1: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 18:40:05 ID:???00
人事異動のお知らせ

◯発令日
20XX/10/01

◯氏名
三船 栞子

◯現所属
ソーラーコネクトネットワーク株式会社サプライチェーンマネジメント部物流管理グループ東アジアチーム

◯発令事項
出向ソーラーコネクト水星株式会社星間物流管理部管理グループ

2: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 18:41:02 ID:???00
どこか遠くへの異動の内示をいただいた時、まずは引っ越しが気になるものかと思います。

私もそうなるのだろうとずっと思っていたのですが、いざ実際に直面してみると、真っ先に思ったことが、

「名刺作り直さないといけませんね」でした。

やるべきことはたくさんあるのでしょうが、日常の最先端で気にかかることはいつも細かいことばかりです。

所属名が短くなるので、少し文字サイズ大きくしましょうか。

3: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 18:41:51 ID:???00
よく考えてみると、いつかこの星の外に出るのも面白いだろうと思いこの会社に入ったにしては、ここ以外の星のことをあまり知りません。

まっさらだった頃の思いは、次から次へと降りかかる日常の雑務に埋もれてしまいます。

そうやってあくせくとやってきましたが、今は少し立ち止まるチャンスなのかもしれません。

落ち着いてこれからのことを考える時間。

……それがあればいいと思いますが。

すでにスケジューラーには、引き継ぎの打ち合わせが入れられています。

先が思いやられます。

4: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 18:42:38 ID:???00
「大丈夫?」

デスク周りを少し整理し、ふと目についたSlackの未読バッジをつぶしに行ったら、それはいつものように璃奈さんからでした。

私たち同期の中でもとてもマメに連絡をくれる人です。

私と同じで、このような少し古風なコミュニケーションツールを愛用している人でもあります。

今回も、異動情報を見てすぐに私の胸中を慮ってくれたのでしょう。

「少しバタバタしそうではありますが、おおむね問題ないですよ」

「そういう社交辞令一般じゃなくて……」

社交辞令を言っているつもりはありません。私は異動辞令を言われた側です。

5: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 18:43:28 ID:???00
ですがなんでしょう、いつも比較的ズバッとものを言う彼女にしては歯切れが悪く思います。

「えっと、メタバース会議室取れる?」

「今からですか?」

会議室の空きを確認しながら、珍しいこともあるものだなと思っていました。

璃奈さんのほうから、こんな今風のツールを提案されるとは。

私もほとんど使ったことがありませんので、不慣れさを悟られないよう視線をまっすぐ前に据えて廊下を歩き、口元にはわずかに笑みを湛え、——逆に不自然ですかね、そそくさと会議室に向かいます。

6: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 18:44:07 ID:???00
会議を開始すると、目の前の光景は無機質なオフィスから夕陽がきれいな海岸へと早変わりしました。

璃奈さんがホストなので、きっとこのような設定にしていたのでしょう。

「お疲れさま、栞子ちゃん」

璃奈さん、——こうして(こうして?あの時はリアルでしたね)会うのは集合研修振りです。久しぶりなのもありずいぶんと印象が違いますね。

7: 名無しで叶える物語◆nW7znvwy★ 2025/10/10(金) 18:44:24 ID:???Sd
SFかな
支援

8: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 18:44:49 ID:???00
グレーを基調とし黄色とピンクの差し色がシンプルながらかわいらしい格好で、背中に白い羽つきのリュック?を背負い、そこからコンセントを模した尻尾が伸びています。

頭には表情をデジタルに表示するボードがかけられていて、今はやわらかな笑みを向けてくれています。

これだけアバターを編集しているということは、このツールをよく使っているということなんでしょうか。

私の、なんの変哲もないスーツ姿のアバターがとても味気なく感じます。

「お疲れさまです、璃奈さん。こういったツールも使い慣れているんですね」

「えっと、私はつながれるなら割となんでも使ってるというか……。でも大丈夫だよ栞子ちゃん、みんながみんなおんなじじゃ面白くないと思うし、少しくらい時代遅れのツールに精通してる人がいなきゃ全体としてバランスが取れないし、えっと」

一所懸命なのはわかるんですが、あまりフォローになっていませんよ璃奈さん……。

9: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 18:45:41 ID:???00
「そのお洋服、とてもかわいいと思います。璃奈さんらしくて。それに背景も。きれいな海岸ですね」

「ありがと。衣装は理想を詰め込んでがんばった」

「ちなみに背景はフリー素材で拾った須磨の海岸」

「なぜ神戸……」

「たまたまそこにあったから。ありがとうアマナイメージズ」

「オフィス、会議室らしさがなくなればなんでもよかった」

話をする時に場所のことまで考えて全体的な雰囲気を形作る、でも具体的な場所には頓着しない、とても璃奈さんらしいと思います。

10: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 18:46:23 ID:???00
「それで今日はどうしてこのような形で話を?」

習慣を打ち破ってまで直接会うのに近い形で話さなければならないことがあるのでしょうか。

「ほんとうは直接会いに行きたかったんだけど、遠すぎて時間がなくてね。だからこうなった」

彼女のボードが少し悔しそうな表情に変わります。

さすがに地球を半周は時間とお金がかかりすぎます。星内旅客輸送とは難儀なものです。

ですが、チャットでは済まないようなこととはなんなのでしょう。

「いい?栞子ちゃん。今日はこれから、作戦会議だよ」

11: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 18:47:01 ID:???00
会議室らしさをなくしてもやることは会議なんですね。

「私は栞子ちゃんをつなぎ止めにきた。いなくならないでほしい」

神妙な面持ち(ボード持ち?)で両手をこちらに伸ばしてきます。

「えっと……、別に私は異動するもののいなくなりはしませんが」

辞令に楯を突けということでしょうか。どういうことでしょう。

「あれ……、あんまし知らない?水星の話」

的確に痛いところをついてきますね。そうです、私は外のことをあまり知りません。

ですがこれもいい機会です。璃奈さんにいろいろと教えてもらいましょう。

12: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 18:47:46 ID:???00
「そもそも水星はあまり殖民が進んでない。うちはたしかに全惑星に拠点と航路を据えたけど、そこにあるものといえばそれくらい」

「旅客輸送だって通常のルートではほぼ存在しない。大半がうちの貨物輸送の一部に人が乗り込んで移動してるだけ」

「そこでなにをしてるのかだってほんとうのところよくわからない」

なんだか雲行きが怪しくなってきました。私が行く場所とはいったい……。

「多少人はいるみたいなんだけど。私も少し調べてみた」

そういうと璃奈さんは少し脇へと退き、私の前の空間を空けました。

そこにディスプレイを表示させると、いくつか資料を投影しているようでした。

13: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 18:48:23 ID:???00
「直近の人事異動で、水星に関するもの。これしかない」

「たしかに少ないですね」

一惑星に関する異動がここまで少ないというのは、ちょっと気になります。

「それに、これ。異動した人たちは結局みんないなくなってる。また異動になってたり、退職してたり」

璃奈さんが先程言っていたのはこのことだったのですね。私が辺鄙なところに飛ばされて辞めてしまうのではないかと危惧しているのでしょう。

14: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 18:49:06 ID:???00
「でも一番わからないのはこれ。異動の記録はある、その後動いた形跡はない。でも組織図にこの人の名前はない」

「動いたり辞めたりしたら人事異動のお知らせに載る。たとえ死んだってお知らせに載る。ありえないんだよ、これ」

「私がアクセスできた範囲のデータベースでは探し当てられなかった。だからこれが単なるミスなのか、システムのバグなのか、意図的に隠されているのか、なんなのかはわからない」

普通ならお知らせを見落としていたのではないかを疑うところですが、璃奈さんは自他ともに認める人事異動ウォッチャーですからね。彼女が見ていないというのなら、それはお知らせされていないということになります。

璃奈さんがほんとうに懸念していたのはこちらだったんですね。あの星にはなにかがある、私がそれに巻き込まれて消えてしまわないよう——

………
……

15: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 18:49:49 ID:???00
私はずっと見ていた。太陽の隣のその星を。

太陽の重力井戸の深いところにとらわれている。その深さゆえに容易には近づけない。

それがゆえに、宙港はあるのに定期路線がない。これじゃ多大なコストを払って——それこそ命がけで、港を作った人たちが浮かばれない。

太陽系最後の空白地帯を埋めたいと思った。井戸に飛び込む方法論だけなら、計算で示せるんじゃないかと思った。

それはテクニカルにチャレンジングで、どうしようもなく面白そうだった。

やってやる。璃奈ちゃんボード「メラメラ」

………
……

16: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 18:50:32 ID:???00
それからの日々も取り立てて変わったことはなく、自分でも意外なくらい落ち着いて準備をしていました。

結局あの日の作戦会議は、私が現状を学んだだけで終わりました。まだ出発もしていないのですから、対策も考えようがありませんでしたし。

心構えとして、向こうにいる人に気をつけるくらいですかね。

あの日璃奈さんは心配そうに、ちゃんと連絡するようにと私に念を押してきていました。準備も含めると航宙は長期にわたりますから、チェックすることはたくさんあります。今のところ、連絡することに関しては事欠きません。

旅客ターミナルとは異なるところから出発するので、見送りに来ている他の人などもいなく、静かな出発です。下手をすれば出発したことに気づかれないかもしれません。

人間用に改造された、もとは貨物用だった輸送コンテナに乗り込み、——なんと窓までついています、加速のGに備えて冷凍睡眠の準備をします。

では、会いに行きましょうか。太陽の隣人のもとへ。

17: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 18:51:12 ID:???00
目的地が近づき、システムに起こされます。短すぎる冷凍睡眠からの目覚めの靄を振り払っていると、だんだんと目の前の光景の異様さを実感できるようになってきます。

灰色の地表が目の前に広がっています。これが水星……。荒廃しているかのようです。こんなことを言っては怒られそうですが。

太陽にもずっと近づいたはずですが、もともとはるか遠くにあるものなので、近づいたという実感があまり湧きません。

惑星の表面はクレーターを除くと一様にグレーで、人工物のようなものも見当たりません。このあたりはそんなに大きな建物はないのでしょうか。着陸する場所なんですから、それもそうですね。

着陸用に十分な減速を済ましてから目覚めているので、減速時のGはやり過ごせているはずです。

ですがどうにも身体が本調子でないような、節々が痛むような、——実際はどこも痛くありません、そんな肉体の中にやけに冴えた意識を満たして、着陸を迎えます。

いつも私がロジであちらへこちらへと飛ばしていた貨物は、こんな気持ちを抱いていたのでしょうかね。

18: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 18:51:53 ID:???00
灰色の港湾。それが第一印象です。

地球から持ってきたかのようなガントリークレーンがコンテナを運んでいます。ここに海はありませんのに。

ほんとうに貨物の気持ちになれますね。どうでしょう、新入社員用の現場実習に。貨物を運ぶものは貨物の気持ちを理解していないといけないとかなんとか言って。

まあ、今どき流行りませんか。

次々とコンテナヤードへ送られていく荷を眺めながら、私が歩いて保税地域を出たら税関職員が捕まえに来るんでしょうか、などとくだらないことを考えていました。

実際のところ、私のは他のコンテナと違うところに流されていっています。さすがに倉庫に積み上げられたら泣いてしまいます。

しかしヤード内のコンテナ移動はフォークなんですね。ちょっと設備が古い気がします。

19: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 18:52:33 ID:???00
コンテナの移動が止まり妻壁が開きました。私は開けていないのでお迎えでしょうか。

そもそも私はこのあとの段取りをなにも知りません。

荷のロジをやっている人たちは人間のロジができないなどと自虐的に言いますが、あまり否定はできないんですよね。うちはそういうところあります。

さすがに人間を飛ばすだけ飛ばして終わりはやめていただきたいところですが……。

「ようこそ。長旅お疲れさま。よく眠れた?」

声が聞こえてきました。

よかったです。お迎えはいるみたいですね。途方に暮れてしまうところでした。

20: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 18:53:18 ID:???00
「外出て大丈夫だよ。ヤードは全体に<広域力場>があるから、環境は地球とほぼ同じ。別に息苦しくはならないよ」

そう言われるまで忘れていましたが、コンテナ内は地球と環境が同じになるよう、温度、圧力、大気、重力、放射線等々、様々なものが<力場>によって調整されていました。

このあたり、航宙慣れしていないのが出てしまうところですね。

外で使うための<パーソナル力場>の発生装置を持たされていますが、荷物から出してもいませんでした。

これではもう相手に、私は移動慣れしていませんと伝えてしまったようなものです。

信用できる相手なのか、それすらまだわかりませんのに。

21: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 18:53:48 ID:???00
「三船栞子です。よろしくお願いします」

「ん、藤島慈。よろしく」

まったく乾ききった灰色の土地と、一回り大きな太陽を背景に、至極あっさりとお互いの紹介が終わりました。

「じゃ、好きなようにやるといいよ」

そう言って立ち去ろうとする彼女を慌てて引き止めます。

22: 名無しで叶える物語◆podqM2C4★ 2025/10/10(金) 18:54:08 ID:???MM
めぐみさんきたー!

23: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 18:54:34 ID:???00
「待ってください、どこに行ってまずなにをしたらよいかというのは」

「そういうのも含めて好きにしなってこと。あ、住むとこはあっちね」

ほんとうに飛ばして終わりということなんでしょうか……。

「そうは言っても」

「あ、でもなんかしたいなら訊きたいことあるから答えてほしいな。宿題ね」

24: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 18:55:20 ID:???00
From: 三船 栞子
To: 天王寺 璃奈
Subject: 着きました
Date: Fri, 1 Oct 20XX 11:13:09 +0000
Message:

璃奈さん

お疲れさまです。
栞子です。

先ほど無事到着し、最低限の荷解きは終えました。
これから特になにがある、というわけでもなさそうです。
'藤島 慈'こちらの方が迎えに来てくれました。
放っておかれそうになったので食い下がったところ、宿題にたくさん質問をいただいたので答えを考えているところです。
以下に一例を示しますね。
(こういうのってたくさん質問することで一番訊きたいことをぼやかしてるんですよねきっと)

・出身は?(日本だよね?)
・得意分野は?
・今までの仕事で一番誇れる成果ってなに?
・逆に一番の失敗談は?
・考えるのと行動するのどっちが先のタイプ?
・航宙経験はどんなもん?
・きのこ?たけのこ?
・それほど太陽でかくないなって思わなかった?
・おでんで好きな具は?
・豆腐好き?

栞子

25: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 18:55:56 ID:???00
From: 天王寺 璃奈
To: 三船 栞子
Subject: RE: 着きました
Date: Fri, 1 Oct 20XX 11:50:01 +0000
Message:

お豆腐、すき

Outlook for iOS を入手

26: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 18:56:39 ID:???00
なぜスマートフォンからなのでしょうか。璃奈さんはほんとうにコミュニケーションツールであればなんでも使えるんですね。

今度手旗信号でも試してみましょうか。これだって光速通信ですからね。

特になにかこれといって言われたわけではありませんし、そんなに心配されてもいないのでしょう。私はしっかりやれるつもりですよ。

まずは荷解きですよね。荷物に関しては送り放題でしたが、これといって持っていくべきものも思いつかず、実際の荷物はずいぶん少なくなりました。

まあ、これのロジやったのも私なんですけどね。費用は全部前の部署につけておきました。

せっかく会社のお金でものが運べるんですから、もっとなにか運べばよかったのかもしれません。

なんですかね、ロボットとかでしょうか。

27: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 18:57:15 ID:???00
とりあえず机と椅子を設置して、当面の人間的な生活環境を確保したところで、メールを眺めます。

これだけは昔からずっと変わらず、ビジネスシーンで使い続けられていますよね。不思議なものです。現状維持バイアスですかね。

やはり特になにがあるわけでもありません。

こんなにも足元がふわふわしているのは落ち着きませんね。

思いの外しなければならないことというのがありませんので、璃奈さんがなにか指針をくれるのではないかと期待していたのですが。

28: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 18:57:52 ID:???00
仕方ありません、まずはいろいろと見て回ってみますか。足で稼ぐ方針です。

来週——太陽の動きがゆっくりすぎて日付感覚もなにもないのですが、今は一応週末です。以降のことを考えていたら、Slackに連絡が入りました。

「ひとつ言い忘れてたけど、そっちでソフトやハードに表示される名前、署名を見ておいてほしい。最終更新とか、承認者とか、作成者とか。そこで特定の名前をよく見かけるようなら、その人を教えてほしい」

こういうのを期待していました。豆腐ではなく。

29: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 18:58:30 ID:???00
週末は新しい場所に慣れるために使いました。まずは生活圏ですよね。幸いにもこのあたりはお店があります。この土地のスーパーのようなものがありましたので、餓死の心配はなさそうです。

どこ資本なんでしょうか。私の知っている中から一番近いのを探すなら、ヤオコーですかね。

やはり太陽がほとんど動かないので、一日の流れを感覚的に把握できないのが難しいところです。これはもう慣れるしかないんでしょうが……。

住宅の遮光、調光設備が完璧なのもこれに由来するんでしょうね。せめて家の中では概日リズムを整えられるように。

30: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 18:59:05 ID:???00
地球の星内移動と違って、星間移動は時差を気にしなくてよいのが楽なところですね。

到着が朝であれば、どのみち道中は強制的に眠らされていますので。

時間も、太陽が当てにならない以上、決めの問題ですし。地球とのやり取りの時だけはタイムゾーンを気にはしますが。

ですがここがUTCで、璃奈さんのいるところはGMT-3なのでこれもそこまで問題にはなりません。

向こうも夜ですね、と考えながら、そしてどんな環境でもしっかり眠くなってくる身体に感心しながら、少しスプリングが強い部屋備え付けのベッドに入ります。

31: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 18:59:43 ID:???00
「おはようございます」

「お?おはよ?」

一応(一応?)私の新しい所属である管理グループの居室とされているところに行ってみると、先週出迎えてくれた方——慈さんでしたね、がコーヒーを淹れていました。

「なぜ疑問形なんですか」

「ほかに人がいるの久しぶりだから、挨拶ってこれであってるかな?っていう確認……かな」

社会復帰プロセスですか。

たしかにほかに人がいたような形跡はありませんね。これといってなにがあるわけでもない空間です。

32: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:00:26 ID:???00
「ほとんどなんもないけど、コーヒーだけは無限にあるからいくらでもどうぞ」

「あ、ありがとうございます……」

少し周りを見渡してみますが、ほんとうにコーヒー以外これといったものがありません。

璃奈さんの言っていたことを思い出したので、コーヒーメーカーをあらためてみましたがスマート化されていないものでした。

得られる情報がなにもありません。

「この豆さ、グアテマラ産なのよ」

別にその情報も要りません。

「ここまで持ってこようと思った時に、キミならどう飛ばす?」

まだ以前の宿題になにも回答していないのにまた新しいことを訊かれています。やはりこれは試されているのでしょうか。

33: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:01:10 ID:???00
「そうですね、まず前提条件として、星間輸送に回すのですからlotの大きいバルク輸送と考えます」

「するとまずは太平洋側からの海送になるかと思います」

「でしたらバルパライソまで送って、陸送でブエノスアイレス、そこの宙港から飛ばします」

「ヒューストンから飛ばさないのはなんで?」

なんだかテストみたいです。そんな難しいものではないですが。

「二つあります。まず一つにメキシコを回す陸送はペイしませんし、海送でもカリブ海側に出すまでのいいルートがありません。パナマを回すのは時間もお金もかかりますし」

「二つ目は、こちらが主ですが、ヒューストン港はほぼすべての荷が外に飛ばすものですよね。ここは内惑星じゃないですか」

「おおー完璧!私の組み方とまったくいっしょ」

「それはよかったです……?」

34: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:01:42 ID:???00
「はい、お砂糖とミルクは?」

「あ、いえ、そのままで。ありがとうございます」

ここが地球でないことを忘れそうな光景です。喫茶店さながらのカップとソーサーで出してくれていますので。

立ちのぼる湯気、目の覚めるような香り、黒の湖面からわずかに照り返す光、什器の触れ合う硬い音、申し分なく、どこまでも朝ですね。

たとえ太陽が空のどこに張りついていようと、今は朝でした。

35: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:02:19 ID:???00
「キミのこといろいろ教えてよ。先週だーっと訊いたところ中心にさ」

あれ以外にもまだ訊くつもりなんでしょうか。

「まあ場合によっては戦いとならざるを得ない質問もあるから、そこは覚悟しててよね」

「きのこたけのこの話であれば、私はどちらでも構わないのですが……」

慈さんが神妙な面持ちで、深く息を吐きました。

36: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:02:50 ID:???00
「それは回答としては一番の悪手だよ。どちらの陣営からも責められる」

「二分の一であっても、どちらかに賭けなければならない時はある、リスクを取らなきゃ先には進めないよ」

「ま、別に私もどっちでもいいんだけどね」

なんなんですかこの人。

どれだけ科学技術が発展し人類が宇宙に進出しようと、出ていった先でやっていることは一企業のスナック菓子の派閥争いです。

あまりにも人間的で涙が出てきます。

37: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:03:30 ID:???00
「私はそろそろ出るけど、部屋好きに使ってていいし別にどっか見て回ってもいいよ」

「あとコーヒーはどんどん淹れてどんどん飲んでね。無限にあるから無限に消費しないとなくならないのよ」

無限大-無限大は不定形では……?

しばらく私のことを訊かれ続け、こちらから慈さんのことを知ろうと思っていた矢先、どこかへ行かれました。

コーヒーばかり飲んでいても埒が明かないので——ほんとうにとんでもない量あります、曰くここにある分は氷山の一角だそうです。私も現場のほうを見て回ろうと思います。名前を集めなければなりませんし。

38: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:04:04 ID:???00
誰も案内してくれない現場見学を始めましょう。

なにかこちらに近づいてきました。案内してくれるんですかね。いえ、警備ロボットの類でしょうか。逆でしたね。

ですが私が従業員であることがわかったのか、すぐに興味を失って去っていきました。

活躍の場が来たと思いきやそんなことはなかったのですからね、拍子抜けということでしょう。

そもそもこんなところ、部外者が来ようがないと思うんですが。彼(彼?)はなんのために配備されているのでしょうか。

39: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:04:37 ID:???00
ヤード全域の<力場>が調光も担っているため、宇宙に出てきたという実感はあまり得られません。

この光景、地球の港湾から海水を取り除いて、色味も取り去り地面を灰色にすれば出来上がりそうです。

それくらいにそのままです。設備が。

地球を出たなという実感が得られたのは着陸前にコンテナの中から景色を眺めた時くらいです。

それ以外は地球とそこまで大きく変わりはしません。

ちょっと遠いカフェにコーヒーを飲みに来た、といった具合です。

週末はカフェ巡りをしています。OLの自己紹介らしくていいじゃないですか。

コーヒー飲んでいるのは平日なんですけどね。

40: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:05:11 ID:???00
盤の中、荷の来歴、現場の日報、倉庫の在庫、映像記録に<局所力場>、見るところはたくさんあります。

ヤード自体相当な広さでもあり、とても一日で回りきれるものではありません。

こういうのは博物館の特設展などに対して言うことだと思っていましたが、現実は味気ないものです。

時間はあるようですので、じっくりとやっていきましょう。

私も、博物館ではひとつの展示の前についつい長居してしまうものですので。

41: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:06:02 ID:???00
From: 三船 栞子
To: 天王寺 璃奈
Subject: 見て回りました
Date: Fri, 15 Oct 20XX 21:32:13 +0000
Message:

璃奈さん

お疲れさまです。
栞子です。

こちらは順調な滑り出しでした。
放任主義のようなので、好き勝手やらせてもらっています。
そんな人が消えるようなところでもないと思うんですけどね。
私としてはそのように感じています。

あとですね、いろいろと少し古いものが多い気がします。
物持ちがいいんでしょうか。
問題なく動くのであれば、使ったほうがいいですからね。

璃奈さんに言われていたこと、調べ回ってみましたよ。
ログに残っているのは大半がシステムユーザーでした。
ですがこれも同じユーザーが多く見られたのでなにか偏りはありそうです。
あと数は少ないですが、複数回見られた名前もありました。
いかんせん数が少ないため単なる偶然かもしれませんけどね。

頻出ユーザーは頻度順に以下のとおりです。
1. 'System User 04 '
2. '藤島 慈 '
3. 'System User 01 '
4. '夕霧 綴理 '

栞子

42: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:06:34 ID:???00
From: 天王寺 璃奈
To: 三船 栞子
Subject: RE: 見て回りました
Date: Fri, 15 Oct 20XX 21:58:30 +0000
Message:

でかした

Outlook for iOS を入手

43: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:07:12 ID:???00
………
……


地球を出る時が来たんだなって思った。

偶然なんかじゃない、数少ない痕跡を栞子ちゃんはちゃんと集めてくれた。

システムユーザーは設備屋さんが開発やメンテで使うもの。

04は第4惑星の4。火星。

そこにはうちの最大のR&D拠点がある。

そして夕霧綴理っていうおそらく設備屋さん——アドレス帳で調べたらやっぱり『Meridiani研』の所属だった。

火星出張、決定。いってきます。

44: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:07:43 ID:???00
システム上の自分のステータスを[移動中]にして、さっさと宙港に向かう。

領収書もらっておけば、事後申請で経費になるよね。

いきなり会社アカウントで決済するよりマイルドなイメージになるし。

あんまし強いGがかかるのは体への負荷になるだろうから、少し時間はかかっちゃうけど穏やかな旅客便を選んだ。

火星くらい需要のある路線だと選択肢がたくさんあっていいね。

どういう軌道で飛ぶのかな、エネルギー効率は。別に自分が飛ばすわけではないのに気になるのは職業病なんだと思う。

45: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:08:16 ID:???00
申請用のでっち上げ出張理由を考えてたら危うく乗り過ごしかけた。

あっという間に出発。眼下に小さくなっていくブエノスアイレス市街。

別に長くを過ごしてきた場所でもないし、しばらくしたら戻ってくるのに、ちょっぴりさみしいような気持ちになる。不思議。

座席のリクライニングボタンをポチポチしながら、急に思い出した。

ホテル取ってないや。

………
……

46: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:08:49 ID:???00
ところで璃奈さんはログに名前のあるユーザーを知ってなにをするんでしょうか。

電動コーヒーミルが豆を粉々にする騒音に身を包まれながら、ふと思いました。

スーパーハッカーのようなことをするんですかね。私にはよくわかりませんが。

気にしても仕方のないことです。それより目の前のコーヒーに集中しましょう。

47: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:09:23 ID:???00
朝はいつも慈さんのほうが先に来ていて、コーヒーを淹れてくれます。

なので追加で飲もうとする時だけ自分で淹れることになります。

そして、自分で淹れたものの味や香りが、慈さんが淹れたものに勝っていたためしがありません。

こうなると試行錯誤をしたくもなるというものです。

48: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:09:54 ID:???00
ミルからペーパーフィルターに粉を移す時、壁面に付着して移せない分ってどうしてもありますよね。

もったいないなと思います。貧乏性なんでしょうか。

これだけ技術が進歩しても壁面には付くんですから、きっとこれを解消するには多大なる技術障壁があるのでしょう。

惑星間航行より難しいのですね、粉を落とすというのは。

49: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:10:27 ID:???00
名前を収集する必要はなくなりましたが、現場に足を運びます。

自動化が進んでも人は完全にはいなくなりません。ここは設備が古めというのもありますが……。

オペレーションしている人たちに顔を覚えられてきました。

足繁く通って、これといってどうということでもない話をし続けて来ましたからね。

最近はみなさんの中でアポロチョコレートが流行っているそうです。

アポロは月へ行きましたが、チョコレートは水星まで来たということですか。

NASAもびっくりです。

50: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:11:00 ID:???00
こんなところにも喫煙所があります。

分煙するなら<力場>で十分だというのに、わざわざ気流で機械的に分煙をする設備がここには残っています。

ですがこういった場所があるほうが、人が集まり交流が生まれますよね。

古い設備だからこその利点ですし、こういったことは大事だと私は思うんですけどね。

新しいテクノロジーが、人のつながりを希薄化させていると思うことも多々あります。

だから私は時代遅れのツールが好きです。

ここは結構、性に合っているのかもしれません。

………
……

51: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:11:30 ID:???00
直接会う、私はこれを大事にしたいと思う。

これだけ便利な時代だからこそなおさら。

私はその思いにしたがって、1億kmの彼方まで来た。

この時代、隣の惑星は"彼方"って言うほど遠くないのかもしれないけど。

52: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:11:57 ID:???00
ここは最も殖民が進んでいるだけあって、人が多いし地球と変わらない。

<力場>も<広域>がいたるところに張られてる。影響のないところを探すほうが難しいんじゃないかな。

でもそれはいいことなんだと思う。快適に生活できるし、なにより<パーソナル力場>がいらない。

個人で纏う<力場>って好きじゃないんだよね。周りから隔絶されてる感じがする。

それが生きるためにつながりを絶ってるみたいで——

53: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:12:26 ID:???00
宙港からするするとマスの輸送に流されて、ラストワンマイルはなんかツルツルしてるタクシーみたいなやつ捕まえた。

絵に描いたような先端技術。見た目でのアピールも大事なのかな。

私が作るのはソフトだから、見た目もなにもないけど。

コードの可読性を気にしてって話?それは……うん。

54: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:12:52 ID:???00
『Meridiani研』。うちの中央研だけあって大きい。

この中から1人を探し出すって、ちょっと無茶かもしれないと思う。来るって誰に言ったわけでもないし。

人を探さないといけないのはそうだし、ホテルだって探さないといけないのに。

探してばっかりだな、最近。

55: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:13:20 ID:???00
とりあえず中に入ってみる。なんかツルツルしたロボットが向かいの窓掃除を終えてこっちに来た。

——こっちに来たわけではなかったみたい。通り過ぎてった。

警備ロボットとして部外者かどうか確認しに来たのかなって思ったけど、この距離まで物理的に近づかないと確認できないような型落ちはここにはいないよね。

一心不乱に窓掃除してるから、そっとしておこうと思う。

56: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:13:55 ID:???00
お腹すいたからカフェテリアみたいなところ来た。

腹が減ってはなんとかかんとか。人探しもエネルギーが必要だよ。先にお昼食べよ。

結構混んでて相席しないと空いてる席なさそう。ざっと見渡すと、窓際の丸いテーブル席にひとりで溶けてる人がいた。あそこでいっか。

「もしもし、溶けてますか」

「うん」

「ここ座っていい?」

「うん」

「ありがとう」

場所を確保した。これでお昼ご飯は勝ったも同然。GG。

57: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:14:33 ID:???00
この人さっきっからずっと溶けてるけど、ご飯食べないのかな。

「あなたはお昼食べないの」

「……!その手があったか……」

突然立ち上がると、ふらふらとどっかに歩いてった。大丈夫なのかな、社会生活。

溶けてた時には気づかなかったけど、固まってると背高いんだなとか、顔きれいだなとか、社員証ここに置いていってるけどこれじゃ私が席離れられないなとか思ってた。私が注文しに行けるのはいつになるんだろう。

社員証の名前見たら、『夕霧綴理』。

今日の私はついてるみたい。

あとはホテルか。

………
……

58: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:15:11 ID:???00
朝からついていません。割と派手にコーヒーの粉をこぼしてしまいました。

こういうのって細かい隙間に入り込んで掃除が難しくなるんですよね。

そもそもなぜ隙間はできるのでしょうか。ぴったりくっついていてくれればいいものを。

「なーにやってんのおっちょこちょいだね」

「うぇ、なんでいるんですか」

通常であればいないはずの慈さんがなぜか出てきました。

デイリールーチンとしてこの時間は外に行っているものだと思っていましたが。

59: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:15:43 ID:???00
「そんな毎日外回ってるわけじゃないよ。ほら貸しな、洗っとくから」

「いえ、そんな申し訳ないですし」

「いいのいいの、どうせコーヒーなら無限にあるんだから」

「そうではなく、慈さんのお時間をいただくほどのことではないと言いますか」

「キミもこれだけここにいるんだから薄々わかってると思うけど、ここでは時間はコーヒーの次に余ってるものだからね」

そう言われてしまうと、妙な納得感があります。私もここに慣れてきましたね。

60: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:16:16 ID:???00
「あと、苦しい立場ながら一応言っておきますと、そんなに毎日不器用にポロポロこぼしたりはしていません。今日がたまたまです」

「ふーん、今日はめぐちゃんいるから緊張しちゃった?」

「いること知らなかったんですよ、関係ないですって」

「うんうん」

なぜそんなにニコニコしているんでしょうか。まあ楽しそうなので構いませんけど。

結局その日の終わりまで、なんだかうれしそうな慈さんと、同じ部屋でなんとなく過ごしていました。

61: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:16:48 ID:???00
いつもの騒々しい粉砕音とは違って、今日は静かにガリガリガリガリと音がしています。

電動のは壊れたんでしょうか。今日の慈さんは、手動のコーヒーミルで豆を挽いています。

デイリールーチンを崩すということは、崩すに足る理由があるのでしょう。

であればこちらも、込み入った話を持ち出していいですよね。……というのは後付けの理由ですね。

最近思っていたことがあるので、少し切り込んでみたくなりました。魔が差したというものです。

62: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:17:16 ID:???00
「ここってずっと人少ないですよね」

「そうねー」

「慈さんは、ここにずっといますけど、——さみしくないんですか」

音がなくなりました。

小気味いい破砕音が消えると、この空間で音を立てているものは窓から射し込む光の中で揺らめいている塵だけになりました。

63: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:17:51 ID:???00
少なくとも手を止めるくらいには、思うところがあるんですよね。

「んー、どうだろ」

それだけ言って、またミルを回し始めていました。

いつも、話す時は必ず私のほうを見てくれる彼女が、一度もこちらを向かずに。

ルーチンが崩れるのは、崩れるに足る理由があるのでしょう。

いつものようにコーヒーをいただきましたが、今日は普段より苦みが強く出ていました。

………
……

64: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:18:24 ID:???00
やたらとたくさん乗ったお盆を持って帰ってきた。危なっかしい……。

しかもおでん。あるんだ……。小洒落たカフェテリアで、周りはサラダボウルとか、地球の時節柄月見バーガーとか——火星の衛星じゃ地球の月ほど風流じゃないと思うんだけど……、食べてるのに。

「はい、お豆腐はりなの分。ほかは好きなものとか知らないからボクとおんなじおでん。苦手なものあったら交換しよ。」

「ふふ、心配しないで。ボクのおごりだよ。長旅お疲れさまだから」

「せっかく来たんだしなにして遊ぶ?火星観光したいなら案内するよ」

「えっと、待って。追いつけない。はじめましてだよね……?」

「多分?」

そこ自信ないの?

65: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:18:54 ID:???00
「ボクはめぐから聞いた。めぐはしおから聞いたって」

「だからしおめぐボク」

「おしまい」

66: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:19:26 ID:???00
頼むから終わらないでほしい。私を置き去りにしないで。

落ち着かなきゃ。なにを言おうにも向こうのペースに巻き込まれる気がする。

めぐ。藤島慈って人のことだよね。しお。塩?いや栞子ちゃんのことだろう。

え、栞子ちゃん、私のこと話してるの?その藤島慈って人に?

え、警戒心なさすぎない?

そもそも栞子ちゃんに情報もらって、これで私が動いてなにかを掴んで、栞子ちゃん奪還につなげようと思ってたのに。

またふたりでヒナギク植えようねって誓ったよね……!——いや誓ってないけど。

璃奈ちゃんボード「しょぼん」

67: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:19:57 ID:???00
「いいね、それ。思いが伝わる。伝えようと思ってることが伝わる」

「でもきみはそのままでも十分伝えることができてると思うよ。少なくともボクよりは」

ここですぐ「そんなことない」って言えないのが、この人の恐ろしいところで——魅力でもあるんだと思う。どうしようもないほどに。

「それで、なんでしょんぼりなの」

「しょんぼりはこっち。これはしょぼん」

表象としてあらわれる感情は増えていく。私はそれに名前をつける。

68: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:20:29 ID:???00
「そっか、ごめん。それで、なんでしょぼんなの」

「私、なにしに来たんだろうなって思うとつい」

「ん?ボクのとこ来たんでしょ」

それはそうなんだけどその理由が空振りだし。

でもたとえこちらの動きが、しおめぐなんたらでツーツーだとしても、ほかにできることないんだしやるしかないよね。

………
……

69: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:21:01 ID:???00
週末はヤオコー(ヤオコーではありません)で食料品を買い込んで、お家でちまちま料理をするくらいしかやることがありません。

品揃えは立地を考えたらなかなかのもので、宇都宮と比べても遜色ありません。

豆腐がひと通り揃っています。

パック豆腐は硬めですし賞味期限も長いですから、輸送の自由度は高そうですね。

問題は水入り豆腐ですよね。いくら水に漬かっているとはいえ、極端な加減速のGを受けたら崩れてしまいます。しかし賞味期限は短い。

リードタイムの取り方が難しいところですね。ロジの腕の見せどころですよ。

……休みの日までなにをやっているんでしょうか。

70: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:21:34 ID:???00
あまりにもヤオコーすぎて違和感なかったんですが、生魚が売っています。

海なし県で刺身が売っているどころの騒ぎではありません。ここは星単位で海がないんですよ。

冷凍ではなさそうですし、活魚輸送ということですか。

魚も生きたまま宙を飛ぶ時代です。

輸送事故が起きたら、フリーズドライ状態のハマチが周回軌道に乗ったりするんでしょうか。

デブリになられるよりは、深宇宙へと飛んでいってくれたほうがロジをやる身としてはありがたいのですが。

71: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:22:09 ID:???00
コーヒーだけやたらと品数も入荷量も少ないですね。

……心当たりしかありません。

正直な話、私が今コーヒー買いますかと言われたら買いません。

売れないのだから置かない、市場の原理です。

どこかの誰かさんがダンピングを仕掛けているのだとしか考えられません。

いくら辺鄙な惑星の小規模経済圏とはいえ、自由市場を破壊するのはやめたほうがいいと思うんですが……。

………
……

72: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:22:37 ID:???00
「水星の藤島慈さん、知り合いだよね」

「そうだよ。同期なんだー。なかよし」

そこ同期か……。訊いてないことまで教えてくれる。

「あそこってすぐ人が動くでしょ。それって動かしてるからだよね。動くようにしてる。内から外から」

「それにあなたも協力してる、そうだよね?」

「うん。めぐが手伝ってって言うから。ボクは別にいいよって」

言うんだ……。あっけらかんとしすぎてる。

73: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:23:09 ID:???00
「ならこの記録と整合しないのも、知ってるんだよね。それって、人を消すような——」

「冷めちゃうよ。先におでん食べよ」

なんで。流れっていうのがあると思う。

「きみもあったかいうちに食べたほうがいいよ」

「お豆腐なにで食べる?しお?たれ?」

「私はいつもしょうゆだけど……」

しまった、やっぱり向こうのペースに乗せられてる。巻き返さないと。

74: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:23:38 ID:???00
「手伝うって、人を動かす先を用意するとか……」

「めぐがね、いらないものちょうだいって言うからあげてる」

ん?また関係ない話?

「ちょうどいい箱に入れておくとね、めぐが手配してるみたいで勝手に出荷されていく」

「古いクレーンとか置いておいて次の日見たらなくなってた」

75: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:24:09 ID:???00
「めぐは昔のものに詳しいからね。しおも古いもの詳しいんだってさ」

「りなも詳しいの?」

「私は、栞子ちゃんほど骨董品には詳しくないからその辺あんまりわからなくて……」

「ボクもめぐの言ってること半分くらいわかんないよ」

「でもめぐもボクの言ってること半分くらいわかんないんだろうから大丈夫」

それは大丈夫じゃない。

76: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:24:39 ID:???00
「ごちそうさまでした」

「ごちそうさま……」

結局それ以降おでんの話しかしてくれなくなって、この人が赤巻に尋常じゃない執着を見せていること以外新たなことは明らかにならなかった。

さっきは訊いてないことまで教えてくれたのに。

いや、赤巻も訊いてない。

77: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:25:06 ID:???00
「じゃあ、こっち」

「え、ちょっと待って、まだ話は——」

一方的に切り上げられてその場を去られたのかと思って慌てたけど、多分これついてきてってことかな。

わかりにくい……。

どのみちこちらに選択肢はないから後ろついてくしかない。

78: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:25:37 ID:???00
無言で共用部を出ていく。廊下が気持ち細くなる。曲がり角の見通しが悪い。壁が白い。この辺はもう実験棟のほうなんだろう。

いかめしい鉄扉を開いて外に出ると、非常階段の踊り場みたいなところだった。

見た目に頓着せず機能性だけを有している金属の階段をカツカツ上がっていく。

どこまで上るんだろう。なんで階段なんだろう。ちょっと疲れてきたな。

「着いた。この辺」

なんの変哲もない踊り場だけど、到着らしい。疲れた。

79: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:26:09 ID:???00
「左にあるあのずんぐりむっくりしてるのが再処理系、右ののっぺりしてるのが発電系。真ん中に『メモリアル・エアリー0』」

インフラとランドマーク。さして見るべきものでもないと思う。

「奥にずらーっとあるのが行政地区。険しい顔した人たちが毎日集まって険しいことしてる」

それを政治という。

「ここからだとこれくらいしか見えないね。おしまい」

それはだってここまだ中層階にも至ってないし……。このあたりを紹介したいなら屋上行けばいいのに。あ、でも階段で屋上まではさすがに勘弁。

「あのね、人は消せないよ」

80: 名無しで叶える物語◆uSoBdVLk★ 2025/10/10(金) 19:26:16 ID:???Sp
ちぇ👼

81: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:26:44 ID:???00
話が急すぎる。

「流されちゃった人はね、みんな戻りたいと思うんだって。みんな帰りたいって言うって。なんにもないとこより、なにかあるとこのほうがいいよね」

「それは叶えてあげたい。めぐがそう言って手伝ってあげてた。だからあそこは、人が来てはすぐ去っていく場所になってる」

「動きが記録と整合しないところがあるのは、知ってるよ。無理して動かしてるから。でもそんな細かいところ気づく人いないから問題にならない。普通は」

気づいたんだけどな……。別に普通にしてたよ、私は。

82: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:27:12 ID:???00
というか、望めば帰れるってこと?なら話は早いというか、奪還に向けて動かなくちゃ。

「だったら、望めばやってくれるなら、私は栞子ちゃんが帰ってこられるように——」

「それはきみが望んでるだけでしょ」

「いや、でも……」

83: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:27:43 ID:???00
「罪滅ぼしのつもり?」

84: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:28:14 ID:???00
………
……


「どう?ここもだいぶ慣れた?」

慈さんとのんびりコーヒーを飲んでいたら、あらためて訊かれました。

「ええ、ようやく現場の感覚が少しわかるようになってきたかなと」

「ならここがどんな位置づけのところかもわかってきたでしょ」

まあ、不自然なくらい人がいないですからね。でもそれをわざわざ言うこともないと思うのが実際のところです。

85: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:28:50 ID:???00
「最初に見た時から思ってたのよ、この子は少なくともしばらくはいてくれるんじゃないかって。そんな顔してた」

「でもそれは実情を知らないからだろう、知ったらすぐ戻りたいって言うんだろうなと思ってた」

「だから今でも全然そんなこと言わなくて意外だなと」

意外に思われていたんですか。気に入っているんですけどね、ここ。意外と。

86: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:29:24 ID:???00
「特段重要なことでもないので言っていませんでしたが、窓際というのは太陽がよく見えますよね。部屋の奥よりは太陽に近いですから」

「ここは星単位で太陽がよく見えます。地球よりは太陽に近いですから」

「……まあ疎まれていたのかもしれないですし、計略にかかったのかもしれません。私がここに来たというのは」

「ですがそれは昔の話で、ここでは関係ありませんので」

それに、あなたは——

87: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:29:58 ID:???00
「ここって設備も装置も古いものばっかりじゃない」

「まあ私は懐古厨だからそれで別に構わないんだけど、キミも割と好きなんでしょこういうの」

見抜かれていましたか。

「ええ、まあ……」

昔には昔のよさがありますよ。私はそれも好きなだけです。

88: 名無しで叶える物語◆podqM2C4★ 2025/10/10(金) 19:30:23 ID:???MM
ᶘイ^⇁^ナ川 見抜き?

89: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:30:34 ID:???00
「ここってさ、新しいものが来るところではないじゃない、窓際なんだし」

「だからじゃあいっそほかでいらなくなったものもらいまくろうと思って、設備系の同期に言っておいたのよ、よろしくって」

「そしたらどんどん用意してくれる。ロジは私がやってるけど、一時期ひとりじゃ追いつかないくらいだったもん」

「だからやたらマニアックな設備とかあったんですね……。ガントリー見た時は来る場所間違えたかと思いましたし」

「そ、あれも私が」

90: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:31:11 ID:???00
「そもそもここってさ、いらないもの投棄する場所なのよ」

「うちがこんな物流システムを組み上げちゃったから、星間の輸送コストってだいぶ低いでしょ」

「だったらいらないものは自身の星の中で苦労して処理するより、外に飛ばしちゃえばいい」

「それでも水星に定期航路ができるまでは、そんなことあまりなかった」

「ちゃんと人のいるところをゴミ捨て場にするのは面倒だし、人のいないところはコストが高いしで」

「昔はここって太陽に近すぎて、着陸のために減速させるとコストに見合わなかったのよ」

……聞いていて、シンプルに疑問が浮かびます。

91: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:31:40 ID:???00
「では、いらないものなんですし太陽に打ち込めばよいのでは。そのほうがコストは低いんですよね」

「ってならないのが人間なんだよね」

「この現代にあっても、神聖な太陽にゴミを投げ込むとは何事だって言う人たちは結構いてね」

「だから水星航路が低コストで実装できたことでようやくいらないものを飛ばす場所ができた」

「そうしていろんなものが飛ばされて、いらないとされた人間もこうして飛ばされてきてるってこと」

92: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:32:08 ID:???00
なにもない星の割に、荷が送られてくるのはそういうことだったんですか。

「ま、太陽に飛ばされなかっただけマシってことだね」

「感謝しなくちゃね、水星に航路を作ってくれた人に」

「ここでの暮らし割と気に入ってるんだから」

「それは私もですよ」

93: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:32:41 ID:???00
「そういう、ここの位置づけをなんとなく知っている人も、来てから気づく人もいた。みんな遅かれ早かれ抜け出したがってた」

「ま、そりゃそうだよね。這い上がろうとするんだ」

「だから私はお手伝いをしてた。私、伝手はそれなりにあるから」

それでここは人の出入り——出のほうですか、が短期間に起こるということなんですね。

知ってしまえば、単純なことでしたね。それもそうです、そう簡単に人は消滅しません。

ですが、あなたはずっとここにいますよね。

することといえば見送るばかり。

それってやっぱり、——さみしくないんですか。

………
……

94: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:33:14 ID:???00
ずっと思っていたことがあった。

それはきっと誰から見ても馬鹿げた考えで、だから私のもとから離れていってはくれなかった。

彼女は私の中のその存在を見抜いて、最も恐れている期待とともに私を突き刺してきた。

なにか言わないと……。空疎な言葉を自分の鎧にしないと。傷口が広がる前に。

「ボクの昔の話するね」

なんで。なおのこと先手を取られていて、私にはなすすべがない。

95: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:33:44 ID:???00
「あの頃はね、めぐがここにいたんだ」

「ここって言ってもラボじゃないよ。事務所のほう」

「同期だしよく遊んだりご飯食べたりした」

「『アンタがご飯食べてるか定期的に見に来てやらないと、その辺で野垂れ死んでるんじゃないか心配で』だって。それはないと思うけど……」

ついさっきまさにそれだったと思う。この人、私のおかげで生き延びてるの?

96: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:34:15 ID:???00
「めぐはね、すごく活躍してた。どんどん遠くまで行けそうだった」

「でもここにいる限りいつでも会えたし、事実ここにいた。お互いに」

「既存の物事に甘んじない、新しいことをどんどんと取り入れるめぐを見てて、ボクもなにか初めてのことをしたいと思うようになった」

「だからね、ここ」

彼女はそう言って、ここから見える景色を差し出すように手を伸ばす。

えっと……?ここって?踊り場だけど……。

97: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:34:47 ID:???00
「よくここに来て『エアリー0』を眺めてた。ここが一番よく見えるんだよ」

「『エアリー0』には記念碑がある。人類の火星入植記念。初めてこの地を切り拓いたことを後世に伝えるためのもの」

「みんなあんまし興味ないみたいだったけど、ボクは記念碑的なことをなしたいと思った」

私も言われるまで全然意識してなかった。そっか、記念碑か。

「でも現実はなにがあるわけでもなく、日々を既存設備の補修に追われて過ごしてた」

98: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:35:31 ID:???00
「そんなある時ね、1報のペーパーに出会った。それは、軌道マニューバに関するもの」

「うちは運行経路の開発もしてるからそっちの人たちが読むようなものだったけど、たまたま目にした」

「重力井戸を落下してく際の軌道マニューバについて書いてあった」

薄々思っていたことが今確信に変わった。やっぱりこの人ただの設備屋さんじゃない。

多分この人は、内惑星への航行用の——

「単著だった。著者は——もうわかってるよね」

「きみだよ、りな」

………
……

99: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:36:01 ID:???00
「ねえー、今週末暇?」

「暇ですが……」

ここほんとうになにもないんですから、仕事がなければ暇に決まっています。

ま、仕事もないんですけどね(笑)。

「ツーリングいこ」

意味がわかりません。

100: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:36:30 ID:???00
「この星にわざわざ見に行くものなんてあるんですか?」

「太陽」

「見えてますけど……」

「まぁ見てなって」

「見てますが……」

「そうじゃない」

101: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:37:01 ID:???00
「この中から見てる太陽は本物じゃないんだよ」

「<広域>は調光が強く効きすぎてる」

「本物を見せてあげるよ」

「それなら単に調光を切って<広域>の外に出ればいいだけでは」

「来るん?来ないん?」

「行きたいです……」

二つ返事で応えては、なんだかしっぽ振ってよろこんでるみたいじゃないですか。それがちょっとだけ癪だったんです。

それに、なにか煙に巻かれているような気がしてなりません。モヤモヤしますね、煙だけに。

……煙はモクモクでした。

102: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:37:33 ID:???00
日付感覚のなさに慣れきっていましたが、あらためて週末を提示されると外部要因に起因する日付秩序の再構築が行われます。

休みの日なので、着るものを考えなくてはなりません。

平日は制服としての作業着、普段の休日はヤオコー(ヤオコーではありません)に行くだけなのでかろうじてパジャマではないように見える服を適当に見繕っています。

しかし今回はお出かけですので、きちんとしていないといけませんからね。浮かれているわけではありません。

ああだこうだと迷ったあげく、インナーはシンプルに白シャツ、外はストレートに裾を切ったカーキのツイルジャケットに薄めの色のデニム地ストレッチパンツ、足元は重めの黒のブーツとしてみました。

十分浮かれているのかもしれません。

103: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:38:14 ID:???00
「おはよ。いいね、気分上がるじゃん。似合ってるよ」

よかったです。1人にしか見せないものですので、これで肯定的回答100%です。健康サプリの利用者アンケートをも上回る脅威の満足度です。

慈さんも普段とはだいぶ印象が変わっています。

黒のドレープブラウスとブーツカットデニムパンツにショートブーツで余裕を残しつつ全体をまとめ、白のガレージジャケットでモノトーンコーデを完成させています。

クールな装いの中にもやわらかさが残っているのは、地の黒にベルトやブーツのステッチで挿し込まれる白と、タイトすぎないシルエットのなせる技なのでしょう。

「えっと、慈さんも、その……」

「はいはい、みなまで言わなくてもわかってるぞ」

なぜか頬を突かれます。

やはりやり込められている気がします。

104: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:38:45 ID:???00
「スーパーカブ……!」

慈さんについて行きそれを見た時、思わず息を呑みました。

過去に全世界を席巻した珠玉の大衆二輪が目の前に……!

いくらかの改造——延命措置ともいいます、は施されていますが、あのカブのフォルムはそのままです。

これに乗れるなんてワクワクします。この時代に自分で運転するモビリティが残っているとは。

「さすが、ひと目見ただけでこれがなにかわかる」

「懐古厨なので」

105: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:39:26 ID:???00
「<パーソナル>は持ってるよね、よし。キミの分のヘルメットもあるよ。別にここに道交法なんてないけど、なんかこのほうが気分出るでしょ」

懐古厨の機微をよく理解してくれていますね。さすがは懐古厨です。

「なぜ<局所力場>を張った上で<パーソナル>で温調するんですか。冗長ではないですか」

「ポンコツだから」

「モビリティ用にフィードバック制御早くすると、この世代のモデルじゃオーバーロードなのよ。ここ基本型落ちしかないんだから。それは<力場>もいっしょ」

「だから<局所>での調光と温調は脇におかざるを得ないの」

106: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:40:00 ID:???00
「よし、準備いいね。しっかり掴まってるんだよ。この星に舗装路なんて概念はないからね」

カブでオフロードですか、ワクワクしますね。

「しゅっぱ~つ」

慈さんの、なんとも気の抜けた掛け声で走り出します。

しかしこれくらいがちょうどよいのかもしれません。大衆車ですから。

それに私たちは個人自由移動の時代を直接知りませんし。

昔の人たちはこのようにして自らの足(自らの車輪?)であちこち行き来していたんですよね。

各々が好きに移動をして、結構なスピードを出していた。旅客輸送での車両事故なんて考えるだに恐ろしいです。

荷ならまあ「あーあ……」ですみますが(すまないものもあります)。

107: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:40:31 ID:???00
ほんとうに自分たちの意志で好きなところに移動できています。

<局所力場>によって構成される大気ごと移動していくので、風を切るとならないのは少し残念なところですが、それでも十分現代では味わえない感覚です。

慈さんが運転をして、私が後ろの席にいます。路面状態がよくないのでしっかり掴まっていないといけません。彼女の腰に手を回して、くっついているかたちになっています。

ですが<パーソナル力場>に纏われているため、触れている感覚はありません。

これだけ近くにいるのに、なんだか遠くに感じてしまいます。

仕方のないことではあるにせよ、やはり現代のテクノロジーは……と思ってしまいます。

108: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:41:04 ID:???00
<力場>の調光なしに——<パーソナル>は温調のみです、外を見るのは初めてですが、すさまじいコントラストですね。

近くにあるがゆえにいや増しに輝くけったいな光球と、宇宙のありふれた本質のあらわれである漆黒との対比。

これが本物の太陽……。ここまで来てこれを目の当たりにしたのであれば、ゴミを投げ込むに忍びないというのはわかる気がします。

ですが、これを見るだけであれば走り回る必要はないですよね。

「太陽の本来の姿はもう見えていますが、これからどこに行くんですか?」

「太陽を沈めに行く」

109: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:41:36 ID:???00
「あまりに太陽の動きがゆっくりで普段意識はしないと思うけど、さすがに動いてるのよ一応これ」

「明けない夜はないっていうのは、ここでもちゃんとそうなの」

「『Hun Kal』もそろそろ長い昼が終わる。これからほぼ3ヶ月続く夜。その前に、せっかく薄明帯が近づいてるんだし、遊びに行こうと思って」

「私たちが全力ですっ飛ばせば、この星の自転速度より速く動けるから、太陽を動かせるの」

ずいぶん派手な遊びです。このためにカブを調達してきたんでしょうか。

110: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:42:07 ID:???00
「全然関係ないんですが、あそこって『Hun Kal』だったんですか」

「そうだよ?知らなかったの?」

「誰も口にしませんでしたし……」

「まあそうか、あの一帯以外にはなんもないんだし、地名はわざわざ言う必要ないね。たしかに私も言ってなかった気がする」

地名が必要ない生活、まだ名前がついていない世界。そもそも呼ばれる名前がなければ、呼ばれることもあり得ません。

111: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:42:39 ID:???00
「『Hun Kal』なんて一等地じゃないですか。基準点、日本橋みたいなものですよね」

「こんな田舎の一等地、都心の電話ボックスより価値ないよ」

「私だからわかりますけど、普通の人に電話ボックスなんて言っても通じませんよ」

「でも今はキミしかいないでしょ、キミならわかってくれる」

ほんとうに、そういうところですよ。

112: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:43:12 ID:???00
「キミは、ここでやりたいこと見つかった?」

今までとは比べ物にならないスピードで地平線に沈んでいこうとしている太陽を傍目に問いかけられました。

やはり太陽は動いてくれていたほうが——今までだって別に極端にゆっくりなだけで動いてはいますが、時間の流れを感じられてよいですよね。

否応なしに過ぎていく時間の中で、自分はなにをなそうとしているのか。

折に触れて考えなければならないことです。

「まだ具体的には……。準備と心構えだけは抜かりないですが」

「そっか。ま、そこが抜かりないならおっけーよ」

そうなんでしょうか。まあでも甘めの評価をありがたく受け取っておきます。

113: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:43:41 ID:???00
「実はもう薄明帯に突入してるんだよね。夕暮れとかないからわかりづらいけど」

大気がほとんどないので、空は黒のまま、青くなったり赤くなったりせずどっしりと構えています。

空のほうとしては気が楽なのではないでしょうか。人間側としては少し物足りないんですけどね。

「十分太陽動かしたし、ほんとうに沈みきるところまで行こうとすると遠いから、そろそろ戻ろうと思うよ」

「今度は太陽を昇らせる向きだね」

太陽を転がしているみたいで、なぜだか自信が湧いてきます。

114: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:44:10 ID:???00
「もう一つやりたい遊びがあるんだけど」

「なんですか?」

太陽を転がす以外に、まだなにか遊べますかね……。すぐには思いつきません。

「私もさ、ここでなにかをやる時が来ることに備えて、いろいろ見てたんだけど」

「結構周辺の環境測定したのよ。だからデータはある」

「今くらいの太陽高度の場合、地表温度は-20°Cくらい。極寒の夜と灼熱の昼のちょうど間にいるからね」

「もう少し戻って温度が15~25°Cあたりが狙い目なんだけどさ」

「<力場>切ってみない?」

115: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:44:39 ID:???00
なにを言っているんでしょうかと思いましたが、<パーソナル>だけであれば温度さえどうにかすれば切れますね。

その温度をどうにかするのがカブなんですね。

こんなことする人いませんよ。でも、だからこそ面白そうだと思います。

「いいですね、のりました」

116: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:45:10 ID:???00
「さすが!普通生命維持装置を一部であれ落とすなんてありえないのに、やっぱキミ変な子だね」

「そんな提案をしてくる慈さんのほうがよっぽど変な人ですよ」

「太陽高度以外にも、地表面や周りの地形からの反射、クレーター内部の影への吸熱とかの影響を受けるから温度は変動すると思う」

「ま、ジェットコースターみたいなスリルってことで」

「そのあたりは承知の上ですよ」

「じゃ推定18°C帯まですっ飛ばすから、準備しといてね」

117: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:45:42 ID:???00
先ほどとは逆に、どんどん太陽が昇っていきます。

慈さんとともに、命綱をひとつ手放しました。

自身の最表面にまとわりついていた<力場>が消えていきます。

ほんの少し涼しくなりました。23°C温調より外温は低いのでしょう。

一番の違いは感じる温度が常に変化していることです。<力場>はこれだけの外乱を常時打ち消していたんですね。

118: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:46:15 ID:???00
地球のように大気がないと、日射による影響を緩和するものがなくなります。

少しの日射量の違いで温度変化をダイレクトに感じます。

これは、たしかにすごく面白いかもしれません。

「いや、思ってた以上にすごいわ。こんな複雑なんだ……」

「究極の現場感覚ですね」

119: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:46:44 ID:???00
目まぐるしい変動が安定しているものの存在を浮かび上がらせることも同時にしています。

体温です。

お互いの間の<力場>がなくなったので、地球や<広域>の中と変わらず、直接触れることができています。

慈さんに回している腕から伝わってくるぬくもりは、どれだけ外温が変動しようと変わることはありません。

やはり私は、こういうほうが好きです。人とのつながりというところにおいて。

120: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:47:13 ID:???00
だいぶ太陽が昇ってきて——昇らせてるんですけどね、外温も25°Cに近づいてきました。

終わっちゃいますね、名残惜しいです。

「あのさ、栞子ちゃん」

——初めて名前を呼ばれました。

121: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:47:43 ID:???00
私こういうの気にしてるんですよ。毎日これだけ話してるのに、全然名前で呼んでくれないなと。

名前覚えてもらえてないのかと思い、テーブルの上に社員証置きっぱなしにしてみたこともありますが、特に変わりませんでしたね。

でもこれで安心です。やっとちゃんとつながりを得られたと思えます。

「ありがとう」

……それはずるいです。

「さ、暑くなってきたことだし、<力場>戻すよ」

誰のせいですか。

………
……

122: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:48:16 ID:???00
「あくまで理論面として、大胆な仮定のもと惑星の相対位置と機体の最適なスラストの関係を導いてた。実際の航路計算用にプログラムまで用意して」

「実装できる機材がないのに、ここまでやり切る気概、水星という領域で初めてを打ち立てるんだって情熱。純粋に面白いと思うことを追い求める心、それが放つ白色の輝き」

「そういったものに当てられて、何度も読んだ」

「だからかな、サイエンティフィックな記述を通してでも、人が見えてくる気がした。きみに初めて会った時、初めてな気がしなかったのは多分このせい」

123: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:48:44 ID:???00
「そうして、ボクはやろうって思った。これを実装しよう」

「あとはりなも知ってることだと思う。高出力イオンスラスタと軽量耐熱隔壁。これが水星航路実現への最後のピースになった」

「実際に定期航路ができて、ほんとうの一番最初じゃなくても、初めてのことに寄与できた。ボクにはそれがうれしかった」

「そのあとこれがどういう使われ方するか、その時はそんなこと考えてもいなかった」

124: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:49:15 ID:???00
「おしまい」

私は栞子ちゃんを失って、綴理さんは慈さんを失った。この人もおんなじなのかな。だからできる限り慈さんのこと手伝って——

「そんなに悲しそうにしないで、りな」

「え……?」

「悲しいって顔してる」

「そんなの、わからないでしょ、私の表情じゃ。適当言わないで——」

「わかるよ」

やわらかい声音だけど芯が通っていて、有無を言わせぬ強さでこちらに一歩踏み込んでくる。

125: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:49:48 ID:???00
「ちゃんと伝わってなかったと思う。ごめん」

「めぐが言ってた。別に飛ばされるのは仕方がない、行った先は人がそんないないんだから、なにかをなせばそれは初めてのことになる、だからそこでやりたいことやるよ、って」

「ボクも100%納得できてるわけじゃないけど、でもめぐが言ってくれたようにありたいと思う」

「どう使われるのかというところを恐れて、興味を追い求められなくなっちゃったら、技術者として死んじゃうよ」

「だからボクは足掻いていたい」

126: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:50:18 ID:???00
「ひとりじゃ怖いのなら、りな。いっしょにやろうよ」

手を差し伸べてくれる。

私も、作ったものが人にどう使われようが関係ないって、まったく思わなかったわけじゃない。でもそれは逃げてるように思えた。

誰かおんなじ思いの人と、おんなじだって思い合いたかった。そんなつながりがほしかった。

127: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:50:47 ID:???00
「どこか棘は刺さったままになるのかもしれない。それでも歩き続けなきゃ」

「ね、行こう」

差し伸べられた手を取るように、おずおずとついていく。……あれ?どこ行くんだろう。

「どこ行くの?」

「遊びに行こうと思って」

さっきからどれだけ遊びたいんだろうこの人。でも、私もそういう気分かもしれない。なんかそんな気がしてきた。

128: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:51:19 ID:???00
「なにしたい?」

したいこと?いろいろとあるよ、でも直近、実際のところまずはこれしかないと思う。

「泊まるところ探したい」

「うーん……、ボクの家とか?」

普通そうはならないと思う。でも楽しそう。

………
……

129: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:51:46 ID:???00
「おはよ、栞子ちゃん」

「おはようございます、慈さん」

これだけのことが、あたりまえに流れてゆくだけでとてもうれしいです。

「よい知らせとすごくよい知らせがある」

なんですか突然。

130: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:52:18 ID:???00
こういうのは悪い知らせから聞くのが定石なので、躊躇することなく先人の知恵にしたがっておこうかと思います。

……悪い知らせないじゃないですか。

「では普通のよい知らせからで」

「あのね、ついに!棚ひとつ分のコーヒー豆がなくなりました!」

呆れました。もうわかってるんですよ、どうせここがなくなったところで次から次へと出てくるんでしょう。

「これで氷山の一角の1割くらいは消化したってわけ」

氷山って海の上に出ている部分が全体の1割ですよね。では私たちの歩みは全体の1%ということですか。

これではタイタニックの沈没は阻止できませんよ。

131: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:52:44 ID:???00
「ではすごくよい知らせは」

「それはね、きっと栞子ちゃんが話したがってることとほぼいっしょ」

「だからバトンタッチ」

なぜ私がなにかを話したがっていると。そんなに顔に出ているんですかね。

132: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:53:20 ID:???00
「あ、でも完全後出しだと証明しようがないから、先に少し言っておくと」

「ちまちま環境測定しておいてよかったなって」

そうですよね。同じ経験をして、同じことを思える。こういう時自分はひとりではないんだと、本質に抗える可能性を感じます。

「では私からもよい知らせ?を」

「ここで生産プロセスを組みましょう。原材料は流れ着いてくるものすべて。位置と時間で温度を制御する可動式熱分解-要素分離システムです」

「さすが!ドンピシャだ」

133: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:55:36 ID:???00
「よーし具体的なとこ詰めていこう」

彼女はいつになく楽しそうにくるくるとミルを回しています。これからやることたくさんありますものね。コーヒーもまだまだたくさんありますよ。

「高温部と低温部を据えますし、昼間帯と夜間帯をなんらかつなぐ必要はありますよね」

「どこから熱入れて、どこを保温して、どこから逃がして、ざっくりポンチ絵でも描いてみる?」

「早いうちから技術に入ってもらったほうがよさそうですよね。実現可能性を見積もる確度が高まります」

134: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:56:02 ID:???00
走り出せばさくさくと話が進んでいきます。

「設備屋だったら栞子ちゃんにも何度か話したけど、綴理って子がいるから、話振っとくよ」

「では私は、ご存知かと思いますが、璃奈さんですね。シミュレーション周りは全幅の信頼をおけます」

取っ掛かりさえあれば走り出せます。そのために備えておいていたんですから。コーヒー飲んでいるだけではないんですよ。

135: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:56:29 ID:???00
「適切に熱を制御すれば、この環境であればひと通りのことはできますよね」

「そりゃね、太陽系の中で最も太陽エネルギーを利用できる惑星なんだから」

「はじめに飛ぶのはきっと水でしょうから、使用済みの活魚コンテナを系に放り込めば、海水が飛んで塩が得られますね」

やはり海というのは拠り所になります。立ち返る場所です。

136: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:56:55 ID:???00
「これだけの輸送システムを組み上げ、コストを落とし、星々を殖民していった結果、後の世代がやってることが天日塩の生産。これじゃあパスファインダーも草葉の陰で泣いてるよ」

「いいですね、存分に塩水を供給してください」

「血も涙もない」

「涙はありますよ」

137: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:57:26 ID:???00
「ならこれは製塩?」

プロセス自体の名称を訊かれたと理解します。

名前がなければ呼べませんから、名前をつけましょう。

ほんの少しの地球への郷愁とともに、この星での金字塔にすべく。

「そうですね、本プロセスは……」

「名付けて、太陽塩田」

138: 名無しで叶える物語◆A8bzrSEU★ 2025/10/10(金) 19:57:54 ID:???00
おわり〇
ありがとうございました

引用元: 【SS】太陽塩田