1: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2010/11/20(土) 11:56:47.33 ID:56uOejGz0
考えて見れば馬鹿馬鹿しい話。
スポットライトが当たった幼馴染を、それとも、クラスメイトの声援を浴びる幼馴染を、
はたまた、小柄な可愛らしい後輩とアイコンタクトを取る幼馴染を……
とにかく、どこが、かは具体的には分からないが、私は羨ましいと思った。

自分ではっきりと理解することさえできていないような、ぼんやりとした羨望の為に、
私は、高校三年生の秋、受験勉強が激しさを増すこの時期に、ギターを買った。

丸っこい形の、曲線美を備えた、十五万円のジャズマスターを買った。


「部活、終わっちゃったんだよね」

幼馴染の唯が、ところどころ跳ねている茶色がかった髪の毛を指で櫛りながら、感慨深そうに呟いた。
文化祭も終わり、クラスには何となく疲れた雰囲気が漂っている。

「これからは、勉強に一生懸命にならなくちゃいけないんだよね。
 あずにゃんには可哀相だけど、もうあんまり音楽室には行けないかな」

唯の横顔は少し寂しそうで、細めた目は大人びた雰囲気を生んでいた。
彼女の周りの空気と、私の周りの空気とで、明らかに違っている感じがした。

「そう、私にはよく分からないわね」

なんで、と唯が首をかしげて尋ねた。

「だって、私は一年生の頃から勉強してきたし、それに、生徒会は後輩との繋がりが強くないもの」

ふうん、と唯は微かに優越感の宿った瞳で、私を見つめながら言った。

2: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2010/11/20(土) 12:01:33.11 ID:56uOejGz0
私が勉強を続けてきたのは、私に計画性があったからで、
仲の良い後輩がいないのは、私が生徒会において公私を混同しなかったからだ。
私がしてきたことには何一つ間違っていることはないのに、何故だか、文化祭が終わったこの時期になって、
私は、私の幼馴染に追いぬかれて、遥か後方に置いて行かれたような気がするのだ。

彼女の眼が、いつも私を嘲っているように感じるのだ。


私は家に帰ると、通学カバンを放って、部屋に入り、スタンドからギターを取った。
理解の出来ない不定形な欲求と焦燥感に駆られて、貯金をおろして買ったジャズマスター。
アンプは無いから、情けない音しか出ないけれど、その音は何となく私の不安を鎮めた。

「そうだ、コード……コードを覚えるんだった」

口に出して、しなければならないことを、
体中に曲線美を備えたこの娘を歌わせるためにしなければならないことを、確認する。
本棚から、薄い本を取り出す。"初心者でも簡単、これから始めるギター"。
ぎこちなく動く左手の指を、ゆっくりと指板に沿って這わせていく。
本の挿絵と同じフレットを抑えて、右手で弦を弾いた。

情けない音がした。

けれど、楽しかったから、私は結局、それから数時間、ギターの練習を続けた。
今までの習慣通りに勉強をすると、床につくのは十二時過ぎになってしまった。

ジャッ、というちっとも綺麗でない音が、スポットライトを浴びるわけでもなく、
部屋の片隅でギターを抱き続ける私の姿が、寝ている間も頭から離れなかった。
教室にいても、友人と、幼馴染と話していても、頭から離れなかった。

5: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2010/11/20(土) 12:04:47.15 ID:56uOejGz0
ギターにかまけていても、私は今まで通りの成績を維持し続けていた。
少し誇らしくもあるが、悲しくもあった。
大枚をはたいて買ったギターがもたらした変化は、私の睡眠時間の減少だけで、
それすらも、慣れてしまえばどうということもないものだった。

変化は麻薬。


「ちょっと、なにそのでかいの。ウチは唯ちゃんの家とは違って狭いんだから、
 あんまり大きなものを買ってこないでよね」

包丁とまな板が一定のリズムと、安売りの野菜を刻む台所から、母が顔をのぞかせ、口を尖らせた。
私は、母が"大きなもの"と呼んだ箱を胸に抱えて、やはり口を尖らせた。

「良いじゃない、部屋に勉強道具と本しか無いような女子高生なんて私ぐらいしかいないのよ」

なにいってんだか、と母は肩をすくめた。
私も、何を言っているんだろうと自問した。答えは出なかった。

部屋に上がって、私は箱を開けた。
近所の楽器屋で買ってきた、初めてのアンプ、シールド、エフェクター。
本と教科書が整然と並べられた棚の隣にそれらを置くと、なんだか、なにかを手に入れられそうな気がした。

私はギターとアンプを、エフェクターを仲人にして繋げた。
その日、彼女はいつもよりひび割れた声で歌った。
私はいつもより長く彼女を抱き続けた。

7: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2010/11/20(土) 12:07:50.63 ID:56uOejGz0
「和ちゃん、眼に隈出来てるよ」

いつも通りに登校した朝、教室で、唯がぎょっとしたような眼で私に言った。
それから、そんなに勉強してるの、と心配そうに――彼女自身が、か、私が、かは分からないが――尋ねた。

「別に、今まで通りよ。ちょっと眠れなかっただけ」

私が笑うと、ふうん、と答えて、唯は元軽音楽部の友人たちと談笑を始めた。
彼女は、私のことをそんなに気にかけていないようだった。
私も彼女のことを別に気にかけてはいなかったから、別にいいのだけれど、
いつのまにか深くなってしまった記憶の霧を透かして、過去を見つめてみると、
私と彼女はいつも一緒に笑っていたような気がする。

まだ鮮明に蘇る残像に目を遣ると、高校に入ってから、彼女は部活の友人と笑っていたような気がする。
私は、いつ、誰と笑っていただろうか。
私の眼が私自身を映し出すことは無いから、どれだけ記憶を探っても、答えは見つからない。

その日も帰ってギターを弾いた。
口元を意識してみると、私は、ギターを弾いている時だって笑ってはいなかった。
本棚の脇に置かれたアンプ達は、ただの箱に見えた。

それなのに、あの、汚いギターの不協和音だけが、眠っている間も私を悩ませ続けた。
私を、多分、責め続けていた。

8: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2010/11/20(土) 12:10:02.31 ID:56uOejGz0
「えっと、もう一回言ってもらえるかしら」

職員室に、綺麗な声が響いた。他の教員たちは殆どどこかへ出ているようで、
部屋には私と、その前で頬杖を突いて眉をひそめる女教師しかいなかった。

「ですから、個人的な趣味でギターを始めたのですが、差し支えなければご教授願いたいと思いまして」

私が言うと、その教師、山中さわ子先生は、相変わらず固いわねえ、と言って苦笑した。

「別にそれはいいのだけれど、もう文化祭が終わって二週間よ。
 そんなことをしている暇があるのかしら」

そう自分で言っておいて、目を細めて笑った。

「まあ、和ちゃんにはそんな心配も必要ないかもね。
 いいわ、勉強の息抜きにもなるかもしれないものね」

どこで教えようか、と尋ねてきた先生を、私は無言で見つめ返した。
先生は少したじろいだ。

「なによ」

「いいえ、ただ、私には練習環境としてどのようなものが適切か分かりませんので、先生に……」

私が全部言い終わらないうちに、先生は大きく手を振って面倒くさそうに言った。

「わかった、わかった、とりあえず私の部屋でしましょう。学校が終わってからでいいのよね?」

はい、と私は頷いた。口元は、そういえば、緩んでいる気がする。

9: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2010/11/20(土) 12:13:11.97 ID:56uOejGz0
一度家に戻って、部屋のギターをソフトケースに入れる。
傍でアンプ達がじっとこちらを見つめているが、流石にこの大きさのものを持っていくことは出来ない。

「ごめんね」

私は軽く頭を下げてから、部屋を出、家を後にした。


ギターを肩にかけて外を歩くのは、ギターを買った日以来だった。
そもそも、私は唯とは違って、バンドを組んでいるわけでもないから、家の外にギターを持ち出すこと自体、初めてのことだ。
肩にかかるギターの重みが、慣れた道の歩みに、光景に、ほんの少しの変化を与えてくれた。
足を踏み出す速度は遅くなり、心なしか目線は少し下を向いた。

私は、私の背中にいる彼女を、愛しく思った。
いつも通りの街並みに、こんなにも変化を与えてくれる彼女を。

再び学校に着くと、先生の車が校門の前に止まっていた。
窓から眠たそうな目を覗かせて、辺りを窺っていた。

「どうしたんですか、先生?」

先生は、眼をこすりながら、あなたを待ってたんじゃないの、と言った。

「部活もないから、今日は早く帰れるのよ。そう思うとなんだか眠くなっちゃってね」

「よくわかりませんけど」

くすりと笑って、先生は車のドアを開けた。

「まあ、あと数年経ったら分かるわよ。それより、早く乗りなさいな」

10: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2010/11/20(土) 12:16:51.44 ID:56uOejGz0
後部座席にギターを寝かせて置いて、私は助手席に乗り込んだ。
ミラーに、恋愛成就のお守りがぶら下がっていた。

「それね、ご利益ないのよ。ホントに、ジーザスxxxxってなもんよね」

指でつまんでくるくると回してみると、裏には某神社と書いてある。
表には、恋愛成就、と刺繍がされていた。

「キリストは関係ないと思いますけど」

「いいじゃない、きっと神様友達だと思うわ」

訳の分からないことを言いながら、先生はキーを差し込んだ。
エンジンが、自分の存在を私たちに知らせるような大きな音を立てると同時に、あっ、と
大きな声が学校の方から聞こえた。

「和ちゃんとさわちゃんだ、どこにいくのさ」

楽しそうに笑いながら歩く、現在を謳歌する女子高生の集団から、独りの女の子がこちらへ駆け寄ってきて、言った。
私の幼馴染の唯だった。怪訝そうに眉をひそめて、彼女は繰り返した。

「ねえ、どこにいくの。二人が一緒にいるところなんて初めて見たよ」

私が口を開こうとすると、隣から、面倒くさそうな声が聞こえた。
先生が上半身をハンドルに預けて、明後日の方向を見ながら、口の端を釣り上げて笑っていた。

「デートよ、デート。二人で眼鏡買いに行くのよ、唯ちゃんはお呼びじゃないの、お分かり?」

それから、眼を丸くしてなにかを言おうとする唯を無視して、先生はアクセルを踏んだ。
タイヤが忙しく回って、私たちと唯との距離を広げていった。

11: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2010/11/20(土) 12:20:04.06 ID:56uOejGz0
唯は私たちをしばらく見ていたが、直ぐに、軽音楽部の友人たちの元へと小走りに戻っていった。
先生はぼうっと外を眺めて、気だるそうにハンドルを回していた。
先生は、ちらりとこちらに目をやって、優しく笑った。

「別に、唯ちゃんたちのことは嫌いじゃないのよ」

しばらく黙りこんで、私の顔を見つめてから、本当よ、と念を押してきた。
私は何も言っていないのに。
しばらく一本道の道路を走って、赤信号の前で止まったとき、先生はまたこちらを見た。

「あまりじろじろと見られると、照れるんだけどね」

先生がそう言ったから、私は、ごめんなさい、と呟いて慌てて窓の外へ顔を向けた。
後ろで先生が明るく笑っていた。

「和ちゃんは可愛いわね、意外と、唯ちゃんよりも、変なところで子供っぽくて」

窓の外を見たまま、どこがですか、と私は呟いた。
自分で思っていたよりも、不機嫌な、刺々しい声だった。

「さあ、ね。ただ、唯ちゃんは、和ちゃんが知らないことを知ってるわ」

でも、知らなくてもいいのよ、そんなことは。
先生は寂しそうに呟いて、アクセルを踏んだ。
信号は青くなっていたが、私の顔の色は、そんなに急には変わらなかった。
何故だか顔が熱くなっていた。

少しだけ顔の角度を帰ると、視界の端に先生の顔が見えた。
真っ直ぐ、前だけを見つめていた。
歩道を通る女子高生にも、外から聞こえてくる高い笑い声にも惑わされず、真っ直ぐ、前だけを。

12: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2010/11/20(土) 12:24:09.46 ID:56uOejGz0
なんとなく、私も前を向いた。
どこまでも続きそうな一本道が見えた。


「いらっしゃいませお客様ぁ」

語尾を気だるそうに伸ばして、先生は仰々しくアパートの部屋の扉を開けた。
独り暮らしの部屋らしく、雑然とした部屋だった。

「じろじろ見ないでよね、片付ける時間なかったんだから」

先生は頬をふくらませた。
先生に言われたとおり、部屋の光景から目を逸らすと、私は先生を見つめるしか無くなった。
しばらく見つめていると、先生は、また、笑った。

「ほら、ギター、練習するんでしょう?」

それから先生は、押入れの中から随分と尖ったギターを取り出した。
ストラップを掛けて、長い足を組んで椅子に座る姿は絵になっていて、
先生の前で、丸っこいギターをぎこちなく肩にかけ、おぼつかない手つきでギターを触る私が、情けなく感じられた。

「それ、ジャズマスター?」

先生が目を見開いて言った。

「そうですよ」

「値段は?」

「一五万くらいでしたね」

14: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2010/11/20(土) 12:26:49.07 ID:56uOejGz0
先生は、呆れたようにため息を付いた。

「和ちゃんは、本当に、訳がわからないわね。十五万って言ったら、アレよ、何回かソープに行ける額よ。
 男の人が綺麗な姉ちゃんといかがわしいこと出来る額なわけよ」

「それが、どうかしましたか」

首を傾げる私に、先生は笑いかけた。

「まあ、どうということはないわね。ただ、最近の高校生はお金持ってて羨ましいな、って思って」

親のお金なんですけどね、と私が言うと、先生はギターをじっと見つめて、
流れるような曲線よね、と言った。
私が真意を測りかねていると、先生は、パンと手を鳴らして、微笑んだ。

「練習、しましょうか」

それから、私は大層情けない思いをした。
ギターの練習を始めた途端に、先生は厳しい顔つきになって、私の弦の押さえ方、ピックの持ち方をいちいち修正した。

「先生、疲れてきました」

私が皮の剥けかけてきた指先を先生に見せたのは、日がすっかり暮れてしまった頃だった。
先生は目を細めて、自分の指を私の掌に押し付けた。

「固いでしょう?」

「そう、ですね」

「皮膚の厚さは、積み上げてきた時間よ。別に、和ちゃんに、全力で練習しろ、だなんて言わないけれど」

16: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2010/11/20(土) 12:29:51.07 ID:56uOejGz0
勉強もあるしね、と呟いて、先生は、唐突に、私の心臓が飛び跳ねそうなくらい突然に、
私の指を、ちろっと覗かせた舌で舐めた。

「ちょっとヒリヒリしてこない? なんだか気持いいわよね、達成感があって」

先生は私の顔を見て、笑った。

「和ちゃん、可愛い」

「なにがですか」

「顔、真っ赤よ。自分では気づいてないかもしれないけど、ね」

顔に手を当てると、随分と熱くなっていた。
唇を指でなぞると、三日月型に曲がっているのが分かった。

「照れてるわけじゃあ無いんですよ」

「そう、残念ね」

先生はくつくつと笑って、立ち上がった。

「もう暗くなってきたから、家まで送るわよ。断ったりしないでね?」

先生の家を出ようとしたとき、廊下に、額縁に入れられたジグソーパズルが掛けられているのを見た。
真っ直ぐに続いていく、障害物の無い、道路の絵。いくつかピースが欠けていた。

「先生、これ」

「ああ、ジグソーパズルね。暇つぶしに作ったんだけど、ピースが無くなっちゃったのよねえ」

17: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2010/11/20(土) 12:32:26.37 ID:56uOejGz0
肩をすくめて、先生が笑った。

「和ちゃんは、ものを無くしたりしなさそうよね」

「そうでしょうか」

うん、と屈託なく笑う先生を見て、私は、なんだか先生を騙しているような気分になった。
急に先生の顔を直視できなくなって、目を伏せた。


「あら、先生、ご親切にどうも」

何時だと思っているの、なんてヒステリックな声を上げると私は踏んでいたのだが、
私の母親は、先生の前で、丁寧に頭を下げていた。

「いえ、真鍋さんは成績も優秀ですから、私、音楽教師ではありますが、
 彼女の将来に少しなりとも手助け出来ればと、常々思っておりますので」

何故だか、私は今日、先生と進路について相談したことになっていた。
車の中で、先生は、和ちゃんの親御さんは面倒くさそうよね、と呟いていた。

「まあまあ、ご丁寧にどうも、和もお礼を言いなさいな」

母親に促されて先生を見てみると、母に気付かれないように、小さく舌を出して笑っていた。

「先生、今日は親切にどうもありがとうございました」

先生は、くくっ、とこもった笑い声を立てて、言ったのだった。

「どういたしまして。これからも、カウンセリングまがいのことも兼ねて、度々娘さんのお時間を頂くことがあると思いますが、何卒ご理解の程を」

18: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2010/11/20(土) 12:36:39.19 ID:56uOejGz0
仰々しく礼をして、先生は車に乗り込み、帰っていった。

「山中先生、ご立派な人ねえ」

感心したように言う母親に、そう、と曖昧な返事をしてから、私は部屋に上がった。
たしかに、さっきの先生の姿は歳相応で、ご立派なものではあったけれど、何だか、違う気がした。



それからも、週に何度か、私は先生の家でギターの練習をした。
学業には支障を来さないように、先生も気を遣ってくれているようだった。
暗くなる前に、私を追い立てるように急かす先生を、何故だか憎々しく思った。
先生の家を離れると、また、いつまでも、ギターの不協和音が私の頭に響いた。
頭蓋骨を割って、血管を引きちぎって、皮膚を切り裂いて、外へ飛び出しそうなその音が、
私には狂おしいほどに、憎くも、愛しくも感じられた。

「和ちゃん、見て見て、ほら、志望校判定、かなり良くなってるでしょ?」

本格的に冷え込んできたある日、唯が誇らしげに一枚の紙切れを見せてきた。
私には、ああ、そうね、と当たり障りの無い返事をすることしか出来なかった。
すると、唯は心なしか不機嫌になった。

「唯ちゃん、最近勉強頑張ってたものね」

元軽音楽部の友人に言われて、唯は頬を緩めた。
それから、彼女は私の方を見ようともせず、友人たちと談笑していた。
私はため息を付いた。

20: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2010/11/20(土) 12:40:04.57 ID:56uOejGz0
卑怯じゃないか、そんなの。
だって、唯は私と一緒にいないから、いつも部活の友人とばかり一緒にいるから、私には、
唯が何を言って欲しいかなんて分からないのに、どうして、どうして唯は私に求めるのか。
鬱々とした忘却の草むらの奥には、たしかに私と彼女の、幼馴染としての十数年があるけれど、それ以外には、何も無いのに。

どうして、どうして、どうして……

疑問と不信は私の脳内を何度も駆け巡り、増幅され、フィードバックノイズのように精神を埋め尽くした。


「ねえねえ、和ちゃん、今日は音楽室でギターの練習しましょうよ」

ある日先生は私を職員室に呼び出して、こんなことを言った。
私の返事を聞かずに、先生はこつん、と私の額を人差し指でついて、微笑んだ。

「約束よ、破っちゃ駄目だからね」

はあ、と私は軽く頷いた。


「それで、来たわけですか。先生も、何だかよく分からない人ですよね」

長い黒髪を二つに束ねた女の子が、音楽室の水槽のスッポンモドキに餌をやりながら、苦笑した。
彼女は、軽音楽部の下級生だ。
唯と一緒にスポットライトを浴び、唯とアイコンタクトをした、中野梓ちゃんだ。

「和さん、和さん」

ぴっと人差し指を立てる仕草は、小柄で童顔な彼女がやると微笑ましく、可愛らしく見えた。
梓ちゃんは高い声を作って言った。

21: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2010/11/20(土) 12:45:02.07 ID:56uOejGz0
「アタイ、スッポンモドキのトンちゃん、チェケラッチョイ!」

一瞬、彼女が何をしたいのか分からなかったが、嬉しそうににこにこと笑っているのを見て、私も自然と笑みが零れた。

「その亀、喋るんだ」

「アタイ、亀じゃなくてスッポンモドキよ!」

彼女は、私が鬱陶しいと言うまで、甲高い声でしゃべり続けた。
私に、その声をやめるように言われると、彼女は頬を膨らませて、不満げに言った。

「可愛いから良いじゃないですかあ」

放課後で、まがりなりにも部活動中だと言うのに、彼女は暇らしい。
さっきから音楽室内をうろうろと歩きまわるばかりで、落ち着かない。
冬の弱々しい日光が当たる窓際の、床に直接座って、体操座りをして私は言った。

「梓ちゃん、思っていたのとは随分違う人ね。もっと気難しいかと思ってた」

ぴた、と急に動きを止めて、梓ちゃんは真っ直ぐ私を見つめて、言った。

「どうしてそう思っていたんですか?」

「ん、唯たちからそう聞いてたから、かな」

「どんなことを、聞いていたんですか?」

奥が見えない、髪と同じ真っ黒な瞳で私を見つめるものだから、私はたじろいでしまった。

「ツインテールで、小柄で、可愛くて、練習熱心だって……」

22: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2010/11/20(土) 12:48:38.31 ID:56uOejGz0
梓ちゃんは、ゆっくりと自分の髪に手を伸ばして、髪留めを解いた。
長い髪が、自由に宙で踊った。
梓ちゃんが首を軽く振ると、二つに分かれていた髪は完全に一纏まりになり、
先程まで二つに結ばれていた跡を、完全に消してしまった。

「ツインテールじゃあ無くなったわねえ」

頬杖を突いて私が言うと、梓ちゃんは、髪で光を反射させながら、輝く笑顔で言った。

「ええ、だから、そんな又聞きのイメージで私を判断しないでくださいね。
 ツインテールで、小柄で、可愛くて……そんな言葉じゃなくて、ね。
 だって、もう私はツインテールですらないんですから、そうでしょう?」

彼女が何を伝えようとしているのか、分からなかったけれど、私は何となく自分の髪を撫で付けて、
梓ちゃんに肩をすくめてみせた。

「私、髪短いのよね」

梓ちゃんは、髪を下ろしたからかは分からないが、幾分か大人びて見える表情で、笑った。

「似あっていますよ」

それから、私たちは長い間何も話さなかった。
私はぼうっと天井を眺めて、梓ちゃんは頬杖を突きながらスッポンモドキを眺めていた。
ちらりと梓ちゃんの横顔を見ると、その表情は、最近の唯と同じように大人びていて、
けれど、その目には優越感など欠片もなく、気のせいであればいいと思うのだが、どこか悲哀と、憎悪を孕んでいるようだった。

彼女の目の中で、光る水面がゆらゆらと揺れた。


23: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2010/11/20(土) 12:52:50.16 ID:56uOejGz0
「ごめんなさいねえ、遅くなっちゃったわ」

数十分して、ようやく先生は音楽室に顔を出した。
そのころには、もう時計は五時半を回っていた。
先生はまず梓ちゃんを見て、眉をひそめて、

「なによ、そんな綺麗な髪の毛見せつけてくれて、私への当てつけなの?」

と言ってから、私を見て、笑った。

「床に直接座ると汚れるわよ」

梓ちゃんは、水槽から目を離さずに、間延びした口調で言った。

「先生が和さん呼んだんでしょう、呼び出した本人が遅れてどうするんですかあ」

ご尤もな意見だったが、なんだか、必要以上の悪意を含んでいるように感じられた。
先生は、けらけらと笑って、明るく言った。

「あら、和ちゃんと一緒にいるのは嫌だったかしら」

「そういう話じゃないでしょうに」

梓ちゃんは水槽から少し離れて、ぺたん、と座り込んだ。
それから私のほうを見て、にこりと笑った。

「和さんの、真似、です」

そして、ひとつ、大きく欠伸をした。
それを見て、先生はまた大声で笑い出して、私の傍に来て、梓ちゃんを指さしながら言った。

24: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2010/11/20(土) 12:54:56.00 ID:56uOejGz0
「ね、ふてぶてしいでしょう、猫みたいじゃあない?」

梓ちゃんは、こっちを見てにやにやと笑いながら言った。

「違うわ、アタイはスッポンモドキよ」

自分で言っておきながら、梓ちゃんは自分で大笑いした。先生も釣られて笑った。
私は自分の喉の奥が妙な震え方をするのに気づいて、口に手を当ててみると、くつくつと笑っているのに気づいた。

「今日はもう暗くなってきてるから、和ちゃんには悪いけれど、ギターの練習はなしにしましょう」

その代わり、いい所に連れて行ってあげる、と言って、先生はくすりと笑った。
梓ちゃんは、またですか、と言ってため息を付いた。

二人とも、楽しそうだった。多分、私も楽しかった。


「こっちの娘たちにはオレンジジュースね、あと、焼き鳥」

先生は私たちを寂れた町外れの居酒屋に連れてきた。
先生の車には、私と、梓ちゃんと、先生の、三本のギターが積んである。

「相変わらずボロ臭い店ですね」

梓ちゃんは何度かこの店に来ているらしく、店長に面と向かって言い放った。
少し太った中年の店長は、気を悪くした様子もなく、豪快に笑った。

「いいじゃねえか、こっちのほうが、たまに来る別嬪さんの姿も映えるってもんだろう?」

25: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2010/11/20(土) 13:00:57.24 ID:56uOejGz0
先生、店長さんは私のことを言っているんですよ、と梓ちゃんは先生の顔をのぞき込みながら言った。
先生は人差し指で梓ちゃんの額を弾いて、ジョッキのビールを飲みながら言った。

「貴方は可愛いけど、美人じゃないわよ。美人は私、和ちゃんはイケメン、でしょう、店長?」

花盛りを過ぎたくせに何を、とぼそぼそ呟く梓ちゃんを見て、店長さんは声を押し殺して笑った。
先生は少しむっとした様子で、席を立ち上がった。

「大人には大人の魅力があるのよ、ツルペタ娘が、舐めた口聞いてんじゃないわよ」

そして、髪を揺らしながら店の外へ出て、車に積んであったフライングVを抱えて戻ってきた。
店長さんが嬉しそうな声を上げた。

「おう、今日は随分と乗り気じゃないか」

状況がいまいち飲み込めない私に、梓ちゃんが、焼き鳥をほおばりながら言った。

「機嫌が悪くなると、先生ギター弾き始めるんですよ。私より上手いからって、嫌味ですよね」

言葉の割に、期待しているような様子で、先生のほうをずっと眺めていた。
私がオレンジジュースに口を付けると、ギターの音と共に、澄んだ声が聞こえてきた。

「show me how you do that trick...」

多分、外国の歌。歌詞は簡単な英語で、意味を取るくらいのことは私にも出来た。
女の人と男の人が、愛を歌いながら踊っている。
目の眩むような崖の上で回りながら、顔に、頭にキスをする。

「daylight licked me into shape.i must have been asleep for days...」

26: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2010/11/20(土) 13:04:04.96 ID:56uOejGz0
場面は変わって、男の人が独りきり。
気がつけば彼は独りきり。荒れ狂う海に、愛しい彼女を奪われて、彼女は彼の心の奥底に沈んで……

「just like heaven...」

まるで天国のようさ。

先生の歌が終わると、梓ちゃんは嬉しそうに拍手をした。

「大したもんです、本当に」

何様のつもりよ、なんて言いながら、先生も眉尻を下げて笑っていた。

「あら、和ちゃんは、つまらなかったかしら?」

心配そうに私の顔をのぞき込みながら、不安気に先生は言った。
先生の髪から、柑橘系のいい香りが漂ってきた。
しどろもどろになりながら、私は言った。

「いえ、そんなことはないです、すごく……すごく、綺麗でした」

先生ははにかんで、短く、ありがとう、とだけ言った。
首を軽く横に傾けたお陰で、先生の肩にかかった髪は、とても柔らかそうに見えた。

「ギターの演奏聞いておいて、綺麗って言う感想も無いもんだと思いますけどね」

けらけらと笑いながら、梓ちゃんが言った。
楽しそうにオレンジジュースを飲んでいた。


27: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2010/11/20(土) 13:07:57.62 ID:56uOejGz0
「帰るんですか」

居酒屋から出て、先生の車に乗り込むとすぐに、梓ちゃんが顔を曇らせて言った。
長い髪が顔にかかっていて表情は読み取れなかった。
先生が黙ってアクセルを踏むと、先生と、梓ちゃんの長い髪が揺れた。

「和さんに聞いてるんです」

顔を上げて、髪を手で払って梓ちゃんは言った。
不気味なほど、無表情だった。帰るんですか、と梓ちゃんは繰り返した。

「そりゃあ、もう暗いもの、帰らないと……なんだか、ごめんね梓ちゃん」

訳もわからず、空気に流されて私が謝ると、梓ちゃんは窓の外へ顔を向けた。
別に、謝ってほしいわけじゃあ無いんですけどね、とぼそりと呟いた。

「こら、梓ちゃんも我侭言っちゃ駄目よ。和ちゃんも勉強があるし、あなただって、ご両親が心配してるでしょうに」

梓ちゃんはミラー越しに先生を睨んで、口の端を吊り上げて笑った。
三日月型に歪んだ唇から、掠れた声が漏れた。

「勉強、勉強、勉強……そればっかりですね、先生は」

そして、ぐるりと顔を私の方へ向けて、震えた声で言った。

「ねえ、和さんは、この時期にこんな風に外を出歩く余裕があるんですね」

「まあ、そうね、一年生の時からちゃんと積み重ねていたから、ある程度はね」

「そうですか、ところで、和さん、三年生っていうのは、受験生っていうのは、」

29: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2010/11/20(土) 13:11:52.92 ID:56uOejGz0
メールも送ってこれないくらいに忙しいんですか?

梓ちゃんの声が、空気を震わせて、それから、車外の音と混ざり合った。
先生が、静かに梓ちゃんの名前を呼ぶと、梓ちゃんは黙り込んでしまった。
なんとなく気まずくなって、運転席に目を遣ると、ミラーの中の先生が、寂しそうな目でため息を付いているのが見えた。

「ねえ、梓ちゃん」

私が名前を呼ぶと、梓ちゃんは華奢な肩を大きく一瞬震わせて、怯えた目付きで私を見つめた。

「そんなふうに怯える理由がわからないわ……はい」

私がポケットから携帯電話を取り出して渡すと、梓ちゃんは目を丸くした。

「なんですか、これ」

「なにって、携帯電話。メールがしたかったんじゃないの?」

私の言葉を聞くと、梓ちゃんは、きょとんとして、それから、声を上げて笑った。
私が驚いて先生のほうを見ると、先生も笑っていた。

「和さんって、意外と可笑しな人ですね」

目の淵に涙をためて、梓ちゃんは私の手から携帯をとった。
慣れた手つきで操作をして、あっという間に自己の携帯に連絡先を登録した。

「あ、いいな、梓ちゃん、私にも和ちゃんの連絡先教えてよ」

「土下座したら考えてあげます」

30: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2010/11/20(土) 13:15:30.12 ID:56uOejGz0
つんと澄まして言う梓ちゃんを見て、どうやら先程までの悩みは消えてしまったようだと思い、私は安心した。
押し殺した笑い声をたてながら、先生は私に言った。

「ねえ、和ちゃん、またたまに音楽室にいらっしゃいな」

梓ちゃんが期待したような様子で、ちらちらと私の方へ視線を向けていた。
なんとなく、子供っぽく思えて、可愛らしかった。

「そうですね、そうします」

そう、ありがとう、と先生は歌うように言った。
何がありがとうなのかは分からなかったけれど、私もオウムのように同じ言葉を返した。
梓ちゃんも、ありがとうございます、と屈託の無い笑顔で私に、そして先生に言った。

先生は、ずっと、優しく微笑んでいた。


それから、週に何度か、私は音楽室に通った。
音楽室にはいつも、梓ちゃんか先生がいて、二人とも机に突っ伏して、だるそうに私を迎えてくれた。
あまり歓迎されているように思えない、と私が言うと、二人は慌てて立ち上がり、必死になって否定するのだった。

「ねえ、唯、梓ちゃんとは最近どう?」

そんなある日のこと、授業前の教室で、何の気なしに私は唯にそんなことを聞いてみた。
唯はしばらく宙を眺めてから、さあ、と情けない声を出して、へらっと笑った。

「さあ、って、一緒に遊びに行ったりはしないの?」

唯は机にだらしなく上半身を預けて、疲れたような口調で言った。

31: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2010/11/20(土) 13:18:50.21 ID:56uOejGz0
「無理に決まってるじゃんかあ。受験生だよ、私は」

久しぶりに、それこそ、梓ちゃんや先生と音楽室で雑談をすることが増えてから滅多に聞こえなくなっていたが、
ギターの不協和音を聞いた。
もっと上手く扱え、と罵るような、不協和音を聞いた。
同時に浮かび上がってきたのは、無駄に広々とした音楽室で、独りでギターを鳴らす、小柄な女の子の姿だった。
ただ過去の記憶だけを、ギターを通じて表現しようとするような、小柄な女の子の姿だった。

「そう、そうなんだ」

独りで勝手に納得して、頷く私を眺めて、幼馴染は携帯をいじりだした。
ちらりと見えた待ち受け画面には、最近のものと思われる、部活動の友達と移ったプリクラが背景として設定されていた。
梓ちゃんの姿は無かった。

「そっか」

私は、ただそれだけを繰り返した。


授業が終わり、終礼が済むと、私は急いで教室を出て、音楽室へ向かおうとした。
けれど、幼馴染に止められた。

「和ちゃん、一緒に帰ろうよ」

馴れ馴れしく私の腕を掴む幼馴染の手を、私は荒っぽく払った。
幼馴染は、目を大きく見開いて言った。

「なに、どうしたの?」

32: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2010/11/20(土) 13:22:45.56 ID:56uOejGz0
彼女は目を開いていたけれど、盲目だった。
ずっと前から、私と彼女との間には、深い霧が立ち込めていたというのに、彼女はまだ私が見えている気でいた。
私には、彼女の顔はもう見えなかったから、何の遠慮もなく私は言い放った。

「唯、ちょっと黙ってて、邪魔をしないで」

ぽかんと口を開ける幼馴染を後にして、私は駆けだした。
先生が、教室の中から、一度私の名前を呼んだ。
心配するような声だった。

私が廊下を踏み、蹴って前に進むたびに、肩にかかったバッグは大きく揺れた。
二年生のいる階を走り抜けるときに、癖毛を二つにしばった女の子が、驚いたように言った。

「最近はランニングが流行ってんのかな」

なんだか的はずれな意見で、思わず足を止めそうになったが、バッグの動きに引きずられて、
私は音楽室まで足を止めること無く走り続けた。

音楽室の扉の前に立つと、中から、分厚い音の壁が迫ってきた。
おそるおそるドアを開けると、予想以上の勢いで、音は私を飲み込んだ。

独りでいるには広すぎる、二人でいても落ち着かない、三人でいても肌寒い、
そんな冬の音楽室の中で、梓ちゃんは、地べたに直接座って、ギターを鳴らしていた。
アンプから、洪水のように音が流れだしていて、梓ちゃんはその中に溺れているようだった。

「and moving lips to breathe her name...」

梓ちゃんは、寝起きのような気だるい声で、先生が居酒屋で歌ったのと同じ歌を口ずさんでいた。
ノイズに埋もれて聞き取りづらかったけれど、梓ちゃんは小さな口を動かし、歌っていた。

33: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2010/11/20(土) 13:25:17.59 ID:56uOejGz0
「and found myself alone alone alone...」

私だってネイティブじゃあないから偉そうなことは言えないけれど、梓ちゃんの発音は拙かった。
舌の回らない歌い方もあって、まるで子どもが歌っているようだった。

あんどふぁうんまいせるふあろおんあろん、あろおん……

舌っ足らずな発音で、彼女は歌っていた。
気づくと僕は、ひとり、ひとり、独りきり……

久しぶりに見た彼女のツインテール姿は、なんだか窮屈そうだった。
私はアンプばかり見ていてこちらにはまったく気がつかない梓ちゃんに、そっと近づいていって、髪留めを解いた。
キン、と大きな音がして、ギターの演奏がやんだ。

「なんだ、和さんか」

梓ちゃんは一度目を伏せて、それから、薄く目を開けて私を見た。

「なんですか、演奏の邪魔はやめてほしいんですけど」

彼女は小さな口の中にこもった声で言った。
さっきの子どもっぽい、可愛い発音と、今の態度とのギャップが可笑しく感じられた。
梓ちゃんは、眉をひそめて言った。

「理由もわからず笑われるっていうのは、あまり気分のいいものじゃありませんよ」

「え、私、笑っていた?」

からかわれていると思ったのか、梓ちゃんはため息を付いて立ち上がった。
相変わらず寝ぼけているような声で言った。

34: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2010/11/20(土) 13:27:40.71 ID:56uOejGz0
「まあ、別にいいんですけどね。お茶でも入れましょうか、和さんが歓迎しろって五月蝿いから」

生意気なことを言いながらギタをーを肩から下ろす梓ちゃんの姿が、言葉よりずっと小さく見えたから、私は、

「え、ちょっと、なにすんですか!」

彼女の足を払った。大きな音を当てて尻餅をつき、痛みに小さい声を上げてから、彼女は怒ったように言った。

「なんですか、やる気ですか、言っておきますけど、私超強いですからね」

それでもやはり、彼女の背中は小さく、肩幅は狭く、弱々しかった。
だから、私はそっと床に座って、彼女の首に手を回した。

「なんですか」

みぞおちの辺りにある私の手首を、指でつまみながら、梓ちゃんが言った。

「別に、ただ、なんとなく……ねえ、独りじゃないわよ、梓ちゃん」

ぴたりと動きを止めて、それから、梓ちゃんは私の人差し指を弄り始めた。

「何いってんですか」

「ん、なんだろうね」

変なの、と言って、彼女は私の腕を振りほどき立ち上がって、はにかんで笑った。
立ち上がる瞬間に、髪の毛が私の手に触れた。

「変です、けど、嫌いじゃないですね、そういう、訳の分からない感じ」

36: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2010/11/20(土) 13:32:59.17 ID:56uOejGz0
一瞬、梓ちゃんは顔にかかった髪を払って、遠くの灯台を見るような、
霧の中で、やっと見つけた光を見るような、そんな期待と渇望と憧憬と、ちょっとばかりの不安の混じった目をした。
すごく、大人びて見えた。

「ねえ、和さん、私の演奏、どうでした?」

梓ちゃんは首を傾けて言った。
私の頭の中に残っていたのは、ひび割れた音の中に溺れる梓ちゃんの姿と、
その中に溶け込む、可愛らしい発音の英語だけだったから、しばらく考えて、私は答えた。

「可愛かった、かな」

梓ちゃんは小さく笑って、唇を尖らせた。

「先生には綺麗だって言ったくせに」

何気なく梓ちゃんが放った言葉は、私の心を大きく揺らした。
そう言えば、なんでだろう。


その夜、一通のメールが来た。
夜遅くに、韻も踏んでいない、綺麗でもない、受験英語の長文を読んでいると、メールが届いた。
差出人はさわ子先生で、短く、一言だけ書かれてあった。

『ありがとう』

私は、もう夜も遅いというのに、構わず先生に電話を掛けた。

37: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2010/11/20(土) 13:37:28.47 ID:56uOejGz0

「さっきのメールのことかしら?」

「ええ、そうです」

「そっか、なんでお礼を言われたのか、知りたい?」

私は、はい、と答えようとしたが、その言葉を飲み込んで、首を振った。

「そういうわけじゃあないんです、ただ……」

「ただ?」

「私も、ありがとう、って言いたくて」

何がよ、と先生は明るく言った。
私も、何でしょうね、と返した。


「えぇ……先生、余計なこと言わないでくださいよ」

一二月も第二金曜日に入り、コートを着て音楽室でお茶会を開いていると、梓ちゃんが顔をしかめて言った。
そろそろ、本腰入れて勉強したほうが良いんじゃないの、と言った先生に対しての、非難だった。

「余計なことじゃあないと思うわよ。和ちゃんの一生に関わることなんだから」

先生がそう言うと、梓ちゃんは急に姿勢を正して、私と先生の顔を交互に見みつめて、
重々しく口を開いた。

「ないですよ、一生に関わるような重大なことなんて、実はあまり無いんですよ」

38: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2010/11/20(土) 13:40:41.31 ID:56uOejGz0
私は紅茶を口に含んで、頭の中でその言葉の意味を咀嚼していたが、
先生は直ぐに梓ちゃんの真意を汲み取ったようで、苦々しく笑った。

「あなた、まだそんなことを言ってるの」

梓ちゃんは、急に真面目な顔つきを崩して、へらっと笑った。

「なんちって、ジョークですよ、先生もそんな怖い顔しないでください。
 和さん、勉強がんばってくださいねえ。ギターも、たまには練習しといたほうがいいですよ」

それから、立ち上がって、窓のほうへ駆けていき、窓に手をつけた。
うひゃあ、と小さく声を上げた。

「寒いですね、寒くなりますね、これからの時期は」

うん、寒いわねえ、と先生が繰り返した。
二人とも、どこか遠くを見ているようだった。

「寒いなら、ストーブ置きます? 生徒会室に余りがあったと思いますけど」

私が紅茶を飲み込んでから言うと、先生は楽しそうな顔を、梓ちゃんは困ったような顔をした。
先生は、あっけらかんとした声で、

「やっぱり、おかしいなあ、和ちゃんは」

と言って、梓ちゃんは、大袈裟に肩をすくめてみせた。

「本当に」

なんだか、からかわれているような気がして、私が抗議の声をあげようとすると、先生が立ち上がり、手を叩いた。

39: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2010/11/20(土) 13:45:00.17 ID:56uOejGz0
「これからは寒くなるわ、そうよね、梓ちゃん?」

梓ちゃんは、また窓の外に顔を向けて、頷いた。

「そうですね、雪も降るかもしれませんね。雨よりはいくらかマシですけど」

そして、さわ子先生も大きく頷いて、そして、覚悟を決めたように、少し寂しそうな、
けれど強い声で言った。

「だから、今日は私の家でお泊り会をしましょう。みんなで集まって寝れば、今日だけは、寒くならないから」

私は、その素敵な提案に、胸が踊るのを感じた。
梓ちゃんは、そんな私の心情に気がついたのか、優しく微笑んで、けれど、そっけない口調で先生に言った。

「家って、あのボロいアパートのことですか」

先生は、眉をひそめて、口を歪めて笑った。

「お泊り会は、不躾な猫を躾ける会に変わったわ」

梓ちゃんは、あー、と声を上げて、髪を撫で付けながら、笑った。

「しまった、口を滑らせた」

くすくすと穏やかに笑う二人を見ながら、私もあたたかい気持ちに包まれたが、なんとなく不自然な気がした、
どこかに違和感があった。
耳を澄ましてみると、どこかから、あの不協和音が聞こえていた。


「うわあ、前来た時より汚くなってませんか、この部屋」

41: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2010/11/20(土) 13:47:49.52 ID:56uOejGz0
先生の部屋に入るなり、梓ちゃんは言い放った。
先生は梓ちゃんを小突いて、苦笑した。

「あなた、本当に今夜は覚悟しておきなさいよ。ちゃんと躾けるから」

前も来たことがあるの、と私が尋ねると、梓ちゃんは、一度だけ、頷いて、
いたずらっぽく笑った。

「ふふ、大丈夫よ、安心して、この人とは何でもないわ、私はあなただけを愛してる」

何言ってんのよ、と私が彼女の唇に人差し指を当てると、梓ちゃんは顔を綻ばせた。

「なんなんでしょうねえ」

長い髪のてっぺんから先まで、指を通して、くるりと私に背を向けた。
あ、と短く声を上げた。

「これ、ジグソーパズル」

じっと、ピースの欠けたパズルを見つめて、もう一度、ジグソーパズル、と呟いた。
先生は、ああ、と相槌を打って、言った。

「そう、前梓ちゃんが来たときに作ってたやつよ。ピース無くしちゃって」

この有様。先生は両手を広げた。
そして、梓ちゃんは、いたずらっぽい、優しい微笑を口に浮かべて、こちらを振り返った。
小さい手の、細い人差し指を薄い唇に当てて、首を傾げて言った。

「先生、厚紙、あります?」

42: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2010/11/20(土) 13:51:41.14 ID:56uOejGz0
先生が持ってきた厚紙を、器用に鋏で切り取って、油性ペンで字を書いた。
それから、額縁から取り出したジグソーパズルにゆっくりはめ込んで、誇らしげに胸を張った。

「はい、先生、感謝してくださいよね、これでジグソーパズル完成です」

空いていた部分に、"梓"と"和"とそれぞれ書かれたピースが二枚ずつ、合わせて四枚はめられていた。
先生が悲しそうに言った。

「ちょっと、私は?」

梓ちゃんは、一瞬固まって、もう、わがままなんだから、とため息を付いた。
ミミズが這ったような字で、ピースに書き加えた。
"梓わ子"、"さ和子"と書かれたピースを見て、先生は一度口を開いて、直ぐに閉じた。
そして、満足気に頷いた。

「うん、これでいいわ、ありがとう、梓ちゃん」


43: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2010/11/20(土) 13:56:55.45 ID:56uOejGz0
例えば、彼女の、そして彼女たちの高校生活が、ひとつの絵だったとする。
ひとつの絵として、彼女たちの心のなかに刻まれたとする。
その絵は、どうやって描かれた?
絵の具になる何かが、キャンバスになる何かが、筆になる何かが、どこかに転がっていたとでも?
もちろん、そんなことはありえない。だから、大抵の人は、絵なんて描けない。
それなのに、彼女たちは描き上げてしまったのだ。大きなキャンバスに、満足いくまで、綺羅びやかな絵を。

「それでですねえ、和さん、先輩たちったら酷いんですよお」

絵の中に書かれたけれど、絵を所有することを許されなかった子が、今、私の部屋で、ビールを飲んでいる。
ビールを飲みながら、同じく、ただ絵の一部になることしか許されなかった子に、延々と愚痴を垂れている。

「四人で勉強したとか、遊びに行ったとか言われたって困るじゃあないですか、ねえ?」

長い髪を乱して、短髪の、眼鏡の女の子の首に、彼女は腕を回していた。
幼い顔つきだったが、アルコールの入った目だけが妖艶に輝いていた。

「うん、気持ちは、分かる……かな」

和ちゃんは首をかしげて、けれど、いつものような曖昧な誤魔化すような笑い方ではなく、
優しく微笑んで、梓ちゃんの髪の毛を撫でながら言った。

「ふふ、でしょう、だから、大好きです……先生も、和さんも……」

こくん、と梓ちゃんの頭が揺れた。和ちゃんの肩に額をのせて、静かに寝息を立てて眠っていた。
和ちゃんは私の顔を見て、苦笑した。

「寝ちゃいましたねえ」

44: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2010/11/20(土) 14:00:04.69 ID:56uOejGz0
そして、一度も口を付けてない、ビールが注がれたコップの縁を、人差し指でなぞって、
遠慮がちに私を見つめて、言った。

「先生と梓ちゃんはビールを飲んで、私は飲まない。
 先生と梓ちゃんは、何か同じことを知っていて、私は知らない」

いつまでも、私は仲間はずれですか、そう尋ねる彼女の顔が、あまりにも輝いていたから、私は胸が痛くなった。
彼女は、多分、私たちの仲間になれると思っている。期待している。

「知らなくてもいいの、そんなことは」

「知りたいな」

彼女は強い口調で言った。
私は肩をすくめた。

「教えたくないな、私は」

和ちゃんはじっと私の顔を見つめて、眉を下げて笑った。
そうですか、と大人びた声で言った。

「じゃあ、私が自分で知るしか無いんでしょうね」

そうね、と返しなら、私は、できればそんな事にはなって欲しくないと思った。
けれど、多分、それは無理だろう。
あるいは、和ちゃんの四肢を鎖に繋いで、壁に貼り付けて、ただ、過ぎ去っていく現在だけを感じさせれば、可能かもしれない。
けれど、未来と過去の境界線でしか無い、その一瞬だけを見るなんてことは、並大抵のことではないから、私は彼女にそんなことは求めない。

45: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2010/11/20(土) 14:03:07.28 ID:56uOejGz0

「きっと、そのうち分かるんでしょうね。分かってほしくなくても」

私の言葉に、和ちゃんは返事をしなかった。
ただ、黙って、温くなったビールを口に含んで、飲み込んだ。
苦い、と彼女は苦笑した……



こんな感じだったそうです、これ以上は分かりません、教えてくれないもの。

「そう、そっか。でも、ねえ、なんであずにゃんは、和さんと先生の話ばかりしているの?」

さあ? もしかしたら、彼女たちの話が一番……

「さあ、じゃないだろ。まあ、いいさ、次は梓のことを話してよ」

聞いてくれるんですか、聞きたいんですか?

「聞きたいわ」

そう、じゃあ、私、頑張りますね……

46: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2010/11/20(土) 14:07:24.05 ID:56uOejGz0
簡単な話です。私、気づいてしまいました。
唯先輩たちの思い出は、唯先輩たちだけで共有されるんです。
そこには、私も先生も和さんもいるけれど、私たちはあくまでもパーツなんです。
なんていうか、ある風景の写真をとったとき、その写真にたまたま写った人がいたからといって、
わざわざその人に写真を渡したりしないでしょう、そんな感じです。
先輩たちにとって、高校生活はあくまであの四人が主役だったんです。
だから、私たち――私と先生のことです――は困ってしまいました。

「唯ちゃんたち、勉強頑張ってるみたいよ。梓ちゃんも応援してあげてね?」

文化祭が終わって、しばらく経ってからのことだったでしょうか、先生は頻繁にそんなことを言うようになりました。
多分、先生もなんとなく気づいたんでしょう。
唯先輩たちの思い出の中にあるのは、陽気で不真面目な先生という、彼女の属性だけであって、
彼女自身ではなかった、ということに。

「へえ、そうですか、じゃあ、先生は応援してくれますか、私のこと?」

私もそうです。先輩たちには、中野梓は必要ないみたいです。
真面目で、口うるさい、可愛らしい後輩がいた、という思い出があれば。

「なにを応援して欲しいの?」

そのころからだと思います、私はほとんど睨みつけるように彼女を見て、ぎいっと口を釣り上げて笑うようになりました。
そして、私は言うのです。

「さぁ、なんでしょうね」

先生は、いつも寂しそうに笑うのです。

47: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2010/11/20(土) 14:10:37.46 ID:56uOejGz0
私と先生は、よくお喋りをするようになりました。
だって、音楽室には私と先生しかいないんですから、当然のことです。
先生はたまに言いました。あっけらかんと言いました。

「梓ちゃん、変わったわねえ」

「そうですか?」

「うん、不真面目になった。生意気になった」

私は、そのころ、放課後いつも音楽室に行っては、ヘッドホンをつけて、ディストーションを目一杯聞かせてギターをかき鳴らしていました。
先生と話すときもヘッドホンを外しませんでした。
だから、私はいつも、すべてを揺らして、崩してしまいそうな轟音の中で、先生の声を聞いたのです。

「別に、いいじゃないですか、それとも、先生はそれで私のことを嫌いになりますか」

ぎいっと。私はそのころ、先生と二人でいるときには、いつも癖になっていた笑い方で、笑いました。
先生も、一瞬寂しそうな顔をして、それから直ぐに笑いました。

「ならないわ、ならないわよ」

彼女の笑顔を見るたびに、私は悲しくなりました。
だって、先生は頑張っているように見えたのです。
なんとかして、先輩たちの仲間に加わろうと、頑張っているように見えたのです。
先輩たちは、先生の属性だけを転写して、ジグソーパズルに埋め込んだから、もう先生の明るさは必要ないのです。
だから、先生のその努力は、まったくの無駄であって、それで、私は悲しくなるのです。
そして、彼女を滑稽に思うのです。

48: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2010/11/20(土) 14:13:13.93 ID:56uOejGz0

「先生も、もうちょっと暗くなったらどうですかあ」

いつも、私がこう言って、この話は終わりました。
たまに、先生は目を伏せて、がんばってみるわ、と言いました。


たまには、先輩たちからメールが来ることもありました。
けれど、それは、ただ先輩後輩の関係性を、卒業するまで維持する、それだけを目的としたメールのように思えました。
私は先輩たちじゃありませんから、本当のところは分かりませんけど。
私は、だんだん、先輩たちのメールが嫌いになりました。

だって、そのメールは、まだ私から、ピースを奪い取ろうとするのです。
真面目で可愛くて気難しくて、そんな後輩像を写したピースを。
私は足元から自分が崩れていくのを感じながら、短いメールを返すのでした。

がんばってくださいね、たいへんですね、うんぬんかんぬん。


そろそろ、私はバラバラになってしまいそうでした。
ピースはそこら中に飛び散って、いくつか見つからなくなってしまっていました。
そんなときに、先生が言ったのです。

「梓ちゃん、私の家に来ない?」

私は大きく頷きました。けれど、私は机に突っ伏していたから、先生にはそうは見えなかったかもしれません。


49: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2010/11/20(土) 14:16:43.26 ID:56uOejGz0

「ぼろっちい、本当にぼろっちい安アパートですね」

私がそう言うと、先生は、予想に反して、気だるそうな、もうやめてくれと言ったような顔で、
首を横に振って言いました。

「そうね、本当に。壊れてしまいそうなアパートよね、あなたみたいにね」

正直、私はその時、心臓が破裂するかと思いました。
どういう意味ですか、と私が尋ねると、先生は泣きそうな顔で言いました。

「ねえ、私が暗くなったら、あなたは前みたいに戻ってくれるのかしら。
 私が代わりに壊れたら、あなたは直ってくれる?」

先生の手が、私の頬に触れて、それで私は初めて気づいたのです。
ぎいっと。いつものように、ぎいっと笑っていたのです、私は。

「無理かもしれませんね。多分、無理でしょうね」

先生はそっと手を私の頬から離して、そっか、と呟いて笑いました。
彼女は笑ったのです。いつものように、明るく。
そのときは、私は先生のことを滑稽だなんて思いませんでした。


「もっと気難しいかと思ってた」

ある日、和さんが音楽室に来ました。
私は、できるだけ以前と同じような、真面目な中野梓のように振舞おうと思いましたが、どうやらそうもいかなかったようです。

51: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2010/11/20(土) 14:19:58.79 ID:56uOejGz0

「どうしてそう思っていたんですか?」

なるだけ、自然に、和さんが不自然に思わないように、私は慎重に言いました。

「ん、唯たちから聞いてたから、かな」

「どんなことを、聞いていたんですか」

ふつふつ、ふつふつと、沸騰する水のような、暴れ回る、飛び回る怒りを、胸のうちに感じました。
沸騰石がなければ、すぐに私の胸は割れて、なかから熱湯が飛び出したことでしょう。
私は、彼女をここに呼んだというさわ子先生のことを思い出して、なんとか平静を保ちました。
多分、和さんがここにいるのには、何かの意味があるのだろう、そう思って。

「ツインテールで、小柄で、可愛くて、練習熱心だって……」

私は、おもむろに髪を結んでいた髪をおろしました。
和さんは頬杖を突いて、言いました。

「ツインテールじゃ無くなったわねえ」

その、ただ事実だけを淡々と述べる言葉に、私はなんだかほっとしました。
彼女は、私のピースを拾ってはいなかったのです。ただ、先輩たちが持っているのを見ただけで。


52: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2010/11/20(土) 14:23:49.36 ID:56uOejGz0
「ええ、だから、そんな又聞きのイメージで私を判断しないでくださいね。
 ツインテールで、小柄で、可愛くて……そんな言葉じゃなくて、ね。
 だって、もう私はツインテールですらないんですから、そうでしょう?」

私は早口にまくし立てました。
和さんは、肩をすくめて言いました。

「私、髪短いのよね」

彼女は、多分、何も知らないのでしょう。
何も知らずに、勝手にピースを奪われて、そのまま、何となく暮らしているのでしょう。
そう思うと、なんだか、笑みがこぼれました。
ぎいっと、ではなく、多分、優しく。

そして、その後、私たちの音楽室によそ者を入れた先生に毒を吐きました。
けれど、私に少しの変化をもたらしてくれたから、少し優しくしようと思ったのです。
少なくとも、ちょっとくらい、飛び散ったピースをはめ込んで、なんとか外側だけでも取り繕えないかと。

先生は私たちを居酒屋に連れていきました。何度か私も一緒に行ったことのある居酒屋です。
しばらく軽口をたたき合っていると、先生はだんだんと明るくなってきて、ついにギターを車から持ち出しました。

いつも通りの澄んだ声、明るい声、きれいなギターの音色。
先輩たちが居た頃には当たり前だったものが、こんな風に、完全な姿で聞けるのです。
私は、正直に言います、嬉しかった。

けれど、演奏が終わって、私はなんとなく嫌な気持ちになったのです。

「すごく、綺麗でした」

照れながらそんなことを言う和さんを見て、すごく、嫌な気持ちに……

53: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2010/11/20(土) 14:28:17.06 ID:56uOejGz0
隠すこともありませんから、言いますけど、私、和さんのことが好きです。

「そうなんだ」

ええ、そうなんです。だから、もしかしたらあれは嫉妬かもしれませんね。

「そうなの」

ええ、私は自分でそんな自分が嫌になります。

「ねえ、梓」

なんです?

「あんた、笑ってるよ。ぎいって」

あはっ、そうですか……



実は、和さんは、途中から何かに感づいていたのかもしれません。
いや、きっとそうなんでしょう、だから、先生に、何かを知らせてくれ、と言ったのでしょう。

「show me how you do that trick...」

ヘッドホンをつけずに、アンプから轟々と漏れ出る音に埋もれながら、ぼうっと考えていました。
多分、和さんが好きなんだ。
ツインテールでも、髪を下ろしていても、真面目でも、不真面目でも、どんな私でも気にしない、和さんが。
そんなことを考えていました。

55: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2010/11/20(土) 14:33:54.80 ID:56uOejGz0
そんなわけで、そうっと音楽室に入ってきた和さんに抱きしめられたとき、私は聞いたのです。
気に止めないふりをしながら、内心、期待と不安で破裂しそうになりながら、聞いたのです。

「ねえ、和さん、私の演奏、どうでした?」

「可愛かった、かな」

先生には、綺麗だって言ったのに。
綺麗だって、先生には綺麗だって、なのに、私には可愛いって。

「先生には綺麗だって言ったくせに」

そう言葉にした時から、私の頭の中には、音が鳴り響いているのです。
音程も何も無い、ひび割れた轟音が。

誰かに、なんとかしてくれ、だれか、私を助けろ、と叫ぶような私の声が、その轟音を伴奏にして、歌い続けているのです。



「なんとか、してくださいよ」

声は、頭を割って、ついに外へ飛び出しました。
先生は、二人っきりの音楽室で、眉を潜めました。

「なにが?」

久しぶりに、あんな顔を見ました。
あの時の顔、私に、前の私に戻ってくれと言ったときの顔と同じでした。

「なんとか、してください。和さんが、欲しいんです」

58: さるさんくらってうひょひょひょーい 2010/11/20(土) 15:04:42.38 ID:56uOejGz0
私だけを見てくれる和さんが、私の容姿や、能力、そんなものじゃない、私を見てくれる和さんが。
先生は、寂しそうに頷きました。

「そう、頑張ってみるわ」

多分、明日からは、この音楽室は寒くなるんだろうな。
でも、和さんが私のものになってくれるなら、大丈夫、多分大丈夫……
そんなふうに、私は思ったのです。

それなのにそれなのにそれなのにそれなのに……



「それなのに、先生ったら、いや和さんったら、それなのに、もう、」

狂ったように呟く梓を前に、私は、いつものように、色々なピースがごちゃ混ぜになった、
なによりも具合良く、梓の隙間を埋めてくれる喋り方で言った。

「あずにゃん、落ち着けよ。体に毒じゃないかしら、そんなふうに思いつめるのは」

私がいるじゃん、と大声で言って、彼女の背中を叩きたかった。
でも、多分、そんなことをしたら、彼女はばらばらになってしまう。

「それ、はっ、ああ……ごめんなさい、落ち着きました」

上目遣いに私を見上げて、小さく微笑んで、私の指に自分の指を絡ませる彼女が、ばらばらになってしまう。
だから、私は、自分のことを梓に連想させるようなものは一切合切壊して、どこかから拾ってきたピースで、
虚像を創り上げる。

「大丈夫だよお、気にしてないから。それより、私ちょっと出かけてくるからな」

59: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2010/11/20(土) 15:09:27.58 ID:56uOejGz0
私は梓の家を出た。
扉を閉めるときに、小さな声が聞こえた。

「ごめん、ごめんね、純」

気にすんなって。背後で閉まった扉に向かって、私は呟いた。



「こんにちは、先生」

気分転換に家の近くを散歩していると、私は純ちゃんに会った。
あらまあ、奇遇ね、と私が返すと、彼女は笑った。

「ええ、そうですね。私、梓を待たせてますから、これで」

手にお菓子の入ったレジ袋を下げて、彼女は駆けて行った。

羨ましいと思った。
そんな自分を、憎らしいと思った。

「和ちゃん、たっだいまあ」

わざとらしい、陽気な声を上げて、ぼろっちい安アパートのドアを開ける。
細かい、きれいなギターの音が聞こえた。

「おかえりなさい」

和ちゃんが、椅子に足を組んで座って、ギターを弾いていた。
和ちゃんは私の顔を見て、笑った。

60: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2010/11/20(土) 15:13:49.42 ID:56uOejGz0
「勉強の息抜きに触ってるだけです。すぐにまた勉強に戻りますから」

彼女はそう言って、受験間近の今でも、日に一時間ほどギターを弾いている。
睡眠時間を削っているらしく、なんとなく濁った、疲れたような目をしている。
けれど、それよりも目を引くのは、彼女の左手の指だった。

「和ちゃん、また、指から血が出てる」

私が言うと、和ちゃんは、じっと自分の指先を見つめた。
そして、黒く濁った目で私を見て、呟いた。

「先生、お願い」

私は、抵抗しようとも思わなかった。
ただ、彼女に言われるまま、膝をついて、彼女が差し出した、血の滲んだ指を、舐めた。
それから、腕へ、肩へ、首筋へ……私の舌は和ちゃんの体を這上って行った。
口の手前で、それは止まった。いつも、ここで止まる。

「先生」

お願い、と彼女が呟くのを聞いて、ようやく、私の舌は、彼女の舌と出会った。
なんで、こんなことに、なったんだか……


61: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2010/11/20(土) 15:18:39.86 ID:56uOejGz0
「先生、どうでしょう」

私の家に泊まってから、和ちゃんは音楽室に、前よりも足繁く通うようになった。
ギターも随分と上達しているようで、私は少し不安になった。

「随分上手になったわよ。和ちゃん、一体どれくらい練習してるのかしら」

一日、二、三時間、と和ちゃんは言った。
つまり、彼女はそれだけ、睡眠時間を削っているのだろう。
彼女はそういう子だと、最近になって分かった。
今までしてきたことをやめるのを、極端に恐れる子だと、最近わかった。

「勉強は大丈夫なんですかあ。それに、先生も進路相談とかで大変なんじゃ?」

梓ちゃんは、もうとっくに、ばらばらになっている、と最近わかった。
とっくにごちゃごちゃに分解されていて、なんとか、そのピースをはめ込む台座を探している、と最近わかった。

「音楽教師だからね、結構暇、かな」

私と目が合うと、梓ちゃんは笑う、と最近わかった。
和ちゃんが見ていないところで、ぎいっと。
そんなことが、最近わかった。

音楽室には、まだ三人が集まっていて、体温と、吐き出された二酸化炭素のお陰で、冬でも少しは暖かかった。
一人減れば、きっと寒くなるだろうけど。

62: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2010/11/20(土) 15:22:25.69 ID:56uOejGz0
あの日、梓ちゃんは音楽室に来なかった。
そのかわり、和ちゃんが、轟音でギターを掻き鳴らしていた。

「あのねえ、和ちゃん、あまり音楽室、来ないほうが良いと思う」

私が言うと、和ちゃんは濁った目で、私を見つめた。
少し隈ができている。黒くて、奥が見えない目で、私を見つめた。

「なんで、ですか」

私が口を開く前に、和ちゃんはまくし立てた。

「下手だからですか、ギター、もっと上手くなれば、一緒にいてもいいですか、褒めてくれますか」

私は、背筋が凍りつきそうになるのを感じた。
赤く染まった指先を私に見せて、和ちゃんは言った。

「でも、無理です。だって、指が痛くてギターに触れないもの。
 弦が赤くなって、指板にシミができてしまうもの」

63: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2010/11/20(土) 15:28:23.38 ID:56uOejGz0
そして、和ちゃんは、ぎいっと。ぎいっと笑った。
私は、すっかり変わってしまった和ちゃんの様子に、自分の中で全てが壊れるのを感じた。
踵、足首、膝、腿、腰、胸、顎……
だんだんと、足元から崩れていくのを感じた。
そして、目が崩れ落ちる一瞬前に、彼女が微笑んでいるのが見えた。

「先生」

彼女に名前を呼ばれて、私は目を伏せたまま、彼女の指先を舐めた……



なんでこんなことになったんだか、だなんて笑わせてくれる。
なんだ、私のせいじゃないか。

「先生」

あのときと同じように、和ちゃんが私の名前を呼ぶ。
足りないものは二人で補って、それでも足りないものから、目を逸らして、
私たちは、服を乱して重なった。

「大好き」

彼女の声が、頭の中に残った。
今までの彼女の言葉と重なって、大きな音が私を飲み込んだ。

64: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2010/11/20(土) 15:31:44.64 ID:56uOejGz0
「ただいま」

私の家でもない家の玄関で、私は無機質な声で言った。
あまりおおきな声を出すと、梓がばらばらになってしまうから。
やっと、思い出の台座にはめ込んだ梓の心が、ばらばらになってしまうから。

「おかえり」

舌っ足らずな発音で、梓が言った。
髪の毛をしっかりと結んで、へらっと笑いながら梓が言った。

「ねえ、聞いてください。一生懸命話すから、私の話、聞いてください」

誰に話しているつもりなのか、私には分からないけれど、梓が言った。
私の返事を聞かずに、梓は話しだした。

何度も、もう何度も聞いた話。
けれど、嫌な顔を見せたりはしない。
あまり大きな感情の揺れは、彼女を壊してしまうから。

「まだ話していないことがあるんです、ありますよね、多分ありますよ……」

65: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2010/11/20(土) 15:35:46.97 ID:56uOejGz0
大袈裟だって思いますか。
たかだか数年間しか一緒にいなかった先輩たちが、私を必要としないと分かったからって、
こんなふうになってしまうのは、大袈裟だって思いますか。
ああ、そんな顔をしないでください、私だって、私がちょっと変だってことくらい分かってます。

「あずにゃんさあ、最近和ちゃんと仲いいわけ?」

唯先輩がある日、私を呼び出したんです。私は嬉しかったんです。

「仲がいいというか、最近、和さんと話す機会は増えましたね」

ふうん、そうなんだ。先輩はそう言ったんです。私は嬉しくなりました。
やっぱり、唯先輩は、和さん自体には興味がないんです。
だって、気にしているのは、彼女の行動ではないんですから。

「このあいださ、和ちゃん、ちょっと変な感じになってたんだよ」

胸がざわめきました。もしかして、もしかして……

「なんか、最近あずにゃんと遊べてないって言ったら、怒ったみたいに走ってってさ。
 なに、あずにゃん、和ちゃんとなんかあったの?」

ああ、やっぱり。唯先輩が心配しているのは、幼馴染が、いつも自分を心配してくれる、
成績優秀で、理想的な幼馴染が、卒業の近づいたこの時期になって、自分から離れるんじゃないか、という、ただそのことだけでした。
唯先輩が心配しているのは、和さんのことでも、私のことでもない。
自分のことなんです。

「まあ、とにかくさ、和ちゃんも受験が近づいてきてるんだから、あまり負担をかけないようにね」

私は、和さんを、憎い、と思いました……

68: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2010/11/20(土) 15:41:18.39 ID:56uOejGz0
「なんでよ」

何がですか。

「どうして、そこで、あずにゃんは和を嫌いになったのかしら」

分かっているくせに……そんなに驚かないでくださいよ。

「梓、あんた」

分かってます、私が、この話をするのが、もうそろそろ十回目だってこと……


ずるいんです、和さんはずるいんです。
まだ唯先輩に必要とされてるなんて、ずるいんです。
そういえば、幼馴染やら妹なんてものは、汎用性があるもので、
もしかしたら、これからずっと必要とされるのかもしれません。

結婚式、友人と喧嘩したとき、将来のことで悩んだとき……
いろんな状況で、唯先輩は、頼れる幼馴染というピースを欲しがるのかもしれません。

そんなの、ずるい。


「あら、梓ちゃん、ギターは?」

ある日、音楽室に行くと、和さんがギターを弾いていました。
十五万円のジャズマスターです。すらっとした、なだらかな曲線を宿した、ジャズマスターです。
オルタナティブや、シューゲイザーみたいな、限られた範囲の音楽に使われるギターです。
それを、いつでも唯先輩に必要とされる和さんが、使っているのです。

69: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2010/11/20(土) 15:45:28.09 ID:56uOejGz0
「別に、毎日持ってくるわけでもありませんよ。ねえ、和さん、ギター、」

一呼吸おいて、私は言いました。

「あんまり上手くなりませんね。一生懸命練習してますか?
 もしかして、そんなに打ち込むものでもないだなんて、馬鹿にしてはいませんか?」

和さんは、見るからに動揺していました。けれど、すぐに優しく笑いました。

「ごめんね。聞き苦しかったかな」

和さんのギターは、ぜんぜん聞き苦しくなんかありませんでした。
そうじゃなくて、私が、私が見苦しいんです。
なんだかいたたまれなくって、私は音楽室を後にしました……


「……もう、いいよ、大丈夫」

突然、髪を解いて、梓が言った。大人びた表情で、愛おしそうに私を見つめた。

「本当に、大丈夫なの?」

答えは分かっているけれど、私は聞いた。彼女は、射通しそうなほど細い指を、私の胸に、そっと当てた。

「大丈夫だよ、大丈夫」

そうなんだ。わたしが笑みをこぼす前に、やはりいつも通りに、
梓は私の唇を、自分の唇で塞いだ。

大丈夫じゃ、ないじゃん。

70: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2010/11/20(土) 16:01:28.58 ID:56uOejGz0
その日も、私たち四人は音楽室に集まった。
心なしか濁った目をして勉強を続ける和さんと、いつも通り明るいさわ子先生と、
髪を下ろして、落ち着いた素振りを見せる梓と……
そのなかで、自分がどんなふうに映っているのか、私は分からない。

もしかしたら、あの日、ランニングが流行っている、だなんて下らない勘違いをせずに、いつも通り家にいたなら。
暗くなった街を、街頭の明かりを頼りに、公園まで走っていくなんてことを、しなかったなら。
もしかしたら、私はこの中にはいなかったのかもしれない。
ここに来ずに済んだのかもしれない。

「the raging sea that stole the only girl I loved.......」

今日も、いつも通りに先生はギターを弾く。
済んだ声で、何度も歌った歌を歌う。
それを聞きながら、和さんは微笑んで勉強を続け、梓はそんな和さんを眺め続ける。
時折、私と目が合うと、ぎいっと笑う。

梓の言葉を借りるなら、私たちは、唯先輩たちみたいにはなれなかった。
なんとかして、パズルを組み立てようと思ったけれど、誰かからピースを奪うのを極端に恐れて、
自分で自分をバラバラにして、みんなでピースを持ち寄った。

けれど、ピースが多すぎて、私たちはそのなかで溺れてしまった。
多分、下手な比喩表現だけれど、この音楽室は、そんな空間だ。

「上手、本当に、きれいな声」

和さんが優しい声で言った。
和さん、その左手の指が赤いのに、誰も気づいていない、と、そう思っているんですか?

71: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2010/11/20(土) 16:06:56.76 ID:56uOejGz0
「大したもんですよ、ギターの演奏だけは」

梓が弾んだ声で言った。
梓、あんたの目が、今も和さんのことばかり追っているのを、私が気づかないとでも思っているの?

「そう、照れるわね」

さわ子先生がはにかみながら言った。
先生、先生、あなたが、まだ最後のところでこの音楽室に馴染めていないのを、私は知っています。
こんなはずじゃなかったなんて、今でも思っているのを、私は知っています。
何度も同じことを繰り返すこの空間を、不気味に思い始めているのを知っています。

「純ちゃんは、どう、お気に召したかしら」

半ば投げやりな口調で先生が言った。
本当に、こんな筈じゃなかったのに。
未来も過去も切り離して、現在だけを繰り返せば、和ちゃんは、きっと、今まで通りになる筈だったのに。
そんなことを、先生は以前言っていた。

先生、私は、あなたもだんだん壊れてきているのを感じています。

72: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2010/11/20(土) 16:10:37.92 ID:56uOejGz0

それでも、私は、もう何十回と繰り返された、いつもの音楽室を再現するために、冷めた紅茶を飲んで、言った。

「綺麗ですよ。でも、梓の演奏のほうが私は好きですね」

いつも通りに繰り返したのに、梓はいつも通りに照れなかった。
射通しそうな視線で私を見つめて、私の頬に手を伸ばした。

「笑ってるね、純」

梓の手に触れて、それから、自分の頬を触った。
ぎいっと、私は笑っていた。

先生が、寂しそうな笑顔を浮かべていた。



畢。

引用元: 梓「ほのぼの和さわです」