その人は、自分にやさしくしてくれる誰かを求めているとする。 
 でも、その人に対して、やさしくしちゃ、いけないんだよ」

「……どうして?」

「際限がないから。愛情飢餓を抱えた人に愛情を与えようとしたら駄目なんだよ。
 愛情を手に入れても、その人はちょっとしたことで不安になる。ちょっとしたことで、愛情を疑う。
 でも、やさしい人はその疑いを晴らそうとする。不安をなくしてあげようとする。一生懸命にね。
 でも、最後には……疲れて、離れていっちゃうんだ」

「……」


405: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/12/28(月) 23:09:24.34 ID:xLhcaIFOo

「そうなるとね、かわいそうなのは、その人なんだよ。
 信じられる相手を見つけても、愛してくれる相手を見つけても、その人も結局、自分に嫌気がさして去ってしまう。
 去られた後は、去られる前よりずっと孤独なの。そして次にやさしくしてくれる誰かに、もっと大きな愛情を求めてしまう」

 ――最後まで責任を取れないなら、やさしさなんてないほうがマシなんだよ。

 佐伯はそう言った。俺には、断罪しているみたいに聞こえた。

「自分をからっぽにして、すべてを犠牲にできるなら、応えてあげてもいいかもね。
 学校や仕事でも、大事な用事でも、家族が急に倒れても、その人が“会いたい”って言ったときに会う覚悟があるなら。
 そういうことを一度でもないがしろにしてしまうと、深く傷ついてしまう人っているんだよ」

「現実的じゃない」

「そうだよ。まともじゃない。そんなの不可能だよ。もちろん、投げ出した人が悪いんじゃない。そんなの無理だもん。でも、そういう人っているんだよ」

「……そういう人たちには、やさしくしちゃいけない?」

「うん」

「じゃあ、どうするのが正解なんだ?」

 俺は本心からそう訊ねていた。どうしてか、責められているような気がした。

「強くなってもらう、か、線を引いてあげる、か、すべてを捧げる、か」

「……」

「いずれにしてもね、中途半端なやさしさなんてない方がマシなんだよ。
 半端な覚悟で何かを覗きこむことなんて、しない方がいい。知ってしまったら、知らなかったことにはできないんだから」

 それが何かの答えになっているのか、俺にはよくわからなかった。


406: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/12/28(月) 23:10:12.12 ID:xLhcaIFOo

「……やっぱり、わたしもちょっと変になってるのかな。部誌のこととか、マキのこととか」

 佐伯は、ちょっと後悔したような顔で、そう呟いた。

「やっぱり気分転換が必要だね。なにか、考えないと」

 そうなんだろうか、と俺は少し考えた。 

 真上を一羽の鳥が飛んでいった。
 佐伯はまたシャボン玉を吹く。

 俺は、必要なのは気分転換ではないと思う。

 高森はともかく、部長やゴローまで調子を崩してしまっているのは、例の勝負で負けたから、ではない。
 俺もそうだから、なんとなく分かるような気がする。

 俺たちが悔しいのは、勝負に負けたことじゃない。
 勝負を意識して、自分たちの書きたいものを思い切り書けなかったことが悔しいのだ。

 負けたけど、俺は俺の書きたいものを思い切り書いた、と、そういう実感さえあれば、敗北をいくら重ねたって強くいられる。
 その実感がないことが、俺たちの敗北感の理由だ。
 
 自分の書いたものを、“他人に受け入れてもらいたい”と思う弱さ。そこに宿った、媚び、阿り。
 それが、俺たちの敗北感の理由だ。

 あっちに負けた。それも事実だ。でも、それは問題じゃない。

 必要なのは気分転換じゃない。ふたたび書き上げることだ。
 書くことから発した敗北や悔しさは、書くことでしか帳消しにできない。

 ……そう思ったけど、どうだろう。べつにそんなこともないのかもしれない。
 よくわからない。
 
 そんなふうにして、昼休みはただぼんやりと過ぎていった。


411: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/01(金) 21:57:05.88 ID:5IXIe6Goo

◇[Birds]

 第一から第二にナンバリングが変わったからって、部室を移動したりするわけじゃない。
 これまで上手く回っていたものを変にいじくりまわすのは誰にとっても厄介なことだ。

 だから俺たち、現第二文芸部は、相変わらず、東校舎三階の文芸部室に集まっている。

 勝負の後、一度だけ及川さんがここにやってきて、「お疲れ様」とか「ありがとう」とか「また何か企画しよう」とか言っていった。
 でも、たぶん実現はされないだろうと思う。

 例の騒動のせいか、彼自身、どこか疲れた感じの顔をしていた。
 
 嵯峨野先輩とのことでどことなく様子がおかしかった高村は、その騒動に更に気分を引っ張られてすっかりふさぎ込んでいた。
 佐伯やるーも彼女をどうにか元通りにしようとがんばっているようだし、高村自身がんばってはいるようだけど、やはり以前までとは違う。

 だからこそ佐伯も、例の騒動のことを調べようと思ったのかもしれないけど。

 俺は俺で、いろいろと考えたいこと(というより、考えたくないこと)があったせいで、平常通りの態度とはとても言えなかった。
 
 対照的に、つい最近まで様子がおかしかった部長とゴローは、どちらも調子を持ち直していた。
 
 よだかが帰っていった日の翌週の水曜、ゴローは不意に顔をあげて、

「そりゃそうだ」

 と呟いた。


412: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/01(金) 21:57:32.65 ID:5IXIe6Goo

「……なにが?」

 と思わず尋ね返すと、よくぞ訊いてくれた、というふうに彼は大きく頷く。

「ミートソースとボロネーゼの違いについて何かを書いたところで、誰も読みやしない」

「……そのこと?」

 ゴローがそういうふうに開き直ったことを言うのは今に始まったことじゃない。
 彼はどこかで自分のことを客観視している部分があって、自分の行動が起こす結果をはっきりと意識したがる。

 今回のも、たぶんそれだ。

「そうだろ? 何を落ち込んでたんだ、俺は」

 言いながら、彼は立ち上がった。彼の膝の裏に押されたパイプ椅子が、床に擦れてギイと音を立てる。

「そんなもんで票が稼げるわけがない。分かってたんだ。当たり前だろ? 票を稼ぐつもりで書いたわけじゃないんだ」

 ゴローは胸の前に握りこぶしをつくって、演説するみたいに言葉を吐いた。

「そうだ。票を稼ぐつもりで書いたわけじゃない。負けたって当たり前だ。負けたくないなら、もっとそういうことを意識しなきゃいけなかった」

「……べつに、ミートソースとボロネーゼの違いを書くにしても、票を稼ぐことを意識しようと思えばできるもんね」

 答えたのは部長だった。ふたりを除く部員たちは、彼らのテンションに呆気にとられたまま沈黙する。


413: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/01(金) 21:58:15.56 ID:5IXIe6Goo

「題材が一般受けしないなら、文体とか、そういうところに面白みをつくれればいいんだろうし」

 部長の言葉に、ゴローは少し考えたような素振りをみせた。

「たしかに。……でも、それは擦り寄るってことじゃないですか?」

「歩み寄る、って言い方もできるよ」

「……」

「上から目線で言えば、譲歩、でもいいけど」

「……なるほど。譲歩ですか」

 ゴローはうんうん頷いた。

「譲歩。いい言葉だなあ。それで行きましょう。要するに俺は、自分で思ってたより勝ち負けにこだわってたみたいだ」

 ゴローはにやけた顔でまた頷くと、ゆっくりとパイプ椅子に座ろうとして、大きな音を立てて床に尻もちをついた。

「いってえ!」

 パイプ椅子は彼が立ち上がった拍子に、彼が思っていたよりもうしろに押し出されてしまっていたみたいだった。
 
「……なにやってんだ、おまえ」

 さすがにみんな、ちょっと笑った。

「うっせえ」と、照れたのか、ふてくされた顔で彼は俯いた。


414: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/01(金) 21:59:29.37 ID:5IXIe6Goo

 改めて座り直して、ゴローは真面目な顔になった。

「さて、"それはそれ"だ」

 彼はそう呟いて、俺たちの顔をゆっくりと見回した。

「なんでこんなに気分が落ちてるのか、俺も自分でちょっと考えてみた。そしたらなんとなく分かった。
 たぶん、いくつかの要因が重なってるんだ。一個一個、それを分割して考えてみなきゃいけない。一個目はそれ。負けたことだ」

 それについてはいい、次勝てりゃいい、と彼は手をひらひら揺すった。

「もうひとつの原因は、水を差されたことだ」
 
 みんな、ゴローに注目していた。こいつがこんなふうに、部員全員に何かを言うことなんて、珍しい。 
 いつもはひとりで、隅の方で個人作業に打ち込んでいるような奴だから。

「焼却炉で部誌の原稿を燃やす。おかしな話だよな。なんでそんなことしなきゃならない? 
 そのせいであの勝負は、勝っても負けてもすっきりしなかった。負けたから余計にすっきりしない」

 佐伯の顔をちらりと見る。彼女はいつもみたいな、感情の読めない静かな顔で、ゴローの方を見ていた。
 
「あっちの部員の何人かは、俺らの仕業って疑ってるくらいだ。正直、ムカつく」

 だろ? とゴローが同意を求めてきたので、俺は曖昧に頷く。
 たしかに、いい気分はしない。


415: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/01(金) 21:59:55.22 ID:5IXIe6Goo

「……あれ、誰がやったんだ?」

 ゴローの言葉に、みんなが沈黙した。
 そんなの、知るわけない。

 おかまいなしに、ゴローは言葉を続けた。

「部長、やりました?」

「やってないよ」

 部長は戸惑う素振りも見せずに否定した。

「佐伯か?」

 佐伯はしずかに首を振った。

「高森」

「まさか」

 高森は、心外だ、というふうに大袈裟な身振りをした。

「藤宮?」

「……いえ」
  
 るーもまた、首を振る。

「そんじゃ、アリバイのないタクミ」
 
 注目が俺に集まる。ゴローの視線は射抜くみたいに冷たく思えた。
 もちろん、気のせいなんだろうけど。

「……俺じゃない」

 と答えると、少しの沈黙のあと、みんなの緊張がわずかに緩んだのが分かった。


416: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/01(金) 22:01:02.14 ID:5IXIe6Goo

「俺たちじゃない」とゴローは断言した。

「でも、誰かがやったんだ」

"誰か"。

「……誰なんだ?」

 さっきと同じ問い。また、同じようにみんなが沈黙する。

「なんのつもりか知らないけど、ムカつく。腹が立つ。わけがわからないし、混乱する。その分余計に腹が立つ」

「……話の流れが、よく見えないんだけど」

 高森は、不安そうにゴローを見た。佐伯の方をうかがうと、彼女もまた、ちらちらと俺やるーの方をうかがっている。
 話すべきか話さないべきかを、決めあぐねているようだ。

「つまりゴロちゃんは、何が言いたいの?」

「もしあれが、誰かの悪意なら、それをやった奴は、俺たちを混乱させて、第一の奴らを戸惑わせて、喜んでるかもしれないだろ?」

 それはムカつく、とゴローは言う。

「そういうのを想像すると、すごく腹が立つ。そいつに、一言言ってやらなきゃ気が済まない。
 ……どうにかして、"そいつ"が誰なのか、調べることはできないかな」

 ゴローの言葉は、基本的に一人称単数で、話の根拠は基本的に自分の感情だ。
「であるべき」とか、「なければならない」みたいな言葉は使わない。

 俺はむかつく。だから俺は調べたい。それを単純と呼ぶか誠実と呼ぶか、俺には判断がつかない。


417: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/01(金) 22:01:43.12 ID:5IXIe6Goo

「ひとつ質問」

 静かに手を挙げた佐伯に、ゴローの視線が向く。みんなが彼女の方を見た。

「それが悪意なら、っていうのは分かったけど、じゃあ、それが悪意じゃなかったら?」

 ゴローは、眉間を寄せた。何が言いたいのかよくわからない、という顔だ。

「それが悪意じゃなくて、何かの理由がある行為だったとしたら?」

「どんな?」

「それはわからないけど、わたしたちにはわからない、止むに止まれぬ事情があったとしたら?
 林田は、そのときどうするの?」

「事情次第だけど、文句は言わないかもしれない」

「でも、その人が、調べられたくない問題なのかもしれないよ。知られたくないことかもしれないよ」

「……そんなの、調べてみなきゃわからないだろう」

 ゴローは妙にはっきりとした口ぶりでそう言った。

「とにかく俺たちは、程度はどうあれ、そいつの行動に迷惑してるんだ。
 知られたくないなら無理に知ろうとしたくはないけど、でも、悪意だったらそいつは野放しだ」

 たしかに、そうなのだ。
 関わられるのが嫌なら、他人に飛び火しないように、やらなきゃいけない。 
 飛び火した以上は、「知られたくない」じゃ済まない、のかもしれない。


418: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/01(金) 22:02:35.28 ID:5IXIe6Goo

 それでも佐伯は、考えこむように俯いていた。
 その"誰か"に感情移入してしまっているみたいに見える。
 まるで彼女自身、知られたくないことを持っているみたいに。

 もちろんそんなのは、それこそ程度はどうあれ、誰にでもあるようなことなんだろうけど。
 やがて佐伯は、諦めたみたいに溜め息をついて、俺とるーの顔を順番に見た後、口を開いた。

「だったら、一応話しておく」

 そう言って彼女は、土日を使って彼女が調べあげたことと、そこから生まれた仮説についてみんなに話した。
 部長とゴローは、「佐伯がそういうことをした」ことに驚いていたが、すぐに話を聞くのに集中し始めた。

「なるほどな」

 話を聞き終えると、佐伯の質問の意図が分かったからか、ゴローは得心したようにしきりに頷く。
 そこからまた静かな沈黙があった。

 高森とるーは口を挟まない。俺も、何も言わずにおく。

「たしかに何か事情がありそうな感じがするな」

「……と、そう思うのは、わたしたちが文芸部だからかもしれないよね」

 部長のその言葉に、みんなが一瞬虚を突かれた。 


419: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/01(金) 22:03:11.40 ID:5IXIe6Goo

「どういう意味ですか?」

「本当は、意味なんてない、ただの嫌がらせなのかもしれないよ。
 それを意味ありげに感じるのは、わたしたちが、物語をつくるって形で、点と点を結ぶことに慣れてるからかも。
 空白はただの空白で、点はただの点なのかもしれないじゃない?」

「……でも、俺は気になります。だから調べます。いいですよね? 部長」

「うん。駄目とは言ってない。わたしも、たしかに気にならないことはないし。がんばってね」

 部長は、協力する気なんてさらさらなさそうだった。俺はなんとなく意外な気がした。

 俺は、一連の流れに、戸惑うばかりだった。

「……どうした、タクミ?」
 
 察したみたいにかけられた声に、とっさに上手く返事ができない。

「……いや。本当にそれ、俺たちが関わってもいいことなのかな」

 ゴローは不思議そうに眉をひそめた。

「関わるべきじゃないのかもしれない、と思う」

 ゴローは、戸惑ったように周囲を見回した。みんな、戸惑ったような顔で、俺の方を見ている、ような気がする。

「――なあ、タクミ、おまえ、何言ってるんだ?」

 俺は、言葉に詰まる。自分が言ったことが、そんなにおかしいことだとは思わない。
 でも、みんな、やっぱり、不思議そうな顔で俺のことを見ている。
 
 俺は、言葉をなくして、俯く。からだが、こわばる。居心地の悪さに、身が竦む。
 ……俺は、何か変なことを言ったのだろうか。


423: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/04(月) 23:43:23.06 ID:YPzN12kuo



 屋上から見上げる空には鳥が飛んでいる。
 六月下旬の空は高い。

 俺は東校舎の屋上に立っている。ほとんど習性のようなものだ。特定の気分に陥ると、俺は高い場所に行きたくなる。
 でも、高いところ、じゃないのかもしれない。屋上という場所の、もっと別の要素を求めて、俺はここにくるのかもしれない。

 それがなんなのかは、うまく思いつかない。

 今日受けた授業のこと、何気ないクラスメイトとの会話、最近読んだ本、バイト先での先輩やお客さんとのやりとり。
 そういうことは俺にだって起こる。俺にだって生活というものがあるのだ。

 特定の商品の組み合わせで自動的に出力されるキャンペーンレシートの説明が面倒だという話をバイト先でした。
 授業で差されたとき、自分ではうまく答えられたつもりだが、教師の質問の意図とは違う答えだったせいで間違ったような雰囲気になった。
 図書室で本を借りるとき、委員側の手違いで貸出の処理がされておらず、返却のときに待たされた。

 コンビニで傘を盗まれた。ぼーっとして歩いていたら地下鉄の改札で引っ掛かって恥ずかしかった。何もないところで転びそうになった。
 部活帰りにるーと一緒に歩いていたら、翌日クラスメイトに彼女じゃないのかと囃し立てられた。帰り道の途中の公園でいつも見る猫がようやく抱かせてくれた。

 そういうことを、俺は、どうして素朴に楽しめなくなってしまったのか。
 なんてことを考えてしまって、意識が頭の中に引きこもるから、きっといろんなものが遠くなったんだろう。

 いつのまにか。 
 

424: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/04(月) 23:44:06.29 ID:YPzN12kuo

 こんなときに、遊馬兄のことを思う。
 たぶん、彼は逆だったんじゃないか、と。

 彼には、世界が逆だったんじゃないか。

 思考にとらわれ、行動を疎かにする俺とは反対に、彼の意識はまず行動し、思考は追いかけるように存在していたんじゃないか。
 そんな気がする。

 俺は遊馬兄じゃないから、遊馬兄の考えることは分からない。本当のことなんて、分からない。

 子供だから、というのもあったけど、俺は遊馬兄と静奈姉が好き合っているものだと思っていた。
 少なくとも静奈姉は……でも、今は、違う。

 当時から、そうだったんだろうか。

 よくわからない。俺が考えることでもないような気がする。
 
「ここにいたんですか」

 と、うしろから声がした。

 るーだった。


425: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/04(月) 23:44:47.47 ID:YPzN12kuo

 そうだな。
 試しにやめてみよう。

「やあ」と声をかけてみた。
 放課後の屋上に来客があるのは珍しいことじゃない。というか、むしろ俺だって、来客側なのだ。
 佐伯や、他の部の部員たち。内緒の相談ごとや気分転換にやってくる奴は少なくない。

 そういえば以前、第一の部員たちがここで何かを話していたっけ。
 そのときのことを思い出せば、例の件についての何かのヒントにならないだろうか。
 人間関係や、トラブルの種になりそうなできごとがわかれば、

 ストップ。

「どうした? こんなとこに」

「タクミくんを探してたんですよ」

 るーはにっこり笑う。

「何か用事?」

「そういうんじゃないですけど、様子が変だったので、気になって」

「変だったかな」

「はあ。まあ、ちょっと。怖い顔してました」

「怖い顔か」

 怖い顔。顔っていうのも不思議なものだ。心はすぐに体に出る。顔に出る。
 分かりやすい奴と分かりにくい奴はいる。でも、訓練でもしないかぎり、絶対に出る。
 出ないとしたらそいつは何かの病気だ。鈍くなっている奴だ。

 ペンギンの翼で飛ぶことができないように、意味のない表情はなくなっていく。
 他人とコミュニケーションをとらなければ、表情はきっと、

 ストップ。


426: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/04(月) 23:45:19.58 ID:YPzN12kuo

 さて、と俺はとりあえずの成果を意識する。ストップ、と思考を止めればどうにか思考は止まってくれる。
 この調子だ、と"考えつつある"自分を意識の中の言語化される前の混沌の中に追いやる。
 と、考えている自分は既に考えているのではないか、と……ストップ。

 まあ、慌てるな。

「タクミくんは、変わらないですね」

「……そうかな。自分ではけっこう、変わっちゃったなあって思うんだけど」

「わたしが言うんだから、そうなんですよ」
 
 そうだろうか? 彼女と俺は、たしかに子供の頃に一緒に遊んだ。でも、ちょっとの期間だけだ。
 ずっと知っていたわけではない。彼女が知っている俺なんてごくごくわずかなものだし、それは俺の方からしたってそうだろう。
 記憶だって印象にぼやかされて曖昧だ。彼女の漠然とした印象と現在の俺が合致したからって、それは変わってないってことには、

 ストップ。
 
 溜め息が出そうになる。
 気を抜くと、自分のことばかり考えてしまう。
 反射、スキーマ、自動思考。癖になっている。


427: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/04(月) 23:45:52.38 ID:YPzN12kuo

 そんなことより俺はもっと、目の前のことを大事にするべきなんだ。
 
 そう思って、るーの方を見る。

 彼女の髪が柔らかになびいている様子のこととか、
 その穏やかな表情が、俺の方を見るとちょっと困ったふうになることとか、
 不意に落ちた影を追って鳥を見上げるときの顔に、あの頃の面影があることとか。

 そういうことばかりを考えていればいいのに。

「るーも変わらない」

「……なにがですか?」

 ちょっとうさんくさそうに、彼女は笑った。
 俺の好きな笑い方だ。

「表情が。懐かしい」

「……なんかそれ、恥ずかしいですね。ホントですか?」

「俺が言うんだから、間違いない」

 彼女はまた笑う。

 ……本当か? それはただ、"言われてみれば"とか、そういう思い込みの類では、
 ストップ。

 そう思ったのは本当だ。


428: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/04(月) 23:46:18.83 ID:YPzN12kuo

「ね、タクミくん」

「なに?」

「なんか無理してません?」

 ……あっさり見透かされてしまった。

「……なこと、ないけど」

「そう、ですか?」

 否定すると、ちょっと自信なさげになる。
 
「そういうふうに見えた?」

「見えました。けど、気のせい、みたいですね」

 否定するなら、そういうことにしておこう、というふうに。
 

429: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/04(月) 23:46:44.47 ID:YPzN12kuo

「ねえ、るー。ゴローの言ってたこと、どう思う?」

 そう訊いてみたかったのに、俺は結局口には出さなかった。
 訊いたところで、どうなるというわけでもない。

 乗り気なゴローと、傍観の部長。第二文芸部の態度はまっぷたつに別れた。
 というより、どっちもべつに、部全体を巻き込もうと言う気はないらしかったけど。

 ゴローよりの態度を示したのが、意外にも高森だった。

 あの出来事に理由があったならわたしは知りたい、と彼女は言った。

 反対に、ついこの間まで積極的に調べていた佐伯は、参加を決めあぐねていた。

 俺とるーは、態度を保留した。どちらかといえば傍観になるが、だからといってまったく気にならないわけでもない。

 あのときのゴローの表情が、ずっと頭にちらつく。

 ――なあ、タクミ、おまえ、何言ってるんだ?


430: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/04(月) 23:47:35.30 ID:YPzN12kuo

「ストップ」

 と今度は口に出して言ってみた。
 
 沈黙を破った俺の声に驚いて、るーはこっちを振り向く。

「な、なんですか?」

「あ、や……なんでもない」

「……ちょっとトンでました?」

「まあ、そんなとこ」

 ああ、くそ。

 心配されてる。のか。いや、そう見えるだけで、それは思い上がりなのか。
 俺なんかを、気にかけてくれるなんて、思い上がりじゃないのか。ただ付き合いがいいだけで、面倒がっているんじゃないのか。
 それともそう思う卑屈さは、相手に対して失礼なのか。

 わけがわからないんだ。どうしてこうなったのか。

 いろんなものが頭の中に押し寄せてきて、いろんなことが楽しくなくなって、楽しめない自分が、周囲から浮いているような気がしてきた。
  
 そういう混乱を、俺は未だに持て余している。

 考えてみれば当たり前だ。
“どう反応するのが正しいのか”なんてことを誰かと話すときにいちいち考えてしまう奴なんて、コミュニケーション能力に欠陥があるに違いない。
 普段はここまでじゃない。ないはずなのに。

 今日は、近頃は、やけに……神経症的だ。


431: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/04(月) 23:48:31.09 ID:YPzN12kuo

「ね、タクミくん。よだかさん、元気ですか?」

「え?」

 突然割り込んできた声と、そこで出た名前に、ちょっと驚く。

「もっとお話してみたかったです」

 どうして急に、と思ったけど、そういえばるーは、以前もそうだった。
 知らない人と話したり仲良くなったりするのが得意だった、わけではない。

 共通項があるのかないのかは知らないが、ある特定の人たちに対して、るーは懐くのが早い。
 静奈姉とはあまり話していなかったけど、遊馬兄とはよく話していた。
 そんなふうに。

「……わからない。帰ってから連絡、きてないから」

「そう、なんですか?」

 何を言えばいいかもわからないし、それに、よだかの連絡に反応するばかりで、俺から連絡をしたことはほとんどなかった。


432: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/04(月) 23:49:03.42 ID:YPzN12kuo

「タクミくんからは、送らないんですか?」

「……」

 考えていたことを言い当てられて、俺は少し戸惑った。

「……べつに、死んではないだろうし」

「それはそうでしょうけどね」

 でもそれは間違いだ。ひょっとしたら死んでいるかもしれない。ないとは言い切れない。

「また遊びにきたりしないんですか?」

「……そのうち、連絡が来るとは思うよ」

「そうですか。また会ってみたいなあ」

 けれど結局、七月になってもよだかからの連絡はなかった。


438: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/09(土) 22:39:08.94 ID:9DfGX5kWo



「きみはいつもつまらなそうだね?」

 嵯峨野連理はそう言った。放課後の図書室、窓際の席で、彼はひとりで本を読んでいた。

 七月のある日のことだ。
 俺は部長に嵯峨野先輩の居場所を訊いて、ここにやってきた。
 いつもではないけれど、彼は図書室で本を読んでいることがある、と彼女は言っていた。
 
 借りたものを返さなければ人の道に悖る。
 というわけで、借りっぱなしだったDVDを彼に返すために、俺はここにやってきていた。

 西日差す本校舎二階。先輩は本当にそこにいた。

 その彼が、ページに目を落としたまま、少しからかうような調子で言った言葉が、俺の気分を妙に沈ませる。

「そうですか?」

 尋ね返すと、彼は困ったふうに笑う。こんなふうに笑う人だっただろうか、と俺は少しだけ考えた。
 けれどよく考えれば、嵯峨野先輩とふたりきりで話す機会なんて、今まではほとんどなかった。

 思い返してみれば、俺は彼について何かを知っていると言えるだろうか。


439: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/09(土) 22:39:47.01 ID:9DfGX5kWo

 答えがもらえなかったから、俺はひとまずDVDを手渡した。

「どうだった?」

「おもしろかったです」

 それ以上の感想を言う気にはなれなかった。映画の感想のようなものを、俺はあまり他人と共有する気になれない。

「そう。ならよかった」

 彼はこっちに目すら向けてくれない。俺のことなんてどうでもよさそうな態度だ。
 
 印象とはだいぶ違う。
 人当たりがよく、誠実な人間。そんなイメージを勝手に抱いていた。
 それは錯覚だったのかもしれない。それとも、本に集中したいだけなのか。

「……何を読んでるんですか?」

 どっちなのか確かめたくて、俺はそう訊ねてみた。
 彼は本を持ち上げて背表紙をこちらに向けてくれた。 

 宮沢賢治全集。

 なんとなく、そのタイトルが嵯峨野先輩のイメージとつながらなくて、俺は戸惑った。

「好きなんですか?」

「どうかな。試しに読んでみただけなんだけど」

 彼はそう言って、本を閉じた。


440: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/09(土) 22:40:30.95 ID:9DfGX5kWo

「よだかの星。読んだことある?」

「……」

 彼はただ、今読んでいた話のタイトルを挙げただけなのかもしれない。
 それはただの偶然なのだろう。そうとしか思えない。

 その奇妙な偶然が、俺の胸の内側をざわつかせた。

「ええ、まあ」

 俺は、そう答えた。

「"一たい僕は、なぜこうみんなにいやがられるのだろう。"」

 嵯峨野先輩は、ささやくようにその一文を諳んじた。
 
「バカな鳥だと思わないか?」

 今度は、俺の目を見て、彼はそう言う。

「名前なんて捨ててしまえばよかったんだ。そうすれば、生きることはできた」

「それで幸せになれたでしょうか?」

 とっさにそう聞き返すと、彼は怪訝そうに俺の顔を見た。


441: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/09(土) 22:40:59.87 ID:9DfGX5kWo

 鳥。
 そういえば、嵯峨野先輩の下の名前は連理だ。

 おそらく、由来は連理の枝だろう。
 男女の深い絆を、隣り合った木々の枝が絡みあい結びつくさまにたとえた言葉。

 白楽天は、それに比翼の鳥という言葉を並べた。
 片翼ずつの羽を持ち、雌雄一対となって空を飛ぶ、空想上の鳥。
 一羽では飛ぶことのできない生き物。
 
 比翼の鳥、連理の翼。
 並べて、比翼連理と呼ばれる。

  在天願作比翼鳥
  在地願爲連理枝

 切れない絆、不断の愛情、一個として完成するふたつの魂。
 ひとりでは飛ぶことのできない鳥。ひとつでは孤独のままの樹木。

 その名を背負うというのは、どんな気分なのだろう。


442: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/09(土) 22:41:27.16 ID:9DfGX5kWo

 バカな鳥、と嵯峨野先輩は言う。
 俺はそうは思わない。思えない。

 一疋の甲虫が喉を過ぎたときの、「せなかがぞっと」する思い。
 その「胸のつかえ」。「大声で泣き出し」たくなる気持ち。

 それを俺は、どうしても他人事とは思えない。
 自分のことのようにさえ感じる。

「宮沢賢治は、あんまり好きじゃないな」

 嵯峨野先輩はそう言って、本を机の上に置いた。
 俺は、今なら、彼に気になっていたことを訊けそうな気がした。

 これまで、どこか繊細そうな印象があったからためらっていた。
 でも、それは錯覚か、彼自身の無自覚の演技だったのかもしれない。

 少なくとも今目の前に居る彼は、俺の言葉などするりとかわしそうに見えた。

「気になっていたんですけど、嵯峨野先輩は、高森のことが好きだったんですか?」

 自分でも驚くほど、踏み込んだ質問だった。
 こんなふうに誰かに踏み入ることを、なぜだろう、俺はいつも避けていたような気がする。

 嵯峨野先輩は軽く笑ってから、目を合わせずに答えてくれた。


443: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/09(土) 22:41:54.84 ID:9DfGX5kWo

「気になっていた、が正しいかな。仲良くなりたくてふたりで出かけたいっていったんだけど、断られた」

 俺は少し意外に思う。
 てっきり、告白でもしたのかと思っていた。

「きっぱりとね。そういうのはできない、って」

 できない。高森の言いそうな台詞だ。
 女であることにどこか戸惑っているような彼女らしい。

 それは俺の、勝手なイメージなのかもしれないけど。

「じゃあ、高森のことはもういいんですか?」

 彼は少し笑った。

「本当に、仲良くなってみたいだけだったんだ。好意というか、惹かれてるところはもちろんあったけど。
 でも、そこで終わってしまえばそれだけのものだろ? べつに彼女だけが女の子ってわけでもない」

 俺は反応に困った。

「俺はよく思うんだけど、好きな相手なんて変わるものだろ? そのときどきの気持ちを抱えるのもいいとは思うけど……。
 ずっと同じ相手にこだわってばかりでも仕方ない。終わったことは終わったことで、始まるものは始まるものだ。
 一個一個を大切にしすぎると、結局ひとつひとつをないがしろにする結果になってしまうと思うんだ」
 
 その言葉の割り切りのよさ、切り替えの速さが、好きじゃない、と俺はなんとなく思った。


444: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/09(土) 22:42:56.36 ID:9DfGX5kWo

 混乱。
 静奈姉のこと。父さんのこと。俺自身のこと。
 
 所詮人間は動物で、恋愛は社会的な枠に取り込まれた、欲望の別の言い方に過ぎない。
 そこにそれ以上のものを求める人間は、どこかで破綻を迎えるしかないのかもしれない。

 ……自分で言うのもなんだけど、やっぱり俺はロマンチストだ。

「……本当にそう思いますか?」

 彼は、その問いに困った顔をした。やさしい表情だった。

「恋愛っていうのはさ、はっきりいって幻想の投じ合いだと思うんだ。
 自分のなかで本当に満ち足りた、完成された愛情というのが生まれるのは、相手が傍にいるときじゃない。
 相手と過ごすときじゃない。それがうつくしいのは、相手が傍に居ないときに、真実でない相手の幻影を見るときだ。
 自分のなかの相手のイメージを愛しく思うときだ」

「……」

「そこに、相手の真実の姿や生活を持ち込むと、愛情に現実的な手触りが追随してくる。
 そうすると、うつくしいだけではいられない。相手が得られないとき、恋はもっとも綺麗なんだと思う。
 それがすべてとは思わない。でも、そういう形があってもいいとは思う」
  
 ずいぶん、詩的な、そして独善的な言葉だと思った。
 相手の気持ちを、存在を、まるごと無視するような。

 俺はそれを、なぜか理解できると思ってしまう。

 知ってしまわなければうつくしいままなら。知ってしまって失われるものがあるなら。 
 それを幸福と呼ぶなら。


445: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/09(土) 22:43:28.86 ID:9DfGX5kWo

「蒔絵ちゃん、元気?」

「……ええ、まあ」

 落ち込んでいる、なんて、俺は言いたくなかった。それに、本当にあのまま落ち込んでいるわけでもない。

「そっか。よろしく伝えておいてよ」

 そう言って彼は立ち上がった。
 俺は呼び止めなかった。
 
 机の上には宮沢賢治の全集が置かれたままだった。
 手に取り、ぱらぱらとめくってみる。

 銀河鉄道の夜、よだかの星、めくらぶどうと虹。

 宮沢賢治という空想家、理想主義者。
 詩人、作家、哲学者。

 俺は彼のことを嫌いになれない。


446: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/09(土) 22:44:30.64 ID:9DfGX5kWo

 少しすると、入り口の方から足音が聞こえてきて、俺の傍へと近付いてきた。

「タクミくん」、と声は言った。

 るーが居た。西日に照らされた表情は、薄暗さにまぎれて、こめられた感情がうまく読み取れない。

「探しました。ね、一緒に買い物に付き合ってくれませんか?」

「……買い物?」

 現実から遊離した、茫漠とした意識に、その言葉は、奇妙な響きを持って聞こえた。

「はい。このあと、用事ありますか?」

「いや」

「だったら付き合ってください」

 俺はうなずいて、本を棚に戻す。それから図書室をふたりで後にした。

 言葉にすらならない考えごとが、頭のなかでしばらく渦巻いていた。
 現実感を取り戻すまで、しばらく時間がかりそうだと思った。

449: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/11(月) 22:34:45.09 ID:E2jpHfOdo



「もうすぐ蒔絵先輩の誕生日なんですよ」

 並んだまま校門を抜けてすぐに、るーはそう言った。

 冷静に考えれば、るーが入部したのは五月のこと。それからもう二ヶ月近い時間が流れている。
 時間の流れというのが、今の俺にはなぜか他人事のように思える。
 
 密度や重みや実感というものが、感じられない。全部が遠いのだ。
 
「プレゼント、買うの?」

「はい。とりあえず、小物とか、文房具とかにしようと思うんですけど」

 並んで歩くとき、

 それにしても、誕生日プレゼントか。

「絶対あいつ、ウェブマネーの方喜びそうだな」

「否定できませんねー」


450: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/11(月) 22:35:11.01 ID:E2jpHfOdo

「で、どこに行くの?」

「とりあえず、商店街の方に見たいお店があるので」

 るーに流されてついてきたものの、そういえば近頃は、ろくに部室に顔を見せていない。
 荷物を置いたりはしているから、一応出席している形にはなっているが、
 大半の時間を他の場所で潰したりしている。

 みんながどうしているのか、いまいち分からない。

 まあいいか。……第一、なんだって部活のことばかり考えていなきゃいけないんだ。
 べつに、なきゃ困るってもんでもない。

 ……こういう、極端な考え方をしてしまうところが、よくないのかもしれない。

 なんてことを考えているうちに、大通りの雑貨屋にやってきていた。
 店に入ってすぐ、キーホルダーの並べられた棚で立ち止まると、るーは「くらのすけー」とか言いながら目をきらきらさせはじめた。

 やっぱり何度見ても変なキャラクターだ。


451: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/11(月) 22:35:37.33 ID:E2jpHfOdo

 とはいえ、今日の目的はくらのすけではない。
 
「高森、どんなものなら喜ぶんだろうな」

 るーは「うーん」と唸りながらキーホルダーを置いた。
 さすがにくらのすけのキーホルダーで高森が喜ぶと思うほど盲目ではないらしい。

 それから彼女は、ちらりと俺が背負っていた鞄を見た。

「タクミくんは、つけてくれてますよね」

 なんとなく、含みのある感じで、るーの視線は鞄につけられたキーホルダーへと向かう。

「そりゃ、まあ……」

 さすがに、もらったまま部屋に放置というのは、なんとなく申し訳ないし。
 それに、嬉しくないというわけでもなかった。物自体に関してはともかく。


452: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/11(月) 22:36:08.99 ID:E2jpHfOdo


「ふむ」

 とうなずいて、るーは満足気に笑った。

「……なに」

 据わりの悪さに思わず拗ねた感じの声が出たが、彼女は気にしたふうでもなく、

「いえ。贈り物を身につけてもらえてると、やっぱり嬉しいものですね」

 素直に喜んでみせた。

 それから彼女は背負った自分の鞄を俺の方に向けて、

「おそろいですよ」

 と、やっぱり変な顔の熊のぬいぐるみを向けてくる。

 かなわない。

「かわいいですよね」

 ……かわいいってなんだっけ。
 

453: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/11(月) 22:36:48.11 ID:E2jpHfOdo

 店の奥へと足を踏み入れて、るーは手近な商品を品定めしはじめた。 
 
「タクミくんならどんなものをもらったら嬉しいですか?」

「どんなものでも、祝われれば嬉しいと思うよ」

「そうですか。あんまり参考にはなりませんねー」
 
 ……まあ、一月も経てば、昔の調子を取り戻しもするか。
 こういう子だった。

「蒔絵先輩のほしいものがわかれば簡単なんですけど……」

「ウェブマネーだろ?」

「……まあ、ほしいものは自分で買いたいってタイプの人もいますもんね」

 二度目以降はスルーらしい。

「……タクミくんなら、どんなものをもらったら嬉しいですか?」

「……俺?」

「欲しいものとか、ないんですか?」

 ほしいもの……。


454: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/11(月) 22:37:23.44 ID:E2jpHfOdo

「……特にないけど、もらうなら使いやすいものだと嬉しいよな」

「……ペンとか、手帳とか?」

「そこらへんは、自分で買って気に入ってるって場合もあるしな」

「実用品に関しては、そうかもですね。最悪、使ってもらえなくても仕方ないですけど」

「……」

 高森が喜びそうなもの。本当にウェブマネーしか思いつかない。
 ……ネットゲームのサントラとか? あるのか?

 るーはしばらく店内をうろうろして、いろんな商品を手にとったりしていたが、めぼしいものは見つからなかったらしい。
 難しいものだ。

 しかし、高森に誕生日プレゼントか。


455: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/11(月) 22:37:53.32 ID:E2jpHfOdo

「タクミくんは、何かプレゼントするんですか?」

 不意にそんなことを訊かれて、俺は戸惑った。

「……え? 高森に?」

「はい。去年は?」

「何もしなかったよ。そもそも誕生日知らないし」

「……そんなものですか」

 ふーん、とるーは頷く。

「でも、せっかくですし今年は何か渡してみては?」

 ほらこれとか、とるーはジョークグッズっぽい猫耳風カチューシャを自分の頭につけた。
 なんでそんなもん売ってるんだ。

「やめとくよ。そういうの、今更だし。戸惑わせるだけだろうし」

「……ふむ?」

 るーはちょっと怪訝そうな顔をしながら、カチューシャを外した。


456: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/11(月) 22:38:33.80 ID:E2jpHfOdo

 結局、るーが何を選んだのか、俺は知らない。
 ファンシーショップは客層以前に色彩からして居づらくて、彼女の会計を待たずに、俺は店の軒先へと出た。

 七月ともなると夕方でも空はそこそこ明るいが、図書室を出た時点で空は赤みがかっていた。
 もう、とうに日は暮れ始めている。

「おまたせしました」と店から袋を提げて出てきたるーと、地下鉄駅へと向かった。
 
「もう一月もしないうちに一学期が終わるんですね」

 歩きながらのるーの言葉に、意外なほどの驚きを覚える。
 そうか、と思う。

 もうすぐ夏休みなのだ。

「……その前にテストがあるな」

「ですね。勉強しないとなあ」

「るーは、勉強できるんだっけ?」

「うーん……教科によりますけど、得意とは、言いがたいかもですね」



457: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/11(月) 22:39:22.88 ID:E2jpHfOdo

 ま、それはともかく、とるーはごまかすみたいに話を変える。

「夏休み、ですよ。せっかくですし、夏らしいこと、したいですよね」

「夏らしいこと……」

「タクミくんは、何かしたいこととかないんですか?」

 したいこと。
 ……こういう質問に途方に暮れてしまうのって、俺だけなんだろうか。

 やりたいこととかないの、とか、ほしいものとかないの、とか、休みの日は何をしているの、とか。
 答えに詰まるたびに、自分に何かが欠けているような気分になる。

 誕生日を祝われることだって、いつのまにか、そんなに嬉しいことではなくなってしまった。
 いつのまにか、なんとなく。

 きらきら。

「……特には」

「そうですか。昔は、バーベキューとかしましたよね」

「ああ、うん」


458: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/11(月) 22:40:10.74 ID:E2jpHfOdo

「タクミくんは……」

 何かを言いかけて、るーはそのまま押し黙った。
 うかがうような沈黙。俺は反応に困る。急に話が途切れてしまった理由が、俺にはわからなかった。

「あの、タクミくん」

 さっきまでとは違う声。怖がっているみたいな。

 何か言いたげで、でもそれがうまく言葉にできないというように、口を開けたり、閉じたりを繰り返す。
 俺は一度立ち止まって、彼女の方を振り向く。

 るーは、俺の方を見て、何かを言おうとした。
 でも、すぐに目を逸らしてしまう。

 前にもこんなことがあった。
 いつだっけ。

 ああ、そうだ。

 屋上だ。

 五月。るーが入部したばかりの頃。
 まだ、るーをるーと呼べなかった頃。
 
 あのときも、彼女はこんな顔で、何かを求めるように俺を見た。

 そのときも俺は、彼女に言わせたのだ。自分は口を噤んだまま、言いたいことを言わないまま、彼女にそれを言わせた。
 でも、今、彼女が何を言おうとしているのか、俺には分からない。


459: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/11(月) 22:41:25.61 ID:E2jpHfOdo

 目を閉じて深呼吸をしてから、覚悟を決めるみたいにまっすぐ俺を見て、るーは口を開く。

 橋の上だ。街の影とは対照的に、川の水面が夕陽を反射して眩しい。
 すぐ傍の相手の顔さえ、暗がりで見るようによく分からない。
 駅への距離は、あとすこし。歩道沿いの並木は緑。そんなことさえ、立ち止まるまで意識していなかった。

 逆光のようだ。

「タクミくん、あの……わたし、つきまとったら、迷惑ですか」
 
 俺は、言葉に詰まった。
 図星をつかれたからではなく、意表をつかれたからだ。

 どうしてそんな言葉が出てきたのか、俺にはよくわからなかった。

「なぜ?」

 本当に素朴な疑問として、その問いが浮かんだ。
 なぜ、そんなことを思うのか、よくわからない。

 るーは苦しそうな顔で俯いて、顔を隠したまま首を横に振った。
 こんなことを言うはずではなかった、というふうに。


460: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/11(月) 22:42:20.89 ID:E2jpHfOdo

「……わかんないです。タクミくんが、何考えてるのか」

「どうして、そういう話になるの?」

「わかんないです!」

 るーが言わんとしていることが、俺にはわからなかった。
 でも、たぶん今、彼女は自分自身の気持ちに戸惑っている。
 整理がつかなくて、混乱している。

 たぶんそれは、俺のせいだ。
 それは分かっているのに、その繋がりが分からなくて、戸惑う。
 
 あのとき屋上で感じたのと同じような、やましさ。
 逃げ出した自分に対する負い目。

「……ごめん」

「どうして、謝るんですか……?」

 そう訊かれると、俺は何も答えられない。


461: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/11(月) 22:42:55.32 ID:E2jpHfOdo

「……タクミくん、五月に言ってました。わたしだって気付いてて、声を掛けなかったって」

「……ああ」

「わたしも、そうでした。タクミくんかな、って思っても、最初は自信持てなかったです。でも、名前とか、顔の面影とかで、気付けました」

「……」

「でも、名乗ったあと、反応なかったから。ひょっとしたら違う人なのかもって……」

「……」

「声を掛けてくれなかったのは、わたしが“覚えてないかも”って思ったからなんですよね?」

「……うん」

「さっきタクミくん、蒔絵先輩にプレゼントをあげたら、蒔絵先輩が戸惑うだろうって言ってました」

「うん」

「焼却炉の件、調べようって話になったときも、タクミくんは、“関わるべき問題なのか”って言いました」

「……」

「気付いてないかもしれないですけど、タクミくんは、五月に会ってから、ずっとそうです。
“自分が覚えている”なら、わたしが覚えていなかったとしても、声を掛けてもいいはずなのに。
“掛けたくないから”じゃなくて、“わたしがどう思うか”で、声を掛けるかどうか、決めてました」

「……」

「自分があげたいかあげたくないかじゃなくて、“蒔絵先輩がどう思うか”で、プレゼントをあげるかどうか決めました」

「……」

 他人の顔色をうかがう癖がついたのはいつからだろう? 
 ずっと昔からの習性なのかもしれない。



462: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/11(月) 22:43:22.18 ID:E2jpHfOdo

 自分のしたいように自然に振る舞う。
 肩の力を抜く。

 それってどうやればいいんだろう。

「タクミくんが、どうしたいのか、分かりません」

「……」

「相手がどう思うかなんて、相手が決めることなのに。自分がどう振る舞うかは、それとは関係ないはずなのに。
 タクミくんはそうやって、相手のせいにして、自分で判断することから逃げてます」

 その突然の告発に、俺は戸惑った。

「今日、買い物に付き合ってくれたのは、そうしたかったからですか。そうしてもかまわないと思ったからですか。
 それとも、断ったらどう思われるだろうとか、わたしが望んだからとか、そういうことを気にしたせいですか」

「……」

「合わせてもらってばっかりじゃ、タクミくんがどうしたいのか、わたし、分からないで……ずっと、不安なままです」

 俺は、うまく返事ができない。
 どうしたいか。どう思うか。どう振る舞いたいか。
 何が欲しいか、何がしたいか。

 そんなのは、俺自身にさえ、とっくのとうに分からなくなっていた。


463: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/11(月) 22:44:14.92 ID:E2jpHfOdo



「良い子だからだよ」、と、いつだったか、鷹島スクイは俺に言ったことがある。

 おまえは親の期待に応え、教師の期待に応え、そこそこ優等生に振る舞った。
 勉強やスポーツのことじゃない。日常的な振る舞いのことだ。

 おまえは廊下を走らない。信号無視をしない。遅刻をしない。サボらない。
 クラスメイトが集まって煙草を吸うときも、おまえは吸わない。
 
 門限を守った。小遣いをあまり無駄遣いしなかった。
 宿題はちゃんとやったし、掃除や片付けもちゃんとやった。
 家出もしない。万引きもしない。夜更かしもしない。

 おまえは言いつけを破らない子供だった。

 だから苦しいのさ。

 親を軽蔑して逃げ出した今でも、染み付いた生き方を変えられずにいる。
 他人の顔色をうかがって、他人の望むように振る舞う癖がつくと、自分の顔色が分からなくなるものなんだ。

 だからおまえは、たったひとりになると途方に暮れるんだ。
 やりたいこともほしいものもひとつもない自分自身に気付かされるんだ。

 レールを敷いてくれる人間なんていない。
 おまえは自分の意思でどこかに行かなきゃいけない。
 それがおまえには恐怖なんだ。自分の内部に道標がないから、誰かの敷いたレールがないと不安なんだ。

 未だにそのときどきの、目の前にいる人間の顔色をうかがって、その場しのぎに物事を判断している。
 
 そしていつのまにか、自分が何を望んでいるのか、わからなくなってしまった。
 おまえは自分の声を聞き流しすぎたのさ。


464: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/11(月) 22:45:23.42 ID:E2jpHfOdo



「るー」

「……なんですか」

 拗ねたような顔のまま、るーは俯いている。
 後悔しているのかもしれない。腹を立てているのかもしれない。

 俺は、どう反応すればいいんだろう、と、またその場しのぎの思考。

 話したら軽蔑されないだろうか。
 面倒な奴だと、避けられはしないだろうか。

 そんなふうにまた、相手の考えばかりを気にしてしまう。

 そもそも俺は、話してしまいたいのだろうか。
 よくわからない。

「るー」

「だから、なんですか」

 もう、ごまかせそうにないな、と俺は溜め息をついた。

「迷惑じゃない。まったく合わせてないってわけでもないけど、嫌々で一緒にいるわけでもない」

 どうして、こんなことを言うだけで、緊張するんだろう。

「それって、べつに普通だろ?」

「……はい。たぶん」


465: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/11(月) 22:46:05.82 ID:E2jpHfOdo


「こんなことを言ったら、変だって思うかもしれないけど、俺はしたいことのない人間なんだ。
 欲しいものもないし、行きたい場所もないし、目標もなければ趣味もない。つまらない人間なんだよ」

 るーは黙って俺の言葉を聞いている。
 俺は、言いながら既に後悔しそうになっている。

 言いたくない言葉が噴き出しそうになる。

 だから俺は黙りこむ。誰かの期待に添うことはできないから、最初から期待されないように。
 みんなを楽しい気持ちにはできないから、みんなとなるべく関わらないように。
 
 そのくせ、誰かが自分をどこかに連れ出してくれることを期待している。

 子供のように。
 あの夏も、連れ出してもらうまで、ずっとそうしていたように。

 でも、もう俺は高校生で、そういう自分がどうしようもなく嫌で。
 それなのにやっぱり、したいことも、楽しいことも、簡単には思いつかない。
 ……なるほど、ゴローとの賭けに勝ってしまうわけだ。

 それでも。

「るーと会えたのは嬉しいし、一緒にいるのは楽しいよ」

 唐突に話が変わったからか、るーは、ちょっと驚いた顔で俺を見た。
 
「でも、不安なんだよ。俺はつまらない人間だから、退屈させやしないか、がっかりさせてないかって」

 こんなこと、年下の女の子に話すようなことじゃない。
 子供のように甘ったれた内面。自分でも対処しかねるような自意識の問題。
 
 話さないまま関わりあうことだって、できるはずなのに。

466: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/11(月) 22:46:32.09 ID:E2jpHfOdo

 それなのに。
 大部分を聞き流して、るーは笑った。

「一緒にいると、楽しい、ですか?」

「……うん」

「だったら、いいんです」

 そう言って、るーは笑った。

「話してて気付きました。わたしも、人のこと言えないです。
 タクミくんが、わたしと居て楽しいのかなって、そればっかり、気にしてました」

 ――なあ、日々はそんなに退屈で、世界はそんなに平板か? 本当に?

 ――きみはいつもつまらなそうだね?

 俺だってとっくに気付いていた。
 世界が平板なんじゃない。周囲が退屈なんじゃない。

 俺が、そういうふうに世界を眺めてるんだ。


467: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/11(月) 22:48:08.38 ID:E2jpHfOdo

「……るー。あのさ」

 はい、と、るーは頷いた。

「夏休み、さ、楽しいこと、しようか」
 
 はい? と今度は首を傾げる。

「文芸部のみんなでとかさ。いろんなところに行ったりいろんなことして遊んだり、しようか。みんな誘って」

 ぼんやりとした目で、るーは俺を見上げる。
 
「そうしたい、って思う。それは、楽しそうだ。……駄目かな」

 駄目かもしれない。みんなが、俺と同じように思ってくれるとはかぎらない。
 みんなにだって予定はある。やりたいことも、行きたい場所も、一緒じゃない。

 でも、それを口に出すくらいなら、かまわないはずなのだ。
 口に出して断られても、それはそれでかまわないはずなのだ。

 そんな当たり前のことを、どうして今まで、気付けずにいたんだろう。

 こんなささやかなことで、心臓が跳ねる自分が嫌だった。
 みんなみたいに、当たり前みたいな顔をしていたかった。

 そういう気持ちを、きっとるーはほとんど見抜かないままで、

「……はい!」

 と、笑って頷いてくれた。
 
 その表情を見て、俺はすこしほっとした。
 笑顔が嬉しかった。だから、一瞬よぎった誰かの表情を、俺は意識の外に追いやった。
 

472: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/16(土) 00:19:36.43 ID:p19G4SHTo



 第二文芸部の部員は全員揃っている。部長、ゴロー、高森、佐伯、俺、るー。

 ゴローが、例の騒動について調べると言い出してから、まだほんのすこししか経っていない。
 彼は第一文芸部の連中に聞き込みをして、第一稿段階から原稿の内容を変更した部員たちを特定した。

 候補者は数人。彼らに変更した内容やその理由を訊ねることで、ゴローは例の出来事の原因を特定しようとした。
 
 それが始まってすぐのこと、思わぬ展開になった。
 
「それでね、話があるから集まってほしいってことなんだ」

 そう言ったのは顧問のヒデだった。
 隣には、今となっては第一文芸部の部長となった及川先輩と、同様に第一文芸部の顧問になった教師。

「……話?」

 みんながみんな、訝しんだ。
 心当たりとしては、ゴローの調査を快く思わないものが、顧問を通じてそれをやめさせようとしているのか、くらい。
 
 とはいえ、まだみんな本腰を入れて調査に乗り出したというわけでもない。
 この段階で水を差されるようなことになるのは、俺たち全員からして、あんまりに意外な出来事だった。


473: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/16(土) 00:20:06.37 ID:p19G4SHTo

「うん。実は先生もまだ、何の話なのかは聞いてないんだけど……」

 戸惑った感じで、ヒデは苦笑しながら頬を掻いた。

「詳しい説明は、第一の方からしてもらえるらしいから」

 そうなんですよね? というふうに、ヒデは第一の顧問の顔色をうかがう。
 顧問は頷く。

 及川さんは、どこか浮かない顔のまま、口を開いた。

「……大事な話になるから。きみたちにも迷惑がかかったし、話すのが筋だろうという話になった」

 ということは、第一文芸部で既に話し合って、その場で俺たちにも話を通すことになった、というわけか。

「よくわからないんですが、何のお話なんですか?」

 口を挟んだのはゴローだった。
 この場で第一の例の騒動にいちばんこだわっていたのは彼だから、当然といえば当然かもしれない。

「それについては、みんながいるところで話すよ。まだ、うちの部員でも聞いていない奴がいるから。
 とにかく、視聴覚室を借りられることになったから、そこに集まってほしい」

 部員みんなが、顔を見合わせた。
 なんだかよくわからないけど、従うほかになさそうだ、というのがみんなの表情から読み取れる流れ。


474: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/16(土) 00:21:42.03 ID:p19G4SHTo

「……とりあえず、お話があるんですよね?」

 部長が、話を進めた。及川さんは頷いた。

「じゃあ、とりあえず聞こう。今からですよね?」

「うん。もう、第一の部員は視聴覚室に集まってるんだって」

 ヒデの言葉を聞いて、部長は立ち上がった。

「じゃあ、行きましょう。ここにいたって仕方ないし」

 みんなが顔を見合わせて頷いた。
 及川さんは、まだ、浮かない顔をしている。

 いったい、何が飛び出すやら。


475: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/16(土) 00:22:08.46 ID:p19G4SHTo

 視聴覚室の席の半分は第一文芸部の部員たちで埋まっていた。
 ドアを開けて部屋に入った瞬間、きしりと空気が固まったような気がした。

 奇妙な緊張感だ。どいつもこいつも、表情がこわばっている。
 聞いていない奴がいる、と及川さんは言った。
 
 それがなんなのかは知らないけど、この空気からすると、楽しい話にはなりそうにない。

 俺たちがそれぞれに席につくと、教室前方の壇上に、及川さんとふたりの顧問が立った。
  
「みんなそろってるかな?」

 ヒデの質問に、及川さんは周囲を見渡して、頷く。

 それからヒデは、俺たちの後ろの席に腰掛けた。
 内容はヒデも知らない、と言っていた。なら、これから何の話があるのか、ヒデ自身も知らないんだろう。

 一度、及川さんと第一の顧問が視聴覚室を出た。
 何かの確認でもしているんだろうか。

 再び彼らが戻ってきたあと、及川さんは壇上に立った。

「急に集まってもらうことになってごめん。突然のことだったから、みんな戸惑ったと思う」

 誰からも返事はなかったが、さっきまでかすかにあった囁きの交わし合いは、その言葉で途切れた。

 第一の顧問は及川さんの斜め後ろに立ち、室内の様子を見守っている。
 

476: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/16(土) 00:23:01.99 ID:p19G4SHTo

「実は話があるのは俺じゃないんだ。詳しい内容については、本人が説明してくれると思う。
 みんな訊きたいことがあるだろうけど、まずはそいつの話を聞いてみてほしい」

 及川さんの声には、はっきりとした言葉とは反対に、どこか躊躇しているような澱みが宿っていた。
 まるで自分の言葉のひとつひとつが、本当にこの場にふさわしいのかを確認しようとしているみたいに。

 それから彼は、ひとりの生徒の名を呼んだ。

「……嘉山」

 室内の注目が、ひとりの男子生徒に移る。 
 俺たちの視線は、第一の部員たちの視線の先を辿って、その男子生徒のもとへと向かった。

 カヤマ。 
 聞いたことのない名前だ。

「……原稿を変えた奴だ」

 小さく呟いたのはゴローだった。たぶん、隣にいた俺にしか聞こえなかっただろう。
 ゴローは、俺に聞こえていると知ってか知らずか、訂正するような言葉を続けた。

「……第一稿で部誌に載せたはずの原稿を取り下げて、そのまま原稿を再提出しなかった」


477: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/16(土) 00:23:33.07 ID:p19G4SHTo

 そいつは、物静かそうな顔をしていた。
 背丈は決して高くないし、顔つきは悪いわけじゃないが特別良いとも言えない。
 髪は黒く、整髪料のたぐいはつけているようにも見えない。ボサボサの前髪で、目元が隠れている。

 地味、というのが第一印象だ。
 みんなが話している横で、合わせるような愛想笑いを浮かべたまま、自分は決して会話に混ざろうとしないような、そんな印象。
 それが俺の一方的な偏見なのかどうかは分からない。
 
 それでも、第一文芸部の面々もまた、彼の名がここで呼ばれたことに戸惑っているみたいに見える。
 意外そうな、戸惑ったような。誰も、彼に声を掛けようとはしなかった。

 嘉山は、そんな視線を受けたまま、立ち上がって、及川さんのそばへと歩み寄った。
 その足取りはどこかふわふわとしていた。
 
 べつにふらふらしているわけじゃない。歩き方が覚束ないというのでもない。

 でも、どこか、いまこの場所から遠く離れているような足取り。
 この場にいるはずなのに、どこかに行ってしまっているような不思議な錯覚。

 及川さんが脇に避ける。
 嘉山は何も言わずに壇上にあがり、俺たちを見下ろした。

「皆さん、突然のことで驚かれたと思います」

 その声は、なんだか不思議な感じがした。思わず俺は、周りにいた連中の表情をうかがってしまったくらいだ。
 でも、みんな当然のような顔で、彼の声に耳を傾けているようだった。

 だからその違和感は、俺だけの錯覚だったのかもしれない。

 嘉山の声は、耳からするりと抜けるように、俺の意識に何の印象も残さなかった。
 決められた台詞を読むような感情のなさ。

 にもかかわらず、そこには何かを演じるような緊張やこわばりがない。
 からっぽな機械が決められたメッセージを読み上げているような。


478: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/16(土) 00:24:04.50 ID:p19G4SHTo

「二年の嘉山孝之です。及川部長や顧問の先生方に頼んで、みなさんにお話する機会をつくっていただきました。
 まずはみなさん、俺の話のために時間をとらせてしまったことをお詫びします。申し訳ありません」

 そう言って彼は一度頭をさげたが、その仕草はやはり無感動で機械的に見えた。

「前置きを長くしても戸惑われるだけだと思いますので、単刀直入に申し上げます。
 先月、部誌の配布の直前に起こった焼却炉での騒動を、みなさんも覚えているかと思います」
  
 彼はそこで一拍置いて、前方に座る部員たちの顔を見回した。
 一瞬だけ、俺も彼と目が合う。

 俺は、その視線が本当に俺を見たのかどうかわからなかった。

「あれをやったのは俺です」

 嘉山はそう言った。
 
 誰もが沈黙したままだった。いったいこいつは何を言っているのだろうと、そんな空気が、あたりを包む。
 俺は思わず、及川さんの方を見た。
 
 彼は、ただ嘉山の続きを待っていた。

「第一文芸部……当時の第二文芸部の部誌を燃やしたのは俺です。
 家から持ち込んだライターを使って、焼却炉で部誌を燃やしました」

 誰も話さない。
 みんなが説明を待っている。

「……申し訳ありませんでした」

 そこで嘉山はもう一度頭を下げた。


479: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/16(土) 00:25:23.92 ID:p19G4SHTo

 いくらかの沈黙のあと、第一文芸部の部員の誰かが、

「本当に?」

 と訊ねた。誰も他に何も言わなかった。

「本当です」と嘉山は間髪置かずに答える。

「申し訳ありませんでした」

「どうして?」

 と同じ奴が訊ねた。

「皆さんには大変ご迷惑をおかけしました」

「そうじゃなくて、どうしてそんなことをしたの?」

 誰かの追及。みんな、そいつの質問を正しいと思ったのだろう。声は、ほかにはあがらない。
 どうして? それが一番の謎だったから。

 質問した奴の方を、嘉山は数秒間、まっすぐに見つめた。
 表情は浮かばない。
 
 ごまかし笑いでも、つよがりでもない。ただ無表情のまま、

「ストレス解消のためです」

 と答えた。


480: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/16(土) 00:26:11.84 ID:p19G4SHTo



 そこから急に騒がしくなった。
 
 罵声とも怒号ともとれない雑多な音が、第一の連中の口から暴れだした。
 
 ヒデはその流れをおろおろと見守っている。
 俺たち第二側の連中は、ただ事態のなりゆきを見守るしかない。

 嘉山はもうそれ以降、本当に申し訳なかった、としか言わなくなった。

 他の連中の戸惑いと怒りを、及川さんと第一の顧問が諌めはじめる。

 俺はなんとなく不思議な感じがした。

 第一の顧問は一旦全員を黙らせると、嘉山を壇上からおろし、自分で全員に向けて声をあげた。

 それから彼は、嘉山に対しては自分から厳重に注意をし、事情をきくことを宣言した。
 もちろん焼却炉を無断で使用した件については、他の教員からも指導があるという。

 嘉山の詳しい事情についてはみんなには話せないかもしれないが、彼にも事情があるようなので、皆から責めることはあまりしないように、と話を収めた。
 嘉山は自分からみんなにこのことを告白して、みんなに直接謝罪したいと言った。
 その気持ちをどうか汲んでやってほしいと。
 
 そこでみんな押し黙った。誰も何も言わなかった。
 話はそこで収まった。
 気持ちが収まったかどうかは知らない。


484: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/18(月) 22:36:40.85 ID:S9lCHtGSo



 態度を決めかねていた。

 みんなそうだ。俺やゴローだけじゃない。佐伯や高森だってそうだったろうし、及川さんやヒデだってそうだろうと思う。
 あの場で、嘉山に対して、誰も何も言うことができなかった。

 第一の顧問が最後に嘉山をかばわなければ、誰かが文句のひとつでも言えたかもしれない。

 でもそれは「もしも」の話で、結果として誰もが沈黙せざるを得なかった。
 
 嘉山は詳しい事情について黙して語らなかったし、そもそも細々とした話を聞かされたところで誰も納得なんてできなかっただろう。

 だから、結果として、みんながみんな、納得できないままで黙りこむほかに、術を持たなかった。

 特に、俺たちは、基本的に部外者だ。
 第一の連中が俺たちを疑ったこともあるにはあった。

 けれど俺たちは犯人ではなかったし、燃やされたのは俺たちの部誌ではない。
 結果として巻き込まれただけの、俺たちは部外者だ。


485: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/18(月) 22:37:15.55 ID:S9lCHtGSo

 部室に戻ってから、俺たちは誰一人言葉を発しようとしなかった。

 沈黙。
 沈黙。 
 沈黙。

 それを破ったのは高森だった。

「やめよ」
 
 彼女は、ぽつりと、それだけこぼした。

「何を?」と俺は訊ねた。

「終わったんだよ。焼却炉の話。だったらもう、やめようよ、考えるの」

「そだね」と頷いたのは部長だった。

「わたしたちの人生で、この一年は一回だけなんだよ」

 部長の声を無視するみたいに、高森は続ける。

「高二の夏も、高二の秋も、高二の冬も、一回きりなんだよ。一度通りすぎたら、もう二度と取り戻せない。
 だから、他人のことにかかずらうのはやめよう。わたしたちは、わたしたちの今を楽しもうよ」

 そう言って、彼女は内側でくすぶる何かを吐き出そうとするみたいに長く息を吐いて、それから笑った。
 強がりみたいに見えた。


486: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/18(月) 22:37:43.71 ID:S9lCHtGSo

「……だな」

 と、俺はとりあえず頷いた。
 そういうことなのだ、結局。

 俺たちに関わりのないところで起こって、俺たちに関わりのないところで終わった。
 そういうことだ。だったら、これ以上こだわって時間を無駄にする必要もない。

 ゴローは、黙りこんだままだった。何かを考えているみたいだ。
 それが何なのか分からない。……分かるような気もするけど、きっとそれは錯覚だ。

「ね、打ち上げしようよ」

 高森は手を打ち鳴らして、そう提案した。

「打ち上げ? ……何の?」

「部誌完成の。まだやってなかったでしょ?」

「……ああ」

 というより、そんなの今までしたことなかった。

「わたし、ボウリングしたい。ボウリング」

 俺は、周囲を見回した。
 部長は、何も言わない。ゴローも何も言わない。
 
 るーも、佐伯も、何も言わない。
 何も言わない奴らばかりだ。ここは。
 俺もか。


487: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/18(月) 22:38:18.11 ID:S9lCHtGSo

 ああ、もう。
 めんどくせえ。

「よし。部長、ボウリング行きましょう。みんなで」

 急に話を振られたからか、部長はきょとんとした顔をした。

「タクミくん……?」

「嫌いですか?」

「ううん。べつに、そうじゃないけど……」

「ゴローと佐伯は? このあと予定あるの?」

「ないよ。行ける」

 と即答したのが佐伯。黙ったままだったのがゴロー。

「ゴロー」

「ああ、行くよ」

「るー」

「みなさんが行くなら」とるーは、どこか戸惑ったように笑う。

「じゃ、決定。ボウリング行こう」

「決定! たっくんのおごりね!」

「嫌だ!」

 振り払う。振り払おうとする。
 たぶん、痛々しく見えただろう。


488: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/18(月) 22:38:58.80 ID:S9lCHtGSo



 そんなわけで俺たち第二文芸部の部員たちは、何もかもを忘れてボウリング場へと向かった。
 部活を放り出してきた。ヒデには何も言ってこなかった。そうしたら何かが違ってくるような気がした。

 部長、高森、ゴロー、佐伯、るー、俺。六人。

 ぎりぎり一レーンでプレイできないこともなかったけど、時間がかかるから二レーンに三人ずつ分かれることにした。

 組み分けはグーパーで決めた。

 たとえばシューズを借りるときに、部長の靴のサイズが思っていたより小さかったことに気付いたりした。
 そういうささやかなことの連続を俺は見逃していた。
 
 わけのわからない、自分とは関わりのないことにこだわって、見逃していた。
 そういうことの反省だ。

「さて、せっかく組み分けしたし、勝負でもする?」

 提案したのは高森だった。

「そっちとこっちでチームに分かれて、合計点数を競うの」

「……いいだろう」と俺は答えた。

「負けた方は、罰ゲームね。みんなもいい?」

 みんな頷く。

「罰は何がいいかな……。最初に決めとかないと、ぐだぐだになりそうだもんね」

 高森は9ポンドのボールを構えながらそう呟いた。


489: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/18(月) 22:39:41.53 ID:S9lCHtGSo

「……待て、その勝負、俺たちもやるの決定か?」

 不満気に、ゴローは呻く。

「当然だろ。部全体のイベントなんだから」

「……部長?」

 ゴローに助けを求められた部長は、楽しげに肩をすくめた。

「こうなったら、開き直るしかないよ」

「……くそ。なんでそんなことまで」

「あっれー? ゴロちゃん、もう負けたときの心配?」

 いくらなんでも分かりやすすぎる高森の挑発を、ゴローは鼻で笑い飛ばした。

「……バカ言うなよ。勝ちの決まってる勝負なんてやる気がしないって言ってるんだ」

 にやりと笑う。
 こいつも大概ノリがいい。

 組み分けは、俺、高森、佐伯と、部長、ゴロー、るーになった。


490: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/18(月) 22:40:15.08 ID:S9lCHtGSo

「まあ、妥当かな」

 男女比も学年も、均等といえば均等だ。

「さて、罰ゲームだったな」

 あっさり乗り気になったゴローが、不穏な笑みを浮かべながら顎を撫でた。

「俺たちの勝ちは決まってるからな。おまえらには、何をさせたら面白いだろう」

 やけに強気だ。本当に自信があるのかもしれない。

「だったら、こういうのはどうでしょう」

 言い出したのはるーだった。
 彼女は自分の鞄をがさごそとあさりはじめる。

 みんながその動向に注目した。

「じゃん」

 と言って取り出したのは、このあいだ店先で見た猫耳風カチューシャだった。

「負けたチームは、明日から三日間、部活のときこれをずっと装備。で、どうでしょう?」

「……なんでそんなもの持ってるんだ」

「こんなこともあろうかと、買っておきました。一個だけですけど」

 どんなことを想定してたんだよ。


491: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/18(月) 22:40:52.40 ID:S9lCHtGSo


「……待て、それは女子はともかく、男子のリスクが高すぎないか」

「あれ? タクミくん、もう負けたときの心配ですか?」

 いたずらっぽく、るーは笑う。
 合わせてゴローも、にやにや俺を見る。

 逃げ場がない。

「……ああ、いいぞ。やってやるよ」

「じゃ、決定ですね。負けた方は明日からこのカチューシャをつけて、語尾に『にゃん』をつける義務を負います」

 なんか追加されてる。
 
「……待って。わたしも普通にいや、それ」

 佐伯が本気で嫌そうな顔をする。俺はちょっとだけ躊躇したが、結局強がって笑うことにした。

「佐伯、心配するな」

「……え?」

「勝てばいいんだよ、勝てば」

「……ギャンブルにハマってる人って、みんなそう言うよね」

 彼女は呆れ顔だった。


492: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/18(月) 22:41:40.73 ID:S9lCHtGSo

 そんなわけで始まったボウリング勝負の第一投は、それぞれ俺とゴローに決まった。

「ところで、つかぬことをお聞きするけど、たっくんはボウリングって得意なの?」

 俺は11ポンドのボールを構えながら、高森のその質問に笑みを返す。

「心配すんなよ、高森。こう見えて俺は……」

 そう。俺は。

「生まれてこのかた、一度もボウリングなんてしたことない」

「だめじゃん!」

「眠ってた才能が火を噴く時がきたな」

「たっくん! なんで勝負受けたの!」

 高森が本気で嫌そうに騒いだ。おまえが言い出したからだ。

「やめてよ? 負けたら猫耳だよ? それはまだしも語尾もつくんだよ?」

 だからおまえが言い出したんだ。


493: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/18(月) 22:42:18.53 ID:S9lCHtGSo

 軽く助走をつけてボールを放るとき、高森の悲鳴に近い懇願が聞こえた気がした。

「ほんとにたのむよ、たっくん!」

 俺の放ったボールは静かに回転しながら、吸い込まれるようにレーン外へと進んでいった。
 ガコン、と音を立てて、ボールはあっさりと溝を転がっていく。

 ピンまでの距離は15メートルと言ったところか。

「……ふむ。まあそこそこだな」

「どこがよ!」

 高森が騒ぎ、佐伯は頭を抱えた。
 
「やったことないんだから仕方ないだろ!」

「いくら初めてだってもうちょっと行けるでしょ!」

「あーうるさい。このくらいはハンデだハンデ」


494: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/18(月) 22:43:12.82 ID:S9lCHtGSo

「これは本当に、俺たちが勝負をもらったな」

 俺たちのやりとりを横目にみてくすくす笑いながら、ゴローはボールを構えた。

「悪いがタクミ。俺は生まれてから一度も、そう一度も……ボウリングでガターを出したことがない」

 ごくり、と俺は固唾を呑んだ。

 ゴローは自信満々の表情でボールを構える。
 その仕草は、たしかに俺よりも様になっているように見えた。

「覚悟しろよ、佐伯、高森。おまえらの明日は猫耳だ」

「いやだあ! わたしそっちチームがいい!」

 高森がわめく。諦めの悪い奴だ。

「ははは。楽しみだなあ諸君」

 言ってから、ゴローは投球フォームにうつる。なめらかな体重移動。
 指先から離れたボールは、ファウルラインから二メートルほど過ぎたところで右側の溝に落ちた。
 
 みんな黙りこんだ。


495: 以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします 2016/01/18(月) 22:43:59.23 ID:S9lCHtGSo

「……ゴロー?」

「俺はこれまでボウリングでガターを出したことが一度もない」

 ふっ、と意味ありげにゴローは笑う。

「なにせ一度もボウリングをしたことがないからな」

 こいつらマジか、という目を、みんなが俺とゴローに向けた。

「……さっきの自信ありげな雰囲気はなんだったの、ゴローくん」

 部長の溜め息も、いつもよりちょっと情感こもって聞こえた。

「なんかいけそうな気がしてたんですよ。案外駄目ですね」

「うちの男どもはあてにならない……」

 佐伯が深刻な調子で呟く。そう言われても仕方ない状況とはいえ、ちょっとひどい。

 三人の女子の目が静かに燃えた。

 みんなが揃って、「わたしがなんとかせねば」という目をしていた。
 
 ひとり取り残されたるーは、ごまかすみたいに、

「えっと。勝負は分からなくなってきましたね……?」

 自信なさげに、そう呟いた。


500: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/20(水) 22:40:40.91 ID:A+BXz5Qyo



 第一投者である俺とゴローが双方無得点というまさかの形で勝負の幕は上がった。
 
 二番手は、こちらは高森、あちらはるーだった。

「たっくんがアテにならないとなると、わたしたちでなんとかするしかないね、ちーちゃん」

 佐伯は深々と頷く。

「まあ、向こうもひとりアテにならないみたいだから、実質二対二ってだけだろうけどね」

「……」

「頼むよ、マキ」

「おうともさ」

 ……同じチームのはずなのに、俺が完全に蚊帳の外である。

「……さっきは言わなかったけどね、たっくん、ちーちゃん」

 そう言って高森は、静かに球を構えた。

「わたしも、ボウリングでガターを出したことがないんだよ」

「……マキ、やめようそれ。パターンだから」

 諌める佐伯に向けて、だいじょうぶだいじょうぶ、と高森は気楽げに笑った。


501: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/20(水) 22:41:21.96 ID:A+BXz5Qyo

「ホントホント。小学生の頃子供会で一番だったんだからね。まあ、わたし以外もみんなガターなんて出さなかったけどさ。
 それ以来一度もやったことないけど、たっくんとかゴロちゃんに比べたら、わたしのがまだ才能あるよ」

「……高森、それさ」

「なに?」

「ノンガターレーンだったんじゃねえの?」

「……え?」

 高森はボールを抱えたまま硬直した。
 
「……マキ?」

 佐伯の声はいつもより暗い響きをともなって聞こえた。

「……だ、大丈夫大丈夫。球を転がしてピンを倒すだけなんだし」

 どうしてかわからないが、自分が投げる時より今の方が緊張してしまっている。
 
 そして高森の転がしたボールは、ゆっくりとレーンを転がっていき、端の方のピンを二本倒した。

「……ほ、ほら。大丈夫大丈夫」

「うん。まだ二投目があるしね」

 そして高森は二投目で逆端のピンを四本倒した。

「……口程にもないな」

「まったくだ」

 ゴローのつぶやきに追随すると、佐伯と高森がぎらりと俺たちの方を睨んだ。
 おまえらが言うな、と視線が語っている気がする。


502: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/20(水) 22:42:05.11 ID:A+BXz5Qyo

 隣のレーンのスコアを見ると、俺たちが騒いでいるうちにるーが投げ終わっていたらしい。
 一投目が七本、二投目がゼロ。

 一本差であちらの優位だ。

 高森と佐伯の表情は暗い。猫耳カチューシャをつけた自分の姿でも想像しているのかもしれない。

「……あ、俺、飲み物買ってくる」

 居心地の悪さに立ち上がると、みんなが声をあげた。

「たっくん、わたしコーラ。ちーちゃんは?」

「お茶」

「俺アクエリな」

「わたしもお茶がいいな」

「持てねえよ。持てないですよ」

「あ、わたし手伝います」

 るーがそう言って立ち上がったので、断るにも断れない感じになってしまった。
 いやまあ、別にいいんだけど。



503: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/20(水) 22:43:19.80 ID:A+BXz5Qyo

 俺たちはレンタルシューズコーナーの脇にある自動販売機で指示通りのものを買い揃えた。
 計六本。どっちにしたって手は塞がる。

「ね、タクミくん」

「ん?」

 自販機が吐き出したコーラを嫌がらせに軽く振ったところで、るーがそう呟いた。

「……あの、それ蒔絵先輩のじゃ」

「いや。振ってない。振ってないよ」

「そうですか」

 俺はコーラをるーに手渡した。

「るーは何飲む?」

「わたしはポカリで。あ、お金……」

「いいよ。みんなの分俺出すから。バイト代出たばっかだし」

「いますよね、給料日直後はすごく羽振りのいい人」

「うん。それ俺」

 悪い癖だとは思うが、他人に奢るのは意外と気分がよくてついついやってしまう。


504: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/20(水) 22:44:58.59 ID:A+BXz5Qyo

 こうやって集団から少し距離を置くと、冷めてしまいそうな自分に気付く。 
 だから半分、るーがついてきてくれたのを、助かった、と思う。

 もう半分は、冷めてしまいたがっていたのかもしれない。
 奇妙なものだ。こころというのは、どうも、元の状態に戻りたがる性質があるらしい。

 自己嫌悪が常態になれば、人は折にふれて自己嫌悪したがるようになる。そういう癖がつく。
 変化しないことに安心する。だから、容易には人は変われない。

 嫌でたまらない自分の性質。それを嫌がっている自分。そこに安心してしまう。

「俺もコーラ、と」

「ね、タクミくん。気付いてました?」

「なにを?」

「今日、蒔絵先輩の誕生日なんですよ」

「え?」

「七月七日。七夕です」

 驚きつつも、なんとなく納得する。
 だから、あんなふうに、暗いまま流れる時間を嫌ったのかもしれない。
 運の悪い奴だ。誕生日にあんな話になるなんて。

 結果的には、よかった、のかもしれない。
 あとで知ったら、俺まで落ち込んでいただろう。

505: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/20(水) 22:45:40.11 ID:A+BXz5Qyo

「七夕か。……今日は晴れてたよな」

「はい。催涙雨にはならないみたいですね」

「……催涙雨?」

「七夕の日に降る雨を、そう呼ぶんですよ。雨が降ると天の川の水かさが増して、織姫と彦星は会うことができないそうなんです。
 そのふたりの涙が、雨になって降るとかなんとか」

「……それ、おかしくない? 雨が降ると会えないんだろ? 会えないから泣いて、それが雨になるんだろ? どっちが先なんだ?」

「えっと、どうなんでしょうね……?」

「そもそも、なんで地球に降った雨で天の川が増水するんだ?」

「あの。知りません。そんなの」

 るーは呆れた感じで笑ってくれた。俺も笑った。

「再会できたよろこびに涙を流しているとか、やっと会えたのにまた離れなければならないから泣いているって話もあるみたいですけど」

「どっちにしても、今は泣いていないわけか」

 そういえば、天の川に橋をかけるのはかささぎだったか。


506: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/20(水) 22:46:06.53 ID:A+BXz5Qyo

「よし。戻るか」

「はい」

 俺たちは飲み物を抱えて友人たちの待つ場所へと戻った。

 戻ってみると、部長がストライク、佐伯がスペアを出していた。

「……おお、盛り上がりどころを見逃した」

「今のところ、わたしたちが優勢ですね。タクミくん、がんばってくださいね」

「ああ」

 頷いて、チームごとのジュースを渡しあって、俺たちも席に戻った。

 そして、ふと気付く。
 どっちが振ったコーラか分からない。

 るーの方を振り返ると、彼女はいたずらっぽく笑った。
 教えてくれる気はないらしい。

 してやられた。いや、俺がやったんだけど。


507: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/20(水) 22:46:49.08 ID:A+BXz5Qyo

 そして続く二フレーム目、俺とゴローはまさかというか期待通りというべきか、無得点のままだった。

 続く高森は六本、るーは五本。
 佐伯は九本。部長はまたストライクだった。

「もはや大勢は決したな」

 ゴローがなぜかドヤ顔だった。

 佐伯と高森の顔は緊張の冷や汗に滲んでいる。
 
「よろしくないね、この流れは」

「というか、部長が意外と……」

 佐伯と高森の言葉に、部長はにっこり笑った。

「わたし、こういうの得意」

 俺たちは思わず黙りこんだ。
 佐伯もがんばっているが、このままの流れで行くと負けは確実だ。


508: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/20(水) 22:48:00.25 ID:A+BXz5Qyo

「……ひとつ提案があります」

 そこで佐伯が、重々しく口を開いた。

「どうぞ」と部長。

「この勝負の罰ゲームとは別に、最下位とブービーの二名に別途罰ゲームを設けるのはどうでしょう」

「げ」

「賛成!」

「異議なし」

 口を挟む間もなく、高森と部長が賛同した。
 あからさまに俺とゴローが狙い撃ちにされている。

「賛成多数で可決です」

「待て待て。まだ票とってないだろ。俺とゴローは反対だぞ」

「弱者の票は数えません」

「一票の格差だ!」

 氷の瞳で佐伯が俺を見た。俺は怯みつつ、政治参加の平等を訴えた。

「藤宮さんは? 賛成三票、反対二票だけど」

「じゃあ賛成で」

 佐伯の質問に、躊躇もなく、るーは頷いた。

「可決」

 マジか。

509: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/20(水) 22:48:26.66 ID:A+BXz5Qyo

「……ちなみに、罰ゲームの内容は?」

「最下位とブービーが三十秒ハグ」

 王様ゲームかよ。
 高森と部長はあっさり同意した。

「おい、何かに目覚めたらどう責任とってくれるんだ、それは」

 ゴローの文句を、佐伯は取り合わなかった。独裁政治だ。

「目覚めたときは、浅月に責任とってもらって」

「……仕方ねえな」

「仕方なくねえよ。とらねえよ。まず目覚めねえよ」

「タクミくん。勝てばいいんですよ」

 にっこり笑うるーに、高森が「そうだそうだ」とやけっぱちに頷く。
 ……こいつら、自分たちがブービーに転落する可能性とか考慮してないんだろうか。

 佐伯め。追い込まれると我が出るタイプだったとは。


510: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/20(水) 22:49:08.75 ID:A+BXz5Qyo

 現状だと、一位が部長、二位が佐伯、三位と四位が同数で高森とるー。
 ブービーと最下位も同数で俺とゴローだ。

 罰ゲームを回避するには、ゴローだけでなく高森とるーを越えなきゃいけないわけか。

 ……。
 でも、よく考えるとこれ、俺が四位以上になってしまうと、ゴローが女子とハグする結果になる。
 佐伯、ちょっと早まったんじゃないか?

 などと思っているうちに、ゴローが三フレーム目の球を転がした。

 ストライク。

「……え?」

 みんながポカンとした。

「……能ある鷹は爪隠す」

「まぐれだろうけど、ナイス、ゴローくん」

 部長はうれしそうに拍手した。
 高森とるーが、俺の方を見たのが分かる。

 ……まずい。
 
 ゴローが空気を読まずに高得点を連発してしまうと、最下位とブービーの罰ゲームは男女混合の気まずいものになってしまう。
 これを回避するには、俺がゴローを追いかける点数を出して、高森とるーを下位に追いやるしかないわけだが……。
 こうなってしまうとるーと高森も、罰ゲームを避けるために高得点を狙うはずで、つまり……。

 くしくも、みんながみんな本気で勝ちを獲りに行かなければならない状況になってしまった。

「……マジか」

 つーかそれ以前に、部長とゴローにストライクなんて出され続けたら、俺たちの明日は猫耳カチューシャ。
 このままだと俺のひとり負けだ。


511: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/20(水) 22:50:46.30 ID:A+BXz5Qyo

「……たっくん?」

「お、おう。心配するな。俺だってやるときはやる」

 とは言うものの、ボウリングにはまったく自信なんてない。
 佐伯が罰ゲームなんて言い出したせいで、考えなきゃいけないことが増えてしまった。 

 ……いや。

 やめよう。罰ゲームとか、立ち位置とか、気にするのは一旦やめだ。

 とりあえず、勝ちにいけばいい。
 罰ゲームのことはあとで考えよう。

 俺は深呼吸してからアプローチに立ち、ボールを構えた。

 振り子。俺は振り子だ。
 軽く助走をつけて、球を転がすだけ。
 
 そして体を動かすと、足がもつれて、腕の角度が曲がり、球はまた溝へと落ちた。

「……たっくん」

 振り向くと、高森が本気で頭を抱えていた。


512: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/20(水) 22:51:33.27 ID:A+BXz5Qyo

 俺はとりあえず気を取り直し、球が戻ってくるのを待った。

「よし。俺はやれる、俺はやれる……」

「……浅月、背中に哀愁が宿ってるよ」

「うるさい。黙って見とけ」

 もう一度深呼吸をしてボールを転がす。
 球はゆるやかなカーブを描きながら、ピンへと向かう。

 狙ったわけではないが、ボールは中央付近へと斜めに向かっていき、ピンを全てなぎ倒した。
 
「よし!」

 と思わず握りこぶしをつくる。とりあえずスペアだ。

 振り返ると、みんながみんな黙りこんで、互いの様子をうかがいあっている。
 
 流れは本格的に混沌へと向かいはじめているようだった。
 ……ひとりくらい歓声をあげてくれてもよくないか?

 心地よい緊張感に喉が渇いてコーラを開けようとすると、泡が勢いよく噴き出しそうになって慌てて締め直した。

 るーはくすくす笑っていた。


513: ◆1t9LRTPWKRYF 2016/01/20(水) 22:52:06.27 ID:A+BXz5Qyo
つづく

516: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/24(日) 02:48:08.71 ID:Tf7a7LY3o



 部員たちのプライドが懸かった勝負は、そこから混乱の様相を呈し始めた。

 調子をあげはじめたゴローとは反対に部長と佐伯のスコアは下降の一途をたどりはじめる。
 高森とるーはというと相変わらず、多くもなければ少なくもない本数で、じわじわとスコアを稼いでいた。

 俺はというとさすがに高森と佐伯の不興を買うのがおそろしくなり、無難にボールを転がしてスコアを稼いでいた。
 どうにかコツを掴んで、何度かスペアが出せるようになった頃には、ゲームは終盤に差し掛かっていた。

 合計点数の詳細は分からないが、現段階ではるーと高森がほぼ横ばいでブービー争い。
 調子のあがらないままのふたりと、俺は、点数があまり変わらないところまで来ていた。

 一位争いは佐伯と部長のふたりで白熱していたが、圧倒的な追い上げで、ゴローもふたりを射程圏内に収めていた。
 ただし終盤になるとストライクとスペアの連続で、詳細な点数は計算しないことにはわからなくなっていた。

 とはいえ、チーム戦としては、上位にゴローと部長のふたりを抱えた向こうが優位なのは明らかだ。

 それでも部長と佐伯の失調や、序盤のゴローの低スコアを鑑みれば、勝負が決まったとは言い切れない。
 

517: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/24(日) 02:48:34.74 ID:Tf7a7LY3o

 そして訪れた最終フレーム。

 俺とゴローはそれぞれにボールを構えた。

「なあタクミ、ひとつ賭けをしないか」

「……なんだ?」

「このフレームで点数の多かった方が勝ちだ」

 また賭けか。賭け事の好きな奴だ。
 猫耳、ハグ、十分すぎるほどの緊張感だ。これ以上何を賭けるっていうんだ。

「何を賭けるんだ?」

「気になってたことがあるんだ」

「……なんだよ」

「教えてほしいことがある。俺が勝ったら、それについて話してほしいんだ」

「俺についてのこと?」

「……そうだな。そういうことになる」

「そんな言い方じゃ、いいとも駄目ともいいにくいな」

「ああ。だから、教えてくれるかどうか、考えてくれるだけでいい」

「……俺が勝ったら?」

「そうだな……」


518: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/24(日) 02:49:04.97 ID:Tf7a7LY3o

 ゴローはそこで少しだけ押し黙った。
 
「おまえが決めてもいいんだが」

「いや、俺は特に、してもらいたいこともないしな」

「それじゃあ、アンフェアだな。……だったら、前金だ」

「……?」

「俺が負けたら、俺は佐伯に告白する」

「は」

「……不満か?」

「いや、不満っつーか」

 そうだったのか、とか、告白って俺が思ってる告白で合ってるのか、とか。
 そもそもそんなもん賭けるもんじゃねえ、とかいろいろ思ったけど。

「……そこまで言われて賭けませんって言えないだろ。退路を奪いやがって」

「いいだろ。どうせおまえは、負けても何も答えないって選択ができるんだ」

 べつに、賭けに乗らないことだってできた。
 俺との賭けで、ゴローの告白がどうこうって話になるのは、なんとなく責任を感じるわけで。

 でも、そんなことを言い出したってことは、ゴローは賭けなんかなくても、いずれはそうするつもりだったのかもしれない。
 そう考えれば、この賭けはフェアと言えばフェアだ。

 俺は負けてもペナルティを負わないことができる。
 ゴローはペナルティを負うが、その罰の内容を自分で決められる。


519: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/24(日) 02:49:32.09 ID:Tf7a7LY3o

 なるほど。逃げ場はない。

 とはいえ。
 ……勝ったところで俺に旨味がないのは気のせいか?

 なんとなく、うしろを振り返って佐伯の方を見てしまった。

 目が合うと、彼女は不思議そうに首をかしげた。
 それから思い出したみたいに、

「浅月、頼んだよ」

 と、彼女にしては大きな声で応援してくれる。

 まいった。
 なんか気まずい。

「……訊きたいことって?」

「それは、勝ったときに話す」

「……勝手に完結しやがって。いいけどさ」


520: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/24(日) 02:50:04.97 ID:Tf7a7LY3o

 ただでさえ最終フレームは考えることが多い。

 部長の失調があるとはいえ、チーム別の点数はあちらが有利なままだ。
 ゴローが上位に踊り出た以上、さすがに下位ふたりに対する罰ゲームを俺が受けるのは気まずい。
(というかそれに関しては、ごねれば回避できそうな気はするけど)

 そのうえゴローとの賭け。
 ……まあ、俺にはデメリットがないから、べつにいいっちゃいいんだけど。
 それでもゴローは、気安い笑みを浮かべながらも、どこか真剣な瞳で並ぶピンの方を睨んでいる。

 まあ、どっちにしても、やることは変わらない。
 とりあえず、できるかぎり点を稼ぐこと。それが俺にできることだ。

 そんなことを考えているうちに、ゴローが一球目を投げた。

 ストライクでも出されたらどうしようかと思ったが、球は大きな弧をえがいて、端の方のピンを四本ほど掠めただけで終わった。
 ここに来て突然調子を崩したゴローに、高森と佐伯が期待の声をあげ、反対に部長は頭を抱えたが、自分も不調だからかさすがに何も言わなかった。

「……まったく。賭けなんてするから調子崩すんだよ」

「見てろ。ここからだ」

 さて。とりあえずは、俺も投げるしかない。
 チームを劣勢から持ち上げるために、少しでもスコアを稼いでおきたいところだし、それを考えるとスペア以上は狙いたい。
 

521: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/24(日) 02:50:40.93 ID:Tf7a7LY3o

 ……いや。とりあえず、余計なことは忘れてしまおう。
 いざとなったら賭けなんて無視してやる。

 と、そんなことを思って投げた球は、中央付近へとまっすぐに向かっていき、七本ほどピンを倒した。

 そして俺たちは、それぞれにどうにかスペアを出した。

 最終フレームの三球目。
 
 なんとなく、じっと固まっていたらいつまでも投げられないような気がして、俺はすぐにボールを転がした。
 
 それは今日いちばんじゃないかと思うくらいのゆっくりとしたスピードで、ゆるやかな弧を描きながらピンへと向かった。
 倒した本数は九本。惜しくもストライクとはならなかった。

 俺はゴローの方をちらりと見た。

 彼は目を閉じて深呼吸をしている。


522: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/24(日) 02:52:39.49 ID:Tf7a7LY3o

 俺はいろいろ考えそうになったけど、それを全部やめにして、ただ成り行きを見守ることにした。
 
 ゴローの球は、結果から言ってしまえば、ストライクだった。
 俺は、それに少しだけほっとした。

「それで、訊きたいことって?」

 ゴローはワンゲームを投げ切った心地よさからか、いつもより爽やかに笑って、

「それは明日な」と言った。

 次の投者たちは、なかなか球を投げようとはしなかった。

 高森はしばらく、手首を動かしたり指を伸ばしたりして、「ちがうなあ」とか「こうでもない」とかぼやいていた。

 るーは、そんな高森の様子をなぜかうかがっていたが、しばらくすると諦めたように球を投げた。

 意外にも、一投目で倒したピンは二本だった。

 最後の最後で調子を崩してしまったのか、と思ったが、ゴローの例もあるから、まだ分からない。

 るーの球が戻ってきても、まだ高森は腕を組んだり首をかしげたりしている。

「マキ、なにをしてるの?」

 呆れて佐伯が声をかけると、高森は首だけで振り向いて、

「わたしのルーティンさがしてんの」

 と真顔で言った。
 そういうもんじゃねえだろ、と思ったけど、俺たちは口を出さないことにした(もうだいぶ疲れてたし)。


523: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/24(日) 02:53:17.02 ID:Tf7a7LY3o

 うーん、とまた考えこむような素振りを見せたあとに、るーは困ったみたいに高森の方を見て笑った。
 それから投げた二球目もまた、さっきとは逆側の角をわずかに掠めただけで終わる。

 計四本。疲れが出たのかもしれないし、集中が切れたのかもしれない。

 それが終わってから、高森は両手のひらで頬を軽く叩くようにしてから、ボールを構えた。

 ストライク。

「……お」

「あは」
 
 と、るーはなぜか、なにかに失敗したみたいに苦笑した。

 続く二球目も、頬を叩いてからボールをかまえ、ストライク。

「え」

 と部長の声がした。

「見つけた! わたしのルーティン!」

 だからそういうもんじゃねえって、というツッコミを入れようか迷っているうちに、頬を叩いた三球目。

 ストライク。

「……うそだろ」

「ターキー……」

 俺と佐伯は言葉を失った。

 振り向いた高森は満面の笑みで、

「大番狂わせ! ジャイアント・キリング!」

 と叫んだ。目がきらきらしていた。


524: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/24(日) 02:53:43.94 ID:Tf7a7LY3o

「今度こそ勝負がわからなくなってきたね!」と高森はひとりで盛り上がった。

 他のメンバーはしばらくただ唖然としていたが、やがて部長と佐伯は立ち上がった。

 さて、どういう戦いになるのやら、と思ったら、あっというまに佐伯は球を投げた。

 八本。

 気負いや緊張とは無縁そうに見えた。消化するみたいに、ただ球を投げた。
 二球目はスペア。三投目は八本。

 部長の方は、一投目でストライクを出して、調子を取り戻したのかと思いきや、二球目と三球目では数本ずつしか倒さなかった。
 それでも佐伯とほぼ同数だ。

「ハイライトはわたしのターキーだね!」

 そして出たスコアのチーム合計は、やはり優勢だった部長たちの勝利だった。


525: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/24(日) 02:54:09.66 ID:Tf7a7LY3o

「あれ? ターキーってすごい加算されるんじゃないの?」

「普通はね」

 不服げに口を尖らせた高森に、部長が説明をした。

「第10フレームだと、倒したピンの数だけが点数になるんだよ」

「……せっかくターキーなのに?」

「うん」

 そういうわけで、結局番狂わせは起こらなかった。

 個人ごとのスコアの順位は、一位が部長、二位が佐伯、三位がゴロー、四位が高森、五位が俺で、六位がるーだった。

 結局は中盤の趨勢通りの結末になった。


526: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/24(日) 02:54:56.34 ID:Tf7a7LY3o

 意外だったのが、結局は最下位とブービーの入れ替わりだけという結末。
 第10フレームの得点差で、俺とるーの順位は僅差で入れ替わったのだ。

 反対に高森はターキーで大量点を稼いだが、第10フレームでは他の部員たちもスペア以上を出していたため、追い上げとはならなかった。 

「……あは」

 るーは頬をかいて、困った顔をした。

 俺たちはとりあえずボウリング場を出た。
 終わってからは疲れと達成感が先に来て、賭けのことは誰も言い出さなかった。

 外に出ると、あたりは暗くなっていた。いつのまにか地面は濡れている。どうやら、雨が降って、もうあがったらしかった。

「……催涙雨だっけ? いつのまにか降って止んだみたいだな」

「――え?」

 うしろを歩くるーに声をかけると、彼女は何か物思いにふけっていたかのように、ぼんやりとした反応だった。

「……どうかした? もしかして、体調悪い?」

 だから急に調子を崩したのか、と考えかけたとき、

「あ、ちがいます、ちがいます!」とるーはぶんぶん手を振って否定した。


527: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/24(日) 02:55:43.73 ID:Tf7a7LY3o

「……なにか考えごと?」

「あ、いえ……えっと。なんでもないです」

 それからるーは、何かを待つみたいに他の部員たちを見回したけど、みんなボウリングの内容の反省以外には何も言わない。
 気になることでもあったんだろうか。

 なんでもない、と言われたから、俺はそれ以上何も聞かなかった。
 俺はなんとなく、心地よい虚脱感のなかで、ぼんやりと首を動かして、空を見た。

「ほら、空」

「……はい?」

「星」

「……あ」

「天の川は、見えないな」

「……運が良ければ、見れるらしいですけど。時間帯とかもありますし」

「へえ?」

 るーは、またひとりで笑った。

「どうしたの、さっきから変だけど」

「……なんでもないです。わたし、ばかだなあって」

 照れたみたいに、ごまかすみたいに笑う。

「どうした、急に」

「だから、なんでもないです。タクミくんには、教えたげません」

「……なんだそりゃ」


528: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/24(日) 02:56:15.89 ID:Tf7a7LY3o

 それからるーは、ぼんやり空を見た。
 駅までの道のり、俺とるーの少し前を、四人がまとまって歩いている。
 
 べつに意識して離れたわけじゃないけど、るーと話すのに歩調を合わせていたら、いつのまにか距離ができていた。

 少しの沈黙。
 
 俺は、ゴローのこととか、佐伯のこととか、それから猫耳風カチューシャのこととか、いくつかのことを考えながら歩いた。

 不意にるーが、うたうみたいに、呟いた。

「“ではみなさんは、そういうふうに川だと云いわれたり、
 乳の流れたあとだと云われたりしていたこのぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知ですか。”……」

「……」

 るーはこっちを見上げて、いたずらっぽく笑う。

 どきりとする。

 嵯峨野先輩のこと。よだかのこと。それから、嘉山のこと。
 
 思い出しそうになって……考えるのをやめた。


529: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/24(日) 02:58:10.32 ID:Tf7a7LY3o

 駅についても、みんな、どこかまだ楽しさの余韻に包まれていた。

 別れ際、高森にみんなで、「誕生日おめでとう」と言った。

「お祝い金は三千円ずつでいいよ」と高森はうれしそうに笑った。微妙にリアルな額だ。

 そうして、みんなと、笑って別れた。

 なんとなく、すぐに動く気になれなくて、ホームで立ち止まっていると、るーもまた、おんなじように立ち止まったままだった。

「帰らないの?」

 たずねると、るーはまた、困ったみたいに笑う。さっきから、ずっとこんな感じだ。

「……かえります、よ?」

「うん。……ばいばい」

 俺は、名残惜しさを振り払うみたいに、わざとそっけない態度で、そう言った。
 ひとりになると、きっと寂しくなる。

 るーは顔を隠すみたいに俯いて、ちょっとこわばった笑顔で、俺と目を合わせないまま、

「それじゃ、ばいばいです、タクミ、くん」

 と、とぎれとぎれの声で、なんとなく何かを言いたげにしたまま、俺に背中を向けた。


530: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/24(日) 02:59:49.93 ID:Tf7a7LY3o

 俺は切符売り場の前の柱に背中をあずけて、目を閉じて溜め息をついた。

 人間は、ひとりでいる方が寂しくない。
 一年中予定のない人が、ゴールデンウィークに誰とも会えないからといって突然寂しくなったりはしない。
 誰かと比べて虚しくなることはあるかもしれないけど、休日を丸一日ひとりで過ごしたって、彼は別に平気だろうと思う。

 けれど、頻繁にいろんな人と顔を合わせている人に、誰とも会えない時期が続けば、それは寂しいことのはずだ。 

 寂しさが強烈な痛みを伴うのは、祭りの後、パーティーの後、馬鹿騒ぎの後、耳鳴りのしそうな沈黙と静寂が訪れたときだ。

 賑やかな花火の後だからこそ線香花火は切ないのだし、きらきらと光るものが通り過ぎていくから夏の終わりは物寂しい。

 だったら……最初から祭りに参加しなければ、パーティーにいかなければ、馬鹿騒ぎをしなければ、人は寂しくならないはずだ。 
 その寂しさは、たかが知れたもので済むはずだ。

 だから、避けてたのに。
 そうやって、必死で守ってきたのに。

 気まぐれにバカをやって、騒いで、それがやっぱり楽しくて。
 だからほら、また寂しくなってしまう。

 自分がどうしてこうなったかなんて、思い当たる節も、納得のいく説明も、いくつもありすぎて、結局よくわからない。

 やっぱり、ばかみたいだ。楽しかったのに、楽しかったから、こんなことを考えてしまう。

531: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/24(日) 03:00:38.32 ID:Tf7a7LY3o


 そしてこんなふうに、満たされた夜にひとりきりになると、俺はよだかのことを思い出す。
 彼女にもこんな夜はあるのだろうか、と。
 そんなことばかりを思う。

 俺がよだかに、何かをしたわけじゃない。俺がよだかに、何かをできるわけでもない。
 それでも、楽しい時間を過ごしたあとに、よだかのことを思い出したとき、俺の心を覆うのは……後ろめたさだ。
 楽しむことへの、後ろめたさだ。

 ――“世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない”

 ――“幸福は、感受性の麻痺と想像力の欠如と思考の怠慢がもたらす錯覚だ。”

「……」

 ――“ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない。”
  
 ――“ほんとうのさいわいは一体何だろう。”

 不意に、
 服の裾を引っ張られて、俺は目を開けた。

 すぐそばに、るーが立っていた。俯いた彼女の髪が見えた。本当に、それくらい、近くだった。

「……るー?」

「……」

「……どうしたの?」


532: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/24(日) 03:01:05.82 ID:Tf7a7LY3o

「……あの。べつに、深い意味はないんですけど」

 彼女はそう言って、静かに顔をあげた。

「なに?」

「……えっと」

 彼女は、俺の服の裾をつかんだまま、あたりをうかがうみたいに、ちらちらと左右に目を泳がせた。

「どうしたんだよ、いったい」

「だから、その、罰ゲーム、じゃないですか」

「……え?」

「わたしが最下位で……タクミくんがブービーで、そういう賭けだったから」

「……」

「罰ゲームだから。みんなで決めたこと、だから。……しかたない、ですよね?」

 そう言って彼女は、許しを得ようとするみたいに俺を見上げて、
 俺はどうして、彼女の方がそんな顔をするのか分からなくて、
 反対じゃないかって思った。
 
 俺は、こんな、なのに、まるで、
 ――そんな目で。まるで…・…。


533: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/24(日) 03:01:45.40 ID:Tf7a7LY3o

 無理にやらなくても、とか。
 そういうことを言おうかとも思った。
 
 みんな冗談で言ってただけだろうし、って。
 むりやりそんなことをさせるような奴らじゃないし、みんな許してくれる、って。

 ……期待してたわけじゃないけど、考えなかったわけじゃない。
 望んでいたわけでもないけど、それは嫌だからってわけじゃない。

 大袈裟だと自分でも思うけど、なんとなく……恐れ多いような気すらするのだ。
 
「……」

「……えっと」

「……」

「その……」

「……はやくしてください。女の子に恥をかかせるつもりですか」

 と、るーはまた顔を隠した。おどけたような声は、でも、少しだけ震えてる気がした。
 からだの感覚が、妙に鋭敏になっているのを感じる。


534: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/24(日) 03:02:11.69 ID:Tf7a7LY3o

 この膠着状態を、どう打ち破ればいいのか、俺にはわからなかった。
 
 嫌だってわけじゃないけど申し訳なくて、
 だからといって、嫌がってるとか、そんなふうに思われるのも嫌で、
 こんなふうに、あやふやなままにしてしまっていいのか悩んで、
 そんなことを考える自分がおかしいのかもしれないと不安になる。

 でも、結局は、ほしいものをさしだされれば、受け取ってしまうから、
 俺の腕は、吸い寄せられるみたいに、ぎこちなく動いて、
 彼女のからだを抱き寄せていた。

 からだのからだに、ぎゅっと力が入ったのが分かる。
 互いのぎこちなさに、たぶん互いが気付いていた。

 なにかが変わってしまうのが、急に怖くなって、
 手を離してしまおうかとも思ったけど、それはなんとなくもったいなくて。

 だからごまかすみたいに、

「……罰ゲーム、だし」

 そう、呟いてみた。
 彼女のからだは、俺の声に一瞬だけ竦んで、
 それからくすくす笑う声が聞こえた。

「――そう、ですよ。罰ゲームです」


535: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/24(日) 03:02:37.83 ID:Tf7a7LY3o

 開き直ったみたいな声でそうつぶやくと、彼女は静かに体の力を抜いて、こっちに体重を預けてきた。
 背中に腕を回されて、頭を首の根本あたりにこすりつけられる。小さな子供みたいに、眠たげな猫みたいに。

「……罰ゲームなら、しかたないよな」

「……うん」

 口には出せないけど。
 意識したらまずい。
 が、意識しないなんてできるわけもなく。

 髪の感触とか、匂いとか、そういうものが……。
 くすぐったくて、気持ちいい。

 俺は、るーに気づかれないように、少しだけ隙間を開けようとしたけど、
 背中には柱があったから、るーが体重を預けてきた分、余計に近付くことになってしまった。

「いま、何秒ですか?」

「え、あ……数えてない」

「だめじゃないですか」

「るーは、数えてなかったの?」

「……数えてなかったです」

 照れたみたいに笑う声が甘ったるくて、他のことを考えられなくなる。
 ああ、もう。動物だ。


536: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/24(日) 03:03:08.14 ID:Tf7a7LY3o

 なにやってんだ、俺たちは。

「……じゃあ、数えますね」

 お互いに顔をそむけて、視線をどこにやったらいいか困っている。

 るーは照れくささをごまかすみたいに、おどけた感じで数を数え始めた。

「いーち、にーい、さーん、しーい」

 ……なんだよ、これ。
 あたりにだって、人がいないわけじゃないのに。
 なんだって、こんな公衆の場所で。

 そういえば今日は高森の誕生日で。
 七夕で。昼には、きっとこんなこと想像できないくらいに憂鬱で。

 ああ、でも、そういうことが、なんだか……。
 ……まあ、いいか。

「……じゅういち、じゅーに」

 俺がそんなふうに、理性とよくわからない何かとの戦いに混乱していると、不意に、ひとりの女の子が俺たちの様子をじっと見ていることに気付いた。

 うちの制服を着てる。


537: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/24(日) 03:03:41.83 ID:Tf7a7LY3o

 顔見知りかと思ったけど、違う。
 彼女は真剣な表情で、俺とるーの姿を見ている。

 そして、制服のポケットから携帯を取り出して、構えた。

「……」

 かしゃ、と、少し遠くから音が聞こえた。
 数を数えていたるーは、その音に気付かなかったらしい。

「にーじゅう、にーじゅいち、にーじゅに」

「……」

 女の子は、画面を真剣な瞳で見たあと、俺と目を合わせてにっこり笑ってから、手のひらをこっちに向けて、「どうぞどうぞ」というポーズをした。
 そのまま背中を向けて、人混みの中に去っていった。

「……」

 ……なんだあれ。と、そう思ったけど、なんだか頭がぼーっとして、うまくものを考えられない。

「……にーじゅーきゅーう、さーんーじゅーうー……う!」

「……」


538: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/24(日) 03:04:08.32 ID:Tf7a7LY3o

「……タクミくん?」

「……え?」

「あの、数え終わりましたよ?」

「あ、うん」

「……」

「……」

「……その。えっと」

「どうした?」

「……離さないんですか?」

「あ、うん……」

 と、頷いてからも、俺はなぜか、腕を動かせなかった。
 いや、もちろん動かせなかったわけじゃなくて、動かしたくなかったわけなんだけど。
 
「……いや、なんか、動くのめんどくさくて」

「そう、なんですか?」

「……うん」

「えっと。……それなら、しかたない、です、か?」

「……うん」

539: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/24(日) 03:06:06.77 ID:Tf7a7LY3o

 それから、ちょっとのあいだ、黙ったまま身動きもとらずにいた。
 どっちも、文句もつけなかったし、からかったりもしなかった。

 よくわからないような。
 わかっているような。

「……あの、タクミくん」

 不意に、るーは、ちょっとこわばった声をあげた。

「なに?」

「あの、つかぬことをおききしますけど……」

「うん」

「……ひょっとして、わたし、いま、汗くさくないです?」

「……え、どうだろ。べつにくさくはないけど」

 ぼーっとした頭のまま、鼻先を耳のあたりに近付けて匂いを嗅ごうとしたら、

「……ぅあう!」

 とるーは変な鳴き声をあげて、俺の胸を両腕で押し、強引に距離をとった。
 突然の大きな声に、俺の意識もパッと切り替わる。

540: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/24(日) 03:07:19.33 ID:Tf7a7LY3o

 るーは俺から距離をとって背中を向けると、何回か深呼吸をした。
 俺は俺で、柱にもたれたまま、瞼を閉じて額を抑えた。

 ……やっべえ。 
 なにやってんだ。

「あ、えっと、ごめん」

 さすがに悪い気がして謝ったけれど、

「えっ? なにがですか?」

 るーは何に対して謝っているかわからないように戸惑った声をあげた。

「いや、さすがに匂いとか、その……」
 
「た、タクミくん!」

「は、はい」

「えっと……今日のところは、帰りませんか?」

「あ、うん。だな……」

「……罰ゲーム! も、終わりましたし」
 
「……うん」

「えっと。また、あした」

「うん。……また明日」

 るーは、とたとたと逃げるみたいに去っていった。
 残された俺は、とりあえずいろんな事情で身動きをとりたくなかったから、また額を押さえた。

 こまったことに、頬が火照っている。

 ……まいった。ほんとに、かなわない。

541: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/24(日) 03:08:04.02 ID:Tf7a7LY3o
つづく

546: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/26(火) 00:59:20.01 ID:vG02Bl5Ho



「タクミくん、朝だよー、起きてるー?」

 と、静奈姉がドアの向こうから声をかけてきたときも、俺はぼんやりしたままだった。

 昨日の夜は帰ってきてからずっとぼーっとしていた。
 何にも手がつかなくて、仕方なくシャワーを浴びて早めに寝たけど、夜中の二時過ぎに一度目を覚ましてから、なかなか寝付けなかった。
 そんな調子で起きたり寝たりを繰り返して、結局朝の四時には眠りにつくのを諦めて、ベッドの中でもぞもぞと寝返りを打ち続けていた。

 気付けば窓の外から小鳥の鳴き声が聞こえる時間になっていた。

 理由は明白だ。

 少しとはいえ、眠った分だけ頭が冷静になって、昨日の出来事を思い出すたびに「あー」とか「うー」とか唸っていた。

 学校が終わった後にボウリングなんてやって、たぶんテンションがおかしかったのもある。
 というか、そうとしか考えられない。

 だけどおかしかったのはたぶんあっちもだ。
 
 普段もいろんな考えごとで眠れなくなることはあるけれど、こんなふうにひとつのことばかり考えていたのは初めてだ。
 夢にまで出てきた。

「タクミくーん?」

「あ、うん。もう起きてるよ」


547: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/26(火) 01:00:00.92 ID:vG02Bl5Ho

 眠たかったけど、ベッドを出た。

 起き抜けの頭についた寝癖を手のひらでぽんぽん触りながら、自分の手のひらを見る。
 それから、手のひらを鼻先に近付けてみる。

 このくらいの距離に、るーの首筋があったんだよな、とか、
 そんなことを思い出してる自分が気持ち悪くてすぐにやめた。

「……正気か、俺は」

 ……るーのことばかり考えていても仕方ない。
 とりあえず学校にいかなきゃいけない。

 昨日はいろんなことがあった。
 嘉山のことに……ボウリング。

 ゴローの訊きたいことって、そういえばなんなんだろう。
 猫耳の罰ゲームって、ホントにやるんだろうか。

 それから……と、結局るーのことを考えそうになったので、頭を働かせるのはそこでやめた。


548: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/26(火) 01:00:27.01 ID:vG02Bl5Ho


「タクミくん、今日はバイトだっけ?」

「……ああ、夕方から」

「じゃあ、晩ごはんは食べてくるんだよね?」

「だね」

「……タクミくん、何かあった?」

「え……なにかってなに」

「なんかいつもより機嫌良さそうに見えたから」

「……や、そんなことないと思うよ、うん」

「そう、かなあ?」

 静奈姉は不思議そうな顔で首を傾げた。
 女の人ってなんでこう、妙に鋭いんだろう。俺が分かりやすいだけかもしれないけど。

 まあ、なんかって言ったって……べつにあんなこと……。

「……きりがないな」

"あんなこと"でここまで取り乱すんだから、俺も案外単純だ。


549: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/26(火) 01:01:17.61 ID:vG02Bl5Ho

「……そういえばさ、タクミくん」

 思い出したみたいな口ぶりだったけど、ずっと前から訊くことを決めていたようなはっきりとした調子で、静奈姉はまた口を開く。

「夏休みは、あっちに帰るの?」

「……え?」

「わたしも一応家に帰ろうかと思ってるし、どうするつもりなのか確認しとこうかなって」

「……あ、うん。どうしようかな」

 去年は、帰る、と嘘をついてゴローの家に数日泊めてもらった(あとでバレたけど)。

「早めに考えとくよ」

「うん。おばさん、心配してるみたいだよ」

「……心配?」

 それは、まあ、そうか。
 うっとうしいと思うわけではない。母に対しては、特に思うところもないのだし。 
 申し訳なく思う気持ちはある。

 でも、だから帰るのかと問われると、それとこれとは別だ、と言いたくなる。
 結局、俺の身勝手なんだろうけど。



550: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/26(火) 01:01:43.43 ID:vG02Bl5Ho



 午前中は、勉強にも何にも身が入らなくて、ずっとぼーっとしていた。
 クラスメイトたちともほとんど話さなかった。

 昼休み頃になるとさすがにこのままではまずいと思い、目をさますために外の風を浴びることにした。
 
 本校舎の屋上は、いくつものグループで賑わっていた。
 天気が良いせいだろう。梅雨明けも、近いのかもしれない。

 なんとなくぼーっとしながら、買ってきたサンドイッチをひとり、フェンスの傍で食べていると、

 ぱしゃ、

 と音がした。

 驚いて音の方を向くと、携帯を構えた女の子がそこに立っていた。
 当然だけど、うちの制服。小柄で華奢な体格。髪型は活発そうなポニーテール。

 にっこり笑った表情は、子供みたいに素直そうだ。

 そして彼女は、至近距離で俺の食事風景を撮影したかと思うと、後ろ向きに足を動かして、そのまま去っていこうとした。

「待て待て待て」

 さすがに慌てて肩を掴んだ。

「は、はい?」

 すっごく意外そうな目で見られる。
 
「なんですか? こさちはちょっと用事があるのですが」

 こさち。
 一人称? 名前か?


551: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/26(火) 01:02:31.35 ID:vG02Bl5Ho

「きみ、だれ」

「これは申し遅れまして」

 と彼女は体をこっちに向き直し、

「こさちは小鳥遊こさちです。小鳥が遊ぶと書いてタカナシです」

「へえ。こさちはどう書くの?」

「幸を呼ぶ、で、呼幸であります」

「じゃあ、とりあえずおまえのこと座敷わらしって呼ぶわ」

「呼ばれた幸、でも可」

「どっちでもいいよ」

「あのー、先輩先輩、お気づきでないのかもしれませんが、あだ名の方が長くなってますよ?」

「ツッコミ遅いな、おい」

 ……なんか、独特のテンポの子だ。


552: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/26(火) 01:03:03.03 ID:vG02Bl5Ho

「で、なに」

「なに、とは?」

「えっと、小鳥遊、さん?」

「どうぞ、こさちのことは遠慮なさらず、こさちちゃんとお呼びください」

「なんで俺のこと撮ったわけ?」

「こさっちゃんでもさっちゃんでも構いませんが、こっちゃんだけはなんとなく嫌です」

「聞けよ」

 なんだこいつ。

「こさちが先輩のことを撮る理由なんて、決まってるじゃないですか」

「……決まって、るの?」

 いや、決まってないと思うけど。すくなくとも俺には分からないし。

「そう。決まってます。こさちが先輩のことを好きだからです」

「……はあ」

 沈黙。

「はあ?」

「……あのあの。嘘ですよ? ひょっとして信じました? すみません、冗談だったんです。よもや信じるとは夢にも思わず」

「……きみね」 


553: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/26(火) 01:03:41.69 ID:vG02Bl5Ho

 というか、こいつ。

「……きみ、昨日駅で」

「駅。はて?」

「駅でも、撮ってたよね、俺のこと」

「先輩先輩、それは自意識過剰というものですよ。こさちは先輩ではなく、切符売り場の柱を撮っていたんです」

「いや、その言い訳は苦しいんじゃないか?」

「まさかまさか。わたしが先輩と藤宮さんの抱擁シーンを撮影したという証拠でもあるのですか」

 抱擁って。抱擁ってなんだよ。抱擁じゃないだろ。
 ……抱擁じゃないならなんなんだ、と聞かれたら、答えに困るけど。

「……るーのことは知ってるわけだ」

「あや。先輩、カマをかけましたね!」

「かけてねえよ」

 言葉と同時のオーバーリアクションのたびに、ポニーテールがくるくる跳ねる。
 暴走特急めいたしゃべりかたに立ち振舞い。うっとうしいようで、不思議と目が離せない。


554: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/26(火) 01:04:58.81 ID:vG02Bl5Ho

「……きみ、俺のこと知ってるの?」

「しりませんしりません」と小鳥遊は首を振った。

「……先輩って呼ぶってことは、俺が三年だってことは知ってたんだろ?」

「先輩先輩、その歳でボケたらあかんですよ。まだ二年生ですよね?」

「……なんで知ってんだよ」

「あ、あ。謀られました」

 ……本当に、なんなんだ、こいつ。

「あ、間違えました。学年章です。学年章でわかりました」

「学年章……どこについてるんだよ」

「何をおっしゃいます先輩。この学校の男子生徒は誰もが襟元に学年章をつけているじゃないですか。ほら先輩の襟元にも……」

「……」

「……ついてないですね」

「けっこう前に失くしてな」

「……あや」

 ……こういうゲームあったな。証言を揺さぶって矛盾をつきつける奴。

555: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/26(火) 01:05:34.63 ID:vG02Bl5Ho

「……こさちは、先輩のことなんて知りません」

「……」

「ごめんなさい、嘘です」

「で、なんで撮ってたの、俺のこと」

「……甘いですね、先輩」

「は?」

「こさちが先輩のことを知っていたからといって、こさちが先輩のことを撮っていたことにはならないのですよ」

「……」

「こさちは、屋上から見える鳥たちを撮っていたのです。あ、あれはうぐいすかな?」

「あのさ……」

「はい?」

「そういうのマジでいいから。ホントに」

「あ、先輩、ちょっと顔怖いです。ごめんなさい。冗談です。かわいい後輩のおちゃめなジョークです」

 ジョークで済むか。


556: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/26(火) 01:08:31.64 ID:vG02Bl5Ho

「……さすがに隠しきれませんね。たしかにこさちは、先輩のことを知っている、のです」

「はあ」

 隠すつもりがあったようには見えなかったが。

「浅月拓海。文芸部所属。二年生」

「うん」

「A型、九月八日生まれの乙女座……」

「……」

「通学手段は地下鉄、親戚のお姉さんの部屋に下宿中、コンビニでバイトをしています。家族構成は、父、母、それからお姉さんがひとり」

「いや、怖いわ。なんだおまえ」

 列挙された情報のインパクトに驚いて、気付くのが一瞬遅れた。

「……"お姉さん"?」 

「こさち、先輩のことなら、なんでも知っているのです」

 本当に、なんだ、こいつ。
 ……気味が悪い。

「藤宮さんと仲良くしたいなら、スクイとばかり話していてはだめですよ。あれはあれで、いいやつですが、付き合ってたら擦り切れる一方です」

「……」

「こさちとの約束です。それでは、これにて」

 ぱしゃり、とまた一枚写真をとって、小鳥遊こさちはとたとた走り去っていった。


560: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/28(木) 00:04:26.28 ID:kdjUb4wMo

◇[escape]

 小鳥遊こさちに言われたからってわけじゃない。
 鷹島スクイに会おうと思ったからでもない。

 それでも、放課後になるのとほとんど同時に、俺の足は東校舎の屋上に向かっていた。

 どうして屋上なのだろう?

 よくわからない。
 ごく当たり前のように俺の足は屋上に昇って、当たり前のように視界に広がる景色を見下ろす。
 こだわりがあるわけでも、思い出があるわけでもない。

 どうして俺は……屋上に昇るのだろう。


561: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/28(木) 00:04:52.93 ID:kdjUb4wMo

 屋上には、誰もいなかった。
 佐伯も、スクイも、他の誰も。

 今日は夕方からバイトだし、部室にちょっと顔を出したら、すぐに店に向かわないといけない。

 フェンスに近付いて、金網を掴んだ。

 見下ろすのは、街だ。人々が暮らし、生き、生まれ、死ぬ街だ。

 だから、ここに来るのかもしれない。 
 街のなかから、街を見ることはできない。
 自分の目で自分を見ることができないように。

 街を見るには、街から離れなければならない。
 自分を見るために、視座を自分からずらさねばならないように。

 屋上に昇って「街」を見下ろすとき、俺は「街」のなかに含まれていない。

 ……それは不健全だという気もする。


562: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/28(木) 00:05:18.79 ID:kdjUb4wMo

 なんとなく、スクイがそうしていたように、給水塔のスペースへの梯子を昇った。
 深い意味はない。

 ただなんとなく、高いところに登りたくなった。

 背負っていた鞄から、持ち歩いていたMP3プレイヤーを取り出す。

 こんなことをしている暇は、本当はないんだけど。
 あんまり良い天気だから、ひなたぼっこだ。

 イヤフォンをつけて音楽をかけ、寝転がって日差しを浴びる。

 流れだしたのはくるりの「How to go」だった。

 快適だ。
 世界の終わりみたいだ。
 
 好きな音楽を瞼を閉じて聴きながら、瞼のすり抜けるあたたかい日差しを感じる。
 視界はやさしい肌色。

 世界は完成されていたのに、それを邪魔する気配があった。

 俺は体を起こして、イヤフォンを外す。

 静かに体を動かして、下を見下ろした。

 ふたりの生徒が立っている。男子と女子。別れ話ならよそでやってくれ、と最初にそう思った。

 でも、男子の方に見覚えがあった。

 嘉山だ。

「……孝之は、これで本当にいいの?」


563: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/28(木) 00:05:50.08 ID:kdjUb4wMo

 女子は、嘉山のことをそう呼んだ。
 ふうん、と思った。

 それにしても。
 ……“これで本当にいいの?”って、なんだ?

 盗み聞きの罪悪感からイヤフォンを付け直そうかとも思ったが、やっぱり好奇心の方が勝った。

「いいもなにも、俺は何も頼んでないだろ」

「でも、わたしは!」

「余計なお世話だって言ってるんだよ」

 ……話の筋は、いまいちつかめない。
 でも、なんとなく、重要そうな話をしているのは分かる。

「いいか。べつに今のままで問題ないんだよ。余計なことはしないでくれ」

「……じゃあ、孝之はずっとこのまま生きてくつもりなの?」

「ずっとって言ったってな。べつに、そんなに長い期間じゃないだろ。もう一年もない」


564: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/28(木) 00:06:18.95 ID:kdjUb4wMo


「……孝之が、どういうつもりなのか、わたしにはわかんない。悪いのは嵯峨野先輩でしょ? なんで黙って受け入れるの?」

 ……“嵯峨野”?

「……あのさ、俺はこのままで問題ないって言ってるんだよ。口出しされるいわれはない」

「でも!」

「おまえには関係ないって、そう言ってるんだよ」

「……分かった。でも、ひとつだけ聞かせて」

「なに」

「どうして、名乗り出たの?」

「……事実だから、じゃない?」

「……ごめん。孝之、わたし、本当に、余計なこと、しなければよかったね」

「ほんとにな。おかげで部活に顔出しにくいし。つうか、退部させられたらどうしようかな……」


565: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/28(木) 00:06:50.81 ID:kdjUb4wMo

 ……こいつら、何を言ってるんだ?
  
 話がさっぱり読めない。
 嘉山は、視聴覚室の集まりで見た時と、かなり印象が違う。
 
 それでも、通底した印象はある。
 何かを隠している、何かを見せないようにしている。
 何かを押し殺している。……そういう顔。

 ふたりは、それからしばらく小声で何かを話していた。そのとき、また、校舎の方から足音が近付いてきて、扉が開いた。
 嘉山たちは、少しのあいだ黙りこんだ。やってきたのが誰か、たしかめるつもりだったのだろう。
 
 屋上の扉をしばらく見ていた。開いた扉の先は、俺のいる場所からは見えない。

 そのとき、嘉山の表情が、なにか、信じられないものを見るみたいに、動いた。

「……え?」

「あ、ごめんなさい……取り込み中でしたか?」

 聞き覚えのある声。
 というか高森の声だ。


566: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/28(木) 00:07:25.72 ID:kdjUb4wMo


 ちょっとまずいかもな、と思い、俺は身を隠した。

「えっと、ほかに誰かいませんでした?」

 高森は、嘉山たちにそう訊ねた。案の定、俺を探しに来たらしい。

「いや……いなかったけど」

 さっきまでと、嘉山の受け答えは違って聞こえた。
 本当に驚いたみたいな態度だ。

 何に驚いたんだろう。
 高森。……高森の顔、姿、とにかく、ぱっと見て分かる何かだろうけど。

 ……そういえば、嵯峨野先輩も、高森にこだわっていたな。
 特に深くは考えなかったけど、嵯峨野先輩と高森は、ただ“ぶつかった”だけだったらしい。
 それなのに、嵯峨野先輩は高森のことを気にして、文芸部の部室までやってきた。

 ……嘉山と一緒にいる女子は、「嵯峨野先輩が悪い」と言った。
 どういうことだ?


567: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/28(木) 00:07:58.38 ID:kdjUb4wMo

 なんて、考えるだけ無駄だ。
 きっと、俺には関係のない話だろうから。
 
 他人のことに首を突っ込んでも、ろくなことはない。
 無神経に、無思慮に、掘り返すことはない。
 人のことは人のことだ。

 知られたくないことは、誰にでもある。

「……じゃあ、俺たち、いくから」

 動揺した感じの響きだった。
 嘉山たちは、そのまま屋上を立ち去ってしまったらしい。

 さて、どうしたもんかな、と思ったところで、下から物音が近付いてきた。

「やっぱりいた。たっくん、サボり?」

 高森は、どうやら俺がここにいると気付いていたらしかった。

「出るに出られなくてな」

「それで盗み聞きしてたの?」

「そんなとこ」


568: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/28(木) 00:08:25.22 ID:kdjUb4wMo

「ゴロちゃんが、たっくんに話があるって言ってたよ」

「あ、うん」

「それから、部長が罰ゲーム実施するからって」

「……猫耳?」

「そ。たっくんだけ逃がすわけにはいかないからね」

「俺、今日バイトだよ」

「サボれば?」

「ってわけにもいかないし、悪いけど、佐伯とふたりで耐え忍んでくれ」

「うーん。まあ、仕方ないか。来られる日につけてくれればいいよ」

「……」
 
 逃げ場はないらしい。


569: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/28(木) 00:08:51.57 ID:kdjUb4wMo

「……な、高森。前に言ってたよな」

「ん? なにを?」

「小説の続きを求める人が本当に欲しがってるのは、“続き”じゃなくて“反復”だって」

「……うん。言ったね」

「だったらどうして、読者は同じ話を読み返さないんだろう?」

「……一回目と二回目じゃ、読むお話は別物だからだよ」

「別物?」

「新鮮さがないから。読者が求めるのは、「同じ雰囲気」だけじゃない。同じくらいの「新鮮さ」も、だよ。
 同じお話を何度も読み返しても、失われた新鮮さは戻ってこないから……だから、新しい反復を欲しがるんだ」

「なるほどね」

「……それがどうかしたの?」

「べつに、意味はないよ」

 本当に意味はない。ただ思い出しただけだ。
 嘉山のことより、俺が考えなければいけないのは、ゴローの質問についてと、それから……るーに対する態度のことか。
 平常心、とはいかないが、まあ、なるようにしかならないだろう。

 そんなふうに、他のことを考えることで、俺は嘉山のことを頭から追い出した。


574: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/29(金) 22:50:06.86 ID:aMRXaWBuo



 一応部室に顔を出すと、みんなが既にそろっていた。
 五月頃はサボりがちだった佐伯も、最近はずっと顔を出している。

「さて、じゃあ罰ゲームの時間ですね」

 と、るーが鞄からみっつのカチューシャを取り出した。

 佐伯と高森は「うっ」という顔をした。

「つけてあげますね」

 にっこり笑って、るーは高森と佐伯のうしろを通り過ぎるようにさっとカチューシャをつけた。

「……屈辱」

「語尾はにゃんですよー?」

「……」

 語尾つけるくらいなら黙ってた方がマシ、と言わんばかりに佐伯は俯いた。

「りぴーと・あふたー・みー」

 とるーが煽る。

「にゃん」

「……」

「にゃん?」

「……にゃん」

 ぴこん、とゴローの手元から音がした。

「林田……?」

「気にすんな。記念だ」

 動画を撮っていた。


575: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/29(金) 22:50:33.47 ID:aMRXaWBuo

「撮らないでよ」

「黙れ敗者。立場を思い出したら語尾ににゃんをつけろ」

 ぐっ、と佐伯はうめいた。女子相手になかなか手ひどい扱いだが、それでこそゴローという気もする。
 それも高森相手じゃなくて、佐伯に対してこの態度っていうのがまた、彼らしい。

「……撮らないで、にゃん?」

 佐伯はどこににゃんをつけるのか迷っていた。律儀な奴だ。

 それにしてもこの罰ゲーム。
 ……おもしろいのか? すごいシュールだ。

 るーはにこにこ顔で猫耳つきの先輩ふたりを眺めてご機嫌な様子だ。
 
「ていうか! にゃんはいらなかったと思うの! やっぱり!」

 と、抗議したのは涙目の高森だ。

「にゃんはやめよう! にゃんはやめようよ! 猫耳は甘んじて受け入れるから!」

「あはは、そういうのよそうよ、蒔絵ちゃん」

 笑顔でたしなめたのは、奥の席でにやにやしながら様子をうかがっていた部長だった。

「もし勝ってたら、蒔絵ちゃん、同じことを言ってたと思う……?」

 ぐ、と、高森もまたうめく。

「……にゃん」

 ホント律儀な奴らだ。俺はちょっと感心した。


576: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/29(金) 22:51:09.84 ID:aMRXaWBuo

「なんでこんなことになったの……誰が言い出したの、罰ゲームなんて……」

「高森だよ」

「……え?」

「高森だよ。罰ゲームって言い出したのは」

「……にゃん」

 と彼女は言った。俺はちょっと笑った。

「……浅月、なに他人事みたいな顔してるの?」

「佐伯、語尾」

「……してる、にゃん? え、語尾ってこれでいいの?」

 ホント律儀な奴らだ。

「俺はほら、これからバイトだから」

「……逃がさないにゃん」

 と高森は言った。


577: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/29(金) 22:52:22.53 ID:aMRXaWBuo

「はは、高森、それ最高。それじゃ」

 俺は鞄を背負って逃げ出そうとしたが、肩をつかまれて足を踏み出せなかった。
 掴んだのは佐伯だ。

「……浅月」

 すごい迫力。

「はい」

「つけろ。にゃん」

 すごい圧力。
 こええよ。

「るーちゃん、早く」

 と高森がるーを呼んだ。呼ばれた方はきょとんとしていた。

「は、はい?」

「たっくんにも、早く猫耳を! この男に猫耳を! にゃん!」

 ほとんどやけになったみたいに、高森と佐伯はにゃんにゃん言い始めた。
 部長とゴローが腹を抱えて笑っていた。

「あ、ええと……」

「るーちゃん! なにやってんの!!」

「は、はい!」

 るーは両手で猫耳風カチューシャを掴んでから、俺の方を見た。
 妙な態度だ、と思った。

 ひょっとして……昨日のことを意識してるのか?
 まさか。
 でも、そういえば、さっきから視線がずっと合わないような気がする。


578: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/29(金) 22:52:54.00 ID:aMRXaWBuo

 ごくり、と喉を鳴らしてから、るーは立ち上がった。佐伯が俺の右腕を掴み、高森は左側にまわって俺をとらえた。

「さあ、かがむのだ、たっくん。にゃん」

 雑すぎるだろ。語尾が。

「浅月だけ逃げようったって、そうは問屋がおろさない、にゃん」

 エクリチュールが人格を規定するって本当なんだろうか。佐伯の口調がいつもより流暢だ。

 つーか、やっぱ楽しいかもしれない。
 佐伯がにゃんにゃん言ってるってだけでおもしろい。

 思わず吹き出すと、

「笑うな!」

 と佐伯が怒って、それをきいたゴローが、

「どうせなら"笑うにゃ"って言えよ」

 と煽って、そんな言葉に高森が、

「ふざけんにゃ!」

 と騒いだ。こいつら、ホントノリいいな。


579: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/29(金) 22:53:22.82 ID:aMRXaWBuo

 そんなやりとりをしている最中にも、るーの手は俺の頭に近付いてきた。

 目が合う。
 と、るーの瞳は泳いだ。

「……るーちゃん?」

「――そういえば」

 と、口を開いたのは部長だった。

「ビリとブービーにも、罰ゲームがあったんだったよね?」

「……あ」

「あ、それは……」

「そういえばそうでしたにゃ」と高森は開き直って猫語を使いこなしていた。

「こっちの罰ゲームだけっていうのも、ずるいよね。にゃん」

 反対に佐伯は語尾を言葉になじませるのを諦めはじめていた。もうちょっと粘れ。


580: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/29(金) 22:53:53.94 ID:aMRXaWBuo

「や、あの……」

「ふたりとも、抱き合っとく?」

「……」

 るーと目が合う。

『やりました』とは、言いづらい。
 なんでやったの、と言われたら答えに窮するし。

 となると逃げ場はないわけで。
 またやるしかない、のか?

 というか。
 どうなんだろう?

 もう一度機会があるなら、と、俺はもしかして、それを望んではいないか?

 とはいえ。
 みんなの見ているところで?
 いや、見ていないところならいいのか?

「……分かりました」

 とるーは言った。

「おい、マジか」


581: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/29(金) 22:54:20.82 ID:aMRXaWBuo

「……罰ゲームですもん、ね?」

 昨日みたいなことを、るーは言う。

「ていうか、おまえら、前にも一回抱き合ってたじゃん。屋上で」
 
 どこかしらけた調子で呟くゴローに、

「抱き合ってねえよ」

 と訂正しておく。

「じゃあ、あれなに」

「あれは……るーが抱きついてきたんだろ」

「だ、抱きついてません!」

「じゃあなんだったにゃん?」

 と、あのとき覗き見していた自分を棚に上げて、高森は問いただす。

「あれは……その、タックルです」

「タックルて」

 まあたしかにそのくらいの勢いだったけれども。

「とにかく、抱きついてません」

「……いや、どっちでもいいけどさ」


582: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/29(金) 22:55:34.91 ID:aMRXaWBuo

 会話が途切れると、みんなが俺とるーに注目した。

「ホントにやるの? この場で?」というお互いの視線。

「ええい、ままよ!」

 と一言叫んだあと、るーはぽすんと俺に体をぶつけてきた。
 体重をのせるみたいに軽く傾けて。

 ふわっと浮かんだ髪の匂いが鼻先をくすぐった瞬間、俺は、

(『ええい、ままよ』って……)

 などとどうでもいいことを考えていた。

「……」

 沈黙。
 と、感触。

「……」

 互いが互いをうかがうようにして、視線を向け合う。目が合って、くすぐったい間が降ってくる。
 るーは思い出したみたいに両腕をごそごそと動かすと、背伸びをして、腕を伸ばして、俺の頭に例のカチューシャをつけた。
 こっちを見上げて、ちょっとからかうみたいに笑って、

「……にゃー」

 と、ちいさく、ささやく。
 
「……」

 ……だからこいつは。


583: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/29(金) 22:56:04.09 ID:aMRXaWBuo

「……ていうか、ホントにやるんだね」

 と、部長がちょっと驚いた感じで言って、俺とるーは慌てて周囲を見回した。

 みんな、ちょっと戸惑った感じで、俺たちを見ていた。

「てっきり、どっちかが嫌がるとか、拒否するかと思ってたにゃん」

「だよね。にゃん」

 にゃんにゃんうるせえ。

「あ、えっ?」

 あわてて、るーは俺から離れた。

「えっ、と。冗談でした……?」

「うん」

 部長はあっさり頷いた。


584: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/29(金) 22:56:36.12 ID:aMRXaWBuo

 なんとなく痛々しい沈黙のなか、るーは数秒うつむいたかと思うと、俺の頭から猫耳を奪って自分につけた。

「どうした……?」

「……えっと。特に意味はないです」

 意味はないらしかった。
 
「ていうか、気になってたんだけど、ふたりは付き合ってるにゃん?」

 と、高森は言う。まだ続けるのか、それ。

「付き合ってない」

「付き合ってないです」

 俺とるーは揃って否定した。

「……そうにゃの?」

 ……もう猫語に突っ込むのはやめよう。

「あ、俺、そろそろ帰るわ」

 べつに時間が切羽詰まったってわけじゃないけど、バイトに行かなきゃいけないのは本当だったから、俺はぬけ出すことにした。
 さいわい罰ゲームは回避できたっぽい流れだし。


585: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/29(金) 22:57:29.29 ID:aMRXaWBuo

「あ、ごめん。わたしも今日は帰らなきゃ」

 と、佐伯は猫耳をつけたまま立ち上がった。

「ちーちゃん、何か用事?」

「うん。ちょっと、いろいろ」

「ふうん。またね」

 みんな一通り満足したのか、罰ゲームのことを言い出して引き止める奴はいなかった。
 俺はちょっと迷ってから、佐伯が荷物を準備するのを待って、一緒に部室を出た。

「それじゃあ、また明日」

 みんなにそう声をかけると、返事をしてくれたのは部長だけだった。

「じゃあねー」
 
 他のみんなは、何かを訝しむみたいに、俺の方を見ていた。


586: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/29(金) 22:57:57.09 ID:aMRXaWBuo

「浅月は……」

 廊下に出てすぐ、佐伯は口を開いた。

「なに?」

「藤宮さんのこと、どう思うの?」

「なんだよ。ひやかすつもり?」

「そういうんじゃないけど。なんとなく、かわいそうだなって思うだけ」

「……」

「わたしがいうことじゃ、ないかもしれないけど」

「うん」

「浅月は、何か意味があって、そういう態度なの?
 それともただの、いくじなしなの?」

「……どっちかっていうと、後者だと思うけどな」

「やっぱり似てる」

「誰が、誰に?」

 佐伯は教えてくれなかった。



587: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/29(金) 22:58:58.12 ID:aMRXaWBuo

「佐伯はさ、自分が幸せになっていい人間なのかって、考えたことはない?」

「……」

「誰かを差し置いて、自分が幸福になってもいいのかって。
 幸福になることで、何かを忘れてしまうんじゃないかって、思うことは、ない?」

「あるよ」

 佐伯は踊り場で立ち止まった。

「でも、それは、同情?」

 窓から差し込む日差しを背負って、彼女は俺を見下ろした。
 逆光だ。彼女の表情は、よく見えない。

「幸せになれない誰かが“かわいそう”だから、浅月も幸せにならないの?
 それって、哀れみのつもり? ずいぶん、傲慢なんだね」

 なにかが、逆鱗に触れたみたいに、佐伯は怒りのこもった声をあげた。

「……バカにしないでよ。決めつけないでよ。“かわいそう”なんて、“不幸”だなんて、決めつけないでよ」

 ……。

「誰も、わたしが不幸だから、あなたも不幸でいてください、なんて、言ったりしない。
“あなたがかわいそうなので、わたしもかわいそうでいます”なんて、そんなの……馬鹿にしてるようにしか聞こえないよ」

「……」

「勝手に、誰かの苦しみまで引き受けた気にならないでよ。その人の苦しみは、その人のものだよ。あんたのものじゃない」

 ……正論だ。佐伯は、ぐうの音もでないほど、正しい。
 でも、こっちだって、理屈で抱いているわけじゃない気持ちなのだ。
 持て余している感情なのだ。


588: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/29(金) 22:59:32.58 ID:aMRXaWBuo

 どうだろう?
 同情と言われると痛い。

 だからよだかを突き放せないのか、と言われれば、俺は頷くだろう。
 好意じゃない。

 だから、手をつなぐのは平気でも、それをるーに見られそうになれば、離してしまう。
 欺瞞だ。中途半端なやさしさはないほうがマシだと、そう言っていたのも、そういえば佐伯だった。

 でも、じゃあ。
 よだかのことなんか忘れてしまえばいいのか? 自分のことだけに集中して、自分の幸せを追求して。
 そうして、この側頭部のあたりでぐるぐると熱を持つ憂鬱のことも忘れてしまえばいいのか。
 忘れてしまえるのか。

 よくわからない。

「……とりあえず、さ」

 とりあえず。俺は佐伯に声をかける。

「それ、はずしたほういいよ」

 頭をさす。佐伯は自分の頭の上に手をやって、つけっぱなしのカチューシャに気付いて赤面した。
 
 俺が自分からよだかにラインを送ったのは、その日のバイトあがりのことだ。

『夏休み、こっちに遊びに来ないか』

 後先は考えなかった。その日のうちに、返信はなかった。


592: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/31(日) 23:58:30.74 ID:dD26TY1Qo



 と言ったって、べつによだかにラインを送ったのは、ただの思いつきってわけじゃない。
 
 俺は俺なりにいろいろと考えているのだ、だいたいろくなことじゃないかもしれないけど。

「なんかむずかしい顔してるね?」

 納品されてきた商品を片付け終わったあと、レジで一息ついていたら、一緒のシフトに入っていた大学生の女の人に話しかけられた。
 夕方からのシフトは夜勤との入れ替わりまでが基本で、ピークタイムと荷物の片付けを乗り切るために、高校生がフォローとして入っている。

 夕方のピークが過ぎて荷物を片付け終えれば、あとはレジに立ってぼーっとするか、暇つぶしにカゴでも磨くか棚掃除でもするかしか仕事もない。

「考えごとです」

「仕事中だよー?」

 もう既に二十分近く、ほとんど客が来ていない。
 立地的にそこまで流行っている店ではないらしく、夜の七時半を過ぎた頃から客は一気に少なくなる。
 この時間、シフトに入っているもうひとりの先輩は飲料系の商品の整理で裏に入っている。

 やることもないので、残った二人は、いつも何かで暇を潰しているわけだ。

「すみません」

「うん。駄目だよ。仕事に集中しないと」

 そんなふうに俺を注意するこの先輩は、雑誌コーナーから持ってきた「人を思い通りに動かす心理学」みたいなムックをふむふむ言いながら読んでいた。


593: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/01/31(日) 23:59:14.61 ID:dD26TY1Qo


「浅月ってモテるでしょ」

 雑誌から目をあげずに、先輩は言った。

「は?」

「顔もまあ、そこそこだし、同年代に比べて落ち着いてるってよく言われない?
 仕事もテキパキしてるし、愛想はちょっとないけど、感じ悪いってほどでもないし、客受けもけっこういいし」

「……いや、どこかにモテそうな要素あります? それ」

「土日に入ってる佐藤ちゃんも、浅月のこと褒めてたよ。仕事できるし話しやすいから一緒のシフトだとほっとするって」

「……いや、そんなことないとおもいますけど」

「そうやって、照れて謙遜しちゃうところもまた、かわいいんだよねー」

「……はあ。そうですか」

「どう?」

「なにがですか?」

「今の。再否定の話術っていうらしい。相手が謙遜した内容を更に否定すんだって」

「まず、前提になる褒め言葉の流れがうさんくさくて戸惑いしかありませんでした」

「……わたしにメンタリストは無理かあ」

 先輩はバッと本を閉じた。


594: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/01(月) 00:00:14.07 ID:0ToHWgZPo

「あ、佐藤ちゃんが褒めてたのはホント。よかったね」

「それ、俺聞いちゃってよかったんですか?」

「ま、佐藤ちゃん彼氏いるけどな」

「そうですか」

「いまちょっと残念だって思った?」

「いや、べつに」

「……あ、そういや、別れたっつってたかな」

「……」

「……いまちょっと期待した?」

「いや」

 次顔を合わせたとき気まずくなるので、あんまり他人を絡めたいじりかたはしてほしくないな、と思った。


595: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/01(月) 00:00:57.71 ID:0ToHWgZPo

「そういえば、廃棄見たっけ?」

「さっきやっときましたよ」

「おー、さすが」

「和菓子、見逃しありました」

「何時の奴?」

「朝九時で下げる奴ですね」

「うわ。朝からずっとみんなで見逃してたってこと?」

「けっこう多いですよ。日付下げだと思って、みんな見てないんだと思います」

「……うーん。あとでノート書いとく」

「何がまずいってこれ、普通にレジ通っちゃうんですよね……」

「ね。食パンとかもそうだけど、気付かずに売っちゃったらまずいよね」

「まあ、お客さんも気付かずに食べてるかもしれないですけどね」

「あはは。気付かずに美味しくいただいてくれたら助かるよねー。わたしらも廃棄食べてるけど平気だし」

 そんなことを話していたら、電話が鳴る。

「……クレームだったりして」

「……だったら嫌ですね」

「浅月よろしく」

「……いやまあ、いいんですけどね」

 先輩はいそがしそうな顔をしてまた本に視線を落とした。


596: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/01(月) 00:01:32.28 ID:0ToHWgZPo

 バックルームで電話の応対をしてからもういちど売り場にでると、先輩は眠そうに瞼をこすっていた。

「電話なんだった?」

「予約でした。来週の土曜、朝六時におにぎり各種数個ずつとお茶とスポーツドリンク」

「なんかの部活の大会でもあるのかなー」

「当日は急ぎらしくて、レジ通して処理を終わらせて、代金払うだけにしててほしいそうです」

「領収書は?」

「準備しててください、って言ってました」

「ん。あとで一緒にノート書いとく」

「お願いします」

「それにしても……来ないねえ、お客さん」

「ですね」

「あ、そういえばあの人来たっけ?」

「……どの人ですか?」

「えっと……ホープライト二個のおじさん」

「あー、今日はまだだと思いますけど」

「あの人こないだポイントカード置いてったんだよね。わたしいないときに来たら渡してもらえる?」

「今日、来ますかね?」

「どうかな。まあ、次来たときでいいよ」

「了解です」


597: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/01(月) 00:02:41.22 ID:0ToHWgZPo

「浅月は真面目だねえ」

「……はい?」

「真面目だから、ついつい仕事を任せちゃうよね……佐藤ちゃん、お客さん覚えてないもんなあ。電話避けるし」

「いや、まあ……あの子はたまにしか平日入らないですし、お客さん覚えてないのは仕方ないかと」

「……あの子こないだ、フライヤー揚げるときに時間押し間違えて、フランク真っ黒にしちゃってたよ」
 
「……」

「廃棄かけて、まあ捨てるのもなんだからってみんなで試しに食べたんだけど……けっこう美味しかった」

「食ったんですか」

「なんか普通よりパリッとして歯ごたえあった。あんまんも、揚げて食べるとおいしいって、オーナーが言ってたんだよなあ。やってみたいなあ」

「今は中華まんないですもんね」

「でも絶対体に悪いよなあ……」

「……いや、コンビニの商品なんてもともと半分以上体に悪いと思いますよ」

「よし。冬になったらやろうね」

「俺もですか?」

「わたしおごるから大丈夫」

「おごってもらえるなら、いただきますけど」

「うい奴うい奴」



598: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/01(月) 00:03:21.47 ID:0ToHWgZPo

 こんな適当なノリだけど、真面目な相談をすれば真面目に返事をくれる。
 とはいえ、その『真面目さ』というのが、ちょっと偏っている。

『形而上の悩みなんて、娯楽よ』

 と、彼女は以前、大真面目な顔で言っていたことがある。

『思弁的に悩んでなきゃ人間じゃないみたいな顔してる奴がときどきいるけど、わたしに言わせりゃあんなの、ただの暇人だよ。
 虎に追いかけられてる最中に記号学や言語論について思いを巡らせることができる奴がいたら、褒めてやる。
 考えたり悩んだりするのは、それが間接的であれ直接的であれ、そいつにとって快楽だから。そうじゃなきゃ、防衛か逃避だから』

 眠そうな顔で、そんなことを言っていたっけ。

『生きる意味とは何か? なんて、そんなに難しい問いじゃない。大仰な意味なんて基本的にないよ。
 動物には自己保存の欲求があって、遺伝子を残すようなことをすると気持ちよくなるように体ができてる。
 多くの女が子供を見ると庇護欲をおぼえるのも、多くの男が若い女を魅力的だと思うのもそう。脳味噌が、そうできてるの』
 
『人を殺しちゃいけないのは、自己保存や自己快楽のために他人を際限なく犠牲にしてもいいと認めたら、
 他人の生存や快楽のために自分や自分の近しい人が犠牲になるかもしれないから。
 だから、他人の自由を制限するかわりに、自分の自由も制限されてる。社会的な契約というか、一種の合意』

 この先輩はけっこう語りたがりで、機嫌がいいときは相槌を打っているだけでぺらぺらと喋ってくれる。
 快刀乱麻を断つような彼女の口ぶりが俺は嫌いではない。

 あまりの割り切りのよさに、ときどき足元がおぼつかなくなるような恐怖すら覚えるけど。
 だから、よだかのことを、彼女には相談する気にはなれなかった。

 ばからしいって一蹴されそうで。

「さーて、暇だねえ。わたし今のうちにトイレ掃除でもしてこよっかなあ」

 と言って、先輩は売り場にムックを戻してから、本当に掃除をしにいってしまった。
 

599: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/01(月) 00:06:31.54 ID:0ToHWgZPo

 残された俺は、もうとっくに補充し終わった箸やスプーンなどの資材をチェックする。 
 減っている煙草もない。コーヒーマシンの豆も足りてる。

 仕方ないので売り場の商品の陳列を直している(お客さんが来てない以上、売れてないから直すところもないわけだが)。

 と、ひさしぶりにお客さんがやってきた。

「や、どもども」

 と手をあげて入ってきたのは小鳥遊だった。

「……きみ」

「あれ、こさちのこと、お忘れですか? 健忘ですか?」

「きみさ、ストーカーなの?」

「譫妄ですか?」

 ……譫妄って、そういうもんじゃないと思うけど。

「こさちを迷惑防止条例違反者扱いしないでください。健全に買い物に来たんです」

「はあ。いいけど」

「アマゾンギフト券一万円分ください」

「……大きく出るな。そっちに置いてあるよ」

600: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/01(月) 00:07:50.36 ID:0ToHWgZPo

「こさちのなかで、電子書籍がアツいです。いつでもどこでもスマホで読めるのがグー」

「はあ」

「文字サイズもいじれますし、語義をすぐに調べられますし、何より本棚に並べたくない本を躊躇なく買えます。
 目が疲れるとかいう人もいますが、電子媒体に慣れ親しんで育ったイマドキ世代としては全然平気です」

「そうかい」

「ちょっとxxxっぽい漫画とか、一巻がおためしで一円とかになってると、つい買っちゃいそうになるんですよねえ……。
 ほっとくと次々そういう漫画おすすめされるようになって困ったりしますけど」

 俺はどう返事をすればいいんだ。

「でも読みたい本が電子化されてないので、今回は普通に頼みます」

 なんだったんだよ、今の話。
 相変わらずツッコミが追いつかない奴だ。

「……本とか、読むんだ?」

「好きな作家は森絵都さんです。最近、平置きされてる本の帯に『衝撃のラスト。あなたは必ず二回読む』系のコピーがあるとげんなりします」

「聞いてねえよ」

「そういや関係ないですけど、『ほしいものリスト』のほかに『ちょっと気になるリスト』がほしいなって思いません?」

「知らねえよ。ふたつ作って片方それに使えばいいだろ」

「……せんぱい、あったまいいー」

 ……感心されてしまった。


601: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/01(月) 00:08:48.84 ID:0ToHWgZPo

「今回は何買うの?」

「……知ってどうするんです?」

 いや、知ってもどうすることもできない情報だと思うのだが。

「言いたくないならいいけど」

「『終わりの感覚』です」

「あ……ジュリアン……ジュリアン・バーンズ? だっけ?」

「はい、たしかそんな名前の。フランスかどっかの」

「イギリスな」

「なんとか賞、とったらしいです」

「ブッカー賞な」

「先輩、詳しいですね」

「……いや、有名だと思う、けど……」

 まあ、興味のない人は知らないかもしれない。

 ブッカー賞レベルの本は日本の本屋でも平置きされてるし、受賞作品はあたりまえみたいに帯にそう書いてある。
 そういうのを何度か経験すれば、ブッカー賞がイギリスの文学賞だってことくらいは、いつのまにか覚えているわけで。
 
 つまり、ジャンル関係なく読み散らすタイプなら、そのうち覚える程度の知識だ。
 しかも、知識として知っているだけで、俺はブッカー賞受賞作なんてほとんど知らないし、読んでもいない。

 名前は覚えていたけど、「ジュリアン・バーンズ」の本だって、その一冊しか読んでない。
 翻訳されているのかどうかすら知らない。


602: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/01(月) 00:09:28.75 ID:0ToHWgZPo

「読んだんですか?」

「読んだよ」

「おもしろかったです?」

「うん」

 感想を言おうかと思ったけどやめておいた。
 そしたら会話はそこで途切れた。

 ギフト券を買ったあとも、しばらく彼女は雑誌コーナーで立ち読みをしていた。

 日用品の棚の埃を落としていると、自然と溜め息が出た。

「どうしたんです?」

 と、小鳥遊は訊ねてきた。

「いや、幸せってなんだろうなーって」

「はは、ウケる」

 俺が適当に返事をすると、彼女はさめた感じで笑った。

「……ウケますか」

「ウケます。答え、出てるじゃないですか」


603: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/01(月) 00:10:43.81 ID:0ToHWgZPo

「ん?」

「『幸せとは何か?』という問いが成立するということは、発問者は『幸せ』の見当がついてます」

「……え、どういうこと?」

「たとえば、『やかんとは何か?』という問いを立てるためには、『やかん』について朧気にでも知っている必要があります。
『やかん』を知らない人が『やかんとは何か?』という問いを立てるのは不可能です。
『これは何なのか?』『やかんという言葉がさすものは何か?』という問いにしかならないのです。『幸せとは何か?』という問いを立てられるのは、
 幸せについて知っている人だけです」

「幸せという言葉がさすものは何か?」

「幸せは、状況ではなく、実感です。悲しいとか、嬉しいとかと、違うようで、やっぱそういうものなのです。
 たとえば『悲しみという言葉がさすものは何か?』とか言っている人がいたら、こさちはやっぱりウケます。
 普通に生きてれば当たり前に感じる、どこにでもあるものです。
 本気で言ってたら、通院を薦めます。病気か何かですよ。神経物質の伝達異常とかの」

 思いの外毒舌、なのか、それとも本気でそう思っているのか。

「幸せは幸せです。楽しいとか悲しいとかと同じ、感情……そう呼ぶのが不的確なら、『心境』です。
 思うに、『幸せとは何か?』なんて言いたくなっちゃう人は、幸せというものに幻想を抱きすぎです。
 幸せにだって賞味期限がありますし、劣化もしますし、ほかの気持ちとごちゃまぜになったりします。
 百パーセントの幸福も、永遠の幸福もないです。ほしかったらどこかに入信することを薦めます」

"本当の悲しみ"とか、"本当の喜び"とか、"本当の幸せ"とかも、幻想です。
"本当じゃない悲しみ"はつまり偽物で、偽物なら、それは"悲しみ"ではないです。
 だったら、"本当の悲しみ"という言葉が意味するところは、"悲しみ"と一緒です。
 ちょっとそれらしいだけの、言葉遊びなんです。
 
 みんなが当たり前に感じた悲しみ、喜び、寂しさ、幸せ、が、"本当の"気持ちです。


604: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/01(月) 00:11:11.24 ID:0ToHWgZPo

「……小鳥遊は」

「こさち」

「こさちはさ」

「はい?」

「誰かに幸せになってほしいって思ったこと、ある?」

「……うーん」

 どうかなあ、という顔を、彼女はした。
 ちょっとだけ、ほっとした。ためらわずに頷かれたらどうしようかと思った。

「どうでしょうね。幸せになってほしい、か。そういう言われ方をすると、こさちの話、間違っている気がしますね」

「そう?」

「だって、心境としての“幸せ”と、“幸せになってほしい”という言葉のなかの“幸せ”は、ちょっと違う気がします」

 たしかに。

「そういう言い方をするとたしかに、幸せってなんだろう、と、いう気持ちになりますね」

「……」

「むずかしいこと、よくわからないです」


605: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/01(月) 00:11:48.50 ID:0ToHWgZPo

「もうひとつ質問」

「はい?」

「たとえば、誰かが助けを必要としてるとするだろ?」

「はあ」

「その人はすごく困ってて、途方に暮れてるんだ。助けを、必要としている、と、思う」

「はあ。前提が揺らいでますね」

「たとえば、きみは、その人のことを助けようとする。でも、全部は手伝えないかもしれない。
 途中までしか、手伝ってやれないかもしれない。それでも、手伝ってやるべきだと思う?」

「……はい?」

「……ん?」

「いや、“べき”か“べきじゃないか”で言ったら、まあ、“べき”なんじゃないんですか?
“したい”“したくない”で訊かれたら、こさちは基本的にごめんこうむりますが」

「……でも、途中までだよ。無責任じゃないか? 中途半端なやさしさって」


606: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/01(月) 00:14:27.85 ID:0ToHWgZPo

「えっと……それ、よくわかんないです。うまく説明できるかわかりませんが、いいですか?」

 こさちは今の今まで持ちっぱなしだった雑誌をようやく棚に戻した。

「道端で、ものを落として困っているおばあさんがいるとします。たとえば……うーん、まあ、石? 石でもいいですか?」

「あ、うん」

「じゃ、石です。なにかの。で、こさちが、散らかった石を一緒に拾ってあげるとします。
 そしたらおばあさんが、『お嬢さんありがとう』って言うわけですよ。
『実はこの石をあっちの通りのお店まで運ばなきゃいけないんだけど、手伝ってくれないかい?』とおばあさんが言ったとします。
 こさち、用事があったり、ちょっとめんどくさいなあって思ったら、ごめんなさいって言います」

 それを無責任と呼びますか?

 こさちは、当たり前のことを言うみたいに、俺の目を見た。

「こさちは、それを無責任とは呼ばないと思います。それは親切です。
 もちろん、大変そうだったり、時間に余裕があったり、機嫌がよかったりしたら手伝いますけど、
 そうできないときに手伝えないからって、途中までの親切が不親切になったりしないと、こさち、思います。
 もしそう感じるとしたら、それは『こさちの問題』じゃなくて、『おばあさんの問題』なのです」

「……」


607: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/01(月) 00:15:38.43 ID:0ToHWgZPo


 佐伯も、そういえば言っていた。俺はどうも、聞き逃していたらしいが、たぶんそういうことなのだ。

 ――強くなってもらう、か、線を引いてあげる、か、すべてを捧げる、か。

『線を引く』。

 それが正しいのかどうかは分からない。
 
 立ち上がったあとも一緒に歩き続けられるわけじゃないかもしれない。
 それはひょっとしたら、誰かにとってはつらいことかもしれない。

 それでも、転んだ奴に手を貸すくらいのことは、べつに悪いこととは言えない。
 べつにその意見を、真っ向から受け入れる気になったわけでもない。
 
 でも俺は、やってみよう、と思った。

 それはべつに、やさしさと呼ばれなくてもかまわない。
 転んだ奴に手を差し伸べないこと、落し物を拾わないこと。
 それは……据わりが悪くて落ち着かない。

 それだけだ。

 ……そう思った後も、それでもさんざん迷って。
 結局バイトが終わったあと、勢いだけでよだかにラインを送ったのだ。

 頭のなかで、いろいろあったのだ。それもまあ、先輩に言わせれば、防衛か逃避らしい。
 逃避って説が有力だ、と俺は自嘲気味に思った。

612: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/03(水) 00:42:20.76 ID:skja9Zpfo



 よだかからの返信は、翌週になっても来なかった。

 月曜日の昼休みに、俺はゴローに呼び出されて、文芸部室にやってきていた。
 放課後にならないと、他には誰もいない。たまに女子たちが昼食をとっている日もあるらしいが、この日はそうではなかった。

「例の質問、忘れかけてたもんでな」

 ゴローはそう言った。

「……で、質問って?」

「ああ。おまえ、煙草吸うか?」

「……煙草?」

「ああ」

「いや、吸わないけど」

「……そっか。ならいいんだ」

 ゴローは、少しほっとしたような顔をしていた。

「……訊きたいことって、それ?」

「東校舎の屋上で、煙草を吸ってる奴がいるって、噂になってる」

 ゴローは俺の顔を見ずに、パイプ椅子に腰掛けて、そう呟いた。

「あそこに一番出入りしてるのは、俺が知るかぎり、おまえだ」

「……なるほど」

 それで、俺、ということになったのか。
 

613: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/03(水) 00:42:46.78 ID:skja9Zpfo

「……煙草くらい、隠れて吸ってる奴、いくらでもいそうだけどな」

「べつに他の奴が吸う分には知ったことじゃないよ。部員が吸ってて面倒になったら嫌だって、そう思っただけだ」

 ……なるほど。

「ところで、誰なんだろうな。学校で煙草を吸うアホは」

「さあな。心当たりもないな」

「……それらしい奴、見かけたりはしなかったのか?」

「いや、知らない」

「そっか。まあ、所詮噂だしな。で、本題」

「……今のが質問じゃないのか」

「いや、質問はさっきの。こっちはまあ、ついでだな。なあ、おまえ、うちの部の三年生って、誰がいるか知ってるか?」

「……誰、って、部長だけだろ?」

 ゴローは、そこで一拍置いた。

「これ、見てくれ」

 ゴローが差し出してきたのは、何年か前の、うちの部誌だった。
 
「棚においてあったバックナンバーで見つけたんだ。二年前。俺たちが入学する前の部誌だな」

「……二年前」

 ペラペラとめくってみると、たしかに二年前のものらしい。

『由良 めぐみ 一年』

 部長が一年生のときのもの、ということになる。

「……一年生、二人」


614: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/03(水) 00:43:41.23 ID:skja9Zpfo

「名前」

『及川 忠臣 一年』

「……及川、って、及川さん?」

「うん。たぶん」

「あの人、一年のときはこっちの部にいたのか」

「やっぱり、知らなかったか」

「おまえは知ってたの?」

「いや。おまえ、部長から何か聞いてないかと思って」

「部長から? 何を?」

「いや、たまたま見かけたから、どうしてあっちに移ったのか知りたいと思って。ただの野次馬根性だよ」

「……ふうん?」

「ひょっとしたら、及川さんがこっちに絡んできたのって、部長と何かあったからなのかな」

 それに関しては、心当たりはないでもなかったけど、俺だって本人たちに直接聞いたわけじゃない。
 他人が噂しているのを聞いただけだ。事実と呼ぶには、心もとない。
 
 だから俺は、それについては何も言わなかった。


615: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/03(水) 00:44:13.94 ID:skja9Zpfo

 そういえば。
 部誌をつくるとき、部長が引用すると言っていたエピグラフ。

"Ich lebe mein Leben und du lebst dein Leben.
 Ich bin nicht auf dieser Welt, um deinen Erwartungen zu entsprechen -
 und du bist nicht auf dieser Welt, um meinen Erwartungen zu entsprechen.
 ICH BIN ich und DU BIST du -
 und wenn wir uns zufallig treffen und finden, dann ist das schon,
 wenn nicht, dann ist auch das gut so."

 ゲシュタルトの祈り。
 部長はあれを、『及川さん』や『読む人』に宛てたエピグラフだと、言っていたっけ。
 結局使うことはなかったけど。

「まあ、あんまりほかの人の人間関係に首突っ込むこともないだろ」

 俺がそう言うと、ゴローははっきりと頷いた。

「たしかに」
  
 部長のことは、部長のことだ。

「で、その部誌、どうだったの?」

「……それがさ、ちょっと読んでみて、びっくりしたんだよ」

「なにが?」

「読んでみれば分かる。部長の」


616: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/03(水) 00:44:45.91 ID:skja9Zpfo

 俺は目次から部長の書いたものの載っているページを開いた。

「……ん?」

「な。びっくりだろ」

「これ、部長が書いた奴だよな?」

「名前見る限り、そうだな」

「今とぜんぜん違うな」

 部長の書く文章は、はっきり言って一般受けしそうにないものが大半だ。
 情景描写と比喩と対比と詩情。整然とした、抑制的な文体で、主観的な描写が排され、感情を直接書き入れることもない。
 登場人物の心境や物語の動きの因果を、与えられた細かなヒントからこちらが掬い上げることを想定したような。

 硬質な曇りガラス越しに見せられるような、静かで、どこか神経質な感じのする、端的に言えば『分かりにくい』もの。

 でも、目の前にあるのは、そうではなかった。

 会話文を多用して、登場人物が流れのまま奔放に動きまわる。動作や言動はあっさりと、どこかコミカルに描写されている。  
 文章の正確さよりも、むしろ軽妙なテンポを楽しむことを想定しているような、飾り気のない文章。

 静謐さや硬質さではなく、軽快さやキャッチーさ。明鏡止水ではなく、奔流のようなダイナミズム。
 ストーリーだって、凝っているわけじゃない。ただ流れに身を任せて、行き着くところに勝手に行き着いたような話。
 

617: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/03(水) 00:45:23.44 ID:skja9Zpfo

「意外だな」

「……これ読んで、ちょっと気になったんだよな」

「なにが」

「だって、これ……最近部長が書いてる奴より、楽しそうに書いてないか?」

 文章から、書き手が楽しんで書いているかどうかなんて、伝わりっこない。
 そう思ったけど、これはたしかに、文章の流れに身を任せることを、楽しんでいるような話だ。

「こんなに楽しそうな文章を書く人が、どうして今みたいなものを書くようになったのかな、ってさ」

「……書き続けてるうちに、好みが変わっただけじゃないか」

「かもな。まあ、別にいいっちゃいいんだけど」

 でも、たしかに俺も気になった。
 俺たちが入部した頃には、部長はもう、今みたいな、神経質そうな、どこか緊張感のある話を書くようになった。
 こんなふうに楽しそうな話を書いていた人が、どうしてそんな変化を辿ったんだろう。



618: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/03(水) 00:45:49.68 ID:skja9Zpfo



「夏休みが、来る!」

 放課後、俺とゴローが部室についてから、数分遅れでやってきた高森が、切羽詰まった感じの顔で、そう騒いだ。

「……はあ。来ますね」

 そういう時期だ。みんな、そわそわしはじめる頃だ。

「夏休みが、近い!」

 高森はまた、同じように騒いだ。

「と、いうことは?」

 と今度は疑問符をつけて、みんなの顔を見回した。
 今日も今日とて、文芸部の部員は揃っている。

 誰も、高森の問いに答えない。

「ということは!」

 とふたたび高森は問いを重ねた。

「海に行きたい?」

「ちがいます!」

 部長の答えはハズレだったらしい。

「テストです! テストが来るんです!」

 ああ、とみんな納得した。それで騒いでいたのか。


619: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/03(水) 00:46:28.37 ID:skja9Zpfo

 よだかからの返信はまだない。
 それはまあ、俺が動いただけで事態が変わると考えるほど、思い上がってはいないつもりだけど。

 よだかがこんなに長い期間連絡をよこさないなんて、めったになかったから、少し不安になる。
 今までは、なんでもないようなことを、よく送ってきたのに。

「やばいよ。勉強してないよ……」

「普段から勉強してないから、こういうときに慌てることになるんだよ」

 佐伯は優等生っぽいことを言って高森をたしなめた。
 るーとゴローも、どことなく呆れ顔だ。

「なに? ここには優等生しかいないの? たっくん! ここは敵ばっかりだよ!」

「……いや、俺は勉強してるし」

「なんで!」

「授業でテスト範囲言ってくれてるんだから、その範囲勉強すればいいだけだろ」

「だいたい学生には時間がなさすぎるんだよ!」

 高森は俺の言葉を聞き流した。

「わたしだっていろいろ忙しいんだもん!」

 主にネットゲームだろう。

「誰か勉強教えて!」

 と、それが本題だったらしい。


620: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/03(水) 00:47:03.39 ID:skja9Zpfo

「ちいちゃん。ちーちゃん!」

「……やだ。一緒に勉強すると、マキ、遊び始めるもん」

「今回は言うこと聞くから!」

「……やだ。浅月」

「残念だけど、俺は人に教えるほどの頭ではないな」

 高森は一瞬だけゴローの方をちらりと見たあと、部長にすがりつく勢いで迫った。

「部長! 勉強教えてください!」

「……おい、なぜ今俺から目を逸らした」

 ゴローの声は低かった。

「うーん、わたしも余裕ってわけではないし」

「そんな……頼れる人はほかにいないのに」

「おい、俺はどうした」

「じゃ、ゴロちゃん教えて」

「やだよ」

「じゃ、言うな!」

 高森はまたわめく。うるさいやつだ。


621: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/03(水) 00:47:47.12 ID:skja9Zpfo

「誰でも良いから勉強教えて! 数学がピンチなの! 三角関数の存在意義がわからないの!」

「けっこういろんなとこで使われてるよ」

 部長があっさり答えた。

「じゃあ部長教えてください!」

「受験生に無理言うなよ」

「俺が昔読んだ小説なんだけどさ」

 と、ゴローが唐突に口を開いた。

「主人公が高い場所にものを打ち上げるとき、数学を使って着弾位置を予想してたシーンがあったんだよ」

「……それが?」

「学校の勉強の範囲を咄嗟に応用してる主人公が超かっこよくてな。それ以来狂ったように数学を勉強するようになった」

「……」

「数学なんて日常では使わないって言う奴がいるけど、あれは言いすぎだ。
 学んでみるとけっこう応用がきくもんなんだよ。すげえぞ、数学。象牙の塔なんかじゃねえよ」

「ゴロちゃん、勉強教えて!」

「ちなみに勉強はしたが、俺は平方根の使いどころすらよくわからなかった」

「……えっと、建築なんかで使われてるって、先生が言ってましたよ」

 るーが苦笑しながら付け加えたときには、高森は肩をがくっと落としていた。
 

622: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/03(水) 00:48:13.35 ID:skja9Zpfo


「……仕方ないなあ」

 佐伯が、呆れたみたいに溜め息をつくと、高森の目がぱっと輝いた。

「ちーちゃん!」

「まあ、いいよ。どうせ勉強はするわけだし」

「わーい!」

 はしゃぐ高森の横で、ゴローが手を挙げた。

「佐伯先生、俺にも教えて」

「……やだ」

「じゃあ、どこで勉強しよっか。ちーちゃんのうち?」
 
「うちは……お兄ちゃんいるから、だめ」

「お兄さんいると駄目なの? ちーちゃんのお兄さん見てみたい」

「やだ。見たっておもしろくないよ」

「でも、よく話に出てくるし……」

「出てこないよ」

「え?」

「出てない」

「……あ、うん。出てないかも」

 なんだか前にもあった気がするが、佐伯は兄の話になると、妙に態度が子供っぽくなる気がする。


623: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/03(水) 00:48:49.05 ID:skja9Zpfo

「でも、わたしのうちは狭いし……」

「図書館とかじゃ駄目なの?」

「だって騒いだら迷惑になるでしょ?」

「なんで騒ぐの前提なの……?」

 なんだか既に先行き不安なやりとりだ。

 と、そこでるーが手を挙げた。

「あの。だったら、うちでやりませんか?」

「え?」

 みんな、きょとんとした。

「でも……」

「あ、あの。教えてほしいってわけじゃなくて。ひとりでやるより、誰かと一緒のほうが集中できるんです、わたし。それに……」

 そこで言葉をちょっとつまらせて、照れくさそうに俯く。

「ちょっと、やってみたかったんです。勉強会みたいなの」

「……」

 みんな黙った。


624: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/03(水) 00:49:14.89 ID:skja9Zpfo

「よしやろう!」

 と、高森は心を打たれたみたいに力強く言い切った。

「るーちゃんちで! お菓子とジュースは各自持参で!」

「……勉強する気、あるんだよね?」

「もちろんですよ!」

 当然、と頷いた高森に、佐伯はまだ疑わしそうな目を向けていた。

「もうこうなったら、みんなでやる? ゴロちゃんもたっくんも部長も集まって」

「いや、でも、藤宮さんちでやるなら……」

「あ、わたしは全然かまいませんよ」

 ……なんか知らない内に巻き込まれなかったか、今。

「わたしに三角関数教えて、ちーちゃん。わたし、ゴロちゃんとたっくんに三角関数教えるから」

 三角関数だけやっても、範囲には追いつかないと思うが。

「俺としては願ったり叶ったりだけどな」

 ゴローは、なんでか偉そうな態度でそう呟いた。

「えっと……どうしますか?」

 るーは、俺と部長に交互に視線を送ってきた。

「……まあ、みんながやるなら」
 
 俺はひとまず頷いて、部長の返事を待った。

「ときどきは、そういうのもいいかもね」

 彼女もまた、頷いた。

「じゃあ、決まり! もう部活も休止期間に入るし、ちょうどいいね!」

「……入る、っつーか」

 と、俺は時計を見た。


625: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/03(水) 00:49:59.77 ID:skja9Zpfo

「……今日から、のはずなんだけどな。ヒデ、来ないな」

 休止期間に入る前に話したいことがある、と言っていたから俺たちは集まっていたのだが、当の顧問がやってこない。

「忘れてるのかな?」

 首を傾げた高森に、

「有り得るよな、ヒデなら」

 とゴローが頷く。

 なんて噂をしたところで、せわしない足音が扉の向こうから迫ってきた。

「ごめんごめん、遅くなった」

 巨体を揺らしながら、ヒデはドンっと扉をあけて、部室に踏み込んできた。

「先生、ドア壊れます」

 無表情でたしなめた部長に、ヒデはまた「ごめんごめん」と謝る。

「話ってなんですか、先生。わたしたち、早く帰って勉強したいんです」

 いつにもないキリッとした顔で高森がそう言うのを聞いて、他の部員たちはちょっと笑った。

「あ、いや、そんな大層な話じゃないんだけどね。一応テスト明けまで部活休みになるっていうのと、
 それからちょっと早いけど、夏休みの部活の日程表、渡しておこうと思って」

 と言って、ヒデは片手に持っていた紙を部員たちに配り始めた。
 たしかに気が早い。


626: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/03(水) 00:51:00.65 ID:skja9Zpfo

「夏休みが明けてちょっとしたら文化祭もあるし、そうなるとまた部誌を作らなきゃいけないだろ。
 その原稿の内容についても、一応各自考えといてください。 
 それから……文化祭、ステージ発表の有志も募集するみたいだから、もし何かやりたい人がいたら先生に言って」

 ……いや、ホントにそれ、夏休みの直前でもいい話だろ。
 そう思ったけど、なんとなく。

 本当に、夏休みが近いんだって気がして、そわそわしてきた。
 みんなも、そんな感じだった。

「ごめん、遅れて。それじゃ、みんな、テスト勉強がんばってください」

 ヒデはそう言ってにっこり笑った。

「解散!」

 とヒデは言った。
 
 そのようにして、俺たちは一時的に部室を追い出されることになった。


627: ◆1t9LRTPWKRYF 2016/02/03(水) 00:51:29.72 ID:skja9Zpfo
つづく

634: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/07(日) 00:50:58.07 ID:gknt8V1eo


 
 決行するならすぐだろ、って言い出したのはゴローで、奴は制服のシャツの胸元をバタバタさせながら額の汗を拭っていた。

 乗り気のままの高森とゴローを横目に、「大丈夫なの?」って佐伯は心配していた。
 るーはにっこり笑って、「いつでも平気ですよ」と嬉しそうに言った。

「わたしたちの予定も確認してほしいよね」と部長がぼやくと、
「何かあるんですか?」と耳ざとく反応した高森が真顔で訊ねる。

「いや、ないんだけどね」と、部長は困り顔で苦笑した。

 そういうわけで。
 この街に来て一年以上のときが流れた今、ようやく俺は、あの懐かしい道を歩いている。
 
 みんなで通り過ぎた公園があって、
 遊馬兄と静奈姉の家があって、ずっと先にるーの家がある。

 通りは細くなっていて、家も塀も低くなっていて、公園は狭くなっていた。
 

635: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/07(日) 00:51:25.83 ID:gknt8V1eo

 ホントによかったのかな、と思った。
 こんなふうに、るーの家に行って。

 誰かに後ろめたいような気がする。
 誰かが誰だかわからないけど。

 ふと気付くと、ゴローが隣を歩いていて、

「まだ何か考えてるのか」

 と訊ねてきた。

 どうだろうな、と俺は思う。

「今日は風があるから涼しいな」

 当たり障りのない天気の話だ。俺は頷いた。

「日差しは暑いくらいだけど、まだ過ごしやすいな」

「ああ」

「もう、梅雨明けたんだっけ?」

「どうだったかな」

「そういえば今年、紫陽花を見てないな」


636: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/07(日) 00:51:51.85 ID:gknt8V1eo

 俺はちょっと笑った。

「なんで笑う?」

「いや。急にそんな話ばっかりだから、どうしたんだろうと思って」

「おまえの目にちゃんと、そういうことが映ってるのかと思ってな」

「どういう意味?」

「そのままの意味だよ」とゴローは言う。

「俺の言葉に深い意味なんてない。いつだって、そのままの意味だ」

「……なーんか、含みのある言い方だって思うけどな」

 そして俺は、改めて周囲を見渡してみる。

 七月上旬の空はからりとした晴れ空だ。のろのろとした雲がゆるい風に押されて頭上を通り過ぎていく。
 前方を、女子集団が歩いている。不思議と居心地は悪くないけど、普通だったら居づらさを感じそうなものだ。

 さっきの寄ったコンビニには、昔よく行った。
 アイスを買ってもらって、歩きながら食べたりした。
 
 勉強会にそなえてジュースやお菓子を買って、じゃんけんに負けたゴローがひとりで荷物を持っている。
 まさかまた来ることになるとは思わなかった。


637: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/07(日) 00:52:18.45 ID:gknt8V1eo

「どうかしたんですか?」
 
 前方からこっちを振り向いたまま、歩調を緩めて、るーが俺たちの横に並ぶ。
 ゴローは、一瞬ちらりと俺の方を見た。

「こいつが、つまんなそうな顔をしてるもんだからな」

 俺は慌てて「おい!」と声をあげた。
 くくくと笑って、彼は平気そうにしていた。追及する気もなくなる。

 案の定、るーはまた、前に橋のそばで見たときみたいに、不安そうな、うかがうような目をする。
 やめろよ。

「藤宮は、どう思う?」

「なにがですか?」

「こいつが、つまんなそうにしてる理由」

 ゴローの言い方には、棘があるというのとも、挑発的というのとも違う、どこか核心をつくような響きがあった。
 俺は、るーにその話をしてほしくない、と思った。

 でも、るーの顔を見たとたん、そんなの気のせいだって否定するための力が肩からすっと抜けた。
 彼女は、そのことか、っていうみたいに、笑った。
 ずっとまえから分かってましたよ、っていうふうに。

 戸惑う。


638: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/07(日) 00:53:03.92 ID:gknt8V1eo

「たぶん、いろんなことがあるんですよ」とるーは言った。
 ゴローはつまらなそうな顔をしていた。どんな反応を期待したのかは分からないが、的外れだったらしい。

「それに、最近は、楽しそうですよ、そこそこ」

「そこそこ、ね」
 
 その言い回しに、ゴローは納得したふうに頷く。

「いいんです。ずっとつまんなそうな顔なら、ちょっといやですけど、楽しそうな顔もしてくれるなら、べつにいいんです」

「……」

 どういう意味だろう、とちょっと思った。

「だってタクミくん、子供の頃からそうだったもん。笑ってるときより、仏頂面してるときの方が多かったですから」

「……や、そんなこと、ないと思う。子供の頃はもっと……」

 と、なぜか、『つまらなそうにしている』ことを否定することも忘れて、反論してしまった。
 
「変わってませんよ。そんなに」

 ばっさり、るーは切り捨てた。

「タクミくんは、タクミくんのままです」

 にっこり笑う。
 自信ありげに。確信しきったみたいに。
 

639: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/07(日) 00:53:53.49 ID:gknt8V1eo

「ニヒルっぽいのに熱血で、クール気取りだけど軟弱で、そっけないけどやさしいのが、タクミくんです」

 やめろよ。
 って、また思った。

 なんでだろう。

 こんなふうに笑ってもらえるのは、うれしい。
 許されたみたいな気がする。

 街路にこもった熱気を風が静かに運んでいって、街路樹の枝葉がかすかに揺れた。
 季節の気配が入れ替わったような気がした。

 ――じゃあ、賭けをしようぜ、タクミ。
 ――世界は、退屈か? それとも、きらきらか? そういう賭けをしようぜ。

 肩まで伸びたるーの髪は、夏の日差しに照らされて白っぽく光った。
 きらきらしてた。

 ああ、まずい。呑まれる。まただ。ボウリングの後、切符売り場の前、あのときと同じだ。
 呑まれる。忘れてしまう。そうだよ、誰かに言われなくたって知ってる。

 俺は恵まれていて。
 俺の世界は不足がなくて。
 俺の世界に不幸はなくて。

 学校に通って、バイトをして、部活をして、みんなでカラオケに行ったり映画を観たり買い物したりボウリングしたり。
 そんなことをして、楽しんでいて、つまらない顔をしてるのなんて、ぜんぶ、嘘だ。

 きっとそうだ。とっさに笑えないのは、ただ子供の頃からの癖だ。最初から気付いていた。
 俺は生きてるのが楽しくて、るーに会えてうれしくて、みんなといるのが楽しくて。
 みんなに会いたくて、るーが笑うとそれだけで嬉しくて、そんなときに必ず、

 ――わたし、生まれなければよかったね。

 泣いていた女の子のことを思い出す。
 

640: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/07(日) 00:54:19.86 ID:gknt8V1eo

 わけがわからなくなって、どうしろっていうんだよ、って怒鳴りたくなったけど、
 なんでか泣きたくなったけど、さすがにそういうことができるほど子供ではなくなっていた。

 俺はどうにか作り笑いをして、何をどうすればいいのかを考えた。
 でも答えなんてどこにも落ちていなかった。

 ゆるい風にるーの髪が揺れるのを見ていた。
 栗色に光る、肩まで伸びた髪。なんとなく手を伸ばして、彼女の頬をつねってみた。

「……なんですか」

 と、彼女はつねられたままの顔で言う。ちょっとまぬけな響き。

「るーも、るーのまま、変わってないなって思っただけ」

 俺は指を離した。彼女は文句もいわずに自分の頬を手のひらで撫でた。

「そうでもないですよ。こう見えて、いろいろあったんですよ」

「何にも考えてないようにして考えてて、奔放に見えて気遣い屋で、天真爛漫に見えて臆病だ」

「……」

「はずれ?」

「え、っと。自分では、そういうことはわからないですけど……」

 ちょっと照れたみたいに、戸惑ったみたいに、るーは視線をそらす。


641: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/07(日) 00:57:10.85 ID:gknt8V1eo


「るー、俺は」

 と、一瞬何かを言いかけて、慌てて自分の口を塞いだ。
 あぶねえ。何を言いかけた、今。

 気まずさをごまかすみたいに、るーの頭にぽんと手のひらをのせてみた。
 単に置きやすい位置にあったから、っていうだけの理由で。

 いやがられないかなってちょっと心配したけど、案の定彼女はむっとした顔になった。
 思わず手を離すと、彼女はふてくされたような顔のまま、自分の手でささっと髪を整えた。

「やっぱり、タクミくん、ちょっと変わったかもです」

「どこ?」

「ちょっと生意気になりました」

 拗ねたみたいなるーの言い方に、ゴローは一瞬あっけにとられて、それからくつくつ笑いはじめた。
 つられて俺も笑う。

「なんで笑うんですか」って、るーがまた拗ねた感じで言う。

 前を歩く高森たちがこっちを振り向いて、「なにしてんの、置いてくよー」って道の先を歩いていく。
 るーの家がどこかなんて、おまえら知らねえだろって、俺はまた笑う。
 
 ブロック塀の隙間から通りの家の庭と縁側が見えて、
 風に揺れる風鈴の音が道を歩く俺の耳に届いた。きっと、隣を歩くるーやゴローの耳にも聴こえたと思う。
 
 街路樹の影がこもれびをくっきりと描いている。
 視界は明瞭で、意識は浮かんでて、隣にずっと会いたかった人がいる。

 どこにも不満なんてない。景色はきらきらしている。

642: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/07(日) 00:57:36.69 ID:gknt8V1eo

 
「ゴロー」

「なに」

「今度牛丼おごるよ」

「え、なんで」

「なんでも」

「うし。大盛りな」

 ……どこか遠くで、雨が降っている。そのことが、なんとなく分かる。
 でも、俺がいるこの場所はよく晴れていた。ポケットから携帯を取り出して、空の写真を撮る。
 送る相手は決まっていた。

『こっちに来いよ』

 それが何かの役に立つかどうかもわからない。かえって状況を悪くするだけなのかもしれない。
 でも、俺は、祈るみたいに送信ボタンを押す。

 余計なお世話かもしれない。煙たいだけの言葉かもしれない。
 それでも俺は、彼女がこの場にきて、それが彼女にとっての何かになってくれたらいいと思った。
 
 ポケットにしまいなおした途端、携帯がブルブル震えた。

『来た』

 と、文字が並んでいた。添付された画像を開く。
 駅だ。この街の。新幹線の。

「……え?」

「どうかしましたか?」

 隣を歩いていたるーが首を傾げた。

「……いや、え?」

 ……マジか?

647: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/09(火) 00:26:43.56 ID:J098vsJCo

◇[Amethyst Remembrance]

 秋津よだかは、駅前の喫茶店で本を読んでいる。「対訳ディキンソン詩集」だ。
 大荷物を机の下に寄せて、俺の真向いに座って。

 顔を合わせた時、よだかは、
 
「ひさしぶり、弟くん」

 と皮肉っぽく笑った。

「誰が弟だ。……どうしたんだよ、急に」

「来いって言ったから」

「……いや。五分も経ってなかっただろ、送ってから」

「愛のなせる技だよね」

「つーか、あれは"夏休みに"って意味だ」

「そういう意味だったんだ。気付かなかったな」

 とぼけて見せたよだかを連れて、俺はひとまず喫茶店に入った。
 そしたらこいつは、本なんか読み始めた。なんとも話が進まない。


648: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/09(火) 00:27:19.25 ID:J098vsJCo

「ディキンソン?」

「うん。暇だったから」

「……あのさ、よだか」

「なに?」

 俺は一拍置いて、溜め息をついてから、彼女の頭を手のひらでぐりぐり押した。

「いたいいたい!」

「ちゃんと連絡しろって、俺は前にも、言ったよな?」

「痛いってば! ごめん!」

 実際にはそんなに痛くもなさそうに、よだかはちょっとだけ息を整えて、平然と俺を見返してきた。

「……どうしたんだよ、急に。まだ学校終わってないだろ」
 
「べつに。なんでもない」

 す、っと、よだかの雰囲気が変わる。硬質な響き、問いかけに答えない鉱石のような沈黙。
 それが分かる。打っても響かない態度。

 ……。

「なんでもないで、済むか」

 よだかは不審そうに顔をあげた。


649: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/09(火) 00:28:14.08 ID:J098vsJCo

「なんでもないで済むか! バカ!」

 と俺は怒鳴った。
 静かな平日の昼下がり、喫茶店に響いた声は明らかに浮いていた。

 店員がさりげなく近付いてきて、俺に着席を促し、注文を取っていった。
 実にいい手際だ。俺は自分が恥ずかしくなった。

 怒鳴られたよだかは、俯いて、反応をよこさない。  
 しまったな、と少し考える。

 コーヒーがやってきた。口をつけてしばらくしてからも、沈黙は続いている。

 理屈で納得できたからって、うまい振る舞いが実際的にできるかって言われたらそうじゃない。
 結局これまでとおんなじだ。
 よだかに対する態度を、俺は決めかねたままだ。

 よだかはこっちを見ようともせずに、

「……たくみ、なんか変わった」

 と、拗ねたみたいに呟く。俺は、なんでだろう、ちょっとだけ傷ついた。

「帰る」

 よだかは荷物を掴んで立ち上がる。


650: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/09(火) 00:28:40.25 ID:J098vsJCo

 いや待てよ。
 と止めたかったけど、止めて何を言えばいいのかわからなかった。

 甘ったれんな!
 
 そう怒鳴ってしまいたかったけど、そう怒鳴ってしまったら、俺は自分を許せないだろう。

 対処に困っているのだ。

 よだかはスタスタと歩いていって、二人分の会計を勝手に済ませて、入り口のベルを揺らしながら外へと出た。
 暗い影のような涼しげな喫茶店を出ると、夏の日差しは嘘のように眩しくて熱い。

 俺はよだかの腕を掴んだ。

「待てって!」

「離して!」

「いいからとりあえず話を聴け!」

「したい話なんてない! たくみなんて大っ嫌い!」

「……な、んでそこまで言われなきゃいけないんだ! このバカ!」

「またバカって言った……! 最低!」

「いいから待てって! とりあえず話を……」

「だから話したいことなんてないってば!」

「だったらなんで来たんだよ!」

「たくみが!」

「……俺が、なに」

「……たくみが、来いって言ったから」


651: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/09(火) 00:29:32.48 ID:J098vsJCo

 言葉に詰まる。
 何を言えばいいのか、わからなくなった。

 こいつの天秤がよくわからない。
 何を大事なものとして、何を望んでいて、何を目指しているのか。
 それがつかめなくなってしまった。

 前までは、もっと彼女のことを、彼女の考えていることを、理解できたような気がする。
 それがいい傾向なのか、悪い傾向なのか、わからない。

 この場面に限って言えば、いい傾向ではなさそうだ。

 どうしたものか考えながら、救いをもとめてあたりを見回すと、
 物陰からこちらを覗く、見覚えのある影を見つけた。

 建物の影。

「……高森?」

「あっ」

 ドタドタと慌てるような音が続いた。
 俺は角に向かって駆け出す。

「……おまえら」

 佐伯、高森、ゴロー、るー、部長。
 全員だ。

 俺と目が合うと、るーはごまかすみたいに笑った。

「わたしは止めた」

 と佐伯は言った。

「わたしも」

 と部長。


652: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/09(火) 00:30:00.36 ID:J098vsJCo



 よだかから連絡を受けたあと、慌てて駅へと向かった俺を怪しんで、高森とゴローはその場から俺をつけていたらしい。
 るーたちは一旦目的地について荷物を置いたあと、「たっくん見知らぬ女と合流なう」という高森からの連絡を受けてこの場に急行したとのこと。
 
「様子がへんだったから、心配したんだよ!」

 高森はあからさまな嘘をついた。その点ゴローは正直だった。

「俺は心配してなかった。なんか面白そうだと思ってつけてきた」

 なんてやつだ。

 みんなの影に隠れていたるーが、ふっと前に出てきて、よだかの顔をじっと見た。

「おひさしぶりです、よだかさん」

 そうしてにっこり笑う。
 よだかは眩しさから目をそむけるみたいに視線を泳がせた。

「うん。ひさしぶり」

 佐伯もまた、似たような言葉をよだかにかけた。
 なんだか不思議な感じがした。


653: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/09(火) 00:31:00.36 ID:J098vsJCo


「で、たっくん、そちらは……?」

 その子誰、という言い方を本人の前でするのは気が咎めたのか、高森は妙に丁寧に質問した。

「姉」

 と俺は答えた。

「……お姉さん?」

 よだかは何かを諦めるみたいなふうに、よそゆきの笑顔を張り付けた。

「はじめまして。秋津よだかです。みなさんはたくみの学校のお友達ですか?」

 姉っぽい調子で。 
 こういうふうな口調だと、たしかに年上っぽく見えるかもしれない。

 ゴローも部長も、一瞬ちらりとこちらを見ただけで、何も言わなかった。

 まあ、大方の想像通り、

「え、たっくん一人っ子だよね?」

 と言ったのは高森だった。


654: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/09(火) 00:31:44.32 ID:J098vsJCo

「うん」

「いま姉って」

「それな」

「いや、それな、じゃなくて」

 別に説明したってよかった。
 でも、きっと説明したら面倒な雰囲気になる。 
 
 気を遣わせるのも嫌だから、俺は黙る。

「姉なんです」

 とよだかは言った。

 それで高森は納得した。「そうなんだ」、と、まだ何か言いたげだったけど。

 そこで話が終わってしまうと、話は振り出しに戻った。
 帰る、と言ったよだか。俺は彼女に対してどうしてやればいいんだろう。

 静奈姉のことは、説得するつもりではいた。
 そのつもりでよだかをこっちに来いと誘ったのだ。

 でも、今日急に言ったらどうだろう。

 前も似たような状況だったのだ。ちゃんと説明したならともかく、今度こそ彼女も許してくれないかもしれない。
 よだかを責める気にはなれない。でも……。


655: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/09(火) 00:32:11.08 ID:J098vsJCo

「よだかさん、タクミくんちに泊まるんですか?」

「……あ」

 るーの言葉に、顔をあげる。
 どう答えるか、迷う。

「今日は遊びに来ただけなんだ」
 
 そう、よだかは言う。
 
 嘘だ。聞いたわけじゃないけど、そう思った。

 こいつは帰る気なんてなかった。
 どうにかして、この街で過ごす気だった。

 逃げてきたんだ。

 なんとなく、そう思う。

「タクミくん、どうします?」

「……あ、えっと」

 ふむ、とるーは少し考えるような素振りを見せた。

 それから笑った。

「よだかさんも、一緒にうちに来ませんか?」


656: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/09(火) 00:32:46.72 ID:J098vsJCo

 みんな、きょとんとした。

 いちばん驚いたのは、俺とよだかだと思う。

「……いや、るー」

「何か予定でもありました?」

「そういうわけじゃないけど」

 るーの顔を見て、俺の頭をよぎった考えがあった。

 この子は気付いているんじゃないか。
 よだかと俺が普通の意味の姉弟ではないことも、
 今日、よだかがここにいることが、俺にとって想定外のことだったということも。

 そのうえでこの子は、助け舟を出してくれてるんじゃないか、と。
 
「これからみんなで勉強会しようって話だったんです。どうでしょう?」

 だからって。
 知らない人を誘うか? 他のメンバーだっているんだぞ。るーはよくても、他の奴は気をつかうかもしれない……。

「いいんじゃないか」

 とゴローが言った。

「うん。ここまできたら何人いようと同じだし」

 そう言ったのは佐伯だった。

「賛成! 人数は多い方が楽しいし!」

 高森が声を上げた。

 ……こいつら、なんなんだ?
 他人事みたいに、そう思う。

「でも……」

「もちろん、都合が悪いなら、いいんですけど……」

 そんなふうに、るーはよだかを見つめた。


657: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/09(火) 00:33:13.13 ID:J098vsJCo



 どうしてなのかはわからない。

 俺とよだかはふさわしい反論も見つけられずに(見つけたかったわけではなかったはずだけど)、結局るーの家まで来ていた。

 大きな門があった時点でまさかとは思ったけど、入ってすぐ、庭の広さに驚いた。

 背の高い松、苔生した岩、敷き詰められたつるりと丸みを帯びた砂利、綺麗な飛び石、小さな池……。

「鯉でもいそうだな」

 ゴローがつぶやくと、「昔はいましたよ」とるーはちょっと困り顔で答えた。

 家の外観は二階建ての和風建築だった。といっても古そうな感じはしない。
 むしろ最近建てたばかりと言われても信じられそうな綺麗な見た目。
 
「とりあえず入ってください」

 玄関の引き戸や、内玄関の敷石すら綺麗だった。


658: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/09(火) 00:33:58.94 ID:J098vsJCo

 俺たちは生活レベルの違いを沈黙のなかに感じながら、フローリングの床の上をするする滑りながら障子の並ぶ廊下を歩いた。
 最初は広さを頭の中で測っていたけど、途中でばからしくなってやめてしまった。

 るーが俺たちを連れてきたのは、広々とした和室だった。どうやら広間のような使われ方をしているらしい。

「いま麦茶もってきますね」

 そう言って、るーはすたすたと部屋を出ていった。心なしか、さっきまでより歩き方が上品に見えた。

「やばいよちいちゃん、わたしたち、ひょっとしたらとんでもないところにきちゃったのかもだよ」

「わたしと部長は、もう驚く段階終わらせたから」

 そういえばさっき、最初から俺を追ってきていたのはゴローと高森だけだったのか。

「すごいよね。スナック菓子とか買ってきちゃったけど、畳汚しそうでお菓子たべたくないもんね」

 部長もちょっと萎縮した感じで、部屋のあちこちを見回した。

「……ま、とりあえず休んでようぜ」

 ばからしいと笑うみたいに、ゴローはさっさと荷物を置いて腰を下ろした。
 さっきまではアスファルトの熱気にあてられていたけれど、この家に入った途端ひんやりと涼しい感じがした。
 
「……すごい家」

 思わずこぼしたように、よだかは言った。俺は頷いた。

「……あの襖、いくらくらいするんだろう」

「相場がわからんからなんとも言えないな……」

 高級なのだと何十万ってするらしいよね、と部長がぼそっと言った。

「たくみ、穴あけてみて」

「絶対洒落になんねえ」


659: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/09(火) 00:34:40.15 ID:J098vsJCo

「や。たぶんここのは、そんな高いのじゃないと思う……っていったら失礼だけど、そんなところにお金かけるのは、よっぽどお金持ちで物好きな人だけだよ」

「まあ、たしかに。家は広いし、綺麗だけど……ごてごてした感じはしないっすね」

 ゴローが部長の言葉に同意する。俺も部屋を見回して、頷いた。

 高級なものを使っているというよりは、そこそこのものを丁寧に使っている印象だ。

 そんな話をしているときに、るーがトレイにいくつかのコップを載せてやってきた。

「……手が足りませんでした」

 とるーは困った顔で言った。

「あ、わたし手伝うよ」

 立ち上がった部長を連れて、るーは再び部屋を出ていく。

 やばい。なんか、るーに対する態度が変わりそうでいやだ。

「ていうか、たっくんはるーちゃんちに来たことあったんじゃないの?」

「……いや。近くまで来たことはあったような気もするけど、入ったことはないかな」

「そうなんだ……」

「裏庭に竹林とかあるみたいだよ」

 佐伯のつぶやきに、みんなで溜め息をついた。竹林。響きだけで心が洗われそうだ。

「おまたせしましたー」とふたりが戻ってきたときも、俺はなんとなくこの場にそぐわないような感じで落ち着かなかった。


666: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/11(木) 22:26:01.15 ID:epIQBm5do



 妙な流れにはなったし、家の大きさにも戸惑ったけど、やることは変わらない。
 勉強会の名目で集まったわけだし、よだかが来ようが来なかろうが試験の日取りは変わらない。

 現実は非情なのだ。
 
 そういうわけで始まった勉強会だが、基本的に恩恵を受けるのは高森とゴローくらいのものだ。

 るーの成績については知らなかったが、特別悪いわけでもないらしく、テスト範囲くらいの勉強なら問題なさそうだ。

 高校に上がったばかりの一学期。基本ができていて復習を欠かさなければ、大きな苦戦はしないだろう。

 まあ、それができなくて苦戦する奴がやまほどいるのが現実なのだが。

 高森の教育担当は佐伯になった。なにせそういう話だった。
 ゴローの方はというと、なぜか俺が教えるはめになっていた。

「すまんなタクミ」

 ゴローは知的っぽく眼鏡の位置を直した。

 なんでこいつこの見た目で勉強できないんだ。

「俺に教えられるって相当だぞ」

「言うほどおまえもバカじゃないだろ」

 まあそりゃあ、何にもしてないわけじゃないから、そういうのはある程度成績に出ているだろうけど。
 だからって優秀ってわけでもない。


667: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/11(木) 22:26:30.73 ID:epIQBm5do

 るーはというと、暇そうにしていた部長にわからないところを聞いたりしていた。
 よく考えると、バランスは取れているのかもしれない。

 高森の苦手科目は俺もあんまり得意じゃないし、その点全教科を満遍なくこなせる佐伯は高森のフォロー役には適していた。

 ゴローの方は、口で言うほど理数系の成績は悪くない。
 むしろ暗記教科の重要項目が頭から抜けている場合が多い。

「似たような名前が出てくるとわけわかんなくなるんだよな」

「まあ、分かるけど」

 とはいえそこらへんはどうにか「覚えていないところ」を埋めていくしかない。

「自分なりに年表作ってみると良いっていうよな。ひとつの出来事じゃなくて、出来事と出来事の繋がりで覚えるって感じの」

「そういやクレオパトラってエジプト人じゃないんだってな……」

「どうした急に」

「現実逃避だ」

「真面目にやれ」

「やるともさ」

 といって、ゴローは本当に教科書、資料集とにらめっこをはじめた。


 普段やる気がないだけで、一度スイッチが入ってしまえばそこそこ熱中するというのがこいつのすごいところだ。

 普通は、普段から継続的にスイッチを入れるようにしておかないと、なかなか始まらない。
 年を取ればとるほどエンジンがかかりづらくなっていって、何かをはじめるのが億劫になる。

 ……なんてことを言う年齢では、まだないんだろうけど。


668: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/11(木) 22:28:03.07 ID:epIQBm5do

 るーはわからないところを部長に聞いたりしているらしいが、疑問だったこと、うまく理解しきれていない部分を質問するだけで、あとは自分の力で勉強していた。
 部長の方もるーに教えながら、自分の勉強をこなしているらしい。

 あのふたりだけで並んでるとすごく優秀に見える。

 よだかはというと、手持ち無沙汰そうにしながら俺の斜め後ろあたりで本を読んでいた。
 時折思い出したように俺にちょっかいをかけてきたけど、ゴローに勉強を教えている手前、あんまり絡んではこなかった。
 
 気を遣ってか、本当なのかわからないが、るーが何かとよだかに声をかけたり雑談を振ったりしていたのが意外だった。

 小一時間も経った頃にはみんな一段落して、小休止をいれようという話になる。

 そういうわけで麦茶とお菓子をひろげて、みんなで雑談する流れになったわけだ。

「よだかさんは今何年なんですか?」

 高森の質問に、よだかが、

「高二だよ」

 とあっさり答えて、それでまた高森は何かを聞きたそうにした。

 どうしようかなあと思う。

「同い年だし、さん付けじゃなくていいよ」

 よだかは、そういうのを全部ひっくるめて受け流す。
 そういうのには慣れっこなのだ。


669: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/11(木) 22:28:29.71 ID:epIQBm5do

「……まあ、よだかのことはいいとして」

「たくみ、ひどい」

 といって、よだかはがしがし俺の肩を叩いた。

「……ちょっと話あるから、来い」

 といって、俺はよだかを連れて廊下に出た。

「ひとまず、静奈姉には連絡するから、今日はうちに泊まれ」

「……いいよ。わたし、帰るから」

「いいよ。とにかくいろよこっちに」

「でも、明日も学校だし」

「……今日も行かなかったんだろ?」

「開校記念日だもん」

 と彼女は嘘をついた。俺にはそれがなんとなく分かった。

「それに、たくみは……わたしのこと、関係ないんでしょ」

 関係ない。
 まあ、そりゃそうだ。

「でもなんとなく、今はおまえをほっといたら、ダメな気がする」

「……なにそれ」

「学校いかなきゃだめだろとか、いまさらそんなこと言わないよ。そんなの、おまえだって考えてるだろうし」

「……」

「なにかあったら会いに来たっていいんだ、別に。なにもなくたって、べつにいい。俺だってそうする」

「……どうしたの、たくみ」


670: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/11(木) 22:29:03.82 ID:epIQBm5do

 庭の方からさしこむ昼下がりの日差し。
 木々の葉が日差しに照らされてきらきらと光る。
 静かな広い庭。夏の日差し。
 
「ずっと考えてた。俺はおまえにとってどういう存在になるべきなんだろうって」

「……」

「俺は俺で、いろいろあって。おまえはおまえでいろいろあって。おまえのあれこれを、全部引き受けてやれるわけじゃない」

「……うん」

「姉弟でもなければ、友達でもない。家族でもなければ、ただのクラスメイトでもない。
 俺はおまえに対して、どういう態度をとればいいんだろうって」

 よだかは、黙って俺の言葉を聞いている。
 聞いているんだと俺は信じる。

「でも、そんなのべつにはっきりさせなくたっていいんだよな、たぶん。
 なんとなく危なっかしくて、おまえのこと、放っておけない。
 でも、だからって手助けとか、そういうのをおまえが必要としてるとも、あんまり思わないんだ」

「……たくみ」

「だから、しんどかったら、頼れるところは頼ってくれていいし。
 なんもなくても、愚痴くらいはきくし、相談くらいは乗るし」

 よだかは、何かを言いたげにした。

 ――それは、罪滅しのつもりなのだろうか?
 
 同情なのか? 憐れみなのか? 
 少しは、それもあるかもしれない。

 うまく言葉にならない。


671: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/11(木) 22:29:46.50 ID:epIQBm5do

「……たくみ、そんなこと考えてたんだ」

「……うん。どうだろ」

「あのね、たくみ」

「なに」

「わたし、明日帰る。……ねえ、夏にさ、また、遊びにきてもいい?」

「うん」

「今晩は、ごめんだけど、静奈さんのとこ、泊めてもらってもいいかな」

「うん」

「ちょっと、ちょっとだけ、いやなことがあったんだよ」

「うん」

「疲れて……もう、だめかもって、思ってたんだ」

「……うん」

「……たくみに、甘えてるって、分かってたよ」

「……」


672: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/11(木) 22:30:19.65 ID:epIQBm5do

「たくみ、好きな子、いるんでしょ」

「……うん」

「でも、わたし、甘えてもいい?」

「……限度はあるけど」

「……うん」

 よだかは静かに俺の手をとった。

「ね、わたし、たくみのお姉ちゃんってことでも、いいかな」

「……どうしたの?」

「……家族ってことに、してくれないかな」

「……」

「いいんだ、べつに。一緒に暮らしたいとか、本当の姉弟みたいになりたいとか、思うわけじゃない」

「……」

「拠り所が、ほしいんだ」

「……」

「ね、たくみ。わたし……生まれてきてよかったのかな?」

 どう答えようか、一瞬迷って、

「よだかは、どう思う?」

 そう、問い返した。

「俺は、生まれてきてもよかったのかな。どう思う?」

 よだかは一瞬、とまどったような顔をして、
 それから笑った。

「そんなの、たくみ次第だよ」

「そうなんだよな、きっと」


673: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/11(木) 22:30:50.87 ID:epIQBm5do



 俺たちが部屋に戻ると、佐伯と高森がこっちをじっと見上げてきた。

「……え、なに」

「秘密のお話?」

 高森が何の抵抗もなさそうに問いかけてくる。

「……ていうか、今日の夜のこと。泊まる場所とか」

 といって、よだかを親指でさした。

「こいつ、何の連絡もしないで来やがったから」

「たくみが来いって言った」

「……だから」

 と、この流れは一回やった。

 俺たちのやりとりを見て、高森と佐伯は顔を見合わせてうーんと唸ってから、るーの方をちらりと見た。

「……え、と?」

 るーは、戸惑った顔をしている。

 部長もゴローも何も言わない。
 なんだこの空気、と思ったところで、玄関の方から物音がきこえた。


674: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/11(木) 22:31:17.67 ID:epIQBm5do

「るー、いるー?」

 と、そんな、聞き覚えのある声。

「あ、お姉ちゃん帰ってきました」

 平常通りの顔つきで、るーが立ち上がった。

「るー、ちょっと手伝ってー」

 また、玄関の方からるーを呼ぶ声。

「家でも“るー”って呼ばれてるんだ」

 高森が感心したみたいに言った。

「はい。小さい頃からなんです」

 にっこり笑う。
 
「ねえ、るー。この声、ひょっとして」

「……どっちか、分かります?」

 いたずらっぽく、るーは俺に向けて笑った。

「……すず姉?」

「正解です」


675: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/11(木) 22:31:53.05 ID:epIQBm5do



 どうしようか迷って、俺はるーに付き添って玄関へと向かった。
 
 玄関には荷物が並んでいた。どうやら食材の買い出しにいっていたらしい。 
 スーパーかどこかの袋には、野菜やら果物やらカレーのルーやらお菓子の袋やらが入っていた。

「卵とアイスあるから、しまっといて」

「はーい」

 とるーがいつもよりどこか子供っぽい返事をしたとき、すず姉は俺に気付いて、

「お」

 と声を上げた。

「るーの彼氏?」

「あはは、ちがうよ」
 
 とるーは笑いながら否定して、袋を持った。

「タクミくんだよ」

「へー、タクミくんって言うんだ。……」

 すず姉は一瞬真顔になってから、俺を二度見した。

「タクミ……?」

「……お久しぶりです。あの、覚えてますか」

「……え、タクミって、あのタクミ?」

「ですよー」

 と、軽く返事をしながら、るーは俺とすず姉を置いて荷物を片付けにいった。

「え、なんで? こっちにいるの?」

「……るーから、聞いてません?」

「なんにも、聞いてない」


676: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/11(木) 22:32:24.58 ID:epIQBm5do

 唖然とした顔で俺を見て、
 少ししてから、すず姉は笑う。

 変わってない。
 
 短めの髪も、ちょっと勝ち気そうに見える目元も、優しげな笑い方も。
 服装も、着飾りはせず、主張は少ないのに、上手くハマってお洒落に見える感じで。

 さすがにさりげなくメイクはしていて、ちょっと大人っぽく見える。

「タクミかあ、すごい。おっきくなったね」

 そんなことを、
 本当に嬉しそうに笑いながら言うんだ。

 すず姉は靴を脱いで、俺の前に立った。

 子供の頃、俺が遊びに来ていたとき、彼女は中学三年生だった。
 クールそうなのに優しくて、物静かに見えて子供っぽくて、壁があるように見えて気遣い屋で。

 年齢は追い越してしまったけど、当時のすず姉ほど、俺は大人になれた気がまったくしていない。

 それなのに。

「うわ。背、越されちゃってる。もうそんなになるんだね」

 すず姉の身長を、俺はいつのまにか追い越してしまっていたらしい。


677: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/11(木) 22:33:01.23 ID:epIQBm5do

「いま、一緒の高校に通ってるんだよ」

 戻ってきたるーが、どうだと言わんばかりに楽しげな顔でそう呟く。
 まるで驚かせたかったみたいに。

「なんで教えてくれなかったの、るー?」

「なんとなく、言い出しにくかったというか……」

 困り顔で、るーは頬をかいた。
 
「そうなんだ。へえ。こっちに来てたんだね」

「はい」

「それでふたりは……付き合ってるの?」

「ませんよー」

 とるーはあっさり否定する。
 俺はなんとなく、もうちょっと戸惑ってくれてもいいんじゃないかな、と思って、そう考えてる自分に気付いて混乱した。

「うちに遊びに来たの?」

「部の人たちと、勉強会してるんだよ」

 なんとなく、敬語じゃないるーというのは新鮮な感じがした。
 どうだったっけ。あの頃も、姉たちには敬語じゃなかったんだっけ?
 
 ……たぶん、敬語が混じったり、とれたりしていた、気がする。
 

678: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/11(木) 22:33:29.65 ID:epIQBm5do

「そうなんだ。仲良いんだね」

「仲良いんです」

 るーは得意気に胸を張った。

「そっか。また会えたんだね。よかったね、るー」

 感慨深げに、すず姉は言う。
 るーが、ちょっと慌てたみたいに目をそらして、

「うん」

 と静かに頷く。

 それを見てすず姉はうんうん頷いて……。

「いや、よかったよかった」

 と何度も繰り返して、最終的には涙ぐみはじめた。

「え……なんで泣くんです?」

「最近、すぐ涙腺緩んじゃうんだよね。歳のせいかなあ、やっぱ」

 ……いや、まだそんな年齢じゃないはずだろう。
 それにしても。
 昔より、ちょっと、話すときのテンションが高いように思える。
 
「まあ、ゆっくりしていきな」

 すず姉は、俺の頭をわしわし撫でた。
 

679: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/02/11(木) 22:34:01.06 ID:epIQBm5do

 めでたしめでたしの、その後。

 誰も俺のことなんて覚えてなくて。みんなきっと忘れてて。
 俺にとって大事なことなんて、みんなにとって大事なことじゃなくて。

 みんな俺のことなんて、べつに気にかけていないんじゃないかって、そう思っていた、五月のことを思い出した。

 知るのを怖がって、一年、誰にも会おうとしなかった。

 こんなふうにあっさり、書き換えられてしまうものなんだなと、そう思った。

 恐くて知ろうとすらできなかったこと。
 それが今、考えていたよりずっと、やさしい形であらわれている。

 心配性を笑うみたいに。
 
 なんとなく泣きそうになったけど、誰にも気付かれないように笑って見せた。

 変わってない。

 楽しいくらいに懐かしい。
 胸が締め付けられるくらいに嬉しい。

「タクミくん?」

 と、不思議そうにるーが首をかしげる。
 俺はるーのほっぺたを引っ張った。

 るーは何も言わないで困った顔で笑う。
 俺も笑って、それから指を離した。


680: ◆1t9LRTPWKRYF 2016/02/11(木) 22:34:45.73 ID:epIQBm5do
つづく