1: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2008/07/16(水) 01:23:59.39 ID:rWUo/kw90


―――――まず1人







―――――残りは4人







―――――もうすぐ…  もうすぐ……



















 病院の一室。







「死ね!!出てけ!!」



 言葉と同時に、カメラが飛んでくる。

がしゃんと音を立てて、病室のドアのガラスが割れた。



2: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2008/07/16(水) 01:25:01.52 ID:rWUo/kw90


「やめなさい、めぐちゃん!!」

 ヒュンとゴミ箱が飛んでくる。

「ひっ」

 ガコッと壁にぶつかり、もともと亀裂の入っていたそれが、

ぱっくりと二つに割れる。

「佐原さんに分かるわけないわ!」

「めぐちゃ…」

 写真立てが、佐原と呼ばれた看護士に当たる。

「出てって!!出てってよ!!」

 そう言って、めぐが病院食の器に手を掛ける。

「わ、分かったわ!出てくから!だからもう投げないで!!」

「じゃあさっさとしなさいよ!」

 言い終わらない内に、佐原は逃げるように病室から出ていった。





3: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2008/07/16(水) 01:28:14.11 ID:rWUo/kw90


「…………」

 夕日のオレンジが、床に飛び散ったガラス片をきらきらと輝かせている。

 ベッドの上。黒ずんだ瞳から、白く涙の跡が見えている。

「………」

 柿崎めぐは、横になったまま、徐々に紅く染まってゆく落日を見つめていた。

「水銀燈」

 かすれた声。

「いるんでしょ?出てきなさいよ」

「………」

 しばらく間があった。

「影、見えてるから」

「………」

 窓の影から、ひょこっと第1ドールの水銀燈が顔を出した。

「最近趣味が悪いわね」

 視線を動かさないめぐ。

「……何が?」

 じっとめぐを見据える水銀燈。

「人のヒステリー盗み聞きして、楽しい?」





5: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2008/07/16(水) 01:31:35.04 ID:rWUo/kw90


「………」

 水銀燈は視線を動かさない。

「…何でもないわ。忘れて。私、ちょっとおかしくなってるの」

「…………」

 そう言って、めぐは天井に視線を移す。

「おかしくなんかないわよ」

「…え?」

 めぐが再び水銀燈を見やる。

「いつもの事じゃない」

 言いながら、割れたままのゴミ箱を指さす。

「5回くらい投げてるでしょ、それも」

「………」

 ゴミ箱を見つめたままのめぐ。

「ふふ、そうね、いつも通りね、私…何も」

「…何も?」

「変わらないわ」

「どういう意味?」

 ヒュウッと風が吹き込んでくる。





7: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2008/07/16(水) 01:37:00.01 ID:rWUo/kw90


「水銀燈、今何時?」

「え」

 言われて、水銀燈は病室の時計を見る。

「…18時…42分…」

「7月のこの時間になるとね」

「……?」

「夕日がだんだん紅く染まって、凄く綺麗なの」

「……」

「それは毎年一緒。この病室から見る景色は」

 半身を起こすめぐ。

「私の命も、変わらない」

 水銀燈がめぐを見つめる。

「いつまで経っても死ねない」

「……」

「何なのかしら、これ」

「………」

「何か悪い事、したのかしら、私」

 ぼふっとベッドに倒れ込む。

「生まれてこない方が良かったのに」

「やめなさい、めぐ」

 窓から、病室へと入ってくる水銀燈。





9: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2008/07/16(水) 01:41:15.39 ID:rWUo/kw90


 少しうつむき加減の彼女を見て、めぐが少し笑う。

「優しいのね」

「…は?」

 顔を上げる。

「ね、水銀燈、これ見て」

 ベッドから降り、スリッパを履いて、ガラス片の中にあるカメラを

拾う。

「なぁに、それ」

「父が昔くれたの」

 言いながら、カメラを水銀燈に向ける。

「はは、見て、これ一枚も減ってないの」

「え?」

「今まで、なあんにも撮るものなんて無かったから」

 虚ろな目になる。





12: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2008/07/16(水) 01:46:16.78 ID:rWUo/kw90


「ねえ」

「ん?」

「何するの?」

「写真よ」

「シャシン?」

 怪訝な顔つきになる。

「知らないの?」

「ええ」

「…そう、ま、実際にやってみましょうか」

「……」

 ぼふっとベッドに座るめぐ。

「水銀燈、こっち来て」

 ぽふぽふと膝の上を叩く。

「何言ってるの、嫌よ」

 ぷいと横を向く。

 めぐはそれを見て目を丸くする。

「あら、貴女がここに来ないと出来ないのよ?面白いのになぁ」

 ふう、とため息をつく。

「………」

「ね、来て。ちょっとだけだから」

「……」

 しばらく横を向いていた水銀燈は大きくため息をつき、やがて渋々めぐの膝へとよじ登った。


13: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2008/07/16(水) 01:50:07.51 ID:rWUo/kw90


 一瞬フラッシュが光り、次いでジィィ~と紙が出てくる。

「ん……」

 思わずそれを覗き込む水銀燈。

 嬉しそうに微笑んでいるめぐ。その膝の上で、口を尖らせた自分が写っている。

「……鏡?」

 水銀燈が呟く。

「いいえ、違うけど…姿が映る、っていう点では同じね」

 めぐが嬉しそうに、写真をじいっと見つめる。

「ね、水銀燈」

「何?」

めぐは立ち上がり、床に転がっている

写真立てを手に取る。

「これ、飾っちゃっていいかしら」

「………」

「ね、いいでしょ、お願い」

「…好きにすれば」

 顔を背ける水銀燈。めぐは再び微笑む。





 その背後で、ほんの少し、鏡が揺らめいた。





14: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2008/07/16(水) 01:54:44.49 ID:rWUo/kw90








 ガチャリ、とリビングのドアが開いた。

「お」

 ダイニングの椅子に座っているジュンが振り向く。

「おはよう、ジュン」

 ステッキをドアノブから外し、第5ドールの真紅が口を開く。

「おはよ」

「あっ、真紅おはようかしら」

 ソファの上から、第2ドール金糸雀の声。

「もう始まるですよ」

 その隣、第3ドールの翠星石がリモコンをピッ、ピッ、と動かす。

「のりはまだなの?」

 きょろきょろと見回す真紅。

「うん、今日は遅いな…」

 真紅がため息をつく。

「しょうがないわね、ジュン、紅茶を淹れて頂戴」

「はぁ?何で朝っぱらから僕がそんな事…痛でっ!」

 ジュンの顎をツインテールが弾き、椅子ごと床に倒れ込むジュン。

「うるさいわね、早くしなさい」

「お…お前…この…」

「な~にやってるですか、気が散るですぅ」

 翠星石がため息をついた。


16: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2008/07/16(水) 01:59:00.00 ID:rWUo/kw90


 午前8時を回っても、一向にのりは下りてこなかった。

「おかしいな」

 ぐぅぅ~、と音がした。

「ん?誰だ今の」

 ジュンがソファを見る。

「翠星石は違うですぅ」

 隣の二人を見やる翠星石。

「…金糸雀ね、はしたないわよ金糸雀」

「カナはお腹なんて鳴ってないかしら」

 右端の金糸雀がきょとんとしている。

「………」

「…………」

 きゅううぅぅ~、と音がする。

「あっ、真紅、お腹減ってるのですか?」

「何だ、お前か。人のせいにするなよ、みっともない」

「う、うるさいわねっ!」

「………」

 3人が真紅を見つめている。

「わ、私、ちょっとのりの様子を見てくるから」

 お腹をさすりながら、そそくさと出ていく真紅。

「…相変わらずだな…」

 バタンと音がした後、ジュンはハア、と息を吐いた。



17: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2008/07/16(水) 02:03:53.39 ID:rWUo/kw90
「全く…レディに朝っぱらから恥をかかせるなんて…」

 文字通り真っ赤に染まった真紅は、ぶつぶつ言いながら

階段を上る。

 のりの部屋の前に立ち、コンコン、とノックする。

「のり」

 返事はない。

 もう一度、コンコン、とノックする真紅。

「のり、起きなさい」

 数秒待っても反応はない。

「…入るわよ。ごめんなさい」

 真紅が部屋に入ると、ベッドでのりが寝ているのが分かった。

「うっ…」

 つんと鼻をつく臭い。

「寝てるの?学校遅れるわよ」

 近づいていく。

 ふと、床に何かこびりついているのが見える。

「?」

 更に臭いが酷くなる。思わず鼻をつまむ真紅。

「のり…」

 顔を覗き込んだ真紅の目に映る、ベッドからだらんと垂れ下がった左手。

「!?」

「はっ…はっ…」

 のりが苦しそうに震えている。

 口元から見えている黄色い液体が、吐瀉物であると理解出来るのに、

数秒を要した。


19: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2008/07/16(水) 02:09:56.14 ID:rWUo/kw90


 ピーポーピーポー、と救急車の音が遠ざかっていく。

「………」

「びっくりしたかしら…」

 二階の窓から、翠星石と金糸雀が、心配そうに見送っている。

「心配ですぅ…」

「うん…」

 ぎゅっと拳を握りしめる金糸雀。

「翠星石」

「………」

 今にも泣き出しそうになっている。

「……」

「だ、大丈夫かしら、ほら、ジュン君も真紅もついてったし。

元気になって帰ってくるかしら」

「……」

 答えない。

「す…翠星石…?」

「わかってるですぅ」

 顔を上げる翠星石。

「でも…翠星石は…これ以上誰かを失いたくは…」

 レースの裾をぎゅっとつかむ。



20: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2008/07/16(水) 02:12:39.16 ID:rWUo/kw90
「翠星石…」

「チビ苺も…蒼星石も…」

 翠星石が目をごしごしとこする。

 金糸雀はそれを見て、雛苺の最期の姿を思い出す。





 緑色の眼球が二つ、床に転がっている。



 赤い靴が放り捨てられ、その横には、ピンク色のリボンとドレス。



 その少し向こう。



 白いイバラに覆われた肢体の傍らで光る、ピンク色の人工精霊。

 

 かつての主の抜けがらを、ただ見ているだけしか出来ない。



 その抜けがらを何度も撫で、楽しそうに笑っている、白薔薇の少女人形。







 ぞくっと背中を震わせ、金糸雀はぶんぶんと首を振った。

 ベリーベルが自分と真紅に見せた光景。いつか自分も、ああなる

時が来るかもしれない。



22: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2008/07/16(水) 02:15:40.35 ID:rWUo/kw90
>>21

四つん這いになるんで勘弁して下さい><


23: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2008/07/16(水) 02:19:12.40 ID:rWUo/kw90
「どうしたですか…?」

 いつの間にか、両肘を抱えて震えているのに気がついた。

そんな自分を、翠星石が不思議そうに見つめている。

「な、何でもないかしら」

 再びぶんぶんと首を振り、金糸雀は一階へと下りていく。

「……」

 翠星石はしばらく出ていったドアを見つめ、ふうっと息を吐く。

 窓の外を見上げると、真っ青な空が視界に飛び込んでくる。

「………妹…か」

 吸い込まれそうになる青。

「蒼星石……」

 ふと、既に動かなくなった妹の名を口にする。

 瞼を閉じると、やんちゃな自分に向ける困った笑顔が

鮮明に思い出される。

「う……ぅ…」

 翠星石は目頭を押さえた。じんわりとこみ上げる熱いものを、

何とか、何とか鎮めようとする。

「………」

 目を開けると、先ほどの青い空。

 それを見つめたまま、翠星石はしばらく動けなかった。









27: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2008/07/16(水) 02:24:25.34 ID:rWUo/kw90






 エアコンの効いた病室。

ドアの破損部分に段ボールが張られている。

「……」

 壁を背に座りこんだ水銀燈。

 ちらっと、寝ているめぐを見やる。

「うぅ……」

 くぐもった声。

「めぐ」

 思わず立ち上がる。

 傍に寄ると、汗だくになっているのが分かった。

 かたかた、と少し震えている。

「……」

 水銀燈は、思わずめぐの左手を握る。

自分の左手と、めぐの薬指の指輪が反応し、紫色の光を放ち始める。


29: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2008/07/16(水) 02:28:35.52 ID:rWUo/kw90
「………」

 めぐの呼吸が落ち着いてきた。

「ふう…」

 水銀燈は安堵の表情を浮かべる。

「…水銀燈?」

 名前を呼ばれ、顔を上げる。

「ありがとう…」

「え…あっ」

 ぱっと左手を離す。めぐはそれを見て優しく笑う。

「傍にいてくれたんだ」

「や、私は別に…」

「………」

 しばらく沈黙が流れる。

「…ちょっと嫌な夢を見たの」

「夢?」

「ええ」

 めぐが左手を伸ばしてくる。

「たまに見るのよ、同じ夢を」

「……」


30: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2008/07/16(水) 02:31:14.78 ID:rWUo/kw90
「私はここのベッドに寝ているの」

 その手が水銀燈の手に触れる。

「横に、パパが立ってて」

 めぐの触れた手を、じっと見つめる水銀燈。

「クマのぬいぐるみだったかしら、最初は。はしゃぐ私を見て、パパは笑ってた」

「…」

「次はオルゴール。何だったかな…イングランドの民謡だったわ。

嬉しそうな私を、パパがじっと見つめてた」

 声がかすれている。

「次は絵本をくれたわ。パパはここに来る度、しゃがんで読み聞かせてくれた」

「…」

「おかしいわよね、小さい頃の事は、よく憶えているのに」

「…」

「私も女の子だったのね。そのうち胸が膨らんできて」

「…」

「普通の女の子と同じで、12歳頃に生理がきた」

「…」

「私まだ、生きてるんだなって思えたわ。でも」

「…でも?」

「嬉しくなかった」

 声のトーンが下がる。


32: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2008/07/16(水) 02:33:17.97 ID:rWUo/kw90


「いつの頃からか、パパは私の傍に、座ってくれなくなった」

「…」

「笑ってもくれない。それに」

 声が震えている。

「私の顔も、見てくれない」

「…」

「何も感じてくれない」

「めぐ…」

「私を置き去りにしたまま…」

「……」

「ねえ…水銀燈」

「…なぁに…」

「早く私を連れてってよ…早く…」

 そこまで言うと、めぐは顔を覆い、鼻をすすり始めた。


33: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2008/07/16(水) 02:35:59.16 ID:rWUo/kw90
「よしなさい、めぐ」

「うっ…うっ…」

「私は天使なんかじゃない。貴女を連れてなんていけない」

「うぅ……」

「貴女に伝えたかしら、私」

「…」

「私はお人形。お父様に会うために、姉妹と闘っている。

そのために、貴女から力をもらっているだけ…」

 ベッドによじ登る。

「もう動かなくなった妹もいる。でも」

 窓の外から、ピーポーピーポーと音が聞こえてくる。

救急車が入ってきたようだ。

「私はそれに関して、何とも思っていない」

「…」

「私には私の目的がある。そのために、周りを利用しているだけ」

「…水銀燈」

「結局人は、何かにすがってもどうしようもないのよ」

 めぐが両手を離す。


35: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2008/07/16(水) 02:41:54.18 ID:rWUo/kw90
「ねえめぐ、死にたいなら、私の指輪に貴女を取り込もうと思えば、簡単に取り込める」

「…じゃあ、早く」

 めぐの左手が再び伸びてくる。

「でも」

 手がぴくっと止まる。

「もう少し自分を見つめ直してみたらどう?めぐ」

「…は?」

「本当に死にたいのなら、とっくにそこの窓から飛び降りてると思うわ」

「…どういう意味?」

「貴女は死にたいんじゃない。今の状況から逃げたいだけ…」

「……」

「だから、逃がしてくれそうな私にすがっている」

「…違うわ、知った風な口きかないで」

 半身を起こすめぐ。

「違わないわ。だって」

「だって?何?」

「貴女は、自分のお父様の事を夢に見るし、鮮明に憶えてるじゃない」


37: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2008/07/16(水) 02:45:48.73 ID:rWUo/kw90
「…パパは関係ないわ」

「嘘。私に話したのは、じゃあ何?私に知ってほしいからじゃないの?

『私はパパに愛されていたはずなのに、それなのに置き去りにされてる。どうしたらいいの』って」

「………」

「貴女が本当に求めているのは」

「知った風な口きかないで!!」

 言葉と同時に、枕が飛んできた。



「きゃあ!」

 顔面にモロに食らい、バランスを崩した水銀燈が、床に頭から落ちた。

 ゴン、という音が響く。

「痛っ…」

 頭を押さえ、顔をしかめる。

「貴女に何が分かるっていうの!!」

「…な、何すんのよ!」

「私は貴女みたいに強くないのよ」

 水銀燈は、はっと気づく。

 めぐはぼろぼろと涙を流していた。


38: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2008/07/16(水) 02:48:47.90 ID:rWUo/kw90
「使えない心臓よ」

「…」

「私はクズよ。入院費も手術費も無駄なのよ。無駄。

佐原さんたちも平気で困らせるクズよ。クズなのよ」

「……」

「貴女みたいに、どこへでも飛んでいけて、

誰かと喧嘩したりなんて」

「……」

「貴女には分からないわよ!気休めはよして!

人形の貴女なんかに…」

 めぐの言葉が止まる。

 水銀燈が悲しそうな顔で、うつむいていた。

「……ごめんなさい、めぐ」

「……」


42: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2008/07/16(水) 02:52:33.02 ID:rWUo/kw90
「私が悪かった」

「……」

「傷つけるつもりはなかったのよ」

「…」

 水銀燈はそれだけ言うと、窓際に立つ。

「ごめんなさいね、さようなら」

「あ、待っ…」

 水銀燈は病室を飛び出した。

「待って!!言い過ぎたわ!!」

 めぐが慌てて窓辺に駆け寄る。

「待って!!水銀燈!待って!!」

 その声はもう、水銀燈に届いていなかった。



43: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2008/07/16(水) 02:54:51.78 ID:rWUo/kw90
「………」

 めぐはベッドの上で体育座りをしたまま、顔を伏せていた。

「ああ、またやっちゃった…」

 悲しそうな顔を思い出す。

「傷つけてしまったのは私…」

 めぐは自分自身が、非常に下らない人間だと思った。

馬鹿だと思ったし、幼稚だと感じていた。

「私なんて死ねばいいのに」

 一度口に出すと、何かどうでもいい気分になってくる。

「私、死ね、死ね死ね死ね。めぐ死ね。柿崎めぐなんてさっさと死ね。死ね死ね」

 枕をつかみ、勢いよく壁にぶつける。

「死ね。死ね。死ね死ね死ね」



46: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2008/07/16(水) 02:58:43.22 ID:rWUo/kw90
 しばらくその姿勢でいた後、めぐは仰向けに倒れ込んだ。

時計の針をぼんやりと見つめる。

「9時…26分…」

 どうでもいい事が頭に入ってくる。いや、頭に入れてないと、どうにかなってしまう。

そんな思いがあったのかもしれない。

 ふと横に目を転じると、昨日二人で撮った写真が立て掛けてある。

 自分が嬉しそうに笑っている膝の上で、水銀燈が不満そうに口を尖らせている。

「………プッ」

 めぐは自嘲気味に笑った。

「そうよね。当たり前よね」

 胸の奥が熱くなる。

「私といたって楽しいわけないじゃない。バッカみたい」

 吐く息が大きく震える。

「何一人ではしゃいでたのかしら。水銀燈もごめんね」

 涙が流れ出てくる。

「迷惑よね。あは」

 写真を抜きとり、額縁を壁に思い切り投げつける。

ゴッ、という音、次いでカランカランと音がした。

「ごめんなさいね。水銀燈。ごめんなさいね。写真の中の私」

 泣きながら、めぐはその写真を千切り始める。

 ビリッ、ビッ、という音が、病室に響いた。


49: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2008/07/16(水) 03:02:40.52 ID:rWUo/kw90
「………」

 細かく千切った写真を、めぐは呆けたように見つめていた。それでも、水銀燈の

顔部分だけは、破く事が出来なかったのだ。

「水銀燈…」

 捨てるゴミ箱は、壊れてしまっている。

 右手で写真の紙を持ち、おもむろにベッドを降りる。

「…」

 窓から外を眺める。自分の心とは違い、外は真っ青な空が広がっている。

「ごめんね」

 めぐは思い切り右手を振り下ろした。

 3階から舞う紙吹雪は、太陽にきらきらと反射していた。



56: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2008/07/16(水) 03:07:25.03 ID:rWUo/kw90








「嘔吐下痢症ですね、今日は点滴打っておきましょう」

「えっ」

 待合室のジュンと真紅に、医師が告げる。

「……」

「しばらくは自宅でも近付かないで下さい。

手洗い、うがいもしっかりとして下さいね。すぐうつりますから」

 淡々と述べる医師と裏腹に、ジュンは不安な表情になる。

「大丈夫なんですか」

「まあ、別に生命に関わるとか、そういうのではないんで。

ただし治りかけが一番大事ですから。弟さんも気をつけて下さい」

「………」

「点滴は2種類しますんで、ちょっと時間掛かりますよ」

「…どれくらいですか?」

「そうですねぇ」

 ちらっと時計を見る医師。

「2時間くらいでしょうか」


60: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2008/07/16(水) 03:11:11.85 ID:rWUo/kw90
「今9時過ぎかー。昼前になるな。お前大丈夫か、真紅?」

 抱っこされた真紅は、お腹を押さえたまま動かない。

「………」

 代わりにじろっとジュンを睨む。

「ああ、いや、ごめん、訊いた僕が悪かった。コンビニ行こう」

「……」

 財布の中身を確認するジュン。

その腕の中で、きゅぅぅ、と真紅のお腹が鳴った。



62: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2008/07/16(水) 03:11:40.74 ID:rWUo/kw90
 病院の中庭を歩きながら、ジュンはふと空を見上げる。

「うわ…」

 目の覚めるような真っ青の空。

「今日は暑くなるな…」

「ええ…」

 突然、茂みがガササッと動いた。

「きゃあっ!!」

 真紅の身体がびくっと跳ねる。

 丸々と太った三毛猫が飛び出してきたのだ。

「ひいいい、ジュ、ジュン、な、何とかして!ひいっ!!」

 猫はしばらくこちらを警戒しながら、素早く別の茂みに飛び込んだ。

「ああぁぁぁあ……」

 がたがたと震える真紅。

「…お前」

 ジュンは真紅を抱き直し、頭を撫でてやった。

「ううう、もうダメよ、怖くて目なんか開けてられないわ」

「…じゃあ空でも見てろよ」

「ううう」

 言いながら、ジュンは天を仰ぐ。真っ青な空が、真上から果てまで、ずうっと広がっている。

 ふと、その青を見つめ、ジュンは思い出したように呟く。

「翠星石さ」

「?」

 真紅が視線をジュンに向ける。



64: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2008/07/16(水) 03:15:37.64 ID:rWUo/kw90
「もう…大丈夫かな」

「あら」

 意外そうに相槌を打つ真紅。

「気にしてたの?」

「そりゃ、蒼星石があんな事になって…」

 頬をぽりぽりとかくジュン。

「気にするよ、いくら僕でも」

「そうね」

 真紅がほうっとため息をつく。



 ジュンが立ち止まる。

「…どうしたの?」

 見上げる真紅。ジュンは硬直し、前を見つめたまま動かない。

「…何でもない」

 嘘だ、と真紅は思った。自分を抱く腕がかたかたと震えている。

 その視線の先。5、6人ほどがこちらに歩いてきている。

 家族連れだろうか。ワイワイと楽しそうに、車椅子の老人を取り囲んで、

談笑しながら近づいてくる。



65: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2008/07/16(水) 03:18:19.41 ID:rWUo/kw90
「ジュン」

「……」

 ふらりとジュンが傾いた。

「ジュン」

 もう一度呼ぶ。それに呼応したかのように、体勢を立て直す。

「ああ、ごめん、何でもないよ」

「そこにベンチがあるわ」

 言いながら指差す真紅。

「少し、休んでいきましょう」

「…何でもないんだ、ホントに。腹減ってるんだろ?真紅」

 言葉とは裏腹に、腕の震えが止まらない。

「いいわよ別に。誰も無理してまでコンビニに行って欲しいなんて、思ってないから」

「……」

「ジュン、大丈夫よ」

 首筋に頭を寄せ、何度もジュンの胸を撫でる。

「大丈夫。だから、少し休んでいきましょう、ね?」


68: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2008/07/16(水) 03:21:26.68 ID:rWUo/kw90
 ベンチに座り、震えが少し小さくなったような気がする。

「落ち着いた?」

 ジュンの右手を両手で包み、真紅が問いかける。

「……」

 答えない。ジュンは少しうつむいたまま、虚空を見つめ続けている。

「……」

 真紅はそれ以上質問するのを止めた。代わりに、何度もその胸をさすった。

 まともに外に出るのが久し振りなのは分かっていた。だから、自分はジュンに

今日、ついてきたのだ。

 医師との会話で、何かジュンが拒否反応を見せる事はなかった。だが、

先ほどの家族連れを見て、心の触れてほしくない部分に、何かが触れたのだろう。

 ジュンを慰めようと思ったわけではない。

 ただ、震えるジュンは、見ていたくなかった。



70: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2008/07/16(水) 03:23:30.48 ID:rWUo/kw90
「…行こうか」

 ぎゅっと真紅を抱く腕に力がこもり、ジュンがようやく立ち上がった頃には、

9時半を過ぎていた。

「ジュン」

 視線を動かさない真紅。

 ジュンがそれを見下ろす。

「無理しないでね」

 と真紅は言った。

「…ああ、ありがとう」

 そう言って前を向いたジュンの視線の斜め上、

何かがきらきらと降ってくるのが見えた。



72: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2008/07/16(水) 03:28:36.57 ID:rWUo/kw90
「何だあれ」

 走り寄るジュン。

「雪……いえ、紙…?」

 真紅が目を凝らす。

 その言葉で、小さな紙切れがひらひらと舞っているのだ、とジュンは理解した。



 紙吹雪は少し風に流され、芝生の上へと舞い落ちた。

近づき、その中の一枚を拾う。

「う~ん…」

 白い布のようなものが写っている。写真だ、と分かった。

「ジュン」

 ひと際大きなものを拾った真紅が、手招きしている。

「これ、見て」

 ジュンがそれを覗きこむ。

「あっ」

 言葉を失うジュン。

 銀色の髪。口をへの字に曲げた水銀燈が写っていた。



73: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 03:31:33.91 ID:rWUo/kw90
 赤い光が辺りを包み、数十枚の紙切れが次第に形を成していく。

「これでいいわ」

 真紅が、時間のゼンマイを巻き戻したのだ。

「これは病室ね。水銀燈を抱いてるこの子が、マスターなのかしら」

「……」

 顎をかきながら写真を見つめる真紅。

 そしてそれと対照的に、ジュンは目を見開いたまま動けない。

 ジュンはその少女を見た事がある。

 ついでに言うと、その少女の名前が「めぐ」である事も知っていた。



75: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 03:33:08.63 ID:rWUo/kw90
 紐解かれたくない過去。

 ジュンは一度、ノートに同級生の絵を描いた事がある。

 お姫様の格好をした、同じクラスの桑田由奈。

幼馴染である、柏葉巴の凛とした雰囲気とはまた違い、

可愛らしい容姿で人気があった。

 特にその容姿を鼻にかける事もなく、彼女はいつも

楽しそうに笑っていた。



 そしてその絵が全校生徒の目に晒され、描いたのがジュンであると

公表されるまで、そう時間は掛からなかった。



 便器に顔を突っ込み、喉が溶けそうになるまで吐き、

ジュンは眠りの世界に閉じこもった。



76: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 03:36:36.17 ID:rWUo/kw90
 忘れられた世界を彷徨っていると、自分と同じように泣いている少女がいる。

一糸まとわぬ姿でうずくまり、

いつまでも顔を伏せ、涙を流し続けている。

 それが第1ドール、水銀燈だった。

『…誰……?』

 怯えたような表情。

『……お父様……?』

真っ暗闇で何も見えない水銀燈は、自分にすがってきた。



 触れ合った事で、ジュンは水銀燈の記憶を垣間見る。



 病室で彼女の髪をといている、パジャマ姿の少女。

水銀燈は少女の事を、めぐと呼んでいた。



78: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 03:39:08.35 ID:rWUo/kw90




「…ジュン、聞いてるの」

 はっと我に返る。

「水銀燈が、この病院のどこかにいる…?」

 そう言って、紙が降ってきた方向を探している。

「ねえ」

「…あ、ああ」

「私、お腹は我慢するから」

 言いながらお腹をさする。

「この写真の主を、探しに行きましょう」

「……」

「ちょっと聞いてるの、ボケッとしてないで」

「いっ、痛い痛い」

 ジュンの頬をむにむにとつねる。

「ほら、行くわよ」

「ああ」

 ジュンはすっくと立ち上がる。

 ふと、疑問がよぎる。

 どうしてこの写真は千切られていたのだろうか、と。





82: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 03:41:46.84 ID:rWUo/kw90




「う~ん」

 受付の女性が、写真を見てふんふん、と頷く。

「分かりますか」

「さあ…あっ、ちょっと」

 目の前を横切った看護士を呼びとめる。

「佐原さん」

 佐原と呼ばれた看護士が振り向く。

「忙しいのにごめんなさいね。この子知ってる?」

 ひらひらと写真を動かす。

「え…あっ」

 口元を押さえる佐原。

「知ってるんですか?」

 ジュンが尋ねる。

「…え、ええ。貴方お友達?」

 じっとこちらを見つめる。

「え、あ…は、はい」

「…お見舞いにきたのかしら?」

「え、ええ、そうです」

「そう」

 言いながら時計を確認する。

「案内するわ」

「そうですか、ありがとうございます」

 手招きをする佐原。ジュンはそれについていく。


84: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 03:50:31.61 ID:rWUo/kw90
「ここよ」

 『316 柿崎めぐ』と書かれた病室の前で、二人は立ち止まる。

「(段ボール…?)」

 ドアに張られているそれを見て、ジュンは首を傾げる。

 佐原は一息ついた後、コンコン、とドアを叩く。

「めぐちゃん」

「……」

 反応はない。

「めぐちゃん、お友達よ」

 そう言って、もう一度コンコン、と叩く。

「……」

 何も返事はない。

「困ったわねぇ…」

 はあ、とため息をつく。

「寝てるんじゃないですか?」

「そうねぇ…でも…」

「でも?」

「いえ、何でもないわ。…君、ええと」

「桜田です。桜田ジュン」

「そう、桜田君、良かったら貴方が声、掛けてみてくれないかしら」

「えっ、ぼ、僕が!?」

 頓狂な声を上げる。



87: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 03:57:45.34 ID:rWUo/kw90
「しー…。他の患者さんに迷惑よ。静かにね」

「あ、はい。…でも、僕がですか?」

「そうよ、貴方なら、返事してくれるかもしれない」

「…」

 ジュンはしばらく考える。

「わかりました。よっ…と」

 言いながら真紅を廊下の椅子に座らせる。

「こんにちは、柿崎めぐさん」

 ゴンゴン、とドアを叩く。

「……」

 やはり返事はない。

「寝てるのかしら。ごめんなさいね」

「……」

 佐原がドアノブに手を掛ける。

「いや、ちょっと待って下さい。もう一度」

「え?」

 ふう、と息を吐いた後。

「水銀燈と撮った写真を拾いました」

 ジュンはわざと大き目の声を出した。

 ばさっと中から音がする。

「誰!?」

 女性の甲高い声が響いた。


89: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 04:03:25.13 ID:rWUo/kw90
 数秒後、ドアが勢いよく開いた。

「誰!?」

 驚いたような眼で二人を交互に見つめる。

「……っ」

 少女の目が、ジュンの顔からつま先までを

不審そうに何度も上下する。

「あ、あの」

 少女が後ずさる。相変わらずおろおろした態度。

 驚いているにしても、少し敏感過ぎやしないか、とジュンは思った。

「これ」

 ジュンは、すっと写真を差し出す。そこに少女の視線が落ちる。

「………」

「どうして…」

 めぐは突然の出来事に、どうしていいか分からなかった。

 何故写真が修復されている。

 どうして水銀燈の事を知っている。

「……?」

 めぐの視線が止まる。

「それは…」

 ジュンの左手の薬指を指さす。

「ん、あ、ああ…」

 瞬間、ジュンの腕がぐいっと引っ張られる。

「わっ」

「あっ」

 佐原が声を上げたと同時に、バタンとドアが閉められた。


90: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 04:08:04.50 ID:rWUo/kw90
 病室の中に引っ張り込まれ、ジュンは少々驚いていた。

「……」

 ガチャ、とドアが開く。

「どうしたの、めぐちゃん」

 ドアから顔を覗かせる佐原。

「いえ、何でもないのよ佐原さん、私大丈夫だから。出てって」

「……」

 佐原がジュンに視線を送る。ジュンは戸惑いながらも、

「大丈夫です」という風に頷いた。

「…分かったわ。また何かあったら呼んでね」

 そう言って、佐原はドアを閉めた。





92: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 04:13:23.24 ID:rWUo/kw90
「………」

 ベッドの上。めぐが、ジュンと写真を交互に見ている。ジュンは頭をかきながら、

部屋の中を見渡している。

「何か探してるの?」

「いえ……」

 あるのはテレビ、そして本が2冊。棚の上の写真立てと、置時計のみ。

「ふふ」

 めぐが写真を見つめたまま笑う。

「何もないでしょ、この部屋」

「え」

「私が何でもすぐ投げちゃうから」

「……」

「性格悪いのよ、私」

 ジュンは黙っている。

「これを破いて窓から捨てたのも私よ」

 顔を上げるめぐ。

「ありがとう」

 少し穏やかになったような気がする。

「何がですか?」

 ジュンが尋ねる。


93: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 04:17:27.58 ID:rWUo/kw90
「この写真、元に戻してくれて。それはお礼を言っておくわ」

「……」

 ジュンは黙っている。ぽりぽりと頭をかく。

「一つ確認させてもらってもいい?」

「…はい」

「貴方も誰かと契約してるのね?その指輪」

 ジュンが左手に視線を落とす。

「あ、いえ…」

「隠さなくていいわ。水銀燈の名前が出た時点で分かった。それに余計な詮索するつもりはないし」

「………」

「私は水銀燈と契約してるの。柿崎めぐっていうの」

 再び視線を落とすめぐ。

「………」

「……」

 体育座りをしたまま、顔を膝の間に深くうずめる。


119: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 08:09:23.91 ID:rWUo/kw90
「……」

 沈黙が流れる。

「…あ、あの」

「…何?」

「その水銀燈はどこにいるんですか?」

「……」

 会話が再び途切れる。

「私が今朝、怒って追い出しちゃったわ」

「え」

「だって、あの子私を諭すような事ばかり言うんですもの。

『もう少し自分を見つめ直してみたら』ですって。

私が今更、何を見つめ直せっていうのかしら。いい子ちゃんね」

 吐き捨てるめぐ。

「水銀燈がそんな事を…?」

 傍から聞いていて、ジュンは意外な感じがした。

「ええ、私はさっさと死なせてほしいって言ってるのに」

「………」

「こんなポンコツな心臓いらないのよ、いい加減」

「心臓…?」

「私ね、先天性の心臓病なの」



120: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 08:13:38.47 ID:rWUo/kw90
「………」

「5歳までに死ぬ」

 ジュンが思わずめぐを見る。

「その次は7歳までに死ぬ、10歳までに死ぬ」

「……」

「親たちも、いい加減悲しむのに疲れちゃったみたいよ。

お母さんは出てっちゃったし、お父さんは…」

「………」

 めぐはうつむいたまま、写真立てを手に取る。

「そんな時かしらね、水銀燈と出会ったのは」

 ジュンは黙ってそれを見つめている。

「おかしいのよ。私の命を使い切って欲しいって言うと、

あの子はいつも黙り込む」



122: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 08:17:00.74 ID:rWUo/kw90
「………」

「いつも黙り込んで、窓辺に座って私を見てる」

「あいつが…」

「意外だと思ってるんでしょ」

「え、あ」

「想像つくわよ、あの子の外での立ち居振る舞いくらい」

「……ええ」

「でもね、本当はきっと…」

「?」

「優しい子なのよ。私には勿体ないくらいに、ね」

 口元がほころぶ。

「……」

 嬉しそうに写真を見つめるめぐ。ジュンは、何も言えなかった。



123: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 08:23:20.55 ID:rWUo/kw90
>>121保守ありがとう

寝落ちしないように頑張るよ


124: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 08:23:43.03 ID:rWUo/kw90
「……」

 会話が途切れ、ジュンが息を吐いた。

「じゃあ、僕はこれで帰りますんで」

 めぐが顔を上げる。

「待って」

「?」

「私ね、この16年間、友だちが一人も出来なかったの」

 2つ上なのか、とジュンは意外に感じた。

「連絡先教えて。たまにでいいから、お話しましょうよ」

「え」

「だめ?お願い出来ないかしら」

「……別にいいですよ」

 言いながら、財布を棚に置き、中から連絡先のメモを取り出す。

「本当?ありがとう」

 ジュンの視界で、めぐが嬉しそうに笑う。

いや、何かほっとしたような、安心したような笑顔。

「え、ええ」

 ジュンもつられて笑った。



125: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 08:31:54.96 ID:rWUo/kw90
「桜田ジュン君…住所が…へえ、ちょっと遠いのね…」

 少し残念そうに呟く。

「ええ、電車で5駅ほど向こうです」

「そう」

 はあ、と息をつくめぐ。

「連絡先は家の電話で…」

「貴方いくつ?」

 ジュンが顔を上げる。

「私と同い年くらいでしょ?そういえば、学校は?」

 訝しげな表情。

「………」

 うつむいたジュンを見て、めぐは言葉を止める。

「ごめんなさいね、忘れて頂戴」

「いえ……」


126: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 08:35:18.12 ID:rWUo/kw90
「ばいばい、またね」

 ベッドから手を振るめぐ。

「はい」

 ジュンが振り向き、小さく手を振る。

「…………はあぁ」

 バタンをドアが閉まり、めぐは小さく肩を震わせる。

何か、身体全体がむず痒く感じる。

「ふうーっ」

 仰向けになり、丸めたタオルケットに抱きつくめぐ。

「………」



 そしてその一部始終を、窓の外から水銀燈が見つめていた。



128: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 08:40:33.49 ID:rWUo/kw90
 病院の屋上。

「……」

 水銀燈が、ぼんやりと空を見上げている。

「めぐ……」

 いつものヒステリーだと分かっていた。自分が戻れば、彼女は

「ごめんなさい」と言って出迎えてくれる。

 いつもの事だと思った。

 だが、そこには初めて見る光景が広がっていたのだ。

「どうして……」

 真紅のマスターがあそこにいた?

 そればかりが頭の中を駆け巡る。

「……」

 めぐは嬉しそうだった。というより、安心しきっているように見えた。

真紅が嗅ぎつけたのだろうか。いや、でもあそこに真紅はいなかった。

違う。

部屋の中にいないからと言って、真紅がめぐの事を勘付いていないとは言えまい。

「………」

 何となく、あの部屋に入れなかった。

水銀燈はぎゅうっと膝を抱え、顔を伏せる。

 めぐが幸せそうなら、それでいい。自分も嬉しいと思うべきだ。

だが―――

「淋しいのでしょう、お姉さま」

 透きとおるような声が響いた。


129: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 08:43:25.08 ID:rWUo/kw90


 ばっと振り向く。

「大切なマスターに追い出され」

 ウェーブのかかった髪が、風でゆらゆらと動いている。

真っ白なドレスに身を包み、金色の左目がこちらを見つめている。

「まるで、居場所を失くしてしまった子どものように」

「…雪華綺晶」

 第7ドール雪華綺晶は、ニッと笑い、近づいてきた。



「それ以上近寄らないで。メイメイ」

 間合いは数メートル。姿勢を低くし、身構える水銀燈。

それと同時に紫色の人工精霊が現れる。

「ちょっと待って。私は争いに来たわけではないのです」

「なぁに?私が貴女を信じると思うの?」

 水銀燈は動かない。

「あの人間、私が排除してあげてもいい」

 水銀燈の眉がぴくっと動く。


138: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 11:17:52.84 ID:rWUo/kw90
「あれ真紅のマスターでしょう、私知ってますわ」

「…だから何?」

「邪魔でしょう?」

 ぷいと視線を逸らす水銀燈。

「ね」

「黙んなさい」

「どうしてですか?」

「何を考えてるのか知らないけど、貴女と話す事なんてないわ」

 水銀燈はそっぽを向いたまま続ける。

 それをじっと観察する雪華綺晶。

「私はあります」

「あっそ」

 ヒュッとその場を飛び立つ。

「ふふ」

 雪華綺晶はその後を追った。


139: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 11:24:31.29 ID:rWUo/kw90
「ついて来ないで。喧嘩売ってるの」

「いいです。そのままで聞いて下さい。私勝手に喋りますから」

「……」

 水銀燈は舌打ちする。

「お姉さまはアリスになるために、ローザミスティカを集めている」

「………」

「当然私も、真紅たちもアリスを目指している」

「………」

「でも私は、ローザミスティカは要らない」

「は?」

 水銀燈が空中で止まり、雪華綺晶を見やる。

「私は別の方法でアリスに孵化する」

「どういう事かしら」

「この先は、お姉様が話を聞いていただけるのであれば…。

ただ、黒薔薇のお姉様に危害は加えない」

「………」

「約束します」

「……」


140: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 11:29:27.50 ID:rWUo/kw90
 水銀燈は、街の一角にある林の中へと舞い降りる。

「話、聞く気になりました?」

 悪戯っぽい笑みを浮かべる。

「ええ、一応聞いたげるわ」

「……」

「ローゼンメイデンは7体。うち、第4ドール蒼星石と

 第6ドール雛苺は、既に退場している」

「………」

「ドールのマスターは5人。

 第1ドールは柿崎めぐ、

 第2ドールは草笛みつ、

 第3、第5ドールは桜田ジュン、

 第4ドールは結菱一葉、

 そして私のマスターは、オディール・フォッセー。

 第6ドールは既にマスターとは契約解除している」



141: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 11:33:31.88 ID:rWUo/kw90
 指を折りながら呟く雪華綺晶。

「それが何?」

「私がアリスになるには、マスターたちの力が必要」

 ヒュウッと風が抜けていく。

「キチンと説明なさい」

「5人全員に眠りについてもらう必要がある」

「へえ、つまりめぐを眠らせて力を吸い取ろうってわけ」

 水銀燈の視線が鋭くなる。

「ええ、でもそれじゃ認めてもらえない事くらい承知してますわ」



「代わりに、全員のローザミスティカを差し上げます」

「全員?」

「その力を使えば、柿崎めぐは生き長らえる事が出来るでしょう。

その効果は、蒼星石のでお姉様も理解されているはず」

「…質問するわ、雪華綺晶」

 風が止む。

「何でしょう?」

「どうしてそんな提案をするの?わざわざ面倒くさいプロセスを踏む理由は?」

「私はただ、お姉様を救いたいだけ」

 微笑を浮かべる。


143: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 11:44:09.33 ID:rWUo/kw90
「………」

 はあ、とため息をつく。

「信用ならないわ、ごめんなさいね」

「そうですか」

「仮にそれが通るとして、雛苺のローザミスティカを逃がした理由が分からないわ」

 笑顔が消える。

 水銀燈はそれを見て言葉を続ける。

「悪いけど、一貫性がない話に付き合うつもりはないの」

 やれやれ、という風に広場に向いて歩き始める。雪華綺晶から視線は外さない。

「………」

「……………」

 イラつくほどにいちいち即答してきていた雪華綺晶が、黙り込んだ。

「どうしたの、儲け話はお仕舞いかしら」

 睨んだままの水銀燈。じわじわと距離は離れていく。

「…わかりました。お話ししましょう」

 歩いて水銀燈の後をついていく。

「私は、元々はアストラルの人形」

 水銀燈の足が止まる。

「器が欲しかったのです。こちらの世界に干渉するために」


144: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 11:48:34.82 ID:rWUo/kw90
「……器?」

「お姉様たちにあって、私に足りないものを補うために」

「ちょっと待ちなさい、どういう意味?じゃあ…」

 水銀燈がはっと目を見開く。

「そのために、私は雛苺の身体を奪った」

 優しい隻眼が、こちらを真っ直ぐ見据えている。ぞくりという感覚が

背筋に走る。

「あの時、真紅と金糸雀が迫っていた。こちらの動きがバレてしまえば、

もう器を手に入れるチャンスは少なくなる。だから」

「………」

「あそこでは雛苺の器を、最優先で手に入れなければならなかった」

 表情一つ変えない。

 ふう、と息を吐く水銀燈。

「……それで?」

「私嘘は申してませんわ。つまり」

「器なしでは、nのフィールドから出られない。こちらの世界に直接の干渉は出来ない?」

 水銀燈がわざと大きめの声で遮る。

「……そうですわ」

「じゃあ現実世界に、ローザミスティカなしのアストラル体で放り出された場合、どうなるのかしらぁ」

 雪華綺晶の眉がぴくっと動く。

水銀燈はそれを見逃さない。


145: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 11:52:55.46 ID:rWUo/kw90
「………」

「どうしたの?答えられないの」

「……」

「たとえばローザミスティカを私に全部くれた後で私が攻撃して」

 言いながら水銀燈は踵を返す。

「ぶっちゃけ、勝負は見えてると思うのよぉ」

 タイミングはもう少し。1秒… 2秒…

「ねぇ、どうなるのかしら?」

 ぐりんと不自然なほどに身体を捩じり、水銀燈は振り向いた。

 雪華綺晶の視線が一瞬泳ぐ。

「…どうしたの?」

「………」

 水銀燈は目を見開いた。

 突然雪華綺晶の身体が光り始め、体内からローザミスティカが出現する。

「……さ、行きなさい、お姉様のもとへ」

 ふわりと浮きあがり、水銀燈の身体の中へ消えていく。


146: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 12:14:40.58 ID:rWUo/kw90
「…ふ」

「…信じる気になりました?」

「どうやら本気でいらないみたいねぇ、ローザミスティカ」

「ええ」

「……いいわ、貴女の話に、乗ったげるわ。ただし」

 胸をさすりながら答える。

 雪華綺晶が再びこちらをじっと見つめる。

「条件がある」

「……」

「ローザミスティカを一つ奪う度に、私の所へ持ってくる事」

「……全てお姉さまが取得するまで、マスターはいただけないと?」

「そこまでは言わないわ。そんなの取引じゃないでしょう」

「そうですね。私もそんなの受け入れられませんわ」

「……」

 同時に、ニヤリと笑う。

「今、私の中には2つ。貴女ので3つ目」

「……そうですね」

「4…いや…5つ」

 左手を広げる水銀燈。

「私の中に5つ集まったら、めぐを渡してあげる」


147: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 12:21:33.22 ID:rWUo/kw90
「…」

 無表情の雪華綺晶。

「なぁに?それ以上は譲らないわよぉ」

「…いいですわ。そしたらそれで」

 沈黙。

「また、新たなローザミスティカを手に入れたら、お伺いします」

 雪華綺晶はにこっと微笑み、飛び去った。

「………」

 水銀燈は完全に姿が見えなくなるのを確認し、反対方向に飛び立つ。



『貴女がアリスになった後、めぐは普通に目覚めてくれるのかしら』



 その疑問を口にしなかったのは理由がある。

 ひとつは、向こうに自分を信じ込ませておくため。

そしてもうひとつ。

 おそらく目覚めない、そう思っていたからである。

 ローザミスティカが集まるのは好都合。だが、めぐを失うわけにはいかない。

「どうすれば…」

 太陽が照りつける真夏の空を、水銀燈は飛び続けた。





149: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 12:28:06.16 ID:rWUo/kw90
 桜田家。

「はあーあ、疲れたーあ」

 ベッドに倒れ込み、ジュンがぼやく。

「のりは?」

「2~3日安静にしてれば大丈夫だってさ」

「そう」

 紅茶を飲む真紅。

「で、どうだったの?」

「ん」

「水銀燈のマスターは」

 ジュンが半身を起こして真紅を見る。

「どうって…」

「水銀燈はいたの?」

「…いや、いなかった」

「?」

 真紅が首を傾げた。


157: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 13:20:54.85 ID:rWUo/kw90
「………」

 時計の針が2時を指し、窓から蝉の鳴き声が聞こえる。

「……そう」

 一部始終を聴き終えた真紅が、膝に乗せたカップを見つめている。

「意外だったよ」

「…心臓…」

 ジュンが顔を上げる。

「…死に憑かれた少女」

「…?」

「ねえ、ジュン」

 カップをお盆に置き、立ち上がる。

「どうした?」

「……」

 おもむろにベッドによじ登る真紅。

「わ」

 ジュンが驚く。

 真紅は慣れた手つきでジュンの膝の形を整え、そこに座り込んだ。

「ジュン…」

 つぶらな瞳がこちらを見上げる。

「し、真紅…」

「ふふ」

 悪戯っぽく笑う。


158: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 13:26:27.61 ID:rWUo/kw90
「な、何だよふざけてんのか」

「いいえ」

 ジュンの胸に手を当てる。

「私ね、淋しくなったり、つらい事があった時は、こうしてると安心するの」

 寄り添ったまま目を閉じる。

「……こそばいから止めろよ」

「ええ、気が済んだら解放してあげるわ」

「………」

「貴方はつらい事があった時、いつもどうしてたかしら、ジュン」

「え?」

 少し顔を離し、もう一度ジュンを見上げる真紅。

「ラプラスに苛められたり、そうね、思い出させて悪いけど、

この間、貴方の学校の先生が来たわね」

「………」

 顔をしかめるジュン。

「私知ってるわ。貴方は毛布をかぶって、自分の部屋に閉じこもってしまった」

「…からかうなら出てけよ」

「もう少しだけ話があるの、それが済んでからね、ごめんなさい」

 そっとジュンの胸を撫で始める。


160: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 13:28:52.81 ID:rWUo/kw90
「私もそう」

 撫でられる胸がくすぐったい。

「腕を水銀燈に引っこ抜かれた時、私は鞄に引き籠ってしまった」

「………」

「もうね、つらくてつらくてしょうがなかったわ」

「……」

「貴方が掛けてくれた言葉を無視して」

「……」

「…落ち着いた?くすぐったかったでしょう、ごめんなさいね、ジュン」

 撫でる手を止める。

「でもね、後から鞄を出て、貴方が繕ってくれた服を着たのは」

「…?」

「貴方があの時、言葉を掛けてくれたから」

 見上げる真紅の顔がほころぶ。

「欠損した状態で服を着る事に抵抗はあったけど、

貴方の言葉が、私の背中を押してくれた」

「真紅…」

「つらい事があった時、ジュンの膝に乗って、こうして全身を預けていると安心する」

 ジュンは照れ臭い気分になる。

「たぶんね、貴方が優しい人間だって知ってるから」


161: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 13:33:39.44 ID:rWUo/kw90
「………」

 真紅はしばらく目を閉じていたが、やがて立ち上がる。

「きっと水銀燈たちもそうじゃないかしら」

 ベッドを降りる。

「お互いが優しいって知ってるから、お互いを必要とする」

「……」

「水銀燈は、たぶん優しいんでしょうね。根っこのところで」

 ふう、とため息をつく。

「ま、私の事は嫌いなんでしょうけど」

 ジュンが変な顔をする。

「また今度行くんでしょう?」

「ん、あ、ああ、多分な」

「私も連れてって」

「え?」

 その場に座る真紅。

「私も話してみたいわ。その柿崎めぐって子と」

「え、でも…」

 カップを持つ。

「いいじゃない、水銀燈がいたって、めぐって子の前で暴れたりはしないでしょう」


162: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 13:34:04.68 ID:rWUo/kw90
「………ん、まぁ…」

「そうね、今度は翠星石とか、金糸雀とか、その辺も一緒に」

「いや、それはお前…」

「冗談よ、そこまでしたら水銀燈だって怒るわ」

 ふふ、と笑い、真紅は紅茶を飲んだ。

 ふと、きょろきょろと部屋を見回すジュン。

「そういえば、翠星石は?」

「?さあ、出掛けたんじゃないかしら。蒼星石の所へでも」

「ああ…」

 ジュンが窓の外を見上げる。

 快晴だった真夏の空を、東から真っ白な入道雲が覆い始めていた。







163: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 13:36:53.62 ID:rWUo/kw90


「あれー?」

 丘の上。結菱家の窓を、翠星石がごんごん、と叩いている。

「おじじ、起きるですぅ、翠星石が来てやったですぅ」

 部屋の中、ベッドに伏せっている一葉は、起きる様子がない。

 おかしい。

「………」

 一度、唇をぎゅっと噛み、翠星石は鞄を両手で持つ。

「おじじ、ちょっと失礼するです」

 次の瞬間、窓に向け、それを思い切り振り下ろした。



165: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 13:40:36.80 ID:rWUo/kw90




 かしゃん、と音を立てて、食器を棚の上に置くめぐ。

「…がと…敬…やめて…気持ち悪い……先……」

 食器のあった場所に便せんを置き、何かを書いている。

「…から…また……」

 ガタッと音がした。

 めぐが窓の方を見やると、翼の生えたシルエットが浮かんでいる。

「!!」

 ベッドから降り、ガラッと窓を開ける。

「水銀燈!!」

 水銀燈は視線を伏せたまま、窓辺に突っ立っている。

「戻ってきてくれたの!」

「………」

 答えない。めぐはそれを見てうつむく。

「ごめんなさい…私…」

「…歌って」

 顔を上げるめぐ。水銀燈が、めぐの髪を小さく撫でる。

「まだ貴女を一人にするわけにはいかないの。だから」

 感情を込めない声、だがどこか優しい表情。

「………」

 めぐは思わず口元を押さえる。

「ごめんね、ごめんね水銀燈」

 その頬に、涙が流れた。


167: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 13:42:50.43 ID:rWUo/kw90
「何を書いているの?」

 窓辺に座った水銀燈が、ベッドの上のめぐに話しかける。

「知りたい?」

「…ちょっと気になっただけよ」

 少し視線を逸らす。

「今日ね、男の子が来てくれたの」

「………」

「驚いたわ。私と同じで、ローゼンメイデンのマスターだった」

「………」

 めぐが手を止める。

「驚かないの?」

「…ごめんなさい、見てたのよ」

「あら」

 再び筆を走らせるめぐ。

「やっぱり貴女、趣味が悪いわ」

「……」

「今度は盗み見なんて」

「…たまたまよ」

「私はね、手紙を書いてるのよ。今日来てくれた、その子にね」

「…」

 コンコン、とドアを叩く音がした。


176: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 14:41:56.12 ID:rWUo/kw90
「はい」

「めぐちゃん、入るわよ」

「……」

 その声を聞いて、水銀燈は窓の外、見えない場所へと移動する。

「食器下げに来たわ。…あら」

 看護士が目を丸くする。

「めぐちゃん、何書いてるの?」

「秘密よ」

 ペンを止めずに答えるめぐ。

「そう…頑張ってね」

「ええ」

 一息つき、食器を持つ看護士。

「あら…」

 食器を見て、思わず声が漏れる。

「何?どうかした?」

「ううん、じゃあ、失礼するわね」

 看護士は一度だけめぐを見やり、すぐに出ていった。


180: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 15:00:57.21 ID:rWUo/kw90
 nのフィールド。



 金色の隻眼が、二つの水晶を嬉しそうに眺めている。



 水晶の中には、それぞれ人影が一つずつ。

片方には、一人で楽しそうに遊ぶ、金髪の少女。

もう片方には、相手のいないテーブルで、一人お茶を飲んでいる老人。

 いずれも指に、薔薇の指輪をしている。





「…オディール、結菱一葉…これで2人…」



 つい先ほど、雪華綺晶は一葉を眠りにつかせ、その精神に

根を張り終えた。



 今は根を張る事で消耗した体力を、回復させているところだ。

今日はもう動けそうにない。

 オディールの時もそうだった。根を張り終えた後はまともに

身体が動かず、丸一日、nのフィールドで身体を休ませなければ

ならなかった。

 加えて、自分のローザミスティカを水銀燈に渡した今、

事は慎重に進めなければならない。



「残り3人……残り…4体……」

 膝を抱え、現状を整理する。


181: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 15:03:18.10 ID:rWUo/kw90
 目的はアリスになる事。



 そのために自分に出来る事。

 自分に出来ない事。



 水銀燈。

 金糸雀。

 翠星石。

 真紅。



 桜田ジュン。

 草笛みつ。

 柿崎めぐ。



 どのドールに何の情報がいっているか。



 考えうる最悪のケース。



 起こりうる、有意な可能性のあるケース。



 それを乗り切るための方法。



 自分の手駒。



 ドールの特技は。強いドールは。弱点は。


183: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 15:04:52.86 ID:rWUo/kw90
 雪華綺晶とて、万能ではない。得意があれば、苦手もある。

それをどう悟らせないようにするか。

 どう避けるか。

 どうやってこちらに引きずり込むか。



 既に優先順位を決めて動いているとはいえ、一抹の不安はあった。

誤算もあった。その中で、選択肢を絞っていく。

「………」

 感情のない隻眼が、二つの水晶を見つめ続けていた。









184: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 15:11:31.12 ID:rWUo/kw90
 2日後、桜田家に一通の手紙が届いた。

「あ」

 ベッドから動けないのりの代わりに、ジュンが玄関先で

それを見つける。

「柿崎さんからだ」

 緑色の80円切手が貼ってある封筒の中央に、丸みを帯びた

女の子らしい「桜田ジュン様」という文字が並んでいる。

 ダイニング・テーブルで封を開け、中身を確認する。

「なぁに、それ」

 向かいの席から真紅が尋ねる。

「手紙だよ」

「手紙?」

 4つ折りの便せん2枚を、ピラピラと広げてゆく。

「なになに……」

「私も読んでみたいわ」

 真紅が便せんを引っ張る。

「んあ?ああ、あとでな」

「今読みたいのよ」

 じっとこちらを見つめてくる。


189: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 15:16:50.08 ID:rWUo/kw90
「……お前宛じゃないだろ」

「何よ、口答えするつもり」

 椅子を降り、ぎゅうっと脛をつねる。

「痛ででで何すんだ!!」

「読ませないからでしょう。せめて抱っこして一緒に読ませて頂戴」

「……しょうがないな」

 はあ、とため息をつくジュン。

「どれどれ…」





   『拝啓って書こうとしたけど、手紙の書式なんて分からないし、間違っていたら

    恥ずかしいので止めました。

     改めましてこんにちは。こないだは写真、ありがとう。あれ、貴方のお人形さんの力で

    直したのかしら?そうだとしたら、廊下の椅子とかで、待ってもらってたのよね?

    ごめんなさいね、今度は、お人形さん連れてきてほしいわ。お礼がしたいから。

     それと、敬語なんてやめて。あれで貴方がマジメなのは分かったけど、

    あんなの気持ち悪いわ。私は部活の先輩じゃないのよ。

     ね、私は貴方を【ジュン君】って呼ぶわ。だから貴方も私を名前で呼んで。

    次に敬語使ったら、スープ投げつけるわよ。



     ごめんなさい、脱線してしまったわね。

    久し振りに同じくらいの歳の子と話せて、ちょっぴり楽しかったわ。

    今度はお茶くらいは出すから、また近々来てね。約束よ。



                            有栖川大学病院 316号室 柿崎めぐ 』





190: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 15:23:19.74 ID:rWUo/kw90
「な、名前で…って」

「あら、意外とモテるのね、ジュン」

 真紅が見上げ、ニヤニヤしている。

「なっ、何が」

「明日また行きましょう。スープ投げつけるなんて発想の出来る子、

話してみたいのだわ」

 仲良く会話する二人。

「………」

 その二人を、廊下から眺める翠星石。



「言うべきですかねぇ…」

 ドアを閉め、壁に寄り掛かる。



192: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 15:25:55.99 ID:rWUo/kw90


 一昨日、結菱家の窓を割って侵入した翠星石を待っていたのは、

起きない一葉、そして、空っぽの蒼星石の鞄だった。

「………」

 翠星石は雪華綺晶を見た事がない。それが7番目のドールだ、という事は

分かっている。だが、雛苺の身体をあの人形が奪った、それ以外、

何も知らない。

「第7ドール…」

 ぶるっと身体を震わせる。水銀燈とはまた違う、

冷たく、残酷な何かを感じた。

 何をしてくるか分からない。残された自分も、眼球をくり抜かれ、

身体を奪われてしまうのだろうか。



 コトリ、と音がした。





193: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 15:30:24.02 ID:rWUo/kw90
「…?」

 キシッ、と、今度は床が軋む音。

 翠星石が顔を上げる。

「あっ」

 そこから動けなくなる。

 視線の先。納戸の入り口に、双子の妹、蒼星石が

立っていた。

「そ…」

 踵を返し、納戸に入っていく。

「待って」

 翠星石が後を追う。

「蒼…!」

 納戸に入ると、ちょうど蒼星石の足が、鏡の中に

消えていくところだった。

「待って!待ってですぅ!」

 翠星石がnのフィールドに飛び込み、鏡が小さく光った。



194: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 15:36:03.79 ID:rWUo/kw90
 飛び続ける翠星石の目に、蒼い人形がだんだん大きく見えてくる。

「蒼星石!!」

 ようやく裾を掴める所まで来たか、という時、蒼星石は不意にこちらを向いた。

「あぷっ」

 スピードを緩めた蒼星石と、翠星石がぶつかり、そこから二人は落下していく。

「きゃうっ!!」

 ドスンと音を立てて、何か柔らかい所に不時着する。



「う…うう……」

 目を回していた翠星石が身体を起こすと、そこは庭園のような場所だと気づく。

「びっくりしたじゃないか。何するんだよ」

 驚いた表情で、妹がこちらを覗きこんでいる。

「え…そ…」

「?」

 怪訝そうな表情でこちらを見る。

「蒼星石…?」

「そうだよ、…どうかしたの?翠星石」

 翠星石の顔がくしゃくしゃになる。

「蒼星石ぃっ!!!うわああぁぁあん!!!」

 がしっと抱きつき、翠星石は泣き始めた。


197: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 16:15:43.05 ID:rWUo/kw90
「ちょっ…」

「うええええええんん!!!うわあぁぁあん!!!」

「参ったな……」

 そう言いながらも蒼星石は笑い、翠星石の背中に手を回した。



「まずは一人…これでいい」

 白い水晶に閉じ込められた翠星石と蒼星石。いずれ自らのネジが切れるまで、

操り人形と化した妹を、姉は愛で続けるだろう。

「ふふ」

 その様子を眺めていた雪華綺晶は、笑みを浮かべ、その場を去った。

 





198: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 16:28:45.52 ID:rWUo/kw90
 次の日。







「翠星石、どこ行ったのかしらね。鞄置いて」

 有栖川大学病院の廊下を、ジュンが歩いている。

「蒼星石のおじいさんの所じゃないのかな」

「…そうだといいけど」

 腕に抱かれた真紅が、胸をぎゅっと握る。



 316号室の前で立ち止まる二人。

「いいか、準備は」

「ええ」

 コンコン、とドアを叩く。

「どうぞ」

 今度は中から声がした。



200: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 16:34:29.85 ID:rWUo/kw90
「こんにちは…あっ」

 ジュンが思わず立ち止まる。

「こんにちは、初めまして」

 真紅は表情一つ変えず挨拶する。

 バサッと、本が床に落ちる。

「あっ、こんにちは、来てくれたんだ」

 ベッドの上、めぐの笑顔とは対照的に、椅子に座って本を

読んでいた水銀燈が、硬直している。

 足元に落ちた本を、拾おうともしない。

「………」

「水銀燈、こんにちは」

 真紅がそれを見つめ、感情を込めずに挨拶する。

「………」

 ジュンの背中に冷や汗が流れる。

「…めぐぅ」

 水銀燈が口を開いた。



202: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 16:39:51.53 ID:rWUo/kw90
「私ちょっと用事があるから、この子と」

 真紅を指さす。

「え、何で?私この子にお礼言わなきゃいけないのよ」

「そう、じゃあ後にして」

「嫌よ、お礼だけなら一瞬で済むじゃない」

「………分かったわ、勝手にしなさぁい」

 そう言って、窓から出て行こうとする。

「待って水銀燈、ちょっと…」

 声を掛けるも、水銀燈はさっさと出て行ってしまった。



203: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 16:45:38.52 ID:rWUo/kw90
「…ごめんなさいね。いつもは…まあ大体あんな感じか」

 はは、と笑うめぐ。

「ねえ、ジュン君」

「はい」

「はい、じゃないでしょ。手紙読んでくれてないの」

 口を尖らせる。

「え、あ」

「敬語禁止って書いたでしょう」

「…ごめん、なさい」

「ごめん、でいいのよ」

「………」

 ジュンは頭をぽりぽりとかく。

「面白い子ね」

 じっと聞いていた真紅が口を開く。

「あら」

「何?」

 めぐが身を乗り出してくる。

「ふふ、こんにちは」

「ええ、こんにちは」

 ジュンの腕から飛び降り、めぐの傍に寄る。


204: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 16:50:37.27 ID:rWUo/kw90
「貴女、名前は?」

「…私は真紅、ローゼンメイデンの第5ドール」

「そう、真紅…紅い、っていう意味の?」

「そうよ」

「………」

 見つめ合う二人。

「ね、真紅ちゃん、ココに座って」

 ぽんぽん、と椅子を叩く。

「お話ししましょうよ」

「………」

「ね、いいでしょ」

「分かったわ」

 そのままお喋りを始める二人。

「………」

 ジュンは10分ほど突っ立っていたが、やがて病室を出ていった。


207: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 16:55:06.74 ID:rWUo/kw90


 水銀燈は屋上の端に座り、足をぶらんぶらんと揺らし続けていた。

「………」

 ぼーっと遠くを見つめる視線とは対照的に、右手はトントントントンと小刻みに

コンクリートを叩き続ける。

 病室はどうなっているだろうか。真紅とめぐが、楽しそうに会話している

様子が浮かぶ。

 ガン、とかかとで壁を蹴る。ガン、ガン、と何度も蹴った。

「…ムカつくわ」

 続いて左手で、背後のフェンスをがしゃんと叩く。

「………」

 視線は相変わらず、空の遠くの方。

 白い入道雲が見える。

 真っ青な空を、その内覆い尽くしてしまうのではないかと思えるような雲。

白いようでいて、その根元は灰色に染まりかけている。



208: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 16:57:52.42 ID:rWUo/kw90
 ここ数日、雪華綺晶は何の音沙汰もない。

雛苺の時のように、誰かのローザミスティカが奪われた感覚もなく、

真紅たちの様子からして、何か干渉があったようにも思えない。

それどころか、のん気にめぐのお見舞いだ。

 馬鹿にしている。

「……」

 はあ、と、水銀燈は大きくため息をついた。

 どうして自分がこんなにイライラしなければならないのか。

あんなのん気なメンツと一緒に話して、めぐは面白いのか。

「ばーか、ばーか。めぐのばーか。真紅のばーか」

 虚ろな両の眼を、中庭に落とす。

「………?」

 中庭を、誰かが歩いている。

「あれは……」

 水銀燈は気づかれないように、そっと飛び降りた。



209: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 17:03:09.89 ID:rWUo/kw90


「あーあ」

 ガニ股歩きでふらふらしているジュン。

「何で女の子って、あんなに勝手なんだろ」

 二人が喋り始めてからの10分間、ジュンは空気化していた。

その場を去っていいのか、立ち尽くしていないといけないのか、

悩んだ末に出した答えが、「部屋を出て中庭を散歩する」というものだった。

「…広いなぁ」

 病院内をうろつくわけにもいかず、とりあえずベンチで休む事にする。

「………」

 ようやく、木陰にあるベンチを見つける。

「はぁーぁ、やる事ないなぁ、帰ろうかなぁ」

 全身を投げだし、ぼやくジュン。

「そうよ、あんな高慢ちきな人形、さっさと持って帰って頂戴、忌々しい」

 がばっと身を起こし、きょろきょろと見回す。

「こ、この声!おい水銀燈!お前か!」

「どこ探してんのよぉ、こっちよ、おバカさん」

 見上げた木の枝に、銀髪の人形が座っていた。



211: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 17:08:17.31 ID:rWUo/kw90
「…お前」

「ぜ~んぶ聞いちゃったわよぉ。相手にしてもらえなかったんでしょぉ」

 ぷっと吹き出す。

「うるさいな、黙れよ」

 顔を伏せ、はあ、とため息をつく。

「あら、失礼ねぇ」

「……お前何で僕に話しかけたんだ?ムカつくからどっか行けよ」

「ああ、ごめんなさいねぇ、あと5分後にどっか行くわぁ」

 イラっとして、水銀燈を睨むジュン。

 そんなジュンを、水銀燈はしばらく見下ろしていたが、やがてジュンの横へと

舞い降りてきた。

「……何だ?」

「別に」

「…何か企んでるのか」

「さぁ、そう見えるのかしら」

 言いながらジュンの横、1メートルくらいの場所へ座る。


213: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 17:16:44.37 ID:rWUo/kw90
「……」

「……………」

 ジイィィィ~、と、蝉が鳴き始めた。

 時おり、ヒュウウ、と風が抜ける。

「……なあ」

 頬づえをつき、前を見つめたままジュンが口を開く。

「…何?」

 同じく前をぼんやり見ながら、水銀燈が問い返す。

「結構、涼しいな、ここ」

「…そうねぇ…私はこういう場所、結構好きよ。のんびり出来て」

「………」

「……」

 ちらっと水銀燈がジュンを見やる。ジュンは変わらず、ぼーっと病院の敷地の向こうを

見つめている。

「…話し相手が欲しかったのよ、あの子は」

 ジュンがこちらを向いた。



214: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 17:21:53.97 ID:rWUo/kw90
「救ってもらいたいなんて、思ってない」

「…?」

「鬱屈した、どろどろになってしまった、とても醜い自分をぶつける相手が」

「…醜い?どこが」

 ふう、とため息をつく水銀燈。

「皆醜くて、どうしようもない自分を持ってるのよ?貴方も」

「な…」

 ジュンは思わず視線を逸らす。

「真紅も」

 水銀燈は立ち上がる。

「私も」

「………」

 ジュンは、無意識の海での出来事を思い出す。

あの時、水銀燈は裸で泣いていた。

「皆それを隠したり、それから眼を背けたりして生きている。逃げている」

「……」


216: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 17:27:08.27 ID:rWUo/kw90
「あの子は、小さい内に、それから逃げる術がない事を知ってしまった。

そして、自分が見捨てられた存在であると、分かってしまった」

 ジュンは黙って聞いている。

「だから誰にも相談しない。頼らないし、聞き入れない」

 自分の胸をつつかれている感覚。

「可哀想な子」

「…そんな風には、見えないけど…」

「そのうち分かるわ」

 空を見上げる。

「貴方はたまたま見つけた、相性のいいオモチャと変わらないってね」

「………」

「さ、5分経ったわ。それじゃね」

 水銀燈はそれだけ言うと、翼を広げて飛び去った。

「水銀燈…」

 飛び去った彼女を、ジュンはしばらく見つめていた。





217: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 17:31:32.33 ID:rWUo/kw90
「…ふうん、そうなんだぁ~」

 病室に響く笑い声。

「あら、笑い事じゃないわ、あの時私は猫に……あああ」

 ぶるっと身体を震わせる真紅。

「うふふ、いいじゃない、今はもう何ともないんでしょう?それなら、

笑ったっていいでしょ」

「…不本意だけど、確かにそうね」

「………」

 ふう、と互いにため息をつき、会話が止まる。

「……」

「ねえ、面白い話してあげましょうか」

 めぐが沈黙を破る。

「何かしら」

「つい最近ね、この病院の10階に」

 写真立てを手に取るめぐ。

「フランス人の女の子が運ばれてきたのよ」

「へえ」

「その子ね、何しても起きないんですって、童話でいう、眠り姫みたいに」

「起きない…?」

「ええ。…私、ずっと死にたいって思ってたけど、眠り続けるのもキレイかなぁって、

最近思い始めたわ」



218: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 17:36:37.27 ID:rWUo/kw90
「……」

 変な事もあるものだ、と真紅は思った。

「その話水銀燈にしたら、なんて言ったと思う?」

「さあ」

「『あっそ』って言ったのよ、あの子。これ、酷いわよねぇ」

 あはは、と一人で笑うめぐ。

「…私には理解出来ない領域だわ」

 はあ、と真紅はため息をつき、頬づえをついた。



「ねえ、ところで、ジュン君は学校に行ってるの?」

 真紅が顔を上げる。めぐが両肘を頬につき、こちらを覗き込んでいる。

「…どうして?」

 真紅は首を傾げて聞き返し、ある事に気づく。

 めぐの眼が笑っていない。

「だって、まだ7月の中旬でしょ。3日前に来て、今日も来て」

「………」

「行ってないんでしょ?普通に考えたらそうだわ」

 微動だにしないめぐ。


220: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 17:41:09.95 ID:rWUo/kw90
「………」

「……」

 ふう、と真紅は息を吐いた。

「行ってないわ。ジュンは引きこもりよ」

「…何があったの?」

 なおも質問してくる。

「私も知らないわ。その先はジュンに訊いて頂戴」

 視線を伏せる真紅。

「………ねえ」

「…何?」

「行って欲しいと思う?学校に」

 随分と遠慮のない質問をするものだ、と真紅は思った。

「……」

「どう…?」

 真紅はしばらく、天井を仰いだ後、ふ、と息を吐く。

「学校なんて行きたくなければ、行く必要はないでしょう」

「…へえ」



222: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 17:50:18.19 ID:rWUo/kw90
「規律や上下関係、協調性を学ぶ事は、生きていく上で大切な事」

「……」

「でも、だから『学校に行きなさい』『勉強しなさい』なんて、私は言えない」

「……」

「それはジュンが決める事」

「…そう」

「この間、あの子の学校の先生が来たわ」

 めぐは前かがみの姿勢を直し、壁にもたれかかる。

「その後ジュンはトイレで吐いて、部屋に引き籠ってしまった」

「……」

「それからあの子は何日も起きなくなって」

「……」

「私にはどうしようもなかった。枕元にいる事しか、出来なかった」

「……」

「今はこうして、外に出られるくらいにはなったけど」

「………」

「私は何も聞かなかったし、ジュンも何も言わなかった。その時何があったかなんて」

 時計の針が、11時を指した。

 カタン、と音がして、真紅は一瞬そちらを見やる。


223: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 17:54:41.71 ID:rWUo/kw90
「…私はね、どこかの誰かに、自分を分かったつもりになられるのが一番嫌いなのよ」

 手を遊ばせながら続ける。

「ジュンもきっとそう。あの子の苦しみなんて、あの子にしか分からない。

あの子が乗り越えていくしかないの」

「…そうね、その通りだわ」

「でも、私はジュンに、前を向いてほしい。光は、前を向かないと

自分に射してこないの。だから」

「………」

 めぐがじっと見つめている。

「私はジュンの傍にいる。ピクニックに行くと良さそうな晴れの日でも、

土砂降りの雨の日でも、風がよく抜けて涼しい日でも」

「………」

「あの子が逃げ出したら追っかけていく。一人にならないように。

死にたがっていたら、落ち着くまで手を握っていてあげる。ずっと」

 両手を膝に落とし、ぎゅっと握りしめる真紅。



226: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 18:17:17.24 ID:rWUo/kw90
「いつかあの子が立ち上がろうとした時に、横にいる私の肩を使って、

支えにして立ってくれれば、私はそれでいいの」

「………」

「少し脱線してしまったわね…ごめんなさい」

「いいえ、そんな事ないわ」

「…別に学校に行ってほしいとは思ってないけど、『私はジュンに、

いつか前を向いて欲しいとは思っている』、これでいいかしら」

 真紅がめぐに視線を向ける。

「…ええ、素晴らしい回答だわ」

 ぱちぱち、とめぐは手を叩いた。





229: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 18:25:15.70 ID:rWUo/kw90


 ガチャリ、とドアが開いて、ジュンが入ってくる。

「あら、ジュン、どこへ行っていたの」

「ん、ちょっと散歩」

「迷子になっても知らないわよ」

「なるわけないだろ」

 やれやれ、といった風に壁に寄り掛かるジュン。

「散歩に行ってたの?」

 めぐが尋ねる。

「ん、ああ。結構そこの中庭、涼しくて気持ちいいよ」

「ね、もう一回、散歩に行く気、ないかしら?」

 ベッドから降りるめぐ。

「え」

 スリッパを履き、タオルケットを折りたたんでゆく。

「もうすぐお昼だから、暑くなる前に、ね?いいでしょう?」

「いや、僕はいいけど…」

 ちらっと廊下を見やるジュン。

「あら、少しの散歩くらいで、いちいち看護士さんは咎めないわよ。気にしないで」

 すたすたとドアの方へ歩いていく。



231: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 18:29:23.55 ID:rWUo/kw90
「ちょ、ちょっと待って」

 ジュンが慌ててそれを追いかけ、二人はドアの向こうに消えた。

「……やれやれ」

 真紅は開きっぱなしのドアを閉め、ベッドの傍へ戻っていく。

「……」

 次の瞬間、ガララッと窓を開けた。

「きゃっ!」

 窓の外、びくっと身体を震わせた水銀燈が胸を押さえている。

「盗み聞きはよくないって、めぐが言ってたわよ」

「………」

「入ってらっしゃい」

 真紅が促し、水銀燈はしぶしぶ病室に入った。





232: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 18:31:22.70 ID:rWUo/kw90




「ん………」

 外に出た所でめぐが顔をしかめる。

「眩しい」

 右手で日光を遮る仕草をする。

「外に出たのなんて、何ヶ月ぶりかしら」

「えっ?」

 ジュンが思わずめぐを見る。

「ふふ、驚いた?」

 中庭の方へ歩き出すめぐ。

「あ、待って」

 ジュンがそれを追いかける。



 ミーン、ミン、ミン、ミーン、と、蝉の鳴き声が聞こえる。



 ヒュウウ、と風が吹き、めぐの長い黒髪が、ふわりと浮き上がる。

「ん………」

 気持ち良さそうに目を閉じ、前髪をかきあげる。

「あ…」

 ジュンはその仕草に、思わずどきっとする。



234: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 18:35:45.87 ID:rWUo/kw90
「………」

 少し先を歩くめぐ。そこから2メートルほど後ろを、ジュンが歩いている。

「暑いわね…」

 めぐが額の汗を拭い、木陰のベンチに座る。

「…ああ」

 めぐは袖で何度も額を拭っている。そんなに暑いのだろうか。

「エアコンの部屋から出てないからよ、これは」

 心を読んだかのように、めぐが答えた。

「エ…エアコン…?」

「人はね、汗をかく生き物なの」

「……」

 立ち尽くしているジュンを見て、めぐがトントンとベンチを叩く。

「ここに座って」

「え、いいよ僕は」

「いいから」

 真っ直ぐ見据えてくるめぐ。



236: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 18:43:34.74 ID:rWUo/kw90
 ジュンが横に座り、めぐは背もたれに思い切り寄り掛かる。

「ふうーーー」

 目を閉じ、大きく息を吐く。

 身体を反らした時、胸が膨らんでいるのに気づく。

「あ………」

 16歳の女の子の胸。すぐに目を逸らす。

「私はホントに、部屋から出たことなかったから…」

 身体を戻し、ふう、と息を吐く。

「かかなきゃいけない汗が、こういう時にドバッと出ちゃうの」

「へ、へえ」

 ジュンは視線を適当な所に向ける。

 ふと、視界の隅、茂みがガサガサ動いているのが見える。

「ん」

 次の瞬間、太った三毛猫が飛び出してくる。

「あ」

「あら…」

 めぐもそれに気付いた。

「おいで、おいで」

 チチチチチ、と口を鳴らし、地面スレスレに手を置いて、

カサカサカサ、と動かす。

 三毛猫はそれにつられ、こちらにト、ト、ト、と近寄ってくる。


237: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 18:46:17.27 ID:rWUo/kw90
「うっぷ、よし、イイ子イイ子」

 膝をつたって飛び乗ってきた猫を、めぐは何度も撫でる。

「……」

 ジュンは意外そうにそれを見つめた。

「人慣れしてるでしょ、この子」

「…うん、びっくりした」

「もう10年になるかしら」

 ゴロゴロ、と喉を鳴らし始めた猫を撫でながら、めぐが視線を落とす。

「この子は捨て猫だったのよ」

「…へえ」

「たまたま病院に猫好きの先生がいて、勝手口の裏のストックハウスで、

この子を飼い始めたの」

「………」

 めぐはふう、と息を吐き、撫でるのを止める。

「ジュン君、面白い話、してあげましょうか」





239: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 18:49:32.11 ID:rWUo/kw90


「何?」

「猫も人間も、いえ、哺乳類はみんな、一生に20億回の鼓動を打つって、

決まっているのよ」

「20億???」

「そうよ、正確には、15億から20億、くらいだったかしら。哺乳類の

心臓はそうなってるらしいわ」

「へえ……」

「高血圧の人は早死にするケースが多いのは、そういう理由があるの」

 初耳だな、とジュンは思った。

「極端な話、1分間に80回の鼓動を打つ人と、60回の鼓動を打つ人で、

寿命が違うわけね。極端な話よ。全員が全員、そうだというわけじゃないのよ」

 ふふ、と笑う。

「ハツカネズミは、1分間に600~700回打つとか云うし、ゾウなんてのは

1分間に20回くらい。クジラはねえ…何回だと思う?」

「クジラ?」

 言い方からすると、10回前後かな、と考える。

「3回よ。1分間にたったの3回」

「さ、3回!?」

 思わず頓狂な声を上げる。



240: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 18:52:29.13 ID:rWUo/kw90
「びっくりしたでしょ。シロナガスクジラなんかは、それもあって、

120歳くらいまで生きるらしいわよ。計算が合わないのは何でかしらね。

身体が持たないのかしら」

「………」

 めぐの視線がうつむき、猫の喉を鳴らし始める。

「私の」

 はっとするジュン。

「私の身体も、きっとそう…」

 めぐの膝で、猫が寝がえりを打つ。

 それを見て、安心したように笑うめぐ。

「………」

 その眼には、猫の愛くるしい寝顔だけが映り込んでいた。





243: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 19:04:41.75 ID:rWUo/kw90




「意外だったわ」

 ベッドに座った水銀燈と、窓辺に寄り掛かった真紅。

先に口を開いたのは、真紅だった。

「結構、優しいとこあるじゃないの、水銀燈」

「ふん」

「あら、褒めてるのよ。それとも、けなして欲しいのかしら?」

「………」

 じろっと真紅を睨む。

「ここでアリスゲームしたって、私はいいのよぉ、真紅」

 立ち上がり、椅子に右足と右手を掛ける。

「嫌よ、どうしてこんな所で」

「…なら厭味ったらしく喋るくせ、いい加減やめなさぁい」

 ふん、と鼻を鳴らす水銀燈。

「分かったわ。もう少し、私ものんびりしていたいし」

 言いながら、窓の外に視線を移す。



246: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 19:17:52.18 ID:rWUo/kw90
「………」

 水銀燈は、少し考える。

 この様子では、本当に雪華綺晶は、真紅たちに干渉

していない。

 アリスゲームも、残り5体の段階から動いていない。

ローザミスティカの奪い合いがあったのであれば、姉妹全員が感覚で

分かるはずで、その辺りの話も出てきていない。



 否。

 奪い合いだけが、アリスゲームを進める手段だろうか?

そうとは限らない。雪華綺晶は別の手段で進めると明言している。

「………」

 ならば、確認はしておくべきだ。

「真紅」

「…何?」

 真紅がこちらを向いた。





259: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 20:45:01.12 ID:rWUo/kw90


「一つ訊いておきたいのだけど」

「…何かしら?」

 言葉は選ばなければならない。

「最近…」

「?」

「何か、変わった事なかった?」

 少し首を傾げる水銀燈。釣られて真紅も首を傾ける。

「何?どういう事?」

 眉をひそめる真紅。

「何もない?」

「………」

 答えない。代わりに、水銀燈の顔をじっと見ている。

「何もないなら、いいのよぉ、別に」

「…私にはないけど、どうしてそんな質問をするの?」

「いいえ。何でもないわ」

 視線を逸らす水銀燈。



261: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 20:52:06.52 ID:rWUo/kw90
「こっちを向きなさい。水銀燈。貴女が私に質問するなんて、

珍しいじゃない。どういう風の吹き回しかしら」

「………」

 こういう言い方をすれば、大抵喧嘩になる。だが、今日の水銀燈は

逃げるように視線を逸らしているだけであった。

 真紅は一歩踏み込んでみる事にする。

「…そういう質問をするのは、最近貴女に変わった事があったからじゃないの。違う?」

 ぐっ、と水銀燈は唾を飲み込む。

「答えなさい。貴女には答える義務がある」

「………」

 水銀燈は立ち上がり、背中を向けてしまう。

 真紅はそれでピンと来た。

「……白薔薇ね」

 水銀燈の目が見開かれる。

「分かるわよ。その反応からして」







264: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 20:56:31.10 ID:rWUo/kw90




 時計の針が、コッチ、コッチ、と時を刻む。

「…そういう取引をしたわ」

「なるほどね」

 真紅の反応は、意外と淡々としたものだった。

「怒らないのねぇ」

「相手は白薔薇よ。私だって、対峙した時は、きっと誤魔化して、

全員で作戦練る選択肢を採るわ」

「……雪華綺晶」

「…え?」

「第7ドールの、名前よぉ」

「……」

 ぼふっとベッドに座る水銀燈。

 何か考え事をしているようだ。

「変わった事…」

「……」

「昨日から翠星石が帰ってこないわね、そういえば」



267: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 21:03:11.70 ID:rWUo/kw90
 顎に手を当て、一点を見つめる真紅。

「翠星石が?」

「まだ雪華綺晶の仕業と断定は出来ない。蒼星石の所に

行っているだけかもしれない」

「………」

「でも、対策は練っておきたいわ。ここにいない金糸雀だって、

何かされているかもしれない。連絡を取らなきゃね」

「…真紅」

 水銀燈が呟いた。





268: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 21:06:42.13 ID:rWUo/kw90
「あの二人は…?」

 窓の外、中庭を見やる。摺りガラスとはいえ、何を指しているのか

くらいは、真紅にも理解出来る。

「…マスターたちも、ここから先、否応なしにゲームに

巻き込まれていくわ」

「……」

「眠らせて力を奪うのが目的であれば、必ず雪華綺晶は

接触してくる」

「…私、出来たら、今のあの子は、巻き込みたくないのよぉ」

 ベッドに手を置く水銀燈。

「無理よ、どう考えても。取引したんでしょう」

「………」

「雪華綺晶の手が伸びる前に、私たちで防衛線を張る事は

出来るかもしれないけど」

「………」

 水銀燈は、何も言わなかった。



270: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 21:11:49.06 ID:rWUo/kw90




「あら、めぐちゃん」

 めぐの病室の前。

「あ、こんにちは」

 ジュンが頭を下げる。大きなカートを押す手を止め、佐原が

驚いたようにこちらを見つめている。

「珍しいわね、散歩?」

「ええ」

 にこりと笑い、カートに乗せてある食事を見る。

「美味しそうね、この煮魚」

「え」

「これおひたしかしら」

「………」

「ジュン君ごめんなさい、ドアだけ開けてもらってもいい?」

 ひょいと自分の食器を取り、ドアの前に立つめぐ。

「うん」

 ドアを開けると、めぐはさっさと中に入ってしまった。



271: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 21:16:05.42 ID:rWUo/kw90
「………」

「どうしたんですか」

 放心状態の佐原に、ジュンが尋ねる。

「い、いいえ……珍しいな、と思って」

「?」

「ああ、ごめんなさい、何でもないわ」

 我に返り、隣の病室の前へ向かう。

「あ、ねえ」

 部屋に入ろうとしたジュンを、思い出したように呼び止める。

「はい?」

「大事にしてあげてね。優しい子だから」

 そう言ってほほ笑む佐原。

「はあ」

「ジュン君、何してるの?」

 中から声を掛けられ、ジュンは部屋へと入った。



272: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 21:20:07.25 ID:rWUo/kw90


「じゃあ、そろそろ帰るよ」

「ええ、ありがとう」

 空っぽになった食器を下げ終え、ジュンは立ち上がる。

「………」

 水銀燈がめぐを見つめている。

「真紅」

 抱っこされた真紅が振り返る。

「…これで、私が持っている情報は全て伝えたつもりよぉ」

 ふう、と息をつく水銀燈。

「分かったわ。金糸雀と翠星石にも伝えとくわ」

「ええ」

 ジュンが訝しげな顔をする。

「なんだ?」

「何でもないわ」

「ええ、こちらの話よぉ」

 真紅と水銀燈がそれぞれ答える。

「……ふうん」



274: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/16(水) 21:22:34.12 ID:rWUo/kw90
 二人が出て行き、バタンと閉まったドアを見やる水銀燈。





 嘘である。

 水銀燈は、一つだけ伝えなかった事がある。

「………」

 雪華綺晶が一瞬だけ、目を泳がせた時のやり取り。

 いざという時の切り札。目的を達成するための。

「(悪いけど、貴女には壊れてもらうわぁ。ごめんなさいねぇ、真紅…)」

 心の中で、水銀燈は呟いた。







401: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/17(木) 17:37:42.06 ID:8cHvSUei0




 コンコン。



 コンコン。



 コンコン。



 真っ暗な部屋の中。盛り上がっているベッド。

 黒髪の女性が、静かに眠っている。



 ドンドン。



 ドンドン。



 ドンドン。



 窓を叩く音が、少し大きくなる。

「みっちゃあーん」

 金糸雀が、困り果てた顔で何度も窓を叩いている。

 既に空には星が瞬き、金糸雀は30分以上も窓際で粘っていた。


403: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/17(木) 17:43:56.82 ID:8cHvSUei0


「はあ……」

 一向に起きる気配がない。

「仕事で疲れてるのかしら……」

 言いながら、自分も疲れ果ててしまっている。

「…お腹減ったわ…」

 バルコニーにへたり込み、膝を抱えてうずくまる金糸雀。

「うう…」

 ふと、脇にいたピチカートが何かに反応する。

 キィン、と光りながら、手すりの向こうへ消える。

「あら、ちょっとどこ行くのピチカートー」

 後を追おうとして、手すりの向こうを見る。

「あっ?」

 ピチカートの向こう。赤い光がこちらに近づいてくる。

「あれは……」

 ホーリエだ、と分かった。



405: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/17(木) 17:50:34.47 ID:8cHvSUei0
「…………」

 桜田家のリビング。のりとジュンは、既に2階へ上がっている。

「そういう事よ、金糸雀」

 二人掛けのソファに座る真紅。

 その向かい、一人掛けのソファに座っているのは、金糸雀。

「………」

 全てを話し終えた真紅に対し、金糸雀はあまり事情を飲み込めていない様子だった。

「雪華綺晶…」

「そう、雛苺の身体を奪った末の妹の名前。彼女は、水銀燈と取引をした」

「……そんな、私たちのローザミスティカを…」

 胸を押さえる。

「翠星石がいなくなった。もうそろそろゼンマイを巻かないといけないのに」

「え」

「おそらく…」

「で、でも、ローザミスティカの奪い合いとかは」

「ええ、翠星石はローザミスティカを奪われたわけじゃないのよ、多分」

「そ、それなら……」

 ぐうぅ~、とお腹が鳴った。

「う…」

「あら」

 拍子抜けした声を出す真紅。



407: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/17(木) 17:56:14.77 ID:8cHvSUei0
「何も食べてないの?もう8時半なのに」

「みっちゃんが起きないのよ。何回窓叩いても」

 真紅の眉がぴくっと動く。

「だから部屋に入れなくて、困ってるのかしら」

 がたっと音を立て、立ち上がる真紅。

「いつから?それは」

「え、一時間くらい前よ」

「マスターが起きない……起きない……」

 何か、心の中に引っ掛かっている。何か。

「………」

 腕組みをしていた真紅が、顔を上げる。

「金糸雀」

「なぁに、真紅」

「今日は泊まっていきなさい。翠星石の件もあるし、もし雪華綺晶が

仕掛けてきても、2人でジュンの傍にいれば、まだ何とかなるでしょう」

「……ええ…それは別にいいけど…」



408: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/17(木) 17:58:40.59 ID:8cHvSUei0
 真紅は目を伏せ、時系列を整理する。



 水銀燈と雪華綺晶の接触が3日前。



 翠星石が消えたのは昨日。



 そして今日、金糸雀のマスターに異変(まだ異変とは呼べないかもしれないが)があった。



 ローザミスティカの動きはない。



 ……何かが抜けている。



 そうだ、めぐは今日の昼、何と言った?

「病院に運ばれてきた、決して起きないフランス人の女の子」





411: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/17(木) 18:05:47.69 ID:8cHvSUei0
「金糸雀」

 立ち上がろうとした金糸雀が動きを止める。

「何かしら…?」

「明日、一緒に来てほしい場所があるの」

「明日…?」

 いや、それでは遅い。おそらく。

「いえ、今からよ。時間がないわ」

「い、今から??」

 返事を聞き終える前に、真紅はすたすたとリビングを出て、2階に上がっていった。

「ちょ、ちょっと待ってかしらー」

 金糸雀は慌てて後を追った。



413: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/17(木) 18:10:21.31 ID:8cHvSUei0


 真っ暗な薔薇の庭園。

 その中にそびえる屋敷。

 部屋の照明が点きっぱなしだった事が、2体のドールには幸いだった。

「やはり」

 割れた窓から侵入した真紅。

 ベッドで寝ている結菱一葉は、何度も揺するが、起きなかった。

「蒼星石、いないわよー」

 空っぽの鞄を確認する金糸雀。

「予想通りね………」

「へ??」

 部屋の隅、日めくりカレンダーを見た真紅。

 日付は一昨日。つまり、2日前で止まっている。

「金糸雀、よく聞いて頂戴」

「何よ?」

「先に言っておくわ。雪華綺晶はおそらく明日、仕掛けてくる」

「え」

「………」

「ど、どういう事かしら、真紅」

「説明はしないわ。ただの憶測だし」

 困惑する金糸雀を無視し、再び考え込む。

「………」



415: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/17(木) 18:14:05.56 ID:8cHvSUei0




  結菱一葉は、おそらく2日前に眠らされた。カレンダーが

 そこで止まっている事を考慮し、そう仮説を立てるならば、

 雪華綺晶と水銀燈の接触の次の日から、

 2日目に一葉、3日目に翠星石、そして今日は草笛みつ、と、

 一日毎に一人、異変が起きていると推測出来る。



  病院に搬送されたフランス人の女の子が、仮にオディールだとして、

 彼女は誰のマスターになる。あの指輪は。

  食われる前、雛苺は契約したか分からないと言った。雛苺のマスターでないと

 したら、余っているのは、残り1体しかいない。



  とすると、オディールは利用された。雪華綺晶と契約を「させられた」。

 そして眠らされた。そう考えれば、辻褄は合う。





418: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/17(木) 18:19:46.37 ID:8cHvSUei0


  もう翠星石もネジが切れている頃だ。雪華綺晶に捕えられたと

 推測するのが自然である。

 

  では、どうして一気に仕掛けてこないのか。

  否、仕掛けられないのか?



  雪華綺晶が時間を掛けているのは、ローザミスティカを水銀燈に与えたために、

 続けて仕掛ける体力がないからではないか。

  こちらがこうして動くのを承知で、徒に時間を掛けているとは

 考えられない。

  つまり、次に動くとしたら、明日。



  残るは水銀燈、金糸雀、真紅、めぐ、ジュン。

 水銀燈との取引を考えるなら、めぐと水銀燈は最後。





420: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/17(木) 18:24:25.10 ID:8cHvSUei0


  明日は残る3人のうちの誰か。

  みつが眠らされた事を考えると、

 マスターを先に眠らせ、力の供給が断たれた所を

 攻めてくるかもしれない。

 だとすると、次はジュンが眠らされる番だろうか?





  だが、疑問も残る。

  どうして翠星石のローザミスティカを奪っていないのか。

 蒼星石の身体はどこへ行ってしまったのか。





421: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/17(木) 18:27:32.44 ID:8cHvSUei0






「ちょっと真紅」

 名前を呼ばれ、我に返る。

「カナを振りまわしてどういうつもり?キチンと説明しなさいよ」

「ええ…ああ」

 真紅は時計を確認する。21時過ぎ。

「………」

 賭けに出るべきだろうか。いや、出ないといけない。

「金糸雀、私の考えを説明するわ」

 真紅が金糸雀を見据え、喋り始めた。





423: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/17(木) 18:32:31.23 ID:8cHvSUei0


「みっちゃんが眠らされてる…?」

 半ば信じられない、といった様子で、立ち尽くしている。

「あくまでも推測よ。でも、そう考えておいて、間違いはないと思うの」

 少しうつむく真紅。

「………」

 首をかしげている金糸雀。視線が何かを求めるように虚空をさ迷っている。

「この蒼星石のマスターも、同じように起きない。考えられるとしたら、みっちゃんさんも…」

「カ…カナは…」

 真紅が顔を上げる。

「嘘よ。冗談はよしてほしいかしら。今朝はちゃんと起きてたのよ。

カナはちゃんと今日、お話したのよ…」

 一歩後ずさる。

「かな……」

「嘘よ!信じないかしら!!絶対、絶対、そんな事……」

 膝をつき、胸を押さえてカタカタ震える金糸雀。

真紅は、ただ黙ってうつむいている事しか出来なかった。





425: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/17(木) 18:37:24.97 ID:8cHvSUei0




カチ、カチ、という音。



「……」

 9時半を過ぎ、部屋でジュンがパソコンを見ている。

 カララ、と窓が開いて、鞄に乗った真紅と金糸雀が部屋に入ってきた。

「どこ行ってたんだ?」

 画面から視線を動かさず尋ねるジュン。

「ちょっとね」

「そか」

 ちらっと、横の金糸雀を見やる真紅。

「ね、ねえジュン、今日、金糸雀が泊まっていきたいらしいんだけど、いいかしら」

 少しどもりながら言う。

「ん…別にいいけど」

「そ、そう、ありがとう」

「………」

 黙り込む真紅。

 ジュンにも、全てを説明しないといけない。

たとえ巻き込む事になったとしても。



427: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/17(木) 18:41:58.71 ID:8cHvSUei0


 カタカタカタ、とキーボードを打ちこむジュン。

「何をしているの?」

「ん、ちょっとな」

「………」

 真紅は視線を伏せ、ベッドに座り込む。ジュンは相変わらず、パソコンに

向かってマウスを動かしたり、キーボードを叩く作業を繰り返している。

 いつもは、頬づえをついて下らないサイトを見たり、勉強している頃だが、

今日は何か調べ物をしているようだった。

「……ねえ」

「なあ、真紅」

 同時に言葉を発する二人。

「あ、ごめん、何?」

 椅子をキッと回し、こちらに向くジュン。

「いいわよ、貴方から言って頂戴。私は長くなるから」

「ああ。そか、悪いな」

「……」



428: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/17(木) 18:46:33.02 ID:8cHvSUei0
「あのさ、水銀燈のマスターの事なんだけど」

「…ええ、何かしら」

「明日も行こうと思うんだ」

「そう」

 ジュンはこめかみをポリポリとかき、ふう、と息を整える。

「なんか、元気にしてやれる方法ないかな」

「?」

「今日話してみてさ、何か淋しそうだったっていうか…」

「あら…」

 真紅が目を丸くする。

「何か僕に出来る事があれば、してあげられたらな、とか」

「好きになったの?」

「はっ!?」

 ガタッと立ち上がるジュン。

 その反応を見て、真紅は思わずぷっと吹き出した。

「ふふ、まんざらでもないみたいね、ジュン」

「な、何言ってんだ、違うぞ、僕は」

「冗談に決まってるじゃない、何気分出してるの」

「………」

 ジュンは顔を赤くし、椅子に座り直す。それをじっと

見つめる真紅。


429: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/17(木) 19:06:03.83 ID:8cHvSUei0
 ふと、画面に映し出されているものが、真紅の視界に入る。

「…あの子、ジュンが学校に行ってない事、見抜いてたわよ」

「えっ…」

「色々訊かれたわ。どうして行ってないのか、とか」

「……」

「行ってほしいかどうか、とか。割とお行儀がなってない子ね」

「僕の事を?」

「ええ。何か、自分に近いものでも感じたんじゃないかしら」

「………そ、そっか」

 パソコンに向き直る。

 会話が止まった。

 ジュンはそれから頭をかいたり、天井を仰いだりして、落ち着かない。

「……」

 真紅は数分間、それをじっと観察していた。


430: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/17(木) 19:15:29.91 ID:8cHvSUei0
「…あれ、そう言えば真紅」

「何?」

「お前、何か言おうとしてなかったっけ」

「いいのよ、やっぱり何でもないわ」

 真紅はジュンと視線を合わさず、一階に下りていった。

「あっ、ちょっと真紅」

 追う金糸雀。

 二人が出て行ってしまった後で、ジュンはパソコンに向き直った。

画面には、『心臓病Q&A』という項目が映し出されている。

「めぐさん…か…」

 ぼんやりと呟いた。





432: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/17(木) 19:21:40.82 ID:8cHvSUei0


「じゃあ、ホーリエ、ベリーベル。お願いね」

 二つの光が鏡に消える。

「どうするの?」

「雪華綺晶を探してもらうのよ」

 鏡に手を当てたまま答える真紅。

「……ジュン君には言わないの?」

「ええ…」

「どうして?」

 真紅が振り返る。

「さっきは言おうとしたわ。でも」

「…?」

「パソコンに映っているものを見て、私は言うのをやめた」

「何が映ってたの」

「………」

「…」

「それは言えないわ。ただ、こちらから巻き込むような事は、今のあの子に対して

したくないの」



434: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/17(木) 19:28:57.70 ID:8cHvSUei0
「…でも」

 真紅はその言葉を言い終え、深呼吸をして、

自分の胸に手を置く。



 そうか、と思った。

 水銀燈は同じ事を言おうとしたのだ。

あれだけ自分が嫌っていた姉は、今日、自分と

同じ事を考えていたのだ。



「…金糸雀」

 第2ドールは、呆けたような眼で見つめている。

「みっちゃんは、きっとまた起きてくれるわ。『おはよう』って、

帰ってきた貴女に対して」

「……ええ」

 少しうつむく金糸雀。廊下の明かりが逆光になり、その表情は

暗くて見えない。

「だから、私たちは、そうなるように、頑張りましょう」

 自分の胸を押さえながら、真紅は絞り出すように言った。



435: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/17(木) 19:33:03.10 ID:8cHvSUei0




 明くる日の早朝。



「じゃあ、僕行ってくるから。お前は行かないのか?」

 ジュンが振り返って尋ねる。

「ええ、ちょっと用事があるのよ。めぐによろしくね」

 にこっと笑い、手を振る真紅。



 見送りが終わり、一息ついた頃だった。

 物置から、ヒューンとベリーベル、ホーリエが現れた。

「見つけたのね」

 真紅は金糸雀に促し、物置へと向かう。



「ベリーベル、あなたは水銀燈の所へ」

 ピンク色の光が窓から出ていくのを見届け、

真紅と金糸雀、ホーリエ、そしてピチカートが鏡の中に

飛び込んだ。





437: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/17(木) 19:37:24.00 ID:8cHvSUei0


 nのフィールドを一直線に飛び続ける二人。

その二人を先導するホーリエ。

「…」

 真紅は胸元を押さえ、目を閉じる。



 とうとう、ジュンには何も言わずにきてしまった。

言えば良かったのかもしれない、と少しは感じている。マスターがいれば

心強いし、何よりこちらも力を受けられる。

「……」

 どうして何も言わなかったのか、自分でもよく分からない。

「ジュン…」

 



438: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/17(木) 19:42:20.63 ID:8cHvSUei0
 

 進むにつれ、白い霧が出てきた。

 真紅はホーリエに減速するように促すが、それでも見失いそうになる。

「か、金糸雀…」

 すぐ隣で並んで飛んでいるはずの金糸雀に声を掛ける。

「大丈夫よ、こっちは」

 声はするものの、姿が見えない。

「……!!」



 自分の腕の先が見えなくなってきた。もはやホーリエは見えず、ふと前後左右、どこに

進んでいるのか分からなくなってきた。

「金糸雀!!」

 声を上げる真紅。

 返事が聞こえない。

「金糸雀!!返事しなさい!!ホーリエ!!」

 思わず、真紅は立ち止まろうとする。





440: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/17(木) 19:47:02.99 ID:8cHvSUei0


 次の瞬間、何かが足に引っ掛かる感覚が起き、真紅は勢いで前方に

すっ転んだ。

「きゃあっ!」

 違う。転んだという表現がおかしい。

 転ぶには地面が必要なはずで。

間髪入れず、しゅるるっと右足に何かが絡みついてくる。

「あっ」

 それは瞬く間に真紅の身体を縛り上げ、ずずず、と引っ張った。

「こ、これは」

 白いイバラ。

「おはようございます、紅薔薇のお姉様」

 そのイバラの先。振り向いた真紅の目に映ったのは、

嬉しそうに笑う雪華綺晶だった。





442: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/17(木) 19:51:32.11 ID:8cHvSUei0


 波が引くように、白い霧がさあっと晴れていく。

「まさかそちらから来ていただけるとは」

「黙りなさい白薔薇、いいえ雪華綺晶」

 睨む真紅。

「名前で呼んでいただけて光栄です」

「……」

 よく見ると、自分がクモの巣にかかっているのだ、と分かる。

違う。

 クモの巣状に張られたイバラ。

「あっ」

 真紅は目を見開いた。

 倒れた自分の背後に座る、雪華綺晶。両の手から伸びるイバラ。

右手から伸びるイバラは自分を縛っていて、もう片方の手から伸びる

イバラが、金糸雀を縛っている。

「金糸雀!!」

「無駄ですわ」



445: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/17(木) 19:55:16.36 ID:8cHvSUei0
 金糸雀は顔を上げようとせず、ぐったりと身体を横たえていた。

「ローザミスティカを奪ったの」

「さあ、教える義理はありませんわ」

 にっ、と笑う雪華綺晶。その背後に、4つの白い水晶が並んでいる。

「……!!」

 ぞくっと身体に走るものがあった。

 それぞれの中に、一つずつ見える人影。



 一人でぬいぐるみと遊んでいるオディール。



 お茶を飲んでいる一葉。



 ベッドで寝ているみつ。



 そして、いなくなっていた蒼星石と共に倒れている、翠星石。





「貴女がやったのね」

「ふふ」

 答える代わりに、微笑を浮かべる。



446: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/17(木) 20:00:27.38 ID:8cHvSUei0
「答えなさい。翠星石のローザミスティカをどうしたの」

「お姉様」

 左手に抱えている金糸雀を離し、かしゃんと倒れる音がした。

 そのまま、雪華綺晶は真紅に近づいてくる。

「ぐっ……」

 引き千切ろうにも、全く身体が動かない。

「?」

 真紅はあるものに気づいた。

 視界の隅。白い水晶の後ろ、雪華綺晶から見えないところに、

黄色い光と、赤い光が見える。

「ホーリエ!!ピチカート!!」

 真紅が叫んだ。

 雪華綺晶が視線をきょろきょろさせる。

「うっ」

 キィン、とまばゆく光ったのはホーリエ。

雪華綺晶の目が眩む。


449: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/17(木) 20:05:16.60 ID:8cHvSUei0
 隙をついてピチカートが、引き離された金糸雀のイバラを千切り、クモの巣から

金糸雀は落下していった。

それを追い、闇に消えていくピチカート。

「く…」

 元の方角に消えていくホーリエ。

「そうよ、それでいいわ…」

 にっ、と笑う真紅。

「………」

 金糸雀たちが消えた方向を凝視していた雪華綺晶は、

やがて一息つき、もがいている真紅へと近寄っていく。

「別に構いませんわ。アリスになるのは、この私。もうすぐ…」

 真紅の顎を持つ。

「やめなさいこの…」

 歯を食いしばり、睨むのをやめない。

「だから…お姉様のローザミスティカ…もらいますね」

 どつっという音がして、真紅が目を見開く。





452: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/17(木) 20:07:59.66 ID:8cHvSUei0


 胸に走る、何か温かい感覚。

 ずずず、と、胸の一角が奥へ、奥へと押しやられているような音。

「…あ」

 真紅は震えながら、自分の胸を見やる。

白いイバラが数本、確かに自分の胸を貫いていた。

「ジュ…」

 かた、かた、と震えた後、真紅は目を見開いたまま、動かなくなった。

「……」

 真紅の身体が光り始め、そこから2つの宝石が出現する。

「おやすみなさい、紅薔薇のお姉様」

雪華綺晶は笑ったまま、愛おしそうに真紅の身体を撫で続けた。







 



534: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 00:11:33.39 ID:+uP5qurX0








「あら、おはようジュン君」

 病室のドアを開けると、窓辺で肘をついていためぐが

こちらを向いた。

「ああ、おはよう」

「今日も来てくれたのね。掛けて」

 椅子をぽんぽんと叩く。

 めぐはベッドには上がらず、窓の手すりに座り込んだ。

「どうしたの?」

「え」

「いや、元気だな、と思って…」

 めぐが変な顔をする。

「?ああ」

 自分がこうして立っている事だ、と気づく。



541: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 00:19:29.96 ID:+uP5qurX0
「朝は窓を開けると、涼しい風が入ってくるから」

 そう言って目を閉じる。

「…今日、水銀燈は?」

「水銀燈?いるわよ」

 窓の外、ちょうど右下に当たる部分に視線を落とし、

手招きするめぐ。

「…?」

 首をかしげるジュン。

 少し間をおいて、のっそりと黒い影が現れる。

「………」

「ほら、ジュン君よ」

 気だるげにこちらを見つめる水銀燈。

「……こんにちはぁ…」

 やる気が感じられない。まるで、毎朝低血圧で、一時間目だけ

眠る高校生のようだ。

「ああ、こんにちは」


543: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 00:26:23.25 ID:+uP5qurX0


 窓を閉め、エアコンをつける。

「テレビでも見ましょうか。暇でしょ?割とここって」

「え、いや」

「遠慮しなくていいのよ、私も遠慮するつもりないし」

 パチッと電源を入れる。



 ふと、水銀燈が何かに気づいたように窓を開けた。

「どうしたの、水銀燈」

 めぐが声を掛ける。

「何でもないわ」

 言いながら、カララ、と窓を開ける。

「………」

 ひょいと手すりを乗り越え。水銀燈はさっさと飛び立ってしまった。

「変な子ねえ」

 不思議そうに窓辺を見ているめぐ。

「……?」

 ジュンは首を傾げた。





546: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 00:33:13.77 ID:+uP5qurX0


「奪われた…」

 その感覚は水銀燈にも伝わってきた。

 ローザミスティカが2つ。

雪華綺晶が動いたのだ、と瞬時に理解する。

 誰が退場したのだろう。

真紅か、金糸雀か、翠星石か。

それとも、雛苺のローザミスティカを持っている誰かが倒れたのか。

 いずれにせよ、奪ったのが雪華綺晶なら、彼女はそのうちここに来る。



「………」

 めぐを渡すわけにはいかない。それは大前提である。

手段は考えてある。雪華綺晶を封じ込める手立て。

「……いいわ、いつでも来なさい」

 水銀燈は空を見上げ、ふうーっと大きく息を吐いた。

 



549: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 00:38:42.35 ID:+uP5qurX0
 

 テレビではワイドショーをやっている。

「…」

 ベッドの上。

 めぐが頬づえをつき、ぼんやりと眺めている。

それをチラチラ見るジュン。テレビの内容など頭に入っていない。

面白いのだろうか。

「つまらないわね」

 めぐが口を開く。

「そう思わない?ジュン君」

 そう言ってこちらを向いた。

「…うーん、あんまり面白くは…」

「でしょお?」

 呆れたようにははは、と笑う。



552: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 00:45:31.51 ID:+uP5qurX0


「私こんなのどうでもいいのよ。こんな病室にいたってつまんないし」

 テレビの中で、何かメガネをかけた男性が喋っている。

それにふん、ふんと相槌を打つ女性。キャスターのようだ。

「貴方と散歩がしたい」

タオルケットをまくり、あぐらをかくめぐ。

「えっ?」

 ジュンは口をあんぐり開けた。

「駄目かしら。こうして手を繋いで…」

 近寄ってきて、ジュンの両手を包みこむめぐ。

「あわっ、ちょ、ちょっと」

 思わず手を引っ込める。

「あら、驚いた?別にいいじゃない、手を繋ぐくらい」

 きょとんとしている。

「そ、そうなの?」

「そうよ、それとも何か期待したのかしら」

 膝をベッドから降ろし、ぐっと近づくめぐ。吐息が

ジュンの頬にかかる。



555: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 00:49:33.28 ID:+uP5qurX0
「い、いや、あの…」

「ウブなのねぇ」

 くすくすと笑う。

 一通り笑った後、めぐはベッドに上がり、タオルケットを

ぐしゃぐしゃと丸め始めた。

「たとえば、貴方は週に2回、この病院の316号室までお見舞いに

来てくれるの」

「え」

「何持ってきてくれるのかしら。私、イチゴとか好きよ、この時期なら」

 構わず続けるめぐ。

「でもお菓子は駄目よ。ケーキとか煎餅とか。私は病人だし、

塩分と糖分は、控え目にしなきゃね」

 手を止める。

「そうしてね…っ」

 口を押さえるめぐ。

 瞬間、ごほっ、ごほっ、と何度も咳込み始める。



559: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 00:51:58.84 ID:+uP5qurX0
「うっ、げほっ、げほっ」

 前のめりになり、ベッドに突っ伏す。

「め、めぐさん」

 ガタッと立ち上がるジュン。

「大丈夫よ、ええ、大丈夫」

 口元を押さえたまま、けほ、けほ、と小さく咳込む。

収まってきたようだ。

「…朝の涼しい…そうね、今みたいな時間帯に、

貴方が私と一緒に中庭を歩いてくれている」

 ティッシュで口を拭くめぐ。

「それを水銀燈が見守りながら、飛んでるの」

 枕の脇に、丸めた紙を置く。

「ちょっとぶすくれてる水銀燈に、『ごめんなさいね、もう少ししたら

歌ってあげるから』って私が声をかけるとね、あの子は口を尖らせて」

「……」



561: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 00:54:40.24 ID:+uP5qurX0
「『何言ってんのよ、勝手になさい』とかって吐き捨てるのよ」

 ふふ、と笑うめぐ。ジュンは心配そうに見つめている。

「歩き疲れたら、中庭のベンチに座って、私は疲れて眠っちゃうの」

 顔を上げ、ジュンの目を見つめる。

「その時は、肩くらいは貸して頂戴ね。ジュン君?」

「………」

「…………」

 二人の会話が止まる。ジュンがもう少し慣れた回答をしていたら、

この後の展開は、また違っていたかもしれない。





571: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 01:03:05.54 ID:+uP5qurX0


 めぐの顔色が変わったのは、テレビから「心臓」という言葉が聞こえた時だった。

気づいたジュンがテレビを見ると、

大きく『心臓移植について』というテロップが、画面に映し出されていた。

「………」

 めぐが胸を押さえた。

「ねえ、ジュン君」

 めぐの瞳は、テレビではなく、窓を見ている。

「どうして、心臓移植を外国でする事が多いか知ってる?」

 ジュンが首をかしげる。

「?」

「日本で待ってても、ドナーが現れない可能性が高いからなの」

「………」

 それは何となくわかる気がする。

「日本はね、15歳以下の子からの臓器提供が認められていないの」



576: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 01:10:20.53 ID:+uP5qurX0
「15歳?」

「そうよ。心臓は全身を受け持つポンプだから、同じくらいの年齢の、

同じくらいの機能の心臓じゃなきゃダメなの」

「ポンプ…」

 イメージがつかみにくいが、理屈は分かる。

「だから、15歳から19歳くらいまでで、脳死判定を受けた人」

「脳死……脳だけ駄目になるっていう」

「そう。そして、家族の承諾も必要。極端な話、

『二度と目覚めない植物状態から、心臓を抜き取って、生命活動が停止しても

構いません』っていう許しを得なきゃいけない」

「……それって」

「許しをもらっても、心臓が患者に適合するか、調べないといけない」

 そこまで言うと、めぐは両手を組み、うつむいた。

「数が少なすぎるのよ。それだけじゃない…」

「……」

「お金もかかる。日本でやるならおよそ2000万弱。分かるかしら、このお金」

 手遊びを始める。



579: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 01:18:19.60 ID:+uP5qurX0
「テレビで見た事あるのよ。ちょうどこんなワイドショーでね。

 子どもを殺された親がいて、殺した犯人に、裁判で4000万くらいの請求してたのよ」

「4000万…」

「私それ見てショックだったわ」

 両肘を抱えるめぐ。

「人の命って、お金に換えられるんだって。親が決めたのかしら。4000万って。

それとも、弁護士から、『大体相場はコレくらいの額なんです』って言われたのかしら」

「……」

「私には分からない。でも、親は少なくともその額を受け入れてしまった。

納得してしまったんだって」

「……」

 ジュンは何も言えず、ただ聞いているしか出来ない。





581: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 01:24:09.66 ID:+uP5qurX0


「同じよね。私が生きるには、少なくとも誰かが一人死ななきゃならない」

「………」

「私今から馬鹿な話するから、嫌だったら部屋から出てっていいわよ」

 めぐはベッドにぼふっと倒れ、天井を見つめる。

「私の病気が治るには、数千万のお金をはたいて、どこかの誰かに

『ごめんなさい死んで下さい』って死んでもらわないといけない」

「……」

「きっと、パパは私のためなんかに数千万も払いたくないって思ってるわ」

「……」

「こうしてお金に直すとね、分かるのよ。自分の価値が。

そして、生きようとする事がどれだけ難しいか」

 目を閉じる。

「仮に移植したとしても、5人に1人は5年以内に死んでるのよ。

長生きなんて……」

「そんな……」

 思わずジュンは反応する。



585: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 01:28:02.11 ID:+uP5qurX0
「も、もっと楽しい事、考えようよ、ほら」

「…楽しい事?」

 めぐが首をこちらに向ける。

「水銀燈もいるじゃないか。い、今は外に行ってるけど」

「楽しい事って何?」

 めぐの声が淡々としている。

「………」

「ジュン君、教えて。私にとっての楽しい事って何?」

 半身を起こすめぐ。

「え」

 ジュンは思わず口をつぐんだ。

「どうしたの?教えて。私何をどう楽しめばいいの?」

 目が笑っていない。

「…答えられないのね。どうしたの。反射的に口をついて出た言葉?

病気持ちでもないのに、綺麗事抜かすのはやめてくれない?」

 はは、と呆れたように笑うめぐ。

「ジュン君ごめんなさい、帰ってもらえる?」

 冷たく張りつめた声。ジュンの全身が震えるには、十分な言葉だった。





588: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 01:32:07.19 ID:+uP5qurX0


 何か世界がぐらぐらと揺れている。椅子に座っている感覚も、病院の床の

冷たさも、両の膝に乗せている拳も、全ての感覚が引いていく。

「あ、う」

 怒らせた、と直感で分かっていた。

だが次にどうすればいいか、ジュンには分からない。立ち上がればいいのか、

謝ればいいのか。

 何をしてもこの冷たい感覚は拭えない。変わらない。



 どかっとお腹を殴られたような感覚が襲った。

「うっぷ」

 思わずお腹を押さえ、ごほ、ごほ、と咳込むジュン。

「帰って!!」

 本を投げられたのだ、と分かった。

バサッと、もう一冊本が飛んできて、今度はジュンの顔面に当たった。





593: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 01:37:31.77 ID:+uP5qurX0


 ああ、またか、と水銀燈は思っていた。そして、やっぱりか、とも考えた。

窓越しに見えるその光景は、予想していた通りのものだった。

「はあ」

 ジュンが何か地雷を踏んだのだろう。手当たり次第にジュンに投げつけている

めぐは、看護士とのやり取りを見ている水銀燈には

さして驚くような事ではなかった。

「………」

 病室の外から移動し、中庭の木の枝に座る水銀燈。



 めぐはいつもそうだった。こうやって、与えてくれる人に地雷を教える事もせず、

ただ遠ざけている。

 せっかくの、という言い方がしっくりくる。せっかくの出会いは、こうして

彼女自身が切り離してしまう。

 めぐは諦めている。だから、自分に都合の良い「物」しか受け入れない。

自分に対してもそうだ。自分を死なせてくれる存在が現れた。白馬の王子様のように、

現実から逃がしてくれる存在が現れた。

 それだけなのだ。めぐは対話など望んでいない。

「………」


598: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 01:42:56.57 ID:+uP5qurX0


 自分たち薔薇乙女はどうだろう、と、水銀燈はふと思った。

自分たちを作ってくれたお父様は、アリスを求めている。7分の1でしかない

自分を、愛してくれているのだろうか。

 腕が飛び、ネジが止まり、胸を貫かれ、奪い合い、敗者は動かなくなる。

動かなくなった6体の人形はガラクタ置場に打ち捨てられ、残りの1体はお父様と

幸せに過ごせるのだろうか。



 変わらない。自分たちは愛されているわけではない。

お父様の都合の良いようにしか扱われない自分たちもまた、「物」でしかない。

 

 真紅がジュンに向けている感情は、一体何だろうか。放っておけない弟を

見るような、ただし、真紅自身も、ジュンに依存しているような関係。

 翠星石が、蒼星石に向ける感情も、相互依存に近かったような気がする。



600: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 01:46:13.26 ID:+uP5qurX0
「………」

 長い時を生きてきた中で、7体それぞれ、経験してきた事は違う。

薔薇乙女としての宿命を捨て、互いを大事にしよう、というような。



 違う。そんな事、考えるような事ではない。

アリスゲームは進んでいる。残っているのは4体か、3体か。

「………」

 ふと、何か光る物体が飛んできているのに気がついた。

「あら?」

 目を凝らすと、それがピンク色なのが分かる。

「ベリーベル…?」

 それは水銀燈の目の前まで来ると、何度もチカチカと光り続けた。





605: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 01:52:57.90 ID:+uP5qurX0
「………」

 病室を追い出されたジュンは、廊下を虚ろな表情で歩いていた。

ふらふらしながら、壁づたいに入口を目指している。





  『あの子は自分が見捨てられた存在であると分かってしまった』



  『鬱屈した、どろどろになってしまった、とても醜い自分をぶつける相手が欲しかったの』



  『救ってもらいたいなんて、思っていない』



  『だから誰にも相談しない。頼らないし、聞き入れない』



  『その内分かるわ。貴方はたまたま見つけた、相性のいいオモチャと変わらないってね』





 水銀燈の言葉が、何度も頭の中でフラッシュバックする。

めぐの、あの冷たい瞳を見た時、まるで凍りついた断崖を目の前にしているかのような

錯覚に陥った。

 昔アルバムか何かで見た、ヒマラヤの、雪と氷の断崖絶壁。

自分ではどうにも出来ない、向こうの見えない壁。



607: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 01:57:08.41 ID:+uP5qurX0
「………」

 自分はちっぽけだ、とジュンは思った。めぐは単純に、感情の問題だけで

生きる事を諦めているのではない。

 数字的な根拠が出てしまえば、人はどうしたって現実を思い知る。



『裁縫やイラスト、ちょっと女性的な趣味を全校生徒の前で晒されたので、

学校に行きたくないです』というのとは、次元が違う、諦め。

「ふう…」

 ジュンは天井を仰ぎ、ため息をつく。。

「……桜田…君…?」

 ふと、自分を呼ぶ声がした。





608: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 02:02:10.18 ID:+uP5qurX0
「え」

 ジュンは声の聞こえた方向を見る。

 栗毛のセミロングにセーラー服。

「桜田君…だよね」

 一瞬よく分からなかった。

「あ」

 次の瞬間、ジュンの全身に震えが走る。

「久し振りね、去年の10月以来かな」

 ぞわわ、と鳥肌が立つ。忌わしい記憶。

「分からない?同じクラスの桑田」

 分かる、桑田由奈だ。

 紛れもない。

 何故?

 どうして彼女がここにいる?

 病院に何をしに?

「ねえ……」

 その先、ジュンは何をしたか、憶えていない。



612: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 02:05:33.84 ID:+uP5qurX0


 土石流のような吐き気に襲われ、必死で口を押さえ、とにかく走った。

 頭の中が真っ白だった。

桑田由奈の言葉も、廊下でびっくりしてよける患者も、驚いたように見ていた

入口の車椅子の老人も、ジュンの頭には入って来なかった。





613: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 02:07:00.60 ID:+uP5qurX0


「そう、真紅と金糸雀が…」

 ベリーベルから、あらかたの事情を聴き終えた水銀燈は、頭の中を整理する。

金糸雀は1つ、真紅の中には、雛苺のローザミスティカ含め、2つ。

ローザミスティカは2つ、誰かに奪われた。

 つまり、3体目の退場は真紅、という事になる。

「…おバカさんねぇ…」

 ちくりと心が痛んだ。雪華綺晶を、現実世界に引きずり出せば、何とかなったかも

しれない。その情報を、自分は意図的に伏せたのだ。

「………」

 向こうから、誰かが走ってきている。

「あら…あれは」

 ジュンだった。様子がおかしい。

ふらふらと蛇行したかと思うと、彼は水銀燈のいる木から

3本ほど向こうのベンチの傍に倒れ込んだ。

「…?」

 水銀燈はゆっくりと近づいていく。





615: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 02:13:50.36 ID:+uP5qurX0


「ぉ………」

 胃の中から溶けるような逆流が起き、ジュンは涙を流す。

 びちゃ、びちゃ、と何度も吐く。

「ごほっ、げほっ」

 顔を上げる事が出来ない。

 立ち上がる事も、何故か身体が拒否している。

「…うぅ…うぅ…」

 吐瀉物を前に、ジュンは突っ伏している事しか出来なかった。

ジィィ~という蝉の鳴き声が、ジュンの世界に響き続ける。

 自分をまるで嘲笑っているかのように。



616: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 02:14:59.49 ID:+uP5qurX0
「どうしたのぉ?」

 甘ったるい声が、ジュンの耳に届いた。









 事情を断片的ながらも聞き出し、水銀燈はベンチに

体育座りをしていた。

 その傍らで横になったジュンは、つらそうな顔をして寝転んでいる。

「…」

 涙を流し終え、焦点の合わない虚ろな目。

今の水銀燈には、こうして横で体育座りをしている事しか出来なかった。

 雪華綺晶が来る。めぐを奪いに。

だが、今のジュンを放ってはおけない。



618: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 02:17:26.73 ID:+uP5qurX0


「ごめんな…」

 30分ほど経っただろうか。ジュンが口を開いた。

 水銀燈が横を見ると、幾分呼吸の落ち着いたジュンが、視線だけを

こちらに向けていた。

「もう少し寝てなさい。どうせ時間は…」

 いや、そんなに残されていない。

「………いいよ、もう。一人で帰れる…」

 身体を起こし、震えながらもジュンは腰を上げる。

「…そう、じゃあ家まで頑張んなさいな」

 真紅の事を言おうかとも思ったが、やめておいた。

いずれ分かる事とはいえ、今のジュンにそれは酷い仕打ちだ、と考えたのだ。







620: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 02:18:38.52 ID:+uP5qurX0


 遠ざかるジュンの姿を見て、水銀燈は胸の奥がちくちくと

痛いのを実感していた。

 これはアリスゲームだ。自分がとった行動は正しい。

マスターを守るため。そして、アリスになるための。

 

 白と灰色の混ざった入道雲が、空をだんだんと覆い始めている。

昼が近付いているはずなのに、足元が暗くなってきた気がする。

「………」

 自分の中のローザミスティカは3つ。

 今、雪華綺晶がどう動いているのか、分からない。

だが、めぐを守るためには、放ってはおけない。



 サアア、と風が吹き始めた。ゴゴゴ、という音は、入道雲の辺りから

聞こえる。白く純粋な、しかし確実に空を侵食していく大自然。

「…荒れそうねぇ」



 ぽつりと、水銀燈は呟いた。













675: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 13:22:28.84 ID:+uP5qurX0






「違う…」

 ガチャリ、バタン、ガチャリ、バタン、と繰り返される音。

「いない……」

 もう数十枚は開閉しただろうか。

 雪華綺晶は、nのフィールドの扉を、片っぱしから開けていた。

金糸雀の落ちて行った方向をすぐに追ったものの、

nのフィールド内で探索を続けるのは限界があった。



 水銀燈の所に向かう前に、どうしても金糸雀を捕まえておく

必要があった。より確実な方法を採るために。

「………」

 だが、この調子では、何日もかかってしまう。それは避けたかった。

見通しが立たないのであれば、先にしておくべき事がある。

 もうそろそろ、だ。

「いない、見つからない……」

 ガチャリ、バタン、ガチャリ、バタン、と無機質な音が響き続けた。





677: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 13:27:23.57 ID:+uP5qurX0


 ガララ、と窓を開ける水銀燈。

 部屋の中央、ベッドの上で、タオルケットが丸く盛り上がっている。

「めぐ…」

 声を掛けるも、反応がない。

「……」

 水銀燈は諦めて壁にもたれかかった。いつもの事だ。

めぐはヒステリーを起こした後、必ずこうして布団をかぶる。

 拗ねているのではない。

彼女の心は、この時後悔と自己嫌悪で埋め尽くされている。

幼稚な自分に、そこから動けない自分に対しての。



 そういう時、水銀燈はいつもこうして病室の中にいる。

一度声を掛け、反応があれば話を聞いてやる。

反応がなければ、ずっとそのまま傍にいる。

 いつの頃からか、水銀燈が決めた事だった。



680: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 13:33:08.17 ID:+uP5qurX0
「……」

 ぎしっ、と音を立てて、ベッドの上の、丸まった物体が

動いた。

「水銀燈…?」

 めぐが泣き腫らした目で、こちらを見つめている。焦点が

合ってない。

「少し寝てなさい。みっともないわ」

「…そうね、私…」

 めぐは体育座りをし、マントのようにタオルケットを羽織る。

「私馬鹿だわ」

 憔悴しきった顔を、膝にこすりつける。





682: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 13:39:00.46 ID:+uP5qurX0


「またやっちゃったんでしょう」

「……」

 水銀燈の問いに、答えない。

「…ローゼンメイデン…」

「え?」

 膝に顎を乗せ、両肘を抱えたまま、めぐはため息をつく。

「あの子は私と同じ…」

「同じ?」

 水銀燈が問い返す。

「私は現実から逃げている。受け入れたくない現実があるから」

「?何を言い出すの、めぐ」

「あの子もそう」

 それには答えず続けるめぐ。

「現実から逃げて、世界から外れた場所で生きている」

「……」

「私ね、水銀燈」

「何?」

「あの子と契約している真紅、という人形を見て思ったわ」

 膝を抱えるめぐ。



685: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 13:43:47.68 ID:+uP5qurX0
「真紅はジュン君を大切に思っている」

「……」

「何とか前を向いてもらいたい。でも」

 スウウ、と病室が影に覆われる。窓の外を見ると、

灰色の雲が広がってきているのが分かる。

「本当はね、人はそんなに強くないのよ」

「……」

「たった一人で立ち上がれる人なんて、この世に殆どいないと思うの」

 遠くで、ゴロゴロ、という音が聞こえる。

「立ち上がれる人は、きっと、もう他人を信頼出来なくなってしまった人」

 膝を握る手に力を込める。

「真紅は、ジュン君が立ち上がろうとしたその時に、私の肩を使ってくれればいい、

それまでずっと、私はあの子の傍にいる、そう言ったわ」

「……」

 水銀燈は目を背けた。

「それが、人を助けるっていう事だと、私は思うのよ」


688: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 13:50:06.32 ID:+uP5qurX0
「……」

「ほんのちょっと、肩を貸してあげるだけでいいのよ。それだけで、

人は頑張れる生き物だもの」

「…」

「ジュン君は、きっとそうして、誰かに救ってほしいって、思ってるんだわ」

「…どこが同じなの?死にたいって」

 からからと窓を開け、外を眺める水銀燈。

「貴女は全てを拒絶して」

 生ぬるい風が吹き込んできて、思わず水銀燈は身震いする。

「違うの、ごめんなさい」

 水銀燈の背中に声を掛けるめぐ。

「貴女には随分天邪鬼な事をしてしまった」

 水銀燈が振り返る。

「ごめんなさい、私、死にたくなんてない」

 めぐの肩が小さく震えている。

「独りで淋しく死んでいくなんて、本当はとても怖い」

「めぐ…」

「私だって誰かに手を取ってほしい、引っ張っていってほしい」

 顔を伏せるめぐ。

「誰かに……」

 嗚咽が漏れ始める。

「ごめんなさい……ジュン君……」

 ぽつ、ぽつ、と、雨音が聞こえ始めた。





692: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 13:55:37.71 ID:+uP5qurX0




 ざあああ、と雨が降り続ける。

「……う……」

 うっすらと開く、二つの瞳。

 頬に、何かちくちくとこそばゆい感覚。

「ここは…」

 金糸雀は身体を起こし、きょろきょろと周囲を見回す。

「みっちゃんの…マンション…?」

 視線の先、ベッドに、自分のマスターのみつが眠っている。

「みっちゃん」

 ふらふらしながらも、近づいていく。

「みっちゃん」

 ベッドによじ登り、ゆさゆさと揺する金糸雀。

「……」

 返事はない。

 ただ、呼吸による身体の動きが、生きている事を示している。

「ごめんね、みっちゃん…」

 徐々に記憶が甦ってくる。


695: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 14:02:53.10 ID:+uP5qurX0


 nのフィールド、白い水晶の中で、みつが眠っていた。

 驚いて駆け寄る金糸雀の全身をたちまちイバラが縛り、首を締め上げられ、

意識を失った。そこまでの記憶だった。

 チカチカ、と、黄色い光が目の前を飛んでいる。

「ピチカート」

 何度も頷く金糸雀の顔が、次第に凍りついていく。



「…真紅が」

 金糸雀は肩を落とした。

 真紅のローザミスティカがおそらく奪われた事、

ピチカートが、落下していく金糸雀を追い続け、その先にある扉から

この部屋まで連れてきた事。

 それが終わり、nのフィールドに繋がる、この部屋の鏡をピチカートが割って、

入口を遮断した事。

「ありがとうかしら、ピチカート…」





697: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 14:07:15.36 ID:+uP5qurX0


 翠星石が事実上離脱し、マスターも3人囚われている現状。

真紅は、あとは水銀燈のマスターと、ジュンだけだと言った。

「……」

 雪華綺晶は、今何をしているのだろう。

 水銀燈の所に向かったのか、それとも、逃した自分を、

必死になって探しているのか。

 とにかく、自分だけではどうしようもなかった。

ジュンか水銀燈に、助けを求めに行かなくてはならない。

「行かなきゃ…」

 窓を開け、傘を広げる。

 自分にやれる事。みっちゃんを取り戻すために。

「待ってて…!」

 雨が降りしきる中、金糸雀は勢いよく飛び立った。





700: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 14:12:18.15 ID:+uP5qurX0
「………」

 赤い光が水銀燈の傍を飛び回っている。

 事情を聴き終えた水銀燈は、じっと腕組みをしていた。

 ベッドの上では、先ほどの嗚咽が嘘のように、めぐが静かに

眠り続けている。

「…まずは、そうね…」

 nのフィールドに入り、金糸雀を探さなければならない。きっと、

雪華綺晶も彼女を探しているはずだ。

 後はここに来るだけとはいえ、厄介な攻撃をしてくる金糸雀を、

あの狡猾な妹が放っておくわけがない。

「……」

 それは逆に言うと、金糸雀を味方につけておけばある程度の

策を練る事が出来る、という事でもある。

「でも…」

 ちらっとめぐを見やる水銀燈。

 今、めぐを一人にしておくのは危険だ。

 とすると、金糸雀の捜索は諦めなければならない。

 ゴンゴン、と窓を叩く音。

 水銀燈は思わず振り向く。

「開けてほしいかしらー!」

 びしょ濡れの金糸雀が、何度も窓を叩いていた。


702: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 14:14:20.28 ID:+uP5qurX0


「そういう事よ、金糸雀。雪華綺晶は必ずここに来る。だから、

今言った事を踏まえて攻撃してほしいの」

 窓を背にする金糸雀を、ベッドに座った水銀燈が見つめている。

「……でも、本当にそれ大丈夫なのかしら。現実世界も、

nのフィールドも、関係ないような気がするけど…」

「あの子は、器なしでは、nのフィールドから出られないと言ったわ」

「……」

「だったら、現実世界で器を攻撃すれば」

「でも…」

 金糸雀はうつむく。

「でもじゃないわよ、やんなきゃ貴女のマスターだって、帰ってこないのよ」

「あれは、ヒナの身体…」

「………」

 水銀燈はイライラを隠せない。



703: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 14:17:06.31 ID:+uP5qurX0
「あのねえ、あんたの気持ちは分かるわよ。でも、雛苺は自分から、

真紅にローザミスティカを託したんでしょう。もう自分がこの世界に

いられないから」

「……」

「だったら――」

「あっ」

 金糸雀が声を上げた。

「え」

 瞬間、しゅるる、という音がして、自分の身体がイバラに縛られているのが分かる。

 めぐも同様に、いつの間にか身体をイバラに覆われている。

「しまっ………」

 伸びているのは鏡の中から。その瞬間、凄まじい力で水銀燈とめぐは

鏡の中に引きずり込まれた。



「水銀燈!」

 金糸雀はすぐさまその後を追い、続いて5体の人工精霊が鏡に飛び込んだ。





706: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 14:21:43.27 ID:+uP5qurX0




「あっ、ぐっ…」

 苦しそうにもがく水銀燈。

「お姉様、取引しましょう」

「な、何が」

 鏡の向こうには、白い水晶が5つ。その中央、自分たちを縛っているイバラの先に、

雪華綺晶が座っていた。

「今、私の中には、彼女から奪ったローザミスティカが2つある」

 すっと、右端の水晶を指さす。

「し……」

 四肢をバラバラにされた真紅が、こちらを睨んでいる。

「雪華綺晶…あんた…」

 身動きが取れない。

「素直にマスターを渡していただけるのであれば、このローザミスティカは差し上げます。

ただ、それが難しいのでしたら、私は―――」

 キュイイイイイ、と音がして、次の瞬間、後ろから衝撃波が襲った。

「あっ」

「くっ」

 雪華綺晶が吹っ飛び、めぐと水銀燈を縛っていたイバラが千切れ飛ぶ。

「めぐっ」

 めぐは幸い吹っ飛ぶ事もなく、5体の人工精霊が彼女を守っていた。

「メイメイ…レンピカ…」

 軽く後方に吹き飛ばされた水銀燈が、体勢を立て直す。

目の前を黄色い影が横切り、ギイイイイイ、と今度は鈍い音がした。



708: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 14:25:49.54 ID:+uP5qurX0
「ぶっ」

 真正面からまともに衝撃波を食らい、雪華綺晶は更に奥へと吹き飛んだ。

「みっちゃん、返してもらうかしら!!」

 バイオリンを持った金糸雀が、雪華綺晶の前へと立ちはだかる。

「……」

 雪華綺晶はくるくると回って姿勢を取り直し、金糸雀を凝視している。

「終わりのない追走曲!!」

 再び衝撃波。だが、雪華綺晶は落ち着いてそれを避ける。

「くっ」

 弾き続ける金糸雀。

「金糸雀、いい事教えてあげましょうか」

 ヒュン、ヒュン、とよけ続ける雪華綺晶。

 金色の目が、心なしか鋭くなったような気がする。





711: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 14:30:32.81 ID:+uP5qurX0


「めぐ」

 金糸雀たちを横目で追いながら、めぐをゆさゆさと揺する水銀燈。

だが、一向に起きない。

「どうしたの…?めぐ…?」

 マスターが眠らされている以上、金糸雀とて、そう攻撃は続けられない。

 水銀燈の頬に、冷や汗が流れた。





713: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 14:33:37.99 ID:+uP5qurX0


「どっ、どうして当たらないの」

 何度も衝撃波を飛ばす金糸雀。

「どうして翠星石を閉じ込めたか」

 徐々にこちらに近づいているような気がする。

「どうして、一人でいる貴女を、先に襲わなかったのか、いいえ」

 すれすれの所でよけ続ける雪華綺晶。

だが、それはまるで遊んでいるかのようだ。

「どうして貴女のローザミスティカを残したか」



「はぁっ、はぁっ」

「私は最後に、貴女が手に入れば良かった」

 嬉しそうに笑う。

「だって、貴女の能力があれば、誰にだって勝てるもの」

「み、みっちゃん…」

 イバラがヒュンッ、と飛んできた。



717: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 14:39:11.36 ID:+uP5qurX0
「あっ」

 ガランガラン、と遠くに飛ばされるバイオリン。

「たとえ水銀燈と取引したって」

「う…」

「そう、今の貴女のように、使い方さえ間違えなければ」

 しゅるる、とイバラが伸び、金糸雀を拘束する。

「マスターを先に眠らせたのはこのため。どう?

もう力が湧いてこないでしょう」

 もがく金糸雀に、コツ、コツ、と近づいていく。

「!!」

 瞬間、雪華綺晶は飛び上がった。左足に、黒い羽根が数本刺さる。

「痛ッ…」

 次の瞬間、左半身に衝撃が跳ねた。



720: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 14:42:12.18 ID:+uP5qurX0
「あっ」

 大きくのけぞり、雪華綺晶は吹っ飛んだ。

「……」

 金糸雀は驚いて、飛んでいったのと反対方向を見やる。

「金糸雀!何やってるの!早くしなさい!!」

 水銀燈が駆け寄ってきて、イバラをほどき始める。





722: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 14:47:49.18 ID:+uP5qurX0


 ほどき終えた所で、吹っ飛んだ雪華綺晶を追う水銀燈。

「水銀燈!」

 後を追おうとするが、めぐから目を離すわけにはいかない。

「……」

 ギッ、と音がした。自らのネジが切れようとしているのが分かる。

「使えて…あと一回って、とこかしら…」

 バイオリンを握りしめる。

 その刹那、ドッと音がして、金糸雀の身体が揺れた。







724: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 14:54:36.26 ID:+uP5qurX0


 水銀燈は、雪華綺晶を追って飛び続けていた。

 おかしい。

 吹っ飛んだ方向のどこにも雪華綺晶が見当たらない。

「何故…?」

 こんな事はあり得ない。どこかで体勢を立て直して、自分に向かってくるのが――

「自分に…?」

 水銀燈は後ろを振り返る。

 自分が雪華綺晶ならどうするだろう。本当に自分に、真っ向勝負を挑んでくるだろうか。

「いえ――」

 違う。雪華綺晶の狙いは―――

「!!」

 水銀燈は身を翻し、元来た方向に全速で向かった。





726: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 14:57:01.04 ID:+uP5qurX0


 水銀燈が元の場所に着いた時には、イバラに貫かれ、倒れている金糸雀を横目に、

雪華綺晶がめぐを愛おしそうに撫で続けていた。

「なっ……」

 黒い羽根の突き刺さった左腕をだらんと垂らし、雪華綺晶がこちらを見やる。

「約束の刻ですわ、黒薔薇のお姉様」

「めぐ!!起きて!!そんな奴に惑わされないで!!」

「無駄ですわ。彼女は」

「無駄…?貴女めぐに何をしたの」

 じり、と一歩近づく水銀燈。

「それ以上近づけば、首を引き千切りますわ」

 首に回しているイバラを指さす。



728: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 14:58:30.76 ID:+uP5qurX0
「くっ……」

「彼女の方から、この世界に迷い込んできたのです、お姉様」

「はっ?」

「酷く悲しそうで、迷子になって、自分の名前すら思い出せない」

「…な、何ですって…」

「だから彼女は、自分から眠る事を選んだ。力を使う必要はなかった」

 めぐの寝顔を見つめる雪華綺晶。

 ふと、水銀燈は視界の隅で動くものに気づく。

「夢の世界を選んだ人間を、現実世界に―――」

 雪華綺晶の言葉がそこで途切れ、身体が白い水晶に打ちつけられる。

衝撃で、だらんと垂れていた左腕が引き千切れた。

「金糸雀!」

 倒れた姿勢で、なおバイオリンを構えた金糸雀が、こちらに笑顔を向けた。

「逃げて!!早く…!!逃げ…!」

 めぐに駆け寄る水銀燈。

「逃がしませんわ」

 残った右手から、雪華綺晶がイバラを放つ。

めぐを捕え、そのイバラは水銀燈の胸を狙う。

「……っ!!」 

 尻もちをつき、水銀燈は思わず目を閉じた。


730: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 15:00:43.32 ID:+uP5qurX0
「…?」

 何ともない。

「ちっ…」

 5体の人工精霊が、水銀燈のイバラを防いでいる。

「あ…あんたたち……」

「水銀燈!!」金糸雀が水銀燈の腕を引っ張り、蹴飛ばした。

「きゃあっ」

 バランスを崩し、nのフィールドを落下してゆく水銀燈。

「ああああああぁぁあああぁぁ……」

 遠ざかってゆく、白い水晶。

「めぐぅ!!めぐっ……!!」

 何度も叫び続けるが、次第に周りが霧に包まれてゆく。

ドンッ、という音と共に、全身に衝撃が走り、水銀燈は気を失った。







744: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 16:54:09.46 ID:+uP5qurX0






「………」

 ぐいっと金糸雀の頭をつかむ雪華綺晶。

 喉を貫いているイバラ。目を見開いて停止している金糸雀の身体が

光り始め、ローザミスティカが現れた。

「く……」

 それを手に入れ、負傷を確認する。

 左腕は、もう使い物になりそうもない。左の脇腹と、足に刺さった羽根を抜く。

球体関節を集中的にやられたせいで、左足も動かない。

 だが、手にした物もある。

 命令の遂行を終え、ホーリエ、ベリーベル、ピチカートは自分のものになった。

そして、4人目のマスター、柿崎めぐ。

これで、残る水銀燈も、限りある力をやすやすとは使えまい。

 ギシ、と身体に痛みが走る。

「しばらく動けそうにはないですわね…」

 焦る事はない。残るは桜田ジュン、そして水銀燈のみである。

無理に今日、こちらが動く必要はない。

 雪華綺晶は安心したように笑い、横になって目を閉じた。





747: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 16:58:24.10 ID:+uP5qurX0


「う………」





 ゆっくりと開く瞼。



 水銀燈は、ぼんやりと思考を取り戻していく。



 映るのは、暗闇の中、かすかに見える天井。



「…?」

 病院ではない。何か、埃っぽい。

 鈍い痛みを感じながら、半身を起こす。

「ここは…」

 目の前に、大きな鏡がある。だが、自分の姿がよく見えない。

きょろきょろと見渡しても、何が何やら分からなかった。

「…めぐ…金糸雀…?」

 何の反応もない。代わりに、ぷんとカビ臭いニオイが鼻をついた。

「めぐ?めぐ??」

 慌て始める水銀燈。

「ど、どこなの。返事して!めぐ!!」

 鏡が揺らめき、蒼と紫の発光体が、それぞれ飛び出してきた。



749: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 17:01:54.54 ID:+uP5qurX0


「メイメイ!レンピカ…!」

 その光で、何やら物置らしき場所だと分かる。

メイメイがチカチカと光り続ける。

「……何ですって」

 水銀燈は信じられないといった風に、いやいやと首を振った。



「…どうして」

 金糸雀のローザミスティカは奪われ、めぐも眠りにつかされた。

ホーリエたちは雪華綺晶につき従い、あとに残されたのは自分だけ。

「…私のせいだというの?」

 結果的に、自分が雪華綺晶の誘いに乗り、真紅を見殺しにした事で、

このザマである。

 自分がアリスになるため。そして、めぐを守るため。

そのための行動だったはずだ。





751: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 17:08:20.66 ID:+uP5qurX0


 真紅も、翠星石も、蒼星石も、金糸雀も、雛苺も、めぐも、

全て奪われた。

「…………」

 後悔と、絶望。

「…私」

 何よりも、自責。

「……私は」

 放心状態で座り込んでいる水銀燈。

 チカ、チカ、と瞬く人工精霊たち。

「…何?」

 狭い部屋の奥に、扉がついている。

「………」

 水銀燈はゆっくりと立ち上がり、扉を開けた。





753: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 17:13:37.06 ID:+uP5qurX0


 薄暗い廊下。左手に幅の狭い扉があり、正面にまた扉。右手からうっすら光が

差し込んでいて、ざあざあという音が聞こえる。

 家だ、と分かった。どこかで見た事のある。

「…真紅たちの家?」

 右に曲がると、階段があった。



 トン、トン、トン、と、上がっていくと、扉が4つついている。

先行して、メイメイが飛んでいく。

「あ、ちょっと…」

 メイメイが止まった扉の前。

「……?」

 中から、何か呻くような声が聞こえた。

「何?」

「………ぅ…」

 この声は。

「……桜田…ジュン…?」

 慎重にドアノブを回し、水銀燈はカチャリと開けた。





755: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 17:22:42.02 ID:+uP5qurX0


 暗闇の中で、ベッドの上の毛布が盛り上がっている。

「う……うぅ……」

「…」

 水銀燈はゆっくり近づき、顔を覗こうとする。

だが、頭まですっぽりかぶってしまっているらしく、

表情は確認出来なかった。

「ジュン…」

「………」

「どうしたの」

 声を掛けると、ジュンが毛布をめくる。

「……」

「どうしたの?」

「…水…銀…燈?」

 目が赤い。

「泣いているの?」

「……何で、ここに…?」

「え」

 水銀燈は視線を伏せる。



759: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 17:28:59.67 ID:+uP5qurX0
「ああ、何でもない…ごめんな…今日は…」

 再び布団をかぶる。

「僕のせいで、めぐさん傷つけちゃってさ」

「……」

「真紅たちも、どっか行っちゃったみたいだし…」

「………」

「やっぱり、僕は外に出ちゃいけなかったんだよ」

「…そんな事」

「クラスメイトに会っただけで、また吐いて」

「…違うわ」

「いいんだ、帰ってくれ、今日はもう誰とも話したくない」

「待って、違うのよジュン」

 毛布をゆさゆさと揺らす水銀燈。





761: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 17:35:03.47 ID:+uP5qurX0


「私が全部悪いのよ!!真紅の事も!何もかも!!」

 必死になって叫ぶ水銀燈。

「…真紅の事?」

「私、雪華綺晶と会ったわ」

「え」

「7番目のドール。そして、雛苺の身体を奪った張本人」

「…どういう」

「それは全部説明する。時間がないの」

 ジュンが、ようやく半身を起こした。





766: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 17:40:17.06 ID:+uP5qurX0


「…………」

 呆然とした表情で、ジュンが固まっている。

「…う…嘘…だろ?」

「嘘じゃないわ。これはさっきまであった本当の事よ」

 うつむいたまま、水銀燈は顔を上げようとしない。

「真紅が…バラバラにされて…」

「そうよ」

「翠星石が囚われて…」

「…そうよ」

「金糸雀も、めぐさんも、捕まって…」

「…もう、ドールもマスターたちも、私と貴方しか残っていないの」

「……」

「それは全部私のせい」

「…でも」

「お願い、私は…」

「…無理だよ、僕は頑張れない」

「え」

 再び毛布をかぶってしまう。



768: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 17:42:23.99 ID:+uP5qurX0
「僕は弱いんだ。真紅たちが助けてくれたって、結局こうだ。

今更、そんな得体の知れない人形相手に、僕が何を出来るっていうんだよ」

「そんな事ないわ」

 ベッドによじ登り、揺する水銀燈。

「やめろよ、やめてくれ」

「やめないわ。そんな事言わせない」

「嫌だ、やめろったら!」

 毛布越しに、思い切り右腕を振り回すジュン。

「きゃっ」

 水銀燈は勢いで床に転げ落ち、後頭部を打った。

「はっ…」

 ジュンは身体を起こし、水銀燈を見やる。

「うぅ…」

「ご、ごめん…でも…」

「……ジュン」

 震えながら起き上がる。

「……あの後ね、めぐは言ってたわよ」





769: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 17:44:09.43 ID:+uP5qurX0
「…?」

「あの子は、私と同じだって…」

 再びベッドに登り、ジュンの傍へ寄る。

「水銀燈…やめてくれ」

「受け入れたくない現実があるから、逃げている。

世界から外れた場所で生きている」

 目を背けるジュン。

「人はそんなに強くない」

「……っ」

「真紅が言ってたそうよ。雪華綺晶に壊される前、

病室で」

「『ジュンの苦しみなんて、ジュンにしか分からない。

あの子が乗り越えていくしかないの』」

「いいよそんな言葉は。僕には無理だって言ってんだろ」

「『私はジュンの傍にいる』」

「……」

「『あの子が逃げ出したら追っかけていく。一人にならないように。

死にたがっていたら、落ち着くまで手を握っていてあげる』」

「……」


772: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 17:46:59.96 ID:+uP5qurX0
 水銀燈はジュンの肩をつかむ。

「わ…」

 振り向かせたジュンの両手を握りしめる水銀燈。

「『いつかあの子が立ち上がろうとした時に、私の肩を使って、支えにして、

立ち上がってくれれば、それでいい』」

「………」

「もう一度言うわ、人はそんなに強くない」

「……」

「貴方は、きっと、誰かに救ってほしいって、思ってるんだわ」

「………」

「私だって、誰かに手を取ってほしい、引っ張っていってほしい」

「……」

「ごめんなさい」

「………」

 水銀燈はジュンの顔を見上げる。

「それがめぐの言葉」



776: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 17:53:00.03 ID:+uP5qurX0
「………」

「ね、お願い、あの子は貴方を必要としているの」

「やめてくれよ、そんなの…」

 水銀燈の手を振りほどく。

「助けて、お願い」

 なおも水銀燈はジュンの肩をつかんでいる。

「助けて。お願いだから助けてよ」

 涙声になっている。

「私がいけないの。私が」

 鼻をすする。

「真紅もめぐも、奪われてしまった」

「……」

 シャツをぎゅうっとつかみ、必死にこちらを向かせようとする。

「助けて。ジュン助けて」

 ぐいっと肩口を引っ張る。

「わ」

 バランスを崩し、仰向けに倒れ込むジュン。


778: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 17:59:26.30 ID:+uP5qurX0


「お願い、私に…」

 ジュンの胸の上に登り、かたかた震えながら泣き続ける水銀燈。

「私に…私に出来る事なら何でもするから…」

「……」

「うぅ…ううう……っ」

「…」

「だから助けて、助けて…」

 大粒の涙が落ちる。

「………」

「…どうして答えてくれないの」

「……」

 ジュンは目を逸らしてしまう。

「どうして何も言ってくれないの、ジュン」

「………」

「どうして……」

 水銀燈は顔を伏せ、声を上げて泣き続けた。









780: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 18:03:18.42 ID:+uP5qurX0






 部屋の隅。

「………」

 すっかり暗くなり、雨も止んでいるようだ。

 水銀燈が膝を抱え、赤い目をこすろうともせず、床に視線を向けている。

「………」

 ジュンはベッドに横になり、壁を見つめていた。

「…帰るわぁ」

 おもむろに立ち上がり、部屋を出ていく水銀燈。

「………」

 バタンという音と共に、部屋が真っ暗になった。

 ジュンは目を閉じる。







782: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 18:07:03.70 ID:+uP5qurX0


――――私ね、淋しくなったり、つらい事があった時は、こうしてると安心するの





――――つらい事があった時、ジュンの膝に乗って、こうして全身を預けていると安心する





――――たぶんね、貴方が優しい人間だって知ってるから









784: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 18:10:49.40 ID:+uP5qurX0


――――貴方と散歩がしたい





――――駄目かしら。こうして手を繋いで





――――朝の涼しい…そうね、今みたいな時間帯に

 



――――貴方が私と一緒に中庭を歩いてくれている





――――歩き疲れたら、中庭のベンチに座って、私は疲れて眠っちゃうの





――――その時は、肩くらいは貸して頂戴ね









――――ね、ジュン君?





788: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 18:19:16.74 ID:+uP5qurX0






 物置の鏡の前。

レンピカとメイメイが飛び交う中心に、水銀燈が立っている。

「……めぐ、待ってなさい」

 胸に決意を秘め、進み始める。

「待てよ」

 突然後ろから声がした。

「僕も行く」

 水銀燈が振り返る。赤い目をこすりながら、ジュンがその眼を

見据えていた。





789: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 18:21:24.30 ID:+uP5qurX0
 

「ジュン……!」

「ごめんな、水銀燈」

 たたた、と駆けよる水銀燈。しゃがみ込むジュン。

「わぷ」

 水銀燈は、ジュンの首に手を回した。

肩口に顔をこすりつけ、ぎゅっと両手に力をこめる。

「ぷ…ど、どうしたんだ」

「しばらくこうさせて頂戴」

「え……」

「そしたら、私戦えるから」

 そう言って、目を閉じる水銀燈。

「……」

 ジュンは何も云わず、彼女の行為に身を任せた。





792: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 18:26:23.94 ID:+uP5qurX0


 数分ほどそうしていただろうか。

「……」

 水銀燈はジュンから身体を離し、しばらくジュンの眼を見つめる。

「…な、何?」

「………」

 ふう、と息を吐き、その場に座り込む。

「今から作戦を説明するから、頭に叩き込んでもらえるかしら」

「え」

「気を抜いたら駄目よ。いいわね」

 鋭い瞳に、ジュンは言葉を発せられなかった。







849: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 22:29:10.40 ID:+uP5qurX0


「本当に上手くいくのかな」

 水銀燈に手を引かれ、nのフィールドを飛び続けるジュン。

「あら、信用出来ないの。なら、代案くらいは用意出来てるんでしょうね」

 じろりと睨む水銀燈。

「い、いや、言ってみただけだよ」

「そう」

 先を行くレンピカ、メイメイが、チカ、チカと輝いた。

「近いわ」





853: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 22:33:43.65 ID:+uP5qurX0
 

 6つの白く巨大な水晶を背後に、雪華綺晶がうずくまっている。

「……」

 人工精霊3体がかりでも、左足を直すのに手間取っていた。

「…これでは」

 少し焦りが滲む。殆ど回復していない身体。今、水銀燈たちが襲ってきたとしたら。

「……」

 後ろで停止している翠星石のローザミスティカを奪おうかとも考えたが、

水晶を消すにも力を使う。

 何より、壊れた部分を直すのに必死で、他の事をしている余裕はない。

ローザミスティカは3対3。金糸雀の力があれば、五分以上に戦える。

「いざとなれば……」

 背後で眠るめぐに視線を送り、ニィ、と笑う。

その直後、雪華綺晶は、何かが空気をつんざく音を聞いた。







858: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 22:38:29.99 ID:+uP5qurX0




 瞬間、ダラララッと音がして、雪華綺晶の身体が回転する。

「あっ」

 5メートルほど吹っ飛び、雪華綺晶には何が何だか分からなかった。

見ると、自分の左半身に、黒い羽根が無数に突き刺さっている。

「くっ」

 水銀燈だ。

 雪華綺晶は体勢を整え、飛ぼうとする。

「きゃあっ」

 がくっと身体が左に傾き、視界の隅に、千切れた足が見えた。

「な……」

 白いブーツを履いた足。見れば自分の左足がない。

吹っ飛ばされたのだ、と理解するまでに、数秒かかった。

「こっちだ雪華綺晶!!」

 視線の先に、桜田ジュンが映る。6つの水晶の中央付近で、こちらを向いて

大声で叫んでいる。



862: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 22:43:12.59 ID:+uP5qurX0


 瞬時にバイオリンを構え、そちらに飛びかかってゆく。

ヒュッと蒼い光が視界を遮り、ひと際キィン、ときらめいた。

「ああっ!!!」

 目が眩み、思わずバイオリンを持った手で目を押さえる。

「……!!」

 姑息。

 いや、重要なのはそこではない。

「こっちだ!!」

 声がする。雪華綺晶はそちらに向けて、弦を思い切り弾いた。

 発せられた衝撃波が、ズンッ、と、何かに当たる感触。

ようやくチカチカしながらも、目を開く。

「!!!」

 その先にあったのはジュンではなく、自分が作り上げた白い水晶。

根元がピキピキ、と割れ、ついには雪華綺晶の方へと倒れ込んできた。





864: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 22:46:21.86 ID:+uP5qurX0


「ちっ」

 まだチカチカする目を我慢しながら、雪華綺晶は背後に飛び上がる。

「かかったわね!!」

「!?」

 声のする方向に一瞬水銀燈が見え、更に空気を裂くような音。

「ひっ」

 反射的に右手で顔を庇い、カカカッと右手、上半身、右足に羽根が刺さる。

「痛ッ……」

 ドカッと腹に大きな衝撃が走る。蹴られたのだ、と感じるも、

吹っ飛んでいく自分を止める手立てが、ない。

 何とかしなければ。何とか。

「あぐっ」

 ドゥンッ、と音がして、雪華綺晶は壁に叩きつけられた。







867: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 22:51:36.91 ID:+uP5qurX0






「ぐ……」

 身体中に激痛が走る。立ち上がれない。

いや、そもそも左腕と左足がないのだ。

 目を開くと、真っ白なベッド、純白のカーテンに、薄暗い天井が見えた。

「……病室?」

 ほどなくして、目の前の手洗いの鏡から、水銀燈とジュンが出てきた。



 動けない雪華綺晶を確認し、水銀燈は鏡を羽根で割った。

「さあ」

 床で苦痛に顔を歪める雪華綺晶を、水銀燈は冷たく見下ろしている。

「終わりの始まりよぉ、7番目」









872: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 22:57:26.48 ID:+uP5qurX0


 右腕。



 右足。

 

 左肩。



 腰の左側。



 馬乗りの体勢で、水銀燈は雪華綺晶を押さえ込んだ。

「………」

 雪華綺晶の瞳は、観念した様子で水銀燈、ジュンと

視線を移した。

「……雪華綺晶」

 どこか淋しそうに見えたその瞳。ジュンは思わず声を漏らす。

「…ここは?」

 ぼそりと呟く。

「現実世界よ。有栖川病院の316号室、貴女が何度も盗み見てた、ね」

 水銀燈は吐き捨てるように言った。





877: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 23:08:20.90 ID:+uP5qurX0


「…私を」

 更に続ける。

「…ここで消滅させるのですか」

「そうよ?何か問題でも?」

 その冷徹な瞳は、窓からの逆光で暗く沈んでいる。

「……そうですか」

「メイメイは優秀でね、貴女の吹っ飛んだ方向にこの扉を

設けさせたのよ。凄いでしょう?どう?」

 ハッ、と水銀燈は嘲笑った。

「その前に、一つ…うっ」

 水銀燈の右手が、雪華綺晶の喉をつかんだ。

「何をほざく気かしら。今更この口が」

「……ぐ」

「お、おい水銀燈」

「すっこんでなさいジュン」

「……」

「この子は自分のために、雛苺の身体を奪った。

翠星石の優しさを利用した。動かなくなった蒼星石を操った。

真紅の身体をバラバラにした。金糸雀の喉を貫いた」

 右手に力を込める。

「私は許さない」



883: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 23:13:38.01 ID:+uP5qurX0


「……」

 雪華綺晶の右手が、何かを求めるように動いた。

「…たし…は…」

「……は?」

「そうです…私は…自分がアリスになるためだけに……」

 反射的に右手を緩める。

「利用出来るものは利用した…踏み台にした……でも」

「…何よ、言って御覧なさい」

「…それの…何が悪いのですか…?黒薔薇のお姉様…?」

 水銀燈の目がピクッと動く。

「私には…正直理解出来ない…のです…」

「何が」

「私は器を与えられなかった…でも、お父様に会いたかった…だから…」

「……」

「そのために自分に出来る事をした…」

「………」

「今ここで、私を消滅させるのなら、私はそれで構いません…。

手足の無い人形など、お父様は望んでいないでしょうから…」

 水銀燈の力が緩み、雪華綺晶は幾分落ち着いた表情で喋り続ける。

「でも……」

 抵抗する様子はない。


890: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 23:24:39.26 ID:+uP5qurX0
「お姉様…貴女のマスターは」

「…」

「彼女は今、夢を見ている」

「…夢、ですって…」

「夢の中で、自分の父親、貴女、そして、そこにいる、桜田ジュンと、

幸せな時を過ごしている」

 名前を呼ばれ、ジュンはハッとする。

「私が見せているのです」

「……」

「彼女は現実に絶望して、自らこの世界を放棄した」

「違う、めぐはそんな事する子じゃないわ」

「違わない…」

 バキッと雪華綺晶を殴る水銀燈。

「ふざけないで!!どんなに自暴自棄になったって、あの子は…!」

「…眠らせたマスターの力、奪ったローザミスティカの力」

「やめなさい、雪華綺晶」

「私が力を送っている限り、彼女は幸せを感じながら、このまま

生き長らえる事が出来る」

「……」





『こうしてお金に直すとね、分かるのよ。自分の価値が。

そして、生きようとする事がどれだけ難しいか』





 ジュンはようやく気付いた。


893: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 23:30:03.97 ID:+uP5qurX0


 自分や水銀燈が思っているよりも、ずっとめぐは頑張っていたのだ。

生きようとしていたのだ、と。



『心臓が弱いのなら、移植の手立てはないのか』



 そうして調べたのが、あの言葉。



『たとえ心臓が弱くても、日常生活に気をつけていれば―――』



 それを研究して、出てきたのが、あの何気ない言葉。





 今更ながらに、めぐの一言一言が、ジュンに重く突き刺さってくる。





897: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 23:38:49.61 ID:+uP5qurX0


「…桜田ジュン」

 ジュンが顔をあげる。

「どうするのかしら、貴方は」

「…何」

「娘の顔すらまともに見ようとしない、父親」

「………」

「一歩間違えば侮蔑、でも言葉上は憐憫の眼差しを向けている、第1ドール」

「な……」

「過去に縛られ、現実から逃げ出してしまった、貴方」

 雪華綺晶は無機質な目で、ジュンを見つめた。

「あの子は幸せな夢を見続けている。届いてほしかったものに手がようやく、

ようやく届いた」

「……」


899: ◆JtU6Ps3/ps 2008/07/18(金) 23:39:27.27 ID:+uP5qurX0
 水銀燈の肩が震えている。

「誰もいない、この世界に呼び戻すつもり?何のため?」

「…僕は」

「下らない正義感?それとも、幼稚で一時的な感情のために?」

「…黙りなさい、雪華綺晶」

 レンピカを呼び、黄金色の鋏を召喚する。

「桜田ジュン」

 水銀燈が鋏をピタリと喉に当てる。

「貴方はどうせまた逃げる。そうすれば、あの子は一人、淋しく死んでいくだけ」

 ぐっと押し当てられる切っ先。

 水銀燈は深呼吸をした。

「冷たい肉の塊になってしまった頃に、ようやく巡回の看護士が発見するのよ」

 水銀燈は力を込め、その切っ先を思い切り喉に押し込んだ。











引用元: ローゼンメイデンの話「316号室のめぐ」