1: 名無しで叶える物語◆gtOWUHeS★ 2025/07/04(金) 20:22:37 ID:???00
栞子「ふぅ……」

栞子(夜になると潮風が涼しくて気持ちいいですね)

栞子(パーティを抜け出して欄干にもたれるというのもなにか物語が始まりそうで良さそうなものではないでしょうか)

栞子「あっ」

栞子(ですがこちらのデッキには先客がいたようなので、やはり私に物語は始まらなさそうです)

栞子(大人しく帰りましょうか……)

慈「行っちゃうの?こういう出会いから物語は始まるのに」

2: 名無しで叶える物語◆gtOWUHeS★ 2025/07/04(金) 20:23:47 ID:???00
栞子(声の主はシャンパングラスを口元に、夜の闇の中から真っ直ぐにこちらを見つめていました)

栞子(その瞳の深紫色は、後ろの凪いだ夜の海に勝るとも劣らない静けさをたたえて私の心の中まで染み込んでくるかのようです)

栞子(首元から背中にかけて大胆に肌の見える黒のイブニングドレスを着ていて、その黒との対比で肌色が眩しいくらいに見えます)

栞子(ですがそんなドレスの黒も、背景の静かな夜の海と星ひとつ見えない真っ暗な空が作り出す黒と比べると、不思議と浮かび上がってくるような明るさを持っているように思います)

栞子(首元や手首、ドレスの装飾にはいずれも小さな透明の石があしらわれています。これらの輝きが総体として与える印象を計算し尽くして配置された、一分の無駄もないダイヤモンド)

栞子(指先から立ち昇るシャンパンゴールドの泡がそこに加えられても、一切の調和を乱すことなくその新たな来訪者を自身の輝きのうちに包み込んでいます)

栞子(こんな人の近くにいたら、私はワンピースで遊びに出てきた子どもでしかありません。早いところ撤退しましょう)

4: 名無しで叶える物語◆gtOWUHeS★ 2025/07/04(金) 20:24:56 ID:???00
慈「残念だけど人工なんだよね、この石」

栞子「訊いていませんが」

慈「気にしてるみたいだったから」

慈「私としては人工でも天然でもきれいなんだからいいじゃんねって思うんだけど」

栞子「そうは言ってもというものです。希少性というものは」

慈「そうなんだよねー、残念ながら」

5: 名無しで叶える物語◆gtOWUHeS★ 2025/07/04(金) 20:25:58 ID:???00
慈「キミもサボりに来たの?パーティ」

栞子「少し夜風にあたりに来ただけです」

慈「サボりじゃん」

栞子「別にやらなければいけないこともないのでサボりではありません」

慈「パーティに参加して、名前も顔も売らずに飲み食いだけしてるようじゃサボりでしょ」

栞子「それはあなたもそうなのでは……」

6: 名無しで叶える物語◆gtOWUHeS★ 2025/07/04(金) 20:27:06 ID:???00
慈「私、藤島慈。キミは?」

栞子「……栞子です」

慈「ふーん……、栞子ちゃん、いい名前だね」

慈「はい、これで交友関係が広がったしサボりじゃない」

栞子「そうはならないと思いますが……」

慈「じゃぼちぼち私は帰るから」

慈「あとね、ひとつ。サボりに来るにしてもシャンパンくらい持ってきな。乾杯も出来ないじゃん」

7: 名無しで叶える物語◆gtOWUHeS★ 2025/07/04(金) 20:28:10 ID:???00
栞子(あっという間に去っていってしまいました)

栞子(ですがそこには確かな痕跡を残して)

栞子(……あの時、名字から名乗る気になれませんでした)

栞子(気後れしたというわけではありません。どちらかというと逆です)

栞子(しかし"三船"の名にはあまりにも多くのイメージがつきまといすぎています)

栞子(家というものから離れて、私はただの私でありたかった)

栞子(そんな矛盾した弱さを、一瞬であぶり出されてしまったようです)

栞子(ああ、これがあの人のいうサボりというものなんでしょうか)

9: 名無しで叶える物語◆gtOWUHeS★ 2025/07/04(金) 20:29:12 ID:???00
栞子「はぁ……」

栞子(お酒を飲むだけだったら、バーカウンターの隅でちびちびやっていれば良いはずです)

栞子(デッキに出たいのであれば先客がいないであろうところに行けば良いはずです)

栞子(そもそも部屋にこもっていても良かったはずです。寝ていれば空腹も気になりませんし)

栞子(ディナーに毎回パーティに行かなければいけないということもないはずです)

栞子(なのにどうして私はグラス片手に前回と同じデッキに向かっているのでしょうか)

10: 名無しで叶える物語◆gtOWUHeS★ 2025/07/04(金) 20:30:14 ID:???00
慈「やっぱり来た」

栞子「やっぱりではありません」

栞子「乾杯ぐらいは、しに来ようと思いまして」

慈「ふーん、何に乾杯するの?」

栞子「えっと……」

慈「キミの瞳禁止ね」

栞子「そんなベタなことは言いません」

栞子「…………」

栞子「今宵の月に……」

慈「思いっきり曇ってるけど」

慈「しかも今日は新月」

栞子「うっ」

11: 名無しで叶える物語◆gtOWUHeS★ 2025/07/04(金) 20:31:18 ID:???00
慈「別に適当にこの出会いに乾杯しておけばいいんだよ」

慈「変に当意即妙な返しを……とか考えすぎてるんじゃない」

栞子「いえ、ですがあまりに型にはまっているというのも」

慈「定型っていうのがなんで存在するか、便利だからでしょ」

慈「万人に通用する共通の認識がある、そこに乗っかることができる」

慈「まずは模倣から、だよ」

慈「なんだかデビュー戦が早すぎる子を見てるみたいだよ」

12: 名無しで叶える物語◆gtOWUHeS★ 2025/07/04(金) 20:32:20 ID:???00
栞子「早すぎることもないです、これでも経験は積んできていますし」

慈「でも事実、今はここで油売ってる」

栞子「いえ、私はあなたに会いに来たのであって、油を売っているわけではなくて」

慈「慈」

慈「ちゃんとめぐちゃんの名前呼んでよ。まだ一度も呼んでくれてないじゃん」

栞子「えっと……、慈さん」

慈「うんうん」

栞子「に会いに行くという目的があったのであって、なにもサボっているわけではなく」

慈「うんうん、めぐちゃんも栞子ちゃんと会えてうれしいぞ。それもわざわざ会いに来てくれるなんて」

13: 名無しで叶える物語◆gtOWUHeS★ 2025/07/04(金) 20:33:25 ID:???00
栞子(どこまで本気なんだかわからない人ですね)

栞子(こんなふうに喜んでもらえているというのは、別に悪い気はしませんが)

栞子(実際のところは、私がまんまとここにおびき寄せられたという感じなのでしょう)

栞子(まあでも罠にかかって飛べなくなった鳥でもよいのかなと。ここは海の上ですし)

栞子(潮の流れに身を任せます。何に躊躇することがある身でもないですからね)

14: 名無しで叶える物語◆gtOWUHeS★ 2025/07/04(金) 20:34:30 ID:???00
船長「ちぇ~~~~~~」

船長「クジラいたのにな~」

船長「ちょっと並走しようとしただけなのにダメって」

船長「まぁ現場がそう言うならしょうがないけどさ」

船長「もうちょっと寄れたらね、左にクジラが見えますみたいにアナウンス出来たのにな~」

船長「あ、でも夜じゃそんなに見えないか」

船長「ちぇ~~~~~~」

………
……

15: 名無しで叶える物語◆gtOWUHeS★ 2025/07/04(金) 20:35:30 ID:???00
栞子(海の上にいながら、あまり海を見ていなかったのかもしれません)

栞子(分厚い雲を通り抜けることで疲弊した、いまいちぱっとしない陽光に照らされた灰色の海を見ながら思いました)

栞子(当たり前のようにあるものにはわざわざ目を向けない)

栞子(慣れとは恐ろしいものです)

栞子(昼間だというのにまた同じデッキに足を運んでいました)

栞子(これもまた慣れなんでしょうか)

16: 名無しで叶える物語◆gtOWUHeS★ 2025/07/04(金) 20:36:38 ID:???00
栞子(あ、クジラ)

栞子「見てください!クジラですよ」

栞子(……なにをしているんでしょう。今はひとりでした)

栞子(これもまた慣れ……、なんでしょうか)

慈「そうだねー、結構おっきいんじゃない?」

栞子「うぇ、なんでいるんですか」

慈「なんでいないと思っててあの反応になるのさ。さっきっからいたよ」

17: 名無しで叶える物語◆gtOWUHeS★ 2025/07/04(金) 20:37:46 ID:???00
栞子(昼間に会うのは初めてですが、ちゃんと実在しているみたいです)

栞子(少なくともおばけの類ではないんですね)

栞子(思いの外近くにいたせいでそちらの驚きが勝ってしまい少し時間を要しましたが、よく見るとずいぶんとなんだかな格好をしています)

栞子(つば広の麦わら帽子にピンクのハートフレームのサングラス、拍子抜けする書体でANGELだとかなんだとか書かれている簡素な白Tシャツに適度なダメージ加工がなされたデニムのショートパンツ、足元は明るめなアイボリーのレースアップサンダルで、いくら昼間とはいえこの場にはカジュアルすぎる気がします)

栞子(ですがそれをそこまで感じさせないのが、この人の持つ魅力なんでしょう)

栞子(私だって、TPOを考えればどうとでも取れるような白ワンピースでお茶を濁していますが)

栞子(それにしてもこのTシャツです)

栞子(どう考えても美的センスが不足しているのに、この人が着ているとそうでもなく見えてくるのがなんだか釈然としません)

18: 名無しで叶える物語◆gtOWUHeS★ 2025/07/04(金) 20:38:50 ID:???00
栞子「にしてもなんですかそのTシャツ」

慈「伝家の宝刀、英字プリントTシャツ」

栞子「もうちょっとどうにかならなかったんですかそれ、まだ『I♡NY』のほうがマシです」

慈「外国人が明朝体で『柴犬』とか書いてあるTシャツ着てたら一周回って好感湧くでしょ。その類」

栞子「私日本人なんですが……」

慈「アルファベット書いてあるから英単語と見せかけて『BE KOBE』とか思いっきり日本モノだったりするともう二、三周は回れるよね」

栞子「一生回っててください」

慈「くるくるくる~」

栞子「ほんとに回らないでください」

19: 名無しで叶える物語◆gtOWUHeS★ 2025/07/04(金) 20:40:07 ID:???00
慈「もうちょっとどうにかならなかったのってものといえばこの船名でしょ」

栞子「なんでしたっけ?」

慈「自分の乗ってる船の名前くらい覚えときなよ……」

栞子「自慢ではないんですが、私は自分が乗っている新幹線がのぞみなのかひかりなのかを理解していたためしがありません」

慈「この前置きから本当に自慢にもなんにもならないもん出してくる人もなかなかいないと思うよ」

栞子「こだまはわかります」

慈「でしょうね」

慈「私はかがやきとはくたかどっち来るかくらい見てたけど」

栞子「北陸のほうの方でしたか」

慈「出身がね」

慈「いや今はそんなことどうでもよくてね」

20: 名無しで叶える物語◆gtOWUHeS★ 2025/07/04(金) 20:41:16 ID:???00
栞子「まぁそうですよね、乗っていればいずれ着くんですから、どうでもよいというものです」

慈「それはどうでもよくない」

慈「だいたいねだからこの船の名前が『Sel et Vendange』なのがおかしいでしょって話なの」

栞子「そうなんですか」

慈「なにが『しおとめぐみ』なんだって話でね、百歩譲って和名がそれだったとしてもしおはMaréeでしょうが普通、なんでそこでSelになるの」

栞子「しお?」

慈「海の水が干上がって塩ができるんでしょうが、水が干上がったら船はどうなるの、座礁でしょうが」

慈「海のめぐみみたいなこと言おうとしたんだろうけど言えてないのよこれじゃ」

栞子「めぐ?」

慈「聞いてる?」

栞子「難しい質問ですね……」

慈「嘘でも聞いてるって言うんだよ」

栞子「聞いてます」

慈「遅いわ」

21: 名無しで叶える物語◆gtOWUHeS★ 2025/07/04(金) 20:42:18 ID:???00
栞子「ですが一方でこれだけ言語感覚を気にかけながら、他方でそんなTシャツ着てるんですね」

慈「悪かったねクソダサ英字Tシャツで。というか聞いてるんならそれを素直に言ったらいいんだよ」

栞子「ええと、かりにMaréeだったら潮流のしおになるので、それはそれで流されている感があって航路を切り開いていく船というものには不適なのかと……」

慈「じゃあもうダメじゃんこれ」

栞子「ですね。計画倒れです」

慈「あっはは」

22: 名無しで叶える物語◆gtOWUHeS★ 2025/07/04(金) 20:43:19 ID:???00
栞子(雲の切れ間から差し込み始めていた陽光のせいでしょうか、そもそも昼間だからでしょうか、夜のあの黒いドレスの持っていた圧迫感のようなものがなかったからでしょうか、今までで一番柔和な笑みを見せてくれたように思いました)

栞子(最初に感じていた近寄りがたさはすでになく、年上ではあるんでしょうが、自分とほとんど変わらない同年代の人であるんだなということをあらためて感じます)

栞子(なんだか、仲良くなれそうな気がします)

24: 名無しで叶える物語◆gtOWUHeS★ 2025/07/04(金) 20:44:21 ID:???00
慈「というかずっと立ち話もなんだし、お部屋来る?眺めもいいし一通りなんでもあるよ」

栞子「眺望も含めて一通りなんでもあったらそれはロイヤルスイートじゃないですか」

慈「そうだよ?」

栞子「そうですか。ではお邪魔させていただこうと思います」

慈「よーし、ごーごー」

栞子(ん……?)

栞子(前言撤回、やっぱり近寄りがたいかもしれません……)

25: 名無しで叶える物語◆gtOWUHeS★ 2025/07/04(金) 20:45:24 ID:???00
慈「はいただいま」

栞子(ほんとにこの船で一番高い部屋ですね……)

栞子「お邪魔します……」

慈「とりあえず紅茶いれるね、ダージリンにしとくよ」

慈「お砂糖とミルクはいる?」

栞子「いえ、せっかくダージリンなんですしストレートでいただこうと思います」

栞子「もうセカンドフラッシュが出回り始める頃ですか」

慈「そうそう、出始め。ちょうどね」

26: 名無しで叶える物語◆gtOWUHeS★ 2025/07/04(金) 20:46:39 ID:???00
栞子(三船家にいるからこそ得られた、こうしたところでそつなく生き抜くための知恵を、躊躇なく抵抗なく使えていることに自分でも驚きました)

栞子(家というものを鎖にしか感じられなかったのは自分がまだ未熟だったからということなんでしょうか)

栞子(私が歩んできた道を踏まえても、私は私だと今のようにこんなふうに思っていたいものです)

栞子(窓から差し込む陽の光と、慈さんがいれてくれた紅茶に、外から内から身体を温められながら少し新しい自分になれた気がしていました)

27: 名無しで叶える物語◆gtOWUHeS★ 2025/07/04(金) 20:47:49 ID:???00
慈「そう、相当誤解されてると思うから言っておくけどさ、私どっかのお嬢様とかじゃないよ?」

栞子「またまたご謙遜を」

慈「ほんとだっつの。今回だって私の目的は移動であって周遊じゃないの」

栞子「それでこの部屋……」

慈「ここしかなかったとか言われたらしい」

栞子「普通そうであればキャンセルして他の手段を探すと思いますが……」

慈「私もそう思う」

慈「移動を目的としてる人間を、周遊を目的とするクルーズ船に放り込むのってやっぱどう考えてもおかしいよね!?」

栞子「まぁ乗っていればいずれ着くんですから、どうでも」

慈「よくない」

栞子「同感です」

28: 名無しで叶える物語◆gtOWUHeS★ 2025/07/04(金) 20:48:57 ID:???00
栞子「それにしても、放り込まれたにしては欄干での佇み方はだいぶ堂に入っていたと思うんですが」

慈「まぁやるからにはしっかりやろうかなって」

栞子「力を入れるところそこなんですか……」

慈「形から入るタイプ」

栞子「侮れないですね」

慈「そ、形から入った結果今こうやってキミとお茶してるんだから」

栞子「ありがとうございます。形」

慈「どういたしまして。私」

29: 名無しで叶える物語◆gtOWUHeS★ 2025/07/04(金) 20:49:57 ID:???00
慈「せっかくだし遊んでおこうよ。ちょっと賑やかなところでも行ってみる?」

栞子「ふたりならできることも広がりそうですし、ぜひそうしたいものです」

慈「そこに船内新聞あるでしょ、どれ行く?」

栞子「あ、これ……」

慈「ふーん……」

慈「ん。栞子ちゃんも音楽好き?いいね、私もこれ行ってみたいよ」

30: 名無しで叶える物語◆gtOWUHeS★ 2025/07/04(金) 20:50:58 ID:???00
栞子(不覚だったのかもしれません。今までだったら悟られるような素振りを見せるなんてなかったはずです)

栞子(私は……)

栞子(音楽はずっと好きでした、昔から。心から楽しいと、面白いと、思えるものでした)

栞子(しかし、ではそちらの道へ進みますかと問われると、事態はいつもそう簡単ではありませんでした)

栞子(少なくとも私はそう思っていました。今までずっと)

栞子(ですが隣で手を引いてくれる人がいるだけで、一歩はこうも簡単に踏み出せるものなんですね)

栞子(とはいえ少しです。少し非日常を楽しむだけ。きっと陸に上がったらまた現実に戻っているのでしょう)

31: 名無しで叶える物語◆gtOWUHeS★ 2025/07/04(金) 20:52:02 ID:???00
船長「あー、やっと航海日誌書き終わった……」

船長「めんどくさいよね……ま、書かなきゃいけないんだけどさ」

船長「ほんとは全速前進~ヨーソローって勢いで行きたいところなんだけど」

船長「今回は中国大陸から朝鮮半島をかすめて、ぐるっと回ってシンガポール海峡からインド・チェンナイ、そこから更に西へ……。なんでこんな変な航路。周遊航路だからしょうがないにせよ覚えにくいし」

船長「中国、朝鮮、チェンナイ。中国……朝鮮……チェンナイ……」

船長「ちゅ……ちょ……ちぇ……」ブツブツ

………
……

32: 名無しで叶える物語◆gtOWUHeS★ 2025/07/04(金) 20:53:07 ID:???00
栞子(こういうところで聴く曲って不思議ですよね、大半知らない曲なのに郷愁を誘ったり、どこか懐かしくあったり)

栞子(知らない曲が多いというのは、まだまだ研鑽が足りていないということでもあるんでしょうけれど)

栞子「~~♪」

慈「ふふっ、ほんと好きなんだね」

慈「そんな栞子ちゃんを見込んでなんだけどね」

栞子「はい」

慈「お誘い受けてくれるかな」

栞子「なんでしょう、一曲踊りますか?」

慈「それはそれでお願いしたいところなんだけど、それとは別に」

慈「次の航海日のガラディナーにさ、少しステージ使える時間もらってるんだけど、どう?一緒に歌わない?」

栞子「……えっ?」

34: 名無しで叶える物語◆gtOWUHeS★ 2025/07/04(金) 20:54:09 ID:???00
栞子「ゲストとして呼ばれているとか、そのような感じですか……?」

慈「いやそういうのは特になくて……、強いて言うなら私がホスト?」

慈「ま、比較的自由にやれるからさ」

栞子「えっと……?」

慈「急すぎる話なのはわかってるから、しばらく考えてていいよ」

栞子「そう……ですね」

35: 名無しで叶える物語◆gtOWUHeS★ 2025/07/04(金) 20:55:09 ID:???00
慈「こちらのお客様からです」

栞子「自分を指しながら言わないでください、今カウンターに慈さんしかいないんですからわかりますよ」

慈「オーロラ。割と好きでねこれ。ウォッカベースのショートだからしっかりしてるんだけど、甘酸っぱくて口当たりいいんだよ」

慈「そういえばまだ、この出会いに乾杯してなかったなって」

栞子「……では、しておきましょうか」

36: 名無しで叶える物語◆gtOWUHeS★ 2025/07/04(金) 20:56:15 ID:???00
栞子(突然の話を受けて思わず目を向けていたステージを照らすライトの輝き、このフロアをあまねく照らすシャンデリアの輝き、窓からわずかに差し込む月光の輝き、遠くにあってもここまで届くもの)

栞子(バーカウンターを室内から浮かび上がらせる小さなキャンドルの輝き、おどけて差し出されたカクテルの揺らめく赤い輝き、うれしそうに微笑みながら乾杯をせがむ彼女の瞳の深い紫の輝き、近くにあって私を捉えるもの)

栞子(思えば偶然に背中を押されてここまで来たんです)

栞子(そうしてやっと誰かの隣に立てるんです)

栞子(その手はつかむほかにないのではないでしょうか)

栞子(だいぶ度数が高いものを飲みましたからね、身体の中程が熱くなってきました)

栞子(熱にあてられたんです、きっと)

37: 名無しで叶える物語◆gtOWUHeS★ 2025/07/04(金) 20:57:16 ID:???00
栞子「受けます。隣に立たせてください」

慈「おお……、こんなに早くお返事くれるとは意外」

栞子「まぁ、このほうがなんだか面白そうなので」

慈「ふふっ……、そっか」

慈「じゃあ私たちの好きにやっちゃおうか」

………
……

38: 名無しで叶える物語◆gtOWUHeS★ 2025/07/04(金) 20:58:15 ID:???00
栞子(一瞬の夢、というものだったのでしょうか)

栞子(緊張はもちろんしていました、ステージ上で浴びるライトは想像よりずっと眩しく、ちゃんと声が出せるのか直前まで不安でした)

栞子(でも曲が始まってしまえば、あれこれ考える間もありませんでした)

栞子(ただ幸せだった)

栞子(ここだと思いました)

栞子(どこかうまくはまっていない感覚、窮屈なような感覚、今までずっとまとわりついていたこれらの感覚から解放されたように感じました)

栞子(自分の歩むべき道が、ちゃんと見えました。私は、私のやりたいと思うことをやりたいんです)

39: 名無しで叶える物語◆gtOWUHeS★ 2025/07/04(金) 20:59:20 ID:???00
「本船はまもなくチェンナイ港に到着します……」

栞子(何度も聞いてきた寄港地への近接アナウンス)

栞子(今日もいつものように右から左へ聞き流すはずでした)

慈「あー、着いちゃうか……」

栞子「今日が入港日なだけですよ、いつもどおりじゃないですか」

慈「私の目的地はここ、そもそもだって移動が目的だからね」

栞子「えっ……、では」

慈「そうだね、ありがと。楽しかったよ」

慈「部屋は空くから好きに使っていいよ」

40: 名無しで叶える物語◆gtOWUHeS★ 2025/07/04(金) 21:00:20 ID:???00
栞子「待ってください……」

栞子「あんな広い部屋にひとりは嫌ですよ」

栞子「でしたら……、でしたら私も降ります。私だって別に最後まで行く必要ないんですし」

慈「それはダメ。キミはちゃんとこの旅路を終えないといけない」

栞子「なんでですか、そんなの。別に」

慈「それに、私は確信してるから。絶対にまた会える」

栞子「っ……」

41: 名無しで叶える物語◆gtOWUHeS★ 2025/07/04(金) 21:01:22 ID:???00
栞子(この先、私が向かうべき道を固めるには、今ここで何が何でも追いかけていくべきだとわかっています)

栞子「わかりました……」

栞子(ですが……)

栞子「っ……、そのほうがなんだか面白そうなので」

栞子(ですが、それではいまだ偶然に転がされているだけな気がしました)

栞子(強がっているだけなのかもしれませんが)

栞子「必ず探し出して捕まえてみせますよ、慈さん」

栞子(ここに自分で勝ち取ったという実績が得られるならほしいに決まっています)

栞子(私はこう見えても結構負けず嫌いなので)

慈「そうこなくっちゃ」

慈「じゃ、またね。"三船"栞子ちゃん」

42: 名無しで叶える物語◆gtOWUHeS★ 2025/07/04(金) 21:02:28 ID:???00
栞子(去り際に言い捨てていくのは卑怯ですよ)

栞子(そもそも何もかも急すぎます)

栞子(……いつからわかっていたんでしょうかね)

栞子(このあたりは次会った時に問い詰めなければと思います)

栞子(ですが昔はあれほど嫌だったこの家の名も、今は自分の一部と感じられるようになりました)

栞子(そんな新しい自分を抱きしめながら、今はもう少し船に残って、まずは行き着くところまで流されようと思います)

栞子(そこがスタート地点です)

栞子(潮に流されて、あの人を追いかける物語を)

栞子(この、しおとめぐみの物語を、あらためて始めたいと思います)

43: 名無しで叶える物語◆gtOWUHeS★ 2025/07/04(金) 21:03:30 ID:???00
船長「あそっか……、今接岸してるじゃん」

船長「久々に陸に上がって羽でも伸ばすかね」

船長「屋台でラーメンでも食べようかな」

船長「ま、とりあえず今はラジオでもかけとこっか」

ザザッ……ザーッ
「……全世界月間バイラルチャート5位から2位をお届けしました」

「お次は今月の第1位、人気急上昇中のこの曲です、お聞きください」

「藤島慈で『マハラジャンボリーII』」

44: 名無しで叶える物語◆gtOWUHeS★ 2025/07/04(金) 21:04:27 ID:???00
おわり〇
ありがとうございました

引用元: 【SS】栞子「しおとめぐみ」