1: 名無しで叶える物語◆lY5XAdSz★ 2026/05/16(土) 21:39:36 ID:???00
今日は——今日も、なのでしょうが、かろうじて日々新たな気持ちで"空"を見上げています。夜空は暗いばかりで星が見えませんね。

それでも私のここに見はるかすはるけき光の砂漠から、幾百の光柱が天に立ち上っています。

一つひとつに人の営みがあって、総体を形作っているんです。

手を伸ばせば掬えそうな光が、明滅と揺らぎとを伴うものと伴わないものに峻別されます。

ですがそれはすべて、今ここに見える光が、彼方向こうの今の光です。

星のようなはるか遠くから来るものとは違い、人間の手の届く範囲から来る光には、その極めて大きな移動速度と、相対的に矮小化された距離に起因する同時性があります。

人は、地に広がっています。

きれいですよね、この景色。

………
……

2: 名無しで叶える物語◆lY5XAdSz★ 2026/05/16(土) 21:40:26 ID:???00
ここは高いところです。周りがよく見えますから。

正確に何階なのか実はよく知りませんが。

そんなことばかりなんですよね、ここって。

ただなんとなく流されて、結果ここで引っかかっているだけの、滞留した川のおもての、ゆくあてのない枯葉の小舟です。

そうしてそのただなんとなくが繰り返され、積み重なり、人々が切り出されてゆきます。

3: 名無しで叶える物語◆lY5XAdSz★ 2026/05/16(土) 21:41:16 ID:???00
あらゆるものが自動で機能するように設計されています。

エスカレーターが動き続けているのはわかります、元々そういうものですし。

ドアというドアがすべて自動で開閉します。

開ける、閉める、別に大したことではないと思うんですが。

エレベーターもずっと口を開けてたたずんでいて、人が乗り込むとどこだかへ昇降します。

表示もなければボタンもない箱の中で、わずかに身体に感じる浮き上がる感覚と押し付けられる感覚、どちらがやってくるのかによってのみ、行き先の上下が推定できます。

そこに選択はありません。

まるでほかに目的地などないかのように。

4: 名無しで叶える物語◆lY5XAdSz★ 2026/05/16(土) 21:42:06 ID:???00
初めの頃、長らくの地下生活を覚悟していたのもあり、眼下に光を位置させられようとは思ってもいませんでした。

あの時、私はほかにすることもないので人の流れに身を任せ、その他大勢のひとりとして所在不明の高所でのカクテルパーティーにまぎれこんでいました。

飲食物も部屋の中央寄りにありはしましたが——やはり給仕はロボットでした、以前ガストで見かけたものより愛想のない。私は窓際に吸い寄せられ、窓外を眺めていました。

"外"の世界がちゃんとある、これが新たな常態である、そう朴訥に語る枠越しの光が、私の瞳だって輝かせていたことでしょう。

5: 名無しで叶える物語◆lY5XAdSz★ 2026/05/16(土) 21:42:52 ID:???00
隣に誰か来ました。

隣と呼べるくらい近い距離に。

ひとりでいたいのであればわざわざここには立たないだろうと思えるくらいの近さに。

一応ここは社交の場という建付けです。

それにあの時私は、自分で意外に思っていたことを誰かに話したかったのだと思っています。

6: 名無しで叶える物語◆lY5XAdSz★ 2026/05/16(土) 21:43:40 ID:???00
きれいですよね、この景色、とこういう場であるから許される幾分不躾な唐突さで私は語っていました。

熱意先行といったところです。

ただ、その場にいるのかすら不安になるような彼女には、届いているのかわかりませんでしたが。

なんとも言えないような答えが返ってきただけでしたので。

彼女だけあかりに照らされていないような、——照らされていてもすべてを吸収し自身からの反射のないような、非在をまとった存在。

このホストのいない場において、彼女はきっと、ゲストでもなかったのでしょう。

7: 名無しで叶える物語◆lY5XAdSz★ 2026/05/16(土) 21:44:27 ID:???00
他の大勢と明らかに見ている世界が違う人、興味がわかないはずはありません。

どこかこの世界を、今この場所を、一歩引いたところから眺めていた人。

そんな人と知り合えたという安心感がありました。

たとえそれが、その時の自分に肯定感を与えるための言い訳にすぎなかったのだとしても。

8: 名無しで叶える物語◆lY5XAdSz★ 2026/05/16(土) 21:45:16 ID:???00
結局はなにをするでもなく、漠然とした不安や落ち着かなさを共有していただけだったようにも思います。

それでも、居住エリアに戻ってからも、次もまた会えるでしょうかと考えていました。

いえ、会えるだろうと確信していました。

どうせ私たちはどこにいても、外へと濾し出される存在です。

その先でお会いしましょう。

9: 名無しで叶える物語◆lY5XAdSz★ 2026/05/16(土) 21:46:06 ID:???00
それからというもの、私も実際流されている以外することもなかったので、大勢の中の一に埋没していました。

それは慈さんも同じだったようで、頻繁に彼女を見かけてもいました。

——ほかの人も私が識別できていないだけで同様に集っていたのでしょうけど。

すでに2回目には仲間意識を感じていたと思っています。

特になんの話をするでもなく——あの場所に語るべきものがなかったのか、あの時期はみな語るべき言葉を持たなかったのか、顔を合わせ、手持ち無沙汰ではあるのでウロウロと歩き回っていました。

私ひとりであればそう遠くまでは行かなかったのでしょう。

ですがこの目の前の、つい最近まで知らなかった人——お互いに名前を知ったのはだいぶあとになってからでした、そういった平時のプロセスがすでに失われていたということです。といっしょであるので、まずは今いる場所を、次に周辺、さらにその周りと、歩みを進めていきました。

昔の広大無辺な世界に比べたら、今のこの場所はただのミニチュアにすぎない、どうせすぐ巡り尽くせちゃうよ、そう語りながら。

10: 名無しで叶える物語◆lY5XAdSz★ 2026/05/16(土) 21:46:55 ID:???00
実際、ここの明確な果てを見ることは叶いませんでした。

端っこまで行き着けば見上げきることのできない壁がそびえているとか、鏡面になって偽りの向こう側がどこまでも続いているとか、非常口があるとか、はたまた下に深き切り岸となって隣の川が音もなく大瀑布となって消えていっているとか、そんな愉快なことはなに一つありませんでした。

ただ単調、歩き尽くせないくらいはるか向こうまで。

結局は私たちも元いた場所に戻らなければならず、諦めて引き返すことになりました。

人工的な自然に囲まれて、互いの来し方——ここではない場所での時間、をふたりのものとしながらの散策は、別に悪いものではありませんでしたけど。

11: 名無しで叶える物語◆lY5XAdSz★ 2026/05/16(土) 21:47:44 ID:???00
果てに行き着くことができなくても、歩みを止めていたわけではありません。

新しい場所に来て、まだなにも知らない場所について、知れるだけのことを知りたいと思っていました。

なにもわからなければなにもできません。

それに、ただなんとなくですが、同じことを思っている人と行動をともにしていれば、そんなにひとりだという感じでもありませんでしたし。

正直あの頃は、慈さんに対してはそのくらい、まあちょうどよいところにいるから声をかけますかくらいの温度感でした。

そののちにふたりで昔を振り返っていた時に、慈さんに、栞子ちゃんに関しては最初拾えてラッキーくらいに思ってたと言われましたけどね。

お互いさまということです。

12: 名無しで叶える物語◆lY5XAdSz★ 2026/05/16(土) 21:48:38 ID:???00
どうしてここにいるとこんなにも自分はなにもわかっていないのだろうと思うのか、この私たちを突き動かしていたものの源泉を考えてみると、それはきっと周囲を自動で動いている事物の、それを動かしている主体がまったく見えないからなのだろうということに落ち着きました。

ひとしきり周囲を探索し終え、ビルの屋上のヘリポートにやるせなさを感じていた——ここに空を飛ぶものなどいませんでした、鳥の一羽も。くらいの時期でした。

そうしてひとまずの結論に至ったというわけです。

ここは以前の私たちの世界をそっくりそのままコピーしようとしたもの、写し取れなかったものを除いて。

このエコシステムの維持は自立している。

難を逃れた人たちの、その後の慰めのために設計された、私たちは箱庭の中にとらわれているのでした。

13: 名無しで叶える物語◆lY5XAdSz★ 2026/05/16(土) 21:49:23 ID:???00
ですが鳥かごの中の鳥は、かごの中に十分詳しくあるはずです。

ましてここは外の模倣品であり、私たちは外を知っているのですから。

私は、私たちだけは、本物であろうとしていました。

それは外に出ようとすることと同じではありません。

どのみち外で生きてゆくことはできないのでしょうし。

14: 名無しで叶える物語◆lY5XAdSz★ 2026/05/16(土) 21:50:14 ID:???00
まずは電気ですよね。

これら私たちの周りのすべてを動かしているもの、私たちを生かしているもの。

どこかに発電所があってしかるべきですし、それは電線を張っている鉄塔を追いかけていけばたどり着けるのでしょう。

なにで発電しているんでしょうか、やはり原子力なんでしょうか。

私たちが旧居を追われる原因となったものに、今私たちは生かされている、のだとしたら。

なんだか出来の悪い寓話みたいです。

ともあれそれだけのシステムがあるのであれば、誰かしらいるはずです、この箱庭のことをよく知っている人が。

15: 名無しで叶える物語◆lY5XAdSz★ 2026/05/16(土) 21:51:04 ID:???00
慈さんに電線追いかけて歩きましょうと提案したところ、呆れた様子でしばらく見つめられました。

なにも徒歩に限定しなくともいくらでも移動はできる、地図もあるし電車もあるんだから使えばいいとのこと、大変ごもっともです。

果てを目指したピクニックの時は、明らかに都市間ネットワークから外れた荒野(?)に向かうからだったのであって、今回はそうでもありませんでした——それでも十分冒険ですけど。

のちに何度も実感することになるんですが、慈さんって意外としっかりしているんですよね、ほんとうに意外と。

ああ、しぶとく生き残れるタイプなんだと思っていました。

16: 名無しで叶える物語◆lY5XAdSz★ 2026/05/16(土) 21:51:54 ID:???00
言われたその時は気づいていなかったんですが、ここでは電車だって行き先選べませんよね。

私がそう言うと、慈さんは大した問題ではないというふうに笑っていました。

方向がひっくり返ることはないんだろうから、行きたいほうと逆から来たやつに乗って次に止まったところで降りればいい、とのことでした。

それにずっと電車に乗ってどこまでも行けるほどここも大きくないでしょ、とも。

それで行きたいところにたどり着けるのか不安ではありましたが、最初から歩き通すよりは早いのでしょう。

すべてが不自然に自動化されている中、できる限りそれらを私たちのほうから利用してやるということでした。

17: 名無しで叶える物語◆lY5XAdSz★ 2026/05/16(土) 21:52:40 ID:???00
形だけの自動改札——近づくだけでなぜか開きます、空港の出口にあるやつみたいですね、を通り抜け人のいないプラットホームにすべり込んでくるものに乗り込みます。

車内も同様に人のいない空間で、なんのために運行を続けているのかわからなくなります。

ゆりかもめのような自動運転ですが、先頭車両に運転席はついていました。無人ですけど。

ほかに誰もいない車内で、ロングシートの隅っこにふたり並んで座っています。

状況が状況なら旅情のひとつでも感じられたのではないでしょうか。

18: 名無しで叶える物語◆lY5XAdSz★ 2026/05/16(土) 21:53:28 ID:???00
慈さんが眉間にシワを寄せながら地図を眺めすがめているので、私もなんとなく地図に目線をやります。

きっと彼女の顔を眺め続けているほうが面白いのでしょうけど、そればかりではいけない気もします。

ここでようやく思い至ったんですが、紙の地図なんですね。

国土地理院発行2万5千分の1地形図(3色刷、ユニバーサル横メルカトル図法)。

端末に表示できるゼンリン地図はほんとうにすべてがちゃんと表示されているのかわからないからだそうです。

なにせ乗り物の行き先すら選ばせてもらえないこの環境で、私たちに自由が与えられているとは思えないということなのでしょう。

最新版へと更新されないことが強みとなる、アナログも捨てたものではありません。

19: 名無しで叶える物語◆lY5XAdSz★ 2026/05/16(土) 21:54:52 ID:???00
なぜそんなものを持っているのか訊いたところ、役所(?)からちょろまかしてきたそうです。

そんな面白そうなことに私を呼んでくれなかったのでちょっとむくれていたところ、彼女はごめんごめんと言いながらやたらとニコニコしていました。

こののちにもことあるごとに振り返られていた、電車内での一幕です。

ちょうど車窓からこの街区の中心部の街並み——を模したものでしかないのでしょうが、が見えていた頃でした。

20: 名無しで叶える物語◆lY5XAdSz★ 2026/05/16(土) 21:55:46 ID:???00
手元の地図には歴史的な港湾都市の姿が描かれています。

開港とともに交通の結節点となってゆき、山は海へと向かい自己を拡張し、大きな災害に見舞われても再び立ち上がってきた都市。

たしかにこの場をなぞらえるには適しているのかもしれません。

ですが都市のレジリエンスはそこに住まう市民の力でしょう。

ここにとらわれている私たちに、それだけの力がありますか、発揮できる環境でありますか。

それを差し置いてこの中の時間だけが流れているようで、感傷的な無責任に覆われている感覚です。

ほんとうであれば——なにがほんとうなのかもうわからないんですけどね、必ず停まるはずのターミナル駅を通り過ぎ、どこまで行くのかと思いきやなんでもないようなところで減速のGを感じます。

このまま果てまで行ってしまうのかと思っていたところでしたが、そうではなさそうです。

21: 名無しで叶える物語◆lY5XAdSz★ 2026/05/16(土) 21:56:32 ID:???00
この箱庭の設計者は、オリジナルを再現することに腐心したのでしょう。

車窓から眺めただけですが、昔の地図——本物が描かれています、と矛盾するところは見当たりません。

であれば海沿いに発電所があるのでしょう。

慈さんがここを目指すと言っていた場所にほど近い駅で停車したみたいです。

ホテルの廃墟があるところですね。

新しく作られたこの世界でも、廃墟は廃墟なんでしょうか。

新築の廃墟、今日はほかに行く場所がありますが、そうでない日には訪れてみたいものですね。慈さんも連れて。

22: 名無しで叶える物語◆lY5XAdSz★ 2026/05/16(土) 21:57:19 ID:???00
別に車なんて走っていませんのに、律儀に信号は色を変えています。

ラ・ムーとコーナンの前を通り過ぎ、工場の敷地に勝手に足を踏み入れます。

門は開いたまま、誰に咎められるでもなく中に入ることができます。

いいんですかね、これ。

中に入ってみたとて、なにがわかるわけでもありません。

発電所とはどのような場所であるのかをよく知りませんので、建物を見たところでなにもわからないんですよね。

23: 名無しで叶える物語◆lY5XAdSz★ 2026/05/16(土) 21:58:07 ID:???00
もうちょっと下調べしてから出直しますか、と言おうと思った時にはすでに慈さんは自動ドアの先に消えていこうとしていました。

開くんだから入っていいってことでしょ、とかなんとか言いながら。

こういう場所にはいやに大きな音を立てて閉まる無骨な鉄扉が似つかわしいものですが、そんなイメージからはかけ離れた小綺麗なガラス戸が音もなくスライドしています。

ほんとうに自動化は徹底していますね。

日々たゆまぬ意識を保っていなければ、主体や行動という言葉が不要になりそうです。

24: 名無しで叶える物語◆lY5XAdSz★ 2026/05/16(土) 21:58:55 ID:???00
自動ドアを2枚くぐった先に、制御室がありました。

先に慈さんが入っていたため、部屋の照明も自動でついていて、居並ぶ液晶の青白い光を和らげていました。

火力っぽい、となぜか少し不満そうに口をすぼめている彼女を視界から外して、画面に表示されている内容に注目します。

設備自己診断のプログラムが定期的に走っているようです。

経時で劣化するものや消耗品などは、それをカバーする設備が別途存在していて、つつがなく稼働しているみたいです。

自動保守が大きな連関をなすことで、人が介在せずとも動き続けられる設備となっているのでしょう。

であれば当初の目的は達せられませんね。

ここにも箱庭を知悉している人はいないということです。

25: 名無しで叶える物語◆lY5XAdSz★ 2026/05/16(土) 21:59:42 ID:???00
すべきことももうないので、帰りましょうと慈さんに声をかけに行きました。

彼女はアラートログの画面を眺めていました。

正常稼働している時でもちょっとした外乱によって発報する些末な警告の山の中に、少し気にかかるものがありました。

きっと彼女もそれを気にしていたのでしょう。

ですがなにもかもが自動で動き続けるこの世界です、お互いにわざわざ言及することもなく、帰ろうかと、その時は相なったのでした。

26: 名無しで叶える物語◆lY5XAdSz★ 2026/05/16(土) 22:00:30 ID:???00
結局人がいないんですよね、と本日の成果のなさをふたり振り返りながら駅に戻ってきました。

ちょうど来ていた先ほどとは逆向きの電車に飛び乗ると——駆け込み乗車を咎める人もいません、先ほどとは異なり比較的すぐに停車してしまいました。

しかしこちらのほうが本来の動きなのでしょう、大きな駅できちんと停まるというのは。

このまま乗っていると次どこで停まるかわかりませんので——不便な乗り物ですね、降りてみることにしました。

こういう栄えてそうなところなら探してるような人がいるかもしれないよ、と慈さんも乗り気でしたし。

別に昔ほんとうに栄えていた場所であっても、今模造の箱庭で人がたくさんいるとは限らないんですけどね。

それでも、人が見当たらなくても、賑やかさはありました。

27: 名無しで叶える物語◆lY5XAdSz★ 2026/05/16(土) 22:01:19 ID:???00
デジタルサイネージの類が、誰になにを見せるでもないのに光り続けています。

乗り物から弾き出された以上——降りることを選んだのであって、ここは自動ではありませんよ、歩くしかなく結構な距離を覚悟しつつのところでした。

画一的なサイネージのうちのひとつに、ほかと異なる光り方をしているものがありました。

冷たい青の画面に、人を食ったような英語圏の顔文字。

今日一日ふたりで歩き回ってきて、これが唯一の成果、この世界のほころび。

なんとなしに慈さんのほうを見ると、彼女もきっと同じだったのでしょう、しばらく見つめ合ったのちに、吹き出すようにお互い笑っていました。

………
……

28: 名無しで叶える物語◆lY5XAdSz★ 2026/05/16(土) 22:02:09 ID:???00
永遠は存在しない。

誰もがそうわかっているからこそ、一人ひとりが継続に資してきたのであって、その連なりが人を地に広がらせたのではありませんか。

どうして地上は永遠ではなかったのですし。

設計者はそれだけのシステムがなし得なかったことを、縮小したとて閉じた系で同様に動かせると思っていたのでしょうか。

私たちは系の中では揺らぎのようなものだったと思っています。

あるいはエラー。

そんな不確実性に存在の持続そのものが依拠しているなんて、欠陥です。

ですが船底の穴に気づいた人がそれを塞がなければ、船は沈んでしまいます。

……少なくとも今この景色は、きれいではあります。

星の見えないがゆえに。

………
……

29: 名無しで叶える物語◆lY5XAdSz★ 2026/05/16(土) 22:02:59 ID:???00
それからも時折この電車のようななにか——どこへ連れて行かれるかわからないものに文明を重ねたくはありませんね、に乗ってふたりで箱庭を散策していました。

新品ピカピカの廃墟ホテルにも行きましたよ。

しっかりと年季が入って(?)崩れていて、ともすれば古刹のような趣がありました。

慈さんは建て直されたもののつくりはあくまでイミテーションという立場でしたが。

再建後の金閣寺を認めないんですかと訊くと、そんな今ないものの話をしてもねということでした。

そうですね、いずれにせよ本物はもうありませんね……。

ですがそれを言い出したらここには本物などなにもないことになってしまいますが。

30: 名無しで叶える物語◆lY5XAdSz★ 2026/05/16(土) 22:03:46 ID:???00
これら新品の本物ではないものの中にも、ゆるやかではありながら日増しにほころびを目にするようになってきたと感じます。

もはや見慣れてきた青一色の画面、LEDなのに球切れしている街灯、動かない動く歩道(ただの歩道では?)、一切の沈黙を守る防災行政無線スピーカー。

箱庭の住環境もこれらと同列の設備によって維持されているはずですので、放っておいてよいわけはありません。

そのまま外の大気なんて取り入れようものなら、生物は死に絶えるのではないですか。

もう少しインフラを見て回るべきなのかもしれません。

31: 名無しで叶える物語◆lY5XAdSz★ 2026/05/16(土) 22:04:43 ID:???00
ここ——私の名付けて曰く"所在不明の高所"です、から見下ろす景色は、それが夜の訪れとともに光の真珠を纏うさまも含めて、幾度となく見てきたものです。

ですから欠ければわかるんです。

ここは楽園であるとでも言うかのような傲慢な箱庭の、その自信の柱が痛み始めていることが。

もっと広くを見ておくべきではないかと思いました。

視野を広く持ち、中長期的な視点で、チェスの手を先の先まで読むように。

だいたいこういう時にその辺にいつもいる慈さんに問いかけます、明日空いてますかと。

答えはわかっています、空いていないわけがありません。

行きましょう、山登りしましょう、新品廃墟のその先へ。

32: 名無しで叶える物語◆lY5XAdSz★ 2026/05/16(土) 22:05:28 ID:???00
この頃わかってきていたんですが、自動化され尽くしたこの箱庭は指向性を持たないものに限り、夜を日に継いで動き続けていました。

一方でそうではないもの、たとえば居住エリアから離れてゆく向きの電車は、日が傾く頃にはほぼなくなっています。

夜遊びや外泊は許されていないのでしょう。

だからこそこんなにもワクワクするのかもしれません。

悪いことをしましょう。

33: 名無しで叶える物語◆lY5XAdSz★ 2026/05/16(土) 22:06:19 ID:???00
交走式ロープウェイは一方がのぼる時他方はくだっていて、2点間を往復で結んでいます。

のぼりとくだりが互いに逆向き同じ大きさのベクトルとなり、相殺することで系は重心の1点に代表されます。

つまり夜でも山の上に登っていけるということになります。

実際のところはケーブルカーで廃墟の根本まで登り、そこからロープウェイに乗り換えです。

2点間を結んでいるだけであれば、途中どこに停まるのか通過するのかと気を揉まずに済みます。

かごに揺られながら、帰りのことなどなにも考えていませんでした。

今までよりはるかに広くが見える、所在のわかる高所に期待を膨らませつつ、です。

34: 名無しで叶える物語◆lY5XAdSz★ 2026/05/16(土) 22:07:12 ID:???00
日は地に沈みながら、人は山に登りながら、ロープウェイはそのどちらをも意に介せずただ動き続けています。

星の駅に降り立ち、夜の闇に包まれたあたりを見渡してみます。

海と、おそらくは存在しているのであろう向こうの陸地と、空、この3つはすべてが接続し墨を流した立板となっていました。

手前に広がる私たちの箱庭、この偽りの港町は、欠けに欠けた不完全な光の集まりでした。

ふふ、これでは三大夜景を名乗れませんよ。

ですが、今はそれでいい気もします。

35: 名無しで叶える物語◆lY5XAdSz★ 2026/05/16(土) 22:07:59 ID:???00
すべてを失った世界を追われ、なにが得られるでもない箱庭の中で、私たちはたしかに得たものがありました。

ほかに誰もいないのではないかとさえ思えるこの世界で、ほかの誰かの不完全に欠けて抜け落ちた光を眺めながら、間違いなく私たちは今まででいちばん満たされた思いでした。

きれいですよね、この景色。

何度も繰り返してきたなんでもないつぶやきが、自然と口をついて出てきます。

彼女もきっと同じなのでしょう、いつもの、なんとも気の抜けた答えが返ってきます。

そうやって、お互い同じものを見ていると確かめ合うんです。

36: 名無しで叶える物語◆lY5XAdSz★ 2026/05/16(土) 22:08:46 ID:???00
脆い光は、こうして眺めている最中にも少しずつ消えていっているようでした。

なくなってしまうのは困ります。

交通がまともに機能しないこの箱庭で、では今から居住エリアに戻りますかともならず、そちらもまた困ります。

先のことは考えていませんでしたので。

どのみち明日には電気系統の大元の様子を見に行かないといけないなと思っていたところです。

であれば今から行ってもよいのでは、少し遠いかもしれませんが。

慈さんは端からそのつもりだったようで、工場夜勤(?)となりました。

37: 名無しで叶える物語◆lY5XAdSz★ 2026/05/16(土) 22:09:43 ID:???00
いかんせん人の少ないこの場所ですが、それに輪をかけて夜は静かです。

実際の音のなさとしてはおそらく変わっていないのでしょうが、あたりが暗くなると一段静かになったように感じるものです。

それにこの時の慈さんも、今思えばいつもよりは静かだったように思います。

その時は単に眠いのかもしれないくらいにしか思っていませんでしが。

38: 名無しで叶える物語◆lY5XAdSz★ 2026/05/16(土) 22:10:58 ID:???00
相変わらず開け放たれている、象徴を寄越しおいているだけの門をめぐり、慣れた歩みで中へと入ります。

そう今までと違う感じも受けません。

目に見えて崩れているようなことがあればそれこそ大変なことなので、少なくともそうではないというところに安心はします。

それに、思いの外大元のここは無事で、下流のより対応が容易なところに少しほころびが見え始めただけであれば、と呑気な想像もしていました。

中心部の制御室までたどり着き、滑らかに動いているドアを慈さんの後ろについて越えていきます。

先ほどから言葉少なな彼女の後ろについて。

39: 名無しで叶える物語◆lY5XAdSz★ 2026/05/16(土) 22:11:53 ID:???00
制御室の中は低いビープ音と、アラートログの画面の赤い光で満たされていました。

外から一切の手助けがなくとも、今でも全停止はせずかろうじて動いている、この冗長性を平時であれば称賛するべきなんでしょう。

ただ今はそんな悠長なことを言ってはいられません。

どうせそんなに大きくない箱庭で、これだけの発電設備はほかにないはずです。

まだ自己修復が効くうちに正常に引き戻さなくては、いよいよ私たちの手には負えなくなります。

実際どんどんとほころびてゆくに従い、光はひとつまたひとつと消えていったのですから。

それでもまどろみの静けさとならず、断末魔の叫びをあげているだけ設備としては優秀なのでしょう。

40: 名無しで叶える物語◆lY5XAdSz★ 2026/05/16(土) 22:12:42 ID:???00
コンソールに表示されているDCSを見て、慈さんがすぐに対処にあたるべき場所を特定していました。

こういった勘に優れる人は、叩けば直る機械と、叩くとほんとうに壊れる機械を一時に見分けることができるんですよね。

現場行ってちょろっと直してくるから、栞子ちゃんは制御室で様子見といて、と言い残してあっという間に行ってしまいました。

様子を見とくってなんですか、画面眺めていてどうするんですか。

いつもはこういう時キミとしか言わないくせに、どうしてわざわざ名前を呼んだんですか。

どうしてあの時私は見送ってしまったのでしょうか。

各種計測器の数値が正常範囲に戻り、アラート範囲から外れて赤い光が一つひとつ消えてゆくのを見ていました。

光が消えてゆくのを。

………
……

41: 名無しで叶える物語◆lY5XAdSz★ 2026/05/16(土) 22:13:33 ID:???00
物思いにふけるのはここまでにしておいたほうが、諸々よいのでしょう。

現に夜は少し肌寒い高台という、感傷的になるにおあつらえ向きのところではありますが。

相変わらず星の見えない空のもと、地には欠けることなく人の光が広がっていました。

空の星を掬い取ることの叶わない私は、地の光を掴み取ろうと掌を下にし腕を前に突き出してみます。少しばかり天にめがけて。

実感なく私の手に収まる光は、私たちが灯し続けてきたものだと、あらためて思い直します。

あの時、私たちが当座の充足とともに見た不完全な光は、今十全なものとなり私はここに不完全です。

ですから私は、このまばゆさに目を瞑りたいと思います。

それに——

42: 名無しで叶える物語◆lY5XAdSz★ 2026/05/16(土) 22:14:20 ID:???00
「きれいですよね、この景色」

こう問いかければ、私にはいつでもあの時の答えが聞こえます。

「うん、まあ、割と」

43: 名無しで叶える物語◆lY5XAdSz★ 2026/05/16(土) 22:15:00 ID:???00
おわり〇
ありがとうございました

引用元: 【SS】天地箱庭