752: 1 2017/01/03(火) 00:16:46.22 ID:4Wtthf7s0

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俺ガイルSS 『(やはり)俺(に)は友達がい(ら)ない』

ガガガ文庫 渡航 著 「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている」SS

11巻の後のお話です。細かな齟齬も大まかな齟齬も広い心でスルーしてください。

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753: 1 2017/01/03(火) 00:23:10.32 ID:4Wtthf7s0

海老名「 ――― ヒキタニくん、知ってる?」


肩まで伸びたセミロングの黒髪、小さくまとまった可愛らしい顔立ちによく似合うピンクフレームのメガネ ――― 俺や由比ヶ浜と同じクラス2年F組に所属する海老名姫菜嬢が、振り向き様、いつになく真剣な面持ちで切り出した。

八幡「 ……… あん?」

昼休み、いつものように早めの昼飯を終えて机に突っ伏していたところへ“ちょっと話があるんだけど”と小さく声をかけられ、人目を避けるようにして案内された先は校舎最上階の踊り場である。

踊り場とは言っても別にひと昔前でいうところのディスコのことではない。ジャスコだって今はイオンだし、近所のサンクスだっていつの間にかみんなファミマだ。いや、それはこの際どうでもいい。

物置代わりに雑多な備品の無造作に積まれたこの校内の一角は普段から滅多に人が訪れるようなこともなく、昼間でも薄暗いこんな場所を好き好んで利用するのは、俺のように孤独をこよなく愛するぼっちか、そうでなければふたりだけになれる居場所を求めるリア充(笑)のカップルくらいのものだろう。

ぼっちとリア充(笑)では対照的どころか対極的とさえいえるのだが、殊、人目を避けるという一点においてのみ好む場所の傾向が変に似通ってたりするから、昼休みや放課後の行動範囲が丸かぶりだったりするんだよな。そのお陰で今まで何度気まずい思いをしたことか。

ちなみに言っておくと、俺の名前はヒキタニではなくヒキガヤである。漢字で書くと比企谷。

もしかしたらこのまま卒業するまでずっと名前を間違えて覚えられたままではないかと不安になることもままあるのだが、クラスメートでさえ名前を知らない人間の方が圧倒的に多いこの俺にとっては実はさしたる問題でもないのかもしれない。

754: 1 2017/01/03(火) 00:26:55.44 ID:4Wtthf7s0

海老名「あのね、ひとくちに腐女子って言っても、人によって色々とこだわりがあるんだよ」

八幡「 ……… は?」


予想外 ――― というか、ある意味あまりにも予想通り ――― なセリフを耳にして、何かの聞き間違いではないのか、いや、できればそうであって欲しいと自らの耳を疑ってしまったが、むしろ真っ先に疑うべきはやはり目の前にいるコイツの頭の方が先なのだろう。

海老名「文系、理系、肉食系、草食系、雑食系もいれば、リバ、逆カプ、下剋上はどんな好きな絵師さんでも絶対に認めないって人もいるし、かける順番によっては仲のいい友達同士だって血を見る事もあるんだからね?」

八幡「お、おう。そ、そうなのか … そりゃ大変だな」

次第に熱を帯びる彼女との間にフィジカルとメンタルの両面に於いて安全な距離を測りつつ、できるだけ刺激しないように後ずさりながら適当な相槌をうつ。

っていうか、かける順番が違うだけで不正解って、なにそれ小学校の掛け算問題かよ。 


755: 1 2017/01/03(火) 00:31:00.67 ID:4Wtthf7s0

海老名「年齢層だって幅広くって ――― 私の知り合いなんて、けっこういいところの奥さんみたいなんだけどふたりの子持ちだって言ってたし」

腐女子は腐人、貴腐人、汚超腐人と、年を経るごとにレベルアップし、最後は腐老腐死に至るか、もしくは妄想で悶死した挙句に腐死鳥となって甦るらしい。
まさに、ノーBL・ノーライフ。バカは死ななきゃ治らないというが、腐女子は死んでも治らないというのは、もはやその筋では定説、いや伝説と化している。

海老名「もしふたりとも男の子だったりしたら、それだけでもう、ゴハン三杯は軽くイケると思わない? ドンブリで!」

うちはダブルインカムで中流もいいとこだが、同じく子どもはふたり。幸いになことに小町は妹なのでギリギリセーフ。

それでも、もし、俺のかあちゃんがいきなりカミングアウトなんかしたら、さすがにそれはそれでかなりのところショックだ。

何食わぬ顔をして実は陰で俺とオヤジの絡みを想像して萌えていた、なんて考えただけで、もう頭の中を家庭崩壊の序曲がフルオーケストラで流れてきそうな気さえする。


756: 1 2017/01/03(火) 00:33:09.09 ID:4Wtthf7s0


八幡「 ……… んで、俺に用事ってのはなんなんだ?」


このまま放置しておくと海老名さんの妄想が無限にヒートアップしそうなので、適当なところでお茶を濁す。

彼女の方でも別に俺相手に腐女子について講義をするためにわざわざ呼び出したというわけでもあるまい。もしそうだとしたら、それはそれで怖いものがある。


海老名「あ、そうそう。つい布教の方に熱が入っちゃった。あのね、」

八幡「ちょっと待て、お前、今、布教とか言わなかったか?」

布教じゃなくて腐教だろそれ、という俺のツッコミを海老名さんは含みのある笑みでさらりと軽く受け流し、



海老名「 ―――――― ヒキタニくん、雪ノ下さんが留学するって噂、聴いてる?」



いつもの調子、何食わぬ顔で、突然とんでもないセリフを口にしたのだった。


757: 1 2017/01/03(火) 00:37:54.86 ID:4Wtthf7s0


海老名「 ……… ふーん、その顔は知らなかったって顔だよね ……… だとしたらやっぱりガセなのかな ……… でもそんなはずないし」


驚きを隠せないでいる俺を傍目に、小さく首を傾げて思慮深げに独りごちるその様はとても先程までの腐女子と同一人物だとは思えない。

もし仮にあれが俺の素の反応を見るための演技なのだとしたら、やはりこいつとんだ食わせ物だ。


八幡「 ……… どこ情報なんだよ、それ」

海老名「ごめん、それは言えないんだ。でも、かなり信用できる筋からだよ」

腐っているとはいえ、海老名さんはあの三浦優美子が自ら取り巻きとして選んだほどの美少女だ。
それだけではなく、時折見せるエキセントリックな言動を差し引いても俺なんかよりもはるかに処世術に長け、コミュ力も高いし、頭も切れる。

三浦や由比ヶ浜という学年でも屈指の美少女と同じグループにいるだけに華やかさという面に於いてこそ、その陰に隠れてはいるものの、実はそれすらも敢えて本人が意図しているのではないかと思わせる節がある。
まぁ、俺に言わせればもっと他に隠すべきもんがあんじゃねぇのかと言いたくもなるのだが。

いずれにせよ、そんな彼女だからこそ、決して根も葉もないヨタ話を鵜呑みにして他人に伝えるとはまず考えられない。
だとすれば、恐らくは彼女なりに確信を得た上でのリークなのだろう。


――― しかし、それでもやはり疑問は残る。


八幡「 ……… なんでそれをわざわざ俺に?」


相手の言葉の裏を読もうとしてしまうのは、俺のようなぼっちにとって最早自己防衛本能からくる習い性といっていいだろう。

本来なら海老名さんが真っ先に話すべき相手は、雪ノ下と共通の知人であり、かつ、最も近しい友人、つまりは由比ヶ浜であるはずだ。
そして、もし由比ヶ浜がその話を聞いていたとするならば、俺に黙っていられるはずがない。

雪ノ下雪乃はその厳格さと完璧さゆえに決して嘘は吐かない。 だが、それ以上に由比ヶ浜結衣という少女は、その素直さゆえに嘘のつけない性格なのだ。


758: 1 2017/01/03(火) 00:41:40.55 ID:4Wtthf7s0

海老名「ヒキタニくんには修学旅行の時にとべっちのことで色々とお世話になったし?」

俺の不躾な質問に対し、海老名さんはいつものように感じの良い笑みを浮かべて率直に応える。

恐らくは、彼女のいう“色々”とは、主に昨年の修学旅行における嵐山での一件のことを指しているのだろう。
俺にとってはあくまでも奉仕部の仕事としてやったことなのだが、どうやら海老名さん自身はあの事を俺に対する個人的な“借り”として受け止めているようだ。

借りは借りとして早めに返しておくに越したことはない ――― もしそういう意識が働いたのだとしたら、なるほど、それはそれで頷けないこともない。


海老名「 ……… でも、もちろんそれだけじゃないんだよ?」 

だが、まるでそんな俺の考えを読んだかのように、不意に彼女の声が濡れたような艶を帯びる。


八幡「ん?」


海老名「 ……… ねぇ、お願い。我慢できないの …… ここなら誰も来ないわ …… だから、いつものように …… して?」 


妙に潤んだ瞳で俺を見つめながら熱く吐息混じりの甘い声で囁くと、彼女は自らの手でスカートの裾をそろそろとたくしあげた。


760: 1 2017/01/03(火) 00:45:19.60 ID:4Wtthf7s0


すぱこんっ



咄嗟に手近にあった来客用のスリッパで叩く(はた)と、海老名さんの頭がまるで次世代汎用京速計算機みたいな軽快な音を立てる。


海老名「いったーい。暴力反対!」


両手で頭を抱え、非難がましい涙目で俺を見る。その声と仕草がやたらと可愛らしいだけに余計に腹立たしいことこの上ない。


八幡「何がっ、いつものように、だっ?! 何がっ?!」///

海老名「んもうっ、ちょっとふざけただけじゃない …… あ、でもこの痛みがいつしか快感に ……… って、ちょっ、ウソだから、ね? 女の子相手にグーはやめようよ、グーは」

そうは言いつつも、海老名さんはいっかな悪びれた風でもなく、それどころか満面に腐敵な笑みを浮かべて、メガネの奥のそのつぶらな瞳をキラリと輝かせる。

海老名「冗談はともかく、もしかして“彼”なら何か知ってるかもしれないわよ ……… ヒキタニくんの」


八幡「 ……… いや、そういうのもういいから」



761: 1 2017/01/03(火) 00:47:24.19 ID:4Wtthf7s0

海老名さんの言う"彼"とは、2年F組のカリスマにしてリア充(笑)グループのリーダー、葉山隼人のことである。

呼び出された葉山は俺の姿を認めると少しだけ意外そうな表情を浮かべて見せた。


葉山「 ……… 随分と珍しい取り合わせだね」

イケメンに似つかわしいその爽やかな笑顔に僅かだが探るかのような色が混じる。

海老名「あら、もしかして隼人くんたら妬いてる? でも、大丈夫。私たちはあくまでもカラダだけの関係だから」

八幡「 …… お前、頼むから少し黙ってろよ」


762: 1 2017/01/03(火) 00:51:30.06 ID:4Wtthf7s0

苦笑を浮かべる葉山に、俺は先ほど海老名さんから聞いた話をそのまま、しかし情報源については敢えて触れずに伝える。


葉山「 ――― ありえない話ではないかもしれない」


俺の話に無言で耳を傾けていた葉山だが、暫しの黙考の末に選んだのは、あくまでも可能性を示唆するだけにとどめた慎重な言葉だった。

つまりそれは雪ノ下の留学の話は葉山も知らなかったということなのだろう。その割にはあまり驚いた様子が見えないのが奇妙といえば奇妙だった。


海老名「そういえば、雪ノ下さんって帰国子女なんだっけ?」

自分がその情報源であることなどまるでおくびにも出さず、ごくさりげない海老名さんの言葉に葉山が無言で頷いて見せる。

雪ノ下が帰国子女であることはもちろん俺も知っている。
そもそも彼女の所属するJ組、国際教養科は帰国子女が多いクラスだ。だから留学自体は決して珍しいことではないのだろう。だが ――― 、


海老名「でも、どうして今になって急になんだろ?」

海老名さんがぽしょりと呟く。誰に向けて問うたというわけでもないが、明らかに葉山を意識してのことだろう。

確かに問題はそこである。留学ともなればそれなりに事前準備も必要なるだろうし、その過程で何かしらの噂が洩れ伝わってくるはずだ。

どんなに本人がひた隠しにしたところで所詮人の口に立てる戸はない。また、隠そうとすればするほど逆に広まってしまうのが噂というものなのだ。

しかし雪ノ下は今までそんな素振りは露ほども見せていなかったし、それ以前にそんな大事なことを俺や由比ヶ浜にまで黙っている理由もないはずだ。


763: 1 2017/01/03(火) 00:54:41.55 ID:4Wtthf7s0

八幡「ところで3年次の留学期間ってのはいったいどのくらいなんだ?」

海老名「んー…、受験の準備とかもあるから、春休みの期間中 …… 長くてもせいぜい一学期の中間あたりまでじゃないのかな」

八幡「そうなのか?」

留年ならまだしも留学には全く縁のない俺だけに、答えの内容そのものよりも、むしろそんなことにまでそつなく答えることのできる海老名さんの方にこそ驚きを禁じえなかった。

やはりこいつ、只の腐女子じゃねぇな。腐女子というだけで既に只者ではないのだが。

だが、もしそれが本当なら、いわゆる短期留学ということになる。
よくわからんが感覚的にはちょっとした海外旅行みたいなものなのだろう。だとすれば、さほど大騒ぎするほどのことでもないのかも知れない。

自分の肩から自然に力が抜けるのを感じながら、ふと目を向けると


葉山「 …… いや、必ずしもそうとも限らないんじゃないかな」

それまで黙していた葉山が急に口を開いた。

八幡「あ?」

葉山「確か、留学先で特別優待生の制度を利用すれば3年の2学期の最後に単位認定試験を受けるだけで卒業資格を得ることができたはずだ」

その言葉に、思わず俺と海老名さんが顔を見合わせる。


海老名「 …… それってつまり 」


葉山「 ――― ああ。場合によったら、雪ノ下さんはそのまま留学先で海外の大学を受験するつもりでいるのかもしれない」

764: 1 2017/01/03(火) 00:57:30.70 ID:4Wtthf7s0

不意に俺達を取り巻く空気が薄く、重くなったかのような錯覚を覚える。階下の喧騒でさえ、まるで別世界のできごとのように遠く聞こえた。

現時点では、まだあくまでも数ある可能性のひとつに過ぎないとはいえ、雪ノ下の性格や彼女の家庭の事情をよく知る葉山が口にしたことでその信憑性はいやでも増す。
また、それだけではなく、葉山の口ぶりからして他にも何か、恐らくは俺たちが知りえない特別な事情があるような気がしてならなかった。


765: 1 2017/01/03(火) 01:05:21.18 ID:4Wtthf7s0

葉山「 ――― もしかしたら、俺のせいなのかもしれない」


自らの生み落とした沈黙に耐えかねたかのように、葉山が再び口を開く。


海老名「隼人くんのせい?」

八幡「どういうことだ?」


話の続きを促す俺達に、葉山は僅かに逡巡するかのような様子を見せたが、やがて何かしらの覚悟を決めかのように、無音の溜息をひとつ、静かに言葉を継ぎ始めた。


葉山「雪ノ下さんの家と俺の家が懇意にしてるのはもう知ってるね?」

八幡「 …… それは雪ノ下から聞いている。それがどうかしたのか?」

確か親同士が旧知の仲で、葉山の父親は雪ノ下の親父さんの経営する建設会社の顧問弁護士かなんかだったはずだ。


葉山「彼女がキミに言ったのはそれだけかい?」

八幡「それだけって …… どういう意味だよ」

まるで葉山らしからぬ奥歯にものが挟まった様な言い方に焦れた俺は、つい尖りの帯びた口調で訊き返してしまう。

それと同時に、模糊として形を成さないが、酷く嫌な予感めいた何かが次第に胸中を圧迫し始めるのを感じとっていた。

校内マラソン大会の前、雪ノ下は確かに他にも何かいいかけた。しかし、俺はもう充分だと彼女の言葉を遮ってしまったのではなかったか。

それは多分、彼女が告げようとしていた事柄についての胸の悪くなるような自分の予想に反駁するあまり、無意識のうちにそれを否定し、拒んでいたからに他ならない。


766: 1 2017/01/03(火) 01:08:07.80 ID:4Wtthf7s0

葉山はそんな俺の様子をじっと見つめながら、なかなか次の言葉を発しようとはしなかった。

そのすぐ傍で海老名さんがひとりでぶひぶひ言ってるがそこは敢えてスルー。なにやってんだよこんな時まで。


ややあって葉山がやっと口を開いたが、その表情は昏く翳り、口調はいつになく重く鈍かった。


葉山「ゆくゆくは、両家の間には婚姻関係によって強い絆が結ばれる事になっているらしいんだ」

そこで一度言葉を切ると、今度は聞き違えようのない、はっきりとした口調で淡々と告げた。



葉山「 ――― 高校を卒業したら、多分、俺は雪ノ下さん、或いは陽乃さんのどちらかと、正式に婚約することになると思う」



772: 1 2017/01/09(月) 23:21:21.63 ID:kXa9aNQe0

カタンッ


その時、俺たちの背後から微かに息を飲む気配とともに、小さな物音が聴こえた。


葉山「 ……… 優美子」


葉山の向けた視線の先を追うようにして振り返ると、そこには自慢の金髪ゆるふわ縦ロールに縁どられた顔を蒼白にして立ち竦む三浦優美子の姿。
そしてその後ろには由比ヶ浜のピンクがかった茶髪のお団子髪が覗いて見えていた。


三浦「あ、あーし、姫菜のこと探しに …… そ、そしたら隼人の声がして」


いつになく取り乱したその様子からして、恐らくは今の会話を漏れ聞いていたのだろう。

だが、三浦はそれ以上言葉を続けることができず、胸の前で握り締めた拳と小さくすぼめた肩を震わせながら、葉山の目を避けるように視線だけを床へ落とす。

やがて無言で背を向けると高く小刻みに響く足音だけを残し、その場から逃げるように走り去ってしまった。

773: 1 2017/01/09(月) 23:24:30.57 ID:kXa9aNQe0

由比ヶ浜はそんな三浦の後姿を見ながら、すぐに後を追うべきかどうか躊躇っていたようだが、その視線をおずおずと俺に向けた。
言葉にこそ何も出さないが、その揺れ動く瞳を見れば何を問うているのかは一目瞭然だ。


八幡「 …… 追わなくていいのか?」


俺は由比ヶ浜の視線を受け止めることができず、代わりに葉山に低く訊ねる。


葉山「追ったところで、何ができるって言うんだい?」

返ってきたのは冷たく、そっけないとさえ思えるような返事。
自嘲さえ含んだその乾いた声が、俺の耳にはまるでどこか他人事でもあるかのように虚ろに響いて聴こえた。

葉山「優しい言葉が却って相手を深く傷つけてしまうことだってある。同情や憐憫が相手を余計に惨めすることだってある」

まるで独り言のように訥々と言葉を連ねる。

葉山「そうだろう? 違うか? 比企谷?」

静かだが、まるで八つ当たりのようなその口調に、込められた苛立ちと遣り切れなさが切々と伝わって来た。


結衣「 …… でもだからって」

八幡「 …… よせ、由比ヶ浜」


堪りかねて何か言い募ろうとした由比ヶ浜を静かに遮る。

別に葉山を庇い立てするつもりはない。ただ単に、うちひしがれた今の葉山をこれ以上追いつめるような真似はしたくはないし、させたくもなかった。


結衣「 …… そんなのって、酷いよ」


ぽしょりとひとつ切なげな言葉を残し、由比ヶ浜は三浦の後を追うようにして階下に駆けていく。

やがて海老名さんも小さく溜息をひとつ吐くと俺に一瞥をくれ、だが何も言わずにそのままゆっくりとその場を後にした。


774: 1 2017/01/09(月) 23:28:10.03 ID:kXa9aNQe0


八幡「 ……… それがお前の選択なんだな」


俺の言葉に、葉山はゆっくりと力なく首を振って応える。

葉山「そうじゃない。俺には最初から選択の余地なんてなかったんだ」

臓腑を締め上げるかのようなその声にもし色が付いたとしたら、それは紛れもなく血の赤だった。


八幡「そうか … 」


恐らくは葉山もずっと親によって敷かれたレールの上をただ走り続けるしかなかったのだろう。

誰にでも公正で、わけ隔てなく公平の接する態度は、裏を返せば他人との間に特別な人間関係を構築せず、誰に対しても心を開いていないという証でもある。
常に明るく爽やかに振る舞いつつも時折垣間見せる冷淡さは、期待に応えようとしながらも応えることができない罪悪感と焦燥の裏返しだったのかもしれない。

だが、葉山はその生来の責任感の強さと高潔さゆえに、本人の意思とは関係なく常に周囲から期待され、そうしたポジションを求められ、本人も可能な限りそれに応えてきた。自分の行いが常に嘘と欺瞞に塗れていると知りつつもも、敢えてその役を精一杯演じ続けてきたのに違いない。

ノブリス・オブリージェ。持てる者は持たざるものに対してより多くの責任を負う、だったか。

いつぞや雪ノ下が口にしたそのセリフは、当然、葉山にも当て嵌まっていたのだろう。
それはある意味、他人より抜きんでた才能を与えられた者にのみ架せられる"呪い"のようなものなのかも知れない。


775: 1 2017/01/09(月) 23:30:24.40 ID:kXa9aNQe0

葉山「キミはこんな時にさえ随分と落ち着いていられるんだな」

不意に葉山が返してきた言葉によって、俺の思いは断ち切られる。


八幡「あん? そりゃ皮肉か?」 

葉山「いや、素直に感心しているだけさ」 


いつもの調子でまぜっかえすと、葉山もいくぶんいつもの調子を取り戻し苦笑で応える。


そうは言いながらも正直なところ、実は俺もかなりのところ動揺していた。しかし、今はそれより先にしなければならないことがある。



八幡「 …… まぁ、いずれにせよさしあたっては、もうひとりの当事者に話を聞いてみるしかねぇだろ」


779: 1 2017/01/13(金) 00:21:06.60 ID:Vf9ZrkSy0

その"もうひとり"、つまり雪ノ下の所属する2年J組の教室は、同じ2学年のフロアの一番奥まった場所に位置している。

帰国子女が多いこのクラスは女子の比率が高く、ほとんど女子生徒のみで構成されているといってもいいだろう。

それだけに俺のようなあまり見慣れない顔、しかも腐った目をした挙動不審な男が近くでうろうろしている、というだけで胡乱な目で見られてしまう。
かてて加えて俺の方も普段から女子に見慣れられていないだけに、注目を浴びることによってますます挙動不審になってしまうという、まるで絵に書いたようなデフレスパイラル。

こんな時ばかりは俺の得意とするステルス機能もまるで役に立たないどころか、逆により一層悪目立ちを助長するばかりだった。

雪ノ下の連絡先を訊いておかなかったのが今更のように悔やまれるが、既に後の祭りだ。


780: 1 2017/01/13(金) 00:23:15.93 ID:Vf9ZrkSy0

砕け散りそうになるメンタルにひたすら鞭打ち、半ば開き直るようにしてJ組の教室の前まで辿り着くと、そこにはなぜか所在なげにたむろしている数人の男子生徒の姿があった。ちなみに俺の場合は教室の中でさえ所在ない。

こんな時、本来であればその中に誰か知り合いを見つけて雪ノ下を呼び出してもらうのがベストなのだが、残念ながらJ組に知り合いはいない。

というか、ナンバーワンよりオンリーワンを地で行く俺としては、全学年を通じて知人はおろか、俺の名前を知っている存在すらほとんどいないと言っていいだろう。当然この場合、戸塚は例外、材木座は問題外だ。


781: 1 2017/01/13(金) 00:25:12.46 ID:Vf9ZrkSy0

仕方なく覚悟を決め、男子生徒の前を“ちょっと通りますよ”とばかりに素通りし、そのまま教室の扉を開けようとすると、


「おい、待てよ」


いきなり背後から肩をつかまれた。

見れば先ほどから教室の前にいた男子生徒のひとり。しかもこの学校にもJ組にも似つかわしくない今時のオラオラ系だ。
パリピの多い千葉とはいえ、こんなオラオラしてるやつなんて、ドラゴンボールかジョジョでぐらいしかお目にかかったことがない。


782: 1 2017/01/13(金) 00:27:56.98 ID:Vf9ZrkSy0

普段であれば、例え相手がどのような無礼を働いたとしても終始下手かつ卑屈に接し、姿が見えなくなった途端“ふっ、今日のところはこれくらいで勘弁しておいてやる”と人知れずクールに呟くところまであるのだが、今の俺は少しばかり虫の居所が悪かった。


八幡「雪ノ下に話があんだよ。いるんだろ?」


文句でもあんのか、と言わんばかりの俺の剣幕にたじろいだのか、それとも雪ノ下の名がそうさせたのか、オラオラ系は少しばかり驚いたような顔をすると、躊躇いがちに周りの生徒と目を見交わす。これはどうやら後者みたいですね。うん、八幡そう思う!

そのうちに「ほら、確かこいつ … 」と誰かが俺を見ながら耳打ちすると、オラオラ系は「マジかよ」とボヤキつつ、


男子生徒「 …… とにかく今はやめといた方がいい」


小さく首を振り、周りの生徒もまるでそれに倣うかのように一様に首肯する。

いつに増して自意識過剰になっていたのか、そのいかにもといった訳知り顔が癇に障った俺は、理由も聞かずに無言で肩の手を払い除けた。

そして、更に何か言い募ろうとするオラオラ系を無視してJ組の扉を開けようとした、まさにその瞬間、


ガラッ


いきなり内側から扉が引き開けられ、溜息の出るほど長く美しい黒髪と、同じくらい深く濃い色を湛えた瞳を驚きに見開く美少女 ――― 雪ノ下雪乃本人と目が合ってしまった。


783: 1 2017/01/13(金) 00:28:45.69 ID:Vf9ZrkSy0


雪乃「 ……… 」(八幡を見る)

八幡「 ……… 」(雪乃を見る)



ガラガラガラガラガラ …



八幡「 …… ちょっと待て、なぜいきなり無言で閉めようとする?」


784: 1 2017/01/13(金) 00:30:27.85 ID:Vf9ZrkSy0

ほんの僅かに開けられた戸の隙間から、警戒心も顕にこちらを覗き見るようにして雪ノ下がおずおずと口を開く。


雪乃「な、何の用かしら? 新聞ならもうとってますけど?」

八幡「いや別に新聞の勧誘に来たわけじゃないから」


雪乃「テレビがないからNHKも見てません」

八幡「受信料の徴収でもない」


雪乃「あれほど覗かないで下さいと言っておいたのに」

八幡「 ……… お前、教室でハタでも織ってんのかよ」


もしこいつの正体が鶴だとしたら、恩返しより先に罠を仕掛けた相手に十倍返しとかしそうで超怖い。ほんとうにあったらこわいむかしばなし。


785: 1 2017/01/13(金) 00:32:43.50 ID:Vf9ZrkSy0

八幡「 ……… ちょっと話がある」 敢えていいかとは訊かない。

その俺の様子に、ただならぬものを感じとったのか、雪ノ下が僅かに戸惑いの表情を浮かべるのがわかった。


雪乃「ごめんなさい。今はちょっと …… 話があるなら放課後ではダメなのかしら?」

確かに放課後になればイヤでも部活で顔を合わせることになる。だが、


八幡「ふたりだけで話したいことがあるんだ。それに …… 」

ふたりだけ … という言葉を雪ノ下が口の中で小さく反芻する。


八幡「中途半端にして置くと寝つきが悪くなるんでな。次の授業、数学だし」

雪乃「 …… 数学の授業は寝ることがデフォなのね」


786: 1 2017/01/13(金) 00:34:28.27 ID:Vf9ZrkSy0

八幡「なんでもいいから、取り敢えずここを開けろ」

雪乃「だ、ダメよ」

このまま扉越しに押し問答を続けたところで埒があきそうにない。

それどころか雪ノ下を説得するために白墨(はくぼく)を食べたりパン粉を手を塗(まぶ)すことにもなりかねない。

仕方なく俺は先ほどからずっと手を掛けたままにしていた扉を力に任せて引き開けた。



雪乃「 ―――― あっ」



787: 1 2017/01/13(金) 00:35:59.78 ID:Vf9ZrkSy0

八幡「 ……………… え?」



当然のことながら、開け放たれた扉の向こう側、雪ノ下の背後にはシュールな高校生活、つまり女子高生の女子高生による女子高生のための、ごくごく普通のお昼休みの光景が展開されている。


――― と、思いきや、恐らくは次の授業が体育なのだろう、教室の隅でひと固まりになった女子が文字通りキャッキャウフフとお着替えの真っ最中だった。


そして扉が開け放たれた途端、すわ何事ぞとばかりにほぼ全員の視線がこちらに向けて一斉に注がれる。





**** し ば ら く お ま ち く だ さ い ****






雪乃「 ………… だから」

男子生徒「 ……… やめとけって言ったのに」



まるで地球が自転も公転も止めてしまったかのように静まり返った教室の中と外で、雪ノ下とオラオラ系が同時に呟くのが聞こえた。



788: 1 2017/01/13(金) 00:37:28.58 ID:Vf9ZrkSy0

雪乃「と、とにかくこっちに来なさいっ! いいからっ、早くっ!」


次の瞬間、雪ノ下は俺の手をぱしりとひっつかむと、そのまま強引に腕を引きながらJ組の教室から速足で遠ざかる。


八幡「えっ? やっ? ちょっ? おっ?」


咄嗟のことに戸惑いつつ 半ば引きずられるようにしてジャージ姿の彼女に付き従う俺の耳に、



っきゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああ



一拍置いて、盛大な嬌声とも悲鳴ともつかない叫びが湧き上がるのが聞こえたが、とりあえず後の事は努めて考えないようにした。


792: 1 2017/01/16(月) 00:41:11.77 ID:V9w0gTrz0

倒(こ)けつ転(まろ)びつしながらも、雪ノ下によって拉致同然に強制連行された場所は、先程と同じく校舎最上階の踊り場。
どうやら今日はよくよくこの場所に縁があるらしい。


雪乃「 ……… まったく、いきなり教室になんかに来られたりしたら、また変な噂が立ってしまうじゃない」///

八幡「 ……… 悪かったよ。ん? また?」

雪乃「な、なんでもないわ」///


ここまで俺の手を引きながら足を緩めることなく歩いてきたせいか、雪ノ下は既に息も切れ切れの状態である。顔が赤いのも恐らくそのせいなのだろう。


793: 1 2017/01/16(月) 00:43:24.97 ID:V9w0gTrz0

八幡「それにしてもお前ってば、相変わらず体力にはからきし余裕がないのな」

ジャージの胸元はまだまだ十分過ぎるくらい生地に余裕があるみたいだけど。


雪乃「あなたこそ、その足、どうかしたの?」

八幡「あん?」

雪乃「気のせいかちょっと引き摺っているみたいだけど。この間のマラソン大会で頑張り過ぎたのかしら?」


八幡「 …… ああ、これか。寒かったり雨が降ったりすると、たまに古傷が痛むことがあってな」


――― 言ってから、しまったと思った。己の迂闊さに舌を噛みちぎりたいくらいだ。


雪乃「 ……… そう。あの …… ごめんなさい」


雪ノ下が顔を俯けながらしょんぼりと肩をすくめる。

794: 1 2017/01/16(月) 00:46:14.85 ID:V9w0gTrz0

高校入学の初日、俺は由比ヶ浜の飼い犬である家具付きの貸部屋みたいな名前をしたミニチュアダックスフント ――― サブレット? いや、サブレだっけか? ――― を助けるために、雪ノ下の乗る車に撥ねられて足を骨折し、その後暫く入院生活を送ることを余儀なくされている。

俺としてはそんな事なんてとうの昔に忘れていたし、それ故の失言でもあったのだが、間接的にとはいえ加害者の立場である雪ノ下が覚えていないはずがない。


八幡「や、すまん。別にそういう意味じゃなくて、えっと、これはホラ、アレだよアレ、なに? 遺伝っつーかなんつーか? その、うちのオヤジも俺や小町に脛とか齧られて超ボロボロだし? 」

それに足なんてただの飾りですよ。偉い人にはそれがわからんのです。

しどろもどろになりながら必死に言い訳する俺を見て、雪ノ下は、ふっと困ったような笑みを浮かべ、――― やさしいのね、と小さく呟いた。

そんな風にされたら、俺としてもどんな顔をしていいのか困ってしまう。



795: 1 2017/01/16(月) 00:49:17.56 ID:V9w0gTrz0

雪乃「ところで、私に話っていったい?」

やっと呼吸も落ち着いたのか雪ノ下が改めて俺に問うてきた。


八幡「 ――― どういうことなんだ?」


細部を省いて直球で切り出す俺に、雪ノ下が当惑の表情を浮かべる。


雪乃「 …… どういうことって?」 

八幡「留学の話だよ。本当なのか?」


俺の言葉に一瞬だけ驚いたように目を見開く。


雪乃「そのことなのね …… 。ふたりだけでって言うから、私はてっきり ……… 」

何か言いかけたが慌てて口を噤み、その顔に失望とも安堵ともとれるような複雑な表情が浮かぶ。

いきなりのことであるにも関わらず、どうして知っているのか、とも、誰から訊いたのかとも口にしないのは、今となってはそれこそどうでもいいことだからなのだろう。

しかし、敢えて否定も肯定もしようとしない彼女を見ているうちに、俺の抱いていた不安は確信へと変わり、そして確信は失意を生み、失意はやがて胸の奥に息苦しくなるような疼痛を招いた。


796: 1 2017/01/16(月) 00:53:11.85 ID:V9w0gTrz0

八幡「由比ヶ浜には何て言うつもりなんだ?」

雪乃「 …… 彼女には折を見て話そうとは思っているのだけれど」

なかなか踏ん切りがつかない、ということなのだろう。


八幡「だったら、葉山とのことはどうなんだ …… その ……」

直接口にするのも何か憚られるような気がして、つい言葉の先を濁してしまう。だが、聡い彼女はどうやらそれだけで察したようだった。


雪乃「それは …… あなたには関係のないことよ」

突き放すようなその言い方に少しばかりカチンと来る。確かに俺には関係のない話なのかもしれない。でも、だからと言って ……


八幡「お前はそれでいいのかよ?」

雪乃「いいも何も、私には ――― 」


葉山同様、選択肢はないとでも言いたいのだろうか。しかし、雪ノ下はその言葉の続きを口にしようとはしなかった。


そして、その代わりとでも言うように、くるりと俺に背を向け


雪乃「あなたは ……… どうなの?」 と、逆に問うてきた。


陰になったその顔の表情までは窺い見ることができないが、漏らす溜息が切なげに滲むのがわかった。


八幡「 ……… どうって」


797: 1 2017/01/16(月) 00:54:32.24 ID:V9w0gTrz0

間の悪いことに、丁度そのタイミングでひと組の男女が踊り場に姿を現した。

俺達がいることに気が付くと、明らかにぎょっとした様子を見せたが、気まずそうに顔を見合わせるとすぐに踵を返す。

去り際に、


「 …… ね、あれってJ組の」 「 …… あのふたりって、やっぱり」


低く抑えてはいても踊り場に続く階段に必要以上に声は大きく響き、対照的にふたりの間に気まずい沈黙を落とす。


798: 1 2017/01/16(月) 01:02:08.86 ID:V9w0gTrz0

ややあって、俺が再び口を開きかけると、


雪乃「そろそろ昼休みが終るわ。もう行かないと」


まるでわざとそれを遮るかのように雪ノ下が一方的に会話を打ち切る。


八幡「 ――― 逃げるのか?」

雪乃「逃げる?」

俺の言葉に、雪ノ下が首だけで振り向いた。

八幡「忘れたのかよ? 勝負はまだついてないはずだろ」

今更言うまでもないことだが、勝負とは俺が平塚先生に奉仕部に連れてこられたその日、つまり、雪ノ下と初めて会話をした日 ――― もちろん、あの一方的な罵倒が会話と呼べるとするならば、だが ――― 奉仕部の活動を通じて貢献度の度合いでその勝敗を定め、敗者は勝者の言うことをなんでも聞く、というあの取り決めのことである。

そしてそれはまた、あの日、あの場所で、由比ヶ浜と三人で交わした約定でもあった。


799: 1 2017/01/16(月) 01:04:08.11 ID:V9w0gTrz0

俺の安っぽい兆発に、ほんの少しだけ、雪ノ下の向ける視線が尖る。

だが、それも束の間に過ぎず、


雪乃「 ――― そうね。そうとってもらっても構わないわ」


無音の溜息とともに、彼女は静かにそう告げた。


それはどんな逆境にあってさえ決して敗北を受け入れることを潔しとしない雪ノ下の口にした、そして、俺が初めて聞く彼女の敗北宣言だった。


800: 1 2017/01/16(月) 01:07:57.13 ID:V9w0gTrz0

雪乃「これ以上変な噂が立たないように、別々に降りて行った方がよさそうね」


俺に向けたままの背中から、言葉よりも明瞭に会話の継続を拒む気配が伝わった。



――― ごめんなさい。



やがて、短くそう言い残して立ち去った彼女のいた場所に、どこからともなく、透き通った、切れそうなほどに冷たい冬の空気が流れ込む。

俺はいつの間にか、凍え、悴(かじか)んだ手を無意識に握り締める。


この手にいつかは掴めるかもしれないと思っていたそれは知らぬ間に温度を失い、気がつくとまるで細かな砂粒のように俺の掌から滑り落ちていた。


822: 1 2017/01/20(金) 22:50:59.14 ID:1ngGlqJO0

教室に戻ったのは五限目始業ギリギリの時間だった。

席に着くや否や始業を知らせるチャイムが鳴り、同時に数学教担の先生が姿を現す。

雪ノ下の留学の件ついては由比ヶ浜にはまだ話していない。

話をする時間がなかったせいもあるにはあるのだが、例えあったにせよ俺から伝えていいものか、それともこういったことはやはり直接本人から伝えるべきなのか、希薄な人間関係しか築いてこれなかった俺としてはその辺りの機微がよくわからないというのが本音だ。

823: 1 2017/01/20(金) 22:56:09.26 ID:1ngGlqJO0

俺の最も苦手とするところの教科ということも当然関係するのだろうが、今日はいつにも増して授業に身が入らなかった。

教科書に書かれた数式を目で追うふりをしながらも、その実まるで集中することができず、当然のようにやる気も出ない。まぁ、考えてみたら俺の人生の中で、やる気なんてものは出たことも出したこともないんですけどね。

しかし、ただでさえ赤点ギリギリだというのに、このままでは下手をすると進級さえも危ぶまれる。

留年して一色と同じ学年とかマジ勘弁してもらいたい。
それよりも何よりも、材木座の後輩になるだなんて考えただけでもぞっとしてしまう。つか、それだけは絶対にイヤだ。断固拒否する。

こうなったら、なりふり構ってなんぞいられない。今からでも万全の対策を講じ、例えどんな卑怯、卑劣、姑息な手段を用いるにしても、絶対に材木座だけは巻き添えにしてくれよう。固く心にそう誓う。


824: 1 2017/01/20(金) 22:58:03.14 ID:1ngGlqJO0

だが、ある意味でこの場合、チャンスはピンチ、ピンチはチャンスという考え方もできなくはない。

春からは晴れて妹の小町もこの学校に通うことになるかも知れないし、もし俺が留年すれば当然それだけ長く小町と一緒に高校生活が送れるということにもなる。

ありかなしかで言えば、当然ありよりのありだ。しかも更にもう一年留年すれば小町と同じクラスになることも夢ではない。

妹と同じクラスともなれば、さすがに多少恥ずかしい思いをすることになるかも知れないが、そこはぐっと我慢すればいいだけの話だ。小町が。


825: 1 2017/01/20(金) 23:00:22.09 ID:1ngGlqJO0

そんなことをつらつら考えているうちに、不意に誰ぞのケータイから着信を告げる音がした。

先生が板書の手を止めて振り返り、クラスの連中もそわそわと周囲を見回し、目だけで犯人捜しを始める。



――― しかしそれはまた、俺に先日の葛〇臨〇公園での、あの情景を思い起こさせた。


827: 1 2017/01/20(金) 23:01:48.70 ID:1ngGlqJO0


* * * * * * * * * * * * * *


830: 1 2017/01/20(金) 23:05:57.62 ID:1ngGlqJO0

「 ――― 私の依頼、聞いてくれるかしら」


由比ヶ浜に促されるようにして雪ノ下が自らの依頼を口にしようとしたまさにその刹那、



♪~♪♪~♪~♪♪~♪



突然どこからか、聞き慣れた曲が聴こえてくる。恐らくはケータイの着信音だ。

当然この三人のうちの誰かということになるわけだが、俺のスマホは常時マナーモードだし、それ以前に滅多に着信がない。

しかも、今のこの緊迫した状況にまるで似つかわしくない、いかにものんびりとした曲調は紛れもなく“パンダのパンさん”のテーマ。

……とくれば、敢えて消去法を用いるまでもなく持ち主が誰であるかはすぐに知れた。


雪乃「ご、ごめんなさい、こ、こんな時に」///


慌ただしくスマホを取り出した雪ノ下は画面を一瞥するや、その美しい眉をそっと顰める。
そして暫く躊躇った後、一向に鳴り止む気配のない電話を片手に、こちらに向けてもう一度ごめんなさいと小さく謝罪の言葉を口にすると、背を向けてそっと通話ボタンを押すのが見えた。


雪乃「 ……… はい。 ええ。 ……… え? 」


俄かに雪ノ下の声が緊張を孕み、僅かにしか見えないその顔色が、俺の所からでもそれとわかるほどに変わる。


雪乃「…… え、ええ、わかったわ。すぐそちらに向かうから」


その後、更にふ二言三言、簡単な言葉を交わした後、スマホの画面に目を落としたまま、深い溜息とともに通話ボタンを切る雪ノ下。
改めてこちらに向き直った彼女の目が戸惑いに揺らいでいる。

そんな彼女の様子を見て、俺と由比ヶ浜は互いにそっと目を見交わした。


結衣「どうか …… したの?」




雪乃「 ―――― ごめんなさい。お父さんが急に倒れてしまったらしくて。ついさっき病院に運ばれたみたいなの」


840: 1 2017/01/22(日) 00:52:27.27 ID:+RhFgzyY0

父親が倒れたという急報に接し、雪ノ下は別れの挨拶もそこそこにその場を立ち去ったため、俺たちは彼女の依頼を聞いてはいない。

その後も雪ノ下とは学校で何度となく顔を合わせてはいるのだが、見舞いやら何やらで放課後は不在の日も多く、とても話の続きができるような状況ではなかったし、そのことについて、おいそれと触れることも憚られるような雰囲気だった。

そして何よりも、雪ノ下自身が敢えてその話題を避けているかのような節さえあった。

それがいったいどのような理由に因るものかまではわからないが、あの時、俺達に向けて確かに踏み出されようとした彼女の足は、まるで何かに怯え、竦んでしまったかのように以前の場所に留まったままだ。



841: 1 2017/01/22(日) 00:53:53.94 ID:+RhFgzyY0


* * * * * * * * * * * * * *


842: 1 2017/01/22(日) 00:55:13.53 ID:+RhFgzyY0

戸部「ったくー、誰だよいったい 。…… って、俺じゃん?!」


お調子者の戸部が、セルフでツッコミとボケを同時にかます。


葉山「戸部、授業中は電源くらいちゃんと切っておけ」

そんな戸部に対し、葉山が苦笑混じりに低い声で窘(たしな)めると、

戸部「かしこまりーっと。あ、サーセンしたっ、気ぃーつけます」

慌てて先生に向けて頭をひとつ下げ、すぐさまスマホの電源を落とす。

その一連のやりとりに教室がどっと湧き、壇上で先生が苦々し気に咳払いをしたが、そのまま何事もなかったかのように授業は再開された。


843: 1 2017/01/22(日) 01:00:33.35 ID:+RhFgzyY0

いつものことながら、リア充(笑)グループのリーダーだけあって、葉山の言動は嫌味にならず鼻につくこともないスマートなものであった。
そして、そのいかにも優等生然とした振る舞いは、そこだけ切り取れって見ればいつものそれと何ら変わりない。

しかし、昼休みのあの出来事を知る俺から見たそれは、あまりにも自然で、逆に違和感すら感じさせた。


葉山とて、決して三浦のことを気にかけていないという訳ではないのだろう。

だが、それは冷静とか冷淡という通り一遍の言葉で片づけることのできるようなものでは決してなく、根源的に歪んだ、もっと酷い別の“何か”であるようにさえ思えた。

またそれと同時に、葉山隼人という存在が今までの生きてきた中で、いったい幾度同じような経験を繰り返してきたのだろうかと、ふとそんなことを考えずにはいられないものがあった。


844: 1 2017/01/22(日) 01:03:15.02 ID:+RhFgzyY0

葉山に向けていた目を逸らし、そのままそれとなくクラスの中を見回すと、今のふたりのやりとりに対して明らかに反応の薄い影が三つあった。

三浦は頬杖をつきながら、心ここにあらずといった様子で自慢のゆるふわ縦ロールの金髪をみゅんみゅんと指に絡みつかせ、時折俺のところまで届きそうな深い吐息を漏らす。

由比ヶ浜は由比ヶ浜で何やら考えに耽り、今、自分が手にしているのが現国の教科書であることにさえ気が付いてない。しかもそれ、上下逆さまだし。

そして ――― 海老名さんは、なぜか授業とは全く無関係のはずのコンパスと三角定規を手に、既に穴の開いている三角定規の穴を、それこそ穴のあくほどしげしげと見つめている。

彼女については、いったい何を考えているかなど知りたくもないのだが、なんとなくそれがわかってしまう自分がとてつもなくイヤだ。


845: 1 2017/01/22(日) 01:04:56.73 ID:+RhFgzyY0

そんな彼女たちの姿を見ながら、俺は再度あの時のことに思いを馳せる。

自ら選択する苦しみから逃れようとするあまり、雪ノ下は一度は由比ヶ浜の言葉に与(くみ)しようとし、それは他ならぬ俺自身によって否定された。

陽乃さんの言うように、選ぶことをしなかった、選択することのできなかった彼女は、あの時、いったい何を選択し、何を告げようとしたのだろうか。


由比ヶ浜は全てを欲し、俺は本物を求め、雪ノ下は自分ですらわからないという、形にも言葉にもならない何かを希(こいねが)う。


だが、いずれはそれも彼女自身の言葉によって語られなければならない。それこそが彼女の選択であり、願いであり、依頼なのだから。


そして堂々巡りの末、俺の思考は再び一点へと集約される。

雪ノ下が口にしようとした依頼とはいったい ――――


846: 1 2017/01/22(日) 01:06:26.23 ID:+RhFgzyY0


「 ―――― 比企谷、わかるかね?」


八幡「 ……… わかるわきゃねぇだろ、そんなの」



不意に問われて、思わず反射的に口にしてしまう。

答えてから、はたと気が付くとクラスの連中が唖然とした表情を浮かべてこちらを見ていた。

そして、恐らくは先ほど問いを発したであろう先生の頬がピクピクと小刻みに引き攣る。



先生「 …… 比企谷、後で職員室に来なさい」

八幡「 ………… うす。……… あ、いえ、はい」



ぐったりと脱力した身体の重みを任せると、椅子の背凭れがギシリと不快な音を立てて軋んだ。

そのまま天井を仰ぎ見る俺の口から知らず深く大きな溜息が漏れ出るのと、終業を知らせるチャイムが鳴るのは、ほぼ同時だった。


853: 1 2017/01/23(月) 01:15:02.51 ID:c1Gmanau0

そして放課後。

奉仕部の部室としてあてがわれている特別棟のいつもの一室。

どんよりとした曇り空に似つかわしく、いつになく重い空気の垂れこめた室内では、最初に交わしたぎこちない挨拶以外、誰も口を開こうとはしなかった。

いつもはとりとめのない話題をふってくる由比ヶ浜でさえ今は繰り返し小さく溜息を吐きながら、ページを手繰ることもせずに文庫本に目を落としたままの雪ノ下をチラチラと見ている。

恐らくは由比ヶ浜は昼休みの一件について訊くタイミングを、雪ノ下は雪ノ下で、自身の留学について由比ヶ浜に話すタイミングを計っているのだろう。

ちなみに俺は現在進行形で数学の授業中にやらかした際の反省文を作成中。

やばい、息苦しくて窒息しそう。でも寒いから窓開けて換気もできない。どうすんだよこの状況。


854: 1 2017/01/23(月) 01:17:08.74 ID:c1Gmanau0


「失礼しまーす。こんにちはー」


そうこうしているうちに、不意に部室の扉が開け放たれた。

亜麻色のセミロングの髪、まだあどけなさの残る顔。やや着崩した制服の短く詰めたスカートから伸びる健康的な細くて白い足。
俺達の後輩であり、一年生にして生徒会長でもある一色いろはだ。


「こんにちは」「やっはろー」「よう」三人三様に挨拶を返す。


一色「あ、先輩いたんですか?」

八幡「いや、フツウにいんだろ。一応俺もここの部員なんだから」

一色「 …… 一応なんですね」


855: 1 2017/01/23(月) 01:18:00.36 ID:c1Gmanau0

一色は一歩入るなり部室内に漂う微妙な空気を肌で感じ取ったのか、ふむっとばかりに小さく首を傾げたが、気を取り直してそのままいつの間にか指定席となったいつもの場所に腰を下ろす。


一色「よっこいしょーいち」


ってなにその昭和のオヤジギャグ? ただでさえ寒い室内が余計に寒くなんだろ。 

雪ノ下はいつもと変わりない様子で席を立ち、慣れた手つきで来客用の紙コップに紅茶を注ぐ。

そして出された紅茶を前に、一色がアリガトゴザイマスとか言いながらこくんと頭を下げるまでがここしばらくのルーティーン。


856: 1 2017/01/23(月) 01:21:56.95 ID:c1Gmanau0

だが、今日に限っては一色に向けて誰も気の利いた言葉ひとつかけようとしない。

そんな様子を見て、一色の首の角度がさらに深くなった。


一色「 …… えっと、寒いですねー。もしかしたら今夜あたり、また雪でも降るんじゃないですか?」


沈黙に耐えかねたのか、一色が乾いた愛想笑いと共にどうでもいいような話題を振る。

千葉の冬は大抵2月頃にその寒さのピークを迎えるが、3月に入ってから雪が降ることも珍しくない。それを過ぎれば三寒四温、徐々に春に向けて暖かくなってゆく。

この季節、俺の常備するマッカンも寒さで加糖練乳の乳脂肪分が固まって表面に白い粒が浮いていることがある。
それを見る度に、嗚呼やっぱり冬なんだなと、しみじみと感じ入るのだが、ある意味それも千葉における冬の風物詩のひとつと云えよう。



857: 1 2017/01/23(月) 01:26:44.87 ID:c1Gmanau0

八幡「寒いんだったらお前もっと長いスカート履いたらどうなんだよ? ハラ壊すぞ?」

本来は聞き流すような超どうでもいい話題なのだが、今日ばかりは渡りに船、とばかりに俺がのっかる。

それにしてもあれな、女子ってば寒い寒いとかいいながらなんで冬でも短いスカートに生足なんだろね。見てる方がよっぽど寒いっつーの。
まぁ、目の保養にはなるからいいんだけど、一色相手だどオヤジ目線じゃなくて、なぜかお父さん目線になっちゃうんだよな。


一色「なに言ってんですか、気合いですよ、気合い。それに私、こう見えて、身体だけは丈夫なんです。風邪だって滅多引きませんし」

エヘンとばかり薄い胸を張るが、残念ながら由比ヶ浜を前にして、とてもではないが自慢になるようなシロモノでもない。
それにそれ、健康以外に取柄がないってことになんじゃね?

だいたい、気合いだ、気合だってお前アニマル浜口かよ。
そういう気合いだの根性だのやる気出せだのっていう前時代的な体育会系の精神論が罷り通ってるからブラック企業がなくならないんだっつーの。


八幡「ふぅ。いいか一色? バカは風邪引かないんじゃなくて、自分が風邪を引いたことに気が付かないだけなんだぞ? なぁ?」

結衣「 ……… え? あ、うん、そうだね。アハハ …… って、あたしっ? 何であたしに振るしっ?!」


うんうん、相変わらず由比ヶ浜は期待通りのアホな反応を見せてくれるな。親や教師の期待は裏切りまくってるかも知れないけど。


858: 1 2017/01/23(月) 01:32:56.90 ID:c1Gmanau0

ふと目を向けると、雪ノ下だけは会話に加わることなく、そんな俺たちをまるで淡雪のように脆く儚い笑みを浮かべて見ている。


八幡「あー…、そんなことより一色、お前、部活の方はいいのか?」


別に一色を邪魔者扱いするつもりはないのだが、やはり、今日こそは三人でちゃんと話しをしておいた方がいいだろう。
俺はなるたけ角が立たないように、それとなく一色に退室を促す。


一色「はい、今日は珍しく葉山先輩もお休みみたいなんで、生徒会の仕事があるからって抜けてきちゃいました」

葉山という言葉に、雪ノ下と由比ヶ浜がピクリと微かな反応を示す。一色はそれをどうとらえたものか、

一色「あ、大丈夫ですよ。マネージャーは他にもいますし、メンドクサイことは全て戸部先輩に押し付け …… じゃなかった、お願いしときましたから」

慌てて付け加える。

相変わらず戸部はマネージャーにさえ、いいようにコキ使われているらしい。見かはウザイが、人は好いんだな、きっと。いやアイツのことはよく知らんけど。

八幡「ならその生徒会の仕事はどうしたんだ? 確か今時分は卒業式やら入学式の準備で生徒会も色々と忙しいんじゃねぇのか?」

一色「ご心配なく。そっちは副会長くんと書記ちゃんにお任せしてありますから」

きゃるんとばかりの笑顔で答えてはいるが、言ってることもやってることもかなりアレだ。

おいおい、こんなのが生徒会長でこの学校、ホントに大丈夫なのかよ。つか、誰だよいったいこんなヤツに生徒会長やらせたの。俺でしたねそう言えば。


859: 1 2017/01/23(月) 01:34:20.09 ID:c1Gmanau0

一色「ところで ……… 」


紙コップの紅茶をズズズと音を立てて啜りつつ、ひと息ついた一色が何事が思い出したかのように切り出す。

俺も一色を追い払うのを諦めて、仕方なく反省文の作成に意識を戻す。

それに、こいつがいるだけでも三人だけよりか多少なりとも張り詰めた場の空気が和らぐような ―――



一色「 ―――――― 雪乃先輩、留学するんですか?」



ふひっ


その瞬間、素で鼻が鳴ってしまった。



いきなり核心をついてきやがって、こいついったいなんなの? 鉄の心臓? もしかしてカバネなの?


860: 1 2017/01/23(月) 01:41:42.59 ID:c1Gmanau0

結衣「えっ?」


一色の言葉に、由比ヶ浜がぴくりとして雪ノ下と俺とを交互に見る。


雪乃「 ……… こほんっ、一色さん? その話いったい誰から聞いたのかしら?」

そう言いながらも、雪ノ下の疑いの目が真っすぐに俺へと向けられている。

いや、俺じゃないから、全然違うから、それ誤解だから、無罪だからと、ありったけの意思を込めてふるふると首を振って見せたが、納得したかどうかはかなり怪しい。


一色「そんなの誰だっていいじゃないですか、それよりそれ、ホントなんですか?」

一色がしらっと受け流すと、暫く躊躇っていたが、やがて諦めたかのように溜息をひとつ、


雪乃「 …… ええ。本当の話よ」 雪ノ下が静かに答える。


結衣「 …… で、でも、それって、すぐ帰ってくるん …… だよね?」

由比ヶ浜の声に縋るような色が滲む。


―――― だが、雪ノ下は黙したまま答えない。



固唾を飲むようにして彼女の返事を待つ俺達の耳に、ごめんなさい、と消え入るような小さな声だけが聴こえてきた。

866: 1 2017/01/24(火) 01:39:36.05 ID:4S56k3qM0

雪乃「本当はあなたたちにはもっと早く告げるべきだったのでしょうけれど」

雪ノ下が申し訳なさそうに言葉を継ぐ。


結衣「どう …… して?」

雪乃「 ……… 前々から考えてはいたのだけれど、家のことで色々とあって、それで急に」



結衣「嘘っ!」



たどたどしい弁解に、由比ヶ浜がそれを虚言であると喝破する。

雪ノ下はそんな由比ヶ浜を真っ直ぐに見ることができず、ただ黙ってその美しい面(おもて)を俯けた。

彼女の口ぶりからして全てが嘘という訳でもないのだろう。だからといって、やはり真実を全てありのままに告げているとも思えなかった。


867: 1 2017/01/24(火) 01:42:08.19 ID:4S56k3qM0

結衣「それって、この間のことと何か関係あるんでしょ?」

一色「 …… この間のこと?」

一色の傾げた首の角度が更に深くなり、床とほぼ平行になる。


由比ヶ浜の問いに雪ノ下は答えない。だが、答えないこと自体が既に答えになっていた。


結衣「それに、隼人くんとのことだって …… 」

一色「隼人くんって ……… 葉山先輩?」


葉山の名を聞いて、今や一色の首は、あたかも地下闘技場でガングロ三つ編みお下げ髪の中国人拳法家を肩車したロシア人サンビストの如き様相を呈す。

そしてそのまま俺に問いかけるような視線を送ってきた。って、それ怖いからやめろ。

868: 1 2017/01/24(火) 01:43:31.97 ID:4S56k3qM0

結衣「どうして …… ちゃんと話してくれないかな …… あたし、ゆきのんのこと友達だと思ってたのに …… 」

責めるかのような口調に静かな怒りが混じる。


だが、雪ノ下はやはり黙したまま何も語らない。語りたくても語れない、まるで語るべき言葉そのものを持たないかのように。


結衣「ヒッキーはそれでもいいの?」

縋るような視線が今度は俺に向けて問うてきた。


八幡「 …… いいとか悪いとかじゃなくて、本人が決めたことだろ」


返す言葉は紋切型。しかもその答えは由比ヶ浜ではなく雪ノ下に向けて聞かせるためのものだった。或いは自分自身にかも知れない。


869: 1 2017/01/24(火) 01:45:49.22 ID:4S56k3qM0

大人とは言えないまでも、俺達はもはや子供と言えるような歳でもない。
それがどのような理由、どのようなやり方であれ、自分で決めたことは最後まで自分で面倒を見るべきだろう。

寄る辺をもたない孤高の魂は、己以外を頼みとしない。

誰が、いつ、決めたというわけではないが、それが俺たちの共通の認識であり、暗黙の了解だったはずだ。

そしてそれが、全ての面において全くといいほど異なる、俺と雪ノ下の唯一共有する自分の生き方に対する矜持であり、信念でもある。

だからこそ、今更私情でそれを曲げる訳にはいくまい。それをしてしまったら、なし崩しのうちに全てが曖昧になり、嘘となり欺瞞と化し、俺と彼女を繋ぐであろうたったひとつの絆さえも消えて失ってしまうような気がした。


何よりも、それはもう俺の求めてやまなかったはずの"本物"とは言えまい。



870: 1 2017/01/24(火) 01:47:32.39 ID:4S56k3qM0

結衣「あたしは絶対にイヤ。それって絶対に間違ってる」

由比ヶ浜は目に涙を溜め頑なに拒む。

彼女の言う“間違い”とは、家庭の事情で留学せざるを得ない状況に追い込まれた雪ノ下の境遇を指してのことなのだろう。

それは正論であり、純粋に正しい。

だが、正しければそれで全てが通るわけではないのもまた事実だ。道理を引っ込めてでも無理が罷り通ってしまうのがこの社会の摂理であり現実である。

そしてこの現実社会において自分を曲げなければならないのは決して間違っている方ではなく ――― 常に力が弱く、立場の劣る方なのだから。


872: 1 2017/01/24(火) 01:50:04.54 ID:4S56k3qM0


一色「 ――― なるほど、よく分かりました」


俺達の会話を耳を欹(そばだ)て、何事か想い巡らせていたらしい一色が口を開く。

まだ抜けきらない幼さの名残があるとはいえ、生徒会長としてそれなりの場数を踏んできただけあってか、彼女の声には俺達の注意をひきつけるだけの厳かな響きがあった。

一色は、雪ノ下、由比ヶ浜、俺の顔を順繰りに見回し、再度その目を雪ノ下へと向けた。

その顔に、俺の知らない尖鋭な色を帯びる。 そして ――― 、



一色「 ―――  だったら、雪乃先輩がいない間に私が先輩と付き合うことになっても構わないってことですよね?」




その口から発っせられたのは、紛れもなく雪ノ下と由比ヶ浜に対する一色からの宣戦布告だった。


879: 1 2017/01/26(木) 01:52:34.44 ID:H9uDeGTj0

まるで不意打ちの如く放たれた一色の爆弾発言に俺たちはこぞって言葉を喪ってしまう。


一色「どうなんですか、雪乃先輩?」


更に畳みかけるかのような追及に、


雪乃「それは ……… 」


返す言葉に詰まった雪ノ下が困惑の表情を浮かべて俺の顔をそっと窺う。


一色「 ――― ほら、やっぱり」


そんな雪ノ下を見ながら、一色は呆れたように首を振る。


880: 1 2017/01/26(木) 01:55:50.98 ID:H9uDeGTj0


一色「自分が諦めればそれで全てが丸く収まるだなんて、思い上がりもいいところですよ。だいたい … 」


八幡「ちょ、ちょっと待て一色」 

更に言い募ろうとする一色を慌てて俺が遮る。


一色「先輩は関係ないので黙っててください!」

八幡「 ……… いや、関係ないって …… でもそれ俺のことだよね?」


一色「はぁ? んなワケないじゃないですか! この場合、先輩って言ったら葉山先輩のことに決まってます」

何言ってんのコイツみたいな顔でバッサリと斬って捨てやがった。


八幡「ですよねー…」


だからカラスに荒らされて路上に散らばる生ゴミを見るような目を俺に向けるのやめてくれません? 確かに目は腐ってるかも知れませんけど。


881: 1 2017/01/26(木) 01:58:08.98 ID:H9uDeGTj0

八幡「 …… つか、なんでお前こんな時まで俺の事"先輩"としか呼ばないわけ? 紛らわしいだろ」 

もしかしてこいつもまだ俺の名前覚えてないとか? まぁ慣れてるからいいんですけどね。

俺が不平を漏らすと、今度は一色の怒りの矛先が俺へと向けられる。

一色「だったら、もし私が先輩のこと名前で呼んだら、先輩は私のこと、いろはって呼んでくれるんですかっ?!」

八幡「えっ?! なにそのぶっとんだ等価交換?!」

っていうかもうそれ逆ギレってレベルじゃねぇだろ? 


882: 1 2017/01/26(木) 02:01:04.84 ID:H9uDeGTj0

一色「だって、なんかホンっト、ムカつくんですよ。みんなカッコばっかりつけちゃって」

いつになく辛辣な一色の言葉に、だが、誰一人返す言葉もない。そんな俺たちに一色は更に容赦のない言葉で攻めたてる。

一色「自分の気持ちだってちゃんとわかってないのに、相手の意思を尊重するなんて」

一色「綺麗ごとばっか並べ立てて、おままごとみたいなことやって、友達だからって譲り合って遠慮して本音も言えなくて ……」


次第にその言葉が湿り気を帯び、


一色「 ………… 私が、私がいったいどんな想いで」


それ以上言葉を続けることができず、ぐしっとしゃくりを上げたかと思うと、その大きな瞳が潤み、やがて限界を超えたのか大粒の水滴がポロポロと零れ落ちる。



雪乃「一色さん、もしかして、あなた …… 」


口にしかけた言葉を途切らせ、雪ノ下は再度躊躇いがちに俺に目を向けるが、結局何も言わずにそのままその視線を膝の上に重ねて置かれた自分の手へと落とした。




883: 1 2017/01/26(木) 02:02:37.05 ID:H9uDeGTj0

一色「もう留学でもなんでもすればいいじゃないですかっ! 勝手にしてくださいっ! 私も勝手にさせてもらいますからっ!」

捨て台詞を残し、椅子を蹴立てるようにして立ち上がると一色はそのまま小走りに部室から立ち去る。

聞こえよがしに激しく扉を閉める音がして、暫くはパタパタという足音が廊下から聴こえていたが、やがてそれも次第に小さくなり、部室は再び静寂に包まれた。



結衣「 ……… ねぇ、ゆきのん」

ややあって、由比ヶ浜がおずおずと口を開く。



結衣「 ――― もうゆきのんの気持ちだけでどうにかなる問題じゃないんだよ?」



優しくひっそりと告げる彼女の顔には、透明で、淋しそうな笑みが浮かんでいた。


884: 1 2017/01/26(木) 02:04:53.51 ID:H9uDeGTj0


ガタリッ


鞄を手に不意に立ち上がった俺にふたりの視線が集まる。


八幡「 ――― 俺も今日はもう帰るわ。入試の結果出るまで小町も家にいてひとりじゃ不安だろうし」


嘘である。

小町は前期選抜を終えた途端、自己採点の結果がよほど芳しかったのか、家に帰るなり腰に手を当て「勝ったな!ガハハ」と高笑いで意味不明の勝利宣言。
その後もずっと余裕をかましており、早、お寛(くつろ)ぎモードである。
後で泣きを見ることにならなければいいのだが、それは言わぬが花だろう。ま、いざとなったら後期もあるしね!


この機会にもう一度ふたりでゆっくり腹を割って話し合った方がいいだろう。
俺がいたら言えないこともあるのかも知れないし、俺の場合、腹を割るときは自腹を切るか詰め腹を切らされる時と相場が決まっている。

それに、俺もひとりで色々と考えなければならない事があった。結論を出すのはそれからでも決して遅くはあるまい。


885: 1 2017/01/26(木) 02:07:06.02 ID:H9uDeGTj0

八幡「じゃあ、また明日、な」

「ええ」「また明日ね」俺の挨拶にふたりがおずおずと応じる。


――― また明日、か。


永遠に繰り返されると錯覚していたその“明日”もいつかは必ず終わりの日を迎える。

そんな当たり前の現実に今更のように気がつく。


放課後の誰もいない特別棟の廊下で、寒さで白く靄(もや)る溜息をみつめがら、俺の心は千々に乱れていた。


890: 1 2017/01/27(金) 23:30:24.50 ID:0wVUU5zq0

俺が早々に部室を抜け出したのは、実はもうひとつだけ理由(わけ)があった。

廊下に点々と残された痕跡を辿ると、果たして部室から少しばかり離れた廊下の一角で、ひとり壁を背に俯いたまま佇む小さな姿が見つかる。

制服の袖口から覗く、余らせたセーターの袖で拭っても拭っても、後から後から止めどもなく溢れ出す涙のせいで、足元には無数の水滴が散らばっていた。

俺はその小柄な人影に向けてそっとハンカチを差し出す。


八幡「ほれ」


すると、その小さな影 ――― 一色いろはが驚いてぱっと顔を上げた。


891: 1 2017/01/27(金) 23:31:55.37 ID:0wVUU5zq0


一色「 …………  あの、それ」


俺とハンカチを交互に見ながら、一色が少しだけ戸惑ったような表情を浮かべる。

どのような状況であれ誰に対してであれ、甘え慣れしたこいつが他人に気兼ねするなんて滅多にないことだ ―― というか、らしくない。

慣れない行為にいささか態度がぶっきら棒になるのを自覚しつつも、俺は再度一色に促す。


八幡「いいから使え」 


一色「あ、いえ、そうじゃなくって ……… ちゃんと洗ってありますかって意味なんですけど」

八幡「 …… そっちかよ」


892: 1 2017/01/27(金) 23:33:04.33 ID:0wVUU5zq0

すびばせん。一色は鼻声でぽしょりと漏らすと、おずおずと手を伸ばして俺からハンカチを受け取り、



一色「んぶっ、ち ―――――――――――― ん!」


いきなり他人のハンカチで思いっきし鼻をかみやがった。


一色「んぶぶぶぶぶ ―――――――――――― っ !」


しかも更にもう一度。遠慮ねぇなこいつ。


一色「あじがとございばす。ごれ、洗っで返じまずがら」


八幡「 ……… いいよ、やるよそれ」



893: 1 2017/01/27(金) 23:35:57.16 ID:0wVUU5zq0


一色「 …… あの、おふたり …… は?」

そっと辺りを見回しながら、躊躇いがちに訊いてくる。

八幡「あいつらならまだ部室だ。俺は一足先に帰らせてもらうことにした」

一色「もしかして、私のため、ですか?」

八幡「 …… 別にそういう訳じゃねぇから」

しらばっくれはしたが、うまく誤魔化すことができたとは思えない。

だが、一色はそれ以上深く追及することなく、その代わりに


一色「先輩おひとりだけ蚊帳の外でいいんですか?」 心配そうな顔で尋ねる。

八幡「大抵の場合、蚊帳の外が俺の指定席みたいなもんだからな」

一色「なんですかそれ」

そう言って今度はおかしそうにクスクスと小さく笑った。


894: 1 2017/01/27(金) 23:40:28.61 ID:0wVUU5zq0


――― ホントはさっき、職員室で偶然小耳に挟んだんです。そしたら居ても立ってもいられなくなって。


まるで言い訳するかのように、一色がぽつりぽつりと語り始める。

それが雪ノ下の留学のことを言っているのはすぐにわかった。どうやらサボリというのは口実で、実は俺たちの様子が心配でわざわざ部室まで見に来てくれたらしい。

一色の心遣いに、胸の奥がじんわりと温かいもので満たされる。


八幡「一色」

一色「はい?」

八幡「 ……… その、ありがとうよ。心配してくれて」///

人差し指で頬を掻きながら慣れない礼を口にすると、一色は少しだけ驚いたような素振りを見せ、次いでぽうっと頬を赤らめた。

しかしすぐに、


一色「はっ? もしかしてそれ、情で絆(ほだ)して私のこと口説こうとしてます? 確かにちょっといいかなとか思いかけたこともなきにしもあらずですがでもやっぱりちょっとだけなんで口説くんならその前に先ず先輩の広範な女性関係全部清算してからにしてくださいごめんなさい」

勢いよく早口で捲し立て、そのままぺこんとひとつ頭を下げる。



八幡「 …… お前ってホンットいい性格してるよな」

一色「ええ、みんなからよく褒められます」


八幡「 …… いやそれ全然褒めてねぇから」


895: 1 2017/01/27(金) 23:42:43.28 ID:0wVUU5zq0


一色「あ、でも先輩に優しい言葉かけられたら、なんだかまた泣きそうになってきちゃいました。スミマセンが、ちょっとだけ後ろ向いててもらっていいですか?」

ぐすんとひとつ鼻をすすりを上げる。


八幡「 …… お、おう。そうか、そりゃすまん」

今更という気もしないでもないのだが、やはり年頃の女の子としては自分の泣き顔を男に見られるのが恥ずかしいのだろう。

ウソ泣きを含めて妹の小町の泣き顔をさんざっぱら見て育ってきた俺としては、滅多なことでは女の子の涙には騙されないし、例え目の前で女がギャン泣きしても平気で無視する自信すらあるのだが、だからといってこんな時のエチケットを忘れるほど無神経でもヤボでもないつもりだ。

言われるがままに、そのままくるんと一色に背を向けると、



とん



後ろから軽い衝撃を受け、背中に温かくて柔らかな感触が伝わってきた。


八幡「ちょ、ちょっと待て、お前 …… 」/// 当たってる当たってるって、当たってないけど。


一色「 ……… いいんです」

八幡「なにがいいんだよ?」///



一色「 ……… どうせ私はこれ以上先輩には近づけないんですから」 



896: 1 2017/01/27(金) 23:45:05.20 ID:0wVUU5zq0


一色「 ――― ねぇ、先輩?」


やや間を置いて、一色がそのまま背中越しに語りかけてくる。


八幡「 ……… なんだよ?」


一色「 ――― もし、もしですよ? もし私が、もうひと月早く生まれてて、もう少し先輩と早く出会っていたら …… 」


そっと一色の寄せてくる頭の重みが加わり、耳に届く切なげな溜息が微かに滲む。

伝わってくる鼓動は、俺のものか、それとも一色のものなのか。

胸の奥がぎゅっと狭まる感覚に面映ゆくなった俺は、ついそれを誤魔化すかのように、いつもの調子で捻た軽口を叩く。


八幡「 ……… 案外、お前のことだから、俺のことなんて全然気にも留めなかったんじゃねぇのか?」


例え見えなくとも、一色がふっと笑うのが気配で伝わってきた。


一色「 ……… 言われてみれば確かにそうかも知れませんね」

八幡「 ……… いや、そこは一応、否定しとこうぜ?」

897: 1 2017/01/27(金) 23:48:39.53 ID:0wVUU5zq0

やがて、気持ちも落ち着いたのか、一色が俺の背中を押すようにしてそっと離れる気配がした。


一色「さて、じゃあ、私、顔を洗ってメイク直してから生徒会室に戻りますので」

振り向いた俺に、まるで照れ隠しのように生真面目な声で告げる。


八幡「お、おお。そうか」 

いろいろ大変なのね、女の子って。でもうちの学校、原則化粧禁止じゃありませんでしたっけ?


一色はそのまま後ろ手を組んで数歩下がると、ひょこりと上体を倒した姿勢で下から俺を覗き見る。



一色「見つかるといいですね、先輩の"本物"」

八幡「 ……… そうだな」



そして、いつもより少しだけ大人びた笑みだけを残し、スカートの裾を翻すようにして俺に背を向けると、そのまま小走りでその場から立ち去った。

その姿が角を曲がって消えるまで見送ってから、俺も生徒昇降口へと足を向ける。


吹き付ける風に震える窓の音を耳にしながら寒々とした廊下を通り抜ける俺の背中には、いつまでも淡いぬくもりが残っているような気がした。


904: 1 2017/01/28(土) 22:29:33.70 ID:YAtuVJVD0

由比ヶ浜にああは言ったものの、俺も全てが納得ずくというわけではない。

というか、腑に落ちない点はそれこそ山のようにある。雪ノ下らしからぬ、あまりにも煮え切らない態度もそのひとつだ。

何か重要なことを見落としているのではないか ――― ひとりでゆっくりと考えたいと思ったのもそのためである。


実はもうひとり、今回の件についての重要なカギの握っているであろう人物に心当たりがある。あるにはある。
あるにはあるのだが、正直言ってその相手にコンタクトをとること自体、あまり気乗りがしなかった。

いずれは必ずやらなければならないと分かっていても、気乗りしない仕事に対する腰の重さはやはりちょっと異常。

その人物に会うという行為そのものが、まさにそういった類の仕事以上に気乗りしないタスクと言えた。

もっとも俺にとっての仕事は大抵の場合において優先順位が低く、かつ“気乗りしないもの”の部類に入ることは最早言うまでもない。

履歴書の職業欄が常に"くうはく"の俺に"労働"の二文字はないのだ。


905: 1 2017/01/28(土) 22:32:34.29 ID:YAtuVJVD0

だが、幸か不幸か究極の護身体質の完成している俺としては、恐らく敢えて避けるまでもなく、余程のことでもない限りその人物とどこかで偶然ばったり出会うようなことはないと思われた。

そういった意味では究極の独身体質の完成している平塚先生が決して運命の人に出会う事ができないのに似ているのかもしれない。


これからどうしたもんかと考えあぐねいているうちに、


ン・ヴヴヴヴ … ン・ヴヴヴヴ …


不意に俺のスマホのバイブがメールの着信を告げた。

自転車を止め、ポケットから取り出してメールアプリを起動する。ポチっとな。



906: 1 2017/01/28(土) 22:33:46.17 ID:YAtuVJVD0

-------------------------------------

差出人:小町

件 名:無題

本 文:

ポンデリングとオールドファッションを所望

------------------------------------


907: 1 2017/01/28(土) 22:35:15.48 ID:YAtuVJVD0

…… な ――― んじゃそりゃ。

つか、何言ってんのこいつ? ミスドなんて正反対の方向だろ。ざけんなっつーの。家でゴロゴロしてるヒマがあんだったら、自分で買いに行けよな。

それになにこの無題って。倦怠期の夫婦じゃあるまいし。兄に対する愛もリスペクトもまるで感じられない。

呆れ果てて、何も返信せずにスマホを仕舞おうとすると、再度着信のお知らせ。


908: 1 2017/01/28(土) 22:35:53.02 ID:YAtuVJVD0

-------------------------------------

差出人:小町

件 名:無題

本 文:

お願い、お兄ちゃん(はぁと

-------------------------------------


909: 1 2017/01/28(土) 22:37:22.20 ID:YAtuVJVD0

うんうん、仕方ないよね。だって可愛い妹のためだし?

それになんてったって、俺、お兄ちゃんだもんね?

我ながらさすがにちょっとチョロすぎるのではないかとも思うのだが、妹を持つ千葉の兄なんて大抵はそんなものである。

再びベダルを漕ぎ始めた俺の自転車は、ミスドに向かってハンドルが切られていた。


910: 1 2017/01/28(土) 22:39:34.81 ID:YAtuVJVD0

テキトーなスペースに自転車を止めて店内に入ると、温かな空気とともに、見る度に思わず"ぽぽぽぽーん♪"とか口ずさんでしまいそうになるような、超ゆるいデザインのポンデライオンが俺を出迎える。

小町に頼まれたテイクアウトの分とは別に、自分の分のドーナツも選んでると、無意識のうちに、ついいつもの癖が出て、意味もなく手にしたトングをカチカチと鳴らしてしまう。
なんならふたつもって、"バルタン星人"とかやりたくなるまであるのだが、そこはぐっと我慢の子であった。

小腹も空いたことだし、晩御飯にはまだ間があるので、自分の分は店内で食べて帰ることにする。




911: 1 2017/01/28(土) 22:49:22.71 ID:YAtuVJVD0

レジで並んで待つこと暫し、会計を済まして店内を見回すと、テーブルは既に満席の状態。
それではと窓際のカウンター席を見れば、幸いなことにそちらはまだいくつか空席が残っている。

本来ならば周囲をよく確認してから席に着くのだが、色々あって考え事に気を取られていたせいもあってか、迂闊にもそのまま空いてる席へと直行してしまう。

ひとつ置いて隣の椅子には、座していてもそれとわかるほどのナイスバディな若い女性。それも、さほど俺と歳も離れていないであろうキレイ系のお姉さんだ。

カウンターの下、膝丈のミニスカートから伸びる黒タイツに包まれた形の良い脚についつい目が奪われてしまう。

俺の視線に気が付いたのか、その女性がこちらに向けて、ついと首を巡らせた。

オサレなサングラスで隠されてはいるが、恐らく、いや間違いなく、超のつくほどの美人であることが察せられた。



「 ――― おや、珍しい顔だ」



どこかで聞いたことのある、澄んだ鈴の音のような声が俺の耳朶を打つ。

それと同時に、なんとも形容のしがたい既視感に襲われ、俺の背筋をぞくりと悪寒めいたものが縦に走り抜けた。

遅まきながら、俺の頭の片隅で第六感が激しく警鐘を打ち鳴らしているのをぼんやりと認識する。


そして――― 、


女神のように美しく整った顔にまるで正反対の小悪魔めいた笑みを浮かべ、件の雪ノ下雪乃の姉にして強化装甲服(プロテクトギア)並みの外面を誇るその女性、



――― 雪ノ下陽乃が、ゆっくりと、ずらしたレンズ越しにその美しい瞳をのぞかせた。



917: 1 2017/02/01(水) 01:31:27.53 ID:lqiAAp5Y0

陽乃「 ――― こらこら、少年、どこへ行く?」


咄嗟に回れ右をして可及的速やかにその場から立ち去ろうとした俺を陽乃さんが呼び止める。


八幡「や、ちょっと向こうの席に友達を見かけたんで」

陽乃「へぇ。いたんだ、友達?」

八幡「いえ、友達はいませんけど、友達の友達なら多少は …… 」

陽乃「 ……… それって、論理的に破綻してない?」


918: 1 2017/02/01(水) 01:33:23.20 ID:lqiAAp5Y0

陽乃「もしかして比企谷くん、私のこと避けてる?」

向けられている視線は上目遣いのはずなのに、感じるのはなぜか上から目線と同等か、もしくはそれ以上の威圧感(プレッシャー)。

八幡「別に意識して避けてるってわけじゃないです。できれば避けたいとは思ってますけど」

陽乃「あら、言ってくれるわね」

八幡「あ、いや、えっと、そうじゃなくて、ほら、よくあるでしょ、その、知らない女子に話かけられて、つい裏返った声で返事しちゃったら、実は声をかけられてたのは隣の人でした、みたいな」

慌てて言い訳らしきものを連ねると、

陽乃「ふーん」 それで? とばかりに陽乃さんが目で続きを促す。


八幡「 …… なにあのひとキモくないホントキモいよね今すぐ死んでくれないかしらそうですか生まれてきてどうもすみません、みたいなぼっちあるある黒歴史」

陽乃「 ……… 普通はさすがにそこまでないと思うけど」


919: 1 2017/02/01(水) 01:36:14.66 ID:lqiAAp5Y0

八幡「あー…、ところで、いったいこんな処で何してるんですか?」

つか、なんでここにいんだよ。偶然にしたって、いくらなんでもタイミング良すぎて運が悪すぎだろ。


陽乃「待ち伏せ …… じゃなかった、待ち合わせ、かな」

八幡「 ……… 今なんかさらっと怖い事言いませんでしたか?」

この人の場合、いったいどこまで本気で言ってるかわかんないから余計に恐ろしいんだよな。


陽乃「 ――― と言っても、もうとっくに約束の時間は過ぎてるんだけど」

頬杖をつきながらその美しい愁眉寄せ、いかにも気怠げに左手の腕時計にチラリと目を遣る。

逢う度に妙なハイ・テンションで過剰なスキンシップを仕掛けてくるのがこの人の常だけに、今日のようなアンニュイな雰囲気はごく珍しい。また、逆にそれがいつになく落ち着いた大人の女性の色気を醸していた。

もっとも、アレだってその理由が単に"嫌がる妹を見てて楽しいから"という一語に尽きるのだから、この姉ちゃん、妹の嫌がらせするためだけに、いったいどんだけ身体張ってんだよって感じだ。


920: 1 2017/02/01(水) 01:38:20.30 ID:lqiAAp5Y0


陽乃「 ――― 気になる?」 

不意に悪戯っぽく、なにやら含みのある笑みを浮かべて秋波を送ってきた。恐らくは待ち合わせの相手のことを言っているのだろう。


八幡「 ……… まぁ、正直、気にならないと言えば、嘘になりますね」

陽乃「へぇ」 

自分で聞いておきながら俺のその答えがよほど意外だったのか、少しばかり驚いたような様子を見せる。


八幡「あなたを待たせるだなんて、よっぽど肝が据わった方なんですね ……… それってやっぱり宮本武蔵とかですか?」

陽乃「 ……… どうやら比企谷くんの私に対する認識を改めておいた方がよさそうね」


921: 1 2017/02/01(水) 01:41:26.46 ID:lqiAAp5Y0

陽乃「立ち話もなんだから座れば?」 

そう言って、片手で隣の空席を指し示す。

いつもであれば超テキトーに理由をデッチ上げるなりなんなりして固辞するところなのだが、俺の方でも彼女に聞きたいことがある。

かといって素直に隣にかけるのもなんかアレな気がしたので、ささやかな抵抗と抗議の意思を込め、わざとひとつ空けた席に腰かけた。うわ何こいつ我ながら超メンドくせぇ。

だがしかし、敵も然る者引っ掻く者で、あねのんはそんな俺の行動を予め見越していたかのか、当然のように隣の席に移って来る。

陽乃「よっこいしょーいち」

え? なにそれもしかして若い女性の間で流行ってんの? 俺が知らないだけ?

しかも必要以上に身を寄せてきたせいで、彼女の足が俺のそれにぴったりとくっついたのにも、まるで素知らぬ顔だ。


八幡「 ……… あの、ちょっと近すぎやしませんかね?」

陽乃「あら、もしかしたら膝の上の方がよかった?」 ぐっと顔を寄せた顔を、こてんと倒して下から覗き込む。


八幡「 ……… いえ、このままで結構です」 なんなんだよ、この人。



922: 1 2017/02/01(水) 01:48:09.33 ID:lqiAAp5Y0

ふと陽乃さんの目の前に置かれた本に目が止まった。恐らく先程まで読んでいたものなのだろう。

八幡「読書中 …… だったんですか?」

そういえば雪ノ下もよく部室で文庫本を読んでいる。

陽乃「血筋、かな。うちのお母さんも本が好きで、時間さえあれば自分の書斎に籠ってるくらいだから」

自分の書斎があるとか、どんなセレブな家庭なんだよ。
うちのオヤジなんて自分の部屋どころか、たまの休日、家にいても居場所すらない。


八幡「なに読んでたんです?」 

ちょっとした興味本位で尋ねてみる。

陽乃「"正しい飼い犬の躾方"」

八幡「犬、飼ってるんですか?」

確か雪ノ下は犬が大の苦手だったはずだ。


陽乃「これから飼おうかと思って?」

となると、単なる妹に対する嫌がらせなのかもしれない。この人ならマジでやりかねない。

八幡「犬なんか飼って平気なんですか?」

妹の好きなものならともかく、嫌いなものや苦手なものをこの人が把握していないわけがあるまい。揶揄の意味を込めてそう訊くと、


陽乃「あら、犬は好きよ。だって、大抵の男より賢いし、飼い主に忠実だもの」 何食わぬ顔をして答えた。

八幡「 ……… なんか理由が怖いんですけど」


923: 1 2017/02/01(水) 01:49:59.36 ID:lqiAAp5Y0

八幡「あの、ところで雪ノ下さん …… 」 

陽乃「だから私の事は"陽乃"でいいって、いつも言ってるじゃない。もしくは義姉さんでも可。というか、むしろそちらを強く推奨?」

八幡「や、うちには超可愛い妹がいるんで、もうそれだけで充分過ぎるくらい間に合ってますから」 むしろお釣りが来るくらい。

でも毎度思うんですけど、できたら冗談はそのチートみたいなスペックと強化外骨格並みの外面だけにしてもらえないもんですかね。


八幡「こほんっ ……… 、えっと、雪ノ下さん …… ?」

陽乃「キミも相変わらず強情だねぇ」

何がおかしいのかクスクスと小さく笑うと彼女の耳のピアスに店内の照明を反射して、キラキラと揺れて光が弾けた。


924: 1 2017/02/01(水) 01:52:30.53 ID:lqiAAp5Y0


陽乃「 ――― で、比企谷くんとしては、私に何か聞きたいことでもあるんじゃないの?」

さんざっぱら自分で話をはぐらかしておいて、今度はいきなり彼女の方から俺に水を向けてくる。どうやら全てお見通しということらしい。


八幡「雪ノ下 …… いえ、あの、妹さんの留学の件についてなんですけど、もしかしてあいつから何か聞いていたりとかしてます?」

これ以上彼女のペースに巻き込まれないように、俺が慎重に言葉を選びつつ恐る恐る尋ねると、


陽乃「そりゃ家族だもの、もちろん聞いてるよ。色々と、ね」


そう言って、陽乃さんは俺に向けて、いかにも意味ありげな流し目を送って寄越した。


928: 1 2017/02/04(土) 17:23:29.67 ID:6FGIF5f60

陽乃「そう言えば、この間はなんか邪魔しちゃったみたいでゴメンね」

そのまま雪ノ下の留学の件に話が及ぶかと思いきや、陽乃さんはいきなりまた違う話題を振ってきた。

もしかしてこの人、俺を焦らして楽しんでいるのかも知れない。


八幡「あ、いえ …… 」

その彼女の宣う“この間”が、恐らくは先日の〇西〇海〇園のことであろうことは容易に察しがつく。
あの時の電話はやはりこの人からだったのだろう。


八幡「お父さんの具合、いかがなんですか?」

その辺りに関してはデリケートな話題だけに、雪ノ下からも詳しくは聞いてはいない。


陽乃「あら、“義父さん”だなんて、随分気が早いのね」

八幡「 …… そう言う意味じゃありませんから」

話が全然進まねぇだろ。


陽乃「 …… ふーん、でも、ってことは、やっぱりあの時はガハマちゃんと三人一緒だったんだ? 電話の向こうからなんとなくそんな気配伝わってきたし?」

おっと、どうやらカマをかけられていたらしい。これだからこの人は油断できない。

特に否定も肯定もしなかったが陽乃さんはさして気にする風でもなく、

陽乃「お陰様で大事なかったよ。ちょっとした過労みたいだね。ほら、知っての通りうちのお父さん二足の草鞋履いてるし」

それに最近は議員に対する世間の風当たりも何かと強いからね、と難しい顔で小さく付け加える。


929: 1 2017/02/04(土) 17:26:08.08 ID:6FGIF5f60

陽乃「それで、三人で何をしてたの?」

あねのんの目が興味深げに輝く。

八幡「いえ、別に …… フツウに遊んでただけですよ。水族館でネコザメの背中撫でたり、ハンマーヘッドシャークの前でインスタ撮ったり、三人で観覧車乗ったり」

陽乃「へぇ、写真なんて撮ったんだ。見せて見せて」

普段なら自分の写った写真を他人に見せることなど滅多ないし、それ以前に見せてくれと頼んでくるような相手からしていないのだが、この後の情報収集をできるだけスムーズに進めたいという思惑もあって渋々ながら譲歩する。


八幡「見て面白いもんでもないですよ。写ってるのも俺だけですし」

一応断りを入れてから画像を呼び出したスマホを差し出すと、

「ふーん、どれどれ」とか言いながら、受け取る際にわざわざその俺の手の上から両手を添えるようにして包み込む。

…… こういうところは相変わらずあざといんだよな、この人。



陽乃「うっわー、グロっ。……… で、どっちが比企谷くん?」

八幡「 ……… それ、わかっててわざと言ってるでしょ?」




930: 1 2017/02/04(土) 17:29:29.73 ID:6FGIF5f60

陽乃「私はてっきり、これからどうするか三人で話し合ってたのかと思ったんだけどなぁ」

インスタを眺めるふりをしながら訊くともなしに投げかけられる問い。その言葉の余韻だけが暫し宙に浮く。


陽乃「やれやれ、少しは成長したかと思えば、どうやら相変わらずみたいだね」

なんの反応も見せない俺を横目に、あねのんが呆れたように溜息を吐く。

八幡「はぁ …… まぁ …… そうですね」

確かに妹さんの方は相変わらずみたいですけど。どこがどうとは言いませんが、特に胸のあたりとか。


陽乃「キミのことだよ」

そら惚けた俺の返事に被せるようにして、ピシャリと言い放つ。


八幡「俺 ……… ですか?」

心外である。確かに学習能力は無きに等しいかも知れないが、こう見えても負の経験値だけはそれこそ過負荷を起こしそうなくらいの勢いで着実に積み上げているつもりだ。



931: 1 2017/02/04(土) 17:35:09.03 ID:6FGIF5f60

陽乃「 ――― この間お父さんが倒れた時、後援会の方から、今後もし父に万が一のことがあった場合どうするのかって話が出たの」

何気なく語り始めた陽乃さんに、俺はいささか戸惑いつつも黙って耳を傾ける。

陽乃「その場合、順当に考えれば長女である私か、もしくはその連れ合い、つまり娘婿が後目を継ぐことになるんだろうけど」

視線こそ窓の外、通りを行き交う人々に向けられてはいるが、恐らくその瞳には何も写してはいない。


陽乃「ねぇ、比企谷くん? そもそもなんであの子が今になって急に留学するなんて言い出したんだと思う?」

逸らされていたようでいて、どうやら実の処、話はずっと繋がっていたらしい。


八幡「 ……… 葉山と、とのことですか?」

陽乃「へぇ。隼人の家との関係まで知ってるんだ? なら話は早いわね」

陽乃「隼人は跡取り息子だから当然葉山家として婿に出すつもりはない。そうなると両家の間で結ばれた約束を履行するうえで、結婚相手は」

その先は杳としたままだが、言葉に出さずともその示すところは確として伝わる。


――― 当然、雪ノ下ということになるのだろう。


932: 1 2017/02/04(土) 17:38:58.52 ID:6FGIF5f60

陽乃「まぁ、こんな状況でさえなければ、私は別に構わなかったんだけどね、隼人でも」

まるで他人事のようにその口調は素っ気ない。

八幡「 …… あいつのことつかまえてそんな風に言えるのは、多分貴女くらいのものでしょうね」

冗談か本気か知らないが、もし今のセリフを三浦あたりが聞いたらいったいどんな顔をするだろう。そう考えると、こんな状況であるにも関わらず、思わず苦笑が浮かんでしまう。


陽乃「うちの親もずっと男の子が欲しかったみたいだし。まぁ、そういった意味では私も雪乃ちゃんも期待には沿えなかったわけだけど」

性格はともかく超のつく美人姉妹だ。親としても不満なんぞあるまい、性格はともかく。大事な事なんで取り敢えず2回言ってみました。


八幡「俺にはよくわかりませんが、それってやっぱり、男親としては後継ぎとなる息子が欲しかったってことなんですかね」

陽乃「ううんん」 ふるふると首を振る。

陽乃「どちらかというと、男の子を欲しがってたのはお母さんの方みたいなの」 

八幡「 …… そうなんですか」

俺なんて小町に比べたら全然いらない子扱いなんですけどね。しかもその格差は年を追うごとに広がるばかりだし。


933: 1 2017/02/04(土) 17:41:26.28 ID:6FGIF5f60

陽乃「だから小さい頃なんて隼人の事、ホンッと猫可愛がりで …… 、実の子である私の方が妬いちゃうくらいだったし。隼人の方もよくお母さんに懐いていたわ」

そう言って懐かしそうに眼を細める。
だとすれば、雪ノ下も葉山に対して何か思うところもあったことだろう、猫だけに。そっちかよ。

だが、ふたりが葉山に抱いている感情がどのようなものであれ、恐らくそこには三人が物心ついてからから今に至るまで共有してきた時間の積み重ねがあってこそのものなのだろう。

それは知り合って一年にも満たない、それこそぽっと出の俺にとってはまるで及びもつかないものである事は確かだった。



934: 1 2017/02/04(土) 17:44:33.41 ID:6FGIF5f60

ふと気が付くと、いつの間にか陽乃さんの視線は真っ直ぐに俺へと向けられていた。


陽乃「比企谷くん、あなた去年、雪乃ちゃんのマンションに寄ったことがあるでしょ?」


唐突に切り出されたその言葉に、思い当たる節があるとすればひとつ、それは文化祭の準備期間中に起きたあの時ことを言っているのだろう。
確かに俺はめぐり先輩や葉山に促されるまま、体調を崩して学校を休んだ雪ノ下の様子を見舞いに彼女の許を訪れている。


八幡「や、でも、あの時は由比ヶ浜も一緒だったし …… 」

陽乃「 ―――――― でも、帰る時は別々だった。 違う?」


八幡「 ……… 見てたんですか?」


あまりのことに唖然としてあんぐりと口を開けてしまう。つか、なんでそんなことまで知ってるんだよ。
もしかしてこの人、妹のことストーキングでもしてるの? まぁ、同じシスコンとしてその気持ちはわからんでもないけど。


陽乃「私じゃないんだけどね。 でも、キミが“ひとりで”あの子の部屋から出てくるところを偶然見た人がいるの」

八幡「 ……… まさか」

俺の記憶が確かなら、行きも帰りもマンションの住人とは誰ひとりとして顔を遇わせていなかったはずだ。



935: 1 2017/02/04(土) 17:47:36.75 ID:6FGIF5f60

陽乃「キミにひとついいこと教えてあげようか?」

彼女の言う、“いいこと”。それはつまり、間違いなく“悪いこと”だ。それも“酷く”。特に“心臓”に。


陽乃「比企谷くんは、雪乃ちゃんが今、住んでるマンションの名前、覚えてる?」

八幡「 ……… あ、いえ」

覚えてはいないが、確か横文字、それも舌を噛みそうな名前だったはずだ。


陽乃「"メゾン=サクシフラージュ"。 フランス語なんだけど」 

八幡「や、さすがにフランス語はちょっと」

英語だって十分怪しいし、なんなら他人とのコミュニケーションに限って言えば日本語でだってかなり不自由している。


陽乃「"サクシフラージュ"は日本語で“ユキノシタ”」

陽乃「 ――― あのマンション自体、うちの親の持ち物だし、経営しているのもお父さんのところの系列会社なんだよ」



八幡「それって ……… 」




陽乃「そ。つまり、管理人にも当然うちの親の息が懸かってるってこと」



936: 1 2017/02/04(土) 17:55:19.84 ID:6FGIF5f60


陽乃「 ――― ねぇ、比企谷くん」


ただでさえ思いがけない事実を耳にして暫し言葉を喪う俺に対し、陽乃さんの声のトーンが低く転じる。


陽乃「もしかして、キミも本当は薄々気が付いているんじゃないの? それともわざと気が付いていないフリをしているだけなのかな?」

何かしらの含みのあるその声音に、コーヒーカップへと伸ばしかけた俺の手が微かに震えが走った。


八幡「何を …… ですか?」

乾いてひりついた喉から絞り出す声が、自分でもそれとわかるほど不自然に嗄れる。


陽乃「わかってるくせに」


問いかけるような視線に答える代わりに、手にしたカップをそっと口に運ぶと、既に冷めはじめたコーヒーの独特の酸味が舌を刺す。

そして俺の耳に、陽乃さんの蜜のように甘く、羽毛のように柔らかく、それでいて微量の毒の含まれた声が、鼓膜にそっと絡みつくようして注ぎ込まれる。




陽乃「今回の雪乃ちゃんの留学 ―――― ホントはキミが原因なのかも知れないって」


945: 1 2017/02/06(月) 21:09:49.47 ID:bfI3Hzcw0

八幡「 …… や、さすがにそれは」


束の間、ふたりの間に落ちた沈黙を打ち消すように俺が言葉を発しかけると、


陽乃「この間も雪乃ちゃんと一緒のところをうちのお母さんに見られたんだって?」

それを遮るようにあねのんが言葉を継ぐ。


八幡「 …… え? あ、ええ、はい」

陽乃「相変わらずそいうところ、脇が甘いのよね」

誰にという訳でもなく、ぽしょりと呟く。


正直、今しがた告げられた陽乃さんの言葉だけで、もう既に俺の頭の中は真っ白な状態である。
さすがにこれ以上は勘弁してもらいところなのだが、その様子を見る限り話はまだ終わっていない、ということなのだろう。

バレンタインのイベントの帰り、あの時もやはり由比ヶ浜は一緒だったものの、さすがにひとり暮らしの娘の周りに男の影がうろついていたのでは心配するだろうと早々に退散してる。
もっとも俺の影は普段からただでさえ薄いので、ある程度高を括っていた、というのもあるのだが。


“あなたはこんなことをする子じゃないと思っていたのに”


今となって考えれば、あの時の雪ノ下母のセリフも、娘と言うよりはむしろ俺に聞かせるためのものであったのかも知れないと気がつく。


946: 1 2017/02/06(月) 21:13:49.82 ID:bfI3Hzcw0

陽乃「うちのお母さんね、私が在学中にはPTAの役員務めてたこともあるんだよ」

勿論、初耳である。

陽乃「だからその関係で、役員を降りた今でもうちの学校にはそれなりのコネクションが残ってるみたいなの」

あねのんが卒業したのは俺達と入れ替わり、つまり2年程前なのだから、彼女のことをよく知る平塚先生はもとより、当時の先生方が何人か残っていたとしてもなんら不思議はない。

陽乃「高校の先生ってつきつめれば県職でしょ?だから私の在学中の頃からお父さんが県議ってことで、その威光に縋ろうとすり寄ってくる先生もいてね」

陽乃「 ――― 今も雪乃ちゃんのことに関して訊かれもしないのにわざわざ御注進に及んでくるみたいなの」

バカみたい、と吐き捨てるように呟く。


" ――― いきなり教室になんかに来られたりしたら、また変な噂が立ってしまうじゃない"

" ――― これ以上変な噂が立たないように、別々に降りて行った方がよさそうね"


なるほど、つまりあれはそういうことだったのだろう。


947: 1 2017/02/06(月) 21:18:34.36 ID:bfI3Hzcw0

八幡「でも、まさかご両親だって噂を真に受けるほど自分の娘を信用していないってわけじゃないですよね?」

それが事実でない以上、噂はあくまでも噂に過ぎず、それ以上でもそれ以下でもないはずだ。いくら俺を叩いたところで埃さえ出ないだろう。
それどころか逆さにして振ったって鼻血すらでないし、なんなら飛び跳ねたって小銭の音だってしない。


陽乃「それが単なる噂として片付けられるものなら、ね」

八幡「どういう …… 意味ですか?」


だが、俺のその問いには答えず、陽乃さんは更に続ける。

陽乃「今回の件についても、雪乃ちゃんにプレッシャーを与えて留学せざるをえないように追い込んだのは、多分お母さんね」

八幡「どうしてわざわざそんなことをする必要があるんですか?」

陽乃「人間関係のリセット、かな。キミやガハマちゃんが、あの子にとって良くない影響を与えるとでも思ったんじゃない?」

八幡「俺はともかくとして、由比ヶ浜も …… ですか?」

陽乃「あの人はね、直接手は下さないにしても、他人を思い通りにコントロールしたがるの。例えそれが自分の娘であっても同じ」

母親のことを“あの人”と呼ぶあねのんの目には、なにかしら剣呑な光が宿っていた。

もしかしたら彼女の良家の子女らしからぬ自由過ぎる言動や奔放な性格も、いくばくかはそんな母親に対する反発から生まれたのだろうかと、ふとそんな考えが脳裏を過る。


948: 1 2017/02/06(月) 21:23:42.15 ID:bfI3Hzcw0

陽乃「それで、比企谷くん、キミはいったいどうするつもりなの?」

八幡「は?」

ここにきて唐突に投げかけられたその質問の意味するところはもちろん、彼女の意図からしてよくわからない。

この人はこんな状況でいったい俺に何をどうしろと言うのだろうか?

これはあくまでも葉山家と雪ノ下家の問題であり、言うなれば雪ノ下個人の問題である。

一介の高校生の身分に過ぎない俺にどうこうできるようなシロモノでもないし、それ以前に、俺にそこまで踏み込む資格があるとすら思えない。
だいいち、雪ノ下本人からも“あなたには関係のないことよ”と釘を刺されているのだ。

戸惑いを隠せないでいる俺の顔をまじまじと見つめ、


陽乃「キミはホントにまるで自意識の塊だね、というよりやっぱり理性の化け物、かな」


陽乃さんが大袈裟に肩をすくめて見せた。そして、改めて真っ向から俺を見据える。



陽乃「 ――― 言い方が曖昧すぎたかな? じゃあこの際だからはっきり聞くけど、キミは、あの子とガハマちゃん、いったいどっちを選ぶつもりなの?」



950: 1 2017/02/06(月) 21:32:16.97 ID:bfI3Hzcw0

丁度その時、店の自動ドアの開く音が聞こえ、俺の視界の隅によく見知った顔が入ってきた。

学校指定のやや地味目な色合いのコートを羽織り、近くの書店で購入したと思しき紙袋を手にしているのは、誰あろう海老名さんだ。
三浦や由比ヶ浜の姿がないところを見ると、珍しく今日はひとりだけらしい。


海老名「おや、ヒキタニくん、はろは…」

彼女は俺に気が付くと、いつものように超軽いノリ、しかも相変わらず意味不明の挨拶を口にしかけたが、隣にいる陽乃さんの姿を見て、ピタリとその動きを止めた。

次いで、何を察したのか胸の前で軽くひとつポンと手を打ち、くるりと背を向けてそのまま店から出て行ってしまったかと思うと、すぐさま素知らぬ顔で再び入ってくる。


そして ――― 、



海老名「ごめーん、待ったぁ?(はぁと」

八幡「 …… 頼むからその場のノリや思いつきでそういう手の込んだ小芝居するのやめてくれる?」 ヒクッ




955: 1 2017/02/07(火) 20:19:30.34 ID:TOi7eAsx0

あねのんがまるで珍しい生き物でも見つけたかのような目つきで海老名さんの様子をじっと見つめる。


陽乃「あら、もしかして比企谷くんのお友だ …… お知り合い?」

八幡「あなたもそこで変な気の遣い方するのやめてくれません?」 余計に傷ついちゃうだろ。


八幡「や、知り合いっつーか、なんつーか」

もちろん友達ではないのだが、コイツと知り合いと思われるのも恥ずかしい。

だが、この場合、下手にすぐ否定したりすると次に陽乃さんから返ってくるであろうセリフは容易に察しがつく。
かといって聞かれもしないうちに自分からそれを否定するのも自意識過剰のような気がして恥ずかしいとか思っている俺は既に間違いなく自意識過剰。


陽乃「あ、わかった! 友達でも知り合いでもないとしたら、もしかして …… 彼女 …… とか?」


ほらきた。


海老名「あ、わかっちゃいました? でも残念ながら、ちょっとだけ違います。本命は別にいて、私はいわゆるセフ … 」



スコンッ



海老名「トレイで殴った!?」




956: 1 2017/02/07(火) 20:23:24.64 ID:TOi7eAsx0

八幡「違ぇだろっ! ただのクラスメートですっ! たーだーのっ!」

これ以上あらぬ誤解を招かぬように、とりあえず"ただの"の部分を強調する。

だが、そこはさすがに陽乃さんである。海老名さんの下ネタに対してもなんら臆することなくコロコロと余裕で笑って見せた。

陽乃「アハハ、愉しい子だねー。雪乃ちゃんやガハマちゃんだけじゃなくって、いつの間にかこんな子まで囲っていたなんて、比企谷くんも隅におけないなぁ。いよいよヒキガヤハーレムだねぇ。このこのぉっ」

言いながら肘で俺を小突く。はっきりいってこの人のこういうところは超ウザイ。わかっててやってるだけに尚更だ。


八幡「 ……… いや、俺的にはできるだけ隅にいた方が落ち着くんで」

オセロだって隅をとるのが定石。つまり隅が好きな俺はもうそれだけで人生の勝ち組と言えるかもしれない。
しかも超がいくつもつく可愛い妹もいることだし、これはもう間違いない。


957: 1 2017/02/07(火) 20:27:20.97 ID:TOi7eAsx0


陽乃「あ、ごめんなさいね。私は ――― 」


ジュラルミン並みの外面装甲の威力を如何なく発揮して、いかにも慣れた調子で陽乃さんが自己紹介をしようとすると、

海老名「あ、知ってます。J組の雪ノ下さんのお姉さん …… ですよね? この間のバレンタインのイベントでは大変お世話になりました」

さすがにクレバーな海老名さんだけあって、陽乃さんに対しても全く物怖じすることなく、ペコリと頭を下げる。

陽乃「へぇ、そうなんだ。ありがと」

言いながら、あねのんがすっと目を細め、まるで値踏みするかのような視線で海老名さんの姿を上から下まで眺める。

恐らく脳内スカウターで相手の戦闘力でも計測しているのだろう。そのうち「私の戦闘力は53万です」とか言い出したりするのかもしれない。


だが、あねのんの隠そうともしないその目の奥に潜む酷薄な輝きに気が付いているはずなのに、海老名さんはまるで動じた素振りすら見せない。

それどころか、愛らしいとも言えるいつもの人懐こい笑顔を浮かべたまま、その慎ましい胸を張るかのようにして敢然と陽乃さんの視線を受け止めている。


気が付くといつの間にかふたりの間に何やら不穏な気配が交錯していた。目には見えない、まるで静電気のような火花が散っているような気さえする。

下手をすると背後ではスタンド同士が熾烈な戦いを繰り広げているのかも知れない。なにこれ超怖い。


958: 1 2017/02/07(火) 20:29:25.91 ID:TOi7eAsx0

陽乃「ふーん、比企谷くんって、意外と地味な子が好みなんだ♪ あ、ごめんなさい。私ったら、つい」

陽乃さんのてへぺろを伴う先制口撃。

しかし、まるでそれが聞こえていなかったのように顔色ひとつ変えることなく軽くいなすと、



海老名「 ………… BBA」 ボソッ



笑顔を崩すことなく、それもいきなり超ド級の爆弾投下で返礼する海老名さん。




ピシッ




その瞬間、陽乃さんの笑顔がほんの微かにだが、強張るのが見えた気がした。

鋼鉄以上の堅牢を誇る陽乃さんの鋼玉の外面に、亀裂 …… だと ……!? 在りえぬ!?



陽乃「 ……… 今、何か言ったかしら?」 ゴゴゴゴゴゴ…



海老名「やーん、ヒキタニくーん、このひと、こーわーいー」

わざとらしく鼻にかかった甘え声を出しながら海老名さんが俺の背後に隠れるように回り込む。



八幡「俺はお前の方がよっぽど怖えよっ!!!!」


959: 1 2017/02/07(火) 20:32:39.52 ID:TOi7eAsx0


「 ―――――― 陽乃?」


静かな、それでいてよく透る厳かな声が店内に響いた。

凛とした佇まい、楚々とした和服姿、高く結われた髪。あたりを払う堂々とした振舞いから放たれる圧倒的な迫力。順当に年を重ねれば恐らくは雪ノ下もいずれなるであろう、威厳の伴う美貌。

雪ノ下と陽乃さんの母 ―― 雪ノ下母、つまりは、ははのんである。

彼女が入ってくるや否や、まるでその姿が磁力でも帯びているかのように俺を含め、店内の客の視線がそちらに吸い寄せられるようにして集まるのがわかった。

それまで好き勝手に交わされていた会話や雑多な喧騒が収まり、店内を流れるBGMが急に音量を増したかのような錯覚すら覚える。


「 …… 誰?」 「 …… 女優?」


離れた位置から囁く客の声が俺の耳にまで届く。
明らかに称賛の目を向けられることに慣れきった者の態度で、ははのんはまるで無人の野を征くが如くこちらに向けて歩を進める。

そして、改めて俺の存在に気が付くと、その面(おもて)にごく微かにだが、何か、驚きのような感情が漣(さざなみ)のように過った。

だがそれは、自分でいうのもおこがましいが、人間観察のスペシャリストを自認する俺であるからこそ気の付いた、ほんの僅かな変化に過ぎない。


960: 1 2017/02/07(火) 20:38:09.62 ID:TOi7eAsx0

ははのんは、その面(おもて)にすぐに品のある笑みを浮かべ直し、小さく腰を折るようにして会釈する。

俺もその仕草につられるようにして反射的に頭を下げると、なぜか隣に立つ海老名さんもそれに倣った。

当然と言えば当然だが、どうやら数回会っただけに過ぎない俺の顔もキッチリ覚えられているようだ。

陽乃さんはそんな俺を少しだけ怪訝そうな顔を浮かべて見ていたが、すぐに椅子から降りて立ち上がる。


陽乃「じゃ、比企谷くん。やっと待ち人が現れたようだから、またね。 それから …… そちらの彼女さんも」



八幡「 …… だから」

海老名「 …… ただのセフ」


カコンッ



海老名「また殴った?! しかも今度は角(かど)ッ!?」


961: 1 2017/02/07(火) 20:53:57.61 ID:TOi7eAsx0

そのままふたりの立ち去る後ろ姿を暫し見送っていると、

海老名「あの人、やっぱり雪ノ下さんのお母さんだったんだ? ヒキタニくんも知り合いなの?」

不意に海老名さんが話しかけてきた。

八幡「 ……… いや、今年になってから何度か顔を合わせたことがあるってだけだ」

海老名「ふーん、そうなんだ。よく似てるよね。ひと目見てそうじゃないかと思ったんだ」 茫として呟く。

八幡「……まぁ、そうだな」

海老名「確かお父さんも県議会議員で建設会社の社長さん、なんだっけ?」

八幡「お前、そんなことまでよく知ってんのな」

海老名「だって、雪ノ下なんて名字、この辺りじゃかなり珍しくない?」

八幡「いや、それを言ったら比企谷だって海老名だって十分すぎるくらい珍しいだろ」

確かに面影は強く窺わせるが、その纏う雰囲気があまりにも異質なせいか、今はそれほどよく似てるとも思えなくなっていた。
もしかしたら雪ノ下の方はどちらかというと父親似なのかも知れない。例えば胸のあたりとか。


そんなことを話しているうちに、不意に外から陽乃さんの声が聞こえてきた。




陽乃「お母さん! そっちじゃなくて、こっち!」




……… なるほど、遅れてきた理由はアレなわけね。やっぱり親子だけあって似てるのかもしれないと思い直す。







だが、先ほど雪ノ下母の浮かべた不可思議な笑みの真の意味を、後に俺は嫌というほど、それこそ身をもって知らされることになる。


968: 1 2017/02/10(金) 23:55:08.86 ID:MOnuuL+00

海老名「ここいい?」

訊いておきながらも俺の返事を待つことなく、海老名さんが先ほどまであねのんの座っていた席に腰掛ける。

海老名「よっこいしょーいちっと」

八幡「 ……… って、何、お前もかよ? つか、なんでわざわざ隣座るわけ?」

海老名「いいじゃん、空いてるんだし」

そしてそのまま、今度は当然のような顔をして俺のトレイを自分の前へとスライドさせる。

八幡「いやそれ俺んだけど?」

海老名「いただきまーす。あ、この場合はご馳走様、かな?」

俺の抗議をさらりと無視して小さく掌を合わせると、止める暇もあらばこそ、手つかずのままだったドーナツに、はむっとばかり喰いついた。


八幡「 ……… お前、いったい何しにきたんだよ?」

海老名「んー…? たまにはひとりで静かに読書でもしようかと思って? 優美子も結衣もあんなだし?」

ジト目を送る俺に、口についたドーナツのカスを小さな指先でそっと拭い澄ました顔で応える。

言ってることは至極健全かも知れないが、持ってる本は多分、健全にはほど遠い内容なのだろう。


969: 1 2017/02/10(金) 23:59:01.74 ID:MOnuuL+00

海老名「もしかして邪魔しちゃった、かな?」

ドーナツを食(は)みながらそれとなく振ってきたのは、もちろん先程の一件のことだろう。

八幡「 ……… いや助かったよ、マジで」

海老名さんというイレギュラーな存在がいてくれたお陰で事なきを得たが、もしあのまま陽乃さんと雪ノ下母のふたりに対峙していたら、俺的にかなりマズイ状況に陥っていたに違いない。

それを考えたら急激に食欲が失せていた。

海老名「敵は闇の千葉県議会と建設業界に巣食う悪の組織かぁ、ヒキタニくんもこれから色々と大変だね」

八幡「ちょっと待て、いつの間にそんな話になってんの?」

海老名「フリーメイソンももとは千葉の建設業界から生まれた秘密結社だって話、知ってた?」

八幡「いや確かそれユダヤの石工ギルドかなんかだろ? つか、なにその中二設定?」

海老名「あ、私、こう見えて腐女子は中二だけど、中二病は小二デビューだから」


八幡「 ……… それはまた随分とお早い魔眼開眼ですこと」


970: 1 2017/02/11(土) 00:02:06.60 ID:nuEp+D/S0

海老名「 ――― ねぇ、ヒキタニくん、私からひとつ提案があるんだけど聞いてくれるかな?」

そのままごくさりげない口調で海老名さんが切り出す。

八幡「 ……… 気のせいかなんかイヤな予感がする …… っていうかむしろスゲェ悪ぃ予感しかしないんだけど?」

海老名「あ、もちろんそっちの方面の提案もあるんだけど …… 捗るやつ」

八幡「 ……… やっぱあるのかよ、つか、ねぇよ」

海老名「でもこっちは私にとってもヒキタニくんにとってもメリットのある話だよ。いわゆるウィンウィンって感じ?」

そう言って本来はダブルピースのところを、なぜか両手の親指を立てて曲げる仕草をする。その姿はどこからどう見ても彼女のいうところのウィンウィンではなく、浪越徳治郎以外の何者でもない。


971: 1 2017/02/11(土) 00:04:04.76 ID:nuEp+D/S0

だが、時々突拍子もない事を言い出してその度に俺を驚かせ、明らかにその反応を見て楽しんでいる節のある海老名さんではあるが、予めそれと覚悟を決めておけば、決して凌げない相手というわけでもない。

言うなれば、彼女の手の内は既に見切っている、といっても過言ではないだろう。


八幡「 ……… ほーん、何かしらんが一応聞いとくから、とりあえず言ってみ?」


万全の迎撃態勢を整えた俺は、余裕綽綽の態で海老名さんの言葉を待ち受ける。





海老名「そう、よかった。 あのね、ヒキタニくん、―――――――― 私とセ〇クスしない?」



972: 1 2017/02/11(土) 00:06:47.98 ID:nuEp+D/S0


海老名「 ……… おっと間違えた。"私と付き合わない?"だっけ。ま、いっか、似たようなもんだし …… って、おや、ヒキタニ君、そんなところで寝てたらお店の人に迷惑だよ?」

八幡「死んでるんだよっ!」

海老名「おやおや、いくら生き恥を晒すのが忍びないからって、何も死んでまで恥をかく必要なんてないんじゃない?」

八幡「 …… できれば俺も、お前みたいな“歩く腐乱死体”みたいなヤツにだけは言われたくねぇけどな」

しかしこいつ俺の予想の遥か斜め上を飛び越えてきやがったな。しかも見事なまでのベリーロール。もしかしたら世界陸上制覇すら夢ではないかも知れない。


八幡「つか、いったいなにをどうやったらそんな間違え方すんだよっ?」

海老名「ナニをどうヤるって …… やだ、乙女にそんな事言わせないでよ恥ずかしい。もしかして言葉責め? 羞恥プレイ? そういうのが好きなんだ? 正直ドン引きだけど、できるだけ慣れるように努力するね?」

八幡「もし今の会話の中に恥ずかしい点があったとすれば、それは間違いなくお前自身だということにいい加減気が付けよ」

それに乙女は間違ってもそんなセリフ、絶対口にしねぇだろ。



973: 1 2017/02/11(土) 00:09:48.04 ID:nuEp+D/S0

海老名「 ――― で、どう? 悪い話じゃないと思うけど?」

八幡「 ……… や、いきなりそんな話されて、どうって訊かれてもだな 。つか、そんなことしていったいなんのメリットがあるんだよ?」

海老名「私みたいに可愛い彼女ができるなんて、ヒキタニくんにとってはもうそれだけで十分過ぎるくらいメリットじゃない?」

八幡「 ……… 自分で言うか、それ」

ハイ、スミマセン。俺も時々自分で顔立ちが整ってるとか言っちゃってます。今は反省してます。


海老名「それに私、こう見えて浮気には寛容だよ? あ、もちろん男限定ね? というかむしろ推奨? それもできれば私の見てる前で?」

八幡「 ……… もう一度だけ聞くぞ? それが、"俺に"、"どんな"、メリットが、あるっつーんだよ?」

どこをどう探してもそんな要素は一ミリとても見当たらない。


海老名「んー、他にもメイド服着て猫耳つけてお兄ちゃんって呼んであげてもいいんだけど?」

八幡「残念ながら俺にはメガネ属性はもとより、制服属性も、ケモミミ属性もないんでな」

海老名「 ……… 妹属性だけはあるんだ。 あ、それから、もうひとつ ――― 」

八幡「あん?」



海老名「 ――― もし、私と付き合うことになれば、あのふたりとも今まで通りの関係でいられるよ?」


まるでそのタイミングを予め見計らっていたかのように、いきなり深く踏み込んできた。


974: 1 2017/02/11(土) 00:15:39.77 ID:nuEp+D/S0

“あのふたり”とは、言うまでもなく、雪ノ下と由比ヶ浜のことだろう。

雪ノ下の留学、葉山との関係、そして先程のあの出来事。それらの断片的な情報から海老名さんがいったいどのような判断を下すに至ったのかまでは分からない。
しかし、その一因が俺たちの関係性にあるということについては、いち早く見抜いたようだった。


なるほど、確かにそれも現時点で俺が取ることができる、数少ない選択肢のうちのひとつだ。

もし、俺が誰か別の女の子と付き合い始めたという噂が雪ノ下母の耳に入れば、雪ノ下に対するプレッシャーは緩和されるかも知れない。
場合によったら、留学の話も立ち消えになる可能性だってある。


しかし ――― 、

八幡「それって、お前にとってはどんなメリットがあるんだ?」

男除け? 確かに邪眼は魔除けになるらしいけど、腐った眼ってのはどうよ? 節分にイワシの頭を飾る風習もあるらしいけど、あれと似たようなもんなの?


975: 1 2017/02/11(土) 00:17:18.88 ID:nuEp+D/S0

海老名「修学旅行の時、言わなかったっけ? ヒキタニくんとなら、案外うまくやっていけるかもしれないって」

八幡「いや、あれは …… 」

海老名「冗談とかじゃなくて、あれ、私の本音だよ。それに ――― 、」

目を伏せ、微かに頬を赤らめながら、もじもじと少しだけはにかむような仕草を見せる。
腐っているとはいえ、やはりそこは美少女だけあって、悔しいがまんまと俺のツボに嵌まってしまう。


海老名「 ――― もし、私が男だったら、きっとヒキタニくんのこと好きになってたと思うし?」

八幡「 ……… いや、そもそもそれ前提条件からしておかしくねぇか?」


海老名「そしたら私達、絶っ対、つきあってたと思うよ?」

八幡「 ……… そこに俺の意思が考慮される余地はねぇのかよ」


海老名「将来結婚したら子どもは三人。一姫二太郎」

八幡「物理的に不可能だろ」


海老名「え? でも、産むのはヒキタニくんだよ?」

八幡「うん、それムリ」


って言うか、なにその意外そうな顔。こいつの頭ン中、いったいどんだけバラ色に染まってんだよ。



976: 1 2017/02/11(土) 00:20:15.72 ID:nuEp+D/S0

八幡「戸部のことはいいのか? あいつとは最近多少はいい感じになってきたんじゃねぇの?」

海老名「あー…、それってもしかして、こないだのバレンタインのイベントのこと言ってる?」

八幡「 ……… 違うのか?」

その手のイベントならまだしも、あの手のイベントごとには消極的で、なんやかや理由をつけて滅多に顔を出さない海老名さんだ。
例え三浦のためとはいえ、自ら率先して参加することなんて事自体珍しいし、それどころか戸部には手作りのクッキーまで振る舞っている。
一途な熱意に絆されて少しは憎からず想うことになったとしても、別に不思議はないと思ったのだが。


海老名「あれはあくまでガス抜き。ほら、男子って、あんまり避けてばかりいると逆にツンデレしてるとか勝手に思い込んじゃったりするでしょ?」

八幡「 …… なるほど、自意識高い系男子の心理をよく心得てらっしゃる」

全ては海老名さんの掌の上というわけね。食えない女だ。もっとも腐ってるだけあって、食ったら腹壊すかも知れないけれど。

海老名「そういうヒキタニくんこそ、さすが自意識高い系男子代表だけあって理解が早くて助かるよ♪」

八幡「いや、俺はどっちかっつーと自意識過剰系男子なんですけどね ……… 」


982: 1 2017/02/12(日) 12:57:32.44 ID:yhf5+NBv0

海老名「ふふふ。知ってるよ。ヒキタニくんも今、あの時の私と同じような悩みを抱えてるんでしょ?」

不意に、海老名さんが悪戯っぽい笑みを浮かべて俺を見る。


八幡「悩み? 何のことだよ?」

海老名「結衣のこと。あの子があんだけ積極的にアプローチしてるのに気がつかないわけないでしょ?」

ここに来て、なんら遠回しに仄めかすこともせず、いきなりズバリと切り込んできた。


983: 1 2017/02/12(日) 12:59:09.88 ID:yhf5+NBv0

海老名「あの子の気持ちに向き合う覚悟はできたようだけど、そのことで結衣が被るリスクを考えると踏み出す勇気がなかったんでしょ? ――― 雪ノ下さんのこともあるし?」

どうやら何から何まで全てお見通し、ということらしい。

海老名「だから、例えそれがあなたの嫌うぬるま湯のような状態だったとしても、今までは現状維持しかなかった…ってとこかな?」

癪に障るが何も言い返すことができないのは、それがほぼ正確に俺の気持ちを言い当ていたからだ。

海老名「今は優美子が否定してるから誰も表立っては口にしないけど、さがみんなんかはもうとっくに気がついてるし、噂になるのもいずれは時間の問題だよ?」

あーしさんのご威光だな。噂も封じちゃうって、どんだけ影響力あんだよ。

海老名「でも、ここで私という伏兵が現れれば、結衣だっておいそれと踏み込んではこれなくなるわけ。世はこともなし。全ては今までどおり」

そして、「どう?」とばかりに再び目で問うてくる。


984: 1 2017/02/12(日) 13:02:25.74 ID:yhf5+NBv0

八幡「いや、それだと万が一、その …… 俺とお前が付き合うことになったとしても、今度はお前と由比ヶ浜との関係が気まずくなったりしないのか?」

海老名「なんで?」

小首を傾げ、心底不思議そうに尋ねる。

八幡「なんでって、いろいろあんだろ、お前ら友達なんだし」

海老名「 …… そうだね。でも大丈夫。結衣は私と違って空気読む子だから」


――― それに、と付け加える。


海老名「それで壊れるような関係なら、それまでのことでしょ?」

ごくあっさりと、まるで切って捨てるように口にした。


八幡「 ……… 意外 …… だな」

海老名「何が意外なの?」

呆けたような顔をしているであろう俺に、海老名さんが再び問いかける。


八幡「お前は空気読まずに周りに合わせることができるヤツだって、どこかの女王様が言ってたぜ?」

海老名「あはは、何それ? でも確かにそれ、当たってるかも」

おかしそうにケラケラと笑う。しかしやがて、


海老名「 ――― でもね、ヒキタニくん。相手を思いやる気持ちも確かに大切なのかもしれないけど、もしそれだけの理由で前に踏み出せないとしたら、それもまた、それまでの関係ってことになるんだよ?」


恐らくそれが彼女の哲学なのだろう、揺るぎない笑顔そのままで、さらりとドライな事を言ってのけた。



985: 1 2017/02/12(日) 13:04:57.95 ID:yhf5+NBv0


八幡「 ……… やっぱ、お前のその提案に乗ることはできないな。悪いけど」


知らず自然に口から滑り出る俺の返事に対し、


海老名「 ……… そ。残念」 


口で言うほどさして残念そうでもなく海老名さんが応じる。


986: 1 2017/02/12(日) 13:08:59.78 ID:yhf5+NBv0

海老名「いいアイデアだと思ったんだけどなー。あーあ、フラレちゃったかぁ。私ってば、そんなに魅力ないかなぁ」

天井を仰ぎ見て、足をぶらぶらさせながら聞こえよがしにそう独り言ちたかと思うと、

海老名「確かに、雪ノ下さんほどキレイでもないしー、結衣みたくおっぱいも大きくないもんねー」

今度は自虐めいた露骨な言い回しで俺にあてこする。

八幡「 ……… や、ちょっ、だから別にそういうわけじゃなくてだな」

海老名「ふふふ」

セリフの合間合間にこちらの反応をチラ見しながら小さく忍び笑いを漏らしている様子からすると、どうやら俺を弄(いじ)って楽しんでいるらしい。

恐らくは彼女なりの意趣返しのつもりなのだろう。


987: 1 2017/02/12(日) 13:11:02.75 ID:yhf5+NBv0

正直な話、海老名さんの提案に関しては心惹かれるものがなかったわけではない。

やや強引ではあるものの、決して嫌な感じはしないし、硬軟織り交ぜた巧みなプレゼンテーションもポイント高い。
以前から彼女に対してはある意味で親近感に似た感情を抱いていたということも、もちろん、ある。

どこまで本気なのかよくわからないが、確かに利害が一致するという点では、彼女のいう通りウィンウィンの関係とさえ言えるのかもしれない。


だが、それでもやはり ――― それは偽物だ。


今のこの状況から逃げ出したくなるような気持ちから生まれた、俺自身の一時的な気の迷いに過ぎない。
それは恐らく、打算とか妥協と呼ばれる類の感情に近いものなのだろう。



988: 1 2017/02/12(日) 13:13:18.71 ID:yhf5+NBv0

それに、それでは一時的な対処療法に過ぎず、抜本的なソリューションには程遠い。
結局は今までの俺のやり方と同じで、問題を先送りにするだけの話だ。

この場合、葉山と雪ノ下の家の婚約そのもの解消させることができない限り、何の解決にもならないし、むしろ人間関係を余計に拗らせてしまうだけだろう。

また、海老名さんはああは言っているものの、もしそうなったらそうなったで、ふたりと今までのような関係性を継続することは、まず不可能に等しい。

例えそれが偽りであったとしても、昨年の修学旅行での反応を見れば、ふたりが俺のその行為を看過し、赦すとはとうてい思えない。

そうなればいずれ奉仕部自体が空中分解してしまうのも目に見えている。それでは例え雪ノ下の留学を阻止することができたとしても、元も子もあるまい。


俺の出した結論は、そういった諸々の事情を踏まえてのことでもあった。


そして何よりも、

989: 1 2017/02/12(日) 13:15:07.73 ID:yhf5+NBv0


八幡「それに、俺は ―――――― 」



―――――― 本物が欲しいんだ。



無意識の内につい本音を呟いてしまう。


海老名「 ……… 本物?」


俺の漏らした言葉に海老名さんが反応し、当然のことながら怪訝な表情を浮かべてしげしげと俺を見る。


海老名「 ………… ふーん。本物、ね」 


何事か考えるかのようにその言葉を自分の口に乗せ、それきりふたりの会話は途切れた。


991: 1 2017/02/12(日) 13:24:30.01 ID:yhf5+NBv0


海老名「これ、ドーナツもらっちゃったから、代わりにあげる。いわゆる等価交換ってヤツ?」

なんの脈絡もなく、唐突にそう言って俺に向けて差し出されたのは、可愛らしいリボンと透明ビニールでラッピングされた、どこかで見覚えのある市松模様のクッキー。

海老名「こないだ作ったヤツ。余ったからお裾分け」

まるで言い訳のように付け加え、戸惑う俺に半ば無理やり押し付けるようにして手渡す。
彼女の意図もよくわからないまま、俺も黙ってそれを受け取った。


海老名「私、まだ本読んでるから。トレイも片づけといたげるからそのままでいいよ」

既に空になった俺のコーヒーカップと食べかけのドーナツの乗った皿を示す。

話はこれでお終い、ということなのだろう。


八幡「 ………… そうか。じゃあな」

海老名「あ、ヒキタニくんもよかったら試しに読んでみる? いろいろと捗るかもよ?」

八幡「なにそれセクハラ? つか、捗りたくねーし」


苦笑交じりに答えると、ふと、まだ何か言いたげな海老名さんの表情に気が付く。


海老名「でも、さ ―――― 」


ややあって、彼女はやや躊躇いがちに、それでも、ゆっくりと口を開いた。


海老名「本物って、比企谷くんが考えているような崇高で綺麗で光輝いているものなんかじゃなくって、案外、もっと矮小で汚くて、ドロドロしたものなのかも知れないよ?」




どういった光の加減なのか、その言葉を口にする彼女の眼鏡の奥にあるはずの瞳を覗き見ることは叶わなかった。


992: 1 2017/02/12(日) 13:29:28.15 ID:yhf5+NBv0


* * * * * * * *



そのまま海老名さんに別れを告げ出口へと向かいかけたが、小町に頼まれたドーナツの袋をカウンターに置き忘れたままであることに気が付いた。

すぐに回れ右をして先程までいた席に戻り、


八幡「悪りぃ。忘れ物 …… 」


少しばかりバツの悪い思いをしながらも、こちらに背を向けたままの海老名さんに声をかける


――― と 、



ガチャンッ


慌ててコーヒーカップをソーサーに戻す音が響いた。


海老名「な … なに …… かな?」


振り向きもせず返す声に、微かだが狼狽の色が滲み出ている。


八幡「 ……… や、妹に頼まれたドーナツ忘れたんだけど」


海老名さんは目の前に置かれた袋を素早く手にとると、無言のまま無造作に後ろ手にすっと差し出す。


八幡「お、おお、サンキューな」


再び出口へと足を運びながら、なぜか気になって最後に一度だけ振り返ると、テーブルに突っ伏して何やら呻きながらじたばたともがいている海老名さんが姿が目に入った。






―――――― そういやあいつ、飲み物なんてたのんでたっけ?

俺がそんなどうでもいいようなことに気が付いたのは、店を出て家へと向かう自転車のペダルを漕ぎ始めて暫く経ってからのことである。

 
6: 1 2017/02/15(水) 00:32:21.44 ID:arWTHg3M0


小町「 ―――――― お兄ちゃん、どうかしたの?」


差し向かいで晩飯を食べていると、妹の小町が突然俺を見てそんなことを言い出した。
どうやら考え事をしていたのがバレたらしい。


八幡「 ……… 何がだよ?」


ご飯茶碗を置いた手でみそ汁の椀を取り、ズズズとわざとらしく音を立てて啜りながら、それとなく妹の様子を窺う。


小町「何が、じゃなくって、今日のお兄ちゃん何か変だよ。まぁ、お兄ちゃんは大抵変だし、いつもどうかしてるんだけど」

酷い言われようではあるのだが、それも兄妹ゆえの気安さと言えないこともない。
それに俺の様子を気遣ってくれているのだと思えば決して悪い気はしない。人はそれを“ポジティブ・シンキング”或いは“物は考えよう”と呼ぶ。


小町「どうせお兄ちゃんのことだから、また何かやらかしたんでしょ?」

八幡「おい、またってなんだよ、またって。お前お兄ちゃんのこと何か誤解してない?」

小町「いつも誤解されるような事ばっかしてるお兄ちゃんがいけないんでしょ?」

俺の反論に、ふんす、とばかりに鼻息を荒くして答える。


八幡「 ……… 返す言葉もないのが、お兄ちゃんは悲しいよ」



7: 1 2017/02/15(水) 00:34:18.07 ID:arWTHg3M0

小町「まったく。で、今度は何したの? 相手は雪乃さん? 結衣さん? それとも両方? 小町からもよく謝っておいてあげるから」

八幡「おいちょっと待て、なんでそのふたり限定なんだよ?」

小町「だって、“合格したらどっか遊びに行きませんか”ってお誘いのメールしたのに、ふたりとも返事こないし」

今時の中学生にしては珍しく小町はLINEとかはやっていない。本人曰く、いちいち相手をするのがメンドクサイからイヤなんだそうだ。俺の。


小町「誘い方がまずかったのかなぁ …… 」

ボヤきながら、小さく首を捻る。

彼女達が返信できない理由を知る俺としては、そのことを話してやってもよいのだが、なにぶん小町は受験生だ。
合格が決まるまであまり余計な心配はかけたくはないので、取り敢えず今は黙っていることにした。


小町「 ……“お兄ちゃんも一緒に”って書いちゃったし」

八幡「 ………… お願いだからお兄ちゃんに内緒で勝手にそういうことするのやめてくれる?」



8: 1 2017/02/15(水) 00:39:47.54 ID:arWTHg3M0

小町「どうでもいいけど、小町も入学するかもわかんないんだから、ふたりとギクシャクするようなことだけはやめてよね」

んー、とか、あーとか生返事でのらりくらりと交わしつつ、再び箸をすすめる。


八幡「まぁ、そうなったら、お兄ちゃん的には小町に変な虫がつかないように常に目を光らせる必要があるな」

俺がわざとその話題から逸れるように誘導すると、

小町「 …… それってもう無駄じゃない?」

小町がいかにもさりげなく、それでいて聞き捨てならないセリフを口にする。


八幡「なにっ? いつの間にっ?! 相手は誰だ相手はっ!? もしかして大志かっ? お父さんは絶対に認めんぞっ!」


小町「 ……… お父さんじゃなくってお兄ちゃんでしょ。でも、ちょっと似てるかも」

腰を半分浮かせかけた俺に苦笑いを浮かべながらとんでもないことを言い出した。

八幡「 ……… 頼むから冗談でもやめてくれ」

そうでなくとも最近は、朝、鏡見るとたまに自分の顔がオヤジに似てきたことを自覚することがままある。
このまま順当に成長したら、今は腐っている俺の目も、将来的にはオヤジのような死んだ社畜のような目になるのかと思うと、それだけでもうゲンナリとしてしまう。


小町「 …… そうじゃなくって、もう既に変なお兄ちゃんが四六時中つきまとってるし、目だっていつもこれ以上はないくらい腐ってるってことだよ」

そして、やれやれ合格しても先が思いやられるよ、とわざとらしく溜息を吐く。


八幡「何を言う? 合格すれば毎日嬉し恥ずかし兄妹二人乗りで自転車通学だってできるんだぞ?」 

小町「 …… それって、多分、嬉しいのはお兄ちゃんだけで小町は恥ずかしいだけだと思う」


9: 1 2017/02/15(水) 00:42:14.51 ID:arWTHg3M0


小町「はいこれ」

小町がテーブルの脇から滑らせるようにして小さな紙片を差し出す。

見慣れたクセのある丸文字で書かれているのは、それぞれ11桁の数字と@マークを挿んだ、二組の文字の羅列。

ひとつは見覚えがあるが、もうひとつは初見だった。

それが何であるかに気が付いて、暫し葛藤の末、黙って手を伸ばす。もしかしたら今後何かの時に必要になるかも知れない。

ひょいと目を向けると、そんな俺を小町がニヤニヤと見ている。しかも、

小町「謝るなら早いに越したことはないよ」 

訳知り顔でそんなことまで言う。


八幡「こほん、あー…、ひょっとして、お兄ちゃんのこと心配してくれてるの? そんなに好きなの?」

空咳をひとつ、敢えて茶化すようにまぜっかえすと、


小町「そうじゃなくって、なんていうか、こう、うまく言えないけど ……………… 溜息が鬱陶しい?」

八幡「 ……… もしかしてお前、気遣うふりしてお兄ちゃんの心、ガチで折りに来てない?」


10: 1 2017/02/15(水) 00:44:36.28 ID:arWTHg3M0

食事が終わった頃合いを見計らってか、余り物にありつこうと飼い猫のカマクラが小町の膝の上に飛び乗った。
そんなカマクラの頭を優しく撫でながら、


小町「 ……… ホント、お願いだからね?」


先ほどまでと違うトーンで小町が口にする。


八幡「 ――― ああ、わかってるよ。可愛い妹のためだからな」

小町「それから、そういうのキモいから学校では絶対に言わないでね」

そう言って少しだけ怒ったような顔でそっぽを向く。長年の付き合いだ。それが照れ隠しであることくらいはすぐにわかる。
それに、それはつまり家でなら構わない、ということでもあるのだろう。


11: 1 2017/02/15(水) 00:49:04.78 ID:arWTHg3M0

今日の晩御飯の用意したのは小町なので、片付けは本来俺の仕事なのだが、なぜか小町は黙って俺の隣に立ち皿洗いを手伝い始める。

カチャカチャと食器同士のぶつかる音の合間に聞こえる小町の鼻歌と、時折触れる肩の感触が心地よい。


妹の為とあらば何でもしてあげたいし、実際、何でもできるような気がした。

――― だが、古人曰く、世の中、一寸先は闇である。

既に窓の外には夜の静寂(しじま)が降り立ち、曇りガラスを黒く塗り潰す。

未来は夜の闇のようにあまりにも昏く不透明で、これからいったいどうすべきなのかは俺自身にも皆目見当がつかなかった。


17: 1 2017/02/18(土) 19:49:31.05 ID:kAqrZqos0

キラキラと無暗に輝く朝の陽の光が射し込み、目がやたらと眩しい。

昨夜はなかなか寝付くことができず、気分転換にと引っ張り出した昔のゲームにものの見事にハマってしまい、結局のところ寝たのは明け方近くになってしまった。
おかげで今朝は超眠い。何度も生欠伸(あくび)をしつつ、既に通い慣れた道を学校へと向けて自転車のペダル漕ぐ。


学校まであと少しというところで、よく見知った顔がひとり佇んでいる姿を見つけ、反射的にブレーキをかけて急停止してしまう。

俺に気が付いて振り向くそのピンクがかった茶髪が朝の陽射しに縁どられ、黄金色に光輝く。


「 ――― おはよ」



そして、その少女 ―――――― 由比ヶ浜結衣はこちらに向け、手袋をした手を小さく振って見せた。


18: 1 2017/02/18(土) 19:52:46.37 ID:kAqrZqos0

八幡「 ……… お前、いったいいつからここで待ってたんだよ」

俺の問いを彼女は曖昧な笑みを浮かべてはぐらかす。

結局どうあがいても向かう方向は同じだし、ここで押し問答になっても朝から疲れるだけなので、迷った挙句、俺は仕方なく自転車を降りて由比ヶ浜と肩を並べて歩き始めた。


結衣「 ――― 昨日、あの後、ゆきのんと少し話をしたんだけど」

道すがら、由比ヶ浜が訥々と昨日のことを話し始める。

八幡「 ……… おう」

結衣「これから暫く留学の準備で忙しくなるから、部活これないかもって」

八幡「 ……… そうか」

恐らくは他にもふたりで色んな会話を交わしたことであろうことは想像がつく。
心持ち、由比ヶ浜の瞼が腫れて見えるのも、決して朝だからという理由だけではあるまい。

そんな彼女に対して、俺は他に何と答えたらいいものか、どんな言葉をかけたらいいのかすらわからなかった。
こんな時に気の利いたことひとつ言えないとは、現国学年三位が聞いて呆れる。


20: 1 2017/02/18(土) 19:56:02.26 ID:kAqrZqos0

結衣「ゆきのんがいなくなっちゃったら、部活、どうなるんだろうね」

八幡「 ……… さぁ、な」

もともと奉仕部は平塚先生が俺や雪ノ下などの問題のある生徒 ――― 端的に言えば将来的な社会不適合者を手元に集め置き、その活動を通じて矯正することを目的として創られた部活だ。

部長である雪ノ下がいなくなれば、部としての体裁を保つために他の者を部長に据えるか、そうでなければ活動を休止せざるを得ないだろう。

俺や由比ヶ浜に雪ノ下の代わりが務まるとは思えないし、かといって彼女以外の者に部長を名乗らせることは甚だ抵抗がある。

それ以前に、雪ノ下のいないあの部活を、もう奉仕部と呼ぶことなどできはしまい。

それに、雪ノ下と由比ヶ浜と俺 ――― 今となっては、三人のうち誰かが欠けても、うまく回らないような気がした。

そして、由比ヶ浜の言う“部活”には、当然、“俺たち”という意味も含まれているはずだった。


23: 1 2017/02/18(土) 20:00:35.35 ID:kAqrZqos0

学校に近づくに従って次第に生徒の数も増え、友達や知り合いに向けたものらしい男子生徒の低い挨拶の声や、女子生徒の高い嬌声が飛び交う。

そんな中、ふと周りを見回すと、どうやら俺たちが注目を浴びているらしいことに気が付いた。

同じクラスとはいえ、かたや学年でも屈指の美少女、かたや名も知れぬぼっちという組み合わせだ。確かに周りの目から見たら奇異に映っていることだろう。 
由比ヶ浜は普段と変わりなく、声をかけてくる友達相手に男女の分け隔てなく、にこやかに応じている。

俺との仲を冷やかされたりしないかと、変におどおどする様子はうかがえないが、少しだけ恥ずかしがっている態ではあった。もしかして、 

――― そんなに俺といるのは恥ずかしいことなのだろうか。


一年の時のクラスメートなのか、俺の知らない顔も多いので、俺の方はいたたまれない感がマジパない。

しかし、朝から女子と登校って、どんだけ青春ラブコメのテンプレなんだよ。
ただでさえ低い俺のリア充度のリミッターが既に限界値を突破しており、今にも自爆しそうなくらいだった。




25: 1 2017/02/18(土) 20:04:44.83 ID:kAqrZqos0

慣れない行為に朝から精神的に満身創痍になりながらも、そのままなんとか学校まで辿り着くと、校門の前に平塚先生が立っているのが見えた。

いつものように、メリハリの利いたボディをパンツスーツと白衣で押し包み、腕を組んでふんぞり返っている様は、さながら山門の仁王像が如し。

そういや、今週は確か風紀強化週間とかだっけか?

総武高は県内有数の進学校で偏差値も高いせいもあってか、特別風紀が乱れるようなことはないのだが、時折、生活指導の教師と風紀委員の生徒達がこうして校門の前で服装の抜き打ちチェックをすることがある。

校則に照らし合わせて、スカートの丈が短いだの、アクセサリーは禁止だのと細かなチェックを入れるわけだ。
俺としてはスカートの丈は短いに越したことはないと思うのだが、やはりその下にジャージを履くのは厳重に取り締まるべき。

そんな中、ひとり、トレンチコートに指ぬきグローブ姿のデ〇が何やら汗だくになって言い訳している姿が視界の隅に映ったが、関わりたくないのでスルー。
何か問題があるか知らんが、そもそもあいつは存在自体が校則違反だろ。


26: 1 2017/02/18(土) 20:09:52.14 ID:kAqrZqos0

結衣「あ、ヒッキー、ちょっと待つし」

八幡「ん?」

今時の女子高生らしくスカートの丈はやや短いものの、由比ヶ浜の服装は特に乱れてないし、俺の方も服装に気をつかうようなオシャレさんでもないので問題はないはずだ。

夏場はついうっかりカッターシャツの下に母ちゃんの買ってきた派手な柄のTシャツを着て登校してしまい、失笑を買うこともあるが冬場はブレザーなのでそれもない。

結衣「シャツの襟、曲がってるし」

そういいながら由比ヶ浜がまるで新妻のように甲斐甲斐しく俺の服装の乱れをなおしてくれる。
逃げようにも両手で自転車のハンドルを握っているので、されるがままだ。

そのあいだにもビシバシと視線が固形物のように降り注ぐ。そうとわかっていれば、腹に週刊少年サ〇デーとか巻いて来たのに。

中にはこれ見よがしに道に唾を吐き捨てるヤツもいる。顔覚えたからな。後で覚えてろよ。今時珍しい不幸の手紙を郵送で送りつけてやる。切手貼らずに。


28: 1 2017/02/18(土) 20:12:56.62 ID:kAqrZqos0

結衣「はい、オッケー」

八幡「お、おお。スマン」///

文字とおり襟を正して(もらって)何気なく校門を通り抜けようとすると、どうやら平塚先生が俺たちの姿に気がついたらしい。マジマジとこちらを見つめ、次いでゴシゴシと目を擦る。あれ、角膜を傷つけるからよくないらしいんだけどね。


結衣「平塚先生、おはよーござます」

八幡「 …… ども」


平塚「うむ、おはよう。キミたちふたりが連れだって登校とは珍しいな。それもよりによって比企谷が女子と一緒とは。一瞬目を疑ったぞ」

八幡「それは単に老眼が始まっただけじゃ ……… ゲフッ!」

皆まで言い終わる前にボディに拳がめり込む。


平塚「うら若き独身女性に向かって朝から失礼なヤツだ。次は殴るぞ?」

八幡「す ……… 既に十分過ぎるくらい殴ってますよね、それ?」

朝からキツい一発で目が覚めるどころか永眠してしまうところだった。つか、独身強調しすぎだろ。ここでそんな無駄なアッピールしてどうすんだよ。


29: 1 2017/02/18(土) 20:14:32.37 ID:kAqrZqos0

結衣「あ、たまたま偶然です。そこでばったり会っちゃって?」

平塚「ほう?」

そうやってあからさまに訝しげな目を俺に向けないでくれますかね。

しっかし、女子ってばホントまるで息を吸うかのようにさらっと嘘つくのな。しかも顔色ひとつ変えない。それが嘘だと知っているはずの俺ですら危うく騙されちゃうレベル。


平塚「そうなのかね?」

八幡「 ……… ええ、そうっす。間違いありません。俺がやりました」

結衣「って、なんで自白みたいになってるし?!」


31: 1 2017/02/18(土) 20:16:39.41 ID:kAqrZqos0

ふむ、と、少しばかり何事か考えるかのような間を置いた後、平塚先生が由比ヶ浜に向けて声を掛ける。

平塚「由比ヶ浜、悪いが比企谷と少し話がある。いいか?」

八幡「ま、まさか続きは拳で語るとか言い出すんじゃないでしょうね? 暴力は反対です。特に俺に対する暴力は」

平塚「それはキミの対応次第だな」

八幡「服装とか髪型には問題ないはずですよ?」

平塚「キミの場合、服装以前に、その腐った目と更に腐り切った性根の方が問題なのだよ」

ひでぇな。まるでいいがかりである。


俺と平塚先生の顔を交互に見ていた由比ヶ浜だが、

結衣「えっと ……… 。あ、じゃ、ヒッキー、また教室でね」

そういって胸の前で小さく手を振り、ぴょこんとひとつお団子髪を揺らすようにして平塚先生に頭を下げると、そそくさとその場を後にした。



……………… あいつ、日和やがったな。


38: 1 2017/02/21(火) 00:33:22.85 ID:3th41DbN0

生徒の服装のチェックを風紀委員に任せ、平塚先生は俺を少し奥まった場所へと連行する。この場合、拉致ると言った方がより的確な表現かもしれない。

…… もしかして俺、本当にボコられるんじゃないでしょうね?

俺の心配をよそに、平塚先生は慣れた手つきで白衣のポケットからタバコを取り出すとそれを口に咥え、淀みなく流れるような動作で火を点けた。


八幡「 …… いいんすか?」

近年はどこの学校でも校内全面禁煙が常識だ。生徒の前で堂々タバコを吸う教師ってのは倫理的に問題ないのだろうか。


平塚「なに、この学校の生徒たちは至極真面目だからな。形の上だけでやってるだけのことだ。外部への体面というものもあるしな」

…… いや、そっちじゃないし。つか、教師がそれ言っていいのかよ。

もしかしてこの先生、俺を口実にして実はタバコ吸いたかっただけなんじゃねぇの?


平塚「ま、キミという問題児の指導も、ある意味、生活指導の一環と言えなくもない」

そう言ってニヤリと笑った。


39: 1 2017/02/21(火) 00:35:51.26 ID:3th41DbN0


平塚「 ――― ときに比企谷。雪ノ下の件は既に私の耳にも入っている」


いかにもさり気ない調子で切り出したが、多分、そちらが本題なのだろう。


八幡「 ……… そうですか」

確か一色も職員室で小耳に挟んだと言っていた。ならば当然、先生方の間で話題になっていたとしてもおかしくはあるまい。


平塚「彼女が急に留学を希望するとはな。最初聞いた時は思わず自分の耳を疑ったものだが …… 」

八幡「だからそれは単に耳が遠くなってきただけ ……… はい、嘘です。冗談です。反省してます」


平塚先生がポキポキと指の関節を鳴らしながら威嚇するので、発言を中断せざるを得なくなった。

こういうのってパワハラって言わないのかよ。メンタルとフィジカル両面に渡るパワハラ。

っていうか、いつの間に日本は言論の自由が認められない国になっちゃったんだよ。図書館で戦争が起こっちゃうだろ。


40: 1 2017/02/21(火) 00:38:31.96 ID:3th41DbN0

平塚「雪ノ下と直接話はしたのかね?」

八幡「 …… しましたけど、俺には関係ない話だと一蹴されました」


平塚「ふむ。それで?」

八幡「それでって ……… いや、それだけですよ。あいつが自分から言い出した事に俺がとやかく言えるような立場でもありませんから」



平塚「 ――― どうもキミは物事を理屈で考え過ぎる嫌いがあるようだな」

ほんの僅か不可思議な間を置き、平塚先生がいかにも気持ちよさそうに紫煙を吐き出しながら口にする。


平塚「よく言うだろう、“考えるのではない、感じるんだ”と、な」

八幡「 ……… それって、確か映画のセリフでしたよね?」

平塚「ほう、若いのによく知っているな」

八幡「まぁ、それくらいなら。えっと …… スターウォーズのヨーダ …… でしたっけ?」

平塚「 ……… いや、私が知っているのは“燃えよドラゴン”のブルース・リーの方なのだが」

八幡「 ………… は?」


ゲフン、ゲフンとわざとらしい咳払いでお茶を濁そうとしているようだが、例えこの場は誤魔化せたにしてもさすがに年齢(とし)は誤魔化せない。

うん、八幡知ってる! これっていわゆるジェネレーションギャップっていうヤツだよねっ!


41: 1 2017/02/21(火) 00:41:12.72 ID:3th41DbN0

平塚「ま、まあ、それはどうでもいい。それよりも今後の奉仕部の体制について、キミとよく話し合っておいた方がいいと思ってな」

八幡「 …… 体制、ですか?」

奉仕部の方針を決めるということであれば俺だけではなく由比ヶ浜も交えて話をすべきだろう。


平塚「雪ノ下は自分の後任として、キミを部長にと強く推薦している。意味は言わずとも …… わかるな?」

恐らく、雪ノ下は自分が去った後も奉仕部の存続を願っている、ということなのだろう。

いかにも責任感の強い彼女らしいが、もしかしたらそこには自分の過ごした場所に対する愛着というか、感傷のようなものが含まれているのかも知れない。

もしそうだとすれば、俺がそれを受け入れることによって雪ノ下の残す憂慮がひとつ消えることとなる。そしてそれは彼女の新たな門出に対する手向けとなることだろう。


―――――― だが、


冗談ではない。そんなのは真っ平ゴメンである。


今まで俺たちがしてきた奉仕部の活動を、雪ノ下と共に過ごしてきた時間を、どのような理由であれこのまま過去の出来事として記憶の片隅に追いやることなどできる訳がない。

誰しもが当然のように雪ノ下のいない未来を仮定する。そのこと自体が無性に腹立たしかった。

しかし、それ以上に赦せないのは、何もせずに指を咥えて見ていることしかできない自分自身だ。


42: 1 2017/02/21(火) 00:46:03.20 ID:3th41DbN0


平塚「まぁ、そう恐い顔をするな。私はあくまでも雪ノ下の意向をキミに伝えたまでだ」


そんな思いがつい顔に出てしまったものか、平塚先生がとりなすように言い添える。


八幡「 …… もう行っていいすか? 朝のホームルーム、始まっちゃうんで」

平塚「うむ、いいぞ。引き止めて悪かったな」

八幡「 ……… いえ」


ささくれだった言葉と不躾な態度を諫(いさ)めることなく、先生は苦笑のみを浮かべそれに応える。


43: 1 2017/02/21(火) 00:49:35.12 ID:3th41DbN0

平塚「 ――― ま、この件に関しては当面は保留にしておく。キミもよく考えておきたまえ」


背に向けて投げかけられた言葉に、足を止めることも、振り返ることもせず、ただ黙って自転車を押しながら駐輪場へと足を向ける。


けれども、その言葉を口にしている平塚先生もよく分かっているはずだ。

俺が雪ノ下の代わりに奉仕部の部長を引き受ける気などこれっぽっちもないことも、そして、彼女のいない奉仕部にどのような形であれ“今後”等あろうはずもないことも。


先程まであれほど晴れていたというのに知らぬ間に空は雲で覆われ、いつ降り出しても不思議のないその空模様が俺の気持ちを酷く滅入らせていた。


48: 1 2017/02/24(金) 01:36:03.83 ID:LmPfWidG0

教室から見える窓の外の景色はひたすら殺風景で、昨年の秋頃までは色づいていた木々も季節の移り変わりと共にその葉を散らし、今となっては見るからに寒々しい姿を晒すばかりだ。

人間だって所詮、地位だの名誉だのその身を飾るものを全て剥ぎとれば、案外こんな風に侘しいものなのかも知れない。ふとそんな事を思う。

ちなみに俺の場合、懐具合も相当寒々しいが、それはオールシーズンだからあまり関係ない。

昼休み、さすがに北風の容赦なく吹きつける屋外でのひとり飯は身も心もキツいので、自席でもそもそと購買のパンを食べていると、


「 ―――――― 八幡?」


びっくう!

背後からいきなり名前を呼ばれて飛び出てじゃじゃじゃじゃ~ん、って俺、ナニ大魔王なわけ?

クラスメートにさえ名字さえも碌に覚えられていない俺のことを名前で呼ぶ人間なんぞ、この世界広しと雖も家族をおいては他に数えるほどしか存在しない。

しかも、ここF組の教室内で俺をその名で呼ぶことが許されているともなれば ――― 、

そう、それはもう言うまでもなく、ラブリー・マイ・エンジェル、戸塚彩加ただひとりのみである。


49: 1 2017/02/24(金) 01:39:10.23 ID:LmPfWidG0

八幡「お、おう。戸塚か」 

少女と見紛う可憐な笑顔、小柄の体躯に細い線、さらっさらの髪に浮く天使の輪。背中にはもしかしたら羽根だって生えているのかも知れない。

八幡「昼飯もう済んだのか?」

つい上擦った声で、しかも喰い気味に訊いてしまう。まだなら一緒にどう? 席なら空いてるぜ? なんなら俺の膝の上に座っちゃう?

戸塚「うん、僕は今終わったとこ。これからちょっとだけ昼練に行こうかと思ってるんだけど …… 」

そう言って後ろ手に持っていたテニスラケットをそっと示す。

八幡「お、おう、そうか、そりゃ残念。で、どうしたんだ? 俺になんか用でもあんのか?」

戸塚「ううんん … 特に用があるって訳じゃないんだけど …… 」

もじもじとしながら、遠慮がちに小さく手を振る。そんな仕草も可愛いぜ。もう千葉市は早急に戸塚保護条例とか制定すべき。


50: 1 2017/02/24(金) 01:41:21.05 ID:LmPfWidG0

戸塚「八幡は今日もパンなの? 育ち盛りなのに栄養偏っちゃわない?」

そう言って心配そうに俺の手元を覗き込む。

俺の場合、今日に限らず昼飯は早く済ませるために簡単なパンで済ませることが多い。
だがその分、朝と夜は栄養と愛情の詰まった妹メシを食べているのでそれだけでもうお腹いっぱい胸いっぱいである。

だが、つましい俺の昼食を見られたうえに食生活の心配までされてしまったからには、これはもう責任とって戸塚に結婚してもらうしかない。



51: 1 2017/02/24(金) 01:46:41.36 ID:LmPfWidG0

戸塚「はい。良かったら、これ」

八幡「ん?」

小さな掌に載せて差し出されたものはと見れば、バータイプの栄養補助食。しかもチョコレート味。


戸塚「遅くなったけど、友チョコ、かな?」 照れたように頬を赤らめながら笑顔で付け加える。

八幡「 ……… ホモチョコ?」

戸塚「 ……… え?」

思わず呟いてしまった俺の言葉に、戸塚がキョトンと目を丸くする。


八幡「い、いや、なんでもない。忘れてくれ」

条件反射的に由比ヶ浜と一緒にお弁当を囲んでいる海老名さんの方をチラリと見てしまう。

そこにはいつも一緒にいるはずの葉山や三浦、戸部の姿が見えないが、三人一緒とは考えにくい。何かしら別の理由で席を外しているのだろう。


52: 1 2017/02/24(金) 01:49:58.82 ID:LmPfWidG0

それはともかく意外なことに、自然界のそれと同じく数キロ先からでも腐臭を嗅ぎ付ける生粋の腐肉漁り(スカベンジャー)であるはずの海老名さんが、どうした訳かまるで反応を示さない。

基準はよくわからないしそれ以上にわかりたくもないのだが、どうやら彼女の中に“さいはち”というタグはないらしい。

恐らく、海老名さんにとっての物事の基準とは、何事によらず至ってシンプルで、萌えるか、萌えないかの二択しかないのだろう。

どうでもいいけど腐女子って不燃ゴミの日に出したら回収してくれないのかなぁ。ある意味産廃だろアレ。BL産業は最後まで責任を持ち、引き取って処分すべきだと思う。



53: 1 2017/02/24(金) 01:56:25.56 ID:LmPfWidG0

戸塚「最近、なんかちょっと元気ないみたいだから」

戸塚の優しい言葉とその心遣いに、感動するあまりホロリと涙さえ出そうになる。

八幡「 ……… ありがてぇ、ありがてぇ、尊い、尊い」

思わず手を合わせ声に出して伏し拝んでしまう。食べるなんてもったいない。比企谷家の家宝として床の間に飾り、子々孫々に至るまで伝えるしかあるまい。

戸塚「あはは、大袈裟だなぁ。でも割と元気そうでよかったよ。少しだけ心配してたんだ」

まるで死んだ魚のようだと腐った目には定評のあるこの俺が活き活きしているのもどうかとは思うのだが、もし今の俺が元気そうに見えているのだとすれば、それは間違いなく戸塚と会話してるからだと思うぜ。

俺に向けた照れたような、はにかんだ笑顔が、お気に入りに登録しちゃうくらいに超可愛い。

戸塚かわいい略してとつかわいい。この笑顔を守るためにも国は戸塚保護法を策定すべき。



54: 1 2017/02/24(金) 02:03:25.57 ID:LmPfWidG0

戸塚「ねぇ八幡、ボクからひとつお願いがあるんだけど」

うって変わってやや真剣な面持ちで戸塚がおずおずと切り出す。

俺にとって戸塚の存在自体が既に最優先事項だ。それが戸塚の願いとあらば、もし仮に俺に彼女がいたとしても即座に別れる。しかもそのあと戸塚と付き合っちゃうまである。


はっ? ちょっと待て。ってことはそれはつまり ……………………… 結婚?

よし、あいわかった。皆まで言うな。

今すぐ戸塚を連れて最寄りの稲毛区役所の総合窓口まで婚姻届を出しに行こうと腰を浮かせかけたが、そこではたと我に返り、冷静になって思い止まる。


………… っべー、っぶねー。トチ狂って危うく大惨事を引き起こすところだったぜ。


よく考えたら俺ってまだ十七じゃん。とりあえず十八歳になるまで戸塚には待ってもらおう。


55: 1 2017/02/24(金) 02:14:21.83 ID:LmPfWidG0

戸塚「 ……… もし、なにか悩み事があるんだったら、ボクにも話してくれると嬉しい …… かな」

言いながら、戸塚が上目遣いでそっと俺を見る。もしかして、ちょっと責められてる?

八幡「当然だろ?なにかなくても戸塚には真っ先に話すに決まってる。というか、俺に悩みなんてないし悩みがないこと自体が俺の悩みと言えるまであるからな」

我ながらテキトーぶっこいて誤魔化すと、

戸塚「ホントに? でも、何かあったらきっとボクにも話してね? 約束だよ? 」

余程俺のことを心配してくれていたのだろう、珍しく念押しするように言ってから、じゃあ、と小さく手を振り、そのまま教室から出て行った。


56: 1 2017/02/24(金) 02:28:08.96 ID:LmPfWidG0

そんな戸塚の小さな背中をじっと見送りながら、ちくちくと罪の意識が俺の心を苛む。

―――――― 相談、か。

今まで俺の生きてきた人生の中で、彼女達に逢うまではすることもされることもなかっただけに、今更他の人間に対していったい何をどのように相談すればいいのかすらよくわからない。

だが、話すだけでも気が紛れる、というのは多分嘘だ。少なくとも今の俺には当て嵌まらない。

それは自分の悩みを他人に打ち明けることで、その重みのいくばくかを相手に負わせる行為に他ならないし、結局のところ最後は自分でなんとか解決しなくてはならないことにも変わりはないからだ。

特に、それが自分の蒔いた種である以上、やはりそれは責任をもって己が手で刈り取る他ないのだろう。

例えそれが、どのような結末を迎えることになったとしても。


57: 1 2017/02/24(金) 02:30:14.92 ID:LmPfWidG0


三浦「 ――― 結衣! 姫菜! いるっ?!」


戸塚と入れ替わるようにして、慌ただしく三浦が教室に駆け込んできた。

三浦「ヤバイヤバイヤバイヤバイ、あーし、ちょっとマジで超ヤバイかもっ!?」

息を切らしながらふたりに向けて興奮気味に話しかける彼女のテンションが既に超ヤバイ。

昨日から葉山の件でずっと落ち込んでいたはずだけに、妙に弾んだ声と浮かれたような姿が、ある意味違和感すら感じさせる。何か余程いいことでもあったのだろうか。


結衣「どうかしたの?」

そんな三浦に、由比ヶ浜がやはり戸惑いがちに応じる。


58: 1 2017/02/24(金) 02:32:36.78 ID:LmPfWidG0

三浦「さっきー、なんか学校の中で迷ってる女の人がいてー、あーし、職員室まで案内したげたんだけどー」

普段の傍若無人傲岸不遜を絵に描いて額縁に入れたような振る舞いからして、一見わがまま言いたい放題したい放題の女王様キャラと思われがちだし、実際のところそうなのだが、三浦はあれでいて姉御肌、というよりか、むしろ面倒見のいいおかん気質みたいな一面も持っている。

恐らくは困っている人を見ると見過ごせない質(たち)なのだろう。しかし、

海老名「 ……… 迷うって、校内で?」

海老名さんが首を傾げるのも無理からぬことで、そもそもさして広い学校というわけでなし、それに職員室は正面玄関から目と鼻の先だ。
よほどの方向音痴でもない限り、校内で迷うことなどまず考えられない。


――― 方向音痴? 自分で思いついたそのフレーズに、俺は何かしら引っかかるものを覚える。


だが、そんな些細なことなどまるでお構いなしとばかりに三浦が捲し立てる。


三浦「 ―――――― もしかしたら、あれ、隼人のお母さんだったかも?!」


59: 1 2017/02/24(金) 02:35:24.39 ID:LmPfWidG0

三浦「あーしがF組だって話したら、“もしかして隼人くんのお友達?”“隼人くんのことよろしくね”みたいなこと言われちゃって?」

頬を両手で抑え、まるで乙女のように身を捩る。いえ、肉食系の彼女のことですから乙女なのかどうかは知りませんけどね。

三浦「やだもうどーしよう。あーし、もしかして隼人のお母さんに気に入られちゃったりなんかして?」

つい先ほどまでの声をかけるのすら躊躇われるような沈んだ空気はどこへやら、急にはしゃぎまくる三浦に由比ヶ浜と海老名さんが顔を見合わせる。

しかし、その傍らで、

戸部「 ……… や、でもなんつーか、その、何? あれ、どっか見たことある系っつーか?」

どうやらその場に一緒にいたらしい戸部が、長く伸びた襟足を掻き上げ掻き上げ、しきりに首を捻る姿があった。

三浦「はぁ?! ちょっとあんた何言ってるわけ? 絶対そうに決まって …… 」


60: 1 2017/02/24(金) 02:41:01.09 ID:LmPfWidG0


葉山「 ――― どうかしたのかい?」


その時、それまでどこぞへ席を外していたらしい葉山が教室に姿を現し、ごく自然にその話の輪に加わった。

結衣「ね、もしかして隼人くんのお母さん、今日、学校に来てたりしてなかった?」

昨日の今日とはいえ、しばらく距離を置いていただけに急に何事もなかったかのように接するのも何かと気恥ずかしいものがあるのだろう。
そんな三浦の意を汲んでか、代わりに由比ヶ浜が葉山に尋ねる。さすがは空気読みガハマさん。

当の三浦はといえば白々しく葉山から顔を背けてはいるものの、くりんくりんとゆるふわ縦ロールに指を絡めながら、そわそわと耳を欹(そばだ)てている。


61: 1 2017/02/24(金) 02:43:04.72 ID:LmPfWidG0

葉山「俺の? いや、そんな話は聞いてないけど …… 」

葉山の返事に、三浦の表情がみるみる曇る。


三浦「で、でもー、その人、なんか隼人のことよく知ってるっぽかったし? うちらの担任ともなんか超親し気に話してたし?」

三浦にしてみればやはりどうあっても葉山の母親説は捨て切れないらしく、それまでの素知らぬふりをかなぐり捨てて食い下がる。

葉山「 ……… その人?」

途中から話に加わったため、いきさつのわからない葉山が当惑気味に問うと、皆の視線が自然と三浦へと集まった。

しばらくもじもじしていた三浦だが、やがて観念したのか、やっと葉山に向き直り、それでもやや目を伏せがちにしたまま付け加える。


三浦「 ―――――― うん、和服姿の、超キレイ系の女性(ひと)」


65: 1 2017/02/26(日) 23:00:02.07 ID:0NbR3e6/0


葉山「 ……… 和服姿? 」


三浦の言葉を受けた葉山は顎に手を当て、束の間、何事か考え込むかのような素振りを見せる。

その内に何かの拍子に先程から向けていた俺の視線に気が付いたらしく、ついとこちらに目を向けたかと思うと、そのまま暫し互いの目線が交錯した。

俺の顔に浮かんだ表情から何を察したものか、葉山のその目が僅かに見開かれる。恐らく、お互いの出した結論については敢えて口にするまでもないだろう。

三浦の出会ったというその和服姿の女性の正体に、もし、心当たりがあるとするならば、それは当然 ――――――

だが、それと同時に、その人物がわざわざ学校まで何をしに来たのか、という疑問が湧き起こる。

次第に俺の胸の奥から呼吸器を押しのけるようにして、吐き気にも似た嫌な予感がせり上がってくるのを感じとっていた。


66: 1 2017/02/26(日) 23:10:58.95 ID:0NbR3e6/0

それよりも、まずもって当面の問題は三浦の事だ。

今は多少なりとも浮かれている様子の彼女ではあるが、もし俺と葉山の予想が正しければ、三浦のかけられた言葉の意味合いも180度変わってしまう。
そうなれば、真実を知らされることで彼女が更に手酷く打ちのめされてしまう可能性は十分にある。

本来であれば俺にとって全くの他人事であり、ある意味対岸の火事ともいえる出来事なのだが、なぜかいつものように上手く無関心を装う事ができない。

仕方なく俺が素早く葉山に目配せして見せると、葉山も俺の意図を察してか、すぐにそれとわかる程度に小さく頷き返して来た。

取り敢えずこれで大丈夫だろう。あと、もし問題があるとすれば ―――


戸部「あ ――! 思い出したわ ―― ! あれあれあれっしょ、あれって、ほら、あの、じぇ ――― 」


次の瞬間、それまでしきりに首を捻っていた戸部が急に何事か閃いたかのような声を上げたことで、俺の危惧していた事が起きてしまったと知る。

恐らくは“J組の ――― ”と言いかけたのだろう、その言葉にいち早く反応した葉山の注意が俺から戸部へと移った、まさにその瞬間、




海老名「 ―――― とべっち、いい加減にしたらどうなの?」




思いもよらず、海老名さんの鋭い声が教室内に響き渡っていた。


67: 1 2017/02/26(日) 23:14:38.23 ID:0NbR3e6/0


戸部「じぇ、じぇ……、じぇじぇじぇ?!」


驚きのあまり、戸部が思わず最近芸名を変えたばかりの懐かしの朝の連ドラヒロインみたいなセリフを口にしてしまう。


海老名「 ……… 私、そういうのって関心しないな。デリカシーに欠けるっていうか …… 正直、どうかと思う」

一転、静かな声で淡々と告げる海老名さんの顔にはいかなる表情も浮かんでいない。しかしながらその声からは、それとわかるほど怒りが滲み出ているのが感じ取れた。


戸部「えっ? やっ? ちょっ? お、俺? 俺、何かしたっけか?」

知らず機嫌を損る想い人に、戸部の方は理由もわからず叱られた子供のようにただオロオロと狼狽えるばかりだ。


68: 1 2017/02/26(日) 23:22:05.50 ID:0NbR3e6/0

海老名「なんかしたっけか、じゃないわよ。少しは気を遣うくらいしたらどうなの? 知らなかったじゃ済まされないことだってあるんだよ?」

“腐”の感情ならまだしも“負”の感情など滅多に見せることのない海老名さんだけに、その姿は意外であり、事実、虚を衝かれたのか三浦もまるで呆けたような表情を浮かべて彼女を見ている。

気が付くと、それまで好き勝手にさざめいていた教室も俄かに水を打ったように静まり返り、滅多にないトップカーストグループ内の諍いに注目が集まっていた。

ゴシップ好きの口さがない女子等は既に憶測を交えて何やらひそひそと囁き合っているらしく、その中には当然のように文化祭と体育祭で一世を風靡した、あの相模南の姿も見えている。


69: 1 2017/02/26(日) 23:27:59.33 ID:0NbR3e6/0

海老名さんのその様子からして、彼女も三浦の案内した人物がいったい誰であるのか、その正体に気が付いたに違いない。

だが、友達を気遣う彼女の気持ちはわからんでもないが、だからといって全く事情を知らない戸部をそうまでして責めるのは、さすがにいくらなんでも門も筋も違うというものだろう。

咄嗟のこととはいえ、人あしらいの上手な彼女のことだ、もっと他に上手い遣り方はいくらでもあったはずだ。

そのいつになく感情的とさえ見える海老名さんの姿は、それまでグループ内で常に中立的かつ第三者的立場を堅持してきた彼女らしくもなく、まるで三浦に対して何かしらの共感や同情すら抱いているかのようであった。

今や静寂に包まれてしまった教室では、窓の外を吹く風の音や、誰かの身じろぎする衣擦れの音でさえもがやたらと大きく響いて聞こえてくる。

そして、彼女の一挙一同、一言一句に皆の耳目が集中する中、海老名さんが再び口を開く ――――――


70: 1 2017/02/26(日) 23:29:16.36 ID:0NbR3e6/0



海老名「せっかく、―――――― せっかくハヤハチが捗ってたのにっ!!!」








…………………… って、そっちかよ。



71: 1 2017/02/26(日) 23:37:01.91 ID:0NbR3e6/0

戸部「は、はやはち? 捗る? ……………… って、何が?」


海老名「私 が 捗 っ て た の っ !!!!!!!!」


戸部「うひぃ?!」


海老名さんの剣幕に驚くあまり、戸部が咄嗟に葉山に縋りつこうとすると、


海老名「そこはあなたの場所(ポジション)じゃないでしょ!!!」


更なる追い討ちに半ば涙目になって葉山に助けを求めるのだが、当然のことながら葉山の方は困ったような笑みを浮かべ、ゆっくりと頭(かぶり)を振るばかりだ。

その間も海老名さんは「ハヤハチが穢れる」だの「でもネトラレもアリかも」だのとブツブツ言いながら、何やらひとりで葛藤している。

だがしかし、彼女のことだ。それもこれも全てはこの緊迫した局面から脱するための芝居なのかも知れない。

……… などと勘繰ってはみたものの、恐ろしいことに彼女の目を見る限りかなりのところマジだった。しかも"本気"と書いて"ガチ"と読む例のアレ。


72: 1 2017/02/26(日) 23:39:19.29 ID:0NbR3e6/0

葉山「 ――― 優美子が会ったのは、もしかしたら、うちの母の知り合いだったのかもしれないな」

機転を利かせた葉山が、当たり障りのない言葉を選んでそう告げると、


三浦「 ……… ふ、ふーん、そうなんだ」

少しばかり残念そうではあるものの、三浦の方も満更でもなさそうだった。彼女としても将の乗る馬を射たような心境なのだろう。


73: 1 2017/02/26(日) 23:41:39.68 ID:0NbR3e6/0

そんな三浦に対し、海老名さんが今度は泣きつかんばかりの勢いで言い募る。


海老名「あ ――― ん! 優美子ぉ―――。こんなことなら、私やっぱり全寮制の男子校に通えばよかった」

三浦「 ……… いやそれ、むりっしょ」


海老名「っていうか、そもそもなんでここ男子校じゃないんだろ」

三浦「 ……… そりゃ、あんたがいるからっしょ」


海老名「もうこうなったらいっそのこと、今からでもここ、男子校にすべきだと思わない? あ、それいいっ! 私、今すぐ校長先生にかけあってくるっ!」

三浦「 ……… いや、したらあんたもここにはいられなくなるっしょ。…って言うか、いいから所かまわず妄想垂れ流すなし、擬態しろし!」」


呆れ顔で、それでも律儀にも再三のツッコミを入れる三浦は、海老名さんに毒気を抜かれたのか既にいつもの調子を取り戻している。

そうこうしているうちにやがて予鈴のベルが鳴り始め、結局その話題は有耶無耶のうちに立ち消えとなった。




しかし、俺が先程感じた嫌な予感をまるで裏付けるかのように、


――― その日、雪ノ下は何の連絡も寄越さないまま、遂に最後まで部室に姿を現すことはなかった。



84: 1 2017/02/28(火) 00:48:25.57 ID:yQveVbmA0

放課後。

帰りがけに由比ヶ浜からは“今日は優美子たちのカラオケにつきあうから”と、部活を欠席する旨の報告を受けていた。

どうやら言い出しっぺは海老名さんらしい。

もしかしたら、やはり彼女は彼女なりに三浦の事を気遣ってのことなのかも知れない。

由比ヶ浜によると海老名さんの十八番はアニソンで、滅多歌わない代わりに一度歌い出すとなかなかマイクを手放さない、とも聞いている。

意外な一面である。

しかも、時々アニメの主題歌をBL風の替え歌で歌うらしいのだが、そちらの方は意外でもなんでもない。


85: 1 2017/02/28(火) 00:51:01.57 ID:yQveVbmA0

意外と言えば今朝方、由比ヶ浜が素知らぬ顔で吐いた嘘にも少しばかり驚かされた。

もちろん、彼女が吐いたのは日常生活の上で誰もがごく普通にするような些細な噓に過ぎない。

とはいえ、それでも彼女も嘘を吐く、という、考えてみればごく当たり前の事に当惑する俺がいた。

案外、雪ノ下にしろ由比ヶ浜にしろ、知っているつもりでいて、実は俺の知らない面がまだまだたくさんあるのかも知れない。



86: 1 2017/02/28(火) 01:01:21.73 ID:yQveVbmA0

そんな事をつらつらと考えている内にいつの間にか部室の前まで辿り着く。

由比ヶ浜はいないので、今日は当然、雪ノ下と俺のふたりだけ、という事になる。

どういう顔をして会えばいいのか、どんな話をしたらいいのか、ここ暫くふたりだけになることなど滅多になかっただけに対応に困ってしまう。

暫し迷った挙句、深呼吸をひとつ、ままよとばかりに覚悟を決めて扉に手をかける ――― と、


普段は開いているはずの部室の鍵が、今日に限ってはなぜか閉まったままだった。

と、いうことはつまり、雪ノ下はまだ部室に来ていない、ということになる。

今日の昼の出来事の件もある。何やら胸がざわつくのを感じながらも、そのまま暫く廊下で待っていたが、5分経っても10分経ってもやはり雪ノ下は姿を見せる気配がない。

由比ヶ浜は雪ノ下から暫く部活には出れないかも知れないと聞いている、とは言っていたが、まさかあの厳格な雪ノ下が無断欠席するようなことはあるまい。
遅れてくるからには何かしらの事情があるのだろう。

仕方なく俺は彼女の代わりに職員室まで部室の鍵を取りに戻ることにした。


87: 1 2017/02/28(火) 01:07:50.48 ID:yQveVbmA0


八幡「 ――― 失礼します」


職員室の扉を潜った途端、急に身体が温かな空気に包まれたことで、外がかなり冷え込んでいたことに改めて気づかされる。

そのままふと室内を見回すと、平塚先生が自席に着いているのが見えた。

俺の声に気が付いた様子もなく、何やら難しい顔をして作業に没頭しているようだ。
素は美人だけに、真剣な顔をしている時はおいそれと声をかけるのも憚られる雰囲気がある。

今朝のこともあって少しばかり気後れするのを感じながらも、興味の惹かれた俺は、何をしているのかしらん?と邪魔にならないように背後からそっと覗き込んだ。

机の上には少年ジ○ンプやらチャ○ピオンやらと一緒に、ジン○ャーだの○ギーだのといったアラサー向けの女性誌うず高く積まれ、その表紙にはいずれも“婚活特集”の文字がデカデカと踊っている。


………… うん、とりあえず見なかったことにしよう。


88: 1 2017/02/28(火) 01:09:55.86 ID:yQveVbmA0

俺は足音を忍ばせながらその場を離れると、少し離れた位置から改めて声をかける。


八幡「 ―――― 平塚先生?」

平塚「ひゃう!」///


慌ててそれまで開いていた雑誌を閉じて重ね、更にその上に書類を載せたかと思うと、上体をおっ被せるようにしてひた隠しに隠す。

その必死という言葉ではとても言い尽くせないような涙ぐましいまでの努力に、さすがの俺も同情を禁じ得ない。
思わず後ろからひしと抱きしめたくなるくらい切ない。


平塚「 ………… ひ、比企谷か? い、いつからいたのだね?」

八幡「 ………… 今、来たばかりです」 


いいんです。わかってますから、とばかりにうんうんと頷いて見せる。


89: 1 2017/02/28(火) 01:11:46.12 ID:yQveVbmA0

平塚「み、見たのかね?」

八幡「いいえ、天地神明に誓って俺は何も見ていません」


神聖な宣誓でもするが如く、右手を胸の高さに上げて応える俺を半信半疑の目で見る平塚先生。


平塚「 ……… そ、そうか。な、なら、いいのだが」

それきり二人の間になぜか超気まずい沈黙が落ちる。



………… どうすんだよ、これ。


90: 1 2017/02/28(火) 01:17:14.02 ID:yQveVbmA0

平塚「ち、丁度良かった、実はキミにちょっと話があってな。こ、ここは不味い。とりあえず場所を変えよう。コーヒーでもどうだ?」

八幡「 …… でも俺、これから部活なんで。雪ノ下の代わりに部室のカギを取りに来たところなんですけど?」

今朝の件もある。警戒心を顕わにする俺に対し、そこは心得たもので平塚先生が懐柔を図る。

平塚「少しくらいならいいだろう? 奢るぞ?」

八幡「奢りとあらば、地の果てまでもお供します」

もし一生養ってくれるんなら、人生のパートナーだって務めちゃいますよ?


97: 1 2017/03/04(土) 01:19:25.03 ID:sjPlVRts0


八幡「 ――― 雪ノ下の留学申請が正式に受理された?」


校舎の外に設置された自販機コーナーでマッカンを啜りながら、今しがた言われたばかりの言葉をまるで間の抜けたオウムのように繰り返す。

ちなみにマッカンは平塚先生の奢りだ。ただでさえ美味いのに、加えて他人の奢りともなればその味はまた格別のはずである。

しかし、普段は心地よく感じるはずのその甘さも、今日に限ってはなぜか苦みばかりを口に残すのみだった。


平塚「うむ。それも、少しばかり時期が早まるらしい」

平塚先生は既に缶コーヒーを飲み終え、今はその空き缶を灰皿代わりに一服つけている。

……… だから学校は敷地内全面禁煙じゃありませんでしたっけ? まぁいいや。見つかっても怒られるのは俺じゃないし。


八幡「早まるって …… それ、いつ頃になりそうなんですか?」

平塚「なんやかやあって色々と前倒しになってな。早ければ来月の頭くらいか」

という事は、せいぜいあと2週間足らず。つまり、雪ノ下は終業式を待たずして海外に旅立つことになる。


98: 1 2017/03/04(土) 01:21:53.91 ID:sjPlVRts0

八幡「 ……… 随分と急な話ですね」

平塚「今回の件は異例づくめでな。学校側も当初は難色を示していたのだが …… 」


八幡「 …… もしかして、今日、雪ノ下の母親が学校に来てたってのは、その件ですか?」

平塚「ほう、さすがに耳が早いな」

八幡「 ……… ええ、まぁ」

自慢ではないが、こう見えて早いのは耳だけではない。逃げ足だって速いし、仕事を投げ出したり諦めたりするのはもっと早い。


平塚「彼女の母親がわざわざ学校まで足を運んで、校長らと直談判に及んだ、というわけだ」

何分、相手が相手だ。校長の方でもさぞかし慌てた事だろう。


99: 1 2017/03/04(土) 01:23:34.59 ID:sjPlVRts0

平塚「ま、結果から言えば、いわゆるツルの一声、というヤツだな」

そう言って皮肉な笑みを浮かべる。校長はハゲているので、もしかしてツルとハゲを掛けているのかも知れない。


平塚「こうなることは、ある程度予想してはいたのだが ……… 」

チラリと俺に目をくれ、そこで一端言葉を切る。

そして、ポケットから二本目のタバコを取り出すと、手で風除けを作りながら、どこぞの飲み屋の名前の入ったライターで火を点けた。

どうでもいいけど、パリっとした美人のくせに要所要所でおっさん臭いのな、このひと。


100: 1 2017/03/04(土) 01:26:21.63 ID:sjPlVRts0

平塚「 ……… 色々と複雑なのだよ、彼女も、彼女達の家庭も、な」

言外に何かを含ませつつ、先程言いかけた言葉の先を濁す。敢えて用いた“彼女達”というフレーズに、何かしら引っかかるものを覚えた。


八幡「その雪ノ下の母親のことなんですけど …… 」

平塚「うん?」

八幡「俺らの担任とも、随分親しげだったって話を聞いたんですが?」

平塚「ん、ああ、その事かね。確かにキミたちの担任は、以前、陽乃のクラスを担当していたことがあるからな」

ああ、なるほど。そういうわけ、ね。


101: 1 2017/03/04(土) 01:29:06.45 ID:sjPlVRts0

八幡「 …… 雪ノ下さん、いえ、陽乃さんは、在学中はどんな生徒だったんですか?」

平塚「前にも話しただろう。優等生ではあったが良い生徒ではなかった、と」

答えと共に空に向かって白い煙をふぅと吐き出す。

なんとなくだが想像はつく。あれだけ自由奔放で、かつ、バイタリティのある人だ。しかも県議の娘ともなれば先生方も相当手を焼いたことだろう。

平塚「誰とでも分け隔てなく接し、しかし実のところ誰に対しても本当の意味では心を開かない。一見してサバサバと砕けているようでいて、他人との間に頑なまでに一線を引いているところがあったな」

そんなところは葉山に似ているのかもしれない。いや、この場合、葉山の方が陽乃さんに似ている、というべきか。


102: 1 2017/03/04(土) 01:37:21.41 ID:sjPlVRts0

八幡「特別仲のいい友達とかはいなかったんですか?」

平塚「もしもそれが、“男はいたのか”、と言う意味で訊いているのだとしたら、その通りだな」

え? なにそのイヤそうな顔。別に先生の話じゃありませんから。

平塚「やはりそれなりにチヤホヤされてはいたようだが、不思議と卒業するまで浮いた話はひとつも出なかった」

八幡「まぁ確かに意外といえば意外ですけど、あの通り超のつく美人ですからね。男の方でもおいそれと近寄りがたかったのかも知れませんよ?」

平塚「そうか、比企谷もそう思うか。うむ、そうだろう、そうだろう。ならば例え高校三年間で彼氏のひとりもできなかったとしても、それはそれで仕方あるまい。なんせ美人だからな。ガハハハハハ」

…… だからなんでこの人ってばそんな嬉しそうな顔してんだよ。あんたの話してんじゃねっつーの。

だが、そうは言ってもあの人の事だ、きっとその影では童貞達が屍の山を築いていたに違いない。そう考えると思わず名もなき墓標に向かって黙祷を奉げてしまうまである。



103: 1 2017/03/04(土) 01:42:39.98 ID:sjPlVRts0

平塚「陽乃が2年の時、つまり丁度今の君たちと同じ頃なのだが、ひとりだけ特に仲の良い生徒がいたことがある」

八幡「 ……… いたことがある?」

不意に語りだした先生の口調の変化と、その言い回しに違和感を感じた俺が、つい声に出して訊いてしまう。

平塚「その女子生徒は、キミのように絶望的なまでに人付き合いの下手なぼっちでな」

平塚先生の語るところによると、なかなかクラスに打ち解けられずにいた彼女を見かねた陽乃さんが、なにくれと面倒を見ているうちにいつの間にか仲がよくなっていたらしい。

…… つか、わざわざ“キミのように”って付け加える必要あんのかよ。それって、もしかしてぼっちにかかる枕詞かなんかなの?

平塚「珍しく彼女と余程ウマがあったのかも知れないが、今考えると、どこかしら雪ノ下に ――― 妹に似たところもあったのかも知れない」

タイプは違うかもしれないが、由比ヶ浜と雪ノ下みたいなものか。凸凹コンビ、という言葉が頭に浮かぶ。

やめたげてよぉ!どこがどんな風に凸と凹かなんて言うの、やめたげてよぉ!


104: 1 2017/03/04(土) 01:47:58.71 ID:sjPlVRts0

平塚「伝え聞いたところによると、陽乃の母親は彼女がその生徒と親しくするのをあまり快く思っていなかったらしくてな」

娘の交友関係にまで干渉する親であることは既に陽乃さんの口から直接聞いている。
恐らくは裕福な家の親にありがちな過干渉というヤツなのだろう。ウチのようにあまりに自由過ぎる放任主義もそれはそれでどうかとは思うが。

平塚「その生徒が、急な父親の転勤にともなって、2年の最後に遠方に引っ越すことになってしまったのだが」

先生の口調が僅かに苦みを帯びる。

平塚「後になってわかった事なのだが、どうやらその生徒の父親の勤め先が ―――― 陽乃の父親の経営する会社の子会社だった、という訳だ」

八幡「 ……… それって、もしかして」

平塚「ああ。恐らく陽乃も母親が裏で手を回したとのではないかと考えたのだろう。――― ま、今となっては真相は藪の中だが」

あねのんの母親に対する含みのある言い方も、それで頷ける。

平塚「あんなに落ち込んだ彼女を見たのは、後にも先にもあれが初めてだったよ」

何かしら思うところでもあるのだろう、平塚先生が忌々しげに、既に空になったらしいタバコの箱をくしゃりと握り潰す音がした。


105: 1 2017/03/04(土) 01:53:06.09 ID:sjPlVRts0

ふと気が付くと、平塚先生が無言のままじっと俺を見つめていた。

その様子からして、まだ話には続きがあるようだった。それも、俺にそれを言うべきかどうか、かなり迷っている節が身受けられる。

ややあって平塚先生は両手を白衣のポケットに突っ込むと俺から目を逸らし、深々と溜息を吐きながら、まるで覚悟を決めたかのように言葉を継いだ。




平塚「 ――― その子会社なのだがな …… 。実は、由比ヶ浜の父親の務めている会社でもあるのだよ」


118: 1 2017/03/06(月) 14:15:29.04 ID:6uHVd2UB0

八幡「 ……… 雪ノ下はそのことを知っているんですか?」

平塚「さぁ、な。だが、聡い彼女のことだ。やはりその辺りのことは察しているのかも知れん」


八幡「由比ヶ浜の方は?」

平塚「それこそわからんよ。キミとて自分の親の務めている会社の事など、いったいどれほど知っていると言えるのだね?」

小さく肩を竦めて見せる。

言われてみれば確かにその通りだ。俺の知っていると事と言えば、残業で毎晩帰りが遅く、休日出勤も多い。そのくせ大した手当も出ない。つまり、限りなくブラックに近い、という事くらいだろう。


八幡「もしかして、雪ノ下が留学を決意したのも、その事に関係があるんじゃ …… 」

平塚「そうかも知らんが、そうでないかも知れん。陽乃の件についてはあくまでも伝聞に過ぎないし、私も彼女に直接問い質した事があるわけではないのでな」

結局のところ、要は何もわからない、ということである。……… 案外、使えねぇな、この先生。

平塚先生はその事に関してはそれ以上何も言わず、俺も敢えて聞こうとはしなかった。

その口から吐き出される最後の白い煙を見るともなしに目で追うが、それはどこからか吹き付ける風に紛れ、すぐに消えてなくなる。


119: 1 2017/03/06(月) 14:18:03.42 ID:6uHVd2UB0


平塚「 ――― それで、キミはどうするつもりなのかね?」


タバコを吸い終えて急に手持無沙汰になったのか、腕を組み壁に背を預けるようしてながら平塚先生が俺に向けて問うてきた。


八幡「 …… どうするって。今朝の話の続きですか? だったら俺は」

平塚「そうではない。言っただろう、あれはただ単に雪ノ下の意向をキミに伝えたまでだ、と」

まるで煙を払うかのように、うるさそうに目の前で手を振る仕草をする。


平塚「私が聞きたいのは、このまま黙って彼女が留学するのを見過ごすつもりなのかね、という事だよ」

八幡「見過ごすも何も …… 」

平塚「今回の件が彼女の本心ではないことくらい、キミにもよくわかっていよう?」

だが、例えどんな事情があるにしろ、最後に決めるのは彼女自身だ。
彼女が自分自身で留学という手段を選択した以上、それを止める手だても、明確な理由も俺にはない。


120: 1 2017/03/06(月) 14:21:51.31 ID:6uHVd2UB0

平塚「ふむ、どうやらキミは、何かしら思い悩んでいるところがあるみたいだな?」

俺の態度に何を感じとったのか、先生が重ねて問うてくる。


八幡「 ……… いえ、別に何も悩んでなんかいません」

答えとは裏腹に、逸らした目が意に反してそれを肯定してしまう。


平塚「ふっ、まぁ、いいだろう。どうせ訊いたところで、キミが素直に口にするとも思えんしな」

八幡「 ……… はぁ、そりゃどうも」

オキヅカイイタミイリマス、と茶化したように付け加える。 


平塚「だがな、比企谷」

八幡「 ……… はい」

平塚「余計なお節介かも知れんが、自分が良かれと思ってしたことでも、それが逆に誰かを傷つけることがあるということをよく覚えておいた方がいい」

いつになく鋭い言葉は、俺の心の無防備な部分をまるで狙ったかのように穿つ。

平塚「優しさとは、時に意図せずして人を傷つけるものだ。それがわからぬキミでもあるまい」

俺は答えない。敢えて応えるまでもなく、それはこれまでの俺の人生の中で、既に嫌というほど経験しているからだ。


121: 1 2017/03/06(月) 14:24:06.10 ID:6uHVd2UB0

平塚「キミは優しい。だが、その優しさが他人には理解しにくい。だから誤解を生む ……… キミの行動は見ていて痛々しいのだよ」

揶揄するでも、叱るでもなく、淡々と諭すようなその言葉に羞恥のあまり自分の顔が赤らむのを感じる。


平塚「それに、な ――― 全ての人間を救おうとするのは無理だ。そんなことは誰にもできはしない」

八幡「 ……… そんな殊勝なことは考えていません」


平塚「高校生活というのはある意味社会の縮図だ。だが、現実社会はもっと汚い。キミがキミと関わるすべての人間を助けようとしていたら、今度はキミの方が磨り減ってしまう」

平塚「それでもキミが犠牲になることで他の全員を救うことができると思っているならば、それは慢心だ。それこそ、キミの嫌いな欺瞞にすぎない」


八幡「だからっ!」


苛立ちのあまり、知らず返す声も強く高くなってしまう。


122: 1 2017/03/06(月) 14:27:28.80 ID:6uHVd2UB0

平塚「“幸福の王子”の話を知っているかね」

不意に先生が話題を変える。だが、それがまだそれまでの話の延長線上にあることは声の調子でわかった。

八幡「 ……… オスカー・ワイルドはあまり好きじゃないんで」

あのひねくれた感性に対する反感は、もしかしたら近親憎悪なのかもしれない。それに、今どきワイルドでも許されるのはせいぜいスギちゃんくらいのものだろう。

平塚「キミのことだ、あの物語で王子が最後にどうなったかくらいは知っていよう?」

俺は先生から逸らした目をコンクリートの三和土(たたき)に落とす。白と灰色の作る斑模様の床から今更のように冷気が足を伝って這い登るのを感じた。


平塚「キミのその優しさが自分自身を傷つける。そして、最後にはキミを慕うものまで傷つけることになるのだよ」

その言葉は俺に向けていながらも、その目は恐らく俺を捉えていない。まるで俺の背後にある何かを遠く透かし見ているかのようであった。

平塚「キミがぼっちでいる限り、他人との繋がりを絶ってなおかつ人を救おうとする限り必ず限界はくる。それを今のうちに理解しておいた方がいい ――― 手遅れになる前に、な」


123: 1 2017/03/06(月) 14:29:25.60 ID:6uHVd2UB0

そんなことはわかっている。しかし、どうしようもないことだってある。

誰も傷つけたくない。だったら傷つける前に自分から遠ざかればいい。物理的な距離が遠ざけられないのなら、せめて心の距離だけでも。
今までもずっとそうやってきたし、恐らくこれからもそうだろう。

ぼっちにとって間合いの見切りは必須だ。適度な距離を置けば誰も傷つけずにすむし、少なくとも傷は浅くてすむ。
だからこそ、誰に対しても彼我の適切な距離を保ってきた。

期待して裏切られるよりも、期待させておいて裏切ってしまうことの方が、より深く自分を傷つけるのだから。

だったら最初から期待なんてさせない方がいい。期待に応えることができないことがわかっているなら尚更だ。

そして今ならまだ間に合う。俺にとっても


―――――― 彼女にとっても。



128: 1 2017/03/10(金) 10:02:07.02 ID:Q0dm+vWz0

顔を上げると平塚先生が“それみたことか”と言わんばかりの表情を浮かべて俺を見ている事に気が付いた。

内心の葛藤や動揺を気取(けど)られまいと、素知らぬ顔をしてマッカンに口をつける。
だが冷えた缶の中身はいつの間にか既に空となっており、空気を吸い込むやたら間の抜けた音だけが虚しく響くばかりだった。

腹立ち紛れにゴミ箱に向かって放り投げた缶はものの見事に狙いが外れ、壁に当たって跳ね返ると、まるで嘲笑うかのような甲高い音を立てて俺の足元へと転がり戻って来た。

その一部始終を平塚先生が面白そうに眼を細めて眺めている。


129: 1 2017/03/10(金) 10:06:04.45 ID:Q0dm+vWz0

八幡「 ――― それで、先生はいったい俺にどうしろって言うんですか?」

諦めたような溜息をひとつ、俺は足元の缶を拾い上げると必要以上の力を込めてゴミ箱に押し込みながら仏頂面になって訊ねる。

まるでその話題から逃れるかのような問いかけに、何を感じたのか平塚先生が口角を緩めるのが見えた。
俺の向ける憮然とした表情に気が付くと笑いを噛みころすようにして口許を手で隠す。


平塚「なに、結果として雪ノ下が後悔することのないようにしてやってくれればそれでいい。やり方はキミに任せる。好きにしたまえ」

なにそれあまりにもふわっとしてね? うちのカマクラだってそんなふわふわしてねーぞ。いやあれはどっちかっつーともふもふ?


八幡「なぜ俺が?」

平塚「キミが適任だと私が判断したからだよ」

……… しかもそれ全然理由になってねぇし。


130: 1 2017/03/10(金) 10:07:39.99 ID:Q0dm+vWz0

八幡「俺が余計なことをして、雪ノ下が嫌がったりしませんかね?」

いらぬお節介を焼いて全てを台無しにしてしまったのでは元も子もない。


平塚「それはまずないだろう。ああ見えて、彼女はキミのことを信頼している。口ではなんと言っていようが、な」

八幡「あいつが? 信頼? 俺を?」

思いがけない言葉に、つい訊き返してしまう。


平塚「好意を持っていると、そう言い換えてもいいかも知れんな」

八幡「なっ?!」///

いかにもさらりと告げられたその言葉に、先程とはまた違う意味で顔が熱くなる。


131: 1 2017/03/10(金) 10:14:13.86 ID:Q0dm+vWz0


平塚「なんだ気が付いていなかったのか。キミらしくもない。いや、それともこの場合、いかにもキミらしい、と、そう言うべきかな」


――― あの学年はおろか、全学年を通じてトップクラスの美少女である雪ノ下が冴えないぼっちに過ぎないこの俺の事を?

俄かには信じ難いが、それは同時に、過去幾度となく同じような勘違いを繰り返してきた俺が、二度と同じ轍を踏むまいと常に排除してきた可能性でもあった。


八幡「 ……… どうしてそう思うんですか?」

逸る気持ちと動悸を抑えつつ、できるだけ平静を装って低く訊ねる。我ながら噛まなかったのが奇跡だ。


平塚「彼女のキミを見る目を見ればわかる。ま、強いて言うならば、勘、というヤツだな」

そう言って、指先で自らのこめかみをとんとんと叩いて見せるその仕草に、なぜか妙にイラっとさせられた。


八幡「 ……………… それってもしかして“野生の”ってヤツですか?」

女の子の年齢さえも見抜いてしまうという、例のアレ?

平塚「オンナだ、オンナっ! 女の勘だっ! キサマ、わかっててわざと言っておるだろう?!」

声を荒げて抗議する平塚先生を、

八幡「あー、なるほど、はいはい。あの何の根拠もないくせにやたらと的中率だけは高いという、あっちの方ですね」

小指で耳をほじくりながら超テキトーに受け流す。


……… でもこの先生の場合、男前過ぎちゃって、正直、あんま説得力ないんだよな。


132: 1 2017/03/10(金) 10:16:35.49 ID:Q0dm+vWz0

八幡「 ……… 一応確認しときたいんですが、これって命令ですか?」

もしそうだとしても、それだけでは動機としてあまりにも不十分だ。

常に日頃から、仕事と名の付くものから逃れるためとあらばいかなる苦労も厭わず、“働いたら負け”を座右の銘とする俺という人間に対しての言い訳が成り立たない。
その労力を最初から仕事に活かした方が遥かに効率的かつ建設的ではあるのだが、これはあくまでも俺という人間にとってはポリシーの問題なのである。


133: 1 2017/03/10(金) 10:26:28.44 ID:Q0dm+vWz0


平塚「 …… やれやれ、キミという男はつくづく面倒臭いヤツなのだな」


平塚先生がほとほと呆れ果てたような顔をしながら、壁に寄り掛かったままそのすらりと伸びた長い足を無造作に組み変える。


平塚「私個人としては、キミには自発的にやってもらえればありがたいと思っていたのだが ……………… キミの先程からの態度を見ていて少しばかり気が変わった」

八幡「気が変わった? それ、諦めたってことですか?」

思いのほかあっさりと引き下がる先生に、逆に俺の方が慌ててしまう。


平塚「そうではない。これは“命令”ではなく“依頼”だ」

八幡「 …… 依頼?」

その言葉をそのまま額面通りに受け取るとなれば強制力は更に弱まってしまう。必ずしも俺がその依頼とやらを引き受けなければならないという理由はないからだ。


平塚「どうやらキミは何か勘違いしているようだな」

そんな思いが伝わったのだろう、キツネにつままれたような顔をしているであろう俺に、ゆっくりと頭(かぶり)を振りながら先生が言葉を継ぐ。

八幡「 ……… どういう事ですか?」


平塚「わからんかね? この件はキミ個人ではなく、奉仕部に対しての正式な“依頼”として扱う、という意味だよ」


134: 1 2017/03/10(金) 10:30:14.16 ID:Q0dm+vWz0


八幡「 ……… は?」


平塚「ところで比企谷。キミを初めて奉仕部に連れてきた際に話した例の勝負の件だが、まだ覚えているかね?」

戸惑いを隠せないでいる俺に対し先生がさりげなく尋ねてきた。
なんとはなしにだが、やけに白々しく感じるのは気のせいか。それどころか何やらきな臭いものまでプンプンと漂ってくる。


八幡「 ……… え? あ、はい。もちろん。それって確か、昨年の生徒会長選の時にも確認してますよね?」

結局、あの時は色々とゴタゴタが続き有耶無耶の内に終わっている。


平塚「私の厳正な審査によると、今のところ僅差で雪ノ下が勝っている。二位はキミだ」

八幡「 …… はぁ。そうスか。でも、それが何か?」


色々と言いたいこともあるにはあるのだが、それ以上になぜここでいきなり例の勝負の話を持ち出したのかという方が気になり、よせばいいのについ話の続きを促してしまう。


135: 1 2017/03/10(金) 10:34:11.56 ID:Q0dm+vWz0

平塚「仮にこのまま雪ノ下がいなくなったと仮定しての話だが、その場合、誰かしらが次の部長にならない限り、残念だが奉仕部は休部せざるを得ないことになる」

八幡「 ……… でも、それならそれで仕方のないことですよね?」 

俺に雪ノ下の代わりを務めるつもりはないし、由比ヶ浜とて同じ考えだろう。

平塚「そうなると当然、例の勝負の継続も不可能となる。つまりは現時点で1位である彼女の判定勝ち、ということになるわけだ」


八幡「 ……… はい?」

言葉の意味が頭に浸透するまで暫く時間を要した。


八幡「や、ちょ、ちょっと待ってくださいよ。それってフツウに考えて雪ノ下の試合放棄による負けか、もしくはノーゲームになるのが筋なんじゃ …… 」

話が思わぬ方向に流れつつあることに気が付き、無駄とわかりつつも慌ててそれを遮る。


平塚「ほう。いったい誰がいつそんなルールを決めたのだね?」

八幡「……… ぐっ」


平塚「その場合、勝者である彼女が敗者であるキミに下すであろう命令は ――― 最早、言わずともわかるな、比企谷?」




―――――― なるほど、俺に代わりに奉仕部の部長やれってか。



136: 1 2017/03/10(金) 10:37:35.42 ID:Q0dm+vWz0

平塚「だが、それではあまりにも一方的過ぎて、キミが不憫というものだろう ―――――― そこで、だ」

いかにも芝居がかった言い回しで、もったいつけるような間を置く。


平塚「この依頼をキミたちの勝負に含めるよう、特別に取り計らってやっても構わないのだが ………… と、言ったらどうするね?」


――― 白衣の悪魔。まさにそんな形容詞がピタリと似合う腹黒い笑みを浮かべて平塚先生が俺を見た。


平塚「つまりはそういうことだ。どうだ、少しはキミもやる気になったのではないのかね?」

いかにも恩着せがましく言ってはいるが、どう考えたって脅し以外のなにものでもない。


八幡「 ……… 汚ねぇ。……… 大人って、やっぱ汚ねぇ。 ……… 腐ってやがる」

平塚「 ……… 私としてもキミのその腐り切った目で言われると非常に心外なのだが」



141: 1 2017/03/10(金) 20:44:07.20 ID:4HNvyQ/Y0

平塚「ま、諦めたまえ。キミは潔く負けを認めるか、それとも奉仕部の一員としてこの依頼を引き受けるか、そのふたつにひとつしか選択肢はないのだよ」

なおも恨みがましい目を向ける俺に、平塚先生が勝ち誇ったかのように意気揚々と告げた


―――― かと思うと、


平塚「それに、キミの場合、わかりやすい大義名分とやらがあった方がいいのだろう?」

思いもよらず、そんな事まで言い出した。


八幡「 ……… は?」

平塚「あくまでも仕方なく、それも利己的に立ち回るというスタンスの方が、キミとしても座りがいいだろう、とそういうことだよ」


八幡「 ……… それこそ言っている意味がよくわかりませんが?」

そうは言いながらも、自分の目が眩暈でも起こしそうなほどの目まぐるしい勢いで泳ぎまくっているのがわかった。
眼球だけで競泳なんかしたら、ぶっちぎりで優勝するレベル。ちなみに2位は鬼太郎の目玉おやじ。(俺予想)


142: 1 2017/03/10(金) 20:45:57.42 ID:4HNvyQ/Y0

八幡「あー…、ちなみに、もし、ですけど、俺が断ったらどうなります?」

平塚「その場合は、キミが約束を違えたと知った時の雪ノ下の反応を想像してみるがいい」

八幡「やりますやります! 命に代えてでも是非やらしてください!」

平塚「うむ。キミならきっとそう言うだろうと信じていたぞ」


143: 1 2017/03/10(金) 20:51:07.73 ID:4HNvyQ/Y0

平塚「いやはや、これでひと安心だな。万が一、キミが引き受けてくれなかったらどうしようかとも思っていたのだが」

八幡「その場合、俺がどうされるかについてはあまり考えたくありませんからね。つか、俺ってそこまで信用ないんですか?」

平塚「自分の日頃の行いを顧みることだな」

八幡「過去の汚点は振り返らないことにしているんで」

平塚「キミの場合、過去はもとより、目の前の現実からも目を逸らすべきではないと思うのだが …… まぁいい。なんにせよ、期待しているぞ、比企谷」

八幡「 …… 俺は他人から期待されるような人間じゃありませんよ」

最後まで憎まれ口を叩く俺に対し、


平塚「それでも、だ」

そう言って先生は俺に向け手をひらひらさせる。話は終わり、さっさと行け、ということなのだろう。


144: 1 2017/03/10(金) 20:52:48.60 ID:4HNvyQ/Y0

――― やれやれ。

ったく、さんざっぱら人をけしかけといて、最後は放り投げるなんて、勝手もいいところである。
しかも俺の性格や行動を的確に把握し、先回りして気持ちを汲んでくれているから余計に始末に悪い。

うじうじと悩む俺の背中をそっと押すのではなく、いつも掌の跡が残るほど思い切り叩いて叱咤激励してくれる“癒し系”ならぬ“どやし系”。

それでも、もし俺があと10年早く生まれていて、この先生に出会っていたなら、間違いなく惚れていたのではないかとさえ思えてしまうのは、


うん、多分、単なるストックホルム症候群(シンドローム)か何かだねっ!


145: 1 2017/03/10(金) 21:01:35.45 ID:4HNvyQ/Y0

ひとつだけ気がかりなことがあったので、俺は足を止めて平塚先生に振り返る。


八幡「 ………… 最後にひとつだけ聞いてもいいですか?」

平塚「ふむ。よかろう。言ってみたまえ」


八幡「この場合、依頼人はいったい誰になるんですかね?」

雪ノ下の掲げる奉仕部の方針は、依頼人の抱える悩みや問題を解決することではなく、あくまでも解決のための手助けをする、というスタンスだったはずだ。
だとすれば、どのような形であれ、依頼を引き受けるに当たっては、やはりその依頼人とやらをはっきりとさせておくのが筋というものだろう。


先生は“なんだ、そんな事もわからんのかね?”という顔をして暫く俺の顔を見ていたが、

平塚「キミもたまには頭だけではなく、胸に手を当てて考えてみたらどうだね」

謎めいた言葉を口にする。


八幡「 ……… そうですか、では遠慮なく。…… って、痛ッてッ! いったい何すんですかッ?!」

平塚「それはこちらのセリフだッ! 私の、ではない、キサマの胸だッ!」


ぴしゃりと叩かれ、渋々引っ込めた手の甲をさすりつつ、俺は仕方なく言われるままにその手を今度は自分の胸に押し当てる。

普段なら男の胸なんぞ頼まれても触りたくはないし、自分の胸なぞいくら触ったところで面白くもなんともないのだが、そのまま無言で考えること暫し。やがて、



なるほど、――― と得心がいった。



146: 1 2017/03/10(金) 21:07:05.95 ID:4HNvyQ/Y0

その足で職員室まで戻ると、やはりキーボックスにはまだ部室の鍵が掛かったままになっていた。

その少し錆びついた無骨な鍵を手にとり、しばし眺めた後、しっかりと手に握り込むと、利用簿に名前を記入しそのまま部室に直行する。


古くなってやや強情になった鍵を開けると、当然のように中には誰もいない。

もともと必要最低限のものしかなく、ひたすらガランとした室内の隅には、まるで忘れ形見のようにポットとティーセットが一式置かれたままになっていた。


俺はいつもの定位置、つまり窓際に席を占める雪ノ下とは反対側、廊下側の席に座りつつ、いつになく目まぐるしく頭を回転させる。

理由はできた。動機としても、まぁ十分だろう。あとは計画と実行あるのみだ。


雪ノ下と葉山の家の婚約を破棄させる方法 ――― そのことについては、実は俺の中に腹案がないというわけではなかった。

だが、正直なところ成功率はかなり低い。そして万が一成功したにしても、そこには多大な犠牲が伴う。

下手をすれば、人ひとりの人生を大きく狂わせ、台無しにしてしまうことにもなるかも知れない。


――――― それでもやはり、やらなければなるまい。


147: 1 2017/03/10(金) 21:09:25.01 ID:4HNvyQ/Y0

しかし、計画を実行に移すにあたって、その前にしておかなければならないことがひとつある。

むしろそちらの方が俺にとってはハードルが高いといっていいだろう。
もしかしたら、それこそ俺にとって大切なものを全て失ってしまうことになるかもしれない。

そう考えると苦いものがこみ上げ、どこか楽な方へ楽な方へと逃げ出したくなる気持ちが抑えきれなくなる。

計画の精度を高めるためには、やはり極力、推測や憶測など情報のノイズを排除する必要がある。

まずは今まで誤魔化し、先送りにし続けてきた俺の本当の気持ちを、あのふたりに正直に伝えることだ。全てはそれからだろう。


しかし、そこでまた難問にぶち当たる ――――― いったい、どうやって ?



155: 1 2017/03/13(月) 08:36:12.11 ID:Eutne6CV0

いわゆる間奏曲的な何か。

156: 1 2017/03/13(月) 08:42:14.72 ID:Eutne6CV0

いつもより早めに部活を切り上げたその日の帰り路、家まで自転車であと数分といったところで、どこかで見たような後姿に出くわした。

青みがかった黒髪。凝ったお手製のシュシュで束ねたポニーテールを左右にぴょこぴょこと揺らして歩くその様は、誰あろう、


…………… えっと、マジ誰だっけ?


あまり深い人間関係を構築してこなかった人間にありがちな欠点として、他人の名前を覚えるのが苦手、というのが挙げられる。
いわゆる、ぼっちあるあるというヤツだ。
もっとも俺の場合、それ以上に他人から名前を覚えられるのを超苦手とするという更なる欠点もあるのだが、それはまぁいい。

確か妹の小町の友達の川崎大志の姉ちゃんで、俺と同じクラスでもある、川なんとかさんだ。多分。

いや待て大志の姉ちゃんなんだからフツウに考えてこいつも川崎だろ。


157: 1 2017/03/13(月) 08:45:41.50 ID:Eutne6CV0

その川崎(暫定)は、背中に小さな女の子を背負い、手に買い物袋を下げている姿が妙に板についている。大変だな。若いのに。

名前の方はよく覚えてなかったにせよ一応クラスメートではあることだし、それにお互いの身内も同じ中学の同級生なのだから満更知らぬ仲という訳でもない。

追い越すのに無視するのもなんだし、かといっていきなり声をかけるのもなんかアレな気がしたので、仕方なくチリンチリンとごく控えめにベルを鳴らして注意を引くと、


川崎「 ―――― あ゛?」 ジロッ


千葉のヤンキーどころかヤ○ザでさえもビビって道を譲るうえ、黙ってサイフまで差し出しそうな鬼の形相でメンチ切られてしまった。


八幡「お、オレだよ、オレ! オレ! オレ!」


そのあまりの迫力に、思わず振り込め詐欺かサッカーの応援歌並みにオレを連呼してしまう。なんなら学生証を掲示して見せるまである。



158: 1 2017/03/13(月) 08:47:53.62 ID:Eutne6CV0

川崎「 ……… なんだ、あんたか」

八幡「なんだじゃねぇよ、まったく……… 」


そういえば大きな道路を挟んでいるだけに俺とは中学の学区こそ違っていたが、彼女の家は比較的近く、それも近所とさえ呼んでも差し支えない場所にあったはずだ。

その割に小町と大志が同じ中学というのも解せないし、それ以上に許せなものがあるのだが、多分、少子化やらなにやらでここ数年のうちに区割りの変更でもあったのだろう。

取りあえず深く追究するのはやめることにした。いや別にどこからか圧力があったわけじゃないから …… って、いったい誰に言い訳してんだよ、俺。



159: 1 2017/03/13(月) 08:50:46.80 ID:Eutne6CV0

八幡「妹のお迎えの帰りか?」

川崎「まぁね」

詳しい事情は知らないが、彼女の家も両親共働きで帰りが遅いため、こうしてたまに親の代わりに妹を保育園に迎えに行くことがあるらしい。
手にしているネギの刺さったエコバックは、ついでにどこぞで買い物でもしてきたのだろう。


八幡「重そうだな、持とうか?」

川崎「慣れてるから」

俺の申し出に川崎が素っ気なく答えるが、どうも見ていて危なっかしい。


八幡「いいからかせよ。どうせ途中まで一緒なんだから」

自転車から降りると、川崎の方へと手を差し出す。


川崎「い、いいよ」///

遠慮する彼女の手から半ば無理やりエコバックを取り上げ、念のため割れ物がないか中を確認してから自転車の前かごに乗せた。


川崎「 …… あ、あんがと」///

――― やさしいじゃん。と、そっぽを向きながらも照れたようにぽしょりと付け加える。

当然である。俺の妹愛主義はそれこそ筋金入り。その有効範囲は遥か遠く彼方、他人の妹にさえも及ぶのだ。



160: 1 2017/03/13(月) 08:52:58.78 ID:Eutne6CV0

川崎「保育園までけーちゃ …… 京華のこと迎えに行ったんだけど、なんかお遊戯で疲れたちゃったらしくて」

そのまま肩を並べるようにして歩きながら、ただ黙っているのもなんとなく気恥ずかしいのだろう、訊かれもしないのに川崎が語り出す。

八幡「 …… ほーん」

テキトーな相槌をうちながらチラリと覗くと、背中では京華が器用に姉につかまりながら、天使のような顔で寝息を立てている。

これがもうあと十年も経てば、姉ちゃんみたいに鬼の形相を浮かべるようになるのかと思うと、まさに生命の神秘以外のなにものでもない。ダーウィンだってあの世でびっくりだ。


161: 1 2017/03/13(月) 08:55:23.27 ID:Eutne6CV0


川崎「 ――― 溜息なんて、らしくないじゃん」


隣を歩く川崎が不意にそんな事を言い出した。

おっと、どうやら無意識のうちにまたやってしまったらしい。そういや昨日も小町に言われてたっけ。


川崎「結衣たちとなんかあったの?」

ごくさりげなくだが、切り出されたその言葉に探るかのような色がある。


八幡「 ……… どうしてそう思うんだ?」

図星を指されて思わず訊き返してしまう。それが肯定を意味すると気が付いたが、刻既に遅しというヤツだろう。

教室で見せている姿には、とりたてて変化はないはずだ。
だいいち、俺も由比ヶ浜も普段から教室では滅多に会話をしないし、ここ暫くは目を合わすことすらもない。


162: 1 2017/03/13(月) 08:56:52.91 ID:Eutne6CV0

川崎「 ……… なんかそんな顔してるから」

八幡「へぇ、お前にわかるのかよ?」

訳知り顔といった感じの彼女に、揶揄の意味を込めてそう訊くと、 


川崎「 ………… わかるよ、いつも見てるし」 

ついぞ思いがけないような返事が返ってきた。


八幡「あん?」 


本人も意図していたなかったであろうその答えに驚くあまり、思わず川崎の顔を二度見してしまう。


川崎「え、や、ちがっ、そういう意味じゃなくて!」///

八幡「わ、わーってるっつーの」///


だからそんな風に真っ赤な顔でわたわたと取り乱されたら、却って俺の方がどんな態度とっていいかわかんなくなんだろ。


163: 1 2017/03/13(月) 08:59:13.76 ID:Eutne6CV0

川崎「姫菜から聞いたんだけど。…… 雪ノ下 …… さん、留学するんだって?」

八幡「なにお前それ海老名さん脅して無理やり聞き出したの? ちょっと顔かしな、とか言って女子トイレに呼び出して?」

川崎「だから違うって!」

八幡「それともやっぱ校舎裏? 素直に吐かせるために腹パンとかしたんじゃねーだろーな?」

顔は痕が残るからやめときな! ボディにしな! ボディに! みたいな感じ?

川崎「あんたの様子が変だから気になって訊いたらフツウに教えてくれたんだよっ!」

八幡「お、おお、そうなのか」 

どうでもいいけど、勢い余ってなんかとんでもねぇこと口走ってねぇか、こいつ?


川崎「 ……… って言うか、あんたの方こそ、あたしのことなんだと思ってるわけ?」

八幡「や、なんだと思ってるとか言われてもだな ……… 」

まさかここで“実はさっきまで名前もよく思い出せませんでしたー”などとは言えない。口が裂けても言えない。下手をすると口の中が裂けるほど殴られるかもしれないし。



164: 1 2017/03/13(月) 09:03:46.51 ID:Eutne6CV0


八幡「 ……… だいたい、お前の言う“俺らしさ”って、なんなんだよ」

先程の川崎の言葉に何ら含むものはないのだろうが、照れ隠しということもあってか、つい返す言葉も不躾になってしまう。

そんな俺を横目で見ながら彼女が、ばっかじゃないの、と呟くのが聞こえた。

こいつ口ぐせなのだろう、既に聞きなれた感もあるせいなのか言葉は悪いが不思議と嫌な感じはしない。それこそ雪ノ下の罵倒に比べたらかわいいものだ。


川崎「 ……… あんたはあんたじゃん」


と、小さく付け加える川崎。


まるで答えになってはいないが、言われてみればその通りだ。所詮、らしさなんてもんは、周りが勝手に決めつけたイメージに過ぎない。

にも拘わらず、俺もやはり他人に対して、らしいだの、らしくないだの、型に嵌め込んで自らの理想や想像を相手に押し付けているのだ。


165: 1 2017/03/13(月) 09:06:37.18 ID:Eutne6CV0


――― だとすれば、本当の意味で、俺らしさとはいったいなんなのだろう。


その時、何かしらふと閃くものがあり、自然に足が止まる。

考えるまでもない、それはやはり“ぼっちである”ということだ。

天上天下唯我独人。何を恐れることをやある。失敗したところで失うものなどなし、例え全てを失ったところで、せいぜい元のぼっちに戻るだけの話なのだ。

失うもののない強(したた)かさ、それが“ぼっち”であるが故の俺が持つ、唯一無二のアドバンテージだったはずだ。

やれやれ、そんなことさえも忘れていたとは、どうやら長い間ぬるま湯に浸かり過ぎて、己の本質まで見失っていたらしい。

そう考えると肩の力も抜け、何か色々とふっきれたような気さえした。


166: 1 2017/03/13(月) 09:08:53.55 ID:Eutne6CV0

俺の気持ちの変化を察したものか、川崎が満足気な顔をしてこちらを見ている。

もしかしたら、こいつもこいつなりに俺を励まそうとしてくれたのかも知れない。


―――― と、


いきなり器用にも妹を背負ったまま、川崎が俺の足を軽く蹴飛ばした。

八幡「うぉっ、なんだよ?」

川崎「あんたさ、やっぱ変にうじうじ悩んでるより、あのふたりと変な部活 …… 奉仕部だっけ? …… とかで、わけのわかんないことやってる方がずっと似合ってるよ」

八幡「 ……… なんだそれ。つか、お前の蹴り、マジ痛いんだけど?」

一見がさつで、不器用で、ぶっきらぼうで、それでいて明らかに心のこもったその態度と言い草に文句を垂れつつも、つい俺の顔に苦笑が浮いてしまうのがわかった。



167: 1 2017/03/13(月) 09:13:00.92 ID:Eutne6CV0


川崎「さて、と、じゃ、あたしん家(ち)、こっちだから」

足を止めた川崎が俺に向けて告げる。


八幡「お、そうだったな。ほれ」

川崎「ん」

そう言って自転車の前かごに積んでいたエコバックを返し、俺はそのまま再びチャリに跨った。



――― おっと、この場合、やはり川崎に対して何か礼くらいは言っておくべきなのだろう。


暫くペダルを漕いだところで思い立ち、自転車を停めて改めて川崎の方へと振り返る。


八幡「サンキューな、川崎! 愛してるぜっ!」


川崎「 ……………… 知ってる」


自然と口を衝いて出たいつもの軽口に、川崎の方もいつもの仏頂面、しかもいつも以上に素気なく応じる。そして、


川崎「 ………… あたしも」 


目を逸らしながら、躊躇いがちにぽしょりと付け加えた彼女のその頬が、遠目にも赤く染まって見えたのは、茜射す黄昏の光の加減なのだろうか。


168: 1 2017/03/13(月) 09:17:15.30 ID:Eutne6CV0

川崎「………な、何よ?」

ぽかんとして言葉を失う俺に、川崎が憮然とした表情で半眼になって俺を睨めつける。


八幡「 ……… あ、いや、お前も冗談とか言うんだなって」

川崎「う、うるさいわね!! いいからとっとと帰りなさいよっ!」///


真っ赤な顔で、うがーっとがなりたてられた俺は苦笑しながら再び自転車のペダルに足をかけた。

最後にもう一度背中越しに振り返り手を上げて挨拶しようとしたが、既にどこぞの角でも曲がったものか、その姿はまるで夕陽に溶けたかのように消えてなくなっていた。


169: 1 2017/03/13(月) 09:22:38.65 ID:Eutne6CV0

その晩、俺はいつもよりも早めに夕飯を終え、風呂に入って寝間着のスウェットに着替えると、何をするでもなくベットに寝っ転がったまま薄暗い部屋で天井を見上げていた。

枕元にはスマホがコンセントに繋がれたまま無造作に転がり、充電中であることを知らせるLEDが煌々と光を放っている。

昨日、小町に渡された紙片を取り出し、仄かな光を頼りに小さな文字列を見るともなしにぼんやりと眺める。


さきほど、メールを一通、送ったばかりだ。


さして待つこともなく、ためらいがちな音を立ててメールの着信を告げるバイブの音がした。

俺はスマホを手に取ると一読してからポチポチとメッセージを打ちこみ、再度返信。

次の返信はすぐに帰って来た。文面もごく簡潔で、短い。


内容を確認すると、そのまま布団に潜り込む。

ここしばらくの疲れがどっと出たのか、まる海の底に引きずり込まれるようにして急速に意識が遠のいてゆく。

夢うつつのまま揺蕩うような状態で、ひとりの少女の顔がおぼろげに浮かんだ気がしたが、それが誰なのか、どんな表情を浮かべているのか、認識する前に意識は途切れた。



そして俺はそのまま朝まで深い眠りに落ちる ―――――― 夢を見ることもなく。


175: 1 2017/03/17(金) 00:05:02.20 ID:/Uegr1aI0


俺の選んだその少女 ―――― 由比ヶ浜結衣は、既に約束の時間の前から待ち合わせの場所にひとり佇んでいた。


襟と袖口にファーのついたアイボリーのダッフルコートの下に白いタートルネックのセーター、チェックのミニ丈ボトムスにスエードのニーハイブーツ。

いわゆるガーリー系のファッションに身を包んだ由比ヶ浜は、ショーウィンドウの前でせわしなく辺りを見回しながら、時折、ぽわぽわとピンクがかった茶髪のお団子髪に手を遣っている。

俺が彼女のいる処までたどり着くまでのわずかの間に、横合いから、恐らくはナンパ目的なのだろう、大学生くらいの若い男のふたり連れが歩み寄り、声をかける。

由比ヶ浜は胸の前で小さく手を振って断る仕草をしていたが、俺の姿に気が付くとすぐさまぺこりと小さく頭を下げてこちらに向け速足で駆けてくる。

袖にされた男たちは残念そうな表情を浮かべて暫くその後姿を見ていたようだが、やがて気をとりなおして別の相手を探しにどこかへ行ってしまった。


結衣「もうっ! ヒッキーってば、おっそ ――― ……… くないか」

時計を確認するまでもなく、約束の時間までにはまだ間があるはずだ。

由比ヶ浜もそのことに気が付いたのだろう、口にしかけた言葉もきまり悪そうに尻すぼみになり、そのまま消える。


八幡「 ……… すまん」

それでも多少なりとも心細い思いをさせてしまったことに対して素直に詫びると、

結衣「ん。許す」

少しはにかみながら、照れたような笑みを浮かべて俺を見た。

なんとはなしにその笑顔を直視することができず、ついと目を逸らしてしまう。


176: 1 2017/03/17(金) 00:07:47.08 ID:/Uegr1aI0

そんな俺の腕、丁度、肘のあたりになにやらふくよかな感触が伝わってきた。

見るといつの間にやら由比ヶ浜が自分の手をくるんと俺の腕に巻き付けている。すぐ近くからふわりと漂ってくるフローラル系の香りが鼻腔をくすぐる。

八幡「えっ? やっ? ちょっ? なに、お前?」 いきなりなんなのこいつ。

そのいつになく大胆で積極的な振る舞いに戸惑う俺に、

結衣「へへっ」

由比ヶ浜は悪戯っぽく微笑んで見せる。

それでも一応、抗議の意思を込めた視線を送ってみたものの、素知らぬ顔をしてあっさりと流されてしまった。


結衣「 ……… で、どこ行こっか?」

俺はあきらめて寒さで靄る溜息をひとつ。


八幡「取りあえずは、暖かい場所、かな」

寄せてきた由比ヶ浜の身体は、服の上からでもそれとわかるほど冷え切っている。


――― いったい、いつから待ってたんだよ、こいつ。


177: 1 2017/03/17(金) 00:09:45.26 ID:/Uegr1aI0

最初こそぎこちなかったが、慣れとは恐ろしいもので、やがて意識するでもなく腕を組んでいても自然に歩調が合い始めた。


八幡「 ……… どっか行きたいとこあんのか?」

歩きながら会話できるほどの余裕ができた頃、由比ヶ浜に向けてそれとなく訊ねる。

結衣「んー…、あ、じゃ、き○ーる行こうよ、○ぼーる! 一度、ぷ、ぷろれたりあーと …… だっけ? 観てみたかったんだ」

由比ヶ浜の言う、きぼ○るとは、千葉パ○コの近く、千葉市科学館を含む公共施設と商業施設の雑居する官民複合施設のことである。


八幡「 …… なんで休みの日にまでわざわざ無産階級の賃金労働者なんて見に行かなきゃならねぇんだよ」

それを言うならプラネタリウムだろ、と、すかさずツッコミを入れる。


178: 1 2017/03/17(金) 00:11:37.09 ID:/Uegr1aI0

だいたい、賃金労働者の社畜サラリーマンだったら別に無理に探さなくても俺の家にもふたりほどいるし、多分、由比ヶ浜の家にもひとりいるはずだ。

そうでなくとも大都市の御多分に漏れず、千葉市は労働者の街であり、当然、社畜も多い。

それこそ“終電間際の千葉駅で落花生を投げればパリピか社畜に当たる”とさえ言われているくらいだ。
なぜここで石ではなく落花生なのかと問われれば、それは即ち千葉の特産品だからとしか答えようがない。

ちなみに、うち親は年度末も近いせいもあってか、今日はふたりとも休日出勤である。
ここ暫くはずっと朝早く、帰りも遅いため、家でも顔を遇わせていないところを見ると、相変わらず八甲田山かバターン並みのデスマに従事しているようだった。

このままだと共働きどころか、夫婦揃って共倒れになるのではないかと心配になってしまう。

苦労ばかりかけてはいるが、俺としてはふたりにはいつまでも健康でずっと長生きしててもらいたい。

そんでもって定年退職後は年金で俺を養い続けてくれんもんかね。



179: 1 2017/03/17(金) 00:13:35.62 ID:/Uegr1aI0

八幡「や、ちょっと待て、○ぼーるったら、アレだろ、あの例のハチの巣みたいなヤツ?」

きぼー○は、Qiballとも書き、建物の外からでも見える巨大な球体のプラネタリウムがウリである。

だが、その外観は、色といい形といい、どう見ても凶暴なオオスズメバチの巣以外の何物にも見えない。


結衣「うん、そうだけど?」 

それがどうかしたのか、と目で問うてくる。

八幡「そうだけど、じゃねぇよ。お前、俺が虫とか超苦手なの知ってんだろ? あすこだけはマジ勘弁」

うへぇとばかりに音を上げるのを見て、由比ヶ浜がぷくぅっと頬を膨らませる。


結衣「んもうっ! じゃあいいっ! だったら映画行こ、映画!」

八幡「や、俺、隣に人がいると気が散るから、基本、映画を観る時はいつもおひとりさまなんだけど?」

結衣「ヒッキーがおひとりさまなのは何も映画観る時に限ったことじゃないでしょっ!」

由比ヶ浜のごもっともなセリフにより、俺の主張は敢え無くバッサリと切り捨てられてしまった。



181: 1 2017/03/17(金) 00:15:41.04 ID:/Uegr1aI0

千葉の街で映画館といえば言うまでもなく京○千葉中央駅近く、京○ローザが最も有名であり、高架を挿んでそれぞれイースト館とウェスト館がある。
イースト館の方は京○ホテルミ○マーレ4階に位置するが、ミラマ○レが東京ディスティニィーリゾートに加盟しているということはあまり知られていない。

朝イチのモーニングショーの上映は、周辺の店がまだ開いていないような早い時間帯に始まる。
そのせいもあってか、土曜日であるにも関わらず客影はまばらで、自動券売機を使えばすぐにでもチケットを購入することができそうだった。

由比ヶ浜の観たいという映画は、普段、俺が絶対観る事のない恋愛ものの邦画だったが、ざっと見他に観たい物もなかったので特に異論を唱えることはしなかった。

頭上にある上映スケジュールのディスプレイを食い入るようにして眺めること暫し、由比ヶ浜が突然くるりと俺に向きなおって尋ねる。


結衣「ね、これって、3Dないのかな? 3D?」

八幡「 ……… 恋愛映画3Dで観てどうすんだよ」



185: 1 2017/03/17(金) 00:18:43.56 ID:/Uegr1aI0

映画が始まると、スクリーンの明かりに浮かび上がる由比ヶ浜の表情が、場面場面によって、くるくると目まぐるしく変わるのがわかった。

すぐ隣に座しているため、その感情の変化がダイレクトに伝わってくる。

映画よか、そっちの方がよっぽど見ていて飽きない。

クライマックスが近づき、物語が緊迫した場面に差し掛かると、不意に肘掛けに乗せた俺の手の上に由比ヶ浜の手がそっと重ねられた。

余程集中しているのだろう、由比ヶ浜の顔はスクリーンに向けられたままだ。

そして、絵に描いたようなハッピーエンドが訪れると、その瞳に光の粒が溜まり、やがて一筋頬を伝って静かに流れ落ちる。

エンドロールも終わり、静かに橙色の照明が着くと由比ヶ浜がハンカチを目に当て、「ごめん」と、恥ずかしそうに照れ笑いしながら小さく呟くのが聞こえた。

場内から最後のひとりが退室し、ふたりが立ち上がるまで、俺の手の上には由比ヶ浜の手が重ねられたままだった。



187: 1 2017/03/17(金) 00:20:30.66 ID:/Uegr1aI0

映画がよほど気に召したのか、由比ヶ浜がパンフレットを買い求めに行っている間、俺はカーテンウォールのガラス越しに下の世界を見下ろす。

スクランブル交差点では信号が赤から青に変わり、大勢の人々が行き交うのが見えた。

俺の視界から覗くこの狭い世界にさえこんなに人がいて、俺の目の届かないところには当然もっとたくさんの人間がいる。

これだけ人が溢れているというのに、その中で本当に自分が探し求める相手に巡り合える可能性とはいったいどれほどのものなのだろうか。


190: 1 2017/03/17(金) 00:23:06.37 ID:/Uegr1aI0

気が付くと、パンフを買い終えたらしい由比ヶ浜が俺の背後、少し離れた位置に立っていた。

俺が振り向いた刹那、その顔に一瞬だけ何かしらの表情がかすめたかような気がしたが、すぐに消える。


八幡「丁度、昼飯時だし、なんか食うか?」

結衣「そうだね。ちょっとお腹空いちゃったかも」


俺が何も気が付かなかったフリをして声をかけると、彼女もそのことに気が付いていながらやはり何事もなかったかのように笑顔で応じる。


最後にもう一度だけ下に目を遣る。

皆、それぞれが目的を持ち、前を見て真っ直ぐに歩いていた。

未だ態度を決めかね、自分の足下を見ながら右往左往しているのは、この世界で俺ひとりだけのなのかも知れない。


403: 1 2017/03/20(月) 15:58:57.25 ID:81lDoKla0

八幡「 ……… で、何が食べたいんだ?」

長いエスカレーターを下りながら、とりあえず由比ヶ浜に昼飯の希望を聞いてみる。

ひとりで出かける時は誰に気兼ねする必要もないので、昼飯はごく簡単に済ませるか、もしくは新しいラーメン屋を開拓するためにひたすらブラつくことが多い。
しかし今日に限ってはさすがにそうも行くまい。


結衣「あ、えっと、なんでもいい …… けど?」

出たっ! 必殺、“なんでもいい”。お母さん、そういうのが一番困るのよね。


俺のごく乏しい過去の経験や巷で耳にする伝聞に照らし合わせても、こういう時に女の子が口にする“なんでもいい”が、実際のところ本当になんでもよかった試しがない。

それどころか、もしここで不用意にも下手な店なんぞ選ぼうものなら、即座に“ありえなーい”とばかりに一刀両断され、ある者は“ポイント低い”と罵(ののし)られ、またある者は“これだからゴミィちゃんは”と詰(なじ)られることになる。なにそれ全部俺のことじゃねぇか。

ふと見るとやはり由比ヶ浜もなにやら期待に輝かせた目を俺に向けてきていた。

その眼差しからは何かしら試されてる感がビシバシと伝わり、異常なまでのプレッシャーに俺の背中をイヤな汗が流れ落ちる。

おいよせやめろこっちみんな。


404: 1 2017/03/20(月) 16:00:29.10 ID:81lDoKla0

八幡「コホンッ …… えっと、ま、○家 …… とか?」

結衣「それもしかして本気で言ってるっ?!」


八幡「 ……… じょ、冗談だよ。あ、じゃあ、ケ○タは?」

結衣「んー…… ちょっと気分じゃない、かな」


八幡「なら、ラーメンでいいか? 俺、この辺りで美味い店いくつか知ってんだけど?」

結衣「ラーメンかぁ ……、それもイマイチ乗り気じゃないっていうか?」


八幡「だったら、サ○ゼでいいだろ、○イゼ。あそこならさすがに文句ないだろ?」

結衣「もう一声?」


………… やっぱそれって、全然なんでもよくなくなくね?


405: 1 2017/03/20(月) 16:01:02.65 ID:81lDoKla0

すったもんだの挙句、結局、タウン誌でも何度か紹介されたことのあるという、こじゃれた感じのパスタ店に落ち着いた。

どうせパスタ喰うならやっぱサイゼでもよくねぇか?とも思ったが、由比ヶ浜に言わせれば、どうやら気分の問題らしい。なんだよ気分って。腹に入ればみんな同じだろ。

こじゃれた感じの店の扉をくぐると、店内はいかにもといった感じのこじゃれた内装で、こじゃれた制服のウエィトレスさんに、窓際にあるこじゃれた感のあるふたり掛けのテーブルまで案内される。

手渡されたランチメニューをざっと見たところ、一番安いパスタでもドリンクとサラダ付きでそれなりのお値段だ。やっぱサイゼにしときゃよかった。

俺はホウレンソウとベーコンのカルボナーラ、由比ヶ浜は魚介類のペスカートーレを選ぶ。

カルボナーラばかり注文するな!と、どこかの書道家に怒られそうだが、それこそ大きなお世話である。


406: 1 2017/03/20(月) 16:01:42.69 ID:81lDoKla0

さして待たされることもなく、注文の品が目の前に置かれてから、はたと気が付く。

ペスカトーレのトマトソースは、由比ヶ浜の白いセーターにとっては鬼門だろ。

結衣「あ、そっちも美味しそう! ね、ちょっとずつシェアしない?」

俺の心配を余所に由比ヶ浜の方は大はしゃぎである。


八幡「あー…。それより、いいのか、それ?」

言いながら、それとなく自分の服を指し示す。

由比ヶ浜は、一瞬なんのことかわからず、キョトンとしていたが、やがて、


結衣「あっちゃー……」

案の定、指先で胸元のセーターをつまんで引っ張る。いやお前の場合、別に引っ張らなくても十分見えるだろ。

彼女の顔に浮かぶやってしまった感がマジぱない。かといって当然今更メニューを変更するわけにもいくまい。



407: 1 2017/03/20(月) 16:02:22.25 ID:81lDoKla0

八幡「 ……… お前、ホワイトソース大丈夫だっけか?」

先程シェア云々を口にしていたくらいなのだから特に問題はないのだろうが、一応確認すると、

結衣「 ……… え? あ、うん、好き …… だけど」

俺の意図を察してか、由比ヶ浜が恐る恐るといった態で応える。

結衣「で、でもヒッキー、トマト、ダメじゃなかったっけ?」

八幡「ちゃんと火さえ通っていれば、たいていのものは食えんことはない」

そもそもトマトだって単に嫌いだ、というだけの話である。
確かにトマトを食うか餓死するかといった状況に陥ってさえ躊躇うことなく餓死を選択するくらいのトマト嫌いを自認してはいるのだが、だからと言って食ったら死ぬというわけでもない。

なおも躊躇している様子の由比ヶ浜を前に、俺はそのまま黙って互いの皿を取り換えた。


408: 1 2017/03/20(月) 16:03:03.92 ID:81lDoKla0

結衣「 ……… ごめんね。ありがと」

八幡「ん」


結衣「 ……… ヒッキー、なんか今日はすっごく優しいね」

目を伏せるようにしておずおず付け加えられたその言葉に、心を見透かされたような気がしてドキリと心臓が脈打つ。

八幡「 ……… 何を言う。俺はいつだって甘いし優しいぞ。自分に対しては特に、な」

由比ヶ浜の視線を避けるようにして、目の前のパスタの皿に目を落とす。

恐らくはトマト缶でも使っているのだろう。できるだけ大きな塊は避けるようにしてフォークに麺を巻き付け、そのまま無造作に口に運んだ。

そんな俺の様子を、由比ヶ浜がじっと見つめているのがなんとなく肌で感じられた。


八幡「 …… んだよ、早く喰わねぇと冷めるぞ? 」

結衣「 …… うん。でも、ヒッキー、ほっぺにソースがついてるし」

八幡「うおっと?」 

慌てて頬に手をやるが、鏡がないのでさすがに勝手がわからない。


結衣「そっちじゃなくて、こっち」

そう言って由比ヶ浜は手を伸ばし、避ける間もなく俺の頬を指先でそっと拭うと、そのままその指をペロリと自分の舌で舐めとった。


八幡「 …… なっ?!」///


咄嗟にどんな顔をしていいのかわからず、俺は手元にあった調味料を中身を確かめることもせずに無造作に手に取ると、そのまま麺の上からしこたまかける。

誤魔化そうとしているのはトマトの味なのか、それとももっと別の何かなのかは自分でも判じかねるまま、

八幡「そういや、パスタに粉チーズやタバスコかけるの日本人だけらしいぞ?」

ついそんなどうでもいい知識までも披露してしまう。



結衣「へぇ、そうなんだ。あ、じゃあ、もしかして、カレーに桃とかスイカ入れたりするのも?」

八幡「 ……… いや、そんなことするのは世界広しといえども、さすがにお前くらいのもんだろ」

435: 1 2017/03/24(金) 03:42:00.28 ID:61OoMnPu0

一応、俺が奢ろうか、とは言ってはみたのだが、ここは高校生らしく割り勘でということになり、それぞれ別々に支払いを済ませる。

外に出ると、休日の昼下がりということもあり、朝とは比べ物にならないくらいの人通りが増えていた。


結衣「誰か知り合いと出会うかと思うと、ちょっとドキドキしちゃうね」

そのまま千葉パ○コの方面に向けて、いわゆるナンパ通りをふたりしてそぞろ歩くうちに由比ヶ浜がそんな事を言い出した。

そうですね、俺は昼飯奢らなきゃいけないかと思って一瞬ドキドキしちゃいましたけどね?

だが、ひと口に千葉といっても結構広い。
由比ヶ浜ならまだしも、俺のことを知っている人間に偶然出くわす機会などそうそうあるとも思えない。

しかも、いつも見慣れた制服姿ならともかく、今日のようにふたりとも私服ともなれば、それだけで印象もガラリと変わる。
余程親しい間柄でもない限り気づかれるようなことはまずないと考えていいだろう。

まぁ、そうでなくとも普段から俺の存在感のなさは折り紙つき。なんせ自動ドアのセンサーですら時々反応しないことがあるくらいだし。


――――― それに、


八幡「気にしなくてもいいだろ、別に」

結衣「 ……… え?」///


八幡「見つかったら他人のフリして俺だけ先に通り過ぎるから。あ、なんなら後で集合する場所でも決めとくか?」

結衣「あくまでも他人のフリが前提なんだ!?」



436: 1 2017/03/24(金) 03:45:28.04 ID:61OoMnPu0


「 ――― あっれぇ? もしかして、比企谷ぁ?」


そんな事を言ってる傍から、いきなりお声がかかってしまった。

ヒキガヤ? ヒキタニじゃなくて? しかも呼び捨て? 真っ先に浮かぶ疑問がそこかよ。

俺の事をいかにも親しげにその名で呼び、しかも声は明らかに若い女性 …… と、くれば心当たりはひとつしかない。

果たして、掛けられた声に向けて振り返る俺の目に映ったのは、くしゅりとパーマのかかったショートボブ、小振りな顔に猫を思わせるやや吊り上がり気味の大きな目。

中学時代の同級生にして、俺史上、最大最凶最悪のトラウマメーカー、折本かおりである。


437: 1 2017/03/24(金) 03:49:06.49 ID:61OoMnPu0

折本「うっわ、めっずらしっ! 比企谷、こんな真昼間っから外出歩いてて大丈夫なんだっけ?」

八幡「 ……… いや別に俺、吸血鬼じゃないから」 確かに影は人一倍薄いかも知れませんけどね。


今更言うまでもないし敢えて言いたくもないのだが、俺は中学時代、この折本かおりに告白し、しかもこっぴどくフラれている。
そればかりかその事を周囲に言いふらされ、俺の残りの中学校生活はあらゆる意味でダークサイドに染まり切ってしまったのである。

今考えるに、俺が人間不信と挙動不審と成績不振に陥った原因の八割方はこいつにあると言っても過言ではないだろう。

つまり俺にとっては“こんな時にできるだけ会いたくない奴ランキング”の上位ランカーだ。

参考までに現在のタイトル保持者は材木座。もっともあいつの場合、それがいついかなる時でさえ極力会いたくない。夜道なら尚更だ。


438: 1 2017/03/24(金) 03:58:07.69 ID:61OoMnPu0


「 ――― おや、キミ達は確か」


その折本と一緒にいるのは、エア轆轤(ろくろ)を自在に操る歩く人間国宝にして、海浜総合高校の意識高い系生徒会長、人呼んでトートロジー玉縄だった。

俺と目が合うと玉縄が僅かに眉を顰める。
昨年の海総高との合同クリスマスイベントでケチがついたせいなのか、どうやらあれ以来、俺に対してあまりいい感情を抱いていないらしい。

しかし ――― 、

俺は再度、折本に目を遣る。

相手が男であれ女であれ、他人との間に壁を設けない彼女の性格については、俺も中学の頃から良くも悪くも知ってはいたが、こいつが男とふたりだけ、というのは極めて珍しい。

先日のバレンタインの合同イベントでは、ひとり玉縄が空回りしているようにしか見えなかったが、もしかしたらその後ふたりの仲が急速に進展するような出来事でもあったのだろうか。


439: 1 2017/03/24(金) 04:02:03.63 ID:61OoMnPu0

折本「それにしても、意っ外!」

八幡「 …… 何がだよ?」

折本「比企谷って、制服以外の服も持ってたんだ。なんかウケる」

八幡「 ……… ウケねーよ。つか、お前、俺のことなんだと思ってるわけ?」

武藤○戯とか空○承太郎じゃないんだから休みの日くらいは当然私服だっつの。でもあいつらって、もしかして寝る時も制服なのかしらん?


玉縄「 ……… ふむ。いや、これは非常にプライベートで、かつ、個人的な質問なのだが」

玉縄が一緒にいる由比ヶ浜の姿を見ながら口を挿んでくる。プライベートで個人的って、それ意味同じだろ。


玉縄「もしかして、キミたちは、その …… 、かなりエスペシャリィで特別な関係だったりするのかい? 例えばステディな恋人的な?」

だからそれ同じ意味だっての。何回同じ言葉使ってんだよ。


440: 1 2017/03/24(金) 04:10:53.02 ID:61OoMnPu0

結衣「えっ?! あ、う、ううんん、え、えっと、まだ、そういうのとかじゃなくて?」///

由比ヶ浜が胸の前で慌てて小さく手を振って答えるが、この場合それは逆効果だ。

玉縄「ほう。まだ、ということは、将来的な展望として、そうなるビジョンでもあるという意味なのかな?」


八幡「つーか、お前たちの方こそ、いつの間にそんな関係になったんだ?」

ここでいちいち否定するのも話が長くなって面倒臭そうなので、すかさずカウンタークエスチョンをぶちこんでやる。
何といっても、こういう時に論旨をずらしてそのまま相手を煙に巻くのは俺の最も得意とするところだ。


玉縄「あ、いや、まぁ、その、うん、なんというかだね …… 」

どうやら自分達に対するその問いは想定外だったらしく、見るからに取り乱し、目を白黒させながら口ごもる。

八幡「ほーん?」 どうなんだ? と、今度は折本に目で問うと、

折本「あ、全っ然っ! そういうんじゃないから! あんまりしつこく誘われたし、今日はたまたま暇だったから、ちょっとつきあってるだけ」

今度は折本が、ないないとばかりに両手を振ってみせた。


玉縄「 ……… ま、まぁ、その点に関しては、今後、順次段階を踏んで彼女のニーズに沿った形でお互いのコンセンサスの合意形成を図ろうとだね」

今のひと言で完全に詰まれているにも関わらず何やら懸命になって言い繕うとしているが、俺にもなんとなく状況が見えてきた。

近い将来、折本の常人離れした対人距離感を好意と取り違えて自爆テロを敢行する玉縄の姿が鮮明に目に浮かんでしまう俺はもしかしたら予知能力者か、と錯覚してしまうまである。

お前それ俺が過去に歩んできた道だからな? しかも前途はイバラだらけだぞ?


441: 1 2017/03/24(金) 04:21:39.66 ID:61OoMnPu0

折本「それよりも、意外って言えば、さ」

そう言って、折本が意味ありげに由比ヶ浜の方に目を向ける。

八幡「 …… 俺が女の子とふたりで歩いてるのがそんなに意外か?」

折本の機先を制してそう告げたつもりだが、彼女はゆっくりと首を振る。


折本「そうじゃなくて?」

八幡「 ……… あん?」


折本「この間の雰囲気からして、あたしてっきり比企谷は、あのもうひとりの …… 」


折本の口にしかけたそのひと言で、一瞬にしてその場の空気が凍り付いたかのような錯覚を覚える。

後頭部の毛がぞわりと逆立ち、胃のあたりに何かの異物を飲みこんだような違和感。

同時に、由比ヶ浜が俺の上着の裾をぎゅっと握り締める感触が伝わってくる。

俺は彼女の心中を察し、まるで庇うかのように、知らず一歩前に出ていた。


442: 1 2017/03/24(金) 04:26:10.12 ID:61OoMnPu0


玉縄「 ――― ん、んっ、かおりくん? 彼らの邪魔をするのも悪いだろう。僕たちもそろそろ」

別に空気を読んだ、と言うわけでもないのだろうが、タイミングよく口にされた玉縄のその言葉に、


八幡「アグリー」

咄嗟に手を挙げ、思わず同意を示してしまう。そして、小さく肘で突いて促すと、


結衣「 ……… へ? あ、う、うん。あ、あぐりい?」 

我に返ったらしい由比ヶ浜が見様見真似で慌てて俺の真似をする。恐らく意味はまるでわかっていないに違いない。


折本「えーっ? まだいいじゃん! あ、そうだ! ねぇ、どうせなら比企谷達も合流しない? あ、うん、いい! それ、ある!」

八幡「ねぇよっ! ねぇ、ねぇっ!」

いったい何が悲しくてお前みたいな歩く地雷原(主に俺にとって)と、これ以上一緒にいなきゃならねぇんだよ。



443: 1 2017/03/24(金) 04:27:38.93 ID:61OoMnPu0

折本「ちぇ、つまんないのー。じゃ、いいや。行こ、玉縄くん」

さすがに姉御肌のサバサバ系を自負するだけあって、その辺りの引き際はごくあっさりとしている。

折本がさっさとこちらに背を向けると、

玉縄「じゃあ、これで僕たちは失礼するよ。あ、そうそう、一色くんにもよろしく伝えてくれたまえ」

生徒会長らしく礼儀正しい別れの挨拶を述べ、玉縄も折本と肩を並べるようにして歩み去る。

そんなふたりを見送りながら、俺の口から安堵の溜息が漏れ出た。


……… と、思いきや、不意に折本がぴたりと足を止め、いきなりくるりとこちらを振り向いた。


444: 1 2017/03/24(金) 04:30:47.23 ID:61OoMnPu0


折本「あ ――― っと、そうそう、比企谷?」


八幡「んだよ、まだなんかあんのかよ?」


折本「あたしん時みたく、むりやり変なとこ連れ込もうとしちゃダメだよ?」



結衣&玉縄「えっ?!」


突然言い放たれた、そのとんでもないセリフに、由比ヶ浜と玉縄がそろって俺を見る。


八幡「はぁ?! ちょっ、おまっ、いきなり何言っちゃってんの? いつ誰がそんなことしたよっ?!」

冤罪だ冤罪! 弁護士呼べ弁護士! 


驚き慌てふためく俺のことなどまるでお構いなしとばかりに、折本が素知らぬ顔で続ける。




折本「いやー、さすがにデートでサ○ゼはないよねー。やっぱ比企谷ってば、マジで超ウケる」




……… お前それ、絶っ対ぇわざとやってんだろ。


445: 1 2017/03/24(金) 04:36:31.63 ID:61OoMnPu0

地上113メートルの展望台から眺める外の景色は、まるでひっくり返した宝石箱のようにキラキラと光り輝いていた。

東京湾に沿って広がる建物の明かりが、オレンジ色に染まる夕空と、迫りくる夜の闇との狭間にひと際幻想的な情景が浮かび上がらせている。

そろそろ夕刻にさしかからんとした頃、由比ヶ浜に乞われるまま千葉都市モノレールで千葉港駅までゆき、そこからは歩いて、ここ千葉ポートタワーまで来ている。

日が傾くと外気も急速に下がり始めたが、ここに来るまでの間ずっと俺に寄り添うようにして話しかけてくる由比ヶ浜は、吹き付ける海風の冷たさもまるで気にならないようだった。


446: 1 2017/03/24(金) 04:39:31.52 ID:61OoMnPu0

あの後は何事もなかったようにぶらぶらとウィンドショッピングをして過ごし、途中で一度お茶などをしながら、とりとめのない会話を交わした。

小町の受験のこと、サブレのこと、カマクラのこと、そして、その他、他愛のない話。

お互いに慎重に言葉を選び、ある一点については決して触れようとしない。

ともすれば迂回し、ともすれば話題を変える。

それはまるで何かの禁忌、もしくは触れれば解けてしまう魔法の言葉のように、ふたりの間で何かしらの暗黙の了解があるかのようでさえあった。

447: 1 2017/03/24(金) 04:46:32.60 ID:61OoMnPu0


結衣「うわー、きっれー」


言葉とは裏腹に、沈む夕日に照らされた由比ヶ浜の顔は、刻一刻と近づく一日の終わりに対して惜別する、淡い哀しみに彩られているかのように見えていた。

そんな彼女にかける言葉もなく、俺は一歩離れた位置からその後ろ姿を見つめる。


結衣「 ――― 今日は楽しかったね」

窓の外を見遣りながら、由比ヶ浜が俺に向けて声をかけてきた。閉館時間も近いせいもあってか、周囲に人影はない。


八幡「 ……… ん、ああ。そうだな」

結衣「一日、あたしの我儘につきあわせちゃってゴメンね」


八幡「 ……… いや。それよりお前、時間はいいのか?」

門限があるという話は聞いていないが、年頃の娘だ。あまり遅くなると親も心配するだろう。

俺も小町の帰りが少しでも遅くなると心配で心配で、居ても立ってもいられなくなって、思わずソファーに寝転んでしまうことがあるのでその気持ちはよくわかる。


結衣「うん ――― 、 」


由比ヶ浜が外の景色に気を取られているのか、うわの空で返事を返す。

そして、切なげに滲む吐息で僅かにガラスを曇らせながら、やや不自然な間を置き、おずおずと付け加える。



結衣「 ――― あたし、今日はもしかしたら、ゆきのんの処にお泊りするかもって、嘘ついて出てきちゃったから」



478: 1 2017/03/25(土) 20:02:45.76 ID:L+SLK72J0

恐らくそれだけの言葉を口にするにも、なけなしの勇気を振り絞ったのに違いない。

俺の位置から見える由比ヶ浜の耳が、夕映えの照り返しとは違う色で赤く染まっているのがわかった。

その言葉の意味するところがわからぬほど俺も鈍くはない。それどころか逆に意識し過ぎて、なんと答えていいのか返す言葉に窮してしまう。

そんな俺の戸惑いを知ってか知らずか、今度は震えるような無音の溜息をひとつ、由比ヶ浜が静かに言葉を継ぐ。


結衣「 ――― ね、もうそろそろ、いいんじゃない?」


由比ヶ浜がゆっくりとこちらを振り向く。
その顔に浮かぶ、いつになく思いつめたような表情には、見ているだけで何かしら胸の奥が苦しくなるような差し迫ったものが感じられた。



結衣「 ――― ヒッキー、あたしに何か話したいことがあるんでしょ?」



489: 1 2017/03/30(木) 02:23:57.37 ID:vylvFlXW0


八幡「俺は、 ――――― 」


あれだけ繰り返し繰り返し何を言おうか考えていたはずなのに、由比ヶ浜を前にいざ口を開こうとすると、何ひとつ言葉が出てこない。

ガラスの壁面を一枚隔て、低く唸る海風の音ばかりが耳に遠く、くぐもって聴こえてきた。


結衣「 ――― あのね、前にも言ったけど、あたしってホントはズルイし、すっごい欲張りなの」

ふたりの間に落ちた沈黙を優しく埋めるかのように、由比ヶ浜が訥々と語り始める。


結衣「ゆきのんの気持ちにも、ずっと前から気が付いてたのに、留学するって聞いた時、もしかしたらチャンスかもしれないって」

溢れ出ようとする感情を懸命に堰き止めようとしているのだろう、湿り気を帯びたその声は、今にも途切れそうで心許ない。


だが、 ――― それは違う。卑怯なのはむしろ彼女にその言葉を言わせている俺の方だ。



490: 1 2017/03/30(木) 02:28:03.94 ID:vylvFlXW0

例え嘘でも欺瞞でもいい。それでも俺は欲しかった。

本当の自分の居場所、通じ合う気持ち、言葉にしなくても伝わる何か、いつでも手を延ばせば届くと思われた平穏。

そんな小春日和の陽だまりのような居心地のいい場所が、奇跡のような時間が、いつまでも長続きする訳ないことなど、とうに気が付いていたはずなのに。


歯車の軋みに気が付いたのはいつなのか。ふとした瞬間、三人の間に流れるぎこちない空気に気が付きつき始めたのはいつ頃からなのか。今思えばそれとても定かではない。

しかし俺は、やっと手に入れたかけがえのない時間を、俺が俺のままでいることの許された、ただひとつの場所を失うのが恐かった。

だから敢えてそのことに気が付かない振りをして、ゆっくり朽ち果ててゆくかのような緩慢な死の方をこそ選んだのだ。

自らの手で、自らの否定してきたものを守らんがために。


491: 1 2017/03/30(木) 02:30:23.83 ID:vylvFlXW0

結衣「あのね、今日、ヒッキーに会うこと、ゆきのんにも伝えてあるの」

八幡「そう …… なのか」

だが、由比ヶ浜であれば当然そうするだろう。だからその告白自体、別に驚きはしない。


結衣「それでね、あたし、ちゃんとヒッキーに自分の気持ち伝えるからねって」

そこで言葉は切れ、押し寄せる感情の負荷に堪え切れなくなったのか、そっと顔を俯ける。


結衣「 ……… そしたら、ゆきのん、“あなたならきっと大丈夫よ。頑張ってね”って」


続く言葉は、消え入るほどに小さくなり、ともすれば風の音に紛れそうになる。


492: 1 2017/03/30(木) 02:33:13.89 ID:vylvFlXW0

結衣「あのね、うまく言えないけど、ヒッキーとゆきのんって、そういうところもよく似てるって思うの」

無理に絞り出すような明るい声が俺の胸に突き刺さる。こいつにはいつも明るい笑顔でいて欲しい。そんな風に悲しそうに微笑んで欲しくない。

それができない自分の無力さに、大切なものすら守ることのできない己の不甲斐なさに、いつも以上に嫌気がさす。

結衣「全然違うようだけど、すっごく似てるの。冷めているようでいて、ホントは優しいところとか」

八幡「 ……… 俺は優しくなんてねぇよ 」

変化を恐れるあまり、ずっと逃げ続けてきただけだ。単に他人と関わりを持つことで自分が傷つきたくなかっただけだ。

結衣「ゆきのんは嘘を吐かずに、ヒッキーは嘘を吐いてでも他人を助けちゃうの。ふたりともやり方は正反対なのに、やってることは同じで、自分が傷だらけになっても最後はひとりでみんなを救おうとするの」

そうじゃない。俺も雪ノ下も、由比ヶ浜に出会うまでは、他人を信頼し、頼るという事を知らなかっただけだ。



493: 1 2017/03/30(木) 02:35:56.29 ID:vylvFlXW0

結衣「だから ――― だから、だから今回もきっと、ゆきのんもヒッキーもあたしのために ――― 」

もう十分だ。今のままでいいじゃないか、何もなかったことにして、残りの時間を三人でまたあの場所でずっと温め合えばいい。
お互いの傷口を舐め合いながら、ぬるま湯に浸り続けていればそれでいい。

それの何がいけないのか。誰に俺たちを否定する権利があるのか。


だが、その一方で、俺の中の別の声が抗う。

泥に塗れてまで貫いてきた信念、傷だらけになっても守ってきた矜持。それがひとりよがりの思い込みに過ぎないにしても、ここで妥協するわけにはいかない、と。

例えそれが、他の誰かを傷つけることになったとしても、自分の心に決して癒えることのないを疵を刻み付けることになるとしても。

そして、その声は再び問いかけてくる。それでもお前は本当に“本物”が欲しいのか、と。


―――― その答えはとうに出ているはずなのに。


494: 1 2017/03/30(木) 02:40:59.57 ID:vylvFlXW0


結衣「あたしは、自分の気持ちを正直に伝えたよ。だから、だから次はヒッキーとゆきのんの番」

八幡「 …… そうだな」


結衣「ねぇ、正直に答えて? ヒッキーはゆきのんのことが好きなの?」

八幡「 ……… ああ」


その問いに対する答えは、素直に俺の口から滑り出ていた。ここで今更嘘をついても意味がない。
そんなことをすれば、由比ヶ浜の覚悟を、彼女の誠意を踏みにじることになってしまう。


結衣「 ……… あたしのことは?」

八幡「 ……… 好きだよ」


結衣「 ……… でも、あたしよりもゆきのんの事が好きなんだよね?」

八幡「 ……… すまん」


謝ってどうにかなる問題でもない。そもそも謝るべきものなのかどうかすらも判然としない。それでも俺は謝る事しかできない。
それが偽善だとわかっていながら、それが彼女を更に傷つけるとわかっていながら。

同時にその言葉は俺自身にも深い傷を負わせる。
だが、その傷は己にだけには正直であろうとあり続けた俺が唯一、自分自身に吐きつづけた嘘に対する代償であり、俺の支払うべき代価なのだろう。


結衣「あたしの方が先にヒッキーのこと好きになったのに …… 」

八幡「 ……… 先とか後とかの問題じゃねぇだろ」

結衣「 ……… そうだね」


こみ上げてくる嗚咽を無理に飲み込み、流れ落ちようとする涙に堪えようと天を仰ぐ。歪んだ視界に天井の照明が滲んで見えた。


495: 1 2017/03/30(木) 02:44:32.84 ID:vylvFlXW0


結衣「ねぇ、ヒッキー?」」


由比ヶ浜の問いかけに、俺は無言のまま応じる。小さく身じろぎをしただけで微かな衣擦れの音と共に張り詰めていた空気が僅かに揺らぐ。


結衣「もし、三人の関係が今と変わったとしても、これからも …… あたしと …… ずっと仲良くしてくれる?」


俺は重く湿った息を、全ての想いと共に腹からゆっくりと吐き出す。


八幡「 …… 当たり前だろ。お前は …… 俺の ……… 俺の生まれて初めて自分の意思で選んだ」



―――――――― 友達、だからな。



そして俺は、友達という言葉を口にするのが、こんなにも辛く切ないものなのだと、生まれて初めて知る。




結衣「 …… 友達 …… なんだ」



消えてゆく太陽の最後の残滓を零れ落ちる涙に宿しながら、それでもなお由比ヶ浜は俺に向けて微笑んでみせた。


496: 1 2017/03/30(木) 02:53:03.88 ID:vylvFlXW0

本日はここまで。次回は遅くとも今週中に。ノシ

503: 1 2017/04/01(土) 01:29:38.63 ID:kJTaB7og0

そのまま小刻みに肩を震わせていた由比ヶ浜だったが、ぐすりとひとつ大きく鼻を啜り上げたかと思うと、袖口で目許を拭う。


結衣「 ……… だったら尚更、ゆきのんのこと止めないとね」

八幡「 ……… ああ。そうだな」


結衣「今更だけど、あたしもこんな形で三人の関係終わらせるの嫌だし」

例えそれがどのような形になったとしても、三人の関係の継続を最初から一番強く願っていたのは、紛れもなく由比ヶ浜なのだろう。

胸の内を全てを曝け出してふっきれでもしたのか、少し照れたような顔で付け加える。

迷いがなくなれば気持ちの切り替えも早い。その持ち前の明るさに、俺も救われる思いがした。


504: 1 2017/04/01(土) 01:31:50.37 ID:kJTaB7og0

八幡「 ……… なぁ、由比ヶ浜。そのことなんだけど」

結衣「なに?」

八幡「俺の方こそ今更こんなことお前に頼める立場じゃないのはわかってるんだけど、力を貸してもらいたいんだ」

結衣「 ……… あたしの?」

八幡「ああ。 あいつの …… 雪ノ下の留学を止めるためには、どうしてもお前の協力が必要なんだ」

結衣「 ……… う、うん、わかった。でも、いったいどうしたらいいの?」

八幡「そうだな、とりあえず ――――― 」


結衣「とりあえず?」  由比ヶ浜がゴクリと音を立て唾を飲み込む。









八幡「 ――――― とりあえず、お前のオヤジさんに会わせてもらえないか?」









結衣「 ………… へ?」




505: 1 2017/04/01(土) 01:36:08.51 ID:kJTaB7og0

由比ヶ浜がLINEを使って連絡すると、すぐさま母親からのリプライが返って来たようだ。

結衣「 えっと、……… 今からなら大丈夫 ……… みたいだけど?」

どうやら由比ヶ浜母の方から父親に取り次いでくれたらしい。


しかし ―――― 、


八幡「 ……… 今からって、今、これからかよ?」 ヒクッ

いくらなんでもさすがに展開が急過ぎるだろ。ある程度覚悟をしていたとはいえ、とてもじゃないが俺の心の準備が追いつかない。


506: 1 2017/04/01(土) 01:39:35.93 ID:kJTaB7og0

結衣「パパ、明日から出張だから、今日を逃すと一週間は帰ってこれないかもって ……… 」

由比ヶ浜が申し訳なさそうに付け加える。


八幡「マジかよ …… 」

どうやら一難去ってまた一難ということらしい。

それが自らの行いのせいとはいえ、超えるべきハードルは次々と数を増し、しかも、どんどん高くなっているような気さえする。

とはいえ、既に夜の帳も落ち、俺達に残された時間はあまりも少ない。のんびりと構えてもいられまい。

それに、来週では遅すぎる。

俺は地上にまで届きそうな重く深い溜息を吐くと諦めて肚を括る。

ふと目を向ければ、窓ガラスに映し出された俺の顔はげんなりと疲れ切り、その目はやはりこれ以上はないくらい腐り切っていた。



507: 1 2017/04/01(土) 01:41:35.98 ID:kJTaB7og0

モノレールと電車を乗り継いで由比ヶ浜の家まで着くと、玄関口で由比ヶ浜の母親とサブレが俺達を出迎えてくれた。

由比ヶ浜母は相変わらず若々しくお姉さんといっても十分通用しそうで、まるで由比ヶ浜をそのまま成長させたような感じだった。いろんなところを。


結衣母「あら、いらっしゃーい。ヒッキーくん、ご無沙汰ぁ。随分早かったのね、デート楽しかったぁ?」

八幡「 ……… あー…、いえ、はい。ハハ …… 」 


当然のように俺の口からは乾いた笑いしか出てこない。

チラリと見ると、隣では由比ヶ浜が顔を真っ赤にして下を向いている。


何が“ゆきのんの処にお泊りするかもって、嘘ついてきちゃった”だ、このアホ娘め。最初っからバレバレじゃねぇか。


508: 1 2017/04/01(土) 01:43:48.38 ID:kJTaB7og0

結衣母「お父さん、さっきからずっとリビングで待ってるわよ」

由比ヶ浜母が囁くようにそっと告げると、いきなり緊張のボルテージが最高潮まで高まる。気分はもういきなりクライマックス。

しかし、よく考えてみたら、成り行きとはいえ振ったばかりの女の子の父親に会うって、いったいどんな罰ゲームなんだよこれ。


結衣母「パーパー、ヒッキーくん、お見えになったわよー」

由比ヶ浜母の声に返事は、ない。気のせいか、リビングからは何ともいいようのない無言の圧力がひしひしと伝わってくるような気さえした。

できればその場で暇(いとま)を告げ、回れ右をしてダッシュして家に帰りたいくらい。

框(かまち)を上がると勧められるままに来客用のスリッパを履き、そのままリビングに通される。

その間もひゃんひゃん鳴きながらせわしなくサブレが俺の足に纏わりついてくるので、危なく蹴躓いてひっ転びそうになる。


509: 1 2017/04/01(土) 01:46:13.84 ID:kJTaB7og0

レースの暖簾を潜ると、リビングのソファーに座す由比ヶ浜の父はビールで晩酌の最中だった。

見た感じごく普通の、落ち着いた感じのするサラリーマン風で、当然のことながらどことなく彼女の面影を窺わせるものがある。

どのような理由であれ、娘の男友達が面会を求めているのだ。可愛い娘を持つ男親としては素面(シラフ)ではいられまい。

特に由比ヶ浜はひとり娘である。それも高校生ともなれば、それこそ目の中に入れようとしても痛くて入りきらないはずだ。いやそれ当たり前だろ。


510: 1 2017/04/01(土) 01:47:30.26 ID:kJTaB7og0

由比ヶ浜父はリビングに入ってくる俺をチラリと一瞥したが、さすがにあまりジロジロ見るのは失礼とでも思ったのか、すぐに目の前のコップに目を落とす。

八幡「あ …… どうも。お邪魔します」

何とか挨拶らしい言葉を口にして頭を下げると、由比ヶ浜父も黙って頷く。

緊張しているせいか明らかにそわそわしている様子なので、俺の方までどうしていいかわからず、ついそわそわしてしまう。

そんな俺のそわそわを感じ取ってさらに由比ヶ浜父も余計にそわそわしてしまうという、まさに絵に書いたような負のスパイラル。

いったい何がどう伝わっているのか知らないが、これからどうなるかは、神のみぞ知る、だ。


511: 1 2017/04/01(土) 01:49:12.77 ID:kJTaB7og0

結衣母「ヒッキーくん、どうぞおかけになって」

八幡「あ、はい。失礼します」

由比ヶ浜母に促され、俺が由比ヶ浜父の正面に腰を下ろすと、


結衣&結衣母「よっこいしょーいち」


なぜか右隣に由比ヶ浜母、左隣に由比ヶ浜が俺を挟んで腰掛ける。最早心の中でツッコむ気にさえならない。


512: 1 2017/04/01(土) 01:50:44.74 ID:kJTaB7og0

結衣父「 ……… ビールでいいかね?」

こちらを見もせずに、由比ヶ浜父がビール瓶を手に取る。


八幡「あ、いえ、俺、未成年ですから」

慌てて目の前で手を振ると、

なんだ、私の酒が飲めないとでもいうのかね?とでも言わんばかりに、少しだけムッとした表情になるのがわかった。


結衣母「もう、パパったら」

由比ヶ浜の母親が苦笑を浮かべると、拗ねたようにそっぽを向く。

ここで気分をが害してしまっては元も子もないだろう。


八幡「 …… あ、じゃ、じゃあ、少しだけ」



由比ヶ浜父「 ま だ 早 い っ !!!!!!」 ドンッ




………… なら最初っから勧めんなよ。


513: 1 2017/04/01(土) 01:52:39.40 ID:kJTaB7og0

さて、いざテーブルを挟んで目の前に座ったはいいものの、まずは何と声をかけたらいいか、そのとっかかりからしてよくわからない。

知り合いの親と遭遇した時の身の置き所の無さはやはりちょっと異常。更にその知り合いが女の子で、しかもその父親が相手ともなれば言わずもがなだろう。

当然この場合、初対面で、いきなり“おじさん”と呼ぶのはさすがに失礼だろう。となれば、ここはやはり、


八幡「 ……… えっと、あの、由比ヶ浜さん?」


結衣&結衣母 「 はい? 」


いやいやいやいやいやいやいやいや、そうじゃないから。確かにそうだけど。


514: 1 2017/04/01(土) 01:54:36.28 ID:kJTaB7og0

結衣父「遠慮はいらん。私のことだったら好きに呼びたまえ」

俺の躊躇いを察したのか、由比ヶ浜父は再び俺を一瞥し、そしてまたすぐに手にしたコップに目を戻す。

大事な娘の男友達である俺を警戒してはいるものの、恐らく根はフランクで砕けたいい人なのだろう ……… 何か恐ろしい勘違いをしていそうではあるが。

しかし、いきなり娘の男友達が面会を求めてきたのだ、この状況ではそれも致し方あるまい。

それに、言われてみれば確かに俺の方で変に意識さえしなければ、何と呼ぼうが特に問題はないのかもしれない。


八幡「それでは失礼して ……… あの、お父さん?」




結衣父「 ま だ 早 い っ !!!!!!」 ドンッ




……… うわもうやだこの家、超めんどくせえ。



515: 1 2017/04/01(土) 01:58:22.32 ID:kJTaB7og0

結衣父「比企谷くん …… とか言ったかね?」

ややあって、不意に由比ヶ浜の父親の方から話を切り出してきた。


八幡「 ……… え? あ、はい。比企谷八幡、です」

結衣父「サブレの件では、うちの娘がキミには大変な迷惑をかけてしまったね」

由比ヶ浜父の言うサブレの件とは、勿論、入学式の日のあの出来事のことだろう。


八幡「や、あれは俺が勝手にしたことですし、もう済んだことですから」

結衣父「遅くなってしまったが、私からも改めてお詫びと礼を言わせてもらうよ」

そういって、いきなり深々と頭を下げられ、逆に俺の方が恐縮してしまう。


結衣父「それに、娘がキミには学校で、ひとかたならぬお世話になっているとも聞いている」

八幡「あ、いえ、そんなことありません」

結衣父「私にできることであれば、喜んで力になろう。なんなりと言ってくれたまえ」


八幡「はぁ、どうも。ありがとうございます」

俺もこれでやっと本題に移れるかと思うと、知らず安堵の溜息が出てきた。


八幡「それじゃあ、お言葉に甘えさせてもらいます。あの、実は、由比ヶ浜 …… じゃなくて、結衣さんのことなんですけど」


結衣父「それとこれとは話は別だっ!!!!」ドンッ




……… だからまだ何も言ってねーだろ。


516: 1 2017/04/01(土) 02:03:09.73 ID:kJTaB7og0

由比ヶ浜母のとりなしもあり、改めて話を切り出そうとしたが、よく考えてみればかなり込み入った話である。

ここにくる間も由比ヶ浜には詳しい事情は一切話していない。

場合によったら彼女自身の身に降りかかってくる可能性も危惧される問題だ。母親はともかくとして、やはり本人には直接聞かせるわけにいくまい。


八幡「あー…、スマン、由比ヶ浜。悪いけど、ちょっとだけ席外してもらっててもいいか?」


俺がそれとなく由比ヶ浜に席を外してもらうように声をかけると、


結衣「 ……… え? あ、うん」


少しだけ驚いた顔をしたが、俺の様子から何を察したのか、素直に応える。


すると、


彼女のその返事を合図に、なぜか家族三人揃って無言で立ち上がり、そのままぞろぞろと部屋から出て行き始めた。




………… だからそうじゃねぇってば。


517: 1 2017/04/01(土) 02:03:51.21 ID:kJTaB7og0


* * * * * * * * * * * * *


518: 1 2017/04/01(土) 02:10:19.36 ID:kJTaB7og0

要件を済ませ、由比ヶ浜父に礼を言って暇を告げると、サブレを抱いた由比ヶ浜と由比ヶ浜母が玄関まで見送ってくれた。

俺が帰ることを察してか、サブレはつぶらな瞳を俺に向け、しっぽを振りながら、くんくんと悲し気に鼻を鳴らしている。


八幡「今日は突然お邪魔してすみませんでした」

渡された靴ベラを返しながら軽く頭を下げると、


結衣母「いいのよ気にしないで。好きな時にいつでもまた遊びに来て頂戴」

由比ヶ浜母も慈愛に満ちた笑顔で応じてくれる。

父親と話をしている最中も余計な口を挿むことなく、ずっと耳を傾けていてくれていたので気持ちの上でも随分と助けになってくれた。

なんやかやで、由比ヶ浜の家の中では、やはりこの人が一番まともそうである。


八幡「ありがとうございました。じゃ、失礼します」

感謝の心を込めて再度頭を下げ、そのまま帰ろうと玄関のドアに手を掛けると、


結衣母「あ、ヒッキーくん、ちょっと待って。大事な事聞き忘れてたけど」


不意に背後から呼び止められた。

振り向くと、由比ヶ浜母は横目で娘をチラリと見ながら顔を寄せ、俺にだけ聞こえるように耳元でそっと囁く。





結衣母「 ――― ね、孫の顔が見られるのは、いつ頃になるかしら?」



572: 2019/06/30(日) 00:07:21.89 ID:UuBroTXy0

* * * * * * * * * *


573: 2019/06/30(日) 00:12:28.62 ID:UuBroTXy0

帰りの電車で揺られている間も、去り際に無言で小さく手を振る由比ヶ浜の寂しそうな笑顔が脳裏から離れないでいた。

ぽつぽつと空席が目についたが座る気にもなれず、僅かに後ろ髪を引かれる思いと模糊とした焦燥に駆られるまま、寄りかかったドアの窓を意味もなく手の甲で小突いてしまう。


がたり


と、電車がひと際大きく揺れ、バランスを崩した拍子に我に還る。

何はどうあれ自分の中で選択は為されたのだ。済んでしまったことを今更悔やんだたところで仕方あるまい。

未だ燻り続ける胸の蟠りを散らすように溜息をひとつ。その息で白く濁ったガラスを何気に掌で拭うと、色のない空に滲む月の影が目に映った。
その朧な光の輪郭に、憂いを秘めた雪ノ下の美しくも儚げな横顔が重なる。


―――― あなたは、どうなの?


流れゆく街の灯の上に静かに留まり続けるそれは酷く現実味を欠き、ともすれば触れられそうなほど近く感じられたが、いくら手を伸ばしたところで届きはしないことは子供だって知っている。

頭ではそうとわかっていながらも、気持ちのうえで納得できない距離感がいつになくもどかしい。

無意識に伸ばしかけた指がガラスに阻まれ、あまりの愚かしさに気が付いて苦笑しながら頭(かぶり)を振る。

決して届かない高みにある葡萄を酸いと断じた寓話のキツネも、口では何と言おうと心の奥底ではずっとそれを夢見ていたに違いない。
今の俺にはその捻くれ者のキツネの気持ちが痛いほどよくわかる気がした。

574: 2019/06/30(日) 00:15:38.11 ID:UuBroTXy0

車内アナウンスが終点の駅名を告げ、降車する人の群れに混じってホームに降り立つ。

吐く息は白く煙り、僅かに露出した肌の部分をちくちくと刺す外気の冷たさは、暦の上はともかく体感上は未だ春が近からぬと告げているかのようだった。

人の流れに身を任せて昇りエスカレーターに乗り、長く狭い無言の列から解放されると、ここ数年続いた改装工事を終えて見違えるように広く明るくなった駅構内へと出る。

未だ微かに漂う新建材の香る中、急ぎ足で行き交う人々の合間を縫うように改札口へと足を向ける途中、ふと思うところあって足が止まった。

―――― 駅の音声ガイダンスの“多機能トイレ”って、なんでいつも“滝のおトイレ”に聞こえちゃうのかしらん?

そんな本当にどうでもいいようなことを考えていたせいもあるのだろう、俺のすぐ後ろを歩いていた通行人に気が付かず、背中でぶつかってしまう。


「 ―――― ちょっとぉ、あんた、どこ見てんのよ?」 


え? 何、もしかして青木さ○かなの?

苛立ちを隠そうともせず、頭ごなしに浴びせかけられたそのセリフに戸惑いつつも、急に足を止めた非はこちらにある。

それに今はそんな些細なことでいちいち目くじらを立てるような気力も残ってないし、変にゴネられてイザコザに巻き込まれるのもまっぴらゴメンだ。

もごもごと謝罪の言葉らしきものを口にし、逃げるようにその場から立ち去りかけたところで、ふと声に聞き覚えがある気がして、再び足が止まる。


八幡「 ―――――― って、お前、三浦か?」

三浦「あ゛?」

振り向き様声をかけたその相手 ――― 三浦優美子はつかつかと足早に詰め寄ったかと思うと、むんずとばかりに俺の胸倉をつかみ、ぐいと顔を寄せる。


近い恐い近い恐い近い恐い近い恐い近い恐い近い恐い恐い恐い恐い恐い恐い! 近すぎるし、それ以上に恐すぎるだろっ!


三浦「 ―――――――― あんた」

八幡「よ、よう」


三浦「 ……… 誰だっけ?」

八幡「って、俺だよ、俺、比企谷だよ、比企谷!」

575: 2019/06/30(日) 00:17:47.90 ID:UuBroTXy0

三浦「 ……… なんだヒキオじゃん、そうならそうって言いなよ」

八幡「 ……… だからそう言ってるだろ」

やっと俺が誰だか気が付いたらしい三浦が眉間にキツく寄せた縦皺を解く。
っていうか一応クラスメートなんだからいい加減名前くらい覚えろよ。俺も他人のこと言えねぇけど。

八幡「あー…、ところで、お前、どうしたんだ、こんなところで?」

行きがかり上とはいえ、自分から声をかけてしまった手前そのままただ黙って突っ立っているのもなんかアレなので取りあえず俺の方から話を振ってみる。

三浦「あーし? あーしは姫菜と遊びに行った帰りなんだけど、……… そんなのあんたに関係ないっしょ」

八幡「 ………… まぁ、そりゃそうなんだが」

けんもほろろというか、取り付く島もにべもない返事だが、正直俺だってこいつに限らず他人が休みの日にどこぞで誰と何をしてようが、いちミリだって興味もないし関心もない。

そうでなくとも今日は由比ヶ浜とあんなことがあったばかりだ。
できればあまり顔を会わせたくない相手なのだが、なぜかそんな時に限ってやたらとエンカしてしまう確率が高くなるのが八幡流引き寄せの法則。

576: 2019/06/30(日) 00:23:29.32 ID:UuBroTXy0

三浦「あんたは、ひとりなの?」

ただでさえ不機嫌そうな顔に更に輪をかけて不機嫌そうな声で三浦が問うてくる。 

八幡「 ……… ん? ああ。 まぁ、大抵そうだな」

自慢ではないが俺がひとりなのは何も今日に限ったことではない。つか、んなもんいちいち聞かなくたって見りゃわかんだろ。

それにしても普段から気軽に言葉を交わすように相手でもなし、そもそも俺の場合普段に限らず気軽に言葉を交わす相手すら滅多にいなかったりする。
それがなんで今日に限って、そんな分かり切ったことまでわざわざ聞いてくんのかね、などと訝しんでいると、


三浦「っていうかー、ホントは今日、結衣のことも誘ってたんだけどー、あの娘、昨日の夜になっていきなり“大切な用事ができたから”って断り入れてきてー」

八幡「 ………… お、おう、そ、そうなのか」

ドンピシャのタイミングで放たれたそのセリフに、心当たりのありすぎるほどある俺の目が意志に反して泳ぎ出し、背中を冷たい汗が音もなく流れ落ちる。

そういえば、由比ヶ浜と今日ふたりで会っていたことは雪ノ下にも伝わっていると聞いている。
だとすれば、あいつの性格からして三浦に黙っているということの方が考え難い。

というか、俺の過去の経験から推測するに、みんな知ってたのに俺だけ知らなかったという可能性の方が遥かに高かったりする。
小学校のクラスメートのお誕生会とかでも、俺だけ呼ばれてないのを知らないのも俺だけだったりしたんだよな。

恐らく由比ヶ浜のことだ、俺に気を遣わせまいとして先約があったことはずっと黙っていたのだろう。

三浦の機嫌を損ねないよう電話越しにお団子髪を揺らしながら、コメツキバッタか社畜営業の如くひたすらぺこぺこと頭を下げまくっている由比ヶ浜の涙ぐましい姿が目に浮かぶようだった。

でもあれな、よく考えたらいくら頭を下げたところで相手からは見えてないんですけどね。


577: 2019/06/30(日) 00:26:09.02 ID:UuBroTXy0

三浦「 ――― あに?」

おっと、いかんいかん。どうやらいつの間にか無意識のうちにまじまじと見つめてしまっていたらしく、三浦に険のある目で睨みつけらてしまう。

八幡「え、あ、や、ドタキャンされたって言ってる割には、なんかお前、ちょっと嬉しそうだなって?」

咄嗟に口を衝いて出たセリフだが、テキトーぶっこいているというわけでもない。
先ほどから見ている限り、俺に対する態度こそ不機嫌そうではあるものの、由比ヶ浜に対しては別に怒っている風でもなさそうだ。
それどころか何やら満更でもない様子だと思ったのだが、

三浦「はぁ?! そんなことないし! あんたもしかして目ぇ腐ってんじゃないの?!」

一言のもとに切り捨てられてしまう。しかもそれ、別にもしかしなくてもよく言われてるんですけどね。

三浦「そうじゃなくって、ほら、あーし、こういう性格だからー、なんていうかー、ハッキリしない態度が一番イラってするっていうか?」

…………… いや、それ単にお前が怖いからじゃねぇの? だったらまずその他人に対してデフォで高圧的な態度なんとかしろよ。
教師だってビビッて授業中に指名するのを避けてるって話だぞ? いったどんだけレジェンドなんだよ。

と、思わずツッコミそうになってしまったが、「何か言いたい事でもあんの?」と言わんばかりのひと睨みで何も言えなくなってしまう。

だからお前がそんなだからみんな怖くて言いたい事も言えなくなるんだってことにいい加減気が付けよ。
っていうか、コイツさっきから言ってることとやってることが全然違くね? もしかしてダブルスタンダードがスタンダードなの?

578: 2019/06/30(日) 00:27:49.52 ID:UuBroTXy0

そのまま何やら手持無沙汰気に自慢のゆるふわ縦ロールの金髪にくりんくりん指を絡め、みゅんみゅん引っ張っていた三浦だったが、やがて、

三浦「 ……… だから、なに? その、あの子もああやって、やっとあーしにハッキリものが言えるようになったのかな、なんて思わないわけでもないわけでもないけど?」

今度は微かに頬を赤らめながら照れ隠しのようにごにょごにょと付け加える。

その普段は見せることのない、我が子の成長ぶりを喜ぶおかんの如き見事なまでのツンデレっぷりに、思わず聞いている俺の口の端が微かに緩んでしまった。

なるほど、確かに考えれてみれば由比ヶ浜が以前のように単に周りの空気を読んで合わせるだけでなく、自分の意見や考えをハッキリと相手に伝える事ができるようになったのも雪ノ下のみならず三浦の影響が大きいのだろう。

……… なんせこいつらってば言いたいことは勿論、言わなくてもいいことまでズケズケ言いやがるからな。


579: 2019/06/30(日) 00:31:21.86 ID:UuBroTXy0

八幡「 ……… あー、それで、もしかしてお前、俺に何か訊きたいことでもあんのか?」 

かたやスクールカーストの中でも最上位グループのそのまた頂点に君臨する女王様、かたやカースト最下層の更にその底辺を這いずり回っているような名も知れぬぼっちである。

共通の話題なぞそうそうあろうはずもなく、それきりふっつりと会話が途切れてしまう。
普通ならそんな時は「あ、じゃあ」「うん、じゃあ」という文字通りあ・うんの呼吸で袂を別つことになるはずのだが、なぜか三浦は一向に立ち去る気配を見せない。

仕方なく俺の方から水を向けると、

三浦「 ……… 用もないのになんであーしがあんたなんかと無駄話しなきゃならないわけ?」

半ばふて腐れたような口調で逆ギレ気味に肯定されてしまったが、どうやら図星だったらしい。

八幡「それって、やっぱり由比ヶ浜のことなのか?」

勇を鼓してと言えば聞こえがいいが、地雷原の上でタップダンスでも踊る心地で恐る恐る尋ねながらも、多分それだけではないであろうことは薄々察しがついていた。

もしそうだとしたら、わざわざ俺になんぞ訊かずとも、昨日の時点で由比ヶ浜に直接問い質しているはずだ。


三浦「 ……… それもあるんだけど」

やはりというかなんというか、答える三浦の口調が急に歯切れ悪くなる。

それもある、ということは、つまりそれだけではないということなのだろう。

というよりも、どうやらそちらの方が本題、それもなかなか切り出すことのできないようなデリケートな話らしい。

先程からの俺に対するやたらと横柄で高圧的な態度も、もしかするとそれが原因だったりするのだろうか。
もっとも俺に対してはいつもこんなだからやはりこれがこいつのデフォなのかも知れないが。

そのまま暫く何やらもじもじそわそわしていた三浦だが、やがて意を決したかのように小さく溜息をひとつ吐くと、それでもおずおずと口を開いた。


三浦「あのさ ……… 」

八幡「ん?」


三浦「あの、雪ノ下のお姉さん …… 陽乃 …… さん …… だっけ? …… のことなんだけど」

580: 2019/06/30(日) 00:33:14.11 ID:UuBroTXy0

たどたどしく口にされたその名を耳にして、常日頃から女心に関して絶望的に疎(うと)いと耳にタコができるくらい言われている俺といえどもピンとくる。
ちなみに言ってるのは他でもない妹の小町で、しかもタコではなくて死んだウオノメではないかという説もあるくらいなのだがそれはこの際どうでもいい。

確か先日の踊り場の一件では三浦も俺達の会話を耳にしていはずだ。

だが、冬休み明けにふたりの噂が広まった際、雪ノ下自身から手酷く否定されたこともあってか、いもうとのんの方についてはさほど警戒していないし、また、する必要もないとでも考えているのだろう。

しかしながら、相手があの、あねのんともなれば全く話は別である。

年齢(とし)こそさほど俺らと変わらないとはいえ、全学年を通じて屈指の美少女と呼び声の高い妹さえも凌駕するであろう美貌に加え、こいつの苦手とするところの料理に関してもバレンタインのイベントでは特別講師として招かれるほどの腕前だ。

そして何といっても三浦にとって雪ノ下に対する唯一無二とも言える絶対的なアドバンテージでさえ、あの通りボッカチオも裸足で逃げ出すデカメロンなのだから、その存在を危惧するなという方が無理な話なのかもしれない。

581: 2019/06/30(日) 00:35:03.80 ID:UuBroTXy0

八幡「葉山からは何も聞いてないのか?」

三浦「 …… 前に一度聞いたことあるんだけど、その時は“ただの幼馴染だ”って」

小さく唇を尖らせたその口振りからして、三浦とて葉山の言葉をそのまま鵜呑みにしているというわけではあるまい。
かといってそれ以上深く踏み込んで聞くこともできないでいるらしい。乙女かよ。

プライドが高く、自己中で、傲岸不遜、我儘無双を誇る三浦だが、実はこう見えて案外打たれ弱いところがある。

いや、この場合どちらかというと打たれ慣れていないといった方がいいだろう。
だからこそ雪ノ下に真正面から正論で論破されたくらいで泣き出してしまったりもするのだ。

もっとも、あいつの舌鋒の鋭さときたら下手な刃物なんぞよりよっぽどエグいからな。なんなら俺ひとりで被害者の会とか結成してもいいくらいだし。

しかし、そう考えればここにきて突如としてその正体を現したラスボスの如き陽乃さんという存在に危機感を覚え、それこそ藁をも縋る思いで俺のような者にさえ頼らざるを得ない三浦の気持ちも決してわからないではない。わからんでもないこともないこともないのだが、


八幡「 ……… つか、何で俺にそんなこと聞くわけ?」 

三浦「 ……… だって、あんた、なんかあの人と親しそうだし?」

八幡「 ……… え、なにそれ誤解だから」

582: 2019/06/30(日) 00:38:07.41 ID:UuBroTXy0

確かにいもうとのんの前だとしょっちゅう俺に絡んでくるせいで傍目にはそう見えるのかも知れないが、俺からすればできるだけお近づきになりたくないタイプの女性である。

正直、一番苦手と言ってもいいだろう。

その理由はごくシンプルに言って“怖い”からだ。

勿論、ただ単に怖いというだけならば、今、目の前にいる三浦だって十分過ぎてお釣りが来るくらいに怖い。

だが、陽乃さんの場合は三浦のような直接的なそれと異なり、一見してそうとはわからないが、何かしら異質で底が知れないというか、人好きのする笑顔のその向こう側に巧妙に隠された悪意のようなものが透けて見えることである。

しかもそのことに俺が気づいていると知りながら隠そうともしないどころか、それすらも面白がっている節があるから余計に空恐ろしく思えるのだ。

しかしそうは言っても、今まで接点らしい接点もなく、彼女のことを表面的にしか知らないであろう三浦にそれを上手く伝えることができるとも思えない。

あの鉄壁ともいえる外面の下に潜む苛烈な本性を知るものといえば、雪ノ下曰く、捻て腐った目を持つゆえに物事の本質を見抜いている ―― 褒めてるのか貶しているのかよくわからないが多分後者だろう ―― 俺を除いた他に数えるほどしかいまい。

敢えて挙げるとすれば、教師ゆえに鋭い観察眼を持ち、比較的彼女との付き合いも長い平塚先生、それに妹である雪ノ下は当然として、あとはその彼女と同じくらい近しい立ち位置にいる人物 ――――

583: 2019/06/30(日) 00:40:34.17 ID:UuBroTXy0

三浦「 ―――― 隼人?!」

八幡「あん?」


思いがけず三浦の口にした名前に驚いて、その視線の向けられた先を追うようにして背後を振り返る。

その俺の目に映ったのものは、にこやかに談笑しながら、いかにも仲睦まじげに肩を並べて歩く葉山と ――――――  陽乃さんの姿だった。

俺達の向けた視線に気が付いたものか、葉山が足を止め、僅かに遅れて陽乃さんもこちらに振り向いた。


葉山「 ――――― 優美子?」 

陽乃「 ――――― あら、比企谷くんも?」


葉山「ふたりともこんなところでどうしたんだい?」

こんな状況であるにも関わらず、葉山はいつものように気さくな態度を崩すことなく、ごく自然な調子で話しかけながら歩み寄ってくる。

八幡「ん? ああ、こいつとはついさっきここでばったり出会っちまってな。 あー…… それより ――― 」

お前らこそどうしたんだ、と問い返そうとすると、

陽乃「うっわー、やっぱり比企谷くんだ――― 、ちょー久しぶり ―――。 ひゃっはろ ―――!」

何を思ったのか、突然陽乃さんがもんのすごい勢いでがばりと俺に抱きついてきやがった。

八幡「や、ちょっ、何すんですか、いきなり!?」

つか、久しぶりってよく考えたらついこないだミスドで会ったばかりじゃねぇか。

俺の抗議に、陽乃さんがあざとくも可愛らしく、ぷぅとばかりに頬を膨らませる。

陽乃「んもう、比企谷くんたら何をそんなに照れてるの? ハグなんて欧米じゃ挨拶みたいなものなのよ?」

八幡「でも俺の記憶に間違いなければここ日本だし俺もあなたも日本人でしたよね?!」

陽乃「あらそんな細かい事どうでもいいじゃなーい、だって、私と八幡の仲なんだし」

八幡「いや、いきなりそんなとってつけたみたくいかにも親しげにファーストネームで呼ばれてたって、誰がどう考えてもお互いもうこれ以上はないってくらい赤の他人だったはずなんですけど!?」

いつもより高いテンション、過剰ともいえるスキンシップ、上気した頬、潤んだ目、甘い声音、熱い吐息、ヤバイ、この人もしかして ―――――――― 酔っ払い?!

584: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/06/30(日) 00:41:56.05 ID:UuBroTXy0

葉山「今日は身内だけでちょっとした食事会があってね。今はちょうどその帰りなんだ」

苦笑を浮かべながらも、それとなく今の状況を説明するのはふたりの姿を見てフリーズしたままの三浦を慮ってのことなのだろう。
なるほど、そうと言われるまで気付かなかったが確かにふたりともコートの下は幾分フォーマルな服装のようだった。

葉山「俺は親に頼まれて途中までふたりを送っていたところさ。ほら、最近は千葉も何かと物騒だからね」

いかにもそれが自分の意志によるものではないかのように軽く肩を竦めて見せる。

いやいやいやいや、俺に言わせればさっきから露骨に嫌がる俺をまるっと無視してぎゅうぎゅうぐりぐりと頭と体を押しつけてくる酔っ払いの方がある意味よっぽど危険だし物騒だっつーの。

っていうか、お前もただ見てねぇでなんとかしろ …… よ ……


八幡「 ――― ん? ちょっと待て。お前、今、ふたりって言ったか?」 


遅まきながら葉山の口にした言葉の意味に気が付いて慌てて周囲を見回すまでもなく、

陽乃「そうなの。でもあの子ったら、さっきからずっとあんな調子で」

葉山の代わりに答えるあねのんのチラリと目をくれた先は、―――― ふたりから少し離れてぽつんとひとり、まるで美しい壁の花の如く静かに立ち尽くす雪ノ下だった。

585: 2019/06/30(日) 00:44:15.01 ID:UuBroTXy0

陽乃「今日はせっかく雪乃ちゃんの留学祝いも兼ねてたっていうのに、なんかお通夜みたいになっちゃって」

彼女にしてみれば余程それが面白くなかったのだろう。
でもだからってここぞとばかりに当てつけみたく俺に変なちょっかい出してくんのやめてくれませんかね。
んなことばっかりしてっから俺に対する世間の風評被害が絶えないんだってばさってばさ。
ただでさえ俺に対する世間の風当たりの強さときたら、もうそれだけで桶屋が儲かっちゃうくらい。

しかし、いつもならこんな時に真っ先に間に割って入るはずの雪ノ下が今日に限ってはなぜか微動だにしない。
寒さのためかそれとも別の理由からなのか、自分の体をかき抱くようにして片手を回したまま、頑ななまでに俺から顔を背け、目を合わせようともしなかった。

そんな妹の姿を見て、あねのんが俺の耳元でこしょりと囁く。

陽乃「あ、もしかして雪乃ちゃんたら今日の食事会に比企谷くん呼んでもらえなかったからって拗ねちゃったのかしら?」

八幡「 ……… 身内だけの集まりにひとりだけ俺みたいな無関係のぼっち同席させるとか、何の罰ゲームなんすかそれ」


586: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/06/30(日) 00:48:21.13 ID:UuBroTXy0

陽乃「それで、私もちょっと飲み過ぎちゃったし、ここからだと家に帰るより雪乃ちゃんの部屋の方が近いから、今日はこのままお泊まりさせてもらおうかなって ――― 明日のこともあるし」

八幡「明日のこと?」

何かしら含みのあるそのフレーズに思わず反応した俺を陽乃さんは素知らぬ顔でさらりと流し、

陽乃「あ、そうだ。丁度良かった。比企谷くん、ちょっといい?」

止める間もなく、ごくさりげない仕草で俺の肩に手を載せたかと思うと、

陽乃「慣れない靴履いてきちゃったせいか、さっきからずっと踵が気になってて」

悪びれもせず言いながらひょいと片足立ちとなり、俺につかまる手でバランスをとりながら、ひとさし指の指先でくいとヒールの位置を直す。
その拍子に陽乃さんの身体がぐっと接近し、柑橘系の香水に仄かなアルコールの入り混じった甘い香りが鼻腔をくすぐる。

と、同時に服の上からでもそれとわかるほど暖かくしっとりと柔らかな重みが俺の腕のあたりにぎゅっと押し付けられるのを感じた。

陽乃さんは俺の反応を楽しむかのように、とろけるような悪戯っぽい笑みを浮かべ、俺の顔を下から覗き見て更にぐいとばかりに身体と顔を寄せて来たかと思うと、


陽乃「ねぇ、比企谷くん?」 

八幡「 ……… な、なんすか?」

陽乃「疲れちゃったから、おんぶ」 

八幡「 ……… いやそれ無理でしょ」

だからいきなり何言い出すんだよ、この人。

陽乃「あらそう、残念。じゃ、抱っこでもいいんだけど?」

八幡「 ……… いいんだけどって、なんでそこでハードル高くなってんすか」

ただでさえ人目を引く美人だってのに、公衆の面前で、しかも、それこそ抱き着かんばかりに身を寄せられてさすがにきまりの悪くなった俺が、

八幡「 ――― っていうか、今日はいつもみたく車じゃないんですか?」

いつものように話を逸らして煙に巻こうと、咄嗟に思いつきの疑問を口にすると、


陽乃「ふふ。だって、雪乃ちゃんたら、あれ以来、滅多にあの車に乗ろうとしないんだもの」

小さく笑みを浮かべて答えるあねのんの向こうで、雪ノ下が居心地悪そうにもぞりと小さく身じろぎするのが見えた気がした。

587: 2019/06/30(日) 00:50:52.78 ID:UuBroTXy0

陽乃「 ――― ところで、そちらはどちら様なのかしら?」

まるで今初めて気が付いたかのように三浦へと向ける陽乃さんの瞳が、何か新しい玩具でも見つけた子どものようにキラキラと輝く。
あるいはこの場合、獲物を見つけた猫が舌なめずりするかのような、とでも形容すべきか。

そして笑顔のままくりんと首だけで俺に向き直り、

陽乃「――― こないだ連れてたのとは、また違う子みたいだけど?」

明らかに言わなくてもいいはずのひと言まで付け加える。

八幡「 ……… できればそういう誤解を招くような言い方するのやめてもらえませんかね?」

っていうかそれフツウに女連れに対して言ったら絶対あかんヤツやろ。


三浦「あ、あーしは、その、隼人の …… 友達って言うか」

生徒会主催の進路相談会やバレンタインのイベントで何度か顔を合わせているとはいえ、こうして陽乃さんから直接声をかけられるのはこれが初めてなのだろう。
相手が誰であれ憚ることのない三浦にしては珍しく、幾分気遅れでもしているかのようにおずおずと答えつつ、それでも何かしら期待するような目でチラリと葉山の様子を窺う。


葉山「 ――― 友達だよ。俺や比企谷と同じクラスの三浦優美子」

そんな彼女の気持ちを知ってか知らずか、ごくあっさりとした葉山の紹介に三浦の顔がみるみる失意と落胆に曇る。

陽乃「あら、そう。ふーん、隼人のお友達なんだ」

それを聞いた陽乃さんの反応は素っ気なく、なぜかそれきり三浦に対する興味を失くしたかのようだった。

陽乃さんにいったいどんな意図があったにせよ、“お友達”を強調したかのようなセリフが余程気に障ったのか、三浦の片眉がピクリと反応する。

それまでの借りてきた猫の皮のようなしおらしさはどこへやら、やおら腕を組み、ブーツのつま先でカツカツと硬い音を刻みながら憮然とした表情で言い放つ。

三浦「ちょっとちょっとー、前々から気になってたんですけどー。隼人隼人隼人隼人って隼人のこと気安く呼び捨てなんかしてー、隼人、この人いったい隼人のなんなわけー?」

いやいやいやいやいやいやいやいや、あーしさん、いくらなんでもそれ自分の事棚上げし過ぎでしょ。
伊東温泉のCMだってさすがにそこまでハヤト連発してねぇぞ。あれはハトヤだけど。


588: 2019/06/30(日) 00:58:31.83 ID:UuBroTXy0

葉山「 ――― 優美子」


葉山に小さく諫められた三浦が拗ねたようにぷいとそっぽを向いてしまう。

ふたりの性格をよく知る葉山だけに、できるだけこの場を穏便にやり過そうとしたのかもしれないが、どうやらそれが却って裏目に出てしまったようだ。


陽乃「そんなこと言われても、隼人は小っちゃい頃からずっと隼人だし? 私にとっては可愛い弟みたいなものだから」

三浦の不躾な態度を気にするでもなく、陽乃さんが年上らしく余裕と鷹揚さを見せながら、「そうでしょ?」 と、ばかりに葉山に同意を求める。

葉山「 …… ああ、そうだね」

だが、答える葉山の反応は些かぎこちなく、気のせいか声も心なし不自然に硬く沈んで聴こえた。

三浦「ふ、ふーん。そ、そうなんだ」

だが、そんな葉山の様子に気が付くこともなく意外にも三浦もあっさりと矛を収める。

もしかしたら、今のふたりの短い遣り取りで、言外にとはいえ互いが恋愛の対象外であるという言質をとったことで幾分気を良くしたのかも知れない。
でも、あーしさんたら、ちょっとチョロすぎやしませんかね。

俺としても三浦がハンカチ咥えながら「キーッ!! この薄汚い泥棒猫ッ!」(死語)みたいなベタな昼ドラ的展開を期待していなかったと言えば嘘になるが、もしかしたら、いきなりこの場で修羅場でバトル!に巻き込まれやしないかと内心冷や冷やしていただけに、やれやれこれでひと安心と胸を撫で下そうとした、まさにその瞬間、


陽乃「 ――― あ、そうそう。でもそういえば、私、隼人からプロポーズされたことがあったかしら」


これ以上はないといえるくらいの絶妙なタイミングで、いかにもわざとらしく胸の前で掌をぽんと打ち合わせながらの爆弾発言。


三浦「え? や? ちょっ? はぁ?!」

不意を衝かれて目を白黒させんばかりの三浦を尻目に、


陽乃「 ――― もっとも、小っちゃい頃の話だから、隼人の方はもう覚えてないかも知れないけど」

殊更冗談めかしてはいるものの、この女性(ひと)のことだ、今のセリフがこの場でどのような効果をもたらすかを十二分に計算し尽くした上でのことだろう。


葉山「どうしてキミはいつもそうやって …… 」

深い溜息とともに咎めるような視線を向ける葉山に対し、当の陽乃さんはまるで素知らぬ顔。
美しいガラス細工を思わせるようなその冷たく透き通った美しい面(おもて)には微塵の揺るぎも見受けられない。

………なんせ、この人の場合、同じガラスでもメンタルは防弾ガラスばりだからな。

589: 2019/06/30(日) 01:00:09.32 ID:UuBroTXy0

葉山「前にも話しただろ? 陽乃は本当にただの幼馴染だよ」

取り繕うかのように口にはしたものの、咄嗟にとはいえその名を呼び捨てにしてしまったことに気が付いたのか、すぐにきまりの悪そうな表情に変わる。

三浦「だって、隼人、あの時 ……… 」

当然納得のいかないであろう三浦が更に何か言い募ろうとはしたが、そこではたと思い止まり、気まずそうに口を噤んでしまう。

三浦の言わんとした“あの時”というのが、先日の踊り場での一件を指しているであろうことは、その場所に居合わせた俺にはすぐに察しがついた。

当然、葉山もその事には気が付いているのかもしれないが、まさか当人たちのいる目の前でその事に触れるわけにもいくまい。

590: 2019/06/30(日) 01:02:30.19 ID:UuBroTXy0

「 ―――――― あの時?」


小さく首を傾げながら、今しがたの三浦の言葉をそのままなぞるように呟いたその声は、陽乃さんの口から発せられたものだった。

僅かに細められた目は冴え冴えとした冷気を湛え、その瞳から放たれる鋭い視線は ―――――― なぜか真っ直ぐ俺に注がれる。

心の奥底まで覗き込むような瞳に絡み取られる前にと、咄嗟に目をあらぬ方にへと逸らしはしたが、

陽乃「ふーん、なるほど。そういう事、ね」

僅かな顔色の変化から何を察したものか、陽乃さんの口角がすっと吊り上がるのが見えた。


陽乃「 ――― この子も、私達と隼人の家の関係を知っているんだ?」


誰にともなく独り言のように口にされ、それでいて明らかに断定するような問い掛けに、当然の如く答える声は皆無。

だが、言葉の余韻すらも残さずその場に落ちた沈黙こそが、そのまま彼女の求める答えとなっていることは誰の目にも明白だった。


陽乃「あはっ♪ そうだ。お姉さん、いいこと思いついちゃった♪」


それがいかなる状況であれ、この女性(ひと)が今のようにとびきりの笑顔を浮かべた場合、大抵は碌でもないことを言い出すに決まっていた。

その証拠に彼女をよく知る葉山がそっと眉を寄せ、雪ノ下も「またはじまった」とばかりに小さく頭(かぶり)を振りながらひっそりと溜息を吐く。

はたせるかな陽乃さんは常よりも紅く濡れたように艶を帯びたその美しい唇から、柔らかく、甘く、優しい声音で、喜々として残酷な言葉を紡ぐ ―――――


陽乃「 ――――― だったらいっそのこと、隼人がこの場で誰を選ぶか決めちゃえばいいじゃない」


595: 2019/07/07(日) 22:32:13.49 ID:VlhyZjJS0

行き交う人々の衣擦れや雑踏の音。絶え間なく流れるアナウンスの中で、俺達のいるこの一角だけが時の流れから切り離されでもしたかのように、全ての音が遠のき、あらゆる情景が色を喪う。

まるで空気が急に薄くなったような息苦しさを覚えたが、咳払いひとつ、身動ぎすらも許されない重苦しい雰囲気に包まれた。

先ほどの陽乃さんの発言から、いったいどれほどの時間が経過しただろうか。

葉山は彼女の真意を探るが如く、薄く笑みを浮かべたその顔を凝っと見つめ、そんな彼の姿を三浦が気遣わしげに見ている。


陽乃「 ――― それで隼人はどうするの? 誰を選ぶの?」

言葉こそ静かだが、一切の妥協も甘えも許さない声の響きから彼女が本気でこの場で葉山に選択を迫っているのがわかった。

そもそも陽乃さんが本当に酔っているのかどうかすら、かなり怪しいものがある。
常に誰よりも覚めた目で物事を捉える彼女にとっては、例え浴びるほどの量の酒を飲んだところで酔うことなどできようはずもなく、仮に酔ったにしても、そんな自分の姿さえ、一歩離れた位置から冷静な目で見つめているに違いない。

596: 2019/07/07(日) 22:35:54.96 ID:VlhyZjJS0

対して葉山の採った行動は、ただ貝のように固く口を閉ざし、沈黙を守るというものだった。

なるほど、あくまでここは公共の場だ。いつまでも膠着状態を続けるわけにも行くまい。
それに、とりあえずこの場さえ凌げば後はどうにかなる。そういう考えも働いたのかもしれない。

いつものことながら身内に対する単なる悪ふざけや嫌がらせというにはあまりにも度が過ぎている。

とはいえ、葉山とて彼女との付き合いは長いはずだ。
いもうとのんほどではないにせよ、陽乃さんから無理難題をふっかけられるのも何もこれが初めてというわけでもあるまい。

にも拘わらず、その顔に浮かんでいるのはいつものはぐらかすような苦笑ではなく、―――― なぜか、戸惑いの表情だった。

597: 2019/07/07(日) 22:39:40.86 ID:VlhyZjJS0

その時、何の脈絡もなく俺の脳裏に林間学校の夜の出来事が思い出された。

あの晩、就寝間際に戸部から好きな女性の名を訊かれた葉山はイニシャルでひと言“Y”と答えている。

それが名前か苗字かは定かではないものの、逆にその曖昧な答えのお陰で、俺はひとり悶々とした夜を過ごすハメになったわけだが、それはまぁいい。
ついでに言えば戸部の想い人が海老名さんだと聞かされたのも確かその時が初めてだったと思うが、それこそホントにどうでもいいや。だって戸部だし。

あの時俺の頭に浮かんだのは、由比ヶ浜結衣、雪ノ下雪乃、三浦優美子、その三人の名前だった。

だが、もうひとり、同じイニシャルにあてはまる女性いることに気が付いた。

それも今、目の前に、だ。

確かに以前から葉山の彼女に対する見る目や、その語り口には何かしら引っかかるものを覚えていたのは事実だ。
雪ノ下と葉山。小さい頃から同じ背を見て育ち、追いかけつつ、長じるに従い片や反発し、片や従う道を選んだ。

男であり、血の繋がりのない葉山の抱く感情が、いつしか淡い憧れから純然たる好意に変わったとしても、何ら不思議なことではないだろう。

そして、聡い彼女がそんな葉山の気持ちに気が付いていないはずはない。

598: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/07/07(日) 22:43:45.83 ID:VlhyZjJS0

「 ―――――― 随分と趣味の悪い冗談ですね」


敢えて場の空気を読もうともせず、無理矢理茶化すように口を挿んだのは他ならぬ俺自身だ。

俺は偶然この場に居合わせてしまっただけだ。
本来は他人の家の事情に口を挿む権利はなどあろうはずもなく、それを理由に一歩退いた位置から傍観者に徹することもできたはずだった。
事実、もしこの件に雪ノ下が絡んでさえいなければ、余計な首を突っ込むようなマネはしなかっただろう。

だが、この流れは変えなければならない。俺の第六感がそう叫んでいる。あるいはそれは俺のゴーストが囁いたのかもしれない。


陽乃「そうかしら。私は本気で言ってるつもりなんだけど?」

口調こそ柔らかいままだが、俺に向けたその目に宿るのは背筋も凍る剣呑な光。その目が余計なチャチャを入れるなと告げている。

八幡「本気で言っているなら尚更ですよ。それに、こんな場所でするような話でもないでしょ」

陽乃「 ――― やれやれ、キミはもっと面白い子だと思っていたのになぁ」

小さく首を振りながら、わざとらしく溜息を吐く。

八幡「そんな面白い男だったら、ここまでぼっち拗(こじ)らせてやしませんよ」

陽乃「比企谷くんだってこういう馴れ合いを蔑んでいたんじゃなかったのかしら?」

心外とでも言わんばかりに、小首を傾げて見せる。

確かに彼女の言う通りなのだろう。以前の俺であれば葉山のとるそうした態度をこそもっとも嫌悪し、唾棄すべき行為として無条件に断じていたはずだ。

陽乃「それとも、何かしら心境の変化でもあった ――― とか?」

まるで全て見透かしたようなその言葉に、俺だけではなく雪ノ下の肩がぴくりと反応を示す。しかしその表情からは何も読み取れない。

599: 2019/07/07(日) 22:46:22.18 ID:VlhyZjJS0

陽乃「あーあ、なんか白けちゃったなー」

やや間を置いて、溜め息とともに告げられたそのひと言で、限界まで張り詰めていた空気が緩む。

最初から俺などお呼びではなかったのだろうが、あっさり鼻先であしらわれると思いきや、彼女の興を削ぐことはできたようだ。

自分でけしかけておきながら既にその遊びにも飽いたのか、それとも単なるいつもの気紛れなのか、本当のところはいったい何を考えているのかわからない。
それともただ単に葉山を追い詰めることで懊悩する姿を見ていて楽しんでいたのだとすれば、とんだドSだ。


陽乃「雪乃ちゃん、そろそろ帰ろっか」

おいおい、それはいくらなんでも自由過ぎだろ。その前にどうしてくれんだよこの雰囲気。なんかここだけエアポケットが生まれてんぞ?

陽乃「あ、私たちはもういいから隼人は代わりにその子 ……… えっと、あーしさん ……… だっけ? を家まで送ってあげたら?」

しかも、もう用済みだとでもと言わんばかりに葉山に対してひらひらと手を振って見せる。

さんざっぱら晒し者にした挙句、最後は放置プレイとか、ホント容赦ねぇな。

つか、今更どの面下げてふたりだけで帰れると思ってんだよ。それこそ針の筵だろ。このひとってば、マジ性格悪いのな。

600: 1 2019/07/07(日) 22:48:02.08 ID:VlhyZjJS0

しかし、それよりも何よりも、俺にはしなければならないことがあった。今、この機会を逃せばチャンスは二度と巡って来ないかもしれない。


八幡「 ―――― 雪ノ下」


俺のかけた声に、こちらに背を向けていた脚がぴたりと止まる。



陽乃「 ……… 呼んだかしら?」

八幡「 ……… いえ、妹さんの方ですから」 


このタイミングでそれって、絶対わかっててやってんだろ?

601: 2019/07/07(日) 22:51:04.06 ID:VlhyZjJS0

やや間を置いて、おずおずと振り向いた彼女の視線は相変わらず俺に向けられることはなく、だが、その瞳が微かに揺れ動いているのがわかった。

いざ声をかけはしたものの、何をどう伝えたらいいのかすらわからない。中途半端に上げた手が行き場を失い、どこにもたどり着けぬまま悪戯に彷徨う。

それこそまるで夜空に浮かぶ月の影を素手でつかもうとしているようなものだった。

しかし、それでも俺は、――― 


陽乃「 ―――― だめだよ、雪乃ちゃん。あなたはまた友達を、―――― 今度はガハマちゃんを裏切るつもり?」


背後からかけられたあねのんの言葉に、雪ノ下がびくりと反応し、こちらに向けて踏み出しかけていた足が再び止まる。

由比ヶ浜の名を耳にした三浦がはっと目を瞠り、どういう意味なのかと探るように俺と雪ノ下の顔を交互に見る。

陽乃「今までもずっとそうだったでしょ。忘れたの?」

優しく諭すかのような声音に、そこにあるべき温もりはまるで感じられない。そしてその言葉は的確に妹の弱点を突く。


雪乃「わ、私は ……… 」

ただでさえ白い顔を更に蒼白にして、雪ノ下が今日初めて俺の前で口を開こうとした。

―――― しかし、その言葉は途中で飲み込まれ、胸の前で小さく握り締められた手は、やがて力なく体の脇に垂れ下がる。

602: 2019/07/07(日) 22:52:47.30 ID:VlhyZjJS0


「 ――――― はっ、あんたにいったいあの子の何がわかるって言うのさ」




603: 1 2019/07/07(日) 22:56:23.78 ID:VlhyZjJS0

その時、思いがけず声を上げたのは三浦だった。

義憤に駆られ怒りに燃える瞳は真っすぐに陽乃さんへと向けられ、その苛立ちに渦巻く黒く猛々しいオーラを身に纏った姿はまさに俺の知る獄焔の女王。


三浦「あの子は、 ――――― 結衣は強いんだよ、あんたなんかが思ってるより、ずっとね」


陽乃「 ……… へぇ。本当にそうならいいのだけれど。けれど最初はみんなそうでも、結局は ――― 」

目を細め、訳知り顔で嘲笑うかのように言いかけた陽乃さんの言葉を、

三浦「今まであんたたちが出会ったヤツがみんなそうだからって、なんであの子もそうだって決めつけるのさ」

鋭い一言で決然と跳ね付ける。明らかに格上のあねのんに対して一歩も引かぬ構えだ。

そのまま火花を散らしながら睨み合うこと暫し、胃がキリキリと痛むような一瞬即発の空気の中で、


雪乃「 ――― そうね。私も三浦さんの言う通りだと思うわ」


更に何か言いかけた姉を遮るようにして雪ノ下が一歩前に出る。

無限にヒートアップするふたりの注意を自分に向けてさせることで水を挿す、という狙いもあったのだろう。そしてそれは十分効果を発揮したようだ。

虚を衝かれたようにふたりの視線が互いから逸らされ、たちこめていた不穏な空気がゆらぎ、薄れてゆく。

雪ノ下雪乃とと三浦優美子 ――― 何かにつけ対立していた相容れないふたりではあるが、由比ヶ浜という存在を介していつの間にか何かしらの絆が生まれていたのかも知れない。

言葉数こそ少ないが、互いの言わんとしていることは十分に理解しているようだった。

しかし、考えてみればこのふたりを、しかも同時に手懐けちゃうとか、ガハマさんたらある意味最強なんじゃね? もしかして魔眼の猛獣使いなの?

604: 1 2019/07/07(日) 22:58:48.79 ID:VlhyZjJS0

三浦「あんた、いいの? ホントにそれでいいわけ? あの子だって、結衣だって絶対そんなの望んでいないし」

珍しく自分に向けられた慮るような言葉に、雪ノ下が儚げな笑みを浮かべて応える。

雪乃「ありがとう、三浦さん。でも、――― これは、私が、私が自分で決めたことなのだから」

その言葉を口にする雪ノ下の目に迷いはない。少なくとも俺からはそう見えた。そしてそんな彼女に対して俺はこの場でこれ以上かける言葉を見つけることができなかった。


雪乃「―――― 行きましょう、姉さん」

先程とは逆に、妹に促され再度俺達に背を向けかけた陽乃さんが、思い出したかのように、何も言わず立ち尽くす葉山の姿を一瞥してぽつりとひとつ小さな呟きを残す。



陽乃「 ――――― 結局、隼人も自分では何ひとつ決めることが出来ないんだね」



寒々とした空間に響くそれは、蔑むでも嘲るでもなく、まるで心底憐れむかのような口調だった。