2: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/09/01(金) 22:52:34.13 ID:ZXrrsdaR0
夏の終わりが近づいて、吹く風が人々の頰をやさしく撫でる頃。
郊外の、うらさびれたアパートの一室。
木村夏樹はひどい風邪にかかっていて、重い身体をベッドに横たえていた。
汗は滝のように出るのに、どうしようもなく寒い。
ここ数日まともな食事をとれておらず、夏樹は弱り切っていた。
身体が衰弱すると不思議なもので、心も“やわ”になって、
普段の快活さがすっかり鳴りをひそめていた。
郊外の、うらさびれたアパートの一室。
木村夏樹はひどい風邪にかかっていて、重い身体をベッドに横たえていた。
汗は滝のように出るのに、どうしようもなく寒い。
ここ数日まともな食事をとれておらず、夏樹は弱り切っていた。
身体が衰弱すると不思議なもので、心も“やわ”になって、
普段の快活さがすっかり鳴りをひそめていた。
3: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/09/01(金) 22:54:32.15 ID:ZXrrsdaR0
咳をすると、やけに大きく音が響く。
咳をしても一人、か。
夏樹は故郷が恋しくなった。
病気になるとみんなが心配して、やさしくしてくれた。
母親はわがままを聞いてくれるし、父親は、
仕事の帰りに夏樹の好きなものを買ってきてくれた。
バンドを組んでいた仲間も、ぞろぞろと家にやってきて、
見舞いの品を届けてくれた。
しかしそれも、夏樹がアイドルになって上京するまでの話……。
咳をしても一人、か。
夏樹は故郷が恋しくなった。
病気になるとみんなが心配して、やさしくしてくれた。
母親はわがままを聞いてくれるし、父親は、
仕事の帰りに夏樹の好きなものを買ってきてくれた。
バンドを組んでいた仲間も、ぞろぞろと家にやってきて、
見舞いの品を届けてくれた。
しかしそれも、夏樹がアイドルになって上京するまでの話……。
4: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/09/01(金) 22:55:28.55 ID:ZXrrsdaR0
今の自分に後悔はない。
けれども、こうも寂しいと、
昔の思い出だけが輝いて、やるせなくなる。
夏樹はまだ、上位に食い込むような人気がなく、
ライブも、他のアイドルとの抱き合わせのみ。
人気者になるためにアイドルになったわけではないが、
夏樹は、東京での自分の居場所を見失っていた。
アタシは、ひとりぼっちになるためにアイドルになったのか。
そんな悲しいかんがえが頭をかすめた。
けれども、こうも寂しいと、
昔の思い出だけが輝いて、やるせなくなる。
夏樹はまだ、上位に食い込むような人気がなく、
ライブも、他のアイドルとの抱き合わせのみ。
人気者になるためにアイドルになったわけではないが、
夏樹は、東京での自分の居場所を見失っていた。
アタシは、ひとりぼっちになるためにアイドルになったのか。
そんな悲しいかんがえが頭をかすめた。
5: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/09/01(金) 22:58:52.98 ID:ZXrrsdaR0
携帯には、申し訳程度の心配が添付されたメールが何件か届いてはいるが、
誰も見舞いに来てくれない。
プロデューサーや他のアイドルは、今の夏樹のように、
風邪に打ちのめされるような時間はないからだ。
かりに時間を見つけたとしても、うつされるのを嫌がって、
やはり夏樹を訪れることはないだろう。
ひときわ大きな咳が出て、のどが痛い。
時計の秒針の音が鬱陶しいくらい、頭に響く。
この意地の悪い風邪が治っても、みんな、アタシのことを忘れているんじゃないか。
胃袋は空っぽなのに、胸がはりさけそうだった。
誰も見舞いに来てくれない。
プロデューサーや他のアイドルは、今の夏樹のように、
風邪に打ちのめされるような時間はないからだ。
かりに時間を見つけたとしても、うつされるのを嫌がって、
やはり夏樹を訪れることはないだろう。
ひときわ大きな咳が出て、のどが痛い。
時計の秒針の音が鬱陶しいくらい、頭に響く。
この意地の悪い風邪が治っても、みんな、アタシのことを忘れているんじゃないか。
胃袋は空っぽなのに、胸がはりさけそうだった。
6: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/09/01(金) 23:00:30.36 ID:ZXrrsdaR0
その後夏樹が、半ば失神するような眠りに落ちていた頃、
玄関のチャイムが響いた。
通販でなにか頼んだっけ……。
セピア色がかった視界で、天井を見つめる。
なにもかもが面倒。
夏樹はしばらくじっとしていたが、チャイムは鳴り止まなかった。
のろのろとベッドから這い出して、夏樹はふらつきながら玄関に向かった。
鍵を開けると、スーパーの袋を手に提げている向井拓海がいた。
夏樹と同じ事務所に所属している。
顔は知っている。
ただ、それだけの相手だった。
玄関のチャイムが響いた。
通販でなにか頼んだっけ……。
セピア色がかった視界で、天井を見つめる。
なにもかもが面倒。
夏樹はしばらくじっとしていたが、チャイムは鳴り止まなかった。
のろのろとベッドから這い出して、夏樹はふらつきながら玄関に向かった。
鍵を開けると、スーパーの袋を手に提げている向井拓海がいた。
夏樹と同じ事務所に所属している。
顔は知っている。
ただ、それだけの相手だった。
7: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/09/01(金) 23:01:20.24 ID:ZXrrsdaR0
「なんで…」
「住所なら、アンタのプロデューサーに教えてもらった」
そうじゃなくて、と言いかけた夏樹の身体が、床にくずれおちた。
「そんな身体で動いてんじゃねえよ」
お前がチャイムで呼んだんだろ。
夏樹はそう思ったが、拓海がベッドまで運んでくれるのに身を任せた。
何しに来たんだ。
うつるから帰れ。
言うべき言葉はいくつも思いついた。
けれども口からは出なかった。
夏樹は、それを風邪のせいにした。
「住所なら、アンタのプロデューサーに教えてもらった」
そうじゃなくて、と言いかけた夏樹の身体が、床にくずれおちた。
「そんな身体で動いてんじゃねえよ」
お前がチャイムで呼んだんだろ。
夏樹はそう思ったが、拓海がベッドまで運んでくれるのに身を任せた。
何しに来たんだ。
うつるから帰れ。
言うべき言葉はいくつも思いついた。
けれども口からは出なかった。
夏樹は、それを風邪のせいにした。
8: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/09/01(金) 23:02:25.55 ID:ZXrrsdaR0
拓海は台所と冷蔵庫の中身を見回して、言った。
「ろくなもの食ってないみたいだな…」
拓海はシンクの前で、てきぱきと料理の準備を始めた。
なぜ拓海がここまでしてくれるのか。
夏樹は戸惑った。
けれどもそれ以上に、言葉にならない、
あたたかい気持ちが胸につかえた。
お米をとぐ音。
まな板に包丁が当たる、トントントンという音。
それをベッドから聞いているだけで、涙が出そうになった。
ふつふつと鍋が揺れている。
拓海はどうやら、粥を作っているらしい。
夏樹の母親がそうしてくれたように。
「ろくなもの食ってないみたいだな…」
拓海はシンクの前で、てきぱきと料理の準備を始めた。
なぜ拓海がここまでしてくれるのか。
夏樹は戸惑った。
けれどもそれ以上に、言葉にならない、
あたたかい気持ちが胸につかえた。
お米をとぐ音。
まな板に包丁が当たる、トントントンという音。
それをベッドから聞いているだけで、涙が出そうになった。
ふつふつと鍋が揺れている。
拓海はどうやら、粥を作っているらしい。
夏樹の母親がそうしてくれたように。
9: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/09/01(金) 23:04:07.03 ID:ZXrrsdaR0
「待たせたな」
拓海はスプーンと湯気をたてる皿と持って、ベッドの脇に腰掛けた。
夏樹はまぶしげに目を細めた。
粥の具はかきたまごと、小さく刻まれた鶏肉。
それからネギ。
かすかに生姜の香りもする。
夏樹はすぼまっていた胃が、にわかに動きだすのを感じた。
だが手が震えて、スプーンをうまく掴むことができなかった。
拓海はそれを察して、スプーンに粥をひとすくいのせて、
ふうふうと冷ました後、夏樹の口元まで運んだ。
熱で頭がぼんやりしていたせいか、
気恥ずかしさもなく、夏樹は口をあけた。
拓海はスプーンと湯気をたてる皿と持って、ベッドの脇に腰掛けた。
夏樹はまぶしげに目を細めた。
粥の具はかきたまごと、小さく刻まれた鶏肉。
それからネギ。
かすかに生姜の香りもする。
夏樹はすぼまっていた胃が、にわかに動きだすのを感じた。
だが手が震えて、スプーンをうまく掴むことができなかった。
拓海はそれを察して、スプーンに粥をひとすくいのせて、
ふうふうと冷ました後、夏樹の口元まで運んだ。
熱で頭がぼんやりしていたせいか、
気恥ずかしさもなく、夏樹は口をあけた。
10: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/09/01(金) 23:06:12.81 ID:ZXrrsdaR0
鶏肉からでた旨味が、舌に沁みわたる。
ふわふわのたまごが腫れたのどを癒す。
おいしい、と伝えるまえに、夏樹の頰にひとすじのしずくが流れた。
「熱かったか!?」
拓海が慌てて、おろおろとする様を見て、
夏樹は首をふるふると振った。
「……向井」
粥のおかげで、口をきく元気が出た。
「“拓海”でいいぜ」
「拓海……どうして、ここまでしてくれるんだ?」
ふわふわのたまごが腫れたのどを癒す。
おいしい、と伝えるまえに、夏樹の頰にひとすじのしずくが流れた。
「熱かったか!?」
拓海が慌てて、おろおろとする様を見て、
夏樹は首をふるふると振った。
「……向井」
粥のおかげで、口をきく元気が出た。
「“拓海”でいいぜ」
「拓海……どうして、ここまでしてくれるんだ?」
11: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/09/01(金) 23:08:47.22 ID:ZXrrsdaR0
見ず知らず、というわけではないが、
自分と拓海には「同じ事務所である」という以外に大きな接点はないはず。
けれども、拓海の見方はちがっていた。
「同じ事務所の仲間だから、じゃダメか?」
夏樹は衝撃を受けた。
そして、気づいた。
周りが冷たいとふてくされて自分こそが、
また一方で、冷たい視線で周りを見つめていたのだと。
粥を食べさせてもらっていた時には感じなかった恥ずかしさが、
ここで込み上げてきた。
拓海のやさしさがまぶしい。
夏樹は、プロデューサーが彼女に住所を教えたわけも理解できた。
自分と拓海には「同じ事務所である」という以外に大きな接点はないはず。
けれども、拓海の見方はちがっていた。
「同じ事務所の仲間だから、じゃダメか?」
夏樹は衝撃を受けた。
そして、気づいた。
周りが冷たいとふてくされて自分こそが、
また一方で、冷たい視線で周りを見つめていたのだと。
粥を食べさせてもらっていた時には感じなかった恥ずかしさが、
ここで込み上げてきた。
拓海のやさしさがまぶしい。
夏樹は、プロデューサーが彼女に住所を教えたわけも理解できた。
12: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/09/01(金) 23:10:57.44 ID:ZXrrsdaR0
「あー…でも」
拓海は頰をかいて、言葉を続けた。
「アタシにとっては、アンタが恩人だってのもあるかな」
恩人?
夏樹は目を瞬かせた。
夏樹は、拓海と直接言葉を交わしたことはない。
どんな恩があるというのだろう。
「アタシは最初、アイドルの仕事が嫌だったんだ」
拓海の表情に陰が差した。
拓海は頰をかいて、言葉を続けた。
「アタシにとっては、アンタが恩人だってのもあるかな」
恩人?
夏樹は目を瞬かせた。
夏樹は、拓海と直接言葉を交わしたことはない。
どんな恩があるというのだろう。
「アタシは最初、アイドルの仕事が嫌だったんだ」
拓海の表情に陰が差した。
13: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/09/01(金) 23:13:51.23 ID:ZXrrsdaR0
「“アイドルなんてチャラついたもん、興味ねえよ”、が口癖だった。
でも今考えてみっと、他に進める道なんて無かったんだよな。
喧嘩ばっかして学も無えし、やりたい仕事も、特別な夢もなかった。
アタシのプロデューサーは、アタシを救ってくれたのに…それにも気づかないで」
夏樹は、モニターの奥で手を振る拓海しか知らなかった。
だからこそ、彼女が自分のもとを訪れるとは想像できなかった。
苦悩しながら、アイドルとして歩き出したことも。
でも今考えてみっと、他に進める道なんて無かったんだよな。
喧嘩ばっかして学も無えし、やりたい仕事も、特別な夢もなかった。
アタシのプロデューサーは、アタシを救ってくれたのに…それにも気づかないで」
夏樹は、モニターの奥で手を振る拓海しか知らなかった。
だからこそ、彼女が自分のもとを訪れるとは想像できなかった。
苦悩しながら、アイドルとして歩き出したことも。
14: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/09/01(金) 23:27:03.23 ID:ZXrrsdaR0
「いつだったかな…アンタがライブに出てるトコを生で見たんだ」
拓海が、やわらかな笑みを浮かべた。
それを見た時、夏樹の心はじくじくと痛んだ。
「“凄え! こんなアイドルがいるのかよ!!”
そう思ったんだ。
見てるこっちのハートを熱くさせてくれるような、
そんなアイドルがいて……アタシもそうなりたいって、思えたんだ。
その日から…」
夏樹は、両手でゆっくり顔を覆った。
「たくみ…」
震える声で夏樹は名前を呼んだ。
「なんだよ」
拓海は少し嬉しそうに、返事をした。
拓海が、やわらかな笑みを浮かべた。
それを見た時、夏樹の心はじくじくと痛んだ。
「“凄え! こんなアイドルがいるのかよ!!”
そう思ったんだ。
見てるこっちのハートを熱くさせてくれるような、
そんなアイドルがいて……アタシもそうなりたいって、思えたんだ。
その日から…」
夏樹は、両手でゆっくり顔を覆った。
「たくみ…」
震える声で夏樹は名前を呼んだ。
「なんだよ」
拓海は少し嬉しそうに、返事をした。
15: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/09/01(金) 23:27:32.18 ID:ZXrrsdaR0
おしまい
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