1: ◆PChhdNeYjM 2017/05/07(日) 01:27:37.62 ID:IlFFOpT9O
昨日の蔵での練習は、いつもより大分長くなって、帰りが遅かった。
何度も何度も同じ曲を練習して、疲れなかったわけじゃないんだけど。
それでもなんか、楽しかった。
ふと気がついたら、夜の9時を回ってて。みんな、慌てて帰った。
有咲は大丈夫って言ってくれたけど、やっぱり悪かったな。
後でちゃんと謝ろう。
誰か、お母さんとかに怒られたりしていなければいいんだけど……。
その練習終わりの、今朝。やっぱりまだ、大分眠い。
こうして学校までの道のりを歩くだけでも、既に2回はあくびをしている。
みんなで練習していると、時間が過ぎるのを忘れてしまうから、
昨日の事も仕方ないと言えば仕方ないんだけど。
それで次の日の練習に支障が出たら、本末転倒だし……。
これからは、時間もある程度は気にしようかな。
SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1494088057
2: ◆PChhdNeYjM 2017/05/07(日) 01:29:23.58 ID:IlFFOpT9O
「おっはよー沙綾!」
「わっ! ……びっくりした、香澄かー」
突然声をかけてきたのは、ボーカル兼ギター担当の戸山香澄。
いつか、私をバンドに誘ってくれたのも彼女だった。
「ったく、沙綾を見た途端いきなり走っていきやがって……」
後ろからトテトテと追いついてきて、今もなおハアハアと肩を上下させている、
明るい色のツインテールの女の子。
彼女は、キーボード担当の市ヶ谷有咲。
見た目は清楚なお嬢様なのに、素直ではない所が玉に傷だ。
「おはよう、香澄、有咲。朝から二人とも元気だねー」
「私は全然元気じゃねえ」
有咲が不満を口にしているが、香澄はそんなことお構いなしだ。
「んー! 今日も沙綾、いい匂い!」
「え? ――ちょ、香澄っ!?」
香澄が突然、私の腕に抱き着いてきた。
「……お前なあ、誰彼構わず抱き着くなっつーの」
有咲は呆れ気味にため息をつく。
「えっへへー、パンの匂いがするー」
ニコニコと小動物のように笑う香澄を見ていると、私は何も言えなくなってしまう。
3: ◆PChhdNeYjM 2017/05/07(日) 01:33:04.20 ID:IlFFOpT9O
「私ねー、沙綾が傍にいると、見えなくてもすぐわかっちゃうんだあ、すごいでしょー」
私の腰の辺りに手を回しながら、子犬のように鼻をクンクンとさせる香澄。
――それって……見えなくても分かってしまうくらい、私の匂いは特徴的ってこと?
「そ……そんなに匂いする……かな?」
聞くと、香澄は既に明るい表情を、更にパアッとキラキラさせて。
「するよー? 沙綾が通ったって、私すぐにわかるもんっ!」
「……そっか、そんなに……匂いするんだ」
4: ◆PChhdNeYjM 2017/05/07(日) 01:35:52.58 ID:IlFFOpT9O
「……パンの匂い……か」
教室に到着して、みんなとの会話を終えて席に着いた私は、それとなく自分の二の腕に鼻を近づけた。
正直、自分からどんな匂いがするかなんて、自分では全然分からない。
私の家は『山吹ベーカリー』という店名でパン屋を営んでいる。
私は、いつもお父さんの仕事を手伝っているから、パン屋の匂いが身体に染み込んでいても不思議ではない。
それにパンは大好きだし、身体から仕事場の匂いがすると言われれば、悪い気はしない。
……でも、私だって年頃の高校生だ。
身体から食べ物の匂いがするなんて……傍から見たら、どう映るんだろう。
言いようのない不安感が、胸の奥底にドッと溢れてくる。
5: ◆PChhdNeYjM 2017/05/07(日) 01:40:47.95 ID:IlFFOpT9O
2つの見慣れた影が、いつの間にか私の座る席の目の前まで近づいていたことに、
ボーっと考え事をしていた私は全く気が付かなかった。
「沙綾? どうしたの、元気ないね」
「沙綾ちゃん、何かあった?」
おたえとりみりんが、私の顔を覗き込んできた。
机に座って木面をじっと見つめていただけなのに、私は二人を心配させてしまったらしい。
「う……ううん、何でもないよ。
そ、それよりも……今日の放課後も、蔵で練習するんだよね! また、みんなで頑張ろ!」
適当に言葉を取り繕い、いつもの私を演じることで、どうにか2人には隠すことができたけど。
胸に居座る黒い何かは、違和感として1日中残り続けた。
6: ◆PChhdNeYjM 2017/05/07(日) 01:45:24.05 ID:IlFFOpT9O
放課後、私はまっすぐ有咲の家の蔵に向かった。
最近はお母さんも、お父さんがいるから心配いらないと言ってくれていて。
それでも、ホントは心配で。普段は、家に寄ってから向かうんだけど。
――今日は、もう一つの理由があった。
もやもやしている今の気分を、ドラムを叩くことで忘れたかったんだ。
「おっ、早いじゃん」
階段を下りた先には、一足先にキーボードの練習をしていたらしい、ツインテールの女の子。
「有咲……他のみんなは?」
「さあ? まだ来てないんじゃねーの」
「そっか……」
荷物を置いて、ドラムの椅子に腰かける。
「随分と白けた顔してんなー。……朝の事、気にしてんのか?」
スティックを鞄から取り出すと、何だか優しい声が、私の耳に届いた。
「え……何だ、気づかれてたんだ」
7: ◆PChhdNeYjM 2017/05/07(日) 01:48:05.79 ID:IlFFOpT9O
顔を上げると、有咲はキーボードに目を向けたまま。
「……そりゃあ気づくって。別に気にすることじゃねえ。
あいつ、絶対そんなに深く考えて発言してねーよ。
考えたことをそのまま言ってるだけだから、こっちが考えるだけムダ」
「あー……まあ、それは分かってるんだけどね。
ただ、そんなに私、匂いしてるのかな……って思っちゃって」
「私は全然わかんねー。香澄の嗅覚は犬並みだからな。
初めて会った時、沙綾の家がパン屋だって気が付いたのは、香澄だけだったじゃん?」
言葉も、言い方も。全部が全部、私に気を遣ってくれている。
――本当に、優しいんだから。
「……フフッ。ありがとね、有咲」
「っ!! 別に、そんなんじゃねえっつーの! ったく沙綾はホント……ああもう暑い!
ちょっと飲み物取ってくる!」
そう言うと、有咲は蔵を出て行ってしまった。
……可愛いな、有咲は。彼女と話していると、どういうわけか元気が湧いてくる。
彼女の言う通り、余り考え込んでも仕方がない。ドラムを叩いて、全部忘れよう。
8: ◆PChhdNeYjM 2017/05/07(日) 01:52:02.24 ID:IlFFOpT9O
――ふと足音が聞こえたような気がして。
顔を上げると、階段状に積み重なった棚の上に、香澄が立っていた。
「……聞いてたの?」
「……うん、何か、聞こえちゃった」
先程の会話を、全て香澄に聞かれてしまったのだろうか。
もしもそのせいで、香澄が今、少しでも負い目を感じているとしたら……。
「ごめんね香澄、全然そんなんじゃないから。私の思い違い。ドラム叩けばすぐに――」
次の瞬間、香澄の身体が私に密着した。
階段から下りてきた彼女が、突然私に抱き着いたのだ。
「かっ、香澄!?」
いきなりの出来事に、心臓の鼓動が高鳴っていく。
蔵の密室に2人きりで抱き合っているという状況を意識してしまったせいか、顔が熱くなってくる。
「えへへ……いい匂い」
耳元で囁かれ、彼女の甘ったるい声が私の脳を蕩けさせる。
今の私は、耳まで真っ赤になってしまっているに違いない。
9: ◆PChhdNeYjM 2017/05/07(日) 01:53:59.18 ID:IlFFOpT9O
背中に回された両手が解かれ、香澄の顔が鼻先まで近づく。
「……私ね、沙綾の匂いが好きなんだ。
パンの匂いに交じって、パンとは違う、沙綾の甘い匂いがするの。だから、近くにいるとすぐに分かっちゃう」
「へ……へえ、そう……なんだ」
どう返せばいいのか……分からない。
香澄は、私の事を変だと思っていないだろうか。
抱き着かれて顔が真っ赤になってしまった私を見て、引いていないだろうか。
香澄の顔が見れない。無意識に両手で顔を隠してしまう。
「その……香澄? 別にね、何でもないから、これ。放っておけばすぐ直るから」
不意に、両手に温かい感触を感じ……優しい手つきで、隠していた顔から離される。
目の前で、香澄が私の顔を凝視していた。
10: ◆PChhdNeYjM 2017/05/07(日) 01:56:06.35 ID:IlFFOpT9O
お願い……そんなに見ないで。
こんなに真っ赤になった顔、見られたくない……。
「……かす……み……?」
「私、さーやのこと大好き!!」
……え?
だい……すき?
「~~~~~~~~~~~!!」
顔から火が出るのではないかと思うほど、全身の温度が上昇していく。
ヤバい。胸のドキドキが止まらないっ……!!
分かってるんだ……香澄が、深く考えていないことくらい。
私だって、香澄をどう思っているのかと言われたら、友達で、同じバンドを組む仲間だと答えるしかない。
――でも、今この瞬間だけは……違った。
11: ◆PChhdNeYjM 2017/05/07(日) 01:57:31.92 ID:IlFFOpT9O
「……あんたら、何してんの?」
ふと見上げると、みんなの飲み物を御盆に載せて持ってきてくれたらしい有咲が、
階段から私達二人を見下ろしていた。
「あ……有咲、戻ったんだ」
その後ろから、りみりんとおたえが顔を見せる。
「ごめん、遅くなっちゃって~」
「オッチャンに夢中になってたら、こんな時間になった」
有咲の後ろに続く形で降りてきたりみりんは、何やら不思議そうな表情で、私の顔を凝視する。
「……なんか沙綾ちゃん、顔が赤いような……熱?」
「……? 風邪でも引いた?」
そんなりみりんを見て、おたえまでもが私を心配し始める。
「さ、さーて、練習始めるぞ」
話の流れを切ろうとしてくれたらしい有咲は、何だか頼もしく見えて。
……私は。
「……練習しようだなんて、珍しいね、有咲」
「なっ……いいんだよ! ……ほら、さっさと練習!」
私の言葉に怒ったのか、赤面する有咲。
結局、その日の私は動揺してて、上手く演奏できなくて。
あんまり、練習にならなかった。
16: ◆PChhdNeYjM 2017/05/07(日) 21:40:40.80 ID:LRsCd99VO
――昨日、蔵で見たあの光景は、一体何だったんだろう?
みんなの飲み物を持って蔵に戻ったら、沙綾が顔を赤らめていて。
彼女の目の前には、いつも通りにニコニコした香澄が立っていて。
何もなかったとは、とても誤魔化しきれない。そんな雰囲気だった。
17: ◆PChhdNeYjM 2017/05/07(日) 21:42:45.85 ID:LRsCd99VO
「有咲? どーしたの、ボーっとして」
香澄が、あたしの顔を覗き込んで言う。
「は……はあっ!? ボーっとなんかしてねえ!」
「そう? 何かあったら言ってね!」
「なんもねえ!」
「有咲、考え事? 悩んでるなら、オッチャン見に来る?」
「行かねえから!」
今朝は、香澄だけでなく、おたえまで朝ご飯を食べに来て、にぎやかだった。
朝から勘弁してくれとは思ったけど、心底嫌だったわけではない。寧ろ……。
18: ◆PChhdNeYjM 2017/05/07(日) 21:44:40.39 ID:LRsCd99VO
「そういえば香澄。昨日の練習、何かあった?」
「え? 昨日って?」
おたえが、香澄に尋ねた。
声音は、いつもと何ら変わりない。表情も、いつも通りにあっけらかんとしている。
ただ……雰囲気が少し変わったように思うのは、あたしの考え過ぎなのだろうか?
――いや、違う。
きっと、あたし自身が動揺してしまっているから、そう感じるんだ。
おたえの、その質問に。
「何かって何?」
本当に何一つ心当たりが内容で、香澄がキョトンと首を傾げる。
「何か……ただならぬ雰囲気って感じだった。沙綾も顔が赤かった」
「――ブッ」
思わず吹き出してしまった。
おたえは、何も考えていないようで、意外と鋭い。
19: ◆PChhdNeYjM 2017/05/07(日) 21:46:36.99 ID:LRsCd99VO
「ただならぬ……雰囲気? んー……あ! そうだ!」
思い当たる節があったようで、香澄は右手の人差し指をピンと立てる。
「何か、沙綾の様子が変だった! ドラムの調子が、なんかおかしかった!」
「それだっ! わたしも、何だか沙綾が、心ここにあらずって感じに見えた!!」
香澄に同調するおたえを見て、あたしは何故か……ヤバい、と思って。
「そ……そそそーだ! 香澄! 今日の宿題何だっけ!?」
「宿題? んー……何だっけ?」
誤魔化すように投げかけたあたしの質問に、香澄は何ら不自然を感じることなく考え込む。
20: ◆PChhdNeYjM 2017/05/07(日) 21:47:37.14 ID:LRsCd99VO
「宿題なら、今日は英語だけじゃない?」
「あっ! 忘れてた!」
おたえが言うと、香澄は慌ててスクールバッグからノートを取り出す。
「香澄……何してんの?」
「歩きながら宿題!」
「止めなってば! 学校着いてからでも間に合うっつーの!」
「歩きながら……いいね、今度わたしもやってみる!」
「そこっ! 関心すんな!!」
誤魔化せてんのか……これ。
何だか楽しそうに笑う二人を見ると、一応は誤魔化せているのかもしれない。
本当に、何考えてんのか分からない奴ら。
21: ◆PChhdNeYjM 2017/05/07(日) 21:49:32.52 ID:LRsCd99VO
――それより、さっきから胸の中に溜まっている、この淀みは何?
分からない……この正体が何なのか。
昨日の練習前、蔵で変な雰囲気を醸し出していた香澄と沙綾を見てから、
ずっと溜まってるこの淀みが、胸の奥をギュッと締め付けてくる。
香澄とは、友達だ。
あの赤いギターを見せた時から、しつこくあたしに付きまとってきて。
いつの間にか、あたしは香澄と話すようになって。
だからきっと……友達なんだ。
なら、沙綾とはどうだろう。
彼女も同じだ。
昼食を一緒に食べるようになってから、沙綾とも普通に話せるようになっていた。
たまに、二人でショッピングに行ったりすることもあるけど……それは香澄もそう。
まあ、香澄の場合は大体振り回されてばっかで、
どっちかっていうと仕方なく付き合ってやってるって感じだけど。
とにかく、二人で出かけてても、そんなの女子高生ならよくある事で。
だから、友達。
22: ◆PChhdNeYjM 2017/05/07(日) 21:50:19.96 ID:LRsCd99VO
なんだ……二人とも、ただの友達じゃん。
友達同士が仲良くしている所を、たまたま目撃しただけだ。
普通なら、何かを感じる所じゃない。寧ろ、喜ぶべき所だろ?
あたしとの関係よりも、二人の関係の方がずっと長くて、深いのは、元々知っていた事だし。
今更、あたしは何を動揺しているんだろう?
「……有咲? 具合悪い?」
「うわあ!? ちけえよっ!!」
びっくりした……いきなり、おたえの顔が鼻先まで来てたから。
ったく、おたえってば、もう少し自分の行動を省みたらどうなんだ。
こんなんじゃ、誰に勘違いされてもおかしくない。
今の、りみが見たらどう思うんだろう……苦労しそうだ、彼女も。
23: ◆PChhdNeYjM 2017/05/07(日) 21:58:12.84 ID:LRsCd99VO
……苦労? 苦労ってなんだろう。
おたえとりみが、友達以上の関係だって事は分かってる。
だから、今の光景を見たりみは、嫉妬するに違いない。
あたしだって、多分そう。
好きになった相手が、他の人と仲良くしていたら、きっと……。
――なら、この淀みも嫉妬?
……まさか。あたしが誰かを好きになるなんて、そんなことあり得ない。
「あーりーさっ!」
「……ん? ――ちょっ!!」
考え事をしている間に、いつの間にか香澄が後ろにいて。
背中から思いっきり抱き着いてきた。
その勢いで軽く前のめりになったけど、どうにか踏ん張って倒れるのだけは我慢した。
24: ◆PChhdNeYjM 2017/05/07(日) 22:00:36.73 ID:LRsCd99VO
「フフ……あーりさ!」
「バカッ! あっぶねえだろぉ!」
「だって、有咲が何だか落ち込んでるように見えたんだもん!」
「落ち込んで……?」
あたしが……落ち込んでいた?
一体、何に落ち込んでいたというのだろう。
そんなの……まるであたしが……
「あ! 沙綾!!」
その名前を聞いた途端、あたしの胸がドクンと跳ねた。
そんなことに香澄が気付くはずも無く、あたしの身体から離れ、
前方で振り返る女の子の下へと駆けていく。
25: ◆PChhdNeYjM 2017/05/07(日) 22:02:55.55 ID:LRsCd99VO
ポニーテールを揺らしてこちらに顔を向ける彼女は、本当に華憐だ。
その桜色の艶やかな唇が、ゆっくりと開いて。
目元が柔らかく緩んで、温かな瞳を私達に向ける。
「あ、香澄ー! おはよう!」
「沙綾おはよう!!」
駆けたままの勢いで、香澄は沙綾の華奢な身体に抱き着いて。
「うわあ! ……もう、危ないよ香澄ー」
「今日もパンのいい匂い!」
「香澄……あんまり女の子にそういう事言っちゃダメなんだよ?」
「えっ、そうなの? じゃあ、次から気を付ける!」
「うん、ならよし!」
沙綾……案外普通だ。昨日のアレが、嘘のように。
ただ、香澄が沙綾に抱き着いているのを見ていると……また胸が苦しくなってくる。
一体、この気持ちの正体は何?
26: ◆PChhdNeYjM 2017/05/07(日) 22:05:01.75 ID:LRsCd99VO
「……香澄」
「ん? どうしたの、有咲」
「前から言ってんだろ、誰彼構わず抱き着くなって」
「あ、そーだった!」
沙綾に抱き着いていた香澄は、スッと彼女から離れて。
それを見たあたしは……僅かに胸の淀みが晴れた気がした。
「私は別にいーけど? もう慣れちゃったし」
言いながら、沙綾が苦笑する。
何でもなさそうな彼女の表情を見ていると……無性にイライラしてきて。
「っ……あたしがよくねーんだよっ!!」
――はっ。
勢いに任せて、叫んでしまった。
顔をあげると……香澄も沙綾も、黙ってあたしの顔を見つめていて。
「……ごめん、あたし……先、行くから……」
その場から逃げ出すように、あたしは速足で教室へと向かった。
27: ◆PChhdNeYjM 2017/05/07(日) 22:06:11.83 ID:LRsCd99VO
「はあ……やっちまった」
放課後、誰にも会わないように、走って帰宅したあたしは、気分を紛らすように盆栽を眺めていた。
「今日もタマガワは可愛いなー……それに比べて、あたしは……」
分かってる……この、黒い感情の正体は。
多分……嫉妬してるんだ、あたし。それも、沙綾に。
「はあ……情けねー」
自分の勝手な気持ちを沙綾に押し付けて。香澄にまでイライラをぶつけて。
最悪だ……あたし。
二人が来たら……ちゃんと謝ろう。
それで、あの事は……無かったことに……
28: ◆PChhdNeYjM 2017/05/07(日) 22:06:57.35 ID:LRsCd99VO
「有咲」
不意に聞こえた声。
胸を、締め付けられるような……優しい声。
こんな所に、こんな時間に、彼女が一人で来るはずがない。
だってここは、蔵から離れてて。
彼女も、いつもは一度自分の家に寄ってから蔵に来るから、こんなに早く来るはずがなくて。
それでも……分かってても、期待している自分がいて。
彼女の声を、聴き間違えるはずがなくて。
「沙綾……どうして」
「どうしてって、まー……たまたま?」
「たまたまって、お前な……」
自分の唇に指先を当てて軽く首を傾げる仕草は、それだけで胸がギュッと締め付けられる。
29: ◆PChhdNeYjM 2017/05/07(日) 22:08:52.01 ID:LRsCd99VO
香澄みたいに……自分に素直になれたらいいのに。
どうしても、そうなれない自分がいる。
拒絶されたらどうしようって。
拒絶はされないまでも、内心嫌だと思われたらどうしようって。
怯えてしまう、自分がいる。
いつまでたっても臆病な、情けない自分がいる。
「有咲は、こんな所で何してるの?」
「何って言われても、タマガワ……じゃなかった! 盆栽! 見てただけっ!」
盆栽に名前つけてるなんて知られたら……。
ただでさえ香澄とりみに知られて恥かいたってのに、沙綾にまで知られたくない……!
「タマガワ? ……ああ、その盆栽の名前か。可愛いじゃん」
「ちっ、ちが……」
「ん?」
「っ!! ……そう! 可愛いんだよタマガワ!」
もうヤケクソだ。こんなの、引かれるに違いない。終わった……
30: ◆PChhdNeYjM 2017/05/07(日) 22:11:22.43 ID:LRsCd99VO
「フフッ……有咲ったら、可愛い」
「……へ?」
沙綾が口にした一言の意味を理解した途端、あたしはメーターが上がるように全身の体温が急激に上昇した。
「そんな……何も耳まで真っ赤にしなくても……」
今度は、沙綾までもが顔を赤くする。
その様子を見て……自分を抑えきれなくなって。
彼女の身体を、抱きしめていた。
「あっ……有咲!?」
「うるせー……ちょっと黙ってろ」
あたしの腕の中に収まっている沙綾の身体は柔らかくて、でも腰がすごい細くて、
今にも壊れてしまうのではないかと思うくらいに儚くて……愛しい。
――あたしは……沙綾が、好きなんだ。
さっきからずっと黙ったままの沙綾は、
グングンと体温が上昇しているみたいで、その温かさが服越しにも伝わってくる。
……どれくらい経ったんだろう。
多分、10秒ちょっとのその時間は、あたしには永遠にも感じられた。
でも、流石にずっとそのままってわけにはいかない。
そっと沙綾の身体から離れたあたしは、顔を見られないようにすぐに背中を向けた。
「……練習、行くから」
本当に、小さな声しか出なかったけれど。確かに伝わったみたいで。
彼女の苦笑が、返事として聞こえてきた。
たったそれだけのやり取りでも嬉しくなって、つい表情が緩んでしまう。
そんなみっともない顔を見られないように、速足で蔵へと向かった。
31: ◆PChhdNeYjM 2017/05/07(日) 22:13:52.49 ID:LRsCd99VO
――その時。
「さっ……沙綾!?」
後ろから、ギュッと抱きしめられた。
その抱擁は、これ以上ないほどに温かく、優しい。
胸がクシャクシャに締め付けられる。切なさでいっぱいになる。
「有咲……ありがとう」
耳元で囁かれた沙綾の声は、チョコレートよりも甘ったるい。
それだけで脳が蕩けそうで、全身の奥底から溢れ出す何かに、ドクンと揺さぶられた。
「……この……ばかぁ……」
時間が止まったように感じた、その瞬間は。
あたしにとって……最高に幸せだった。
胸元に回された二本の細くしなやかな腕が、静かに解かれて。
隣に並んだ彼女の表情は……一輪の花が咲いたかのように、素敵だった。
「行こうか、有咲」
「……うん」
何も言ってないのに、お互いに手を差し出して、指を絡め合う。
まるで、この世界に二人だけしか存在していないかのような、そのひと時を。
わたしはきっと……いつまでも忘れない。
36: ◆PChhdNeYjM 2017/05/15(月) 23:01:48.86 ID:4nrFaLfXO
「沙綾、今日も遅かったわね」
家に帰ると、お母さんが明るい表情で出迎えてくれた。
「あ、うん。今日も、練習長引いちゃって……ごめん」
「いいのよ。沙綾がやっと自分に優しくなれたみたいで、お母さん嬉しい」
「うん……ありがとう、お母さん」
「夜ご飯はどうする?」
「すぐ食べるよ。でも、一旦部屋で着替えてくるね」
37: ◆PChhdNeYjM 2017/05/15(月) 23:02:51.55 ID:4nrFaLfXO
「あー……ヤバいかも」
今日の練習の直前、私は有咲と色々あって。
「もー! なんであんな恥ずかしい事しちゃったかなー!」
思い出すだけで、体温がグングンと上昇してくる。
有咲に抱き締められ、私からも抱きしめて。
その時に感じた感情は、弟や妹が抱きついてきた時とは全然違うものだった。
触れた部分から温かさが伝わってきて、幸せが溢れてくるような。
そして、胸の奥底がギュッと締め付けられるような。
苦しいけれど、心地いい。そんな感覚だった。
「私……有咲のこと、好きなのかも」
38: ◆PChhdNeYjM 2017/05/15(月) 23:16:54.32 ID:4nrFaLfXO
あり得ない話ではない。
有咲と接する時の私は、自分でも分かってしまうくらい挙動不審だから。
香澄達と話している時と比べて、明らかに違う。
有咲の匂いを感じるだけで。
有咲の声を聴くだけで。
有咲の顔を見るだけで。
彼女の存在を感じるだけで……胸が高揚する。どうしようもなく。
ふと、さっきの出来事を思い出す。
いきなり、有咲が私の胸元に抱きついてきて。
『あっ……有咲!?』
『うるせー……ちょっと黙ってろ』
有咲の、温かい体温。背中に強く回された、細くて綺麗な腕。
私の方から抱きしめた時に感じた、彼女の身体の柔らかさ。
明るい色のツインテールから漂ってくる、柑橘系の甘い匂い。
絡めあった指先の感触。
控えめながらも、ギュッと求め合うように握った小さな手のひら。
「~~~~~~~~~~!!」
考えただけで、耳まで真っ赤になってしまう。
私はさっき……有咲と、そんな恥ずかしいことを……。
39: ◆PChhdNeYjM 2017/05/15(月) 23:19:29.85 ID:4nrFaLfXO
ベッドの上を、頭の悪い女の子みたいに、グルグルと左右に転がり回る。
ひとしきりはしゃいで、息が整ってきた私は、少しだけ冷静さを取り戻した。
「……いやいや、おかしいって」
とたんに、現実へと引き戻される。
だって……同じ女の子だよ?
ドキドキするなんて……絶対おかしい。
「……うん、勘違い勘違い。絶対そう」
でも……友達としてなら、いいよね?
どうしよう。とりあえず、映画にでも誘ってみようか?
ショッピングモールに2人で出かけることなんて、今までにもあったことだし。
別に、不自然ではないよね。
40: ◆PChhdNeYjM 2017/05/15(月) 23:21:04.00 ID:4nrFaLfXO
スマートフォンを操作して。
彼女のアイコンをタップする。
「日曜日、映画でも見に行かない?……っと」
……これ、普通だよね。
意味深なこと、言ったりとかしてないよね。
「……送信」
――送ってしまった。
「うぅー……落ち着かない」
いつ返信が帰ってくるだろう。
5分後? 10分後? それとも、1時間後?
今日は、返ってこなかったりして。
有り得る話だ。
有咲、グループチャットとかあまり返信しないから。
「沙綾ー、夕食の準備できてるよ」
「あ、うん! 今行く!」
お母さんを待たせるのも申し訳ないし……先にご飯食べちゃおう。
スマートフォンをベッドの上に置いたまま、私は急いでリビングに降りた。
41: ◆PChhdNeYjM 2017/05/15(月) 23:36:37.38 ID:4nrFaLfXO
「ふー……お腹いっぱい」
でも正直……何を食べたか記憶が怪しい。
有咲からの返信のことで、頭の中が埋め尽くされてたから。
部屋に入って、ほとんど無意識にスマホを手に取り、胸をドキドキさせながら電源を入れる。
画面に表示された、新着メッセージのアイコン。
有咲からだった。
「……やっば」
心臓がドクンと跳ねる。胸の奥が、クシャリと締め付けられる。
本文は……
42: ◆PChhdNeYjM 2017/05/15(月) 23:38:06.87 ID:4nrFaLfXO
『ごめん、日曜はむり』
「――ッ」
…………仕方ない……よね。
……うん、そんなこともあるよ。
親指を動かして、メッセージを入力。
『わかった!また誘うね!』
笑っている絵文字を文末に入れて、送信。
「……はあー」
スマートフォンをベッドに放り投げ、自分もその横に倒れ込んだ。
まるで、波が引いていくかのように。
頭の温度が、胸の温度が、急激に下がっていく。
高鳴っていたはずの心臓は、一瞬止まったような錯覚を覚えた後、
いつの間にか平常運転に戻っていた。
――どうして、こんなにも落ち込んでいるのだろう。
友達に、遊びの誘いを断られただけなのに。
たった……それだけなのに。
43: ◆PChhdNeYjM 2017/05/15(月) 23:45:26.62 ID:4nrFaLfXO
翌朝。登校の途中、香澄に出会った。
会う場所、会うタイミング。全ていつも通りのはずだった。
いつもと違ったのは……香澄の隣に、彼女がいないこと。
「香澄……有咲は?」
「有咲? あー……えっと」
香澄は、少しだけ肩を落として言った。
「何かね、今日は行かない日なんだって」
44: ◆PChhdNeYjM 2017/05/15(月) 23:46:37.47 ID:4nrFaLfXO
そんな……。香澄と登校するようになってから、
一度だって休んだことなんか無かったのに。
「……そっか」
――もしかして。
私のせい……なのかな?
「沙綾? どうかしたの?」
香澄が、大きな二つの瞳で私を見つめてくる。
まるで、何一つ汚れを知らないかのような、純粋な瞳だ。
「……ううん、何でもない!」
一瞬頭をよぎった香澄に相談するという選択肢を、無理やり打ち消した。
私の黒い感情を、香澄に打ち明けるのは申し訳ない。そう思ったから。
45: ◆PChhdNeYjM 2017/05/16(火) 00:00:15.12 ID:PR1hXNBsO
放課後になり、私は一度家に帰ることにした。
理由の一つは、店の様子を見るため。
でも、一番の理由は……有咲と極力二人きりにはなりたくなかったから。
メールの誘いを断られただけなのに、どういうわけか、今はちょっと気まずい。
「あら、沙綾。おかえり」
「ただいま、お母さん。お店どう?」
「大丈夫よ。お父さんもいるし、最近お母さん調子いいから」
笑顔は可愛らしいけど。いつ体調を崩したっておかしくないのだ。
「沙綾、今日も練習に行くんでしょ?」
「うん、もう少ししたらね」
するとお母さんは、表情を少しだけ緩めて、「フフッ」と微笑んだ。
「沙綾……最近、好きな人でもできた?」
46: ◆PChhdNeYjM 2017/05/16(火) 00:01:03.39 ID:PR1hXNBsO
「ふえっ!?」
突拍子もないことを言われ、胸がドクンと跳ねる。
やがて、その言葉の意味を理解した私は、何故か頭の中で有咲の顔が浮かんできて。
体温が、グーンと上昇するのがわかった。
「べべっ、別に、そんなんじゃないよ!」
「もう、わかりやすいんだから。顔真っ赤にしちゃって」
「これはっ……その……」
目線を左右にさ迷わせ、落ち着かない心を鎮めようとして、制服の裾をギュッと握り締めた。
そんな私を見たお母さんは、私の頭に優しく手を置いて撫で始める。
でも……優しくナデナデするだけで、何も言わない。
「……お母さん?」
顔はそのまま、上目でお母さんの表情を伺うけれど。
笑顔を浮かべるお母さんの真意は、私には掴めなかった。
「……じゃあ、いってらっしゃい」
ナデナデしていた手を下ろし、いつもの温かい口調でそう言った。
「うん……行ってきます、お母さん」
胸の中の黒い感情が、少しだけ晴れた気がした。
47: ◆PChhdNeYjM 2017/05/16(火) 00:03:11.89 ID:PR1hXNBsO
今だったら、有咲の前でも素直になれるかもしれない。
そう思ったけど、一度家に帰ってから蔵に来ると、大抵メンバーの殆どが既に練習を始めている。
だから今日は、有咲と二人きりにはならなかった。
中に入ると、有咲の姿がそこにあって。
どうやら学校は休んでも、練習は休みたくないらしい。
「あ、いらっしゃい沙綾!」
「ここ、お前ん家じゃねーから!」
階段を降りた途端、香澄と有咲の漫才が始まった。
「沙綾も来たし、みんなで通して練習する?」
「そうだね、おたえちゃん」
おたえとりみりんが頷き合った。
私はというと、さっきから有咲の視線ばかりが気になって……
なのに、彼女の顔を直視することすら出来ずにいた。
だからといって、私の都合で練習を止めるわけにはいかない。
「……うん、分かった! 通して練習ね!」
48: ◆PChhdNeYjM 2017/05/16(火) 00:05:21.21 ID:PR1hXNBsO
何曲も通して演奏し、休憩を挟んで。それを幾度となく繰り返す。
再び演奏を始めて、十数曲は通しただろうか。
みんな、大分息が上がってきた頃。
「疲れたー! ちょっと休憩!」
香澄が、ピックをテーブルに置いて傍のペットボトルを手に取った。
「わたしも。すごく疲れたよ」
「ふふっ、おたえちゃん、汗すごいね。良かったらこれ使う?」
りみりんが、制服で汗を拭おうとしたおたえを制すように、持っていたハンカチを差し出した。
「そうかな? りみりん、汗拭いてくれる?」
「ええっ! あの……その……」
「冗談」
「もっ、もう、おたえちゃんったらー!」
両手を伸ばしてハンカチを突き出すりみりんに、おたえは愛くるしいものを見るような視線を向ける。
49: ◆PChhdNeYjM 2017/05/16(火) 00:07:09.05 ID:PR1hXNBsO
「りみりん! 私の汗も拭いて!」
香澄が、りみりんに跳びかからん勢いで駆けていく。
「香澄ー、よしなって」
こういう時は、大抵真っ先に有咲がツッコミを入れるんだけど……
さっきからキーボードを見つめていて、動かない。
代わりに私が言ったけど。さっきから、有咲が気になって仕方がなかった。
一体、どうしたんだろう。
もしかして……私のせい?
それは流石に、自意識過剰かな。
「あっ! もうこんな時間!」
香澄の声に、みんなが反応して壁の時計を見ると、既に7時を回っていて。
「じゃあ、今日はここで終わろうか。前みたいに遅くなったらヤバいしさ」
「私、この前お母さんに心配されちゃった」
りみりんが、舌っ足らずな声で呟いた。
こんなか弱い女の子が夜遅くまで出歩いているだなんて、親の不安は計り知れない。
「そっかー。じゃあ、なおさら早く帰らないとね」
放っておくとほぼ確実に香澄が練習を始めるので、私が言い出さないと練習は終わらない。
50: ◆PChhdNeYjM 2017/05/16(火) 00:07:48.46 ID:PR1hXNBsO
「えー、もう? ……でも、仕方ないかー」
予想通り、不満そうに声を上げる香澄。
「仕方ないよ香澄。どうせ明日は休みだし、たっぷり練習できるじゃん!」
言うと、香澄はパアッと表情を輝かせる。
「そっか! なら安心!」
何に安心したのかよく分からないけど、ひとまず納得してくれたみたいだ。
有咲にさよならを言いながら蔵を後にして。
扉の前で不自然な笑顔を浮かべる彼女が、なんだか気になって仕方がなかったけど。
「また明日」と挨拶を交わし、今日の練習は終了となった。
51: ◆PChhdNeYjM 2017/05/16(火) 00:13:36.94 ID:PR1hXNBsO
――のだが。
「やばっ!スティック忘れた!」
あれが無いと、自主練できない……わけでもないけれど。
前に使っていたスティックが部屋にあるから、それを使えばいいだけだし、
明日もまた有咲ん家に行くから、大丈夫と言えば大丈夫なんだけど。
やっぱ……傍にないと、何となく落ち着かない。
なんだかんだ言って、相棒だからね。
走って蔵まで戻り、扉を開く。
地下へと繋がるハッチのすぐ傍まで近づいた時……微かに聞こえた、キーボードの音。
ハッチを開き、足を踏み入れると、キーボードの音はピタッと止んだ。
「沙綾……どうしたんだよ」
「アハハ……スティック忘れちゃってさ」
ドラムの周辺に視線をやると、棚の上に探し物が見つかった。
52: ◆PChhdNeYjM 2017/05/16(火) 00:14:24.82 ID:PR1hXNBsO
「……バカだな」
「私、変なとこドジなんだよねー。ま、あんま気にしてないけど」
「……ごめん」
それは、今にも消え入りそうな声だった。
「それって……昨日の、メールのこと?」
目の前で俯く女の子は、キーボードを見つめたまま答えない。
「……あれなら、全然気にしてないって! また誘うからさ! その時に――」
「あたしっ……最近、調子悪くて……」
「え……?」
調子が悪いって……何のこと?
もしかして、体調を崩したのだろうか。
今日学校を休んだのも、本当は仮病じゃなかったのかな?
「その……練習中、何度も同じとこで間違えたりとか。最近多いんだ、本当に……」
良かった。体調が悪いわけではなかったみたいだ。
「……もしかして。今日学校休んだのって、そのため?」
53: ◆PChhdNeYjM 2017/05/16(火) 00:20:34.65 ID:PR1hXNBsO
再び訪れた沈黙。
でも、彼女の浮かべる悲痛な表情が、私の問いかけを肯定していた。
「そんな……スランプなんて、誰にだって――」
「スランプじゃねえっ!」
その叫び声は、怒りの感情など欠片も込められていないように感じた。
ずっと俯いていた有咲は、この時初めて顔を上げ。
酷く紅潮していて……よく見ると、耳まで真っ赤になっていた。
「あ……あたし……沙綾の事、考えると……ダメなんだ」
「私のこと……って……まさか」
メーターが振りきれるかのように、全身の体温が上昇するのが分かった。
――もしかして、練習中に私の事考えて、集中できてなかったとか……そういう事?
ヤバい……嬉しい。
バンドメンバーの不調を嬉しく感じるとか、最低だと分かってるけど。
有咲が、私の事でこんなにも悩んでくれているってことが、私の胸の奥をギュッと締め付けた。
有咲の瞳に、私が映る。
その中の私は、きっとみっともなく顔を紅潮させているのだろう。
恥ずかしいけど……嬉しい。
こんな感情に、私は未だかつて出会った事がなかった。
有咲に出会う、その日まで。
54: ◆PChhdNeYjM 2017/05/16(火) 00:29:21.91 ID:PR1hXNBsO
「沙綾のこと……考えると……手元がくるうっつーか。
昼間に散々練習したはずなのに、沙綾が来てから……結局ミスばっかで。あたし……」
胸元で、両手を忙しなく動かす有咲。
目元には涙が浮かんでいて……可愛いと思ってしまう。
「有咲」
耐え切れなくなって……気が付いた時には、私は彼女に向かって飛び出していた。
背中に腕を回し。強く……優しく抱き締める。
有咲の体温が、服越しにじんわりと感じられる。
細く、柔らかいその身体は、私の母性をくすぐったらしい。
「キャッ……さあっ……や……」
耳元で一瞬聞こえた、可愛らしい声。
声も、匂いも、感触も、温かさも。
有咲の全てが、愛おしい。
55: ◆PChhdNeYjM 2017/05/16(火) 00:36:00.56 ID:PR1hXNBsO
気が付くと、私の背中に有咲の腕が回っていた。
お互い、一方的に抱き締めるのは、一回ずつあったけど。
ちゃんと抱き締め合うのは、これが初めてだった。
「有咲……いいんだよ。いっぱい、私のこと考えて」
「沙綾の……こと?」
「私も、ずっと有咲のこと考えてる。朝登校するときも、
授業受けてるときも、放課後練習してる時も……一日中、ずっと」
「……ホント?」
「ハハ……ごめん、流石にびっくりするよね」
背中に回された腕の力が、少しだけ強くなった。
「ううん……嫌じゃない」
「……だからね。有咲だって、私のこと考えていいんだよ?」
56: ◆PChhdNeYjM 2017/05/16(火) 00:39:07.70 ID:PR1hXNBsO
「そっか……うん、そーする」
それを最後に、暫く無言の状態が続いて。
それ以上の事はせず、ただ抱き締め合ったまま。
結局私は、9時を過ぎてから帰宅する事になってしまった。
58: ◆PChhdNeYjM 2017/05/16(火) 00:45:20.66 ID:PR1hXNBsO
「じゃあ、行ってきまーす」
ローファーをつっかけて、玄関の扉に手をかける。
「今日も、昨日と同じくらいの時間に帰ってくるの?」
お母さんは、穏やかな笑顔を浮かべてそう言った。
「いやー……流石に、今日は早く帰ってくるようにするよ」
昨晩は、いくら何でも遅すぎた。というか、最近そんな日が続きっぱなしだ。
「……お母さんは、別にいいけど?」
「アハハ……まあ、早く帰ってこれるようにするよ」
扉を押そうとした時、お母さんが「沙綾」と声をかけてきた。
「ん? どうしたの?」
「……良かったね、うまくいったみたいで」
瞬間、顔が耳まで真っ赤に染まっていくのが分かった。
「いっ……行ってきます!」
慌てて飛び出した私を、お母さんは苦笑しながら、「行ってらっしゃい」と送り出してくれた。
59: ◆PChhdNeYjM 2017/05/16(火) 00:59:16.88 ID:PR1hXNBsO
「よーし! じゃあ、早速練習始めよう!」
「香澄、気が早えよ」
香澄の突拍子の無い言動に、今日の有咲はツッコミ全開だ。
「わたしは準備できてるよ」
「私もー」
おたえとりみりんが、それぞれギターとベースを構えて言った。
「私も! 準備できてます!」
みんなに続いて、私もスティックを用意する。
60: ◆PChhdNeYjM 2017/05/16(火) 01:00:50.83 ID:PR1hXNBsO
――ふと、視線を感じて。
キーボードの方に、視線を向けた。
有咲と、目が合って。
彼女の目元が柔らかく緩む。
「あたしも。準備オッケー」
……良かった。いつもの調子、取り戻したんだね。
「私も準備オッケー! でも、始める前に……いつもの!」
「……いや、もうみんな楽器用意してっから無理だろ」
「え!? ……あ、そっか! まあいいや、そのままで!」
「このままやんのかよ!?」
香澄と有咲の、いつものコント。今日はなんだか、いつもよりキレがいい。
「まあまあ、有咲。いいじゃん、やろーよ」
「さ……沙綾が、そう言うなら……」
語尾を小さくしながら呟く有咲を見て、香澄が口を尖らせる。
「有咲ー! なんか、沙綾にだけ優しくない? 私と全然違うよ!」
「うっ、うるせー! やんだろ、いつもの!」
尚もブーブー文句を言う香澄も、渋々承知したらしい。
香澄が腕を前に伸ばしたのを合図に、みんなが中心に向かって手を伸ばす。
「いくよー! ポピパ!ピポパ!ポピパパ!ピポパー!」
コメントする
このブログにコメントするにはログインが必要です。
さんログアウト
この記事には許可ユーザしかコメントができません。